2023年08月28日

反吐が出る世界史 腐乱巣革命への道 人間とは言えない鬼畜米英の、恩知らずで悪虐残忍、野蛮で破廉恥な悪逆鬼畜カルトの唖芽罹禍建国の真実 悪逆非道なディープステイトの中核、猶太とは何か その18

ダビデの星.jpgユダヤ(ギリシャ語: Ἰουδαία、Ioudaía、漢字:猶太)

 他民族からは「ヘブライ人」と謂れ、自らは「イスラエル人」と称し、バビロン捕囚後には「ユダヤ人」と呼ばれるようになった徒輩。ヘブライ人、イスラエル人、ユダヤ人は同じ民族を指している。
 ユダヤ人(ヘブライ語: יהודים‎、英語: Jews、ラジノ語: Djudios、イディッシュ語: ייִדן‎)は、猶太教の信者(宗教集団)または猶太教信者を親に持つ者によって構成される宗教信者。原義は狭義のイスラエル民族のみを指す。イスラエル民族の1つ、ユダ族がイスラエルの王の家系だったことを由来とする。猶太教という名称は、猶太教徒が多く信仰していた宗教であることによる。ユダヤとは、パレスチナ南部の地域。酋長ヤコブの子ユダに由来する。古代イスラエル統一王国の分裂後の南ユダ王国があった地域である。



南ユダ王国滅亡後のユダヤの歴史

南ユダ王国が滅ぶと、僅かな例外的時期を除いて西暦20世紀に至るまでユダヤ民族が独立国を持つことはなかった。


神武天皇74(西暦前587)〜安寧天皇10(西暦前539)年 新バビロニア帝国
安寧天皇10(西暦前539)〜孝安天皇61(西暦前332)年 アケメネス朝ペルシア帝国
孝安天皇61(西暦前332)〜孝安天皇88(西暦前305)年 プトレマイオス朝エジプト
孝安天皇88年(西暦前305)〜開化天皇17(西暦前141)年 セレウコス朝シリア
開化天皇17(西暦前141)〜崇神天皇35(西暦前63)年 ハスモン朝 ユダヤ人国家
崇神天皇35(西暦前63)〜崇神天皇61(西暦前37)年 共和政ローマ元老院属州
崇神天皇61(西暦前37)〜垂仁天皇73(西暦44)年 ヘロデ家
垂仁天皇73(西暦44)年 ユダヤ属州(ローマ帝国皇帝属州)
垂仁天皇73(西暦44)〜景行天皇23(西暦93)年 ヘロデ家
垂仁天皇73(西暦44)〜仁徳天皇83(西暦395)年 ローマ帝国皇帝属州
仁徳天皇83(西暦395)〜舒明天皇06(西暦634)年 東ローマ帝国
舒明天皇06(西暦634)〜永正13(西暦1516)年 イスラーム諸王朝 途中に十字軍国家の時代を含む。
永正13(西暦1516)〜大正06年(西暦1917)年 オスマン帝国 
大正07年(西暦1918)〜昭和23(西暦1948)年 イギリスによる国際連盟の委任統治 
昭和23(西暦1948)年 イスラエル国(メディナット・イスラエル)成立 共和政国家の樹立、現代に至る。



 西暦135年、ローマが叛乱を鎮圧し、ユダヤ的なものを一掃しようとしたローマ人は、この土地をユダの地(ユダヤ)ではなく、ユダヤ人の宿敵ペリシテ人に因んで「パレスチナ」、エルサレムを「アエリア・カピトリーナ」と改称し、ユダヤという地名は消滅した。

 また、ユダヤ人は人種的にはセム族とされるが、長いディアスポラ(離散)のなかで、周辺民族との混血の結果、セファルディームアシュケナジームの違いが生じ、また言語もイデッシュ語などが生まれた。現在、ユダヤ人はイスラエルの他、世界中に分布しており、アメリカにも約600万人が住んでいるとされる。しかし現在ではユダヤ人を「人種」概念で捉えるのは困難で、現実には「猶太教を信仰する徒輩」と捉えるのが正しい。人類学的に同質のユダヤ人は存在しない。




 西暦1688〜1689年にステュアート朝(西暦1371〜1714年、イングランド王としては1603〜1714年)のイングランドで名誉革命(Glorious Revolution、偉大なる革命)というクーデターが起き、イングランド国王ジェームズ2世(スコットランド国王ジェームズ7世)が王位から追放され、フランス王国に亡命し、ジェームズ2世の長女メアリー(蘭語名: Maria)と従兄で夫のネーデルラント連邦共和国(西暦1581〜1795年)統領ウィレム2世(Willem III van Oranje-Nassau)オラニエ公ウィレム3世がイングランド国王メアリー2世とウィリアム3世に即位し、西暦1689年に権利の章典が発布された。議会側は当初メアリーの単独即位を望んでいたが、既にロンドンを制圧してイングランドを軍事的に支配下においたウィレム3世がそれを不服とし、メアリーの従兄でチャールズ1世の外孫(長女メアリー・ヘンリエッタ・ステュアート(Mary Henrietta Stuart)の長男)でもある自身にも王位を要求したので、両者の共同統治と決まった。ウィレム3世はオランダ統領を兼ねたまま、ウィリアム3世としてイングランド王にも即位することになった。名誉革命の反革命勢力をジャコバイト(Jacobite)と呼ぶ。ジェームズ2世およびとその正嫡(男系子孫)のイングランド王への復位を支持し、政権を動揺させた。
 メアリー2世とウィリアム3世には実子がいなかったため、イングランド国王には、妹のアン(ジェームズ2世の次女)が、ヨハン・ウィレム・フリーゾ(Johan Willem Friso)がオラニエ=ナッサウ家の相続人として指名された。 西暦1707年、イングランドとスコットランドは正式に合併し、グレートブリテン王国(西暦1707〜1801年)が成立した。西暦1714年、ブランデー好きであったことから、ブランデー・ナン(英語: Brandy Nan)の異名で知られるアン女王が死去し、ステュアート朝は断絶した。
 このオラニエ公ヨハン・ウィレム・フリーゾの妃がヘッセン・カッセル方伯カールの一人娘マリア・ルイーゼ・ファン・ヘッセン・カッセル(蘭語: Maria Louise van Hessen-Kassel,、独語名: マリー・ルイーゼ・フォン・ヘッセン・カッセル(Marie Luise von Hessen-Kassel))で、2人の長男がネーデルラント連邦共和国統領ウィレム4世で、グレートブリテン国王兼ハノーファー選帝侯ジョージ2世の長女アンと結婚した。ジョージ2世の四女のメアリー・オブ・グレートブリテン(Mary of Great Britain、独語名: マリア・フォン・ハノーファー(Maria von Hannover))は、ヘッセン・カッセル方伯カールの孫のヘッセン・カッセル方伯フリードリヒ2世と結婚した。オラニエ・ナッサウとヘッセンは同族で、ハノーヴァー朝はヴェルフ家の流れを汲み、ヘッセンの祖はヴェルフ家。これらの血脈によってハノーヴァー朝(西暦1714〜1901年)が確立された。西暦17世紀〜18世紀のヘッセン・カッセル方伯は軍隊を傭兵として貸し出すことで悪名を高くした。西暦18世紀を通じ、ヘッセン・カッセルの人口の7%以上が軍務に就いていた。ヘッセン・カッセル方伯の軍隊は他のヨーロッパ諸国の傭兵市場の供給源となっていた。ヘッセン・カッセル方伯フリードリヒ2世は、義理の甥にあたるハノーファー選帝侯兼イギリス王ジョージ3世にアメリカ独立戦争に投入するためのヘッセン・カッセル傭兵軍を貸し出したことで有名である。このためアメリカ人はイギリス政府に雇われたドイツ人傭兵たちを「ヘシアン(Hessian) 」と呼ぶようになった。ヘッセン・カッセル方伯フリードリヒ2世はイギリス政府に傭兵を貸与して得た報酬で豪勢な暮らしを送り、次代のヘッセン・カッセル方伯ヴィルヘルム9世はこの巨富の運用をマイアー・アムシェル・ロートシルトに任せたことでロスチャイルド家の発展の礎が築かれた。



ブルボン朝(仏語: dynastie des Bourbons、西暦1589〜1792、1814〜1830年)、オルレアン朝(仏語: dynastie d'Orléans、西暦1830〜1848年) その2

 ルイ・フェルディナン・ド・フランス(Louis Ferdinand de France)は、フランス王ルイ15世最愛王と王妃マリー・レクザンスカの長男。誕生とともに王太子(ドーファン)に立てられたが、王位に就くことはなかった。 西暦1745年にスペイン王フェリペ5世の娘で父の従妹に当たるマリー・テレーズ・ラファエルと結婚した。妃マリー・テレーズ・ラファエルは引っ込み思案で他の王族のように遊興には加わらず、自室にいることの方が多く、夫の王太子ルイ・フェルディナンとの夫婦仲は非常に良く、彼は妃の傍から片時も離れなかった。ポンパドゥール夫人(Madame de Pompadour)に溺れるルイ15世最愛王とは対照的な状態であった。ポンパドゥール夫人は王太子夫妻から非常に嫌われていた。翌西暦1746年に、妃は待望の一人娘マリー・テレーズを出産したが、難産だったため著しく衰弱し、出産から3日後に急死した。残された一人娘マリー・テレーズも夭逝した。同年にフェリペ5世により金羊毛騎士団員に叙され、フェリペ5世も亡くなり、四男フェルナンドがスペイン王フェルナンド6世慎重王になった。
 妻の死に打ちのめされた王太子ルイ・フェルディナンにスペイン王フェルナンド6世慎重王は、亡きの代わりに別の末妹のマリーア・アントニア・ディ・スパーニャ(Maria Antonia di Spagna、西語名: マリア・アントニエッタ・デ・ボルボーン(Infanta María Antonieta de Borbón))王女との再婚勧めたが、ルイ15世最愛王に断られた。ルイ15世最愛王の政治に強い影響力を持っていた王の寵姫ポンパドゥール夫人が、「オーストリア継承戦争でザクセン選帝侯領(西暦1356〜1806年)との同盟を強くしたい。」と考え、ポーランド王アウグスト3世(兼ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世)の娘マリー・ジョゼフ・カロリーヌ・エレオノール・フランソワーズ・グザヴィエール・ド・サクス(Marie-Josèphe Caroline Éléonore Françoise Xavière de Saxe、独語名: マリア・ヨーゼファ・カロリーナ・エレオノール・フランツィスカ・クサヴェリア・フォン・ポーレン・ウント・ザクセン(Maria Josepha Karolina Eleonore Franziska Xaveria von Polen und Sachsen))との再婚を纏めようとした。
 マリア・ヨーゼファの祖父アウグスト2世と父アウグスト3世は共に、ルイ・フェルディナンの母方の祖父スタニスワフ1世レシチニスキとポーランド王位を争ったという因縁のある間柄であった。一方で、マリア・ヨーゼファの姉マリア・アマリアはナポリ・シチリア王カルロ(スペイン王子でもあり、後にスペイン王カルロス3世)の妃。外交的には好ましいこの縁組は、王太子ルイ・フェルディナンの母である王妃マリー・レクザンスカの強い反対にも拘わらず進められ、翌西暦1747年02月09日、マリア・ヨーゼファと王太子ルイ・フェルディナンは結婚した。フランス式に名前を改めたマリー・ジョゼフは新郎に、「前妻のことを無理に忘れる必要はない。」と声を掛けた。このような事情から、嫁と姑の関係はしばらくぎくしゃくした。王太子ルイ・フェルディナンは、何人もいた姉妹の中で、アンリエット・アンヌと特に親しかった。最初の妻マリー・テレーズ・ラファエル妃の死から立ち直れなかった王太子ルイ・フェルディナンは、結婚当初マリー・ジョゼフのことを非常に嫌った。そんな弟に対してアンリエット・アンヌは、「最初の妻の死による悲しみを後妻のマリー・ジョゼフに背負わせるのは不当である。」と弟を諭し、弟夫婦の仲を取り持った。王太子ルイ・フェルディナンは父ルイ15世最愛王とは異なり、敬虔で厳格な人物でローマ法王クレメンス13世とともにイエズス会の保護を行った。3人にはカトリックの信仰という共通点があり、「ルイ15世最愛王の放蕩に馴染めない。」という点でも似たところがあった。マリー・レクザンスカ王妃の父の追悼式の際には、スタニスワフ元国王のメダルを首にかけて出席し、姑との関係を改善した。王太子夫妻は、ヴェルサイユを離れて別邸で生活することが多くなった。

 長女マリー・ゼフィリーヌ、長男ブルゴーニュ公ルイ・ジョゼフ・グザヴィエ、次男アキテーヌ公グザヴィエ・マリー・ジョゼフ、三男ベリー公ルイ・オーギュスト(ルイ16世)、四男プロヴァンス伯ルイ・スタニスラス(ルイ18世)、五男アルトワ伯シャルル・フィリップ(シャルル10世)、次女マリー・アデライード・クロティルド・グザヴィエール、三女エリザベート・フィリッピーヌ・マリー・エレーヌの5男3女を儲けた。長男と次男は、国王になる可能性が高かったので、名前を付けるときは王ブルボン家の源流のカペー朝のルイ9世聖王から取った。四男のルイ・スタニスラフは母方の祖父スタニスワフ1世レシチニスキから取った。彼が族で協議し決めたが、三男、四男はまさか国王になるとは考思われず、王太子ルイ・フェルディナン自身が自分の好みで考えた。ルイ・オーギュストは、名付けたのはこの2人だけで、残りの子供の命名には興味を示さなかった。
 外見的に、長男ルイ・ジョゼフ・グザヴィエ、四男ルイ・スタニスラスと五男シャルル・フィリップの3人は、父王太子ルイ・フェルディナンから錐のように研ぎ澄まされた目を貰い、三男ルイ・オーギュストだけは、母マリー・ジョゼフと同じ腫れぼったい瞼、太い眉を貰った。母譲りの色白、水色の目、父譲りの肥満体質。美男で有名な祖父ルイ15世最愛王の美貌は、残念なことに末弟のシャルル・フィリップだけしか受け継がなかった。4人の兄弟の性格は、長男ルイ・ジョゼフ・グザヴィエは横柄、三男ルイ・オーギュストは鈍感、四男プロヴァンス伯ルイ・スタニスラスは利発、五男シャルル・フィリップは元気の良さが特徴的だった。
 長男ブルゴーニュ公ルイ・ジョゼフ・グザヴィエは、活発で魅力的で王としての資質や気品を生まれながらに持っており、誰が見てもフランス国王になるのに相応しい少年で、当然、両親のお気に入りで、大事にされちやほやされて育った。彼は親しい人々、特に西暦1755年に5歳で亡くなった姉の長女マリー・ゼフィリーヌにとても愛されていた。まだ4歳にもなっていなかったルイ・ジョゼフ・グザヴィエがこの影響を受けたかどうかは不明だが、ルイ・ジョゼフ・グザヴィエは姉の不在を感じていた。メルキュール紙は西暦1755年に「4歳のブルゴーニュ公は武器がとても好きである。」、西暦1758年には「幼い割にはしっかりしている。」と言う記事を載せた。王太子夫妻の長男は、将来が楽しみな少年だった。
 次男アキテーヌ公グザヴィエ・マリー・ジョゼフは5ヶ月間生きた間、兄のブルゴーニュ公ルイ・ジョゼフに次いでフランス王位継承順位第3位だった。 西暦1754年02月22日癲癇発作の後に亡くなった。
 長男ルイ・ジョゼフ・グザヴィエは、少し三男ルイ・オーギュストを少し苛め、特にトランプでは、のんびりしている弟はよく鴨にされた。元々トランプが好きでなかったルイ・オーギュストは余計憤慨したようで、以後もトランプはどうしても好きになれなかった。ルイ・オーギュストが16歳の時、懺悔聴聞僧は、社交の1つとしてトランプをするように勧めたが、極たまにホイストをする以外は決してトランプをしなかった。子供の頃からトランプ遊びが好きだった妻のマリー・アントワネットとは大きく異なった。
 当時のフランス王国では、王家の子供達は滅多に両親に会えなかった。たまに会うとしても公式行事の時に会うくらいで、家族として接することはほとんどなく、子供達は女性の家庭教師マルサン夫人に教育された。西暦1754年、マルサン夫人(Madame de Marsan、マリー・ルイーズ・ジュヌヴィエーヴ・ド・ロアン(Marie-Louise-Geneviève de Rohan))が王家のガヴァネス(王家養育係主任女官)の職に就いた。マルサン夫人は将来のフランス国王の長男ルイ・ジョゼフ・グザヴィエや、愛想のいい四男ルイ・スタニスラスを特別に可愛がり、三男ルイ・オーギュストにはほとんど愛情を注がなかった。王太子は子供達の教育をより密接に監督し来るべき将来に備えた。自らも毎週水曜日と土曜日に子供達に試験を行って、学習の進み具合を監視した。マルサン夫人が王子女の中で最も可愛がったのは四男ルイ・スタニスラスであり、プロヴァンス伯ルイ・スタニスラスの方も夫人を「親愛なる小さなお友だち(ma chère petite amie)」と呼んでよく懐いた。養育係主任女官は慣例上、王子女の養育の監督が職務のため、例えば妹娘の三女マダム・エリザベート(Madame Elisabeth、エリザベート・フィリッピーヌ・マリー・エレーヌ・ド・フランス(Élisabeth Philippine Marie Hélène de France))の日常の世話は下僚の侍女マッコー夫人に任された。しかし姉娘の次女マリー・アデライード・クロティルド・グザヴィエール・ド・フランス(Marie Adélaïde Clotilde Xavière de France)、クロティルデ・ディ・ボルボーネ。フランチア(伊語名: Maria Clotilde Adelaide di Borbone-Francia))はマルサン夫人のお気に入りだったので、マルサン夫人が世話することも多く、西暦1775年にクロティルドがサヴォイア家のカルロ・エマヌエーレ・フェルディナンド・マリーア・デ・サヴォイア(後のサルデーニャ王国4代国王カルロ・エマヌエーレ4世)と嫁入りするときも随行し、婚礼に参加した。
 長男ルイ・ジョゼフ・グザヴィエは、西暦1759年に遊び仲間の1人によって木馬から突き落とされたが、彼は優しいことが知られており、友人が処罰されないように、このことを誰にも話さなかった。 この事件の後、長男ルイ・ジョゼフ・グザヴィエの健康状態が急速に悪化し始めた。家族の主治医であるバルビエ医師は西暦1760年にルイ・ジョゼフ・グザヴィエの手術を決定し、意識があるうちに手術を受けた。
 西暦1760年09月08日、6歳になったばかりのとき、気難しいラ・ヴォギュヨン公ポール・フランソワ・ド・ケランがルイ・オーギュストの家庭教師兼遊び友達になり、学習を指導をした。兄ルイ・ジョゼフ・グザヴィエの健康が悪化したので、ルイ・オーギュストの正規の教育が1年早く開始することになった。王太子でさえ国務から遠ざけたルイ15世最愛王はルイ・オーギュストはもちろん政治とは関係のない所にいた。
 助からないと聞かされた王太子は、西暦1760年11月29日に祖父母フランス王ルイ15世最愛王と王妃マリー・レクザンスカを代父母として洗礼を受けさせた。 それまで、彼は単に「ブルゴーニュ」という名しかなかった。西暦1761までにブルゴーニュ公ルイ・ジョゼフ・グザヴィエは骨結核と診断され、ベッドに縛り付けられ、足を動かすことができなくなった。7ヶ月の間、三男ルイ・オーギュストは大好きな兄ルイ・ジョゼフ・グザヴィエの看病をしたが、西暦1761年の復活祭の 03月22日朝、結核のため9歳で亡くなった。あらゆる面で「生まれながらの王」であった長男ルイ・ジョゼフ・グザヴィエの死は偏愛する両親に大きな打撃を与えた。王太子は父ルイ15世最愛王があまりにも杜撰な政治をしていることを知っており、「恐らく自分の治世期間だけではフランスを回復できない。」と思っていた。ブルゴーニュ公にフランス王国の未来を託していた。
 長男ルイ・ジョゼフ・グザヴィエを可愛がっていた王太子夫妻やルイ15世最愛王の愛情は、三男ルイ・オーギュストのところに回って来ず、弟の四男ルイ・スタニスラスと五男シャルル・フィリップに行った。未来の国王だが、両親の愛情を受けられなかったルイ・オーギュストは、ますます内向的に孤独になっていった。
 西暦1765年12月20日に、父ルイ15世最愛王に先立って、王太子ルイ・フェルディナンは結核で36歳で亡くなり、長男ブルゴーニュ公ルイ・ジョゼフ・グザヴィエと次男アキテーヌ公グザヴィエ・マリー・ジョゼフは既に亡く、11歳の三男ベリー公ルイ・オーギュストが王太子に立てられた。 母マリ・ジョゼフはルイ・オーギュストが12歳になった時、「ルイ9世聖王は素晴らしい国王だった。まさに世界を判定する聖人だったのです。あなたの立派な家系の保護者でもあり、王制の守護神でもある。ルイ9世聖王の足跡に従いなさい。」と諭した。マリー・ジョゼフは夫の死から回復することなく、西暦1767年03月13日に同じく結核で亡くなった。
 フランス王国とオーストリア大公国(西暦1453〜1806年)の和平のための政略結婚である三男ルイ・オーギュストの妃に、ハプスブルク・ロートリンゲン朝の初代神聖ローマ帝国皇帝フランツ1世シュテファンの皇后でオーストリア大公国共同統治者の事実上の女帝、マリア・テレジア(Maria Theresia)の末娘の皇女マリア・アントーニア・ヨーゼファ・ヨハンナ(Maria Antonia Josepha Johanna、仏語名: マリー・アントワネット・ジョゼフ・ジャンヌ・ド・アプスブール・ロレーヌ(Marie-Antoinette-Josèphe-Jeanne de Habsbourg-Lorraine,、マリー・アントワネット・ドートリッシュ(Marie-Antoinette d'Autriche))を迎えることに反対して縁談を妨げていたが、自身と妃マリー・ジョゼフの死により縁談は進められた。
 西暦1774年05月10日午後03時30分、ルイ15世最愛王が64歳で死去した。19歳になるベリー公ルイ・オーギュストがルイ16世として即位した。彼は「私は何一つ教わっていないのに。」と嘆いた。


 ブルボン朝5代ルイ16世(Louis XVI、ナヴァバラ国王としてはルイス5世(バスク語: Luis V.a))はルイ15世最愛王の孫、王妃は神聖ローマ皇帝フランツ1世と皇后マリア・テレジアの娘マリー・アントワネット。在位中の西暦1789年にフランス革命が起こり、西暦1791年憲法に宣誓して以後は、称号は「フランス国王(Roi de France)」ではなく「フランス人の王(Roi des Français)」となった。西暦1792年に王権が停止し、翌年処刑された。フランス最後の絶対君主にしてフランス最初の立憲君主である。

 父ルイ・フェルディナン王太子、母マリー・ジョゼフ・ド・サクス(ポーランド王兼ザクセン選帝侯アウグスト3世の娘)の三男ルイ・オーギュストとして誕生した。ベリー公ルイ・オーギュストは、聡明で美男子だと思われていた長兄のブルゴーニュ公ルイ・ジョゼフ・グザヴィエを偏愛する両親に見落とされていた。ベリー公ルイ・オーギュストは強くて健康な少年だったが、とても内気だった。彼は学業に優れ、ラテン語、歴史、地理、天文学に強い趣味を持ち、イタリア語と英語に堪能になった。 彼は祖父ルイ15世最愛王と一緒に狩猟をしたり、弟の四男プロヴァンス伯ルイ・スタニスラスと五男アルトワ伯シャルル・フィリップと乱暴な遊びをしたりするなど、身体活動を楽しんだ。 ルイ・オーギュストは幼い頃から、もう1つの興味である鍵鍛冶を奨励されており、それは子供にとって有益な仕事であると考えられていた。鍵は実用品のみならず収集品としても愛用されていた。ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世やオーストリア大公(前方オーストリア大公)フェルディナント2世などは鍵の収集家でもあった。またドイツのバイエルン選帝侯領(西暦1623〜1806年)やヴュルツブルク司教領(西暦1168〜1803年)では、錠前職人の親方を呼び寄せ、宮廷付き錠前師として鍵、錠のみならず門扉などを作らせていた。特に鍵と縁が深いのはフランス王国ブルボン朝で、ルイ14世太陽王も鍵マニアだった。そのルイ14世太陽王の影響を受けたのか、ベリー公ルイ・オーギュスト(ルイ16世)もまた鍵製作を趣味にするほどの「マニア」であった。
 西暦1760年09月08日、ラ・ヴォーギュヨン公ポール・フランソワ・ド・ケレンが家庭教師となった。西暦1760年から1770年の結婚まで、ラ・ヴォーギュヨン公ポール・フランソワ・ド・ケレンから受けた厳格で保守的な教育は、彼に王位継承の準備をさせるものではなかった。ベリー公 ルイ・オーギュストは教育を通じて、宗教、道徳、人文科学に特化した様々な教育を受け、ベリー公ルイ・オーギュストを優柔不断な王に仕立て上げる結果となった。 彼の教師のアベ・ベルティエは、「強い君主には臆病さが価値である。」と教え、聴罪司祭であるアベ・ソルディーニは、「人々に心を読まれないように。」と教えた。
 聡明で美男子と期待されていた兄のブルゴーニュ公ルイ・ジョゼフ・グザヴィエを偏愛する両親に見落とされていたが、西暦1761年の復活祭の日、長兄ブルゴーニュ公ルイ・ジョゼフ・グザヴィエが9歳で結核で死去し、西暦1765年12月20日に父ルイ・フェルディナン王太子が結核で亡くなり、11歳のベリー公ルイ・オーギュストが新たな王太子となった。 彼の母親は夫の死から恢復することなく、西暦1767年03月13日に同じく結核で亡くなった。

 長年敵対してきたブルボン家とハプスブルク家の間の和議を結ぶため、オーストリア大公国マリア・テレジア神聖ローマ帝国皇后(事実上女帝)により末娘マリア・アントーニア・ヨーゼファ・ヨハンナとブルゴーニュ公ルイ・ジョゼフ・グザヴィエとの政略結婚が画策されていたが、このルイ・ジョゼフの死去により西暦1763年05月、オーストリア大公国との同盟関係を強化すべく、新王太子、ルイ・オーギュストとの結婚の使節としてメルシー・アルジャントー伯フロリモン・クロードが大使としてフランス王国に派遣された。ショワズール公エティエンヌ・フランソワや娼婦上がりの公妾デュ・バリー夫人は推進しようと画策したが、結婚の反対者であった父ルイ・フェルディナン王太子、母マリー・ジョゼフ・ド・サクスが西暦1765年に死亡した後の西暦1769年06月、ようやくルイ15世最愛王からマリア・テレジアへ婚約文書が送られた。
 西暦1770年04月19日、マリア・アントーニアが14歳のとき、王太子となっていたベリー公ルイ・オーギュストとの結婚式はまずウィーンで代理人によって行われ、西暦1770年05月16日、ヴェルサイユ宮殿の王室礼拝堂で王太子ベリー公ルイ・オーギュストとマリア・アントーニア・ヨーゼファ・ヨハンナの豪華絢爛な結婚式が挙行され、王太子妃は仏語名マリー・アントワネット・ドートリッシュとなった。この時「マリー・アントワネットの讃歌」が作られ、盛大に祝福された。 ヨーロッパの王族の婚姻では嫁ぎ先の都市(あるいは国家)より、「名誉市民の鍵」を授けられることがある。マリー・アントワネットもブルボン家へ輿入れをする際に、パリの名誉市民の鍵を授けられている。
 ルイ15世最愛王は婚姻によってオーストリア大公国との同盟を維持しようと考えたが、七年戦争(西暦1754/1756〜1763年)においてオーストリア大公国と同盟を結んだフランスはプロイセン王国(西暦1701〜1918年)に敗北していた。フランス王国の感情として反オーストリアの機運が高まり、マリー・アントワネットは反オーストリアによる偏見に常に悩まされることになった。

 西暦1774年05月10日午後03時30分、ルイ15世最愛王が64歳で死去した。19歳になる孫のベリー公ルイ・オーギュストがルイ16世として即位した。「私は何一つ教わっていないのに。」と嘆いた。西暦1775年、ランスのノートルダム大聖堂で戴冠式を行った。

 ルイ15世最愛王の孫であるルイ16世は、マリー・アントワネットと結婚することになり、デュ・バリー夫人とマリー・アントワネットは、王室の結婚式の前夜に初めて出会った。マリー・アントワネットは14歳の純真な少女で、デュ・バリー夫人がルイ15世最愛王の公妾で娼婦だった過去を耳にし、すぐに軽蔑した。元々デュ・バリー夫人と対立していたルイ15世最愛王の四女マリー・アデライード・ド・フランス(Marie Adélaïde de France)が率いる五女マリー・ルイーズ・テレーズ・ヴィクトワール・ド・フランス(Marie-Louise-Thérèse-Victoire de France)、六女ソフィー・フィリップ・エリザベート・ジュスティーヌ・ド・フランス(Sophie Philippe Elisabeth Justine de Franceらに焚きつけられたのだが、娼婦や愛妾が嫌いな母マリア・テレジアの影響を受けたマリー・アントワネットは、デュ・バリー夫人の出自の悪さや存在を憎み、徹底的に宮廷内で無視し続けた。当時のしきたりにより、デュ・バリー夫人からマリー・アントワネットに声を掛けることは禁止されていた。宮廷内はアントワネット派とデュ・バリー夫人派に分かれ、マリー・アントワネットがいつデュ・バリー夫人に話し掛けるかの話題で持ちきりであった。
 ルイ15世最愛王と王妃マリー・レクザンスカの8人の娘たちは、そのほとんどが、系譜学的、政治的、戦略的な要因から未婚のままフランス宮廷に残ることになった。多くが独身を通したこの姉妹たちを歴史上「メダム(マダムたち)」と呼ぶようになる状況が生まれた。 ルイ15世はこの対立に激怒し、母マリア・テレジアからも対立を止めるよう忠告を受けたマリー・アントワネットは、西暦1771年07月に貴婦人たちの集まりでデュ・バリー夫人に声を掛けることになった。しかし、声をかける寸前にアデライード王女が突如マリー・アントワネットの前に走り出て「さあ時間でございます!ヴィクトワールの部屋に行って、国王陛下をお待ちしましょう!」と言い放ち、皆が唖然とするなかで、マリー・アントワネットを引っ張って退場した。2人の対決は西暦1772年01月01日に、新年の挨拶に訪れたデュ・バリー夫人に対し、予め用意された筋書きどおりに「本日のヴェルサイユは大層な人出ですこと。」とアントワネットが声を掛けることで表向きは終結した。その後、アントワネットはアデライード王女らとは距離を置くようになった。 ルイ15世最愛王が亡くなると、孫のルイ16世が国王として即位し、マリー・アントワネットが王妃となった。王妃が最初に行ったことの1つが、デュ・バリー夫人を修道院に追放することであった。
 ある日宮殿の錠が掛かっている部屋が火事になったことがある。宮中の誰もが消火が出来ず困り果てていた中、ルイ16世自らが道具を持って駆けつけ、解錠し消火をさせた。

 マリー・アントワネットはルイ16世のことを慕っており、ルイ16世もマリー・アントワネットに対して好意はあったとされている。互いの気持ちが上手く疎通できていなかったことにより、フランス革命間際までは距離を取りがちであった。またマリー・アントワネットとルイ16世の部屋を繋ぐ隠し通路があったものの、使われることはほとんどなかった。 時にパリのオペラ座で仮面舞踏会に遊び、また賭博にも熱狂的にのめったと言われるが、賭博に関しては子供が生まれたことをきっかけに訪れた心境の変化から止めている。アントワネットは自身の手で子供たちを養育することを望み、熱心に教育した。また、子供たちの側に居るために、ヴェルサイユ宮殿内のアパルトマンの整備を行った。
 ルイ15世最愛王がポンパドゥール夫人のために造成し、デュ・バリー夫人が受け継いだ小トリアノン宮殿(le Petit Trianon、プチ・トリアノン)を、西暦1774年に王に即位した20歳のルイ16世は、この小宮殿と周辺の庭園を19歳のマリーアントワネット王妃に、彼女の私的な所有物として与えた。離宮のプチ・トリアノンは彼女が安らぎと余暇を楽しめる唯一の場所、隠れ家(エルミタージュ、Hermitage)であった。そして王妃の所有物であったので、彼女の許可なしには夫のルイ16世でさえ誰も立ち入ることはできなかった。王妃の寵臣のランバル公妃マリー・ルイーズ(マリー・テレーズ・ルイーズ・ド・サヴォワ・カリニャン(Marie-Thérèse-Louise de Savoie-Carignan, Princesse de Lamballe)、伊語名: マリーア・テレーザ・ルイーザ)とポリニャック伯爵(後に公爵)夫人ヨランド・ド・ポラストロン(ヨランド・マルティーヌ・ガブリエル・ド・ポラストロン(Yolande Martine Gabrielle de Polastron, comtesse puis duchesse de Polignac, marquise de Mancini))だけが入館を許可された。王妃はプチ・トリアノンの改造工事を始め、「ル・アモー・ドゥ・ラ・レーヌ(Le hameau de la Reine、王妃の村里)」という庭園を作り、自由な姿で活動した。プチ・トリアノンにおいて、ランバル公妃マリー・ルイーズ、ポリニャック伯爵(後に公爵)夫人、王弟アルトワ伯シャルル・フィリップ、スウェーデンの貴族ハンス・アクセル・フォン・フェルセン伯らお気に入りの少数の貴族と過ごすことが多く、また、プチ・トリアノンは兄ヨーゼフ2世、スウェーデン王グスタフ3世、後のロシア皇帝パーヴェル1世などの賓客を迎える場となった。「王妃の村里」と、そこに家畜用の庭ないし農場を増設し、子供を育てながら家畜を眺める生活を送っていた。 マリー・アントワネットにとって「王妃の村里」はプチ・トリアノンの自由さに加えて自然の空間を味わう場所でもあった。そこでは牛、羊、山羊、鶏、豚といった動物が飼われたが、これらは非常に丁寧かつ清潔に飼育されていた。王妃自身、麦わら帽子をかぶり、モスリンのドレスを着て礼儀作法に縛られない田舎風暮らしを好んだ。この田園生活への憧れは、マリー・アントワネット固有のものではなく、当時の王侯貴族に共通するものだった。
 しかし、この閉鎖的に受け取れる姿勢はヴェルサイユのしきたりを無視するものとして受け取られ、「小ウィーン」と呼ばれて、他の貴族たちから反感を抱かれた。王妃に近侍していた身分が低い女性たちと身分高い貴婦人たちの間で対立が激しくなり、マリー・アントワネットの醜聞を記した怪文書が出回った。これらに振り回されたマリー・アントワネットは次第に王妃としての権威を喪失していくことになった。

 マリー・アントワネットの最初の寵臣、マリー・テレーズ・ルイーズ・ド・サヴォワ・カリニャン(Marie-Thérèse-Louise de Savoie-Carignan, Princesse de Lamballe)は、北イタリアのサヴォイア家分枝カリニャーノ公家の4代サヴォイア・カリニャーノ公ルイージ・ヴィットーリオ(Luigi Vittorio di Savoia-Carignano)とドイツ人の妻クリスティーネ・フォン・ヘッセン・ローテンブルク(Christine Henriette von Hessen-Rheinfels-Rotenburg、伊語名 クリスティーナ・エンリケッタ・ダッシア(Cristina Enrichetta d'Assia))の間の第6子五女。
 ルイ14世太陽王と寵姫モンテスパン侯爵夫人フランソワーズ・アテナイスとの準正された婚外子の三男トゥールーズ伯ルイ・アレクサンドル・ド・ブルボンの1人息子パンティエーヴル公ルイ・ジャン・マリー・ド・ブルボン(Louis Jean Marie de Bourbon, duc de Penthièvre)とマリー・テレーズ・フェリシテ・デスト(Marie-Thérèse-Félicité d'Este、伊語名: マリーア・テレーザ・フェリーチタ・デステ(Maria Teresa Felicita d'Este))と5男2女を儲けたが、成人したのは、次男ランバル公ルイ・アレクサンドル・スタニスラスとオルレアン公ルイ・フィリップ2世と結婚した次女ルイーズ・マリー・アデライード・ド・ブルボン・パンティエーヴル(Louise Marie Adélaïde de Bourbon-Penthièvre)だけだった。やはり同じルイ14世太陽王と寵姫モンテスパン侯爵夫人フランソワーズ・アテナイスとの準正された婚外子の四女フランソーズ・マリー・ド・ブルボン(Françoise Marie de Bourbon)は、オルレアン公フィリップ2世未亡人はマリー・テレーズ・フェリシテの母方の祖母で、王家の一員とはいえプランス・デュ・サンの称号を持たず、従って王位継承権者でないパンティエーヴル公ルイ・ジャン・マリーと孫娘との縁組に強く反対した。オルレアン公フィリップ2世のお気に入りの四女カルロッタ・アグラエ・ドルレアンス(Carlotta Aglae d'Orléans、仏語名: シャルロット・アレー・ドルレアン(Charlotte Aglaé d'Orléans))の長女がマリー・テレーズ・フェリシテ・デスト。
 西暦1718年頃、リシュリュー枢機卿の大甥の子、3代リシュリュー公ルイ・フランソワ・アルマン・ド・ヴィニュロー・デュ・プレシ(Louis François Armand de Vignerot du Plessis, duc de Richelieu)と恋仲になるが、当時摂政の父オルレアン公フィリップ2世の怒りを買い投獄された。シャルロット・アレーは彼に幾度か面会に行き、父には「彼に結婚を諦めさせた上で放免してくれ、」と頼んだ。娘に巨額の持参金をつけてモデナ公リナルド3世・デステの跡継ぎフランチェスコ(後のフランチェスコ3世・デステ(Francesco III d'Este))と結婚させた。3代リシュリュー公ルイ・フランソワ・アルマンはルイ14世太陽王、ルイ15世最愛王、ルイ16世の3代に仕え、その後、92歳まで生きた。
 マリー・テレーズ・ルイーズは、パンティエーヴル公ルイ・ジャン・マリーの次男ランバル公ルイ・アレクサンドル・スタニスラス・ド・ブルボン(Louis Alexandre Stanislas de Bourbon, prince de Lamballe)と結婚した。称号のランバル公(prince de Lamballe)は、父の領地の1つの地名にちなみ、法的な効力のない儀礼称号。パンティエーヴル公ルイ・ジャン・マリーはブルボン・パンティエーヴル家は、ルイ14世太陽王によってその従姉で子供のないアンヌ・マリー・ルイーズ・ドルレアンの財産を与えられており、次男ルイ・アレクサンドル・スタニスラスは誕生の時点から相続人見られていた。
 ところが、最初のうちは仲睦まじかったランバル公夫妻の仲は、結婚1ヶ月後には2人の女優との不貞を働きランバル公妃マリー・ルイーズは深く傷つき。落ち込んだ彼女を慰めたのは舅のパンティエーヴル公ルイ・ジャン・マリーで、義理の父娘はこれを機に親密になった。ランバル公ルイ・アレクサンドル・スタニスラスは女遊びが祟って性病が悪化し、妻や妹の看病も空しく、20歳で死去した。ランバル公妃マリー・ルイーズも夫から性病を移され、懐妊が望めない体になった。 父パンティエーヴル公ルイ・ジャン・マリーの財産は、妹でオルレアン公ルイ・フィリップ2世と結婚したルイーズ・マリー・アデライードによって継承された。
 19歳で寡婦となったランバル公妃マリー・テレーズ・ルイーズは夫から相当額の遺産を譲られ、かなりの資産家となった。彼女は修道院に入ろうとしたが舅のパンティエーヴル公ルイ・ジャン・マリーが反対し、自分の娘代わりに傍にいてくれるよう説得した。一緒に領地のランブイエでの大規模な慈善活動に没頭し、そのためパンティエーヴル公ルイ・ジャン・マリーは「貧者の王」と、ランバル公妃マリー・テレーズ・ルイーズは「パンティエーヴルの天使」と呼ばれて称賛された。公妃は舅の所有するパリ市街のオテル・ド・トゥールーズと郊外のランブイエ城を行き来する生活を送った。
 ルイ15世王最愛王の再婚相手に四女のマリー・アデライードはうら若い未亡人ランバル公妃マリー・テレーズ・ルイーズをと画策した。「父の再婚相手は若く美しく、そして野心のない女性が望ましい。」と考え、父王が若い後妻に夢中になって国務を自分に投げ出すことを期待していた。ランバル公妃を王妃に仕立てるアデライードの計画は4代ノアイユ公ルイ一族の支持も得たが、ランバル公妃や舅のパンティエーヴル公も全く乗り気でなく、首席国務大臣ショワズール公エティエンヌ・フランソワ一派が、新しい王妃が権力を握ればルイ15世が黙認する自分たちの政治不正を糾弾する可能性があるのを恐れ、ルイ15世最愛王の再婚そのものに強く反対し立ち消えになった。
 パンティエーヴル家は庶子の血筋のため傍系王族が持つ血統親王(プランス・デュ・サン)の身分こそなかったものの、一家は王室の末席に位置付けられていたので、ランバル公妃マリー・テレーズ・ルイーズも王室の儀式や催事に王族として参加した。しかもランバル公妃マリー・ルイーズの母クリスティーネ・ヘンリエッテ・フォン・ヘッセンーラインフェルスーローテンブルクは末妹で長姉 ポリッセナ・ダッシア・ローテンブルグはサルデーニャ王国(西暦1720〜1861年)2代国王カルロ・エマヌエーレ3世妃で、長男の3代国王ヴィットーリオ・アメデーオ3世(Vittorio Amedeo III)の次女(ランバル公妃の従姪)マリー・ジョゼフィーヌ・ルイーズ・ド・サヴォワは、西暦1771年04月に王弟プロヴァンス伯ルイ・スタニスラス(後のルイ18世)と結婚し、西暦1773年に三女(ランバル公妃の従姪)マリー・テレーズ・ド・サルデーニュが王弟アルトワ伯シャルル・フィリップ(後のシャルル10世)と、西暦1775年に長男(ランバル公妃の従甥)カルロ・エマヌエーレ4世が夫の妹クロティルド・ド・フランス(Marie Adélaïde Clotilde Xavière de France、伊語名: クロティルデ・ディ・ボルボーネ・フランチア(Maria Clotilde Adelaide di Borbone-Francia))と結婚した。 輿入れした当初の王太子妃マリー・アントワネットはプロヴァンス伯爵夫妻及びアルトワ伯爵夫妻と友人サークルを作っていたため、その輪には両伯爵夫人の同族ランバル公妃も引き込まれ、結果、王太子妃の側にはほとんど常にランバル公妃がいるようになった。
 王妃となったマリー・アントワネットの母マリア・テレジア皇太后は、君主の側近に侍る寵臣や友人というものを容認しなかったために、娘とその新しい友人の交遊に腹を立てていた。皇太后は、サヴォイア家出身のランバル公妃が実家の政治的利益のために王妃を利用するのではないかとも心配し、2人の友情を断ち切ろうとした。ランバル公妃は気位が高く繊細で神経質な女性で、謀りごとをする野心もない代わりに機知も持たなかった。容姿は美人ではあると言われた。王妃を楽しませることができたが、生来引っ込み思案だったため、上流社交界の中心に立つよりも王妃と2人きりで過ごすことを好んだ。ランバル公妃は宮廷では身持ちが固いことで有名だった。しかし当時の反君主主義的な民衆プロパガンダは、王政のイメージを傷つけるために、ポルノ色の強い中傷パンフレットの中で、ランバル公妃を王妃マリー・アントワネットのレズビアンの恋人の1人として描いた。
 西暦1775年09月18日、マリー・アントワネットはランバル公妃マリー・テレーズ・ルイーズをヴェルサイユの宮廷女官の最高官職である王妃家政機関総監に任命した。この人事は紛糾を引き起こした。総監職は俸給額が飛びぬけて高額で、権限と影響力も他の女官を圧倒するほど強大であり、例えば他の女官の出した命令は総監の指示で撤回可能であった。そのため西暦1741年以来、34年間にわたり空席となっていた。王妃は友情に報いたい一心から任命したのだが、ベテランの宮廷女官たちは、「ランバル公妃は総監に就任するには身分こそ申し分ないが、若く経験も無い。」として、この任命に憤慨した。王妃の生活に関する全決定についての事前の確認と承認、王妃の許に届く全ての書状・嘆願書・覚書の精査と仕分け、そして王妃の名の下に晩餐会や舞踏会を主催し貴族たちをもてなすことが、総監の職務だった。総監職は宮廷の序列において極めて高い上席権を伴ったことも、宮廷の多くの人々の羨望と嫉視を呼び起こした。総監職の俸給は年額15万リーヴルと莫大だった。国家財政が逼迫していた上にランバル公妃は大富豪であるため、財務総監ローヌ男爵アンヌ・ロベール・ジャック・テュルゴーはランバル公妃に俸給の減額の承認を求めた。しかし公妃は「総監を引き受けるならば歴代の前任者と同じ待遇を要求し、通らなければ辞退する。」と宣言したため、マリー・アントワネットの求めにより総監の俸給には従来通りの額が設定された。この就任時のいざこざはランバル公妃に対する世間の印象を非常に悪くする結果となり、大衆向けの刊行物はランバル公妃を王妃の欲深い寵臣と書き立てた。ランバル公妃は神経過敏、引きつけ、失神などの症状に悩んでおり、失神すると何時間も意識を失うこともあったのだが、庶民たちはランバル公妃の失神する様子を真似して、彼女を揶揄した。
 彼女の寵臣としての立場は広く国民に膾炙し、ランバル公妃が暇を貰って田舎に出掛ければ、行く先々で王族並みの歓待を受け、彼女に詩が献呈されることもあった。総監となったランバル公妃は仲の良い弟のヴィラフランカ伯エウジェーニオ・イラリオーネをヴェルサイユに呼び寄せた。王妃は親友の弟であるヴィラフランカ伯エウジェーニオ・イラリオーネに高収入なフランス軍の連隊長職を与えた。ランバル公妃はまた、亡夫の妹ルイーズ・マリー・アデライードの夫シャルトル公(後のオルレアン公)ルイ・フィリップ2世ジョゼフがポワトゥー州知事に任命されるよう王妃に働きかけた。ランバル公妃はシャルトル公爵夫妻と親しく、夫妻の長男ヴァロワ公ルイ・フィリップ(後の国王ルイ・フィリップ1世)の誕生にも立ち会っている。フランス・フリーメーソンのグランドマスターを務めていたシャルトル公ルイ・フィリップ2世ジョゼフとの友人関係から、ランバル公妃マリー・テレーズ・ルイーズは西暦1777年、シャルトル公爵夫人と共にフリーメーソンの女性組織サン・ジャン・ド・ラ・カンデュール・ロッジの会員となった。次いで西暦1781年01月公妃はアドプション系諸ロッジの最高責任者であるスコットランド・ロッジのグランド・ミストレスに就任した。公妃は西暦1788年、義妹オルレアン公爵夫人(元のシャルトル公爵夫人)と共に、彼女の夫オルレアン公(元のシャルトル公)ルイ・フィリップ2世ジョゼフが国王の決定に反抗して地方に追放された件について、高等法院の評定官たちに同調して、オルレアン公ルイ・フィリップ2世ジョゼフの追放処分の解除を求めた。
 ランバル公妃が総監に就任した西暦1775年以降、王妃の寵愛は新しい友人ポリニャック夫人へと徐々に移っていった。外交的で社交能力に長けたポリニャック夫人は「内気なランバル公妃マリー・テレーズ・ルイーズを野暮ったい。」と貶したが、ランバル公妃も「ポリニャック夫人は王妃を堕落させる。」として彼女を嫌った。マリー・アントワネットは2人の友人を仲良くさせられず、自分が求める娯楽やどんちゃん騒ぎを提供してくれるポリニャック夫人のグループに近づいて行った。西暦1780年、王妃がプチ・トリアノンで素人劇団を立ち上げたとき、ポリニャック公爵夫人が団員にランバル公妃を加えないことを王妃に約束させた。ランバル公妃はポリニャック夫人に寵臣の座を完全に奪われたが、王妃との友情は細々と続いていた。王妃はポリニャック一夫人派との派手な遊興の合間に時おりランバル公妃の部屋を訪れ、ランバル公妃の落ち着きぶりや変わらぬ忠誠心を称賛し、ある時ランバル公妃を「私が知る限り唯一の、人に悪意を持たない女性です。あの方には憎悪や嫉妬というものがありません。」と評した。ランバル公妃は王妃家政機関総監の職を保持し、職務を継続していた。彼女は王妃の名前で舞踏会を主催し、王妃にデビュタント(debutante、初めて社交界にデビューする女性)たちを紹介し、王妃が外国王室の賓客を歓待する際にはこれを補佐し、王妃の出産や毎年行われる王妃の復活祭ミサにも立ち会った。西暦1785年の首飾り事件の際、ランバル公妃は首謀者のラ・モット夫人との面会を求めてサルペトリエール監獄を訪問したが、面会は叶わなかった。訪問の目的は不明だが、当時は様々な憶測が噂として流れた。
 公務以外では宮廷に滞在することは少なかったが、これは自身と舅のパンティエーヴル公ルイ・ジャン・マリーの体調が思わしくなかったためだった。西暦1780年代中頃には、ランバル公妃マリー・テレーズ・ルイーズはかなり健康を損ない、職務を果たすのが難しくなった。公妃はしばしばメスマーの弟子シャルル・デロン医師による動物磁気(催眠術や新興宗教の「手当て」、「手かざし」、「浄霊」などと呼ばれるもの)の治療を受けた。西暦1787年夏、彼女は医師の勧めで英国バースへ鉱泉治療に出かけている。大衆は、「ランバル公妃の旅行は王妃の密命を受けた外交指令であり、罷免された前財務総監シャルル・アレクサンドル・ド・カロンヌがもうすぐ出版する暴露本に書かれた王室に不利な記述を削除するよう求めるために渡英した。」と推測したが、本当は当時カロンヌは英国内にいなかった。バースでの湯治を終えたランバル公妃は健康を徐々に取り戻し、宮廷への出入りも以前より頻繁になった。ちょうどポリニャック夫人との関係が決裂しかけていたマリー・アントワネットも、ランバル公妃の忠実さに感謝し、再びランバル公妃に友情を示すようになった。

La princesse de Lamballe
La princesse de Lamballe

 ポリニャック夫人は、ポラストロン伯ジャン・フランソワ・ガブリエルとその最初の妻ジャンヌ・シャルロット・エロー・ド・ヴォークレソンの長女で、貴族の子女は複数の洗礼名を授けられる習いでヨランド・マルティーヌ・ガブリエルと名付けられたが、最後尾のガブリエルで略称された。17歳の時にポリニャック伯アルマン・ジュール・フランソワ(Armand Jules François, comte puis 1er duc de Polignac)と結婚した。婚家ポリニャック家は実家ポラストロン家と同様、「毛並み」は良いが経済的には貧窮していた。 夫の主な収入源は所属する第1竜騎兵聯隊から給与として支給される4000リーヴルだった。
 夫ポリニャック伯アルマン・ジュール・フランソワの妹のディアーヌ・ド・ポリニャック(Diane Louise Augustine, comtesse de Polignac、後のディアーヌ伯爵夫人)は宮廷女官となり、西暦1775年のある日、ポリニャック伯爵夫妻は、彼女の招待を受け、ヴェルサイユ宮殿鏡の間で行われた公的な招待会に出席した。そこで彼女を初めて紹介された王妃マリー・アントワネットは、「穫れたてのいい香りのする果物みたい」で、「暗めのブルネットの髪(黒髪)、目立って白い肌、「ライラック色」とか「菫色」と形容された、薄紫色に光る眼を持っていたポリニャック伯爵夫人ヨランド・マルティーヌ・ガブリエルの美しさに衝撃を受けて目が「眩み」、ヴェルサイユに永住するよう彼女に懇願した。ヴェルサイユ宮廷で暮らすことは非常に高額な出費を伴い、ポリニャック伯爵夫人ガブリエルは「自分の夫には宮廷に部屋を維持するだけの収入がない。」と正直に答えた。新しいお気に入りを自分の側近くに置いておきたい王妃は、すぐさまポリニャック一族の抱える借金を清算して、ポリニャック伯アルマン・ジュール・フランソワに実入りのよい官職(王妃主馬頭の襲職権保有者)を与えた。先天性脊椎後弯症のため容姿に恵まれず生涯独身、内気な性格だった一方、才気煥発で知性に富んだ皮肉屋の義妹ディアーヌもポリニャック夫人ガブリエルも「ポリニャック伯爵夫人(comtesse de Polignac)」だったため、ガブリエルが公爵夫人となる西暦1780年まで、人々は前者を「ディアーヌ伯爵夫人(comtesse Diane)」、後者を「ジュール伯爵夫人(comtesse Jules)」と呼んで区別した。ポリニャック伯爵夫人は王妃のアパルトマンの近くの快適な部屋を与えられた。彼女はさらに王妃と仲の良い王弟アルトワ伯シャルル・フィリップ(後のシャルル10世)と友人になり、他ならぬ国王ルイ16世が、有力門閥間の権力闘争とは無縁の新しい妻の友人の出現に安心し、王妃がポリニャック伯爵夫人と友情を育むことに賛成してくれた。しかしポリニャック伯爵夫人の登場は、国王夫妻の他の側近たちからは反感を持たれた。カリスマと圧倒的な美貌を備えたポリニャック伯爵夫人は、瞬く間に王妃の極内輪の取り巻きサークル「プチ・キャビネ(petit cabinets)」の最有力者となり、彼女の同意がなければ「プチ・キャビネ」の仲間入りをすることはほぼ不可能となった。ポリニャック伯爵夫人は多くの友人たちから、「洗練されており、立ち居振る舞いが優雅で、愛嬌があって、楽しませてくれる人」という評判を得ていた。
 王妃マリー・アントワネットの恐ろしいほどの気前の良さよ依怙贔屓を笠に着たポリニャック家の一族の富貴と贅沢、そして宮廷を牛耳るかのような傲慢さは、多くの貴族家門の怨嗟の的となり、さらにポリニャック家に対する王妃の寵愛は、一部の平民(特にパリ市民)や自由主義を信奉する貴族たちが王妃を憎悪し、誹謗中傷を始める原因の1つとなった。
 西暦1780年、腹違いの弟妹に有利な条件の結婚をさせた上、07月11日に12歳の長女アグラエ・ルイーズ・フランソワーズ・ガブリエル・ド・ポリニャック(Aglaé Louise Françoise Gabrielle de Polignac)を国内でも指折りの大貴族の1人グラモン公爵の後継者ギーシュ公爵に嫁がせた。この幼い花嫁のために国王が下賜した婚資が80万リーヴルの破格の巨額であったこと(通常、宮廷貴族の婚礼時に国王が花嫁に下賜する婚資は6000リーヴルが相場)、そして花婿に国王が下賜した地所に70万ドゥカート相当の価値があったことで、宮廷の人々の驚きと怒りを呼び起こした。さらに05月14日に次男ジュール・オーギュスト・アルマン・マリー・ド・ポリニャック(Jules Auguste Armand Marie, prince de Polignac)を無事出産したことに対する王室からの祝いとして、09月20日に夫がポリニャック公爵に昇叙された。ガブリエルが「公爵夫人」と呼ばれるようになったことは、宮廷人たちのさらなる苛立ちを招いた。
 西暦1780年代後半までに、「王妃とポリニャック公爵夫人がレズビアンの恋人関係にある。」という内容を含んだ、何千ものポルノ色の強い中傷パンフレットが出回った。2人が同性愛関係にあるという非難には何の証拠もなかったが、性的な中傷の数々は絶対王政の権威に測り知れないほどの深刻な痛手を与え、特にブルジョワ(仏語: bourgeois)階層と都市部の労働者階級に2人の同性愛が事実と思い込ませた。

 ポリニャック夫人が王妃の寵愛を得て以降、夫ポリニャック公アルマン・ジュール・フランソワの大叔父にあたるメルシオール・ド・ポリニャック枢機卿の失脚後長く権力から遠ざかっていたポリニャック家は、再び宮廷で重きをなすことができた。一方、実家のポラストロン家とその親類縁者も、ガブリエルのおかげで宮廷で華やぐことになった。父のポラストロン伯ジャン・フランソワ・ガブリエルはベルン駐在大使に取り立てられ、後に恐怖政治下でギロチンの犠牲となった。腹違いの弟妹も次々に条件の良い結婚をした。
 ポリニャック夫人の母親代わりだった伯母アンドロー伯爵夫人マリー・アンリエットは、若い頃にルイ15世最愛王の四女マリー・アデライードの養育係女官をしていたが、当時14歳の王女にポルノ小説を読ませたことを王女の兄ルイ・フェルディナン王太子に見咎められて宮中を追われた過去があった。ポリニャック夫人は伯母を宮廷に呼び戻し、伯母が政府から年額6000リーヴルの年金を受け取れるよう取り図らった。アンドロー伯爵夫人マリー・アンリエットの娘と息子、義理の娘も宮廷に迎えられ、王妃の取り巻きに名を連ねた。

 ゲメネ夫人(Madame de Guéméné、ヴィクトワール・アルマンド・ジョゼフ・ド・ロアン(Victoire-Armande-Josèphe de Rohan))は放蕩者として悪名高いスービーズ公シャルル・ド・ロアンとその2番目の妻でカリニャーノ公ヴィットーリオ・アメデーオの娘であるアンヌ・テレーズ・ド・サヴォワ・カリニャンの間の唯一の子として生まれた。異母姉シャルロット・ゴドフリード・エリザベート・ド・ロアンが血統親王(プランス・デュ・サン)の1人、ブルボン・コンデ公ルイ5世ジョゼフに嫁ぎ、フランス王族の列に連なり、又従弟のゲメネ公ロアンアンリ・ルイ・マリー(Henri-Louis-Marie de Rohan, prince de Guéméné)と結婚。国王ルイ16世夫妻の寵愛が深く、王妃マリー・アントワネットの推薦により、母方叔父のブイヨン公ゴドフロワが王室侍従長を辞任すると、その役職は彼の息子でなく甥のゲメネ公に与えられた。妻のゲメネ公妃も義理の叔母マルサン夫人から王家のガヴァネスの役職を引き継いだ。ランバル公妃とともに王妃マリー・アントワネットに影響力を持った最初期の寵臣であった。ゲメネ夫人は幼い王妃に贅沢な浪費や賭博の習慣を教えたことで悪評を買った。ゲメネ夫人の父アンヌ・テレーズ・ド・サヴォワ・カリニャンは、ランバル公妃マリー・ルイーズの父4代サヴォイア・カリニャーノ公ルイージ・ヴィットーリオの姉で、ゲメネ夫人とランバル公妃は従姉妹同士であったが、2人を中心とする両派閥は王妃から利益を引き出す上で対立関係にあった。
 西暦1782年、王家のガヴァネス(王家養育係主任女官)だったゲメネ夫人と夫ゲメネ公ロアンアンリ・ルイ・マリー(Henri-Louis-Marie de Rohan, prince de Guéméné)は、詐欺的な商法を扱う公証人マルシャンの助言で始めた年金事業の利息が支払い不可能になり、3300万リーヴルという莫大な債務を負ったまま破産し(ロアンーゲメネ破産事件)ゲメネ公夫妻は宮廷の役職を退き、ヴェルサイユを去った。王妃マリー・アントワネットはゲメネ夫人の後任にポリニャック夫人を任命した。この人事は、(次代の王を育てる)その役職の重要さを考えると「ポリニャック家のような平凡な家柄の者が務めるのは分不相応だ。」ということで、またもや宮廷人の反感を買った。新たに得た地位に付帯する特権により、ポリニャック公爵夫人はヴェルサイユ宮殿内に13の部屋から成るアパルトマンを与えられた。この特権自体は宮廷儀礼の範疇に収まる措置であったものの、王家のガヴァネスに割り当てられるアパルトマンの部屋数は通常4部屋から5部屋ほどで13という部屋数の多さは常に人口過密のヴェルサイユ宮殿にあっては前例のないことだった。ポリニャック夫人はまた、西暦1780年代に小トリアノン宮殿の敷地内に造営された王妃の田園風の隠遁所「王妃の村里」の中にコテージを与えられた。
 ポリニャック夫人は長年、夫の遠縁で近衛部隊所属の陸軍大尉だったヴォドゥロイユ伯ジョゼフ・イヤサント・フランソワ・ド・ポール・ド・リゴー(Joseph Hyacinthe François de Paule de Rigaud, Comte de Vaudreuil)と愛人関係にあると見られていた。ヴォドゥロイユ伯ジョゼフ・イヤサント・フランソワ・ド・ポール・ド・リゴーはカリブ海のイスパニョーラ島のサン・ドマングで、島のフランス総督ジョゼフ・ド・リゴー侯爵とその貴族の白人クレオールの妻フランソワーズ・ギオ・ド・ラ・ミランドの息子として生まれた。一方で、ポリニャック夫人が仲間入りした世界では、「ヴォドゥロイユ伯は暴力的すぎ、礼儀を弁えなさ過ぎるため、2人の交際は相応しくない。」と周囲からは思われていた。ポリニャック夫人がヴェルサイユ宮廷に来てから産んだ下の息子たちは、実父はヴォドゥロイユ伯だと噂されていた。ポリニャック夫人の本質があまりにも本質的に冷淡で、階級意識があり(ヴォードルイユのクレオール系の祖先を考えると)、あるいは不倫とは縁遠かったとも思われる。
 次男のノルマンディー公ルイ・シャルル (後のルイ17世)を出産した西暦1785年頃から、ヴォドゥロイユ伯が無礼で苛立たしい人物だと気づいた王妃マリー・アントワネットは彼に対する嫌悪感を募らせ、ヴォドゥロイユ伯を軽蔑し、侍女頭カンパン夫人(ジャンヌ・ルイーズ・アンリエット・カンパン(Jeanne-Louise-Henriette Campan))を含む何人かの女官にヴォドゥロイユ伯の不満を訴えた。カンパン夫人は、ボードルイユが玉突きの試合に負けて激怒して象牙のビリヤードのキューを壊した時のときの王妃の激怒を思い出した。 ヴォードルイユ伯は宮廷で年間3万リーブルの王室鷹匠以上の地位を獲得することはなかった。それにつれてポリニャック夫人の王妃に対する影響力は衰えていった。
 王妃の侍女頭カンパン夫人によれば、王妃はポリニャック一族に対して自分が感じる「強い不満感にお苦しみ遊ばされた。」、「王后陛下は、『君主が自分の宮廷で寵臣を作るということは、君主自身に対抗するもう一人の専制君主をつくるということなのね。』と私に仰せになった。」王妃に煙たがられていると感じたポリニャック公爵夫人は、イングランドの友人たち、特に親友の1人でロンドン上流社交界の指導者的存在だったデヴォンシャー公爵夫人を訪ねにイングランドへ旅立った。同国滞在中、ポリニャック公爵夫人はひ弱な体質のために「ちっちゃなポー(Little Po)」という呼び名で知られた。
 ゲメネ公夫妻は持ち家であるパリ・ヴォージュ広場の本邸オテル・ド・ロアン・ゲムネやモントルイユの別邸を含む資産の大部分を売却した。モントルイユの屋敷と所領はルイ16世の好意で王室買い上げとなり、その後、王妹マダム・エリザベートに譲渡された。ロアン一族は強い結束力を示し、ゲメネ公夫妻の作った借金を必死になって返済しようとし。しかしゲメネ公夫妻の転落はロアン家の宮廷における勢力凋落を意味し、このためゲメネ公の父方叔父ルイ・ド・ロアン枢機卿は国王夫妻の寵を得ようと必死になり、結果としてルイ・ド・ロアン枢機卿を巻き込んだ首飾り事件の発生に影響した。

ポスター エリザベート 『ポリニャック公爵夫人の肖像』 A3サイズ 【日本製】 [インテリア 壁紙用] 絵画 アート 壁紙ポスター
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 マリー・アントワネットと発言として、フランス革命前に民衆が貧困と食糧難に陥った際、「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない。」が誤って紹介されることがある。ルイ16世の叔母のマリー・ルイーズ・テレーズ・ヴィクトワール王女の発言とされることもある。原文は、「Qu'ils mangent de la brioche.」、直訳すると「彼らはブリオッシュを食べるように。」となる。ブリオッシュは現代ではパンの一種の扱いであるが、かつては原料は小麦粉・塩・水・イーストだけのパン(フランスパン)でなく、バターと卵を使うことからお菓子の一種の扱いをされていたもの。
 これは明確にマリー・アントワネットの言葉ではないことが判明している。


マリー・アントワネットの衣裳部屋 - 理奈, 内村
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 地味な人物である夫のルイ16世を見下しているところもあったがこれは彼女だけではなく大勢の貴族達の間にもそのような傾向は見られたらしい。一方、彼女は大貴族たちを無視し、彼女の寵に加われなかった貴族たちは、彼女とその寵臣をこぞって非難した。一方、彼女は大貴族たちを無視し、彼女の寵に加われなかった貴族たちは、彼女とその寵臣をこぞって非難した。彼らは宮廷を去ったルイ15世最愛王と王妃マリー・レクザンスカの四女マリー・アデライードや宮廷を追われたデュ・バリー夫人の居城にしばしば集まっていた。ヴェルサイユ以外の場所、特にパリではマリー・アントワネットへの中傷が酷かった。マリー・アントワネットとハンス・アクセル・フォン・フェルセン伯との浮き名が、宮廷ではもっぱらの噂となったり、多くは流言飛語の類だったが、結果的にこれらの中傷がパリの民衆の憎悪を搔き立てることとなった。西暦1785年にはマリー・アントワネットの名を騙った詐欺師集団による、ブルボン王朝末期を象徴する首飾り事件が発生した。

 西暦1775年04月、各地で食糧危機に対する暴動(小麦粉戦争)が起き、05月02日、ヴェルサイユ宮殿にも8千人の群集が押し寄せた。この際、国王はバルコニーに姿を現し、民衆の不満に応えた。西暦1777年04月、子供が生まれず性生活を疑ったマリア・テレジアより、西暦1777年04月、マリー・アントワネットの長兄ヨーゼフ2世が、新婚生活を送っていたラ・ミュエット宮殿(現在のパリ16区ラ・ミュエット地区)の新婚夫妻の元に遣わされ、夫妻それぞれの相談に応じ、ルイ16世は先天的性不能の治療を受けた。また、若くして結婚したため子作りの方法を知らなかった国王・王妃は、義兄・ヨーゼフ2世より子作りの仕儀を授けられた。
 その甲斐あって結婚7年目の西暦1778年に夫妻の結婚から7年目にしてようやく待望の子供の長女マリー・テレーズ・シャルロット(Marie Thérèse Charlotte)が誕生し た。名前は祖母「女帝」マリア・テレジアの名に因む。幼少期はブルボン家とハプスブルク家の血を引くことに誇りを持ち、自尊心が高く、少しこまっしゃくれた性格であった。9歳の頃、ヴェルモン神父から「母が落馬したが無事だった。」という話を聞かされたマリー・テレーズは「もし母が死んだら何をしても自由だったのに。」と答え、神父を唖然とさせた。 その一方で、養育係が誤って彼女の足を踏みつけてしまい怪我をした日の晩、足の傷に気づいた養育係がなぜ負傷したことを訴えなかったかを問うと「あなたが私に怪我をさせて私が痛がっているとき、自分が原因だと知ったらあなたの方が傷ついたでしょう。」と答えた。マリー・テレーズはまだ幼い頃から、自分の体重と同じぐらいの重さのパニエを身に着け、公式行事や社交の場に顔を出していたため、幼い頃から母の悪口を耳にしていた。西暦1789年05月05日の三部会では、両親に恥をかかせたオルレアン公ルイ・フィリップ2世ジョゼフや民衆を憎んだ。それでもフランス革命以前は、人々からフランス国王の第1女子嫡子の称号マダム・ロワイヤル(Madame Royale)と呼ばれ、愛された。革命下の少女時代ルイ16世の弟シャルル10世の長男であるルイ・アントワーヌ王太子の妃となった。ルイ16世とマリー・アントワネットの子女の中で唯一天寿を全うした。
 西暦1781年に国王夫妻の間に生まれた待望の長男ルイ・ジョゼフ・ド・フランス(Louis-Joseph Xavier François de France)は、長らく王位継承者筆頭であった王弟プロヴァンス伯(のちのルイ18世)ら数人の野望を砕く結果となった。パリ市は王太子(ドーファン)誕生を祝して、音楽時計や新生児用品一式を国王夫妻へ贈った。ルイ・ジョゼフ王太子には数名の乳母が付けられた。
しかし、病弱に生まれたルイ・ジョゼフは、乳母の1人ジュヌヴィエーヴ・ポワトリンヌから結核を移されてしまった。ルイ・ジョゼフは姉のマリー・テレーズとともに両親の側で育てられた。「幼い王子は驚くほどの賢い子供であった。」という。国王夫妻は王子の教育を非常に考えていたが、ルイ・ジョゼフの健康については楽観していた。西暦1784年04月より、ルイ・ジョゼフは高熱を出した。ラ・ミュエットで治療を受け、ただちに王子は恢復した。西暦1785年03月、ルイ・ジョゼフは種痘を受けた。深刻な症状は出なかったものの、彼の健康は損なわれた。西暦1786年04月、ルイ・ジョゼフは再び高熱を出した。王子の発熱に随行員は動揺したが、これが結核の初期症状だった。王子の背骨が曲がるようになって結核であることが判明した。同年の10月から歩行が困難になり、鉄製のコルセットを装着するようになった。西暦1788年01月から熱で体力を消耗し始め、病状が急速に進行した。脊椎カリエスで王子の寿命が長くないことがマリー・アントワネットに知らされた。三部会会期中の1789年06月04日、わずか7歳半でルイ・ジョゼフ王太子はムードンで死去した。
 西暦1785年に次男ノルマンディー公ルイ・シャルル(後のルイ17世)が誕生し、兄ルイ・ジョゼフの死により王太子(ドーファン)となった(西暦1791年09月からはプランス・ロワイヤル)。08月10日事件以後、国王一家と共にタンプル塔に幽閉されていたが、父ルイ16世の処刑により、王党派は名目上のフランス国王に即位したものと看做した。しかし解放されることなく2年後に病死した。
 西暦1786年次女マリー・ソフィー・エレーヌ・ベアトリクス・ド・フランス(Marie Sophie Hélène Béatrix de France)が誕生した。マリー・ソフィー・エレーヌ・ベアトリクスは末子でもあり、姉のマリー・テレーズ・シャルロットや、兄のルイ・ジョゼフ王太子のように、盛大に生誕を祝われなかった。 その頃のフランス王国は、民衆の怒りが王室一家に集中していたため、民衆には関心を持たれず、宮殿の人々たちもそれどころではなかった。結核により、10ヶ月21日で夭折した。マリー・アントワネットとルイ16世の間に産まれた子女の中では、最も短命であった。

