
他民族からは「ヘブライ人」と謂れ、自らは「イスラエル人」と称し、バビロン捕囚後には「ユダヤ人」と呼ばれるようになった徒輩。ヘブライ人、イスラエル人、ユダヤ人は同じ民族を指している。
ユダヤ人(ヘブライ語: יהודים、英語: Jews、ラジノ語: Djudios、イディッシュ語: ייִדן)は、猶太教の信者(宗教集団)または猶太教信者を親に持つ者によって構成される宗教信者。原義は狭義のイスラエル民族のみを指す。イスラエル民族の1つ、ユダ族がイスラエルの王の家系だったことを由来とする。猶太教という名称は、猶太教徒が多く信仰していた宗教であることによる。ユダヤとは、パレスチナ南部の地域。酋長ヤコブの子ユダに由来する。古代イスラエル統一王国の分裂後の南ユダ王国があった地域である。
南ユダ王国滅亡後のユダヤの歴史
南ユダ王国が滅ぶと、僅かな例外的時期を除いて西暦20世紀に至るまでユダヤ民族が独立国を持つことはなかった。
神武天皇74(西暦前587)〜安寧天皇10(西暦前539)年 新バビロニア帝国
安寧天皇10(西暦前539)〜孝安天皇61(西暦前332)年 アケメネス朝ペルシア帝国
孝安天皇61(西暦前332)〜孝安天皇88(西暦前305)年 プトレマイオス朝エジプト
孝安天皇88年(西暦前305)〜開化天皇17(西暦前141)年 セレウコス朝シリア
開化天皇17(西暦前141)〜崇神天皇35(西暦前63)年 ハスモン朝 ユダヤ人国家
崇神天皇35(西暦前63)〜崇神天皇61(西暦前37)年 共和政ローマ元老院属州
崇神天皇61(西暦前37)〜垂仁天皇73(西暦44)年 ヘロデ家
垂仁天皇73(西暦44)年 ユダヤ属州(ローマ帝国皇帝属州)
垂仁天皇73(西暦44)〜景行天皇23(西暦93)年 ヘロデ家
垂仁天皇73(西暦44)〜仁徳天皇83(西暦395)年 ローマ帝国皇帝属州
仁徳天皇83(西暦395)〜舒明天皇06(西暦634)年 東ローマ帝国
舒明天皇06(西暦634)〜永正13(西暦1516)年 イスラーム諸王朝 途中に十字軍国家の時代を含む。
永正13(西暦1516)〜大正06年(西暦1917)年 オスマン帝国
大正07年(西暦1918)〜昭和23(西暦1948)年 イギリスによる国際連盟の委任統治
昭和23(西暦1948)年 イスラエル国(メディナット・イスラエル)成立 共和政国家の樹立、現代に至る。
西暦135年、ローマが叛乱を鎮圧し、ユダヤ的なものを一掃しようとしたローマ人は、この土地をユダの地(ユダヤ)ではなく、ユダヤ人の宿敵ペリシテ人に因んで「パレスチナ」、エルサレムを「アエリア・カピトリーナ」と改称し、ユダヤという地名は消滅した。
また、ユダヤ人は人種的にはセム族とされるが、長いディアスポラ(離散)のなかで、周辺民族との混血の結果、セファルディームとアシュケナジームの違いが生じ、また言語もイデッシュ語などが生まれた。現在、ユダヤ人はイスラエルの他、世界中に分布しており、アメリカにも約600万人が住んでいるとされる。しかし現在ではユダヤ人を「人種」概念で捉えるのは困難で、現実には「猶太教を信仰する徒輩」と捉えるのが正しい。人類学的に同質のユダヤ人は存在しない。
西暦1688〜1689年にステュアート朝(西暦1371〜1714年、イングランド王としては1603〜1714年)のイングランドで名誉革命(Glorious Revolution、偉大なる革命)というクーデターが起き、イングランド国王ジェームズ2世(スコットランド国王ジェームズ7世)が王位から追放され、フランス王国に亡命し、ジェームズ2世の長女メアリー(蘭語名: Maria)と従兄で夫のネーデルラント連邦共和国(西暦1581〜1795年)統領ウィレム2世(Willem III van Oranje-Nassau)オラニエ公ウィレム3世がイングランド国王メアリー2世とウィリアム3世に即位し、西暦1689年に権利の章典が発布された。議会側は当初メアリーの単独即位を望んでいたが、既にロンドンを制圧してイングランドを軍事的に支配下においたウィレム3世がそれを不服とし、メアリーの従兄でチャールズ1世の外孫(長女メアリー・ヘンリエッタ・ステュアート(Mary Henrietta Stuart)の長男)でもある自身にも王位を要求したので、両者の共同統治と決まった。ウィレム3世はオランダ統領を兼ねたまま、ウィリアム3世としてイングランド王にも即位することになった。名誉革命の反革命勢力をジャコバイト(Jacobite)と呼ぶ。ジェームズ2世およびとその正嫡(男系子孫)のイングランド王への復位を支持し、政権を動揺させた。
メアリー2世とウィリアム3世には実子がいなかったため、イングランド国王には、妹のアン(ジェームズ2世の次女)が、ヨハン・ウィレム・フリーゾ(Johan Willem Friso)がオラニエ=ナッサウ家の相続人として指名された。 西暦1707年、イングランドとスコットランドは正式に合併し、グレートブリテン王国(西暦1707〜1801年)が成立した。西暦1714年、ブランデー好きであったことから、ブランデー・ナン(英語: Brandy Nan)の異名で知られるアン女王が死去し、ステュアート朝は断絶した。
このオラニエ公ヨハン・ウィレム・フリーゾの妃がヘッセン・カッセル方伯カールの一人娘マリア・ルイーゼ・ファン・ヘッセン・カッセル(蘭語: Maria Louise van Hessen-Kassel,、独語名: マリー・ルイーゼ・フォン・ヘッセン・カッセル(Marie Luise von Hessen-Kassel))で、2人の長男がネーデルラント連邦共和国統領ウィレム4世で、グレートブリテン国王兼ハノーファー選帝侯ジョージ2世の長女アンと結婚した。ジョージ2世の四女のメアリー・オブ・グレートブリテン(Mary of Great Britain、独語名: マリア・フォン・ハノーファー(Maria von Hannover))は、ヘッセン・カッセル方伯カールの孫のヘッセン・カッセル方伯フリードリヒ2世と結婚した。オラニエ・ナッサウとヘッセンは同族で、ハノーヴァー朝はヴェルフ家の流れを汲み、ヘッセンの祖はヴェルフ家。これらの血脈によってハノーヴァー朝(西暦1714〜1901年)が確立された。西暦17世紀〜18世紀のヘッセン・カッセル方伯は軍隊を傭兵として貸し出すことで悪名を高くした。西暦18世紀を通じ、ヘッセン・カッセルの人口の7%以上が軍務に就いていた。ヘッセン・カッセル方伯の軍隊は他のヨーロッパ諸国の傭兵市場の供給源となっていた。ヘッセン・カッセル方伯フリードリヒ2世は、義理の甥にあたるハノーファー選帝侯兼イギリス王ジョージ3世にアメリカ独立戦争に投入するためのヘッセン・カッセル傭兵軍を貸し出したことで有名である。このためアメリカ人はイギリス政府に雇われたドイツ人傭兵たちを「ヘシアン(Hessian) 」と呼ぶようになった。ヘッセン・カッセル方伯フリードリヒ2世はイギリス政府に傭兵を貸与して得た報酬で豪勢な暮らしを送り、次代のヘッセン・カッセル方伯ヴィルヘルム9世はこの巨富の運用をマイアー・アムシェル・ロートシルトに任せたことでロスチャイルド家の発展の礎が築かれた。
ブルボン朝(仏語: dynastie des Bourbons、西暦1589〜1792、1814〜1830年)、オルレアン朝(仏語: dynastie d'Orléans、西暦1830〜1848年) その2
ルイ・フェルディナン・ド・フランス(Louis Ferdinand de France)は、フランス王ルイ15世最愛王と王妃マリー・レクザンスカの長男。誕生とともに王太子(ドーファン)に立てられたが、王位に就くことはなかった。 西暦1745年にスペイン王フェリペ5世の娘で父の従妹に当たるマリー・テレーズ・ラファエルと結婚した。妃マリー・テレーズ・ラファエルは引っ込み思案で他の王族のように遊興には加わらず、自室にいることの方が多く、夫の王太子ルイ・フェルディナンとの夫婦仲は非常に良く、彼は妃の傍から片時も離れなかった。ポンパドゥール夫人(Madame de Pompadour)に溺れるルイ15世最愛王とは対照的な状態であった。ポンパドゥール夫人は王太子夫妻から非常に嫌われていた。翌西暦1746年に、妃は待望の一人娘マリー・テレーズを出産したが、難産だったため著しく衰弱し、出産から3日後に急死した。残された一人娘マリー・テレーズも夭逝した。同年にフェリペ5世により金羊毛騎士団員に叙され、フェリペ5世も亡くなり、四男フェルナンドがスペイン王フェルナンド6世慎重王になった。
妻の死に打ちのめされた王太子ルイ・フェルディナンにスペイン王フェルナンド6世慎重王は、亡きの代わりに別の末妹のマリーア・アントニア・ディ・スパーニャ(Maria Antonia di Spagna、西語名: マリア・アントニエッタ・デ・ボルボーン(Infanta María Antonieta de Borbón))王女との再婚勧めたが、ルイ15世最愛王に断られた。ルイ15世最愛王の政治に強い影響力を持っていた王の寵姫ポンパドゥール夫人が、「オーストリア継承戦争でザクセン選帝侯領(西暦1356〜1806年)との同盟を強くしたい。」と考え、ポーランド王アウグスト3世(兼ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世)の娘マリー・ジョゼフ・カロリーヌ・エレオノール・フランソワーズ・グザヴィエール・ド・サクス(Marie-Josèphe Caroline Éléonore Françoise Xavière de Saxe、独語名: マリア・ヨーゼファ・カロリーナ・エレオノール・フランツィスカ・クサヴェリア・フォン・ポーレン・ウント・ザクセン(Maria Josepha Karolina Eleonore Franziska Xaveria von Polen und Sachsen))との再婚を纏めようとした。
マリア・ヨーゼファの祖父アウグスト2世と父アウグスト3世は共に、ルイ・フェルディナンの母方の祖父スタニスワフ1世レシチニスキとポーランド王位を争ったという因縁のある間柄であった。一方で、マリア・ヨーゼファの姉マリア・アマリアはナポリ・シチリア王カルロ(スペイン王子でもあり、後にスペイン王カルロス3世)の妃。外交的には好ましいこの縁組は、王太子ルイ・フェルディナンの母である王妃マリー・レクザンスカの強い反対にも拘わらず進められ、翌西暦1747年02月09日、マリア・ヨーゼファと王太子ルイ・フェルディナンは結婚した。フランス式に名前を改めたマリー・ジョゼフは新郎に、「前妻のことを無理に忘れる必要はない。」と声を掛けた。このような事情から、嫁と姑の関係はしばらくぎくしゃくした。王太子ルイ・フェルディナンは、何人もいた姉妹の中で、アンリエット・アンヌと特に親しかった。最初の妻マリー・テレーズ・ラファエル妃の死から立ち直れなかった王太子ルイ・フェルディナンは、結婚当初マリー・ジョゼフのことを非常に嫌った。そんな弟に対してアンリエット・アンヌは、「最初の妻の死による悲しみを後妻のマリー・ジョゼフに背負わせるのは不当である。」と弟を諭し、弟夫婦の仲を取り持った。王太子ルイ・フェルディナンは父ルイ15世最愛王とは異なり、敬虔で厳格な人物でローマ法王クレメンス13世とともにイエズス会の保護を行った。3人にはカトリックの信仰という共通点があり、「ルイ15世最愛王の放蕩に馴染めない。」という点でも似たところがあった。マリー・レクザンスカ王妃の父の追悼式の際には、スタニスワフ元国王のメダルを首にかけて出席し、姑との関係を改善した。王太子夫妻は、ヴェルサイユを離れて別邸で生活することが多くなった。
長女マリー・ゼフィリーヌ、長男ブルゴーニュ公ルイ・ジョゼフ・グザヴィエ、次男アキテーヌ公グザヴィエ・マリー・ジョゼフ、三男ベリー公ルイ・オーギュスト(ルイ16世)、四男プロヴァンス伯ルイ・スタニスラス(ルイ18世)、五男アルトワ伯シャルル・フィリップ(シャルル10世)、次女マリー・アデライード・クロティルド・グザヴィエール、三女エリザベート・フィリッピーヌ・マリー・エレーヌの5男3女を儲けた。長男と次男は、国王になる可能性が高かったので、名前を付けるときは王ブルボン家の源流のカペー朝のルイ9世聖王から取った。四男のルイ・スタニスラフは母方の祖父スタニスワフ1世レシチニスキから取った。彼が族で協議し決めたが、三男、四男はまさか国王になるとは考思われず、王太子ルイ・フェルディナン自身が自分の好みで考えた。ルイ・オーギュストは、名付けたのはこの2人だけで、残りの子供の命名には興味を示さなかった。
外見的に、長男ルイ・ジョゼフ・グザヴィエ、四男ルイ・スタニスラスと五男シャルル・フィリップの3人は、父王太子ルイ・フェルディナンから錐のように研ぎ澄まされた目を貰い、三男ルイ・オーギュストだけは、母マリー・ジョゼフと同じ腫れぼったい瞼、太い眉を貰った。母譲りの色白、水色の目、父譲りの肥満体質。美男で有名な祖父ルイ15世最愛王の美貌は、残念なことに末弟のシャルル・フィリップだけしか受け継がなかった。4人の兄弟の性格は、長男ルイ・ジョゼフ・グザヴィエは横柄、三男ルイ・オーギュストは鈍感、四男プロヴァンス伯ルイ・スタニスラスは利発、五男シャルル・フィリップは元気の良さが特徴的だった。
長男ブルゴーニュ公ルイ・ジョゼフ・グザヴィエは、活発で魅力的で王としての資質や気品を生まれながらに持っており、誰が見てもフランス国王になるのに相応しい少年で、当然、両親のお気に入りで、大事にされちやほやされて育った。彼は親しい人々、特に西暦1755年に5歳で亡くなった姉の長女マリー・ゼフィリーヌにとても愛されていた。まだ4歳にもなっていなかったルイ・ジョゼフ・グザヴィエがこの影響を受けたかどうかは不明だが、ルイ・ジョゼフ・グザヴィエは姉の不在を感じていた。メルキュール紙は西暦1755年に「4歳のブルゴーニュ公は武器がとても好きである。」、西暦1758年には「幼い割にはしっかりしている。」と言う記事を載せた。王太子夫妻の長男は、将来が楽しみな少年だった。
次男アキテーヌ公グザヴィエ・マリー・ジョゼフは5ヶ月間生きた間、兄のブルゴーニュ公ルイ・ジョゼフに次いでフランス王位継承順位第3位だった。 西暦1754年02月22日癲癇発作の後に亡くなった。
長男ルイ・ジョゼフ・グザヴィエは、少し三男ルイ・オーギュストを少し苛め、特にトランプでは、のんびりしている弟はよく鴨にされた。元々トランプが好きでなかったルイ・オーギュストは余計憤慨したようで、以後もトランプはどうしても好きになれなかった。ルイ・オーギュストが16歳の時、懺悔聴聞僧は、社交の1つとしてトランプをするように勧めたが、極たまにホイストをする以外は決してトランプをしなかった。子供の頃からトランプ遊びが好きだった妻のマリー・アントワネットとは大きく異なった。
当時のフランス王国では、王家の子供達は滅多に両親に会えなかった。たまに会うとしても公式行事の時に会うくらいで、家族として接することはほとんどなく、子供達は女性の家庭教師マルサン夫人に教育された。西暦1754年、マルサン夫人(Madame de Marsan、マリー・ルイーズ・ジュヌヴィエーヴ・ド・ロアン(Marie-Louise-Geneviève de Rohan))が王家のガヴァネス(王家養育係主任女官)の職に就いた。マルサン夫人は将来のフランス国王の長男ルイ・ジョゼフ・グザヴィエや、愛想のいい四男ルイ・スタニスラスを特別に可愛がり、三男ルイ・オーギュストにはほとんど愛情を注がなかった。王太子は子供達の教育をより密接に監督し来るべき将来に備えた。自らも毎週水曜日と土曜日に子供達に試験を行って、学習の進み具合を監視した。マルサン夫人が王子女の中で最も可愛がったのは四男ルイ・スタニスラスであり、プロヴァンス伯ルイ・スタニスラスの方も夫人を「親愛なる小さなお友だち(ma chère petite amie)」と呼んでよく懐いた。養育係主任女官は慣例上、王子女の養育の監督が職務のため、例えば妹娘の三女マダム・エリザベート(Madame Elisabeth、エリザベート・フィリッピーヌ・マリー・エレーヌ・ド・フランス(Élisabeth Philippine Marie Hélène de France))の日常の世話は下僚の侍女マッコー夫人に任された。しかし姉娘の次女マリー・アデライード・クロティルド・グザヴィエール・ド・フランス(Marie Adélaïde Clotilde Xavière de France)、クロティルデ・ディ・ボルボーネ。フランチア(伊語名: Maria Clotilde Adelaide di Borbone-Francia))はマルサン夫人のお気に入りだったので、マルサン夫人が世話することも多く、西暦1775年にクロティルドがサヴォイア家のカルロ・エマヌエーレ・フェルディナンド・マリーア・デ・サヴォイア(後のサルデーニャ王国4代国王カルロ・エマヌエーレ4世)と嫁入りするときも随行し、婚礼に参加した。
長男ルイ・ジョゼフ・グザヴィエは、西暦1759年に遊び仲間の1人によって木馬から突き落とされたが、彼は優しいことが知られており、友人が処罰されないように、このことを誰にも話さなかった。 この事件の後、長男ルイ・ジョゼフ・グザヴィエの健康状態が急速に悪化し始めた。家族の主治医であるバルビエ医師は西暦1760年にルイ・ジョゼフ・グザヴィエの手術を決定し、意識があるうちに手術を受けた。
西暦1760年09月08日、6歳になったばかりのとき、気難しいラ・ヴォギュヨン公ポール・フランソワ・ド・ケランがルイ・オーギュストの家庭教師兼遊び友達になり、学習を指導をした。兄ルイ・ジョゼフ・グザヴィエの健康が悪化したので、ルイ・オーギュストの正規の教育が1年早く開始することになった。王太子でさえ国務から遠ざけたルイ15世最愛王はルイ・オーギュストはもちろん政治とは関係のない所にいた。
助からないと聞かされた王太子は、西暦1760年11月29日に祖父母フランス王ルイ15世最愛王と王妃マリー・レクザンスカを代父母として洗礼を受けさせた。 それまで、彼は単に「ブルゴーニュ」という名しかなかった。西暦1761までにブルゴーニュ公ルイ・ジョゼフ・グザヴィエは骨結核と診断され、ベッドに縛り付けられ、足を動かすことができなくなった。7ヶ月の間、三男ルイ・オーギュストは大好きな兄ルイ・ジョゼフ・グザヴィエの看病をしたが、西暦1761年の復活祭の 03月22日朝、結核のため9歳で亡くなった。あらゆる面で「生まれながらの王」であった長男ルイ・ジョゼフ・グザヴィエの死は偏愛する両親に大きな打撃を与えた。王太子は父ルイ15世最愛王があまりにも杜撰な政治をしていることを知っており、「恐らく自分の治世期間だけではフランスを回復できない。」と思っていた。ブルゴーニュ公にフランス王国の未来を託していた。
長男ルイ・ジョゼフ・グザヴィエを可愛がっていた王太子夫妻やルイ15世最愛王の愛情は、三男ルイ・オーギュストのところに回って来ず、弟の四男ルイ・スタニスラスと五男シャルル・フィリップに行った。未来の国王だが、両親の愛情を受けられなかったルイ・オーギュストは、ますます内向的に孤独になっていった。
西暦1765年12月20日に、父ルイ15世最愛王に先立って、王太子ルイ・フェルディナンは結核で36歳で亡くなり、長男ブルゴーニュ公ルイ・ジョゼフ・グザヴィエと次男アキテーヌ公グザヴィエ・マリー・ジョゼフは既に亡く、11歳の三男ベリー公ルイ・オーギュストが王太子に立てられた。 母マリ・ジョゼフはルイ・オーギュストが12歳になった時、「ルイ9世聖王は素晴らしい国王だった。まさに世界を判定する聖人だったのです。あなたの立派な家系の保護者でもあり、王制の守護神でもある。ルイ9世聖王の足跡に従いなさい。」と諭した。マリー・ジョゼフは夫の死から回復することなく、西暦1767年03月13日に同じく結核で亡くなった。
フランス王国とオーストリア大公国(西暦1453〜1806年)の和平のための政略結婚である三男ルイ・オーギュストの妃に、ハプスブルク・ロートリンゲン朝の初代神聖ローマ帝国皇帝フランツ1世シュテファンの皇后でオーストリア大公国共同統治者の事実上の女帝、マリア・テレジア(Maria Theresia)の末娘の皇女マリア・アントーニア・ヨーゼファ・ヨハンナ(Maria Antonia Josepha Johanna、仏語名: マリー・アントワネット・ジョゼフ・ジャンヌ・ド・アプスブール・ロレーヌ(Marie-Antoinette-Josèphe-Jeanne de Habsbourg-Lorraine,、マリー・アントワネット・ドートリッシュ(Marie-Antoinette d'Autriche))を迎えることに反対して縁談を妨げていたが、自身と妃マリー・ジョゼフの死により縁談は進められた。
西暦1774年05月10日午後03時30分、ルイ15世最愛王が64歳で死去した。19歳になるベリー公ルイ・オーギュストがルイ16世として即位した。彼は「私は何一つ教わっていないのに。」と嘆いた。
ブルボン朝5代ルイ16世(Louis XVI、ナヴァバラ国王としてはルイス5世(バスク語: Luis V.a))はルイ15世最愛王の孫、王妃は神聖ローマ皇帝フランツ1世と皇后マリア・テレジアの娘マリー・アントワネット。在位中の西暦1789年にフランス革命が起こり、西暦1791年憲法に宣誓して以後は、称号は「フランス国王(Roi de France)」ではなく「フランス人の王(Roi des Français)」となった。西暦1792年に王権が停止し、翌年処刑された。フランス最後の絶対君主にしてフランス最初の立憲君主である。
父ルイ・フェルディナン王太子、母マリー・ジョゼフ・ド・サクス(ポーランド王兼ザクセン選帝侯アウグスト3世の娘)の三男ルイ・オーギュストとして誕生した。ベリー公ルイ・オーギュストは、聡明で美男子だと思われていた長兄のブルゴーニュ公ルイ・ジョゼフ・グザヴィエを偏愛する両親に見落とされていた。ベリー公ルイ・オーギュストは強くて健康な少年だったが、とても内気だった。彼は学業に優れ、ラテン語、歴史、地理、天文学に強い趣味を持ち、イタリア語と英語に堪能になった。 彼は祖父ルイ15世最愛王と一緒に狩猟をしたり、弟の四男プロヴァンス伯ルイ・スタニスラスと五男アルトワ伯シャルル・フィリップと乱暴な遊びをしたりするなど、身体活動を楽しんだ。 ルイ・オーギュストは幼い頃から、もう1つの興味である鍵鍛冶を奨励されており、それは子供にとって有益な仕事であると考えられていた。鍵は実用品のみならず収集品としても愛用されていた。ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世やオーストリア大公(前方オーストリア大公)フェルディナント2世などは鍵の収集家でもあった。またドイツのバイエルン選帝侯領(西暦1623〜1806年)やヴュルツブルク司教領(西暦1168〜1803年)では、錠前職人の親方を呼び寄せ、宮廷付き錠前師として鍵、錠のみならず門扉などを作らせていた。特に鍵と縁が深いのはフランス王国ブルボン朝で、ルイ14世太陽王も鍵マニアだった。そのルイ14世太陽王の影響を受けたのか、ベリー公ルイ・オーギュスト(ルイ16世)もまた鍵製作を趣味にするほどの「マニア」であった。
西暦1760年09月08日、ラ・ヴォーギュヨン公ポール・フランソワ・ド・ケレンが家庭教師となった。西暦1760年から1770年の結婚まで、ラ・ヴォーギュヨン公ポール・フランソワ・ド・ケレンから受けた厳格で保守的な教育は、彼に王位継承の準備をさせるものではなかった。ベリー公 ルイ・オーギュストは教育を通じて、宗教、道徳、人文科学に特化した様々な教育を受け、ベリー公ルイ・オーギュストを優柔不断な王に仕立て上げる結果となった。 彼の教師のアベ・ベルティエは、「強い君主には臆病さが価値である。」と教え、聴罪司祭であるアベ・ソルディーニは、「人々に心を読まれないように。」と教えた。
聡明で美男子と期待されていた兄のブルゴーニュ公ルイ・ジョゼフ・グザヴィエを偏愛する両親に見落とされていたが、西暦1761年の復活祭の日、長兄ブルゴーニュ公ルイ・ジョゼフ・グザヴィエが9歳で結核で死去し、西暦1765年12月20日に父ルイ・フェルディナン王太子が結核で亡くなり、11歳のベリー公ルイ・オーギュストが新たな王太子となった。 彼の母親は夫の死から恢復することなく、西暦1767年03月13日に同じく結核で亡くなった。
長年敵対してきたブルボン家とハプスブルク家の間の和議を結ぶため、オーストリア大公国マリア・テレジア神聖ローマ帝国皇后(事実上女帝)により末娘マリア・アントーニア・ヨーゼファ・ヨハンナとブルゴーニュ公ルイ・ジョゼフ・グザヴィエとの政略結婚が画策されていたが、このルイ・ジョゼフの死去により西暦1763年05月、オーストリア大公国との同盟関係を強化すべく、新王太子、ルイ・オーギュストとの結婚の使節としてメルシー・アルジャントー伯フロリモン・クロードが大使としてフランス王国に派遣された。ショワズール公エティエンヌ・フランソワや娼婦上がりの公妾デュ・バリー夫人は推進しようと画策したが、結婚の反対者であった父ルイ・フェルディナン王太子、母マリー・ジョゼフ・ド・サクスが西暦1765年に死亡した後の西暦1769年06月、ようやくルイ15世最愛王からマリア・テレジアへ婚約文書が送られた。
西暦1770年04月19日、マリア・アントーニアが14歳のとき、王太子となっていたベリー公ルイ・オーギュストとの結婚式はまずウィーンで代理人によって行われ、西暦1770年05月16日、ヴェルサイユ宮殿の王室礼拝堂で王太子ベリー公ルイ・オーギュストとマリア・アントーニア・ヨーゼファ・ヨハンナの豪華絢爛な結婚式が挙行され、王太子妃は仏語名マリー・アントワネット・ドートリッシュとなった。この時「マリー・アントワネットの讃歌」が作られ、盛大に祝福された。 ヨーロッパの王族の婚姻では嫁ぎ先の都市(あるいは国家)より、「名誉市民の鍵」を授けられることがある。マリー・アントワネットもブルボン家へ輿入れをする際に、パリの名誉市民の鍵を授けられている。
ルイ15世最愛王は婚姻によってオーストリア大公国との同盟を維持しようと考えたが、七年戦争(西暦1754/1756〜1763年)においてオーストリア大公国と同盟を結んだフランスはプロイセン王国(西暦1701〜1918年)に敗北していた。フランス王国の感情として反オーストリアの機運が高まり、マリー・アントワネットは反オーストリアによる偏見に常に悩まされることになった。
西暦1774年05月10日午後03時30分、ルイ15世最愛王が64歳で死去した。19歳になる孫のベリー公ルイ・オーギュストがルイ16世として即位した。「私は何一つ教わっていないのに。」と嘆いた。西暦1775年、ランスのノートルダム大聖堂で戴冠式を行った。
ルイ15世最愛王の孫であるルイ16世は、マリー・アントワネットと結婚することになり、デュ・バリー夫人とマリー・アントワネットは、王室の結婚式の前夜に初めて出会った。マリー・アントワネットは14歳の純真な少女で、デュ・バリー夫人がルイ15世最愛王の公妾で娼婦だった過去を耳にし、すぐに軽蔑した。元々デュ・バリー夫人と対立していたルイ15世最愛王の四女マリー・アデライード・ド・フランス(Marie Adélaïde de France)が率いる五女マリー・ルイーズ・テレーズ・ヴィクトワール・ド・フランス(Marie-Louise-Thérèse-Victoire de France)、六女ソフィー・フィリップ・エリザベート・ジュスティーヌ・ド・フランス(Sophie Philippe Elisabeth Justine de Franceらに焚きつけられたのだが、娼婦や愛妾が嫌いな母マリア・テレジアの影響を受けたマリー・アントワネットは、デュ・バリー夫人の出自の悪さや存在を憎み、徹底的に宮廷内で無視し続けた。当時のしきたりにより、デュ・バリー夫人からマリー・アントワネットに声を掛けることは禁止されていた。宮廷内はアントワネット派とデュ・バリー夫人派に分かれ、マリー・アントワネットがいつデュ・バリー夫人に話し掛けるかの話題で持ちきりであった。
ルイ15世最愛王と王妃マリー・レクザンスカの8人の娘たちは、そのほとんどが、系譜学的、政治的、戦略的な要因から未婚のままフランス宮廷に残ることになった。多くが独身を通したこの姉妹たちを歴史上「メダム(マダムたち)」と呼ぶようになる状況が生まれた。 ルイ15世はこの対立に激怒し、母マリア・テレジアからも対立を止めるよう忠告を受けたマリー・アントワネットは、西暦1771年07月に貴婦人たちの集まりでデュ・バリー夫人に声を掛けることになった。しかし、声をかける寸前にアデライード王女が突如マリー・アントワネットの前に走り出て「さあ時間でございます!ヴィクトワールの部屋に行って、国王陛下をお待ちしましょう!」と言い放ち、皆が唖然とするなかで、マリー・アントワネットを引っ張って退場した。2人の対決は西暦1772年01月01日に、新年の挨拶に訪れたデュ・バリー夫人に対し、予め用意された筋書きどおりに「本日のヴェルサイユは大層な人出ですこと。」とアントワネットが声を掛けることで表向きは終結した。その後、アントワネットはアデライード王女らとは距離を置くようになった。 ルイ15世最愛王が亡くなると、孫のルイ16世が国王として即位し、マリー・アントワネットが王妃となった。王妃が最初に行ったことの1つが、デュ・バリー夫人を修道院に追放することであった。
ある日宮殿の錠が掛かっている部屋が火事になったことがある。宮中の誰もが消火が出来ず困り果てていた中、ルイ16世自らが道具を持って駆けつけ、解錠し消火をさせた。
マリー・アントワネットはルイ16世のことを慕っており、ルイ16世もマリー・アントワネットに対して好意はあったとされている。互いの気持ちが上手く疎通できていなかったことにより、フランス革命間際までは距離を取りがちであった。またマリー・アントワネットとルイ16世の部屋を繋ぐ隠し通路があったものの、使われることはほとんどなかった。 時にパリのオペラ座で仮面舞踏会に遊び、また賭博にも熱狂的にのめったと言われるが、賭博に関しては子供が生まれたことをきっかけに訪れた心境の変化から止めている。アントワネットは自身の手で子供たちを養育することを望み、熱心に教育した。また、子供たちの側に居るために、ヴェルサイユ宮殿内のアパルトマンの整備を行った。
ルイ15世最愛王がポンパドゥール夫人のために造成し、デュ・バリー夫人が受け継いだ小トリアノン宮殿(le Petit Trianon、プチ・トリアノン)を、西暦1774年に王に即位した20歳のルイ16世は、この小宮殿と周辺の庭園を19歳のマリーアントワネット王妃に、彼女の私的な所有物として与えた。離宮のプチ・トリアノンは彼女が安らぎと余暇を楽しめる唯一の場所、隠れ家(エルミタージュ、Hermitage)であった。そして王妃の所有物であったので、彼女の許可なしには夫のルイ16世でさえ誰も立ち入ることはできなかった。王妃の寵臣のランバル公妃マリー・ルイーズ(マリー・テレーズ・ルイーズ・ド・サヴォワ・カリニャン(Marie-Thérèse-Louise de Savoie-Carignan, Princesse de Lamballe)、伊語名: マリーア・テレーザ・ルイーザ)とポリニャック伯爵(後に公爵)夫人ヨランド・ド・ポラストロン(ヨランド・マルティーヌ・ガブリエル・ド・ポラストロン(Yolande Martine Gabrielle de Polastron, comtesse puis duchesse de Polignac, marquise de Mancini))だけが入館を許可された。王妃はプチ・トリアノンの改造工事を始め、「ル・アモー・ドゥ・ラ・レーヌ(Le hameau de la Reine、王妃の村里)」という庭園を作り、自由な姿で活動した。プチ・トリアノンにおいて、ランバル公妃マリー・ルイーズ、ポリニャック伯爵(後に公爵)夫人、王弟アルトワ伯シャルル・フィリップ、スウェーデンの貴族ハンス・アクセル・フォン・フェルセン伯らお気に入りの少数の貴族と過ごすことが多く、また、プチ・トリアノンは兄ヨーゼフ2世、スウェーデン王グスタフ3世、後のロシア皇帝パーヴェル1世などの賓客を迎える場となった。「王妃の村里」と、そこに家畜用の庭ないし農場を増設し、子供を育てながら家畜を眺める生活を送っていた。 マリー・アントワネットにとって「王妃の村里」はプチ・トリアノンの自由さに加えて自然の空間を味わう場所でもあった。そこでは牛、羊、山羊、鶏、豚といった動物が飼われたが、これらは非常に丁寧かつ清潔に飼育されていた。王妃自身、麦わら帽子をかぶり、モスリンのドレスを着て礼儀作法に縛られない田舎風暮らしを好んだ。この田園生活への憧れは、マリー・アントワネット固有のものではなく、当時の王侯貴族に共通するものだった。
