
他民族からは「ヘブライ人」と謂れ、自らは「イスラエル人」と称し、バビロン捕囚後には「ユダヤ人」と呼ばれるようになった徒輩。ヘブライ人、イスラエル人、ユダヤ人は同じ民族を指している。
ユダヤ人(ヘブライ語: יהודים、英語: Jews、ラジノ語: Djudios、イディッシュ語: ייִדן)は、猶太教の信者(宗教集団)または猶太教信者を親に持つ者によって構成される宗教信者。原義は狭義のイスラエル民族のみを指す。イスラエル民族の1つ、ユダ族がイスラエルの王の家系だったことを由来とする。猶太教という名称は、猶太教徒が多く信仰していた宗教であることによる。ユダヤとは、パレスチナ南部の地域。酋長ヤコブの子ユダに由来する。古代イスラエル統一王国の分裂後の南ユダ王国があった地域である。
南ユダ王国滅亡後のユダヤの歴史
南ユダ王国が滅ぶと、僅かな例外的時期を除いて西暦20世紀に至るまでユダヤ民族が独立国を持つことはなかった。
神武天皇74(西暦前587)〜安寧天皇10(西暦前539)年 新バビロニア帝国
安寧天皇10(西暦前539)〜孝安天皇61(西暦前332)年 アケメネス朝ペルシア帝国
孝安天皇61(西暦前332)〜孝安天皇88(西暦前305)年 プトレマイオス朝エジプト
孝安天皇88年(西暦前305)〜開化天皇17(西暦前141)年 セレウコス朝シリア
開化天皇17(西暦前141)〜崇神天皇35(西暦前63)年 ハスモン朝 ユダヤ人国家
崇神天皇35(西暦前63)〜崇神天皇61(西暦前37)年 共和政ローマ元老院属州
崇神天皇61(西暦前37)〜垂仁天皇73(西暦44)年 ヘロデ家
垂仁天皇73(西暦44)年 ユダヤ属州(ローマ帝国皇帝属州)
垂仁天皇73(西暦44)〜景行天皇23(西暦93)年 ヘロデ家
垂仁天皇73(西暦44)〜仁徳天皇83(西暦395)年 ローマ帝国皇帝属州
仁徳天皇83(西暦395)〜舒明天皇06(西暦634)年 東ローマ帝国
舒明天皇06(西暦634)〜永正13(西暦1516)年 イスラーム諸王朝 途中に十字軍国家の時代を含む。
永正13(西暦1516)〜大正06年(西暦1917)年 オスマン帝国
大正07年(西暦1918)〜昭和23(西暦1948)年 イギリスによる国際連盟の委任統治
昭和23(西暦1948)年 イスラエル国(メディナット・イスラエル)成立 共和政国家の樹立、現代に至る。
西暦135年、ローマが叛乱を鎮圧し、ユダヤ的なものを一掃しようとしたローマ人は、この土地をユダの地(ユダヤ)ではなく、ユダヤ人の宿敵ペリシテ人に因んで「パレスチナ」、エルサレムを「アエリア・カピトリーナ」と改称し、ユダヤという地名は消滅した。
また、ユダヤ人は人種的にはセム族とされるが、長いディアスポラ(離散)のなかで、周辺民族との混血の結果、セファルディームとアシュケナジームの違いが生じ、また言語もイデッシュ語などが生まれた。現在、ユダヤ人はイスラエルの他、世界中に分布しており、アメリカにも約600万人が住んでいるとされる。しかし現在ではユダヤ人を「人種」概念で捉えるのは困難で、現実には「猶太教を信仰する徒輩」と捉えるのが正しい。人類学的に同質のユダヤ人は存在しない。
ブルボン朝(仏語: dynastie des Bourbons、西暦1589〜1792、1814〜1830年)、オルレアン朝(仏語: dynastie d'Orléans、西暦1830〜1848年) その4
ルイ14世(Louis XIV)太陽王の晩年以来フランス王国の国家財政は苦しくなり、立て直しの試みも成功せず、ルイ16世(Louis XVI)の時代になって財政は完全に行き詰まり、西暦1780年代時点の財政赤字は45億リーブル(西暦2017年時点の日本円で54兆円相当)にまで膨張していた。しかしルイ16世が任命した財務総監たちは宮廷貴族に十分な課税をせず、国家の資金を惜しげも無く与えた。
財政困難が深刻になり宮廷が万策尽きた結果、国王はローヌ男爵アンヌ・ロベール・ジャック・テュルゴー(Anne-Robert-Jacques Turgot, Baron de Laune)やジャック・ネッケル(Jacques Necker)等の改革派を財務総監に任命せざるを得なくなった。彼らは宮廷貴族などの特権身分に対して課税などの財政改革を進めようとしたが、宮廷貴族などの特権身分たちはこれに反対して、その改革を失敗させた。宮廷貴族たちは宮廷の官職、軍隊の高級将校、将軍、元帥、行政上の高級官職を握っていた。彼らの圧力を受けて改革派大臣は追放されることが繰り返された。貴族層に対抗する窮余の策として招集した三部会は思わぬ展開を見せ、平民層を大きく政治参加へ駆り立てたことで、結果的に西暦1789年07月14日のバスティーユ襲撃に始まるフランス革命を呼び起こした。ルイ16世はこの時に国王衣装係のロシュフーコー・リアンクール侯フランソワ・アレクサンドル・フレデリク(François-Alexandre-Frédéric duc de La Rochefoucauld-Liancourt)から報告を受けたが、日記には「何もなし。」と書いて寝てしまった。
「王政に対する民衆の不満が爆発し、革命が勃発した。」ということになっているが、それでも少なくともヴァレンヌ事件までは、錠前作りが趣味の国王ルイ16世は、当時のフランス国民(パリ市民)に絶大な人気を得ていた。また、王妃マリー・アントワネット・ジョゼフ・ジャンヌ・ド・アプスブール・ロレーヌ(Marie-Antoinette-Josèphe-Jeanne de Habsbourg-Lorraine、またはマリー・アントワネット・ドートリッシュ(Marie-Antoinette d'Autriche、マリア・アントーニア・ヨーゼファ・ヨハンナ(独語: Maria Antonia Josepha Johanna)))を貶めるため、首飾り事件など全く無関係な醜聞と事実無根の噂をまき散らし、王室の威厳が葬られた。裏で、悪逆非道なディープステイト、フリーメイソンの仏大東社のグランドマスター、オルレアン公ルイ・フィリップ2世ジョゼフ(仏: Louis Philippe II Joseph, duc de Chartres, puis duc d'Orléans)が暗躍していた。こいつらの多くも自縄自縛でギロチンに掛けられた。
バスティーユ襲撃の後、国王の軍隊はパリ全体で敗北し、地方都市でも国王の軍隊は敗北し、各地方で軍隊の叛乱が起こった。国王の側はこれ以上の軍事行動ができなくなった。2代ブロイ公ヴィクトル・フランソワ(Victor-François, duc de Broglie)元帥は「反撃の機会を窺うべきである。」と説いたが、既に軍隊と共に移動する資金も食糧もなかった。そこで国王は泣いて屈服した。国王ルイ16世は譲歩することを決心し軍隊を引いて国民会議に出席し「朕は国民と共にある。」と言い和解を宣言した。軍事行動を指揮した宮廷貴族たちは群衆に処刑された。有力な宮廷貴族たちは逃亡し、国王だけが第三身分の捕虜同然の身としてフランス王国に留まった。バスチーユ敗北直後から一部の宮廷貴族は復讐を恐れて亡命した。07月17日、ルイ16世、パリを訪問して鎮撫した。この時亡命したのは、王弟アルトワ伯シャルル・フィリップ(後のシャルル10世)4代ブロイ公ジャック・ヴィクトル・アルベール(Jacques-Victor-Albert, 4e duc de Broglie)、プルイリー男爵およびブルトゥイユ男爵ルイ・シャルル・オーギュスト・ル・トノリエ(Louis Charles Auguste Le Tonnelier, baron de Breteuil, baron de Preuilly)、ランベスク公シャルル・ウジェーヌ・ド・ロレーヌ(仏:Charles-Eugène de Lorraine, prince de Lambesc)、初代ポリニャック公アルマン・ジュール・フランソワ(Armand Jules François, comte puis 1er duc de Polignac)、ブルボン・コンデ公ルイ5世ジョゼフ(Louis V Joseph de Bourbon-Condé)などであった。07月25日にパリ市民公会(パリ・コミューン)が成立した。
この勝利で権力を握ったのは最上層のブルジョアで、経済活動で最強の力を持つ者だった。その中には貴族の資格や領地を持つ者も多かった。これらの上層ブルジョアジーたちは士気が乱れていた兵士たちに積極的に働きかけて買収して、ブルジョアジーの軍隊に仕立て上げていた。兵士の叛乱は自然発生的に起こったのではなかった。この時生まれた革命の標語は「自由・平等・財産」だった。 国王軍に勝利した商工業者(ブルジョアジー)の上層は、自由主義貴族と連携しながら権力の指導権を握った。これ以降の政権はブルジョアジーの上層が租税徴収権を握り、財政改革を行った。宮廷貴族に負担を被せ、徴税を実行し、宮廷貴族に対してなされていた財政資金を削減か打ち切り、それによって浮いた財源で商工業、金融業の救済・発展のために支出した。
自由主義貴族と上層ブルジョアジーの最上層の政権、旧体制の特権や領主権に深い関わり合いを持った者達の政権ができた。彼らは金の力で領地を買い、貴族の力を手に入れ、裁判権や地方都市の財政長官や徴税請負人の地位を持っていた。ジャック・ネッケルが呼び戻されて財務総監に再任され、ネッケル派の大臣も返り咲いた。ジャック・ネッケルは強制借款を取り止めた。国民会議では財政委員会を選出して財政の立て直しを図ったが、その基本方針は特権身分への課税、特権身分への支出の削減、停止であった。
革命直後から「大恐怖(仏語: Grande Peur)」と呼ばれる集団的な恐怖によって引き起こされた農民蜂起と叛乱が07月20日〜08月06日にかけてフランス王国で広がり、その後さらに拡大した。一連の暴動は、半世紀にわたる叛乱と、さらに反封建的な抗議運動の増加に続いて起こった。農民の要求が反映された全国三部会のための陳情書は、西暦1788年の不作の後、それまで以上に彼らを打ちのめしていた「封建的特権と地代にもはや苦しめられずに済む。」という希望を彼らに齎した。パリで起こった出来事についての説明、特に十分に理解されないまま広まったバスティーユ襲撃には、復讐や貴族による陰謀の噂や恐れが伴っていた。空腹の隙間となる07月になると、予想される物価の上昇と「貴族が希少となった穀物を引っ攫おうとする。」という疑惑によって不安はますます深刻になっていった。恐慌は「貴族が田舎のまだ青い小麦を刈り取って収穫を台無しするために強盗を雇った。」という噂によって引き起こされた。他の地域では、外国人(イギリス人またはピエモンテ人)による侵略の古い記憶が蘇った。教区から教区へ警鐘の音が鳴り響き、たちまち恐怖が広がった。城に蓄えられていた火薬が偶然に爆発した後、フランシュ・コンテでは6つの恐慌が発生した。シャンパーニュ地方、ヴズール近郊のシャトー・ド・ カンセでは、羊の群れによって発生した埃は、行進する兵士の集団のものと受け取られた。ボーヴェ、メーヌ、ナント地域、そしてリュフェック地域では、物乞いの僧侶たちが山賊と間違えられた。マルセイユ、リヨン、グルノーブル、ストラスブール(シュトラスブルク)、レンヌ、サン・マロ、ル・アーヴル、ディジョンだけでなく、マコネーのような小さな町や村でも至る所で掠奪、暴動、爆発、火災が発生し、領主の財産が荒らされた。農民は武装し、山賊または架空の攻撃者による攻撃から身を守るために民兵を編成した。集まって武装し、怯えた農民たちは代わりにかつての不幸の原因だった城や修道院を攻撃した。たとえば、リュフェックの「恐怖」は非常に急速に広がった。それは西暦1789年07月28日に始まり、北(シブレーとシャテルロー)、西(サント)、東(コンフォランとモンリュソン)、南(アングレーム、リモージュ、カオール、7月30日にモンリュソンからブリーブ、07月31日にモントーバン、08月01日にトゥールーズとロデーズ、08月20日にロンベズ、08月03日にパミエ、サン・ジロン、サン・ゴーダンス、08月05日にフォワ、タルブ)に伝播した。しかしヴィトレ、アルザス地域圏、ラングドックを除く全地域は、この大恐怖から安全なままであった。アキテーヌ地域圏では、これをイギリスの恐怖と呼んでいた。農民は領主の城や館を襲撃した。農民に襲撃された領主の中には革命派の貴族も含まれていた。中には武器を持って農民に立ち向かった自由主義貴族もいた。国民議会では「農民暴動を武力弾圧せよ。」という強硬派と、「暴動に正面から立ち向かうことは不利である。」と考える勢力が激しい討論を繰り広げた。国民議会はまだヴェルサイユに駐屯する国王軍の脅威を受けていた。国王軍は撤退しただけでいつでも反撃できる体制にあった。国民議会が農民の反感を買うと農村の支持者を失って、国王軍の反撃に敗北するかも知れなかった。それはほとんど阻まれることなくアンシャン・レジーム(仏語: Ancien régime、古い体制)の権威の崩壊を示し、貴族の亡命の大きな動きを引き起こした。それらはまた驚愕と新しい政治当局の不安を引き起こし 、それに対する迅速な対応として封建的特権の廃止を齎した。
一般のフランス王国の農民は土地に縛り付けられた農奴で、文盲も多く、自転車が登場するまで、産まれた村から一度も出ることもなく一生を終える者が殆どだった。二輪自転車の起源は、西暦1817年、ドイツ人のザウアーブロン男爵カール・フリードリヒ・クリスティアーン・ルートヴィヒ・フォン・ドライス(Karl Friedrich Christian Ludwig Freiherr Drais von Sauerbronn)が発明したドライジーネ(Draisine)とされている。
ミシュラン(Michelin)という世界で初めてラジアルタイヤを製品化し、ビバンダム(Bibendum、ミシュランマン)で有名なタイヤ製造企業がある。道路地図、レストラン・ガイド、観光ガイドの刊行でも知られる。西暦1900年にレストランとホテルのル・ギッド・ミシュラン(Le Guide Michelin、ミシュランガイド)を創刊し、西暦1910年には初のクレルモン・フェラン近郊の道路地図を発行し、西暦1912年に道路標識を立てる請願を国会に行い、ミシュランの費用で里程標の設置を始め、西暦1913年には全国を網羅する最初の道路地図を発行した。
道路地図、道路標識、里程標、ル・ギッド・ミシュランをタイヤ製造企業が設置・刊行した理由は、西暦20世紀となっても、野蛮なフランスでは富豪しか乗れない自動車で郊外の施設への道を蒙昧な村人に尋ねたら、鴨が葱を背負って来た状態で、その村人が山賊に変わるからである。フランスとはそういう蛮族が棲む国である。今でも何ら変わりはない。
そこで妥協案として封建権利を2つに分けて「人に纏わるもの」(十分の一税と領主裁判権、死亡税、狩猟権、鳩小屋の権利など)と「土地に纏わるもの」(封建貢租と不動産売買税)に区別し、前者は無償で廃止するが、後者は有償で廃止する提案が西暦1789年08月04日に出され、自由主義貴族の多くが賛成して可決された。こうして領主権は単純な地代に転換された。この結果農民暴動は収まった。08月04日の宣言には「租税の平等」、「文武の官職に全ての市民を登用する」、「金銭的特権を廃止する」、「貴族の官職独占の否定」、「官職売買の禁止」も含まれていた。この時の標語は、「自由・平等・私有財産の不可侵」だった。これらの宣言にネッケル派とジャン・ジョゼフ・ムーニエ (Jean Joseph Mounier)派が反対したが多数派に敗北した。ネッケル、ムーニエ派は国民議会のこれ以上の改革を阻止しようとした。国王はこれを見て09月18日に親書を送り、08月04日の宣言を認めないことを通告した。国民議会の封建制廃止などの要求に対して、ルイ16世は「余は決して、余の僧侶たちと余の貴族たちを剥ぎ取られることに同意しないだろう。」と強硬な姿勢を崩さなかった。
ジャン・ジョゼフ・ムーニエが西暦1789年の全国三部会の第三身分代表に満場一致で選出された。憲法制定国民議会におけるジャン・ジョゼフ・ムーニエ は最初は新しい理念の支持者であり、有名な球戯場の誓いを提案し、2つの特権身分と第三身分との連合を支持することを表明し、新憲法の準備を助け、ジャック・ネッケルの帰還を要求した。ジャン・ジョゼフ・ムーニエ はまた西暦1789年08月に君主派を結成した。西暦1789年09月28日に憲法制定国民議会の議長に選出された。しかし、その後に起こった一連の狂気を看過できず、革命に疑問を抱いて西暦1790年にスイスに逃れた。「政府についての考察」(西暦1789年)、「フランス人が自由になることを妨げる原因に関する研究」(西暦1792年)、「啓蒙思想家、フリーメイソンおよびイルミナティがフランス革命に与えた影響」(西暦1801年)の著作で悪逆非道なディープステイトの中核を見抜いている。
08月26日、国民政府は「人間と市民の権利の宣言」を制定した。これは一般にフランス人権宣言などと呼称される。ラ・ファイエット侯マリー・ジョセフ・ポール・イヴ・ロシュ・ジルベール・デュ・モティエ(Marie-Joseph Paul Yves Roch Gilbert Du Motier, Marquis De La Fayette)らが起草しており、 アメリカ独立宣言、ルソーの啓蒙思想などの影響が認められる。国民の自由と平等、圧制への抵抗権、国民主権、法の支配、権力分立、私有財産の不可侵などを規定している。
ラ・ファイエット侯は、ベンジャミン・フランクリンのフランス王国における工作に触発され、周囲の反対を押し切り自費を投じてアメリカ独立革命に参戦し、アメリカの独立を決定的にした西暦1781年のヨークタウンの戦いに重要な役割を果たしており、フランス王国に帰国すると「新大陸の英雄」と称えられ一躍名声を得た。当然、アメリカ合衆国の建国の父であるジョージ・ワシントン、ベンジャミン・フランクリン、トーマス・ジェファーソンらとも親交があった。ラ・ファイエット侯はフランス革命においても重要な役割を演じ、フランス人権宣言(人間と市民の権利の宣言)を起草した。ラ・ファイエット侯は「アメリカ、フランスの両大陸の英雄」と呼ばれた。
革命勃発当時のフランス王国では、前年の凶作や政情不安のため穀物の売り渋りが横行し、パンをはじめとする食料品の価格高騰にパリ市民は苦しんでいた。庶民の生活が窮乏する中にあっても、ヴェルサイユ宮殿では豪奢な宴が催された。10月01日:近衛兵の宴会で、近衛兵が国王ルイ16世の面前でパリ市民を象徴する三色帽章(トリコロール)を踏みにじり、王妃マリー・アントワネットが三色帽章を冒瀆した。革命の否定を示すこの報が伝わると、民衆の間に怒りが広がった。西暦1789年10月05日の早朝、「革命を侮辱した。」と思われる近衛兵に対してパンと正義を要求するために、パリの広場に集まった約7000人の魚売り女や市場の女たち主婦らが「パンを寄越せ!」などと叫びながら、国王と議会に窮乏を訴えるため、ヴェルサイユに向かって行進を開始した。この行進を先導したのはパリ市の女性達であったため、ラ・ファイエット侯の率いる2万人の軍隊はヴェルサイユへ行進する群衆を止めることが出来ず、群衆の後を付いて行くことしかできなかった。ヴェルサイユへ向かう群衆はバスティーユ牢獄襲撃事件の功労者、バスティーユの義勇兵の隊長スタニスラス・マリー・マイヤールを先頭に、降りしきる雨の中、約20kmの道程を6時間掛けて行進した。ヴェルサイユが近づくにつれ、人々はさらに多くなり、群衆の多くが武器を持ち、ついには大砲まで持ち出した。
この時、王妃マリー・アントワネットは子供たちとプチ・トリアノンの王妃の村里で散策を行っていたが、小姓による報告を受けて大急ぎで宮殿へ戻っていった。これを機に彼女がプチ・トリアノンに戻ることは無かった。 国王ルイ16世はこの日も狩猟に出ており、ヴェルサイユ宮殿では残された貴族によって迫り来る群衆の対処を行うことになった。
ヴェルサイユ宮殿では国防大臣サン・プリースト伯ギニャール(François-Emmanuel Guignard, comte de Saint-Priest)の提案によって群衆がヴェルサイユ宮殿を包囲する前に、途中にあるサン・クルーやセーヴル、ヌイイなどの橋を軍隊に占拠させ、国王は800人の衛兵と共に群衆に向かい、その間に王妃をはじめとする国王一家はランブイエ城に避難し、国王は後から城に向かうという案が立てられたものの、マリー・アントワネットがこれを拒否し、狩猟から帰還したルイ16世も宮殿に残る意向を示した。
雨が降りしきる中、午後03時頃にヴェルサイユ宮殿の門前に群衆が到着し、宮殿を守る近衛兵たちと騒動を起こすなど殺気立っていた。 女性たちは国民議会へ押し入り、「パンを!パンを!」と要求し、数名の女性達が代表としてルイ16世と宮殿で面会することとなった。 ルイ16世は代表団と面会し、ヴェルサイユの食料庫を解放することを許可したものの、宮殿を包囲する群衆らはこれに納得せず、「王妃を出せ!」などとさらに殺気立っていった。サン・プリースト伯ギニャールらは国王一家の安全を確保する為、国王一家をヴェルサイユからランブイエへ避難させようとしたものの、「馬車が群衆に囲まれて動かなくなっている。」との報告を受けた。 これを知ったルイ16世は「宮殿に残る。」と力なく伝え、08月に決めた「人権宣言」にも国民議会の希望で署名した。 この直後にラ・ファイエット侯率いる軍隊がヴェルサイユに到着し、国王一家と宮殿の守備を申し出たことで事態は一時的に収まった。
しかし翌06日未明、武装した市民の一部が宮殿に乱入した。06日はマイヤールが不在だったために暴動そのものといった有様となった。阻止しようとしたスイス傭兵の近衛兵2人の近衛兵が殺害され、行進の参加者たちは宮殿に押し入り、王妃の部屋に侵入した。民衆は暴徒と化して宮殿に雪崩れ込んで掠奪を行った。 王妃マリー・アントワネットは隠し通路を使ってルイ16世の元へと避難した。群衆はルイ16世をバルコニーに出ることを要求し、ルイ16世がこれに応えると、「国王万歳!」との声が挙がった。 しかし興奮した暴徒たちは次にマリー・アントワネットがバルコニーへ出ることを要求した。パリ市民らを中心に多くの誹謗中傷に晒されていたマリー・アントワネットがバルコニーに出ることは危険と思われたものの、マリー・アントワネットがラ・ファイエット侯に接吻されると群衆たちから「王妃万歳!」との声が挙がった。 群衆は次に「国王よパリへ帰れ!」と要求し、ルイ16世は意気消沈して民衆の要求を呑み、その日の午後に国王一家は民衆によってヴェルサイユからパリへ連行され、それ以降はパリのテュイルリー宮殿(Palais des Tuileries)に住むこととなった。ルイ・シャルルは自分がされて嬉しかったことを姉マリー・テレーズ・シャルロットにも「味合わせてあげたいと、同じことを姉にもしてほしい。」と、よく要求する心優しい子で、ヴェルサイユ宮殿からパリに移る馬車に飛びついた女達が、マリー・アントワネットに悪態をついた罵声を浴びせると、それまで馬車の後部座席で、両親の間で怯えていたにも拘わらず、馬車の窓から顔を出して「ママを許してあげて!」と、母親を案じて叫んだ。このヴェルサイユ行進(十月事件)は、「王位簒奪を狙うオルレアン公ルイ・フィリップ2世ジョセフが、この事件を煽動した。」と言われる。
事件以後、国王一家はパリのテュイルリー宮殿に住み、宮廷貴族から切り離されて軟禁状態に置かれた。事実上パリ市民に監視される日々を送ることとなった。国王が連れ去られると、まだ残っていた宮廷貴族が亡命を始めた。ムーニエを初めとして貴族議員の200人や貴族将校も亡命した。国王と共に議会の機能もパリに移動した。「封建的特権の廃止宣言」や「人権宣言」を国王が承認したことから、政局の混乱は一応沈静化した。
10月10日、ジョゼフ・イニャス・ギヨタン(Joseph Ignace Guillotin)は、立憲議会で処刑器具ギロチン(仏語: guillotine、ギヨティーヌの英語読み)の使用を提言した。このような断頭装置は少なくとも西暦13世紀にはすでに存在しており、開発導入には。 外科医アントワーヌ・ルイ(Antoine Louis)とパリの死刑執行人(ムッシュ・ド・パリ)を勤めたサンソン家の4代目当シャルル・アンリ・サンソン (Charles-Henri Sanson)によって進められた。ギヨタンはギロチンの発明者ではなく、設計や実験にも関わっていない。正式な名称は「ボワ・ド・ジュスティス(Bois de Justice、「正義の柱」の意)」といったが、当初は、設計者のアントワーヌ・ルイの名前をとって「ルイゾン (Louison)」あるいはその女性形の「ルイゼット (Louisette)」の愛称で呼ばれていた。しかし、実際の開発作業は非公開の裏方なのに対して、この装置の人道性と平等性を大いに喧伝し導入に対する法整備は公開された議会でギヨタンが取り仕切ったため、一般社会ではギヨタンが開発したかのような印象が広まり、結果としてギヨタンギロチンの名で広まった。ギヨタンの方が有名になり、ギヨタン博士の装置(子供)の意味である「ギヨティーヌ (Guillotine)」という呼び名が定着した。ギロチンはその英語読みであるギロティーンが訛ったものである。ギヨタンはこの不名誉な名称に強く抗議したが、以後も改められることはなかったので、家族は姓を変えざるを得なくなった。「ギヨタン自身がこの装置で処刑された。」というのは、大嘘で、ジョゼフ・イニャス・ギヨタンは帝政期まで主に医療分野で活躍し、背越1814年に75歳没。死因は左肩の癰(ヨウ)であった。
10月12日、国王と共に、立憲議会もパリへ移ることが決定され、室内馬術練習場を新議場になった。
20万人の群集によるヴェルサイユ行進に際しては、議会の代表団に際して食糧の放出を裁可している。この後「国王万歳」、「国王をパリへ」の叫び声が上がり、パリに連行されることになった。しかし食糧不足は解決せず、小規模な暴動が度々起こったが、国民議会と従来の常備軍に替わってフランス国内各都市で組織された民兵組織、国民衛兵(仏語: la Garde nationale)によって鎮圧された。首謀者は処罰・処刑され秩序が回復された。ヴェルサイユ行進は宮廷貴族の残存勢力に決定的な打撃を与え、国王を人質に取った国民議会の権力を全国に及ぼすこととなった。
スコットランド語の宮宰職、スコットランド大家令(Lord High Steward of Scotland)に由来するステュアート朝(Stuart dynasty または Stewart dynasty、西暦1371〜1714年)は、アン(Anne Stuart)女王が西暦1714年に死去し断絶した。西暦1701年に「ステュアート家の血を引いており、カトリックではない者」と規定された王位継承法によって、スコットランド王国(西暦843〜1707年)とイングランド王国(西暦927〜1707年)(合同してグレートブリテン王国(西暦1707〜1801年)となるのは西暦1707年)のアンに次ぐ王位継承権者に定められたのは、プファルツ選帝侯兼ボヘミア王フリードリヒ5世と妃エリーザベト(エリザベス)の五女(第12子)のゾフィー・フォン・デア・プファルツ(、Sophie von der Pfalz)で,イングランドとスコットランドの王ジェームズ1世の孫娘で、長子相続制のイギリスの王位継承順位では50人以上のカトリックがジョージより上の順位にあったが、彼女がプロテスタントであったこと、そして兄・姉たちやその子孫がいずれも死去していたかカトリック、あるいは庶出であったため、ゾフィ―が唯一の適格者だった。 その長男で、神聖ローマ帝国のブラウンシュヴァイク・リューネブルク(ハノーファー)選帝侯、ゲオルク・ルートヴィヒ(Georg Ludwig)がグレートブリテン王国及びアイルランド王国(西暦1541〜1800年)の国王ジョージ1世(George I)に即位し、今日まで続くハノーヴァー朝(Hanoverian Dynasty、西暦1714〜1901年)となった。アレクサンドリナ・ヴィクトリア(Alexandrina Victoria)女王の遺言に基づき、王朝名をハノーファー朝から王配アルバート・オブ・サクス・コバーグ・ゴータ公子(Prince Albert of Saxe-Coburg-Gotha)の家名ザクセン・コーブルク・ゴータ朝(Haus Sachsen-Coburg und Gotha、西暦1901〜1910年)に変更し、西暦1917年、第1次世界大戦中のグレートブリテン及びアイルランド連合王国(西暦1801〜1922年)での反独感情のために、ウィンザー朝(House of Windsor、西暦1910〜2022年)に変えた。エリザベス2世(Elizabeth II、エリザベス・アレクサンドラ・メアリー(Elizabeth Alexandra Mary))女王死後の現在は、王配エディンバラ公フィリップ・マウントバッテン(Prince Philip Mountbatten, Duke of Edinburgh)の姓を加えたマウントバッテン・ウィンザー朝(Mountbatten-Windsor、西暦2022〜)。イギリスの王統は、サリカ法を無視し女系の継承の度に王朝名が変わる。
ディープステイト(deepstate、奥の院、黒幕)とは、拝火教から猶太教、耶蘇教、回教に取り込まれた千年王国に基づく新世界秩序(New World Order、NWO)を構築し、ゴイムを統制・統御・支配する管理社会の実現を目指す悪魔の組織体である。
古代〜中世の西欧では、王侯貴族やローマ法王が支配層(Etablishment)で、ハプスブルグ家に対抗して閨閥で伸し上がったのが、ヘッセン・カッセル方伯家で、ヘッセン・カッセル方伯フリードリヒ2世はイギリス国王兼ハノーファー選帝侯ジョージ2世の王女メアリーと結婚した。2人の次男がヘッセン・カッセル方伯ヴィルヘルム9世(ヘッセン選帝侯ヴィルヘルム1世)である。デンマーク・ノルウェー王フレデリク5世の王女 ヴィルヘルミーネ・カロリーネ・ア・ダンマークと結婚。父フリードリヒ2世の死後、当時ヨーロッパ最大級といわれた資産を相続した長兄ヴィルヘルムが既に夭逝)。イギリス、ドイツ、オランダ、ベルギー、デンマーク、ノルウェー、スウェーデン、フィンランド、ギリシャ、ロシア帝国(西暦1721〜1917年)の王室と繋がり、特にイギリス王国ハノーヴァー朝(西暦1714〜1901年)やサクス・コバーグ・ゴータ朝・ウィンザー朝(西暦1901年〜)のエリザベス2世の夫、王配フィリップ(エジンバラ公)にも繋がっている。またその過程でロートシールト(ロスチャイルド)を使用人に仕立てた。方伯(独: Landgraf、英: landgrave)とは、「伯爵」の代わりに、神聖ローマ皇帝の封建諸侯の称号で、その支配領域は公爵・司教・宮中伯のような中間権力の言いなりにならず、時々大きく拡大され、方伯は公爵に相当した。
西暦1760年の父ヘッセン・カッセル方伯ヴィルヘルム8世の死によってヘッセン・カッセル方伯位を嗣いだフリードリヒ2世は、領内の若者を男子を徴発して傭兵として鍛え上げ、主に植民地戦争の兵員を求めるイギリス(グレートブリテン)王国(西暦1707〜1801年))にドイツ傭兵を貸し出す悪名高い傭兵業を営んでいた。貸し付けた傭兵が死亡したり負傷したりした時、ヘッセン・カッセル方伯フリードリヒ2世やヘッセン・カッセル方伯ヴィルヘルム9世は高額な補償金をせしめ、その傭兵業の儲けで、ヘッセン・カッセル方伯家はヨーロッパ随一の金持ちになっていた。実にヘッセン・カッセル方伯領の人口の7%以上が軍務に就いていた。フリードリヒ2世は、ヴィルヘルムの従兄のジョージ3世(義理の甥)のイギリス王国へ傭兵を貸し付けた。その植民地戦争に、アメリカ独立戦争もあった。西暦1775年04月にアメリカ独立戦争が勃発し、イギリス王国は叛乱鎮圧のために送る軍勢をヨーロッパ諸国に求めた.しかし、ロシア帝国やオランダ連邦共和国(ネーデルラント連邦共和国(西暦1579〜1795年))との交渉は不発に終わり,国王ジョージ3世はハノーヴァー(ジョージ3世はハノーヴァー選帝侯でもある)の兵をジブラルタル守備隊として送り,ジブラルタルにいたイギリス兵をアメリカに送った。さらにブラウンシュヴァイク・リューネブルクュヴァイク公カール(2世)・ヴィルヘルム・フェルディナント(Karl (II.) Wilhelm Ferdinand von Braunschweig-Wolfenbüttel)、ヘッセン・カッセル方伯フリードリヒ2世とイギリス・ヘッセンの傭兵条約(西暦1776年)を結んだ。西暦1785年の父ヘッセン・カッセル方伯フリードリヒ2世の死によって、ヴィルヘルムはヘッセン・カッセル方伯を継ぎ、ヘッセン・カッセル方伯ヴィルヘルム9世となった。
このヴィルヘルム9世に取り入ったのが、アシュケナジーム猶太ロスチャイルドの始祖であるマイアー・アムシェル・ロートシルト(Mayer Amschel Rothschild)で、ヴィルヘルム9世はロートシルトを西暦1775年から使い始め、西暦1801年から財産の運用を任せるようになった。ロートシルトは、現代まで続くロスチャイルド財閥の基礎を築いた。現在の世界一の大富豪、ロスチャイルド財閥傘下は【通信】ニューヨークタイムズ、ザ・サン、ロイター通信、ABC、NBC、CBS(米3大ネットワーク放送)【石油】ブリティシュ・ベトロリアム、ロイヤル・ダッチシェル【軍事】ビッカース、ダッソー、アームストロング、シュットーデル、デュポン【鉄鋼】カーネギー【金属】ミノルコ、モンド・ニッケル、モンド、デビアス(ダイヤモンド独占)、リオ・チント・ジンク(金・ウラン独占)【食品】ネッスル、ユニリーバ、ブルックボンド、コカコーラ【交通】ロッキード・マーチィン社、フォード、ルノー、ヴァンダービルト、ハリマン【銀行・保険】フランス銀行、イングランド銀行、パリ国立銀行、スエズ金融、香港上海銀行、ウェストミンスター銀行ルイ・ドレフェス商会、ソロモン・ブラザーズ、ラザール・フレール、ゴールドマン・サックス、カナダロイヤル銀行、アラブ投資銀行、モントリオール銀行、ジェネラル銀行、ブリュッセル・ランベール、ウェストバンク、SMBC日興証券、三井系企業、J・P・モルガン、メリルリンチ【その他】フィリップ・モリス、ローマ・ブーラン、ウォルトディズニー【政府】米国民主党、米国共和党ネオコン、FRBの株主(一社を除きロスチャイルド系)【諜報機関】モサド(イスラエルの秘密情報機関)などがある。
フリーメイソン(Freemasonry)は西暦16世紀後半〜17世紀初頭に石工組合として、自分たちの権利・技術・知識が他の職人に渡らないようにする為のギルド的な秘密結社で、階級制度も「徒弟・職人・親方」だった。ロータリークラブ、ライオンズクラブ、帝国郵便(Reichspost)、ボーイスカウト、オリンピックなどはフリーメイソンの派生結社。西暦1737年03月21日、フランス王国のパリで、騎士のアンドリュー・M・ラムゼイ(Andrew Michael Ramsay)が「フリーメイソンの目標は世界を一大共和国と為すことで、起源は石工組合ではなく十字軍(テンプル騎士団)である。」と主張した演説を行った。テンプル騎士団は、「徒弟・職人・親方」の上位階級に属するものとも説き、これがスコティッシュ・ライトの上位階級の起源で、このスコティッシュ・ライトの15〜18の階級に「薔薇十字会」が据えられている。フリーメイソンが「ワン・ワールド」を目指す組織とされるのも、この発言が原因で、ドイツに持ち込んだのがカール・ゴットヘルフ・フォン・フント男爵(Karl Gotthelf von Hund)である。西暦1743年、フント男爵はフリーメイソンの位階制度の上に、神秘的な要素を含んだ真のボス達という謎の組織「ストリクト・オブザーバンツ(厳格戒律派)」を設立した。当時のドイツはまだ統一されておらず、フランス王国の啓蒙思想に触発され、ドイツに立憲君主制国家を実現しようとした。ストリクト・オブザーバンツは、ドイツで最も巨大で重要なフリーメイソンの高位階組織となり、ヨハン・ヨアヒム・クリストフ・ボーデ(Johann Joachim Christoph Bode)、クニッゲ男爵アドルフ(Freiherr Adolf Franz Friedrich Ludwig Knigge)やヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe)が参入し、活動の中心地はヴァイマールとなった。
しかし、イエズス会の工作員と言われるヨハン・アウグスト・フォン・シュタルク(Johann August von Starck)にストリクト・オブザーバンツは乗っ取られ、心労のあまり創始者のフント男爵が死んだ西暦1776年にアダム・ヴァイスハウプト(Adam Weishaupt)はイルミナティ(Illuminati[、独語: die Bayerischen Illuminaten[1], Illuminatenorden、英語: the Illuminati of Bavaria, the Bavarian Illuminati)を設立した。イルミナティの思想は啓蒙思想の光で照らされること(蒙(くら)きを啓(あき)らむ)。「lumen naturale(自然の光)」は超自然的な偏見を取り払い、人間本来の理性の自立を促すという意で、元々は純粋に啓蒙思想を追及するための勉強会。ボーデやクニッゲ男爵はイルミナティに移った。これ以降、イルミナティはクニッゲ男爵とボーデによる広報活動によってドイツ全土の領域に広がり、同時にストリクト・オブザーバンツの会員もイルミナティへ流れていった。西暦1782年のヴィヘルムスバート会議にヴィルヘルム9世の弟のカール・フォン・ヘッセン・カッセル(Karl von Hessen-Kassel)が加入が決定し、これによりストリクト・オブザーバンツをイルミナティに形を変え、神秘的なオカルトによる民衆の憧憬と有力者の人脈を手に入れ、これを足掛かりにヨーロッパを掌握し、その後のパクス・ブリタニカによる世界制覇に繋がり、その血脈は現代のイギリス王室に引き継がれている。末端の使用人に過ぎなかったロスチャイルドが、クニッゲ男爵の後を襲った。カール・フォン・ヘッセン・カッセル方伯は、アジア秘儀入門騎士兄弟会のグランドマスターで、不老不死の謎の人物、サン・ジェルマン伯爵(仏語: Comte de Saint-Germain)はアジア秘儀入門騎士兄弟会の一員で、実際にサン・ジェルマン伯は西暦1778年からカール方伯のもとに移り住み、カール方伯はサン・ジェルマン伯爵の弟子となり、且つ、後援者となった。アジア秘儀入門騎士兄弟会は、黄金薔薇十字団の後継組織で、サン・ジェルマン伯爵は自称、薔薇十字団(独語: Rosenkreuzer)の団員。
三十年戦争前のヨーロッパは相次ぐ戦乱とペスト(黒死病)で、「人類を死や病といった苦しみから永遠に解放する、不老不死の実現」という薔薇十字団の言葉は、民衆を惹き付け、贖宥状を売りさばくなど神を冒涜する行為に見える腐敗したカトリックの守護者、神聖ローマ帝国のハプスブルク家とし、カトリックの打破による世界改革を掲げ、大いに煽り、その救世主としてイングランド王家を渇望し、打倒!ハプスブルクの思想が原動力となって、当時のドイツの民衆に熱狂的に受け入れられたことにより、宗教・政治戦争、三十年戦争(西暦1618〜1648年)が始まった。これがヘッセン・カッセルの地から発信された。また、西暦1618年の講和条約、ヴェストファーレン条約でヘッセン・カッセル方伯が特権を得た。黒幕にヘッセン・カッセル方伯がいたと推測される。
マルタ騎士団の68代総長(グランドマスター)、ポルトガル貴族のエマヌエル・ピント(Emmanuel Pinto)は、当時のフランス ブルボン家の王室財宝官のランジュ侯シャルル・ピエール・ポール・サヴァレット(Charles-Pierre-Paul Savalette de Langes)にカトリックを再び盛り返すための構想を持ちかけ、フランス王国とプロイセン王国(西暦1701〜1918年)を和解させることを画策し、西暦1771年にランジュ侯は、メイソンロッジ、レザミ・レユニ(Les Amis Reunis、結合せる友 )を創設し、マルタ騎士団のピントのエキュメニズム(世界教会主義)に呼応した。さらにブルボン家のランジュ侯は、プロイセン王国との人脈を築くためにドイツで最も巨大で重要なフリーメイソンの高位階組織であるフント男爵のストリクト・オブザーバンツとレザミ・レユニの合弁を図った。しかし、前述のように、ストリクト・オブザーバンツはイエズス会のシュタルクが実権を握り、西暦1772年にプロイセン王国のフリードリッヒ2世の義弟、ブラウンシュヴァイク・リューネブルクュヴァイク公カール(2世)・ヴィルヘルム・フェルディナントにグランド・マスター職を明渡し、裏で繋がろうとしていたところに直接プロイセン王族と繋がるのは、さすがに無理で立ち消えになった。西暦1773年、マイアー・アムシェル・ロートシルトが30歳の時、フランクフルトに12人の実力者を招いて秘密会議を開いた。全世界の人的資源と資源を独占的に支配するための計画で、25項目の行動計画から成る「世界革命行動計画」と呼ばれている。「人を支配するには金と暴力。自由(リベラル)という思想を利用せよ。目的は手段を正当化する=ゴイムは欺いてもかまわない。強者は何をしてもよい。ゴイムに本当のことを知られてはいけない。情報を支配せよ。代理人に代行させよ=我々に危険が及ばないように。キレイ事を言っておけば大衆は欺ける。恐怖で脅せ。ゴイム同士で争わせよ。ゴイムには嘘を教えて惑わせよ。ゴイム文明を破壊せよ。大東社を組織して破壊活動を実行しながら、博愛主義の名のもとで、自らの活動の真の意味を隠すことは可能である。大東社に参入するメンバーは、ゴイムの間に無神論的唯物主義を広めるために利用されなければならない。」世界革命行動計画は猶太が何世紀にも及ぶ営為であり、ロスチャイルド一族に始まったものではない。古代イスラエルのソロモン王の時代、西暦前929年には、世界を平和的に支配する理論上の計画が作られていた。
そして、大東社(グラントリアン)にエリュ・コーエン(選良司祭団)の思想が取り入れられ、同時期にマルタ騎士団から、稀代の詐欺師アレッサンドロ・ディ・カリオストロ(Alessandro di Cagliostro)が大東社(グラントリアン)に送られ、フリーメイソンのエジプト起源説がフランス王国で流布され,フリーメイソンがピラミッドを建造した説やプロビデンスの目など、フリーメイソンのエジプト化はこの流れで醸成された。大東社(グラントリアン)の人脈をロスチャイルド(ヘッセン・カッセル方伯)にいいように利用された。フランス革命の始まる7年前の西暦1782年にヴィヘルムスバート会議があり、フリーメイソンのストリクト・オブザーバンツは息の根を止められ、代わりに擡頭したのがイルミナティである。
この手法は現在もイルミナティに引き継がれている。イルミナティなどの陰謀論を使って自作自演や擦り付けを行い、ゴイムを扇動し、ゴイム同士で争わせ、第3次世界大戦を起こし、現在の国際秩序を破壊すること。国というものがあるから、戦争が起きると誤誘導し、国を無くす方向へ持っていくこと。それが現実に世界連邦運動という国際的な組織に見られる。ロスチャイルドの夢、世界政府の樹立、NWO、悲願の千年王国の実現と、三十年戦争で成功した手法を今も使おうとしている。国際金融資本、連合国など国際組織、産軍複合体、医薬や農薬や肥料で世界から生命と健康と食を支配している。武漢肺炎ウイルスをt栗、ワクチンで統制し血脹れした上に、非常事態を作り出し、世界保健機構(WHO)に統制されたワンヘルス(One Health)で世界を全体主義化し、ゴイムを奴隷化し搾取し支配しようとしている。
ディープステイト、猶太の戦略を理解すれば、世界で起きている不可解な事件の数々が解ける。

ジュール・ミシュレ 抄訳「フランス革命史」 1789年の選挙からヴェルサイユ行進までー「人権宣言」と憲法制定への道ー 第一巻・第二巻 - 瓜生 純久
西暦1789年12月02日に教会財産の国有化が可決され、そのあと国民議会の財務委員会がジャック・ネッケルの反対を押し切って、国有化された教会財産を担保に紙幣を発行することにし、これをアッシニア(Assignat)と呼んだ。アッシニアを受け取った者は教会財産を買い入れることができた。国家が割引銀行(ケース・デスコント、Caisse d'escompte)から借り入れていた1億7000万リーブルはアシッニアで返済された。12月22日に地方自治法が制定された。西暦1790年12月12日には、銀本位制(銀単本位制)を採用した。
西暦1790年01月15日に地方自治体の選挙が行われ83県に分割され、県の下に郡が置かれた。05月21日にパリ市は48地区に区分された。西暦1790年03月に国民議会の中に度量衡委員会が作られ、アントワーヌ・ローラン・ド・ラヴォアジエ(Antoine-Laurent de Lavoisier)等の活躍で西暦1793年08月のメートル法(仏語: système métrique)公布となった。西暦1790年06月19日に第一身分と第二身分が廃止され、貴族の称号の使用が禁止された。06月21日にアヴィニョンのローマ法王領をフランス王国に併合し、07月12日に聖職者民事基本法が採択され、カトリック教会の世俗化に着手した。聖職者は国から給与を貰う公務員となって世俗国家に服することが規定され、後に立法議会では国家に所属することを誓約することが義務付けられた。
以後全ての人は「市民(シトワイヤン)」と呼ばれることになり、男性はシトワイヤン、女性はシトワイヤンヌと呼ぶことになった。しかしこの呼称は定着せず、それまで貴族に使われていた「ムッシュ」、「マダム」が普通の人に対しても使われるようになった。西暦1791年03月20日に総徴税局が廃止され、徴税請負人(フェルム・ジェネラル)が廃止された。西暦1791年03月02日にアラルド法(商業の自由・同業者組合(ギルド)禁止)が可決され、06月14日にル・シャプリエ法(Le Chapelier Law、労働者団結禁止法)が可決され、経済的自由主義の下に労働者の組合結成と争議が禁止された。 民衆の権利を擁護するために論戦を挑むべきところ、全く発言できずに終わったマクシミリアン・フランソワ・マリー・イジドール・ド・ロベスピエール(Maximilien François Marie Isidore de Robespierre)を国民衛兵の中佐ルイ・アントワーヌ・レオン・ド・サン・ジュスト(Louis Antoine Léon de Saint-Just)は、熱烈に擁護する手紙を送り、以降文通を通じて友情を深めて革命の同志となっていった。 マクシミリアン・ロベスピエールはフランス北部アルトワの州の州都(現パ・ド・カレー県の県庁所在地)アラスで300年前に遡るとされる法曹一家の弁護士のフランソワ・ド・ロベスピエールとジャクリーヌ・カロが結婚して4ヶ月後に生まれた長男。
ヴェルサイユ行進の後革命運動を指導、組織するいくつかの党派が形成された。財政危機の中で様々な動きがある中でそれぞれの階級の人物が動き、次第にいくつかの党派へのまとまりが作られていった。ラ・ファイエット派は西暦1790年05月に設立され入会金は100リーブルで、かなり高い収入がないと入会できなかった。ここには最上層部に属する自由主義貴族と最上層のブルジョアが参加した。パリのジャコバン修道院(パリには「ジャコバン修道院」は歴史上2つあり、区別するため「サントノレ通りのジャコバン修道院(Couvent des Jacobins de la rue Saint-Honoré)」)を会場に設立されたのがジャコバンクラブ(Club des Jacobins、正式名称は西暦1789〜1792年は憲法の友の会(Société des Amis de la Constitution)、西暦1792年以降はジャコバン協会、自由と平等の友(Société des Jacobins, Amis de la Liberté et de l’Égalité))は国民議会の左派が集まり、西暦1789年11月に設立した。「ジャコブ」とは、猶太の祖「ヤコブ(ヘブライ語: יעקב[(ヤアコーブ)、アラビア語:يعقوب(ヤアクーブ)、羅語: Jacob)、別名: イスラエル)」の仏語読み。父はイサク(イツハク)、母はリベカ、祖父は太祖アブラム。ヤコブは双子の兄エサウを出し抜いて長子の祝福を得た。(タナハ創世記25章)会費は年間24リーブル、入会金は12リーブルで、職人や労働者では参加できなかった。ジャコバンクラブには議員以外にも職人の親方層から貴族まで広く参加した。コルドリエクラブ(人民協会、人間と市民の権利の友の会(Société des Amis des droits de l’homme et du citoyen))は大衆を組織してその意見を政府と議会に押しつけることを目的に設立された。憲法制定国民議会がパリの60の地区を廃止して48の地区を新たに設置した時にコルドリエ地区の住民によって結成され、西暦1790年04月頃には存在していた。コルドリエクラブは最初コルドリエ修道院の教会で会議を開いた。コルドリエはフランスでフランシスコ会原始会則派に付けられた名前であった。会費は月2スーと極めて安かった。小商人から職人、労働者まで参加した。コルドリエクラブの指導者の中に後に恐怖政治の推進者の姿がかなり見られた。コルドリエクラブの実権を握っていたものも裕福なブルジョアであった。
フランス革命の先行きを憂慮していた開明派貴族たち、特に立憲王政派のミラボー伯オノレ・ガブリエル・ド・リケティ(Honoré-Gabriel de Riqueti(正書法では、Riquetti))は、大臣になりたかったが、汚職と無縁ではなかった。西暦1790年07月03日にサン・クルー城で極秘交渉を開始し、王室出席者はそこで過激派の監視を受けずに夏を過ごすことが許された。ミラボー伯は「国王にとって王妃は唯一の存在である。{Roi ait auprès de Lui)」と感銘を受けた。マリー・アントワネットはミラボー伯に「月6000リーヴル、王の権威を回復するという任務を成功させたら100万リーブルを支払う。」と約束した。07月14日、ルイ16世は1年前にバスティーユ陥落を記念してシャン・ド・マルス(Champ-de-Mars、「軍神マルスの広場」の意、現在は北西側にエッフェル塔が建っている。)で開催された第1回全国連盟祭(革命1周年式典)に出席するために現地を訪れ、18000人の国民衛兵隊を含む少なくとも30万人がフランス全土からオータンのタレーラン司教とともにオート・ド・ラ・パトリ(祖国の祭壇)で行われたミサに出席した。この式典で国王は、特に国を守り国民議会で可決された法律を執行する宣誓をしたとき、「国王万歳!」の大歓声で迎えられた。特に王太子がお披露目されると、王妃への歓声も上がった。ミラボー伯は王妃と国民の和解を望んでおり、彼が宣戦布告の権利など外交政策に対する権限を含む国王の権限の多くを回復させた。ラ・ファイエット侯とその同盟者の反対を押し切って、国王には保留中のあらゆる法案に対して4年間拒否権を与える拒否権が与えられた。 ミラボー伯はルイ16世に国民議会の「休会」を提案するまでになった。 「国王がパリを脱出し、急進的なパリ民衆の影響下にある国民議会を解散して、地方の支持を背景にして国王の直接統治を行うべきである。」と進言していた。ミラボー伯のほか、ラ・ロシュフーコー・リアンクール公フランソワ・アレクサンドル・フレデリク(François-Alexandre-Frédéric duc de La Rochefoucauld-Liancourt)も進言して、自身の領地であり、かつ王党派支持住民の多いノルマンディー地方への国王の移動を提案した。しかしマリー・アントワネットは痘痕顔の醜いミラボー伯を嫌っていた。またパリ脱出後の行き先についても、王妃のロレーヌ案と、ミラボー伯のノルマンディー案は対立していた。ルイ16世本人が「王たるものは国民から逃げ出すものではない。」として頑として反対し、実現しないでいた。これには十月行進以来、国王がその守護者となることを誓ったラ・ファイエット侯に信頼を寄せていたことも一因で、彼はミラボー伯の政敵であった。しかしルイ16世は本心では革命の進展を望んでいなかった。
ラ・ファイエット侯、そしてアントワーヌ・ピエール・ジョゼフ・マリ・バルナーヴ(Antoine Pierre Joseph Marie Barnave)、ラメット伯アレクサンドル・テオドール・ヴィクトール(Alexandre Théodore Victor de Lameth)、アドリアン・デュポール(Adrien Duport)の3人(三頭派)らを中心とする愛国派(後のフイヤン派)が主導する中、憲法制定国民議会は新制度の建設に従事した。能動的市民と受動的市民とを分けて制限選挙を採用する西暦1791年憲法をはじめ、新しい地方行政制度、アッシニアの発行、教会を国家に従属させる、西暦1790年07月12日制定の聖職者民事基本法、その他、行政や財産に関する法が1つ1つ審議され、次々と決定された1791年憲法体制)。宮廷側はこれに協力的ではなく、特に西暦1789年10月の、いわゆる「ヴェルサイユ行進(十月事件)」以降、国王ルイ16世はオーストリアやスペイン・ブルボン朝の宮廷に行動費の援助と列強による支援を要請する一方、聖職者民事基本法をめぐる宗教界の紛糾を利用してフランス国内を分裂に導こうとした。特に西暦1790年夏にはフランス南東のジャレスに2万5千人におよぶ反革命の農民ゲリラが組織され、国王がリヨンに脱出するのを待って内戦に持ち込む計画が立てられた(「リヨンの陰謀」)。一方、国民議会は制限選挙に反対する民主派からも攻撃を受け、「受動市民」の多くが含まれる労働者はコルドリエクラブを初めとする各種の人民クラブを組織した。農村でも、領主制廃止が有償方式を採用しているため農民解放は遅々として進まず、聖職者の土地財産の払下げも一般以下の農民にとっては不利な競売方式だったため、西暦1790年から農民一揆が再び各地で頻発した。アッシニア債券は、西暦1790年春から紙幣として流通し、乱発されてインフレーションとなり、物価高騰を引き起こして民衆生活は困窮の度を深めた。
こうした中、西暦1790年08月24〜31日にナンシー聯隊の兵士叛乱が起こった。将校のアントワーヌ・デジーユ(André(またはAntoine-Joseph-Marc) Désilles)がブイエ侯フランソワ・クロード・アムル・デュ・シャリオール(François Claude Amour du Chariol, marquis de Bouillé)将軍の指揮下の鎮圧軍との間の戦闘の勃発を阻止するという無駄な望みを抱いて大砲の前に身を投げて死亡し、デジーユ門は、彼の名に因んで命名された。国民議会は、メッスやナンシーで発生した兵士の叛乱に身体破壊を伴う車輪刑や斬首刑、ガレー船送りなどの過酷な厳罰を加えた。ナンシー事件において、兵士鎮圧の措置を支持したラ・ファイエット侯の人気がなくなり、代わってアントワーヌ・バルナーヴ、ラメット伯アレクサンドル、アドリアン・デュポールら三頭派が国民議会の主導権を握った。しかし、その彼らも西暦1791年06月の国王逃亡事件(ヴァレンヌ事件)によって苦境に追い込まれ、三頭派の革命方式もまた破綻した。
09月03日、ネッケルは立憲議会と対立し辞職し、09月06日に高等法院を廃止した。司法の民主化と呼ばれた。10月21日には三色旗がフランスの国旗に制定された。11月27日に立憲議会は全聖職者に聖職者民事基本法への宣誓を義務づけ、教会と対立した。
革命の進展とともにラ・ファイエット侯の権力は日増しに弱まり、約束が反故にされ、改革によって様々な権限が奪われていくことに国王は不満を強めていった。西暦1790年10月20日、国民議会の改革に歯止めをかけようとして国民議会の多数派と対立していたネッケル派の大臣が辞職に追い込まれた。大臣非難決議と新大臣任命に関するラ・ファイエット侯の表裏ある態度に、ルイ16世は激怒し、「憲法に規定された自由任免権すら侵された。」として彼を見限って、思い切って反革命に転じることにした。国王はこれを受けてパリに留まって国民議会と妥協を重ねることの無意味さを認めて、逃亡計画を密かに立てた。国王はすぐに王党派であるパミエル・ダグー司教とブルトゥイユ男爵ルイ・シャルル・オーギュスト・ル・トノリエ(Louis Auguste Le Tonnelier de Breteuil)を呼び寄せ、王の代理として諸外国と交渉する全権を密かに与えた。12月27日、聖職者に革命の諸法への宣誓を強制する法律に署名を強いられた際には、不本意な国王は「こんな有様でフランス王として残るなら、メッス市の王になったほうがましだ。だが、もうじきこれも終わる。」と述べ、何らかの計画があることを暗に漏らした。
ヴェルサイユ行進の後、革命運動を指導、組織するいくつかの党派が形成された。財政危機の中で様々な動きがある中でそれぞれの階級の人物がルイ16世は、王弟アルトワ伯シャルル・フィリップ(後のシャルル10世)や亡命貴族(エミグレ、Émigré)が行っていた地方での叛乱蜂起の扇動などには賛成せず、彼らの愚かさを非難したが、一方で、ブルトゥイユ男爵が必死に諸外国を説得に回り、結成を目指していた神聖王政連盟に対しては密かに期待していた。しかし具体的に支援を約束したのは王権神授説を信じるスウェーデン王国ホルシュタイン・ゴットルプ朝(西暦1751〜1818年)グスタフ3世だけで、イギリス王国は植民地の譲渡などを条件に中立を約束したが、ローマ法王の宗教上の支援はあまり効果がなかった。特に痛手であったのは、王妃マリー・アントワネットの実兄である神聖ローマ帝国(西暦800/962〜1806年)皇帝レオポルト2世が、ポーランド・リトアニア共和国(第1共和政)(西暦1569〜1795年)やオスマン帝国(西暦1299〜1922年)の情勢を鑑みて、計画に懐疑的態度を取ったことであった。彼は口実をつけて交渉を引き延ばし、これにより無為に8ヶ月間が経過したため、その途中12月にはジャン・ポール・マラー(Jean-Paul Marat)の「人民の友」紙などのパリの革命派新聞が国王側の不穏な陰謀の気配を嗅ぎつけてしまい、西暦1791年01月30日にはエドモンド・ルイス・アレクシス・デュボワ・クランセ(Edmond Louis--Alexis Dubois-Crancé)が国王の計画をジャコバン派に暴露してしまった。
国王が逃亡するという噂は、計画が事実であっただけに、深刻なものであった。議会は国境の警備を強化して、王族の監視も強化した。しかしルイ16世は、反カトリック的な法律ができたこともあるが、挑発するかのように、先だって叔母(ルイ15世最愛王の四女と五女)のマリー・アデライード・ド・フランス(Marie Adélaïde de France)王女とマリー・ルイーズ・テレーズ・ヴィクトワール・ド・フランス(Marie-Louise-Thérèse-Victoire de France)王女を出国させ、ローマに行かせた。2王女の出国事件はすぐに問題となり、彼女たちは途中で2度も捕まった。これはちょうど亡命禁止法を議会で審議していた時期の出来事であったが、ミラボー伯の人権を擁護する主張により、この法案は退けられ、議会は特別命令を出して出国を許した。しかし一方で議会は「王の逃亡は退位と見做す。」と宣言して警告し、マリー・アントワネット王妃が駐仏オーストリア大使メルシー・アルジャントー伯フロリモン・クロード(Florimond Claude, comte de Mercy-Argenteau)と交わしていた書簡を調査してその不穏当な内容を問題視し、摂政職から女性を排除する法案を可決させた。西暦1791年04月02日、ミラボー伯が絶頂期に突如として42歳で病死した。
死後にルイ16世と交わした書簡と多額の賄賂の存在が暴露され名声は地に落ちることになった。ミラボー伯はルイ16世が信頼していた唯一の人物であったこともあり、急死はますます面従腹背の態度を強め、後任者に対しては誰にも腹の中は見せず、それに伴い王妃の国王に対する発言力が増していった。三頭派やアントワーヌ・バルナーヴがブルジョワ(仏語: bourgeois)的政策を進めて、議会と民衆との軋轢が顕著になると、国王は反革命の機会と思ったが、レオポルド2世との交渉は全く進んでいなかった。
ところが、04月18日に国王一家は復活祭のミサを行うためにサン・クルー宮殿へ行幸しようとしたが、民衆はこれを国王が逃亡するものと思いこんで、テュイルリー宮殿の門を人垣で塞いで馬車の行く手を妨害した。ラ・ファイエット侯は群衆を解散させることができずに、国王一家を守るべき国民衛兵隊も、行幸が中止と発表されるまで妨害を止めなかった。マリー・アントワネットは「これで私たちが自由でないことは認めざるを得ないでしょう。」と言い、国王一家は自分たちが実際には囚人であることを確認した。最初は乗り気でなかったルイ16世も真剣に脱出計画に耳を傾けるようになった。計画に積極的だったのは国王に強い影響力を持っていた王妃マリー・アントワネットであった。彼女は実家であるオーストリア大公国(西暦1453〜1806年)へ亡命することを企てていた。当時はフランス国外へ亡命する貴族はまだ多く、亡命そのものを罰する法もなかったことから、変装によってそれに見せ掛けることは可能であった。王妃は駐仏墺大使メルシー・アルジャントー伯フロリモン・クロードを介して秘密書簡で本国と連絡を取り、亡命が成功した暁には、実家はもとより血族のいる諸外国の武力による手助けを得て、フランス革命を鎮圧しようと夢見ていた。しかし兄のレオポルド2世は、ルイ16世が申し出た1500万リーブルの借款を断り、渋々軍隊を送る条件として、「国王一家がパリを脱出した後に憲法を否定する声明文を発しなければならない。」とした。実際的にはオーストリア大公国を含めて彼女が当てにした諸国は戦争に消極的で、西暦1791年時点で介入に同意しそうな国は、(従来はオーストリア大公国の敵であった)プロイセン王国以外にはなかった。ブルトゥイユ男爵は諸国の君主の好意的反応を引き出したが、大臣は賛成せず、支援は上辺だけのものだったからだ。翌年に革命戦争が始まったときでも、宣戦布告したのは革命フランス側からであり、ナポリ王国などマリー・アントワネットの姉マリア・カロリーナのいる諸国は当初は参戦を見合わせ、国王ルイ16世処刑後ですらマリー・アントワネットの脱出にも助力しなかった。身代金交渉はなかったわけではないが不活発で、マリー・アントワネットが期待したハプスブルク家の援助は、例え逃亡計画が成功していても、儚い夢でしかなかった。このためルイ16世は「パリ逃亡の際の国王の宣言」を作成して、成功したら発表する予定であった。この文書は後に発覚し、アントワーヌ・バルナーヴの誘拐説の嘘を暴いた。これはパリ脱出の経緯を説明するもので、国民議会の憲法違反を非難する内容だった。逃走の資金は銀行家から借金することになった。
国王が拒否権を使って革命への非協力を示しながら、アントワーヌ・バルナーヴ、アドリアン・デュポール、ラメット伯ら穏健な立憲主義を標榜する三頭派の愛国派(後のフイヤン派)と依然として国王に忠実だった王党派の首領ラ・ファイエット侯の不毛な権力闘争に忙殺される政治に多くの議員と国民は失望していた。西暦1791年05月16日、マクシミリアン・ロベスピエールは三頭派と立憲主義者を次期議会から一掃するため国民議員の立法議会での再選禁止を提案し、圧倒的支持を受けてこの提案を通過させた。
王妃マリー・アントワネットの主導の下に計画が立てられたことで、いくつもの問題が生じることになった。まず計画の中心人物が、王妃の愛人とも噂されたあのスウェーデン貴族フェルセン伯ハンス・アクセル(Hans Axel von Fersen)となった。彼に協力するのはショワズール竜騎兵大佐 (Claude Antoine Gabriel, duc de Choiseul-Stainville) と王室技師ゴグラーという、国王と王妃に忠誠を誓った個人で、数人の近衛士官を除けば、国内で活動していた王党派との連携はほぼ皆無であった。国境地帯の軍を預かっていたブイエ侯フランソワ・クロードが重要な役割を果たすこととなったが、このような問題に外国人が関与することに当初より強い懸念を示した。フェルセン伯はルイ16世の臣下ですらなかったからである。しかしフェルセン伯は王妃の信頼に応えようと、国王一家の逃亡費用として、日本円に換算して総額120億円以上を出資したというほど、献身的であった。フェルセン伯は別の愛人のエレオノール・シュリヴァンにこの資金の一部を用立ててもらい、さらに2頭立て馬車や旅券を手配したが、これらは彼女の助力の賜だった。フェルセン伯には他にも複数の愛人がいたことが知られている。
ところが一方で、マリー・アントワネットの無理な主張にも振り回され、馬車は家族全員が乗れる広くて豪奢な(そして、足の遅い)8頭立てのベルリン型の大型四輪馬車の新品とすることになって、内装を特注にし、さらに美しい服などを新調したことなどにより、脱出は当初の予定より1ヶ月以上も遅れることになった。また王妃の主張する亡命自体も難があった。実行役となるブイエ侯は、反逆罪に問われる可能性が高かったことから、国王の署名入りの命令書を求めるなど抵抗した。ルイ16世も国外への逃亡という不名誉を恐れ、計画の変更を求めて、逃走経路をフランス領内のみを通過するものに変えた。しかしこれはブイエ侯が最初に提案した旅程よりも危険なものになった。最終的な目的地は、フランス王国側の国境の町、モンメディ (Montmédy) のヴォーバン式の稜堡城郭をもつ要塞に決まった。ここに国外の亡命貴族軍を呼び寄せて合流する予定であった。つまり実際には亡命ではなかった。オーストリア領ネーデルラント(現在のベルギー・ルクセンブルク、西暦1714〜1797年)国境に集結していたオーストリア軍の協力を当てにはしていたが、国王はあくまでも国内に留まる決意だった。
計画は06月19日に決行される予定であったが、直前までマリー・アントワネットに振り回された。何もかも準備は整っていたのに、彼女が革命派と考えていた小間使いが非番となる翌日まで1日延期されることになった。他方、ブイエ侯は街道に配下の竜騎兵および猟騎兵部隊を配置して警護させようと考え準備していたが、彼らは王党派というわけではなかったので兵士たちには任務の内容は知らせなかった。指揮官のショワズールは、ただでさえ秘密の保持に苦慮するところであったが、このように予定が突然変更になって部隊は右往左往することを強いられ、計画は実行前から綻びていた。この兵士の中に当時は副官付の曹長に過ぎなかったジョアシャン・ボナパルト・ミュラ(Joachim Mura)もいた。彼は後にルイ16世を護る立憲近衛隊の兵士、さらに第一統領ナポレオン・ボナパルト(Napoléon Bonaparte、別名(西暦1794年以前)ナポレオーネ・ディ・ブオナパルテ(Napoleone di Buonaparte))の3番目の妹マリア・アヌンツイアッタ・ボナパルト・ミュラ(Maria Annunziata Bonaparte Murat)と結婚してその義弟となり、ジョアシャン・ナポレオン・ミュラ(Joachim-Napoléon Murat)と改名し、ナポリ王国(公式な称号は両シチリア王国)(西暦1282〜1816年)の国王、ジョアッキーノ1世(Gioacchino I)に即位した。
ルイ16世と王妃マリー・アントワネットには、長女マリー・テレーズ・シャルロット(Marie Thérèse Charlotte de France)、長男ルイ・ジョゼフ・ド・フランス(Louis-Joseph Xavier François de France)、次男ルイ・シャルル(Louis-Charles de France)、次女マリー・ソフィー・エレーヌ・ベアトリクス・ド・フランス(Marie Sophie Hélène Béatrix de France)の2男2女の4人の子ができたが、次女マリー・ソフィーは西暦1787年06月19日に結核のため10ヶ月21日で、長男でドーファン(王太子)のルイ・ジョゼフは西暦1789年06月04日に結核のため7歳半で夭逝し。次男のルイ・シャルルが王太子となった。長女マリー・テレーズが10歳の頃、西暦1778年07月31日にヴェルサイユ宮の小間使いが出産したマリー・フィリピーヌ・ド・ランブリケが、マリー・テレーズ・シャルロットの遊び友達として迎えられた。この少女はマリー・テレーズ・シャルロットと瓜二つだった。エルネスティーヌの法的文書には母フィリピーヌ・ド・ランブリケの名前は記されていたが、フィリピーヌの夫ジャックの名前は載っておらず、当時ルイ16世の嫡外子ではないかと言われる。西暦1788年04月30日にマリー・フィリピーヌの母フィリピーヌが亡くなると、マリー・アントワネットはエルネスティーヌと改名させ、養女にした。ルイ16世はエルネスティーヌのために部屋を用意させ、高価なピアノやドレスを買い与えた。マリー・テレーズ・シャルロットは弟のルイ・シャルルとともに、養育係のトゥルゼール夫人の娘、ポリーヌ・ド・トゥルゼールによく懐いた。西暦1789年10月06日、マリー・テレーズ・シャルロットは家族や廷臣と共にテュイルリー宮殿に軟禁された。西暦1790年04月04日、エルネスティーヌとともに父から聖体拝領を受ける。西暦1791年06月21日、ヴァレンヌ事件の前日にエルネスティーヌは父ジャックを訪問するため宮殿を離れていた。
西暦1791年06月20日の深夜、ルイ16世と王妃、王太子ルイ・シャルルと王女マリー・テレーズ・シャルロットは、それぞれ変装してばらばらに分かれてテュイルリー宮殿を抜けだした。予定では午前00時の出発のはずだったが、国王の監視役であったラ・ファイエット侯の予定外の長居によって、結局、国王が宮殿を出たのは午前01時を過ぎていた。一行は、ロシア貴族のコルフ侯爵夫人に成りすまして、近衛士官マルデンの手引きで、幌付き2頭立ての馬車に乗って誰にも止められることなく宮殿を出ていった。王子と王女は仮面舞踏会に行くと言い含められていたので驚いたようである。一方、護衛を務めるショワズールとゴグラーは、この10時間前に猟騎兵を連れて既にパリを出ていた。旅券には書かれた一行の人数は6人で、コルフ侯爵夫人の役には王子たちの保母であったトゥルゼール公爵夫人(Louise-Elisabeth de Croÿ de Tourzel)がなり、その子供には王太子ルイ・シャルルと王女マリー・テレーズが、旅行介添人が王妹マダム・エリザベート(エリザベート・フィリッピーヌ・ド・フランス(Élisabeth Philippine Marie Hélène de France))、デュランという名前の従僕にルイ16世が、マダム・ロッシュという名前の侍女にマリー・アントワネットが扮していた。馬車の御者は変装したフェルセン伯であった。まずクリシー街(現パリ9区クリシー通り27番地付近)のシュリヴァン夫人の邸宅に着くと、ここで用意していた大型の豪華なベルリン馬車に乗り換えた。さらに2人の従者が車後に乗った。フェルセン伯は自ら手綱を操って、回り道しながら2台の馬車は北に向かった。すでに午前02時半を過ぎていた。翌21日の午前06時に侍女たちが国王一家の不在に気付いて通報したので、彼らには4時間の猶予もなかった。急を知ったラ・ファイエット侯は、国民議会と市役所に大砲を3発放たせて警報を発し、パリに厳戒態勢を敷いた。捜索隊がすぐに組織された。怒った民衆はすぐに宮殿になだれ込んで、ルイ16世の胸像を叩き壊し、早くも退位を要求するなどいきり立っていた。大砲の音は逃走中の馬車の中の国王の耳にも聞こえたので、彼は何通か遺書を書いたが、しばらくすると追っ手はついて来ていないことがわかり、緊張が解けた安堵から気が抜けていった。パリ郊外のボンディまで来て、ルイ16世は「これ以上はフェルセンは随行するな。」と命じた。外国人に先導されることも、王妃と親しすぎる人物を連れて行くこともできなかったからである。彼は王妃に別れを告げて去った。
その頃、ショワズールは、40人の猟騎兵とともにシャロンの町の近くのポン・ド・ソルヴェールの橋でずっと待っていたが、待てども待てども国王の馬車は到着しなかった。何事かと訝る住民の目に晒されて、だんだん不安になったショワズールは、部隊を分散させ、街道から隠すことにした。国王の馬車は、銀食器、衣装箪笥、食料品などの日用品や、喉がすぐ乾く国王のために酒蔵1つ分のワイン8樽、調理用暖炉2台など必要品をたっぷり載せ、ゆっくりとした速度で進んでいた。国王一行がシャロンに到着したのは午後04時だった。扮装した国王一行は安心しきっており、ここで優雅に食事をして、豪華な馬車と荷物を人々に見せびらかせて悠々と去っていった。すぐに町中に王室一家が通過したという噂が広まった。ポン・ド・ソルヴェールで国王は最初の護衛に会えると思っていたが、ショワズールの愚かな判断によって行き違いになった。次のサント・ムヌウの町でも別の竜騎兵部隊が待っている予定であったので、国王はさらに2時間進んでこちらと遭遇することを期待した。しかしサント・ムヌウでも、不審な部隊を警戒した地元の国民衛兵隊300人が武装して集まってきたので、衝突を恐れた指揮官のダンドワン大尉は解散を命じて、竜騎兵たちの多くは市民と一緒に酔っぱらっていた。よってここでも国王は護衛とは合流できなかった。しかしダンドワン大尉は何とか国王の馬車を見つけ、彼は近寄って会釈した。ところが運悪く、それを夕涼みに出ていた宿駅長のジャン・バティスト・ドルーエ(Jean-Baptiste Drouet)が見ていた。彼は大尉や竜騎兵たちが馬車の中の従僕や侍女に恭しく挨拶するのを怪訝に思った。そこにシャロンから「王室一家が通過した。」という噂が流れてきたので、ハッとしたドルーエは地区役所に走って、書記からアッシニア紙幣を受け取って印刷された肖像を見てみると、まさにさっきの一行の中にいたのがルイ16世であった。彼らは馬に乗って馬車を急いで追いかけ、間道を抜けて先回りした。クレルモン・エン・アルゴンヌの町で国王はようやく護衛の竜騎兵部隊と合流できたが、国王の逃亡はすでにこの町に伝わり騒ぎになっていた。町の当局者は、一行を怪しんだものの、コルフ侯爵夫人の旅券をもつ国王の馬車を止める権限がなかったので、行かせることにした。しかし明らかに不審な部隊の随行は禁止した。再び護衛と引き離された国王の馬車がヴァレンヌに到着した時、ドルーエらは先に到着して、大勢の群衆と共に待ち構えていた。
ヴァレンヌの町では、ブイエ侯の息子ら2人の連絡将校が待っているはずだったが、彼らは待ちくたびれて寝込んでいた。橋の向こうでは、馬車の替え馬が準備されていた。ここで馬を替えればモンメディまでは僅かな距離であった。サント・ムヌウの宿駅長ドルーエにそんな権限はなかったが、警鐘を鳴らし何としても亡命を阻止すべく、すでに橋にバリケードを作って封鎖していた。騒ぎに目を覚ましたブイエ侯の息子は発覚したと思って逃げ出した。ドルーエに「引き留めないと反逆罪だぞ。」と脅されていた町長は、旅券を調べて「よろしい。」と許可を与えたが、もう旅を続けるには遅いから一休みしていかれてはどうかと勧めた。馬車を群衆に包囲され身動きが取れなかったので、「しばらくすればブイエかショワズールの部隊が助けに来るのではないか。」と期待した国王は、この招待を受けることにした。24時間の逃避行で彼らも疲れていた。「ソース」という名前の食料品店の2階に部屋が設けられ、簡易ベッドと粗末な食事が出された。夜半になって、ショワズールが猟騎兵を連れて息を切らせて到着し、彼らは群衆を掻き分けて食料品店の2階に駆け上がってきた。すぐに血路を開いて脱出しようというが、外には数万の群衆が集まっており、中には武装した国民衛兵隊もいた。大半は只の野次馬だったが、国王に敵愾心を持つ者がどれほどいるかの判断も付かず、女子供を連れて強行突破は難しいと逡巡している間に朝が来た。
06月22日、国民議会の使者ロメーフが国王一家を拘留せよとの命令を持って現れた。ここで全てが露見したが、ルイ16世はさらに時間稼ぎをしてブイエ侯が救援するのを待とうと試みた。国王は「疲れているのでパリに立つまで2、3時間の休息が欲しい。」と言った。ロメーフはラ・ファイエット侯の副官で、内心では王党派であったのでこれを受け入れた。しかしもう1人の使者のバイヨンが拒否し、「パリへ、パリへ。」と群衆を煽った。群衆の怒声と熱気に恐れをなした町長や町議員、商店主が出立を懇願するので、国王もついに観念し、車中の人となった。マリー・アントワネットは屈辱に唇を噛みしめていた。マリー・アントワネットの部屋付第1侍女、カンパン夫人(ジャンヌ・ルイーズ・アンリエット・カンパン(Jeanne-Louise-Henriette Campan))は、21日の夜に王妃の髪に何が起こったのかについて書いている。「06月22日、…一晩で70歳の女性のように真っ白になりました。」
その僅か半時後、ブイエ侯は部隊をつれてヴァレンヌの町の手前まで来て、「国王が既に屈服した。」と知らされた。彼はそのまま踵を返して道を引き返し、国境を越えて亡命した。 ブイエ侯には、数々の不可解な行動から、裏切り説もある。一方、同日に逃亡した王弟のプロヴァンス伯爵夫妻は、同じ頃には無事にアヴァレ伯爵と共にオーストリア領ネーデルラントに到達していた。プロヴァンス伯ルイ・スタニスラス・グザヴィエ(後のルイ18世)は、06月20日の夜に兄ルイ16世に会ったのが、今生の別れとなった。彼は2年後の兄の死と前述の王妃を摂政職から排除する法律によって、自動的にフランス王国の摂政となった。
06月25日夕方07時、国王一家はテュイルリー宮殿に連れ戻された。議会を代表する護衛としてアントワーヌ・バルナーヴ、ジェローム・ペティヨン・ド・ヴィルヌーヴ(Jérôme Pétion de Villeneuve)、フェイ・ド・ラ・トゥール・モブール侯シャルル・セザールの3議員が途中で加わっていた。彼らはかつてないほど野次と侮辱を受けた。フランス国王の威信がこれほど貶められたことはなかった。道中の各地に「国王に礼を尽くすものは撲殺。国王に非難を加えるものは縛り首。」との警告ビラが貼られ、パリは国王一家を沈黙で持って迎えた。以後の国王は「民衆にとっては裏切り者、革命にとっては玩具。」となった。
ヴァレンヌ事件はフランス国民に多大な衝撃を与えた。「国王が外国の軍隊の先頭に立って攻めて来る気であった。」という事実は、立憲君主制の前提を根底から揺るがす大問題だった。ルイ16世は革命の敵、反革命側なのであり、それどころか国家の敵ですらあり、フランス人の王としての国民の信頼感は著しく傷つけられた。それまでは国王擁護の立場を取っていた国民が比較的多数を占めていたが、以後、多くは左派に靡いて革命はますます急進化した。最も右翼的、保守的な貴族議員が相次いで亡命した。軍隊の貴族将校からも大量の亡命者を出した。高級僧侶や高級貴族のうち王党派と見られた者は監視されたり監禁されたりした。国民議会の左翼は王権を廃止して共和制を宣言する請願書を出し、貴族政治家はほぼ一致して国王を守ろうとした。窮したラメット伯アレクサンドルやアントワーヌ・バルナーヴは、「国王は何者かによって誘拐された。」とする陰謀説をでっち上げた。彼らは立憲君主制を成立させるために、ブイエ侯を首謀者とした陰謀説を強弁し、「ルイ16世は被害者であった。」という話を捏造した。結果として、フランス国歌「ラ・マルセイエーズ」の歌詞の5番で侮辱されている。この嘘はアントワーヌ・バルナーヴの雄弁によってある程度は成功し、07月15日にジャコバンクラブの多数はルイ16世の廃位を決議したが、議会の多数が賛成して王位は守られた。フランス革命は立憲君主制と立法議会の成立というところまで漕ぎ着けた。
しかし、この公然の嘘に対して、左派は激しく反発。革命は最早西暦1789年の理想の範疇では治まらなかった。シャン・ド・マルスの誓願は、ラ・ファイエット侯の国民衛兵隊の発砲により流血沙汰となり、共和主義宣伝の機会を与えた。ジャコバン派は分裂し、フイヤン派が脱退する事態となった。フイヤン派は何とか君主制と革命とを両立させようとその後も苦心したが、国王ルイ16世とマリー・アントワネットが外国軍による解放という考えを捨てなかったこともあって、結局は、フランス共和国第1共和政(西暦1792〜1804年)の樹立の方向に革命が進むのを止められなかった。
一方、脱出を手引きしたフェルセン伯の主君スウェーデン王グスタフ3世は、ドイツのアーヘンにてフェルセン伯からの報告を待ちわびていたが、結局、脱出成功の報を聞くことはなかった。逆に国王一家逮捕の知らせが届いたため、グスタフ3世は直ちに亡命フランス貴族と計り、「反革命十字軍」を組織する計画を立てた。10月01日にはロシア帝国とも軍事同盟を締結したが、西暦1792年03月16日、ストックホルムのオペラ座で開かれた仮面舞踏会の最中、ヤコブ・ヨハン・アンカーストレム伯に背後から拳銃で撃たれた。その後、手術を受けたが2週間しか持たず、合併症を併発して、46歳でこの世を去った。暗殺の裏には貴族らからの反発があった。グスタフ3世は国の大きな柱にした軍隊にかかる費用を賄うために貴族らに増税を強制していた。暗殺の黒幕として、フェルセン侯フレドリク・アクセル(ハンス・アクセル・フォン・フェルセンの父)が噂された。実行犯ヤコブ・ヨハン・アンカーストレム伯は地所と特権剥奪し3日間鞭打ちを受け、右手を切断され、04月27日に斬首刑に処せられた。 最終的にはグスタフ3世の暗殺などで実現することはなかった。グスタフ3世の暗殺は、欧州諸国に衝撃を与えた。グスタフ3世の行動はかなり極端ではあったが、後の対仏大同盟の先鞭となった。フランス革命の脅威と重なり、欧州各国は、保守色を強め国内の統制を強めていった。これと併せてスウェーデンでもヨーロッパ主要国においても啓蒙主義的な君主は見られる事はなくなった。

王の逃亡:フランス革命を変えた夏 - ティモシー・タケット, 松浦 義弘, 正岡 和恵
西暦1791年08月27日には、既に亡命に成功していた王弟アルトワ伯シャルル・フィリップが、神聖ローマ皇帝レオポルト2世とプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世を仲介し「ピルニッツ宣言」を行った。この「必要な武力を用いて直ちに行動を起こす。」という内容の宣言は、革命派には脅迫と受け取られて、実のところ国王一家の立場をより悪くしただけではあったが、フランス革命戦争への号砲となったと言える。というのも、革命派は脅迫を受けて引き下がるどころか、逆にいきり立って戦いを望んだからである。彼らはついには国王の断罪を求めるようになっていくため、ヴァレンヌ事件はブルボン王政の終焉を告げるきっかけともなった。
ヴァレンヌ事件におけるルイ16世一家の逃亡という事態は、立憲王政を窮地に陥れた。アントワーヌ・バルナーヴは国王は誘拐の被害者であったという虚構で取り繕ったが、「国王を裁くべきではないか。」という批判はなかなか消えず、共和政樹立の要求は高まるばかりだった。この革命運動は07月14日の第2回全国連盟祭に向けて次第に熱を帯びていった。07月15日、ジャコバンクラブでルイ16世廃位の請願運動が決定された。これに怒った君主主義者たち多数派がジャコバンクラブから離脱し、07月16日にフイヤン修道院でフイヤンクラブ(Club des Feuillants)を結成し,フイヤンクラブの議員が議会の多数になった。
フイヤン派指導者のアントワーヌ・バルナーヴは「荒唐無稽な理由を使ってでも国王を守り、新憲法を作り上げていくことが革命の成否を決める問題だ。」と見ていた。だが、議会多数派を形成したフイヤン派に対する不信感が強まり、民衆(サン・キュロット)と議会の間で溝が生じた。アントワーヌ・バルナーヴは革命の行方に懸念を持ち、こう語った。「われわれは革命を終えようとしているのであろうか?それとも、また革命をやり直そうとしているのであろうか?諸君は、全ての人間を法の前に平等なものとした。諸君は、市民的ならびに政治的自由を確立し、国民の主権から奪われていたすべてのものを国家のために奪い返した。もう一歩進むことは、不吉で罪深い行為となろう。自由の線上をもう一歩進むことは王政の破壊になろうし、平等の線上をもう一歩進むことは私有財産制の破壊になろう。」革命を終わらせたい者と今後も革命を前進させたい者の対立が一層激化した。こうして、議会では国王を守ろうとするフイヤン派と国王の廃位を求めるジャコバン派が衝突、安定に向かい始めた新体制に亀裂が生じた
空っぽのジャコバンクラブでは議員資格のある者は5〜6人しかいなかったが、請願文が採択され、シャン・ド・マルス練兵場に送られて主権者たる大衆に署名してもらう算段となった。内容は直接的に共和政を求めたわけではないが、「(王に代わる)新しい行政権力と(現在の議員に代わる)新しい憲法制定議会の招集を求める。」というものであった。これはオルレアン派の新しい王への交代という意味にも解釈できたので、コルドリエクラブはこの曖昧さを非難した。しかし、地区民衆は挙って集まり、「サン・タントワーヌ門から練兵場まで行進して平和的な示威行動をする。」と決まった。
07月17日、パリは朝から異様な緊張状態であった。「祖国の祭壇」の下に2人の男が隠れていたのが見つかり、民衆の手で、王党派として近くの窓にぶらさげられ縛り首になった。これはただの偶発的な出来事であったが、これを口実に立憲議会は戒厳令を布告した。初代パリ市長ジャン・シルヴァン・バイイ(Jean-Sylvain Bailly)と国民衛兵隊司令官ラ・ファイエット侯は事前に、計画の報告を受けており、対策を準備していた。国民衛兵1万人が動員され、請願運動を中止させ群衆を解散させるべく強硬手段を執った。
軍隊がシャン・ド・マルス練兵場に辿り着く前に、祭壇では6千人以上が既に署名を済ませていた。この請願書は明確な議会への不信任であったから、何としても引き破らなければならなかったが、午後に、軍隊が人垣やバリゲードを突破して練兵場内に入ると、意外にも示威行動は平和裏に行われていて拍子抜けした。しかし殺気だった兵士の乱入に驚いた民衆が投石を始め、これに対してジャン・シルヴァン・バイイが威嚇射撃を空に向けて命じたところ、5万人の犇めく練兵場では何が起こったかわからず恐慌が起こった。人々は押し合いへし合いして逃げ出した。何度銃撃があったか、水平射撃だったか威嚇のみだったかはわからないが、民衆への軍隊の発砲は衝撃的な事件であった。実際の死者は13〜15人程度で、病院に搬送されたものは国民衛兵を含めて12人に過ぎなかった。200人程度の逮捕者も1ヶ月以内に釈放された。現代のフランス共和国ではよって「虐殺」という表現はあまり用いられず「発砲(Fusillade)」と表現される。しかし、当時は噂に尾鰭がついて「3000人以上の死傷者が出た。」という誇張した話になり、虐殺事件として喧伝され、多くの人がそれを信じた。( シャン・ド・マルスでの発砲)フイヤン派の権力は軍事力と警察力を背景に安定した。共和派の革命派は潜伏した。この時戒厳令を意味する赤旗が初めて用いられたが、この事件がきっかけで後に階級闘争の象徴となった。
それまでフランス革命を指導する立場だった司令官、両大陸の英雄ラ・ファイエット侯の人気凋落を決定づけた。またパリ市長ジャン・シルヴァン・バイイの処刑理由ともなった。
フイヤン派には自由主義貴族(領主)とブルジョアジーの最上層が結集していた。領主権の維持と確保のため08月27日に貢租の増加が決定された。09月03日に憲法制定国民議会において憲法が成立し、立憲君主制を採用して行政権は国王に属し、立法権は議会に属するが国王に拒否権を認めた(西暦1791年憲法)。議会は1院制で選挙権も被選挙権も一定の租税を納める者に限定した。選挙権を持つ者を「能動市民」、持たない者を「受動市民」と呼んだ。政権に参加できる者は少なくとも手工業の親方や小商店主、中農以上の者に限定された。絶対主義の時代は外国人領主の領地や外国扱いされていた地方があって、必ずしもフランス王国の領土と認められていないものがあったが、「フランス王国は唯一にして不可分」と宣言された。こうして革命の第1段階は終わった。
「自由、平等、友愛」(Liberté, Égalité, Fraternité)という標語の起源はフランス革命にあり、文書が残る最古は、恐怖政治で断頭台に政敵を送った鬼畜マクシミリアン・ロベスピエールが書いたもので、西暦1790年12月の中旬に印刷され、人民結社(民衆協会)を通じてフランス全土に広まった「国民軍の設立に関する演説」。公式に国の標語として採用されることになるのは西暦19世紀末の第3共和政(西暦1870〜1940年)になってからである。 「友愛」とは友に対するもので、友でなければ殺しても良いということである。日本では、意図的に「博愛」と誤訳している。
ブルボン家のランジュ侯は、西暦1773年10月22日にギロチンの発案者で有名なジョゼフ・イニャス・ギヨタン(Joseph Ignace Guillotin)医師やビュフォン伯ジョルジュ・ルイ・ルクレール(Georges-Louis Leclerc, Comte de Buffon)とともにメイソンロッジ、大東社(Grand Orient de France、グラントリアン)を創設した。東洋を統括する支部という意。フリーメーソンの性格が変化したのは大東社(グラントリアン)成立以降といわれる。イギリス本国のフリーメーソンが一般に政治問題を会合で話題にすることがなかったのに対し,大東社(グラントリアン)の傘下に入った大陸系フリーメーソンはむしろ積極的に社会改革を推進した。大東社(グラントリアン)は、英米系のロッジと違い、組織として政治活動に加わる者も少なくなかった。フランス革命では、フリーメイソンと関り、関係者が多数処刑されている。大東社(グラントリアン)の目的は、人脈と資金を集める事で、レザミ・レユニの人脈(ミラボー伯やマクシミリアン・ロベスピエール)は、大東社(グラントリアン)にも所属(兼務)した。ランジュ侯はグランドマスターにオルレアン公ルイ・フィリップ2世ジョゼフを担ぎ上げた。フランス国土の5%がオルレアン家のもので、国王と違い公費支出が無いため相当な資金力があったが、私生活は放蕩かつ無節操で、民衆に開放した自分の宮殿パレ・ロワイヤルは歓楽街として使われ、政治的な危険分子はもちろん、娼婦の溜まり場にもなるなど背徳と放縦と浪費癖によって借金に塗れた。その借金の貸し手は、ヘッセン・カッセル方伯ヴィルヘルム9世アシュケナジームの配下の猶太マイアー・アムシェル・ロートシルト(ロスチャイルド)だった。
大東社(グラントリアン)は自ずとロスチャイルドの工作機関となった。
フリーメイソンのストリクト・オブザーバンツは西暦1782年のヴィヘルムスバート会議でヘッセン・カッセル方伯家に乗っ取られ、クニッゲ男爵とボーデによって、イルミナティ化し、ブラウンシュヴァイク・リューネブルクュヴァイク公カール(2世)・ヴィルヘルム・フェルディナントなどストリクト・オブザーバンツの人脈の殆どがイルミナティに流れた。
そして、ヨハン・ヨアヒム・クリストフ・ボーデのフランス王国での活動の結果、レザミ・レユニと大東社(グラントリアン)のメンバーをイルミナティに迎えた。その中にランジュ侯、オルレアン公ルイ・フィリップ2世ジョゼフ、ミラボー伯、マクシミリアン・ロベスピエールがいた。
ミラボー伯もまた放蕩者として評判で多くの借金を抱えていた。ミラボー伯の借金の相手はドイツのユダヤ人の哲学者・啓蒙思想家であり、大金融家でもあったモーゼス・メンデルスゾーンでロスチャイルド家と親交があった。ミラボー伯の背後にもロスチャイルドがいた。
フランス革命の代表的な革命指導者で史上初のテロリスト(恐怖政治家)と呼ばれたマクシミリアン・ロベスピエールは、西暦1793年に公安委員会(自由の確立のためには暴力が必要であるとして「自由の専政」のために創られた)に入ってからの約1年間、フランス共和国の事実上の首班として活動している。
マイアー・アムシェル・ロートシルト(初代ロスチャイルド)は、フランス革命の口火であるバスティーユ襲撃と同じ西暦1789年年にヘッセン・カッセル方伯家の正式な金融機関の1つに指名されている。経済的に何の後ろ盾のないフランス革命軍にヘッセン・カッセル方伯家の命を受けロートシルトとが資金を提供したと考えられる。
フランス革命はフリーメイソンの革命であった噂は絶えないが、実際にフリーメイソンという組織が主体となって起こしたものではなく、ヘッセン・カッセル方伯ヴィルヘルム9世がロスチャイルドを使って巧みにフリーメイソンの人脈をイルミナティに取込み、工作したのがフランス革命である。
アンリ・グレゴワール(Henri Grégoire)は西暦1789年、聖職者(第一身分)であったにも拘わらず第三身分でジャコバン派の三部会議員となり、ユダヤ人解放に尽力し、ザルキント・ウルウィッツは著書「ユダヤ人擁護論」を書いて、ミラボー伯オノレ・ガブリエル・ド・リケッティに注目された。フイヤン派のミラボー伯はフランス革命で、ユダヤ人解放を実現した。ミラボー伯はドームとベルリンのサロンで親交して影響を受けて、フランス革命でユダヤ人解放を実現した。西暦1791年01月28日、フランス革命中のフランス共和国では、イベリア半島から移住したポルトガル系ユダヤ人と、アヴィニョン法王領のセファラディームの職業と居住地が保障された。反対者によって国民議会は分裂寸前となったが、西暦1791年09月27日にユダヤ人同権化法令を議決し、11月に発効した。しかし、革命の動乱でユダヤ人が解放されることはなく、ユダヤ人の解放政策が進展したのはナポレオン時代以後のことであった。
「保守思想の父」エドマンド・バーク(Edmund Burke)は「フランス革命の省察」でフランス革命を批判して、ドイツにも影響を与えた。フランスの覇権が拡大する中、ドイツではドイツ至上主義・ゲルマン主義が擡頭すると同時に、反フランス主義と反ユダヤ主義が高まっていった。ドイツの教養市民はヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテを例外として、フランス革命を「理性の革命」として熱狂的に当初は歓迎したが、革命後の恐怖政治が現出すると革命を憎悪するようになった。詩人フリードリヒ・ゴットリープ・クロプシュトック(Friedrich Gottlieb Klopstock)はフランス革命を称えた数年後に「愚民の血の支配」、「人類の大逆犯」としてフランスを糾弾した。当初革命を称賛したフリードリヒ・フォン・ゲンツ(Friedrich von Gentz)は西暦1790年にエドマンド・バークの「フランス革命の省察」をドイツ語に翻訳した。プロイセン王国ではヴェルナー宗教令への反対者は「ジャコバン派(革命派)」として糾弾され、シュレージエンでは革命について語っただけで逮捕され。オーストリア大公国では外国人の入国が制限された。フランス以外の国が反革命国家となった要因としては、アルトワ伯などのフランスの亡命貴族たちの活躍があった。アルトワ伯シャルル・フィリップはコーブレンツに亡命宮廷を開き、ラインラントを拠点として反革命運動を策動した。
フランス立憲王国(西暦1791〜1792年)
ヴァレンヌ事件は、短期的に穏健派と王党派が団結を強めてブルジョワ革命を急いで推し進めようという圧力となった。西暦1791年09月14日のルイ16世の西暦1791年憲法への宣誓により、フランスは立憲王国となり、公の政治活動が事実上停止されていたルイ16世は、立憲君主となって初めて復権できた。09月25日に刑法が制定され、09月28日に農事基本法可決され、囲い込みの自由が承認された。09月30日に憲法制定国民議会(国民議会)は解散し、新憲法の下で10月01日にテュイルリー宮殿で一院制の新しい議会「立法議会」が開催された。05月16日にマクシミリアン・ロベスピエールの提案で「国民議会の議員は立法議会の議員になれない。」という規定が設けられたので、議員は全員入れ替わったが、議会の党派は変わらなかった。権力の主導権を握るフイヤン派が264人、野党的左派が136人、無所属の中央派が345人いた。立法議会では、立憲君主制を守ろうとするフイヤン派と、共和制を主張するジャコバンクラブの一員で南西部出身の議員グループジロンド派の2派が力を持った。役割を終えた憲法制定国民議会は解散されることとなり、09月30日の議会解散の日、議会を離れる際にマクシミリアン・ロベスピエールは民衆の歓呼を受けた。民衆はマクシミリアン・ロベスピエール、ジェローム・ペティヨン・ド・ヴィルヌーヴ、アンリ・グレゴワール(Henri Grégoire)に花輪を贈呈し、マクシミリアン・ロベスピエールは「汚れなき議員たちに万歳!清廉な人万歳!」との喝采を受けることとなった。歓迎団の女性は演説でマクシミリアン・ロベスピエールを讃えた。この時の「清廉の人」という賛辞が以降マクシミリアン・ロベスピエールの仇名となった。立憲君主制の下で立法議会が発足することになっていたが、革命の実情は国王や議会の考えや政策より一歩も二歩も先に前進しており、議会と政府がこれに対応する頃には、時すでに遅しの状態であった。ヴァレンヌ事件で王権は失墜しており民心は反革命の国王と妥協的な議会から離反、国王を守るべき貴族たちは身の危険を察知して亡命していき、立憲派のフイヤン派は世論の支持を失っていた。西暦1791年体制は初めから脆弱性を抱えていた。自由主義的な進歩派の貴族とブルジョワジーの体制が否定され、ブルジョワジーと民衆の体制への移行が要請された。
フイヤン派は絶対多数を取ったわけではなかったが、政治は安定し、輸出と商品は増加し経済は安定した。立憲王政の成立へと辿り着いた後は、西暦1789年の理想主義者ならこれで革命の終焉を信じ、立憲議員の何人かは故郷に帰った。革命直前に比べて西暦1791年のパンの値段は43%下がり、肉の値段も41〜30%下がった。下層階級の生活は安定し、騒乱状態は遠ざかった。憲法の成立を祝って大赦令が出され、共和派、貴族の反革命派も釈放された。
西暦1792年01月に物価高騰が始まった。買い占め人と見られた商人の何人かが群衆に襲撃され破壊や放火の対象になった。アッシニアの価値は下落を始めた。西暦1791年度の国家財政は1億6200リーブルの赤字となった。赤字の原因は新しい租税の基本となった地租が土地所有者の抵抗によって進まなかったためだった。赤字を補充するためにアッシニアの増発が行われた。アッシニアの信用をめぐってフイヤン派のブルジョアジーと他のブルジョアジー勢力との対立が起こった。
フランス立憲王国では、ブルジョワジーの分裂(フイヤン派のジャコバン派からの分離)と貧民にも恩恵を齎す運動が擡頭した。当時の貴族が穿いた半ズボンが「キュロット」で、長ズボンを履く、主に手工業者、職人、小店主、賃金労働者などの無産市民、当時のパリでは貧困層に属した庶民を、貴族が揶揄して「サン・キュロット(仏語: Sans-culotte)」と呼んだ。バスティーユ襲撃で革命の味をしめた革命的急進派たちは、次第に数を増やし、失業者や賃金労働者を中心にしたサン・キュロットの革命参加を促し、パリで徐々に政治勢力を形成した。ジャコバンクラブの方がやや穏健派が多く、この時期はまだジロンド派がジャコバンクラブでは力があったため、過激分子は所謂「マラーの党」のコルドリエクラブやパリ自治市会(パリ・コミューン(仏語: Commune de Paris))に結集し、07月17日のシャン・ド・マルスの虐殺やクラブ閉鎖でも、衰えることはなく、鬱積した不満を溜めていった。
その頃、亡命貴族と王弟アルトワ伯シャルル・フィリップはドイツに集まっていた。西暦1791年08月25日に南ドイツのピルニッツでオーストリア皇帝とプロイセン王の共同宣言により、フランス国王の権利を回復するため、両国が武力行使をする決意が述べられた(ピルニッツ宣言)。ヴィーンとベルリンの宮廷は亡命貴族(エミグレ)に唆されて、ピルニッツ宣言を発したが、これは決して武力介入を意味するものではなかったが、対抗策として立法議会のジャコバン系は王弟アルトワ伯シャルル・フィリップと王族財産の没収を要求し、11月09日に可決された。亡命貴族の財産没収と翌年01月01日までに帰国しなければ死刑の適用を含む法律がフイヤン派の反対を押し切って可決された。ルイ16世は「亡命貴族についての法令は承認しない。」と通告した。11月14日にジェローム・ペティヨン・ド・ヴィユヌーヴが2代パリ市長に当選した。西暦1791年12月13日に議会は亡命貴族の年金や国債の支払いなど、国家からの支払いを打ち切る決定を行なった。
議会の中では戦争に賛成する者と反対する者の対立が起こった。西暦1791年12月21日にマクシミリアン・ロベスピエールは臨戦態勢が十分に整っていないことを理由に反戦演説を行った。12月31日にジャック・ピエール・ブリッソーは「永き奴隷制の後に自由を獲得した人民にとって戦争は必要になっている。自由を強固にするためにである。」と演説し、「『新しい自由の十字軍』を主張して革命を輸出しよう。」と訴えて戦争熱を煽った。
反戦を唱えたマクシミリアン・ロベスピエールを支持するジャコバンクラブから、主戦論者の議員たちは分離し、ジャック・ピエール・ブリッソー(Jacques Pierre Brissot)を中心にしていたのでブリッソー派(後にジロンド派と呼ばれた。)という党派を形成した。ブリッソー派は後に、指導者のうち3人がフランス南西部に位置するフランス本土最大の県、ジロンド県の出身議員だったため、あるいは同県出身の議員が多くいたため、ジロンド派(Girondins)と呼ばれた。対外戦争によって国王の不実を暴こうというブリッソー派(ジロンド派)と、戦争に反対するジャコバン派(モンターニュ派)との路線対立が先鋭化した。マクシミリアン・ロベスピエールは、首都パリで大変な人気を保っていた。議席を持たないが故に議会で発言はできなかったが、ジャコバンクラブでの演説、新聞の発行といった言論活動によって開戦派のブリッソー派(ジロンド派)と対峙した。反戦を主張し、「国内の敵どもを征服しよう、そしてその後に、まだ残っているのなら、外国の敵に立ち向かおう。」というのが、マクシミリアン・ロベスピエールの立場だった。
西暦1792年03月10日にフイヤン派の内閣は崩壊した。フイヤン派の後に、ジャコバンクラブから分離したブリッソー派(ジロンド派)のが内閣は成立した(第1次ジロンド派政権)。新閣僚の名前は国王の任命よりも数時間早く議会に通告され、王の権力はほとんど失われていた。西暦1792年は久しぶりの豊作だったが、アッシニア下落し穀物価格上昇した。春に各地で領主に対する暴動が起き、領主の城が焼かれ掠奪された。03月30日にジロンド派の提案で亡命<貴族財産を差し押さえ、これを国民に対する賠償に用いることが決定された。この時期に領主権の無償廃止が政争の焦点となった。領主権の無償廃止をジロンド派も含めたジャコバン派議員が提案し、フイヤン派が抵抗した。03月24日に立法議会は、奴隷制は存続するが、植民地でのムラートや黒人も含む全ての自由人の平等を決議した。
ジロンド派は過剰に好戦的な愛国主義と、ヨーロッパの諸君主に対する攻撃的な革命十字軍(革命の輸出)の発想を思い起こさせた。革命戦争の勃発は情勢を悪化させた。ジロンド派内閣はオーストリア大公国との戦争の立法議会の賛成を取り付け、04月20日にオーストリア大公国とプロイセン王国に宣戦布告した(フランス革命戦争)。しかし、国境に展開したフランス軍は依然として将校は貴族で、革命前の階級制度が維持されていた。貴族将校や貴族の将軍は革命政府を嫌悪して戦争をやる気が無かった。兵士たちの規律も緩み、敵前逃亡したり、革命に事寄せて上官を殺害するといった行為に及んだ。国王と王妃も敗戦を望み、フランス軍の作戦計画は国王と王妃を通してオーストリアに内通されていた。フランス軍は各地で敗走し、敵国軍はあまり困難なくフランスに侵入した。05月18日に北部方面軍司令官ラ・ファイエット侯は、攻撃不能を宣言し、国王に和平交渉を勧告した。06月、ラ・ファイエット侯は行政の無秩序とジロンド派の陰謀を非難した。こうした事態から、戦争に勝つためには新しい愛国心を持ったフランス人による軍隊を組織しなければならないことが痛感された。立法議会では領主権の無償廃止を阻止したいフイヤン派が復権し、国王はジロンド内閣を06月13日に罷免した。シャルル・フランソワ・デュ・ペリエ・デュ・ムリエ (Charles François du Perrier du Mouriez)が国防大臣を辞任する際、宣誓忌避僧に対する法案に拒否権を行使し続けるルイ16世に対し、「僧たちは虐殺されるでしょう。そしてあなたも…」と語ったが、これに対してルイ16世は「私は死を待っているのだ。さようなら。幸せでいるように。」と述べた。06月15日に第2次フイヤン派内閣が成立した。06月16日、ラ・ファイエット侯はジャコバン派を攻撃した。そして、06月27日に前線からパリに帰還しーデタを企てたが失敗に終わった。彼を嫌っていたマリー・アントワネットが、パリ市長2代パリ市長ジェローム・ペティヨン・ド・ヴィユヌーヴに通報し発覚したとされる。ラ・ファイエット侯は軍を率いてパリへ進撃し、フイヤン派の独裁政権を作る計画を立てていたので,積極的に敵国軍と戦闘をしなかった。
そうした中で06月20日にサン・キュロットの示威行動事件が起きた。武装したサン・キュロット民兵が国王の住居たるテュイルリー宮殿の中まで踏み込んできた。この事件は、拒否権を乱発する国王への圧力として、2代パリ市長ジェローム・ペティヨン・ド・ヴィユヌーヴは議会が戒厳令を布告するのを妨害し、ジロンド派が黙認した。武装蜂起がすぐに起きてもおかしくない危険な状況であることを示していた。06月20日事件で群衆に詰め寄られたルイ16世は 「拒否権氏」と野次られた。群集がテュイルリー宮殿に押し寄せた際、その指導者が王に誠意ある態度を求め、幾人かが槍をルイ16世に向け振り回した。ルイ16世は侮辱を受け、赤いフリジア帽を被らされた。喧騒の中、ルイ16世は「余は憲法と法令が、余に命じていることをしているに過ぎない。」と冷静に述べて威厳を示し、拒否権は放棄せずに、民衆と共に乾杯して頑として譲歩を拒んだ。暴徒は市長ジェローム・ペティヨン・ド・ヴィユヌーヴの介入によってようやく解散したが、この事件は武装した暴徒が宮殿内の寝室まで踏み込んで来るという由々しき状況で、王太子らと共に議会議場に避難を強いられたマリー・アントワネットは大変怯えて、オーストリア大公国の駐仏大使メルシー・アルジェントー伯フロリモン・クロードに手紙を書き、彼を介して、ブラウンシュヴァイク・リューネブルクュヴァイク公カール(2世)・ヴィルヘルム・フェルディナントに同盟軍が何らかの声明を発してジャコバン派を脅迫し、恐怖に震え上がらせてやるように懇願した。王政の廃止を最初に口にしたのはジロンド派であったが、すでに事態は彼らの予想を上回る速度で展開を始めていた。07月06日にルイ16世は、国境にプロイセン軍が迫っていることを議会に報告した。「叛乱者が公然と王制の転覆を計画する。」という逼迫した情勢への危機感は、07月10日、フイヤン派を総辞職に至らせた。無所属中道の中央派(後に、議場の中央の低い所に集まっていたので平原派(仏語: La Plaine、プレーヌ派)または沼沢派(仏語: Le Marais))と呼ばれた。)議員は革命フランスを敵国から守る意思を持っている者が多かったので、07月10日フイヤン派の大臣は辞職に追い込まれ、立法議会は「祖国は危機にあり!」という宣言を出した。
フランス革命戦争に加え、フランスのカリブ諸島の植民地、サン・ドマング(Saint-Domingue)でハイチ革命{西暦1791年〜1804年)が起きたために、出荷が止まって商品不足から短期間で価格が急騰し、それにつられて他の非植民地生産物の物価も上がり始めた。怒った民衆は、(民衆による)商品の価格設定を求めるようになり、最高価格令の要求はこの時期から興った。この時点ではイギリスとは交戦状態にはなく、海上封鎖は行われていない。経済危機(アッシニア暴落と砂糖の値段の高騰)の影響は市民の生活を直撃した。パリのサン・キュロットたちは生活改善を求めて再び結集した。この流れはすでに左翼的イデオロギーを伴っており、生活に直結する切実な要求は次第に濁流のごとく強く激しくなった。運動を支える受動的市民は選挙権を持っていなかったので、彼らの政治的主張は、武装して行進するといったより直接的な示威行動となって表れたが、能動的市民の中にもこれに同調する者が現れ、彼らの指導層となった。サン・タントワーヌ城外区のビール醸造業者のアントワーヌ・ジョゼフ・サンテール(Antoine Joseph Santerre)などはその典型で、このような者がそれぞれの地区の民兵を組織し、革命の暴力として顕在化した。急進化する彼らの要求に政治家たちは後追いするばかりだったが、共和政樹立の要求は日に日に高まっていった。
立憲君主制を守る最後の試みは、軍司令官に復帰したラ・ファイエット侯に託された。彼は駐仏オーストリア大使、メルシー・アルジェントー伯フロリモン・クロードを通じて、ジャコバン派を解散させるために「軍隊を率いてパリへ進軍する用意がある」のでオーストリア大公国に軍事行動の停止を求めたことがあり、さらにコンピエーニュへの脱出を国王に勧めた。ここで彼は軍隊と待つ予定であったが、国王の再度の脱出は07月12日から15日に延期されて、結局は中止になった。これらのオーストリア大公国との共謀疑惑を「オーストリア委員会」とジャコバン派は呼んだ。この架空の「委員会」が織りなす陰謀にはマリー・アントワネットらも関与していることになっていたが、実際にはそれぞればらばらの活動をジャコバン派が結びついて考えていただけで、ラ・ファイエット侯やフイヤン派の活動は、マリー・アントワネットやオーストリア大公国当局の不信で拒絶され、お互いに足を引っ張っていた。しかしフイヤン派の処刑の多くはこれら共謀罪を理由とした。ルイ16世はヴァレンヌ事件の失敗を思い出して、信頼する外国人傭兵、ガルド・スイス部隊の保護下から出る気がしなかった。またマリー・アントワネットは諸君主国の同盟軍が声明を出して威圧するように求め、07月25日、同盟軍司令官ブラウンシュヴァイク公は「パリ市民が国王ルイ16世に少しでも危害を加えればパリ市の全面破壊も辞さない。」という内容の「ブラウンシュヴァイクの宣言」を出したが、これは完全に逆効果となった。この宣言は07月28日頃にパリに届き、08月01日までの間に市民のあらゆる階層を激怒させた。フランス王国の国王は敵国の司令官に守られる存在であることが明らかになり、「祖国を救うには王政を打倒しなければならない。」という認識が広まった。すでに高まっていた不満が一気に爆発して後戻りできないところまできて、パリ市48地区のうちで47地区が国王廃位に賛成の署名をするに至った。これら一連の動きが08月10日事件の民衆蜂起が起こる直接の引き金となった。
フランス革命の特徴に「蜂起は存在しない脅威に対する自己防衛の行為」がある。08月10日事件は、誰かが終始一貫して計画を立てたわけではなく、07月末の最終週からパリで異常な高まりを見せた示威行動が爆発した。議会の立憲君主派と宮廷の王党派に対して、民衆は「立ち上がらなければ踏み潰される。」と思った。ジロンド派は蜂起も王権の失効も望まなかったので、何とか抑えようと努力はしたが、08月になると「王制打倒こそが唯一の解決策である。」という見解にパリ全体が切り替わった。ヘッセン・カッセル方伯ヴィルヘルム9世がアシュケナジーム猶太のマイアー・アムシェル・ロートシルトらロスチャイルドを使った工作に見える。数多くの状況証拠の1つとして、プロイセン王国・オーストリア大公国同盟軍司令官ブラウンシュヴァイク・リューネブルクュヴァイク公カール(2世)・ヴィルヘルム・フェルディナントは、ヘッセン・カッセル方伯の影響下のフリーメイソンで「国民グランドロッジ」のグランドマスターである。西暦1792年06月24日に、ヘッセン・カッセル方伯領はプロイセン王国とオーストリア大公国(ハプスブルク帝国)との同盟を理由にフランス革命戦争に参戦している。
フランスの危機に応えて義勇兵がパリに到着し、彼らは「連盟兵」と呼ばれた。武装蜂起を計画していたパリの諸地区は王権の停止を立法議会に請願していたが、「議会主義の枠内ではどうにもならない。」と判断した。まず行動を起こしたのはパリであった。諸地区は常設の区会を設け、それぞれ連係するために「中央委員会」を組織した。07月11日、これに続いたのはマクシミリアン・ロベスピエールで、彼はジャコバンクラブで演説して、連盟兵に参加を呼びかけた。連盟兵たちは07月14日の第3回全国連盟祭のために全国から集まってきていたものだが、国家の危機を救う任務が与えられ、むしろ奮起した。07月13日、ジョルジュ・ジャック・ダントン(Georges Jacques Danton)の提案で祝祭の後も連盟兵はパリに留まることが決まった。07月25日、マクシミリアン・ロベスピエールはより大胆な主張を展開し、立法議会の即時解散を要求して、これに代わって憲法改正をすべき新しい議会「国民公会」の招集主張し、王政のみならず議会をも葬る必要性を説き、「ブルジョワ階級にのみ立脚する議会は人民を代表していない。」との論拠を示した。これは真実であったから、ジロンド派は有効な反論ができなかった。彼らはマクシミリアン・ロベスピエールが群衆を自重させることを願ったが不可能だった。
07月26日夜、モントルイユ地区を行進した連盟兵によって「武器を取れ!」の呼びかけが行われた。07月29日、マルセイユから連盟兵が到着すると、早速、彼らの許には自発的に代表が派遣され、「『王と呼ばれる男』と悪党どもを『王宮から追い出す』ことで問題は解決する。」と説明して支持を得た。翌30日、いくつかの区会は、受動的市民が国民衛兵隊に参加するのを認めた。従来、国民衛兵隊に参加できたのは、銃や軍服などを自費で調達できる能動的市民に限られていた、槍で武装するように指示したので、運動は一層促進された。08月06日にはシャン・ド・マルスで市民と連盟兵の大集会が行われ、ここでは改めてルイ16世の廃位が要求された。パリの諸地区の先頭に立っていたサン・タントワーヌ城外区の区会は、「09日までに国王の失権または王権の停止を議会が決議しなければ、パリの諸地区は武器を持って立ち上がる。」との警告を発した。攻撃の噂はそれ以前にも絶えなかったが、これが実際の最後通牒となった。
08月09日の夜、警鐘が鳴らされた。48地区の委員が集まって市庁舎に蜂起自治市会が組織された。蜂起のために国民衛兵から民衆部隊を徴募して2万人の連盟兵が組織された。これは自治市会の総会に代わる革命的組織であり、無制限の権限が与えられたパリの独裁の最初だった。彼らは市庁舎を乗っ取ることにした。合法的な市役所の活動を停止し、市長ジェローム・ペティヨン・ド・ヴィルヌーヴは宮殿で国王と会談していたが、議会に呼び出され、自宅に監禁された。国民衛兵隊総司令官グランシー侯アントワーヌ・ジャン・ガリオ・マンダ(Antoine Galiot Mandat de Grancey) は、マンダ侯爵として知られる由緒ある貴族で熱心な王党派だった。彼は協力を拒み、市庁舎に召還されて尋問を受けた後で、監獄に送られる代わりに翌朝、グレーヴ広場で銃殺された。国民衛兵隊は任を解かれ、パリのセーヌ川に架かるポンヌフ橋の封鎖は撤去された。暫定的なパリ国民衛兵隊総司令官に過激な革命主義者、アントワーヌ・ジョゼフ・サンテールが選ばれた。08月09日の夜にルイ16世のいるテュイルリー宮殿を再び包囲した。マリー・テレーズの教育係ド・スシー夫人は予てからマリー・アントワネットより身の安全を守るよう命じられていたとおり、エルネスティーヌを連れてテュイルリー宮を逃れた。
宮殿の警備にはルイ16世に個人的忠誠を誓った950人のスイス人傭兵が残っていただけであった。かつて立憲近衛隊が受け持っていたが、これは05月29日に解散を命じられた。これに対して領主権の無償廃止に反対する貴族階級が、党派を超えて王制を守る決意を持って宮殿に集合した。議会の決定に不服だった指揮官の8代ブリサック公、コッセ・ブリサック公ルイ・エルキュール・ティモレオン(Louis Hercule Timoléon de Cossé-Brissac)らを含む元立憲近衛隊は解散後も留まって守備に就いた。この中に元立憲近衛士官アンリ・ド・ラ・ロシュジャクラン(Henri de la Rochejacquelein)とオーティシャン伯シャルル・マリー・オーギュスト・ジョゼフ・ド・ボーモン(Charles Marie Auguste Joseph de Beaumont, comte d'Autichamp)、同じく帝政期に元帥となった元立憲近衛兵ジャン・バティスト・ベシエール(Jean-Baptiste Bessières)が含まれた。ベシェールの友人のナポレオン・ボナパルトの妹マリア・アヌンツイアッタ・ボナパルトと結婚してナポリ王となったジョアシャン・ボナパルト・ミュラ(Joachim Murat)も立憲近衛隊の一員だったが、彼は共和派であったので勧誘されなかった。主に貴族子弟が人伝の勧誘によって集められた。ラ・ロシュジャクランの友人レスキュール侯ルイ・マリー(Louis-Marie de Salgues, marquis de Lescure)、さらに海軍士官フランソワ・アタナス・シャレット・ド・ラ・コントリ(François-Athanase Charette de la Contrie)ら、後にヴァンデの叛乱で指揮官となった仲間もいた。彼ら地方から出てきた王党派支持者の若者が合流し、200〜300人の通称「聖ルイ騎士団」と呼ばれた大隊となった。それにパリから富裕者の多く住む、王党派支持地区のフィユ・サン・トマ地区とプチペール地区、ビュテ・デ・ムーラン地区から選抜された国民衛兵隊2000人が馳せ参じ、国王のために集まっていた。
08月10日朝、連盟兵とさらにはそれに付き従う民衆の総勢2万は下らない大集団は、テュイルリー宮殿へ向かった。宮殿はパリのど真ん中にある。銃は1万挺ほどしかなく、残りは槍などで武装していた。血気に逸った連中が今にも攻撃を始めようと、王門の扉や冊を叩いていた。これらの中に革命的女性の如き過激分子も含まれていた。
ルイ16世はどうすべきか決心がつかなかった。年老いた元帥マイイ伯オーギュスタン(Augustin, comte de Mailly)は「アンリ4世の子孫のために勝ち抜くか、さもなくば死を誓う。」と跪いて言った。「万事休す。」と思ったパリ県の監察官(Procureur de la commune、国王の代理となる地方行政長で知事、検察官も務める役職)のピエール・ルイ・レドレール(Pierre Louis Roederer 、元は高等法院判事で立憲議員、後にはテルミドール派となる。)は、「立法議会に国王が逃げ込む以外に方法はない。」と説得を始めた。マリー・アントワネットは反対した。彼女は王と王妃を引き離す陰謀があることを知っていた。立憲君主派にとって最大の障害は、迫り来る群衆ではなく、王妃であった。しかしルイ16世は家族全員で一緒に避難することを望んだ。これは恐らくは政治的な判断ではなかった。王妃は側近のランバル公爵夫人(ランバル公妃マリー・テレーズ・ルイーズ・ド・サヴォワ・カリニャ(Marie-Thérèse-Louise de Savoie-Carignan, Princesse de Lamballe)とトゥルゼール公爵夫人(Louise-Élisabeth de Croÿ de Tourzel)も連れて行くように主張した。残されることになった他の貴婦人たちは絶望して震え上がった。しかし王妃は「暴徒の群れに負ける筈がない。」と思っていたようで「戻ってくる。」と言い残して去っていった。議会とは庭園で隔てられているだけで、そう遠くではなかった。
国王一家が宮殿を去ると少なからず動揺が走った。「市民同士で殺し合いたくない。」と思った守備側の国民衛兵隊は次々と脱走して蜂起側の方に寝返ったり、群衆と歓談して敵意のないことを示そうとした。このとき彼らは全ての大砲をも引き渡した。流血は回避されるかと思われた。しかし王党派の貴族の一部は死ぬまで戦う覚悟であり、「この期に議会をも制圧しよう。」と考えた。08月10日事件は貴族階級の命運を分けた死闘になった。彼らは王門を門番に開かせ、群衆をカルーゼル広場に敢えて招き入れた。広場は建造物に囲まれ、十字砲火で包囲殲滅するのには好都合だった。午前08時、2000〜3000人の群衆がカルーゼル広場からさらに中庭まで無秩序に入って来た。スイス人傭兵らはあくまでも命令に忠実たらんとし、宮殿の外階段に不動の隊列を敷いて待ち構え、群衆の嘲笑や罵声にもピクリともしなかった。どのような切っ掛けかは諸説あるが、号令とともにスイス人傭兵は一斉射撃を数度行い、怯んだ群衆を一気に突撃で崩した。建物の2階や屋上からも銃撃が加えられた。最初に入ってきた連中は全く戦い方を知らなかったので、包囲されて恐慌を起こして潰走した。バスティーユ襲撃のときと同じく「裏切りだ!」という声が上がった。群衆は蜘蛛の子を散らすように居なくなったので、守備側は「勝った。」と思った。王党派は次は議会の国王の元に向かう積りだった。「今なら議会を武力で解散させることができる。」と思われた。しかしそのような具体的な命令を受けていなかったので、士官が派遣されて国王の指示を直接仰ぐことになった。この間に蜂起側の第2波が接近していた。今度は、王門からではなく、ルーヴル宮殿や庭園にあるセーヌ川側の複数の入口、小門から侵入した。彼らの先頭に立ったマルセイユ連盟兵は従軍経験のある古参兵ばかりだった。サン・タントワーヌの熱烈な共和主義者達がその後に続いて、大砲を牽いていた。スイス人傭兵は突撃後の散開状態で、カルーゼル広場で突然砲撃を受けたため、中庭に退却した。マルセイユ連盟兵らは突撃を開始し、さらに後続のサン・キュロット群衆が広場を埋め尽くした。中庭ではスイス人傭兵は横隊を組んで再び激しく防戦した。連盟兵にも大きな犠牲が出たが、あらゆる方向から侵入する群衆にスイス人傭兵は抗しきれなくなり、そこに4ポンド砲での近距離射撃と擲弾を受けた。たまらず宮殿内に退き、そこからは大混乱になった。武装蜂起の側は貴族軍人を虐殺しながら宮殿を占領していった。スイス人傭兵は、国王に士官を派遣してどこまで徹底抗戦すべきか伺いを立てた。ルイ16世は宮殿が制圧され、全ての望みが無くなった後で、午前10時、発砲の停止を命令した。しかしこれでは哀れなスイス人たちを虐殺から救うことはできなかった。600人が殺され、うち60人は降伏した後の虐殺であった。残りのほとんども捕虜となり監獄に放り込まれた後に殺害された。一方で、聖ルイ騎士団の貴族子弟たちはルーヴルの別の回廊からほとんど全員が脱出した。
宮殿では勝ち誇った群衆が手当たり次第に家具や絵画などを壊していたが、蛮行を見かねた舞台監督サンジエは、機転を利かせて、すでに有名になっていた「ラ・マルセイエーズ」を弾いて、怒り狂った人々の心を宴会ムードに変えた。彼らは一晩中、歌い踊り明かした。残された貴婦人たちは散々罵られて脅かされ、怖い目にあったが、暴力的被害は受けることなく解放された。彼女たちに最も辛く当たったのは十月行進の時と同じく、同性の革命的女性であった。蜂起側は約90人の連盟兵、300人の地区義勇兵が死傷した。この中には3人の女性の死者が含まれていた。他方、ブレスト連盟兵は、赤い軍服だったので、スイス人傭兵と誤認されて少なからず味方から撃たれた。蜂起側の死傷者は、当局が補償金を出し惜しんで、できるだけ少なく数えられた。死傷者は390〜500人。
戦闘が終わると群衆が議会を囲み、王権の停止と普通選挙による国民公会の招集が要求され、立法議会はその圧力に屈した。立法議会は戦況が不確実の間は態度を明らかにしなかったが、蜂起側の勝利が明らかになると、王権の停止を宣言し、マクシミリアン・ロベスピエールの案に従って国民公会の招集を決議した。このフランス第2革命で政界の情勢も一変した。ブルボン王政はついに終わりを告げた。同時に自由主義ブルジョワジーの政治も終焉した。
王党派はもはやパリでは存在を許されず、フイヤン派は完全に失脚した。08月10日で敗北した者は、フイヤン派のブルジョアジーと自由主義貴族、合流した地方貴族だった。彼らは旧体制に対する寄生性が強く特権的な立場にあり、領主でもあった。
08月14日、事件を聞いたラ・ファイエット侯は、軍隊をパリに向けて進軍させようと試みた。しかし兵士達から見限られ、08月19日に身の危険を感じてラメット伯アレクサンドルら同志と共にオーストリア領ネーデルラント(ベルギー)に逃亡し、オーストリア軍の捕虜となった。「ラ・マルセイエーズ」の産みの親の1人である、ストラスブール(シュトラスブルク)市長フィリップ・フレデリク・ド・ディートリヒ男爵(Philippe-Frédéric de Dietrich)も同様の君主制擁護の蜂起を行ったが、失敗して亡命した。
ジロンド派は穏健共和主義者の集まりであったが、蜂起によって彼らの希望する政体であった共和政が樹立されることになったにも拘わらず、大衆の支持を失った。逆にジャコバン派の中から、擡頭する左派勢力、後に国民公会で恐怖政治で次々と政敵を断頭台に送った、最も急進的な山岳派(仏語: Montagnards、モンターニュ派)と呼ばれる勢力が支持を集めるようになった。新しい議会は普通選挙に基づき、パリの労働者階級サン・キュロットの共和国が誕生することになった。その後08月10日事件で王権が停止され、08月13日、国王一家はテュイルリー宮からタンプル塔(Tour du Temple)に幽閉された。 タンプル塔は、現在のパリ3区にあった修道院で複数の建造物で構成されるが、一際目立つ大塔があったために「塔」と表現される。フランス革命以後は、監獄として使用された。タンプル塔では、壁紙とベッドカバーなどは当時の流行であったインド更紗に変更し、少々改修された。外が見えないよう、全ての窓は厚い布で覆われた。タンプル塔では、幽閉生活とはいえ、家族でチェスを楽しんだり、楽器を演奏したり、子供の勉強を見たりするなど、束の間の家族団欒の時間があった。10皿以上の夕食、30人のお針子を雇うなど待遇は決して悪くなかった。この時ルイ・シャルルは6歳だった。タルイ・シャルルはンプル塔では最初は小塔に幽閉されたが、10月27日に大塔に移された。小塔ではマリー・アントワネット、マリー・テレーズ、エリザベート王女(ルイ16世の妹)と一緒だったが、大塔では3人と引き離され、代わりにルイ16世と一緒になった(ただし、毎日数時間は母たちと会えた)。
山岳派(モンタニャール派)は最も急進的な党派であり、元々は党員が立法議会の最も高い位置の議席に座ったことでその名が付けられた。ジャコバンクラブから、後にマクシミリアン・ロベスピエールらを中心とする国民公会における左翼勢力となり、ジロンド派追放後は公安委員会を柱とする恐怖政治を行い、独裁的権力を掌握したが、分派の対立やマクシミリアン・ロベスピエールの失脚によって解体、衰退した。
08月15日、マクシミリアン・ロベスピエールは王党派と全ての反革命分子を裁く特別重罪裁判所(後に革命裁判所に改組)を設置するように提案しパリ市民公会の承認を取り付けた。「特別裁判所が設置されれば反革命派は法に基づいて処罰でき、無規律な民衆暴力は回避できる。」と考えた。民衆による超法規的な私刑に賛同できなかったためだが、この提案はパリの急進派の影響力を強めていくことに繋がるため、穏健共和派のジロンド主義者とマクシミリアン・ロベスピエールの関係を決定的に悪化させていく。ロラン夫人(Madame Roland、筆名: マノン・ロラン、ジャンヌ・マリー・フィリポン・ロラン、ラ・プラティエール子爵夫人(Jeanne-Marie Phlipon-Roland, vicomtesse de La Platière))は「私たちは、ロベスピエールやマラーのナイフに身を曝しているのです」と支持者への手紙で語った。08月23日からギロチンの使用が始まっていた。穏健派はパリの人民に影響力を持つジャン・ポール・マラーやマクシミリアン・ロベスピエールによって訴えられ粛清されることを恐れ始めていた。
他方、事件の血の名残りはしばらくパリに残り、都市は興奮状態を維持した。襲撃者たちの多くはそのまま動員登録が行われて前線に出征していったが、残された者は熱狂的な革命熱を持て余した。その後の戦況の悪化と「外敵がパリの城門まで迫っている。」という誤った情報を受けて再び暴走し、九月虐殺を引き起こすこととなった。
08月10日の事件で国民公会が招集されジロンド派政権が再び成立した(第2次ジロンド派政権)。この政権は上層ブルジョアジーの党派だが、旧体制の特権に関わり合いを持つことが少なかった者達の政権だった。彼らは領主権の無償廃止に積極的だった。ジロンド派はジロンド派の2倍の勢力があった平原派(プレーヌ派)と呼ばれる国民公会の上層ブルジョアジーの中間層と連合して政権運営をした。フイヤン派の打倒によりこの政権が封建領主権の無償廃止を実現した。この結果、領主の直轄地はそのまま旧領主の所有地として残り、新時代の貴族の大土地所有地として残り、大・中・小の保有地は領主権から解放されて近代的所有地となり、それぞれ大・中・小の土地所有者となった。元々土地を保有していなかった農民には土地は与えられなかった。パリ自治市会(パリ・コミューン)の第2助役のジョルジュ・ジャック・ダントンが、急進派の山岳派で唯一ジロンド派の内閣に司法大臣として起用された。
立法議会は08月10日の事件で群衆の圧力に屈したので信用と権力を弱めた。その隙間を縫って議会と対立しつつ、パリ自治市会がパリ市を治める権力機関になった。前身はパリ選挙人会議でフイヤン派で固められていたが、08月10日以後はパリのそれぞれの区の代表と自称する者が議場に侵入し、前議員を追放し「革命的自治市会」、「蜂起自治市会」と称するようになった。08月11日、立法議会がパリ自治市会の圧力によりフランス国内全土の反革命容疑者の逮捕を許可し、08月17日にはこれらの犯罪者たちを裁く「特別刑事裁判所」の設置を承認した。こうしてパリの牢獄は反革命主義と看做された囚人で満員になった。08月26日にロンウィがプロイセン軍により攻略され、パリ侵攻への危機感が一挙に高まった。義勇兵の募集が行われたが、その一方で「牢獄に収監されている反革命主義者たちが義勇兵の出兵後にパリに残った彼らの家族を虐殺する。」という噂も流れていた。プロイセン軍がパリに迫ると、義勇兵の募集、戦略物資の調達、反革命容疑者の捜査と逮捕、前線への派遣委員の任命などを行った。「国王派の亡命者と外国軍とが、革命の粉砕と市民の虐殺を狙っている。内部から呼応しかねない反革命容疑者を捕らえよ。」こうして08月30日、パリ市内で家宅捜索が行われ、約3千人の容疑者が投獄された。しかし、特別重罪裁判所は機能していなかった。
09月02日、フランス革命戦争でオーストリア軍がヴェルダン要塞を陥落させ、その敗報がパリに衝撃を齎した際に行われたジョルジュ・ジャック・ダントンの演説(通称:剛胆演説)で国民を鼓舞した。「全ては興奮し、全ては動顚し、全ては摑みかからんばかりだ。やがて打ち鳴らされる鐘は警戒の知らせではない。それは祖国の敵への攻撃なのだ。敵に打ち勝つためには、剛胆さ、一層の剛胆さ、常に剛胆さが必要なのだ。そうすればフランスは救われるだろう!」これがテロリズムへの公然たる誘導となった。08月末より続いた民衆の恐慌はこの敗退により怒りに変え、九月虐殺を引き起こした。 主務大臣であったジョルジュ・ジャック・ダントンは九月虐殺を防げなかった。
パリ自治市会は「出撃する前に逮捕されている反革命容疑者を処刑するべきである。」という意見が優勢になり、09月02日の朝から反革命派狩りが始まり、パリ自治市会監視委員会は全ての囚人を人民の名において裁判することを命じた。扇動された義勇兵とパリ市民は牢獄に押しかけて即席裁判で容疑者を殺害して回った(九月虐殺(仏語: Massacres de Septembre))。パリ自治市会は防衛を固め、警鐘が乱打され、市門は閉じられた。義勇軍の編成が始まった。数日前から、「殺し屋」が集められていた。三色の記章をつけた赤い帽子をかぶり、緋色の上着を着た彼らは忠実に任務を果たした。「外国軍と示し合わせるために、牢屋の中で陰謀が企まれている。『反革命の陰謀』だ。やられる前に、やれ。」こうして、その日の午後から、民衆による牢獄の襲撃が始まった。牢獄は次々と襲われ、囚人は手当たり次第に引きずり出された。問答無用の殺害、あるいは略式裁判の真似事の後、虐殺した。一連の虐殺行為は監獄内の「人民法廷」での即決裁判の結果を受けて有罪の判決が下された囚人は殺害し、それ以外の者は無罪放免するという極端な形で行なわれた。
当時アベイ牢獄とカルム牢獄、その他の牢獄には反革命的とされた聖職者が収容されていた。聖職者民事基本法への宣誓を拒否して囚われていた聖職者たちもいたが、政治に関係したと考えられる者は多くなかった。興奮した民衆の一群がまずアベイ牢獄に押しかけて収容されていた23人の聖職者を虐殺し、次いでカルム牢獄に赴き、150人の聖職者の大部分を虐殺した。
虐殺は数日間続いた。マリー・アントワネットと運命を共にするため帰国し、逮捕されていたランバル公爵夫人(ランバル公妃)も、無残に殺された。群集は彼女の遺骸から衣装を剥ぎ取り、身体を切断し、踏みにじった。ある一団は、その頭を槍の先に刺してタンプル塔前で王妃マリー・アントワネットに見せつけるという蛮行を行った。
この結果パリ市内の牢獄は空になった。数日間吹き荒れた暴力で犠牲になった者は、推計1100〜1400人。後になって、犠牲者の4分の3はありふれた通常の犯罪者だったことが判明し、犠牲者のうち反革命主義の政治犯は全体の4分の1に過ぎなかった。同虐殺が、前後して各地の都市でも起こり犠牲者の総計は150人に上った。
テュイルリー宮殿に戻ったランバル公妃は、王妃マリーアントワネットの支持者を糾合し、家政機関の構成員の忠誠心を調査し、亡命貴族たちに王妃のために帰国するよう求める手紙を送る、総監としての職務を再開した。
その中には、西暦1792年に妻のヴィクトワールとともにランバル公妃の宮殿内のアパルトマンで王妃に謁見し、「亡命貴族の群れに加わるよりも国内に残って王室のために助力せよ。」と王妃から説得され、国内で反革命活動を推進することを誓ったレスキュール侯ルイ・マリー・ド・サルグ(Louis-Marie de Salgues, marquis de Lescure)もいた。ランバル公妃はパリ市長ペティヨンの憎悪の標的となり、「宮殿のランバル公妃のアパルトマンで開かれる王妃臨席の夕食会の正体は、反革命勢力のフランスへの侵攻、第2のサン・バルテルミの虐殺、革命の破壊を目論む『オーストリア委員会』の会合である。」という風説をばら撒かれることに繋がった。
06月20日デモの際には、ランバル公妃は宮殿で乱暴狼藉を働く群衆に怯える王妃の側にいた。王妃マリー・アントワネットは初め「王のお側にいます。」と主張したが、ランバル公妃は「いいえ、駄目です、マダム、陛下はお子様方と一緒にいるべきです。」と注進し、王妃はその場に留まった。王妃を群衆から守るため王妃の前にテーブルが置かれた。王妃を口汚く罵る群衆が通り過ぎるまで、ランバル公妃と他の女官・侍女たち、数人の貴族男性たちは、王妃と王子女を取り囲んで守らねばならなかった。証言者によると、病弱なランバル公妃は王妃の肘掛け椅子に寄り掛かりながら、一連の出来事の間立ち続けて諸事に対応した。「ランバル公爵位夫人偉大な勇敢さを示した。王妃の椅子に寄り掛かりながら長時間の修羅場の間ずっと立ち続け、自分のことは全く考えず、ただ目の前の不幸なプリンセス(王妃)のことで頭がいっぱいのようだった。」
ランバル公妃は、08月10日事件が発生しテュイルリー宮殿が民衆に襲撃されると、国王一家及び王家のガヴァネス(英語: governess、独語: Gouvernante、仏語: gouvernantes:グーヴェルナント、個人の家庭内で子供たちを教育し、訓練するために雇われる女性、 女家庭教師)であるトゥールゼル侯爵夫人ルイーズ・フェリシテ・ジョセフィーヌ・ド・クロイダヴレ(Marquise de Tourzel, Louise-Félicité-Joséphine de Croŷ d’Havré,)とともに立法議会の議場に避難した。ラ・ロシュフコー夫人(M. de la Rochefoucauld)は当時のことを次のように回想した。「私が(議場の)中庭に行くと、御一行の中で最も憔悴し怯え切ったランバル公妃が、私が腕を差し伸べられるくらいの所まで近づいて来られた。たランバル公妃は私に『もう城には戻れないわね、絶対に。』と言われた。」議場の書記官室での避難生活中、ランバル公妃は体調を崩してフイヤン修道院に移された。王妃マリー・アントワネットは彼女に戻ってこないよう求めたが、ランバル公妃は病状が快方に向かうとすぐに国王一家の許に戻った。そして議場からフイヤン修道院、タンプル塔へと身柄を移された国王一家に同行した。08月19日、ランバル公妃、トゥルゼル公爵夫人及びその末娘ポーリーヌ(Pauline de Tourzel)は国王一家と引き離されてラ・フォルス監獄へ移送された。彼女たちはそれぞれ監獄内で独房を与えられる待遇を受けた。「国王一家に最早家臣に取り囲まれて暮らすことを許さない。」とする政府の判断で行われた措置で、2人の男性従者と3人の女中も同時にタンプル塔から追放された。
翌月に九月虐殺が起きると、監獄が次々に群衆に襲撃され、囚人たちは急拵えの人民法廷に引きずり出され、即決裁判で処刑されていった。囚人たちは誰もが恐ろしいほどの数の質問を浴びせられ、生かされる者は「国民万歳!」の歓呼と共に解放されたが、殺される者は「修道院へ連行せよ。」、「連れていけ。」の言葉と共に監獄の中庭へ連れ出され、そこで待ち構える大勢の男女や子供からなる群衆の私刑で死を迎えた。監獄の刑吏たちはこの虐殺には反対しており、囚人たち、特に女性囚人には逃亡を容認していた。しかしランバル公妃は有名人だったために密かに逃げ出すことは不可能だった。
ラ・フォルス監獄の女囚約200人のうち、最終的に殺害されたのは2人だけだった。王室と主従関係にあった女性たち、トゥールゼル公爵夫人、マッコー夫人、ターラント夫人などの女官、王妃の2人の女召使、王太子の乳母、ランバル公妃自身の乳母、王の従者の妻は、いずれも逃亡できず、即席裁判に引き出されたが事なきを得た。王と王太子の男性従者2人ですら即席裁判を乗り切った。生き延びられなかったランバル公妃は唯一に近い例外だった。09月03日、ランバル公妃とトゥールゼル公爵夫人は、他の囚人たちと一緒に即席裁判を待つため中庭に引きずり出された。順番が来ると、ランバル公妃に、「自由と平等への愛を宣誓し王と王妃及び君主制への憎悪を表明せよ。」と要求された。彼女は前半部分には同意したが、後半部分の誓いを拒んだ。すると彼女の裁判は「連れていけ(emmenez madame)。」の言葉と共に終了となった。
実際の裁判では、次のような足早な言葉のやり取りが交わされていた、
「氏名は?」ー「マリー・テレーズ・ルイーズ、サヴォワ公女です。」
「職業は?」ー「王妃家政機関総監です。」
「08月10日に計画された宮廷の陰謀について知っていることは?」ー「08月10日にどんな陰謀があったのかは存じません。私はそれについて何も知らないということだけは言えます。」
「自由と平等、そして王と王妃への憎悪を誓え。」ー「前者については快く承知いたします。しかし後者は誓えません。心にもないことだからです。」
この時、裁判に同席した義父パンティエーヴル公ルイ・ジャン・マリー・ド・ブルボン(Louis Jean Marie de Bourbon, duc de Penthièvre)の家来が、生き延びるために便宜的に誓いを立てるよう囁き声で助言したが、それでもランバル公妃は加えて述べた。「これ以上何も言うことはありません。死が少し早く来ようが遅かろうが私には何の違いにもなりません。もう既に自分の人生を犠牲にしてしまっていますから。」ー「マダムを自由にせよ。」
ランバル公妃は殺害現場となった監獄中庭の出入口へ2人の警護役に先導されて歩いて行った。移動中、義父パンティエーヴル公の家来たちが引き続きランバル公妃に先程の宣誓を受け入れるよう説得したが、ランバル公妃にはその声が聞こえていないかのようだった。扉が開いて中庭に累々と重なる血塗れの死体の山を目にした時(「最終的に犠牲者は2人」で、どうして「累々と重なる血塗れの死体の山」を得にすることが出来るのか。脚色の虚飾が入っている。)、ランバル公妃は「何ておぞましい!」あるいは「殺される!」と叫び、中へ戻ろうとしたが、2人の警護役は彼女を中庭側へ押し返した。義父の家来たちは群衆の中から「お慈悲を!お慈悲を!」と叫んだが、周囲からの「パンティエーヴル公の下僕に扮した奴らに死を!」の叫び声が群衆の中から上がるとすぐに押し黙った。何年も経ってから裁判にかけられた殺害者の1人は、「その白いドレスを着た小柄なご婦人は、しばらくの間1人で呆然と立ち尽くしていた。」と証言した。ランバル公妃は槍を持った男からの最初の一撃で頭を殴られ、結った髪が肩に落ちかかったが、髪の中に隠していた王妃からの手紙が衆目に晒された。ランバル公妃は前頭部への2度目の殴打で出血し、その直後に彼女を取り囲んだ群衆からの刃物でのめった刺しを受けてすぐに絶命した。公妃の虐殺現場は、監獄の外の通りだったとする説もある。
ランバル公妃の死の描写には様々なものがあり、中には煽情的で猟奇的な誇大な内容のものもあったため、革命後も長い間政治的意図を持った宣伝として利用され続け、多くの潤色や誇張が加えられてきた。例えば一部の報告では、公妃は強姦された後胸を切り取られ、身体をバラバラに切り刻まれたとするものもある。しかし、公妃が性的な部位への身体切断や残虐行為を受けたとする証拠は何もなく、悪名高い公妃の殺害事件をさらに扇情的な物語に仕立てるための脚色と見られる。ランバル公妃の遺体の取り扱いに関する物語も、公妃の死の物語と同様に多くの相反する描写の存在があり錯綜している。
遺体は衣服を剥ぎ取られ、内臓を引き出され、頭部と胴体を切断され、頭部は槍の穂先に差し込まれた。槍に串刺しされたランバル公妃の首は殺害者たちの街頭行進の呼び物にされ、行進に参加した鬼畜は串刺しの首を掲げて「ラ・ランバル!ラ・ランバル!」と侮蔑的な呼称で犠牲者を呼びながら、首のない遺体をあちこちに引きずって回った。この描写は複数の目撃者が証言しているところから、事実と考えられる。証言者にはランバル公妃の遺髪の束を買い取り、彼女の義父パンティエーヴル公に手渡したラモット夫人(M. de Lamotte)という女性や、ロール・ジュノーの兄弟が含まれた。ある報告では、ランバル公妃の首はあるカフェに持ち込まれて飲食をしている客たちの面前に置かれ、客たちは殺害者たちから公妃の死を祝ってコーヒーを啜るよう強要された。別の報告では、首は理髪店に持ち込まれ、公妃の首級と分かりやすくするために美しくヘアメイクを施されたとされるが、この逸話は疑わしい。こうした気違いによる辱めを受けた後、首は再び槍の穂先に串刺しにされ、王妃マリー・アントワネットが幽閉されているタンプル塔へ行進した。外が見えないよう、全ての窓は厚い布で覆われたが、わざわざそれを王妃に見せるために布が取り除かれた。
王妃マリー・アントワネットとその家族は、殺害者の一行が首を見せようとした窓の位置する部屋には居らず、ランバル公妃の首を見ることはなかった。しかし看守の妻ティゾン夫人(Madame Tison)はこれを見て悲鳴を上げたため、群衆たちはタンプル塔から聞こえてきた女の悲鳴を王妃のものだと思い込んで満足した。当時広く出回っていた中傷では犠牲者の公妃と王妃はレズビアンの恋人同士という設定だったため、殺害者たちは王妃に公妃の首とキスをさせようと沸き立ったが、タンプル塔への生首の持ち込みは許可されなかった。群衆は「どうしてもマリー・アントワネットと生首を対面させるのだ。」と言ってタンプル塔への立ち入り許可を執拗に要求した。看守たちは群衆を説得して何とか塔への乱入を止めさせた。「王妃は旧友の生首を実際に目にすることは無かったが、何が起きているかについては悟らざるを得なかった。」と次のように描写した。「上の階では、役人たちが少なくとも鐙戸を閉じる礼儀を弁えていた。監視委員たちも窓に近づかないようといったが、王に何の騒ぎかと訊かれて、そのうちの1人が教えてしまった。『ムッシュー、どうしてもというなら教えますが、ランバル公妃の首を見せようとしているのです。』…むしろ幸いなことに、王妃は失神した。」
その後、ランバル公妃の頭部と胴体はパレ・ロワイヤルに屯する群衆たちの所へ引き渡された。パレ・ロワイヤルでは猶太のとヘッセン・カッセン方伯の犬畜生オルレアン公ルイ・フィリップ2世ジョゼフ(平等公)が妾の ビュフォン伯爵夫人アニェスと一緒に英国人たちを招待した晩餐会を開いていたが、オルレアン公は遺体を見て「おお、ランバル公妃の首だな。長い髪であの人だと分かるよ。さあ皆さん、夕飯にしよう。」と、ビュフォン夫人の方は「おお神様!私の首もいつかこんな風に盥回しにされるのかしら。」と、それぞれ述べた。
群衆たちはランバル公妃の胴体をオテル・ド・ランバルの玄関前に晒そうと息巻いていたが、義父パンティエーヴル公は、「テュイルリーやオテル・ド・ルーヴォワならまだしも、嫁はあの屋敷に一度も住んだことはないのに。」と皮肉交じりに嘆息した。パンティエーヴル公の家来たちはランバル公妃の遺体の回収を指示され、群衆に紛れて遺体の捜索を行った。ランバル公妃の頭部は、とある酒場に飾ってあったのを、家来シャルラ(Charlat)が店舗の出口に持ち出し、別の家来ポワンテル(Pointel)がカンズ・ヴァン病院近くの墓地に埋めた。胴体の取り扱いについては、見解が非常に錯綜している。政府の公式記録では、パリの各地区に住む5人の市民が、「胴体を公妃の死後すぐに当局に引き渡した。」となっている。これは、ランバル公妃の胴体は死後に晒されたり引きずり回されたりしたとする話と矛盾する。政府側の記録に依拠すれば、「ランバル公妃の遺体は首こそないものの、胴体は衣服を完全に着たまま台車に載せられ、平常通りの手続きで当局の許へ運ばれた。」ということが記載されており、これを信じれば、内臓の抉り出しなどの残虐行為の信憑性は低い。
ジロンド派内閣は責任回避のために事件への言及を避ける一方、事件発生の責任をマクシミリアン・ロベスピエールに転嫁しようとした。政府からの非難に対し、マクシミリアン・ロベスピエールは事件への関与を否定して治安責任者であるパリ市長ペティヨンと内務大臣ラ・プラティエール子爵ジャン・マリー・ロラン(Jean-Marie Roland, vicomte de La Platière)を非難して、事件発生に遺憾の意を表明した。
義勇兵は前線に向けて出発した。義勇兵は連盟兵と呼ばれフランス各地から集まってきた者で、自費か誰かの費用で武装していたブルジョアの子弟だった。貧しい階層はブルジョアの費用で武装した「ブルジョアの傭兵」だった。特にマルセイユ連盟兵は裕福な家庭の子弟だった。マルセイユ連盟兵は「ラ・マルセイエーズ」を歌いながら進軍し、後のフランス国歌になった。「ラ・マルセイエーズ」はフリーメイソンのクロード・ジョゼフ・ルジェ・ド・リール(Claude-Joseph Rouget de Lisle)大尉が西暦1792年04月25日1日で作詞作曲した。義勇兵の出撃と並行して軍需物資と食糧の強制徴発が立法議会によって行われ、義勇兵の装備が強化された。09月19日にメッス県からのフランソワ・クリストフ・ケレルマン(François Christophe Kellerman)の軍とスダン県からのデュ・ムリエの軍が合流し、フランス軍は5万人の兵力となった。対するプロイセン軍は3万4000人で、初めて兵力でフランス軍が優勢になった。09月20日悪天候の中、義勇兵とブラウンシュヴァイク公指揮のプロイセン軍は、アルゴンヌの丘のヴァルミーで会戦した(ヴァルミーの戦い)。
当時、軍隊は貴族の下で整然と組織されなければものの役に立たないと思われていた。しかし、戦闘が始まると義勇兵の士気の高さと覚悟の強さにジャン・バティスト・ヴァケット・ド・グリボーバル(Jean-Baptiste Vaquette de Gribeauval)の整備した砲兵隊の大砲の威力が功を奏し、プロイセン軍は突撃命令を出すことができなかった。プロイセン軍は砲撃戦だけで終わり、フランス軍の死者は300人。プロイセン軍の死者は200人を出しただけで後退した。新しい国民軍が従来の傭兵軍を破ったことが、近代国民国家が絶対君主制国家に勝った証として評価されることが多い。戦闘自体は極めて小規模で、この戦いの実態は戦いらしい戦いはなかった。小規模な戦闘が起き(というより小競り合い)、雨が降ったので戦いを止めただけで、プロイセン軍を後退させたといっても濡れた湿地帯では食事が出来ないために20q後方に移動しただけである。戦術的な意味ではそれほど重要な勝利ではなく、プロイセン軍の退却は戦術的後退に過ぎなかったものの、初めての勝利はフランス国民を沸き立たせた。09月22日、立法議会が王政廃止を宣言した。プロイセン軍は傷ついていなかったので征服地を押さえる積りで駐屯したが、赤痢の発生と、農民部隊による輸送部隊の襲撃で、危険を感じて撤退した。義勇軍は重大な戦闘なしにプロイセン軍を国境から追い出すことができた。09月〜10月にかけて義勇軍は、ドイツ領深く侵入して重要都市を破竹の勢いで占領した。10月の末にオーストリア軍とフランス革命軍の激戦が行われオーストリア軍に大打撃を与え、フランドル方面ではデュ・ムリエが ジェマップの戦い。(11月06日)で南ネーデルラント全域を占領した。アダム・フィリップ・ド・キュスティーヌ(Adam Philippe de Custine)はドイツへ侵攻しフランクフルトまで到達した。
マインツ選帝侯でもある大司教、フリードリヒ・カール・ヨーゼフ・フォン・エルタール(Friedrich Karl Joseph Reichsfreiherr von Erthal)は、西暦1789年のフランス革命と決定的に対立した。トリーア選帝侯クレメンス・ヴェンツェスラウス・フォン・ザクセン( Clemens Wenzeslaus August Hubertus Franz Xaver von Sachsen)と同じく、彼も革命の影響と恐怖によってフランスから逃れてきた亡命者を数多く受け入れた。これによってマインツはコブレンツと並び、ヨーロッパにおける反革命勢力の主要拠点の1つになっていた。西暦1792年04月20日にフランス革命戦争(第1次対仏大同盟戦争(西暦1792〜1797年))が勃発すると、マインツでは07月21日、亡命者が集会を開き、「マインツ宣言(Déclaration de Mayence)」を採択し、フランス国王一家に何らかの制約が加えられた場合、全力を挙げて革命勢力に反対することが決議され、もしそのような事態が発生したら、革命派への見せしめとなる行動を取ることとなった。そして国王が亡命に失敗し、ヴァレンヌで逮捕されると、マインツ選帝侯は対仏同盟に参加した。しかし、フランスへ侵攻する連合軍の試みはヴァルミーの砲撃戦で頓挫した。それどころか、アダム・フィリップ・ド・キュスティーヌ(Adam Philippe de Custine)中将は反攻の開始にも成功し、10月19日からわずか3日間のマインツ攻囲戦を経てマインツの占領に成功した。その後、マインツ共和国(西暦1792〜1793年)が成立した。マインツ選帝侯領と神聖ローマ帝国に取って、マインツの失陥は敗北の一段階のみならず、帝国とドイツにおける聖界諸侯領の終わりの始まりを告げるものとなった。
マインツはフランス革命の前から、ドイツ各地には啓蒙主義者のサークルがつくられ、活発に活動していた。すなわち、フリーメイソン、イルミナティ、読書協会、ドイツ・ユニオンなどである(黄金薔薇十字団も無視できない。)。後にドイツ・ジャコバンと呼ばれ、活躍することになる面々はほとんどがこれらの秘密結社に関係していた。彼らは、啓蒙思想の影響を受けて自由や平等を求め、仲間内での議論、出版や講義による啓蒙を行った。フランス軍の侵攻により、西暦1792年10月21日マインツはフランス制圧下となった。フリードリヒ・カール・ヨーゼフ・フォン・エルタール選帝侯ら主だった者たちは逃亡した。早くも10月23日、フランス軍指揮官キュスティーヌ将軍の下、選帝侯の城館においてマインツ・ジャコバンクラブが結成された。当初のメンバーはヴェーデキント、メッターニヒ、ホーフマンら20人で、フォルスターはまだ態度を保留していた。マインツ・ジャコバンクラブにおける主要な人物は、マインツ大学教授であるヴェーデキント、メッターニヒ、ホーフマン。キュスティーヌの秘書官でドイツ出身のベーマー。ストラスブール(シュトラスブルク)から送り込まれたやはりドイツ出身のドルシュ、コッタなどであるが、最も有名なフォルスターは、11月3日に加入した。11月末にはクラブの会員は500人に増えた。マインツでは、いわゆる専制的な記念碑が壊され、自由の木が植えられて、フランス軍兵士とジャコバンクラブ及びその動員した人々によって式典が行われた。そこではラ・マルセイエーズやサ・イラが盛んに演奏された。キュスティーヌはマインツ地域の行政を現地人に任せる方針を採り、ジャコバンクラブから人員が選出された。臨時行政府の代表はドルシュ、副代表はフォルスターとなった。ジャコバンクラブや政府の役職は極めて頻繁に変更された。クラブでは憲法草案や当地の基本方針が議論された。ジャコバン・クラブはマインツで、ジャコバン帽の描かれた赤の本、鎖のついた黒の本を並べて一種の踏み絵とし、成年している男性に対してどちらに署名するかを迫った。
フランスでの革命は第2段階に入っていた。一方、共和政の樹立で政権を取り戻したジロンド派だが、経済と戦況の悪化によって批判が高まった。窮した彼らは対立派閥に責任を転嫁しようと「山岳派(モンタニャール)の三位一体」と云われたやマクシミリアン・フランソワ・マリー・イジドール・ド・ロベスピエール、ジャン・ポール・マラー、ジョルジュ・ジャック・ダントンの3人を「三頭政治を目指す悪党」として激しく攻撃したが、逆に民衆の支持を大きく失って凋落していた。
08月27日、次の議会のための予選会(第1次選挙)が始まった。国民公会の総選挙に向けて、旧憲法が禁止していた帰化外国人にも門戸が開かれ、1年以上の居住条件を満たした21歳以上の成人男性を有権者と定めた普通選挙法が発効し、09月03日には選挙集会(第2次選挙)が始まった。しかし、投票は間接選挙であり、婦人と買収されやすいという理由で当時二級市民と考えられていた奉公人や召使いも除外され、選挙権も現代の普通選挙とは異なる幾つかの制限があった。パリの選挙は、08月10日事件の勝利者であるパリ市民公会(パリ・コミューン)が主導した。パリ市民公会は08月12日に王党派系新聞を全て発禁処分とし、08月17日には王党派支持者名簿なるものも公開して彼らに投票しないように仕向けて、あからさまに彼らの選挙運動を妨害した。他方で共和派系新聞は無料で配布された。貧民である日雇労働者は日給を失うのを嫌って投票所に行かず、職人など中産階級の労働者も一部の例外的な選挙区を除いて投票することは稀だった。彼らはもっと身近な自治体選挙には関心を持ったが、国政選挙にはあまり関心がなかったからである。王党派やフイヤン派、元貴族は、猜疑の目に晒され、槍玉に挙がるの恐れて投票を辞退した。また農作業の繁忙期であったことや従軍中の兵士が全線で投票できなかったこと、教会改革への反発、王党派が被選挙権から排除されたため選挙を忌避したため、投票率は低調で10%に留まった。投票者数も西暦1791年憲法後の立法議会選とそれほど変わらなかった。

フランス王妃列伝―アンヌ・ド・ブルターニュからマリー=アントワネットまで - 阿河 雄二郎, 嶋中 博章
フランス共和国第1共和政(西暦1792〜1804年)
国民公会(西暦1792〜1795年) その1
ヴァルミーの勝利に沸く喧騒の中で実施された総選挙によって国民公会が発足した。議員は700人を超え、ジロンド派約165人と平原派(プレーヌ派)約400人と山岳派(モンタニャール派)約150人の3大勢力に分かれた。ジャコバンクラブは議会外団体としてジロンド派と山岳派の両議員が含まれていたが、内紛によって山岳派だけの支持団体になった。国民公会の第1回議会はテュイルリー宮殿の大広間で開催された。それ以後は立法議会の議場と同じ屋内馬術練習場(調馬の間、Salle du Manège)に戻った。ここは庭園の離れにあり、ジャコバンクラブとは通り向かいに位置した。議場の座席は両側に対面するような配置の低い階段状で、右手が右派(政権側)と左手が左派(野党側)という伝統が古くからあった。しばしば「洞窟のような」と表現されるこの議場は、音響が悪く、声量のあって声の通る雄弁家の議員が人気を博した。
09月21日に王政の廃止と共和政の樹立を宣言し、フランス第1共和政(西暦1792〜1804年の成立を見た。翌09月22日が革命暦の元年元旦となった。フランスは一院制議会を堅持しながら、王権を停止したことで君主権と均衡していたこれまでの立法議会と比べると、行政の上に立つ立法大権を持ったはるかに強力な議会体制を構築した。地方選出議員の一部にはパリで政治情勢が大きく規定される事態に憂慮があり、09月25日、国民公会はジロンド派議員フランソワ・ビュゾーフランソワ・二コラ・レオナール・ビュゾー(François Nicolas Léonard Buzot)が提案した州連邦制度案を否決した。この提案は、ジロンド派の一部(ビュゾー派)が主張したものに過ぎないが、ジロンド派とは連邦主義者であるという悪評が定着する元になった。連邦主義は南仏に政治的地盤を持ち政治スタンスとしてはアメリカ型の連邦国家を目指す地方分権論であったが、ジャコバン派から内戦や割拠を誘発する分裂主義の主張と見なされ、中央集権と首都パリへの一極集中を主張する革命主流派の敵と見做された。10月02日には執行機関として保安委員会や公教育委員会など14の実務委員会を設置して、その上部に行政機関国民公会政府を組織した。
10月06日にオーストリア軍を撃破し、南ネーデルラントの支配圏を奪ったジェマップの戦いが起き、フランス南西部の選挙区から選出されたジロンド派議員たちは、パリの革命的情勢と共に躍進したマクシミリアン・ロベスピエールをこぞって「独裁を目指す者」として告発した。ロベスピエール批判によってジャコバン派とジロンド派の対立が決定的になっていった。10月08日にビュゾーの提案により創設され集結していた県連盟兵が翌11月にはパリに到着していた。南部の都市マルセイユから来た連盟兵たちは、街頭で「マラー、ロベスピエール、ダントン、そして彼らを支持するもの全ての首をよこせ!ロランはその地位に留まれ!国王裁判はいらない!」と叫んでいた。南西部の地方では穏健派が支配的な影響力をもっていた。
これに対し、マクシミリアン・ロベスピエールは、「革命が厳しい状況にあるのは甘い見通しで諸外国と開戦したジロンド派に責任があり、治安や国内情勢が切迫しているのは内閣に参加した大臣に職務能力が欠落しているためだ。」と批判した。また、パリでの急進的な革命に反対する地方の穏健派に対しても、マクシミリアン・ロベスピエールは国民公会で反論し、「革命の歩みから首都パリの急進性を外すことはできない。」と語り、革命と蜂起した民衆を擁護した。
10月10日、パリではジョルジュ・ジャック・ダントンが機密費問題で司法大臣辞職し、ジャコバンクラブからジャック・ピエール・ブリッソーが追放され、ジロンド派は脱退することとなり、マクシミリアン・ロベスピエール率いる狭義のジャコバン派はコルドリエクラブと合流していった。彼らは国民公会の左上部の議席を陣取っていたため「左翼」と呼称し、山岳派(モンタニャール派)と呼ばれるようになった。議席の下方部の議員は平原派(プレーヌ派)と呼ばれる穏健な中間派が占め、議場右側はジロンド派が陣取っていた。国民公会議員たちは対外戦争と内戦で共和国が最大の苦境に陥る中、革命期最大の政治決断を下していく。国王裁判に着手した。
幽閉されたルイ16世は家族との面会も叶わず、名前も「ルイ・カペー」と呼ばれ、不自由な生活を強いられることになった。その間(西暦1792年後半)、国王の処遇を巡って、国王を断固として擁護する王党派とフイヤン派、処刑を求める山岳派(ジャコバン派)、裁判に慎重なジロンド派が3竦みの状態になり、長々と議論が続けられていた。膠着状態の中、11月13日、25歳の青年サン・ジュストが、「人民が元々有していた主権を独占した国王は主権簒奪者であり、共和国においては国王というその存在自体が罪として、個人を裁くのではなく、王政そのものが処罰されるべきである。」と演説し、共和政を求めるものの国王の処遇は穏便に収めることを希望したジロンド派を窮地に陥れた。これは新人議員であった彼の公会での最初の演説であったため「サン・ジュストの処女演説」とも呼ばれた。
西暦1792年11月30日、国王裁判の最中、国民公会ではウール・エ・ロワール県で発生した食糧危機が議論された。物価統制の導入と生存権をいかに保障するかという問題が喫緊の課題となっていた。戦時中の物不足とインフレの進行で困窮する者がいる一方で、不当な利益を享受する買占め業者、悪徳商人が市場に蔓延って経済を麻痺させており、民衆は公定価格の設定を要求していた。マクシミリアン・ロベスピエールは物資不足と食糧難による飢餓の蔓延が庶民生活を脅かす深刻な問題であることを理解していた。「同胞が空腹で死につつあるその側で、小麦を山ほど積み上げる権利をもっている人間などいない。社会の第一の目的とは何であろうか。人の、奪うことのできない諸権利を守ることである。これらの権利のうち、第一に重要なものとは何であろうか。それは生存権である。それゆえ、社会の第一の法は、社会の全成員の生存のための手段を保証する法である。この法以上に重要なものなどないのだ。」と述べた。「人間に必要な食料品は、生命それ自身と同様に神聖である。およそ生命の保全にとって不可欠なものは、社会全体の共同の所有であり、それ以上の超過分だけが個人的所有である。」と見解を示し、食糧価格の統制によって民生の安定を図る必要を認識していた。
12月11日、ルイ16世の国務大臣を2度務めたクレティアン・ギヨーム・ド・ラモワニョン・ド・マルゼルブ(Guillaume-Chrétien de Lamoignon de Malesherbes)が国民公会議長に宛てて手紙を送り、引き受け手のなかったルイ16世の弁護人を引き受けた。ルイ16世は「私がもしまだ玉座を占めているなら、それを貴殿と分かち、私に残されている半分の玉座と相応しくなるでありましょうに。」とマルゼルブに感謝した。
12月04日にルイ16世の裁判が始まると、ルイ・シャルルは再び母マリー・アントワネットたちと一緒に過ごすようになった。国王一家はタンプル塔で愛犬ココと一緒に過ごしており、ココは後に生き延びたマリー・テレーズ・シャルロットの亡命生活を供にし、西暦1801年ワルシャワ滞在中に事故死した。
西暦1793年01月15日から19日まで、国民公会はルイ16世の処遇を決定するために4回の投票を行った。長い討論と1人1人の議員の指名点呼による評決で行われることが事前に取り決めされており、各議員は登壇して意見を自ら表明する必要があった。これは傍聴人が怒声を浴びせる中行われ、議場の外には武装したサン・キュロットが待ち構えていた。下手な発言をした議員は生命の危険もあって、「穏便に収めたい。」と考える派閥には不利な投票方法だった。それまで国王処刑に反対していた議員が、突然態度を翻して、賛成票を入れて国王弑逆者になった。反対票を入れるのは必死の覚悟がいった。ゆえに王政復古後には、反対票を入れた少数の忠義者は英雄視されることになった。
第1回投票では、まず「国王は有罪であるか否か?」が問われて、各議員(定数は749)は賛成693対反対28(欠席23、棄権5)で有罪を認定した。ジロンド派が「国民公会の判決は人民投票で可否を問われなければならない。」と主張していたため、第2回投票では、「ルイに対する判決は人民投票によって批准されるべきか否か?」が問われ、これは賛成292対反対423(欠席29、棄権5)で、ジロンド派の予想に反して否決された。ジロンド派やフイヤン派などは、この第2回投票が可決を見越して第1回投票で賛成に回っていた。意外な大差での否決は彼らの戦略を混乱させた 。そして、第3回投票では、「ルイは如何なる刑を科されるべきか?」という刑罰を決める投票が行われ、初めて賛否では決まらない意見表明の投票となった。「無条件の死刑」が387で最多。ただしこの中にはマイユ条項つき死刑というものが26含まれていた。次いで「その他の刑」が334で、内訳は鉄鎖刑2、革命戦争終結まで捕虜として禁錮刑とし、終戦後に追放する禁錮刑かつ追放刑286、執行猶予付き死刑46。387対334(欠席23、棄権5)で死刑と決まった。マイユ条項とは第3回投票で最初に壇上に登った議員マイユが主張したもので、「無条件の死刑に付加条件として死刑賛成が最多数を占めた場合には死刑を延期すべきかを国民公会で改めて討議する。」執行猶予付きの死刑と同じに誤解されやすいが、延期は「無条件の死刑」の確定を前提とするもので、延期の提案と判決とは切り離されたもので、判決の内容に執行猶予が盛り込まれる執行猶予付き死刑とは異なる。明記されているように、執行猶予付き死刑の46は「その他の刑」として計算されている。マクシミリアン・ロベスピエールも発言し、「彼にどういう刑罰を科すべきか。……個人、あるいは社会の安全のために必要な場合においてのみ、死刑は正当化されうる。ルイは死ななければならない。祖国が生きねばならないからだ。」と述べ、死刑を求刑した。第4回投票では、死刑延期の賛否が投票されたが、賛成310対反対380(欠席46、殺害1、棄権12)で、これも70票差で否決され、即時の無条件死刑が決定された。
「死刑に賛成した387人の内26人は執行猶予を求めており、この26人を死刑反対票に加算するとすれば、賛成361対反対360となり、1票の僅差で処刑が確定した。」という説明は間違いである。執行猶予付きを含む死刑に賛成した票の総数は433で、執行猶予を反対票に含めて賛成387対反対334であり、マイユ条項や執行猶予を除いても「無条件の死刑」361対「その他の刑」288の差は73票もある。またマイユ条項は執行猶予とは異なり同等ではなく、死刑に反対していたと捉えることは全くできない。マイユ条項支持者の26人の中で第4回投票で延期に賛成した議員は1人もいなかった。そればかりか第4回投票では執行猶予付き死刑以外のその他の刑を支持していた者の中からも22人は延期反対の方に寝返った。後の王政復古期ではルイ16世の死刑判決に関与した455人の国民公会議員は大逆罪として断罪され、そのうちの存命者は全て国外追放の刑に処された。
病床のパンティエーヴル公は、九月虐殺で亡き長男ルイ・アレクサンドルの嫁ランバル公妃が民衆に虐殺され死体は辱められて打ちひしがれていたところへ、娘ルイーズ・マリーの婿オルレアン公ルイ・フィリップ2世ジョゼフ(平等公)がルイ16世の死刑判決に賛成票を投じたことが追い討ちをかけ、2度と健康を回復しないまま、西暦1793年にヴェルノンのビジー城で死亡した。
01月19日、国民公会はルイ16世に死刑判決を下した。国王一家は翌日になってから死刑判決を知らされ、最後の面会を行った。「お父さんを殺さないでとお願いするんだ。お願いですから国民に話す邪魔をしないでください。」と、ルイ・シャルルの叫び声が牢獄に響き渡った。
ルイ16世は西暦1793年01月21日午前10時22分、パリの死刑執行人(ムッシュ・ド・パリ)を勤めたサンソン家の4代目当シャルル・アンリ・サンソン の執行により革命広場(現コンコルド広場)でギロチンで斬首刑にされた。革命前に「人道的な処刑具」としてギロチンの導入が検討された際、その刃の角度を「斜めにするように」と改良の助言を行ったのは、錠前作りによって工学的知識、金属器の知識を持っていたルイ16世本人という。国王の提案に基づき、ギロチンの刃は三日月型から斜面へと変更になった。
サンソン家4代目当主シャルル・アンリ・サンソンは死刑執行人だが、熱心な死刑廃止論者だった。何度も死刑廃止の嘆願書を出しているが実現することはなかった。ルイ16世の処刑の前年西暦1792年に次男ガブリエル・サンソンは処刑台から転落して死亡した。ヴァイマル共和政(西暦1918〜1933年)からドイツ国(西暦1933〜1943年)、大ドイツ国(西暦1943〜1945年)、連合候占領下ドイツ(西暦1945〜1949年)までのドイツで3165人の死刑を執行したヨハン・ライヒハート(Johann Reichhart)に次ぐ、人類史上2番目に多くの死刑を執行した。恐怖政治の時期だけで2千7百数十人を処刑した。皮肉にも彼自身はルイ16世の知己であり王党派であった。ルイ16世を熱心に崇拝しており、自分が処刑するという結果になってしまったことを生涯悔いていた。ルイ16世やマリー・アントワネット、ジャック・ルネ・エベール(Jacques René Hébert)、リュシー・サンプリス・カミーユ・ブノワ・デムーラン(Lucie-Simplice-Camille-Benoît Desmoulins)、ジョルジュ・ジャック・ダントン、アントワーヌ・ラヴォアジエ、マクシミリアン・ロベスピエール、サン・ジュスト、ジョルジュ・オーギュスト・クートン(Georges Auguste Couthon)、マリー・アンヌ・シャルロット・コルデー・ダルモン(Marie-Anne Charlotte Corday d'Armont)といった著名人の処刑のほとんどに関わった。フランス革命当時はルイ16世のためにミサを捧げることは死刑になるほどの重罪でありながら、神父を匿って秘密ミサを上げていた。
朝、二重の人垣を作る通りの中を国王を乗せた馬車が進んだ。革命広場を2万人の群集が埋めたが、声を発する者はなかった。午前10時に王は断頭台の下に辿り着いた。急進過激派「アンラジェ(Enragés、「激昂する者」、「狂人」の意)」のジャック・ルー(Jacques Roux)が国王を断頭台まで連れて行った。国王は自ら上衣を脱ぎ、手を縛られた後、ゆっくり階段を上った。王は群集の方に振り向き叫んだ。「人民よ、私は無実のうちに死ぬ。」太鼓の音がその声を閉ざしたが、王は傍らの人々にこう言った。「私は無実のうちに死ぬ。私は私の死を作り出した者を許す。私の血が2度とフランスに落ちることのないように神に祈りたい。」午前10時22分、シャルル・アンリ・サンソンの執行により革命広場(現コンコルド広場)でギロチンで斬首刑にされた。フランスへの思いが込められた一言だった。しかし、その言葉を聞いてもなお、涙するものはなかった。
ルイ16世の首を刎ねたギロチンの刃は、死刑執行人のシャルル・アンリ・サンソンが大切に保管していたが、後にサンソン家最後の死刑執行人である6代目当主アンリ・クレマン・サンソン(Henry-Clément Sanson)が、浪費による借金のために牢獄に入れられ、3800フランスフランの借金返済のために質入れしてしまった。死刑執行命令を受けたアンリ・クレマン・サンソンはギロチンを質入してしまったことを法務大臣に話して3800フランスフランの現金を支給され、ギロチンを買い戻して死刑を執行した直後に責任を取らされて死刑執行人を罷免された。当時のフランスの制度ではギロチンは死刑執行人の私有財産であり公共財産ではなく、アンリ・クレマン・サンソンは横領罪に問われることは無かった。一度、質から出されたギロチンは再度売られた。
ルイ16世は身長が192cmの長身痩躯の勉強家で日に12時間勉強していた。ルイ16世は西暦1780年に拷問の廃止を命令したり、農奴制度を廃止して人道的な政治を目指した。ギロチンの開発に加わったのも人道的な処刑道具の開発と考えたためである。また啓蒙思想にも一定の理解を示しており、アンリ4世の時代から行われていなかった視察もルイ16世は盛んに行なった。
狩猟と錠前造りが趣味で国民の境遇に心を悩ませる心優しい王で、ヴァレンヌ事件までのルイ16世は当時のパリ市民からの人気が高かった。財政難は前々代のルイ14世太陽王の時代から続く放漫財政や頻繁な外征などが本来の原因であり、財政再建のための改革にルイ16世は積極姿勢を示したが、途中で様々な原因により挫折した。
ルイ16世は、国民の良き支配者、理想的な国王を目指した啓蒙専制君主であった。農奴制の廃止、プロテスタントやユダヤ人の同化政策などを進め、科学や地理探検にも理解があり支援者であった。さらに三部会召集も第三身分をもって第一身分、第二身分の特権を突き崩そうとしたものであった。
ルイ16世は、ディープステイト、政敵に嵌められて、王妃のマリー・アントワネットの数々の醜聞が世間に喧伝され、妻マリー・アントワネットに操られる無能な王という洗脳が施されているが、ルイ16世は、無能というわけではない。ただ、激動の革命期に決断を迫られた時に、強力な指導力を発揮できず優柔不断な性格が破局を招いただけだった。
ルイ16世の死刑が執行されると。ルイ16世の死後に王妃マリー・アントワネットは王太后カペー未亡人と呼ばれるようになり、喪服を着て過ごすようになった。マリー・アントワネットはルイ・シャルルの前に跪き「国王崩御、国王万歳!」と、新王ルイ17世(ナヴァラ国王としてはルイス6世)として接した。その1週間後には叔父(ルイ15世最愛王の王太子ルイ・フェルディナンの四男)のプロヴァンス伯ルイ・スタニスラス・グザヴィエ(後のルイ18世)が自身を「摂政である。」と宣言した。ルイ17世(ルイ・シャルル)が名目上のフランス国王になると、王党派によりタンプル塔から逃亡する脱出計画が立てられた。ルイ17世一家の脱出を計画した者にフランソワ・オーギュスト・レーニエ・ド・ジャルジェ(François Augustin Reynier de Jarjayes)、ジャン・ド・バ男爵(Jean Pierre de Batz, Baron de Sainte-Croix)、シャーロット・アトキンス(Charlotte Atkyns(née Walpole))が挙げられるが、ルイ17世一家が脱出に成功することはなかった。
西暦1793年03月になるとフランス共和国は敗戦に転じ、ヨーロッパの強国から侵略された。原因は御用商人の悪徳行為で軍隊の食糧事情と待遇が悪くなり、士気が低下し、義勇兵が減少したことと、初期の戦勝に気を良くしたフランス革命政府が次第に征服と膨張政策に傾き、一種の世界革命的なイデオロギーで正当化してフランス共和国の敵が増えたことにあった。フランス革命戦争勃発で、貴族士官の裏切りや陰謀、疑惑が相次いだことから、人民の敵を裁くための法廷が必要になったため、西暦1793年03月10日にフランス軍が敗走を始めた時にパリに革命裁判所が設置された。革命裁判所は、08月10日事件で勝利したパリ自治市会(パリ・コミューン)が、西暦1792年08月17日にパリに勝手に開いた特別重罪裁判所がその原型で、これは九月虐殺を黙認してしまったため、ジロンド派によって11月29日に廃止された。また憲法制定国民議会が制定していた政治犯のための合法的な法廷は大審院と言ったが、これもそれより前の09月25日に解散していた。革命裁判所設置の法案は、前日に議員ジャン・バティスト・カリエ (Jean-Baptiste Carrier)が提案し、立法委員会でのわずか1日の議論で「あらゆる反革命行動、自由、平等、統一の侵害」を裁く法廷として成立した。法令は、ジャコバン派の3巨頭の1人で国民公会議員で法案成立時にフランス共和国を指導していた臨時行政会議の事実上の議長のジョルジュ・ジャック・ダントンによって支持演説が行われ、注目を浴び、革命裁判所の設置に大きな影響力を発揮した。ジャン・ポール・マラーによる修正動議によって、04月05日に対象を陰謀罪と国家犯罪のみに限定し、将軍や大臣、議員不逮捕特権などが付加された。 革命裁判所には上訴審がなく、簡略にして強力な決定権をもつ、危険な機関であった。告発検事にはアントワーヌ・カンタン・フーキエ・タンヴィル(Antoine Quentin Fouquier de Tinville または Fouquier-Tinville)が任命された。03月21日〜04月02日にかけて、国民公会は各自治市会に反革命派取締のための監視委員会の設置、9人から成る公安委員会の設置を決定した。04月06日、革命裁判所の最初の法廷が開かれ、公安委員会が発足、恐怖政治への道を開いた。それでも、当初は陪審員や検事、裁判長らがブルジョワ出身者で活動は意図的に緩慢で寛大だった。裁判所の判事と陪審員には職人、労働者はいなかった。フーキエ・タンヴィルも就任後しばらくは、あまり断頭台に送らず、逮捕者の大半を釈放していた。その後、フーキエ・タンヴィルは絶大な権限と雄弁によって、呵責の無い弾圧の執行者となり、些細な罪でも死刑を求刑し、市民から非常に恐れられた。王党派、ジロンド派、さらにはジャコバン派内部のエベール派とダントン派(親戚のカミーユ・デムーランも)の死刑を判事として決定した。あまりにも矢継ぎ早に行われてゆく処刑を、直接関与したフーキエ・タンヴィル自らは「瓦のように首が落ちている。」と他人事のように表現した。フランス共和国の恐怖政治で全ての党派を次々と呑み込み処刑した状況は、当時「ギロチンの嘔吐」と呼ばれた。

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