 ルイ14世太陽王、ルイ15世最愛王の積極財政(主に対外戦争費による負債)の結果を受け継いだため、即位直後から慢性的な財政難に悩まされ続けた。それにも拘わらず、積年の敵性国だったイギリス王国(グレートブリテン王国(西暦1707〜1801年))の勢力拡大に対抗してアメリカ独立戦争(西暦1775〜1783年)に関わり、ヨーロッパひいては世界におけるフランス王国の仇敵であるイギリス王国を弱体化させる機会として捉え、アメリカ合衆国(西暦1776年〜)を支援した。
 ルイ16世は外交政策担当官にヴェルジェンヌ伯シャルル・グラヴィエを指名した。ヴェルジェンヌ伯シャルル・グラヴィエには、七年戦争の後はイギリスに報復したいという想いがあり、この想いは前任者のショワズール公エティエンヌ・フランソワと共通していた。
ヴェルジェンヌ伯シャルル・グラヴィエはヨーロッパでは慎重な政策を主導し、東のプロイセン王国やオーストリア大公国との平衡状態を保っていた。特にバイエルン継承戦争(西暦1778〜1779年)では参戦しなかった。ヴェルジェンヌ伯シャルル・グラヴィエはフランス海軍の戦力をイギリス海軍に見合うものにし、アメリカでの緊張事態を見守っていた。
 西暦1756年にルイ15世最愛王が結んだフランスーオーストリア同盟が、西暦1770年のルイ16世とオーストリアのマリー・アントワネットとの婚儀で再確認された。一方、スペイン王国(西暦1479年〜)ボルボン朝(スペイン・ブルボン朝(西暦1700〜))との同君連合によって大陸ヨーロッパの支配構造が出来上がっていた。ルイ16世とマリー・アントワネットの結婚は、長く続いたブルボン朝とハプスブルク朝との敵対関係を、表面上だけでも終焉していた。
 フランス王国は西暦1763年のパリ条約以来復讐を夢見ていた。これをスコットランドから追放されたジャコバイトが植民地に渡って大いに支持していた。条約の中身は負けた側の立場から見れば穏やかなものであった。フランス王国は実入りが良い領土の大半、例えば砂糖を生産するカリブ海のイスパニョーラ島のサン・ドマングの領有を続けていた。フランスースペインーオーストリアの同盟軍がイギリス海軍を敗ったとしても、その戦費は莫大なものになり、各国はできるだけ速く終息することを求めることになった。それ故にパリ条約は締結されたが、フランス王国にとっては「イギリス王国に復讐し、決着の付いていない戦争をはっきりと終わらせたい。」という強い願望が残った。
 ショワズール公エティエンヌ・フランソワは西暦1763年以前から、「攻撃速度、艦船の数、および敵国の商船を襲う戦略がより重要になる。」という新しい戦争の形を予測し、海軍の近代化を始めていた。フランスは快速で操作性の良い小さな艦船を増やして、その艦隊を海賊化していた。さらに装備を近代化し、およそ30万人にまで増強した軍隊に訓練を施した。ルイ16世はこの近代化の達成に相当量の資金を注ぎ込んだ。艦隊は西暦1762年の規模を最小として、その後軍艦を67隻、フリゲートを37隻増強した。
 七年戦争の後、イギリス王国はその経済事情から植民地における交易をより厳密に支配する方向に進んでいた。税率が上げられ、交易は排他的になり、イギリス駐留軍を維持するために特別の課税を植民地に求めた。植民地人は「代表なくして課税なし。」という法を楯に抗ったが、税金は押しつけられ一連の摩擦を呼び、良く知られた事件は西暦1773年のボストン茶会事件である。イギリス政府が苦況に喘ぐ東インド会社を救うためにアメリカ植民地における紅茶販売の独占化を図ったが、植民地人はこれを拒み、ボストン港に停泊する船から相当量の紅茶を海に投げ捨てた。イギリスが報復のためにボストン港を封鎖したので、ボストン市民の見方が急速に硬化した。植民地人による第1次大陸会議が開催され、武装民兵組織や新しい行政府が作られた。西暦1776年07月04日、アメリカ合衆国は植民地の連合とイギリスからの独立を宣言したが、まださらにその力を強化していく必要があった。
 強力なイギリス軍に対して、13植民地は武器も頼る友邦も無かったので、自然とフランス王国に顔を向けた。
ベンジャミン・フランクリンとの交渉により、フランス王国は紛争そのものには関心を持っていなかったが、叛乱軍に関与を始め、西暦1778年02月からは開戦に踏み切った。この時はまだイギリス海軍にフランス1国で対抗しなければならなかった。13植民地の独立宣言に続いて、アメリカの叛乱はフランスの民衆にも特権階級にも好意的に受け入れられた。革命はイギリスの専制に対する啓蒙思想の具現化として認識された。西暦1776年12月にベンジャミン・フランクリン(Benjamin Franklin)がフランスに派遣されその支持を訴えると、民衆に熱狂をもって迎え入れられ、多くのフランス人はアメリカの叛乱を支援するために立ち上がり、自由と近代化の理想に燃えたピエール・シャルル・ランファン(Pierre Charles L'Enfant)やラファイエット侯マリー・ジョセフ・ポール・イヴ・ロシュ・ジルベール・デュ・モティエMarie-Joseph Paul Yves Roch Gilbert Du Motier, Marquis De La Fayette)のような者達が西暦1776年に志願兵となった。

 フランス政府の反応はやや冷ややかであった。ルイ16世は植民地を救援したかったが、財政状態の故にボーマルシェ(Beaumarchais)ことピエール・オーギュスタン・カロン(Pierre-Augustin Caron)を通じて隠密の援助をするに留まった。ヴェルジェンヌ伯シャルル・グラヴィエはフランス王国の参戦に賛成であり、商業的および外交的な利益の可能性も示唆していた。この状況はフランス王国の分析によるものであり、同盟国(スペイン王国とオーストリア大公国)には少なくとも中立の保証を求めていた。外交、財政、軍事および経済を担当する指導者層はむしろ懐疑的であった。フランス海軍はまだ十分ではなくそのような戦争に対する備えはできていなかった。経済の状態は不況のままであり、国家の財政は赤字状態を宣告されていた。外交畑の者はヴェルジェンヌ伯シャルル・グラヴィエやルイ16世ほど熱心ではなく、フランス王国がこの問題ではヨーロッパの中で特殊であり孤立していることを強調していた。当時の平和と経済的な繁栄の上に立って、復讐の念と自由の理想を小さくさせていた。
 西暦1776年に始まった秘密の武器販売によって、フランス王国は私的に戦争に関与し始めた。ルイ16世とヴェルジェンヌ伯シャルル・グラヴィエが隠密にボーマルシェに会い、ポルトガル王国(西暦1139〜1910年)ブラガンサ朝(西暦1640〜1910年)の会社「ロドリク・ホルタレス・エ・コンパニー」という隠れ蓑を使って百万ポンド近い武器弾薬を売る許可を与えた。フランス王国の援助はジョージ・ワシントン(George Washington)将軍がイギリスの猛攻撃に耐える要因となった。フランス王国が誂えたアメリカのフリゲートはイギリス王国の商船に対する海賊行為を行って、寄金にしろ貸金にしろ経済的な援助の役割を果たし、軍事戦略家の「休暇」を利用してアメリカの軍隊支援を認めるような技術的支援もあった。
 アメリカの「叛乱軍」によって指名されたアメリカ初の外交官サイラス・ディーン(Silas Deane)はイギリス王国に敵対心を抱くフランス人に助けられ、非公式の援助を勝ち取った。しかし、目標はフランス王国の全面的な参戦であった。ベンジャミン・フランクリン、サイラス・ディーンおよびアーサー・リーによる代表団がヨーロッパ各国の関与を求めるロビー活動を行った。代表団は「13植民地とフランス王国、スペイン王国の同盟によってイギリス王国を早期に打ち破ることができる。」と主張したが、ヴェルジェンヌ伯シャルル・グラヴィエは個人的な願望にも拘わらず、この提案を拒否した。ベンジャミン・フランクリンは「フランス王国がヌーベルフランスを要求できる。」と訴えた。西暦1777年07月23日、ヴェルジェンヌ伯シャルル・グラヴィエは植民地を全面的に支援するかその考えを捨てるかの議論を要求した。
 西暦1777年の終わりに国際関係が緊張していたとき、オーストリア大公国がプロイセン王国に対するバイエルン継承戦争でフランスの支援を求めてきたが、フランス王国は拒否し、オーストリア大公国との関係は気まずいものになった。この状況ではフランス王国がイギリス王国に対する戦争でオーストリア大公国に支援を求めることは不可能になった。スペイン王国に対する働きかけも失敗に終わった。スペイン王国にとっては得るものがなく、革命精神の広がりがラテンアメリカの植民地でのスペイン王室の正当性に対する脅威となりつつあったからである。
 イギリス軍はフィラデルフィアを抑えていたが、西暦 1777年のサラトガの戦いにおける大陸軍の勝利はフランスの愛国者や熱狂的支持者に希望を取り戻させた。イギリス軍のバーゴイン将軍の軍隊が敗れ、フランス王国は13植民地が勝つかもしれないと想うようになり、植民地に対する表だった援助を行うことを決めた。同盟国のスペイン王国はなお懐疑的であった。ヴェルジェンヌ伯シャルル・グラヴィエとルイ16世は、「アメリカの代表団、フベンジャミン・ランクリン、サイラス・ディーンおよびアーサー・リーを通じてアメリカとの同盟に対する関心が上がってくる。」という仮定に立っていた。イギリス王国とフランス王国の間の同盟は西暦1763年に無理矢理押しつけられたものであり、外交危機に突入した。参戦世論は評判が上がりつつあったラファイエットのような人気のある支持者からの恩恵を得ていた。さらに復讐の念が表に出てきた。
 西暦1778年02月06日、ヴェルジェンヌ伯シャルル・グラヴィエとルイ16世はベンジャミン・フランクリンと友好条約に調印し、13植民地と正式に同盟を結ぶことを決めた。フランス王国は13植民地が自立した状態にあることを認識し、双方とも勝手に休戦しないこと、および植民地はアメリカにおけるフランスの権益を守ることで合意した。戦闘はバハマ諸島などと共にカリブ諸島(西インド諸島)を構成するアンティル諸島で開始された。フランス王国が参戦すると、イギリス王国はフランス艦隊を自国の海域に止めておくよう画策した。イギリス海峡におけるウェサン島の海戦は決着が着かなかった。2つの艦隊は結果的に引き上げた。イングランドに4万人の部隊を上陸させる作戦が練られたが、兵站の問題で捨てられた。ヨーロッパ大陸では、オーストリアとの同盟で守られており、アメリカ独立戦争に参戦しなかったとしても、外交的な支持は得られていた。ヨーロッパの他の国は武装中立同盟をつくり、参戦を拒んでいた。フランス王国が単独でイギリス艦隊に対抗するのを見て、西暦1780年にオランダ(ネーデルラント連邦共和国(西暦1581〜1795年))がフランス王国側に付くことを決めた。スペイン王国は西暦1779年に支持を表明していた。イギリス王国は困難な立場に立たされた。

 フランス王国の介入は当然ながら海上で始まり、決着の着かないことが多かったが、西暦1780年にロシャンボー伯ジャン・バティスト・ドナティエン・ド・ヴィムール(Jean-Baptiste Donatien de Vimeur, comte de Rochambeau)が6000人の将兵を連れてアメリカに渡ったことで状況が変化した。6000人のフランス軍は既にサヴァンナの戦いで3000人のイギリス軍と対峙していたが、フランス軍の攻撃が功を焦り準備もできていなかったので結果的に失敗した。西暦1781年のチェサピーク湾の海戦では、イギリス艦隊の一部を逃避させ残りを破壊したので、初代コーンウォリス侯チャールズ・コーンウォリス(Charles Cornwallis, 1st Marquess Cornwallis KG, PC)をヴァージニア州ヨークタウンで包囲することになった。コーンウォリスは約束されたイギリス軍の援兵を当てもなく待たされていた。チャールズ・コーンウォリスは陸では大陸軍とフランス軍に、海上はフランス艦隊に抑えられた。同盟フランス軍は10月17日のヨークタウンでパトリオット(愛国派)が決定的な勝利を得るために重要な役割を演じた。もしド・グラス提督(グラス・ティリー侯およびグラス伯フランソワ・ジョゼフ・ポール(François Joseph Paul, marquis de Grasse Tilly, comte de Grasse))のフランス艦隊がいなかったら、この勝利はなかった。無益な抵抗の後に、チャールズ・コーンウォリスは10月19日に正式に降伏した。主要な戦闘は終わり、その後は小競り合いに終始した。しかし、イギリス王国が正式に休戦するのは西暦1783年のことだった。
 フランス王国とイギリス王国の艦隊の激突は地球規模に広がった。アンティル諸島では、イギリス王国とフランス王国が交互にその支配を行い、西暦1782年のセインツの海戦でイギリス王国が支配することになった。スペイン王国とフランス王国の連合艦隊がイギリス艦隊を破り、地中海西部のバレアレス海にあるバレアレス諸島のメノルカ島を西暦1782年02月に抑えた(メノルカ島侵攻)。インドではフランス王国と同盟したマイソール王国(西暦1399〜1947年)がイギリスの支配を打ち破った。フランス王国は西暦1783年にサンピエール島およびミクロン島(Saint-Pierre-et-Miquelon)をイギリス王国から奪取した。しかし、フランス王国とスペイン王国が共同で行ったジブラルタル包囲戦は失敗し、ジブラルタル半島はイギリス王国の支配に残った。
 ヨークタウンの包囲戦が始まってから、大陸軍のベンジャミン・リンカーン(Benjamin Lincoln)将軍はイギリス軍との秘密の交渉についてフランス軍に教えたことがなかった。交渉は直接ロンドンとワシントンの間で進められた。イギリス王国は13植民地に対する支配を諦め、五大湖から南とミシシッピー川から東の領土の領有を認めた。しかし、フランス王国は、アメリカ合衆国とイギリス王国の間の和平交渉に加わらなかったので、フランス王国とアメリカ合衆国の間の同盟関係が崩れた。このためにその後の和平協定の交渉でフランス王国とスペイン王国の影響力が薄れた。西暦1783年パリ条約の批准。イギリス代表は絵に描かれることを拒んだ。西暦1783年09月、パリ条約で条件付き勝利が宣言された。フランス王国はアメリカ、アフリカおよびインドにおける領地を回復した。西暦1763年パリ条約と西暦1713年ユトレヒト条約で失った領土のうち、トバゴ島、セントルシア、セネガル川領域、ダンケルクを回復し、テラ・ノヴァの漁業権が増加した。スペイン王国はフロリダとメノルカ島を回復したが、ジブラルタルはイギリス王国の手に残った。アメリカ合衆国内にあったフランス王国の元の領土(ヌーベルフランス)を取り返せるという望みも叶わなかった。
 フランス王国の近代戦力としての位置付けが確認され、復讐の思いも満足され、イギリス王国から新大陸の利権の大部分を奪い去ることには成功し、特に海軍力の整備には力を入れ、シェルブールに軍港を建設し、イギリス海軍を圧倒する活躍を成し遂げてフランス海軍の威信を高めることには成功した。しかし、財政はさらに困窮を極めた。戦争は国の財政には有害であった。フランスの都市は直接の破壊を免れたが、西暦1781年のヨークタウン包囲戦などフランス王国の戦争への介入は遠距離でかつ海軍を使ったものになり、10億リーブル以上の戦費が使われた。これが脆弱だった財政をさらに悪化させ、赤字が増えた。さらに悪いことに、新興のアメリカ合衆国が貿易上の一番の相手国となるという目論見が実現しなかった。イギリス王国がアメリカ合衆国を主要貿易国としてしまった。戦前のイギリス王国とアメリカ合衆国の交易形態がほとんどそのまま残り、アメリカ合衆国の交易は大英帝国の範囲内に留まっていた。イギリス王国は、アメリカを独立させた方が利が多いと踏み、フランス王国とスペイン王国を聾桟敷に置き、アメリカ独立戦争を終結させた。
 フランス王国の国家財政は悲惨な状態となり、一方でジャック・ネッケル(Jacques Necker)が税率を上げずに負債を払うために借金を重ねたため、著しく景気も後退していた。国家財政担当官のシャルル・アレクサンドル・ド・カロンヌ(Charles Alexandre de Calonne)は、赤字の解消のために貴族や聖職者の財産に税金を掛けることを試みたが、解職され追放されるという憂き目にあった。 フランス王国の財政を健全化するために必要な改革は、政情不安のゆえに弱められた。
戦争中の貿易は著しく減っていたが、西暦1783年には回復していた。 戦争はフランス王国の権威と誇りにとって極めて重要であり、ヨーロッパの主導者としての役割を復権させた。しかし、フランス王国は多額の軍事費を使ったにも拘わらず、アメリカの主要貿易相手国とはならなかった。フランスの軍隊は遠距離遠征を行い10億リーブル以上を使ったために、フランスの負債33億1500万リーブルに追加されることになった。

 フランス王国の参戦のもう1つの成果は、啓蒙主義の誇りを新たに得た。これは西暦1776年アメリカ独立宣言、西暦1783年アメリカの勝利、さらに西暦1787年アメリカ合衆国憲法の公布で印象づけられ、自由主義の特権階級は満足した。独立戦争にフランスが参戦したということの認識は、主にロシャンボー伯ジャン・バティスト・ドナティエン・ド・ヴィムールやラファイエット侯マリー・ジョセフ・ポール・イヴ・ロシュ・ジルベール・デュ・モティエのような軍人の英雄を称えることで示された。
 しかし、他にも大きな影響があった。ヨーロッパの保守主義が神経質になり、貴族階級はその地位の保全のために対策を打ち始めた。西暦1781年05月22日のセギュール条例では、軍隊の上級士官に一般人が昇進することを制限し、貴族のために留保した。ブルジョワジーの挫折が始まった。

フランスの王国国体としての脆弱化と、絶対王政に対する実現可能な代替体制の見通しができてきたこと、これらはアメリカ独立戦争がフランス革命に影響した大きな要因である。
アメリカ独立戦争を支援したことから、「アメリカ建国の父たち(Founding Fathers of the United States)」は、恩になったルイ16世に崇敬の念を抱くだけで、フランス革命で窮地に陥った国王一族を助ける動きを起こさず見殺しにした。


悪逆非道なディープステイトとは、猶太だけでない。ヨーロッパの王族やロックフェラー、産業・食糧・資源・医薬・軍事・行政・司法・律法・教育・情報など悪魔の複合体である。その血塗られた政体、鬼畜米国を産み出した。


世界の歴史〈21〉アメリカとフランスの革命 (中公文庫) - 武士, 五十嵐, 憲彦, 福井
世界の歴史〈21〉アメリカとフランスの革命 (中公文庫) - 武士, 五十嵐, 憲彦, 福井

詐話「アメリカ建国神話」の真実

 北アメリカ大陸において、イギリスによる本格的な植民が始まったのは、西暦16世紀末である。ウォルター・ローリー卿(Sir Walter Raleigh)により、西暦1585年と西暦1587年にロアノーク島への植民の試みがなされ、ウォルター・ローリー卿はアメリカ植民地を建設する計画を宣言し、ステュアート朝(西暦1371〜1714年)エリザベス1世から土地を与えられた。彼はその土地を、未婚の女王エリザベス1世に因み、「ヴァージニア」と命名した。だがロアノーク島に送り込まれた入植隊はどちらも放棄されるか開拓者が死亡するかした。アメリカ大陸で出生した最初のイングランド系白人女児ヴァージニア・デア(Virginia Dare)を含む115人の西暦1587年の入植者、折からの英西戦争のためにイングランドからの補給がないまま3年が経過した後に全員姿を消していることが確認された。 西暦1602年、行方不明となった植民者を求めて探検隊が派遣されたが、ただの1人も発見することはできなかった。ウォルター・ローリー卿の失敗により、イギリス国内には植民事業に対する投資を警戒する風潮が広まった。
 西暦1606年、トマス・スミスを中心とするロンドン商人は北アメリカ大陸への植民を目指した。イングランド国王ジェームズ1世は植民事業のための会社設立に勅許状を与え、トマス・スミスらはジョイント・ストック・カンパニーであるロンドン会社を設立した。間もなくロンドン会社はヴァージニア会社と名を改め、出資者を募った。そして同年12月、最初の植民者105人を北アメリカ大陸に送った。 渡航者104名(1名は死亡した)を乗せたスーザン・コンスタント号など3隻の船は、翌西暦1607年04月26日、ヘンリー岬に到着した。植民者たちは入植に適した土地を求めポウハタン川(現ジェームズ川)を遡り、05月13日、河口から約48q遡った地点に上陸した。彼らはそこを入植地と定め、国王ジェームズ1世に因んで「ジェームズタウン」と命名した。ジェームズタウン入植地は北アメリカ大陸におけるイギリス白人の最初の永続的植民地となった。この場所はポウハタン川に突き出る半島となっており、先住民(あめインディアン)の襲撃を防ぐには好都合な地形であった。しかしながらこの一帯は、潮水が迫る湿地であり、飲み水にも塩分が含まれ、またマラリアなどの疫病が発生しやすい地形であった。しかも入植者たちは、共同して生活の基盤を固める十分な用意ができていなかった。
 ヴァージニア会社の入植者がジェームズタウンに上陸した当時、ヴァージニア植民地南東部のタイドウォーター地域には2万人近くの先住民(アメリカ・インディアン)が居住していた。そこはポウハタン(Powhatan、ポウハタン・レナペ(Powhatan Renape))族のワフンセナカウ(Wahunsenacawh)酋長が治めるポウハタン合議制部族連邦領だった。そしてその中心となっていたのがポウハタン族であり、周囲のアルゴンキン語族系のポウハタン族、アロハットク族、アッポマットク族、パムンキー族、マッタポニ族、チスキアク族の6部族にケコウタン族を、ユータナンド族、ラッパハンノック族、モラウタカンド族、ウェイアノー族、パスパヘー族、ナンセモンド族など30部族と、ポウハタン連邦を築いていた。この連邦には10000〜15000人の民がいたと推定されている。
 植民請負人ジョン・スミス(John Smith)らイギリス人侵略者たちは、このポウハタン族の有力な酋長であるワフンセナカウ(ポウハタン酋長)を、「ポウハタン連邦全てを支配する指導者」だと思い込んだ。先住民を利用し、こき使いたがる、評判の詐欺師のジョン・スミスらはポウハタン連邦を「帝国」、ワフンセナカウ(ポウハタン酋長)を「皇帝」と思い込んだまま、これをイギリス王国に報告した。このため、「先住民(アメリカ・インディアン)の酋長は部族長である。」とイギリス人たちは誤解したまま、以後の侵略行為を推し進めることとなった。イギリス人たちはまず「酋長(イギリス人には大指導者に見えている)を屈服させれば全ての部族民はこれに従う。」と考え、酋長に対する懐柔、脅迫、交渉を始めた。しかし先住民(アメリカ・インディアン)の社会は基本的に合議制民主主義であり、酋長とはその合議の中での「調停者」であって、独任制の代表である首長ではない。ポウハタン連邦においても、全ての政治決定は「ロングハウス」という会議場で、「会議の火」を囲んで合議で決定する。「部族長」や「指導者」による上意下達の制度は存在しない。
 侵略者は同地に上陸してわずか2週間以内に出くわした先住民(アメリカ・インディアン)に問答無用で銃撃し射殺する凶行で彼らにその存在を知らしめた。
 当初、イギリス人入植者たちは友好的な関係を望み、先住民(アメリカ・インディアン)に食べ物を乞い、取引する計画だった。クリストファー・ニューポート(Christopher Newport)船長は西暦1607年にポウハタン川を遡る最初の探検を率い、ポウハタン族のパラハント(Parahunt、タンクス・ポウハタン(小さいポウハタン))酋長と初めて出会った。クリストファー・ニューポートは当初パラハント酋長が「最高位」にあるポウハタン連邦酋長、すなわちワフンスナコック(ポウハタン酋長)だと誤解した。だがそもそも先住民(アメリカ・インディアン)社会には、「最高位」の立場など存在しない。パラハント酋長は調停者として、闖入者との交渉の矢面に立ったのである。このジェームズタウンへのイギリス人上陸をきっかけに、続々と入植イギリス人の侵略が始まり、先住民(アメリカ・インディアン)の土地を蚕食して行ったことで、その後37年間ほとんど絶え間のない紛争に繋がった。クリストファー・ニューポートは存在しない「最高位にある酋長」に儀礼用の王冠を被らせ、先住民(アメリカ・インディアン)の友好を得るために多くのヨーロッパからの贈り物を贈呈した。クリストファー・ニューポートは「ポウハタン族との友好が小さなジェームズタウン入植地の存続に不可欠である。」と判断した。 先住民(アメリカ・インディアン)の酋長を「王」、または「支配者」だとイギリス人はワフンスナコック(ポウハタン酋長)を「ポウハタン連邦の野蛮な皇帝」と呼び、「ワフンスナコックがポウハタン族を支配している。」と勘違いした。このため、イギリス人たちは「ワフンスナコック(ポウハタン酋長)と盟約し、彼を懐柔すればポウハタン連邦の全部族民がこれに従うだろう。」と思い込み、この酋長に「王冠」を被らせ、従属の図式を作ろうとしたのである。しかし、そもそも先住民(アメリカ・インディアン)の社会はイギリスのような「皇帝」が支配するような帝国ではなく、合議制に基づく民主主義社会である。先住民(アメリカ・インディアン)たちから見れば、イギリス人の企んだこの催事は、「白人がやってきて、贈り物と一緒に調停者に冠を被せた」だけに過ぎない。何はともあれ、白人は彼らに贈り物をしたので、先住民(アメリカ・インディアン)たちは白人が和平を結ぶ積りであるということは理解した。入植からわずか半年あまりで、入植者は飢えとマラリアで半分以下に減少した。西暦1608年には38人にまで減少した。
 そのような苦境の中にあった入植者を救ったのは、先住民(アメリカ・インディアン)ポウハタン族であった。ポウハタン族は「全てを分け合う。」という先住民(アメリカ・インディアン)の理念に基づき、飢えた白人侵略者たちに食糧や水を与え、彼らを援助した。ワフンセナカウ(ポウハタン酋長)はジョン・スミスと入植者たちにカパホシックと呼ばれる所に住んでもらい、そこで食糧と引き換えに金属製の道具を作ってもらうことを望んでいた。ジェームズタウン砦を建設してからわずか7ヶ月後の12月、ジョン・スミスはポウハタン族の首都オラパケス近郊を偵察していたところ、ワフンセナカウ(ポウハタン酋長)の弟のオペチャンカナウ(Opechancanough)率いる共同狩猟隊に捕らえられた。 ジョン・スミスは「植民地をカパホシックに移転する。」と約束し、西暦1608年の新年に間に合うように釈放された。
 ワフンスナコック(ポウハタン酋長)はイギリス人を攻撃せず、「私は平和と戦争の違いをよく知っている。なぜあなたたちは、愛によって静かに得られるものを、力ずくで奪いとろうとするのか? あなたたちに食べ物を提供している我々を、なぜ滅ぼそうとするのか?」、「お前たちの到来は、交易のためなどではない。私の同胞を侵略し、私の国を占領するためだ。私にはもう3度にわたって全ての同胞の死があった。…平和と戦争の違いは、私は他のどの部族よりもよく知っている(彼はポウハタン族とイギリス人との戦争を予期している)。」との申し立てを行なった記録が残っている。

クリストバル・コロンの侵攻以前、南北アメリカには7500万人の先住民が遊牧や農耕で暮らしていた。

 植民請負人ジョン・スミスが入植者に対して、全力で開拓に取り掛かるよう説得を試み、西暦1608年の秋にヴァージニア植民地議長となった。初期のジェイムズタウンの入植者らは先住民(アメリカ・インディアン)からトウモロコシの栽培法を学び飢えを凌いだ。ジェイムズタウンの入植者は当初、先住民との友好関係を重視したが、ジョン・スミスが指導者となると、「先住民には強腰でなければ有利な交渉ができない。」との考えから、銃の威力をもって威圧しようとした。指導者ジョン・スミスは入植者に軍事訓練を行い、先住民に食糧供出を迫れるほどに軍事力を整えた。西暦1609年の春までに、地元のパスパヘー族がジェームズタウンの砦の襲撃を再開した。しかし、彼らを恨んでいたウォウィンチョパンクは、捕らえられ逃走した後、不安な休戦を宣言した。 ジョン・スミスは、ジョン・マーティン船長の指揮で軍隊を派遣し、ナンセモンド族の島を占領し、ナンセモンド族を追い出しケコウタン村を建設したが、トウモロコシを買おうとした17人が命令に従わず全滅したため放棄した。 同時に別の部隊をフランシス・ウェストの指揮下120人を派遣して滝の近くに砦を建設し、その後幾らかの銅と引き換えにワフンスナコック(ポウハタン酋長)の息子のパラハント酋長から近くにあるポウハタン族の防御柵で囲まれた集落(現在のリッチモンド市の東端)を「購入した。」イギリス人は先住民から「土地を購入した」積りでいるが、先住民には「土地を売り買いする。」という文化は無いから、彼らはこれを理解していない。侵略者から見れば、「贈り物をしたのだから、ここから出て行ってもう戻ってくるな。」という事である。先住民がこれを納得できるわけがなかった。イギリス人はワフンスナコック(ポウハタン酋長)を「皇帝」だと勘違いしていたから、全ての要求を彼に対して行った。合議制のなかの調停者を「指導者」と思い込んだイギリス人の要求は、先住民には理解不能なものだった。また、先住民の社会は「大いなる神秘(ワカン・タンカ(Wakan Tanka))」の下、森羅万象全てを共有する平等社会であって、土地は誰でも利用できるものであり、誰の物でもなかった。侵略者たちは酋長(部族の代表ではない)に贈り物をして、土地を彼らから譲り受けた積りになっていたが、当然、理解不能な行為を繰り返すイギリス人入植者と、ポウハタン連邦との関係は次第に険悪な状態になった。イギリス人の方は、「部族の実力者である酋長が調印すれば、部族民はこれに従い、土地を明け渡すだろう。」と思い込んでいた。イギリス人が期待した黄金は同地にはなかったので、白人入植者たちは先住民から恵んでもらったトウモロコシなどの穀物を栽培し、食糧の確保に努めた。しかし慣れない地でのトウモロコシ栽培はうまくいかず、ジョン・スミスは飢えた入植民の要求に従い、先住民からの食糧掠奪を始めた。ジョン・スミスは船をあちこちの沿岸に乗り寄せ、地元の先住民の村々を襲い、酋長を人質にとって村人を脅迫し、トウモロコシや食糧を強奪した。ジョン・スミスはパラハント酋長から「買った」積りの集落を「ノンサッチ(無比のもの)」と改名し、フランシス・ウェストの兵士達を定住させようとした。ジェームズタウンの境界を越えて入植地を拡大しようというこれらの企みはどれも、ポウハタン族の抵抗に遭ったために失敗した。
 西暦1609年、イギリス本国のヴァージニア会社は会社の運営機構の改革に着手し、新たな勅許状を獲得した。これにより会社の権限が及ぶ地域の境界が広げられ、植民地の経営と当地に関する決定権が明確に会社の評議会に付与された。また会社は移住者を送る資金を確保するために株式を公開し、大きな富がなくても渡航費を自分で支払って渡航するものには、ヴァージニア会社の株主の地位を与えることにした。その資金がないものは、植民地で7年間働く条件で、会社の年季契約奉公人として渡航することができた。植民地では株主も奉公人もともに労働が要求されるが、奉公人の年季が明ける7年後には、奉公人は自由になり、株主は会社が上げた利益の配当と少なくとも100エーカーの土地の配分を受けることが約束されていた。これは地主である先住民たちの全く与かり知らないことである。西暦1609年の改革は、短期的に見ると、政治的にも経済的にも、大きな効果を上げなかった。しかしながらこの改革に含まれる年季契約奉公人や土地配分の考えは、その後の植民地の発展に重要な役割を果たした。この年、ヴァージニア会社は新たな植民者の送り出しに努力し、約400人がジェームズタウンに到着した。だが新たな入植者を迎えた現地では、食糧が不足し、困窮を極めていた。

 西暦1609年、対立は戦闘へと発展した。ジョン・スミスはポウハタン族の酋長たちを武力で脅迫し、掠奪と虐殺を繰り返した。ジョン・スミスが行った誘拐、掠奪、殺人、脅迫は、ポウハタン族を始め地元の先住民(アメリカ・インディアン)たちに強い怒りと憎しみを植え付けた。ジョン・スミスはポウハタン族の村の1つを襲い、ワフンスナコックの弟のオペチャンカナウ酋長に拳銃を突きつけ人質とし、「トウモロコシ20tの要求」という村の存続を危うくするほどの脅迫を行った。ジョン・スミスは、その年に爆発事故で負傷し、同年12月にはヴァージニアを離れてイングランドに戻り、2度とヴァージニア植民地に戻ってくることは無かった。その後間もなく2番目のイギリス人による砦、アルジャーノン砦がケコウタン族の領地内オールドポイントコンフォートに作られた。先住民(アメリカ・インディアン)たちは白い兄弟のために食べ物を分け与えているのに、彼らは「食べ物全てをよこせ。」と言ってきたのである。 西暦1609年11月、ジョン・ラトクリフ船長が、ウェロウォコモコから遷都したチカホミニー川水源にある湿地に位置するポウハタン連邦の新首都の村オラパケスに招かれた。ジョン・ラトクリフがそこで交易するためにパムンキー川を遡っていくと、入植白人32人とポウハタン族との間に戦闘が始まった。岸に上がっていたイギリス人全てが殺されたが、この中には部族の女性に拷問されたジョン・ラトクリフも入っていた。ピンネース船に乗っていた者達が脱出し、その話をジェームズタウンに伝えた。次の年の間に、ポウハタン族はジェームズタウンの住人を襲い、多くを殺した。住民も反撃したが20人を殺したに過ぎなかった。しかし、西暦1610年03月に新しい総督3代デ・ラ・ウェア男爵トマス・ウェスト(Thomas West, 3rd Baron De La Warr、現代ではデラウェア卿と呼ばれる)は、自費で追加の入植者、医師、食糧、物資、150人の武装部隊を募集してイギリスを発ち、06月にジェームズタウンに到着し、戒厳令をもって統治にあたり、入植者を強制的に労働に従事させた。家屋が建てられ、トウモロコシが栽培され、植民地はどうにか存続が可能になった。しかし本国に送られた毛皮や材木では、植民地が投資に対し利益を生み出せる見通しは全く立たなかった。
 その頃、ジェームズタウンは深刻な食糧不足に見舞われ、入植者の中には先住民の所に駆け込む者もいた。西暦1610年、イギリス本国は植民地総督に、現地の先住民部族全ての耶蘇教徒化と植民地への同化の方針を命じた。植民地総督デラウェア卿は好戦的で、まずトーマス・ゲイツを派遣して07月09日にケコウタン族を村から追い払い、次に酋長に命令を与えるというものだった。解決策は単純に先住民に対する征服戦争、第1次アングロ・ポウハタン戦争(西暦1610〜1614年)を始めた。デラウェア卿はアイルランド方式の戦略を導入し、ポウハタン族の村へと侵入し、 デラウェア卿はパスパヘー族の捕虜の手を切り落とし、「入植者全員とその財産を返せ、さもなければ近隣の村を焼き払う。」という最後通告をして彼をワフンスナコック(ポウハタン酋長)に送った。ワフンスナコックが断ると、 08月09日にジョージ・パーシーとジェームス・デイビスと70人の兵にパスパヘー村を攻撃させ、家屋を燃やし食糧を掠奪しトウモロコシ畑に火を放つ焦土作戦を推し進めた。彼らは15〜75人の先住民を殺害し、ウォウィンチョパンク(Wowinchopunk)の妻たちの1人と2人の子供を捕らえた。 下流に戻った入植者らは子供たちを海に放り投げ、銃で撃ち、 ウォウィンチョパンクの妻はジェームズタウンで銃剣で刺殺した。 パスパヘー族はこの攻撃から回復することはなく、村を放棄した。ポウハタン連邦の中の支族であるケコウタン族とパスパヘー族の2つの支族は事実上戦争初期に崩壊した。イギリス人侵略者が彼らの集落を破壊し、徹底的に虐殺したからである。
 西暦1610年の秋、入植者の一団がアポマトックで待ち伏せされ、 デラウェア卿はポウハタン川の滝で部隊を組織し、冬の間ずっとそこに滞在した。西暦1611年02月、ウォウィンチョパンクはジェームスタウン近くでの小競り合いで殺害されたが、数日後に彼の同調者たちが入植者を砦から誘い出して殺害し報復した。05月にトーマス・デール総督が到着し、新たな入植地を設立する場所を探し始めた。 彼はナンセモンド族に撃退されたが、アロハットク族からポウハタン川の島を奪うことに成功し、それがヘンリクスの柵で囲まれた砦となった。西暦1611年のクリスマスの頃、トーマス・デール総督とその部下は川の河口にあるアポマトックの町を占領し入口を柵で囲い、「ニュー・バミューダス」に改名した。 高齢のワフンスナコック(ポウハタン酋長)は、この植民地拡大に対して大きな反応は示さず、この間、入植者たちが立場を強化し、実権は末弟のオペチャンカナウに移行しつつあった。
 植民開始から10年を経た西暦1616年を迎えても利益の配当はなく、それどころか会社は破産の危機に瀕していた。そんなヴァージニア植民地に恩恵を齎したのは、煙草の栽培であった。イギリスではエリザベス1世時代にウォルター・ローリーによって、煙草が嗜好品として知られるようになっていた。ヴァージニア植民地ではジョン・ロルフが先住民が植えていた煙草に目をつけ、ジョン・ロルフは煙草栽培を唱導した。ただしヴァージニア土着の煙草は悪臭が強かったので、人々は、カリブ諸島で開発された風味ある品種を栽培した。ヴァージニア植民地の生活は、煙草栽培により大きく改善された。煙草の栽培は短期間で土地が痩せてしまうため、煙草生産が増加するにつれ新たな土地を求める膨張主義を生じさせた。先住民(アメリカ・インディアン)の考えでは、土地は住む人々全ての共有財産であり、譲り渡すのは単に土地を使用する権利であった。イギリス人はヘンリカスに根城を持っていた。ポウハタン族はポウハタン川上流のイギリス人入植者に対抗してカッカロウのネマッタニューを交渉者に派遣した。しかし交渉は決裂した。侵略者の要求はあくまでも「土地の恒久的な占有」であり、「土地は共有されるもの」というインディアンの考えと相反したである。イギリス人は「彼らのものになった」土地に「侵入」した先住民を片っ端から殺した。先住民(アメリカ・インディアン)の社会に「戦いを指揮する個人」は存在しない。イギリス人は先住民を拉致監禁して脅迫を繰り返した。先住民たちも、侵略者のこのやりかたを真似して、イギリス人を拉致連行した。西暦1611〜1614年のいずれかの時点で、ワフンスナコック(ポウハタン酋長)弟はのオペチャンカナウが所属しているヨウタヌンドの近くにある、さらに北のマトチャットへ移動した。ワフンスナコック酋長としては、「入植地が拡がらなければ、金属製品などの入手を続けられるので、連邦の利益になる。」と考えていた。調停者であるワフンスナコックは友好回復の機会を窺っていた。そして、そのような機会を作ったのは、ワフンスナコックの末娘、ポカホンタス(Pocahontas、本名マトアカ(Matoaka)の「お転婆」、「甘えん坊」の意の幼少時の仇名)であった。西暦1612年12月、サミュエル・アーガルはパウォメック族と和平を結び、ポトマック族を訪問中のポカホンタスをイギリス船に誘い出し拉致監禁した。イギリス人はポカホンタスを交渉の人質として拉致し、1年にわたり監禁した。これにより、平和のために彼女の身代金を要求した入植者に対するポウハタン族の襲撃は即時停戦となった。イギリス人たちは「ワフンスナコック(ポウハタン酋長)を部族の支配者だと思い込んでいるから、その娘を人質とし、脅迫すれば先住民(アメリカ・インディアン)たちは従うだろう。」と白人の流儀で考えた。侵略者たちはポウハタン族とワフンスナコック(ポウハタン酋長)に対して、捕虜の返還や武装解除、奪われた武器の引き渡し、食糧(トウモロコシ)を要求した。イギリス人が本当に彼らと和平を結びたいなら、「ロングハウス」の「会議の火」の周りで「大いなる神秘」の下「聖なるパイプ」で煙草を回し飲みし、贈り物を交換し、合議の下でこれを行うのが筋である。武力で脅迫しても先住民(アメリカ・インディアン)は反発するだけである。イギリス人相手では、「絶対不可侵」のはずの和平の誓いを何度でも結び直さなくてはならなかった。
やむなく ワフンスナコック(ポウハタン酋長)は、再び和平交渉を求めた。ポウハタン族が数ヶ月回答を留保している間、拉致監禁されたポカホンタスは入植地で宣教師から英語を教え込まれ、耶蘇教の洗礼を受けさせられた。ポカホンタスは釈放を条件に煙草農園主で男やもめのジョン・ロルフの求婚に応じ、「レベッカ・ロルフ」という英名を付けられた。その間、入植者は川の南に拡大し始め、現在のヴァージニア州ホープウェル付近に家を建てた。
 和平交渉は捕らえられた人質と武器の返還をめぐって1年近く行き詰まった。 トーマス・デール総督はポカホンタスと大部隊とともに西暦1614年03月にワフンスナコックを探しに行き、現在のウェストポイントで矢を浴びたため、上陸して町を掠奪した。 彼らはついにマッチコットの新しい首都でワフンスナコックに会い、ポカホンタスと入植者ジョン・ロルフの結婚によって結ばれた和平を締結した。ロルフとポカハントスは西暦1614年04月16日に結婚し、9ヶ月後の西暦1615年01月18日に1人息子トーマスが生まれた。 結婚式には彼女の親族も何人か出席した。ワフンスナコック(ポウハタン酋長)も2人の結婚を認め、儀礼用の鹿革の衣服を贈って祝福した。調停者であるワフンスナコックと白人が縁組したことで、ほんの僅かな間、入植者とポウハタン連邦とのに平和な時期が生まれた。これはヴァージニアにおける最初の異人種間の結婚であり、先住民(アメリカ・インディアン)と入植者との間の短期間の良好な関係を齎すのに役立った。 同年、チカホミニー族との間で別の和平が締結され、これにより彼らは「名誉ある英国人」となり、したがってジェームズ1世の「臣民」となった。 この平和な時代はポカホンタスの平和と呼ばれた。ワフンスナコックは結婚を認め、ポウハタン川を挟んだ対岸に土地を新婚の2人に与え、小さな煉瓦造りの家が新居として使われた。今日その場所はスミス砦と呼ばれ、現在のサリー郡に入っている。「バリナ農園」に宿舎を構え、そこを恒久的な住まいとして結婚後の数年を過ごした。バリナ農園で、ポカホンタスはの息子トーマスを生んだが、トーマスはジョン・ロルフの実の子供ではない。実際の父親は、ロルフの上司のトーマス・デール卿と見られている。ヴァージニアの入植者の子孫の多くが、先住民とヨーロッパ人の双方にその先祖を辿ることができる。
 数年のうちにワフンスナコック酋長とポカホンタスが病気で死んだ。ワフンスナコック酋長はヴァージニアで死んだが、ポカホンタスはイングランドだった。ヴァージニア植民地の出資者たちは、ジェームズタウンにイングランド本国からこれ以上新しい入植者を募るのも、このような冒険的な事業に対する投資家を探すのも困難になったことを悟った。そこでポカホンタスを宣伝材料にして、「新世界のインディアンが文明に馴らされたため、もはや植民地は安全になった、」とイギリス国民を納得させようとした。西暦1616年、ポカホンタスとジョン・ロルフはトーマスを連れてイングランドにヴァージニア会社の宣伝で連れ去られ、ジェームズ1世とその家臣たちに謁見させられた。ポカホンタスはそこで「インディアンの姫」と紹介され、イングランドで大反響を巻き起こし、新世界アメリカの最初の国際的有名人となった。そうして、より多くの投資と王の関心をヴァージニア植民地に齎す試みは大成功に終わった。先住民(アメリカ・インディアン)の社会に「王族」など存在しないから、ポカホンタスを「姫」とするこの宣伝は全くの誤りである。イギリス白人は終始一貫してポウハタン連邦を野蛮な帝国と見做し、そのように扱った。
 ヴァージニアに戻る準備をしている時に、ポカホンタスは病気になり、彼女の健康回復のためヴァージニアに帰ろうとしたが、病状は急速に悪化し、西暦1617年03月に死去した。ケント州グレーブゼンドで死んだ。ポウハタン族の支族の1つ、マッタポニ族はポカホンタスの死因について、ロンドンの空気は汚れ過ぎていて肺を侵された、天然痘、肺炎、または結核などの説もあるが、当時の状況からロルフに毒殺された形跡を指摘している。ロルフはポカホンタスを妻にしたが、病身のポカホンタスにさっさと見切りをつけてイギリスを離れたがっていた。ポカホンタスの葬式が終わると、ロルフは実子ではない幼いトーマスをイングランドに置き去りにして、単身ヴァージニアに戻り再婚した
 入植住民には、イギリス本国の国民と同等の自由が保障された。そして住民代表による会議を招集し、意見を表明する機会が与えられた。西暦1619年にジェームズタウンで開催された第1回議会が、アメリカで最初に開かれた議会である。
 また経済を発展させるために入植者を多数送り込み、煙草以外の産物を増やす試みも行われた。だが入植者は栽培が容易で確実に利益を上げられる煙草の生産に努力を集中した。他の産物を開発する狙いは成功しなかったが、植民地の人口は増大した。西暦1618年04月にわずか400人であったヴァージニア植民地の人口は、同年末に1000人となった。入植者は多くが20歳前後の独身で、年季契約奉公人として渡来した。西暦1618〜1622年までに入植してきた3570人は大半が年季契約奉公人で、初期の奉公人は圧倒的に男性が多く、男性6人対し女性1人の割合であった。年季契約奉公人は年季が終わると農具と衣料を与えられて自由になるはずであった。しかし初期のヴァージニア植民地の苛酷な条件のもとで彼らが疫病や飢餓に打ち勝つことは稀であった。西暦1618〜1622年に渡来した入植者の4人に3人は、1年以上生き残ることができなかった。

 一方、イギリス人入植者達は再びポウハタン族領地の侵略を続けていた。西暦1609年初頭、ジェームズタウン島は植民地支配下にあった唯一の領土だったが、ポウハタン連邦はポウハタン川沿いの川沿いの財産の多くを失った。 キコウタン族とパスペヘグ族は事実上滅ぼされ、入植者たちはワイアノーク族、アポマトック族、アロハットク族、ポウハタン族の土地に大々的に侵入した。 アロハットク族とクイオコハノック族はこれ以降歴史記録から姿を消し、おそらく彼らが分散したか、他の部族と合併したことを示している。
 ポカホンタスの死を知らされたワフンスナコック(ポウハタン酋長)もまた元気を失い、調停者としては末弟オペチャンカナウが後を引き継いで、西暦1618年に死去した。弟のオピチチャパムが酋長になった。しかし、このときの調停者としての実績は一番下の弟オペチャンカナウにあった。オペチャンカナウはかつてジョン・スミスに短銃を突き付けられて、トウモロコシ20tと引き換えに人質にされたことがあるが、それでも寛大にイギリス人入植者に対し友好的な顔を保ち、ポウハタン族が住んでいない地域への入植を認めるなど、植民地側に好意を示した。オペチャンカナウ酋長はまた、イギリス人の先住民(アメリカ・インディアン)に対する耶蘇教の布教にも協力的な態度を取り、耶蘇教への改宗が差し迫っているように見せるために耶蘇教の牧師とさえ会った。もちろん酋長は支配者ではないので、これはオペチャンカナウ酋長個人の好意に過ぎない。
  先住民(アメリカ・インディアン)にとっての戦争は、元来は勇敢さを示す儀式的な性格が強かったが、土地に絡む「文明の衝突」によりその攻撃の苛烈さを強めていった。対抗する植民地側も先住民(アメリカ・インディアン)を敵視するようになり、攻撃は残虐さを増していった。
 西暦1622年、今度は先住民(アメリカ・インディアン)が増え続けるイギリス人を排除しようと347人を虐殺した。この時からイギリス人と先住民(アメリカ・インディアン)との全面戦争、第2次アングロ・ポウハタン戦争(西暦1622〜1632年)が始まった。

 西暦1618年にワフンスナコック(ポウハタン酋長)が死んだ後、弟のオペチャンカナウ(以前、ジョン・スミスに銃で脅迫されている)が酋長となり、入植者と敵対姿勢を強めた。オペチャンカナウ酋長たちは白人を追い出そうと西暦1622年と西暦1636年に「ジェームズタウンの虐殺」を行った。オペチャンカナウ酋長は入植者との間の平和が持続するとは考えていなかった。第1次アングロ・ポウハタン戦争で自らも参加したパムンキー族戦士団の敗退から立ち直り、オペチャンカナウ酋長たちは白人入植地の破壊を企んでいた。
 西暦1621年、入植者に「羽根のジャック」として知られていたポウハタン族戦士が入植者を殺害し、射殺される事件が発生した。それをきっかけに、ポウハタン族は侵略者である入植者勢力の拡大を軍事的・文化的脅威と理解し、入植地に対する全面攻撃を決断した。西暦1622年にネマッタニュー酋長がイギリス人に殺害されると、03月22日、オペチャンカナウ酋長たちはポウハタン川沿いに点在する31ヶ所の入植地とプランテーションに対する奇襲攻撃を仕掛けた。先住民の耶蘇教徒の少年チャンコが夜中にジェームズタウン入植地のリチャード・ペースを起こし、攻撃の危険を知らせた。ポウハタン川の対岸に住んでいたリチャード・ペースは家族の安全を確保した上で、川を渡り、ジェームズタウンの他の入植者に危険を知らせた。この密告がなければ、さらに多くの犠牲者が出ていたであろう。そのため、ジェームズタウン入植地はオペチャンナウ酋長たちポウハタン軍の攻撃に対し、いくらかの準備はできた。しかし、周囲の入植地にはそういった知らせは何も無かった。1日の攻撃によって、ジェームズタウンの周囲に立地していた小規模な入植地は壊滅的な被害を受けた。入植者と先住民の共同文化交流所があったヘンリカスの入植地は交流所共々破壊された。マーティンズ・ハンドレッドのプランテーションでは、人口の半分が殺害された。ウォルステンホルムの入植地では、2軒の家と教会堂の一部分だけしか残らなかった。全体では、植民地の3分の1が壊滅し、入植者人口の約3分の1にあたる347人が殺害された。これに加え、20人の入植者女性が捕らえられ、死ぬか解放されるまでの間、先住民の奴隷にされた。また、この攻撃によって入植者の畑も破壊され、春の収穫も絶やされたため、いくつかの入植地は完全に放棄され、消滅していった。
 この事件によって、先住民(アメリカ・インディアン)やその文化に対する評価は覆された。ヴァージニア植民地内だけでなく、本国イングランドでも「インディアンは野蛮。」という評価が再び広がった。侵略者側は「ポウハタン連邦とは戦争あるのみ。」という意識で団結し、ヴァージニア会社の幹部もそれに賛成した。侵略者たちは「オペチャンカナウ酋長が虐殺を指導した。」と思い込んだが、これは白人の勝手な思い込みである。先住民(アメリカ・インディアン)の社会に指導者はいない。
 ポウハタン族の戦争慣行は、これほどの打撃を与えた後に何が起こるかを静観し、入植地が単に祖国を放棄して他の場所に移動することを期待することだった。 しかし、イギリスの軍事行動は強力に対応し、生き残った侵略者たちは報復として、その後10年間ほぼ夏と秋にポウハタン族、とりわけ彼らの所有するトウモロコシ畑を襲撃した。アコマック族とパタウォメック族は入植者が西暦1622年にチカホミニー族、ナンセモンド族、ワラスコヤック族、ウイヤノーク族、パマンキー族の村やトウモロコシ畑を掠奪しに行っている間、トウモロコシを提供して植民地と同盟を結んだ。その結果、酋長(調停者)であるオペチャンカナウ酋長は渋々ではあったものの、交渉の席に着くことになった。友好的な先住民(アメリカ・インディアン)の仲介人を通じて、入植者とポウハタン族との間にはついに和平協定を締結した。しかし、この席でも悲劇が起こった。ウィリアム・タッカー大尉やジョン・ポット博士など、入植者側の一部の指導者は、和平を祝う席で先住民に振舞った酒に毒を盛った。毒は約200人の先住民を殺し、さらに50人の先住民が入植者の手によって殺された。しかし、オペチャンカナウ酋長は逃げ出すことができた。虐殺への報復として彼らを射殺し、多くの人を殺害した。 その後彼らはチカホミニー族、ポウハタン族、アポマトック族、ナンセモンド族、ウィヤノーク族を攻撃した。
 ヴァージニア植民地では、煙草による恩恵を蒙るようになっても、安定した状態にはならず、ヴァージニア会社でも当初期待されたほどの利益は上げられなかった。先住民との関係も、ジェームズタウンの虐殺以降、全面的な対立姿勢が続いた。こうした状況の中、国王ジェームズ1世は西暦1624年にヴァージニア会社の勅許状を廃止し、ヴァージニア植民地をヴァージニア王室領植民地(Crown colony、西暦1624〜1776年)とした。これまでのようにヴァージニア会社を経由することなく、王室の統治権が直接ヴァージニアに及ぶことになった。
 ヴァージニア植民地にはそれまでに約8500人の入植者があったが、その時の人口は1275人であった。ヴァージニア会社による植民事業はまったくの失敗であったが、年季契約奉公人の使用、人頭権による土地配分、議会の招集など、困難な創設期に採用された方策は植民地社会に根を張っていた。これらの初期の慣習と、苦難を乗り切った入植者の気質とにより、入植者には自立的傾向が芽生えた。
 王領植民地となったヴァージニアに対し、国王は総督と評議会を任命し、植民地の代議院は廃止され、新大陸初の立憲主義は後退した。ヴァージニア植民地では住民代表による自主的な議会を毎年開催し、立憲主義の確保に努めた。西暦1634年には議会の決定により地方制度として郡制が採用された。これによりヴァージニア植民地は8つの郡に分けられた。各郡には郡裁判所が設置され、治安判事が行政と司法に当たることになった。この制度は、他のいくつかの植民地でも採用された。その後チャールズ1世の時代となった西暦1639年、国王は植民地議会を正式に承認した。
 ほとんどの入植地では、入植者はイングランド王室の都合の良いように使われ、個人の利益はあまり鑑みられることはなかった。ポウハタン族の権利はさらに軽視された。先住民(アメリカ・インディアン)の領土への植民地の拡大と和平合意の破棄は日常茶飯事であり、先住民(アメリカ・インディアン)たちの不満は高まっていった。
 先住民(アメリカ・インディアン)の民主主義社会は破壊され、ヴァージニア植民地は王領植民地となった。総督はイギリス国王により任命された。政治組織は総督、評議会、代議会の三者構成であった。総督はイギリス本国より赴任してくるのが通例であった。
 西暦1624年、両軍とも大規模な戦闘の準備が整い、ポウハタン族はオピッチャパムを先頭に800人の弓兵を集め、わずか60人の入植者に対抗した。 しかし入植者たちはポウハタン族のトウモロコシ畑を破壊し、弓兵たちは戦いを諦めて撤退した。
植民地での火薬の不足により、西暦1625年と 西暦1626年には入植者たちの行軍が遅れた。先住民はこの不足に気付いていなかったようで、彼ら自身が必死に再結集しようとしていた。 しかし、西暦1627年の夏には、チカホミニー族、アパマトック族、ポウハタン族、ワラスコヤック族、ワイアノーク族、ナンセモンド族に対する新たな攻撃が行われた。
 西暦1628年に和平が宣言されたが、一時的な停戦に近く、敵対行為は西暦1629年03月に再開され、西暦1632年09月30日に最終的な和平が結ばれるまで続いた。入植者はヨーク川の南だけでなく東岸とポウハタン川の両側にも入植地を拡大し始めた。 そして、彼らは西暦1633年にウィリアムズバーグあたりでヨーク川とポウハタン川の間の半島を囲んだ。西暦1634年までに、ヴァージニア半島を横切る柵が完成した。その時点で幅は約6マイル(9.7km)だった。 これは、入植者の農業や漁業に対する先住民による攻撃からのある程度安全を提供した。川の間の約6マイル(9.7km)の柵の直線上に十分な兵力があり、長さ約40マイル(64km)、ほとんどの場所では幅約12マイル(64km)の、2つの大きな川に囲まれたヴァージニアの低地全域が牛の生息範囲となった。このようにして、これら2つの川の間の土地も全て取り込み、そこから先住民を完全に排除した。西暦1640年までに強力な柵で囲み、ヨーク川の北の土地にも主張し始め、オペチャンカナウ酋長は西暦1642年にピアンカタンク川の一部の土地を50ブッシェルの価格で入植者に貸し付けた。西暦1622〜1632年の第2次アングロ・ポウハタン戦争後は12年間の平和が続いた。
 入植者と植民地の拡大に抵抗するポウハタン族の関係が悪化していく中、 西暦1644年04月18日には再び第3次アングロ・ポウハタン戦争(西暦1644〜1646年)」が起こった。オペチャンカナウ酋長率いるポウハタン連邦が再びヴァージニア植民地から入植者を追い出そうとした。約400人(約500人とも)の入植者が殺害された。その頃には入植者が増加し、既に入植者人口の10%にも満たない数値になっており、入植地への影響は22年前の虐殺事件の頃よりは小さかった。これらの試みはイギリス人からの強力な反撃に遭い、結局は部族自体が虐殺されることとなった。ポウハタン連邦は西暦1646年までに大半が破壊された。ポウハタン族の、イギリス人入植者をヴァージニアから追い出そうとする試みは、イギリス軍からの民族浄化によって、最終的にはポウハタン族が絶滅に瀕することになった。
  西暦1644年、先住民(アメリカ・インディアン)部族に対し、ヴァージニア植民地の侵略者は徹底的な虐殺を決定した。戦闘は植民地側の圧倒的な勝利に終わり、タイドウォーター地域の先住民(アメリカ・インディアン)はほぼ絶滅状態に陥った。平和な先住民(アメリカ・インディアン)の村々は白人によって掠奪、強姦、殺人、放火され、悉くが破壊された。先住民(アメリカ・インディアン)の酋長は「軍事指導者」(そんなものはいない)と見做され、侵略者によって処刑され、その家族は中米へと奴隷に売り飛ばされた。

 西暦1645年02月、植民地は3つの辺境の砦、ポウハタン川の滝のチャールズ砦、チカホミニー川のジェームズ砦、ヨーク川の滝のロイヤル砦の建設を命令した。西暦1646年03月、植民地はアポマトックスの滝にヘンリー砦(現ピーターズバーグ)を建設した。08月、ヴァージニア総督ウィリアム・バークリー卿の軍隊がオペチャンカナウ酋長が住んでいた村を襲撃し、齢90〜100歳と見られるオペチャンカナウ酋長を捕らえた。オプチャンカナウ酋長は非常に高齢で病弱で、助けがなければ動くことさえできず、担架で運ばなければならなかった。オペチャンカナウ酋長はジェームズタウン入植地で投獄され、牢の見張りについていた入植者に殺害された。村で捕らえられた11歳以上の男性は全員、タンジール島に強制連行された。西暦1646年に白人の武力脅迫によってネクトワンス酋長との和平条約が締結され、植民地の住民はさらに広大な植民地領土を先住民(アメリカ・インディアン)から奪った。「和平」を口実に、先住民(アメリカ・インディアン)たちは自分たちの領土から追い出され、ヨーク川以北に住むことを強要された。この条約では、連合の部族はイングランド王への属国となり、ヴァージニア植民地総督に毎年貢物を支払うことになった。 同時に、先住民(アメリカ・インディアン)と植民地の入植地の間に人種国境が定められ、各人種の構成員は国境の砦の1つで取得する特別な通行証を除いて反対側に渡ることを禁じられた。 特許が申請できるヴァージニア植民地の範囲は、ブラックウォーター川とヨーク川の間の土地、および主要な各川の航行可能な地点までと定義され。 この条約はまた、西暦1640年以来既にそこに存在していたヨーク川の北、ポロポタンクの下の半島への入植を許可した。
 西暦1665年までに、ポウハタン族はその年に法制化された白人の厳格な法律に従わせられることとなり、植民地総督に指名される酋長を受け入れる屈辱を強いられた。先住民(アメリカ・インディアン)の酋長は誰かに指名されたり選ばれる類のものではない。侵略者たちは、先住民(アメリカ・インディアン)の酋長を首長だと勘違いしているのである。白人から「この者を酋長(ピースメーカー)に選んだから、この者に従え。」と言われても、先住民(アメリカ・インディアン)が納得できる筈がなかった。
 調停者であるオペチャンカナウ酋長の死は、かつてこの地において強大な影響力を誇ったポウハタン連邦の衰退と、白人入植者の時代の到来を意味した。オペチャンカナウ酋長の死後はネクトワンスが酋長(調停者)を継ぎ、その後トトポトモイ、さらに後にはその娘のコッカコースケが継いだ。

 ネクトワンス酋長は西暦1649年頃に亡くなるまで、ポウハタン連邦の残存勢力の酋長だった。しかし、以前の連邦の部族は散り散りになり、トトポトモイがネクトワンス酋長の後継者となったとき、トトポトモイ酋長はもはやポウハタン連邦の酋長ではなく、パマンキー族酋長であった。 トトポトモイ酋長は植民地政府と協力して平和を維持した。西暦1654年にイロコイ連邦が拡大し(ビーバー戦争、イロコイ戦争)、エリー湖周辺から逃れてポウハタン川の周りに、潜在的に敵対的な勢力のマホック族とナヒサン族(当時の記録で「リチャヘクリアン」)が侵入し一時的に定住した。西暦1656年、トトポトモイ酋長はヴァージニア植民地政府側として、マホック族とナヒサン族らの5人の酋長が交渉に来た時、司令官エドワード・ヒル大佐は彼らを殺すように命じ敵軍による攻撃が行われた。戦いの間、エドワード・ヒルと彼の部下は撤退し、見殺しにされたトトポトモイ酋長らパマンキー族戦士ら約100人のほとんどが戦死し小川が血で赤く染まった(ブラッディランの戦い)。トトポトモイ酋長の娘のコッカコースケが彼の後を継いだ。 この時期は、入植者間では比較的平和な時期だったと言われるが、西暦1646年の条約で居留地への絶え間ない侵害が見られた。
 パタウォメック族の酋長ワハンガノチェ酋長は入植者たちと協力して部族の土地を譲渡しようとしたが、裏目に出た。西暦1662年、入植者たちはさらに多くのことを望み、ワハンガノチェ酋長を殺人の濡れ衣で告発した。 ワハンガノチェ酋長は治安判事の特別招集法廷で全ての容疑で無罪となったにも拘わらず、裁判からの帰路に入植者によって殺害された。 その直後、植民地政府はパウォメック族全員に土地の「売却」を要求し、西暦1666年にはパウォメック族に対して宣戦布告し、彼らの「絶滅」を求めた。

 西暦1670年代初頭、ヴァージニア植民地では煙草生産の拡大によって増大しつつあった白人の人口が、先住民(アメリカ・インディアン)にとって脅威となってきた。ヴァージニア植民地ノーザンネックの部族は事実上全滅し、入植者から逃れることができた少数の部族は、その地域に残っていた他の部族に吸収された。第3次アングロ・ポウハタン戦争以降、平穏を保っていた先住民(アメリカ・インディアン)との関係は、西暦1674年に崩れた。先住民の居住地域をプランテーションが侵略し、サスケハナ族はポトマック川の上流メリーランド奥地へと移動した。だが白人の自由農民、特に解放民たちは辺境の廉価な土地を求め、その地域の先住民(アメリカ・インディアン)部族を一掃することを要求した。
 西暦17世紀の終りまでにチェサピーク湾一帯では大西洋岸の特権的農園主は「海岸地域の地主」と呼ばれ、その地域でも最良の農園を所有し、その数には比例しない政治的権力を行使していた。小農夫は良い土地が得られず、先住民(アメリカ・インディアン)の攻撃の恐れが強い後背地しかなかった。
 ヴァージニア総督ウィリアム・バークリー卿夫人、レディ・バークレーことフランシス・カルペパー・バークレーはナサニエル・ベイコン・ジュニアの従姉であり、実はヴァージニア総督ウィリアム・バークリー卿とナサニエル・ベイコン・ジュニア姻族の従兄弟同士だった。 ナサニエル・ベイコン・ジュニアは厄介者で陰謀家で、労働を軽蔑していたが、知的で雄弁だった。 父親が彼が成長することを期待してヴァージニアに送り込んだ。ナサニエル・ベイコン・ジュニアが到着すると、ヴァージニア総督ウィリアム・バークリー卿は彼の若い従弟に敬意と友情を持って接し、西暦1675年には多額の土地補助金と議会の議席を与えた。
 煙草価格の下落、メリーランドやカロライナとの商業競争の激化、ますます制限されつつある英国市場、英国工業製品の価格上昇(重商主義)などの経済問題がヴァージニア人に問題を引き起こした。 オランダとの最近の一連の海戦ではイギリスに大きな損失があり、本国に近いところでは天候によって引き起こされた、雹嵐、洪水、日照り、ハリケーンが1年を通してヴァージニア植民地を襲い損害を与えた。 こうした困難により、入植者たちは自分たちの不満を晴らし、自分たちの不幸の責任を擦り付けられる犠牲の山羊を探していた。
 ポウハタン川(ジェームズ川)の北岸の上流約30マイル(48km)のヘンリコ郡のカールズネック・プランテーションの地主、ヴァージニア植民地評議会議員ナサニエル・ベイコン・ジュニアは、先住民に対して民兵を組織し戦うことを要求した。ナサニエル・ベイコン・ジュニアは様々な政治的駆け引きの後で、辺境の先住民数種族に対する作戦行動を率いる任務を認められた。西暦1675年、ドーグ族の少数の者が先住民(アメリカ・インディアン)全般を虐待し詐欺することで知られるヴァージニアのノーザンネック地区、ポトマック川の近くにあったトマス・マシューズのプランテーションの2人の入植者を殺害し、一般地域を掠奪した。奥地の先住民部族との間に生じた紛争で白人の死者が出ると、平和はさらに崩れ、一連の激化と混乱が引き起こされ、西暦1676年から始まるベイコンの叛乱を巡る暴力へと繋がった。植民地の住人は報復のために間違ってサスケハノック族を攻撃し、これが更に先住民による大規模な襲撃を呼んで大変な事態になった。ヴァージニア総督ウィリアム・バークリー卿は更なる攻撃を避け、事態を沈静化させるために事情の調査を命じた。その結果、関係者間の会合を開いた時に様々な部族の6人の先住民の酋長を殺害してしまうという惨事を起こした(ワシントンの虐殺)。子の虐殺を指揮したヴァージニアの民兵大佐が初代大統領の曽祖父ジョン・ワシントン(John Washington)である。民兵は、人の先住民の酋長を殺害した鬼畜である(ワシントンの虐殺)。先住民たちは虐殺に対し、入植者達を後に襲撃して報復した。白人たちは報復の軍隊を派遣するようヴァージニア総督ウィリアム・バークリー卿に要求した。しかしウィリアム・バークリー卿は「敵対的ではないインディアンは白人と同じ国王の臣下として保護するべきだ。」と主張し、宥和政策を提唱した。そして先住民を掃討する代わりに砦の建設のために課税しようとした。これに対し、ナサニエル・ベイコン・ジュニアは義勇兵を募り、先住民攻撃軍の指揮官に自分を任命するよう総督に要請した。これを拒否されたナサニエル・ベイコン・ジュニアは奥地へ兵を進め、平和的な先住民(アメリカ・インディアン)を殺害した。ヴァージニア植民地の先住民(アメリカ・インディアン)は、この事件によりほとんど壊滅した。
 ヴァージニア総督ウィリアム・バークリー卿はナサニエル・ベイコン・ジュニアがかなりの支持者を集めていることを知り、一時は和解的態度を取ったが、結局両者の関係は決裂した。ナサニエル・ベイコン・ジュニアは西暦1676年、支持者を集めて「人民宣言」を発し、先住民(アメリカ・インディアン)の一掃と富裕な「寄生者」による支配の終焉を謳った。こうしてヴァージニア植民地は内乱状態に陥り、ナサニエル・ベイコン・ジュニアはジェームズタウンを攻撃して焼き払った。総督ウィリアム・バークリー卿は一時避難して本国の援助を要請したが、10月にナサニエル・ベイコン・ジュニアは疫病に罹って急死し、統制を失った軍隊は敗走した。
 ベイコンの叛乱はヴァージニア植民地の社会に、直接的な変革を齎さなかった。しかし武装した農民による蜂起は、社会の底辺にあった不満を表面化した。ヴァージニア植民地においてこの叛乱が白人の年季契約奉公人に替わってアフリカから拉致連行してきた黒人奴隷を積極的に導入する1つの契機となった。叛乱を起こしたのは、奴隷、奉公人、および貧しい農夫(その多くが元は年季奉公人)が大半だった。叛乱前のヴァージニアでは、黒人奴隷は稀であった。これはその費用が高く、アフリカから黒人奴隷を連れてくる貿易業者がいなかったためであった。多くの黒人は年季奉公として連れて来られ、年季が明けたあとは自由の身になった。ヨーロッパからの年季奉公者は叛乱後もヴァージニアでその役割を続けたが、アフリカからの黒人奴隷輸入の動きが急速に高まり、新しい法律が制定されて奴隷は終生のものとなり、その子供にも及ぶようになった。酷人を最下層とする人種に基づく階級性が作られ、ヨーロッパからの最貧の年季奉公者でもその上の階級となった。このことはベイコンの叛乱の間に存在した貧乏なイギリス人と黒人に共通の利益が失われたことを意味した。
 西暦1676年のベイコンの叛乱の間に、ナサニエル・ベイコン・ジュニアによって捕獲した先住民(アメリカ・インディアン)が奴隷化された。先住民(アメリカ・インディアン)の奴隷制はその15年後にあたる西暦1691年にヴァージニア植民地議会によって公式に廃止された。しかし、多くのポウハタン族は西暦18世紀に入るまで奴隷状態に置かれた。残るポウハタン族は白人や黒人入植者に同化する者もいた。西暦1684年のオールバニ条約の後では、ポウハタン連邦全てが消滅した。他の地元部族も結集して署名したコッカコエスク酋長によって署名されたミドル・プランテーション条約の中で。 この条約は各部族に居留地を設け、居留地外での狩猟権を認めた。 この法律は、「コッカコエスク酋長が散在するいくつかの先住民(アメリカ・インディアン)を服従させる義務がある。」という規定により、全ての先住民(アメリカ・インディアン)の支配者が平等であることを確立した。

ベイコンの叛乱は、頑迷で利己的な2人の指導者(ナサニエル・ベイコン・ジュニアとウィリアム・バークリー卿)の権力闘争、特権と利権に反対する運動が、先住民(アメリカ・インディアン)迫害の急先鋒と結びついた。現代のディープステイトの跳梁跋扈し世界を破壊してするアメリカという悪の帝國の権力構造を明示している。
また、アメリカの植民地で起こった初の叛乱で、専制政治に対する輝かしい戦いであり自由や平等のために、武器を持って戦う「民兵は、自由な国家の安全にとって必要であるから、市民が武器を保有し、また携帯する権利は、これを侵してはならない。」というアメリカ合衆国憲法修正第2条の権力に立ち向かう武装権が制定された。


 ポウハタン族は土地を追われ、ある者は2度とこの地には戻らず、ある者は入植者に同化し、またある者はヴァージニアに設立された居留地に強制移住させられた。その居留地さえも、移民の増加によって半ば強制的に割譲され、縮小していった。現代においては、ポウハタン連邦に属した部族は7つしか残っておらず、また保留地もキングウィリアム郡(リッチモンド都市圏内)のパムンキー族保留地、およびマッタポニ族保留地の2つが残っているのみである。
 イギリス植民地の拡大が続き、それまでの白人に加えて黒人奴隷の数も増加し、特に西暦17世紀半ばまでの期間には、彼らの中で年季奉公としての期間を経て自由を獲得した解放黒人奴隷たちによって、さらにポウハタン族の土地が侵されていった。