しかし、この閉鎖的に受け取れる姿勢はヴェルサイユのしきたりを無視するものとして受け取られ、「小ウィーン」と呼ばれて、他の貴族たちから反感を抱かれた。王妃に近侍していた身分が低い女性たちと身分高い貴婦人たちの間で対立が激しくなり、マリー・アントワネットの醜聞を記した怪文書が出回った。これらに振り回されたマリー・アントワネットは次第に王妃としての権威を喪失していくことになった。
マリー・アントワネットの最初の寵臣、マリー・テレーズ・ルイーズ・ド・サヴォワ・カリニャン(Marie-Thérèse-Louise de Savoie-Carignan, Princesse de Lamballe)は、北イタリアのサヴォイア家分枝カリニャーノ公家の4代サヴォイア・カリニャーノ公ルイージ・ヴィットーリオ(Luigi Vittorio di Savoia-Carignano)とドイツ人の妻クリスティーネ・フォン・ヘッセン・ローテンブルク(Christine Henriette von Hessen-Rheinfels-Rotenburg、伊語名 クリスティーナ・エンリケッタ・ダッシア(Cristina Enrichetta d'Assia))の間の第6子五女。
ルイ14世太陽王と寵姫モンテスパン侯爵夫人フランソワーズ・アテナイスとの準正された婚外子の三男トゥールーズ伯ルイ・アレクサンドル・ド・ブルボンの1人息子パンティエーヴル公ルイ・ジャン・マリー・ド・ブルボン(Louis Jean Marie de Bourbon, duc de Penthièvre)とマリー・テレーズ・フェリシテ・デスト(Marie-Thérèse-Félicité d'Este、伊語名: マリーア・テレーザ・フェリーチタ・デステ(Maria Teresa Felicita d'Este))と5男2女を儲けたが、成人したのは、次男ランバル公ルイ・アレクサンドル・スタニスラスとオルレアン公ルイ・フィリップ2世と結婚した次女ルイーズ・マリー・アデライード・ド・ブルボン・パンティエーヴル(Louise Marie Adélaïde de Bourbon-Penthièvre)だけだった。やはり同じルイ14世太陽王と寵姫モンテスパン侯爵夫人フランソワーズ・アテナイスとの準正された婚外子の四女フランソーズ・マリー・ド・ブルボン(Françoise Marie de Bourbon)は、オルレアン公フィリップ2世未亡人はマリー・テレーズ・フェリシテの母方の祖母で、王家の一員とはいえプランス・デュ・サンの称号を持たず、従って王位継承権者でないパンティエーヴル公ルイ・ジャン・マリーと孫娘との縁組に強く反対した。オルレアン公フィリップ2世のお気に入りの四女カルロッタ・アグラエ・ドルレアンス(Carlotta Aglae d'Orléans、仏語名: シャルロット・アレー・ドルレアン(Charlotte Aglaé d'Orléans))の長女がマリー・テレーズ・フェリシテ・デスト。
西暦1718年頃、リシュリュー枢機卿の大甥の子、3代リシュリュー公ルイ・フランソワ・アルマン・ド・ヴィニュロー・デュ・プレシ(Louis François Armand de Vignerot du Plessis, duc de Richelieu)と恋仲になるが、当時摂政の父オルレアン公フィリップ2世の怒りを買い投獄された。シャルロット・アレーは彼に幾度か面会に行き、父には「彼に結婚を諦めさせた上で放免してくれ、」と頼んだ。娘に巨額の持参金をつけてモデナ公リナルド3世・デステの跡継ぎフランチェスコ(後のフランチェスコ3世・デステ(Francesco III d'Este))と結婚させた。3代リシュリュー公ルイ・フランソワ・アルマンはルイ14世太陽王、ルイ15世最愛王、ルイ16世の3代に仕え、その後、92歳まで生きた。
マリー・テレーズ・ルイーズは、パンティエーヴル公ルイ・ジャン・マリーの次男ランバル公ルイ・アレクサンドル・スタニスラス・ド・ブルボン(Louis Alexandre Stanislas de Bourbon, prince de Lamballe)と結婚した。称号のランバル公(prince de Lamballe)は、父の領地の1つの地名にちなみ、法的な効力のない儀礼称号。パンティエーヴル公ルイ・ジャン・マリーはブルボン・パンティエーヴル家は、ルイ14世太陽王によってその従姉で子供のないアンヌ・マリー・ルイーズ・ドルレアンの財産を与えられており、次男ルイ・アレクサンドル・スタニスラスは誕生の時点から相続人見られていた。
ところが、最初のうちは仲睦まじかったランバル公夫妻の仲は、結婚1ヶ月後には2人の女優との不貞を働きランバル公妃マリー・ルイーズは深く傷つき。落ち込んだ彼女を慰めたのは舅のパンティエーヴル公ルイ・ジャン・マリーで、義理の父娘はこれを機に親密になった。ランバル公ルイ・アレクサンドル・スタニスラスは女遊びが祟って性病が悪化し、妻や妹の看病も空しく、20歳で死去した。ランバル公妃マリー・ルイーズも夫から性病を移され、懐妊が望めない体になった。 父パンティエーヴル公ルイ・ジャン・マリーの財産は、妹でオルレアン公ルイ・フィリップ2世と結婚したルイーズ・マリー・アデライードによって継承された。
19歳で寡婦となったランバル公妃マリー・テレーズ・ルイーズは夫から相当額の遺産を譲られ、かなりの資産家となった。彼女は修道院に入ろうとしたが舅のパンティエーヴル公ルイ・ジャン・マリーが反対し、自分の娘代わりに傍にいてくれるよう説得した。一緒に領地のランブイエでの大規模な慈善活動に没頭し、そのためパンティエーヴル公ルイ・ジャン・マリーは「貧者の王」と、ランバル公妃マリー・テレーズ・ルイーズは「パンティエーヴルの天使」と呼ばれて称賛された。公妃は舅の所有するパリ市街のオテル・ド・トゥールーズと郊外のランブイエ城を行き来する生活を送った。
ルイ15世王最愛王の再婚相手に四女のマリー・アデライードはうら若い未亡人ランバル公妃マリー・テレーズ・ルイーズをと画策した。「父の再婚相手は若く美しく、そして野心のない女性が望ましい。」と考え、父王が若い後妻に夢中になって国務を自分に投げ出すことを期待していた。ランバル公妃を王妃に仕立てるアデライードの計画は4代ノアイユ公ルイ一族の支持も得たが、ランバル公妃や舅のパンティエーヴル公も全く乗り気でなく、首席国務大臣ショワズール公エティエンヌ・フランソワ一派が、新しい王妃が権力を握ればルイ15世が黙認する自分たちの政治不正を糾弾する可能性があるのを恐れ、ルイ15世最愛王の再婚そのものに強く反対し立ち消えになった。
パンティエーヴル家は庶子の血筋のため傍系王族が持つ血統親王(プランス・デュ・サン)の身分こそなかったものの、一家は王室の末席に位置付けられていたので、ランバル公妃マリー・テレーズ・ルイーズも王室の儀式や催事に王族として参加した。しかもランバル公妃マリー・ルイーズの母クリスティーネ・ヘンリエッテ・フォン・ヘッセンーラインフェルスーローテンブルクは末妹で長姉 ポリッセナ・ダッシア・ローテンブルグはサルデーニャ王国(西暦1720〜1861年)2代国王カルロ・エマヌエーレ3世妃で、長男の3代国王ヴィットーリオ・アメデーオ3世(Vittorio Amedeo III)の次女(ランバル公妃の従姪)マリー・ジョゼフィーヌ・ルイーズ・ド・サヴォワは、西暦1771年04月に王弟プロヴァンス伯ルイ・スタニスラス(後のルイ18世)と結婚し、西暦1773年に三女(ランバル公妃の従姪)マリー・テレーズ・ド・サルデーニュが王弟アルトワ伯シャルル・フィリップ(後のシャルル10世)と、西暦1775年に長男(ランバル公妃の従甥)カルロ・エマヌエーレ4世が夫の妹クロティルド・ド・フランス(Marie Adélaïde Clotilde Xavière de France、伊語名: クロティルデ・ディ・ボルボーネ・フランチア(Maria Clotilde Adelaide di Borbone-Francia))と結婚した。 輿入れした当初の王太子妃マリー・アントワネットはプロヴァンス伯爵夫妻及びアルトワ伯爵夫妻と友人サークルを作っていたため、その輪には両伯爵夫人の同族ランバル公妃も引き込まれ、結果、王太子妃の側にはほとんど常にランバル公妃がいるようになった。
王妃となったマリー・アントワネットの母マリア・テレジア皇太后は、君主の側近に侍る寵臣や友人というものを容認しなかったために、娘とその新しい友人の交遊に腹を立てていた。皇太后は、サヴォイア家出身のランバル公妃が実家の政治的利益のために王妃を利用するのではないかとも心配し、2人の友情を断ち切ろうとした。ランバル公妃は気位が高く繊細で神経質な女性で、謀りごとをする野心もない代わりに機知も持たなかった。容姿は美人ではあると言われた。王妃を楽しませることができたが、生来引っ込み思案だったため、上流社交界の中心に立つよりも王妃と2人きりで過ごすことを好んだ。ランバル公妃は宮廷では身持ちが固いことで有名だった。しかし当時の反君主主義的な民衆プロパガンダは、王政のイメージを傷つけるために、ポルノ色の強い中傷パンフレットの中で、ランバル公妃を王妃マリー・アントワネットのレズビアンの恋人の1人として描いた。
西暦1775年09月18日、マリー・アントワネットはランバル公妃マリー・テレーズ・ルイーズをヴェルサイユの宮廷女官の最高官職である王妃家政機関総監に任命した。この人事は紛糾を引き起こした。総監職は俸給額が飛びぬけて高額で、権限と影響力も他の女官を圧倒するほど強大であり、例えば他の女官の出した命令は総監の指示で撤回可能であった。そのため西暦1741年以来、34年間にわたり空席となっていた。王妃は友情に報いたい一心から任命したのだが、ベテランの宮廷女官たちは、「ランバル公妃は総監に就任するには身分こそ申し分ないが、若く経験も無い。」として、この任命に憤慨した。王妃の生活に関する全決定についての事前の確認と承認、王妃の許に届く全ての書状・嘆願書・覚書の精査と仕分け、そして王妃の名の下に晩餐会や舞踏会を主催し貴族たちをもてなすことが、総監の職務だった。総監職は宮廷の序列において極めて高い上席権を伴ったことも、宮廷の多くの人々の羨望と嫉視を呼び起こした。総監職の俸給は年額15万リーヴルと莫大だった。国家財政が逼迫していた上にランバル公妃は大富豪であるため、財務総監ローヌ男爵アンヌ・ロベール・ジャック・テュルゴーはランバル公妃に俸給の減額の承認を求めた。しかし公妃は「総監を引き受けるならば歴代の前任者と同じ待遇を要求し、通らなければ辞退する。」と宣言したため、マリー・アントワネットの求めにより総監の俸給には従来通りの額が設定された。この就任時のいざこざはランバル公妃に対する世間の印象を非常に悪くする結果となり、大衆向けの刊行物はランバル公妃を王妃の欲深い寵臣と書き立てた。ランバル公妃は神経過敏、引きつけ、失神などの症状に悩んでおり、失神すると何時間も意識を失うこともあったのだが、庶民たちはランバル公妃の失神する様子を真似して、彼女を揶揄した。
彼女の寵臣としての立場は広く国民に膾炙し、ランバル公妃が暇を貰って田舎に出掛ければ、行く先々で王族並みの歓待を受け、彼女に詩が献呈されることもあった。総監となったランバル公妃は仲の良い弟のヴィラフランカ伯エウジェーニオ・イラリオーネをヴェルサイユに呼び寄せた。王妃は親友の弟であるヴィラフランカ伯エウジェーニオ・イラリオーネに高収入なフランス軍の連隊長職を与えた。ランバル公妃はまた、亡夫の妹ルイーズ・マリー・アデライードの夫シャルトル公(後のオルレアン公)ルイ・フィリップ2世ジョゼフがポワトゥー州知事に任命されるよう王妃に働きかけた。ランバル公妃はシャルトル公爵夫妻と親しく、夫妻の長男ヴァロワ公ルイ・フィリップ(後の国王ルイ・フィリップ1世)の誕生にも立ち会っている。フランス・フリーメーソンのグランドマスターを務めていたシャルトル公ルイ・フィリップ2世ジョゼフとの友人関係から、ランバル公妃マリー・テレーズ・ルイーズは西暦1777年、シャルトル公爵夫人と共にフリーメーソンの女性組織サン・ジャン・ド・ラ・カンデュール・ロッジの会員となった。次いで西暦1781年01月公妃はアドプション系諸ロッジの最高責任者であるスコットランド・ロッジのグランド・ミストレスに就任した。公妃は西暦1788年、義妹オルレアン公爵夫人(元のシャルトル公爵夫人)と共に、彼女の夫オルレアン公(元のシャルトル公)ルイ・フィリップ2世ジョゼフが国王の決定に反抗して地方に追放された件について、高等法院の評定官たちに同調して、オルレアン公ルイ・フィリップ2世ジョゼフの追放処分の解除を求めた。
ランバル公妃が総監に就任した西暦1775年以降、王妃の寵愛は新しい友人ポリニャック夫人へと徐々に移っていった。外交的で社交能力に長けたポリニャック夫人は「内気なランバル公妃マリー・テレーズ・ルイーズを野暮ったい。」と貶したが、ランバル公妃も「ポリニャック夫人は王妃を堕落させる。」として彼女を嫌った。マリー・アントワネットは2人の友人を仲良くさせられず、自分が求める娯楽やどんちゃん騒ぎを提供してくれるポリニャック夫人のグループに近づいて行った。西暦1780年、王妃がプチ・トリアノンで素人劇団を立ち上げたとき、ポリニャック公爵夫人が団員にランバル公妃を加えないことを王妃に約束させた。ランバル公妃はポリニャック夫人に寵臣の座を完全に奪われたが、王妃との友情は細々と続いていた。王妃はポリニャック一夫人派との派手な遊興の合間に時おりランバル公妃の部屋を訪れ、ランバル公妃の落ち着きぶりや変わらぬ忠誠心を称賛し、ある時ランバル公妃を「私が知る限り唯一の、人に悪意を持たない女性です。あの方には憎悪や嫉妬というものがありません。」と評した。ランバル公妃は王妃家政機関総監の職を保持し、職務を継続していた。彼女は王妃の名前で舞踏会を主催し、王妃にデビュタント(debutante、初めて社交界にデビューする女性)たちを紹介し、王妃が外国王室の賓客を歓待する際にはこれを補佐し、王妃の出産や毎年行われる王妃の復活祭ミサにも立ち会った。西暦1785年の首飾り事件の際、ランバル公妃は首謀者のラ・モット夫人との面会を求めてサルペトリエール監獄を訪問したが、面会は叶わなかった。訪問の目的は不明だが、当時は様々な憶測が噂として流れた。
公務以外では宮廷に滞在することは少なかったが、これは自身と舅のパンティエーヴル公ルイ・ジャン・マリーの体調が思わしくなかったためだった。西暦1780年代中頃には、ランバル公妃マリー・テレーズ・ルイーズはかなり健康を損ない、職務を果たすのが難しくなった。公妃はしばしばメスマーの弟子シャルル・デロン医師による動物磁気(催眠術や新興宗教の「手当て」、「手かざし」、「浄霊」などと呼ばれるもの)の治療を受けた。西暦1787年夏、彼女は医師の勧めで英国バースへ鉱泉治療に出かけている。大衆は、「ランバル公妃の旅行は王妃の密命を受けた外交指令であり、罷免された前財務総監シャルル・アレクサンドル・ド・カロンヌがもうすぐ出版する暴露本に書かれた王室に不利な記述を削除するよう求めるために渡英した。」と推測したが、本当は当時カロンヌは英国内にいなかった。バースでの湯治を終えたランバル公妃は健康を徐々に取り戻し、宮廷への出入りも以前より頻繁になった。ちょうどポリニャック夫人との関係が決裂しかけていたマリー・アントワネットも、ランバル公妃の忠実さに感謝し、再びランバル公妃に友情を示すようになった。

La princesse de Lamballe
ポリニャック夫人は、ポラストロン伯ジャン・フランソワ・ガブリエルとその最初の妻ジャンヌ・シャルロット・エロー・ド・ヴォークレソンの長女で、貴族の子女は複数の洗礼名を授けられる習いでヨランド・マルティーヌ・ガブリエルと名付けられたが、最後尾のガブリエルで略称された。17歳の時にポリニャック伯アルマン・ジュール・フランソワ(Armand Jules François, comte puis 1er duc de Polignac)と結婚した。婚家ポリニャック家は実家ポラストロン家と同様、「毛並み」は良いが経済的には貧窮していた。 夫の主な収入源は所属する第1竜騎兵聯隊から給与として支給される4000リーヴルだった。
夫ポリニャック伯アルマン・ジュール・フランソワの妹のディアーヌ・ド・ポリニャック(Diane Louise Augustine, comtesse de Polignac、後のディアーヌ伯爵夫人)は宮廷女官となり、西暦1775年のある日、ポリニャック伯爵夫妻は、彼女の招待を受け、ヴェルサイユ宮殿鏡の間で行われた公的な招待会に出席した。そこで彼女を初めて紹介された王妃マリー・アントワネットは、「穫れたてのいい香りのする果物みたい」で、「暗めのブルネットの髪(黒髪)、目立って白い肌、「ライラック色」とか「菫色」と形容された、薄紫色に光る眼を持っていたポリニャック伯爵夫人ヨランド・マルティーヌ・ガブリエルの美しさに衝撃を受けて目が「眩み」、ヴェルサイユに永住するよう彼女に懇願した。ヴェルサイユ宮廷で暮らすことは非常に高額な出費を伴い、ポリニャック伯爵夫人ガブリエルは「自分の夫には宮廷に部屋を維持するだけの収入がない。」と正直に答えた。新しいお気に入りを自分の側近くに置いておきたい王妃は、すぐさまポリニャック一族の抱える借金を清算して、ポリニャック伯アルマン・ジュール・フランソワに実入りのよい官職(王妃主馬頭の襲職権保有者)を与えた。先天性脊椎後弯症のため容姿に恵まれず生涯独身、内気な性格だった一方、才気煥発で知性に富んだ皮肉屋の義妹ディアーヌもポリニャック夫人ガブリエルも「ポリニャック伯爵夫人(comtesse de Polignac)」だったため、ガブリエルが公爵夫人となる西暦1780年まで、人々は前者を「ディアーヌ伯爵夫人(comtesse Diane)」、後者を「ジュール伯爵夫人(comtesse Jules)」と呼んで区別した。ポリニャック伯爵夫人は王妃のアパルトマンの近くの快適な部屋を与えられた。彼女はさらに王妃と仲の良い王弟アルトワ伯シャルル・フィリップ(後のシャルル10世)と友人になり、他ならぬ国王ルイ16世が、有力門閥間の権力闘争とは無縁の新しい妻の友人の出現に安心し、王妃がポリニャック伯爵夫人と友情を育むことに賛成してくれた。しかしポリニャック伯爵夫人の登場は、国王夫妻の他の側近たちからは反感を持たれた。カリスマと圧倒的な美貌を備えたポリニャック伯爵夫人は、瞬く間に王妃の極内輪の取り巻きサークル「プチ・キャビネ(petit cabinets)」の最有力者となり、彼女の同意がなければ「プチ・キャビネ」の仲間入りをすることはほぼ不可能となった。ポリニャック伯爵夫人は多くの友人たちから、「洗練されており、立ち居振る舞いが優雅で、愛嬌があって、楽しませてくれる人」という評判を得ていた。
王妃マリー・アントワネットの恐ろしいほどの気前の良さよ依怙贔屓を笠に着たポリニャック家の一族の富貴と贅沢、そして宮廷を牛耳るかのような傲慢さは、多くの貴族家門の怨嗟の的となり、さらにポリニャック家に対する王妃の寵愛は、一部の平民(特にパリ市民)や自由主義を信奉する貴族たちが王妃を憎悪し、誹謗中傷を始める原因の1つとなった。
西暦1780年、腹違いの弟妹に有利な条件の結婚をさせた上、07月11日に12歳の長女アグラエ・ルイーズ・フランソワーズ・ガブリエル・ド・ポリニャック(Aglaé Louise Françoise Gabrielle de Polignac)を国内でも指折りの大貴族の1人グラモン公爵の後継者ギーシュ公爵に嫁がせた。この幼い花嫁のために国王が下賜した婚資が80万リーヴルの破格の巨額であったこと(通常、宮廷貴族の婚礼時に国王が花嫁に下賜する婚資は6000リーヴルが相場)、そして花婿に国王が下賜した地所に70万ドゥカート相当の価値があったことで、宮廷の人々の驚きと怒りを呼び起こした。さらに05月14日に次男ジュール・オーギュスト・アルマン・マリー・ド・ポリニャック(Jules Auguste Armand Marie, prince de Polignac)を無事出産したことに対する王室からの祝いとして、09月20日に夫がポリニャック公爵に昇叙された。ガブリエルが「公爵夫人」と呼ばれるようになったことは、宮廷人たちのさらなる苛立ちを招いた。
西暦1780年代後半までに、「王妃とポリニャック公爵夫人がレズビアンの恋人関係にある。」という内容を含んだ、何千ものポルノ色の強い中傷パンフレットが出回った。2人が同性愛関係にあるという非難には何の証拠もなかったが、性的な中傷の数々は絶対王政の権威に測り知れないほどの深刻な痛手を与え、特にブルジョワ(仏語: bourgeois)階層と都市部の労働者階級に2人の同性愛が事実と思い込ませた。
ポリニャック夫人が王妃の寵愛を得て以降、夫ポリニャック公アルマン・ジュール・フランソワの大叔父にあたるメルシオール・ド・ポリニャック枢機卿の失脚後長く権力から遠ざかっていたポリニャック家は、再び宮廷で重きをなすことができた。一方、実家のポラストロン家とその親類縁者も、ガブリエルのおかげで宮廷で華やぐことになった。父のポラストロン伯ジャン・フランソワ・ガブリエルはベルン駐在大使に取り立てられ、後に恐怖政治下でギロチンの犠牲となった。腹違いの弟妹も次々に条件の良い結婚をした。
ポリニャック夫人の母親代わりだった伯母アンドロー伯爵夫人マリー・アンリエットは、若い頃にルイ15世最愛王の四女マリー・アデライードの養育係女官をしていたが、当時14歳の王女にポルノ小説を読ませたことを王女の兄ルイ・フェルディナン王太子に見咎められて宮中を追われた過去があった。ポリニャック夫人は伯母を宮廷に呼び戻し、伯母が政府から年額6000リーヴルの年金を受け取れるよう取り図らった。アンドロー伯爵夫人マリー・アンリエットの娘と息子、義理の娘も宮廷に迎えられ、王妃の取り巻きに名を連ねた。
ゲメネ夫人(Madame de Guéméné、ヴィクトワール・アルマンド・ジョゼフ・ド・ロアン(Victoire-Armande-Josèphe de Rohan))は放蕩者として悪名高いスービーズ公シャルル・ド・ロアンとその2番目の妻でカリニャーノ公ヴィットーリオ・アメデーオの娘であるアンヌ・テレーズ・ド・サヴォワ・カリニャンの間の唯一の子として生まれた。異母姉シャルロット・ゴドフリード・エリザベート・ド・ロアンが血統親王(プランス・デュ・サン)の1人、ブルボン・コンデ公ルイ5世ジョゼフに嫁ぎ、フランス王族の列に連なり、又従弟のゲメネ公ロアンアンリ・ルイ・マリー(Henri-Louis-Marie de Rohan, prince de Guéméné)と結婚。国王ルイ16世夫妻の寵愛が深く、王妃マリー・アントワネットの推薦により、母方叔父のブイヨン公ゴドフロワが王室侍従長を辞任すると、その役職は彼の息子でなく甥のゲメネ公に与えられた。妻のゲメネ公妃も義理の叔母マルサン夫人から王家のガヴァネスの役職を引き継いだ。ランバル公妃とともに王妃マリー・アントワネットに影響力を持った最初期の寵臣であった。ゲメネ夫人は幼い王妃に贅沢な浪費や賭博の習慣を教えたことで悪評を買った。ゲメネ夫人の父アンヌ・テレーズ・ド・サヴォワ・カリニャンは、ランバル公妃マリー・ルイーズの父4代サヴォイア・カリニャーノ公ルイージ・ヴィットーリオの姉で、ゲメネ夫人とランバル公妃は従姉妹同士であったが、2人を中心とする両派閥は王妃から利益を引き出す上で対立関係にあった。
西暦1782年、王家のガヴァネス(王家養育係主任女官)だったゲメネ夫人と夫ゲメネ公ロアンアンリ・ルイ・マリー(Henri-Louis-Marie de Rohan, prince de Guéméné)は、詐欺的な商法を扱う公証人マルシャンの助言で始めた年金事業の利息が支払い不可能になり、3300万リーヴルという莫大な債務を負ったまま破産し(ロアンーゲメネ破産事件)ゲメネ公夫妻は宮廷の役職を退き、ヴェルサイユを去った。王妃マリー・アントワネットはゲメネ夫人の後任にポリニャック夫人を任命した。この人事は、(次代の王を育てる)その役職の重要さを考えると「ポリニャック家のような平凡な家柄の者が務めるのは分不相応だ。」ということで、またもや宮廷人の反感を買った。新たに得た地位に付帯する特権により、ポリニャック公爵夫人はヴェルサイユ宮殿内に13の部屋から成るアパルトマンを与えられた。この特権自体は宮廷儀礼の範疇に収まる措置であったものの、王家のガヴァネスに割り当てられるアパルトマンの部屋数は通常4部屋から5部屋ほどで13という部屋数の多さは常に人口過密のヴェルサイユ宮殿にあっては前例のないことだった。ポリニャック夫人はまた、西暦1780年代に小トリアノン宮殿の敷地内に造営された王妃の田園風の隠遁所「王妃の村里」の中にコテージを与えられた。
ポリニャック夫人は長年、夫の遠縁で近衛部隊所属の陸軍大尉だったヴォドゥロイユ伯ジョゼフ・イヤサント・フランソワ・ド・ポール・ド・リゴー(Joseph Hyacinthe François de Paule de Rigaud, Comte de Vaudreuil)と愛人関係にあると見られていた。ヴォドゥロイユ伯ジョゼフ・イヤサント・フランソワ・ド・ポール・ド・リゴーはカリブ海のイスパニョーラ島のサン・ドマングで、島のフランス総督ジョゼフ・ド・リゴー侯爵とその貴族の白人クレオールの妻フランソワーズ・ギオ・ド・ラ・ミランドの息子として生まれた。一方で、ポリニャック夫人が仲間入りした世界では、「ヴォドゥロイユ伯は暴力的すぎ、礼儀を弁えなさ過ぎるため、2人の交際は相応しくない。」と周囲からは思われていた。ポリニャック夫人がヴェルサイユ宮廷に来てから産んだ下の息子たちは、実父はヴォドゥロイユ伯だと噂されていた。ポリニャック夫人の本質があまりにも本質的に冷淡で、階級意識があり(ヴォードルイユのクレオール系の祖先を考えると)、あるいは不倫とは縁遠かったとも思われる。
次男のノルマンディー公ルイ・シャルル (後のルイ17世)を出産した西暦1785年頃から、ヴォドゥロイユ伯が無礼で苛立たしい人物だと気づいた王妃マリー・アントワネットは彼に対する嫌悪感を募らせ、ヴォドゥロイユ伯を軽蔑し、侍女頭カンパン夫人(ジャンヌ・ルイーズ・アンリエット・カンパン(Jeanne-Louise-Henriette Campan))を含む何人かの女官にヴォドゥロイユ伯の不満を訴えた。カンパン夫人は、ボードルイユが玉突きの試合に負けて激怒して象牙のビリヤードのキューを壊した時のときの王妃の激怒を思い出した。 ヴォードルイユ伯は宮廷で年間3万リーブルの王室鷹匠以上の地位を獲得することはなかった。それにつれてポリニャック夫人の王妃に対する影響力は衰えていった。
王妃の侍女頭カンパン夫人によれば、王妃はポリニャック一族に対して自分が感じる「強い不満感にお苦しみ遊ばされた。」、「王后陛下は、『君主が自分の宮廷で寵臣を作るということは、君主自身に対抗するもう一人の専制君主をつくるということなのね。』と私に仰せになった。」王妃に煙たがられていると感じたポリニャック公爵夫人は、イングランドの友人たち、特に親友の1人でロンドン上流社交界の指導者的存在だったデヴォンシャー公爵夫人を訪ねにイングランドへ旅立った。同国滞在中、ポリニャック公爵夫人はひ弱な体質のために「ちっちゃなポー(Little Po)」という呼び名で知られた。
ゲメネ公夫妻は持ち家であるパリ・ヴォージュ広場の本邸オテル・ド・ロアン・ゲムネやモントルイユの別邸を含む資産の大部分を売却した。モントルイユの屋敷と所領はルイ16世の好意で王室買い上げとなり、その後、王妹マダム・エリザベートに譲渡された。ロアン一族は強い結束力を示し、ゲメネ公夫妻の作った借金を必死になって返済しようとし。しかしゲメネ公夫妻の転落はロアン家の宮廷における勢力凋落を意味し、このためゲメネ公の父方叔父ルイ・ド・ロアン枢機卿は国王夫妻の寵を得ようと必死になり、結果としてルイ・ド・ロアン枢機卿を巻き込んだ首飾り事件の発生に影響した。
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マリー・アントワネットと発言として、フランス革命前に民衆が貧困と食糧難に陥った際、「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない。」が誤って紹介されることがある。ルイ16世の叔母のマリー・ルイーズ・テレーズ・ヴィクトワール王女の発言とされることもある。原文は、「Qu'ils mangent de la brioche.」、直訳すると「彼らはブリオッシュを食べるように。」となる。ブリオッシュは現代ではパンの一種の扱いであるが、かつては原料は小麦粉・塩・水・イーストだけのパン(フランスパン)でなく、バターと卵を使うことからお菓子の一種の扱いをされていたもの。
これは明確にマリー・アントワネットの言葉ではないことが判明している。

マリー・アントワネットの衣裳部屋 - 理奈, 内村
地味な人物である夫のルイ16世を見下しているところもあったがこれは彼女だけではなく大勢の貴族達の間にもそのような傾向は見られたらしい。一方、彼女は大貴族たちを無視し、彼女の寵に加われなかった貴族たちは、彼女とその寵臣をこぞって非難した。一方、彼女は大貴族たちを無視し、彼女の寵に加われなかった貴族たちは、彼女とその寵臣をこぞって非難した。彼らは宮廷を去ったルイ15世最愛王と王妃マリー・レクザンスカの四女マリー・アデライードや宮廷を追われたデュ・バリー夫人の居城にしばしば集まっていた。ヴェルサイユ以外の場所、特にパリではマリー・アントワネットへの中傷が酷かった。マリー・アントワネットとハンス・アクセル・フォン・フェルセン伯との浮き名が、宮廷ではもっぱらの噂となったり、多くは流言飛語の類だったが、結果的にこれらの中傷がパリの民衆の憎悪を搔き立てることとなった。西暦1785年にはマリー・アントワネットの名を騙った詐欺師集団による、ブルボン王朝末期を象徴する首飾り事件が発生した。
西暦1775年04月、各地で食糧危機に対する暴動(小麦粉戦争)が起き、05月02日、ヴェルサイユ宮殿にも8千人の群集が押し寄せた。この際、国王はバルコニーに姿を現し、民衆の不満に応えた。西暦1777年04月、子供が生まれず性生活を疑ったマリア・テレジアより、西暦1777年04月、マリー・アントワネットの長兄ヨーゼフ2世が、新婚生活を送っていたラ・ミュエット宮殿(現在のパリ16区ラ・ミュエット地区)の新婚夫妻の元に遣わされ、夫妻それぞれの相談に応じ、ルイ16世は先天的性不能の治療を受けた。また、若くして結婚したため子作りの方法を知らなかった国王・王妃は、義兄・ヨーゼフ2世より子作りの仕儀を授けられた。
