2023年12月15日

反吐が出る世界史 陰惨野蛮な汚腐乱巣革命 ジャコバンは猶太の祖ヤコブ(別名イスラエル)の仏語読み 悪逆非道なディープステイトの中核、猶太とは何か その21

ダビデの星.jpgユダヤ(ギリシャ語: Ἰουδαία、Ioudaía、漢字:猶太)

 他民族からは「ヘブライ人」と謂れ、自らは「イスラエル人」と称し、バビロン捕囚後には「ユダヤ人」と呼ばれるようになった徒輩。ヘブライ人、イスラエル人、ユダヤ人は同じ民族を指している。
 ユダヤ人(ヘブライ語: יהודים‎、英語: Jews、ラジノ語: Djudios、イディッシュ語: ייִדן‎)は、猶太教の信者(宗教集団)または猶太教信者を親に持つ者によって構成される宗教信者。原義は狭義のイスラエル民族のみを指す。イスラエル民族の1つ、ユダ族がイスラエルの王の家系だったことを由来とする。猶太教という名称は、猶太教徒が多く信仰していた宗教であることによる。ユダヤとは、パレスチナ南部の地域。酋長ヤコブの子ユダに由来する。古代イスラエル統一王国の分裂後の南ユダ王国があった地域である。



南ユダ王国滅亡後のユダヤの歴史

南ユダ王国が滅ぶと、僅かな例外的時期を除いて西暦20世紀に至るまでユダヤ民族が独立国を持つことはなかった。


神武天皇74(西暦前587)〜安寧天皇10(西暦前539)年 新バビロニア帝国
安寧天皇10(西暦前539)〜孝安天皇61(西暦前332)年 アケメネス朝ペルシア帝国
孝安天皇61(西暦前332)〜孝安天皇88(西暦前305)年 プトレマイオス朝エジプト
孝安天皇88年(西暦前305)〜開化天皇17(西暦前141)年 セレウコス朝シリア
開化天皇17(西暦前141)〜崇神天皇35(西暦前63)年 ハスモン朝 ユダヤ人国家
崇神天皇35(西暦前63)〜崇神天皇61(西暦前37)年 共和政ローマ元老院属州
崇神天皇61(西暦前37)〜垂仁天皇73(西暦44)年 ヘロデ家
垂仁天皇73(西暦44)年 ユダヤ属州(ローマ帝国皇帝属州)
垂仁天皇73(西暦44)〜景行天皇23(西暦93)年 ヘロデ家
垂仁天皇73(西暦44)〜仁徳天皇83(西暦395)年 ローマ帝国皇帝属州
仁徳天皇83(西暦395)〜舒明天皇06(西暦634)年 東ローマ帝国
舒明天皇06(西暦634)〜永正13(西暦1516)年 イスラーム諸王朝 途中に十字軍国家の時代を含む。
永正13(西暦1516)〜大正06年(西暦1917)年 オスマン帝国 
大正07年(西暦1918)〜昭和23(西暦1948)年 イギリスによる国際連盟の委任統治 
昭和23(西暦1948)年 イスラエル国(メディナット・イスラエル)成立 共和政国家の樹立、現代に至る。



 西暦135年、ローマが叛乱を鎮圧し、ユダヤ的なものを一掃しようとしたローマ人は、この土地をユダの地(ユダヤ)ではなく、ユダヤ人の宿敵ペリシテ人に因んで「パレスチナ」、エルサレムを「アエリア・カピトリーナ」と改称し、ユダヤという地名は消滅した。

 また、ユダヤ人は人種的にはセム族とされるが、長いディアスポラ(離散)のなかで、周辺民族との混血の結果、セファルディームアシュケナジームの違いが生じ、また言語もイデッシュ語などが生まれた。現在、ユダヤ人はイスラエルの他、世界中に分布しており、アメリカにも約600万人が住んでいるとされる。しかし現在ではユダヤ人を「人種」概念で捉えるのは困難で、現実には「猶太教を信仰する徒輩」と捉えるのが正しい。人類学的に同質のユダヤ人は存在しない。




ブルボン朝(仏語: dynastie des Bourbons、西暦1589〜1792、1814〜1830年)、オルレアン朝(仏語: dynastie d'Orléans、西暦1830〜1848年) その4


 ルイ14世(Louis XIV)太陽王の晩年以来フランス王国の国家財政は苦しくなり、立て直しの試みも成功せず、ルイ16世(Louis XVI)の時代になって財政は完全に行き詰まり、西暦1780年代時点の財政赤字は45億リーブル(西暦2017年時点の日本円で54兆円相当)にまで膨張していた。しかしルイ16世が任命した財務総監たちは宮廷貴族に十分な課税をせず、国家の資金を惜しげも無く与えた。
 財政困難が深刻になり宮廷が万策尽きた結果、国王はローヌ男爵アンヌ・ロベール・ジャック・テュルゴー(Anne-Robert-Jacques Turgot, Baron de Laune)やジャック・ネッケル(Jacques Necker)等の改革派を財務総監に任命せざるを得なくなった。彼らは宮廷貴族などの特権身分に対して課税などの財政改革を進めようとしたが、宮廷貴族などの特権身分たちはこれに反対して、その改革を失敗させた。
宮廷貴族たちは宮廷の官職、軍隊の高級将校、将軍、元帥、行政上の高級官職を握っていた。彼らの圧力を受けて改革派大臣は追放されることが繰り返された。貴族層に対抗する窮余の策として招集した三部会は思わぬ展開を見せ、平民層を大きく政治参加へ駆り立てたことで、結果的に西暦1789年07月14日のバスティーユ襲撃に始まるフランス革命を呼び起こした。ルイ16世はこの時に国王衣装係のロシュフーコー・リアンクール侯フランソワ・アレクサンドル・フレデリク(François-Alexandre-Frédéric duc de La Rochefoucauld-Liancourt)から報告を受けたが、日記には「何もなし。」と書いて寝てしまった。

「王政に対する民衆の不満が爆発し、革命が勃発した。」ということになっているが、それでも少なくともヴァレンヌ事件までは、錠前作りが趣味の国王ルイ16世は、当時のフランス国民(パリ市民)に絶大な人気を得ていた。また、王妃マリー・アントワネット・ジョゼフ・ジャンヌ・ド・アプスブール・ロレーヌ(Marie-Antoinette-Josèphe-Jeanne de Habsbourg-Lorraine、またはマリー・アントワネット・ドートリッシュ(Marie-Antoinette d'Autriche、マリア・アントーニア・ヨーゼファ・ヨハンナ(独語: Maria Antonia Josepha Johanna)))を貶めるため、首飾り事件など全く無関係な醜聞と事実無根の噂をまき散らし、王室の威厳が葬られた。裏で、悪逆非道なディープステイト、フリーメイソンの仏大東社のグランドマスター、オルレアン公ルイ・フィリップ2世ジョゼフ(仏: Louis Philippe II Joseph, duc de Chartres, puis duc d'Orléans)が暗躍していた。こいつらの多くも自縄自縛でギロチンに掛けられた。

 バスティーユ襲撃の後、国王の軍隊はパリ全体で敗北し、地方都市でも国王の軍隊は敗北し、各地方で軍隊の叛乱が起こった。国王の側はこれ以上の軍事行動ができなくなった。2代ブロイ公ヴィクトル・フランソワ(Victor-François, duc de Broglie)元帥は「反撃の機会を窺うべきである。」と説いたが、既に軍隊と共に移動する資金も食糧もなかった。そこで国王は泣いて屈服した。国王ルイ16世は譲歩することを決心し軍隊を引いて国民会議に出席し「朕は国民と共にある。」と言い和解を宣言した。軍事行動を指揮した宮廷貴族たちは群衆に処刑された。有力な宮廷貴族たちは逃亡し、国王だけが第三身分の捕虜同然の身としてフランス王国に留まった。バスチーユ敗北直後から一部の宮廷貴族は復讐を恐れて亡命した。07月17日、ルイ16世、パリを訪問して鎮撫した。この時亡命したのは、王弟アルトワ伯シャルル・フィリップ(後のシャルル10世)4代ブロイ公ジャック・ヴィクトル・アルベール(Jacques-Victor-Albert, 4e duc de Broglie)、プルイリー男爵およびブルトゥイユ男爵ルイ・シャルル・オーギュスト・ル・トノリエ(Louis Charles Auguste Le Tonnelier, baron de Breteuil, baron de Preuilly)、ランベスク公シャルル・ウジェーヌ・ド・ロレーヌ(仏:Charles-Eugène de Lorraine, prince de Lambesc)、初代ポリニャック公アルマン・ジュール・フランソワ(Armand Jules François, comte puis 1er duc de Polignac)、ブルボン・コンデ公ルイ5世ジョゼフ(Louis V Joseph de Bourbon-Condé)などであった。07月25日にパリ市民公会(パリ・コミューン)が成立した。
 この勝利で権力を握ったのは最上層のブルジョアで、経済活動で最強の力を持つ者だった。その中には貴族の資格や領地を持つ者も多かった。これらの上層ブルジョアジーたちは士気が乱れていた兵士たちに積極的に働きかけて買収して、ブルジョアジーの軍隊に仕立て上げていた。兵士の叛乱は自然発生的に起こったのではなかった。この時生まれた革命の標語は「自由・平等・財産」だった。 国王軍に勝利した商工業者(ブルジョアジー)の上層は、自由主義貴族と連携しながら権力の指導権を握った。これ以降の政権はブルジョアジーの上層が租税徴収権を握り、財政改革を行った。宮廷貴族に負担を被せ、徴税を実行し、宮廷貴族に対してなされていた財政資金を削減か打ち切り、それによって浮いた財源で商工業、金融業の救済・発展のために支出した。
 自由主義貴族と上層ブルジョアジーの最上層の政権、旧体制の特権や領主権に深い関わり合いを持った者達の政権ができた。彼らは金の力で領地を買い、貴族の力を手に入れ、裁判権や地方都市の財政長官や徴税請負人の地位を持っていた。ジャック・ネッケルが呼び戻されて財務総監に再任され、ネッケル派の大臣も返り咲いた。ジャック・ネッケルは強制借款を取り止めた。国民会議では財政委員会を選出して財政の立て直しを図ったが、その基本方針は特権身分への課税、特権身分への支出の削減、停止であった。


 革命直後から「大恐怖(仏語: Grande Peur)」と呼ばれる集団的な恐怖によって引き起こされた農民蜂起と叛乱が07月20日〜08月06日にかけてフランス王国で広がり、その後さらに拡大した。一連の暴動は、半世紀にわたる叛乱と、さらに反封建的な抗議運動の増加に続いて起こった。農民の要求が反映された全国三部会のための陳情書は、西暦1788年の不作の後、それまで以上に彼らを打ちのめしていた「封建的特権と地代にもはや苦しめられずに済む。」という希望を彼らに齎した。パリで起こった出来事についての説明、特に十分に理解されないまま広まったバスティーユ襲撃には、復讐や貴族による陰謀の噂や恐れが伴っていた。空腹の隙間となる07月になると、予想される物価の上昇と「貴族が希少となった穀物を引っ攫おうとする。」という疑惑によって不安はますます深刻になっていった。恐慌は「貴族が田舎のまだ青い小麦を刈り取って収穫を台無しするために強盗を雇った。」という噂によって引き起こされた。他の地域では、外国人(イギリス人またはピエモンテ人)による侵略の古い記憶が蘇った。教区から教区へ警鐘の音が鳴り響き、たちまち恐怖が広がった。城に蓄えられていた火薬が偶然に爆発した後、フランシュ・コンテでは6つの恐慌が発生した。シャンパーニュ地方、ヴズール近郊のシャトー・ド・ カンセでは、羊の群れによって発生した埃は、行進する兵士の集団のものと受け取られた。ボーヴェ、メーヌ、ナント地域、そしてリュフェック地域では、物乞いの僧侶たちが山賊と間違えられた。マルセイユ、リヨン、グルノーブル、ストラスブール(シュトラスブルク)、レンヌ、サン・マロ、ル・アーヴル、ディジョンだけでなく、マコネーのような小さな町や村でも至る所で掠奪、暴動、爆発、火災が発生し、領主の財産が荒らされた。農民は武装し、山賊または架空の攻撃者による攻撃から身を守るために民兵を編成した。集まって武装し、怯えた農民たちは代わりにかつての不幸の原因だった城や修道院を攻撃した。たとえば、リュフェックの「恐怖」は非常に急速に広がった。それは西暦1789年07月28日に始まり、北(シブレーとシャテルロー)、西(サント)、東(コンフォランとモンリュソン)、南(アングレーム、リモージュ、カオール、7月30日にモンリュソンからブリーブ、07月31日にモントーバン、08月01日にトゥールーズとロデーズ、08月20日にロンベズ、08月03日にパミエ、サン・ジロン、サン・ゴーダンス、08月05日にフォワ、タルブ)に伝播した。しかしヴィトレ、アルザス地域圏、ラングドックを除く全地域は、この大恐怖から安全なままであった。アキテーヌ地域圏では、これをイギリスの恐怖と呼んでいた。農民は領主の城や館を襲撃した。農民に襲撃された領主の中には革命派の貴族も含まれていた。中には武器を持って農民に立ち向かった自由主義貴族もいた。国民議会では「農民暴動を武力弾圧せよ。」という強硬派と、「暴動に正面から立ち向かうことは不利である。」と考える勢力が激しい討論を繰り広げた。国民議会はまだヴェルサイユに駐屯する国王軍の脅威を受けていた。国王軍は撤退しただけでいつでも反撃できる体制にあった。国民議会が農民の反感を買うと農村の支持者を失って、国王軍の反撃に敗北するかも知れなかった。それはほとんど阻まれることなくアンシャン・レジーム(仏語: Ancien régime、古い体制)の権威の崩壊を示し、貴族の亡命の大きな動きを引き起こした。それらはまた驚愕と新しい政治当局の不安を引き起こし 、それに対する迅速な対応として封建的特権の廃止を齎した。

一般のフランス王国の農民は土地に縛り付けられた農奴で、文盲も多く、自転車が登場するまで、産まれた村から一度も出ることもなく一生を終える者が殆どだった。二輪自転車の起源は、西暦1817年、ドイツ人のザウアーブロン男爵カール・フリードリヒ・クリスティアーン・ルートヴィヒ・フォン・ドライス(Karl Friedrich Christian Ludwig Freiherr Drais von Sauerbronn)が発明したドライジーネ(Draisine)とされている。
ミシュラン(Michelin)という世界で初めてラジアルタイヤを製品化し、ビバンダム(Bibendum、ミシュランマン)で有名なタイヤ製造企業がある。道路地図、レストラン・ガイド、観光ガイドの刊行でも知られる。西暦1900年にレストランとホテルのル・ギッド・ミシュラン(Le Guide Michelin、ミシュランガイド)を創刊し、西暦1910年には初のクレルモン・フェラン近郊の道路地図を発行し、西暦1912年に道路標識を立てる請願を国会に行い、ミシュランの費用で里程標の設置を始め、西暦1913年には全国を網羅する最初の道路地図を発行した。

道路地図、道路標識、里程標、ル・ギッド・ミシュランをタイヤ製造企業が設置・刊行した理由は、西暦20世紀となっても、野蛮なフランスでは富豪しか乗れない自動車で郊外の施設への道を蒙昧な村人に尋ねたら、鴨が葱を背負って来た状態で、その村人が山賊に変わるからである。フランスとはそういう蛮族が棲む国である。今でも何ら変わりはない。


 そこで妥協案として封建権利を2つに分けて「人に纏わるもの」(十分の一税と領主裁判権、死亡税、狩猟権、鳩小屋の権利など)と「土地に纏わるもの」(封建貢租と不動産売買税)に区別し、前者は無償で廃止するが、後者は有償で廃止する提案が西暦1789年08月04日に出され、自由主義貴族の多くが賛成して可決された。こうして領主権は単純な地代に転換された。この結果農民暴動は収まった。08月04日の宣言には「租税の平等」、「文武の官職に全ての市民を登用する」、「金銭的特権を廃止する」、「貴族の官職独占の否定」、「官職売買の禁止」も含まれていた。この時の標語は、「自由・平等・私有財産の不可侵」だった。これらの宣言にネッケル派とジャン・ジョゼフ・ムーニエ (Jean Joseph Mounier)派が反対したが多数派に敗北した。ネッケル、ムーニエ派は国民議会のこれ以上の改革を阻止しようとした。国王はこれを見て09月18日に親書を送り、08月04日の宣言を認めないことを通告した。国民議会の封建制廃止などの要求に対して、ルイ16世は「余は決して、余の僧侶たちと余の貴族たちを剥ぎ取られることに同意しないだろう。」と強硬な姿勢を崩さなかった。

 ジャン・ジョゼフ・ムーニエが西暦1789年の全国三部会の第三身分代表に満場一致で選出された。憲法制定国民議会におけるジャン・ジョゼフ・ムーニエ は最初は新しい理念の支持者であり、有名な球戯場の誓いを提案し、2つの特権身分と第三身分との連合を支持することを表明し、新憲法の準備を助け、ジャック・ネッケルの帰還を要求した。ジャン・ジョゼフ・ムーニエ はまた西暦1789年08月に君主派を結成した。西暦1789年09月28日に憲法制定国民議会の議長に選出された。しかし、その後に起こった一連の狂気を看過できず、革命に疑問を抱いて西暦1790年にスイスに逃れた。「政府についての考察」(西暦1789年)、「フランス人が自由になることを妨げる原因に関する研究」(西暦1792年)、「啓蒙思想家、フリーメイソンおよびイルミナティがフランス革命に与えた影響」(西暦1801年)の著作で悪逆非道なディープステイトの中核を見抜いている。

 08月26日、国民政府は「人間と市民の権利の宣言」を制定した。これは一般にフランス人権宣言などと呼称される。ラ・ファイエット侯マリー・ジョセフ・ポール・イヴ・ロシュ・ジルベール・デュ・モティエ(Marie-Joseph Paul Yves Roch Gilbert Du Motier, Marquis De La Fayette)らが起草しており、 アメリカ独立宣言、ルソーの啓蒙思想などの影響が認められる。国民の自由と平等、圧制への抵抗権、国民主権、法の支配、権力分立、私有財産の不可侵などを規定している。
 ラ・ファイエット侯は、ベンジャミン・フランクリンのフランス王国における工作に触発され、周囲の反対を押し切り自費を投じてアメリカ独立革命に参戦し、アメリカの独立を決定的にした西暦1781年のヨークタウンの戦いに重要な役割を果たしており、フランス王国に帰国すると「新大陸の英雄」と称えられ一躍名声を得た。当然、アメリカ合衆国の建国の父であるジョージ・ワシントン、ベンジャミン・フランクリン、トーマス・ジェファーソンらとも親交があった。ラ・ファイエット侯はフランス革命においても重要な役割を演じ、フランス人権宣言(人間と市民の権利の宣言)を起草した。ラ・ファイエット侯は「アメリカ、フランスの両大陸の英雄」と呼ばれた。

 革命勃発当時のフランス王国では、前年の凶作や政情不安のため穀物の売り渋りが横行し、パンをはじめとする食料品の価格高騰にパリ市民は苦しんでいた。庶民の生活が窮乏する中にあっても、ヴェルサイユ宮殿では豪奢な宴が催された。10月01日:近衛兵の宴会で、近衛兵が国王ルイ16世の面前でパリ市民を象徴する三色帽章(トリコロール)を踏みにじり、王妃マリー・アントワネットが三色帽章を冒瀆した。革命の否定を示すこの報が伝わると、民衆の間に怒りが広がった。西暦1789年10月05日の早朝、「革命を侮辱した。」と思われる近衛兵に対してパンと正義を要求するために、パリの広場に集まった約7000人の魚売り女や市場の女たち主婦らが「パンを寄越せ!」などと叫びながら、国王と議会に窮乏を訴えるため、ヴェルサイユに向かって行進を開始した。この行進を先導したのはパリ市の女性達であったため、ラ・ファイエット侯の率いる2万人の軍隊はヴェルサイユへ行進する群衆を止めることが出来ず、群衆の後を付いて行くことしかできなかった。ヴェルサイユへ向かう群衆はバスティーユ牢獄襲撃事件の功労者、バスティーユの義勇兵の隊長スタニスラス・マリー・マイヤールを先頭に、降りしきる雨の中、約20kmの道程を6時間掛けて行進した。ヴェルサイユが近づくにつれ、人々はさらに多くなり、群衆の多くが武器を持ち、ついには大砲まで持ち出した。
 この時、王妃マリー・アントワネットは子供たちとプチ・トリアノンの王妃の村里で散策を行っていたが、小姓による報告を受けて大急ぎで宮殿へ戻っていった。これを機に彼女がプチ・トリアノンに戻ることは無かった。 国王ルイ16世はこの日も狩猟に出ており、ヴェルサイユ宮殿では残された貴族によって迫り来る群衆の対処を行うことになった。
 ヴェルサイユ宮殿では国防大臣サン・プリースト伯ギニャール(François-Emmanuel Guignard, comte de Saint-Priest)の提案によって群衆がヴェルサイユ宮殿を包囲する前に、途中にあるサン・クルーやセーヴル、ヌイイなどの橋を軍隊に占拠させ、国王は800人の衛兵と共に群衆に向かい、その間に王妃をはじめとする国王一家はランブイエ城に避難し、国王は後から城に向かうという案が立てられたものの、マリー・アントワネットがこれを拒否し、狩猟から帰還したルイ16世も宮殿に残る意向を示した。
 雨が降りしきる中、午後03時頃にヴェルサイユ宮殿の門前に群衆が到着し、宮殿を守る近衛兵たちと騒動を起こすなど殺気立っていた。 女性たちは国民議会へ押し入り、「パンを!パンを!」と要求し、数名の女性達が代表としてルイ16世と宮殿で面会することとなった。 ルイ16世は代表団と面会し、ヴェルサイユの食料庫を解放することを許可したものの、宮殿を包囲する群衆らはこれに納得せず、「王妃を出せ!」などとさらに殺気立っていった。サン・プリースト伯ギニャールらは国王一家の安全を確保する為、国王一家をヴェルサイユからランブイエへ避難させようとしたものの、「馬車が群衆に囲まれて動かなくなっている。」との報告を受けた。 これを知ったルイ16世は「宮殿に残る。」と力なく伝え、08月に決めた「人権宣言」にも国民議会の希望で署名した。 この直後にラ・ファイエット侯率いる軍隊がヴェルサイユに到着し、国王一家と宮殿の守備を申し出たことで事態は一時的に収まった。
 しかし翌06日未明、武装した市民の一部が宮殿に乱入した。06日はマイヤールが不在だったために暴動そのものといった有様となった。阻止しようとしたスイス傭兵の近衛兵2人の近衛兵が殺害され、行進の参加者たちは宮殿に押し入り、王妃の部屋に侵入した。民衆は暴徒と化して宮殿に雪崩れ込んで掠奪を行った。 王妃マリー・アントワネットは隠し通路を使ってルイ16世の元へと避難した。群衆はルイ16世をバルコニーに出ることを要求し、ルイ16世がこれに応えると、「国王万歳!」との声が挙がった。 しかし興奮した暴徒たちは次にマリー・アントワネットがバルコニーへ出ることを要求した。パリ市民らを中心に多くの誹謗中傷に晒されていたマリー・アントワネットがバルコニーに出ることは危険と思われたものの、マリー・アントワネットがラ・ファイエット侯に接吻されると群衆たちから「王妃万歳!」との声が挙がった。 群衆は次に「国王よパリへ帰れ!」と要求し、ルイ16世は意気消沈して民衆の要求を呑み、その日の午後に国王一家は民衆によってヴェルサイユからパリへ連行され、それ以降はパリのテュイルリー宮殿(Palais des Tuileries)に住むこととなった。ルイ・シャルルは自分がされて嬉しかったことを姉マリー・テレーズ・シャルロットにも「味合わせてあげたいと、同じことを姉にもしてほしい。」と、よく要求する心優しい子で、ヴェルサイユ宮殿からパリに移る馬車に飛びついた女達が、マリー・アントワネットに悪態をついた罵声を浴びせると、それまで馬車の後部座席で、両親の間で怯えていたにも拘わらず、馬車の窓から顔を出して「ママを許してあげて!」と、母親を案じて叫んだ。このヴェルサイユ行進(十月事件)は、「王位簒奪を狙うオルレアン公ルイ・フィリップ2世ジョセフが、この事件を煽動した。」と言われる。
 事件以後、国王一家はパリのテュイルリー宮殿に住み、宮廷貴族から切り離されて軟禁状態に置かれた。事実上パリ市民に監視される日々を送ることとなった。国王が連れ去られると、まだ残っていた宮廷貴族が亡命を始めた。ムーニエを初めとして貴族議員の200人や貴族将校も亡命した。国王と共に議会の機能もパリに移動した。「封建的特権の廃止宣言」や「人権宣言」を国王が承認したことから、政局の混乱は一応沈静化した。
 10月10日、ジョゼフ・イニャス・ギヨタン(Joseph Ignace Guillotin)は、立憲議会で処刑器具ギロチン(仏語: guillotine、ギヨティーヌの英語読み)の使用を提言した。このような断頭装置は少なくとも西暦13世紀にはすでに存在しており、開発導入には。 外科医アントワーヌ・ルイ(Antoine Louis)とパリの死刑執行人(ムッシュ・ド・パリ)を勤めたサンソン家の4代目当シャルル・アンリ・サンソン (Charles-Henri Sanson)によって進められた。ギヨタンはギロチンの発明者ではなく、設計や実験にも関わっていない。正式な名称は「ボワ・ド・ジュスティス(Bois de Justice、「正義の柱」の意)」といったが、当初は、設計者のアントワーヌ・ルイの名前をとって「ルイゾン (Louison)」あるいはその女性形の「ルイゼット (Louisette)」の愛称で呼ばれていた。しかし、実際の開発作業は非公開の裏方なのに対して、この装置の人道性と平等性を大いに喧伝し導入に対する法整備は公開された議会でギヨタンが取り仕切ったため、一般社会ではギヨタンが開発したかのような印象が広まり、結果としてギヨタンギロチンの名で広まった。ギヨタンの方が有名になり、ギヨタン博士の装置(子供)の意味である「ギヨティーヌ (Guillotine)」という呼び名が定着した。ギロチンはその英語読みであるギロティーンが訛ったものである。ギヨタンはこの不名誉な名称に強く抗議したが、以後も改められることはなかったので、家族は姓を変えざるを得なくなった。「ギヨタン自身がこの装置で処刑された。」というのは、大嘘で、ジョゼフ・イニャス・ギヨタンは帝政期まで主に医療分野で活躍し、背越1814年に75歳没。死因は左肩の癰(ヨウ)であった。
 10月12日、国王と共に、立憲議会もパリへ移ることが決定され、室内馬術練習場を新議場になった。


 20万人の群集によるヴェルサイユ行進に際しては、議会の代表団に際して食糧の放出を裁可している。この後「国王万歳」、「国王をパリへ」の叫び声が上がり、パリに連行されることになった。しかし食糧不足は解決せず、小規模な暴動が度々起こったが、国民議会と従来の常備軍に替わってフランス国内各都市で組織された民兵組織、国民衛兵(仏語: la Garde nationale)によって鎮圧された。首謀者は処罰・処刑され秩序が回復された。ヴェルサイユ行進は宮廷貴族の残存勢力に決定的な打撃を与え、国王を人質に取った国民議会の権力を全国に及ぼすこととなった。


 スコットランド語の宮宰職、スコットランド大家令(Lord High Steward of Scotland)に由来するステュアート朝(Stuart dynasty または Stewart dynasty、西暦1371〜1714年)は、アン(Anne Stuart)女王が西暦1714年に死去し断絶した。西暦1701年に「ステュアート家の血を引いており、カトリックではない者」と規定された王位継承法によって、スコットランド王国(西暦843〜1707年)とイングランド王国(西暦927〜1707年)(合同してグレートブリテン王国(西暦1707〜1801年)となるのは西暦1707年)のアンに次ぐ王位継承権者に定められたのは、プファルツ選帝侯兼ボヘミア王フリードリヒ5世と妃エリーザベト(エリザベス)の五女(第12子)のゾフィー・フォン・デア・プファルツ(、Sophie von der Pfalz)で,イングランドとスコットランドの王ジェームズ1世の孫娘で、長子相続制のイギリスの王位継承順位では50人以上のカトリックがジョージより上の順位にあったが、彼女がプロテスタントであったこと、そして兄・姉たちやその子孫がいずれも死去していたかカトリック、あるいは庶出であったため、ゾフィ―が唯一の適格者だった。 その長男で、神聖ローマ帝国のブラウンシュヴァイク・リューネブルク(ハノーファー)選帝侯、ゲオルク・ルートヴィヒ(Georg Ludwig)がグレートブリテン王国及びアイルランド王国(西暦1541〜1800年)の国王ジョージ1世(George I)に即位し、今日まで続くハノーヴァー朝(Hanoverian Dynasty、西暦1714〜1901年)となった。アレクサンドリナ・ヴィクトリア(Alexandrina Victoria)女王の遺言に基づき、王朝名をハノーファー朝から王配アルバート・オブ・サクス・コバーグ・ゴータ公子(Prince Albert of Saxe-Coburg-Gotha)の家名ザクセン・コーブルク・ゴータ朝(Haus Sachsen-Coburg und Gotha、西暦1901〜1910年)に変更し、西暦1917年、第1次世界大戦中のグレートブリテン及びアイルランド連合王国(西暦1801〜1922年)での反独感情のために、ウィンザー朝(House of Windsor、西暦1910〜2022年)に変えた。エリザベス2世(Elizabeth II、エリザベス・アレクサンドラ・メアリー(Elizabeth Alexandra Mary))女王死後の現在は、王配エディンバラ公フィリップ・マウントバッテン(Prince Philip Mountbatten, Duke of Edinburgh)の姓を加えたマウントバッテン・ウィンザー朝(Mountbatten-Windsor、西暦2022〜)。イギリスの王統は、サリカ法を無視し女系の継承の度に王朝名が変わる。


ディープステイト(deepstate、奥の院、黒幕)とは、拝火教から猶太教、耶蘇教、回教に取り込まれた千年王国に基づく新世界秩序(New World Order、NWO)を構築し、ゴイムを統制・統御・支配する管理社会の実現を目指す悪魔の組織体である。
古代〜中世の西欧では、王侯貴族やローマ法王が支配層(Etablishment)で、ハプスブルグ家に対抗して閨閥で伸し上がったのが、ヘッセン・カッセル方伯家で、ヘッセン・カッセル方伯フリードリヒ2世はイギリス国王兼ハノーファー選帝侯ジョージ2世の王女メアリーと結婚した。2人の次男がヘッセン・カッセル方伯ヴィルヘルム9世(ヘッセン選帝侯ヴィルヘルム1世)である。デンマーク・ノルウェー王フレデリク5世の王女 ヴィルヘルミーネ・カロリーネ・ア・ダンマークと結婚。父フリードリヒ2世の死後、当時ヨーロッパ最大級といわれた資産を相続した長兄ヴィルヘルムが既に夭逝)。イギリス、ドイツ、オランダ、ベルギー、デンマーク、ノルウェー、スウェーデン、フィンランド、ギリシャ、ロシア帝国(西暦1721〜1917年)の王室と繋がり、特にイギリス王国ハノーヴァー朝(西暦1714〜1901年)やサクス・コバーグ・ゴータ朝・ウィンザー朝(西暦1901年〜)のエリザベス2世の夫、王配フィリップ(エジンバラ公)にも繋がっている。またその過程でロートシールト(ロスチャイルド)を使用人に仕立てた。
方伯(独: Landgraf、英: landgrave)とは、「伯爵」の代わりに、神聖ローマ皇帝の封建諸侯の称号で、その支配領域は公爵・司教・宮中伯のような中間権力の言いなりにならず、時々大きく拡大され、方伯は公爵に相当した。
西暦1760年の父ヘッセン・カッセル方伯ヴィルヘルム8世の死によってヘッセン・カッセル方伯位を嗣いだフリードリヒ2世は、領内の若者を男子を徴発して傭兵として鍛え上げ、主に植民地戦争の兵員を求めるイギリス(グレートブリテン)王国(西暦1707〜1801年))にドイツ傭兵を貸し出す悪名高い傭兵業を営んでいた。貸し付けた傭兵が死亡したり負傷したりした時、ヘッセン・カッセル方伯フリードリヒ2世やヘッセン・カッセル方伯ヴィルヘルム9世は高額な補償金をせしめ、その傭兵業の儲けで、ヘッセン・カッセル方伯家はヨーロッパ随一の金持ちになっていた。実にヘッセン・カッセル方伯領の人口の7%以上が軍務に就いていた。フリードリヒ2世は、ヴィルヘルムの従兄のジョージ3世(義理の甥)のイギリス王国へ傭兵を貸し付けた。その植民地戦争に、アメリカ独立戦争もあった。西暦1775年04月にアメリカ独立戦争が勃発し、イギリス王国は叛乱鎮圧のために送る軍勢をヨーロッパ諸国に求めた.しかし、ロシア帝国やオランダ連邦共和国(ネーデルラント連邦共和国(西暦1579〜1795年))との交渉は不発に終わり,国王ジョージ3世はハノーヴァー(ジョージ3世はハノーヴァー選帝侯でもある)の兵をジブラルタル守備隊として送り,ジブラルタルにいたイギリス兵をアメリカに送った。さらにブラウンシュヴァイク・リューネブルクュヴァイク公カール(2世)・ヴィルヘルム・フェルディナント(Karl (II.) Wilhelm Ferdinand von Braunschweig-Wolfenbüttel)、ヘッセン・カッセル方伯フリードリヒ2世とイギリス・ヘッセンの傭兵条約(西暦1776年)を結んだ。西暦1785年の父ヘッセン・カッセル方伯フリードリヒ2世の死によって、ヴィルヘルムはヘッセン・カッセル方伯を継ぎ、ヘッセン・カッセル方伯ヴィルヘルム9世となった。
このヴィルヘルム9世に取り入ったのが、アシュケナジーム猶太ロスチャイルドの始祖であるマイアー・アムシェル・ロートシルト(Mayer Amschel Rothschild)で、ヴィルヘルム9世はロートシルトを西暦1775年から使い始め、西暦1801年から財産の運用を任せるようになった。ロートシルトは、現代まで続くロスチャイルド財閥の基礎を築いた。現在の世界一の大富豪、ロスチャイルド財閥傘下は【通信】ニューヨークタイムズ、ザ・サン、ロイター通信、ABC、NBC、CBS(米3大ネットワーク放送)【石油】ブリティシュ・ベトロリアム、ロイヤル・ダッチシェル【軍事】ビッカース、ダッソー、アームストロング、シュットーデル、デュポン【鉄鋼】カーネギー【金属】ミノルコ、モンド・ニッケル、モンド、デビアス(ダイヤモンド独占)、リオ・チント・ジンク(金・ウラン独占)【食品】ネッスル、ユニリーバ、ブルックボンド、コカコーラ【交通】ロッキード・マーチィン社、フォード、ルノー、ヴァンダービルト、ハリマン【銀行・保険】フランス銀行、イングランド銀行、パリ国立銀行、スエズ金融、香港上海銀行、ウェストミンスター銀行ルイ・ドレフェス商会、ソロモン・ブラザーズ、ラザール・フレール、ゴールドマン・サックス、カナダロイヤル銀行、アラブ投資銀行、モントリオール銀行、ジェネラル銀行、ブリュッセル・ランベール、ウェストバンク、SMBC日興証券、三井系企業、J・P・モルガン、メリルリンチ【その他】フィリップ・モリス、ローマ・ブーラン、ウォルトディズニー【政府】米国民主党、米国共和党ネオコン、FRBの株主(一社を除きロスチャイルド系)【諜報機関】モサド(イスラエルの秘密情報機関)などがある。
フリーメイソン(Freemasonry)は西暦16世紀後半〜17世紀初頭に石工組合として、自分たちの権利・技術・知識が他の職人に渡らないようにする為のギルド的な秘密結社で、階級制度も「徒弟・職人・親方」だった。ロータリークラブ、ライオンズクラブ、帝国郵便(Reichspost)、ボーイスカウト、オリンピックなどはフリーメイソンの派生結社。西暦1737年03月21日、フランス王国のパリで、騎士のアンドリュー・M・ラムゼイ(Andrew Michael Ramsay)が「フリーメイソンの目標は世界を一大共和国と為すことで、起源は石工組合ではなく十字軍(テンプル騎士団)である。」と主張した演説を行った。テンプル騎士団は、「徒弟・職人・親方」の上位階級に属するものとも説き、これがスコティッシュ・ライトの上位階級の起源で、このスコティッシュ・ライトの15〜18の階級に「薔薇十字会」が据えられている。フリーメイソンが「ワン・ワールド」を目指す組織とされるのも、この発言が原因で、ドイツに持ち込んだのがカール・ゴットヘルフ・フォン・フント男爵(Karl Gotthelf von Hund)である。西暦1743年、フント男爵はフリーメイソンの位階制度の上に、神秘的な要素を含んだ真のボス達という謎の組織「ストリクト・オブザーバンツ(厳格戒律派)」を設立した。当時のドイツはまだ統一されておらず、フランス王国の啓蒙思想に触発され、ドイツに立憲君主制国家を実現しようとした。ストリクト・オブザーバンツは、ドイツで最も巨大で重要なフリーメイソンの高位階組織となり、ヨハン・ヨアヒム・クリストフ・ボーデ(Johann Joachim Christoph Bode)、クニッゲ男爵アドルフ(Freiherr Adolf Franz Friedrich Ludwig Knigge)やヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe)が参入し、活動の中心地はヴァイマールとなった。
しかし、イエズス会の工作員と言われるヨハン・アウグスト・フォン・シュタルク(Johann August von Starck)にストリクト・オブザーバンツは乗っ取られ、心労のあまり創始者のフント男爵が死んだ西暦1776年にアダム・ヴァイスハウプト(Adam Weishaupt)はイルミナティ(Illuminati[、独語: die Bayerischen Illuminaten[1], Illuminatenorden、英語: the Illuminati of Bavaria, the Bavarian Illuminati)を設立した。イルミナティの思想は啓蒙思想の光で照らされること(蒙(くら)きを啓(あき)らむ)。「lumen naturale(自然の光)」は超自然的な偏見を取り払い、人間本来の理性の自立を促すという意で、元々は純粋に啓蒙思想を追及するための勉強会。ボーデやクニッゲ男爵はイルミナティに移った。これ以降、イルミナティはクニッゲ男爵とボーデによる広報活動によってドイツ全土の領域に広がり、同時にストリクト・オブザーバンツの会員もイルミナティへ流れていった。西暦1782年のヴィヘルムスバート会議にヴィルヘルム9世の弟のカール・フォン・ヘッセン・カッセル(Karl von Hessen-Kassel)が加入が決定し、これによりストリクト・オブザーバンツをイルミナティに形を変え、神秘的なオカルトによる民衆の憧憬と有力者の人脈を手に入れ、これを足掛かりにヨーロッパを掌握し、その後のパクス・ブリタニカによる世界制覇に繋がり、その血脈は現代のイギリス王室に引き継がれている。末端の使用人に過ぎなかったロスチャイルドが、クニッゲ男爵の後を襲った。カール・フォン・ヘッセン・カッセル方伯は、アジア秘儀入門騎士兄弟会のグランドマスターで、不老不死の謎の人物、サン・ジェルマン伯爵(仏語: Comte de Saint-Germain)はアジア秘儀入門騎士兄弟会の一員で、実際にサン・ジェルマン伯は西暦1778年からカール方伯のもとに移り住み、カール方伯はサン・ジェルマン伯爵の弟子となり、且つ、後援者となった。アジア秘儀入門騎士兄弟会は、黄金薔薇十字団の後継組織で、サン・ジェルマン伯爵は自称、薔薇十字団(独語: Rosenkreuzer)の団員。
三十年戦争前のヨーロッパは相次ぐ戦乱とペスト(黒死病)で、「人類を死や病といった苦しみから永遠に解放する、不老不死の実現」という薔薇十字団の言葉は、民衆を惹き付け、贖宥状を売りさばくなど神を冒涜する行為に見える腐敗したカトリックの守護者、神聖ローマ帝国のハプスブルク家とし、カトリックの打破による世界改革を掲げ、大いに煽り、その救世主としてイングランド王家を渇望し、打倒!ハプスブルクの思想が原動力となって、当時のドイツの民衆に熱狂的に受け入れられたことにより、宗教・政治戦争、三十年戦争(西暦1618〜1648年)が始まった。これがヘッセン・カッセルの地から発信された。また、西暦1618年の講和条約、ヴェストファーレン条約でヘッセン・カッセル方伯が特権を得た。黒幕にヘッセン・カッセル方伯がいたと推測される。

マルタ騎士団の68代総長(グランドマスター)、ポルトガル貴族のエマヌエル・ピント(Emmanuel Pinto)は、当時のフランス ブルボン家の王室財宝官のランジュ侯シャルル・ピエール・ポール・サヴァレット(Charles-Pierre-Paul Savalette de Langes)にカトリックを再び盛り返すための構想を持ちかけ、フランス王国とプロイセン王国(西暦1701〜1918年)を和解させることを画策し、西暦1771年にランジュ侯は、メイソンロッジ、レザミ・レユニ(Les Amis Reunis、結合せる友 )を創設し、マルタ騎士団のピントのエキュメニズム(世界教会主義)に呼応した。さらにブルボン家のランジュ侯は、プロイセン王国との人脈を築くためにドイツで最も巨大で重要なフリーメイソンの高位階組織であるフント男爵のストリクト・オブザーバンツとレザミ・レユニの合弁を図った。しかし、前述のように、ストリクト・オブザーバンツはイエズス会のシュタルクが実権を握り、西暦1772年にプロイセン王国のフリードリッヒ2世の義弟、ブラウンシュヴァイク・リューネブルクュヴァイク公カール(2世)・ヴィルヘルム・フェルディナントにグランド・マスター職を明渡し、裏で繋がろうとしていたところに直接プロイセン王族と繋がるのは、さすがに無理で立ち消えになった。西暦1773年、マイアー・アムシェル・ロートシルトが30歳の時、フランクフルトに12人の実力者を招いて秘密会議を開いた。全世界の人的資源と資源を独占的に支配するための計画で、25項目の行動計画から成る「世界革命行動計画」と呼ばれている。「人を支配するには金と暴力。自由(リベラル)という思想を利用せよ。目的は手段を正当化する=ゴイムは欺いてもかまわない。強者は何をしてもよい。ゴイムに本当のことを知られてはいけない。情報を支配せよ。代理人に代行させよ=我々に危険が及ばないように。キレイ事を言っておけば大衆は欺ける。恐怖で脅せ。ゴイム同士で争わせよ。ゴイムには嘘を教えて惑わせよ。ゴイム文明を破壊せよ。大東社を組織して破壊活動を実行しながら、博愛主義の名のもとで、自らの活動の真の意味を隠すことは可能である。大東社に参入するメンバーは、ゴイムの間に無神論的唯物主義を広めるために利用されなければならない。」世界革命行動計画は猶太が何世紀にも及ぶ営為であり、ロスチャイルド一族に始まったものではない。古代イスラエルのソロモン王の時代、西暦前929年には、世界を平和的に支配する理論上の計画が作られていた。
そして、大東社(グラントリアン)にエリュ・コーエン(選良司祭団)の思想が取り入れられ、同時期にマルタ騎士団から、稀代の詐欺師アレッサンドロ・ディ・カリオストロ(Alessandro di Cagliostro)が大東社(グラントリアン)に送られ、フリーメイソンのエジプト起源説がフランス王国で流布され,フリーメイソンがピラミッドを建造した説やプロビデンスの目など、フリーメイソンのエジプト化はこの流れで醸成された。大東社(グラントリアン)の人脈をロスチャイルド(ヘッセン・カッセル方伯)にいいように利用された。フランス革命の始まる7年前の西暦1782年にヴィヘルムスバート会議があり、フリーメイソンのストリクト・オブザーバンツは息の根を止められ、代わりに擡頭したのがイルミナティである。

この手法は現在もイルミナティに引き継がれている。イルミナティなどの陰謀論を使って自作自演や擦り付けを行い、ゴイムを扇動し、ゴイム同士で争わせ、第3次世界大戦を起こし、現在の国際秩序を破壊すること。国というものがあるから、戦争が起きると誤誘導し、国を無くす方向へ持っていくこと。それが現実に世界連邦運動という国際的な組織に見られる。ロスチャイルドの夢、世界政府の樹立、NWO、悲願の千年王国の実現と、三十年戦争で成功した手法を今も使おうとしている。国際金融資本、連合国など国際組織、産軍複合体、医薬や農薬や肥料で世界から生命と健康と食を支配している。武漢肺炎ウイルスをt栗、ワクチンで統制し血脹れした上に、非常事態を作り出し、世界保健機構(WHO)に統制されたワンヘルス(One Health)で世界を全体主義化し、ゴイムを奴隷化し搾取し支配しようとしている。

ディープステイト、猶太の戦略を理解すれば、世界で起きている不可解な事件の数々が解ける。



ジュール・ミシュレ 抄訳「フランス革命史」 1789年の選挙からヴェルサイユ行進までー「人権宣言」と憲法制定への道ー 第一巻・第二巻 - 瓜生 純久
ジュール・ミシュレ 抄訳「フランス革命史」 1789年の選挙からヴェルサイユ行進までー「人権宣言」と憲法制定への道ー 第一巻・第二巻 - 瓜生 純久


 西暦1789年12月02日に教会財産の国有化が可決され、そのあと国民議会の財務委員会がジャック・ネッケルの反対を押し切って、国有化された教会財産を担保に紙幣を発行することにし、これをアッシニア(Assignat)と呼んだ。アッシニアを受け取った者は教会財産を買い入れることができた。国家が割引銀行(ケース・デスコント、Caisse d'escompte)から借り入れていた1億7000万リーブルはアシッニアで返済された。12月22日に地方自治法が制定された。西暦1790年12月12日には、銀本位制(銀単本位制)を採用した。
 西暦1790年01月15日に地方自治体の選挙が行われ83県に分割され、県の下に郡が置かれた。05月21日にパリ市は48地区に区分された。西暦1790年03月に国民議会の中に度量衡委員会が作られ、アントワーヌ・ローラン・ド・ラヴォアジエ(Antoine-Laurent de Lavoisier)等の活躍で西暦1793年08月のメートル法(仏語: système métrique)公布となった。西暦1790年06月19日に第一身分と第二身分が廃止され、貴族の称号の使用が禁止された。06月21日にアヴィニョンのローマ法王領をフランス王国に併合し、07月12日に聖職者民事基本法が採択され、カトリック教会の世俗化に着手した。聖職者は国から給与を貰う公務員となって世俗国家に服することが規定され、後に立法議会では国家に所属することを誓約することが義務付けられた。
 以後全ての人は「市民(シトワイヤン)」と呼ばれることになり、男性はシトワイヤン、女性はシトワイヤンヌと呼ぶことになった。しかしこの呼称は定着せず、それまで貴族に使われていた「ムッシュ」、「マダム」が普通の人に対しても使われるようになった。西暦1791年03月20日に総徴税局が廃止され、徴税請負人(フェルム・ジェネラル)が廃止された。西暦1791年03月02日にアラルド法(商業の自由・同業者組合(ギルド)禁止)が可決され、06月14日にル・シャプリエ法(Le Chapelier Law、労働者団結禁止法)が可決され、経済的自由主義の下に労働者の組合結成と争議が禁止された。 民衆の権利を擁護するために論戦を挑むべきところ、全く発言できずに終わったマクシミリアン・フランソワ・マリー・イジドール・ド・ロベスピエール(Maximilien François Marie Isidore de Robespierre)を国民衛兵の中佐ルイ・アントワーヌ・レオン・ド・サン・ジュスト(Louis Antoine Léon de Saint-Just)は、熱烈に擁護する手紙を送り、以降文通を通じて友情を深めて革命の同志となっていった。 マクシミリアン・ロベスピエールはフランス北部アルトワの州の州都(現パ・ド・カレー県の県庁所在地)アラスで300年前に遡るとされる法曹一家の弁護士のフランソワ・ド・ロベスピエールとジャクリーヌ・カロが結婚して4ヶ月後に生まれた長男。

 ヴェルサイユ行進の後革命運動を指導、組織するいくつかの党派が形成された。財政危機の中で様々な動きがある中でそれぞれの階級の人物が動き、次第にいくつかの党派へのまとまりが作られていった。ラ・ファイエット派は西暦1790年05月に設立され入会金は100リーブルで、かなり高い収入がないと入会できなかった。ここには最上層部に属する自由主義貴族と最上層のブルジョアが参加した。パリのジャコバン修道院(パリには「ジャコバン修道院」は歴史上2つあり、区別するため「サントノレ通りのジャコバン修道院(Couvent des Jacobins de la rue Saint-Honoré)」)を会場に設立されたのがジャコバンクラブ(Club des Jacobins、正式名称は西暦1789〜1792年は憲法の友の会(Société des Amis de la Constitution)、西暦1792年以降はジャコバン協会、自由と平等の友(Société des Jacobins, Amis de la Liberté et de l’Égalité))は国民議会の左派が集まり、西暦1789年11月に設立した。「ジャコブ」とは、猶太の祖「ヤコブ(ヘブライ語: יעקב[(ヤアコーブ)、アラビア語:يعقوب(ヤアクーブ)、羅語: Jacob)、別名: イスラエル)」の仏語読み。父はイサク(イツハク)、母はリベカ、祖父は太祖アブラム。ヤコブは双子の兄エサウを出し抜いて長子の祝福を得た。(タナハ創世記25章)会費は年間24リーブル、入会金は12リーブルで、職人や労働者では参加できなかった。ジャコバンクラブには議員以外にも職人の親方層から貴族まで広く参加した。コルドリエクラブ(人民協会、人間と市民の権利の友の会(Société des Amis des droits de l’homme et du citoyen))は大衆を組織してその意見を政府と議会に押しつけることを目的に設立された。憲法制定国民議会がパリの60の地区を廃止して48の地区を新たに設置した時にコルドリエ地区の住民によって結成され、西暦1790年04月頃には存在していた。コルドリエクラブは最初コルドリエ修道院の教会で会議を開いた。コルドリエはフランスでフランシスコ会原始会則派に付けられた名前であった。会費は月2スーと極めて安かった。小商人から職人、労働者まで参加した。コルドリエクラブの指導者の中に後に恐怖政治の推進者の姿がかなり見られた。コルドリエクラブの実権を握っていたものも裕福なブルジョアであった。

 フランス革命の先行きを憂慮していた開明派貴族たち、特に立憲王政派のミラボー伯オノレ・ガブリエル・ド・リケティ(Honoré-Gabriel de Riqueti(正書法では、Riquetti))は、大臣になりたかったが、汚職と無縁ではなかった。西暦1790年07月03日にサン・クルー城で極秘交渉を開始し、王室出席者はそこで過激派の監視を受けずに夏を過ごすことが許された。ミラボー伯は「国王にとって王妃は唯一の存在である。{Roi ait auprès de Lui)」と感銘を受けた。マリー・アントワネットはミラボー伯に「月6000リーヴル、王の権威を回復するという任務を成功させたら100万リーブルを支払う。」と約束した。07月14日、ルイ16世は1年前にバスティーユ陥落を記念してシャン・ド・マルス(Champ-de-Mars、「軍神マルスの広場」の意、現在は北西側にエッフェル塔が建っている。)で開催された第1回全国連盟祭(革命1周年式典)に出席するために現地を訪れ、18000人の国民衛兵隊を含む少なくとも30万人がフランス全土からオータンのタレーラン司教とともにオート・ド・ラ・パトリ(祖国の祭壇)で行われたミサに出席した。この式典で国王は、特に国を守り国民議会で可決された法律を執行する宣誓をしたとき、「国王万歳!」の大歓声で迎えられた。特に王太子がお披露目されると、王妃への歓声も上がった。ミラボー伯は王妃と国民の和解を望んでおり、彼が宣戦布告の権利など外交政策に対する権限を含む国王の権限の多くを回復させた。ラ・ファイエット侯とその同盟者の反対を押し切って、国王には保留中のあらゆる法案に対して4年間拒否権を与える拒否権が与えられた。 ミラボー伯はルイ16世に国民議会の「休会」を提案するまでになった。 「国王がパリを脱出し、急進的なパリ民衆の影響下にある国民議会を解散して、地方の支持を背景にして国王の直接統治を行うべきである。」と進言していた。ミラボー伯のほか、ラ・ロシュフーコー・リアンクール公フランソワ・アレクサンドル・フレデリク(François-Alexandre-Frédéric duc de La Rochefoucauld-Liancourt)も進言して、自身の領地であり、かつ王党派支持住民の多いノルマンディー地方への国王の移動を提案した。しかしマリー・アントワネットは痘痕顔の醜いミラボー伯を嫌っていた。またパリ脱出後の行き先についても、王妃のロレーヌ案と、ミラボー伯のノルマンディー案は対立していた。ルイ16世本人が「王たるものは国民から逃げ出すものではない。」として頑として反対し、実現しないでいた。これには十月行進以来、国王がその守護者となることを誓ったラ・ファイエット侯に信頼を寄せていたことも一因で、彼はミラボー伯の政敵であった。しかしルイ16世は本心では革命の進展を望んでいなかった。

 ラ・ファイエット侯、そしてアントワーヌ・ピエール・ジョゼフ・マリ・バルナーヴ(Antoine Pierre Joseph Marie Barnave)、ラメット伯アレクサンドル・テオドール・ヴィクトール(Alexandre Théodore Victor de Lameth)、アドリアン・デュポール(Adrien Duport)の3人(三頭派)らを中心とする愛国派(後のフイヤン派)が主導する中、憲法制定国民議会は新制度の建設に従事した。能動的市民と受動的市民とを分けて制限選挙を採用する西暦1791年憲法をはじめ、新しい地方行政制度、アッシニアの発行、教会を国家に従属させる、西暦1790年07月12日制定の聖職者民事基本法、その他、行政や財産に関する法が1つ1つ審議され、次々と決定された1791年憲法体制)。宮廷側はこれに協力的ではなく、特に西暦1789年10月の、いわゆる「ヴェルサイユ行進(十月事件)」以降、国王ルイ16世はオーストリアやスペイン・ブルボン朝の宮廷に行動費の援助と列強による支援を要請する一方、聖職者民事基本法をめぐる宗教界の紛糾を利用してフランス国内を分裂に導こうとした。特に西暦1790年夏にはフランス南東のジャレスに2万5千人におよぶ反革命の農民ゲリラが組織され、国王がリヨンに脱出するのを待って内戦に持ち込む計画が立てられた(「リヨンの陰謀」)。一方、国民議会は制限選挙に反対する民主派からも攻撃を受け、「受動市民」の多くが含まれる労働者はコルドリエクラブを初めとする各種の人民クラブを組織した。農村でも、領主制廃止が有償方式を採用しているため農民解放は遅々として進まず、聖職者の土地財産の払下げも一般以下の農民にとっては不利な競売方式だったため、西暦1790年から農民一揆が再び各地で頻発した。アッシニア債券は、西暦1790年春から紙幣として流通し、乱発されてインフレーションとなり、物価高騰を引き起こして民衆生活は困窮の度を深めた。
 こうした中、西暦1790年08月24〜31日にナンシー聯隊の兵士叛乱が起こった。将校のアントワーヌ・デジーユ(André(またはAntoine-Joseph-Marc) Désilles)がブイエ侯フランソワ・クロード・アムル・デュ・シャリオール(François Claude Amour du Chariol, marquis de Bouillé)将軍の指揮下の鎮圧軍との間の戦闘の勃発を阻止するという無駄な望みを抱いて大砲の前に身を投げて死亡し、デジーユ門は、彼の名に因んで命名された。国民議会は、メッスやナンシーで発生した兵士の叛乱に身体破壊を伴う車輪刑や斬首刑、ガレー船送りなどの過酷な厳罰を加えた。
ナンシー事件において、兵士鎮圧の措置を支持したラ・ファイエット侯の人気がなくなり、代わってアントワーヌ・バルナーヴ、ラメット伯アレクサンドル、アドリアン・デュポールら三頭派が国民議会の主導権を握った。しかし、その彼らも西暦1791年06月の国王逃亡事件(ヴァレンヌ事件)によって苦境に追い込まれ、三頭派の革命方式もまた破綻した。
 09月03日、ネッケルは立憲議会と対立し辞職し、09月06日に高等法院を廃止した。司法の民主化と呼ばれた。10月21日には三色旗がフランスの国旗に制定された。11月27日に立憲議会は全聖職者に聖職者民事基本法への宣誓を義務づけ、教会と対立した。
 革命の進展とともにラ・ファイエット侯の権力は日増しに弱まり、約束が反故にされ、改革によって様々な権限が奪われていくことに国王は不満を強めていった。西暦1790年10月20日、国民議会の改革に歯止めをかけようとして国民議会の多数派と対立していたネッケル派の大臣が辞職に追い込まれた。大臣非難決議と新大臣任命に関するラ・ファイエット侯の表裏ある態度に、ルイ16世は激怒し、「憲法に規定された自由任免権すら侵された。」として彼を見限って、思い切って反革命に転じることにした。国王はこれを受けてパリに留まって国民議会と妥協を重ねることの無意味さを認めて、逃亡計画を密かに立てた。国王はすぐに王党派であるパミエル・ダグー司教とブルトゥイユ男爵ルイ・シャルル・オーギュスト・ル・トノリエ(Louis Auguste Le Tonnelier de Breteuil)を呼び寄せ、王の代理として諸外国と交渉する全権を密かに与えた。12月27日、聖職者に革命の諸法への宣誓を強制する法律に署名を強いられた際には、不本意な国王は「こんな有様でフランス王として残るなら、メッス市の王になったほうがましだ。だが、もうじきこれも終わる。」と述べ、何らかの計画があることを暗に漏らした。
 ヴェルサイユ行進の後、革命運動を指導、組織するいくつかの党派が形成された。財政危機の中で様々な動きがある中でそれぞれの階級の人物がルイ16世は、王弟アルトワ伯シャルル・フィリップ(後のシャルル10世)や亡命貴族(エミグレ、Émigré)が行っていた地方での叛乱蜂起の扇動などには賛成せず、彼らの愚かさを非難したが、一方で、ブルトゥイユ男爵が必死に諸外国を説得に回り、結成を目指していた神聖王政連盟に対しては密かに期待していた。しかし具体的に支援を約束したのは王権神授説を信じるスウェーデン王国ホルシュタイン・ゴットルプ朝(西暦1751〜1818年)グスタフ3世だけで、イギリス王国は植民地の譲渡などを条件に中立を約束したが、ローマ法王の宗教上の支援はあまり効果がなかった。特に痛手であったのは、王妃マリー・アントワネットの実兄である神聖ローマ帝国(西暦800/962〜1806年)皇帝レオポルト2世が、ポーランド・リトアニア共和国(第1共和政)(西暦1569〜1795年)やオスマン帝国(西暦1299〜1922年)の情勢を鑑みて、計画に懐疑的態度を取ったことであった。彼は口実をつけて交渉を引き延ばし、これにより無為に8ヶ月間が経過したため、その途中12月にはジャン・ポール・マラー(Jean-Paul Marat)の「人民の友」紙などのパリの革命派新聞が国王側の不穏な陰謀の気配を嗅ぎつけてしまい、西暦1791年01月30日にはエドモンド・ルイス・アレクシス・デュボワ・クランセ(Edmond Louis--Alexis Dubois-Crancé)が国王の計画をジャコバン派に暴露してしまった。
 国王が逃亡するという噂は、計画が事実であっただけに、深刻なものであった。議会は国境の警備を強化して、王族の監視も強化した。しかしルイ16世は、反カトリック的な法律ができたこともあるが、挑発するかのように、先だって叔母(ルイ15世最愛王の四女と五女)のマリー・アデライード・ド・フランス(Marie Adélaïde de France)王女とマリー・ルイーズ・テレーズ・ヴィクトワール・ド・フランス(Marie-Louise-Thérèse-Victoire de France)王女を出国させ、ローマに行かせた。
2王女の出国事件はすぐに問題となり、彼女たちは途中で2度も捕まった。これはちょうど亡命禁止法を議会で審議していた時期の出来事であったが、ミラボー伯の人権を擁護する主張により、この法案は退けられ、議会は特別命令を出して出国を許した。しかし一方で議会は「王の逃亡は退位と見做す。」と宣言して警告し、マリー・アントワネット王妃が駐仏オーストリア大使メルシー・アルジャントー伯フロリモン・クロード(Florimond Claude, comte de Mercy-Argenteau)と交わしていた書簡を調査してその不穏当な内容を問題視し、摂政職から女性を排除する法案を可決させた。西暦1791年04月02日、ミラボー伯が絶頂期に突如として42歳で病死した。
 死後にルイ16世と交わした書簡と多額の賄賂の存在が暴露され名声は地に落ちることになった。ミラボー伯はルイ16世が信頼していた唯一の人物であったこともあり、急死はますます面従腹背の態度を強め、後任者に対しては誰にも腹の中は見せず、それに伴い王妃の国王に対する発言力が増していった。
三頭派やアントワーヌ・バルナーヴがブルジョワ(仏語: bourgeois)的政策を進めて、議会と民衆との軋轢が顕著になると、国王は反革命の機会と思ったが、レオポルド2世との交渉は全く進んでいなかった。
 ところが、04月18日に国王一家は復活祭のミサを行うためにサン・クルー宮殿へ行幸しようとしたが、民衆はこれを国王が逃亡するものと思いこんで、テュイルリー宮殿の門を人垣で塞いで馬車の行く手を妨害した。ラ・ファイエット侯は群衆を解散させることができずに、国王一家を守るべき国民衛兵隊も、行幸が中止と発表されるまで妨害を止めなかった。マリー・アントワネットは「これで私たちが自由でないことは認めざるを得ないでしょう。」と言い、国王一家は自分たちが実際には囚人であることを確認した。最初は乗り気でなかったルイ16世も真剣に脱出計画に耳を傾けるようになった。計画に積極的だったのは国王に強い影響力を持っていた王妃マリー・アントワネットであった。彼女は実家であるオーストリア大公国(西暦1453〜1806年)へ亡命することを企てていた。当時はフランス国外へ亡命する貴族はまだ多く、亡命そのものを罰する法もなかったことから、変装によってそれに見せ掛けることは可能であった。王妃は駐仏墺大使メルシー・アルジャントー伯フロリモン・クロードを介して秘密書簡で本国と連絡を取り、亡命が成功した暁には、実家はもとより血族のいる諸外国の武力による手助けを得て、フランス革命を鎮圧しようと夢見ていた。しかし兄のレオポルド2世は、ルイ16世が申し出た1500万リーブルの借款を断り、渋々軍隊を送る条件として、「国王一家がパリを脱出した後に憲法を否定する声明文を発しなければならない。」とした。実際的にはオーストリア大公国を含めて彼女が当てにした諸国は戦争に消極的で、西暦1791年時点で介入に同意しそうな国は、(従来はオーストリア大公国の敵であった)プロイセン王国以外にはなかった。ブルトゥイユ男爵は諸国の君主の好意的反応を引き出したが、大臣は賛成せず、支援は上辺だけのものだったからだ。翌年に革命戦争が始まったときでも、宣戦布告したのは革命フランス側からであり、ナポリ王国などマリー・アントワネットの姉マリア・カロリーナのいる諸国は当初は参戦を見合わせ、国王ルイ16世処刑後ですらマリー・アントワネットの脱出にも助力しなかった。身代金交渉はなかったわけではないが不活発で、マリー・アントワネットが期待したハプスブルク家の援助は、例え逃亡計画が成功していても、儚い夢でしかなかった。このためルイ16世は「パリ逃亡の際の国王の宣言」を作成して、成功したら発表する予定であった。この文書は後に発覚し、アントワーヌ・バルナーヴの誘拐説の嘘を暴いた。これはパリ脱出の経緯を説明するもので、国民議会の憲法違反を非難する内容だった。逃走の資金は銀行家から借金することになった。

 国王が拒否権を使って革命への非協力を示しながら、アントワーヌ・バルナーヴ、アドリアン・デュポール、ラメット伯ら穏健な立憲主義を標榜する三頭派の愛国派(後のフイヤン派)と依然として国王に忠実だった王党派の首領ラ・ファイエット侯の不毛な権力闘争に忙殺される政治に多くの議員と国民は失望していた。西暦1791年05月16日、マクシミリアン・ロベスピエールは三頭派と立憲主義者を次期議会から一掃するため国民議員の立法議会での再選禁止を提案し、圧倒的支持を受けてこの提案を通過させた。

 王妃マリー・アントワネットの主導の下に計画が立てられたことで、いくつもの問題が生じることになった。まず計画の中心人物が、王妃の愛人とも噂されたあのスウェーデン貴族フェルセン伯ハンス・アクセル(Hans Axel von Fersen)となった。彼に協力するのはショワズール竜騎兵大佐 (Claude Antoine Gabriel, duc de Choiseul-Stainville) と王室技師ゴグラーという、国王と王妃に忠誠を誓った個人で、数人の近衛士官を除けば、国内で活動していた王党派との連携はほぼ皆無であった。国境地帯の軍を預かっていたブイエ侯フランソワ・クロードが重要な役割を果たすこととなったが、このような問題に外国人が関与することに当初より強い懸念を示した。フェルセン伯はルイ16世の臣下ですらなかったからである。しかしフェルセン伯は王妃の信頼に応えようと、国王一家の逃亡費用として、日本円に換算して総額120億円以上を出資したというほど、献身的であった。フェルセン伯は別の愛人のエレオノール・シュリヴァンにこの資金の一部を用立ててもらい、さらに2頭立て馬車や旅券を手配したが、これらは彼女の助力の賜だった。フェルセン伯には他にも複数の愛人がいたことが知られている。
 ところが一方で、マリー・アントワネットの無理な主張にも振り回され、馬車は家族全員が乗れる広くて豪奢な(そして、足の遅い)8頭立てのベルリン型の大型四輪馬車の新品とすることになって、内装を特注にし、さらに美しい服などを新調したことなどにより、脱出は当初の予定より1ヶ月以上も遅れることになった。また王妃の主張する亡命自体も難があった。実行役となるブイエ侯は、反逆罪に問われる可能性が高かったことから、国王の署名入りの命令書を求めるなど抵抗した。ルイ16世も国外への逃亡という不名誉を恐れ、計画の変更を求めて、逃走経路をフランス領内のみを通過するものに変えた。しかしこれはブイエ侯が最初に提案した旅程よりも危険なものになった。最終的な目的地は、フランス王国側の国境の町、モンメディ (Montmédy) のヴォーバン式の稜堡城郭をもつ要塞に決まった。ここに国外の亡命貴族軍を呼び寄せて合流する予定であった。つまり実際には亡命ではなかった。オーストリア領ネーデルラント(現在のベルギー・ルクセンブルク、西暦1714〜1797年)国境に集結していたオーストリア軍の協力を当てにはしていたが、国王はあくまでも国内に留まる決意だった。
 計画は06月19日に決行される予定であったが、直前までマリー・アントワネットに振り回された。何もかも準備は整っていたのに、彼女が革命派と考えていた小間使いが非番となる翌日まで1日延期されることになった。他方、ブイエ侯は街道に配下の竜騎兵および猟騎兵部隊を配置して警護させようと考え準備していたが、彼らは王党派というわけではなかったので兵士たちには任務の内容は知らせなかった。指揮官のショワズールは、ただでさえ秘密の保持に苦慮するところであったが、このように予定が突然変更になって部隊は右往左往することを強いられ、計画は実行前から綻びていた。この兵士の中に当時は副官付の曹長に過ぎなかったジョアシャン・ボナパルト・ミュラ(Joachim Mura)もいた。彼は後にルイ16世を護る立憲近衛隊の兵士、さらに第一統領ナポレオン・ボナパルト(Napoléon Bonaparte、別名(西暦1794年以前)ナポレオーネ・ディ・ブオナパルテ(Napoleone di Buonaparte))の3番目の妹マリア・アヌンツイアッタ・ボナパルト・ミュラ(Maria Annunziata Bonaparte Murat)と結婚してその義弟となり、ジョアシャン・ナポレオン・ミュラ(Joachim-Napoléon Murat)と改名し、ナポリ王国(公式な称号は両シチリア王国)(西暦1282〜1816年)の国王、ジョアッキーノ1世(Gioacchino I)に即位した。
 ルイ16世と王妃マリー・アントワネットには、長女マリー・テレーズ・シャルロット(Marie Thérèse Charlotte de France)、長男ルイ・ジョゼフ・ド・フランス(Louis-Joseph Xavier François de France)、次男ルイ・シャルル(Louis-Charles de France)、次女マリー・ソフィー・エレーヌ・ベアトリクス・ド・フランス(Marie Sophie Hélène Béatrix de France)の2男2女の4人の子ができたが、次女マリー・ソフィーは西暦1787年06月19日に結核のため10ヶ月21日で、長男でドーファン(王太子)のルイ・ジョゼフは西暦1789年06月04日に結核のため7歳半で夭逝し。次男のルイ・シャルルが王太子となった。長女マリー・テレーズが10歳の頃、西暦1778年07月31日にヴェルサイユ宮の小間使いが出産したマリー・フィリピーヌ・ド・ランブリケが、マリー・テレーズ・シャルロットの遊び友達として迎えられた。この少女はマリー・テレーズ・シャルロットと瓜二つだった。エルネスティーヌの法的文書には母フィリピーヌ・ド・ランブリケの名前は記されていたが、フィリピーヌの夫ジャックの名前は載っておらず、当時ルイ16世の嫡外子ではないかと言われる。西暦1788年04月30日にマリー・フィリピーヌの母フィリピーヌが亡くなると、マリー・アントワネットはエルネスティーヌと改名させ、養女にした。ルイ16世はエルネスティーヌのために部屋を用意させ、高価なピアノやドレスを買い与えた。マリー・テレーズ・シャルロットは弟のルイ・シャルルとともに、養育係のトゥルゼール夫人の娘、ポリーヌ・ド・トゥルゼールによく懐いた。西暦1789年10月06日、マリー・テレーズ・シャルロットは家族や廷臣と共にテュイルリー宮殿に軟禁された。西暦1790年04月04日、エルネスティーヌとともに父から聖体拝領を受ける。西暦1791年06月21日、ヴァレンヌ事件の前日にエルネスティーヌは父ジャックを訪問するため宮殿を離れていた。
 西暦1791年06月20日の深夜、ルイ16世と王妃、王太子ルイ・シャルルと王女マリー・テレーズ・シャルロットは、それぞれ変装してばらばらに分かれてテュイルリー宮殿を抜けだした。予定では午前00時の出発のはずだったが、国王の監視役であったラ・ファイエット侯の予定外の長居によって、結局、国王が宮殿を出たのは午前01時を過ぎていた。一行は、ロシア貴族のコルフ侯爵夫人に成りすまして、近衛士官マルデンの手引きで、幌付き2頭立ての馬車に乗って誰にも止められることなく宮殿を出ていった。王子と王女は仮面舞踏会に行くと言い含められていたので驚いたようである。一方、護衛を務めるショワズールとゴグラーは、この10時間前に猟騎兵を連れて既にパリを出ていた。旅券には書かれた一行の人数は6人で、コルフ侯爵夫人の役には王子たちの保母であったトゥルゼール公爵夫人(Louise-Elisabeth de Croÿ de Tourzel)がなり、その子供には王太子ルイ・シャルルと王女マリー・テレーズが、旅行介添人が王妹マダム・エリザベート(エリザベート・フィリッピーヌ・ド・フランス(Élisabeth Philippine Marie Hélène de France))、デュランという名前の従僕にルイ16世が、マダム・ロッシュという名前の侍女にマリー・アントワネットが扮していた。馬車の御者は変装したフェルセン伯であった。まずクリシー街(現パリ9区クリシー通り27番地付近)のシュリヴァン夫人の邸宅に着くと、ここで用意していた大型の豪華なベルリン馬車に乗り換えた。さらに2人の従者が車後に乗った。フェルセン伯は自ら手綱を操って、回り道しながら2台の馬車は北に向かった。すでに午前02時半を過ぎていた。翌21日の午前06時に侍女たちが国王一家の不在に気付いて通報したので、彼らには4時間の猶予もなかった。急を知ったラ・ファイエット侯は、国民議会と市役所に大砲を3発放たせて警報を発し、パリに厳戒態勢を敷いた。捜索隊がすぐに組織された。怒った民衆はすぐに宮殿になだれ込んで、ルイ16世の胸像を叩き壊し、早くも退位を要求するなどいきり立っていた。大砲の音は逃走中の馬車の中の国王の耳にも聞こえたので、彼は何通か遺書を書いたが、しばらくすると追っ手はついて来ていないことがわかり、緊張が解けた安堵から気が抜けていった。パリ郊外のボンディまで来て、ルイ16世は「これ以上はフェルセンは随行するな。」と命じた。外国人に先導されることも、王妃と親しすぎる人物を連れて行くこともできなかったからである。彼は王妃に別れを告げて去った。
 その頃、ショワズールは、40人の猟騎兵とともにシャロンの町の近くのポン・ド・ソルヴェールの橋でずっと待っていたが、待てども待てども国王の馬車は到着しなかった。何事かと訝る住民の目に晒されて、だんだん不安になったショワズールは、部隊を分散させ、街道から隠すことにした。国王の馬車は、銀食器、衣装箪笥、食料品などの日用品や、喉がすぐ乾く国王のために酒蔵1つ分のワイン8樽、調理用暖炉2台など必要品をたっぷり載せ、ゆっくりとした速度で進んでいた。国王一行がシャロンに到着したのは午後04時だった。扮装した国王一行は安心しきっており、ここで優雅に食事をして、豪華な馬車と荷物を人々に見せびらかせて悠々と去っていった。すぐに町中に王室一家が通過したという噂が広まった。ポン・ド・ソルヴェールで国王は最初の護衛に会えると思っていたが、ショワズールの愚かな判断によって行き違いになった。次のサント・ムヌウの町でも別の竜騎兵部隊が待っている予定であったので、国王はさらに2時間進んでこちらと遭遇することを期待した。しかしサント・ムヌウでも、不審な部隊を警戒した地元の国民衛兵隊300人が武装して集まってきたので、衝突を恐れた指揮官のダンドワン大尉は解散を命じて、竜騎兵たちの多くは市民と一緒に酔っぱらっていた。よってここでも国王は護衛とは合流できなかった。しかしダンドワン大尉は何とか国王の馬車を見つけ、彼は近寄って会釈した。ところが運悪く、それを夕涼みに出ていた宿駅長のジャン・バティスト・ドルーエ(Jean-Baptiste Drouet)が見ていた。彼は大尉や竜騎兵たちが馬車の中の従僕や侍女に恭しく挨拶するのを怪訝に思った。そこにシャロンから「王室一家が通過した。」という噂が流れてきたので、ハッとしたドルーエは地区役所に走って、書記からアッシニア紙幣を受け取って印刷された肖像を見てみると、まさにさっきの一行の中にいたのがルイ16世であった。彼らは馬に乗って馬車を急いで追いかけ、間道を抜けて先回りした。クレルモン・エン・アルゴンヌの町で国王はようやく護衛の竜騎兵部隊と合流できたが、国王の逃亡はすでにこの町に伝わり騒ぎになっていた。町の当局者は、一行を怪しんだものの、コルフ侯爵夫人の旅券をもつ国王の馬車を止める権限がなかったので、行かせることにした。しかし明らかに不審な部隊の随行は禁止した。再び護衛と引き離された国王の馬車がヴァレンヌに到着した時、ドルーエらは先に到着して、大勢の群衆と共に待ち構えていた。
 ヴァレンヌの町では、ブイエ侯の息子ら2人の連絡将校が待っているはずだったが、彼らは待ちくたびれて寝込んでいた。橋の向こうでは、馬車の替え馬が準備されていた。ここで馬を替えればモンメディまでは僅かな距離であった。サント・ムヌウの宿駅長ドルーエにそんな権限はなかったが、警鐘を鳴らし何としても亡命を阻止すべく、すでに橋にバリケードを作って封鎖していた。騒ぎに目を覚ましたブイエ侯の息子は発覚したと思って逃げ出した。ドルーエに「引き留めないと反逆罪だぞ。」と脅されていた町長は、旅券を調べて「よろしい。」と許可を与えたが、もう旅を続けるには遅いから一休みしていかれてはどうかと勧めた。馬車を群衆に包囲され身動きが取れなかったので、「しばらくすればブイエかショワズールの部隊が助けに来るのではないか。」と期待した国王は、この招待を受けることにした。24時間の逃避行で彼らも疲れていた。「ソース」という名前の食料品店の2階に部屋が設けられ、簡易ベッドと粗末な食事が出された。夜半になって、ショワズールが猟騎兵を連れて息を切らせて到着し、彼らは群衆を掻き分けて食料品店の2階に駆け上がってきた。すぐに血路を開いて脱出しようというが、外には数万の群衆が集まっており、中には武装した国民衛兵隊もいた。大半は只の野次馬だったが、国王に敵愾心を持つ者がどれほどいるかの判断も付かず、女子供を連れて強行突破は難しいと逡巡している間に朝が来た。
 06月22日、国民議会の使者ロメーフが国王一家を拘留せよとの命令を持って現れた。
ここで全てが露見したが、ルイ16世はさらに時間稼ぎをしてブイエ侯が救援するのを待とうと試みた。国王は「疲れているのでパリに立つまで2、3時間の休息が欲しい。」と言った。ロメーフはラ・ファイエット侯の副官で、内心では王党派であったのでこれを受け入れた。しかしもう1人の使者のバイヨンが拒否し、「パリへ、パリへ。」と群衆を煽った。群衆の怒声と熱気に恐れをなした町長や町議員、商店主が出立を懇願するので、国王もついに観念し、車中の人となった。マリー・アントワネットは屈辱に唇を噛みしめていた。マリー・アントワネットの部屋付第1侍女、カンパン夫人(ジャンヌ・ルイーズ・アンリエット・カンパン(Jeanne-Louise-Henriette Campan))は、21日の夜に王妃の髪に何が起こったのかについて書いている。「06月22日、…一晩で70歳の女性のように真っ白になりました。」
 その僅か半時後、ブイエ侯は部隊をつれてヴァレンヌの町の手前まで来て、「国王が既に屈服した。」と知らされた。彼はそのまま踵を返して道を引き返し、国境を越えて亡命した。 ブイエ侯には、数々の不可解な行動から、裏切り説もある。一方、同日に逃亡した王弟のプロヴァンス伯爵夫妻は、同じ頃には無事にアヴァレ伯爵と共にオーストリア領ネーデルラントに到達していた。プロヴァンス伯ルイ・スタニスラス・グザヴィエ(後のルイ18世)は、06月20日の夜に兄ルイ16世に会ったのが、今生の別れとなった。彼は2年後の兄の死と前述の王妃を摂政職から排除する法律によって、自動的にフランス王国の摂政となった。

 06月25日夕方07時、国王一家はテュイルリー宮殿に連れ戻された。議会を代表する護衛としてアントワーヌ・バルナーヴ、ジェローム・ペティヨン・ド・ヴィルヌーヴ(Jérôme Pétion de Villeneuve)、フェイ・ド・ラ・トゥール・モブール侯シャルル・セザールの3議員が途中で加わっていた。彼らはかつてないほど野次と侮辱を受けた。フランス国王の威信がこれほど貶められたことはなかった。道中の各地に「国王に礼を尽くすものは撲殺。国王に非難を加えるものは縛り首。」との警告ビラが貼られ、パリは国王一家を沈黙で持って迎えた。以後の国王は「民衆にとっては裏切り者、革命にとっては玩具。」となった。
 ヴァレンヌ事件はフランス国民に多大な衝撃を与えた。「国王が外国の軍隊の先頭に立って攻めて来る気であった。」という事実は、立憲君主制の前提を根底から揺るがす大問題だった。ルイ16世は革命の敵、反革命側なのであり、それどころか国家の敵ですらあり、フランス人の王としての国民の信頼感は著しく傷つけられた。それまでは国王擁護の立場を取っていた国民が比較的多数を占めていたが、以後、多くは左派に靡いて革命はますます急進化した。最も右翼的、保守的な貴族議員が相次いで亡命した。軍隊の貴族将校からも大量の亡命者を出した。高級僧侶や高級貴族のうち王党派と見られた者は監視されたり監禁されたりした。国民議会の左翼は王権を廃止して共和制を宣言する請願書を出し、貴族政治家はほぼ一致して国王を守ろうとした。窮したラメット伯アレクサンドルやアントワーヌ・バルナーヴは、「国王は何者かによって誘拐された。」とする陰謀説をでっち上げた。彼らは立憲君主制を成立させるために、ブイエ侯を首謀者とした陰謀説を強弁し、「ルイ16世は被害者であった。」という話を捏造した。結果として、フランス国歌「ラ・マルセイエーズ」の歌詞の5番で侮辱されている。この嘘はアントワーヌ・バルナーヴの雄弁によってある程度は成功し、07月15日にジャコバンクラブの多数はルイ16世の廃位を決議したが、議会の多数が賛成して王位は守られた。フランス革命は立憲君主制と立法議会の成立というところまで漕ぎ着けた。
 しかし、この公然の嘘に対して、左派は激しく反発。革命は最早西暦1789年の理想の範疇では治まらなかった。シャン・ド・マルスの誓願は、ラ・ファイエット侯の国民衛兵隊の発砲により流血沙汰となり、共和主義宣伝の機会を与えた。ジャコバン派は分裂し、フイヤン派が脱退する事態となった。フイヤン派は何とか君主制と革命とを両立させようとその後も苦心したが、国王ルイ16世とマリー・アントワネットが外国軍による解放という考えを捨てなかったこともあって、結局は、フランス共和国第1共和政(西暦1792〜1804年)の樹立の方向に革命が進むのを止められなかった。
 一方、脱出を手引きしたフェルセン伯の主君スウェーデン王グスタフ3世は、ドイツのアーヘンにてフェルセン伯からの報告を待ちわびていたが、結局、脱出成功の報を聞くことはなかった。逆に国王一家逮捕の知らせが届いたため、グスタフ3世は直ちに亡命フランス貴族と計り、「反革命十字軍」を組織する計画を立てた。10月01日にはロシア帝国とも軍事同盟を締結したが、西暦1792年03月16日、ストックホルムのオペラ座で開かれた仮面舞踏会の最中、ヤコブ・ヨハン・アンカーストレム伯に背後から拳銃で撃たれた。その後、手術を受けたが2週間しか持たず、合併症を併発して、46歳でこの世を去った。暗殺の裏には貴族らからの反発があった。グスタフ3世は国の大きな柱にした軍隊にかかる費用を賄うために貴族らに増税を強制していた。暗殺の黒幕として、フェルセン侯フレドリク・アクセル(ハンス・アクセル・フォン・フェルセンの父)が噂された。実行犯ヤコブ・ヨハン・アンカーストレム伯は地所と特権剥奪し3日間鞭打ちを受け、右手を切断され、04月27日に斬首刑に処せられた。 最終的にはグスタフ3世の暗殺などで実現することはなかった。グスタフ3世の暗殺は、欧州諸国に衝撃を与えた。グスタフ3世の行動はかなり極端ではあったが、後の対仏大同盟の先鞭となった。フランス革命の脅威と重なり、欧州各国は、保守色を強め国内の統制を強めていった。これと併せてスウェーデンでもヨーロッパ主要国においても啓蒙主義的な君主は見られる事はなくなった。

王の逃亡:フランス革命を変えた夏 - ティモシー・タケット, 松浦 義弘, 正岡 和恵
王の逃亡:フランス革命を変えた夏 - ティモシー・タケット, 松浦 義弘, 正岡 和恵

 西暦1791年08月27日には、既に亡命に成功していた王弟アルトワ伯シャルル・フィリップが、神聖ローマ皇帝レオポルト2世とプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世を仲介し「ピルニッツ宣言」を行った。この「必要な武力を用いて直ちに行動を起こす。」という内容の宣言は、革命派には脅迫と受け取られて、実のところ国王一家の立場をより悪くしただけではあったが、フランス革命戦争への号砲となったと言える。というのも、革命派は脅迫を受けて引き下がるどころか、逆にいきり立って戦いを望んだからである。彼らはついには国王の断罪を求めるようになっていくため、ヴァレンヌ事件はブルボン王政の終焉を告げるきっかけともなった。

 ヴァレンヌ事件におけるルイ16世一家の逃亡という事態は、立憲王政を窮地に陥れた。アントワーヌ・バルナーヴは国王は誘拐の被害者であったという虚構で取り繕ったが、「国王を裁くべきではないか。」という批判はなかなか消えず、共和政樹立の要求は高まるばかりだった。この革命運動は07月14日の第2回全国連盟祭に向けて次第に熱を帯びていった。07月15日、ジャコバンクラブでルイ16世廃位の請願運動が決定された。これに怒った君主主義者たち多数派がジャコバンクラブから離脱し、07月16日にフイヤン修道院でフイヤンクラブ(Club des Feuillants)を結成し,フイヤンクラブの議員が議会の多数になった。
 フイヤン派指導者のアントワーヌ・バルナーヴは「荒唐無稽な理由を使ってでも国王を守り、新憲法を作り上げていくことが革命の成否を決める問題だ。」と見ていた。だが、議会多数派を形成したフイヤン派に対する不信感が強まり、民衆(サン・キュロット)と議会の間で溝が生じた。アントワーヌ・バルナーヴは革命の行方に懸念を持ち、こう語った。「われわれは革命を終えようとしているのであろうか?それとも、また革命をやり直そうとしているのであろうか?諸君は、全ての人間を法の前に平等なものとした。諸君は、市民的ならびに政治的自由を確立し、国民の主権から奪われていたすべてのものを国家のために奪い返した。もう一歩進むことは、不吉で罪深い行為となろう。自由の線上をもう一歩進むことは王政の破壊になろうし、平等の線上をもう一歩進むことは私有財産制の破壊になろう。」革命を終わらせたい者と今後も革命を前進させたい者の対立が一層激化した。こうして、議会では国王を守ろうとするフイヤン派と国王の廃位を求めるジャコバン派が衝突、安定に向かい始めた新体制に亀裂が生じた


 空っぽのジャコバンクラブでは議員資格のある者は5〜6人しかいなかったが、請願文が採択され、シャン・ド・マルス練兵場に送られて主権者たる大衆に署名してもらう算段となった。内容は直接的に共和政を求めたわけではないが、「(王に代わる)新しい行政権力と(現在の議員に代わる)新しい憲法制定議会の招集を求める。」というものであった。これはオルレアン派の新しい王への交代という意味にも解釈できたので、コルドリエクラブはこの曖昧さを非難した。しかし、地区民衆は挙って集まり、「サン・タントワーヌ門から練兵場まで行進して平和的な示威行動をする。」と決まった。
 07月17日、パリは朝から異様な緊張状態であった。「祖国の祭壇」の下に2人の男が隠れていたのが見つかり、民衆の手で、王党派として近くの窓にぶらさげられ縛り首になった。これはただの偶発的な出来事であったが、これを口実に立憲議会は戒厳令を布告した。初代パリ市長ジャン・シルヴァン・バイイ(Jean-Sylvain Bailly)と国民衛兵隊司令官ラ・ファイエット侯は事前に、計画の報告を受けており、対策を準備していた。国民衛兵1万人が動員され、請願運動を中止させ群衆を解散させるべく強硬手段を執った。

 軍隊がシャン・ド・マルス練兵場に辿り着く前に、祭壇では6千人以上が既に署名を済ませていた。この請願書は明確な議会への不信任であったから、何としても引き破らなければならなかったが、午後に、軍隊が人垣やバリゲードを突破して練兵場内に入ると、意外にも示威行動は平和裏に行われていて拍子抜けした。しかし殺気だった兵士の乱入に驚いた民衆が投石を始め、これに対してジャン・シルヴァン・バイイが威嚇射撃を空に向けて命じたところ、5万人の犇めく練兵場では何が起こったかわからず恐慌が起こった。人々は押し合いへし合いして逃げ出した。何度銃撃があったか、水平射撃だったか威嚇のみだったかはわからないが、民衆への軍隊の発砲は衝撃的な事件であった。実際の死者は13〜15人程度で、病院に搬送されたものは国民衛兵を含めて12人に過ぎなかった。200人程度の逮捕者も1ヶ月以内に釈放された。現代のフランス共和国ではよって「虐殺」という表現はあまり用いられず「発砲(Fusillade)」と表現される。しかし、当時は噂に尾鰭がついて「3000人以上の死傷者が出た。」という誇張した話になり、虐殺事件として喧伝され、多くの人がそれを信じた。( シャン・ド・マルスでの発砲フイヤン派の権力は軍事力と警察力を背景に安定した。共和派の革命派は潜伏した。この時戒厳令を意味する赤旗が初めて用いられたが、この事件がきっかけで後に階級闘争の象徴となった。
 それまでフランス革命を指導する立場だった司令官、両大陸の英雄ラ・ファイエット侯の人気凋落を決定づけた。またパリ市長ジャン・シルヴァン・バイイの処刑理由ともなった。
 フイヤン派には自由主義貴族(領主)とブルジョアジーの最上層が結集していた。領主権の維持と確保のため08月27日に貢租の増加が決定された。09月03日に憲法制定国民議会において憲法が成立し、立憲君主制を採用して行政権は国王に属し、立法権は議会に属するが国王に拒否権を認めた(西暦1791年憲法)。議会は1院制で選挙権も被選挙権も一定の租税を納める者に限定した。選挙権を持つ者を「能動市民」、持たない者を「受動市民」と呼んだ。政権に参加できる者は少なくとも手工業の親方や小商店主、中農以上の者に限定された。絶対主義の時代は外国人領主の領地や外国扱いされていた地方があって、必ずしもフランス王国の領土と認められていないものがあったが、「フランス王国は唯一にして不可分」と宣言された。こうして革命の第1段階は終わった。



「自由、平等、友愛」(Liberté, Égalité, Fraternité)という標語の起源はフランス革命にあり、文書が残る最古は、恐怖政治で断頭台に政敵を送った鬼畜マクシミリアン・ロベスピエールが書いたもので、西暦1790年12月の中旬に印刷され、人民結社(民衆協会)を通じてフランス全土に広まった「国民軍の設立に関する演説」。公式に国の標語として採用されることになるのは西暦19世紀末の第3共和政(西暦1870〜1940年)になってからである。 「友愛」とは友に対するもので、友でなければ殺しても良いということである。日本では、意図的に「博愛」と誤訳している。

ブルボン家のランジュ侯は、西暦1773年10月22日にギロチンの発案者で有名なジョゼフ・イニャス・ギヨタン(Joseph Ignace Guillotin)医師やビュフォン伯ジョルジュ・ルイ・ルクレール(Georges-Louis Leclerc, Comte de Buffon)とともにメイソンロッジ、大東社(Grand Orient de France、グラントリアン)を創設した。東洋を統括する支部という意。フリーメーソンの性格が変化したのは大東社(グラントリアン)成立以降といわれる。イギリス本国のフリーメーソンが一般に政治問題を会合で話題にすることがなかったのに対し,大東社(グラントリアン)の傘下に入った大陸系フリーメーソンはむしろ積極的に社会改革を推進した。大東社(グラントリアン)は、英米系のロッジと違い、組織として政治活動に加わる者も少なくなかった。フランス革命では、フリーメイソンと関り、関係者が多数処刑されている。大東社(グラントリアン)の目的は、人脈と資金を集める事で、レザミ・レユニの人脈(ミラボー伯やマクシミリアン・ロベスピエール)は、大東社(グラントリアン)にも所属(兼務)した。ランジュ侯はグランドマスターにオルレアン公ルイ・フィリップ2世ジョゼフを担ぎ上げた。フランス国土の5%がオルレアン家のもので、国王と違い公費支出が無いため相当な資金力があったが、私生活は放蕩かつ無節操で、民衆に開放した自分の宮殿パレ・ロワイヤルは歓楽街として使われ、政治的な危険分子はもちろん、娼婦の溜まり場にもなるなど背徳と放縦と浪費癖によって借金に塗れた。その借金の貸し手は、ヘッセン・カッセル方伯ヴィルヘルム9世アシュケナジームの配下の猶太マイアー・アムシェル・ロートシルト(ロスチャイルド)だった。
大東社(グラントリアン)は自ずとロスチャイルドの工作機関となった。
フリーメイソンのストリクト・オブザーバンツは西暦1782年のヴィヘルムスバート会議でヘッセン・カッセル方伯家に乗っ取られ、クニッゲ男爵とボーデによって、イルミナティ化し、ブラウンシュヴァイク・リューネブルクュヴァイク公カール(2世)・ヴィルヘルム・フェルディナントなどストリクト・オブザーバンツの人脈の殆どがイルミナティに流れた。
そして、ヨハン・ヨアヒム・クリストフ・ボーデのフランス王国での活動の結果、レザミ・レユニと大東社(グラントリアン)のメンバーをイルミナティに迎えた。その中にランジュ侯、オルレアン公ルイ・フィリップ2世ジョゼフ、ミラボー伯、マクシミリアン・ロベスピエールがいた。
ミラボー伯もまた放蕩者として評判で多くの借金を抱えていた。ミラボー伯の借金の相手はドイツのユダヤ人の哲学者・啓蒙思想家であり、大金融家でもあったモーゼス・メンデルスゾーンでロスチャイルド家と親交があった。ミラボー伯の背後にもロスチャイルドがいた。
フランス革命の代表的な革命指導者で史上初のテロリスト(恐怖政治家)と呼ばれたマクシミリアン・ロベスピエールは、西暦1793年に公安委員会(自由の確立のためには暴力が必要であるとして「自由の専政」のために創られた)に入ってからの約1年間、フランス共和国の事実上の首班として活動している。
マイアー・アムシェル・ロートシルト(初代ロスチャイルド)は、フランス革命の口火であるバスティーユ襲撃と同じ西暦1789年年にヘッセン・カッセル方伯家の正式な金融機関の1つに指名されている。経済的に何の後ろ盾のないフランス革命軍にヘッセン・カッセル方伯家の命を受けロートシルトとが資金を提供したと考えられる。

フランス革命はフリーメイソンの革命であった噂は絶えないが、実際にフリーメイソンという組織が主体となって起こしたものではなく、ヘッセン・カッセル方伯ヴィルヘルム9世がロスチャイルドを使って巧みにフリーメイソンの人脈をイルミナティに取込み、工作したのがフランス革命である。


 アンリ・グレゴワール(Henri Grégoire)は西暦1789年、聖職者(第一身分)であったにも拘わらず第三身分でジャコバン派の三部会議員となり、ユダヤ人解放に尽力し、ザルキント・ウルウィッツは著書「ユダヤ人擁護論」を書いて、ミラボー伯オノレ・ガブリエル・ド・リケッティに注目された。フイヤン派のミラボー伯はフランス革命で、ユダヤ人解放を実現した。ミラボー伯はドームとベルリンのサロンで親交して影響を受けて、フランス革命でユダヤ人解放を実現した。西暦1791年01月28日、フランス革命中のフランス共和国では、イベリア半島から移住したポルトガル系ユダヤ人と、アヴィニョン法王領のセファラディームの職業と居住地が保障された。反対者によって国民議会は分裂寸前となったが、西暦1791年09月27日にユダヤ人同権化法令を議決し、11月に発効した。しかし、革命の動乱でユダヤ人が解放されることはなく、ユダヤ人の解放政策が進展したのはナポレオン時代以後のことであった。
 「保守思想の父」エドマンド・バーク(Edmund Burke)は「フランス革命の省察」でフランス革命を批判して、ドイツにも影響を与えた。フランスの覇権が拡大する中、ドイツではドイツ至上主義・ゲルマン主義が擡頭すると同時に、反フランス主義と反ユダヤ主義が高まっていった。ドイツの教養市民はヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテを例外として、フランス革命を「理性の革命」として熱狂的に当初は歓迎したが、革命後の恐怖政治が現出すると革命を憎悪するようになった。詩人フリードリヒ・ゴットリープ・クロプシュトック(Friedrich Gottlieb Klopstock)はフランス革命を称えた数年後に「愚民の血の支配」、「人類の大逆犯」としてフランスを糾弾した。当初革命を称賛したフリードリヒ・フォン・ゲンツ(Friedrich von Gentz)は西暦1790年にエドマンド・バークの「フランス革命の省察」をドイツ語に翻訳した。プロイセン王国ではヴェルナー宗教令への反対者は「ジャコバン派(革命派)」として糾弾され、シュレージエンでは革命について語っただけで逮捕され。オーストリア大公国では外国人の入国が制限された。フランス以外の国が反革命国家となった要因としては、アルトワ伯などのフランスの亡命貴族たちの活躍があった。アルトワ伯シャルル・フィリップはコーブレンツに亡命宮廷を開き、ラインラントを拠点として反革命運動を策動した。



フランス立憲王国(西暦1791〜1792年)

 ヴァレンヌ事件は、短期的に穏健派と王党派が団結を強めてブルジョワ革命を急いで推し進めようという圧力となった。西暦1791年09月14日のルイ16世の西暦1791年憲法への宣誓により、フランスは立憲王国となり、公の政治活動が事実上停止されていたルイ16世は、立憲君主となって初めて復権できた。09月25日に刑法が制定され、09月28日に農事基本法可決され、囲い込みの自由が承認された。09月30日に憲法制定国民議会(国民議会)は解散し、新憲法の下で10月01日にテュイルリー宮殿で一院制の新しい議会「立法議会」が開催された。05月16日にマクシミリアン・ロベスピエールの提案で「国民議会の議員は立法議会の議員になれない。」という規定が設けられたので、議員は全員入れ替わったが、議会の党派は変わらなかった。権力の主導権を握るフイヤン派が264人、野党的左派が136人、無所属の中央派が345人いた。立法議会では、立憲君主制を守ろうとするフイヤン派と、共和制を主張するジャコバンクラブの一員で南西部出身の議員グループジロンド派の2派が力を持った。役割を終えた憲法制定国民議会は解散されることとなり、09月30日の議会解散の日、議会を離れる際にマクシミリアン・ロベスピエールは民衆の歓呼を受けた。民衆はマクシミリアン・ロベスピエール、ジェローム・ペティヨン・ド・ヴィルヌーヴ、アンリ・グレゴワール(Henri Grégoire)に花輪を贈呈し、マクシミリアン・ロベスピエールは「汚れなき議員たちに万歳!清廉な人万歳!」との喝采を受けることとなった。歓迎団の女性は演説でマクシミリアン・ロベスピエールを讃えた。この時の「清廉の人」という賛辞が以降マクシミリアン・ロベスピエールの仇名となった。立憲君主制の下で立法議会が発足することになっていたが、革命の実情は国王や議会の考えや政策より一歩も二歩も先に前進しており、議会と政府がこれに対応する頃には、時すでに遅しの状態であった。ヴァレンヌ事件で王権は失墜しており民心は反革命の国王と妥協的な議会から離反、国王を守るべき貴族たちは身の危険を察知して亡命していき、立憲派のフイヤン派は世論の支持を失っていた。西暦1791年体制は初めから脆弱性を抱えていた。自由主義的な進歩派の貴族とブルジョワジーの体制が否定され、ブルジョワジーと民衆の体制への移行が要請された。
 フイヤン派は絶対多数を取ったわけではなかったが、政治は安定し、輸出と商品は増加し経済は安定した。立憲王政の成立へと辿り着いた後は、西暦1789年の理想主義者ならこれで革命の終焉を信じ、立憲議員の何人かは故郷に帰った。革命直前に比べて西暦1791年のパンの値段は43%下がり、肉の値段も41〜30%下がった。下層階級の生活は安定し、騒乱状態は遠ざかった。憲法の成立を祝って大赦令が出され、共和派、貴族の反革命派も釈放された。
 西暦1792年01月に物価高騰が始まった。買い占め人と見られた商人の何人かが群衆に襲撃され破壊や放火の対象になった。アッシニアの価値は下落を始めた。
西暦1791年度の国家財政は1億6200リーブルの赤字となった。赤字の原因は新しい租税の基本となった地租が土地所有者の抵抗によって進まなかったためだった。赤字を補充するためにアッシニアの増発が行われた。アッシニアの信用をめぐってフイヤン派のブルジョアジーと他のブルジョアジー勢力との対立が起こった。
 フランス立憲王国では、ブルジョワジーの分裂(フイヤン派のジャコバン派からの分離)と貧民にも恩恵を齎す運動が擡頭した。当時の貴族が穿いた半ズボンが「キュロット」で、長ズボンを履く、主に手工業者、職人、小店主、賃金労働者などの無産市民、当時のパリでは貧困層に属した庶民を、貴族が揶揄して「サン・キュロット(仏語: Sans-culotte)」と呼んだ。バスティーユ襲撃で革命の味をしめた革命的急進派たちは、次第に数を増やし、失業者や賃金労働者を中心にしたサン・キュロットの革命参加を促し、パリで徐々に政治勢力を形成した。ジャコバンクラブの方がやや穏健派が多く、この時期はまだジロンド派がジャコバンクラブでは力があったため、過激分子は所謂「マラーの党」のコルドリエクラブやパリ自治市会(パリ・コミューン(仏語: Commune de Paris))に結集し、07月17日のシャン・ド・マルスの虐殺やクラブ閉鎖でも、衰えることはなく、鬱積した不満を溜めていった。
 その頃、亡命貴族と王弟アルトワ伯シャルル・フィリップはドイツに集まっていた。西暦1791年08月25日に南ドイツのピルニッツでオーストリア皇帝とプロイセン王の共同宣言により、フランス国王の権利を回復するため、両国が武力行使をする決意が述べられた(ピルニッツ宣言)。ヴィーンとベルリンの宮廷は亡命貴族(エミグレ)に唆されて、ピルニッツ宣言を発したが、これは決して武力介入を意味するものではなかったが、対抗策として立法議会のジャコバン系は王弟アルトワ伯シャルル・フィリップと王族財産の没収を要求し、11月09日に可決された。亡命貴族の財産没収と翌年01月01日までに帰国しなければ死刑の適用を含む法律がフイヤン派の反対を押し切って可決された。ルイ16世は「亡命貴族についての法令は承認しない。」と通告した。11月14日にジェローム・ペティヨン・ド・ヴィユヌーヴが2代パリ市長に当選した。西暦1791年12月13日に議会は亡命貴族の年金や国債の支払いなど、国家からの支払いを打ち切る決定を行なった。
 議会の中では戦争に賛成する者と反対する者の対立が起こった。西暦1791年12月21日にマクシミリアン・ロベスピエールは臨戦態勢が十分に整っていないことを理由に反戦演説を行った。12月31日にジャック・ピエール・ブリッソーは「永き奴隷制の後に自由を獲得した人民にとって戦争は必要になっている。自由を強固にするためにである。」と演説し、「『新しい自由の十字軍』を主張して革命を輸出しよう。」と訴えて戦争熱を煽った。
 反戦を唱えたマクシミリアン・ロベスピエールを支持するジャコバンクラブから、主戦論者の議員たちは分離し、ジャック・ピエール・ブリッソー(Jacques Pierre Brissot)を中心にしていたのでブリッソー派(後にジロンド派と呼ばれた。)という党派を形成した。ブリッソー派は後に、指導者のうち3人がフランス南西部に位置するフランス本土最大の県、ジロンド県の出身議員だったため、あるいは同県出身の議員が多くいたため、ジロンド派(Girondins)と呼ばれた。対外戦争によって国王の不実を暴こうというブリッソー派(ジロンド派)と、戦争に反対するジャコバン派(モンターニュ派)との路線対立が先鋭化した。マクシミリアン・ロベスピエールは、首都パリで大変な人気を保っていた。議席を持たないが故に議会で発言はできなかったが、ジャコバンクラブでの演説、新聞の発行といった言論活動によって開戦派のブリッソー派(ジロンド派)と対峙した。反戦を主張し、「国内の敵どもを征服しよう、そしてその後に、まだ残っているのなら、外国の敵に立ち向かおう。」というのが、マクシミリアン・ロベスピエールの立場だった。
 西暦1792年03月10日にフイヤン派の内閣は崩壊した。フイヤン派の後に、ジャコバンクラブから分離したブリッソー派(ジロンド派)のが内閣は成立した(第1次ジロンド派政権)。新閣僚の名前は国王の任命よりも数時間早く議会に通告され、王の権力はほとんど失われていた。
西暦1792年は久しぶりの豊作だったが、アッシニア下落し穀物価格上昇した。春に各地で領主に対する暴動が起き、領主の城が焼かれ掠奪された。03月30日にジロンド派の提案で亡命<貴族財産を差し押さえ、これを国民に対する賠償に用いることが決定された。この時期に領主権の無償廃止が政争の焦点となった。領主権の無償廃止をジロンド派も含めたジャコバン派議員が提案し、フイヤン派が抵抗した。03月24日に立法議会は、奴隷制は存続するが、植民地でのムラートや黒人も含む全ての自由人の平等を決議した。
 ジロンド派は過剰に好戦的な愛国主義と、ヨーロッパの諸君主に対する攻撃的な革命十字軍(革命の輸出)の発想を思い起こさせた。革命戦争の勃発は情勢を悪化させた。ジロンド派内閣はオーストリア大公国との戦争の立法議会の賛成を取り付け、04月20日にオーストリア大公国とプロイセン王国に宣戦布告した(フランス革命戦争)。しかし、国境に展開したフランス軍は依然として将校は貴族で、革命前の階級制度が維持されていた。貴族将校や貴族の将軍は革命政府を嫌悪して戦争をやる気が無かった。兵士たちの規律も緩み、敵前逃亡したり、革命に事寄せて上官を殺害するといった行為に及んだ。国王と王妃も敗戦を望み、フランス軍の作戦計画は国王と王妃を通してオーストリアに内通されていた。フランス軍は各地で敗走し、敵国軍はあまり困難なくフランスに侵入した。05月18日に北部方面軍司令官ラ・ファイエット侯は、攻撃不能を宣言し、国王に和平交渉を勧告した。06月、ラ・ファイエット侯は行政の無秩序とジロンド派の陰謀を非難した。こうした事態から、戦争に勝つためには新しい愛国心を持ったフランス人による軍隊を組織しなければならないことが痛感された。立法議会では領主権の無償廃止を阻止したいフイヤン派が復権し、国王はジロンド内閣を06月13日に罷免した。シャルル・フランソワ・デュ・ペリエ・デュ・ムリエ (Charles François du Perrier du Mouriez)が国防大臣を辞任する際、宣誓忌避僧に対する法案に拒否権を行使し続けるルイ16世に対し、「僧たちは虐殺されるでしょう。そしてあなたも…」と語ったが、これに対してルイ16世は「私は死を待っているのだ。さようなら。幸せでいるように。」と述べた。06月15日に第2次フイヤン派内閣が成立した。06月16日、ラ・ファイエット侯はジャコバン派を攻撃した。そして、06月27日に前線からパリに帰還しーデタを企てたが失敗に終わった。彼を嫌っていたマリー・アントワネットが、パリ市長2代パリ市長ジェローム・ペティヨン・ド・ヴィユヌーヴに通報し発覚したとされる。ラ・ファイエット侯は軍を率いてパリへ進撃し、フイヤン派の独裁政権を作る計画を立てていたので,積極的に敵国軍と戦闘をしなかった。
 そうした中で06月20日にサン・キュロットの示威行動事件が起きた。武装したサン・キュロット民兵が国王の住居たるテュイルリー宮殿の中まで踏み込んできた。この事件は、拒否権を乱発する国王への圧力として、2代パリ市長ジェローム・ペティヨン・ド・ヴィユヌーヴは議会が戒厳令を布告するのを妨害し、ジロンド派が黙認した。武装蜂起がすぐに起きてもおかしくない危険な状況であることを示していた。06月20日事件で群衆に詰め寄られたルイ16世は 「拒否権氏」と野次られた。群集がテュイルリー宮殿に押し寄せた際、その指導者が王に誠意ある態度を求め、幾人かが槍をルイ16世に向け振り回した。ルイ16世は侮辱を受け、赤いフリジア帽を被らされた。喧騒の中、ルイ16世は「余は憲法と法令が、余に命じていることをしているに過ぎない。」と冷静に述べて威厳を示し、拒否権は放棄せずに、民衆と共に乾杯して頑として譲歩を拒んだ。暴徒は市長ジェローム・ペティヨン・ド・ヴィユヌーヴの介入によってようやく解散したが、この事件は武装した暴徒が宮殿内の寝室まで踏み込んで来るという由々しき状況で、王太子らと共に議会議場に避難を強いられたマリー・アントワネットは大変怯えて、オーストリア大公国の駐仏大使メルシー・アルジェントー伯フロリモン・クロードに手紙を書き、彼を介して、ブラウンシュヴァイク・リューネブルクュヴァイク公カール(2世)・ヴィルヘルム・フェルディナントに同盟軍が何らかの声明を発してジャコバン派を脅迫し、恐怖に震え上がらせてやるように懇願した。王政の廃止を最初に口にしたのはジロンド派であったが、すでに事態は彼らの予想を上回る速度で展開を始めていた。07月06日にルイ16世は、国境にプロイセン軍が迫っていることを議会に報告した。「叛乱者が公然と王制の転覆を計画する。」という逼迫した情勢への危機感は、07月10日、フイヤン派を総辞職に至らせた。無所属中道の中央派(後に、議場の中央の低い所に集まっていたので平原派(仏語: La Plaine、プレーヌ派)または沼沢派(仏語: Le Marais))と呼ばれた。)議員は革命フランスを敵国から守る意思を持っている者が多かったので、07月10日フイヤン派の大臣は辞職に追い込まれ、立法議会は「祖国は危機にあり!」という宣言を出した。
 フランス革命戦争に加え、フランスのカリブ諸島の植民地、サン・ドマング(Saint-Domingue)でハイチ革命{西暦1791年〜1804年)が起きたために、出荷が止まって商品不足から短期間で価格が急騰し、それにつられて他の非植民地生産物の物価も上がり始めた。怒った民衆は、(民衆による)商品の価格設定を求めるようになり、最高価格令の要求はこの時期から興った。この時点ではイギリスとは交戦状態にはなく、海上封鎖は行われていない。経済危機(アッシニア暴落と砂糖の値段の高騰)の影響は市民の生活を直撃した。パリのサン・キュロットたちは生活改善を求めて再び結集した。この流れはすでに左翼的イデオロギーを伴っており、生活に直結する切実な要求は次第に濁流のごとく強く激しくなった。運動を支える受動的市民は選挙権を持っていなかったので、彼らの政治的主張は、武装して行進するといったより直接的な示威行動となって表れたが、能動的市民の中にもこれに同調する者が現れ、彼らの指導層となった。サン・タントワーヌ城外区のビール醸造業者のアントワーヌ・ジョゼフ・サンテール(Antoine Joseph Santerre)などはその典型で、このような者がそれぞれの地区の民兵を組織し、革命の暴力として顕在化した。急進化する彼らの要求に政治家たちは後追いするばかりだったが、共和政樹立の要求は日に日に高まっていった。
 立憲君主制を守る最後の試みは、軍司令官に復帰したラ・ファイエット侯に託された。彼は駐仏オーストリア大使、メルシー・アルジェントー伯フロリモン・クロードを通じて、ジャコバン派を解散させるために「軍隊を率いてパリへ進軍する用意がある」のでオーストリア大公国に軍事行動の停止を求めたことがあり、さらにコンピエーニュへの脱出を国王に勧めた。ここで彼は軍隊と待つ予定であったが、国王の再度の脱出は07月12日から15日に延期されて、結局は中止になった。これらのオーストリア大公国との共謀疑惑を「オーストリア委員会」とジャコバン派は呼んだ。この架空の「委員会」が織りなす陰謀にはマリー・アントワネットらも関与していることになっていたが、実際にはそれぞればらばらの活動をジャコバン派が結びついて考えていただけで、ラ・ファイエット侯やフイヤン派の活動は、マリー・アントワネットやオーストリア大公国当局の不信で拒絶され、お互いに足を引っ張っていた。しかしフイヤン派の処刑の多くはこれら共謀罪を理由とした。ルイ16世はヴァレンヌ事件の失敗を思い出して、信頼する外国人傭兵、ガルド・スイス部隊の保護下から出る気がしなかった。またマリー・アントワネットは諸君主国の同盟軍が声明を出して威圧するように求め、07月25日、同盟軍司令官ブラウンシュヴァイク公は「パリ市民が国王ルイ16世に少しでも危害を加えればパリ市の全面破壊も辞さない。」という内容の「ブラウンシュヴァイクの宣言」を出したが、これは完全に逆効果となった。この宣言は07月28日頃にパリに届き、08月01日までの間に市民のあらゆる階層を激怒させた。フランス王国の国王は敵国の司令官に守られる存在であることが明らかになり、「祖国を救うには王政を打倒しなければならない。」という認識が広まった。すでに高まっていた不満が一気に爆発して後戻りできないところまできて、パリ市48地区のうちで47地区が国王廃位に賛成の署名をするに至った。これら一連の動きが08月10日事件の民衆蜂起が起こる直接の引き金となった。

 フランス革命の特徴に「蜂起は存在しない脅威に対する自己防衛の行為」がある。08月10日事件は、誰かが終始一貫して計画を立てたわけではなく、07月末の最終週からパリで異常な高まりを見せた示威行動が爆発した。議会の立憲君主派と宮廷の王党派に対して、民衆は「立ち上がらなければ踏み潰される。」と思った。ジロンド派は蜂起も王権の失効も望まなかったので、何とか抑えようと努力はしたが、08月になると「王制打倒こそが唯一の解決策である。」という見解にパリ全体が切り替わった。ヘッセン・カッセル方伯ヴィルヘルム9世がアシュケナジーム猶太のマイアー・アムシェル・ロートシルトらロスチャイルドを使った工作に見える。数多くの状況証拠の1つとして、プロイセン王国・オーストリア大公国同盟軍司令官ブラウンシュヴァイク・リューネブルクュヴァイク公カール(2世)・ヴィルヘルム・フェルディナントは、ヘッセン・カッセル方伯の影響下のフリーメイソンで「国民グランドロッジ」のグランドマスターである。西暦1792年06月24日に、ヘッセン・カッセル方伯領はプロイセン王国とオーストリア大公国(ハプスブルク帝国)との同盟を理由にフランス革命戦争に参戦している。

 フランスの危機に応えて義勇兵がパリに到着し、彼らは「連盟兵」と呼ばれた。武装蜂起を計画していたパリの諸地区は王権の停止を立法議会に請願していたが、「議会主義の枠内ではどうにもならない。」と判断した。まず行動を起こしたのはパリであった。諸地区は常設の区会を設け、それぞれ連係するために「中央委員会」を組織した。07月11日、これに続いたのはマクシミリアン・ロベスピエールで、彼はジャコバンクラブで演説して、連盟兵に参加を呼びかけた。連盟兵たちは07月14日の第3回全国連盟祭のために全国から集まってきていたものだが、国家の危機を救う任務が与えられ、むしろ奮起した。07月13日、ジョルジュ・ジャック・ダントン(Georges Jacques Danton)の提案で祝祭の後も連盟兵はパリに留まることが決まった。07月25日、マクシミリアン・ロベスピエールはより大胆な主張を展開し、立法議会の即時解散を要求して、これに代わって憲法改正をすべき新しい議会「国民公会」の招集主張し、王政のみならず議会をも葬る必要性を説き、「ブルジョワ階級にのみ立脚する議会は人民を代表していない。」との論拠を示した。これは真実であったから、ジロンド派は有効な反論ができなかった。彼らはマクシミリアン・ロベスピエールが群衆を自重させることを願ったが不可能だった。
 07月26日夜、モントルイユ地区を行進した連盟兵によって「武器を取れ!」の呼びかけが行われた。07月29日、マルセイユから連盟兵が到着すると、早速、彼らの許には自発的に代表が派遣され、「『王と呼ばれる男』と悪党どもを『王宮から追い出す』ことで問題は解決する。」と説明して支持を得た。翌30日、いくつかの区会は、受動的市民が国民衛兵隊に参加するのを認めた。従来、国民衛兵隊に参加できたのは、銃や軍服などを自費で調達できる能動的市民に限られていた、槍で武装するように指示したので、運動は一層促進された。08月06日にはシャン・ド・マルスで市民と連盟兵の大集会が行われ、ここでは改めてルイ16世の廃位が要求された。パリの諸地区の先頭に立っていたサン・タントワーヌ城外区の区会は、「09日までに国王の失権または王権の停止を議会が決議しなければ、パリの諸地区は武器を持って立ち上がる。」との警告を発した。攻撃の噂はそれ以前にも絶えなかったが、これが実際の最後通牒となった。
 08月09日の夜、警鐘が鳴らされた。48地区の委員が集まって市庁舎に蜂起自治市会が組織された。蜂起のために国民衛兵から民衆部隊を徴募して2万人の連盟兵が組織された。これは自治市会の総会に代わる革命的組織であり、無制限の権限が与えられたパリの独裁の最初だった。彼らは市庁舎を乗っ取ることにした。合法的な市役所の活動を停止し、市長ジェローム・ペティヨン・ド・ヴィルヌーヴは宮殿で国王と会談していたが、議会に呼び出され、自宅に監禁された。国民衛兵隊総司令官グランシー侯アントワーヌ・ジャン・ガリオ・マンダ(Antoine Galiot Mandat de Grancey) は、マンダ侯爵として知られる由緒ある貴族で熱心な王党派だった。彼は協力を拒み、市庁舎に召還されて尋問を受けた後で、監獄に送られる代わりに翌朝、グレーヴ広場で銃殺された。国民衛兵隊は任を解かれ、パリのセーヌ川に架かるポンヌフ橋の封鎖は撤去された。暫定的なパリ国民衛兵隊総司令官に過激な革命主義者、アントワーヌ・ジョゼフ・サンテールが選ばれた。08月09日の夜にルイ16世のいるテュイルリー宮殿を再び包囲した。マリー・テレーズの教育係ド・スシー夫人は予てからマリー・アントワネットより身の安全を守るよう命じられていたとおり、エルネスティーヌを連れてテュイルリー宮を逃れた。
 宮殿の警備にはルイ16世に個人的忠誠を誓った950人のスイス人傭兵が残っていただけであった。かつて立憲近衛隊が受け持っていたが、これは05月29日に解散を命じられた。これに対して領主権の無償廃止に反対する貴族階級が、党派を超えて王制を守る決意を持って宮殿に集合した。議会の決定に不服だった指揮官の8代ブリサック公、コッセ・ブリサック公ルイ・エルキュール・ティモレオン(Louis Hercule Timoléon de Cossé-Brissac)らを含む元立憲近衛隊は解散後も留まって守備に就いた。この中に元立憲近衛士官アンリ・ド・ラ・ロシュジャクラン(Henri de la Rochejacquelein)とオーティシャン伯シャルル・マリー・オーギュスト・ジョゼフ・ド・ボーモン(Charles Marie Auguste Joseph de Beaumont, comte d'Autichamp)、同じく帝政期に元帥となった元立憲近衛兵ジャン・バティスト・ベシエール(Jean-Baptiste Bessières)が含まれた。ベシェールの友人のナポレオン・ボナパルトの妹マリア・アヌンツイアッタ・ボナパルトと結婚してナポリ王となったジョアシャン・ボナパルト・ミュラ(Joachim Murat)も立憲近衛隊の一員だったが、彼は共和派であったので勧誘されなかった。主に貴族子弟が人伝の勧誘によって集められた。ラ・ロシュジャクランの友人レスキュール侯ルイ・マリー(Louis-Marie de Salgues, marquis de Lescure)、さらに海軍士官フランソワ・アタナス・シャレット・ド・ラ・コントリ(François-Athanase Charette de la Contrie)ら、後にヴァンデの叛乱で指揮官となった仲間もいた。彼ら地方から出てきた王党派支持者の若者が合流し、200〜300人の通称「聖ルイ騎士団」と呼ばれた大隊となった。それにパリから富裕者の多く住む、王党派支持地区のフィユ・サン・トマ地区とプチペール地区、ビュテ・デ・ムーラン地区から選抜された国民衛兵隊2000人が馳せ参じ、国王のために集まっていた。
 08月10日朝、連盟兵とさらにはそれに付き従う民衆の総勢2万は下らない大集団は、テュイルリー宮殿へ向かった。宮殿はパリのど真ん中にある。銃は1万挺ほどしかなく、残りは槍などで武装していた。血気に逸った連中が今にも攻撃を始めようと、王門の扉や冊を叩いていた。これらの中に革命的女性の如き過激分子も含まれていた。
 ルイ16世はどうすべきか決心がつかなかった。年老いた元帥マイイ伯オーギュスタン(Augustin, comte de Mailly)は「アンリ4世の子孫のために勝ち抜くか、さもなくば死を誓う。」と跪いて言った。「万事休す。」と思ったパリ県の監察官(Procureur de la commune、国王の代理となる地方行政長で知事、検察官も務める役職)のピエール・ルイ・レドレール(Pierre Louis Roederer 、元は高等法院判事で立憲議員、後にはテルミドール派となる。)は、「立法議会に国王が逃げ込む以外に方法はない。」と説得を始めた。マリー・アントワネットは反対した。彼女は王と王妃を引き離す陰謀があることを知っていた。立憲君主派にとって最大の障害は、迫り来る群衆ではなく、王妃であった。しかしルイ16世は家族全員で一緒に避難することを望んだ。これは恐らくは政治的な判断ではなかった。王妃は側近のランバル公爵夫人(ランバル公妃マリー・テレーズ・ルイーズ・ド・サヴォワ・カリニャ(Marie-Thérèse-Louise de Savoie-Carignan, Princesse de Lamballe)とトゥルゼール公爵夫人(Louise-Élisabeth de Croÿ de Tourzel)も連れて行くように主張した。残されることになった他の貴婦人たちは絶望して震え上がった。しかし王妃は「暴徒の群れに負ける筈がない。」と思っていたようで「戻ってくる。」と言い残して去っていった。議会とは庭園で隔てられているだけで、そう遠くではなかった。
 国王一家が宮殿を去ると少なからず動揺が走った。「市民同士で殺し合いたくない。」と思った守備側の国民衛兵隊は次々と脱走して蜂起側の方に寝返ったり、群衆と歓談して敵意のないことを示そうとした。このとき彼らは全ての大砲をも引き渡した。流血は回避されるかと思われた。しかし王党派の貴族の一部は死ぬまで戦う覚悟であり、「この期に議会をも制圧しよう。」と考えた。08月10日事件は貴族階級の命運を分けた死闘になった。彼らは王門を門番に開かせ、群衆をカルーゼル広場に敢えて招き入れた。広場は建造物に囲まれ、十字砲火で包囲殲滅するのには好都合だった。午前08時、2000〜3000人の群衆がカルーゼル広場からさらに中庭まで無秩序に入って来た。スイス人傭兵らはあくまでも命令に忠実たらんとし、宮殿の外階段に不動の隊列を敷いて待ち構え、群衆の嘲笑や罵声にもピクリともしなかった。どのような切っ掛けかは諸説あるが、号令とともにスイス人傭兵は一斉射撃を数度行い、怯んだ群衆を一気に突撃で崩した。建物の2階や屋上からも銃撃が加えられた。最初に入ってきた連中は全く戦い方を知らなかったので、包囲されて恐慌を起こして潰走した。バスティーユ襲撃のときと同じく「裏切りだ!」という声が上がった。群衆は蜘蛛の子を散らすように居なくなったので、守備側は「勝った。」と思った。王党派は次は議会の国王の元に向かう積りだった。「今なら議会を武力で解散させることができる。」と思われた。しかしそのような具体的な命令を受けていなかったので、士官が派遣されて国王の指示を直接仰ぐことになった。この間に蜂起側の第2波が接近していた。今度は、王門からではなく、ルーヴル宮殿や庭園にあるセーヌ川側の複数の入口、小門から侵入した。彼らの先頭に立ったマルセイユ連盟兵は従軍経験のある古参兵ばかりだった。サン・タントワーヌの熱烈な共和主義者達がその後に続いて、大砲を牽いていた。スイス人傭兵は突撃後の散開状態で、カルーゼル広場で突然砲撃を受けたため、中庭に退却した。マルセイユ連盟兵らは突撃を開始し、さらに後続のサン・キュロット群衆が広場を埋め尽くした。中庭ではスイス人傭兵は横隊を組んで再び激しく防戦した。連盟兵にも大きな犠牲が出たが、あらゆる方向から侵入する群衆にスイス人傭兵は抗しきれなくなり、そこに4ポンド砲での近距離射撃と擲弾を受けた。たまらず宮殿内に退き、そこからは大混乱になった。武装蜂起の側は貴族軍人を虐殺しながら宮殿を占領していった。スイス人傭兵は、国王に士官を派遣してどこまで徹底抗戦すべきか伺いを立てた。ルイ16世は宮殿が制圧され、全ての望みが無くなった後で、午前10時、発砲の停止を命令した。しかしこれでは哀れなスイス人たちを虐殺から救うことはできなかった。600人が殺され、うち60人は降伏した後の虐殺であった。残りのほとんども捕虜となり監獄に放り込まれた後に殺害された。一方で、聖ルイ騎士団の貴族子弟たちはルーヴルの別の回廊からほとんど全員が脱出した。
 宮殿では勝ち誇った群衆が手当たり次第に家具や絵画などを壊していたが、蛮行を見かねた舞台監督サンジエは、機転を利かせて、すでに有名になっていた「ラ・マルセイエーズ」を弾いて、怒り狂った人々の心を宴会ムードに変えた。彼らは一晩中、歌い踊り明かした。残された貴婦人たちは散々罵られて脅かされ、怖い目にあったが、暴力的被害は受けることなく解放された。彼女たちに最も辛く当たったのは十月行進の時と同じく、同性の革命的女性であった。蜂起側は約90人の連盟兵、300人の地区義勇兵が死傷した。この中には3人の女性の死者が含まれていた。他方、ブレスト連盟兵は、赤い軍服だったので、スイス人傭兵と誤認されて少なからず味方から撃たれた。蜂起側の死傷者は、当局が補償金を出し惜しんで、できるだけ少なく数えられた。死傷者は390〜500人。
 戦闘が終わると群衆が議会を囲み、王権の停止と普通選挙による国民公会の招集が要求され、立法議会はその圧力に屈した。立法議会は戦況が不確実の間は態度を明らかにしなかったが、蜂起側の勝利が明らかになると、王権の停止を宣言し、マクシミリアン・ロベスピエールの案に従って国民公会の招集を決議した。このフランス第2革命で政界の情勢も一変した。ブルボン王政はついに終わりを告げた。同時に自由主義ブルジョワジーの政治も終焉した。
 王党派はもはやパリでは存在を許されず、フイヤン派は完全に失脚した。08月10日で敗北した者は、フイヤン派のブルジョアジーと自由主義貴族、合流した地方貴族だった。彼らは旧体制に対する寄生性が強く特権的な立場にあり、領主でもあった。

 08月14日、事件を聞いたラ・ファイエット侯は、軍隊をパリに向けて進軍させようと試みた。しかし兵士達から見限られ、08月19日に身の危険を感じてラメット伯アレクサンドルら同志と共にオーストリア領ネーデルラント(ベルギー)に逃亡し、オーストリア軍の捕虜となった。「ラ・マルセイエーズ」の産みの親の1人である、ストラスブール(シュトラスブルク)市長フィリップ・フレデリク・ド・ディートリヒ男爵(Philippe-Frédéric de Dietrich)も同様の君主制擁護の蜂起を行ったが、失敗して亡命した。
 ジロンド派は穏健共和主義者の集まりであったが、蜂起によって彼らの希望する政体であった共和政が樹立されることになったにも拘わらず、大衆の支持を失った。逆にジャコバン派の中から、擡頭する左派勢力、後に国民公会で恐怖政治で次々と政敵を断頭台に送った、最も急進的な山岳派(仏語: Montagnards、モンターニュ派)と呼ばれる勢力が支持を集めるようになった。新しい議会は普通選挙に基づき、パリの労働者階級サン・キュロットの共和国が誕生することになった。その後08月10日事件で王権が停止され、08月13日、国王一家はテュイルリー宮からタンプル塔(Tour du Temple)に幽閉された。 タンプル塔は、現在のパリ3区にあった修道院で複数の建造物で構成されるが、一際目立つ大塔があったために「塔」と表現される。フランス革命以後は、監獄として使用された。タンプル塔では、壁紙とベッドカバーなどは当時の流行であったインド更紗に変更し、少々改修された。外が見えないよう、全ての窓は厚い布で覆われた。タンプル塔では、幽閉生活とはいえ、家族でチェスを楽しんだり、楽器を演奏したり、子供の勉強を見たりするなど、束の間の家族団欒の時間があった。10皿以上の夕食、30人のお針子を雇うなど待遇は決して悪くなかった。この時ルイ・シャルルは6歳だった。タルイ・シャルルはンプル塔では最初は小塔に幽閉されたが、10月27日に大塔に移された。小塔ではマリー・アントワネット、マリー・テレーズ、エリザベート王女(ルイ16世の妹)と一緒だったが、大塔では3人と引き離され、代わりにルイ16世と一緒になった(ただし、毎日数時間は母たちと会えた)。

 山岳派(モンタニャール派)は最も急進的な党派であり、元々は党員が立法議会の最も高い位置の議席に座ったことでその名が付けられた。ジャコバンクラブから、後にマクシミリアン・ロベスピエールらを中心とする国民公会における左翼勢力となり、ジロンド派追放後は公安委員会を柱とする恐怖政治を行い、独裁的権力を掌握したが、分派の対立やマクシミリアン・ロベスピエールの失脚によって解体、衰退した。
 08月15日、マクシミリアン・ロベスピエールは王党派と全ての反革命分子を裁く特別重罪裁判所(後に革命裁判所に改組)を設置するように提案しパリ市民公会の承認を取り付けた。「特別裁判所が設置されれば反革命派は法に基づいて処罰でき、無規律な民衆暴力は回避できる。」と考えた。民衆による超法規的な私刑に賛同できなかったためだが、この提案はパリの急進派の影響力を強めていくことに繋がるため、穏健共和派のジロンド主義者とマクシミリアン・ロベスピエールの関係を決定的に悪化させていく。ロラン夫人(Madame Roland、筆名: マノン・ロラン、ジャンヌ・マリー・フィリポン・ロラン、ラ・プラティエール子爵夫人(Jeanne-Marie Phlipon-Roland, vicomtesse de La Platière))は「私たちは、ロベスピエールやマラーのナイフに身を曝しているのです」と支持者への手紙で語った。08月23日からギロチンの使用が始まっていた。穏健派はパリの人民に影響力を持つジャン・ポール・マラーやマクシミリアン・ロベスピエールによって訴えられ粛清されることを恐れ始めていた。
 他方、事件の血の名残りはしばらくパリに残り、都市は興奮状態を維持した。襲撃者たちの多くはそのまま動員登録が行われて前線に出征していったが、残された者は熱狂的な革命熱を持て余した。その後の戦況の悪化と「外敵がパリの城門まで迫っている。」という誤った情報を受けて再び暴走し、九月虐殺を引き起こすこととなった。

 08月10日の事件で国民公会が招集されジロンド派政権が再び成立した(第2次ジロンド派政権)。この政権は上層ブルジョアジーの党派だが、旧体制の特権に関わり合いを持つことが少なかった者達の政権だった。彼らは領主権の無償廃止に積極的だった。ジロンド派はジロンド派の2倍の勢力があった平原派(プレーヌ派)と呼ばれる国民公会の上層ブルジョアジーの中間層と連合して政権運営をした。フイヤン派の打倒によりこの政権が封建領主権の無償廃止を実現した。この結果、領主の直轄地はそのまま旧領主の所有地として残り、新時代の貴族の大土地所有地として残り、大・中・小の保有地は領主権から解放されて近代的所有地となり、それぞれ大・中・小の土地所有者となった。元々土地を保有していなかった農民には土地は与えられなかった。パリ自治市会(パリ・コミューン)の第2助役のジョルジュ・ジャック・ダントンが、急進派の山岳派で唯一ジロンド派の内閣に司法大臣として起用された。
 立法議会は08月10日の事件で群衆の圧力に屈したので信用と権力を弱めた。
その隙間を縫って議会と対立しつつ、パリ自治市会がパリ市を治める権力機関になった。前身はパリ選挙人会議でフイヤン派で固められていたが、08月10日以後はパリのそれぞれの区の代表と自称する者が議場に侵入し、前議員を追放し「革命的自治市会」、「蜂起自治市会」と称するようになった。08月11日、立法議会がパリ自治市会の圧力によりフランス国内全土の反革命容疑者の逮捕を許可し、08月17日にはこれらの犯罪者たちを裁く「特別刑事裁判所」の設置を承認した。こうしてパリの牢獄は反革命主義と看做された囚人で満員になった。08月26日にロンウィがプロイセン軍により攻略され、パリ侵攻への危機感が一挙に高まった。義勇兵の募集が行われたが、その一方で「牢獄に収監されている反革命主義者たちが義勇兵の出兵後にパリに残った彼らの家族を虐殺する。」という噂も流れていた。プロイセン軍がパリに迫ると、義勇兵の募集、戦略物資の調達、反革命容疑者の捜査と逮捕、前線への派遣委員の任命などを行った。「国王派の亡命者と外国軍とが、革命の粉砕と市民の虐殺を狙っている。内部から呼応しかねない反革命容疑者を捕らえよ。」こうして08月30日、パリ市内で家宅捜索が行われ、約3千人の容疑者が投獄された。しかし、特別重罪裁判所は機能していなかった。

 09月02日、フランス革命戦争でオーストリア軍がヴェルダン要塞を陥落させ、その敗報がパリに衝撃を齎した際に行われたジョルジュ・ジャック・ダントンの演説(通称:剛胆演説)で国民を鼓舞した。「全ては興奮し、全ては動顚し、全ては摑みかからんばかりだ。やがて打ち鳴らされる鐘は警戒の知らせではない。それは祖国の敵への攻撃なのだ。敵に打ち勝つためには、剛胆さ、一層の剛胆さ、常に剛胆さが必要なのだ。そうすればフランスは救われるだろう!」これがテロリズムへの公然たる誘導となった。08月末より続いた民衆の恐慌はこの敗退により怒りに変え、九月虐殺を引き起こした。 主務大臣であったジョルジュ・ジャック・ダントンは九月虐殺を防げなかった。
 パリ自治市会は「出撃する前に逮捕されている反革命容疑者を処刑するべきである。」という意見が優勢になり、09月02日の朝から反革命派狩りが始まり、パリ自治市会監視委員会は全ての囚人を人民の名において裁判することを命じた。扇動された義勇兵とパリ市民は牢獄に押しかけて即席裁判で容疑者を殺害して回った(九月虐殺(仏語: Massacres de Septembre))。パリ自治市会は防衛を固め、警鐘が乱打され、市門は閉じられた。義勇軍の編成が始まった。数日前から、「殺し屋」が集められていた。三色の記章をつけた赤い帽子をかぶり、緋色の上着を着た彼らは忠実に任務を果たした。「外国軍と示し合わせるために、牢屋の中で陰謀が企まれている。『反革命の陰謀』だ。やられる前に、やれ。」こうして、その日の午後から、民衆による牢獄の襲撃が始まった。牢獄は次々と襲われ、囚人は手当たり次第に引きずり出された。問答無用の殺害、あるいは略式裁判の真似事の後、虐殺した。一連の虐殺行為は監獄内の「人民法廷」での即決裁判の結果を受けて有罪の判決が下された囚人は殺害し、それ以外の者は無罪放免するという極端な形で行なわれた。
 当時アベイ牢獄とカルム牢獄、その他の牢獄には反革命的とされた聖職者が収容されていた。聖職者民事基本法への宣誓を拒否して囚われていた聖職者たちもいたが、政治に関係したと考えられる者は多くなかった。興奮した民衆の一群がまずアベイ牢獄に押しかけて収容されていた23人の聖職者を虐殺し、次いでカルム牢獄に赴き、150人の聖職者の大部分を虐殺した。
 虐殺は数日間続いた。マリー・アントワネットと運命を共にするため帰国し、逮捕されていたランバル公爵夫人(ランバル公妃)も、無残に殺された。群集は彼女の遺骸から衣装を剥ぎ取り、身体を切断し、踏みにじった。ある一団は、その頭を槍の先に刺してタンプル塔前で王妃マリー・アントワネットに見せつけるという蛮行を行った。
 この結果パリ市内の牢獄は空になった。数日間吹き荒れた暴力で犠牲になった者は、推計1100〜1400人。後になって、犠牲者の4分の3はありふれた通常の犯罪者だったことが判明し、犠牲者のうち反革命主義の政治犯は全体の4分の1に過ぎなかった。同虐殺が、前後して各地の都市でも起こり犠牲者の総計は150人に上った。


 テュイルリー宮殿に戻ったランバル公妃は、王妃マリーアントワネットの支持者を糾合し、家政機関の構成員の忠誠心を調査し、亡命貴族たちに王妃のために帰国するよう求める手紙を送る、総監としての職務を再開した。
その中には、西暦1792年に妻のヴィクトワールとともにランバル公妃の宮殿内のアパルトマンで王妃に謁見し、「亡命貴族の群れに加わるよりも国内に残って王室のために助力せよ。」と王妃から説得され、国内で反革命活動を推進することを誓ったレスキュール侯ルイ・マリー・ド・サルグ(Louis-Marie de Salgues, marquis de Lescure)もいた。ランバル公妃はパリ市長ペティヨンの憎悪の標的となり、「宮殿のランバル公妃のアパルトマンで開かれる王妃臨席の夕食会の正体は、反革命勢力のフランスへの侵攻、第2のサン・バルテルミの虐殺、革命の破壊を目論む『オーストリア委員会』の会合である。」という風説をばら撒かれることに繋がった。
 06月20日デモの際には、ランバル公妃は宮殿で乱暴狼藉を働く群衆に怯える王妃の側にいた。王妃マリー・アントワネットは初め「王のお側にいます。」と主張したが、ランバル公妃は「いいえ、駄目です、マダム、陛下はお子様方と一緒にいるべきです。」と注進し、王妃はその場に留まった。王妃を群衆から守るため王妃の前にテーブルが置かれた。王妃を口汚く罵る群衆が通り過ぎるまで、ランバル公妃と他の女官・侍女たち、数人の貴族男性たちは、王妃と王子女を取り囲んで守らねばならなかった。証言者によると、病弱なランバル公妃は王妃の肘掛け椅子に寄り掛かりながら、一連の出来事の間立ち続けて諸事に対応した。「ランバル公爵位夫人偉大な勇敢さを示した。王妃の椅子に寄り掛かりながら長時間の修羅場の間ずっと立ち続け、自分のことは全く考えず、ただ目の前の不幸なプリンセス(王妃)のことで頭がいっぱいのようだった。」
 ランバル公妃は、08月10日事件が発生しテュイルリー宮殿が民衆に襲撃されると、国王一家及び王家のガヴァネス(英語: governess、独語: Gouvernante、仏語: gouvernantes:グーヴェルナント、個人の家庭内で子供たちを教育し、訓練するために雇われる女性、 女家庭教師)であるトゥールゼル侯爵夫人ルイーズ・フェリシテ・ジョセフィーヌ・ド・クロイダヴレ(Marquise de Tourzel, Louise-Félicité-Joséphine de Croŷ d’Havré,)とともに立法議会の議場に避難した。ラ・ロシュフコー夫人(M. de la Rochefoucauld)は当時のことを次のように回想した。「私が(議場の)中庭に行くと、御一行の中で最も憔悴し怯え切ったランバル公妃が、私が腕を差し伸べられるくらいの所まで近づいて来られた。たランバル公妃は私に『もう城には戻れないわね、絶対に。』と言われた。」議場の書記官室での避難生活中、ランバル公妃は体調を崩してフイヤン修道院に移された。王妃マリー・アントワネットは彼女に戻ってこないよう求めたが、ランバル公妃は病状が快方に向かうとすぐに国王一家の許に戻った。そして議場からフイヤン修道院、タンプル塔へと身柄を移された国王一家に同行した。08月19日、ランバル公妃、トゥルゼル公爵夫人及びその末娘ポーリーヌ(Pauline de Tourzel)は国王一家と引き離されてラ・フォルス監獄へ移送された。彼女たちはそれぞれ監獄内で独房を与えられる待遇を受けた。「国王一家に最早家臣に取り囲まれて暮らすことを許さない。」とする政府の判断で行われた措置で、2人の男性従者と3人の女中も同時にタンプル塔から追放された。
 翌月に九月虐殺が起きると、監獄が次々に群衆に襲撃され、囚人たちは急拵えの人民法廷に引きずり出され、即決裁判で処刑されていった。囚人たちは誰もが恐ろしいほどの数の質問を浴びせられ、生かされる者は「国民万歳!」の歓呼と共に解放されたが、殺される者は「修道院へ連行せよ。」、「連れていけ。」の言葉と共に監獄の中庭へ連れ出され、そこで待ち構える大勢の男女や子供からなる群衆の私刑で死を迎えた。監獄の刑吏たちはこの虐殺には反対しており、囚人たち、特に女性囚人には逃亡を容認していた。しかしランバル公妃は有名人だったために密かに逃げ出すことは不可能だった。
 ラ・フォルス監獄の女囚約200人のうち、最終的に殺害されたのは2人だけだった。王室と主従関係にあった女性たち、トゥールゼル公爵夫人、マッコー夫人、ターラント夫人などの女官、王妃の2人の女召使、王太子の乳母、ランバル公妃自身の乳母、王の従者の妻は、いずれも逃亡できず、即席裁判に引き出されたが事なきを得た。王と王太子の男性従者2人ですら即席裁判を乗り切った。生き延びられなかったランバル公妃は唯一に近い例外だった。09月03日、ランバル公妃とトゥールゼル公爵夫人は、他の囚人たちと一緒に即席裁判を待つため中庭に引きずり出された。順番が来ると、ランバル公妃に、「自由と平等への愛を宣誓し王と王妃及び君主制への憎悪を表明せよ。」と要求された。彼女は前半部分には同意したが、後半部分の誓いを拒んだ。すると彼女の裁判は「連れていけ(emmenez madame)。」の言葉と共に終了となった。
 実際の裁判では、次のような足早な言葉のやり取りが交わされていた、
「氏名は?」ー「マリー・テレーズ・ルイーズ、サヴォワ公女です。」
「職業は?」ー「王妃家政機関総監です。」
「08月10日に計画された宮廷の陰謀について知っていることは?」ー「08月10日にどんな陰謀があったのかは存じません。私はそれについて何も知らないということだけは言えます。」
「自由と平等、そして王と王妃への憎悪を誓え。」ー「前者については快く承知いたします。しかし後者は誓えません。心にもないことだからです。」
 この時、裁判に同席した義父パンティエーヴル公ルイ・ジャン・マリー・ド・ブルボン(Louis Jean Marie de Bourbon, duc de Penthièvre)の家来が、生き延びるために便宜的に誓いを立てるよう囁き声で助言したが、それでもランバル公妃は加えて述べた。「これ以上何も言うことはありません。死が少し早く来ようが遅かろうが私には何の違いにもなりません。もう既に自分の人生を犠牲にしてしまっていますから。」ー「マダムを自由にせよ。」

 ランバル公妃は殺害現場となった監獄中庭の出入口へ2人の警護役に先導されて歩いて行った。移動中、義父パンティエーヴル公の家来たちが引き続きランバル公妃に先程の宣誓を受け入れるよう説得したが、ランバル公妃にはその声が聞こえていないかのようだった。扉が開いて中庭に累々と重なる血塗れの死体の山を目にした時(「最終的に犠牲者は2人」で、どうして「累々と重なる血塗れの死体の山」を得にすることが出来るのか。脚色の虚飾が入っている。)、ランバル公妃は「何ておぞましい!」あるいは「殺される!」と叫び、中へ戻ろうとしたが、2人の警護役は彼女を中庭側へ押し返した。義父の家来たちは群衆の中から「お慈悲を!お慈悲を!」と叫んだが、周囲からの「パンティエーヴル公の下僕に扮した奴らに死を!」の叫び声が群衆の中から上がるとすぐに押し黙った。何年も経ってから裁判にかけられた殺害者の1人は、「その白いドレスを着た小柄なご婦人は、しばらくの間1人で呆然と立ち尽くしていた。」と証言した。ランバル公妃は槍を持った男からの最初の一撃で頭を殴られ、結った髪が肩に落ちかかったが、髪の中に隠していた王妃からの手紙が衆目に晒された。ランバル公妃は前頭部への2度目の殴打で出血し、その直後に彼女を取り囲んだ群衆からの刃物でのめった刺しを受けてすぐに絶命した。公妃の虐殺現場は、監獄の外の通りだったとする説もある。
 ランバル公妃の死の描写には様々なものがあり、中には煽情的で猟奇的な誇大な内容のものもあったため、革命後も長い間政治的意図を持った宣伝として利用され続け、多くの潤色や誇張が加えられてきた。例えば一部の報告では、公妃は強姦された後胸を切り取られ、身体をバラバラに切り刻まれたとするものもある。しかし、公妃が性的な部位への身体切断や残虐行為を受けたとする証拠は何もなく、悪名高い公妃の殺害事件をさらに扇情的な物語に仕立てるための脚色と見られる。ランバル公妃の遺体の取り扱いに関する物語も、公妃の死の物語と同様に多くの相反する描写の存在があり錯綜している。