民主主義社会であるポウハタン族は、君主制社会であるイギリス白人に破壊され、征服された。

 西暦1604年のハンプトンコート会議で、イングランド王ジェームズ1世はピューリタンとプロテスタント分離派(Separatists)を望ましくないものと宣言し、西暦1607年、ヨーク大司教は幾人かの信徒の家を襲って牢獄に収監した。英国教会の改革を求めるプロテスタントはジャン・カルヴァンの教えに忠実に従うピューリタン(清教徒)と呼ばれたが、その中にも、国教会に留まって改革を図る者(非分離派)と国教会から分かれることを主張した者(分離派)がいた。分離派には、会衆派(組合派)、独立派、バプテスト、クエーカーなどを含む。このため、宗教的分離派信徒達は迫害の圧力を感じるようになった。清教徒分離派信徒自身は、イギリス国教会の世俗的な拘束を取り去ることを求めたピューリタン(清教徒)と呼ばれるイギリスの宗教運動の一部だった。この運動は教会をより原始の状態に戻して、初期の教父によってなされたような耶蘇教信仰を実行することを求めた。ピューリタンは、聖書が信仰的教えの唯一の根拠であり、耶蘇教に付け加えられた物、特に教会の伝統に関して付け加えられた物は、耶蘇教の信仰には無いものと信じた。分離派信徒はイギリス国教会の中で改革を目論むピューリタンとは異なり、イギリス国教会から「分離」することを求めることで、ピューリタンとは一線を画していた。分離派信徒をオランダに、さらにニューイングランドに誘ったのは、「イギリス国教会の外から信仰に携わりたい。」という願いそのものだった。
 ジョン・ロビンソン牧師、ウィリアム・ブリュースター司祭、およびウィリアム・ブラッドフォードが先導したイングランド王国ノッティンガムシャー州スクルービー町の清教徒分離派信徒達は西暦1609年にイングランド王国を離れ、オランダ(ネーデルラント連邦共和国(西暦1581〜1795年))に移動して、最初はアムステルダムに、後にライデンに住み着いた。ライデンで信徒達はその選んだままに信仰する自由を味わったが、オランダの社会はこれら移民達には馴染めないものだった。スクルービーの町は農業に基づく地域社会であり、ライデンは産業の盛んな中心地であって、生活の速度が清教徒分離派信徒達には随いて行けないものだった。さらに信徒の社会は結び付きの強いままだったが、子供達はオランダの習慣と言語に慣れ始めた。分離派信徒達は、この時もイギリス王室からの迫害と無縁では無かった。西暦1618年にウィリアム・ブリュースターがイングランド王とイングランド国教会を強く批判する文書を出版すると、イギリス当局はブリュースターを逮捕するためにライデンにやってきた。ブリュースターは逮捕を免れたが、分離派信徒達に「イングランドからはもっと離れた所に移動しなければならない。」と感じた。西暦1619年06月、分離派信徒達は、ニューネーデルラントのケープコッド南部に入植する機会を「オランダの影響力を避けたい。」と思い辞退し、ロンドン・ヴァージニア会社からハドソン川河口に入植する許可を与える土地特許を得た。次に、植民地建設がその宗教を広め利益にも繋がる手段と考えるピューリタン実業家の集団であるマーチャント・アドベンチャラーズを通じて、移民のための資金を集めた。アメリカに到着した時に、分離派信徒達はその負債を支払うために働き始めた。
 マーチャント・アドベンチャラーズからの資金を元に、分離派信徒達は食糧を購入し、2隻の船メイフラワー号とスピードウェル号の運賃を支払った。西暦1620年早々に出発するつもりだったが、航海計画の変更や資金面の問題を含め、マーチャント・アドベンチャラーズとの間に片付けなければならない問題が出てきたために、数ヶ月遅れることになった。分離派信徒達がオランダのデルフスハーフェン港からスピードウェル号で出発したのは西暦1620年07月になった。メイフラワー号はスピードウェル号と落ち合うためにイングランドのサウサンプトンに寄港し、物資や他の乗船客を乗せた。
 サウサンプトンで一行に加わった乗船客の中には、1年の大半を隠れて過ごしていたウィリアム・ブリュースターを含む数人の清教徒分離派信徒達と、分離派信徒にとって「異邦人」と見られる一群の者達がいた。この後者の集団の大半はマーチャント・アドベンチャラーズの募集に応じた者であり植民地の統治を行うと共に、植民地を立ち上げるための付加的な働き手という位置付けだった。異邦人の中には植民地の軍事的指導者となるマイルス・スタンディッシュ、大西洋航海中の指揮者となるべくマーチャント・アドベンチャラーズに指名されていたクリストファー・マーチン、およびウィリアム・シェイクスピアの「テンペスト」のモデルで、植民地経営に失敗した経験のあるステファン・ホプキンスがいた。
 メイフラワー号とスピードウェル号のアメリカへの出発は更に遅れた。マーチャント・アドベンチャラーズとの考えの不一致でサウサンプトンでしばらく留まった。総人数120人の乗客は、メイフラワー号に90人、スピードウェル号に30人が分乗し、08月15日にやっと出航した。いざ、サウサンプトンを出港したものの、スピードウェル号に重大な水漏れが発生し、即座にダートマスに帰港する必要が生じた。修理が完了しても、今度は追い風を得られずにさらに遅れた。2隻の船はランズ・エンド岬を過ぎて200マイルも行かないうちに、またスピードウェル号に水漏れが発生して、イングランドへ後戻りを余儀なくされた。今回はプリマス港だった。「スピードウェル号は航海に耐えられない。」と判断され、移民を諦めた者もいたが、残りはメイフラワー号に乗り移り、既に積載量の多かった船がさらに混雑することになった。後に、「スピードウェル号の船長が当てにならない大西洋を越える航海を避けるために意図的に罷業した。」という風評が立った。
 メイフラワー号は102人の移民を乗せて、西暦1620年09月06日にプリマスを出港した。僚船のスピードウェル号は無く、具体的にハドソン川河口に移住することを認める土地特許を持って新世界へ船出した。途中で強い西風に会いまたメキシコ湾流のせいもあり航海は2ヶ月を要し、11月09日、ケープコッドの海岸沖で陸地を発見した。メイフラワー号は指定されたハドソン川河口の場所に上陸するために南に向かおうとしたが、ケープコッドとナンタケット島の間の浅瀬、ポーラックリップ海域で障害が起こった。冬に向かおうとしている時期であり、食糧も危険なまでに底を突いた状況だったので、乗船客は北へ戻り、当初の上陸計画を破棄することにした。

 この清教徒分離派信徒の侵略の前に、先住民(アメリカ・インディアン)以外にヨーロッパ・コーカソイド(白人)による1世紀近い探検、漁撈および入植の歴史があった。ジョン・カボットが西暦1497年にニューファンドランド島に到達し、イギリスは北アメリカの東海岸に広大な領有権を主張することになった。現在のニューイングランドの初期の地図の1つは、西暦1540年頃、地図製作者ジャコモ・ガスタルディによるものだったが、ケープブレトン島をナラガンセット湾と見誤っていた。この誤りでニューイングランドの海岸の大半が消えていた。ヨーロッパの漁師は西暦16世紀〜17世紀の大半をニューイングランド海岸沖で操業していた。フランス人サミュエル・ド・シャンプランは西暦1605年にこの地域を探検した。特に現在のプリマス港を探索して「セントルイス港」と名付け、そこと周辺の土地の広範で詳細な地図を作成した。現在のプリマスの町が間もなく造られることになる先住民(アメリカ・インディアン)の集落、「パチュケット」が将来コーカソイド(白人)にとって「楽しみな入植地」としてシャンプランの地図に載った。しかし、メイフラワー号が到着する15年前に、イギリス人漁師によってこの地域に齎された病気が、この地域の先住民(アメリカ・インディアン)の90%を絶滅させていた。この病気は天然痘だと一般に考えられていたが、レプトスピラ症だった可能性がある。
 ポパム植民地、別名セントジョージ砦はプリマス会社(プリマス植民地と無関係)によって組織され西暦1607年に開設されていた。現在のメイン州の海岸に造られたこの植民地は、内部の政治的な闘争や、病気と厳しい気候によって悩まされ続けていた。この植民地は西暦1608年に放棄された。ジェームズタウンで名を上げた植民請負人ジョン・スミス船長は、その後の「プリマス植民地」近くを西暦1614年に探検し、「ニューイングランド」という名前を付けた。ジョン・スミスは先住民たちの言葉を聞き書きして多くの地名を付けた。清教徒分離派信徒が最初に入植する場所は、ジョン・スミスによって当初「アッコマック」と呼ばれた。イングランド王ジェームズ1世の息子、当時王太子チャールズ1世と相談して、ジョン・スミスは「アッコマック」を「ニュープリマス」と変えた。メイフラワー号の清教徒分離派信徒達が最初にケープコッドを探検したとき、白人が以前にそこで多くの時を過ごした証拠に出くわした。白人の砦の跡を発見し、墓を暴くと、白人成人男性と先住民の子供の遺骨があった。

 メイフラワー号は、西暦1620年11月11日にプロビンスタウン港に碇を降ろした。清教徒分離派信徒達はその地域にイギリス政府から独自の政府を作ることを認める勅許を得ていなかった。しかし、統治の手段が必要だった。乗船客達は上陸する権利を疑い始めた。「そこには植民地を創設する法的な根拠が無い。」と零した。これに応えて、まだ海上にあるメイフラワー号に乗っていた41人の働ける男性移民が植民地を統治する為の最初の文書「メイフラワー誓約(盟約書)」を起草し批准した。この意図は植民地を統治する手段を確立することだった。それは植民地がイギリスの町のように統治されることを確認したに過ぎなかったが、植民地で最初の統治法を決める文書になり、多くの移民の心配を解き放つ目的には役立った。正式の法律は西暦1636年に法典化された。植民地の法律はイギリスの慣習法と聖書の中に書かれている宗教的な定めとの融合だった。
 この侵略者達は次の日が日曜日だったので、船上に留まり祈りを捧げた。11月13日、侵略者達は後にプロビンスタウンと呼ばれる地に最初の一歩を踏み出した。最初の仕事はシャロップと呼ばれる底の浅い小舟を組み立てることだった。この船はイギリスで造られ、メイフラワー号で運ぶために分解されていた。メイフラワー号がイングランドに戻った後に、小舟と移民が残ることになっていた。11月15日、マイルス・スタンディッシュ船長は16名の部隊を構成して探検を行い、その途中で先住民(アメリカ・インディアン)の墓を暴き、またトウモロコシ(インディアン・コーン)の埋蔵所を探し当てた。翌週スザンナ・ホワイトがメイフラワー号船上で男の子、ペレグリン・ホワイトを産んだ。この子は新世界で移民の子として生まれた最初のイギリス人になった。シャロップは西暦11月27日に完成し、これを使って2回目の探検がメイフラワー号船長のクリストファー・ジョーンズの指揮で行われた。34名が同行したが、この遠征は悪天候に悩まされた。先住民の墓所を発見して暴き、死者のために埋蔵されていたトウモロコシを見付けて盗み帰った。ケープコッドの3回目の探検は12月06日に出発した。この時に、現在のイースサム近くで「最初の遭遇」として知られる土地の先住民と小衝突があった。侵略者達は適当な入植地の確保が難しかったことと、先住民のトウモロコシを盗んだ上に武器を向けて怒らせてしまったことを恐れ、メイフラワー号でプロビンスタウンを離れ、プリマス港に向かった。

 侵略者は、先住民(アメリカ・インディアン)が住む土地を侵略し、ワンパノアグ族(Wampanoag、マサチューセット語: Wôpanâak)パタクセット支族(Patuxet)の集落跡「パチュケット」に住み着いた。この狂信者(カルト)を「巡礼始祖」(ピルグリム・ファーザーズ、Pilgrim Fathers)と呼ぶ。ピルグリム・ファーザーズが上陸した土地には先住民のワンパノアグ族が暮らしていたが、先住民(アメリカ・インディアン)諸部族はこのカルトから発砲されるなどしていたため、近づかないよう用心していた。清教徒分離派信徒ピルグリム・ファーザーズが入植したことに対して先住民(アメリカ・インディアン)からの抵抗がほとんど無かったことは、その植民地とイギリスによるアメリカ大陸の植民地化そのものを成功に導いた重要な要因になった。
 ピルグリム・ファーザーズは12月17日にプリマス港に碇を降ろし、入植地を探して3日間を費やした。幾つかの場所を検討した。クラークス島やジョーンズ川の河口の地だった。その後に先住民(アメリカ・インディアン)が最近放棄していた「パチュケット」という名の場所を選んだ。この場所は防御に適していることが選ばれた大きな理由だった。入植地は2つの丘を中心にした。コールズヒルは集落が造られ、フォートヒルは防衛のための大砲が据えられることになった。この場所を選んだもう1つの重要な理由は、以前の先住民の村人が土地の大半を切り開いており、農作が比較的容易だったからである。清水はタウン・ブルックとビリントン湖から得られた。その伝説を実証する証拠は全くないものの、プリマス・ロックは入植者達がその新しい故郷に最初に足を踏み入れた場所だとされている。入植者達が入った地域は西暦1614年に出版されたジョン・スミスの地図では、「ニュープリマス」(現在のアメリカ合衆国マサチューセッツ州プリマス)と記されている。入植者達はイングランドを離れるときの港町デボン州のプリマスに因み、その地図に記された町の名をそのまま採用することにした。
 12月21日、最初の上陸隊がプリマス入植地となる場所に到着した。しかし、直ぐに家を建てようという計画は荒れ模様の天候のために12月23日まで延期された。建設が開始されると、常に20人の男が陸上に残って安全を確保し、その他の働き手達は1日の終わりにメイフラワー号に戻った。女性と子供それに身体の虚弱な者は船上に残った。多くの者が6ヶ月間船を離れられなかった。最初の建物は「共有建屋」で、編み枝と泥でつくった漆喰でできていた。ニューイングランドの厳しい冬の最中に、完成までに2週間を要した。その次の数週間で入植地の残りが少しずつ姿を現した。住居と作業所はコールズヒルの比較的平らな頂上部に造られ、隣接するフォートヒルには入植地を守ることになる大砲を支えるために木製の台座が造られた。身体的に健全な男達の多くが衰弱して働けなくなり、病気で死ぬ者もあった。19戸を計画していた住居の中7戸と共有建屋4戸が、最初の冬の間に完成した。メイフラワー号に乗船してきた者の大半が壊血病のような病気を患い、雨風を凌ぐ場所が無く、船の上で不自由を強いられた。102人いた乗客のうち45人が最初の冬の間に死に、コールズヒルに埋葬された。最初の1年間、すなわち西暦1621年11月まで生き延びて感謝祭を迎えたのは53人だった。18人いた成人女性のうち、13人が最初の冬の間に死に、05月にももう1人死んだので、11月まで生き延びられたのは4人だった。ジョン・カーバーが航海中の指導者に指名されていたマーチンに代わって初代の知事に選ばれた。エドワード・ウィンスローとスザンナ・ホワイトは、西暦1620〜1621年の厳しい冬の間にお互いの伴侶を亡くしており、プリマスで初めて結婚した夫婦となった。ブラッドフォード知事が結婚式を執り行った。
 01月の終わりまでに、定着に必要な建屋が建てられたので、メイフラワー号から食糧の荷卸しが始まった。02月半ば、土地の先住民(アメリカ・インディアン)と数回の緊張した遭遇があった後で、入植地の男性住人が軍隊組織を作った。マイルス・スタンディッシュが指揮官に指名された。02月の終わりに、5門の大砲がフォートヒルの防衛拠点に据えられた。

 西暦1621年03月16日、先住民(アメリカ・インディアン)との最初の公式な接触が起こった。ピルグリム・ファーザーズが上陸した土地にはワンパノアグ族が暮らしており、マサソイト酋長を訪ねて来ていた現在のメイン州ペマクィドポイント出身のアベナキ族(Abenaki)の酋長サモセット(Samoset)が、大胆にも入植地の中に歩いて来て、ピルグリム・ファーザーズに片言の英語で「ようこそ、イギリス人(Welcome, Englishmen!)」と話し掛けた。サモセットはケネベック川河口に短期間存続した入植地でイギリス人から奴隷にされてイングランドに売られ、数年してメインに逃げ戻ってきていたので、幾らかの英語を覚えていた。先住民集落パチュケットの前の住人が恐らく天然痘で死んだことを、ピルグリムが知ったのもこの会見の時である。
 ピルグリムはこの地域の「最高指導者」がワンパノアグ族の酋長マサソイトと勝手に誤解した。マサソイト酋長はワンパノアグ族の一支族ポコナケット族の酋長だったが、侵略者は彼を「ワンパノアグ族連合全体の創設者で指導者」と見做した。
 しかし、先住民(アメリカ・インディアン)の酋長は合議制の中の「調停者(ピースメイカー)」、「世話役」であり、「指導者」でも「権力者」でもない。しかし侵略者たちは「酋長」を「首長」と勝手に誤認し、以後の先住民部族との交渉で、酋長の同意を部族の同意と思い込んだ。
合議を経ていない侵略者の要求は当然先住民(アメリカ・インディアン)社会から反発を受け、「インディアン戦争」という血みどろの植民地戦争を生みだしていった。
 ピルグリムは、パチュケットの出身のマサチューセッツ族名「ティスクァンタム」の存在を知った。サモセットは植民地の事情を視察して翌日、ヨーロッパに滞在したことがあり、英語を流暢に話すワンパノアグ族パタクセット支族のティスクアンタム(Tisquantum、スクアント(Squanto))を連れて戻った。マサソイト酋長とティスクアンタムはピルグリムのことを気遣っていた。マサソイト酋長が初めてイギリス人に会った時、部族の数人の男がイギリス水夫の謂われのない攻撃で殺されていた。ピルグリムがプロビンスタウンに上陸したときにトウモロコシの埋蔵品を盗んだことも知っていた。ティスクアンタムは西暦1614年にイギリスの探検家トマス・ハントに拉致され、最初はスペイン人僧侶団の奴隷として売られた。続いてイングランドに渡って、ヨーロッパで5年間白人の教育を受け過ごしてきていた。西暦1619年、探検家フェルディナンド・ゴルジュの通訳兼案内人として植民地行きの船に乗り故郷に戻ってきた。マサソイト酋長とその部族員が船の乗組員を皆殺しにしてティスクアンタムを取り戻した。サモセットはその夜をプリマスで過ごし、マサソイト酋長の部族員との会合を手配する約束をした。
 サモセット酋長は、西暦1621年03月22日にティスクアンタムを含むマサソイト酋長の代理人らと共にプリマス入植地に戻ってきた。マサソイト酋長自身もその後間もなく加わった。ティスクアンタムはワンパノアグ族のマサソイト酋長とピルグリムが平和と友情の条約を結ぶのを仲介した。贈り物の交換後にマサソイト酋長とカーバー知事は正式な平和条約を結んだ。この条約では、お互いに相手に害を及ぼすようなことをしないこと、マサソイト酋長はその同盟者がプリマス入植地と平和的な交渉を行うように使者を送ること、戦争が起こった場合は互いに協力して戦うことが盛り込まれていた。マサソイト酋長は部族の調停者として、この調停に加わっている。しかし、先住民(アメリカ・インディアン)における酋長とは、「調停者」であり、白人が思い込んでいるような「指導者」や「首長」ではない。ティスクアンタムも「調停者」として、新参者のピルグリムと先住民との間で和平調停を行った。
 ピルグリムが現れるまでの過去十年間、ワンパノアグ族は近隣のミクマク族(Mi'kmaq)やナラガンセット族との抗争と、白人が持ち込んだ疫病の3回に渡る流行に悩まされており、マサソイト酋長はピルグリムとの同盟がワンパノアグ族の置かれた状況を好転させると期待していた。マサソイト酋長がピルグリムと結んだ条約にはプリマス入植地のために12000エーカー(48.5 km2)の土地を譲渡することが含まれていた。先住民(アメリカ・インディアン)にとって土地は誰のものでもなく、白人の土地所有の概念のように恒久的に占有するものではなかったから、そもそもマサソイトがこの「土地の譲渡」を理解していなかった。。先住民間の抗争と白人の持ち込んだ疫病でワンパノアグ族の人口はひどく低下していた上、ワンパノアグ族の土地に現れたイギリス人の数はまだ少なく、しかも前年の冬をようやく生き延びたような有様であったため、この条約が後にワンパノアグ族の不利益になるとは考えなかった。西暦1661年にマサソイト酋長が死ぬまではピルグリムとの平和条約は守られ、両者は比較的平和に共存していた。
 気の毒に思ったワンパノアグ族はピルグリムに食糧や物資を援助した。マサソイト酋長とその一党が去ると、ティスクアンタムはプリマス入植地に残って、ニューイングランドで生き残る方法をピルグリムに教えた。ティスクアンタムは先住民の農耕や漁撈、狩猟やトウモロコシを始めとする農作物の栽培方法を教え、ピルグリムを飢えから救った。ピルグリムに冬の数ヶ月を生き延びさせてしまった。ピルグリムは先住民から農耕法を教わり、作物を選んだ。トウモロコシ、スカッシュ、南瓜、豆類およびジャガ芋を育てた。ピルグリムは先住民から死んだ魚を肥料にすることを学び、農業生産性を改善した。「全てを共有する。」という先住民(アメリカ・インディアン)の文化に従って、ワンパノアグ族はピルグリムに惜しみなく食糧を与え、ピルグリムを助けたのである。 先住民の作物以外にも、旧世界の作物を持ち込んだ。蕪、人参、エンドウ豆、小麦、大麦、オート麦だった。ウィスキーは先住民(アメリカ・インディアン)を酔わせ、土地権利書に署名させるために大いに活用された。「夢による啓示」を重要視する先住民たちはウィスキーに耽溺し、身を滅ぼしていくものも多かった。
 04月05日、プリマス港にほぼ4ヶ月停泊したままだったメイフラワー号がイングランドに向かって船出した。入植当初の状況は厳しく、翌西暦1621年の04月までに102人のピルグリム・ファーザーズの半数程が病死した。ウィリアム・ブラッドフォードは「この最初の船で共にやってきた100人の中で、ほぼ半数が死を免れなかった。彼らの多くは2、3ヶ月のうちに死んだ。」と書き記したコールズヒルの墓の幾つかが西暦1855年に掘り出された。その遺骸はプリマス・ロックの近くに移葬された。 
 メイフラワー号が去って間もなく、カーバー知事が突然亡くなった。ウィリアム・ブラッドフォードがその後継者に選ばれ、植民地の成長期の多くの期間を引っ張っていくことになった。
 マサソイト酋長が約束したように、多くの先住民が西暦1621年の中頃にプリマス入植地を訪れ、和平を誓った。07月02日、ピルグリムの一隊がエドワード・ウィンスローの引率で、酋長との交渉を続けるために出発した。この中には通訳としてティスクアンタムも含まれていた。数日間の移動後に、一行はマサソイト酋長の本拠、ナラガンセット湾に近いソワムズ集落に着いた。食事と贈り物の交換後に、マサソイト酋長はイギリス人と排他的交易盟約を結ぶことに同意し、この地域にしばしば現れて交易を行っていたフランス人を排除することになった。ティスクアンタムは一行を離れてその付近を歩き回り、幾つかの部族と交易関係を築いていた。
 07月遅く、ジョン・ビリングトンという名の少年が入植地の周りの森の中でしばらく行方不明になった。「少年はノーセット族に発見された。」と記録されている。ノーセット族はピルグリムが前年の最初の探検中にトウモロコシの種を盗んだケープコッドの先住民と同族だった。ピルグリムはジョン・ビリングトンをプリマスに戻して貰うために代表団を組織した。ピルグリムは少年を返還して貰う替わりに盗んだトウモロコシをノーセット族に弁償することに同意した。この交渉はその地域の先住民の和平確保に発展した。ジョン・ビリングトンの解放についてノーセット族と交渉している間に、ピルグリムはマサソイト酋長が経験しつつある問題を知った。マサソイト酋長、ティスクアンタムおよび数人のワンパノアグ族がコービタント酋長らのいるナラガンセット族に捕まっていた。マイルス・スタンディッシュを指導者とする10人の部隊が組織され、コービタントを探して処刑するために出発した。コービタントは酋長であって、指導者のような部族を「率いる」存在ではない。しかしピルグリムはこれを理解できないから、彼を捉え処刑したがったのである。コービタントを探している間に、ティスクアンタムが逃げ、マサソイトも部族に戻ったことが分かった。スタンディッシュの部隊によって、数人の先住民が傷つき、プリマス入植地で治療を受けた。スタンディッシュの部隊はコービタントを捕まえることには失敗したが、武力を示したことで先住民からはピルグリムに対して一目置かれ、その結果、その地域で勢力を持つ部族のうち、9人の酋長が、この中にはマサソイトやコービタントも含まれていたが、ジェームズ国王に対する忠誠を誓う条約に09月に署名した。先住民は文字を持っていないから、「署名」というのは名前の代わりに「✕印」を書き込むというものだった。
 その年の秋は各作物が大豊作であったため、ピルグリムは神の恵みとワンパノアグ族の助力に感謝し、恐らく10月早くに収穫の祭を開いた。「全てを共有する。」という先住民(アメリカ・インディアン)の文化に則って、生き残ったピルグリム51人にマサソイト酋長たちワンパノアグ族からも90人が入植地を訪れ、入植者が購った多くの種類の水鳥、野生の七面鳥および魚と、ワンパノアグ族が気前よく与えた5頭の鹿を饗宴に供され、3日に渡る祝宴が行われた。料理が不足すると、ワンパノアグ族のマサソイト酋長は部族から追加の食料を運ばせた。
 ピルグリムは感謝祭として知られる祭りは認識していたが、それは清教徒分離派信徒の幸運のために、神を崇め感謝する敬虔な儀式だった。ピルグリムが感謝祭と呼んだ最初のものは西暦1623年に行われたものだった。この時、「新たな移民と物資が到着する。」という知らせが届いたことに反応したものだった。この出来事は恐らく07月に起こり、まる一日の祈りと礼拝、およびささやかな祝宴が行われた。この祝宴が現在の感謝祭の起源である。プリマス入植地はやがてニューイングランドの最初の植民地となった。
 西暦1621年11月、ピルグリムがニューイングランドに最初の一歩を記してからほぼ1年後に、マーチャント・アドベンチャラーズによって送られた2番目の船が到着した。フォーチュン号には37人の新しい入植者が乗っていた。しかし、船の到着が予想されたものではなく、多くの補給物資も無かったので、入植者が増えたことは植民地の資源に歪みを齎すことになった。フォーチュン号の乗客の中には、ライデンの清教徒分離派信徒が数人混じっていた。ウィリアム・ブリュースターの息子のジョナサン、エドワード・ウィンスローの兄弟のジョン、およびフィリップ・ド・ラ・ノイエだった。ノイエは後に姓をデラノに変え、奴隷商人で財を成し子孫が悪魔の32代アメリカ合衆国大統領フランクリン・デラノ・ルーズベルト(FDR)である。フォーチュン号はまた、マーチャント・アドベンチャラーズからの手紙も運んできた。それは彼らの支援に対して約束していたメイフラワー号に載せて返すはずの商品が無かったことで植民地を非難するものだった。フォーチュン号は500ポンドの価値のある商品を載せてイギリスへの帰途に就いた。それは負債の返済スケジュールを守る以上のものだった。しかし、フォーチュン号はイギリスに船荷を届ける前にフランスに捕獲されてしまい、プリマス植民地にとってさらに大きな負債を作ってしまった。

 西暦1622年05月、スパロー号という船が、この地域で新しい入植地を探す目的でマーチャント・アドベンチャラーズに派遣された7人の男達を運んできた。その後2隻の船が続き、60人の全て男の入植者を運んできた。彼らは07月と08月をプリマス入植地で過ごした後、北へ向かって現在のウェイマスに入植し「ウェサガセット」と名付けた。「異邦人」と「特殊人」の存在はピルグリムにとってはかなりの悩みの種だった。西暦1623年には、2つの集団の間にクリスマスの祝い方について紛争が発生した。ピルグリムにとってクリスマスは特別な意味を持たなかった。更に「異邦人」の集団が近くにウェサガセットの入植地を造った時、ピルグリムは感情的にも資源の面でも、異邦人の規律の足りなさに強く神経を逆撫でされた。結果的にウェサガセットの入植地は失敗し、ピルグリムはこれを罪深い民に対する神の摂理と見做した。
 ウェサガセット入植地は短命に終わったが、土地の先住民(アメリカ・インディアン)とイギリス人との間の政治的な関係を劇的に変えるような出来事を起こすことになった。「ウェサガセットに対する先住民の武力による反発がある。」という報告を受けて、マイルス・スタンディッシュはウェサガセットを守るための民兵隊を組織した。しかし、マイルス・スタンディッシュは何の攻撃も無かったことが分かったので、先制攻撃を掛けることにした。先住民から攻撃が無かったのに、ピルグリムは進んで攻撃を仕掛けたのである。「スタンディッシュの襲撃」と呼ばれているこの事件で、マイルス・スタンディッシュはマサチューセッツ族の「傑出した2人の軍事指導者」と思い込んでいる先住民2人を、食事を共にし交渉を行うという名目でウェサガセットの宿舎に誘き出した。先住民の社会は合議制であり、「軍事指導者」などというものは存在しない。マイルス・スタンディッシュは指導者と想定される者の殺害を企んで、これを実行したのである。マイルス・スタンディッシュの部隊は何の疑いも抱いていなかった2人の先住民を刺し殺した。オブタキーストという土地の酋長がマイルス・スタンディッシュの部隊に追跡されたが、ウェサガセットで捕まえた3人のイギリス人捕虜と共に逃げてしまい、捕虜は後に処刑された。ウェサガセットは短期間で放棄され、残った者はプリマス入植地に合流した。
 マイルス・スタンディッシュの騙し討ちによる先住民(アメリカ・インディアン)虐殺の話は、先住民の間に直ぐに広まった。多くの先住民は、さらなる虐殺を恐れて、集落を捨てて逃げ出した。マイルス・スタンディッシュの襲撃は取り返しがつかないほどにその地域の人間関係を傷つけた...それは新たな平衡状態が生まれる前のことだった。先住民はその家を諦め、取り乱した人のようにあちこち走り回り、沼地や荒れ地に住んで、種々の病気を流行らせ、そして多くが死んだ。 土地の部族から供給される毛皮という交易手段を失い、ピルグリムはマーチャント・アドベンチャラーズに対する負債を払うための収入源を失った。「スタンディッシュの虐殺」は、地元の縄張りを強化するというよりもむしろ、植民地に悲惨な結果を齎した。プリマス植民地の富の大きな源泉は毛皮貿易だった。マイルス・スタンディッシュがウェサガセットで先住民を騙し討ちした襲撃で、白人は先住民の信用を失った。この虐殺が引き起こした交易の混乱は、植民地の者に多年大きな苦境を強いることになった。ウィリアム・ブラッドフォードはマーチャント・アドベンチャラーズに送った手紙に次の様に記している「我々は交易に大損害を受けた。我々が毛皮を得ていたインディアンがその住まいから逃げ出したからだ。」植民初期の経済的な困難さを生んだ要因となった。植民地の者はその替わりに漁業で収入を得ようとした。ケープコッド湾の海は優れた漁場として知られていた。しかし、植民者は漁撈技術が欠如しており、それほど経済的困難さを救う効果が無かった。プリマス植民地は地域全体との交易を行い、はるか遠いメインのペノブスコットまで交易基地を造った。ニューアムステルダムのオランダ人ともしばしば交易を行った。マイルス・スタンディッシュの虐殺による唯一の利点は、ピルグリムが密接に同盟を結んでいる、マサソイト酋長らワンパノアグ族の力を増大させたことだった。

マイルス・スタンディッシュ
 当初からマイルス・スタンディッシュがプリマス植民地の軍事的指導者だった。マイルス・スタンディッシュは最初の部隊を組織してニューイングランドに足を踏み入れ、プロビンスタウン港に着いたときはケープコッドの探検隊を率いた。3回目の探検隊の時もマイルス・スタンディッシュが率いていたが、最初の遭遇と呼ばれる出来事で、マイルス・スタンディッシュがピルグリムとしてインディアンへの最初の発砲を行った。最終的にプリマスに着いた時、入植地の防御配置を決めたのは、ライデン大学で軍事工学に関する訓練を積んできたマイルス・スタンディッシュだった。マイルス・スタンディッシュは最初の冬の02月に動ける男を軍隊組織に繰り入れた。2度目の冬には、入植地を囲む大きな防柵を設計し建設の手配をすることに関わった。
 マイルス・スタンディッシュは初期に2回インディアン集落に対する襲撃を率いた。1回目は白人にとって「叛逆者」であるコービタントを見付けて罰するためのもので、これは不成功に終わった。2回は、「スタンディッシュの襲撃」と呼ばれるウェサガセットでの残酷な虐殺だった。最初の頃は土地の先住民(アメリカ・インディアン)の尊敬を集める効果があったが、2回目の時は、先住民を怯えさせ逃散させ交易の収入の道が閉ざされた。


 西暦1623年07月、2隻の船が到着し、新たに96人の入植者を運んできた。アンソニー・ダイク船長のアン号とその10日後に着いたリトルジェイムズ号だった。ライデンから来た人々の中にはウィリアム・ブラッドフォードの未来の妻、アリスが含まれていた。アン号で来た入植者の中には辺境での生活に適合できず、あるいは植民地にとって望ましくない者も居り、翌年イングランドに戻った者もいた。グリーソン・アーチャーに拠れば、「残った者達はマーチャント・アドベンチャラーズとの協定下に植民地に加わろうとはしていなかった。彼等は自分達の社会に入植する、あるいは少なくともプリマスの入植者が規制されている制約を受けないという、マーチャント・アドベンチャラーズとの合意の上でアメリカに渡ってきていた。入植者に宛てられ、商人13人の署名がある手紙には、これらの事実が挙げられ、新参の者は特有の条件で受容されることを促していた。」新しく到着した者達には、プリマス・ロックの1マイル (1.6 km) 南、ホブス・ホールと呼ばれるイール川沿いの土地が当てられ、後にウェリングスリーとなった。 西暦1623年09月、別の船で失敗したウェイマスの植民地を再度建設する入植者が到着し、一時的にプリマスに滞在した。西暦1624年03月には、更に何人かの入植者と初めての牛が到着した。西暦1627年の牛を分割する表では、156人の植民者が13の植民地のそれぞれ12の区画に分かれていた。もう1隻、これもメイフラワー号と名付けられた船がライデンの清教徒分離派信徒35人を西暦1629年08月に運んできた。西暦1629〜1630年に着いた船は多くの乗客を運んできた。正確には分からないが、西暦1630年01月までにプリマス植民地にはおよそ300人が居た。西暦1643年に軍隊に従軍できる男性が600人いたことは、全人口は2000人くらいになった。プリマス植民地を解散することになる前年の西暦1690年、最も人口の多いプリマス郡の総推計人口は3055人だった。この時の植民地全体の白人人口はおよそ7000人だったと推定できる。西暦1630〜1640年の間、つまりピューリタン大移住の時代にマサチューセッツ湾植民地だけで2万人以上の白人入植者が到着したと推定される。また、西暦1678年のニューイングランド全体のイギリス人人口は6万人台で、プリマスが最初の植民地であるという事実にも拘わらず、マサチューセッツ湾植民地に吸収されるとき、プリマス植民地は比較的小さかった。
 植民地の家族構成は「核家族」が普通であり、近い親戚は近くに住んだ。成人になった者は家を出て自身の世帯を造ることが期待された。両親と生まれた子供が同じ家に住むことに加えて、多くの家庭は他の家庭から子供を預かることもあり、また年季奉公の従僕を抱える家庭もあった。より裕福な家庭は奴隷を所有したプリマス植民地の富裕な家庭ではアフリカ西海岸から輸入した黒人奴隷を所有しており、白人の年季奉公とは異なり、「個人の所有物」として、他の財産と同様に相続された。奴隷の所有はそれほど広く行われていたわけではなく、所有するために必要な富がまだ蓄積されていなかった。西暦1674年、マーシュフィールドのトマス・ウィレット船長の財産目録には、200ポンドの価値で「8人の黒人」と記されている。当時の他の財産目録でも奴隷の資産価値は1人当たり24〜25ポンドであり、多くの家庭の財政能力を超えていた。西暦1689年のブリストルの町の統計では、そこに住む70家族の中で1家族のみが奴隷を所有していた。植民地の中に奴隷の数が少なかったので、議会は黒人奴隷に関する法律を通すことも無かった。
 子供達はだいたい8歳くらいまで、母親の直接庇護のもとに置かれ、その後に他の家族の里子に出されることが希ではなかった。このようなやり方で子供を外に出すことには多くの理由があった。里子に出されてから商売のやり方を学んだり、読み書きを教えられる子供がいた。植民地で決定されるほとんど全ての事項と同様に、子供を里子に出すことには宗教的な理由があったと思われる。子供の実の親は子供に対する愛情が深く、適度に鍛えることが出来ないと考えられた節がある。他の家庭環境に子供を置くことで、子供が甘やかされて駄目にされる危険性が減った。
 法律は犯罪とそれに対する刑罰も定めた。死刑に相当する幾つかの犯罪があった。裏切り、殺人、魔術の行使、放火、同性愛、強姦、獣姦、姦通ならびに実の親を冒瀆したり殴ったりすることだった。実際に死刑を執行することは極めて希で、唯一、性に関連する西暦1642年のトマス・グランジャーによる獣姦事件は死刑が執行された。西暦1679年にエドワード・バンパスという男が「両親を殴り虐待した」廉で死刑を宣告されたが、精神異常という理由で重い鞭打ち刑に変えられた。最も知られた死刑の適用はジョン・ササモン殺人の廉で告訴された先住民の例であろう。このことが「フィリップ王戦争」の原因となった。名目上死刑に値する犯罪でも、姦通は通常公的に辱められることで扱われた。姦通を犯した者は、ナサニエル・ホーソーンの小説「緋文字」の中のヘスター・プリンと同様に衣類に「A.D」の文字を縫い込んだものを着ることを強制された。
 プリマス植民地の住人は初期の移住者と後から来た者とを区別し、入植者の第1世代は西暦1627年以前に到着した者と一般に考えられ、自分達で「古い来訪者(Old Comers)」あるいは「種を蒔く人(Planters)」と呼んだ。後の世代は第1世代のことを「先祖(Forefathers)」と呼んだ。

アメリカ・インディアン史 第3版 - ウィリアム・T. ヘーガン, 西村 頼男, 島川 雅史, 野田 研一
アメリカ・インディアン史 第3版 - ウィリアム・T. ヘーガン, 西村 頼男, 島川 雅史, 野田 研一

 ピルグリムの入植地の拡大により、やがては「先住民(アメリカ・インディアン)の土地をよこせ。」と要求し始めた。先住民(アメリカ・インディアン)にとって土地は共有財産であり、誰のものでもなかった。しかしピルグリムの要求は、先住民全てを立ち退かせる排他的なものだった。当然ながら先住民は激怒した。またピルグリムはこの取り決めを「公平」に「条約」で行おうとし、その署名者として彼らの酋長を選んだ。しかし急激に増加した白人の入植者は、先住民の土地を売るように要求したり、強引な耶蘇教への改宗強制や、先住民に不利な裁判を行い、先住民の白人に対する反感を買い始めた。先住民に「土地を売る」という概念はそもそも無かったし、個人の選択として宗教を受け入れることはあったが、部族全体を従わせようとする白人の思考は先住民共同体には理解不可能だった。しかし先住民の社会は、白人の独任制と違い、合議制である。、元より部族を代表する首長や君主は存在しない。酋長はあくまで調停者であって、部族を代表する者ではないが、白人にはこれが理解できなかった。ピルグリムは酋長と盟約すればワンパノアグ族は納得するものと思い込んだが、これは全くの思い違いであった。
 しかし間もなく、ピルグリムは入植範囲を拡げ始め、先住民(アメリカ・インディアン)との間で土地と食糧を巡って対立が発生し戦闘が起き、イギリスから次々侵入してきた狂信者(カルト)、白人、耶蘇教徒によって大量虐殺、民族浄化、強制移住が行われた。

 西暦1620年にプリマス植民地を築いたピルグリムは西暦1630年、マサチューセッツ湾植民地を形成し、その後、大移住の時期となり、植民地は成長を続けた。ピクォート族(Pequot、マシャンタケット・ピクォート族(Mashantucket Pequot))の居住地近くの土地に侵入し、ピルグリムが持ち込んだ天然痘により、天然痘に対して免疫力があまりなかったマサチューセッツ族の大半は病死した。当初はピルグリムは、ピクォート族と条約を結び土地を購入するという形で、品物交換を行うなどとも好関係を保って共存していたが、ピルグリムは次第にピクォート族の領土に入植地を拡大していった。 この頃から清教徒が大挙して入植するようになり、ピルグリムが勝手にピクォート族の土地に入り込むというような形になり、敵対するようになった。
 ニューイングランドで最初の全面戦争は西暦1637年のピクォート戦争だった。
戦争の原因は西暦1632年に遡る。現在のコネチカット州ハートフォード近くのコネチカット川渓谷の支配権を巡ってオランダ人毛皮交易者とプリマス植民地の役人との間に紛争が起こった。オランダ東インド会社とプリマス植民地双方の代表は、「ピクォート族から土地を公正に購入した。」と主張した。しかし先住民に「土地を売買する。」という文化は無く、彼らはこれを理解していない。また酋長は全権委任された代表でも部族長でもないので、「書類に酋長が『✕印』を書いたからこの土地から出て行け。」と白人に言われても、先住民は納得するはずがなかった。先住民の土地で、先住民(アメリカ・インディアン)、イギリス人、オランダ人の代理戦争が始まった。
 マサチューセッツ湾植民地とプリマス植民地のイギリス人入植者が、その地域に入ろうとするオランダ人を追い出そうとしていたので、土地の奪い合いが起こっていた。イギリス人入植者の流入はピクォート族にとっても脅威だった。また、ピクォート族のサッサクス(Sassacus)酋長はピクォート族とモヒガン族(Mohegan)を支配していたが、次第に両者は敵対し、ピクォート族はニアンティックへ侵入するため南下し、彼らの領域をコネチカット川にまで拡大していった。ピクォート族はナラガンセット湾とコネチカット川に追い詰められている事に気付き、ピルグリムとの関係は悪化していった。この地域のもう1つの同盟部族であるナラガンセット族とモヒガン族は元からピクォート族の敵であり、イギリス人の側に付いた。
 西暦1636年07月20日、交易業者のジョン・オルダムという1人の英国人入植者が殺害され船が捕獲された際、後に犯人は別の白人と言われたが、ピルグリムは「ピクォート族に殺害された。」と主張して犯人の引き渡しを要求した。サッサカス酋長は部族民による殺害を否定し、引き渡しには応じなかったため、入植者側はピクォート族の対応に納得せず、報復を決意した。先住民には裁判等により裁断する制度が無く、事件は当事者間の話し合いにより解決していたため、解決を第三者に委ねることになる容疑者の引き渡しは容認できなかった。犯人はナラガンセット族であった。西暦1634年に有名な密輸業者であり奴隷商人であったジョン・ストーンと彼の仲間7人が、数人の女性を誘拐しようとしたことと、ピクォート族の酋長タトベムをオランダ人が殺害したことへの報復として、西部ニアンティック族によって殺害されたことが端緒となった。ナラガンセット族の長老カノンチェットとミアントノモはジョン・オルダムの死に対して賠償を申し出たが、マサチューセッツ湾のヘンリー・ベイン知事はブロック島への遠征を命じた。ジョン・エンディコットによるピクォート族集落の襲撃の報復のため、西暦1636年冬〜1637年春にかけてピクォート族は、植民者の要塞セイブルック砦などへ攻撃を加え、西暦1637年04月、ピクォート族戦士によるウェザーズフィールドへの報復攻撃を生み、30人ほどのイギリス人入植者が殺された。さらにナラガンセット族にも同盟を呼びかけたが、ピルグリムはこの切り崩しに成功した。これがさらに報復を呼び、西暦1637年07月、ジョン・アンダーヒル大尉とジョン・メイソン大尉に率いられたピルグリム90人と、それに協力する数百人のモヒガン族とナラガンセット族とが、現在のミスティック近くにあったピクォート族の村を襲撃した。村は一方的に破壊され、村にいた600人以上(400〜700人とも)のピクォート族が虐殺された。その多くが女性や子供など非戦闘員だった。プリマス植民地は実際の戦闘にほとんど関わらなかった。生き残ったピクォート族は2つに分かれて逃げた。これはピクォート戦争と呼ばれ、ニューイングランドで発生した最初のインディアン戦争(民族浄化)となった。
 ピクォート族はロングアイランドへ逃げた一団と、サッサカス酋長たちの一団に二分された。サッサカス酋長たちの一団は、ニューヘブン近くやコネチカットのフェアフィールド近くで捕まり、白人たちに殺害されたり、ニューイングランド周辺やバミューダ諸島に奴隷として売られたり、またイギリス人に協力した部族に報酬として与えられた。奴隷とされ生き残った数名以外は殺された。サッサカス酋長(指導者ではない)自身も逃亡したものの、モホーク族に捕えられて殺害され、彼に導かれたピクォート族は事実上根絶やしにされた。その後、ピクォート族の土地はモヒガン族に全て占領された。ワンパノアグ族のマサソイト酋長はピルグリムとの友情関係から、中立を保っていた。
 ピクォート戦争に続いて、ニューイングランドの4つの植民地、マサチューセッツ湾植民地、コネチカット植民地、ニューヘイブン植民地およびプリマス植民地が、ニューイングランド植民地連合と呼ばれる防衛盟約を結成した。エドワード・ウィンスローは、その外交力で知られていたが、植民地連合の主唱者となった。エドワード・ウィンスローがライデンに居たときのネーデルラント連邦共和国で積んだ経験が同盟を作るために使われた。植民地連合は連合規約の前身で、連合規約はアメリカ合衆国全体を統括する政府の最初の試みだった。

 マサソイトには5人の子供がいたが、西暦1661年に亡くなると、ワンパノアグ族の新酋長(部族の調停役)は長男ワムスッタ(Wamsutta、ワムサダ)に、次いで次男メタコメット(Metacomet、メタコム)に受け継がれた。先住民(アメリカ・インディアン)の酋長を「王」か「部族長」と無知にも思い込んでいたピルグリムに、西暦1656年に「アレキサンダー王」と「フィリップ王」の仇名を付けられた。ワムスッタ酋長の未亡人ウィータムは、メタコメットの同盟者であるポカセット族であり、彼の生涯の友人であった。メタコメットはウィータムの妹ウトネカヌスクと結婚した。
 ピルグリムは入植地を拡大して行こうとしていたので、ワムスッタは父マサソイトが白人と築いた同盟を維持するのは微妙な状態に置かれていた。ワムスッタは先住民文化の基本である、合議の話し合いの中で、「白人がかつて父との間で結んだ条約は不平等条約であり異議がある。」とイギリス植民地政府に申し出た。先住民から見れば、マサソイトが結んだ「条約」は、あくまでマサソイトと白人の個人的な取り決めである。また先住民に「土地を売り買いしたり譲渡する。」という文化は存在しなかったので、そもそも彼らは「条約」を理解していなかった。そしてイギリス人は植民地問題を解決するため、西暦1662年プリマスのイギリス植民地政府はワムスッタをプリマス入植地に呼び出した。白人は「大酋長のワムスッタと盟約すれば、ワンパノアグ族全員がこれに従うだろう。」と考えた。ワムスッタはピルグリムが父との間で結んだ条約を破って入植地を拡げ、ワンパノアグ族を追い出していることに対してプリマス植民地政府に抗議した。ワムスッタはプリマス植民地での間に病気になり、村に帰る途中に謎の死(毒殺)を遂げた。ワンパノアグ族は「白人がワムスッタを毒殺した。」と主張し激しく怒った。
 酋長ワムスッタの死で弟で24歳のメタコメット(メタコム)がワンパノアグ族の酋長(世話役)の座を承継し、一族の優れた調停者となった。酋長は、「部族長」ではないし、「戦争指導者」でもない。白人にとって戦争には司令官が必要なものであり、メタコメット酋長は正にその「司令官」たる「大酋長」に見えた。しかしメタコメットは合議制の中の世話役に過ぎず、部族が合議で白人との交戦を決めたからこれに従い、合議に逆らう行いを白人がしたから、部族員は合議の結果、侵略者の白人に対して戦いを挑んだのであって、メタコメット個人がこれを率いたわけではない。しかし、白人はメタコメット酋長を「首謀者」だと誤解し、これを酋長の仇名を取って「フィリップ王戦争」と名付けた。
 戦争の原因はイギリス人入植者が増え続け、土地の要求も増えていったことだった。先住民からの「土地購入」が増えるにつれて、先住民は狭い領土内に制限されることになった。メタコメット酋長の様な先住民の調停者達は、土地が失われていくことに不満を抱き、それを遅らせるかあるいは取り戻すかする方法を探していた。ピルグリムとの関係はさらに悪化して行った。メタコメット酋長も兄ワムスッタと同様に調停者として最大の努力を払い、ピルグリムとの友好関係を続けていくことに苦心していた。特に関心が向けられたのは、スワンシーの町の建設であり、そこはワンパノアグ族の首都(大集落)マウントホープから数マイルしか離れていなかった。
プリマス植民地の議会が軍事力を使ってワンパノアグ族の土地を町の入植者に売却するよう強制し始めた。メタコメット酋長は入植者がワンパノアグ族の土地を奪い、生活の基盤である森や猟場を荒らしてはワンパノアグ族を大量虐殺し、女性や子供を奴隷として売り飛ばした。としてイギリス植民地政府に抗議した。しかし植民地側がワンパノアグ族の抗議を無視したため、しかし誇り高いワンパノアグ族とメタコメット酋長は、合議の結果、部族の土地を侵すピルグリムに対して、ついに宣戦布告の準備を始めた。
 紛争の引き金になったのは、西暦1675年のジョン・ササモンという「祈るインディアン」の死だった。
ジョン・ササモンはメタコメット酋長の助言者であり友人でもあったが、ジョン・ササモンは耶蘇教に改宗し、ハーバード大学のインディアン・カレッジで学んだワンパノアグ族で、2人は決別していた。西暦1675年06月25日にだジョン・ササモンが、プリマス植民地の総督ジョシア・ウィンスローに「ワンパノアグ族のメタコメット酋長が白人に対して戦争準備をしている。」と通報した。その後ジョン・ササモンは別部族の先住民に殺された。12名のイギリス人と6名の「祈るインディアン」の陪審員は殺人罪の先住民の被告を有罪とし死刑を宣告した。今日、メタコメットの部下が実際に殺人を犯したのかも疑念がある。ササモンの殺人で告発されたのは、メタコメット酋長の最も上位の副官の何人かだった。そもそも酋長(世話役)であるメタコメットに、「部下」など存在しない。先住民の社会では、同党の立場であって、「上司」や「部下」など命令系統は存在しない。全ては白人の思い込みで酋長が「告発」されたのである。
 ワンパノアグ族はマウントホープに近いその本拠で戦いの準備を始めており、イギリス人農園を襲ってその資産の掠奪を始めた。これに反応してマーシュフィールド出身のジョサイア・ウィンスロー知事は民兵隊を招集し、ワンパノアグ族の首都マウントホープに向けて進軍を始めた。西暦1675年06月、戦争が始まった。
 ニューイングランドの先住民(アメリカ・インディアン)部族はこれ以上白人の暴虐を許せなかった。メタコメット酋長らのワンパノアグ族は、同じアルゴンキン諸部族のニアンティック族(Niantic)、ペナクック族(Pennacook)、ノーセット族(Nauset)と同盟を結んでいて協力してプリマス植民地を攻撃した。攻撃されたプリマス植民地のピルグリムは、銃や剣や大砲や点火棒を振りかざし、アルゴンキン諸部族と敵対していたモヒガン族とモホーク族などの部族を味方に付け全面戦争が勃発し、ワンパノアグ族を襲ってこれを虐殺した。この戦争で600人の白人入植者と4000人以上の先住民(アメリカ・インディアン)が死んだ。先住民側はニプマック族やナラガンセット族も参戦。プリマス入植地総督のジョシア・ウィンスローはナラガンセット族の婦女子を大虐殺し、怨みを買っていた。ワンパノアグ族は、身代金を取るために武装していない女性や子供を攻撃した。そのような攻撃の1つで、メアリー・ローランドソンを捕まえ、その小さな子供達を殺した。
捕虜になったメアリー・ローランドソンの備忘録が当時の先住民(アメリカ・インディアン)の文化について伝えている。
 戦争は西暦1675年の残りと翌年までシチュエート村、ダートマス村などで続いた。戦争はマサチューセッツ植民地とコネチカット植民地を引き込んでのニューイングランド全域に及んだ。先住民は52の町を襲撃し、12の町を壊滅させた。西暦1676年に入ると、ニューイングランド植民地連合軍は、植民地で採用された民兵(ミニットマン(minute man、「招集されたらライフルを持って1分で駆けつける男」の意))を活用し反撃した。
 イギリス人は先住民を会戦に持ち込もうとしたが、先住民がこれを避けてゲリラ戦の形態を採ったので、イギリス人は常に面食らうばかりだった。ベンジャミン・チャーチ大尉は友好的な先住民の協力を求める動きを続けており、メタコメット達のやり方であるとしても先住民との戦い方を学ぼうとしていたが、どの先住民も潜在的な敵と考え信用しないプリマス植民地の指導者達にそのやり方を拒絶されていた。最終的に、ウィンスロー知事とプリマス植民地の軍事指導者ウィリアム・ブラッドフォード少佐(故人となったウィリアム・ブラッドフォード知事の息子)が折れて、ベンジャミン・チャーチ大尉にイギリス人と先住民の連合軍を作る許可を与えた。ベンジャミン・チャーチ大尉はサコネットとの同盟を結び、共同軍で大きな戦いを避けまくっていたメタコメット酋長の追跡を始めた。メタコメット酋長たちは、現在のマサチューセッツ州南部の広大なアッソワンプセット湿地に避難した。
 西暦1676年の07月中、ベンジャミン・チャーチ大尉の部隊は何百もの先住民を、大きな戦闘もなく捕まえたが、メタコメット酋長は逃れ続けた。ベンジャミン・チャーチ大尉はイギリス側に付くことに同意した先住民捕虜に恩赦を与える許可を得たので、その部隊は大きく脹れ上がった。ナラガンセット族のカノンチェット酋長(白人は指導者と見ていた)が04月03日に逮捕され処刑された。白人に対して叛旗を翻し戦いを挑んだワンパノアグ族では3ヶ月後の08月12日にメタコメット酋長はダートマス村(現在のロードアイランド州ブリストル)のホープ山近くのミエリー湿地で、ポカセット族のジョン・アルダーマンに射殺された。メタコメット酋長を含むほとんどのワンパノアグ族は虐殺され、160人が降伏し降伏者は後に奴隷に売られた。
 死んだメタコメット酋長の遺体は白人達により八つ裂きにされ、メタコメット酋長の首は切断され頭蓋骨は槍の先に突き刺されて、ピルグリムのプリムス村(現マサチューセッツ州プリマス)の門標に見せしめとして24年間晒された。彼の身体は4等分に切断され、木に吊るされ、狩猟戦利品としてメタコメット酋長の右手が村議員に与えられた。そして捕虜となったメタコメット酋長の妻ウトネカヌスクと8歳の息子を始めとする先住民(アメリカ・インディアン)達は奴隷としてバミューダ諸島に奴隷として売り飛ばされ、病気や過酷な労働の中で死んだ。
 先住民に「司令官」はいないという、彼らの文化は侵略者には理解できなかった。侵略者はただメタコメット酋長を「戦争を始めた首謀者」と一方的に見做し、理不尽な辱めをこれに与えて勝利を祝った。

 この戦争で600人の白人侵略入植者と4000人以上の先住民が犠牲となり死んだ。イギリス人成人男性人口の8%が死んだと見積もられている。しかし先住民に与えた影響はもっと大きかった。多くの者が殺され、逃亡し、奴隷として他所に売られたので、ニューイングランドの先住民人口は60〜80%は減ってしまった。西暦1620年には約5000人と推定されるワンパノアグ族の人口は、フィリップ王戦争の後には約400人にまで激減した。
 侵略者の移住で、先住民(アメリカ・インディアン)の人口は激減した。最初はウェサガセットでの「スタンディッシュの襲撃」であり、これが先住民達を恐怖させ、多くはその集落を捨てて飢餓と疫病で多くの者の死という結果になった。次はピクォート戦争であり、その結果はピクォート族の壊滅と地域の力関係の変化ということになった。3番目はフィリップ王戦争であり、ニューイングランド南部の先住民総人口の80%が死亡または逃亡という形になり、地域の人口構成に劇的な変化を及ぼした。多くの先住民がカリブ海や他の地域にプランテーション用の奴隷として売り飛ばされた。


侵入してきたピルグリム・ファーザーズを可哀そうに思ったワンパノアグ族のマサソイト酋長は「全てを共有する。」という先住民(アメリカ・インディアン)の文化に従って、ワンパノアグ族はピルグリム・ファーザーズに惜しみなく食糧を与え、農耕や漁撈、狩猟やトウモロコシを始めとする農作物の栽培方法を教え、ピルグリム・ファーザーズを飢えから救い、生き延びさせた。ところが、この耶蘇教清教徒分離派の狂信者(カルト)は、先住民(アメリカ・インディアン)やワンパノアグ族やマサソイト酋長に感謝するのでは無く、神YWHWに感謝した。
ワンパノアグ族の土地を奪い、生活の基盤である森や猟場を荒らしてはワンパノアグ族を大量虐殺し、女性や子供を奴隷として売り飛ばし、騙し討ちで大量虐殺、民族浄化、強制移住を行った。
命の恩人のマサソイト酋長を騙し、マサソイト酋長の長男ワムスッタは毒殺し、次男メタコメットの遺体を八つ裂きにし、首を切断し頭蓋骨を槍の先に突き刺し、ピルグリムのプリムス村の門標に見せしめとして24年間晒した。彼の身体を4等分に切断し、木に吊るし、狩猟戦利品として右手をピルグリムに与えた。メタコメット酋長の妻ウトネカヌスクと8歳の息子を始めとする先住民(アメリカ・インディアン)達は奴隷としてバミューダ諸島に奴隷として売り飛ばし、病気や過酷な労働の中で殺した。理不尽な辱めを与えて勝利を祝った。

その後400年にわたって、人間とは言えない鬼畜米英の、恩知らずで悪虐残忍、野蛮で破廉恥な蛮行は変わらず続いている。


終わりなき戦争国家アメリカ―インディアン戦争から「対テロ」戦争へ - 土井 淑平
終わりなき戦争国家アメリカ―インディアン戦争から「対テロ」戦争へ - 土井 淑平

 イングランドから来た清教徒たちの手によってショーマット半島に築かれたマサチューセッツ湾植民地は、西暦1620年にプリマス植民地(現在のマサチューセッツ州ブリストル郡、プリマス郡、バーンスタブル郡)を建設した入植者(ピルグリム)とは異なる宗派である。現在のボストンはオリバー・クロムウェルの擡頭から王党派であるアンソニー・アービー一族の地盤だった。ウィリアム・ブラクストン(William Blaxton)は、西暦1623年に失敗したフェルディナンド・ゴージス卿(Sir Ferdinando Gorges)のアメリカ遠征隊に参加したが上陸することはなかった。フェルディナンド・ゴージス卿は西暦1622年にメイン州設立に尽力したことで、新世界に足を踏み入れていないのも拘わらず、「北米における英国植民地の父」という。ウィリアム・ブラクストンは、最終的に西暦1623年後半にその後のフェルディナンド・ゴージス卿の次男のロバート・ゴージュ(Robert Gorges)の遠征隊に従軍牧師としてキャサリン号に乗って到着した。 この遠征隊は現在のボストンから8マイル南にあるウェイマスに上陸した。西暦1625年までにウェイマス植民地は崩壊し、ウィリアム・ブラクストン以外はイングランドに戻った。ウィリアム・ ブラクストンは残り、四方を干潟に囲まれた湿地帯の地峡の端にある1平方マイルの岩の隆起まで北に8マイル移動した。 こうしてブラクストンは、後にボストンとなる場所に定住した最初の入植者となった。 彼はショーマット半島の西端(現在のビーコンヒルの麓ダウンタウンにある中央公園)に住んでおり、5年以上完全に孤独であった。
 西暦1629年、アイザック・ジョンソンは食糧不足のためセイラムを離れ、近くのチャールズタウンに清教徒とともに上陸した。ウィリアム・ブラクストンとアイザック・ジョンソンはケンブリッジ大学のエマニュエル・カレッジの同窓生で、 チャールズタウンの岩だらけの高地には、簡単に掘削できる井戸がなく、困っているのを見てウィリアム・ブラクストンは、西暦1630年09月にアイザック・ジョンソンと清教徒のグループに宛てて優れた天然泉を宣伝し、自分の土地に呼び寄せた。 西暦1630年09月07日に、この半島の入植地はブラクストンによって「ショーマット」として知られ、ウィリアム・ブラクストンが呼び寄せた清教徒入植者には「トリマウンテン」として知られていたが、アイザック・ジョンソンは、妻アーベラ(アーベラ川の名前の由来)とジョン・コットン(コットン・マザーの祖父)とともにニューイングランドに移住した故郷、町の守護聖人である聖ボトルフに由来するリンカンシャー州ボストンの名をこの入植地に付けた。 ジョン・コットンはリンカンシャー州ボストンの教会でアイザック・ジョンソンとともに移住するまで牧師を勤めていた。
 会衆派(Congregational)のボストン教会はその教会員にのみ自由民の資格を与えて、宗教上の目的を優先する神政政治を実施した。クエーカー教徒などの宗教的反体制派を処刑し始めたため、急速にその考え方が急進的原理主義的になっていた。
 ケンブリッジ大学ペンブルック・カレッジ出身の牧師ロジャー・ウィリアムズは、西暦1631年に移住し、イギリス国教会から分離をしようとしない会衆派を批判した。さらにロジャー・ウィリアムズは、植民地が先住民(アメリカ・インディアン)から土地を購入していない点に疑問を呈したことで追放され、ロジャー・ウィリアムズはボストンの南のプロヴィデンスに移住し、猶太教まで含めた信仰の自由を実現するロードアイランド植民地の建設の構想を抱き、西暦1644年に本国政府から特許状を取得した。西暦1634年に移住してきたアン・ハッチンソンは、会衆派の教義の核心を突く批判をした。彼女はカルヴァンの予定説を極端に推し進め、全能の神のみが人の救いを決定し、人間の地上での行いは神の救いに全く関係がないと主張し、この批判はマサチューセッツ植民地の統治を根本から揺るがすほどの危険を孕んでいたため、指導者らは1637年にハッチンソンを総会に召集し審問、追放した。クエーカー教徒に対する弾圧も厳しく行われた。クエーカーは、「内なる光」を通じて神と交信し導きを受けるという信仰であったが、全能の神にひたむきに従おうとする清教徒の教義とは相容れなかった。クエーカー教徒は西暦1650年代にボストンに上陸しようとしたが、ただちに植民地外に追放され、西暦1658〜1661年までの3年間には4人のクエーカー教徒が絞首刑に処せられた。
 アイザック・ジョンソンの死後、聖公会(英国国教会)のウィリアム・ブラクストンは、会衆派のボストン教会の清教徒指導者らと折り合いが悪くなり、西暦1635年、ウィリアム・ブラクストンはボストンの南約35マイル(56km)、当時先住民(アメリカ・インディアン)がポータケット川と呼んでいた川(今日ではロードアイランド州カンバーランドのブラックストーン川として知られている。 )沿岸に移動した。彼はその地域初の白人入植者で、ロジャー・ウィリアムズがプロビデンス植民地を設立する1年前に到着した。ウィリアム・ブラクストンが定住した地域は西暦1691年まではプリマス植民地の一部であったが、西暦1741年まではマサチューセッツ湾植民地の管轄下となった。 最終的にはロードアイランド植民地とプロビデンス植民地の一部となった。 彼は牛の世話をし、庭に造り、リンゴ園を耕し、アメリカ産リンゴの最初の品種である「イエロー スウィーティング」を栽培した。 彼は自宅を「スタディ・ヒル」と呼び、当時の植民地で最大の図書館と言われていた。ウィリアム・ブラクストンの友人には、ナラガンセット族のミアントノミとキャノンチェット、ワンパノアグ族のマサソイトとメタコメットが含まれていたがが、西暦1675年頃、フィリップ王戦争中に彼の図書館と家は焼失した。
 ロジャー・ウィリアムズとウィリアム・ブラクストンブラクストンは多くの神​​学的問題に同意しなかったが、彼らは生涯の友人のままであった。ロジャー・ウィリアムズは頻繁に彼をプロビデンス植民地で説教するよう招待し、ロードアイランド州の他の教会でも説教した。
 西暦1684年に本国が植民地の特許状を取り消し閉鎖してしまった。西暦1691年10月07日に「プリマス植民地をメイン植民地などと共にマサチューセッツ湾植民地に付属する。」という公式宣言がなされ、マサチューセッツ湾岸県が設立された。この宣言は翌年05月14日に有効になった。

 植民が拡大するとともに先住民(アメリカ・インディアン)との抗争も拡大した。植民政府は軍を派遣し、周辺の先住民部族を徹底虐殺した。彼らの侵略に対し、ことに激しく抵抗して見せたのはモホーク族をはじめとするイロコイ族だった。軍の司令官だった後の初代大統領ジョージ・ワシントンは、イロコイ族絶滅作戦を指揮し、「彼らを徹底的に根絶やしにするように。」と指令した。ジョージ・ワシントンは兵たちに、殺した先住民(アメリカ・インディアン)の皮を剥ぎとらせ、軍装の飾りにさせた。
 イロコイ族やワンパノアグ族、ポウハタン族など、ニューイングランドの先住民連合部族は、集落1つ1つを徹底的に破壊し虐殺するジョージ・ワシントンの焦土作戦のためにその数を急速に減らしていった。彼ら先住民(アメリカ・インディアン)は白人たちから見れば狼と同種のけだものだった。ジョージ・ワシントンは彼らについて、「インディアンも狼も生贄となるべきけだものだ。」と述べた。白人たちはバッファローの周りをうろつく狼たちを「怠け者の狼ども(loafer wolves)」と呼んだが、植民地の砦の周りをうろつくインディアンのことも「怠け者のインディアン(loafer Indians)」と呼んでいた。

 西暦1628年のマサチューセッツ湾植民地開設から約10年後、マサチューセッツ議会は狩猟に関する植民地法を公布したが、それはこのような文言だった。「特に用もない場合、またはインディアンか狼を相手にする場合以外は、いかなる狩りの場であっても銃を撃つことを禁止する。」
 フィリップ王戦争先住民(アメリカ・インディアン)連合による「叛乱」は、白人たちの圧倒的勝利によって終わり、徹底的な植民地における民族浄化は先住民(アメリカ・インディアン)の数を激減させた。しかし白人たちの先住民(アメリカ・インディアン)駆除方針はなお止まなかった。植民地の周辺に生活する先住民(アメリカ・インディアン)たちを、根こそぎ滅ぼそうとしたのである。ジョージ・ワシントンの軍や入植白人たちは、植民に邪魔なインディアンと狼の皆殺しを徹底して進めた。「フィリップ王戦争」で白人に味方した先住民(アメリカ・インディアン)部族も、戦争が終われば入植の敵だった。侵略者たちは彼らもその虐殺の対象とした。
 入植白人たちは、毒入りの肉や、天然痘に感染した先住民(アメリカ・インディアン)の毛布を狼に与えた。猟犬を放って、狼や先住民(アメリカ・インディアン)の子供を攫って来させ、殺した。先住民(アメリカ・インディアン)に対する民族浄化は、清教徒指導者たちによって後押しされた。ニューイングランドの支配層の1人で、ピューリタンの主教だったコットン・マザーは、先住民(アメリカ・インディアン)を狼に例えて次のように述べている。「道で狼たちの貪欲な遠吠えを聞いたら、そいつらを力強く追いかけて、奴らを皆殺しにするまで帰ってくるべきではない。奴らを風の前のちっぽけな埃としてぶちのめすべきだ。」
 猟犬はインディアン民族の駆除に最も有効とされた。西暦1703年には、植民地の宗教指導者ソロモン・ストッダードが、マサチューセッツ知事に対して正式に、「インディアンを追跡する際に、入植民たちが弱腰にならないように。」と、猟犬の一群の購入予算を議会に提案している。この際、ソロモン・ストッダードはこう付け加えている。「犬は、インディアンに対する最大の脅威だ。犬は多くの敵を処刑し、大勢の足の早いインディアンたちを捕まえてくれるだろう。」続いてソロモン・スタッダードはニューイングランドの宗教界代表としてこう発言した。「インディアンが人間だとするなら、このような方法で彼らを追跡するのは残酷に見られるかもしれない。しかし、実際のところ、インディアンは狼だ。それに、やつらは狼として取り扱われることになっている。」
 先住民(アメリカ・インディアン)と狼の絶滅は、入植政府、ニューイングランドのキリスト教教会を含む、マサチューセッツ湾植民地の第一目標だった。

 ボストンには、今も昔も侵略のための人材育成と研究の機関、ハーバード大学がある。アメリカ最古の高等教育機関であるが、いつの時点で発足したのかは明確になっていない。西暦1636年09月18日に招集されたマサチューセッツ湾植民地の議会で「学校またはカレッジ」新設のために資金支出が議決され、創立年と見做されている。西暦1639年、清教徒派の牧師ジョン・ハーバードが遺贈したマサチューセッツ湾植民地の年間予算よ同額の財産と蔵書をもとにカレッジとしての活動が本格的に稼働し始めたため、この名がある。この隣に黒人奴隷市場が出来て、奴隷商人で財を成した子孫が悪魔の32代アメリカ合衆国大統領フランクリン・デラノ・ルーズベルト(FDR)である。ジョン・ピアポント・モルガン(John Pierpont Morgan)に猶太と鬼畜の陳列棚、ディープステイトの悪魔の跳梁跋扈する魔窟である。

 イギリス人は先住民(アメリカ・インディアン)を奴隷として使うことも、彼らと共存していくこともせず、滅亡させようと決意した。しかし、トウモロコシや綿花のプランテーションには労働力が必要で、反抗的な先住民(アメリカ・インディアン)と違い、故郷の土地からも文化からも切り離され、無気力状態になった黒人に頼るようになった。法律で黒人に読み書きを教えることさえ禁じ、無知蒙昧な状態にして、彼らを思いのままに支配しようとした。

アメリカン・フロンティアの原風景―西部劇・先住民・奴隷制・科学・宗教 - 高野 一良
アメリカン・フロンティアの原風景―西部劇・先住民・奴隷制・科学・宗教 - 高野 一良

 「刑事コロンボ」と同姓で、日本では姓をラテン語表記で英語化した、「クリストファー・コロンブス」と呼ばれる、侵略者にして虐殺者、クリストバル・コロン(西語: Cristóbal Colón、伊語: Cristoforo Colombo、英語: Christopher Columbus)は、スペイン王室の援助を得て日本の黄金を奪取するため、西暦1492年10月12日、アメリカ大陸の一角、カリブ海に浮かぶバハマ諸島の、先住民ルカヤン族が暮らすグアナハニ島(Guanahani)に到着した。クリストバル・コロンは島上陸後にスペイン語で「聖なる救世主」の意味で「サン・サルバドル島」と命名した。クリストバル・コロンはこの島で掠奪を働き、次に10月27日、クバナカン島(現在のキューバ島)に到達し掠奪し、スペイン王国の王族に因んで「フアナ島」と名付け、12月06日にはアラワク族(タイノ族)がアイティ(Haiti)、ボイオ(Bohio)、キスケージャ(Quesquiya)と呼ぶ島をイスパニョーラ島と名付けに到達し掠奪した。クリストバル・コロンは西暦1493年には17隻1500人で第2回掠奪航海に出た。西暦1495年03月、コロンブスは数百人の装甲兵と騎兵隊、そして訓練された軍用犬からなる一大軍団を組織し、スペイン人の持ち込んだ疫病に倒れた先住民アラクワ族の村々を徹底的に攻撃し、数千人単位の虐殺を指揮した。 あらゆる部族の子供以外の先住民が、3ヶ月以内に一定量の黄金を差し出すよう脅迫された。金を届けた先住民(アメリカ・インディアン)には、「スペイン人に敬意を表した。」という証しとして、その男女に首かけの標章が贈られた。金の量が足りなかった者は、男だろうと女だろうと手首が斬り落とされた。 先住民は逃げて、飢饉はさらに悪化した。スペイン人が運び込んだ疫病は、栄養失調となった先住民たちの弱められた身体をより激しく蝕んだ。そしてクリストバル・コロンと同じく、スペイン軍は面白半分に男を殺し女を犯す楽しみを決して止めなかった。 クリストバル・コロンは捕虜にして縛り首にするか、火炙りにした。彼の子孫はスペイン王室よりベラグア公爵とラ・ベガ公に叙され、現在までスペイン貴族の公爵家として続いている。
 イスパニョーラ島には25万人の先住民がいたが、西暦17世紀には1人もいなくなった。こうして南北アメリカ大陸での鬼畜欧州人の侵略と歴史が始まった。それは先住民の大量虐殺と奴隷貿易が始まった。

 奴隷貿易は西暦15世紀半ばからポルトガルが始め、オランダ、スペイン、イギリス、フランスが加わった。奴隷船はヨーロッパの各港から大西洋を南下してアフリカに向かい、西アフリカの奴隷貿易拠点で奴隷を購入して船に積み込み、大西洋を渡って南北アメリカの各地に上陸し、ここで奴隷が砂糖やコーヒー、綿花などと交換され、各地のプランテーションに送られ、この植民地産物はヨーロッパ本国に持ち帰られる。ここで莫大な利益を得たのがヨーロッパの奴隷商人たちで、その金が産業革命を支える資本の原始的蓄積となった。
 
 大航海時代のアフリカの黒人諸王国は相互に部族闘争を繰り返しており、奴隷狩りで得た他部族の黒人を売却する形でポルトガルとの通商に対応した。ポルトガル人はこの購入奴隷をカリブ諸島(西インド諸島)に運び、カリブ海全域で展開しつつあった砂糖生産のためのプランテーションに必要な労働力として売却した。奴隷を集めてヨーロッパの業者に売ったのは、現地の権力者である黒人やアラブ人商人である。初期の奴隷貿易は、ヨーロッパ人商人、冒険家、航海者などが、自己の利益のために自己負担で行った私的なもので、小規模なものであった。その後、中南米地域の植民地化に伴う先住民(インディオ)人口の激減、植民地のヨーロッパ系人口がなかなか増えないこと、熱帯地域において伝染病によるヨーロッパ系移民の死者が多発していたことなどで、労働者が不足するようになっていた。また、ヨーロッパ産の家畜は植民地で数が増えにくく、農耕の補助に家畜が使えなかった。こうした理由により、当時の理論では熱帯性の気候に慣れて伝染病にも強いと考えられた黒人が労働力として注目されるようになり、奴隷取引は次第に拡大していく事になった。しかし、奴隷狩りから奴隷貿易への転換は、中南米植民地の開発よりもずっと早い西暦1450年代に起こり、カシェウ(ポルトガル領ギニア(西暦1588〜1974年)、現ギニアビサウ共和国(西暦1974年〜))、ゴレ島(現セネガル共和国(西暦1960年〜))、聖アンデレ島(ジェームズ島、現クンタ・キンテ島)(現ガンビア共和国(西暦1965年〜))、ウィダー(現ベナン共和国(西暦1990年〜)のギニア湾に面する奴隷海岸)、サントメ(現コンゴ共和国(西暦1960年〜))などの地元勢力が、戦争捕虜や現地の制度下にある奴隷現をポルトガル商人に売却するようになった。西暦1480年代にはエルミナ城(黄金海岸)が建設され、ポルトガルとスペインで独占的な奴隷貿易会社ギニア会社が設立されるにいたった(勅許会社)。
 この時代、カリブ海地域のスペイン領向けとして、ポルトガルの独占下で奴隷を売ってもらえないイギリスの冒険商人による奴隷狩りが散発的に行われ、中でもジョン・ホーキンスとフランシス・ドレークの航海は有名だが、白人による奴隷狩りはごく稀だった。その後、奴隷貿易の主導権がオランダ、フランス、イギリスなどに移り変わっても、特許会社が現地に要塞/商館/収容所兼用の拠点を置き、現地勢力が集めた奴隷を買い取って収容し、それをさらに船に売り渡すという形式のみとなる。そして時代が下るにつれて、ウィダー王国(西暦1580頃〜1727年)、ダホメ王国(西暦1600〜1900年)、セネガンビアなど西アフリカ地域の黒人王国は、奴隷貿易で潤うようになった。売られた人々は元々、奴隷、戦争捕虜、属国からの貢物となった人々、債務奴隷、犯罪者などだったが、コンゴなどでは、ヨーロッパ人に売却する奴隷狩りを目的とする遠征も頻繁に行われた。西暦16世紀には、ナイジェリア(ラゴス)などでも奴隷をポルトガル商人に売却するようになった。黒人の非人間的な扱いは、すでにアフリカで始まっていた。捕らえられた黒人は鎖に繋がれて海岸まで歩かされ、その距離は時に1000マイル(約1600q)にもなった。こうした「死の行進」の間に、40%の黒人が命を落とした。何とか海岸に辿り着いても、売られるまで檻に閉じ込められた。
 英領アメリカ植民地では西暦1619年に最初の黒人奴隷の記録がある。オランダ船「ホワイトライオン」がメキシコへ向かうスペイン船と交戦し50〜60人の奴隷化された黒人を奪取した。このスペイン船は江戸時代初期に仙台藩で建造されたガレオン船である。仙台からスペイン(イスパニア)やローマへ赴いたルイス・ソテロ、支倉常長ら慶長遣欧使節の渡航の中で、太平洋の横断に使用された。慶長遣欧使節から買い取ったサン・ファン・バウティスタ号(西語: San Juan Bautista)であり、マニラで在英大使に譲渡された後に大使の親戚のマヌエル・メンデス・デ・アキューナに渡り、ルアンダから350人の奴隷を調達し輸送する途上だったと言われる。ホワイトライオンは交戦で損傷しており、さらに晩夏の大きな嵐によってその程度がひどくなった状態でヴァージニアのジェームズタウン(50km離れたハンプトン説も)に到着した。ヴァージニア植民地は後に「大移住」と呼ばれる時期の最中にあり、住民は450人から4000人にまで増えていたが、疫病、栄養失調、先住民との戦いによって極端に死亡率が高く、働ける労働者の比率は低かった。ホワイトライオンは修理と補給物資を必要としており、植民地人は労働力を必要としていたので、奴隷20人と食糧や用役とが交換された。この20人が北米大陸へ最初に上陸した黒人奴隷と認識されている。
 黒人たちは当初から、奴隷にされることに抵抗し、仕事を怠けたり逃亡したりした。しかし逃亡が見つかると、奴隷たちは火で焼かれ、手足を切られて死刑にされた。一方で、白人の入植者たちが黒人奴隷の集団的な叛乱を酷く恐れていた。
 西暦18世紀になると、イギリスのリヴァプールやフランスのボルドーから積み出された銃器その他をアフリカに齎し、原住民と交換し、さらにこうして得た黒人をカリブ諸島(西インド諸島)に売却し、砂糖などをヨーロッパに持ち帰る三角貿易が発展した。また、アフリカでは綿布の需要が多いことにイギリスの資本家が目をつけ、マンチェスターで綿工業を起こした。イギリス産業革命の基盤である綿工業は、奴隷貿易が呼び水となって開始されたことが注目に価する。バークレー銀行の設立資金やジェームズ・ワットの蒸気機関の発明に融資された資金は奴隷貿易によって蓄積された資本である。

 いよいよ奴隷船に乗せられると、暗い船倉でまたもや互いに鎖で繋がれた。1人分は棺桶ほどの広さしかなかった。不衛生な船倉にぎゅうぎゅう詰めにされ、窒息死する者、苦しみのあまり海へ身を投げる者まで出た。航海中に3分の1が死亡した。それでも奴隷貿易は儲かるため、奴隷商人は黒人たちを魚のように船に詰め込んだ。
 約3世紀に及ぶ奴隷貿易で大西洋を渡ったアフリカ原住民は1500万人以上と一般には言われているが、約1200万人と考えられている。なお、奴隷狩りに伴う戦闘や移動させられる途中の落伍などで生じたであろう、奴隷がヨーロッパの特許会社の収容所に集められるまでの犠牲者の数については、正確な記録が無いため全くわからないが、様々な推定から「輸出」された人数の少なくとも半分(0.5倍)〜5倍程度に達するとの見積もられている。

 アメリカ独立戦争が起こる100年前の西暦1676年、ヴァージニア植民地で怒れる貧しい入植者たちが特権的な植民地政府に対して叛乱を起こし(ベイコンの叛乱)、首都ジェームズタウンに火が放たれた。ヴァージニア総督ウィリアム・バークリー卿は町から逃げ出し、イギリスは4万人の入植者を統制するために軍隊を送った。武装した叛乱軍に加わったのは、西部開拓の最前線に送り込まれた白人の辺境民と、奉公人、白人の年季奉公人(イギリスで職を失い、5〜7年間、主人のためにアメリカで働いて渡航費用を返済する)と黒人奴隷だった。彼らは「植民地総督を怠慢で無能と糾弾し、法律と税金は不公平で厳しすぎる。」と訴えた。
 西暦18世紀になると、アメリカは農業、造船業、貿易が発達し、大都市の人口は2倍、3倍と拡大した。少数の富める者たちは、北アメリカ大陸にイギリスとそっくり同じ階級社会を実現しようと考えた。彼らが最も恐れたのは、黒人奴隷と貧困白人(プア・ホワイト)が結束して第2のベイコンの叛乱を起こすことだった。そこで白人と黒人が手を組むのを阻止する手段の1つとして、人種差別主義を使った。つまり、人種差別は黒人と白人の肌の色の違いから齎される「自然な感情」ではなく、分断支配をおこなうための意図的な政策だった。叛乱前のヴァージニアでは、黒人奴隷は稀であった。これはその費用が高く、アフリカから黒人奴隷を連れてくる貿易業者がいなかったためであった。多くの黒人は年季奉公として連れて来られ、年季が明けたあとは自由の身になった。ヨーロッパからの年季奉公者は叛乱後もヴァージニアでその役割を続けたが、アフリカからの奴隷輸入の動きが急速に高まり、新しい法律が制定されて奴隷は終生のものとなり、その子供にも及ぶようになった。アフリカ人を最下層とする人種に基づく階級性が作られ、ヨーロッパからの最貧の年季奉公者でもその上の階級となった。このことはベイコンの叛乱の間に存在した貧乏なイギリス人と黒人に共通の利益が失われたことを意味した。

 さらなる植民地領土を奪い合って、西暦1754年頃からオハイオ川の上流の流域を含めたオハイオ領土(現在のペンシルベニア州西部)では、グレートブリテン王国(イギリス王国)とフランス王国の対立が顕著になった。ヌーベルフランスはオハイオに一連の砦を築き始め、グレートブリテン王国の進出を阻止する構えを見せた。ヴァージニア植民地政府の命を受けたジョージ・ワシントンは西暦1754年春から夏にかけて、ヴァージニアの民兵を指揮しデュケイン砦を占領しようとしたが、優勢なフランス軍に敗れた。七年戦争(西暦1754/1756〜1763年)の発端は、ヌーベルフランスと、ヴァージニア植民地からノバスコシアに至るまでのイギリス人入植地との境界を舞台に繰り広げられフレンチ・インディアン戦争(西暦1754〜1763年)であり、アレゲニー川と、モノンガヘラ川が合流する場所(現在のペンシルベニア州ピッツバーグ)で起きた紛争だった。この紛争は西暦1754年05月28日、ジョージ・ワシントン率いるヴァージニア植民地民兵隊と同盟軍であるミンゴ族の兵が、ジョゼフ・クーロン・ド・ヴィリエ・ド・ジュモンヴィユ率いるヌーベルフランスの巡回民兵を待ち伏せして起こした、ジュモンヴィルグレンの戦いである。いずれも、本国からの援助を得て戦闘が行われた。西暦1756年、この戦争は北アメリカの地域紛争から世界的な戦争、七年戦争(西暦1754/1756〜1763年)に発展した。英仏両陣営はそれぞれイロコイ連邦を始めとする先住民(アメリカ・インディアン)部族と同盟を組み、彼らに代理戦争をさせた。どちらが勝っても先住民(アメリカ・インディアン)にとってすれば、また彼らの領土が白人に強奪される結果となった。

 ヴァージニア植民地で黒人奴隷の輸入が増え、奴隷人口が目立って増加し始めたのは西暦1680年代からであった。西暦1720年には黒人奴隷の数は総人口6万6000人のうち1万3000人を占めるようになった。ヴァージニア植民地において労働力の供給源を白人の年季契約奉公人から黒人奴隷に切り替えたのは、ベイコンの叛乱がきっかけであり、「奴隷労働に依存するほうが社会的安定が保たれる。」と考えたからである。奴隷人口の増加が顕著になってくると、各植民地では奴隷に関する法規が整備され、法的にも確立した制度となった。ヴァージニア植民地では西暦1657年に黒人の年季奉公人に関しては「年季の追加をもってしても損害の賠償は不可能。」と定められたが、これは西暦1740年代から慣習となっていたものを確認したものであった。また西暦1661年に、黒人女性の生んだ子供の身分は父親の身分にかかわらず奴隷の身分を受け継ぐことが明文化され、西暦1667年には「奴隷が洗礼を受けても自由身分となることはできない。」と定められた。その後次々に奴隷に関する法規が作られ、西暦1705年には包括的な奴隷法が制定された。この法律はそれまでの慣習を集大成したもので、既にヴァージニア植民地における奴隷制に確固としたものになっていた。奴隷に関する法規は奴隷の身分を規定するだけでなく、奴隷を管理することを目的とするようになった。西暦1723年には労働や礼拝以外の目的のための奴隷の集会を禁止し、逃亡を重罪とし、暴動を謀議したものを死罪と定めた。
 王領植民地となって以降、大幅な自治が任され、ヴァージニア植民地では比較的平和な時代が続くようになった。煙草の生産は飛躍的に増大し、船が遡れる川に沿った土地には次々とプランテーションが築かれた。
 ヴァージニア植民地では黒人奴隷がプランテーションの労働力として使用されたが、西暦18世紀を通じて白人農民も増大し、黒人奴隷が人口の過半数を占めることはなかった。広大な後背地を持っていたヴァージニア植民地はタイドウォーター地域の西のピートモンド地域が発展し、植民地時代末期には北アメリカ大陸の植民地で最も多くの人口を持つ植民地となった。白人人口で比較しても、最大であった。タイドウォーター地域にも多数の中小農民がおり、西部には多くの白人農民が進出し、主として小麦を生産した。煙草は海外市場での価格変動が著しかったため、プランテーションでは作物を多様化して穀物生産に重点を置くようになった。その結果、小麦および小麦粉は、煙草に次ぐ第2の輸出商品となった。
 北アメリカ大陸で最大の人口を誇ったヴァージニア植民地は、独立直前の西暦1770年になっても、都市らしい都市を持たない植民地であった。ヴァージニア植民地政府が置かれていたジェームズタウンでは、マラリアなどの疫病が頻繁に発生した。そのため西暦1699年、植民地政府はジェームズタウン近郊の街ウィリアムズバーグに移転した。植民地政府が置かれたウィリアムズバーグは人口2000人程度の街であり、ヴァージニア植民地最大の貿易都市ノーフォークでも人口は6000人程度であった。ヴァージニア植民地は湾と川が多い地形で、物資を運ぶ船が集中する都市ができにくかった。そのため植民地の産物を海外の市場に運んで売却する商人階級を生み出さなかった。ノーフォークに住んでいたのは、スコットランドから移住したスコットランド商人の代理人たちであった。

悪鬼「アメリカ建国の父たち」の真顔 その1

 アメリカ合衆国独立宣言またはアメリカ合衆国憲法に署名した政治的指導者、あるいは愛国者達の指導者としてアメリカ独立戦争に関わった徒輩で、アメリカ合衆国憲法制定会議に出席した55人の代議員をアメリカ合衆国建国の父(ファウンディング・ファーザーズ、Founding Fathers of the United States)と呼ぶ。55人の当然全てが独立革命に関わり、少なくとも29人は大陸軍に従軍し、ほとんどが指揮官の職にあった。35人が弁護士で、13人が商人、 6人は規模の大きい土地投機家、11人は大規模に証券投資家、12人は奴隷労働によるプランテーションあるいは大規模農場の所有者または経営者で、大統領になったのは初代ジョージ・ワシントン、67没)、2代ジョン・アダムズ(John Adams、90没)、3代トーマス・ジェファーソン(Thomas Jefferson、83没)、4代ジェームズ・マディソン・ジュニア(James Madison, Jr.)であった。この初代から4代の大統領の中で、大農園主でも黒人奴隷を持たなかった者は、2代大統領ジョン・アダムズだけである。

 初代大統領ジョージ・ワシントンの高祖父、牧師ローレンス・ワシントン(Lawrence Washington)は3男3女の子を儲け、男子3人はイングランドのサルグレイブからアメリカのヴァージニア植民地に移住した。長男ジョン・ワシントン(John Washington、ジョージ・ワシントンの高祖父)は西暦1656年にアン・ポープと結婚し、アンの父から結婚祝いにノーザンネックのウェストモアランド郡マットクスクリークに700エーカー(2.8㎢)の土地を貰い、黒人奴隷や年季奉公による煙草や台所作物の作付けで裕福な農場主となった。ベイコンの叛乱に繋がる事件の間、ヴァージニアの民兵大佐に任命された。ヴァージニア総督ウィリアム・バークリー卿は更なる攻撃を避け、事態を沈静化させるために事情の調査を命じた。敵対者やインディアンの酋長との和平交渉中にメリーランド入植者を支援する一団を率いた。民兵は、様々な部族の6人の先住民の酋長を殺害した鬼畜である(ワシントンの虐殺)。先住民たちは虐殺に対し、入植者達を後に襲撃して報復しベイコンの叛乱が起こった。ジョン・ワシントンとアン・ポープの長男がローレンス・ワシントン(Lawrence Washington、ジョージ・ワシントンの祖父)で2人の弟妹がいた。父方の祖父ローレンス・ワシントンに因んで命名され、イギリスに留学し、オーガスティン・ワーナー・ジュニアの娘ミルドレッド・ゲイルと結婚した。次男オーガスティン・ワシントン(Augustine Washington、ジョージ・ワシントンの父)は、4歳の時に父が死亡しウェストモアランド郡ブリッジウクリークの1000エーカー(4.0㎢)の土地と奴隷を相続した。 父から640エーカー(2.6㎢)の土地を相続していた孤児ジェーン・バトラーと結婚した。煙草栽培、奴隷労働の差配、監督に加えて、地方政治、郡保安官を務めた。妻ジェーンとは4人の子供をなしたが2人だけが成長し、ジェーンの死後、孤児のメアリー・ボール(Mary Ball)と結婚した。ジョージ・ワシントンは、英領ヴァージニア植民地ウェストモアランド郡コロニアル・ビーチ南部に位置するポープズクリーク・プランテーションで、オーガスティン・ワシントンとメアリー・ボール・ワシントン(Mary Ball Washington)は6人の成長できた5人の子供の長男として生まれた。軍人、政治家の鬼畜の誕生日はユリウス暦1731年(当時イギリスでは03月25日が年初日とされていたため)02月11日、(グレゴリオ暦1732年02月22日)となっている。当時のイギリスおよび後にアメリカ合衆国として独立する地域ではユリウス暦を採用していたが、グレゴリオ暦の方が有名である。

 後の西暦1828年、当時13歳の少年だったアーサー・マッカーサー・シニアは母親が再婚した継父の家族に連れられスコットランドからアメリカに移民した。その長男の侵略虐殺拷問の猟犬アーサー・マッカーサー・ジュニアは、南北戦争後一旦は除隊し、法律の勉強をしたが長続きせず兇暴な軍人に戻り、先住民(アメリカ・インディアン)、フィリピンの先住民族を絶滅させた。フィリピン駐留アメリカ軍司令官となり、実質的なフィリピンの植民地総督となり、フィリピン人の生き血を啜り利権を貪った鬼畜である。 その三男慾惚け卑劣で無能虚栄嘘吐きの恥さらしダグラス・マッカーサーは、フィリピン人フィリピン人と日本人の生き血を啜り利権を貪った鬼畜で、日本の国花の桜を詐話とはいえ伐ったことになっている、ジョージ・ワシントンの誕生日の昭和21(1946)年02月22日に、国際法違反の占領軍憲法(マッカーサー日本国憲法)の草案を賣國奴でマッカーサーの犬、幣原喜重郎首相を脅迫して閣議決定を強要した。

慾惚け卑劣で無能虚栄嘘吐きの恥さらし、ディープステイトの木偶人形、ダグラス・マッカーサー その1(フィリピン敵前逃亡まで)
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アメリカ人の物語4 建国の父 ジョージ・ワシントン(上) (アメリカ人の物語 第 4巻) - 秀和, 西川
アメリカ人の物語4 建国の父 ジョージ・ワシントン(上) (アメリカ人の物語 第 4巻) - 秀和, 西川

 ワシントンの一家は、黒人奴隷プランテーションを経営し、後には鉱山開発も手掛けた。ワシントン家はヴァ―ジニアでの指導層とまでは行かず、中流の郷紳であった。父のオーガスティンはジョージ・ワシントンが11歳の時に死に、14歳年長の異母兄の長兄ローレンスが父親代わりを務めた。
 「子供の時桜の木を切ったことを父親に正直に話したら、かえって褒められた。」という詐話(ワシントンの斧 - George Washington's axe)は 、ジョージ・ワシントンの死後、メーソン・ロック・ウィームズ著の子供向けの「逸話で綴るワシントンの生涯」の中で第5版からいきなり現れる。「嘘をついてはいけない。」という教訓と売り上げ増進のためにメーソン・ロック・ウィームズが捏造したと考えらる。メーソン・ロック・ウィームズの毛歴が詐称で、ジョージ・ワシントンが子供の頃、西暦1745年前後にはアメリカ大陸に桜の木はなかった。
 ローレンスの義父ウィリアム・フェアファックスもワシントンの人格形成に影響を与えた。ローレンスが父の遺産の大半を相続し、その農園をマウントバーノンと名付けた。ジョージはフェリー農園を相続し、ウィリアム&メアリー大学で測量を学び、ブルーリッジ山脈の西側の土地の測量から、新しく作られたカルピーパ郡の測量士として初めて公的な役職に就いた。西暦1752年02月04日にヴァージニアのフレデリックスバーグ・ロッジNo.4でフリーメイソンに加わった。同年07月に兄ローレンスが死去し、最初、ローレンスのマウントバーノンの農園を借り、最終的には相続した。ローレンスはヴァージニアの民兵隊長を務めており、その死後は4つの地区に分け、ジョージはその1つを継承し地区隊長、少佐となった。
 西暦1754年05月28日、ジョージ・ワシントン率いるヴァージニア植民地民兵隊と同盟軍であるミンゴ族の兵が、ジョゼフ・クーロン・ド・ヴィリエ・ド・ジュモンヴィユ率いるヌーベルフランスの巡回民兵を待ち伏せして暗殺した(ジュモンヴィルグレンの戦い)。西暦1756年、この戦争は北アメリカの地域紛争から世界的な戦争、七年戦争(西暦1754/1756〜1763年)に発展した。英仏両陣営はそれぞれイロコイ連邦を始めとする先住民(アメリカ・インディアン)部族と同盟を組み、彼らに代理戦争をさせた。どちらが勝っても先住民(アメリカ・インディアン)にとってすれば、また彼らの領土が白人に強奪される結果となった。ワシントンの部隊はフランス軍に降伏し、降伏の条件にはジュモンビルグレンの戦いで「フランスの斥候と指揮官を暗殺した。」という項目が含まれていた。
 西暦1759年01月06日にジョージ・ワシントンはニューケント郡パマンキー川の南岸にあるホワイトハウス・プランテーションの裕福な未亡人、マーサ・ダンドリッジ・カスティスと結婚した。ジョージ・ワシントンは裕福な未亡人マーサと結婚してその資産を増し、社会的地位を上げた。結婚した時にマーサの資産18000エーカー(73㎢)からその3分の1にあたる土地を取得し、マウントバーノンに移動し、妻のマーサも多数の奴隷を所有しており、ジョージ・ワシントンは上流階級の農園主で政治的な関わりを持つ貴族的な生活を送った。マーサの以前の夫、ダニエル・パーク・カスティスとの間にできた継子ジョン・パーク・カスティスとマーサ・パーク・カスティスの2人をジャッキーとパチィと呼び育てた。 ワシントン夫妻には子供ができなかった。ジョージ・ワシントンは天然痘に罹ったことがあり、無精子症と考えられる。西暦1775年までにマウントバーノンは2倍の6500エーカー(26㎢)となり、黒人奴隷を100人以上所有した。その後約8000エーカー(32㎢)にまで買い増した。
 ジョージ・ワシントンは西暦1769年に高まった植民地の反抗で指導的な役割を担った。この時友人のジョージ・メイソンが起草した提案書で、タウンゼンド諸法が撤廃されるまではイギリス製品の不買運動をヴァージニア植民地に呼びかけ、西暦1774年の耐え難き諸法の成立を「我々の権利と主権に対する侵害」と見做した。07月、ジョージ・ワシントンは会議を主宰し、大陸会議の招集を求めるフェアファックス決議を採択した。08月、ヴァージニアの最初の会議に出席し、第1次大陸会議(ジョージア植民地を除く北米12植民地代表の集会)の代議員に選ばれ、西暦1776年、トマス・ペインの「コモン・センス」を読むまで彼は植民地の独立を支持しなかった。西暦1775年04月19日の日の出とともにレキシントンで誰が撃ったか不明な銃弾でレキシントン・コンコードの戦いが始まり、アメリカ独立戦争(西暦1775〜1783年)となった。ジョージ・ワシントンは第2次大陸会議(北米13植民地代表の集会)に軍服姿で現れ、戦争に対する準備ができていることを示した。大陸会議は06月14日に大陸軍を創設し、06月15日にフィラデルフィアで行われた大陸会議においてワシントンは植民地軍総司令官に任命された。マサチューセッツの代表ジョン・アダムスはジョージ・ワシントンの任命を司令官に推薦し07月03日に司令官に就任した。
 西暦1779年、ジョージ・ワシントンはジョン・A・サリバン少将に、ニューイングランドのイロコイ族への攻撃命令を下した。ジョージ・ワシントンはこう命じた。「村落全てを破壊し、根絶やしにするように。同国を単に制圧するだけでなく、絶滅させるのだ。」この先住民(アメリカ・インディアン)に対する虐殺と絶滅の指令の際に、ワシントンは将軍にこう付け加えた。「彼らが根絶やしになる前に、なんでもいいから和平案があったら聞いておくように。」
 アメリカ独立戦争はフランス王国、スペイン王国の軍事的支援を受けたアメリカ軍の優勢で進んだ。またロシア帝国(西暦1721〜1917年)皇帝エカチェリーナ2世は他のヨーロッパ諸国に呼びかけ、武装中立同盟を結んだ。このために英国は外交的にも軍事的にも孤立した。ジョージ・ワシントンは、ハノーヴァー朝(西暦1714〜1901年)イギリス王国(グレートブリテン王国)軍と9回戦って3回しか勝利できなかった。西暦1783年03月、大陸会議が一群の大陸軍士官に給料の遅配分を払うよう脅されたが、彼らを散会させた。

この戦争によってイギリスの覇権は制限されたが、イギリスの世界戦略に影響を及ぼすことも無く、勢力は維持された。逆にフランスは、北米植民地戦争の借りを返すことに成功したが、国家財政は底を突き、困窮を極めた。

 この年、ジョージ・ワシントンは先住民(アメリカ・インディアン)を狼と比較して、嫌悪も露わにこう発言している。「姿こそ違えど、インディアンは狼と同様の猛獣である。(Indian’s and wolves are both beasts of prey, tho’ they differ in shape.)」、「インディアンも狼も生贄となるべきけだもの((beasts of prey)だ。」と述べた。彼ら先住民(アメリカ・インディアン)は白人たちから見れば狼と同種のけだものだった。ジョージ・ワシントンは彼らについて、白人たちはバッファローの周りをうろつく狼たちを「怠け者の狼ども(loafer wolves)」と呼んだが、植民地の砦の周りをうろつく政治的議論の中心課題になっのことも「怠け者のインディアン(loafer Indians)」と呼んでいた。ジョージ・ワシントンの軍や入植白人たちは、植民に邪魔なインディアンと狼の皆殺しを徹底して進めた。「フィリップ王戦争」で白人に味方した先住民(アメリカ・インディアン)部族も、戦争が終われば入植の敵だった。侵略者たちは彼らもその虐殺の対象とした。入植白人たちは、毒入りの肉や、天然痘に感染した先住民(アメリカ・インディアン)の毛布を狼に与えた。猟犬を放って、狼や先住民(アメリカ・インディアン)の子供を攫って来させ、殺した。先住民(アメリカ・インディアン)に対する民族浄化は、清教徒指導者たちによって後押しされた。ニューイングランドの支配層の1人で、ピューリタンの主教だったコットン・マザーは、先住民(アメリカ・インディアン)を狼に例えて次のように述べている。「道で狼たちの貪欲な遠吠えを聞いたら、そいつらを力強く追いかけて、奴らを皆殺しにするまで帰ってくるべきではない。奴らを風の前のちっぽけな埃としてぶちのめすべきだ。」
 ジョージ・ワシントンが軍を指揮していた間、先住民(アメリカ・インディアン)を絶滅させる方針は一貫していて、ジョージ・ワシントンの軍隊はブーツトップやレギンスを作るためにイロコイ族の尻の皮を剥いだ。初代大統領就任時にも、先住民(アメリカ・インディアン)民族に対しては絶滅政策を採った。ニューイングランド領の先住民(アメリカ・インディアン)部族に対しては皆殺しを命じた。 イロコイ族やワンパノアグ族、ポウハタン族など、ニューイングランドの先住民連合部族は、集落1つ1つを徹底的に破壊し虐殺するジョージ・ワシントンの焦土作戦のためにその数を急速に減らしていった。

 ジョージ・ワシントンによる虐殺を生き延びた先住民(アメリカ・インディアン)たちは、ジョージ・ワシントンを「町の破壊者 (Town Destroyer)」と呼んだ。エリー湖畔からモホーク川にかけて、30を数えたセネカ族の集落のうち、ジョージ・ワシントンの直接命令によって、ここまでの5年未満の間で28の町村が破壊し尽くされた。またこの中には、モホーク族、オノンダーガ族、カユーガ族の全ての町と集落が含まれていた。西暦1792年に、ワシントンについてイロコイ族の1人が次のような言葉を残している。「今では、ワシントンの名を聞いただけで、我々の女たちは後退りし、顔色が悪くなる。そして、我々の子供たちは母親の首にしがみつく。」
 ジョージ・ワシントンは黒人を奴隷として所有していたのと同様に、アメリカ先住民族であるインディアンを人間扱いしていなかった。後に、アメリカ合衆国による先住民(アメリカ・インディアン)民族に対する民族浄化について、「インディアンの諸国を相手とする、我々のやり方の基本は『正義』であったし、それはこれからもそうでなければならない。」と述べている。


 西暦1791年、議会は蒸留酒に酒税を課したが、これが特にペンシルベニア州の辺境での抗議を呼んだ。西暦1794年までにジョージ・ワシントンが抗議者は連邦裁判所に出頭するように命じたが、これで抗議はウィスキー税叛乱と呼ばれる全面的な暴動に変わった。知事達が軍隊を送りジョージ・ワシントンが指揮して叛乱地域に進軍した。 戦闘は行われなかったが、ジョージ・ワシントンの威嚇行動は連邦政府が強い軍事力を使って各州や市民にその権威を行使して恐喝する最初の機会になった。
 アレクサンダー・ハミルトン(Alexander Hamilton)とジョージ・ワシントンは仏米同盟条約を維持しながら、ジョン・ジェイ(John Jay)が交渉にあたり、西暦1794年11月19日にジェイ条約を調印された。トーマス・ジェファーソンジェファーソンの一派はフランスを支持し、この条約を攻撃した。しかし、ワシントンとハミルトンは大衆世論を動かして、ワシントンへの支持を強調することで上院での条約批准を取り付けた。イギリスは五大湖周辺の砦を明け渡すことに同意し、カナダとアメリカの国境を調整し、独立以前にあった多額の負債を帳消しにし、またイギリス領西インド諸島とアメリカの貿易を開放した。最も重要なことはこの条約でイギリスとの戦争を回避し、その代わりにイギリスとの貿易が盛んな10年間を齎したことであった。この条約はフランスを怒らせた。

ジョージ・ワシントンとアメリカ合衆国とは、ジョージ・ワシントン残虐で忘恩、人でなしの覇権鬼畜
ピルグリム・ファーザーズ(巡礼始祖)は、飢餓を救った命の恩人の先住民(アメリカ・インディアン)の土地を奪い、生活の基盤である森や猟場を荒らしては先住民族を大量虐殺し、女性や子供を奴隷として売り飛ばし、騙し討ちで大量虐殺、民族浄化、強制移住、絶滅を行った。
命の恩人のマサソイト酋長を騙し、マサソイト酋長の長男ワムスッタは毒殺し、次男メタコメットの遺体を八つ裂きにし、首を切断し頭蓋骨を槍の先に突き刺し、ピルグリムのプリムス村の門標に見せしめとして24年間晒した。彼の身体を4等分に切断し、木に吊るし、狩猟戦利品として右手をピルグリムに与えた。メタコメット酋長の妻ウトネカヌスクと8歳の息子を始めとする先住民(アメリカ・インディアン)達は奴隷としてバミューダ諸島に奴隷として売り飛ばし、病気や過酷な労働の中で殺した。理不尽な辱めを与えて勝利を祝った。

ファウンディング・ファーザーズ(アメリカ合衆国建国の父)は、フランス王国の援助や先住民(アメリカ・インディアン)動詞を戦わせ、アメリカ合衆国が成立したが、用済みのフランス国王ルイ16世は見捨て、先住民(アメリカ・インディアン)絶滅させ、ジョージ・ワシントンの軍隊はブーツトップやレギンスを作るためにイロコイ族の尻の皮を剥いだ。フランス革命後のフランス共和国とは仏米同盟がありながら、イギリスとジェイ条約を結び、数々の利権を得てイギリスと結びつき、貿易が拡大した。


 大奴隷所有者であり最大地主であるジョージ・ワシントンは、その人生を通して歯の問題に悩まされ続け、ジョージ・ワシントンは自身が所有する奴隷より歯を抜き、それで作られた数個の入れ歯を所有していた。

 大統領から引退し、マウントバーノン農園に戻り、蒸留所を建てコーンウィスキーとライウィスキーとフルーツブランディを生産した。西暦1799年12月12日、ワシントンは馬に乗って、雪と後には霰と凍えるような雨の中を数時間見回り、その夜は濡れた衣服を着替えもせずに食卓に座った。翌朝目覚めると悪寒と発熱があり、化膿性扁桃腺炎が急性の喉頭炎と肺炎に変わり容態が急変した。12月14日、連鎖球菌による喉の伝染病あるいは、瀉血による大量失血と脱水症の合併症で67歳で死んだ。

アメリカ人の物語5 建国の父 ジョージ・ワシントン(下) (アメリカ人の物語 第5巻) (アメリカ人の物語 第 5巻) - 秀和, 西川
アメリカ人の物語5 建国の父 ジョージ・ワシントン(下) (アメリカ人の物語 第5巻) (アメリカ人の物語 第 5巻) - 秀和, 西川


 2代大統領ジョン・アダムズは、3人兄弟の長男で、父ジョンは、西暦1638年頃にイングランドのブレイントリーからマサチューセッツに移住してきたヘンリー・アダムズの5世代目の子孫で農夫で、清教徒会衆派教会員で司祭、民兵隊では中尉、町では学校や道路を監督した町会議員だった。母スザンナ・ボイルストン・アダムズはブルックリンのボイルストン家の出だった、ジョン・アダムズはハーバード大学を卒業し、ウースターで数年間教師の職を務めながら、何度も熟考を重ねた末弁護士になった。3世代前からの従姉妹の会衆派教会牧師ウィリアム・スミスとエリザベス・クインシー・スミスの次女アビゲイル・スミスと結婚し、6人の子を儲けた。長男は6代大統領ジョン・クインジー・アダムズ(John Quincy Adams)。
 ジョン・アダムズは奴隷を購入したことが無いし、奴隷労働者を雇うことを原則的に拒否した。妻のアビゲイル・スミス・アダムズ(Abigail Smith Adams)は奴隷制に反対し、彼女の父が持っていた家内奴隷2人よりも解放された黒人を採用した。ジョン・アダムズは、マサチューセッツで奴隷を解放する法案、独立戦争で黒人兵士を使うことに反対し、その問題を国内政治の場から遠ざけておくようにした。妻のアビゲイル・スミス・アダムズは西暦1791年にフィラデルフィアで自由民の黒人の若者が、彼女の元を訪れて読み書きを教えてもらえるよう頼んだ。近隣からの反対が無かったわけではないが、彼女は彼を地元の夕方の学校に委ねた。アビゲイル・アダムズは「彼が他の若者と同じ自由民であるのに、単に肌色が違うというだけで教育が断られてしまうのか?どうすれば彼は生計を立てる資格を得るのか?…私は、彼を居間に連れて行き読み書きを教えることが恥ずかしいことだとは思ったことがありません。」と答えた。アビゲイル・アダムズとジョン・アダムズは、奴隷制がアメリカの民主主義の実権に対する悪と脅威であると考えていた。アビゲイル・アダムズは、女性の権利の向上を訴えた。
 ジョン・アダムズ大統領任期中の最大の功績は西暦1798年にフランスとの擬似戦争(Quasi-War、フランスとの宣戦布告なき戦争、海賊戦争、半戦争、西暦1798〜1800年)危機を平和的に解決したことである。フランス革命前のフランス王国はアメリカ独立戦争の時にアメリカ合衆国の主要な同盟国であったが、革命でできた新しいフランス第一共和政(西暦1792〜1804年)政府は、西暦1794年に米英間で合意されたジェイ条約を、西暦1778年に仏英の同盟条約に対する侵犯と見做した。アメリカ議会がフランス共和国の敵イギリス王国との貿易を認めたことは、フランスを怒らせた。またアメリカ側が、アメリカ独立戦争時の負債はフランス王国に対するものである。」として、フランス共和国政府に対する返済を停止したことは、フランス共和国の怒りの火に油を注ぐ形となった。フランス共和国は敵国のイギリス王国と貿易を行うアメリカ商船を捕まえ始めた。フランスの私掠船がアメリカの大西洋岸全体を実質上無抵抗で航行していたので、この敵対行為によってアメリカ船の保険料率は少なくとも500%上昇した。
 アメリカ政府はフランス船と戦える軍艦を持っていなかった。最後の艦船は西暦1785年に売却されていた。アメリカ合衆国にはささやかな密輸監視用カッターの船隊と放置された海岸の砦がいくつかあるだけだった。西暦1798年04月、ジョン・アダムズ大統領は議会にXYZ事件について報告した。これは、フランスの代理人らはアメリカの特使に対し、交渉開始の代償として25万ドルの賄賂と1200万ドルの借款の供与を暗に要求した。これに激怒した特使は要求を拒絶した。ジョン・アダムズ大統領は、3名の代理人をそれぞれ✕、Y、Zと仮称して、特使から受け取った書簡を連邦議会に提出し、フランスが行った賄賂の要求を暴露した。✕、Y、Zと呼ばれた3名の代理人は、ジャン・コンラッド・オッティンガー(Jean Conrad Hottinguer)、ピエール・ベラミー(Pierre Bellamy)、リュシアン・オーテヴァル(Lucien Hauteval)であったことが後に判明した。これにより、アメリカ国内の世論は一挙に硬化し、殊に連邦党はフランス共和国への敵意を露にした。事件を契機に海軍省の設置や治安取締法の制定が矢継ぎ早に行われ、革命フランス共和国の私掠船による掠奪行為の増加からアメリカ合衆国の拡大する通商を守る必要が生じ、アメリカ合衆国海軍が創設されることとなった。アメリカ合衆国議会は大統領が砲22門以下の軍艦12隻以下に限定して整備し、武装し要員を配置することを承認した。この法の条件に添って数隻の艦船が購入され軍艦に転換された。
 アメリカ独立宣言の採択から50周年の西暦1826年07月04日にクィンシーの自宅で死んだ。独立の時の仲間で、偉大な政敵、かつその後の友人で文通相手でもあったジェファーソンが死んだ正に同日の数時間後だった。

アメリカ黒人の歴史 新版 (岩波新書) - 本田 創造
アメリカ黒人の歴史 新版 (岩波新書) - 本田 創造


 ところで ルイ15世最愛王は死の直前、デュ・バリー夫人のために大小540個のダイヤモンドからなる非常に高価な160万リーブルの首飾りを宝石商シャルル・ベーマーとそのパートナーであるポール・バッサンジュに注文した。王の死後、王室御用達の宝石商シャルル・ベーマーはそれを完成させたが、落ちぶれたデュ・バリー夫人は代金を持ち合わせていなかった。宝石商シャルル・ベーマーはまずルイ16世の妻マリー・アントワネットにネックレスを売り込んだが、ルイ16世とマリー・アントワネットはデュ・バリー夫人のいわくつきの首飾りを拒否。西暦1785年01月、それを知ったヴァロア家の末裔を称する詐欺師、ラ・モット・ヴァロワ伯爵夫人ことジャンヌ・ド・ヴァロワ・サン・レミ(Jeanne de Valois-Saint-Rémy, comtesse de la Motte-Valois)は、ラ・モット伯爵夫人は、王妃マリー・アントワネットの親しい友人と吹聴して、宮廷司祭長の地位にあったルイ・ルネ・エドゥアール・ド・ロアン・ゲメネー(Louis René Édouard de Rohan)枢機卿にマリー・アントワネットの要望として、この首飾りの代理購入を持ちかけた。
 ラ・モット伯爵夫人は、前年の夏、娼婦マリー・ニコル・ルゲイ・デシニー(後に偽名「ニコル・ドリヴァ男爵夫人」を称する)を王妃の替え玉に仕立て、ルイ・ド・ロアン枢機卿と面会させ完全に信用させていた。ラ・モット伯爵夫人の巧みな嘘に騙されたルイ・ド・ロアンは、言われるがままに首飾りを代理購入し、ラ・モット伯爵夫人に首飾りを渡した。ルイ・ド・ロアンは、ストラスブールの名家出身の聖職者でありながら、大変な放蕩ぶりでも知られていたため、マリア・テレジアやマリー・アントワネットに嫌われていた。しかし、ルイ・ド・ロアンは諦めることなく、いつか王妃に取り入って宰相に出世することを望んでいた。
 しかし、首飾りの代金が支払われないことに業を煮やしたシャルル・ベーマーが王妃の側近でカンパン夫人こと、アンリエット・カンパンに面会して問い質した事により事件が発覚した。同年08月、ルイ・ド・ロアンとラ・モット伯爵夫人、ニコル・ドリヴァ男爵夫人が逮捕された。ラ・モット伯爵夫人はこの時、ルイ・ド・ロアンと懇意であったが事件とは無関係とされる医師(詐欺師)カリオストロ伯爵を事件の首謀者として告発し、カリオストロ伯爵夫妻も逮捕された。なおラ・モット伯マルク・アントワーヌ・ニコラ(Marc Antoine-Nicolas de la Motte)はロンドンに逃亡して逮捕されなかった。この「ダイヤモンドの首飾り事件」に激昂したマリー・アントワネットは、パリ高等法院(最高司法機関)に裁判を持ちこみ、西暦1786年05月に判決が下され、ルイ・ド・ロアン、カリオストロ伯爵夫妻、ニコル・ドリヴァ男爵夫人ともに無罪となり、王妃と愛人(レズビアン)関係にあると噂されたラ・モット伯爵夫人だけが有罪となった(実際は個人的に会ったことはなかった)。彼女は「V」(「Voleuse」で泥棒の意)の文字を両肩に焼印されて投獄され終身刑だったが、脱獄してフランス革命期の西暦1791年にロンドンで転落死。
 この裁判によりマリー・アントワネットはラ・モット伯爵夫人と愛人関係にあるという事実無根の噂が広まった。首飾りはラ・モット伯爵夫人の夫、ラ・モット伯マルク・アントワーヌ・ニコラが解体した上に詐欺師仲間に分配、それぞれが売却した為に消失した。ラ・モット伯爵夫人は後にこの虚偽の醜聞をもとに本を回想録として出版し収入を得ている。
 愚かな国民は詐欺師のラ・モット伯爵夫人やルイ・ド・ロアン枢機卿に同情し、マリー・アントワネットはその詐欺事件に巻き込まれた被害者だが、評判はガタ落ちになり、贅の極みを尽くす王政に、国民の怒りの矛先が向かうきっかけになった。
 
 一方で学者のローヌ男爵アンヌ・ロベール・ジャック・テュルゴー(Anne-Robert-Jacques Turgot, Baron de Laune)や銀行家ジャック・ネッケルなど、経済に詳しい者を登用して改革を推進しようとした。また西暦1780年には拷問の廃止を王令で布告するなど、人権思想にも理解を示している。西暦1783年には名士会の開催と三部会招集の布告を行なった。少なくともルイ16世は政治に積極的に関わり、フランスの変革に努力を注いでいた。しかし、「高等法院なしに国王はない。」とのモールパ伯ジャン・フレデリック・フェリポーの進言により、ルイ15世最愛王の大法官ルネ・ニコラ・シャルル・オーギュスタン・ド・モプーが廃止した高等法院を西暦1774年に復活させた。このことにより常にその抵抗に遭い、改革は妥協を強いられ抜本的な変革には至らず、また財政の決定的な建て直しには及ばなかった。保守派貴族は国王の改革案を悉く潰し、結局改革は挫折したばかりか、結果的にその咎は後年のフランス革命で国王一族に向けられた。

ルイ13世正義王の代にリシュリュー枢機卿が三部会を閉鎖し、ルイ14世太陽王の代にマザラン枢機卿が高等法院から権力を剥奪し、「立法」と「司法」を王権に集中し絶対王政を確立した。ところが、ルイ15世最愛王の摂政の独裁をオルレアン公フィリップ2世が狙い、協力を取り付けるために高等法院に譲歩し「司法」を復活した。しかし、ルイ15世最愛王の末期には大法官モプーが高等法院を廃止し.ルイ16世は、「司法」、「立法」の封印を破って、高等法院、三部会を復活してしまった。

フランスは5分の1の領土を持つ最大領主が国王で、その国王の周囲の宮廷貴族や坊主は国王に次ぐ大領主であり、減免税特権の最大の受益者であった。財政支出の中から宮廷貴族の有力者は、巨額の国家資金を様々な名目で手に入れた。国家財政の破綻で、権力を握る国王・貴族・教会は自分の減免税特権を温存し、ブルジョワジーと呼ばれる新興商工業者や金融業者の国民各層に対して負担を押し付けた。権力を握らないと破滅の焦燥感と危機感を駆り立て叛乱による革命、断頭台への道に繋がる殺戮のフランス革命の惨劇を引き起こした。

ディープステイトとは、王侯貴族と宗教勢力に猶太が中核になる金融と産業が癒着し超富裕層が結託し人類のしはいと統制で富を貪ろうとする支配階級である。


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2023年08月13日

よくある取り違え JL350事件とJL123事件 皇紀2683年版

 JL123事件は、安倍晋三暗殺事件と並び、明治維新から令和の日本政府とアメリカの影が見え隠れする歴史的闇の重大事件。

 JL123事件に関して当ブログでは主力としては扱っていない。


 何の利益供与もないが、ほとんどJL123事件専門で今も毎週新しい情報を発信している下記のユーチューブ↓ 推奨。

「ワタナベケンタロウ」

 当ブログで触れているのは、日本航空の欠番便名という点では同じだが、

41年前の昭和57(1982)年02月09日に羽田沖に墜落した、日本航空福岡発東京行350便(JL350)事件であり、

JL350事件.jpg片桐清二.jpg

片桐機長日航機殺人事件から28年 「機長、何するんです!やめてください!」
2010年02月09日
http://cnxss.seesaa.net/article/140688715.html

38年前の昭和60(1985)年08月12日に高天原山(御巣鷹山と誤称)に墜落した、日本航空東京発伊丹行123便(JL123)事件ではない。



 毎年、命日の08月12日が近づくと、取り違えが頻出する。

合掌



 個人的に、JL350事件〜JL123事件の時期は、有為転変の疾風怒濤の時代で、しかも両事件とも関りがないわけではない。両事件ともに関心をもったのもこういう謂れがある。

 JL350事件の時は、東京都世田谷区深沢で、真っ暗な未明から朝のバイトをやっていた昭和57(1982)年02月09日。朝から、やたらにパトカーや救急車がサイレンを鳴らしながら走り抜けていたのを覚えている。JL350事件については、上の記事で述べている。

 JL123事件については、実は個人的にJL350事件より関りが深い。制御不能になった昭和60(1985)年08月12日18時47分(飛行記録より)のJL123の機体を青梅で目撃している。この10分後に高天原山の尾根に激突した。青梅と言っても東端の小作で、福生の横田基地は1林挟んですぐ近くで、畑の中の4階くらいで周りはよく見通せた。

 休日以外は激務で睡眠時間2〜4時間の毎日で。仕事を辞めようかと悩んでいた。社員食堂での夕食を終え、夜の勤務の前に糞暑いが、1人で屋上のベンチで休憩するのが毎日の日課だった。しかし、暑い最中の盛夏の黄昏、しかもお盆休みの直前に屋上に上る酔狂な者はまずいない。横田基地では爆撃機がタッチアンドゴーを繰り返すので、夜でも米軍機は珍しくない。横田空域といって民間機の飛行が禁止されている。そんなところを民間機が轟音をたて、暮れていく赤黒い夕焼けの中を、北西の方に旋回して消えて行った。おかしいなとは思った。よく言われる監視の2機のJ隊F4Jファントムは横田基地周辺で軍用機は珍しくないので、見たかもしれないが覚えていない。社員食堂に降りてテレビで墜落したJL123だと知り、再び屋上に駆け上がったが、とっぷり暮れていて真っ暗になっていた。

 原因はそれ以前の尻もち事故、その時の修理がいい加減で圧力隔壁が破損したためというのが公式見解だが、垂直尾翼が壊れ、油圧系統が寸断され制御不能になったようだ。最近では、ユーチューブで「ワタナベケンタロウ」で検索すると、アクセス稼ぎの商売人がやたらに出てくる。中曾根政権・J隊の陰謀、トロンの開発実働部隊が全滅したためアメリカの陰謀、模擬ミサイル説。氷説、40〜50人の生存者がいたのに翌朝まで救出活動は阻止されたので火炎放射器で焼き殺されたとか、‥。100本近くは見たが、煽情的に取り上げて、情報を曲解し利得を得ようとするものが多い。確定的なことはわからないが、当ブログの見解ではない。

 それなりに調べたが、いい加減な情報で謎と闇が深く、わからないだらけで、当ブログでは取り上げていない。当ブログでは、英雄視されているJ隊上がりの高濱雅己(49)機長の不可解な操縦と航跡に疑いをもつ。ボイスレコーダー、フライトレコーダーは隠蔽され非公開部分があり、改竄されているらしいが、相模湾でも駿河湾でも富士樹海でも横田基地、狭山丘陵、青梅の畑と不時着地点はいくらでもあった。なんで群馬の高山地帯に突っ込んだのか。機内の生殺与奪の権限を持つから機長であり、道連れ自殺といって良い。管制塔とのやりとりでもでも国内線なのに、英語で、管制官が日本語で良いと言っているのに、属国警察予備隊根性か、その後も英語とか、母国語を使わないので状況が伝わらず、不必要な疑念を生じさせている。日陰者の使えないJ隊がこの事件の遠因であると思う。ボイスレコーダーの完全公開とか、新事実が白日の下に出てくるまで、当ブログではJFK暗殺事件同様封印する。

高濱雅己(49).jpg高濱雅己(49)機長

 昭和11(1936)年01月.02日生。宮崎県延岡市出身、京都市内の高校を中退後、海上J隊第1期航空学生として入隊。母親を小学生の時に亡くし、父親も蒸発するなど家庭環境は複雑で、自衛隊に入隊後は姉弟とも音信不通。姉弟達は123便墜落のニュースを見て長い間音信不通だった彼の死を知ったと言う。
 富士航空、日本国内航空(いずれも東亜国内航空の前身)を経て、昭和41(1966)年12月01日、日本航空入社。昭和56(1981)年03月、ジャンボ機の操縦教官を兼任。パイロット歴は通算26年。運航部門指導教官。当時千葉県在住。

 言葉の粗暴さや副操縦士に対して叱責・罵倒する場面もあり、非難の声もある。九州出身と言う事もあり、独特の「訛り」があったため、公表されたコックピットボイスレコーダーは誤った解読がされている部分があるのではないかと言う指摘がある。

定期運送用操縦士技能証明書 第1125号 昭和44年07月04日取得
 限定事項 ボーイング式747型 昭和50年07月01日取得
  陸上単発・陸上多発・YS-11・B-727・DC-8
副操縦士に左席で操縦を行わせ得る機長の認定 昭和52年06月16日取得
第1種航空身体検査証明書 第12810242号 有効期限 昭和61年01月18日

総飛行時間 12423時間41分
同型式機飛行時間 4842時間22分



1985日航ジャンボ機の御巣鷹山墜落事故事件考
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/ainugakuin/zikenzikoco/kokuzikoco/osutakayamazikenco/top.html

日航123便 あの日の記憶 天空の星たちへ - 青山透子
日航123便 あの日の記憶 天空の星たちへ - 青山透子

日航123便 墜落の新事実 目撃証言から真相に迫る (河出文庫) - 青山透子
日航123便 墜落の新事実 目撃証言から真相に迫る (河出文庫) - 青山透子

日航123便墜落 遺物は真相を語る - 青山透子
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日航123便墜落 圧力隔壁説をくつがえす - 青山透子
日航123便墜落 圧力隔壁説をくつがえす - 青山透子
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2023年08月09日

人間ではない鬼畜米英、無辜の民間人を廣島17万人、長崎7万5人を大虐殺して反省の欠片もない78年目の小倉の代打、長崎 その犬、岸田文雄(66)

長崎原爆投下から78年 台風で式典縮小、首相参列せず
https://www.sankei.com/article/20230809-3OZ24O3K2BOC3OLMHNMZEMWNZU/
バイデンの犬岸田文雄-2.jpg星条旗犬.jpg
長崎は9日、米軍の原爆投下から78年の「原爆の日」となった。台風6号の九州接近に伴い、長崎市主催の「長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」は、例年の平和公園から、60年ぶりに屋内に変更し営まれた。岸田文雄首相や各国駐日大使の参列は見送られた。
会議場「出島メッセ長崎」での式典には、就任後初となる鈴木史朗市長や市議、「平和への誓い」を読み上げる被爆者代表の熊本県原爆被害者団体協議会理事、工藤武子さん(85)=熊本市=らが出席し、午前11時2分に黙禱。市長は7月に発表した平和宣言の骨子で、先進7カ国(G7)の核抑止を前提とした考えを批判し、核兵器廃絶への道を進むよう求めるとしていた。
首相が式典に参列しなかったのは平成11年以来。6日時点で、過去最多だった昨年の実績を超える85カ国・地域が出席を表明していた。ウクライナ侵攻を受け、ロシアとベラルーシは招待しなかった。

増税岸田文雄(65).jpg

 人間ではない鬼畜米英、無辜の民間人を廣島14万人、長崎7万5人を大虐殺して反省の欠片もない78年目の廣島。人倫と国際法違反の日本全土への爆撃も加えると、45万人の無辜の民間人を大虐殺した。

ハンムラピ法典により、最低でも2回核兵器を使用できる。


ロバート・オッペンハイマー ――愚者としての科学者 (ちくま学芸文庫) - 藤永茂
ロバート・オッペンハイマー ――愚者としての科学者 (ちくま学芸文庫) - 藤永茂

ラエリエン・シンボル.jpg アシュケナジーム猶太、アルベルト・アインシュタイン(Albert Einstein、76没)が、小児麻痺の悪魔フランクリン・デラノ・ルーズベルト(Franklin Delano Roosevelt、63没)に原爆の開発を唆し、原爆開発の犬のアシュケナジーム猶太、J・ロバート・オッペンハイマー(J. Robert Oppenheimer、52没)は、妻のキティ、実弟のフランク、フランクの妻のジャッキー、およびオッペンハイマーの大学時代の恋人ジーン(Jean Tatlock)らがアメリカ共産党員で、オッペンハイマーもシンパ。ロシアに原爆の技術を教えた。

USA核爆撃旗.jpg
強烈な人種差別痴呆バイデン、料理人殺人事件で見える全世界暗殺指令のオバマなど、

反省と謝罪なき廣島訪問に意味があるのか?

東京生まれ東京育ちの岸田文雄(66)はG7を長崎を無視して選挙区の廣島で開催した。
今年こそG7外しの謝罪のため長崎に行かねばならない。それを異例の欠席!!


昭和19(1944)年08月02日
 イギリス委任統治領パレスチナにヘブライ大学を建設しようとしたアシュケナージム猶太、アルベルト・アインシュタイン(76没)が悪魔フランクリン・デラノ・ルーズベルト(63没)に「大量のウランが核分裂連鎖反応を起こす現象は新型爆弾の製造につながるかもしれない。飛行機で運ぶには重過ぎるので船で運んで港湾ごと爆破することになる。アメリカで連鎖反応を研究している物理学者グループからなる諮問機関を作るのが良い。」と進言する内容の手紙(アインシュタインーシラードの手紙)を書き、原爆開発を唆した。

09月18日
 ルーズベルトとチャーチルは、ニューヨーク州ハイドパークで米英首脳会談を行った。内容は核に関する秘密協定(ハイドパーク協定)であり、原爆が完成すれば、日本人への原子爆弾投下の明確な殺意が示され、原爆開発に関する米英の協力と将来の核管理についての合意がなされた。


原爆投下候補地
昭和20(1945)年04月27日
 東京、川崎、横浜、名古屋、京都、大阪、神戸、廣島、呉、下関、山口、八幡、小倉、福岡、熊本、長崎、佐世保
05月11日
 京都、廣島、横浜、小倉
05月28日
 京都、廣島、新潟
06月14日
 小倉、廣島、新潟
07月03日
 小倉、廣島、新潟、京都
07月21日
 小倉、廣島、新潟
07月24日
 小倉、廣島、新潟、長崎
07月25日
 廣島、小倉、新潟、長崎

07月30日
 フィリピン海で、橋本以行海軍中佐が指揮する日本海軍の伊号第五八潜水艦の魚雷によって撃沈。


08月02日
 廣島、小倉、長崎

08月06日
 廣島
 第509混成群団司令部から作戦命令35号
 01時45分に、アメリカ陸軍航空軍第509混成部隊第393爆撃戦隊所属B-29の中で原爆投下用の改造(シルバープレート形態)が施された15機の内の1機、「エノラ・ゲイ」(ビクターナンバー82、機体番号44-86292号機)が、マリアナ諸島テニアン島北飛行場(ハゴイ飛行場)A滑走路の端から離陸した。「エノラ・ゲイ」は8回の訓練の後、神戸・名古屋へのパンプキン爆弾を使用した爆撃を行った。07月31日には、テニアン沖にて、原爆投下の訓練を行い、「模擬リトルボーイ」を投下していた。 ポール・ウォーフィールド・ティベッツ・ジュニア(Paul Warfield Tibbets, Jr.、92没)陸軍大佐(機長・操縦士)は、B-29の44-86292号機に「エノラ・ゲイ」(ティベッツの母親エノラ・ゲイ・ティベッツ(Enola Gay Tibbets))と名付けた。44-86292号機司令であるロバート・A・ルイスロバート・A・ルイス(Robert Alvin Lewi、65没)大尉(副操縦士)は、機体に母親の名前を付けることに強い不快感を示した。
 08月06日08時15分17秒原爆リトルボーイが自動投下された。相当爆撃手はトーマス・ウィルソン・フィアビー(Thomas Wilson Ferebee、81没)。副操縦士のロバート・A・・ルイスが出撃前に描いたとされる「爆撃計画図」によると、投下は爆心地より2マイル(約3.2q)離れた地点の上空であると推察される。3機のB-29は投下後、熱線や爆風の影響を避けるために進路を155度急旋回した。再び手動操縦に切り替えたティベッツはB-29を急降下させた。
 リトルボーイは爆弾倉を離れるや横向きにスピンし、ふらふらと落下した。間もなく尾部の安定翼が空気を掴み、放物線を描いて約43秒間落下した後、相生橋よりやや東南の島病院付近高度約600mの上空で核分裂爆発を起こした。
 Mk-1核爆弾リトルボーイは約50sのウラン235を使用したが、約2%の1sのウラン235しか核分裂に至らず、0.68gの質量欠損が生じ、これはTNT換算で1万5千t(15kt)に当たる。


08月08日
 小倉、長崎

08月09日
 第1目標が小倉、第2目標が長崎
 08月06日の廣島原爆投下作戦において観測機を務めたB-29「グレート・アーティスト」を操縦したチャールズ・W・スウィーニー(Charles W. Sweeney、84没)少佐は、テニアン島へ帰還した夜、部隊の司令官であり、廣島へ原爆を投下したB-29「エノラ・ゲイ」の機長のポール・ティベッツ大佐から、再び原爆投下作戦が行われるためにその指揮を執ること、目標は第1目標が小倉、第2目標が長崎と聞かされた。スウィーニーの搭乗機は通常は「グレート・アーティスト」であったが、この機体には廣島原爆投下作戦の際に観測用機材が搭載されていた。これをわざわざ降ろして別の機体に搭載し直すという手間を省くため、フレデリック・カール・ボック(Frederick Carl Bock、82没)大尉の搭乗機と交換する形で、爆弾投下機は「ボックスカー」となった。
 アメリカ陸軍航空軍第509混成部隊第393爆撃戦隊所属B-29の中で原爆投下用の改造(シルバープレート形態)が施された15機の内の1機、「ボックスカー」(ビクターナンバー77、機体番号は44-27297号機)は、「ボックス・カー(Bocks Car)」あるいは「ボックス・カー(Bock's Car)」ともしばしば呼ばれる。しかし、機体に描かれた実際の綴りは「Bockscar」だった。これは、通常作戦時の機長フレデリック・ボックにちなんだ「Bock's car(ボックの車)」と、「ボックスカー(boxcar、有蓋貨車)」をかけた駄洒落。長崎への原子爆弾投下において、ボックは観測機B-29「グレート・アーティスト」を操縦した。「グレート・アーティスト」という機名は、スウィーニー少佐の乗組員の爆撃手レイモンド・カーミット・ビーハン(Raymond "Kermit" Beahan。70没)大尉に敬意を表したものであり、ビーハンが爆撃照準の達人(アーティスト)であるという意味と、女性にもてるという意味で女性に対する達人(アーティスト)であるという二重の意味があった。
 09時44分、投下目標である小倉陸軍造兵廠上空へ到達。小倉到着後に爆撃経路進入に3回失敗し、その間に天候も悪くなり、迎撃機も確認されたことから、目標を第2目標である長崎に変更した。
 前日の八幡への爆撃で生じた火災の煙がたれ込め八幡製鉄所の従業員が、09日朝、敵機が少数機編隊で北上している報を聞き、上司の命令で煙幕装置に点火。新型爆弾を警戒してコールタールを燃やして煙幕を張ったため目視での爆撃が困難であった。更に日本軍の高射砲からの対空攻撃が激しくなり、ボックスカーの周囲には高射砲からの弾着が取り巻いて機体が爆風で揺さぶられるようになり、大和田通信所からの情報を転送された各基地のうち、陸軍芦屋飛行場から飛行第59戦隊の五式戦闘機、海軍築城基地から第203航空隊の零式艦上戦闘機10機が緊急発進してきた。この間およそ45分間が経過した。この小倉上空での3回もの爆撃航程失敗のため残燃料に余裕がなくなり、その上「ボックスカー」は燃料系統に異常が発生したので予備燃料に切り替えた。目標を小倉から第2目標である長崎に変更し、10時30分頃、小倉上空を離脱した。
 既に予定より少なくっていた残り燃料から、2回以上の爆撃航程を行うだけの時間はないと考え、同乗していた原子爆弾についての責任者であるフレデリック・リンカーン・"ディック"・アッシュワース(Frederick Lincoln "Dick" Ashworth、93没)海軍中佐に対しレーダーによる爆撃を進言、爆撃航程に入った。命令違反のレーダー爆撃を行おうとした瞬間、本来の投下予定地点より北寄りの地点であったが、雲の切れ間から一瞬だけ眼下に広がる長崎市街が覗いた。スウィーニーは直ちに自動操縦に切り替えてビーハンに操縦を渡した。工業地帯を臨機目標として、10時58分、高度9000mから「ファットマン」を手動投下した。ファットマンは放物線を描きながら落下、約4分後の午前11時2分、市街中心部から北へ約3q逸れた松山町171番地(現松山町5番地)の別荘のテニスコート上空503±10mで炸裂した
 長崎原爆「ファットマン」はプルトニウム239を使用する原子爆弾で、プルトニウム原爆は爆縮(インプロージョン)方式で起爆する。長崎原爆「ファットマン」はTNT火薬換算で22000t(22kt)相当の規模にのぼる。この規模は、廣島に投下されたウラン235の原爆「リトルボーイ」(TNT火薬15000t相当)の1.5倍の破壊力であった。


パンプキン爆弾(かぼちゃ爆弾、Pumpkin bomb)による被害

 長崎に投下された原爆「ファットマン」の模擬爆弾総質量は約4800 kg、内部の爆薬またはコンクリートが約2900 kg、爆弾外殻(鋼鉄製)などその他の構造物が残りの質量を占める。 原爆投下候補地だった京都、廣島、新潟、小倉の各都市を4つの区域に分けた周辺都市(廣島ならば宇部、新居浜など、新潟ならば富山、長岡など)07月20日、新潟区域である富山・長岡・福島・東京都(実例の一部として、現在の練馬区大泉学園地区、西東京市の西武柳沢駅近辺)へ計10発投下されたのを皮切りに、18都府県30都市に50発(うち1発は任務放棄し爆弾は海上投棄された)が昭和20(1945)年07月20日〜08月14日の間に投下され、全体で死者400名・負傷者1200名を超す被害を出した。

 07月20日08時22分頃、東京駅八重洲口前の外堀通り、呉服橋と八重洲橋の中間に位置する堀にパンプキン爆弾が投下された。周辺にいた1人が死亡、62人が負傷、全壊、半壊が1棟ずつ。この投下は陸軍航空隊のエリートパイロットでB-29「ストレートフラッシュ(Straight Flush)」の機長であったクロード・ロバート・イーザリー(Claude Robert Eatherly、59没)によるもので、本来の爆撃目標は福島県郡山市の郡山駅だったが、雲で見えず東京に変更し、皇居に向けて投下し昭和天皇の殺害を目論んだものが外れた結果だった。「ストレートフラッシュ」のノーズアートは洋式便器の中に入れられ苦悶の表情を浮かべる日本兵が描かれていた。
 アメリカ軍は、降伏交渉相手であると同時に日本人に対する心理的影響を懸念して、皇居を狙ったいかなる攻撃も禁止していたため、イーザリーのこの独断行為は命令違反とされた。そのため、本来廣島への原子爆弾搭載機に指定されていたイーザリーの搭乗する「ストレートフラッシュ」は任務を外され、廣島原爆投下作戦では「エノラ・ゲイ」の気象観測機、長崎原爆投下作戦においても気象観測機として随伴した。
 このイーザリーは、クロスロード作戦で被曝し数回強盗事件を起こして逮捕された。
 07月24日07時40分に四日市市日永地区(1941年〈昭和16年〉まで三重郡日永村)の「第二海軍燃料廠・日永の疎開工場(山の工場)」の敷地内の安政池にパンプキン爆弾が投下され着弾した。安政池の北にあった海軍官舎が被災、親子2人が死亡。
 07月26日09時26分には大阪市東住吉区田辺で投下され7名が死亡。
 07月29日には京都府舞鶴市で97人が死亡した。
 同日、東京都保谷町(現西東京市)柳沢に投下され、3人が死亡、11人が負傷した。
 08月08日08時40分、四日市市千歳橋付近に着弾、死者2名、負傷者56名。
 同日08時50分、四日市市塩浜町鈴鹿川堤防左岸(塩浜小学校の東約500m)に着弾、死者2名。
 四日市市への投下は3発とも第二海軍燃料廠を攻撃目標としたもので,07月24日の投下は曇っていたためレーダーによるもの、08月08日の投下は2発とも目視投下。
 投下は爆撃手の目視によると厳命されており、天候などの制約があるため、必ずしも目標地点に投下された訳ではない。アメリカ軍の資料によれば、指定された目標に投下できない場合には臨機目標としてどの都市でもいいので町の真ん中に落とすようにという指示があった。そのため、07月26日の訓練では天候悪化により富山の軍需工場への爆撃に失敗しその帰りに島田(島田空襲)、焼津、静岡、名古屋、大阪など軍需工場とまったく関係ないところにまで投下された。
 戦後、米戦略爆撃調査団はパンプキン爆弾に対して「当該爆弾が目標に直撃及び至近弾となった場合、目標に相当量の構造的被害を与える非常に合理的かつ効果的な兵器であった。」との評価を下した報告書をまとめている。原爆投下より前の模擬投下は「フェーズI」として行われ、その後「フェーズII」として08月14日に春日井市に4発、挙母町(現豊田市)に3発投下され、トヨタ自動車工業の工場などが被災した。これは戦後にこの爆弾を使用して効果が得られるかどうかのテストとして行われたもので、「有効な兵器とされたが生産コストに見合わない。」として不採用とされた。


https://nagasakipeace.jp/search/about_abm/scene/
8月9日
その時―
前夜から連続する警報・・・・・・その中で、9日朝は、快晴無風であけた。
軍需工場の多い浦上に、戦闘帽、巻脚はん、防空ずきんを肩にした人たち、女子挺身隊、動員学徒の群れが汽車、電車に鈴なりとなって続々と終結し、刻一刻、緊迫感が渦巻いてゆく。

空襲警報発令!
多くの市民は、これを「定期便」と呼び、また「時報」とささやき合っていた。やがて、警報が解除となり、いったん付近の防空壕などに退避していた工場従業員が職場に戻り、家庭の主婦たちも昼食準備に取りかかっていたところー
突如、ラジオが、“B29,島原半島上空を北進中”を伝え、市民の中には、飛行機の爆音を耳にし、東方上空に「ギラギラ光るB29」、浮遊する落下傘を眺めているものもあった。
香焼島(爆心地から南約10キロ)に駐留する高射砲隊は、眼鏡の中にB29の機影を捉えて追跡し、金比羅山(爆心地から南東約1.7キロ)高射砲隊もまたいっせいに砲身を向けた。だが、90式測高機が測定した高度は、9500〜10000メートル。射程圏外。やむなく「戦闘態勢乙」・・・・・・なかには、浮遊する落下傘を目標にして射撃訓練を行う分隊もあったという。兵員は、鉄帽をはずし、上着を脱ぎ、上半身裸の者も多かった。

午前11時2分!!
 異常な閃光が走り、すさまじい爆風、爆風が大気を裂いて来襲。山野にどよめくごう音、地軸をゆるがす衝撃波、熱線が照射し、火事嵐が荒れ狂った。
 原爆搭載機ボックス・カー号(機長チャールス・スウィーニー少佐25歳)は、高度9,600メートルの上空から第二号の原子爆弾(プルトニウム爆弾)を長崎に投下した。彼の手記によると、長崎の市街も、第一爆撃目標都市小倉と同じく雲におおわれていた。スウィーニーはレーダーによる爆弾投下もやむなし、と決断していた。すでに燃料は沖縄基地までようやくという状態に欠乏し、爆撃航路ただ1回分だけが残っているに過ぎなかった。示された照準点への爆弾投下まであと30秒、トーン・シグナルが作動し、爆弾倉の扉が音をたてて開いた。あと25秒。そのとき、はからずも爆撃手ビーハンの目に雲の切れ間から市街の一部がわずかに見えた。そこは、三菱グランド(浜口町)から三菱製鋼所、同兵器製作所(茂里町)にかけての中間地帯だった。爆弾の投下は目視爆撃で行えということが示された重要命令だった。そこで、ここが急遽投弾目標となった。

 爆発は、目標地帯からおよそ5〜600メートル北方にそれて、松山町171番地のテニスコートの上空で起こった。(通称爆心地公園の上空)
 爆発点の高度についてはいくつかの推定値があるが、現時点では503メートル〜±10メートルが信頼度の高い数値と考えられている。
 ちなみに、昭和20年10月、木村一治(もとはる)、田島英三理化学研究所員が、井樋ノ口交番所の庇の影、浦上天主堂の石碑の影、長崎医科大学附属病院の焼け跡で見つけた影の三方の影から爆心を測定し、そのときは爆心点高度を490メートル〜±25メートルとしていた。
 爆発と同時に空中の一点に摂氏数千万度ともいわれる火球が発生、体積が急速に膨張した。爆発から一万分の一秒という超ミクロの瞬間にその直径は約30メートル、温度は摂氏およそ30万度になり、さらに火球は百分の一秒から一秒の間に直径100〜280メートルに達した。
 火球から放射された熱線は、爆発直後から約3秒間にわたって外部に強い影響を与えたと考えられている。
 特に人体に熱傷を与えたのは、爆発後の0.3秒から3秒までの間においての赤外線であった。一説では地上物質の表面温度は、原爆の直下では恐らく3,000〜4,000度にも達したと推定されている。
 爆発に伴って生じた物凄く強力な気圧変化は、爆発直後異常な速さで衝撃波となって広がり、物を破壊し、押し潰した。またそれと同時に強い爆風が起こり大被害が発生した。

爆風
爆心地からの距離 最大風速(秒速)
0 キロメートル 440メートル
0.3キロメートル 330メートル
0.5キロメートル 280メートル
0.8キロメートル 200メートル
1.0キロメートル 160メートル
1.2キロメートル 130メートル
1.5キロメートル 94メートル
1.8キロメートル 72メートル
2.0キロメートル 60メートル
2.5キロメートル 38メートル
3.0キロメートル 30メートル
3.5キロメートル 26メートル
 爆発時の巨大なエネルギーは、地上のものを吸い上げ、吹きあげ、巻き上げて原子雲を立ち昇らせた。この原子雲は刻々と色と形を変えながら、ぐんぐんと上昇した。その上昇速度は次のようにみられている。
約0分30秒 3,000メートル
約1分30秒 4,500メートル
約2分30秒 6,000メートル
約4分30秒 7,000メートル
約8分30秒 9,000メートル

 原爆投下機の機長・スウィーニーは「垂直の雲は驚異的なスピードで上昇を続けており、その色はつねに変化していた」「上昇してきた雲が、7,500メートルの高度で白くきのこ状に膨らみ、さらに加速しながら上へ噴出を続け、9,000メートルにいた我々を追い越して、少なくとも14,000メートルにまで達した」とその手記に記している。
 このきのこ雲は、近郊はもちろん遠く県外でも望見されたが、意外にも、爆心地に比較的に近い距離に居た者には、きのこ雲は見えなかったと証言する者が多い。
 立ち昇ったきのこ雲の雲頂はやがて崩れ、次第に東方へ流れていった。雲の移動速度は時速約12キロメートルと推定されている。

 原子爆弾の炸裂時の状況について、長崎県は『8月9日長崎市空襲災害概要報告書』に次のように記している。
 『原子爆弾ノ炸裂ニ際シテハ先ズ強烈ナ一大閃光ガ迸バシリマシタ。ソレハ恰モ強烈ナ「マグネシウム」ヲ焚イタト同ジ様ナ感ジデ、アタリ一面ガ白茶ケテボンヤリ霞ンデ仕舞イマシタ。ソシテ爆発ノ中心部デハソレト同時ニ、又多少距離ノアル所デハ夫激ヨリ瞬時ノ後、猛烈ナ轟音ト共ニ強烈ナ爆風ト熱気トガ襲ウテ来タノデアリマス』


原爆は「日本人」に投下せよ 衝撃の「ハイドパーク覚書」 林千勝
2023/8/13 20:00
広島G7(先進7カ国)サミットで、各国首脳が訪れた広島市の原爆資料館には、多くの日本人が知らない「ハイドパーク覚書」が展示されている。なぜ、広島・長崎の人々の頭上への原爆投下に至ったのか。
その答えが記された一次史料≠ナあるハイドパーク覚書は、1944=昭和19=年9月18日、米ニューヨーク州ハイドパークで、フランクリン・ルーズベルト米大統領と、ウィンストン・チャーチル英首相の会談の内容が記されたものだ。原本は、ハイドパーク郊外にあるルーズベルト大統領図書館に保管されている。
原爆資料館の展示はコピーだが、この覚書の中盤に重要な一文が記されている。

《When a ”bomb” is finally available, It might perhaps, after mature consideration, be used against the Japanese, who should be warned that this bombardment will be repeated until they surrender.》
(爆弾が最終的に使用可能になった時には、熟慮の後にだが、多分日本人に対して使用していいだろう。なお、日本人には、この爆撃は降伏するまで繰り返し行われる旨、警告しなければならない)

原文は、英米首脳の合意・了解事項として、原爆投下目標は(市街地で暮らす)人間であり、日本人≠ニ明言し、降伏しなければ、「繰り返し」投下し≠ルぼ全滅させる趣旨を警告するとしている。非人道性≠フ最たるものだ。
43年5月、米国軍事政策委員会は「トラック島(=西太平洋、カロリン諸島内に位置する島々)に集結する日本艦隊に原爆を投下することが望ましい」と大半の意見としてまとめた。当初から投下目標は、原爆開発の競争相手と見なしていたドイツではなかった。
しかし、44年2月に対象としていた日本艦隊が壊滅し、投下目標がなくなってしまった。そして9月、ハイドパーク会談で対象を人間、しかも「日本人」(「市街地・労働者・住民」)にした。彼らには、黄色人種への根深い差別意識がある。そのような意識がなければ、科学者や軍人そして政治家が、人々の頭上に直接原爆を投下するという発想にはならないはずだ。
原爆資料館の意義深いさまざまな展示を総合すると、米国による広島・長崎への「原爆投下の目的」は、次の3つとなる。
第1は、日本人に対して使用すること。
第2は、原爆の開発に膨大な経費(20億ドル)を投入したため、米国内に向けて費用対効果を正当化する必要があったこと。
第3に、原爆投下での戦争終結で、ソ連の勢力拡大を抑止すること。つまりは、戦後秩序を統制し、支配権、覇権を握ること。原爆を投下しその大量殺戮(さつりく)の威力・破壊力を見せつければ世界に恐怖を植え付け、支配できるということだ。これが現在に至るまで世界の核秩序につながっている。
さらに、重要な点は、原爆資料館の展示では、終戦や本土上陸作戦による米軍の犠牲の回避が原爆投下の理由とされていないことだ。
「日本人」への原爆投下を了解事項として確認したハイドパーク覚書の方針は、45年4月12日、ルーズベルト大統領が亡くなった後も変更がなく、疑問の余地のない明確化された想定だった。
林 千勝

はやし・ちかつ 近現代史研究家・ノンフィクション作家。1961年、東京都出身。東京大学経済学部卒、大手金融機関等を経て、近現代史の探究に取り組む。著書に『日米開戦 陸軍の勝算』(祥伝社)、『日米戦争を策謀したのは誰だ! ロックフェラー、ルーズベルト、近衛文麿 そしてフーバーは』(ワック)、『近衛文麿 野望と挫折』(ワック)、『ザ・ロスチャイルド―大英帝国を乗っ取り世界を支配した一族の物語』(経営科学出版)など。ネット番組「これが本当の近現代史」「月刊インサイダーヒストリー」などで情報発信中。


核兵器は禁止に追い込める: 米英密約「原爆は日本人に使う」をバネにして - 敏, 岡井
核兵器は禁止に追い込める: 米英密約「原爆は日本人に使う」をバネにして - 敏, 岡井

核兵器は禁止に追い込める: 米英密約「原爆は日本人に使う」をバネにして
https://www.amazon.co.jp/%E6%A0%B8%E5%85%B5%E5%99%A8%E3%81%AF%E7%A6%81%E6%AD%A2%E3%81%AB%E8%BF%BD%E3%81%84%E8%BE%BC%E3%82%81%E3%82%8B-%E7%B1%B3%E8%8B%B1%E5%AF%86%E7%B4%84%E3%80%8C%E5%8E%9F%E7%88%86%E3%81%AF%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%AB%E4%BD%BF%E3%81%86%E3%80%8D%E3%82%92%E3%83%90%E3%83%8D%E3%81%AB%E3%81%97%E3%81%A6-%E5%B2%A1%E4%BA%95-%E6%95%8F/dp/4907127189
ハイドパーク覚書.jpg
「ハイドパーク覚書」を知っていますか? 
これは1944年9月、ルーズベルトとチャーチルによる「原爆は日本人だけに使う」という秘密協定。この日本人へのホロコーストとも言える、米英密約を初めて暴き、核兵器廃絶へのバネにしようという世界への提言が描かれる。

一「ハイドパーク覚書」を知っていますか
   ―――われわれに人種差別の刃が向けられた     

 一九四五年、八月六日と九日の二度にわたって原爆が日本に落とされた。今アメリカは、原爆の使用は太平洋戦争の終結を早めるためであり、同年十一月予定の日本上陸作戦で、五十万人とも予想された米軍犠牲者を出さないために必要だったとして、これがほぼ米国の公式見解となっている。一方、これに対する日本側の公式見解は出されていない。しかし本当のところアメリカは軍事的必要も無いのに新兵器だから使ってみたかっただけで、しかも「日本人に対して」だったから使ったのである。まずその証拠を示しておかなければならない。

 それは、日本・ドイツが共に米英と戦っていた時の「ハイドパーク覚書」というものを見れば分かる。その原文のコピーが日本にもあって、これには「日本人に対して使用」"be used against the Japanese" とはっきり書いてあり、当時の米大統領・ルーズベルトと英首相・チャーチルの手書きによる FDR WCC の赤インクの署名まである。

  TUBE ALLOYS
Aide-memoire of conversation between the President and the Prime Minister at Hyde Park, September of 18, 1944.
1. The suggestion that the world should be informed regarding Tube Alloys, with a view to an international agreement regarding its control and use, is not accepted.
The matter should continue to be regarded as of the utmost secrecy; but when a "bomb" is finally available, it might perhaps, after mature consideration, be used against the Japanese, who should be warned that this bombardment will be repeated until they surrender.
2. Full collaboration between the United States and the British Government in developing Tube Alloys for military and commercial purposes should continue after the defeat of Japan unless and until terminated by joint agreement.
3. Enquiries should be made regarding the activities of Professor Bohr and steps taken to ensure that he is responsible for no leakage of information, particularly to Russians. 
                     FDR WCC 18.9

 管用合金
 一九四四年九月十八日、ハイドパークでの大統領と首相の会話に関する覚書

一、管用合金の管理と使用については、国際協定を目指して、管用合金を世界に公表すべきであるとの意見があるが、この意見は受け入れられない。この問題は、極秘にし続けるべきものである。しかし「爆弾」が最終的に使用可能になった時には、熟慮の後にだが、多分日本人に対して使用していいだろう。日本人には、この爆撃は降伏するまで繰り返し行われる旨、警告しなければならない。

二、管用合金を軍事目的、商業目的に開発する米英両政府間の完全な協力作業は、日本敗北後も、両政府の合意によって協力が停止されない限り、継続されるべきである。

三、ボーア教授の活動については調査する必要がある。教授には、特にロシア人に対してだが、情報を漏らさない責任があり、この保証措置を取らねばならない。       
九月十八日
                       ルーズベルト チャーチル

 管用合金とは原子爆弾の暗号である。この「ハイドパーク覚書」の原文は私にとっては、最初から手にすることが出来たものでなかったが、その話は後に回すことにして、まずこの、絶対者からの宣告ともいうべき文言「原爆は日本人に対して使用」を知った時、日本人がどんな反応をしたか、それを語らねばならない。

 結論を言うと、驚くべきことに、日本の社会はこれに無関心であり、その冷淡さは反核団体も同様であった。まして、これをもとに核廃絶に進もうとは考えない。それは、原爆で殺された広島・長崎の犠牲者を裏切ることではないか。彼等は日本人であるがゆえに、残虐なやり方で殺された。世界を舞台にして人種差別が行われたのである。それが、同胞の胸に響かないのだろうか。

 人種差別と言えば、アメリカで公民権運動の頃、黒人に対して公の人種差別があったとしても、それを露骨な形で直接受けたのは一部の黒人だけだっただろう。例えばバスの座席に仕切りが設けられたと言っても、それは、南部の限られた地区に過ぎなかったはずだ。虐殺もあったが、それは特に語り継がれるほどの稀なものだった。しかしアメリカの黒人は、自分たち全体が被害者だとして団結した。そして人種差別の撤回を獲得した。被害者が抗議しなかったら、一体誰が抗議しただろうか。広島・長崎への原爆では、日本人全体が被害者なのである。「原爆は日本人に対して使う」の傲慢さ。これに憤らないのか。「貴方は日本人ではないのですか」。

 私は一九三〇年生まれの老人で、残された時間はもう僅かしかない。そして最近、思う。私が死んだら「原爆は日本人には使っていいな」の言葉は恐らく消えてしまうだろうと。私は危機感を覚える。私は叫ばずにはいられない。

 私が最初に「ハイドパーク覚書」のことを知ったのは何年前だったか。もう思い出せなくなっているが、今もはっきり記憶に残っているのは次の二つの印刷物で、いずれも、覚書の記述は「原爆は日本に使用」となっていた。

"be used against the Japanese"

「日本人に対して使用」が二つの場合とも誤訳されていたのだが、私は当時、そこにミスがあるとも思わなかったから、これからの話では先ず最初のうちは、覚書の原文も実際に「日本に使用」と書いてあったとして、それで進めていくことにする。


最初から落とすつもりだった原爆 相手が日本人だから大量虐殺
https://www.sankei.com/article/20170115-IEV2UALKE5KNLA6I3M6PYS24WE/3/
東京大空襲の約1カ月後の4月12日、わが国を戦争に追い込んだ米大統領ルーズベルトが死去し、後任に副大統領のハリー・トルーマンが就任しました。このトルーマンが8月6日に広島に、9日に長崎に原爆を投下した大統領になります。
わが国の一部には「日本が侵略戦争を行い、ポツダム宣言を黙殺したから原爆を落とされた」という原爆容認論があります。広島の原爆死没者慰霊碑には「過ちは繰返しませぬから」と刻まれ、修学旅行でやってきた児童・生徒が「自分たちの祖先が悪かったから原爆を落とされたんだ」と反省しています。
米国民の多くは「原爆投下によって終戦を早め、本土決戦で犠牲になるはずの100万人の米兵の命が救われた」という根拠のない「原爆神話」「早期終戦・人命救済説」を信じています。2007年には核不拡散問題担当特使のロバート・ジョゼフが「文字通り何百万もの日本人の命がさらに犠牲になるかもしれなかった戦争を終わらせたということに、ほとんどの歴史家は同意すると思う」と、米兵だけではなく日本人のためだったと恩着せがましく語りました。
わが国の原爆容認論、米国の原爆正当化論は、どちらもとんでもない話です。ルーズベルトは真珠湾攻撃2カ月前の1941年10月に原爆の開発を決断。翌年、原爆開発のマンハッタン計画に発展します。1944年9月、ルーズベルトと英首相ウィンストン・チャーチルは、原爆が完成したら「日本人に対して使う」という秘密の合意を行いました(ハイドパーク覚書)。


核兵器のない世界へ 勇気ある平和国家の志 - 岸田 文雄
核兵器のない世界へ 勇気ある平和国家の志 - 岸田 文雄

バイデンの犬岸田文雄.jpg
長崎の被害者は人間ではないらしい、

同じ国民でこの凄まじい差別。

税金強盗岸田文雄(66)に取り、選挙区でない長崎は興味がなく、無視!!

アメリカ・支那・財務省のいいなりで、興味があるのは、増税と控除や支給の減額の鬼畜!!

住んでもいない廣島を贔屓するなら、町内会の月番でもやってろ。町内会長も務まらない無能!!

「核廃絶」など不可能で耳障りだけが良い嘘で固めて、「核武装」で国民を守ると言う意思が欠如した気違い!!


気違い・鬼畜・岸田!!!!


Barbenheimer


原爆慰霊碑G7.jpg
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2023年08月06日

人間ではない鬼畜米英、無辜の民間人を廣島17万人、長崎7万5人を大虐殺して反省の欠片もない78年目の廣島 その犬、岸田文雄(66)

 人間ではない鬼畜米英、無辜の民間人を廣島14万人、長崎7万5人を大虐殺して反省の欠片もない78年目の廣島。人倫と国際法違反の日本全土への爆撃も加えると、45万人の無辜の民間人を大虐殺した。

ハンムラピ法典により、最低でも2回核兵器を使用できる。


Barbenheimer


Oppenheimer: A World Destroyed - Boyle, David
Oppenheimer: A World Destroyed - Boyle, David

 アシュケナジーム猶太、アルベルト・アインシュタイン(Albert Einstein、76没)が、小児麻痺の悪魔フランクリン・デラノ・ルーズベルト(Franklin Delano Roosevelt、63没)に原爆の開発を唆し、原爆開発の犬のアシュケナジーム猶太、J・ロバート・オッペンハイマー(J. Robert Oppenheimer、52没)は、妻のキティ、実弟のフランク、フランクの妻のジャッキー、およびオッペンハイマーの大学時代の恋人ジーン(Jean Tatlock)らがアメリカ共産党員で、オッペンハイマーもシンパ。ロシアに原爆の技術を教えた。

強烈な人種差別痴呆バイデン、料理人殺人事件で見える全世界暗殺指令のオバマなど、

反省と謝罪なき広島訪問に意味があるのか?


原爆慰霊碑G7.jpg

メタコメット(Metacome、53戦死)酋長の抵抗 鬼畜米英はフィリップ王戦争と呼ぶ。
イギリス白人がニューイングランドと名付けた入植地で、彼らはワンパノアグ族から手厚い保護を受け、食料を贈られ厳しい冬の飢餓と寒さを越えることが出来た。しかし白人たちの入植地の拡大はエスカレートし、やがてはインディアンたちの領土をよこせ、と要求し始めた。
インディアンにとって土地は共有財産であり、誰のものでもなかった。しかし白人の要求は、インディアン全てを立ち退かせる排他的なものだった。当然ながらインディアンたちは激怒した。また白人はこの取り決めを「公平」に「条約」で行おうとし、その署名者として彼らの酋長を選んだ。
しかしインディアンの社会は、白人の独任制と違い、合議制である。元より部族を代表する首長や君主は存在しない。酋長はあくまで調停者であって、部族を代表する者ではないのだが、白人にはこれが理解できなかった。入植者は酋長と盟約すればワンパノアグ族は納得するものと思い込んだが、これは全くの思い違いである。
元々ワンパノアグ族は白人入植者達に対して友好関係を築いており、1620年には酋長のマサソイトは慣れない環境による寒さや病気、飢えで苦しむ白人入植者を助け、平和と友情による条約を結んでいる。1621年の秋、感謝祭の際にもマサソイトは多くの食料を持参して列席している。
しかし急激に増加した白人の入植者は、彼らインディアンの土地を売るように要求したり、強引なキリスト教への改宗強制や、インディアンに不利な裁判を行い、インディアンの白人に対する反感を買い始めた。インディアンに「土地を売る」という概念はそもそも無かったし、個人の選択として宗教を受け入れることはあったが、部族全体を従わせようとする白人の思考はインディアン共同体には理解不可能だった。
さらに白人と友好を築いていたマサソイト酋長が死ぬとますます状況は悪化する。マサソイトの死後、ワンパノアグ族の新酋長は息子のワムスッタ(アレキサンダー)になるが、白人側は彼らが住む土地にまで入植地を拡大していった。そのためワムスッタは「調停者」たるインディアンの酋長の役目として、白人が父マサソイトに要求して結んだ入植の土地の譲渡と和平条約に異議申し立てをプリマス入植地で行い、侵略行為を止めるよう説得した。が、プリマス入植地から村に帰る途中、ワムスッタはなぜか病気(毒殺されたとも言われる)による謎の死を遂げてしまう。
そして新たに24歳のワムスッタの弟メタコメットが新酋長になると、白人との関係はさらに悪化して行った。メタコメットも兄ワムスッタと同様に調停者として最大の努力を払い、白人との友好関係を続けていくことに苦心していた。
しかし誇り高いワンパノアグ族とメタコメット酋長は、合議の結果、部族の土地を侵す白人に対して、ついに宣戦布告の準備を始めた。1675年6月25日にキリスト教に改宗したワンパノアグ族で、ハーバード大学のインディアン・カレッジで学んだジョン・ササモンが、プリマス入植地の総督ジョシア・ウィンスローに「ワンパノアグ族のメタコメット酋長が白人に対して戦争準備をしている」と通報したが、その後ササモンは別部族のインディアンに殺されてしまった。
ニューイングランドのインディアン部族はこれ以上白人の横暴を許せなかった。メタコメット酋長らのワンパノアグ族は、ニアンティック族、ペナクック族、ノーセット族らワンパノアグ族と同盟を結んでいた部族と協力してプリマス入植地を攻撃した。攻撃された入植地の白人側も武装して、ワンパノアグ族と敵対するモヒカン族やモホーク族などの部族を味方に付け全面戦争が勃発。インディアン側はニプマック族やナラガンセット族も参戦。プリマス入植地総督のウィンスローはナラガンセット族の婦女子を大虐殺し、怨みを買っていた。
戦争はマサチューセッツ植民地とコネチカット植民地を引き込んでのニューイングランド全域に及んだ[1]。インディアン側は52のタウンを襲撃し、12のタウンを壊滅させた[1]。1676年に入ると、ニューイングランド植民地連合軍は、植民地で採用された民兵、ミニットマンを活用し反撃した。ナラガンセット族のカノンチェット酋長(白人は指導者と見ていた)が1676年4月3日に逮捕及び処刑され、白人に対して反旗を翻し戦いを挑んだワンパノアグ族ではメタコメット酋長が3ヵ月後の8月12日に戦死し、侵略者側が勝利する形で戦争は終結する。

戦いで600人の白人入植者と4000人以上のインディアンが犠牲となり死んだ。戦死したメタコメット酋長の遺体は白人達により八つ裂きにされ、首は槍の先に突き刺され、白人達の村に24年間飾られた。そして捕虜となったメタコメット酋長の家族を始めとするインディアン達は奴隷として西インド諸島などに売り飛ばされて行った。

インディアンに「司令官」はいないという、彼らの文化は白人には理解できなかった。侵略者はただメタコメットを「戦争を始めた首謀者」と一方的に見なし、理不尽な辱めをこれに与えて勝利を祝ったのである。

 元和06(1620)年の所謂「ピルグリム・ファーザーズ(Pilgrim Fathers)=巡礼始祖」の史実は、「ニュー・プリマス」と勝手に名付けた地域に侵入した「ピルグリム・ファーザーズ」なるカルト集団は病気や飢えで絶滅の危機に瀕していた。これを、日本人とDNAが似通っている、先住民インディアンのワンパノアグ族が食糧や物資を援助し狩猟やトウモロコシの栽培などを教えた。感謝祭とは、大恩あるワンパノアグ族酋長マサソイトに対してではなく、YHWHヤハウェに対してである。

 やがて「ピルグリム・ファーザーズ」は、侵略と大虐殺を繰り返すようになり、大恩あるワンパノアグ族酋長マサソイトの息子のメタコメット酋長の戦死した遺体を八つ裂きにして、首は槍の先に突き刺し、「ニュー・プリマス」居留地の門柱に24年間飾った。捕虜となったメタコメット酋長の家族は奴隷として西インド諸島などに売り飛ばした。
 この近くに作ったのがハーバード大学で、ここを卒業したのが、原爆開発の犬のアシュケナジーム猶太、J・ロバート・オッペンハイマー。中の奴隷市場で奴隷の売買で巨万のを富を得たのが、小児麻痺の悪魔フランクリン・デラノ・ルーズベルト(Franklin Delano Roosevelt、63没)のミドルネイムの母方の「デラノ」一族だ。




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https://www.city.hiroshima.lg.jp/site/atomicbomb-peace/9399.html
 昭和20年(1945年)8月6日、月曜日の朝は快晴で、真夏の太陽がのぼると、気温はぐんぐん上昇しました。
深夜零時25分に出された空襲警報が午前2時10分に解除され、ようやくまどろみかけていた人々は、午前7時9分、警戒警報のサイレンでたたき起こされました。この時はアメリカ軍機1機が高々度を通過していっただけだったため、警報は午前7時31分に解除されました。一息ついた人々は、防空壕や避難場所から帰宅して遅い朝食をとったり、仕事に出かけたりと、それぞれの1日を始めようとしていました。
 この時、広島中央放送局では、情報連絡室から突如、警報発令合図のベルが鳴りました。古田アナウンサーは、警報事務室に駆け込んで原稿を受け取り、スタジオに入るなりブザーを押しました。
 「中国軍管区情報! 敵大型3機、西条上空を・・・」と、ここまで読み上げた瞬間、メリメリというすさまじい音と同時に、鉄筋の建物が傾くのを感じ、体が宙に浮き上がりました。

昭和20年(1945年)8月6日午前8時15分。
人類史上初めて、広島に原子爆弾が投下されました。

 原子爆弾は、投下から43秒後、地上600メートルの上空で目もくらむ閃光を放って炸裂し、小型の太陽ともいえる灼熱の火球を作りました。火球の中心温度は摂氏100万度を超え、1秒後には半径200メートルを超える大きさとなり、爆心地周辺の地表面の温度は3,000〜4,000度にも達しました。
 爆発の瞬間、強烈な熱線と放射線が四方へ放射されるとともに、周囲の空気が膨張して超高圧の爆風となり、これら3つが複雑に作用して大きな被害をもたらしました。
 原爆による被害の特質は、大量破壊、大量殺戮が瞬時に、かつ無差別に引き起こされたこと、放射線による障害がその後も長期間にわたり人々を苦しめたことにあります。

https://www.global-peace.go.jp/taikenki/taikenki_syousai.php?gbID=242&dt=151031123603
あの数十万の人達が一瞬にして血と汗と涙を、広島の上に流して、死んで行った事。「水を下さい」・・・・「お母さん」・・・・「仇をとってね」あの人達の悲痛な声が、私に呼びかけて来ます。

USA核爆撃旗.jpg

鬼畜トルーマン発言.jpg
猿(日本人)を「虚実の自由」という名の檻で、我々が飼うのだ。方法は、彼らに多少の贅沢さと便利さを与えるだけで良い。そして、スポーツ、スクリーン、セックス(3S)を解放させる。これで、真実から目を背けさせることが出来る。猿は、我々の家畜だからだ。家畜が主人である我々のために貢献するのは、当然のことである。そのために、我々の財産でもある家畜の肉体は長寿にさせなければならない。(化学物質などで)病気にさせて、しかも生かし続けるのだ。これによって、我々は収穫を得続けるだろう。これは、勝戦国の権限でもある。

3S政策とは
・スクリーン(Screen)  (映像、テレビ、映画、アニメ等)
・スポーツ(Sports)   (世界大会、オリンピック等)
・セックス(Sex)    (性産業、性道徳の破壊等)

稀代の悪魔、
トーマス・ウッドロウ・ウィルソン(Thomas Woodrow Wilson。67没)
フランクリン・デラノ・ルーズベルト(Franklin Delano Roosevelt、63没)


FranklinDelanoRoosevelt.jpg 悪魔にして人種差別主義者、猶太(ディープステイト)の下僕のトーマス・ウッドロウ・ウィルソン(Thomas Woodrow Wilson、67没)は、猶太の指令通り、第一次世界大戦へアメリカを参戦させた。悪魔ウィルソンは、阿片と奴隷の売買で財を成した一族の悪鬼、フランクリン・デラノ・ルーズベルト(Franklin Delano Roosevelt、63没)ことFDRを海軍省次官に抜擢した。
 FDRはニューポート・セックススキャンダルにより窮地に立たされ、彼の上司のダニエルズは辞職に至る。この悪鬼に生前に天罰が下り、小児麻痺で下半身がほとんど麻痺し、日常生活では車椅子を常用していた。
 白人は一般的に人種差別観念の持ち主だが、FDRはその中でも徹底した人種差別論者で、特に日本人に対する憎悪は強烈だった。彼は国家としての日本の存在を容認したくなかった。ヘンリー・スチムソンとともに日本と日本人を最も軽蔑し憎悪した、悪魔の反日酋長で、「欧米人は人類の支配者」という独善的信条を持つがゆえに、日本は決して対等な相手ではありえず、協調、共存を拒絶し、日本に屈従と隷属のみを求めた。
 アメリカの大統領の再任については規定はなかったが、初代のワシントンが2期まで終わり、3期は不適当であるとして自ら大統領選に出馬しなかったことから、2期までと言う伝統ができた。その後、グラントとセオドア・ローズベルトが3選を試みたがいずれも実現しなかった。FDRだけが第二次世界大戦という特例としてぬけぬけと4選までいった。昭和26(1951)年に憲法修正22条で明確に3選は禁止された。
 昭和15(1940)年10月30日、その3選目の大統領をめざいして選挙戦中のFDRはボストンでの演説で、「あなた方、お母さんやお父さん方にお話している今、私は皆さんにもうひとつお約束をいたします。このことは前にも申し上げましたが、私はそれを二度でも三度でも繰り返して申しましょう。あなた方の息子さんたちは、いかなる外国の戦争にも送られることはありません。」と公約した。同じ演説で、航空機2万6000機を含む大規模な対英武器援助を行なう決意を表明し、11月30日に、完全な国際法の中立義務違反の「フライングタイガース」という最新鋭戦闘機と空軍兵約200人を真珠湾の1年以上前にフライングしてアメリカは日本に奇襲攻撃を加え戦争状態に入っていた。

 フランクリン・デラノ・ルーズベルト「日本人の頭蓋骨は白人に比べ二千年遅れている。」

 フランクリン・デラノ・ルーズベルト(FDR)はディープステイトの手先として日本を挑発し、戦争意思のなかった日本を海軍の米内光政(68没)、山本五十六(59没?)、井上清美(86没)ら工作員を使い、日本をソ連の望む南進戦に引き入れる多ため、真珠湾を攻撃させた。ニューディール政策も効果があったように洗脳されているが、戦争で経済は恢復した。第二次世界大戦では、国際法違反だらけの大虐殺を繰り返した。日本帝國海軍の戦略は工作員の浸透で、日本軍を無意味に損なう消耗戦に終始した。


消えた帝国―大統領ウィルソンの挫折 - 本多 巍耀
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ルーズベルトの開戦責任: 大統領が最も恐れた男の証言 - ハミルトン フィッシュ, Fish,Hamilton, 惣樹, 渡辺
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ハリー・S・トルーマン( Harry S. Truman、88没)

 悪鬼、FDRが天罰覿面でくたばったのは 昭和20(1945)年04月12日。13日後に副大統領から繰り上がったトルーマンは初めてマンハッタン計画のことを知った。

 トルーマンは、無学(高卒)で無知、無能ゆえに操りやすい人物として大物政治家たちに上手く利用されてきた政治家で、それまでは副大統領のトルーマンは聾桟敷にいた。トルーマンは陸軍長官ヘンリー・スティムソンおよび原爆開発計画を率いてきたレズリー R. グローブズ将軍からそのことを知らされ大統領に就任した。因みに、トルーマンの父方はユダヤ系である。


 習近平(70)や岸田文雄(66)は、無学(事実上小卒に東大3回不合格)で無知、無能ゆえに操りやすい人物として大物政治家たちに上手く利用されてきた政治家で今の地位に昇りつめた。歴史は進化しない。

 FDR政権に続いて、バーナード・バルークがトルーマンに対する大統領顧問的な存在となっていた。猶太人の大富豪であり、軍需産業の中心人物である。マンハッタン計画で原爆が完成すると、猶太バルークはトルーマンに原爆の対日使用を積極的に勧めた。また、ヘンリー・スティムソンがFDR政権に続いて、実質的にアメリカの戦争を指揮した。彼が原爆開発計画の最高責任者として広島と長崎への原爆使用を決定した。トルーマンはスティムソンを全面的に信頼した。バルーク、スティムソンは、ロスチャイルド家に繋がっている。
 日本への攻撃についても、当初ヘイウッド・ハンセル少将は都市部での焼夷弾の使用に反対していたが、軍は、国際法違反の民間人の殺人鬼として、「アイアン・アス(鉄の尻)」と呼ばれたカーティス・ルメイ大将(鬼畜ルメイ)を就任させた。昭和20(1945)年03月09日〜10日にかけて、アメリカ空軍は334機の爆撃機によって東京を周囲から焼夷弾のアメを降らせ中心部に追い詰め焼き殺すと言う残忍な爆撃で10万人の市民を殺害した。その他、日本各地の100以上の都市、町に焼夷弾が落され、膨大な数の市民が焼き殺された。この鬼畜ルメイに勲章を授与させたのが、刺青朝鮮系防衛庁長官、小泉純也(65没)である。
 ヘンリー・スティムソン陸軍長官は、「アメリカが残虐行為においてヒトラーを上回ると誹謗されるのは見たくない。」とトルーマンに進言したが、アメリカではこうした市街地への爆撃に対する批判の声は上がらず、大虐殺の共犯者その容認の流れが原子爆弾の使用をも進めることになりました。原子爆弾を手にしたトルーマンにとって、日本がポツダム宣言を飲もうが飲むまいが、ソ連に見せつけるために原爆を使用した。逆に、愚図愚図しているとソ連が日本に攻め込んでしまい原子爆弾を使用する前に戦争は終わってしまうと焦っていた。昭和20(1945)年07月、日本に発せられたポツダム宣言への回答を待たずトルーマンはできるだけ早い時期に原子爆弾を投下するよう指示し、日本が無条件降伏するかどうかは問題ではなくなっていた。

 昭和20(1945)年08月06日に広島、09日に長崎で、人体実験の原爆投下が行われ、それぞれ17万人、7万5千人を虐殺した。それ以外の地方都市や機銃掃射や与那国島の虐殺などアングロ・サクソンの残虐性を発揮した。

 昭和20(1947)年02月、スティムソンは原爆投下に対する批判を抑えるために、「原爆投下によって戦争を早く終わらせ、100万人のアメリカ兵の生命が救われた。」と詭弁を表明した。
 ニュールンベルク裁判の首席判事テルフォード・テイラーでさえ後にこう語っている。「08月09日の長崎市への原子爆弾投下は戦争犯罪である。」と考えている。「広島の是非については議論の余地があるが、長崎を正当化するに足る理由を私は聞いた例がない。」と。
 トルーマンは、昭和22(1947)年、連合国で審議されていたパレスチナ分割案に関して、アラブ諸国とりわけアメリカが石油利権を持つサウジアラビアとの関係を重視し、パレスチナでのユダヤ国家の建設に反対する意向を表明していた。「ユダヤ民族主義者には会いたくない。」と言っていたが、旧友の猶太エディ・ジャコブソンのたっての頼みによって後のイスラエル初代大統領ワイズマンに会い、国務省の反対を押し切った決断で、イスラエル建国宣言11分後に承認した。昭和23(1948)年の大統領選で共和党候補に敗北するという危機感を抱いたトルーマンはユダヤ票の75%を獲得し、きわどい差で勝利した。 マスゴミの連中がトルーマン大統領に質問した。「なんであなたはそんなにユダヤの肩ばかり持つんですか。」、トルーマンは「だって君、アラブの肩を持ったって、票にはならんだろうが。」と答えた。トルーマンは猶太票欲しさに、パレスチナ分割決議を推進した。


ビキニ環礁水爆実験_クロスロード作戦「ベーカー実験).jpg

原爆を落とした男たち: マッド・サイエンティストとトルーマン大統領 - 巍耀, 本多
原爆を落とした男たち: マッド・サイエンティストとトルーマン大統領 - 巍耀, 本多



SergeiAndreev大使-1.jpgSergeiAndreev大使-2.jpg←  昨年05月09日、ロシアのアンドレーエフ駐ポーランド大使がウクライナ侵攻に反対する抗議者グループに赤い液体を掛けられた。岸田は、ポーランドに特別枠で血税をばら撒いて、ポーランドの警備部隊に守られてアメリカの監視の下、ウンコ喰らいな。

 国際法違反の戦争犯罪、無辜の一般の日本人を無差別に大虐殺した、鬼畜米英の悪魔、フランクリン・デラノ・ルーズベルト(63没)やウィンストン・レナード・スペンサー・チャーチル(ウィンストン・レナード・スペンサー・チャーチル(Winston Leonard Spencer Churchill、90没)の後継の痴呆"ジョー"・ジョセフ・ロビネット・バイデン・ジュニア(Joseph Robinette "Joe" Biden Jr.、80)とリシ・スナク(Rishi Sunak、43)を断罪すべきだった。

 謝罪の一言もない鬼畜には、最低限、ロシアのセルゲイ・アンドレーエフ駐ポーランド大使に対する「おもてなし」が必要であった。


星条旗犬.jpg岸田文雄〈65〉裕子(58)830101.jpg 日本は大東亜戦争敗戦後、米国の属領であり、国家主権はない。従前は曲がりなりにも暈かして誤魔化していたが、トランプ以降、平気で日本の国土を土足で踏みにじり、米軍基地から入出国している。G7で他の6ヶ国は、広島空港を使った。鬼畜米は、重武装の警備兵を日本の主権を侵して日本に侵入させ、日本の警察までが検査されている。

RahmIsraelEmanuel(62).jpg ラーム・イスラエル・エマニュエル(63)は、あからさまに内政干渉。変態法で日本を分断し破壊している。手先の犬が賣國奴吉田茂(89没)以来の狡知会。敗戦利得者として、日本を破壊し日本人を虐げてきた。


← 日本の破壊と日本人の殺戮のため、増税岸田文雄(66)を操作するラーム・イスラエル駐日米大使。外交から内政干渉まで、日本の破壊と日本人の殺戮のため、増税岸田文雄(66)の一挙手一投足を操っている。逆らうと、安倍晋三(67没)、中川昭一(56没)、・・・・

 周囲を兇暴な核武装国、支那、露西亜、朝鮮、アメリカに囲まれた日本は、核武装しか生き残る術はない!!
 金もない、力もなく、日本を守らない鬼畜アメ公をいつまで野放しに差せているのか!!


移民党岸田文雄(64)-1.jpg移民党岸田文雄(64)-2.jpg 昭和19(1944)年09月、ディープステイトの犬、フランクリン・デラノ・ルーズベルト(FDR)と、猶太の犬のチャーチルは、ニューヨークのハイドパークで、「日本」ではなく、「日本人」に原爆を落とす、「日本人が降伏しなければ、絶滅するまで落とし続ける。という署名入りのハイドパーク覚書を交わした。
 白人至上主義のテロ組織KKKの支部長で猶太のいいなりのトルーマンは、原爆実験のため、広島にウラニウム型を、長崎にプルトニウム型を落とした。
 増税岸田文雄(65)は広島サミットで、鬼畜米英の痴呆とインド人に土下座をさせて謝罪させ打ち据えねばならない。

 奴らは、猶太や十字軍の蛮行で、虐殺、掠奪、強姦などを平気で書き残している。罪の意識とか謝罪渡河の感覚がな鬼畜だとよくわかる。

 日本は核を2発報復攻撃する権利を正当にもつ。現在は第2次世界大戦が休戦中で、連合国(United Nations)は未だに残っていて、日独は徹国になったままで78年も経った。もっと強力な反物質爆弾という核兵器2発で報復をちらつかせ投下しなくては、核廃絶などできない。

 アフガニスタン撤退でわかるように、鬼畜米は日本を守らない。核の傘など元よりない。台湾戦争を睨み、既に米軍は見勝手に引き揚げている。さしあたって、現行の原子爆弾程度の核武装が生存に必要不可欠である。



「原爆は日本人には使っていいな」
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784898273777
広島・長崎への原爆は軍事ではなく犯罪だが、日本では核廃絶を掲げる機関もこれを隠す。「原爆は日本人に使用」はルーズベルトとチャーチルによる決定(ハイドパーク覚書)。人種差別で原爆はドイツではなく日本に向けられた。

「when a bomb is finally abailable,it might perhaps ,after mature consideration ,be used against the Japanese.という会話がなされた 広島原爆資料館に資料あり」

核兵器は禁止に追い込める: 米英密約「原爆は日本人に使う」をバネにして - 敏, 岡井
核兵器は禁止に追い込める: 米英密約「原爆は日本人に使う」をバネにして - 敏, 岡井

核兵器は禁止に追い込める: 米英密約「原爆は日本人に使う」をバネにして
https://www.amazon.co.jp/%E6%A0%B8%E5%85%B5%E5%99%A8%E3%81%AF%E7%A6%81%E6%AD%A2%E3%81%AB%E8%BF%BD%E3%81%84%E8%BE%BC%E3%82%81%E3%82%8B-%E7%B1%B3%E8%8B%B1%E5%AF%86%E7%B4%84%E3%80%8C%E5%8E%9F%E7%88%86%E3%81%AF%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%AB%E4%BD%BF%E3%81%86%E3%80%8D%E3%82%92%E3%83%90%E3%83%8D%E3%81%AB%E3%81%97%E3%81%A6-%E5%B2%A1%E4%BA%95-%E6%95%8F/dp/4907127189
「ハイドパーク覚書」を知っていますか? 
これは1944年9月、ルーズベルトとチャーチルによる「原爆は日本人だけに使う」という秘密協定。この日本人へのホロコーストとも言える、米英密約を初めて暴き、核兵器廃絶へのバネにしようという世界への提言が描かれる。

一「ハイドパーク覚書」を知っていますか
   ―――われわれに人種差別の刃が向けられた     

 一九四五年、八月六日と九日の二度にわたって原爆が日本に落とされた。今アメリカは、原爆の使用は太平洋戦争の終結を早めるためであり、同年十一月予定の日本上陸作戦で、五十万人とも予想された米軍犠牲者を出さないために必要だったとして、これがほぼ米国の公式見解となっている。一方、これに対する日本側の公式見解は出されていない。しかし本当のところアメリカは軍事的必要も無いのに新兵器だから使ってみたかっただけで、しかも「日本人に対して」だったから使ったのである。まずその証拠を示しておかなければならない。

 それは、日本・ドイツが共に米英と戦っていた時の「ハイドパーク覚書」というものを見れば分かる。その原文のコピーが日本にもあって、これには「日本人に対して使用」"be used against the Japanese" とはっきり書いてあり、当時の米大統領・ルーズベルトと英首相・チャーチルの手書きによる FDR WCC の赤インクの署名まである。

  TUBE ALLOYS
Aide-memoire of conversation between the President and the Prime Minister at Hyde Park, September of 18, 1944.
1. The suggestion that the world should be informed regarding Tube Alloys, with a view to an international agreement regarding its control and use, is not accepted.
The matter should continue to be regarded as of the utmost secrecy; but when a "bomb" is finally available, it might perhaps, after mature consideration, be used against the Japanese, who should be warned that this bombardment will be repeated until they surrender.
2. Full collaboration between the United States and the British Government in developing Tube Alloys for military and commercial purposes should continue after the defeat of Japan unless and until terminated by joint agreement.
3. Enquiries should be made regarding the activities of Professor Bohr and steps taken to ensure that he is responsible for no leakage of information, particularly to Russians. 
                     FDR WCC 18.9

 管用合金
 一九四四年九月十八日、ハイドパークでの大統領と首相の会話に関する覚書

一、管用合金の管理と使用については、国際協定を目指して、管用合金を世界に公表すべきであるとの意見があるが、この意見は受け入れられない。この問題は、極秘にし続けるべきものである。しかし「爆弾」が最終的に使用可能になった時には、熟慮の後にだが、多分日本人に対して使用していいだろう。日本人には、この爆撃は降伏するまで繰り返し行われる旨、警告しなければならない。

二、管用合金を軍事目的、商業目的に開発する米英両政府間の完全な協力作業は、日本敗北後も、両政府の合意によって協力が停止されない限り、継続されるべきである。

三、ボーア教授の活動については調査する必要がある。教授には、特にロシア人に対してだが、情報を漏らさない責任があり、この保証措置を取らねばならない。       
九月十八日
                       ルーズベルト チャーチル

 管用合金とは原子爆弾の暗号である。この「ハイドパーク覚書」の原文は私にとっては、最初から手にすることが出来たものでなかったが、その話は後に回すことにして、まずこの、絶対者からの宣告ともいうべき文言「原爆は日本人に対して使用」を知った時、日本人がどんな反応をしたか、それを語らねばならない。

 結論を言うと、驚くべきことに、日本の社会はこれに無関心であり、その冷淡さは反核団体も同様であった。まして、これをもとに核廃絶に進もうとは考えない。それは、原爆で殺された広島・長崎の犠牲者を裏切ることではないか。彼等は日本人であるがゆえに、残虐なやり方で殺された。世界を舞台にして人種差別が行われたのである。それが、同胞の胸に響かないのだろうか。

 人種差別と言えば、アメリカで公民権運動の頃、黒人に対して公の人種差別があったとしても、それを露骨な形で直接受けたのは一部の黒人だけだっただろう。例えばバスの座席に仕切りが設けられたと言っても、それは、南部の限られた地区に過ぎなかったはずだ。虐殺もあったが、それは特に語り継がれるほどの稀なものだった。しかしアメリカの黒人は、自分たち全体が被害者だとして団結した。そして人種差別の撤回を獲得した。被害者が抗議しなかったら、一体誰が抗議しただろうか。広島・長崎への原爆では、日本人全体が被害者なのである。「原爆は日本人に対して使う」の傲慢さ。これに憤らないのか。「貴方は日本人ではないのですか」。

 私は一九三〇年生まれの老人で、残された時間はもう僅かしかない。そして最近、思う。私が死んだら「原爆は日本人には使っていいな」の言葉は恐らく消えてしまうだろうと。私は危機感を覚える。私は叫ばずにはいられない。

 私が最初に「ハイドパーク覚書」のことを知ったのは何年前だったか。もう思い出せなくなっているが、今もはっきり記憶に残っているのは次の二つの印刷物で、いずれも、覚書の記述は「原爆は日本に使用」となっていた。

"be used against the Japanese"

「日本人に対して使用」が二つの場合とも誤訳されていたのだが、私は当時、そこにミスがあるとも思わなかったから、これからの話では先ず最初のうちは、覚書の原文も実際に「日本に使用」と書いてあったとして、それで進めていくことにする。


最初から落とすつもりだった原爆 相手が日本人だから大量虐殺
https://www.sankei.com/article/20170115-IEV2UALKE5KNLA6I3M6PYS24WE/3/
東京大空襲の約1カ月後の4月12日、わが国を戦争に追い込んだ米大統領ルーズベルトが死去し、後任に副大統領のハリー・トルーマンが就任しました。このトルーマンが8月6日に広島に、9日に長崎に原爆を投下した大統領になります。
わが国の一部には「日本が侵略戦争を行い、ポツダム宣言を黙殺したから原爆を落とされた」という原爆容認論があります。広島の原爆死没者慰霊碑には「過ちは繰返しませぬから」と刻まれ、修学旅行でやってきた児童・生徒が「自分たちの祖先が悪かったから原爆を落とされたんだ」と反省しています。
米国民の多くは「原爆投下によって終戦を早め、本土決戦で犠牲になるはずの100万人の米兵の命が救われた」という根拠のない「原爆神話」「早期終戦・人命救済説」を信じています。2007年には核不拡散問題担当特使のロバート・ジョゼフが「文字通り何百万もの日本人の命がさらに犠牲になるかもしれなかった戦争を終わらせたということに、ほとんどの歴史家は同意すると思う」と、米兵だけではなく日本人のためだったと恩着せがましく語りました。
わが国の原爆容認論、米国の原爆正当化論は、どちらもとんでもない話です。ルーズベルトは真珠湾攻撃2カ月前の1941年10月に原爆の開発を決断。翌年、原爆開発のマンハッタン計画に発展します。1944年9月、ルーズベルトと英首相ウィンストン・チャーチルは、原爆が完成したら「日本人に対して使う」という秘密の合意を行いました(ハイドパーク覚書)。



バイデンの犬岸田文雄.jpgバイデンの犬岸田文雄-2.jpg
日本を破壊し、日本人を殺戮する移民党の増税岸田文雄(65)に葬禍党に野盗!!!!

害国には血税をばら撒くが、納税者の国民は7公3民で地獄に突き落としている。怨嗟の声を聞け!!!

隣接するヨーロッパ、利権の猶太、鬼畜米英とは違い、ロシアの亜種で汚職塗れのウンコ喰らいななどに金を出すな。

ウンコ喰らいなは、支那に空母、強襲揚陸艦など軍、事増強を支援した敵国だ!!

日本の隣国は、支那・ロシア・朝鮮・アメリカと、日本に核兵器を向ける狂獣だらけ。

核武装もせず、避難所も訓練もしないうすら馬鹿が日本。


正義のない世界へ 卑劣な従属の犬 税金強盗岸田文雄
核兵器のない世界へ 勇気ある平和国家の志 - 岸田 文雄
核兵器のない世界へ 勇気ある平和国家の志 - 岸田 文雄

岸田文雄(64)-1.jpg悪魔1.png岸田文雄(65)
豚首.jpg林芳正(60).jpg
林芳正(62)
茂木敏充(66).jpgFerengi.jpg茂木敏充(67)
ラーテル.jpg菅義偉(72)-1.jpg菅義偉(74)
野中広務鈴木宗男.jpg小沢一郎鈴木宗男.jpg鈴木宗男(75)
二階俊博(82).jpg二階俊博(84)
新藤義孝(65).jpg新藤義孝(65)
古屋圭司(70).jpg古屋圭司(70).
萩生田光一(59).jpg.萩生田光一(59)
稲田朋美(64).jpg落選稲田朋美(64).jpg稲田朋美(64)



増税岸田文雄(65).jpg


決定版 広島原爆写真集 - 「反核・写真運動」, 小松健一, 新藤健一
決定版 広島原爆写真集 - 「反核・写真運動」, 小松健一, 新藤健一


posted by cnx at 20:17| Comment(0) | TrackBack(0) | Am | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年08月05日

反吐が出る世界史 腐乱巣泥朝、残虐凄惨な宗教戦争と陰謀 啓蒙思想で赤い表札(ロートシルト)の悪魔降誕 悪逆非道なディープステイトの中核、猶太とは何か その17

ダビデの星.jpgユダヤ(ギリシャ語: Ἰουδαία、Ioudaía、漢字:猶太)

 他民族からは「ヘブライ人」と謂れ、自らは「イスラエル人」と称し、バビロン捕囚後には「ユダヤ人」と呼ばれるようになった徒輩。ヘブライ人、イスラエル人、ユダヤ人は同じ民族を指している。
 ユダヤ人(ヘブライ語: יהודים‎、英語: Jews、ラジノ語: Djudios、イディッシュ語: ייִדן‎)は、猶太教の信者(宗教集団)または猶太教信者を親に持つ者によって構成される宗教信者。原義は狭義のイスラエル民族のみを指す。イスラエル民族の1つ、ユダ族がイスラエルの王の家系だったことを由来とする。猶太教という名称は、猶太教徒が多く信仰していた宗教であることによる。ユダヤとは、パレスチナ南部の地域。酋長ヤコブの子ユダに由来する。古代イスラエル統一王国の分裂後の南ユダ王国があった地域である。



南ユダ王国滅亡後のユダヤの歴史

南ユダ王国が滅ぶと、僅かな例外的時期を除いて西暦20世紀に至るまでユダヤ民族が独立国を持つことはなかった。


神武天皇74(西暦前587)〜安寧天皇10(西暦前539)年 新バビロニア帝国
安寧天皇10(西暦前539)〜孝安天皇61(西暦前332)年 アケメネス朝ペルシア帝国
孝安天皇61(西暦前332)〜孝安天皇88(西暦前305)年 プトレマイオス朝エジプト
孝安天皇88年(西暦前305)〜開化天皇17(西暦前141)年 セレウコス朝シリア
開化天皇17(西暦前141)〜崇神天皇35(西暦前63)年 ハスモン朝 ユダヤ人国家
崇神天皇35(西暦前63)〜崇神天皇61(西暦前37)年 共和政ローマ元老院属州
崇神天皇61(西暦前37)〜垂仁天皇73(西暦44)年 ヘロデ家
垂仁天皇73(西暦44)年 ユダヤ属州(ローマ帝国皇帝属州)
垂仁天皇73(西暦44)〜景行天皇23(西暦93)年 ヘロデ家
垂仁天皇73(西暦44)〜仁徳天皇83(西暦395)年 ローマ帝国皇帝属州
仁徳天皇83(西暦395)〜舒明天皇06(西暦634)年 東ローマ帝国
舒明天皇06(西暦634)〜永正13(西暦1516)年 イスラーム諸王朝 途中に十字軍国家の時代を含む。
永正13(西暦1516)〜大正06年(西暦1917)年 オスマン帝国 
大正07年(西暦1918)〜昭和23(西暦1948)年 イギリスによる国際連盟の委任統治 
昭和23(西暦1948)年 イスラエル国(メディナット・イスラエル)成立 共和政国家の樹立、現代に至る。



 西暦135年、ローマが叛乱を鎮圧し、ユダヤ的なものを一掃しようとしたローマ人は、この土地をユダの地(ユダヤ)ではなく、ユダヤ人の宿敵ペリシテ人に因んで「パレスチナ」、エルサレムを「アエリア・カピトリーナ」と改称し、ユダヤという地名は消滅した。

 また、ユダヤ人は人種的にはセム族とされるが、長いディアスポラ(離散)のなかで、周辺民族との混血の結果、セファルディームアシュケナジームの違いが生じ、また言語もイデッシュ語などが生まれた。現在、ユダヤ人はイスラエルの他、世界中に分布しており、アメリカにも約600万人が住んでいるとされる。しかし現在ではユダヤ人を「人種」概念で捉えるのは困難で、現実には「猶太教を信仰する徒輩」と捉えるのが正しい。人類学的に同質のユダヤ人は存在しない。




ブルボン朝(仏語: dynastie des Bourbons、西暦1589〜1792、1814〜1830年)、オルレアン朝(仏語: dynastie d'Orléans、西暦1830〜1848年) その1

 ブルボン(ケルト語: borvo / borbo)は「泥」の意。フランク王国メロヴィング朝(西暦481〜751)の宮宰で、カロリング朝(西暦751〜987年)を開いたピピン3世短躯王(小ピピン)の父のカール・マルテル(独語: Karl Martell、仏語: Charles Martel シャルル・マルテル)の子孫といわれるアデマールが西暦10世紀にブルボネー(仏語: Bourbonnais、オック語: Borbonés / Barbonés)の最初の領主となり、ブルボン城(現在のブルボン・ラルシャンボー)に因み家名をブルボン家と称した(古ブルボン家)。
 古ブルボン家は、西暦1218年に女領主マティルド1世・ド・ブルボン(Mathilde Ire de Bourbon)が、ギー2世・ド・ダンピエールと再婚し、長男のダンピエール家 (ダンピエール領主)のアルシャンボー8世・ド・ブルボン(Archambaud VIII de Bourbon)に相続された。しかしこのダンピエール・ブルボン家も、アルシャンボー8世の息子アルシャンボー9世が西暦1249年に男子を残さず死んだため、娘のアニェス・ド・ダンピエールがブルボン女領主になり、アニェスはブルゴーニュ公ユーグ4世の息子ジャンと結婚し、一人娘のベアトリス・ド・ブルゴーニュ女領主に相続された。西暦1272年にカペー朝9代国王ルイ9世(Louis IX)聖王の末子クレルモン伯ロベール(ロベール・ド・クレルモン Robert de Clermont)と結婚した。カペー朝(西暦987〜1328年)最後の15代国王シャルル4世(Charles IV)端麗王により、ベアトリスとロベールの長男ルイは、西暦1327年にクレルモンを王領とする代わりに、初代ブルボン公1世(Louis Ier de Bourbon)に陞爵した。これがカペー系ブルボン家(第1ブルボン家)の始まりである。

 西暦1328年にカペー朝最後の15代国王シャルル4世端麗王が死去し、ヴァロワ家のフィリップが即位してフィリップ6世(Philippe VI)幸運王となりヴァロワ朝(西暦1328〜1589年)が始まったが、プランタジネット朝(西暦1154〜1399年)イングランド国王エドワード3世がこれに異を唱え、百年戦争が勃発した。ブルボン家はヴァロワ家の外戚、有力諸侯としてこれを支えていった。以後はブルボン家の当主が代々ブルボン公を世襲した。
 百年戦争期、2代ブルボン公ピエール1世(Pierre Ier)は西暦1356年のポワティエの戦いで戦死し、息子ルイ2世が公位を継いだ。この戦いで捕虜となった2代国王ジャン2世(Jean II)善良王はロンドンで虜囚のまま西暦1364年に死去し、3代ブルボン公ルイ2世の妹ジャンヌを妃とする税金の父、3代国王シャルル5世賢明王が即位した。

 ジャンヌは西暦1373年に突如発狂した。ルイ2世は精神的に不安定で、精神病はブルボン家の近親者に多かれ少なかれ見られ、遺伝性疾患であった。これはヴァロワ家、後にランカスター家にも遺伝し、フランスとイングランドの歴史を大きく左右することになった。

 西暦1380年にシャルル5世賢明王とジャンヌの息子の4代国王シャルル6世狂気王が王位に即き、新王の伯父ブルボン公ルイ2世は先王の弟たちとともにその後見人となった。シャルル6世狂気王が西暦1392年に発狂して以後、王弟オルレアン公ルイの一派(オルレアン派)と叔父のブルゴーニュ公フィリップ2世豪胆公(後に息子ブルゴーニュ公ジャン1世無怖公)の一派(ブルゴーニュ派)の間で権力抗争が繰り広げられたが、ブルボン公ルイ2世はこの争いには加担しなかった。西暦1410年にブルボン公ルイ2世が73歳で没すると、ブルボン公位を継いだ息子ブルボン公ジャン1世は、暗殺されたオルレアン公ルイの遺児オルレアン公シャルル1世を首領として同年に結集したアルマニャック派に加わった。

 西暦1415年のアジャンクールの戦いで、フランス軍はヘンリー5世率いるイングランド軍に大敗し、オルレアン公シャルル1世を始めとする多くの貴族が捕虜となった。4代ブルボン公ジャン1世も捕虜となってロンドンへ送られ、ブルボン公ジャン1世の息子シャルルが不在の父に代わって実質的な家長となったが、若年のため母マリーが後見した。翌西暦1416年には、マリーの父でヴァロワ家の長老であったベリー公ジャンが没するが、ベリー公には男子の後継者がなく、マリーが所領の一部であるオーヴェルニュ公領およびモンパンシエ伯領を相続した。のち、マリーの長男であるシャルル1世は前者を譲られ、三男ルイは後者を譲られてブルボン・モンパンシエ家を興した。

 西暦1419年、ブルゴーニュ公ジャン1世無怖公はアルマニャック派によって暗殺され、息子のブルゴーニュ公フィリップ3世善良公は報復としてイングランドと同盟した(アングロ・ブルギニョン同盟)。西暦1422年にヘンリー5世とシャルル6世狂気王が相次いで没するが、ブルボン公シャルル1世はシャルル6世狂気王の息子5代国王シャルル7世勝利王に忠実に仕え、シャルル7世勝利王も自分とほぼ同年齢で有力な一族であるシャルル1世を信頼し重用するようになった。ランカスター朝(西暦1399〜1461年)イングランド王国とブルゴーニュ公国(西暦843〜1477年)がブルゴーニュ領ネーデルラント(西暦1384〜1477年)を巡って仲違いを始めると、シャルル7世勝利王はすかさずブルゴーニュ公フィリップ3世善良公と西暦1424年にシャンベリーの協定を結んで相互不可侵を獲得した。さらにシャルル7世勝利王は善良公を自分の陣営に引き込むため、翌西暦1425年にシャルル1世及び懐刀でもあるフランス元帥アルテュール・ド・リッシュモン(Arthur de Richemont)をブルゴーニュ公フィリップ3世善良公の姉妹であるアニェス、マルグリットとそれぞれ結婚させた。

 西暦1434年にブルボン公ジャン1世がロンドンで虜囚のまま没したことにより、シャルルは名実ともにブルボン公シャルル1世となった。同年末のヌヴェールでの協議において、リッシュモン元帥の調停によりブルボン公シャルル1世とブルゴーニュ公フィリップ3世善良公は和解した。翌西暦1435年のアラス会議には、フランス側の代表としてブルボン公シャルル1世とリッシュモン元帥が派遣された。会議は成功しアラスの和約が結ばれ、ブルボン公シャルル1世とリッシュモンはブルゴーニュ公フィリップ3世善良公の前で十字架に手を差し伸べ、ブルゴーニュ公ジャン1世無怖公への哀悼を示した。その後、ブルボン公シャルル1世はブルゴーニュ公フィリップ3世善良公と手を組んで街中を行進することで和解を示した。
 しかしその頃から、リッシュモンによる常備軍としての国王軍創設の改革を原因として、ブルボン公シャルル1世とシャルル7世勝利王の関係は悪化し、西暦1440年に発覚したプラグリーの乱は、ブルボン公シャルル1世がアランソン公ジャン2世やジャン・ド・デュノワら他の王族と謀り、シャルル7世勝利王を廃位して王太子ルイを王位に就けようと企てた事件であった。陰謀はリッシュモンに露見して失敗に終わり、ブルボン公シャルル1世は逃亡したが、後に自らシャルル7世勝利王の許に出頭して謝罪した。ブルボン公シャルル1世は罪を許されたものの、領地の一部を没収された。

 ブルボン公シャルル1世は百年戦争終結から3年後の西暦1456年に没し、息子のブルボン公ジャン2世が公位を継いだ。西暦1461年にはシャルル7世勝利王が死去し、ブルゴーニュ公国に亡命していた王太子ルイが6代国王ルイ11世慎重王が王位に就いた。ルイ11世慎重王は敵に忌み嫌われて、陰険さから「遍在する蜘蛛」(l'universelle araigne)と呼ばれた。ルイ11世は父王の中央集権化政策をさらに推し進め、ブルボン公ジャン2世を始めとする多くの諸侯の反発を招いた。ブルボン公ジャン2世は、自らの従弟で妹婿でもあるブルゴーニュ公フィリップ3世善良公の嫡男シャルル(後のブルゴーニュ公シャルル突進公)らを始めとする諸侯を糾合して公益同盟を結成した。
 西暦1467年にブルゴーニュ公位を継いだブルゴーニュ公シャルル突進公は、ヨーク朝(西暦1461〜1485年)イングランド国王エドワード4世と同盟し、共同でフランスに攻め寄せた。この戦いに際して、ブルボン公ジャン2世の庶弟リエージュ司教公爵ルイ・ド・ブルボンはフランス海軍元帥に任じられ、艦隊を率いてアラス一帯でゲリラ活動を行い、アングロ・ブルギニョン連合軍を撹乱した。ルイはさらに、エドワード4世との間で西暦1475年にピキニー条約を取りまとめてアングロ・ブルギニョン同盟を崩壊させた。

 西暦1488年に死去したブルボン公ジャン2世には庶子しかいなかったため、聖職にあった三弟ブルボン公シャルル2世が公位を継いだ。ブルボン公ジャン2世の庶子の家系はラヴェンダン子爵、バシアン男爵、マローズ男爵(後に侯爵)となった。しかしブルボン公シャルル2世は兄の死から5ヶ月余り後に死去した。四弟のリエージュ司教公爵ルイには男子ピエールがいたものの庶子扱いされ、この家系はブルボン・ビュッセ家(男爵後に伯爵)で、現在まで続いている。
 末弟ピエール2世が公位を継いだ。ブルボン公ピエール2世は7代国王シャルル8世温厚王の姉アンヌ・ド・ボージューの夫であり、妻と共に義弟の摂政を務めていた。

 唯一の男子に先立たれていたブルボン公ピエール2世が西暦1503年に死去すると、ブルボン家嫡流(第1ブルボン家)の男子は絶えた。そのため、ブルボン公ピエール2世の娘シュザンヌと、その又従兄に当たる傍系ブルボン・モンパンシエ家のモンパンシエ伯シャルル(シャルル3世)が結婚して、共同で公位を継承した。ヴァロワ家でもシャルル8世の死で嫡流が絶え、ヴァロワ・オルレアン家のオルレアン公シャルルの息子の8代国王ルイ12世人民の王が王位を継承し、続いてヴァロワ・アングレーム家の従甥で娘クロードの婿である9代国王フランソワ1世が西暦1515年に王位に就いた。

 シャルルはブルボン公ジャン1世の三男モンパンシエ伯ルイ1世の孫で、その息子ジルベールとマントヴァ侯フェデリーコ1世の娘クララの息子であった。伯位は父からシャルルの兄ルイ2世に継承されていたが、ルイ2世が未婚のまま早世したためシャルルが継承者となった。
 ブルボン公シャルル3世はマリニャーノの戦いで功を立てて元帥に任じられ、さらにはミラノ総督に任じられたが、有能さ故に恐れられたのか、間もなく更迭されて帰国を命じられた。西暦1521年に妻シュザンヌが没すると、フランソワ1世の母でブルボン公シャルル1世の娘マルグリットを母とするルイーズ・ド・サヴォワがブルボン家の相続権を主張し、シュザンヌの領地はフランソワ1世に没収された。これに憤激したブルボン公シャルル3世は西暦1523年、フランソワ1世の宿敵である神聖ローマ皇帝カール5世と密約を交わし、イングランド王ヘンリー8世も巻き込んだ陰謀を企てた。しかし、この陰謀はフランソワ1世に露見し、ブルボン公シャルル3世はカール5世の許へ逃亡した。
 カール5世の下で軍の指揮を委ねられたブルボン公シャルル3世は、西暦1525年のパヴィアの戦いでフランソワ1世を捕虜とする活躍を見せた。フランソワ1世は翌西暦1526年にマドリード条約を締結して釈放されるが、すぐに破棄して西暦1527年に戦争を再開した。カール5世は、フランソワ1世に与した法王クレメンス7世への懲罰として、ブルボン公シャルル3世を指揮官とする軍勢をローマへ差し向けた。ブルボン公シャルル3世率いる神聖ローマ皇帝軍は法王軍を敗走させたが、ローマを包囲中にブルボン公シャルル3世は戦死した。指揮官の死によって神聖ローマ皇帝軍は統制を失い、ローマ掠奪が起こった。

 血統親王(プランス・デュ・サン、Prince du sang)血の王子にはカペー朝を源とする全王族が含まれるが、 実際には、ヴァロワ家やブルボン家では、カペー朝9代国王ルイ 9 世聖王の血を引き継ぐ子孫だけが認められた。

 フランス王国カペー朝9代国王ルイ9世の末息子(下から2人目)がクレルモン伯ロベールで、その長男が初代ブルボン公ルイ1世。ブルボン公ルイ1世の四男ラ・マルシュ伯ジャック1世(Jacques I)で、ブルボン家の傍流、ブルボン・ラ・マルシュ家が始まった。
 ラ・マルシュ伯ジャック1世の次男ジャンはポワティエの戦いにおいて捕らわれ身代金を要求された。西暦1362年、ブリニェの戦いでラ・マルシュ伯ジャック1世と長男ピエールは致命傷を負い、ラ・マルシュ伯ジャック1世の死後まもなく長男ラ・マルシュ伯ピエール2世も戦死し、次男ジャンがラ・マルシュ伯位を継承し、ラ・マルシュ伯ジャン1世となり、ヴァンドーム伯ジャン6世の娘でヴァンドーム女伯カトリーヌと結婚した。長男のラ・マルシュ伯ジャック2世は、西暦1396年にニコポリスの戦いで捕虜となり、後に身代金を要求された。西暦1403年、ラ・マルシュ伯ジャック2世はイングランド本土への攻撃を主導しプリマスを焼き払ったが、嵐の中で12艘の艦隊の船を失い、西暦1404年にフランスに戻った。ブルゴーニュ公ジャン1世無怖公を支持し、アルマニャック派と対立した。西暦1415年にナポリ王国(西暦1282〜1816年)女王ジョヴァンナ2世と結婚したが王権を簒奪しようとし幽閉された後、西暦1419年にナポリ王国から追放された。西暦1428年にヴァロワ朝5代フランス国王シャルル7世勝利王のためにイングランド軍と戦い、西暦1435年にラ・マルシュ伯位を放棄しフランシスコ会修道士となって西暦1438年に死去した。 ラ・マルシュ伯は長女エレオノールがラ・マルシュ女伯エレオノールとして継承した。
 ラ・マルシュ伯ジャン1世の次男ルイは、ヴァンドーム伯ルイ1世を継承し、ブルボン・ヴァンドーム家となった。宮廷で高位にあり、西暦1413年に大侍従(Grand maître de France)となった。アルマニャック派の一員として、ブルゴーニュ派と対立し、西暦1407年と西暦1412年の2回、彼らによって虜囚となった。西暦1414年のアジャンクールの戦いでイングランド軍に囚われ、捕虜となりその後解放され、クラヴァンの戦いでフランス軍を指揮したが、西暦1423年07月31日に捕虜となった。王党派として、その後、西暦1429年にはオルレアンでジャンヌ・ダルクや他の多くの王党派貴族とともに防衛戦に参加し、ジャルゴーの攻囲を指揮し、ランスでのシャルル7世勝利王の戴冠を助けた。アラスの和約の会議にも参加した。
 子のヴァンドーム伯ジャン8世は、シャルル7世勝利王の与党の1人として、ノルマンディーやギュイエンヌでイングランド軍と戦い、長男の6代国王ルイ11世慎重王にも仕えたが、ルイ11世慎重王に嫌われ居城に引退した。
 父の死により、7歳でヴァンドーム伯フランソワ(François)となった。ヴァンドーム伯フランソワの長男ヴァンドーム伯シャルルは9代国王フランソワ1世の時代に国王軍の指揮官として活躍し、ヴァンドーム伯からヴァンドーム公へと陞爵され、ヴァンドーム公シャルルとなった。

 ブルボン公シャルル3世の死をもって、ブルボン家の本流は絶えた。代わって、ブルボン公ルイ1世の四男ラ・マルシュ伯ジャック1世から5代目の末裔であるヴァンドーム公シャルルがブルボン家の家長となったが、ブルボン公の称号と所領はルイーズ・ド・サヴォワを経てヴァロワ・アングレーム王家のものとなった。一方、ヴァンドーム公シャルルの叔父ラ・ロッシュ・シュル・ヨン公ルイ(ヴァンドーム伯ジャン8世の次男)はブルボン公シャルル3世の姉ルイーズ(モンパンシエ伯ジルベールの長女)と結婚しており、ブルボン朝初期まで続く第2ブルボン・モンパンシエ家を興している。

 ヴァンドーム公シャルルの伯母ジャンヌ・ド・ブルボン・ヴァンドーム(Jeanne de Bourbon-Vendôme)は、初め宗家のブルボン公ジャン2世の3人目の妻となり、死別後の再婚でカトリーヌ・ド・メディシスの母マドレーヌ・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュを儲けている。また、ヴァンドーム公シャルルの妹アントワネット・ド・ブルボン・ヴァンドーム(Antoinette de Bourbon-Vendôme)は初代ギーズ公クロード(Claude de Guise)に嫁いだ。戦いで目覚ましい働きをしたギーズ伯クロードは、西暦1528年にフランソワ1世が神聖ローマ帝国皇帝カール5世の捕虜から解放されて戻ると、ギーズ公を授爵され、ギーズ公クロードとなった。それまで公爵位は、王家の出自を持つ者だけに限られており、極めて異例であった。ギーズ家は、その後もロレーヌ公の分家かつヴァロワ・アンジュー家の子孫としてブルボン家傍流のコンデ家やコンティ家よりも優位と主張した。長女マリー・ド・ギーズ(仏語: Marie de Guise、英語: Mary of Guise)は、長女がフランソワ2世の王妃でもあったスコットランド王国(西暦843〜1707年)女王メアリー1世(メアリー・ステュアート)。長男ギーズ公フランソワの長男がギーズ公アンリ1世でユグノー戦争期のカトリック同盟の中心人物で、ブルボン・ヴァンドーム宗家のアンリ(後のアンリ4世)と敵対した。スコットランド女王メアリー1世(メアリー・ステュアート)もギーズ公アンリ1世も、どちらもアントワネットの孫で、ナヴァラ王ブルボン・ヴァンドーム公アンリはヴァンドーム公シャルルの孫である。

 ヴァンドーム公シャルルの息子ヴァンドーム公アントワーヌは、西暦1548年に同じくプロテスタントであったナヴァラ王エンリケ2世の一人娘ジャンヌ・ダルブレと結婚した。ジャンヌの家系アルブレ家はナヴァラ王家としてピレネー山脈以北のバス・ナヴァール(低ナヴァラ、現在のフランス領バスク)を治めた他、フォワ、ベアルンなどフランス南部に所領を持つ大貴族であり、ジャンヌはその最後の当主であった。また、ジャンヌの母マルグリットはフランソワ1世の姉であり、さらに最初の夫アランソン公シャルル4世がヴァンドーム公アントワーヌの母方の伯父であるという縁もあった。ヴァンドーム公アントワーヌは騙されやすく、また窃盗癖、浮気癖があり無能であったために、エンリケ2世は婿であるアントワーヌに対して期待をしていなかった。西暦1551年に長男アンリが生まれたが2年後に死去し、その死の4ヶ月後に後にブルボン朝を開き初代国王アンリ4世となる次男アンリが生まれた。
 エンリケ2世の死後、ナヴァラ王家はフランスと異なり、サリカ法(女子の承継を禁止したゲルマン法)を適用外で、ジャンヌ・ダルブレは夫とともに女王として即位した。ナヴァラ女王ジャンヌ・ダルブレは熱心なユグノーであり、カルヴァン派を国教として領内のカトリック教徒を徹底的に迫害した。西暦1560年に12代国王シャルル9世が即位すると、夫ヴァンドーム公アントワーヌは王国総代官に任じられた。翌西暦1561年、ヴァンドーム公アントワーヌはカトリックに改宗し、息子アンリも改宗させられた。アンリはこの後、プロテスタントとカトリックの間で度々改宗した。ナヴァラ女王ジャンヌ・ダルブレはパリの宮廷を去り、西暦1562年にユグノー戦争が始まると、ナヴァラ女王ジャンヌ・ダルブレはユグノー陣営に就いた。ヴァンドーム公アントワーヌはカトリック陣営の一員として戦ったが、ルーアン包囲戦で戦死し、幼い息子アンリがブルボン家の家長でナヴァラ王ヴァンドーム公アンリとなった。

 ブルボン・ヴァンドーム公アントワーヌの弟のうち、ブルボン枢機卿およびルーアン大司教シャルルはヴァロワ朝13代国王アンリ3世の死後にアンリ4世の対立王「シャルル10世」として擁立されたが、間もなく死去した。末弟のブルボン・コンデ公ルイ1世はブルボン・コンデ家の祖である。この家系からは、ブルボン・コンデ公ルイ1世の息子のブルボン・コンデ公アンリ2世の次男アルマンからさらにブルボン・コンティ家が分枝した。
 アンリ4世の即位後、ヴァンドーム公位は庶子セザールに授けられ、第2ブルボン・ヴァンドーム家を興したが、孫のフィリップの代で断絶した。 ブルボン公シャルル3世の死でブルボン家嫡流が断絶した際、傍系のヴァンドーム公シャルルがブルボン家家長を継承する一方、ブルボン公の称号と所領はヴァロワ・アングレーム王家のものとなった。

ブルボン朝 フランス王朝史3 (講談社現代新書) - 佐藤 賢一
ブルボン朝 フランス王朝史3 (講談社現代新書) - 佐藤 賢一


 ヴァロワ朝の末期には王家支流のほとんどが断絶していて、遥かルイ9世まで遡る遠縁筋のブルボン家でも分家となる新教徒のアンリ・ド・ナヴァラ(ナヴァラ王ヴァンドーム公アンリ)が王位継承者として定まった。そして新旧両派の宗教戦争であったユグノー戦争の最中にアンリ3世が暗殺されてヴァロワ朝が断絶し、そのナヴァラ王がアンリ4世として本来カトリックのフランス国王に即位したことでブルボン朝が成立した。このときメディチ家の財力を受け継いだ。ルイ14世の時代には絶対王政を築き、ハプスブルク家と政略結婚もし、領土拡大など戦果を上げて最盛期を迎えた。
 ルイ14世(Louis XIV)、ルイ15世と対外戦争に度々出兵して膨大な軍事費を課税で賄った。ルイ16世の時代にフランスの財政は破綻に瀕した。このため、ルイ16世はそれまで特権階級であった貴族や聖職者にも課税しようと西暦1789年に全国三部会を召集したが紛糾し、それがフランス革命勃発の直接の原因となった。
 フランス革命でブルボン家は王位を追われてフランスを去り、皇帝ナポレオン1世の失脚により王政復古(フランス復古王政)で舞い戻ったが、七月革命によって再度王位を追われた。現在のスペイン王室は分家にあたる。


 
 ナヴァラ女王の母ジャンヌ・ダルブレは熱心なユグノー(カルヴァン主義プロテスタント)であり、その影響で父ナヴァラ王ヴァンドーム公アントワーヌはプロテスタントで活躍し、このユグノーの盟主となっていた。西暦1559年に10代国王アンリ2世が事故死し、11代国王フランソワ2世が即位した。フランソワ2世の治世下では王妃マリー・デコス(Mary d'Écosse、スコットランド女王メアリー・ステュアート)の親族であるギーズ家が権勢を振っており、ギーズ公フランソワは熱狂的なカトリックで、宗派間の対立が高まり、ギーズ公フランソワは西暦1560年のアンボワーズの陰謀事件で多数のプロテスタント貴族を粛清した。フランソワ2世は西暦1560年に早世し、弟の12代国王シャルル9世が即位した。本来ならブルボン家当主のナヴァラ王ヴァンドーム公アントワーヌが摂政を務めることになるが、母后カトリーヌ・ド・メディシスが摂政に就任し、ヴァンドーム公アントワーヌは王国総代官(軍最高司令官職)となった。翌西暦1561年に7歳のアンリは父に呼び寄せられて宮廷に入った。摂政カトリーヌ・ド・メディシスはカトリックとプロテスタントの融和を図ったが、対立は更に激化してしまい、その最中にヴァンドーム公アントワーヌはカトリックに寝返り改宗した。熱心なプロテスタントのナヴァラ女王ジャンヌ・ダルブレは宮廷を去り、幼いアンリはカトリックに強制的に改宗させられた。
 西暦1562年、ギーズ公フランソワのユグノー虐殺事件を契機にユグノー戦争が勃発し、プロテスタント信仰に忠実な叔父のコンデ公ルイ1世がユグノー陣営の盟主となり、ナヴァラ女王ジャンヌ・ダルブレもこれに加わった。一方、改宗したナヴァラ王ヴァンドーム公アントワーヌはカトリック陣営の司令官として戦い、ルーアン包囲戦で戦死し、幼いアンリがブルボン家の当主となった。
 西暦1563年02月にギーズ公フランソワがプロテスタントの刺客に暗殺され、03月にアンボワーズの和議が成立して戦争は一旦終わった。西暦1564年、シャルル9世と王太后カトリーヌ・ド・メディシスが全国巡幸に出発し、アンリもこれに随行した。この巡行中にサロン・ド・プロヴァンスに立ち寄り、占星術師ノストラダムスから「アンリが将来国王になる。」と予言されたという。西暦1567年に和平は破綻し、再び戦争が始まり、アンリは母ナヴァラ女王ジャンヌ・ダルブレにベアルンへ連れ帰され、ユグノー陣営に加わった。ベアルンでカトリックの叛乱が起こると、アンリは初めて軍隊の指揮を執り、見事に撃退した。ヴァンドーム公アンリは母と共にユグノーの本拠地ラ・ロシェルに入った。
 西暦1568年、ジャルナックの戦いでユグノー盟主の叔父コンデ公ルイ1世が戦死してしまい、このため若いヴァンドーム公アンリが盟主となり、軍隊の指揮はガスパール・ド・コリニー提督が執ることになった。戦争ではユグノーは苦戦するものの、やがて有能なコリニー提督の指揮の下で勢いを盛り返し、西暦1570年に和議が成立して終わった。王太后カトリーヌ・ド・メディシスはカトリックとプロテスタントとの宥和のため、ヴァンドーム公アンリと王妹マルグリットとの婚姻を提案した。母ナヴァラ女王ジャンヌ・ダルブレは両人の宗派の違いから躊躇したが、最終的にはこの婚姻に同意した。程なく西暦1572年06月に母が急死した。王太后カトリーヌ・ド・メディシスによる毒殺と言われる。ヴァンドーム公アンリはナヴァラ王位を継承した(アンリ・ド・ナヴァーラ、エンリケ3世(バスク語: Henrike III.a))。
 同年08月18日、ヴァンドーム公アンリは王妹マルグリットとの結婚式を挙げたが、08月24日、結婚式参列のためパリに集まっていたコリニー提督をはじめ多くのユグノー貴族がカトリック派のギーズ公アンリ1世の兵によって虐殺された。カトリックは貴族だけでなくプロテスタントの民衆まで無差別に虐殺を始め、数千人が殺された。虐殺はフランス各地にも広がり、死体がパリ市内の至る所に放置される中で、ナヴァラ王アンリは従弟のコンデ公アンリ1世とともに強制的にカトリックに改宗させられ、宮廷に幽閉された。

 このサン・バルテルミの虐殺を契機に戦争が再開すると、アンリはカトリック側で参戦した。途中休戦を挟みつつ戦争が続く中、西暦1574年にシャルル9世が死去し、弟アンリ3世は前年の西暦1573年にポーランドの国王に迎えられていたが、兄の訃報を受けると直ちにポーランドを出奔して帰国し、最後の13代国王アンリ3世に即位した。
 ナヴァラ王ヴァンドーム公は幾度かの宮廷脱出の試みに失敗した後、西暦1576年02月03日の狩猟大会中に逃走に成功し、しばらく戦争の情勢を観望したナヴァラ王ヴァンドーム公は、同年05月にユグノー有利の和議が成立すると06月13日にプロテスタントに再改宗し、ユグノー陣営の盟主となった。カトリック陣営はギーズ公アンリ1世を首領とするカトリック同盟を結成して巻き返し、またも戦争が再開した。西暦1584年、王弟アランソン公フランソワ(エルキュール・フランソワ・ド・フランス)の死に伴い、ナヴァラ王ヴァンドーム公アンリは筆頭王位継承権者となった。宗教戦争にフランス王位継承問題もからみ、アンリ3世とカトリック同盟のギーズ公アンリ1世、そしてユグノー盟主のナヴァラ王ヴァンドーム公アンリによる、3アンリの戦いと呼ばれる様相を呈するようになった。
 危機感を覚えたギーズ公アンリ1世は、アンリ3世に圧力をかけて西暦1585年にヌムール勅令を出させ、ナヴァラ王ヴァンドーム公アンリの王位継承権を無効とさせ、ローマ法王シクストゥス5世もこれに同調する教書を出し、不利になったナヴァラ王ヴァンドーム公アンリだったが、穏健派カトリック貴族の協力を得て、西暦1587年のクートラの戦いではカトリック軍に大勝することに成功した。
 アンリ3世は交渉による和平を模索したが、西暦1588年05月にパリで起こったバリケードの日事件を契機としてギーズ公アンリ1世はアンリ3世に、自らの推すブルボン枢機卿シャルル1世(ナヴァラ王ヴァンドーム公アンリの叔父)を王位継承者と認めさせることに成功し、カトリック同盟が優位に立った。ギーズ公アンリ1世がパリに入ると、アンリ3世はパリを脱出した。アンリ3世とナヴァラ王ヴァンドーム公アンリは、カトリック同盟に対抗して提携した。その後ギーズ公アンリ1世とアンリ3世は和解したが対立は収まらず、ギーズ家は勢力を強め国王に対して脅威となっていた。>巻き返しを図るアンリ3世は同年12月23日、近衛兵に命じてまずギーズ公アンリ1世を、翌日には弟のロレーヌ枢機卿ルイを暗殺した。ギーズ公位は妃カトリーヌ・ド・クレーヴ(ブルボン家の血を引くナバラ王アンリの従姉であった)との間の息子シャルルが後を継ぎ、カトリック同盟の指導者の地位は弟のマイエンヌ公シャルルが就いた。ギーズ公アンリ1世の妃カトリーヌ・ド・クレーヴは夫の暗殺に荷担したアンリ3世を決して許さなかった(アンリ3世はカトリーヌを「サン・メグランの妾」と嘲っていた。)。カトリーヌ・ド・クレーヴは夫との間に14人もの子供を儲けながら、サン・メグランという若い貴族と密通していたことが広く知られている。ギーズ公アンリ1世はサン・メグランを殺した。この事件は、西暦1829年にアレクサンドル・デュマの戯曲の題材となった。彼女はカトリック同盟の中に身を投じ、西暦1589年にアンリ3世の暗殺を奨励した。3アンリの戦いの終結後、強力なギーズ家に迎合する者が増え、カトリーヌ・ド・クレーヴの長子ギーズ公シャルル1世をフランス王に推挙する声さえ挙がりだした。
 この暗殺にカトリック陣営は激昂し、パリ大学とパリ高等法院は「アンリ3世を国王とは認めない。」と宣言し、ローマ法王もアンリ3世の破門を宣言した。カトリック陣営によってアンリ3世に対する様々な中傷が行われた。アンリ3世に対するカトリック教徒の敵意が高まっていた。 カトリック同盟と敵対したアンリ3世はナヴァラ王ヴァンドーム公アンリのユグノー軍と合流して、カトリック同盟の本拠地パリの奪回を図った。西暦1589年08月01日の朝。ジャック・クレマン(Jacques Clément)はサン・クルーに滞在していたアンリ3世に謁見を求めた。寝床にあったアンリ3世はこれを認め、08時にクレマンと謁見した。アンリ3世がクレマンから手渡された書状を読もうとした時、クレマンは隠し持っていた短刀を取り出してアンリ3世に襲いかかり、脾臓のあたりを突き刺した。クレマンはその場で護衛に殺されて体をバラバラにされた。ジャック・クレマンの遺体はカトリック教徒たちの聖遺物にならぬよう焼かれて灰にされた。

 アンリ3世は重態となり、助からぬと悟ると、ナヴァラ王ヴァンドーム公アンリを死の床に呼び、彼にフランス王位を託し、同時にカトリックへの改宗を勧めた。08月02日午前03時にアンリ3世は死去し、ヴァロワ朝は断絶した。35歳のナヴァラ王ヴァンドーム公アンリがフランス王位を継承して、ブルボン朝初代国王アンリ4世良王として即位し、新たにブルボン朝が開かれることになった。在位中から現代に至るまでフランス国民の間で人気の高い王で、大アンリ(Henri le Grand)、良王アンリ(le bon roi Henri)と呼ばれる。

 しかし、スペイン帝国(西暦1492〜1976年)の後ろ盾を持つカトリック同盟はローマ法王から破門されていたアンリ4世良王を認めず、ギーズ公アンリ1世の弟のマイエンヌ公シャルルを盟主に擁立、ブルボン枢機卿シャルル1世に「シャルル10世」を称させて新国王に擁立し、アンリ4世に戦いを挑んだ。アンリ4世良王は各地を転戦してカトリック同盟と戦いつつパリ攻略を目指したが、頑強な抵抗を受け容易に陥落できなかった。一方、西暦1590年にブルボン枢機卿が死去したためカトリック同盟も決め手を欠いていた。
 アンリ4世良王は、「カトリック信者が圧倒的なパリがプロテスタントの王を受け入れることがない。」と悟った。西暦1593年07月にアンリ4世良王は寵妃ガブリエル・デストレへ「とんぼ返りを打つことにする。」と手紙を書き送っている。同年07月25日、アンリ4世はサン・ドニ大聖堂で司祭の祝福を受けてカトリックに改宗した。巷間知られるところによれば「Paris vaut bien une messe」(パリはミサを捧げるに値する都市である。)と語った。これによって、なおカトリックが優勢であったフランス国民の広汎な支持を受けることに成功し、西暦1594年02月27日にシャルトル大聖堂で正式に成聖式(戴冠式)を執り行うことができた(本来はランス大聖堂で行わねばならないが、この時点では未だカトリック同盟の勢力下にあった。)。同年03月22日に遂にパリ入城を果たし、その後、地方の各都市も続々とアンリ4世良王に帰順し、マイエンヌ公シャルルと甥でギーズ公の遺児ギーズ公シャルル1世も帰順しカトリック同盟は瓦解した。
 ブルターニュではスペイン帝国の支援を受けたメルクール公フィリップ・エマニュエルが抵抗を続けており、西暦1595年にアンリ4世はスペイン帝国に宣戦布告をしてブルターニュ平定を行った。メルクール公フィリップ・エマニュエルが降伏し、スペイン帝国との和平交渉も始まった西暦1598年04月30日にアンリ4世良王はナントの勅令を発した。同勅令はカトリックをフランスの国家的宗教であると宣言しつつ、プロテスタントに多くの制約はあるものの信仰の自由を認め、フランスにおける宗教戦争の終息を図ったものであった。カトリックとユグノーとの国内宥和に努め、40年近くにわたる戦争を終結させた。

 サン・バルテルミの虐殺のため、不幸な結婚となったアンリ4世良王と妻マルグリットとの関係は冷え切ったものであり、子供もいなかった。共に好色な夫婦は長きにわたって別居状態で、それぞれが大っぴらに幾多の愛人を抱えていた。後にマルグリットは1人でオーヴェルニュのユソン城に移り住んでいた。アンリ4世良王が王位に就くと、側近たちは後継者問題で再び内戦状態にならないためにもきちんとした後継者を残すよう提言した。アンリ4世良王はローマ法王にマルグリットとの結婚の無効を認めてもらうことで、すでに3人の子供を生んでいるガブリエル・デストレを正式な妻に迎えたいと望んでいた。身分の問題から側近は反対したが、ガブリエルが西暦1599年04月に急死したことで問題は立ち消えとなった。同年、ローマ法王からマルグリットとの結婚が無効であったとの宣言が下され、西暦1600年にアンリ4世良王はメディチ家のマリー・ド・メディシスと結婚した。2人の間には6人の子が生まれている。だが、政略結婚である2人の仲は決して円満ではなく、多情なアンリ4世良王は多くの愛人を持ち、その数は56人以上と言われ、アンリ4世良王は愛人の中でもとりわけアンリエット・ダントレーグを深く愛した。
 アンリ4世良王は賢明で有能な君主であった。反対派貴族を武力で弾圧するのではなく、懐柔することに努め、そのためには賠償金の支払いさえ辞さなかった。さらに国民の生活状態を配慮する姿勢が評価されて絶大な人気を誇り、「良王アンリ」と呼ばれる。

 まず、内戦で疲弊したフランスを立て直すために、側近であったシュリー公マクシミリアンに国家経済の再建、農業の促進、開墾地の拡大、公共事業の活発化などの政策を行わせた。さらに教育機関の拡充、街道の整備、森林の保護、橋や運河の整備を推し進めた。また、セーヌ川を跨ぐポンヌフ橋の建造を中心とした首都パリの大規模な再開発計画を実行し、パレ・ロワイヤルやルーブル宮殿の大ギャラリーを建造した。このギャラリーは長さ400m、幅30mにも及ぶ、当時の世界では最大級の建築物であった。さらにアンリ4世良王はあらゆる芸術家・工芸家を招いてルーブル宮殿に住まわせ、創作活動を行わせた。これはナポレオン・ボナパルトが禁止するまで、歴代の王によって継承される政策となった。
 行政面では、税の支払いの見返りに官職の世襲を保証するポーレット法を定め、また金融家から地域の税金を前借りして代わりに徴税を請け負わせる徴税請負人制度を作り、財政の再建に努めた。
 アンリ4世良王の卓見は国内を越えており、北アメリカの探検にサミュエル・ド・シャンプランを派遣している。これは後にカナダにフランスの植民地が築かれる基礎となった。また、悲惨な戦争の惨禍を防ぐため、ヨーロッパ各国が共同して国際裁判所と国際軍を持ち、侵略行為に対抗するという「大計画」を構想していた。

 有能な君主として国民に広く愛されたアンリ4世良王だったが、常に暗殺の危機に晒されていた。西暦1594年12月27日ジャン・シャテル(Jean Châtel)による暗殺未遂で重傷を負った。ジャン・シャテルは布地商人の息子で、12月29日に処刑された時は19歳であった。ジャン・シャテルは王の部室への侵入し、アンリ4世良王が彼の前に跪いていた2人の役人が立ち上がるのを手伝おうと身を屈めたとき、ジャン・シャテルはナイフでアンリを4世良王を襲撃し唇を刺した。すぐに逮捕され(宮廷道化師マチュリーヌ・ド・ヴァロワによって闘争を阻止された。)、不敬罪(lèse-majesté)で有罪判決を受け、法律の規定に従い、最初にジャン・シャテルが国王を襲った手は、溶融硫黄、鉛、蝋で焼き、その後、四肢切断により処刑された。尋問によりシャテルは、カレッジ・ド・クレルモン(現リセ・ルイ・ル・グラン)のイエズス会で教育を受けていたことを明らかにした。宗教戦争がまだ進行中の当時の雰囲気では、「ジャン・シャテルの襲撃を扇動した。」としてイエズス会が非難されるのは避けられなかった。彼の元教師であるヘイ神父とゲレ神父は幸運にも追放された。3人目の教師であるギニャール神父は、「事件に関与した。」と推定され、絞首刑と火刑に処された。クレルモン大学は閉鎖され、建物は没収された。イエズス会教団はフランスからの入国を禁止されたが、この禁止はすぐに解除された。
 西暦1610年05月14日、アンリ4世良王は馬車に乗ろうとした際に狂信的なカトリック教徒のフランソワ・ラヴァイヤック(François Ravaillac)に刺殺された。フランソワ・ラヴァイヤックは6人兄弟で父親が家族を捨てたため貧困の中で育った。祖父のフランソワ・ラヴァイヤックはアングレームの検事で、叔父のうち2人はアングレーム大聖堂の司祭だったが、彼の父親ジャン・ラヴァイヤックは暴力的な男だった。信仰心が篤く修道士になることを希望し、フイヤン派に入会して厳しい修行をしたが、幻覚を見るようになって数週間で退会させられた。そのためイエズス会に入会を希望したが、断られて落ち込み、その後、アングレーム市の裁判所で書記をして、疎遠になった兄弟の代わりに年老いた母親を養っていたが、近くに住んでいた父親と兄弟が窃盗の廉で告発されたため解雇され、駐車係と地元の子どもたちに読み書きと耶蘇教の教義を教えることで生計を立てていた。西暦1609年、ラヴァイヤックは、「ユグノーをカトリックに改宗させるようアンリ4世を説得するよう指示する幻視を体験した。」と主張し、西暦1609年の聖霊降臨祭から西暦1610年05月までの間、アンリ4世良王に謁見し自分の意見を国王に伝えようとパリに出かけ、ルーヴル宮殿に3度も足を運び3度護衛に追い返された。パリでは、エペルノン公ジャン・ルイ・ド・ノガレ・ド・ラ・ヴァレットの愛人であるシャルロット・デュ・ティレの家に滞在した。ラヴァイヤックは国王に会うことができず、スペイン領ネーデルラント(西暦1579〜1713年)への侵攻というアンリ4世良王の決定を法王に対する戦争の始まりと解釈した。それを阻止しようと決心し、彼は王を殺すことを決意した。「異端者を亡き者にせよ。」という神YWHWの声を聞くようになり、翌年パリに出た。
 西暦1610年05月14日、ラヴァイヤックはパリのフェロヌリ通り(現在のフォーラム・デ・アールの南)で待機していた。アンリ4世良王の馬車はパリ市内を通過中、サントノーレからフェロヌリー通りに入ったところ、ワインを積んだ荷車で片側を、干し草を積んだ荷車でもう片側を塞がれ立ち往生し停止させられ、ラヴァイヤックはアンリ4世良王の馬車の車輪に登り、アンリ4世良王の両側からナイフで激しく第二肋骨と第三肋骨の間を貫き刺し殺した。アンリ4世良王と同乗していたモンバゾン公エルキュールも襲撃で負傷した。ラヴァイヤックはその場ですぐに警察に捕らえられ、集団私刑を避けるためにホテル・ド・レに連行された。やがてコンシェルジュリーに投獄された。
 取り調べの初めに、ラヴァイヤックは「彼が死んだことはよく知っている。ナイフに付いた血と彼を刺した箇所を見た。だが、死んだことに全く後悔していない。自分が為すべきことをしたからだ。」と語った。ラヴァイヤックの背後にある黒幕を暴こうと、尋問、拷問が続いたが、ラヴァイヤックは「共犯者はいない。」と否定し、「単独で行動した。」と組織的な陰謀であることを頑なに否定した。 国王の経路と国王に接近するための交通の遮断についての彼の情報は、興奮した推測を齎した。国王は、兵器庫で病気で臥せっているサリーを訪ねる途中だった。 彼の目的は、ジョン・ウィリアム公爵の死後、係争中のユーリッヒ・クレーヴス・ベルクの後継者問題への差し迫った軍事介入に向けた最終準備を整えることであった。 カルヴァン主義者の候補者に代わって介入すれば、フランスはカトリックのハプスブルク王朝と対立することになるだろう。 ラヴァイヤックはその計画を知ったようだ。 彼の苦悩する心の中で、「彼は国王が法王庁をパリに移転するために法王と戦争をしたいと考えているのを見ていた。」パリ高等法院は単独犯として死刑を命じた。
 05月27日、フランソワ・ラヴァイヤックはコンシェルジュリーを出た後、ノートルダム大聖堂前で公開陳謝してパリのグレーヴ広場(現在のパリ市庁舎前広場)に連行され、4つ裂きの刑となった。4つに裂かれる前に溶融硫黄、溶融鉛、沸騰した油と樹脂で火傷を負わされ、その後肉を鋏で引き裂いた後、4頭の馬に引き裂かれた。これは国王殺しに特有の処刑方法である。フランソワ・ラヴァイヤックは31か32歳だった。
処刑後、フランソワ・ラヴァイヤックの両親は国外追放とされ、ラヴァイヤックの親戚は姓を変えさせられた。西暦1611年01月、ラヴァイヤックと知り合いだったジャクリーヌ・デスコマン夫人は、アンリ4世の死に責任があるのはエペルノン公であると非難した。彼女は残りの人生を投獄された。事件は単独犯として決着したが、権力上層部による陰謀であったと考える。

 ラヴァイヤックに触発された模倣犯に、西暦1620年にポーランドのジギスムント3世の暗殺未遂のミヒャエル・ピカルスキ、西暦1757年にフランス国王ルイ15世の暗殺未遂のロベール・フランソワ・ダミアンなどがいる。

「人ったらし王」アンリ4世の生涯: 「そのテキトーさで乱世を生き残った!」 - 小園 隆文
「人ったらし王」アンリ4世の生涯: 「そのテキトーさで乱世を生き残った!」 - 小園 隆文


 王の息子であるルイは、フィス・ド・フランス(Fils de France, 「フランスの息子」の意)の称号を与えられ、長男だったためドーファン(王太子)で、西暦1610年に8歳半の王太子ルイが2代国王ルイ13世正義王(ナヴァラ国王としてはルイス2世、バスク語: Luis II.a)として即位し、即位したルイ13世正義王は幼かったものの、成人する西暦1617年まで王太后マリーが摂政として政務を執ることになった。成年すると王太后を排除し、リュイヌ公シャルル・ダルベール、次いで有能なリシュリュー枢機卿を重用してユグノーなどの国内の抵抗勢力を制圧し、国外では三十年戦争でハプスブルク家と戦い、国政を整備して最初期の絶対君主の1人となった。また、ブルボン朝で初めてハプスブルク家と政略結婚した、フランスの絶対主義体制が整えられていった。またドイツで起こった三十年戦争を表裏一体となって、支援介入し、国際的地位を確立していった。ただしフランス国王を神聖ローマ皇帝に戴冠するという野望は挫折した。

 ルイ13世正義王の父方の祖父母はヴァンドーム公アントワーヌおよびナヴァラ女王ジャンヌ・ダルブレ、母方の祖父母はメディチ家のトスカーナ大公フランチェスコ1世および神聖ローマ皇帝フェルディナント1世の皇女ヨハンナであり、母方の叔母エレオノーラ・デ・メディチが代母となった。アンリ4世良王は40年近くにわたったユグノー戦争を終わらせて国内を平定し、ナントの勅令を発してカトリックとユグノーの対立を一応は鎮めた。だが、ナント勅令はユグノーに信仰の自由を保証しただけでなく、プロテスタント地域での軍事・政治の特権も与え、「国家の中の国家」と呼ばれる状態となり、根強い宗教対立とともに国内の不安定要因となっていた。
 王太后マリーは夫の時代の大臣たちのほとんどをそのまま残したが、国民に人気がなかったシュリー公マクシミリアン・ド・ベテュヌは引退させた。代わりに彼女はニコラ・ド・ヌフヴィル、ノエル・ブリュラール・ド・シルリーそしてピエール・ジャナンを重用した。王太后マリーはナント勅令を確認して穏健な政策を行っていたが、継承順位第1位であるコンデ公アンリ2世の叛乱を防ぐことはできなかった。王太后マリーと諍いを起こしたコンデ公アンリ2世は西暦1614年に兵を挙げたが支持はほとんどなく、彼女は自らの軍を掌握できた。和平が成立したものの、王太后マリーはコンデ公アンリ2世の要求により三部会を招集した。この三部会の開催は、ルイ13世正義王の13歳の誕生日まで延期された。ルイ13世正義王が誕生日を迎えて正式に王太后マリーの摂政は終わったが、彼女は事実上のフランスの統治者であり続けた。三部会の成果はほとんどなく、フランス王国とローマ法王との関係、官僚の汚職などが討議されたが、何らの決議にも至らなかった。これ以後、三部会はブルボン朝最末期の西暦1789年まで開催されていない。

 後の枢機卿リシュリュー公アルマン・ジャン・デュ・プレシー(Armand Jean du Plessis, cardinal et duc de Richelieu)は、フランス西部の下級貴族の5人の子供の4番目、三男で、父フランソワ・デュ・プレシー・ド・リシュリューは、ヴァロワ朝13代国王アンリ3世に仕えた廷臣だったが、アルマンが5歳の時に父はユグノー戦争で戦死し、家族には負債が残された。国王アンリ3世から恩給が施されたため家族は経済的な貧困に陥らずに済んだ。長兄アンリはブルボン朝初代国王アンリ4世良王の側近となっていた。西暦1606年、国王側近の長兄アンリの働きかけにより、アンリ4世良王は21歳のアルマン・ジャン・デュ・プレシー・ド・リシュリューをリュソン司教に任命した。彼はまだ教会法の定める年齢に達していなかったため、ローマ法王の特免を受けるためローマを訪れ、西暦1607年04月に正式に司教の叙階を受けた。西暦1608年に司教区へ赴任して程なく、プロテスタントが強い力を持つこの教区でトリエント公会議で定められた教会改革をフランスで最初に実施した司教となった。
 西暦1614年、ポワトゥーの聖職者たちの求めにより、リュソン司教リシュリューは教区の代表として全国三部会へ出席した。三部会において彼は精力的な教会の代弁者として活動し、教会の免税と司教の政治的権力の向上を主張した。彼はトレント公会議の布告の実施を主張する最も際立った聖職者だった。平民の第3部会が彼の努力に対する最大の敵対者となった。会議の終わりに第1部会(聖職者)は請願書や意思決定を読み上げる演説者に彼を選んだ。リュソン司教リシュリューの雄弁は摂政の王太后マリー・ド・メディシスと寵臣コンチーノ・コンチーニに気に入られ、三部会の閉会後まもなく、リュソン司教リシュリューはルイ13世正義王の王妃アンヌ・ドートリッシュの司祭として宮廷に仕えた。西暦1616年、リュソン司教リシュリューは国務卿となり外交を担当し、コンチーニと共に王太后マリーの助言者となった。

 西暦1615年11月24日、スペイン王フェリペ3世の王女アナ(アンヌ・ドートリッシュ(Anne d'Autriche)、洗礼名: アナ・マリーア・マウリシア(Ana María Maurícia))と結婚した。これはカトリック勢力のフランスとスペインとの軍事的及び政治的同盟を固める伝統に従った王室間結婚である。この伝統はフェリペ2世とフランス王女エリザベート・ド・ヴァロワとの結婚に遡る。若い頃のアンヌは快活で魅力的な女性だった。また馬術に長け、これは彼女の息子ルイ14世太陽王にも受け継がれている。14歳同士の番いは、将来の婚姻破棄の可能性をなくすために結婚の完遂を余儀なくされた。性的関係がないと婚姻無効を申し立てられ、外交問題になる危険があった。公的には初夜は成就したと発表されたが、実際には失敗に終わり、その後数年間成就しなかったと見られている。カトリックのスペインとの同盟強化はユグノーを警戒させた。また、この年の始め頃から王太后マリーは侍女レオノーラ・ガリガイとその夫コンチーノ・コンチーニを次第に寵臣として重用し始め、コンデ公アンリ2世をより一層敵対させ、西暦1616年に再びコンデ公アンリ2世は叛乱を起こした。ユグノーの指導者たちは叛乱を支援し、この事が若いルイ13世正義王に、「彼らは決して忠実な臣下ではない。」と確信させることになる。
 一方、大鷹匠シャルル・ダルベールがルイ13世正義王に、王太后から離れ叛乱軍を支持するよう説得した。西暦1617年04月24日にシャルル・ダルベールの画策により、宮廷クーデターが起き、ルイ13世正義王はコンチーニの逮捕を命じ、その結果寵臣コンチーノは暗殺され、レオノーラは魔女として処刑された。王太后マリーの政権は倒され、王太后マリーはブロワ城に幽閉された。コンチーニの遺体がパリの群衆によって寸断され、晒し物にされていたところを通りかかったリュソン司教リシュリューは、彼の馬車に誰何する群衆に「国王に対する忠誠である。」と彼らの行為を称えて難を逃れた。コンチーニの死により権力を失ったリュソン司教リシュリューは罷免され、宮廷から追放され、さらに西暦1618年、リュソン司教リシュリューを依然として疑っていたルイ13世正義王は彼をアヴィニョンへ追いやった。
 ルイ13世正義王は新たな寵臣となったシャルル・ダルベールをリュイヌ公とした。だが、リュイヌ公シャルル・ダルベールは程なくコンチーノと同様に不人気となった。貴族たちはリュイヌ公シャルル・ダルベールが国王の信任を独占していることに憤慨したと同時に、リュイヌ公シャルル・ダルベールは王太后マリーに仕え、既に退いたアンリ4世時代の大臣たちよりも能力的に劣ると見做されていたからであった。
 西暦1618年に三十年戦争(西暦1618〜1648年)が勃発し、フランス宮廷はカトリックの皇帝とプロテスタント諸侯のどちらに加担すべきか決めかねていた。ハプスブルク家との長年のライバル関係からは「プロテスタントに加担して介入すべき。」との議論があったが、一方でルイ13世正義王自身は熱心なカトリックであり、結局彼の意向は神聖ローマ皇帝フェルディナント2世を支持することだった。
 西暦1618年にリュイヌ公シャルル・ダルベールが官職の世襲を保証したポーレット法(La Paulette)を廃止して西暦1620年に売官制度を始めると、フランス貴族たちは更に敵対するようになった。ブロワに幽閉されていた王太后マリーが不平貴族たちの拠り所となり、 西暦1619年、王太后マリーは幽閉されていたブロワ城から脱走し、叛乱貴族の名目上の指導者となった。王太后マリーを迎えたフランス貴族たちは西暦1620年に叛乱を起こしたが、08月のポン・ド・セーの戦いで叛乱軍はあえなく壊滅してしまい、ルイ13世正義王とリュイヌ公シャルル・ダルベールはリュソン司教リシュリューを召還して王太后マリーの説得に当たらせた。リュソン司教リシュリューはこれに成功して、母后とルイ13世正義王との調停を行った。この複雑な交渉はアングレーム和議が締結されて実を結び、西暦1621年に王太后マリーは自由を取り戻し、ルイ13世正義王と和解した。この頃に王太后マリーに仕えていた長兄リシュリュー侯アンリが決闘を行い死亡した。続いて、ルイ13世正義王は王令に幾度も反抗を続けていたユグノーの拠点ベアルンに対する討伐軍を派遣した。リュイヌ公シャルル・ダルベールは大元帥に昇り、ルイ13世正義王とリュイヌ公シャルル・ダルベールはユグノーの叛乱の鎮圧に臨んだ。だが、ユグノーの根拠地モントーバンの包囲は国王軍の多くがチフスに倒れてしまったために、3ヶ月で放棄せねばならなくなった。この犠牲者の1人がリュイヌ公シャルル・ダルベールで、12月に死去した。討伐軍はベアルンにカトリックを再建したものの、この討伐によってユグノーたちを他の地域へ追いやることになり、ロアン公アンリが叛乱を起こした。
 リュイヌ公シャルル・ダルベールの死後、ルイ13世正義王は国務会議によって統治を行うと決め、西暦1622年に王太后マリーが会議に加わり、国務会議ではコンデ公アンリ2世がユグノーを武力をもって弾圧することを主張した。リュソン司教リシュリューは急速に権力を掌握し始め、リュソン司教リシュリューの国務会議入りを王太后マリーから推薦されたルイ13世正義王は、「彼を悪魔のように憎んでいる。」と拒絶していたが、ルイ13世正義王はリュソン司教リシュリューを枢機卿に任命し、同年04月19日にローマ法王グレゴリウス15世は彼を叙階した。
 西暦1622年に行われた討伐は先年と同じ経過を辿ることになった。国王軍は緒戦で勝利したものの、続く包囲戦で敵の根拠地モンペリエを陥落させられなかった。10月にルイ13世正義王とロアン公アンリとの間にモントーバン協定が結ばれて叛乱は終結した。協定はナント勅令の主旨を確認するもので、ユグノーの幾つかの要塞は破却されたが、モントーバンとラ・ロシェルの支配権はユグノーに残された。西暦1624年、ルイ13世正義王はノエル・ブリュラール・ド・シルリーとピエール・ジャナンを罷免している。これは彼らが当たっていたヴァルテッリーナを巡るスペインとの外交状況を、国王が不快に感じたからであった。ヴァルテッリーナはカトリック住民の地域だが、プロテスタントのグリゾンの統治下にあった。ここはフランスからイタリアへの重要な経路であり、スペインがそのヴァルテッリーナへしきりに干渉を続けていたことがルイ13世正義王を怒らせた。
 フランス王国はユグノーの叛乱などの危機に瀕しており、枢機卿アルマン・ジャン・デュ・プレシー・ド・リシュリューは国王にとってなくてはならない助言者になりつつあった。西暦1624年04月に国務会議の顧問官に任命されると、枢機卿リシュリューは首席国務卿ラ・ヴィユーヴィル公シャルルの失脚を企てた。同年08月にラ・ヴィユーヴィル公シャルルは汚職容疑で逮捕され、ルイ13世正義王は枢機卿アルマン・ジャン・デュ・プレシー・ド・リシュリューを首席国務卿(宰相)に登用した。以降、彼がルイ13世正義王の治世で大きな役割を果たし、その後18年間にわたりフランスの舵取りを行っていった。枢機卿リシュリュー公の業績によってルイ13世正義王は絶対君主の最初の1人となった。彼の言に「私の第1の目標は国王の尊厳。第2は国家の盛大である。」がある。国王の権力をさらに固めるために、枢機卿リシュリューは封建貴族層の影響力を抑制しようとした。西暦1626年、彼は城代の地位を廃止し、国防用を除く全ての城塞の破却を命じた。これによって、彼は国王に対する叛乱に用いられたフランス貴族の防御拠点を奪い去った。中世以来の帯剣貴族たちには決闘の習慣があり、しばしば決闘禁止令が出されたが一向に守られなかった。枢機卿リシュリューは改めて決闘禁止令を出し、違反した貴族を容赦なく処刑してこの悪習を絶った。この結果、枢機卿リシュリューは多くの貴族たちから憎まれた。
 ルイ13世正義王と枢機卿リシュリューは懸案だったユグノー討伐に乗り出した。ユグノーは多数の軍隊を有し叛乱を起こしていた。さらにはイングランド王チャールズ1世がユグノー支援のためフランス王国に宣戦布告をした。西暦1627年、枢機卿リシュリューは軍に対してユグノーの拠点ラ・ロシェルの包囲を命じ、自らが包囲軍の指揮を執った。初代バッキンガム公ジョージ・ヴィリアーズ率いる英艦隊がラ・ロシェル救援のために派遣されたが、惨めな失敗に終わっている。ラ・ロシェルは14ヶ月の包囲戦の末に西暦1628年に降伏した(ラ・ロシェル包囲戦)。ラ・ロシェルで大敗を喫した後も戦闘を続けていたロアン公アンリ率いるユグノー軍も西暦1629年に撃破され、アレス和議に服した。この結果、西暦1598年のナント勅令で与えられたプロテスタントに対する信仰の自由は認められたものの、政治的軍事的諸特権は廃止された。ロアン公アンリは死罪にはならず、後にフランス軍の将軍となった。
 スペイン・ハプスブルク朝(アブスブルゴ朝)(西暦1516〜1700年)はユグノーとの紛争でフランス軍が引き止められている状況を利して、北イタリアのマントヴァ公国(西暦1433〜1797年)継承問題に軍事介入をした。ユグノーが降伏した後に枢機卿リシュリューはこれに積極的に対抗し、西暦1629年02月、ルイ13世正義王と枢機卿リシュリューは自ら軍を率いてアルプス山脈を越え、北イタリアに出征してスペイン軍を撤退させた。そして、彼は、「リシュリュー公爵にしてフランス貴族(同輩公:duc et pair)」に列せられた。しかし、戦費調達のために財政難に陥り、王太后マリーを始めとする貴族や民衆の反発を受けた(マントヴァ継承戦争)。
 西暦1630年に、枢機卿リシュリュー公アルマン・ジャン・デュ・プレシーの以前の支援者である王太后マリー・ド・メディシスは「枢機卿リシュリュー公が自分の権力を盗んだ。」と信じており、枢機卿リシュリュー公の対ハプスブルク家政策に反対するカトリック篤信派の枢機卿リシュリュー公に不満を持った国璽尚書ミシェル・ド・マリヤックら一部貴族が王太后マリーと結び、枢機卿リシュリュー公排斥のクーデターを企てた枢機卿リシュリュー公の失脚を謀り、息子のルイ13世正義王に宰相の罷免を求めた。当初、ルイ13世正義王はこれを拒否していたが、西暦1630年11月11日、王太后マリー・ド・メディシスと王弟オルレアン公ガストン(Gaston d'Orléans、ガストン・ジャン・バティスト・ド・フランス(Gaston Jean Baptiste de France))は枢機卿リシュリュー公アルマン・ジャン・デュ・プレシー罷免の確約をルイ13世正義王から受けた。リシュリューはこの陰謀に気付くとすぐに、翻意するようルイ13世正義王を説得した。結局、ルイ13世正義王は土壇場で態度を翻し、翌日には翻意しリシュリュー支持を表明した(欺かれし者の日事件)。これ以降、国王ルイ13世正義王の枢機卿リシュリュー公に対する支持が揺らぐことはなかった。一方、陰謀を画策した国璽尚書ミシェル・ド・マリヤックは逮捕され、王太后マリー・ド・メディシスはコンピエーニュに幽閉された。その後ブリュッセルへ亡命した。
 王太后マリーと王弟オルレアン公ガストンはリシュリュー失脚の陰謀を続けた。貴族たちも権力を奪われ、唯一の大きな叛乱は西暦1632年のモンモランシー公アンリ2世の叛乱で、リシュリューは敵対者たちを徹底的に弾圧し、モンモランシー公アンリ2世の処刑を命じた。リシュリューの苛烈な方法は彼の敵を威嚇するためのもので、「仮借なきリシュリュー。恐るべき枢機卿は人を支配するよりも粉砕する。」と評された。また政治的地位を安泰とするため、フランス国内外にスパイ網を構築した。

 モンモランシー公アンリ2世は、フランス王アンリ4世が代父を務め、常に王家から優遇されていた。その名声と人柄により、幼い頃から宮廷と民衆の寵児であった。西暦1612年までには大提督となり、西暦1614年には父の爵位を継承し、ラングドック総督も務めた。王太后マリー・ド・メディシスの威光により、イタリア貴族のマリア・フェリシア・オルシーニと結婚した。
 西暦1620年にヌーベルフランスの副王に任命され、西暦1625年までその職にあった。モンモランシー公アンリ2世はプロテスタントからいくつかの重要な地を奪い、モントーバンとモンペリエの包囲にも参加した。西暦1625年に内戦が再開されると、フランス王を援助するためにオランダから派遣された艦隊はフランス王の指揮下に置かれた。西暦1625年、モンモランシー公アンリ2世はスービーズ公バンジャマン・ド・ロアン率いるフランスのプロテスタント艦隊を破り、レ島とオレロン島を占領したが、リシュリュー枢機卿の嫉妬により、この優位な立場を利用する手段を奪われた。西暦1628年〜1629年にかけて、モンモランシー公アンリ2世は王軍の指揮をとり、ラングドックのロアン公アンリ2世の軍と戦い、ユグノーの名高い指導者であったロアン公アンリ2世を破った。西暦1630年、アンリはピエモンテにおけるスペイン人との戦争で軍事指導者として名声を得た。ヴェイッラーネの戦いにおいてピエモンテ軍を破り、フランス王の兵の先頭に立って溝を越えて突撃し、敵の将軍カルロ・ドリアを自らの手で捕らえ、敵が完全に戦場から退却するまで兵士のように戦い続けた。この勝利に続いてカザルの包囲が行われ、サルッツォが占領された。これらの功績により、その年にフランス元帥に任命された。
 モンモランシー公アンリ2世の名声と影響力が頂点に達したとき、モンモランシー公アンリ2世はルイ13世正義王の宰相リシュリュー枢機卿の反対派に加わるよう誘われた。リシュリューがモンモランシー公アンリ2世の影響力を抑制しようとしたため、西暦1632年にモンモランシー公アンリ2世はラングドック総督としての立場を利用して、兵力と資金を集め、王弟オルレアン公ガストンの派閥に加わり、6千〜7千人の軍隊を指揮した。
 交渉が行われたが失敗に終わった。モンモランシー公アンリ2世はカステルノーダリの戦い(西暦1632年09月01日)においてアンリ・ド・ションベール元帥と対峙し敗北した。ヴェイッラーネでの勝利に倣い、モンモランシー公アンリ2世は数人の騎兵を率いて王の陣営への突撃を率いた。モンモランシー公アンリ2世は銃弾が降り続く中、6つの歩兵隊を突破し、馬が死ぬまで多くの兵と戦った。モンモランシー公アンリ2世は重傷を負い、捕らえられた。
 フランス全土のあらゆる階層からモンモランシー公アンリ2世の助命が懇願されたが、無駄に終わった。オルレアン公ガストンに見捨てられたモンモランシー公アンリ2世は、陰謀を企てる他の貴族への見せしめとして、リシュリューによって死刑に処せられた。ルイ13世正義王が唯一行った減刑は、処刑を非公開で行うというものであった。モンモランシー公アンリ2世は西暦1632年10月30日にトゥールーズの市庁舎でギロチンのような処刑具により斬首された。モンモランシー公位は姉のコンデ公妃シャルロット・マルグリットが継承した。

 西暦1635年、フランス王国は正式にスペイン・ハプスブルク朝に宣戦布告し三十年戦争にプロテスタント側で介入し、国王自ら軍を率いてスペイン軍と戦火を交えた。戦争は当初、スペイン軍と神聖ローマ帝国皇帝軍が勝利を重ねてフランスは劣勢を強いられ、一時は神聖ローマ帝国軍がパリ近くまで迫るほどだったが、双方ともに決定的な優勢を得ることはできず、戦争は次代まで続くことになった。戦費は国家の財政にとって大きな負担となったため、リシュリューは塩税(gabelle)とタイユ税(土地税:taille)を引き上げた。タイユ税は戦争遂行と軍の増強の財源となっていた。聖職者と貴族、そしてブルジョワ(仏語: bourgeois)は免税されていたり、課税を容易く逃れることができたため、重荷は貧しい庶民に圧し掛かることになった。戦争によって重税が課されて民は困窮し、民衆蜂起が各地で起こった。より効果的な徴税と汚職を最小限にするためにリシュリューは、地方官吏をバイパスして国王に直接仕える役人のアンタンダン(地方監察官:intendant)へ替えた。だが、リシュリューの財政計画は民衆の暴動を引き起こすことになり、西暦1636〜1639年に幾つもの農民叛乱が起こった。リシュリューは叛乱を徹底的に撃滅し、叛徒を過酷に扱った。

 仲睦まじかったのはごく短い間で国王は夫の義務を果たさなくなった。23年間の結婚生活と4度の流産を経て、不仲にあったにも拘わらず、驚くべきことに王妃は再び妊娠した。ある夜、ルイ13世正義王が嵐のため寵臣サン・マール侯をアンリ・コワフィエ・ド・リュゼ訪ねることができなくなったため(または国王の女友達ルイーズ・ド・ラファイエット邸からの帰路に)止む無く立ち寄った王妃の館で一夜を過ごした。西暦1638年09月05日に王妃アンヌ・ドートリッシュが24年の結婚生活の末に王位継承者である待望のドーファン(王太子)ルイ・ディユドネ(後のルイ14世)を生んだ。長年不仲であったのに突然王妃が妊娠したことから、「実はルイ13世の種ではない。」との噂が流れた。実父については父王の宰相リシュリューとする説やアンヌ・ドートリッシュの摂政時代に宰相を務めたマザランとする説がある。リシュリュー実父説は西暦1692年にドイツのケルンで出版された「アンヌ・ドートリッシュの情事」と題された小説が出典であり、ヴォルテールの「ルイ14世の世紀」で言及されたことでお墨付きが与えられてしまった。また、アンヌ・ドートリッシュとマザランが愛人関係にあったとする説も根強いが、少なくともアンヌがルイ14世を妊娠した西暦1637年12月は、まだマザランがイタリアにいた時期であり、このマザランが父親という話の方も単なる噂話である。
 ルイ13世正義王自身が息子の誕生後にこの奇跡について疑問を投げかける発言をしている。西暦1640年に王妃は2人目の王子を生んだが、国王夫妻の信頼が回復することはなかった。サン・ジェルマン・アン・レーで生まれたこのアンジュー公フィリップはオルレアン家の祖となった。

 ルイ13世正義王とリシュリューの下、アンタンダン(地方監察官)の設置により貴族の規律を保って国王集権化を強化し、加えてル・アーヴル港を近代化させ、強力な海軍を構築した。不運なことに、国王とリシュリューには切実に必要とされる行政(特にフランスの税制)を改革する時間的、そして情勢的余裕は残されていなかった。
 国外では、ルイ13世正義王は北アメリカ大陸の植民地ヌーベルフランス(Nouvelle-France、西暦1534〜1763年)の開発と行政を組織し、植民地をケベックからモントリオールへと、セントローレンス川の西方にまで拡大させている。また西暦1640年にフランス領と宣言された島(レユニオン)を西暦1642年に「ブルボン島」と命名した。文化面ではルイ13世正義王は、フランスの有望な芸術家が国を離れてイタリアで学び、仕事をする風潮を変えさせるよう努力をしている。そのため、彼は画家のニコラ・プッサンとフィリップ・ド・シャンパーニュにルーヴル宮を装飾させる任に就かせている。また、「アマリリス」を作曲したとされる。
 リシュリューは法王ウルバヌス8世を含む多くの人々と不和になっていた。だが、この紛争は西暦1641年に法王がリシュリューの腹心であるジュール・マザラン(仏語: Jules Mazarin、ジュリオ・マッツァリーノ(伊語: Giulio Mazarino)またはジュリオ・マザリーニ(伊語: Giulio Mazarini)、ユリウス・ライムンドゥス・マザリヌス(羅語: Iulius Raimundus Mazarinus)からジュール・レーモン・マザラン)を枢機卿に叙階することによって大いに緩和した。ローマ・カトリック教会との紛争にも拘らず、「リシュリューは法王の権威をフランスから完全に排除せよ。」とのガリカニスト(フランス教会至上主義)の主張には与しなかった。
 死期が近付いたリシュリューは、失脚させようとする陰謀に直面することになった。リシュリューは友人の息子サン・マール侯アンリ・コワフィエ・ド・リュゼという若者を国王ルイ13世正義王に紹介していた。西暦1639年にサン・マール侯アンリ・コワフィエ・ド・リュゼは国王の寵臣となったが、リシュリューの目論見と異なり、サン・マール侯アンリ・コワフィエ・ド・リュゼは彼の意のままにはならなかった。若い侯爵はリシュリューが彼に権力を与えようとしないことに不満だった。西暦1641年、彼はブルボン・ソワソン伯ルイによるリシュリュー失脚の陰謀に加担し陰謀は失敗したが、この時は彼の関与は露見しなかった。ブルボン・ソワソン伯ルイはラ・マルフェーの戦いの後にリシュリューにより差し向けられた刺客に殺された。翌西暦1642年、サン・マール侯アンリ・コワフィエ・ド・リュゼは、王弟オルレアン公ガストンを含む貴族とともに叛乱を企てた。彼はまたスペイン王と密約を結び援助を取りつけていた。だが、リシュリューの諜報網が陰謀を探知して、密約の写しをリシュリューへ届けた。同年06月、サン・マール侯アンリ・コワフィエ・ド・リュゼは直ちに逮捕され処刑された。
 この時には既にリシュリューの健康は損なわれていた。彼は浸蝕性潰瘍を患い、また眼精疲労と頭痛にひどく悩まされており、他の多くの疾患も抱えていた。担架に乗って戦場で軍隊の指揮を執っており、死期が近いと悟った彼は、最も信頼する腹心のマザラン枢機卿を後継者に指名した。元々マザランは聖座の代理人だったが、彼は法王の元を去ってフランス国王に仕えていた。西暦1642年12月04日、臨終に際して聴罪司祭が「汝は汝の敵を愛しますか?」と問うと、彼は「私には国家の敵より他に敵はなかった。」と答えた。リシュリューはパリの自邸パレ・カルディナル(現在のパレ・ロワイヤル)で死んだ。
 その5ヶ月後の西暦1643年05月14日、国王ルイ13世正義王もルーヴル宮で41歳で死亡し、その後をわずか4歳の王太子ルイ・ディユドネが継ぐことになった。リシュリューの後を継いだマザラン枢機卿が幼君の補佐をする宰相となった。

レミーマルタン ルイ13世 正規品 40度 700ml
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オルレアン公(duc d'Orléans)

オルレアン(Orléans)とは、フランス中部に位置し、東から西へ流れるロワール川が北方へ屈曲した地の地名。ドルイド僧が毎年集会を開くカルヌテス族の主要な町の1つケナブム(Cenabum)はガリアの要塞があった。西暦前52年、ユリウス・カエサルによって町は征服・破壊され、ローマ帝国の元で再建された。ローマ皇帝アウレリアヌスはこの町を再建し、アウレリアーヌムすなわちアウレリアヌスの都市 Aurelianumと名付けた。これが変化してオルレアンとなった。
オルレアン公は、フランスの最高位爵位。ヴァロワ朝期にフランス王フィリップ6世が次男フィリップに授けて以来、王太子に次ぐ王家の男子(王太子もしくは王の最年長の弟)に授けられ、正嫡の男子がいれば公爵位は継承されたが、実際に2代以上にわたり直系継承されたのはヴァロワ・オルレアン家(Maison de Valois-Orléans)とブルボン・オルレアン家(Maison de Bourbon-Orléans、所謂オルレアン家)の2例のみ。7月王政(オルレアン朝)の王ルイ・フィリップはブルボン・オルレアン家から出た。


名前の無い王子・オルレアン殿下(ムッシュ・ドルレアン)

 アンリ4世良王と王妃マリー・ド・メディシスの次男。ムッシュ・ドルレアン(Monsieur d’Orléans)は、オルレアン公爵位を授けられたフランス王族の宮廷儀礼における略式敬称である。誕生と同時に王家の次男に授けられるオルレアン公の称号を受けた。

 フランス王家の慣習では王子女に洗礼式までは名前を与えないため、「オルレアン殿下」を意味するムッシュ・ドルレアンの呼び名で通された。そして正式な洗礼のないまま4歳で死去することになった。そのため当初は「名前の無い王子(Prince sans nom)」とも呼ばれた。後世、この王子の名前がニコラ(Nicolas)またはニコラ・アンリ(Nicolas-Henri)とする誤った説が流布し、長くそのように呼ばれてきた。

オルレアン公ガストン(ガストン・ジャン・バティスト・ド・フランス(Gaston Jean Baptiste de France))

 アンリ4世良王とマリー・ド・メディシスの次男(名前の無い王子・オルレアン殿下(ムッシュ・ドルレアン))は、オルレアン公を授けられたが夭折し、弟の三男ガストンに授けた。ガストンには男子がなく、1代で断絶した。 次男ムッシュ・ドルレアン(通称ニコラ)が西暦1611年に死亡してから、西暦1638年にルイ13世正義王の長男、後のルイ14世太陽王が生まれるまでの間は、フランスのドーファン(推定王位継承者)であった。西暦1610年、父アンリ4世良王の暗殺により、ルイ13世正義王が王位に就くと、その推定相続人となった。
またブルボン家分枝の一つモンパンシエ公爵家の女子相続人マリー・ド・ブルボン・モンパンシエと婚約したが、結婚には至らず、兄ルイ13世正義王の推定相続人、オルレアン公爵位、モンパンシエ公爵家の婿の地位は、1歳下の弟アンジュー公ガストンに引き継がれた。
 西暦1608年にアンジュー公に叙され、西暦1626年にオルレアン公、ブロワ伯、シャルトル伯となった。西暦1628年、当時ユグノーの牙城であったラ・ロシェル包囲に軍を率いて参加。また、 母王太后マリーと枢機卿リシュリュー公の政府に楯突き、ラングドックで王軍に完敗した後フランドルに逃亡した。やがて兄ルイ13世正義王と和解して帰国するが、西暦1635年にリシュリューに対して陰謀を企み国外へ逃げ、再度政府に服従させられた。
 服従後もすぐに同じ陰謀を繰り返し、西暦1642年に兄ルイ13世正義王の寵臣サン・マール侯を操り、リシュリュー暗殺を画策したが失敗した。
翌西暦1643年に兄ルイ13世正義王が亡くなると王国の陸軍大将となり、フランス北部でスペイン軍と戦った。西暦1646年にはアランソン公になった。フロンドの乱(西暦1648〜1653年)に際して、甥ルイ14世太陽王の重臣マザラン枢機卿に睨まれ、西暦1652年に私領ブロワに蟄居させられ、そこで亡くなった。


ルイ十四世の世紀 (1) (岩波文庫 赤 518-3) - ヴォルテール, 丸山 熊雄
ルイ十四世の世紀 (1) (岩波文庫 赤 518-3) - ヴォルテール, 丸山 熊雄


 アンリ4世良王の孫が、「太陽王」として有名な絶対君主ルイ14世である。3代ルイ14世太陽王(ナヴァラ王国国王としてはルイス3世)は父正義王ルイ13世の死去により、4歳で即位し、宰相マザラン枢機卿の補佐を得てフロンドの乱を鎮圧した。ルイ14世太陽王はマザラン枢機卿の死後、親政を開始した。このルイ14世太陽王の時代にフランスの絶対王政が確立し、フランス文化(ヴェルサイユ文化)と呼ばれる文化も発展した。コルベールを登用して中央集権と重商主義政策を推進した。ルイ14世太陽王は対外戦争を積極的に行い、ネーデルラント継承戦争(帰属戦争、西暦1667〜1668年)や仏蘭戦争(西暦1672〜1678年)によって領土を拡大し、国際社会におけるフランスの地位を向上させた。権威を高めると、ジャック・ベニーニュ・ボシュエの唱える王権神授説・ガリカニスムを掲げ、絶対君主制を確立した。さらにミディ運河とヴェルサイユ宮殿を建設した。治世後半のアウクスブルク同盟戦争(西暦1688〜1697年)、スペイン継承戦争(西暦1701〜1714年)では苦戦し、晩年には莫大な戦費調達と放漫財政によりフランスは深刻な財政難に陥った。その反面、相次ぐ戦争などによって軍事費が膨張し、さらにナントの勅令の廃止(フォンテーヌブローの勅令)のためにフランス資本が海外流出するなど、フランス経済の混乱を招き、財政を課税で賄った。
 72年もの在位期間はフランス史上最長であり、西暦18世紀の啓蒙主義思想家ヴォルテールはルイ14世太陽王の治世を「大世紀」(グラン・シエクル Grand Siècle)と称えている。また、「中世以後の国家元首として最長の在位期間を持つ人物」としてギネス世界記録にも認定されている。また、メヌエットを宮廷舞踊に取り入れ、メヌエットを最初に踊った人と言われ、その時、太陽神アポロンに変装して踊った姿から「太陽王」という仇名がついたとも言われる。

 ルイ14世太陽王の父方の祖父母はアンリ4世とフィレンツェ出身のマリー・ド・メディシス、母方の祖父母はスペイン王のフェリペ3世とオーストリア大公国出身のマルガレーテ・フォン・エスターライヒである。彼は「ルイ・デュードネ」(Louis-Dieudonné、神の賜物の意)の洗礼名を授かった。そして、「フランスの長男」(premier fils de France) 及び、より伝統的なドーファン(王太子)の称号を受けた。
 ルイ13世正義王は王妃アンヌ・ドートリッシュを信用しておらず、自らの死後に王妃が国政に影響力を持つことを防ごうとして、摂政諮問会議の設置を遺言した。ルイ13世正義王が41歳で亡くなると、僅か4歳のルイ14世太陽王が即位して王太后アンヌが摂政となった。だが、摂政アンヌとマザランはパリ高等法院の支持を受け、ルイ13世正義王の遺言を破棄して摂政諮問会議を廃止した。王太后アンヌはマザランを摂政会議の座長(実質的な宰相)に抜擢して全権を委ねた。マザランは有能な政治家ではあったが、一方で貪欲なまでに私財を蓄える癖があり、財政逼迫によって苦しめられていたフランスの民衆も貴族もスペイン人の摂政王太后とフランスに帰化イタリア人の枢機卿を憎んでいた。

 摂政アンヌから宰相に任じられたマザラン枢機卿はリシュリューの腹心だった人物で、前任者の中央集権化政策を引き継ぎ、貴族を抑制して国王の権力を強化しようと図っていた。また対ハプスブルク家政策としての三十年戦争への介入も続けた。有能なコンデ公ルイ2世やテュレンヌ子爵(アンリ・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュ)に率いられたフランス軍は戦況を有利に展開させ、マザランは終戦交渉に入った。マザランの外交手腕によりフランス王国はアルザス地方を獲得し、神聖ローマ帝国(西暦800/962〜1806年)の分裂を決定づけ、ハプスブルク家の勢力の弱体化に成功することになったり。だが一方でその戦費も莫大なものとなり、重税が課され民衆の不満が高まっていた。
 和平交渉が大詰めとなった西暦1648年にフロンドの乱が勃発した。フロンド(fronde)とは当時流行していた玩具の投石器を意味し、パリの民衆がマザラン邸を目掛けて投石したことから呼ばれた。07月、政府が新税の導入を図ると、これに反対するパリ高等法院が他の高等諸院と合同してアンタンダン(地方監察官)の廃止を含む27カ条の要求書を出した。マザランは一旦は譲歩の姿勢を示すが、08月に入ると首謀者を逮捕し、これに反発したパリの民衆がバリケードを築き蜂起した。パリ高等法院の法服貴族と民衆が結びついてパリは無政府状態に陥り、ルイ14世太陽王と摂政アンヌはパリを脱出した。
それから程なくしてヴェストファーレン条約(羅: Pax Westphalica、独: Westfälischer Friede、羅語・英語読みでウェストファリア条約、ミュンスター講和条約とオスナブリュック講和条約の総称)が締結されて三十年戦争が終結すると、コンデ公ルイ2世率いるフランス軍が国王を助けるために帰還した。西暦1649年01月にコンデ公ルイ2世はパリを包囲し、03月にリュイユ和議が締結され、乱はひとまず収まった(高等法院のフロンド)。

三十年戦争(西暦1618〜1648年)

 主にドイツ(神聖ローマ帝国)を舞台として西暦1618〜1648年にかけて戦われた宗教的・政治的諸戦争。軍人と民間人を含めドイツの人口の20%を含む約800万人以上(300万〜1150万人)の死者を出した。ヨーロッパでの「最後で最大の宗教戦争」と呼ばれる。


 西暦1618年、チェコのプラハ城を襲った民衆によって、ボヘミア王でもあるハプスブルク家8代神聖ローマ帝国皇帝フェルディナント2世の使者である国王顧問官2人と書記の3人が、城の3階の窓から地面に投げ落とされた。下の地面までは20m以上あったが、下に干し草が積んであったため投げ落とされた3人は命を取りとめ、フェルディナント2世のいるウィーンへ逃れてプラハの叛乱を報告し(第2次プラハ窓外放擲事件)、 三十年戦争の発端となった。
 チェコのプラハでは人間を窓外に放擲するのが伝統となっている。西暦1419年07月30日、プラハ大学教授ヤン・フスが、異端と宣告されて火刑に処されたことに憤ったフス派勢力は、プラハ市庁舎を襲撃し、市参事会員7名を窓から投げ落とされ、暴徒によって1人残らず惨殺された(第1次プラハ窓外放出事件)。事件の知らせを聞いたボヘミア王ヴァーツラフ4世はその衝撃で卒中を起こし、その半月後に死去した。西暦1948年03月10日、チェコ・スロバキアの外相であったヤン・マサリク(初代大統領トマーシュ・マサリクの息子)が、外務省の中庭、浴室の窓の下でパジャマ姿で窓外に放擲され殺された(第3次プラハ窓外放擲事件)。チェコ・スロバキアの共産主義化を決定づけ、ソビエト連邦の衛星国に堕した。

 戦闘、病気、飢餓、虐殺、自殺に、強姦、掠奪など宗教戦争でもあり悲惨な状況になった。宗教の対立は、相手を悪魔と見做し、集団で絞首刑の首縊りの樹や苦しめて殺す拷問の銅版画が残っている。三十年戦争も後半は一体になった八十年戦争(西暦1568〜1608、1622〜1648年)と英西戦争(西暦1585〜1604年)のライデン包囲戦(西暦1573〜1574 年)は、ナールデンとハーレムの包囲後のスペインのオランダ総督であるアルバ公フェルナンド・アルバレス・デ・トレド(Fernando Álvarez de Toledo, Duque de Alba)の住民に対する残酷な扱いは悪名高い(ナールデンの虐殺)。南ホラント州の叛乱都市ライデンは慈悲が示されていないことを知り、できるだけ長く持ちこたえる決意をした。7ヶ月にわたる包囲の末にライデンは持ち堪えて勝ったが、その間に人間も喰らった。いかに飢餓に苦しんでいるとはいえ、自分の子供を食べるのは、さすがに忍びない。そこで、近所の人の子供と取りかえて、近所の人の子供を食べて飢えを凌いだ。支那の春秋左氏傳 宣公十五年(西暦前504年)にも、「寡君使元以病告曰、敝邑易子而食析骸以爨.雖然城下之盟有以國斃不能從也、去我三十里唯命是聽。(宋公が私を使者に、宋の苦しさを訴えるのだ。今や宋は子供を取り換えて食い、屍を薪に用いねばならぬ。しかも城下の盟いだけは、国が亡んでも結びたくないのだ。楚が三十里だけ退却してくれたら、どんな言い分でも聞く積りでいる。」とある。「易子而食析骸以爨(子を易えて食ひ、骸を析きて爨ぐ)」は、人喰い支那では頻繁に起こったことで、魯迅の「狂人日記」に登場し、毛沢東の文化大革命でも起こった。


 西暦1648年、ヴァーサ朝(西暦1523〜1654年)スウェーデン王国(スウェーデン帝国(バルト帝国、西暦1611〜1721年))のクリスティーナ(瑞語: Kristina)女王が大幅な譲歩をして交戦国と妥協した。クリスティーナの寛大な譲歩は、臆病な平和とスウェーデン国内から非難されたが、クリスティーナ女王が意志を貫き通したこともあり、ヴェストファーレン条約により講和が成立した。近代における国際法発展の端緒となり、欧米の価値観の近代国際法の元祖ともいうべき条約である。ラテン語・英語読みではウェストファリア条約とも呼ばれる。
 ハプスブルク家の勢いを削いだこの条約は「ハプスブルク家の死亡証明書」と言われる。ハプスブルク家はカトリックだったが、各領邦に主権が認められ、宗派の自由と決まった。ただし領民に選択権はなく領主の宗派に従わなくてはならない。領邦に主権が認められ、ドイツ内に300近くの主権国家ができた。


 王室はパリに戻ったが、乱平定の功績者コンデ公ルイ2世とマザランが対立して貴族のフロンドが勃発した。マザランに対する貴族と民衆の不満から叛乱軍の勢力は強く、マザランは一時亡命を余儀なくされ、ルイ14世太陽王は再びパリから逃れざるを得なくなった。パリに入城したコンデ公ルイ2世が優位に立つが、西暦1652年に満13歳を迎えたルイ14世太陽王が成人を宣言するとパリ高等法院は王権側に付き、コンデ公ルイ2世はパリからの退去を余儀なくされてフロンドは分裂した。西暦1652年に優位に立った王太后がマザランをフランスに呼び戻すと高等法院は再び王権に背き、コンデ公ルイ2世がパリに舞い戻った。だが、コンデ公ルイ2世はパリ市民の支持を受けられず、混乱の長期化に疲弊したフロンド派が相次いで脱落し、西暦1653年にコンデ公ルイ2世はスペイン領ネーデルラントへ亡命し、ルイ14世太陽王はパリへ帰還して乱は終結した。
 マザランは乱中の譲歩を次々と撤回して、高等法院を抑え込みにかかり、伝統的な帯剣貴族たちによる全国三部会開催要求も無視した。この頃の出来事として、17歳のルイ14世太陽王が狩猟の帰りに乱の根源となっていたパリ高等法院に立ち寄り、法服貴族たちを高飛車に恫喝して有名な「朕は国家なり。(L'État, c'est moi.)」の科白を言い放ったヴォルテールの「ルイ14世の時代」に記述されている。

 国王ルイ13世正義王に2人の坊主(枢機卿)が絶対王政を確立した。1人は、自らが世に出る階となった三分会(立法)を開かず封印したリシュリュー。もう1人は高等法院(司法)の支持を受け地位を得たイタリア人のマザランだが、高等法院から権力を奪い、国王ルイ14世太陽王に権力を集中し絶対王政の中央集権国家を確立した。

フランス史 IXー宗教戦争 - ジュール・ミシュレ, 桐村 泰次
フランス史 IXー宗教戦争 - ジュール・ミシュレ, 桐村 泰次

ルイ十四世の世紀 2 (岩波文庫 赤 518-4) - ヴォルテール, 丸山 熊雄
ルイ十四世の世紀 2 (岩波文庫 赤 518-4) - ヴォルテール, 丸山 熊雄

 長年にわたりヴァロワ朝、ブルボン朝両王朝下でのフランス王国はハプスブルク家の好敵手であった。ハプスブルク家はスペイン・ハプスブルク家と神聖ローマ帝国のオーストリア・ハプスブルク家2つの系統が個別に統治していた。西暦16世紀〜17世紀の長い間、フランス王国は三方をハプスブルク領と隣接していた。北方をスペイン領ネーデルラント、東方をフランシュ・コンテ地域圏、南方をスペイン王国本土とである。ハプスブルク家はフランス王国の領土拡大路線に立ちはだかることになり、紛争のときには、フランス王国は複数の方面から侵略を受ける可能性があった。したがってフランス王国は国境地域でのスペイン王国の統制を弱体化させようとした。 三十年戦争は終わったが、フランス王国はスペイン王国との戦争を継続しており、テュレンヌ子爵アンリ・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュがフランス軍司令官としてスペイン軍に属したコンデ公ルイ2世とネーデルラントで戦った(フランス・スペイン戦争(西暦1635〜1659年))。フランス王国はイングランド王国から軍事支援を受け、西暦1658年のダンケルク近郊の砂丘の戦いで英仏同盟は勝利した。翌西暦1659年に結ばれたピレネー条約によってピレネー山脈を境界とするフランス王国とスペイン王国の国境を確定、ルイ14世はスペイン王フェリペ4世の王女マリア・テレサ(マリー・テレーズ)と婚約した。この頃、ルイ14世太陽王はマザランの姪マリー・マンチーニと恋仲になっておりスペイン王女との結婚を拒絶したが、事は国益の問題であり、マザランはルイ14世太陽王とマリーを無理やり別れさせた。西暦1660年01月27日、コンデ公ルイ2世はアーヘンでルイ14世太陽王の許しを得て、フランス軍に復帰した。敵同士として戦ったコンデ公ルイ2世とテュレンヌ子爵アンリ・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュはそれ以降、味方としてフランス軍を率いた。フランス王国イングランド王国連合軍に占領されたダンケルクはイングランド領になり、西暦1662年にチャールズ2世が同地をルイ14世太陽王に売却するまで維持された。西暦1660年に結婚式が執り行われ、マリー・テレーズはスペイン王位継承権を放棄した。スペインは莫大な持参金(50万金エキュ)の支払いに同意したが、結局支払われなかった。後にルイ14世太陽王はこの未払いの持参金をもってマリー・テレーズの王位相続権を主張し、スペインとの戦争の口実とした。

 少年時代のルイ14世太陽王は女性に関心を示さず、王太后アンヌ・ドートリッシュを心配させるほどだったが、20歳頃の西暦1658年に王太后の侍女との最初の恋愛沙汰を起こし、結局その女性は修道院に送られている。マザラン枢機卿は貴族との縁組の駒として姪たちをフランスに呼び寄せており、青年期のルイ14世太陽王の恋愛相手はマザラン枢機卿の1人のオリンピア・マンチーニに恋したが、彼女はすぐに嫁いでしまい、次いでマリー・マンチーニと交際するようになった。若いルイ14世太陽王は本気で彼女を愛してしまい、愛妾ではなく王妃として結婚しようとした。ピレネー条約によるスペイン王家との縁談が進められていた時期であり、摂政王太后アンヌ・ドートリッシュとマザランは2人を無理に引き離し、結局ルイ14世太陽王は国家が要請するところのスペイン王フェリペ4世の王女マリー・テレーズ・ドートリッシュと結婚した。その後、マリー・マンチーニはイタリアのコロンナ伯ロレンツォ・オノフリオの許へ嫁がされている。
 王妃マリー・テレーズは信仰心に篤く慎ましい女性で王太子ルイ(グラン・ドーファン)を始めとする6人の子を生んだが、ルイ14世太陽王が彼女を愛することはなかった。彼女はスペイン訛りが抜けずに正しいフランス語が話せず、会話でルイ14世太陽王を楽しませることができなかった。もっとも王妃を愛さなかったのはルイ14世太陽王に限ったことではなく、祖父のアンリ4世良王そして父のルイ13世正義王ともに王妃とは不仲であった。先王たちと違いあからさまに不仲であった訳ではなく、西暦1683年に王妃が死去した時、ルイ14世太陽王は「王妃が私に悲しみを与えたのはこれが初めてだった。」と嘆いた。王妃マリー・テレーズ・ドートリッシュとの間には3男3女が生まれたが、長男ルイを除いて夭逝した。王太子は、グラン・ドーファンと呼ばれ、ルイ15世最愛王の祖父、スペイン王フェリペ5世の父である。
 ルイ14世太陽王はラ・ヴァリエール公爵夫人ルイーズ、ド・ヴォージュール侯爵夫人、モンテスパン侯爵夫人フランソワーズ・アテナイス、マントノン侯爵夫人フランソワーズ・ドービニェ、フォンタンジュ公爵夫人マリー・アンジェリクなど多くの愛妾をもった。これら著名な愛妾以外にも、女優や掃除女との行きずりの性的な関係もあった。多数の愛妾に囲まれ豪奢な宮廷生活を送ったルイ14世太陽王だが、これらの愛妾たちが政治に影響を与えることは全くなかったとする説があるが、マントノン侯爵夫人フランソワーズ・ドービニェは熱心なカトリック信者で王を信仰の道に目覚めさせ、プロテスタント弾圧など政治に関与したとの説もある。色恋を宮廷内に留め、公の問題には持ち込まなかったルイ14世太陽王の態度をもって「多情であるが、偉大な魂の持ち主だった証拠」と評される。
 西暦1661年の夏、ルイ14世太陽王は、かつて革命で処刑されたイングランド王のチャールズ1世の王女で、王弟オルレアン公フィリップ(1世)の公妃アンリエット・ダングルテールに魅かれ、フォンテーヌブロー宮殿の森で密会を重ねた。22歳の王と17歳のオルレアン公妃は、ルイ14世太陽王の父ルイ13世正義王がアンリエットの母ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランスの兄にあたる従兄妹であり、今では義理の兄妹だった。フォンテーヌブローでの若き王の振る舞いは、王妃マリー・テレーズや王弟オルレアン公フィリップも知るところとなり、アンリエットがその当時のイングランド王チャールズ2世の実妹なだけに、王太后アンヌ・ドートリッシュを「せっかく築きあげた(王妃の、そしてアンヌ自身の実家でもある)スペインとの同盟がご破算になったら...」と心配させる事態になった。自分との不倫をカムフラージュしようとアンリエットは同い年の侍女ルイーズ・ド・ラ・ヴァリエールを王の偽の相手役としたところ、皮肉にも王はルイーズに心変わりしてしまい、醜聞が大事になる前に収まった。ルイ14世太陽王はルイーズを深く寵愛し、西暦1664年にヴェルサイユ宮で催された大祝典「魔法の島の歓楽」は彼女に捧げられたものとされる。3人の子を儲けたルイーズだが、敬虔な彼女は王妃マリー・テレーズに対する罪に苛まされ2度も修道院に身を隠す騒ぎを起こしている。やがて、国王の寵愛がモンテスパン侯爵夫人に移るとルイーズは西暦1674年に宮廷を辞して修道院に入った。
 モンテスパン侯爵夫人は名門貴族の出身で王妃マリー・テレーズの侍女を務めていた。人目を惹く妖艶な美女で、大変な野心家だった。彼女はルイーズ・ド・ラ・ヴァリエールに取り入ってルイ14世太陽王に近づく機会を得て、西暦1667年から寵愛を受けるようになった。ルイ14世太陽王は彼女のために小トリアノン陶磁宮殿をつくらせ、彼女のための浪費は他の寵姫たちのそれとは比べ物にならなかった。モンテスパン侯爵夫人は8人の子を生み、およそ10年間にわたり王妃を凌ぐ権勢で宮廷に君臨した。
 西暦1679年からルイ14世太陽王はマリー・アンジェリク・ド・フォンタンジュを寵愛するようになった。彼女は若く美しい女性だったが知性には欠けていた。彼女は西暦1680年に子を生み、フォンタンジュ公爵夫人の称号を与えられるが産後は体調を崩してしまった。ルイ14世太陽王の寵愛がマントノン夫人に移ったこともあり、宮廷を辞して修道院に入り西暦1681年に20歳の若さで死去した。
これ以前の西暦1679年に黒ミサ事件が世を騒がせた。「毒殺事件に関与した。」として堕胎や媚薬の販売を行なっていた魔術師ラ・ヴォアザンが逮捕され、彼女のもとで「黒ミサ」と呼ばれる奇怪な儀式が行われていたことが明らかになった。多くの貴族が彼女の顧客となり、その中にはモンテスパン侯爵夫人もおり、支配階級にも及ぶ大醜聞事件となった。フォンタンジュ公爵夫人の急死はモンテスパン侯爵夫人の毒殺によるものとの噂が立てられ、さらにはラ・ヴォアザンの娘が「モンテスパン侯爵夫人はフォンタンジュ公爵夫人だけではなく国王の毒殺まで謀っていた。」と証言した。検察が早々に裁判を打ち切ってことは止み沙汰になったが、これを期にルイ14世太陽王はモンテスパン侯爵夫人を遠ざけるようになり、無視と軽蔑に耐えながらなお数年間宮廷に留まっていた彼女が遂に修道院入りを決意するとルイ14世太陽王は喜んで彼女を送り出した。マントノン夫人は詩人ポール・スカロンの未亡人であり、モンテスパン侯爵夫人の子供たちの養育係を務めていた。美人ではないが教養のある知識人で控えめな女性だった彼女にルイ14世太陽王は関心を持ち寵愛するようになり、侯爵夫人の称号を与えた。西暦1683年07月30日に王妃マリー・テレーズが世を去り、それから程ない同年10月09日頃にルイ14世はマントノン侯爵夫人と秘密結婚をした。この時、ルイ14世は46歳、マントノン侯爵夫人は3歳年上の49歳であり、「王は若さや美しさとは別の点で彼女を愛していた。」と考えられ、この後、王の女性遍歴は止むことになった。

 西暦1661年03月にマザランが死去するとルイ14世太陽王は親政を開始し、以後は宰相を置かないことを宣言した。親政期に行政機構の整備が行われ、ルイ14世太陽王は国の最高機関である国務会議から王太后や王族・大貴族を排除し、国務会議の出席者及び各部門の責任者に法服貴族を登用するなどして大貴族の権威を低下させ、新興貴族層やブルジョワ階層の登用で王権を強化した。ルイ14世太陽王の最高国務会議の出席者は3〜5人程度のごく少数であり、長い治世を通しても全部で17人、その内の帯剣貴族は3人に過ぎない。サン・シモン公ルイ・ド・ルヴロワはルイ14世太陽王の時代を「卑しいブルジョワどもの長い治世」と評した。また、西暦1667年と西暦1673年の王令で高等法院から建言権を取り上げ、高等法院の抵抗を排除した。
 地方には父ルイ13世正義王の代から行われているアンタンダン(地方監察官)派遣を続け、司法・財政・治安維持の権限を与え、時と共に人数を増大させて地方総督の大貴族や自治都市の権限を縮小させた。一方で地方の名士を監察官の補佐として登用させ、監察官の組織も整備、依然として勢力を持つ地方との折り合いも付けて支配の安定を図った。
 親政開始の象徴的事件がベル島侯爵ニコラ・フーケ(Nicolas Fouquet)大蔵卿の断罪であった。フーケはマザランの腹心の1人で有能な人物ではあったが、職権を利用して莫大な私財を蓄えていた。これを知ったルイ14世太陽王は激怒しフーケを逮捕し、フーケには国外追放の判決が下された。ルイ14世太陽王はこの判決に激怒し、終身刑に差し替えることを命じ投獄しフーケは獄死した。
 西暦1665年に財務総監に任命されたのが、羅紗商人の息子のジャン・バティスト・コルベール(Jean-Baptiste Colbert)である。ルイ14世が親政を始めた時点で、フランス王国の財政は多年の戦費とフロンドの乱により破産しかかっていた。コルベールはより効果的な税制の運用を行い、国家の債務を削減した。主な税制には間接税 (aides)、物品税 (douane)、塩税 (gabelle) そしてタイユ税(土地税、taille)がある。「国債は厄介者で、金利生活者は寄生生物である。」と述べ、西暦1661年と西暦1664年に債務の元利をざっくり削減した。コルベールは貴族と聖職者の免税特権の廃止まではしていないが、税の徴収と運用方法を改善できた。
 財務総監コルベールは保護関税政策を取り、世界の銀の量は一定との考えの元、輸入を減らして輸出を増やす政策を行った。彼は贅沢品の輸入を禁止または高関税を課し、輸出産業振興のために王立マニファクチュールの設立や輸出品製造業者を対象とした特権マニファクチュールを設けるなどこれを保護・育成する施策を講じた。また、西暦1669年に海軍卿に就任したコルベールは海軍力の増強して、フランスを海軍大国に押し上げている。後にイギリス・オランダと貨幣戦争を引き起こすことになる彼の王室的重商主義はコルベール主義(コルベルティスム Colbertisme)と呼ばれている。彼はこの海軍力の保護のもとでイギリス・オランダの海外市場に割り込もうと、南アジアを対象とした東インド会社では亡命新教徒で長く日蘭貿易に携わり商館長まで務めたフランソワ・カロンを引き抜いて長官に据えた。そしてカリブ海を対象とした西インド会社を再創設、植民地を建設した。北アメリカの植民地が拡大され、ヌーベルフランス(カナダ)やアンチール諸島には総督が送り込まれて人口増殖政策と同化政策が進められ、ヌーベルフランスの人口は4倍に増えた。
 ルイ14世太陽王は聖職者や大貴族を抑制するためにブルジョア層出身者を重用しており、主な側近にはコルベールの他に陸軍担当国務卿ミシェル・ル・テリエと外務担当国務卿ユーグ・ド・リオンヌがいる。また、ル・テリエの息子で同じく陸軍担当国務卿となったルーヴォワ侯フランソワ・ミシェル・ル・テリエは傑出した軍政家で、軍制の改革を行い国王直属の士官の人数を増やして連隊長だった貴族を牽制、兵舎の設立など後方支援の整備、国王民兵制(徴兵に近い兵制)による貴族を経由しない軍事力の獲得でフランス軍の質量両面の増強を成し遂げ、彼の作り上げた軍隊がルイ14世太陽王治世下で行われた幾多の戦争を支えた。
 コルベールによってルーヴル宮の拡張がなされた。西暦1661年に狩り場の小館があったヴェルサイユの地に宮殿の建設を開始した。これがルイ14世太陽王の治世を象徴するヴェルサイユ宮殿となる。この地に宮殿を造営した理由は一般的にはルイ14世太陽王がフロンドの乱での苦い経験があるパリを嫌ったためともされるが、実際には彼は森と自然の地に自らの構想による新宮殿を造営することにこだわったためともされる。この地は水利が悪く工事は難航し、一応の完成を見て宮廷が移り住むのは20年後の西暦1682年になった。
 ルイ14世太陽王は、負傷したり老齢化した、忠実に国王に仕えた将校のためのオテル・デ・ザンヴァリッド(アンヴァリッド、廃兵院)の建設を命じた。精神障害者・犯罪者・浮浪者対策として西暦1656年に「一般施療院令」とその強化令が発せられ、癩病施療院だった建物を転用して収容した。その大規模な施設として、総合施療院、ビセートル病院(男性)、サルペトリエール病院(女性)の建設を指導するなど、公共の福祉にも関心を払った。
 ルイ14世太陽王は「官僚王」(Rois Bureaucratie) とも呼ばれるほど非常に政務に精励な国王だった。その生活は規則正しく、サン・シモン公ルイ・ド・ルヴロワは「回想録」で「暦と時計があれば、遠く離れていても王が何をしているか言える。」と述べている。身体強健であり、しばしば戦争に出陣した王の馬上姿は颯爽たるもので、自身も野戦攻城戦や閲兵式を好んだ。狩猟、祝祭そして恋愛といった何事にも精力的に打ち込み、一日中活動しても倦むことはなく、また他人にも同じことを強いた。名誉心が強く、彼の回想録には臣下はもちろん先王たちの名もほとんど登場せず、業績のことごとくが自らのものであったの如く書かれており、回想録で国王と議会との妥協によって運営されるイギリス政治を批判し、「決定は頭首のみに帰属し、肢体の役目は命令を執行することに過ぎない。」と述べている。人々から賞賛されることを好み、臣下たちは競って阿諛追従した。臣下には宮廷に常に出仕することを強い、出仕を怠った者には不機嫌な表情で「余はそのような者は知らぬ。」と冷たい言葉を投げかけ、逆に出仕と追従に努める者には高価な下賜品と栄典が与えられた。婦人に対しては貴婦人から身分の低い洗濯女に対してまで礼儀正しく、自分から帽子に手を触れて会釈をした。細事にまで気を配り、兵卒の訓練や家事にまで関心を持ち、疑い深くスパイを用い他人の手紙を平然と開封した。サン・シモン公ルイ・ド・ルヴロワは回想録で「ルイ14世は秩序と規律を望んだ。」と述べ、フランス王家の伝統だった公式晩餐(公開食事、グラン・クヴェール)を死去する直前まで欠かさずに行い、ルイ14世太陽王は宮殿での礼拝はもちろんのこと単なる起床や飲料といった宮廷生活の細事ことごとくを厳粛な儀式と化させ、礼儀作法を複雑にして人々にそれを課し、彼らの立ち振る舞いを雁字搦めにした。ルイ14世太陽王の宮廷礼式の煩わしさを聞いたプロイセンのフリードリヒ2世は「(自分ならば)国王命令でもう1人国王を作り、彼にやらせるだろう。」と評した。

ルイ十四世の世紀 (3) (岩波文庫 赤 518-5) - ヴォルテール, 丸山 熊雄
ルイ十四世の世紀 (3) (岩波文庫 赤 518-5) - ヴォルテール, 丸山 熊雄

 西暦1659年のピレネー条約によってスペイン王国の弱体化が決定的となり、フランス王国優位の時代に入った。ルイ14世太陽王は「盟主政策」と呼ばれるフランス王権を中心としたヨーロッパ体制の構築を企図しており、その最大の障害は疲弊したスペイン王国ではなく、海外貿易で莫大な富を築いていた新興勢力のネーデルラント連邦共和国(西暦1581〜1795年、オランダ)であると考えられた。オランダ連邦共和国内での議会派(都市商人)と総督派(封建貴族と農民)との内紛がルイ14世太陽王の企図を助けていた。当時のオランダ連邦共和国は議会派のヨハン・デ・ウィットが指導者となっており、古くからの大貴族である総督派のオラニエ公ウィレム3世が巻き返しを図ることを恐れていた。
 没落したスペイン王国がルイ14世太陽王の最初の標的となった。ルイ14世太陽王はスペイン植民地に対する野心を持つイギリス王国、さらには神聖ローマ皇帝レオポルト1世と結んでスペイン帝国(スペイン王国とその植民地・属領などの総称、西暦1492〜1976年)の分割の交渉をした。オランダ連邦共和国とも防御・通商同盟を結び来たるべき対スペイン戦争に備えた。西暦1665年にルイ14世太陽王の義父であるスペイン王フェリペ4世が死去すると、後妻が生んだ王太子が即位してカルロス2世となった。王妃マリー・テレーズの持参金がスペインからまったく支払われていない上にフェリペ4世の遺言ではカルロス2世が死去した場合、神聖ローマ皇帝レオポルト1世の婚約者マルガリータ・テレサ(マリー・テレーズの妹)がスペイン領を相続することになっており、ルイ14世太陽王を苛立たせた。これに対してルイ14世太陽王は「ブラバント(スペイン領ネーデルラントの1州)はカルロス2世の異母姉である王妃マリー・テレーズが継承するべきものである。」といわゆる「王妃の権利論」を掲げて領土の割譲をスペイン王国に要求した。
 西暦1667年に帰属戦争(フランドル戦争)が勃発すると、ルイ14世太陽王は自ら軍を率いて戦った。
兵数と装備で圧倒するフランス軍はフランドル国境地帯の要衝を容易に奪い取り、スペイン軍を後退させた。これに危機感を持ったオランダ連邦共和国のウィットはこれ以上のフランス王国からの侵略を防ぐために、イギリス王国の外交官ウィリアム・テンプルと交渉をし、西暦1668年にステュアート朝(スコットランドおよびイングランド王国)(西暦1606〜1707年、イギリス)そしてスウェーデン王国との三国同盟を結成した。イギリス王国・オランダ連邦共和国といった海軍・通商の2大勢力の圧力を前にルイ14世太陽王は和平へと動いたが、フランシュ・コンテ地域圏は断固として征服させた。結局、ルイ14世太陽王はアーヘンの和約の締結を余儀なくされ、フランス王国はフランドルの12の都市は確保したものの、フランシュ・コンテ地域圏はスペイン王国に返還している。アーヘンの和約はフランス王国にとって満足すべきものではなく、またルイ14世太陽王はオランダ連邦共和国をひどく憎んだ。
 三国同盟は長続きしなかった。西暦1670年、イギリス王チャールズ2世はドーヴァー秘密条約を結んでフランス王国との同盟に加わり、オランダ連邦共和国と絶縁した。次にルイ14世太陽王は、イギリス王国と同様な同盟条約を結んでいたスウェーデン王国に参戦を促した。しかしスウェーデン王国の参戦は、オランダ連邦共和国と結んだデンマーク・ノルウェー連合王国(西暦1524〜1533、1537〜1814年)とブランデンブルク・プロイセン(Brandenburg-Preußen、低地独語: Brannenborg-Preußen、西暦1618〜1701年)の参戦を招き、戦線がオランダ連邦共和国から離れてしまうことになった。
 西暦1672年に海上からイギリス軍が、陸上からはフランス軍がオランダ連邦共和国に攻め込んだ(仏蘭戦争)。オランダ連邦共和国は海軍こそ名将デ・ロイテルのもとで強力であったが、陸軍は弱体であった。フランス軍は快進撃を続けてアムステルダムに迫り、占領地の住民の歓心を得るために金品をばらまく余裕さえ見せた。譲歩による講和を図ったウィットは兄のコルネリス・デ・ウィットと共に不満を抱いた民衆に殺害され、代わってオラニエ公が権力を掌握する。オラニエ公は堤防を決壊させて国土を泥沼に沈めて徹底抗戦の構えを示し、海軍もイギリス艦隊を破って制海権を維持した。
 アムステルダム攻略の見通しが立たなくなり、戦争は長期化した。神聖ローマ皇帝、ドイツ諸侯の一部そしてスペイン王国がオランダ連邦共和国と同盟を結び、この一方でイギリス議会では「利益のない戦争である。」として反戦論が高まり、西暦1674年にイギリス王国はオランダ連邦共和国と和平を結んで撤退した。オラニエ公は更にイギリス王国と結びつき、チャールズ2世の姪メアリーと結婚もした。この事態にルイ14世太陽王はオランダ連邦共和国から兵を引かせて、代わりにフランシュ・コンテ地域圏に攻め込ませ神聖ローマ皇帝軍およびスペイン軍を破り、制圧した。陣容を立て直したフランス軍が海陸でオランダ軍を破って優位を確保した状態で西暦1678年にナイメーヘンの和約が結ばれる。ルイ14世太陽王はスペイン王国にフランシュ・コンテ地域圏とフランドルの幾つかの地域を割譲させ、一方、オランダ連邦共和国の占領地は返還し、関税面での譲歩までしており、不利益を被ったのは専らスペイン王国であった。オランダ征服という当初の戦争目的こそ果たせなかったが、有利な条件での講和に成功したことでフランス王国の国際的威信を示した。
 ナイメーヘンの和約はヨーロッパにおけるフランス王国の影響力を拡大させたが、ルイ14世太陽王はまだ満足していなかった。翌西暦1679年、彼は外務担当国務卿シモン・アルノー・ド・ポンポンヌを解任、軍事力ではなく法的手続きをもって領土の拡大を達成しようと目論んだ。ルイ14世太陽王は条約の曖昧さを利用して司法機関に割譲地の周辺地域を「その付属物」であると判決させて「平和的に」併合する手段を講じさせた。この国王の主張に基づき、いずれの土地がフランス領土たるべきかを調査する統合法廷が設置され、その決定に従ってフランス軍がその土地を占領してしまった。
 これによって得られた僅かな土地を併合することがルイ14世太陽王の本当の目的ではなかった。彼は戦略要地であるシュトラスブルクの獲得を欲していたのである。シュトラスブルクはヴェストファーレン条約によってフランス領となったアルザス地方の一部ではあったが、同条約ではアルザスに加えられていなかった。ルイ14世太陽王の法的口実に基づいて、フランス王国は西暦1681年にシュトラスブルクを軍事占領した。ルイ14世太陽王は同時に北イタリアのカサーレも占領しており、この強引な手法はドイツ人の反仏感情を煽る結果となった。

 ルイ14世太陽王の有力な競争相手の神聖ローマ皇帝レオポルト1世(ハプスブルク家オーストリア大公国)はオスマン帝国(西暦1299〜1922年)との戦争でウィーンを脅かされていた(第2次ウィーン包囲)。西暦1683年にフランス王国と戦端を開いたスペイン王国は再び撃破されて、リュクサンブール(ルクセンブルク)を奪われた(再統合戦争(西暦1683〜1684年))。西暦1684年のレーゲンスブルクの和約でスペイン王国はフランス王国によるリュクサンブールとその他の併合地の既成事実を認めさせられた。オーストリア大公国(西暦1453〜1806年)はオスマン帝国を撃退した後も、ルイ14世太陽王への敵対行動を取らなかった。

 西暦1680年代始めにルイ14世太陽王の影響力は大いに高まった。この時期がルイ14世太陽王の絶頂期であった。西暦1681年に始まったヴェルサイユ宮殿の造営事業には建築家のル・ヴォー、造園家のル・ノートルそして画家・室内装飾家のシャルル・ルブランがあたった。財務総監のコルベールは巨費を要する新宮殿の造営には消極的だったが、ルイ14世太陽王自身の強い意向でもあり従わざるをえなかった。工事は困難を極め、数万の人夫が工事に従事し、多数が死亡した。ルイ14世太陽王はこの新宮殿の造営に熱中した。戦時以外は頻繁に工事中の宮殿に赴いて細事に渡るまで指図し、気に入らない箇所があれば何度でも工事をやり直させた。
 ルイ13世正義王時代の小城館を改築する第1期工事は西暦1664年に完了し、この際に盛大な祝典「魔法の島の歓楽」が、またアーヘンの和約が結ばれた西暦1668年には戦勝を記念する祝典「ヴェルサイユの国王陛下の余興」が催された。この城館がなお手狭であることが判明したため西暦1668年から第2期工事が着工され、西暦1670年にル・ヴォーが死去したためフランソワ・ドベルが建築を引き継いだ。この工事ではルイ13世の小城館を取り囲む形で大規模な新城館が建築される「包囲建築」と呼ばれる形式のさらなる増築が行われた。西暦1674年にこの新城館でルイ14世太陽王治世最大の祝典である「1674年のフランシュ・コンテ征服からの還御の際に国王陛下が全宮廷に対して下賜された余興」が催された。第3期工事は西暦1678年に始まり建築はマンサールがあたり、新たに「鏡の間」と「大使たちの階段」が造営され、庭園の一部をル・ヴォーのバロック式建築から古典様式に改めさせている。この工事中の西暦1682年05月06日にルイ14世太陽王は正式に王宮をヴェルサイユに移した。これまでルイ14世太陽王の宮廷はフランス王家の「移動する宮廷」の伝統に従い、フォンテーヌブロー宮(西暦1661年)、ルーヴル宮(西暦1662〜1666年)やサン・ジェルマン・アン・レー(西暦1666〜1673、1676、1678〜1681年)などを転々としてきたが、以降はヴェルサイユ宮に固定された。ルイ14世太陽王はル・ノートルの手がけた庭園を愛し、「ヴェルサイユの庭園概説」の幾つかの版は国王自身の執筆によるものと考えられる。ルイ14世太陽王は庭園の中でも噴水の美を重要視しており、このために彼は「マルリーの機械」と呼ばれる大がかりな揚水装置を建設させた。この宮殿の拡張工事はルイ14世西暦の晩年まで続けられ、その費用は8200万リーヴルの巨費に昇った。
 ルイ14世太陽王は貴族たちをヴェルサイユ宮殿内またはその周辺に住まわせ、宮殿内には多い時には廷臣のほか官吏、外国使節、請願者、出入り業者を含めて1万人もの人々が犇めいていた。ルイ14世太陽王はこの宮廷での序列や礼儀作法を厳格に定めて貴族たちに従わせ、彼らに国王から下賜される栄誉や年金獲得を宮廷内で競わせることによって宮殿への常駐を余儀なくさせ長期間国王の監視の下に置き、地方の領地から切り離すことによって、貴族達を強く統制することに成功した。彼はこれら恒常的な賓客達を贅沢な宴会や遊興でもてなしたが、これは専制統治の重要な要素であった。

 ルイ14世太陽王自身はあまり信仰心がなかったが、その宗教政策は「王の権威はローマ法王の仲介なしに直接神から委ねられた。」という王権神授説に拠って立ち、伝統的なガリカニスム(フランス教会自立主義)を強化した。絶対主義を追求すべく、教会に対する支配の強化を図るルイ14世太陽王は法王との対立を引き起こしている。西暦1682年に聖職者会議はローマ教会からの分離をも示唆するボシュエ司教の起草による「四ヶ条宣言」を票決し、これによりフランス国王の権力が強化されたのに対して、法王の力は削減された。この宣言は法王庁の権威は信仰上のことのみとし、公会議の優越、ガリカン派の教会法の法王からの独立そして法王権の行使に際する公教会の同意の必要を謳った。ローマ法王インノケンティウス13世はこの宣言の受け入れを拒否した。
 フランスでは国王、大貴族によるメセナ(学問芸術の保護)の長い伝統があり、ルイ14世太陽王もまた芸術のメセーヌ(保護者)になり、劇作家のラシーヌやモリエール、詩人のボアロー、音楽家のリュリそして画家・装飾家のシャルル・ルブランといった文学や文化の名士達に出資した。学問に対するメセナとしては科学アカデミーの創立があり、高額の年金を払って外国の著名な研究者たちを迎え入れた。西暦1671年にアカデミー・フランセーズが官営団体となり、国王がメセーヌとなった。アカデミー・フランセーズの編纂による「フランス語辞典」が出版されフランス語による言語統一という政府の施策に貢献した。もっとも、ルイ14世太陽王が芸術家に出費したのは治世の前半だけで、やがて戦争により財政が悪化すると出資を削減した。
 フランスには、西暦1533年にイタリアからカトリーヌ・ド・メディシスによりバレエが持ち込まれ、宮廷において盛んに上演された。ルイ14世太陽王が5歳で即位した時にも、5時間に及ぶ盛大なバレエが催され、ルイ14世太陽王自らも出演した。ルイ14世太陽王はバレエに魅せられ、バレエを奨励していた。本人も西暦1651年に15歳で舞台デビューし]、王立舞踏アカデミーを創立した。バレエが現在のようなダンスとして体系づけられたのは、彼の時代の功績である。「太陽王」の異名も、元はバレエで太陽(太陽神)に扮したことから生まれた。ルイ14世太陽王は高いヒール靴を好み、奨励したことでも知られる。美しい脚線美を維持するためにヒール靴を着用している様子は、彼の全身を描いた肖像画にも描かれている(その後、きついバレエシューズによって小さくなった足が貴族の証とされていくようになった。)。ルイ14世太陽王は西暦1670年に舞台から引退した。西暦1698年にルイ14世太陽王が導入したダンサーの年金制度は、フランス最古の年金制度の1つであり、現在もなお存続している。
 ルイ14世太陽王は、侍医アントワーヌ・ダカンの主張する「歯は全ての病気の温床である。歯を抜けば健康になる。」という説を信じ、12回にわたる手術の末、全ての歯を抜歯された。しかも当時は麻酔が無いため、全て無麻酔にて行なわれ、抜歯後は真っ赤に焼けた鉄棒で歯茎を焼灼し消毒した。その後、歯の無いルイ14世太陽王は、約8時間以上掛けてくたくたになるまで煮込んだホロホロ鳥や雉などしか食べられなくなったが、大食いの癖は直らず、常に胃腸の調子が悪くトイレにも頻繁に駆け込んだ。時にはトイレから臣下たちに命令を下すこともあった。こうしたルイ14世太陽王に憧れたのか、ある臣下は下痢でもないのにトイレに座りながら仕事をする者も現れた。余りにもトイレに行く回数が多かったため、ルイ14世太陽王の衣服にも悪臭が染み付いてしまっていた。そのため臣下たちは、香水を染み込ませたハンカチを鼻に当てながら閣議に臨んでいた。
 バロック・ロココ時代のヨーロッパの王侯貴族たちの間での鬘を着用する習慣があり、西暦1658年に病のために毛髪の大部分を失い禿げたルイ14世太陽王も着用した。これには背丈を水増しする効果もあった。ルイ14世太陽王の身長は160p程度しかなく、王としての威厳を演出するためにも背を高く見せようとし、ハイヒールを好んだのだが、それでも十分ではなく鬘で髪を盛り上げ大きな姿を演出した。


ルイ十四世の世紀 (4) (岩波文庫 赤 518-6) - ヴォルテール, 丸山 熊雄
ルイ十四世の世紀 (4) (岩波文庫 赤 518-6) - ヴォルテール, 丸山 熊雄

 西暦1683年にルイ14世の最も重要な廷臣であるコルベールが死去した。コルベールの努力により、財政再建がすすめられ、彼の施政により歳入は3倍に増えているが、フランスの民衆はコルベールの政策の恩恵を受けることはなく、依然として貧しいままだった。コルベールの幼い息子のマリー・ジャン・バティスト・コルベールがセニュレー侯位を継承、海軍大臣はルイ・フェリポー・ド・ポンシャルトランが就任した。西暦1684年にジェノヴァ共和国(西暦1005〜1797年)遠征に参加し、ジェノヴァ共和国を降伏させ海軍の発展に尽力したが、西暦1690年にセニュレー侯が没して海軍の拡張は停滞した。西暦1692年にバルフルール岬とラ・オーグの海戦でイングランド海軍に大敗してフランス海軍は後れを取ることになった。

 西暦1683年、王妃マリー・テレーズが死去した。それから程なくしてルイ14世太陽王は最も愛した寵姫マントノン侯爵夫人と秘密結婚をした。ルイ14世太陽王とマントノン侯爵夫人との結婚は公的な記録を残さない、あくまでも私人としての結婚であり、彼女は王妃ではなかったが、ルイ14世太陽王はしばしば顧問会議を彼女の部屋で催し、慎重な助言者として国王の意思決定に影響を与えた。

 ハプスブルク家との戦争を繰り返すうちにルイ14世太陽王はこれまでのガリカニスム(フランス教会自立主義)擁護から「カトリック教会の守護者」へと態度が変わり、ローマ法王との結びつきを強めるようになった。ルイ14世太陽王は国内のカトリック信仰の強化を目指し、ローマ法王と連携してジャンセニスト(厳格主義信仰運動)を弾圧した。そして、ユグノーの弾圧に着手した。ユグノー戦争の結果、アンリ4世良王のナント勅令によって政治的・軍事的特権を与えられたユグノーも、ルイ13世正義王の時代にリシュリュー枢機卿に敗れ政治勢力としては没落して少数派となり、信仰の自由だけが僅かながら保証されていた。ルイ14世太陽王は官職からユグノーを締め出し、職業を制限し、亡命まで禁じる勅令を次々と出した。兵士をユグノーの家々に送り込んで改宗を強要まで行った(竜騎兵の迫害)。
 そして西暦1685年、ルイ14世太陽王はナント勅令を廃棄し、プロテスタントの礼拝の禁止と改宗に応じない牧師の国外追放を定めたフォンテーヌブロー勅令を発した。改宗に応じないユグノーは国禁を犯して亡命し、その数は約20万人に昇り、その中には多くの手工業者や商人が含まれていた。そして、フランスに残ったプロテスタントの叛乱であるカミザールの乱に対しては武力鎮圧を加えた。ルイ14世太陽王は亡命者を受け入れたサヴォイア公国(西暦1416〜1720年)に兵を送り、虐殺まで行わせている。プロテスタント迫害は内外の非難を受けてフランスの孤立を招いたが、宗教的不寛容が広まっていた大多数を占めるカトリックのフランス人からは喝采を浴びた。
このプロテスタント迫害については、秘密結婚したマントノン侯爵夫人が敬虔なカトリックであり彼女の影響とする主張が古来から存在するが、「実際には王の義妹プファルツ公女の影響またはあくまでもルイ14世太陽王の独自の決断である。」として彼女の影響を否定する説もある。

 西暦1685年にプファルツ選帝侯カール2世が息子の無いまま亡くなり、遠縁のプファルツ・ノイブルク公フィリップ・ヴィルヘルムがプファルツ選帝侯になると、ルイ14世太陽王は弟オルレアン公の妃エリザベート・シャルロット・ド・バヴィエール(プファルツ選帝侯カール1世ルートヴィヒの娘、カール2世の妹)の相続権を主張して、西暦1688年にケルン選帝侯の選挙にも介入し、ヨーゼフ・クレメンス・フォン・バイエルンに対抗してヴィルヘルム・エゴン・フォン・フュルステンベルクを擁立、プファルツ継承問題と合わせてフランスの主張を受け入れるよう呼びかけ、拒絶されたことを口実にプファルツ選帝侯領(西暦1085〜1803年)へ侵攻した。プファルツは完全に破壊され、これに危機感を持ったドイツ諸侯が結束して抵抗するがフランス軍を食い止めることはできず、フランス軍の焦土化作戦によって諸都市が破壊された(プファルツ掠奪)。
 この時期、イギリスではカトリック復活を図っていたジェームズ2世が追放され、王の姪でプロテスタントのメアリーとその夫のオラニエ公ウィレムが迎えられて各々メアリー2世・ウィリアム3世として共同王位に就いていた。ルイ14世太陽王はオランダ議会にオラニエ公のイギリス遠征を止めさせるよう警告しており、これが受け入れられなかったためフランスはオランダに宣戦布告した。一方、神聖ローマ帝国議会も対仏宣戦を議決しており、神聖ローマ皇帝レオポルト1世は神聖ローマ帝国の名で正式にフランスに宣戦布告した。こうして、イギリス王国、オランダ連邦共和国、スペイン王国、神聖ローマ帝国、 ブランデンブルク辺境伯領(西暦1157〜1806年)、ザクセン選帝侯領(西暦804〜1296年)、バイエルン選帝侯領(西暦1623〜1806年)、サヴォイア公国そしてスウェーデン王国による対仏同盟(アウクスブルク同盟または大同盟)が成立した。
 アウクスブルク同盟戦争(大同盟戦争、プファルツ戦争、西暦1688〜1697年)の大陸での緒戦は神聖ローマ皇帝がオスマン帝国との戦い(大テュルコ戦争、西暦1683〜1699年)に注力せざるを得なかったため、フランス軍がフルーリュスの戦い(西暦1690年)でオランダ軍を撃破し、ナミュールを占領(西暦1692年)するなど有利に進んだ。ルイ14世太陽王は国を追われたジェームズ2世を庇護しており、戦争が始まると彼に艦隊をつけてアイルランドへ送り込んだが、ジェームズ2世の軍勢(ジャコバイト)はロンドンデリーの包囲に失敗してアイルランドに封じ込められ、フランス艦隊も西暦1692年のバルフルール岬とラ・オーグの海戦で英蘭艦隊に敗れて制海権を失ってしまった。戦争はその後、長期の消耗戦に陥り、フランス軍が幾つかの会戦で勝利をおさめたものの対仏大同盟に包囲され孤立した状態であり、国家財政も底を突き始めた。フランス王国が戦術的優位を維持した状態で、西暦1697年にレイスウェイク条約が結ばれて戦争は終結した。ルイ14世はエリザベート・シャルロットの相続権を主張しないことを約束(プファルツ選帝侯とケルン選帝侯はフィリップ・ヴィルヘルムの息子ヨハン・ヴィルヘルムとヨーゼフ・クレメンスが継承)、西暦1679年の仏蘭戦争以降に獲得したルクセンブルクなどの領土を放棄せざるを得なかったが、シュトラスブルク(ストラスブール)だけは確保した。ルイ14世太陽王はまたウィリアム3世とメアリー2世夫妻のイングランド王位を承認し、ジェームズ2世の支援をしないことを約束した。この講和は敵国に譲歩しすぎると国民から不評を受けた。

 レイスウェイク条約以降のヨーロッパではスペイン王位の継承が最大の関心事となっていた。スペイン王カルロス2世は長年の近親結婚の結果、極めて虚弱であり、嗣子を得ることは無理と見られていた。スペイン王位継承には莫大な利益があった。カルロス2世はスペインのみならずナポリ王国(西暦1282〜1816年)、シチリア王国(西暦1130〜1816年)、スペイン領ネーデルラント(西暦1556〜1714年)、そして植民地帝国といった広大な領域に君臨していた。
 西暦1698年、カルロス2世の死期が迫るとルイ14世太陽王はイギリス王ウィリアム3世に接近し、競争相手のレオポルト1世はもちろん当事者のスペイン宮廷にも極秘のうちにフランス王国とイギリス王国との間でスペイン分割条約を締結した。この第1次分割条約ではヨーゼフ・フェルディナントのスペイン王位継承で同意するが、スペイン領のうちシチリア王国、ナポリ王国、トスカーナ沿岸諸港は王太子ルイが相続し、ミラノ公国(西暦1395〜1797年)はカール・フォン・エスターライヒ・テシェン大公が獲得することとなり、イギリスにも貿易上の便宜が与えられていた。だが、条約の内容を知ったスペイン王国は領土の分割に強く抵抗した。この条約を知らされたカルロス2世はヨーゼフ・フェルディナントを王位継承者とし、スペインの全ての領地を相続させる遺言に署名した。だが、その6ヶ月後にヨーゼフ・フェルディナントが天然痘で早世し、全ては振り出しに戻った。ルイ14世太陽王とウィリアム3世はまたもオーストリア大公国を盲桟敷において第2次分割条約を結び、カール大公のスペイン王位とネーデルラント、海外植民地の継承は認めるが、ミラノ公国は王太子ルイが相続すると決めた。だが、レオポルト1世はこの条約の受け入れを拒絶した。
 スペイン宮廷はスペイン帝国の統一の維持を意図しており、そのためには「フランス王国のブルボン家かオーストリアのハプスブルク家かのいずれかを選ばねばならない。」と考え、最終的にフランス王国を選択した。西暦1700年10月07日、死の床にあったカルロス2世はスペイン領土不分割を条件にアンジュー公フィリップを王位継承者に指名する遺言書に署名し、アンジュー公フィリップもしくはその弟ベリー公シャルルが遺言を受け入れられない場合はオーストリアのカール大公にとスペイン王位の継承順位を定めた。11月01日にカルロス2世は世を去った。
 ルイ14世太陽王は分割に同意してヨーロッパの平和を維持するか、スペイン王位を受け入れてヨーロッパ諸国と敵対するかの難しい選択を迫られた。ルイ14世太陽王はトルシー侯ジャン・バティスト・コルベール(コルベールの甥)からの進言もあり、「遺言を拒否すればカール大公がスペイン王となりフランスは再びハプスブルク家に包囲され、そして皇帝は領土分割もブルボン家のスペイン王位も認めないであろう。」と判断し、「いずれにしても戦争になるならばスペイン全土を継承すべきである。」と決めた。11月16日にルイ14世太陽王は遺言の受諾を公表し、孫のアンジュー公フィリップを「スペイン王フェリペ5世である。」と宣言する。スペイン大使はこの決定を喜び「ピレネーはもはや存在しない。(Il n'y a plus de Pyrénées.)」と語った。
 遺言受諾の報を受けたウィリアム3世は「騙された。」と憤ったが、議会に秘密で進めた分割条約が槍玉に挙がり、さらにはイギリス軍が大幅な軍縮中の状況でもあったことからフェリペ5世のスペイン王位を承認した。だが、ルイ14世太陽王は挑発的な行動に出て諸国の危惧を逆撫でするようにフェリペ5世のフランス王位継承権を保留させ、さらにはスペイン領ネーデルラントにフランス兵を進駐させてレイスウェイク条約の規定によって同地に駐屯していたオランダ兵を追い払い、スペイン植民地においてフランス・ギアナ公社に諸特権が付与されたこともイギリス・オランダの海外貿易にとって脅威となった。フランス王国に亡命中だったジェームズ2世が西暦1700年11月に死去するとルイ14世太陽王はウィリアム3世の承認を取り消してジェームズ2世の長男のジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアート(ジェームズ3世、老僭王、大僭称者)のイングランド王即位を宣言する挙に出た。
 このためイギリス王国はオランダ、神聖ローマ帝国(オーストリア大公国)およびドイツ諸邦とのハーグ同盟(大同盟)を結成した。一方、ハプスブルク家の領国・ハンガリー王国(西暦1000〜1526、1526〜1918年)で叛乱を起こしたトランシルヴァニア公ラーコーツィ・フェレンツ2世の支援を表明し、加えてバイエルン選帝侯領、ポルトガル王国(西暦1139〜1910年)、サヴォイア公国がルイ14世太陽王とフェリペ5世を支持した。レオポルト1世はカール大公のスペイン王位を一方的に宣言すると、西暦1701年に北イタリアに侵攻し、戦端が開かれた。国際情勢が逼迫する最中の西暦1702年03月08日にウィリアム3世が急死し、義妹のステュアート朝(西暦1371〜1714年、1603年からイングランド王を兼ねる)最後の君主アン女王(ジェームズ2世の次女)がイングランド・スコットランド・アイルランドの王位を継承し、やがてグレートブリテン王国(西暦1707〜1801年)最初の君主となった。
 こうして始まったスペイン継承戦争はルイ14世太陽王の残りの治世の大部分を費やした。フランス軍は緒戦では優勢に戦いオーストリア大公国に侵攻する勢いを示すが、ブレンハイムの戦い(西暦1704年08月13日)でマールバラ公ジョン・チャーチルとプリンツ・オイゲンに敗れると防勢に回らざるを得なくなってしまう。この戦いの敗北によってバイエルン選帝侯領は国土を占領されて事実上戦争から脱落し、ポルトガル王国とサヴォイア公国は反仏同盟側に寝返った。西暦1704年に戦略上の要地であるジブラルタルがイギリス軍に占領され、ルイ14世太陽王は艦隊を派遣して奪回を試みるが撃退されて艦隊戦力を喪失し、大西洋から地中海におよぶイギリス海軍の制海権確立を許す結果となった。この戦争の戦域はこれまで常に戦場になってきたフランドルとライン川上流、ミラノ公国とサヴォイア公国を巡る北イタリアと南フランスそしてスペイン王国本土にまで及んだ。両陣営の総兵力は20万人から30万人に達し、フランス王国の財政を圧迫した。北アメリカの植民地では序盤はフランス王国が優勢だったが、イギリス王国が勢力を盛り返し、劣勢に追い込まれていた(アン女王戦争)。
 戦争はまたも長期化するが、フランス軍は戦略的な包囲下にありながらも巧緻な戦いぶりを示し、やがてハーグ同盟の側が疲弊を見せ始めた。西暦1705年にレオポルト1世が死去し、後を継いだ長男ヨーゼフ1世も西暦1711年に死去し、フェリペ5世とスペイン王位を争っていたカール大公がカール6世として帝位を継承すると、諸国はカール5世時代の大帝国の再現を恐れ、和平の機運が急速に高まった。
 ルイ14世太陽王とフェリペ5世は西暦1713年にイギリス王国(グレートブリテン王国)とユトレヒト条約を結んで講和した。オーストリア大公国とは西暦1714年にラシュタット条約を結んだ。これらの講和によって、フェリペ5世のスペイン王位とアメリカ大陸の植民地ヌーベルフランス領有は承認されたが、ネーデルラントと北イタリア、ナポリ王国、サルデーニャのスペイン領はオーストリア大公国に譲渡され、イギリス王国もジブラルタルの獲得と北アメリカの植民地の拡大を果たした。更にルイ14世太陽王はジェームズ・フランシスのイングランド王位主張の支援を止めることも約束させられた。以降ジェームズ・フランシスとその長男チャールズ・エドワード・ステュアート(“ボニー・プリンス・チャーリー”、“若僭王”)はアンの死後即位したジョージ1世のハノーヴァー朝(西暦1714〜1901年)と対峙したが、フランス王国の支援がないことが一因でイングランド王即位は果たせなかった。
 ルイ14世太陽王の晩年には多年の戦争による莫大な戦費のためにフランス王国の財政は破綻しかかっており、重税のためにフランスの民衆は困窮しきっていた。西暦1709年にはかつて革命を起こして王政を打倒したことのある「イギリス人を見習え。」と謡う小唄が流行した。

 西暦1715年09月01日、77歳の誕生日の数日前にルイ14世太陽王は壊疽の悪化により亡くなった。死の床に幼い曾孫の王太子ルイ(後のルイ15世最愛王)を呼び「私は多くの戦争をしたが、私の真似をしてはならない。」と訓戒を垂れた。民衆はルイ14世太陽王の死去に歓喜し、葬列に罵声を浴びせた。
 ルイ14世太陽王と王妃マリー・テレーズの嫡出子のほとんどが幼少期に死んでおり、唯一成年に達した長男王太子ルイ(グラン・ドーファン(le Grand Dauphin、大王太子))も西暦1711年に49歳で亡くなり、代わって王太子に立てられた長男ブルゴーニュ公ルイ(プティ・ドーファン(Petit Dauphin、小王太子))も同じく即位することなく父の死の翌年(西暦1712年)に29歳で死去した。王太子ブルゴーニュ公ルイと妃マリー・アデライード・ド・サヴォワの息子で唯一生き残った幼い三男のプチ・フィス・ド・フランス(Petit-Fils de France)アンジュー公ルイが王太子となった。

 ルイ14世太陽王の死後、ルイ14世太陽王と同じく幼くして即位した曾孫であるルイ15世最愛王も60年近い長い治世となった。ルイ15世最愛王も曽祖父ルイ14世太陽王の遺言に従わず再びオーストリア継承戦争を初めとする対外戦争に度々出兵して膨大な軍事費を課税で賄った。西暦1774年に彼が死去した時にはフランスの財政は破綻状態となり、そしてアンシャン・レジームの社会矛盾が表面化しつつあった。次代のルイ16世はこの苦境を乗り切ることができず、西暦1789年のフランス革命を迎えることになり、処刑される事になった。

ルイ14世―作られる太陽王 - ピーター バーク, 石井 三記
ルイ14世―作られる太陽王 - ピーター バーク, 石井 三記


 ルイ14世太陽王と王妃マリー・テレーズ・ドートリッシュの長男で成人した唯一の子供が、ルイ・ド・フランス(Louis de France)で、誕生後直ちにフランス王太子(ドーファン、dauphin)となったが、即位することなく父王に先立って、西暦1711年に49歳で死去した。グラン・ドーファン(le Grand Dauphin、大王太子)と呼ばれるのは、代わって王太子に立てられた長男ブルゴーニュ公ルイ(小王太子、プティ・ドーファン)が、同じく即位することなく父の死の翌西暦1712年に29歳で死去したこと、大柄な体格であったことに因る。
 西暦1680年に、バイエルン選帝侯フェルディナント・マリアの長女マリー・アンヌ・クリスティーヌ・ヴィクトワール・ド・バヴィエール(Marie Anne Christine Victoire de Bavière、独語名: マリア・アンナ・クリスティーネ・ヴィクトリア(Maria Anna Christine Victoria))と結婚した。2人の間には、ブルゴーニュ公ルイ、アンジュー公フィリップ(後のスペイン王フェリペ5世)、ベリー公シャルルの3人の息子が産まれた。王太子ルイは気さくな性格で誰とでも打ち解ける宮廷の人気者だったが、反対にマリー・アンヌは、堅実なドイツとはあまりにも違う派手なヴェルサイユの生活になじめず、自室に籠りがちで目立たない存在だった。西暦1690年に29歳で死去した。 妻が死亡したため、愛人だったマリー・エミリ・ド・ジョリィ・ド・ショワンと秘密裏に貴賎結婚した。息子が生まれたが、地方にやられ、2歳で亡くなった。
 
 王太子ルイ(グラン・ドーファン)の長男で嫡子、ブルゴーニュ公ルイ(Louis, duc de Bourgogne)は、ルイ14世太陽王の孫でルイ15世最愛王の父で、プティ・ドーファン(Petit Dauphin, 小王太子)とも呼ばれた。父はグラン・ドーファン(大王太子)と呼ばれる王太子ルイ、母はバイエルン選帝侯フェルディナント・マリアの娘マリー・アンヌ・ド・バヴィエールで、弟にスペイン王フェリペ5世、ベリー公シャルルがいる。
 スペイン継承戦争では祖父ルイ14世太陽王の意向で南ネーデルラント (西暦1581〜1815年)、ライン川戦線に送られ、西暦1707年にトゥーロン包囲戦の救援に赴き、翌西暦1708年には再び南ネーデルラント戦線で指揮を執った。しかし、将軍ヴァンドーム公フィリップ・ド・ブルボンと意見が合わず衝突、アウデナールデの戦いではヴァンドーム公フィリップ・ド・ブルボンを助けず、傍観の態度を取り敗北し、リール包囲戦でもヴァンドーム公フィリップ・ド・ブルボン、フィツ・ジャメ・ド・ベリック公ジャック(ジェームズ・フィッツジェームズ)と共に包囲軍の外側を襲撃しながら積極的攻勢に出なかったためリール陥落の一因となった。
 政略結婚によりサヴォイア王国(西暦1416〜1720年)、サルデーニャ王国(西暦1720〜1861年)との親交を築いた。トリノを巡り対立していたフランス王国とサヴォイア王国が、和解の印に取り決めた縁談だった。西暦1696年のトリノ条約によって、ブルゴーニュ公ルイはサヴォイア公ヴィットーリオ・アメデーオ2世と公妃アンナ・マリーア(ルイ14世の弟オルレアン公フィリップ1世の娘)の長女で又従妹にあたるマリー・アデライード・ド・サヴォワ(Marie Adélaïde de Savoie、伊語名: マリア・アデライーデ・ディ・サヴォイア(Maria Adelaide di Savoia))と婚約し、西暦1697年に結婚した。11歳でフランス宮廷に入ったマリー・アデライードは、美人とは言えないが、表情豊かな金髪の少女で、愛くるしい黒い目は思わず引き込まれてしまう魅力を持っていた。彼女の快活さと人なつっこさはフランス宮廷に活力をあたえ、宮廷の大人たちは、活発な少女を追い回して楽しんだ。マリー・アデライードは食事中にいきなり椅子に上がって踊りだしたり、料理を手掴みで食べて周囲の者を慌てさせることもあった。彼女の人となりについて、オルレアン公妃エリザベート・シャルロット・ド・バヴィエールはこう書いている。「ブルゴーニュ公妃はとても悪い癖がつきました。馬車に乗ると1分と同じ場所にじっとしていないのです。絶えずこちらの隅からあちらの方へと動き回り、小猿のように飛び回ることしかしないのです。」、「あるときは、朝5時に走り回り、周囲の者は何でも聞き入れます。そればかりか彼女を誉めそやすのです。そのうち、何でもいいなりになるでしょう。」マリー・アデライードはマントノン夫人を「おばさま」と呼んで甘えていた。マントノン夫人に手を引かれて、夫人の行くところになら何処へでも付いて行った。ルイ14世太陽王に対しても物怖じすることなく、まるで友達のような口のきき方をし、前触れもなく国王の執務室に飛び込んで、机の上の書類を滅茶滅茶にしたり、いきなり膝の上に乗って国王の頬に接吻の雨を降らせた。そんなマリー・アデライードをルイ14世太陽王は大変可愛がって甘やかしたが、その成長と共に、彼女のために用意する子供っぽい遊びを止め、舞踏会やオペラ・コンサートを催して、孫の嫁に感謝の気持ちを示すようになった。
 この時代の王族や貴族では非常に珍しいことに、ブルゴーニュ公夫妻は互いに愛し合い仲睦まじかった。2人の間の3人の男子が産まれたが、西暦1704年に生まれた長男ブルターニュ公は1歳にもならずに夭逝した。西暦1707年に次男ブルターニュ公ルイ、西暦1710年に三男アンジュー公ルイが産まれ。誕生とともに彼は次男に慣習的に与えられる儀礼称号のアンジュー公、および国王の曾孫としてプチ・フィス・ド・フランス(Petit-Fils de France)の称号を与えられた。 アンジュー公ルイの誕生によりブルボン家は、当時ヨーロッパで最多の3世代6人の直系王位継承権者がいることになり、ブルゴーニュ公ルイはまだ若く、また次男ブルターニュ公ルイとその弟三男アンジュー公ルイの2人の息子がいた。王位継承は万全かと思われていた。
 西暦1711年に父の王太子ルイ(グラン・ドーファン)が急死し、ブルゴーニュ公ルイが王太子(プチ・ドーファン)となった。これは不幸な出来事だったが、さらに翌西暦1712年に天然痘(あるいは麻疹)が一家を襲い、02月12日に妃マリー・アデライードが死去すると、事態は劇的に変わった。病気の妻に長時間付き添っていたブルゴーニュ公ルイ(プチ・ドーファン)も罹患し、6日後の02月18日にブルゴーニュ公ルイ(プチ・ドーファン)も妃の後を追って29歳で死去した。

 幼いブルターニュ公ルイとアンジュー公ルイの兄弟もこの病に罹患した。病気の妃マリー・アデライードに長時間付き添っていた次男ブルゴーニュ公ルイは瀉血治療が元で03月08日に亡くなった。三男アンジュー公ルイのみが、養育係のヴァンタドゥール夫人が瀉血治療を拒否して死を免れた。難を逃れ1人残された幼いアンジュー公ルイがフランス王位継承権第1位となり、王太子(ドーファン)となった。
西暦1700年にアンジュー公フィリップはスペイン王位を継承し、フェリペ5世として即位した。このため、フランス王国とスペイン王国の同君連合の実現を恐れたヨーロッパ諸国との間にスペイン継承戦争が勃発した。ブルボン家の不幸は続き、西暦1714年にアンジュー公の叔父ベリー公シャルルも狩猟中の不慮の事故で重傷を負い、急死した。 長兄ブルゴーニュ公ルイ(プチ・ドーファン)の死に伴い、ベリー公シャルルは将来の王である甥ルイ(後のルイ15世最愛王)の摂政の最右翼で、生きていれば、アンジュー公ルイ(後のルイ15世最愛王)の摂政はベリー公シャルルだった。


 西暦1715年09月01日、72年間王位にあった曾祖父ルイ14世太陽王の死去により、わずか5歳の王太子ルイがルイ15世最愛王(ナヴァラ国王としてはルイス4世)に即位した。法に従えばルイ14世太陽王の甥(弟オルレアン公フィリップ1世と後妻エリザベート・シャルロット・ド・バヴィエールの子)で娘婿(モンテスパン侯爵夫人フランソワーズ・アテナイスとの間の庶子であるフランソワーズ・マリーの夫)のオルレアン公フィリップ2世(Philippe II d'Orléans)が幼少のルイ15世最愛王の摂政を務めることになるが、オルレアン公フィリップ2世には放蕩者の評判があり、同年08月に生前のルイ14世太陽王は彼に不信感を持ち、権力を制限しようとした。自らの死後に幼君のため摂政は置かず、ルイ15世最愛王が成人するまで14人からなる摂政諮問会議を設置し、合議によって国政運営に当たるように遺言していた。彼らはルイ14世太陽王の後妻マントノン侯爵夫人(両人の養育係で王妃マリー・テレーズ・ドートリッシュの死後に秘密結婚をしている)の願いにより、他の多くの庶子たちはこの待遇を受けていない嫡出子とされていた。摂政諮問会議はオルレアン公フィリップ2世が座長となるが、ルイ14世太陽王とモンテスパン侯爵夫人との間に生まれたメーヌ公ルイ・オーギュストとトゥールーズ伯ルイ・アレクサンドルを含むルイ14世太陽王の側近たちが加わっており、必然的にオルレアン公フィリップ2世の権力は制限されることになる。
 しかし、オルレアン公フィリップ2世は中世以来の帯剣貴族(noblesse d'épée)の支持を受けており、ルイ14世太陽王によって国政から排除されていた彼らは政策の変更を望んでいた。更に彼らは、メーヌ公ルイ・オーギュストとトゥールーズ伯ルイ・アレクサンドルを私生児と見做して忌み嫌ってもいた。これに加えて、ルイ14世太陽王によって建言権を奪われていたパリ高等法院、そしてイエズス会やローマ法王重視政策の変更を望むジャンセニスト(厳格主義信仰運動)とガリカニリスト(フランス教会自立主義)もまたオルレアン公フィリップ2世を支持していた。
 死の床にあったルイ14世太陽王はオルレアン公フィリップ2世と和解しようとしたのか、死の数日前の08月26日に廷臣や大臣たちに「オルレアン公に従え、彼が王国を統治する。」と語っていた。ルイ14世太陽王が死んだ翌09月02日、パリ高等法院で大臣や王族、大貴族の会議が開かれた。その場でオルレアン公フィリップ2世は逝去数日前のルイ14世太陽王の言葉を持ち出して、自分に全権を与えるよう要求し、パリ高等法院はオルレアン公フィリップ2世を支持して摂政諮問会議のメンバー選別の決定権を与え、ルイ14世太陽王の遺言は事実上無効化された。こうしてオルレアン公フィリップ2世が摂政としての実権を握った。オルレアン公フィリップ2世は支持の見返りとして、パリ高等法院に建言権を返還している。その後、パリ高等法院はこの権限をもって、事あるごとに王権に抵抗するようになった。
 メーヌ公ルイ・オーギュストは非嫡出子に落とされて王位継承権を奪われ、王族称号 (prince du sang) と近衛隊司令官職を奪い取られて失脚した。メーヌ公ルイ・オーギュストはスペイン王フェリペ5世と通じて陰謀を企てたが、12月に露見して投獄され、後に国外追放となった。


 この時代、啓蒙思想がヨーロッパ世界を席巻し、ヴォルテール、シャルル・ド・モンテスキュー、ジャン・ジャック・ルソーなどがフランスのサロンで活躍した。
 シャルル・ド・モンテスキューは、フランス絶対王政を批判し、均衡と抑制による権力分立制の基礎を築いた。なお、「法の精神」の中で、政治権力を立法・行政・司法に三分割する「分立論」(「分立論」)を提唱した。


 リシュリュー、マザランという2人の坊主(枢機卿)は、三部会を休止にし、高等法院の権力を奪い、絶対王政を打ち立てた。ところが、モンテスキューの権力分立諭の啓蒙思想の影響と自らの権力奪取のため、オルレアン公フィリップ2世は、この封印を剥がしてしまった。後から、百鬼夜行の妖怪が躍り出てきた。
 高等法院という、現実離れした机上の空論、屁理屈の跋扈する「司法」に生殺与奪の権力を与え、帯剣貴族を、ルイ14世太陽王はブルジョワジーを登用し、三部会という「立法」で、第一身分(坊主)、第二身分(貴族)と猶太など第三身分(ブルジョワジー)の利権が争う自縄自縛の世界へと舵を切ってしまった。このため、陰惨なフランス革命が引き起こされ、王や貴族、坊主やブルジョワジー、平民に司法までが、明日は我が身で断頭台に引き立てられ、伝統や歴史を蔑ろにし、フランスや欧州を破壊し、フランス人や欧州人の生命や財産、自由が奪われる悲喜劇が生じた。



 オルレアン公フィリップ2世はメーヌ公ルイ・オーギュストを投獄して、単独の摂政となった。オルレアン公フィリップ2世が摂政に任命されると、それまで数年間オルレアン公フィリップ2世の秘書を務めてきたギヨーム・デュボワ(Guillaume Dubois)も国務大臣に任命され、実際の権力も徐々にギヨーム・デュボワの手に移された。 オルレアン公フィリップ2世はパレ・ロワイヤルで執務を行い、幼いルイ15世最愛王は先王の遺言により、「空気が良く健康に良い。」との理由でヴァンセンヌ城へ移った。だが、その4ヶ月後には「ヴァンセンヌは冬が厳しい。」との理由で、今度はパリ中心部のテュイルリー宮に移った。7歳になったルイ15世最愛王は、フランス王家の伝統に則って男性によって教育されることになり、ルイ15世最愛王は心から慕っていた養育係のヴァンタドール夫人と涙を流して別れ、ルイ14世太陽王の遺言により新たな教育係となったのは、ヴィルロワ公とフルーリー司教であった。ヴィルロワ公は宮廷作法を教えたが養育者としては凡庸な人物で、ルイ15世最愛王に良い影響を与えず、内気な性格を助長させただけだった。一方、フルーリー司教は温雅な人物で教え子に優れた教育を施し、ルイ15世最愛王から敬愛された。
 摂政となったオルレアン公フィリップ2世は放蕩家として有名だが、公私の分別はつけた。オルレアン公フィリップ2世の摂政政府は西暦1715年に大臣制を廃止して、帯剣貴族層を国政に参加させる多元的議会制(Polysynodie)と呼ばれる制度を導入した。彼はまた、もしもルイ15世最愛王が死ねばフランス王位を主張できるスペイン王フェリペ5世を牽制するため、西暦1717年にイギリス王国との同盟を成立させた。ギヨーム・デュボワはオルレアン公フィリップ2世にフランスで最も裕福だったカンブレー大司教領を求め、イギリス国王ジョージ1世もそれを支持したためオルレアン公フィリップ2世は折れて与えた。ギヨーム・デュボワは続いて、ローマ法王クレメンス11世との長い交渉の後、西暦1721年にインノケンティウス13世により枢機卿に叙された。インノケンティウス13世の法王選出にあたってギヨーム・デュボワが多額の賄賂をし、フランスからの800万フランの支出となった。翌西暦1722年08月にギヨーム・デュボワ枢機卿は宰相となり、西暦1723年にルイ15世最愛王が成人した後も宰相に留まり、莫大な資産を蓄財したがすぐに病死した。
 多元的議会制は帯剣貴族たちに国政運営能力が欠如していたため上手く機能せず、3年で廃止となった。2万5千人の兵士を解雇したが、すぐに行き詰まった。財政立て直しのためにスコットランド人のジョン・ローを財務総監に起用し、フランス初の紙幣を発行し、北アメリカ植民地ヌーベルフランスの開発・貿易会社を立ち上げたが、バブル経済が発生して失敗し、多くの貴族たちが破産する結果となった(ミシシッピ計画)。フランス王家は公事にも私事にも破産状態の危機となっていった。西暦1717年にはジョン・ローとサン・シモン公ルイ・ド・ルヴロワに吹き込まれ、摂政会議を説き伏せて、トマス・ピット(大ピットの祖父)から当時世界一の大きさと謳われていた、13万5千ポンドもする141カラットのダイヤモンドをフランスの王冠につけるために購入させた。このダイヤモンドは「ル・レジャン(Le Régent、摂政の意)」の名で知られている。


ブルボン・オルレアン家

ルイ14世太陽王は叔父オルレアン公ガストンが死去しオルレアン家が断絶すると、代わって次弟の女装好き男色家のフィリップ1世にオルレアン公位を授けた。フィリップの家系をブルボン・オルレアン家、あるいは単にオルレアン家と呼ぶ。6代ブルボン・オルレアン公ルイ・フィリップ3世は西暦1830年の7月革命で復古ブルボン朝が倒れた後「フランス人の王ルイ・フィリップ」として即位したが、西暦1848年の2月革命で王位を追われた。


ブルボン・オルレアン公フィリップ1世

 初代オルレアン公フィリップ1世の妃アンリエット・ダングルテール(Henriette d'Angleterre、ヘンリエッタ・アン・ステュアート(英語: Henrietta Anne Stuart,))は、アンリ4世良王の三女ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランスと清教徒革命(西暦642〜1649年)で斬首されたイギリス国王チャールズ1世の五女で従妹になる。女装好き男色家のオルレアン公フィリップ1世は彼女に性的関心を示さなかった。アンリエットは義兄でもう1人の従兄ルイ14世太陽王と不倫関係になった。その後、彼女は夫の愛人と噂されている両刀使いのギーシュ伯アルマン・ド・グラモンを新しい情夫にしたが、ギーシュ伯アルマン・ド・グラモンは浮気を知ったオルレアン公フィリップ1世の怒りを買い、宮廷で評判を落とした。それでもオルレアン公フィリップ1世は3人の子を為し、長男ルイは夭折し次男のフィリップが産まれた。

 西暦1701年06月09日、オルレアン公フィリップ1世は、サン・クルーで脳卒中により60歳で死亡した。死の前日、スペイン継承戦争に参戦する王族の顔ぶれについて兄ルイ14世太陽王と口論になり、甥で兄の2人の庶子メーヌ公ルイ・オーギュストとトゥールーズ伯ルイ・アレクサンドル兄弟が許されていたのに対し、息子のシャルトル公フィリップが参戦を拒否されていたことを不満として兄と怒鳴りあい、直後の食事中に昏倒したことが原因とされている。
フィリップはオルレアン公位を受け継ぎ、西暦1706年に許可が下りてスペイン継承戦争に参戦した。

ブルボン・オルレアン公フィリップ2世

 オルレアン公フィリップ1世の次男フィリップは、西暦1692年にルイ14世太陽王とモンテスパン夫人の間の庶子である従妹のフランソワーズ・マリー・ド・ブルボン(Françoise Marie de Bourbon、ラ・セコンド・マドモワゼル・ド・ブロワ(La seconde Mademoiselle de Blois、第2ブロワ令嬢)と結婚したことにより、王の好意を勝ち得た。
スペイン継承戦争では西暦1706年にフェルディナン・ド・マルサンと共にイタリアでの作戦を担当したが、トリノ包囲中にプリンツ・オイゲンに急襲されマルサンは戦死し、2代オルレアン公フィリップ2世はフランスへ敗走した(トリノの戦い)。翌西暦1707年にスペイン戦線に移り初代ベリック公ジェームズ・フィッツジェームズの援軍に加わりスペイン制圧を進めてフランス優位に傾けた。しかしオルレアン公フィリップ2世はただの軍人で終わるつもりは毛頭なく、ルイ14世太陽王の孫のフェリペ5世に代わってスペイン王位につく野望を持っているのではないかとルイ14世太陽王に疑われた。結果、長く王の不興をかう羽目となった。
 西暦1715年のルイ14世太陽王の死去により、画策の末、オルレアン公フィリップ2世が5歳のルイ15世最愛王の摂政に就任した。彼は当初徴税を減らしたり、政治から遠ざけられていた貴族を中心とした集団政治を企画したり、2万5千人の兵士を解雇したが、すぐに行き詰まった。経済では銀行家ジョン・ローの施策を認めたため、フランス王家は公事にも私事にも破産状態の危機となっていった。西暦1717年にはジョン・ローとサン・シモン公にルイ・ド・ルヴロワ吹き込まれ、摂政会議を説き伏せて、トマス・ピット(大ピットの祖父)から当時世界一の大きさと謳われていた、13万5千ポンドもする141カラットのダイヤモンドをフランスの王冠につけるために購入させた。他の政策として、西暦1716年にイギリス王国と協調関係を結んで平和外交を展開、宮廷を一時ヴェルサイユ宮殿からパリに移した。
 西暦1723年に成年に達したルイ15世最愛王が親政を宣言し、フィリップ2世は摂政を降りて宰相となった。
同年12月にヴェルサイユ宮殿で亡くなり、オルレアン公位は息子のルイが継承、宰相には摂政会議議長のブルボン・コンデ公ルイ4世アンリ(Louis IV Henri de Bourbon-Condé)が就任した。

ブルボン・オルレアン公ルイ4世

 ブルボン・オルレアン公フィリップ2世とフランソワーズ・マリー(ルイ14世太陽王とモンテスパン夫人の間の庶子)の唯一の男子。政治にはほとんど関わらなかったが、西暦1723年ギヨーム・デュボワ枢機卿と敵対した。
軍務についていたが、西暦1730年にアンドレ・エルキュール・ド・フルーリーに解任され、以降は引退。西暦1752年死去し、一人息子ルイ・フィリップ1世がブルボン・オルレアン家を継承した。

ブルボン・オルレアン公ルイ・フィリップ1世(Louis Philippe Ier)

 オルレアン公ルイの死により公位を継ぐまではシャルトル公として知られた。西暦1743年12月、ブルボン家傍系のブルボン・コンティ公ルイ・アルマン2世の娘ルイーズ・アンリエット・ド・ブルボン・コンティ(Louse Henriette de Bourbon-Conti)と結婚した。舅オルレアン公ルイは、息子の花嫁探しに大変苦労し、少々良くない評判があっても目を瞑ることにした。ルイーズ・アンリエットは、オルレアン公ルイが嫁に求めた美徳とは正反対の女で、身持ちが悪くふしだらで、絶え間なく醜聞を巻き起こした。「3人生んだ子供たちのうち成人した2人、ルイ・フィリップ(後のオルレアン公ルイ・フィリップ2世)とルイーズ・マリーは、オルレアン公ルイ・フィリップ1世の子供ではない。」と言われていた。
 フランス革命の最中、オルレアン公ルイ・フィリップ2世は処刑の恐怖から逃れるため、自身が「オルレアン公ルイ・フィリップ1世の子ではない。」と公言したが、パレ・ロワイヤルの法廷から、「父親と著しく似ている。」という判断を下され、後に処刑された。
 軍人として活躍し、オーストリア継承戦争では西暦1742〜1744年までの戦役、および西暦1745年のフォントノワの戦いでフランス軍を指揮して名を上げた。
西暦1757年にシャトー・ド・バニョレに引退し演劇や文人との交流に集中した。ルイーズ・アンリエットは、長年の放蕩で健康を悪化させ、西暦1759年に32歳で死んだ。西暦1773年、モンテッソン侯爵夫人(Marquise de Montesson、シャルロット・ジャンヌ・ベロー・ド・ラ・エ・ド・リュウ(Charlotte-Jeanne Béraud de La Haye de Riou)と秘密裏に結婚した。シャルロットは西暦1757年19歳で(西暦1754年16歳とも)、70歳のモンテッソン侯爵と結婚し、モンテッソン侯爵夫人となり、西暦1766年にオルレアン公ルイ・フィリップ1世に見染められて愛人となり、西暦1769年に夫が亡くなった後、貴賎結婚した。身分の低い地方貴族出身の夫人との結婚を認められたものの、貴賤結婚だったためオルレアン公爵夫人を名乗ることは王室から許されなかった。 オルレアン公ルイ・フィリップ1世は、西暦1785年に死去。モンテッソン侯爵夫人は、フランス革命後の恐怖政治の時代の西暦1793年に捕えられ、約1年半をパリの刑務所で過ごした。


 西暦1721年、ルイ15世最愛王は従妹のスペイン王女マリアナ・ビクトリア・デ・ボルボーンと婚約した。3歳のスペイン王女は養育のためパリに移り住んだが、11歳のルイ15世最愛王はこの幼い婚約者に全く関心を示さなかった。西暦1722年06月、ルイ15世最愛王はヴェルサイユ宮殿に移り、終生ここで暮らすことになった。同年10月、ルイ15世最愛王はランス大聖堂で成聖式を執り行った。西暦1723年02月15日にルイ15世は13歳となり、パリ高等法院で成人を宣言して摂政政治が終わった。オルレアン公フィリップ2世は引き続き宰相として国政に当たったが、同年12月に死去した。
 フルーリー司教の助言に従い、ルイ15世最愛王はブルボン・コンデ公ルイ4世アンリを後任の宰相に指名した。西暦1725年02月にルイ15世最愛王が体調を崩し2日程病床に伏した。若い国王の健康に王統の危機を心配したブルボン・コンデ公ルイ4世アンリは翌03月に、まだ幼く子を生むことが望めないスペイン王女マリアナ・ビクトリアとの婚約解消を決定した。西暦1724年当時のルイ15世最愛王は14歳だったが、婚約者のマリアナ・ビクトリアはまだ6歳の子供であり、跡継ぎが生まれるまで10年はかかる見通しであった。ルイ15世最愛王が亡くなると、叔父のフェリペ5世が王位継承に名乗り出る可能性が高い。マリアナ・ビクトリアはスペイン王国に帰され、このためスペイン王国との関係が一時悪化した。代わって、ヨーロッパ諸国の中から出産可能な年齢の王女を選ぶことになった。マリアナ・ビクトリアは後にポルトガル国王ジョゼ1世に嫁いでいる。
 最終的に王妃はポーランド王国(西暦963〜1795年)ポーランド王国およびリトアニア大公国(通称ポーランド・リトアニア共和国、西暦1569〜1795年)前国王スタニスワフ1世レシュチニスキ(波蘭語: Stanisław I Leszczyński、仏語名: スタニスラス・レクザンスキ(Stanislas Leszczynski))の娘で21歳のマリー・レクザンスカ(仏語名: Marie Leszczyńska(Leszczynska, Lesczynska、波蘭語: マリア・カロリーナ・ゾフィア・フェリチゥタ・レシュチンスカ(Maria Karolina Zofia Felicyta Leszczyńska))に決まった。スタニスワフ1世レシュチニスキは、大北方戦争(西暦1700〜1721年)でスウェーデン王カール12世はポーランド・リトアニア共和国に侵入し、西暦1702年、国王選挙に干渉し選出させた傀儡王で、ロシア・ツァーリ国(西暦1547〜1721年)のピョートル1世の援助によってアウグスト2世が復位すると、王位を失い国を追われた身であり、不釣り合いな結婚と見做され国民の失望を買った。婚儀は西暦1725年09月に行われた。ルイ15世最愛王は王妃マリー・レクザンスカを熱愛し、王妃はほぼ毎年のように妊娠出産し、11人もの子を生んだ。

 オルレアン公フィリップ2世による摂政時代の後、宮廷を率いるのはブルボン・コンデ公ルイ4世アンリであり、アンドレ・エルキュール・ド・フルーリー司教はブルボン・コンデ公ルイ4世アンリと国王への影響力を二分した。ブルボン・コンデ公ルイ4世アンリはまた、西暦1724年にユグノー迫害を再開した。フランスのプロテスタントはルイ14世太陽王時代には迫害されていたが、ルイ15世最愛王の即位後は摂政のオルレアン公フィリップ2世が宗教に興味ないこともあって、フォンテーヌブローの勅令が破棄されなかったにも拘わらず、迫害は少なくなっていた。
 フルーリー司教は権力を積極的に求める性格ではなかったため、ブルボン公が実質的に宰相であったが、ブルボン・コンデ公ルイ4世アンリはフルーリー司教の存在を疎ましく思い、自身が縁談をまとめた経緯から強い影響力をもっていた王妃マリー・レクザンスカに働きかけて、フルーリー司教を排除しようとした。しかし、国王はフルーリー司教に対しての深い信頼に比べて、ブルボン・コンデ公ルイ4世アンリにはさほど信頼を置いていなかったため、これを拒絶した。宰相ブルボン・コンデ公ルイ4世アンリは失政続きで、穀物の価格が高騰し景気が悪くなり、国民の評判がひどく悪くなった。西暦1726年、最終的に16歳になった国王はブルボン・コンデ公ルイ4世アンリと、政治的にも大きな影響力を奮ったその愛人プリ侯爵夫人を宮廷から追放した。ブルボン・コンデ公ルイ4世アンリは政治力を奪われたが、後に宮廷に参廷内することについては許された。

 これにより、宮廷はフルーリー司教によって率いられることとなった。フルーリーは司教正式な宰相への任命は頑なにこれを遠慮したが、実質的には宰相であった。彼がルイ15世の推挙で枢機卿となったことは国王にとって宰相の地位の代わりであった。 フルーリー枢機卿が宰相となることは、宮廷であまり反対を受けなかった。彼は宮廷で常に控え目な態度でいたので敵を作らず、また当時彼はすでに70歳を超えた高齢の身であり、まだ10代であった国王が「本格的に執務を行えるようになるまでの短い中継ぎ人事である。」と考えられたからであった。しかしそれらの予想に反して、フルーリー枢機卿は西暦1726年から死去する西暦1743年まで、ルイ15世最愛王の信任の下フランス王国を統治した。優れた政治家であるフルーリー枢機卿の執政によりフランス王国は繁栄した。この時期はルイ15世最愛王の治世下では最も平和で繁栄した時代であり、ルイ14世太陽王期の戦争による人的物質的損失からの「回復」の時代(gouvernement "réparateur")と呼ばれている。
 フルーリー枢機卿は大蔵卿ミシェル・ロベール・ル・ペルティエ・デ・フォールと後任のフィリベール・オリの助けを受けて、1西暦726年に貨幣を安定化させ、西暦1736年には収支の均衡に成功した。また西暦1738年にはサン・カンタン運河を開通させてオワーズ川とソンム川を繋ぎ、後にスヘルデ川とネーデルラントにまで拡張している。国立土木学校が創立され、土木事業が進められて、フランス各地に近代的な道路が舗装された。海上交通も急成長して、フランスの貿易額は西暦1716〜1748年までの間に8000万リーブルから3億800万リーブルに増加した。一方で、ルイ14世太陽王時代のコルベールによって定められた経済・社会機構統制(dirigisme)のために産業の発展は遅滞した。宗教面ではジャンセリストとガリカニリストの反抗を抑え込み、外交面ではフルーリー枢機卿はイギリス王国との同盟を継続させるとともにスペイン王国との和解に努めてた。


 西暦1729年、王妃マリー・レクザンスカが3度目の出産で王太子ルイ・フェルディナンを生んだ。待望の王位継承者である男子の出産にフランス国民は喝采し、国王の人気は大いに高まった。この王太子の誕生により、王位継承問題とスペインとの戦争の危機を回避することができた。

 西暦1733年、外務卿ジェルマン・ルイ・ショーブランの勧めにより、ルイ15世最愛王はフルーリーの平和政策を一時放棄してポーランド継承戦争(西暦1733〜1735年)に介入した。この戦争は王妃マリー・レクザンスカの父スタニスワフ1世レシュチニスキを復位させることと、神聖ローマ皇帝カール6世の皇女マリア・テレジアの婚約者フランツ・シュテファン・フォン・ロートリンゲン(フランツ3世シュテファン(Franz III. Stephan)、フランソワ3世エティエンヌ (François III Étienne)、後のハプスブルク・ロートリンゲン朝初代神聖ローマ帝国皇帝フランツ1世)から家領のロートリンゲン(ロレーヌ)公国を奪うことが目的だった。フルーリー枢機卿は、はるか遠くのポーランド王国に大軍を送り込むことを拒否し、王妃の父スタニスワフ1世レシュチニスキに対しては援助金と少数の援軍でお茶を濁した。フランス軍はロートリンゲン(ロレーヌ)を占領し、西暦1738年にウィーン条約が結ばれて、スタニスワフ1世レシュチニスキにはポーランド王位放棄の代わりにロートリンゲン(ロレーヌ)公国が与えられ、フランツ3世シュテファンはロートリンゲン(ロレーヌ)公国の代償としてディチ家が断絶して空位となったトスカーナ大公国(西暦1569〜1860年)の公位継承者となった。フランツ3世シュテファンは父方と母方の双方から、メディチ家の大公フランチェスコ1世の血を引いていた。フランツ3世シュテファンはロートリンゲンの譲渡に関する合意書に署名する際、怒りと絶望のあまり3度もペンを投げ捨て、震える手でようやく署名した。また、母エリザベート・シャルロットからはその譲渡を激しく非難された。 西暦1766年にスタニスワフ1世レシュチニスキが死去すると、ロレーヌ(ロートリンゲン)は義理の息子のルイ15世最愛王が相続してフランスに併合され、これがブルボン朝におけるフランス領土拡大の最後となった。その後、フランス王国がオーストリア大公国とオスマン帝国との調停を行ってベオグラード条約が締結された。条約はオスマン帝国に有利な内容で、これは西暦16世紀以来のフランス・オスマン同盟の効果である。この結果、オスマン帝国はフランスのカピチュレーション(帝国内における外国人の恩恵的特権)を更新し、フランスは中東地域における貿易の優位を確保した。これらの成功により、ルイ15世最愛王の権威は大いに高まった。

 フランツ・シュテファン・フォン・ロートリンゲン(フランツ3世シュテファン)は、父方の曾祖父に神聖ローマ帝国皇帝フェルディナント3世がいて、マリア・テレジアとは又従兄妹の関係であった。陽気で親しみやすい性格で、マリア・テレジアの父ハプスブルク家神聖ローマ皇帝カール6世からも大変に気に入られ、当時の王室としては異例の恋愛結婚で、西暦1736年02月12日にマリア・テレジアと結婚しハプスブルク家と結びつくことになった。しかし、家領ロートリンゲン(ロレーヌ)公国を失い、その後も生涯に何度も屈辱を味わわされることとなった。宮廷のしきたりに従って、夜に劇場を訪れる時には2列目という格下の席に甘んじ、オーストリアの宮廷人たちはフランツをマリア・テレジアの添え物に過ぎないと見ており、「殿下」の敬称を付けないなど、ちょっとした嫌がらせは日常茶飯事だった。このような態度は宮廷に止まらず、ウィーン市民からもフランツは厄介者の外国人呼ばわりされていた。西暦1740年にカール6世が没すると、マリア・テレジアがオーストリア大公に即位し、彼女の決定によりフランツは共同統治者になった。
 オーストリア継承戦争では、マリア・テレジアの従姉マリア・アマーリエを妃とするバイエルン選帝侯カール・アルブレヒトはボヘミアを占領した上にフランツを差し置いて皇帝カール7世として戴冠した。 オーストリア宮廷で主導権を握るのはマリア・テレジアであり、シュレージエンを占領された事に激怒していた彼女はプロイセン王国に対して一歩も譲歩する気はなく、断固戦う意志を固めていた。西暦1741年01月01日の最後の会談の際、フランツとプロイセン王国側の使者ゴッター伯グスタフ・アドルフは極秘に交渉を続けたが、マリア・テレジアはドアの裏やカーテンの陰で耳をそばだて、少しでもフランツが譲歩しそうな気配を見せると、子犬でも呼びつけるように夫へ合図を送った。この交渉は結局、マリア・テレジアによって強引に打ち切られ、戦争は再開されたが、同年04月10日にオーストリア軍はプロイセン軍に敗北した。これを機に、フランツは国政には関与しないようになり、一切の実権をマリア・テレジアが握ることとなった。
 西暦1741年6月25日、マリア・テレジアはプレスブルクでハンガリー女王として戴冠式を挙行した。フランツはここでも屈辱を味わわされた。ハンガリー貴族たちは、「共同国王でも『王妃』でもないフランツに、私人としての席しか用意できない。」と告げたのである。フランツは不快な思いを避けるため、戴冠式が行われる聖マルチン教会には入らず、教会の外壁にスタンドのようなものをこしらえると、3歳になる娘のマリア・アンナと上まで攀じ登り、教会の窓から様子を覗いた。戴冠式の後の祝宴でも、フランツはいつものように末席に着かされた。その後、フランツがハンガリー貴族との会議に出席したことは一度もなく、存在さえほとんど忘れ去られていた。西暦1744年09月、フランス王国との戦争に参加して軍功を立てようと試みたが、ただちにマリア・テレジアに呼び戻された。
 カール7世は短い在位の間にオーストリアの反撃を受けて失意のうちに没し、フランツは西暦1745年に神聖ローマ皇帝に即位した。皇帝に即位した後も実権はマリア・テレジアが持っていた。既に神聖ローマ帝国は実質的にドイツ国家連合と化していたため、国家として機能している部分を統べるオーストリア大公位を兼ねない皇帝位にはさほどの権限はなかった。
 フランツには財政や科学の振興などの面で功績を残している。七年戦争で苦しくなったオーストリアが国債の発行に踏み切る際には、その保証人になれるほどの莫大な財産を残している。また、シェーンブルン宮殿の一角に植物園や動物園をつくり、昆虫や鉱石を分類したコレクションを遺した。これらのコレクションは現在ウィーン自然史博物館に所蔵されている。
 フランツは常に子供たちの幸せを考える良き父親でもあった。中でも、身体が不自由で容姿が醜く嫁にやれないため、マリア・テレジアや弟妹たちから嫌われていた次女のマリア・アンナのことを特に気にかけていた。しかし、フランツとマリア・テレジアの死後、マリア・アンナを母親以上に憎悪していた弟ヨーゼフ2世の暗躍により、マリア・アンナは宮廷から完全に追放され、クラーゲンフルト修道院に入れられてしまうことになった。


 私生活でルイ15世最愛王は、王妃マリー・レクザンスカと結婚から数年間は仲睦まじかったが、王妃はほぼ毎年妊娠させられると、夫婦生活を厭うようになり始め、一方、ルイ15世最愛王も王妃が生んだ子の多くが女子だったことに憤っていた。王妃は11人中2人しか男子を生まず、2人のうち王太子ルイ・フェルディナンだけが成人した。長女エリザベートと長男ルイ・フェルディナンは、それぞれスペイン王フェリペ5世の子女と結婚した(二重結婚)。ルイ15世最愛王の嫡出子で子孫を現在まで残しているのはこの2人のみである。
 ルイ15世最愛王と王妃マリー・レクザンスカの8人の娘たちは、そのほとんどが、系譜学的、政治的、戦略的な要因から未婚のままフランス宮廷に残ることになった。多くが独身を通したこの姉妹たちを歴史上「メダム(マダムたち)」と呼ぶようになる状況が生まれた。メダム(Mesdames)とは、一般的にはフランス語で成人女性への敬称であるマダムの複数形であるが、ルイ15世最愛王の娘たちを指す呼称として使われた。彼女たちのほとんどが独身を通し、ヴェルサイユ宮廷で生涯を送った。 フランスの宮廷儀礼においては、血統親王(プランス・デュ・サン)や貴族の未婚の娘はいかに高貴な生まれでも「ドモワゼル(Demoiselles)」と称したのに対し、フランス王の嫡出の女子、フィーユ・ド・フランスは、マダムの敬称の後に、自分の洗礼名を名乗るか、何らかの称号を所有していればその称号を名乗るかした。これはフィーユ・ド・フランスのうち、最年長の者を除いて全員に共通する慣例だった。最年長の者だけは洗礼名を付け加える必要が無く、単に「マダム(Madame)」と言えば彼女のことを指す慣わしになっていた。一方で、(ルイ15世最愛王時代にはいなかったが)国王の最年長の弟の妻も、単に「マダム」とだけ称する慣例であったため、重複を避けるべく、王の未婚の娘のうちの最年長者は、「マダム・ロワイヤル(王家のマダム)」と呼ばれたり、ルイ14世太陽王時代は「ラ・プティット・マダム(la Petite Madame、小さなマダム)」、ルイ16世時代は「マダム・フィーユ・ド・ロワ(Madame Fille du Roi、王の娘たるマダム)」と称した。
 長女ルイーズ・エリザベート・ド・フランス(Louise Élisabeth de France、伊語名: ルイーザ・エリザベッタ・ディ・フランチア(Luisa Elisabetta di Francia))には双子の妹アンリエット・アンヌがいる。誕生時から「マダム・プルミエール(Madame Premiere)」と呼ばれたが、父ルイ15世最愛王からは「バベット(Babette、涎掛け)」と呼ばれていた。父の従弟にあたるスペイン王子フェリペ(Felipe de Borbón、フェリペ5世と王妃イサベルの三男)と、両親の娘のうち唯一結婚した。西暦1739年のスペイン王子フェリペとの結婚以降は「マダム・アンファント(Madame-Infante、親王妃のマダム)」。フェリペは パルマ・エ・ピアチェンツァ公国(西暦1545〜1802、1814〜1859年) パルマ公フィリッポ1世となり、ルイーズ・エリザベートはパルマ公妃。 西暦1759年、ヴェルサイユ滞在中にルイーズ・エリザベートは天然痘に罹患し、10月に急死した。彼女はサン・ドニ修道院の妹アンリエット・アンヌの隣に埋葬されたが、2人の墓はフランス革命の最中に暴かれた。
 次女アンリエット・アンヌ・ド・フランス(Henriette Anne de France)は、長女ルイーズ・エリザベートの双子の妹。 「マダム・スゴンド(Madame Seconde、二番目のマダム)」、西暦1739年の姉の結婚後は単に「マダム」と称する特権を引き継いだ。ルイ15世最愛王がルイーズ・エリザベートとともに一番可愛がった王女で音楽をとりわけ好んだ。アンリエット・アンヌは天然痘によって、未婚のまま24歳で死去した。遺体はサン=ドニに埋葬され、双子の姉ルイーズ・エリザベートが西暦1759年に死去した際には一緒に葬られた。彼女の墓は、フランス革命の際に他の王族の墓とともに暴かれた。
 三女マリー・ルイーズ・ド・フランスは「マダム・トロワジエーム(Madame Troisième、三番目のマダム)」、夭折。
 四女マリー・アデライード・ド・フランス(Marie Adélaïde de France)は「マダム・カトリエーム(Madame Quatrième、四番目のマダム)」、三女マリー・ルイーズの夭折に伴い「マダム・トロワジエーム」。その後「マダム・アデライード(Madame Adélaïde)」と称した。父ルイ15世最愛王からは「ローグ(Logue、ぼろ切れ)」と呼ばれていた。西暦1737年、彼女は妹たちと共にアンドレ・エルキュール・ド・フルーリー枢機卿によってフォントヴロー修道院に入れさせられそうになったが、母マリー・レグザンスカ王妃が示唆して、5歳のアデライードはルイ15世最愛王に哀願したため入らずに済んだ。彼女は姉妹の中で最もお転婆だった。彼女は姉のアンリエット・アンヌと共に育てられ、西暦1752年次女アンリエット・アンヌの死に伴い単に「マダム」と称する特権を引き継いだ。若い頃は驚くほど美しかったと言われ、父ルイ15世最愛王を含めて誰をも魅了した。コンティ公ルイ・フランソワ・ジョゼフや、ザクセン公子クサーヴァーなどとの結婚話があったのにも拘わらず、彼女は自分に相応の身分の君主と結婚することを希望したので、結局婚期を逃してしまった。彼女の趣味は、読書と角笛を吹くこととナプキン・リングを作ることだった。
五女マリー・ルイーズ・テレーズ・ヴィクトワール・ド・フランス(Marie-Louise-Thérèse-Victoire de France)は、「マダム・カトリエーム」、のち「マダム・ヴィクトワール(Madame Victoire)」と称した。父ルイ15世最愛王からは「コッシュ(Coche、雌ブタ)」と呼ばれていた。ヴィクトワールが生まれたのは次兄フィリップが夭逝したばかりの頃で、王子の死は王子の誕生でしか埋め合わせが出来なかったため、王女であるヴィクトワールの誕生は喜ばれなかった。
六女ソフィー・フィリップ・エリザベート・ジュスティーヌ・ド・フランス(Sophie Philippe Elisabeth Justine de France)は、「マダム・サンキエーム(Madame Cinquième、五番目のマダム)」、のち「マダム・ソフィー(Madame Sophie)」と称した。父ルイ15世最愛王からは「グライユ(Graille、ダニ)」と呼ばれていた。4姉妹の中でソフィーだけが、フランス革命前に死去した。47歳没。
七女テレーズ・ド・フランスは「マダム・シジェーム(Madame Sixième、六番目のマダム)」、夭折。
八女ルイーズ・マリー・ド・フランス(Louise-Marie de France) は、「マダム・セプティエーム(Madame Septième、七番目のマダム)」、また両親の末子だったため「マダム・デルニエール(Madame Dernière、末っ子マダム)」とも呼ばれた。父ルイ15世最愛王からは「シフィエ(Chiffie、ゴミくず)」と呼ばれていた。西暦1750年にフォントヴロー修道院からヴェルサイユ宮廷に戻った。同年、ルイ15世最愛王はルイーズをジャコバイト王位請求者であるチャールズ・エドワード・ステュアートに嫁がせようとしたが、ルイーズ・マリーは愛「していない男性と結婚するくらいなら修道院に入りたい。」と父王に懇願し、この縁組に抵抗した。やがてチャールズ・エドワードと従妹のモンバゾン公爵夫人との不倫関係が発覚すると、ルイ15世は娘をチャールズに嫁がせる計画を中止した。ルイーズ・マリーは西暦1770年04月11日の早朝に突然ヴェルサイユ宮殿を去り、サン・ドニのカルメル会女子修道院に入ったことで世間を驚かせた。ルイーズ・マリーの修道院入りは突然だったので、ルイーズ・マリーがヴェルサイユを去ったことを知らされて、四姉マリー・アデライードは駆け落ちと勘違いし、「誰と一緒に?」と言った。西暦1771年09月12日には正式に修道女となり、「サン・トーギュスタンのテレーズ教母(Mère Thérèse de saint Augustin)」の修道名を名乗り、以後は死ぬまで修道院での敬虔な修道生活を続けた。西暦1787年に内臓疾患のために50歳で亡くなり、サン・ドニ大聖堂の両親の棺の隣に埋葬された。墓所は死の2年後に起きたフランス革命の最中、王家の他の墓とともに民衆によって冒瀆を受けた。
 8人姉妹のうち年少の4人の王女は、嵩む宮廷費の節約のためと、大勢の王子女に囲まれた王妃の権勢が強まるのを避けるために、西暦1738年から1750年まで、宮廷から遠く離れたポワトゥー地方のフォントヴロー修道院に預けられて養育された。娘たちを道徳的腐敗の蔓延するヴェルサイユから隔離して育てたい父王の意向で、彼女らは成人するまで宮廷に戻らないことになっていた。テレーズは夭折したため宮廷には戻れず、ルイーズ・マリーは成人して宮廷に戻ったものの、修道院での生活の影響を受けすぎて宮廷生活になじめず、結局は宮廷を出奔してサン・ドニのカルメル修道院に逃げ込むことになった。
 ルイ15世最愛王は慣習上も好みの点でも、最年長の娘を優遇し側に置いていた。西暦1752年に次女アンリエット・アンヌが死ぬと、四女マリー・アデライードがこの立場を引き継ぎ、以後長く父の側近にあって多くの恩恵を享受した。アデライードら4人の王女たちにとって、他国の王族との結婚は他の何にも代えがたいヴェルサイユを離れるという致命的な代償を払うことを意味しており、全くの問題外だった。臣下との結婚も許されず、好都合にも父王は彼女たちを常に側に置きたがった。父王とともに生涯を送り、父王よりも生き長らえたアデライード、ヴィクトワール、ソフィー及びルイーズの4人がヴェルサイユ宮廷における「メダム」として記憶されることになった。ルイ15世はアデライードに「ローグ(Logue、ぼろ切れ)」、ヴィクトワールに「コッシュ(Coche、雌ブタ)」、ソフィーに「グライユ(Graille、ダニ)」、ルイーズに「シフィエ(Chiffie、ゴミくず)」という卑俗な愛称を付けて呼んでいた。父と娘たちはアデライードのアパルトマンで毎朝のカフェの時間を過ごした。

 王妃がほぼ年中妊娠していたこともあって、ルイ15世最愛王は西暦1734年頃から公的愛妾を持つようになり、ネール侯爵家の姉妹を寵愛した。最初に公妾ルイズ・ジュリー・ド・マイイ・ネール(マイイ伯爵夫人)、次に妹の公妾ポーリーヌ・フェリシテ・ド・マイイ・ネール(ヴァンティミール侯爵夫人)、公妾マリー・アンヌ・ド・マイイ・ネール(シャトールー公爵夫人)である。多くの公妾、愛妾と庶子を持ち私生活は奔放で、最愛王(Bien-Aimé)と呼ばれた。特にポンパドゥール夫人とデュ・バリー夫人はルイ15世最愛王の治世に大きな影響を与えている。

公妾ポンパドゥール夫人(ポンパドゥール侯爵夫人)、公妾デュ・バリー夫人(デュ・バリー伯爵夫人)、愛妾ディアヌ・アデライーデ・ド・マイイ・ネール(ロラゲ公爵夫人)、愛妾マリー・ルイーズ・オミュルフィ、愛妾フランソワーズ・ド・シャリュー(ナルボンヌ侯爵夫人)、愛妾マルグリット・カトリーヌ・エノー。愛妾ルーシー・マドレーヌ・デスタン、愛妾アンヌ・クーピエ・ド・ロマン(マイイ・クロンジュ男爵夫人)、愛愛ルイーズ・ジャンヌ・ティエスラン・ド・ラ・コルテリエ(ボンヌヴァル夫人)、愛妾:イレーヌ・デュ・ビュイソン・ド・ロングプレ、愛妾カトリーヌ・エレオノーレ・ベナール、愛妾マリー・テレーズ・フランソワーズ・ボワスル。

 西暦1739年以降、ルイ15世最愛王は国王が病人に手を触れて病を治す奇蹟の儀式を止めた。これは不倫を繰り返すルイ15世最愛王が自ら、神聖な儀式を行う資格がないと考えたためとされている。だが、このことにより国王の神聖性の権威が損なわれる結果となった。


 西暦1740年のカール6世の逝去とマリア・テレジアのハプスブルク家相続はオーストリア継承戦争(西暦1740〜1748年)を引き起こしたが、90歳近いフルーリー枢機卿には参戦に反対する気力はなく、フランスは西暦1741年にプロイセン側で参戦した。戦時中の西暦1743年にフルーリーが死去すると、ルイ15世最愛王は先王ルイ14世太陽王に倣い、以後宰相を置かないことを宣言し、フルーリー枢機卿の死後は親政を行った。フルーリー枢機卿が死去して親政を開始した時点で、ルイ15世最愛王は33歳になっていた。彼は肖像画の通り美男子であり、体格も良く教養に富んでいたが、内気で臆病な性格であり、政治にあまり関心を持たず、もっぱら趣味の狩猟に興じる日々を送り、狩猟のための馬や犬の調教に熱心で「王は犬馬のために、犬馬の労を厭わない。」と評された。
 西暦1744年、ルイ15世最愛王はオーストリア継承戦争で戦う軍隊の指揮を執るためアルザスに出征したが、この出征にシャトールー夫人が同行したことが世間の不評を買っていた。08月にルイ15世最愛王はメスで病に倒れ重態に陥った。従軍聖職者は赦罪のために愛妾と別れることを求め、ルイ15世最愛王はこれに従って懺悔し、シャトールー侯爵夫人は追い返された。ルイ15世最愛王は回復し、国民は彼を「愛しの君」と呼んだ。しかし、ルイ15世最愛王の女性関係はすぐに元に戻ってしまった。この年の終わりにシャトールー侯爵夫人は死去し、国王は寵姫の死をひどく悲しんだ。
 後にポンパドゥール夫人(Madame de Pompadour)と呼ばれることになるジャンヌ・アントワネット・ポワソン(Jeanne-Antoinette Poisson, marquise de Pompadour)は西暦1745年02月に仮面舞踏会でルイ15世最愛王と出会った。知的で教養がある彼女は国王を魅了し、05月に彼女はポンパドゥール侯爵領を与えられ、正式にルイ15世の公妾となった。それまでの国王の愛人はみな貴族階層出身だったのに対し、彼女が銀行家の娘でブルジョワ階層出身であることが人々には不評で、彼女は様々な誹謗に晒されることになった。ポンパドゥール夫人はヴェルサイユ宮殿の3階に住まい、ここで国王は退屈で煩わしい宮廷儀礼から逃れて寛ぎ、ブルジョア風の生活を好んだ。ポンパドゥール夫人は体を壊したため西暦1750年以降は公妾を退き、代わりに自分の息のかかった女性を紹介した。ルイ15世最愛王はポンパドゥール夫人が結核のため42歳でヴェルサイユで亡くなるまで寵愛し続けた。一方で彼女は「鹿の園」(Parc-aux-Cerfs)と呼ばれる個人的な娼館をつくり、多数の若い女性たちに国王への性的奉仕をさせた。マリー・ルイーズ・オミュルフィは、モデルの裸体画が評判になり、娼館鹿の園に招かれ、ルイ15世最愛王の愛妾となった。 この様な乱脈な女性関係が元で、国王は処女の血の風呂に浴しているだの、90人の非嫡出子がいるだのといった淫らな噂がフランス中に流れてしまった。
 ポンパドゥール夫人は政界にポンパドゥール派と呼ばれる派閥を形成し、「私が支配する時代」と自ら言うほどの権勢を持つことになった。ポンパドゥール夫人の奢侈と浪費は当時の人々から非難されたが、彼女は芸術家のパトロンとなり、ルイ15世最愛王時代のフランス芸術の発展に貢献をしている。セーヴルに王立磁器製作所を設立してセーヴル焼を完成させ、パリに陸軍士官学校を設立させたのもポンパドゥール夫人の貢献である。彼女は建築家のパトロンにもなり、パリ市内のルイ15世最愛王の屋敷(現在のコンコルド広場)やエコール・ミリテールの建築をしたアンジュ・ジャック・ガブリエルに出資している。ポンパドゥール夫人は美貌ばかりでなく学芸的な才能に恵まれ、サロンを開いてヴォルテールやディドロなどの啓蒙思想家と親交を結んだ。百科全書派を教会の攻撃から守り、百科全書の刊行を実現させた実績もある。また芸術の熱心な愛好家、パトロンでもあり、様々な芸術家とも交流した。ポンパドゥール夫人の時代はフランスを中心に優雅なロココ様式の発達した時代になった。

ポンパドゥール夫人の写真タイル付き小物入れ(Jewelry Box)( 世界の名画シリーズ )
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ヴェルサイユの苑―ルイ15世をめぐる女たち - 窪田 般弥
ヴェルサイユの苑―ルイ15世をめぐる女たち - 窪田 般弥

 オーストリア継承戦争ではフランスはプロイセン王国(西暦1701〜1918年)側に立ち、オーストリア大公国、イギリス王国そしてオランダ共和国と戦った。西暦1742年、シャルル・ルイ・オーギュスト・フーケ・ド・ベル・イルがフランス軍を率いてバイエルン選帝侯カール・アルブレヒトを神聖ローマ皇帝カール7世、ボヘミア王に擁立し、西暦1745年のフォントノワの戦いではモーリス・ド・サックス率いるフランス軍がイギリス軍に大勝している。西暦1748年までにフランス軍はオーストリア領ネーデルラント(西暦1714〜1797年)を占領し、フランスお国の長年の念願だった国境をライン川にまで押し出すことに成功したかに見えた。だが、西暦1748年に結ばれたエクス・ラ・シャペル条約では元ロートリンゲン(ロレーヌ)公フランツ・シュテファン・フォン・ロートリンゲン(フランツ3世シュテファン)の神聖ローマ皇帝位を承認し(カール7世はオーストリアの反撃を受けてバイエルン選帝侯領を占領され、西暦1745年に死去)、ネーデルラントの占領地を返還するという、フランス王国に全く利益を齎さない結果となった。このため、ルイ15世最愛王は国民から酷く不評を買うことになり、その人気は凋落した。


 戦争のために財政はひどく悪化しており、このため財務総監マチュー・ダルヌヴィルは聖職者、貴族を含む全国民を対象とした「二十分の一税」の導入に取り組んだ。だが、新税の導入には免税特権を侵される聖職者、貴族が猛反発し、パリ高等法院は王令の登記を拒んで抵抗した。結局、新税は導入されたものの、譲歩を重ねたもので骨抜き同然のものになってしまった。ジャンセリストの問題でも国王とパリ高等法院が対立して紛糾し、国王の権威が低落した。

 西暦1756年、フランスは七年戦争(西暦1754/1756〜1763年)にオーストリア側で参戦した。伝統的にフランス王国はハプスブルク家と対決しており、この同盟は「外交革命」と呼ばれた。これにはプロイセン王フリードリヒ2世を嫌うポンパドゥール夫人がハプスブルク家オーストリア大公国との仲介役となったが、その役割は巷間に知られるほど大きくはない。

 西暦1757年01月05日、ルイ15世最愛王が馬車に乗ろうとした際にパリ高等法院の司法官の家に仕える41歳(あと4日で42歳)のロベール・フランソワ・ダミアンに襲われ、右脇腹を短刀で刺される国王暗殺未遂事件が起きた。ルイ15世最愛王は寒い時期で厚着をしていたこともあり、掠り傷で済んだ。ダミアンは逃げることなくその場で逮捕され、「主人から国王の悪評を聞き犯行に及んだ。」と自白した。共犯者の名前を白状させるために拷問にかけられた。しかし、苦し紛れに適当な名前を答えた。国王の傷も命に別条はなかったが、不安になった国王はしばらくひどく落ち込んだ。直ちにコンシェルジュリー牢獄に移された。147年前の王殺し、アンリ4世良王刺殺犯であるフランソワ・ラヴァイヤックと同じ独房に幽閉され、拷問を受けた。まもなくパリ高等法院によりフランスで最も重い刑罰である八つ裂きの刑による死刑判決が下された。場所は、グレーヴ広場(現在のパリ市役所前広場)で公開執行されることになった。03月27日、病気の父の代理として当時18歳だったシャルル・アンリ・サンソンが死刑執行人として臨んだ。実際に処刑を取り仕切ったのは叔父のニコラ・シャルル・ガブリエル・サンソンにより、刑の執行が始まった。ダミアンはまず寺院の前に連行され、そこで罪を告白する公然告白が行われた。この後グレーブ広場に連行され、処刑台の上に上げられると、まず国王を刺した右腕を罰するために右腕を焼いた。次にペンチで体の肉を引きちぎり、傷口に沸騰した油や溶けた鉛を注ぎ込んだ。次に、地面に固定されたX字型の木に磔にされ、両手両足に縄を結ぶと、それらのもう一方の先を4頭の馬に繋いだ。これを号令とともに馬たちが一気に4方向に駆け出すことでダミアンの体から四肢を引き裂こうとしたのだが、そう簡単には行かなかった。この手順を1時間に3度も繰り返したが、ダミアンの体はびくともしない。そこでサンソンは判事の許可を得て、四肢の付け根に切り込みを入れた。すると次の回ではまず最初に片脚がもぎ取られ、次にもう片方の脚ももぎ取られ、続いて右腕が引き裂かれた。ダミアンはこの時点で絶命していた。バラバラになったダミアンの遺体はその場で火葬に付された(西欧では通常死者は土葬される)。ニコラ・シャルル・ガブリエル・サンソンはこの仕事のあまりの衝撃に耐えられず、息子のジャン・ルイ・サンソンに職を譲って引退した。処刑を目撃した人物は、彼をイングランド王国において同様の罪で処刑されたガイ・フォークスに擬えた。処刑後、ダミアンの家は完全に破壊され更地になり、兄弟と姉妹は改名を強要され、父と妻と娘はフランス王国から追放された。この事件の余波で、陸軍卿ダルジャンソン伯マルク・ピエール・ド・ヴォワイエ・ド・ポールミーと海軍卿兼国璽尚書マチュー・ダルヌヴィルが罷免された。マチュー・ダルヌヴィルは「二十分の一税」を導入した有能な政治家だったが、ポンパドゥール夫人の不興を買って失脚したとされる。
 七年戦争でオーストリア・フランス同盟軍は、名将フリードリヒ2世率いるプロイセン軍に苦戦し、西暦1757年11月のロスバッハの戦いで大敗を喫した。アメリカ新大陸の戦いでもフランス軍はイギリス軍に敗れ、ケベックとモントリオールが陥落した(フレンチ・インディアン戦争(西暦1754〜1763年))。西暦1763年02月、パリ条約が結ばれ、フランス王国はカナダ、ルイジアナ、西インド諸島の一部を含む広大な植民地ヌーベルフランスの権益を失い、フランスの衰退を招いた。この条約は「フランス史上最も惨めな条約」と呼ばれた。翌西暦1764年04月15日にこの戦争に少なからず関わったポンパドゥール夫人が死去した。ルイ15世最愛王はポンパドゥール夫人の葬列を涙を流して見送った。「朕の後には大洪水がくるであろう。(Après moi le déluge、直訳「我が後に大洪水あれ。」、「後は野となれ山となれ。」に近い意)」という有名な言葉がある。ルイ15世最愛王自身が言ったわけではないが、彼の晩年と将来の王政の終焉を象徴する言葉とされている。晩年になってショワズール公エティエンヌ・フランソワ、次いで大法官ルネ・ニコラ・シャルル・オーギュスタン・ド・モプーを起用して改革を行い王権の強化を図った。

 戦争により国庫は破綻に瀕していた。ルイ15世最愛王の晩年の数年間は外務卿兼陸軍卿のショワズール公エティエンヌ・フランソワが政権を担った。彼はポンパドゥール夫人の人脈で出世した人物で、七年戦争では主戦派として戦争を推進していた。ショワズール公エティエンヌ・フランソワはイギリス王国への報復のためにフランス海軍の再建に努め、一方、国内問題ではイエズス会と対立したガリカニリストのパリ高等法院に同調して、イエズス会を解散させた。財政政策では穀物取引の自由化を行い、経済の自由化改革に着手したが、その効果には賛否が分かれる。結局ルイ15世最愛王の治世の間に5回もデフォルトを起こしている。

 西暦1765年、王太子ルイ・フェルディナン・ド・フランス(Louis Ferdinand de France)は、王位に就くことはなく死去した。ルイ・フェルディナンの長男ブルゴーニュ公ルイ・ジョゼフ・グザヴィエと次男アキテーヌ公グザヴィエ・マリー・ジョゼフは既に夭逝していたため、三男ベリー公、三男のベリー公ルイ・オーギュスト(後のルイ16世)がドーファン(王太子)となった。ショワズール公エティエンヌ・フランソワはオーストリア大公国との同盟関係を強化すべく、新王太子ベリー公ルイ・オーギュストとハプスブルク・ロートリンゲン朝の初代神聖ローマ帝国皇帝フランツ1世シュテファンの皇后でオーストリア大公国共同統治者の事実上の女帝、マリア・テレジア(Maria Theresia)の末娘の皇女マリア・アントーニア・ヨーゼファ・ヨハンナ(Maria Antonia Josepha Johanna、仏語名: マリー・アントワネット・ジョゼフ・ジャンヌ・ド・アプスブール・ロレーヌ(Marie-Antoinette-Josèphe-Jeanne de Habsbourg-Lorraine、マリー・アントワネット・ドートリッシュ(Marie-Antoinette d'Autriche))との政略結婚を取りまとめ、婚儀は西暦1770年05月に行われた。


 西暦1768年6月24日に王妃マリー・レクザンスカが死去した。王妃が亡くなる1月ほど前に、ショワズール公エティエンヌ・フランソワがマリ・ジャンヌ・ベキュー(Marie-Jeanne Bécu)をヴェルサイユに呼び寄せ、ルイ15世最愛王と会わせた。このときルイ15世最愛王58歳、マリ・ジャンヌ25歳。最愛のポンパドゥール夫人を亡くし消沈していた国王にとって、彼女はすぐにお気に入りとなった。マリ・ジャンヌは貧しい庶民の出の私生児で、15歳で修道院での教育を終えると、侍女をしていたが、素行上の問題から解雇され、男性遍歴を繰り返し娼婦同然の生活をしていが、西暦1760年にお針子として「ア・ラ・トワレット」という洋裁店で働き始めた。悪名高い女衒デュ・バリー子爵ジャン・バティストのおもちゃとしてランジェ(天使)と命名されて囲われると、貴婦人のような生活と引き換えに、デュ・バリー子爵ジャン・バティストが連れてきた男性と同衾していた。
 老境に入っていたルイ15世最愛王は数ヶ月後にマリ・ジャンヌの出自を知ったが、それでも彼女を否定せず、どうすれば近くに置けるか考えた。国王の公妾は既婚者である慣わしがあった。そこでジャン・バティスト・デュ・バリー子爵は自分の弟のギヨームを買収し、マリ・ジャンヌと偽装結婚させ、マリ・ジャンヌの偽の出生証明書を作り、年齢を3歳若く鯖読み、「貴族の血を引く。」と主張した。こうして晴れてデュ・バリー夫人(Madame du Barry)を名乗ったが、正式に国王の公妾となるには、当時の宮廷の慣わしとして、後見人が国王の前で正式に自己紹介する必要がある。だが、誰も後見人の役目を引き受けてくれなかった。そこでデュ・バリー夫人はお金に困っていたベアン伯爵夫人を後見人役に雇った。いざルイ15世最愛王に自分を正式に紹介しようとすると1回目はベアン伯爵夫人がわざと足首の捻挫を装って失敗。2回目は王自身が怪我をして面会は実現せず。結局、西暦1769年04月に公式に妾と発表され宮廷デビューを果たした。マリ・ジャンヌをヴェルサイユ宮殿に迎え入れて寵愛したが、他の高位の廷臣たちには無視され、公の場で王に付き添うこともできなかったため、彼女はヴェルサイユ宮殿で孤独な日々を過ごした。ショワズール公エティエンヌ・フランソワはデュ・バリー夫人を嫌悪し、そのために政治に関心がなかったデュ・バリー夫人は反ショワズール公エティエンヌ・フランソワの廷臣たちと結びつき、政争に巻き込まれるようになった。
 その頃オーストリア大公国からルイ15世最愛王の孫であるフランス王太子ルイ・オーギュスト(後のルイ16世)に嫁いでいたマリー・アントワネットと対立した。マリ・ジャンヌとマリー・アントワネットは、王室の結婚式の前夜に初めて出会った。娼婦や愛妾が嫌いな母マリア・テレジアの影響を受けたマリー・アントワネットは、マリー・アントワネットは14歳の純真な少女で、デュ・バリー夫人が王の公妾で娼婦だった過去を耳にし、すぐに軽蔑し、デュ・バリー夫人の出自の悪さや存在を徹底的に憎んでいた。加えて、予てデュ・バリー夫人の存在を疎んじていたルイ15世最愛王の娘であるアデライード王女、ヴィクトワール王女、ソフィー王女らが、宮廷で最も身分の高い婦人であるマリー・アントワネットを味方につけようと画策したことが、この対立を一層深めた。一方、デュ・バリー夫人は朗らかで愛嬌がある親しみやすい性格で、宮廷の貴族たちからは好かれていた。


油絵 数字キットによる絵画 塗り絵 大人 手塗り ルイーズ・エリザベス・ヴィジェ・ルブラン作のデュ・バリー夫人の肖像画 DIY絵 デジタル油絵
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 パリ高等法院と国王との対立は続き、王権の危機を感じたルイ15世最愛王は西暦1770年12月にパリ高等法院に迎合的なショワズール公エティエンヌ・フランソワを罷免した。ルイ15世最愛王は大法官ルネ・ニコラ・シャルル・オーギュスタン・ド・モプーを登用して、翌西暦1771年に一種のクーデターを起こし、パリ高等法院の司法官の追放、司法官職売官制の廃止、上級評定院の設置といった司法改革を断行させた。これによってパリ高等法院は弱体化し、王権が著しく強化された。だが、失脚したショワズール公エティエンヌ・フランソワ派とパリ高等法院の法服貴族たちが、デュ・バリー夫人を元娼婦と非難する小冊子を作成して広め、国王の権威を更に貶めることになった。その後政権は大法官ルネ・ニコラ・シャルル・オーギュスタン・ド・モプーとデギュイヨン公エマニュエル・アルマン・ド・リシュリュー、アベ・テレが担当、三頭政治になっていった。

 西暦1774年04月27日、ルイ15世最愛王は小トリアノン宮に滞在する間に偏頭痛と足の痛みを感じ始めた。デュ・バリー夫人や孫のベリー公ルイ・オーギュストと朝食を共にしたが、食事はほとんど食べられなかった。食事後、狩りに出掛けるルイ15世最愛王は寒さを訴えて馬車に留まり、侍医の勧めでヴェルサイユに戻った。翌日より国王の顔に赤い斑点が現れ、症状が天然痘であることが判明すると、免疫力のないベリー公ルイ・オーギュストは国王と隔離された。05月07日、国王は告解を行い罪の赦し受ける儀式を執り行った。05月09日にデュ・バリー夫人にポン・トー・ダム修道院へ入るよう命令が出された。ルイ15世最愛王の最後の瞬間を見守ったクロイ公アンヌ・エマニュエルは「膿だらけに変色された国王の顔がムーア人とネグロ、または青銅仮面のように暗くなった。」と表現した。ルイ15世最愛王の看病に努めていたデュ・バリー夫人だったが、病状が悪化して「助からぬ。」と悟った彼は、神への懺悔のためにデュ・バリー夫人を宮廷から立ち退かさせた。05月09日にポン・トー・ダム修道院へ入るよう命令が出され、危篤に陥ったルイ15世から遠ざけられた。追放同然に宮廷を追われた彼女は不遇な一時期を過ごした。

 05月10日午後03時30分、ルイ15世最愛王が64歳で死去した。19歳になるベリー公ルイ・オーギュストがルイ16世として即位した。彼は「私は何一つ教わっていないのに。」と嘆いた。

ブルボン家の落日―ヴェルサイユの憂愁 - 戸張 規子
ブルボン家の落日―ヴェルサイユの憂愁 - 戸張 規子


 ヴォルテール、カント、フィヒテなど啓蒙思想家の中でも反ユダヤ主義は多く見られた。また、それはドイツの啓蒙思想、ドイツ観念論でも同様であった。

 西暦1762年、ルソーは「エミール」で、ユダヤ人を「最も卑屈な民」と称し、「ユダヤの神は怒り、嫉妬、復讐、不公平、憎悪、戦争、闘争、破壊、威嚇の神であり「初めにただ1つの国民だけを選んで、その他の人類を追放するような神は、人間共通の父ではない。」とした。
 啓蒙思想家ヴォルテールは反ユダヤ主義者でもあった。同じ西暦1762年、ヴォルテールはユダヤ人のイザーク・ピントへの批判に対して「シボレットを発音できなかったからといって4万2千人の人間を殺したり、ミディアン人の女と寝たからといって2万4千人の人間を殺したり、といったことだけはなさらないで下さい。」と「耶蘇者ヴォルテール」と署名して答えた。西暦1764年の「哲学辞典」ではヴォルテールは、ユダヤ人は「地上で最も憎むべき民」、「無知にして野蛮な民」、「その民は、旧来、もっとも忌まわしい迷信にもっとも悪辣な吝嗇を混ぜ合せた民である。」などと30項目においてユダヤ人を攻撃した。また、青年期のヴォルテールはデュボワ枢機卿への書簡で、「祖国といって金を稼ぐことのできる場所以外のものを知らないユダヤ人が、皇帝のために王を、王のために皇帝を裏切るようなことをいとも簡単にやってのける人間であるということは、今さらのように猊下にご説明申し上げるまでもありませぬ。」と述べた。また、リール騎士に対して「イスラエルの包皮なしの連中」(ユダヤ人)は、「かつて地球の表面を汚した乞食どものなかで最悪の乞食」であると述べている。 しかし、ヴォルテールは啓蒙主義の進展に寄与したため、当時のユダヤ人側から厳しい評価が寄せられなかった。
 モンテスキューは「オランダ人の一部の人以上にユダヤ的なユダヤ人はいない。」と旅行記で述べた。
 無神論者ドルバックは「ユダヤ人は脆弱で惨めな存在であり、その熱狂的、非社交的な宗教と常軌を逸した法の犠牲者で、迷信的な無分別の結果であると。」し、「卑しく常軌を逸した迷信は愚鈍なヘブライ人や堕落したアジア人に任せておけば良い。」と論じた。
 西暦1776年、自由主義神学者のゼムラーは「無能にして不信心なユダヤ人」は「誠実なるギリシア人やローマ人とは比較の対象にすらならない」として、「旧約聖書、とりわけエズラ書とネヘミヤ書には耶蘇教的精神が欠如しており、聖書として永遠に必要不可欠なものであるのか。」と問いかけた。
 西暦1779年、フランソワ・エルがアルザスのユダヤ人を「国家内国家」として非難した。「国家内国家」という表現はユグノーに対して使われたもので、西暦1685年にはナントの勅令が廃止された。

 フリードリヒ2世は、フランス・ロココ様式のサンスーシ宮殿(無憂宮)を築き、ヴォルテールやモーペルテュイを招いて庇護し、無神論者の巣窟ともなった。アドルフ・ヒトラーは強力な軍事力でプロイセンの領土を拡大させていったフリードリヒ2世を理想の人物と仰ぎ、官邸にこの肖像画を掛けていた。
 啓蒙専制君主フリードリヒ2世は西暦1740年の「反マキャベッリ論」で、モーセが「神感を受けていなければ、大極悪人、偽善者、ないし作者が困っているときに劇に大団円を齎してくれる機械仕掛けの神を用いる詩人のように、神を利用していた詐欺師としか」見做し得ない「モーセはたいへん稚拙だったので、ユダヤ人を導くのに、6週間で通常に通れたはずの道に40年も掛かった。彼は、エジプト人たちの知識をほとんど利用しなかった。」、「ユダヤ人の先導者は、ローマ帝国の建国者(ロムルス)、ペルシア帝国の大王、ギリシアの英雄たち(テセウス)よりも、はるかに劣っていた。」と述べた。フリードリヒ2世はモーセ、ナザレのイエス、ムハンマドを詐欺師とする「三詐欺師論」などの無神論の影響を受けていた。ただし、父王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世はユダヤ人が一般職業に就くことを禁止したが、フリードリヒ2世はユダヤ人取扱を改善しており、ロスバッハの戦勝記念(西暦1757年)に際しモーゼス・メンデルスゾーンはユダヤ人保護法のもと建設されたベルリンのシナゴーグで、ユダヤ人解放を実現した国王として祝福した。
 フリードリヒ2世は、西暦1780年に「ドイツ文学論」 をフランス語で著述し、「ドイツ文学の惨状の原因として戦争の影響があり、またドイツが政治的な統一国家を作れないこと、さらにドイツ語が多種の異なる方言をもつ未発達な言語であり統一言語がないことなどにある。」とした。クラインは、「フリードリヒ大王のプロイセンでは、言論の自由が保障されているが、服従が国家の核心にあった。」と述べ、またカントは「日常の職務では自由を制約される。」と論じて、ハーマンはこれを批判した。
 プロイセン王国枢密顧問官クリスティアン・コンラート・ヴィルヘルム・ドームは、エルのユダヤ人非難文書に刺激されて、モーゼス・メンデルスゾーンとともにユダヤ人の解放と信教の自由を訴え、西暦1781年09月に「ユダヤ人の市民的改善について」を発表し、ユダヤ人が特別な許可がなくては結婚もできず、課税は重く、仕事や活動が制限されていることを批判した。ただし、ドームは猶太教の棄教を解放の条件とした。
 ゲッティンゲンのルター派神学者・ヘブライ学者ヨハン・ダーフィト・ミヒャエーリスは、「悪徳で不誠実な人間であるユダヤ人は背が低く、兵士としても役立たずで、国家公民になる能力を欠いており、さらにその信仰は誤った宗教であるのに、ドームは職業選択の自由だけでなくユダヤ人が固有の掟に従うことまでを許している。」として、ドームを批判して、ユダヤ人解放を拒否した。ミヒャエーリスは聖書と普遍史を批判したことでも高名だが、「全ての言語が1つの言語、特にヘブライ語であったとは証明されていない。」とした。
 西暦1782年、オーストリアの神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世がボヘミアとオーストリアのユダヤ人の市民権を改善する寛容令を公布した。
 ユダヤ人の工場経営者で哲学者であったモーゼス・メンデルスゾーンはユダヤ啓蒙運動を展開して、詩篇とモーセ五書をドイツ語に翻訳し、ユダヤ人子弟の教育では従来の律法重視を改めて世俗的な科目や職業訓練を訴えて、ユダヤ人の耶蘇教社会への同化を進めた。西暦1770年にはモーゼス・メンデルスゾーンは街路を歩くと罵声を浴びせかけられるのが日常であったため、外出しないようにしていた。西暦1782年、モーゼス・メンデルスゾーンはメナセ・ベン・イスラエルの「イスラエルの希望」のドイツ語訳前書きで、国家が宗教への介入をやめるという政教分離原則を主張しながら、ユダヤ人社会の宗教的権威から独自の裁判権を放棄するよう求めた。

 フランスのアルザスでは、西暦1784年、地方領主が徴収していたユダヤ人通行税が廃止され、同年07月にはユダヤ人への農地所有が認められた。これは外国人の猶太教徒の排除が目的であり、ユダヤ人の当地の人口を抑制するための政策であった。
 西暦1787年、メッスの王立学芸協会は「ユダヤ人をフランスでより一層有益かつ幸福にする手段は存在するか?」で論文を公募し、アンリ・グレゴワール神父とザルキント・ウルウィッツのユダヤ人擁護論が表彰された。

 西暦1789年、フランス革命が勃発し、人権宣言が出された。フランス革命戦争(西暦1792〜1802年)とそれに続くナポレオン戦争(西暦1803〜1815年)で、オーストリア帝国(西暦1804〜1867年)、プロイセン王国(西暦1701〜1918年)がフランスに敗れ、神聖ローマ帝国(西暦800/962年〜1806年)が崩壊した。


「ザ・ロスチャイルド」大英帝国を乗っ取り世界を支配した一族の物語 - 林千勝
「ザ・ロスチャイルド」大英帝国を乗っ取り世界を支配した一族の物語 - 林千勝

 西暦1648年のヴェストファーレン条約が結ばれ残虐凄惨な宗教戦争の三十年戦争は終わり、ドイツに300近くの主権国家ができ、領邦の多くが銀含有量バラバラに独自通貨作ったため、両替が繁雑になり、西暦16世紀初めに大きな銀山が発見され、西暦1518年以来この種の銀貨が発行されてきたボヘミア(現在のチェコ)の町、ザンクト・ヨアヒムスタール(独語: 元 Thal、後逸Sankt Joachimsthal あるいは Joachimsthal(ヨアヒムスタール、聖ヨアキムの谷)、現ヤーヒモフ(チェコ語: Jáchymov))に由来する銀で作られたターラー銀貨を基準に各通貨の両替率が設定された。 しかし出回っている通貨の種類が多過ぎて両替は煩雑で、金儲けを卑しい仕事と考えていた耶蘇教徒は銭勘定をドイツ各地にいた両替商、即ちユダヤ人にほぼ丸投げした。ユダヤ人は複雑怪奇な両替を利用して財を成し、次第に金融を支配するようになった。一般人には忌み嫌われたが国家財政を担う存在として王侯貴族たちに重宝がられた。

 ヨーロッパ中で流通していたターラー銀貨は、オランダでダルアダーに変化し、その後アメリカでダラー(ドル)となったなど、ドルやそれに類似した多くの通貨名の語源となった。

 アイザック・ニュートン(英語: Isaac Newton)は、西暦1699年に造幣局長等に任じられ、就任早々に通貨偽造犯の逮捕し、これを皮切りに片っ端から組織の汚職を洗い出し、処罰する方針を打ち出した。アイザック・ニュートンは政治や行政の世界とは縁遠い大学教授であったが、王立造幣局長官として鮮やかな手並みを発揮した。通貨偽造犯を逮捕・処刑するために辣腕を奮い、イギリス王国の通貨を護るために、部下の捜査員に変装用の服を与えるなどして捜査を進めさせ、偽金製造シンジケートの首領ウィリアム・シャローナー(William Chaloner)を捕らえ、裁判にかけて大逆罪で死刑にした。アイザック・ニュートンが造幣局長官に在職している間は、偽金造りが激減した。
 他方で、アイザック・ニュートンは貨幣鋳造のために、貨幣の正確な重量やその測定基準を新たに制定した。このときアイザック・ニュートンは、銀貨と金貨の相対価値 (金銀比価)を設定するにあたり、ドイツの両替率の複雑さに閉口し市場の銀の相場を見誤り、西暦1717年に銀貨の貨幣価値を銀自体より低く兌換率を定めてしまった。(ニュートン比価)。これにより、銀貨が溶かされ銀の鋳塊が金貨と交換される事態を引き起こした。この結果として、銀貨が実質的に価値を損ない、イギリス王国は事実上の金本位制に移行した。法的な金本位制への移行は西暦1816年からである。これはナポレオン戦争による兌換停止を経た後も、西暦1821年05月にイングランド銀行により再開された。

 幕末期の日本は黒船来寇を機に開国を迫られ、西暦1859年には欧米との貿易が開始された。当初、洋銀1枚と一分銀3枚を交換できることとした。ところが、日本の天保一分銀は当時の国際水準から見て異常に品位が高く、さらに4枚で天保小判1枚と等価であり材質価値より高額面に設定されていたため、洋銀は明らかに交換規定の水準よりも品位が劣り日本の商人達は洋銀を拒否した。さらに幕府は天保一分銀より大型でありながら額面価値が半分である貿易専用の二朱銀を発行し、二朱銀2枚をもって洋銀1枚と交換させようとした。これに激怒した欧米各国は日本の銀貨の高額面設定を非難して、1日1万6千枚(4千両)分の一分銀を強制的に洋銀との交換させる要求を押し通した。このため、強制的な交換で入手した天保一分銀で一両金貨を獲得して海外に持ち出して、当時の国際的な金銀比価の水準とされた1:15.3の相場で銀貨と再換金することで約3.3倍の利益を得た。このため、日本国内から大量の金が流出して日本経済は大混乱に陥った。これに対して、江戸幕府は国際的な金銀比価に合わせた安政一分銀、万延小判を鋳造して、欧米側もこれを受け入れることで取りあえず金の大量流出は一定の抑制が図られた。
 この時に流出した金が、スコットランド人グラバー商会、ジャーディン・マセソン商会といったアシュケナージム猶太の首魁ロスチャイルドを
太らせ、アメリ合衆国の南北戦争での資金源となった。



 西暦18世紀のヨーロッパで啓蒙思想が普及したことは、ユダヤ人の解放を大きく進めた。啓蒙専制君主として上からの改革を進めた神聖ローマ帝国の皇帝ヨーゼフ2世は、西暦1781年に宗教寛容令を出し、カトリック教の信仰を保障したが、その時、猶太教も同様にその混淆が認められ、ユダヤ人がゲットーを出て一般市民と交じって生活できるようになった。

ラエリエン・シンボル.jpg このことが、ハザール汗国の末裔、アシュケナジーム猶太を野に放ち、邪悪な猶太の悪魔、赤い表札(ロートシルト)の創世記が始まる。

 ロスチャイルド家は世界で最も裕福な一族であり、550兆US$もの大金を支配しており、これは世界で流通しているお金のおよそ半分に当たる。


 当時帝国自由都市フランクフルト・アム・マイン(Frankfurt am Main)のアシュケナジームユダヤ人は西暦1462年以来ゲットーに押し込められてきた。また法律・社会的に様々な制約を受け、職業は制限されていた。家名はなかったが、自称や呼称の家名はあり、家名を「ハーン」もしくは「バウアー」と名乗っていた。西暦1567年。ユダヤ人のイサク・エルチャナン・バカラックが、フランクフルト・アム・マインにあるユダヤ人ゲットー69番地に家を建てた。一時期、この「赤い表札(ロートシルト)」の付いた家で暮らすようになってから、「ロートシルト(Rothschild、「赤い表札」の意)」という家名でも呼ばれるようになった。そこから引っ越した後も「ロートシルト」と呼ばれた。フランクフルトのユダヤ人が法的に姓を得たのはフランス占領下の西暦1807年のことであり、それ以前のものはあくまで通称で、姓を持つことが許されなかったユダヤ人が家の目印を屋号に使ったのがその由来である。

 バウアー(後世ロートシルト)家も代々商売していた家柄だが、バウアー(後世ロートシルト)家の家系はモーゼス・カルマン・バウアー(後世ロートシルト)(Moses Kalman Rothschild)までしか辿れない。出自不明の家系で家名が「ハーン(Khan)」であることに加えて、絹布貿易商であった点から、モンゴル系でハザール汗国アシュケナジームユダヤ人と考えられる。

Rothschild.jpg モーゼス・カルマン・バウアー(後世ロートシルト)の息子が、アムシェル・モーゼス・バウアー(後世ロートシルト)(Amschel Moses Rothschild)で、西暦1760年代にドイツフランクフルト・アム・マインのゲットー(フランクフルト・ゲットー)で両替商、及び絹布貿易を営んだアシュケナジームユダヤ人。妻はシェーンチェ・レクニッヒ(Schönche Lechnich)。
 夫妻には8人の子どもがおり、第4子で長男がロートシルト(ロスチャイルド)財閥を築いたマイアー・アムシェル・バウアー(後世ロートシルト)(Mayer Amschel Rothschild)である。それまでは東欧を転々としていたモーゼス・カルマンは息子マイアー・アムシェルの誕生後、フランクフルトに定住した。


 マイアー・アムシェル・バウアー(後世ロートシルト)の5人の子供が西暦18世紀末から西暦19世紀までに、フランクフルト、ウィーン、ロンドン、ナポリ、パリにそれぞれ分かれ、全ヨーロッパに金融網を張り巡らせた。その顧客には各国の王室やナポレオンなどの権力者がおり、また株式投資を通じて巨大な富を築いた。ナポレオンが大陸封鎖令を出すと、大陸でコーヒーや砂糖、煙草が品薄になるのを見越して密輸し、莫大な利益を得た。西暦19世紀にはメッテルニヒ、ハプスブルク家に融資する一方、鉄道事業にも進出した。
 西暦1875年にはイギリスの首相ディズレーリのスエズ運河株買収に資金を提供、その帝国主義政策と結びつき、金融資本の典型的な例となった。なおエジプトといえば、エジプト新王国時代、第18王朝末期の最後の直系王、トゥトアンクアメン(Tut ankh Amun、ツタンカーメン)の墓の発掘に成功したカーナヴォン卿に資金を提供したのもロスチャイルド財閥だった。
 西暦19世紀末から始まったユダヤ人のパレスチナ帰還を目指す運動であるシオニズムは、ロスチャイルド家の財政的支援のもとで行われた。ちなみにロスチャイルド家は全体で西暦19世紀中に4億ポンド(現在の日本円にして2兆2400億円)以上の富を集めたという推計がある。西暦20世紀には石油(ロイヤル・ダッチ・シェル)事業、ダイヤモンド事業などにも進出した。
 バルフォア宣言 第1次世界大戦中の西暦1917年、イギリスのバルフォア宣言はユダヤ人のパレスチナでの国家建設を認めたものであるが、それもイギリス政府がロスチャイルド財閥の支援を取り付けるためであった。第1次世界大戦後は、民族運動や社会主義の台頭によって、あまりにも国家と深く結びつき、ロスチャイルド家はディープステイトとして、世界中の他民族を愚民の意の家畜のゴイム(goyim、גוים、גויים)を生殺与奪をもつ統制下に置き、ロスチャイルド家の意のままに操る単一世界(One World)の建設を画策している。現在は表の顔として、銀行経営やワイン製造などに、世界経済に大きな影響力を持っている。



ロスチャイルドの密謀 - ジョン・コールマン, 太田 龍
ロスチャイルドの密謀 - ジョン・コールマン, 太田 龍

MayerAmschelRothschild.jpg アムシェル・モーゼス・バウアー(後世: ロートシルト)は信仰心厚い猶太教徒で、息子のマイアー・アムシェル・バウアー(後世ロートシルト)(Mayer Amschel Rothschild)にはラビになることを期待していた。そのため幼くしてフュルトのラビ養成学校に入学させ、中東とヨーロッパの古代史と語学を学んだ。西暦1750年に、アムシェル・モーゼス・バウアーは門に赤い表札(ロートシルト)を掲げた。しかし父アムシェル・モーゼス・バウアー(ロートシルト)が西暦1755年に死去し、母シェーンチェ・レクニッヒもその翌年の西暦1756年に死去したため、学校を退学し親戚の紹介でハノーファー(ブラウンシュヴァイク・リューネブルク)選帝侯領(西暦1692〜1814年、ハノーファー王国(西暦1814〜1866年)、西暦1714〜1837年は、イギリスのハノーヴァー朝と同君連合国)のユダヤ人銀行家オッペンハイム家に丁稚奉公した。ここで宮廷御用商人(ほとんどがユダヤ人なので「御用ユダヤ人」)の業務を学んだ。西暦1764年にフランクフルトの「ユダヤ人街」(Judengasse)(いわゆるゲットー)へ戻り、父の金貸し業を事業継承した。そしてマイヤー・アムシェル・ロートシルト(Mayer Amschel Rothschild、ロチルド、ロスチャイルド)と名乗ることになった。赤い楯の赤が共産主義の象徴である後の赤旗である。
 古銭研究が好きだったマイアー・アムシェル・は蒐集していた中東のジナール金貨、ドイツの旧銀貨ターレル、ロシアやバイエルンの鋳造貸など古銭の型録販売業を開業したが、一般人相手には全く売れなかったが、オッペンハイム家で働いていた頃に知遇を得ていたハノーファー軍人エメリッヒ・フォン・エストルフ将軍を顧客に得ることができた。当時将軍はフランクフルトに近いハーナウ宮殿の主であるヘッセン・カッセル方伯世子ハーナウ公ヴィルヘルム(後のヘッセン・カッセル方伯ヴィルヘルム9世、西暦1803年にヘッセン選帝侯ヴィルヘルム1世となる)に仕えていた。将軍の紹介で宮廷内の高官たちを次々と顧客に獲得し、やがてヴィルヘルムからも注文を受けるようになった。ヴィルヘルムは閨閥の広さによる資金力を活かし、他の王侯ならびに軍人・官吏・各種産業に貸し付けていた。
 ハプスブルグ家に対抗して閨閥で伸し上がったのが、ヘッセン・カッセル方伯家で、ヘッセン・カッセル方伯フリードリヒ2世はイギリス国王兼ハノーファー選帝侯ジョージ2世の王女メアリーと結婚した。2人の次男がヘッセン・カッセル方伯ヴィルヘルム9世(ヘッセン選帝侯ヴィルヘルム1世)である。デンマーク・ノルウェー王フレデリク5世の王女 ヴィルヘルミーネ・カロリーネ・ア・ダンマークと結婚。父フリードリヒ2世の死後、当時ヨーロッパ最大級といわれた資産を相続した長兄ヴィルヘルムが既に夭逝)。イギリス、ドイツ、オランダ、ベルギー、デンマーク、ノルウェー、スウェーデン、フィンランド、ギリシャ、ロシアの王室と繋がり、特にイギリス王国ハノーヴァー朝(西暦1714〜1901年)やサクス・コバーグ・ゴータ朝・ウィンザー朝(西暦1901年〜)のエリザベス2世の夫、王配フィリップ(エジンバラ公)にも繋がっている。ヘッセン・カッセル方伯フリードリヒ2世、ヴィルヘルム9世は、領内の若者を男子を徴発して傭兵として鍛え上げ、主に植民地戦争の兵員を求めるイギリス王国にドイツ傭兵を貸し出す悪名高い傭兵業を営んでいた。貸し付けた傭兵が死亡したり負傷したりした時、ヘッセン・カッセル方伯フリードリヒ2世やヴィルヘルムは高額な補償金をせしめ、その傭兵業の儲けで、ヘッセン・カッセル方伯家はヨーロッパ随一の金持ちになっていた。
 小規模ながら両替商を兼業するようになっていたマイアーもヴィルヘルムの傭兵業に関わらせてもらい、イギリス王国で振り出された為替手形の一部を割引(現金化)する仕事を任されるようになった。ヴィルヘルムは、こうして蓄えた豊富な資金を貸し付けによってさらに増やした。そして彼の資金の多くはイギリスに投資された。西暦1794年ヴィルヘルムはイギリスにある資金を引当てに15万フロリンという多額の借入れを馴染みの金融業者に打診したが、拒否さた。これにマイアーを含む3人が応じた。これがマイアーが君主のために高額の資金を調達する「宮廷ユダヤ人」(Hoffaktor)となっていく第一歩であった。とはいえマイアーの担当額は僅かであった。ヴィルヘルムとしては交換比率が下がらないようなるべく多くの業者に自分の外国為替手形を扱わせたがっており、その1人がマイアーだったということに過ぎない。マイアーは基本的に西暦1780年代末まで注目されるような人物ではなく、ヴィルヘルムにとってはもちろん、フランクフルト・ゲットーの中においてさえそれほど有名人ではなかった。
 西暦1770年08月29日、同じフランクフルト・ゲットーの住民でザクセン・マイニンゲン公宮廷御用商人をしていたザロモン・シュナッパー(Salomon Schnapper)の17歳の娘グトレ(Gutle Rothschild)と結婚し19人の子供を儲けたが、そのうち男 5人、女5人が生き残った。西暦1792 年の時点でジャネット(21歳)、アムシェル(19歳)、サロモン(18歳)、ネイサン(15歳)、イザベラ(11歳)、バベット(08歳)、カール( 04歳)、ジュリー(02歳)、ヘンリエット(01歳)、ヤコブ(後のジェームズ)( 0歳)。西暦1780年代半ばにはフランクフルト・ゲットーの住居の中で最も高級住宅である「緑の表札(グリューネシルト)」の付いた家に引っ越した。妻グトレはユダヤ人の妻らしく控え目な人柄で、静かに縫い物をしていることが多かった。しかも西暦1785年にはヴィルヘルムがヘッセン・カッセル方伯位を継承してヴィルヘルム9世となり、フランクフルトから離れたカッセルのヴィルヘルムスヘーエ城に移ってしまったため、これによりヴィルヘルム9世との関係が一時途絶えそうになった。西暦1780年代末までヘッセン・カッセル方伯ヴィルヘルム9世にとってマイアーは数多くいる御用商人の1人でしかなかったため、宮廷に顔を見せる機会が減るだけで、すぐに疎遠になった。
 一方、物品商の仕事の方はフランクフルトがイギリス(グレートブリテン王国)の植民地産品や工業製品を集める一大集散地になっていたこともあって順調に推移し、西暦1780年代にはマイアーはかなりの成功を収めていた。やがてマイアーの息子たちが父の仕事を手伝うようになった。精力的なマイアーの息子たちはヘッセン・カッセル方伯からも気に入られた。特に次男ザロモンはほぼ毎日のようにヴィルヘルムスヘーエ城に詰めていた。長男アムシェルも方伯の抵当権に関する仕事に携わらせてもらうようになった。彼らの活動が評価され、西暦1789年にはロートシルト銀行は大銀行と名前を並べる形でヘッセン・カッセル方伯家の正式な金融機関の1つに指名され、方伯家の貸出業務に関与できるようになった。また三男ネイサンはフランス革命の影響で大陸で暴騰していた綿を大量に買いつけるため、西暦1798年にイギリスのマンチェスターへと渡っていった。
 息子たちの努力によってロートシルト家の業績は西暦1790年代から急速に伸び、西暦1796年にはマイアーはゲットーで1番の資産家となっていた。取引範囲も広がっていき、ドイツ各都市やアムステルダム、ウィーン、パリ、ロンドンなど外国都市でも活動するようになった。この頃からロートシルト家の業務は信用供与と貸付業務が主となり、商人から銀行家へと転身した。マイアーはヘッセン・カッセル方伯家の御用商人として、穏和な性格で人の心を掴むことが得意だった。またマイアーの商売は正直であり、取引相手も必ず儲けることができた。これがロートシルト家の高い信用に繋がった。
 西暦1806年10月にナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍がプロイセン王国侵攻のついでにヘッセン選帝侯国にも侵攻し、マイアーが暮らすフランクフルトもこの侵攻の際にフランス軍によって占領された。ヘッセン選帝侯ヴィルヘルム1世(ヘッセン・カッセル方伯ヴィルヘルム9世。西暦1803年にヘッセン選帝侯となっていた)は11月01日にもシュレースヴィヒ公国に国外亡命することを余儀なくされた。ナポレオンはヘッセン選帝侯家を君主の座から追う旨と、その財産はフランス大蔵省が法的継承人になる旨を布告した。
 選帝侯から財産管理の秘密代理人に指定されたのはビュデルスだったが、彼は「大手銀行に任せるとフランス当局に見つかる恐れが高い。」と考え、ロートシルト家に任せることを決めた。以降、マイアーと息子たちはフランス当局の目を盗んで各地を駆け回り、選帝侯の諸侯への債権を回収し、選帝侯へ送り届けた。しかし送り届けるのは一部だけで、マイアーが選帝侯のもとを訪れて「フランス当局の監視を潜り抜けて殿下のもとまで送り届けるのはますます難しくなっている。」と説得し、ロートシルト家に投資信託させた。
 一方でロートシルト家はフランスとの関係も深めていき、フランス当局やフランス傀儡国家ライン同盟盟主でフランクフルト大公であるカール・テオドール・フォン・ダールベルク、フランクフルトの郵便制度を独占しているカール・アレクサンダー・フォン・トゥーン・ウント・タクシス侯などと親密な関係を築いた。これによりヨーロッパ大陸に独自の通商路を確保し、また情報面で優位に立ち、大きな成功に繋げていった。
 折しもナポレオンの大陸封鎖令のせいで大陸諸国ではイギリス(グレートブリテン及びアイルランド連合王国(西暦1801〜1922年))やその植民地からの輸入に頼っていた綿製品、毛糸、煙草、コーヒー、砂糖、染料などが品不足になっており、価格の高騰を招いていた。他方イギリスではこれらの商品の価格が市場の喪失により暴落した。そこでロンドンのネイサンは選帝侯から預かっている巨額の資金を元手にこれらの品を安く大量に買って大陸へ密輸し、マイアーと4人の息子が大陸内で確立しているロートシルト家の通商ルートを使って各地で売り捌いた。これによってロートシルト家は莫大な利益を上げられた上、物資不足に喘いでいた現地民からも感謝された。
 またマイアーはフランクフルト・ユダヤ人の市民権獲得を求め、「あらゆる人民の法の前での平等と宗教的信仰の自由な実践」を謳ったナポレオン法典を一般市民法としてフランクフルトに導入させるためのダールベルク大公との交渉に尽力し、ダールベルク大公に44万グルデンを支払って実現に漕ぎつけた。しかし、ナポレオンは西暦1808年05月にユダヤ人同権化法の例外として時限立法をなし、民族の人権を商業・職業選択・住居移転に限ることとした。そして西暦1815年にフランクフルトが自由都市の地位を取り戻し、ユダヤ人の市民権自体を取り消した。
 死の2年前の西暦1810年には病気で大分消耗しており、事業のほとんどを息子たちに委ねていた。事業を委ねる際、息子たちに他の兄弟を無視して自分勝手な単独事業をしてはいけないことや利益は持ち分に応じて分配すべきこと、女子に事業を継がせてはいけないことを言い聞かせ、その旨の誓約書まで提出させた。そして同年09月に「マイアー・アムシェル・ロートシルト父子会社(M. A. Rothschild & Söhne)」を創設した。その名のごとく出資金はマイアーと(ロンドンにいるネイサンを除く)4人兄弟が出した。
 マイアーは家族と事業の区別がほとんどなく、家族が事業であった。特に男子はマイアーにとって重要だった。マイアーは息子たちを対等の事業パートナー、また事業を継承する者として育てた。マイアーは息子たちに子供の頃から金銭的報酬を出し、それによって金を稼ぐことの喜びを覚えさせた。猶太教では男子の成人は13歳であるが、マイアーの息子たちもその年の頃にはマイアーの商売にすっかり馴染んでいた。その結果、マイアーと息子たちは生涯を通して固い信頼感で結び合っていた。娘たちの結婚についても可能な限り親族内で、また商売上の戦略に基づいて行った。娘が結婚する時には持参金をたくさん持たせたが、娘や娘婿が事業に参加してくることは決して許さなかった。息子たちに仕事面の協力のみならず、近親結婚も勧めた。4人の孫息子は従妹と結婚し、このしきたりは子孫が他の貴族や財閥と婚姻関係を結ぶようになった西暦19世紀末まで続いた。
 ヨム・キプル祭日だった西暦1812年09月18日にマイアーはフランクフルトのシナゴーグに入って丸一日断食を行い、09月19日に手術の古傷が悪化し、危険な容態となった。死を悟ったマイアーは直ちに遺書を口述させた。遺書は、会社内の重要ポストは一族に限ること、事業をするのは男子相続人だけにすること、一族から過半数の反対がない限り宗家も分家も長男が家督を継ぐこと、結婚はロートシルト家の親族内で行うこと、事業は秘密厳守にして在庫や財産の目録を公表しないことを5人の息子らに求めていた。親の思いを子が受け継いで末永く事業が続くことを願った。子孫の団結を願うマイアーは遺書の中でも「Concordia(協調)」という言葉を遺しており、これはロートシルト家の家紋にも刻まれることになった。 同日午後08時15分頃、妻グトレに抱かれながら息を引き取った。
 夫の死後、グトレは息子や娘が引っ越してもゲットーのグリューネシルトの家を離れようとせず、生涯そこで暮らした。

 グトレとの間に5男5女を儲けた。ロスチャイルドの閨閥は今日でも健在である。
 第1子(長女)シェーンヒェ・ジャネット(Schönche Jeannette),子モーリス・ベネディクト・ド・ウォルムズ(Maurice Benedict de Worms)。
 第2子(長男)アムシェル・マイアー 、 フランクフルト・ロートシルト家(西暦1901年閉鎖)を継承。
 第3子(次男)ザロモン・マイアー 、ウィーン・ロートシルト家(西暦1938年閉鎖)の祖。
 第4子(三男)ナータン・マイアー、ロンドン・ロスチャイルド家の祖。英語読みではネイサン・メイアー。
 第5子(次女)イザベラ(Isabella)。
 第6子(三女)バベット(Babette)。
 第7子(四男)カール・マイアー、通称カルマン。ナポリ・ロートシルト家(西暦1901年閉鎖)の祖。
 第8子(四女)ユーリエ(Julie)。
 第9子(五女)ヘンリエッテ(Henriette)、 通称イェッテ。アブラハム・モンテフィオーレと結婚。
 第10子(五男)ヤーコプ・マイアー 、パリ・ロチルド家の祖。パリ移住後ジェームスと改名。


posted by cnx at 09:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 反吐 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする