2023年05月25日

地蔵尊と神社を破壊した兇暴ガンビア気違い狂信ムスリム、ママドウ・バルデ(29)処分保留で釈放で野放し

ガンビアの魔女狩り 西アフリカの野蛮性
http://cnxss.seesaa.net/article/133188678.html

ガンビア

ガンビアとは、先住民の言葉で「堤」の意。西暦15世紀ガンビア川河口に来寇したポルトガル人が、それを川の名と勘違いした。周囲はフランスの植民地に囲まれ、「堤」川の両岸20kmの金魚の糞のような国土をもち、アフリカ最狭小の1.1万㎢m(岐阜県の面積)。黒人奴隷を運ぶのに「堤」川が利用され、西暦18世紀末からイギリスが、奴隷と金の搬出のために植民地にした。
周囲のフランスの植民地、セネガルでは、西暦15世紀に来寇したポルトガル人がゴレ島に定住をし、その後オランダやフランスが奴隷貿易を引き継いだ。ゴレ島はセネガルの首都ダカールの沖合の小島であり、西暦15世紀〜19世紀まで「三角貿易」と呼ばれる奴隷貿易の拠点となった島です。 三角貿易とは、製品(武器など)・素材(蜜蝋、ゴムなど)・奴隷(労働力)を交換し合う諸国の取引のことで、約1500万人の黒人奴隷がゴレ島を経由して売られた。
セネガル川からガンビア川にかけてのセネガンビア地方は大西洋奴隷貿易の初期において、特に重要な奴隷供給地で、ガンビア川における奴隷貿易の主要な拠点はジェームズ島(現クンタ・キンテ島)であり、西暦1651年に要塞が築かれた。西暦1661年からはイギリスがジェームズ島を支配し、この島から送り出された黒人奴隷は3世紀の間で300万人に及んだ。ガンビア自体が鬼畜英仏の身勝手な植民地分捕り合戦で分けただけで、現在のガンビア領内から連れて行かれた奴隷の正確な数は不明。
アレックス・ヘイリーの小説「ルーツ」、原作とするテレビドラマによって、ガンビアの奴隷貿易は広く知られるようになり、ヘイリーの先祖として描かれたクンタ・キンテはジェームズ島から奴隷として出航させられたという。西暦2011年にジェームズ島はクンタ・キンテ島と改名され、西アフリカの奴隷貿易の拠点、「クンタ・キンテ島と関連遺跡群」としてユネスコの世界遺産に登録された。

在名古屋ガンビア共和国名誉総領事館
https://gambia.jp/home/
住所
〒452-0822
愛知県名古屋市西区中小田井5-16 2F
電話番号052-684-5911または電話番号090-1725-1294
電子メール:gambianconsulatejapan@gmail.com.


在セネガル日本国大使館が、在ガンビア日本国大使館を兼轄する。
在セネガル日本国大使館
Sénégal
Ambassade du Japon
Boulevard Martin Luther King, Dakar, Sénégal
(B.P. 3140)
電話:(221)338495500
在セネガル日本国大使館は、在カーボヴェルデ日本国大使館、在ガンビア日本国大使館、在ギニアビサウ日本国大使館を兼轄する。



新版 アフリカを知る事典 - 小田 英郎;川田 順造;伊谷 純一郎;田中 二郎;米山 俊直
新版 アフリカを知る事典 - 小田 英郎;川田 順造;伊谷 純一郎;田中 二郎;米山 俊直

ママドウ・バルデ(29).jpg「ここで祈るな」「日本の神は認めない」ガンビア人の29歳男が神社で“大暴れ”…さい銭箱など次々破壊
https://news.livedoor.com/article/detail/24299256/
黄色い服を着た男が神社の境内に現れたのは、朝9時半ごろ。
男は一直線に歩いて行き、さい銭箱の前で足を止めた。
そして、左足で一撃。
さい銭箱を壊し、地面に落とした。
神戸市にある神社で5月3日に起きた事件。
器物損壊の疑いで逮捕されたのは、アフリカ・ガンビア人のママドウ・バルデ容疑者(29)だ。
この日、別のカメラには手を清める手水舎の竹筒を、力ずくで引きちぎるところも記録されていた。
当時参拝していた女性:
本当にみんな泣いてはりましたよ。なんちゅうことすんねん言うてね。
なぜ神社で犯行に及んだのか。
当時、ママドウ容疑者は参拝者に、興奮した様子でこう叫んでいたという。
瑞丘八幡神社 宮司:
自分が信じている神様だけが神様なので日本の神様っていうのを認めない。「ここで祈るな」 ということを言われたと(参拝者から)うかがっています。
調べに対し、ママドウ・バルデ容疑者(29)は、「何もしゃべりません。違法な逮捕です」と容疑を認めていないというが、この神社の近くにある地蔵菩薩を壊した疑いですでに逮捕されている。


 パヨク紙では、名前も隠蔽。

移民党岸田文雄(64)-1.jpg神社のさい銭箱など、蹴ったり投げたりして破壊の疑い ガンビア国籍の男を再逮捕 神戸・垂水
https://www.kobe-np.co.jp/news/jiken/202305/0016387675.shtml
 神社境内のさい銭箱などを壊したとして、兵庫県警垂水署は23日、器物損壊の疑いで、神戸市垂水区に住むガンビア国籍の無職男(29)=処分保留で釈放=を再逮捕した。調べに「何も言うことはない。逮捕は違法だ」などと話し、容疑を否認しているという。
 逮捕容疑は3日午前9時半ごろ、瑞丘八幡神社(同区高丸1)の境内で、さい銭箱やちょうず舎に水を流す竹筒など計3点(約5万5千円相当)を蹴ったり、投げたりして破壊した疑い。
 同署によると、男がこの直後、同神社から南西に約350メートル離れた「池姫地蔵尊」(同区陸ノ町)の地蔵3体を壊したとして、同容疑で同署が男を逮捕していた。発生時間や場所が近接しているため捜査したところ、男の関与が浮上したという。


岸田文雄(65)TIME.jpg 移民党は、日本を壊し、日本人を殺戮する悪魔の結社。

 兇暴ガンビア気違い狂信ムスリム、ママドウ・バルデ(29)を送り込み、日本を壊し、日本人を殺戮する。

 移民党に野盗は、鬼畜米に支那、マスゴミと利権の犬。日本御経済成長と賃金を30年間停止し@国富を害国に売り飛ばし、増税・社会保険料引き上げ、給付削減。移民法に種子法、種苗法、差別法、ザイヌ法でパヨクと利権を吸い会い、水道法、農薬、添加物、武漢肺炎と毒ワクチンで日本人を殺戮している。

 日本は害人に甘く、家畜を盗んで食べたヴェトナム人も不起訴。パヨクに扇動された違法移民が勝手に死んでも大問題にする気違いマスゴミに政治屋が跋扈している。普通の国

 害人に土地や会社に技術を売り飛ばし、太陽光パネルで木々を抹殺し土砂崩れや毒物分散、風力発電風車で風邪を弱めて作物を。低周波騒音で住人を病気にし、電気料金に省エネ賦課金として徴収し害資に垂れ流している。売国害患誘致の枚挙の暇もない。

 直近でも移民党の大悪政は、変態利権法に、森林環境税国民1人当たりの人頭税を盗み、日本を棄て、海外に出る度に人頭税の出国税。日本を壊し、日本人を殺戮する。

 移民党は、日本を壊し、日本人を殺戮する悪魔の結社。





 八幡神社は、猶太の失われた10氏族の1つの末流の秦氏が建立した。アブラムの宗教のタナハの神、YWHWヤハウェ(ヘブライ語: יהוה‎、フェニキア語: 𐤉𐤄𐤅𐤄、古アラム語: 𐡉𐡄𐡅𐡄)の神が祭神。このテトラグラマトンは、逆らい続けたローマ属領の猶太人に業を煮やしたローマ軍のエルサレム攻撃で、読み方は不明。ヤーウェ、ヤーヴェ、エホバと読む宗派もいる。

 兇暴ガンビア気違い狂信ムスリム、ママドウ・バルデ(29)は、回教の神(アラブ語でアッラーフ(الله‎))を冒瀆したことになる。ガンビアみたいな辺境の無知な土人が、回教の神の神殿を壊した。

兇暴ガンビア気違い狂信ムスリム、ママドウ・バルデ(29)は、
タナハの神、YWHWヤハウェ=アッラーフの罰も当たる!!!!


バーミアンのの大仏(磨崖仏)
アフガンの気違い狂信ムスリム、ターリバーンがバーミアンの大仏(磨崖仏)を平成13(2001〉年に破壊した。

 日本以外の国では、神、神殿への冒瀆は死刑!!
 回教でもカリフの玉座の脇には死刑執行人が控える。現在の野盗のサウディアラビアでもそうだ。

 公法でなくても、私刑を下す。フランスやタイでも執行している。アメリカだろうとドイツだろうと同じだ。それを馬鹿でお人好しの日本は刀狩り、明治維新、鹿鳴館、アメリカ占領軍、移民党などの洗脳で牙が抜かれて、CD(預金支払機)に堕してしまった。

 それを野放しにする間抜けな國は日本だけで、ますます、特亜やアフリカから狂信気違いが犯罪を犯しに日本医入国してくる。

 日本を壊し、日本人を殺戮するのが、移民党と葬禍党と野盗!!!


エラワンの祠

 昭和31(1956)年、エラワン・ホテル(現在のグランド・ハイアット・エラワン・バンコク)の工事中に事故が多発し、作業員が「悪霊がいる。」と建設作業を拒否した。このため、ホヒンドゥーの神ブラフマーを祭るエラワンの祠とを設置した。踊りを奉納するため、タダでタイの舞踊が観れるので、ケチな観光客が集まっている。
 平成18(2006)年03月21日、タナーコーン・パックディーポンという気違い狂信ムスリム♂が祠を破壊するという事件が起った。このムスリムはその場で群衆に殴り殺された。警察は捜査をせず、不問にした。

これが普通の対処法。



外国人労働者の特定技能「2号」、ビル清掃・農業・外食など11分野へ拡大…自民党が了承
2023/05/23 11:41
https://www.yomiuri.co.jp/politics/20230523-OYT1T50138/
 自民党は23日午前、外国人労働者等特別委員会などの合同会議で、外国人労働者の在留資格「特定技能」のうち、在留期間の上限がない「2号」の対象を現在の2分野から11分野へ拡大する政府案を了承した。労働力確保が目的で、政府は6月にも閣議決定し、早期の導入を目指す。
 現行制度では、在留期間の上限が5年の「1号」の対象が12分野あり、このうち建設、造船・舶用工業の2分野が、2号の対象にもなっている。2号は在留期間の更新を重ねれば事実上の永住が可能だ。家族帯同も認められる。労働力不足に悩む業界から対象拡大の要望が寄せられていた。
 2号に追加されるのはビルクリーニング、素形材・産業機械・電気電子情報関連製造業、自動車整備、航空、宿泊、農業、漁業、飲食料品製造業、外食業。いずれも現在、1号の対象だ。1号のうち介護は、長期就労可能な別の在留資格があるため、2号の対象には加えない。
 政府は閣議決定で方針を定めた後、法務省令改正で対象を追加する。追加する9分野では、今秋から資格試験を始め、合格者には来年5月以降に2号資格を付与する予定だ。


「官民で投資4兆円」岸田首相が表明 アフリカ開発会議が開幕
2022年8月27日 21時24分
https://www.asahi.com/articles/ASQ8W733NQ8VUTFK022.html
第8回アフリカ開発会議(TICAD(ティカッド)8)が27日、北アフリカのチュニジアで始まった。新型コロナウイルス感染で出席をとりやめた岸田文雄首相はオンラインで基調講演し、アフリカを「ともに成長するパートナー」と位置づけ、今後3年間で官民あわせて300億ドル(約4兆円)を投資すると表明した。


増税岸田文雄(65).jpg



増税岸田文雄(65)、人頭税を新税で大増税!!!!


森林環境税
https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/jichi_zeisei/czaisei/czaisei_seido/150790_18.html
森林環境税及び森林環境譲与税

 森林環境税とは、2024(令和6)年度から国内に住所のある個人に対して課税される国税であり、市町村において、個人住民税均等割と併せて1人年額1,000円が徴収されます。その税収の全額が、国によって森林環境譲与税として都道府県・市町村へ譲与されます。


愉快なガンビア建国記 (1968年) - バークレー・ライス, 杉辺 利英
愉快なガンビア建国記 (1968年) - バークレー・ライス, 杉辺 利英

アフリカ漂流〈6〉アフリカ乞食行 - 鈴木 正行
アフリカ漂流〈6〉アフリカ乞食行 - 鈴木 正行

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2023年05月19日

増税賣國奴岸田文雄(65) 米爺の岩国入出国に日本破壊の変態利権と選挙利用 無辜の国民への鬼畜米英に原爆投下の断罪すらない無意味な広島G7

 変態(LGBTQQIAAPPO2S....)内政干渉猶太ラーム・イスラエル・エマニュエル(63)、変態極左活動屋ジル・バイデン(72)に日本君候、増税岸田文雄(65)夫人裕子(58)を呼びつけ指令した。この時、痴呆ジョー・バイデン(71)の広島行きと変態法で日本を破壊し、日本人、とりわけ女性と子供を性被害に抛り込む密令が下った。

星条旗犬.jpg岸田文雄〈65〉裕子(58)830101.jpg 日本は大東亜戦争敗戦後、米国の属領であり、国家主権はない。従前は曲がりなりにも暈かして誤魔化していたが、トランプ以降、平気で日本の国土を土足で踏みにじり、米軍基地から入出国している。他の6ヶ国は、広島空港を使った。鬼畜米は、重武装の警備兵を日本の主権を侵して日本に侵入させ、日本の警察までが検査されている。金もない、力もなく、日本を守らないアメ公をいつまで野放しに差せているのか!!



バイデン米大統領、米軍岩国基地に到着 専用ヘリで広島へ
https://www.chugoku-np.co.jp/articles/-/307497
 バイデン米大統領は18日午後3時55分ごろ、専用機で岩国市の米軍岩国基地に到着した。広島市で19日開幕する先進7カ国首脳会議(G7サミット)に出席するため、専用ヘリコプターに乗り換えて広島市へ向かった。同市に到着後、岸田文雄首相と会談する予定。

日本の警察官も警戒対象に G7サミットで広島は厳戒態勢
https://news.tv-asahi.co.jp/news_society/articles/000299969.html
 G7広島サミットが始まり、首脳が泊まるホテルの前では日本の警察官までが調べられるほどの厳戒態勢が敷かれていました。
 アメリカのバイデン大統領が宿泊した広島市内のホテルの前。警備車両が列をなし、建物の屋上にも警戒にあたる警察官たちの姿がありました。

 大統領の出発時刻が近付くとこんな場面も。アメリカ側の関係者と探知犬が車内までを入念にチェック。日本の警察官たちが警戒対象になってしまうほど、現地は緊張感が漂っています。

 バイデン大統領はこの日、厳戒な警備の中で平和公園を訪問し、各国の首脳と原爆慰霊碑に花を手向けました。

 アメ公が痴呆警備で、犬コロの身体検査。こんな国に国家主権などない。奈良犬警をはじめ、安倍晋三(67没)の暗殺の揉み消しを行う反日勢力だからな。原爆で大虐殺されて吹っ飛んだ。そもそも岸田政権に正当性があるのか。日本人にだけ権力を握る無能な犬コロ。!!

USA核爆撃旗.jpg
原爆慰霊碑G7.jpgG7首脳、原爆資料館を視察し慰霊碑に献花 ゼレンスキー氏も来日し会議出席の見通し
2023年5月19日 14:30
https://www.bbc.com/japanese/65643058
悪魔1.png
主要7カ国首脳会議(G7サミット)が19日午前、広島市の原爆ドームのある平和記念公園で始まった。岸田文雄首相がG7首脳らを出迎える公式行事で、初めてG7首脳がそろって平和記念資料館を視察した。この間、ウクライナのウォロディミル・ゼレンスキー大統領が近く来日し、対面で首脳会議に出席する見通しだと、複数の欧米メディアが報じ、ウクライナ政府当局者も認めた。
雨が降るなか、岸田首相と妻の裕子さんが平和記念公園で、G7および欧州連合(EU)の首脳を出迎えた。集まった首脳たちはそろって、平和記念資料館に入った。
日本政府のサミット事務局によると、資料館では岸田首相が展示を説明したほか、首脳らは被爆者・小倉桂子さんと対話した。
G7首脳らによる資料館の視察については、岸田首相が慰霊碑への献花・黙祷(もくとう)だけでなく、原爆と被爆被害について記録を保存展示する資料館の視察を強く望んだとされている。
アメリカのジョー・バイデン大統領など首脳らはその後、資料館を出ると慰霊碑に献花し、黙祷をささげた。広島市の松井一実市長から原爆ドームについて説明を受けた後、記念の植樹を行った。

平和記念公園での式典が終わるころに、英紙フィナンシャル・タイムズと米ブルームバーグが、匿名の消息筋の話として、ゼレンスキー大統領が近く日本を訪れ、直接対面でG7首脳会議に参加すると伝えた。
その後、米紙ワシントン・ポストの記者も、米政府筋の話として、同様の内容を伝えた。
さらにロイター通信などによると、ウクライナ国家安全保障防衛会議のオレクシイ・ダニロフ書記が公共放送で、G7首脳会議について「非常に重要なことがそこで決まるため、我々の利益を守り、この国の両何で何が起きているのか明確に説明し提案するためには、大統領が実際にそこに参加することが絶対的に不可欠だ」とし、ゼレンスキー氏の訪日を認める発言をした。
実現すれば、ロシアによるウクライナ侵攻後、ゼレンスキー氏がアジアを訪れるのは初めてとなる。

G7首脳らの式典が開かれている最中、平和記念公園に近い市内のアーケード通りでは、デモ隊が「サミット反対、戦争反対」と連呼していた。
G7各国はいずれも核兵器を持つか、核保有国と同盟関係にある。


 昭和19(1944)年09月、ディープステイトの犬、フランクリン・デラノ・ルーズベルト(FDR)と、猶太の犬のチャーチルは、ニューヨークのハイドパークで、「日本」ではなく、「日本人」に原爆を落とす、「日本人が降伏しなければ、絶滅するまで落とし続ける。という署名入りのハイドパーク覚書を交わした。
 白人至上主義のテロ組織KKKの支部長で猶太のいいなりのトルーマンは、原爆実験のため、広島にウラニウム型を、長崎にプルトニウム型を落とした。
 増税岸田文雄(65)は広島サミットで、鬼畜米英の痴呆とインド人に土下座をさせて謝罪させ打ち据えねばならない。

 奴らは、猶太や十字軍の蛮行で、虐殺、掠奪、強姦などを平気で書き残している。罪の意識とか謝罪渡河の感覚がな鬼畜だとよくわかる。

 日本は核を2発報復攻撃する権利を正当にもつ。現在は第2次世界大戦が休戦中で、連合国(United Nations)は未だに残っていて、日独は徹国になったままで78年も経った。もっと強力な反物質爆弾という核兵器2発で報復をちらつかせ投下しなくては、核廃絶などできない。

 アフガニスタン撤退でわかるように、鬼畜米は日本を守らない。核の傘など元よりない。台湾戦争を睨み、既に米軍は見勝手に引き揚げている。さしあたって、現行の原子爆弾程度の核武装が生存に必要不可欠である。


「原爆は日本人には使っていいな」
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784898273777
広島・長崎への原爆は軍事ではなく犯罪だが、日本では核廃絶を掲げる機関もこれを隠す。「原爆は日本人に使用」はルーズベルトとチャーチルによる決定(ハイドパーク覚書)。人種差別で原爆はドイツではなく日本に向けられた。

「when a bomb is finally abailable,it might perhaps ,after mature consideration ,be used against the Japanese.という会話がなされた 広島原爆資料館に資料あり」


核兵器は禁止に追い込める: 米英密約「原爆は日本人に使う」をバネにして - 敏, 岡井
核兵器は禁止に追い込める: 米英密約「原爆は日本人に使う」をバネにして - 敏, 岡井

核兵器は禁止に追い込める: 米英密約「原爆は日本人に使う」をバネにして
https://www.amazon.co.jp/%E6%A0%B8%E5%85%B5%E5%99%A8%E3%81%AF%E7%A6%81%E6%AD%A2%E3%81%AB%E8%BF%BD%E3%81%84%E8%BE%BC%E3%82%81%E3%82%8B-%E7%B1%B3%E8%8B%B1%E5%AF%86%E7%B4%84%E3%80%8C%E5%8E%9F%E7%88%86%E3%81%AF%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%AB%E4%BD%BF%E3%81%86%E3%80%8D%E3%82%92%E3%83%90%E3%83%8D%E3%81%AB%E3%81%97%E3%81%A6-%E5%B2%A1%E4%BA%95-%E6%95%8F/dp/4907127189
「ハイドパーク覚書」を知っていますか? 
これは1944年9月、ルーズベルトとチャーチルによる「原爆は日本人だけに使う」という秘密協定。この日本人へのホロコーストとも言える、米英密約を初めて暴き、核兵器廃絶へのバネにしようという世界への提言が描かれる。

一「ハイドパーク覚書」を知っていますか
   ―――われわれに人種差別の刃が向けられた     

 一九四五年、八月六日と九日の二度にわたって原爆が日本に落とされた。今アメリカは、原爆の使用は太平洋戦争の終結を早めるためであり、同年十一月予定の日本上陸作戦で、五十万人とも予想された米軍犠牲者を出さないために必要だったとして、これがほぼ米国の公式見解となっている。一方、これに対する日本側の公式見解は出されていない。しかし本当のところアメリカは軍事的必要も無いのに新兵器だから使ってみたかっただけで、しかも「日本人に対して」だったから使ったのである。まずその証拠を示しておかなければならない。

 それは、日本・ドイツが共に米英と戦っていた時の「ハイドパーク覚書」というものを見れば分かる。その原文のコピーが日本にもあって、これには「日本人に対して使用」"be used against the Japanese" とはっきり書いてあり、当時の米大統領・ルーズベルトと英首相・チャーチルの手書きによる FDR WCC の赤インクの署名まである。

  TUBE ALLOYS
Aide-memoire of conversation between the President and the Prime Minister at Hyde Park, September of 18, 1944.
1. The suggestion that the world should be informed regarding Tube Alloys, with a view to an international agreement regarding its control and use, is not accepted.
The matter should continue to be regarded as of the utmost secrecy; but when a "bomb" is finally available, it might perhaps, after mature consideration, be used against the Japanese, who should be warned that this bombardment will be repeated until they surrender.
2. Full collaboration between the United States and the British Government in developing Tube Alloys for military and commercial purposes should continue after the defeat of Japan unless and until terminated by joint agreement.
3. Enquiries should be made regarding the activities of Professor Bohr and steps taken to ensure that he is responsible for no leakage of information, particularly to Russians. 
                     FDR WCC 18.9

 管用合金
 一九四四年九月十八日、ハイドパークでの大統領と首相の会話に関する覚書

一、管用合金の管理と使用については、国際協定を目指して、管用合金を世界に公表すべきであるとの意見があるが、この意見は受け入れられない。この問題は、極秘にし続けるべきものである。しかし「爆弾」が最終的に使用可能になった時には、熟慮の後にだが、多分日本人に対して使用していいだろう。日本人には、この爆撃は降伏するまで繰り返し行われる旨、警告しなければならない。

二、管用合金を軍事目的、商業目的に開発する米英両政府間の完全な協力作業は、日本敗北後も、両政府の合意によって協力が停止されない限り、継続されるべきである。

三、ボーア教授の活動については調査する必要がある。教授には、特にロシア人に対してだが、情報を漏らさない責任があり、この保証措置を取らねばならない。       
九月十八日
                       ルーズベルト チャーチル

 管用合金とは原子爆弾の暗号である。この「ハイドパーク覚書」の原文は私にとっては、最初から手にすることが出来たものでなかったが、その話は後に回すことにして、まずこの、絶対者からの宣告ともいうべき文言「原爆は日本人に対して使用」を知った時、日本人がどんな反応をしたか、それを語らねばならない。

 結論を言うと、驚くべきことに、日本の社会はこれに無関心であり、その冷淡さは反核団体も同様であった。まして、これをもとに核廃絶に進もうとは考えない。それは、原爆で殺された広島・長崎の犠牲者を裏切ることではないか。彼等は日本人であるがゆえに、残虐なやり方で殺された。世界を舞台にして人種差別が行われたのである。それが、同胞の胸に響かないのだろうか。

 人種差別と言えば、アメリカで公民権運動の頃、黒人に対して公の人種差別があったとしても、それを露骨な形で直接受けたのは一部の黒人だけだっただろう。例えばバスの座席に仕切りが設けられたと言っても、それは、南部の限られた地区に過ぎなかったはずだ。虐殺もあったが、それは特に語り継がれるほどの稀なものだった。しかしアメリカの黒人は、自分たち全体が被害者だとして団結した。そして人種差別の撤回を獲得した。被害者が抗議しなかったら、一体誰が抗議しただろうか。広島・長崎への原爆では、日本人全体が被害者なのである。「原爆は日本人に対して使う」の傲慢さ。これに憤らないのか。「貴方は日本人ではないのですか」。

 私は一九三〇年生まれの老人で、残された時間はもう僅かしかない。そして最近、思う。私が死んだら「原爆は日本人には使っていいな」の言葉は恐らく消えてしまうだろうと。私は危機感を覚える。私は叫ばずにはいられない。

 私が最初に「ハイドパーク覚書」のことを知ったのは何年前だったか。もう思い出せなくなっているが、今もはっきり記憶に残っているのは次の二つの印刷物で、いずれも、覚書の記述は「原爆は日本に使用」となっていた。

"be used against the Japanese"

「日本人に対して使用」が二つの場合とも誤訳されていたのだが、私は当時、そこにミスがあるとも思わなかったから、これからの話では先ず最初のうちは、覚書の原文も実際に「日本に使用」と書いてあったとして、それで進めていくことにする。


最初から落とすつもりだった原爆 相手が日本人だから大量虐殺
https://www.sankei.com/article/20170115-IEV2UALKE5KNLA6I3M6PYS24WE/3/
東京大空襲の約1カ月後の4月12日、わが国を戦争に追い込んだ米大統領ルーズベルトが死去し、後任に副大統領のハリー・トルーマンが就任しました。このトルーマンが8月6日に広島に、9日に長崎に原爆を投下した大統領になります。
わが国の一部には「日本が侵略戦争を行い、ポツダム宣言を黙殺したから原爆を落とされた」という原爆容認論があります。広島の原爆死没者慰霊碑には「過ちは繰返しませぬから」と刻まれ、修学旅行でやってきた児童・生徒が「自分たちの祖先が悪かったから原爆を落とされたんだ」と反省しています。
米国民の多くは「原爆投下によって終戦を早め、本土決戦で犠牲になるはずの100万人の米兵の命が救われた」という根拠のない「原爆神話」「早期終戦・人命救済説」を信じています。2007年には核不拡散問題担当特使のロバート・ジョゼフが「文字通り何百万もの日本人の命がさらに犠牲になるかもしれなかった戦争を終わらせたということに、ほとんどの歴史家は同意すると思う」と、米兵だけではなく日本人のためだったと恩着せがましく語りました。
わが国の原爆容認論、米国の原爆正当化論は、どちらもとんでもない話です。ルーズベルトは真珠湾攻撃2カ月前の1941年10月に原爆の開発を決断。翌年、原爆開発のマンハッタン計画に発展します。1944年9月、ルーズベルトと英首相ウィンストン・チャーチルは、原爆が完成したら「日本人に対して使う」という秘密の合意を行いました(ハイドパーク覚書)。


鬼畜トルーマン発言.jpg
猿(日本人)を「虚実の自由」という名の檻で、我々が飼うのだ。方法は、彼らに多少の贅沢さと便利さを与えるだけで良い。そして、スポーツ、スクリーン、セックス(3S)を解放させる。これで、真実から目を背けさせることが出来る。猿は、我々の家畜だからだ。家畜が主人である我々のために貢献するのは、当然のことである。そのために、我々の財産でもある家畜の肉体は長寿にさせなければならない。(化学物質などで)病気にさせて、しかも生かし続けるのだ。これによって、我々は収穫を得続けるだろう。これは、勝戦国の権限でもある。

3S政策とは
・スクリーン(Screen)  (映像、テレビ、映画、アニメ等)
・スポーツ(Sports)   (世界大会、オリンピック等)
・セックス(Sex)    (性産業、性道徳の破壊等)

稀代の悪魔、
トーマス・ウッドロウ・ウィルソン(Thomas Woodrow Wilson。67没)
フランクリン・デラノ・ルーズベルト(Franklin Delano Roosevelt、63没)


FranklinDelanoRoosevelt.jpg 悪魔にして人種差別主義者、猶太(ディープステイト)の下僕のトーマス・ウッドロウ・ウィルソン(Thomas Woodrow Wilson、67没)は、猶太の指令通り、第一次世界大戦へアメリカを参戦させた。悪魔ウィルソンは、阿片と奴隷の売買で財を成した一族の悪鬼、フランクリン・デラノ・ルーズベルト(Franklin Delano Roosevelt、63没)ことFDRを海軍省次官に抜擢した。
 FDRはニューポート・セックススキャンダルにより窮地に立たされ、彼の上司のダニエルズは辞職に至る。この悪鬼に生前に天罰が下り、小児麻痺で下半身がほとんど麻痺し、日常生活では車椅子を常用していた。
 白人は一般的に人種差別観念の持ち主だが、FDRはその中でも徹底した人種差別論者で、特に日本人に対する憎悪は強烈だった。彼は国家としての日本の存在を容認したくなかった。ヘンリー・スチムソンとともに日本と日本人を最も軽蔑し憎悪した、悪魔の反日酋長で、「欧米人は人類の支配者」という独善的信条を持つがゆえに、日本は決して対等な相手ではありえず、協調、共存を拒絶し、日本に屈従と隷属のみを求めた。
 アメリカの大統領の再任については規定はなかったが、初代のワシントンが2期まで終わり、3期は不適当であるとして自ら大統領選に出馬しなかったことから、2期までと言う伝統ができた。その後、グラントとセオドア・ローズベルトが3選を試みたがいずれも実現しなかった。FDRだけが第二次世界大戦という特例としてぬけぬけと4選までいった。昭和26(1951)年に憲法修正22条で明確に3選は禁止された。
 昭和15(1940)年10月30日、その3選目の大統領をめざいして選挙戦中のFDRはボストンでの演説で、「あなた方、お母さんやお父さん方にお話している今、私は皆さんにもうひとつお約束をいたします。このことは前にも申し上げましたが、私はそれを二度でも三度でも繰り返して申しましょう。あなた方の息子さんたちは、いかなる外国の戦争にも送られることはありません。」と公約した。同じ演説で、航空機2万6000機を含む大規模な対英武器援助を行なう決意を表明し、11月30日に、完全な国際法の中立義務違反の「フライングタイガース」という最新鋭戦闘機と空軍兵約200人を真珠湾の1年以上前にフライングしてアメリカは日本に奇襲攻撃を加え戦争状態に入っていた。

 フランクリン・デラノ・ルーズベルト「日本人の頭蓋骨は白人に比べ二千年遅れている。」

 フランクリン・デラノ・ルーズベルト(FDR)はディープステイトの手先として日本を挑発し、戦争意思のなかった日本を海軍の米内光政(68没)、山本五十六(59没?)、井上清美(86没)ら工作員を使い、日本をソ連の望む南進戦に引き入れる多ため、真珠湾を攻撃させた。ニューディール政策も効果があったように洗脳されているが、戦争で経済は恢復した。第二次世界大戦では、国際法違反だらけの大虐殺を繰り返した。日本帝國海軍の戦略は工作員の浸透で、日本軍を無意味に損なう消耗戦に終始した。


消えた帝国―大統領ウィルソンの挫折 - 本多 巍耀
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ルーズベルトの開戦責任: 大統領が最も恐れた男の証言 - ハミルトン フィッシュ, Fish,Hamilton, 惣樹, 渡辺
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ハリー・S・トルーマン( Harry S. Truman、88没)

 悪鬼、FDRが天罰覿面でくたばったのは 昭和20(1945)年04月12日。13日後に副大統領から繰り上がったトルーマンは初めてマンハッタン計画のことを知った。

 トルーマンは、無学(高卒)で無知、無能ゆえに操りやすい人物として大物政治家たちに上手く利用されてきた政治家で、それまでは副大統領のトルーマンは聾桟敷にいた。トルーマンは陸軍長官ヘンリー・スティムソンおよび原爆開発計画を率いてきたレズリー R. グローブズ将軍からそのことを知らされ大統領に就任した。因みに、トルーマンの父方はユダヤ系である。


 習近平(69)や岸田文雄(64)は、無学(事実上小卒に東大3回不合格)で無知、無能ゆえに操りやすい人物として大物政治家たちに上手く利用されてきた政治家で今の地位に昇りつめた。歴史は進化しない。

 FDR政権に続いて、バーナード・バルークがトルーマンに対する大統領顧問的な存在となっていた。猶太人の大富豪であり、軍需産業の中心人物である。マンハッタン計画で原爆が完成すると、猶太バルークはトルーマンに原爆の対日使用を積極的に勧めた。また、ヘンリー・スティムソンがFDR政権に続いて、実質的にアメリカの戦争を指揮した。彼が原爆開発計画の最高責任者として広島と長崎への原爆使用を決定した。トルーマンはスティムソンを全面的に信頼した。バルーク、スティムソンは、ロスチャイルド家に繋がっている。
 日本への攻撃についても、当初ヘイウッド・ハンセル少将は都市部での焼夷弾の使用に反対していたが、軍は、国際法違反の民間人の殺人鬼として、「アイアン・アス(鉄の尻)」と呼ばれたカーティス・ルメイ大将(鬼畜ルメイ)を就任させた。昭和20(1945)年03月09日〜10日にかけて、アメリカ空軍は334機の爆撃機によって東京を周囲から焼夷弾のアメを降らせ中心部に追い詰め焼き殺すと言う残忍な爆撃で10万人の市民を殺害した。その他、日本各地の100以上の都市、町に焼夷弾が落され、膨大な数の市民が焼き殺された。この鬼畜ルメイに勲章を授与させたのが、刺青朝鮮系防衛庁長官、小泉純也(65没)である。
 ヘンリー・スティムソン陸軍長官は、「アメリカが残虐行為においてヒトラーを上回ると誹謗されるのは見たくない。」とトルーマンに進言したが、アメリカではこうした市街地への爆撃に対する批判の声は上がらず、大虐殺の共犯者その容認の流れが原子爆弾の使用をも進めることになりました。原子爆弾を手にしたトルーマンにとって、日本がポツダム宣言を飲もうが飲むまいが、ソ連に見せつけるために原爆を使用した。逆に、愚図愚図しているとソ連が日本に攻め込んでしまい原子爆弾を使用する前に戦争は終わってしまうと焦っていた。昭和20(1945)年07月、日本に発せられたポツダム宣言への回答を待たずトルーマンはできるだけ早い時期に原子爆弾を投下するよう指示し、日本が無条件降伏するかどうかは問題ではなくなっていた。

 昭和20(1945)年08月06日に広島、09日に長崎で、人体実験の原爆投下が行われ、それぞれ16万6千人、7万4千人を虐殺した。それ以外の地方都市や機銃掃射や与那国島の虐殺などアングロ・サクソンの残虐性を発揮した。

 昭和20(1947)年02月、スティムソンは原爆投下に対する批判を抑えるために、「原爆投下によって戦争を早く終わらせ、100万人のアメリカ兵の生命が救われた。」と詭弁を表明した。
 ニュールンベルク裁判の首席判事テルフォード・テイラーでさえ後にこう語っている。「08月09日の長崎市への原子爆弾投下は戦争犯罪である。」と考えている。「広島の是非については議論の余地があるが、長崎を正当化するに足る理由を私は聞いた例がない。」と。
 トルーマンは、昭和22(1947)年、連合国で審議されていたパレスチナ分割案に関して、アラブ諸国とりわけアメリカが石油利権を持つサウジアラビアとの関係を重視し、パレスチナでのユダヤ国家の建設に反対する意向を表明していた。「ユダヤ民族主義者には会いたくない。」と言っていたが、旧友の猶太エディ・ジャコブソンのたっての頼みによって後のイスラエル初代大統領ワイズマンに会い、国務省の反対を押し切った決断で、イスラエル建国宣言11分後に承認した。昭和23(1948)年の大統領選で共和党候補に敗北するという危機感を抱いたトルーマンはユダヤ票の75%を獲得し、きわどい差で勝利した。 マスゴミの連中がトルーマン大統領に質問した。「なんであなたはそんなにユダヤの肩ばかり持つんですか。」、トルーマンは「だって君、アラブの肩を持ったって、票にはならんだろうが。」と答えた。トルーマンは猶太票欲しさに、パレスチナ分割決議を推進した。


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原爆を落とした男たち: マッド・サイエンティストとトルーマン大統領 - 巍耀, 本多
原爆を落とした男たち: マッド・サイエンティストとトルーマン大統領 - 巍耀, 本多



ポーランドの親ウクライナ派団体、ロシア大使の献花阻止 対独戦勝記念日
https://www.afpbb.com/articles/-/3463278?pid=25641829
ロシアのセルゲイ・アンドレーエフ(Sergei Andreev)駐ポーランド大使が9日、旧ソ連の対独戦勝記念日に合わせてワルシャワにある旧ソ連兵の墓地を訪れた際、親ウクライナ派団体に献花を阻止された。
 アンドレーエフ大使は霊廟(れいびょう)前に献花しようとしたが、親ウクライナ派団体に行く手をさえぎられた。このため、墓地の入り口に花輪を置かざるを得なかった。
 大使は「明らかな公序良俗違反だ。残念ながらまたしても、ファシズムと戦ってこの地で亡くなったソ連兵の霊廟に献花できなかった」と述べた。
 アンドレーエフ氏は昨年同墓地を訪れた際も、デモ隊に赤い液体をかけられた。
 親ウクライナ派団体「ユーロマイダン(Euromaidan)」のメンバー、ビクトリア・ポグレブニャク(Viktoria Pogrebniak)氏はAFPに対し、抗議行動の目的は「ロシアによるウクライナ侵攻の結果どうなったかを示すことにある」と説明。「ロシア人は今もファシズムと戦っていることを示そうとするだろうが、彼らこそファシズムを再開した張本人だ」と話した。
 ユーロマイダンは、アンドレーエフ大使を国外退去にするようポーランド政府に要請している。これについてポグレブニャク氏は「われわれが求めているのは、ロシアの外交官を文明世界であるポーランドから追放することだ。彼らはもはや文明世界の一員ではない」と語った。
 墓地の入り口では、活動家によるインスタレーション作品も展示された。多数のウクライナ国旗やロシアによる侵攻で殺害されたウクライナ人を表す十字架、ロシアの攻撃で破壊された住宅の模型などが並べられた。

 国際法違反の戦争犯罪、無辜の一般の日本人を無差別に大虐殺した、鬼畜米英の悪魔、フランクリン・デラノ・ルーズベルト(63没)やウィンストン・レナード・スペンサー・チャーチル(ウィンストン・レナード・スペンサー・チャーチル(Winston Leonard Spencer Churchill、90没)の後継の痴呆"ジョー"・ジョセフ・ロビネット・バイデン・ジュニア(Joseph Robinette "Joe" Biden Jr.、80)とリシ・スナク(Rishi Sunak、43)を断罪すべきだった。

 謝罪の一言もない鬼畜には、最低限、ロシアのセルゲイ・アンドレーエフ駐ポーランド大使に対する「おもてなし」が必要であった。

SergeiAndreev大使-1.jpg

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岸田首相、ウクライナから凱旋帰国するも話題になるのは「しゃもじ」と「まんじゅう」だけの哀しみ
https://smart-flash.jp/sociopolitics/227589/1
 しゃもじは、首相の地元・広島にある厳島神社の名産品。木製のしゃもじに「必勝」の文字などが書かれた縁起物で、高校野球やサッカーなど広島代表チームの応援にも用いられる。

 また、2021年、自民党総裁選に出馬した際は、特大の『必勝しゃもじ』が岸田陣営に飾られました。岸田首相にとっては縁起物であり、勝負ごとには欠かせないものなのでしょう。
 ただ、『必勝しゃもじ』は、日清・日露戦争が起きた際、戦場に向かう兵士が、『敵を召し(飯)取る』との語呂合わせから、しゃもじを奉納したことで有名になったといわれています。日露戦争で日本はロシアに勝利していることから、岸田首相が強烈なメッセージを込めたという見方も出ています」(政治担当記者)

 外務省は、政治活動を目的としたサミットのロゴ使用は認めないと規定している。林芳正外相は「サミットの開催機運の醸成にあると認められる申請は承認している」と説明し、岸田首相は、外務省から承認を得たとしつつ「今後は慎重に対応する」と釈明した。
 岸田首相の話題が「必勝しゃもじ」や「サミットまんじゅう」しかないことに、SNSではこんな声があがっている。

《「ウクライナへのしゃもじ」と云い、次は「サミットまんじゅう」。岸田さん、お願いだから、もう勘弁してよ。いい加減首相らしくしてよ》
《まんじゅう配ったり、ウクライナに広島の必勝しゃもじを持って行ったり。そこらのヒラ議員じゃないんだから》
《G7まんじゅうとかしゃもじとか一般常識すら欠如してるよな。こんな世襲しゃもじ総理は嫌だ》

 岸田首相のウクライナ電撃訪問は、中国の習近平国家主席の訪ロと重なり、欧米でも注目を集めたのだが、国内で話題となるのは、「しゃもじ」と「まんじゅう」、さらに「ホウレンソウ(報告・連絡・相談)」だけ。岸田首相が悪いのか、野党が悪いのか。あるいは日本が平和ボケなのか――。)


うんこ.jpg 痴呆バイデン牡牝が、昨年05月22日〜24日の日程で米英横田基地入出国で日本を訪問した時は、増税岸田文雄(65)は、広島レモンサイダーを血税でおもてなし。

「空軍1」に乗って痴呆バイデンが、植民地日本の米軍岩国基地に降り立ち、「海兵隊1」という名のヘリで六本木基地(赤坂プレス・センター)に移動し、「獣(けだもの)」というアメ車で帝国ホテルに移動した。植民地のグーミンをに恐れ入らせるために、わざわざ、他の外国首脳のように羽田ではない。78年も鬼畜米のしたい放題をさせている。外交特権で通関も検疫もないが、属国だと思い知らせているつもりだろう。あのトランプから始めたようだが、内政干渉の兇悪猶太の駐日アメ大使の(Rahm Israel Emanuel、63)だろうが、キャロライン・ブーヴィエ・ケネディ(Caroline Bouvier Kennedy、65)だろうが、日本統治の支配者(日本総督)気取りである。
 トンキンの一等地には、「多摩サービス補助施設」という米兵専用のゴルフ場、キャンプ場、野外スポーツ施設まである。
 天皇との謁見でも、この痴呆バイデンは脚を組み、「ハロー」。反日組織、宮内庁も天皇に痴呆バイデンの迎え見送りをさせるな。異常に近づいていて介護職員と痴呆爺の距離で、いわゆる心理的個人の縄張りを犯している。モンキー痴呆には、ポーランドで駐ポーランドロシア大使に行ったおもてなしが相応しい。

 岸田文雄(65)の広島贔屓は、度を過ぎていて以上で狂っている。

 広島レモンサイダー必勝しゃもじ、折り鶴ランプに続き、公開は、

「広島おさんぽクッキー」(アンデルセン)
「川通り餅」(亀屋)
「瀬戸田レモンケーキ 島ごころ」(島ごころ)
「もみじまんじゅう」(藤い屋)
「もみじ饅頭」(やまだ屋)

「G7岸田総理刻印饅頭」
https://www.47club.jp/33M-000154czh/goods/detail/10182454/
「広島ふみきゅん焼き」
https://mitsuya-honpo.jp/products/fumikyunyaki

全裸Zelensky(44).jpgアゾフ連隊旗.jpg ウォロディミル・ゼレンスキー(44)らうんこ喰らいな政府は、ロシアによる攻撃と大嘘を吐いていた.。ポーランドに核戦争に発展させたくないディープステイト(DS)の下僕の英米もロシアが発射したものではなく、うんこ喰らいなが発射した迎撃ミサイルS-300とほぼ断定している。果たして迎撃に失敗したのか、飛び火させようとする確信犯か?

 アシュケナージ・コサック(ウクライナ)とうんこ喰らいな猶太のウォロディミル・ゼレンスキー(44)は、汚職と蓄財の政治屋で、左の写真のように、全裸のスッポンポンで自転車を運転する芸を厭わない喜劇芸人である。オリガルヒの援助を隠して、うんこ喰らいなの大統領に当選したのは、「反汚職」とオデッサ虐殺(46人が死亡、200人以上が負傷)や東部分離主義勢力(ドネツク人民共和国、ルガンスク人民共和国)と戦闘していた外人部隊のアゾフ連隊を排除するという公約を掲げたためだった。この時8割ほどもあった支持率もオリガルヒの犬の利権政治屋の正体が露わになり、アゾフ連隊を援助したため、支持率が2割の死に体に陥った。人気を失ったゼレンスキーは、「EU加盟」、「NATO加」、「核武装」、「ミンスク合意破棄」という到底実現不可能な政見を掲げ、ロシアを挑発した。ウクライナ戦争が始まった。戦争で支持率9割に跳ね上がったが、欧米の一層の援助を呼び込むためにポーランド人を殺してその罪をロシアに擦り付けようとした。



移民党岸田文雄(64)-1.jpg

岸田文雄(65)TIME.jpg

G7広島サミット、岸田首相はなぜ8カ国を追加招待したのか
https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-65643211
毎年恒例のこの会議は、世界で最も裕福な民主主義国家7カ国(日本、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、カナダ、イタリア)が参加する。欧州連合(EU)は正式なG7メンバーではないが、代表を送る。近年の会議では、議長国が独自の判断でメンバー以外の国を招いている。
しかしながら、G7の経済的な影響力は弱まっている。国際通貨基金(IMF)によると、G7は1990年、世界のGDPの半分強を占めていた。それが今や30%弱に過ぎない。G7は、有力な新しい仲間を必要としているのだ。

そこで岸田氏は、欧米を超えた、より世界的な連合を求めて、テーブルを伸長した。テーブルをいつもより大きくして、オーストラリア、インド、ブラジル、韓国、ベトナム、インドネシア、コモロ(アフリカ連合代表)、クック諸島(太平洋諸島フォーラム代表)の席を設けたのだ。

移民党岸田文雄(64)-2.jpg



増税岸田文雄(65).jpg

核兵器のない世界へ 勇気ある平和国家の志 - 岸田 文雄
核兵器のない世界へ 勇気ある平和国家の志 - 岸田 文雄

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2023年05月17日

日本に亜米利加に世界に「民主主義」などない ディープステイトの犬は、変態法で女性や弱者に危害や恐怖を与え社会と環境を破壊し利権に変えるド助平

岸田文雄〈65〉裕子(58)830101.jpg反対18賛成10で了承したと見做され、「委員長一任」。明らかに拍手も疎ら。
しかもここに並ぶ低能偽員は、虐殺の歴史で異論を封じた欧米の気違いフランクフルト学派ディープステイトの言いなりの犬。

詐欺師の裏切り者、新藤義孝(65)LGBT特命委幹事長(茂木派)は岸田文雄(65)、茂木敏充(67)からの餌に喰らいついた。
人格なき下半身は、女性や弱者を襲う変態を誘致した!!!

稲田朋美(64).jpg犬の犬、岩屋毅(65)、稲田朋美(64)、細野豪志(51)。
餌に喰らいつき寝返った犬の犬の犬、新藤義孝(65)、古屋圭司(70)。
陰に逃げ込んだ犬、岸田文雄(67)。姑息な手を考えた木原誠二(52)ら犬の犬。
何より、徹底抗戦しない弱腰偽員、青山繁晴(70)ら、お前もな。

萩生田光一(59)はすんなり遠し、葬禍党の山口那津男(70)に野盗。女湯、女子トイレ、女子更衣室に「心は女」と自称する変態が世界中で強姦事件を起こしているのも知らないのか。女性は、男でも風呂でも武装が必要。
変態利権で公金チューチューを舌なめずりしている電通やパソナをまた税金漬けにする。
それのおこぼれにたかるのが、国会偽員。

クズが税金を使い、日本を壊している。


うんこ.jpgLGBT理解増進法案 自公が了承、週内に提出へ
https://www.sankei.com/article/20230516-UPDQEZR3GBMXPCYDUD4RCI2SIM/
自民党は16日の総務会で、LGBTなど性的少数者への理解増進を図る法案の修正案を了承した。遠藤利明総務会長は記者会見で「全会一致で了承いただいた。評価したい」と述べた。この後、自民、公明両党は与党政策責任者会議で正式に修正案を了承。自民の茂木敏充、公明の石井啓一両幹事長は東京都内で会談し、修正案を週内に国会に提出する方針を確認した。

両氏は野党に賛同を呼びかけることも申し合わせた。ただ、野党の賛同が得られない場合でも、19日に開幕する先進7カ国首脳会議(G7広島サミット)前に提出する構えだ。

修正案は、令和3年5月に超党派の議員連盟がまとめた「性自認を理由とする差別は許されない」との文言を「性同一性を理由とする不当な差別はあってはならない」と改めた。しかし、自民内では「不当な差別」の中身が不明瞭な点などが懸念されている。

自民は性的マイノリティに関する特命委員会と内閣第1部会の合同会議で計4回、法案を審査したが、反対意見が多かったにもかかわらず、部会幹部らが一任を取り付けたことに、党内では「こんなやり方をすればどんな法案でも通せてしまう。民主主義の根幹に関わる」(閣僚経験者)などの批判がある。

これに対し、萩生田光一政調会長は16日、党内手続きについて「長い時間をかけて議論し、ほぼ収束され、最終的に一任を取り付けた。何ら瑕疵(かし)はなかったと思う」と記者団に強調した。

一方、立憲民主党は自民修正案について、超党派の議員連盟が合意した法案から、内容が後退しているとして批判を強めている。立民の岡田克也幹事長は16日の記者会見で、超党派議連の法案を国会に提出する考えを示した。


悪魔1.pngジャニーズ事務所社長が謝罪するも……第三者調査求める声 性加害問題で
https://www.bbc.com/japanese/65606160
日本で有数の影響力を持つ芸能プロダクション、ジャニーズ事務所の創業者、故ジャニー喜多川氏による所属タレントへの性加害があったとされる問題で、事務所は14日夜、藤島ジュリー景子社長の動画と社長名の書面を公式サイトで公開した。

BBCが3月に放送したドキュメンタリー「Predator: The Secret Scandal of J-Pop」(邦題「J-POPの捕食者 秘められたスキャンダル」)で、BBCは複数の被害者に話を聞いた。この放送を契機に、元ジャニーズJr.のカウアン・オカモト氏が被害を公表していた。

最近では、ジャニーズ所属タレントを応援する複数のファンが、第三者による全面的な検証・調査などを求める署名に1万6125筆を集め、事務所に提出したと発表した。

ジャニーズ事務所は14日の発表で、第三者調査は行わないと表明した。これについてソーシャルメディアや一部の国内報道で、第三者による調査の必要性を指摘する声が相次いでいる。
日本のメディアは長年にわたり、喜多川氏による性加害問題に向き合わず、黙認してきたのではないかと批判されてきた。

喜多川氏は日本の芸能界で最も影響力をもつ1人だった。ジャニーズ事務所は何十年にもわたり日本でほとんど独占的に、男性アイドルグループを作っては人気者に仕立てていった。

他方、喜多川氏が所属タレントの10代少年たちを性的に虐待しているという報道を、週刊文春が1999年に行った。

それを受けて週刊文春連載の翌年、喜多川氏とジャニーズ事務所は文春を名誉毀損(きそん)で訴えた。東京高等裁判所は2003年7月の判決で最終的に、文春の報道について、「セクハラ行為」に関する記事はその重要な部分において真実であることの証明があったと認めた。ジャニーズ側は上告したものの、最高裁は2004年2月に上告を棄却。東京高裁判決が確定した。

それでもなお喜多川氏は刑事責任を問われることなく、10代の少年たちのスカウトや育成にかかわりつづけた。2019年に87歳で亡くなると、その葬儀は国家的な行事となった。当時の安倍晋三首相も弔電を送るほどだった。

こうしたなかでBBCのドキュメンタリーは、10代のころにジャニーズ事務所に所属していた複数の男性に取材した。喜多川氏が複数持つマンションは「合宿所」と呼ばれ、そこに10代の少年が複数人寝泊まりする状況だったという説明も聞いた。
取材に応じた男性たちは、かつて自分自身がそこで性被害を受けた経験や、喜多川氏の性的な要求に応じなければスターになれないと思っていたことなどを話した。

日本国内でも放送されたBBCのこの報道を受けて、4月にはオカモト氏が東京の日本外国特派員協会で記者会見し、自分は15歳の時から4年間、喜多川氏による性的被害を受けていたと表明した。オカモト氏は日系ブラジル人4世で、現在はシンガーソングライターとして活動する。

オカモト氏は記者会見で、自分と同じような被害を少なくとも3人の仲間が受けたのを知っているとし、虐待被害を受けた少年は100人ほどに上るとの考えを述べた。

喜多川氏が所属タレントに性的加害を重ねていたという指摘は、1960年代にさかのぼる。

喜多川氏のめいにあたる藤島社長が謝罪する異例の動画と関連の書面を、ジャニーズ事務所は14日夜に自社サイトに掲載した。

1分の動画で藤島社長は、「何よりもまず、被害を訴えられている方々に対して深く、深くおわび申し上げます」と謝罪した。

一問一答形式の書面では、「BBCの番組報道、またカウアン・オカモトさんの告発は事実か?」という問いに、「当然のことながら問題がなかったとは一切思っておりません。加えて会社としても、私個人としても、そのような行為自体は決して許されることではないと考えております」と社長は答えている。

ただし、「目の前に被害にあったと言われる方々がいらっしゃることを、私たちは大変重く、重く受け止めております」とする一方で、「当事者であるジャニー喜多川に確認できない中で、私どもの方から個別の告発内容について『事実』と認める、認めないと一言で言い切ることは容易ではなく」と述べ、個々の被害の内容が本当かどうかを認めることはしなかった。

さらに、「ジャニー喜多川氏の性加害を事務所、またジュリー社長は知らなかったのか?」という質問には、「知らなかったでは決してすまされない話だと思っておりますが、知りませんでした」と答えている。

加えて、「本件でのヒアリングを望まない方々も対象となる可能性が大きいこと、ヒアリングを受ける方それぞれの状況や心理的負荷に対しては、外部の専門家からも十分注意し、慎重を期する必要があると指導を受けたこともあり」として、第三者委員会などによる独立した調査は行わない方針を明らかにした。

事務所からのこうした異例の謝罪について、多くのファンは不十分だと反応している。

所属タレントの複数のファンがつくる「PENLIGHT(ペンライト) ジャニーズ事務所の性加害を明らかにする会」は11日、事務所に対し、第三者機関を設置し、性加害について全面的に調査するよう求める署名を提出した。

藤島氏の謝罪を受けて同会はツイッターで、「今回、現在名乗り出ている被害者の方々に対して謝罪をしたことは、企業としてひとまず誠実な姿勢を示したと受け止めています」とした上で、「私たちが求めているのは、まず実態調査・検証をし、事実を認めた上で、企業として責任を持って性暴力被害者に謝罪をすることです。今回の見解におけるお詫びを出発点として、性暴力が放置されてきた原因を事務所自身の責任で明らかにしていくことを望みます」と書いた。

1999年に週刊文春が喜多川氏の性加害疑惑について報じた時点で、藤島氏がすでにジャニーズ事務所で働いていたことも、多くの人が指摘している。

BBCドキュメンタリーに出演した元ジャニーズJr.の高橋竜氏(31)は、朝日新聞の取材に対し、「知らなかったということはないと思う。うわさもあったし、週刊文春との裁判でも判決が出ていた。取締役という役職にいて、さらにその後、社長を継いだ人が、知らなかったでは通らない」と話している。

ソーシャルメディアでは多くの人が、この問題を取り上げたBBCに感謝する書き込みをしている。日本のメディアは視聴率や売り上げ、広告収入に結び付くジャニーズ事務所の人気タレントを起用し続けたいがために、喜多川氏による性加害問題を黙認してきたと、批判する声も多い。

「日本のメディアが知りながら無視してきたことが問題の本質で、BBCの外圧がなければ、そのまま無視し続けたのだろう」、「事務所とメディアが結託していたということだろう」という投稿もあった。

ユーチューブではBBC日本語チャンネルに、「報道の力ってすごいですね。濁った沼に一石を投じ、巣食っていたおぞましい物が姿を表している。その沼にどれだけの少年達の夢と希望が引きずり込まれたのでしょうか」と書いた人もいる。

日本の芸能界に詳しいジャーナリストの松谷創一郎氏は朝日新聞に対して、「性的なグルーミング(手なずけ)についても、今回のBBCの報道でようやく世間に広まったのではないか」と指摘している。

他方で、「BBCにはジミー・サヴィルの問題があるではないか」という指摘も繰り返されている。BBCの人気司会者だったサヴィル氏による長年にわたる少年や少女への性的虐待は、同氏の死後に表面化した。サヴィル氏が出演していた当時のBBCの対応について、BBCは報道を重ねた上、2012年に独立調査委員会を設置し、同委員会は2016年に報告書を発表した。BBCは2016年に、サヴィル氏とその被害者たちについて90分のドキュメンタリーも制作している。

うんこ.jpg変態のなかでも、GとTは、殺人事件も含む兇悪な事件が他はGとTと反目している!!!
「新潮45」2018年8月号に「LGBTのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。彼ら彼女らは子どもを作らない、つまり生産性がないのです。」と寄稿した杉田水脈(56)が批判を受け、「ゲイだと名乗る人間」から殺害予告のメールが届いた。こういう言論封殺のテロリスト、少なくとも陰でほくそ笑んでいたのが、下に列記した国会偽員である。
安倍晋三(67暗殺)は功罪があるが、少なくとも変態利権法には反対していた。暗殺の真犯人の究明を妨害する闇の勢力、ディープステイトの犬に阿り、その恩を仇で返すのがこいつらだ。特に推進していた稲田朋美(64)は新幹線利権まで貰い引っ込めた事実を、大嘘と恫喝で隠蔽できると思う極低能の裏切り人非人売国婆だ。

移民党の移民法やザイヌ法にジェンダー、外資導入、持続可能とか地球温暖化とか詐欺で、日本を壊し、日本人を殺戮してきた。血塗られた手で利権に変え、今回は、変態利権法を通す鬼畜ども、どう責任を取れる。お前らが死んで、汚い屍をすり潰しても、性犯罪を誘致して被害者の人権は取り戻せない!!!

岩屋毅(65)、稲田朋美(64)、細野豪志(51)。
新藤義孝(65)、古屋圭司(70)。岸田文雄(67)、木原誠二(52)。
青山繁晴(70)。
萩生田光一(59)、山口那津男(70)。


萩生田光一(59).jpg「萩生田光一」大臣が受けたカジノ業者からの超VIP待遇 妻同伴でマカオ訪問
https://www.dailyshincho.jp/article/2020/03041700/?all=1
 自民党の秋元司議員の逮捕・起訴は、IR(カジノを含む統合型リゾート施設)事業をめぐる汚職によるものだった。そしてこのたび萩生田光一文科相(56)に浮上するのも、「カジノ」に絡む不祥事である。
 時は「カジノ実施法」が国会で成立したおよそ2年前のこと。当時、萩生田大臣の肩書は、自民党の幹事長代行であり、超党派のいわゆる「カジノ議連」の事務局長を務めてもいた。日本でのカジノ参入を狙う事業者にとっては、安倍総理の側近で議連のメンバーである萩生田大臣は“重要人物”だったといえる。
 そんな萩生田大臣は、実施法の成立直後に香港とマカオを訪問。週刊新潮が入手した当時の画像から浮かび上がるのは、大手カジノ事業者から超VIP待遇を受けていた実態である。
 萩生田大臣を“おもてなし”したのは、香港に本社がある「ギャラクシー・エンターテインメント」なるカジノ事業者だ。2018年のグループの純売上高は552億香港ドル(約7772億円)を誇り、マカオのカジノ業界では第2位に位置するという。
 まず、フェリーでマカオを訪れた萩生田大臣を出迎えたのは、ギャラクシーが用意した黒塗りのワゴン車で、ギャラクシーが運営するホテル「バンヤンツリーマカオ」へ移動。このときは、ギャラクシーの日本法人の総支配人がわざわざ萩生田大臣を出迎え、同乗している。
 そして着いた先のホテル入口では、これまた「ギャラクシー・エンターテインメント・ジャパン」の最高執行責任者(COO)が、萩生田大臣を出迎えている。全室スイート仕様のこのホテルに、大臣は1泊した。
 こうした対応について、カジノ事業関係者はこう評する。
「通常の客では絶対にあり得ず、異例中の異例といっていい。萩生田さんを『超VIP』と判断したからこそ、そんな対応になったのでしょう」
 こうした特別待遇の様子を、週刊新潮は他にも確認している。
“カジノ議連の活動に絡めた視察”という言い訳は通用しない。先に説明したように、すでに法案成立後の旅行であり、なによりこの場には、萩生田大臣の妻と、大臣の後援会で事務局長も務める有力支援者・不動産会社「エイト」の白柳雅文会長、そして白柳会長の妻が同伴していたのだ。
 週刊新潮の取材に対し、大臣の事務所はこの旅行について「プライベート」と回答。
「旅費及び宿泊費は全て自分たちで支払っています」
 と私費であることを強調するが……。3月5日発売の週刊新潮では、写真とともに萩生田大臣が受けた「超VIP待遇」の模様を詳報する。


茂木敏充(66).jpgLGBT法案提出へ手続き 茂木氏「速やかに進める」
https://www.sankei.com/article/20230515-2XITUJ3OYFNUDGI6SPWCQALJ5A/
自民党の茂木敏充幹事長は15日の政府与党連絡会議で、LGBTなど性的少数者に対する理解増進法案の修正案に関し「速やかに党内手続きを終え、国会提出へと進めたい」と述べた。岸田文雄首相は「国会提出に向けた議論が進んでいる」と語った。

会議後、公明党の山口那津男代表は記者団に「できるだけ早く国会提出を目指すべきだ」と強調した。修正案への対応を巡り、一任を取り付けた自民党内の動きを注視する考えも示した。

LGBT法案一任 自民保守系から不満噴出
https://www.sankei.com/article/20230513-ASQCKQBRMVKFFDLVHKDALPCO7Y/
岸田文雄〈65〉裕子(58)830101.jpg
LGBTなど性的少数者への理解増進を図る法案を巡り、自民党の保守系議員が党内議論の進め方に反発を強めている。12日に開かれた性的マイノリティに関する特命委員会と内閣第1部会の合同会議では法案への反対意見が根強いにも関わらず、議論が打ち切られ、部会長らに法案の取り扱いが一任されたためだ。「LGBT当事者や女性の不安が払拭されていない」(党中堅)と法案への懸念はくすぶる。

「反対が多いのに『一任』はあり得ない。党内民主主義に反する。法案提出ありきで期限を区切っているのではないか」
自民の和田政宗参院議員は13日、産経新聞の取材にこう述べ、憤りを隠さなかった。

星条旗犬.jpg12日の合同会議は4回目の条文審査となり、計28人が意見を述べた。幹部側は過去3回の議論も踏まえた修正案を提示したが、和田氏によれば、発言者の半数を超える15人が明確に反対を唱えたという。最終的に幹部側は特命委の高階恵美子委員長と内閣第1部会の森屋宏部会長への一任を決め、事実上の了承に至った。

特命委の幹事長を務める新藤義孝政調会長代行は会合後、記者団に「濃密な議論の土台がある中で、よい議論ができた。懸念のある部分にはさまざまな検討を加えた」と述べたが、苦渋の表情が浮かんだ。

2時間半にわたる会議の末、新藤氏は議論の打ち切りを提案した。ただ、保守系議員らが譲らず、席を立って新藤氏に詰め寄る場面もあった。

その1人、赤池誠章参院議員は13日、自身のツイッターで、「最後まで慎重審議を求めたが、賛成少数でも役員一任となり、あり得ない政策審議、党運営だ。(LGBT)当事者や多くの女性の不安を払拭することなく、法案が推進されることを危惧する」と書き込んだ。

高鳥修一衆院議員も13日にツイッターで、「多くの議員が求めた差別のガイドライン、性同一性の客観性、学校に関する条文の削除はゼロ回答のまま。(ひな壇は)聞かない力を発揮した」と投稿し、部会の運営を批判した。12日には、理解増進法の制定に強い懸念を示していた安倍晋三元首相に触れ、「安倍氏が亡くなったとたん、平気で裏切る議員が残念でならない」とも書き込んだ。

静岡県御殿場市長を経て令和4年参院選で初当選した若林洋平参院議員も12日のツイッターで、「慎重派の意見が圧倒的に多かったのにも関わらず強行一任で幕を閉じた‥地方自治では絶対あり得ない」と強調した。

法案に関する党内手続きは、16日にも開かれる党総務会での了承を経て、終える見通しとなっている。

自民議員グループ「日本の尊厳と国益を護る会」の代表を務める青山繁晴参院議員は13日、産経新聞の取材にこう懸念を口にした。

「LGBTに関する法律は日本社会となじまない。岩盤支持層だけではなく、自民から離れてしまう人が増えるのではないか」


新藤義孝(65).jpg自民党政調会長代行の新藤義孝(65)
明治大学文学部卒業
母方の祖父は、硫黄島の戦いにおける日本軍守備隊最高指揮官の栗林忠道陸軍大将である。本土決戦を食い止め、硫黄島で玉砕した。平成27(2015年04月30日、安倍晋三首相のアメリカ合衆国議会合同会議の演説の場で、硫黄島の戦いでかつて海兵隊大尉として戦闘に参加したローレンス・スノーデン退役中将と握手した茶番を演じ、安倍晋三(67暗殺)の御蔭で、こんな無能で好色な、一般社団法人 LGBT理解増進会 顧問。おじいさんが、灼熱の火山島、硫黄島で散華された英霊の祟りが下るぞ。


新藤義孝の人格なき下半身
https://access-journal.jp/28775
実態は事、女性に関してはまったく異なるようで、約5年前の3期目を目指した選挙で落ちたのも女性問題が原因で、特に公明党の女性票が逃げたと言われるほどなのだ。
「英雄色を好む」の例えもあり、大目に見てもと思われる読者もいるかも知れない。だが、新藤氏の場合、妻だったA子さん(明治大学の学生時代に結婚)を地元・埼玉県川口市に張りつかせ、自分は議員宿舎で元スチュワーデスと同棲していたり、義理の妹との不貞行為、自分が経営する幼稚園の保母さんとの関係が噂されるなど、度を越しているというのが関係者の一般的見方だ。

元総務相・新藤議員、年始めの超高級ソープ通い 後援者の葬儀後に
https://www.dailyshincho.jp/article/2017/01290800/
新藤議員が吉原を訪れたのは今月10日のこと。地元・埼玉県川口市で行われた後援者の葬儀後、自ら運転する車で吉原入り。総額8万円(入浴料3万円、サービス料5万円)という、吉原高級ソープ エルドール(Aile D'ore)を訪れた。「週刊新潮」の直撃取材に対し、「個人のプライベートに関することだから、コメントしようがないんですよ」と、詳細については言及を避けた形だ。

 その一方で、04年には地元の川口ふたば幼稚園の園長に就任している。これは、大映の映画監督だった父・孝衛とニューフェイスの母・たか子とが結婚後に設立したものである。
 選良かつ教育者でもあるその血筋をたどれば、父方の祖父は川口市議会議長を務めた人物で、母方の祖父は他ならぬ栗林忠道。本土決戦を食い止め、硫黄島で玉砕した陸軍大将である。
「新藤家は、鎌倉幕府が開かれたとき源頼朝の武将・佐々木盛綱の家臣として川口に赴任。以来八百年川口という旧家です」
 と、代議士のホームページにある。

 プライベートに目を転じると、06年にひと回り年下で整体師の女性と再婚し、1男1女に恵まれた。美しい妻、玉のような子らとは敷地2000平方メートルに及ぶ川口市内の邸宅で暮らしており、いずれの子もそこから都内の名門私立小学校へ通っている。
 昨年は新藤氏にとってのメモリアル・イヤー。再婚と先に触れた映画公開から共に10年。張りつめていた緊張の糸が緩んだのか、その心にちょっとしたものが入り込んできたのが、1月10日だった。

 午後5時33分、代議士を乗せて議員会館を発った黒のトヨタ・アルファードは、川口の斎場「密蔵院松雲閣」へ。お膝元の政界関係者に聞くと、
「亡くなったのは熱心な自民党の後援者で、県議や市議、もちろん新藤のことも、ずいぶん力を入れて応援されていた人物。彼は少し遅れてきて遺族のところへ向かって、“急でしたね……”と声を掛けていました」
 7時15分に斎場を出て30分後。アルファードは赤坂にある衆院議員宿舎の地下駐車場へ滑り込んだ。10分経ち、今度は新藤氏みずからステアリングを握って発車。同伴者は見当たらず、2トンの鉄のかたまり自体、先ほどよりも心なしか足取りが軽そうに見える。
 8時。地下鉄・溜池山王駅近くのローソン前に停車し、おにぎりと思われる軽食を買い込む。暗がりの車内で腹ごしらえだ。
 8時18分、ミニバンはそろりと動きだし、首都高速の「飯倉」入口を駆けあがって行く。法定速度を順守し、8時35分に「入谷」で降りた。
 そこから数百メートル進み、台東区竜泉3丁目の交差点近くの路肩に停車。人どころか猫さえふらついておらず、クルマは闇に溶けるようにたたずんでいるところ、警官2人がただちに近寄って誰何(すいか)している。とはいえ、数分程度で“嫌疑”は晴れる。
 程なく闇から分かれるように動き出し、踏み入ったのは台東区千束エリア。いわゆる吉原一画を指す住所なのだが、なかなかどうして周辺をぐるりと回遊する。
 腹ごしらえにせよ、路駐にしろ、そしてこの周回にしても、一連の行動は時間調整のためだろう。目的地までの道程を知り過ぎていて、更に渋滞がほとんどなかったせいで、あるいは急(せ)く気持ちもあり、予約時間にはまだ早すぎたのだ。
 そして8時50分、極彩色のネオンがぎらぎら輝くメインストリート「角町通り」沿いの超高級店前にアルファードは横付けされた。
 出迎えの店員と入れ替わるようにし、重そうな鞄を携えた本人が店内に吸い込まれていく。
 暖かみのあるライトに照らされた15平方メートルぐらいの待合室には8席の黒いソファ。元大臣はダウンのブルゾンを羽織ったまま、その1つに腰掛けた。
 右手で頬杖をついたかと思えば、上半身をぐるりと反転させて雑誌類を物色する。韓国領土に上陸せんと画策した当時とは真逆の、なんとも無防備な姿である。
 写真週刊誌を手に取っては目を細めつつ、けれど読むともなしにページをパラパラと繰る。落ち着きのない動作は、胸が早鐘を打っている証拠か。運ばれてきたお茶にズズズと口をつけてからすぐ、店員が「8万円です」と告げ、現金を回収していく。
 その1〜2分後、「ヤマザキ様、準備が整いました」の声に従って、待合室を出て行った。入店わずか5分で部屋に消えて行くあたり、予約通りにコトが運んだ結果だろう。

吉原高級ソープ エルドール(Aile D'ore)
https://www.ailedore.jp/

古屋圭司(70).jpg古屋圭司(70)成蹊大学経済学部経済学科卒業。一般社団法人 LGBT理解増進会 顧問。

古屋圭司衆院議員の元私設秘書(23)が自宅で死亡 自民党多治見市支部の預金を不正に引き出し 詐欺などの罪で公判中 岐阜
https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/468051?display=1
岐阜県の自民党多治見市支部の預金を不正に引き出したとして、詐欺などの罪に問われていた古屋圭司衆院議員の元私設秘書の男性が、自宅で死亡しているのが見つかりました。
関係者によりますと、2日、古屋議員の元私設秘書の山本翔貴被告23歳が、岐阜県土岐市内の自宅で死亡しているのを家族が発見しました。自殺とみられています。
山本被告は、自民党多治見市支部から不正に入手した通帳と印鑑を使い、支部の口座から50万円を引き出した詐欺などの罪に問われていました。
ことし2月に逮捕、3月6日に起訴され、7日には、岐阜地方裁判所多治見支部が保釈を認めていました。先月20日に開かれた初公判では、認否を留保していました。
岐阜地裁多治見支部は、今後、公訴を棄却する見通しです。


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2023年05月12日

反吐が出る世界史 牡慢テュルコ、繁栄の頂点を過ぎ倦怠と衰退 悪逆非道なディープステイトの中核、猶太とは何か その15

ダビデの星.jpgユダヤ(ギリシャ語: Ἰουδαία、Ioudaía、漢字:猶太)

 他民族からは「ヘブライ人」と謂れ、自らは「イスラエル人」と称し、バビロン捕囚後には「ユダヤ人」と呼ばれるようになった徒輩。ヘブライ人、イスラエル人、ユダヤ人は同じ民族を指している。
 ユダヤ人(ヘブライ語: יהודים‎、英語: Jews、ラジノ語: Djudios、イディッシュ語: ייִדן‎)は、猶太教の信者(宗教集団)または猶太教信者を親に持つ者によって構成される宗教信者。原義は狭義のイスラエル民族のみを指す。イスラエル民族の1つ、ユダ族がイスラエルの王の家系だったことを由来とする。猶太教という名称は、猶太教徒が多く信仰していた宗教であることによる。ユダヤとは、パレスチナ南部の地域。酋長ヤコブの子ユダに由来する。古代イスラエル統一王国の分裂後の南ユダ王国があった地域である。



南ユダ王国滅亡後のユダヤの歴史

南ユダ王国が滅ぶと、僅かな例外的時期を除いて西暦20世紀に至るまでユダヤ民族が独立国を持つことはなかった。


神武天皇74(西暦前587)〜安寧天皇10(西暦前539)年 新バビロニア帝国
安寧天皇10(西暦前539)〜孝安天皇61(西暦前332)年 アケメネス朝ペルシア帝国
孝安天皇61(西暦前332)〜孝安天皇88(西暦前305)年 プトレマイオス朝エジプト
孝安天皇88年(西暦前305)〜開化天皇17(西暦前141)年 セレウコス朝シリア
開化天皇17(西暦前141)〜崇神天皇35(西暦前63)年 ハスモン朝 ユダヤ人国家
崇神天皇35(西暦前63)〜崇神天皇61(西暦前37)年 共和政ローマ元老院属州
崇神天皇61(西暦前37)〜垂仁天皇73(西暦44)年 ヘロデ家
垂仁天皇73(西暦44)年 ユダヤ属州(ローマ帝国皇帝属州)
垂仁天皇73(西暦44)〜景行天皇23(西暦93)年 ヘロデ家
垂仁天皇73(西暦44)〜仁徳天皇83(西暦395)年 ローマ帝国皇帝属州
仁徳天皇83(西暦395)〜舒明天皇06(西暦634)年 東ローマ帝国
舒明天皇06(西暦634)〜永正13(西暦1516)年 イスラーム諸王朝 途中に十字軍国家の時代を含む。
永正13(西暦1516)〜大正06年(西暦1917)年 オスマン帝国 
大正07年(西暦1918)〜昭和23(西暦1948)年 イギリスによる国際連盟の委任統治 
昭和23(西暦1948)年 イスラエル国(メディナット・イスラエル)成立 共和政国家の樹立、現代に至る。



 西暦135年、ローマが叛乱を鎮圧し、ユダヤ的なものを一掃しようとしたローマ人は、この土地をユダの地(ユダヤ)ではなく、ユダヤ人の宿敵ペリシテ人に因んで「パレスチナ」、エルサレムを「アエリア・カピトリーナ」と改称し、ユダヤという地名は消滅した。

 また、ユダヤ人は人種的にはセム族とされるが、長いディアスポラ(離散)のなかで、周辺民族との混血の結果、セファルディームアシュケナジームの違いが生じ、また言語もイデッシュ語などが生まれた。現在、ユダヤ人はイスラエルの他、世界中に分布しており、アメリカにも約600万人が住んでいるとされる。しかし現在ではユダヤ人を「人種」概念で捉えるのは困難で、現実には「猶太教を信仰する徒輩」と捉えるのが正しい。人類学的に同質のユダヤ人は存在しない。



 西暦1290年の追放令は改宗したユダヤ人(コンベルソ、converso)(隠れ猶太教徒、マラーノ、marrano、西語で豚の意)には適用されなかった。西暦1492年のスペイン王国からの追放で、ユダヤ人が「スペイン人」としてイギリス王国にも来た。しかし、ヘンリー7世が、息子とアラゴン王女カザリンとの結婚に際して、ユダヤ人の立入りを禁じた。しかし、この禁止令は部分的にしか守られなかった。ヘンリー8世治世下の西暦1540年、ロンドンに37家族のマラーノによる植民地が形成されたが、西暦1542年に解散させられた。なお、ヘンリー8世は亡兄ウェールズ公に嫁いだアラゴン王女カザリンと結婚していたが、カザリンとの離婚の根拠を探すために、イタリアのラビに問い合わせている。
 テューダー王朝(西暦1485〜1603年)時代には、隠れユダヤ人は国王政府によって、むしろ積極的に活用された。
その最大の要因を作り出したものが、西暦1534年のヘンリー8世による「国王至上法」(Act of Supremacy)の制定である。これによってイギリス王国はローマ教会から離れ(実際には破門された)プロテスタントになったが、「ローマ教会およびカトリック国、中でも強国スペイン王国から侵攻を受けるのではないか。」という不安があった。このため、ヘンリー8世はセファルディームと呼ばれるポルトガル系とスペイン系の隠れユダヤ人を保護し活用した。特に外国貿易に従事したり、医師が多かったポルトガル系の隠れユダヤ人をスペインの動向を探るために利用したとされる。
 ヘンリー8世の娘のエリザベス1世は、西暦1559年「国王至上法」を再制定し、カトリック勢力の攻撃に備えた。その最大の困難が西暦1588年フェリペ2世によって差し向けられた「スペイン無敵艦隊」(Invincible Armada)の来襲である。この時エリザベス女王の懐刀であり諜報組織を束ねる国務大臣ウォルシンガムはロンドン在中の医師エクトール・ヌネスなどの情報網を通じて、スペインのイギリス侵攻の情報を摑んだことから、十分な迎撃体制が執れた。ヘンリー8世やエドワード6世治下のロンドンに「マラーノ」の小居住地が設けられ,メアリ女王即位によるカトリックの巻き返しで一旦消滅したものの,エリザベス1世時代には、ロンドンやプリストルで半ば公然と(つまり半ば非合法的に)ユダヤ人集会も公然と行われるようになり、その中には、貿易活動の傍らヨーロッパ大陸から軍事・外交上の機密情報をイギリス政府に伝えたユダヤ人医師で貿易商人エクトール・ヌネスや、「侍医でありながら女王の毒殺を図った。」として処刑されたユダヤ人ロデリーゴ・ロペスがいた。
 ジェームズ1世の治世下では、西暦1609年に、隠れユダヤ人同士の内紛が原因となって、ポルトガル系の隠れ猶太教徒に国外追放令が出されたが、実際には、多くのユダヤ人がイギリス王国に留まったようである。元はと言えば、ローマ教会からの離脱後、カトリック勢力の侵攻から国を守るために隠れユダヤ人を利用したヘンリー8世やエリザベス1世は、イギリス的な「実益主義」(utilitarianism)の実践者であった。
つまり西暦17世紀初頭(エリザベス女王の最晩年)には、国の上層部、すなわち司法、行政、外交レベルでは、ユダヤ人の再入国を許すべきとの方向性が出されていた。
 一般大衆の中には依然としてユダヤ人に対する嫌悪感は強く残って反ユダヤ主義が高まり、劇作家クリストファー・マーロウの「マルタ島のユダヤ人」(西暦1590年)では財産を没収されたユダヤ人が復讐する。ただしこれには無神論者だったマーロウがユダヤ人の悪魔が吐く台詞によって耶蘇教体制の偽善を批判したという見方もある。西暦1594年にユダヤ人侍医ロデリーゴ・ロペスがエリザベス女王毒殺未遂事件が起こり、裁判に掛けられ処刑された。同じ頃、シェイクスピアの「ヴェニスの商人」(西暦1596年)では、高利貸しユダヤ人シャイロックが返金しないアントーニオに対して肉片を要求するが、裁判で逆に財産を没収され耶蘇教に改宗されてしまう。クリストファー・マーロウの「マルタ島のユダヤ人」やシェークスピアの「ヴェニスの商人」などの反ユダヤ主義的な演劇が庶民に受けたことに現れている。

 西暦16世紀、スペイン王国やポルトガル王国出身の改宗ユダヤ人(マラーノ)が、オランダ王国、イタリアの金融市場、大西洋貿易、東方貿易の開拓者となっていった。スペイン王国支配下のアムステルダムは大西洋貿易の中心地となった。
 マラーノが権勢を誇る一方で、ドイツのユダヤ人は生活の基盤を失われ苦しんでいたため、マラーノを「純粋ユダヤ人ではない。」とする状況になった。西暦1531年、アルザスのユダヤ人ロースハイムのヨーゼルは、富裕なマラーノの入植地が根を張っていたアントワープに対して、「ここにはユダヤ人がいない。」と書いた。
 西暦1614年、フランシスコ会修道士ジャン・ブーシェはユダヤ人を「かつて祝福の対象とされながら、今では呪いの対象とされている種」「世界の四方を惨めに彷徨い歩いている種」として、「テュルコ人はユダヤへの憎悪の結果、ゴルゴダの教会広場でユダヤ人を見かけた耶蘇教徒はユダヤ人を殺しても罪に問われなかったし、またユダヤ人が西暦1291年にイングランド王国で、フランス王国(西暦987〜1792、1814〜1815、1815〜1848年)で西暦1182年にフィリップ2世尊厳王、西暦1306年にフィリップ4世美麗王、西暦1322年にフィリップ5世長躯王によって、スペイン王国で西暦1492年にフェルディナンド2世によって追放されたのは、ユダヤ人が耶蘇教徒に対して不敬の態度を示し讒言を差し向けたからである。」と述べた。
 西暦1615年05月12日、14歳のフランス王ルイ13世とその母で摂政のマリー・ド・メディシスが数年来、「ユダヤ人が身分を偽って王国に入り込んだ。」として、西暦1394年のシャルル6世によるユダヤ人追放令を更新した。ただし、ボルドーとバイヨンヌのマラーノには適用されなかった。西暦1615年について年代記作家は「不信心と良俗紊乱」の1年であり「魔法使い、ユダヤ人、呪術師が堂々とシャバト(安息日)を祝い、シナゴーグでの儀式を行った。」と記録している。魔女はシナゴーグとも呼ばれ、また安息日を意味するヘブライ語のシェバトからサバトとも呼ばれるようになった。

 西暦1541年、ナポリからユダヤ人が、パレスチナの地に移住した。西暦1548年、ラビで、カバラー学者のモーセ・コルドベロ(Moses ben Jacob Cordovero)がトーラーの神学的解釈の体系的記述となっている主著「柘榴の庭 Pardes rimmonim」を著した。西暦1563年、サフェドにヘブライ語印刷所が設置された。西暦1555年、法王国家アンコーナで隠れ猶太教徒の弾圧。
 西暦1614年08月22日のフランクフルト・フェットミルヒの掠奪(Fettmilch-Aufstand)。ユダヤ人が居住するフランクフルト・ゲットーが襲撃された。フランクフルトの豚肉商フェットミルヒたち職人層がユダヤ人のゲットーを襲撃し、暴徒は金品を強奪し、借用証書とトーラーを焼き払うために火を放った。ユダヤ人住民は命の犠牲は免れたが、財産を奪われ、また、他の土地へ移っていった。数ヶ月後、ヴォルムスでもユダヤ人ゲットーが同様の襲撃事件が起きた。地方政府も帝国政府も和解に努めたが、暴動の首謀者は熱烈な歓呼に包まれた。ドイツの大学法学部は「今回の襲撃は昼間の襲撃であったが松明をもって行われており、法範疇に属さないため、罪科の対象とはならない。」と判断した。その後、神聖ローマ皇帝マティーアスによってユダヤ人は神聖ローマ帝国軍の厳重な護衛の下、フランクフルトに戻った。このフランクフルト騒動後、国家権力によってユダヤ人は保護され、ドイツにおける反ユダヤの実力行使は途絶えた。その後数世紀、反ユダヤ主義を主張する多くの作家、思想家が登場したが、ドイツのユダヤ人には一定の平和が訪れた。
 西暦17世紀、ユダヤ人虐殺事件は少ないものの、フランクフルト市では、ユダヤ人識別章の着用が義務化され、耶蘇教徒の下僕の雇用禁止、明確な目的になしに街路を通行することの禁止、耶蘇教祭日や君主の滞在期間中の外出禁止、市場では耶蘇教徒が買い物を済ませた後でなければ買い物はできなかったなど、制限されていた。ユダヤ人はフランクフルトの「市民」ではなく「被保護者」または「臣民」と規定された。
これはナチスドイツ時代も採用した区分であった。

 西暦1563年にユダヤ法の最後の大法典である「シュルハン・アルーフ」をヨセフ・カロ(Joseph ben Ephraim Qaro(Caro, Karo) がオスマン朝領パレスチナのツファットで著じた。
 西暦16世紀、エルサレムに「4つのセファルディームシナゴーグ」が設立された。イツハク・ルリア(Yitzchaq Luria)はオスマンシリアのガリラヤ地方のツファットで、主要なラビを務めたユダヤ教神秘主義者。現代カバラの父と見做される。彼の死後西暦16世紀後半、ルリアを記念して、ツファットにアリー・アシュケナジー・シナゴーグが建設された。
 西暦1569年、ルブリン合同。制度的同君連合である。これにより、ポーランド王国とリトアニア大公国はポーランド・リトアニア共和国に統合された。実質的には、ポーランド王国によるリトアニア大公国の併合。



オスマン朝(西暦1299〜1922年)領 その3

 10代皇帝スレイマン1世と寵妃ヒュッレム・ハセキ・スルターン(ロクセラーナ)の子のオスマン朝の11代皇帝、セリム2世(土語: II.Selim)は、軍事活動への関心を持たずに大臣たちに権限を委ねた最初のスルターンであり、専ら放蕩と飲酒に耽っていた。そのため、「酒飲み」、「酔っ払い(Sarhoş Selim)」の仇名で呼ばれた。父スレイマン1世の存命中はコンヤを任地とし、西暦1545年にヴェネツィア貴族の家系に連なるチェチーリア・ヴェニエル・バッフォ(ヌール・バヌ)を妻に迎えた。西暦1554年のペルシャ遠征では、アナトリア半島出身の兵士で構成された右翼軍の指揮官を務めた。
 西暦1530年代より、オスマン朝宮廷内ではスレイマン1世の後継者の地位を巡る暗闘が起こり、スレイマン1世の寵妃ヒュッレム・ハセキ・スルターン(ロクセラーナ)は自分の息子を後継者に据えるため、皇子シェフザーデ・ムスタファに対し策謀を巡らせていた。スレイマン1世とその愛妻マヒデヴラン・スルターンとの間に生まれたムスタファはスレイマン1世の皇子の中で最初に成人できた息子であった。父スレイマン1世はムスタファよりも異母弟のメフメトを溺愛していたが、ムスタファとヒュッレム・ハセキ・スルターンの子のメフメトの仲は良好であった。幼い頃はマニサで育ち、オーストリアの大使は「スレイマンにはムスタファという息子がおり、礼儀正しく、慎重な性格で高貴な人である。」と評し、ムスタファが9歳の時にベネツィア大使は「ムスタファ皇子は並外れた才能をもっており、将来戦士となってイェニチェリに支持されるだろう。」と述べている。
  西暦1553年のスレイマン1世の東方遠征中、スルターンの軍隊はエレリに進駐した。その間、リュステム・パシャらはムスタファに軍を率いて父帝と合流するように要請した。しかしリュステム・パシャはその一方で「ムスタファ皇子が軍隊を率いてスルターンの命を奪おうとしている。」とスレイマンに讒言した。この知らせを母マヒデブラン・スルターンはムスタファに伝えたが、ムスタファは無視し、そのためスレイマン1世はムスタファを自身の天幕に呼び、処刑を命じた。ムスタファは父の退位を画策したというのでスレイマン1世から死刑を命じられた。ムスタファは天幕に入ったところを襲われ、長時間抵抗したが最後はリュステム・パシャの側近のマフムト・アガによって絞殺された。突然のムスタファの処刑にイェニチェリは怒り、叛乱を起こす寸前にまで至った。
 ムスタファが処刑されると、セリムとバヤズィトの兄弟がスレイマン1世の後継者候補として残った。セリムはイェニチェリ、バヤズィトはティマールの保有者と農民から支持を受けていた。ヒュッレム・ハセキ・スルターン(ロクセラーナ)は怠惰で酒飲みのセリムよりも有能なバヤズィトを後継者にと考えていたと思われるが、2人が決裂して骨肉の争いが起きないように配慮していた。西暦1558年にヒュッレム・ハセキ・スルターン(ロクセラーナ)が没すると、セリムとバヤズィトは互いの側近を加えて政争を開始した。セリムの家庭教師を務めていたララ・ムスタファ・パシャの偽書を使った策略によって、バヤズィトはスレイマン1世から疎まれるようになった。スレイマン1世はセリムの任地をコンヤからキュタヒヤに変え、バヤズィトをアマスィヤへと更迭した。西暦1559年にバヤズィトはアマスィヤへの異動を拒んで挙兵し、テュルクマンとティマールの保有者を中心とする20000の軍隊がバヤズィトの下に集まった。しかし、大宰相ソコルル・メフメト・パシャの率いるイェニチェリ、スィパーヒー、砲兵隊がスレイマン1世からセリムの元に派遣され、コンヤ近郊の戦闘で数で優位に立つセリムがバヤズィトに勝利した。サファヴィー朝に亡命したバヤズィトと彼の子たちがスレイマン1世とセリムの要請によって処刑されると、父に反抗する姿勢を取らなかったセリムが最後の後継者として生き残った。
 西暦1566年09月にスレイマン1世がハンガリー遠征(スィゲトヴァール包囲戦)中に陣中で死去し、軍規の維持のためスレイマン1世の死は秘匿され、ソコルル・メフメト・パシャとごく一部の側近を除いてスレイマン1世の死を知る者はいなかった。ソコルル・メフメト・パシャは芝居を打ってスレイマン1世が生きているように見せかけ、セリムに書簡を送ってハンガリー遠征軍に合流するよう指示した。セリムはキュタヒヤを発ち、ベオグラード近郊で遠征軍と合流した時に初めてスレイマン1世の死が明らかにされた。スレイマン1世の死の直後から兵士たちは下賜金を要求して示威行動を行い、即位前の継承戦で資金を使い果たしていたセリムは姉のミフリマー・スルターンから50000ドゥカートの借金をして賞与を補った。セリムがイスタンブールに入城した後も兵士たちの要求は続いたが、ソコルル・メフメト・パシャが数人のイェニチェリを斬首して騒ぎはようやく収まった。
 セリム2世は即位後一度も親征を行わず、イスタンブールのトプカプ宮殿とエディルネの狩場で日々を過ごした。セリム2世の在位中は、ボスニア出身の大宰相ソコルル・メフメト・パシャがスレイマン1世の晩年から引き続いて国事の大部分を担った。
 西暦1566年にジェノヴァ共和国が領有するキオス島がオスマン朝の支配下に入った。しかし、同年にイエメンでシーア派の一派であるザイド派の指導者が叛乱を起こし、叛乱は長期に及んだ。
 西暦1568年02月17日にイスタンブールで神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世と和平条約が締結され、マクシミリアン2世が毎年30000ドゥカートの「貢納」を支払い、モルダヴィア公国とワラキア公国におけるオスマン朝の宗主権を認めさせた。和平の期間は8年間であったが、オスマン朝と神聖ローマ帝国の友好関係は西暦16世紀末まで保たれた。また、講和後にオスマン朝の領域外に取り残されたテュルコ人を国内に移住させる運動が行われた。西暦1569年に、セリム2世はフランス王シャルル9世にカピチュレーションを授与した。カピチュレーションによってフランス王国の臣民にかけられる関税は5%に制限され、オスマン領内に駐在するフランス大使・領事に保護が与えられた。従来スレイマン1世がフランス王フランソワ1世に授与したと考えられていたカピチュレーションは、西暦1559年にフランソワ2世に授与したとする説が近年有力。
 しかし、北方のロシア・ツァーリ国との関係は順調なものではなかった。オスマン朝とロシア・ツァーリ国(西暦1547〜1721年)の最初の遭遇は、後に訪れる災厄の前兆として現れた。オスマン朝宮廷でヴォルガ川とドン川を結ぶ運河の建造が計画され、西暦1569年の夏にイェニチェリと騎兵隊からなる大部隊によってアストラハンの包囲が開始された。包囲と同時に運河の工事が開始され、ドン川の河口部に位置するアゾフにオスマン朝艦隊が集結した。しかし、アストラハンの包囲は守備隊の反撃によって失敗した。運河の工員は15000人からなるロシア軍の救援隊の攻撃を受けて散り散りになり、工員を保護するためにクリミアの軍隊が派遣された。さらに、アゾフに集結した艦隊は嵐によって壊滅した。西暦1570年の初頭にロシア・ツァーリ国イヴァン4世から派遣された大使がイスタンブールに到着し、オスマン朝とロシア・ツァーリ国の間に和約が締結された。
 セリム2世の治世には、ヴェネツィア共和国によるオスマン朝の船舶襲撃の拠点となっていたキプロス島の遠征が計画された。キプロス島はアナトリア半島・シリア・エジプトを結ぶ海路の維持に欠かせない要衝であり、ヴェネツィア共和国はキプロス島を保持するために毎年10000ドゥカートをオスマン朝に支払っていた。予てよりオスマン朝はキプロス島の獲得を望んでおり、西暦1570年春にセリム2世はソコルル・メフメト・パシャの諌止を押し切ってキプロス遠征を決定した。同年07月にオスマン朝艦隊はキプロス島を包囲し、西暦1571年にララ・ムスタファ・パシャ指揮下の軍隊がキプロス島を制圧した。キプロス島がワインの産地であるため、キプロス島遠征に際してイスタンブール市民は「セリムはワイン目当てでキプロス島遠征を始めたのだろう。」と噂し合った。キプロス島の陥落は耶蘇教世界に衝撃を与え、ローマ法王ピウス5世の提唱によってカトリック教国からなる連合軍が結成された。西暦1571年10月07日にオスマン朝艦隊はレパントの海戦でカトリック教国の連合軍に敗北した。

 後世の西欧の歴史家はレパントの海戦に強い関心を示し、「オスマン朝の没落はレパントの海戦の敗戦から始まった。」と殊更に強張したが、レパントの海戦はオスマン朝海軍の人材に打撃を与えたものの、帝国が衰退する原因になったとは言えない。

 戦後、ソコルル・メフメト・パシャはヴェネツィア共和国との戦いに備えて、翌年の春までに艦隊を再建することを命じた。資金を不安視する大提督クルチ・アリー・パシャ(ウルチ・アリー・パシャ)、レパントの戦いがオスマン朝に与えた打撃を探ろうとするヴェネツィア共和国の使者らに対して、ソコルル・メフメト・パシャは余裕を示して資金が潤沢であり、オスマン朝の被害は微少であると答えた。西暦1572年06月に再建されたオスマン朝海軍は250隻からなる艦隊を地中海に出撃させ、またヴェネツィア共和国はオスマン朝との戦争の継続に積極的な姿勢を示さなかった。西暦1573年03月にフランス王国の仲介によってオスマン朝とヴェネツィア共和国は講和し、オスマン朝のキプロス島保持、ヴェネツィア共和国のオスマン朝への賠償金の支払い、ダルマティア地方の情勢を維持することが取り決められ、ヴェネツィア共和国にカピチュレーションが授与された。
 西暦1574年にクルチ・アリー・パシャとイエメンの征服者コジャ・シナン・パシャ率いるオスマン朝艦隊がスペインの支配下に置かれていたチュニジアに派遣され、08月にチュニジアを奪還した。
 西暦1574年、セリム2世はワインを1瓶飲み干した後にトプカプ宮殿の新築された浴場に行き、濡れたタイルで滑って頭を打ち付け、11日後セリム2世は死んだ。セリム2世の死により、ソコルル・メフメト・パシャが計画していたヴェネツィア共和国攻撃の計画は中断され、跡を子のムラトが継いだ。

 西暦1574年、父のセリム2世の突然の死亡の報を任地のマニサで受け取ったムラトの5人の弟はみな幼く、未だ知事として任命されてなかったため、彼は実質的に唯一の継承者と見做されていた。大宰相ソコルル・メフメト・パシャから送られてきた知らせには、マルマラ海岸でムラトを迎える船が用意されるとのことだったが、駆けつけたムラトを迎える船は来なかった。已むなく自ら手配した船でムラトは酷い嵐に悩まされつつもトプカプ宮殿に辿り着いた。12代皇帝ムラト3世(Murad III)に即位した後は、祖父スレイマン1世(大帝)時代の大宰相ソコルル・メフメト・パシャや、その後を受けた妃サフィエ・スルターンの補佐を受け、彼自身は何もしなくても宰相たちが政務をやってくれるという体制が続いた。
 西暦1578〜1590年までの12年間、イランのサファヴィー朝と交戦した。ソコルル・メフメト・パシャは開戦に否定的であったが、ムラト3世は主戦派におされ、戦争を開始した。サファヴィー朝はタフマースブ1世の死後宮廷は乱れ、さらに貴族たちの間で派閥争いが起きていた。この隙をついて、オスマン朝はアゼルバイジャンなどのコーカサス獲得を目的としてクリミア・ハン国と共に戦争を始めた。オスマン朝は早くもイラン西部を獲得し、クリミア・ハン国率いる軍隊はアゼルバイジャンを攻撃した。西暦1583年に松明の戦いで勝利しいよいよコーカサス、イラン西部の支配を固め、西暦1585年にタブリーズを、西暦1588年にカラバフを攻略した。西暦1590年にサファヴィー朝と和平を結び、コーカサスの支配権を認めさせた。しかしこれも、名宰相たちのお蔭でしかなく、サファヴィー朝側が王を交代や西暦1587年のシャイバニー朝(西暦1428〜1599年)の侵入、さらにサファヴィー側の内紛、シャー直属のグズルバシュ同士の内紛、といった条件が重なった結果であった。戦争中にソコルル・メフメト・パシャは暗殺され、帝国の政体は軍事国家から官僚国家に移行して行くことになる。しかし、後にアッバース1世の下でサファヴィー朝が勢いを取り戻し、反撃に出た。西暦1603年にタブリーズを奪還され、さらにグルジア、アゼルバイジャンの要衝を奪われたため、西暦1607年までにオスマン朝はムラト3世時代に獲得した領土を全て失った。
 このような状況は西の戦線でも見られ、西暦1591年にオスマン朝のボスニア州の知事がハプスブルク帝国(西暦1526〜1804年)王領ハンガリー(西暦1526〜1867年)に侵攻したのを契機として西暦1592年に、ビハチ城塞を陥落させた。そこで耶蘇教徒5000人が殺害された。西暦1593年、コジャ・シナン・パシャに引きずられ、有力軍人たちの覇権争いの結果として、本格的に王領ハンガリーへの侵攻が始まった。当初はウィーンに通じる要衝のジュールを占領するなど戦果を挙げた。しかし、シサクの戦いで敗れ、西暦1595年にエステルゴム要塞を失った。オスマン朝の不利と見たトランシルヴァニア公国(西暦1571〜1711年)、ワラキア公国、モルダヴィア公国の3国はハプスブルク帝国側についた。さらには、カルガレニの戦いでシナン・パシャ率いる軍がミハイ勇敢公に敗れた。この戦争においてある城を取れば別の城が奪われるという一進一退の状況が生まれた。このハプスブルク帝国との戦争は長期にわたり、和議が成立したのは、アフメト1世の頃だった。
 ムラト3世の治世中の西暦1580年代、財政赤字が表面化した。西暦1581年に初めて年間の収支が赤字になった。オスマン朝は大量の兵士を雇う金と、新技術の導入、そしてサファヴィー朝との戦いやハプスブルク帝国との長期テュルコ戦争などの相次ぐ遠征により財政赤字はさらに拡大した。ムラト3世は、これを補うため、トリポリとチュニスの知事から大宰相を通じて賄賂を貰っていたという。財政悪化に対応すべく、西暦1589年に軍隊の給料を銀の保有量を減らした銀貨で支払った。しかし常備騎兵の間で不満が高まり、イスタンブールでは暴動が発生し、大宰相カニジェリ・シヤヴシュ・パシャは罷免された。さらに新大陸からの銀の流入が西暦16世紀以降の過剰人口と相まってインフレーションを引き起こした。これにより、食料価格は上昇し人々の購買力は半減した。特にアナトリア半島でのインフレーションは凄まじく、のちにジェラーリーの叛乱へと繋がることとなる。政府は税収を増やすべく、西暦1590年代から非回教徒が支払う人頭税を上記のインフレにあわせて税額を増やした。さらに、戦時などの臨時税であったアヴァールズ税を恒常化した。人頭税とアヴァールズ税の徴税に向かう徴税官には中央政府の周辺にいた常備騎兵が多く、これは彼らを徴税官として使うことで国庫に入る収入の確保と、彼らへの収入の2つが補填された。また、さらなる税収を増やすべく徴税請負制の導入、拡大をした。徴税請負制とは、本来スィパーヒーに与えられていたティマール地を没収してその税収を群単位でまとめて(これをムカーターという。)、選ばれし徴税請負人に一定の期間で徴税権を与えるものである。そもそもティマール地からは税収が入って来なかったため、これにより税収は増加した。徴税請負人は政府が決定し、高い価格を提示し、保証人が確保された人物に徴税権が与えられる。請負期間は3年から9年、もしくは最大12年与えられたが、もしもより高い価格を提示した請負人が出た場合、途中で打ち切ることもできた。そのため、1年程度で徴税請負人が交代した。ムカーターを買い取った請負期間は前払いで納税額の一部を国庫に納めた。この徴税請負制度は以前からあったが、西暦16世紀の末にその適用範囲が大幅に拡大された。この制度でオスマン帝国の税収に占める徴税請負制の割合は増加した。ただし、ティマール地を没収された騎兵たちは後にジェラーリーの叛乱で帝国に叛逆することになる。
 ソコルル・メフメト・パシャの死後、ムラト3世はソコルル・メフメト・パシャのような強大な権力を持つ大宰相の存在を望まなかった。彼の時代には10回以上大宰相が交代した。短期間ながらも大宰相を任命しなかった時期もあったが、これは帝国史上異例のことだった。さらに自身を中心に権力を確立する政策を打ち出す。それは、ハレムを統括する黒人宦官長職が創設されたこと、母のヌールバーヌーが、ヴァリテ(母后)という称号を得たことは宮廷にムラト3世を中心とした党派の形成に一躍買った。スルターンの権威を高めるため、バヤズィト2世を上回る歴史書が書かれたのも彼の時代である。
 ムラト3世自身はハレムに入り浸って快楽に溺れたために、自身の楽しみに乱費して、オスマン朝の財政をかえって悪化させ、帝国の衰退の原因を作り出してしまった。ムラト3世は、トプカプ宮殿の第2の庭に、自分のハレムを建設させた。トプカプ宮殿内に正式にハレムが建設されたのは、彼の代になってからだった。愛妾だけでも40人、所生の皇子女は100人以上を数え、皇子は即位したメフメト皇子の他に、19人いた。また、奴隷市場から1200人以上の美女を買い漁ったため、女奴隷の価格は2倍に高騰した。また、12年間におよぶ戦争で勝利したとはいえ、やはりその莫大な戦費は財政悪化の一因となってしまった。
 やがてセルジューク朝テュルコの王族の末裔を称するシェムシ・パシャを寵愛し、その入れ知恵で大金を提供する者達に官職を与えるようになった。強欲な皇帝が公然と売官・収賄する腐敗ぶりを見て、シェムシ・パシャは公然と「わが王朝を滅ぼしたオスマン家に今や報復することが出来るぞ。腐敗は必ずや帝国を滅亡させるであろうから。」と揚言したという。西暦1579年にソコルル・メフメト・パシャが暗殺されるとシェムシ・パシャは大宰相になった。しかし翌年シェムシ・パシャが亡くなるとララ・ムスタファ・パシャが大宰相になるがすぐ亡くなったため、コジャ・シナン・パシャが大宰相を務めた。ただし、シナン・パシャも西暦1582年に解任されており、その後カニジェリ・シヤヴシュ・パシャを大宰相を任命しており、大宰相は頻繁に交代するようになる。その後もオズデミルオウル・オスマン・パシャ、ハディム・メシフ・パシャと大宰相は交代してるが西暦1586年にはカニジェリ・シヤヴシュ・パシャが再び大宰相に就任している。晩年にはイングランド女王エリザベス1世の国使が来訪している。
 ムラト3世は妻のサフィエ・スルターンとの間にメフメトと2人の娘がいた。しかし、母后ヌール・バーヌは、もしもの時のためにムラトの一夫一妻制を快く思わなかった。王位継承から5、6年後、ムラト3世は妹から新しい女を贈られた。彼女らと性交を試みたが、ムラト3世は勃起不全だと判明した。母后のヌール・バーヌはサフィエ・スルターンと使用人を非難した。最終的には宮廷医がインポテンツの手術に成功したものの、副作用は急激な性的欲求の増加であった。彼が死去する時には彼に103人の子供がおり、男子は長男メフメト以外だけでも、19人もいた。西暦1595年、50歳で膀胱か腎臓の病気で死んだ。跡を子のメフメト3世が継いだ。

 繁栄の裏ではスレイマン1世時代に始まった宮廷の弛緩から危機が進んでいた。西暦1578年にオスマン・サファヴィー戦争が始まると、西暦1579年にスレイマン1世時代から帝国を支えた大宰相ソコルル・メフメト・パシャがサファヴィー朝ペルシアの間者によって暗殺されてしまった。以来、宮廷に籠り切りになった君主に代わって政治を支えるべき大宰相は頻繁に交代し、さらに西暦17世紀前半には、君主の母后たちが権勢を奮って政争を繰り返したため、政治が混乱した。しかも経済面では、西暦16世紀末頃から新大陸産の銀の流入による物価の高騰(価格革命)や、トランシルバニア公国をめぐるハプスブルク帝国との紛争は西暦1593年から13年間続くこととなった。また、イラク、アゼルバイジャン、グルジアといった帝国の東部を形成する地方では、アッバース1世のもと、軍事を立て直したサファヴィー朝との対立が西暦17世紀に入ると継続することとなった。中央ヨーロッパ及び帝国東部の領域を維持するために、軍事費が増大し、その結果、オスマン朝の財政は慢性赤字化した。
 極端なインフレーションは流通通貨の急速な不足を招き、銀の不足から従来の半分しか銀を含まない質の悪い銀通貨を改鋳するようになった。帝国内に流通すると深刻な信用不安を招き、イェニチェリたちの不満が蓄積し、西暦1589年には、彼らの叛乱が起こった。


 メフメトは父12代皇帝ムラト3世と母サフィエ・スルターンとの間で生まれ、その後メフメトはマニサで父と母と過ごし、8歳の時に父が即位すると皇太子となり、西暦1582年に割礼を受け、父のムラト3世は空前の盛儀にしようとし、盛儀は1ヶ月間続いた。西暦1583年にはマニサの知事になり割礼を施したジェッラー・メフメト・パシャに女中として仕えていたハンダン・スルターンと親しくなり程なくして夫人にした。
 西暦1595年、父帝の死去によりメフメト3世(Mehmed III)は13代皇帝に即位した。しかし父と同じく無能な皇帝で、政治は母后や宰相らに任せ切りであったため、帝国の衰退が促進される治世期ともいえる。彼自身が、戦場に赴いたのは、即位直後の1度のみであった。
 メフメト3世が即位した時には19人の男子の兄弟がいたが、慣例に従い止むを得ず全員殺した。宮廷を出る前スルターンとその子供たちの棺の列があまりにも長かったため、人々は哀れみ、嘆き悲しんだ。このため、次に即位したアフメト1世は弟のムスタファ(後のムスタファ1世)を殺さずに残し、以後、新スルターンの即位する時の兄弟殺しは、行われなくなった。
 ハンガリーの長期戦争では、西暦1596年にエゲルを占領し、メフメト3世率いる軍がメゼーケレシュテにおいて、ハプスブルク軍を打ち破った。これ以降はハンガリーでの軍司令官をクユジュ・ムラト・パシャを任命した。西暦1598年にはかつて占領したジュールがハプスブルク帝国に奪還された。西暦1600年にはオスマン朝軍はカニジャを占領するが、西暦1601年にセーゲシュフェヘールを奪われた。翌年にはセーゲシュフェヘールを奪還したが、ハンガリー支配の拠点のブダがハプスブルク帝国に包囲された。ブダの陥落こそは免れたものの、戦いは次第に辺境の城塞を巡る争奪戦の様相を呈した。
 ハプスブルク帝国とハンガリーを巡って戦争している頃、足下のアナトリア半島やシリアでは、叛乱が相次いでいた。その叛乱者はジェラーリーと言う。財政難に陥った中央政府によって封土を没収されたスィパーヒーやワクフの減少によって貧困化したマドラサの学生、そして土地を没収された農民や遊牧民らであった。その叛乱の第1波は西暦1596年に始まった。ジェラーリーらは下級軍人のカラ・ヤズジュの叛乱に合流した。西暦1600年にカラ・ヤズジュは「スルターンである。」と宣言した。オスマン朝はハンガリー戦線に忙殺され、その討伐に十分な兵力を割けない事態で、カラ・ヤズジュは西暦1601年にソコルル・メフメト・パシャの息子でバグダードの知事のソコルルザーデ・ハサン・パシャに敗れたが、カラ・ヤズジュの兄のデリ・ハサンが翌年にソコルルザーデ・ハサン・パシャを討ち取った。西暦1602年にカラ・ヤズジュは死んだがデリ・ハサンが跡を継いだ。また、他の地方でも、ウズン・ハリルの乱、カレンデルオールの乱、ジャンポラントの乱などが起きた。ジェラーリーの叛乱において、騎馬で機動力のある山賊の集団が各地で村や町を襲ったため、オスマン朝の台帳にあったはずの村までが消える事態にまでなった。これにより、所領の村から徴税で生計を立てていた在郷騎士たちが、生活できなくなり、彼ら自身もジェラーリーになるという負の連鎖に陥った。さらには、カラ・ヤズジュ討伐にあたっていたはずのカラマン州軍政官も待遇への不満から叛乱軍に加わった。
 ジャンポラントの乱を起こしたジャンポラント(アラブ名: ジュンブラード)は、「オスマン王家による支配を不正である。」と捉えて、自分がそれに取って代わろうとした。ジャンポラントは元々シリアとの国境に近いキリス地方の支配者であったが、勢力がシリアへ拡大するとレバノンの名家マアンオール家と結んでアレッポを足場に独立宣言をした。
 カレンデルオールの乱を起こしたカレンデルオールは手下に当てた手紙で、「オスマン王家は圧政者で、彼らは増長しきっている。ジャンポラントの叛乱以降我々はオスマン家に見切りをつけ、命ある限りは彼らに服従しない。アッラーの加護があるならば我々は、オスマン軍を打ち負かし、ユスキュダル(ボスホォラス海峡のアジア側)からこちら側をオスマン王家に諦めさせる。」と書いてある。「オスマン王家はバルカン半島を支配すれば良い、アナトリア半島は我々が支配する。」という意思が感じられる。
 また、メフメト3世は国内において、新しい困難に直面することとなった。それは西暦17世紀初頭のイスタンブールでの騒擾である。これは大宰相とイスラーム長老が対立し、前者はイェニチェリ、後者は常備騎兵と繋がることで、両集団の争いが暴力を伴う抗争に激化した。最終的には鎮静化したものの、これ以降度々この騒擾は繰り返されるようになった。この騒擾においては、常備騎兵軍団によってメフメト3世の廃位が仄めかされていた。疑心暗鬼に陥ったメフメト3世は母后のサフィエ・スルターンの讒言により西暦1603年、「混乱の背後に何者かがいる。」として息子のシェフザーデ・マフムトとその使用人たちを処刑した。
 晩年にはアッバース1世率いるサファヴィー朝がかつて父のムラト3世が獲得した領土に侵攻してきた。西暦1603年、暴飲暴食が原因で38歳で死んで、後を子のアフメト1世が継いだ。

 アフメトが生まれた時、父のメフメトはまだ皇子でマニサの知事だった。彼が生まれる前にマフムトという兄がいたが、マフムトは西暦1603年にメフメト3世によって殺された。西暦1603年、38歳で崩御した父メフメト3世の後を継ぎ、アフメト1世(Ahmed I)13歳で14代皇帝に即位した。これは、これまでの歴代スルターンの中でメフメト2世の1度目の即位についで、最も若い即位だった。また、初めて地方の知事を経験せずに即位した。アフメト1世の若すぎる即位は、メフメト3世が長子マフムトを処刑したことと、メフメト3世自身が若くして急死したためである。外国語に堪能で、詩作を好み、剣術(フェンシング)や乗馬の名手であった。また温厚な人柄の持ち主で、精神病のあった弟ムスタファの処刑にも反対を主張し、ハレム内の「黄金の鳥籠」と呼ばれる皇帝に即位できなかった皇子達の監禁所へ幽閉するのに留めた。以後、継承慣行は明確に定まらないものの、父から子ではなく、オスマン家の年長者が継承する場合が増えていった。アフメト1世の即位は若すぎたので、母后のハンダン・スルターンが政務を取り仕切った。このため、アフメト1世は母后の影響を受けて非常に信仰心があるスルターンとして知られており、スルターンアフメト・モスクを建てた。
 アフメト1世が即位した時、帝国は東西両方で戦争を続けており、王領ハンガリーとの長期戦争では、状況が逆転し、トランシルヴァニア公国、ワラキア公国、モルドバ公国では、反ハプスブルク帝国の叛乱が起き、トランシルヴァニア公国で傀儡のボチカイ・イシュトヴァーンを君公に選出した。また、オスマン朝は、大宰相のソコルルザーデ・ララ・メフメト・パシャの下、西暦1604年にペスト、ヴァークを奪還した。西暦1605年の08月にエステルゴム城塞を包囲し10月に陥落させた。そして、西暦1606年に、大宰相のクユジュ・ムラト・パシャによって、干渉地帯のジトヴァ川で、ジトヴァ・トロク条約が成立した。その内容は、互いに王と呼ばずに皇帝と呼ぶこと(第2条)、平和を守ること(第4条)、侵略を止めること(第5条)、神聖ローマ皇帝が20万フォリントをイスタンブールに届けること、エステルゴムとカニジャの城塞はオスマン朝に、コマロムの城塞はハプスブルク帝国が領有すること、などだった。また、ハプスブルク帝国の君主をカイザーと認めたことは画期的であり、コンスタンティノープル陥落以来、スルターンが唯一の称号として皇帝を名乗っていた。次にスルターンが皇帝として認めたのは、西暦1774年のキュチュク・カイナルジ条約の時であった。ジェラーリーの叛乱に対しては、クユジュ・ムラト・パシャ率いる政府軍が討伐にあたり、徹底した強硬な対応により、西暦1608年までに叛乱を鎮圧した。クユジュ・ムラト・パシャは西暦1611年に亡くなったため、後任にナスフ・パシャが就任した。ジェラーリーの叛乱の後、集権化を進めるためにアナトリア半島のラマザン侯国は廃止された。ラマザン侯国は西暦1516年にセリム1世に征服されたがその後90年にわたってラマザン侯国のベグは旧来の統治体制で治めていた。
 その一方で東方ではサファヴィー朝の反撃により西暦1607年までにムラト3世の時に獲得した今のアゼルバイジャンの地域などのコーカサスの領土を失った。オスマン朝軍は失地を回復すべく、ユスフ・シナン・パシャの指揮のもと、ナフチバンを経由してエレバンを占領し、そこで冬を過ごした。その後タブリーズを取り戻すべくアッバース1世と戦ったが、敗れた。オスマン朝はサファヴィー朝に十分に対抗できないと考え、西暦1612年に大宰相ナスフ・パシャによって、ナスフ・パシャ条約を締結した。条約の内容は、サファヴィー朝がオスマン朝に絹200ラクダを送ること、国境を西暦1555年のアマスィヤの講話のものにすることだった。
 西暦1612年、カピチュレーションを ネーデルラント連邦共和国(オランダ)(西暦1581〜1795年)に与えた。また、ジェノヴァ共和国、ラグサ共和国(西暦1358〜1808年)、アンコーナ、フィレンツェ共和国、スペイン帝国の商人たちもフランス王国の旗のもとに貿易できるようにした。
 サファヴィー朝との和平を締結したナスフ・パシャは西暦1614年にアフメト1世によって処刑され、次の大宰相にオキュズ・メフメト・パシャが就任した。西暦1615年、サファヴィー朝がかつてナスフ・パシャ条約に定められていた絹200ラクダを送らなかったため、オキュズ・メフメト・パシャはペルシャ遠征の準備をし、西暦1616年にエレバンへ侵攻したが、これに失敗し、大宰相を解任させられた。変わって大宰相に就任したダマト・ハリル・パシャは冬にガンジャ、ジュルファ、ナフチバンを攻撃した。
 アフメト1世の死去の直前の西暦1617年09月にイスケンデル・パシャの下、 ポーランド・リトアニア共和国(西暦1569〜1795年)とブシャの和約を締結した。この条約は、ポーランド・リトアニア共和国がトランシルヴァニア公国、ワラキア公国、モルドバ公国への干渉を止めること、ポーランド共和国の配下のコサックによる攻撃を止めることだった。その見返りにオスマン朝は配下のタタール人によるポーランド共和国への襲撃を止めることとなった。しかしその後もコサックとタタール人が互いに国境地帯を襲撃し続けてたため、条約は無視された。これにより後にツェツォラの戦い (西暦1620年)で衝突し、オスマン・ポーランド戦争(西暦1620〜1621年)へと発展することになった。
 西暦1617年、アフメト1世はチフスが原因となり27歳で死んだ。

 西暦1603年に父13代皇帝メフメト3世が死去すると、兄のアフメト1世が後を継ぎ14代皇帝に即位した。兄弟殺しのオスマン朝の慣習でムスタファは殺されるところだったが、幽閉されるに留まった。幽閉中、母后のハリメ・スルターンや祖母のサフィエ・スルターンと会うこともあった。 兄の治世中、西暦1603〜1617年の14年もの長い間幽閉された。その理由は兄のアフメト1世に、もしものことがあった時に備えることなどであった。これ以降、現スルターンが死去、あるいは退位したさいは、現存する王族のうち、最年長の者がスルターンを継ぐのが慣例となった。アフメト1世が即位した翌年にはオスマン皇子が生まれ、さらにその次の年にはメフメト皇子が生まれたが、ムスタファが「用済み」として改めて処刑されることはなかった。ムスタファが精神的な問題を抱えていたためなのと、父のメフメト3世が即位した時の19人の兄弟を殺害したことが人々の悲観を招き、兄弟殺しが避けられたためだった。イスタンブールの世論はすでに政治家たちが無視できない要素となっていた。
 その後ムスタファは殺されそうになったこともあるが、アフメト1世の妻のキョセム・スルターンの取りなしによって助かった。キョセム・スルターンにはメフメト皇子という息子がおり、ここで兄弟殺しの伝統が復活した場合将来メフメト皇子が異母兄のオスマン(母はマフフィルズ)の即位時に殺される可能性があったためである。

 西暦1617年に兄のアフメト1世が死去した時、彼の皇子たちがスルターンになる資格がありその全員がトプカプ宮殿に住んでいたが、イスラーム長老エサト・エフェンディと大宰相代理のソフ・メフメト・パシャらが率いる宮廷派閥は、アフメトの息子オスマンの代わりにムスタファを即位させることを決めた。この時ソフ・メフメト・パシャは、「オスマン皇子は幼く、不人気になる。」と主張し、一方で黒人宦官ムスタファ・アガはムスタファ皇子の精神的な問題を理由に反対したが、結局前者の意見が採用された。
 ムスタファの即位によって、今までのオスマン朝のスルターンの継承の慣行が変わり、初めて息子ではなく兄弟に皇位が引き継がれた。15代皇帝ムスタファ1世(Mustafa I)の母親のハリメ・スルターンは息子の精神状態が異常で母后として大きな力を行使した。その一方で定期的な社会的接触がムスタファの精神的健康を改善することが期待されたが、全くの期待はずれであった。彼は大宰相の髭やターバンを引っ張ったりするなど、当時の史家のイブラヒム・ペチェビは「このような状況は国民に見られており、心理的に混乱していることを見破られていた。」と記録している。女が自らの視界に入ることすら忌み嫌うほど極端に嫌悪していて、女を一切自分の側へ寄せつけることはなかったため、皇子女は1人も残していない。また、ポケットに入れた金貨銀貨を振り撒くという奇行を行った。 彼の行動は変わらなかったため、翌西暦1618年、在位3ヶ月で退位させられることとなった。

 経済の混乱は西暦17世紀まで続くこととなった。さらには、アナトリア半島では、ジェラーリーと呼ばれる暴徒の叛乱が頻発することとなり、オスマン朝は東西に軍隊を裂いていたため、彼らを鎮圧する術を持たなかった。西暦1608年を頂点に、ジェラーリーの叛乱は収束を迎えるが、その後、首都イスタンブールでは、スルターン継承の抗争が頻発することとなった。

 14代皇帝アフメト1世とその夫人のマフフィルズ・ハトゥン・スルターン(Mahfiruze Hatice Sultan)との間に産まれたオスマンは生後11ヶ月の時からアフメト1世の宮廷で過ごし、母のマフフィルズはオスマンに様々な教育を施した。そのためオスマンは父と同じく詩を好みアラビア語、ペルシア語、ギリシア語、ラテン語、イタリア語などが話せるようになった。外国の大使によるとオスマン皇子は帝国で最も文化的な人物であった。西暦1617年に父のアフメト1世が崩御した時には即位できず、叔父のムスタファ1世が15代皇帝に即位した。即位できなかった理由としては母のマフフィルがオスマンの若い頃に亡くなったか既に宮廷から追い出されていたためだと考えられる。

 西暦1618年、叔父のムスタファ1世がクーデターにより退位したことを受け、14歳で16代皇帝に即位した。オスマン2世はまず、叔父ムスタファ1世を即位させた大宰相代理を罷免し、さらに、イスラーム長老エサトの影響力を削ぎ、高位ウラマー(イスラーム法学者)たちの力を抑えようとした。そして、自らの師父や白人宦官長を重用することで、オスマン2世自身を中心とした党派形成を試みた。
 また、長年西暦1616年以来続けていたサファヴィー朝との戦争はセラブ条約を締結し、終止符を打った。内容は西暦1612年のナスフ・パシャ条約の時よりもサファヴィー側に領土を少し譲る形になった。この和平は西暦1623年にアッバース1世率いるサファヴィー側が破るまで継続した。
 オスマン2世が次に企図したのは、ポーランド遠征であった。黒海北岸には、コサックと呼ばれる自由民が居住しており、ときおり黒海を船で南下しアナトリア半島北岸を掠奪していた。さらにはボスポラス海峡に侵入してイスタンブール郊外を襲撃することもあった。この忌まわしいコサックを背後からポーランド・リトアニア共和国が支援しているとして、西暦1621年、オスマン2世はポーランドへの親征を宣言したのである。親征の勝利によって自らの権威を高めるのも、彼の計画のうちであっただろう。ヨーロッパ側の史料では、バルト海進出を狙ってたとするものもある。
 オスマン2世は出陣に先立ち、叛乱者に担がれる恐れのある弟メフメトを処刑している。この処刑にイスラーム長老エサトは反対したが、オスマン2世は、イスラーム長老に次ぐ帝国第2位のウラマーであるバルカンの軍法官より処刑を是とする法意見書を得て、後の混乱が起こらないように気をつけた。
 親征によってオスマン2世の権威を確立させるはずだったポーランド遠征は成果なくして終わった。特にホティンの戦いでポーランド・リトアニア共和国に敗れた後は首都において凱旋を装ったがその効果は充分ではなかった。遠征より帰還後、生まれたばかりの息子のオメルを事故死で失った。ベネツィアの記録によると、オメルが誕生した祝いにオスマン2世は他の皇子たちと共に宮殿でポーランド遠征のショーを開いたという。しかしショーの最中にポーランド兵を演じている役者が誤って銃を乱射してしまいオメルに被弾したという。息子を失ってからオスマン2世は3日間沈黙したという。その後、有力政治家ペルデヴ・パシャの娘、そしてイスラーム長老エサトの娘との正式な婚姻を結ぶことによる影響力拡大を図った。君主と自由身分の回教徒女性との正式な婚姻は久しく行われておらず、まして臣下の娘への求婚は前代未聞であったため、エサトは反対した。
 西暦1622年、オスマン2世はメッカ巡礼を宣言した。この宣言の意図は、オスマン朝支配に抵抗を繰り返しす豪族マアンオール・ファフレッティン討伐のためだったという。しかし、「オスマン2世がシリアに赴いて、当地でイェニチェリ軍団に変わる新たな軍団を創設、編成しようとしている。」という噂が流れた。シリアは非正規兵セクバンが初めて使われた地でもあるから噂の信憑性は十分だった。さらにはカイロに遷都しようとしているという噂も流れたため、高位ウラマーのみならず大宰相や黒人宦官長も巡礼を取り止めるようスルターンを説得したが、オスマン2世の意思は硬かった。事態は緊迫の度を増し、ついにイェニチェリ軍団はダヴト・パシャを大宰相に担ぎ上げ、彼らとともに蜂起し、オスマン2世を殺害した。諸説あるが、イェディ・クレ(七塔の砦)の牢内で絞殺されたと思われる。殺害後、遺体から切断された右耳が母太后の許へ送られた。

 オスマン2世が殺害され、ムスタファ1世が復位し、この時も実権は母のハリメ・スルターンが握っていた。しかしその後も政治的に不安定な状況が続き、イェニチェリと騎兵隊の間の紛争と、それに続きエルズルム州総督のアバザ・メフメド・パシャはオスマン2世の殺害に反発してアナトリア半島で叛乱を起こし、イスタンブールは混乱に陥った。結局イェニチェリたちはこの混乱を収めるため自分たちの擁立した大宰相カラ・ダヴト・パシャを処刑することで混乱を収めようとした。さらに、新たな大宰相ケマンケシュ・アリ・パシャがハリメ・スルターンに息子を退位させるように説得し、ハリメ・スルターンはムスタファの命の保障を条件にこれに同意し、ムスタファ1世は廃位され、母親のハリメ・スルターンと共に旧宮殿に送られた。
 異母弟のムラトがムラト4世として後を継いだ。アバザ・メフメト・パシャの叛乱は一時はアンカラやブルサまで拡大し西暦1628年まで続くこととなった。
 ムスタファ1世は西暦1639年に死去した。甥のムラト4世が、オスマン家を終わらせ、母親のキョセム・スルターンが権力振るうのを阻止するため、処刑した。別の説では、彼は48年間の人生のうち34年間幽閉されたことが原因で、癲癇で亡くなったという。

 14代皇帝アフメト1世とその夫人のキョセム・スルターンとの間に生まれたムラトが5歳の時、父アフメト1世が亡くなり、叔父のムスタファ1世と兄のオスマン2世の短い治世の後、西暦1623年、叔父のムスタファ1世の退位で11歳のムラトは即位した。ムラトが即位した時、彼はまだ割礼を受けていなかったため、即位の5日後に割礼を受けた。17代皇帝ムラト4世(オスマン語:مراد رابع, 英:Murad IV)は、頭脳明晰、勇敢で非常に信仰深く、煙草と酒とコーヒーを禁止し、夜に出かけることも禁止した。弟を3人殺害したりするなど、残忍な行為も多かった。また、科学を愛していたことからヘザルフェン・アフメト・チェレビが初飛行に取り組む時にも非常に興味を寄せていた。後に側近によりヘザルフェン・アフメト・チェレビを流刑とした。
 即位した時、内部では、かつてオスマン2世の殺害に反発してアバザ・メフメト・パシャがアナトリア半島で叛乱を起こしていた。この叛乱はブルサやアンカラにまで飛び火してしまい、結局西暦1628年にアバザ・メフメト・パシャをボスニア州の知事にすることで鎮圧した。東方ではサファヴィー朝と過去に締結したセラブ条約が破られてしまい、西暦1623年にアッバース1世が侵攻してきており、翌年にはバグダードを奪われた。即位後はムラト4世は急速に教育を受け、治世前半は母后キョセム・スルターンが実権を握っていた。皇帝の母親が実権を握ったのは、帝国史上初めてということではなかったが、キョセム・スルターンは過去にないほどの膨大な権力を手にした。キョセム・スルターンの垂簾聴政を退け、ムラト4世が実権を握る契機となったのは、西暦1632年、大宰相らの処刑を求めて常備騎兵がイスタンブールで起こした騒擾である。これをイェニチェリ軍団の支持を取り付け鎮圧したムラト4世は、今こそ母后の影響力を脱する奇貨だと考えた。以降のムラト4世は、自身の権力を確立すべく積極的な政策を打ち出すようになる。その1つが、社会の規律強化のため、宗教的厳格派と呼ばれるカドゥザーデ派の人々の力を借りることだった。
 西暦1625年の夏に始まったバランパシャの疫病は流行し、イスタンブールでは1日1000人が死んだという。西暦1633年には、イスタンブールで火災が発生し、都市の5分の1が消失した。30時間続いた火災は、風が止まった後に消された。この火災の原因として煙草の燃えカスが挙げられ、煙草を吸うことは厳禁となった。煙草禁止を徹底するために家の煙突すらも調べたといい、もし煙草を吸っているのが発覚した場合には手足を切り落とされ、そのまま斬首された。ムラト4世の煙草嫌いは凄まじく、当時のコンスタンティノポリス(イスタンブール)の人口は100万人いたとされるが、そのうち3万人の喫煙者は彼の手で何らかの処罰を受けた。また、コーヒーに対しても厳しい禁令を出した。理由としては当時のカフェは政治の議論が頻繁にされており、カフェでイェニチェリや知識人、イスラーム法学者らが叛乱を企てるのを阻止するためと言われている。ムラト4世は煙草と珈琲の禁止がしっかり守られているかを確認するために変装して市井をパトロールした。もしも規律が守られていない者を見つけたら、その場で捕らえて処刑するなどした。これらの政策はイスラーム厳格派のカドゥザーデ派の支持があったからこそできたと思われ、カドゥザーデ派はウラマーであるカドゥザーデ・メフメト・エフェンディによって開かれた。彼らはクルアーンの教えを厳格に解釈し、そこから少しでも逸脱した行為を糾弾するなどした。さらにはカドゥザーデ派はモスクでの説教を通じて、一般大衆の心を掴み、腕の良い人気説教師は大きな影響力があり、ムラト4世は社会的規律を強化できかつ民衆の動員力をもつ説教師を利用することにした。
 また、ムラト4世は短気な性格であり、西暦1634年にブルサに向かう時には道路が整備されていなかったという理由でイズニクの知事を処刑した。このことをイスラーム長老を2年もの間勤めていたアヒザーデ・ヒュセイン・エフェンディは批判した。これに激怒したムラト4世はアヒザーデ・ヒュセインをキプロス島へ追放する処分を下した。しかし、ムラト4世は突如これを撤回し、追放処分から処刑へと決めた。結局アヒザーデ・ヒュセインはキプロス島へ向かう船に乗ってる途中で絞殺された。西暦1638年には宮廷の医師のエミール・チェレビーに阿片を吸わせた後、毒殺するなどした。ムラト4世は身内に対しても厳しく、姉のゲヴヘルハン・スルターンの夫のカラ・ムスタファ・パシャ(第2次ウィーン包囲を主導したカラ・ムスタファ・パシャとは別人)を殺害した。
 秩序の乱れた帝国問題を解決するべく取り組みを始め、オスマン・サファヴィー戦争(西暦1623〜1639年)では、西暦1624年にサファヴィー朝のアッバース1世にバグダードを含むイラクが奪われると奪還を試んだ。西暦1625年に大宰相をイラクに派遣してバグダードを攻撃したが、あと1歩のところでアッバース1世率いる増援隊が到着したため、モースルへと撤退した。西暦1629年には大宰相のガジ・ヒュスレフ・パシャのもと、バグダードを奪還する作戦が再び開始したが、厳しい冬と洪水によって戦果が挙げられなかった。しかし翌年にはケルマーンシャー近くでサファヴィー軍を撃破することに成功し、ハマダーンを占領したその勢いでバグダードを再び包囲したが、この時も厳しい冬が襲って来ていたため、結局攻略できずに撤退した。これ以降サファヴィー朝のバグダード支配が確固たるものとなった。また、イラク遠征に従軍していた書記が「宿営日誌」に書き残し、ムラト4世の遠征時の様子と往復路が詳細に記されている。また彼は多くの詩を描き残した。さらに作曲家でもあり、「ウザフ・シュレフ」と呼ばれる曲を作った。
 西暦1635年、ムラト4世率いるオスマン朝軍はエレヴァンへと進軍し、これを征服した。この勝利の余勢を駆って、ムラト4世は、弟バヤズィトとスレイマンを処刑した。トプカプ宮殿の内廷にある豪華な東屋エレヴァン・キオスクはこの戦勝を記念して建てられたものである。しかし、そのエレヴァンは、翌年サファヴィー朝に奪還される。西暦1638年にムラト4世は再びイラクへ親征してバグダードを奪還した。これに先立ってムラトは再び弟カースムを処刑している。バグダードの包囲戦は11月15日に開始され、40日間の包囲戦の末、12月25日についにバグダードを陥落させた。しかし、最後の攻勢の時に大宰相は戦死してしまった。ムラト4世のバグダード遠征中、ムガル帝国(西暦1526〜1539、1555〜1858年)皇帝のシャー・ジャハーンの大使と面会している。面会の場では刺繍の施された1000枚の布と鎧が贈与された。オスマン朝側はその返礼に武器とカフタンを与えて、大使がバスラを出発して帰国する時には護衛の兵士を付けたという。ムラト4世は当初サファヴィー朝の首都イスファハーンを攻め落とす積りであったが、新しく大宰相となったケマンケシュ・ムスタファ・パシャは和平交渉を開始し、アッバース1世の孫サフィー1世とカスレ・シーリーン条約を結びイラク領有を確定させた。この条約は後にテュルコとイランの国境の基礎になる。イスタンブールに戻ったムラト4世はヴェネツィア遠征のために艦隊の編成を命じた。ムラト4世はエレバン遠征中に肝硬変を発症していた。これは短期間で回復したが、西暦1639年11月に再び症状が悪化した。これによりムラト4世はしばらくの間飲酒を控えていたが、症状の回復後飲酒を再開した。ムラト4世は臨終の床で弟イブラヒムの処刑を命じたが、母后キョセム・スルターンによって防がれた。ムラト4世は皇位を側近の1人、もしくはクリミア・ハン国の者に継がせようとしていた。オスマン朝が断絶していた可能性もあった。「オスマン家が断絶した際は、チンギスハンの血を引くクリミア・ハン家がその跡を継ぐ。」という話が流布するようになるのは、この頃である。スルターン廃位が繰り返される西暦17世紀初頭において、オスマン王家に代わる王統の即位が、ありうべき未来として想定されたのである。西暦1640年に肝硬変により27歳で病死、イブラヒムが後を継いだ。

 14代皇帝アフメト1世とその夫人のキョセム・スルターン(テュコ語: Kösem Sultan)との間に生まれたイブラヒムは2歳の時、突然父が崩御し、叔父のムスタファ1世が即位し、母后のキョセム・スルターンとイブラヒムも含めた息子たちは旧宮殿に幽閉された。ムスタファ1世の2度目の退位後は兄のムラト4世が即位し、イブラヒムはカフェスに幽閉された。ムラト4世の治世中、兄のスレイマン、バヤズィト、セリム、カースムらが殺害されていく中でイブラヒムの心は病んでいき、25年間鳥籠で過ごした経験が彼の精神の均衡を崩していった。ムラト4世は崩御の間際にイブラヒムを殺害する様に命じたがキョセム・スルターンによって阻止された。
 西暦1640年、兄ムラト4世の死で、イブラヒム(オスマン語:ابراهيم اول, 英:Ibrahim I、仇名は「Deli(狂人)」)は18代皇帝即位したが、兄の突然の死や宮殿内の陰謀による恐怖のために皇帝として即位したことを全く嬉しく思っていなかった。「鳥籠から出される際に皇位簒奪を恐れた兄によって兄弟殺しが行われる日が来たのだ。」と怯え、鳥籠を出ようとしなかったが、兄の死体を目の前にしてようやく安心して鳥籠を出た。即位当初は慈悲深く貧しい人々を助けることに努めたが、母太后や当時の大宰相が実権を握っていたためにあまり多くの業績を残すことがなかった。
 イブラヒムは気まぐれで放縦、淫乱な皇帝で、多くの宝石類をプールに放り込んでは、ハレムの女たちが水中で拾い合う様子を眺めて悦に入ったり、1日に24人の女と性行為に及んだり、宮殿の亭から外の道行く人々に矢を射かけて興じたりする等々といった、常軌を逸した数々の奇行を行ったという。そのため彼は「デリ」(テュルコ語で狂人)と仇名された。第1妃トゥルハン・ハティジェ・スルターンがメフメトを出産し。下宮殿の内外は皇子の誕生をとても喜んだが、イブラヒムは長男が生まれてもトゥルハン・ハティジェ・スルターンに特に目を掛けないまま月日が過ぎ、第1后の日当をアクチェ銀貨で1000枚、届けさせるのみだった。むしろ女奴隷が産んだ子を皇太子よりも可愛がり、ある時、それをトゥルファン・ハティジェ・スルターンに詰られると、トゥルハン・ハティジェ・スルターンが抱いていたメフメトを泉水に投げ込み、あるいは、ロードス島に配流しようとした、その時の傷は成人してもメフメトの額に残った。異常な振る舞いが見られ、「狂人イブラヒム」とまで言われるようになった。また極度の肥満嗜好であり、帝国内で最も太った女性を探すよう命じ、シヴェカルという商人の娘を愛した。イブラヒムの宮廷にはいかがわしい人々が出入りし、ハレムはシェケルパル・ハトゥンという怪しい女性が仕切り、イブラヒムの病気を治す振りをして私腹を肥やしたジンジ・ホジャなどの祈祷師が出入りし、そうした者が政府の高官にまで上りつめ、ジンジ・ホジャは最終的にはアナトリア半島の裁判官になった。宮廷内は実質的には母后のキョセム・スルターンが取り仕切っていた。イブラヒムの治世末期にヒューマーシャーという奴隷を愛し、スレイマン1世とスレイマン1世と寵妃ヒュッレム・ハセキ・スルターン(ロクセラーナ)の正式な結婚が同時代の人たちに眉を顰められたのと同じく、オスマン家の慣例に反して正式に結婚している。これも彼の奇行に数えられる。
 治世の前半は、大宰相のケマンケシュ・カラ・ムスタファ・パシャの下、ムラト4世のような厳格な規律を緩めた。西暦1642年にはハプスブルク家のオーストリア大公国(西暦1453〜1806年)と新しく和平を結び、同年にアゾフをコサックから奪還した。さらに貨幣改革で通貨の価値を安定させ、新しい土地調査も行なって財政を安定させようとした。ケマンケシュ・カラ・ムスタファ・パシャはイブラヒムを指導するために統治に関する書付を送り、今も現存している。イブラヒムはしばしば変装してイスタンブールの街を視察し大宰相に様々な問題を修正する様に命じた。しかし、ケマンケシュ・カラ・ムスタファ・パシャは西暦1644年にキョセム・スルターンによって処刑された。西暦1645年、軍事的にも行政的にも能力のない取り巻きが始めたクレタ島包囲はヴェネチア共和国の報復を招き、西暦1646年、ダーダネルス海峡はヴェネチア海軍に封鎖されイスタンブールは苦境に陥った。
 西暦1648年、突如自らのハレムにいた側妾や女官、宦官ら280人を皆袋詰めにしてボスポラス海峡に投げ込むという暴挙を行った。さらに、イェニチェリ軍団への課税を試みた大宰相に対しイェニチェリが蜂起すると、ウラマーや母のキョセム・スルターンにまで見放されてしまい廃位され、大宰相「へザルパレ」・アフメト・パシャ共々殺された。アフメト・パシャは民衆からも怒りを買っていたため、遺体を切り刻まれ、バラバラにされた。「へザルパレ」の意味は千個の意。メフメトが次の皇帝に即位した。

 父18代皇帝イブラヒムとロシア南東部出身のルス人の母トゥルハン・ハティジェ・スルターン(オスマン語: تورخان سلطان‎、Turhan Hatice Sultan、「慈悲深い」または「気高い」スルターンの意)との間にメフメトは生まれた。トゥルハン・ハティジェは、タタール人に襲撃されて故郷から連れ出されクリム・ハン国に着くと、盲目のキョル・スレイマン・パシャ(テュルコ語: Kör Süleyman Pasha)からキョセム・スルターンに献納されてトプカプ宮殿のハレムに入った。トゥルハン・ハティジェは、背が高くどちらかというと虚弱で、肌は白く碧眼で、イスタンブールには男兄弟のユヌス・アガ( Yunus Agha)を住まわせていた。即位前、父のイブラヒムはハレムで多くの女性を溺愛し、それに激怒した母のトゥルハン・ハティジェ・スルターンと喧嘩になった。メフメトはその喧嘩に巻き込まれ、イブラヒムに泉水に投げ込まれた。メフメトは後宮の召使いに助けられたが彼は額に傷を負うことになり、その傷は生涯を通して消えなかった。
 西暦1648年、父イブラヒムが殺害された後、7歳で19代皇帝メフメト4世(Mehmed IV)が即位し、西暦1649年には弟のスレイマン、アフメトと共に割礼を受けた。幼い嗣子のメフメト4世の即位で、トゥルハン・ハティジェ・スルターンはヴァリデ(母后)となった。
 即位後の宮廷では、祖母のキョセム・スルターンが権力を引き続き持っており、かつて叔父のムラト4世が帰依したカドゥザーデ派の指導者ウストュヴァーニーもキョセム・スルターン、そして宮廷への強い影響力を持っていた。義母キョセム・スルターンと実権をめぐり対立し、イェニチェリがキョセム・スルターンを支持、黒人宦官がトゥルハン・ハティジェ・スルターンを支持するという構図が出来た。
 キョセム・スルターンはメフメト4世よりも、その弟のスレイマンの方が扱いやすいと見て、メフメト4世の廃位とスレイマンの即位させる計画を立てた。しかし、西暦1651年、キョセム・スルターンの使用人のメレキ・ハトゥンの密告によりこれが発覚し、トゥルハン・ハティジェ・スルターンは先手を打って刺客を送り、キョセム・スルターンを絞殺した。キョセム・スルターンの死後、トゥルハン・ハティジェ・スルターンは正式に摂政となったがキョセム・スルターンと違い、権力を乱用することはなかった。オスマン朝史上、正式に執政を認められて国を治めた女性はイブラヒムの母太后キョセム・スルターンとトゥルハン・ハティジェ・スルターンのみで、その治世はオスマン帝国の女人天下と呼ばれる。
 財政面での改革を進めるため、西暦1652年に大宰相にタルフンジュ・アフメト・パシャを任命した。彼は財政赤字を削減するために関税や役所での収入を増やして、宮廷での無駄な支出を減らした。さらには腐敗を撲滅するために汚職した者に対して厳罰を与えた。しかしこれらは多くの者に恨まれることとなり、イスラーム長老らはタルフンジュ・アフメト・パシャに抗議した。タルフンジュ・アフメト・パシャはさらに来年度予算を作る機会を設立し、オスマン朝史上初めてタルフンジュ予算と呼ばれる来年度予算を作成した。これらの改革は当時の人には理解されず、「タルフンジュ・アフメト・パシャがメフメト4世を退位させようとしている。」という噂まで広がったため、西暦1653年03月にタルフンジュ・アフメト・パシャは処刑されたが、彼の改革のお蔭で財政は再建され、海軍提督カラ・ムラト・パシャの働きによってヴェネチア艦隊の海上封鎖を解除し、一時は好転したが、西暦1656年に再び海上封鎖された。この混乱の中で皇太弟スレイマンの即位を目論んだ陰謀が発覚し、首謀者のイスラーム長老は流刑され、後に処刑された。
 西暦1654年には大宰相府がトプカプ宮殿から独立した。この背景には文書行政の役割が拡大するにつれ、宮殿内の部屋では狭くなり、大宰相の私邸で業務が行われるようになり、これが大宰相府の始まりで、大宰相府は所在地を転々としたのちに現在のイスタンブール広域市庁に当たる場所に居を構えた。文書行政組織には業務ごとにカレムと呼ばれるいくつかの部局が配され、広大な帝国の行政と財務を管理、運営した。これらの要因が後にキョプリュリュ時代において大宰相が膨大な権力を維持できる根拠となった。
 西暦1656年、トゥルハン・ハティジェ・スルターンは、キョプリュリュ家を登用、キョプリュリュ・メフメト・パシャ、キョプリュリュ・アフメト・パシャ、カラ・ムスタファ・パシャと相次いで大宰相に任じた。キョプリュリュ・メフメト・パシャはまず、敵対する軍人集団を徹底的に粛正し、権力を掌握した。その後、西暦1657年にエーゲ海でヴェネチア海軍を破り封鎖を解除した。西暦1660年には、オスマン朝の意に反する行動をしていたトランシルヴァニア公国のラーコーツィ・ジェルジ2世を討伐した。このことがこの地域の均衡状態を崩してしまい、西暦1663年にオスマン朝とハプスブルク帝国の戦争が再開することになった。また、ワラキア公国の混乱を助長させたとしてギリシャ正教会総主教を処刑している。一方、キョプリュリュ家によって地位を脅かされた反主流の軍人政治家や地方の軍人たちは、アレッポの州軍政官だったアバザ・ハサン・パシャを中心にアナトリア半島で叛乱を起こしたが、西暦1660年頃までにはそれを一掃した。
 キョプリュリュ・メフメト・パシャの後に大宰相になったキョプリュリュ・アフメト・パシャは西暦1663年にハプスブルク帝国との戦闘を再開し、難攻不落と言われたウイヴァール城砦を陥落させて、「ウイヴァールの前に立つテュルコ人のように強い。」という言い回しをヨーロッパで流行らせた。結局ハンガリー西部でザンクト・ゴットハルトの戦いで大敗したものの、大宰相の卓抜な外交によって翌年結ばれたヴァシュヴァールの和約はオスマン朝側に満足のいくものだった。内容は、オスマン朝の傀儡であるアパフィ・ミハイ1世をトランシルヴァニア公に承認すること、さらに和約成立後20年はオスマン朝に毎年20万フローリンを支払うことを取り決められた。
 一方地中海では西暦1666年にようやくクレタ島を征服する作戦を開始した。しかしこの包囲戦は長期に渉ったため、西暦1668年にメフメト4世はキョプリュリュ・アフメト・パシャに「これ以上戦争が長引けば軍事的にも経済的にももたなくなる。」という手紙を送った。キョプリュリュ・アフメト・パシャはすぐにでもクレタ島を攻略する決意をし西暦1669年にクレタ島を征服した。
 西暦1672年からは、ウクライナを巡り、ポーランド・リトアニア共和国(第1共和制)(西暦1569〜1795年)と戦争を始めた。同じ年、ポドリア地方を征服し、ブチャッハ条約を締結してポドリア支配を認めさせて賠償金も獲得した。しかし、ポーランド・リトアニア共和国のセイムがこれを承認しなかったため、西暦1673年に戦争は再開され、ヤン3世に敗れてしまった。西暦1674年にズラワノ条約を締結して、ブチャッハ条約で獲得した領土の3分の1をポーランド・リトアニア共和国に割譲した。西暦1676年にはロシア・ツァーリ国との戦争も勃発した。この戦争の最中にキョプリュリュ・アフメト・パシャが死去したため、後任にカラ・ムスタファ・パシャを任命し、イブラヒム・パシャを戦争へ派遣した。しかし戦果が上がらなかったため、カラ・ムスタファ・パシャを派遣して西暦1681年にバフチサライ条約を締結し、ロシア・ツァーリ国との国境を確定させた。西暦1670年代以降、オスマン朝国のヨーロッパにおける領土は最大になった。
 西暦1683年に王領ハンガリーでテケリ・イムレらが反ハプスブルク帝国の叛乱を起こした。彼らはオスマン朝に援助を要請したため、大宰相カラ・ムスタファ・パシャは大軍を率いて07月にウィーンを包囲した。しかしウィーンの防御は硬く、包囲戦は長期化し9月にはポーランド軍とドイツ諸侯軍がウィーンに到達し、オスマン朝軍と衝突した。長引く戦争でオスマン朝軍の士気は低下していたため、第二次ウィーン包囲は失敗してしまい、カラ・ムスタファを処刑してからは大テュルコ戦争に対して有効な手を打てず、西暦1686年にハンガリー支配の中心地のブタを奪われ、西暦1687年のモハーチの戦いでオスマン帝国軍が敗北すると叛乱が起こり退位、弟のスレイマン2世に帝位を譲り死ぬまで幽閉された。メフメト4世の死の数年前の西暦1691年に弟のスレイマン2世の病気と差し迫った死によりメフメト4世を復位させる陰謀が発覚したが失敗した。
 政治は専らキョプリュリュ一族に任せ、自身は趣味の狩猟三昧な日々を送っていた。その耽溺ぶりはエディルネの狩場に勢子として数千人もの農民を動員したという逸話が伝えられるほどで、アヴジュ(狩人)という愛称もここから来たものである。しかし、メフメト4世は単に遊興に耽っていたわけではなかった。 まず、エディルネを主たる居城と定めたのは、イスタンブールにおける様々な圧力から自由になることを意味していた。すなわち、イスタンブールの都市民と結びついたイェニチェリや、トプカプ宮殿の有力者たちの影響力を低下させたことが、政権の安定化につながったと思われる。 また、メフメト4世は、狩りで立ち寄った町々で非回教徒に回教への改宗を促した。強制的な改宗は回教では原則的に禁じられていることから、ここで行われたのは、あくまで自発的な改宗の推進であり、改宗した回教徒には祝い金が下賜された。こうした改宗の実績は、メフメト4世の宗教的偉業として讃えられた。

 西暦1645年に起こったヴェネツィア共和国とのクレタ戦争では勝利したものの、西暦1656年のダルダネスの戦いではヴェネツィア艦隊による海上封鎖を受け、物流が滞り物価が高騰した首都は暴動と叛乱の危険にさらされることになった。この危機に際して大宰相に抜擢されたキョプリュリュ・メフメト・パシャは全権を掌握して事態を収拾したが4年で急逝。しかし息子キョプリュリュ・アフメト・パシャが続いて大宰相となり、父の政策を継いで国勢の立て直しに尽力した。2代続いたキョプリュリュ家の政権は、当時オスマン帝国で成熟を迎えていた官僚機構を掌握、安定政権を築き上げることに成功する。オスマン朝の構造転換はキョプリュリュ期に安定し、一応の完成をみた。
 キョプリュリュ家の執政期にオスマン朝はクレタ島やウクライナにまで領土を拡大、さらにはヴェネツィア共和国が失ったクレタ島の代わりに得たギリシャにおける各地域の大部分を手中に収めたため、スレイマン1世時代に勝る最大版図を達成した。


 18代皇帝イブラヒムとセルビア出身のアシュブ・スルターンという女性との間に生まれたスレイマンは、兄のメフメトよりも生まれるのが3ヶ月遅かった。西暦1649年には兄弟の兄メフメトと弟アフメトらと共に割礼を受けている。
 父の崩御後、即位までの40年近く幽閉されていたが、兄のメフメト4世を廃位してスレイマンを即位させようとする動きは2度あった。最初は、祖母のキョセム・スルターンが、自身にとって扱いにくいメフメト4世を廃してスレイマンを即位させ、メフメトの母のトゥルハン・スルターンの影響力を削ごうとした時である。しかしトゥルハン・スルターンはキョセム・スルターンに刺客を送って彼女を暗殺したため、未遂に終わった。次にスレイマンを即位させようとした動きがあったのは、西暦1656年にヴェネツィア共和国がイスタンブールを海峡封鎖をした混乱の隙だった。しかし、これは露呈してこれを企んだイスラーム長老は流刑され、後に処刑された。
 異母兄メフメト4世の妻のギュルヌシュ・スルターンが息子のムスタファを出産した後、ギュルヌシュ・スルターンによって殺されそうになるが、メフメト4世の母のトゥルハン・ハティジェ・スルターンによって阻止された。
 西暦1687年に兄が大テュルコ戦争の劣勢の責任を取り退位し、帝位を譲られ20代皇帝スレイマン2世(Suleiman II)が即位した。即位した後も戦況はかなり厳しく、西暦1688年に神聖同盟側にベオグラードを占領され、それに呼応するかのようにルメリ州のチプロフツィで叛乱が起こった。ベネツィア軍にはペロポネソス半島を奪われてモレア王国(ヴェネツィア領モレア)(西暦1688〜1715年)を建国されてしまい、ポドリアはポーランド・リトアニア共和国に占領された。
 スレイマン2世は財政赤字に対応するべくアルコールの専売制を始めた。アルコールの一般販売は禁じられたがあまり効果は無く、居酒屋や自宅でアルコールを販売する者もいたという。また、新銀貨クルシュを市場に投入した。クルシュは25.6gの重さで、16gの銀を保有するこの大型硬貨は、オスマン市場の基本通貨の役割を果たし、西暦1760年代半ばまで通貨の安定に寄与した。スレイマンは、賄賂や娯楽を嫌う信仰深く正直な人物で、帝国内の賄賂や暴虐行為に反感を覚えて西暦1589年、キョプリュリュ・ムスタファ・パシャを大宰相に登用して管理体制の修復に努めた。ムスタファ・パシャの下、西暦1688年に奪われたベオグラードを西暦1690年に奪還することに成功した。さらに、新たに神聖同盟に加わったロシア・ツァーリ国 によるアゾフ遠征を撃退した。在位中の後半の2年間は病床につき晩年には昏睡状態で、西暦1691年に49歳で病死し、弟のアフメトが後を継いだ。

 アフメトは、西暦1649年、兄のメフメトとスレイマンと共に割礼をした。父18代皇帝イブラヒムの死後、帝位を継承しない皇子たちの幽閉所(黄金の鳥籠)に即位するまでの間43年にわたって幽閉されて暮らした。異母兄スレイマン2世の死により21代皇帝アフメト2世(Ahmed II)として即位したが、大宰相キョプリュリュ・ムスタファ・パシャが、西暦1691年に大テュルコ戦争で敗死した。
 アフメト2世の治世中、税の徴収に関する改革が行われた。西暦1691年、勅令によって耶蘇教徒の人頭税の徴税の仕方が変更された。以前は、村単位で総額が課税されていたのを個人個人に課税することにして、課税時に証書を渡して人頭税徴税の不正を防ぐことにした。しかし本来納税を免除されていたギリシャ正教会の聖職者にも人頭税が課税されることになったため、彼らの反発を招き、「このような扱いはイスラーム法に背くことである。」とスルターンに訴え出たがアフメト2世は課税の原則を変えなかった。耶蘇教聖書者に対するこのような扱いがこの後、西暦19世紀以降にバルカン半島の諸民族のナショナリズムを刺激することになった。
 西暦1695年には、安定した税収確保と納税者の民力の安定させるために、西暦16世紀末に導入された徴税請負制に終身制が導入された。それまでの徴税請負人は任期付きで、任期の間にできるだけ収益をあげるべく、過度の収奪に走ったため、納税者はそれに苦しんでいた。そのため、徴税請負人を終身にしたことで長期的な視野によって徴税を実施することか期待された。これを機に終身徴税請負人は各地の地方の有力者になってアーヤーンと呼ばれた。アーヤーンはオスマン朝の戦争に協力することもあれば、時には叛乱分子になることもあった。
 西暦1695年にアフメト2世は在位4年で死去し、甥のムスタファ2世が後を継いだ。アフメト2世にはイブラヒムという幼い遺児がおり(アフメト2世にはイブラヒムと早逝したセリムの双子の息子がいた)、大宰相のシュルメリ・アリ・パシャはムスタファではなく、イブラヒムを即位させようとしたが、その前にムスタファ2世がイスラーム長老らに即位を容認されたため、シュルメリ・アリ・パシャの試みは失敗した。その後、彼はそのことを理由にムスタファ2世によって大宰相を解任された後、処刑された。

 ムスタファは、19代皇帝メフメト4世とクレタ島生まれの奴隷ギュルヌシュ・スルターンとの間に生まれた。ギュルヌシュ・スルターンは冷酷な女性で、メフメト4世がハレムで他の女性と関係を持つと、その女性を殺害したり、皇子ムスタファを出産した時にはメフメト4世の異母弟のスレイマンとアフメトを殺害しようとした。しかし、トゥルハン・ハティジェ・スルターンによって事前に防がれた。 西暦1675年にムスタファは弟のアフメトと共に割礼を受けた。この時の祭りは20日も祭りは続いた。ムスタファは父や母らとエディルネで過ごし、幼少期からイスラーム教厳格主義のカドゥザーデ派の指導者であるヴァーニーと、ヴァーニーの娘婿であるフェイッズラー・エフェンディらによる教育をアフメトと共に受けた。父の退位後はカフェスに幽閉された。
 西暦1695年に亡くなった叔父のアフメト2世の後を継いで22代皇帝ムスタファ2世(Mustafa II)として即位した。当時大テュルコ戦争でオスマン朝へのハプスブルク帝国オーストリア大公国の進出を阻止する必要があった。まずムスタファ2世は当時失脚していた自身の師事であるフェイッズラー・エフェンディを中央に戻した。また、和平の方針を転換し、「アラーがムスタファ2世をカリフに任じた。」と聖戦を宣言した。一説には聖戦を宣言したのはカドゥザーデ派の影響とも言われている。ムスタファ2世はバルカン半島南部に迫り来る神聖同盟軍を食い止めるため、大宰相にエレマス・メフメト・パシャを任命して、西暦1695年06月にエディルネを出て、09月にルゴスの戦いで勝利し、戦果を挙げた。西暦1696年に再び親征しに行きウラシュの戦いとジェネイの戦いで勝利しティミショワーラを占領した。さらにハンガリーの再征服に乗り出すべく西暦1697年にも親征を行った。しかし、プリンツ・オイゲンにゼンタの戦いで大敗北を喫し、大宰相のエレマス・メフメト・パシャは戦死した。さらにアゾフはロシア・ツァーリ国 に占領され、勝利への道が閉ざされたため、和平の道へと進むことになった。西暦1699年のカルロヴィッツ条約によりハプスブルク帝国オーストリア大公国にハンガリーとトランシルヴァニアを、ヴェネツィア共和国にモレアを、ポーランド・リトアニア共和国にポドリアを割譲した。また、西暦1700年にロシア・ツァーリ国 ともコンスタンティノープル条約を締結、西暦1696年にピョートル1世が奪った黒海沿岸のアゾフを譲った。
 西暦1697年から大宰相に就任してカルロヴィッツ条約に調印したキョプリュリュ家出身のキョプリュリュ・ヒュセイン・パシャが戦後構造改革に乗り出した。ムスタファ2世は西暦17世紀以降飾りものであったスルターンの地位を改めようとし、ティマール制、オスマン朝の騎兵、そして世襲されたイェニチェリを改革しようとした。しかし、ムスタファ2世の側近でイスラーム長老(シェイヒュルイスラーム)のフェイズッラー・エフェンディとウラマーら保守派の反発にあい、西暦1702年に辞任、西暦1703年に首都イスタンブールからエディルネに移り住むとフェイズッラー中心の側近政治に反感を抱いたイェニチェリと商工業者らの間で不満が高まった。西暦1703年、オスマン朝はグルジアへ遠征し、当初は優勢だったが、グルジアに派遣される予定だった200人の騎士らが給料の未払いを理由にグルジア遠征を拒否して、イスタンブールを出てエディルネでムスタファ2世へと上奏、これにムスタファ2世に不満なイェニチェリ、高官、ウラマー、商人や職人らも加わり、6万人もの大集団となり、フェイズッラーの罷免を求めた。さらにはエディルネの守備兵までもがそれに同調してしまったため、フェイッズラーは罷免され、その後殺害され、ムスタファ2世は退位、弟のアフメトに帝位を譲り幽閉されて間もなく死去した。

 アフメトは19代皇帝メフメト4世とギュルヌシュ・スルターンの間に現在のブルガリアのドブリチで生まれた。アフメトが生まれた時、父のメフメト4世はポーランド遠征から戻って狩りをしていた。西暦1675年に同母兄のムスタファと共に割礼を受けた。これらの祭りは20日間続いた。アフメト皇子の教育は西暦1679年に始まり、家庭教師のフェイズッラー・エフェンディのもと、歴史、音楽、詩、書道などを勉強した。特にアフメトは読書を好んだという。エディルネでの皇子時代、アフメトはネヴシェヒルリ・ダマト・イブラヒムという者と親しくなり後に大宰相になった。
 西暦1703年当時、兄のムスタファ2世は宮廷をイスタンブールからエディルネに移していたが、側近政治と給料未払いに不満が爆発したイェニチェリと、商業がイスタンブールから移行することを恐れた商工業者らが叛乱を起こし、兄の側近フェイズッラー・エフェンディを殺害して兄も退位に追い込まれた。アフメトはこの危機的状況の中で擁立され、23代皇帝アフメト3世(Ahmed III)に即位し、フェイズッラーの没収した遺産からイェニチェリに給料を支払い、宮廷をイスタンブールへ戻して事態を収拾させた。
 この頃、ロシア・ツァーリ国(ロマノフ朝)がピョートル1世(大帝)の下で鎌首を擡げ、西暦1700年のコンスタンティノープル条約によってアゾフ周辺を奪取、黒海を窺っていた。同時にバルカン半島でもハプスブルク帝国オーストリア大公国の南下と西暦1699年のカルロヴィッツ条約によってハンガリー王国も失い、オスマン朝は衰退の時代を迎えていた。
 アフメト2世は西暦1705年に土地法を改正したため、スレイマン1世と同じく立法者と呼ばれることとなった。彼の治世の最初の3年間で次々に4人の大宰相が任命されたが西暦1706年にチョルルル・アリ・パシャが大宰相に就任した後はしばらく大宰相は変わらなかった。チョルルル・アリ・パシャは、オスマン朝軍の軍の規律を厳格にし、海軍に最初の兵器を導入した。またチョルルル・アリ・パシャはいかなる戦争の介入にも反対した。
 大北方戦争ではスウェーデン王カール12世とロシア・ツァーリ国ピョートル1世がバルト海の覇権を賭けて衝突、オスマン朝は西暦1708年からスウェーデン帝国(バルト帝国)(西暦1611〜1721年)とロシア・ツァーリ国それぞれから味方に加わるよう要請されていた。ロシア・ツァーリ国とはアゾフを巡る確執があり、スウェーデン帝国がウクライナ・コサックのヘーチマン・イヴァン・マゼーパを味方に付けたことを知ると主戦派がスウェーデンの同盟を主張したが、アフメト3世は同盟を拒否、ロシア・ツァーリ国がレスナーヤの戦いでスウェーデン軍を弱体化させ、ウクライナ・コサックの多くがマゼーパを見捨てロシア・ツァーリ国に留まると消極的になり、西暦1709年に属国のクリミア・ハン国にロシア・ツァーリ国の敵対行為禁止を命じて中立化した。しかし07月、ポルタヴァの戦いに敗れたカール12世が南ロシアから黒海経由でオスマン朝に亡命すると、アフメト3世はモルダヴィア公国のベンデルに迎え入れたが、ロシア・ツァーリ国の徹底抗戦を主張するカール12世とフランス王国のオスマン朝駐在大使の宮廷工作で主戦派が対ロシア戦争を主張した。それでも大宰相のチョルルル・アリ・パシャは戦争に反対していた。スウェーデン帝国は「チョルルルが賄賂を貰っている。」と非難した。結局西暦1710年チョルルル・アリ・パシャは大宰相を解任され、アフメト3世はピョートル1世の侵攻に対抗するため西暦1710年に宣戦布告した。
 属国の領主であるモルダヴィア公ディミトリエ・カンテミールとワラキア公コンスタンティン・ブルンコヴェアヌがオスマン朝から独立を企てており、ピョートル1世と結んでロシア軍と合流したが、ロシア軍の侵攻に対し西暦1711年にプルート川で勝利(プルート川の戦い)、直後に結ばれたプルート条約でアゾフをロシア・ツァーリ国から返還してロシア・ツァーリ国を黒海から締め出した。属国の叛乱も鎮圧され、ディミトリエ・カンテミールは所領を失いロシア・ツァーリ国へ亡命、コンスタンティン・ブルンコヴェアヌはオスマン朝に捕らえられ処刑された。しかし、戦闘中にピョートル1世を捕える機会があったにも拘らず、プルート条約の締結によって講和が成立し、ピョートル1世を逃してしまった。また、締結後もロシア・ツァーリ国との戦争を促すカール12世とも確執を深め、スウェーデン帝国との同盟は解消され西暦1713年にカール12世をエディルネ近郊へ移した。翌西暦1714年にカール12世はオスマン朝からスウェーデン領ポメラニア(スウェーデン領ドイツ)(西暦1630〜1815年)へ移動してスウェーデン帝国へ帰国したが、不在の間に劣勢となった戦局を覆せず戦死、大北方戦争はスウェーデン帝国の敗北となっていった。
 西暦1714年からヴェネツィア共和国とペロポネソス半島を巡り戦争を起こし(オスマン・ヴェネツィア戦争)、西暦1716年からハプスブルク帝国オーストリア大公国がヴェネツィア共和国側として参戦するとオスマン朝はバルカン半島でも戦端を開いた(墺土戦争)。西暦1716年にオーストリア大公国の要塞ペトロヴァラディン(ペーターヴァルダイン)を奪還しようとして遠征に向かった大宰相シラーダーリ・ダマト・アリ・パシャはオーストリア軍総司令官のプリンツ・オイゲンの前に敗死(ペーターヴァルダインの戦い)、後任のハジ・ハリル・パシャは翌西暦1717年にオーストリア軍に包囲されたセルビアの首都ベオグラード救援に向かったが、オイゲンに敗れた上ベオグラードも奪われた(ベオグラード包囲戦)。西暦1718年のパッサロヴィッツ条約でオスマン朝はペロポネソス半島をヴェネツィア共和国から獲得したが、セルビア北部とワラキアの西部をハプスブルク帝国オーストリア大公国に譲りバルカン半島の領土を再度失った。以後は平和政策に転換してヨーロッパの文化を導入していった。
 ハプスブルク帝国オーストリア大公国に敗れて講和した後は西欧諸国との修好を行い、大宰相ネヴシェヒルリ・ダマト・イブラヒム・パシャの補佐を受けて西欧諸国の文化を積極的に取り入れ、帝国の繁栄を築き上げた。軍事支出が抑えられ財政は好転、イスタンブールを中心として建築・再開発が進められていった。西暦1719年にネヴシェヒルリ・ダマト・イブラヒム・パシャはハプスブルク帝国オーストリア大公国のウィーンへ使節を派遣したのを始まりとして、西暦1720年と西暦1721年にフランス王国ブルボン朝(西暦1589〜1792年)のパリ、西暦1722年と西暦1723年にはロシア帝国(西暦1721〜1917年)のモスクワに使節を派遣してヨーロッパと修好を結び、同時に使節にヨーロッパに関する情報を集めた。指示を受けたフランス使節イルミセキズ・チェレビーはフランス王国の建物について詳しく書き記し、ネヴシェヒルリ・ダマト・イブラヒム・パシャはこれらを参考にしてイスタンブールに西欧文化を導入、次々と新しい施設を建てた。西暦1722年にアフメト3世の離宮としてサーダバード宮殿が造られ、イスタンブールの水路整備と共に給水用と装飾用を兼ねた泉の建物(泉亭)を建設、連日宴会が開かれ華やかな宮廷文化が芽生えていった。
 書物保存のため図書館建設と活版印刷も広まり、ネヴシェヒルリ・ダマト・イブラヒム・パシャの後援でイブラヒム・ミュテフェッリカが印刷所を開設、ペルシャ語からてトゥルコ語に翻訳した本の印刷・保存が行われていった。アフメト3世も文化事業を推進、トプカプ宮殿内に図書館を建てたり西欧諸国からチューリップを大々的に輸入・栽培して大いにチューリップが咲いたためチューリップ時代と称されている。しかし、こうしたアフメト3世の行動は浪費と取られ、政府に対する反感も出来上がっていった。治世中は列強との戦争に対処する一方、積極的に西欧文化の受け入れを奨励、チューリップ時代と呼ばれる一時代を生んだ。
 西欧諸国と講和条約を結んだ一方で、災害が頻発した。西暦1718年にイスタンブールで火災が発生した。西暦1719年には同じくイスタンブールで地震が発生した。また東のサファヴィー朝との戦いは長期間にわたり、財政の悪化を招いた。ネヴシェヒルリ・ダマト・イブラヒム・パシャはサファヴィー朝が地方部族の叛乱で衰退した状況につけこみ、西暦1723年にロシア帝国と結託してイラン戦役を開始、サファヴィー朝の王タフマースブ2世からタブリーズ・ハマダーンを奪いイラン西部を平定した。しかし、タフマースブ2世の武将ナーディル・シャーが反撃して戦争が長期化するとイスタンブールの民衆の不満が高まり(アフシャール戦役)、西暦1730年にイラン遠征軍の編成前に元イェニチェリのパトロナ・ハリルが宮廷を非難してイスタンブールで叛乱を扇動(パトロナ・ハリルの乱)、ネヴシェヒルリ・ダマト・イブラヒム・パシャは叛乱軍に処刑されアフメト3世も退位を余儀無くされ、甥のマフムトが新たに擁立された。アフメト3世は退位後トプカプ宮殿に幽閉生活を送り、6年後の西暦1736年に62歳で亡くなった。

 キョプリュリュ・メフメト・パシャの婿カラ・ムスタファ・パシャは、功名心から西暦1683年に第2次ウィーン包囲を強行した。一時は包囲を成功させるも、ポーランド王ヤン3世ソビエスキ率いる欧州諸国の援軍に敗れ、16年間の戦争状態に入ることになった(大テュルコ戦争)。
 戦後、西暦1699年に結ばれたカルロヴィッツ条約において、史上初めてオスマン朝の領土は削減され、東欧の覇権はハプスブルク帝国オーストリア大公国に奪われてしまい、さらには西暦1700年にはロシア・ツァーリ国とスウェーデン帝国(バルト帝国)の間で起こった大北方戦争に巻き込まれてしまい、スウェーデン王カール12世の逃亡を受け入れたオスマン朝は、ピョートル1世の治下で国力の増大著しいロシア・ツァーリ国との苦しい戦いを強いられた。ロシア・ツァーリ国とは、西暦1711年のプルート川の戦いで有利な講和を結ぶことに成功するが、続く墺土戦争のために、西暦1718年のパッサロヴィッツ条約でセルビアの重要拠点ベオグラードを失ってしまった。
 このように、西暦17世紀末〜18世紀にかけては軍事的衰退が表面化したが、他方で西欧技術・文化の吸収を図り、後期のオスマン文化が成熟していった時代でもあった。中でもアフメト3世の大宰相ネフシェヒルリ・ダマト・イブラヒム・パシャの執政時代においては対外的には融和政策が取られ、泰平を謳歌する雰囲気の中で西方の文物が取り入れられて文化の円熟期を迎えた。この時代は西欧から逆輸入されたチューリップが装飾として流行したことから、チューリップ時代と呼ばれている。また西暦1722年には東方のイラン・ペルシアでアフガーン人の侵入を契機にサファヴィー朝が崩壊した。オスマン朝はこの混乱に乗じて出兵した(オスマン・ペルシア戦争)。しかし、ホラーサーンからナーディル・シャーが登場し、イラクとイラン高原における戦況は徐々にオスマン朝劣勢へと動き始める(アフシャール戦役)。浪費政治への不満を募らせていた人々はパトロナ・ハリルとともにパトロナ・ハリルの乱を起こして君主と大宰相を交代させ、チューリップ時代は終焉するに至った。


 マフムト1世は、エディルネで22代皇帝ムスタファ2世とサリハ・スルターンとの間に生まれた。マフムトは、猫背で成長した。父のムスタファ2世はエディルネで過ごしたため、マフムト1世もエディルネで育ち、西暦1702年からは同地で教育を受けた。西暦1703年に父が退位させられるとマフムトは他の皇子たちと同じくトプカプ宮殿のカフェスに幽閉され、即位するまでの27年間をそこで過ごした。幽閉中は詩を書いたり、歌を歌ったり、チェスをするなどして過ごした。
 西暦1730年、パトロナ・ハリルの乱で叔父アフメト3世が廃位され、24代皇帝マフムト1世(Mahmut I)に擁立された。新政権を率いたマフムト1世は当初は大人しくしていたが、翌即位から1年後の西暦1731年にパトロナ・ハリルらイェニチェリの叛乱軍首謀者を処刑して実権を握ると、叔父アフメト3世が推進していた西欧化の改革を進めた。パトロナ・ハリルの乱で中断されていた建築事業の一部を手掛けて完成させ、フランス人亡命者のクロード・アレクサンドル・ド・ボンヌヴァルを重用して軍事改革に取り組んだ。
 先代から続いていたサファヴィー朝との戦争を継続した。西暦1730年にナーディル・クリー・ベグを名乗っていたナーディルの反撃により先代の時に獲得した領土を失った。しかしサファヴィー側では東でアフガン人の叛乱が起きていたためナーディルは東に向かったタフマースブ2世の下でナーディルは勢力を拡大、タフマースブ2世は、その間にエレヴァンを奪還すべく自ら遠征した。しかしオスマン朝はこれを撃退し、マフムト1世は西暦1732年にサファヴィー朝とアフメト・パシャ条約を締結しコーカサスでの国境線をアラズ川とした。しかしナーディルはこれに反発してタフマースブ2世をホラーサーンへ追放し、タフマースブ2世の8ヶ月の子アッバース3世を擁立してその摂政となり、戦争を続行し、バグダードを奪われた。マフムト1世はこれを奪還すべくトパル・オスマン・パシャを派遣しバグダードを奪還したがトパル・オスマン・パシャは程なくしてナーディル・シャーに討取られた。その後ナーディルによって、西暦1735年までにガンジャやイェグフヴァルドを奪われた。同年コンスタンティノープル条約でイランの南コーカサス領有を認めた。西暦1736年、アッバース3世を退位させて、自らがシャーとして即位、ナーディル・シャーを名乗り、アフシャール朝(西暦1736〜1796年)を開いた。 その後はしばらく平和が訪れたが、西暦1743年にナーディル・シャーが再びイラクに侵攻してきたが撃退し撤退させた。西暦1744年に今度はカルスを包囲され、翌年のカルスの戦いでオスマン側は壊滅した。当初はナーディルはユスキュダルまで領土を広げるつもりだったが、西暦1746年にケルデン条約で現状維持を条件に和平条約が締結されバグダードを死守することに成功し(アフシャール戦役)、この時ケルデン条約で定められた国境線は現在のテュルコとイランの国境の基となっている。
 ロシア・オーストリアとの戦争(ロシア・オーストリア・テュルコ戦争)文化事業は縮小されたが西欧導入政策も引き続き継続していった。
 一方、西暦1735年からロシア帝国およびその同盟国、ハプスブルク帝国オーストリア大公国との戦争(ロシア・オーストリア・テュルコ戦争)が再開されると、まずオスマン朝はロシアと開戦したが西暦1736年までにクリミアの要衝に位置する要塞とバフチサライをロシア帝国に占領された。ただし西暦1737〜1739年に、クリミアで疫病が流行り出したためそこで何万人ものロシア軍が病死し、しばらくは足止めに成功し、ロシア帝国とは引き分けに持ち込んだ。オーストリア大公国とは西暦1737年に開戦し、そこでは連戦連勝であり、オーストリア大公国からはセルビアを奪回しベオグラードを奪還するなどオスマン朝をある程度持ち直した。しかし西暦1739年にロシア軍の攻勢によってヤッシーを占領され、それに対抗すべくオーストリア大公国とベオグラード条約を結び停戦した。ロシア帝国は単独で勝てないと考え、ニシュ条約を締結し、アゾフを割譲するだけと、割譲は最低限になった。イラン戦線も終結してからはオスマン朝は戦争を控え、西暦1768年に露土戦争が始まるまで平和を保った。

 露土戦争(西暦1735〜1739年)が終結し、その講和条約である西暦1739年のニシュ条約とベオグラード条約が締結されベオグラードを奪還した。西暦1747年にナーディル・シャーが没すると戦争は止み、オスマン朝は平穏な西暦18世紀中葉を迎えた。この間に地方では、徴税請負制を背景に地方の徴税権を掌握したアヤーンと呼ばれる地方名士が擡頭し、彼らの手に支えられることで緩やかな経済発展が進んでいた。しかし、産業革命の波及により急速な近代化への道を歩み始めたヨーロッパ諸国との国力の差は決定的なものとなり、スレイマン1世時に与えたカピチュレーションを逆に利用することで、ヨーロッパはオスマン朝領土への進出を始めることとなった。

 しかし、内部では徐々に腐敗が生じるようになり、常に平和を望んでいたというマフムト1世は、宦官ハジ・ベシル・アーの強い影響下にあった。またマフムト1世の治世以後、ワラキア公とモルダヴィア公にイスタンブール在住のギリシャ系正教徒の特権的階級、ファナリオティス(希語: Φαναριώτης)を起用することが定着した。イェニチェリの腐敗も進み、イェニチェリ空席ポストの給料着服が行われたり、西暦1740年にイェニチェリの株売買ファナリオティスを認めると富裕層が買い占めたり、親衛隊としてのイェニチェリの軍事力は低下した。地方の分権化も徐々に進み、徴税請負制が終身契約として有力者に競売に出されると、購入者がそれを元に徴税をいくらか自らの収入に入れたり、土地の売買と開墾で地方に根付いたため、後にアーヤーンと呼ばれる地方有力者の台頭でオスマン朝の支配は揺らいでいった。西暦1750年01月にイスタンブールのアヤズマ門で発生した火災は19時間続き数多くの家が焼失した。さらに同年03月に再び大規模な火災が発生した。西暦1754年、金曜礼拝から戻った直後に心臓発作のため58歳で死去し、弟のオスマン3世が後を継いだ。


オスマン帝国の時代 (世界史リブレット) - 林 佳世子
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禁断の鳥籠 罪深き接吻、ハーレムの恋 (ぶんか社コミックス) - 板東 いるか
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オスマン帝国衰亡史 - アラン パーマー, Palmer,Alan, 英子, 白須
オスマン帝国衰亡史 - アラン パーマー, Palmer,Alan, 英子, 白須



 西暦1594〜1597年にイギリスの作家ウィリアム・シェイクスピアが書いた喜劇、戯曲「ヴェニスの商人」(別名、「人肉抵當裁判」)では、主人公の友人を借金の形としたユダヤ人高利貸という設定のシャイロックという人物が登場した。強欲で悪辣なユダヤ商人というユダヤ人像が定着する契機となり、ユダヤ人蔑視に一役買った。誤解があるが、英語の merchantというのは小売商のような「商人」ではなく、「貿易商」を意味し、「ヴェニスの商人」とは有名なユダヤ人の金貸しシャイロックを指すのではなく、商人アントーニオのことである。
 後世、ドイツの宣伝相ゲッベルスは、シャイロックの登場する「ヴェニスの商人」を度々上演や映画化をさせ、ユダヤ人排斥の宣伝に使った。統制社会に堕した現在ではポリコレ弾圧で、「ヴェニスの商人」は公演される機会が少なくなり、またユダヤ人であることを強調しない演出に統制させられている。


 西暦16世紀においては、反ユダヤ的な暴動は見られない。それは、宗教改革とそれに続く宗教戦争において、プロテスタント側がユダヤ人に近い立場に立たされ、憎悪が向けられたからであった。カトリックは、改革派の秘密集会を蔑み、悪意に満ちた話に尾鰭を付けて触れて回った。

ヴェニスの商人 (新潮文庫) - シェイクスピア, 恒存, 福田
ヴェニスの商人 (新潮文庫) - シェイクスピア, 恒存, 福田

二つの宗教改革: ルターとカルヴァン - オーバーマン,H.A., Oberman,Heiko A., 日本ルター学会, 日本カルヴァン研究会
二つの宗教改革: ルターとカルヴァン - オーバーマン,H.A., Oberman,Heiko A., 日本ルター学会, 日本カルヴァン研究会

 西暦1618年〜1648年にかけて、宗教改革による新教派(プロテスタント)とカトリックとの対立の中展開された最後で最大の宗教戦争といわれる三十年戦争が起こった。この戦争で、オーストリア・スペインの東西ハプスブルク家は打撃を受けた一方で、ブルボン家のフランス王国はヨーロッパ最強国家となった。また、神聖ローマ皇帝とローマ法王を政治的・宗教的首長とする「耶蘇教共同体」は崩壊し、ヨーロッパ世界では1つの国家の主権と独立とが原則となった。
 戦後、フランス王国が中央集権的絶対王政を確立したのに反して、神聖ローマ帝国が名目的な存在となったドイツでは地方分権的な領邦国家体制が確立したことによって国民主義的統一が遅れた。神聖ローマ帝国内では諸侯たちが自分たちを領邦を代表する「国民」 と意識していたが、諸侯の共通言語はフランス語であり、民族よりも身分が重視されるなど、国民国家の形成は妨げられており、こうした領邦国家体制に対する反発が、近代の啓蒙と合理主義の影響で西暦18世紀以降のドイツにおける国民主義(ナショナリズム)を形成していくことになった。


 西暦1649年の清教徒革命でイングランド共和国(Commonwealth of England、西暦1649〜1660年)に政体が変わったイギリスでは、市民階級の清教徒が「イスラエルよ、汝らの幕屋に戻れ!」を合言葉とした。清教徒革命は王室と癒着した教会への攻撃でもあり、オリバー・クロムウェル(Oliver Cromwell)は猶太教徒と非国教派を保護した。また、至福千年説が流行し、ユダヤ人を解放して耶蘇教に改宗させることがメシア降臨の条件と見做されるようになった。清教徒の至福千年派は、「ユダヤ人の改宗のためにユダヤ人をパレスチナに呼び戻すべきだ。」と主張した。こうしたことから、「クロムウェルの出自はユダヤ人ではないか。」と囁かれ、また「クロムウェルはセントポール大聖堂を80万ポンドでユダヤ人に売却しようとしている。」という噂が流れた。
 一方、非国教会の分離派は、「イギリスの内乱は過去のユダヤ人迫害への天罰である。」と見做した。分離派に励まされたアムステルダムのラビ、メナセ・ベン・イスラエル(Menasseh Ben Israel(מנשה בן ישראל)、葡語:Manoel Dias Soeiro)はユダヤ人のイギリス入国を請願した。メナセ・ベン・イスラエルは「国際法の父」グロチウス、哲学者スピノザ、画家レンブラントと親交があったことからも西暦17世紀オランダの知の世界で重きをなした人物ということが分かる。彼を「ユダヤ人の英国帰還」へと駆り立てた原動力は、アムステルダム・ユダヤ社会の難民問題解決という現実的必要性だけではない。猶太教神秘主義への傾倒ゆえに、タナハに記された預言の解釈に没頭し到達した宗教的確信も原動力となった。それは「聖地パレスチナを再びユダヤ人が取り戻すためには、地球上のあらゆる僻遠の地までユダヤ人が拡散・定住せねばならぬ。」という宗教的確信だった。西暦1290年にユダヤ人を追放したイギリスへのユダヤ人帰還を請願し交渉した。荒唐無稽な独善的妄説だが、西暦17世紀ユダヤ世界では学知を結集した学問的成果に他ならなかった。この説が広まる中、南米エクアドルで「失われた十部族」の末裔と思しき「猶太教の儀式を実践する先住民」と自分は接触したとメナセ・ベン・イスラエルに語るユダヤ人探険家も現われ、期待は一挙に盛り上がった。「古代イスラエル人の末裔は、既に新大陸にまで到達しているようだ。だとすれば聖地回復を加速させるためには、欧州に残る最後のユダヤ人空白地帯を放置してはならない。」そう考えたメナセ・ベン・イスラエルは早速、ユダヤ人を未だ受け入れていない北欧スウェーデンの女王クリスチナに働きかけ入国許可を求めた。
 メナセ・ベン・イスラエルは「イスラエルの希望」(西暦1650年)において、「終末の到来を確かならしめるためには、ユダヤ人の拡散を完全のものとして、世界の末端であるイングランド(アングル・ド・ラ・テール 地の角)をユダヤ人の植民地と化するべきだ。」と主張した。背景には西暦1648年のポーランドでのコサック叛乱によるユダヤ人難民の存在があった。メナセ・ベン・イスラエルは著書をイギリス議会に献呈し、「ユダヤ人を迎え入れれば貿易が盛んになり繁栄する。」と力説した。オリバー・クロムウェルは、耶蘇教を否定する者に寛容を貫くのは本末転倒であるが、イギリス商業の保護と発展のためにユダヤ人国際ネットワークを利用することの利点に理解を示し、またスペインの植民地を奪取するための協力をユダヤ人マラーノから期待していた。メナセ・ベン・イスラエルは「卑見(Humble Address)」でシナゴーグの建設許可や、反ユダヤ法の改正を請求し、ユダヤ人の商才と高潔な血統を強調、「耶蘇教徒幼児の殺害は中傷だ。」と否定した。
 けれど主要な関心は、アムステルダムにほど近く経済規模故に魅力的な英国に向けられた。メナセ・ベン・イスラエルはユダヤ人の英国帰還を求める請願をオリバー・クロムウェルに提出するため、西暦1655年末、渡英の許可を得て赴いたのである。メナセ・ベン・イスラエルには勝算があった。当時の英国では、政治権力を握ったピューリタンの間で、メナセ・ベン・イスラエルたちの考えと平仄の合う神学思想が流行していたからだ。ピューリタンたちはタナハの預言に基づく独自の年代算定により、西暦1656年頃、救世主の降臨が起きると信じていた。そして「申命記」28章64節に記された「地の果て」までのユダヤ人拡散を実現することが「降臨」の前提条件と考え、英国こそ最後に残された「地の果て」と見做していた。

 これは現在にも綿々と引き継がれている猶太教の妄説に基づく明白な陰謀である。

 自身も熱心なピューリタンで、この教説を信じるオリバー・クロムウェルは、11月、オリバー・クロムウェルはこの請願を議会に掛けたが、王党派は「王を殺した者が、救世主を殺した者と手を握った。」と非難した。貴族マンモス伯はシナゴーグ建設案に不快感を示し、またロンドンでは傷痍軍人が「わしらも全員ユダヤ人になるしかあるまい。」と噂し、商人は恐るべき競争相手と警戒し、聖職者は社会転覆の危険を見た。パンフレット作家で王党派の政治家ウィリアム・プリン((William Prynne)は、西暦1634年に演劇の観客は「悪魔、不敬の怪物、無神論的ユダの化身である。彼らは自らの宗教に対しては喉を掻き切る殺人鬼。」と述べ、仮面劇を支援したイングランド王チャールズ1世の王妃ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランス(Henrietta Maria of France、仏語名: アンリエット・マリー・ド・フランス(Henriette Marie de France))への誹謗中傷と名誉毀損の罪によって、ロンドン塔に幽閉後、晒し台の刑に、両耳を切断され、左右の頬に煽動的誹毀者(seditious libeller)を意味する「S.L.」の烙印が押されたが、民衆の絶大な人気を博していた。西暦1655年にウィリアム・プリンは、メナセ・ベン・イスラエルとイングランド政府によるユダヤ人の召喚計画に反対して「ユダヤ人のイングランド移入に関する簡潔な異議申し立て」を書き、1週間で完売した。この他、クレメント・ウォーカー「イングランドの無政府状態」やアレクサンダー・ロス「ユダヤ人の宗教」などでもユダヤ人召喚への反対が主張された。
 再入国実現を期待して西暦1655年12月、旧王宮に軍、司法、商業界の代表と神学者を集め意見を聞く国策会議を召集した。オリバー・クロムウェルは西暦1655年12月18日の一般公開議場ではユダヤ人受け入れに反対する者が多数詰めかけ、オリバー・クロムウェルは諮問委員会の解散を宣言し、さらに、演説では、「ユダヤ人の改宗は聖書に予告されており、そのためにはユダヤ人が聖地に住むことが唯一の手段である。」と述べ、閉会した。メナセ・ベン・イスラエルは西暦1656年に「ユダヤ人からの要求(Vindiciae Judaeorum)」を書き、これに影響されたユニテリアン派のトマス・コリアーは、「ユダヤ人によるナザレのイエス殺害は神の意志を実現するためであり、それによって耶蘇教を誕生させるためであった。」と論じた。会議の流れはオリバー・クロムウェルの予想に反し反対意見が強かった。外国貿易の既得権益を握るシティ商人たちが、ユダヤ商人の競争力を必要以上に恐れ反対したからだ。このまま会議を続ければユダヤ人側に不利な条件での再入国が勧告されてしまう。そう判断したオリバー・クロムウェルは、問題を先送りするため会議を解散する奇策に出た。
 英西戦争の悪化によって西暦1655年秋に在英スペイン人の財産は没収された。在英ユダヤ人のほとんどはスペイン出身であり、法的にはスペイン人であったため、ユダヤ人の財産も没収された。裕福な商人ロブレスは自分はポルトガル人であるとして財産返却を請願し、異端審問の過酷さを主張してイギリスの反スペイン・反カトリック感情に訴え、財産没収の取り消しに成功、これによりイギリスでのマラーノの身分が保証される結果となった。以後、イングランドでは公的な入国許可はなかったが、非公式の寛容政策によってロンドンのマラーノ入植地では、シナゴーグも建設され、イギリス国内の事実上の小国家となっていった。西暦1657年イギリス最初のシナゴーグがクリーチャーチレインに建立された。
 西暦1659年の王政復古で復位したチャールズ2世は親ユダヤ的で、ユダヤ人の権益を保護した。王室の庇護を受けたためにユダヤ人は安定した地位を保ち、セファルディーム系ユダヤ人が西暦18世紀初頭にベヴィスマークにシナゴーグを建設、アシュケナジーム系ユダヤ人も再入国が認められ、西暦1690年には自派のシナゴーグを建設した。


 西暦1661年に成立した騎兵議会では、王党派によって、清教徒の一掃を企図するクラレンドン法典、市町村の役員に国教徒であることを義務づけた地方自治体令(Corporation Act)、非国教徒4人以上の会合を禁止したコンヴェンティクル条例(Conventicle Act)などが可決した。
 日記で知られる海軍秘書サミュエル・ピープスは西暦1663年にシナゴーグを訪問し、そこで見たシムハット・トーラの礼拝での騒ぎに対して嫌悪感を書いている。西暦1718年にはイギリス産まれのユダヤ人であれば土地所有が可能となった。

 西暦1753年、ヘンリー・ペラム政権は、ユダヤ人帰化の条件を緩和する法案を提出したが、世論の反発を受けて撤廃した。ユダヤ人帰化法が失敗すると、ディズレーリ家、リカルドー家、バーセーヴィ家などの上流ユダヤ人はイギリス国教に改宗した。

 西暦1627年、詩人マレルブは最晩年に「猶太教はヨルダン川の岸辺に押し止められるのが望ましいが、猶太教徒はセーヌ川流域まで勢力を広げている。」として「私はどこにいても神を頼みとして戦う。」と書いた。
 三十年戦争末期の西暦1648年、フランス王国では10歳の国王ルイ14世の摂政となった王大后アンヌ・ドートリッシュの相談役兼ルイ14世の教育係ジュール・レイモン・マザラン(Jules Raymond Mazarin)が集権体制を強化させていたが、ジュール・レイモン・マザランに反発した高等法院官僚や法服貴族が叛乱を起こした(フロンドの乱)。フランス王国は一時は無政府状態となり、王家は国外へ脱出した。西暦1648年10月24日にヴェストファーレン条約が締結され三十年戦争が終結すると、フランス軍のコンデ公ルイ2世がフロンド派を制圧し、さらにコンデ公ルイ2世もジュール・マザランに対抗したが、西暦1653年にジュール・レイモン・マザランが勝利してフロンドの乱は終結した。これ以降、王権による中央集権体制が確立されていった。
 フロンドの乱の最中の西暦1652年08月15日、ジャン・ブルジョワ殺人事件が発生した。トネルリーの古着商集団に対して、ジャン・ブルジョワ青年が「シナゴーグの殿方連のお通りだよ。」とからかったところ、古着商集団は青年を矛槍とマスケット銃で滅多打ちにした上、賠償金も払わせた。ジャン・ブルジョワは代官に告発したが、古着商集団はジャン・ブルジョワを誘き出し、拷問の果てに殺害した。このような小規模な局地戦は当時いくつか発生していた。この事件後、ユダヤ人によって腐敗が撒き散らしてきたと非難する文書や古着商集団を弁護する文書が現れ、ユダヤ問題が世論で争われた。「ユダヤ人に対する憤怒」という文書では、「ユダヤ人に識別するための印を付けるべきだ。」と主張され、「シナゴーグに対する判決文」という文書では「ユダヤ人全員を去勢すべきだ。」と主張された。こうした文書の横溢によって古着商は隠れ猶太教徒(マラーノ)かと疑われたが、事件における古着商集団は被害者も加害者もカトリック耶蘇教徒であった。

 ジュール・レイモン・マザラン没後の西暦1661年に23歳のルイ14世太陽王が親政を開始した。宮廷説教師でオラトリオ会修道士のボシュエは王権神授説とフランス教会のローマからの独立(ガリカニスム)を提唱し、ローマ法王よりもフランス国王の権力を強化して絶対君主制確立に貢献した。一方で、ユダヤ人を「誰からも哀れまれることなく、その悲惨の中にあって、一種の呪いによりもっとも卑しき人々からも嘲笑の的とされるにいたった民」とし、「ユダヤ人の最大の罪はナザレのイエスの処刑ではなく、処刑後に悔い改めない姿勢である。」と非難した。ルイ14世は「唯一の王、唯一の法、唯一の宗教」を方針として「最大の耶蘇教徒の王」を自負し、異端のジャンセニスやユグノーを抑圧した。一方、ジャンセニスト哲学者ブレーズ・パスカルは遺稿「パンセ」で「栄誉に抗して純一であり、それが故に死んでゆく、ユダヤ人」とユダヤ人を称賛した。
 西暦1657年、東方への野心を持ったルイ14世は、軍馬調達、駐屯地への補給のためにアルザス・ロレーヌ地域のユダヤ人を利用しようとしてメッスのシナゴーグを訪れ、アンリ4世とルイ13世がユダヤ人に与えた勅許状を更新し、古物だけでなく新物を商う権利を付与した。
 西暦1670年にメッスで儀式殺人事件と裁判が繰り広げられ、ユダヤ人が処刑された。また、パリで行方不明になった若者について「ユダヤ人が連行した。」という噂が流れた。 これに対して聖書学者リシャール・シモンがメッス儀式殺人裁判について匿名でユダヤ人を擁護し、西暦1674年にはヴィネチアのラビ、レオン・ダ・モデナの著作を翻訳して、その序文で「新約聖書を書いたのはユダヤ人であった」と主張し、また猶太教徒の信仰心の篤さを賞賛した。しかし西暦1684年になると、シモンは手紙でモデナ訳書の序文について好意的なことを書き過ぎたと反省して「ユダヤ人が救いようのない民であるということを、私はその後、彼らのうちの幾人かと付き合ってみて初めて理解した。彼らは未だに我々のことを深く憎悪している。」と述べた。シモンは西暦1678年、近代聖書文献学の先駈けとされる「旧約聖書の批判的歴史」を著作したが、宮廷説教師ボシュエの激しい怒りを買い、西暦1687年に発禁処分に至り、死ぬまで周囲から激しい攻撃を受けた。
 西暦1675年〜1680年頃 サヴォイア公国ピエモンテで数年間の凶作によって救済保護政策のなかで、プロテスタントからの改宗者、貧民、ユダヤ人をゲットーに強制移住させて、管理を強めた。
 西暦1671年、アドリアン・ガンバールはカテキズム (catechism、教理問答、 信仰問答。耶蘇教信仰を、洗礼または堅信礼志願者あるいは子供に教えるための書物。 元々口頭で教えたところから、文書となっても問答体の形式を取った )で、聖体を拝領することは全ての罪の中で最も重い罪であり、それによって「ユダやユダヤ人たちと同じように、ナザレのイエスの肉と血に対する罪を犯すことになる。」とした。イエズス会士・オラトリオ会修道院説教師ブルダルーは、「ステファノを石で撲殺したユダヤ人は『神秘の石』であるステファノ(耶蘇教における最初の殉教者)を殴打して、神の慈悲と神の愛の火花を散らした。」と言い、「罪のうちに死ぬことをユダヤ人は天から下されている。」と説教した。ニーム司教エスプリ・フレシエは、「不信心者のユダヤ人は神の正しき裁きによって、この世が終わり、神がイスラエルの残骸を集める時まで、あらゆる民から眉を顰められる存在であり続ける。」と説教した。クロード・フルーリー神父はカテキズム「歴史公教要理」で、ナザレのイエスの敵は肉的なユダヤ人、ユダヤ人はナザレのイエスを死に至らしめたために隷属状態となり、離散させられた。」と解説した。クレルモン司教でベルサイユ宮廷説教者マシヨンは「血の罪の刻印」を受けて「見境を失った民」のユダヤ人は「盲目的な敵愾心」で怒り狂い「ナザレのイエスの血が自らと自らの末裔の頭上に降り注ぐことを望んでいる。」、ユダヤ人は「世界の恥辱と見做されたまま、彷徨い、逃げ惑い、軽侮され続けている。」と説教した。

 西暦1670年、神聖ローマ皇帝レオポルト1世はウィーンからユダヤ人を追放したが、西暦1673年、同じ神聖ローマ皇帝レオポルト1世が、ハイデルベルクのユダヤ人ザームエル・オッペンハイマーを帝国軍の補給係に任命して、西暦1683年のトゥルコ軍のウィーン包囲やフランス王国との戦争などを通じて食料、武器、輸送用の牛馬を提供して、首尾上々に任務を遂行した。当時は、外交取引に宮廷ユダヤ人が活躍し、ハノーファーのレフマン・ベーレンツはルイ14世とハノーファー公の間を取り持った。ハルバーシュタットの宮廷ユダヤ人ベーレント・レーマンは、ザクセン選帝侯アウグストをポーランド王位に就かせたが、息子はザクセンから追放された。ヨーゼフ・ズュース・オッペンハイマーはヴュルテンベルク公カール・アレクサンダーの宮廷ユダヤ人として財政と行政を立て直し、権勢を誇ったが、最後は絞首刑に処された。宮廷ユダヤ人は豪勢な家屋敷を構え、ミュンヘンの銀行家ヴォルフ・ヴェルトハンマーが開いた狩猟競技会ではイングランド大使や貴族が参加した。宮廷ユダヤ人の大部分は猶太教を遵守していたが、シュタドラン(世話役)として、滞在禁止命令を追放令を解除させたり、ユダヤ人共同体を統轄して、ユダヤ人の敵対分子を牢獄に繋がせた。
 この頃、オーストリアの説教者アーブラハム・ア・ザンクタ・クラーラは西暦1683年のトゥルコ軍によるウィーン包囲に際して、トゥルコ人は「貪欲な虎、呪われた世界破壊者」、ユダヤ人は「恥知らずで、罪深く、良心を持たず、悪辣で、軽率で、卑劣でいまいましい輩、悪党」として、ペストはユダヤ人、墓掘り人、魔女によって引き起こされたと説教し、また「ナザレのイエスを司直に売り渡したあのユダヤ人の子孫は、その後永劫の罰を受けねばならない。」と説教した。
 ブランデンブルク王家は西暦17世紀半ばには武器・貨幣鋳造商人イスラエル・アロンに貴族位を授けたり、オーストリアから追放された富裕ユダヤ人を保護した。プロイセン王国では身柄保証金を条件にユダヤ人の自由な経済活動が認められた。プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世はユダヤ人代表団の謁見に際して「主を十字架にかけた悪党」とは面会しないと断ったが、侍従がユダヤ人からの高価な贈り物があると聞くと、王は「主が十字架にかけられた時は、彼らはその場にいなかった」のだから、謁見を許可した。
 一方で、ユダヤ人強盗団もおり、西暦1499年の「放浪者たちの書」の盗賊仲間隠語集にはヘブライ語起源が多くを占めており、西暦17世紀以降には、組織的ユダヤ人強盗団の記録がある。西暦18世紀ドイツには強盗団首領ドーミアン・ヘッセルが死刑になった。
 宮廷ユダヤ人もユダヤ人強盗団も例外の部類であり、大多数のユダヤ人は、中世的な風習に拘り、しきたりを忠実に守りながら暮らした。

 ルイ14世は、西暦1680年代にユグノー弾圧を開始。西暦1682年新築のベルサイユ宮殿に移り、西暦1685年、フォンテーヌブローの勅令で信教の自由を約したナントの勅令を廃止した。西暦1688〜1697年にかけて領土拡大を図ったフランスは、フランドル戦争、仏蘭戦争後、西暦1681年にストラスブールを占領して併合した。これに反発したドイツ・スペイン諸国によるアウクスブルク同盟とフランス王国との間で大同盟戦争となった。西暦1689年に名誉革命でウィレム3世がイングランド王になると、イングランドとオランダもアウクスブルク同盟に参加した。講和条約レイスウェイク条約でフランスはストラスブールを除く西暦1678年からの占領地の殆どを返還した。
 西暦1693〜1694年、フランスで飢饉。スペイン継承戦争(西暦1701〜1714年)中の西暦1702〜1709年にかけて、南フランスのユグノーによるカミザールの乱が発生した。西暦1709年、フランス王国で大厳冬の飢饉。
 西暦1648年にウクライナで起こったボフダン・フメリニツキー(ウクライナ・コサック)の叛乱でヘーチマン(ウクライナ・コサックの棟梁)国家(西暦1649〜1786年)を建設し、ザポロージャ・コサックによる猶太教徒に対する大虐殺が行った。

 西暦1665年、シャブタイ・ツヴィがメシアを名乗り、預言者を自称していたアブラハム・ナタン(ガザのナタン)からメシアと見做された。シャブタイ・ツヴィは各地のユダヤ人社会を巡り歩いて大勢の信奉者を味方につけると、伝統的な戒律や道徳を否定したり自分の兄弟や友人たちを各国の王に任命するなど、破天荒な行動で耳目を集め、欧州のユダヤ人世界に一大運動を引き起こした。西暦1666年、シャブタイ・ツヴィはカバリストのネヘミヤ・コーヘンに告発され、オスマン帝国で逮捕され裁判に掛けられた。彼には回教への改宗か死刑かという二者択一が迫られ、苦もなく改宗を選択し、名前もアジズ・ムハンマド・エフンディ(「エフンディ」は貴族の称号)というイスラーム名に改名した。
 西暦1700年、イェフダー・ハシッドらが、エルサレムにフルヴァ・シナゴーグを設立(西暦1720年破壊)した。

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キリスト教と戦争 (中公新書) - 石川 明人
キリスト教と戦争 (中公新書) - 石川 明人


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2023年05月01日

変態で日本を壊せ! 内政干渉猶太ラーム・イスラエル・エマニュエル(63)、変態極左ジル・バイデン(71)に日本君候、増税岸田文雄(65)夫人裕子(56)を呼びつけ指令 悪逆非道なディープステイトの中核、猶太とは何か その14

 アブラムの宗教とは、セム族の1神教、猶太教、耶蘇教、回教。この3宗教がともに聖典と仰ぐタナハ(ヘブライ語聖書、「旧約聖書」)には、性的関係など変態(LGBTQQIAAPPO2S....)を明確に禁ずる記述がある。
アブラム(ヘブライ語 אַבְרָהָם (古: ʾAḇrām, 現: ʾAvram)、または アブラハム(英語 Abraham) 、アブラハームは、ギリシャ語 Αβραάμ Avraám アブラハム)はヘブライ語で多数の父という意。アダムから13代目の子孫。

詳しくは☞ 「悪逆非道なディープステイトの中核、猶太とは何か その1」

タナハ創世記 1:28
 神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ。」
ここで「彼ら」とは大洪水で箱舟で唯一生き残ったノアら。

 アブラムの宗教、セム族の1神教、猶太教、耶蘇教、回教の唯一神YHWHヤハウェは。

同性愛を明確に禁じ、死罪に処すと明記してあり、YHWHヤハウェの意思により処刑してきたし、

現在もアブラムの宗教原理主義の国では執行している。

タナハ レビ記 18:22
 あなたがたは男と同じように男と寝てはならない。それは忌まわしいことである。

タナハ レビ記 20:13
 男が男と寝ることがあれば、ふたりとも死に値する。彼らの血は彼ら自身に帰する。

タナハ 申命記 22:5
 女装している男、すなわち女になりすましている者を見つけたなら、それは主が忌みきらわれることであるから、切り捨てなければならない。


 これらの記述から、タナハでは男性同士の性的関係を厳禁にし、また性的区別に関しても明確にしている。


タルムード コダシーム篇フリン 94a
 偽りのことばを発する人は、地獄に落ちることになる。しかし、時には善意から嘘をつくことが許される場合もある。例えば、調停者として争いを仲裁する場合、また、人を悪から守るために嘘をつくこともできる。ただし、偶像崇拝をする非ユダヤ人を騙してはいけない。

タルムード ネズィキーン篇サンヘドリン 59a
 トーラー(モーセの五書)を学ぶ全ての非ユダヤ人は死刑に値する。また、トーラーを学ぶことを助ける全てのユダヤ人も死刑に値する。


 タルムードとは、タナハを解釈し、ユダヤ人の生活から思想に至るまで律する律法(トーラー)の解釈書である。勝手な解釈だが聖典になっている。儒家の四書五経の朱子や王陽明の著した書に当たるが、強制力を持つ律法の法令である。
 「ユダヤ人は非ユダヤ教徒をゴイム(外人)と呼び、奴隷化しようとしている。」という厳然たる事実に対し、「タルムードにそんな記述はない。」と言う反論への反証が上記である。

 ユダヤ人は非ユダヤ教徒を奴隷化しようとして、共産主義を作り、大戦争を起こし、国家を壊し、性教育と同性愛で家族を散逸している。3Sで性道徳を頽廃させ、真面目に政治や軍備を弱体化させるようマスゴミや娯楽にGAFAやSNSで洗脳している。
目的は、ベニスの商人と同じく、金と支配。癌や伝染病を作り蔓延させ、ワクチンや薬、種子、種苗に農薬に添加物と、ゴイムの金と健康と生命を損なわせ、矜持を奪い、奴隷化するのがユダヤの目的だ!!!!
 ユダヤの一派、マルキストのフランクフルト学派の教理でもある。


悪魔1.png新約聖書 マタイ伝 5章21-22節
 「殺すな」と言われたことをあなたがたは聞いていますが、わたしはあなたがたに言います、怒りをもってその兄弟に向かって罵る者は、裁判官の裁判を受けるにふさわしいのです。「馬鹿者」と言う者は、地獄の火に陥れられるからです。

新約聖書 マタイ伝 5章27-28節
 「姦淫するな」と言われたことをあなたがたは聞いていますが、わたしはあなたがたに言います、心に欲情する者は、すでに姦淫を行ったのです。

新約聖書 マタイ伝 15章19-20節
 すなわち、心から出る悪い思い、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、そしり、これらが人を汚すものです。食べ物をきよめるかたは、まずその心をきよめなければなりません。

 しかも、耶蘇教の聖典、新約聖書マタイ伝で、心の中で考えただけで罪だとされる。アブラムの宗教は偏狭な偽善で兇悪な邪教である。この流れをくむ反人類の気違いがユダヤの一派、マルキストのフランクフルト学派および差別利権利得者で、「差別」を利権にして被差別者も含め、人の心まで統制するファシストで、全人類の生き血を啜っている悪魔だ。


 奴らマルキストのフランクフルト学派の手先(パヨク)は、少数者の保護を名目にして、自らの利益の公金チューチューで多数者の金や安心安全多数者の社会の分断と基本単位である家族の破壊を行う邪悪で兇悪なファシストであり邪教カルトで目的のためには手段を択ばない。平然と嘘を吐き、ゴイムを洗脳し、生命や財産を奪い取る。
 東西冷戦後とりわけ、パヨク思想を隠蔽し、穢多、朝鮮人、性教育、女性、環境、移民、アイヌ、黒人、・・、変態を食いものにしてきた。

 変態団体も逆差別による社会からの分断を齎す変態法に反対している。変態団体同士は仲が悪く、特にTは強姦事件が頻発し暴力的で忌み嫌われている。


RahmIsraelEmanuel(62).jpg内政干渉の極悪猶太、ラーム・イスラエル・エマニュエル(63)

 見るからにわかる、兇暴な無能で頭が悪い、出身大学や過去の言動が物語るように、頭が悪く品もなければ、能力がない。猶太教徒でわざわざイスラエルに渡り、イスラエル国籍を取得したイスラエル人でありながら、反タナハの破戒行動を起こす邪悪な猶太人。
 この2重国籍極悪猶太鬼畜はMBAも持たず銀行勤務の経験がないが、猶太人脈で投資銀行の重役に就任した。 バラク・オバマ政権で第23代大統領首席補佐官に就いたが。暴言で悪名高く、ゴイムには不合理な嘘でも詭弁を押し付け黙らせ、要求を通す凶行で有名で、仇名は「ランボー」(Rahmbo)。バラク・オバマに嫌われ、1年少しで更迭された。
 シカゴ市長時代に政敵に「腐った魚」を送り付け脅迫したマフィアそのもののチンピラ、喧嘩を売りまくる攻撃的で兇暴なユダヤの悪魔。マフィアの本場、シカゴ市長時代の黒人少年射殺事件、ラクアン・マクドナルド殺人事件の対応を批判され、2期で立候補を止めた。マフィアとの繋がりもある。シカゴ市長も務まらないで、ゴミ爆行きでアメリカのTM日本に島流しになった。
 明らかに日本大使に不適格で民主党、共和党の双方から反対された。ユダヤや痴呆で反日のジョセフ・ロビネット・"ジョー"・バイデン・ジュニア(80)の虎の威を借り、罵倒を繰り返すヤクザの恐喝魔をアメ公も持て余し、日本に大使として廃棄した。痴呆バイデンの意向もあり内政干渉で日本を壊している。これを移民党、葬禍党、野盗は、世襲や利権しか興味のない無能売国奴だらけで、皮肉冴え言えず、唯々諾々と犬として従っている。
 赴任してから、アメリカの犬、岸田文雄(65)に命令し日本に強烈な内政干渉をしている。アメ公押しつけの占領憲法でさえ踏みにじる犯罪にまで犯している。普通の国なら、ペルソナ・ノン・グラータを出して、国外追放している。日本を守る気はなく、利権に動く唾棄すべき凶悪で無能な破戒ユダ公にすら何も言えない、言わない。言わないから、この下劣で低能で醜悪で兇悪なユダ公は、ますます増長してくる。安倍晋三(67没)に殺すぞと脅迫したキャロライン・ブーヴィエ・ケネディ(Caroline Bouvier Kennedy)(65)を超えた。安倍晋三(67没)は狙撃手に実際に殺された。

 YHWHヤハウェの罰を受け、地獄に堕ちよ!!!!
ラーム・イスラエル・エマニュエル(63)!!!!
キャロライン・ブーヴィエ・ケネディ(Caroline Bouvier Kennedy)(65)!!!!
ジル・トレイシー・ジェイコブス・バイデン(Jill Tracy Jacobs Biden)(71)!!!!

 日本を破壊し、日本人を殺戮する移民党どころか、狡知会の利害しか考えてないクズ犬。増税岸田文雄(65)増税。岸田文雄(65)は狂言にしか見えない暗殺未遂劇で支持率を上げてもらった。

 八百万の神の天罰が当たれ、増税岸田文雄(65)!!!!



LGBT法成立に期待 「憲法の枠内、難しくない」―駐日米大使
https://www.jiji.com/jc/article?k=2023041000965&g=int
 エマニュエル駐日米大使は10日の内外情勢調査会での講演で、日本の国会で焦点の一つとなっている性的少数者(LGBTなど)に対する理解増進法案について「(日本国)憲法に含まれる原則や価値、理想を明示した法案の可決は、難しいわけではない」と述べた。自民党保守派の根強い抵抗が続く同法案の早期成立に期待を示した形だ。

https://twitter.com/USAmbJapan/status/1651503533814849538
ラーム・エマニュエル駐日米国大使
@USAmbJapan
世論調査のたびに日本国民は声を上げ、差別に「ノー」を突き付けています。今日お会いした国会議員の皆さまは、日本におけるLGBTQI+の権利を守り、変化を起こそうとしているのです。
引用ツイート
ラーム・エマニュエル駐日米国大使
@USAmbJapan

4月27日
In poll after poll, the Japanese people have spoken – and they have said “no” to discrimination. These Diet members are trying to make change and protect #LGBTQI+ rights in Japan.

https://twitter.com/USAmbJapan/status/1651075579653832709
ラーム・エマニュエル駐日米国大使
@USAmbJapan
G7各国外相、日本労働組合総連合会(連合)の芳野友子会長、そして大多数の日本国民の皆さんは、私と同じ考えです。それは、LGBTQI+の権利を守る「差別禁止法」が、いまこの日本に求められているということです。われわれの誰もがそう思っています。
引用ツイート
ラーム・エマニュエル駐日米国大使
@USAmbJapan

4月26日
What do the #G7 foreign ministers, Japan Trade Union Confederation (RENGO) @unionion President Yoshino Tomoko, and most Japanese citizens have in common with me? We all agree it’s time for #Japan’s anti-discrimination legislation protecting #LGBTQI+ rights.

https://twitter.com/USAmbJapan/status/1650760354706919424
ラーム・エマニュエル駐日米国大使
@USAmbJapan
東京レインボープライドのパレードが終わっても、平等に向けた歩みは今この瞬間も続いています!「Marriage For All Japan – 結婚の自由をすべての人に」の松中権理事とお会いできうれしく思います。「同性婚」か「異性婚」ではなく、単に「結婚」だけがある世界へと進む道について話し合いました。
引用ツイート
ラーム・エマニュエル駐日米国大使
@USAmbJapan

4月25日
The @Tokyo_R_Pride parade may be over, but the march towards #equality continues−now is the time! Great to see @Marriage4All_ Director Matsunaka Gon to talk about how to move forward to a place where there is not ‘gay marriage’ and ‘straight marriage,’ but just ‘marriage.’

https://twitter.com/USAmbJapan/status/1650305187343638531
ラーム・エマニュエル駐日米国大使
@USAmbJapan
今こそ、日本が日本らしくある時。東京レインボープライドには、エネルギーが満ち溢れ、意義あるパレードとなりました。
引用ツイート
ラーム・エマニュエル駐日米国大使
@USAmbJapan

4月23日
Now is the time, now is the moment, for Japan to be all that Japan can be. You could feel the energy in the air at @Tokyo_R_Pride. Today was a parade with purpose.

https://twitter.com/USAmbJapan/status/1650305080292409344
ラーム・エマニュエル駐日米国大使
@USAmbJapan
米国大使館チームは「東京レインボープライド2023」のパレード参加に向け朝早くから準備を開始!私も電車で現場に移動、そして行進。共に愛、尊敬、平等を祝いましょう。
引用ツイート
ラーム・エマニュエル駐日米国大使
@USAmbJapan

4月23日
Tokyo Rainbow Pride parade starting early with the @USEmbassyTokyo team! Off to the #train, and then we march. Come join us today at @Tokyo_R_Pride to celebrate love, respect, and equality. #USJapan #TrainAmb ️‍🌈


米小学校で銃撃 児童ら6人死亡 容疑者はトランスジェンダー 警察官が射殺
https://www.sankei.com/article/20230328-6FIUBQHA5ZNYXI5SVOKQXCF4HU/
米南部テネシー州ナッシュビルの幼稚園を併設する小学校で27日、侵入者が銃を乱射し、いずれも9歳の児童3人と校長を含む教職員3人の計6人が死亡した。容疑者は駆けつけた警官に射殺された。
警察によると、銃を乱射したのはオードリー・ヘール容疑者(28)。出生時の性別と自認する性が異なるトランスジェンダーという。殺傷能力が高いAR15型ライフルを含む銃3丁を所持していた。警察はヘール容疑者の犯行声明や侵入口などを記した地図を確認した。計画的な犯行だったとみられる。
現場の小学校は保守的なキリスト教福音派の教会に連なる系属校。ヘール容疑者は在校歴がある。動機について、警察幹部は「この小学校に通わなければならなかったことへの怒りがあった」と話したが、詳細は明らかになっていない。

米テネシー州学校で銃撃、子ども3人含む6人死亡 容疑者は28歳女
https://jp.reuters.com/article/tennessee-shooting-idJPKBN2VT1QZ
米南部テネシー州ナッシュビルの私立学校で27日午前10時過ぎ、28歳の女が銃を乱射し、児童3人と教職員3人が殺害された。当局が発表した。
容疑者の女は少なくとも2丁の半自動小銃と1丁の拳銃を所持していた。警官に射殺され、死亡が確認された。
動機はまだ明らかにされていないが、容疑者は校舎の入口など詳細な地図を描き、犯行声明とみられる文書などを残しており当局が調査している。
ジョン・ドレイク警察署長によると、容疑者は同地域出身のオードリー・エリザベス・ヘイルと確認された。以前この学校の生徒だった。自身をトランスジェンダーと認識していたという。
この学校には未就学児から6年生までの約200人が通っている。亡くなった児童は全て9歳だった。

学校で乱射、9歳児童ら6人死亡=元在校生の容疑者射殺―米南部
https://sp.m.jiji.com/article/show/2917653
米南部テネシー州ナッシュビルの学校で27日午前(日本時間28日未明)、銃乱射事件が発生し、いずれも9歳の児童3人、学校長を含む60〜61歳の職員3人の計6人が死亡した。容疑者は元在校生で、駆け付けた警官に射殺された。
 現場は、未就学児から小学6年生までの約200人が通うキリスト教系の私立校。警察は、容疑者をナッシュビル在住の白人オードリー・ヘイル容疑者(28)と特定した。単独犯とみられる。
 ヘイル容疑者の性別について、警察は当初「女」と発表。その後、同容疑者がトランスジェンダーだと明らかにした。ニューヨーク・タイムズ紙によると、ソーシャルメディアへの投稿から、過去数カ月間は「男」を自認していたとみられる。
 ヘイル容疑者は、「アサルトウエポン」と呼ばれる殺傷力の高い半自動小銃2丁と拳銃1丁を所持。通用口から押し入り、1階から2階に移動しながら銃撃を続けたとみられる。通報から約15分後に2階で射殺された。


バイデンの犬岸田文雄.jpg 日本は、とりかへばや物語、葉隠、雨月物語、東海道中膝栗毛に、織田信長と前田利家、森蘭丸、徳川家光に折口信夫、三島由紀夫と美輪明宏に歌舞伎、宝塚歌劇、・・・、テレビにオカマが日常的に出る変態先進国であり、インチキユダヤ人のアシュケナージの子孫のラーム・イスラエル・エマニュエル(63)に命令される謂れはない!!主客逆で、日本が指導する立場だ!!
 変態を虐殺した歴史も野蛮なアブラムの宗教の国と違いなく、戦争による虐殺ですら一部の例外を除き起きていない。

 変態虐殺の前科があり、ゲイバー襲撃が起き、つい最近の03月27日に起きたオードリー・エリザベス・ヘイル(28)のように牝でありながら牡を自認するTが無辜の6人をも殺している。性自認のTは、変態法が成立したスコットランドで女性刑務所に無理やり入り強姦や、女子トイレで性自認のTによる強姦事件が多発し、スコットランド政府が替わった。変態法廃止に世界は動いている時に逆方向に蠢動する売国奴稲田朋美(64)や売国奴岩屋毅(65)は日本破壊の売国奴で犯罪誘致の鬼畜である。

 マスゴミは、オードリー・エリザベス・ヘイル(28)を変態と報じず、G7で変態法が国で成立したのはカナダだけだ。平気で公然と嘘を吐いている。

 変態法を通した極左スコットランドでは、Tが女子トイレや女性刑務所で女性を強姦事件が多発し、気違いパヨクのニコラ・ファーガソン・スタージョン♀(Nicola Ferguson Sturgeon)(52)首相が馘になった。ニコラ・ファーガソン・スタージョン♀は辞めても女性の強姦の被害は続く。アメリカでもバイデンのデラウエア州以外で反変態法が可決されたか提出されている。
 変態法が提出される前に、東急歌舞伎町タワー「ジェンダーレストイレ」は危険で特殊な場所になっている。これを日本全国をぐちゃぐちゃにして危険で女子トイレや女湯に入れなくなるのに、「意識高い」系の愚民は騙せると高をくくり嘘と詭弁を弄している。無能なのは防衛相で明らかだが、都の西北の早稲田はここまで馬鹿で恩知らずで恥知らずなのか。売国奴稲田朋美(65)の選挙区は粟津温泉・片山津温泉・山代温泉・山中温泉、売国奴岩屋毅(65)の選挙区は別府温泉で、日本の温泉文化を破壊し、次の偽員生活はないぞ!!!

 八百万の神の天罰が当たれ、
売国奴稲田朋美(65)、売国奴岩屋毅(65)!!


「一強」スコットランド首相が失意の電撃辞任した理由
https://www.newsweekjapan.jp/joyce/2023/02/post-268_2.php
性別変更の法案が決定打に

暗雲に覆われながらスタージョンが辞任する羽目になったもう1つの理由は、彼女の推進した最新の重点政策――スコットランド人の性自認に関する法案――が論争を引き起こしたからだ。16歳以上の人が自己申告で性別を変えられるとしたこの「性別変更手続き簡易化」法案はスコットランド議会を通ったものの、英政府に阻止されていた。
この法案は、多くのスコットランド人にも非難されていた。反対者の中には著名な女性の権利活動家たちも含まれる。法案があまりにイデオロギー的で、男として生まれた人を「自己申告」によって女性と認めることで起こり得る数々の問題から「目を背けている」からだ。
熱心に反対を表明していない人々にとっても、大多数の人にはとりたてて重要でないこの問題にあまりに多くの政治的時間と労力が割かれているように感じられた。保守派の目から見れば、何としても「進歩的」「急進的」に見せようとして反対意見をまるで無視しているように感じられた。


星条旗犬.jpgジル・トレイシー・ジェイコブス・バイデン(Jill Tracy Jacobs Biden)(71)

 マフィアの産地、シチリア島からの移民の子孫で、苦学の末、高校や短大の英語教師。典型的過激左翼活動家で、「意識高い」系の悪魔婆。ジョー・バイデン(80)の後妻に入った。継子のボー・バイデン(46没)、ハンター・バイデン(53)はウクライナ・支那などに関する国際的な汚職疑惑「ハンター事件」を引き起こし、コカインや小児性愛と、教育者でありながら、継子とはいえ自分の子の教育もできず、反社会的な悪党に育てた。

岸田裕子(58)

 その凶悪なジル・バイデン(71)に呼びつけられ、歴史上初めての総理夫人の外遊となった。病気になることだってできた。岸田文雄(65)と同じく、税金を使い国益を損ねた。トン女を卒業し、マツダで社長秘書2年で寿退社と絵に描いたような経歴。あの馬鹿息子、岸田翔太郎(32)の母親だけのことはある。母親の顔はこれだ。アメリカでは通らない変態法を通せと恫喝された模様。


岸田文雄〈65〉裕子(58)830101.jpg岸田首相の妻・裕子さん、ホワイトハウス訪問 ジルさんが単独で招待
https://www.asahi.com/articles/ASR4L2J54R4LUHBI009.html
 訪米中の岸田文雄首相の妻裕子さんが17日、ホワイトハウスでバイデン大統領の妻ジルさんと懇談した。首相の妻の単独での訪米は異例だが、ジルさんからの招待を受けて実現した。

 ホワイトハウスには約2時間にわたり滞在し、裕子さん自身がたてたお茶を飲みながら懇談した。昼食会で女性の活躍を一層促進することについて意見交換したほか、大統領執務室でバイデン氏とも短時間言葉を交わしたという。




ダビデの星.jpgユダヤ(ギリシャ語: Ἰουδαία、Ioudaía、漢字:猶太)

 他民族からは「ヘブライ人」と謂れ、自らは「イスラエル人」と称し、バビロン捕囚後には「ユダヤ人」と呼ばれるようになった徒輩。ヘブライ人、イスラエル人、ユダヤ人は同じ民族を指している。
 ユダヤ人(ヘブライ語: יהודים‎、英語: Jews、ラジノ語: Djudios、イディッシュ語: ייִדן‎)は、猶太教の信者(宗教集団)または猶太教信者を親に持つ者によって構成される宗教信者。原義は狭義のイスラエル民族のみを指す。イスラエル民族の1つ、ユダ族がイスラエルの王の家系だったことを由来とする。猶太教という名称は、猶太教徒が多く信仰していた宗教であることによる。ユダヤとは、パレスチナ南部の地域。酋長ヤコブの子ユダに由来する。古代イスラエル統一王国の分裂後の南ユダ王国があった地域である。



南ユダ王国滅亡後のユダヤの歴史

南ユダ王国が滅ぶと、僅かな例外的時期を除いて西暦20世紀に至るまでユダヤ民族が独立国を持つことはなかった。


神武天皇74(西暦前587)〜安寧天皇10(西暦前539)年 新バビロニア帝国
安寧天皇10(西暦前539)〜孝安天皇61(西暦前332)年 アケメネス朝ペルシア帝国
孝安天皇61(西暦前332)〜孝安天皇88(西暦前305)年 プトレマイオス朝エジプト
孝安天皇88年(西暦前305)〜開化天皇17(西暦前141)年 セレウコス朝シリア
開化天皇17(西暦前141)〜崇神天皇35(西暦前63)年 ハスモン朝 ユダヤ人国家
崇神天皇35(西暦前63)〜崇神天皇61(西暦前37)年 共和政ローマ元老院属州
崇神天皇61(西暦前37)〜垂仁天皇73(西暦44)年 ヘロデ家
垂仁天皇73(西暦44)年 ユダヤ属州(ローマ帝国皇帝属州)
垂仁天皇73(西暦44)〜景行天皇23(西暦93)年 ヘロデ家
垂仁天皇73(西暦44)〜仁徳天皇83(西暦395)年 ローマ帝国皇帝属州
仁徳天皇83(西暦395)〜舒明天皇06(西暦634)年 東ローマ帝国
舒明天皇06(西暦634)〜永正13(西暦1516)年 イスラーム諸王朝 途中に十字軍国家の時代を含む。
永正13(西暦1516)〜大正06年(西暦1917)年 オスマン帝国 
大正07年(西暦1918)〜昭和23(西暦1948)年 イギリスによる国際連盟の委任統治 
昭和23(西暦1948)年 イスラエル国(メディナット・イスラエル)成立 共和政国家の樹立、現代に至る。



 西暦135年、ローマが叛乱を鎮圧し、ユダヤ的なものを一掃しようとしたローマ人は、この土地をユダの地(ユダヤ)ではなく、ユダヤ人の宿敵ペリシテ人に因んで「パレスチナ」、エルサレムを「アエリア・カピトリーナ」と改称し、ユダヤという地名は消滅した。

 また、ユダヤ人は人種的にはセム族とされるが、長いディアスポラ(離散)のなかで、周辺民族との混血の結果、セファルディームアシュケナジームの違いが生じ、また言語もイデッシュ語などが生まれた。現在、ユダヤ人はイスラエルの他、世界中に分布しており、アメリカにも約600万人が住んでいるとされる。しかし現在ではユダヤ人を「人種」概念で捉えるのは困難で、現実には「猶太教を信仰する徒輩」と捉えるのが正しい。人類学的に同質のユダヤ人は存在しない。




 西暦1453年にオスマン朝軍は東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリス(現在のイスタンブール)を陥落させた。オスマン朝では、この後、ユダヤ難民を受け入れ、ヨーロッパ世界とは異なり、基本的には非回教徒に対する差別を禁止した、国家による平等社会が整備された。
 西暦15世紀、レコンキスタの進展によりスペインの回教徒勢力が耶蘇教徒勢力に追われ、回教国に協力したとされた猶太教徒が弾圧された。一部は耶蘇教に改宗し、西暦1492年改宗を拒否したユダヤ人は追放され、多数が地中海周辺の都市に移住。改宗したユダヤ人は、スペインにおいては差別はなくならず、マラーノと呼ばれ蔑まれた。

 西暦1462年にフランクフルトのユダヤ人はフランクフルト・ゲットーに居住するようになった。西暦1467年、ポーランド王国とドイツ騎士団の間で司祭戦争が勃発し、西暦1479年にピョートルクフの講和が結ばれると、カジミェシュ4世の治めるピョートルクフに神聖ローマ帝国を追放されたドイツ人とユダヤ人が移住した。西暦1488年、イタリアのソンチーノに逃れたユダヤ人によって 「Casa degli Stampatori」でヘブライ語聖書(タナハ、旧約聖書)が印刷され、印刷技術が世界中に広がるきっかけとなった。西暦16世紀にはヴィリニュスにも居住するようになった。
 西暦1492年、スペインからユダヤ人がパレスチナの地に移住。西暦1495年、リトアニアからユダヤ人がパレスチナの地に移住。西暦1497年、ポルトガル、シチリア、サルデーニャからユダヤ人がパレスチナの地に移住。西暦1502年、ロードス島からユダヤ人がパレスチナの地に移住した。
 セファルディームのフェルナン・デ・ロローニャ(葡: Fernão de Loronha)は、赤い染料、ブラジリン(C16H14O5、Natural Red 24)を抽出できるブラジルボク(パウ・ブラジル)の専売権を得て、ブラジルの植民地開拓期に活躍した。

 西暦15〜16世紀のルネサンス期において、ギリシア・ローマの古典文芸や聖書原典の研究を元に、神や人間の本質を考察した人文主義者(仏: humaniste、英: humanist、伊: Umanista)のうち、西暦1490年〜1510年にかけてアルザスで成立した匿名(高地ラインの革命家)の「百章からなる本」ではアダムはドイツ人であったとし、自由人であり貴族であるドイツ人は世界を支配し、ドイツ人以外の民を奴隷化し、ローマ・カトリックの聖職者を虐殺することを提唱した。背景には、ブルターニュ公国を巡るハプスブルク家マクシミリアンとフランス王シャルル8世の対立があり、ヴィムフェリングやセバスティアン・ブラントなどの人文主義者もフランスを攻撃した。
 西暦15世紀末、ドイツは経済的に繁栄し、バイエルン公国のアウクスブルクでは鉱山・金融業の富豪フッガー家、金融業の富豪ヴェルザー家、イムホーフ家(Imhoff)、ホーホシュテッター家(Hochstetter)などが巨万の富を築いた。そうした経済の大物に対して庶民は「クリスト・ユーデ(ユダヤ人のような耶蘇教徒)」と呼んだ。セバスティアン・ブラントは「阿呆船」(西暦1494年)で「ユダヤの高利貸しはまだ良いが、それでも町には留まれぬ。自分の暴利を棚に上げ、ユダヤの高利貸しを追い出すクリスト・ユーデども」と皮肉った。
 西暦1508年の「ユダヤ人の鑑」で改宗ユダヤ人のドミニコ会修道士ヨハンネス・プフェファーコルンが「ユダヤ人の偏屈さの原因はタルムード(תלמוד‎ Talmud、「研究」の意、モーセが伝えたもう1つの律法とされる「口伝律法」を収めた文書群)にある。」と告発した。プフェファーコルンによる提案で神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世は西暦1509年の勅令でタルムード廃棄を命じた。
ユダヤ人から請願されたマインツ大司教ゲンミンゲンの提案で、プフェファーコルンらによる書籍没収を調査するタルムード調査委員会が設立され、委員にはドイツ唯一のヘブライ学者だったヨハネス・ロイヒリンなどが就任した。ロイヒリンがタルムードやカバラー(קַבָּלָה qabbalah, Kabbala, Cabbala、ユダヤ教の伝統に基づいた創造論、終末論、メシア論を伴う神秘主義思想)を擁護すると、西暦1511年に両者は論争を開始し、エラスムスたち人文主義者はロイヒリンを支持し、パリ大学神学部はプフェファーコルンを支持するなど論争は国際的なものとなった。ただし、ロイヒリン側も反ユダヤ的な思想を持っていた。ロイヒリンは論争の直前に書いた西暦1505年の「回状」で「ユダヤ人は日々、ナザレのイエスの御身において神を侮辱し冒瀆し、ナザレのイエスを罪人、魔術師、首吊り人と呼び、耶蘇教徒を愚かな異教徒と見下している。」と説教していた。論争においてもプフェファーコルンに対して「彼は先祖たるユダヤ人の精神の在り方をそのままに、嬉々として不敬の復讐に打って出た。」と述べている。また、ロイヒリン支持者でカトリック教会を批判した人文主義者のフッテンも「プフェファーコルンがドイツ人でなかったことは不幸中の幸いで、彼の両親はユダヤ人だった。彼自身、どんなにその恥辱の肉体をナザレのイエスの洗礼水に浸そうと、依然としてユダヤ人であることに変わりはない。」と批判し、同じくエラスムスも「プフェファーコルンは真のユダヤ人であり、正にその種にふさわしい姿を公然と晒している。彼の先祖たちは、たった1人のナザレのイエスを相手に猛り狂った。プフェファーコルンがその同宗者のために行うことのできる最良の貢献は、自ら耶蘇教徒になったと偽善的に言い張ることによって、ナザレのイエスの神性を裏切って見せることなのだ。」と批判した。アルザスの人文学者ベアートゥス・レナーヌスは「ユダヤ人ほど他者を憎み、また他者に嫌悪を催させる民はほかに存在しない。」と述べた。ドイツの人文学者コンラート・ツェルテスは「ユダヤ人は人類の社会を侵し、混乱に招き入れる。」と述べた。ドイツの修道院長ヤーコプ・トリテミウスは「高利貸しのユダヤ人には激しい怒りを覚える、その不法な搾取から守るための法的措置が必要で、異国の民が、我々の土地で権勢を振るうなどということが許されて良いものだろうか。」と述べ、またガイラー・フォン・カイザーベルクは「ユダヤ人は、自ら手を汚しての労働を欲しない。」、「金貸しを生業とすることは労働の名に値しない。」と批判した。一方、プファルツ領邦宮中伯フリードリヒ1世のハイデルベルク宮廷にいた人文主義者ヤーコプ・ヴィムフェリングは「唾棄すべきなのは、ユダヤ人と、ユダヤ人よりもさらに質の悪い一部の耶蘇教徒が手を染めている高利貸しなのである。」と、耶蘇教徒の高利貸しのことも非難した。
 西暦1516年、ローマ法王国家アンコーナでユダヤ人に商業特権を与えた。
 西暦1516年、ヴェネツィアにユダヤ教徒強制居留地(「ゲットー」)が設置された。
 ユダヤ人の唱道者ロースハイムのヨーゼルは西暦1520年以降、神聖ローマ皇帝・スペイン国王のカール5世に寵遇され「帝国ユダヤ人指揮官ならびに統治者」の称号を与えられ、ドイツユダヤ人全共同体の代表となった。ヨーゼルはユダヤ人が法外に高い金利を要求しないこと、利子に粉飾を施さないこと、耶蘇教徒への支払いを逃れようとするユダヤ人債務者を破門にして追放することなど、ユダヤ人商人が商業道徳を遵守するよう要求した。ヨーゼルの論敵は、改宗ユダヤ人のアントニウス・マルガリータだった。ラビの息子だったマルガリータはレーゲンスブルクのユダヤ共同体を公権力に告発し、西暦1522年にカトリックに改宗し、プフェファーコルンを模範とした猶太教批判を行った。アウクスブルク国会でヨーゼルが「猶太教の背教者による猶太教の主張は根拠を持たない。」と主張すると、マルガリータは有罪としてアウクスブルクから追放された。またこの影響でハンガリーとボヘミアのユダヤ追放令は廃案となっている。マルガリータの著書はルターが最大の典拠の1つとするなどその後も影響力を持った。

 西暦1517年に宗教改革をはじめたマルティン・ルターは、反ユダヤ主義的な意識を持っていたことでも知られる。初期のルターは、猶太教徒を法王運動の援軍と見做していた。ヴォルムス国会の期間中にユダヤ人と討論したルターは、西暦1523年に「ナザレのイエスはユダヤ人として生まれた」などの小冊子を著して、「愚者とうすのろの驢馬の法王党たちが、ユダヤ人に酷い振る舞いをしてきたため、心正しき耶蘇者はいっそユダヤ人になりたいほどだ。」と述べたり、ユダヤ人は主と同族血統であるから、ユダヤ人はメシアであるナザレのイエスに敬意を表明し、ナザレのイエスを神の子として認めるよう改宗を勧めた。他方で、「ローマ法王がドイツ人を利用して第2のローマ帝国を築いたが、その名を持っているのはドイツ人であり、神はこの帝国がドイツの耶蘇教徒の王によって統治されることを望んでいる。」と述べたり、西暦1521年に「私はドイツ人のために生まれた。」と述べるなどドイツ人の国民意識に立った発言を繰り返した。さらに騎士戦争や、ルター派のミュンツァーによる農民戦争が起きると、ルターは叛乱勢力を批判し、それ以来ルターは人間世界の至らなさや、政治的責任を強く感じるようになり、人間の内的自由に、神によって齎せた地上の事物の秩序が対置され、服従の義務を唱え、「耶蘇教徒は従順で忠実な臣下でなければならない。」と説くようになった。
 そのうちにルターは、不首尾の原因をユダヤ人の為せる業と見做すようになっていく。ユダヤ人の改宗者は極わずかで、改宗した者もほとんどが間を置かずして猶太教に回帰したためか、西暦1532年には「あの悪どい連中は、改宗するなどと称して、我々と我々の宗教をちょっとからかってやろうというぐらいにしか思っていない。」と述べている。同年「ドイツほど軽蔑されている民族はない。」と、「イタリア、フランス、イギリスはドイツを嘲っている。」と述べている。西暦1538年、ロースハイムのヨーゼルに対してルターは、「私の心は今もユダヤ人への善意に満ち溢れているが、それはユダヤ人が改宗するために発揮される。」と述べた。その後まもなく、「ボヘミアの改革派がユダヤ人の教唆の下で猶太教に改宗し、割礼を受けて、シャバトを祝った。」という知らせが入ると、ルターは西暦1539年12月31日には「私はユダヤ人を改宗させることができない。我らが主、イエス・キリストさえ、それには成功しなかったのだから。しかし、私にも、彼らが今後地面を這い回ることしかできないように、その嘴を閉じさせるぐらいのことはできるだろう。」と述べた。
 西暦1543年にルターはユダヤ人を批判する「ユダヤ人と彼らの嘘について」を発表し、7つの提案を行った。シナゴーグや学校(イェシーバー)の永久破壊、ユダヤ人家を打ち壊し、ジプシーのようにバラックか馬小屋のような所への集団移住、猶太教の書物の没収、ラビの伝道の禁止、ユダヤ人護送の保護の取消し、高利貸し業の禁止。金銀の没収、若いユダヤ人男女に斧、つるはし、押し車を与え、額に汗して働かせること。
 ルターは「ユダヤ人は我々の金銭と財を手中にしている。我らの国にあって、彼らの離散の地にあって、彼らは我々の主になったのだ。」として、「ユダヤ人は労働に従事していないし、ドイツ人もユダヤ人に贈与していなのだから、ユダヤ人による物の所有を禁じて、彼らの財産はドイツに返還されるべきである。」と主張した。「ユダヤ人はドイツにとっての災厄、悪疫、凶事であり、誰もユダヤ人に居て欲しいなどとは思っていない、その証拠にフランスでも、スペインでも、ボヘミアでも、レーゲンスブルクでもマグデブルクでも追放されたとして、ドイツ人はユダヤ人に宿を提供し、飲食も許しているが、ユダヤ人の子供を攫ったり殺したりはしないし、彼らの泉に毒を撒いたり、彼らの血で喉の渇きを癒やそうともしていない、ドイツ人はユダヤ人の激しい怒り、妬み、憎しみに値することは何かしただろうか。」と論じた。ルターは、「大悪魔を別にすればナザレのイエス(耶蘇教徒)が恐れなければならない敵はただ1人、真にユダヤ的であろうとする意志を備えた真のユダヤ人である。」とし、「ユダヤ人を家に迎え入れ、悪魔の末裔に手を貸す者は「最後の審判の日、その行いに対し、ナザレのイエスは地獄の業火をもって応えてくださるであろう。その者は、業火のなかでユダヤ人とともに焼かれるであろう。」述べた。数ヶ月後の冊子「シェム・ハメフォラス」でユダヤ人の改宗は、悪魔に改宗させるのと同じぐらい困難な業であり、ユダヤ人の福音書外典は4福音書が正統であるのに対して偽書であり、悪魔の使いのユダヤ人は「悪魔の群れよりもさらに悪辣」で「神よ、私は、あなたの呪われた敵、悪魔とユダヤ人に抗しながら、必死の思いで、これほどまでの恥じらいとともにあなたの神々しき永遠の威厳を語らねばならないのです。」と論じて、最後に「私はこれ以上、ユダヤ人と関わりを持ちたくないし、彼らについて、彼らに抗して、何かを書くつもりも全くない。」と閉じた。ルターは死の4日前の02月18日の最後の説教では、「ドイツ全土からユダヤ人を追放することが必要である。」と訴えた。
また晩年のルターは無敵の常備軍を持った統一ドイツ帝国を夢見ていた。
 ルター晩年のユダヤ攻撃に対しては、ルターの協力者メランヒトン、スイスのツヴィングリの後継者のブリンガー、ユダヤ人のロースハイムのヨ−ゼルらが批判した。なお、ルターは神を「最大級の愚か者」、「ナザレのイエスは淫乱であったかもしれない。」と述べたり、ローマ法王に対してはユダヤ人攻撃の時よりももっと汚い言葉を使って罵詈雑言を浴びせた。ルターの反ユダヤ主義は、タルススのパウロス(聖パウロ)やムハンマドと同様の転機を経て、ユダヤに対する深い憎悪となった。ルターの反ユダヤ文書はルター死後あまり重視されなかったが、ヒトラー政権になって一般向けの再版が出てよく読まれた。



オスマン帝国 繁栄と衰亡の600年史 (中公新書) - 小笠原弘幸
オスマン帝国 繁栄と衰亡の600年史 (中公新書) - 小笠原弘幸


オスマン朝(西暦1299〜1922年)領 その2

 メフメト2世の後を継いだバヤズィト2世(土:II. BayezidもしくはII. Beyazıt)は、父とは異なり積極的な拡大政策を打ち出すことはなかった。その背景には宮廷内の帝位継承問題があった。バヤズィト2世の弟であるジェムは、ロードス島、フランス、イタリアへ逃亡し、常に、バヤズィトの反対勢力に祭り上げられる状態が続いていた。
 皇子時代と8代皇帝になった当初は娯楽と美食に目がなく、麻薬を愛好していた。快楽への情熱は宗教にも向けられた。内政においてはメフメト2世による中央集権化への反動が起きたが、文化面でも同様の反動が起きた。敬虔なムスリムである彼は偶像崇拝を忌み嫌っており、王宮が有していた絵画を売却あるいは破棄し、ジェンティーレ・ベリーニらがイスタンブールで制作した作品の多くが失われた。バヤズィト2世は宮廷でイスラームの神秘主義(スーフィズム)と韻文に親しみ、学者の保護にも熱心だった。彼の保護を受けた人物としては、アラビア書道の6つの基本的な書体を独自の手法によって再解釈した書家シェフ・ハムドゥッラーを挙げられる。オスマン朝内のイスラーム諸学の研究水準は向上したが、同時にイスラーム法学が権威化されたことで国内の規定がイスラーム法(シャリーア)の制限を受けるようにもなった。同時に正統のスンナ派を奉じる国家としての意識も高まるが、領民の全てがバヤズィト2世とイスラーム学者が推進する教義を受け入れたわけではなく、シャー・クルの叛乱に参加した民衆の中には、政府の宗教政策に否定的な者も多く含まれていた。メフメト2世の治世に建設されたマドラサで学んだイスラーム法学者(ウラマー)の影響力が増加し、彼らは国政と立法で力を持った。バヤズィト2世の時代に編纂された法典が「立法者」スレイマン1世時代のものとされる法典の基礎となり、代表的な法令にティマール制を整備するために土地を有する兵士の義務と権利を告知した文書がある。
 メフメト2世の長子、バヤズィトは西暦1456年に弟のムスタファと共に割礼を施され、同日にメフメト2世によってアナトリア半島のベイリクたちを招待しての大宴会が開かれた。この祝宴はメフメトがベオグラード包囲で大敗して帰国した直後のことであり、宴を開いたのは敗北を忘れる意味合いもあった。オスマン朝の皇子の慣例としてアマスィヤの知事を務め、西暦1473年に起きた白羊朝とのバシュケントの戦いでは、イェニチェリとヨーロッパ人からなる部隊を指揮し、ウズン・ハサンの甥が率いる騎兵隊と交戦した。
 メフメト2世の存命中、中央集権化と国際化に反発する運動がイスラーム宗教界、そしてバヤズィト2世によって行われた。アマスィヤのバヤズィトの宮廷にはメフメト2世の独裁的とも言える政策に反対する党派が形成され、メフメト2世は反対派を監視することはできても、彼らを解散させることはできなかった。
 西暦1481年にメフメト2世がイタリア遠征途上の陣で没すると、弟のジェムとの帝位を巡る争いが始まった。もう1人の弟ムスタファは西暦1474年に暗殺されていた。バヤズィトとジェムの両方にメフメト2世の死を告げる使者が送られたが、縁戚の総督(ベイレルベイ)シナンによってジェムへの使者が足止めを受け、ジェムに先んじてイスタンブールに入城した。バヤズィトの入城に先立ち、ジェムの擁立を考えていた大宰相メフメト・カラマニーはイェニチェリに殺害されており、イェニチェリとメフメト2世の政策に反対的だった臣下に支持され、西暦1481年05月21日に正式に皇帝として即位した。その即位の経緯からイェニチェリに特権と恩賞を付与し、反対派の要求に対して譲歩する必要があった。
 帝位を逃したジェムはブルサを占領し貨幣に自らの名を刻み、フトバで独立を表明し、バヤズィト2世に帝国の分割統治を条件とした和平を提案した。バヤズィト2世はジェムの提案を拒絶して対決の意を示し、戦前にジェム側の司令官の幾人かを調略し、同年06月20日のイェニシェヒルの戦いでジェムの軍を破った。敗れたジェムはエジプトのマムルーク朝に亡命し、白羊朝に亡命していたカラマン侯国の王族カシム・ベイと協力して再起を図るが失敗し、エジプトを離れてロードス島の聖ヨハネ騎士団(ロードス騎士団)の元に身を寄せた。バヤズィト2世はマムルーク朝、聖ヨハネ騎士団(ロードス騎士団)、フランスのヴァロワ朝(西暦1328〜1589年)、ローマ法王庁といったジェムが亡命した北アフリカ、ヨーロッパの諸勢力と交渉を行い、聖ヨハネ騎士団との交渉では騎士団側の要求に応じて多額の身代金を支払わなければならなかった。ジェムの子オウズ、ジェム派の高官を粛清し、西暦1495年にジェムが病死した後に彼の生母、妻、娘を保護するが、男子の子孫はロードス島に残っていた1人を除いて全員が絞首刑に処された。
 聖ヨハネ騎士団の手引きで生き延びたジェムが、ヨーロッパ諸国に13年間にわたって留まり人質として利用され、父メフメト2世の代の精力的な領土拡大による国家財政の疲弊からバヤズィト2世の治世では戦争は先代に比べると大幅に減り、父メフメト2世の時代に拡大した領土の基盤固めが主な施策となった。国庫の立て直しのために余分な支出を減らし、その一方でメフメト2世が導入した新税を廃止して社会不満の抑制を試みた。また、積極的に他国の人材を迎え入れ、レコンキスタ後の迫害で国を追われた猶太教徒の一部もイスタンブールに逃れ、技術者として受け入れられた。バヤズィト2世と交流を持とうとしたヨーロッパの技術者の中で著名な人物として、レオナルド・ダ・ヴィンチが挙げられる。バヤズィトが橋の建造を考えてはいるがオスマン朝内に技術者がいないと聞いたダ・ヴィンチはオスマン朝に書簡を送った。書簡で金角湾、ボスポラス海峡に橋を架けることが提案されたが実現には至らず、設計図は現在も残っている。
 西暦1495年にジェムが病死するまでの間、オスマン朝と亡命中のジェムを保護したマムルーク朝の関係が悪化した。マムルーク朝とはジェムの処遇以外に、メッカの水路の修理を拒絶されたこと、インドからの贈物を携えた使節がマムルーク朝の領土を通行した際にジッダの太守に荷物を奪われたことで関係が険悪なものとなり、バヤズィト2世はドゥルカディル侯国のベイリクであるアラー・アッダウラがマムルーク朝のスルターン、アシュラフ・カーイトバーイと対立していることを知ると、アッダウラを助けるために西暦1485年にアナトリア半島南部に派兵した。オスマン朝・ドゥルカディル侯国の連合軍はマラティヤ付近でマムルーク朝軍と戦うが敗れ、却ってアダナ、タルソス内の城砦を奪われた。戦後にマムルーク朝から和平が提案され、和解を勧めるカリフの親書と共に奪われた贈物も届けられるが、バヤズィト2世はこの提案に対して進軍という答えを返した。オスマン朝軍はウズバク・ブン・タタハ率いるマムルーク朝軍に3度敗れる不利な状況にあったが、マムルーク朝も長期の戦争によって財政が悪化しており、西暦1491年にハフス朝(西暦1229〜1574年)の仲介によって和議が結ばれた。
 西暦1492年のハンガリー王マーチャーシュ1世の死を好機と考え、ベオグラード攻略に挑むが失敗し、西暦1495年にハンガリー王国と10年の休戦協定を結んだ。しかし、ベオグラード遠征と同じ西暦1492年にモルダヴィア公国を属国化し、黒海方面への拡大は着実に果たした。黒海沿岸部のキリア、アッケルマン(いずれもブジャク(ベッサラビア地方の南部、黒海沿岸のドナウ川とドニエストル川に挟まれた地域、南ベッサラビア)に属する都市)を支配下に置いて黒海西岸の通行を確保し、クリミア・ハン国(西暦1441〜1783年)の騎兵の動員を容易にした。
 陸軍と海軍に新兵器を導入して戦力の増強を進め、当時勢力を伸ばしていたヴェネツィアに対抗する戦力を蓄え、大航海時代に入っていたヨーロッパ各国と対峙するとともに、アフリカのイスラーム諸国を征服する基盤を整えた。西暦1495年にバルバリア海賊など地中海やエーゲ海で跋扈していた回教徒の海賊をオスマン朝海軍に編入し、彼らの知識と経験を軍内に取り入れた。この時にオスマン朝海軍に編入された代表的な海賊として、ケマル・レイス、ピーリー・レイースらがいる。また、西欧から積極的に造船技術を取り入れて、新型の艦船を設計した。イタリア語、フランス語、スペイン語に由来する海事用語は、ほぼそのままオスマン語に取り入れられ、海軍で使用されたバヤズィト2世の時代に導入された兵器の最たるものに、耶蘇教徒の技術者ヤーニがヴェネツィアの技術を取り入れて設計した2隻の大型艦船があり、全長70キュビット(約32m)、全幅30キュビット(約13.7m)の大きさを誇った。海軍の強化中はヴェネツィアとの衝突を避けるために地道な交渉を行っていたが、西暦1499年にバヤズィト2世はヴェネツィア領のレヴァントへ親征、別働隊としてダウード・パシャの率いる艦隊がアドリア海より出発し、艦隊には2隻の大型艦船も含まれていた。同年08月12日のゾンキオ(ツォンキオ)城近海の戦いでオスマン朝海軍のガレー船がヴェネツィアのガレアス船を破り、ヤーニの艦は包囲を仕掛けたヴェネツィア船を沈める勝利を収め、耶蘇教徒はこの戦いを「ゾンキオの悲しい戦い」と記録した。ダウード・パシャの艦隊はバヤズィト2世の本隊に合流し、08月28日にレヴァントをオスマン朝の支配下に置いた。勝利の翌西暦1500年に、さらにモレア半島にあるヴェネツィア領のモドン、コロン 、ナヴァリノを獲得し、回教勢力の進出を重く見たヨーロッパではヴェネツィア、ハンガリー、スペイン、フランス、法王庁による軍事同盟が結成された。同盟軍による攻撃は、艦隊がアナトリア半島の沿岸部を数度襲撃する程度の規模に留まり、西暦1502年12月にヴェネツィア、西暦1503年03月にハンガリーと講和を結ぶに至った。しかし、それでもなお、海軍の戦力は陸軍に比べると充実しているとは言えなかった。
 西暦16世紀初頭に東方のイランで勃興したサファヴィー朝は勢力を拡大しており、当初オスマン朝とサファヴィー朝は友好的な関係にあったが、やがてサファヴィー朝はアナトリア半島方面への進出の準備を開始した。サファヴィー朝(西暦1501〜1736年)のシャー・イスマーイール1世はアナトリア半島進攻の布石として、配下にアナトリア半島全域でのシーア派の布教を指示した。優れた詩人でもあったイスマーイール1世は自ら筆を執りテュルコ語で勧誘の詩を綴り、宣教師(ハリーフェ)を通じて勧誘の詩がアナトリア半島に伝えられた。バヤズィト2世は当初サファヴィー朝の宣教活動を静観しており、高官たちもサファヴィー朝の動向に関心を持たず、皇子たちの目は帝位に向いていたが、西暦1511年にシャー・クル(「サファヴィー朝のシャーの奴隷」を意味する)を名乗る者が叛乱を起こすと事態は急変する。バヤズィト2世治下のオスマン帝国で確立されつつあるスンナ派に違和感を抱く、あるいは彼が推進する厳格なイスラームの教えに不満を持つ民衆が叛乱に参加し、その軍勢は10000にも達したのである。
 バヤズィト2世にはコルクト、アフメト、セリム(次代のセリム1世)の3子がおり、長子のコルクトは文人気質で帝位への関心を見せず、次子のアフメトが後継者と目されていたが、シャー・クルの叛乱中に息子たちの後継者争いに影響を与える事件が起きた。アフメトと大宰相ハドゥム・アリー・パシャが叛乱軍を包囲した際にイェニチェリがアフメトの命令を拒否したために叛乱軍の包囲に失敗する事件が起き、叛乱の鎮圧においてコルクトとアフメトはイェニチェリ達の間の評判を落とし、イェニチェリ達の中では3男のセリムの人気が高まっていった。しかし、当のセリムは叛乱中に後継者争いを有利に進めるためにバルカン半島への任地替えを要求し、次子アフメトを後継者に考えていたバヤズィト2世が要求を退けると、セリムはクリミア半島に亡命していた。
 辛うじて叛乱は鎮圧されたがハドゥム・アリー・パシャ、司令官ハイダル・パシャら主だった指揮官は戦死、指揮官を欠いたために叛乱を完全に鎮圧することができず、叛乱軍の大部分はサファヴィー朝に亡命した。氾濫の後にアフメトは帝位を継ぐためにイスタンブールに入城しようとしたが、イェニチェリに阻まれ入城できず、西暦1512年03月にクリミアからセリムが帰還し、イェニチェリの支持を受けたセリムがクーデターを起こし、西暦1512年04月25日にバヤズィト2世は廃位され、同年05月26日、バヤズィト2世は隠棲先であるトラキアのディメトカに向かう途上で死亡した。セリムによる毒殺と考えられる。

 バヤズィト2世の弱腰の姿勢を批判していたセリムが、セリム1世として、西暦1512年に9代皇帝に即位した。セリムの積極外交は、東部アナトリア半島とシリア、エジプトに向けられた。東部アナトリア半島では白羊朝の後をサファヴィー朝が襲っていた。西暦1514年、チャルディラーンの戦いでサファヴィー朝の野望を打ち砕くと、西暦1517年にはオスマン・マムルーク戦争でエジプトのマムルーク朝を滅してイスラーム世界における支配領域をアラブ人居住地域に拡大し、またマムルーク朝の持っていた回教の2大聖地マッカ(メッカ)とマディーナ(メディナ)の保護権を掌握してスンナ派イスラーム世界の盟主の地位を獲得した。この時セリム1世がマムルーク朝の庇護下にあったアッバース朝の末裔からカリフの称号を譲られ、スルターン・カリフ制を創設したとする伝説は西暦19世紀の創作で史実ではないが、イスラーム世界帝国としてのオスマン朝がマムルーク朝の併呑によって1つの到達点に達した。

 父バヤズィト2世からトラブゾン知事に任命され、東方に目を光らせていたセリムは父の消極性に不満を持っていた。当初は3番目の子で上の兄コルクト、アフメトがいたため継承順位は最も下だったが、西暦1511年にサファヴィー朝に同調したシャー・クルの叛乱を契機として、兄達が叛乱に手こずっている隙を付いてクーデターを仕掛けた。1度目は失敗してクリミア半島へ追放されたが、翌西暦1512年にイェニチェリに擁立され兄達を排除、父を退位させて皇帝に即位したセリム1世は、父が即位時にしたのと同じように、即位後の内紛を避けるために兄弟達とその子らを次々と殺した。父もその後すぐに歿しているが、セリム1世の暗殺も疑われている。セリム1世は「冷酷者(ヤヴズ、Yavuz)」と呼ばれたが、文芸を愛し、詩を詠む文人としての一面もあった。ヤヴズには厳格で冷酷であるがために優れた者という含意があり、「卓越者」とも訳される。細心な計画と大胆な行動力を持ち合わせ、反対者には酷薄であり、同族や大臣であろうとも容赦なく次々と処刑した。
 父バヤズィト2世までは主にバルカン半島に進出したが、西アジア方面の征服は立ち後れていた。そこで彼らとは対照的にセリム1世は東方への積極的な領土の拡張を推し進め、アジア、エジプトへと転換し、征服を推し進めた。アナトリア半島には未だオスマン朝に従わない豪族もいて、彼らがサファヴィー朝に通じ叛乱を起こすパターンが常態化、地盤を固める国内問題の解決も狙いだった。
 即位後はハンガリー王国と和睦、アナトリア半島のサファヴィー派を探し出し粛清して背後を固め、西暦1514年にサファヴィー朝をアナトリア半島から駆逐すると、東ではサファヴィー朝と激突。08月23日にイスマーイール1世と交戦した(チャルディラーンの戦い)。この戦いは一進一退だったが、最終的に大砲・鉄砲など火力を高めたオスマン朝が勝利した。さらにはイラクのバグダードを奪い、南ではイエメンに出兵してアデンを征服した。この後サファヴィー朝の追討を目指すも冬期に入ったため叶わず引き上げるが、サファヴィー朝の妨害を排除したことは大きな進展となり、西暦1515年にオスマン帝国とサファヴィー朝の中間地帯に当たるクルディスタン(イラク北部)、抵抗勢力が根強い南アナトリア半島も制圧して領土を東へ拡大した。以後もセリム1世の戦術は火力中心となり、白刃と騎兵の突撃に頼る旧態依然とした他のイスラームの王朝の軍隊に対し、火砲を効果的に用いて次々と勝利を収めた。
 また、西暦1515年からアラブへの遠征を開始し、翌西暦1516年にアルジェを占領、マルジュ・ダービクの戦いでマムルーク朝軍を破って翌西暦1517年には首都カイロを落とした。こうしてマムルーク朝を滅ぼしたセリム1世はシリア、エジプト、パレスティナを併合した。さらに庇護を求めてきたアッバース朝のカリフムタワッキル3世を保護するも最終的には監禁して西暦1543年に獄死させ、アッバース朝を完全に滅亡させた。また、シーア派のサファヴィー朝への対抗とアラブの人々の歓心を買うためにスンナ派擁護を標榜、サファヴィー朝やマムルーク朝などの外征では異端討伐を掲げて宗教の正当性を主張したが、マムルーク朝の滅亡にともない、聖地メッカ、メディナをオスマン帝国の保護下に置いたことで、オスマン帝国はスンナ派イスラーム世界の盟主の地位を獲得した。これが西暦19世紀のオスマン帝国に、スルターン・カリフ制の伝説を生むことになった。
 エジプトから戻るとすぐロードス島への遠征を準備したが、病気を患い、即位から9年目にして54歳で死んだ。帝位は子のスレイマン1世が継承した。セリム1世の在位はわずか8年に過ぎなかったが、父から受け継いだ領土は230余万㎢であったのを、650余万㎢にまで増大させた。

 西暦1516年、オスマン朝がシリア・パレスチナ地方を征服し、パレスチナは、西暦1517〜1917年、オスマン帝国領時代。
 西暦1517年、ドイツで宗教改革を開始したルターはローマ法王の制度を批判し、当初はカトリック教会に抑圧されていた猶太教徒もルター派の耶蘇教に改宗し、福音が及ぶことを期待した。しかしユダヤ人が改宗することはなかったので失望し、却ってユダヤ人を深く憎悪するようになった。プロテスタントの領主にもユダヤ人を追放するよう要請した。そのため、プロテスタント圏でもユダヤ人に対する迫害はカトリック圏と変わることはなかった。
 カトリック教会による反宗教改革では、ルネサンス期のローマ法王の寛容さは失われ、ユダヤ人にとっては最も暗い時代となった。西暦1555年に法王となったパウルス4世は、突然マラーノ保護をやめ、アンコーナで取り締まりを再開し猶太教を固守する25人を火炙りの刑に処した。さらに中世のユダヤ人抑圧法を復活させ、ゲットーを設けて隔離し、ユダヤ人に差別バッチを付けることを強要した。このようなカトリック圏でのユダヤ人迫害は西暦19世紀中頃まで続いた。



 スレイマン1世(Kanuni Sultan Süleyman I, オスマンテュルコ語: سلطان سليمان اول‎、Sultān Suleimān-i evvel, 土語: I. Süleyman)は、9代皇帝セリム1世の子でオスマン朝10代皇帝。46年の長期にわたる在位の中で13回もの対外遠征を行い、数多くの軍事的成功を収めてオスマン朝を最盛期に導いた。英語では「壮麗帝(the Magnificent)」の仇名で呼ばれ、日本では屡々「スレイマン大帝」と称される。テュルコでは法典を編纂し帝国の制度を整備したことから「立法帝(カーヌーニー、 オスマンテュルコ語: القانونى‎、al‐Qānūnī, 土語: Kanuni)」の仇名で知られている。名前のスレイマン(Süleyman)とは、猶太教や耶蘇教と共に回教でも聖典とされるタナハに記録された古代イスラエルの王、「ソロモン王」のアラビア語形である「スライマーン」(アラビア語: سليمان‎, Sulaymān)のトルコ語訛り。またオスマン帝国の歴史において「スレイマン」の名を持つ最初の皇帝であることから「スレイマン1世」と呼ばれるが、まれにバヤズィト1世がアンカラの戦いでティムールに敗れた直後にエディルネで君臨したバヤズィト1世の長男スレイマン・チェレビーを1世に数えることがあるので、その場合は「スレイマン2世」と呼ばれることもある。
 セリム1世の息子としてアナトリア半島北東のトラブゾンで誕生。マムルーク朝を滅ぼしてシリア、エジプトのアラブ地域を初めて征服した父が不在の間は所領として宛がわれたマニサの軍事長官を務めていたが、父が在位わずか8年で西暦1520年に死去すると首都イスタンブールへ帰還し10代皇帝に即位した。前回と前々回のスルターン死去の際には熾烈な後継者争いがあり、後継者になれなかった王子やその子らがほとんど全員処刑されるといった経緯があったが、セリム1世死去の際にはそうした争いはなく、スレイマンの他に男児の記録はないことから、男児は間引いてスレイマンが唯一の後継者候補だった。
 スレイマン1世の時代、オスマン朝の国力は最も充実して軍事力で他国を圧倒するに至り、その領域は中央ヨーロッパ、北アフリカにまで広がった。東ヨーロッパから中東に跨る帝国の支配者となったスレイマン1世は即位の同年にシリア知事の叛乱に直面し、翌西暦1521年にアナトリア半島中央でイランのサファヴィー朝に通じた部族の叛乱も勃発したが、スレイマン1世はいずれも西暦1521年の内に鎮圧して足元を固め、ヨーロッパ方面に向けた遠征を計画した。
 西暦1521年、ハンガリー王国からベオグラードを奪い取り、翌西暦1522年のロードス包囲戦で聖ヨハネ騎士団からロードス島を奪うなど活発な外征を行った。この2ヶ所は曽祖父のメフメト2世が最後まで征服できなかった場所であり、これにより帝国内におけるスレイマン1世の支持、評価は著しく向上した。また、ロードス島の征服によって3大陸にまたがるオスマン朝領土内の海上交通の棘が取り除かれ、領土内の航行が円滑となった。ロードス島征服の直後に、スルターン即位前からの寵臣で義弟のイブラヒム・パシャを大宰相に抜擢しているが、ベオグラード、ロードス島ともに、若いスルターンの実力を国内向けに演出する効果を狙ったイブラヒム・パシャの進言によるものとも言われている。オスマン帝国はこの時点でもまだ支配が安定せず、西暦1522〜1524年にかけてエジプトで叛乱が起こったが、イブラヒム・パシャは叛乱を鎮圧、西暦1525年に総督に赴任してエジプトの支配を安定させ、西暦1526/1527年にアナトリア半島南部で親サファヴィー派の部族が起こした叛乱も収拾させ、軍事・行政共に有能な手腕を示し、スレイマン1世の威勢を高めていった。
 ポルトガル・マムルーク海上戦争(西暦1505〜1517年)ではオスマン朝とエジプトのマムルーク朝は対ポルトガルの同盟国だったが、オスマン・マムルーク戦争(西暦1516〜1517年)では、西暦1516年のマルジュ・ダービクの戦いと西暦1517年のリダニヤの戦いでセリム1世によってマムルーク朝エジプトが征服され、エジプト・シリア・アラビア半島が属領となった。西暦1522年、次代スレイマン1世の時にムスタファ・パシャがエジプト州(西暦1517〜1805年)の2代目総督となったが、その配下となるカーシフ(地方総督)の大部分は依然としてマムルーク朝で軍人を務めた人物が就任していた。西暦1523年にはそのマムルーク朝系のカーシフが叛乱を起こし、さらに西暦1524年には新たな州総督に就任していたアフメト・パシャが叛乱を起こした。この叛乱でアフメト・パシャはローマ法王にまで援助を求めたが結局、アフメト・パシャはオスマン朝の鎮圧軍が到着する以前に内部対立で殺害された。
 この叛乱を受けたスレイマン1世は大宰相イブラヒム・パシャを送り込んで支配体制の強化を図り、次の州総督に就任したハドゥム・スレイマン・パシャはタフリール(徴税敢行、税目、人口などの調査)を実施して徴税面を強化した。さらにスレイマン・パシャは商業施設などを建設してワクフを設定、以後の総督らも積極的な建設活動や宗教的寄進を行い、マムルーク朝色の濃いままであった状況をオスマン朝色に塗り直した。
 西暦1516年、オスマン朝の皇子コルクトの公的支援を受けたバルバリア海賊のバルバロス・ウルージとバルバロス・ハイレッディン兄弟が、アルジェ占領(西暦1516年)に成功。西暦1517年にはザイヤーン朝(西暦1236〜1550年)の首都トレムセンに侵攻し、ウルージは戦死したもののトレムセン陥落 (1517年)が成功、オスマン・アルジェリア(西暦1517〜1830年)を設置。海上では、西暦1522年のロードス包囲戦では回教徒に対する海賊行為を行っていたロードス島の聖ヨハネ騎士団と戦ってこれを駆逐し、東地中海の制海権を握った。
 西暦1529年01月に宣戦布告し、05月にはアルジェ要塞を落としてアルジェの占領に成功。10月にフォルメンテーラ島での戦いでスペイン船を駆逐(フォルメンテーラ島の戦い(西暦1529年))。西暦1534年にはチュニス征服(西暦1534年)に成功。西暦1535年にハフス朝とスペイン-イタリア連合軍による奪還作戦でチュニスを失陥(チュニス征服(西暦1535年)。バルバロス・ハイレッディンは脱出の途上でマオー掠奪を行なった。
 西暦1526年には、モハーチの戦いでハンガリー王ラヨシュ2世を討ち取りハンガリー中央部を平定し、ハプスブルク家のオーストリア大公国(西暦1453〜1806年)と国境を接した。スレイマン1世はラヨシュの戦死により断絶したハンガリー王位に、オスマン朝に服属したトランシルヴァニアの領主サポヤイ・ヤーノシュを推し、傀儡としてハンガリー王国の間接統治を狙った。しかし、ハンガリー王位継承を宣言したハプスブルク家出身の神聖ローマ皇帝兼スペイン王カール5世の弟フェルディナント(後の神聖ローマ皇帝フェルディナント1世)と対立すると、西暦1529年に第1次ウィーン包囲を敢行し、ウィーン攻略には失敗するもののヨーロッパの奥深くにまで侵攻して西欧の人々に強い衝撃を与えた。スレイマン1世は西暦1532年にも再びオーストリア遠征を敢行したが、どちらも戦端を開こうとせず和睦の話し合いが行われ、西暦1533年にフェルディナントの使者とイブラヒム・パシャとの協議の結果和睦が成立した(コンスタンティノープル条約)。内容はサポヤイ・ヤーノシュの王位を認め、オスマン朝に貢納金を支払うことが確約されたため、ハンガリー王国に対するオスマン朝の優位が明言され、スレイマン1世はしばらくヨーロッパ遠征は控える代わりに東方遠征へ向かった。
 オスマン朝にとって東のサファヴィー朝は油断ならない相手だった。アナトリア半島でオスマン朝の支配に反発した土着勢力がサファヴィー朝と結びつく危険性が常に存在していたからである。しかし、アナトリア半島とイランの中間にあるクルディスタンで領主間の抗争が起こると、スレイマン1世はこれをきっかけに西暦1533年に東征へ向かい、先遣隊を率いたイブラヒム・パシャはアゼルバイジャンを制圧した。スレイマン1世は翌西暦1534年にイラクへ出陣、バグダードを占領しイブラヒム・パシャと合流、西暦1535年にアゼルバイジャンの首都タブリーズに到着したが、サファヴィー朝の軍勢を見かけることなくイスタンブールへ帰還した。この遠征終了後の西暦1536年にこの遠征の責任者だったイブラヒム・パシャは処刑された。決着を着けられなかったことが一因とも、増長したためスレイマン1世の不興を買ったとも、宮廷闘争に敗れたためとも言われているが、真相は不明。遠征でバグダードを占領して南イラクとアゼルバイジャンの大半を支配下に置き、東方の国境を安定させたが、西暦1548年の2回目の遠征と、西暦1553/1554年に行われた3回目の遠征はタフマースブ1世率いるサファヴィー朝が騎兵を中心とする軍の機動力とゲリラ、焦土作戦で抵抗したため、オスマン朝も成果を上げられず、最終的に西暦1555年にアマスィヤの講和で和睦して国境線を取り決め、イラク領有は確定したが(アゼルバイジャンはサファヴィー朝が奪回)、サファヴィー朝の完全征服はできなかった。また、西暦1536年を境にスレイマン1世の大規模な領土拡張政策は終わりを告げ、以後は周辺国との交戦と重要拠点の確保、制海権や内政重視に目を向けていった。
 海軍の育成にも力を注ぎ、西暦1533年にアルジェを本拠地とするバルバリア海賊のバルバロス・ハイレッディンが帰順すると彼を海軍提督=パシャとした。彼の帰順によりアルジェリアもオスマン朝領となり、西地中海に足掛かりを得て、海軍力も大幅に増強された。彼の率いるオスマン帝国海軍は西暦1538年のプレヴェザの海戦でスペイン・ヴェネツィア・ローマ法王の連合艦隊を破り、地中海の制海権を握った。同年にモルドバへ遠征し従属国クリミア・ハン国との通路を確保し、黒海も事実上支配下に収めた。ピーリー・レイースが海軍で名を挙げるのもスレイマン1世の時代である。
 西暦1536年、フランス・オスマン同盟を密かに締結。西暦1538年のプレヴェザの海戦でアルジェリアに至る地中海の制海権の掌握に成功した。西暦1540年10月、アルボラン島の海戦。西暦1541年10月、カール5世が親征してアルジェ遠征を行い、耶蘇教徒への海賊行為を止めさせた。西暦1545年にバルバロスが引退、西暦1546年には後任にソコルル・メフメト・パシャを抜擢した。
 また、西暦1540年にサポヤイ・ヤーノシュが亡くなると、フェルディナントが和睦を破りブダを占拠したため、西暦1541年に再びハンガリーへ遠征し平定、トランシルヴァニアも属国とした上でハンガリーを分割することに決め、フェルディナントは北と西の領土(王領ハンガリー)、ヤーノシュの遺児ヤーノシュ・ジグモンドはハンガリー東部、東ハンガリー王国(西暦1526〜1551、1556〜1570年)、オスマン朝は中央と南、オスマン帝国領ハンガリー(西暦1541〜1699年)を領有した。以後も小競り合いは続いたが、西暦1547年に和睦しフェルディナントがオスマン朝に貢納金を支払い、それぞれの領地は認められた。ハプスブルク家に対抗するため西暦1535年にフランス国王フランソワ1世と同盟を結び、西暦1543年には、オスマン朝艦隊とフランス艦隊が共同でニースを攻略した。さらに、ハプスブルク家と対立していたドイツのルター派をフランソワ1世を通じて間接的に援助したとも言われ、フランソワ1世とその後継者アンリ2世がルター派諸侯に送った資金の大部分はオスマン朝から供出されていたようである。後にスレイマン1世は、ハプスブルク家の支配下であったネーデルラントのルター派に対しても援助を申し出た。
 この他、紅海とインド洋に進出していたポルトガル海上帝国(西暦1415〜1999年)は、ポルトガル・マムルーク海上戦争(西暦1505〜1517年)では、西暦1507年にホルムズ占領に成功し、西暦1509年にディーウでインド洋の制海権を巡るディーウ沖海戦でグジャラート・スルターン朝(西暦1407〜1573年)、マムルーク朝、カリカットの領主ザモリン、オスマン朝の連合艦隊を破った。西暦1538年にポルトガルと対立していた遠くインド北西部のグジャラート・スルターン朝からの救援要請に応えインド洋に艦隊を派遣したり、アラビア半島に進出してイエメンのアデンを獲得、対岸も占領してポルトガルを牽制しようと図ったり、西暦1552年にペルシア湾の港を奪い取りポルトガルを妨害しようとしたが、いずれも海上政策では上手であるポルトガルの前に失敗している。ただしイエメンは確保し、ポルトガルとオスマン朝は後に互いの海域を設定して棲み分けた。ロバート・シャーリーに率いるイングランド人冒険団によってペルシア軍が近代化され、西暦1622年のホルムズ占領で、イングランド・ペルシア連合軍がホルムズ島を占領し、ペルシャ湾からポルトガルとスペインの貿易商人を追放するまでこの状態が続いた。一方で、長きに渡った治世の後半には政争が相次ぎ、西暦16世紀末から激化する帝国の混乱の始まりが見られた。
 西暦1550年にトレムセンを占領し、ザイヤーン朝を滅亡させた。西暦1551年にトリポリ包囲戦(西暦1551年)に成功し、オスマン・トリポリタニア(西暦1551〜1911年)を設置した。スレイマン1世は密かにヴァロワ朝フランス王のフランソワ1世と同盟していたため、イタリア戦争(西暦1551〜1559年)(ポンツァ島の戦い (西暦1552年)、オスマン朝のバレアレス諸島侵攻(西暦1558年)に派兵して干渉戦争を実施した。
 西暦1555年にアルジェのサリフ・レイスがベジャイア占領に成功。西暦1556年のオラン包囲戦 (西暦1556年)では、オランが包囲されている間に、モロッコ人もトレムセンを包囲し返し、作戦は失敗に終わった。西暦1560年05月にピヤーレ・パシャがチュニジア沖のジェルバ島で行なわれたジェルバの海戦で大勝。西暦1565年、マルタ包囲戦 (西暦1565年)でオスマン朝が最初の敗北を喫し、大きな被害を出した。西暦1566年09月06日にスレイマン1世が死去し、その死から5年後の西暦1571年、レパントの海戦でオスマン朝艦隊はスペイン連合艦隊に大敗したものの、しばしば言われるようにここでオスマン朝の勢力がヨーロッパ諸国に対して劣勢に転じたわけではなく、その国力は依然として強勢であり、また地中海の制海権が一朝にオスマン朝の手から失われることはなかった。そして西暦1571年に占領されたキプロスは単独でキプロス州を形成することになった。クルチ・アリ(トルコ語: Kılıç Ali Paşa)のオスマン帝国艦隊は敗戦から半年で同規模の艦隊を再建し、西暦1573年にはキプロス島、翌西暦1574年にチュニスを攻略し(チュニス征服(西暦1574年))、ハフス朝を滅亡させた。オスマン・チュニス(西暦1574〜1705年)を設置。西暦17世紀にクレタ島が新たに占領されるとクレタ島も単独のクレタ州となった。
 ロシア・ツァーリ国のイヴァン4世は、西暦1552年のカザン包囲戦でカザン・ハン国を併合、西暦1554年にアストラハン・ハン国を従属国化した。旧ジョチ・ウルス領のうち残っていたクリミア・ハン国とロシア・ツァーリ国との対立が深まると、西暦1568年にセリム2世及びソコルル・メフメト・パシャはアストラハン遠征(露土戦争(西暦1568〜1570年))を起こした。この戦いで勝利したロシア・ツァーリ国によるアストラハン・ハン国支配が確定したものの、この戦いは長期にわたる露土戦争の初戦に過ぎなかった。この戦いでソコルル・メフメト・パシャは、ロシア・ツァーリ国だけでなくサファヴィー朝をも牽制する目的でヴォルガ・ドン運河の建設を試みたが失敗に終わった(実際に完成するのは西暦1952年になってからである)。

 過去にオスマン朝治下のバルカン半島はオスマン朝の圧政に虐げられた暗黒時代という評価が主流であった。しかし、これらの評価は西暦19世紀にバルカン半島の各民族が独立を目指した際に政治的意味合いを込めて評価されたものであり、オスマン朝支配が強まりつつあった西暦16世紀はそれほど過酷なものではなかった。これらのことからオスマン朝によるバルカン半島統治は西暦16世紀末を境に前後の2つの時代に分けることができる。

 オスマン朝が勢力拡大を始めた時、第2次ブルガリア帝国はセルビア人の圧力により崩壊寸前であり、さらにそのセルビアもステファン・ドゥシャンが死去したことにより瓦解し始めていた。これらが表すように第4回十字軍により分裂崩壊していた東ローマ帝国亡き後、バルカン半島は互いに反目状態にあり、分裂状態であった上、オスマン朝をバルカン半島へ初めて招いたのは内紛を続ける東ローマ帝国であった。このため、アンカラの戦いにおいて混乱を来したオスマン朝への反撃もままならず、また、バルカン半島において大土地所有者の圧迫に悩まされていたバルカン半島の農民らはしばしばオスマン朝の進出を歓迎してこれに呼応することもあった。
 陸上においては、西暦1521年のベオグラードの征服。西暦1526年のモハーチの戦いにおけるハンガリー王国に対しての戦勝、西暦1529年の第1次ウィーン包囲と続き、クロアチア、ダルマチア、スロベニアも掠奪を受けることになった。西暦15世紀以降、ギリシャはオスマン朝に併合されるにつれてルメリ州に編入されたが、西暦1534年、地中海州が形成されたことにより、バルカン半島を中心とする地域がルメリ州、バルカン本土とエーゲ海の大部分が地中海州に属することになった。

 オスマン家とハプスブルク家の対立構造が、ヨーロッパ外交に持ち込まれることとなった。その結果が、ハプスブルク家と対立していたフランス王国(西暦987〜1792年、1814〜1815年、1815〜1848年)ヴァロワ朝(西暦1328〜1589年)のフランソワ1世に対してのカピチュレーション(capitulation)付与となった。なお、フランスと同盟を結んだ際にスレイマン1世は、カピチュレーション(恩恵的待遇)を与えた。これはオスマン朝領内での治外法権などをフランス人に対する領事裁判権や租税免除などの恩恵的な特権で、一方的な特権を認める不平等性はイスラ―ム国際法の規定に基づいた合法的な恩典であり、カピチュレーションはまもなくイギリスをはじめ諸外国に認められることになった。しかし絶頂期のオスマン朝後にイギリスやオランダにも適用された。当時は国力差が圧倒的だったため、友好国への恩恵としてのみ機能しており、社会への実害はなかったものの、後にオスマン朝が衰退するにつれて不平等条約化し、列強の介入要因となって帝国を苦しめることとなった。加えてステータスであったカピチュレーションは、帝国が衰退へ向かい出した西暦19世紀には、西欧諸国によるオスマン朝への内政干渉の足掛かりに過ぎなくなり、不平等条約として重くのしかかることになった。

 スレイマン1世は、西暦1566年09月にハンガリー遠征のシゲトヴァール包囲戦の最中に陣没し、ピュロスの勝利で終わった(西暦1541年オスマン帝国領ハンガリーブディン・エヤレト設置)。ソコルル・メフメト・パシャは、西暦1571年にソコルル・メフメト・パシャ橋の建設をミマール・スィナンに開始させ、西暦1577年に完成した。

 特にスレイマン1世は他の后妾を差し置いて、後宮の女奴隷であったヒュッレム・スルターン(ロクセラーナ)を寵愛し、極めて異例なことに、西暦1534年に彼女を奴隷の身分から解放して皇后として迎え、ヒュッレム・スルターン(ロクセラーナ)の政敵のマヒデヴラン・スルターンを後宮から追い出した。このことから、ヒュッレム・スルターン(ロクセラーナ)の子と異腹の子たち、更にヒュッレム・スルターン(ロクセラーナ)の子同士の間でスレイマン1世の後継者を巡る激しい争いが行われ、後宮の女性が政治に容喙する端緒を作ったと言われる。また、ヒュッレム・スルターン(ロクセラーナ)と娘のミフリマー・スルターン及びその夫で大宰相リュステム・パシャはスレイマン1世の傍近くで讒言を繰り返し世間から非難されている。  ☞ ヒュッレム・スルターンの詳細は下述。

 西暦1543年に次男メフメトが病死し、西暦1553年にイラン遠征の最中に長男ムスタファを謀叛の罪で処刑し、同年に末子ジハンギルも病死、西暦1558年の最愛の妻ヒュッレム・スルターン(ロクセラーナ)の死後、西暦1559年に叛乱を起こした皇子バヤズィトを西暦1561年に処刑するなど家庭的に暗い晩年を送った。
 スレイマン1世は、西暦1565年にマルタ島への遠征軍を派遣したが失敗(マルタ包囲戦)した。最晩年にあたる西暦1566年には、神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世が和睦を破り、ハンガリーを攻撃した。オスマン朝は既にこの時点で劣勢であり、すぐにでも反撃しなければいけなかったが、スレイマン1世は持病の為、出陣できず、指揮は大宰相ソコルル・メフメト・パシャが執ると思われていた。 イラン・サファヴィー朝のタフマースブ1世は、「スレイマンは老いた。」と評し、イスタンブールの市民達も既に老齢で限界を迎えつつあったスルターンの死をただ待つだけであった。 しかしスレイマン1世は出陣を決定し、馬に乗ってトプカプ宮殿の正門から現れた。イスタンブールの人々はこれを見て「若き日の壮麗帝が再び現れた。」と大変驚いた。スレイマン1世は大軍を率いて報復のためハンガリー遠征を敢行した。しかし限界を迎えつつあったスレイマン1世は行軍中に馬ではなく馬車に乗り換え、07月にスィゲトヴァールを包囲したが、スレイマン1世は各部隊からの報告を聞くだけであり、実質的な軍の指揮は大宰相ソコルル・メフメト・パシャが行った。 そしてスレイマン1世は(スィゲトヴァール包囲戦)の真っ最中である09月07日に72歳で陣没した。

 スレイマン1世の死後、軍の指揮は大宰相ソコルル・メフメト・パシャが代行してスィゲトヴァールを陥落させた後、スレイマン1世の遺骸を運び撤退した。 スレイマン1世の死は伏せられ、スィゲトヴァール包囲戦の勝利後、ソコルル・メフメト・パシャはスレイマンの名で勝利の勝鬨を上げた。ソコルル・メフメト・パシャはその際、「皇帝は病気で指揮できなかったことを悔いている。」と言った。また、スレイマン1世の死による軍の崩壊を防ぐために皇帝付きの医師は絞殺され、その死はソコルル・メフメト・パシャを初めとする最側近のみが知ることになり、側近たちは宮殿の奥でスレイマン1世がさも生きているかのような演技をした。
 スレイマン1世の遺骸はイスタンブールに運ばれて、自身がスィナンに建造させ、愛する妻であるヒュッレム・スルターンが眠るスレイマニエ・モスクの墓地に葬られた。次のスルターンには、政争の結果、唯一生き残った皇子セリム2世が即位したが、彼は道楽に溺れ、政務を重臣たちに任せっきりだった為、オスマン帝国の政治は皇帝ではなく、大宰相ソコルル・メフメト・パシャの主導で動いていった。
 西暦1569年、スレイマン1世は既に亡くなっているのにも拘らずマレーのアチェ王国のスルターン、アラウッディン・アルカハルの要請に応じ艦隊を派遣した。この時艦隊はマラッカ海峡まで行き、ジョホール王国・ポルトガル領マラッカへ攻勢を掛けた。
 スレイマン1世の治世でオスマン帝国は更に拡張したが、それは限界を迎えていた。度重なる遠征で財政は枯渇しかかっていて、新たな領土も維持費が莫大にかかるからである。ハンガリー・エジプト・イエメン・地中海沿岸はあまりにも中央から遠いため間接統治となり、総督が現地の募兵と守備兵で軍事力を担うことになった。また、海賊を取り込む方法で地中海を確保したが、陸軍を主眼に置いていたため補助戦力としかなりえず、ポルトガルとの争いで遅れを取っていた。
 一方、内政で法と官僚機構の整備が整えられ、地方の法を編集して地方法令集を生み出し、合わせて中央官僚の統制と帝国支配の要として統治法令集も編纂された。法を宗教の観点から見た場合違反かどうかの判定も行われ、その担当であるウラマーの教育課程及び上下関係も定めると共に、ウラマーの最高権威としてシェイヒュルイスラーム(イスラームの長老)という職種がスルターンの側近として重んじられるようになった。スレイマン1世の治世でエブッスード・エフェンディという人物がこの職業を務め、法の編纂とイスラーム法による正当性を保障、文官として重要な役割を果たした。
 スレイマン1世は哲学などの学問や芸術を好み、「ムヒッビー(恋する者)」の筆名で詩作を行う詩人でもあった。また詩も流行したが、宮廷のゴシップをイスタンブールの大衆に伝える噂としての役割もあり、スレイマン1世とヒュッレムの結婚、皇子ムスタファの処刑、黒幕とされるリュステムの非難にまで及んでいる。詩人は上流階級をパトロンに求めている部分もあり就職の斡旋を依頼しているが、時に政治的背景も絡む場合もあるため、上記の記事は詩人ドゥカーギンザーデ・ヤフヤーがムスタファに同情的な軍人の心情を歌ったものとされている。
 建築の分野ではミマール・スィナンを登用し、帝国全土のモスク、墓廟、橋梁、上水道など、建築物の建設・修復の任務を与えた。

 スレイマン1世の治世は輝かしい軍事的成功に彩られ、オスマン朝の人々にとっては、建国以来オスマン朝が形成してきた国制が完成の域に達し、制度上の破綻がなかった理想の時代として記憶された。また、オスマン朝がヨーロッパ諸国・イスラーム諸国を圧倒したスレイマン1世の治世は栄光の時代として記憶され、「帝国の最盛期」と言われる。またイェニチェリなどの精強な軍事組織や中央集権的な行政制度が、スレイマン1世の時代に完成され最も円滑に機能した。しかし、スレイマン1世の治世はオスマン朝の国制の転換期の始まりでもあった。軍事的弛緩はスレイマン1世の晩年に始まっていたと考えることができ、屡々オスマン朝の軍事的衰退の原因とされるイェニチェリの急速な拡大などの軍事組織の構造変化も、スレイマン1世の時代に始まったものである。事実、スレイマン1世の死後20年たって、西暦16世紀末イランのサファヴィー朝にアッバース1世が現れると、スレイマン1世の治世に獲得されたイラク、アゼルバイジャンの領土は西暦17世紀前半に奪還された。
 スレイマン1世の治世は象徴的には、スレイマン1世以降、君主が陣頭に立って出征することはなくなり、政治すらもほとんど大宰相(首相)が担うようになる。皇帝自らが政務を行うことが少なくなり、実権は大宰相の手へと移っていった。しかし、西暦1565年に大宰相となったソコルル・メフメト・パシャは名宰相と誉れ高く、これら大宰相による政治と優れた官僚制度によって、スレイマン1世の築いた大帝国を維持し、帝国の衰退はなお1世紀の後、西暦17世紀末のこととなった。


 オスマン朝下の住民はアスケリとレアヤーの2つに分けられていた。アスカリはオスマン朝の支配層であり、オスマン朝の支配者層に属する者とその家族、従者で形成されており軍人、書記、法学者なども属していた。これに対してレアヤーは被支配層であり、農民、都市民などあらゆる正業に携わる人々が属していた。ただし、西暦19世紀に入ると狭義的にオスマン朝支配下の耶蘇教系農民に対して用いられた例もある。アスケリは免税、武装、騎乗の特権を有しており、レアヤーは納税の義務をおっていた。ただし、アスケリ層に属する人々が全て回教徒だったわけではなく、また、レアヤーも非回教徒だけが属していたわけではない。そして、その中間的位置に属する人々も存在した。
 オスマン朝の全盛期を謳歌したスレイマン1世の時代ではあったが、同時期に、軍事構造の転換、すなわち、火砲での武装及び常備軍の必要性が求められる時代に変容していった。その結果、歩兵であるイェニチェリを核とする常備軍の重要性が増大した。しかし、イェニチェリという形で、常備軍が整備されることは裏を返せば、在地の騎士であるスィパーヒー層の没落とイェニチェリの政治勢力としての台頭を意味した。それに応じて、スィパーヒーに軍役と引き換えに1つの税源からの徴税権を付与していた従来のティマール制は消滅し、かわって徴税権を競売に付して購入者に請け負わせる徴税請負制(イルティザーム制)が財政の主流となる。従来このような変化はスレイマン1世以降の帝国の衰退としてとらえられたが、しかしむしろ帝国の政治・社会・経済の構造が世界的な趨勢に応じて大きく転換されたのだとの議論が現在では一般的である。制度の項で後述する高度な官僚機構は、むしろスレイマン1世後の西暦17世紀になって発展を始めたのである。

新・人と歴史 拡大版 25 オスマン帝国の栄光とスレイマン大帝 - 三橋 冨治男
新・人と歴史 拡大版 25 オスマン帝国の栄光とスレイマン大帝 - 三橋 冨治男


 ヒュッレム・ハセキ・スルターン(オスマンテュルコ語: خُرَّم خاصکى سلطان、Hürrem Haseki Sultan,)または ヒュッレム・"バルサク"・ハセキ・スルターン(Hürrem "balsaq" Haseki Sultan)、ロクセラーナ(ウクライナ語: Роксолана、Roksolana、英: Roxelana、仏: Roxelane、波: Roksolana、羅: Roxolanaの他、Rossa、Ruziac)
 源氏名、ヒュッレム(ヒュルレム、ペルシア語: خرم、Khurram)「陽気な人」の意、(アラビア語: كريمة、Karima)「高貴な人」の意、ハセキ(Haseki、ヒュッレム・スルターン「寵姫」の意)は土; Hürremに由来している。スラヴ系で、ウクライナ人かロシア人もしくはポーランド人だった。本名はアレクサンドラ・アナスタシア・リソフスカ(ポーランド語: Aleksandra Anastasia Lisowska)。ヨーロッパでは、ヨーロッパの名付けた仇名のロクセラーナとして知られる。ロクセラニーとは西暦15世紀までの東スラヴ人(現在のウクライナの住民)の呼び方の1つであり、「ルーシ女」の意。
 オスマン帝国のスレイマン1世の皇后で、それまでのオスマン朝の慣習を破ってスレイマン1世との間に複数の男子を設け、法的な婚姻関係を結び、事実上の一夫一妻の関係を築いた。スレイマン1世の後継争いに策動し、ハレムの住人が権謀術数を巡らせ、オスマン朝の政治を支配する先駆けとなった。また、スレイマン1世との関係性は、芸術作品の題材となった。 ヒュッレム・スルターン(ロクセラーナ)はヨーロッパでは有名で、現代テュルコや西側で多くの芸術作品で扱われている。絵画や、音楽作品、オペラ、バレエ、映画、ウクライナ語や英語、フランス語、ドイツ語で書かれた小説などのテーマとなった。

 アレクサンドラ・アナスタシア・リソフスカは、ルテニア地方(赤ロシア、現在のウクライナ西部とポーランド南東部に跨る地域、広義ではウクライナあるいはウクライナとベラルーシを合わせた地域)ロハティンの貧しい正教会司祭の娘で、西暦1520年代にドニエストルやルテニア地方を掠奪したクリミア・タタール人に捕えられて奴隷としてイスタンブールへ売られ、スレイマン1世の大宰相パルガル・イブラヒム・パシャに買われた後、スレイマン1世に献上された。
 ヒュッレム・スルターン(ロクセラーナ)はすぐに主人であるスレイマン1世の気を惹いて、対抗者たちに嫉妬されたものの、スレイマン1世の第2側室(イクバル)と呼ばれる側室から子供を成したことで第2夫人(イキンジ・カドゥン)となった。カドゥンは夫人の意。この時点でヒュッレム・スルターンにとっての敵は、スレイマン1世の母后、ハフサ・ハトゥンと、ハフサ・ハトゥンを後ろ盾とする第1夫人マヒデヴラン(ギュルバハル)、ヒュッレム・スルターン(ロクセラーナ)の最初の所有者であったといわれる大宰相イブラヒム・パシャの3人であった。

 西暦1534年にハフサ・ハトゥンが死去すると、マヒデヴランはスレイマン1世の不興を買って宮殿を追われ、西暦1536年にイブラヒム・パシャは処刑された。マヒデヴランが宮殿から追われた経緯について、ヴェネツィア共和国駐イスタンブール大使のベルナルド・ナヴァゲロは、「マヒデヴランと口論を起こしたヒュッレム・スルターン(ロクセラーナ)が自ら顔に引っ掻き傷を作った上で、スレイマン1世に呼び出されるような工作をしてスレイマン1世の関心を惹き、ヒュッレム・スルターン(ロクセラーナ)の顔の引っ掻き傷をマヒデヴランの仕業と思い込んだスレイマン1世がマヒデヴランと息子のムスタファをマニサへ左遷させた。それによって、ムスタファがスレイマン1世から遠ざけられたばかりか、スルターンの後継者としての地位から完全に脱落したことを内外に示すことになった。」と報告している。その結果、ヒュッレム・スルターン(ロクセラーナ)は最早対抗者がいなくなったスレイマン1世の皇后としての地位を得た。また、イブラヒム・パシャについてもヒュッレム・スルターン(ロクセラーナ)が処刑に関与した確たる証拠はないが、人々はヒュッレム・スルターン(ロクセラーナ)の関与を疑った。
 ヒュッレム・スルターン(ロクセラーナ)はスレイマン1世との間に設けた5人の皇子たち(メフメト、アブドゥラー、セリム、バヤズィト、ジハンギル)のうち、早世したアブドゥラーを除く4人の皇子たちのいずれかを次期スルターンとするべく策動した。
 一時は長男のメフメトが有力となったが西暦1543年に天然痘に罹り早世し、
マヒデヴランの子ムスタファが再び有力となった。しかし、ムスタファは西暦1553年にペルシャ遠征軍の陣中で突然処刑され、マヒデヴランはマニサからブルサへ移された。ムスタファは軍人として名声が高く、とりわけイェニチェリから強く支持されており、突然の処刑にイェニチェリは怒り、叛乱を起こす寸前にまで至った。スレイマン1世がムスタファを処刑した動機は不明だが、政権内を含む世論はヒュッレム・スルターン(ロクセラーナ)が娘のミフリマー・スルターンとその婿で大宰相のリュステム・パシャとともに「徳の高いスルターンの目を曇らせた。」と考えた。
 ムスタファの処刑により、スレイマン1世の後継候補はヒュッレム・スルターン(ロクセラーナ)が産んだ3人の男子に絞られたが、このうち、ジハンギルはムスタファが処刑された直後に死亡した。処刑に衝撃を受けたことが原因ともいわれている。


 ヒュッレム・スルターン(ロクセラーナ)について、ヴェネツィア共和国の大使ブラガディーノは、「美人ではないが愛想がよく、陽気な性格である。」と、同じくヴェネツィア共和国の大使ナヴァゲロは、「性質の良くない、いわばずる賢い女性である。」と報告している。
 西暦16世紀の女流詩人ニサーイーは次のような、スレイマン1世と「ロシアの魔女」、すなわちヒュッレム・スルターン(ロクセラーナ)を非難する詩を作った。
 ロシアの魔女の言葉を耳に入れ
企みと魔術に騙されて、あの悪女の言いなりとなり
生命の園の収穫を、あの気ままな糸杉のなすがままにした
ああ、無慈悲なる世界の王よ
かつてあなたが若かった時、あなたは何ごとも公平に正しく行っていたのに
その振る舞いと気質で民を幸福にしていたのに
年老いた今、悪しき不正義を行うとは

 スレイマン1世はムスタファの子や側近も処刑し、政権内の不満を抑えるために西暦1553年にリュステム・パシャを罷免した。さらにリュステム・パシャが処刑されるという噂が立つと、ヒュッレム・スルターン(ロクセラーナ)は助命のために奔走した。結局、リュステム・パシャは西暦1555年に大宰相の地位に返り咲いた。ヒュッレム・スルターン(ロクセラーナ)の庇護の下、リュステム・パシャは蓄財に精を出し、財力をもって党派を形成して政治力を保持した。この手法は以降の時代の政治家によって踏襲された。
 また、ロクセラーナは様々な問題に対するスレイマン1世の助言者的な役割をしていたともいわれ、外交政策や国際関係の政治問題に影響が見られる。一例として彼女からポーランド国王ジグムント2世アウグストへ出した手紙が現存している。ヒュッレム・スルターン(ロクセラーナ)の存命中、オスマン帝国とポーランド王国との間には同盟関係が保たれた。

 ヒュッレム・スルターン(ロクセラーナ)はヴァリーデ・スルターン(スルターンの母后)や第2カドゥン、宦官らハレムの住人たちが権謀術数を巡らせ、オスマン朝の政治を支配するカドゥンラール・スルタナトゥ(女人天下)と呼ばれる時代の幕を開けた。
 ヒュッレム・スルターン(ロクセラーナ)は彼女自身のため、スレイマン1世にオスマン朝の慣習を次々と破らせた。まず、オスマン朝では「1人の女性がスルターンとの間に男子を2人以上産むことは許されず、一たび男子を産んだ女性はスルターンから遠ざけられる・」という慣習があった。しかし、スレイマン1世はヒュッレム・スルターン(ロクセラーナ)が男子を出産した後も側に置き続け、最終的にヒュッレム・スルターン(ロクセラーナ)との間に5人の男子を儲けて正式な妻に迎えた
 オスマン朝では西暦14世紀後半に在位したムラト1世以来、妃と法的な婚姻関係を結ぶスルターンは存在しなかった。ヒュッレム・スルターン(ロクセラーナ)はこの慣習を破らせることにも成功した。婚姻関係を結ぶに当たり、スレイマン1世はヒュッレム・スルターン(ロクセラーナ)を奴隷の地位から解放する法的手続きを執った。ヒュッレム・スルターン(ロクセラーナ)はさらに、自らの地位を脅かしうる美貌の側室数人を降嫁させ、事実上の一夫一婦の関係を構築して自らの地位を盤石なものとした。2人の関係に対するイスタンブール市民の反応について、イタリア人のバッサーノは「スレイマンのヒュッレム・スルターン(ロクセラーナ)に寄せる愛情と信頼の深さは、全ての臣民が呆れかえるほどで、スレイマンは魔法に罹った。」とさえ言われている。
 また、ヒュッレム・スルターン(ロクセラーナ)は西暦1541年、自らが従える女奴隷や宦官とともにトプカプ宮殿内のスレイマン1世の居住区画に住むことを許された。


 ヒュッレム・スルターン(ロクセラーナ)はアッバース朝5代カリフ、ハールーン・アッ・ラシードの妃ズバイダに倣って慈善財団をつくり、メッカからエルサレムまでの公共建造物の多くに携わった。最初にモスクと2つの学校(マドラサ)、噴水と女性用の病院を、イスタンブールの女奴隷市場の近くに建築した。西暦1556年に建設された公共浴場ハセキ・ヒュッレム・スルターン・ハンマームの収入は当時、モスクとして使われていたアヤ・ソフィアへの財政支援に充てられた。エルサレムでは西暦1552年に貧窮者の公共給食施設であるハセキ・スルターン・イマレトを設けた。また、彼女自身もしくは彼女の監督下で作られた刺繍の一部は残っており、イラン国王のタフマースブ1世へ西暦1547年に送ったものや、西暦1549年にポーランド国王へ送ったものがある。彼女の秘書・仲介者としてエステル・ハンダリがよく働いた。
 残るセリムとバヤズィトのうち、ヒュッレム・スルターン(ロクセラーナ)はより有能なバヤズィトの即位を望んでいたが、いずれが後継者となるかを見届けることなく、西暦1558年04月15日に、50代半ばで死去した。

 セリムとバヤズィトの衝突を辛うじて抑えていたヒュッレム・スルターン(ロクセラーナ)の死後、両者の後継争いは激化し、セリムは側近のララ・ムスタファ・パシャの策謀によってバヤズィトに対するスレイマン1世の評価を低下させることに成功した。形勢不利を悟ったバヤズィトは軍事行動を起こしたものの、スレイマン1世の支持を受けたセリムの前に敗れ、イラン(サファヴィー朝)に亡命したが最終的にはセリムに引き渡され、西暦1561年に処刑された。

 「サルホシュ・セリム(酔っぱらいのセリム)」と呼ばれたセリムが後継争いに勝利したのは、臆病であったが故に自ら積極的な行動に出なかったためともとされるが、セリムに飲酒を薦めて無能者のふりをするように命じたためとも言われている。スレイマン1世の死後スルターンに即位したセリムは国家の運営を官人に任せきりにし、バーブ・ウッサーデ(至福の家)と呼ばれる館で酒と女に溺れる日々を過ごした。セリム2世以降、オスマン帝国の国家運営は官人による支配にスルターンが従う形で行われるようになった。

 「ハレム」と言う名称は、テュルコ語からイスラーム世界の外側の諸外国語に広まったもので、アラビア語ではハリーム(حريم、harīm)と呼ばれている。テュルコ語のハレムは、アラビア語のハリーム、ないしはアラビア語ではもっぱら聖地を指す語であるハラーム(حرم ḥarām)の転訛で、ハリーム、ハラームとも原義は「禁じられた(場所)」という意味で、ハレムとは、男性はその場所にいる女性の夫・子や親族以外、立ち入りが禁じられていたことから生まれた名称で、西暦10世紀以降、イスラーム国家の宮廷において後宮の発達に伴い、定着した。アッバース朝の衰亡後、アラブ人に代わりイスラーム世界屈指の大帝国を築いたオスマン朝においてもハレムは極めて大規模なものが存在した。
 オスマン朝の君主は4代バヤズィト1世以来、耶蘇教徒出身の女奴隷を母として生まれたものが多く、そもそも君主権が絶頂化して有力者との婚姻が不要となった西暦15世紀以降には、ほとんど正規の結婚を行う君主はいなかった。オスマン朝のハレムには、美人として有名なカフカス出身(とりわけ、チェルケス人)の女性を中心とする多くの女奴隷が集められ、その数は最盛期には1000人を越えたとされる。女性たちの他、イスラーム法により非回教徒であるヨーロッパ出身の白人宦官、およびアフリカ出身の黒人宦官がハレムで仕えた。
 女性たちは、様々な過程を経てハレムの中に入った。例えば、戦争捕虜や掠奪行による売却、貧困家庭からの売却によって奴隷身分となった。彼女らは、イスタンブールで購入されると、イスタンブール各所に置かれた君主の宮廷に直接下賜される者に限らず、政府高官によって買われ彼らの屋敷のハレムに入った者もいた。直接君主の宮廷へ入った者たちは、黒人の宦官によって生活を監督されながら歌舞音曲のみならず、礼儀作法や料理、裁縫、さらにアラビア文字の読み書きから詩などの文学に至るまで様々な教養を身に付けさせられた。また、政府高官に買われた女性たちも同様に様々な技量を身につけ、侍女として皇帝の住まうトプカプ宮殿のハレムに上納された。ムラト3世の治世では本だけ絶対に持ち込むことができなかった。

 ジャーリヤ(女奴隷、単数:jariya、複数:jawari)と呼ばれる彼女らの中から君主の「お手つき」になったものはイクバル(İkbal、幸運な者)、ギョズデ(Gözde、お目をかけられた者)と称され、私室を与えられて側室の格となる。やがて寵愛を高めたものはハセキ(Haseki、寵姫)、カドゥン(Kadın、夫人)などの尊称を与えられ、もっとも高い地位にある者はバシュ・カドゥン(Baş Kadın、主席夫人)の称号を持った。さらに後継者となりうる男子を産めばハセキ・スルターンと呼ばれるが、皇帝は原則として彼女らと法的な婚姻を結ぶことはなく、建前上は君主の奴隷身分のままであった。スレイマン1世の夫人ヒュッレム・スルターン(ロクセラーナ)は元耶蘇教徒の奴隷から皇后にまで取り立てられた稀有な例である。
 このように、厳しく、その立場は不安定極まりなかったオスマン朝のハレムの女性達の間では、権力闘争も激しくならざるを得なかった。しかし、一たび自身の生んだ息子が皇帝に即位することとなれば、ヴァーリデ・スルターン(母后、Valide Sultan)と呼ばれてハレムの女主人として敬意を払われる身分となる。西暦16世紀後半から西暦17世紀にかけてのオスマン朝は、皇帝独裁が保たれ政治の中心が宮廷に置かれたままであったにも拘らず幼弱な皇帝が相次いだため、ヌールバヌー・スルターン、キョセム・スルターンなど著名な母后たちが権勢を振るった(女人政治(女人の天下、Devr-i Sultanat)。
 一方、皇帝の母になれなかった側室たちや、皇帝の子を産むこともなく失寵した側室たち、また「幸運」に恵まれず寵愛を受けられなかった侍女たちは、時には皇帝から重臣に下賜されることもあったが、多くの場合皇帝の死去に伴い、「涙の家」と呼ばれる旧宮殿に移され、年金を与えられて静かに余生を送る運命であった。


 西暦15世紀以降のオスマン朝では、前皇帝の死後に即位した皇子は、皇位争いの対抗者となった兄弟たちを処刑する「兄弟殺し」の慣行があったが、ムラト3世の妃、サフィエ・スルターンの時代にも同じように、メフメト3世の即位にあたり、19人の異母兄弟たちは死刑執行人により紐で絞殺され、前皇帝ムラト3世の40人の愛妾達のうち、妊娠していた7人は、生きたまま袋に詰められ、真夜中のボスフォラス海峡に沈められた。しかし、このメフメト3世の時代以降、この慣行は廃止された。それまでの慣行が残酷だからというよりも、王朝の血統を絶やしてしまわないための方策だった。

寵妃ロクセラーナ - 渋沢 幸子
寵妃ロクセラーナ - 渋沢 幸子


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