その甲斐あって結婚7年目の西暦1778年に夫妻の結婚から7年目にしてようやく待望の子供の長女マリー・テレーズ・シャルロット(Marie Thérèse Charlotte)が誕生し た。名前は祖母「女帝」マリア・テレジアの名に因む。幼少期はブルボン家とハプスブルク家の血を引くことに誇りを持ち、自尊心が高く、少しこまっしゃくれた性格であった。9歳の頃、ヴェルモン神父から「母が落馬したが無事だった。」という話を聞かされたマリー・テレーズは「もし母が死んだら何をしても自由だったのに。」と答え、神父を唖然とさせた。 その一方で、養育係が誤って彼女の足を踏みつけてしまい怪我をした日の晩、足の傷に気づいた養育係がなぜ負傷したことを訴えなかったかを問うと「あなたが私に怪我をさせて私が痛がっているとき、自分が原因だと知ったらあなたの方が傷ついたでしょう。」と答えた。マリー・テレーズはまだ幼い頃から、自分の体重と同じぐらいの重さのパニエを身に着け、公式行事や社交の場に顔を出していたため、幼い頃から母の悪口を耳にしていた。西暦1789年05月05日の三部会では、両親に恥をかかせたオルレアン公ルイ・フィリップ2世ジョゼフや民衆を憎んだ。それでもフランス革命以前は、人々からフランス国王の第1女子嫡子の称号マダム・ロワイヤル(Madame Royale)と呼ばれ、愛された。革命下の少女時代ルイ16世の弟シャルル10世の長男であるルイ・アントワーヌ王太子の妃となった。ルイ16世とマリー・アントワネットの子女の中で唯一天寿を全うした。
西暦1781年に国王夫妻の間に生まれた待望の長男ルイ・ジョゼフ・ド・フランス(Louis-Joseph Xavier François de France)は、長らく王位継承者筆頭であった王弟プロヴァンス伯(のちのルイ18世)ら数人の野望を砕く結果となった。パリ市は王太子(ドーファン)誕生を祝して、音楽時計や新生児用品一式を国王夫妻へ贈った。ルイ・ジョゼフ王太子には数名の乳母が付けられた。しかし、病弱に生まれたルイ・ジョゼフは、乳母の1人ジュヌヴィエーヴ・ポワトリンヌから結核を移されてしまった。ルイ・ジョゼフは姉のマリー・テレーズとともに両親の側で育てられた。「幼い王子は驚くほどの賢い子供であった。」という。国王夫妻は王子の教育を非常に考えていたが、ルイ・ジョゼフの健康については楽観していた。西暦1784年04月より、ルイ・ジョゼフは高熱を出した。ラ・ミュエットで治療を受け、ただちに王子は恢復した。西暦1785年03月、ルイ・ジョゼフは種痘を受けた。深刻な症状は出なかったものの、彼の健康は損なわれた。西暦1786年04月、ルイ・ジョゼフは再び高熱を出した。王子の発熱に随行員は動揺したが、これが結核の初期症状だった。王子の背骨が曲がるようになって結核であることが判明した。同年の10月から歩行が困難になり、鉄製のコルセットを装着するようになった。西暦1788年01月から熱で体力を消耗し始め、病状が急速に進行した。脊椎カリエスで王子の寿命が長くないことがマリー・アントワネットに知らされた。三部会会期中の1789年06月04日、わずか7歳半でルイ・ジョゼフ王太子はムードンで死去した。
西暦1785年に次男ノルマンディー公ルイ・シャルル(後のルイ17世)が誕生し、兄ルイ・ジョゼフの死により王太子(ドーファン)となった(西暦1791年09月からはプランス・ロワイヤル)。08月10日事件以後、国王一家と共にタンプル塔に幽閉されていたが、父ルイ16世の処刑により、王党派は名目上のフランス国王に即位したものと看做した。しかし解放されることなく2年後に病死した。
西暦1786年次女マリー・ソフィー・エレーヌ・ベアトリクス・ド・フランス(Marie Sophie Hélène Béatrix de France)が誕生した。マリー・ソフィー・エレーヌ・ベアトリクスは末子でもあり、姉のマリー・テレーズ・シャルロットや、兄のルイ・ジョゼフ王太子のように、盛大に生誕を祝われなかった。 その頃のフランス王国は、民衆の怒りが王室一家に集中していたため、民衆には関心を持たれず、宮殿の人々たちもそれどころではなかった。結核により、10ヶ月21日で夭折した。マリー・アントワネットとルイ16世の間に産まれた子女の中では、最も短命であった。
ルイ14世太陽王、ルイ15世最愛王の積極財政(主に対外戦争費による負債)の結果を受け継いだため、即位直後から慢性的な財政難に悩まされ続けた。それにも拘わらず、積年の敵性国だったイギリス王国(グレートブリテン王国(西暦1707〜1801年))の勢力拡大に対抗してアメリカ独立戦争(西暦1775〜1783年)に関わり、ヨーロッパひいては世界におけるフランス王国の仇敵であるイギリス王国を弱体化させる機会として捉え、アメリカ合衆国(西暦1776年〜)を支援した。
ルイ16世は外交政策担当官にヴェルジェンヌ伯シャルル・グラヴィエを指名した。ヴェルジェンヌ伯シャルル・グラヴィエには、七年戦争の後はイギリスに報復したいという想いがあり、この想いは前任者のショワズール公エティエンヌ・フランソワと共通していた。ヴェルジェンヌ伯シャルル・グラヴィエはヨーロッパでは慎重な政策を主導し、東のプロイセン王国やオーストリア大公国との平衡状態を保っていた。特にバイエルン継承戦争(西暦1778〜1779年)では参戦しなかった。ヴェルジェンヌ伯シャルル・グラヴィエはフランス海軍の戦力をイギリス海軍に見合うものにし、アメリカでの緊張事態を見守っていた。
西暦1756年にルイ15世最愛王が結んだフランスーオーストリア同盟が、西暦1770年のルイ16世とオーストリアのマリー・アントワネットとの婚儀で再確認された。一方、スペイン王国(西暦1479年〜)ボルボン朝(スペイン・ブルボン朝(西暦1700〜))との同君連合によって大陸ヨーロッパの支配構造が出来上がっていた。ルイ16世とマリー・アントワネットの結婚は、長く続いたブルボン朝とハプスブルク朝との敵対関係を、表面上だけでも終焉していた。
フランス王国は西暦1763年のパリ条約以来復讐を夢見ていた。これをスコットランドから追放されたジャコバイトが植民地に渡って大いに支持していた。条約の中身は負けた側の立場から見れば穏やかなものであった。フランス王国は実入りが良い領土の大半、例えば砂糖を生産するカリブ海のイスパニョーラ島のサン・ドマングの領有を続けていた。フランスースペインーオーストリアの同盟軍がイギリス海軍を敗ったとしても、その戦費は莫大なものになり、各国はできるだけ速く終息することを求めることになった。それ故にパリ条約は締結されたが、フランス王国にとっては「イギリス王国に復讐し、決着の付いていない戦争をはっきりと終わらせたい。」という強い願望が残った。
ショワズール公エティエンヌ・フランソワは西暦1763年以前から、「攻撃速度、艦船の数、および敵国の商船を襲う戦略がより重要になる。」という新しい戦争の形を予測し、海軍の近代化を始めていた。フランスは快速で操作性の良い小さな艦船を増やして、その艦隊を海賊化していた。さらに装備を近代化し、およそ30万人にまで増強した軍隊に訓練を施した。ルイ16世はこの近代化の達成に相当量の資金を注ぎ込んだ。艦隊は西暦1762年の規模を最小として、その後軍艦を67隻、フリゲートを37隻増強した。
七年戦争の後、イギリス王国はその経済事情から植民地における交易をより厳密に支配する方向に進んでいた。税率が上げられ、交易は排他的になり、イギリス駐留軍を維持するために特別の課税を植民地に求めた。植民地人は「代表なくして課税なし。」という法を楯に抗ったが、税金は押しつけられ一連の摩擦を呼び、良く知られた事件は西暦1773年のボストン茶会事件である。イギリス政府が苦況に喘ぐ東インド会社を救うためにアメリカ植民地における紅茶販売の独占化を図ったが、植民地人はこれを拒み、ボストン港に停泊する船から相当量の紅茶を海に投げ捨てた。イギリスが報復のためにボストン港を封鎖したので、ボストン市民の見方が急速に硬化した。植民地人による第1次大陸会議が開催され、武装民兵組織や新しい行政府が作られた。西暦1776年07月04日、アメリカ合衆国は植民地の連合とイギリスからの独立を宣言したが、まださらにその力を強化していく必要があった。
強力なイギリス軍に対して、13植民地は武器も頼る友邦も無かったので、自然とフランス王国に顔を向けた。ベンジャミン・フランクリンとの交渉により、フランス王国は紛争そのものには関心を持っていなかったが、叛乱軍に関与を始め、西暦1778年02月からは開戦に踏み切った。この時はまだイギリス海軍にフランス1国で対抗しなければならなかった。13植民地の独立宣言に続いて、アメリカの叛乱はフランスの民衆にも特権階級にも好意的に受け入れられた。革命はイギリスの専制に対する啓蒙思想の具現化として認識された。西暦1776年12月にベンジャミン・フランクリン(Benjamin Franklin)がフランスに派遣されその支持を訴えると、民衆に熱狂をもって迎え入れられ、多くのフランス人はアメリカの叛乱を支援するために立ち上がり、自由と近代化の理想に燃えたピエール・シャルル・ランファン(Pierre Charles L'Enfant)やラファイエット侯マリー・ジョセフ・ポール・イヴ・ロシュ・ジルベール・デュ・モティエMarie-Joseph Paul Yves Roch Gilbert Du Motier, Marquis De La Fayette)のような者達が西暦1776年に志願兵となった。
フランス政府の反応はやや冷ややかであった。ルイ16世は植民地を救援したかったが、財政状態の故にボーマルシェ(Beaumarchais)ことピエール・オーギュスタン・カロン(Pierre-Augustin Caron)を通じて隠密の援助をするに留まった。ヴェルジェンヌ伯シャルル・グラヴィエはフランス王国の参戦に賛成であり、商業的および外交的な利益の可能性も示唆していた。この状況はフランス王国の分析によるものであり、同盟国(スペイン王国とオーストリア大公国)には少なくとも中立の保証を求めていた。外交、財政、軍事および経済を担当する指導者層はむしろ懐疑的であった。フランス海軍はまだ十分ではなくそのような戦争に対する備えはできていなかった。経済の状態は不況のままであり、国家の財政は赤字状態を宣告されていた。外交畑の者はヴェルジェンヌ伯シャルル・グラヴィエやルイ16世ほど熱心ではなく、フランス王国がこの問題ではヨーロッパの中で特殊であり孤立していることを強調していた。当時の平和と経済的な繁栄の上に立って、復讐の念と自由の理想を小さくさせていた。
西暦1776年に始まった秘密の武器販売によって、フランス王国は私的に戦争に関与し始めた。ルイ16世とヴェルジェンヌ伯シャルル・グラヴィエが隠密にボーマルシェに会い、ポルトガル王国(西暦1139〜1910年)ブラガンサ朝(西暦1640〜1910年)の会社「ロドリク・ホルタレス・エ・コンパニー」という隠れ蓑を使って百万ポンド近い武器弾薬を売る許可を与えた。フランス王国の援助はジョージ・ワシントン(George Washington)将軍がイギリスの猛攻撃に耐える要因となった。フランス王国が誂えたアメリカのフリゲートはイギリス王国の商船に対する海賊行為を行って、寄金にしろ貸金にしろ経済的な援助の役割を果たし、軍事戦略家の「休暇」を利用してアメリカの軍隊支援を認めるような技術的支援もあった。
アメリカの「叛乱軍」によって指名されたアメリカ初の外交官サイラス・ディーン(Silas Deane)はイギリス王国に敵対心を抱くフランス人に助けられ、非公式の援助を勝ち取った。しかし、目標はフランス王国の全面的な参戦であった。ベンジャミン・フランクリン、サイラス・ディーンおよびアーサー・リーによる代表団がヨーロッパ各国の関与を求めるロビー活動を行った。代表団は「13植民地とフランス王国、スペイン王国の同盟によってイギリス王国を早期に打ち破ることができる。」と主張したが、ヴェルジェンヌ伯シャルル・グラヴィエは個人的な願望にも拘わらず、この提案を拒否した。ベンジャミン・フランクリンは「フランス王国がヌーベルフランスを要求できる。」と訴えた。西暦1777年07月23日、ヴェルジェンヌ伯シャルル・グラヴィエは植民地を全面的に支援するかその考えを捨てるかの議論を要求した。
西暦1777年の終わりに国際関係が緊張していたとき、オーストリア大公国がプロイセン王国に対するバイエルン継承戦争でフランスの支援を求めてきたが、フランス王国は拒否し、オーストリア大公国との関係は気まずいものになった。この状況ではフランス王国がイギリス王国に対する戦争でオーストリア大公国に支援を求めることは不可能になった。スペイン王国に対する働きかけも失敗に終わった。スペイン王国にとっては得るものがなく、革命精神の広がりがラテンアメリカの植民地でのスペイン王室の正当性に対する脅威となりつつあったからである。
イギリス軍はフィラデルフィアを抑えていたが、西暦 1777年のサラトガの戦いにおける大陸軍の勝利はフランスの愛国者や熱狂的支持者に希望を取り戻させた。イギリス軍のバーゴイン将軍の軍隊が敗れ、フランス王国は13植民地が勝つかもしれないと想うようになり、植民地に対する表だった援助を行うことを決めた。同盟国のスペイン王国はなお懐疑的であった。ヴェルジェンヌ伯シャルル・グラヴィエとルイ16世は、「アメリカの代表団、フベンジャミン・ランクリン、サイラス・ディーンおよびアーサー・リーを通じてアメリカとの同盟に対する関心が上がってくる。」という仮定に立っていた。イギリス王国とフランス王国の間の同盟は西暦1763年に無理矢理押しつけられたものであり、外交危機に突入した。参戦世論は評判が上がりつつあったラファイエットのような人気のある支持者からの恩恵を得ていた。さらに復讐の念が表に出てきた。
西暦1778年02月06日、ヴェルジェンヌ伯シャルル・グラヴィエとルイ16世はベンジャミン・フランクリンと友好条約に調印し、13植民地と正式に同盟を結ぶことを決めた。フランス王国は13植民地が自立した状態にあることを認識し、双方とも勝手に休戦しないこと、および植民地はアメリカにおけるフランスの権益を守ることで合意した。戦闘はバハマ諸島などと共にカリブ諸島(西インド諸島)を構成するアンティル諸島で開始された。フランス王国が参戦すると、イギリス王国はフランス艦隊を自国の海域に止めておくよう画策した。イギリス海峡におけるウェサン島の海戦は決着が着かなかった。2つの艦隊は結果的に引き上げた。イングランドに4万人の部隊を上陸させる作戦が練られたが、兵站の問題で捨てられた。ヨーロッパ大陸では、オーストリアとの同盟で守られており、アメリカ独立戦争に参戦しなかったとしても、外交的な支持は得られていた。ヨーロッパの他の国は武装中立同盟をつくり、参戦を拒んでいた。フランス王国が単独でイギリス艦隊に対抗するのを見て、西暦1780年にオランダ(ネーデルラント連邦共和国(西暦1581〜1795年))がフランス王国側に付くことを決めた。スペイン王国は西暦1779年に支持を表明していた。イギリス王国は困難な立場に立たされた。
フランス王国の介入は当然ながら海上で始まり、決着の着かないことが多かったが、西暦1780年にロシャンボー伯ジャン・バティスト・ドナティエン・ド・ヴィムール(Jean-Baptiste Donatien de Vimeur, comte de Rochambeau)が6000人の将兵を連れてアメリカに渡ったことで状況が変化した。6000人のフランス軍は既にサヴァンナの戦いで3000人のイギリス軍と対峙していたが、フランス軍の攻撃が功を焦り準備もできていなかったので結果的に失敗した。西暦1781年のチェサピーク湾の海戦では、イギリス艦隊の一部を逃避させ残りを破壊したので、初代コーンウォリス侯チャールズ・コーンウォリス(Charles Cornwallis, 1st Marquess Cornwallis KG, PC)をヴァージニア州ヨークタウンで包囲することになった。コーンウォリスは約束されたイギリス軍の援兵を当てもなく待たされていた。チャールズ・コーンウォリスは陸では大陸軍とフランス軍に、海上はフランス艦隊に抑えられた。同盟フランス軍は10月17日のヨークタウンでパトリオット(愛国派)が決定的な勝利を得るために重要な役割を演じた。もしド・グラス提督(グラス・ティリー侯およびグラス伯フランソワ・ジョゼフ・ポール(François Joseph Paul, marquis de Grasse Tilly, comte de Grasse))のフランス艦隊がいなかったら、この勝利はなかった。無益な抵抗の後に、チャールズ・コーンウォリスは10月19日に正式に降伏した。主要な戦闘は終わり、その後は小競り合いに終始した。しかし、イギリス王国が正式に休戦するのは西暦1783年のことだった。
フランス王国とイギリス王国の艦隊の激突は地球規模に広がった。アンティル諸島では、イギリス王国とフランス王国が交互にその支配を行い、西暦1782年のセインツの海戦でイギリス王国が支配することになった。スペイン王国とフランス王国の連合艦隊がイギリス艦隊を破り、地中海西部のバレアレス海にあるバレアレス諸島のメノルカ島を西暦1782年02月に抑えた(メノルカ島侵攻)。インドではフランス王国と同盟したマイソール王国(西暦1399〜1947年)がイギリスの支配を打ち破った。フランス王国は西暦1783年にサンピエール島およびミクロン島(Saint-Pierre-et-Miquelon)をイギリス王国から奪取した。しかし、フランス王国とスペイン王国が共同で行ったジブラルタル包囲戦は失敗し、ジブラルタル半島はイギリス王国の支配に残った。
ヨークタウンの包囲戦が始まってから、大陸軍のベンジャミン・リンカーン(Benjamin Lincoln)将軍はイギリス軍との秘密の交渉についてフランス軍に教えたことがなかった。交渉は直接ロンドンとワシントンの間で進められた。イギリス王国は13植民地に対する支配を諦め、五大湖から南とミシシッピー川から東の領土の領有を認めた。しかし、フランス王国は、アメリカ合衆国とイギリス王国の間の和平交渉に加わらなかったので、フランス王国とアメリカ合衆国の間の同盟関係が崩れた。このためにその後の和平協定の交渉でフランス王国とスペイン王国の影響力が薄れた。西暦1783年パリ条約の批准。イギリス代表は絵に描かれることを拒んだ。西暦1783年09月、パリ条約で条件付き勝利が宣言された。フランス王国はアメリカ、アフリカおよびインドにおける領地を回復した。西暦1763年パリ条約と西暦1713年ユトレヒト条約で失った領土のうち、トバゴ島、セントルシア、セネガル川領域、ダンケルクを回復し、テラ・ノヴァの漁業権が増加した。スペイン王国はフロリダとメノルカ島を回復したが、ジブラルタルはイギリス王国の手に残った。アメリカ合衆国内にあったフランス王国の元の領土(ヌーベルフランス)を取り返せるという望みも叶わなかった。
フランス王国の近代戦力としての位置付けが確認され、復讐の思いも満足され、イギリス王国から新大陸の利権の大部分を奪い去ることには成功し、特に海軍力の整備には力を入れ、シェルブールに軍港を建設し、イギリス海軍を圧倒する活躍を成し遂げてフランス海軍の威信を高めることには成功した。しかし、財政はさらに困窮を極めた。戦争は国の財政には有害であった。フランスの都市は直接の破壊を免れたが、西暦1781年のヨークタウン包囲戦などフランス王国の戦争への介入は遠距離でかつ海軍を使ったものになり、10億リーブル以上の戦費が使われた。これが脆弱だった財政をさらに悪化させ、赤字が増えた。さらに悪いことに、新興のアメリカ合衆国が貿易上の一番の相手国となるという目論見が実現しなかった。イギリス王国がアメリカ合衆国を主要貿易国としてしまった。戦前のイギリス王国とアメリカ合衆国の交易形態がほとんどそのまま残り、アメリカ合衆国の交易は大英帝国の範囲内に留まっていた。イギリス王国は、アメリカを独立させた方が利が多いと踏み、フランス王国とスペイン王国を聾桟敷に置き、アメリカ独立戦争を終結させた。
フランス王国の国家財政は悲惨な状態となり、一方でジャック・ネッケル(Jacques Necker)が税率を上げずに負債を払うために借金を重ねたため、著しく景気も後退していた。国家財政担当官のシャルル・アレクサンドル・ド・カロンヌ(Charles Alexandre de Calonne)は、赤字の解消のために貴族や聖職者の財産に税金を掛けることを試みたが、解職され追放されるという憂き目にあった。 フランス王国の財政を健全化するために必要な改革は、政情不安のゆえに弱められた。戦争中の貿易は著しく減っていたが、西暦1783年には回復していた。 戦争はフランス王国の権威と誇りにとって極めて重要であり、ヨーロッパの主導者としての役割を復権させた。しかし、フランス王国は多額の軍事費を使ったにも拘わらず、アメリカの主要貿易相手国とはならなかった。フランスの軍隊は遠距離遠征を行い10億リーブル以上を使ったために、フランスの負債33億1500万リーブルに追加されることになった。
フランス王国の参戦のもう1つの成果は、啓蒙主義の誇りを新たに得た。これは西暦1776年アメリカ独立宣言、西暦1783年アメリカの勝利、さらに西暦1787年アメリカ合衆国憲法の公布で印象づけられ、自由主義の特権階級は満足した。独立戦争にフランスが参戦したということの認識は、主にロシャンボー伯ジャン・バティスト・ドナティエン・ド・ヴィムールやラファイエット侯マリー・ジョセフ・ポール・イヴ・ロシュ・ジルベール・デュ・モティエのような軍人の英雄を称えることで示された。
しかし、他にも大きな影響があった。ヨーロッパの保守主義が神経質になり、貴族階級はその地位の保全のために対策を打ち始めた。西暦1781年05月22日のセギュール条例では、軍隊の上級士官に一般人が昇進することを制限し、貴族のために留保した。ブルジョワジーの挫折が始まった。
フランスの王国国体としての脆弱化と、絶対王政に対する実現可能な代替体制の見通しができてきたこと、これらはアメリカ独立戦争がフランス革命に影響した大きな要因である。
アメリカ独立戦争を支援したことから、「アメリカ建国の父たち(Founding Fathers of the United States)」は、恩になったルイ16世に崇敬の念を抱くだけで、フランス革命で窮地に陥った国王一族を助ける動きを起こさず見殺しにした。
悪逆非道なディープステイトとは、猶太だけでない。ヨーロッパの王族やロックフェラー、産業・食糧・資源・医薬・軍事・行政・司法・律法・教育・情報など悪魔の複合体である。その血塗られた政体、鬼畜米国を産み出した。

世界の歴史〈21〉アメリカとフランスの革命 (中公文庫) - 武士, 五十嵐, 憲彦, 福井
詐話「アメリカ建国神話」の真実
北アメリカ大陸において、イギリスによる本格的な植民が始まったのは、西暦16世紀末である。ウォルター・ローリー卿(Sir Walter Raleigh)により、西暦1585年と西暦1587年にロアノーク島への植民の試みがなされ、ウォルター・ローリー卿はアメリカ植民地を建設する計画を宣言し、ステュアート朝(西暦1371〜1714年)エリザベス1世から土地を与えられた。彼はその土地を、未婚の女王エリザベス1世に因み、「ヴァージニア」と命名した。だがロアノーク島に送り込まれた入植隊はどちらも放棄されるか開拓者が死亡するかした。アメリカ大陸で出生した最初のイングランド系白人女児ヴァージニア・デア(Virginia Dare)を含む115人の西暦1587年の入植者、折からの英西戦争のためにイングランドからの補給がないまま3年が経過した後に全員姿を消していることが確認された。 西暦1602年、行方不明となった植民者を求めて探検隊が派遣されたが、ただの1人も発見することはできなかった。ウォルター・ローリー卿の失敗により、イギリス国内には植民事業に対する投資を警戒する風潮が広まった。
西暦1606年、トマス・スミスを中心とするロンドン商人は北アメリカ大陸への植民を目指した。イングランド国王ジェームズ1世は植民事業のための会社設立に勅許状を与え、トマス・スミスらはジョイント・ストック・カンパニーであるロンドン会社を設立した。間もなくロンドン会社はヴァージニア会社と名を改め、出資者を募った。そして同年12月、最初の植民者105人を北アメリカ大陸に送った。 渡航者104名(1名は死亡した)を乗せたスーザン・コンスタント号など3隻の船は、翌西暦1607年04月26日、ヘンリー岬に到着した。植民者たちは入植に適した土地を求めポウハタン川(現ジェームズ川)を遡り、05月13日、河口から約48q遡った地点に上陸した。彼らはそこを入植地と定め、国王ジェームズ1世に因んで「ジェームズタウン」と命名した。ジェームズタウン入植地は北アメリカ大陸におけるイギリス白人の最初の永続的植民地となった。この場所はポウハタン川に突き出る半島となっており、先住民(あめインディアン)の襲撃を防ぐには好都合な地形であった。しかしながらこの一帯は、潮水が迫る湿地であり、飲み水にも塩分が含まれ、またマラリアなどの疫病が発生しやすい地形であった。しかも入植者たちは、共同して生活の基盤を固める十分な用意ができていなかった。
ヴァージニア会社の入植者がジェームズタウンに上陸した当時、ヴァージニア植民地南東部のタイドウォーター地域には2万人近くの先住民(アメリカ・インディアン)が居住していた。そこはポウハタン(Powhatan、ポウハタン・レナペ(Powhatan Renape))族のワフンセナカウ(Wahunsenacawh)酋長が治めるポウハタン合議制部族連邦領だった。そしてその中心となっていたのがポウハタン族であり、周囲のアルゴンキン語族系のポウハタン族、アロハットク族、アッポマットク族、パムンキー族、マッタポニ族、チスキアク族の6部族にケコウタン族を、ユータナンド族、ラッパハンノック族、モラウタカンド族、ウェイアノー族、パスパヘー族、ナンセモンド族など30部族と、ポウハタン連邦を築いていた。この連邦には10000〜15000人の民がいたと推定されている。
植民請負人ジョン・スミス(John Smith)らイギリス人侵略者たちは、このポウハタン族の有力な酋長であるワフンセナカウ(ポウハタン酋長)を、「ポウハタン連邦全てを支配する指導者」だと思い込んだ。先住民を利用し、こき使いたがる、評判の詐欺師のジョン・スミスらはポウハタン連邦を「帝国」、ワフンセナカウ(ポウハタン酋長)を「皇帝」と思い込んだまま、これをイギリス王国に報告した。このため、「先住民(アメリカ・インディアン)の酋長は部族長である。」とイギリス人たちは誤解したまま、以後の侵略行為を推し進めることとなった。イギリス人たちはまず「酋長(イギリス人には大指導者に見えている)を屈服させれば全ての部族民はこれに従う。」と考え、酋長に対する懐柔、脅迫、交渉を始めた。しかし先住民(アメリカ・インディアン)の社会は基本的に合議制民主主義であり、酋長とはその合議の中での「調停者」であって、独任制の代表である首長ではない。ポウハタン連邦においても、全ての政治決定は「ロングハウス」という会議場で、「会議の火」を囲んで合議で決定する。「部族長」や「指導者」による上意下達の制度は存在しない。
侵略者は同地に上陸してわずか2週間以内に出くわした先住民(アメリカ・インディアン)に問答無用で銃撃し射殺する凶行で彼らにその存在を知らしめた。
当初、イギリス人入植者たちは友好的な関係を望み、先住民(アメリカ・インディアン)に食べ物を乞い、取引する計画だった。クリストファー・ニューポート(Christopher Newport)船長は西暦1607年にポウハタン川を遡る最初の探検を率い、ポウハタン族のパラハント(Parahunt、タンクス・ポウハタン(小さいポウハタン))酋長と初めて出会った。クリストファー・ニューポートは当初パラハント酋長が「最高位」にあるポウハタン連邦酋長、すなわちワフンスナコック(ポウハタン酋長)だと誤解した。だがそもそも先住民(アメリカ・インディアン)社会には、「最高位」の立場など存在しない。パラハント酋長は調停者として、闖入者との交渉の矢面に立ったのである。このジェームズタウンへのイギリス人上陸をきっかけに、続々と入植イギリス人の侵略が始まり、先住民(アメリカ・インディアン)の土地を蚕食して行ったことで、その後37年間ほとんど絶え間のない紛争に繋がった。クリストファー・ニューポートは存在しない「最高位にある酋長」に儀礼用の王冠を被らせ、先住民(アメリカ・インディアン)の友好を得るために多くのヨーロッパからの贈り物を贈呈した。クリストファー・ニューポートは「ポウハタン族との友好が小さなジェームズタウン入植地の存続に不可欠である。」と判断した。 先住民(アメリカ・インディアン)の酋長を「王」、または「支配者」だとイギリス人はワフンスナコック(ポウハタン酋長)を「ポウハタン連邦の野蛮な皇帝」と呼び、「ワフンスナコックがポウハタン族を支配している。」と勘違いした。このため、イギリス人たちは「ワフンスナコック(ポウハタン酋長)と盟約し、彼を懐柔すればポウハタン連邦の全部族民がこれに従うだろう。」と思い込み、この酋長に「王冠」を被らせ、従属の図式を作ろうとしたのである。しかし、そもそも先住民(アメリカ・インディアン)の社会はイギリスのような「皇帝」が支配するような帝国ではなく、合議制に基づく民主主義社会である。先住民(アメリカ・インディアン)たちから見れば、イギリス人の企んだこの催事は、「白人がやってきて、贈り物と一緒に調停者に冠を被せた」だけに過ぎない。何はともあれ、白人は彼らに贈り物をしたので、先住民(アメリカ・インディアン)たちは白人が和平を結ぶ積りであるということは理解した。入植からわずか半年あまりで、入植者は飢えとマラリアで半分以下に減少した。西暦1608年には38人にまで減少した。
そのような苦境の中にあった入植者を救ったのは、先住民(アメリカ・インディアン)ポウハタン族であった。ポウハタン族は「全てを分け合う。」という先住民(アメリカ・インディアン)の理念に基づき、飢えた白人侵略者たちに食糧や水を与え、彼らを援助した。ワフンセナカウ(ポウハタン酋長)はジョン・スミスと入植者たちにカパホシックと呼ばれる所に住んでもらい、そこで食糧と引き換えに金属製の道具を作ってもらうことを望んでいた。ジェームズタウン砦を建設してからわずか7ヶ月後の12月、ジョン・スミスはポウハタン族の首都オラパケス近郊を偵察していたところ、ワフンセナカウ(ポウハタン酋長)の弟のオペチャンカナウ(Opechancanough)率いる共同狩猟隊に捕らえられた。 ジョン・スミスは「植民地をカパホシックに移転する。」と約束し、西暦1608年の新年に間に合うように釈放された。
ワフンスナコック(ポウハタン酋長)はイギリス人を攻撃せず、「私は平和と戦争の違いをよく知っている。なぜあなたたちは、愛によって静かに得られるものを、力ずくで奪いとろうとするのか? あなたたちに食べ物を提供している我々を、なぜ滅ぼそうとするのか?」、「お前たちの到来は、交易のためなどではない。私の同胞を侵略し、私の国を占領するためだ。私にはもう3度にわたって全ての同胞の死があった。…平和と戦争の違いは、私は他のどの部族よりもよく知っている(彼はポウハタン族とイギリス人との戦争を予期している)。」との申し立てを行なった記録が残っている。
クリストバル・コロンの侵攻以前、南北アメリカには7500万人の先住民が遊牧や農耕で暮らしていた。
植民請負人ジョン・スミスが入植者に対して、全力で開拓に取り掛かるよう説得を試み、西暦1608年の秋にヴァージニア植民地議長となった。初期のジェイムズタウンの入植者らは先住民(アメリカ・インディアン)からトウモロコシの栽培法を学び飢えを凌いだ。ジェイムズタウンの入植者は当初、先住民との友好関係を重視したが、ジョン・スミスが指導者となると、「先住民には強腰でなければ有利な交渉ができない。」との考えから、銃の威力をもって威圧しようとした。指導者ジョン・スミスは入植者に軍事訓練を行い、先住民に食糧供出を迫れるほどに軍事力を整えた。西暦1609年の春までに、地元のパスパヘー族がジェームズタウンの砦の襲撃を再開した。しかし、彼らを恨んでいたウォウィンチョパンクは、捕らえられ逃走した後、不安な休戦を宣言した。 ジョン・スミスは、ジョン・マーティン船長の指揮で軍隊を派遣し、ナンセモンド族の島を占領し、ナンセモンド族を追い出しケコウタン村を建設したが、トウモロコシを買おうとした17人が命令に従わず全滅したため放棄した。 同時に別の部隊をフランシス・ウェストの指揮下120人を派遣して滝の近くに砦を建設し、その後幾らかの銅と引き換えにワフンスナコック(ポウハタン酋長)の息子のパラハント酋長から近くにあるポウハタン族の防御柵で囲まれた集落(現在のリッチモンド市の東端)を「購入した。」イギリス人は先住民から「土地を購入した」積りでいるが、先住民には「土地を売り買いする。」という文化は無いから、彼らはこれを理解していない。侵略者から見れば、「贈り物をしたのだから、ここから出て行ってもう戻ってくるな。」という事である。先住民がこれを納得できるわけがなかった。イギリス人はワフンスナコック(ポウハタン酋長)を「皇帝」だと勘違いしていたから、全ての要求を彼に対して行った。合議制のなかの調停者を「指導者」と思い込んだイギリス人の要求は、先住民には理解不能なものだった。また、先住民の社会は「大いなる神秘(ワカン・タンカ(Wakan Tanka))」の下、森羅万象全てを共有する平等社会であって、土地は誰でも利用できるものであり、誰の物でもなかった。侵略者たちは酋長(部族の代表ではない)に贈り物をして、土地を彼らから譲り受けた積りになっていたが、当然、理解不能な行為を繰り返すイギリス人入植者と、ポウハタン連邦との関係は次第に険悪な状態になった。イギリス人の方は、「部族の実力者である酋長が調印すれば、部族民はこれに従い、土地を明け渡すだろう。」と思い込んでいた。イギリス人が期待した黄金は同地にはなかったので、白人入植者たちは先住民から恵んでもらったトウモロコシなどの穀物を栽培し、食糧の確保に努めた。しかし慣れない地でのトウモロコシ栽培はうまくいかず、ジョン・スミスは飢えた入植民の要求に従い、先住民からの食糧掠奪を始めた。ジョン・スミスは船をあちこちの沿岸に乗り寄せ、地元の先住民の村々を襲い、酋長を人質にとって村人を脅迫し、トウモロコシや食糧を強奪した。ジョン・スミスはパラハント酋長から「買った」積りの集落を「ノンサッチ(無比のもの)」と改名し、フランシス・ウェストの兵士達を定住させようとした。ジェームズタウンの境界を越えて入植地を拡大しようというこれらの企みはどれも、ポウハタン族の抵抗に遭ったために失敗した。
西暦1609年、イギリス本国のヴァージニア会社は会社の運営機構の改革に着手し、新たな勅許状を獲得した。これにより会社の権限が及ぶ地域の境界が広げられ、植民地の経営と当地に関する決定権が明確に会社の評議会に付与された。また会社は移住者を送る資金を確保するために株式を公開し、大きな富がなくても渡航費を自分で支払って渡航するものには、ヴァージニア会社の株主の地位を与えることにした。その資金がないものは、植民地で7年間働く条件で、会社の年季契約奉公人として渡航することができた。植民地では株主も奉公人もともに労働が要求されるが、奉公人の年季が明ける7年後には、奉公人は自由になり、株主は会社が上げた利益の配当と少なくとも100エーカーの土地の配分を受けることが約束されていた。これは地主である先住民たちの全く与かり知らないことである。西暦1609年の改革は、短期的に見ると、政治的にも経済的にも、大きな効果を上げなかった。しかしながらこの改革に含まれる年季契約奉公人や土地配分の考えは、その後の植民地の発展に重要な役割を果たした。この年、ヴァージニア会社は新たな植民者の送り出しに努力し、約400人がジェームズタウンに到着した。だが新たな入植者を迎えた現地では、食糧が不足し、困窮を極めていた。
西暦1609年、対立は戦闘へと発展した。ジョン・スミスはポウハタン族の酋長たちを武力で脅迫し、掠奪と虐殺を繰り返した。ジョン・スミスが行った誘拐、掠奪、殺人、脅迫は、ポウハタン族を始め地元の先住民(アメリカ・インディアン)たちに強い怒りと憎しみを植え付けた。ジョン・スミスはポウハタン族の村の1つを襲い、ワフンスナコックの弟のオペチャンカナウ酋長に拳銃を突きつけ人質とし、「トウモロコシ20tの要求」という村の存続を危うくするほどの脅迫を行った。ジョン・スミスは、その年に爆発事故で負傷し、同年12月にはヴァージニアを離れてイングランドに戻り、2度とヴァージニア植民地に戻ってくることは無かった。その後間もなく2番目のイギリス人による砦、アルジャーノン砦がケコウタン族の領地内オールドポイントコンフォートに作られた。先住民(アメリカ・インディアン)たちは白い兄弟のために食べ物を分け与えているのに、彼らは「食べ物全てをよこせ。」と言ってきたのである。 西暦1609年11月、ジョン・ラトクリフ船長が、ウェロウォコモコから遷都したチカホミニー川水源にある湿地に位置するポウハタン連邦の新首都の村オラパケスに招かれた。ジョン・ラトクリフがそこで交易するためにパムンキー川を遡っていくと、入植白人32人とポウハタン族との間に戦闘が始まった。岸に上がっていたイギリス人全てが殺されたが、この中には部族の女性に拷問されたジョン・ラトクリフも入っていた。ピンネース船に乗っていた者達が脱出し、その話をジェームズタウンに伝えた。次の年の間に、ポウハタン族はジェームズタウンの住人を襲い、多くを殺した。住民も反撃したが20人を殺したに過ぎなかった。しかし、西暦1610年03月に新しい総督3代デ・ラ・ウェア男爵トマス・ウェスト(Thomas West, 3rd Baron De La Warr、現代ではデラウェア卿と呼ばれる)は、自費で追加の入植者、医師、食糧、物資、150人の武装部隊を募集してイギリスを発ち、06月にジェームズタウンに到着し、戒厳令をもって統治にあたり、入植者を強制的に労働に従事させた。家屋が建てられ、トウモロコシが栽培され、植民地はどうにか存続が可能になった。しかし本国に送られた毛皮や材木では、植民地が投資に対し利益を生み出せる見通しは全く立たなかった。
その頃、ジェームズタウンは深刻な食糧不足に見舞われ、入植者の中には先住民の所に駆け込む者もいた。西暦1610年、イギリス本国は植民地総督に、現地の先住民部族全ての耶蘇教徒化と植民地への同化の方針を命じた。植民地総督デラウェア卿は好戦的で、まずトーマス・ゲイツを派遣して07月09日にケコウタン族を村から追い払い、次に酋長に命令を与えるというものだった。解決策は単純に先住民に対する征服戦争、第1次アングロ・ポウハタン戦争(西暦1610〜1614年)を始めた。デラウェア卿はアイルランド方式の戦略を導入し、ポウハタン族の村へと侵入し、 デラウェア卿はパスパヘー族の捕虜の手を切り落とし、「入植者全員とその財産を返せ、さもなければ近隣の村を焼き払う。」という最後通告をして彼をワフンスナコック(ポウハタン酋長)に送った。ワフンスナコックが断ると、 08月09日にジョージ・パーシーとジェームス・デイビスと70人の兵にパスパヘー村を攻撃させ、家屋を燃やし食糧を掠奪しトウモロコシ畑に火を放つ焦土作戦を推し進めた。彼らは15〜75人の先住民を殺害し、ウォウィンチョパンク(Wowinchopunk)の妻たちの1人と2人の子供を捕らえた。 下流に戻った入植者らは子供たちを海に放り投げ、銃で撃ち、 ウォウィンチョパンクの妻はジェームズタウンで銃剣で刺殺した。 パスパヘー族はこの攻撃から回復することはなく、村を放棄した。ポウハタン連邦の中の支族であるケコウタン族とパスパヘー族の2つの支族は事実上戦争初期に崩壊した。イギリス人侵略者が彼らの集落を破壊し、徹底的に虐殺したからである。
西暦1610年の秋、入植者の一団がアポマトックで待ち伏せされ、 デラウェア卿はポウハタン川の滝で部隊を組織し、冬の間ずっとそこに滞在した。西暦1611年02月、ウォウィンチョパンクはジェームスタウン近くでの小競り合いで殺害されたが、数日後に彼の同調者たちが入植者を砦から誘い出して殺害し報復した。05月にトーマス・デール総督が到着し、新たな入植地を設立する場所を探し始めた。 彼はナンセモンド族に撃退されたが、アロハットク族からポウハタン川の島を奪うことに成功し、それがヘンリクスの柵で囲まれた砦となった。西暦1611年のクリスマスの頃、トーマス・デール総督とその部下は川の河口にあるアポマトックの町を占領し入口を柵で囲い、「ニュー・バミューダス」に改名した。 高齢のワフンスナコック(ポウハタン酋長)は、この植民地拡大に対して大きな反応は示さず、この間、入植者たちが立場を強化し、実権は末弟のオペチャンカナウに移行しつつあった。
植民開始から10年を経た西暦1616年を迎えても利益の配当はなく、それどころか会社は破産の危機に瀕していた。そんなヴァージニア植民地に恩恵を齎したのは、煙草の栽培であった。イギリスではエリザベス1世時代にウォルター・ローリーによって、煙草が嗜好品として知られるようになっていた。ヴァージニア植民地ではジョン・ロルフが先住民が植えていた煙草に目をつけ、ジョン・ロルフは煙草栽培を唱導した。ただしヴァージニア土着の煙草は悪臭が強かったので、人々は、カリブ諸島で開発された風味ある品種を栽培した。ヴァージニア植民地の生活は、煙草栽培により大きく改善された。煙草の栽培は短期間で土地が痩せてしまうため、煙草生産が増加するにつれ新たな土地を求める膨張主義を生じさせた。先住民(アメリカ・インディアン)の考えでは、土地は住む人々全ての共有財産であり、譲り渡すのは単に土地を使用する権利であった。イギリス人はヘンリカスに根城を持っていた。ポウハタン族はポウハタン川上流のイギリス人入植者に対抗してカッカロウのネマッタニューを交渉者に派遣した。しかし交渉は決裂した。侵略者の要求はあくまでも「土地の恒久的な占有」であり、「土地は共有されるもの」というインディアンの考えと相反したである。イギリス人は「彼らのものになった」土地に「侵入」した先住民を片っ端から殺した。先住民(アメリカ・インディアン)の社会に「戦いを指揮する個人」は存在しない。イギリス人は先住民を拉致監禁して脅迫を繰り返した。先住民たちも、侵略者のこのやりかたを真似して、イギリス人を拉致連行した。西暦1611〜1614年のいずれかの時点で、ワフンスナコック(ポウハタン酋長)弟はのオペチャンカナウが所属しているヨウタヌンドの近くにある、さらに北のマトチャットへ移動した。ワフンスナコック酋長としては、「入植地が拡がらなければ、金属製品などの入手を続けられるので、連邦の利益になる。」と考えていた。調停者であるワフンスナコックは友好回復の機会を窺っていた。そして、そのような機会を作ったのは、ワフンスナコックの末娘、ポカホンタス(Pocahontas、本名マトアカ(Matoaka)の「お転婆」、「甘えん坊」の意の幼少時の仇名)であった。西暦1612年12月、サミュエル・アーガルはパウォメック族と和平を結び、ポトマック族を訪問中のポカホンタスをイギリス船に誘い出し拉致監禁した。イギリス人はポカホンタスを交渉の人質として拉致し、1年にわたり監禁した。これにより、平和のために彼女の身代金を要求した入植者に対するポウハタン族の襲撃は即時停戦となった。イギリス人たちは「ワフンスナコック(ポウハタン酋長)を部族の支配者だと思い込んでいるから、その娘を人質とし、脅迫すれば先住民(アメリカ・インディアン)たちは従うだろう。」と白人の流儀で考えた。侵略者たちはポウハタン族とワフンスナコック(ポウハタン酋長)に対して、捕虜の返還や武装解除、奪われた武器の引き渡し、食糧(トウモロコシ)を要求した。イギリス人が本当に彼らと和平を結びたいなら、「ロングハウス」の「会議の火」の周りで「大いなる神秘」の下「聖なるパイプ」で煙草を回し飲みし、贈り物を交換し、合議の下でこれを行うのが筋である。武力で脅迫しても先住民(アメリカ・インディアン)は反発するだけである。イギリス人相手では、「絶対不可侵」のはずの和平の誓いを何度でも結び直さなくてはならなかった。
やむなく ワフンスナコック(ポウハタン酋長)は、再び和平交渉を求めた。ポウハタン族が数ヶ月回答を留保している間、拉致監禁されたポカホンタスは入植地で宣教師から英語を教え込まれ、耶蘇教の洗礼を受けさせられた。ポカホンタスは釈放を条件に煙草農園主で男やもめのジョン・ロルフの求婚に応じ、「レベッカ・ロルフ」という英名を付けられた。その間、入植者は川の南に拡大し始め、現在のヴァージニア州ホープウェル付近に家を建てた。
和平交渉は捕らえられた人質と武器の返還をめぐって1年近く行き詰まった。 トーマス・デール総督はポカホンタスと大部隊とともに西暦1614年03月にワフンスナコックを探しに行き、現在のウェストポイントで矢を浴びたため、上陸して町を掠奪した。 彼らはついにマッチコットの新しい首都でワフンスナコックに会い、ポカホンタスと入植者ジョン・ロルフの結婚によって結ばれた和平を締結した。ロルフとポカハントスは西暦1614年04月16日に結婚し、9ヶ月後の西暦1615年01月18日に1人息子トーマスが生まれた。 結婚式には彼女の親族も何人か出席した。ワフンスナコック(ポウハタン酋長)も2人の結婚を認め、儀礼用の鹿革の衣服を贈って祝福した。調停者であるワフンスナコックと白人が縁組したことで、ほんの僅かな間、入植者とポウハタン連邦とのに平和な時期が生まれた。これはヴァージニアにおける最初の異人種間の結婚であり、先住民(アメリカ・インディアン)と入植者との間の短期間の良好な関係を齎すのに役立った。 同年、チカホミニー族との間で別の和平が締結され、これにより彼らは「名誉ある英国人」となり、したがってジェームズ1世の「臣民」となった。 この平和な時代はポカホンタスの平和と呼ばれた。ワフンスナコックは結婚を認め、ポウハタン川を挟んだ対岸に土地を新婚の2人に与え、小さな煉瓦造りの家が新居として使われた。今日その場所はスミス砦と呼ばれ、現在のサリー郡に入っている。「バリナ農園」に宿舎を構え、そこを恒久的な住まいとして結婚後の数年を過ごした。バリナ農園で、ポカホンタスはの息子トーマスを生んだが、トーマスはジョン・ロルフの実の子供ではない。実際の父親は、ロルフの上司のトーマス・デール卿と見られている。ヴァージニアの入植者の子孫の多くが、先住民とヨーロッパ人の双方にその先祖を辿ることができる。
数年のうちにワフンスナコック酋長とポカホンタスが病気で死んだ。ワフンスナコック酋長はヴァージニアで死んだが、ポカホンタスはイングランドだった。ヴァージニア植民地の出資者たちは、ジェームズタウンにイングランド本国からこれ以上新しい入植者を募るのも、このような冒険的な事業に対する投資家を探すのも困難になったことを悟った。そこでポカホンタスを宣伝材料にして、「新世界のインディアンが文明に馴らされたため、もはや植民地は安全になった、」とイギリス国民を納得させようとした。西暦1616年、ポカホンタスとジョン・ロルフはトーマスを連れてイングランドにヴァージニア会社の宣伝で連れ去られ、ジェームズ1世とその家臣たちに謁見させられた。ポカホンタスはそこで「インディアンの姫」と紹介され、イングランドで大反響を巻き起こし、新世界アメリカの最初の国際的有名人となった。そうして、より多くの投資と王の関心をヴァージニア植民地に齎す試みは大成功に終わった。先住民(アメリカ・インディアン)の社会に「王族」など存在しないから、ポカホンタスを「姫」とするこの宣伝は全くの誤りである。イギリス白人は終始一貫してポウハタン連邦を野蛮な帝国と見做し、そのように扱った。
ヴァージニアに戻る準備をしている時に、ポカホンタスは病気になり、彼女の健康回復のためヴァージニアに帰ろうとしたが、病状は急速に悪化し、西暦1617年03月に死去した。ケント州グレーブゼンドで死んだ。ポウハタン族の支族の1つ、マッタポニ族はポカホンタスの死因について、ロンドンの空気は汚れ過ぎていて肺を侵された、天然痘、肺炎、または結核などの説もあるが、当時の状況からロルフに毒殺された形跡を指摘している。ロルフはポカホンタスを妻にしたが、病身のポカホンタスにさっさと見切りをつけてイギリスを離れたがっていた。ポカホンタスの葬式が終わると、ロルフは実子ではない幼いトーマスをイングランドに置き去りにして、単身ヴァージニアに戻り再婚した。
入植住民には、イギリス本国の国民と同等の自由が保障された。そして住民代表による会議を招集し、意見を表明する機会が与えられた。西暦1619年にジェームズタウンで開催された第1回議会が、アメリカで最初に開かれた議会である。
また経済を発展させるために入植者を多数送り込み、煙草以外の産物を増やす試みも行われた。だが入植者は栽培が容易で確実に利益を上げられる煙草の生産に努力を集中した。他の産物を開発する狙いは成功しなかったが、植民地の人口は増大した。西暦1618年04月にわずか400人であったヴァージニア植民地の人口は、同年末に1000人となった。入植者は多くが20歳前後の独身で、年季契約奉公人として渡来した。西暦1618〜1622年までに入植してきた3570人は大半が年季契約奉公人で、初期の奉公人は圧倒的に男性が多く、男性6人対し女性1人の割合であった。年季契約奉公人は年季が終わると農具と衣料を与えられて自由になるはずであった。しかし初期のヴァージニア植民地の苛酷な条件のもとで彼らが疫病や飢餓に打ち勝つことは稀であった。西暦1618〜1622年に渡来した入植者の4人に3人は、1年以上生き残ることができなかった。
一方、イギリス人入植者達は再びポウハタン族領地の侵略を続けていた。西暦1609年初頭、ジェームズタウン島は植民地支配下にあった唯一の領土だったが、ポウハタン連邦はポウハタン川沿いの川沿いの財産の多くを失った。 キコウタン族とパスペヘグ族は事実上滅ぼされ、入植者たちはワイアノーク族、アポマトック族、アロハットク族、ポウハタン族の土地に大々的に侵入した。 アロハットク族とクイオコハノック族はこれ以降歴史記録から姿を消し、おそらく彼らが分散したか、他の部族と合併したことを示している。
ポカホンタスの死を知らされたワフンスナコック(ポウハタン酋長)もまた元気を失い、調停者としては末弟オペチャンカナウが後を引き継いで、西暦1618年に死去した。弟のオピチチャパムが酋長になった。しかし、このときの調停者としての実績は一番下の弟オペチャンカナウにあった。オペチャンカナウはかつてジョン・スミスに短銃を突き付けられて、トウモロコシ20tと引き換えに人質にされたことがあるが、それでも寛大にイギリス人入植者に対し友好的な顔を保ち、ポウハタン族が住んでいない地域への入植を認めるなど、植民地側に好意を示した。オペチャンカナウ酋長はまた、イギリス人の先住民(アメリカ・インディアン)に対する耶蘇教の布教にも協力的な態度を取り、耶蘇教への改宗が差し迫っているように見せるために耶蘇教の牧師とさえ会った。もちろん酋長は支配者ではないので、これはオペチャンカナウ酋長個人の好意に過ぎない。
先住民(アメリカ・インディアン)にとっての戦争は、元来は勇敢さを示す儀式的な性格が強かったが、土地に絡む「文明の衝突」によりその攻撃の苛烈さを強めていった。対抗する植民地側も先住民(アメリカ・インディアン)を敵視するようになり、攻撃は残虐さを増していった。
西暦1622年、今度は先住民(アメリカ・インディアン)が増え続けるイギリス人を排除しようと347人を虐殺した。この時からイギリス人と先住民(アメリカ・インディアン)との全面戦争、第2次アングロ・ポウハタン戦争(西暦1622〜1632年)が始まった。
西暦1618年にワフンスナコック(ポウハタン酋長)が死んだ後、弟のオペチャンカナウ(以前、ジョン・スミスに銃で脅迫されている)が酋長となり、入植者と敵対姿勢を強めた。オペチャンカナウ酋長たちは白人を追い出そうと西暦1622年と西暦1636年に「ジェームズタウンの虐殺」を行った。オペチャンカナウ酋長は入植者との間の平和が持続するとは考えていなかった。第1次アングロ・ポウハタン戦争で自らも参加したパムンキー族戦士団の敗退から立ち直り、オペチャンカナウ酋長たちは白人入植地の破壊を企んでいた。
西暦1621年、入植者に「羽根のジャック」として知られていたポウハタン族戦士が入植者を殺害し、射殺される事件が発生した。それをきっかけに、ポウハタン族は侵略者である入植者勢力の拡大を軍事的・文化的脅威と理解し、入植地に対する全面攻撃を決断した。西暦1622年にネマッタニュー酋長がイギリス人に殺害されると、03月22日、オペチャンカナウ酋長たちはポウハタン川沿いに点在する31ヶ所の入植地とプランテーションに対する奇襲攻撃を仕掛けた。先住民の耶蘇教徒の少年チャンコが夜中にジェームズタウン入植地のリチャード・ペースを起こし、攻撃の危険を知らせた。ポウハタン川の対岸に住んでいたリチャード・ペースは家族の安全を確保した上で、川を渡り、ジェームズタウンの他の入植者に危険を知らせた。この密告がなければ、さらに多くの犠牲者が出ていたであろう。そのため、ジェームズタウン入植地はオペチャンナウ酋長たちポウハタン軍の攻撃に対し、いくらかの準備はできた。しかし、周囲の入植地にはそういった知らせは何も無かった。1日の攻撃によって、ジェームズタウンの周囲に立地していた小規模な入植地は壊滅的な被害を受けた。入植者と先住民の共同文化交流所があったヘンリカスの入植地は交流所共々破壊された。マーティンズ・ハンドレッドのプランテーションでは、人口の半分が殺害された。ウォルステンホルムの入植地では、2軒の家と教会堂の一部分だけしか残らなかった。全体では、植民地の3分の1が壊滅し、入植者人口の約3分の1にあたる347人が殺害された。これに加え、20人の入植者女性が捕らえられ、死ぬか解放されるまでの間、先住民の奴隷にされた。また、この攻撃によって入植者の畑も破壊され、春の収穫も絶やされたため、いくつかの入植地は完全に放棄され、消滅していった。
この事件によって、先住民(アメリカ・インディアン)やその文化に対する評価は覆された。ヴァージニア植民地内だけでなく、本国イングランドでも「インディアンは野蛮。」という評価が再び広がった。侵略者側は「ポウハタン連邦とは戦争あるのみ。」という意識で団結し、ヴァージニア会社の幹部もそれに賛成した。侵略者たちは「オペチャンカナウ酋長が虐殺を指導した。」と思い込んだが、これは白人の勝手な思い込みである。先住民(アメリカ・インディアン)の社会に指導者はいない。
ポウハタン族の戦争慣行は、これほどの打撃を与えた後に何が起こるかを静観し、入植地が単に祖国を放棄して他の場所に移動することを期待することだった。 しかし、イギリスの軍事行動は強力に対応し、生き残った侵略者たちは報復として、その後10年間ほぼ夏と秋にポウハタン族、とりわけ彼らの所有するトウモロコシ畑を襲撃した。アコマック族とパタウォメック族は入植者が西暦1622年にチカホミニー族、ナンセモンド族、ワラスコヤック族、ウイヤノーク族、パマンキー族の村やトウモロコシ畑を掠奪しに行っている間、トウモロコシを提供して植民地と同盟を結んだ。その結果、酋長(調停者)であるオペチャンカナウ酋長は渋々ではあったものの、交渉の席に着くことになった。友好的な先住民(アメリカ・インディアン)の仲介人を通じて、入植者とポウハタン族との間にはついに和平協定を締結した。しかし、この席でも悲劇が起こった。ウィリアム・タッカー大尉やジョン・ポット博士など、入植者側の一部の指導者は、和平を祝う席で先住民に振舞った酒に毒を盛った。毒は約200人の先住民を殺し、さらに50人の先住民が入植者の手によって殺された。しかし、オペチャンカナウ酋長は逃げ出すことができた。虐殺への報復として彼らを射殺し、多くの人を殺害した。 その後彼らはチカホミニー族、ポウハタン族、アポマトック族、ナンセモンド族、ウィヤノーク族を攻撃した。
ヴァージニア植民地では、煙草による恩恵を蒙るようになっても、安定した状態にはならず、ヴァージニア会社でも当初期待されたほどの利益は上げられなかった。先住民との関係も、ジェームズタウンの虐殺以降、全面的な対立姿勢が続いた。こうした状況の中、国王ジェームズ1世は西暦1624年にヴァージニア会社の勅許状を廃止し、ヴァージニア植民地をヴァージニア王室領植民地(Crown colony、西暦1624〜1776年)とした。これまでのようにヴァージニア会社を経由することなく、王室の統治権が直接ヴァージニアに及ぶことになった。
ヴァージニア植民地にはそれまでに約8500人の入植者があったが、その時の人口は1275人であった。ヴァージニア会社による植民事業はまったくの失敗であったが、年季契約奉公人の使用、人頭権による土地配分、議会の招集など、困難な創設期に採用された方策は植民地社会に根を張っていた。これらの初期の慣習と、苦難を乗り切った入植者の気質とにより、入植者には自立的傾向が芽生えた。
王領植民地となったヴァージニアに対し、国王は総督と評議会を任命し、植民地の代議院は廃止され、新大陸初の立憲主義は後退した。ヴァージニア植民地では住民代表による自主的な議会を毎年開催し、立憲主義の確保に努めた。西暦1634年には議会の決定により地方制度として郡制が採用された。これによりヴァージニア植民地は8つの郡に分けられた。各郡には郡裁判所が設置され、治安判事が行政と司法に当たることになった。この制度は、他のいくつかの植民地でも採用された。その後チャールズ1世の時代となった西暦1639年、国王は植民地議会を正式に承認した。
ほとんどの入植地では、入植者はイングランド王室の都合の良いように使われ、個人の利益はあまり鑑みられることはなかった。ポウハタン族の権利はさらに軽視された。先住民(アメリカ・インディアン)の領土への植民地の拡大と和平合意の破棄は日常茶飯事であり、先住民(アメリカ・インディアン)たちの不満は高まっていった。
先住民(アメリカ・インディアン)の民主主義社会は破壊され、ヴァージニア植民地は王領植民地となった。総督はイギリス国王により任命された。政治組織は総督、評議会、代議会の三者構成であった。総督はイギリス本国より赴任してくるのが通例であった。
西暦1624年、両軍とも大規模な戦闘の準備が整い、ポウハタン族はオピッチャパムを先頭に800人の弓兵を集め、わずか60人の入植者に対抗した。 しかし入植者たちはポウハタン族のトウモロコシ畑を破壊し、弓兵たちは戦いを諦めて撤退した。植民地での火薬の不足により、西暦1625年と 西暦1626年には入植者たちの行軍が遅れた。先住民はこの不足に気付いていなかったようで、彼ら自身が必死に再結集しようとしていた。 しかし、西暦1627年の夏には、チカホミニー族、アパマトック族、ポウハタン族、ワラスコヤック族、ワイアノーク族、ナンセモンド族に対する新たな攻撃が行われた。
西暦1628年に和平が宣言されたが、一時的な停戦に近く、敵対行為は西暦1629年03月に再開され、西暦1632年09月30日に最終的な和平が結ばれるまで続いた。入植者はヨーク川の南だけでなく東岸とポウハタン川の両側にも入植地を拡大し始めた。 そして、彼らは西暦1633年にウィリアムズバーグあたりでヨーク川とポウハタン川の間の半島を囲んだ。西暦1634年までに、ヴァージニア半島を横切る柵が完成した。その時点で幅は約6マイル(9.7km)だった。 これは、入植者の農業や漁業に対する先住民による攻撃からのある程度安全を提供した。川の間の約6マイル(9.7km)の柵の直線上に十分な兵力があり、長さ約40マイル(64km)、ほとんどの場所では幅約12マイル(64km)の、2つの大きな川に囲まれたヴァージニアの低地全域が牛の生息範囲となった。このようにして、これら2つの川の間の土地も全て取り込み、そこから先住民を完全に排除した。西暦1640年までに強力な柵で囲み、ヨーク川の北の土地にも主張し始め、オペチャンカナウ酋長は西暦1642年にピアンカタンク川の一部の土地を50ブッシェルの価格で入植者に貸し付けた。西暦1622〜1632年の第2次アングロ・ポウハタン戦争後は12年間の平和が続いた。
入植者と植民地の拡大に抵抗するポウハタン族の関係が悪化していく中、 西暦1644年04月18日には再び第3次アングロ・ポウハタン戦争(西暦1644〜1646年)」が起こった。オペチャンカナウ酋長率いるポウハタン連邦が再びヴァージニア植民地から入植者を追い出そうとした。約400人(約500人とも)の入植者が殺害された。その頃には入植者が増加し、既に入植者人口の10%にも満たない数値になっており、入植地への影響は22年前の虐殺事件の頃よりは小さかった。これらの試みはイギリス人からの強力な反撃に遭い、結局は部族自体が虐殺されることとなった。ポウハタン連邦は西暦1646年までに大半が破壊された。ポウハタン族の、イギリス人入植者をヴァージニアから追い出そうとする試みは、イギリス軍からの民族浄化によって、最終的にはポウハタン族が絶滅に瀕することになった。
西暦1644年、先住民(アメリカ・インディアン)部族に対し、ヴァージニア植民地の侵略者は徹底的な虐殺を決定した。戦闘は植民地側の圧倒的な勝利に終わり、タイドウォーター地域の先住民(アメリカ・インディアン)はほぼ絶滅状態に陥った。平和な先住民(アメリカ・インディアン)の村々は白人によって掠奪、強姦、殺人、放火され、悉くが破壊された。先住民(アメリカ・インディアン)の酋長は「軍事指導者」(そんなものはいない)と見做され、侵略者によって処刑され、その家族は中米へと奴隷に売り飛ばされた。
西暦1645年02月、植民地は3つの辺境の砦、ポウハタン川の滝のチャールズ砦、チカホミニー川のジェームズ砦、ヨーク川の滝のロイヤル砦の建設を命令した。西暦1646年03月、植民地はアポマトックスの滝にヘンリー砦(現ピーターズバーグ)を建設した。08月、ヴァージニア総督ウィリアム・バークリー卿の軍隊がオペチャンカナウ酋長が住んでいた村を襲撃し、齢90〜100歳と見られるオペチャンカナウ酋長を捕らえた。オプチャンカナウ酋長は非常に高齢で病弱で、助けがなければ動くことさえできず、担架で運ばなければならなかった。オペチャンカナウ酋長はジェームズタウン入植地で投獄され、牢の見張りについていた入植者に殺害された。村で捕らえられた11歳以上の男性は全員、タンジール島に強制連行された。西暦1646年に白人の武力脅迫によってネクトワンス酋長との和平条約が締結され、植民地の住民はさらに広大な植民地領土を先住民(アメリカ・インディアン)から奪った。「和平」を口実に、先住民(アメリカ・インディアン)たちは自分たちの領土から追い出され、ヨーク川以北に住むことを強要された。この条約では、連合の部族はイングランド王への属国となり、ヴァージニア植民地総督に毎年貢物を支払うことになった。 同時に、先住民(アメリカ・インディアン)と植民地の入植地の間に人種国境が定められ、各人種の構成員は国境の砦の1つで取得する特別な通行証を除いて反対側に渡ることを禁じられた。 特許が申請できるヴァージニア植民地の範囲は、ブラックウォーター川とヨーク川の間の土地、および主要な各川の航行可能な地点までと定義され。 この条約はまた、西暦1640年以来既にそこに存在していたヨーク川の北、ポロポタンクの下の半島への入植を許可した。
西暦1665年までに、ポウハタン族はその年に法制化された白人の厳格な法律に従わせられることとなり、植民地総督に指名される酋長を受け入れる屈辱を強いられた。先住民(アメリカ・インディアン)の酋長は誰かに指名されたり選ばれる類のものではない。侵略者たちは、先住民(アメリカ・インディアン)の酋長を首長だと勘違いしているのである。白人から「この者を酋長(ピースメーカー)に選んだから、この者に従え。」と言われても、先住民(アメリカ・インディアン)が納得できる筈がなかった。
調停者であるオペチャンカナウ酋長の死は、かつてこの地において強大な影響力を誇ったポウハタン連邦の衰退と、白人入植者の時代の到来を意味した。オペチャンカナウ酋長の死後はネクトワンスが酋長(調停者)を継ぎ、その後トトポトモイ、さらに後にはその娘のコッカコースケが継いだ。
ネクトワンス酋長は西暦1649年頃に亡くなるまで、ポウハタン連邦の残存勢力の酋長だった。しかし、以前の連邦の部族は散り散りになり、トトポトモイがネクトワンス酋長の後継者となったとき、トトポトモイ酋長はもはやポウハタン連邦の酋長ではなく、パマンキー族酋長であった。 トトポトモイ酋長は植民地政府と協力して平和を維持した。西暦1654年にイロコイ連邦が拡大し(ビーバー戦争、イロコイ戦争)、エリー湖周辺から逃れてポウハタン川の周りに、潜在的に敵対的な勢力のマホック族とナヒサン族(当時の記録で「リチャヘクリアン」)が侵入し一時的に定住した。西暦1656年、トトポトモイ酋長はヴァージニア植民地政府側として、マホック族とナヒサン族らの5人の酋長が交渉に来た時、司令官エドワード・ヒル大佐は彼らを殺すように命じ敵軍による攻撃が行われた。戦いの間、エドワード・ヒルと彼の部下は撤退し、見殺しにされたトトポトモイ酋長らパマンキー族戦士ら約100人のほとんどが戦死し小川が血で赤く染まった(ブラッディランの戦い)。トトポトモイ酋長の娘のコッカコースケが彼の後を継いだ。 この時期は、入植者間では比較的平和な時期だったと言われるが、西暦1646年の条約で居留地への絶え間ない侵害が見られた。
パタウォメック族の酋長ワハンガノチェ酋長は入植者たちと協力して部族の土地を譲渡しようとしたが、裏目に出た。西暦1662年、入植者たちはさらに多くのことを望み、ワハンガノチェ酋長を殺人の濡れ衣で告発した。 ワハンガノチェ酋長は治安判事の特別招集法廷で全ての容疑で無罪となったにも拘わらず、裁判からの帰路に入植者によって殺害された。 その直後、植民地政府はパウォメック族全員に土地の「売却」を要求し、西暦1666年にはパウォメック族に対して宣戦布告し、彼らの「絶滅」を求めた。
西暦1670年代初頭、ヴァージニア植民地では煙草生産の拡大によって増大しつつあった白人の人口が、先住民(アメリカ・インディアン)にとって脅威となってきた。ヴァージニア植民地ノーザンネックの部族は事実上全滅し、入植者から逃れることができた少数の部族は、その地域に残っていた他の部族に吸収された。第3次アングロ・ポウハタン戦争以降、平穏を保っていた先住民(アメリカ・インディアン)との関係は、西暦1674年に崩れた。先住民の居住地域をプランテーションが侵略し、サスケハナ族はポトマック川の上流メリーランド奥地へと移動した。だが白人の自由農民、特に解放民たちは辺境の廉価な土地を求め、その地域の先住民(アメリカ・インディアン)部族を一掃することを要求した。
西暦17世紀の終りまでにチェサピーク湾一帯では大西洋岸の特権的農園主は「海岸地域の地主」と呼ばれ、その地域でも最良の農園を所有し、その数には比例しない政治的権力を行使していた。小農夫は良い土地が得られず、先住民(アメリカ・インディアン)の攻撃の恐れが強い後背地しかなかった。
ヴァージニア総督ウィリアム・バークリー卿夫人、レディ・バークレーことフランシス・カルペパー・バークレーはナサニエル・ベイコン・ジュニアの従姉であり、実はヴァージニア総督ウィリアム・バークリー卿とナサニエル・ベイコン・ジュニア姻族の従兄弟同士だった。 ナサニエル・ベイコン・ジュニアは厄介者で陰謀家で、労働を軽蔑していたが、知的で雄弁だった。 父親が彼が成長することを期待してヴァージニアに送り込んだ。ナサニエル・ベイコン・ジュニアが到着すると、ヴァージニア総督ウィリアム・バークリー卿は彼の若い従弟に敬意と友情を持って接し、西暦1675年には多額の土地補助金と議会の議席を与えた。
煙草価格の下落、メリーランドやカロライナとの商業競争の激化、ますます制限されつつある英国市場、英国工業製品の価格上昇(重商主義)などの経済問題がヴァージニア人に問題を引き起こした。 オランダとの最近の一連の海戦ではイギリスに大きな損失があり、本国に近いところでは天候によって引き起こされた、雹嵐、洪水、日照り、ハリケーンが1年を通してヴァージニア植民地を襲い損害を与えた。 こうした困難により、入植者たちは自分たちの不満を晴らし、自分たちの不幸の責任を擦り付けられる犠牲の山羊を探していた。
ポウハタン川(ジェームズ川)の北岸の上流約30マイル(48km)のヘンリコ郡のカールズネック・プランテーションの地主、ヴァージニア植民地評議会議員ナサニエル・ベイコン・ジュニアは、先住民に対して民兵を組織し戦うことを要求した。ナサニエル・ベイコン・ジュニアは様々な政治的駆け引きの後で、辺境の先住民数種族に対する作戦行動を率いる任務を認められた。西暦1675年、ドーグ族の少数の者が先住民(アメリカ・インディアン)全般を虐待し詐欺することで知られるヴァージニアのノーザンネック地区、ポトマック川の近くにあったトマス・マシューズのプランテーションの2人の入植者を殺害し、一般地域を掠奪した。奥地の先住民部族との間に生じた紛争で白人の死者が出ると、平和はさらに崩れ、一連の激化と混乱が引き起こされ、西暦1676年から始まるベイコンの叛乱を巡る暴力へと繋がった。植民地の住人は報復のために間違ってサスケハノック族を攻撃し、これが更に先住民による大規模な襲撃を呼んで大変な事態になった。ヴァージニア総督ウィリアム・バークリー卿は更なる攻撃を避け、事態を沈静化させるために事情の調査を命じた。その結果、関係者間の会合を開いた時に様々な部族の6人の先住民の酋長を殺害してしまうという惨事を起こした(ワシントンの虐殺)。子の虐殺を指揮したヴァージニアの民兵大佐が初代大統領の曽祖父ジョン・ワシントン(John Washington)である。民兵は、人の先住民の酋長を殺害した鬼畜である(ワシントンの虐殺)。先住民たちは虐殺に対し、入植者達を後に襲撃して報復した。白人たちは報復の軍隊を派遣するようヴァージニア総督ウィリアム・バークリー卿に要求した。しかしウィリアム・バークリー卿は「敵対的ではないインディアンは白人と同じ国王の臣下として保護するべきだ。」と主張し、宥和政策を提唱した。そして先住民を掃討する代わりに砦の建設のために課税しようとした。これに対し、ナサニエル・ベイコン・ジュニアは義勇兵を募り、先住民攻撃軍の指揮官に自分を任命するよう総督に要請した。これを拒否されたナサニエル・ベイコン・ジュニアは奥地へ兵を進め、平和的な先住民(アメリカ・インディアン)を殺害した。ヴァージニア植民地の先住民(アメリカ・インディアン)は、この事件によりほとんど壊滅した。
ヴァージニア総督ウィリアム・バークリー卿はナサニエル・ベイコン・ジュニアがかなりの支持者を集めていることを知り、一時は和解的態度を取ったが、結局両者の関係は決裂した。ナサニエル・ベイコン・ジュニアは西暦1676年、支持者を集めて「人民宣言」を発し、先住民(アメリカ・インディアン)の一掃と富裕な「寄生者」による支配の終焉を謳った。こうしてヴァージニア植民地は内乱状態に陥り、ナサニエル・ベイコン・ジュニアはジェームズタウンを攻撃して焼き払った。総督ウィリアム・バークリー卿は一時避難して本国の援助を要請したが、10月にナサニエル・ベイコン・ジュニアは疫病に罹って急死し、統制を失った軍隊は敗走した。
ベイコンの叛乱はヴァージニア植民地の社会に、直接的な変革を齎さなかった。しかし武装した農民による蜂起は、社会の底辺にあった不満を表面化した。ヴァージニア植民地においてこの叛乱が白人の年季契約奉公人に替わってアフリカから拉致連行してきた黒人奴隷を積極的に導入する1つの契機となった。叛乱を起こしたのは、奴隷、奉公人、および貧しい農夫(その多くが元は年季奉公人)が大半だった。叛乱前のヴァージニアでは、黒人奴隷は稀であった。これはその費用が高く、アフリカから黒人奴隷を連れてくる貿易業者がいなかったためであった。多くの黒人は年季奉公として連れて来られ、年季が明けたあとは自由の身になった。ヨーロッパからの年季奉公者は叛乱後もヴァージニアでその役割を続けたが、アフリカからの黒人奴隷輸入の動きが急速に高まり、新しい法律が制定されて奴隷は終生のものとなり、その子供にも及ぶようになった。酷人を最下層とする人種に基づく階級性が作られ、ヨーロッパからの最貧の年季奉公者でもその上の階級となった。このことはベイコンの叛乱の間に存在した貧乏なイギリス人と黒人に共通の利益が失われたことを意味した。
西暦1676年のベイコンの叛乱の間に、ナサニエル・ベイコン・ジュニアによって捕獲した先住民(アメリカ・インディアン)が奴隷化された。先住民(アメリカ・インディアン)の奴隷制はその15年後にあたる西暦1691年にヴァージニア植民地議会によって公式に廃止された。しかし、多くのポウハタン族は西暦18世紀に入るまで奴隷状態に置かれた。残るポウハタン族は白人や黒人入植者に同化する者もいた。西暦1684年のオールバニ条約の後では、ポウハタン連邦全てが消滅した。他の地元部族も結集して署名したコッカコエスク酋長によって署名されたミドル・プランテーション条約の中で。 この条約は各部族に居留地を設け、居留地外での狩猟権を認めた。 この法律は、「コッカコエスク酋長が散在するいくつかの先住民(アメリカ・インディアン)を服従させる義務がある。」という規定により、全ての先住民(アメリカ・インディアン)の支配者が平等であることを確立した。
ベイコンの叛乱は、頑迷で利己的な2人の指導者(ナサニエル・ベイコン・ジュニアとウィリアム・バークリー卿)の権力闘争、特権と利権に反対する運動が、先住民(アメリカ・インディアン)迫害の急先鋒と結びついた。現代のディープステイトの跳梁跋扈し世界を破壊してするアメリカという悪の帝國の権力構造を明示している。
また、アメリカの植民地で起こった初の叛乱で、専制政治に対する輝かしい戦いであり自由や平等のために、武器を持って戦う「民兵は、自由な国家の安全にとって必要であるから、市民が武器を保有し、また携帯する権利は、これを侵してはならない。」というアメリカ合衆国憲法修正第2条の権力に立ち向かう武装権が制定された。
ポウハタン族は土地を追われ、ある者は2度とこの地には戻らず、ある者は入植者に同化し、またある者はヴァージニアに設立された居留地に強制移住させられた。その居留地さえも、移民の増加によって半ば強制的に割譲され、縮小していった。現代においては、ポウハタン連邦に属した部族は7つしか残っておらず、また保留地もキングウィリアム郡(リッチモンド都市圏内)のパムンキー族保留地、およびマッタポニ族保留地の2つが残っているのみである。
イギリス植民地の拡大が続き、それまでの白人に加えて黒人奴隷の数も増加し、特に西暦17世紀半ばまでの期間には、彼らの中で年季奉公としての期間を経て自由を獲得した解放黒人奴隷たちによって、さらにポウハタン族の土地が侵されていった。
民主主義社会であるポウハタン族は、君主制社会であるイギリス白人に破壊され、征服された。
西暦1604年のハンプトンコート会議で、イングランド王ジェームズ1世はピューリタンとプロテスタント分離派(Separatists)を望ましくないものと宣言し、西暦1607年、ヨーク大司教は幾人かの信徒の家を襲って牢獄に収監した。英国教会の改革を求めるプロテスタントはジャン・カルヴァンの教えに忠実に従うピューリタン(清教徒)と呼ばれたが、その中にも、国教会に留まって改革を図る者(非分離派)と国教会から分かれることを主張した者(分離派)がいた。分離派には、会衆派(組合派)、独立派、バプテスト、クエーカーなどを含む。このため、宗教的分離派信徒達は迫害の圧力を感じるようになった。清教徒分離派信徒自身は、イギリス国教会の世俗的な拘束を取り去ることを求めたピューリタン(清教徒)と呼ばれるイギリスの宗教運動の一部だった。この運動は教会をより原始の状態に戻して、初期の教父によってなされたような耶蘇教信仰を実行することを求めた。ピューリタンは、聖書が信仰的教えの唯一の根拠であり、耶蘇教に付け加えられた物、特に教会の伝統に関して付け加えられた物は、耶蘇教の信仰には無いものと信じた。分離派信徒はイギリス国教会の中で改革を目論むピューリタンとは異なり、イギリス国教会から「分離」することを求めることで、ピューリタンとは一線を画していた。分離派信徒をオランダに、さらにニューイングランドに誘ったのは、「イギリス国教会の外から信仰に携わりたい。」という願いそのものだった。
ジョン・ロビンソン牧師、ウィリアム・ブリュースター司祭、およびウィリアム・ブラッドフォードが先導したイングランド王国ノッティンガムシャー州スクルービー町の清教徒分離派信徒達は西暦1609年にイングランド王国を離れ、オランダ(ネーデルラント連邦共和国(西暦1581〜1795年))に移動して、最初はアムステルダムに、後にライデンに住み着いた。ライデンで信徒達はその選んだままに信仰する自由を味わったが、オランダの社会はこれら移民達には馴染めないものだった。スクルービーの町は農業に基づく地域社会であり、ライデンは産業の盛んな中心地であって、生活の速度が清教徒分離派信徒達には随いて行けないものだった。さらに信徒の社会は結び付きの強いままだったが、子供達はオランダの習慣と言語に慣れ始めた。分離派信徒達は、この時もイギリス王室からの迫害と無縁では無かった。西暦1618年にウィリアム・ブリュースターがイングランド王とイングランド国教会を強く批判する文書を出版すると、イギリス当局はブリュースターを逮捕するためにライデンにやってきた。ブリュースターは逮捕を免れたが、分離派信徒達に「イングランドからはもっと離れた所に移動しなければならない。」と感じた。西暦1619年06月、分離派信徒達は、ニューネーデルラントのケープコッド南部に入植する機会を「オランダの影響力を避けたい。」と思い辞退し、ロンドン・ヴァージニア会社からハドソン川河口に入植する許可を与える土地特許を得た。次に、植民地建設がその宗教を広め利益にも繋がる手段と考えるピューリタン実業家の集団であるマーチャント・アドベンチャラーズを通じて、移民のための資金を集めた。アメリカに到着した時に、分離派信徒達はその負債を支払うために働き始めた。
マーチャント・アドベンチャラーズからの資金を元に、分離派信徒達は食糧を購入し、2隻の船メイフラワー号とスピードウェル号の運賃を支払った。西暦1620年早々に出発するつもりだったが、航海計画の変更や資金面の問題を含め、マーチャント・アドベンチャラーズとの間に片付けなければならない問題が出てきたために、数ヶ月遅れることになった。分離派信徒達がオランダのデルフスハーフェン港からスピードウェル号で出発したのは西暦1620年07月になった。メイフラワー号はスピードウェル号と落ち合うためにイングランドのサウサンプトンに寄港し、物資や他の乗船客を乗せた。
サウサンプトンで一行に加わった乗船客の中には、1年の大半を隠れて過ごしていたウィリアム・ブリュースターを含む数人の清教徒分離派信徒達と、分離派信徒にとって「異邦人」と見られる一群の者達がいた。この後者の集団の大半はマーチャント・アドベンチャラーズの募集に応じた者であり植民地の統治を行うと共に、植民地を立ち上げるための付加的な働き手という位置付けだった。異邦人の中には植民地の軍事的指導者となるマイルス・スタンディッシュ、大西洋航海中の指揮者となるべくマーチャント・アドベンチャラーズに指名されていたクリストファー・マーチン、およびウィリアム・シェイクスピアの「テンペスト」のモデルで、植民地経営に失敗した経験のあるステファン・ホプキンスがいた。
メイフラワー号とスピードウェル号のアメリカへの出発は更に遅れた。マーチャント・アドベンチャラーズとの考えの不一致でサウサンプトンでしばらく留まった。総人数120人の乗客は、メイフラワー号に90人、スピードウェル号に30人が分乗し、08月15日にやっと出航した。いざ、サウサンプトンを出港したものの、スピードウェル号に重大な水漏れが発生し、即座にダートマスに帰港する必要が生じた。修理が完了しても、今度は追い風を得られずにさらに遅れた。2隻の船はランズ・エンド岬を過ぎて200マイルも行かないうちに、またスピードウェル号に水漏れが発生して、イングランドへ後戻りを余儀なくされた。今回はプリマス港だった。「スピードウェル号は航海に耐えられない。」と判断され、移民を諦めた者もいたが、残りはメイフラワー号に乗り移り、既に積載量の多かった船がさらに混雑することになった。後に、「スピードウェル号の船長が当てにならない大西洋を越える航海を避けるために意図的に罷業した。」という風評が立った。
メイフラワー号は102人の移民を乗せて、西暦1620年09月06日にプリマスを出港した。僚船のスピードウェル号は無く、具体的にハドソン川河口に移住することを認める土地特許を持って新世界へ船出した。途中で強い西風に会いまたメキシコ湾流のせいもあり航海は2ヶ月を要し、11月09日、ケープコッドの海岸沖で陸地を発見した。メイフラワー号は指定されたハドソン川河口の場所に上陸するために南に向かおうとしたが、ケープコッドとナンタケット島の間の浅瀬、ポーラックリップ海域で障害が起こった。冬に向かおうとしている時期であり、食糧も危険なまでに底を突いた状況だったので、乗船客は北へ戻り、当初の上陸計画を破棄することにした。
この清教徒分離派信徒の侵略の前に、先住民(アメリカ・インディアン)以外にヨーロッパ・コーカソイド(白人)による1世紀近い探検、漁撈および入植の歴史があった。ジョン・カボットが西暦1497年にニューファンドランド島に到達し、イギリスは北アメリカの東海岸に広大な領有権を主張することになった。現在のニューイングランドの初期の地図の1つは、西暦1540年頃、地図製作者ジャコモ・ガスタルディによるものだったが、ケープブレトン島をナラガンセット湾と見誤っていた。この誤りでニューイングランドの海岸の大半が消えていた。ヨーロッパの漁師は西暦16世紀〜17世紀の大半をニューイングランド海岸沖で操業していた。フランス人サミュエル・ド・シャンプランは西暦1605年にこの地域を探検した。特に現在のプリマス港を探索して「セントルイス港」と名付け、そこと周辺の土地の広範で詳細な地図を作成した。現在のプリマスの町が間もなく造られることになる先住民(アメリカ・インディアン)の集落、「パチュケット」が将来コーカソイド(白人)にとって「楽しみな入植地」としてシャンプランの地図に載った。しかし、メイフラワー号が到着する15年前に、イギリス人漁師によってこの地域に齎された病気が、この地域の先住民(アメリカ・インディアン)の90%を絶滅させていた。この病気は天然痘だと一般に考えられていたが、レプトスピラ症だった可能性がある。
ポパム植民地、別名セントジョージ砦はプリマス会社(プリマス植民地と無関係)によって組織され西暦1607年に開設されていた。現在のメイン州の海岸に造られたこの植民地は、内部の政治的な闘争や、病気と厳しい気候によって悩まされ続けていた。この植民地は西暦1608年に放棄された。ジェームズタウンで名を上げた植民請負人ジョン・スミス船長は、その後の「プリマス植民地」近くを西暦1614年に探検し、「ニューイングランド」という名前を付けた。ジョン・スミスは先住民たちの言葉を聞き書きして多くの地名を付けた。清教徒分離派信徒が最初に入植する場所は、ジョン・スミスによって当初「アッコマック」と呼ばれた。イングランド王ジェームズ1世の息子、当時王太子チャールズ1世と相談して、ジョン・スミスは「アッコマック」を「ニュープリマス」と変えた。メイフラワー号の清教徒分離派信徒達が最初にケープコッドを探検したとき、白人が以前にそこで多くの時を過ごした証拠に出くわした。白人の砦の跡を発見し、墓を暴くと、白人成人男性と先住民の子供の遺骨があった。
メイフラワー号は、西暦1620年11月11日にプロビンスタウン港に碇を降ろした。清教徒分離派信徒達はその地域にイギリス政府から独自の政府を作ることを認める勅許を得ていなかった。しかし、統治の手段が必要だった。乗船客達は上陸する権利を疑い始めた。「そこには植民地を創設する法的な根拠が無い。」と零した。これに応えて、まだ海上にあるメイフラワー号に乗っていた41人の働ける男性移民が植民地を統治する為の最初の文書「メイフラワー誓約(盟約書)」を起草し批准した。この意図は植民地を統治する手段を確立することだった。それは植民地がイギリスの町のように統治されることを確認したに過ぎなかったが、植民地で最初の統治法を決める文書になり、多くの移民の心配を解き放つ目的には役立った。正式の法律は西暦1636年に法典化された。植民地の法律はイギリスの慣習法と聖書の中に書かれている宗教的な定めとの融合だった。
この侵略者達は次の日が日曜日だったので、船上に留まり祈りを捧げた。11月13日、侵略者達は後にプロビンスタウンと呼ばれる地に最初の一歩を踏み出した。最初の仕事はシャロップと呼ばれる底の浅い小舟を組み立てることだった。この船はイギリスで造られ、メイフラワー号で運ぶために分解されていた。メイフラワー号がイングランドに戻った後に、小舟と移民が残ることになっていた。11月15日、マイルス・スタンディッシュ船長は16名の部隊を構成して探検を行い、その途中で先住民(アメリカ・インディアン)の墓を暴き、またトウモロコシ(インディアン・コーン)の埋蔵所を探し当てた。翌週スザンナ・ホワイトがメイフラワー号船上で男の子、ペレグリン・ホワイトを産んだ。この子は新世界で移民の子として生まれた最初のイギリス人になった。シャロップは西暦11月27日に完成し、これを使って2回目の探検がメイフラワー号船長のクリストファー・ジョーンズの指揮で行われた。34名が同行したが、この遠征は悪天候に悩まされた。先住民の墓所を発見して暴き、死者のために埋蔵されていたトウモロコシを見付けて盗み帰った。ケープコッドの3回目の探検は12月06日に出発した。この時に、現在のイースサム近くで「最初の遭遇」として知られる土地の先住民と小衝突があった。侵略者達は適当な入植地の確保が難しかったことと、先住民のトウモロコシを盗んだ上に武器を向けて怒らせてしまったことを恐れ、メイフラワー号でプロビンスタウンを離れ、プリマス港に向かった。
侵略者は、先住民(アメリカ・インディアン)が住む土地を侵略し、ワンパノアグ族(Wampanoag、マサチューセット語: Wôpanâak)パタクセット支族(Patuxet)の集落跡「パチュケット」に住み着いた。この狂信者(カルト)を「巡礼始祖」(ピルグリム・ファーザーズ、Pilgrim Fathers)と呼ぶ。ピルグリム・ファーザーズが上陸した土地には先住民のワンパノアグ族が暮らしていたが、先住民(アメリカ・インディアン)諸部族はこのカルトから発砲されるなどしていたため、近づかないよう用心していた。清教徒分離派信徒ピルグリム・ファーザーズが入植したことに対して先住民(アメリカ・インディアン)からの抵抗がほとんど無かったことは、その植民地とイギリスによるアメリカ大陸の植民地化そのものを成功に導いた重要な要因になった。
ピルグリム・ファーザーズは12月17日にプリマス港に碇を降ろし、入植地を探して3日間を費やした。幾つかの場所を検討した。クラークス島やジョーンズ川の河口の地だった。その後に先住民(アメリカ・インディアン)が最近放棄していた「パチュケット」という名の場所を選んだ。この場所は防御に適していることが選ばれた大きな理由だった。入植地は2つの丘を中心にした。コールズヒルは集落が造られ、フォートヒルは防衛のための大砲が据えられることになった。この場所を選んだもう1つの重要な理由は、以前の先住民の村人が土地の大半を切り開いており、農作が比較的容易だったからである。清水はタウン・ブルックとビリントン湖から得られた。その伝説を実証する証拠は全くないものの、プリマス・ロックは入植者達がその新しい故郷に最初に足を踏み入れた場所だとされている。入植者達が入った地域は西暦1614年に出版されたジョン・スミスの地図では、「ニュープリマス」(現在のアメリカ合衆国マサチューセッツ州プリマス)と記されている。入植者達はイングランドを離れるときの港町デボン州のプリマスに因み、その地図に記された町の名をそのまま採用することにした。
12月21日、最初の上陸隊がプリマス入植地となる場所に到着した。しかし、直ぐに家を建てようという計画は荒れ模様の天候のために12月23日まで延期された。建設が開始されると、常に20人の男が陸上に残って安全を確保し、その他の働き手達は1日の終わりにメイフラワー号に戻った。女性と子供それに身体の虚弱な者は船上に残った。多くの者が6ヶ月間船を離れられなかった。最初の建物は「共有建屋」で、編み枝と泥でつくった漆喰でできていた。ニューイングランドの厳しい冬の最中に、完成までに2週間を要した。その次の数週間で入植地の残りが少しずつ姿を現した。住居と作業所はコールズヒルの比較的平らな頂上部に造られ、隣接するフォートヒルには入植地を守ることになる大砲を支えるために木製の台座が造られた。身体的に健全な男達の多くが衰弱して働けなくなり、病気で死ぬ者もあった。19戸を計画していた住居の中7戸と共有建屋4戸が、最初の冬の間に完成した。メイフラワー号に乗船してきた者の大半が壊血病のような病気を患い、雨風を凌ぐ場所が無く、船の上で不自由を強いられた。102人いた乗客のうち45人が最初の冬の間に死に、コールズヒルに埋葬された。最初の1年間、すなわち西暦1621年11月まで生き延びて感謝祭を迎えたのは53人だった。18人いた成人女性のうち、13人が最初の冬の間に死に、05月にももう1人死んだので、11月まで生き延びられたのは4人だった。ジョン・カーバーが航海中の指導者に指名されていたマーチンに代わって初代の知事に選ばれた。エドワード・ウィンスローとスザンナ・ホワイトは、西暦1620〜1621年の厳しい冬の間にお互いの伴侶を亡くしており、プリマスで初めて結婚した夫婦となった。ブラッドフォード知事が結婚式を執り行った。
01月の終わりまでに、定着に必要な建屋が建てられたので、メイフラワー号から食糧の荷卸しが始まった。02月半ば、土地の先住民(アメリカ・インディアン)と数回の緊張した遭遇があった後で、入植地の男性住人が軍隊組織を作った。マイルス・スタンディッシュが指揮官に指名された。02月の終わりに、5門の大砲がフォートヒルの防衛拠点に据えられた。
西暦1621年03月16日、先住民(アメリカ・インディアン)との最初の公式な接触が起こった。ピルグリム・ファーザーズが上陸した土地にはワンパノアグ族が暮らしており、マサソイト酋長を訪ねて来ていた現在のメイン州ペマクィドポイント出身のアベナキ族(Abenaki)の酋長サモセット(Samoset)が、大胆にも入植地の中に歩いて来て、ピルグリム・ファーザーズに片言の英語で「ようこそ、イギリス人(Welcome, Englishmen!)」と話し掛けた。サモセットはケネベック川河口に短期間存続した入植地でイギリス人から奴隷にされてイングランドに売られ、数年してメインに逃げ戻ってきていたので、幾らかの英語を覚えていた。先住民集落パチュケットの前の住人が恐らく天然痘で死んだことを、ピルグリムが知ったのもこの会見の時である。
ピルグリムはこの地域の「最高指導者」がワンパノアグ族の酋長マサソイトと勝手に誤解した。マサソイト酋長はワンパノアグ族の一支族ポコナケット族の酋長だったが、侵略者は彼を「ワンパノアグ族連合全体の創設者で指導者」と見做した。
しかし、先住民(アメリカ・インディアン)の酋長は合議制の中の「調停者(ピースメイカー)」、「世話役」であり、「指導者」でも「権力者」でもない。しかし侵略者たちは「酋長」を「首長」と勝手に誤認し、以後の先住民部族との交渉で、酋長の同意を部族の同意と思い込んだ。合議を経ていない侵略者の要求は当然先住民(アメリカ・インディアン)社会から反発を受け、「インディアン戦争」という血みどろの植民地戦争を生みだしていった。
ピルグリムは、パチュケットの出身のマサチューセッツ族名「ティスクァンタム」の存在を知った。サモセットは植民地の事情を視察して翌日、ヨーロッパに滞在したことがあり、英語を流暢に話すワンパノアグ族パタクセット支族のティスクアンタム(Tisquantum、スクアント(Squanto))を連れて戻った。マサソイト酋長とティスクアンタムはピルグリムのことを気遣っていた。マサソイト酋長が初めてイギリス人に会った時、部族の数人の男がイギリス水夫の謂われのない攻撃で殺されていた。ピルグリムがプロビンスタウンに上陸したときにトウモロコシの埋蔵品を盗んだことも知っていた。ティスクアンタムは西暦1614年にイギリスの探検家トマス・ハントに拉致され、最初はスペイン人僧侶団の奴隷として売られた。続いてイングランドに渡って、ヨーロッパで5年間白人の教育を受け過ごしてきていた。西暦1619年、探検家フェルディナンド・ゴルジュの通訳兼案内人として植民地行きの船に乗り故郷に戻ってきた。マサソイト酋長とその部族員が船の乗組員を皆殺しにしてティスクアンタムを取り戻した。サモセットはその夜をプリマスで過ごし、マサソイト酋長の部族員との会合を手配する約束をした。
サモセット酋長は、西暦1621年03月22日にティスクアンタムを含むマサソイト酋長の代理人らと共にプリマス入植地に戻ってきた。マサソイト酋長自身もその後間もなく加わった。ティスクアンタムはワンパノアグ族のマサソイト酋長とピルグリムが平和と友情の条約を結ぶのを仲介した。贈り物の交換後にマサソイト酋長とカーバー知事は正式な平和条約を結んだ。この条約では、お互いに相手に害を及ぼすようなことをしないこと、マサソイト酋長はその同盟者がプリマス入植地と平和的な交渉を行うように使者を送ること、戦争が起こった場合は互いに協力して戦うことが盛り込まれていた。マサソイト酋長は部族の調停者として、この調停に加わっている。しかし、先住民(アメリカ・インディアン)における酋長とは、「調停者」であり、白人が思い込んでいるような「指導者」や「首長」ではない。ティスクアンタムも「調停者」として、新参者のピルグリムと先住民との間で和平調停を行った。
ピルグリムが現れるまでの過去十年間、ワンパノアグ族は近隣のミクマク族(Mi'kmaq)やナラガンセット族との抗争と、白人が持ち込んだ疫病の3回に渡る流行に悩まされており、マサソイト酋長はピルグリムとの同盟がワンパノアグ族の置かれた状況を好転させると期待していた。マサソイト酋長がピルグリムと結んだ条約にはプリマス入植地のために12000エーカー(48.5 km2)の土地を譲渡することが含まれていた。先住民(アメリカ・インディアン)にとって土地は誰のものでもなく、白人の土地所有の概念のように恒久的に占有するものではなかったから、そもそもマサソイトがこの「土地の譲渡」を理解していなかった。。。先住民間の抗争と白人の持ち込んだ疫病でワンパノアグ族の人口はひどく低下していた上、ワンパノアグ族の土地に現れたイギリス人の数はまだ少なく、しかも前年の冬をようやく生き延びたような有様であったため、この条約が後にワンパノアグ族の不利益になるとは考えなかった。西暦1661年にマサソイト酋長が死ぬまではピルグリムとの平和条約は守られ、両者は比較的平和に共存していた。
気の毒に思ったワンパノアグ族はピルグリムに食糧や物資を援助した。マサソイト酋長とその一党が去ると、ティスクアンタムはプリマス入植地に残って、ニューイングランドで生き残る方法をピルグリムに教えた。ティスクアンタムは先住民の農耕や漁撈、狩猟やトウモロコシを始めとする農作物の栽培方法を教え、ピルグリムを飢えから救った。ピルグリムに冬の数ヶ月を生き延びさせてしまった。ピルグリムは先住民から農耕法を教わり、作物を選んだ。トウモロコシ、スカッシュ、南瓜、豆類およびジャガ芋を育てた。ピルグリムは先住民から死んだ魚を肥料にすることを学び、農業生産性を改善した。「全てを共有する。」という先住民(アメリカ・インディアン)の文化に従って、ワンパノアグ族はピルグリムに惜しみなく食糧を与え、ピルグリムを助けたのである。 先住民の作物以外にも、旧世界の作物を持ち込んだ。蕪、人参、エンドウ豆、小麦、大麦、オート麦だった。ウィスキーは先住民(アメリカ・インディアン)を酔わせ、土地権利書に署名させるために大いに活用された。「夢による啓示」を重要視する先住民たちはウィスキーに耽溺し、身を滅ぼしていくものも多かった。
04月05日、プリマス港にほぼ4ヶ月停泊したままだったメイフラワー号がイングランドに向かって船出した。入植当初の状況は厳しく、翌西暦1621年の04月までに102人のピルグリム・ファーザーズの半数程が病死した。ウィリアム・ブラッドフォードは「この最初の船で共にやってきた100人の中で、ほぼ半数が死を免れなかった。彼らの多くは2、3ヶ月のうちに死んだ。」と書き記したコールズヒルの墓の幾つかが西暦1855年に掘り出された。その遺骸はプリマス・ロックの近くに移葬された。
メイフラワー号が去って間もなく、カーバー知事が突然亡くなった。ウィリアム・ブラッドフォードがその後継者に選ばれ、植民地の成長期の多くの期間を引っ張っていくことになった。
マサソイト酋長が約束したように、多くの先住民が西暦1621年の中頃にプリマス入植地を訪れ、和平を誓った。07月02日、ピルグリムの一隊がエドワード・ウィンスローの引率で、酋長との交渉を続けるために出発した。この中には通訳としてティスクアンタムも含まれていた。数日間の移動後に、一行はマサソイト酋長の本拠、ナラガンセット湾に近いソワムズ集落に着いた。食事と贈り物の交換後に、マサソイト酋長はイギリス人と排他的交易盟約を結ぶことに同意し、この地域にしばしば現れて交易を行っていたフランス人を排除することになった。ティスクアンタムは一行を離れてその付近を歩き回り、幾つかの部族と交易関係を築いていた。
07月遅く、ジョン・ビリングトンという名の少年が入植地の周りの森の中でしばらく行方不明になった。「少年はノーセット族に発見された。」と記録されている。ノーセット族はピルグリムが前年の最初の探検中にトウモロコシの種を盗んだケープコッドの先住民と同族だった。ピルグリムはジョン・ビリングトンをプリマスに戻して貰うために代表団を組織した。ピルグリムは少年を返還して貰う替わりに盗んだトウモロコシをノーセット族に弁償することに同意した。この交渉はその地域の先住民の和平確保に発展した。ジョン・ビリングトンの解放についてノーセット族と交渉している間に、ピルグリムはマサソイト酋長が経験しつつある問題を知った。マサソイト酋長、ティスクアンタムおよび数人のワンパノアグ族がコービタント酋長らのいるナラガンセット族に捕まっていた。マイルス・スタンディッシュを指導者とする10人の部隊が組織され、コービタントを探して処刑するために出発した。コービタントは酋長であって、指導者のような部族を「率いる」存在ではない。しかしピルグリムはこれを理解できないから、彼を捉え処刑したがったのである。コービタントを探している間に、ティスクアンタムが逃げ、マサソイトも部族に戻ったことが分かった。スタンディッシュの部隊によって、数人の先住民が傷つき、プリマス入植地で治療を受けた。スタンディッシュの部隊はコービタントを捕まえることには失敗したが、武力を示したことで先住民からはピルグリムに対して一目置かれ、その結果、その地域で勢力を持つ部族のうち、9人の酋長が、この中にはマサソイトやコービタントも含まれていたが、ジェームズ国王に対する忠誠を誓う条約に09月に署名した。先住民は文字を持っていないから、「署名」というのは名前の代わりに「✕印」を書き込むというものだった。
その年の秋は各作物が大豊作であったため、ピルグリムは神の恵みとワンパノアグ族の助力に感謝し、恐らく10月早くに収穫の祭を開いた。「全てを共有する。」という先住民(アメリカ・インディアン)の文化に則って、生き残ったピルグリム51人にマサソイト酋長たちワンパノアグ族からも90人が入植地を訪れ、入植者が購った多くの種類の水鳥、野生の七面鳥および魚と、ワンパノアグ族が気前よく与えた5頭の鹿を饗宴に供され、3日に渡る祝宴が行われた。料理が不足すると、ワンパノアグ族のマサソイト酋長は部族から追加の食料を運ばせた。
ピルグリムは感謝祭として知られる祭りは認識していたが、それは清教徒分離派信徒の幸運のために、神を崇め感謝する敬虔な儀式だった。ピルグリムが感謝祭と呼んだ最初のものは西暦1623年に行われたものだった。この時、「新たな移民と物資が到着する。」という知らせが届いたことに反応したものだった。この出来事は恐らく07月に起こり、まる一日の祈りと礼拝、およびささやかな祝宴が行われた。この祝宴が現在の感謝祭の起源である。プリマス入植地はやがてニューイングランドの最初の植民地となった。
西暦1621年11月、ピルグリムがニューイングランドに最初の一歩を記してからほぼ1年後に、マーチャント・アドベンチャラーズによって送られた2番目の船が到着した。フォーチュン号には37人の新しい入植者が乗っていた。しかし、船の到着が予想されたものではなく、多くの補給物資も無かったので、入植者が増えたことは植民地の資源に歪みを齎すことになった。フォーチュン号の乗客の中には、ライデンの清教徒分離派信徒が数人混じっていた。ウィリアム・ブリュースターの息子のジョナサン、エドワード・ウィンスローの兄弟のジョン、およびフィリップ・ド・ラ・ノイエだった。ノイエは後に姓をデラノに変え、奴隷商人で財を成し子孫が悪魔の32代アメリカ合衆国大統領フランクリン・デラノ・ルーズベルト(FDR)である。フォーチュン号はまた、マーチャント・アドベンチャラーズからの手紙も運んできた。それは彼らの支援に対して約束していたメイフラワー号に載せて返すはずの商品が無かったことで植民地を非難するものだった。フォーチュン号は500ポンドの価値のある商品を載せてイギリスへの帰途に就いた。それは負債の返済スケジュールを守る以上のものだった。しかし、フォーチュン号はイギリスに船荷を届ける前にフランスに捕獲されてしまい、プリマス植民地にとってさらに大きな負債を作ってしまった。
西暦1622年05月、スパロー号という船が、この地域で新しい入植地を探す目的でマーチャント・アドベンチャラーズに派遣された7人の男達を運んできた。その後2隻の船が続き、60人の全て男の入植者を運んできた。彼らは07月と08月をプリマス入植地で過ごした後、北へ向かって現在のウェイマスに入植し「ウェサガセット」と名付けた。「異邦人」と「特殊人」の存在はピルグリムにとってはかなりの悩みの種だった。西暦1623年には、2つの集団の間にクリスマスの祝い方について紛争が発生した。ピルグリムにとってクリスマスは特別な意味を持たなかった。更に「異邦人」の集団が近くにウェサガセットの入植地を造った時、ピルグリムは感情的にも資源の面でも、異邦人の規律の足りなさに強く神経を逆撫でされた。結果的にウェサガセットの入植地は失敗し、ピルグリムはこれを罪深い民に対する神の摂理と見做した。
ウェサガセット入植地は短命に終わったが、土地の先住民(アメリカ・インディアン)とイギリス人との間の政治的な関係を劇的に変えるような出来事を起こすことになった。「ウェサガセットに対する先住民の武力による反発がある。」という報告を受けて、マイルス・スタンディッシュはウェサガセットを守るための民兵隊を組織した。しかし、マイルス・スタンディッシュは何の攻撃も無かったことが分かったので、先制攻撃を掛けることにした。先住民から攻撃が無かったのに、ピルグリムは進んで攻撃を仕掛けたのである。「スタンディッシュの襲撃」と呼ばれているこの事件で、マイルス・スタンディッシュはマサチューセッツ族の「傑出した2人の軍事指導者」と思い込んでいる先住民2人を、食事を共にし交渉を行うという名目でウェサガセットの宿舎に誘き出した。先住民の社会は合議制であり、「軍事指導者」などというものは存在しない。マイルス・スタンディッシュは指導者と想定される者の殺害を企んで、これを実行したのである。マイルス・スタンディッシュの部隊は何の疑いも抱いていなかった2人の先住民を刺し殺した。オブタキーストという土地の酋長がマイルス・スタンディッシュの部隊に追跡されたが、ウェサガセットで捕まえた3人のイギリス人捕虜と共に逃げてしまい、捕虜は後に処刑された。ウェサガセットは短期間で放棄され、残った者はプリマス入植地に合流した。
マイルス・スタンディッシュの騙し討ちによる先住民(アメリカ・インディアン)虐殺の話は、先住民の間に直ぐに広まった。多くの先住民は、さらなる虐殺を恐れて、集落を捨てて逃げ出した。マイルス・スタンディッシュの襲撃は取り返しがつかないほどにその地域の人間関係を傷つけた...それは新たな平衡状態が生まれる前のことだった。先住民はその家を諦め、取り乱した人のようにあちこち走り回り、沼地や荒れ地に住んで、種々の病気を流行らせ、そして多くが死んだ。 土地の部族から供給される毛皮という交易手段を失い、ピルグリムはマーチャント・アドベンチャラーズに対する負債を払うための収入源を失った。「スタンディッシュの虐殺」は、地元の縄張りを強化するというよりもむしろ、植民地に悲惨な結果を齎した。プリマス植民地の富の大きな源泉は毛皮貿易だった。マイルス・スタンディッシュがウェサガセットで先住民を騙し討ちした襲撃で、白人は先住民の信用を失った。この虐殺が引き起こした交易の混乱は、植民地の者に多年大きな苦境を強いることになった。ウィリアム・ブラッドフォードはマーチャント・アドベンチャラーズに送った手紙に次の様に記している「我々は交易に大損害を受けた。我々が毛皮を得ていたインディアンがその住まいから逃げ出したからだ。」植民初期の経済的な困難さを生んだ要因となった。植民地の者はその替わりに漁業で収入を得ようとした。ケープコッド湾の海は優れた漁場として知られていた。しかし、植民者は漁撈技術が欠如しており、それほど経済的困難さを救う効果が無かった。プリマス植民地は地域全体との交易を行い、はるか遠いメインのペノブスコットまで交易基地を造った。ニューアムステルダムのオランダ人ともしばしば交易を行った。マイルス・スタンディッシュの虐殺による唯一の利点は、ピルグリムが密接に同盟を結んでいる、マサソイト酋長らワンパノアグ族の力を増大させたことだった。
マイルス・スタンディッシュ
当初からマイルス・スタンディッシュがプリマス植民地の軍事的指導者だった。マイルス・スタンディッシュは最初の部隊を組織してニューイングランドに足を踏み入れ、プロビンスタウン港に着いたときはケープコッドの探検隊を率いた。3回目の探検隊の時もマイルス・スタンディッシュが率いていたが、最初の遭遇と呼ばれる出来事で、マイルス・スタンディッシュがピルグリムとしてインディアンへの最初の発砲を行った。最終的にプリマスに着いた時、入植地の防御配置を決めたのは、ライデン大学で軍事工学に関する訓練を積んできたマイルス・スタンディッシュだった。マイルス・スタンディッシュは最初の冬の02月に動ける男を軍隊組織に繰り入れた。2度目の冬には、入植地を囲む大きな防柵を設計し建設の手配をすることに関わった。
マイルス・スタンディッシュは初期に2回インディアン集落に対する襲撃を率いた。1回目は白人にとって「叛逆者」であるコービタントを見付けて罰するためのもので、これは不成功に終わった。2回は、「スタンディッシュの襲撃」と呼ばれるウェサガセットでの残酷な虐殺だった。最初の頃は土地の先住民(アメリカ・インディアン)の尊敬を集める効果があったが、2回目の時は、先住民を怯えさせ逃散させ交易の収入の道が閉ざされた。
西暦1623年07月、2隻の船が到着し、新たに96人の入植者を運んできた。アンソニー・ダイク船長のアン号とその10日後に着いたリトルジェイムズ号だった。ライデンから来た人々の中にはウィリアム・ブラッドフォードの未来の妻、アリスが含まれていた。アン号で来た入植者の中には辺境での生活に適合できず、あるいは植民地にとって望ましくない者も居り、翌年イングランドに戻った者もいた。グリーソン・アーチャーに拠れば、「残った者達はマーチャント・アドベンチャラーズとの協定下に植民地に加わろうとはしていなかった。彼等は自分達の社会に入植する、あるいは少なくともプリマスの入植者が規制されている制約を受けないという、マーチャント・アドベンチャラーズとの合意の上でアメリカに渡ってきていた。入植者に宛てられ、商人13人の署名がある手紙には、これらの事実が挙げられ、新参の者は特有の条件で受容されることを促していた。」新しく到着した者達には、プリマス・ロックの1マイル (1.6 km) 南、ホブス・ホールと呼ばれるイール川沿いの土地が当てられ、後にウェリングスリーとなった。 西暦1623年09月、別の船で失敗したウェイマスの植民地を再度建設する入植者が到着し、一時的にプリマスに滞在した。西暦1624年03月には、更に何人かの入植者と初めての牛が到着した。西暦1627年の牛を分割する表では、156人の植民者が13の植民地のそれぞれ12の区画に分かれていた。もう1隻、これもメイフラワー号と名付けられた船がライデンの清教徒分離派信徒35人を西暦1629年08月に運んできた。西暦1629〜1630年に着いた船は多くの乗客を運んできた。正確には分からないが、西暦1630年01月までにプリマス植民地にはおよそ300人が居た。西暦1643年に軍隊に従軍できる男性が600人いたことは、全人口は2000人くらいになった。プリマス植民地を解散することになる前年の西暦1690年、最も人口の多いプリマス郡の総推計人口は3055人だった。この時の植民地全体の白人人口はおよそ7000人だったと推定できる。西暦1630〜1640年の間、つまりピューリタン大移住の時代にマサチューセッツ湾植民地だけで2万人以上の白人入植者が到着したと推定される。また、西暦1678年のニューイングランド全体のイギリス人人口は6万人台で、プリマスが最初の植民地であるという事実にも拘わらず、マサチューセッツ湾植民地に吸収されるとき、プリマス植民地は比較的小さかった。
植民地の家族構成は「核家族」が普通であり、近い親戚は近くに住んだ。成人になった者は家を出て自身の世帯を造ることが期待された。両親と生まれた子供が同じ家に住むことに加えて、多くの家庭は他の家庭から子供を預かることもあり、また年季奉公の従僕を抱える家庭もあった。より裕福な家庭は奴隷を所有したプリマス植民地の富裕な家庭ではアフリカ西海岸から輸入した黒人奴隷を所有しており、白人の年季奉公とは異なり、「個人の所有物」として、他の財産と同様に相続された。奴隷の所有はそれほど広く行われていたわけではなく、所有するために必要な富がまだ蓄積されていなかった。西暦1674年、マーシュフィールドのトマス・ウィレット船長の財産目録には、200ポンドの価値で「8人の黒人」と記されている。当時の他の財産目録でも奴隷の資産価値は1人当たり24〜25ポンドであり、多くの家庭の財政能力を超えていた。西暦1689年のブリストルの町の統計では、そこに住む70家族の中で1家族のみが奴隷を所有していた。植民地の中に奴隷の数が少なかったので、議会は黒人奴隷に関する法律を通すことも無かった。
子供達はだいたい8歳くらいまで、母親の直接庇護のもとに置かれ、その後に他の家族の里子に出されることが希ではなかった。このようなやり方で子供を外に出すことには多くの理由があった。里子に出されてから商売のやり方を学んだり、読み書きを教えられる子供がいた。植民地で決定されるほとんど全ての事項と同様に、子供を里子に出すことには宗教的な理由があったと思われる。子供の実の親は子供に対する愛情が深く、適度に鍛えることが出来ないと考えられた節がある。他の家庭環境に子供を置くことで、子供が甘やかされて駄目にされる危険性が減った。
法律は犯罪とそれに対する刑罰も定めた。死刑に相当する幾つかの犯罪があった。裏切り、殺人、魔術の行使、放火、同性愛、強姦、獣姦、姦通ならびに実の親を冒瀆したり殴ったりすることだった。実際に死刑を執行することは極めて希で、唯一、性に関連する西暦1642年のトマス・グランジャーによる獣姦事件は死刑が執行された。西暦1679年にエドワード・バンパスという男が「両親を殴り虐待した」廉で死刑を宣告されたが、精神異常という理由で重い鞭打ち刑に変えられた。最も知られた死刑の適用はジョン・ササモン殺人の廉で告訴された先住民の例であろう。このことが「フィリップ王戦争」の原因となった。名目上死刑に値する犯罪でも、姦通は通常公的に辱められることで扱われた。姦通を犯した者は、ナサニエル・ホーソーンの小説「緋文字」の中のヘスター・プリンと同様に衣類に「A.D」の文字を縫い込んだものを着ることを強制された。
プリマス植民地の住人は初期の移住者と後から来た者とを区別し、入植者の第1世代は西暦1627年以前に到着した者と一般に考えられ、自分達で「古い来訪者(Old Comers)」あるいは「種を蒔く人(Planters)」と呼んだ。後の世代は第1世代のことを「先祖(Forefathers)」と呼んだ。

アメリカ・インディアン史 第3版 - ウィリアム・T. ヘーガン, 西村 頼男, 島川 雅史, 野田 研一
ピルグリムの入植地の拡大により、やがては「先住民(アメリカ・インディアン)の土地をよこせ。」と要求し始めた。先住民(アメリカ・インディアン)にとって土地は共有財産であり、誰のものでもなかった。しかしピルグリムの要求は、先住民全てを立ち退かせる排他的なものだった。当然ながら先住民は激怒した。またピルグリムはこの取り決めを「公平」に「条約」で行おうとし、その署名者として彼らの酋長を選んだ。しかし急激に増加した白人の入植者は、先住民の土地を売るように要求したり、強引な耶蘇教への改宗強制や、先住民に不利な裁判を行い、先住民の白人に対する反感を買い始めた。先住民に「土地を売る」という概念はそもそも無かったし、個人の選択として宗教を受け入れることはあったが、部族全体を従わせようとする白人の思考は先住民共同体には理解不可能だった。しかし先住民の社会は、白人の独任制と違い、合議制である。、元より部族を代表する首長や君主は存在しない。酋長はあくまで調停者であって、部族を代表する者ではないが、白人にはこれが理解できなかった。ピルグリムは酋長と盟約すればワンパノアグ族は納得するものと思い込んだが、これは全くの思い違いであった。
しかし間もなく、ピルグリムは入植範囲を拡げ始め、先住民(アメリカ・インディアン)との間で土地と食糧を巡って対立が発生し戦闘が起き、イギリスから次々侵入してきた狂信者(カルト)、白人、耶蘇教徒によって大量虐殺、民族浄化、強制移住が行われた。
西暦1620年にプリマス植民地を築いたピルグリムは西暦1630年、マサチューセッツ湾植民地を形成し、その後、大移住の時期となり、植民地は成長を続けた。ピクォート族(Pequot、マシャンタケット・ピクォート族(Mashantucket Pequot))の居住地近くの土地に侵入し、ピルグリムが持ち込んだ天然痘により、天然痘に対して免疫力があまりなかったマサチューセッツ族の大半は病死した。当初はピルグリムは、ピクォート族と条約を結び土地を購入するという形で、品物交換を行うなどとも好関係を保って共存していたが、ピルグリムは次第にピクォート族の領土に入植地を拡大していった。 この頃から清教徒が大挙して入植するようになり、ピルグリムが勝手にピクォート族の土地に入り込むというような形になり、敵対するようになった。
ニューイングランドで最初の全面戦争は西暦1637年のピクォート戦争だった。戦争の原因は西暦1632年に遡る。現在のコネチカット州ハートフォード近くのコネチカット川渓谷の支配権を巡ってオランダ人毛皮交易者とプリマス植民地の役人との間に紛争が起こった。オランダ東インド会社とプリマス植民地双方の代表は、「ピクォート族から土地を公正に購入した。」と主張した。しかし先住民に「土地を売買する。」という文化は無く、彼らはこれを理解していない。また酋長は全権委任された代表でも部族長でもないので、「書類に酋長が『✕印』を書いたからこの土地から出て行け。」と白人に言われても、先住民は納得するはずがなかった。先住民の土地で、先住民(アメリカ・インディアン)、イギリス人、オランダ人の代理戦争が始まった。
マサチューセッツ湾植民地とプリマス植民地のイギリス人入植者が、その地域に入ろうとするオランダ人を追い出そうとしていたので、土地の奪い合いが起こっていた。イギリス人入植者の流入はピクォート族にとっても脅威だった。また、ピクォート族のサッサクス(Sassacus)酋長はピクォート族とモヒガン族(Mohegan)を支配していたが、次第に両者は敵対し、ピクォート族はニアンティックへ侵入するため南下し、彼らの領域をコネチカット川にまで拡大していった。ピクォート族はナラガンセット湾とコネチカット川に追い詰められている事に気付き、ピルグリムとの関係は悪化していった。この地域のもう1つの同盟部族であるナラガンセット族とモヒガン族は元からピクォート族の敵であり、イギリス人の側に付いた。
西暦1636年07月20日、交易業者のジョン・オルダムという1人の英国人入植者が殺害され船が捕獲された際、後に犯人は別の白人と言われたが、ピルグリムは「ピクォート族に殺害された。」と主張して犯人の引き渡しを要求した。サッサカス酋長は部族民による殺害を否定し、引き渡しには応じなかったため、入植者側はピクォート族の対応に納得せず、報復を決意した。先住民には裁判等により裁断する制度が無く、事件は当事者間の話し合いにより解決していたため、解決を第三者に委ねることになる容疑者の引き渡しは容認できなかった。犯人はナラガンセット族であった。西暦1634年に有名な密輸業者であり奴隷商人であったジョン・ストーンと彼の仲間7人が、数人の女性を誘拐しようとしたことと、ピクォート族の酋長タトベムをオランダ人が殺害したことへの報復として、西部ニアンティック族によって殺害されたことが端緒となった。ナラガンセット族の長老カノンチェットとミアントノモはジョン・オルダムの死に対して賠償を申し出たが、マサチューセッツ湾のヘンリー・ベイン知事はブロック島への遠征を命じた。ジョン・エンディコットによるピクォート族集落の襲撃の報復のため、西暦1636年冬〜1637年春にかけてピクォート族は、植民者の要塞セイブルック砦などへ攻撃を加え、西暦1637年04月、ピクォート族戦士によるウェザーズフィールドへの報復攻撃を生み、30人ほどのイギリス人入植者が殺された。さらにナラガンセット族にも同盟を呼びかけたが、ピルグリムはこの切り崩しに成功した。これがさらに報復を呼び、西暦1637年07月、ジョン・アンダーヒル大尉とジョン・メイソン大尉に率いられたピルグリム90人と、それに協力する数百人のモヒガン族とナラガンセット族とが、現在のミスティック近くにあったピクォート族の村を襲撃した。村は一方的に破壊され、村にいた600人以上(400〜700人とも)のピクォート族が虐殺された。その多くが女性や子供など非戦闘員だった。プリマス植民地は実際の戦闘にほとんど関わらなかった。生き残ったピクォート族は2つに分かれて逃げた。これはピクォート戦争と呼ばれ、ニューイングランドで発生した最初のインディアン戦争(民族浄化)となった。
ピクォート族はロングアイランドへ逃げた一団と、サッサカス酋長たちの一団に二分された。サッサカス酋長たちの一団は、ニューヘブン近くやコネチカットのフェアフィールド近くで捕まり、白人たちに殺害されたり、ニューイングランド周辺やバミューダ諸島に奴隷として売られたり、またイギリス人に協力した部族に報酬として与えられた。奴隷とされ生き残った数名以外は殺された。サッサカス酋長(指導者ではない)自身も逃亡したものの、モホーク族に捕えられて殺害され、彼に導かれたピクォート族は事実上根絶やしにされた。その後、ピクォート族の土地はモヒガン族に全て占領された。ワンパノアグ族のマサソイト酋長はピルグリムとの友情関係から、中立を保っていた。
ピクォート戦争に続いて、ニューイングランドの4つの植民地、マサチューセッツ湾植民地、コネチカット植民地、ニューヘイブン植民地およびプリマス植民地が、ニューイングランド植民地連合と呼ばれる防衛盟約を結成した。エドワード・ウィンスローは、その外交力で知られていたが、植民地連合の主唱者となった。エドワード・ウィンスローがライデンに居たときのネーデルラント連邦共和国で積んだ経験が同盟を作るために使われた。植民地連合は連合規約の前身で、連合規約はアメリカ合衆国全体を統括する政府の最初の試みだった。
マサソイトには5人の子供がいたが、西暦1661年に亡くなると、ワンパノアグ族の新酋長(部族の調停役)は長男ワムスッタ(Wamsutta、ワムサダ)に、次いで次男メタコメット(Metacomet、メタコム)に受け継がれた。先住民(アメリカ・インディアン)の酋長を「王」か「部族長」と無知にも思い込んでいたピルグリムに、西暦1656年に「アレキサンダー王」と「フィリップ王」の仇名を付けられた。ワムスッタ酋長の未亡人ウィータムは、メタコメットの同盟者であるポカセット族であり、彼の生涯の友人であった。メタコメットはウィータムの妹ウトネカヌスクと結婚した。
ピルグリムは入植地を拡大して行こうとしていたので、ワムスッタは父マサソイトが白人と築いた同盟を維持するのは微妙な状態に置かれていた。ワムスッタは先住民文化の基本である、合議の話し合いの中で、「白人がかつて父との間で結んだ条約は不平等条約であり異議がある。」とイギリス植民地政府に申し出た。先住民から見れば、マサソイトが結んだ「条約」は、あくまでマサソイトと白人の個人的な取り決めである。また先住民に「土地を売り買いしたり譲渡する。」という文化は存在しなかったので、そもそも彼らは「条約」を理解していなかった。そしてイギリス人は植民地問題を解決するため、西暦1662年プリマスのイギリス植民地政府はワムスッタをプリマス入植地に呼び出した。白人は「大酋長のワムスッタと盟約すれば、ワンパノアグ族全員がこれに従うだろう。」と考えた。ワムスッタはピルグリムが父との間で結んだ条約を破って入植地を拡げ、ワンパノアグ族を追い出していることに対してプリマス植民地政府に抗議した。ワムスッタはプリマス植民地での間に病気になり、村に帰る途中に謎の死(毒殺)を遂げた。ワンパノアグ族は「白人がワムスッタを毒殺した。」と主張し激しく怒った。
酋長ワムスッタの死で弟で24歳のメタコメット(メタコム)がワンパノアグ族の酋長(世話役)の座を承継し、一族の優れた調停者となった。酋長は、「部族長」ではないし、「戦争指導者」でもない。白人にとって戦争には司令官が必要なものであり、メタコメット酋長は正にその「司令官」たる「大酋長」に見えた。しかしメタコメットは合議制の中の世話役に過ぎず、部族が合議で白人との交戦を決めたからこれに従い、合議に逆らう行いを白人がしたから、部族員は合議の結果、侵略者の白人に対して戦いを挑んだのであって、メタコメット個人がこれを率いたわけではない。しかし、白人はメタコメット酋長を「首謀者」だと誤解し、これを酋長の仇名を取って「フィリップ王戦争」と名付けた。
戦争の原因はイギリス人入植者が増え続け、土地の要求も増えていったことだった。先住民からの「土地購入」が増えるにつれて、先住民は狭い領土内に制限されることになった。メタコメット酋長の様な先住民の調停者達は、土地が失われていくことに不満を抱き、それを遅らせるかあるいは取り戻すかする方法を探していた。ピルグリムとの関係はさらに悪化して行った。メタコメット酋長も兄ワムスッタと同様に調停者として最大の努力を払い、ピルグリムとの友好関係を続けていくことに苦心していた。特に関心が向けられたのは、スワンシーの町の建設であり、そこはワンパノアグ族の首都(大集落)マウントホープから数マイルしか離れていなかった。プリマス植民地の議会が軍事力を使ってワンパノアグ族の土地を町の入植者に売却するよう強制し始めた。メタコメット酋長は「入植者がワンパノアグ族の土地を奪い、生活の基盤である森や猟場を荒らしてはワンパノアグ族を大量虐殺し、女性や子供を奴隷として売り飛ばした。」としてイギリス植民地政府に抗議した。しかし植民地側がワンパノアグ族の抗議を無視したため、しかし誇り高いワンパノアグ族とメタコメット酋長は、合議の結果、部族の土地を侵すピルグリムに対して、ついに宣戦布告の準備を始めた。
紛争の引き金になったのは、西暦1675年のジョン・ササモンという「祈るインディアン」の死だった。ジョン・ササモンはメタコメット酋長の助言者であり友人でもあったが、ジョン・ササモンは耶蘇教に改宗し、ハーバード大学のインディアン・カレッジで学んだワンパノアグ族で、2人は決別していた。西暦1675年06月25日にだジョン・ササモンが、プリマス植民地の総督ジョシア・ウィンスローに「ワンパノアグ族のメタコメット酋長が白人に対して戦争準備をしている。」と通報した。その後ジョン・ササモンは別部族の先住民に殺された。12名のイギリス人と6名の「祈るインディアン」の陪審員は殺人罪の先住民の被告を有罪とし死刑を宣告した。今日、メタコメットの部下が実際に殺人を犯したのかも疑念がある。ササモンの殺人で告発されたのは、メタコメット酋長の最も上位の副官の何人かだった。そもそも酋長(世話役)であるメタコメットに、「部下」など存在しない。先住民の社会では、同党の立場であって、「上司」や「部下」など命令系統は存在しない。全ては白人の思い込みで酋長が「告発」されたのである。
ワンパノアグ族はマウントホープに近いその本拠で戦いの準備を始めており、イギリス人農園を襲ってその資産の掠奪を始めた。これに反応してマーシュフィールド出身のジョサイア・ウィンスロー知事は民兵隊を招集し、ワンパノアグ族の首都マウントホープに向けて進軍を始めた。西暦1675年06月、戦争が始まった。
ニューイングランドの先住民(アメリカ・インディアン)部族はこれ以上白人の暴虐を許せなかった。メタコメット酋長らのワンパノアグ族は、同じアルゴンキン諸部族のニアンティック族(Niantic)、ペナクック族(Pennacook)、ノーセット族(Nauset)と同盟を結んでいて協力してプリマス植民地を攻撃した。攻撃されたプリマス植民地のピルグリムは、銃や剣や大砲や点火棒を振りかざし、アルゴンキン諸部族と敵対していたモヒガン族とモホーク族などの部族を味方に付け全面戦争が勃発し、ワンパノアグ族を襲ってこれを虐殺した。この戦争で600人の白人入植者と4000人以上の先住民(アメリカ・インディアン)が死んだ。先住民側はニプマック族やナラガンセット族も参戦。プリマス入植地総督のジョシア・ウィンスローはナラガンセット族の婦女子を大虐殺し、怨みを買っていた。ワンパノアグ族は、身代金を取るために武装していない女性や子供を攻撃した。そのような攻撃の1つで、メアリー・ローランドソンを捕まえ、その小さな子供達を殺した。捕虜になったメアリー・ローランドソンの備忘録が当時の先住民(アメリカ・インディアン)の文化について伝えている。
戦争は西暦1675年の残りと翌年までシチュエート村、ダートマス村などで続いた。戦争はマサチューセッツ植民地とコネチカット植民地を引き込んでのニューイングランド全域に及んだ。先住民は52の町を襲撃し、12の町を壊滅させた。西暦1676年に入ると、ニューイングランド植民地連合軍は、植民地で採用された民兵(ミニットマン(minute man、「招集されたらライフルを持って1分で駆けつける男」の意))を活用し反撃した。
イギリス人は先住民を会戦に持ち込もうとしたが、先住民がこれを避けてゲリラ戦の形態を採ったので、イギリス人は常に面食らうばかりだった。ベンジャミン・チャーチ大尉は友好的な先住民の協力を求める動きを続けており、メタコメット達のやり方であるとしても先住民との戦い方を学ぼうとしていたが、どの先住民も潜在的な敵と考え信用しないプリマス植民地の指導者達にそのやり方を拒絶されていた。最終的に、ウィンスロー知事とプリマス植民地の軍事指導者ウィリアム・ブラッドフォード少佐(故人となったウィリアム・ブラッドフォード知事の息子)が折れて、ベンジャミン・チャーチ大尉にイギリス人と先住民の連合軍を作る許可を与えた。ベンジャミン・チャーチ大尉はサコネットとの同盟を結び、共同軍で大きな戦いを避けまくっていたメタコメット酋長の追跡を始めた。メタコメット酋長たちは、現在のマサチューセッツ州南部の広大なアッソワンプセット湿地に避難した。
西暦1676年の07月中、ベンジャミン・チャーチ大尉の部隊は何百もの先住民を、大きな戦闘もなく捕まえたが、メタコメット酋長は逃れ続けた。ベンジャミン・チャーチ大尉はイギリス側に付くことに同意した先住民捕虜に恩赦を与える許可を得たので、その部隊は大きく脹れ上がった。ナラガンセット族のカノンチェット酋長(白人は指導者と見ていた)が04月03日に逮捕され処刑された。白人に対して叛旗を翻し戦いを挑んだワンパノアグ族では3ヶ月後の08月12日にメタコメット酋長はダートマス村(現在のロードアイランド州ブリストル)のホープ山近くのミエリー湿地で、ポカセット族のジョン・アルダーマンに射殺された。メタコメット酋長を含むほとんどのワンパノアグ族は虐殺され、160人が降伏し降伏者は後に奴隷に売られた。
死んだメタコメット酋長の遺体は白人達により八つ裂きにされ、メタコメット酋長の首は切断され頭蓋骨は槍の先に突き刺されて、ピルグリムのプリムス村(現マサチューセッツ州プリマス)の門標に見せしめとして24年間晒された。彼の身体は4等分に切断され、木に吊るされ、狩猟戦利品としてメタコメット酋長の右手が村議員に与えられた。そして捕虜となったメタコメット酋長の妻ウトネカヌスクと8歳の息子を始めとする先住民(アメリカ・インディアン)達は奴隷としてバミューダ諸島に奴隷として売り飛ばされ、病気や過酷な労働の中で死んだ。
先住民に「司令官」はいないという、彼らの文化は侵略者には理解できなかった。侵略者はただメタコメット酋長を「戦争を始めた首謀者」と一方的に見做し、理不尽な辱めをこれに与えて勝利を祝った。
この戦争で600人の白人侵略入植者と4000人以上の先住民が犠牲となり死んだ。イギリス人成人男性人口の8%が死んだと見積もられている。しかし先住民に与えた影響はもっと大きかった。多くの者が殺され、逃亡し、奴隷として他所に売られたので、ニューイングランドの先住民人口は60〜80%は減ってしまった。西暦1620年には約5000人と推定されるワンパノアグ族の人口は、フィリップ王戦争の後には約400人にまで激減した。
侵略者の移住で、先住民(アメリカ・インディアン)の人口は激減した。最初はウェサガセットでの「スタンディッシュの襲撃」であり、これが先住民達を恐怖させ、多くはその集落を捨てて飢餓と疫病で多くの者の死という結果になった。次はピクォート戦争であり、その結果はピクォート族の壊滅と地域の力関係の変化ということになった。3番目はフィリップ王戦争であり、ニューイングランド南部の先住民総人口の80%が死亡または逃亡という形になり、地域の人口構成に劇的な変化を及ぼした。多くの先住民がカリブ海や他の地域にプランテーション用の奴隷として売り飛ばされた。
侵入してきたピルグリム・ファーザーズを可哀そうに思ったワンパノアグ族のマサソイト酋長は「全てを共有する。」という先住民(アメリカ・インディアン)の文化に従って、ワンパノアグ族はピルグリム・ファーザーズに惜しみなく食糧を与え、農耕や漁撈、狩猟やトウモロコシを始めとする農作物の栽培方法を教え、ピルグリム・ファーザーズを飢えから救い、生き延びさせた。ところが、この耶蘇教清教徒分離派の狂信者(カルト)は、先住民(アメリカ・インディアン)やワンパノアグ族やマサソイト酋長に感謝するのでは無く、神YWHWに感謝した。
ワンパノアグ族の土地を奪い、生活の基盤である森や猟場を荒らしてはワンパノアグ族を大量虐殺し、女性や子供を奴隷として売り飛ばし、騙し討ちで大量虐殺、民族浄化、強制移住を行った。
命の恩人のマサソイト酋長を騙し、マサソイト酋長の長男ワムスッタは毒殺し、次男メタコメットの遺体を八つ裂きにし、首を切断し頭蓋骨を槍の先に突き刺し、ピルグリムのプリムス村の門標に見せしめとして24年間晒した。彼の身体を4等分に切断し、木に吊るし、狩猟戦利品として右手をピルグリムに与えた。メタコメット酋長の妻ウトネカヌスクと8歳の息子を始めとする先住民(アメリカ・インディアン)達は奴隷としてバミューダ諸島に奴隷として売り飛ばし、病気や過酷な労働の中で殺した。理不尽な辱めを与えて勝利を祝った。
その後400年にわたって、人間とは言えない鬼畜米英の、恩知らずで悪虐残忍、野蛮で破廉恥な蛮行は変わらず続いている。

終わりなき戦争国家アメリカ―インディアン戦争から「対テロ」戦争へ - 土井 淑平
イングランドから来た清教徒たちの手によってショーマット半島に築かれたマサチューセッツ湾植民地は、西暦1620年にプリマス植民地(現在のマサチューセッツ州ブリストル郡、プリマス郡、バーンスタブル郡)を建設した入植者(ピルグリム)とは異なる宗派である。現在のボストンはオリバー・クロムウェルの擡頭から王党派であるアンソニー・アービー一族の地盤だった。ウィリアム・ブラクストン(William Blaxton)は、西暦1623年に失敗したフェルディナンド・ゴージス卿(Sir Ferdinando Gorges)のアメリカ遠征隊に参加したが上陸することはなかった。フェルディナンド・ゴージス卿は西暦1622年にメイン州設立に尽力したことで、新世界に足を踏み入れていないのも拘わらず、「北米における英国植民地の父」という。ウィリアム・ブラクストンは、最終的に西暦1623年後半にその後のフェルディナンド・ゴージス卿の次男のロバート・ゴージュ(Robert Gorges)の遠征隊に従軍牧師としてキャサリン号に乗って到着した。 この遠征隊は現在のボストンから8マイル南にあるウェイマスに上陸した。西暦1625年までにウェイマス植民地は崩壊し、ウィリアム・ブラクストン以外はイングランドに戻った。ウィリアム・ ブラクストンは残り、四方を干潟に囲まれた湿地帯の地峡の端にある1平方マイルの岩の隆起まで北に8マイル移動した。 こうしてブラクストンは、後にボストンとなる場所に定住した最初の入植者となった。 彼はショーマット半島の西端(現在のビーコンヒルの麓ダウンタウンにある中央公園)に住んでおり、5年以上完全に孤独であった。
西暦1629年、アイザック・ジョンソンは食糧不足のためセイラムを離れ、近くのチャールズタウンに清教徒とともに上陸した。ウィリアム・ブラクストンとアイザック・ジョンソンはケンブリッジ大学のエマニュエル・カレッジの同窓生で、 チャールズタウンの岩だらけの高地には、簡単に掘削できる井戸がなく、困っているのを見てウィリアム・ブラクストンは、西暦1630年09月にアイザック・ジョンソンと清教徒のグループに宛てて優れた天然泉を宣伝し、自分の土地に呼び寄せた。 西暦1630年09月07日に、この半島の入植地はブラクストンによって「ショーマット」として知られ、ウィリアム・ブラクストンが呼び寄せた清教徒入植者には「トリマウンテン」として知られていたが、アイザック・ジョンソンは、妻アーベラ(アーベラ川の名前の由来)とジョン・コットン(コットン・マザーの祖父)とともにニューイングランドに移住した故郷、町の守護聖人である聖ボトルフに由来するリンカンシャー州ボストンの名をこの入植地に付けた。 ジョン・コットンはリンカンシャー州ボストンの教会でアイザック・ジョンソンとともに移住するまで牧師を勤めていた。
会衆派(Congregational)のボストン教会はその教会員にのみ自由民の資格を与えて、宗教上の目的を優先する神政政治を実施した。クエーカー教徒などの宗教的反体制派を処刑し始めたため、急速にその考え方が急進的原理主義的になっていた。
ケンブリッジ大学ペンブルック・カレッジ出身の牧師ロジャー・ウィリアムズは、西暦1631年に移住し、イギリス国教会から分離をしようとしない会衆派を批判した。さらにロジャー・ウィリアムズは、植民地が先住民(アメリカ・インディアン)から土地を購入していない点に疑問を呈したことで追放され、ロジャー・ウィリアムズはボストンの南のプロヴィデンスに移住し、猶太教まで含めた信仰の自由を実現するロードアイランド植民地の建設の構想を抱き、西暦1644年に本国政府から特許状を取得した。西暦1634年に移住してきたアン・ハッチンソンは、会衆派の教義の核心を突く批判をした。彼女はカルヴァンの予定説を極端に推し進め、全能の神のみが人の救いを決定し、人間の地上での行いは神の救いに全く関係がないと主張し、この批判はマサチューセッツ植民地の統治を根本から揺るがすほどの危険を孕んでいたため、指導者らは1637年にハッチンソンを総会に召集し審問、追放した。クエーカー教徒に対する弾圧も厳しく行われた。クエーカーは、「内なる光」を通じて神と交信し導きを受けるという信仰であったが、全能の神にひたむきに従おうとする清教徒の教義とは相容れなかった。クエーカー教徒は西暦1650年代にボストンに上陸しようとしたが、ただちに植民地外に追放され、西暦1658〜1661年までの3年間には4人のクエーカー教徒が絞首刑に処せられた。
アイザック・ジョンソンの死後、聖公会(英国国教会)のウィリアム・ブラクストンは、会衆派のボストン教会の清教徒指導者らと折り合いが悪くなり、西暦1635年、ウィリアム・ブラクストンはボストンの南約35マイル(56km)、当時先住民(アメリカ・インディアン)がポータケット川と呼んでいた川(今日ではロードアイランド州カンバーランドのブラックストーン川として知られている。 )沿岸に移動した。彼はその地域初の白人入植者で、ロジャー・ウィリアムズがプロビデンス植民地を設立する1年前に到着した。ウィリアム・ブラクストンが定住した地域は西暦1691年まではプリマス植民地の一部であったが、西暦1741年まではマサチューセッツ湾植民地の管轄下となった。 最終的にはロードアイランド植民地とプロビデンス植民地の一部となった。 彼は牛の世話をし、庭に造り、リンゴ園を耕し、アメリカ産リンゴの最初の品種である「イエロー スウィーティング」を栽培した。 彼は自宅を「スタディ・ヒル」と呼び、当時の植民地で最大の図書館と言われていた。ウィリアム・ブラクストンの友人には、ナラガンセット族のミアントノミとキャノンチェット、ワンパノアグ族のマサソイトとメタコメットが含まれていたがが、西暦1675年頃、フィリップ王戦争中に彼の図書館と家は焼失した。
ロジャー・ウィリアムズとウィリアム・ブラクストンブラクストンは多くの神学的問題に同意しなかったが、彼らは生涯の友人のままであった。ロジャー・ウィリアムズは頻繁に彼をプロビデンス植民地で説教するよう招待し、ロードアイランド州の他の教会でも説教した。
西暦1684年に本国が植民地の特許状を取り消し閉鎖してしまった。西暦1691年10月07日に「プリマス植民地をメイン植民地などと共にマサチューセッツ湾植民地に付属する。」という公式宣言がなされ、マサチューセッツ湾岸県が設立された。この宣言は翌年05月14日に有効になった。
植民が拡大するとともに先住民(アメリカ・インディアン)との抗争も拡大した。植民政府は軍を派遣し、周辺の先住民部族を徹底虐殺した。彼らの侵略に対し、ことに激しく抵抗して見せたのはモホーク族をはじめとするイロコイ族だった。軍の司令官だった後の初代大統領ジョージ・ワシントンは、イロコイ族絶滅作戦を指揮し、「彼らを徹底的に根絶やしにするように。」と指令した。ジョージ・ワシントンは兵たちに、殺した先住民(アメリカ・インディアン)の皮を剥ぎとらせ、軍装の飾りにさせた。
イロコイ族やワンパノアグ族、ポウハタン族など、ニューイングランドの先住民連合部族は、集落1つ1つを徹底的に破壊し虐殺するジョージ・ワシントンの焦土作戦のためにその数を急速に減らしていった。彼ら先住民(アメリカ・インディアン)は白人たちから見れば狼と同種のけだものだった。ジョージ・ワシントンは彼らについて、「インディアンも狼も生贄となるべきけだものだ。」と述べた。白人たちはバッファローの周りをうろつく狼たちを「怠け者の狼ども(loafer wolves)」と呼んだが、植民地の砦の周りをうろつくインディアンのことも「怠け者のインディアン(loafer Indians)」と呼んでいた。
西暦1628年のマサチューセッツ湾植民地開設から約10年後、マサチューセッツ議会は狩猟に関する植民地法を公布したが、それはこのような文言だった。「特に用もない場合、またはインディアンか狼を相手にする場合以外は、いかなる狩りの場であっても銃を撃つことを禁止する。」
フィリップ王戦争先住民(アメリカ・インディアン)連合による「叛乱」は、白人たちの圧倒的勝利によって終わり、徹底的な植民地における民族浄化は先住民(アメリカ・インディアン)の数を激減させた。しかし白人たちの先住民(アメリカ・インディアン)駆除方針はなお止まなかった。植民地の周辺に生活する先住民(アメリカ・インディアン)たちを、根こそぎ滅ぼそうとしたのである。ジョージ・ワシントンの軍や入植白人たちは、植民に邪魔なインディアンと狼の皆殺しを徹底して進めた。「フィリップ王戦争」で白人に味方した先住民(アメリカ・インディアン)部族も、戦争が終われば入植の敵だった。侵略者たちは彼らもその虐殺の対象とした。
入植白人たちは、毒入りの肉や、天然痘に感染した先住民(アメリカ・インディアン)の毛布を狼に与えた。猟犬を放って、狼や先住民(アメリカ・インディアン)の子供を攫って来させ、殺した。先住民(アメリカ・インディアン)に対する民族浄化は、清教徒指導者たちによって後押しされた。ニューイングランドの支配層の1人で、ピューリタンの主教だったコットン・マザーは、先住民(アメリカ・インディアン)を狼に例えて次のように述べている。「道で狼たちの貪欲な遠吠えを聞いたら、そいつらを力強く追いかけて、奴らを皆殺しにするまで帰ってくるべきではない。奴らを風の前のちっぽけな埃としてぶちのめすべきだ。」
猟犬はインディアン民族の駆除に最も有効とされた。西暦1703年には、植民地の宗教指導者ソロモン・ストッダードが、マサチューセッツ知事に対して正式に、「インディアンを追跡する際に、入植民たちが弱腰にならないように。」と、猟犬の一群の購入予算を議会に提案している。この際、ソロモン・ストッダードはこう付け加えている。「犬は、インディアンに対する最大の脅威だ。犬は多くの敵を処刑し、大勢の足の早いインディアンたちを捕まえてくれるだろう。」続いてソロモン・スタッダードはニューイングランドの宗教界代表としてこう発言した。「インディアンが人間だとするなら、このような方法で彼らを追跡するのは残酷に見られるかもしれない。しかし、実際のところ、インディアンは狼だ。それに、やつらは狼として取り扱われることになっている。」
先住民(アメリカ・インディアン)と狼の絶滅は、入植政府、ニューイングランドのキリスト教教会を含む、マサチューセッツ湾植民地の第一目標だった。
ボストンには、今も昔も侵略のための人材育成と研究の機関、ハーバード大学がある。アメリカ最古の高等教育機関であるが、いつの時点で発足したのかは明確になっていない。西暦1636年09月18日に招集されたマサチューセッツ湾植民地の議会で「学校またはカレッジ」新設のために資金支出が議決され、創立年と見做されている。西暦1639年、清教徒派の牧師ジョン・ハーバードが遺贈したマサチューセッツ湾植民地の年間予算よ同額の財産と蔵書をもとにカレッジとしての活動が本格的に稼働し始めたため、この名がある。この隣に黒人奴隷市場が出来て、奴隷商人で財を成した子孫が悪魔の32代アメリカ合衆国大統領フランクリン・デラノ・ルーズベルト(FDR)である。ジョン・ピアポント・モルガン(John Pierpont Morgan)に猶太と鬼畜の陳列棚、ディープステイトの悪魔の跳梁跋扈する魔窟である。
イギリス人は先住民(アメリカ・インディアン)を奴隷として使うことも、彼らと共存していくこともせず、滅亡させようと決意した。しかし、トウモロコシや綿花のプランテーションには労働力が必要で、反抗的な先住民(アメリカ・インディアン)と違い、故郷の土地からも文化からも切り離され、無気力状態になった黒人に頼るようになった。法律で黒人に読み書きを教えることさえ禁じ、無知蒙昧な状態にして、彼らを思いのままに支配しようとした。

アメリカン・フロンティアの原風景―西部劇・先住民・奴隷制・科学・宗教 - 高野 一良
「刑事コロンボ」と同姓で、日本では姓をラテン語表記で英語化した、「クリストファー・コロンブス」と呼ばれる、侵略者にして虐殺者、クリストバル・コロン(西語: Cristóbal Colón、伊語: Cristoforo Colombo、英語: Christopher Columbus)は、スペイン王室の援助を得て日本の黄金を奪取するため、西暦1492年10月12日、アメリカ大陸の一角、カリブ海に浮かぶバハマ諸島の、先住民ルカヤン族が暮らすグアナハニ島(Guanahani)に到着した。クリストバル・コロンは島上陸後にスペイン語で「聖なる救世主」の意味で「サン・サルバドル島」と命名した。クリストバル・コロンはこの島で掠奪を働き、次に10月27日、クバナカン島(現在のキューバ島)に到達し掠奪し、スペイン王国の王族に因んで「フアナ島」と名付け、12月06日にはアラワク族(タイノ族)がアイティ(Haiti)、ボイオ(Bohio)、キスケージャ(Quesquiya)と呼ぶ島をイスパニョーラ島と名付けに到達し掠奪した。クリストバル・コロンは西暦1493年には17隻1500人で第2回掠奪航海に出た。西暦1495年03月、コロンブスは数百人の装甲兵と騎兵隊、そして訓練された軍用犬からなる一大軍団を組織し、スペイン人の持ち込んだ疫病に倒れた先住民アラクワ族の村々を徹底的に攻撃し、数千人単位の虐殺を指揮した。 あらゆる部族の子供以外の先住民が、3ヶ月以内に一定量の黄金を差し出すよう脅迫された。金を届けた先住民(アメリカ・インディアン)には、「スペイン人に敬意を表した。」という証しとして、その男女に首かけの標章が贈られた。金の量が足りなかった者は、男だろうと女だろうと手首が斬り落とされた。 先住民は逃げて、飢饉はさらに悪化した。スペイン人が運び込んだ疫病は、栄養失調となった先住民たちの弱められた身体をより激しく蝕んだ。そしてクリストバル・コロンと同じく、スペイン軍は面白半分に男を殺し女を犯す楽しみを決して止めなかった。 クリストバル・コロンは捕虜にして縛り首にするか、火炙りにした。彼の子孫はスペイン王室よりベラグア公爵とラ・ベガ公に叙され、現在までスペイン貴族の公爵家として続いている。
イスパニョーラ島には25万人の先住民がいたが、西暦17世紀には1人もいなくなった。こうして南北アメリカ大陸での鬼畜欧州人の侵略と歴史が始まった。それは先住民の大量虐殺と奴隷貿易が始まった。
奴隷貿易は西暦15世紀半ばからポルトガルが始め、オランダ、スペイン、イギリス、フランスが加わった。奴隷船はヨーロッパの各港から大西洋を南下してアフリカに向かい、西アフリカの奴隷貿易拠点で奴隷を購入して船に積み込み、大西洋を渡って南北アメリカの各地に上陸し、ここで奴隷が砂糖やコーヒー、綿花などと交換され、各地のプランテーションに送られ、この植民地産物はヨーロッパ本国に持ち帰られる。ここで莫大な利益を得たのがヨーロッパの奴隷商人たちで、その金が産業革命を支える資本の原始的蓄積となった。
大航海時代のアフリカの黒人諸王国は相互に部族闘争を繰り返しており、奴隷狩りで得た他部族の黒人を売却する形でポルトガルとの通商に対応した。ポルトガル人はこの購入奴隷をカリブ諸島(西インド諸島)に運び、カリブ海全域で展開しつつあった砂糖生産のためのプランテーションに必要な労働力として売却した。奴隷を集めてヨーロッパの業者に売ったのは、現地の権力者である黒人やアラブ人商人である。初期の奴隷貿易は、ヨーロッパ人商人、冒険家、航海者などが、自己の利益のために自己負担で行った私的なもので、小規模なものであった。その後、中南米地域の植民地化に伴う先住民(インディオ)人口の激減、植民地のヨーロッパ系人口がなかなか増えないこと、熱帯地域において伝染病によるヨーロッパ系移民の死者が多発していたことなどで、労働者が不足するようになっていた。また、ヨーロッパ産の家畜は植民地で数が増えにくく、農耕の補助に家畜が使えなかった。こうした理由により、当時の理論では熱帯性の気候に慣れて伝染病にも強いと考えられた黒人が労働力として注目されるようになり、奴隷取引は次第に拡大していく事になった。しかし、奴隷狩りから奴隷貿易への転換は、中南米植民地の開発よりもずっと早い西暦1450年代に起こり、カシェウ(ポルトガル領ギニア(西暦1588〜1974年)、現ギニアビサウ共和国(西暦1974年〜))、ゴレ島(現セネガル共和国(西暦1960年〜))、聖アンデレ島(ジェームズ島、現クンタ・キンテ島)(現ガンビア共和国(西暦1965年〜))、ウィダー(現ベナン共和国(西暦1990年〜)のギニア湾に面する奴隷海岸)、サントメ(現コンゴ共和国(西暦1960年〜))などの地元勢力が、戦争捕虜や現地の制度下にある奴隷現をポルトガル商人に売却するようになった。西暦1480年代にはエルミナ城(黄金海岸)が建設され、ポルトガルとスペインで独占的な奴隷貿易会社ギニア会社が設立されるにいたった(勅許会社)。
この時代、カリブ海地域のスペイン領向けとして、ポルトガルの独占下で奴隷を売ってもらえないイギリスの冒険商人による奴隷狩りが散発的に行われ、中でもジョン・ホーキンスとフランシス・ドレークの航海は有名だが、白人による奴隷狩りはごく稀だった。その後、奴隷貿易の主導権がオランダ、フランス、イギリスなどに移り変わっても、特許会社が現地に要塞/商館/収容所兼用の拠点を置き、現地勢力が集めた奴隷を買い取って収容し、それをさらに船に売り渡すという形式のみとなる。そして時代が下るにつれて、ウィダー王国(西暦1580頃〜1727年)、ダホメ王国(西暦1600〜1900年)、セネガンビアなど西アフリカ地域の黒人王国は、奴隷貿易で潤うようになった。売られた人々は元々、奴隷、戦争捕虜、属国からの貢物となった人々、債務奴隷、犯罪者などだったが、コンゴなどでは、ヨーロッパ人に売却する奴隷狩りを目的とする遠征も頻繁に行われた。西暦16世紀には、ナイジェリア(ラゴス)などでも奴隷をポルトガル商人に売却するようになった。黒人の非人間的な扱いは、すでにアフリカで始まっていた。捕らえられた黒人は鎖に繋がれて海岸まで歩かされ、その距離は時に1000マイル(約1600q)にもなった。こうした「死の行進」の間に、40%の黒人が命を落とした。何とか海岸に辿り着いても、売られるまで檻に閉じ込められた。
英領アメリカ植民地では西暦1619年に最初の黒人奴隷の記録がある。オランダ船「ホワイトライオン」がメキシコへ向かうスペイン船と交戦し50〜60人の奴隷化された黒人を奪取した。このスペイン船は江戸時代初期に仙台藩で建造されたガレオン船である。仙台からスペイン(イスパニア)やローマへ赴いたルイス・ソテロ、支倉常長ら慶長遣欧使節の渡航の中で、太平洋の横断に使用された。慶長遣欧使節から買い取ったサン・ファン・バウティスタ号(西語: San Juan Bautista)であり、マニラで在英大使に譲渡された後に大使の親戚のマヌエル・メンデス・デ・アキューナに渡り、ルアンダから350人の奴隷を調達し輸送する途上だったと言われる。ホワイトライオンは交戦で損傷しており、さらに晩夏の大きな嵐によってその程度がひどくなった状態でヴァージニアのジェームズタウン(50km離れたハンプトン説も)に到着した。ヴァージニア植民地は後に「大移住」と呼ばれる時期の最中にあり、住民は450人から4000人にまで増えていたが、疫病、栄養失調、先住民との戦いによって極端に死亡率が高く、働ける労働者の比率は低かった。ホワイトライオンは修理と補給物資を必要としており、植民地人は労働力を必要としていたので、奴隷20人と食糧や用役とが交換された。この20人が北米大陸へ最初に上陸した黒人奴隷と認識されている。
黒人たちは当初から、奴隷にされることに抵抗し、仕事を怠けたり逃亡したりした。しかし逃亡が見つかると、奴隷たちは火で焼かれ、手足を切られて死刑にされた。一方で、白人の入植者たちが黒人奴隷の集団的な叛乱を酷く恐れていた。
西暦18世紀になると、イギリスのリヴァプールやフランスのボルドーから積み出された銃器その他をアフリカに齎し、原住民と交換し、さらにこうして得た黒人をカリブ諸島(西インド諸島)に売却し、砂糖などをヨーロッパに持ち帰る三角貿易が発展した。また、アフリカでは綿布の需要が多いことにイギリスの資本家が目をつけ、マンチェスターで綿工業を起こした。イギリス産業革命の基盤である綿工業は、奴隷貿易が呼び水となって開始されたことが注目に価する。バークレー銀行の設立資金やジェームズ・ワットの蒸気機関の発明に融資された資金は奴隷貿易によって蓄積された資本である。
いよいよ奴隷船に乗せられると、暗い船倉でまたもや互いに鎖で繋がれた。1人分は棺桶ほどの広さしかなかった。不衛生な船倉にぎゅうぎゅう詰めにされ、窒息死する者、苦しみのあまり海へ身を投げる者まで出た。航海中に3分の1が死亡した。それでも奴隷貿易は儲かるため、奴隷商人は黒人たちを魚のように船に詰め込んだ。
約3世紀に及ぶ奴隷貿易で大西洋を渡ったアフリカ原住民は1500万人以上と一般には言われているが、約1200万人と考えられている。なお、奴隷狩りに伴う戦闘や移動させられる途中の落伍などで生じたであろう、奴隷がヨーロッパの特許会社の収容所に集められるまでの犠牲者の数については、正確な記録が無いため全くわからないが、様々な推定から「輸出」された人数の少なくとも半分(0.5倍)〜5倍程度に達するとの見積もられている。
アメリカ独立戦争が起こる100年前の西暦1676年、ヴァージニア植民地で怒れる貧しい入植者たちが特権的な植民地政府に対して叛乱を起こし(ベイコンの叛乱)、首都ジェームズタウンに火が放たれた。ヴァージニア総督ウィリアム・バークリー卿は町から逃げ出し、イギリスは4万人の入植者を統制するために軍隊を送った。武装した叛乱軍に加わったのは、西部開拓の最前線に送り込まれた白人の辺境民と、奉公人、白人の年季奉公人(イギリスで職を失い、5〜7年間、主人のためにアメリカで働いて渡航費用を返済する)と黒人奴隷だった。彼らは「植民地総督を怠慢で無能と糾弾し、法律と税金は不公平で厳しすぎる。」と訴えた。
西暦18世紀になると、アメリカは農業、造船業、貿易が発達し、大都市の人口は2倍、3倍と拡大した。少数の富める者たちは、北アメリカ大陸にイギリスとそっくり同じ階級社会を実現しようと考えた。彼らが最も恐れたのは、黒人奴隷と貧困白人(プア・ホワイト)が結束して第2のベイコンの叛乱を起こすことだった。そこで白人と黒人が手を組むのを阻止する手段の1つとして、人種差別主義を使った。つまり、人種差別は黒人と白人の肌の色の違いから齎される「自然な感情」ではなく、分断支配をおこなうための意図的な政策だった。叛乱前のヴァージニアでは、黒人奴隷は稀であった。これはその費用が高く、アフリカから黒人奴隷を連れてくる貿易業者がいなかったためであった。多くの黒人は年季奉公として連れて来られ、年季が明けたあとは自由の身になった。ヨーロッパからの年季奉公者は叛乱後もヴァージニアでその役割を続けたが、アフリカからの奴隷輸入の動きが急速に高まり、新しい法律が制定されて奴隷は終生のものとなり、その子供にも及ぶようになった。アフリカ人を最下層とする人種に基づく階級性が作られ、ヨーロッパからの最貧の年季奉公者でもその上の階級となった。このことはベイコンの叛乱の間に存在した貧乏なイギリス人と黒人に共通の利益が失われたことを意味した。
さらなる植民地領土を奪い合って、西暦1754年頃からオハイオ川の上流の流域を含めたオハイオ領土(現在のペンシルベニア州西部)では、グレートブリテン王国(イギリス王国)とフランス王国の対立が顕著になった。ヌーベルフランスはオハイオに一連の砦を築き始め、グレートブリテン王国の進出を阻止する構えを見せた。ヴァージニア植民地政府の命を受けたジョージ・ワシントンは西暦1754年春から夏にかけて、ヴァージニアの民兵を指揮しデュケイン砦を占領しようとしたが、優勢なフランス軍に敗れた。七年戦争(西暦1754/1756〜1763年)の発端は、ヌーベルフランスと、ヴァージニア植民地からノバスコシアに至るまでのイギリス人入植地との境界を舞台に繰り広げられフレンチ・インディアン戦争(西暦1754〜1763年)であり、アレゲニー川と、モノンガヘラ川が合流する場所(現在のペンシルベニア州ピッツバーグ)で起きた紛争だった。この紛争は西暦1754年05月28日、ジョージ・ワシントン率いるヴァージニア植民地民兵隊と同盟軍であるミンゴ族の兵が、ジョゼフ・クーロン・ド・ヴィリエ・ド・ジュモンヴィユ率いるヌーベルフランスの巡回民兵を待ち伏せして起こした、ジュモンヴィルグレンの戦いである。いずれも、本国からの援助を得て戦闘が行われた。西暦1756年、この戦争は北アメリカの地域紛争から世界的な戦争、七年戦争(西暦1754/1756〜1763年)に発展した。英仏両陣営はそれぞれイロコイ連邦を始めとする先住民(アメリカ・インディアン)部族と同盟を組み、彼らに代理戦争をさせた。どちらが勝っても先住民(アメリカ・インディアン)にとってすれば、また彼らの領土が白人に強奪される結果となった。
ヴァージニア植民地で黒人奴隷の輸入が増え、奴隷人口が目立って増加し始めたのは西暦1680年代からであった。西暦1720年には黒人奴隷の数は総人口6万6000人のうち1万3000人を占めるようになった。ヴァージニア植民地において労働力の供給源を白人の年季契約奉公人から黒人奴隷に切り替えたのは、ベイコンの叛乱がきっかけであり、「奴隷労働に依存するほうが社会的安定が保たれる。」と考えたからである。奴隷人口の増加が顕著になってくると、各植民地では奴隷に関する法規が整備され、法的にも確立した制度となった。ヴァージニア植民地では西暦1657年に黒人の年季奉公人に関しては「年季の追加をもってしても損害の賠償は不可能。」と定められたが、これは西暦1740年代から慣習となっていたものを確認したものであった。また西暦1661年に、黒人女性の生んだ子供の身分は父親の身分にかかわらず奴隷の身分を受け継ぐことが明文化され、西暦1667年には「奴隷が洗礼を受けても自由身分となることはできない。」と定められた。その後次々に奴隷に関する法規が作られ、西暦1705年には包括的な奴隷法が制定された。この法律はそれまでの慣習を集大成したもので、既にヴァージニア植民地における奴隷制に確固としたものになっていた。奴隷に関する法規は奴隷の身分を規定するだけでなく、奴隷を管理することを目的とするようになった。西暦1723年には労働や礼拝以外の目的のための奴隷の集会を禁止し、逃亡を重罪とし、暴動を謀議したものを死罪と定めた。
王領植民地となって以降、大幅な自治が任され、ヴァージニア植民地では比較的平和な時代が続くようになった。煙草の生産は飛躍的に増大し、船が遡れる川に沿った土地には次々とプランテーションが築かれた。
ヴァージニア植民地では黒人奴隷がプランテーションの労働力として使用されたが、西暦18世紀を通じて白人農民も増大し、黒人奴隷が人口の過半数を占めることはなかった。広大な後背地を持っていたヴァージニア植民地はタイドウォーター地域の西のピートモンド地域が発展し、植民地時代末期には北アメリカ大陸の植民地で最も多くの人口を持つ植民地となった。白人人口で比較しても、最大であった。タイドウォーター地域にも多数の中小農民がおり、西部には多くの白人農民が進出し、主として小麦を生産した。煙草は海外市場での価格変動が著しかったため、プランテーションでは作物を多様化して穀物生産に重点を置くようになった。その結果、小麦および小麦粉は、煙草に次ぐ第2の輸出商品となった。
北アメリカ大陸で最大の人口を誇ったヴァージニア植民地は、独立直前の西暦1770年になっても、都市らしい都市を持たない植民地であった。ヴァージニア植民地政府が置かれていたジェームズタウンでは、マラリアなどの疫病が頻繁に発生した。そのため西暦1699年、植民地政府はジェームズタウン近郊の街ウィリアムズバーグに移転した。植民地政府が置かれたウィリアムズバーグは人口2000人程度の街であり、ヴァージニア植民地最大の貿易都市ノーフォークでも人口は6000人程度であった。ヴァージニア植民地は湾と川が多い地形で、物資を運ぶ船が集中する都市ができにくかった。そのため植民地の産物を海外の市場に運んで売却する商人階級を生み出さなかった。ノーフォークに住んでいたのは、スコットランドから移住したスコットランド商人の代理人たちであった。
悪鬼「アメリカ建国の父たち」の真顔 その1
アメリカ合衆国独立宣言またはアメリカ合衆国憲法に署名した政治的指導者、あるいは愛国者達の指導者としてアメリカ独立戦争に関わった徒輩で、アメリカ合衆国憲法制定会議に出席した55人の代議員をアメリカ合衆国建国の父(ファウンディング・ファーザーズ、Founding Fathers of the United States)と呼ぶ。55人の当然全てが独立革命に関わり、少なくとも29人は大陸軍に従軍し、ほとんどが指揮官の職にあった。35人が弁護士で、13人が商人、 6人は規模の大きい土地投機家、11人は大規模に証券投資家、12人は奴隷労働によるプランテーションあるいは大規模農場の所有者または経営者で、大統領になったのは初代ジョージ・ワシントン、67没)、2代ジョン・アダムズ(John Adams、90没)、3代トーマス・ジェファーソン(Thomas Jefferson、83没)、4代ジェームズ・マディソン・ジュニア(James Madison, Jr.)であった。この初代から4代の大統領の中で、大農園主でも黒人奴隷を持たなかった者は、2代大統領ジョン・アダムズだけである。
初代大統領ジョージ・ワシントンの高祖父、牧師ローレンス・ワシントン(Lawrence Washington)は3男3女の子を儲け、男子3人はイングランドのサルグレイブからアメリカのヴァージニア植民地に移住した。長男ジョン・ワシントン(John Washington、ジョージ・ワシントンの高祖父)は西暦1656年にアン・ポープと結婚し、アンの父から結婚祝いにノーザンネックのウェストモアランド郡マットクスクリークに700エーカー(2.8㎢)の土地を貰い、黒人奴隷や年季奉公による煙草や台所作物の作付けで裕福な農場主となった。ベイコンの叛乱に繋がる事件の間、ヴァージニアの民兵大佐に任命された。ヴァージニア総督ウィリアム・バークリー卿は更なる攻撃を避け、事態を沈静化させるために事情の調査を命じた。敵対者やインディアンの酋長との和平交渉中にメリーランド入植者を支援する一団を率いた。民兵は、様々な部族の6人の先住民の酋長を殺害した鬼畜である(ワシントンの虐殺)。先住民たちは虐殺に対し、入植者達を後に襲撃して報復しベイコンの叛乱が起こった。ジョン・ワシントンとアン・ポープの長男がローレンス・ワシントン(Lawrence Washington、ジョージ・ワシントンの祖父)で2人の弟妹がいた。父方の祖父ローレンス・ワシントンに因んで命名され、イギリスに留学し、オーガスティン・ワーナー・ジュニアの娘ミルドレッド・ゲイルと結婚した。次男オーガスティン・ワシントン(Augustine Washington、ジョージ・ワシントンの父)は、4歳の時に父が死亡しウェストモアランド郡ブリッジウクリークの1000エーカー(4.0㎢)の土地と奴隷を相続した。 父から640エーカー(2.6㎢)の土地を相続していた孤児ジェーン・バトラーと結婚した。煙草栽培、奴隷労働の差配、監督に加えて、地方政治、郡保安官を務めた。妻ジェーンとは4人の子供をなしたが2人だけが成長し、ジェーンの死後、孤児のメアリー・ボール(Mary Ball)と結婚した。ジョージ・ワシントンは、英領ヴァージニア植民地ウェストモアランド郡コロニアル・ビーチ南部に位置するポープズクリーク・プランテーションで、オーガスティン・ワシントンとメアリー・ボール・ワシントン(Mary Ball Washington)は6人の成長できた5人の子供の長男として生まれた。軍人、政治家の鬼畜の誕生日はユリウス暦1731年(当時イギリスでは03月25日が年初日とされていたため)02月11日、(グレゴリオ暦1732年02月22日)となっている。当時のイギリスおよび後にアメリカ合衆国として独立する地域ではユリウス暦を採用していたが、グレゴリオ暦の方が有名である。
後の西暦1828年、当時13歳の少年だったアーサー・マッカーサー・シニアは母親が再婚した継父の家族に連れられスコットランドからアメリカに移民した。その長男の侵略虐殺拷問の猟犬アーサー・マッカーサー・ジュニアは、南北戦争後一旦は除隊し、法律の勉強をしたが長続きせず兇暴な軍人に戻り、先住民(アメリカ・インディアン)、フィリピンの先住民族を絶滅させた。フィリピン駐留アメリカ軍司令官となり、実質的なフィリピンの植民地総督となり、フィリピン人の生き血を啜り利権を貪った鬼畜である。 その三男慾惚け卑劣で無能虚栄嘘吐きの恥さらしダグラス・マッカーサーは、フィリピン人フィリピン人と日本人の生き血を啜り利権を貪った鬼畜で、日本の国花の桜を詐話とはいえ伐ったことになっている、ジョージ・ワシントンの誕生日の昭和21(1946)年02月22日に、国際法違反の占領軍憲法(マッカーサー日本国憲法)の草案を賣國奴でマッカーサーの犬、幣原喜重郎首相を脅迫して閣議決定を強要した。
慾惚け卑劣で無能虚栄嘘吐きの恥さらし、ディープステイトの木偶人形、ダグラス・マッカーサー その1(フィリピン敵前逃亡まで)
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アメリカ人の物語4 建国の父 ジョージ・ワシントン(上) (アメリカ人の物語 第 4巻) - 秀和, 西川
ワシントンの一家は、黒人奴隷プランテーションを経営し、後には鉱山開発も手掛けた。ワシントン家はヴァ―ジニアでの指導層とまでは行かず、中流の郷紳であった。父のオーガスティンはジョージ・ワシントンが11歳の時に死に、14歳年長の異母兄の長兄ローレンスが父親代わりを務めた。
「子供の時桜の木を切ったことを父親に正直に話したら、かえって褒められた。」という詐話(ワシントンの斧 - George Washington's axe)は 、ジョージ・ワシントンの死後、メーソン・ロック・ウィームズ著の子供向けの「逸話で綴るワシントンの生涯」の中で第5版からいきなり現れる。「嘘をついてはいけない。」という教訓と売り上げ増進のためにメーソン・ロック・ウィームズが捏造したと考えらる。メーソン・ロック・ウィームズの毛歴が詐称で、ジョージ・ワシントンが子供の頃、西暦1745年前後にはアメリカ大陸に桜の木はなかった。
ローレンスの義父ウィリアム・フェアファックスもワシントンの人格形成に影響を与えた。ローレンスが父の遺産の大半を相続し、その農園をマウントバーノンと名付けた。ジョージはフェリー農園を相続し、ウィリアム&メアリー大学で測量を学び、ブルーリッジ山脈の西側の土地の測量から、新しく作られたカルピーパ郡の測量士として初めて公的な役職に就いた。西暦1752年02月04日にヴァージニアのフレデリックスバーグ・ロッジNo.4でフリーメイソンに加わった。同年07月に兄ローレンスが死去し、最初、ローレンスのマウントバーノンの農園を借り、最終的には相続した。ローレンスはヴァージニアの民兵隊長を務めており、その死後は4つの地区に分け、ジョージはその1つを継承し地区隊長、少佐となった。
西暦1754年05月28日、ジョージ・ワシントン率いるヴァージニア植民地民兵隊と同盟軍であるミンゴ族の兵が、ジョゼフ・クーロン・ド・ヴィリエ・ド・ジュモンヴィユ率いるヌーベルフランスの巡回民兵を待ち伏せして暗殺した(ジュモンヴィルグレンの戦い)。西暦1756年、この戦争は北アメリカの地域紛争から世界的な戦争、七年戦争(西暦1754/1756〜1763年)に発展した。英仏両陣営はそれぞれイロコイ連邦を始めとする先住民(アメリカ・インディアン)部族と同盟を組み、彼らに代理戦争をさせた。どちらが勝っても先住民(アメリカ・インディアン)にとってすれば、また彼らの領土が白人に強奪される結果となった。ワシントンの部隊はフランス軍に降伏し、降伏の条件にはジュモンビルグレンの戦いで「フランスの斥候と指揮官を暗殺した。」という項目が含まれていた。
西暦1759年01月06日にジョージ・ワシントンはニューケント郡パマンキー川の南岸にあるホワイトハウス・プランテーションの裕福な未亡人、マーサ・ダンドリッジ・カスティスと結婚した。ジョージ・ワシントンは裕福な未亡人マーサと結婚してその資産を増し、社会的地位を上げた。結婚した時にマーサの資産18000エーカー(73㎢)からその3分の1にあたる土地を取得し、マウントバーノンに移動し、妻のマーサも多数の奴隷を所有しており、ジョージ・ワシントンは上流階級の農園主で政治的な関わりを持つ貴族的な生活を送った。マーサの以前の夫、ダニエル・パーク・カスティスとの間にできた継子ジョン・パーク・カスティスとマーサ・パーク・カスティスの2人をジャッキーとパチィと呼び育てた。 ワシントン夫妻には子供ができなかった。ジョージ・ワシントンは天然痘に罹ったことがあり、無精子症と考えられる。西暦1775年までにマウントバーノンは2倍の6500エーカー(26㎢)となり、黒人奴隷を100人以上所有した。その後約8000エーカー(32㎢)にまで買い増した。
ジョージ・ワシントンは西暦1769年に高まった植民地の反抗で指導的な役割を担った。この時友人のジョージ・メイソンが起草した提案書で、タウンゼンド諸法が撤廃されるまではイギリス製品の不買運動をヴァージニア植民地に呼びかけ、西暦1774年の耐え難き諸法の成立を「我々の権利と主権に対する侵害」と見做した。07月、ジョージ・ワシントンは会議を主宰し、大陸会議の招集を求めるフェアファックス決議を採択した。08月、ヴァージニアの最初の会議に出席し、第1次大陸会議(ジョージア植民地を除く北米12植民地代表の集会)の代議員に選ばれ、西暦1776年、トマス・ペインの「コモン・センス」を読むまで彼は植民地の独立を支持しなかった。西暦1775年04月19日の日の出とともにレキシントンで誰が撃ったか不明な銃弾でレキシントン・コンコードの戦いが始まり、アメリカ独立戦争(西暦1775〜1783年)となった。ジョージ・ワシントンは第2次大陸会議(北米13植民地代表の集会)に軍服姿で現れ、戦争に対する準備ができていることを示した。大陸会議は06月14日に大陸軍を創設し、06月15日にフィラデルフィアで行われた大陸会議においてワシントンは植民地軍総司令官に任命された。マサチューセッツの代表ジョン・アダムスはジョージ・ワシントンの任命を司令官に推薦し07月03日に司令官に就任した。
西暦1779年、ジョージ・ワシントンはジョン・A・サリバン少将に、ニューイングランドのイロコイ族への攻撃命令を下した。ジョージ・ワシントンはこう命じた。「村落全てを破壊し、根絶やしにするように。同国を単に制圧するだけでなく、絶滅させるのだ。」この先住民(アメリカ・インディアン)に対する虐殺と絶滅の指令の際に、ワシントンは将軍にこう付け加えた。「彼らが根絶やしになる前に、なんでもいいから和平案があったら聞いておくように。」
アメリカ独立戦争はフランス王国、スペイン王国の軍事的支援を受けたアメリカ軍の優勢で進んだ。またロシア帝国(西暦1721〜1917年)皇帝エカチェリーナ2世は他のヨーロッパ諸国に呼びかけ、武装中立同盟を結んだ。このために英国は外交的にも軍事的にも孤立した。ジョージ・ワシントンは、ハノーヴァー朝(西暦1714〜1901年)イギリス王国(グレートブリテン王国)軍と9回戦って3回しか勝利できなかった。西暦1783年03月、大陸会議が一群の大陸軍士官に給料の遅配分を払うよう脅されたが、彼らを散会させた。
この戦争によってイギリスの覇権は制限されたが、イギリスの世界戦略に影響を及ぼすことも無く、勢力は維持された。逆にフランスは、北米植民地戦争の借りを返すことに成功したが、国家財政は底を突き、困窮を極めた。
この年、ジョージ・ワシントンは先住民(アメリカ・インディアン)を狼と比較して、嫌悪も露わにこう発言している。「姿こそ違えど、インディアンは狼と同様の猛獣である。(Indian’s and wolves are both beasts of prey, tho’ they differ in shape.)」、「インディアンも狼も生贄となるべきけだもの((beasts of prey)だ。」と述べた。彼ら先住民(アメリカ・インディアン)は白人たちから見れば狼と同種のけだものだった。ジョージ・ワシントンは彼らについて、白人たちはバッファローの周りをうろつく狼たちを「怠け者の狼ども(loafer wolves)」と呼んだが、植民地の砦の周りをうろつく政治的議論の中心課題になっのことも「怠け者のインディアン(loafer Indians)」と呼んでいた。ジョージ・ワシントンの軍や入植白人たちは、植民に邪魔なインディアンと狼の皆殺しを徹底して進めた。「フィリップ王戦争」で白人に味方した先住民(アメリカ・インディアン)部族も、戦争が終われば入植の敵だった。侵略者たちは彼らもその虐殺の対象とした。入植白人たちは、毒入りの肉や、天然痘に感染した先住民(アメリカ・インディアン)の毛布を狼に与えた。猟犬を放って、狼や先住民(アメリカ・インディアン)の子供を攫って来させ、殺した。先住民(アメリカ・インディアン)に対する民族浄化は、清教徒指導者たちによって後押しされた。ニューイングランドの支配層の1人で、ピューリタンの主教だったコットン・マザーは、先住民(アメリカ・インディアン)を狼に例えて次のように述べている。「道で狼たちの貪欲な遠吠えを聞いたら、そいつらを力強く追いかけて、奴らを皆殺しにするまで帰ってくるべきではない。奴らを風の前のちっぽけな埃としてぶちのめすべきだ。」
ジョージ・ワシントンが軍を指揮していた間、先住民(アメリカ・インディアン)を絶滅させる方針は一貫していて、ジョージ・ワシントンの軍隊はブーツトップやレギンスを作るためにイロコイ族の尻の皮を剥いだ。初代大統領就任時にも、先住民(アメリカ・インディアン)民族に対しては絶滅政策を採った。ニューイングランド領の先住民(アメリカ・インディアン)部族に対しては皆殺しを命じた。 イロコイ族やワンパノアグ族、ポウハタン族など、ニューイングランドの先住民連合部族は、集落1つ1つを徹底的に破壊し虐殺するジョージ・ワシントンの焦土作戦のためにその数を急速に減らしていった。
ジョージ・ワシントンによる虐殺を生き延びた先住民(アメリカ・インディアン)たちは、ジョージ・ワシントンを「町の破壊者 (Town Destroyer)」と呼んだ。エリー湖畔からモホーク川にかけて、30を数えたセネカ族の集落のうち、ジョージ・ワシントンの直接命令によって、ここまでの5年未満の間で28の町村が破壊し尽くされた。またこの中には、モホーク族、オノンダーガ族、カユーガ族の全ての町と集落が含まれていた。西暦1792年に、ワシントンについてイロコイ族の1人が次のような言葉を残している。「今では、ワシントンの名を聞いただけで、我々の女たちは後退りし、顔色が悪くなる。そして、我々の子供たちは母親の首にしがみつく。」
ジョージ・ワシントンは黒人を奴隷として所有していたのと同様に、アメリカ先住民族であるインディアンを人間扱いしていなかった。後に、アメリカ合衆国による先住民(アメリカ・インディアン)民族に対する民族浄化について、「インディアンの諸国を相手とする、我々のやり方の基本は『正義』であったし、それはこれからもそうでなければならない。」と述べている。
西暦1791年、議会は蒸留酒に酒税を課したが、これが特にペンシルベニア州の辺境での抗議を呼んだ。西暦1794年までにジョージ・ワシントンが抗議者は連邦裁判所に出頭するように命じたが、これで抗議はウィスキー税叛乱と呼ばれる全面的な暴動に変わった。知事達が軍隊を送りジョージ・ワシントンが指揮して叛乱地域に進軍した。 戦闘は行われなかったが、ジョージ・ワシントンの威嚇行動は連邦政府が強い軍事力を使って各州や市民にその権威を行使して恐喝する最初の機会になった。
アレクサンダー・ハミルトン(Alexander Hamilton)とジョージ・ワシントンは仏米同盟条約を維持しながら、ジョン・ジェイ(John Jay)が交渉にあたり、西暦1794年11月19日にジェイ条約を調印された。トーマス・ジェファーソンジェファーソンの一派はフランスを支持し、この条約を攻撃した。しかし、ワシントンとハミルトンは大衆世論を動かして、ワシントンへの支持を強調することで上院での条約批准を取り付けた。イギリスは五大湖周辺の砦を明け渡すことに同意し、カナダとアメリカの国境を調整し、独立以前にあった多額の負債を帳消しにし、またイギリス領西インド諸島とアメリカの貿易を開放した。最も重要なことはこの条約でイギリスとの戦争を回避し、その代わりにイギリスとの貿易が盛んな10年間を齎したことであった。この条約はフランスを怒らせた。
ジョージ・ワシントンとアメリカ合衆国とは、ジョージ・ワシントン残虐で忘恩、人でなしの覇権鬼畜
ピルグリム・ファーザーズ(巡礼始祖)は、飢餓を救った命の恩人の先住民(アメリカ・インディアン)の土地を奪い、生活の基盤である森や猟場を荒らしては先住民族を大量虐殺し、女性や子供を奴隷として売り飛ばし、騙し討ちで大量虐殺、民族浄化、強制移住、絶滅を行った。
命の恩人のマサソイト酋長を騙し、マサソイト酋長の長男ワムスッタは毒殺し、次男メタコメットの遺体を八つ裂きにし、首を切断し頭蓋骨を槍の先に突き刺し、ピルグリムのプリムス村の門標に見せしめとして24年間晒した。彼の身体を4等分に切断し、木に吊るし、狩猟戦利品として右手をピルグリムに与えた。メタコメット酋長の妻ウトネカヌスクと8歳の息子を始めとする先住民(アメリカ・インディアン)達は奴隷としてバミューダ諸島に奴隷として売り飛ばし、病気や過酷な労働の中で殺した。理不尽な辱めを与えて勝利を祝った。
ファウンディング・ファーザーズ(アメリカ合衆国建国の父)は、フランス王国の援助や先住民(アメリカ・インディアン)動詞を戦わせ、アメリカ合衆国が成立したが、用済みのフランス国王ルイ16世は見捨て、先住民(アメリカ・インディアン)絶滅させ、ジョージ・ワシントンの軍隊はブーツトップやレギンスを作るためにイロコイ族の尻の皮を剥いだ。フランス革命後のフランス共和国とは仏米同盟がありながら、イギリスとジェイ条約を結び、数々の利権を得てイギリスと結びつき、貿易が拡大した。
大奴隷所有者であり最大地主であるジョージ・ワシントンは、その人生を通して歯の問題に悩まされ続け、ジョージ・ワシントンは自身が所有する奴隷より歯を抜き、それで作られた数個の入れ歯を所有していた。
大統領から引退し、マウントバーノン農園に戻り、蒸留所を建てコーンウィスキーとライウィスキーとフルーツブランディを生産した。西暦1799年12月12日、ワシントンは馬に乗って、雪と後には霰と凍えるような雨の中を数時間見回り、その夜は濡れた衣服を着替えもせずに食卓に座った。翌朝目覚めると悪寒と発熱があり、化膿性扁桃腺炎が急性の喉頭炎と肺炎に変わり容態が急変した。12月14日、連鎖球菌による喉の伝染病あるいは、瀉血による大量失血と脱水症の合併症で67歳で死んだ。

アメリカ人の物語5 建国の父 ジョージ・ワシントン(下) (アメリカ人の物語 第5巻) (アメリカ人の物語 第 5巻) - 秀和, 西川
2代大統領ジョン・アダムズは、3人兄弟の長男で、父ジョンは、西暦1638年頃にイングランドのブレイントリーからマサチューセッツに移住してきたヘンリー・アダムズの5世代目の子孫で農夫で、清教徒会衆派教会員で司祭、民兵隊では中尉、町では学校や道路を監督した町会議員だった。母スザンナ・ボイルストン・アダムズはブルックリンのボイルストン家の出だった、ジョン・アダムズはハーバード大学を卒業し、ウースターで数年間教師の職を務めながら、何度も熟考を重ねた末弁護士になった。3世代前からの従姉妹の会衆派教会牧師ウィリアム・スミスとエリザベス・クインシー・スミスの次女アビゲイル・スミスと結婚し、6人の子を儲けた。長男は6代大統領ジョン・クインジー・アダムズ(John Quincy Adams)。
ジョン・アダムズは奴隷を購入したことが無いし、奴隷労働者を雇うことを原則的に拒否した。妻のアビゲイル・スミス・アダムズ(Abigail Smith Adams)は奴隷制に反対し、彼女の父が持っていた家内奴隷2人よりも解放された黒人を採用した。ジョン・アダムズは、マサチューセッツで奴隷を解放する法案、独立戦争で黒人兵士を使うことに反対し、その問題を国内政治の場から遠ざけておくようにした。妻のアビゲイル・スミス・アダムズは西暦1791年にフィラデルフィアで自由民の黒人の若者が、彼女の元を訪れて読み書きを教えてもらえるよう頼んだ。近隣からの反対が無かったわけではないが、彼女は彼を地元の夕方の学校に委ねた。アビゲイル・アダムズは「彼が他の若者と同じ自由民であるのに、単に肌色が違うというだけで教育が断られてしまうのか?どうすれば彼は生計を立てる資格を得るのか?…私は、彼を居間に連れて行き読み書きを教えることが恥ずかしいことだとは思ったことがありません。」と答えた。アビゲイル・アダムズとジョン・アダムズは、奴隷制がアメリカの民主主義の実権に対する悪と脅威であると考えていた。アビゲイル・アダムズは、女性の権利の向上を訴えた。
ジョン・アダムズ大統領任期中の最大の功績は西暦1798年にフランスとの擬似戦争(Quasi-War、フランスとの宣戦布告なき戦争、海賊戦争、半戦争、西暦1798〜1800年)危機を平和的に解決したことである。フランス革命前のフランス王国はアメリカ独立戦争の時にアメリカ合衆国の主要な同盟国であったが、革命でできた新しいフランス第一共和政(西暦1792〜1804年)政府は、西暦1794年に米英間で合意されたジェイ条約を、西暦1778年に仏英の同盟条約に対する侵犯と見做した。アメリカ議会がフランス共和国の敵イギリス王国との貿易を認めたことは、フランスを怒らせた。またアメリカ側が、アメリカ独立戦争時の負債はフランス王国に対するものである。」として、フランス共和国政府に対する返済を停止したことは、フランス共和国の怒りの火に油を注ぐ形となった。フランス共和国は敵国のイギリス王国と貿易を行うアメリカ商船を捕まえ始めた。フランスの私掠船がアメリカの大西洋岸全体を実質上無抵抗で航行していたので、この敵対行為によってアメリカ船の保険料率は少なくとも500%上昇した。
アメリカ政府はフランス船と戦える軍艦を持っていなかった。最後の艦船は西暦1785年に売却されていた。アメリカ合衆国にはささやかな密輸監視用カッターの船隊と放置された海岸の砦がいくつかあるだけだった。西暦1798年04月、ジョン・アダムズ大統領は議会にXYZ事件について報告した。これは、フランスの代理人らはアメリカの特使に対し、交渉開始の代償として25万ドルの賄賂と1200万ドルの借款の供与を暗に要求した。これに激怒した特使は要求を拒絶した。ジョン・アダムズ大統領は、3名の代理人をそれぞれ✕、Y、Zと仮称して、特使から受け取った書簡を連邦議会に提出し、フランスが行った賄賂の要求を暴露した。✕、Y、Zと呼ばれた3名の代理人は、ジャン・コンラッド・オッティンガー(Jean Conrad Hottinguer)、ピエール・ベラミー(Pierre Bellamy)、リュシアン・オーテヴァル(Lucien Hauteval)であったことが後に判明した。これにより、アメリカ国内の世論は一挙に硬化し、殊に連邦党はフランス共和国への敵意を露にした。事件を契機に海軍省の設置や治安取締法の制定が矢継ぎ早に行われ、革命フランス共和国の私掠船による掠奪行為の増加からアメリカ合衆国の拡大する通商を守る必要が生じ、アメリカ合衆国海軍が創設されることとなった。アメリカ合衆国議会は大統領が砲22門以下の軍艦12隻以下に限定して整備し、武装し要員を配置することを承認した。この法の条件に添って数隻の艦船が購入され軍艦に転換された。
アメリカ独立宣言の採択から50周年の西暦1826年07月04日にクィンシーの自宅で死んだ。独立の時の仲間で、偉大な政敵、かつその後の友人で文通相手でもあったジェファーソンが死んだ正に同日の数時間後だった。

アメリカ黒人の歴史 新版 (岩波新書) - 本田 創造
ところで ルイ15世最愛王は死の直前、デュ・バリー夫人のために大小540個のダイヤモンドからなる非常に高価な160万リーブルの首飾りを宝石商シャルル・ベーマーとそのパートナーであるポール・バッサンジュに注文した。王の死後、王室御用達の宝石商シャルル・ベーマーはそれを完成させたが、落ちぶれたデュ・バリー夫人は代金を持ち合わせていなかった。宝石商シャルル・ベーマーはまずルイ16世の妻マリー・アントワネットにネックレスを売り込んだが、ルイ16世とマリー・アントワネットはデュ・バリー夫人のいわくつきの首飾りを拒否。西暦1785年01月、それを知ったヴァロア家の末裔を称する詐欺師、ラ・モット・ヴァロワ伯爵夫人ことジャンヌ・ド・ヴァロワ・サン・レミ(Jeanne de Valois-Saint-Rémy, comtesse de la Motte-Valois)は、ラ・モット伯爵夫人は、王妃マリー・アントワネットの親しい友人と吹聴して、宮廷司祭長の地位にあったルイ・ルネ・エドゥアール・ド・ロアン・ゲメネー(Louis René Édouard de Rohan)枢機卿にマリー・アントワネットの要望として、この首飾りの代理購入を持ちかけた。
ラ・モット伯爵夫人は、前年の夏、娼婦マリー・ニコル・ルゲイ・デシニー(後に偽名「ニコル・ドリヴァ男爵夫人」を称する)を王妃の替え玉に仕立て、ルイ・ド・ロアン枢機卿と面会させ完全に信用させていた。ラ・モット伯爵夫人の巧みな嘘に騙されたルイ・ド・ロアンは、言われるがままに首飾りを代理購入し、ラ・モット伯爵夫人に首飾りを渡した。ルイ・ド・ロアンは、ストラスブールの名家出身の聖職者でありながら、大変な放蕩ぶりでも知られていたため、マリア・テレジアやマリー・アントワネットに嫌われていた。しかし、ルイ・ド・ロアンは諦めることなく、いつか王妃に取り入って宰相に出世することを望んでいた。
しかし、首飾りの代金が支払われないことに業を煮やしたシャルル・ベーマーが王妃の側近でカンパン夫人こと、アンリエット・カンパンに面会して問い質した事により事件が発覚した。同年08月、ルイ・ド・ロアンとラ・モット伯爵夫人、ニコル・ドリヴァ男爵夫人が逮捕された。ラ・モット伯爵夫人はこの時、ルイ・ド・ロアンと懇意であったが事件とは無関係とされる医師(詐欺師)カリオストロ伯爵を事件の首謀者として告発し、カリオストロ伯爵夫妻も逮捕された。なおラ・モット伯マルク・アントワーヌ・ニコラ(Marc Antoine-Nicolas de la Motte)はロンドンに逃亡して逮捕されなかった。この「ダイヤモンドの首飾り事件」に激昂したマリー・アントワネットは、パリ高等法院(最高司法機関)に裁判を持ちこみ、西暦1786年05月に判決が下され、ルイ・ド・ロアン、カリオストロ伯爵夫妻、ニコル・ドリヴァ男爵夫人ともに無罪となり、王妃と愛人(レズビアン)関係にあると噂されたラ・モット伯爵夫人だけが有罪となった(実際は個人的に会ったことはなかった)。彼女は「V」(「Voleuse」で泥棒の意)の文字を両肩に焼印されて投獄され終身刑だったが、脱獄してフランス革命期の西暦1791年にロンドンで転落死。
この裁判によりマリー・アントワネットはラ・モット伯爵夫人と愛人関係にあるという事実無根の噂が広まった。首飾りはラ・モット伯爵夫人の夫、ラ・モット伯マルク・アントワーヌ・ニコラが解体した上に詐欺師仲間に分配、それぞれが売却した為に消失した。ラ・モット伯爵夫人は後にこの虚偽の醜聞をもとに本を回想録として出版し収入を得ている。
愚かな国民は詐欺師のラ・モット伯爵夫人やルイ・ド・ロアン枢機卿に同情し、マリー・アントワネットはその詐欺事件に巻き込まれた被害者だが、評判はガタ落ちになり、贅の極みを尽くす王政に、国民の怒りの矛先が向かうきっかけになった。
一方で学者のローヌ男爵アンヌ・ロベール・ジャック・テュルゴー(Anne-Robert-Jacques Turgot, Baron de Laune)や銀行家ジャック・ネッケルなど、経済に詳しい者を登用して改革を推進しようとした。また西暦1780年には拷問の廃止を王令で布告するなど、人権思想にも理解を示している。西暦1783年には名士会の開催と三部会招集の布告を行なった。少なくともルイ16世は政治に積極的に関わり、フランスの変革に努力を注いでいた。しかし、「高等法院なしに国王はない。」とのモールパ伯ジャン・フレデリック・フェリポーの進言により、ルイ15世最愛王の大法官ルネ・ニコラ・シャルル・オーギュスタン・ド・モプーが廃止した高等法院を西暦1774年に復活させた。このことにより常にその抵抗に遭い、改革は妥協を強いられ抜本的な変革には至らず、また財政の決定的な建て直しには及ばなかった。保守派貴族は国王の改革案を悉く潰し、結局改革は挫折したばかりか、結果的にその咎は後年のフランス革命で国王一族に向けられた。
ルイ13世正義王の代にリシュリュー枢機卿が三部会を閉鎖し、ルイ14世太陽王の代にマザラン枢機卿が高等法院から権力を剥奪し、「立法」と「司法」を王権に集中し絶対王政を確立した。ところが、ルイ15世最愛王の摂政の独裁をオルレアン公フィリップ2世が狙い、協力を取り付けるために高等法院に譲歩し「司法」を復活した。しかし、ルイ15世最愛王の末期には大法官モプーが高等法院を廃止し.ルイ16世は、「司法」、「立法」の封印を破って、高等法院、三部会を復活してしまった。
フランスは5分の1の領土を持つ最大領主が国王で、その国王の周囲の宮廷貴族や坊主は国王に次ぐ大領主であり、減免税特権の最大の受益者であった。財政支出の中から宮廷貴族の有力者は、巨額の国家資金を様々な名目で手に入れた。国家財政の破綻で、権力を握る国王・貴族・教会は自分の減免税特権を温存し、ブルジョワジーと呼ばれる新興商工業者や金融業者の国民各層に対して負担を押し付けた。権力を握らないと破滅の焦燥感と危機感を駆り立て叛乱による革命、断頭台への道に繋がる殺戮のフランス革命の惨劇を引き起こした。
ディープステイトとは、王侯貴族と宗教勢力に猶太が中核になる金融と産業が癒着し超富裕層が結託し人類のしはいと統制で富を貪ろうとする支配階級である。

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