 遺体は衣服を剥ぎ取られ、内臓を引き出され、頭部と胴体を切断され、頭部は槍の穂先に差し込まれた。槍に串刺しされたランバル公妃の首は殺害者たちの街頭行進の呼び物にされ、行進に参加した鬼畜は串刺しの首を掲げて「ラ・ランバル!ラ・ランバル!」と侮蔑的な呼称で犠牲者を呼びながら、首のない遺体をあちこちに引きずって回った。この描写は複数の目撃者が証言しているところから、事実と考えられる。証言者にはランバル公妃の遺髪の束を買い取り、彼女の義父パンティエーヴル公に手渡したラモット夫人(M. de Lamotte)という女性や、ロール・ジュノーの兄弟が含まれた。ある報告では、ランバル公妃の首はあるカフェに持ち込まれて飲食をしている客たちの面前に置かれ、客たちは殺害者たちから公妃の死を祝ってコーヒーを啜るよう強要された。別の報告では、首は理髪店に持ち込まれ、公妃の首級と分かりやすくするために美しくヘアメイクを施されたとされるが、この逸話は疑わしい。こうした気違いによる辱めを受けた後、首は再び槍の穂先に串刺しにされ、王妃マリー・アントワネットが幽閉されているタンプル塔へ行進した。外が見えないよう、全ての窓は厚い布で覆われたが、わざわざそれを王妃に見せるために布が取り除かれた。

 王妃マリー・アントワネットとその家族は、殺害者の一行が首を見せようとした窓の位置する部屋には居らず、ランバル公妃の首を見ることはなかった。しかし看守の妻ティゾン夫人(Madame Tison)はこれを見て悲鳴を上げたため、群衆たちはタンプル塔から聞こえてきた女の悲鳴を王妃のものだと思い込んで満足した。当時広く出回っていた中傷では犠牲者の公妃と王妃はレズビアンの恋人同士という設定だったため、殺害者たちは王妃に公妃の首とキスをさせようと沸き立ったが、タンプル塔への生首の持ち込みは許可されなかった。群衆は「どうしてもマリー・アントワネットと生首を対面させるのだ。」と言ってタンプル塔への立ち入り許可を執拗に要求した。看守たちは群衆を説得して何とか塔への乱入を止めさせた。「王妃は旧友の生首を実際に目にすることは無かったが、何が起きているかについては悟らざるを得なかった。」と次のように描写した。「上の階では、役人たちが少なくとも鐙戸を閉じる礼儀を弁えていた。監視委員たちも窓に近づかないようといったが、王に何の騒ぎかと訊かれて、そのうちの1人が教えてしまった。『ムッシュー、どうしてもというなら教えますが、ランバル公妃の首を見せようとしているのです。』…むしろ幸いなことに、王妃は失神した。」
 その後、ランバル公妃の頭部と胴体はパレ・ロワイヤルに屯する群衆たちの所へ引き渡された。パレ・ロワイヤルでは猶太のとヘッセン・カッセン方伯の犬畜生オルレアン公ルイ・フィリップ2世ジョゼフ(平等公)が妾の ビュフォン伯爵夫人アニェスと一緒に英国人たちを招待した晩餐会を開いていたが、オルレアン公は遺体を見て「おお、ランバル公妃の首だな。長い髪であの人だと分かるよ。さあ皆さん、夕飯にしよう。」と、ビュフォン夫人の方は「おお神様!私の首もいつかこんな風に盥回しにされるのかしら。」と、それぞれ述べた。
 群衆たちはランバル公妃の胴体をオテル・ド・ランバルの玄関前に晒そうと息巻いていたが、義父パンティエーヴル公は、「テュイルリーやオテル・ド・ルーヴォワならまだしも、嫁はあの屋敷に一度も住んだことはないのに。」と皮肉交じりに嘆息した。パンティエーヴル公の家来たちはランバル公妃の遺体の回収を指示され、群衆に紛れて遺体の捜索を行った。ランバル公妃の頭部は、とある酒場に飾ってあったのを、家来シャルラ(Charlat)が店舗の出口に持ち出し、別の家来ポワンテル(Pointel)がカンズ・ヴァン病院近くの墓地に埋めた。胴体の取り扱いについては、見解が非常に錯綜している。政府の公式記録では、パリの各地区に住む5人の市民が、「胴体を公妃の死後すぐに当局に引き渡した。」となっている。これは、ランバル公妃の胴体は死後に晒されたり引きずり回されたりしたとする話と矛盾する。政府側の記録に依拠すれば、「ランバル公妃の遺体は首こそないものの、胴体は衣服を完全に着たまま台車に載せられ、平常通りの手続きで当局の許へ運ばれた。」ということが記載されており、これを信じれば、内臓の抉り出しなどの残虐行為の信憑性は低い。
 ジロンド派内閣は責任回避のために事件への言及を避ける一方、事件発生の責任をマクシミリアン・ロベスピエールに転嫁しようとした。政府からの非難に対し、マクシミリアン・ロベスピエールは事件への関与を否定して治安責任者であるパリ市長ペティヨンと内務大臣ラ・プラティエール子爵ジャン・マリー・ロラン(Jean-Marie Roland, vicomte de La Platière)を非難して、事件発生に遺憾の意を表明した。


 義勇兵は前線に向けて出発した。義勇兵は連盟兵と呼ばれフランス各地から集まってきた者で、自費か誰かの費用で武装していたブルジョアの子弟だった。貧しい階層はブルジョアの費用で武装した「ブルジョアの傭兵」だった。特にマルセイユ連盟兵は裕福な家庭の子弟だった。マルセイユ連盟兵は「ラ・マルセイエーズ」を歌いながら進軍し、後のフランス国歌になった。「ラ・マルセイエーズ」はフリーメイソンのクロード・ジョゼフ・ルジェ・ド・リール(Claude-Joseph Rouget de Lisle)大尉が西暦1792年04月25日1日で作詞作曲した。義勇兵の出撃と並行して軍需物資と食糧の強制徴発が立法議会によって行われ、義勇兵の装備が強化された。09月19日にメッス県からのフランソワ・クリストフ・ケレルマン(François Christophe Kellerman)の軍とスダン県からのデュ・ムリエの軍が合流し、フランス軍は5万人の兵力となった。対するプロイセン軍は3万4000人で、初めて兵力でフランス軍が優勢になった。09月20日悪天候の中、義勇兵とブラウンシュヴァイク公指揮のプロイセン軍は、アルゴンヌの丘のヴァルミーで会戦した(ヴァルミーの戦い)。
 当時、軍隊は貴族の下で整然と組織されなければものの役に立たないと思われていた。しかし、戦闘が始まると義勇兵の士気の高さと覚悟の強さにジャン・バティスト・ヴァケット・ド・グリボーバル(Jean-Baptiste Vaquette de Gribeauval)の整備した砲兵隊の大砲の威力が功を奏し、プロイセン軍は突撃命令を出すことができなかった。プロイセン軍は砲撃戦だけで終わり、フランス軍の死者は300人。プロイセン軍の死者は200人を出しただけで後退した。新しい国民軍が従来の傭兵軍を破ったことが、近代国民国家が絶対君主制国家に勝った証として評価されることが多い。戦闘自体は極めて小規模で、この戦いの実態は戦いらしい戦いはなかった。小規模な戦闘が起き(というより小競り合い)、雨が降ったので戦いを止めただけで、プロイセン軍を後退させたといっても濡れた湿地帯では食事が出来ないために20q後方に移動しただけである。
戦術的な意味ではそれほど重要な勝利ではなく、プロイセン軍の退却は戦術的後退に過ぎなかったものの、初めての勝利はフランス国民を沸き立たせた。09月22日、立法議会が王政廃止を宣言した。プロイセン軍は傷ついていなかったので征服地を押さえる積りで駐屯したが、赤痢の発生と、農民部隊による輸送部隊の襲撃で、危険を感じて撤退した。義勇軍は重大な戦闘なしにプロイセン軍を国境から追い出すことができた。09月〜10月にかけて義勇軍は、ドイツ領深く侵入して重要都市を破竹の勢いで占領した。10月の末にオーストリア軍とフランス革命軍の激戦が行われオーストリア軍に大打撃を与え、フランドル方面ではデュ・ムリエが ジェマップの戦い。(11月06日)で南ネーデルラント全域を占領した。アダム・フィリップ・ド・キュスティーヌ(Adam Philippe de Custine)はドイツへ侵攻しフランクフルトまで到達した。

 マインツ選帝侯でもある大司教、フリードリヒ・カール・ヨーゼフ・フォン・エルタール(Friedrich Karl Joseph Reichsfreiherr von Erthal)は、西暦1789年のフランス革命と決定的に対立した。トリーア選帝侯クレメンス・ヴェンツェスラウス・フォン・ザクセン( Clemens Wenzeslaus August Hubertus Franz Xaver von Sachsen)と同じく、彼も革命の影響と恐怖によってフランスから逃れてきた亡命者を数多く受け入れた。これによってマインツはコブレンツと並び、ヨーロッパにおける反革命勢力の主要拠点の1つになっていた。西暦1792年04月20日にフランス革命戦争(第1次対仏大同盟戦争(西暦1792〜1797年))が勃発すると、マインツでは07月21日、亡命者が集会を開き、「マインツ宣言(Déclaration de Mayence)」を採択し、フランス国王一家に何らかの制約が加えられた場合、全力を挙げて革命勢力に反対することが決議され、もしそのような事態が発生したら、革命派への見せしめとなる行動を取ることとなった。そして国王が亡命に失敗し、ヴァレンヌで逮捕されると、マインツ選帝侯は対仏同盟に参加した。しかし、フランスへ侵攻する連合軍の試みはヴァルミーの砲撃戦で頓挫した。それどころか、アダム・フィリップ・ド・キュスティーヌ(Adam Philippe de Custine)中将は反攻の開始にも成功し、10月19日からわずか3日間のマインツ攻囲戦を経てマインツの占領に成功した。その後、マインツ共和国(西暦1792〜1793年)が成立した。マインツ選帝侯領と神聖ローマ帝国に取って、マインツの失陥は敗北の一段階のみならず、帝国とドイツにおける聖界諸侯領の終わりの始まりを告げるものとなった。
 マインツはフランス革命の前から、ドイツ各地には啓蒙主義者のサークルがつくられ、活発に活動していた。すなわち、フリーメイソン、イルミナティ、読書協会、ドイツ・ユニオンなどである(黄金薔薇十字団も無視できない。)。後にドイツ・ジャコバンと呼ばれ、活躍することになる面々はほとんどがこれらの秘密結社に関係していた。彼らは、啓蒙思想の影響を受けて自由や平等を求め、仲間内での議論、出版や講義による啓蒙を行った。フランス軍の侵攻により、西暦1792年10月21日マインツはフランス制圧下となった。フリードリヒ・カール・ヨーゼフ・フォン・エルタール選帝侯ら主だった者たちは逃亡した。早くも10月23日、フランス軍指揮官キュスティーヌ将軍の下、選帝侯の城館においてマインツ・ジャコバンクラブが結成された。当初のメンバーはヴェーデキント、メッターニヒ、ホーフマンら20人で、フォルスターはまだ態度を保留していた。マインツ・ジャコバンクラブにおける主要な人物は、マインツ大学教授であるヴェーデキント、メッターニヒ、ホーフマン。キュスティーヌの秘書官でドイツ出身のベーマー。ストラスブール(シュトラスブルク)から送り込まれたやはりドイツ出身のドルシュ、コッタなどであるが、最も有名なフォルスターは、11月3日に加入した。11月末にはクラブの会員は500人に増えた。マインツでは、いわゆる専制的な記念碑が壊され、自由の木が植えられて、フランス軍兵士とジャコバンクラブ及びその動員した人々によって式典が行われた。そこではラ・マルセイエーズやサ・イラが盛んに演奏された。キュスティーヌはマインツ地域の行政を現地人に任せる方針を採り、ジャコバンクラブから人員が選出された。臨時行政府の代表はドルシュ、副代表はフォルスターとなった。ジャコバンクラブや政府の役職は極めて頻繁に変更された。クラブでは憲法草案や当地の基本方針が議論された。ジャコバン・クラブはマインツで、ジャコバン帽の描かれた赤の本、鎖のついた黒の本を並べて一種の踏み絵とし、成年している男性に対してどちらに署名するかを迫った。

 フランスでの革命は第2段階に入っていた。一方、共和政の樹立で政権を取り戻したジロンド派だが、経済と戦況の悪化によって批判が高まった。窮した彼らは対立派閥に責任を転嫁しようと「山岳派(モンタニャール)の三位一体」と云われたやマクシミリアン・フランソワ・マリー・イジドール・ド・ロベスピエール、ジャン・ポール・マラー、ジョルジュ・ジャック・ダントンの3人を「三頭政治を目指す悪党」として激しく攻撃したが、逆に民衆の支持を大きく失って凋落していた。
 08月27日、次の議会のための予選会(第1次選挙)が始まった。国民公会の総選挙に向けて、旧憲法が禁止していた帰化外国人にも門戸が開かれ、1年以上の居住条件を満たした21歳以上の成人男性を有権者と定めた普通選挙法が発効し、09月03日には選挙集会(第2次選挙)が始まった。しかし、投票は間接選挙であり、婦人と買収されやすいという理由で当時二級市民と考えられていた奉公人や召使いも除外され、選挙権も現代の普通選挙とは異なる幾つかの制限があった。パリの選挙は、08月10日事件の勝利者であるパリ市民公会(パリ・コミューン)が主導した。パリ市民公会は08月12日に王党派系新聞を全て発禁処分とし、08月17日には王党派支持者名簿なるものも公開して彼らに投票しないように仕向けて、あからさまに彼らの選挙運動を妨害した。他方で共和派系新聞は無料で配布された。貧民である日雇労働者は日給を失うのを嫌って投票所に行かず、職人など中産階級の労働者も一部の例外的な選挙区を除いて投票することは稀だった。彼らはもっと身近な自治体選挙には関心を持ったが、国政選挙にはあまり関心がなかったからである。王党派やフイヤン派、元貴族は、猜疑の目に晒され、槍玉に挙がるの恐れて投票を辞退した。また農作業の繁忙期であったことや従軍中の兵士が全線で投票できなかったこと、教会改革への反発、王党派が被選挙権から排除されたため選挙を忌避したため、投票率は低調で10%に留まった。投票者数も西暦1791年憲法後の立法議会選とそれほど変わらなかった。


フランス王妃列伝―アンヌ・ド・ブルターニュからマリー=アントワネットまで - 阿河 雄二郎, 嶋中 博章
フランス王妃列伝―アンヌ・ド・ブルターニュからマリー=アントワネットまで - 阿河 雄二郎, 嶋中 博章


フランス共和国第1共和政(西暦1792〜1804年)
 国民公会(西暦1792〜1795年) その1

 ヴァルミーの勝利に沸く喧騒の中で実施された総選挙によって国民公会が発足した。議員は700人を超え、ジロンド派約165人と平原派(プレーヌ派)約400人と山岳派(モンタニャール派)約150人の3大勢力に分かれた。ジャコバンクラブは議会外団体としてジロンド派と山岳派の両議員が含まれていたが、内紛によって山岳派だけの支持団体になった。国民公会の第1回議会はテュイルリー宮殿の大広間で開催された。それ以後は立法議会の議場と同じ屋内馬術練習場(調馬の間、Salle du Manège)に戻った。ここは庭園の離れにあり、ジャコバンクラブとは通り向かいに位置した。議場の座席は両側に対面するような配置の低い階段状で、右手が右派(政権側)と左手が左派(野党側)という伝統が古くからあった。しばしば「洞窟のような」と表現されるこの議場は、音響が悪く、声量のあって声の通る雄弁家の議員が人気を博した。
 09月21日に王政の廃止と共和政の樹立を宣言し、フランス第1共和政(西暦1792〜1804年の成立を見た。翌09月22日が革命暦の元年元旦となった。フランスは一院制議会を堅持しながら、王権を停止したことで君主権と均衡していたこれまでの立法議会と比べると、行政の上に立つ立法大権を持ったはるかに強力な議会体制を構築した。地方選出議員の一部にはパリで政治情勢が大きく規定される事態に憂慮があり、09月25日、国民公会はジロンド派議員フランソワ・ビュゾーフランソワ・二コラ・レオナール・ビュゾー(François Nicolas Léonard Buzot)が提案した州連邦制度案を否決した。この提案は、ジロンド派の一部(ビュゾー派)が主張したものに過ぎないが、ジロンド派とは連邦主義者であるという悪評が定着する元になった。連邦主義は南仏に政治的地盤を持ち政治スタンスとしてはアメリカ型の連邦国家を目指す地方分権論であったが、ジャコバン派から内戦や割拠を誘発する分裂主義の主張と見なされ、中央集権と首都パリへの一極集中を主張する革命主流派の敵と見做された。10月02日には執行機関として保安委員会や公教育委員会など14の実務委員会を設置して、その上部に行政機関国民公会政府を組織した。
 10月06日にオーストリア軍を撃破し、南ネーデルラントの支配圏を奪ったジェマップの戦いが起き、フランス南西部の選挙区から選出されたジロンド派議員たちは、パリの革命的情勢と共に躍進したマクシミリアン・ロベスピエールをこぞって「独裁を目指す者」として告発した。ロベスピエール批判によってジャコバン派とジロンド派の対立が決定的になっていった。10月08日にビュゾーの提案により創設され集結していた県連盟兵が翌11月にはパリに到着していた。南部の都市マルセイユから来た連盟兵たちは、街頭で「マラー、ロベスピエール、ダントン、そして彼らを支持するもの全ての首をよこせ!ロランはその地位に留まれ!国王裁判はいらない!」と叫んでいた。南西部の地方では穏健派が支配的な影響力をもっていた。
 これに対し、マクシミリアン・ロベスピエールは、「革命が厳しい状況にあるのは甘い見通しで諸外国と開戦したジロンド派に責任があり、治安や国内情勢が切迫しているのは内閣に参加した大臣に職務能力が欠落しているためだ。」と批判した。また、パリでの急進的な革命に反対する地方の穏健派に対しても、マクシミリアン・ロベスピエールは国民公会で反論し、「革命の歩みから首都パリの急進性を外すことはできない。」と語り、革命と蜂起した民衆を擁護した。
 10月10日、パリではジョルジュ・ジャック・ダントンが機密費問題で司法大臣辞職し、ジャコバンクラブからジャック・ピエール・ブリッソーが追放され、ジロンド派は脱退することとなり、マクシミリアン・ロベスピエール率いる狭義のジャコバン派はコルドリエクラブと合流していった。彼らは国民公会の左上部の議席を陣取っていたため「左翼」と呼称し、山岳派(モンタニャール派)と呼ばれるようになった。議席の下方部の議員は平原派(プレーヌ派)と呼ばれる穏健な中間派が占め、議場右側はジロンド派が陣取っていた。国民公会議員たちは対外戦争と内戦で共和国が最大の苦境に陥る中、革命期最大の政治決断を下していく。国王裁判に着手した。

 幽閉されたルイ16世は家族との面会も叶わず、名前も「ルイ・カペー」と呼ばれ、不自由な生活を強いられることになった。その間(西暦1792年後半)、国王の処遇を巡って、国王を断固として擁護する王党派とフイヤン派、処刑を求める山岳派(ジャコバン派)、裁判に慎重なジロンド派が3竦みの状態になり、長々と議論が続けられていた。膠着状態の中、11月13日、25歳の青年サン・ジュストが、「人民が元々有していた主権を独占した国王は主権簒奪者であり、共和国においては国王というその存在自体が罪として、個人を裁くのではなく、王政そのものが処罰されるべきである。」と演説し、共和政を求めるものの国王の処遇は穏便に収めることを希望したジロンド派を窮地に陥れた。これは新人議員であった彼の公会での最初の演説であったため「サン・ジュストの処女演説」とも呼ばれた。
 西暦1792年11月30日、国王裁判の最中、国民公会ではウール・エ・ロワール県で発生した食糧危機が議論された。物価統制の導入と生存権をいかに保障するかという問題が喫緊の課題となっていた。戦時中の物不足とインフレの進行で困窮する者がいる一方で、不当な利益を享受する買占め業者、悪徳商人が市場に蔓延って経済を麻痺させており、民衆は公定価格の設定を要求していた。マクシミリアン・ロベスピエールは物資不足と食糧難による飢餓の蔓延が庶民生活を脅かす深刻な問題であることを理解していた。「同胞が空腹で死につつあるその側で、小麦を山ほど積み上げる権利をもっている人間などいない。社会の第一の目的とは何であろうか。人の、奪うことのできない諸権利を守ることである。これらの権利のうち、第一に重要なものとは何であろうか。それは生存権である。それゆえ、社会の第一の法は、社会の全成員の生存のための手段を保証する法である。この法以上に重要なものなどないのだ。」と述べた。「人間に必要な食料品は、生命それ自身と同様に神聖である。およそ生命の保全にとって不可欠なものは、社会全体の共同の所有であり、それ以上の超過分だけが個人的所有である。」と見解を示し、食糧価格の統制によって民生の安定を図る必要を認識していた。
 12月11日、ルイ16世の国務大臣を2度務めたクレティアン・ギヨーム・ド・ラモワニョン・ド・マルゼルブ(Guillaume-Chrétien de Lamoignon de Malesherbes)が国民公会議長に宛てて手紙を送り、引き受け手のなかったルイ16世の弁護人を引き受けた。ルイ16世は「私がもしまだ玉座を占めているなら、それを貴殿と分かち、私に残されている半分の玉座と相応しくなるでありましょうに。」とマルゼルブに感謝した。
 12月04日にルイ16世の裁判が始まると、ルイ・シャルルは再び母マリー・アントワネットたちと一緒に過ごすようになった。
国王一家はタンプル塔で愛犬ココと一緒に過ごしており、ココは後に生き延びたマリー・テレーズ・シャルロットの亡命生活を供にし、西暦1801年ワルシャワ滞在中に事故死した。

 西暦1793年01月15日から19日まで、国民公会はルイ16世の処遇を決定するために4回の投票を行った。長い討論と1人1人の議員の指名点呼による評決で行われることが事前に取り決めされており、各議員は登壇して意見を自ら表明する必要があった。これは傍聴人が怒声を浴びせる中行われ、議場の外には武装したサン・キュロットが待ち構えていた。下手な発言をした議員は生命の危険もあって、「穏便に収めたい。」と考える派閥には不利な投票方法だった。それまで国王処刑に反対していた議員が、突然態度を翻して、賛成票を入れて国王弑逆者になった。反対票を入れるのは必死の覚悟がいった。ゆえに王政復古後には、反対票を入れた少数の忠義者は英雄視されることになった。
 第1回投票では、まず「国王は有罪であるか否か?」が問われて、各議員(定数は749)は賛成693対反対28(欠席23、棄権5)で有罪を認定した。ジロンド派が「国民公会の判決は人民投票で可否を問われなければならない。」と主張していたため、第2回投票では、「ルイに対する判決は人民投票によって批准されるべきか否か?」が問われ、これは賛成292対反対423(欠席29、棄権5)で、ジロンド派の予想に反して否決された。ジロンド派やフイヤン派などは、この第2回投票が可決を見越して第1回投票で賛成に回っていた。意外な大差での否決は彼らの戦略を混乱させた 。そして、第3回投票では、「ルイは如何なる刑を科されるべきか?」という刑罰を決める投票が行われ、初めて賛否では決まらない意見表明の投票となった。「無条件の死刑」が387で最多。ただしこの中にはマイユ条項つき死刑というものが26含まれていた。次いで「その他の刑」が334で、内訳は鉄鎖刑2、革命戦争終結まで捕虜として禁錮刑とし、終戦後に追放する禁錮刑かつ追放刑286、執行猶予付き死刑46。387対334(欠席23、棄権5)で死刑と決まった。マイユ条項とは第3回投票で最初に壇上に登った議員マイユが主張したもので、「無条件の死刑に付加条件として死刑賛成が最多数を占めた場合には死刑を延期すべきかを国民公会で改めて討議する。」執行猶予付きの死刑と同じに誤解されやすいが、延期は「無条件の死刑」の確定を前提とするもので、延期の提案と判決とは切り離されたもので、判決の内容に執行猶予が盛り込まれる執行猶予付き死刑とは異なる。明記されているように、執行猶予付き死刑の46は「その他の刑」として計算されている。マクシミリアン・ロベスピエールも発言し、「彼にどういう刑罰を科すべきか。……個人、あるいは社会の安全のために必要な場合においてのみ、死刑は正当化されうる。ルイは死ななければならない。祖国が生きねばならないからだ。」と述べ、死刑を求刑した。第4回投票では、死刑延期の賛否が投票されたが、賛成310対反対380(欠席46、殺害1、棄権12)で、これも70票差で否決され、即時の無条件死刑が決定された。
 「死刑に賛成した387人の内26人は執行猶予を求めており、この26人を死刑反対票に加算するとすれば、賛成361対反対360となり、1票の僅差で処刑が確定した。」という説明は間違いである。執行猶予付きを含む死刑に賛成した票の総数は433で、執行猶予を反対票に含めて賛成387対反対334であり、マイユ条項や執行猶予を除いても「無条件の死刑」361対「その他の刑」288の差は73票もある。またマイユ条項は執行猶予とは異なり同等ではなく、死刑に反対していたと捉えることは全くできない。マイユ条項支持者の26人の中で第4回投票で延期に賛成した議員は1人もいなかった。そればかりか第4回投票では執行猶予付き死刑以外のその他の刑を支持していた者の中からも22人は延期反対の方に寝返った。後の王政復古期ではルイ16世の死刑判決に関与した455人の国民公会議員は大逆罪として断罪され、そのうちの存命者は全て国外追放の刑に処された。
 病床のパンティエーヴル公は、九月虐殺で亡き長男ルイ・アレクサンドルの嫁ランバル公妃が民衆に虐殺され死体は辱められて打ちひしがれていたところへ、娘ルイーズ・マリーの婿オルレアン公ルイ・フィリップ2世ジョゼフ(平等公)がルイ16世の死刑判決に賛成票を投じたことが追い討ちをかけ、2度と健康を回復しないまま、西暦1793年にヴェルノンのビジー城で死亡した。
 01月19日、国民公会はルイ16世に死刑判決を下した。
国王一家は翌日になってから死刑判決を知らされ、最後の面会を行った。「お父さんを殺さないでとお願いするんだ。お願いですから国民に話す邪魔をしないでください。」と、ルイ・シャルルの叫び声が牢獄に響き渡った。

 ルイ16世は西暦1793年01月21日午前10時22分、パリの死刑執行人(ムッシュ・ド・パリ)を勤めたサンソン家の4代目当シャルル・アンリ・サンソン の執行により革命広場(現コンコルド広場)でギロチンで斬首刑にされた。革命前に「人道的な処刑具」としてギロチンの導入が検討された際、その刃の角度を「斜めにするように」と改良の助言を行ったのは、錠前作りによって工学的知識、金属器の知識を持っていたルイ16世本人という。国王の提案に基づき、ギロチンの刃は三日月型から斜面へと変更になった。
 サンソン家4代目当主シャルル・アンリ・サンソンは死刑執行人だが、熱心な死刑廃止論者だった。何度も死刑廃止の嘆願書を出しているが実現することはなかった。ルイ16世の処刑の前年西暦1792年に次男ガブリエル・サンソンは処刑台から転落して死亡した。ヴァイマル共和政(西暦1918〜1933年)からドイツ国(西暦1933〜1943年)、大ドイツ国(西暦1943〜1945年)、連合候占領下ドイツ(西暦1945〜1949年)までのドイツで3165人の死刑を執行したヨハン・ライヒハート(Johann Reichhart)に次ぐ、人類史上2番目に多くの死刑を執行した。恐怖政治の時期だけで2千7百数十人を処刑した。皮肉にも彼自身はルイ16世の知己であり王党派であった。ルイ16世を熱心に崇拝しており、自分が処刑するという結果になってしまったことを生涯悔いていた。ルイ16世やマリー・アントワネット、ジャック・ルネ・エベール(Jacques René Hébert)、リュシー・サンプリス・カミーユ・ブノワ・デムーラン(Lucie-Simplice-Camille-Benoît Desmoulins)、ジョルジュ・ジャック・ダントン、アントワーヌ・ラヴォアジエ、マクシミリアン・ロベスピエール、サン・ジュスト、ジョルジュ・オーギュスト・クートン(Georges Auguste Couthon)、マリー・アンヌ・シャルロット・コルデー・ダルモン(Marie-Anne Charlotte Corday d'Armont)といった著名人の処刑のほとんどに関わった。フランス革命当時はルイ16世のためにミサを捧げることは死刑になるほどの重罪でありながら、神父を匿って秘密ミサを上げていた。
 朝、二重の人垣を作る通りの中を国王を乗せた馬車が進んだ。革命広場を2万人の群集が埋めたが、声を発する者はなかった。午前10時に王は断頭台の下に辿り着いた。急進過激派「アンラジェ(Enragés、「激昂する者」、「狂人」の意)」のジャック・ルー(Jacques Roux)が国王を断頭台まで連れて行った。国王は自ら上衣を脱ぎ、手を縛られた後、ゆっくり階段を上った。王は群集の方に振り向き叫んだ。「人民よ、私は無実のうちに死ぬ。」太鼓の音がその声を閉ざしたが、王は傍らの人々にこう言った。「私は無実のうちに死ぬ。私は私の死を作り出した者を許す。私の血が2度とフランスに落ちることのないように神に祈りたい。」午前10時22分、シャルル・アンリ・サンソンの執行により革命広場(現コンコルド広場)でギロチンで斬首刑にされた。フランスへの思いが込められた一言だった。しかし、その言葉を聞いてもなお、涙するものはなかった。

 ルイ16世の首を刎ねたギロチンの刃は、死刑執行人のシャルル・アンリ・サンソンが大切に保管していたが、後にサンソン家最後の死刑執行人である6代目当主アンリ・クレマン・サンソン(Henry-Clément Sanson)が、浪費による借金のために牢獄に入れられ、3800フランスフランの借金返済のために質入れしてしまった。死刑執行命令を受けたアンリ・クレマン・サンソンはギロチンを質入してしまったことを法務大臣に話して3800フランスフランの現金を支給され、ギロチンを買い戻して死刑を執行した直後に責任を取らされて死刑執行人を罷免された。当時のフランスの制度ではギロチンは死刑執行人の私有財産であり公共財産ではなく、アンリ・クレマン・サンソンは横領罪に問われることは無かった。一度、質から出されたギロチンは再度売られた。

ルイ16世は身長が192cmの長身痩躯の勉強家で日に12時間勉強していた。ルイ16世は西暦1780年に拷問の廃止を命令したり、農奴制度を廃止して人道的な政治を目指した。ギロチンの開発に加わったのも人道的な処刑道具の開発と考えたためである。また啓蒙思想にも一定の理解を示しており、アンリ4世の時代から行われていなかった視察もルイ16世は盛んに行なった。
狩猟と錠前造りが趣味で国民の境遇に心を悩ませる心優しい王で、ヴァレンヌ事件までのルイ16世は当時のパリ市民からの人気が高かった。財政難は前々代のルイ14世太陽王の時代から続く放漫財政や頻繁な外征などが本来の原因であり、財政再建のための改革にルイ16世は積極姿勢を示したが、途中で様々な原因により挫折した。
ルイ16世は、国民の良き支配者、理想的な国王を目指した啓蒙専制君主であった。農奴制の廃止、プロテスタントやユダヤ人の同化政策などを進め、科学や地理探検にも理解があり支援者であった。さらに三部会召集も第三身分をもって第一身分、第二身分の特権を突き崩そうとしたものであった。
ルイ16世は、ディープステイト、政敵に嵌められて、王妃のマリー・アントワネットの数々の醜聞が世間に喧伝され、妻マリー・アントワネットに操られる無能な王という洗脳が施されているが、ルイ16世は、無能というわけではない。ただ、激動の革命期に決断を迫られた時に、強力な指導力を発揮できず優柔不断な性格が破局を招いただけだった。



 ルイ16世の死刑が執行されると。ルイ16世の死後に王妃マリー・アントワネットは王太后カペー未亡人と呼ばれるようになり、喪服を着て過ごすようになった。マリー・アントワネットはルイ・シャルルの前に跪き「国王崩御、国王万歳!」と、新王ルイ17世(ナヴァラ国王としてはルイス6世)として接した。その1週間後には叔父(ルイ15世最愛王の王太子ルイ・フェルディナンの四男)のプロヴァンス伯ルイ・スタニスラス・グザヴィエ(後のルイ18世)が自身を「摂政である。」と宣言した。ルイ17世(ルイ・シャルル)が名目上のフランス国王になると、王党派によりタンプル塔から逃亡する脱出計画が立てられた。ルイ17世一家の脱出を計画した者にフランソワ・オーギュスト・レーニエ・ド・ジャルジェ(François Augustin Reynier de Jarjayes)、ジャン・ド・バ男爵(Jean Pierre de Batz, Baron de Sainte-Croix)、シャーロット・アトキンス(Charlotte Atkyns(née Walpole))が挙げられるが、ルイ17世一家が脱出に成功することはなかった。

 西暦1793年03月になるとフランス共和国は敗戦に転じ、ヨーロッパの強国から侵略された。原因は御用商人の悪徳行為で軍隊の食糧事情と待遇が悪くなり、士気が低下し、義勇兵が減少したことと、初期の戦勝に気を良くしたフランス革命政府が次第に征服と膨張政策に傾き、一種の世界革命的なイデオロギーで正当化してフランス共和国の敵が増えたことにあった。フランス革命戦争勃発で、貴族士官の裏切りや陰謀、疑惑が相次いだことから、人民の敵を裁くための法廷が必要になったため、西暦1793年03月10日にフランス軍が敗走を始めた時にパリに革命裁判所が設置された。革命裁判所は、08月10日事件で勝利したパリ自治市会(パリ・コミューン)が、西暦1792年08月17日にパリに勝手に開いた特別重罪裁判所がその原型で、これは九月虐殺を黙認してしまったため、ジロンド派によって11月29日に廃止された。また憲法制定国民議会が制定していた政治犯のための合法的な法廷は大審院と言ったが、これもそれより前の09月25日に解散していた。革命裁判所設置の法案は、前日に議員ジャン・バティスト・カリエ (Jean-Baptiste Carrier)が提案し、立法委員会でのわずか1日の議論で「あらゆる反革命行動、自由、平等、統一の侵害」を裁く法廷として成立した。法令は、ジャコバン派の3巨頭の1人で国民公会議員で法案成立時にフランス共和国を指導していた臨時行政会議の事実上の議長のジョルジュ・ジャック・ダントンによって支持演説が行われ、注目を浴び、革命裁判所の設置に大きな影響力を発揮した。ジャン・ポール・マラーによる修正動議によって、04月05日に対象を陰謀罪と国家犯罪のみに限定し、将軍や大臣、議員不逮捕特権などが付加された。 革命裁判所には上訴審がなく、簡略にして強力な決定権をもつ、危険な機関であった。告発検事にはアントワーヌ・カンタン・フーキエ・タンヴィル(Antoine Quentin Fouquier de Tinville または Fouquier-Tinville)が任命された。03月21日〜04月02日にかけて、国民公会は各自治市会に反革命派取締のための監視委員会の設置、9人から成る公安委員会の設置を決定した。04月06日、革命裁判所の最初の法廷が開かれ、公安委員会が発足、恐怖政治への道を開いた。それでも、当初は陪審員や検事、裁判長らがブルジョワ出身者で活動は意図的に緩慢で寛大だった。裁判所の判事と陪審員には職人、労働者はいなかった。フーキエ・タンヴィルも就任後しばらくは、あまり断頭台に送らず、逮捕者の大半を釈放していた。その後、フーキエ・タンヴィルは絶大な権限と雄弁によって、呵責の無い弾圧の執行者となり、些細な罪でも死刑を求刑し、市民から非常に恐れられた。王党派、ジロンド派、さらにはジャコバン派内部のエベール派とダントン派(親戚のカミーユ・デムーランも)の死刑を判事として決定した。あまりにも矢継ぎ早に行われてゆく処刑を、直接関与したフーキエ・タンヴィル自らは「瓦のように首が落ちている。」と他人事のように表現した。フランス共和国の恐怖政治で全ての党派を次々と呑み込み処刑した状況は、当時「ギロチンの嘔吐」と呼ばれた。

プラッツ ドール&ホビー 1/16 恐怖のギロチン スペシャル アートボックスエディション プラモデル DHG1462
プラッツ ドール&ホビー 1/16 恐怖のギロチン スペシャル アートボックスエディション プラモデル DHG1462

posted by cnx at 12:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 反吐 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年12月08日

反吐が出る世界史 鬼畜棄民蛮族侵略アメ公、先住民を虐殺と奴隷で簒奪 虐殺と破壊と戦争で地獄の汚腐乱巣革命勃発 刑盲思想で血脹れした猶太 悪逆非道なディープステイトの中核、猶太とは何か その20

ダビデの星.jpgユダヤ(ギリシャ語: Ἰουδαία、Ioudaía、漢字:猶太)

 他民族からは「ヘブライ人」と謂れ、自らは「イスラエル人」と称し、バビロン捕囚後には「ユダヤ人」と呼ばれるようになった徒輩。ヘブライ人、イスラエル人、ユダヤ人は同じ民族を指している。
 ユダヤ人(ヘブライ語: יהודים‎、英語: Jews、ラジノ語: Djudios、イディッシュ語: ייִדן‎)は、猶太教の信者(宗教集団)または猶太教信者を親に持つ者によって構成される宗教信者。原義は狭義のイスラエル民族のみを指す。イスラエル民族の1つ、ユダ族がイスラエルの王の家系だったことを由来とする。猶太教という名称は、猶太教徒が多く信仰していた宗教であることによる。ユダヤとは、パレスチナ南部の地域。酋長ヤコブの子ユダに由来する。古代イスラエル統一王国の分裂後の南ユダ王国があった地域である。



南ユダ王国滅亡後のユダヤの歴史

南ユダ王国が滅ぶと、僅かな例外的時期を除いて西暦20世紀に至るまでユダヤ民族が独立国を持つことはなかった。


神武天皇74(西暦前587)〜安寧天皇10(西暦前539)年 新バビロニア帝国
安寧天皇10(西暦前539)〜孝安天皇61(西暦前332)年 アケメネス朝ペルシア帝国
孝安天皇61(西暦前332)〜孝安天皇88(西暦前305)年 プトレマイオス朝エジプト
孝安天皇88年(西暦前305)〜開化天皇17(西暦前141)年 セレウコス朝シリア
開化天皇17(西暦前141)〜崇神天皇35(西暦前63)年 ハスモン朝 ユダヤ人国家
崇神天皇35(西暦前63)〜崇神天皇61(西暦前37)年 共和政ローマ元老院属州
崇神天皇61(西暦前37)〜垂仁天皇73(西暦44)年 ヘロデ家
垂仁天皇73(西暦44)年 ユダヤ属州(ローマ帝国皇帝属州)
垂仁天皇73(西暦44)〜景行天皇23(西暦93)年 ヘロデ家
垂仁天皇73(西暦44)〜仁徳天皇83(西暦395)年 ローマ帝国皇帝属州
仁徳天皇83(西暦395)〜舒明天皇06(西暦634)年 東ローマ帝国
舒明天皇06(西暦634)〜永正13(西暦1516)年 イスラーム諸王朝 途中に十字軍国家の時代を含む。
永正13(西暦1516)〜大正06年(西暦1917)年 オスマン帝国 
大正07年(西暦1918)〜昭和23(西暦1948)年 イギリスによる国際聯盟の委任統治 
昭和23(西暦1948)年 イスラエル国(メディナット・イスラエル)成立 共和政国家の樹立、現代に至る。



 西暦135年、ローマが叛乱を鎮圧し、ユダヤ的なものを一掃しようとしたローマ人は、この土地をユダの地(ユダヤ)ではなく、ユダヤ人の宿敵ペリシテ人に因んで「パレスチナ」、エルサレムを「アエリア・カピトリーナ」と改称し、ユダヤという地名は消滅した。

 また、ユダヤ人は人種的にはセム族とされるが、長いディアスポラ(離散)のなかで、周辺民族との混血の結果、セファルディームアシュケナジームの違いが生じ、また言語もイデッシュ語などが生まれた。現在、ユダヤ人はイスラエルの他、世界中に分布しており、アメリカにも約600万人が住んでいるとされる。しかし現在ではユダヤ人を「人種」概念で捉えるのは困難で、現実には「猶太教を信仰する徒輩」と捉えるのが正しい。人類学的に同質のユダヤ人は存在しない。




悪鬼「アメリカ建国の父たち」の真顔 その3

 4代大統領ジェームズ・マディソン・ジュニア(James Madison, Jr.)は、ヴァージニア植民地キング・ジョージ郡ポートコンウェイでジェームズ・マディソン・シニア大佐とポートコンウェイの著名な農園主かつ煙草商人の娘、エリナー・ローズ・「ネリー」・コンウェイの12人兄弟の長男で、弟3人と妹6人の9人が成長した。彼の両親ジェームズ・マディソン・シニア大佐とエリナー・ローズ「ネリー」コンウェイはオレンジ郡に煙草のプランテーションを所有し、ジェームズ・マディソン・ジュニアは幼年期の多くをそこで過ごした。父ジェームズ・マディソン・シニア大佐はさらに資産を増やし、オレンジ郡では最大の土地5000エーカー(4㎢)を所有し指導的存在になった。
 当時カレッジを志向する大半のヴァージニア人とは異なり、ウィリアムズバーグの気候は彼の繊細な健康状態に合わない怖れがあったためウィリアム・アンド・メアリー大学を選ばなかった。1771年にニュージャージー大学(現プリンストン大学)を卒業した。卒業後はプリンストンに留まってジョン・ウィザースプーン学長の下でヘブライ語と政治学を学んだ後、1772年の春にモントピリアに戻った。その後、ヘブライ語を完全にマスターした。散発的に法律を勉強したが、法廷弁護士にはならなかった。
 ジェームズ・マディソン・ジュニアは若き弁護士として、イングランド国教会からの免許を受けずに説教をしたことで逮捕されたバプテストの説教師達を弁護した。さらに説教師エライジャ・クレイグと共にヴァージニアにおける信教の自由を憲法で保障するために動いた。そのような事例で活動することで、信教の自由に関する概念を作り上げるために効果があった。マディソンは西暦1776〜1779年にヴァージニア邦議会議員を務め、トーマス・ジェファーソンの弟子として知られるようになった。ヴァージニア信教の自由法の起草を手伝い、ヴァージニア政界で名声を得た。この法はイングランド国教会を非国教化し、宗教的事項について州の強制権限を排除するものだった。パトリック・ヘンリーが考えた市民にその選択する宗教会派に献金することを強制する案を排除した。
 ジェームズ・マディソン・ジュニアは連邦議会議員として、アメリカ合衆国の首都だったフィラデルフィアの社交界で未亡人のドリー・ペイン・トッドと出会ったと思われる。西暦1794年05月、互いの友人であるアーロン・バー・ジュニアに紹介を頼むことで正式な付き合いを始めた。西暦1794年09月15日に、現在のウェストヴァージニア州ジェファーソン郡で未亡人のドリー・ペイン・トッドと結婚した。ドリーは、その両親のジョンとメアリー・コールズのペイン夫妻が短期間住んだノースカロライナ植民地のニューガーデンクェーカー開拓地で生まれていた。ドリーの姉妹ルーシー・ペインはワシントン大統領の甥であるジョージ・ステップトー・ワシントンと結婚していた。ドリーは非クエーカー教徒であるマディソンと結婚することでクエーカー教からは追放された。ジェームズ・マディソン・ジュニアは結婚後にドリーの連れ子ジョン・ペイン・トッドを養子にした。夫婦は幸せな結婚生活を送っていることが知られていた。ドリー夫人との結婚後は「まるで葬式に行く男のようだ。」と言われていたマディソンも彼女と一緒に大いに社交を楽しむようになった。演説する際にはドリー夫人は演壇に向かうマディソンに付き添ってきて最前列に座り、耳を傾けてくれた。西暦1808年大統領選挙でマディソンに敗れたチャールズ・コーツワース・ピンクニーは「マディソン夫妻に負けた。マディソンだけなら、勝てただろう・・・」と嘆いたと言われている。ジェームズ・マディソン・ジュニアは当初からこの妻を誇りにし、ドリー夫人も「愛しい小さな夫」に献身的であった。ドリー・マディソン(4代アメリカ合衆国のファーストレディ)は、気前良くお金を遣った晩餐会を頻繁に開き、数多くの訪問客を快く接待したことから非常に人気が高かった。彼女の葬儀で当時の12代大統領ザカリー・テイラーが「半世紀にわたり、まさに私達にとって第一級の女性(First Lady)であった。」と言及したことが「ファーストレディ」の語源になった。ジェームズ・マディソン・ジュニアは歴代大統領の中で最もチビで、身長は5フィート4インチ(約163cm)、体重は100ポンド(約45s)だった。
 ジェームズ・マディソン・ジュニアはヴァージニアが北西部領土に対する領有権主張を放棄して連合会議に渡すよう説得した。北西部領土とは現在のオハイオ州、インディアナ州、イリノイ州、ミシガン州およびウィスコンシン州の大半と、ミネソタ州の一部であり、西暦1783年の北西部条例で形成された。ヴァージニアの領有権主張は、コネチカット州、ペンシルベニア州、メリーランド州およびその他の州からの領有権主張と一部重なるところがあった。これら全ての州が、「新しい国家はこれまでと同様土地から造られる。」という理解の元にその西方の土地を割譲した。ジェームズ・マディソン・ジュニアは西暦1780〜1783年まで大陸会議(西暦1781年から連合会議)の代表となり、立法の推進役と議会における連衡形成の達人と見做された。西暦1784〜1786年には再度ヴァージニア邦議会議員に選出された。ジェームズ・マディソン・ジュニアは独立戦争が終わるころにヴァージニア邦議会に戻った。間もなく、連合規約の脆弱さ、特に邦政府間の不和に気付くようになり、新しい憲法の制定を強く提唱した。西暦1787年のフィラデルフィア憲法制定会議では、ジェームズ・マディソン・ジュニアが起草したヴァージニア案と三権分立による革新的連邦制度が今日のアメリカ合衆国憲法の基礎となった。ジェームズ・マディソン・ジュニアははにかみやだったが、連合会議では発言の多い方の代議員の1人だった。ジェームズ・マディソン・ジュニアは「各邦の行動が誤りと考えられる時は連邦政府がそれを却下できる。」という強い中央政府を考えた。後の人生でアメリカ合衆国最高裁判所がその役割を果たすようになったことで、それを称賛するようになった。
 ジェームズ・マディソン・ジュニアはアメリカ合衆国憲法の批准を奨励するために、アレクサンダー・ハミルトンやジョン・ジェイと組んで、西暦1787年と西暦1788年に「連邦主義者」という論文を書いた。ジェームズ・マディソン・ジュニアの書いた論文の中でも第10編では、如何に多くの異なる利益と派閥がある大きな国が、数少ない特定の利益によって動かされる小さな国よりも共和制の価値を支えられるかを説明した。その解釈は当時はほとんど無視されたが、西暦20世紀に入ってアメリカ政界の多元論解釈の中心部分になった。ヴァージニアでは西暦1788年にジェームズ・マディソン・ジュニアが憲法批准会議で批准に向けた戦いを率い、パトリック・ヘンリーなどの批准前にその修正(権利章典の追加など)を求める勢力と議論を交わした。
 ジェームズ・マディソン・ジュニアはその起草と批准で果たした役割のために「アメリカ合衆国憲法の父」と呼ばれることが多い。しかし、彼はその呼び方について「その功績について私は主張しない...憲法は伝説的な知恵の女神と同様、単一の知力から生まれたものではない。多くの頭脳と多くの手による作品と見做されるべきである。」と言って抗議した。ジェームズ・マディソン・ジュニアはニューヨーク州の憲法批准会議に出ているアレクサンダー・ハミルトンに宛てて「批准は『全体として』行われ『永久の』ものである。」という意見を述べる手紙を送った。ヴァージニアの憲法批准会議は拒絶よりも悪い条件付批准と考えられてきた。ジェームズ・マディソン・ジュニアは当初「権利の具体的条項は、憲法そのものが権利の条項なので不要なままである。」と断固主張した。権利の具体的条項には3つの反対理由があった。連邦政府が認められていない権限に対して守ると言われているので不要である。幾つかの権利を列挙することは他の権利の欠如を示唆するように解釈されるかもしれないので危険である。州の段階で、権利章典は政府の権限に対して無用な紙の障壁になることが分かった。
 しかし、反連邦党論者は権利章典を憲法批准の交換条件として要求した。パトリック・ヘンリーはジェームズ・マディソン・ジュニアをアメリカ合衆国上院の初代議員の1人として選ばないようヴァージニア州議会を説得したが、ジェームズ・マディソン・ジュニアは直接アメリカ合衆国下院議員に選出され、第1会期(西暦1789年)から第4会期(西暦1797年)までその重要な指導者になった。大衆は新しい国中で200以上の提案を提出した。ジェームズ・マディソン・ジュニアは政府の構造的変革を要求するような提案は無視し、残りの提案を統括して言論の自由、大衆が武器を所有する権利、およびヘイビアス・コーパス(人身保護令状)のような市民権の保護のための列記に入れた。西暦1788年時点では権利章典を支持するか曖昧だったが、西暦1789年06月に一括して12の憲法修正条項を提案した。ジェームズ・マディソン・ジュニアはその政治姿勢の変更を完了させ、提案した修正条項を認めさせるために同僚達には執拗に協力を求めた。西暦1791年までにジェームズ・マディソン・ジュニアが提案した修正条項のうち後の方の10ヶ条が批准され権利章典となった。彼の意思とは逆に権利章典は憲法の本体には組み入れられず、修正第14条と第15条が成立して州の権限を制限するまで各州には適用されなかった。ジェームズ・マディソン・ジュニアが当初提案した修正第2条(アメリカ合衆国議会議員の報酬)は当時は批准されず、西暦1992年に修正第27条として批准された。修正第1条は下院議員の数を将来増やすことを意図したものだった。ジェームズ・マディソン・ジュニアの議員時代を特徴付けるものは連邦政府の権限を制限するために動いたことだった。歴ジェームズ・マディソン・ジュニアが積極的な役割を担う中央政府を望むことはなかった。アレクサンダー・ハミルトンやジョージ・ワシントンが「貴族制を伴う真に近代ヨーロッパ風の政府、常備軍および強力な独立した行政府」を作ろうとしていることを認めて恐れた。
 西暦1793年にハノーヴァー朝(西暦1714〜1901年)グレートブリテン王国(西暦1707〜1801年)王国と第1共和政(西暦1792〜1804年)国民公会(西暦1792〜1795年)フランス共和国が開戦した時、アメリカ合衆国(西暦1776年〜)は両国の板挟みになった。西暦1778年に結んだフランス王国との同盟条約はまだ生きていたが、新生間もないアメリカ合衆国の貿易の大半はイギリス王国とのものだった。西暦1794年にイギリス王国がフランス植民地との貿易を行っていたアメリカ商船数百隻を捕獲したとき、イギリス王国との戦争が避けられないように思われた。ジェームズ・マディソン・ジュニアは、一時的に公的生活から身を引いていたトーマス・ジェファーソンとの協業の中で、「イギリス王国は弱くアメリカ合衆国は強い。」と考え、「イギリス政府からの報復という怖れはあるが、イギリス王国との貿易戦争は恐らく成功するものと信じ、そうすればアメリカ合衆国がその独立を完全に果たせるようになる。」と考えた。イギリス王国に対し、「商業的足かせを我々に強制し、我々の独立という目標をほとんど打ち破ろうとしている」と非難した。ジェームズ・マディソン・ジュニアはイギリスから「彼の国の勢力はほとんど死に体であるのに対し我が国のものは不死身である」と逆襲されることを恐れなかった。イギリス領西インド諸島はアメリカ合衆国からの食糧が無ければ存続できないが、アメリカ合衆国はイギリス王国「の工業製品が無くても容易に生きて行けた。この考え方で、「今は我々の方に力があり、そのうちに独力で商業に必要なもの全てを供給できるようになる。」という結論になった。しかし、ジョージ・ワシントンは貿易戦争を避け、その代わりに西暦1794年のジェイ条約によってイギリス王国との友好的貿易関係を作った。この条約をジェームズ・マディソン・ジュニアは否定しようとしたが失敗した。国中の有権者はジェイ条約やその他重要案件の肯定と否定で別れ、このことが連邦党と民主共和党という第1政党システムの形成に繋がった。
 アメリカ合衆国財務長官のアレクサンダー・ハミルトンは連邦党となる国中の支持者のネットワークを作り上げ、第一合衆国銀行で強い中央政府を促進した。ジェームズ・マディソン・ジュニアとトーマス・ジェファーソンは連邦党に対抗するために民主共和党を結成した。ジェームズ・マディソン・ジュニアは、「新しい憲法では銀行を造る明確な権限を連邦政府に与えていない。」と主張して、アレクサンダー・ハミルトンの進める第1合衆国銀行創設を止めようとしたが成功しなかった。ジェームズ・マディソン・ジュニアが西暦1787〜1788年に全国的な組織を指向するアレクサンダー・ハミルトンとの同盟者だった時点から、西暦1795年までに強い中央政府への対抗者として州の権限を志向する方向に急激に変化し、さらに大統領になったときは元の見解に戻った。ジェームズ・マディソン・ジュニアはアレクサンダー・ハミルトンに対抗することで初めの移行を始め、西暦1793年までにジョージ・ワシントンにも対抗していた。ジェームズ・マディソン・ジュニアは、合衆国銀行、州債と国債の制度、およびジェイ条約を含めアレクサンダー・ハミルトンの提案が成立し多くは破れた。ジェームズ・マディソン・ジュニアは高関税の提案を止めることは成功した。ジェームズ・マディソン・ジュニアの政策は西暦1812年の米英戦争のときに弱い中央政府の存在を認識するまでトーマス・ジェファーソンと密接に動いていたが、この戦争をきっかけに国を守るために強い中央政府の必要性を認識するようになった。その後は合衆国銀行、より強い海軍、および常備軍の支持を始めた。
 ジェファーソン政権が面した大きな課題は、ほとんど常に交戦状態にあるイギリス王国とフランス共和国という大帝国の間での通商だった。最初の偉大な勝利は西暦1803年のルイジアナ買収だった。統領政府(西暦1799〜1804年)フランス共和国のナポレオン・ボナパルトは「ミシシッピー川以西の広大な領域(フランス領ルイジアナ)を守ることは出来ない。」と認識し、「そこをイギリス王国に渡さないことがフランス共和国の利益に繋がる。」と考えた。ジェームズ・マディソン・ジュニアとトーマス・ジェファーソン大統領は党の政策をひっくり返して買収工作に入り、議会の承認も勝ち取った。ジェームズ・マディソン・ジュニアはイギリス王国とフランス共和国の間で中立を保とうとしたが、同時に国際法の下でアメリカ合衆国の法的権利にも固執した。しかしロンドンもパリもそれに敬意を払わなかった。ジェームズ・マディソン・ジュニアとトーマス・ジェファーソンはイギリス王国とフランス共和国を罰するためにアメリカ商人が如何なる外国とも貿易することを禁じる通商禁止を行うことに決めた。この通商禁止法は外交政策としては失敗し、その代わりに外国貿易に頼っていた南部海岸地域に大きな苦難を強いることになった。ジェームズ・マディソン・ジュニアは国務長官である間に「マーベリー対マディソン事件」で最高裁判決に与し、これは連邦の上位裁判所での違憲審査制原理を肯定し世界で初めて違憲審査制を確立した。
 イギリス王国とフランスがアメリカとの戦争の瀬戸際にあった時、外交的手腕を発揮し、西暦1808年の民主共和党議員総会で、ジェームズ・マディソン・ジュニア大統領選挙の候補者に選出され、トーマス・ジェファーソン人気の威光に乗って容易に連邦党のチャールズ・コーツワース・ピンクニーを破って4代大統領となった。連邦議会はジェームズ・マディソン・ジュニアが就任した時に直ぐに通商禁止法を撤廃しアメリカの海港を生き返らせた。
 第1合衆国銀行の公認期間20年間が、マディソン政権の2年目である西暦1811年に切れることになっていた。ジェームズ・マディソン・ジュニアは西暦1791年にこの銀行の設立を止められなかったので、その公認が切れるのを待っていた。財務長官のエイブラハム・アルフォンス・アルバート・ギャラティンはこの銀行を再認定することを望んでおり、西暦1812年に米英戦争が勃発したときに、銀行なくして戦争の費用を賄うことの難しさを認識した。アルバート・ギャラティンの後継者であるアレクサンダー・J・ダラスは西暦1814年に銀行の再設立を提案したが、ジェームズ・マディソン・ジュニアは西暦1815年にこの法案を拒否した。しかし、西暦1815年後半になってジェームズ・マディソン・ジュニアは新しい銀行設立を議会に求め、ジョン・カルフーンやヘンリー・クレイのようなより若く国家主義的な民主共和党員、さらには連邦党員のダニエル・ウェブスターに強く支持された。ジェームズ・マディソン・ジュニアは西暦1816年に第2合衆国銀行設立法案に署名して、ウィリアム・ジョーンズをその頭取に指名した。
 イギリス王国の侮辱は続いていた。特にイギリス海軍の艦船が武装していないアメリカ合衆国の商船を捕まえ、イギリス海軍の任務に就かせることのできる水夫を全て強制徴募した。アメリカ合衆国の海運に対するイギリス王国の干渉が続き、また北西部領土において先住民(アメリカ・インディアン)に対するイギリス王国の援助が続いていたことへの対応として、ジェームズ・マディソン・ジュニアは抗議したが、イギリス王国から無視されたので、愛国者共和党員に西部と南部の世論を喚起させて戦争に導いた。いわゆる「タカ派」による主張は「アメリカ合衆国によるイギリス領カナダの侵略が容易であり、良い交渉材料になる。」というものだった。ジェームズ・マディソン・ジュニアは当時の誰もが「マディソン氏の戦争」と呼ぶものに慎重に世論を盛り上げた。しかし、陸軍、海軍、砦および州兵を作るだけの時間と金に余裕が無かった。ジェームズ・マディソン・ジュニアは開戦について議会を説得し第12アメリカ合衆国議会は南部や西部のトーマス・ジェファーソン崇拝者に支持されて西暦1812年にイギリス王国に対する宣戦を布告した。南部や西部の民は最も熱心に戦争を支持し、西部開拓地を守り拡張し、農産物を世界の市場へ輸出する窓口を得ることに強い関心を示していた。ニューイングランドの連邦主義者は戦争に反対したが、戦後その評判が失墜することになり、党勢が弱まっていくことになった。
 西暦1812年アメリカ合衆国大統領選挙で対抗馬デウィット・クリントンに対して勝利して再選されたが、西暦1808年の時よりも票差が詰まっていた。西暦2006年に行われた歴史家による歴代大統領評価では、ジェームズ・マディソン・ジュニアが戦争回避に失敗したことで大統領の犯した誤りの悪いほうから6番目に位置付けられた。米英戦争(西暦1812〜1815年、第2次独立戦争)の中で、イギリス王国とカナダ人およびファースト・ネーション(カナダ英語: First Nations、カナダに住んでいるイヌイットもしくはメティ以外の先住民族)同盟が多くの勝利を収めた。その中にはアメリカの将軍が戦わずして自軍より小さな部隊に降伏したデトロイト砦の占領や、ジェームズ・マディソン・ジュニアがワシントンD.C.から逃亡し、イギリス軍から大統領府に火を点けられる目にあったワシントン焼き討ちもあった。

 西暦1814年08月24日、イギリス軍がチェサピーク湾に上陸し、ワシントンD.C.への侵攻を開始した。アメリカ軍は数的には勝っていたものの、ヨーロッパから転戦した経験豊富なイギリス正規軍の決定的勝利で潰走した。(ブラーデンスバーグの戦い)前線を視察するため馬で訪れたジェームズ・マディソン・ジュニアは、橋の近くで危うく捕虜になる所であった。混乱し、隊列を乱したアメリカ軍の潰走の様子は当時見物で、西暦1816年に作られた詩により「ブラーデンスバーグの競走」と呼ばれることになった。アメリカの民兵はワシントンの市街地を逃走し、ジェームズ・マディソン・ジュニアも連邦政府の閣僚たちと共にその後に続いた。その日の夜、イギリス軍は抵抗を受けることなくワシントンD.C.に入り、ホワイトハウスなどに火を放った。このワシントン焼き討ちはアメリカ軍がアッパー・カナダのヨーク(現在のトロント)に侵入し、エリー湖北岸の民間資産を掠奪破壊したことへの報復だった。アメリカ軍は2度市内を占領し、アッパー・カナダの議会議事堂を焼いていた。
 歴史のある絵画や工芸品がホワイトハウスから運び出されたのは、大統領夫人ドリー・マディソンの指示によるものであった。ドリー・マディソンは貴重品を持ち運ぶために最後までホワイトハウスに残っていた。08月24日午後01時半頃、食事をしていたドリー・マディソンは遠くにイギリス軍の放つ砲声を聞き、アメリカ政府の役人が逃げ出した後、ファーストレディのドリー・マディソンが後の残って奴隷たちと下僚を纏め、イギリス軍から価値ある品を救おうとした。急いでホワイトハウスの貴重な歴史的書物や宝物を馬車に積み込み、避難させた。
 08月25日午後、ロス少将はグリーンリーフのポイントにある砦を確保するために200人の兵士を派遣した。この砦はマクネア砦と呼ばれ既にアメリカ兵が破壊していたが、150樽の火薬が残っていた。イギリス兵がそれらの樽を井戸に落として破壊しようとしている時に、火薬が引火した。この爆発で30人程が死に、他にも多くが重傷を負った。
 攻撃が始まってから1日経っていないときに、突然の雷雨が火事の大半を消した。竜巻も1つ起こって首都の中心を通過し、大砲2門を持ち上げ、数ヤード向こうに落としたので、イギリス兵やアメリカ市民を殺した。この嵐によってイギリス兵をその船に戻らせたが、船の多くも損傷を受けていた。ワシントンの占領は僅か26時間のことだった。イギリス海軍はこの攻撃の間に、1人が戦死し、6人が負傷したと報告したが、その戦死者と負傷者3人は植民地海兵隊の者だった。
 ドリー・マディソンはイギリス軍撤退の知らせを聞くと夫より先にワシントンD.C.に戻り、市民の大歓迎を受けた。彼女は「敵は自由の民を脅かすことは出来ない。」と叫び、焼け野原となった首都の復興を誓った。イギリス軍はホワイトハウスや国会議事堂にも火を放っていたので、ホワイトハウスは外壁を残して内部が完全に焼け落ちてしまい、マディソン大統領夫妻は「オクタゴンハウス」と呼ばれる近くの建物に1年以上も仮住まいすることになった。

眞説 アメリカ合衆国大統領府「ホワイトハウス」

 アメリカ合衆国大統領府は、9件の最終候補の中からアイルランド出身の建築家、ジェームズ・ホーバンの案の現在のアイルランド国民議会が入っているダブリンのレンスター・ハウスを模倣で、基礎部分は当時の黒人奴隷、石細工は主にスコットランド人が工事を担った。大統領府「ホワイトハウス」の名前の由来は、冬の凍結による皹割れなどを防ぐために、西暦1798年に砂岩でつくられた外壁を石灰で白く塗った(ホワイトウォッシュ)ので、「ワシントン焼き討ち」よりも前に、西暦1811年に一般人が「ホワイトハウス」と呼んだという記録がある。公式に大統領府が「ホワイトハウス」となったのは、西暦1901年に26代大統領セオドア ・ルーズベルト・ジュニア(Theodore Roosevelt Jr.)がそれを正式名称にしてからである。
 鬼畜米英のお手の物の歴史の改竄と捏造は、ここでも本領発揮で、米国大統領官邸が「ホワイトハウス」と呼ばれる理由を「イギリス軍に燃やされた後、黒く焼け焦げた跡を隠すために全体を白いペンキで塗ったため」という真っ赤な嘘の偽説で洗脳している。
西暦2018年06月06日の電話会談で、米国が鉄鋼輸入制限を発動する理由を問い質したカナダ首相ジャスティン・ピエール・ジェームズ・トルドー(Justin Pierre James Trudeau)に対し、米45代大統領、ドナルド・ジョン・トランプ(Donald John Trump)204年前の米英戦争を持ち出し、アメリカ合衆国軍がアッパー・カナダの議会議事堂を焼いたことは棚に上げ、「君たちはホワイトハウスを焼き討ちしたじゃないか。」と正当化した。今もこの「アメリカが味わった屈辱を増幅する」ために、この語源の捏造は今も使われている。

 英語版ウィキペディアでは、「イギリス軍に燃やされた後、その跡を隠すために白く塗られたことからホワイトハウスになった。」という偽説作り話と否定している。「White HouseーA myth emerged that during the rebuilding of the structure after the Burning of Washington, white paint was applied to mask the burn damage it had suffered, giving the building its namesake hue.」
 「ホワイトハウス歴史協会(The White House Historical Association)」のウェブサイトにも「よくある誤解(There is a popular misconception)」に、「ホワイトハウス」の名前の由来は、冬の凍結によるひび割れなどを防ぐために、西暦1798年に砂岩でつくられた外壁を石灰で白く塗った(ホワイトウォッシュ)ことだとある。「How did the White House get its name?ーIn fact, the White House first received a lime-based whitewash in 1798 to protect its sandstone exterior from moisture and cracking during winter freezes.」ホワイトハウス歴史協会は別のページでも、「イギリス軍に燃やされた跡を隠すため」説を太文字で真っ向から否定している。

 もう1つの嘘は「ドリー・マディソンが苦心して額縁から外して持ち出したとされる、有名なギルバート・スチュアートの描くジョージ・ワシントンの肖像画も含まれていた。アメリカ合衆国建国の父であるジョージ・ワシントンの肖像画を守るという愛国的行為は後世に語り継がれ、彼女の人気はより一層高められることになった。そのような振る舞いは、新聞が粉飾したとしても彼女の人気を増すことになった。」という件だ。
ジェームズ・マディソン・ジュニアの個人的な従僕の奴隷ポール・ジェニングスは、この時15歳で、現場の証人になった。後に未亡人のドリー・マディソンから自由を購った後、西暦1865年に自伝を出版した。「既に印刷物でしばしば言われているが、マディソン夫人はホワイトハウスを脱出するときに、ワシントンの肖像画を額縁から切り取って(現在ホワイトハウスの客室の1つにある)持ち出したとされている。しかし彼女にそんな時間は無かった。その絵を降ろすには梯子が必要だったろう。彼女が持ち出したのはハンドバッグに入れた銀器であり、イギリス軍は直ぐそこまで来ていると考えられ、いつ入って来てもおかしくない状態だった。」その中で「彼女にはワシントンの肖像画を持ち出す時間は残されておらず、実際に持ち出したのは庭師と門番だった。」とこれを否定している。
 黒人奴隷ポール・ジェニングスは、その絵を救って持ち出した人々について次の様に語っている。「ジョン・スセ(ジャン・ピエール・シウサー、フランス人で当時の門番。まだ生きていた。)と大統領の庭師マグロー(マックグロー)がその絵を降ろして、荷車に積み、大きな銀の壺など急いで持ち出すことのできた貴重品を積んだ。イギリス軍が正に到着したとき、彼らは私が大統領の宴会のために準備していた食事を平らげ、ワインを飲んだ。」


