ユダヤ(ギリシャ語: Ἰουδαία、Ioudaía、漢字:猶太)
他民族からは「ヘブライ人」と謂れ、自らは「イスラエル人」と称し、バビロン捕囚後には「ユダヤ人」と呼ばれるようになった徒輩。ヘブライ人、イスラエル人、ユダヤ人は同じ民族を指している。
ユダヤ人(ヘブライ語: יהודים、英語: Jews、ラジノ語: Djudios、イディッシュ語: ייִדן)は、猶太教の信者(宗教集団)または猶太教信者を親に持つ者によって構成される宗教信者。原義は狭義のイスラエル民族のみを指す。イスラエル民族の1つ、ユダ族がイスラエルの王の家系だったことを由来とする。猶太教という名称は、猶太教徒が多く信仰していた宗教であることによる。ユダヤとは、パレスチナ南部の地域。酋長ヤコブの子ユダに由来する。古代イスラエル統一王国の分裂後の南ユダ王国があった地域である。南ユダ王国滅亡後のユダヤの歴史
南ユダ王国が滅ぶと、僅かな例外的時期を除いて西暦20世紀に至るまでユダヤ民族が独立国を持つことはなかった。
神武天皇74(西暦前587)〜安寧天皇10(西暦前539)年 新バビロニア帝国
安寧天皇10(西暦前539)〜孝安天皇61(西暦前332)年 アケメネス朝ペルシア帝国
孝安天皇61(西暦前332)〜孝安天皇88(西暦前305)年 プトレマイオス朝エジプト
孝安天皇88年(西暦前305)〜開化天皇17(西暦前141)年 セレウコス朝シリア
開化天皇17(西暦前141)〜崇神天皇35(西暦前63)年 ハスモン朝 ユダヤ人国家
崇神天皇35(西暦前63)〜崇神天皇61(西暦前37)年 共和政ローマ元老院属州
崇神天皇61(西暦前37)〜垂仁天皇73(西暦44)年 ヘロデ家
垂仁天皇73(西暦44)年 ユダヤ属州(ローマ帝国皇帝属州)
垂仁天皇73(西暦44)〜景行天皇23(西暦93)年 ヘロデ家
垂仁天皇73(西暦44)〜仁徳天皇83(西暦395)年 ローマ帝国皇帝属州
仁徳天皇83(西暦395)〜舒明天皇06(西暦634)年 東ローマ帝国
舒明天皇06(西暦634)〜永正13(西暦1516)年 イスラーム諸王朝 途中に十字軍国家の時代を含む。
永正13(西暦1516)〜大正06年(西暦1917)年 オスマン帝国
大正07年(西暦1918)〜昭和23(西暦1948)年 イギリスによる国際連盟の委任統治
昭和23(西暦1948)年 イスラエル国(メディナット・イスラエル)成立 共和政国家の樹立、現代に至る。 西暦135年、ローマが叛乱を鎮圧し、ユダヤ的なものを一掃しようとしたローマ人は、この土地をユダの地(ユダヤ)ではなく、ユダヤ人の宿敵ペリシテ人に因んで「パレスチナ」、エルサレムを「アエリア・カピトリーナ」と改称し、ユダヤという地名は消滅した。 また、ユダヤ人は人種的にはセム族とされるが、長いディアスポラ(離散)のなかで、周辺民族との混血の結果、セファルディームとアシュケナジームの違いが生じ、また言語もイデッシュ語などが生まれた。現在、ユダヤ人はイスラエルの他、世界中に分布しており、アメリカにも約600万人が住んでいるとされる。しかし現在ではユダヤ人を「人種」概念で捉えるのは困難で、現実には「猶太教を信仰する徒輩」と捉えるのが正しい。人類学的に同質のユダヤ人は存在しない。 西暦1290年の追放令は改宗したユダヤ人(コンベルソ、converso)(隠れ猶太教徒、マラーノ、marrano、西語で豚の意)には適用されなかった。西暦1492年のスペイン王国からの追放で、ユダヤ人が「スペイン人」としてイギリス王国にも来た。しかし、ヘンリー7世が、息子とアラゴン王女カザリンとの結婚に際して、ユダヤ人の立入りを禁じた。しかし、この禁止令は部分的にしか守られなかった。ヘンリー8世治世下の西暦1540年、ロンドンに37家族のマラーノによる植民地が形成されたが、西暦1542年に解散させられた。なお、ヘンリー8世は亡兄ウェールズ公に嫁いだアラゴン王女カザリンと結婚していたが、カザリンとの離婚の根拠を探すために、イタリアのラビに問い合わせている。
テューダー王朝(西暦1485〜1603年)時代には、隠れユダヤ人は国王政府によって、むしろ積極的に活用された。その最大の要因を作り出したものが、西暦1534年のヘンリー8世による「国王至上法」(Act of Supremacy)の制定である。これによってイギリス王国はローマ教会から離れ(実際には破門された)プロテスタントになったが、「ローマ教会およびカトリック国、中でも強国スペイン王国から侵攻を受けるのではないか。」という不安があった。このため、ヘンリー8世はセファルディームと呼ばれるポルトガル系とスペイン系の隠れユダヤ人を保護し活用した。特に外国貿易に従事したり、医師が多かったポルトガル系の隠れユダヤ人をスペインの動向を探るために利用したとされる。
ヘンリー8世の娘のエリザベス1世は、西暦1559年「国王至上法」を再制定し、カトリック勢力の攻撃に備えた。その最大の困難が西暦1588年フェリペ2世によって差し向けられた「スペイン無敵艦隊」(Invincible Armada)の来襲である。この時エリザベス女王の懐刀であり諜報組織を束ねる国務大臣ウォルシンガムはロンドン在中の医師エクトール・ヌネスなどの情報網を通じて、スペインのイギリス侵攻の情報を摑んだことから、十分な迎撃体制が執れた。
ヘンリー8世やエドワード6世治下のロンドンに「マラーノ」の小居住地が設けられ,メアリ女王即位によるカトリックの巻き返しで一旦消滅したものの,エリザベス1世時代には、ロンドンやプリストルで半ば公然と(つまり半ば非合法的に)ユダヤ人集会も公然と行われるようになり、その中には、貿易活動の傍らヨーロッパ大陸から軍事・外交上の機密情報をイギリス政府に伝えたユダヤ人医師で貿易商人エクトール・ヌネスや、「侍医でありながら女王の毒殺を図った。」として処刑されたユダヤ人ロデリーゴ・ロペスがいた。
ジェームズ1世の治世下では、西暦1609年に、隠れユダヤ人同士の内紛が原因となって、ポルトガル系の隠れ猶太教徒に国外追放令が出されたが、実際には、多くのユダヤ人がイギリス王国に留まったようである。元はと言えば、ローマ教会からの離脱後、カトリック勢力の侵攻から国を守るために隠れユダヤ人を利用したヘンリー8世やエリザベス1世は、イギリス的な「実益主義」(utilitarianism)の実践者であった。つまり西暦17世紀初頭(エリザベス女王の最晩年)には、国の上層部、すなわち司法、行政、外交レベルでは、ユダヤ人の再入国を許すべきとの方向性が出されていた。
一般大衆の中には依然としてユダヤ人に対する嫌悪感は強く残って反ユダヤ主義が高まり、劇作家クリストファー・マーロウの「マルタ島のユダヤ人」(西暦1590年)では財産を没収されたユダヤ人が復讐する。ただしこれには無神論者だったマーロウがユダヤ人の悪魔が吐く台詞によって耶蘇教体制の偽善を批判したという見方もある。西暦1594年にユダヤ人侍医ロデリーゴ・ロペスがエリザベス女王毒殺未遂事件が起こり、裁判に掛けられ処刑された。同じ頃、シェイクスピアの「ヴェニスの商人」(西暦1596年)では、高利貸しユダヤ人シャイロックが返金しないアントーニオに対して肉片を要求するが、裁判で逆に財産を没収され耶蘇教に改宗されてしまう。クリストファー・マーロウの「マルタ島のユダヤ人」やシェークスピアの「ヴェニスの商人」などの反ユダヤ主義的な演劇が庶民に受けたことに現れている。 西暦16世紀、スペイン王国やポルトガル王国出身の改宗ユダヤ人(マラーノ)が、オランダ王国、イタリアの金融市場、大西洋貿易、東方貿易の開拓者となっていった。スペイン王国支配下のアムステルダムは大西洋貿易の中心地となった。
マラーノが権勢を誇る一方で、ドイツのユダヤ人は生活の基盤を失われ苦しんでいたため、マラーノを「純粋ユダヤ人ではない。」とする状況になった。西暦1531年、アルザスのユダヤ人ロースハイムのヨーゼルは、富裕なマラーノの入植地が根を張っていたアントワープに対して、「ここにはユダヤ人がいない。」と書いた。
西暦1614年、フランシスコ会修道士ジャン・ブーシェはユダヤ人を「かつて祝福の対象とされながら、今では呪いの対象とされている種」「世界の四方を惨めに彷徨い歩いている種」として、「テュルコ人はユダヤへの憎悪の結果、ゴルゴダの教会広場でユダヤ人を見かけた耶蘇教徒はユダヤ人を殺しても罪に問われなかったし、またユダヤ人が西暦1291年にイングランド王国で、フランス王国(西暦987〜1792、1814〜1815、1815〜1848年)で西暦1182年にフィリップ2世尊厳王、西暦1306年にフィリップ4世美麗王、西暦1322年にフィリップ5世長躯王によって、スペイン王国で西暦1492年にフェルディナンド2世によって追放されたのは、ユダヤ人が耶蘇教徒に対して不敬の態度を示し讒言を差し向けたからである。」と述べた。
西暦1615年05月12日、14歳のフランス王ルイ13世とその母で摂政のマリー・ド・メディシスが数年来、「ユダヤ人が身分を偽って王国に入り込んだ。」として、西暦1394年のシャルル6世によるユダヤ人追放令を更新した。ただし、ボルドーとバイヨンヌのマラーノには適用されなかった。西暦1615年について年代記作家は「不信心と良俗紊乱」の1年であり「魔法使い、ユダヤ人、呪術師が堂々とシャバト(安息日)を祝い、シナゴーグでの儀式を行った。」と記録している。魔女はシナゴーグとも呼ばれ、また安息日を意味するヘブライ語のシェバトからサバトとも呼ばれるようになった。 西暦1541年、ナポリからユダヤ人が、パレスチナの地に移住した。西暦1548年、ラビで、カバラー学者のモーセ・コルドベロ(Moses ben Jacob Cordovero)がトーラーの神学的解釈の体系的記述となっている主著「柘榴の庭 Pardes rimmonim」を著した。西暦1563年、サフェドにヘブライ語印刷所が設置された。西暦1555年、法王国家アンコーナで隠れ猶太教徒の弾圧。
西暦1614年08月22日のフランクフルト・フェットミルヒの掠奪(Fettmilch-Aufstand)。ユダヤ人が居住するフランクフルト・ゲットーが襲撃された。フランクフルトの豚肉商フェットミルヒたち職人層がユダヤ人のゲットーを襲撃し、暴徒は金品を強奪し、借用証書とトーラーを焼き払うために火を放った。ユダヤ人住民は命の犠牲は免れたが、財産を奪われ、また、他の土地へ移っていった。数ヶ月後、ヴォルムスでもユダヤ人ゲットーが同様の襲撃事件が起きた。地方政府も帝国政府も和解に努めたが、暴動の首謀者は熱烈な歓呼に包まれた。ドイツの大学法学部は「今回の襲撃は昼間の襲撃であったが松明をもって行われており、法範疇に属さないため、罪科の対象とはならない。」と判断した。その後、神聖ローマ皇帝マティーアスによってユダヤ人は神聖ローマ帝国軍の厳重な護衛の下、フランクフルトに戻った。このフランクフルト騒動後、国家権力によってユダヤ人は保護され、ドイツにおける反ユダヤの実力行使は途絶えた。その後数世紀、反ユダヤ主義を主張する多くの作家、思想家が登場したが、ドイツのユダヤ人には一定の平和が訪れた。
西暦17世紀、ユダヤ人虐殺事件は少ないものの、フランクフルト市では、ユダヤ人識別章の着用が義務化され、耶蘇教徒の下僕の雇用禁止、明確な目的になしに街路を通行することの禁止、耶蘇教祭日や君主の滞在期間中の外出禁止、市場では耶蘇教徒が買い物を済ませた後でなければ買い物はできなかったなど、制限されていた。ユダヤ人はフランクフルトの「市民」ではなく「被保護者」または「臣民」と規定された。これはナチスドイツ時代も採用した区分であった。
西暦1563年にユダヤ法の最後の大法典である「シュルハン・アルーフ」をヨセフ・カロ(Joseph ben Ephraim Qaro(Caro, Karo) がオスマン朝領パレスチナのツファットで著じた。
西暦16世紀、エルサレムに「4つのセファルディームシナゴーグ」が設立された。イツハク・ルリア(Yitzchaq Luria)はオスマンシリアのガリラヤ地方のツファットで、主要なラビを務めたユダヤ教神秘主義者。現代カバラの父と見做される。彼の死後西暦16世紀後半、ルリアを記念して、ツファットにアリー・アシュケナジー・シナゴーグが建設された。 西暦1569年、ルブリン合同。制度的同君連合である。これにより、ポーランド王国とリトアニア大公国はポーランド・リトアニア共和国に統合された。実質的には、ポーランド王国によるリトアニア大公国の併合。
オスマン朝(西暦1299〜1922年)領 その3
10代皇帝スレイマン1世と寵妃ヒュッレム・ハセキ・スルターン(ロクセラーナ)の子のオスマン朝の11代皇帝、セリム2世(土語: II.Selim)は、軍事活動への関心を持たずに大臣たちに権限を委ねた最初のスルターンであり、専ら放蕩と飲酒に耽っていた。そのため、「酒飲み」、「酔っ払い(Sarhoş Selim)」の仇名で呼ばれた。父スレイマン1世の存命中はコンヤを任地とし、西暦1545年にヴェネツィア貴族の家系に連なるチェチーリア・ヴェニエル・バッフォ(ヌール・バヌ)を妻に迎えた。西暦1554年のペルシャ遠征では、アナトリア半島出身の兵士で構成された右翼軍の指揮官を務めた。
西暦1530年代より、オスマン朝宮廷内ではスレイマン1世の後継者の地位を巡る暗闘が起こり、スレイマン1世の寵妃ヒュッレム・ハセキ・スルターン(ロクセラーナ)は自分の息子を後継者に据えるため、皇子シェフザーデ・ムスタファに対し策謀を巡らせていた。スレイマン1世とその愛妻マヒデヴラン・スルターンとの間に生まれたムスタファはスレイマン1世の皇子の中で最初に成人できた息子であった。父スレイマン1世はムスタファよりも異母弟のメフメトを溺愛していたが、ムスタファとヒュッレム・ハセキ・スルターンの子のメフメトの仲は良好であった。幼い頃はマニサで育ち、オーストリアの大使は「スレイマンにはムスタファという息子がおり、礼儀正しく、慎重な性格で高貴な人である。」と評し、ムスタファが9歳の時にベネツィア大使は「ムスタファ皇子は並外れた才能をもっており、将来戦士となってイェニチェリに支持されるだろう。」と述べている。
西暦1553年のスレイマン1世の東方遠征中、スルターンの軍隊はエレリに進駐した。その間、リュステム・パシャらはムスタファに軍を率いて父帝と合流するように要請した。しかしリュステム・パシャはその一方で「ムスタファ皇子が軍隊を率いてスルターンの命を奪おうとしている。」とスレイマンに讒言した。この知らせを母マヒデブラン・スルターンはムスタファに伝えたが、ムスタファは無視し、そのためスレイマン1世はムスタファを自身の天幕に呼び、処刑を命じた。ムスタファは父の退位を画策したというのでスレイマン1世から死刑を命じられた。ムスタファは天幕に入ったところを襲われ、長時間抵抗したが最後はリュステム・パシャの側近のマフムト・アガによって絞殺された。突然のムスタファの処刑にイェニチェリは怒り、叛乱を起こす寸前にまで至った。
ムスタファが処刑されると、セリムとバヤズィトの兄弟がスレイマン1世の後継者候補として残った。セリムはイェニチェリ、バヤズィトはティマールの保有者と農民から支持を受けていた。ヒュッレム・ハセキ・スルターン(ロクセラーナ)は怠惰で酒飲みのセリムよりも有能なバヤズィトを後継者にと考えていたと思われるが、2人が決裂して骨肉の争いが起きないように配慮していた。西暦1558年にヒュッレム・ハセキ・スルターン(ロクセラーナ)が没すると、セリムとバヤズィトは互いの側近を加えて政争を開始した。セリムの家庭教師を務めていたララ・ムスタファ・パシャの偽書を使った策略によって、バヤズィトはスレイマン1世から疎まれるようになった。スレイマン1世はセリムの任地をコンヤからキュタヒヤに変え、バヤズィトをアマスィヤへと更迭した。西暦1559年にバヤズィトはアマスィヤへの異動を拒んで挙兵し、テュルクマンとティマールの保有者を中心とする20000の軍隊がバヤズィトの下に集まった。しかし、大宰相ソコルル・メフメト・パシャの率いるイェニチェリ、スィパーヒー、砲兵隊がスレイマン1世からセリムの元に派遣され、コンヤ近郊の戦闘で数で優位に立つセリムがバヤズィトに勝利した。サファヴィー朝に亡命したバヤズィトと彼の子たちがスレイマン1世とセリムの要請によって処刑されると、父に反抗する姿勢を取らなかったセリムが最後の後継者として生き残った。
西暦1566年09月にスレイマン1世がハンガリー遠征(スィゲトヴァール包囲戦)中に陣中で死去し、軍規の維持のためスレイマン1世の死は秘匿され、ソコルル・メフメト・パシャとごく一部の側近を除いてスレイマン1世の死を知る者はいなかった。ソコルル・メフメト・パシャは芝居を打ってスレイマン1世が生きているように見せかけ、セリムに書簡を送ってハンガリー遠征軍に合流するよう指示した。セリムはキュタヒヤを発ち、ベオグラード近郊で遠征軍と合流した時に初めてスレイマン1世の死が明らかにされた。スレイマン1世の死の直後から兵士たちは下賜金を要求して示威行動を行い、即位前の継承戦で資金を使い果たしていたセリムは姉のミフリマー・スルターンから50000ドゥカートの借金をして賞与を補った。セリムがイスタンブールに入城した後も兵士たちの要求は続いたが、ソコルル・メフメト・パシャが数人のイェニチェリを斬首して騒ぎはようやく収まった。
セリム2世は即位後一度も親征を行わず、イスタンブールのトプカプ宮殿とエディルネの狩場で日々を過ごした。セリム2世の在位中は、ボスニア出身の大宰相ソコルル・メフメト・パシャがスレイマン1世の晩年から引き続いて国事の大部分を担った。
西暦1566年にジェノヴァ共和国が領有するキオス島がオスマン朝の支配下に入った。しかし、同年にイエメンでシーア派の一派であるザイド派の指導者が叛乱を起こし、叛乱は長期に及んだ。
西暦1568年02月17日にイスタンブールで神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世と和平条約が締結され、マクシミリアン2世が毎年30000ドゥカートの「貢納」を支払い、モルダヴィア公国とワラキア公国におけるオスマン朝の宗主権を認めさせた。和平の期間は8年間であったが、オスマン朝と神聖ローマ帝国の友好関係は西暦16世紀末まで保たれた。また、講和後にオスマン朝の領域外に取り残されたテュルコ人を国内に移住させる運動が行われた。西暦1569年に、セリム2世はフランス王シャルル9世にカピチュレーションを授与した。カピチュレーションによってフランス王国の臣民にかけられる関税は5%に制限され、オスマン領内に駐在するフランス大使・領事に保護が与えられた。従来スレイマン1世がフランス王フランソワ1世に授与したと考えられていたカピチュレーションは、西暦1559年にフランソワ2世に授与したとする説が近年有力。
しかし、北方のロシア・ツァーリ国との関係は順調なものではなかった。オスマン朝とロシア・ツァーリ国(西暦1547〜1721年)の最初の遭遇は、後に訪れる災厄の前兆として現れた。オスマン朝宮廷でヴォルガ川とドン川を結ぶ運河の建造が計画され、西暦1569年の夏にイェニチェリと騎兵隊からなる大部隊によってアストラハンの包囲が開始された。包囲と同時に運河の工事が開始され、ドン川の河口部に位置するアゾフにオスマン朝艦隊が集結した。しかし、アストラハンの包囲は守備隊の反撃によって失敗した。運河の工員は15000人からなるロシア軍の救援隊の攻撃を受けて散り散りになり、工員を保護するためにクリミアの軍隊が派遣された。さらに、アゾフに集結した艦隊は嵐によって壊滅した。西暦1570年の初頭にロシア・ツァーリ国イヴァン4世から派遣された大使がイスタンブールに到着し、オスマン朝とロシア・ツァーリ国の間に和約が締結された。
セリム2世の治世には、ヴェネツィア共和国によるオスマン朝の船舶襲撃の拠点となっていたキプロス島の遠征が計画された。キプロス島はアナトリア半島・シリア・エジプトを結ぶ海路の維持に欠かせない要衝であり、ヴェネツィア共和国はキプロス島を保持するために毎年10000ドゥカートをオスマン朝に支払っていた。予てよりオスマン朝はキプロス島の獲得を望んでおり、西暦1570年春にセリム2世はソコルル・メフメト・パシャの諌止を押し切ってキプロス遠征を決定した。同年07月にオスマン朝艦隊はキプロス島を包囲し、西暦1571年にララ・ムスタファ・パシャ指揮下の軍隊がキプロス島を制圧した。キプロス島がワインの産地であるため、キプロス島遠征に際してイスタンブール市民は「セリムはワイン目当てでキプロス島遠征を始めたのだろう。」と噂し合った。キプロス島の陥落は耶蘇教世界に衝撃を与え、ローマ法王ピウス5世の提唱によってカトリック教国からなる連合軍が結成された。西暦1571年10月07日にオスマン朝艦隊はレパントの海戦でカトリック教国の連合軍に敗北した。
後世の西欧の歴史家はレパントの海戦に強い関心を示し、「オスマン朝の没落はレパントの海戦の敗戦から始まった。」と殊更に強張したが、レパントの海戦はオスマン朝海軍の人材に打撃を与えたものの、帝国が衰退する原因になったとは言えない。 戦後、ソコルル・メフメト・パシャはヴェネツィア共和国との戦いに備えて、翌年の春までに艦隊を再建することを命じた。資金を不安視する大提督クルチ・アリー・パシャ(ウルチ・アリー・パシャ)、レパントの戦いがオスマン朝に与えた打撃を探ろうとするヴェネツィア共和国の使者らに対して、ソコルル・メフメト・パシャは余裕を示して資金が潤沢であり、オスマン朝の被害は微少であると答えた。西暦1572年06月に再建されたオスマン朝海軍は250隻からなる艦隊を地中海に出撃させ、またヴェネツィア共和国はオスマン朝との戦争の継続に積極的な姿勢を示さなかった。西暦1573年03月にフランス王国の仲介によってオスマン朝とヴェネツィア共和国は講和し、オスマン朝のキプロス島保持、ヴェネツィア共和国のオスマン朝への賠償金の支払い、ダルマティア地方の情勢を維持することが取り決められ、ヴェネツィア共和国にカピチュレーションが授与された。
西暦1574年にクルチ・アリー・パシャとイエメンの征服者コジャ・シナン・パシャ率いるオスマン朝艦隊がスペインの支配下に置かれていたチュニジアに派遣され、08月にチュニジアを奪還した。
西暦1574年、セリム2世はワインを1瓶飲み干した後にトプカプ宮殿の新築された浴場に行き、濡れたタイルで滑って頭を打ち付け、11日後セリム2世は死んだ。セリム2世の死により、ソコルル・メフメト・パシャが計画していたヴェネツィア共和国攻撃の計画は中断され、跡を子のムラトが継いだ。
西暦1574年、父のセリム2世の突然の死亡の報を任地のマニサで受け取ったムラトの5人の弟はみな幼く、未だ知事として任命されてなかったため、彼は実質的に唯一の継承者と見做されていた。大宰相ソコルル・メフメト・パシャから送られてきた知らせには、マルマラ海岸でムラトを迎える船が用意されるとのことだったが、駆けつけたムラトを迎える船は来なかった。已むなく自ら手配した船でムラトは酷い嵐に悩まされつつもトプカプ宮殿に辿り着いた。12代皇帝ムラト3世(Murad III)に即位した後は、祖父スレイマン1世(大帝)時代の大宰相ソコルル・メフメト・パシャや、その後を受けた妃サフィエ・スルターンの補佐を受け、彼自身は何もしなくても宰相たちが政務をやってくれるという体制が続いた。
西暦1578〜1590年までの12年間、イランのサファヴィー朝と交戦した。ソコルル・メフメト・パシャは開戦に否定的であったが、ムラト3世は主戦派におされ、戦争を開始した。サファヴィー朝はタフマースブ1世の死後宮廷は乱れ、さらに貴族たちの間で派閥争いが起きていた。この隙をついて、オスマン朝はアゼルバイジャンなどのコーカサス獲得を目的としてクリミア・ハン国と共に戦争を始めた。オスマン朝は早くもイラン西部を獲得し、クリミア・ハン国率いる軍隊はアゼルバイジャンを攻撃した。西暦1583年に松明の戦いで勝利しいよいよコーカサス、イラン西部の支配を固め、西暦1585年にタブリーズを、西暦1588年にカラバフを攻略した。西暦1590年にサファヴィー朝と和平を結び、コーカサスの支配権を認めさせた。しかしこれも、名宰相たちのお蔭でしかなく、サファヴィー朝側が王を交代や西暦1587年のシャイバニー朝(西暦1428〜1599年)の侵入、さらにサファヴィー側の内紛、シャー直属のグズルバシュ同士の内紛、といった条件が重なった結果であった。戦争中にソコルル・メフメト・パシャは暗殺され、帝国の政体は軍事国家から官僚国家に移行して行くことになる。しかし、後にアッバース1世の下でサファヴィー朝が勢いを取り戻し、反撃に出た。西暦1603年にタブリーズを奪還され、さらにグルジア、アゼルバイジャンの要衝を奪われたため、西暦1607年までにオスマン朝はムラト3世時代に獲得した領土を全て失った。
このような状況は西の戦線でも見られ、西暦1591年にオスマン朝のボスニア州の知事がハプスブルク帝国(西暦1526〜1804年)王領ハンガリー(西暦1526〜1867年)に侵攻したのを契機として西暦1592年に、ビハチ城塞を陥落させた。そこで耶蘇教徒5000人が殺害された。西暦1593年、コジャ・シナン・パシャに引きずられ、有力軍人たちの覇権争いの結果として、本格的に王領ハンガリーへの侵攻が始まった。当初はウィーンに通じる要衝のジュールを占領するなど戦果を挙げた。しかし、シサクの戦いで敗れ、西暦1595年にエステルゴム要塞を失った。オスマン朝の不利と見たトランシルヴァニア公国(西暦1571〜1711年)、ワラキア公国、モルダヴィア公国の3国はハプスブルク帝国側についた。さらには、カルガレニの戦いでシナン・パシャ率いる軍がミハイ勇敢公に敗れた。この戦争においてある城を取れば別の城が奪われるという一進一退の状況が生まれた。このハプスブルク帝国との戦争は長期にわたり、和議が成立したのは、アフメト1世の頃だった。
ムラト3世の治世中の西暦1580年代、財政赤字が表面化した。西暦1581年に初めて年間の収支が赤字になった。オスマン朝は大量の兵士を雇う金と、新技術の導入、そしてサファヴィー朝との戦いやハプスブルク帝国との長期テュルコ戦争などの相次ぐ遠征により財政赤字はさらに拡大した。ムラト3世は、これを補うため、トリポリとチュニスの知事から大宰相を通じて賄賂を貰っていたという。財政悪化に対応すべく、西暦1589年に軍隊の給料を銀の保有量を減らした銀貨で支払った。しかし常備騎兵の間で不満が高まり、イスタンブールでは暴動が発生し、大宰相カニジェリ・シヤヴシュ・パシャは罷免された。さらに新大陸からの銀の流入が西暦16世紀以降の過剰人口と相まってインフレーションを引き起こした。これにより、食料価格は上昇し人々の購買力は半減した。特にアナトリア半島でのインフレーションは凄まじく、のちにジェラーリーの叛乱へと繋がることとなる。政府は税収を増やすべく、西暦1590年代から非回教徒が支払う人頭税を上記のインフレにあわせて税額を増やした。さらに、戦時などの臨時税であったアヴァールズ税を恒常化した。人頭税とアヴァールズ税の徴税に向かう徴税官には中央政府の周辺にいた常備騎兵が多く、これは彼らを徴税官として使うことで国庫に入る収入の確保と、彼らへの収入の2つが補填された。また、さらなる税収を増やすべく徴税請負制の導入、拡大をした。徴税請負制とは、本来スィパーヒーに与えられていたティマール地を没収してその税収を群単位でまとめて(これをムカーターという。)、選ばれし徴税請負人に一定の期間で徴税権を与えるものである。そもそもティマール地からは税収が入って来なかったため、これにより税収は増加した。徴税請負人は政府が決定し、高い価格を提示し、保証人が確保された人物に徴税権が与えられる。請負期間は3年から9年、もしくは最大12年与えられたが、もしもより高い価格を提示した請負人が出た場合、途中で打ち切ることもできた。そのため、1年程度で徴税請負人が交代した。ムカーターを買い取った請負期間は前払いで納税額の一部を国庫に納めた。この徴税請負制度は以前からあったが、西暦16世紀の末にその適用範囲が大幅に拡大された。この制度でオスマン帝国の税収に占める徴税請負制の割合は増加した。ただし、ティマール地を没収された騎兵たちは後にジェラーリーの叛乱で帝国に叛逆することになる。
ソコルル・メフメト・パシャの死後、ムラト3世はソコルル・メフメト・パシャのような強大な権力を持つ大宰相の存在を望まなかった。彼の時代には10回以上大宰相が交代した。短期間ながらも大宰相を任命しなかった時期もあったが、これは帝国史上異例のことだった。さらに自身を中心に権力を確立する政策を打ち出す。それは、ハレムを統括する黒人宦官長職が創設されたこと、母のヌールバーヌーが、ヴァリテ(母后)という称号を得たことは宮廷にムラト3世を中心とした党派の形成に一躍買った。スルターンの権威を高めるため、バヤズィト2世を上回る歴史書が書かれたのも彼の時代である。
ムラト3世自身はハレムに入り浸って快楽に溺れたために、自身の楽しみに乱費して、オスマン朝の財政をかえって悪化させ、帝国の衰退の原因を作り出してしまった。ムラト3世は、トプカプ宮殿の第2の庭に、自分のハレムを建設させた。トプカプ宮殿内に正式にハレムが建設されたのは、彼の代になってからだった。愛妾だけでも40人、所生の皇子女は100人以上を数え、皇子は即位したメフメト皇子の他に、19人いた。また、奴隷市場から1200人以上の美女を買い漁ったため、女奴隷の価格は2倍に高騰した。また、12年間におよぶ戦争で勝利したとはいえ、やはりその莫大な戦費は財政悪化の一因となってしまった。
やがてセルジューク朝テュルコの王族の末裔を称するシェムシ・パシャを寵愛し、その入れ知恵で大金を提供する者達に官職を与えるようになった。強欲な皇帝が公然と売官・収賄する腐敗ぶりを見て、シェムシ・パシャは公然と「わが王朝を滅ぼしたオスマン家に今や報復することが出来るぞ。腐敗は必ずや帝国を滅亡させるであろうから。」と揚言したという。西暦1579年にソコルル・メフメト・パシャが暗殺されるとシェムシ・パシャは大宰相になった。しかし翌年シェムシ・パシャが亡くなるとララ・ムスタファ・パシャが大宰相になるがすぐ亡くなったため、コジャ・シナン・パシャが大宰相を務めた。ただし、シナン・パシャも西暦1582年に解任されており、その後カニジェリ・シヤヴシュ・パシャを大宰相を任命しており、大宰相は頻繁に交代するようになる。その後もオズデミルオウル・オスマン・パシャ、ハディム・メシフ・パシャと大宰相は交代してるが西暦1586年にはカニジェリ・シヤヴシュ・パシャが再び大宰相に就任している。晩年にはイングランド女王エリザベス1世の国使が来訪している。
ムラト3世は妻のサフィエ・スルターンとの間にメフメトと2人の娘がいた。しかし、母后ヌール・バーヌは、もしもの時のためにムラトの一夫一妻制を快く思わなかった。王位継承から5、6年後、ムラト3世は妹から新しい女を贈られた。彼女らと性交を試みたが、ムラト3世は勃起不全だと判明した。母后のヌール・バーヌはサフィエ・スルターンと使用人を非難した。最終的には宮廷医がインポテンツの手術に成功したものの、副作用は急激な性的欲求の増加であった。彼が死去する時には彼に103人の子供がおり、男子は長男メフメト以外だけでも、19人もいた。西暦1595年、50歳で膀胱か腎臓の病気で死んだ。跡を子のメフメト3世が継いだ。
繁栄の裏ではスレイマン1世時代に始まった宮廷の弛緩から危機が進んでいた。西暦1578年にオスマン・サファヴィー戦争が始まると、西暦1579年にスレイマン1世時代から帝国を支えた大宰相ソコルル・メフメト・パシャがサファヴィー朝ペルシアの間者によって暗殺されてしまった。以来、宮廷に籠り切りになった君主に代わって政治を支えるべき大宰相は頻繁に交代し、さらに西暦17世紀前半には、君主の母后たちが権勢を奮って政争を繰り返したため、政治が混乱した。しかも経済面では、西暦16世紀末頃から新大陸産の銀の流入による物価の高騰(価格革命)や、トランシルバニア公国をめぐるハプスブルク帝国との紛争は西暦1593年から13年間続くこととなった。また、イラク、アゼルバイジャン、グルジアといった帝国の東部を形成する地方では、アッバース1世のもと、軍事を立て直したサファヴィー朝との対立が西暦17世紀に入ると継続することとなった。中央ヨーロッパ及び帝国東部の領域を維持するために、軍事費が増大し、その結果、オスマン朝の財政は慢性赤字化した。
極端なインフレーションは流通通貨の急速な不足を招き、銀の不足から従来の半分しか銀を含まない質の悪い銀通貨を改鋳するようになった。帝国内に流通すると深刻な信用不安を招き、イェニチェリたちの不満が蓄積し、西暦1589年には、彼らの叛乱が起こった。 メフメトは父12代皇帝ムラト3世と母サフィエ・スルターンとの間で生まれ、その後メフメトはマニサで父と母と過ごし、8歳の時に父が即位すると皇太子となり、西暦1582年に割礼を受け、父のムラト3世は空前の盛儀にしようとし、盛儀は1ヶ月間続いた。西暦1583年にはマニサの知事になり割礼を施したジェッラー・メフメト・パシャに女中として仕えていたハンダン・スルターンと親しくなり程なくして夫人にした。
西暦1595年、父帝の死去によりメフメト3世(Mehmed III)は13代皇帝に即位した。しかし父と同じく無能な皇帝で、政治は母后や宰相らに任せ切りであったため、帝国の衰退が促進される治世期ともいえる。彼自身が、戦場に赴いたのは、即位直後の1度のみであった。
メフメト3世が即位した時には19人の男子の兄弟がいたが、慣例に従い止むを得ず全員殺した。宮廷を出る前スルターンとその子供たちの棺の列があまりにも長かったため、人々は哀れみ、嘆き悲しんだ。このため、次に即位したアフメト1世は弟のムスタファ(後のムスタファ1世)を殺さずに残し、以後、新スルターンの即位する時の兄弟殺しは、行われなくなった。 ハンガリーの長期戦争では、西暦1596年にエゲルを占領し、メフメト3世率いる軍がメゼーケレシュテにおいて、ハプスブルク軍を打ち破った。これ以降はハンガリーでの軍司令官をクユジュ・ムラト・パシャを任命した。西暦1598年にはかつて占領したジュールがハプスブルク帝国に奪還された。西暦1600年にはオスマン朝軍はカニジャを占領するが、西暦1601年にセーゲシュフェヘールを奪われた。翌年にはセーゲシュフェヘールを奪還したが、ハンガリー支配の拠点のブダがハプスブルク帝国に包囲された。ブダの陥落こそは免れたものの、戦いは次第に辺境の城塞を巡る争奪戦の様相を呈した。
ハプスブルク帝国とハンガリーを巡って戦争している頃、足下のアナトリア半島やシリアでは、叛乱が相次いでいた。その叛乱者はジェラーリーと言う。財政難に陥った中央政府によって封土を没収されたスィパーヒーやワクフの減少によって貧困化したマドラサの学生、そして土地を没収された農民や遊牧民らであった。その叛乱の第1波は西暦1596年に始まった。ジェラーリーらは下級軍人のカラ・ヤズジュの叛乱に合流した。西暦1600年にカラ・ヤズジュは「スルターンである。」と宣言した。オスマン朝はハンガリー戦線に忙殺され、その討伐に十分な兵力を割けない事態で、カラ・ヤズジュは西暦1601年にソコルル・メフメト・パシャの息子でバグダードの知事のソコルルザーデ・ハサン・パシャに敗れたが、カラ・ヤズジュの兄のデリ・ハサンが翌年にソコルルザーデ・ハサン・パシャを討ち取った。西暦1602年にカラ・ヤズジュは死んだがデリ・ハサンが跡を継いだ。また、他の地方でも、ウズン・ハリルの乱、カレンデルオールの乱、ジャンポラントの乱などが起きた。ジェラーリーの叛乱において、騎馬で機動力のある山賊の集団が各地で村や町を襲ったため、オスマン朝の台帳にあったはずの村までが消える事態にまでなった。これにより、所領の村から徴税で生計を立てていた在郷騎士たちが、生活できなくなり、彼ら自身もジェラーリーになるという負の連鎖に陥った。さらには、カラ・ヤズジュ討伐にあたっていたはずのカラマン州軍政官も待遇への不満から叛乱軍に加わった。
ジャンポラントの乱を起こしたジャンポラント(アラブ名: ジュンブラード)は、「オスマン王家による支配を不正である。」と捉えて、自分がそれに取って代わろうとした。ジャンポラントは元々シリアとの国境に近いキリス地方の支配者であったが、勢力がシリアへ拡大するとレバノンの名家マアンオール家と結んでアレッポを足場に独立宣言をした。
カレンデルオールの乱を起こしたカレンデルオールは手下に当てた手紙で、「オスマン王家は圧政者で、彼らは増長しきっている。ジャンポラントの叛乱以降我々はオスマン家に見切りをつけ、命ある限りは彼らに服従しない。アッラーの加護があるならば我々は、オスマン軍を打ち負かし、ユスキュダル(ボスホォラス海峡のアジア側)からこちら側をオスマン王家に諦めさせる。」と書いてある。「オスマン王家はバルカン半島を支配すれば良い、アナトリア半島は我々が支配する。」という意思が感じられる。
また、メフメト3世は国内において、新しい困難に直面することとなった。それは西暦17世紀初頭のイスタンブールでの騒擾である。これは大宰相とイスラーム長老が対立し、前者はイェニチェリ、後者は常備騎兵と繋がることで、両集団の争いが暴力を伴う抗争に激化した。最終的には鎮静化したものの、これ以降度々この騒擾は繰り返されるようになった。この騒擾においては、常備騎兵軍団によってメフメト3世の廃位が仄めかされていた。
疑心暗鬼に陥ったメフメト3世は母后のサフィエ・スルターンの讒言により西暦1603年、「混乱の背後に何者かがいる。」として息子のシェフザーデ・マフムトとその使用人たちを処刑した。 晩年にはアッバース1世率いるサファヴィー朝がかつて父のムラト3世が獲得した領土に侵攻してきた。西暦1603年、暴飲暴食が原因で38歳で死んで、後を子のアフメト1世が継いだ。
アフメトが生まれた時、父のメフメトはまだ皇子でマニサの知事だった。彼が生まれる前にマフムトという兄がいたが、マフムトは西暦1603年にメフメト3世によって殺された。西暦1603年、38歳で崩御した父メフメト3世の後を継ぎ、アフメト1世(Ahmed I)13歳で14代皇帝に即位した。これは、これまでの歴代スルターンの中でメフメト2世の1度目の即位についで、最も若い即位だった。また、初めて地方の知事を経験せずに即位した。アフメト1世の若すぎる即位は、メフメト3世が長子マフムトを処刑したことと、メフメト3世自身が若くして急死したためである。外国語に堪能で、詩作を好み、剣術(フェンシング)や乗馬の名手であった。また温厚な人柄の持ち主で、精神病のあった弟ムスタファの処刑にも反対を主張し、ハレム内の「黄金の鳥籠」と呼ばれる皇帝に即位できなかった皇子達の監禁所へ幽閉するのに留めた。以後、継承慣行は明確に定まらないものの、父から子ではなく、オスマン家の年長者が継承する場合が増えていった。アフメト1世の即位は若すぎたので、母后のハンダン・スルターンが政務を取り仕切った。このため、アフメト1世は母后の影響を受けて非常に信仰心があるスルターンとして知られており、スルターンアフメト・モスクを建てた。
アフメト1世が即位した時、帝国は東西両方で戦争を続けており、王領ハンガリーとの長期戦争では、状況が逆転し、トランシルヴァニア公国、ワラキア公国、モルドバ公国では、反ハプスブルク帝国の叛乱が起き、トランシルヴァニア公国で傀儡のボチカイ・イシュトヴァーンを君公に選出した。また、オスマン朝は、大宰相のソコルルザーデ・ララ・メフメト・パシャの下、西暦1604年にペスト、ヴァークを奪還した。西暦1605年の08月にエステルゴム城塞を包囲し10月に陥落させた。そして、西暦1606年に、大宰相のクユジュ・ムラト・パシャによって、干渉地帯のジトヴァ川で、ジトヴァ・トロク条約が成立した。その内容は、互いに王と呼ばずに皇帝と呼ぶこと(第2条)、平和を守ること(第4条)、侵略を止めること(第5条)、神聖ローマ皇帝が20万フォリントをイスタンブールに届けること、エステルゴムとカニジャの城塞はオスマン朝に、コマロムの城塞はハプスブルク帝国が領有すること、などだった。また、ハプスブルク帝国の君主をカイザーと認めたことは画期的であり、コンスタンティノープル陥落以来、スルターンが唯一の称号として皇帝を名乗っていた。次にスルターンが皇帝として認めたのは、西暦1774年のキュチュク・カイナルジ条約の時であった。ジェラーリーの叛乱に対しては、クユジュ・ムラト・パシャ率いる政府軍が討伐にあたり、徹底した強硬な対応により、西暦1608年までに叛乱を鎮圧した。クユジュ・ムラト・パシャは西暦1611年に亡くなったため、後任にナスフ・パシャが就任した。ジェラーリーの叛乱の後、集権化を進めるためにアナトリア半島のラマザン侯国は廃止された。ラマザン侯国は西暦1516年にセリム1世に征服されたがその後90年にわたってラマザン侯国のベグは旧来の統治体制で治めていた。
その一方で東方ではサファヴィー朝の反撃により西暦1607年までにムラト3世の時に獲得した今のアゼルバイジャンの地域などのコーカサスの領土を失った。オスマン朝軍は失地を回復すべく、ユスフ・シナン・パシャの指揮のもと、ナフチバンを経由してエレバンを占領し、そこで冬を過ごした。その後タブリーズを取り戻すべくアッバース1世と戦ったが、敗れた。オスマン朝はサファヴィー朝に十分に対抗できないと考え、西暦1612年に大宰相ナスフ・パシャによって、ナスフ・パシャ条約を締結した。条約の内容は、サファヴィー朝がオスマン朝に絹200ラクダを送ること、国境を西暦1555年のアマスィヤの講話のものにすることだった。
西暦1612年、カピチュレーションを ネーデルラント連邦共和国(オランダ)(西暦1581〜1795年)に与えた。また、ジェノヴァ共和国、ラグサ共和国(西暦1358〜1808年)、アンコーナ、フィレンツェ共和国、スペイン帝国の商人たちもフランス王国の旗のもとに貿易できるようにした。
サファヴィー朝との和平を締結したナスフ・パシャは西暦1614年にアフメト1世によって処刑され、次の大宰相にオキュズ・メフメト・パシャが就任した。西暦1615年、サファヴィー朝がかつてナスフ・パシャ条約に定められていた絹200ラクダを送らなかったため、オキュズ・メフメト・パシャはペルシャ遠征の準備をし、西暦1616年にエレバンへ侵攻したが、これに失敗し、大宰相を解任させられた。変わって大宰相に就任したダマト・ハリル・パシャは冬にガンジャ、ジュルファ、ナフチバンを攻撃した。
アフメト1世の死去の直前の西暦1617年09月にイスケンデル・パシャの下、 ポーランド・リトアニア共和国(西暦1569〜1795年)とブシャの和約を締結した。この条約は、ポーランド・リトアニア共和国がトランシルヴァニア公国、ワラキア公国、モルドバ公国への干渉を止めること、ポーランド共和国の配下のコサックによる攻撃を止めることだった。その見返りにオスマン朝は配下のタタール人によるポーランド共和国への襲撃を止めることとなった。しかしその後もコサックとタタール人が互いに国境地帯を襲撃し続けてたため、条約は無視された。これにより後にツェツォラの戦い (西暦1620年)で衝突し、オスマン・ポーランド戦争(西暦1620〜1621年)へと発展することになった。
西暦1617年、アフメト1世はチフスが原因となり27歳で死んだ。
西暦1603年に父13代皇帝メフメト3世が死去すると、兄のアフメト1世が後を継ぎ14代皇帝に即位した。
兄弟殺しのオスマン朝の慣習でムスタファは殺されるところだったが、幽閉されるに留まった。幽閉中、母后のハリメ・スルターンや祖母のサフィエ・スルターンと会うこともあった。 兄の治世中、西暦1603〜1617年の14年もの長い間幽閉された。その理由は兄のアフメト1世に、もしものことがあった時に備えることなどであった。これ以降、現スルターンが死去、あるいは退位したさいは、現存する王族のうち、最年長の者がスルターンを継ぐのが慣例となった。アフメト1世が即位した翌年にはオスマン皇子が生まれ、さらにその次の年にはメフメト皇子が生まれたが、ムスタファが「用済み」として改めて処刑されることはなかった。ムスタファが精神的な問題を抱えていたためなのと、父のメフメト3世が即位した時の19人の兄弟を殺害したことが人々の悲観を招き、兄弟殺しが避けられたためだった。イスタンブールの世論はすでに政治家たちが無視できない要素となっていた。
その後ムスタファは殺されそうになったこともあるが、アフメト1世の妻のキョセム・スルターンの取りなしによって助かった。キョセム・スルターンにはメフメト皇子という息子がおり、ここで兄弟殺しの伝統が復活した場合将来メフメト皇子が異母兄のオスマン(母はマフフィルズ)の即位時に殺される可能性があったためである。 西暦1617年に兄のアフメト1世が死去した時、彼の皇子たちがスルターンになる資格がありその全員がトプカプ宮殿に住んでいたが、イスラーム長老エサト・エフェンディと大宰相代理のソフ・メフメト・パシャらが率いる宮廷派閥は、アフメトの息子オスマンの代わりにムスタファを即位させることを決めた。この時ソフ・メフメト・パシャは、「オスマン皇子は幼く、不人気になる。」と主張し、一方で黒人宦官ムスタファ・アガはムスタファ皇子の精神的な問題を理由に反対したが、結局前者の意見が採用された。
ムスタファの即位によって、今までのオスマン朝のスルターンの継承の慣行が変わり、初めて息子ではなく兄弟に皇位が引き継がれた。15代皇帝ムスタファ1世(Mustafa I)の母親のハリメ・スルターンは息子の精神状態が異常で母后として大きな力を行使した。その一方で定期的な社会的接触がムスタファの精神的健康を改善することが期待されたが、全くの期待はずれであった。彼は大宰相の髭やターバンを引っ張ったりするなど、当時の史家のイブラヒム・ペチェビは「このような状況は国民に見られており、心理的に混乱していることを見破られていた。」と記録している。女が自らの視界に入ることすら忌み嫌うほど極端に嫌悪していて、女を一切自分の側へ寄せつけることはなかったため、皇子女は1人も残していない。また、ポケットに入れた金貨銀貨を振り撒くという奇行を行った。 彼の行動は変わらなかったため、翌西暦1618年、在位3ヶ月で退位させられることとなった。
経済の混乱は西暦17世紀まで続くこととなった。さらには、アナトリア半島では、ジェラーリーと呼ばれる暴徒の叛乱が頻発することとなり、オスマン朝は東西に軍隊を裂いていたため、彼らを鎮圧する術を持たなかった。西暦1608年を頂点に、ジェラーリーの叛乱は収束を迎えるが、その後、首都イスタンブールでは、スルターン継承の抗争が頻発することとなった。 14代皇帝アフメト1世とその夫人のマフフィルズ・ハトゥン・スルターン(Mahfiruze Hatice Sultan)との間に産まれたオスマンは生後11ヶ月の時からアフメト1世の宮廷で過ごし、母のマフフィルズはオスマンに様々な教育を施した。そのためオスマンは父と同じく詩を好みアラビア語、ペルシア語、ギリシア語、ラテン語、イタリア語などが話せるようになった。外国の大使によるとオスマン皇子は帝国で最も文化的な人物であった。西暦1617年に父のアフメト1世が崩御した時には即位できず、叔父のムスタファ1世が15代皇帝に即位した。即位できなかった理由としては母のマフフィルがオスマンの若い頃に亡くなったか既に宮廷から追い出されていたためだと考えられる。
西暦1618年、叔父のムスタファ1世がクーデターにより退位したことを受け、14歳で16代皇帝に即位した。オスマン2世はまず、叔父ムスタファ1世を即位させた大宰相代理を罷免し、さらに、イスラーム長老エサトの影響力を削ぎ、高位ウラマー(イスラーム法学者)たちの力を抑えようとした。そして、自らの師父や白人宦官長を重用することで、オスマン2世自身を中心とした党派形成を試みた。
また、長年西暦1616年以来続けていたサファヴィー朝との戦争はセラブ条約を締結し、終止符を打った。内容は西暦1612年のナスフ・パシャ条約の時よりもサファヴィー側に領土を少し譲る形になった。この和平は西暦1623年にアッバース1世率いるサファヴィー側が破るまで継続した。
オスマン2世が次に企図したのは、ポーランド遠征であった。黒海北岸には、コサックと呼ばれる自由民が居住しており、ときおり黒海を船で南下しアナトリア半島北岸を掠奪していた。さらにはボスポラス海峡に侵入してイスタンブール郊外を襲撃することもあった。この忌まわしいコサックを背後からポーランド・リトアニア共和国が支援しているとして、西暦1621年、オスマン2世はポーランドへの親征を宣言したのである。親征の勝利によって自らの権威を高めるのも、彼の計画のうちであっただろう。ヨーロッパ側の史料では、バルト海進出を狙ってたとするものもある。
オスマン2世は出陣に先立ち、叛乱者に担がれる恐れのある弟メフメトを処刑している。この処刑にイスラーム長老エサトは反対したが、オスマン2世は、イスラーム長老に次ぐ帝国第2位のウラマーであるバルカンの軍法官より処刑を是とする法意見書を得て、後の混乱が起こらないように気をつけた。 親征によってオスマン2世の権威を確立させるはずだったポーランド遠征は成果なくして終わった。特にホティンの戦いでポーランド・リトアニア共和国に敗れた後は首都において凱旋を装ったがその効果は充分ではなかった。遠征より帰還後、生まれたばかりの息子のオメルを事故死で失った。ベネツィアの記録によると、オメルが誕生した祝いにオスマン2世は他の皇子たちと共に宮殿でポーランド遠征のショーを開いたという。しかしショーの最中にポーランド兵を演じている役者が誤って銃を乱射してしまいオメルに被弾したという。息子を失ってからオスマン2世は3日間沈黙したという。その後、有力政治家ペルデヴ・パシャの娘、そしてイスラーム長老エサトの娘との正式な婚姻を結ぶことによる影響力拡大を図った。君主と自由身分の回教徒女性との正式な婚姻は久しく行われておらず、まして臣下の娘への求婚は前代未聞であったため、エサトは反対した。
西暦1622年、オスマン2世はメッカ巡礼を宣言した。この宣言の意図は、オスマン朝支配に抵抗を繰り返しす豪族マアンオール・ファフレッティン討伐のためだったという。しかし、「オスマン2世がシリアに赴いて、当地でイェニチェリ軍団に変わる新たな軍団を創設、編成しようとしている。」という噂が流れた。シリアは非正規兵セクバンが初めて使われた地でもあるから噂の信憑性は十分だった。さらにはカイロに遷都しようとしているという噂も流れたため、高位ウラマーのみならず大宰相や黒人宦官長も巡礼を取り止めるようスルターンを説得したが、オスマン2世の意思は硬かった。事態は緊迫の度を増し、ついにイェニチェリ軍団はダヴト・パシャを大宰相に担ぎ上げ、彼らとともに蜂起し、オスマン2世を殺害した。諸説あるが、イェディ・クレ(七塔の砦)の牢内で絞殺されたと思われる。殺害後、遺体から切断された右耳が母太后の許へ送られた。
オスマン2世が殺害され、ムスタファ1世が復位し、この時も実権は母のハリメ・スルターンが握っていた。しかしその後も政治的に不安定な状況が続き、イェニチェリと騎兵隊の間の紛争と、それに続きエルズルム州総督のアバザ・メフメド・パシャはオスマン2世の殺害に反発してアナトリア半島で叛乱を起こし、イスタンブールは混乱に陥った。結局イェニチェリたちはこの混乱を収めるため自分たちの擁立した大宰相カラ・ダヴト・パシャを処刑することで混乱を収めようとした。さらに、新たな大宰相ケマンケシュ・アリ・パシャがハリメ・スルターンに息子を退位させるように説得し、ハリメ・スルターンはムスタファの命の保障を条件にこれに同意し、ムスタファ1世は廃位され、母親のハリメ・スルターンと共に旧宮殿に送られた。
異母弟のムラトがムラト4世として後を継いだ。アバザ・メフメト・パシャの叛乱は一時はアンカラやブルサまで拡大し西暦1628年まで続くこととなった。
ムスタファ1世は西暦1639年に死去した。
甥のムラト4世が、オスマン家を終わらせ、母親のキョセム・スルターンが権力振るうのを阻止するため、処刑した。別の説では、彼は48年間の人生のうち34年間幽閉されたことが原因で、癲癇で亡くなったという。
14代皇帝アフメト1世とその夫人のキョセム・スルターンとの間に生まれたムラトが5歳の時、父アフメト1世が亡くなり、叔父のムスタファ1世と兄のオスマン2世の短い治世の後、西暦1623年、叔父のムスタファ1世の退位で11歳のムラトは即位した。ムラトが即位した時、彼はまだ割礼を受けていなかったため、即位の5日後に割礼を受けた。17代皇帝ムラト4世(オスマン語:مراد رابع, 英:Murad IV)は、頭脳明晰、勇敢で非常に信仰深く、煙草と酒とコーヒーを禁止し、夜に出かけることも禁止した。
弟を3人殺害したりするなど、残忍な行為も多かった。また、科学を愛していたことからヘザルフェン・アフメト・チェレビが初飛行に取り組む時にも非常に興味を寄せていた。後に側近によりヘザルフェン・アフメト・チェレビを流刑とした。
即位した時、内部では、かつてオスマン2世の殺害に反発してアバザ・メフメト・パシャがアナトリア半島で叛乱を起こしていた。この叛乱はブルサやアンカラにまで飛び火してしまい、結局西暦1628年にアバザ・メフメト・パシャをボスニア州の知事にすることで鎮圧した。東方ではサファヴィー朝と過去に締結したセラブ条約が破られてしまい、西暦1623年にアッバース1世が侵攻してきており、翌年にはバグダードを奪われた。即位後はムラト4世は急速に教育を受け、治世前半は母后キョセム・スルターンが実権を握っていた。皇帝の母親が実権を握ったのは、帝国史上初めてということではなかったが、キョセム・スルターンは過去にないほどの膨大な権力を手にした。キョセム・スルターンの垂簾聴政を退け、ムラト4世が実権を握る契機となったのは、西暦1632年、大宰相らの処刑を求めて常備騎兵がイスタンブールで起こした騒擾である。これをイェニチェリ軍団の支持を取り付け鎮圧したムラト4世は、今こそ母后の影響力を脱する奇貨だと考えた。以降のムラト4世は、自身の権力を確立すべく積極的な政策を打ち出すようになる。その1つが、社会の規律強化のため、宗教的厳格派と呼ばれるカドゥザーデ派の人々の力を借りることだった。
西暦1625年の夏に始まったバランパシャの疫病は流行し、イスタンブールでは1日1000人が死んだという。西暦1633年には、イスタンブールで火災が発生し、都市の5分の1が消失した。30時間続いた火災は、風が止まった後に消された。
この火災の原因として煙草の燃えカスが挙げられ、煙草を吸うことは厳禁となった。煙草禁止を徹底するために家の煙突すらも調べたといい、もし煙草を吸っているのが発覚した場合には手足を切り落とされ、そのまま斬首された。ムラト4世の煙草嫌いは凄まじく、当時のコンスタンティノポリス(イスタンブール)の人口は100万人いたとされるが、そのうち3万人の喫煙者は彼の手で何らかの処罰を受けた。また、コーヒーに対しても厳しい禁令を出した。理由としては当時のカフェは政治の議論が頻繁にされており、カフェでイェニチェリや知識人、イスラーム法学者らが叛乱を企てるのを阻止するためと言われている。ムラト4世は煙草と珈琲の禁止がしっかり守られているかを確認するために変装して市井をパトロールした。もしも規律が守られていない者を見つけたら、その場で捕らえて処刑するなどした。これらの政策はイスラーム厳格派のカドゥザーデ派の支持があったからこそできたと思われ、カドゥザーデ派はウラマーであるカドゥザーデ・メフメト・エフェンディによって開かれた。彼らはクルアーンの教えを厳格に解釈し、そこから少しでも逸脱した行為を糾弾するなどした。さらにはカドゥザーデ派はモスクでの説教を通じて、一般大衆の心を掴み、腕の良い人気説教師は大きな影響力があり、ムラト4世は社会的規律を強化できかつ民衆の動員力をもつ説教師を利用することにした。
また、
ムラト4世は短気な性格であり、西暦1634年にブルサに向かう時には道路が整備されていなかったという理由でイズニクの知事を処刑した。このことをイスラーム長老を2年もの間勤めていたアヒザーデ・ヒュセイン・エフェンディは批判した。これに激怒したムラト4世はアヒザーデ・ヒュセインをキプロス島へ追放する処分を下した。しかし、ムラト4世は突如これを撤回し、追放処分から処刑へと決めた。結局アヒザーデ・ヒュセインはキプロス島へ向かう船に乗ってる途中で絞殺された。西暦1638年には宮廷の医師のエミール・チェレビーに阿片を吸わせた後、毒殺するなどした。ムラト4世は身内に対しても厳しく、姉のゲヴヘルハン・スルターンの夫のカラ・ムスタファ・パシャ(第2次ウィーン包囲を主導したカラ・ムスタファ・パシャとは別人)を殺害した。 秩序の乱れた帝国問題を解決するべく取り組みを始め、オスマン・サファヴィー戦争(西暦1623〜1639年)では、西暦1624年にサファヴィー朝のアッバース1世にバグダードを含むイラクが奪われると奪還を試んだ。西暦1625年に大宰相をイラクに派遣してバグダードを攻撃したが、あと1歩のところでアッバース1世率いる増援隊が到着したため、モースルへと撤退した。西暦1629年には大宰相のガジ・ヒュスレフ・パシャのもと、バグダードを奪還する作戦が再び開始したが、厳しい冬と洪水によって戦果が挙げられなかった。しかし翌年にはケルマーンシャー近くでサファヴィー軍を撃破することに成功し、ハマダーンを占領したその勢いでバグダードを再び包囲したが、この時も厳しい冬が襲って来ていたため、結局攻略できずに撤退した。これ以降サファヴィー朝のバグダード支配が確固たるものとなった。また、イラク遠征に従軍していた書記が「宿営日誌」に書き残し、ムラト4世の遠征時の様子と往復路が詳細に記されている。また彼は多くの詩を描き残した。さらに作曲家でもあり、「ウザフ・シュレフ」と呼ばれる曲を作った。
西暦1635年、ムラト4世率いるオスマン朝軍はエレヴァンへと進軍し、これを征服した。
この勝利の余勢を駆って、ムラト4世は、弟バヤズィトとスレイマンを処刑した。トプカプ宮殿の内廷にある豪華な東屋エレヴァン・キオスクはこの戦勝を記念して建てられたものである。しかし、そのエレヴァンは、翌年サファヴィー朝に奪還される。西暦1638年にムラト4世は再びイラクへ親征してバグダードを奪還した。これに先立ってムラトは再び弟カースムを処刑している。バグダードの包囲戦は11月15日に開始され、40日間の包囲戦の末、12月25日についにバグダードを陥落させた。しかし、最後の攻勢の時に大宰相は戦死してしまった。ムラト4世のバグダード遠征中、ムガル帝国(西暦1526〜1539、1555〜1858年)皇帝のシャー・ジャハーンの大使と面会している。面会の場では刺繍の施された1000枚の布と鎧が贈与された。オスマン朝側はその返礼に武器とカフタンを与えて、大使がバスラを出発して帰国する時には護衛の兵士を付けたという。ムラト4世は当初サファヴィー朝の首都イスファハーンを攻め落とす積りであったが、新しく大宰相となったケマンケシュ・ムスタファ・パシャは和平交渉を開始し、アッバース1世の孫サフィー1世とカスレ・シーリーン条約を結びイラク領有を確定させた。この条約は後にテュルコとイランの国境の基礎になる。イスタンブールに戻ったムラト4世はヴェネツィア遠征のために艦隊の編成を命じた。ムラト4世はエレバン遠征中に肝硬変を発症していた。これは短期間で回復したが、西暦1639年11月に再び症状が悪化した。これによりムラト4世はしばらくの間飲酒を控えていたが、症状の回復後飲酒を再開した。
ムラト4世は臨終の床で弟イブラヒムの処刑を命じたが、母后キョセム・スルターンによって防がれた。ムラト4世は皇位を側近の1人、もしくはクリミア・ハン国の者に継がせようとしていた。オスマン朝が断絶していた可能性もあった。「オスマン家が断絶した際は、チンギスハンの血を引くクリミア・ハン家がその跡を継ぐ。」という話が流布するようになるのは、この頃である。スルターン廃位が繰り返される西暦17世紀初頭において、オスマン王家に代わる王統の即位が、ありうべき未来として想定されたのである。西暦1640年に肝硬変により27歳で病死、イブラヒムが後を継いだ。
14代皇帝アフメト1世とその夫人のキョセム・スルターン(テュコ語: Kösem Sultan)との間に生まれたイブラヒムは2歳の時、突然父が崩御し、叔父のムスタファ1世が即位し、母后のキョセム・スルターンとイブラヒムも含めた息子たちは旧宮殿に幽閉された。ムスタファ1世の2度目の退位後は兄のムラト4世が即位し、イブラヒムはカフェスに幽閉された。
ムラト4世の治世中、兄のスレイマン、バヤズィト、セリム、カースムらが殺害されていく中でイブラヒムの心は病んでいき、25年間鳥籠で過ごした経験が彼の精神の均衡を崩していった。ムラト4世は崩御の間際にイブラヒムを殺害する様に命じたがキョセム・スルターンによって阻止された。 西暦1640年、兄ムラト4世の死で、イブラヒム(オスマン語:ابراهيم اول, 英:Ibrahim I、仇名は「Deli(狂人)」)は18代皇帝即位したが、兄の突然の死や宮殿内の陰謀による恐怖のために皇帝として即位したことを全く嬉しく思っていなかった。「鳥籠から出される際に皇位簒奪を恐れた兄によって兄弟殺しが行われる日が来たのだ。」と怯え、鳥籠を出ようとしなかったが、兄の死体を目の前にしてようやく安心して鳥籠を出た。即位当初は慈悲深く貧しい人々を助けることに努めたが、母太后や当時の大宰相が実権を握っていたためにあまり多くの業績を残すことがなかった。
イブラヒムは気まぐれで放縦、淫乱な皇帝で、多くの宝石類をプールに放り込んでは、ハレムの女たちが水中で拾い合う様子を眺めて悦に入ったり、1日に24人の女と性行為に及んだり、宮殿の亭から外の道行く人々に矢を射かけて興じたりする等々といった、常軌を逸した数々の奇行を行ったという。そのため彼は「デリ」(テュルコ語で狂人)と仇名された。第1妃トゥルハン・ハティジェ・スルターンがメフメトを出産し。下宮殿の内外は皇子の誕生をとても喜んだが、イブラヒムは長男が生まれてもトゥルハン・ハティジェ・スルターンに特に目を掛けないまま月日が過ぎ、第1后の日当をアクチェ銀貨で1000枚、届けさせるのみだった。むしろ女奴隷が産んだ子を皇太子よりも可愛がり、ある時、それをトゥルファン・ハティジェ・スルターンに詰られると、トゥルハン・ハティジェ・スルターンが抱いていたメフメトを泉水に投げ込み、あるいは、ロードス島に配流しようとした、その時の傷は成人してもメフメトの額に残った。異常な振る舞いが見られ、「狂人イブラヒム」とまで言われるようになった。また極度の肥満嗜好であり、帝国内で最も太った女性を探すよう命じ、シヴェカルという商人の娘を愛した。イブラヒムの宮廷にはいかがわしい人々が出入りし、ハレムはシェケルパル・ハトゥンという怪しい女性が仕切り、イブラヒムの病気を治す振りをして私腹を肥やしたジンジ・ホジャなどの祈祷師が出入りし、そうした者が政府の高官にまで上りつめ、ジンジ・ホジャは最終的にはアナトリア半島の裁判官になった。宮廷内は実質的には母后のキョセム・スルターンが取り仕切っていた。イブラヒムの治世末期にヒューマーシャーという奴隷を愛し、スレイマン1世とスレイマン1世と寵妃ヒュッレム・ハセキ・スルターン(ロクセラーナ)の正式な結婚が同時代の人たちに眉を顰められたのと同じく、オスマン家の慣例に反して正式に結婚している。これも彼の奇行に数えられる。
治世の前半は、大宰相のケマンケシュ・カラ・ムスタファ・パシャの下、ムラト4世のような厳格な規律を緩めた。西暦1642年にはハプスブルク家のオーストリア大公国(西暦1453〜1806年)と新しく和平を結び、同年にアゾフをコサックから奪還した。さらに貨幣改革で通貨の価値を安定させ、新しい土地調査も行なって財政を安定させようとした。ケマンケシュ・カラ・ムスタファ・パシャはイブラヒムを指導するために統治に関する書付を送り、今も現存している。イブラヒムはしばしば変装してイスタンブールの街を視察し大宰相に様々な問題を修正する様に命じた。しかし、ケマンケシュ・カラ・ムスタファ・パシャは西暦1644年にキョセム・スルターンによって処刑された。西暦1645年、軍事的にも行政的にも能力のない取り巻きが始めたクレタ島包囲はヴェネチア共和国の報復を招き、西暦1646年、ダーダネルス海峡はヴェネチア海軍に封鎖されイスタンブールは苦境に陥った。
西暦1648年、突如自らのハレムにいた側妾や女官、宦官ら280人を皆袋詰めにしてボスポラス海峡に投げ込むという暴挙を行った。さらに、イェニチェリ軍団への課税を試みた大宰相に対しイェニチェリが蜂起すると、ウラマーや母のキョセム・スルターンにまで見放されてしまい廃位され、大宰相「へザルパレ」・アフメト・パシャ共々殺された。アフメト・パシャは民衆からも怒りを買っていたため、遺体を切り刻まれ、バラバラにされた。「へザルパレ」の意味は千個の意。メフメトが次の皇帝に即位した。
父18代皇帝イブラヒムとロシア南東部出身のルス人の母トゥルハン・ハティジェ・スルターン(オスマン語: تورخان سلطان、Turhan Hatice Sultan、「慈悲深い」または「気高い」スルターンの意)との間にメフメトは生まれた。トゥルハン・ハティジェは、タタール人に襲撃されて故郷から連れ出されクリム・ハン国に着くと、盲目のキョル・スレイマン・パシャ(テュルコ語: Kör Süleyman Pasha)からキョセム・スルターンに献納されてトプカプ宮殿のハレムに入った。トゥルハン・ハティジェは、背が高くどちらかというと虚弱で、肌は白く碧眼で、イスタンブールには男兄弟のユヌス・アガ( Yunus Agha)を住まわせていた。即位前、父のイブラヒムはハレムで多くの女性を溺愛し、それに激怒した母のトゥルハン・ハティジェ・スルターンと喧嘩になった。メフメトはその喧嘩に巻き込まれ、イブラヒムに泉水に投げ込まれた。メフメトは後宮の召使いに助けられたが彼は額に傷を負うことになり、その傷は生涯を通して消えなかった。
西暦1648年、父イブラヒムが殺害された後、7歳で19代皇帝メフメト4世(Mehmed IV)が即位し、西暦1649年には弟のスレイマン、アフメトと共に割礼を受けた。幼い嗣子のメフメト4世の即位で、トゥルハン・ハティジェ・スルターンはヴァリデ(母后)となった。
即位後の宮廷では、祖母のキョセム・スルターンが権力を引き続き持っており、かつて叔父のムラト4世が帰依したカドゥザーデ派の指導者ウストュヴァーニーもキョセム・スルターン、そして宮廷への強い影響力を持っていた。義母キョセム・スルターンと実権をめぐり対立し、イェニチェリがキョセム・スルターンを支持、黒人宦官がトゥルハン・ハティジェ・スルターンを支持するという構図が出来た。
キョセム・スルターンはメフメト4世よりも、その弟のスレイマンの方が扱いやすいと見て、メフメト4世の廃位とスレイマンの即位させる計画を立てた。しかし、西暦1651年、キョセム・スルターンの使用人のメレキ・ハトゥンの密告によりこれが発覚し、トゥルハン・ハティジェ・スルターンは先手を打って刺客を送り、キョセム・スルターンを絞殺した。キョセム・スルターンの死後、トゥルハン・ハティジェ・スルターンは正式に摂政となったがキョセム・スルターンと違い、権力を乱用することはなかった。オスマン朝史上、正式に執政を認められて国を治めた女性はイブラヒムの母太后キョセム・スルターンとトゥルハン・ハティジェ・スルターンのみで、その治世はオスマン帝国の女人天下と呼ばれる。
財政面での改革を進めるため、西暦1652年に大宰相にタルフンジュ・アフメト・パシャを任命した。彼は財政赤字を削減するために関税や役所での収入を増やして、宮廷での無駄な支出を減らした。さらには腐敗を撲滅するために汚職した者に対して厳罰を与えた。しかしこれらは多くの者に恨まれることとなり、イスラーム長老らはタルフンジュ・アフメト・パシャに抗議した。タルフンジュ・アフメト・パシャはさらに来年度予算を作る機会を設立し、オスマン朝史上初めてタルフンジュ予算と呼ばれる来年度予算を作成した。これらの改革は当時の人には理解されず、「タルフンジュ・アフメト・パシャがメフメト4世を退位させようとしている。」という噂まで広がったため、西暦1653年03月にタルフンジュ・アフメト・パシャは処刑されたが、彼の改革のお蔭で財政は再建され、海軍提督カラ・ムラト・パシャの働きによってヴェネチア艦隊の海上封鎖を解除し、一時は好転したが、西暦1656年に再び海上封鎖された。この混乱の中で皇太弟スレイマンの即位を目論んだ陰謀が発覚し、首謀者のイスラーム長老は流刑され、後に処刑された。
西暦1654年には大宰相府がトプカプ宮殿から独立した。この背景には文書行政の役割が拡大するにつれ、宮殿内の部屋では狭くなり、大宰相の私邸で業務が行われるようになり、これが大宰相府の始まりで、大宰相府は所在地を転々としたのちに現在のイスタンブール広域市庁に当たる場所に居を構えた。文書行政組織には業務ごとにカレムと呼ばれるいくつかの部局が配され、広大な帝国の行政と財務を管理、運営した。これらの要因が後にキョプリュリュ時代において大宰相が膨大な権力を維持できる根拠となった。
西暦1656年、トゥルハン・ハティジェ・スルターンは、キョプリュリュ家を登用、キョプリュリュ・メフメト・パシャ、キョプリュリュ・アフメト・パシャ、カラ・ムスタファ・パシャと相次いで大宰相に任じた。キョプリュリュ・メフメト・パシャはまず、敵対する軍人集団を徹底的に粛正し、権力を掌握した。その後、西暦1657年にエーゲ海でヴェネチア海軍を破り封鎖を解除した。西暦1660年には、オスマン朝の意に反する行動をしていたトランシルヴァニア公国のラーコーツィ・ジェルジ2世を討伐した。このことがこの地域の均衡状態を崩してしまい、西暦1663年にオスマン朝とハプスブルク帝国の戦争が再開することになった。また、ワラキア公国の混乱を助長させたとしてギリシャ正教会総主教を処刑している。一方、キョプリュリュ家によって地位を脅かされた反主流の軍人政治家や地方の軍人たちは、アレッポの州軍政官だったアバザ・ハサン・パシャを中心にアナトリア半島で叛乱を起こしたが、西暦1660年頃までにはそれを一掃した。
キョプリュリュ・メフメト・パシャの後に大宰相になったキョプリュリュ・アフメト・パシャは西暦1663年にハプスブルク帝国との戦闘を再開し、難攻不落と言われたウイヴァール城砦を陥落させて、「ウイヴァールの前に立つテュルコ人のように強い。」という言い回しをヨーロッパで流行らせた。結局ハンガリー西部でザンクト・ゴットハルトの戦いで大敗したものの、大宰相の卓抜な外交によって翌年結ばれたヴァシュヴァールの和約はオスマン朝側に満足のいくものだった。内容は、オスマン朝の傀儡であるアパフィ・ミハイ1世をトランシルヴァニア公に承認すること、さらに和約成立後20年はオスマン朝に毎年20万フローリンを支払うことを取り決められた。
一方地中海では西暦1666年にようやくクレタ島を征服する作戦を開始した。しかしこの包囲戦は長期に渉ったため、西暦1668年にメフメト4世はキョプリュリュ・アフメト・パシャに「これ以上戦争が長引けば軍事的にも経済的にももたなくなる。」という手紙を送った。キョプリュリュ・アフメト・パシャはすぐにでもクレタ島を攻略する決意をし西暦1669年にクレタ島を征服した。
西暦1672年からは、ウクライナを巡り、ポーランド・リトアニア共和国(第1共和制)(西暦1569〜1795年)と戦争を始めた。同じ年、ポドリア地方を征服し、ブチャッハ条約を締結してポドリア支配を認めさせて賠償金も獲得した。しかし、ポーランド・リトアニア共和国のセイムがこれを承認しなかったため、西暦1673年に戦争は再開され、ヤン3世に敗れてしまった。西暦1674年にズラワノ条約を締結して、ブチャッハ条約で獲得した領土の3分の1をポーランド・リトアニア共和国に割譲した。西暦1676年にはロシア・ツァーリ国との戦争も勃発した。この戦争の最中にキョプリュリュ・アフメト・パシャが死去したため、後任にカラ・ムスタファ・パシャを任命し、イブラヒム・パシャを戦争へ派遣した。しかし戦果が上がらなかったため、カラ・ムスタファ・パシャを派遣して西暦1681年にバフチサライ条約を締結し、ロシア・ツァーリ国との国境を確定させた。西暦1670年代以降、オスマン朝国のヨーロッパにおける領土は最大になった。
西暦1683年に王領ハンガリーでテケリ・イムレらが反ハプスブルク帝国の叛乱を起こした。彼らはオスマン朝に援助を要請したため、大宰相カラ・ムスタファ・パシャは大軍を率いて07月にウィーンを包囲した。しかしウィーンの防御は硬く、包囲戦は長期化し9月にはポーランド軍とドイツ諸侯軍がウィーンに到達し、オスマン朝軍と衝突した。長引く戦争でオスマン朝軍の士気は低下していたため、第二次ウィーン包囲は失敗してしまい、カラ・ムスタファを処刑してからは大テュルコ戦争に対して有効な手を打てず、西暦1686年にハンガリー支配の中心地のブタを奪われ、西暦1687年のモハーチの戦いでオスマン帝国軍が敗北すると叛乱が起こり退位、弟のスレイマン2世に帝位を譲り死ぬまで幽閉された。メフメト4世の死の数年前の西暦1691年に弟のスレイマン2世の病気と差し迫った死によりメフメト4世を復位させる陰謀が発覚したが失敗した。
政治は専らキョプリュリュ一族に任せ、自身は趣味の狩猟三昧な日々を送っていた。その耽溺ぶりはエディルネの狩場に勢子として数千人もの農民を動員したという逸話が伝えられるほどで、アヴジュ(狩人)という愛称もここから来たものである。しかし、メフメト4世は単に遊興に耽っていたわけではなかった。 まず、エディルネを主たる居城と定めたのは、イスタンブールにおける様々な圧力から自由になることを意味していた。すなわち、イスタンブールの都市民と結びついたイェニチェリや、トプカプ宮殿の有力者たちの影響力を低下させたことが、政権の安定化につながったと思われる。 また、メフメト4世は、狩りで立ち寄った町々で非回教徒に回教への改宗を促した。強制的な改宗は回教では原則的に禁じられていることから、ここで行われたのは、あくまで自発的な改宗の推進であり、改宗した回教徒には祝い金が下賜された。こうした改宗の実績は、メフメト4世の宗教的偉業として讃えられた。
西暦1645年に起こったヴェネツィア共和国とのクレタ戦争では勝利したものの、西暦1656年のダルダネスの戦いではヴェネツィア艦隊による海上封鎖を受け、物流が滞り物価が高騰した首都は暴動と叛乱の危険にさらされることになった。この危機に際して大宰相に抜擢されたキョプリュリュ・メフメト・パシャは全権を掌握して事態を収拾したが4年で急逝。しかし息子キョプリュリュ・アフメト・パシャが続いて大宰相となり、父の政策を継いで国勢の立て直しに尽力した。2代続いたキョプリュリュ家の政権は、当時オスマン帝国で成熟を迎えていた官僚機構を掌握、安定政権を築き上げることに成功する。オスマン朝の構造転換はキョプリュリュ期に安定し、一応の完成をみた。
キョプリュリュ家の執政期にオスマン朝はクレタ島やウクライナにまで領土を拡大、さらにはヴェネツィア共和国が失ったクレタ島の代わりに得たギリシャにおける各地域の大部分を手中に収めたため、スレイマン1世時代に勝る最大版図を達成した。 18代皇帝イブラヒムとセルビア出身のアシュブ・スルターンという女性との間に生まれたスレイマンは、兄のメフメトよりも生まれるのが3ヶ月遅かった。西暦1649年には兄弟の兄メフメトと弟アフメトらと共に割礼を受けている。
父の崩御後、即位までの40年近く幽閉されていたが、兄のメフメト4世を廃位してスレイマンを即位させようとする動きは2度あった。最初は、祖母のキョセム・スルターンが、自身にとって扱いにくいメフメト4世を廃してスレイマンを即位させ、メフメトの母のトゥルハン・スルターンの影響力を削ごうとした時である。しかしトゥルハン・スルターンはキョセム・スルターンに刺客を送って彼女を暗殺したため、未遂に終わった。次にスレイマンを即位させようとした動きがあったのは、西暦1656年にヴェネツィア共和国がイスタンブールを海峡封鎖をした混乱の隙だった。しかし、これは露呈してこれを企んだイスラーム長老は流刑され、後に処刑された。
異母兄メフメト4世の妻のギュルヌシュ・スルターンが息子のムスタファを出産した後、ギュルヌシュ・スルターンによって殺されそうになるが、メフメト4世の母のトゥルハン・ハティジェ・スルターンによって阻止された。
西暦1687年に兄が大テュルコ戦争の劣勢の責任を取り退位し、帝位を譲られ20代皇帝スレイマン2世(Suleiman II)が即位した。即位した後も戦況はかなり厳しく、西暦1688年に神聖同盟側にベオグラードを占領され、それに呼応するかのようにルメリ州のチプロフツィで叛乱が起こった。ベネツィア軍にはペロポネソス半島を奪われてモレア王国(ヴェネツィア領モレア)(西暦1688〜1715年)を建国されてしまい、ポドリアはポーランド・リトアニア共和国に占領された。
スレイマン2世は財政赤字に対応するべくアルコールの専売制を始めた。アルコールの一般販売は禁じられたがあまり効果は無く、居酒屋や自宅でアルコールを販売する者もいたという。また、新銀貨クルシュを市場に投入した。クルシュは25.6gの重さで、16gの銀を保有するこの大型硬貨は、オスマン市場の基本通貨の役割を果たし、西暦1760年代半ばまで通貨の安定に寄与した。スレイマンは、賄賂や娯楽を嫌う信仰深く正直な人物で、帝国内の賄賂や暴虐行為に反感を覚えて西暦1589年、キョプリュリュ・ムスタファ・パシャを大宰相に登用して管理体制の修復に努めた。ムスタファ・パシャの下、西暦1688年に奪われたベオグラードを西暦1690年に奪還することに成功した。さらに、新たに神聖同盟に加わったロシア・ツァーリ国 によるアゾフ遠征を撃退した。在位中の後半の2年間は病床につき晩年には昏睡状態で、西暦1691年に49歳で病死し、弟のアフメトが後を継いだ。
アフメトは、西暦1649年、兄のメフメトとスレイマンと共に割礼をした。父18代皇帝イブラヒムの死後、帝位を継承しない皇子たちの幽閉所(黄金の鳥籠)に即位するまでの間43年にわたって幽閉されて暮らした。異母兄スレイマン2世の死により21代皇帝アフメト2世(Ahmed II)として即位したが、大宰相キョプリュリュ・ムスタファ・パシャが、西暦1691年に大テュルコ戦争で敗死した。
アフメト2世の治世中、税の徴収に関する改革が行われた。西暦1691年、勅令によって耶蘇教徒の人頭税の徴税の仕方が変更された。以前は、村単位で総額が課税されていたのを個人個人に課税することにして、課税時に証書を渡して人頭税徴税の不正を防ぐことにした。しかし本来納税を免除されていたギリシャ正教会の聖職者にも人頭税が課税されることになったため、彼らの反発を招き、「このような扱いはイスラーム法に背くことである。」とスルターンに訴え出たがアフメト2世は課税の原則を変えなかった。耶蘇教聖書者に対するこのような扱いがこの後、西暦19世紀以降にバルカン半島の諸民族のナショナリズムを刺激することになった。
西暦1695年には、安定した税収確保と納税者の民力の安定させるために、西暦16世紀末に導入された徴税請負制に終身制が導入された。それまでの徴税請負人は任期付きで、任期の間にできるだけ収益をあげるべく、過度の収奪に走ったため、納税者はそれに苦しんでいた。そのため、徴税請負人を終身にしたことで長期的な視野によって徴税を実施することか期待された。これを機に終身徴税請負人は各地の地方の有力者になってアーヤーンと呼ばれた。アーヤーンはオスマン朝の戦争に協力することもあれば、時には叛乱分子になることもあった。
西暦1695年にアフメト2世は在位4年で死去し、甥のムスタファ2世が後を継いだ。アフメト2世にはイブラヒムという幼い遺児がおり(アフメト2世にはイブラヒムと早逝したセリムの双子の息子がいた)、大宰相のシュルメリ・アリ・パシャはムスタファではなく、イブラヒムを即位させようとしたが、その前にムスタファ2世がイスラーム長老らに即位を容認されたため、シュルメリ・アリ・パシャの試みは失敗した。その後、彼はそのことを理由にムスタファ2世によって大宰相を解任された後、処刑された。
ムスタファは、19代皇帝メフメト4世とクレタ島生まれの奴隷ギュルヌシュ・スルターンとの間に生まれた。
ギュルヌシュ・スルターンは冷酷な女性で、メフメト4世がハレムで他の女性と関係を持つと、その女性を殺害したり、皇子ムスタファを出産した時にはメフメト4世の異母弟のスレイマンとアフメトを殺害しようとした。しかし、トゥルハン・ハティジェ・スルターンによって事前に防がれた。 西暦1675年にムスタファは弟のアフメトと共に割礼を受けた。この時の祭りは20日も祭りは続いた。ムスタファは父や母らとエディルネで過ごし、幼少期からイスラーム教厳格主義のカドゥザーデ派の指導者であるヴァーニーと、ヴァーニーの娘婿であるフェイッズラー・エフェンディらによる教育をアフメトと共に受けた。父の退位後はカフェスに幽閉された。
西暦1695年に亡くなった叔父のアフメト2世の後を継いで22代皇帝ムスタファ2世(Mustafa II)として即位した。当時大テュルコ戦争でオスマン朝へのハプスブルク帝国オーストリア大公国の進出を阻止する必要があった。まずムスタファ2世は当時失脚していた自身の師事であるフェイッズラー・エフェンディを中央に戻した。また、和平の方針を転換し、「アラーがムスタファ2世をカリフに任じた。」と聖戦を宣言した。一説には聖戦を宣言したのはカドゥザーデ派の影響とも言われている。ムスタファ2世はバルカン半島南部に迫り来る神聖同盟軍を食い止めるため、大宰相にエレマス・メフメト・パシャを任命して、西暦1695年06月にエディルネを出て、09月にルゴスの戦いで勝利し、戦果を挙げた。西暦1696年に再び親征しに行きウラシュの戦いとジェネイの戦いで勝利しティミショワーラを占領した。さらにハンガリーの再征服に乗り出すべく西暦1697年にも親征を行った。しかし、プリンツ・オイゲンにゼンタの戦いで大敗北を喫し、大宰相のエレマス・メフメト・パシャは戦死した。さらにアゾフはロシア・ツァーリ国 に占領され、勝利への道が閉ざされたため、和平の道へと進むことになった。西暦1699年のカルロヴィッツ条約によりハプスブルク帝国オーストリア大公国にハンガリーとトランシルヴァニアを、ヴェネツィア共和国にモレアを、ポーランド・リトアニア共和国にポドリアを割譲した。また、西暦1700年にロシア・ツァーリ国 ともコンスタンティノープル条約を締結、西暦1696年にピョートル1世が奪った黒海沿岸のアゾフを譲った。
西暦1697年から大宰相に就任してカルロヴィッツ条約に調印したキョプリュリュ家出身のキョプリュリュ・ヒュセイン・パシャが戦後構造改革に乗り出した。ムスタファ2世は西暦17世紀以降飾りものであったスルターンの地位を改めようとし、ティマール制、オスマン朝の騎兵、そして世襲されたイェニチェリを改革しようとした。しかし、ムスタファ2世の側近でイスラーム長老(シェイヒュルイスラーム)のフェイズッラー・エフェンディとウラマーら保守派の反発にあい、西暦1702年に辞任、西暦1703年に首都イスタンブールからエディルネに移り住むとフェイズッラー中心の側近政治に反感を抱いたイェニチェリと商工業者らの間で不満が高まった。西暦1703年、オスマン朝はグルジアへ遠征し、当初は優勢だったが、グルジアに派遣される予定だった200人の騎士らが給料の未払いを理由にグルジア遠征を拒否して、イスタンブールを出てエディルネでムスタファ2世へと上奏、これにムスタファ2世に不満なイェニチェリ、高官、ウラマー、商人や職人らも加わり、6万人もの大集団となり、フェイズッラーの罷免を求めた。さらにはエディルネの守備兵までもがそれに同調してしまったため、フェイッズラーは罷免され、その後殺害され、ムスタファ2世は退位、弟のアフメトに帝位を譲り幽閉されて間もなく死去した。
アフメトは19代皇帝メフメト4世とギュルヌシュ・スルターンの間に現在のブルガリアのドブリチで生まれた。アフメトが生まれた時、父のメフメト4世はポーランド遠征から戻って狩りをしていた。西暦1675年に同母兄のムスタファと共に割礼を受けた。これらの祭りは20日間続いた。アフメト皇子の教育は西暦1679年に始まり、家庭教師のフェイズッラー・エフェンディのもと、歴史、音楽、詩、書道などを勉強した。特にアフメトは読書を好んだという。エディルネでの皇子時代、アフメトはネヴシェヒルリ・ダマト・イブラヒムという者と親しくなり後に大宰相になった。
西暦1703年当時、兄のムスタファ2世は宮廷をイスタンブールからエディルネに移していたが、側近政治と給料未払いに不満が爆発したイェニチェリと、商業がイスタンブールから移行することを恐れた商工業者らが叛乱を起こし、兄の側近フェイズッラー・エフェンディを殺害して兄も退位に追い込まれた。アフメトはこの危機的状況の中で擁立され、23代皇帝アフメト3世(Ahmed III)に即位し、フェイズッラーの没収した遺産からイェニチェリに給料を支払い、宮廷をイスタンブールへ戻して事態を収拾させた。
この頃、ロシア・ツァーリ国(ロマノフ朝)がピョートル1世(大帝)の下で鎌首を擡げ、西暦1700年のコンスタンティノープル条約によってアゾフ周辺を奪取、黒海を窺っていた。同時にバルカン半島でもハプスブルク帝国オーストリア大公国の南下と西暦1699年のカルロヴィッツ条約によってハンガリー王国も失い、オスマン朝は衰退の時代を迎えていた。
アフメト2世は西暦1705年に土地法を改正したため、スレイマン1世と同じく立法者と呼ばれることとなった。彼の治世の最初の3年間で次々に4人の大宰相が任命されたが西暦1706年にチョルルル・アリ・パシャが大宰相に就任した後はしばらく大宰相は変わらなかった。チョルルル・アリ・パシャは、オスマン朝軍の軍の規律を厳格にし、海軍に最初の兵器を導入した。またチョルルル・アリ・パシャはいかなる戦争の介入にも反対した。
大北方戦争ではスウェーデン王カール12世とロシア・ツァーリ国ピョートル1世がバルト海の覇権を賭けて衝突、オスマン朝は西暦1708年からスウェーデン帝国(バルト帝国)(西暦1611〜1721年)とロシア・ツァーリ国それぞれから味方に加わるよう要請されていた。ロシア・ツァーリ国とはアゾフを巡る確執があり、スウェーデン帝国がウクライナ・コサックのヘーチマン・イヴァン・マゼーパを味方に付けたことを知ると主戦派がスウェーデンの同盟を主張したが、アフメト3世は同盟を拒否、ロシア・ツァーリ国がレスナーヤの戦いでスウェーデン軍を弱体化させ、ウクライナ・コサックの多くがマゼーパを見捨てロシア・ツァーリ国に留まると消極的になり、西暦1709年に属国のクリミア・ハン国にロシア・ツァーリ国の敵対行為禁止を命じて中立化した。しかし07月、ポルタヴァの戦いに敗れたカール12世が南ロシアから黒海経由でオスマン朝に亡命すると、アフメト3世はモルダヴィア公国のベンデルに迎え入れたが、ロシア・ツァーリ国の徹底抗戦を主張するカール12世とフランス王国のオスマン朝駐在大使の宮廷工作で主戦派が対ロシア戦争を主張した。それでも大宰相のチョルルル・アリ・パシャは戦争に反対していた。スウェーデン帝国は「チョルルルが賄賂を貰っている。」と非難した。結局西暦1710年チョルルル・アリ・パシャは大宰相を解任され、アフメト3世はピョートル1世の侵攻に対抗するため西暦1710年に宣戦布告した。
属国の領主であるモルダヴィア公ディミトリエ・カンテミールとワラキア公コンスタンティン・ブルンコヴェアヌがオスマン朝から独立を企てており、ピョートル1世と結んでロシア軍と合流したが、ロシア軍の侵攻に対し西暦1711年にプルート川で勝利(プルート川の戦い)、直後に結ばれたプルート条約でアゾフをロシア・ツァーリ国から返還してロシア・ツァーリ国を黒海から締め出した。属国の叛乱も鎮圧され、ディミトリエ・カンテミールは所領を失いロシア・ツァーリ国へ亡命、コンスタンティン・ブルンコヴェアヌはオスマン朝に捕らえられ処刑された。しかし、戦闘中にピョートル1世を捕える機会があったにも拘らず、プルート条約の締結によって講和が成立し、ピョートル1世を逃してしまった。また、締結後もロシア・ツァーリ国との戦争を促すカール12世とも確執を深め、スウェーデン帝国との同盟は解消され西暦1713年にカール12世をエディルネ近郊へ移した。翌西暦1714年にカール12世はオスマン朝からスウェーデン領ポメラニア(スウェーデン領ドイツ)(西暦1630〜1815年)へ移動してスウェーデン帝国へ帰国したが、不在の間に劣勢となった戦局を覆せず戦死、大北方戦争はスウェーデン帝国の敗北となっていった。
西暦1714年からヴェネツィア共和国とペロポネソス半島を巡り戦争を起こし(オスマン・ヴェネツィア戦争)、西暦1716年からハプスブルク帝国オーストリア大公国がヴェネツィア共和国側として参戦するとオスマン朝はバルカン半島でも戦端を開いた(墺土戦争)。西暦1716年にオーストリア大公国の要塞ペトロヴァラディン(ペーターヴァルダイン)を奪還しようとして遠征に向かった大宰相シラーダーリ・ダマト・アリ・パシャはオーストリア軍総司令官のプリンツ・オイゲンの前に敗死(ペーターヴァルダインの戦い)、後任のハジ・ハリル・パシャは翌西暦1717年にオーストリア軍に包囲されたセルビアの首都ベオグラード救援に向かったが、オイゲンに敗れた上ベオグラードも奪われた(ベオグラード包囲戦)。西暦1718年のパッサロヴィッツ条約でオスマン朝はペロポネソス半島をヴェネツィア共和国から獲得したが、セルビア北部とワラキアの西部をハプスブルク帝国オーストリア大公国に譲りバルカン半島の領土を再度失った。以後は平和政策に転換してヨーロッパの文化を導入していった。
ハプスブルク帝国オーストリア大公国に敗れて講和した後は西欧諸国との修好を行い、大宰相ネヴシェヒルリ・ダマト・イブラヒム・パシャの補佐を受けて西欧諸国の文化を積極的に取り入れ、帝国の繁栄を築き上げた。軍事支出が抑えられ財政は好転、イスタンブールを中心として建築・再開発が進められていった。西暦1719年にネヴシェヒルリ・ダマト・イブラヒム・パシャはハプスブルク帝国オーストリア大公国のウィーンへ使節を派遣したのを始まりとして、西暦1720年と西暦1721年にフランス王国ブルボン朝(西暦1589〜1792年)のパリ、西暦1722年と西暦1723年にはロシア帝国(西暦1721〜1917年)のモスクワに使節を派遣してヨーロッパと修好を結び、同時に使節にヨーロッパに関する情報を集めた。指示を受けたフランス使節イルミセキズ・チェレビーはフランス王国の建物について詳しく書き記し、ネヴシェヒルリ・ダマト・イブラヒム・パシャはこれらを参考にしてイスタンブールに西欧文化を導入、次々と新しい施設を建てた。西暦1722年にアフメト3世の離宮としてサーダバード宮殿が造られ、イスタンブールの水路整備と共に給水用と装飾用を兼ねた泉の建物(泉亭)を建設、連日宴会が開かれ華やかな宮廷文化が芽生えていった。
書物保存のため図書館建設と活版印刷も広まり、ネヴシェヒルリ・ダマト・イブラヒム・パシャの後援でイブラヒム・ミュテフェッリカが印刷所を開設、ペルシャ語からてトゥルコ語に翻訳した本の印刷・保存が行われていった。アフメト3世も文化事業を推進、トプカプ宮殿内に図書館を建てたり西欧諸国からチューリップを大々的に輸入・栽培して大いにチューリップが咲いたためチューリップ時代と称されている。しかし、こうしたアフメト3世の行動は浪費と取られ、政府に対する反感も出来上がっていった。治世中は列強との戦争に対処する一方、積極的に西欧文化の受け入れを奨励、チューリップ時代と呼ばれる一時代を生んだ。
西欧諸国と講和条約を結んだ一方で、災害が頻発した。西暦1718年にイスタンブールで火災が発生した。西暦1719年には同じくイスタンブールで地震が発生した。また東のサファヴィー朝との戦いは長期間にわたり、財政の悪化を招いた。ネヴシェヒルリ・ダマト・イブラヒム・パシャはサファヴィー朝が地方部族の叛乱で衰退した状況につけこみ、西暦1723年にロシア帝国と結託してイラン戦役を開始、サファヴィー朝の王タフマースブ2世からタブリーズ・ハマダーンを奪いイラン西部を平定した。しかし、タフマースブ2世の武将ナーディル・シャーが反撃して戦争が長期化するとイスタンブールの民衆の不満が高まり(アフシャール戦役)、西暦1730年にイラン遠征軍の編成前に元イェニチェリのパトロナ・ハリルが宮廷を非難してイスタンブールで叛乱を扇動(パトロナ・ハリルの乱)、ネヴシェヒルリ・ダマト・イブラヒム・パシャは叛乱軍に処刑されアフメト3世も退位を余儀無くされ、甥のマフムトが新たに擁立された。アフメト3世は退位後トプカプ宮殿に幽閉生活を送り、6年後の西暦1736年に62歳で亡くなった。
キョプリュリュ・メフメト・パシャの婿カラ・ムスタファ・パシャは、功名心から西暦1683年に第2次ウィーン包囲を強行した。一時は包囲を成功させるも、ポーランド王ヤン3世ソビエスキ率いる欧州諸国の援軍に敗れ、16年間の戦争状態に入ることになった(大テュルコ戦争)。
戦後、西暦1699年に結ばれたカルロヴィッツ条約において、史上初めてオスマン朝の領土は削減され、東欧の覇権はハプスブルク帝国オーストリア大公国に奪われてしまい、さらには西暦1700年にはロシア・ツァーリ国とスウェーデン帝国(バルト帝国)の間で起こった大北方戦争に巻き込まれてしまい、スウェーデン王カール12世の逃亡を受け入れたオスマン朝は、ピョートル1世の治下で国力の増大著しいロシア・ツァーリ国との苦しい戦いを強いられた。ロシア・ツァーリ国とは、西暦1711年のプルート川の戦いで有利な講和を結ぶことに成功するが、続く墺土戦争のために、西暦1718年のパッサロヴィッツ条約でセルビアの重要拠点ベオグラードを失ってしまった。
このように、西暦17世紀末〜18世紀にかけては軍事的衰退が表面化したが、他方で西欧技術・文化の吸収を図り、後期のオスマン文化が成熟していった時代でもあった。中でもアフメト3世の大宰相ネフシェヒルリ・ダマト・イブラヒム・パシャの執政時代においては対外的には融和政策が取られ、泰平を謳歌する雰囲気の中で西方の文物が取り入れられて文化の円熟期を迎えた。この時代は西欧から逆輸入されたチューリップが装飾として流行したことから、チューリップ時代と呼ばれている。また西暦1722年には東方のイラン・ペルシアでアフガーン人の侵入を契機にサファヴィー朝が崩壊した。オスマン朝はこの混乱に乗じて出兵した(オスマン・ペルシア戦争)。しかし、ホラーサーンからナーディル・シャーが登場し、イラクとイラン高原における戦況は徐々にオスマン朝劣勢へと動き始める(アフシャール戦役)。浪費政治への不満を募らせていた人々はパトロナ・ハリルとともにパトロナ・ハリルの乱を起こして君主と大宰相を交代させ、チューリップ時代は終焉するに至った。 マフムト1世は、エディルネで22代皇帝ムスタファ2世とサリハ・スルターンとの間に生まれた。マフムトは、猫背で成長した。父のムスタファ2世はエディルネで過ごしたため、マフムト1世もエディルネで育ち、西暦1702年からは同地で教育を受けた。西暦1703年に父が退位させられるとマフムトは他の皇子たちと同じくトプカプ宮殿のカフェスに幽閉され、即位するまでの27年間をそこで過ごした。幽閉中は詩を書いたり、歌を歌ったり、チェスをするなどして過ごした。
西暦1730年、パトロナ・ハリルの乱で叔父アフメト3世が廃位され、24代皇帝マフムト1世(Mahmut I)に擁立された。新政権を率いたマフムト1世は当初は大人しくしていたが、翌即位から1年後の西暦1731年にパトロナ・ハリルらイェニチェリの叛乱軍首謀者を処刑して実権を握ると、叔父アフメト3世が推進していた西欧化の改革を進めた。パトロナ・ハリルの乱で中断されていた建築事業の一部を手掛けて完成させ、フランス人亡命者のクロード・アレクサンドル・ド・ボンヌヴァルを重用して軍事改革に取り組んだ。
先代から続いていたサファヴィー朝との戦争を継続した。西暦1730年にナーディル・クリー・ベグを名乗っていたナーディルの反撃により先代の時に獲得した領土を失った。しかしサファヴィー側では東でアフガン人の叛乱が起きていたためナーディルは東に向かったタフマースブ2世の下でナーディルは勢力を拡大、タフマースブ2世は、その間にエレヴァンを奪還すべく自ら遠征した。しかしオスマン朝はこれを撃退し、マフムト1世は西暦1732年にサファヴィー朝とアフメト・パシャ条約を締結しコーカサスでの国境線をアラズ川とした。しかしナーディルはこれに反発してタフマースブ2世をホラーサーンへ追放し、タフマースブ2世の8ヶ月の子アッバース3世を擁立してその摂政となり、戦争を続行し、バグダードを奪われた。マフムト1世はこれを奪還すべくトパル・オスマン・パシャを派遣しバグダードを奪還したがトパル・オスマン・パシャは程なくしてナーディル・シャーに討取られた。その後ナーディルによって、西暦1735年までにガンジャやイェグフヴァルドを奪われた。同年コンスタンティノープル条約でイランの南コーカサス領有を認めた。西暦1736年、アッバース3世を退位させて、自らがシャーとして即位、ナーディル・シャーを名乗り、アフシャール朝(西暦1736〜1796年)を開いた。 その後はしばらく平和が訪れたが、西暦1743年にナーディル・シャーが再びイラクに侵攻してきたが撃退し撤退させた。西暦1744年に今度はカルスを包囲され、翌年のカルスの戦いでオスマン側は壊滅した。当初はナーディルはユスキュダルまで領土を広げるつもりだったが、西暦1746年にケルデン条約で現状維持を条件に和平条約が締結されバグダードを死守することに成功し(アフシャール戦役)、この時ケルデン条約で定められた国境線は現在のテュルコとイランの国境の基となっている。
ロシア・オーストリアとの戦争(ロシア・オーストリア・テュルコ戦争)文化事業は縮小されたが西欧導入政策も引き続き継続していった。
一方、西暦1735年からロシア帝国およびその同盟国、ハプスブルク帝国オーストリア大公国との戦争(ロシア・オーストリア・テュルコ戦争)が再開されると、まずオスマン朝はロシアと開戦したが西暦1736年までにクリミアの要衝に位置する要塞とバフチサライをロシア帝国に占領された。ただし西暦1737〜1739年に、クリミアで疫病が流行り出したためそこで何万人ものロシア軍が病死し、しばらくは足止めに成功し、ロシア帝国とは引き分けに持ち込んだ。オーストリア大公国とは西暦1737年に開戦し、そこでは連戦連勝であり、オーストリア大公国からはセルビアを奪回しベオグラードを奪還するなどオスマン朝をある程度持ち直した。しかし西暦1739年にロシア軍の攻勢によってヤッシーを占領され、それに対抗すべくオーストリア大公国とベオグラード条約を結び停戦した。ロシア帝国は単独で勝てないと考え、ニシュ条約を締結し、アゾフを割譲するだけと、割譲は最低限になった。イラン戦線も終結してからはオスマン朝は戦争を控え、西暦1768年に露土戦争が始まるまで平和を保った。
露土戦争(西暦1735〜1739年)が終結し、その講和条約である西暦1739年のニシュ条約とベオグラード条約が締結されベオグラードを奪還した。西暦1747年にナーディル・シャーが没すると戦争は止み、オスマン朝は平穏な西暦18世紀中葉を迎えた。この間に地方では、徴税請負制を背景に地方の徴税権を掌握したアヤーンと呼ばれる地方名士が擡頭し、彼らの手に支えられることで緩やかな経済発展が進んでいた。しかし、産業革命の波及により急速な近代化への道を歩み始めたヨーロッパ諸国との国力の差は決定的なものとなり、スレイマン1世時に与えたカピチュレーションを逆に利用することで、ヨーロッパはオスマン朝領土への進出を始めることとなった。 しかし、内部では徐々に腐敗が生じるようになり、常に平和を望んでいたというマフムト1世は、宦官ハジ・ベシル・アーの強い影響下にあった。またマフムト1世の治世以後、ワラキア公とモルダヴィア公にイスタンブール在住のギリシャ系正教徒の特権的階級、ファナリオティス(希語: Φαναριώτης)を起用することが定着した。イェニチェリの腐敗も進み、イェニチェリ空席ポストの給料着服が行われたり、西暦1740年にイェニチェリの株売買ファナリオティスを認めると富裕層が買い占めたり、親衛隊としてのイェニチェリの軍事力は低下した。地方の分権化も徐々に進み、徴税請負制が終身契約として有力者に競売に出されると、購入者がそれを元に徴税をいくらか自らの収入に入れたり、土地の売買と開墾で地方に根付いたため、後にアーヤーンと呼ばれる地方有力者の台頭でオスマン朝の支配は揺らいでいった。西暦1750年01月にイスタンブールのアヤズマ門で発生した火災は19時間続き数多くの家が焼失した。さらに同年03月に再び大規模な火災が発生した。西暦1754年、金曜礼拝から戻った直後に心臓発作のため58歳で死去し、弟のオスマン3世が後を継いだ。
オスマン帝国の時代 (世界史リブレット) - 林 佳世子
禁断の鳥籠 罪深き接吻、ハーレムの恋 (ぶんか社コミックス) - 板東 いるか
オスマン帝国衰亡史 - アラン パーマー, Palmer,Alan, 英子, 白須 西暦1594〜1597年にイギリスの作家ウィリアム・シェイクスピアが書いた喜劇、戯曲「ヴェニスの商人」(別名、「人肉抵當裁判」)では、主人公の友人を借金の形としたユダヤ人高利貸という設定のシャイロックという人物が登場した。強欲で悪辣なユダヤ商人というユダヤ人像が定着する契機となり、ユダヤ人蔑視に一役買った。誤解があるが、英語の merchantというのは小売商のような「商人」ではなく、「貿易商」を意味し、「ヴェニスの商人」とは有名なユダヤ人の金貸しシャイロックを指すのではなく、商人アントーニオのことである。
後世、ドイツの宣伝相ゲッベルスは、シャイロックの登場する「ヴェニスの商人」を度々上演や映画化をさせ、ユダヤ人排斥の宣伝に使った。統制社会に堕した現在ではポリコレ弾圧で、「ヴェニスの商人」は公演される機会が少なくなり、またユダヤ人であることを強調しない演出に統制させられている。 西暦16世紀においては、反ユダヤ的な暴動は見られない。それは、宗教改革とそれに続く宗教戦争において、プロテスタント側がユダヤ人に近い立場に立たされ、憎悪が向けられたからであった。カトリックは、改革派の秘密集会を蔑み、悪意に満ちた話に尾鰭を付けて触れて回った。
ヴェニスの商人 (新潮文庫) - シェイクスピア, 恒存, 福田
二つの宗教改革: ルターとカルヴァン - オーバーマン,H.A., Oberman,Heiko A., 日本ルター学会, 日本カルヴァン研究会 西暦1618年〜1648年にかけて、宗教改革による新教派(プロテスタント)とカトリックとの対立の中展開された最後で最大の宗教戦争といわれる三十年戦争が起こった。この戦争で、オーストリア・スペインの東西ハプスブルク家は打撃を受けた一方で、ブルボン家のフランス王国はヨーロッパ最強国家となった。また、神聖ローマ皇帝とローマ法王を政治的・宗教的首長とする「耶蘇教共同体」は崩壊し、ヨーロッパ世界では1つの国家の主権と独立とが原則となった。
戦後、フランス王国が中央集権的絶対王政を確立したのに反して、神聖ローマ帝国が名目的な存在となったドイツでは地方分権的な領邦国家体制が確立したことによって国民主義的統一が遅れた。神聖ローマ帝国内では諸侯たちが自分たちを領邦を代表する「国民」 と意識していたが、諸侯の共通言語はフランス語であり、民族よりも身分が重視されるなど、国民国家の形成は妨げられており、こうした領邦国家体制に対する反発が、近代の啓蒙と合理主義の影響で西暦18世紀以降のドイツにおける国民主義(ナショナリズム)を形成していくことになった。 西暦1649年の清教徒革命でイングランド共和国(Commonwealth of England、西暦1649〜1660年)に政体が変わったイギリスでは、市民階級の清教徒が「イスラエルよ、汝らの幕屋に戻れ!」を合言葉とした。清教徒革命は王室と癒着した教会への攻撃でもあり、オリバー・クロムウェル(Oliver Cromwell)は猶太教徒と非国教派を保護した。また、至福千年説が流行し、ユダヤ人を解放して耶蘇教に改宗させることがメシア降臨の条件と見做されるようになった。清教徒の至福千年派は、「ユダヤ人の改宗のためにユダヤ人をパレスチナに呼び戻すべきだ。」と主張した。こうしたことから、
「クロムウェルの出自はユダヤ人ではないか。」と囁かれ、また「クロムウェルはセントポール大聖堂を80万ポンドでユダヤ人に売却しようとしている。」という噂が流れた。 一方、非国教会の分離派は、「イギリスの内乱は過去のユダヤ人迫害への天罰である。」と見做した。分離派に励まされたアムステルダムのラビ、メナセ・ベン・イスラエル(Menasseh Ben Israel(מנשה בן ישראל)、葡語:Manoel Dias Soeiro)はユダヤ人のイギリス入国を請願した。メナセ・ベン・イスラエルは「国際法の父」グロチウス、哲学者スピノザ、画家レンブラントと親交があったことからも西暦17世紀オランダの知の世界で重きをなした人物ということが分かる。
彼を「ユダヤ人の英国帰還」へと駆り立てた原動力は、アムステルダム・ユダヤ社会の難民問題解決という現実的必要性だけではない。猶太教神秘主義への傾倒ゆえに、タナハに記された預言の解釈に没頭し到達した宗教的確信も原動力となった。それは「聖地パレスチナを再びユダヤ人が取り戻すためには、地球上のあらゆる僻遠の地までユダヤ人が拡散・定住せねばならぬ。」という宗教的確信だった。西暦1290年にユダヤ人を追放したイギリスへのユダヤ人帰還を請願し交渉した。荒唐無稽な独善的妄説だが、西暦17世紀ユダヤ世界では学知を結集した学問的成果に他ならなかった。この説が広まる中、南米エクアドルで「失われた十部族」の末裔と思しき「猶太教の儀式を実践する先住民」と自分は接触したとメナセ・ベン・イスラエルに語るユダヤ人探険家も現われ、期待は一挙に盛り上がった。
「古代イスラエル人の末裔は、既に新大陸にまで到達しているようだ。だとすれば聖地回復を加速させるためには、欧州に残る最後のユダヤ人空白地帯を放置してはならない。」そう考えたメナセ・ベン・イスラエルは早速、ユダヤ人を未だ受け入れていない北欧スウェーデンの女王クリスチナに働きかけ入国許可を求めた。
メナセ・ベン・イスラエルは「イスラエルの希望」(西暦1650年)において、「終末の到来を確かならしめるためには、ユダヤ人の拡散を完全のものとして、世界の末端であるイングランド(アングル・ド・ラ・テール 地の角)をユダヤ人の植民地と化するべきだ。」と主張した。背景には西暦1648年のポーランドでのコサック叛乱によるユダヤ人難民の存在があった。
メナセ・ベン・イスラエルは著書をイギリス議会に献呈し、「ユダヤ人を迎え入れれば貿易が盛んになり繁栄する。」と力説した。オリバー・クロムウェルは、耶蘇教を否定する者に寛容を貫くのは本末転倒であるが、イギリス商業の保護と発展のためにユダヤ人国際ネットワークを利用することの利点に理解を示し、またスペインの植民地を奪取するための協力をユダヤ人マラーノから期待していた。メナセ・ベン・イスラエルは「卑見(Humble Address)」でシナゴーグの建設許可や、反ユダヤ法の改正を請求し、ユダヤ人の商才と高潔な血統を強調、「耶蘇教徒幼児の殺害は中傷だ。」と否定した。 けれど主要な関心は、アムステルダムにほど近く経済規模故に魅力的な英国に向けられた。メナセ・ベン・イスラエルはユダヤ人の英国帰還を求める請願をオリバー・クロムウェルに提出するため、西暦1655年末、渡英の許可を得て赴いたのである。メナセ・ベン・イスラエルには勝算があった。
当時の英国では、政治権力を握ったピューリタンの間で、メナセ・ベン・イスラエルたちの考えと平仄の合う神学思想が流行していたからだ。ピューリタンたちはタナハの預言に基づく独自の年代算定により、西暦1656年頃、救世主の降臨が起きると信じていた。そして「申命記」28章64節に記された「地の果て」までのユダヤ人拡散を実現することが「降臨」の前提条件と考え、英国こそ最後に残された「地の果て」と見做していた。 これは現在にも綿々と引き継がれている猶太教の妄説に基づく明白な陰謀である。 自身も熱心なピューリタンで、この教説を信じるオリバー・クロムウェルは、11月、オリバー・クロムウェルはこの請願を議会に掛けたが、
王党派は「王を殺した者が、救世主を殺した者と手を握った。」と非難した。貴族マンモス伯はシナゴーグ建設案に不快感を示し、またロンドンでは傷痍軍人が「わしらも全員ユダヤ人になるしかあるまい。」と噂し、商人は恐るべき競争相手と警戒し、聖職者は社会転覆の危険を見た。パンフレット作家で王党派の政治家ウィリアム・プリン((William Prynne)は、西暦1634年に演劇の観客は「悪魔、不敬の怪物、無神論的ユダの化身である。彼らは自らの宗教に対しては喉を掻き切る殺人鬼。」と述べ、仮面劇を支援したイングランド王チャールズ1世の王妃ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランス(Henrietta Maria of France、仏語名: アンリエット・マリー・ド・フランス(Henriette Marie de France))への誹謗中傷と名誉毀損の罪によって、ロンドン塔に幽閉後、晒し台の刑に、両耳を切断され、左右の頬に煽動的誹毀者(seditious libeller)を意味する「S.L.」の烙印が押されたが、民衆の絶大な人気を博していた。西暦1655年にウィリアム・プリンは、メナセ・ベン・イスラエルとイングランド政府によるユダヤ人の召喚計画に反対して「ユダヤ人のイングランド移入に関する簡潔な異議申し立て」を書き、1週間で完売した。この他、クレメント・ウォーカー「イングランドの無政府状態」やアレクサンダー・ロス「ユダヤ人の宗教」などでもユダヤ人召喚への反対が主張された。 再入国実現を期待して西暦1655年12月、旧王宮に軍、司法、商業界の代表と神学者を集め意見を聞く国策会議を召集した。オリバー・クロムウェルは西暦1655年12月18日の一般公開議場ではユダヤ人受け入れに反対する者が多数詰めかけ、オリバー・クロムウェルは諮問委員会の解散を宣言し、さらに、演説では、「ユダヤ人の改宗は聖書に予告されており、そのためにはユダヤ人が聖地に住むことが唯一の手段である。」と述べ、閉会した。メナセ・ベン・イスラエルは西暦1656年に「ユダヤ人からの要求(Vindiciae Judaeorum)」を書き、これに影響されたユニテリアン派のトマス・コリアーは、「ユダヤ人によるナザレのイエス殺害は神の意志を実現するためであり、それによって耶蘇教を誕生させるためであった。」と論じた。会議の流れはオリバー・クロムウェルの予想に反し反対意見が強かった。外国貿易の既得権益を握るシティ商人たちが、ユダヤ商人の競争力を必要以上に恐れ反対したからだ。このまま会議を続ければユダヤ人側に不利な条件での再入国が勧告されてしまう。そう判断したオリバー・クロムウェルは、問題を先送りするため会議を解散する奇策に出た。
英西戦争の悪化によって西暦1655年秋に在英スペイン人の財産は没収された。在英ユダヤ人のほとんどはスペイン出身であり、法的にはスペイン人であったため、ユダヤ人の財産も没収された。裕福な商人ロブレスは自分はポルトガル人であるとして財産返却を請願し、異端審問の過酷さを主張してイギリスの反スペイン・反カトリック感情に訴え、財産没収の取り消しに成功、これによりイギリスでのマラーノの身分が保証される結果となった。
以後、イングランドでは公的な入国許可はなかったが、非公式の寛容政策によってロンドンのマラーノ入植地では、シナゴーグも建設され、イギリス国内の事実上の小国家となっていった。西暦1657年イギリス最初のシナゴーグがクリーチャーチレインに建立された。
西暦1659年の王政復古で復位したチャールズ2世は親ユダヤ的で、ユダヤ人の権益を保護した。王室の庇護を受けたためにユダヤ人は安定した地位を保ち、セファルディーム系ユダヤ人が西暦18世紀初頭にベヴィスマークにシナゴーグを建設、アシュケナジーム系ユダヤ人も再入国が認められ、西暦1690年には自派のシナゴーグを建設した。
西暦1661年に成立した騎兵議会では、王党派によって、清教徒の一掃を企図するクラレンドン法典、市町村の役員に国教徒であることを義務づけた地方自治体令(Corporation Act)、非国教徒4人以上の会合を禁止したコンヴェンティクル条例(Conventicle Act)などが可決した。
日記で知られる海軍秘書サミュエル・ピープスは西暦1663年にシナゴーグを訪問し、そこで見たシムハット・トーラの礼拝での騒ぎに対して嫌悪感を書いている。西暦1718年にはイギリス産まれのユダヤ人であれば土地所有が可能となった。
西暦1753年、ヘンリー・ペラム政権は、ユダヤ人帰化の条件を緩和する法案を提出したが、世論の反発を受けて撤廃した。ユダヤ人帰化法が失敗すると、ディズレーリ家、リカルドー家、バーセーヴィ家などの上流ユダヤ人はイギリス国教に改宗した。
西暦1627年、詩人マレルブは最晩年に「猶太教はヨルダン川の岸辺に押し止められるのが望ましいが、猶太教徒はセーヌ川流域まで勢力を広げている。」として「私はどこにいても神を頼みとして戦う。」と書いた。
三十年戦争末期の西暦1648年、フランス王国では10歳の国王ルイ14世の摂政となった王大后アンヌ・ドートリッシュの相談役兼ルイ14世の教育係ジュール・レイモン・マザラン(Jules Raymond Mazarin)が集権体制を強化させていたが、ジュール・レイモン・マザランに反発した高等法院官僚や法服貴族が叛乱を起こした(フロンドの乱)。フランス王国は一時は無政府状態となり、王家は国外へ脱出した。西暦1648年10月24日にヴェストファーレン条約が締結され三十年戦争が終結すると、フランス軍のコンデ公ルイ2世がフロンド派を制圧し、さらにコンデ公ルイ2世もジュール・マザランに対抗したが、西暦1653年にジュール・レイモン・マザランが勝利してフロンドの乱は終結した。これ以降、王権による中央集権体制が確立されていった。
フロンドの乱の最中の西暦1652年08月15日、ジャン・ブルジョワ殺人事件が発生した。トネルリーの古着商集団に対して、ジャン・ブルジョワ青年が「シナゴーグの殿方連のお通りだよ。」とからかったところ、古着商集団は青年を矛槍とマスケット銃で滅多打ちにした上、賠償金も払わせた。ジャン・ブルジョワは代官に告発したが、古着商集団はジャン・ブルジョワを誘き出し、拷問の果てに殺害した。このような小規模な局地戦は当時いくつか発生していた。この事件後、ユダヤ人によって腐敗が撒き散らしてきたと非難する文書や古着商集団を弁護する文書が現れ、ユダヤ問題が世論で争われた。「ユダヤ人に対する憤怒」という文書では、「ユダヤ人に識別するための印を付けるべきだ。」と主張され、「シナゴーグに対する判決文」という文書では「ユダヤ人全員を去勢すべきだ。」と主張された。こうした文書の横溢によって古着商は隠れ猶太教徒(マラーノ)かと疑われたが、事件における古着商集団は被害者も加害者もカトリック耶蘇教徒であった。 ジュール・レイモン・マザラン没後の西暦1661年に23歳のルイ14世太陽王が親政を開始した。宮廷説教師でオラトリオ会修道士のボシュエは王権神授説とフランス教会のローマからの独立(ガリカニスム)を提唱し、ローマ法王よりもフランス国王の権力を強化して絶対君主制確立に貢献した。
一方で、ユダヤ人を「誰からも哀れまれることなく、その悲惨の中にあって、一種の呪いによりもっとも卑しき人々からも嘲笑の的とされるにいたった民」とし、「ユダヤ人の最大の罪はナザレのイエスの処刑ではなく、処刑後に悔い改めない姿勢である。」と非難した。ルイ14世は「唯一の王、唯一の法、唯一の宗教」を方針として「最大の耶蘇教徒の王」を自負し、異端のジャンセニスやユグノーを抑圧した。一方、ジャンセニスト哲学者ブレーズ・パスカルは遺稿「パンセ」で「栄誉に抗して純一であり、それが故に死んでゆく、ユダヤ人」とユダヤ人を称賛した。
西暦1657年、東方への野心を持ったルイ14世は、軍馬調達、駐屯地への補給のためにアルザス・ロレーヌ地域のユダヤ人を利用しようとしてメッスのシナゴーグを訪れ、アンリ4世とルイ13世がユダヤ人に与えた勅許状を更新し、古物だけでなく新物を商う権利を付与した。
西暦1670年にメッスで儀式殺人事件と裁判が繰り広げられ、ユダヤ人が処刑された。また、パリで行方不明になった若者について「ユダヤ人が連行した。」という噂が流れた。 これに対して聖書学者リシャール・シモンがメッス儀式殺人裁判について匿名でユダヤ人を擁護し、西暦1674年にはヴィネチアのラビ、レオン・ダ・モデナの著作を翻訳して、その序文で「新約聖書を書いたのはユダヤ人であった」と主張し、また猶太教徒の信仰心の篤さを賞賛した。しかし西暦1684年になると、シモンは手紙でモデナ訳書の序文について好意的なことを書き過ぎたと反省して「ユダヤ人が救いようのない民であるということを、私はその後、彼らのうちの幾人かと付き合ってみて初めて理解した。彼らは未だに我々のことを深く憎悪している。」と述べた。シモンは西暦1678年、近代聖書文献学の先駈けとされる「旧約聖書の批判的歴史」を著作したが、宮廷説教師ボシュエの激しい怒りを買い、西暦1687年に発禁処分に至り、死ぬまで周囲から激しい攻撃を受けた。 西暦1675年〜1680年頃 サヴォイア公国ピエモンテで数年間の凶作によって救済保護政策のなかで、プロテスタントからの改宗者、貧民、ユダヤ人をゲットーに強制移住させて、管理を強めた。
西暦1671年、アドリアン・ガンバールはカテキズム (catechism、教理問答、 信仰問答。耶蘇教信仰を、洗礼または堅信礼志願者あるいは子供に教えるための書物。 元々口頭で教えたところから、文書となっても問答体の形式を取った )で、聖体を拝領することは全ての罪の中で最も重い罪であり、それによって「ユダやユダヤ人たちと同じように、ナザレのイエスの肉と血に対する罪を犯すことになる。」とした。
イエズス会士・オラトリオ会修道院説教師ブルダルーは、「ステファノを石で撲殺したユダヤ人は『神秘の石』であるステファノ(耶蘇教における最初の殉教者)を殴打して、神の慈悲と神の愛の火花を散らした。」と言い、「罪のうちに死ぬことをユダヤ人は天から下されている。」と説教した。ニーム司教エスプリ・フレシエは、「不信心者のユダヤ人は神の正しき裁きによって、この世が終わり、神がイスラエルの残骸を集める時まで、あらゆる民から眉を顰められる存在であり続ける。」と説教した。クロード・フルーリー神父はカテキズム「歴史公教要理」で、ナザレのイエスの敵は肉的なユダヤ人、ユダヤ人はナザレのイエスを死に至らしめたために隷属状態となり、離散させられた。」と解説した。クレルモン司教でベルサイユ宮廷説教者マシヨンは「血の罪の刻印」を受けて「見境を失った民」のユダヤ人は「盲目的な敵愾心」で怒り狂い「ナザレのイエスの血が自らと自らの末裔の頭上に降り注ぐことを望んでいる。」、ユダヤ人は「世界の恥辱と見做されたまま、彷徨い、逃げ惑い、軽侮され続けている。」と説教した。 西暦1670年、神聖ローマ皇帝レオポルト1世はウィーンからユダヤ人を追放したが、西暦1673年、同じ神聖ローマ皇帝レオポルト1世が、ハイデルベルクのユダヤ人ザームエル・オッペンハイマーを帝国軍の補給係に任命して、西暦1683年のトゥルコ軍のウィーン包囲やフランス王国との戦争などを通じて食料、武器、輸送用の牛馬を提供して、首尾上々に任務を遂行した。当時は、外交取引に宮廷ユダヤ人が活躍し、ハノーファーのレフマン・ベーレンツはルイ14世とハノーファー公の間を取り持った。ハルバーシュタットの宮廷ユダヤ人ベーレント・レーマンは、ザクセン選帝侯アウグストをポーランド王位に就かせたが、息子はザクセンから追放された。ヨーゼフ・ズュース・オッペンハイマーはヴュルテンベルク公カール・アレクサンダーの宮廷ユダヤ人として財政と行政を立て直し、権勢を誇ったが、最後は絞首刑に処された。宮廷ユダヤ人は豪勢な家屋敷を構え、ミュンヘンの銀行家ヴォルフ・ヴェルトハンマーが開いた狩猟競技会ではイングランド大使や貴族が参加した。宮廷ユダヤ人の大部分は猶太教を遵守していたが、シュタドラン(世話役)として、滞在禁止命令を追放令を解除させたり、ユダヤ人共同体を統轄して、ユダヤ人の敵対分子を牢獄に繋がせた。
この頃、オーストリアの説教者アーブラハム・ア・ザンクタ・クラーラは西暦1683年のトゥルコ軍によるウィーン包囲に際して、トゥルコ人は「貪欲な虎、呪われた世界破壊者」、ユダヤ人は「恥知らずで、罪深く、良心を持たず、悪辣で、軽率で、卑劣でいまいましい輩、悪党」として、ペストはユダヤ人、墓掘り人、魔女によって引き起こされたと説教し、また「ナザレのイエスを司直に売り渡したあのユダヤ人の子孫は、その後永劫の罰を受けねばならない。」と説教した。
ブランデンブルク王家は西暦17世紀半ばには武器・貨幣鋳造商人イスラエル・アロンに貴族位を授けたり、オーストリアから追放された富裕ユダヤ人を保護した。プロイセン王国では身柄保証金を条件にユダヤ人の自由な経済活動が認められた。プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世はユダヤ人代表団の謁見に際して「主を十字架にかけた悪党」とは面会しないと断ったが、侍従がユダヤ人からの高価な贈り物があると聞くと、王は「主が十字架にかけられた時は、彼らはその場にいなかった」のだから、謁見を許可した。
一方で、ユダヤ人強盗団もおり、西暦1499年の「放浪者たちの書」の盗賊仲間隠語集にはヘブライ語起源が多くを占めており、西暦17世紀以降には、組織的ユダヤ人強盗団の記録がある。西暦18世紀ドイツには強盗団首領ドーミアン・ヘッセルが死刑になった。 宮廷ユダヤ人もユダヤ人強盗団も例外の部類であり、大多数のユダヤ人は、中世的な風習に拘り、しきたりを忠実に守りながら暮らした。
ルイ14世は、西暦1680年代にユグノー弾圧を開始。西暦1682年新築のベルサイユ宮殿に移り、西暦1685年、フォンテーヌブローの勅令で信教の自由を約したナントの勅令を廃止した。西暦1688〜1697年にかけて領土拡大を図ったフランスは、フランドル戦争、仏蘭戦争後、西暦1681年にストラスブールを占領して併合した。これに反発したドイツ・スペイン諸国によるアウクスブルク同盟とフランス王国との間で大同盟戦争となった。西暦1689年に名誉革命でウィレム3世がイングランド王になると、イングランドとオランダもアウクスブルク同盟に参加した。講和条約レイスウェイク条約でフランスはストラスブールを除く西暦1678年からの占領地の殆どを返還した。
西暦1693〜1694年、フランスで飢饉。スペイン継承戦争(西暦1701〜1714年)中の西暦1702〜1709年にかけて、南フランスのユグノーによるカミザールの乱が発生した。西暦1709年、フランス王国で大厳冬の飢饉。
西暦1648年にウクライナで起こったボフダン・フメリニツキー(ウクライナ・コサック)の叛乱でヘーチマン(ウクライナ・コサックの棟梁)国家(西暦1649〜1786年)を建設し、ザポロージャ・コサックによる猶太教徒に対する大虐殺が行った。 西暦1665年、シャブタイ・ツヴィがメシアを名乗り、預言者を自称していたアブラハム・ナタン(ガザのナタン)からメシアと見做された。シャブタイ・ツヴィは各地のユダヤ人社会を巡り歩いて大勢の信奉者を味方につけると、伝統的な戒律や道徳を否定したり自分の兄弟や友人たちを各国の王に任命するなど、破天荒な行動で耳目を集め、欧州のユダヤ人世界に一大運動を引き起こした。西暦1666年、シャブタイ・ツヴィはカバリストのネヘミヤ・コーヘンに告発され、オスマン帝国で逮捕され裁判に掛けられた。彼には回教への改宗か死刑かという二者択一が迫られ、苦もなく改宗を選択し、名前もアジズ・ムハンマド・エフンディ(「エフンディ」は貴族の称号)というイスラーム名に改名した。
西暦1700年、イェフダー・ハシッドらが、エルサレムにフルヴァ・シナゴーグを設立(西暦1720年破壊)した。


キリスト教と戦争 (中公新書) - 石川 明人