 大統領官邸は米英戦争のブラーデンスバーグの戦いでの敗北により、イギリス軍による焼き討ちにあい、石積みの外壁を残して全てが灰燼に帰してしまった。ジェームズ・マディソン・ジュニアは設計者のジェームズ・ホーバンを監督に任じ、焼け残った外壁を使って焼失前とほぼ変わらない官邸を再建し、西暦1817年に完成させた。
 イギリス王国は西部の先住民(アメリカ・インディアン)も武装させた。その中でもテカムセとその追随者が著名だが、テカムセはテムズの戦いで破れた。アメリカ合衆国は五大湖地方でイギリス王国よりも早く艦隊を作り上げ、浦賀来寇のマシュー・カルブレイス・ペリー(Matthew Calbraith Perry)の兄、オリバー・ハザード・ペリー(Oliver Hazard Perry)がイギリス艦隊を破って、イギリス軍による西暦1814年のニューヨーク侵入を阻止した。大西洋上ではイギリス艦隊が海岸線全体を封鎖し、外国との貿易はおろか港間の国内交易も遮断した。ニューイングランドでの経済状況は大変厳しいものだったが、企業家が工場を建設し、それが間もなくアメリカにおける産業革命の基盤になった。
 ジェームズ・マディソン・ジュニアは大変な逆境に直面した。すなわち分裂した内閣、派閥争いをする党、抵抗する議会、妨害する知事達、さらには無能な将軍達であり、民兵たちは自州から外に出て戦うことを拒んだ。最も深刻だったのは一貫して大衆の支持を得られなかったことだった。カナダとは大量の密輸があったニューイングランドからは戦争への財政的支援や兵士の提供について拒絶があり、脱退の脅しもあった。しかし南部のアンドリュー・ジャクソンや西部のウィリアム・ハリソンは西暦1813年までに先住民(アメリカ・インディアン)による大きな脅威を潰していた。
 西暦1814年にナポレオンの敗北が明白になった後で、戦争への疲弊感から終戦に繋がっていった。イギリス王国もアメリカ合衆国も戦争継続に疲れており、戦争の大義は忘れられ、先住民(アメリカ・インディアン)問題は時の経過と共に解決され、停戦する時期が来ていた。しかし、ニューイングランドの連邦党員は連邦からの脱退を議論した敗北主義的ハートフォード会議を開いていた。アメリカとイギリスは苦しい戦いを西暦1815年01月08日まで続けた後に停戦した。公式に米英戦争を終わらせるガン条約により、基本的に戦争前の状態(西暦1795年に結ばれたジェイ条約と、「北西インディアン戦争」のグリーンヴィル条約で決めた状態)に戻される事となった。両国共に戦争前の状態に戻すことに同意したので、領地の獲得は無かった。イギリス王国の先住民(アメリカ・インディアン)との同盟は消滅した。アンドリュー・ジャクソンがイギリス正規軍を破ったニューオーリンズの戦いは条約が署名された15日後だが、その報せがニューオーリンズまで届く前に起こった。この勝利は国民の心理に高揚感を与え、戦闘を指揮した者の1人、アンドリュー・ジャクソン(Andrew Jackson、後の7代アメリカ合衆国大統領)を政界に押し上げた。国内からは「無用な戦争」だったという批判もあったが、この戦争の間にイギリス製品の流入が途絶えたことによるイギリス経済からのアメリカ合衆国の自立を促し、国民のイギリス王国からの文化的・精神的独立を果たした。和平が最終的になって、「アメリカ合衆国はイギリス王国から確固とした独立を確保した。」という感覚に覆われた。連邦党は崩壊し、最後は政界から消えて、好感情の時代が現出すると共に、政治的論戦は確かに続いたものの政治的恐怖や脅威は低いものになった。
 ジェームズ・マディソン・ジュニアはアレクサンダー・ハミルトン支持者の国営銀行、関税に基づく効果的税収制度、常備の職業的軍隊と強い海軍の必要性を認めたが、財務長官アルバート・ギャラティンの提唱する内国改良には一定の線を引いた。ジェームズ・マディソン・ジュニアは「この法案を考えるに...私はこの法案をアメリカ合衆国憲法に合致させるには克服できない難しさがあるという感覚に捉われている。...憲法では...議会に与えられた立法権は具体的であり、この法案によって行使される権限は憲法に列挙される権限の中には入っていない。」と、大統領職から身を引く前の仕事として、道路、橋および運河を含む「内国改良」法案を、州の権限という考え方を元に拒否した。ジェームズ・マディソン・ジュニアは議会の見解である課税と歳出条項の一般の福祉規定がこの法案を正当化するというものを拒否し、次のように言った。「憲法のそのような見解は、議会に属すると理解される定義され制限された権限の代わりに一般的な立法権限を与えることになる。『共同の防衛と一般の福祉』という言葉はあらゆる対象を包含し、立法の信託という視野の中で行動することである。」ジェームズ・マディソン・ジュニアは「我々の拡張された連邦の様々な場所を密接に束ねる」ことになる道路と運河への連邦政府支援を含め、「国家権力の下で実行されるべき最良のこと」と考えられる様々な手段を推奨した。
 第2次バーバリ戦争(西暦1815年、アルジェリア戦争)は、地中海における海賊国に貢物を贈るという習慣を決定的に終わらせ、その地域における海賊の時代の終焉を始めさせることになった。ジェームズ・マディソン・ジュニアはその他11人の裁判官を指名した。このうち2人はワシントンD.C.地区巡回裁判所の判事であり、9人は様々な地区裁判所の判事だった。このうち1人は同じ裁判所の異なる職責に2度指名された。
 ジェームズ・マディソン・ジュニアは西暦1817年に大統領を辞めると、ヴァージニアにある自分のの煙草プランテーション、モントペリエに隠棲した。そこはトーマス・ジェファーソンのモンティチェロからそれほど離れていなかった。マディソンは64歳になっていた。妻のドリーは49歳であり、「遂に2人でパリへ旅する機会が訪れた。」と考えた。ジョージ・ワシントンやトーマス・ジェファーソンと同様にジェームズ・マディソン・ジュニアは大統領になった時よりも辞めたときの方が貧乏になっていた。これはそのプランテーションが少しずつ財政的破綻に向かっていたためだった。ジェームズ・マディソン・ジュニアはの累積する負債がその憲法制定会議での記録、即ち彼が所有する公式記録を生きている間に出版することを拒んだ主要理由の1つである。「彼はその記録の価値を知っており、そのプランテーションが失敗したときにドリーが使えるよう、その資産に金をもたらしてくれることを望んだ。すなわち彼はその記録が宝石である文書の販売で数十万ドルを期待していた。」ジェームズ・マディソン・ジュニアの財政的心配と精神と肉体の健康の悪化が彼を消耗させ続けた。後年、ジェームズ・マディソン・ジュニアはその遺産について極度に関心を抱くようになった。所有している手紙などの文書の「修正」に乗り出し、日付を変え、言葉や文を付加、削除し、その性格を変えた。70歳後半に達する時までに、この「加工」は執念に変わった。改竄はトーマス・ジェファーソンに宛てたラ・ファイエット侯マリー・ジョセフ・ポール・イヴ・ロシュ・ジルベール・デュ・モティエ(Marie-Joseph Paul Yves Roch Gilbert Du Motier, Marquis De La Fayette)を批判する手紙を改竄したことで見ることができる。ジェームズ・マディソン・ジュニアは元々の文章を消しただけでなく、トーマス・ジェファーソンの筆跡を真似することまでやった。ジェームズ・マディソン・ジュニアの心の中では、この捏造が自身を明らかにすることを意味し、歴史と彼自身に対してその行動を正当化することだった。
彼の生涯の最後の6年間、彼を飲み込む怖れのあった個人の金銭的揉め事の中で...時には心理的動揺が肉体的破壊を促した。西暦1831年と1832年の大部分は沈黙しないまでも寝たきりになった...文字通り心労で病気になり、その仲間の市民たちに自分を理解させられないことを気に病み始めた。トーマス・ジェファーソンの死後の西暦1826年、ジェームズ・マディソン・ジュニアはジェファーソンの後を継いでヴァージニア大学の第2牧師(学長)になった。これが最後の役職になった。ジェームズ・マディソン・ジュニアの死ぬ西暦1836年まで10年間、学長の地位に留まった。西暦1829年、78歳の時、ジェームズ・マディソン・ジュニアはヴァージニア州憲法を改訂するためのリッチモンド憲法会議で代議員に選ばれた。これはマディソンの立法者としておよび憲法起草者として最後の登場場面だった。この会議で最重要な問題は議員の議席配分だった。州憲法では議席配分を人口で選挙区に割り振っているが、選挙権の無い奴隷を含めた人口で計算しているために、州西部の地域は割り振りが足りないという不平を持っていた。州西部の者はほとんど奴隷を所有しておらず、東部の農園主は多くの奴隷を持っていたために東部の白人は西部の白人よりも票の重みが大きかった。マディソンはその全盛期に「偉大な立法者」として知られており、アメリカ合衆国憲法で使われているような奴隷人口の4分の3を勘定に入れるという妥協案を持ち出そうとしたが、うまく行かなかった。最終的に東部の農園主が勝った。奴隷人口はその主人の地区人口に参入され続けることになった。ジェームズ・マディソン・ジュニアはヴァージニア人がもっと公平にこの問題を解決できなかったことに心を砕かれた。西暦1829年の会議は、絶望とまでは行かなくとも、ジェームズ・マディソン・ジュニアを自己欺瞞の崖っぷちまで着実に追い込んだ。奴隷制の難問が彼を苛んだ。彼の健康状態はこのとき相当に悪化していたが、連邦議会や軍隊に牧師を指名することに反対する随筆など政治的課題に関する幾つかの書面を作成することができた。この課題は宗教を排除できたが政治的な調和を生まなかったからだった。
 ジェームズ・マディソン・ジュニアは西暦1836年まで生き、次第にアメリカの政治機構の新しい指導者達から無視されるようになっていた。この年の06月28日、建国の父の最後の生き残りとしてモントピリアで死んだ。ジェームズ・マディソン・ジュニアの使用人を長年務めたポール・ジェニングスは「蝋燭の火が消えるように静かに呼吸を停止した。」と死の状況を説明した。また、ドリー夫人は最愛の夫の死が「取り返しの付かない損失であった。」として親しい友人に苦しみを打ち明けている 。



 クリーク族(Creek)は、本来はマスコギー族(ムスコギー族)(Muscogee/Muskogee、マスコギー語(クリーク語): Mvskoke)セミノール族はマスコギー族に近い親族で、同じ様にマスコギー語を話す。クリーク戦争(レッド・スティック戦争)は、アメリカ合衆国南部でのクリーク族先住民(アメリカ・インディアン)の内戦に、アメリカ軍が介入した「インディアン戦争」である。結果的に先住民(アメリカ・インディアン)の強制移住と、合衆国による先住民(アメリカ・インディアン)からの領土掠奪という民族浄化となった。先住民(アメリカ・インディアン)をイギリス軍が支援していたので、米英戦争の一部と考えられることがある。この戦争でアメリカ軍を勝利に導いたアンドリュー・ジャクソンが、白人社会で一躍名声を上げることになった。
 西暦1811年12月16日から数回にわたって、ニューマドリード地震がアメリカ中西部のクリーク族の土地を襲った。この出来事の解釈は、部族毎にまた宗教毎に異なるが、一般に認められたことは、「大地震に何らかの意味があったに違いない。」ということだった。

 戦いの際に赤く塗った棒を使ったので、「レッド・スティックス(赤い棒)」と呼ばれたクリーク族の戦士団が、彼らの暮らしを白人の干渉を受けない、伝統的なものに強引に戻そうとしていた。レッド・スティックスには、ウィリアム・ウェザーフォード(レッド・イーグル)、ピーター・マックィーンおよびメナワといった強力な戦士がいて、イギリス軍と同盟を結び、クリーク族の土地を浸食してくる白人や、アメリカ合衆国のインディアン部局代理人ベンジャミン・ホーキンスによって管理される「文明化」計画について、クリーク族内部の他の戦士達と激しい対立が起こっていた。クリーク族内戦が始まる前に、レッド・スティックスはその活動を酋長、長老たちには知らせないようにしていた。
 西暦1813年02月、リトル・ウォリアーたちレッド・スティックスの小部隊がデトロイトから戻る途中で、オハイオ川沿いの白人入植者2家族を虐殺した。ホーキンスはクリーク族にリトル・ウォリアーとその6人の仲間を引き渡すよう要求した。酋長達は合議の結果、襲撃者を白人連邦政府の役人に引き渡す代わりに、部族で罰すると決めた。この決定がクリーク族の内戦を起こす火種となった。アッパータウンに住むクリーク族のレッド・スティックスが、ローワータウンに住むクリーク族の幾つかの集落を即座に征圧した。ローワータウンのクリーク族は、家畜を飼い、また紡織機を使うなど、白人の文明に同化する段階を踏んでいるところであった。レッド・スティックスは、家畜や壺、鍋、手織りの布など白人社会から来た物全てを破壊した。しかし、レッド・スティックスは見つけた銃や鋼製の刃物を押収する以上のことはしなかった。
 西暦1813年07月21日、アメリカ軍兵士の一隊がフロリダから戻る途中のピーター・マックィーン率いるレッド・スティックスの一隊を止めた時に、レッド・スティックスとアメリカ白人との最初の衝突が起こった。レッド・スティックスはペンサコーラのスペイン知事から弾薬の供給を受けて持ち帰る途中だった。この時はレッド・スティックスが一旦逃亡し、アメリカ兵は残っていた物資を押収した。その光景を見ていたレッド・スティックスが急襲をかけて報復した。バーント・コーンの戦いとして知られるようになるこの衝突で、クリーク族の内戦はアメリカ軍を巻き込むことになった。ピーター・マックィーンはウィリアム・ウェザーフォードと共に仕返しのために、08月30日、アラバマのモービルの北にあったミムズ砦を襲った。レッド・スティックスの目標はその砦に逃げ込んでいた混血のクリーク族を襲うことであった。クリーク族の一部による制止努力にも拘わらず、虐殺が起こり、400〜500人が殺された。結果、アメリカ南東部一帯の入植地に恐慌が起こり、政府の干渉を求めた。アメリカ軍はイギリス軍や北部森林地帯のショーニー族に率いられる「インディアン戦争」の真っ最中であったので、南部諸州は民兵を召集してこの脅威に対処することにした。
 バーント・コーンの戦いの後で、アメリカ合衆国陸軍長官ジョン・アームストロングは、第6方面軍の指揮官トマス・ピンクニー将軍に、「アメリカはクリーク族に対して行動を取る用意がある。」と伝えた。さらに「スペイン帝国がクリーク族を支持していると分かったならば、ペンサコーラに対する攻撃も正当化される。」とした。ジョージア州は、現在のジョージアとアラバマの州境であるチャッタフーチー川に沿って一連の砦を作り上げて、準備を開始した。この行動は辺境を守るとともに、攻撃の準備をする時間を稼ぐものであった。ミシシッピー準州の民兵指揮官フェルディナンド・クレアボーン准将は、クリーク族領地の西部境界あたりに自軍の弱点があることを認識し、先制攻撃を掛けることを主張した。しかし、第7方面軍指揮官のトマス・フラーニー少将は、この要求を拒み続け、この地区のアメリカ軍の戦略は防御であることをクレアボーンに思い出させた。一方でその地域の入植者は小要塞への逃亡を求めた。
 ミムズ砦虐殺に反応して、テネシー州議会はウィリアム・ブラウント知事が3ヶ月の従軍義務のある5000人の民兵を組織することを承認した。ブラウントはアンドリュー・ジャクソン大佐のもとに2500人の西テネシー部隊を召集し、「近づいてくる侵略に反撃し ... ミシシッピー」準州を ... 助け解放する。」と伝えた。さらにウィリアム・コック少将の下に2500人の東テネシー部隊を召集した。ジャクソンとコックは10月初めまでは出動準備が整わなかった。テネシー、ジョージアおよびミシシッピーの動きに加えて、インディアン部局代理人ベンジャミン・ホーキンスは、ウィリアム・マッキントッシュ少佐の下に友好的なローワータウンのクリーク族を組織して、レッド・スティックスに対する作戦でジョージアとテネシーの民兵を支援することとした。
 連邦インディアン部局長であり、その髪の色でホワイト・イーグルとしても知られていたリターン・J・メイグスの呼びかけに応じて、チェロキー族は宿敵レッド・スティックスに対し、アメリカ軍に協力することを合議で決した。メイジャー・リッジの指揮で200人のチェロキー族がアンドリュー・ジャクソン指揮のテネシー民兵と共に戦った。
 集落の数では、クリーク族集落の約3分の2がアッパー・クリークであった。それらの集落はアラバマ州の心臓部を流れるアラバマ川、クーザ川およびタラプーザ川沿いにあった。対照的にローワー・クリークの集落は、チャッタフーチー川沿いにあった。多くのクリーク族は白人と友好的なままであろうとしたが、ミムズ砦の事件の後は、南東部の白人は友好的なクリーク族と敵対的なクリーク族の区別ができなくなっていた。大まかに言って、レッド・スティックスには4000人の戦士がおり、おそらく1000丁の銃を持っていた。彼らはたとえ近隣の相手でも大規模な戦闘を行うことは無かった。戦争の初期にコック将軍は、弓矢が「敵軍の戦時における主要な武器であり、全員が弓と1束の矢を持ち、銃による最初の攻撃から次の弾込めの間に弓矢を使っている。」と報告した。クーザ川とタラプーザ川が合流する場所にあるホーリー・グラウンドがレッド・スティックス連合の本拠地であった。そこは3つのアメリカ軍の補給点から少なくとも約150マイル(240 km)離れていた。最も容易な攻撃経路は、ジョージアから辺境に作った砦を経て、アッパー・クリークに繋がるよりましな道を通ってホーリー・グラウンドに至るものだった。もう一つの経路はモービルからアラバマ川に沿って行くものだった。最も難しい経路は、これをアンドリュー・ジャクソンが進んだが、テネシーから南に山脈を越え道無き道を行くものだった。
 アンドリュー・ジャクソンの任務はクリーク族を叩くことであったが、その大きな目的はペンサコーラまで進出することだった。ジャクソンの計画は南に移動し、道を作り、アッパー・クリークの集落を破壊し、続いてモービルまで進んでペンサコーラ攻撃に移ることだった。2つの問題があった。兵站と短い徴兵期間であった。アンドリュー・ジャクソンが進軍を始めたとき、テネシー川の水位は低く、物資を運ぶことが難しかったので、馬の飼葉が少なかった。アンドリュー・ジャクソンは、ファイエットビルを西暦1813年10月07日に進発した。ハンツビルで騎兵隊と合流し、テネシー川を越えて、デポジット砦を構築した。続いてクーザ川まで行ってストローザーに前進基地を造った。11月に起こったタルシャッチーの戦いとタラデガの戦いが初めの成功であった。しかし、タラデガの後で、アンドリュー・ジャクソンは物資の不足と兵士の短い徴兵期間からくる規律の問題に直面した。
 コックとその東テネシー民兵2500人は、10月12日に出発した。その行軍経路はテネシー州ノックスビルからチャタヌーガに至り、クーザ川にそってストローザー砦に向かうものだった。東と西のテネシー民兵隊の間にあった嫉妬のために、コックは急いでジャクソン隊に合流しようとはせず、特に11月17日に友好的な先住民(アメリカ・インディアン)集落を誤って襲ったことでアンドリュー・ジャクソンを怒らせた後は歩みが鈍かった。コック隊が12月12日にやっとストローザー砦に着いた時、東テネシー民兵には徴兵期間が10日間しか残っていなかった。アンドリュー・ジャクソンには徴募兵を解雇するしか選択肢が無かった。さらに、新馬補充のためにテネシーに戻ったカフィー将軍から、「騎兵隊が脱走した。」という知らせが来た。西暦1813年の暮れ、ジャクソン隊は徴兵期間を01月半ばまで延長した兵士の1個聯隊まで減っていた。ブラウント知事が新たに2500人の部隊を集めるよう命令したが、ジャクソン隊は02月終わりまで十分な戦力にならなかった。新規徴兵した900人の新兵が予想もしていなかった西暦1814年01月14日に到着し、アンドリュー・ジャクソンは幹部を103人と「部下に見捨てられた」カフィーに減らした。新兵は徴兵契約が60日間しか無かったので、アンドリュー・ジャクソンは未経験ではあるがその兵士の大半を連れて行くことにした。01月17日にストローザー砦を出て、ジョージアの民兵と協力するためにエマックフォーの集落に向かった。しかし、これは危険な決断であった。それは長く険しい地形を越えて数的に勝る敵に向かうことであり、部隊の兵士は経験が無く、規律も悪く反抗的であった。さらに敗北は戦争を長引かせるだけのことであった。エマックフォーとエノタチョポ・クリークの2つの決着の着かない戦いの後で、アンドリュー・ジャクソンはストローザー砦に戻り03月半ばまで攻撃的な姿勢には戻らなかった。西暦1814年02月06日に第39合衆国歩兵聯隊が到着し、ジャクソン隊は訓練された兵士の中核を得て、最終的に戦力は約5000人に脹れ上がった。ブラウント知事が2回目のテネシー州民兵の徴募を行い、コック隊は6ヶ月任務の2000人を得て、再びノックスビルからストローザー砦に行軍した。コックの部下はアンドリュー・ジャクソンの部下が3ヶ月の任務期間しかないのを知って叛乱を起こした。コックは部下を宥める努力をしていたが、アンドリュー・ジャクソンはこれを誤解し、扇動者としてコックの逮捕を命じた。東テネシー民兵はその任務期間に関する注釈無しでストローザー砦に集合した。コックは後に無実を証明された。アンドリュー・ジャクソンは次の1ヶ月を道路を作り、兵士を鍛えることに費やした。03月半ば、ジャクソンはレッド・スティックスがタラプーザ川のトホペカ(ホースシュー・ベンド)に集結しているのを知って出陣した。ジャクソンは初めは南にクーザ川に沿って進み、クリーク族のいる場所までの距離の半分の地点で新しい基地ウィリアムズ砦を築いた。そこに守備隊を残し、約3000人の部隊にチェロキー族とローワー・クリーク族同盟軍600人を加えて、トホペカに向かった。ホースシュー・ベンドの戦いは03月27日に起こり、先住民(アメリカ・インディアン)戦士を約800人殺すなど、ジャクソン軍が決定的な勝利を奪って、レッド・スティックの反攻を弾圧終了させた。
 ジョージア州の民兵はおそらく3万人居た。アメリカ合衆国第6方面軍は両カロライナ州とジョージア州から構成されており、おそらく2000人の正規兵が居た。原則としてピンクニー将軍が方面指揮官であり、西暦1813年のクリーク戦争を終わらせようと思えば攻撃部隊を送ることができた。しかし、ここでの努力は迅速さも無く、また効果的なものも無かった。11月遅く、ジョン・フロイド将軍が950人の民兵と300〜400人の友好的クリーク族先住民(アメリカ・インディアン)を率いて、チャッタフーチー川を越え、ホーリー・グラウンドに向かった。11月29日、オートーズの集落を襲い、守りやすい場所にいたクリーク族を追い出した。この戦闘後、フロイド将軍が重傷を負っていたのでチャッタフーチー川まで撤退した。フロイド隊の損失は戦士11人、負傷54人であった。フロイドの見積もりでは200人のクリーク族を殺した。01月半ば、フロイドは1300人の民兵と400人の同盟クリーク族先住民(アメリカ・インディアン)を率いて、ミッチェル砦を進発し、ジャクソン隊との合流を待つためにタッコーバッチー集落に向かった。01月29日、エマックフォーの7日後であるが、クリーク族がカリビー・クリーク族の防御を施した部落を襲った。ジョージア兵は攻撃を跳ね返したが、フロイドとその民兵は結果を敗北と考え、ミッチェル砦に引き返したので、進軍中に作った防衛基地の連なりを放棄することになった。フロイド隊の損失は諸説有り、17〜22人の戦死、132〜147人の負傷となった。フロイドの見積もりではレッド・スティックスの損失は戦死37人であった。これがジョージア兵の最後の攻撃となった。
 10月、トマス・フラーニー将軍が、第3合衆国歩兵聯隊、民兵、志願兵およびチョクトー族の先住民(アメリカ・インディアン)からなる約1000人の部隊をストッダート砦で作り上げた。クレアボーン将軍はアラバマ川とトムビグビー川の合流点近くのクリーク族財産を荒らすよう命令を受け、セントステファン砦から進発した。クレアボーンは破壊活動を行っただけで、戦闘を行うことは無かった。クレアボーンはストッダート砦から北に85マイル(140km)の地点まで進出し、クレアボーン砦を造った。12月23日、ホーリー・グラウンドで小さな敵軍に遭遇し260個の住居を焼いた。この戦闘中にウィリアム・ウェザーフォードが捕獲されそうになったが、逃げ延びることができた。ミシシッピー軍の損失は1人戦死、6人負傷であった。クリーク族は30人が戦死した。クレアボーンは物資が不足したのでセントステファン砦まで後退した。
 西暦1814年08月09日、アンドリュー・ジャクソンはクリーク族にジャクソン砦条約への調印を強制した。アンドリュー・ジャクソンに協力して戦ったクリーク族の酋長たちは抗議したが、結果はアラバマ州の半分とジョージア州の南部にあたるクリーク族の土地93000㎢をアメリカ合衆国政府に割譲させられることになった。クリーク戦争はクリーク族間の内戦でもあったが、アンドリュー・ジャクソンは協力したクリーク族も反攻したレッド・スティックスも区別せず、両方から土地を奪った。割譲された土地のうち、7700㎢は戦争中アメリカ軍に協力したチェロキー族が要求した。
 レッド・スティックスの叛乱を弾圧沈下し、ドサクサに紛れてクリーク族の領土をごっそり奪ったアンドリュー・ジャクソンは、メキシコ湾岸に力を集めることができた。アンドリュー・ジャクソン自身の発案でスペイン領フロリダに侵略し、ペンサコーラからイギリス軍を追い出した。続いて西暦1815年01月08日、ニューオーリンズの戦いでイギリス軍を破った。ジャクソンはレッド・スティックスが逃げ込んでいたフロリダに再び侵攻して、第1次セミノール戦争を起こした。

 先住民(アメリカ・インディアン)に対する虐殺と領土強奪というこれらの「勝利」の結果として、ジャクソンは白人の間で国民的英雄となり、西暦1829年に7代アメリカ合衆国大統領に登り詰めた。アメリカ大統領となったアンドリュー・ジャクソンは「インディアンは白人と共生できない劣等民族である。」とアメリカ合衆国議会で演説し、南東部の先住民(アメリカ・インディアン)をミシシッピー川を越えて西部に移住させる、「インディアン移住法」を成立させ、大量虐殺と民族浄化を主導した。



 セミノール戦争(フロリダ戦争)は、セミノール族(Seminole)と総称される様々な先住民(アメリカ・インディアン)とアメリカ合衆国とのフロリダにおける3次の戦争、第1次セミノール戦争(西暦1817〜1818年)、第2次セミノール戦争(西暦1835〜1842年)、第3次セミノール戦争(西暦1855〜1858年)の総称である。しばしば単にセミノール戦争と呼ばれる第2次セミノール戦争は、アメリカ独立戦争からヴァトナム戦争(西暦1945〜1975年)の間でアメリカ合衆国が関わった戦争では最も長く続いた戦争だった。先住民(アメリカ・インディアン)たちはこれを、「先住民(アメリカ・インディアン)のヴェトナム戦争」と呼んでいる。
 先住民(アメリカ・インディアン)にはヨーロッパ人がもたらした疫病に対する抵抗力がほとんどなく、またスペイン軍がフロリダ北部でインディアンの叛乱を弾圧したことで、この地域にヨーロッパ人が渡来するとフロリダ先住民(アメリカ・インディアン)の人口は減少した。またカロライナの州兵とその住民(アメリカ・インディアン)同盟がフロリダ半島全域で幾度も攻撃を仕掛け、西暦18世紀初頭までには残る住民(アメリカ・インディアン)のほとんどを殺害したか、捕虜にした。西暦1763年にスペイン帝国(西暦1492〜1976年)がフロリダをイギリス帝国(西暦17世紀半ば〜1997年)に割譲する際、スペイン軍は、わずかに生き残ったフロリダ先住民(アメリカ・インディアン)をキューバに送った。 
 アメリカ南東部の様々な部族は、新天地フロリダへの移住を開始した。西暦1715年にはヤマシー族がスペイン帝国の同盟者として、イギリス植民地軍との紛争後にフロリダへ移動した。クリーク族(Creek、マスコギー族(ムスコギー族)(Muscogee/Muskogee))は、まずロウワー・クリーク族がフロリダに移り始め、やがてアッパー・クリーク族がこれに続いた。ヒチティ語(Hitchiti)を話す語族の支族であるミカズキ族(Miccosukee)は、現在のタラハシー近郊のミカズキ湖周辺に入植した。この一族は、今日までミカズキ族として独自の属性を維持している。カウキーパー率いるヒチティ語を話す他の集団は、スペイン人が西暦17世紀に牧場を経営した土地、現在のアラチュア郡に入植した。最も有名な牧場の1つがラチュアと呼ばれていたので、この地域は「アラチュア大草原」として知られるようになった。セントオーガスティンのスペイン人は、アラチュアのクリーク族をクリーク語の「simano-li」から借用したスペイン語の「野蛮な」、「逃亡者」を意味する「シマロン(cimarrón)」と呼びはじめた。これが「セミノール」の語源である。アメリカ大陸の各地に点在する逃亡奴隷の「マルーン」の語源もまた、恐らくはスペイン語のシマロンからである。
 アラチュア・セミノール族は、少なくとも第3次セミノール戦争まで個々の独自性を保有していた。カウキーパーは西暦1784年に彼の甥、キング・ペインによって引き継がれた。キング・ペインは西暦1812年にジョージア民兵によるセミノール族への攻撃で殺された。彼の兄弟のボレクは、スワニー川までの一団の大部分を統率し、そこで彼らは西暦1818年にアンドリュー・ジャクソンの戦役で擾乱された。次に、アラチュア・セミノール族はフロリダ半島中央部へ移動し、西暦1821年のボレクの死後、彼の甥ミカノピーに引き継がれた。ミカノピーが捕らえられ西部に送られた後、彼の甥のビリー・ボウレグス(ホラタ・ミッコ)は、西暦1858年に降伏するまで残ったセミノールを率いた。
このシマロン族という名は、やがてフロリダの他の部族をも指すようになったが、各部族は依然として個々の独自性を維持していた。セミノール戦争時点でフロリダにいた他の集団には、カルーサ地方の出身と信じられていたため「スパニッシュ・インディアン」と呼ばれていたユチ族(Yuchi)や、フロリダ海岸部のスペイン人・キューバ人の漁場で暮らしていた「牧場インディアン」などがある。
 また、西暦18世紀のフロリダへの移住者には逃亡奴隷もいた。スペイン領フロリダに着くことができた奴隷は本質的には自由であった。スペイン当局は逃亡奴隷を歓迎し、セントオーガスティンに隣接したフォート・モーセの住民として居住することを許可し、都市防衛のため彼らを民兵として起用した。他の逃亡奴隷は、時に奴隷として、時に部族の自由な構成員として、様々なセミノール族の一団に加わった。いかなる場合でも、フロリダ先住民(アメリカ・インディアン)の下の奴隷制の重荷は、英領の植民地のそれよりかなり軽かった。ジョシュア・リード・ギディングスの西暦1858年の記述によれば、「彼らは奴隷を自由と奴隷の中間で処遇し、奴隷は通常自分の家族とともに暮らして自分の時間をもち、少量のトウモロコシや野菜を主人への支払に充てる。この階級の奴隷は白人にとり最も嫌なものである。」という。スペイン帝国が西暦1763年にフロリダを去ったとき、フォート・モーセの元奴隷の大部分はキューバに行ったが、様々な先住民(アメリカ・インディアン)部族と共に留まる者もあり、南北カロライナ州やジョージア州の奴隷たちはさらにフロリダへと逃亡を続けた。フロリダに留まったか、または後にセミノール族に加わった黒人たちは、部族社会に融合して言語を習得し、部族の衣装を纏い、混血婚をした。これらのブラック・セミノール族の何人かは部族の重要な指導者となった。
 アメリカ独立戦争(西暦1775〜1783年)の間、フロリダを支配したイギリス王国は、ジョージア州の開拓地の襲撃のためにセミノール族を募集した。戦争の混乱はまた、フロリダに逃亡する奴隷の数を増加させた。これらの出来事は、セミノール族というアメリカ合衆国にとっての新しい敵を作った。西暦1783年、アメリカ独立戦争を終わらせた条約の一部として、フロリダ半島はスペイン帝国に返還された。スペイン帝国のフロリダの掌握はそれほど強くはなく、セントオーガスティン、セントマークス、ペンサコーラに小さな守備隊がいるのみだった。このため、フロリダとアメリカ合衆国との境界は制御されなかった。アメリカ合衆国の不法入居者たちがスペイン領フロリダに移っていた時、ミカズキ族と他のセミノール族の一団は、まだ境界の合衆国側の町を占領していた。
 西暦1763年、フロリダ半島はイギリス王国によって東フロリダと西フロリダに分割され、そして西暦1783年にスペイン帝国がフロリダを取り戻したとき、スペイン帝国は分割をそのままにした。西フロリダはアパラチコーラ川からミシシッピー川に拡大した。それらのルイジアナの所有地と共に、スペイン帝国の支配力はアパラチア山脈より西のアメリカ西部を流れる全ての川の下流域に及んだ。マニフェスト・デスティニーとして知られる拡張の奨励に加えて、西部の川での自由な交易を前提とすること、そしてフロリダをヨーロッパ諸国によるアメリカ合衆国の侵入のための基地として使用されることを防ぐことのために、アメリカ合衆国はフロリダの取得を望んだ。
 西暦1803年のルイジアナ買収によってミシシッピー川の河口はアメリカ合衆国の手に渡ったが、アラバマ、ミシシッピー、テネシー、およびジョージアの大部分はメキシコ湾に達するまでに東フロリダまたは西フロリダを通り抜けた川によって荒らされていた。アメリカ合衆国は、「ルイジアナ買収による土地は、パーディド川西の西フロリダを含んでいる。」と主張した一方で、スペイン帝国は、西フロリダはミシシッピー川まで伸びていると主張した。西暦1810年、バトンルージュの居住者たちは新政府を樹立して地元のスペイン帝国の砦を占拠し、アメリカ合衆国による保護を要求した。ジェームズ・マディソン・ジュニア大統領は、オーリンズ準州知事のウィリアム・C・C・クレイボーンに、ミシシッピー川からはるか東のパーディド川までの西フロリダを差押えることを認可したが、クレイボーンはパール川(ルイジアナの現在の東境界)以西の地域エを占領するに止まった。ジェームズ・マディソン・ジュニアはその時、ジョージ・マシューズをフロリダに対処しに行かせた。「西フロリダの残りを米国に引き渡す。」という申し出が西フロリダ総督によって無効にされたとき、ジョージ・マシューズはバトンルージュに起こったことと同様の反逆を唆そうとして、東フロリダを歩き回った。しかし東フロリダの居住者たちは現状に満足であったため、代わりに志願兵部隊(無料の土地を約束された)がジョージアで挙兵された。西暦1812年03月、数隻のアメリカ合衆国海軍の砲艦の援助を受けたこの「愛国者」の軍隊は、フェルナンディナを占領した。フェルナンディナの占領は、元々ジェームズ・マディソン・ジュニア大統領によって認可されたのだが、彼は後にそれを否認した。「愛国者」軍はセントオーガスティンのカスティリョ・デ・サンマルコスを占領することができなかった。米英戦争は、東フロリダへのアメリカ合衆国の侵入を終えることに繋がった。西暦1813年に、アメリカ軍はスペイン帝国から、アラバマ州モービルの奪還に成功した。
 「愛国者」軍がフロリダ半島から撤退する前に、スペイン帝国と同盟を組んでいたセミノール族は彼らを攻撃し始めた。これらの攻撃は、セミノール族が敵であるとするアメリカの意見を補強した。また、戦いにおけるブラック・セミノール族の存在は、「愛国者」軍の中のジョージア人たちの間に、奴隷の反逆という昔の恐怖を思い起こさせた。西暦1812年09月、ジョージア志願兵の中隊は、アラチュア大草原に住んでいるセミノール族を攻撃したが、あまり損害を与えられなかった。西暦1813年初めには、より大軍がアラチュア大草原のセミノール族の村から彼らを追い出し、数千頭の牛を殺したり追い払ったりした。
 フロリダのセミノール族に影響する次の大きな出来事は、西暦1813〜1814年のクリーク戦争であった。西暦1814年、アンドリュー・ジャクソンはホースシュー・ベンドの戦いでクリーク族のレッド・スティックス一派に打ち勝った後に、国民的英雄となった。勝利の後、アンドリュー・ジャクソンはクリーク族にフォート・ジャクソン条約を押しつけ、ジョージア南部と、アラバマ中部および南部のクリーク族の土地を収奪した。この結果、多くのクリーク族が、アラバマとジョージアを去ってフロリダに移動した。西暦1814年にも、アメリカ合衆国と交戦していたイギリス王国は、西フロリダのペンサコーラや他の場所に軍隊を上陸させ、先住民(アメリカ・インディアン)の同盟を編成し始めた。西暦1814年05月、イギリス軍はアパラチコーラ川の河口に入り、セミノール族、クリーク族、および逃亡奴隷に武器を配った。イギリス軍は上流に移動し、プロスペクト・ブラフに砦を築き始めた。ジャクソン将軍率いるアメリカ軍は、モービルへの攻撃によってイギリス軍と彼らの先住民(アメリカ・インディアン)同盟軍を撃退した後、ペンサコーラからイギリス軍を追い出した。しかし、プロスペクト・ブラフの砦は機能し続けた。米英戦争が終わったとき、イギリス軍部隊は、イギリス海兵隊のエドワード・ニコルズ少将を除いて西フロリダへ去った。彼は、大砲、マスケット銃、および弾薬を砦に供給することを指示し、「ガン条約が、ジョージアとアラバマのクリーク族の土地を含む、戦争の間に失われた全ての先住民(アメリカ・インディアン)の土地の復帰を保証する。」と先住民(アメリカ・インディアン)に伝えた。しかしセミノール族は、砦の守備には関心がなく、彼らの村に戻った。西暦1815年の夏にニコルズ少将が去る前に、彼は地域の逃亡奴隷に砦の占有をするように誘った。この砦の噂は広まり、それはすぐにアメリカ南部の白人たちに「ニグロ砦」と呼ばれるようになった。彼らは自分たちの奴隷が逃亡したり叛乱したりする危険な予感として砦を見做した。
 アンドリュー・ジャクソンはニグロ砦を排除したがっていたが、それはスペイン領内にあった。
西暦1816年04月、彼は、スペイン帝国がその砦を排除しないのなら彼が排除することを西フロリダ総督に知らせた。総督は、彼には「砦を取り返す手段がない。」と返答した。ジャクソンは、エドモンド・ペンデルトン・ゲインズ准将を砦の対処に割り当てた。エドモンド・ペンデルトン・ゲインズは、フロリダの境界のすぐ北のフリント川に、スコット砦を造るようにダンカン・ラモント・クリンチ大佐に指示した。そして、エドモンド・ペンデルトン・ゲインズは、ニューオーリンズからアパラチコーラ川経由でスコット砦へ供給するという彼の意志を明らかにした。これはスペイン領とニグロ砦を通り過ぎることを意味していた。エドモンド・ペンデルトン・ゲインズは、「スコット砦に供給するのにアパラチコーラを使用することは、米国陸軍がセミノール族とニグロ砦を監視することになり、そしてもし砦から補給船へ発砲するならば、それはアメリカ軍に砦を破壊する口実を与えるであろう。」とアンドリュー・ジャクソンに伝えた。
 スコット砦への供給船隊は、西暦1816年07月にアパラチコーラに到達した。ダンカン・ラモント・クリンチ大佐は100人以上の米兵とおよそ150人のクリーク族の軍隊と共に、アパラチコーラを進軍した。供給船隊はニグロ砦でダンカン・ラモント・クリンチ大佐に出会い、そして船隊を率いた2隻の砲艦が、砦から川を横切って位置についた。砦の黒人は、アメリカ兵と彼らのクリーク同盟軍に向けて大砲を発射したが、大砲を向ける際の訓練も経験もなかった。アメリカ軍は撃ち返し、そして、砲艦によって撃たれた9番目の発砲は、砦の火薬庫に落ちた。この結果起こった爆発は、ペンサコーラから160km(100マイル)以上離れたところでも聞こえて、砦を破壊した。砦にいたおよそ320人のうち、250人以上は即死し、そして、さらに多くの人はすぐ後に負傷により死亡した。砦の破壊の後、アメリカ陸軍はフロリダから撤退したが、アメリカからの不法入居者と無法者は、セミノール族に対して襲撃を実行し、インディアンを殺して、彼らの奴隷と牛を盗んだ。アメリカの白人によって遂行された殺害と窃盗に関する憤りは、セミノール族たちの中で広まり、それは報復と、特に入植者から牛を盗むことで報復した。西暦1817年02月24日、セミノール族はジョージア州カムデン郡在住の女性、ギャレット夫人と、彼女の3歳になる子供と生後2ヶ月の子供を殺害した。



第1次セミノール戦争(西暦1817〜1818年)
 ファウルタウンは、スコット砦のおよそ15マイル(24km)東の、ジョージア南西部のミカズキ族の村だった。ファウルタウンのネアマスラ酋長は、フリント川東側における土地の使用について、「本来その地域はミカズキ族の主権がある。」と主張して、スコット砦の指揮官と口論になった。ジョージア南部の土地が、フォート・ジャクソン条約でクリーク族に割譲されていたが、ミカズキ族は、自分たちがクリーク族であるとは考えず、また条約に束縛されることを嫌い、さらにクリーク族にはミカズキ族の土地を割譲するどんな権利も受け入れなかった。西暦1817年11月、ゲインズ将軍は、ネアマスラ酋長を差押えるために250人の部隊を送った。最初の試みはミカズキ族によって撃退された。翌日の11月22日、ミカズキ族は彼らの村から追い出された。元ジョージア州知事で当時クリークインディアン管理官であったデヴィッド・ブライディ・ミッチェルは、議会への報告書に、「このファウルタウンへの攻撃が第1次セミノール戦争の始まりである。」と述べた。1週間後、R・W・スコット中尉が指揮していたスコット砦への供給船は、アパラチコーラ川で攻撃された。40〜50人の兵士が供給船の上にいて、この中には20人の病気の軍人と、軍人の妻が7人、(セミノール族によって殺された4人の子供の報告があるが、彼らは虐殺の初期の報告では言及されず、またそれらの存在は確認されていない)。供給船の乗員のほとんどは、先住民(アメリカ・インディアン)によって殺され、1人の女性が捕虜となり、6人の生存者が砦に行った。(ファウルタウンとスコット砦の虐殺)
 ゲインズ将軍は、フロリダに侵入しないように命令され続けていて、後にフロリダへの短い押しつけを許容するために修正された。アパラチコーラのスコット砦の虐殺の情報がワシントンD.C.に届いたとき、ゲインズ将軍はスペイン英国の設備を1つも攻撃せずに、フロリダに侵入して、先住民(アメリカ・インディアン)を追跡するように命令された。しかし、ゲインズ将軍はフェルナンディナを占領した海賊に対応するため、東フロリダに向けて出発した。ジョン・カルフーン陸軍長官は、フロリダ半島への侵入を導くようにアンドリュー・ジャクソンに命令した。
 西暦1818年03月、アンドリュー・ジャクソンはスコット砦に彼の軍を集めた。その軍は、800人の米国陸軍正規兵、1000人のテネシー州志願兵、1000人のジョージア州民兵、およびおよそ1400人の好意的なロウワー・クリーク族の戦士を含んでいた。03月13日、ジャクソンの軍隊はアパラチコーラ川を下って進軍しフロリダ半島に入った。ニグロ砦の場所に着くと、アンドリュー・ジャクソンは兵士に新しい砦、ガズデン砦を建設させた。軍隊はその後、ミカズキ湖周辺のミカズキ族の村へ出発した。03月31日、タラハシーの先住民(アメリカ・インディアン)の町を燃やし、その翌日、ミカズキの町を占拠した。300人以上の先住民(アメリカ・インディアン)の家が破壊された。その後4月6日にジャクソンは南へと向かい、セントマークスに到着した。セントマークスで、アンドリュー・ジャクソンはスペイン軍の砦を占拠した。そこで彼は、バハマ諸島で仕事をするスコットランド人商人のアレクサンダー・ジョージ・アーバスノットを見つけた。彼はフロリダの先住民(アメリカ・インディアン)と交易していて、先住民(アメリカ・インディアン)を代表してイギリス帝国とアメリカ合衆国の当局に宛てた手書きの手紙を持っていた。銃を販売していたために、「彼はインディアンに戦争の準備をさせている。」と噂された。彼の先住民(アメリカ・インディアン)との主な交易の品目は鹿の皮で、恐らく彼は、先住民(アメリカ・インディアン)が鹿を狩るために必要としていたので、銃を販売していた。2人のインディアンの指導者、ジョサイア・フランシスとホマスレミコは、イギリス王国の国旗をはためかせながらセントマークスに投錨していたアメリカの船に向かって行き、そして捕らえられた。アンドリュー・ジャクソンがセントマークスに到着するとすぐに、2人の先住民(アメリカ・インディアン)は岸に連行され、絞首刑にされた。アンドリュー・ジャクソンは、スワニー川沿いの村を攻撃するためにセントマークスを離れた。川は主に逃亡奴隷によって占領されていた。04月12日、軍隊はエコンフィナ川沿いにレッドスティックスの村を見つけた。およそ40人の戦士を殺し、およそ100人の女性と子供を捕らえた。彼らは村で、その前年の11月にアパラチコーラ川の上の補給船への攻撃時に捕らえられた女性、エリザベス・スチュワートを見つけた。行軍中、ルート沿いのブラック・セミノール族に苦しめられながらも、軍隊はスワニーの村に人影がないことを知った。この時、元イギリス海兵隊で自称イギリス帝国の「担当官」のロバート・アンブリスターが、アンドリュー・ジャクソンの軍隊に捕らえられた。セミノール族と黒人の主な村を破壊したので、アンドリュー・ジャクソンは勝利を宣言し、ジョージア民兵とロウワー・クリーク族らを家に帰した。残った軍隊はセントマークスに戻った。セントマークスでは、軍事法廷が召集され、セミノール族を支援し彼らに戦争を扇動し、合衆国に対して向かわせた罪で、ロバート・アンブリスターとアレクサンダー・ジョージ・アーバスノットを告発した。ロバート・アンブリスターは罪を認めたが、アレクサンダー・ジョージ・アーバスノットは「合法的な取引に従事しただけだ。」と無実を主張した。軍事法廷は両方の男性に死刑を言い渡したがその後緩和され、アンブリスターの罰を50回の鞭打ちと1年の重労働に変えた。しかし、アンドリュー・ジャクソンはロバート・アンブリスターの死刑を復活させた。ロバート・アンブリスターは西暦1818年04月29日に銃殺隊によって処刑された。アレクサンダー・ジョージ・アーバスノットは彼の持つ船の桁端から絞首刑にされた。
 アンドリュー・ジャクソンは、セントマークスの守備隊を去り、ガズデン砦に戻った。アンドリュー・ジャクソンは最初に、「全てが平和であり、自分はテネシー州ナッシュビルに戻る予定である。」と報告していた。後に彼は「先住民(アメリカ・インディアン)が集まってスペイン帝国から供給を受けている。」と報告し、05月07日に1000人の兵士と共にガズデン砦を去り、ペンサコーラへ向かった。西フロリダ総督は、「ペンサコーラの先住民(アメリカ・インディアン)の大部分が女性と子供であり、男性は非武装であったが、アンドリュー・ジャクソンは止まらなかった。」と主張した。アンドリュー・ジャクソンが05月23日にペンサコーラに着いたとき、総督と175名のスペイン守備隊は、ペンサコーラ市をアンドリュー・ジャクソンへ明け渡してバランカス砦に退却した。両軍が2日間砲撃を交わし、スペイン軍は5月28日にバランカス砦を明け渡した。アンドリュー・ジャクソンは、西フロリダの軍事知事としてウィリアム・キング大佐を残して帰還した。
 アンドリュー・ジャクソンの行動には国際的な反響があった。国務長官のジョン・クィンシー・アダムズは、ちょうどフロリダ買収のためにスペインとの交渉に入ったところであった。スペイン帝国は、西フロリダの侵入と占拠に異議を申し立てて、交渉を中断させた。スペインにとっては、合衆国に報復するか、または無理矢理西フロリダを取り戻すしか手段がなく、そのためジョン・クィンシー・アダムズは、スペイン帝国に抗議をさせて、続いてイギリス帝国、スペイン帝国、および先住民(アメリカ・インディアン)との戦争を非難した72もの関連書類と共に公式文書を発行した。公式文書では、彼は、西フロリダの占拠の件も謝罪し、「スペイン領地の占領がアメリカ合衆国の方針でない。」と言って、「セントマークスとペンサコーラをスペイン帝国に返す。」と申し出た。スペインはこれを受け入れて、結局、フロリダ買収のための交渉を再開した。
 イギリス帝国はアメリカ合衆国領土に一度も入らなかった2人の処刑について異議を申し立てた。過酷な報復と賠償金の話がイギリス帝国で起こった。アメリカ合衆国はイギリス帝国との新たな交戦を懸念した。結局イギリス帝国では、経済上アメリカ合衆国がどれだけ重要であるかを知り、良い関係を維持することが選択された。
 アメリカ合衆国国内にも反響はあった。議会の委員会は、ロバート・アンブリスターとアレクサンダー・ジョージ・アーバスノットの軍事裁判の、軍法違反について公聴した。ほとんどのアメリカ人がアンドリュー・ジャクソンを支持したが、ある者は、「アンドリュー・ジャクソンが『馬に乗った男』、ナポレオンになるかも知れない。」と心配した。西暦1818年12月に議会が再び招集されたとき、アンドリュー・ジャクソンの行動への非難が決議された。アンドリュー・ジャクソンはとても人気があり、決議案は失敗したが、ロバート・アンブリスターとアレクサンダー・ジョージ・アーバスノットの処刑は、彼が大統領になることを妨げるには十分ではなかったにせよ、彼の評判に死ぬまで汚点として残った。
 西暦1821年に、スペイン帝国はフロリダをアメリカ合衆国に売却した。フロリダに実効的な政府はなかなか来なかった。アンドリュー・ジャクソン将軍は、西暦1821年03月にフロリダの軍事知事に任命されたが、西暦1821年07月にようやくペンサコーラに到着した。彼はフロリダでちょうど3ヶ月を過ごしてから、西暦1821年09月に役職を辞め、10月に家に帰った。彼の後継者のウィリアム・P・ドゥヴァルは、西暦1822年04月まで任命されず、そして彼は、西暦1822年内にはケンタッキーの自宅へ行き長期にわたって明け渡した。フロリダの領土の他の公的な役職者も、同様に空席だったり不在がちだったりだった。それでも、セミノール族は新政府の課題であった。西暦1822年初め、フロリダ領土の暫定長官でセミノール族の暫定担当者であったジョン・R・ベル大尉は、フロリダの先住民(アメリカ・インディアン)人口の見積りを準備した。彼は「およそ5000人の先住民(アメリカ・インディアン)と、彼らが300人の奴隷を保有している。」と報告した。彼は、「米国のフロリダへの視点における正当な根拠なしで、彼らの3分の2がクリーク戦争からの避難民である。」と見積もった。先住民(アメリカ・インディアン)の入植地は、スワニー川に沿ったアパラチコーラ川の周りの領域に位置していて、そこから南東方面にはアラチュア大草原があり、南西方面にはわずかにタンパベイの北に掛かっていた。フロリダの職員は、セミノール族の状況に関する始まりに心配させられた。居留地の設立を盛り込んだ条約が調印されるまで、先住民(アメリカ・インディアン)は作物を植えて収穫を期待できる場所を確保しておらず、彼らは占領した土地に移住してくるであろう白人の不法な入居者らと競わなければならなかった。交易を認可する制度がまったくなく、無免許の商人はセミノール族に酒類を供給していた。このように多くの問題があったにも拘わらず、フロリダ領土の職員の部署には臨時雇いが存在したり安易な任官が行われていたため、セミノール族との会合は、中止されたり延期されたり、または単に新しい会合に時間と場所を設定するために時々行われるだけだった。
 西暦1823年、政府は、領土の中央部の居留地にセミノール族を入植させることを最終的に決めた。条約を取り決める会合は西暦1823年09月の上旬にセントオーガスティンの南のムールトリー・クリークで予定された。セミノール族らの主な代表にはネアマスラが選出され、およそ425名のセミノールが会合に出席した。そこで交渉された条約に関する諸条件では、セミノール族は、合衆国の保護の下に自分たちを置き、およそ400万エーカー(1万6000㎢)の居留地と引き換えに、フロリダの土地に対する全ての主張を取り下げることが強制された。居留地は、現在のオカラの北部からタンパベイの南端までの線のフロリダ半島の中央を駆け下りるものだった。キューバやバハマ諸島からの商人との接触を防ぐため、境界は両海岸から内陸部に設置された。しかしながら、ネアマスラと他の5人の酋長らは、アパラチコーラ川沿いに彼らの村を持つことが許された。
 ムールトリー・クリーク条約の下では、彼らが平和であり法を遵守する限りは、アメリカ合衆国政府がセミノール族を保護することが義務付けられた。政府は、1年間セミノール族に農機具、牛、および豚を分配し、彼らに居留地に移動するための旅費とそれにまつわる損失を補償して、セミノール族が新しい作物を植えて収穫するまで食料を提供することになっていた。20年の間、部族に1年あたり5000USドルを支払って、また、政府は20年間、通訳官、学校、および鍛冶を提供することも約束した。それと同様に、セミノール族は道路が居留地内に敷設されることを許容しなければならず、どんな逃亡奴隷または他の逃亡者も逮捕して、彼らを合衆国当局に返却しなければならなかった。条約の実現は遅れた。政府が本気で彼らを居留地に動かそうとしていることをセミノール族に示すために、西暦1824年前半、歩兵の4中隊が駐屯するブルック砦が現在のタンパの場所に設立された。しかし06月までに、条約の主な作者でそれを実行しようと準備していたジェームス・ガズデンは、セミノール族は条約について不満であり、再交渉するのを望んでいることを報告した。新しい戦争の恐怖はゆっくりと忍び寄った。07月、デュヴァル知事は民兵を動員し、タラハシー族とミカズキ族の酋長にセントマークスで彼と会うよう命令した。その会合で、彼は、西暦1824年10月01日までに居留地に動くようにセミノール族に命令した。セミノール族は10月になってもまだ居留地に出発していなかった。デュヴァル知事は彼らを動かすために、セミノール族に改訂した補償金を支払い始めた。また、彼は、配給されるためのタンパベイのブルック砦に送ることが約束された。ようやくセミノール族は居留地に動き始めたが、彼らの一部は、1年以内に、スワニーとアパラチコーラ川の間の彼らの元の家に戻った。セミノール族の大部分は、西暦1826年まで居留地にいたが、彼らは順調ではなかった。彼らは、新しい畑を開墾して栽培しなければならず、成長した作物は旱魃に見舞われた。「数名のセミノール族が餓死した。」と報告された。ブルック砦の指揮官のジョージ・M・ブルック大佐とデュヴァル知事の両者は、ワシントンに空腹のセミノール族のために助けを求める手紙を書いたが、しかしその要求は、セミノール族がミシシッピー川の西に動かされるべきであるかどうかに関する討論によって止められた。その結果、5ヶ月の間、セミノール族への救援物資は1つも提供されなかった。
 白人との単独の衝突はあったが、セミノール族たちはゆっくりと居留地に入植した。現代のオカラの場所の居留地担当期間の近くにキング砦が建てられ、西暦1827年前半までに、陸軍は、「セミノール族が居留地に入ってフロリダは平和になった。」と報告することができた。この平和は5年間保たれた。その間、セミノール族に対して「ミシシッピー川の西部に送るべき」という要求が繰り返された。セミノール族は、特に彼らがクリーク同盟に参加することを示唆するそのような移動には反対された。セミノール族はフロリダ族を彼らの故郷と主張し、「彼らにはクリーク族と1つも接触がない。」と否定していたが、ほとんどの白人は、フロリダにその頃移動していたセミノール族を、単にクリーク族と見做した。逃亡奴隷の状況は、セミノール族と白人の間に継続する焦燥であった。セミノール族と奴隷の捕縛人は、奴隷の所有権についての口論をした。フロリダの新しい農園は、セミノール族を離れて逃れてきた奴隷の人口を増加させた。先住民(アメリカ・インディアン)の暴動、そして/あるいは奴隷の叛逆の可能性が心配されたので、デュヴァル知事は追加の連邦政府軍をフロリダに要求した。その代わりに、キング砦は西暦1828年に閉鎖された。居留地で食物が不足し、獲物を見つけるのがより困難になったセミノール族は、以前よりも頻繁に放浪するようになった。西暦1828年には、セミノール族の宿敵のアンドリュー・ジャクソンはアメリカ合衆国大統領に選出された。西暦1830年に、議会は「インディアン移住法」を可決した。セミノール族に関するすべての問題は、彼らをミシシッピー川以西に移動させることによって解決されることになった。
 西暦1832年春、居留地のセミノール族はオクラワハ川の上のペインズ・ランディングの会合に呼ばれた。「西部の土地が適当であることが分かったなら、セミノール族たちは西に移動する。」ということで条約は交渉された。その条約はクリーク族の居留地に入植することと、クリーク族の一部になることになっていた。新しい居留地を点検することになっていた7人の酋長の代表団は、西暦1832年10月までフロリダを離れなかった。数か月の間領域を視察して、そこで既に入植していたクリーク族と打ち合わせた後に、7人の酋長は西暦1833年03月28日、「新天地を許容できる。」という声明に調印した。しかしながら、彼らがフロリダへ戻る途中で、彼らがそれに署名していなかった、「強制的に署名させられた。」と主張して、酋長の大部分は声明を放棄し、ともかく、彼らは居留地に住んでいた全ての部族と一団を決定する有利な権力を持ってはいなかった。しかし、アパラチコーラ川地域の村はより容易に説得されて、西暦1834年に西部へ移動した。西暦1834年04月、アメリカ合衆国上院は最終的にペインズ・ランディング条約を批准した。条約はミシシッピー川以西へ移動するため、3年の期間をセミノール族に与えた。政府は、西暦1832年から数えて3年間と解釈して、セミノール族が西暦1835年には移動することを期待した。キング砦は西暦1834年に再開した。新しいセミノール族担当官のワイリー・トンプソンが西暦1834年に任命され、セミノール族に移動するよう説得する任務を負った。西暦1834年10月、彼は、西への移住に関して彼らと話すためにキング砦に酋長を集めた。セミノール族らは、彼らには移住する意志が全くなくて、またペインズ・ランディング条約によって束縛されているとは感じていないことをワイリー・トンプソンに知らせた。このことをワイリー・トンプソンは「インディアンは受け取った年金で、大量の火薬と導火線を購入した。」と報告し、キング砦とブルック砦に援軍を要求した。クリンチ将軍もまた、「セミノール族は動かないつもりであり、彼らを動かせるのにより多くの軍が必要である。」とワシントンに警告した。西暦1835年03月、ワイリー・トンプソンは、アンドリュー・ジャクソンからの彼らへの手紙を読むため、酋長を集めた。「移動を拒絶するのであれば、軍を使って強制的に移動させる。」と、アンドリュー・ジャクソンはその手紙に書いた。酋長は、30日間の猶予を頼んだ。1ヶ月後、セミノール族の酋長は、彼らは西へは動かないことをワイリー・トンプソンに言った。ワイリー・トンプソンと酋長は論争し始め、そして、クリンチ将軍は流血を防ぐために介入しなければならなかった。結局、8人の酋長は西部へ動くのに同意したが、年末までに移動を遅らせるように頼み、ワイリー・トンプソンとクリンチ将軍はそれに同意した。
 アラチュア・セミノール族のミカノピー族を含むセミノール族の最も重要な5人の酋長は、移動に同意していなかった。仕返しに、ワイリー・トンプソンは、それらの酋長が「彼らの地位から免職された。」と宣言した。セミノールとの関係はさらに悪化し、ワイリー・トンプソンはセミノール族に銃と弾薬の販売を禁じた。白人に注視され始めていた若い戦士のオセオラは、特に禁止令に憤慨し、セミノール族を奴隷と同一視されたように感じ、「白人は私を黒くできないだろう。私は白人を血で赤くして、太陽と雨で黒くして、ハゲタカはその肉で生きる。」と言った。これにも拘わらず、ワイリー・トンプソンは、「オセオラが友人である。」と考えて、ライフル銃を彼に与えた。もっとも、オセオラがその後問題を起こしていた時、ワイリー・トンプソンは一晩キング砦で彼を監禁した。翌日、彼の釈放を保証するため、オセオラはペインズ・ランディング条約を受け入れて、彼の追随者を引きつけるのに同意した。
 形勢はさらに悪化した。白人の一団は、キャンプファイアの周りに座っている何人かの先住民(アメリカ・インディアン)を強襲した。さらに2人のインディアンが襲撃の間に来て、白人に発砲した。3人の白人が負傷し、先住民(アメリカ・インディアン)側は1人が殺され、1人が負傷した。西暦1835年08月、ブルック砦からキング砦までの手紙を運んでいた兵士のキンズレー・ダルトンは、セミノール族によって殺された。11月、戦争を望まなかったチャーリー・エマスラ酋長は、彼の部族の構成員を船で西に行かせるために、ブルック砦に部族を導いた。これは裏切りであると他のセミノール族は考えた。オセオラは、街道でチャーリー・エマスラに会い、彼を殺した。



第2次セミノール戦争(西暦1835〜1842年)
 「セミノール族は移住に抵抗するであろう。」という認識が沁み込んだ時、フロリダは軍備を整え始めた。セミノール族が農園と民兵の幌馬車を攻撃した時、住民は安全に逃げた。フランシス・デイド少将指揮下の総計108人の2中隊が、キング砦を補強するためにブルック砦から派遣された。西暦1835年12月28日、セミノール族は兵士を要撃して司令系統を破壊した。2人の兵士だけがブルック砦に戻り、1人は数日後に負傷により死亡した。この後数ヶ月にわたって、クリンチ、ゲーンズ、ウィンフィールド・スコットらの司令官と、知事のリチャード・キース・コールは、多くの軍を率いてセミノール族を追跡したが無駄に終わった。そうこうしているうちにセミノール族は州全体で暴れ出し、孤立した農場、開拓地、農園、陸軍の要塞を攻撃し、ケープ・フロリダの灯台に放火までした。供給の問題と夏期に起こる高い確率の疾病のため、軍はいくつかの砦を捨てた。西暦1836年の終わり、トーマス・ジェサップ少将は戦争の指揮に配属された。トーマス・ジェサップは新しい戦術を戦争に齎した。セミノール族を力づくで押さえ込むために大きい縦隊を出す型通りの戦いの代わりに、彼はセミノール族を擦り減らすことに集中した。これはフロリダに大きな軍の駐留を必要とし、トーマス・ジェサップは結局、9000人以上の軍を指揮することになった。軍のおよそ半分は志願兵と民兵だった。それには、海岸、内陸河川、および小川を巡回させるために、海兵隊の旅団、海軍、徴税海上部隊の人員も含まれていた。西暦1837年01月、戦争に変化があった。様々な作戦によって、多くのセミノール族とブラック・セミノール族が殺され、捕らえられた。01月の終わり、数人のセミノール族の酋長がトーマス・ジェサップに使者を送り、休戦が整われた。03月に、「降伏」はミカノピー族を含む数人の酋長によって合意され、セミノール族が西部へ移住する際に、彼らの仲間と「彼らの黒人奴隷、彼らの誠実な特性」も同伴されることが規定された。05月の終わりまで、ミカノピーを含む多くの酋長が降伏した。しかし2人の重要な酋長、オセオラとサム・ジョーンズは降参せず、猛烈に移住に反対した。06月02日、彼ら2人の酋長は、およそ200人の追随者とともに、防備が不十分なブルック砦の捕虜収容所に侵入し、そこで降伏した700人のセミノール族を連れ去った。戦争は再び起こり、トーマス・ジェサップは2度と先住民(アメリカ・インディアン)の言葉を信じなかった。トーマス・ジェサップの命令で、コアクーチェ(ワイルドキャット)、オセオラ、およびミカノピーを含む数人の先住民(アメリカ・インディアン)の酋長は、彼らが休戦会議に出廷した時に捕らえられた。コアクーチェと他の多くの捕虜は、セントオーガスティンのマリオン砦の仲間たちによって逃げることができたが、オセオラ族は彼らと一緒に逃げなかった。トーマス・ジェサップは複数の縦隊による半島の一掃を組織化し、セミノール族はさらに南に追いやられた。西暦1837年のクリスマスの日、ザカリー・テイラー大佐の800人の縦隊は、オキーチョビー湖の北の岸で、およそ400人のセミノール族の大群に遭遇した。サム・ジョーンズ、アリゲーター、そして逃亡したばかりのコアクーチェが率いるセミノール族は、ソーグラス(カヤツリグサ科の植物)に囲まれたハンモックで良い位置についたが、セミノール族は結局ハンモックから追い出され、湖を渡って逃げた。それでもザカリー・テイラーの軍は、26人が殺され112人が負傷した。一方でセミノールの犠牲者は11人の死者、14人の負傷者であった。それにも拘わらず、このオキーチョビー湖の戦いは、ザカリー・テイラーと彼の軍隊の大勝利として迎えられた。01月の終わり、トーマス・ジェサップの軍はセミノール族の大集団をオキーチョビー湖の東まで追いつめた。セミノール族は当初ハンモックに陣取っていたが、砲撃によって彼らは広い小川の向こう側に退却し、そこで別の布陣を組んだ。最終的にセミノール族は退却し、多くの死傷者を出して、ロクサハッチーの戦いは終了した。西暦1838年02月、セミノール族の酋長のタスキギーとハレック・ハジョは、「彼らがオキーチョビー湖の南に滞在することができるなら休戦をしても良い。」という提案を持ってジェサップに接近した。トーマス・ジェサップはその考えを支持したが、承認のためには連邦政府に文書を書かなければならなかった。酋長と彼らの追随者は回答を待っている間、軍の近くに野営した。連邦の陸軍長官がこの考えを拒絶した時、トーマス・ジェサップは部落の500人のインディアンを取り押さえ、彼らを西部に送還した。
 05月、指揮の軽減を求めたトーマス・ジェサップの要求は承諾され、ザカリー・テイラーはフロリダの陸軍の司令を引き受けた。減少したフロリダの兵力とともに、ザカリー・テイラーは北フロリダ全域に、30km(20マイル)おきにたくさんの小さな杭を作り、北フロリダにセミノール族を進入させないようにすることに集中した。その冬はかなり静かであった。事件と小競り合いは引き続き起こったが、主要な動きはなにもなかった。ワシントンとアメリカ全土では、戦争を支援する考えが浸透していた。多くの人々が、「セミノール族がフロリダにいる権利を得た。」と思い始めていた。戦争は終わらず、費用も甚大だった。8代大統領マーティン・ヴァン・ビューレン(Martin Van Buren,、蘭語: Maarten Van Buren)は、セミノール族と新しい条約を交渉するため、陸軍総司令官のアレクサンダー・マコムを派遣した。西暦1839年05月19日、アレクサンダー・マコムは、「セミノール族との合意に達した。」と発表した。セミノール族は南フロリダでの居留地と引き換えに休戦することになった。
 西暦1839年の夏が過ぎた頃、協定は成立しているように思えた。07月23日、およそ150人の先住民(アメリカ・インディアン)がカルーサハチー川の上の交易所を攻撃した。警備していたのはウィリアム・S・ハーニー大佐率いる23人の分遣隊だった。ウィリアム・S・ハーニー大佐を含む数人の兵士が川に達して、逃げるための小舟を見つけることができたが、ほとんどの兵は交易場の数人の民間人とともに殺された。多くの人がこの攻撃を、「チャカイカ族が率いる『スペイン』の先住民(アメリカ・インディアン)によるもの。」と主張し、他の者は、実際にマコムとの合意に達したミカズキ族の一団を率いるサム・ジョーンズを疑った。サム・ジョーンズは、33日後に、この攻撃の責任者をウィリアム・S・ハーニーに引き渡すことを約束した。その時が来る前に、サム・ジョーンズの部落を訪問した2人の兵士が殺された。
 新しい戦術の試みとして、陸軍は先住民(アメリカ・インディアン)を追跡するために犬をブラッドハウンドに代えていたが、この成果は悪かった。テイラーが始めた北フロリダの防塞と巡回の制度は、セミノール族を活動的にしただけで、地域から彼らを追い出すことはできなかった。西暦1849年05月、以前の指揮官よりもずっと長い間フロリダ戦争に務めたザカリー・テイラーは、転勤の要求を承諾され、今度はウォーカー・キース・アーミステッド准将に引き継がれた。夏の間、活発に行動し、ウォーカー・キース・アーミステッドはすぐに好戦的になった。陸軍はセミノールの隠れ部落を求めて、草原を焼き払い、馬、牛、豚を追い払っていた。夏の半ばまでには、陸軍は500エーカーのセミノール族の耕作地を破壊していた。海軍は、川や小川、エバーグレーズの中で活躍する船員と海兵隊員が、戦争でより大きい役割を果たしていた。西暦1839年後半に、海軍中尉のジョン・T・マクラフリンは、フロリダで展開する陸海軍共同の水陸両用の軍の司令の職を与えられた。ジョン・T・マクラフリンはフロリダキーズ諸島)の北方のティー・テーブル・キーに基地を設立した。ジョン・T・マクラフリンの軍隊は、西暦1840年12月〜1841年01月の中旬まで移動し、丸木舟で東から西までエバーグレーズを交差して横断した最初の白人の一団となった。インディアン・キーはフロリダキーズ諸島北方の小島で、西暦1840年に新たに作られたデイド郡の郡都で、破損した港だった。西暦1840年08月07日早朝、「スペインの」先住民(アメリカ・インディアン)の大集団はインディアン・キーに潜入した。偶然、1人の男性が先住民(アメリカ・インディアン)を見つけ、警告した。島に住んでいたおよそ50人のうち、40人は逃げることができた。死者にはメキシコ合衆国(西暦1824〜1835、1846〜1864年)/メキシコ共和国(西暦1835〜1846年)のカンペーチェの元アメリカ合衆国領事、ヘンリー・ペリン博士が含まれていた。ヘンリー・ペリンは、議会が彼に与えた93㎢(36平方マイル)の本土の土地が安全になるまで、インディアン・キーで待機していたところだった。ティー・テーブル・キーの海軍基地には、医師と彼の患者、および彼らの世話をする海軍少尉候補生以下の5人の船員しか配置されていなかった。このわずかな派遣団は、艀舟に一連の大砲を取り付けて、インディアン・キーの先住民(アメリカ・インディアン)を攻撃しようとした。先住民(アメリカ・インディアン)は船員に向かって、海岸の大砲に装填されたマスケット弾で撃ち返した。大砲の跳ね返りで艀舟は壊れ、大砲は水の中に入り、船員たちは後退を余儀なくされた。徹底的な掠奪の後、先住民(アメリカ・インディアン)はインディアン・キーの建物を燃やした。西暦1840年12月、90人の兵士を率いるウィリアム・S・ハーニー大佐は、エバーグレースの奥深くで、チャカイカ族の部落を発見した。チャカイカ族は殺され、彼の一団の兵士の何人かは絞首刑にされた。
 ウォーカー・キース・アーミステッドは、酋長を降参させる賄賂に使用するための5万5000USドルを持っていた。タラハシー族の酋長、エコー・エマスラは降参したが、タイガー・テイルが率いるほとんどのタラハシー族は降参しなかった。コーサ・トゥステヌギーは、彼の60人の一団を助けるため、最終的に5000USドルを受けいれた。より少ない酋長たちは200USドルを受け取り、そして、全ての戦士が30USドルとライフル銃を手に入れた。西暦1841年春、ウォーカー・キース・アーミステッドは450人のセミノール族を西部に輸送した。別の236人はブルック砦で輸送されるのを待っていた。ウォーカー・キース・アーミステッドは「彼の終身在職の間に、120人の戦士を西部に送り、フロリダに残っていたのは300人未満の戦士である。」と見積もった。
 西暦1841年05月、フロリダの陸軍指揮官として、ウォーカー・キース・アーミステッドからウィリアム・ジェンキンズ・ワース大佐に代わった。国と議会でこの戦争は不人気であったので、ウィリアム・ジェンキンズ・ワースは予算を削らなければならなかった。陸軍のおよそ1000人の民間からの雇用兵を解雇し、小さい司令系統は統合された。ウィリアム・ジェンキンズ・ワースは夏の間、「探査と破壊」という任務を彼の兵士たちに命じて、それは事実上、北フロリダに残っていた多くのセミノール族を退去させた。陸軍によって加えられた圧力の継続は効果的だった。セミノール族の一団の中には、飢餓を避けるために降伏する者も出た。2回目のコアクーチェを含む他の者は、交渉するために来た際に捕らえられた。大きな賄賂は、他の者に降伏を説得するコアクーチェの協力を保証した。西暦1842年初め、ウィリアム・ジェンキンズ・ワース大佐は残っているセミノール族に平和のままでいることを勧めて、その後彼は終戦を宣告する承認を受け、残っているセミノール族をフロリダ南西部の非公式の居留地に残したまま、西暦1842年08月14日に終戦宣言をした。同月、議会は武力占領条例を可決した。それは、土地を開墾する移住者には無料の土地を与え、彼ら自身が先住民(アメリカ・インディアン)から身を守ることが準備された。西暦1842年の終わりには、フロリダ南西部の居留地以外に居住する残りの先住民(アメリカ・インディアン)を集め、西部に輸送した。西暦1843年04月までに、フロリダでの軍は1聯隊にまで減少した。西暦1843年11月までに、ウィリアム・ジェンキンズ・ワースは、「フロリダに残っている唯一の先住民(アメリカ・インディアン)は、居留地で生活するおよそ95人の男性と、およそ200人の女性と子供であり、彼らは既に脅威ではない。」と報告した。
 第2次セミノール戦争は最大4000万ドル掛かったと言われている。4万人以上の正規のアメリカ軍、民兵、および志願兵が従軍した。軍事行動中、300人以上の正規アメリカ陸軍、海軍、および海兵隊の人員が、55人の志願兵と共に殺された。そしてそれ以上の人数が、疾病または事故で死亡した。セミノール族の戦死者の数に関する記録は全くない。多くのセミノール族が病気か飢餓のために、フロリダで、西部の先住民(アメリカ・インディアン)居留地に行く途中に、あるいは西部に到達してから死亡した。戦争中、数は不明ではあるが、明らかにかなりの数の白人の民間人が、セミノール族によって殺された。
 フロリダに平和がやってきた。先住民(アメリカ・インディアン)はほとんどは居留地に滞在していた。不法入居者は、居留地のより近くに移りつつあり、西暦1845年、ジェームズ・ポーク大統領は、居留地の周りの20マイル(30q)に広い緩衝地域を設けた。緩衝地域の中では、土地を要求することができず、土地所有権は発行されず、連邦保安官は要求を受けて、緩衝地域から不法入居者を退去させることになった。西暦1845年、ブルック砦で商店を経営していたトーマス・P・ケネディは、先住民(アメリカ・インディアン)のためにパイン島の彼の漁区を交易所に変えた。しかし交易所は順調ではなく、なぜなら先住民(アメリカ・インディアン)にウイスキーを販売した白人たちが、「彼らがケネディの店に行けば、捕らえられ西部に送られる。」と言ったためであった。フロリダ当局は、フロリダから全ての先住民(アメリカ・インディアン)の退去をうるさく求め続けた。一部の先住民(アメリカ・インディアン)は、白人との接触をできるだけ制限しようとした。西暦1846年、ジョン・T・スプラグ大尉は、フロリダの先住民(アメリカ・インディアン)問題の担当として配置された。酋長らと彼が会う際に、彼は大きな問題を抱えていた。休戦中でもしばしば酋長を捕らえていたので、先住民(アメリカ・インディアン)は陸軍を全く信用していなかった。西暦1847年、彼は農場の襲撃の報告を調査している間に、何とかして酋長全員に会った。彼は、「フロリダの先住民(アメリカ・インディアン)は120人の戦士がいる。」と報告した。それらは、「ビリー・ボウレグスの一団に70人、サム・ジョーンズの一団に30人のミカズキ族、チプコの一団に12人のクリーク族(マスコギ語を話す)、4人のユチ族、および4人のチョクトー族を含んでいた。また、彼は、100人の女性と140人の子供がいた。」と見積もった。パイン島の交易所は西暦1848年に全焼し、そして1849年、トーマス・ケネディと彼の新しいパートナー、ジョン・ダーリングは、ピース川の支流である現在のパインズ・クリークに、交易所を開く許可を与えられた。このとき、先住民(アメリカ・インディアン)の1つの集団が居留地の外で暮らしていた。「アウトサイダーズ」と呼ばれるこの集団は、チプコ族の統率の下に、20人の戦士から成っていて、5人のマスコギ族、7人のミカズキ族、6人のセミノール、1人のクリーク族、および1人のユチ族を含んでいた。西暦1849年07月12日に、この一団の4人の構成員がピアス砦のすぐ北のインディアン川で農場を攻撃し、1人の男性を殺して、別の男性と女性を負傷させた。この襲撃に関する報道で、フロリダの東海岸の人口の多くがセントオーガスティンに逃げた。07月17日に、インディアン川で農場を攻撃した4人の「部外者」、およびインディアン川にいなかった5番目の男性は、ケネディとダーリングの店を攻撃した。ペイン大尉を含む店の2人の労働者が殺され、彼らの子供に隠れているように保護していた別の労働者と彼の妻は負傷した。
 アメリカ合衆国陸軍は先住民(アメリカ・インディアン)を従事させる準備がなかった。フロリダにはわずかな兵士しか配置しておらず、彼らが白人入植者を保護して先住民(アメリカ・インディアン)を捕らえることができた場所に素早く彼らを動かす手段は1つもなかった。戦争省はフロリダで新しい増強を始めた。司令官にデヴィッド・E・トゥイッグス少将を配置し、フロリダ州は入植地を警備するために2つの騎馬中隊を召集した。先住民(アメリカ・インディアン)を西部に移動させるよう努めていたジョン・ケーシー大尉は、シャーロット港でトゥイッグス司令官と先住民(アメリカ・インディアン)の酋長数人との会合を設定することができた。その会合でビリー・ボウレグスは、他の酋長の承認をもって、30日以内に攻撃に責任がある5人の男性を陸軍に引き渡すことを約束した。10月18日、ビリー・ボウレグスは、逃亡しようとした時に断ち切られた1人の男性の手と共に、3人の男性をデヴィッド・E・トゥイッグスに引き渡した。5番目の男性は捕らえたが逃げた。ビリー・ボウレグスが3人の殺人者を引き渡した後、先住民(アメリカ・インディアン)が驚いたことに、デヴィッド・E・トゥイッグス司令官は、フロリダから彼らを退去させるよう命令されていたと先住民(アメリカ・インディアン)に言った。政府は、強制移住を実行するために3つの戦術を適用した。フロリダの陸軍は1500人に増加した。10万USドルは、先住民(アメリカ・インディアン)の移住を贈賄するために当てられた。最終的に、セミノール族の酋長の代表団が、フロリダの彼らの対応者と交渉するためにインディアン準州から連れて来られた。結局、ミカズキ族の副酋長のカピクトゥースーツェは、彼の親族を西部へ導くことに同意した。西暦1850年02月、74人の先住民(アメリカ・インディアン)が船でニューオリンズへ向かった。彼らは賄賂で合計1万5953USドルと、フロリダに残された件での補償金が支払われた。その後、関係を悪い方にさせた2、3の事件があった。カピクトゥースーツェと彼の団が降伏していた時に、同時に交易に行っていたマスコーギ族とミカズキ族は、不本意にニューオリンズに追放された。そうして03月に、第7歩兵隊の騎馬分遣隊は居留地に入った。その結果、他の先住民(アメリカ・インディアン)は交渉者との接触を断った。04月までには、デヴィッド・E・トゥイッグス司令官は、「先住民(アメリカ・インディアン)にこれ以上西部に移住することを説得する望みは全くない。」とワシントンに報告していた。
 西暦1850年08月、フロリダ中北部の農場で生活する親のない少年が、明らかに先住民(アメリカ・インディアン)によって殺された。最終的に、事件に関する十分な苦情は、加害者の先住民(アメリカ・インディアン)の引き渡しの命令を陸軍長官に引き起こすべく、または大統領が部族全体に責任を負わせるべく、ワシントンに届いた。ジョン・ケーシー大尉はビリー・ボウレグスと話し、04月に会合を設定することができた。ビリー・ボウレグスは、「責任がある男を渡す。」と約束したが、彼らは明らかにチプコ族の一団の構成員で、ビリー・ボウレグスはそれについて権限を全く持っていなかった。チプコ族は、「可能な殺人者として3人の男を引き渡す。」と決め、そして、マイアーズ砦で取り引きするために現れた時、逮捕された。身柄を拘束した時に、3人の男は無実を訴え、「チプコ族が彼らを好きではなく、チプコ族の一団の他の男が実際の殺人者であると、」言い、ジョン・ケーシー大尉はそれを信用した。3人の男性は、タンパの刑務所から逃亡しようとしたが、捕らえられ、鎖で繋がれた。後に彼らは首を吊っているのが発見された。1人は発見時にまだ生きていたが翌日までもたなかった。村では、3人の男を鎖で繋いだ巡査は、西暦1849年のパインズ・クリークの虐殺の時、ケネディとダーリングの店で殺された男の1人の兄弟の義父であった。
 西暦1851年、ルター・ブレーク将軍は、先住民(アメリカ・インディアン)を西に動かすため、内務長官に任命された。彼は、ジョージアからチェロキー族を追い出すことに成功しており、恐らくセミノール族を追い出す仕事を回ってきた。彼には、賃金へ全ての成人男子に800USドル、全ての女性と子供に450USドルの報酬を用意していた。彼は、通訳を探しにインディアン準州に行き、西暦1852年03月にフロリダに戻った。彼は先住民(アメリカ・インディアン)の全ての酋長に会うために遠く草原に入って、07月までには16人の先住民(アメリカ・インディアン)を西部に送った。ビリー・ボウレグスがフロリダにしつこく居座っていたので、ルター・ブレークはビリー・ボウレグスと他の数人の酋長をワシントンに連れて行った。ミラード・フィルモア大統領は勲章をビリー・ボウレグスに与え、そして、彼と他の3人の酋長がフロリダを去るために有望な協定に調印するように説得した。酋長たちは、ボルチモア、フィラデルフィア、ニューヨークシティなどを観光させられた。フロリダに戻ると酋長らは、彼らがワシントンで調印した協定を拒否した。ルター・ブレークは西暦1853年に解雇され、代わってジョン・ケーシー大尉が先住民(アメリカ・インディアン)の強制移住を担当するために戻ってきた。西暦1851年01月に、フロリダ立法府はフロリダ民兵の指揮官の地位を新設し、トーマス・ブラウン知事はベンジャミン・ホプキンスをそれに任命した。次の2年間、フロリダ民兵は居留地境界の外にいた先住民(アメリカ・インディアン)を追跡した。この期間、民兵は1人の男性、数人の女性、および140匹の豚を捕らえた。民兵に捕まっている間に、1人の年老いた先住民(アメリカ・インディアン)の女性が、彼女の家族の残りが逃げた後に自殺した。フロリダ州は、全体の作戦に4万USドルを費やした。フロリダ当局からの圧力は、さらに一度、行動を迫るために連邦政府に圧力を掛けた。ジョン・ケーシー大尉は、西部に動くようにセミノール族を説得しようとし続けたが、運が悪かった。彼は再びビリー・ボウレグスと他の者をワシントンに送ったが、酋長は、移住に同意するのを拒否した。
西暦1854年08月、ジェファーソン・デイヴィス陸軍長官は、最終的な闘争にセミノール族を向かわせる計画を新たに立てた。計画は、先住民(アメリカ・インディアン)との禁輸措置、南フロリダの土地の調査と販売、そして新しい入植者を保護するための陸軍の配置を含んでいた。ジェファーソン・デイヴィスは、「先住民(アメリカ・インディアン)が去ることに同意しないのなら、陸軍が武力行使する。」と言った。




第3次セミノール戦争(西暦1855〜1858年)
 西暦1855年後半までには、フロリダ半島に配置された700以上の陸軍部隊があった。その頃、セミノール族は彼らに対して増加する圧力に逆襲することを決め、機会が到来した時には攻撃することを決めた。「サム・ジョーンズはこの決定の扇動者であった。」と言われていて、チプコ族はそれに反対していたと言われる。西暦1855年12月07日、以前に居留地の巡視隊を率いたジョージ・ハートサフ少尉は、10人の兵士と2台の馬車とともにマイヤーズ砦を出発した。彼らはセミノール族に遭遇しなかったが、トウモロコシ畑とビリー・ボウレグスの村を含む3つの寂れた村を通り過ぎた。12月19日の晩、ハートサフは、その翌日にはマイヤーズ砦に戻ることを彼の兵士に告げた。兵士が翌朝(12月20日)に馬車に積み込んで、それらの馬に鞍を置いていたとき、ビリー・ボウレグスによって導かれた40人のセミノール族が宿営を攻撃した。隠れようとしたハートサフ中尉を含む数名の兵士が撃たれた。セミノール族は宿営の4人の兵士を殺して頭皮を剥ぎ、馬車用の騾馬を殺して掠奪し、馬車を燃やして、数頭の馬を盗んだ。7人の男性(うち4人は負傷)は、マイヤーズ砦に引き返した。
 この攻撃の情報がタンパに達したとき、都市の人々は民兵の将官を選出して、中隊を組んだ。新たに形成された民兵は、ピース川流域を行進して、より多くの兵士を募集して、川に沿ったいくつかの砦に配置した。ジェームス・ブルーム知事は、できるだけ多くの志願兵中隊を組織化し始めた。州には限られた資金があったので、彼は陸軍に志願兵を受け入れさせようとした。ジェファーソン・デイヴィス陸軍長官は、2つの歩兵中隊を受け入れ、そして、およそ260人の兵士の3つの騎馬中隊に増強した。ブルーム知事は、国家の管理下に別の400人の兵士を動員しておいた。個人の寄付により、州の軍(陸軍によって受け入れられたものと国家の管理下に残っているものの両方)は一部武装して供給された。ジェシー・カーター司令官は、州の軍を率いるために「軍事の階級のない特別な要員」としてブルーム知事によって任命された。ジェシー・カーターが作物を栽培に州の軍の半分を動員したので、彼の唯一の200人男性が巡視に利用可能だった。騎馬巡視隊は、馬で行くのが簡単な、「広々とした平野を巡回することを好んだが、しかしそれはセミノールたちに彼らが来ることを分からせた。」とタンパの新聞は記事にした。
 西暦1856年01月06日、ザミアをマイアミ川の南に集めていた2人の男性が殺された。地域の入植者たちは、即座にダラス砦とキー・ビスケインに逃げた。オクセン・タステナッギーの下のおよそ20人のセミノール族の一団は、ディナウド砦の外で木々を伐採していた巡視隊を攻撃して、6人のうちの5人を殺した。地域を防御するための民兵の配置があったにもかかわらず、セミノール族はまたタンパ湾の南の海岸に沿って強襲した。彼らは現在のサラソータで1人の男性を殺して家を燃やし、西暦1856年03月31日に彼らは、現在のブレイデントンにある、ジョゼフ・ブレーデン博士の農園の家である「ブレーデン城」を攻撃しようとした。彼らにとって「城」は強過ぎたが、彼らは7人の奴隷と3頭の騾馬を連れ去った。囚人と戦利品を背負い込んで、セミノール族は速く動けなかった。彼らが見つけて屠殺した牛の肉を焼いて食べながらビッグ・チャーリー・アポプカ・クリークで休止していた間、民兵が追いついた。民兵は、2人のセミノール族を殺して、ブレーデン博士の農園から連れて行かれた奴隷と騾馬を再び捕らえた。死んだセミノール族の1人の頭皮はタンパに、もう1人の頭皮はマナティに掲示された。
 04月に、正規軍と民兵は、居留地の中と周辺を巡回したが、少しのセミノール族にしか接触しなかった。04月、6時間にわたる一戦がボウレグス・タウン近くで交えられ、セミノール族が撤退する前に4人の正規兵が殺され、3人が負傷した。セミノール族は、州の至るところで小さい襲撃を実行し続けた。1856年5月14日、15人のセミノール族がタンパの北のロバート・ブラッドリー大尉の農家を攻撃して、2人の幼い子供を殺した。1人のセミノール族はロバート・ブラッドリーによって殺害された。第2次セミノール戦争の時に、彼がタイガー・テイルの兄弟を殺していたので、ロバート・ブラッドリーはセミノール族の報復の対象とされたと見られる。05月17日、セミノール族はフロリダ中部で幌馬車の一団を攻撃して、3人の男性を殺した。軍が保護を提供することができるまで、タンパ発着の郵便と駅馬車の営業は中断した。

 西暦1856年06月14日、セミノール族はミード砦から2マイル(3q)離れたところの農場を攻撃した。全ての世帯が家で安全にしていたので、彼らはセミノール族を寄せ付けなかった。ミード砦へ砲火が聞かれ、7人の騎馬民兵がこれに応じた。3人の民兵が殺されて、他の2人が負傷した。これまで以上の多くの民兵がセミノール族を追跡したが、突然の雨が彼らの火薬を濡らして、後退しなければならなかった。06月16日、フレーザー砦の20人の民兵がピース川に沿ってセミノール族の集団を驚かせ、数人のセミノール族を殺した。2人の死者と3人の負傷者を出した後に、民兵は撤退した。彼らは「20人以上のセミノール族を殺した、」と主張したが、先住民(アメリカ・インディアン)は4人の死者と2人の負傷者だけを確認した。しかし、死者の1人はオクセン・タステナッギーであり、オクセン・タステナッギーは活発に入植地に対して攻撃を導く唯一の酋長と見られていた。
 フロリダの市民は民兵に幻滅するようになった。民兵は1日か2日間巡視して、彼らの農場で働くために家に帰ること、そして彼らの怠慢、酩酊、および盗みに関する苦情があった。「職員が必要な文書業務を提出するのは不本意である。」と報告された。最も重要な点では、民兵は入植者への攻撃を防いでいなかった。
 西暦1856年09月、ウィリアム・S・ハーニー准将は連邦軍の指揮官としてフロリダに戻った。彼は第2次セミノール戦争で学んだ教訓を覚えていて、フロリダ中に並べた砦のシステムを設置し、巡回はセミノール族の領土深くに移動した。彼は、「セミノール族をビッグ・サイプレス・スワンプとエバーグレーズに制限することを計画していて、彼らは雨季の間そこに住むことができない。」と信じていた。「彼らが水浸しになった土地から作物が育つ乾いた土地に移動した時、先住民(アメリカ・インディアン)を捕らえることができる。」と予期した。ウィリアム・S・ハーニーの計画の一部は、湿地帯の島と他の乾いた地点に到達するために小舟の使用を伴った。彼は、最初に、セミノール族と交渉するもうひとつの試みをしたが、彼らに接触することができなかった。西暦1857年01月上旬、彼は、活発にインディアンを追跡するように軍に命令した。しかし04月に、ウィリアム・S・ハーニーの計画は、カンザス州での暴動を救うために彼と第5歩兵隊がカンザスに移動する時まで、わずかな結果しか示していなかった。ガスタウス・ルーミス大佐は、フロリダでウィリアム・S・ハーニー司令官の後任の指揮官となったが、第5歩兵隊の退出は、彼に第4砲兵隊の10の中隊だけを残した(第4砲兵隊は後でちょうど4つの中隊にまで減少した)。ガスタウス・ルーミスは、ボート中隊で志願兵を組織し、特にビッグ・サイプレス・スワンプとエバーグレーズで使用するために、建造されていた金属製の「アリゲーター・ボート」はこの中隊に与えられた。両端からの全長は30フィート(9m)で、最大16人の兵士を湿地帯の中に乗せることが可能だった。これらのボート中隊は、多くの先住民(アメリカ・インディアン)、主として女性、および子供を捕らえることができた。正規軍はうまくいかなかった。アブナー・ダブルデー大尉を含む将官の中には、セミノール族が容易に陸軍巡視を避けたのを見た者もいた。アブナー・ダブルデーは、これを「下士官兵の大部分が森林における技能を全く持っていなかった最近の入植者であった。」という事実の結果と考えた。
 西暦1857年に、フロリダ民兵の10個の中隊は、09月までに合計およそ800人の兵士が連邦の任務に連れていかれた。11月、これらの軍は、ビリー・ボウレグスの一団の18人の女性と子供を捕らえた。また、軍は、発見されたいくつかの町と耕作地を破壊した。軍は西暦1858年の元日に、ビッグ・サイプレス・スワンプに移り始め、再び発見した町と耕作地を破壊した。インディアン準州からの別の代表団は、01月にフロリダに到着して、ビリー・ボウレグスに連絡することを試み、連絡が取れた時に軍は撤退した。前年に、最終的にインディアン準州に、クリーク族とは別々の彼ら自身の居留地をセミノール族に与えた。それぞれの戦士に500USドル(酋長はそれ以上)、各女性には100USドルの現金の支払いが約束された。03月15日に、ビリー・ボウレグスとアッシンワーの一団は申し出を受け入れ、西部へ行くことに同意した。05月04日、合計163人のセミノール族(早く捕らえられた者を含む)を、ニューオリンズに送還した。西暦1858年05月08日に、ガスタウス・ルーミス大佐は、「戦争は終結した。」と宣言した。ガスタウス・ルーミス大佐が第3次セミノール戦争の終わりを申告したとき、100人のセミノール族だけがフロリダに残っていたと信じられていた。西暦1858年12月、残っている先住民(アメリカ・インディアン)を西部へ動かすための別の試みをした。西暦1859年02月15日、合計して75人のセミノール族の2つの一団が西部に出発した。しかし、まだ、セミノール族はフロリダにいた。サム・ジョーンズの一団は、フロリダ南東部に、マイアミとフォートローダーデールからの内陸部で生きていた。陸軍と民兵はその場所を見つけていなかったが、チプコ族の一団はオキーチョビー湖の北に住んでいた。個々の家族は、南フロリダの沼沢地の向こう側に点在していた。
 戦争が公式に終わって、残っているセミノール族が静かなままであったので、民兵は家に帰り、正規の陸軍部隊を再編成した。セミノール戦争によって造られた砦の全てが使用を中止され、何か使用可能な材料は、入植者たちによってすぐに剥ぎ取られた。西暦1862年、フロリダ州は、南北戦争(西暦1861〜1865年)でセミノール族たちを中立に保たせようと試み、援助の約束するためサム・ジョーンズに連絡した。フロリダ州は約束を最後までやり通さなかったが、セミノール族は別の戦争で戦うことに興味がなかった。西暦1868年のフロリダ憲法は、州下院に1議席、州上院に1議席をセミノール族に与えたが、セミノール族はその地位に就くことはなく、西暦1885年の議会でこれらの部分を削除した。









ブルボン朝(仏語: dynastie des Bourbons、西暦1589〜1792、1814〜1830年)、オルレアン朝(仏語: dynastie d'Orléans、西暦1830〜1848年) その3

 フランス絶対主義はルイ13世賢明王の時代に宰相リシュリュー(枢機卿リシュリュー公アルマン・ジャン・デュ・プレシー(Armand Jean du Plessis, cardinal et duc de Richelieu))によって確立され、ルイ16世の時代に終わった。しかし、この絶対主義は、必ずしも国王個人が絶対的な権力を持っていたわけではなく、国王はフランスの領土の5分の1の最大の領主だが、あくまで領主の1人で最大の領主であっただけに過ぎない。絶対王政で国王が権力を行使できない場合も多く、国王を立てて絶対的な権力を行使したのは、宰相リシュリューや宰相マザラン(枢機卿ジュール・マザラン(仏語: Jules Mazarin, cardinal、ジュリオ・マッツァリーノ(伊語: Giulio Mazarino)またはジュリオ・マザリーニ(伊語: Giulio Mazarini)、ユリウス・ライムンドゥス・マザリヌス(羅語: Iulius Raimundus Mazarinus)からジュール・レーモン・マザラン)などの一群の大領主だった。この時代に王権を動かしていた大領主の一団は宮廷貴族と呼ばれ、約4000家あった。宮廷貴族の地位は家柄で少なくとも西暦1400年代のヴァロワ朝(西暦1328〜1498年)にまで遡って、貴族の家系であることが証明されなければならなかった、宮廷貴族の上層は家柄の力で高級官僚に若い頃から任命された。11歳や12歳の宮廷貴族が総督に任命されることが珍しくなかった。
 宮廷貴族は収入を得るために高級官職を独占していた。当時の官職収入は桁違いに大きく、しかも正規の俸給よりも役得や職権乱用から上がる収入の方が多かった。これらの役得は当然の権利とされていた。このため4000家の宮廷貴族はその大小の官職によって国家財政の大半を懐に入れていた。例えばブルボン・コンデ公ルイ5世ジョゼフ(Louis V Joseph de Bourbon-Condé)の総督職は合計51万2000リーブルの年収になった。これは現在の換算で62億円以上に相当する。また大臣になると就任費を受け取る権利があり、高級官僚の収入は数億円から数十億円に相当するものになった。当時、標準的な職人、労働者の日給が1リーブル前後であった。年収では360リーブル前後となる。1リーブルは1.2万円前後。1万リーブルは1.2億円程度と考えられる。これらの官職の中には無用な官職も多く、例えば、王の部屋に仕える小姓の官職だけに8万リーブル(約9.6億円)が支払われていた。これらの小姓は家柄の低い宮廷貴族や、高級貴族の年少の子弟がなった。その官職には、王の髪を梳くだけの係、マントを持つ係、ステッキを持つ係、便器を運ぶ係、ネクタイを結ぶ係、風呂場で拭く係、王の居間の犬を監督する係など多くの係を作って、それぞれに俸給を与えていた。その高い俸給と副収入が貴族の収入となっていた。
 また、国家予算の十分の一を占める年金支払いは、退職した兵士や将校にも支払われていたが、その年金額には大きな格差があり、退職した大臣や元帥といった宮廷貴族には巨額の年金が支払われた。さらに王が個人的に使用できる秘密の予算もあり「赤帳簿」と呼ばれた。宮廷貴族は夫人を使って大臣、王妃、国王の所にいろいろな理由を付けて金を取りに行かせた。例えば王妃マリー・アントワネット・ジョゼフ・ジャンヌ・ド・アプスブール・ロレーヌ(Marie-Antoinette-Josèphe-Jeanne de Habsbourg-Lorraine、またはマリー・アントワネット・ドートリッシュ(Marie-Antoinette d'Autriche、マリア・アントーニア・ヨーゼファ・ヨハンナ(独語: Maria Antonia Josepha Johanna)))の寵臣、ランバル公爵夫人マリー・テレーズ・ルイーズ・ド・サヴォワ・カリニャン(Marie-Thérèse-Louise de Savoie-Carignan, Princesse de Lamballe)は王妃マリー・アントワネット付き女官長となり、彼女の父4代カリニャーノ公ルイージ・ヴィットーリオ・ディ・サヴォイア・カリニャーノ(Luigi Vittorio di Savoia-Carignano)には国王ルイ16世から3万リーブルの年金と1個聯隊が与えられた。ポリニャック公爵夫人ヨランド・マルティーヌ・ガブリエル・ド・ポラストロン(Yolande Martine Gabrielle de Polastron, comtesse puis duchesse de Polignac, marquise de Mancini)は長女アグラエ・ルイーズ・フランソワーズ・ガブリエル・ド・ポリニャック(Aglaé Louise Françoise Gabrielle de Polignac,、通称: ギシェット(Guichette))の持参金に80万リーブルを国王ルイ16世から貰った。これらは宮廷貴族による国庫掠奪であった。
 ルイ15世最愛王は「朕の宮殿での盗みは莫大なものだ。多くの高官が盗みに没頭し、全てを使い果たしている。朕の大臣の全てがそれを正そうと努めた。しかし、実施の段階で尻込みして計画を放棄した。」と述べている。国王が臣下の宮廷貴族たちを泥棒呼ばわりしている。これを打ち切ろうとすると宮廷貴族の反撃に遭った。フランス革命は国庫の破綻を引き金にして引き起こされた。国庫の赤字を作り出したものはこのような宮廷貴族の国庫掠奪であった。
ところが、このような不合理な支出が当時の宮廷貴族にとっては正当な権利と思われていた。その権力を守るために宮廷貴族たちは行政、軍事を含めた国家権力の上層部分を残らず押さえていた。宮廷貴族から見ると国家財政を健全化するために無駄な出費を削ろうとする行為は、宮廷貴族の誰かの収入を削ることになり、その権利を取り上げることは悪政と見えた。この場合国王個人や少数の改革派の意志は問題にならず、宮廷貴族の集団的な利益が問題となった。このように宮廷貴族は当時のフランス最強の集団であり、革命無しにはこれらの宮廷貴族の特権を奪うことはできなかった。
 宮廷貴族の中にはオルレアン公ルイ・フィリップ2世ジョゼフ(Louis Philippe II Joseph, duc de Chartres, puis duc d'Orléans)、ラ・ファイエット侯など反体制派の一派がいた。彼らは宮廷内部の権力争奪戦で敗者になり、日陰の存在であった。そのため進歩的な発言をするようになった。彼らの大多数は官職収入の比重が少なく、自分の領地からの収入の比重が多かった。このため王に頼るところが少なかったため、王に服従せず自由主義派になった。彼らは宮廷貴族の反主流派だった。
 宮廷貴族は行政と軍事の実権を握っていたが、司法権は法服貴族に明け渡していた。法服貴族の中心は各地の高等法院(パルルマン)であり、パリ高等法院が最も強力であった。法律に相当するものは王の勅令として出され、これをパリ高等法院が登録することで効力が発生した。しかし国王の命令はほとんどの場合絶対であり、ときどき高等法院が抵抗運動を起こして王の命令を拒否したり、修正したりすることに成功しただけであった。そのため立法権は宮廷貴族を含めた王権に属していた。法服貴族の官職は官職売買の制度によって買い取らなければならず、売買代金を王が手に入れた。高等法院議長の職が11万リーブル、検事次長の職が4万リーブル。彼らのほとんどはブルジョアジー(bourgeoisie、有産階級、資本家階級)の上層から来た。司法官の職を買い入れると同時に領地も買い入れ、貴族の資格を買った。法服貴族は宮廷貴族に比べると特権階級ではなく、領地の経営と官職収入で財産を作った。彼らは支配者の中の野党的存在であった。
 フランス絶対主義下では商業貴族と呼ばれた貴族の一団があった。これらは商業や工業を経営して成功し、貴族に列せられた者たちでブルジョア貴族と呼べる者たちであった。この商業貴族にはせいぜい減免税の特権しかなかったが、商人や工業家にとっては社会的な名誉であった。国王は商工業を振興するという建前から、王権の側はこれに対していろいろな政策を取った。商業貴族は「貴族に列っせられた者」と呼ばれ貴族社会では成り上がり者と見做された。しかし貧乏な地方貴族よりは、はるかに経済力があった。これらの商業貴族の多くは地方行政の高級官僚となっていた。ブルジョアジーには徴税請負人という一団も存在した。フランス王国では間接税の徴収を徴税請負人に任せた。その徴税の仕方は極めて厳しく、租税の滞納者は簡単に逮捕され、脱税のための密売の嫌疑が掛けられるだけで有罪とされ、無罪が証明されなければ釈放されなかった。そのため、多くの商工業者やその妻子が厳しい刑罰を受け、背中を鞭打たれることは珍しくなかった。小市民から大商人に至るまで恨みを買っていた。徴税請負人は封建制度への寄生的性格の最も強い存在であった。徴税請負人は工業、商業の経営や技術の進歩に大きな役割を果たした者が多かったので、本来はブルジョアジーに属する。しかし、王権の手先として商業そのものを抑圧する立場にもあった。そこで商人が徴税請負人を敵と見做すことが多かった。徴税請負人は国家と直接契約することはできず、1人の貴族が代表して政府と契約した。貴族はその報酬として年金を受け取った。全ては貴族の名において行われ、徴税組合には貴族が寄生していた。恐怖政治の時代に28人の徴税請負人がギロチンに掛けられた。その中には化学者として高名だったアントワーヌ・ローラン・ド・ラヴォアジエ(Antoine-Laurent de Lavoisier)もいた。アントワーヌ・ローラン・ド・ラヴォアジエは総徴税請負人の利益が年間4万〜5万リーブル(約5〜6億円)になった。
 銀行家や商人、工業家たちは当時のフランスではブルジョアジーと呼ばれたが、上層ブルジョアジーに属する者には貴族に匹敵する個人財産を持つ者も現れた。しかし彼らはいろいろな方法で宮廷貴族に利益の一部を吸い取られ、国王政府の食い物にされた。ケース・デスコント(割引箱、Caisse d'escompte)はフランス王立銀行で金庫に相当する民間が出資する特殊法人。元はルイ15世最愛王時代の財務総監ジョン・ロー(仏: John Law de Lauriston)が開設したジェネラール銀行で、その破産によって王立となった。その後、財務総監ローヌ男爵アンヌ・ロベール・ジャック・テュルゴー(Anne-Robert-Jacques Turgot, Baron de Laune)に引き継がれ、ブルジョアジーの中央銀行であったが、ブルジョアジーが出資した資本金を国王政府が財政赤字を理由に強制的に借り入れた。そこで準備金は減少し、ケース・デンスコントの信用は落ち、銀行の発行する紙幣の流通が困難になった。これも革命を引き起こした原因となった。ブルジョアジーは宮廷貴族の被支配者であった。
 フランス絶対主義の時代には貴族や高級僧侶は領地のほとんどを持ち、経済的に強力な基礎を持っていた。全国の土地が大小様々な領地に分かれていて、領地は直轄地と保有地に分けられ、直轄地は領主の城や館を取り巻いていた。それ以外の土地は保有地として農民や商人、工業家、銀行家などに貸し与えた。それらの土地の保有者は領主に4分の1から20分の1までの貢租を支払った。その土地を売買するときは領主の許可が必要で、許可料を不動産売買税として支払わなければならなかった。ブルジョアジーの中には農村に土地を保有して地主となった者もいたが、この場合も領主権に服し、貢租を領主に支払っていた。農民で領主であった者は1人もいなかった。農民やブルジョア地主は領主に貢租を支払いながら、国王には租税を払うという二重取りに遭っていた。
 絶対主義下では、国民は3つの身分に分けられており、第一身分である聖職者が14万人、第二身分である貴族が40万人、第三身分である平民が2600万人いた。第一身分と第二身分には年金支給と免税特権が認められていた。


ブルボン・オルレアン家

ルイ14世太陽王は叔父オルレアン公ガストンが死去しオルレアン家が断絶すると、代わって次弟の女装好き男色家のフィリップ1世にオルレアン公位を授けた。フィリップの家系をブルボン・オルレアン家、あるいは単にオルレアン家と呼ぶ。6代オルレアン公ルイ・フィリップ3世は西暦1830年の7月革命で復古ブルボン朝が倒れた後「フランス人の王ルイ・フィリップ」として即位したが、西暦1848年の2月革命で王位を追われた。


ブルボン・オルレアン公ルイ・フィリップ2世ジョゼフ(Louis Philippe II Joseph, duc de Chartres, puis duc d'Orléans)

 ブルボン家の分家の1つであるブルボン・オルレアン家はフランス王国の5%が領地である有数の富豪であった。
オルレアン公ルイ・フィリップ2世ジョゼフはフランスの王族で、オルレアン派を率いた指導者として、その財力と王族筆頭の権威でもって王位を狙う野心家。高等法院と王権との争いに介入して宮廷と対立し、革命前に最初に国王に逆らったことで自由主義貴族の代表となった。王妃マリー・アントワネットを盛んに中傷し、その政敵であった。
 私生活は放蕩かつ無節操で、民衆に開放した自分の宮殿パレ・ロワイヤルは歓楽街として使われ、政治的な危険分子はもちろん、娼婦の溜まり場にもなった。
西暦1771年にはフランス・フリーメーソンのグランドマスターとなり、2年後にフランス・グラントリアンを創設した。
 バスティーユ襲撃事件を誘発し、フランス革命が勃発するとこれを支持してフィリップ・エガリテ(Philippe Égalité、平等公フィリップ)と自称し、ルイ16世の死刑にも賛成票を投じたが、同年にオルレアン公ルイ・フィリップ2世自身も告発され処刑された。 長男ルイ・フィリップはシャルトル公爵およびオルレアン公爵を継承し、七月王政の王となったブルボン・オルレアン公ルイ・フィリップ3世(オルレアン朝国王ルイ・フィリップ1世)である。
 ブルボン・オルレアン公ルイ・フィリップ1世とブルボン・コンティ公ルイ・アルマン2世の娘ルイーズ・アンリエット・ド・ブルボン・コンティの間に生まれた。母のルイーズ・アンリエットは身持ちが悪くふしだらで、絶え間なく醜聞を巻き起こした。モンパンシエ公、シャルトル公となり、西暦1769年、ルイ14世の庶系の曾孫娘ルイーズ・マリー・アデライード・ド・ブルボン・パンティエーヴルと結婚し、西暦1785年に父オルレアン公ルイ・フィリップ1世の死によってオルレアン公となった。
 アメリカ独立戦争を支持し、首飾り事件が起こるとそれをマリー・アントワネットを攻撃するのに利用した。彼は2度の名士会の代表として宮廷の決定に反対した。多くの裁判管区の貴族から全国三部会に選ばれた彼は、早くから第三身分に加担し、西暦1789年06月25日には進歩的貴族46人の先頭に立って国民議会に合流して、貴族の叛乱を主導した。バスティーユを占領することになる民衆は、彼の宮殿パレ・ロワイヤルから行列を組んで出発した。
 政敵ラ・ファイエット侯に敗れて一時イギリス使節となったが、西暦1790年07月に帰国した。憲法制定国民議会(立憲議会)ではミラボー伯オノレ・ガブリエル・ド・リケティ(Honoré-Gabriel de Riquetti, Comte de Mirabeau)と結んだが、西暦1792年、08月10日事件で王権がなくなり、共和制が宣言されると、元次期国王候補者のオルレアン公フィリップ2世は胡散臭い目で見られ、それを打ち消そうと国民公会でも最左翼に位置したり、貴族称号を廃止し「平等のフィリップ(フィリップ・エガリテ)」と自称したりした。西暦1793年01月18日、ルイ16世の処刑にも賛成票を投じた。
 西暦1793年03月27日、デュムーリエ将軍が長男ルイ・フィリップと共に革命政府(国民公会及び公安委員会)打倒とオルレアン家王位擁立を謀って失敗すると、フィリップ平等公(オルレアン公ルイ・フィリップ2世)はジロンド派によって、息子が祖国を見限ったことや共和制転覆の嫌疑を受けて告発された。そして04月03日に逮捕され、国王一族とともにマルセイユのサン・ジャン城に幽閉された。彼は「ルイ16世に代わって王位に就こうとした。」との容疑を否認し、処刑の恐怖から逃れるため、自身が「オルレアン公ルイ・フィリップ1世の子ではない。」と公言したが、パレ・ロワイヤルの法廷から、「父親と著しく似ている。」という判断を下され、財産を没収され、11月06日の夕刻、革命広場の断頭台で処刑された。46歳没。



こういう自らが拠って立つ宗家の幹を蝕む獅子身中の寄生虫(枝葉の分家)は、宗家の幹が斃れると、枝葉の分家も死に絶えるのだが、甘やかされた愚かなバカ殿の脳みそでは思いもよらず。歴史上に頻出する。

徳川家康の男子では末っ子の十一男、頼房が水戸徳川家の藩祖。家康は老いてから出来た末っ子の頼房が可愛く手元に置くため、水戸藩は徳川御三家の中でも唯一参勤交代を免除した江戸定府に決めた。藩主は江戸から離れられない藩だった。俗にいう水戸黄門の2代光圀は、「大日本史」の編纂事業のため、日本全国に人を派遣し、明治39(1906)年に完成させるまで、正保02(1645)年に光圀が学を志してから数えて261年(満260年)もの歳月を掛け、義経伝説の調査のため大船「快風」を建造し蝦夷地を探検させるなど、創藩時には豊かだった水戸藩の財政を大きく傾け、水戸学という幕府否定の政治思想が生み出した。この水戸学の尊王攘夷思想が、幕末に過激な行動を起こし、薩長の反幕運動を誘発し、水戸藩(間に一橋家を挟む)から入った慶喜という無責任な将軍が徳川幕府を瓦解させた。
大正天皇と貞明皇后の年の離れた末っ子の四男、三笠宮崇仁親王も「末子を手元で育てたい。」という両親の意向が貫かれ、御所で養育された。共産主義に被れ、 「赤い宮様」と呼ばれる。東條内閣打倒のクーデター計画を立てたが、東條英機首相暗殺、主戦派数百人大量粛清などその過激な内容に驚いて自ら憲兵隊に通報しお構いなし。紀元節復活反対のお先棒も担いだ。
皇室破壊を企てた近衛文麿や不祥事だらけの竹田宮とか藩屏も腐っている。明治天皇の女系の外孫竹田宮恒正(つねただ)王は臣籍降下で竹田恒正。竹田恒正の次男恒治(つねはる)の長男恒昭は大麻所持で逮捕。竹田恒正の三男恆和は令和03(2021)年の東京五輪大会組織委員会会長で贈収賄。恆和の長男恒泰はパヨク憲法学者の小林節の弟子。統一教会の機関紙「世界日報」に寄稿したりと所謂「ビジネスホシュ」でラーメン屋。



 フランス王国は危機に直面していた。西暦1775〜1783年にかけて英領北米植民地で叛乱が勃発し、アメリカ独立戦争が始まった。フランス王国はアメリカの13植民地を支援するため戦争に介入し、フランス王国は戦争には勝利をおさめ7年戦争(西暦1754/1756〜1763年)での敗北の雪辱を果たしたが、10億リーヴルもの戦費によって財政が悪化していった。西暦1783年に発生したオレンボー朝(典語: Oldenborg、独語: オルデンブルク朝(Oldenburg))デンマークーノルウェー王国(西暦1524〜1533、1537〜1814年)領アイスランドのラキ火山の大規模な噴火により全世界で夏のない年となり、フランス王国でも冷夏による飢饉が発生した。西暦1789年に至るまで例年のように火山の冬といえる異常気象が相次ぎ、フランス各地で食糧難を原因とした社会的緊張が高まっていた。度重なる戦争と飢饉で財政が破綻しており、西暦1787年04月に財政は名門の宮廷貴族だったエティエンヌ・シャルル・ド・ロメニー・ド・ブリエンヌ(Étienne-Charles de Loménie de Brienne)枢機卿に任された。彼は終身年金の創設による借款を行い、続いて土地税の代わりに印紙税を提案した。印紙税は貴族よりブルジョワジーに対して負担が重い税だった。パリ高等法院は印紙税の導入に反対した。ブリエンヌ枢機卿は国家破産に直面して4億2000万リーブルの公債増発を発表した。この時オルレアン公ルイ・フィリップ2世ジョゼフが、「公債発行を不法だ。」として抗議し、国王ルイ16世と対立し、オルレアン公ルイ・フィリップ2世ジョゼフはパリから追放された。高等法院はこれに対して国王に抗議行動を起こした。王権の側は高等法院を抑圧し、法服貴族から司法権を取り上げ、全権裁判所を新設した。この措置は全国的な動揺を引き起こし、オルレアン公ルイ・フィリップ2世ジョゼフに代表される自由主義貴族の反対運動はブルジョアジーや下層市民も引き入れていった。全国的な反対運動のために増税は成功せず、公債を買い入れる者もいなくなった。
 西暦1788年08月の初めにブリエンヌ枢機卿は「国庫は空になるだろう。」という報告を受けた。08月16日にブリエンヌ枢機卿は、「現金支払いは一部だけとして、その他を国庫証券で支払う。」と命令した。この命令はブルジョアジーに恐慌状態を引き起こした。ブリエンヌ枢機卿はさらにケース・デスコント紙幣の強制流通を命じた。この結果パリでは紙幣と現金の交換を求めて取り付け騒ぎが起こった。国庫には50万リーブルしか残らず、08月24日、ブリエンヌ枢機卿は辞任させられた。
 08月26日、国王ルイ16世は平民の銀行家ジャック・ネッケル(Jacques Necker)を呼び戻して再び財務総監にするしかなかった。ルイ16世の以前の財務総監テュルゴーは貴族だったが宮廷に出入りできる身分ではなかった。彼より身分が下のジャック・ネッケルは成功した銀行家で平民だったので、最初は国王に面会もできなかった。彼らの任命はあくまで非常事態の、国王の止むを得ない措置だった。パリ高等法院は、「全国三部会(États généraux)のみが課税の賛否を決める権利がある。」と主張して、第三身分の広い範囲から支持を受けた。ジャック・ネッケルは三部会招集を条件として出し、財政を再建するにはこれまで課税を免れてきた第一身分(坊主)と第二身分(貴族)にも課税を行なう他なく、ルイ16世は新しい課税制度を制定するために「西暦1789年05月01日に招集する。」と約束した。これらの運動は宮廷内で冷遇されていた野党的貴族(自由主義貴族や宮廷にすら入れない法服貴族)とブルジョワジー以下が合流して宮廷貴族の本流に対して反抗したものだった。西暦1788年07月25日パリ高等法院は「採決を身分制で行うべきだ。」と声明を出した。これでは第三身分が少数派になってしまうことになり、第三身分は高等法院を裏切り者として攻撃した。西暦1788年年末から西暦1789年春にかけて全国各地で農民一揆が起こり、穀物の価格が上昇 した。高等法院は譲歩して12月05日に第三身分の代表者数の倍加を認め、第三身分と高等法院の決裂は回避されたジャック・ネッケルは第三身分の倍加を主張し、ネッケル派の大臣も賛成した。国王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットも承認せざるを得なくなった。西暦1789年01月24日に三部会の招集と選挙規則が公布された。
 各地で選挙が行われて議員が選出され、会場のヴェルサイユ宮殿のムニュ・プレジールの間の改修工事のため順延され、西暦1789年の05月05日に175年ぶりに身分制議会である三部会をヴェルサイユに招集した。第一身分(僧侶)が300人、第二身分(貴族)が270人、第三身分(平民)が600人で半分が法律家で、大部分がブルジョアジーだった。
ルイ16世は開会式で「三部会を独立した権力機関ではなく、国王の命令の下に財政は赤字解消に努力するもの。」としか言わなかった。三部会が始まると、三部会の議決方法をめぐり第三身分(平民)が合同審議と個人別投票を主張し、分離審議と身分別投票を主張する第一身分・第二身分と激しく対立し紛糾し、1ヶ月の時間が過ぎていった。また議員の俸給1人800リーブルも財政赤字で4ヶ月支払われなかった。
 これに対し、06月10日、「第三身分とは何か」の著者「革命のモグラ」、アベ・シェイエス(Abbé Sieyès、エマニュエル・ジョゼフ・シエイエス(Emmanuel-Joseph Sieyès))の呼びかけで「第三身分議員は独自の行動を取る。」と宣言。06月17日には「第三身分議員の集まりこそが国民を代表する。」として国民議会を称した。国民議会の権限について議決を行い、国王には国民議会の決定にいかなる拒否権もないこと、国民議会を否定する行政権力は無いこと、国民議会の承認しない租税徴収は不法であること、いかなる新税も国民議会の承認無しには不法であることを決定した。さらに、ブルジョアジーの破産を救うべく「国債の安全」の宣言も決議された。絶対主義の王権は破産に直面すると公債を切り捨てて、国庫への債権者を踏みにじって危機を乗り越えてきた。これに歯止めをかける決議は、王権にとって致命的だった。このような第三身分の動きに第一身分の僧侶部会が影響を受け、ついに多くの司祭と少数の司教が第三身分へ合流し、06月19日には激論の末第一身分議員が国民議会への合流を決定した。第二身分の貴族部会の大多数は第三身分の行動に反対し、これに脅威を感じた王弟アルトワ伯シャルル・フィリップ(後の国王シャルル10世)ら強硬派が06月20日に国王ルイ16世を促して、夜のうちに国民議会の議場(ムニュ・プレズィール館)は兵士によって鎖された。国王ルイ16世は西暦1789年06月04日に幼い長男ルイ・ジョゼフ(ドーファン(王太子))の病死もあり意気消沈し、国民議会の集会を禁止し、「国王が改めて三部会を招集する。」という命令を伝えた。長男ルイ・ジョゼフの夭折のため、次男ルイ・シャルルが王太子(ドーファン)となり、母マリー・アントワネットから「愛のキャベツ」と呼ばれて可愛がられた。
 この結果、議場ムニュ公会堂から締め出された国民議会の議長ジャン・シルヴァン・バイイ(Jean-Sylvain Bailly)ら第三身分代表たちは、06月20日に、これに抗議してジャン・ジョゼフ・ムーニエ(Jean Joseph Mounier)の提案により、議場に隣接する球戯場(テニスの原型の球戯(ジュ・ド・ポーム)の屋内コート)になだれこみ、国王の命令に反して決議を行った。「国民議会は憲法が制定され、それが堅固な土台の上に確立するまで決して解散しないことを誓う」ことが決められた(球戯場の誓い)。06月23日に三部会が招集されたが、4000人の軍隊が出撃の準備を整えていた。国王ルイ16世は高級貴族と近衛兵に囲まれて議場に入場すると「国王の承認しない議案は一切無効である。」と宣言した。そして身分別に議決を行うことを命令し、貴族の政治的特権と減免税特権は尊重し、維持すること、封建的特権は財産として尊重することなどを宣言した。これによって国王と国民会議は全面的対決となった。国王が退出すると三部会は解散の命令を受けた。
 宮廷貴族は御前会議で三部会の解散、10億リーブルの強制借款とロレーヌをオーストリア大公国に600万リーブルで売却することなどを決めた。強制借款は特権身分に課税する代わりに、強制的に大商人、銀行家、金融業者、大工業家から借り上げて返還の当てもなく、事実上の没収になりブルジョアジーを破産させる政策であり、三部会解散は国民議会の権力を否定し国王と貴族の絶対主義的権力を再確認する政策だった。こうした噂がパリに流れると、ますます反抗的な気運が高まった。
 王妃マリー・アントワネットら実権を握る保守派を中心に武力行使も辞さない姿勢を見せたが、06月25日に第一身分(聖職者)の大半が国民議会と合流し、06月26日に第二身分(貴族)の47人が国民議会に合流したため、06月27日に国王ルイ16世は政権内部の反対派を押し切って国民議会を承認することを決断し、聖職者、貴族の全てに国民議会への合流を勧告した(王権の敗北)。続く07月09日には国民議会は憲法制定国民議会と改称し、本格的な憲法制定作業に取り掛かった。フランス最初の近代議会になった。
 このような政治的緊張が続く中、国王政府は国民議会を承認する姿勢を見せつつも、国民議会の恫喝と治安悪化を理由に、07月11日に2代ブロイ公ヴィクトル・フランソワ(Victor-François, duc de Broglie)元帥を総司令官兼陸軍大臣とし、スイス人聯隊、ドイツ人騎兵聯隊、フランス衛兵隊からなる2万人の兵をヴェルサイユに集結させ野営地に変え、パリで暴動が起こった時の戦略として、パリ全部を守ることは不可能であるから、株式取引所と国庫とバスチーユ、廃兵院を守るに止めることが指示された。これはパリ市民との軍事衝突の際に国家財政の実権だけは確保するために必要な戦略であった。この武力を背景に、民衆の期待を集めていた財務総監ジャック・ネッケルとジャック・ネッケル派の大臣を罷免した。代わって宮廷貴族の強硬派が大臣を固めた。これは王妃マリー・アントワネットや王弟アルトワ伯シャルル・フィリップらの独断であった。国王ルイ16世はパリ民衆に対する武力鎮圧には消極的であったが、もはや政府は強硬派で占められ、ルイ16世の意向が通らないほどになっていた。ルイ16世の出した軍隊のパリへの集結命令は、資金難のため実行できず、15日に命令撤回した。一方で、命令を出した事実が一人歩きして民衆蜂起を誘発した。
 プルイリー男爵およびブルトゥイユ男爵ルイ・シャルル・オーギュスト・ル・トノリエ(Louis Charles Auguste Le Tonnelier, baron de Breteuil, baron de Preuilly)は国王ルイ16世によってフランス首席大臣(首相)に任命された。バスティーユ襲撃のわずか100時間前で、フランス革命以前で最後の首席大臣(首相)となった。国民議会は軍隊の撤退を要求したが、国王は外出と集会の禁止令を出した。オルレアン公ルイ・フィリップ2世ジョゼフの私邸パレ・ロワイヤルには王の布告を無視して大群衆が集まった。「ネッケル罷免」の報は翌12日にパリに届き、民衆とブルジョワジーたちを憤激させた。この直後から翌13日にかけてパリでは市内各所で騒動が開始して不穏な空気が高まった。臨時に招集された市政委員会のもと、自衛と秩序保持を目的としてブルジョワ(仏語: bourgeois)によって結成された民兵隊を中心とした厳戒体制が敷かれるようになった。07月12日、軍隊がパリに向けて出撃を始めた。パレ・ロワイヤルではリュシー・サンプリス・カミーユ・ブノワ・デムーラン(仏: Lucie-Simplice-Camille-Benoît Desmoulins)が「武器を取れ、市民よ!」という演説がなされ、6000人の群衆が軍隊と衝突した。すでに軍隊では給料支払いが遅れていて、近衛兵すら不満を口にし、将校の命令に従わなくなっていた。軍隊の中に王権に抵抗するための秘密クラブも作られた。
 07月12日、前日の財務大臣ジャック・ネッケル罷免に触発されたパリの民衆が入市税関の焼き討ちなどの暴動を起こした。ランベスク公シャルル・ウジェーヌ・ド・ロレーヌ(仏語名: Charles-Eugène de Lorraine, prince de Lambesc、独語名: カール・オイゲン・フォン・ロートリンゲン(Karl Eugen Prinz von Lothringen, Fürst von Lambesc))はパリのルイ15世広場に集まった民衆を広場から排除するため、近衛聯隊を率いて現場に向かった。しかし民衆側の投石を受けた聯隊は民衆を剣で攻撃し始め、暴動に参加していなかった一般市民まで殺傷する事態に発展した。この事件では1人が死亡し、数人が負傷した。ランベスク公は「近くの橋を占拠しようとした暴徒の企みを抑えるための行動だった。」と弁明し、罪に問われることは無かった。しかしランベスク公の起こした民衆殺傷事件は、国王の軍隊が民衆に対して刃を向けたと民衆に受け取られ、王室に対する国民的な信頼を損なうことになった。また無罪となったランベスク公自身もこの事件の責任者と見なされ、民衆に憎悪されるようになった。このランベスク事件の2日後、バスティーユ襲撃事件が起きた。貴族層に対抗する窮余の策として招集した三部会は思わぬ展開を見せ、平民層を大きく政治参加へ駆り立てたことで、結果的に西暦1789年07月14日のバスティーユ襲撃に始まるフランス革命を呼び起こした。

 07月14日朝、再び軍隊が出動すると7〜8千人とも4〜5万人ともいわれる群衆がフランス衛兵と共に廃兵院に押し掛け、武器と弾薬を引き渡すように要求し約3万2000丁の小銃と20門の大砲を奪い去った。廃兵院のすぐ近くにあったシャン・ド・マルスでは国王軍が野営しており、司令官のピエール・ヴィクトル・ド・ブザンヴァル・ド・ブルンシュタット男爵(Pierre-Victor de Besenval de Brünstatt)は各部隊の指揮官を集めて対応を協議した。しかし兵が「鎮圧に動くか自信が持てない。」という声が相次いだため国王軍の出動は見送られた。群衆はさらに弾薬を調達するために、数日前に廃兵院から弾薬類が運び込まれたというバスティーユ牢獄へと向かった。バスティーユ牢獄は大砲を覗かせて周囲の脅威となっていたことと、武器弾薬庫を抱えていたので重要な戦略目標だった。

 この時点では群衆にバスティーユを襲う積りはなく、目的はあくまでも自衛のために必要な弾薬を手に入れることであった。常設のバスティーユ牢獄守備隊は、正規軍の要件に満たない約80人の傷痍軍人 (廃兵院の年金受給者)で構成されていた。バスティーユ襲撃の2日前となる07月12日、守備隊はルイ・ド・フリュー中尉指揮の32人のスイス傭兵、サリス・サマド聯隊によって増強され約110人になった。
 午前10時頃、市政委員会から派遣された市民の代表3人がバスティーユ牢獄に赴いて、司令官ローネー侯ベルナール・ルネ・ジュールダン(Bernard-René Jourdan de Launay)に、隣接するフォーブール・サン・タントワーヌ地区に向けて前日から設置されていた大砲の撤去と武器弾薬の引き渡しを求めた。ローネー侯は代表を招き入れ、大砲の撤去には同意したが武器弾薬の引き渡しは拒否した。城壁の上に設置されている大砲の撤去と銃眼を板で塞ぐことと攻撃がない限り発砲しないことを約束し、ローネー侯はそれを証明するため代表団を城壁の上に連れていき直接作業を見学させた,その後ローネー侯は代表団に昼食を振る舞った。対話に努めたが、交渉は長引いた。続いて送り込まれた代表の説得に対してもローネー侯は拒否を続け、交渉は難航した。交渉が長引く中、要塞の外では群衆の数が膨らみ、興奮状態が高まっていった。午前11時半には、廃兵院からやってきた人々が合流し、その数はさらに増加した。外で待っていた市民たちは代表団がなかなか出て来ないために人々の間には不安と苛立ちが高まり、あまりにも帰りの遅い「代表団が捕まった。」と思い、午後01時頃になって、2人の男が塀を乗り越えて侵入し、司令部の中庭に通じる第1の跳ね橋を落とした。これを皮切りに群衆が一気に門に殺到し中庭に雪崩込み、恐怖に捕らわれた守備兵が発砲して戦闘が始まった。混乱の最中の両者はその後約4時間に亘って銃火を交え、群衆側の実際の襲撃参加者は約800〜900人前後であったと見積もられ、98人の死亡者、73人の負傷者が出たが、死亡者のうち即死が83人、重傷を負って後に死亡した者は15人であり、負傷者のうち13人は戦闘によって手足を失う重傷を負った。一方、防衛側は狭間や胸壁を活用してよく守り、死者1人と負傷者3人を出したのみだった。負傷者のうちスイス人傭兵2人が行方不明となった。被害は戦闘に不慣れな民間人が多く、遮蔽物の少ない中庭ー要塞前付近に展開していた襲撃側に集中した。午後03時半過ぎ、国王軍から離反したフランス衛兵の一部が襲撃側に加わったことで形勢が逆転し、彼らが廃兵院から奪ってきた大砲を戦闘に投入する動きを見せた。
 要塞内部には水源がなく、食糧供給が限られているため、司令官ローネー侯ベルナール・ルネ・ジュールダンは要塞内の誰も害されないという条件で降伏することを決した。司令官ローネー侯ベルナール・ルネ・ジュールダンは、跳ね橋の開口部から渡されたメモの中で、「これらの条件が拒否されれば、要塞と周辺地区全体を爆破するだろう。」と脅した。この条件は拒絶され、敗北を悟った司令官ローネー侯ベルナール・ルネ・ジュールダンは、貯蔵されている爆薬によりバスティーユを爆破するよう命じたが、火薬が備蓄されている地下室に向かおうとしたところを守備隊に阻止された。 午後05時頃、要塞からの発砲が止み、要塞内部に通じる主門の跳ね橋が突如降ろされれ、群衆がなだれ込んでバスティーユ牢獄全体を制圧し、牢に入れられていた7人の囚人が解放された。襲撃の時点のバスティーユはほとんど空の状態で、民衆が考えていたような政治犯は居らず、治安を乱した廉で収容された7人の老人がいただけだった。内訳は4人の文書偽造犯と2人の狂人、それに1人の素行の悪い伯爵だった。
 ローネー侯ベルナール・ルネ・ジュールダンは、父ローネー侯ルネ・ジュールダンが司令官を務めるバスティーユ牢獄で生まれた。西暦1776年、ローネー侯ベルナール・ルネ・ジュールダンはバスティーユ要塞司令官の地位をジュミアック候から継承した。西暦1777年まではノルマンディー地方ブルトニエール(Bretonnière)の封建領主(セニョール)であった。バスティーユ牢獄に隣接するサンタントワーヌ通の家屋を所有し賃貸ししていた。 上流階級の多くがそうしたように、バスティーユ牢獄司令官の職を投資として前任者から買い取った。西暦1778年12月19日にルイ16世の待望の子供長女マリー・テレーズ・シャルロット誕生の祝砲を撃ち損じたことを除いては、彼は13年間をこの職で平穏に過ごしていた。西暦1785年08月、バスティーユ牢獄は首飾り事件の主要人物であるルイ・ルネ・エドゥアール・ド・ロアン・ゲメネー枢機卿とラ・モット・ヴァロワ伯爵夫人ことジャンヌ・ド・ラ・モット・ヴァロアを収容した。特にラ・モット・ヴァロワ伯爵夫人は取り扱いが難しい囚人であったが、ローネー侯ベルナール・ルネ・ジュールダンは両者に礼儀正しく振舞った。前任者よりも囚人を人道的に取り扱っていて、気難しいところがあったとしても、中々良心的であった。
 西暦1789年の騒動の沈静化についての責を負っていた軍事大臣2代ブロイ公ヴィクトル・フランソワ元帥は、07月05日に「バスティーユに関する懸念の2つの要因あり、すなわち司令官(ローネー侯ベルナール・ルネ・ジュールダン)とその守備隊の実態である。」と書き残している。ド・ローネーを支援するため派遣されたスイス人傭兵を指揮していた副官ルイ・ド・フリュー中尉は、バスティーユ襲撃までに露呈したとする、ド・ローネーの軍事的才能のなさと経験不足や優柔不断さについて批判している。


眞説・バスティーユ牢獄

元は西暦1357年から建築開始された要塞。西暦1659年以降は主に州の刑務所として使用され、西暦1789年までに5279人の囚人がその門を通過した。収容者の中には政治犯や精神病者なども含まれ、旧体制(アンシャン・レジーム)支配の象徴、専制政治の象徴として悪評の高い存在であったが、実態は、部屋は5m四方、天井までは8mある。窓は7mの高さにあり、鉄格子が嵌っているものの、外の光は十分に入り込む。また囚人は、愛用の家具を持ち込むこともでき、専属のコックや使用人を雇うことすら可能だった。食事も豪勢なものであり、昼食に3皿、夕食には5皿が出され、嫌いなものがあれば別のものを注文することができた。牢獄内ではどのような服装をしようが自由であり、好きな生地、好きなデザインで服を注文できた。また図書館、遊戯室なども完備されており、監獄内の囚人が病気などになった場合は国王の侍医が診察した。このため、他の監獄で病人が出たとき、病院ではなくバスティーユに搬送することがあった。このように環境が整っているため、出所期限が訪れても出所しなかったり、何ら罪を犯したわけでもない者が債権者から逃れるために入所したこともある。西暦1774年のルイ16世即位からバスティーユ襲撃の西暦1789年まで、収容された人数は合計288人であるが、このうち12人が自ら望んで入所した。 加虐性欲(サディズム(独語: Sadismus 英語: sadism))の語源となったマルキ・ド・サド(Marquis de Sade, マルキは「侯爵」の意。サド侯爵、サド侯ドナスイェン・アルフォーンス・フランソワ(Donatien Alphonse François de Sade)も10日前まで収容されていたが、襲撃の時には別の刑務所に移されていた。サド侯爵はローネー侯ベルナール・ルネ・ジュールダン司令官を「祖父が使用人の、いわゆる侯爵」と蔑んで呼んだ。


サド侯爵の生涯-新版 (中公文庫) - 澁澤 龍彦
サド侯爵の生涯-新版 (中公文庫) - 澁澤 龍彦

 バスティーユ司令官ローネー侯ベルナール・ルネ・ジュールダンは身柄を確保され、剣と司令杖が差し押さえられた。彼は、暴動の指導者の1人、ピエール・オーギュスタン・ユラン(Pierre-Augustin Hulin)という兵卒(後に将軍)にパリ市庁舎まで連行連行された。道すがら、興奮した群衆は彼を殺害しようとしたが、市民代表が「彼にも裁判を受ける権利があるのだ。」と制止し、その場は一旦収まった。その途上で激怒した群衆によって、ナイフ・剣・銃剣で繰り返し暴行され1度発砲を受け、市庁舎に着いた所で群衆はついに制止を振り切って虐待を受けた。自暴自棄になった司令官ローネー侯ベルナール・ルネ・ジュールダンは「もうたくさんだ!殺してくれ!」と叫び、デノという失業中の料理人に股間を蹴り上げられて絶命した。ローネー侯ベルナール・ルネ・ジュールダンの頭部は殺害後に肉屋のジューヴ・ジュールダンによって切断された。バスティーユの守備隊のうち、3人の士官と3人(2人とも)の古参の守備兵も私刑を受け、司令官と同じ運命を辿った。さらに前日に武器の所在について曖昧な発言を行ったパリ市長のジャック・ド・フレッセルも、その対応を「市民を惑わせる裏切り行為」として咎められ、市庁舎から出て来たところを射殺され、首を刎ねられた。彼らの首を槍の先に刺して高く掲げた群衆は、市庁舎前の広場を練り歩き、数時間に亘って通りも練り歩いて、翌日にセーヌ川に投げ込まれた。また士官4人、兵士15人が後に死刑となった。副官ルイ・ド・フリュー中尉以下殆どのスイス傭兵は軍服を裏返しに着ていたので気づかれずに脱出に成功し、ルイ・ド・フリューは祖国スイスに帰った。しかしフランス人の守備兵や脱出に失敗したスイス傭兵たちは捕らえられ他監獄に投獄され、後の九月虐殺で虐殺された。元陸海軍総監ジョセフ・フーロン・ド・ドゥエが嬲り殺しにされた。またその女婿でパリ知事のベルチエ・ド・ソーヴィニーもパリの食糧危機に責任ありという理由で義父と同じ日に群衆に虐殺され、共に槍首にして引き回された。

 シャン・ド・マルスで待機していた国王軍は一連の事態に介入できないまま、14日の夜に国王の了承のもとパリから撤退した。ヴェルサイユに帰還する途中、14日から翌15日にかけての深夜に国王軍はパリ近郊のサン・クルーからセーヴルにかけての民家に分散して宿泊したが、スイス人聯隊の1つであるサリス・サマド聯隊の日誌によれば「セーヴルに宿泊した同聯隊所属のスイス人兵士のうち75人が住民と意気投合して軍を離脱、軍服を捨てて武器を持ったままパリに逆戻りした。」という。
 ヴェルサイユに戻った司令官のピエール・ヴィクトル・ド・ブザンヴァル・ド・ブルンシュタット男爵は一連の事態の責任を問われて直ちに拘禁された。結果的に国王軍に見捨てられたも同然の形になったバスティーユ守備隊の幹部で虐殺を免れたド・ピュジェは、その後まもなく復職した財務総監ジャック・ネッケルがブザンヴァルの釈放に尽力したことから「ブザンヴァルは同じスイス人であるネッケルと通じており、(ネッケルを解任した)宮廷を面倒な立場に置くためにパリ市民の叛乱を工作していた。」とブザンヴァルを非難しているが、国王軍を率いながらパリ市民の蜂起に対処できなかったブザンヴァルはその後も王党派から「革命に同情的な裏切り者」とスケープゴート的な非難を受け続けることになった。

 この日バスティーユに押し寄せた多数の群衆のうち、実際に襲撃に参加した者を「バスティーユの征服者」として認定するため憲法制定国民議会は西暦1790年にそれぞれ954人、871人、662人の参加者の名前が記された3種類の表を承認した。このうち記載人数の最多の表に見られる954人を襲撃の参加者数とする見方もあるが、いずれも氏名の重複や記載漏れが多く見られるなど不完全なものであり、各リスト間のこのような記載の不備を整理すると、実際の襲撃参加者は約800〜900人前後と考えられる。この中から98人の死亡者、73人の負傷者が出たが、死亡者のうち即死した者が83人、重傷を負って後に死亡した者は15人であり、負傷者のうち13人は戦闘によって手足を失う重傷を負ったという。
 一方、守備隊側の兵力は数日前にスイス人聯隊から派遣されていた増援32人を含めて約110人前後であったが、敗北後に司令官を含む6〜7人が虐殺され、また士官4人、兵士15人が後に死刑となった者を除くと戦闘中の死者1人、負傷者3人であった。
 前述の3種類の表のうち、参加者数を662人の表では、参加者の氏名のほかに住所、職業などが記載されている。それによれば年齢的には8歳の少年から70歳の老人、職業は海軍士官(当時はほとんどが貴族)から肉体労働者まで、また外国人も39人(イタリア人13人、ドイツ人、ベルギー人各12人、オランダ人、スイス人各1人)含まれるなど、広範囲にわたる年齢、身分、職業、さらには国籍の人々がパリの各地区から集まっていたが、大多数はバスティーユに隣接するフォーブール・サン=タントワーヌ地区およびその近隣地区の住民であり、中でも小規模な工房を営む親方や職人といった手工業者が全体の約3分の2を占めている。これらの者を含む約600人の一般市民のうち、7人中6人までが当時パリの治安維持の中核を担い、登録にあたっては財産など一定の資格制限があった民兵隊であり、この襲撃事件が革命に否定的な人々によって従来非難もしくは嘲笑された、単なる貧民の暴発とは言い難いものであった。


 バスティーユ襲撃の知らせは直ちにヴェルサイユにいる国王ルイ16世の元にもたらされた。国王が「暴動か?(C'est une révolte?)」と問うと、側近のラ・ロシュフコー・リアンクール公爵が「いいえ陛下、これは暴動ではありません、革命でございます。(Non sire, ce n'est pas une révolte, c'est une révolution.)」と答えた。

 この事件は政府を驚愕させ、方針の変更を促した。王妃マリー・アントワネットや王弟アルトワ伯シャルル・フィリップはルイ16世をパリの東方約300qにあるメッスに退避させようとしたが、陸軍元帥、2代ブロイ公ヴィクトル・フランソワらの反対に遭い、アルトワ伯シャルル・フィリップを中心とした宮廷内の強硬派は16日以降相次いで国外に亡命した。一方、ヴェルサイユに留まることを決意したルイ16世は財務総監ジャック・ネッケルの復職を決定し、翌17日には和解のため自らパリに赴き、憲法制定議会の議員であったジャン・シルヴァン・バイイを市長として発足した新たなパリ市政府当局と、ブルジョワジーが組織した民兵隊を国民衛兵として承認した。この市政革命により、フランスの各都市ではブルジョワジーからなる常設委員会が設置され、市政の実権を掌握するようになった。
 一方、ルイ16世のパリ行きと財務総監ジャック・ネッケルの復職は、第一・第二身分や王族中の保守派にとっては、民衆への譲歩と捉えられた。特に亡命した王族や貴族たちは国外で反革命運動を展開して革命に対して武力行使も辞さない姿勢をとり、国王に圧力を掛けていった。武力行使に消極的であったルイ16世は議会と保守派の板挟みとなり、さらに無力になっていった。



  西暦1789年初夏に三部会から自由主義派の憲法制定国民議会が分離してフランス革命が勃発すると、王妃マリーアントワネットとポリニャック公爵夫人の結び付きは再び強まったかに見えた。ポリニャック公爵夫人はヴェルサイユ宮廷内の超王党派として活動し、王弟アルトワ伯シャルル・フィリップと共に同派の中心人物となった。ボンベル侯マルク・マリー(Marc Marie, Marquis de Bombelles)は、「ポリニャック公爵夫人が弛むことなく反革命の活動に専心していた。」と証言している。彼女はボンベル侯の政治上の師ブルトゥイユ男爵及びアルトワ伯シャルル・フィリップと一緒になって、「革命派に人気のある財務総監ジャック・ネッケルを罷免するよう国王を説得すべきだ。」と王妃を掻き口説いた。しかし彼らの努力が実らぬうちに、07月14日パリでバスティーユ襲撃事件が起きてジャック・ネッケルは引責辞任した。
 バスティーユ襲撃後、暴徒化したパリ民衆はポリニャック一族の殺害を声高に求めるようになった。ポリニャック公爵夫人はヴェルサイユに留まることを望んだが王妃の説得を受けて07月16日の夜、家族でヴェルサイユを離れた。馬車に乗る際に受け取った王妃からの言付には、当座の生活費代わりの500ルイ金貨とともに、次のような手紙があった。「さようなら、大切なお友だち。恐ろしい言葉ですけれど、どうしてもそう書かないわけにはいかないのです。馬を付ける命令はもう出してあります。私にはもう、あなたを抱きしめる力しか残ってはいません。」召使に変装したポリニャック公爵夫人は逃避行中、サンスで御者に正体を見破られるなど危険な目にもあったが、何とか無事にスイスに到着した。その後、彼女は家族と共に放浪生活に入り、トリノ、ローマ、ヴェネツィア(この地で彼女は長男をバタヴィア帰りの成金の娘と結婚させた)を経由してウィーンに落ち着いた。ポリニャック公爵夫人ら、それまでマリー・アントワネットから多大な恩恵を受けていた貴族たちは彼女を見捨てた恰好で国外に亡命した。中傷小冊子「フランス人民からポリニャック公爵夫人に告げる別れの言葉」が、西暦1789年にポリニャック公爵夫人がスイスに亡命した後に出版された。
 彼女に最後まで誠実だったのは、王妹エリザベート・フィリッピーヌ・ド・フランス(Élisabeth Philippine Marie Hélène de France)とランバル公妃だけであった。


 召使に変装したポリニャック公爵夫人は逃避行中、サンスで御者に正体を見破られるなど危険な目にもあったが、何とか無事にスイスに到着した。その後、彼女は家族と共に放浪生活に入り、トリノ、ローマ、ヴェネツィア(この地で彼女は長男をバタヴィア帰りの成金の娘と結婚させた)を経由してウィーンに落ち着いた。西暦1791年6月のヴァレンヌ事件の際には「低地地方の国境地帯で国王一家の到着を待っていた。」と言われる。西暦1791年07月には、コブレンツのエミグレ亡命宮廷に姿を現し、並み居る貴婦人の中で最も華やかな装いをしていた。西暦1792年のヴァルミーの戦い後にこの亡命宮廷が解散すると、再びウィーンに戻った。ポリニャック公爵夫人はスイス滞在時既に病気になっており、その後数年間ほぼ間違いなく病と闘っていた。西暦1793年12月、ポリニャック公爵夫人は44歳で死去した。遺族は「突然の心臓発作で亡くなった。」と発表した。死因は癌とも結核とも言われる。


 ランバル公妃は西暦1789年春の全国三部会の開会式典に参列した。西暦1789年07月、フランス革命初期にバスティーユ襲撃が起こった際、ランバル公妃はお気に入りの侍女ラージュ伯爵夫人を連れてスイスへの観光旅行に出かけていた。09月に帰国すると病気がちの義父パンティエーヴル公の滞在する田舎の城で義父の看病に当たった。このため西暦1789年10月05日にヴェルサイユ行進が起こった際は、義父と共にオマールにいた。10月07日にヴェルサイユ行進の報を聞くと、ランバル公妃はすぐに国王一家の移送先であるパリのテュイルリー宮殿に馳せ参じ 、総監の職務を再開した。ランバル公妃は王妹マダム・エリザベートとともに、宮殿内の王妃マリー・アントワネットの翼と同階のパヴィヨン・ド・フロール内のアパルトマンを割り当てられた。義父の療養先とパッシー地区の自宅を短期間訪れるとき以外、彼女は常にテュイルリー宮殿に常住するようになった。テュイルリー宮殿でも、ヴェルサイユで行われてきた宮廷の儀礼や催事がある程度復活したが、ランバル公妃は総監としてその全ての行事に参加した。彼女は王妃の公私の生活において常に側に控えた。ランバル公妃は国王一家の西暦1790年夏のサン・クルー城滞在、シャン・ド・マルスでの聯盟祭にも随行した。
 革命前は王妃マリー・アントワネットの名において催事を取り仕切るのを嫌がっていたランバル公妃は、今や王妃マリー・アントワネットの政治目的に賛同する国王忠誠派の貴族たちを参集するための舞踏会・晩餐会を、積極的に催すようになった。ランバル公妃のサロンは、マリー・アントワネットが国王忠誠派に寝返らせようと考えていた国民議会議員たちと、マリー・アントワネットが会って話をする場を提供した。王妃は宮殿内のランバル公妃のアパルトマンを、ミラボー伯との会見の場として利用した。
 一方、ランバル公妃は情報提供者の情報網を通じて、宮廷の構成員たちの王室に対する忠誠心を調査してもいた。
王妃の侍女頭カンパン夫人もランバル公妃の調査対象者の1人で、ランバル公妃は「カンパン夫人がある国民議会議員を自室に招き入れた。」との情報を元に夫人の王室への忠誠心を疑ったが、ランバル公妃は自身の諜報網を使って件の情報を調査した結果、「疑いが晴れた。」と、ランバル公妃自身から説明した。カンパン夫人は「ランバル公妃は王妃の家政機関に所属する全構成員の一覧表を私の目の前に広げ、彼ら1人1人について私が把握していることを話すように求めた。幸い私は話すだけの価値のある情報を持っていたので、公妃はそれを全て備忘録に書きつけた。」と述べた。
 ポリニャック公爵夫人ら王妃の取り巻きたちの大部分が革命初期に国外に脱出したため、「王妃の寵臣として民衆の憎しみの矛先を向けられるのは、私の側に1人残って働く貴女なのですよ」とマリー・アントワネットはランバル公妃に警告し、パリの住人が大っぴらにランバル公妃を罵っていることを心配した。ランバル公妃も自身を中傷する小冊子の一部を目にするようになった。
 義妹のオルレアン公爵夫人ルイーズ・マリー・アデライード・ド・ブルボン・パンティエーヴル(Louise Marie Adélaïde de Bourbon-Penthièvre)が国王を裏切った夫オルレアン公ルイ・フィリップ2世ジョゼフとの離婚を求めた際、ランバル公妃は義妹を応援したため、オルレアン公との友情も決裂した。オルレアン公はこれまでランバル公妃を王妃との繋ぎ役として利用してきたが、実際には全く信用していなかった。ランバル公妃が「自身の夫が性病で命を落とし、自身も性病に侵されたのはオルレアン公が夫に放蕩の手ほどきをしたからだ。」と難詰すると、オルレアン公はランバル公妃と絶交した。

 ランバル公妃はヴァレンヌ事件の逃亡計画については何も聞かされていなかった。西暦1791年06月20日の夜、王妃マリーアントワネットはランバル公妃に「おやすみ。」と言葉をかけた際、「疲れて身体が参ってしまわないうちに、何日か田舎で休養してきなさい。」と勧めた。公妃は王妃の振る舞いが何か変だと感じつつ、助言通りにパッシー地区の自邸に戻った。果たして国王一家はその夜のうちに宮殿から脱出、逃亡計画を明かして「ブリュッセルで再会しましょう」の言葉で締めくくられた王妃からの手紙がランバルの許に届けられた。ランバル公妃はオマールにいる義父の許に急行し、国外脱出するので各方面への紹介状を認めてほしい。」と懇請した。
 ランバル公妃はブローニュ・シュル・メールから英国領ドーヴァーへ渡り同地で1泊、翌06月26日にオーストリア領ネーデルラントのオーステンデに移動した。さらにその先のブリュッセルでフェルセン及びプロヴァンス伯爵夫妻と再会した後、エクス・ラ・シャペルに落ち着いた。09月にはスパで湯治中のスウェーデン王グスタフ3世を訪ね、10月にはスウェーデン王の返礼の訪問を受けた。パリの大衆紙、パリ新報(Chronique de Pari)は、「ランバル公妃の渡英は王妃に託された外交使命を果たすためだ。」と報じた。ランバル公妃は、自分が王妃のためにより役に立てる場所はフランス国内なのか国外なのか答えを出せず、長く苦悩した。周囲も相反する助言をした。フランス人の友人たちは「戻って王妃に仕えるべきだ。」と励ましたが、実家の家族や親類縁者は心配してトリノに帰ることを勧めてきた。ランバル公妃の国外滞在中に文通を続けていた王妃マリー・アントワネットも、当初はランバル公妃に戻って来ないよう強く求めていた。ところが西暦1791年09月、西暦1791年憲法の新体制の開始とともに、王妃は内閣から王妃家政機関の再編を要請され、家政機関内にいる国内に不在の官職保有者を全て解雇するよう要求された。そこで王妃は、ランバル公妃に公的書簡を送り、帰国し再出仕するか辞職するか選ぶよう求めることになった。この公的書簡の中で、王妃はランバルに送った私的な手紙とは反対に、帰国し再出仕する義務について説諭していた。ランバル公妃は帰国の意思を伝え、「私は王妃と生死を共にせねばなりません。」と語った。「パリに戻れば死が待っているだろう。」と確信していたランバル公妃は、英国バースで賃借したロイヤル・クレセントの高級テラスハウスに滞在中、遺書を認めた。遺書の署名の日付と場所は「西暦1791年10月15日、エクス・ラ・シャペル」となっていることから、遺書は実際にはネーデルラント滞在中に書かれたという説もある。ランバル公妃は10月20日にエクス・ラ・シャペルを発ち、パリの新聞報道によれば11月04日にパリに到着した。





クロマニョン人の直接の末裔の「コーカソイド」は「西ユーラシア人」とも、「白人」とも「毛唐」、「南蛮、紅毛」と呼ばれる狩猟遊牧民族は、家畜の増殖と家畜を屠殺して喰らうのを生業とし、勢力を得ると狂躁化し、掠奪、強姦、拷問、殺戮、虐殺、抹殺を行う兇暴な悪魔の蛮族である。

兇暴なスペイン人、ポルトガル人にイギリス人は、多くの民族に、掠奪、強姦、拷問、殺戮、虐殺、抹殺を繰り返し、絶滅させた。イギリスからの侵略者の清教徒、ピルグリムは、命の恩人のワンパノアグ族の土地を奪い、生活の基盤である森や猟場を荒らしてはワンパノアグ族を大量虐殺し、女性や子供を奴隷として売り飛ばし、騙し討ちで大量虐殺、民族浄化、強制移住を行った。正に命の恩人のマサソイト酋長を騙し、マサソイト酋長の長男ワムスッタは毒殺し、次男メタコメットの遺体を八つ裂きにし、首を切断し頭蓋骨を槍の先に突き刺し、ピルグリムのプリムス村の門標に見せしめとして24年間晒した。彼の身体を4等分に切断し、木に吊るし、狩猟戦利品として右手をピルグリムに与えた。メタコメット酋長の妻ウトネカヌスクと8歳の息子を始めとする先住民(アメリカ・インディアン)達は奴隷としてバミューダ諸島に奴隷として売り飛ばし、病気や過酷な労働の中で殺した。理不尽な辱めを与えて勝利を祝った。
戦争だけが国家の紐帯の兇悪ディープステイトが立てた組織、アメリカ合衆国は、自らに非のある謀略で戦争を吹っ掛けるのを国是とし、リメムバー・アラモ(remember Alamo)で天保07(西暦1836)年のアラモの戦い、リメムバー・メイン(remember Maine)で明治31(西暦1898年)米西戦争、リメムバー・パールハーバー(remember Pearl Harbor)で昭和16(西暦1941年)の大東亜戦争、昭和39(西暦1964)年のトンキン湾事件でヴェトナム戦争(昭和20(西暦1945)〜50(1975)年)介入、中南米、ペルシャ湾、アフガン、中東、ウクライナと暴虐の限りを尽くしている。

フランス人も同様で、62年前の昭和36(西暦1961)年10月17日にもパリ大虐殺が起きている。フランスからの独立を目指したアルジェリア戦争(西暦1954〜1962年)の最中にアルジェリア人回教徒だけに夜間外出禁止が課され、パリ郊外で親民族解放戦線(FLN)が主催して2万人(3万人とも)以上が参加して平和裏に抗議デモが行われた。パリ警察署長モーリス・パポンの命令を受けて、フランス国家警察は参加者を弾圧し、1万2千人を逮捕した。警察がデモ参加者を収容所で殴り殺されたり現場で射殺されりセーヌ川に投げ込み量溺死させ虐殺した。犠牲者は少なくとも120人(200〜300人とも)に上り、遺体はセーヌ川に抛り込まれ、セーヌ川は真っ赤に染まったが、その多くは見つかっていない。フランス国家警察は平成11(1999)年までパリ大虐殺を隠蔽していた。
ヴェルサイユ宮殿には便所がなく、樹の木陰でおまるにひり出し、食事もマリー・アントワネットが嫁いで来て、ウィーンの礼式を徹底させるまで、手摑みで猿と同じ様に喰らっていた。パリやロンドンなどは糞尿を窓から道に棄て、近隣の百姓が肥料にと拾いに来ていた。そのため糞尿や汚物の悪臭が立ち込め、臭い隠しに香水が発達し、道に転がっている人糞を踏まないためにハイヒールを履いた。

当然不衛生極まりなく、多くの疫病が流行し。支那(疫病の発生源の殆どは不衛生な支那)から齎された黒死病(ペスト、Black Death)により、西暦1346〜1353年に、7500万〜2億人(推定)が死に、人口が3分の1(3分の2説もあり)になったという。ハンガリーの感染病の父、イグナッツ・フィリップ・ゼンメルワイス(Ignaz Philipp Semmelweis)が、弘化04(西暦1847)年に、手と医療器具を洗浄する消毒法で12.24%の死亡率が0.85%にまで下がるまで、手も医療器具も消毒もしていなかった。明治27(西暦1894)年、北里柴三郎はペストの蔓延していた香港に内務省から調査研究するように派遣され、現地到着後2日の06月14日に、病原菌であるペスト菌と感染経路を発見した。両人ともにコーカソイドではない。
武漢肺炎蔓延で明らかになったように、食事前に手を洗わない、風呂に入らんない、マスクをしない。

一方フランス人、税金の父、ヴァロワ朝第3代シャルル5世賢明王は定期的な臨時徴税(矛盾した表現)と、常備軍・官僚層を持った。付加価値税を最初に導入したのもフランスで、元になったのは大正06(1917)年の支払税で、大正09(1920)年に売上税、さらに昭和11(1936)年に生産税と名前を変え、昭和29(1954)年にモーリス・ローレが考案した。第2次世界大戦後の復興の最中、国内経済を景気浮揚のため輸出企業に輸出補助金を出していた。しかし、GATT(関税及び貿易に関する一般協定)で、自国企業にのみ補助金を出していることがGATTに抵触するため、抜け穴として自国輸出企業に補助金を出す策謀が付加価値税である。
以上のように、フランス革命とか共産主義の増幅、・・・・、全人類を地獄に叩き込むディープステイト御用達の悪魔の制度は不潔なフランス人が作った。

現在進行中で、ディープステイトとは王族や猶太に超大富豪など支配層で、この人外の腐れ悪魔は世界中で、「東ユーラシア人」の支那畜はチベット、ウイグルで、南モンゴル掠奪、強姦、拷問、殺戮、虐殺、抹殺を行い絶滅工作を行っている。



posted by cnx at 21:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 反吐 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年12月07日

反吐が出る世界史 先住民を侵略し虐殺、黒人奴隷と繁殖の鬼畜米移民 悪逆非道なディープステイトの中核、猶太とは何か その19

ダビデの星.jpgユダヤ(ギリシャ語: Ἰουδαία、Ioudaía、漢字:猶太)

 他民族からは「ヘブライ人」と謂れ、自らは「イスラエル人」と称し、バビロン捕囚後には「ユダヤ人」と呼ばれるようになった徒輩。ヘブライ人、イスラエル人、ユダヤ人は同じ民族を指している。
 ユダヤ人(ヘブライ語: יהודים‎、英語: Jews、ラジノ語: Djudios、イディッシュ語: ייִדן‎)は、猶太教の信者(宗教集団)または猶太教信者を親に持つ者によって構成される宗教信者。原義は狭義のイスラエル民族のみを指す。イスラエル民族の1つ、ユダ族がイスラエルの王の家系だったことを由来とする。猶太教という名称は、猶太教徒が多く信仰していた宗教であることによる。ユダヤとは、パレスチナ南部の地域。酋長ヤコブの子ユダに由来する。古代イスラエル統一王国の分裂後の南ユダ王国があった地域である。



南ユダ王国滅亡後のユダヤの歴史

南ユダ王国が滅ぶと、僅かな例外的時期を除いて西暦20世紀に至るまでユダヤ民族が独立国を持つことはなかった。


神武天皇74(西暦前587)〜安寧天皇10(西暦前539)年 新バビロニア帝国
安寧天皇10(西暦前539)〜孝安天皇61(西暦前332)年 アケメネス朝ペルシア帝国
孝安天皇61(西暦前332)〜孝安天皇88(西暦前305)年 プトレマイオス朝エジプト
孝安天皇88年(西暦前305)〜開化天皇17(西暦前141)年 セレウコス朝シリア
開化天皇17(西暦前141)〜崇神天皇35(西暦前63)年 ハスモン朝 ユダヤ人国家
崇神天皇35(西暦前63)〜崇神天皇61(西暦前37)年 共和政ローマ元老院属州
崇神天皇61(西暦前37)〜垂仁天皇73(西暦44)年 ヘロデ家
垂仁天皇73(西暦44)年 ユダヤ属州(ローマ帝国皇帝属州)
垂仁天皇73(西暦44)〜景行天皇23(西暦93)年 ヘロデ家
垂仁天皇73(西暦44)〜仁徳天皇83(西暦395)年 ローマ帝国皇帝属州
仁徳天皇83(西暦395)〜舒明天皇06(西暦634)年 東ローマ帝国
舒明天皇06(西暦634)〜永正13(西暦1516)年 イスラーム諸王朝 途中に十字軍国家の時代を含む。
永正13(西暦1516)〜大正06年(西暦1917)年 オスマン帝国 
大正07年(西暦1918)〜昭和23(西暦1948)年 イギリスによる国際連盟の委任統治 
昭和23(西暦1948)年 イスラエル国(メディナット・イスラエル)成立 共和政国家の樹立、現代に至る。



 西暦135年、ローマが叛乱を鎮圧し、ユダヤ的なものを一掃しようとしたローマ人は、この土地をユダの地(ユダヤ)ではなく、ユダヤ人の宿敵ペリシテ人に因んで「パレスチナ」、エルサレムを「アエリア・カピトリーナ」と改称し、ユダヤという地名は消滅した。

 また、ユダヤ人は人種的にはセム族とされるが、長いディアスポラ(離散)のなかで、周辺民族との混血の結果、セファルディームアシュケナジームの違いが生じ、また言語もイデッシュ語などが生まれた。現在、ユダヤ人はイスラエルの他、世界中に分布しており、アメリカにも約600万人が住んでいるとされる。しかし現在ではユダヤ人を「人種」概念で捉えるのは困難で、現実には「猶太教を信仰する徒輩」と捉えるのが正しい。人類学的に同質のユダヤ人は存在しない。




毛唐とか南蛮・紅毛と呼ぶべき、コーカソイド=白人は、狩猟遊牧民族であり、家畜の増殖と家畜を屠殺して喰らうのを生業とし、勢力を得ると狂躁化し、掠奪、強姦、拷問、殺戮、虐殺、抹殺を行う兇暴な悪魔の蛮族である。
数々の民族に掠奪、強姦、拷問、殺戮、虐殺、抹殺を行い、スぺイン人は、アステカ文明、インカ文明、マヤ文明を破壊した悪魔の所業は、有名過ぎるくらい有名な史実である。

近年でも、掠奪、強姦、拷問、殺戮、虐殺、抹殺を繰り返し、オーストラリアではイギリス人が人間狩りの娯楽としてアボリジニーを虐殺し、特に逃げ場のない行き止まりの南の最果てのタスマニア島でアボリジニー殺戮が徹底され、西暦1876年にはタスマニア島のアボリジニーがイギリス人により絶滅させられた。
アメリカ大陸でも毛唐、南蛮・紅毛は、次々と掠奪、強姦、拷問、殺戮、虐殺、抹殺を繰り返し、やはり逃げ場のない行き止まりの南の最果てのパタゴニア半島やフエゴ諸島で、オナ(セルクナム)族、ハウシュ(マネケンク)族、ヤーガン(ヤマナ)族、アラカルフ(カウェスカル)族を金採掘と羊放牧場開拓に乗り出したアルゼンチンとチリの侵略者が、人間狩りの娯楽として害獣のように駆逐し絶滅させた。西暦1884〜1900年の間に大牧草地所有者(エスタンシエロ)はセルクナム族大虐殺を行った。大企業は、羊飼いや民兵にセルクナム族の死者1人ごとに報奨金を支払ったが、これは、両手か耳、または後には完全な頭蓋骨の提示によって確認された。報奨金は男性よりも女性が死んだ際により多く与えられた。なかでも悪名高いフリオ・ポッパー(Julius Popper)という ルーマニアのブカレスト生まれのアルゼンチンの鬼畜は「オナ(セルクナム)族ハンター」を自称していた。遅くとも西暦20世紀の半ばには絶滅させられた。

人類学は、毛唐とか南蛮・紅毛が非西洋の「未開」部族を「研究対象」とする学問として、つまり徹頭徹尾植民地支配の学問として成立した。対象とした部族は、白人入植者や宣教師によって植民地化された土地の部族であり、標本や見世物にするため西洋に送られた。

現在のパタゴニアでは、忌まわしい過去を持ちながら、セルクナム族のボディペインティングが有名になるとそれを観光に使う恥知らずである。「パタゴニア」という名の忌まわしい企業はその名の通り、環境テロリスト「シーシェパード」に資金を提供している。

現在進行で、ディープステイトという腐れ悪魔は世界中で、支那はチベット、ウイグル、南モンゴルで、掠奪、強姦、拷問、殺戮、虐殺、抹殺を行い絶滅を図っている。

日本では、南蛮人が奴隷を所有しているのを日本人は心底軽蔑し、豊臣秀吉は、ポルトガル人が大量の日本人女性を奴隷として淫靡な行為の末、本国に持ち帰る蛮行に怒り、天正15(1587)年、伴天連追放令を発し、耶蘇教徒を追放した。明治05(西暦1872年)に日本の横浜港に停泊中のマリア・ルス号(ペルー船籍)内の清国人苦力という奴隷を日本政府が解放した。英語「shanghai」は、「麻薬を使って船に連れ込む、誘拐する、騙して(…を)させる」という意味で、支那から拉致して奴隷にする鬼畜米人の行為が語源である。




悪鬼「アメリカ建国の父たち」の真顔 その2

 3代大統領トーマス・ジェファーソンの父ピーター・ジェファーソンは、ウェールズ人の子孫で、アルベマール郡シャドウェル(当時はエッジヒル)で農園主と測量士をしていた。母ジェーン・ランドルフは船長であり農園主を兼ねていたアイシャム・ランドルフの娘であり、ペイトン・ランドルフの従姉妹かつ富裕なイギリス系郷紳の孫娘だった。両親は共にヴァージニア入植者の古い家系の出であり、ヴァージニア植民地で著名な人々と密接に関わりのある家庭だった。10人兄弟の3番目であり、兄弟のうち2人は夭折した。父の古くからの友人であるウィリアム・ランドルフ大佐が西暦1745年に死んだ時、父は遺言執行人となり、タッカホーにあったランドルフの地所と遺児のトマス・マン・ランドルフ・ジュニアの面倒を見た。この年ジェファーソン家はタッカホーに移転し、そこで7年間過ごした後にアルベマール郡の自宅に戻った。父はその後当時の重要な地位である郡の大佐の位に指名された。西暦1757年、14歳の時に父が死に、ジェファーソンは約5000エーカー(20㎢)の土地と数十人の奴隷を相続した。トーマス・ジェファーソンはそこに家を建て、それを後にモンティチェロと呼ばせた。 16歳の時にウィリアムズバーグにある、ウィリアム・アンド・メアリー大学に入学し、大学教育を2年間受け、卒業した。感受性があり勤勉な学生であったトーマス・ジェファーソンは、全ての分野および家風に貪欲な好奇心を示し、1日に15時間勉強することも多かった。卒業後はウィリアム・アンド・メアリー大学に新設の法学部、英領アメリカ植民地では最初の法学教授ジョージ・ワイスと共に5年間法律を勉強し、ヴァージニア植民地で弁護士として多くの事件を扱った。西暦1768年、トーマス・ジェファーソンは新古典様式の邸宅モンティチェロの建設を始めた。モンティチェロはトーマス・ジェファーソンの奴隷プランテーションでもあった。70年間を通じて600人以上の奴隷を所有した。モンティチェロ・プランテーションにいる奴隷の多くは互いの間で結婚し子供達をもうけた。トーマス・ジェファーソンは煙突あるいは私室の掃除のような難しい仕事をさせるために重要な地位にある信用できる奴隷数人だけに給与を払った。直接労働の日に言及したものは無いが、ジェファーソンの奴隷は恐らく夜明けから日暮れまで季節によって長い短いはあっても一日中働いた。
 トーマス・ジェファーソンは法律実務を行う傍ら、西暦1769年からアルベマール郡選出のヴァージニア植民地議会議員となった。結婚する前に隣人のベッツィ・ウォーカーとの情事があった。西暦1772年トーマス・ジェファーソンは29歳で23歳の未亡人マーサ・ウェイルズ・スケルトンと結婚した。夫妻にははマーサ・ワシントン・ジェファーソン、ジェーン・ランドルフ、私生児で名前をつけなかった息子、メアリー・ジェファーソン・エプス、ルーシー・エリザベスおよびもう1人のルーシー・エリザベス6人の子供が生まれたが、長女マーサ・ワシントン・ジェファーソンと三女メアリー・ジェファーソン・エプス以外の4人は夭折した。妻のマーサは6人目を産んだ後の西暦1782年09月06日に死んだ。トーマス・ジェファーソンは妻の懇願により終生再婚しなかった。

 毛唐とか南蛮・紅毛と呼ぶべき、コーカソイド=白人は、狩猟遊牧民族であり、家畜の増殖と家畜を屠殺するのはお手の物で、黒人奴隷たちを交配して繁殖させ、次から次へと女黒人奴隷たちに子を産ませ、その子供たちをまとめて家畜小屋で飼育し、成熟すると売り捌くという人間牧場で奴隷繁殖商売に精を出していた。白人たちは、黒人制度を正当化するために、聖書に反してしまうので。「黒人には魂がない。」と信じた。白人は黒人を人間と思っていなかったので、普通の医者ではなく獣医に見せていた。
 また、奴隷の持ち主たちは黒人女奴隷を妾にしていたが、彼らの妻に隠していなかった。しかも、 奴隷との間に生まれた子も平気で奴隷 として売っていた。黒人女奴隷に子を産ませるのは黒人男奴隷だけでなく、農場主父子の務めでもあった。黒人女奴隷に種付け中毒になる農場主も多かった。
 従って、誕生するのは純血の黒人だけでなく、ムラート(Mulatto、2分の1混血)、クアドルーン(Quadroon、4分の1混血)、オクトルーン(Octoroon、8分の1混血)、ヘキサデカルーン(Hexadecaroon、16分の1混血)など様々で、中には白人と見間違えるような白い肌の者もいるが、白人としての純血至上で、黒人の血が一滴でも混じっていると奴隷として扱う。ディープステイトの犬の鬼畜、44代大統領、バラク・フセイン・オバマ2世(Barack Hussein Obama II)は、奴隷の産地ではない東アフリカのケニアのニャンザ州シアヤ県にあるニャンゴマ・コゲロ村出身のバラク・フセイン・オバマ・シニア(Barack Hussein Obama, Sr.)と母方の祖母はアメリカ先住民(アメリカ・インディアン)の生粋のチェロキー人で、イングランド系、スコットランド系、アイルランド系、ウェールズ系、フランス系、ドイツ系(スイス系、アルザス系)の移民を祖先に持つ雑多な白人のアン・ダナム(Dr. Stanley Ann Dunham Soetoro)の掛け合わせのムラートモドキだが、黒人と偽称される。異人種同士の両親を持った子供は、社会的階級が低い親の人種の方へ分類されることが通例となっていた。アメリカにいる黒人のほとんどは少しは白人の血が混入した合いの子で純血種は極めて少ない。原産地の西アフリカの黒人と顔つきが異なるのはこういった経緯に拠る。


マンディンゴ [DVD] - ジェームズ・メイソン, スーザン・ジョージ, ケン・ノートン, リリアン・ヘイマン, リチャード・フライシャー
マンディンゴ [DVD] - ジェームズ・メイソン, スーザン・ジョージ, ケン・ノートン, リリアン・ヘイマン, リチャード・フライシャー

 サリー・ヘミングス(Sally Hemings)の母エリザベス(ベティ)・ヘミングスはイギリス人船長のヘミングスとアフリカから連れてきた黒人奴隷女性の間に生まれた娘だった。ヘミングスの家族はトーマス・ジェファーソンの義父ジョン・ウェイルズに奴隷として所有されており、ジョン・ウェイルズはムラート(Mulatto、2分の1混血)のエリザベス・ヘミングスと長い性的関係が続き、6人の子供を儲けた。その末っ子がサリー・ヘミングスだった。特権階級の白人男性はそのような関係を否定または隠蔽したが、混血の子供達の存在がその事実を証明している。 ジョン・ウェイルズの死によりサリー・ヘミングスの家族ほとんど全員を娘のトーマス・ジェファーソンの妻であるマーサが相続した。マーサとサリーはどちらもジョン・ウェイルズを父とする異母姉妹であった。マーサは西暦1782年に死に、サリーをトマス・ジェファーソンに託した。ヘミングス家はモンティチェロの奴隷社会では最上層に属していた
 トーマス・ジェファーソンの有名な家庭のように、肌の色という概念的な問題ではなかった。時として、農園主は肌の色が明るい奴隷は彼らが血が繋がっている親戚であるという理由で農作業を免じ家僕として使役した。ジェファーソン家の奴隷の何人かはその義父とトーマス・ジェファーソンによって妊娠させられた奴隷女性の子供達であった。若い奴隷の女性サリー・ヘミングスはトーマス・ジェファーソンと性的関係があり、トーマス・ジェファーソンの妻が死んだ後、フランス王国から戻った後で生まれた。子供を生んだと言われており、トーマス・ジェファーソンの妻マーサの異母妹であった。
 DNA鑑定は、ジェファーソンの血筋の男性、恐らくトーマス・ジェファーソン自身がサリー・ヘミングスの子供の何人かの父親であった可能性を示している。ディープステイトのアメリカ合衆国建国の父の1人の特権階級だけに、隔靴掻痒の忖度説が笑止である。
 サリー・ヘミングスには、ハリエット・ヘミングス、ビバリー・ヘミングス(恐らくウィリアム・ビバリー・ヘミングスに因んだ)、名付けられなかった娘(恐らくヘミングスの姉妹テニアに因んでテニアと名付けられた)、ハリエット・ヘミングス、マディソン・ヘミングス(恐らくジェイムズ・マディソン・ヘミングスに因んだ)、エストン・ヘミングス(恐らくトマス・エストン・ヘミングスに因んだ)の6人の子供がおり、3男1女が成人した。サリー・ヘミングスの子供達のうち1人を除く全てがトーマス・ジェファーソンおよびランドルフの家系に繋がる名前を与えられ、そのことはトーマス・ジェファーソンに繋がっている。ランドルフ家の名前ではない子供は、トーマス・ジェファーソンの親友の1人ジェームズ・マディソンに因んでいる。」と記した。トーマス・ジェファーソンは6人の出生について、父親の名前を記録していない。他の奴隷の子が生まれた場合、その父親の名前を記していた。トーマスジェファーソンの記録の中には、ヘミングスを他の家族と区別するような言及はなされていない。サリー・ヘミングスが生んだ子供達のうちビヴァリー、ハリエット、マディソン、エストンの4人が成人し、トーマス・ジェファーソンはそのうちの2人については、彼等がほぼ21歳に達したときに解放した。トーマス・ジェファーソンの娘は、ジェファーソンの死後にサリー・ヘミングスに「自由時間」を与えた。これは当時の比較的よくあった習慣として年長の奴隷に好きなように時間を過ごさせるものだったが、解放するという意味ではなかった。サリー・ヘミングスは法的に奴隷のままで死んだ
 サリー・ヘミングスはモンティチェロで部屋付き女中として仕えた。ヘミングスが文字を読めたかは知られておらず、書き物も残していない。成長すると、モンティチェロの邸宅とは屋根付き通路で行き来できる部屋に住んだ。西暦1806年以降のヴァージニア州法では、解放奴隷は1年以内に州から去らねばならなかったので、サリー・ヘミングスは公式に解放されることはなかった。サリー・ヘミングスは、トーマス・ジェファーソンの意思で解放した5人の奴隷の中に入っていなかった。鑑定人がジェファーソンの資産を評価するためモンティチェロに到着したとき、56歳になっていたサリー・ヘミングスを「50ドルの価値がある老女」と表現した。ジェファーソンの長女マーサ・ジェファーソン・ランドルフは、明らかにヘミングスに「時間」を与えたが、これは非公式な自由であり、サリー・ヘミングスは余生をシャーロッツビルで過ごした。マーサが非公式な自由としていたので、サリー・ヘミングスはヴァージニア州から出て行く必要がなかった。

 マディソンとエストンは大工として訓練され、腕の高い叔父のジョン・ヘミングスの所で徒弟奉公した。男の子3人は全てヴァイオリンを弾くことを覚えた。ビヴァリーはモンティチェロの舞踏会で演奏を求められるほどになった。成人したエストンは音楽家として生きていけるだけのものを稼げるほど上達した。トーマス・ジェファーソンはヴァイオリンを好んだ。ハリエットは機織りを教わったが、奴隷の子の大半が働き始める年齢よりも遅い14歳で働き始めた。
 西暦1822年、ビバリーとハリエットはそれぞれモンティチェロ出身の成人として「逃亡」した。トーマス・ジェファーソンは彼らの後を追わせようとはせず、見付けようともしなかった。民生委員がハリエットの旅行費用を提供した。ハリエットはトーマス・ジェファーソンが法的に解放した唯一の女奴隷だった。ヘミングス家はモンティチェロを離れ法的あるいは「事実上」自由人として生きた唯一の家族だった。トーマス・ジェファーソンはその遺志でマディソンとエストンを解放し、議会には彼等が州内に留まることを許すよう請願もした。サリー・ヘミングスは「自由時間」を与えられた後でモンティチェロを去ることを許された。彼女はシャーロッツビルで死ぬまでの数年間、息子のマディソンやエストンとは離れて暮らした。しかし、子供達のうちの2人と同様に奴隷という法的な身分は変わらなかった。法によってジェファーソンは自立できる奴隷のみを解放することができた。西暦1830年の国勢調査では調査員がヘミングス家のうちの3人を白人に分類した。ヘミングスの子供たちのうち3人は、白人として通すことを選んだ。
 ハリエットは、モンティチェロの監督者に言わせれば、「ほとんどそこらの白人と同じで大変美しい」人であり、モンティチェロを離れた後で白人と結婚した。ビヴァリーも良い境遇にある白人と結婚し、エストンはオハイオ州に転居して名前をエストン・ジェファーソンに変え、白人として暮らした。ビヴァリーとハリエットは弟のマディソンに拠れば、「良家の」白人の相手と結婚し、白人社会に入った。マディソンは西暦1873年にS・F・ウェットモアによるインタビューを元に出版した回想記「パイク郡の共和主義者」でその他のことと共にこのことを回想した。マディソンは彼とその兄弟がトーマス・ジェファーソンの子供であり、トーマス・ジェファーソンは母のサリー・ヘミングスに「子供達が大きくなったら解放することに合意した。」と述べた。マディソンとエストンは混血の女性と結婚した。母の死後、家族と共にヴァージニアを離れ、オハイオ州チリコシーに移転した。そこには大きな解放黒人の社会があり、多くの白人の間にも奴隷制廃止にむけた強い感情があった。ウェットモアの記事が掲載される何年も前に兄弟のトーマス・ジェファーソンとの関係に関する地元での談話があり、西暦1902年の記事に掲載された。
 西暦1852年、エストンは家族と共にウィスコンシン州に移り、そこで姓をジェファーソンに変えた。同時に彼と家族は白人社会に入った。エストンの長男ジョン・ウェイルズ・ジェファーソンは南北戦争では白人士官として従軍し大佐の位まで進んだ。
 マディソン・ヘミングスは白人として暮らすことを選ばなかった唯一の子供だった。息子の1人は南北戦争のときに有色人聯隊に入り、アンダーソンビル捕虜キャンプで死んだ。マディソン・ヘミングスもその兄のビヴァリー・ヘミングスも、その男系の子孫が南北戦争で絶えた。一番下の弟エストンの男系子孫とマディソン・ヘミングスの3人の娘サラ、ハリエットおよびエレンの男系子孫が残っている。西暦20世紀に入ってマディソンの孫の1人フレデリック・マディソン・ロバーツはカリフォルニア州議会で初のアフリカ系アメリカ人議員となり、西海岸の州では初の公職に就いた黒人で、カリフォルニア州議会に勤めた。

 アメリカ独立戦争(西暦1775〜1783年、アメリカ革命)が始まった直後の西暦1775年06月、トーマス・ジェファーソンは第2次大陸会議のヴァージニア代議員の1人になり、決議案に伴う宣言を準備するためのジョン・アダムズ、ベンジャミン・フランクリンを含む五人委員会委員に指名され、「筆が立つ。」との評判があったために初稿執筆者に選任した。4頁からなるトーマス・ジェファーソンの独立宣言の草稿は06月11日から書き始められ、五人委員会に見せ、それが最終版になって、06月28日に大陸会議に提出された。07月02日に独立決議案が可決された後、大陸会議は宣言の方に注意を向けた。数日間の議論によって大陸会議は言葉遣いを修正し、全文の4分の1近くを削除した。削除された部分は大西洋奴隷貿易を批判したものであり、イギリスの奴隷制に対する痛烈な批判も含まれていたが、アメリカの奴隷主に配慮した。この修正にトーマス・ジェファーソンは不満だった。07月04日、アメリカ独立宣言が承認された。この宣言は結果としてトーマス・ジェファーソンの名声を上げるものとなった。 独立宣言の採択後はヴァージニアに帰り、09月には新しいヴァージニア邦議会の議員に選出された。
 ヴァージニア邦知事を務め、西暦1780年アメリカ独立戦争でリッチモンドが英軍に占領され、モンティチェロに避難した。世論はトーマス・ジェファーソンの敵前逃亡を非難した。
 西暦1783年にヴァ―ジニア邦議会から連合会議代表に選出され、西暦1785〜1789年、駐フランス公使でトーマス・ジェファーソンはパリに長女マーサ・ワシントン・ジェファーソンと三女メアリー・ジェファーソン・エプスを伴っており、モンティチェロからヘミングス家の2人の黒人奴隷も連れてきていた。ジェームズ・ヘミングスに、授業料を払いフランスのシェフとして訓練させた。ジェームズ・ヘミングスはジェファーソンがフィラデルフィアに居るときにシェフを務めた。ジェームズの妹のサリー・ヘミングスは亡妻の異母妹でもあったが、トーマス・ジェファーソンの幼い娘に付いて海外に渡った。トーマス・ジェファーソンはこのパリでサリー・ヘミングスとの長い関係を初め、彼が死ぬまで関係は続き子を儲けている。 トーマス・ジェファーソンフランス革命勃発直前のフランス社会を具に観察し、農民の犠牲の上に成り立っていることを強く感じた。ジェファソンは社交界や貴族の特権階級と多くの友好関係を築いたが、西暦1789年にフランス革命が始まったときは革命支持者の側に回った。
 フランス王国から帰国後は、初代大統領ジョージ・ワシントンの下で、初代国務長官トーマス・ジェファーソンと、やはりアメリカ合衆国建国の父の初代財務長官 アレクサンダー・ハミルトン(Alexander Hamilton)は国家の財政政策、特に戦時負債の資金集めについて争論を始めた。アレクサンダー・ハミルトンは負債が各州で平等に負担されるべきもの、トーマス・ジェファソンは各州がそれぞれに負った負債について責任があるものと考えた(ヴァージニア州は独立戦争の間に多くの負債を抱えてはいなかった)。アレクサンダー・ハミルトンは連邦党を、ジェームズ・マディソンは民主共和党を設立した。トーマス・ジェファソンは公職を離れ西暦1793年暮れに20数年ぶりにモンティチェロに戻り、そこでアレクサンダー・ハミルトンやジョージ・ワシントンに対する反対運動を画策した。しかし、アレクサンダー・ハミルトンが主導した西暦1794年のジェイ条約がイギリスとの和平と貿易復活を齎した。
 アレクサンダー・ハミルトンは西暦1794年にマリア・レイノルズ事件でその名声が傷つき、後に父子共に決闘で殺された。マリアの夫ジェームズ・レイノルズはアレクサンダー・ハミルトンと妻マリアとの性的関係を認めていたにも拘わらず、ジェームズ・モンローは事の詳細を公表しないことを約束したが、トーマス・ジェファーソンにはその積りがなかった。ハミルトンは情事の公表を強いられ、それは家族および支持者に衝撃を与えた。噂された不義によるジェームズ・モンローとの決闘は前上院議員のアーロン・バー・ジュニア(Aaron Burr Jr.)によって避けられた。皮肉にもアーロン・バー・ジュニアは後のマリア・レイノルズの離婚訴訟において、いくつかの疑問を提示することでアレクサンダー・ハミルトンを元気づけた。しかしながら、アレクサンダー・ハミルトンとアーロン・バー・ジュニアのニューヨーク法曹界における関係は、憎悪であった。実際彼らの家族はしばしば関係することがあった。アーロン・バー・ジュニアが西暦1791年の上院議員選でアレクサンダー・ハミルトンの義父フィリップ・スカイラーを破った時、アレクサンダー・ハミルトンはアーロン・バー・ジュニアを陥れるための秘密工作を始めた。アレクサンダー・ハミルトンの西暦1795年の財務長官辞任は公の活動からの引退とはならなかった。アレクサンダー・ハミルトンはジョージ・ワシントンの退任演説に影響を及ぼしていた。アレクサンダー・ハミルトンは西暦1792年の大統領選挙でのアーロン・バー・ジュニアの副大統領候補選出への希望に反対し、西暦1798年にはアーロン・バー・ジュニアが准将に任命されるのを防ぐためにジョージ・ワシントンを通じて影響を及ぼした。
 西暦1796年のアメリカ合衆国大統領選挙で民主共和党の候補者のトーマス・ジェファーソンは、連邦党のジョン・アダムズに敗れ、選挙人投票で2位で、2代大統領ジョン・アダムズの副大統領に就任した。アレクサンダー・ハミルトンと、ジョージ・ワシントンの後任ジョン・アダムズとの関係は緊張していた。フランス共和国共和国第1共和政(西暦1792〜1804年)との宣戦布告なき海洋戦争である擬似戦争が進行している中で、ジョン・アダムズが指導する連邦党は海軍を作り、陸軍を強化し、新しい税を課し、戦争の準備をし、また西暦1798年には外国人・治安諸法を制定した。トーマス・ジェファーソンは外国人・治安諸法が危険な敵性外国人よりも自分の民主共和党に対する攻撃と解釈した。
 連邦党の大統領候補としてジョン・アダムズの指名を妨げようとするアレクサンダー・ハミルトンの工作は党を分割し、西暦1800年の大統領選でトーマス・ジェファーソン派の民主共和党党員の勝利に寄与した。 トーマス・ジェファーソンはニューヨーク州出身のアーロン・バー・ジュニアと密接に協力しながら民主共和党を糾合し、特に新税を攻撃し、西暦1800年のアメリカ合衆国大統領選挙に打って出た。当時の習慣に従い、公然たる選挙運動はしなかった。アメリカ合衆国憲法修正第12条の成立前に、この新しい国の選挙制度の問題が露呈した。選挙人選挙でジェファソンとアーロン・バー・ジュニアの得票数が同数で1位となり、アメリカ合衆国下院(このときはまだ連邦党が多数党)で当選者を決めることになった。連邦党が支配する下院で行われた長い討議の後で、アレクサンダー・ハミルトンは「ジェファーソンがバーよりも政治的悪にはならないだろう。」と自党を説得した。「このような選挙制度の醜聞は新生間もないこの国を弱めることになるだろう。」とも言った。西暦1801年02月17日、下院での31回目の投票が行われてトーマス・ジェファーソンが大統領に、アーロン・バー・ジュニアが副大統領に選ばれることで、この問題は決着した。
 この時の選挙でトーマス・ジェファーソンが連邦党のジョン・アダムズに勝利した事は当時、選挙人選挙制度が5分の3妥協(奴隷人口の5分の3を各州自由人人口に加算し、その総数で選挙人数が割り当てられた)に準拠していたことを明るみに出し、嘲笑の対象となった。トーマス・ジェファーソンが選ばれたことは、南部が奴隷を保有しているために南部の選挙人数が増されていることに拠っていた。つまりトーマス・ジェファーソンの得た選挙人票のうち12票は選挙権が無く、その人間性も否定されている奴隷の数から得ていたものだった(トーマス・ジェファーソンとジョン・アダムズの選挙人選挙得票数の差は8票)。トーマス・ジェファーソンが当選した後に「ニグロ大統領」と嘲られ、「マーキュリー・アンド・ニューイングランド・パラディウム・オブ・ボストン」紙の西暦1801年01月20日版では、「トーマス・ジェファーソンが『奴隷の肩に負わせた自由の神殿』を勝ち得たときに民主主義の勝利としてその当選を祝う苦痛があった。」という批判記事が載った。
 ジェファーソンは小農や商店主などの労働者の大集団を確実に支持者として集め、その支持者は自分達のことを西暦1800年の大統領選挙で民主共和党員だと主張した。ジェファーソンはアメリカ人の理想主義に訴えたために特別の恩恵を蒙ることになった。新首都ワシントンD.C.デ最初のものとなったジェファーソンの就任演説では、住民の間の秩序を保つために「賢く質素な政府」を約束したが、「一方で住民は産業に従事しまた改善を加えることを自由に統制できる。」

 アレクサンダー・ハミルトンの長男フィリップ・ハミルトン(Philip Hamilton)は、母親がエリザベス・スカイラー・ハミルトン、ジョージ・ワシントン政権の大陸軍将軍フィリップ・スカイラーの娘で、祖父の名前をそのまま付けた。アレクサンダー・ハミルトンは、赤子の時の長男について「将来の偉大さのあらゆる予兆とともに迎えられた。」と書き、親馬鹿そのもので長男に高い期待と希望を表明し続けた。
 西暦1801年07月04日、ジョージ・イーカーというニューヨーク州の弁護士が、ニューヨーク州民兵旅団とタマニー協会の主催で独立記念日の演説を行った。 タマニー協会は、アーロン・バー・ジュニアが政治機構に組み込んだ民主共和党の政治組織で、ジョージ・イーカーは演説の中で、「アレクサンダー・ハミルトンはトーマス・ジェファーソンの大統領職を武力で打倒することには反対しない。」と語った。4ヶ月後の西暦1801年11月20日、コロンビア大学を卒業したフィリップ・ハミルトンと友人スティーブン・プライスはパーク劇場で演劇を観に行った際にジョージ・イーカーに出くわし。 フィリップ・ハミルトンはこの演説についてジョージ・イーカーと対決し、その後の騒動でジョージ・イーカーはフィリップ・ハミルトンとスティーブン・プライスを「damned rascals(忌まわしいチンピラども、糞っ垂れ野郎ども)」と罵ったのが聞かれた。 言葉による敵意とジョージ・イーカーの侮辱に応えて、2人は正式にジョージ・イーカーに決闘を申し込んだ。アレクサンダー・ハミルトンが息子に、決闘中に初弾は、意図的に相手から外すために空中に向かって発砲する(デロープ)で行うように忠告した。決闘はニュージャージー州パウルス・フック(現在のジャージーシティ)で行われた。後にアーロン・バー・ジュニアとの決闘でアレクサンダー・ハミルトンが致命傷を負う場所から数マイル離れた場所である。 ジョージ・イーカーはフィリップ・ハミルトンとスティーブン・プライスと別々に対戦し、挑戦の翌日にはスティーブン・プライス、翌日にはフィリップと決闘した。 ジョージ・イーカーとスティーブン・プライスの決闘では4発の銃弾が発砲されたが、双方とも負傷はなかったが、翌日、11月23日、フィリップ・ハミルトンは父親の言う通り、ジョージ・イーカーと10歩数えて向かい合った後も拳銃を発砲しなかった。 ジョージ・イーカーもこれに倣い、発砲しなかった。 最初の1分間、両者は何もせずに立ったまま、発砲を止めていた。1分後、イーカーはついに拳銃を振り上げ、フィリップ・ハミルトンも同様にした。ジョージ・イーカーが発砲し、フィリップ・ハミルトン右腰の上に命中した。 弾丸は体を貫通し、左腕に突き刺さった。 不随意の痙攣だったのかも知れない。フィリップ・ハミルトンも地面に崩れ落ちる前に拳銃を発砲したが、この弾丸は何の効果もなかった。
 フィリップ・ハミルトンは血を流して地面に倒れた。ニューヨーク・ポスト紙は「地上での彼の態度は言葉では表せないほど穏やかで落ち着いていた。」と報じた。 「寛大な節制による最終的な勝利から得られるであろう満足感を期待して、自分自身が危険に晒されているという考えは失われていたようだった。」
その後、フィリップは川を渡ってマンハッタンにある叔母のアンジェリカ・スカイラー教会に急送された。決闘のことを聞いたアレクサンダー・ハミルトンは、医療処置が必要になる可能性があることを伝えるため、西暦1804年の自身の決闘の後にも彼を担当することになる同じ内科医デイビッド・ホサック医師の家に急いだ。デイビッド・ホサックの家族はアレクサンダー・ハミルトンに対し、「デイビッド・ホサックはすでに決闘のことを聞いており、フィリップ・ハミルトンの叔父と叔母であるジョンとアンジェリカの教会の家に向かってすでに出発しており、そこにフィリップ・ハミルトンが運び込まれた。」と語った。デイビッド・ホサック医師は、アレクサンダー・ハミルトンがホーサック家に到着したとき、「不安のあまりに気を失い、十分に回復して息子に会うために教会の家に向かうまでしばらく家の中に残った。」と書いている。アレクサンダー・ハミルトンが到着すると、フィリップ・ハミルトンの顔の青白く青白い様子を観察し、脈拍を検査した。 デイビッド・ホサック医師によれば、「彼は即座にベッドから向き直り、悲しみの苦しみの中で握った私の手を取って、決して忘れられない口調と態度で『先生、私は絶望だ。』と叫んだ、」フィリップ・ハミルトンの母親はこの時妊娠3ヶ月で、到着すると彼女とアレクサンダー・ハミルトンは一晩中フィリップ・ハミルトンの隣にいた。 信仰告白を行った後、フィリップ・ハミルトンは撃たれてから14時間後の午前5時に息を引き取った。
 フィリップ・ハミルトンは嵐の日に多くの弔問客に見守られながら埋葬された。 アレクサンダー・ハミルトンは息子の墓に近づくと、悲しみのあまり崩れかかり友人や家族に抱き抱えられなければならなかった。フィリップ・ハミルトンの死後、彼の家族は混乱に陥った。 彼の17歳の妹、アンジェリカ・ハミルトンは精神的衰弱を患い、恢復することはなかった。 彼女の精神状態は悪化し、ついには断続的に意識が朦朧とし、時には家族さえも認識できなくなり、彼女は残りの人生を「永遠の子供時代」と形容されるような状態で過ごし、しばしば兄がまだ生きているかのように話していた。

タマニー・ホール(Tammany Hall)
西暦1790年代〜1960年代にかけてに存在したアメリカ民主党の派閥、関連機関。タマニー・ホールの前身は慈善団体タマニー協会(Tammany Society)で、西暦1772年にフィラデルフィアで結成された関連諸団体の一地方支部として、西暦1789年05月12日、マンハッタンで家具職を営んでいたウィリアム・ムーニー を初代会長に据えニューヨークにて設立した。タマニーの語源は植民地時代のデラウェアに居住していた先住民(アメリカ・インディアン)レナペ族の酋長タマネンド(セント・タマニー)に由来する。西暦1798年までには政治色を帯び、非協会員のアーロン・バー・ジュニアが2代会長に就任したのを切っ掛けとして政治の装置に変貌し、市政では民主共和党の中心にまで登り詰めた。アーロン・バー・ジュニアは自身が副大統領に当選した西暦1800年の大統領選で協会を総活用したこともあり、「タマニー協会が無ければ現職のジョン・アダムズが再選されていたであろう。」と言われている。民主共和党が解散した西暦1829年以後は民主党に合流し市議会を牛耳るようになるが、この間協会の新たな本部が「タマニー・ホール」として東14丁目に完成し、ホールの名が団体名として広く知られ始めた。当時拡大の一途を辿っていた移民居住地区を票田としながら、市政を牛耳り、西暦1854年のフェルナンド・ウッドから西暦1932年のジョン・P・オブライエンに至るまで市長を独占した他、西暦1928年には幹部でニューヨーク州知事のアル・スミス(アルフレッド・エマニュエル・スミス・ジュニア(Alfred Emanuel Smith, Jr.))が民主党の大統領候補に選出され殷賑を極めた。買収および供応を含む移民に対する集票工作が政治腐敗を招き、西暦1800年代半ばのウィリアム・M・トウィードが会長を務めていた時代には悪名を轟かせるなど、「タマニー・ホール」と言えば票の買収操作の代名詞となった。

 アーロン・バー・ジュニアは西暦1799年、水道事業者だったマンハッタン社(The Manhattan Company)を銀行に転換させ、マンハッタン銀行(Bank of Manhattan)を設立した。西暦1955年にマンハッタン銀行がチェース・ナショナル銀行を買収してチェース・マンハッタン銀行(The Chase Manhattan Bank)となり、西暦1960年チェースマンハッタン銀行が「マスターチャージ」を発行し、西暦1962年に現在の「マスターカード(MasterCard)」に名称変更し、現在に至る。
 西暦1823年に創業された化学工業会社、ニューヨーク・ケミカル・マニュファクチャリング(The New York Chemical Manufacturing Company)の子会社、ケミカル・バンク・オブ・ニューヨーク(Chemical Bank of New York)が翌西暦1824年04月に金融業務へ参入しケミカル銀行となった。西暦1945年10月頃、占領下日本が貿易するのに使われる外貨中心の対外決済資金をアメリカ陸軍省がケミカル銀行に預託した。この決済資金は後に連合国軍最高司令官総司令部(General Headquarters, the Supreme Commander for the Allied Powers、SCAP)=GHQへ移管され、手続が西暦1951年08月末まで続いた。ケミカル銀行はロビー団体のアメリカ対日協議会(American Council on Japan,、ACJ)と癒着していた。 アメリカ対日協議会(ACJ)の中心人物は13代駐日米大使ジョセフ・クラーク・グルー(Joseph Clark Grew)と参事官ユジーン・H・ドゥーマン(Eugene Hoffman Dooman)で、グルーの刎頸の友松岡洋右の甥である岸信介・佐藤栄作らと、吉田茂およびドレイパーの腹心池田勇人 が、日本で権力を振るいながら閨閥を組織している(いわゆる自由民主党の「保守本流」は池田勇人・佐藤栄作の派閥の流れであり、安倍晋太郎・安倍晋三は岸の娘婿・孫である)。
 ケミカル銀行は西暦1996年、チェース・マンハッタンを買収したが、新社名には買収先を残した。さらに西暦2000年、チェース・マンハッタンがJPモルガン・アンド・カンパニー(JPM)と経営統合しJPモルガン・チェース(JPMorgan Chase & Co.) となった。本社機能はケミカル銀行のものを引き継いでおり、また法定手続上の直接の前身である。 チェース・マンハッタン銀行現在のJPMチェース銀行のロゴは前身のチェース・マンハッタン銀行のものであり、そしてさらに前身のマンハッタン銀行のものである。おぞましいディープステイトの揺籃の地と言える。


 アメリカ独立戦争時、貧弱な軍備のために敵前逃亡した苦い経験から、富国強兵政策を推進した。トーマス・ジェファーソンは連邦政府の多くの税を撤廃し主に関税収入に頼ろうとした。ジョン・アダムズ政権で成立しており、トーマス・ジェファーソンが違憲と信じていた外国人・治安諸法の下で投獄されていた人々を釈放した。西暦1801年の司法権法を撤廃し、ジョン・アダムズの「真夜中の判断」で任命されていた多くの判事を解職した。ジョン・アダムズ政権の任期の終わる前の数日間で大半の人事を公式に指名されたのでこの名がある。ジョン・アダムズの最も大きな遺産は、健康を害して辞任したオリバー・エルスワース連邦最高裁判所長官の後任に4代連邦最高裁判所長官ジョン・マーシャル(John Marshall)を指名したことだった。ジョン・マーシャルは合衆国憲法に熟考を重ね、丁寧に国家的解釈を行い、司法府を行政府や立法府と対等な立場のものとして確立したので、その長い任期は連邦党の影響を長く続かせた。多くの判事の入れ替えで世界で初めて違憲審査制を確立した事件「マーベリー対マディソン事件」に関する重要な最高裁判所判決が導かれることになった。
 トーマス・ジェファーソンは、アメリカとして宣戦布告の手続きがされた正式な対外戦争となった第1次バーバリ戦争(トリポリ戦争、西暦1801〜1805年)を起こした。アメリカ合衆国と地中海の北アフリカ沿岸のバルバリア諸国(オスマン帝国の支配下で、独立した政権を維持しオスマン帝国から任命されたパシャが統治する独立採算州)のトリポリ(現リビア国(西暦2013年〜)の首都)との間で通行料をめぐって行われた戦争に勝利した。ダーネの戦いが初めての海外派遣での本格的な戦いで、アメリカ海兵隊が海外の占領地に初めて星条旗を翻した。 第2次バーバリ戦争(アルジェリア戦争)は西暦1815年に起こった。西暦1803年、連邦議会の土地を購入する権限について合憲性に疑念があったにも拘らず、ミシシッピー川以西のルイジアナをフランス共和国第1共和政統領政府(西暦1799年〜1804年)から1500万ドルで買収した(アメリカの小学生用歴史教科書にはトーマス・ジェファーソンは、「我が国のために、恐らく史上最大のお買得品を買い上げた。」と紹介されている。)こうして得られた土地は現在のアメリカ合衆国領土の23%に当たる。また、ルイス・クラーク探検隊(西暦1804〜1806年)を送り、西部侵略の布石も打っている。
 ルイジアナ買収の数週間後にイギリス王国(グレートブリテン及びアイルランド連合王国(西暦1801〜1922年))とナポレオンのフランス帝国(第1帝政(西暦1804〜1914、1815年))との間に戦争が勃発した。合衆国はヨーロッパへの農産品の輸出に頼っていたので、戦争をしている両大国に食料や原材料を輸出し、国内市場とカリブ海の植民地の間で商品を輸送することから利益を生み出そうとした。両大国とも利益に繋がるときはこの貿易を支持し、そうでない時は反対した。西暦1805年のトラファルガーの海戦でフランス海軍が敗れると、イギリス王国はフランス帝国の海洋貿易の締め付けを実施した。またアメリカのフランス向け貿易に対する報復措置として、緩い海上封鎖を実施した。

 連邦党のアレクサンダー・ハミルトンは自慢の長男フィリップを民主共和党員ジョージ・イーカーに殺された。トーマス・ジェファーソンの大統領就任後、アーロン・バー・ジュニアではなくアレクサンダー・ハミルトンの起用を選択したことはアーロン・バー・ジュニアに対するアレクサンダー・ハミルトンの最初の打撃だった。次の西暦1804年の選挙の時、トーマス・ジェファーソンがアーロン・バー・ジュニアを副大統領候補から外すとしたことで、アーロン・バー・ジュニアのトーマス・ジェファーソンに対する悪意が生じた。アーロン・バー・ジュニアは西暦1804年の大統領選挙でトーマス・ジェファーソンの副大統領候補として指名されない見通しとなり、代わりにニューヨーク州知事選に出馬した。バーは無所属候補として出馬したが、知名度の低い民主共和党の候補モルガンルイスに大差で敗れた。 知事選の際には民主共和党員アーロン・バー・ジュニアへの侮辱的な演説を行った。2人は法曹界に於いて長年の仇敵であった。アレクサンダー・ハミルトンは西暦1804年にニューヨーク州知事選に連邦党から出馬しようとしたが、無所属候補として出馬した。ある新聞がチャールズ・D・クーパーのアレクサンダー・ハミルトンによるものと思われる「卑劣な見解」を掲載した。政治的名誉回復の機会と考えたアーロン・バー・ジュニアはアレクサンダー・ハミルトンに対して謝罪を要求した。アレクサンダー・ハミルトンは「アーロン・バー・ジュニアが新聞の言及した事実を証明できなかった。」として要求を拒絶した。
 アーロン・バー・ジュニアは決闘を申し込むことで応えた。アーロン・バー・ジュニアとアレクサンダー・ハミルトンの決闘は、3年前にハミルトンの息子フィリップが父親の名誉を守るために決闘を行い敗れた場所と同じニュージャージー州ウィホーケンの岩棚の上で西暦1804年07月11日に行われることとなった。アレクサンダー・ハミルトンは息子の死から決闘に反対したが、決闘は夜明けに始まりバーはハミルトンの下胸部を撃った。アレクサンダー・ハミルトンの銃弾はバーから外れたとも言われるし、銃が点火しなかったとも言われる。ハミルトンは翌日翌日死亡した。 アーロン・バー・ジュニアはその後2つの州に於いてアレクサンダー・ハミルトンに対する殺人とその後の反逆罪で告発されたが、ニューヨークから逃亡し、両管轄において審判されることはなかった。彼はサウスカロライナ州に逃亡し、その後ワシントンD.C.に戻り、3代副大統領としての任期を全うし、 西暦1836年に死去した。

 トーマス・ジェファーソンはアーロン・バー・ジュニアが決闘でアレクサンダー・ハミルトンを殺した後で、アーロン・バー・ジュニアを候補者から外した。西暦1807年、トーマス・ジェファーソン政権では最初の副大統領だったアーロン・バー・ジュニアがトーマス・ジェファーソンの命令で反逆罪で裁判に掛けられたが、無罪となった。この裁判では首席裁判官のジョン・マーシャルがトーマス・ジェファーソンを召還したが、トーマス・ジェファーソンは大統領特権を行使し、「大統領として従う必要は無い。」と主張した。ジョン・マーシャルが「憲法では裁判所命令に従う任務について大統領に例外を認めていない。」と主張し、ジェファーソンが折れた。2期目の終わりに、議会とジェファーソンは、「イギリス王国が合衆国以外から食料を買い付けることはないだろう。」と信じて、西暦1807年の通商禁止法により外国との貿易を中断し、イギリスがアメリカ海岸での海上封鎖を解くことを期待した。しかし、イギリス王国が食料の供給源を他に見出したために、通商禁止法はアメリカの農業輸出を壊滅させ、アメリカの港の力を弱らせた。 撤廃された通商禁止法が効果が無かったことはトーマス・ジェファーソンの評判を傷つけた。西暦1803年、トーマス・ジェファーソンは黒人をアメリカ合衆国の郵便を運ぶ業務から排除する法案に署名した。西暦1807年03月03日、ジェファーソンはアメリカ合衆国で奴隷の輸入を違法とする法案に署名した。

 トーマス・ジェファーソンは、大統領として先住民(アメリカ・インディアン)の強制移住政策を公式に立案した。「先住民(アメリカ・インディアン)民族の強制移住」という民族浄化は、アンドリュー・ジャクソン(Andrew Jackson)が始めたと誤認される向きが多いが、これはアンドリュー・ジャクソンが7代大統領就任中の西暦1830年に連邦議会が「インディアン移住法」を成立させたからであり、またアンドリュー・ジャクソン自身が軍人として、また大統領として数多くのミシシッピー以東の先住民(アメリカ・インディアン)民族に対する絶滅作戦に自ら関わったからだった。しかしアンドリュー・ジャクソンは単に、トーマス・ジェファーソンが西暦1803年に始まる一連の私文書の中で立てた計画を法制化し実行した。
 トーマス・ジェファーソンが合衆国の植民地領土を拡大するために、初めて「先住民(アメリカ・インディアン)の強制移住」を政策立案したのは西暦1776〜1779年の間のことであり、これはチェロキー族(チェロキー語: ᏣᎳᎩ、tsa-la-gi、Cherokee)やショーニー族(Shawnee、またはシャワノ族(Shawano))といった連合国家を、その先祖伝来の土地からミシシッピー川以西へと強制的に追い出すというものである。トーマス・ジェファーソンの先住民(アメリカ・インディアン)絶滅政策の手始めは、ジョージア州でのチェロキー族国家をどう排除するかということで、これはもしジョージア州が西方に「発見」した「新しい土地」の公式な権利を手放すようなことになれば、米軍はジョージア州を全力で援助し、ジョージアからチェロキー族を強制的に追放するというものだった。当時チェロキー族は、アメリカ合衆国政府と彼らの領土権の保障条約を締結しており、トーマス・ジェファーソンはジョージア州と結託してこれを踏み躙った。
 合衆国と先住民(アメリカ・インディアン)との国家間条約の第1号は西暦1778年に、「デラウェア族が合衆国独立に味方した。」として、デラウェラ族を中心とした先住民(アメリカ・インディアン)国家の組織を連邦認定するというものだった。ジェファーソンはインディアンとの連邦条約を積極的に行い、条約と込みになった保留地制度を推し進めた。「保留地」(Reservation)とは、将来全ての土地が合衆国のものとなるまで、内務省が先住民(アメリカ・インディアン)のために「特別に取っておいた(Reserve)土地」のことで、先住民(アメリカ・インディアン)部族に領土を与えることで、西方の白人のいない土地に移住させてしまうというものである。彼らが領土としている土地は白人入植者にとっては魅力的な肥沃な地であることが多く、植民地拡大のためには先住民(アメリカ・インディアン)たちにそこを立ち退かせ、「年金(食糧)と引き換えに遠方の保留地に定住させる。」というこの計画は理想的解決法と見られた。
 トーマス・ジェファーソンの計画は、全ての先住民(アメリカ・インディアン)と条約を結び、「国家」として保留地に定住させ、その独自の文化、宗教および生活習慣を捨てさせて、合衆国が監督する「部族政府」を設立させ、白人文化、耶蘇教、および定住農耕生活を強制するという同化政策だった。この計画が完了するには、「1000年は掛かるだろう。」とトーマス・ジェファーソンは予測した。しかし現実には先住民(アメリカ・インディアン)との条約締結は明治01(西暦1868)年で終了した。拡大する白人の入植は、トーマス・ジェファーソンの予想よりもはるかに早く凄まじいものだった。トーマス・ジェファーソンの予測では、「狩猟採集生活を送る先住民(アメリカ・インディアン)達を農耕民として白人と同化させれば、彼らは白人との交易に経済的に依存するようになり、広大な領土は必要なくなり、商品との交易あるいは未払いの負債を返すために土地を手放すようになるだろう。」というものだった。
 西暦1803年、トーマス・ジェファーソンはウィリアム・ヘンリー・ハリソンに宛てた手紙に次のように書き記している。「彼らは手放してもよいが、我々はどうしても欲しい『土地』と、我々は手放してもいいが彼らが欲しいというものを交換するというこの計画を促進するために、我々は『交易』を推し進めるだろう。そして、彼らがその交易品のおかげで借金が出来た時、彼らの中でも影響力のある個人がその借金で右往左往するのを見て喜ぶことになるだろう。何故なら我々は、その個人がこれらの借金を返せず、これを棒引きにするために土地を譲渡せざるをえなくなるのを見守ることになるからだ。...こうすれば我々の植民地は、次第にインディアンたちを取り囲み接近していくことになり、彼らは時が来れば合衆国の市民として取り込まれるか、もしくはミシシッピー川の向こう側に移住するということになる。前者は確かに彼らにとって最も幸福だった歴史の終わりである。しかし、この手順では、彼らの愛情を育むことが欠かせない。恐らく我々の強大さに対する弱さを彼らは怖れているだろうから、我々は彼らを叩き潰す手を止めているだけなのだということを、彼らは分からねばならない。それに我々の彼らに対する寛大さの全ては、純粋に人道的な動機から出ていることを分からせばならない。もし如何なるときにも彼ら部族が向こう見ずに「手斧 (the hatchet)」を振り上げるならば、和平の唯一の条件として、その部族の土地を全て取り上げミシシッピー川の向こうに追い遣ることが他の部族への見せしめになり、最終的な統合に向かうことになるだろう。
 トーマス・ジェファーソンは先住民(アメリカ・インディアン)たちが同化政策に抵抗したならば、彼らをその領土から強制退去させ、白人のいない西部に強制定住させるべきだと考えていた。トーマス・ジェファーソンを初め白人たちは先住民(アメリカ・インディアン)の部族国家での酋長を独任制の首長と誤解し、彼らと条約を結べば全部族民がこれに従うものと捉えて、和平委員会を酋長たちと面会させ、数々の条約に署名させた。この「署名」とは、文字を持たない先住民(アメリカ・インディアン)に「✕印」を書かせる、というものであった。先住民(アメリカ・インディアン)の社会は基本的に合議制であり、「部族長」や「首長」は存在しない。白人たちが「指導者」だと思っている酋長は、単に部族の中の「調停者」、「世話役」あるいは「奉仕者」に過ぎず、彼らに部族民を「率いる」ような権限はなかった。だが白人たちは酋長たちの署名を全ての条約の承認と捉え、これに基づいて強制移住その他先住民(アメリカ・インディアン)政策を推し進めた。部族の合議を経ていない力づくの「和平」は、部族を反発させるだけだった。「全てのものを共有する」先住民(アメリカ・インディアン)文化において、土地は誰のものでもなかった。「酋長が紙に✕印を書いたから見たこともない遠くの土地へ引っ越せ。」と強要されて、黙っている先住民(アメリカ・インディアン)部族などなかった。白人の誤解は血みどろの「インディアン戦争」を生み、合衆国による民族浄化を激化させていった。
 西暦1807年、トーマス・ジェファーソンは彼は陸軍長官のヘンリー・ディアボーン将軍(インディアン問題の最高閣僚)にこう指示している。「インディアンの抵抗者とは「手斧 (the hatchet) で会う(殺し合う)」べきだ。そして、...我々はどんな部族だろうと、その部族が皆殺しにされるか、ミシシッピ川の向こうへ追い詰めるまで、我々は決してそれ(手斧)を置かないだろう。...戦争では、彼らは我々の一部を殺すだろう。我々は、彼らの全てを破壊するのだ。」
 西暦1812年、トーマス・ジェファーソンは次の声明を出した。「アメリカ人はインディアンどもを、森のけだものと一緒にストーニー山脈の奥へ押し込まなければならない。」西暦1813年トーマス・、ジェファーソンはアレクサンダー・フォン・フンボルトに宛てて次の手紙を送った。「友よ、ご存知のように我々は我々の近くに居る原住民の幸福のために、ここで善意ある計画を追求している。我々は彼らとの平和を保つために何も出し惜しみしなかった。彼らに農業と最も必要な技術の基本を教えること、および彼らの間に別の資産を確立することで産業を奨励することだ。この方法で、彼らは中庸な規模の土地の所有で生計を立て、拡大していくことができるようになった筈だ。彼らは我々と血を混じらわせ、遠くない時点で我々と融合し、意気投合するはずだった。この戦争(米英戦争)を始めたときに、我々は彼らに和平と中立を保つよう圧力を掛けたが、イギリスの興味ある無節操な政策がこれら不幸な民を救うための我々の努力をすべて台無しにした。彼らは我々の近くにいる部族の大半を唆して我々に手斧を向けさせ、フロンティアにいる女性や子供を急襲して残酷な虐殺を行った。我々はインディアンどもの皆殺しを遂行すべきである。もしくは、我々の手の届く範囲の向こう側の新しい「席」に、彼らを追いやるべきだ。
 トーマス・ジェファーソンの執拗な先住民(アメリカ・インディアン)絶滅政策について、優生学思想を愚かに曲解した白人至上主義のトーマス・ジェファーソンの用いたこれらの同じ言葉が、西暦1939年にドイツ国(西暦1933〜1943年)の総統によって宣言され、欧州の猶太人達に向けられたことは、近代の記憶として刻み込まている。しかしこれらはアメリカの創立者のうちの1人によって発表されたので、トーマス・ジェファーソンの「知恵」と「人道性」に対する彼らの執拗な称賛で、都合よく覆い隠している。

トマス・ジェファソン(上):権力の技法 - ジョン・ミーチャム, 森本 奈理
トマス・ジェファソン(上):権力の技法 - ジョン・ミーチャム, 森本 奈理

 西暦1670年以前のある時、ショーニー族の集団はサヴァンナ川地域に移住していた。チャールズタウンを本拠地としたカロライナ植民地のイギリス人は、西暦1674年頃にこれらのショーニー族と最初に接触した。その後は長い同盟関係が形作られた。当初サヴァンナ川のショーニーは、カロライナのイギリス人に「サヴァンナ・インディアン」として知られていた。時を同じくして、他のショーニー族の集団もオハイオ領土の南と東のフロリダ、メリーランド、ペンシルベニア、および他の地域へと移住した。西暦17世紀中庸から後半のこのショーニー族の移住者たちは、西暦1640年代に始まったビーバー戦争(フランス・イロコイ戦争)によって恐らく追いやられた。イロコイ連邦(西暦14世紀半ば〜1784年)は「大いなる法」などの呼称で伝わる起源伝承によれば、西暦17世紀に、ワイアンドット族(ヒューロン族とも、Huron)のデガナウィダと、モホーク族のハイアワサの調停によって、互いに戦争状態にあった五大湖湖畔のカユーガ族、モホーク族、オナイダ族、オノンダーガ族)、セネカ族の5つの部族が同盟し、「ホデノショニ 」として知られる5部族連合の連邦国家が成立した。デガナウィダによって設計されたこの部族連合は、西暦18世紀前半にタスカローラ族が加わって6部族連合国家イロコイ連邦となった後、アメリカ独立戦争頃まで強固な結束を保った。5部族の和平を結び連邦の成立を成し遂げたデガナウィダとハイアワサは、「グレート・ピースメーカー (Great Peace Maker)」 として知られている。
 ショーニー族は彼らの広範囲にわたる入植地と移住、彼らの頻繁な長い距離の他の先住民(アメリカ・インディアン)の集団への訪問で知られるようになった。彼らの言語は数々の部族の間で共通言語となり、そのことはショーニー族が経験したこととともに、ヨーロッパ人とヨーロッパ系アメリカ人の拡大に対する、多部族にわたる先住民(アメリカ・インディアン)の抵抗を生み出し持続させるときの指導者になることを助けた。
 西暦1752年より前に、彼らはヴァージニア州ウィンチェスター近くのショーニースプリングスを拠点にして、後の酋長コーンストークの父親がそこに王宮を持った。ある時点で、彼らは現在ウェストヴァージニア州、オハイオ州南部、ケンタッキー州北部となっているオハイオ領土に居住した。イロコイ連邦は後に征服によって得た権限でオハイオ領土の領有を主張し、ショーニー族とデラウェア族を従属した部族としてそこに再度住み着いた人々と見做した。多くのイロコイ連邦人は当時西にも移住し、彼らはミンゴ族として知られるようになった。ショーニー族、デラウェア族、ミンゴ族のこれら3つの部族は、オハイオ領土で密接に関わるようになった。
 六十年戦争(西暦1754〜1814年):西暦1755年のモノンガヘラの戦いの後、多くのショーニー族は、西暦1758年のイーストン条約に署名するまで、フレンチ・インディアン戦争(西暦1754〜1763年)の初期にフランス王国と共に戦った。フランス王国が西暦1763年に敗れた後は、多くのショーニー族はイングランド王国に対するポンティアック戦争(西暦1763〜1766年)に参加し、翌年には敗れた。「インディアン戦争」は苛烈で、捕虜の殺害や、一般市民を攻撃目標にしたり、また他にも民間人への残虐行為が双方で見られた。今日でも知られている出来事としては、ピット砦のイギリス軍士官が天然痘ウィルスに汚染された毛布を贈り物にし、周辺の先住民(アメリカ・インディアン)にこれを感染させた。紛争の冷酷残忍さはイギリス人入植者と先住民(アメリカ・インディアン)の間の増幅する民族間対立の反映であった。ポンティアック戦争の間に発せられた西暦1763年宣言は、東部のイギリス領地とアパラチア山脈の西にあるオハイオ・カントリーの間に境界線を引いた。しかし、西暦1768年のスタンウィックス砦条約はこの境界線を西に拡張し、イギリスは現在のウエストヴァージニアとケンタッキーの領有を主張した。ショーニー族はこの条約には合意しなかった。というのもこの条約はイギリス当局とイロコイ連邦の間で交渉されたもので、イロコイ連邦はショーニー族と他の先住民(アメリカ・インディアン)がその土地で狩猟をしていたにも拘わらず領有権を主張していた。スタンウィックス砦条約の後、アングロ系アメリカ人たちはオハイオ川流域へと殺到し始めた。入植者と先住民(アメリカ・インディアン)の間の暴力事件は激しさを増して、西暦1774年のダンモアの戦争(西暦1773〜1774年)へと突入した。イングランド王国の外交官はこの紛争の間になんとかショーニー族を孤立させた。イロコイ連邦とデラウェア族は中立を保ち、一方でショーニー族はわずかなミンゴ族の同盟とともに反イギリス、反イロコイのショーニー・オハイオ同盟を組織し、イギリス領ヴァージニア植民地と対峙した。イエロー・クリークの虐殺など遺体を損傷したり、生き残った者を拷問して死に至らしめたり、また女や子供を捕まえて奴隷にしたり、殺人、強姦、掠奪および破壊行動の応酬となった。ヴァージニア植民地総督ダンモア伯ジョン・マーレイ率いるイギリス植民地民兵によるオハイオ領土への二面攻撃による侵攻を開始した。ショーニー族酋長のコーンストークは一方の軍を攻撃したが、唯一の主要な戦闘であったポイントプレザントの戦いで敗れた。キャンプシャーロット条約でコーンストークとショーニー族たちは西暦1768年のスタンウィックス砦条約で設定されたオハイオ川の境界を承認することを強いられた。多くの他のショーニー族の指導者たちは、この境界の承認を拒否したが、西暦1775年にアメリカ独立戦争が起こった時、数々のショーニー族はイギリス王国側について戦争に参加し、アパラチア山脈の向こうに入植者を追放することを目指してイギリス王国を支援した。ショーニー族は分裂した。コーンストークは中立のまま残る集団を率いて、一方でブラックフィッシュ酋長やブルー・ジャケット酋長のような指揮官たちはイングランド王国の同盟として戦った。
 合衆国と先住民(アメリカ・インディアン)部族の同盟の間の「北西インディアン戦争」で、ショーニー族はマイアミ族と手を組んで非常に大きな軍団となった。西暦1794年のフォールン・ティンバーズの戦いの後、 ほとんどのショーニー族の一団は1年後のグリーンヴィル条約に合意し、彼らの故郷の地の大部分は合衆国へと帰属した。他の残りのショーニー族の集団はこの条約を拒否して、ミズーリにいた彼らの兄弟姉妹に加わりケープジラード近くに定住した。西暦1800年までに、ハタウェケラ、キスポコタ、ピクアの部族がミズーリへと移住した一方で、チリコテとメクアチャケの部族だけがオハイオに残った。西暦1805年から、ショーニー族の少数派がテカムセと彼の兄弟テンスクワタワの汎部族運動に加わり、テカムセの戦争と西暦1813年10月05日のテムズの戦いでのテカムセの死を引き起こした。これはアメリカの拡大からオハイオ領土の地を守るショーニー族の最後の抵抗であった。
 数百人のミズーリ・ショーニー族は一部のデラウェア族の人々と共に西暦1815年に合衆国を去って当時スペイン帝国の支配下にあったテキサスに定住した。この部族はアブゼンティー(欠席者)・ショーニー族として知られるようになった。テキサスが独立した3年後の1839年に彼らは再び追放された。これらの人々は現在のショーニーに近いオクラホマに定住し、西暦1845年には、彼らの伝統的な世界観と信仰を共有するカンザスから来たショーニー族がこれに加わった。西暦1817年、オハイオ・ショーニー族はメグズ砦条約に調印し、ワパウフコネッタ、ホッグクリーク(アダ近郊)、そしてルイスタウン(セネカ族と共に)の3つの居留地と引き換えに彼らの残っている土地を割譲した。ミズーリは西暦1821年にアメリカ合衆国の州として昇格し、西暦1825年のセントルイス条約の後、1400人のミズーリ・ショーニー族たちはケープジラードからカンザス南東部のネオショ川近くへ強制的に移住させられた。西暦1833年の間は、ブラック・ボブのショーニー族の一団のみが抵抗した。彼らはオラース近くのカンザス北東部とガムスプリングス近くのモンティチェロにあるカンザス川(カウ川)沿いに住み着いた。西暦1826年、およそ200人のオハイオ・ショーニー族はテンスクワタワ預言者の後を追い、彼らのカンザスの兄弟姉妹に加わったが、本体はブラック・フーフにつき従い、フーフはオハイオの故国を諦める前のあらゆる戦いをした。西暦1831年、ルイスタウンのセネカ・ショーニーの集団はインディアン準州 (現在のオクラホマ)へ立ち去った。ブラック・フーフの死後ワパウフコネッタとホッグクリークの残りの400人のオハイオ・ショーニー族は彼らの土地を放棄し、カンザスのショーニー居留地へと移動した。
 南北戦争(西暦1861〜1865年)、ブラック・ボブの一団はカンザスから逃亡し、戦争から逃れるためにオクラホマのアブセンティ・ショーニー族に加わった。南北戦争後、カンザスのショーニー族は再び追い払われて、オクラホマへ移動した。そこでは、かつてのルイスタウンの集団の一部のショーニーたちは東部ショーニー族として知られるようになり、かつてのミズーリ・ショーニー族は、ロイヤル(忠誠)・ショーニー族(彼らの戦争中の連邦への忠誠のため)として知られるようになった。後者の集団は合衆国にチェロキー族の一部と見做されたために、 チェロキー・ショーニー族としても知られる。今日、ショーニー族の大部分はまだオクラホマに居住している。

 タスカローラ戦争(西暦1711〜1715年)は、当時イングランド王国の植民地であったノースカロライナで、先住民族であるタスカローラ族の領土を巡って、イギリス、オランダおよびドイツ人入植者がタスカローラ族に対して行った民族浄化(「インディアン戦争」)である。和平条約は西暦1715年に調印された。
 ヨーロッパ白人によるノースカロライナの最初の恒久的な植民地入植は、西暦1653年に本格的に開始された。タスカローラ族(Tuscarora)は、アメリカの植民地がほとんどすべて現地の先住民(アメリカ・インディアン)と何らかの形で紛争を起こしていた時代に、50年間以上もノースカロライナに入植した白人たちと平和的な関係を構築していた。しかし、次々と先住民(アメリカ・インディアン)の領土を奪い、入植してくる白人の存在は、ノースカロライナの先住民(アメリカ・インディアン)の破滅を意味していた。
 この時点でタスカローラ族には2つの主要な集団が存在した。1つはトム・ブラント酋長がいる北部集団であり、もう1つはハンコック酋長がいる南部集団であった。ブラント酋長の集団はロアノーク川沿いの、今日ではバーティ郡と呼ばれる辺りを領有していた。ハンコック酋長たちの集団は、ニューバーン近く、パムプリコ川(今日のパムリコ川)の南の地域を領土としていた。ブラント酋長がバーティ地域の入植白人のブラウント家と親しく付き合う一方で、ハンコック酋長の集団は白人に襲われ、部族民が誘拐されて奴隷に売られた。2つの集団ともに白人がもたらした疫病に悩まされており、また侵略者である入植者に土地を奪われていく状況にあった。最終的には、ハンコック酋長たちの集団は白人入植者を武力で追い出すしかないと決定した。トム・ブラント酋長達の集団は、この時点では厭戦派だった。
 白人たちは、先住民(アメリカ・インディアン)の酋長を首長、あるいは「部族指導者」だと思い込んでいた。現実には先住民(アメリカ・インディアン)の酋長は、合議制における「調停者」であり、部族を「率いる」とか「支配する」といった権力者ではない。しかし白人たちは酋長と盟約すれば部族民は全てこれに従うものと誤解していた。
 西暦1711年秋、ハンコック酋長たちの南部タスカローラ族は、パムプリコ族、コセチニー族、コア族、マタマスキート族およびマチェパンゴー族と連合し、短期間に広い範囲の入植者を襲って回った。攻撃目標とされたのは、ロアノーク川、ニューズ川、トレント川沿いの農園およびバース市であった。最初の攻撃は西暦1711年09月22日に始まり、最終的に数百の入植者が殺された。政治的に中心となっていた人物も殺されるかあるいは数ヶ月間追い払われるかした。植民地総督エドワード・ハイドはノースカロライナの民兵を招集し、サウスカロライナ議会の助力も確保した。サウスカロライナ議会はジョン・バーンウェル大佐に統率される600人の民兵と360人のインディアンを提供した。この部隊は西暦1712年にニューズ川の堤にあるナーハンツ砦で南部タスカローラ族とクレイブン郡の他の部族に攻撃を掛けた。タスカローラ族は大きな損失を被って敗北した。300人以上の先住民(アメリカ・インディアン)が殺され、100人は捕虜となった。この捕虜はほとんど女子供であり、奴隷に売られることになった。
 ブラント酋長は、「入植者がハンコック酋長たちの集団を鎮圧する手助けをすれば、タスカローラ族全体を支配する機会を与える。」という申し出を受けた。ブラント酋長はハンコック酋長を捕獲することができたが、入植者達は西暦1712年にハンコック酋長を処刑してしまった。西暦1713年、南部タスカローラ族はグリーン郡にあったネオヘロカ砦を墜とされ、900人が殺されるか捕虜にされた。白人たちはブラント酋長に「タスカローラ族全体を支配する機会を与える」と提案しているが、酋長(チーフ)はそのような権限を持った存在ではない。白人たちは酋長を「部族支配者」だと思い込んでいるから、ハンコック酋長を殺してしまっている。調停者である酋長を殺された南部タスカローラ族の大半は、この時点でノースカロライナの開拓者から逃れて、現在のニューヨーク州へ北上移住を始めた。
 生き残ったタスカローラ族は西暦1718年06月に入植者との条約に調印し、現在のバーティ郡にあるロアノーク川沿いの土地利用を認めた。この地域は既にトム・ブラント酋長らの北部集団の領土であり、広さは227㎢。トム・ブラント酋長は、ブラウントの名前を貰い、ノースカロライナ議会は彼に「トム・ブラウント王」の名を贈った。先住民(アメリカ・インディアン)の社会は合議制民主主義であり、「王」のような君主制の社会システムは無い。
 残った南部タスカローラ族は、パムリコ川沿いの彼らの故郷を追われ、バーティに強制移住させられた。西暦1722年、バーティ郡が設立され、続く数十年間、残っていたタスカローラ族の土地は、屡々「先住民(アメリカ・インディアン)のためになる。」という名目で少しずつ売却され奪われていった。
 タスカローラ戦争で白人入植者に味方したヤマシー族(Yamasee)などの先住民(アメリカ・インディアン)は、西暦1715年からは「ヤマシー戦争」と呼ばれる戦いをサウスカロライナで起こしている。タスカローラ戦争とその長い予後はヤマシー戦争の勃発に大きな役割を演じた。タスカローラ族は西暦1711年にノースカロライナ植民地の開拓地を襲い始めた。サウスカロライナは軍隊を召集し、西暦1712年と1713年の2度に渡ってタスカローラ族に対する作戦を展開した。この軍隊は主に先住民(アメリカ・インディアン)戦士から成り、ヤマシー族は長年サウスカロライナと強い軍事的同盟関係にあったため、ヤマシー族の戦士が2度の戦争の中核となっていた。他の先住民(アメリカ・インディアン)は広域の部族から集められたが、伝統的な敵同士が鉢合わせる場合もあった。サウスカロライナ軍に協力した部族には、ヤマシー族、カトーバ族、ユチ族、アパラチー族、クサボ族、ウォーターリー族、シュガリー族、ワックスホー族、コンガリー族、ピーディ族、ケープフェア族、チェロー族、サハパホー族、チェロキー族、および様々な原クリーク族が含まれていた。この軍事共闘によって、同州全領域の先住民(アメリカ・インディアン)達が互いに近しい関係となることになった。先住民(アメリカ・インディアン)達はイギリスの植民地であるサウスカロライナ、ノースカロライナおよびヴァージニアが、タスカローラ戦争の際に些細なことで言い争うのを見て、その纏まりのなさや弱さを実感していた。基本的にタスカローラ戦争でサウスカロライナ議会に協力した全部族が、2、3年後のヤマシー戦争では攻撃する側に回った。

 ポンティアック戦争(西暦1763〜1766年)は、フレンチ・インディアン戦争(七年戦争)(西暦1754〜1763年)の終結後、イギリス王国の五大湖地方支配に不満を抱いた先住民(アメリカ・インディアン)が侵略者であるイギリス白人に対して1763年に戦いを挑んだ「インディアン戦争」である。
 西暦1763年05月、イギリス軍の初代アマースト男爵ジェフリー・アマースト(Jeffery Amherst, 1st Baron Amherst)が押し付けてきた民族浄化政策に対して、行く末に危惧を抱いた先住民(アメリカ・インディアン)たちがイギリス軍の多くの砦や入植地を襲ったことから「ポンティアック戦争」は始まった。白人の8つの砦が破壊され、数百の入植者が殺されるか捕虜にされ、他にも多くの者がこの地域から逃げ出した。五大湖地方からイギリス軍と白人入植者を追い出すために、多くの部族の先住民(アメリカ・インディアン)戦士が立ち上がった。 西暦1764年、イギリス軍の遠征から次の2年間にわたる和平交渉が進み、敵対行動は収まった。先住民(アメリカ・インディアン)たちはイギリス人を追い出すことができなかったが、この蜂起によってイギリス政府の占領政策を修正させることになった。
 「ポンティアック戦争」という呼称は、多くの部族を取り纏め、交渉の矢面に立ったオタワ族の酋長、オブワンディヤグ(ポンティアック)に因んでいる。当初の戦争の名前は、「キヤスタとポンティアックの戦争」であった。キヤスタはグヤスタの別の綴り方であり、影響力のあるセネカ・ミンゴ族の酋長だった。西暦1851年のフランシス・パークマンによる「ポンティアックの謀略」が出版された後は、「謀略」という呼び方が広く知られるようになった。
 白人たちはインディアンの「酋長(チーフ)」を、「部族長」、あるいは「指導者」だと思い込んでいた。しかし実際には、先住民(アメリカ・インディアン)の部族は合議制民主主義を基本としており、ある個人が部族をとりまとめたり、率いたりするような「首長」のようなものは存在しない。先住民(アメリカ・インディアン)の酋長とは「調停者」、「世話役」、あるいは「奉仕者」であって、ポンティアックやグヤスタが戦争を率いたわけではない。酋長は調停者として、白人との交渉の矢面に立たなければならなかった。白人はこれを見て、ポンティアックやグヤスタがこの戦争を率い、謀略を図り、扇動したと勝手に思い込んでこのような戦争名を付けた。
 「インディアン戦争」は苛烈で、捕虜の殺害や、一般市民を攻撃目標にしたり、また他にも民間人への残虐行為が双方で見られた。今日でも知られている出来事としては、ピット砦のイギリス軍士官が天然痘ウィルスに汚染された毛布を贈り物にし、周辺の先住民(アメリカ・インディアン)に感染させたことである。紛争の冷酷残忍さはイギリス人入植者と先住民(アメリカ・インディアン)の間の増幅する民族間対立の反映であった。イギリス政府は、入植者と先住民(アメリカ・インディアン)の土地の間に境界を設定する西暦1763年宣言を発して、これ以上民族間対立が酷くならないようにした。
 西暦1768年、イギリスのジョージ・クローガンに対して。ショーニー族のニムワ酋長の言葉「貴方方はこの国をフランスから奪ったからその所有者だと思っている。しかし、フランスは何の権利も持っていなかった。だからこの国は我々インディアンのものだ。(You think yourselves Masters of this Country, because you have taken it from the French, who, you know, had no Right to it, as it is the Property of us Indians.)」
 ポンティアック戦争の前の数十年間、フランスとイギリスはヨーロッパにおける一連の戦争に加わったが、その中には北アメリカの「フレンチ・インディアン戦争」も含まれていた。この戦争の中で最大のものは世界を巻き込んだ七年戦争であり、その結果、フランスは北アメリカのニュー・フランスをイギリスに割譲することになった。七年戦争の北アメリカ戦線は、アメリカ合衆国ではフレンチ・インディアン戦争と一般に呼ばれ、西暦1760年にイギリスのジェフリー・アマースト将軍がフランス領のモントリオールを陥落させた後に終戦となった。イギリス軍は、以前フランス軍守備隊のいたオハイオ領土や五大湖地方の多くの砦を占領した。西暦1763年のパリ条約で戦争が正式に終わる前でさえも、イギリス王室は広大に広がった北アメリカの領土を管理するために変化を与えようとし始めた。フランス王国は長い間先住民(アメリカ・インディアン)との同盟を続けていたが、イギリス王国の戦後のやり方は基本的に先住民(アメリカ・インディアン)を征服された民族として扱うことだった。敗れたフランス王国と同盟を結んでいた先住民(アメリカ・インディアン)はすぐに、イギリス王国の占領と勝者として押し付けてきた新しい政策に不満を抱くようになった。
 ポンティアック戦争に関わった民族は、西暦1763年のパリ条約まではフランス王国が所有権を主張していたpays d'en haut(上の国)として知られるヌーベル・フランスの曖昧に定義された地域の居住者達であった。「上の国」の先住民(アメリカ・インディアン)は多くの部族に分かれていた。この時点とこの領域では、「部族」は政治的な意味合いよりも言語の違いであるとか、血の繋がりで分けられていた。全部族の言葉が話せる酋長はいなかったし、一致して事に当たる部族もいなかった。例えば、オタワ族は一部族として戦争に向かうのではなく、何人かのオタワ族の集団がそうすることを選ぶのであり、他の集団は戦争を非難し戦争とは離れて留まっていた。先住民(アメリカ・インディアン)の社会は合議を尊ぶ民主主義であり、戦争を好まない集団に対して、交戦派が自分たちの意思に従わせるというような性格のものではない。「上の国」の部族は基本的に3つの集団に分かれていた。第1の集団は五大湖地域の部族であり、オタワ族、オジブワ族、ポタワトミ族およびヒューロン族であった。これらの部族フランス系移民と長い間同盟を結んできており、共に生活し、交易し、時には婚姻を結んできた。五大湖のインディアン部族はフランスが北アメリカを失った後、イギリスの権威の下に入ることを知って危機感を募らせていた。イギリス軍が西暦1760年にフランス王国からデトロイト砦を奪取したとき、その地方の先住民(アメリカ・インディアン)はイギリス軍に対し「この国は精霊によって先住民(アメリカ・インディアン)に与えられたものだq」と警告していた。第2の集団は東部イリノイ郡の部族であり、マイアミ族、ウェア族、キカプー族、マスクーテン族およびピアンカショー族であった。五大湖地域の部族にて、この地域の部族はフランス王国との密接な付き合いの長い歴史があった。戦争中、イギリス軍はイリノイ郡が戦争の中心からは遠く離れていたために戦力を行使できなかったので、イギリス軍との付き合いは余り無かった。3番目の集団はオハイオ郡の集団であり、デラウェア族、ショーニー族、ワイアンドット族およびミンゴ族であった。これらの部族はこの世紀早くにイギリス王国やフランス王国、それにイロコイ連邦から逃れてオハイオ川渓谷に流れてきていた。五大湖地域やイリノイ郡の部族とは異なり、オハイオの部族はフランス王国の支配とは強い接点が無く、先の戦争でフランス軍と共に戦った際もイギリス軍を追い出すための手段と見ていた。オハイオの部族は、イギリス軍がオハイオ領土から撤退するという了解でイギリス軍とは休戦していた。しかしフランスがいなくなると、イギリス軍はこの地域の砦を捨てるのではなく強化したので、オハイオの部族はイギリス軍を再度追い出すために西暦1763年の戦争に参加した。「上の国」の外では、影響力のあるイロコイ連邦はイギリス軍と「盟約の鎖」として知られる同盟を結んでいたために、ポンティアック戦争には参加しなかった。しかし、最西端のイロコイ連邦であるセネカ族はこの同盟に不満を抱いていた。既に1761年にセネカ族は五大湖やオハイオ領土の部族に伝令を送り、イギリス軍を追い出すために連合を組むことを呼びかけた。西暦1763年にポンティアック戦争が始まった時、多くのセネカ族が素早く行動を起こした。
 イギリス王国の北アメリカにおける総指揮官ジェフリー・アマースト将軍は先住民(アメリカ・インディアン)に対する政策管理について、軍事的なことも毛皮の交易に関する規制にも全面的に関わっていた。ジェフリー・アマーストは、「フランスが舞台から消えれば先住民(アメリカ・インディアン)はイギリスの支配を認めるしかない。」と信じていた。ジェフリー・アマーストはさらに「先住民(アメリカ・インディアン)はイギリス軍に対して考慮すべき反抗を企てることはできない。」と考えており、それ故に北アメリカの彼の手勢8000人のうち、わずか500人程をこの戦争が起こった地域に駐屯させているに過ぎなかった。ジェフリー・アマーストとデトロイト砦の指揮官ヘンリー・グラドウィンのような士官達は先住民(アメリカ・インディアン)に対する軽蔑を隠しもしなかった。蜂起に加わった先住民(アメリカ・インディアン)部族は、「グラドウィンは自分達を奴隷か犬よりも酷く扱っている。」と屡々苦情を言っていた。ジェフリー・アマーストが西暦1761年に「先住民(アメリカ・インディアン)に与えられる筈の物を削り取る。」という決定を下した時に、先住民(アメリカ・インディアン)の憤慨がさらに募ることになった。「与えられる筈の物」とは、フランスと「上の国」先住民(アメリカ・インディアン)部族との間の関係には切り離せない物であった。先住民(アメリカ・インディアン)の慣習で重要な象徴的意味を持つものに従って、フランス王国は村の酋長に銃やナイフ、煙草、衣類などの贈り物をし、「酋長達はその贈り物を部族の者に分け与えた。このやり方で村の酋長は部族の中で権威を保ち、フランス王国との同盟を維持し続けることができた。」と白人は思っていた。しかし現実には酋長は「世話役」であって、「権威を保つ」とかいう類いの存在ではない。ジェフリー・アマーストはこのやり方が一種の賄賂であり、フランス王国との戦争後に経費を切り詰めるよう圧力を受けていたために最早それは必要ないと考えた。「全ての物を共有する」という先住民(アメリカ・インディアン)の文化において、「気前の良さ」は何にも勝る美徳であった。贈り物をケチり出した白人の方針変更を、先住民(アメリカ・インディアン)たちは侮辱と見做し、イギリス王国が先住民(アメリカ・インディアン)達を同盟者と見ているのではなく、征服された民と見下している兆候と捉えた。
 ジェフリー・アマーストはまた、交易業者が先住民(アメリカ・インディアン)達に売ることのできる銃弾や火薬の量を制限し始めた。フランスは常にこれらの物資を使えるようにしていたのに対し、ジェフリー・アマーストは特に同盟者だったチェロキー族の西暦1761年の叛乱以降は、先住民(アメリカ・インディアン)達を信用しなかった。チェロキー族の叛乱は火薬が欠乏したために失敗したので、ジェフリー・アマーストは火薬を分配する量を抑えておけば将来の反抗を防げるものと期待していた。先住民(アメリカ・インディアン)の男達は家族のために食料を確保する必要があり、また毛皮交易のために毛皮を必要としていたので弾薬は必需品であり、先住民(アメリカ・インディアン)達にさらに憤懣と困窮を産むことになった。多くの先住民(アメリカ・インディアン達)は、イギリス軍が先住民(アメリカ・インディアン)達に戦争を仕掛ける前に武装解除しているのだ。」と信じ始めた。インディアン部局の監察官であったウィリアム・ジョンソン卿はジェフリー・アマーストに対して、贈り物や火薬を削ることの危険性を警告しようとしたが、徒労に終わった。
 土地も来るべき戦争の大きな問題であった。フランス王国の移民は常に少数であったのに対し、イギリス王国のそれは終りが無いように思われた。オハイオ領土のデラウェア族やショーニー族は東部のイギリスの移民によって領土を奪われ、強制移住させられていたので、このことがこの戦争に参加する動機になった。一方で、五大湖地方やイリノイ郡の先住民(アメリカ・インディアン)部族は白人の入植で大きく影響されることは無かったが、東方の部族が経験したことに気付いてもいた。ポンティアック戦争に関わったほとんどの先住民(アメリカ・インディアン)が白人の移民により強制移住させられる脅威に直面していたわけではないが、イギリス軍の駐屯と態度、および政策を先住民(アメリカ・インディアン)達が脅威と見てまた侮辱と見たことが戦争の重要な要素だった。
 戦争の原因でもう1つ重要なことは、西暦1760年代初期に先住民(アメリカ・インディアン)の領土を席捲した信仰的な目覚めであった。この動きはイギリスに対する不満と共に食料の欠乏や伝染病によっても加速された。この現象で最も影響力があった者は「デラウェアの預言者」として知られるネオリンであった。ネオリンは先住民(アメリカ・インディアン)達に交易用の商品やアルコールおよび白人の武器を遠ざけるように勧めた。ネオリンは伝統的な先住民(アメリカ・インディアン)の信仰にや教の要素を融合させ、聴衆に向かって白人の悪習に染まる先住民(アメリカ・インディアン)を見て偉大なる魂は喜ばないこと、またイギリスはインディアンの存在そのものに脅威となることを説き聞かせた。ネオリンは、「もしお前達がその中にイギリス人を取り込めば、お前達は死んだ者となる。病い、天然痘およびアルコールの毒がお前達全員を破壊するだろう。」と言った。これは自分達の世界が制御できないと思われる力によって変わりつつあると感じている先住民(アメリカ・インディアン)には力強い教えとなった。
 ポンティアック戦争が始まったのは西暦1763年であるが、先住民(アメリカ・インディアン)が攻撃の計画をしているという噂がイギリス当局に届いたのは西暦1761年であった。オハイオ領土のセネカ族とミンゴ族が、部族連合を作りイギリス軍を追い出そうというワムパム(貝殻玉のビーズで綴られた伝言)の「戦いの帯」を回状を各部族に回した。グヤスタとタハイアドリスがいるミンゴ族は、自分達の土地がイギリス軍の砦に取り囲まれている事態を危惧していた。同じようなワムパムの「戦いの帯」はデトロイトとイリノイ郡でも作られた。しかし、先住民(アメリカ・インディアン)の結束は進まず、西暦1761年06月にはデトロイトの先住民(アメリカ・インディアン)がセネカ族の計画をイギリス軍の指揮官に伝えた。西暦1761年09月にウィリアム・ジョンソンがデトロイトで多くの部族との協議を開いた後は、脆弱な平和が維持されていたが、「戦いの帯」は回され続けた。西暦1763年早くに「上の国」がフランス王国からイギリス王国に割譲されることを知った先住民(アメリカ・インディアン)によって、終に戦いの火蓋は切られた。オタワ族によるデトロイト砦の攻撃で始まった戦いは、急速に地域全体に広がった。イギリス軍の砦のうち8つが占拠され、他にもデトロイト砦とピット砦が包囲されたが、これらは死守された。
 前もって計画されたというよりも、ポンティアックらがデトロイト砦で行動を起こしたという話が「上の国」に伝えられ、既に不満を抱いていた先住民(アメリカ・インディアン)部族が反抗に加わる動機を与えたことで、蜂起が広まった。イギリス軍の砦に対する攻撃は同時ではなかった。多くのオハイオ領土の先住民(アメリカ・インディアン)部族は、ポンティアックのデトロイト砦包囲の開始からほぼ1ヶ月は戦いを始めなかった。ポンティアックや他の先住民(アメリカ・インディアン)部族の「指導者」は屡々、フランス支配の復活とフランスーインディアン同盟の再現について話していた、ポンティアックは自分の村でフランス王国の国旗を掲揚することまでしていた。これらのことはすべて明らかに、フランス人もイギリス王国に対する闘争に加わるように吹き込むことを意図されたものだった。ポンティアックら「調停役」(酋長)が「フランス支配の復活とフランスーインディアン同盟の再現」について話し合ったとしても何ら不自然なことではない。彼らの行動は部族の意志の反映である。フランス人入植者や交易業者の中には先住民(アメリカ・インディアン)の蜂起を支持した者もいたが、この戦争はフランス王国ではなく先住民(アメリカ・インディアン)部族の目的のために先住民(アメリカ・インディアン)によって始められ遂行された。
 西暦1763年04月27日、ポンティアックはデトロイトの集落から約10マイル (16km)の場所で部族間協議を開いた(先住民(アメリカ・インディアン)の社会は合議制である)。ポンティアックは、ネオリンに教えられた聴衆の説得法に従って、オタワ族、オジブワ族、ポタワトミ族、ヒューロン族の多くをデトロイト砦獲得の試みに加わるよう呼びかけた。05月01日、ポンティアックは50人のオタワ族戦士とともに、砦の守備戦力を値踏みするために砦に向かった。フランスの年代記編者によれば、ポンティアックは2回目の部族間協議で次の呼びかけを行った。「わが兄弟、同士達よ。大切なことは、我々の国を破壊することだけを求める民族を我々の土地から追い出すことだ。我々の同胞であったフランス王国から得ていたような我々の需要を満たすことは最早不可能になったことは明らかだろう。それ故に兄弟同士達よ、我々は皆敵を打ち崩すことを誓わねばならないし、一時の猶予も許されない。我々を妨げるものはない。守備兵は少ないので我々は目的を達することができる。」
ポンティアックたちは急襲によって強固な砦を落とせると期待して、05月07日に武器を隠した約300人の戦士と共にデトロイト砦に入った。しかし、イギリス軍の指揮官も先住民(アメリカ・インディアン)連合の作戦を熟知しており、武装して攻撃に備えた。先住民(アメリカ・インディアン)たちは作戦が失敗したことを知ると、簡単な協議後に一旦引き上げ、2日後に砦を包囲した。ポンティアックとその同胞は、砦の外で見つけたイギリス軍兵士や入植者を、女子供をいとわず全て殺害した。ある兵士などは、五大湖地方の先住民(アメリカ・インディアン)部族の慣習に従って、儀式上の食肉とされた。暴力はイギリス人にのみ向けられ、フランス人入植者は一般に安全であった。最終的に6部族から900人以上の戦士が包囲戦に参加した。
 イギリス軍は援軍の到着後に、ポンティアックの宿営地の急襲を試みたが、ポンティアックたちもそれを承知して待ち受けており、07月31日のブラッディランの戦いでイギリス軍を打ち破った。それにも拘わらず、デトロイト砦の状況は手詰まりのままであり、ポンティアックの同胞に対する影響力が薄れていった。インディアン部族の中には包囲を放棄する者が現れ、出発前にイギリス軍と休戦の協定を交わす者もいた。10月31日、ポンティアックはイリノイ郡のフランス人がデトロイト砦を攻める軍に加わることはないと認識し、包囲を解いてモーメー川に移動した。ポンティアックはそこで引き続き、インディアンたちにイギリス軍に対する抵抗を呼びかけ続けた。イギリス軍の他の出先がポンティアックによるデトロイト砦の包囲について知る前に、05月16日から06月02日にかけての一連の戦いで、先住民(アメリカ・インディアン)部族は5つの小さな砦を奪取した。最初に墜ちたのはエリー湖岸の小要塞に過ぎなかったサンダスキー砦であった。この砦は西暦1761年にアマースト将軍の命令で作られたが、土地のワイアンドット族が西暦1762年に「直ぐに焼き払ってしまうぞ。」と砦の指揮官に脅しをかけていた。05月16日、ワイアンドット族の集団が協議集会を開く風を装って砦の中に入った。これは9日前にデトロイト砦で採って失敗した戦術と同じであった。ワイアンドット族は指揮官を捕まえ、他の15人の兵士を殺害した。砦にいた交易業者も殺され、戦争の初期に殺された約100人の交易業者のうち最初のものとなった。死体は頭皮を剥がれ、砦は1年前にワイアンドット族が警告したように焼き払われた。セントジョセフ砦(今日のミシガン州ナイルズ)は05月25日にサンダスキー砦と同じやり方で奪取された。指揮官はポタワトミ族に捕まり15人の守備兵の大半は即座に殺された。マイアミ砦(今日のインディアナ州フォートウェイン市)が3番目に墜ちた砦であった。05月27日、指揮官が先住民(アメリカ・インディアン)の女性に砦の外に誘い出されたところをマイアミ族に銃で撃たれて死んだ。砦は包囲され9人の守備兵は降伏した。イリノイ郡では、ウィーアテノン砦(今日のインディアナ州ラファイエットから南西に約5マイル(8km)が06月01日にウェア族、キカプー族およびマスクーテン族によって奪取された。守備兵は協議のためということで砦の外に誘い出され、20人全員が流血なしで捕虜となった。ウィーアテノン砦近くの先住民(アメリカ・インディアン)部族はイギリス軍守備隊と良好な関係にあったが、デトロイトのポンティアックのところから来た使者が彼らを攻撃するよう呼びかけた。戦士達は砦の指揮官に対し「他の部族にこうするように強制された」と言って謝った。他の砦とは対照的にウィーアテノン砦の捕虜は殺されなかった。5番目の砦ミチリマキナック砦(今日のミシガン州マッキノー市)は、急襲によって奪取された最大の砦であった。06月02日、オジブワ族が訪問していたソーク族と共にスティックボール(ラクロスの前身)の試合をお膳立てした。前にもそのようなことがあったので、兵士達は試合を見ていた。ボールが打たれて砦の開いている門から飛び込んだ。両軍の選手が雪崩れ込み先住民(アメリカ・インディアン)の女性によって砦の中に密かに持ち込まれていた武器を手渡された。35人の守備兵のうち約15人が戦闘で殺され、他にも5人が拷問を受けて殺された。06月の中旬には第2波の攻撃でオハイオ軍の3つの砦が墜とされた。ベナンゴ砦(今日のペンシルベニア州フランクリンの近く)はセネカ族に06月16日頃に落された。指揮官を除き12人の守備兵全員が即座に殺された。その指揮官もセネカ族の憤懣を書き記すことを強いられた後に火炙りの刑に処せられた。ル・ビューフ砦(今日のペンシルベニア州ウォーターフォード)は06月18日におそらくベナンゴ砦を破壊した者と同じセネカ族に襲われた。12人の守備兵の大半はピット砦に逃れた。陥落した砦では8番目で最後となったプレスクアイル砦(今日のペンシルベニア州エリー)はおよそ250人のオタワ族、オジブワ族、ワイアンドット族およびセネカ族に06月19日の夜、取り囲まれた。2日間は持ち堪えたものの、60人の守備隊のうち約30人が「ピット砦に戻る。」という条件で降伏した。しかし、大半は砦を出た後で殺された。
 西部ペンシルベニアの入植者は、戦争の勃発後安全を求めてピット砦に逃げ込んだ。550人近い人々で砦はごった返すことになり、しかもその内の200人以上は女子供であった。スイス生まれのイギリス軍指揮官シメオン・エキュイアは、「大変な混雑だったので私は疫病を恐れた。天然痘が流行っていた。」と書き残した。ピット砦は06月22日にデラウェア族を中心とする先住民(アメリカ・インディアン)の攻撃を受けた。砦は防御が優れていたので07月中の包囲を持ち堪えた。一方でデラウェア族とショーニー族の戦士がペンシルベニア深く侵攻し、数知れぬ入植者を捕まえ殺した。ピット砦の東に2つの小さな砦、ベドフォード砦とリゴニエ砦があり、散発的な攻撃をうけたが、奪取されるまでには至らなかった。
 イギリス軍のジェフリー・アマースト将軍は、戦前は先住民(アメリカ・インディアン)部族がイギリス軍に効果的な反抗を行えるとはとても考えていなかったが、この夏の軍事状況は酷くなるばかりであった。ジェフリー・アマーストは部下達に捕虜にした敵の先住民(アメリカ・インディアン)は「即座に殺すこと」という指示を書き送った。ペンシルベニアのランカスターに居て、ピット砦の救援のために遠征隊の準備をしていたヘンリー・ブーケット大佐には、06月29日に次の様な提案をした。「不満を抱いている先住民(アメリカ・インディアン)部族の間に天然痘を送り込む計画は立てられないだろうか?この際、敵を弱らせるために我々の力の及ぶあらゆる戦術を使うしかない。」ヘンリー・ブーケット大佐は同意し、07月13日にジェフリー・アマーストに返信を書いた。「何枚かの毛布に菌を植え付け、敵の手に入るようにしてみる。もちろん自分には移らないように気を付ける。」ジェフリー・アマーストは07月16日に好意的に返信した。「毛布という手段で先住民(アメリカ・インディアン)に菌を移すというのはうまく行くだろう。他にもこの忌まわしい部族を根絶やしできる手段なら何でも使うといい。」ピット砦に包囲されていた士官達が、ジェフリー・アマーストとヘンリー・ブーケットがまだ議論している間に、明らかにジェフリー・アマーストやヘンリー・ブーケット大佐の命令無しに、既にその試みをやっていたことが分かった。06月24日のピット砦での和平交渉の間に、エキュイアは包囲しているデラウェア族の代表に2枚の毛布と1枚のハンカチを送ったが、それらには天然痘の菌に曝されており、病気が先住民(アメリカ・インディアン)の間に広まれば包囲を止めさせられると期待していた。
 ポンティアック戦争中、多くの先住民(アメリカ・インディアン)が天然痘で死んでいた。オハイオ先住民(アメリカ・インディアン)の中の天然痘の流行が明らかに毛布事件よりも前に始まっていた。ピット砦の外に居た先住民(アメリカ・インディアン)達が毛布を受け取ってから1ヶ月以上も包囲を続けた。毛布を受け取ったデラウェア族の酋長2人は1ヶ月後も変わらず健康であった。天然痘は既にその地域に蔓延していたので、多くの経路で先住民(アメリカ・インディアン)の村に辿り着いた。病気が蔓延した白人の入植村を襲った先住民(アメリカ・インディアン)が病人に接触し、自分の集落に戻る途中に病気を撒き散らした。先住民(アメリカ・インディアン)は多くの感染経路て移され、ピット砦の感染した毛布はその感染経路の1つである。08月01日、ヘンリー・ブーケット大佐が指揮する500人のイギリス軍がピット砦に向かっているという報に接した先住民(アメリカ・インディアン)部族はこれを阻止するために砦の包囲を解いた。08月05日、この2つの軍勢がブッシーランの戦いで会した。ヘンリー・ブーケット隊は多くの損害を被ったが、先住民(アメリカ・インディアン)の攻撃を排除し、08月20日にピット砦を解放した。ブッシーランでのヘンリー・ブーケット大佐の勝利はイギリスの植民地でも祝われ、フィラデルフィアでは夜通し教会の鐘が鳴らされた。またイギリス国王ジョージ3世からも賞賛された。
 しかし、この勝利の後には手酷い敗北が続いた。西部の砦の中では最も重要な砦の1つであるナイアガラ砦はそれまで襲われていなかったが、09月14日、少なくとも300人のセネカ族、オタワ族およびオジブワ族が、ナイアガラの滝に沿った補給路で補給部隊を襲った。ナイアガラ砦からも2個中隊が救援に送られたがこれも敗北した。70人以上の兵士と御者がこの戦闘で殺された。イギリス軍にとってポンティアック戦争の中でも最大の被害を受けた。イギリス系アメリカ人はこれをデビルホールの虐殺と呼ぶ。
 ポンティアック戦争の暴力と恐怖によって、西部ペンシルベニアの多くの入植者は、「政府が自分達を守るだけの十分なことをしていない。」と確信させられた。この不満はパクストン・ボーイズとして知られる自警主義者集団による暴動で、大きな問題であることが明らかとなった。パクストン・ボーイズはペンシルベニアのパクストン村近辺から主に集まっていたので、こう呼ばれた。パクストンの人々は、ペンシルベニアの白人入植地の間にあった小さな集落で平和に暮らしていた、多くは耶蘇教徒の先住民(アメリカ・インディアン)に怒りの鉾先を向けた。コネストガの先住民(アメリカ・インディアン)の村で先住民(アメリカ・インディアン)の戦士の一隊が目撃されたという噂に触発され、12月14日、50人以上のパクストン・ボーイズの集団が村に乗り込み、そこで見つけた6人のサスケハンノック族を殺害した。ペンシルベニア政府は、残っていたサスケハンノック族14人をランカスターの防御された留置所に移したが、12月27日、パクストン・ボーイズが留置所に押し入り、彼らを殺した。ジョン・ペン総督は殺人者を逮捕するように報奨金を出したが誰も申し出る者はいなかった。パクストン・ボーイズは次の鉾先をペンシルベニアに住んでいる他の先住民(アメリカ・インディアン)に向けたが、その多くは保護を求めてフィラデルフィアに逃げ込んでいた。西暦1764年01月、数百人のパクストンの人々がフィラデルフィアに向けて行進した。そこではイギリス軍とフィラデルフィア民兵がいてそれ以上の暴力行為を行うことを阻止した。土地の民兵の組織化に貢献したアメリカ合衆国建国の父(ファウンディング・ファーザーズ)の1人、ベンジャミン・フランクリン(Benjamin Franklin)はパクストンの指導者と交渉にあたり、直面する危機を終わらせた。その後フランクリンは、パクストン・ボーイズの告発を非難する文書を出版した。「もし1人の『インディアン』が私を傷つけたら、全ての『インディアン』を傷つける報復に私は従うだろうか?」と問うた。
 先住民(アメリカ・インディアン)は西暦1764年の春と夏もさらに激しさを増して辺境の入植地を襲った。この年最も被害の激しかったのは100人以上の入植者が殺されたヴァージニアであった。05月26日、メリーランドのカンバーランド砦近くの農場で働いていた15人の入植者が殺された。06月14日、ペンシルベニアのルードン砦の近くで約13人の入植者が殺され家を焼かれた。最も重大な襲撃は07月26日に起こった。現在のペンシルベニア州フランクリン郡で4人のデラウェア族戦士が学校を襲い教師1人と子供10人を殺し頭皮を剥いだ。このような事件に直面したペンシルベニア議会はペン知事の承認を得て、フレンチ・インディアン戦争の時に行われた頭皮報奨を再導入した。この制度は女性を含み10歳以上の先住民(アメリカ・インディアン)殺した場合に賞金を払うというものだった。
 ジェフリー・アマーストはこの暴動に対する責任を貿易委員会に問われ、西暦1763年08月にロンドンに呼び戻され、トマス・ゲイジ(Sir Thomas Gage)将軍が後を継いだ。西暦1764年、トマス・ゲイジは2つの遠征隊を西部に発し、叛乱を鎮圧し、捕虜となっているイギリス人を救出し、戦争に責任のある先住民(アメリカ・インディアン)を逮捕しようとした。トマス・ゲイジの作戦は元々ジェフリー・アマーストが立てたものであり、戦争を終わらせるというよりも先住民(アメリカ・インディアン)を罰することに重点がおかれたので、戦争をさらに1年以上長引かせることになった。トマス・ゲイジの作戦がジェフリー・アマーストのものと異なっていた点は、ウィリアム・ジョンソンを使ってナイアガラで和平交渉を進ませたことであり、「斧を埋める」用意のあった先住民(アメリカ・インディアン)達にそのようにさせる機会を与えた。
 西暦1764年の07月から08月にかけて、ウィリアム・ジョンソンは主にイロコイ連邦の約2000人の先住民(アメリカ・インディアン)達とナイアガラ砦で条約の交渉を行った。イロコイ連邦はほとんど戦争の局外にいたが、ジェネシー川渓谷のセネカ族がイギリス王国に対して武器を揮っていたので、ウィリアム・ジョンソンは彼らを同盟の鎖の中に取り戻そうとしていた。デビルズホールの待ち伏せに対する賠償として、セネカ族は戦略的に重要なナイアガラの搬送路をイギリス軍に譲渡することを強いられた。ウィリアム・ジョンソンはイロコイ連邦戦士の一隊をオハイオ先住民(アメリカ・インディアン)に対して派遣するよう説得した。このイロコイ連邦の遠征隊は、多くのデラウェア族を捕虜にし、サスケハナ渓谷に放棄されたデラウェア族とショーニー族の町を破壊した。しかし、ウィリアム・ジョンソンが期待した程には戦争そのものに対する貢献を果たさなかった。
 ナイアガラ砦の一帯を確保したイギリス軍は2つの遠征隊を西部に出発させた。最初の遠征隊はジョン・ブラドストリート大佐によって指揮され船でエリー湖を渡り、デトロイトを補強するためのものであった。ジョン・ブラドストリートはデトロイトの周りの先住民(アメリカ・インディアン)連邦を服従させその後南のオハイオ領土に進む予定だった。2つ目の遠征隊はヘンリー・ブーケット大佐により指揮されピット砦を出て西に向かいオハイオ郡に第2の前線を作ることが意図された。
 ジョン・ブラドストリートは西暦1764年08月に約1200人の兵士とウィリアム・ジョンソンによって徴兵された同盟先住民(アメリカ・インディアン)の大代表団と共にシュロッサー砦を出発した。ジョン・ブラドストリートは、「敵の先住民(アメリカ・インディアン)を力で屈服させるには戦力が足りない。」と感じたので、08月12日にエリー湖の強風によってプレスク島での停泊を余儀なくされた時、グヤスタらオハイオ先住民(アメリカ・インディアン)部族の代表と和解の交渉を始めることに決めた。ジョン・ブラドストリートは、単なる休戦以上の和平条約を結ぶことと、まだ出発していなかったヘンリー・ブーケットの遠征隊を止めさせることに合意したことで、越権行為となってしまった。トマス・ゲイジ、ウィリアム・ジョンソンおよびヘンリー・ブーケットは、ジョン・ブラドストリートがやってしまった事を聞いて激怒した。トマス・ゲイジは、「ジョン・ブラドストリートが騙されてオハイオ領土に対する攻撃任務を放棄した。」と信じ込み、条約を認めなかった。トマス・ゲイジが正しかったのかもしれない。オハイオ・インディアン部族は、09月に行われたジョン・ブラドストリートとの2回目の会合で約束した捕虜を返して寄越さなかったし、ショーニー族のある部族は戦争を継続するためにフランス人の助力者を雇おうとしさえした。ジョン・ブラドストリートは、彼の承認されていない外交が上官の怒りを買っていることに気付かないまま、西方への移動を続けた。8月26日にはデトロイト砦に到着し、そこで新たな条約の交渉を行った。ジョン・ブラドストリートは、交渉の席にいなかったポンティアックの信用を落すために、オタワ族が会議の席で送った平和の帯を切り刻んだ。この行為はヨーロッパの大使が提案された条約に小便を引っ掛ける行為にほぼ等しく、集まった先住民(アメリカ・インディアン)達を驚愕させ機嫌を損ねさせることになった。ジョン・ブラドストリートは、「先住民(アメリカ・インディアン)達が彼との交渉の結果、イギリス王国の権威を認めた。」とも主張したが、ウィリアム・ジョンソンは「先住民(アメリカ・インディアン)に対する説明が足りず、さらに協議が必要になる。」と信じた。ジョン・ブラドストリートはその地域のイギリス軍砦を補強し再占領することに成功したが、彼の外交はまだ議論の余地があり決定されたものではないことが分かってきた。捕虜に取られた多くの子供は先住民(アメリカ・インディアン)の家族の養子になっていた。
 ヘンリー・ブーケット大佐は、民兵を集めるためにペンシルベニアで遅れをとり、10月03日に1150人を連れてやっとピット砦を出発した。ヘンリー・ブーケットはオハイオ郡のマスキンガム川まで行軍し、多くの先住民(アメリカ・インディアン)部落まで目と鼻の先まで進んだ。ナイアガラ砦とデトロイト砦で和平交渉が進んでいたので、オハイオ先住民(アメリカ・インディアン)部族は孤立しており、一部例外を除いて和平の準備ができていた。10月17日に始まった協議では、オハイオ先住民(アメリカ・インディアン)部族はフレンチ・インディアン戦争の時から帰還していなかった者も含めて全ての捕虜を帰すよう、ヘンリー・ブーケット大佐が要求した。グヤスタら他の交渉役は渋々ながら200人以上の捕虜を帰したが、その多くは先住民(アメリカ・インディアン)の家族と縁戚になっていた。捕虜の全てがそこにいたわけではなかったので、先住民(アメリカ・インディアン)達は他の捕虜が帰還することの保証として人質を差し出さねばならなかった。オハイオ先住民(アメリカ・インディアン)部族はウィリアム・ジョンソンとの正式な交渉の席に着くことを約束し、西暦1765年07月に決着することになった。
 戦闘は西暦1764年の遠征で事実上終わっていたが、先住民(アメリカ・インディアン)達はイリノイ郡ではまだ反抗を呼びかけていた。そこではイギリス軍がフランス王国からシャルトル砦をまだ接収していなかった。この地域ではショーニー族のチャーロット・カスケという戦士が最も執拗な反イギリス派の戦士として頭角を現し、一時的にはポンティアックの影響力を凌ぐ程であった。チャーロット・カスケはイギリス王国に対抗するためにフランス王国の協力者を求めてはるか南のニューオーリンズまで旅した。
 西暦1765年、イングランド王国は、「イリノイ郡の占領が外交的な手段によってのみ可能である。」と結論づけた。イギリス王国の役人はポンティアックに焦点を当てた。ポンティアックはオハイオ領土先住民(アメリカ・インディアン)がヘンリー・ブーケットと休戦したことを聞き、戦闘的な姿勢が影を潜めていた。ウィリアム・ジョンソンの副官、ジョージ・クローガンが西暦1765年の夏にイリノイ郡に赴き、途中でキカプー族やマスクーテン族の襲撃で傷を負ったものの、なんとかポンティアックに会い交渉を始めた。白人はポンティアックを「部族指導者」だと思い込んでいるから、彼個人と条約交渉を結びたがったのである。納得できないチャーロット・カスケはジョージ・クローガンを火炙りにしようとしたが、ポンティアックがこれを調停し、部族はニューヨーク植民地に移住することに同意した。ポンティアックは西暦1766年07月25日にオンタリオ砦でウィリアム・ジョンソンと正式な条約に調印(✕印を書くだけである)した。それはほとんど降伏というようなものではなかった。土地は割譲しない、捕虜は帰さない、人質も取らないという内容だった。チャーロット・カスケはイギリスの権威を受け入れられず、他のフランス人や先住民(アメリカ・インディアン)の逃亡者と共にミシシッピー川を渡ってイギリス王国の領土を離れた。
 ポンティアック戦争で失われた人命の数は正確には分からない。戦闘で約400人のイギリス軍兵士が戦死し、おそらく50人は捕まった後に拷問で死んだ。ジョージ・クローガンは、2000人の入植者が殺されたか捕虜にされたと見做した。この数字2000人は殺された者の数だという資料もある。暴力沙汰によっておよそ4000人の入植者がペンシルベニアやヴァージニアから故郷への逃亡を強いられた。先住民(アメリカ・インディアン)の損失はほとんど記録されていないが、約200人が戦闘で戦死したと考えられる。またピット砦に端を発した生物兵器が成功であれば、死者はもう少し増える。
 ポンティアック戦争について、伝統的に先住民(アメリカ・インディアン)側の敗北と見做されてきたが、イギリス軍の軍事的に手詰まりに見える。先住民(アメリカ・インディアン)はイギリス軍を追い出すことに失敗したものの、イギリス王国は先住民(アメリカ・インディアン)を征服できなかった。戦場での成功よりも、交渉と調停で戦争を終結させた。先住民(アメリカ・インディアン)は、イギリス政府にジェフリー・アマーストの政策を放棄させ、フランスーインディアン同盟で作り上げられた先住民(アメリカ・インディアン)と付き合っていくやり方を踏襲させたことで、ある種の勝利を勝ち取ったと言うことができる。
 イギリスの入植者と先住民(アメリカ・インディアン)との関係は、フレンチ・インディアン戦争の時に極度の緊張関係にあったが、ポンティアック戦争の間はむしろ緩和された。ポンティアック戦争は、どちらの側も虐殺の狂気に酔ってしまったように見え、その恐るべき暴力沙汰で前例の無いものになった。先住民(アメリカ・インディアン)がイギリス軍を追い出そうとしたことと、パクストン・ボーイズがその社会の中の先住民(アメリカ・インディアン)を排除しようとしたことは民族浄化の例で、戦争に関わることになった双方の人々は、「入植者と先住民族は本質的に異なっており、共生することはできない。」という結論に達した。この戦争は「あらゆる先住民族は『先住民(アメリカ・インディアン)』であり、あらゆるヨーロッパ系アメリカ人は『白人』であり、一方の側は他方を破壊するために結束するという新しい考え方を齎すことになった。
 イギリス政府は、入植者と先住民(アメリカ・インディアン)を切り離して置かねばならないという結論にも達した。西暦1763年10月07日、西暦1763年パリ条約の後のイギリス領北アメリカを再組織化するために、国王の名で西暦1763年宣言が発せられた。この宣言は、ポンティアック戦争が始まった時既に発効されていたが、蜂起の知らせがロンドンに届いた後で急いで宣言された経緯がある。イギリス政府はイギリスの入植者とアパラチア山脈の西にある先住民(アメリカ・インディアン)の土地との間に境界線を引いた。この結果アパラチア山脈からミシシッピ川、およびフロリダからニューファンドランド島に至る巨大な先住民(アメリカ・インディアン)の占有領土ができあがった。イギリス政府は入植者が先住民(アメリカ・インディアン)の土地を横切ることを禁止し、ポンティアック戦争のような紛争がそれ以上起こらないことを期待した。西暦1763年宣言は先住民(アメリカ・インディアン)と白人の交流ではなく人種的隔離を特徴とする考え方に基づいている。ポンティアック戦争の与えた影響は長く残った。西暦1763年宣言で先住民(アメリカ・インディアン)がその領土に対しある種権利を保有していることを公式に認めたために、それは先住民(アメリカ・インディアン)の「権利の章典」とも呼ばれ、現在でもカナダ政府とファースト・ネーション(カナダ英語: First Nations、カナダに住んでいるイヌイットもしくはメティ以外の先住民族)との間の関係になっている。
 イギリス人入植者や土地投機家にとってこの宣言は、フランス王国との戦争で勝ち取ったはずの勝利の成果である西部の土地を否定しているように見えた。これが生んだ不満は植民地の者達のイギリス帝国に対する忠誠心を弱らせ、次に来るアメリカ独立戦争に繋がった。ポンティアックたちの反抗は、独立のための最後のアメリカ白人の戦争ではなかった。アメリカの植民地白人は十数年後により確かな試みを始め、イギリス政府がポンティアック戦争のような紛争が起こらないように採った手段で、ある意味促進された。先住民(アメリカ・インディアン)にとって、ポンティアック戦争はイギリス系アメリカ人の植民地拡大に対して、多くの部族が共同して反抗する可能性を実際に見させることになった。戦闘は部族や村を分けることにはなったが、北アメリカにおけるヨーロッパの植民地化に対し、初めての多部族による反抗であり、白人と先住民(アメリカ・インディアン)との間の戦闘では先住民(アメリカ・インディアン)の完敗では終わらなかった初めてのものであった。西暦1763年宣言は結果的に、イギリス人入植者や土地投機家の西方進出を阻止できなかったので、先住民(アメリカ・インディアン)は新たな抵抗運動を始める必要性に迫られた。西暦1767年にショーニー族主導で始められた協議から次の数十年、ジョセフ・ブラント、アレクサンダー・マックギリブレー、ブルージャケットおよびテカムセといった英雄達が、ポンティアック戦争の抵抗努力を再現する同盟を試みることになった。

アメリカ・インディアン:奪われた大地 (「知の再発見」双書 (20)) - フィリップ・ジャカン, 森 夏樹
アメリカ・インディアン:奪われた大地 (「知の再発見」双書 (20)) - フィリップ・ジャカン, 森 夏樹

 ヤマシー戦争(西暦1715〜1717年)とは、イギリスの植民地であったサウスカロライナで、サウスカロライナ植民地とヤマシー族を始めとする先住民(アメリカ・インディアン)部族との間で戦われた戦争で、この戦いに参加した先住民(アメリカ・インディアン)部族にはヤマシー族以外に、クリーク族、チェロキー族、チカソー族、カタウバ族、アパラチー族、アパラチコラ族、ユチ族、サヴァンナ川ショーニー族、コンガリー族、ワッホー族、ピーディー族、ケープフェア族、チェロー族などの他、多くの部族があった。これら先住民(アメリカ・インディアン)部族にはごく少し関わっただけのものもあれば、サウスカロライナ中を荒らし回ったものもいた。植民地人数百人が殺され、多くの開拓地が破壊された。現地にいた交易業者は南部中で殺害された。サウスカロライナの開拓地の多くが放棄され、住民はチャールズタウンに逃げ込んだが、物資が不足し飢餓が発生した。西暦1715年中はサウスカロライナ植民地の存続そのものが危機に瀕した。西暦1716年になって情勢が変わり、チェロキー族がサウスカロライナ側に付いてクリーク族の攻撃を始めた。西暦1717年にはサウスカロライナの主要な敵の最後のものが紛争から手を引き、束の間の平和が訪れたが、先住民(アメリカ・インディアン)および植民地の白人たちの心に傷を残した。
 ヤマシー戦争は、アメリカの植民地の中でも最も破壊的で変則的な戦いとなった。白人の支配に対して先住民(アメリカ・インディアン)最も真剣に立ち上がったものとも言える。サウスカロライナは1年間以上も崩壊の瀬戸際にあり、白人人口の7%が殺された。アメリカの植民地で最も血塗られた戦争と言われるフィリップ王戦争よりも血腥いものであり、以後、イギリス王国、スペイン王国、フランス王国の植民地と南東部先住民(アメリカ・インディアン)の全ての部族との地理的・政治的状況が急速に様変わりした。この戦争はアメリカ南部の初期植民地時代の終わりを告げるものであった。さらにヤマシー戦争とその後の経過は、クリーク族やカタウバ族などの新しい先住民(アメリカ・インディアン)同盟を創出した。サウスカロライナにとって、ヤマシー戦争は転回点となる出来事であった。
 戦争の原因は複雑であり、参加した多くの先住民(アメリカ・インディアン)部族の中でも異なっていた。戦争への関わり方も異なり、ある集団は戦った結果が苦いものになり、ある集団は一時的に戦っただけであり、分裂したもの、敵味方を変えたものがいた。原因は1つだけではないが、幾つかの原因は交易の仕組みに関わっていた。交易業者の悪用、先住民(アメリカ・インディアン)の奴隷貿易、鹿皮交易による鹿の枯渇、サウスカロライナの富が増えるにつれての先住民(アメリカ・インディアン)の負担の増加、開拓地が増え米作プランテーションが拡がったこと、イギリスとの交易に替わる存在としてフランス王国の力の成長、長く築き上げられてきたスペイン領フロリダと先住民(アメリカ・インディアン)の関係、先住民(アメリカ・インディアン)集団間の権力闘争と大規模で強固になりつつある部族間の情報通信網、および以前は疎遠であった部族との軍事共闘の増加、これらが複雑に絡み合った。
 ヤマシー族は政治的かつ民族的統一体としての意味合いで部族と表現されているが、実体はグアレ族やあまり知られていないタマ族などの原初的先住民(アメリカ・インディアン)部族と戦士集団の名残りが融合したものであった。ヤマシー族はサウスカロライナとスペイン領フロリダ間の辺境で競い合いながら西暦17世紀に頭角を現してきた。最初はスペイン帝国と同盟し、西暦17世紀遅くに北へ動くと直ぐにサウスカロライナの最も重要な同盟者となった。ヤマシー族はサヴァンナ川の河口近くやポート・ロイヤル湾の辺りに住んだ。長い間、ヤマシー族はイギリス王国との関係で利益を得てきた。しかし西暦1715年までに、イングランド王国が望む2つの貿易品目、鹿皮と先住民(アメリカ・インディアン)奴隷を得ることが難しくなってきていた。ヤマシー族はサウスカロライナに近接して住んでおり、鹿皮貿易はかなり広い領域で盛んであったので、ヤマシー族の領地内には鹿が希少になっていた。タスカローラ戦争の後は、奴隷を目的にした襲撃機会が限られてきた。ヤマシー族は、貿易品が信用で取引されるようになって、イギリスの貿易業者にとって重要ではなくなり借金も増えていった。西暦1715年までに米作プランテーションがサウスカロライナ中に拡がり、米作に適した土地が取り上げられていった。ヤマシー族はサウスカロライナの南部境界近くに大きな保留地を認められていたが、その土地の大半は米作プランテーションに適した土地であった。
 要するに、ヤマシー族にとっての選択は「戦うか否か」ではなく「いつ戦いを始めるか」ということだった。ヤマシー族が、先住民(アメリカ・インディアン)の動揺を利用して戦争の計画を練った中心集団であったかどうかは不明だが、オーチェス・クリーク族(後の低地クリーク族)が戦争に対する広い支持を得る時の中心となった可能性がある。戦争に加わった多くの他の先住民(アメリカ・インディアン)部族にはそれぞれ理由があり、ヤマシー族と同様に複雑で過去に深く根差したものであった。多くの部族が慎重に計画した協働作戦で動くというような全体計画があった訳ではないが、全体に不安が増長しており、戦争の可能性について部族間の話し合いが行われたのは事実である。西暦1715年早く、先住民(アメリカ・インディアン)の戦争を支持する声が高まるにつれて、植民地人に警告する先住民(アメリカ・インディアン)も存在した。この警告はオーチェス・クリーク族を主要な危険対象と指摘していた。オーチェス・クリーク族を巻き込む戦争の概要蜂起の可能性がサウスカロライナ政府に警告されたとき、重大なこととされた。即座にアッパー・ヤマシー族のポコタリゴ集落(今日のヤマシー近く)に1群の人々が派遣され、オーチェス・クリーク族の酋長との緊急会議を整えてくれることをヤマシー族に望んだ。この代表団のポコタリゴ訪問が戦争の引き金になった。
 ポコタリゴを訪れた代表団は、理事会に派遣されたサミュエル・ワーナーとウィリアム・ブレイにサウスカロライナの先住民(アメリカ・インディアン)との交易における重要人物であるトマス・ネアンとジョン・ライトの2人が加わった。またセイモア・バーローズと姓名不詳のサウスカロライナ市民も加わった。西暦1715年4月14日の夕刻、聖金曜日の前日に、代表団はヤマシー族の代表と話し合い、ヤマシー族の不満を軽減する特別の努力をすることを約束した。クレイブン総督自ら「それを実行する。」と告げた。その夜、サウスカロライナの代表達が眠っている間に、ヤマシー族は何をすべきかを議論した。戦争に全面的に賛成しない者もいたが、最後に結論が出された。ヤマシー族は戦いの化粧を体に施し、サウスカロライナの代表を起こした。6人の代表の中2人が逃亡した。セイモア・バーローズが逃亡し、途中で2度撃たれたが、なんとか逃げ延びてポート・ロイヤル開拓地に警告を伝えた。トマス・ネアン、ジョン・ライト、サミュエル・ワーナー、ウィリアム・ブレイは殺され、姓名不詳サウスカロライナ市民は逃げて近くの沼地に隠れ、そこからトマス・ネアンが長く拷問され死ぬ光景を目撃した。ポコタリゴの虐殺)西暦1715年04月15日聖金曜日の早朝の出来事がヤマシー戦争の始まりであった。
 ヤマシー族は直ちに数百人からなる2つの戦闘部隊を編成し、ポコタリゴの事件のあった日遅くに発進させた。一隊はポート・ロイヤルの開拓地を襲撃したが、セイモア・バーローズはジョン・バーンウェルのプランテーションまで辿り着き、広く警報を発した。偶々捕獲された密貿易船がポート・ロイヤルの港に繋がれていた。ヤマシー族が到着する時までに数百の開拓者はその船で逃亡し、他の者もカヌーで逃げた。
 ヤマシー族の2隊目はセントバーソロミューの農園を襲い、プランテーションを掠奪し火を付け、捕虜を捕まえて、100人以上の開拓者と奴隷を殺した。その週に、ヤマシー族の大部隊が、急遽編成されたサウスカロライナ民兵隊との交戦準備を始めており、サウスカロライナの市民は急拵えの砦に避難場所を求めて南部に向かった。ヤマシー戦争はサウスカロライナ民兵隊の初めての大きな試験の場となった。クレイブン総督は自ら240人の民兵隊を率いてヤマシー族に対抗した。ヤマシー族は選択の余地無く全部隊を統合してクレイブンの民兵隊に向かうことになった。サルケハッチー川沿いサルケハッチー入植地近くの開けた場所で会戦が行われた。これはクレイブンや民兵士官が正に望んでいた形での戦闘になり、インディアンの戦い方には適していなかった。数百人のヤマシー族戦士が240人かそこらの民兵に攻撃をかけ、側面を衝こうとしたが失敗した。先頭にいた戦士が何人か殺された後に、ヤマシー族は戦いを諦め近くの沼地に散った。両軍の損失は共に24人程度ではあったが、実際の結果はサウスカロライナ軍の決定的勝利となった。他にも小さな民兵隊がヤマシー族に圧力をかけ、一連の勝利を勝ち取った。先住民(アメリカ・インディアン)との戦争で経験を積んだアレクサンダー・マッケイが南部の軍を率いた。この部隊は柵で防御を施された野営地に逃げ込んだ約200人のヤマシー族を見つけて攻撃した。比較的少数のカロライナ部隊が2回砦の壁に攻撃を掛けると、ヤマシー族は撤退を決めた。しかし一度砦の外に出るとヤマシー族はマッケイの約100人の部隊に奇襲攻撃を掛けられ殲滅された。
 西暦1715年夏に小さな戦闘が起こり、ドーファスキーの戦いと呼ばれた。カロライナのボートを使った斥候部隊が一群のヤマシー族を急襲し、35人を殺したのに対し自軍の損失は1人に留まった。ヤマシー族は始めの数週間植民地の開拓村を主要な目標としていたが、イギリス人交易業者は南東部中で活動を続けており、自然と渦中に取り残されてほとんどの場合殺された。戦争が始まった時、およそ100人の交易業者が活動していたが、始めの数週間で約90人が殺された。交易業者を殺したのは、クリーク族のオーチェス、タラプーザ、アベイカおよびアラバマ集団、アパラチー族、チカソー族、チョクトー族、カトーバ族、チェロキー族その他であった。
 戦争の最初の1ヶ月間、サウスカロライナは北部にいるカトーバ族のような先住民(アメリカ・インディアン)の支援を期待していた。しかし北部からは「カトーバ族やチェロキー族に入って行った交易業者が殺された。」という知らせが入った。カトーバ族とチェロキー族は南部のインディアンほど早くに交易業者を攻撃した訳ではなかった。両部族はどのような態度を取るかで割れていた。しかし幾つかの出来事や噂によって北部での敵対心が大きくなった。ヴァージニアの交易業者の中には「サウスカロライナでカトーバ族が戦争を始めるよう唆した」として後に告発される者がいた。カトーバ族がサウスカロライナの交易業者を殺すと決めた時、ヴァージニアの交易業者には危害を加えなかった。
 西暦1715年05月までにカトーバ族はサウスカロライナに戦士の部隊を派遣した。約400人のカトーバ族戦士が700人のチェロキー族と結託して、サウスカロライナの北部を荒らし回った。06月、これに対抗して、トマス・バーカー大尉の指揮する約90人の騎兵隊が北部に向かった。カトーバーチェロキー連合軍は前もってこの部隊の接近を知り、待ち伏せをして全部隊を蹴散らしてしまった。他のカトーバーチェロキー連合部隊がベンジャミン・シェンキンのプランテーションにあった急拵えの砦を襲い、約20人を殺害した。この後では、サウスカロライナはチャールズタウンの直ぐ北、富裕なグース・クリーク地域の前には何の防衛体制も無い状態になった。しかし、北部のカトーバーチェロキー連合部隊がチャールズタウンそのものを攻撃する前に、チェロキー族の大部分が自分達の集落に起こった新しく重要な展開の知らせに隊を離れてしまった。残ったカトーバ族は、ジョージ・チキンの下に急遽集められた民兵隊と直面することになった。西暦1715年06月13日、チキンの民兵隊はカトーバ族1部隊を急襲し、さらにポンヅの戦いとして知られるカトーバ族主力部隊との決戦を行った。その結果は大勝利だった。カトーバ族はゲリラ的な戦い方ならば得意であったが、会戦のような戦い方には慣れていなかった。カトーバ族は集落に戻った後で状況を分析し、停戦を決めた。07月15日までに、カトーバ族外交使節がヴァージニアに到着しイギリスと停戦するだけでなく、サウスカロライナ民兵隊に協力する用意があることを伝えた。
 オーチェス・クリーク族はヤマシー族よりも戦争の扇動者として動いた可能性があった。戦争が始まると直ぐに領地内にいた交易業者を殺した、他のクリーク族、チョクトー族、チカソー族およびチェロキー族も従った。オーチェス・クリーク族の領土とサウスカロライナの開拓地との間に、ユチ族、サヴァンナ川ショーニー族、アパラチー族およびアパラチコラ族といった少数の部族が住んでいた。西暦1715年の夏、これら少数部族がサウスカロライナを攻撃して幾つかの成功を収めた。これらの攻撃にオーチェス・クリーク族も加わっていた可能性があるが、サウスカロライナの反撃が効果的であることが分かると、概して慎重な態度を採った。小さな部族はサヴァンナ川地域に逃げ、オーチェス・クリーク族を避難場所としたが、ここで戦争の次の段階の作戦を練った。アッパー・クリーク族はまだサウスカロライナに対する戦争への参加を決めていなかったが、オーチェス・クリーク族を強く尊敬しており、条件が整えば侵略に加わろうと考えていた。当面の問題は交易品であった。武器のようなサウスカロライナから得られるイギリス製品は、全てのクリーク族にとって必需品であった。イギリス王国との戦争という事態になって、クリーク族はフランス王国やスペイン帝国を他の商品供給源として見るようになった。フランス王国とスペイン帝国は喜んでクリーク族に供給したいと考えたが、イギリス王国が供給していたと同じ程度の量や質を確保することが出来なかった。マスケット銃、火薬および銃弾は、クリーク族がサウスカロライナを侵略しようとすれば是非とも必要なものだった。アッパー・クリーク族は参戦を躊躇していた。それにも拘わらず、クリーク族はヤマシー戦争の間、フランス王国とスペイン帝国に密接な関係を築いていた。
 オーチェス・クリーク族にはチカソー族およびチェロキー族と関係があった。しかし、チカソー族はイギリス人交易業者を殺した後で、サウスカロライナと直ぐに停戦していた。チカソー族はクリーク族の集落で交易業者を殺害したことを糾弾し、下手な言い訳ではあったが、サウスカロライナはこれを受け入れた。チェロキー族の位置付けが戦略的に重要となった。チェロキー族も2つに割れていた。概してサウスカロライナと密接に暮らしていたローワー・チェロキー族が戦争を支持する傾向にあった。カトーバ族がサウスカロライナのサンティー川開拓地を襲った時に参加した者もいた。サウスカロライナからは離れて住んでいたオーバーヒル・チェロキー族はサウスカロライナとの同盟を支持しており、クリーク族との戦いにも参加する意向だった。サウスカロライナとの同盟に最も熱心なチェロキー族指導者の1人は、ミドル・チェロキー族集落の酋長シーザーであった。
 西暦1715年遅く、2人のサウスカロライナ交易業者がチェロキー族を訪れ、多数のチェロキー族代表を連れてチャールズタウンに戻ってきた。同盟が結ばれ、クリーク族に対する作戦が練られた。しかし、翌月、チェロキー族は予定されていたサヴァンナタウンでのサウスカロライナとの会合に出て来られなかった。サウスカロライナは300人以上の遠征隊をチェロキー族集落に派遣し、12月に到着した。彼らは別れてローワー、ミドルおよびオーバーヒルの主要集落を見て歩き、チェロキー族が割れていることが直ぐに分かった。この冬の間、チェロキー族指導者のシーザー酋長はチェロキー族集落を歩き回り、クリーク族に対する戦争の支援を説いて回った。同じ時期にチェロキー族の権威があり尊敬されている指導者達が注意と忍耐を促した。この中にはサウスカロライナから「魔術師」と呼ばれるチャリティ・ハゲイがいた。チャリティ・ハゲイはサウスカロライナに近いローワー・チェロキーの集落ツガルーの出身であった。ローワー・チェロキー族の多くがサウスカロライナとの停戦の用意があったが、ユチ族やサヴァンナ川ショーニー族以外の者と戦うことを躊躇していた。
 サウスカロライナの人々は、ローワー・チェロキー族から「クリーク族に『休戦の旗』が送られ、クリーク族の代表が来ることを約束した。」と告げられた。チャリティ・ハゲイとその支持者がクリーク族とサウスカロライナの間の和平交渉を斡旋しているように思われた。彼らはサウスカロライナに戦争の計画を変えるよう説得した。サウスカロライナはそうはせずに、冬の間にシーザー酋長や戦争に賛成なチェロキー族を制止しようとしていた。西暦1716年01月27日、サウスカロライナの者がツガルーに集まって、先にクリーク族の代表が到着し、チェロキー族がその12人の代表のうち11人を殺害したことを知った。チェロキー族は、クリーク族が実際には数百のクリーク族とヤマシー族の戦闘部隊であり、サウスカロライナ軍に対する急襲に成功するところだったと主張した。ツガルーで何が起こったか不明のままだった。サウスカロライナの立ち会い無しにチェロキー族とクリーク族が私的に会ったことは、チェロキー族がまだ、クリーク族に付いてサウスカロライナと戦うか、サウスカロライナに付いてクリーク族と戦うか、意見が割れていることを暗示していた。イギリス王国との交易では比較的新参であったチェロキー族はクリーク族に替わってサウスカロライナの主要な交易協力者になることを期待していた可能性がある。背後にあったものはどうあれ、ツガルーの虐殺はポコタリゴの虐殺のように予想外に熱した議論の中から手詰まりを殺人で解決しようとしたと思われる。
 ツガルーの虐殺以後は、チェロキー族とクリーク族の間に戦争しかなく、またチェロキー族とサウスカロライナ議会との同盟も自明の事実となった。チェロキー族のサウスカロライナとの同盟はクリーク族による大規模なサウスカロライナ侵略の可能性を奪った。同時に、サウスカロライナは「クリーク族と平和的な関係を取り戻したい。」と願い、これ以上の戦争を望んでいなかった。サウスカロライナはチェロキー族に武器や交易品を供給する一方で、好戦的なチェロキー族が期待した軍事的支援は行わなかった。西暦1716年と西暦1717年にチェロキー族は勝利を挙げたが、クリーク族の反撃でクリーク族と戦おうというチェロキー族の意志を弱らせもした。元々チェロキー族の意志は割れていた。それにも拘わらず、クリーク族とチェロキー族は何世代も互いに小規模の戦いを繰り返してきていた。ツガルーの虐殺とチェロキー族による攻撃に応えて、オーチェス・クリーク族は西暦1716年早くに防衛的な戦略を採った。オクマルジー川盆地にあった集落全てをチャタフーチー川沿いに移動させた。オーチェス・クリーク族は元々チャタフーチー川沿いに住んでいて、西暦1690年頃、サウスカロライナに接近するために、オクマルジー川とその支流オーチェス・クリーク(ここからクリーク族の名前が生まれた)沿いに集落を移した経緯があった。西暦1716年にチャタフーチー川に戻ったことは撤退ではなく、以前の状態に戻ったことだった。チャタフーチー川とチャールズタウンの距離は、サウスカロライナからの攻撃から守ることでもあった。
 西暦1716年と西暦1717年にに、チェロキー族ーイギリス同盟軍から大きな攻撃が無かったので、ローワー・クリーク族は自分達の力が上がったものと見做し、敵であるイギリス人、チェロキー族およびカトーバ族に対する襲撃を再開した。しかし、イギリスとの交易から切り離されて、弾薬や武器の補充に困難を極めるようになった。一方チェロキー族はイギリスの武器を十分に供給されていた。イギリスとの交易に対する誘惑はクリーク族の間の反英感情を弱らせていった。西暦1717年早く、チャールズタウンから数人の使節がローワー・クリーク族の領地に行き、また数人のクリーク族がチャールズタウンに行って、暫定的に和平に導く過程を始めた。同時に他のローワー・クリーク族は戦いを続ける方法を探していた。西暦1716年遅く、多くのマスコギ・クリーク族の代表がニューヨークのイロコイ連邦に旅していた。クリーク族の外交使節に心を動かされたイロコイ連邦は、20人の外交使節を帰途に就くクリーク族と共に送り出した。イロコイ連邦とクリーク族は、カトーバ族やチェロキー族といった互いの敵であるインディアン部族に対する攻撃に主要な関心があった。しかし、サウスカロライナにとっては、イロコイ連邦とクリーク族の間の同盟は、何をおいても避けるべきものであった。これに応えるためにサウスカロライナは一群の外交団を大きな荷車に積んだ交易品の贈り物と共にローワー・クリーク族の集落に送り込んだ。
 ヤマシー族とカトーバ族が鉾を納めると、サウスカロライナ民兵隊は放棄されていた開拓地を確保し、前線の安全を確保するために、プランテーションの家屋の幾つかに防御を施して要塞化した。民兵隊は先制攻撃も行ったが、襲撃部隊から全植民地を守ることは不可能だった。民兵の中には西暦1715年の夏に退去して脱走する者も現れた。自分達の家産や家族を気遣う者も居れば、単にサウスカロライナを共に離れるだけの者もいた。民兵隊の失敗に対応してクレイブン総督は職業的軍隊(すなわち給与の出る兵士の軍隊)に置き換えた。西暦1715年の08月までに、サウスカロライナの新軍には600人の市民と400人の黒人奴隷、170人の友好的先住民(アメリカ・インディアン)、およびノースカロライナとヴァージニアから300人の兵士が参加した。サウスカロライナにとって民兵を解体し、職業的軍隊を作ったのは初めてのことであった。戦争遂行のために多くの黒人奴隷を武装させたのも注目すべきことであった。奴隷についてはその主人に給与が支払われた。この軍隊でも植民地の安全確保には不十分であった。敵対的な先住民(アメリカ・インディアン)は単に会戦を拒むだけでなく、予想できない襲撃や急襲という戦い方を選んだ。さらに先住民(アメリカ・インディアン)大きな領土を占領していたので、軍隊を差し向けても効果のないことが多かった。西暦1716年にチェロキー族との同盟が成立すると軍隊も解体された。
この戦争には、多くの先住民(アメリカ・インディアン)部族がその関わり方も様々に変化しながら関わったので、はっきりした終戦というものがない。ある見方では主要な危機は1、2ヶ月の間に終わったという。カロライナ植民地領主は決定的な危機は最初の数週間だったと信じていた。戦争を終わらせたのは西暦1716年初めのチェロキー族との同盟締結時点だったと言う者もいる。西暦1717年遅くにクリーク族やその他のマスコギ語族と平和条約が結ばれた。しかし、ある部族は和平に同意せず、武装を続けた。ヤマシー族とアパラチコラ族は南部に移住したが西暦1720年代になってもサウスカロライナの開拓地を襲うことを止めなかった。辺境の安全確保が課題として残された。
 ヤマシー戦争は、その後数年掛かって植民地領主を放擲することになった。西暦1720年代に領主の植民地から王室の植民地(イングランド王国が国として経営する植民地)への移行が進められた。これには9年間を要したが、西暦1729年、サウスカロライナとノースカロライナは公式に王室の植民地となった。サウスカロライナはヤマシー戦争の前から領主の植民地経営に不満を持っていたが、西暦1715年の戦争の初めの段階で一度その転換要求が萎み、その後にまた大きくなっていた。
 ヤマシー戦争はジョージアの植民地設立にも影響した。ジョージア植民地設立には他の要因もあるが、ヤマシー族の撤退なくしてそれは有り得なかった。ヤマシー族の少数ながら残存した者がジョージアでヤマクロー族となった。ジェイムズ・オグルソープはジョージアの首都としてサヴァンナを建設する場所を得るためにヤマクロー族と交渉した。
 戦争の初めの1年間で、ヤマシー族は殺されたり奴隷にされたりして、その人口の約4分の1を失った。残った者は、西暦17世紀に本拠地としていた南のアルタマハ川へ移動した。しかし、そこでも安全とは言えず、間もなく逃亡を始めた。ヤマシー族は部族として常に多民族の混交であり、戦争後は幾つかの派に分かれていった。残った者の3分の1はローワー・クリーク族の所に定住することを選び、結果的にクリーク族同盟の一部となった。残りの大半はアパラチコラ族の避難民と合流し、西暦1715年夏にフロリダのセントオーガスティンの近くに移住した。サウスカロライナとヤマシー族個々に和平の試みが何度か行われたが、紛争状態はその後何十年も続いた。スペイン領フロリダのヤマシー族はその内に病気や他の原因で勢力を弱めた。残った者はセミノール族の一部となった。ヤマシー戦争後は、様々な原始クリーク族、マスコギ語族が結びつきを強めた。オーチェス・クリーク族がアパラチコラ族、アパラチー族、ヤマシー族やその他の残存勢力と一緒になって、チャタフーチー川の辺りを再占領した。これはヨーロッパ人にとっては、新しい先住民(アメリカ・インディアン)の特定と新名称が必要となった。スペイン人にとっては、それは西暦17世紀の「アパラチコラ植民地」の再生であった。イギリス人には、「ローワー・クリーク族」という呼び方が一般になった。
 カトーバ族は北部のいわゆるピードモント諸族の残党を多く吸収した。チェロー族、コンガリー族、サンティー族、ピーディ族、ワックスホー族、ウォーターリー族、ワッカモー族、およびウィニャー族などである。これら部族はその後も比較的独立した形に留まってはいた。タスカローラ族が北のイロコイ連邦に加わることで去った後は、ヤマシー戦争の中から生まれたカトーバ同盟がピードモント地区で最も強力な先住民(アメリカ・インディアン)となった。西暦1716年、カトーバ族がサウスカロライナと和平を結んだ1年後、サンティー族やワックスホー族が数人の開拓者を殺した。サウスカロライナ政府はカトーバ族に、「彼らを襲って撲滅する。」ことを求め、カトーバ族は実行した。生き残ったサンティー族とワックスホー族の者は奴隷にされるか「養子」にされるかで、カトーバ族に吸収された。チェロー族はその後も敵対的な姿勢を続けた。

 ジェームズ・エドワード・オグルソープ(James Edward Oglethorpe)は、フリーメイソンのメンバーで、ジョージア植民地、サヴァンナの都市計画を手掛け、西暦1733年02月12日、オグルソープは最初の開拓者達を伴ってヤマクローブラフに到着し、ここが後にサヴァンナ市になった。先住民族のヤマクロー族の集落がこの地域にあったが、オグルソープが先住民(アメリカ・インディアン)民族の立ち退きを調整した。当初の勅許は植民地の領土としてサヴァンナ川とアルタマハ川の間の地域を上流水源(アルタマハ川の水源はオクマルギー川である)まで伸ばし、さらに「海から海まで」西方に伸びていた。この勅許に含まれた地域は元々カロライナ植民地の勅許の一部であり、ジョージアとの関係は密接だった。サウスカロライナはこの地域の支配権を得ることはなかったが、ヤマシー戦争の後で、敗北したヤマシー族の少数の集落を除きジョージア海岸から先住民(アメリカ・インディアン)が消えた。残ったヤマシー族はフロリダで依然敵対的であるヤマシー族やクリーク族と区別するためにヤマクロー族と呼ばれるようになった。

アメリカ・インディアン史 第3版 - ウィリアム・T. ヘーガン, 西村 頼男, 島川 雅史, 野田 研一
アメリカ・インディアン史 第3版 - ウィリアム・T. ヘーガン, 西村 頼男, 島川 雅史, 野田 研一

 チェロキー族は、西暦16世紀、ヨーロッパ人が入植し始めた頃には、北米大陸の東部から南東部にかけ、ミシシッピー川流域に住んでいた。
社会は母系制の妻方居住婚であり、政治についての評議会においても老若男女問わず発言が認められていた。酋長は高齢男性であったが、酋長は調停者に過ぎず、他者に意見を強制できる強権は持っていなかった。また女性が殺害されると、男性の場合の2倍の罰が与えられていた。
 西暦18世紀のチェロキー族は、イギリスやアメリカとの間に、チカマウガ戦争(西暦1776〜1794年)など自分達の土地を守るための戦いの連続であった。西暦1794年にアメリカ合衆国との間に休戦条約を結んだ後は、文明化の道を歩んだ。彼らはチカソー族、ムスコギー部族連合、チョクトー族、セミノール族と5大部族連合を結成し、白人の文明を受け入れ、白人社会の仕組み等を採り入れ、「文明化5部族」と呼ばれた。
西暦1821年にシクウォイア(セコイヤ、シクォイヤ)によってチェロキー文字が発明された。85の音節文字からなる使いやすく覚えやすい文字で、すぐに習得できるため急速に普及した。彼らは白人の生活様式を好んで採り入れたため、周辺白人との混血も進むこととなった。西暦1830年代、ジョージア州で起きたゴールドラッシュにより、白人が彼らの土地に乱入してきた。7代アンドリュー・ジャクソン大統領らは彼らを西部の「インディアン準州」へ強制移住させる方針を決め、武力でこれを強要した。チェロキー族らはこれに対して抵抗戦を行い、「セミノール戦争」など「インディアン戦争」を戦った。
 西暦1838年、アメリカ陸軍の軍事力に屈服を余儀なくされたチェロキー族をはじめ6万人の「5大部族」はミシシッピー川の西の「インディアン準州(現オクラホマ州)に強制移住を余儀なくされた。この移住強制は徒歩で行われ、涙の旅路と呼ばれた。当時の記録では「墓に入るかと思える老婆でさえ、重い荷物」を背負わされて歩かされていた。この苛烈な強制行路では、チェロキー族だけで2〜8千人の犠牲を出した。

 ノースカロライナ州をはじめ、東部から南東部のチェロキー族の一部は、先住民(アメリカ・インディアン)の境遇に同情的な白人の助けを借り、また山深く隠れて強制移住を免れ、現在の東部チェロキー族(人口約1万人)の祖となった。チェロキー族が表面上いなくなったジョージア州など南部の広大な土地は、後に一大綿花産地に変貌する。こうして、チェロキー族は大きく西部と東部に分断されることとなってしまった。
 オクラホマに強制移住させられた約1万9千人のチェロキー族は、ここに当てがわれた保留地(Reservation)でさらなる文明化に取り組み、ターレカ(Tahlequah)に首府を置き、立法行政議会を設置、西暦1839年に「チェロキー憲法」を発布。西暦1841年、チェロキー族の公立学校を開校、1844年には18の学校が開設した。西暦1842年には先住民(アメリカ・インディアン)初の南方イロコイ語族のチェロキー語による部族新聞「チェロキー族の主張」紙を発行した。しかし、間もなく押し寄せる白人入植者によって、再び彼らの土地は収奪されていった。
 現在、最大のチェロキー族居住地(人口約25万人)はオクラホマ州南東部オザーク高原にあり、ターレカ (Tahlequah) を本部とする。オクラホマ以外のチェロキー族も、北東部、南東部、西海岸部などの多数の州に分散して部族共同体を堅持しており、アメリカ連邦政府に部族としての公認を求め続けている。西暦2000年の総人口は約32万人。

 チカマウガ戦争(西暦1776〜1794年)は、アメリカ独立戦争に併行して、チェロキー族の指導者ドラッギング・カヌーに率いられた先住民(アメリカ・インディアン)達が、イギリスのアメリカ植民地からやってくる開拓者の侵略に対抗して、その土地を守るために続けられた戦争で、戦域は、ヴァージニア植民地からジョージア植民地にかけてのアメリカ合衆国南部と、当時の考え方では西部であったケンタッキーやテネシーにまで拡がった。
 チカマウガという名前は、アメリカ植民地の人々がドラッギング・カヌーとその追随者のことをそう呼んでいたことによっており、チカマウガという人や部族がいたわけではない。ドラッギング・カヌーは多くの先住民(アメリカ・インディアン)部族の力を結集したが、その時々の状況に応じて、イギリス王国、フランス王国、スペイン帝国の支援を受けた。チカマウガ(チェロキー語の発音でチカマギ)という言葉は少なくとも2箇所の場所の名前である。チャタフーチー川の水源とチャタヌーガ近くの地域である。しかしこの言葉はチェロキー語ではない。チカマウガはおそらくショーニー語から派生し、ノースカロライナの海岸にあった小さな集落チカマコミコ(大海の側の居留地という意味)とメリーランド州に同じ名前の川があった。この2つの地域は元々ショーニー族のようなアルゴンキン語族の民族が住んでいた。チカマウガはマスコギー語のチュッコマコ(戦いに酋長が住むところの意味)から来ているという説や、チェロキー族がマスコギー語の「チアハオラミコ(アッパー酋長の住居)」を発音しようとしてできたものという説もある。
 南部先住民(アメリカ・インディアン)、特にチカマウガと関わりを持った交易業者やイギリス政府の代理人はスコットランド人、特にスコットランド高地の出身の者が多かった。これらの多くが先住民(アメリカ・インディアン)と婚姻関係を結び、その居留地に留まり、子孫が重要な指導者となった。アレクサンダー・キャメロン、ジョン・マクドナルド、ジェイムズ・バン、ダニエル・ロスの他にも数多くの著名な者が出た。対照的に、チカマウガが反抗した開拓者達の大部分は、スコットランド人の子孫でアルスター出身のアイルランド人、スコッツ・アイリッシュであった。
 当時のチェロキー族は大きな勢力を誇り、その住んでいる地域により大きく分けて4つの集団が存在した。アッパー・チェロキー(オーバーヒル・チェロキー族)、ローワー・チェロキー族、ヒル・チェロキー族およびバレー・チェロキー族であった。チカマウガ・チェロキー族はこれらの集団とは別に行動した。フレンチ・インディアン戦争(西暦1754〜1763年)の後、フランス王国領(ヌーベル・フランス)であったミシシッピー川以東のルイジアナがカナダと共にイギリス王国に割譲され、ミシシッピー川以西のルイジアナはスペイン領フロリダをイギリス王国に渡す見返りにスペイン帝国領となった。フロリダは東フロリダと西フロリダに分割された。イギリス王国は、フレンチ・インディアン戦争の経験を心に留めて、西暦1763年宣言でアパラチア山脈より西への開拓者の移住を禁じたが、このことがアメリカ独立戦争の1つの原因にもなった。チェロキー族は、フレンチ・インディアン戦争の間はフランス王国側に付いて、アングロ・チェロキー戦争と呼ばれる闘争が西暦1758〜1761年まで続いた。イギリス軍とチェロキー族は、戦争開始時には同盟関係にあったが、お互いに相手の裏切りを疑っていた。イギリス系アメリカ人の入植者と、入植者が侵略した村落のチェロキー族の戦士との間の緊張関係は、西暦1750年代に高まり、西暦1758年には公然と敵対するに至った。 イギリスの植民地政府は、サウスカロライナのチャールストンを本拠とした南部インディアン問題監察官のジョン・スチュアートにチェロキー族との折衝を任せたが、実務はその副官でチェロキー族の中で暮らしているアレクサンダー・キャメロンを通じて行われた。
 チェロキー族も関わったポンティアック戦争の後、イロコイ連邦は西暦1768年のスタンウィックス砦条約で、オハイオ川とカンバーランド川の間の狩猟場に対する所有権主張を取り下げた。この地域は先住民(アメリカ・インディアン)の間でケンタッキーと呼ばれ、付近の部族も所有権を主張していた。一方、オハイオ川と五大湖地方の間の地域は、イギリスが植民地化する計画を立てていた。これらの事が多くの紛争を生むことになり、アングロ・チェロキー戦争とアメリカ独立戦争の間の期間も、チェロキー族は小さな部隊を作ってケンタッキーやオハイオ川と五大湖地方のイギリス王国に対する反抗を繰り返した。
 アパラチア山脈の西側のチェロキー族領土への最初の侵犯は西暦1759年に起こった。ノースカロライナの農夫だったジェームズ・ロバートソンが探検家のダニエル・ブーンと共にアレゲーニー山脈を超えて、今日のテネシー州エリザベストンのワトーガ川沿いに来た。そこで先住民(アメリカ・インディアン)が何代にも亘って耕作していた「オールド・フィールズ」を見つけ、ロバートソンはトウモロコシを植え付けることにし、ブーンは探検を続けた。ジェームズ・ロバートソンは一旦ノースカロライナに帰り西暦1767年には結婚した。世直し運動を終わらせることになった西暦1771年のアラマンスの戦いの後で、多くのノースカロライナの人々がイギリス王国に対する忠誠を誓うことを拒否し、ジェームズ・ロバートソンが先導して世直し運動に関わった12、3家族が植民地を離れた。この一隊はそこがヴァージニア植民地の境界内と信じて、ワトーガ川の堤に入植した。アレクサンダー・キャメロンは調査によってその誤りが分かると退去を命じた。しかし、その地域のチェロキー族酋長が仲裁に入り、「これ以上チェロキー族の領土を侵さない。」という条件で定住を許した。西暦1772年にジェームズ・ロバートソンと開拓者達は最終的に北東テネシーに定着し、独立した地方政府であるワトーガ協会を設立した。しかし、測量士がその土地はチェロキー族の領土内にあるとしたので、チェロキー族は開拓者に賃貸しするための交渉を要求した。この賃貸しがまさに成立しようとしたときに、チェロキー族戦士が白人に殺されるという事件が発生した。チェロキー族は「力に訴えても開拓者を追い出す。」と脅したが、ジェームズ・ロバートソンの巧みな外交術で怒り狂う先住民(アメリカ・インディアン)の境遇に同情的な白人の助けを借り、また山深く隠れて強制移住を免れ、現在の東部チェロキー族(人口約1万人)の祖となった。チェロキー族を鎮めることができた。
 一方、ダニエル・ブーンらが初めてケンタッキーに造ったブーンズボロ砦の入植者に対しては、ショーニー族、デラウェア族、ミンゴ族、およびチェロキー族が、ダニエル・ブーンの息子を含む偵察と食糧探しの集団に攻撃をかけたことから、ダンモアの戦争が始まった。1年後の西暦1775年、リチャード・ヘンダーソンとブーンに導かれたノースカロライナの土地投機家、シカモア・ショールズの一隊が、オーバーヒル・チェロキー族の酋長とワトーガ条約の交渉を行った。その部族の酋長はオコノストタとアタクラクラであり、ケンタッキーの土地に対するチェロキー族の領有権主張を取り下げ、ショーニー族やチカソー族のような他の部族による領有権主張も無視して、推測するところではトランシルバニア土地会社に土地を売り渡していた。グレートアイランド集落の酋長でアタクラクラの息子のドラッギング・カヌーはこの取扱いを拒否し、ノースカロライナの男性達に、「お前達は晴れた土地を買ったが、その上には雲が掛かっている。そこに入植すれば暗く血塗られたものになるだろう。」と伝えた。ワトーガ条約はヴァージニアとノースカロライナの総督によって直ぐに拒絶され、リチャード・ヘンダーソンは捕まることを恐れて逃げ出さなければならなかった。
 西暦1776年、デトロイトのイギリス総督ヘンリー・ハミルトンの要請もあって、ショーニー族酋長コーンズトークは、北部から南部までの先住民(アメリカ・インディアン)部族の代表を連れて、チェロキー族酋長とチョタ集落で会い、ケンタッキーに無断で入植していた者達に対する協働行動を呼びかけた。コーンズトークはその演説の最後にその「戦いの帯」を差し出し、ドラッギング・カヌーがチルハウイー集落のアブラハムと共に受け取った。ドラッギング・カヌーはオタワ族とイロコイ連邦からも帯を受け取り、チョタのレイブンはデラウェア族から帯を受け取った。攻撃は3つの部隊に分かれて行うように作戦が立てられた。ノースカロライナの諸部族がサウスカロライナへ、サウスカロライナ西部と北部ジョージアからジョージアへ、リトルテネシー川とハイワシー川からヴァージニアとノースカロライナへというものだった。しかし、無断入植者達はチョタからやってきた旅人に前もって警告を受けていた。その警告はチェロキー族酋長に与えられる肩書き「ビラブド・ウーマン(Beloved Woman)」であるナンシー・ウォードから発せられていた。この裏切りがあって、チェロキー族の攻撃は悲惨なものとなり、ドラッギング・カヌーは脚を銃弾で粉々に打ち砕かれ、弟のリトルオウルは11発も銃弾を受けたが奇跡的に命を取り留めた。その後の植民地からの反応は素早く圧倒的なものであった。ノースカロライナは2400人の民兵を送り、オコノフティー川やタカセギー川、およびリトルテネシー川やハイワシー川の水源地帯を隈無く捜索した。サウスカロライナはサヴァンナ川に1800人を送り、ジョージアはチャタフーチー川とツガルー川に200人を派遣した。これらの部隊は50以上の集落を破壊し、家や食料を焼き、果樹園を壊し、家畜を殺し、さらに数百人の先住民(アメリカ・インディアン)を殺し、生き残った者は奴隷競売台に送った。
 一方でヴァージニアはノースカロライナの志願兵と共にウィリアム・クリスチャンの指揮で大部隊をリトルテネシー川下流に派遣した。ドラッギング・カヌーは女子供、老人をハイワシー川から待避させ、集落を焼き、フレンチ・ブロード川でヴァージニア兵を待ち伏せしようと考えたが、オコノストタとアタクラクラそれに他の年取った酋長達がそのやり方に反対した。ドラッギング・カヌーとオステナコを含む指導者達は、周辺の心を同じくするチェロキー族を寄せ集め、今日のテネシー州チャタヌーガに移住した。このためにウィリアム・クリスチャンの部隊はグレートアイランドやシティコ、テリコなどの集落が打ち棄てられ年老いた酋長達だけが残っているのを見つけた。ウィリアム・クリスチャンは3つの放棄された集落を燃やすだけでその作戦を終えた。アレクサンダー・キャメロンの忠告に従って、チェロキー族はグレート・インディアン・ウォーパスがチカマウガ川を横切る場所にチカマウガの集落を造った。ドラッギング・カヌーもそこに住んだので、その一派のことを白人は「チカマウガ」と呼んだ。
 イギリス人宣教師ジョン・マクドナルドがチカマウガとは川を隔てた所に以前から住み交易所を開いており、西フロリダの首都ペンサコーラにいるジョン・スチュアートの弟ヘンリー・スチュアートと連絡を保っていた。副監察官でありドラッギング・カヌーの血を分けた兄弟であるアレクサンダー・キャメロンがジョン・マクドナルドを伴ってチカマウガを訪れたが、後にイギリス王国の利益を代表するためにアッパー・マスコギーの領地に送られた。チカマウガの集落に加えて、反体制派のチェロキー族がチカマウガ川の上下流に3つの集落を築いた。他にも多くの集落ができたが、そのチェロキー族も他のチェロキー族も自分達のことを「チェロキー族以外の何者でもない。」と考えていた。チカマウガ・チェロキー族が使った土地は、かってマスコギー族が集落を構えていた場所であり、チェロキー族の伝説に従えば、西暦1755年のタリワの戦い後にチェロキー族の持ち物となっていた。しかし、マスコギー族は実際にはチェロキー族との間に緩衝地帯を置くため、もっと早くにその土地を離れていた。カロライナ植民地が西暦1600年代遅くに交易を始めたとき、チェロキー族の最西端の集落は、双子の集落グレート・テリコとチャツーガであった。チェロキー族がクーサワッティーと呼ぶ集落は西暦18世紀初期にチェロキー族が所有していたが、その後放棄された。この土地は西暦1758年にマスコギー族がビッグ・モーターという指導者のもとで再度領有し、フレンチ・インディアン戦争の間、グレート・テリコを中心とする親フランスのチェロキー族を支援したことが元で、マスコギー族、チェロキー族、ショーニー族、チカソー族およびカトーバ族の同盟の踏み台となった。ビッグ・モーターは戦争が公式に終わった翌年にマスコギー族の大酋長になった。
 西暦1777年、チェロキー族の元の地に残っていたチェロキー族はジョージアやサウスカロライナとデューイット・コーナーの条約を、またヴァージニアやノースカロライナとヘンリー砦の条約を結び、戦いの鉾を納めることにより、見返りに攻撃から守って貰うことになった。しかし、不法な入植者からの攻撃を止めることもできず、その土地の浸食も止められなかった。実際には戦争を止めてサウスカロライナの土地を諦めることも要求された。多くのチェロキー族はその土地に入ってくる白人開拓者に不満を抱き、チカマウガに同調してドラッギング・カヌーの追従者に加わるようになった。これに加えてチカマウガの近くのチェロキー族も幾つかの行動に加わり、デューイット・コーナーの条約でサウスカロライナの家を追われた者も加わった。チカマウガ川上流などに住んでいたユチ族も支援してくるようになった。チカマウガ・チェロキー族の主な攻撃目標は、ワトーガ川などの入植者と、テネシー川沿いに旅する集団であった。しかし、ヴァージニア、カロライナおよびジョージアを攻撃目標から外したという訳ではなかった。さらにヴァージニア西部、ケンタッキーおよびオハイオ領土にも攻撃を仕掛けた。西暦1778〜1779年にかけて、ジョージアのサヴァンナとオーガスタをイギリス軍が占領し、イギリス軍から弾薬の補給を受けていたドラッギング・カヌーの部隊はサウスカロライナやジョージアの内陸部を支配することが可能になった。西暦1779年の初め、ヴァージニアのジェイムズ・ロバートソンが、チカマウガがホルストン地域の攻撃に向かっているというチョタからの警告を受けた。これに反応して、ロバートソンはエバン・シェルビーとジョン・モンゴメリーに反撃を命じ、チカマウガ地区の11の集落を破壊し、食料供給も絶った。この間にドラッギング・カヌーとジョン・マクドナルドはその部隊と50人の王党派レンジャーズを率いてジョージアとサウスカロライナを攻撃した。集落が破壊されたことを聞いてショーニー族がチカマウガに代表を派遣した。ドラッギング・カヌー達も集落に戻って人々が戦う意志を失っていないか確認した。ドラッギング・カヌーは西暦1776年にチョタを訪れた代表団から受け取った戦いの帯を持ち出し、「我々は征服されたわけではない。」と宣言した。同盟を確保するために、ドラッギング・カヌーは100人近い戦士を北に派遣したが、ショーニー族も応じた。チカマウガの集落は直ぐに再建され、住人も戻った。ドラッギング・カヌーはシェルビーの遠征隊に報復するために、ノースカロライナとヴァージニアの辺境開拓者を襲った。チカソー族も、ジョージ・ロジャース・クラークの200人以上の遠征隊がジェファーソン砦を築きオハイオ河口近くの入植地を造った時に戦争に荷担した。チカソー族は入植地を破壊し、砦を包囲し、またケンタッキーの辺境を襲い始めた。
 その年遅く、ジェイムズ・ロバートソンとジョン・ドネルソンはこの地域を旅し、カンバーランド川沿いのフレンチ・ソルト・リックにナッシュボロ砦を築いた。カンバーランド地域では初めての入植地となり、周辺のあらゆる先住民(アメリカ・インディアン)部族の攻撃目標となった。西暦1780年初め、ジョン・ドネルソンは家族を含む一隊と共にテネシー川を下り、カンバーランドの河口を横切ってナッシュボロ砦を目指した。最終的に目的地には着くが、途中でタスケギー・アイランドとマッスル・ショールズで待ち伏せを受けた。その夏、新しいイギリス王国の先住民(アメリカ・インディアン)監察官トマス・ブラウンは、チカマウガ・チェロキー族やマスコギー族と協議し共同して攻撃に当たる方法を探ったが、それらの作戦は、トマス・ブラウンの本部があるオーガスタをアメリカ軍が最奪取しようとしたことで後手に回った。チカマウガの戦士や他にも応援を得て、アメリカ軍の動きを阻止し、トマス・ブラウンの東フロリダレンジャーズは、ジョン・セビアの支配下にあるイライジャ・クラークの部隊を追って、途中でアメリカ合衆国側の入植地を徹底的に破壊した。この行動がキングスマウンテンの戦いの引き金になった。パトリック・ファーガソンの率いる王党派民兵がクラーク隊を包囲しようとして、ジョン・セビアとウィリアム・キャンベルの指揮するオーバーマウンテン・マン900人に敗北を喫した。
 ヴァージニア知事トマス・ジェファーソンは、ジョン・セビアの指揮で700人のヴァージニア・ノースカロライナ連合部隊を西暦1780年12月にチカマウガに送った。この部隊はボイズクリークでチェロキー族の一隊と遭遇し戦闘した後に、アーサー・キャンベルとジョセフ・マーチンの部隊と合流し、リトルテネシー川やハイワシー川一帯の17集落を焼き払った。この地域の指導者は暫くは攻撃を控えていたが、他の地域の部族が開拓者に対する攻撃を続けた。西暦1781年までに、ドラッギング・カヌーは元のチェロキー族集落の者やマスコギー族に対する働きかけを続けた。チカソー族、ショーニー族およびデラウェア族は繰り返しカンバーランドの開拓者を襲った。チカソー族がカンバーランドを襲った3ヶ月後、その年の04月に、チカマウガの最初の攻撃があり、ブラフの戦いとして知られるようになった。
 その年の秋、イギリス軍が策謀してある種のクーデターを起こし、より平和的であったオコノストタの代わりにレイブンをオーバーヒル・チェロキーの主要な酋長とした。その後数年間オーバーヒル・チェロキー族は公然とドラッギング・カヌーとそのチカマウガ・チェロキー族を支援するようになった。しかし、その後はまた、他の指導者が平和的な酋長オールド・タッセルを選び、ドラッギング・カヌーに対する支援は途絶えた。
 西暦1782年、再びジョン・セビアの遠征隊がチカマウガを破壊しその周辺の集落も破壊した。この時は、ドラッギング・カヌーは集落を再建せずに西方へ移動し、自然の要害になっていた所にファイブ・ローワー・タウンズを築いた。ファイブ・ローワー・タウンズとは、ドラッギング・カヌーが本拠を置くランニング・ウォーター、ニッカジャック、ロングアイランド、クロウタウンおよびルックアウト・マウンテンの5集落であった。少数の戦士の一隊がタスケギー・アイランド集落を再占領して見張り所とし、開拓地に対する侵略の警告とした。この動きはマスコギー族領地の周縁部であったので、ドラッギング・カヌーは前もってリトルオウル以下の代表をマスコギー族の酋長アレクサンダー・マギリブレーの元に送り許可を求めていた。チカマウガが本拠を移したので、イギリス王国の代表であるアレクサンダー・キャメロンとジョン・マクドナルドもランニング・ウォーターを南東部の活動拠点とした。一方、トマス・ブラウンはアメリカ側に寝返って、チカソー族に対するアメリカ合衆国の代理人として西テネシーに住み、アメリカ合衆国とスペイン帝国を戦わせようとしていたが、イギリス王国にはほとんど興味がなかった。ドラッギング・カヌーのもう1人の兄弟タートル・アットホームが70人程の戦士を連れて北に行き、ショーニー族と共に戦った。
 チカマウガ・チェロキー族のもとには、他のチェロキー族や逃亡奴隷、王党派の白人、マスコギー族、コウシャッタ族、ナチェズ族などの先住民(アメリカ・インディアン)、さらにスペイン人、フランス人、アイルランド人、ドイツ人まで加わってきた。チカマウガの集落はウィルスタウンなどのアラバマまで広範囲に膨れ上がった。この膨張はジョン・セビアなどの破壊活動から逃れて北ジョージアから流入したチェロキー族によるところが大きかった。他にも同盟先住民(アメリカ・インディアン)の集落がテネシー川のコールドウォーター・クリーク河口にできた。そこはテネシー川渓谷にあってやはり天然の要害であった。この先住民(アメリカ・インディアン)はウォバッシュ川のフランス人交易業者から武器や物資の補給を受けていた。
 ドラッギング・カヌーは、自分達だけでは戦争を続けられないと悟り、「多くの先住民(アメリカ・インディアン)部族が孤立しているよりも、大同盟を作ってアメリカに対抗するしかない。」と思った。アレクサンダー・マギリブレー酋長とそのマスコギー族との連携を強めていく一方で、戦士を送ってショーニー族、チョクトー族およびデラウェア族と共に戦いを続けた。西暦1783年、ドラッギング・カヌーは東フロリダの首都セントオーガスティンに赴き、南部と北部の部族指導者を集めてアメリカに対抗する先住民(アメリカ・インディアン)同盟を呼びかけた。その後数ヶ月もかけて部族間委員会を開催したが、パリ条約の調印によって同盟の計画は切り上げられた。パリ条約の後、チカマウガ・チェロキー族はペンサコーラやモビールを通じて交易のあったスペイン帝国の支援を求めた。これは、ニューオーリンズにいたスペイン領ルイジアナの総督がイギリスの敗退に乗じて港を確保していたからである。ドラッギング・カヌーはデトロイトのイギリス総督アレクサンダー・マッキーとの連絡を保っていた。しかし、チカソー族はアメリカ合衆国との間に停戦条約を結び、その後は2度と反旗を翻すことがなかった。
 チェロキー族の3集団、アッパー・チェロキー族、ヒル・チェロキー族、バレー・チェロキー族も新しい合衆国政府に脅迫されて西暦1785年のホープウェル条約を結び、白人の開拓地がホルストンやフレンチ・ブロードまで拡がってきた。条約に署名した者は、自分達の土地がそれ以上の侵略から守られるものと思っていたが、そうではなかった。アメリカ合衆国はチカマウガ・チェロキー族やマスコギー族の繰り返される攻撃に対抗して中部テネシーに軍隊を派遣してきた。休戦中の西暦1788年にフランクリン国(後のテネシー州)に大使としてきていた2人の酋長オールド・タッセルとアブラハムが殺害され、チェロキー族は怒ってその後数ヶ月間敵対行動を続けた。特にオールド・タッセルの弟ダブルヘッドが激怒した。ドラッギング・カヌーはウスタナリ集落で委員会を招集し事の重大さを議論した。アメリカ合衆国民兵による懲罰的な攻撃が続いた。西暦1788年、ジョン・セビアがノースカロライナでバレー・チェロキー族の集落を破壊した。ハイワシー川のウスタリ集落では、住民の逃亡を助けるために残されたボブ・ベンジに率いられたチカマウガ戦士によって、村を空にされた。ジョン・セビアの部隊が逃げる住民を追ったが、バレー川の河口でボブ・ベンジの部隊に待ち伏せを食った。ジョン・セビアの部隊はクータ・クルーチー集落まで行ってトウモロコシ畑を焼き払ったが、ジョン・ワッツの率いる400人の戦士に追い払われた。その夏、ジョセフ・マーチンが500人の部隊と共にチカマウガ地域に入り、カンバーランド山の裾を通ってファイブ・ローワー・タウンズへの侵攻を目指した。ジョセフ・マーチンは分遣隊を送ってルックアウト山の麓の道を確保しようとしたが、ドラッギング・カヌーの戦士によって阻止された。その後ジョン・セビアはホワイト砦(現在のノックスビル)まで撤退した。西暦1789年早くに、有名なブルージャケットの代理の指導者で後の指導者テクムセの兄にあたるチクシカに率いられたショーニー族の一隊が北からやってきた。チクシカ隊はランニング・ウォーターを基地として、チカマウガの戦士が行う開拓者の襲撃などに行動を共にした。その行動の一つでチクシカが戦死し、テクムセが小さなショーニー族部隊の指導者となったので戦争の指導者として最初の経験となった。テクムセの部隊は西暦1790年遅くまで滞在した後、北に帰った。西暦1791年の初め、ボブ・ベンジとその弟ザ・テイルはウィルスタウンを基地として東テネシー、南西ヴァージニアおよびケンタッキーの開拓者に対する攻撃を始め、しばしばコールドウォーターのダブルヘッドの隊とも行動を共にした。ボブ・ベンジは辺境で最も恐れられる戦士になった。ダブルヘッドばかりではなく、ショーニー族、マスコギー族およびアメリカとの条約に従わなかったチカソー族が加わった。
 西暦1791年に締結されたホルストン条約では「合衆国政府が不法な入植を止めることも引き戻すこともできない。」と分かったので、休戦を続ける見返りにさらにアッパー・チェロキーの土地を要求してきた。しかしこれはチェロキー族の主権を保証するように見えたので、アッパー・チェロキーの酋長達に州と同じ扱いを受けるものと信じさせた。この時、チカマウガ・チェロキー族もフィラデルフィアでの会談に代表としてブラッディ・フェローを送ったが、ブラッディ・フェローが抗議した多くの問題のためにその条約を受け入れなかった。
 その年の夏、ドラッギング・カヌーの弟リトルオウルが指揮するチカマウガ・チェロキー族の小さな部隊が北に旅して、「北西インディアン戦争」を戦っている先住民(アメリカ・インディアン)の指導者に会った。ショーニー族のブルージャケットやマイアミ族のリトルタートルであった。リトルオウルがそこにいる間に、ランニング・ウォーターに、北西部領土の知事アーサー・セントクレアが「北の先住民(アメリカ・インディアン)同盟に対する攻撃を計画している。」という伝言が来た。ドラッギング・カヌーは弟のバジャーに30人の最強の戦士隊を付けて北に送り、ウォバッシュの戦いに参加して決定的な勝利を挙げた。この戦いの後、リトルオウル達兄弟は、連れて行った戦士のほとんどを伴って帰還した。
 北部での勝利の報せに刺激されたドラッギング・カヌーは、北部でブルージャケットやリトルタートルがやったように、近くの大きな部族を尋ねて先住民(アメリカ・インディアン)を束ねるための行動に移った。マスコギー族やチョクトー族は応じたが、西テネシーのチカソー族は拒否した。ドラッギング・カヌーが帰還した日は、ザ・グラスとタートル・アットホームがケンタッキーのカンバーランドで開拓者を襲って帰還した日と重なり、ルックアウト・マウンテン集落で徹夜の祝が催され、栄誉を称えてイーグル・ダンスが披露された。
 翌朝、西暦1792年03月01日、ドラッギング・カヌーは死んだ。栄誉の葬列がランニング・ウォーターに彼の体を運び、そこで埋葬された。ドラッギング・カヌーの死の時まで、チカマウガ・チェロキー族の抵抗は開拓者からも、チェロキー族の他の集団からも嫌々ながらの尊敬を得ていた。翌年にウスタナリ集落で開催されたアッパー・チェロキー族の通常委員会の席で、ブラック・フォックスによって追悼された。
 ドラッギング・カヌーの後継者はジョン・ワッツとなり、他にブラッディ・フェローやダブルヘッドと共に、ドラッギング・カヌーの政策であった先住民(アメリカ・インディアン)同盟を継続した。これにはアレクサンダー・マギリブレーと同意した小要塞を作って戦士達の拠点にする計画も含まれていた。ジョン・ワッツは、同盟マスコギー族やペンサコーラにいるスペイン領西フロリダ総督のアルトゥーロ・オニールと連携するために、作戦基地をウィルスタウンに移した。当時のインディアン監察官ジョン・マクドナルドは、スペイン帝国の補給線に近いターキータウンに助手のダニエル・ロスやその家族共々移った。
 西暦1792年09月、ジョン・ワッツはチェロキーとマスコギーの協同で騎馬の分隊を含む部隊を組織し、カンバーランド地方に大規模な作戦を展開した。これは3つの部隊により構成された。ターロンテスキーはケンタッキーの道路を、ミドル・ストライカーはウォルトンの道路を、ジョン・ワッツ自身が280人のチカマウガ族、ショーニー族およびマスコギー族の戦士と騎兵からなる主部隊を率いて、ブキャナンズ・ステーションとして知られるカンバーランドの開拓地を襲うものだった。この作戦でマスコギー族のタロティスキーとドラッギング・カヌーの弟リトルオウルが戦死した。その報復のため、ボブ・ベンジ、ダブルヘッドおよびその弟のパンプキン・ボーイが南西ケンタッキーを襲い、その中で殺したばかりの敵兵を食べるということがあった。一方、マスコギー族はカンバーランドの攻撃を、規模も頻度も拡大して行った。
 西暦1793年、ショーニー族の代表が、北方でセントクレアの軍隊に加わったチカソー族を罰するために、マスコギー族とチョクトー族を訪問する途中でウスタナリ集落に立ち寄った後、ジョン・ワッツは当時の南西部領土首都のノックスビルへ外交使節を送り、ウィリアム・ブラウント知事と休戦条件を話し合わせた。しかし、その代表団が首都に到着する前に民兵に襲われ、ハンギング・モーが負傷し、その妻や娘などが殺された。ジョン・ワッツはその地域ではこれまでの最大となる1000人以上の部隊を組織し、ホルストンを襲い、ノックスビルへの攻撃を目指した。その途中で、チェロキー族の指導者達が協議を始め、ノックスビルの男性のみを殺害するか、全ての住人を殺害すべきかが議論になった。ジェイムズ・バンは男性のみ、ダブルヘッドは全員を主張した。更に進んで、部隊はキャベッツ・ステーションという小さな開拓地に来た。その場所を包囲した後、ボブ・ベンジが住人と交渉し、「降伏すれば命を救う。」ということになった。しかし、開拓者達が徒歩で出てくると、ダブルヘッドの部隊が彼らを殺し始め、ボブ・ベンジが止めても聞かなかった。この時ジョン・ワッツが中に入って1人の少年を救い、ジェイムズ・バンに預けた。しかし、議論が白熱する中で、ダブルヘッドは少年を捕まえて殺した。このことで、ダブルヘッドは「ベビーキラー」と呼ばれるようになった。このことが西暦19世紀初めのチェロキー族の政策を巡る長い不和の始まりとなり、西暦1807年にジェイムズ・バンの命令でダブルヘッドが死ぬまで続いた。この時もチェロキー族の間で熱心な議論が交わされ、結果は部隊が分裂して南に戻ることになった。ジョン・セビアが反撃して、ウスタナリ集落を抑えた。このときは斥候隊との戦闘以外は何も起こらなかった。
 西暦1794年夏、ホワイトマンキラーとザ・ボウルに率いられたチカマウガ・チェロキー族の一隊がウィリアム・スコット以下の部隊を捕まえ、白人の通行人を殺し、物資を略取し、奴隷を捕虜にした。この後、ザ・ボウルとその戦士達は西へ移動し、ミシシッピー川を越えてセントフランシス川まで行って定住した。これはチェロキー族の大きな集団が初めてミシシッピー川を越えて定住した例となった。その年の秋、メロ地区(カンバーランド)のロバートソン将軍に宛ててトマス・ブラウンが伝言を送り、「マスコギー族とチェロキー族の一隊がすべての川沿いの襲撃を始めようとしている。」と伝えた。これに対応して、ロバートソンはジェイムズ・オーレ少佐に命じ、合衆国正規兵とメロ民兵およびケンタッキー志願兵の部隊をファイブ・ローワー・タウンズに送った。この部隊は警告無しでニカジャック集落を襲い、平和的な酋長ザ・ブレスを含む多くの住人を殺害した。その住居に火を付けた後に川を遡ってランニング・ウォーター集落も燃やしたが、住民はとっくに逃げおおせていた。2つの町の住人の多くはウィルスタウンでスティックボールをやっていたために、被害は比較的少なかった。2つの集落の破壊の他に04月にはボブ・ベンジが死んでおり、また北部では、08月にフォールン・ティンバーズの戦いで"マッド・アンソニー"ウェイン将軍に先住民(アメリカ・インディアン)同盟軍が敗れていた。さらにスペイン帝国がヨーロッパでのナポレオンに対応するために、チカマウガを支援できなくなっていた。ジョン・ワッツは「戦いを終わらせるしかない。」と確信した。1ヶ月後のテリコ・ブロックハウス条約で、戦争は終結したが、条約では新たな土地の割譲がなかったことは注目すべきことであった。チカマウガとローワーのチェロキー族はホルストン条約を認めさせられ、西暦19世紀まで休戦が続くことになった。ただし、ダブルヘッドがジョン・セビアの基地に最後の攻撃を仕掛け、14人を殺した。この時、他の者はフィラデルフィアで条約に調印していた。
 独立戦争前にイギリス軍と同盟してチェロキー族が戦った2年間を含めると、チカマウガ戦争はほぼ20年間続いたことになり、先住民(アメリカ・インディアン)とアメリカの間の戦争では最も期間の長いものに属しているが、チェロキー族は西暦1758年に始まった戦争に少数ながらも関わっていたので、40年間近くという見方もできる。独立戦争に続く敵意が継続したために、2つの恒久的な防衛拠点が置かれた。1つはホルストンのサウスウエスト・ポイント砦であり、もう1つはピット砦であった。過小評価してはならないのは、ドラッギング・カヌーの指導者としてまた外交官としての能力である。今日でもアメリカ人と先住民(アメリカ・インディアン)の戦闘について、ドラッギング・カヌーのことを扱った文献は少ない。
 休戦条約に続いて、主要なチェロキー族とチカマウガのチェロキー族には特に区別が無くなった。実際にはチカマウガの指導者が民族の問題については主導的となった。チェロキー族全体の民族政府が組織化され、ドラッギング・カヌーの下で戦士として活動した3人の大酋長、リトル・ターキー、ブラック・フォックスおよびパスキラーが政務を執り、2人の議長ダブルヘッドとタートル・アットホームが就任した。元チカマウガの戦士達の多くはチカマウガの元の集落に戻った。しかし、元チカマウガの大多数はウィルスタウンに中心がある西暦1794年の集落に留まった。元の戦士達は文化変容、アメリカ人の言う「文明化」の強い主唱者となった。ノースカロライナ西部に残ったチェロキー族は、伝統的な様式を守り、多くは純血のままであった。
 西暦1795年8月、ウェイン将軍がオハイオ領土に留まっていたチェロキー族の指導者ロングヘアに伝言を送り、フォールン・ティンバーズで敗れた北部先住民(アメリカ・インディアン)同盟の部族と同様に休戦すべきことを伝えた。これに対する回答で、ロングヘアは収「穫が終われば南に帰る」と伝えた。しかし、全員が退去したわけではなく、少なくともシュー・ブーツという名の先住民(アメリカ・インディアン)が西暦1803年までそこに留まっていた。西暦1809年頃、モホーク族の酋長ジョン・ノートンがチカマウガを訪れた時、元チカマウガの民はチェロキー族の中でも最も文明化された者となっていた。例えばジェイムズ・バンは100人以上の奴隷を使うプランテーションの所有者であり、ミシシッピー川の東では富裕な層の者となっていた。ノートンはタートル・アットホームと親しくなり、いわゆる「チカマウガ」が特別の民では無かったと知らされた。タートル・アットホーム自身はナッシュビルとアセンズの間の連邦道路で渡し舟を所有しており、テネシー川を下るだけでなく北へも行く先が広がっていた。チェロキー族に、ミシシッピー川を越えて西方への移住の圧力が高まり始めると、元チカマウガ・チェロキー族の指導者達が陣頭指揮を執り、以前にザ・ボウルが辿った道を行くことになった。アッパー・チェロキー族は初め反対していたが、メイジャー・リッジなどの主導で従うことになり、西暦1835年のニュー・エコタ条約、西暦1838年の移住となった。
 ショーニー族の指導者テクムセは、西暦1811年の戦いを始める前に、南部に戻ってきて、チカソー族、チョクトー族、マスコギー族およびチェロキー族の支援を得て、昔のように同盟を作りアメリカ人を追い出そうと考えた。テクムセは一部の例外を除いてほとんど支援を得られず、チェロキー族の代表からは強い反対を受けた。しかし、テクムセが南部にいる間、47人のチェロキー族と19人のチョクトー族が熱心にその護衛を務めた。テクムセの来訪は、元チカマウガの住人で預言者のツァリによる宗教復活に火を付けた。いわゆる「チェロキー・ゴースト・ダンス」運動である。ウスタナリ集落でツァリが開いた民族集会では多くの指導者が心を動かされた。しかし、メイジャー・リッジが雄弁に反論してテクムセとの同盟よりもアメリカ側に付くことになった。その結果アンドリュー・ジャクソン率いるアメリカ軍に500人以上のチェロキー族戦士が志願兵として参加し、クリーク戦争でレッド・スティックスの指揮する元マスコギー族の一派を破った。西暦1794年の条約以降、東テネシーでは活動的なチェロキー戦士は見られず、南北戦争の時になってウィリアム・ホランド・トーマスが南軍側でチェロキー・インディアン部隊を率いた。

 テカムセの戦争は、アメリカ合衆国北西部領土で、アメリカ合衆国に領土を奪われたショーニー族を初めとする先住民(アメリカ・インディアン)部族同盟が蜂起し、アメリカ軍と抵抗戦を交えた「インディアン戦争」で、アメリカ合衆国による領土侵略に対して、ショーニー族のテカムセの呼びかけで先住民(アメリカ・インディアン)諸部族が蜂起したこの戦争は西暦1811年のティッペカヌーの戦いでアメリカ軍のウィリアム・ヘンリー・ハリソンの勝利で終わったと考えられがちだが、米英戦争(西暦1812〜1815年)時までテカムセたちの反抗は継続したので、米英戦争の一部とも見做されている。先住民(アメリカ・インディアン)の社会には、独任制の代表である首長は存在しない。先住民(アメリカ・インディアン)は合議制民主主義に則って、全ての取り決めを連座の合議で決定する。白人はテカムセをこの戦いの「指導者」、「扇動者」と見做し、「テカムセの戦争」と名付けているが、テカムセは独断でこれを指導したわけではない。テカムセは「尊敬を集める大戦士」、または「調停役」である酋長として、白人による領土侵略を断固拒み、交戦派の意見を代表して白人と交渉しているのである。
 この戦争の2人の主たる敵対者、テカムセと、ヴァージニア植民地代表として大陸会議に参加し、アメリカ独立宣言に署名を行ったアメリカ合衆国建国の父(ファウンディング・ファーザーズ)でヴァージニア州知事ベンジャミン・ハリソン(Benjamin Harrison V)の末子で三男ウィリアム・ヘンリー・ハリソン(William Henry Harrison、後の9代アメリカ合衆国大統領)は、西暦1794年に「北西インディアン戦争」の終わりとなったフォールン・ティンバーズの戦いでは、若い兵士・戦士として参加していた。テカムセは、「北西インディアン戦争」を終結させ、ショーニー族や他の先住民(アメリカ・インディアン)が住んでいた今日のオハイオ州の大部分をアメリカ合衆国に割譲することになったグリーンビル条約に署名することを拒否していた。しかし、その地域の多くの先住民(アメリカ・インディアン)部族は条約を受け入れ、それに続く10年間は先住民(アメリカ・インディアン)部族を統合したアメリカ合衆国の支配権に対する反抗が影を潜めたままだった。グリーンビル条約の後、オハイオのショーニー族の大半はブラック・フーフ酋長の条約調印(✕印を書いただけ)後、オーグレーズ川ワパコネタにあるショーニー族集落に定住していた。「北西インディアン戦争」に参加したマイアミ族のリトルタートルことミシキナクヮ酋長も条約に調印(✕印)し、イール川の彼の集落に住んでいた。ブラック・フーフことカテカハッサ酋長と、リトルタートル酋長の2人とも、合衆国の同化政策に従って、白人文化を取り入れ順応しようとしていた。
 西暦1805年、ショーニー族内では、テカムセの弟の「預言者」テンスクヮタワによって、先住民(アメリカ・インディアン)の白人入植者排斥主義的宗教が復活し、白人社会への順応を受け入れた酋長達の影響力に脅しを掛けた。テンスクヮタワの考えは多くの先住民(アメリカ・インディアン)の共感を呼び、彼らに白人のやり方を拒絶させ、合衆国からのさらなる土地の収奪を止めさせた。合衆国と協力して行く方向に傾いていた多くの先住民(アメリカ・インディアン)が、裏切り者として殺された。ブラック・フーフも裏切り者扱いされたが、危害は加えられなかった。テンスクヮタワはグリーンビルの彼の集落から、ブラック・フーフの合衆国との友好関係の体面を傷つけることもした。
 西暦1808年までに白人とワパコネタのショーニー族との間の緊張関係が募り、テカムセとテンスクヮタワは集落を立ち退き、さらに北西に行ってウォバッシュ川とティピカヌー川が合流するところの近くにプロフェッツタウンの集落を作った。ミシキナクヮ酋長(リトル・タートル)はこの兄弟を歓迎できないことを伝えたが、これは無視された。その次の3年間、テカムセは合衆国東部全域を旅し、篝火を囲んだ何百もの会議の席上で演説して回った。テカムセは先住民(アメリカ・インディアン)と白人の間の歴史について豊富な知識を持っており、それを演説で効果的に使用した。こうしてテンスクヮタワの教義は広く知られることになり、多くの先住民(アメリカ・インディアン)部族から賛同者を惹きつけた。その部族はショーニー族、カナダのイロコイ族、チカマウガ族、フォックス族、マイアミ族、ミンゴ族、オジブワ族、オッタワ族、キカプー族、デラウェア族、マスクーテン族、ポタワトミ族、ソーク族およびワイアンドット族(ヒューロン族)であった。テカムセはこれら部族同盟の調停者として尊敬を集めたが、宗教的な訴えによってその基礎を築いたのは弟テンスクヮタワの方だった。
 一方西暦1800年に、ウィリアム・ヘンリー・ハリソンは新しく作られたインディアナ準州の知事となり、ビンセンズにその政庁を置いた。ウィリアム・ヘンリー・ハリソンはアメリカ植民地政策の拡張のために、先住民(アメリカ・インディアン)の土地に対する所有権を確保しようとした。特にウィリアム・ヘンリー・ハリソンはインディアナが州に昇格するために必要なだけの白人の入植者を引き付けようと期待した。ウィリアム・ヘンリー・ハリソンは先住民(アメリカ・インディアン)と多くの土地の割譲に関する条約交渉を行い、西暦1809年09月30日のウェイン砦の条約で完結させていた。この条約では、リトルタートルや他の部族の酋長たちが約12000㎢の土地の、合衆国への売却書面に調印(✕印)した。
 テカムセはウェイン砦での条約を聞いて激怒し、その後は傑出した雄弁家として頭角を現した。テカムセは何年も前にショーニー族のブルージャケットや、モホーク族のジョセフ・ブラントが行ったのと同じ考え方を再び同胞たちに呼びかけた。その考え方とは、「先住民(アメリカ・インディアン)の土地はあらゆる部族共通の持ち物であり、全部族の了解無しに土地を売却してはならない。」という先住民(アメリカ・インディアン)文化の基本理念だった。白人たちは元々代表権のない酋長に「部族代表」として条約署名(✕印を書くだけである)させて、全部族の了承を得たものとし、その後で武力で彼らを彼らの領土から追い出してきた。しかしこれは、先住民(アメリカ・インディアン)側にとっては合議を経ていない掟破りだった。先住民(アメリカ・インディアン)たちの怒りは高まっていたが、テカムセは合衆国との本格的な交渉の前に、合衆国との条約に署名したインディアンたち全てを排除すべきであると呼びかけた。テカムセは広く歩き回り、戦士たちに順応派の酋長の意見に耳を貸さずに、プロフェッツタウンの抵抗戦に加わるように熱弁を奮った。テカムセは「ウェイン砦の条約が不法だ。」と主張した。テカムセはウィリアム・ヘンリー・ハリソンに条約の無効を主張し、「白人は条約で先住民(アメリカ・インディアン)から奪った土地の入植を進めてはならない。」と警告した。
 西暦1810年08月20日、テカムセはウィリアム・ヘンリー・ハリソンと、インディアナのヴィンセンズに置かれたウィリアム・ヘンリー・ハリソンの本営で初めて会見した。テカムセはウェイン砦の条約の内容を非難し、一方のウィリアム・ヘンリー・ハリソンは条約が有効であることを確認し、双方は歩み寄ることはなかった。西暦1811年夏、テカムセとウィリアム・ヘンリー・ハリソンは再びヴィンセンズで会見し、数人の開拓者が先住民(アメリカ・インディアン)に殺害された事件を持ち出し、ウィリアム・ヘンリー・ハリソンがテカムセたちを糾弾した。テカムセはウィリアム・ヘンリー・ハリソン側の法の裁きに委ねることを拒否した。ショーニー族の兄弟は合衆国との和平を保つ意図があることを約束した。テカムセはその後、南部に旅していわゆる「文明化5部族」の中で同盟者を募った。南部の部族の大半はテカムセの申し出を拒絶したが、後に「レッド・スティックス(赤い棒)」として知られるようになるクリーク族の戦士団だけが、テカムセの「武器を取って立ち上がろう。」という蜂起案に賛同した。「レッド・スティックス」は米英戦争のなかで「クリーク戦争」を戦った。
 テカムセが南部にいる間に、ウィリアム・ヘンリー・ハリソン知事は1000人以上の部隊を引き連れ、ビンセンズからウォバッシュ川を遡ってテンスクヮタワとその仲間を脅そうとした。ハリソン隊は途中で今日のテレホート近くにハリソン砦を造った。ハリソン砦にいる間に、陸軍長官のウィリアム・ユースティスからの命令が届いた。それは「もし必要ならばプロフェッツタウンに先住民(アメリカ・インディアン)達を追い払うために武力を行使しても良い。」というものだった。西暦1811年11月06日遅くにハリソン隊がプロフェッツタウンの外に到着した時、1人の若い先住民(アメリカ・インディアン)が白旗を振りながら馬で町の外に現れた。その先住民(アメリカ・インディアン)は、和平のための会合をもつために翌日まで戦闘をしないことを要求するテンスクヮタワの伝言を伝えた。ウィリアム・ヘンリー・ハリソンは同意したが、テンスクヮタワの調停案を疑い、夜通し歩哨を立てていた。テンスクヮタワ達は、恐らくウィリアム・ヘンリー・ハリソンが彼らの集落を襲おうと考えていると思い、先制攻撃を撃つ賭けに出ることを決め、約500人の戦士がアメリカ軍の宿営地に向かった。ウィリアム・ヘンリー・ハリソンの立てた歩哨が11月07日の夜明け前に進軍してくる先住民(アメリカ・インディアン)戦士に遭遇した。ウィリアム・ヘンリー・ハリソンの兵士たちが銃声を聞いて目覚めた時、すでに先住民(アメリカ・インディアン)に囲まれかけていることが分かった。激しい戦闘が起こり、先住民(アメリカ・インディアン)戦士がハリソン隊の防衛線を突き破り宿営地の中まで入って来た。歩哨たちが宿営地に逃げ帰ってくると、兵士達は直ぐに自発的に集団を作り、防衛線を確保しながら反撃を開始した。この日の朝の間、ハリソン隊は何度も攻撃を跳ね返し、遂に先住民(アメリカ・インディアン)戦士は撤退した。ハリソン隊は68人が戦死または瀕死の重傷となり、また約120人が負傷した。先住民(アメリカ・インディアン)の被害は諸説あるが、推測では50人以上が戦死し、70〜80人が負傷した。テカムセが直ぐにも援軍を連れて帰ってくることを恐れたウィリアム・ヘンリー・ハリソンはその陣地の防御を固めることを命じた。翌11月8日、ウィリアム・ヘンリー・ハリソンが少数の兵士に先住民(アメリカ・インディアン)集落を偵察に行かせると、集落はもぬけの殻だった。インディアンは夜の間に村から抜け出していた。勝ち誇ったアメリカ軍は集落を焼き払いビンセンズに戻った。ハリソン軍の方が損害の大きい戦いではあったが、結果をみればハリソン軍の勝利という解釈がなされた。(ティッペカヌーの戦い)
 テンスクヮタワは、「白人の武器は先住民(アメリカ・インディアン)戦士を傷つけられない。」と預言していたが、この戦闘の結果は彼の威信と兄の信頼を失うものとなった。これは重大な挫折とはなったが、テカムセは南部から戻ると密かに同盟の再結成を始めた。
アメリカが西暦1812年に米英戦争を始めると、テカムセはカナダのイギリス軍も味方にした。その結果カナダの人々はテカムセをカナダの防衛者として記憶したが、米英戦争でのテカムセの行動は先住民(アメリカ・インディアン)を外部からの力から守るための努力の継続であり、その途中で倒れることになった。

 ウィリアム・ヘンリー・ハリソンは「ティッペカヌーの戦いがテカムセの同盟に致命傷を負わせた、」と主張し、このことで、「ティッペカヌー」という渾名を貰い、この勝利の記憶を民衆に伝え西暦1840年の大統領選挙で勝利し、9代アメリカ合衆国大統領となった。


トマス・ジェファソン(下):権力の技法 - ジョン・ミーチャム, 森本 奈理
トマス・ジェファソン(下):権力の技法 - ジョン・ミーチャム, 森本 奈理

 トーマス・ジェファーソンは異人種間結婚に対する反対意見を公衆の前で「彼ら(黒人)の他の色との混血は、この国を愛する者、人間の性格の優秀さを愛する者は誰も無意識に認めようとはしない退廃を生むことになる。」と述べた。
 トーマス・ジェファーソンは明言を伴う奴隷制廃止論者だったが、彼はその生涯で多くの黒人奴隷を所有していた。この事実は不可解に見えるが、トーマス・ジェファーソンが大きな負債を抱えており、奴隷を手形や担保にしたことで重荷になっていた。自分が負債から解放されるまで奴隷を解放できず、その負債はなくならなかった。その結果、トーマス・ジェファーソンは良心の呵責や試練を味わっていたように見える。その葛藤はモンティチェロなどで彼やその家族と最も密接に働いていた奴隷達の待遇にも現れた。トーマス・ジェファーソンは奴隷達を鍛えさせ、高い質の技術を教えさせた。奴隷制について「我々は苦境に陥っている。奴隷を持ち続けることも安全に去らせることもできない。正義は1つの尺度にあり、自衛本能は別の尺度にある。」と記した。トーマス・ジェファーソンはその公職に就いていた長い期間に、何度も奴隷制を廃止するか、奴隷制の進展を制限しようとした。ジェイムズ・リーメンのような自由州の推奨者を後援し奨励した。トーマス・ジェファーソンは奴隷を全て解放するのが国家と社会の責任であると考えた。
 西暦1769年、トーマス・ジェファーソンはヴァージニア植民地議会の議員として、議会にヴァージニアの奴隷を解放するよう提案したが成功しなかった。アメリカ独立宣言の初稿では、イギリス王室が植民地に奴隷を輸入することを援助していることを非難し、王室が「人間性そのものに対して残酷な戦争をしている、彼に対して攻撃したことも無かった遠方の人々の生命と自由の神聖な権利の大半を侵害し、彼らを捕まえ異なる半球に連れて行って奴隷にした。」と告発した。しかし、この文章はサウスカロライナとジョージアからの代議員の要請で独立宣言から除外された。西暦1778年、ヴァージニア邦議会はトーマス・ジェファーソンが提出したヴァージニアにこれ以上奴隷を輸入することを禁じる法案を通した。ただし、これは奴隷の完全な解放には繋がらず、トーマス・ジェファーソンの言では、「輸入による悪徳が増えるのを止め、最終的な解放については将来の成り行きに任せた。」となった。西暦1784年、北西部条例となったものをトーマス・ジェファーソンが起草し、これでは北西部領土からアメリカ合衆国に加入を認められる新しい州においては、「奴隷制も自発的でない徒弟奉公もあってはならない。」と規定した。西暦1807年、ジェファーソンは大統領として、奴隷貿易を廃止する法案に署名した。
 トーマス・ジェファーソンは西暦1784年の「ヴァージニア覚書」の中でも奴隷制を次のように攻撃した。「我々の作法には、我々の間に奴隷が存在することで生み出された不幸な影響が間違いなくあった。主人と奴隷の間の付き合い全体は最もがさつな熱情の恒久的行使であり、一方においては絶え間ない専制、もう一方においては品位を落とす屈従だった。」やはり「ヴァージニア覚書」の中で、「体と心の双方における天分で」黒人は白人に劣っているという疑念を進めた。しかし、黒人はいかなる国でも自由に生きる権利が有るはずであり、そこでは人々が彼らをその性格で判断し労働のための道具であるとは見做さない。」とも書いていた。また、「これらの人々が自由であるべきという運命以外何ものも確かなことはこの本に書かれていない。(しかし)2つの人種は...同じ政府の下では暮らせない。性格、習慣、意見は彼らの間に消せないはっきりとした線を引いている。」とも書いた。
 トーマス・ジェファーソンは、全ての奴隷所有者およびアメリカ社会の他の多くの白人と同様、黒人を劣っており子供のような存在であり、信頼できないも者、かつもちろん資産として見做していた。政治の天才であるトーマス・ジェファーソンは黒人が自由人として社会で生活する道を見出せなかった。それと同時に奴隷達にトーマス・ジェファーソンの子供達の世話、彼の食事の準備と上流階級の客達への歓待を託していた。明らかに幾らかの者は信頼に値すると考えていた。長い間考えた結論としてトーマス・ジェファーソンは、「奴隷達を解放し、アフリカの植民地に平和的に送り返すべき。」と考えた。そうしなければ、戦争になることを恐れ、彼自身の言葉で、「人間性は抱かれた見込みを恐れて震えなければならない。我々はスペインがムーア人を追放しあるいは消去したことに1つの例を見ても無駄である。この先例は我々の状況とは遥かに違うものである。」 西暦1814年08月、エドワード・コールズとトーマス・ジェファーソンはエドワード・コールズの奴隷解放の概念について書簡を交わした。「貴方の1人だけだが歓迎の声はこれを私の耳に伝えた最初のものであり、私はこの問題に通暁の一般的な沈黙をあらゆる期待には不都合な冷淡さを示すものとして受け取った。」
 西暦1817年、ポーランド人の将軍でアメリカ独立戦争でアメリカに協力したタデウシュ・コシチュシュコが死ぬとき、トーマス・ジェファーソンはその遺言執行人に指名された。タデウシュ・コシチュシュコはその遺産を売って得られる利益をトーマス・ジェファーソンが奴隷達を解放するために使われることを求めた。トーマス・ジェファーソンは当時75歳であり、その奴隷達を解放せず、「あまりに年を取りすぎて遺言執行人の義務を果たせない。」と言った。しかし彼は当時ヴァージニア大学の創設のために精力的に動いていた。「トーマス・ジェファーソンが奴隷を解放することについて不安を持っていた。」と推量するとか笑止な信者が詭弁を弄しているが、トーマス・ジェファーソンは、口先だけでタデウシュ・コシチュシュコの遺志も踏みにじった偽善者である。西暦1819年以降土地価格が下落したことでトーマス・ジェファーソンはさらなる負債を抱え込んだ。最終的にその奴隷達の中から最も信頼していた5人(2人はその混血の息子)を解放し、議会には彼らがヴァージニア州内に留まれるよう請願した。ジェファーソンの死後、その家族はその高額な負債を支払うために荘園の芝生の上で残っていた奴隷達を競売に掛けて売却した。
 トーマス・ジェファーソンは西暦1826年07月04日、アメリカ独立宣言の採択から50周年の記念日にヴァージニア州で83歳で死んだ。奇しくも先輩大統領であり、独立を求めた同国人、偉大な政敵、後には友人となり文通相手でもあったジョン・アダムズも同じ日の数時間後にマサチューセッツ州で死去した。 ジョン・アダムズの臨終の言葉は、「トーマス・ジェファーソンは…」であった。最後の部分はほとんど声になっていなかったが、「不滅である。」と語ろうとしたと言われている。


 奴隷貿易に対しては、その開始と同時に宗教的および人道主義の立場から批判が起こった。特に西暦18世紀後半以降、宗教的および人道主義的意見と、奴隷価格の高騰という植民地側の事情が噛み合った。西暦19世紀初頭には、まず(奴隷制度では無く)奴隷貿易禁止の機運が高まり、西暦1803年、デンマークで世界初の奴隷貿易禁止法が発効した(法制化は西暦1792年)。最大の奴隷貿易国であったイギリスは西暦1807年、黒人奴隷貿易禁止を打ち出し(西暦1807年)、ナポレオンとの戦いで海軍力が慢性的に不足している中でも、アフリカ沿岸に多数の艦艇を配置して奴隷貿易を取り締まり、ラゴスなどポルトガル人の奴隷貿易港湾を制圧した。奴隷貿易廃止によってボーア人の深刻な労働力不足が引き起こされた不満から、西暦1835年にグレート・トレックが起こっている。なお、奴隷貿易廃止と植民地化に伴う現地の労働力の確保とが結びつけて考えられる事があるが、これは誤りである。奴隷貿易の中心である西アフリカ、東アフリカの沿岸地帯の植民地化(アフリカ分割)が始まったのは、少なくともイギリスに関しては50年以上経った西暦19世紀半ば以降のことであり、それは西暦1880年に南アフリカで起こったボーア戦争へと繋がった。
 その後、カリブ海地域で成立した近代奴隷制は、西暦19世紀前半期に次々に廃止されていった。イギリス領諸島では西暦1833年、スウェーデン海外植民地では西暦1846年、フランス領では西暦1848年、オランダ領では西暦1863年に、奴隷制が廃止された。
 こうした動きの中、アメリカ合衆国では西暦1808年に奴隷の輸入が禁止されたが、綿花プランテーションで奴隷を使役したいアメリカ合衆国南部の農園主による密輸がその後も続いた。最後の奴隷船は、アフリカのベナンからモービルに110人を運び、証拠隠滅のため燃やされたクロチルダ号であった。その直後に勃発した南北戦争で、奴隷制維持を掲げる南部諸州が結成したアメリカ連合国(南軍)が敗北し西暦1865年に奴隷制が全廃された。


人種差別主義者たちの思考法 黒人差別の正当化とアメリカの400年 - イブラム・X・ケンディ, 山田美明
人種差別主義者たちの思考法 黒人差別の正当化とアメリカの400年 - イブラム・X・ケンディ, 山田美明


posted by cnx at 19:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 反吐 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする