2024年02月29日

反吐が出る世界史 陰惨野蛮な汚腐乱巣革命 冷酷な気違い秀才「凄煉の非徒」屁理屈で即刻生首が飛ぶ 刑罰は死刑のみの大恐怖時代 悪逆非道なディープステイト(DS(出来損ないの堕落した最兇な屑))の中核、猶太とは何か その23

ダビデの星.jpgユダヤ(ギリシャ語: Ἰουδαία、Ioudaía、漢字:猶太)

 他民族からは「ヘブライ人」と謂れ、自らは「イスラエル人」と称し、バビロン捕囚後には「ユダヤ人」と呼ばれるようになった徒輩。ヘブライ人、イスラエル人、ユダヤ人は同じ民族を指している。
 ユダヤ人(ヘブライ語: יהודים‎、英語: Jews、ラジノ語: Djudios、イディッシュ語: ייִדן‎)は、猶太教の信者(宗教集団)または猶太教信者を親に持つ者によって構成される宗教信者。原義は狭義のイスラエル民族のみを指す。イスラエル民族の1つ、ユダ族がイスラエルの王の家系だったことを由来とする。猶太教という名称は、猶太教徒が多く信仰していた宗教であることによる。ユダヤとは、パレスチナ南部の地域。酋長ヤコブの子ユダに由来する。古代イスラエル統一王国の分裂後の南ユダ王国があった地域である。



南ユダ王国滅亡後のユダヤの歴史

南ユダ王国が滅ぶと、僅かな例外的時期を除いて西暦20世紀に至るまでユダヤ民族が独立国を持つことはなかった。


神武天皇74(西暦前587)〜安寧天皇10(西暦前539)年 新バビロニア帝国
安寧天皇10(西暦前539)〜孝安天皇61(西暦前332)年 アケメネス朝ペルシア帝国
孝安天皇61(西暦前332)〜孝安天皇88(西暦前305)年 プトレマイオス朝エジプト
孝安天皇88年(西暦前305)〜開化天皇17(西暦前141)年 セレウコス朝シリア
開化天皇17(西暦前141)〜崇神天皇35(西暦前63)年 ハスモン朝 ユダヤ人国家
崇神天皇35(西暦前63)〜崇神天皇61(西暦前37)年 共和政ローマ元老院属州
崇神天皇61(西暦前37)〜垂仁天皇73(西暦44)年 ヘロデ家
垂仁天皇73(西暦44)年 ユダヤ属州(ローマ帝国皇帝属州)
垂仁天皇73(西暦44)〜景行天皇23(西暦93)年 ヘロデ家
垂仁天皇73(西暦44)〜仁徳天皇83(西暦395)年 ローマ帝国皇帝属州
仁徳天皇83(西暦395)〜舒明天皇06(西暦634)年 東ローマ帝国
舒明天皇06(西暦634)〜永正13(西暦1516)年 イスラーム諸王朝 途中に十字軍国家の時代を含む。
永正13(西暦1516)〜大正06年(西暦1917)年 オスマン帝国 
大正07年(西暦1918)〜昭和23(西暦1948)年 イギリスによる国際聯盟の委任統治 
昭和23(西暦1948)年 イスラエル国(メディナット・イスラエル)成立 共和政国家の樹立、現代に至る。



 西暦135年、ローマが叛乱を鎮圧し、ユダヤ的なものを一掃しようとしたローマ人は、この土地をユダの地(ユダヤ)ではなく、ユダヤ人の宿敵ペリシテ人に因んで「パレスチナ」、エルサレムを「アエリア・カピトリーナ」と改称し、ユダヤという地名は消滅した。

 また、ユダヤ人は人種的にはセム族とされるが、長いディアスポラ(離散)のなかで、周辺民族との混血の結果、セファルディームアシュケナジームの違いが生じ、また言語もイデッシュ語などが生まれた。現在、ユダヤ人はイスラエルの他、世界中に分布しており、アメリカにも約600万人が住んでいるとされる。しかし現在ではユダヤ人を「人種」概念で捉えるのは困難で、現実には「猶太教を信仰する徒輩」と捉えるのが正しい。人類学的に同質のユダヤ人は存在しない。




フランス共和国第1共和政(西暦1792〜1804年)
 国民公会(西暦1792〜1795年) その3

 同12月04日、エベール派へ転じた派遣議員ジョゼフ・フーシェ(Joseph Fouché)、ジャン・バティスト・カリエ(Jean-Baptiste Carrier)、ジャン・マリー・コロー・デルボワ(Jean-Marie Collot d'Herbois)らによって反耶蘇教運動が主導され、大規模な報復、リヨンの大虐殺が始まり、国民公会の命令書に従って町の家屋や教会などの建築物の破壊をおこない、1800人に及ぶ大量処刑を実行した。ギロチンでは間に合わないと、処刑には大砲が用いられた。この時叛乱分子の処罰のために派遣されたジョゼフ・フーシェ、コロー・デルボワ両人は叛乱分子の根絶の全権を与えられていたが、マクシミリアン・フランソワ・マリー・イジドール・ド・ロベスピエール(Maximilien François Marie Isidore de Robespierre)はリヨンの大虐殺に胸を痛め、2人の行為に激怒した。虐殺後ジョゼフ・フーシェがマクシミリアン・ロベスピエールの許を訪ねて釈明を試みようした際、マクシミリアン・ロベスピエールはジョゼフ・フーシェに軽蔑に満ちた態度を取っていた。
 革命政府の統治原理を示した「フリメール14日法」が宣言されると、さらに独裁者の階段を上り始めたばかりのこの男は、ジャコバンクラブから裏切り者である「外国の間諜の粛清」を要求した。
翌12月05日、ダントン派のリュシー・サンプリス・カミーユ・ブノワ・デムーラン(Lucie-Simplice-Camille-Benoît Desmoulins)は新聞「ヴィユ・コルドリエ」を発刊し、「国民公会の優秀な議員たちは、いわゆるこの自由(言論の自由)に対する危機について奇妙な思い違いをしてしまっている。人々は恐怖政治を日程に上らせることを望んでいるが、それはつまり有害な市民による恐怖政治である。」と恐怖政治への批判を活発化させていた。
 12月05日の国民公会でマクシミリアン・ロベスピエールは「非耶蘇教化運動を通じて敵が国内に深く浸透している。」と警鐘を鳴らした。そうした中、外国の手先の代表として名前が浮上したのが、非耶蘇教化運動にも関わったエベール派の議員ジャン・バプティスト・「アナカルシス」・クローツ(Jean-Baptiste "Anacharsis" Cloots)だった。プロイセンの元貴族ジャン・バプティスト・クローツは、「汚職事件で死刑判決を受けたある銀行家と取引した。」いう理由で嫌疑を掛けられた。この時、ジャン・バプティスト・クローツはジャコバンクラブ議長に当選したばかりだったが、演壇に登ることも許されず、ジャコバンクラブからの除名という死の宣告に近い決定を否応無く受けた。そしてさらに12月11日、カミーユ・ブノワ・デムーランが、「クローツはオー ストリアのカウニッツ公(ヴェンツェル・アントン・フォン・カウニッツ・リートベルク (独語: Wenzel Anton Graf von Kaunitz-Rietberg、チェコ語: Václav Antonín hrabě Kounic-Rietberg))の私生児のプロリのいとこだ、クローツもショーメット(ピエール・ガスパール・ショーメット(Pierre Gaspard Chaumette))もプロイセンの金で買われている。」と小冊子で根も葉もない中傷をして追い 討ちを掛けた。アナカルシス・クローツは非難の嵐の中で大衆の理性を信じて反論したが、自分が見 捨てられ、内ゲバ的党派争いの中で生贄にされたことを知った。12月12日、マクシミリアン・ロベスピエールもジャコバンクラブでジャン・バプティスト・クローツを糾弾した。「銀行家とだけ生活する人間を共和主義者と信じられるだろうか。彼はフランス人以上に愛国的であるように見せながら、実際は列強国の手先とともに暮らしていたのである。彼らは(愛国者の)仮面を覆い、我々を分裂させる。」そして最後に、貴族、聖職者、銀行家、外国人のジャコバンクラブからの追放を提案した。この提案はすぐに採用された。外国人で元貴族という出自のジャン・バプティスト・クローツは、非耶蘇教化運動とともに排除の対象になった。マクシミリアン・ロベスピエールが批判の手を緩めることは最早なかった。12月25日、国民公会でマクシミリアン・ロベスピエールは「革命政府の諸原則に関して」と題する革命政府の諸原則を示すことを目的とした演説の中で、立憲政府との相違を明らかにすることでマクシミリアン・ロベスピエールは初めて明示的に恐怖政治の必要に言及した。まず、「革命政府の理論はそれを生み出した革命と同じくらい新しい。」と述べ、「立憲政府の目的は共和国を維持することだが、革命政府の目的はそれを創設することである。革命政府は、その敵に対する戦いを通じて自由を勝ち取らなければならないのに対して、立憲政府はそれを維持することだけが目的である。」、「憲法によって作られた政府の主要な関心は、個人の自由である。そして革命政府の主要な関心は、公の自由なのである。憲法に基づく政府においては国家の欺瞞に対して個人の自由を守っていればほぼそれで十分だった。ところが、革命政府の下では、国家は、国家を攻撃する徒党から自身を守らねばならない。革命政府においては、国家の防衛は良き市民に掛かっている。人民の敵が齎すものは唯一死だけである。」、「この革命政府の下では、全ての法の上に人民の救済が、全ての名目の上に必然性が置かれる。」と述べ、マクシミリアン・ロベスピエールは共和国は未だ戦時下で革命中の状況にあることを示し、「国家転覆を画策する党派を根絶するまで恐怖政治を継続しなければならない。」と力説した。 「弱さと無鉄砲さ、穏和主義と過激さ、2つの暗礁の間を航行しなければならない。」では、ダントン派とエベール派が念頭にあった。「ただ、ここでは国内のあらゆる場所に忍び込んだ外国の手先に対して議員の結束を促した。敵には、我々を分裂させることによってしか勝利はない。」、「恐怖を齎さなければならないのは、愛国者や不幸な人々の心の中ではない。掠奪品を分け合い、フランス人民の血を啜る、外国のならず者たちの巣窟の中である。そのため、革命裁判所を改革・強化し、増える犯罪者を迅速に罰しなければならない。」と結論づけた。12月25日、ジャン・バプティスト・クローツはトマス・ペイン(Thomas Paine)とともに国民公会からも除名された。12月30日、ジャン・バプティスト・「アナカルシス」・クローツは逮捕され、翌西暦1794年03月24日、人類主権を唱え「人類の友」の仇名のプロイセンの元貴族は、叛逆罪の罪で処刑された。
 トマス・ペインはバスティーユ牢獄襲撃の西暦1789年暮れにラ・ファイエット侯マリー・ジョセフ・ポール・イヴ・ロシュ・ジルベール・デュ・モティエ(Marie-Joseph Paul Yves Roch Gilbert Du Motier, Marquis De La Fayette)から陥落していたバスティーユ牢獄の鍵を手渡され、米大統領ジョージ・ワシントン(George Washington)に届けるよう依頼され、この任を果たした。 西暦1793年01月15日に国民公会でルイ16世の処刑に反対する演説を行った。12月28日にジロンド党との共謀と敵性外国人という嫌疑により逮捕され、駐フランス公使ジェームズ・モンロー(James Monroe、後の5代米大統領)の助力により翌西暦1794年11月04日に釈放された。12月08日に再び国民公会に迎えられた。
 ヴァンデ戦争は12日〜13日に行われたル・マン会戦、12月23日のサヴェニー会戦でロワール川を北に渡ったカトリック王党軍がグランビル港の攻略に失敗し、飢餓状態で戻ってきたところを共和国軍に相次いで各個撃破されカトリック王党軍の主力軍は壊滅し、組織的抵抗は終息しゲリラ戦へ突入した。
 トゥーロン攻囲戦ではマクシミリアン・ロベスピエールの弟オーギュスタン・ボン・ジョゼフ・ド・ロベスピエール(Augustin Bon Joseph de Robespierre、小ロベスピエール(Robespierre le Jeune))も監察に派遣されていた。フランス共和国の領土が直接に外国軍の侵入を受けただけに政府の一大関心事だった。12月18日にナポレオン・ボナパルト(仏語: Napoléon Bonaparte、西暦1794年以前はナポレオーネ・ディ・ブオナパルテ(Napoleone di Buonaparte))の活躍によりグレートブリテン王国{西暦1707〜1801年)ハノーヴァー朝(西暦1714〜1901年)、スペイン王国(西暦1700年〜)、ナポリ王国(西暦1282〜1816年)他の同盟軍が同市を放棄して撤退し、ジャック・フランソワ・デュゴミエ(Jacques François Dugommier)将軍がトゥーロンを奪還し、12月19日にフランス軍が入城し報復のテロが始まった。
 コルシガ(コルシガ語: Corsica、伊語: Corsica(コルシカ)、仏語: Corse(コルス)」は、独立派の頭領パスカル・パオリ(仏語: Pascal Paoli、伊語: Pasquale de Paoli、パスクワーレ・パオリ、全名: フィリッポ・アントーニオ・パスクワーレ・ディ・パオリ(Filippo Antonio Pasquale di Paoli))が西暦1755年にジェノヴァ共和国(西暦1005〜1797年)から独立させ、コルシガ共和国(西暦1755〜1769年)が成立した。ジェノヴァ共和国からフランス王国にコルシガ島は譲渡され、西暦1769年05月のポンテ・ノーウの戦いでノエル・ジュルダ・ド・ヴォー率いるフランス王国の大軍が決定的な敗北を喫し。フランス王国に領有された。再び、パスカル・パオリがグレートブリテン王国の支援を得て叛乱を起こし、フランス共和国から独立し、イギリス王国国王ジョージ3世(George III)を国王にアングロ・コルシガ王国(西暦1794〜1796年)が成立した。フランスから見れば、叛乱地域となっていたパスカル・パオリは。内紛の末にコルシガ島を退去させられ、西暦1796年、コルシガ出身のフランス共和国イタリア方面司令官、ナポレオン・ボナパルトによってコルシガ島はフランス共和国領とされた。以降コルシガ島はフランスの領土となっているが、現代においても共和国の復活を目指すコルシガ独立運動が続いている。 フランス側に付いた裏切者一族の出身であるナポレオン・ボナパルトより現在でもコルシガ島では崇められている。
 西暦1794年01月19日 : イギリス軍がアングロ・コルシガ王国の支配するコルシガ島に上陸した。

 イギリス軍と戦ったアメリカ独立派も、コルシガ共和国を建国の手本とした。アメリカ合衆国{西暦1776年〜)の「建国の父」、アレクサンダー・ハミルトン(Alexander Hamilton)らニューヨーク王立大学(現コロンビア大学)の学生が参加していたニューヨーク民兵のグループは「コルシカンズ」を名乗った(後にハーツ・オブ・オークに改称)。
 イギリス王国の介入で長引いていた内戦の早期終結を目指した。危機を克服するために恐怖政治を続けて軍の強化を進め、国民の結束を促して国内の再統一を図ろうした戦闘指揮は貴族出身の将校が長らく独占してきたが、恐怖政治期に貴族が次々と亡命したため有能な指揮官が不足した。そのため指揮官の任用に実力主義が取り入れられるようになった。軍の実力評価によって縁故のない若い士官が活躍できる土壌ができたことが、ナポレオン・ボナパルトが後に頭角を現す契機となった。

 12月23日に叛乱軍が決定的な敗北の報せが相次いでパリに届き、マクシミリアン・ロベスピエールは革命政府の戦時有効性と、恐怖政治の正当性を弁論した。ヴァンデの叛乱軍が決定的な敗北を喫した報せも相次いで届くと、公安委員会の立場は最早強固なものとなり、ダントン派の恐怖政治中止の企ては完全に失敗した。しかしダントン派はそれらの勝利があるなら戦争を終えようと「講和の鐘が鳴った。」と早期終戦を求めた。「恐怖政治は戦争の続く限り続けられる。」とされていたからだ。ところがこの考えにはベルトラン・バレール ・ド・ヴュザック(Bertrand Barère de Vieuzac)ら平原派(プレーヌ派)も反対した。内戦には目途がたったが、対外戦争ではピレネー地方に位置する南部の国境の町コリウールがスペインに占領されるなど戦況は悪化していたため、混乱を拡げぬようにするために政治的緊張を解くわけにはいかなかった。
 西暦1793年末、マクシミリアン・ロベスピエールは「共和国の敵」を打破する試みを果たすべく、有能で信頼できる人脈を整理して革命を支持する「才能ある愛国者」の表を作成している。表にはマルティアル・ジョゼフ・アルマン・エルマン(Martial Joseph Armand Herman)やルイ・アントワーヌ・レオン・ド・サン・ジュスト(Louis Antoine Léon de Saint-Just)、さらには信頼できる友人として大家の家具の請負師モーリス・デュプレ(Maurice Duplay)などの名が連ねられ、恐怖政治を継続して政敵を倒すため党派の結束を保って問題に対処しようとしていた。

 12月20日には、旧友マクシミリアン・ロベスピエールに向けて危機の終結を呼びかけ、マクシミリアン・ロベスピエールとの友情に触れながら「歴史と哲学の教訓を思い出せ。愛は恐れよりも強く長く残る。」と語って恐怖政治の早期終結を訴えた。国民公会でも恐怖政治への批判や不満が論じられた。
 年が明けると、フランス共和国は危機を脱し、安心感が出てきた。汚職事件をきっかけに深まる党派間、あるいは革命指導者間の対立がジャコバンクラブの中で顕在化した。ジャック・ルネ・エベール(Jacques René Hébert)とその一派の問題とは別に、特にジョルジュ・ジャック・ダントン(Georges Jacques Danton)の背信行為や旧友でダントン派のカミーユ・ブノワ・デムーランによるマクシミリアン・ロベスピエール批判が深刻な問題として浮上した。
そこで、マクシミリアン・ロベスピエールは対応に迫られ、これがのちの大粛清に繋がった。
 西暦1794年01月07日、反革命を疑われた議員ピエール・フィリポを称賛した。そこで、「カミーユ・ブノワ・デムーランを厳罰に処すべきだ。」という発言がジャコバンクラブで出てくると、マクシミリアン・ロベスピエールも苦言を呈せざるを得なくなった。同日、「彼は元々幸運な気質を持つが、悪い付き合いで道を外したのだ。」と弁護し、マクシミリアン・ロベスピエールは「しかし、彼が全ての軽率な言動について後悔の念を示し、自分を道に迷わせた悪い付き合いを断つことを要求する。」と聴衆に語りかけた。そして、新聞を焼いてしまうことを求めたが、カミーユ・ブノワ・デムーランは拒否し、ジョルジュ・ジャック・ダントンも彼を擁護した。これに対し、マクシミリアン・ロベスピエールは、最早忍耐強くあることはできなかった。翌日、彼を追放するか残すかという議論がジャコバンクラブでは為され、「ここでは個人が問題なのではない、自由が勝利し、真理が認められることがなにより重要なのだ。」と述べ、「この全ての議論は、個人の問題に関して多く為されたが、公共の事柄に関しては十分ではなかった。ここで、私はどちらの側にも付かない。カミーユとエベールは、私の目から見て同等に誤っている。(中略)よって、論じることが重要なのは、カミーユ・デムーランではなく、公共の事柄であり、外国人の党派の陰謀と戦っている国民公会自身なのだ。」と結論づけた。01月10日、ロベスピエールはカミーユ・ブノワ・デムーランのジャコバンクラブからの追放を支持した。マクシミリアン・ロベスピエールにとって、国内は未だ問題山積で尚且つ戦争中のフランスで恐怖政治を終結させることは非現実的なことだった。これに対し、01月25日、カミーユ・ブノワ・デムーランは、「誤ったことを言ってしまうとすぐに逮捕されるようでは発言もできない。」と、言論の自由を高唱した。革命家はほとんど例外なく、自身が嫌疑を掛けられないよう、お互いに中傷し合っていた。カミーユ・ブノワ・デムーランも賭博の経営者や王党新聞記者などとの交友関係でジャコバン派から長らく疑いの目で見られていた。
 議会外ではカミーユ・ブノワ・デムーランの恐怖政治に対する批判と恐怖政治を推進しようとするジャック・ルネ・エベールの卑語下劣気違い極左紙「デュシェーム親父」との非難の応酬となっていた。マクシミリアン・ロベスピエールは両派の均衡を維持しようとしていたが、世論の分裂は危険水準に達していた。02月04日、国民公会は「黒人友の会」の活動を受けカリブ諸島での奴隷制の廃止を議論していた。プリュヴィオーズ16日法を可決し、全フランス領での奴隷制の廃止を決議したが、フランス本土で奴隷制完全廃止がなされたのは西暦1948年である。この決議を受けてサン・ドマングの実力者フランソワ・ドミニク・トゥーサン・ルヴェルチュール(François-Dominique Toussaint Louverture、またはトゥサン・ルヴェチ、ハイチ語: Tousen Louvèti, Toussaint Bréda、トゥーサン・ブレダ)はフランス共和国への帰属を決めた。イギリス王国とが奴隷廃止を認めなかったためだった。トゥーサン・ルヴェルチュールの元同盟者への裏切りとスペイン人の虐殺は後に強く非難されることになった。トゥーサン・ルヴェルチュールの転向が決定的となるとサン・ドマングの司令官エティエンヌ・ラヴォーは彼に准将の位を与えた。イギリス軍はこれに慌て、スペイン人は追放された。 この決議はナポレオン・ボナパルトによって反故にされるまで効力を保った。マクシミリアン・ロベスピエールは奴隷制を非難する決議を採択しながらも議論に加わらなかった。それ以上に国内の分断との闘いに追われ、重要な演説の作成に取り組んでいた。
 西暦1794年02月05日、マクシミリアン・ロベスピエールは、国民公会で「政治的道徳性の諸原理に関する報告」と題した有名な恐怖政治演説を行った。この演説は、国内外の小康状態と共に左右の党派の対立が先鋭化する中、「エベール派とダントン派との和解を放棄し、旧友と決別する宣言でもあった。
 マクシミリアン・ロベスピエールは「我々が目指すものは何か?」と自問し、「目的は自由と平等を平穏のうちに享受できることにあった。」、「(国内が二分する)このような状況にあって、諸君の政治の第一行動原理は、人民を理性によって導き、人民の敵を恐怖によって制することである。平時における人民の政府の主要な動力は徳である。革命の渦中にあっては、それは徳と同時に恐怖である。徳のない恐怖は忌まわしく、恐怖のない徳は無力である。恐怖とは、即座に行われ、厳格で、確固とした正義である。」、「自由と平等の諸法則が全ての人々の心に刻み込まれることである。それはフランスを諸国民の模範にするものだ。何やら壮大な目標に聞こえるが、それは民主主義(民主政)によって実現される。」と詭弁を弄した。
 「この驚異を実現するのはどんな性格の統治か?」、「それは民主的あるいは共和的な統治の他にない。この2つの言葉は一般の使用には混乱があるが同義である。貴族政は君主政と同じく共和政ではないからだ。民主政とは、人民が絶えず集まって公共の問題を全て自分たちで決める国家ではない。(中略)そのような統治はかつて存在しなかったし、存在し得るとしても、人民を専制に連れ戻すだけだ。」、「自由と平等民主政とは、主権者である人民が、自分で良くし得ることは全て自分で、自分でできないことは全て代表者によって行う国家である。従って、民主政治の諸原理の中にこそ、あなた方の政治的な行動規範を探し求めなければならない。」
 この演説では、マクシミリアン・ロベスピエールが重視した代表の原理が繰り返され、その前提となる人民と代表者の一致を可能にするものが語られ、「民主政を支え、動かす本質的な原動力とされる美徳である。」私が言っているのは、(古代)ギリシアやローマで多くの驚異を成し遂げ、フランス共和国においてもさらにもっと驚くべきことを生み出すに違いない公共の美徳のことである。」また、「共和政と民主政の本質は平等であるため、美徳の中には平等への愛が含まれる。」マクシミリアン・ロベスピエールの演説冒頭で平等の対になっていた自由に代わり美徳が滑り込み、平等はその中に含み込まれ、美徳が最上位に昇華される。
 では、美徳とは何か。「この崇高な感情はあらゆる個別の利益に対して公共の利益を優先させることを前提にするのも事実である。その結果、祖国愛はまたあらゆる美徳を前提にし、あるいは生み出す。というのも、美徳はこうした犠牲を可能にする魂の力以外の何であろうか。」
要するに、美徳とは公共の利益を優先する崇高な感情であり、個別の利益あるいは自己を犠牲にすることを可能にする魂である。「美徳は民主政の魂であるだけではなく、この統治においてしか存在しえない。」とされるのは、「貴族政や君主政と違って民主政のもとでは国家が全市民にとって平等な(みんなと同じ)祖国となり、よって同じ犠牲の対象になるからだ。」と狂騒に酔った。
 「驚くべきことに、美徳は人民には自然であると言われる。」一方で、代表者(国民公会議員)に向けて、「私個人の下劣なことに魂を没頭させ、卑小な事柄への熱中や偉大な事柄への軽蔑を呼び覚ます傾向のあるものは全て排除され、制圧されなければならない。」と訴えた。「フランス革命の体系の中では、非道徳的なものは非政治的であり、腐敗したものは反革命的である。」それは、「本来は徳のある存在である人民の傾向ではないため、人民に汚染することのないよう除去されなければならない。」という発想になる。紛れもなく、マクシミリアン・ロベスピエールは、革命勃発前後に読み心酔したジャン・ジャック・ルソー(Jean-Jacques Rousseau)の妄想の信徒である。
 そこで、恐怖が必要になる。すでに前年の演説で「恐怖を齎されなければならない。」と表明している。「美徳と共に恐怖が革命政府(革命時の民主政治)には必要である。」と断じ、「美徳なくして恐怖は有害であり、恐怖なくして美徳は無力である。恐怖は迅速、厳格で、仮借なき正義(の執行)以外の何物でもない。従って、恐怖は美徳の発露である。それは個別の原理というより、祖国のもっとも差し迫った必要に適用される民主主義の一般の原理の帰結である。」
 マクシミリアン・ロベスピエールの誤った論に依れば、「平時における人民の政府の原動力は美徳である。」とされ、「美徳と恐怖の双方を必要とする革命時のそれとは区別される。」しかし、平時と革命時はそれほど明確に峻別できるか?言い換えると、平時でも人民本来の美徳を脅かす敵がいない、恐怖の不要な状態、つまりは人民の単一性(同質性)が達成された状態を現実的に想定することは可能か?その状態に至ることがマクシミリアン・ロベスピエールの理想ではあったが、それが不可能なら、マクシミリアン・ロベスピエールの論に依れば、「時代に関係なく、民主政治には多かれ少なかれ、恐怖を齎す必要がある、」ということになる。
 この場合、恐怖とは、敵を排除することで人民の単一性(同質性)を恢復させる手段である。マクシミリアン・ロベスピエールはこれを「民主政が必要に迫られた際に用いる民主主義の一般の原理の帰結」と表現した。

 さらに、「専制の原動力は恐怖である。」と唱えたシャルル・ルイ・ド・モンテスキュー(Charles-Louis de Montesquieu、本名: ラ・ブレードとモンテスキュー男爵シャルル・ルイ・ド・スゴンダ(Charles-Louis de Secondat, baron de la Brède et de Montesquieu)))を模倣し、マクシミリアン・ロベスピエールは「あるべき革命時代の民主政としての革命政府は、暴政に対する自由の専制である。」と断言した。「確かに恐怖は専制君主が愚かな臣民を支配する常套手段だが、民主政の下でも自由の敵を制圧する手段として肯定される。」革命家やテロリスト、政治屋の強弁、「目的次第で手段は正当化される。」ということだ。
 このようにマクシミリアン・ロベスピエールの演説、その中に発露する思想を見ていると、彼の言う美徳ある民主主義は半ば必然的に恐怖を伴う。演説終盤で、2つの党派、穏和派と超革命派に再び言及されるが、ここで彼らは裏切り者だと切り捨てた。つまり、これからは両派も、恐怖が齎される対象になるだろう。民主主義とは、人民の意志あるいは人民と代表者のその一致に根ざした政治であり、その理想のためには、彼らを分裂させる敵は排除されなければならない。
 冷酷な気違い秀才「清廉の人」マクシミリアン・ロベスピエールの演説では敵の排除よりも、その裏返しでもある分裂への危機感であり、共和国の単一性(同質性)への執着とも言える思想である。それが、彼の構想する政治には必要だった。その政治とは、「独裁」などではなく、あくまで詭弁としての「民主主義」だった。その統治体制の原理となるのが「美徳」であり、「美徳」の必要こそ、「清廉の人」マクシミリアン・ロベスピエールが最も強く訴えたものだった。実際は、屁理屈で即刻生首が飛ぶ、刑罰は死刑のみの恐怖時代は、冷酷な気違い秀才の独裁(寡裁)で虐殺を繰り返した。

冷酷な気違い秀才「清廉の人」マクシミリアン・ロベスピエールは、悪逆非道なディープステイト(DS(出来損ないの堕落した最兇な屑))で、フランス革命はDSの中核、猶太やフリーメイソン、カッセン・ヘッセンなど悪魔が作り出した地獄の時代である。戦争や疫病、・・で恐怖を作り出し、ゴイムの生き血を啜る。共産主義、ファシズム、フェミニズム、グローバリズム、変態LGBTQ+、・・に異論は許さない。マスゴミ操作、GAFA、選挙操作、暗殺で異論は排除し統制全体主義単一世界OW(One World)へとに暗躍している。現代、ディープステイト(DS(出来損ないの堕落した最兇な屑))は文化や文明を破壊し、武漢肺炎、ウンコ喰らいなやペリシテ人の土地や台湾で戦争や恐怖を起こし、巨万の富を独占している。悪魔の機関WHOはOH(One Health)に国家の主権を恐怖で奪い統制全体主義ファシズム世界を構築しようとしている。
恐怖政治時代の外科医で山岳派(モンタニャール派)国民公会の議員だったルネ・ルヴァスール(René Levasseur)著「回想録」全4巻をカール・マルクス(Karl Marx)も熱心に読んだ。「回想録」は「君主制と宗教を侵害した。」として起訴され、裁判では「回想録」の推定編集者アシル・ロシュ(Achille Roche)が著者と見做された。
ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・スターリン(露語: Ио́сиф Виссарио́нович Ста́лин、 Iosif Vissarionovich Stalin、グルジア語: იოსებ ბესარიონის ძე სტალინი、本名: ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・ジュガシヴィリ(露語: Ио́сиф Виссарио́нович Джугашви́ли、グルジア語: იოსებ ბესარიონის ჯუღაშვილი))の書庫の本棚にはフランス革命本ではなくヴィクトル・マリー・ユーゴー(Victor-Marie Hugo「九十三年」が並んでいた。


ユゴ−文学館 6 九十三年 - ヴィクトル・ユゴー
ユゴ−文学館 6 九十三年 - ヴィクトル・ユゴー

スターリンの図書室:独裁者または読書家の横顔 - ジェフリー・ロバーツ, 松島 芳彦
スターリンの図書室:独裁者または読書家の横顔 - ジェフリー・ロバーツ, 松島 芳彦

 マリー・アントワネット・ジョゼフ・ジャンヌ・ド・アプスブール・ロレーヌ(Marie-Antoinette-Josèphe-Jeanne de Habsbourg-Lorraine、またはマリー・アントワネット・ドートリッシュ(Marie-Antoinette d'Autriche、マリア・アントーニア・ヨーゼファ・ヨハンナ(独語: Maria Antonia Josepha Johanna)))の処刑後、今度は王妹エリザベート・フィリッピーヌ・ド・フランス(Élisabeth Philippine Marie Hélène de France)を処刑するための証拠を作ろうとした。既にジャック・ルネ・エベールらに洗脳されていたルイ17世(ルイ・シャルル)は、かつて叔母エリザベート・フィリッピーヌが行っていた密書の送り方などをあっさりと告白した。この洗脳教育は6ヶ月間続いた、母マリー・アントワネットは、洗脳が始まった数ヶ月後に処刑をされた。母マリー・アントワネットはルイ17世が受けている残忍な虐待を知ることはなかった。ルイ17世(ルイ・シャルル)も母のギロチンによる処刑を知ることはなく、死後も花が好きな母のために、外で摘んだ花を母の部屋の扉の前に置き続けた。
 この頃ピエール・ガスパール・ショーメットは、「常にルイ17世(ルイ・シャルル)と過ごしているアントワーヌ・シモン(Antoine Simon)が王党派に買収されるのではないか。」と不安になり、パリ自治市会はアントワーヌ・シモンに圧力を掛け、アントワーヌ・シモンを厳しい監視下に置いた。事実、西暦1793年12月まで、ルイ17世(ルイ・シャルル)の生活の記録は残っていない。その時の記録は12月04日のもので、「『王妹エリザベート・フィリッピーヌとマリー・テレーズ・シャルロット(Marie Thérèse Charlotte de France)王女の部屋から物を叩く音がする。』と王子が言っており、贋金作りの音だと思える。」とアントワーヌ・シモンがパリ自治市会に報告し、議員の失笑を買った。真相は双六の音だった。この待遇が面白くないアントワーヌ・シモンは、ルイ17世(ルイ・シャルル)にさらに暴力を振るうことで鬱憤を晴らした。シモンの妻マリー・ジャンヌはルイ17世の身の回りの世話をしたが、夫シモンの虐待を止めさせることは出来なかった。西暦1794年01月03日、ピエール・ガスパール・ショーメットより、「自治市会の役人が定例会にすら出席せずに何らかの仕事をしている場合、両立が出来ないのなら役人としての職務を放棄せよ。」と通達した。アントワーヌ・シモンは「カペーの息子(ルイ17世)」の世話役(1万リーヴルの報酬と居所が提供されていた)を放棄し、本来の業務に戻ることにする。公安委員会も「特別なる監視は不必要。」と判断した。1794年1月19日にシモンはルイ17世の後見人を辞職、妻マリー・ジャンヌとともにタンプル塔から去った。次の後見人は指名されなかった。
 国内の王党派や外国の君主からは正式なフランス国王と見做され、政治的に利用されることを恐れたピエール・ガスパール・ショーメットとジャック・ルネ・エベールは02月01日、元は家族の食堂であった部屋にルイ17世(ルイ・シャルル)を押し込んだ。厚さが10フィートもある壁にある窓には鎧戸と鉄格子があり、ほとんど光は入らなかった。不潔な状況下にルイ17世を置き、貶めるために、室内には敢えてトイレや室内用便器は置かれなかった。そのため、ルイ17世は部屋の床で用を足すことになり、タンプル塔で働く者はこの部屋の清掃と室内の換気は禁止された。また、本や玩具も与えられず、蝋燭の使用、着替えの衣類の差し入れも禁止された。この頃は下痢が慢性化していたが、治療は行われなかった。食事は1日2回、厚切りのパンとスープだけが監視窓の鉄格子から入れられた。ルイ17世に呼び鈴を与えられたが、暴力や罵倒を恐れたため使うことはなかった。監禁から数週間は差し入れの水で自ら体を洗い、部屋の清掃も行っていたが、ルイ17世はくる病になり、歩けなくなった。その後は不潔なぼろ服を着たまま、排泄物だらけの部屋の床や蚤と虱だらけのベッドで一日中横になっていた。室内は鼠や害虫で一杯になっていた。深夜の監視人交代の際に生存確認が行われ、食事が差し入れられる鉄格子の前に立つと「戻ってよし。」と言われるまで「せむしの倅」、「暴君の息子」、「カペーのガキ」などと長々と罵倒を続けた。番兵の遅刻があった日は、同じ夜に何度もこの行為は繰り返された。もはや彼に人間的な扱いをする者は誰も居なかった。 パリ自治市会の派閥争いにより、悪鬼ジャック・ルネ・エベールとエベール派は共に03月24日に処刑され、その3週間後にピエール・ガスパール・ショーメットも処刑された。05月11日、マクシミリアン・ロベスピエールはタンプル塔の様子を見学した。その後、07月28日にマクシミリアン・ロベスピエールやロベスピエール派だったかつてのルイ17世の後見人アントワーヌ・シモンが処刑された。

 西暦1794年の早春は再び飢饉が危惧された。特にパリ近郊では民衆の掠奪以外にも革命軍が食料徴発隊と化して没収と平等分配をしたため、農民はパリに作物を出荷するのを嫌って避けるようになり、物資不足に拍車が掛かった。事態は急迫してきた。地方に派遣され反革命派の鎮圧の任務に当たっていたサン・ジュストがパリに呼び戻され、国民公会で公安委員会を代表して演説した。そこで、「外国人の陰謀」事件とともにダントン派とエベール派双方を批判、厳格な措置を要求した。同時に、愛国者を釈放する権限を保安委員会に付与し一方で、02月26日と03月03日(ヴァントーズ(風月)08日と13日)にサン・ジュスト他の急進派は反革命派(亡命貴族)から財産権を含む市民権を剥奪し、財産をを没収し貧困者に無償で配分するヴァンドーズ法を提案し、 施行はされなかったが採択された。これには民衆運動を味方に付ける狙いがあった。 マクシミリアン・ロベスピエールは理論的にはこの法律を支持したが、実施するための支援を欠くことが明らかになり、法律を施行するための努力は数ヶ月のうちに終了した。 ヴァントーズ法を施行すれば「土地のない農民に土地を与える。」という土地革命が初めて実現した筈だったが、マクシミリアン・ロベスピエール排除の結果、フランス革命では最後まで土地革命は実現されなかった。
 03月02日、エベール派(およびコルドリエ派連合)は勢いを得て、エベール派のシャルル・フィリップ・ロンサン(Charles-Philippe Ronsin)がコルドリエクラブで「神聖な蜂起」と呼ばれる運動を始め、反革命政府蜂起を呼び掛けた。彼らは公安委員会、保安委員会も国民公会も信用しなかった。03月04日、ジャック・ルネ・エベール本人も、アントワーヌ・フランソワ・モモロ(Antoine-François Momoro)やフランソワ・ニコラ・ヴァンサン(Francois-Nicolas VIncent)から弱腰と批判されたのに刺戟を受け、穏健派とマクシミリアン・ロベスピエールの共犯関係を指摘し、公安委員会に反対して革命的運動を取るよう呼びかけ、ついに蜂起を唱えた。だが、これに呼応したのは48地区のうちわずか2つで、パリの民衆は同調せず、蜂起は未遂に終わった。サン・ジュストがそれより前に経済テロルのヴァントーズ法を成立させていたので、サン・キュロットが敵の極左派の下に結集するのを阻止できた。
 いよいよエベール派の逮捕が日程に上ってきた。03月13日、国民公会でサン・ジュストが「外国人の陰謀」に関する報告で提案し、「悪徳に対して戦え。」と叫んだ、革命裁判所による陰謀家の迅速な逮捕と裁判に関する法令に同意した。その日、久しぶりにジャコバンクラブの演壇に立ったマクシミリアン・ロベスピエールは、「私は祖国を愛している、それに全存在を捧げたい。」と改めて決意表明をした後、「自由の擁護者の勢力が今ほど必要な状況はない。自由はかつてない多くの侮辱と、卑劣で危険な陰謀に晒されている。私の肉体の力が精神の力と同じくらい強ければ良かったのに。」と語った。その日の晩、西暦1794年03月13日〜14日にかけて、公安両委員会、保安両委員会の決定により、ジャック・ルネ・エベール、フランソワ・シャボー(François Chabot)とその一派が逮捕された。賽は投げられた。2日後、マクシミリアン・ロベスピエールは国民公会で演説し、「心からの愛国者は団結しなければならない。」と訴えた。その上で、「全ての党派を同時に滅ぼさなければならない。」と主張した。そして、「革命裁判所は犯罪者たちを識別することができ、人民と代表者を引き裂こうとしている陰謀家たちを怯えさせるのだ、今こそ人民が代表者と心を1つにすることを願う、」と述べた。
 西暦1791年12月13日、アッシニアの下落を助長する投機への対策として、有価証券移転税が新設されたが、東インド会社理事は、これを不服として、ジュネーブ出身のスイス人のジロンド派の財務大臣エティエンヌ・クラヴィエール(Étienne Clavière)の公認の下に脱税を始めた。エティエンヌ・クラヴィエールは東インド会社の理事で大株主のサント・クロワ男爵ジャン・ピエール・ド・バッツ(Jean Pierre de Batz, Baron de Sainte-Croix、バッツ男爵(Baron de Batz))の友人であった。しかしジロンド派追放で後ろ盾を失った会社に、不正を追及する圧力が強まった。国民公会は東インド会社を清算することにしたが、この清算で旧ジロンド派系議員と、ダントン派の議員を巻き込んだ大規模な買収と不正が行われた。エティエンヌ・クラヴィエールは、西暦1793年06月02日に逮捕され、革命裁判所の出頭命令の前日に自殺した。
 西暦1793年11月17日にジャック・ルネ・エベールは、フランス東インド会社の清算をめぐる大規模な汚職事件、東インド会社汚職事件が発覚すると、これに関与していたオーストリア系ユダヤ人の銀行家ユニウス・フレイを告発した。エベール派のフランソワ・シャボーは、ユニウス・フレイの妹レオポルディン・フレイ(Leopoldine Frey)と数週間前に結婚していた。
 01月12日にジョルジュ・ジャック・ダントンの裁判に関連して、ユニウス・フレイは共同被告人の義兄シャボーから糾弾された。フランソワ・シャボーとその側近は、詩人フィリップ・フランソワ・ナゼール・ファーブル・デグランティーヌ(Philippe François Nazaire Fabre d'Églantine)、ダントン派のクロード・バシール(Claude Basire)らを次々に告発し投獄させた。01月13日、ファーブル・デグランティーヌが逮捕され、ユダヤ人ユニウス・フレイから収賄している国民公会議員の名前を暴露した。これにより国民公会議員や銀行家、投機家が逮捕された。
 03月18日、東インド会社汚職事件に関わったオーストリア系ユダヤ人の銀行家ユニウス・フレイが逮捕され、03月23日にユニウス・フレイの弟のエマニュエル・フレイ(Emanuel Frey)、妹でフランソワ・シャボーの妻のレオポルディン・フレイが逮捕された。「オーストリア王族に代わってマリー・アントワネット救出に賞金を提供した。」として以前に告発されていたサント・クロワ男爵ジャン・ピエール・ド・バッツ(Jean Pierre de Batz, Baron de Sainte-Croix、バッツ男爵(Baron de Batz))は東インド会社汚職事件の陰謀の指導者だったが逃げ遂せた。
レオポルディン・フレイは、夫フランソワ・シャボーの申し立てにより釈放された。
 しかしジョルジュ・ジャック・ダントンと、予てよりジャック・ルネ・エベールの急進主義を行き過ぎとして警戒していたマクシミリアン・ロベスピエールの反撃を受け、さらにダントン派のカミーユ・ブノワ・デムーランからは、貧民の味方として富者を攻撃していたジャック・ルネ・エベールが、実際にはパリ在住の外国人のユダヤ人銀行家ユニウス・フレイと親密な関係にあり、また「デュシェーヌ親父」を軍に大量購読させて巨額の利益を得ていたことを暴露されて窮地に陥り、03月18日、東インド会社汚職事件に関わった外国人の銀行家のユダヤ人銀行家ユニウス・フレイらが逮捕された。03月21日(ジェルミナル(芽月)01日)、裁判が開始され、ジャック・ルネ・エベールらは外国人と共謀した敵と共に裁かれることになった。以後2週間ほどにわたって繰り広げられる党派をめぐる悲劇を、ジェルミナル(芽月)の劇という。
 続いてマクシミリアン・ロベスピエールはもう1つの党派に矛先を向けた。ジャック・ルネ・エベールらの裁判が開始される中、マクシミリアン・ロベスピエールはダントン派(穏健派)への批判も緩めなかった。03月20日、国民公会の演説で、「祖国を引き裂こうとした1つの党派はほぼ消え去ったが、別の党派が打ち倒されておらず、ある種の勝利さえ得ており、われわれは決死の覚悟で敵と戦わなければならない。」と主張した。そして、「全ての党派が滅ぼされなければ、我々に休息はやってこない。」と繰り返した。「祖国への愛着の影響力が、フランス人民の権利が、今全ての党派に打ち勝たなければ、自由を強固なものにするために神が諸君に与えた最高の好機を逸することになるだろう。逆に、国民公会が敵に打ち勝つほど強くないとすれば、我々にとって最も幸福なことは死ぬことだろう。それは革命の舞台で3年もの間行われてきた卑しさと犯罪のあまりに長く苦痛な光景からついに解放されることではある。しかし(中略)、国民公会が人民と正義、理性を勝利させることを決断するとすれば……」こう述べたところで、議場の至る所から「そうだ、そうだ。」という叫び声が上がった。
 翌日03月21日(ジェルミナル(芽月)01日)、ジャコバンクラブで演説し、「ダントン派は有力な銀行家などイギリスやオーストリアの手先の庇護の下に活動してきた。」と告発し、「暴政の支援なしに存続しえる党派はない。」と断じた。「なるほど、コブレンツ(亡命貴族の拠点)やラ・ファイエットの党派ではないが、今日の党派はその事実によって特徴づけられる。それは人民を啓蒙する事実の真実性によって告発されるのである。それを暴く時が来るだろう。その時は遠くない。彼らが人民を裏切ったという事実があり、それは人民自身によって告発される。」と述べた。
 ジャック・ルネ・エベールらの裁判はわずか3日で結審し有罪判決が確定し、03月23日、ジャック・ルネ・エベール、シャルル・フィリップ・ロンサン、アントワーヌ・フランソワ・モモロ、ジャン・バプティスト・「アナカルシス」・クローツなどの過激派は、「外国人と通謀し、市民を腐敗させる計画を練っていた。」としてギロチンより首を刎ねられた。
 マクシミリアン・ロベスピエールあるいは事実上はジャック・ルネ・エベールらの逮捕の流れを作ったサン・ジュストの主導する公安委員会による措置は、以前にも増して迅速かつ苛烈になった。少なくとも一方の党派の逮捕後、もう一方の党派、ダントン派への批判が激しくなった。

 実際に、彼の考える「祖国の敵が国内にいる。」という事実が顕在化した。ジャック・ルネ・エベール本人の蓄財は突出しており、他の議員も多かれ少なかれ裏金を得ていた。むしろ、「清廉の士」マクシミリアン・ロベスピエールはその中で例外的な存在だった。政治家マクシミリアン・ロベスピエールの原点は、特権階級(エスタブリッシュメント)の、あるいは彼らと共謀した政治家やその党派の仮面を剥ぎ取り、真実を公にすることだった。ジェルミナルの劇によってマクシミリアン・ロベスピエールから民心が離れ、後のクーデタに繋がったという従来の見方は、すでにこの時点で民衆は党派を支持していなかったため否定される。ジャック・ルネ・エベールはそれ以前から「金で雇われた民主主義者」と呼ばれ、汚職の事実が報道されており、彼に同調する民衆はほとんどいなかった。彼の支持の絶頂期は前年の蜂起だった。彼らの逮捕について、当時の報告によれば、「最も教養のない庶民に井樽まで、恐らくあまりにも遅すぎたこの正当な措置に拍手喝采をしない者はいない。」という始末だった。処罰として「ギロチンでは甘すぎる。」という声もあちこちで聞かれた。

 フランス革命の影響で、03月24日、アンジェイ・タデウシュ・ボナヴェントゥラ・コシチュシュコ (波語: Andrzej Tadeusz Bonawentura Kościuszko)の主導の下、ポーランド・リトアニア共和国(ポーランド王国およびリトアニア大公国)(西暦1569〜1795年)の残部とプロイセン領ポーランド(西暦1772〜1807、1813〜1871年)で蜂起(コシューシコ蜂起)が起き、11月09日まで続いた。

 極左の失墜の反動で右派が勢力を増さないように、ダントン派への追及も始まった。彼らの何人かは確実に汚職に手を染めていたので、これは簡単だった。ただ愛国者と常に庇ってきた盟友ジョルジュ・ジャック・ダントンを手に掛けることだけがマクシミリアン・ロベスピエールを躊躇させたようである。党派の消滅を訴え、エベール派の裁判中も「穏健派」を攻撃したマクシミリアン・ロベスピエールだったが、ジョルジュ・ジャック・ダントン自身の逮捕には最後まで慎重だった。個人的な付き合いとは別に、堂々とした体躯でもミラボー伯オノレ・ガブリエル・ド・リケティ(Honoré-Gabriel de Riqueti(正書法ではRiquetti), Comte de Mirabeau)を思わせるダントンの革命における存在感も、マクシミリアン・ロベスピエールはよく理解していた。それでも、ジョルジュ・ジャック・ダントンの腐敗について記した記録をサン・ジュストに手渡した。ついに公安委員会で逮捕に署名することになった(逮捕には公安委員全員の署名が必要だった)。前年夏、公安委員会に逮捕状を出す権限を与える決議を支持したのはジョルジュ・ジャック・ダントン自身であった。
 西暦1794年03月29日、サン・ジュストの告発で、東インド会社汚職事件での収賄の容疑で公安委員会・保安委員会は「穏健派」の逮捕を決定した、翌日ジョルジュ・ジャック・ダントンやカミーユ・カミーユ・ブノワ・デムーランら同派の指導者を逮捕し。同じく、東インド会社汚職事件に連座したファーブル・デグランチーヌやフランソワ・シャボーも逮捕された。03月31日、国民公会ではル・ジャンドル議員がダントン派に議会で釈明する機会を与えるよう提案を行ったが、マクシミリアン・ロベスピエールがこれに反論し、却下された。「彼がダントンについて話したのは、この名には特権が与えられていると恐らく信じているからだ。いいや、我々は特権など欲しない。いいや、我々はそのような偶像を欲しない。」国民公会議場では何度も拍手が起こった。そして、「国民公会は腐敗した偶像を破壊するかその逆か、近日中に決するだろう。」と述べ、「清廉の士」は己の信条をこう簡潔に吐露した。「私はここで、陰謀の試みに対して原理の純粋さ全てを擁護することが、私に課せられた特別な義務であると付け加えなければならない。」こうした態度はジョルジュ・ジャック・ダントンの寛容とは相容れなかった。女と酒をこよなく愛し、物欲に塗れていたジョルジュ・ジャック・ダントンが、清貧を尊ぶ生活を送り続けるマクシミリアン・ロベスピエールに親近感を持つことは一度としてなかった。
 04月02日に裁判が開始され、ジョルジュ・ジャック・ダントンは法廷で持ち前の雄弁を奮い検事の論告を押し返し判事も無罪に傾きかけたが、弁論を妨害されるなどの圧力が掛かり発言が停止させられ、彼が退席したまま討論が続けられ、結局04月04日に死刑判決が出され、裁判開始の3日後の04月05日(ジェルミナル(芽月)16日)死刑の判決を受けた。ジョルジュ・ジャック・ダントン、リュシー・サンプリス・カミーユ・カミーユ・ブノワ・デムーラン、フィリップ・フランソワ・ナゼール・ファーブル・デグランティーヌ、クロード・バシールらはその日のうちに処刑された。馬車で刑場に向かう際、ジョルジュ・ジャック・ダントンは通過するロベスピエールの家を窓越しに眺めながら、「ロベスピエールよ、お前も俺の後に従うのだ!」と叫んだ。彼は自身が語ったように「恐ろしい存在になった議員による偉大な手段によって葬り去られた。最後まで堂々とした態度で処刑された。ジョルジュ・ジャック・ダントンの最後の言葉は死刑執行人シャルル・アンリ・サンソン (Charles-Henri Sanson)に対して「俺の首を人民に見せるのを忘れるなよ、見るだけの値打ちがあるからな。」と語った。断頭台はダントン派の処刑で血の海となり、死刑執行人シャルル・アンリ・サンソン は、言われた通りジョルジュ・ジャック・ダントンの首を高々と差し上げて群集に示した。享年34歳。「革命下でジョルジュ・ジャック・ダントンの死ほど、パリ全体に大きな衝撃を与えたものはなかった。」と、セーヌ川沿いにあった本屋のニコラ・ルオは語っていた。
 コンドルセ侯マリー・ジャン・アントワーヌ・ニコラ・ド・カリタ(Marie Jean Antoine Nicolas de Caritat, marquis de Condorcet)は、啓蒙思想家たちと親交を深め、百科全書に独占的買占などの経済学の論稿を掲載した。西暦1774〜1776年(ルイ16世統治初期)にかけて財務総監ジャック・テュルゴーの片腕として政治改革に関わった。数学者、哲学者、政治家。社会学の創設者の1人である。恐怖政治に反対したため、西暦1793年07月08日逮捕令状が発せられ、現在のパリ6区セルヴァンドニ通りにあるヴェルネ夫人宅の9ヶ月間の隠遁生活し、その後、令状通りに逮捕され獄中で服毒自殺した。50歳没。

東インド会社汚職事件は、イギリス首相ウィリアム・ピット(William Pitt、小ピット)、サント・クロワ男爵ジャン・ピエール・ド・バッツ(バッツ男爵)が黒幕で、スイス人のジロンド派のエティエンヌ・クラヴィエールが初期に関わり、ユダヤ人の銀行家ユニウス・フレイ、エマニュエル・フレイ、レオポルディン・フレイのユダヤ人兄弟と、多額の持参金でレオポルディン・フレイと結婚したエーベル派のフランソワ・シャボーが金を配り工作した。ジャック・ルネ・エベールなどエーベル派や、ルイ・ピエール・デュフルニー・ド・ヴィリエ(Louis Pierre Dufourny de Villiers)、ジョルジュ・ジャック・ダントン、リュシー・サンプリス・カミーユ・カミーユ・ブノワ・デムーラン、フィリップ・フランソワ・ナゼール・ファーブル・デグランティーヌ、クロード・バシールらダントン派を巻き込んだ。
 この事件で、猶太やフリーメイソン、イルミナティー、グレートブリテン王国、カッセン・ヘッセンなど悪逆非道なディープステイト(DS(出来損ないの堕落した最兇な屑))がフランス革命を転がし、恐怖政治を作り出したことが垣間見える。


 国王という象徴が逃亡した時と同じく、信頼していたが故に「裏切られた。」と感じた時の民衆の憎悪は一層激しくなった。民衆の中で真の犯人探しが始まり、憎悪と不信が連鎖していった。「エベール派の背後には首謀者がいるはずだ。」と民衆は思い込み、特に革命家に指示された訳でもなく仮面を剥がそうと躍起になった。ダントン派の逮捕・処刑後も、「大衆の意見は相変わらず良好であり、犯人の首が落ちるのを見ること以外の欲求をもっていない。」、「民衆が恐ろしい存在にならないよう」革命裁判所の設置を決めたジョルジュ・ジャック・ダントンの思惑とは逆行して、革命はその歩みを早めていた。
 確かに、両派への世論の支持が地盤沈下の傾向にある中、「党派」の処刑によってマクシミリアン・ロベスピエールらから民心が離れるということはなかったが、逆に、世論が彼を常に支持していた、あるいは今後も支持してくれるという保証は全くなかった。エベール逮捕後にある庶民が「民衆の好意はじつに移ろいやすいものだ。」と語ったが、まさにマクシミリアン・ロベスピエールは最期まで、この「移ろいやすい存在」と対峙せざるを得なくなった。
 ジェルミナルの劇では、有数の指導者が革命裁判所で刑死した。その背後で、恐怖政治の絶頂期には少なくとも30万人が逮捕、1万7千人が処刑された。裁判を経ていない死刑を含めれば4万人は下らない。パリはもとより地方でも残虐行為が拡がり、やりすぎにマクシミリアン・ロベスピエールが派遣議員をパリに連れ戻すこともあった。本屋ニコラ・ルオは、「革命はそれ自身の子供を貪り食い、兄弟を殺す。」と、ジョルジュ・ジャック・ダントンらの裁判が始まった日付のある手紙に書き残した。この時、貴族の処刑の割合が倍増した。具体的な犯罪というよりも旧体制下の地位によって多くの人間がギロチン台に送られた。それは明らかに革命の理想というよりも憎悪や復讐心によるものだった。この意味で醜悪なスイス人の医者ジャン・ポール・マラー(Jean-Paul Marat)の後継者を自称したジャック・ルネ・エベールの死後、むしろ民衆自身によって、兇暴なジャン・ポール・マラー的なものが加速度的に駆動し始めた。
 反対派を全て葬り去った公安委員会、保安委員会は本当の独裁を始めた。民主主義などなくおぞましい官僚組織があるだけだった。しかしサン・ジュストは「革命は凍りついた。一切の原則は弱くなった。残っているものは赤帽子を被った陰謀である。」と手を緩めなかった。西暦1794年04月01日(ジェルミナル12日)、政府にあたる執行会議を廃止、代わりに12の委員会が設置され、公安委員会が名実ともに執行権力機関となった。また、公安委員会のなかに治安局(一般警察局)が新設された。さらに04月15日、サン・ジュストが、国民公会で公安委員会を代表して治安全般に関する演説を行い、両派の粛清後の革命再編計画を提示した。「市民諸君、党派を破壊するだけでは十分ではない。彼らが祖国に対して行った悪事をさらに埋め合わせる必要がある。」と演説し始めた。そこでサン・ジュストが訴えたのが、治安の強化であり、そのために刑事裁判所の権限を強化することだった。サン・ジュストがその演説に基づき提案したのは、公安委員会の権限強化や革命裁判所のパリへの一極集中、元貴族やフランスの交戦国の人間をパリや港町から排除する法令だった。04月16日、サン・ジュストは一般警察に関する法令(ジェルミナル27日法)を可決させ、公安委員会に治安局(一般警察局)を設けた。この機関は公務員を監査して陰謀や職権乱用を摘発するためのもので、直接的な権限を公安委員会に与えるものであり、逮捕命令は公安委員の1人の署名ともう1人の副署だけで効力を持った。指揮権はロベスピエール派の元検事で裁判官を歴任後、革命裁判所の裁判長となったマルティアル・ジョゼフ・アルマン・エルマンに握られ、正式な内務大臣は別にいたが、04月中旬からは事実上の内務大臣のように振る舞い、治安局を指揮した。マクシミリアン・ロベスピエールにより、西暦1793年08月28日にマルティアル・ジョゼフ・アルマン・エルマンが革命裁判所裁判長に就任してからは、それ以前の死刑宣告が49人であったのに対して、以後は12月までに209人、翌年01月から05月までに942人に反革命容疑で死刑判決を出した。革命裁判所が死刑を宣告した数は、西暦1793年09月中旬から10月中旬までに15、次の1ヶ月間には65、翌西暦1793年02月中旬から03月中旬には116、03月中旬の1ヶ月では155、04月中旬からの1ヶ月では354にという風に漸次増加していき、それに合わせて裁判手続きは簡素化された。 マルティアル・ジョゼフ・アルマン・エルマンはテルミドール09日のクーデターで逮捕され、検事のアントワーヌ・カンタン・フーキエ・タンヴィル(Antoine Quentin Fouquier-Tinville またはFouquier de Tinville)らとともに処刑された。多くの者が何らかの腐敗に関与していたので国民公会議員は内心では震え上がった。他方、治安局の存在は、警察権を持つ保安委員会の領分を犯し蔑ろにするものであって、公安委員会と保安委員会の反目の火種にもなった。保安委員会はヴァントーズ法の施行に抵抗し、非協力的態度で実施を延期させ続けた。
 公安委員会は、強大な権限を派遣議員から取り上げようとした。もはや派遣議員という代理人は必要としなかった。これまでも山岳派内部の不和と腐敗は地方ではもっと顕著で、様々な理由で地方に下った派遣議員は、先に来た者、後から来た者、各々が勝手に方針を変え、強権を振るい、しばしば対立することがあった。公安委員会はこれらの地方の混乱を収拾するために彼ら双方を召還して説明させる必要があった。派遣議員が作った特別法廷は廃止され、地方の特別裁判所もパリの革命裁判所に従属させるように04月16日に決められた。容疑者をパリに送るように指示があった。地方の革命裁判所の廃止は、ジョルジュ・オーギュスト・クートン(Georges Auguste Couthon)が提案した05月08日の法令による。04月19日(ジェルミナル(芽月)30日)、非耶蘇教化運動を主導し、派遣先で過酷な弾圧を繰り返した派遣議員たちが再びパリに召喚された。ジョゼフ・フーシェ、バラス子爵ポール・フランソワ・ジャン・ニコラ(Paul François Jean Nicolas、ポール・バラス)やルイ・マリ・スタニスラス・フレロン(Louis-Marie Stanislas Fréron)、ジャン・バティスト・カリエやジョゼフ・フーシェに続いて21人の派遣議員が一挙に召喚された。これは弾圧の行き過ぎを抑止する警察・治安上の措置であると同時に、宗教・道徳上の措置だった。非耶蘇教化運動を政治的に率先して利用したジャック・ルネ・エベールらが排除され、恐怖政治にとって、またマクシミリアン・ロベスピエールにとっても絶頂期を迎えた。

 ジェルミナルの劇の後も処刑は相次いだ。西暦1791年06月14日に憲法制定議会の議長で、労働者の団結を禁止した「同一の身分、職業の労働者および職人の集合に関する法(ル・シャプリエ法)」の提唱者のイザーク・ルネ・ギー・ル・シャプリエ(Isaac René Guy le Chapelier)が、反革命の容疑で逮捕・西暦1794年4月22日、処刑された。ジャコバンクラブの前身、ブルトンクラブの創設者もギロチンの刃を免れなかった。ル・シャプリエ法は革命後も存続し、フランスで罷業権や結社権が認められたのは、西暦19世紀後半〜20世紀初頭に掛けてのことである。
 同日、前年12月に家族と共に逮捕・収監されていた、ルイ16世の弁護人、クレティアン・ギヨーム・ド・ラモワニョン・ド・マルゼルブ(Guillaume-Chrétien de Lamoignon de Malesherbes)も家族と共に処刑台に送られた。72歳没。自由と法に身を捧げた生涯だった。クレティアン・ギヨーム・ド・ラモワニョン・ド・マルゼルブは、法服貴族名門ラモワニョン家に生まれ、西暦1750年に父親のギヨーム・ド・ラモワニョン・ド・ブランメニル(Guillaume de Lamoignon de Blancmesnil)が尚書局長に任命された時、父の跡を継いで租税法院長に就任し、またほぼ同時に尚書局長に属する図書館長の両方に任命された。 図書館長の職はフランス中の検閲の監督があり、この立場で王室検閲の責任者として、ドゥニ・ディドロ(Denis Diderot)やジャン・ル・ロン・ダランベール(Jean Le Rond d'Alembert)の百科事典の出版を支援した。ドゥニ・ディドロやジャン・ル・ロン・ダランベールなど、数人の主要な哲学者を検閲官として採用した。クレティアン・ギヨーム・ド・ラモワニョン・ド・マルゼルブはドゥニ・ディドロやジャン・ジャック・ルソーら文学者・哲学者と連絡を維持し保護した。 マルゼルブは検閲に対し、「真に猥褻な本は没収するが、単なる猥褻な本は無視すべきである。」と命令した。 出版について革新的であってもそれほど危険でないと判断される本により多く暗黙の許可を与え,検閲制度を緩和した。私的には啓蒙思想家を保護するようになり,言論の自由に賛意を表明した。また、租税法院長として国王評議会に対し、新たな税金と財政令に反対するだけでなく、より具体的には抑圧的な政策に反対する諌めを出し続けた。受けた教育とは異なって王政内では進歩派となった。
 マルゼルブは生涯献身的な王党派であり続け、フランスを変革した急進的な啓蒙の流れにほとんど影響を受けなかったが、ルイ14世の治世を批判し「君主は、人民の福祉以外の目的のためには存在しない。」という大胆な政治思想を宣言したフランソワ・ド・サリニャック・ド・ラ・モート・フェヌロン(François de Salignac de La Mothe-Fénelon dit Fénelon)やシャルル・ルイ・ド・モンテスキューの著書の読書、ジャン・ジャック・ルソーやローヌ男爵アンヌ・ロベール・ジャック・テュルゴー(Anne-Robert-Jacques Turgot, Baron de Laune)との友情に影響を受けた。 彼は何度も、不公平で恣意的な課税政策と浪費を理由に君主制を批判した際に、後に革命家たちが挙げた不満を認めた。 彼は「階級制度が自然で望ましいものである。」と信じていたが、それが行政や司法に歪める影響を与えることを懸念していた。実際、彼は「貴族の特権は生まれによって与えられるものではなく、フランスへの奉仕を通じて獲得されるべきだ。」と主張した。 マルゼルブはまた、「国王が世論や不満にもっと関与すべきである。」と考え、統治における出版の重要性を強調した。マルゼルブの穏健派と改革派の傾向は、図書館長在職中に全面的に発揮された。 実際、当時の検閲は自動的に人間に敵意を齎すものとは認識されていなかった。 マルゼルブは「政府の権威や宗教を攻撃する書籍は抑制されるべきである。」と信じていたが、危険であると警告された哲学的作品の出版を許可するよう検閲をしばしば押し切った。 ある注目すべき事例では、マルゼルブは、発表と同時に世間の耳目を集めたクロード・アドリアン・ヘルヴェティウス(Claude Adrien Helvetius)の過激な作品に、公式の認可と独占出版権を意味する王室特権を与えた。 最終的に法廷は王室特権を剥奪し、議会はその本を焼却するよう命じた。 別の事例では、マルゼルブはジャン・ジャック・ルソーの「エミール、あるいは教育について」に感銘を受け、秘密出版を調整した。マルゼルブは、政府の非効率性と特権に対する広範な批判を検閲の実践にも適用した。 彼は、あまりに多くの書籍を禁止すれば書籍取引が抑制され、執行が不可能になると主張して、より寛容な検閲制度を擁護した。 さらに、彼は特定の書籍の出版または封鎖を要求する貴族への恩恵を拒否することで、図書館の伝統を破った。ヴォルテール(Voltaire、本名: フランソワ・マリー・アルエ(François-Marie Arouet))はマルゼルブが図書館長を退いた時、「マルゼルブ氏は報道機関にこれまで以上に自由を与えることで人間の精神に精力的に奉仕した。」と書いた。
 ショワズール公エティエンヌ・フランソワ(Étienne-François de Choiseul)は、ルイ15世最愛王の寵妃ポンパドゥール侯爵夫人ジャンヌ・アントワネット・ポワソン(Jeanne-Antoinette Poisson, marquise de Pompadour)の支援で実質首相の筆頭大臣に就任したが、王室評議会議員による王権への諌めや侵害を取り締りを躊躇い、哲学者や百科事典の専門家たちに好意的なショワズール公は、国王に寛大な対応を懇願した。西暦1763年、父ギヨーム・ド・ラモワニョン・ド・ブランメニルがルイ15世最愛王の不興を買い追放されたため、マルゼルブは図書館長を退任した。ヴェルサイユの王室はルイ15世最愛王の寵妃デュ・バリー伯爵夫人と大法官ルネ・ニコラ・シャルル・オーギュスタン・ド・モープー(René Nicolas Charles Augustin de Maupeou)に権力が移り、西暦1771年、前年後半にショワズール公が解任され、デュ・バリー夫人とデギュイヨン公エマニュエル・アルマン・ド・ヴィニュロー・デュ・プレシ・ド・リシュリュー(Emmanuel-Armand de Vignerot du Plessis de Richelieu, duc d'Aiguillon)の扇動により、租税法院はモープーが考案した「新しい司法執行方法に反対した。」として解散された。 マルゼルブは、行政長官として、「司法制度を過度に集中化し、世襲の法衣貴族を廃止する。」というモープーの提案を批判した。彼は「法衣貴族が国民の擁護者であり、王権の抑制である。」と信じていた。
 マルゼルブは02月18日付で新たな戒めを書いた。 彼の発言は政治的で批判的なものになり、「我々は自由な国民の最も重要な権利を国家から奪いたい。」 マルゼルブは「古くて尊敬されている法律」の尊重を呼びかけ、「国民が自分たちの権利と自由の防波堤と見做している場合には守らなければならない法律である。」 そして彼は、「神聖な権利ではもはや十分ではない。」と敢えて書き、国王に向けて「神が王たちの頭に王冠を置くのは、臣民に生命の安全、人の自由、財産の平和的所有権を与えるためだけである。(Dieu ne place la couronne sur la tête des rois que pour procurer aux sujets la sûreté de leur vie, la liberté de leur personne et la tranquille propriété de leurs biens.)」 その後、彼はそれを秘密裏に印刷し、租税法院に引き渡す前に一般に配布させた。国民の正統性、国民の権利、閣僚の批判、国家元首の緊急の必要性、これらの概念は革命的であり、西暦1789年に再び取り上げられることになった。この戒めの秘密の拡散の成功は驚異的であった。 この諌めは君主制を揺るがすものである。国王に耳を傾けてもらえず、街頭やサロンやカフェでその声が聞こえることとなった。
 彼は新体制を追放され、旅行と園芸に専念した。 実際、マルゼルブは植物学に情熱を注いでいた。 24歳の時、彼はベルナール・ド・ジュシュー(Bernard de Jussieu)から植物学の手ほどきを受けた。マルゼルブはロワレ県のマルゼルブ城に農園を開き、ジャン・ジャック・ルソーやトーマス・ジェファーソン(Thomas Jefferson)と文通を続け、植物を交換し、隣人である著名な農学者・植物学者アンリ・ルイ・デュアメル・デュ・モンソー(Henri Louis Duhamel du Monceau)から助言を得た。 彼は、リーワード諸島の知事である甥のセザール・アンリ・ド・ラ・ルゼルヌの立場を利用して、種子を送ってもらった。彼はカール・フォン・リンネ(Carl von Linné)の植物分類体系を支持する文章を書いており、西暦1750年以来科学アカデミーの会員でもあった。
ベルナール・ド・ジュシューの兄のアントワーヌ・ド・ジュシュー(Antoine de Jussieu)も著名な植物学者。ベルナール・ド・ジュシューの弟のジョセフ・ド・ジュシュー(Joseph de Jussieu)も植物学者となった。ベルナール・ド・ジュシューの甥のアントワーヌ・ローラン・ド・ジュシュー(Antoine Laurent de Jussieu)も植物学者で叔父のベルナール・ド・ジュシューの考えを発展させ、形態による新しい分類体系を公表したが、完成にはさらに15年を要した。彼以前のリンネによる分類は、雄蕊と雌蕊の数によって植物を分類していたので不自然な部分が多かったが、アントワーヌ・ローラン・ド・ジュシューの分類体系はより自然なもので、その後の顕花植物の分類全ての基礎となっている。アントワーヌ・ローラン・ド・ジュシューの息子アドリアン・アンリ・ド・ジュシュー(Adrien-Henr de Jussieui)も植物学者。
 ポール・アンリ・ティリ・ドルバック男爵(Paul-Henri Thiry, baron d'Holbach、パウル・ハインリヒ・ディートリヒ・フォン・ホルバッハ(Paul Heinrich Dietrich von Holbach))がデイヴィッド・ヒューム(David Hume)に「君は奴を知らない。はっきり言おう、君は胸に毒蛇を入れて暖めているようなものだ。」とまで言って警告した人格破綻の恩知らずの気違いスイス人、ジャン・ジャック・ルソーも熱心に植物の研究を始めていた。パリの植物園や近郊の森、ムードン、モンモランシイ、ヴァンセンヌ、ブーローニュ、サンクルー公園などを、時には1人で、ある時は植物園のベルナール・ド・ジュシューやその若い甥アントワーヌ・ローラン・ド・ジュシューと、ジャン・ジャック・ルソーの保護者であり植物愛好家であるクレティアン・ギヨーム・ド・ラモワニョン・ド・マルゼルブやその仲間と、またジャック・アンリ・ベルナルダン・ド・サン・ピエール(Jacques-Henri Bernardin de Saint-Pierre)らと植物を採集し、夜にはその採集品を押し葉とした。デイヴィッド・ヒュームは、ジャン・ジャック・ルソーに他の知己と同様、警告通り酷い目に遭った。
 マルゼルブは「ムッシュ・ギョーム(Monsieur Guillaume)」という偽名で、お忍びでフランス、オランダ、スイスを旅行するのを楽しみ、訪れた地域の農業と産業の両方に関する観察結果を収集し、当然のことながら植物収集も行った。彼はビュフォン伯ジョルジュ・ルイ・ルクレール(Georges-Louis Leclerc, Comte de Buffon)に対して非常に批判的であり、彼の地球論に公然と反対していた。西暦1751年にヴィシーに採水に行った時、植物学者で鉱物学者・地質学者のジャン・エティエンヌ・ゲタール(Jean-Étienne Guettard)が同行した。ゲタールはこの時オーヴェルニュ山脈の火山活動を発見した。マルゼルブは西暦1750年に科学アカデミーの会員に、西暦1759 年に碑文アカデミーの会員に、西暦1775 年にフランスアカデミーの会員に選出された。28年後、彼はゲタードを弁護する証言の手紙を書いたが、ゲタードはバルテルミー・フォジャ・ド・サン・フォン(Barthélemy Faujas de Saint-Fond)を含む一部の人から盗作で告発された。ゲタールはラヴォアジエ家と親交があり、当時パリ大学生だったアントワーヌ・ローラン・ド・ラヴォアジエ(Antoine-Laurent de Lavoisier)の師の1人として、彼と共にアルザス・ロレーヌを踏査している。
 西暦1774年、ルイ16世の即位に伴い、マルゼルブはパリに呼び戻され租税法院院長に復職し改革を目指した。 この時点で彼は、政権が直面している問題を詳述し、財政政策の全面的な見直しを構想した有名な西暦1775年の中央政府の勧告を主導した。 ルイ16世はこの計画に非常に感銘を受け、政府の将来を懸念し、西暦1775年にマルゼルブを王室大臣に任命した。 同年、マルゼルブはフランス・アカデミー会員にも選出された。 彼が王室大臣として在職したのはわずか9か月だけだった。法廷は財政抑制や封印状の使用制限等を含むその他の改革に関する彼の提案に頑固に反対し、すぐに彼は政治的支援を失い、西暦1776年にローヌ男爵アンヌ・ロベール・ジャック・テュルゴーとともに辞職に追い込まれた。
 革命前のフランスの状況により、マルゼルブが政治活動から身を引くことは不可能であった。西暦1787年、彼はプロテスタントの権利に関する論文を執筆し、フランスにおけるプロテスタントの市民的承認を獲得するのに大いに役立った。同年後半、国王への回想録では、プロテスタントによって引き起こされた壊滅的な状況について彼が見たものについて詳しく述べた。 王制は急速に将来の災難を避けられないものになりつつあった。西暦1788年、プロヴァンス、ラングドック、ルシヨン、ベアルン、フランドル、フランシューコンテ、ブルゴーニュでの暴動がフランス中を震撼させたが、暴動の動機のほとんどは食糧不足、3部会代議制政府への同情、あるいはその両方だった。西暦1787〜1788年にも国務大臣となったが、圧力のため、マルゼルブは西暦1788年09月14日に辞任した。この2度の大臣在職期間中、マルゼルブの意見はほとんど顧みられることがなかった。図書館長を退職してから数十年後の西暦1788年、2度目の大臣を辞職する頃「報道の自由に関する回想録」を出版し、その中で彼が強制していた検閲制度を批判した。 フランス革命前夜、彼は「公開討論を奨励する。」という理由で報道の自由を擁護した。検閲制度の下では、最も極端な作家だけが危険を冒して微妙な話題を出版し、一般大衆は報道の自由を奪われることになる。 実際、マルゼルブは今や「国民」という革命用語を採用し、「国民は真実を知ることしかできない。」と主張した。しかし、彼は検閲の概念を捨てたわけではなかった。 その代わりに、彼は自主検閲制度を構想し、出版前に公式の承認を得た場合、著者がその考えに対するその後の司法訴追から免責されることを保証した。「真理の発見のためには国民の自由な討論が不可欠であり、その自由な討論のためには出版の自由が不可欠である。」と主張した。
 再び暴動が勃発し、群衆はマルゼルブの家を焼き払おうとし、軍隊が出動し、身を守ることのできない貧民の恐ろしい虐殺があった。

 フランス革命の初期は,自分の所領で過ごしたが,西暦1992年国王が国民公会で起訴されると,自ら弁護を買って出て,王室虐待を精力的に批判し、王党派の忠臣の道を選んだ。
 彼はグリモード・ド・ラ・レイニエール(Grimod de La Reynière)嬢と結婚し、息子ギヨーム(Guillaume)は西暦1751年に2か月で夭折しし、2人の娘フランソワーズ・ポーリーヌ(Françoise Pauline)とアントワネット・テレーズ・マルグリット(Antoinette-Thérèse-Marguerite)ができた。フランソワーズ・ポーリーヌはモンボワシエ・ボーフォール・カイヤック侯シャルル・フィリップ・シモン(Charles Philipppe Simon de Monboissier Beaufort-Canillac)と、末娘はロサンボ侯ルイ(5世)・ル・ペルティエ(Louis Le Peletier de Rosanbo)と結婚した。 この末娘夫婦の女の子、アリーヌ・テレーズ・ル・ペルティエ・ド・ロザンボ(Aline Thérèse Le Peletier de Rosanbo、Comtesse de Combourg de Chateaubriand, Aline Therese le Peletier de Rosanbo)は、フランソワ・ルネ・ド・シャトーブリアン(François-René de Chateaubriand)の兄、コンブール伯ジャン・バティスト・オーギュスト・ド・シャトーブリアン(Jean-Baptiste Auguste de Chateaubriand、comte de Combourg)と結婚した。 もう1人の女の子、ルイーズ・マドレーヌ・ル・ペルティエ・ド・ロサンボ(Louise Madeleine Le Peletier de Rosanbo)は、エルヴェ・クレレル・ド・トクヴィル(Hervé Clérel de Tocqueville)と結婚し、彼らは有名な政治学者アレクシス・ド・トクヴィル(d’Alexis de Tocqueville)の両親に当たる。
 西暦1792年、マルゼルブはローザンヌにいる亡命貴族の娘を訪ねたが、すぐにフランス共和国に戻った。革命について何の幻想も抱いていなかった。西暦1792年12月、国王ルイ16世が投獄され裁判に直面すると、マルゼルブは国王の法的弁護を志願した。 プロテスタントとユダヤ人の解放を認めた国王への忠誠心から、彼は自ら裁判で国王の弁護を志願し、12月11日、国民公会議長に次のような手紙を書いた。「国民公会がルイ16世に弁護するよう助言を与えるかどうか、そしてルイ16世に選択を委ねることになるかどうかはわからない。 この場合、私はルイ16世に、もし彼が私をこの任務に選んだのであれば、私はその任務に専念する用意があるということを知ってもらいたい。」ルイ16世は、「あなたは自分の命を危険に晒して、私の命を救おうとしており、あなたの犠牲はなおさら大きい。」と答えた。彼は裁判の前にフランソワ・トロンシェ(François Denis Tronchet)やセーズ伯レイモン・ロマン((Raymond Romain, Comte de SèzeまたはDesèze)とともに国王の助命を弁護した。
ルイ16世は有罪判決を受け、マルゼルブは、西暦1793年01月20日、法務大臣のドミニク・ジョセフ・ガラット(Dominique Joseph Garat)とパリ自治市会の副検事ジャック・ルネ・エベールとともに、ルイ16世に死刑判決を通知する代表団の一員になった。 国王の処刑後、マルゼルブは亡命貴族に敵対的で、亡命貴族に加わることを拒否し、ルイ16世の遺言の一節についてプロヴァンス伯ルイ・スタニスラス・グザヴィエ(Louis Stanislas Xavier. comte de Provence、後のルイ18世)に敢えて質問した。その内容は「自らを大いに非難する者たち」を呼び起こした。マルゼルブはフランス共和国に留まることで、王妃マリー・アントワネットの裁判が起きた場合に王妃を弁護する計画も立てていた。
 この努力の後、彼は再び国に戻ったが、西暦1793年12月に娘アントワネット・テレーズ・マルグリット、義理の息子ロザンボ侯ルイ(5世)・ル・ペルティエ、孫夫婦とともに逮捕された。 彼らはパリに連れ戻され、「亡命貴族との共謀」の罪で家族とともにポルト・リーブル監獄に投獄された。マルゼルブは有徳の士で思想家のみならず国民からも人気の人物で、革命政府による逮捕に際しマルゼルブ村議会は彼の無罪を主張し、その公民精神と市民への援助、良き共和国の人民であることを証言したが、革命政府は取り合わなかった。彼は抗弁を拒否した。

 革命政府にとって、家族を含め死刑が決まっており、秘書だという理由などこじ付けでも何でも良かった。西暦1794年04月20日に義理の息子、ロサンボ侯ルイ・ル・ペルティエは断頭台で処刑された。その2日後、西暦1794年04月22日(フロレアル(花月)03日)、娘のロサンボ侯爵夫人アントワネット・テレーズ・マルグリット、孫娘のコンブール・ド・シャトーブリアン伯爵夫人アリーヌ・テレーズ・ル・ペルティエ・ド・ロザンボ(Comtesse de Combourg de Chateaubriand, Aline Therese le Peletier de Rosanbo)とその夫コンブール伯ジャン・バティスト・オーギュスト・ド・シャトーブリアン、立法議会議員のイザーク・ルネ・ギー・ル・シャプリエ(Isaac René Guy le Chapelier )と立法議会議長に4回選出されたジャック・ギョーム・トゥーレ(Jacques Guillaume Thouret,)も彼とともに処刑された。
 当時の革命裁判所の事務処理は、日々の大量の裁判のお蔭でかなり杜撰に行なわれていた。同名人を処刑してしまったり、同名の伯爵と子爵がいたら両方とも逮捕してしまったり、酷いものだった。判決文が読まれた際に、16歳の息子ロザンボ侯ルイ(6世)(Louis de Rosanbo)の死刑判決文に対して、60歳になる父ロザンボ侯ルイ(5世)・ル・ペルティエが身代わりに名乗りを上げた時も、裁判官は全く気付かなかった。こうして、16歳の息子のルイ(6世)・ル・ペルティエ・ロザンボ(Louis Le Peletier de Rosanbo)は、父ロザンボ侯ルイ(5世)・ル・ペルティエの身代わりのお蔭で、裁判所の囚人記録簿から名前を抹消され、革命時代を生き延びることが出来た。
ロザンボ侯ルイ(6世)・ル・ペルティエは革命後復権し、その娘のマリー・アンリエット(Marie-Henriette)が西暦1749年にアイルランド からフランス王国に帰化した軍人貴族の一族マクマオン伯爵の息子シャルル・マリー(Charles-Marie)に嫁ぎ、その弟マクマオン伯爵およびマジェンタ公爵マリー・エドム・パトリス・モーリス・ド・マクマオン(Marie Edme Patrice Maurice de Mac-Mahon, comte de Mac-Mahon, duc de Magenta)は西暦1873年にフランス第3共和政(西暦1870〜1940年)3代大統領となった。
 クレティアン・ギヨーム・ド・ラモワニョン・ド・マルゼルブが監獄を出て邪悪な荷馬車に乗ろうとした時、足が石に当たって躓いた。 「それは、‥」と彼は悲しそうに微笑みながら言った、「悪い前兆だ。ローマ人ならば行くのを止めるだろうが、そうも行かないか。」 と最期まで冗句を飛ばした。
 05月10日、彼の姉、セノザン伯爵夫人アンヌ・マリー・ルイーズ・ニコール・ド・ラモワニョン・ド・マルゼルブ(Comtesse de Senozan, Anne Marie Louise Nicole de Lamoignon de Malesherbes)(76)が国王ルイ16世の妹エリザベート・フィリッピーヌ・ド・フランスと同じ日に処刑された。

 彼の像はパリの最高裁判所に設置された。

クレティアン・ギヨーム・ド・ラモワニョン・ド・マルゼルブは、検閲を緩め、出版の自由、報道の自由を認め百科事典の出版やを人格破綻の人間のクズで毒蛇と言われたスイス人、ジャン・ジャック・ルソーを支援し、クロード・アドリアン・ヘルヴェティウスの著作を野に放とうとした。 フランス啓蒙時代の自由主義の発展に貢献したが、マクシミリアン・ロベスピエールは、ジャン・ジャック・ルソーに私淑した信者だった。フランス革命を引き起こす原因を作り自らの首を絞めたと言える。
それだけではなく、悪逆非道なディープステイト(DS(出来損ないの堕落した最兇な屑))の中核、ロスチャイルドに繋がる富裕で邪悪なユダヤ人、カール・マルクスに影響を及ぼし。ヘルヴェティウスとポール・アンリ・ティリ・ドルバック男爵の物質主義を「共産主義の社会的基盤」と呼んでいる。

人類を共産主義や全体主義で掠奪、強姦、拷問、殺戮、虐殺、抹殺の地獄に突き落している。


マルゼルブ: フランス一八世紀の一貴族の肖像 - 木崎 喜代治
マルゼルブ: フランス一八世紀の一貴族の肖像 - 木崎 喜代治

 王妃マリー・アントワネットは、西暦1793年08月02日にコンシェルジュリー監獄に連行され、10月16日に処刑された。処刑の朝、マリー・アントワネット王妃が義妹(ルイ16世の妹)、エリザベート・フィリッピーヌ・ド・フランスに宛てて書いた遺書は彼女の元には届けられず、幽閉されたエリザベート・フィリッピーヌと長女マリー・テレーズ・シャルロット・ド・フランスの2人はマリー・アントワネットの死を知らされないまま1年近く幽閉され続けた。
 西暦1794年05月09日の就寝直前、エリザベート・フィリッピーヌはコンシェルジュリー監獄の個室へと移送され、深夜に革命裁判所で尋問を受けた。翌日は24人の他の囚人と共に革命裁判に掛けられ、国王の脱走を手助けした罪、王族や貴族の国外への亡命に資金を援助した罪で告発された。その上、彼女は「甥であるルイ・シャルル(ルイ17世)に性的虐待を行っていた。」という、突拍子もない犯罪で訴えられた。この嘘の告発は、拷問に掛けられた子供ルイ・シャルル(ルイ17世)により引き出された。実際、裁判を傍聴した観衆からエリザベート・フィリッピーヌに対する同情が集まり、彼女の助命を願う声が集まった。しかし数分間の短い裁判の判決は死刑であった。深夜にコンシェルジュリー監獄の個室に戻されたが、同時に革命裁判を受けた者が集まる雑居房行きを希望した。処刑を免れた人の記録によると、死刑判決が下り嘆き悲しむ者たちに、「苦悶と悲しみしかないこの世よりも喜びに溢れた天国に行くのだ。」と力づけた。セリイー伯爵夫人アンヌ・マリー・ルイーズ・トーマ(Anne-Marie-Louise Thomas de Domangeville de Serilly)は、セリイー伯爵アントワーヌ・ジャン・フランソワ・メグレ(Antoine Jean- Francois Megret, comte de Serilly)の妻で翌日処刑のところをエリザベトート・フィリッピーヌの機転で妊婦としての申告をし、処刑を免れ、妊婦も出産後に処刑される決まりだが、そのままテルミドール09日を経て 生き長られている。
 処刑は裁判の翌日05月10日に行われた。荷馬車で革命広場(現コンコルド広場)に連れられ、エリザベート・フィリッピーヌは長椅子の一番処刑台に近い位置に座らさせられたが、「主よ、深き淵よりわれ汝を呼ぶ」を唱えていた。クリュッソル・ダンボワーズ侯爵夫人クロード・ルイーズ・アンジェリク・ベルサン(Marquise de Crussol d'Amboise,Claude Louise Angelique Bersin)は処刑の時、最初に名が呼ばれたので、この人は王妹エリザベート・フィリッピーヌに敬意と愛の接吻の許可を求め、エリザベート・フィリッピーヌも心から喜んで彼女の接吻を受けた。処刑台に向かう男性は彼女に腰を屈めて会釈をし、女性はエリザベート・フィリッピーヌの手に接吻をし、エリザベート・フィリッピーヌは彼らを祝福した。エリザベート・フィリッピーヌは台に紐で縛り付けられる際、肩に掛けていたショールが取り払われ、肩を露わにされた。「礼儀を守りなさい、ムッシュー。ショールを掛けなさい!」彼女が死刑執行人にそう叫んだ正にその時、ギロチンの刃が彼女の頭上から落とされた。


 マリー・テレーズ・シャルロットの両親のルイ16世とマリー・アントワネットと叔母エリザベート・フィリッピーヌは革命政府によりギロチンで処刑され、弟ルイ17世(ルイ・シャルル)とも引き離され、マリー・テレーズ・シャルロットは2年近く1人で幽閉生活を送った。国民公会による尋問には必要最低限の言葉で答え、国民公会が差し向けた面会者の質問には全く答えなかった。また、幽閉後、発病した弟ルイ17世(ルイ・シャルル)の健康状態を常に気に掛け、ルイ17世(ルイ・シャルル)に治療を施すようにと何度も国民公会に手紙を送った。マリー・テレーズの部屋には下の階に幽閉されていた弟ルイ17世(ルイ・シャルル)の泣き声がよく聞こえてきた。少女マリー・テレーズ・シャルロットの慰めは叔母エリザベート・フィリッピーヌが残した毛糸で編み物をすることと、カトリックの祈祷書と信仰であった。

ルイ十七世の謎と母マリー・アントワネット - キャドベリー,デボラ, Cadbury,Deborah, 櫻井 郁恵
ルイ十七世の謎と母マリー・アントワネット - キャドベリー,デボラ, Cadbury,Deborah, 櫻井 郁恵

 質量保存の法則の発見、酸素の命名、フロギストン(燃素)説の打破などの功績で有名な化学者の「近代化学の父」アントワーヌ・ローラン・ド・ラヴォアジエは、徴税請負人(フェルミエー・ジェネロー(Fermiers généraux)、トレタン(traitant)、パルチザン(partisan))だったため、審理が終わらないまま判決が出され「共和国は科学者を必要としない。」という理由で処刑された。
 アントワーヌ・ローラン・ド・ラヴォアジエは、パリにおいて裕福な弁護士の父の子に生まれた。母はアントワーヌ・ローラン・ド・ラヴォアジエが5歳の頃に亡くなり莫大な遺産を引き継ぎ叔母のもとで養育された。アントワーヌ・ラヴォアジエはマザラン学校に在籍し、化学や植物学、天文学、数学を学んだ。当初、アントワーヌ・ラヴォアジエは父の跡を継ぐため法律家を目指し、パリ大学の法学部に進学して、西暦1763年に学士号を修得し、翌年の西暦1764年には、弁護士試験に合格し、高等法院法学士となった。
 アントワーヌ・ラヴォアジエが自然科学に興味を抱くようになった転機は、パリ大学の在学中で、天文学者のニコラ・ルイ・ド・ラカーユ(Abbé Nicolas-Louis de Lacaille)から天文学、博物学者のベルナール・ド・ジュシュー(Bernard de Jussieu)から植物学を、博物学者・鉱物学者のジャン・エティエンヌ・ゲタール(Jean-Étienne Guettard)から地質学と鉱物学、化学者のギヨーム・フランソワ・ルエル(Guillaume-François Rouelle)から化学を学んだ。ラヴォアジエは法学部に在籍していたが、化学の講義を聴講し、喜望峰に滞在して天文学の研究、ジャン・エティエンヌ・ゲタールによるフランスの地質図作成に協力したりした。
 その後、ジャン・エティエンヌ・ゲタールと各地を回る中でアルザス・ロレーヌなどを旅行した際に、アントワーヌ・ラヴォアジエは各地方の石膏に関心を示し、これらの比較研究をした。これがラヴォアジエの最初の自然科学の研究であった。後にアントワーヌ・ラヴォアジエは特記すべき定量実験で多くの成果を残したが、推測を極力排し確実な実験事実が重視したこの石膏に関する研究は端緒だった。西暦1766年にフランス科学アカデミーは「都市の街路に最良な夜間照明法」の論文を懸賞募集していた。アントワーヌ・ラヴォアジエはこれに対して誰よりも先に論文を著し、04月09日に1等賞を得た。速やかに優れた論文を著した成果に対して、当時のフランス国王ルイ15世最愛王より金メダルが授与された。その後、ジャン・エティエンヌ・ゲタールとの地質図作成の旅行で集めた飲料水の分析結果を発表し、この成果が認められ、西暦1768年05月18日にフランス科学アカデミーの会員となった。
 当時、寡黙であり、また大変な人間嫌いでほとんど誰とも言葉を交わすことがなかったイギリス王国の化学者・物理学者のヘンリー・キャヴェンディッシュ(Henry Cavendish)は金属と酸から水素が発生することを発見していた。
ヘンリー・キャヴェンディッシュは人目を引くような服装は徹底的に避け古い様式の服装を着て過ごし、当時「彼の人生最大の目的は人の目を引かないことである。」と噂された。特に女性を嫌い、会うことを極力避けた。女性の使用人に夕食の注文をする時も、基本的に羊の肉しか食べなかったが帳面に書き、食卓の上に置いて知らせ、直接顔を合わせないよう心掛けた。屋敷内で彼の前に姿を見せてしまったために解雇された使用人もいた。従って会合に出る事もなく、出たのは王立協会等での科学者たちの研究会のみで、それすら稀で、ヘンリー・キャヴェンディッシュが凄く機嫌が良いと、興味をもったことに対して傍にいる人にボソっと話すこともあったようだが、そうすると周囲はヘンリー・キャベンディッシュの言葉を聞き漏らすまいと躍起になった。
 ヘンリー・キャヴェンディッシュは、「科学者の中で一番の金持ちであり、金持ちの中で最も偉大な科学者」で、キャヴェンディッシュは莫大な資産を持っていたが、政治的な名誉や経済的な成功は望まず、生活も大変に質素であった。銀行への預金額が8万ポンドを超えた時、銀行員が彼の下を訪れ、資金を投資に活用するよう熱心に説いたが、ヘンリー・キャヴェンディッシュは聞く耳をもたず「これ以上私を煩わせるようなことをすると預金を全部引き出す。」と答えた。慈善の寄付などはよくしていて、面倒だからと寄付の一番高い人と同額にしていた。偽の募金額を見せられることもあった。栄誉は望まず、贅沢も望まず、ただ人に隠れるように好きな科学と最低限の努めは果たしていた。
 西暦1810年02月24日、病床にあったヘンリー・キャヴェンディッシュは召使いを呼び、「私の言うことをよく聞きなさい。私はもうじき死ぬ。私が死んだら、いいかい、必ず死んでからだよ、ジョージ・キャヴェンディッシュ卿(ヘンリー・キャヴェンディッシュのいとこ)の所へ行って、そのことを伝えなさい。わかったら、下がってよろしい。」と告げた。その30分後、再び召使いを呼び出し、先ほどの指示の内容を復唱させてから、ラベンダーの香水を持ってこさせた。さらにその30分後、召使いが様子を見に部屋に入ると、ヘンリー・キャヴェンディッシュはすでに息を引き取っていた。
 彼の死後には、生前に発表されたもののほかに、未公開の実験記録がたくさん見つかっている。その中には、ジョン・ドルトン(John Dalton)やジャック・アレクサンドル・セザール・シャルル(Jacques Alexandre César Charles)によっても研究された気体の蒸気圧や熱膨張に関するものや、クーロンの法則およびオームの法則といった電気に関するものが含まれる。これらの結果は後に同様の実験をした化学者にも高く評価された。ただしこれらは、未公開だったため、科学界への影響はほとんどなかった。「もし生前に公開されていたら、」と、ひどく惜しまれた。彼にとっての科学研究は、全く自分の楽しみのであって、重要な発見をしても、自分の好奇心が満足させられればそれで良く、結果を積極的に公表しようとはしなかった。ヘンリー・キャヴェンディッシュの死後100年近くも経って、彼の遺した膨大な記録(中には本への書き込み)から出版されるまで業績は全く知られていなかった。
 こういった発見に触れたアントワーヌ・ラヴォアジエは、水や燃焼現象に興味を示すようになった。当時は古代からの4大元素説が有力であり、そのなかに「水は土に変わる。」という説があった。これに疑問を抱いたラヴォアジエは、西暦1768年末〜翌1769年に101日の期間を掛けた実験を行った。これは、水をガラス容器に入れて密閉状態で沸騰させた後に、正確に重さを測る実験であった(ペリカンの実験)。この結果として土の発生は観測されず、「水は土に変化しうる。」という説の反証を示した。
 西暦1768年には、フランス科学アカデミーから「空から巨大な石が落下して、働いていた農夫の近くの地面にめり込んだ。」という報告書の検討を依頼された。これに対して、アントワーヌ・ラヴォアジエは、「空からは巨大な石が落下することは絶対にない。」と間違って信じていた。
 アントワーヌ・ラヴォアジエは裕福で資産を十分に持っており、実験器具を購入する資金はあったが、実験器具の購入費用は資産からは出さず、西暦1768年頃より徴税請負人の職に就いた。アントワーヌ・ラヴォアジエにとって実験は趣味であった。週に1日は実験に耽り、アントワーヌ・ラヴォアジエはその1日を「幸福の1日」と呼んでいた。
 徴税請負人長官ジャック・ポールズ(Jacques Paulze)の娘のマリー・アンヌ・ピエレット・ポールズ(Marie-Anne Pierrette Paulze)と結婚した。父ジャック・ポールズは王室検事で、西暦1768年には徴税請負人となった。母クロディーヌ・トワネはブルジョア階級の家系である。2人の間には3人の息子と1人の娘があり、マリー・アンヌ・ピエレット・ポールズは末子であった。マリー・アンヌ・ピエレット・ポールズが生まれた時家は裕福であったが、3歳の時に母は死去した。西暦1771年、女子修道院付属学校に通っていた当時12歳のマリー・アンヌ・ピエレット・ポールズに、母の伯父である財務総監ジョゼフ・マリー・テレイ(Joseph Marie Terray)から、彼に多大な影響力を持っていたド・ラ・ガルド男爵夫人(la baronne de La Garde)の勧めの結婚話が持ち掛けられた。相手のアメルヴァル伯爵(comte d’Amerval)は当時50歳と父親よりも年上で、評判も良くなかった。マリー・アンヌ・ピエレットは結婚するか修道院に行くかの選択を迫られたが、この結婚話には乗らなかった。徴税請負人である父ジャック・ポールズとしては、立場上、財務総監からの話を断ることは自分の地位を危うくさせることであったのだが、娘の気持ちを汲んで、ジョゼフ・マリー・テレイに断りの手紙を送った。ジャック・ポールズに断られたことでジョゼフ・マリー・テレイは憤慨し、ジャック・ポールズの持つ地位を奪おうとしたが、友人の説得により思い止めた。しかし、結婚についてはまだ諦めていなかったので、ジャック・ポールズは、西暦1771年11月、同僚の徴税請負人であるアントワーヌ・ローラン・ド・ラヴォアジエを娘に紹介した。アントワーヌ・ラヴォアジエは当時28歳で将来有望、徴税請負人であるため収入もあり、容姿も魅力的だった。マリー・アンヌ・ピエレット・ポールズもこの話に同意し、両家の家格も同等であったことから話は早く進み、2人は出会って4週間後の西暦1771年12月06日に結婚した。マリー・アンヌ・ピエレット・ポールズはこの時13歳で、これは当時としても早い結婚である。
 結婚後、2人はパリのヌーブ・デ・ボンサンファン街に買った家に住んだ。西暦1772年頃には、アントワーヌ・ラヴォアジエは貴族の地位を金で得ていた。西暦1775頃に火薬硝石公社の火薬管理監督官となり、翌西暦1776年には兵器廠(砲兵工廠)に移り住み、そこで13年間過ごした。そこでアントワーヌ・ラヴォアジエは実験室をつくり、彼の実験の大部分はそこで行われるようにになった。この実験室は化学者らの集う場所として有名になった。この実験室では、大砲用の火薬を改良したほか、硝石の生産量を大幅に増やして、火薬の製造力を増大させた[。この際に、火薬に炭酸カリウムを入れると、その火力が上がることを発見した。また、農家に報酬金を支払って、火薬の原料となる硝石を作らせた。このようにアントワーヌ・ラヴォアジエは農業の分野にも関与しており、後には王立農業学会やフランス政府の農業委員会に加わった。
 アントワーヌ・ラヴォアジエは徴税請負人の仕事と化学の研究を両立させる多忙な生活を送っていた。マリー・アンヌ・ピエレット・ラヴォアジエはアントワーヌ・ラヴォアジエの実験室で実験器具の説明を受けることで化学を学んだ。そして夫の実験を手伝い、実験結果を記録した。2人の間に子はなかったものの、マリー・アンヌ・ラヴォアジエはアントワーヌ・ラヴォアジエの役に立とうと、結婚後に英語、イタリア語、ラテン語を学んだ。アントワーヌ・ラヴォアジエは英語ができなかったため、マリー・アンヌ・ラヴォアジエの助けによって英語の論文を読むことができた。ラテン語については兄から教わった。19歳のマリー・アンヌ・ラヴォアジエが兄宛ての手紙が残されている。「いつお帰りになりますの。ラテン語はお兄様がここにいらっしゃることを求めていましてよ。私を楽しませ、そして夫に相応しくして下さるために、退屈でしょうけど名詞や動詞の変化を教えにいらしてくださいましね。」さらにマリー・アンヌは、ジャック・ルイ・ダヴィッド(Jacques-Louis David)に絵画(実験図)を学んだ。そして西暦1789年に出版されたアントワーヌ・ラヴォアジエ著「化学原論(Traité élémentaire de chimie)(邦訳名:化学のはじめ)」の挿絵の実験器具の版画を作成した。実験に際しては非常に細かな点まで描写し記録として残した。この版画は、絵から装置を組み立てることができるように描かれており、当時から高い評価を受けた。科学史の観点から見ても、この版画は貴重な史料と見做されている。
 マリー・アンヌ・ラヴォアジエは、こうした研究の手伝いをするとともに、20歳頃から自宅でサロンを開いた。サロンにはアントワーヌ・ラヴォアジエの化学者としての評判を聞きつけて、国内外から多数の著名人が訪れた。英国の農学者アーサー・ヤング(Arthur Young)はマリー・アンヌ・ラヴォアジエについて、「生気に溢れ分別のある知的な女性、ラヴォアジエ夫人は紅茶とコーヒー付きのイギリス式の食事を支度していて下さった。しかし一番のもてなしは、夫人が翻訳中であったカーワンの『フロギストン論考』についての話や、あるいは実験室で夫の手伝いをしている知的な女性である夫人の心得ある話術であった。」と記述している。
 マリー・アンヌ・ラヴォアジエは、夫アントワーヌ・ラヴォアジエの研究を手伝うことで、フロギストン説の否定と、それに代わる新しい理論の普及に貢献した。フロギストン説とは、燃焼の際にフロギストン(燃素)という物質が放出されるという説で、当時としては燃焼を説明する主流の説であった。しかしアントワーヌは自らの実験などからこの説に異を唱え、燃焼の際には物質が酸素と結びつくと考えた。マリー・アンヌ・ラヴォアジエはアントワーヌ・ラヴォアジエのために、ジョゼフ・プリーストリーやヘンリー・キャヴェンディッシュといった、当時のフロギストン説支持者の論文を翻訳した。中でも特筆されるのが、アイルランドの化学者・鉱物学者・地質学者・気象学者・リチャード・カーワン(Richard Kirwan)の著書「フロギストン論考」の翻訳である。リチャード・カーワンはフロギストン説支持者の大御所であり、「フロギストン論考」は、アントワーヌ・ラヴォアジエの理論にフロギストン説の立場から反論した書であった。ラヴォアジエ夫妻とその協力者は、同書を訳したうえで再反論をしようと試みたのである。この翻訳書でマリー・アンヌ・ラヴォアジエは、翻訳及び緒言の執筆を担当した。他に、リチャード・カーワンに対する反論が書かれた「翻訳者の注」の箇所にも深く関わっていたと考えらる。マリー・アンヌの翻訳はリチャード・カーワンの原著に忠実で、アントワーヌ・フランソワ・ド・フルクロワ(Antoine François de Fourcroy)も後に評価した。この翻訳書は西暦1788年に出版され、大きな反響を呼んだ。オラス・ベネディクト・ド・ソシュールはフロギストン説の支持者であったが、同書を読んで考えを改め、「貴方は私の疑いに打ち勝たれたのです。」と、マリー・アンヌ・ラヴォアジエの仕事を称賛する手紙を書いた。当のリチャード・カーワンは、西暦1789年に反論を執筆したが、西暦1791年には、アントワーヌ・フランソワ・ド・フルクロワ宛の手紙で、「ついに私は鉾を納め、フロギストンを放棄します。」と綴った。
 西暦1774年01月には、「ペリカン」を用いた実験により、化学反応の前後では質量が変化しないことを見出した。これは、「化学反応の前後で、反応系の全体の質量は変化しない。」とする重要な基礎法則である(質量保存の法則)。当時の燃焼を説明する理論としては、シュタールのフロギストン(燃素)説が最も知られており、主流の学説であった。フロギストン説は、燃焼を一種の分解現象と説明しており、可燃物の燃焼時にはそのなかに含まれていたフロギストン(燃素)が出てきて、熱や炎となるとされた。ただ、燃焼によって物質の重量は一般に軽くなるが、金属を加熱して金属灰に変化させた際には重量が増すという事実は明らかになっていた(この実験は、アイルランド貴族で化学者のロバート・ボイル(Sir Robert Boyle)らによる)。フロギストン説についてはこの矛盾の解消が課題となっていた。西暦1772年にアントワーヌ・ラヴォアジエは、燐を燃焼させる実験を行って、その重量が増加することを確認した。さらに、硫黄についても燃焼実験を行い、同様に重量が増すことを確認した。これらの燃焼実験の時に、空気が燃焼物に吸収されることが確認された。このことから、燃焼に伴う重量増加の原因は空気にあると考え、西暦1773年初頭には、「燃焼と重量増加の問題を徹底的に調査しよう。」と決意した。この段階では、アントワーヌ・ラヴォアジエはフロギストンの存在は否定しておらず、「燃焼時にはフロギストンと空気が入れ替わる。」としていた。また、吸収される空気の成分も、ジョゼフ・ブラック(Joseph Black)が西暦1755年頃に発見した「固定空気」であろうと推定していた(この空気の成分は現代では二酸化炭素として知られている)。アントワーヌ・ラヴォアジエは西暦1773年02月20日付けの実験記録で、この発見は「化学に於ける革命になる。」と書いた。西暦1774年04月には、レトルトに錫を入れて加熱し、燃焼によりできた錫灰の重さを比較する「レトルトの実験」を行った。この実験の精密評価により、「火の粒子(フロギストン)は存在しない。」とアントワーヌ・ラヴォアジエは判断した。同年11月12日には、この成果をフランス科学アカデミーで発表した。同年の10月にジョゼフ・プリーストリー(Joseph Priestley)がフランス王国を訪れており、アントワーヌ・ラヴォアジエはジョゼフ・プリーストリーから、水銀灰を加熱すると何らかの気体が出てくることと、その気体は燃焼を助ける話を聞いている。翌西暦1775年に、アントワーヌ・ラヴォアジエは酸化水銀を強熱することで気体を得る実験を繰り返し、その気体は「固定空気(二酸化炭素)」とは別のものだと断定するに至った。この時ラアントワーヌ・ヴォアジエは、この気体と可燃物が結合することで酸が生じると考え、この気体を「オキシジェーヌ(仏語: oxygène)」と命名した(「酸の素」の意)。さらに、燃焼現象はこの気体と物質が結合することであると思い至った。こうして西暦1777年には、アントワーヌ・ラヴォアジエは「燃焼について物質と気体が結合すること。」と説明するようになった(燃焼の理解 (フロギストン説の打破))。西暦1779年には、その気体を改めて「オキシジェーヌ」として発表した。西暦1781年にはヘンリー・キャヴェンディッシュが、別のある気体と酸素を混ぜて水を作り出した(水素爆鳴気からの水の生成)。この実験に関心を示したアントワーヌ・ラヴォアジエは、西暦1783年にヘンリー・キャヴェンディッシュが行った実験を定量実験によって追試した。その結果として、水は元素ではなく、物質が組み合わさってできているもの(化合物)であることを示した。この時酸素と混ぜた気体について、「水の素」の意で「イドロジェーヌ(仏語: hydrogène)」と名付けた。
 当初はフロギストン説に肯定的であったアントワーヌ・ラヴォアジエだったが、この西暦1783年を機に、フロギストンを疑問視するようになり、フロギストン説を論文・著書等で公然と否定するようになった。西暦17782〜翌1783年に掛けては、数学者、物理学者、天文学者ピエール・シモン・ラプラス(Pierre-Simon Laplace)と共に「氷熱量計」を作り、熱量もラアントワーヌ・ヴォアジエが得意とする定量測定の対象となった。西暦1777年には、動物の呼吸もまた一種の燃焼であることを裏付ける実験も行い、呼吸に伴う燃焼も酸素との結合反応であることを示した。
 西暦1787年に、アントワーヌ・ラヴォアジエは化学者で医師のクロード・ルイ・ベルトレー(Claude Louis Berthollet)やルイ・ベルナール・ギトン・ド・モルボー(Louis-Bernard Guyton de Morveau)、アントワーヌ・フランソワ・ド・フルクロワらとともに、新しい化学用語を定義する主旨で書かれた「化学命名法」を著した。これは(当時の)元素に新たな定義を与えて、物質の命名法を定めるものであった。また、水の成分が酸素と水素であると見出したとも記された。酸素と水素から水が生じることの発見はヘンリー・キャヴェンディッシュが先に成し遂げている。ヘンリー・キャヴェンディッシュはかなりの変人で人間嫌いだったためか、アントワーヌ・ラヴォアジエの「化学命名法」の発表に何の関心も示さなかった。水が化合物であることの発見についてさえ、ヘンリー・キャヴェンディッシュは優先権を主張せず、結果としてアントワーヌ・ラヴォアジエが発見の優先権を得ることとなった。
 この西暦1787年からアントワーヌ・ラヴォアジエは、彼の所有地があるオルレアンの地方議会において、第三身分の代議員になっていた。当時のフランスでは、専制的な王が無駄遣いや贅の限りをつくし、国民を苦しめており、西暦1787年には貴族らも王権に反発し、反抗を始めていた。この社会情勢はやがて、アントワーヌ・ラヴォアジエの運命を左右したフランス革命へと至った。
 西暦1789年に、アントワーヌ・ラヴォアジエは「化学原論(邦訳名:化学のはじめ)」を出版した。そこでは、現在の元素に概ね相当する33種の「単一物質」の表が示されている(ラヴォアジエの元素表)。元素について単体と化合物を系統的に理解しようとした試みであり、「化学の革命を成し遂げた。」ともされている。「化学原論」のなかの13の図版はマリー・アンヌ・ラヴォアジエが手掛けた。第1部では気体の生成と分解、第2部では塩基や酸と塩に関する解説、第3部には化学の実験器具とその操作法が書かれ、また、質量保存の法則が明確な形で記載されている。この『化学原論』は、出版から後の10年間に、ヨーロッパ全土で標準的な教科書とされた。また同年にラアントワーヌ・ヴォアジエは、新たに元素としての窒素について、ギリシア語で「生命がない」の意の「アゾティコス(azotikos)」に因み、「アゾート(azote)」との命名した。
「化学原論」出版の西暦1789年の07月14日にはバスティーユ襲撃が勃発し、フランス革命が始まっていた。当時のアントワーヌ・ラヴォアジエはパリで貴族階級の補足代議員を務めていた。アントワーヌ・ラヴォアジエは、新しい質量の単位についての規則を決議するため、新度量衡法設立委員会の委員を務めていた。西暦1790年には各温度を測り、体積や質量、密度を精密に定める為に蒸留水の質量を測定した。また一方で、アントワーヌ・ラヴォアジエの実験の対象は気体の化学のほか、呼吸と燃焼の関係性を調べる生理学的なものへも移っていった。
 アントワーヌ・ラヴォアジエは徴税請負人であった。革命が進む中、西暦1791年に徴税請負制度は廃止されたが、フランス国王ルイ16世に財政面の手腕を見込まれたアントワーヌ・ラヴォアジエは、国家財政委員に任命された。この職務にあたってアントワーヌ・ラヴォアジエは、フランスの金融および徴税制度を改革しようとした。やがてヴァレンヌ事件を経てルイ16世が失脚するなど、革命は急進化し、西暦1792年にアントワーヌ・ラヴォアジエは、政府関係の職を全て辞任し、兵器廠にあった住居(上述の通り実験室でもあった)からも引っ越し、科学アカデミーでの活動に専念するようになった。しかし、そのフランス科学アカデミーも革命に伴い閉鎖となり、ラヴォアジエの呼吸と燃焼に関する生理学的な実験は、途中で終わることとなった。
 西暦1789年に起きたフランス革命後、アントワーヌ・ラヴォアジエと、ジャック・ポールズの就いていた徴税請負人に対する民衆の視線は厳しくなっていった。徴税請負人は、市民から税金を取り立て国王に引き渡す職で、取り立て行為に対する報酬として高い収入を得られた。しばしば市民を過剰に経済的に苦しめたため、「専制的な王の手先・共犯者である。」として、市民からは憎まれていた。西暦1782年、徴税請負人達は、ルイ16世に対して、首都パリ市民が消費する物品の関税を独占的に徴収するための場所を伴った、新たな壁でパリを取り囲むことを提案した。フェルミエー・ジェネローの城壁(仏語: mur des Fermiers généraux)は、フェルミエー・ジェネロー(Fermiers généraux)とは、「徴税請負人」を意味する「Fermier général」の複数形で、この壁はその名が示す通りパリに入城する商人たちからの徴税を目的として建設された。この提案は承認され、西暦1784〜1791年のフランス革命直前に徴税請負人の協働によって建設された。この壁の徴税機能は、市民の不興を買うことになった。西暦1791年に徴税請負人の職は廃止され、さらに、「徴税請負人は市民から集めた金を着服していた。」という噂が流れるようになった。アントワーヌ・ラヴォアジエは酷い徴税はしておらず、むしろ税の負担を減らそうと努力していた、

 西暦1793年11月24日には、革命政府は徴税請負人の全員を逮捕するため元徴税請負人らを指名手配した。この指名手配に対して、アントワーヌ・ラヴォアジエは自ら出頭した。しかし、徴税請負人の娘(マリー・アンヌ・ピエレット・ラヴォワジエ)と結婚していたこと等を理由に投獄された。西暦1793年11月28日、アントワーヌ・ラヴォアジエとジャック・ポールズは自らの無罪を証明するために出頭した。マリー・アンヌ・ラヴォアジエは夫と父の下に出向いて差し入れをし、2人の助命を求めて走り回ったが、成果を得ることはできなかった。日に日にやつれて行くマリー・アンヌに宛てて、妻の健康と将来を気遣うアントワーヌ・ラヴォアジエからの手紙が残されている。
 その後、マリー・アンヌ・ラヴォアジエが訴求官であるアンドレ・シメオン・オリヴィエ・デュパン・ド・ボーモン(André Siméon Olivier Dupin de Beaumont)に願い出れば、夫アントワーヌ・ラヴォアジエだけは助けることができるという話が持ち上がった。しかしマリー・アンヌ・ラヴォアジエはアンドレ・シメオン・オリヴィエ・デュパン・ド・ボーモンに対し、「ラヴォアジエの訴訟を同僚の人達と別個に扱うような事は、決してラヴォアジエの快くするところではありません。ラヴォアジエはそれを不名誉に思うでしょう。」と述べたため、アンドレ・シメオン・オリヴィエ・デュパン・ド・ボーモンが激怒して、この話は無くなったとされる。
 西暦1794年05月08日(フロレアル(花月)19日)、公安委員会が県の革命裁判所の廃止を再確認したこの日、アントワーヌ・ローラン・ド・ラヴォアジエは革命裁判所における審判に掛けられた。アントワーヌ・ローラン・ド・ラヴォアジエの弁護人はアントワーヌ・ローラン・ド・ラヴォアジエの科学上の実績を持ち出して弁論を行った。「科学研究を続けるためには猶予を与えるべきだ。」という妻のマリー・アンヌ・ピエレット・ラヴォワジエからの訴えに対して、裁判長のジャン・バティスト・コフィナル(Jean-Baptiste Coffinhal、ピエール・アンドレ・コフィナル・デュバイユ(Pierre-André Coffinhal-Dubail))は「共和国に科学者や化学者は必要ない。」として退けた。
 「近代科学の父」と称されるアントワーヌ・ローラン・ド・ラヴォワジエも、義父ジャック・ポールズを含む27人の元徴税請負人とともに「フランス人民に対する陰謀」との罪で死刑判決を受け、革命広場(現コンコルド広場)にあるギロチンで35分間で26人を処刑するという流れ作業により、即日処刑され、アントワーヌ・ローラン・ド・ラヴォアジエは50年の生涯を閉じた。
 数学者・物理学者・天文学者のジョゼフ・ルイ・ラグランジュ(Joseph-Louis Lagrange、ジュゼッペ・ルイージ・ラグランジャ(伊語: Giuseppe Luigi Lagrangia))は、アントワーヌ・ローラン・ド・ラヴォアジエの死に接して「彼の頭を切り落とすのは一瞬だが、彼と同じ頭脳を持つものが現れるには100年掛かるだろう。」 との言葉を残して、アントワーヌ・ローラン・ド・ラヴォアジエの死を悼んだ。ジョゼフ・ルイ・ラグランジュは、生前の王妃マリー・アントワネットの数学教師でもあり、「なぜ私が残されたのかわからない。」と彼らの処刑を嘆き、生涯苦しんだ。
同じく数学者で同時代の同国を生きたピエール・シモン・ラプラス(Pierre-Simon Laplace)は、その時々の政治権力に従順にしたたかに世を渡り抜いたが、ジョゼフ・ルイ・ラグランジュの気質はそれとは対照的であった。
 スイス人医師ジャン・ポール・マラーは革命指導者の1人であった。「革命前に、アントワーヌ・ラヴォアジエは当時、ジャン・ポール・マラーの論文審査を学会から依頼され行ったが、その論文が実験もせず臆測の内容であったため、却下した。その逆恨みでアントワーヌ・ラヴォアジエが投獄、処刑された。」と言われる。アントワーヌ・ローラン・ド・ラヴォアジエは科学者であった一方で、貴族であり徴税請負人の立場にあった。アントワーヌ・ラヴォアジエの存命時期や死没の直後は、革命政府関係者による批判的な評価があった一方、アントワーヌ・ラヴォアジエの業績への高い評価を伴う同情的な言葉が近しい学者から残された。革命の理想に背く具体的な犯罪というより、旧体制期の役職や地位に付随する憎悪や怨念に基づく処刑だったと言える。アントワーヌ・ローラン・ド・ラヴォアジエを研究面でも献身的に支援したる14歳年下の若妻マリー・アンヌ・ピエレット・ラヴォアジエは、徴税請負人の娘だった。
 アントワーヌ・ローラン・ド・ラヴォアジエがギロチンにかけられる際に、処刑後のヒトにどの程度の時間にわたって意識があるかを検証するため、アントワーヌ・ラヴォアジエは周囲の者たちに「斬首後、可能な限り瞬きを続けるよ。」と宣言して、彼は断首後に実際に瞬きを行なった。また、アントワーヌ・ローラン・ド・ラヴォアジエの処刑にはジョゼフ・ルイ・ラグランジュら数名の科学者が立ち合っていたとされる。この実験を依頼されたのはジョゼフ・ルイ・ラグランジュであるとされている。
アントワーヌ・ローラン・ド・ラヴォアジエの処刑は、35分間で26人を処刑するという流れ作業の連続した執行の中間で行われ、警察官の隊列によって関係者以外はギロチン装置からは距離があったことからも、そのような実験をする時間も猶予もなかった。ジョゼフ・ルイ・ラグランジュの著書等にそのような記述は全く確認はされていない。以上のことから否定的な異論もある。

化学のはじめ
化学のはじめ

人と思想 101 ラヴォアジエ - 中川 鶴太郎
人と思想 101 ラヴォアジエ - 中川 鶴太郎

 マリー・アンヌ・ピエレット・ラヴォワジエは1日にして夫アントワーヌ・ローラン・ド・ラヴォアジエと父ジャック・ポールズを失った。また、この直前に、ただ1人残っていた兄も死去した。アントワーヌ・ラヴォアジエとの間には子供もいなかったため、マリー・アンヌ・ラヴォワジエは36歳にして家族全員を失い1人きりとなった。さらに財産も没収され、西暦1794年06月14日にはマリー・アンヌ・ラヴォワジエ自身も逮捕された。マリー・アンヌ・ラヴォワジエは牢獄で自分の無実を訴える手紙を書き、これが認められて08月17日に釈放された。この時点で財産はまだ没収された状態であったため、マリー・アンヌは召使のマスロと生活を共にした。
 西暦1795年03月、世論の動きもあって、政府は「徴税請負人の財産は返却する。」との決定を下した。訴求官のアンドレ・シメオン・オリヴィエ・デュパン・ド・ボーモンは、「自分が今までに徴税請負人に対して為したことへの責任を取らされる。」と感じ、自己弁護のための冊子を出した。マリー・アンヌ・ラヴォワジエはこれに対抗し、西暦1795年07月に、アンドレ・シメオン・オリヴィエ・デュパン・ド・ボーモンを告発する文書を認めて出版した。最終的にアンドレ・シメオン・オリヴィエ・デュパン・ド・ボーモンは逮捕された。アンドレ・シメオン・オリヴィエ・デュパン・ド・ボーモンの逮捕後、マリー・アンヌはアントワーヌ・ローラン・ド・ラヴォアジエの持ち物である本、家具、実験装置などの返還を求め、西暦1796年にこれらの動産を取り戻すことができた。財産を取り戻したマリー・アンヌ・ラヴォアジエは、以前のようにサロンを主催した。サロンにはピエール・シモン・ラプラスやクロード・ルイ・ベルトレーらが参加した。しかし、アントワーヌ・ローラン・ド・ラヴォアジエが危機に陥った時に助けることをしなかったアントワーヌ・フランソワ・ド・フルクロワやルイ・ベルナール・ギトン・ド・モルボー、ジャン・アンリ・アッサンフラッツ(Jean Henri Hassenfratz)らはサロンに呼ばなかった。
 アントワーヌ・ローラン・ド・ラヴォワジエは生前、アカデミーで発表した論文をまとめた本を作る作業に取り組んでおり、獄中でも校正作業を続けていた。マリー・アンヌ・ラヴォワジエはその遺志を継いで、西暦1796年頃から同署の編集作業に当たった。初めは論文の共同執筆者でもあるセガンと共同で作業していたが、本の内容について両者が対立したため、マリー・アンヌ・ラヴォワジエが1人で編集することになった。マリー・アンヌ・ラヴォワジエは自ら序文を書き、西暦1805年に「化学論集(Mémoires de chimie)」として出版した。同書は協力者が得られなかったこともあって、本としては未完成の状態であった。その上、マリー・アンヌ・ラヴォワジエは自分で選んだ一部の人や組織のみにしか同書を配布しなかったため、当時は一般に広く知られることはなかった。後世では、同書はマリー・アンヌ・ラヴォワジエの教養と、夫アントワーヌ・ローラン・ド・ラヴォワジエへの愛の証として評価されている。
 未亡人になったマリー・アンヌ・ピエレット・ラヴォワジエは、アメリカの重農主義の経済思想家・政治家・実業家のピエール・サミュエル・デュ・ポン・ド・ヌムール(Pierre Samuel du Pont de Nemours)やチャールズ・ブラグデン卿から求婚された。一方、西暦1801年、マリー・アンヌの主催するサロンに、軍人であり科学者でもあるラムフォード伯ベンジャミン・トンプソン(英語: Sir Benjamin Thompson, Count Rumford、称号の独語表記: Reichsgraf von Rumford)が初めて訪れた。ラムフォード伯ベンジャミン・トンプソンはその後足しげくマリー・アンヌの許に通うようになった。ラムフォード伯ベンジャミン・トンプソンはこの時期、「ラボアジエ夫人は大変愉快で親切でしかも性格が良い。」、「今までで会った女性ではもっとも頭が良く、知識の程度も非常に高い。」などと述べた。また、ラムフォード伯ベンジャミン・トンプソンがフランスでの研究について語ると、マリー・アンヌ・ラボアジエは「私の館にいらっしゃればよろしいのですよ。貴方は実験をなさいませ。私は記録を取りましょう。」と答えた。2人は西暦1803年にスイスに旅行に行くなど交際を続け、西暦1804年01月に婚約した。婚約の際、マリー・アンヌ・ラボアジエは自身について、前夫の姓をつけて「ラヴォアジエ・ド・ラムフォード夫人と名乗る。」と主張した。これは異例のことであり、ラムフォード伯ベンジャミン・トンプソンもこのことには不満であったが、最終的に契約書に明記させた。西暦1805年、マリー・アンヌ・ピエレット・ラボアジエはラムフォード伯ベンジャミン・トンプソンからの10年間の求愛の末、正式に再婚した。 マリー・アンヌは、最初の夫の姓を使い続け、「彼への永遠の愛を示す。」と生涯主張した。 マリー・アンヌは後の西暦1808年、「ラヴォアジエの名を絶対に捨てないことは私にとって義務でもあり、宗教とも言えることなのです。」と述べた。しかし結婚生活は長く続かなかった。ラムフォード伯ベンジャミン・トンプソンは当時最も有名な物理学者の1人だったが、結婚生活は困難で短命で4年後に離婚した。社交好きなマリー・アンヌは自宅で宴会を開き、主役として振舞った。1人で自分の好きな実験に取り組みたいラムフォード伯ベンジャミン・トンプソンにとって、妻の行動は気に入らず、あちこちで妻に対する不満を述べた。ラムフォード伯は手紙で、「私はあの女を雌ドラゴンだと思って接している。これでもあの女には親切すぎる呼び名だと言っていい。」と綴っている。西暦1808年にラムフォード伯は別居し、西暦1809年に2人は離婚した。離婚後、ラムフォード伯とは適度な距離を置いて交友が続いた。西暦1814年にラムフォード伯ベンジャミン・トンプソンが死去すると、マリー・アンヌ・ラボアジエは、理由は不明だが、ラムフォード伯爵夫人と名乗るようになった。
 マリー・アンヌ・ラボアジエはアントワーヌ・ローラン・ド・ラボアジエとの結婚後から晩年に至るまでサロンを開催し続けた。ベンジャミン・フランクリン(Benjamin Franklin)とも交流があり、フランクリンのために自身が描いた肖像画を送っている。アントワーヌ・ローラン・ド・ラボアジエ存命中には、自宅でフロギストン説を火炙りにする儀式を開き、そこでは自らが尼僧の衣装で登場して、フロギストン説を作り上げたゲオルク・エルンスト・シュタール(Georg Ernst Stahl)の著書を焼いたりもした。マリー・アンヌの追悼文を書いた政治家・歴史家のフランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾー(François Pierre Guillaume Guizot)は、「サロンには様々な分野の著名人が集まり、そこには出世のためではなく、エスプリ(仏語: esprit、英語: spirit(スピリット)、独語: Geist(ガイスト))と会話を楽しむための自由な雰囲気があった。 」と絶賛している。晩年もサロンを開き、数学者・物理学者・天文学者で政治家のドミニク・フランソワ・ジャン・アラゴ(仏語: Dominique François Jean Arago、カタルーニャ語: Domènec Francesc Joan Aragó)らを招いた。女性科学作家メアリー・フェアファックス・サマヴィル(Mary Fairfax Somerville)も招いたが、メアリー・サマヴィルがピエール・シモン・ラプラスやフランソワ・アラゴの注目を浴びていることに嫉妬したりもした。マリー・アンヌ・ピエレット・ラボアジエは死の前日まで友人と社交を続け、西暦1836年02月10日、78歳で死去した。アントワーヌ・ラヴォアジエの同僚の孫であるドゥラントによれば、生前の社交の参加者が集う、盛大な葬儀であった。


Jacques-Louis David 印刷ポスター「アントワーヌ=ローラン・ラヴォアジエとその妻の肖像(1788年)」 ウォールアート 部屋飾り キャンバス 絵画 ベッドルーム ポスター リビング 壁の絵08x12inch(20x30cm)
Jacques-Louis David 印刷ポスター「アントワーヌ=ローラン・ラヴォアジエとその妻の肖像(1788年)」 ウォールアート 部屋飾り キャンバス 絵画 ベッドルーム ポスター リビング 壁の絵08x12inch(20x30cm)

痛快化学史 - アーサー グリーンバーグ, 正, 渡辺, 典子, 久村
痛快化学史 - アーサー グリーンバーグ, 正, 渡辺, 典子, 久村

 西暦1792年前半から、フランス共和国はオーストリア領ネーデルラント(西暦1714〜1797年)とプロイセン王国(西暦1701〜1918年)、サルデーニャ王国(西暦1297〜1861年)と戦闘状態にあった。西暦1793年01月02日、共和主義者たちに占拠されたブルターニュのブレストの砦から、イギリス海軍のブリッグ「チルダース」は砲撃を受けた。その後、フランス共和国はグレートブリテン王国(西暦1707〜1801年)と ネーデルラント連邦共和国(西暦1579〜1795年)に宣戦布告し、それらの君主制国家に革命の精神を広めようとした。英仏海峡によって直接の侵攻から守られているグレートブリテン王国(イギリス王国)は西暦1793年が終わるまで、北方の海域や地中海、また、両国がともに植民地を置いたカリブ諸島とインドにおいて、フランス共和国と小規模な戦闘を繰り返した。山岳派により実行された他の経済政策に、フランス商品の輸出禁止令があった。この輸出禁止令の結果、フランス共和国は外国市場と貿易することが基本的に不可能になり、あらゆる商品の輸入は事実上終了した]。理論上は、外国の商品からフランスの市場を守り、フランスの人々が自国の商品を支持するようになるはずだった。輸出禁止令に加え、西暦1793年10月に山岳派により可決された法律1651号によって、外国の船がフランス沿岸での貿易を行うことが禁止され、フランスは欧州全体からさらに孤立していった。
 西暦1794年のヨーロッパの状況は不安定なままであった。フランス北方海域にあったフランス大西洋艦隊では、食糧の配給と賃金支払の遅延が原因となって叛乱が発生した。必然の結果として、叛逆の決定を受けた多くの熟練した水兵が、処刑、収監、あるいは解雇されて姿を消し、恐怖政治の影響で大いに苦しむこととなった。その前年の社会的な大変動に厳しい冬が重なり、フランス全体が飢えていた。そしてフランス共和国は全ての隣国と戦争状態にあり、新鮮な食糧の陸路輸入すはできず、国民公会で決定された解決策は、フランス共和国の海外植民地で生産される食糧を全てチェサピーク湾に集められる商船隊に船積みし、さらにアメリカ合衆国(西暦1776年〜)からも食物と商品を購入するというものだった。西暦1794年04月〜05月にかけて、商船隊は護送船団を構成し、フランス大西洋艦隊の護衛の下、ブレストまで大西洋を横断することとなった。
 西暦1794年05月28日にイギリス艦隊がフランス船団を捕捉し、06月01日に英仏両艦隊はウェサン島の約400海里(741q)西の大西洋上で激突した(栄光の06月01日)。 この海戦はフランス革命戦争における最初にして最大級の海戦でとなったが、雌雄が決することはなく、両艦隊は疲弊してそのままそれぞれの母港に帰投した。 初代ハウ伯爵リチャード・ハウ(Richard Howe, 1st Earl Howe)麾下のイギリス海軍の死傷 1200人、ルイ・トマ・ヴィラレー・ド・ジョワイユーズ(Louis-Thomas Villaret de Joyeuse)麾下のフランス海軍の7隻喪失、死傷4000人、捕虜3000 人。イギリス王国もフランス共和国も、この海戦の勝利を主張した。イギリス王国は終始戦場の主導権を握りつつ、自国の艦を1隻も失わずにフランス艦7隻を捕獲または撃沈した。フランス共和国は自国に不可欠な輸送船団を、大きな損失もなく大西洋を通過させフランスに到着させた。
革命が、フランス海軍にとって災いを齎した。乏しい指導力、矛盾した曖昧な命令、そして熟練した水兵の不足は、フランス艦隊に悲観的な空気を蔓延させ、2度と、北ヨーロッパにおけるイギリス王国の覇権に挑もうとはしなかった。彼らが繰り返した掠奪戦も、イギリス艦隊と厳しい大西洋の気候によって、結局失敗に終わった。

 革命礼拝とは、革命を祝う祭典で、その全国規模での最初のものが、西暦1790年07月14日、革命勃発1周年を祝って開催された全国聯盟祭だった。聯盟祭自体は前年11月から各地方で聯盟兵が主体になって行われていたものだが、これらが全国規模で初めて統一され実施されたのが全国聯盟祭だった。その後、ミラボー伯の葬儀やヴォルテールの遺骨のパンテオン葬など、革命の祭典が行われ徐々に形作られてきた。革命自体が礼拝の対象になってゆく経緯と、革命が既存宗教(耶蘇教)から離脱は表裏の関係で、互いに共通するのは民衆が集まって歌を聴き歌うという儀礼だった。さらに、国王ルイ16世の処刑に賛成し西暦1793年01月20日23時、国王処刑の前夜(数時間前)に近衛兵フィリップ・ニコラ・マリー・ド・パリ(Philippe Nicolas Marie de Pâris)に暗殺された、気違い極左サン・ファルジョー侯ルイ・ミシェル・ルペルティエ(Louis-Michel Lepeletier, marquis de Saint-Fargeau))や、ジャン・ポール・マラーといった革命の「殉教者」の葬儀を通じて、革命祭典は礼拝対象を加えた。
 地方で非耶蘇教化運動を先導したエベール派のジョゼフ・フーシェは、派遣先のヌヴェール県で十字架や聖者像などの破壊を指示し、非耶蘇教化運動の範例となり、11月10日、同県出身のエベール派指導者ショーメットに導かれてパリ自治市会(パリ・コミューン)がノートルダム寺院を占拠、カトリックの祭具を取り払い、「理性の神殿」と名を改め「自由と理性の祭典」(理性の祭典)を挙行した。2週間後、パリ市当局はパリ中の教会の閉鎖を決定した。
その2日前にマクシミリアン・ロベスピエールがジャコバンクラブで行ったのが、あの痛烈な狂信批判演説だった。非耶蘇教化の流れに警鐘を鳴らし、「理性の祭典」を狂信的・無神論的と糾弾し、「それは革命そして共和国の存続に必要な信仰ではない。」と切り捨てた。「神が存在しないのであれば、それを発明しなければならない。」と語った。特に彼自身が意識したのは、前年に催された 「理性の祭典」が、同じく革命を歌って祝うと言っても、また理性の力を信じると言っても、マクシミリアン・ロベスピエールによれば、そのためにこそ「最高存在」を信じることが必要だった。理神論的に見えるが、それらの存在を一切否定するわけでもない。また、信仰は理性によって説明し尽くせるものではなく、心性に基づき、それに訴えるものでなければならない。だからこそ、「最高存在」の実在を信じる礼拝が必要で、そのために合奏といった儀礼も必要だった。
 05月07日にマクシミリアン・ロベスピエールは「宗教的・道徳的観念と共和国の諸原理の関係について、および国民の祭典について」と題する演説を行った。「精神の世界は、物質の世界に比べてはるかに対立と謎に満ち溢れているように見える。(中略)物質の世界はすべてが変わったが、精神と政治の世界は全てが変わらなければならない。世界の革命の半分はすでになされたが、もう半分がなされなければならない。」未完の革命、それは理性によって精神の世界が照らされることで完遂されるはずだ。そのためには、今日まで人間を欺き堕落させる術であった統治を、人間を啓蒙し、より善良にする術に代えなければならない。つまり、人間の情念を正義へと導くことを目的にした統治、社会制度が必要であると言う。これは、サン・ジュストの主張と一致した。
 市民社会の唯一の基礎、それは道徳である。とはいえ、「哲学者たちの書物に残された道徳的真理を崇めるだけなら、それは「理性の祭典」の主催者たちが企図したものとさほど変わらないはずである。マクシミリアン・ロベスピエールにとっては、その祭典を批判した際に宣明したように、「最高存在」=神が存在しなければならなかった。そこで、「人々〔陰謀家たち〕が消滅を望んだあらゆる私心のない感情やあらゆる偉大な道徳の観念を呼び覚まし、昂揚させよう。友情の魅力と美徳の紐帯によって、彼らが分裂を望んだ人間たちを結びつけよう。」と述べ、「では誰が、神は存在しないと人民に告げるという使命を君に与えたのか。おお、君はこのような不毛な教義に夢中になり、祖国には決して熱中しないでいる。(中略)人間は無であるという観念が、人間の霊魂は不滅であるという観念よりも純粋で高潔な感情を抱かせることがあるだろうか。同胞や自分自身への敬意、祖国への献身、圧政を打ち倒そうとする大胆さ、死や悦楽への軽蔑の念を一層抱かせることがあるだろうか。まず、神(最高存在)が存在し、また霊魂が不滅であるという観念を信じなければならない理由、それは彼岸でしか救われない事柄があるからだ。それによって、美徳のため、祖国のために、たとえ不遇の死を遂げようと、人は慰められ、道徳・真理への熱意は一層強くなるとロベスピエールは考えた。「最高存在と霊魂の不滅の観念は、絶えず正義に立ち返らせるものである。それ故、社会的であり、共和的である。(拍手喝采)」
 マクシミリアン・ロベスピエールにとって、宗教感情が人間の力を補って道徳を魂に刻み込んでくれるとすれば、最高存在は市民社会にとっても共和政にとっても有用で、彼は宗教者ではなく、立法者である。「立法者の目で見れば、世界にとって有益で、実践して良いものは全て真理である。」つまり、「人民の主権とその全能性以外の教義を認めない。」(墓地令)のような「理性の祭典」を計画した過激派とは一線を画している。同様に、信仰の自由、全ての宗派の信仰の自由がここで改めて主張されるのも、立法者の視点で、強制するよりは住民が自ら自然の普遍的な宗教と和解していくことが期待された。諸信仰を包摂しうるような礼拝には神が必要であって、無神論は唾棄されなければならない。
 では、信仰の自由を保障しながら「最高存在」と呼ばれる神ないし霊魂の不滅が崇拝されることをマクシミリアン・ロベスピエールは「正しく理解された国民祭典の制度」と表現した。「全ての祭典が最高存在の庇護の下で祝われること」を条件とする。つまり、「最高存在」の庇護のもとで従来の革命祭典を1つに纏め上げることが目指されたのが制度化だった。
 演説の最後に提案・採択された法令では、最高存在の実在と霊魂の不滅を宣言し、それを礼拝する義務、および祭典が開催される祝日なども定められた。1月後の06月08日に「最高存在の祭典」を開催することも決められた。
06月04日(プレリアル(牧月)16日)、全会一致で国民公会議長に選出されたマクシミリアン・ロベスピエールが「最高存在の祭典」を主宰した。「球戯場の誓い」の名場面を描き、マリー・アンヌ・ピエレット・ラヴォアジエに絵画を教え、後にナポレオン・ボナパルトお抱えの画家となったジャック・ルイ・ダヴィッドの周到な計画に沿って進行した。まず、国民公会の置かれたチュイルリ宮殿(国民庭園)前にトランペットや太鼓の音を合図に群衆が集まり、庭園の泉の畔に置かれた無神論や利己主義を象った人形に火が付けられ、それに代わって現れた叡智の像は黒ずんでいた。その後、マクシミリアン・ロベスピエールの演説に続いて、シェニエ作詞・ゴセック作曲の「最高存在への讃歌」が演奏され高揚感を演出した。演奏が終わると、一行はマクシミリアン・ロベスピエールを先頭にシャン・ド・マルス(統一広場)に向かった。そのなかには、トランペットを首にかけた騎兵隊や、太鼓を抱えた国立音楽院(勃発後に教会ではなく国家の下に音楽教育が集約され西暦1793年に国民衛兵音楽学校に代わって設立された学校)の学生もいた。祖国の祭壇の広場には巨大な山が造設され、中腹には大きな柱の頂に人民を表す男性像を設置、山の頂上にはフランス人民の解放の象徴である「自由の木」が植えられていた。人々がその山を登っていくと、頂上に配置された楽団によってトランペットが吹かれ、再び讃歌が演奏された。「ラ・マルセイエーズ」も鳴り響いた。55万人集まったとされる「最高存在の祭典」はパリだけでなく、全国各地に大きな反響を呼んだ。祭典への祝辞は全国から1600通以上届いた。従来と違って、警察官らによる形式的な祝辞だけでなく、一般民衆から感動を伝える文章がいくつも届けられた。元々祭典前から讃歌や礼拝について各地から提案がなされる熱狂ぶりで、住民が初めて全国的に参加できた祭典だった。
 間違いなくマクシミリアン・ロベスピエールは政治家として絶頂にあった。もっとも、冷笑する者もいた。ある議員は、古代ローマを引き合いに「カピトリヌスの丘〔政治経済の中心だったフォルム・ロマヌムを見下ろす丘〕からタルペーイア〔裏切り者が投げ落とされた岩壁〕はすぐ側だ。」と罵った。公安委員会元ダントン派委員ジャック・アレクシス・テュリオ・ド・ラ・ロジエール (Jacques Alexis Thuriot de la Rozière) は、「主人になるだけでは飽き足らず、神になるに違いない。」と嘲笑った。
 「最高存在の祭典」以前から、マクシミリアン・ロベスピエールを独裁者や暴君とする批判はあちこちで見られた。05月22日、国立宝籤取引所職員だったアンリ・アドミラという男が、同じ建物に住んでいた公安委員会委員のコロー・デルボワに発砲するという事件が起こった。供述によれば、元々はロベスピエールを狙ったが現れなかったため、デルボワに2発の銃弾を発砲した。
 05月23日(プレリアル(牧月)04日)、マクシミリアン・ロベスピエールの住むデュプレ家に侵入しようとしたとして、二十歳の女性が逮捕された。パリの文房具商の家に生まれたセシル・エイミー・ルノー(Cecile Aimee Renault )というこの女性は、取り調べでその理由を問われ、「5万人の暴君より1人の王のほうが良い。」と述べ、こう打ち明けた。「暴君がどのような様子かを見たかった。」所持品からは、2挺のナイフが見つかった。
 さらにダントン派議員が05月24日、敵討を企図していたことが発覚した。これに対し議会では、狙われた政治家を英雄視する発言がなされる一方、容疑者や陰謀家たちの背後にいるとされるイギリス政府(首相小ピット)への復讐心が煽られた。

 2日後、05月26日マクシミリアン・ロベスピエールは議会で自分の死が迫っていることを確信しているかのような演説を行った。 「結局、中傷や裏切り、反乱、中毒、無神論、腐敗、飢饉、そして暗殺と、あらゆる犯罪を惜しみなく生み出してきたが、彼ら〔陰謀家たち〕にまだ残るのは暗殺、次に暗殺、それからさらに暗殺である。だから喜ぼう、神に感謝しようではないか。我々は祖国によく奉仕したがゆえに、暴政の短刀に値すると判断されたのだから。(拍手喝采)」この時暗殺に怯えていたマクシミリアン・ロベスピエールは、直後に主宰した革命祭典で恍惚としながら、「最高存在」演説でも、自己犠牲の覚悟について語っていた。「(仮に他国に生まれたとしても)注意深い私の魂は、君(人民)の栄光ある革命の全運動に飽くなき情熱で従っただろう。(中略)おお、崇高なる人民よ!私の全存在を犠牲にしよう。君の中に生まれた者はなんと幸福か。君の幸福のために死ねる者はもっと幸福なことだ。」
 確かなのは、祭典で悪辣に目立ったことが、暴君到来の印象をさらに植え付けた。
 06月17日、セシル・ルノーを含む暗殺未遂の容疑者ら54人が国民広場で処刑された。ジャン・ポール・マラーの暗殺者マリー・アンヌ・シャルロット・コルデー・ダルモン(Marie-Anne Charlotte Corday d'Armont)の時と同じく、暗殺未遂で暗殺者であることを示す赤服を着せられていた。
 さらに、有力なジロンド派議員もこの頃、不遇の死を遂げた。元パリ市長で一時はマクシミリアン・ロベスピエールを凌ぐほどの人気があった、国民公会の初代議長ジェローム・ペティヨン・ド・ヴィルヌーヴ(Jérôme Pétion de Villeneuve)は、西暦1793年06月02日、マクシミリアン・ロベスピエールから「シャルル・フランソワ・デュ・ペリエ・デュ・ムリエ (Charles François du Perrier du Mouriez)の離反の際に王政支持をした。」として告発され、ジロンド派とともに逮捕状が出た。パリを馬で脱出し、フランソワ・ニコラ・レオナール・ビュゾー(François Nicolas Léonard Buzot)らとカーンに退き、そこで連邦主義を唱えて叛乱を企てたが失敗し、ジロンド県へと逃避行を続けた。他の議員と共にガデの妻の姉であるブーケ夫人の保護の下、ボルドーの近く、サン・テミリオンに落ち延び潜伏していたが、サールやガデ、バルバルーが逮捕・処刑される中、西暦1794年06月18日ジェローム・ペティヨン・ド・ヴィルヌーヴはジロンド派の有力議員だったフランソワ・ニコラ・レオナール・ビュゾとともに拳銃自殺を遂げた。38歳没。森の中で自殺しているのを発見され、腐乱した遺体は動物に一部食われており、ほんの2年前まで「人民の父」と称されていた男の哀れな末路であった。
 ジャン・ポール・マラーの暗殺者マリー・アンヌ・シャルロット・コルデー・ダルモンの近辺捜査から、シャルル・ジャン・マリー・バルバルー(Charles Jean Marie Barbaroux)の紹介状やジロンド派議員の名が発見され、ジャン・ポール・マラーの暗殺はジロンド派の陰謀が疑われ、カーンに滞在中のバルバルー達にも当然激しい追及の手が及び、彼らはフランス北西部を流離し、ガデの妻の姉であるブーケ夫人の保護の下、ボルドーの近く、サン・テミリオンに落ち延びた。しかし西暦1794年06月17日に「ロベスピエールの目」と呼ばれた公安委員会の使者、マルク・アントワーヌ(マルカントワーヌ)・ジュリアン・ド・パリ(Marc-Antoine Julien de Paris)の一斉捜査を受け、バルバルーらは逮捕を免れたが、自分達を庇ってくれた町の人々に迷惑が掛かることを恐れ、町を出て行く当てもなく、誰からの保護もないシャルル・ジャン・マリー・バルバルーは、追手が近づくことを知ると拳銃自殺を図ったが、致命傷には至らず、瀕死の状態のまま逮捕され、ギロチンに掛けられて06月25日に処刑された。
 「大恐怖政治」とも呼ばれる、恐怖政治の最後の急加速が始まった。パリでの裁判と処刑が増え、そのさらなる簡便化・効率化が求められた。そこで提案されたのが、プレリアル(牧月)22日法である。06月10日に発出されたこの「革命裁判所に関する法令」は、05月08日法によって増えたパリの裁判を効率化し、事実上処刑を迅速化することを目的にしていた。パリの監獄は囚人で溢れ、7千3百人の「反革命容疑者」が詰め込まれていた。そのため、プレリアル22日法は尋問を公開とし、物証で足りる場合には証人の喚問は実施せず、有罪の場合は極刑のみ、陰謀家の裁判には弁護士は認めないようにした。そこには、ジョルジュ・ジャック・ダントンがその雄弁で裁判を長引かせたことへの教訓があり、また長引く審理の中、民衆が裁判に介入する余地を少なくしようという意図があった。特定の人物を告訴する場合には、公安委員会、保安委員会の事前の承認が必要とされた。
 西暦1794年06月10日にプレリアル22日法ができると、弁護が禁止されるなど手続きが大幅に簡素化され、この時からテルミドール09日のクーデターの翌日までが革命裁判所の最盛期(07月28日、ロベスピエール派の76の首が落とされたのが1日の処刑数で最多最多)で、監獄と刑場が裁ききれないほど、大量の有罪判決を出した。
 それまでも革命裁判所では、上訴も抗告もできず、判決は1度きりの絶対的なものであった。死刑の判決が出た場合は被告人の財産は国に没収された。初期には財産のない親族に没収財産は返還されたが、ヴァントーズ法成立後は死刑だけでなく追放刑を受けた者も、所有財産は全部無条件で没収され、貧者に再分配された。
しかし、プレリアル22日法までは、求刑は死刑だけではなく、一般の刑法に規定された多様な刑が宣告でき、流刑や禁錮労働、強制労働など、量刑は個別の案件によって様々だった。犯罪を重罪・軽罪・違警罪の3つに区分し、また有罪であっても微罪と判断されれば、そのうち拘留または科料にあたる最も軽い犯罪の違警罪を扱う違警罪裁判所に移送することもできた。
 プレリアル22日法後で有罪の場合は、「量刑は等しく死刑のみ。」パリで革命裁判所が設置された西暦1793年04月〜西暦1794年06月10日までに、1251人が処刑されたのに対し、プレリアル22日法下で審理を経ない略式死刑判決が許された06月11日から07月27日(テルミドール09日)までの革命裁判所末期の僅か47日間で、パリの断頭台は1376人の血を吸い込んだ。恐怖政治のために反革命容疑で逮捕拘束された者は約50万人、死刑の宣告を受けて処刑されたものは約1万6千人、それに内戦地域で裁判なしで殺された者の数を含めれば約4万人に上る。野蛮で残虐なコーカソイドのフランクの南下した蛮族、フランス人とは、こういう奴らだ。
 フランス革命の恐怖政治の中でも、プレリアル22日法の制定は「大恐怖政治」の始まりと言われる。恐怖政治は疑心暗鬼の悪循環を生み出し、ロベスピエールらを孤立化させ、テルミドール09日クーデターを惹起した。
 パリでは、革命裁判所が設置された西暦1793年03月10日から同法が制定された06月10日まで、死刑判決の数は1日平均3人弱だった。それが、その日から07月28日(テルミドール09日のクーデタの翌日)まで、死刑判決の数は1376人、1日平均28人強に激増した。だが、裁判および死刑判決がパリに集中した結果であり、地方の派遣議員の大量処刑では、裁判はほぼ行われず、集団で死刑が宣告され、溺死や銃殺、大砲散弾、銃剣などを用いて執行されていた。むしろ全国的には処刑は減ったほどである。それでも、「大恐怖政治」と語られるようになったのは、もちろんパリの住民が連日のように処刑を目撃していたこともあるが、何より革命政権に対して批判的な勢力が抱いた革命政権、マクシミリアン・ロベスピエールとその周辺に対する不安があった。05月08日法に続いて同法を提案したのも、サン・ジュストとともにマクシミリアン・ロベスピエールの盟友だった、ジョルジュ・オーギュスト・クートンである。
フランス中部オーヴェルニュの町に生まれたジョルジュ・オーギュスト・クートンは、クレルモン・フェランで弁護士として活動し、「虐げられた人々」の弁護を担当して評判を得た。元々幼い頃から関節炎に悩まされ、20代後半頃から歩行が徐々に困難となり、移動には車椅子を必要とするようになったが、それでも革命が勃発すると、これに賛同し、クレルモン・フェランの裁判所裁判長に就任、西暦1791年09月、35歳の時に憲法制定国民議会の議員に選出された。続いて国民公会議員に選出されたジョルジュ・オーギュスト・クートンは、山岳派(モンターニュ派)の熱狂的な支持者となり、マクシミリアン・ロベスピエールの思想に共鳴し側近となった。演説の名手でもあった。プレリアル22日法は、マクシミリアン・ロベスピエールの指示でジョルジュ・オーギュスト・クートンが作成したという思われてきたが、実際はジョルジュ・オーギュスト・クートンの主導で作成された。しかし、マクシミリアン・ロベスピエールがこれを支持したのは確かだ。いずれにせよ、恐怖政治に批判的な議員たちにとって、ロベスピエール派が不安の根源であり、側近が主導していようがいまいが、不安の元凶はマクシミリアン・ロベスピエールにあった。少なくとも疑心暗鬼がプレリアル22日法の制定によって先行して膨らんでいった。
 プレリアル22日法は「大恐怖政治」の始まりであり、同時に恐怖政治の終わりでもあった。「次に逮捕・処刑されるのは自分かもしれない。」という国民公会議員たちの恐怖だけではなく、プレリアル22日法をめぐって公安委員会内部に亀裂が生まれた。手先のジョルジュ・オーギュスト・クートンとサン・ジュストは革命の再編を愚かにも拙速に進め過ぎた。そのためマクシミリアン・ロベスピエールの演説が同僚議員たちの不安と対立を一層深めた。ジョルジュ・オーギュスト・クートンの提案を支持した国民公会での演説で、「今日ほど難しい状況はない。」と切り出した。マクシミリアン・ロベスピエールは、「未だに陰謀家ないし祖国の敵がこの中にいる。」と宣言し、自由に対する犯罪を罰する革命裁判所の機能の強化を目指すプレリアル22日法案への支持を表明した。「それは真理であり、同案への反対者はそれだけで分裂を齎す敵である。」とまで言った。
「公共善への愛に等しく燃える人々の間に分断があるのは自然ではない。(拍手)祖国の救済に献身する政府に対して、ある種団結して立ち上がるようなことは自然ではない。市民諸君、諸君を分裂させようというのか。」議場では「違う、違う。」と至る所で声が上がった。「分裂させることはない。」、「市民諸君、諸君をたじろがせようとする者がいるのか。(中略)我々は公共的な暗殺者を追及するため、個人的な暗殺者に身を晒している。我々は立派な死を欲するものであるが、国民公会と祖国は救われただろう。(拍手喝采)」演説はこう締め括られた。「祖国への愛に燃える人なら誰しも、その敵を捕え、打ち倒す手段を熱く歓迎するだろう。」革命裁判所を効率化するプレリアル22日法に反対する議論の余地は最初から排除されているかのようだった。今や自分たち(公安委員会)が革命政府であって、これに団結して反抗することを認めなかった。
 翌日、委員不在の議場では、オワーズ県選出のフランソワ・ルイ・ブールドン・ド・ロワーズ(François-Louis Bourdon de l’Oise)が前日に提案されたプレリアル22日法に対して、「議員の弾劾・逮捕には国民公会の承認を必要とすべきだ。」と主張し、それを条文としてプレリアル22日法に付け加えた。しかし次の日、ジョルジュ・オーギュスト・クートン、そしてマクシミリアン・ロベスピエールがすぐさま反駁した。「先の発言者は議論の中で、(公安)委員会を山岳派から切り離そうとした。国民公会、山岳派、(公安)委員会、これらは同一のものである。(拍手)自由を真に愛する人民の代表者は全て、祖国のために死を覚悟する人民の代表者は全て、山岳派である。」議場では新たに拍手が広がり、国民公会議員たちは立ち上がって賛成と忠誠の意を示した。フランソワ・ルイ・ブールドン・ド・ロワーズは、「自分が党派の長のようにされるのは本意ではない。」と言って反論を試みようとしたが、マクシミリアン・ロベスピエールは「私がまだ発言している。」と制して演説を続けた。「そう、山岳派は純粋で崇高であって、陰謀家は山岳派ではないのだ。彼らは党派を結成するや、陰謀家たちを集め匿うことを目的に偽善的な反対を行っている。それは架空の話ではなく、現に今、委員会提案に反対する者たちがいる。陰謀は事実によって証明されたのだ。」こうしてマクシミリアン・ロベスピエールの陰謀論が再び現れ、このダントン派に近い議員が前日に行った提案は取り消された。マクシミリアン・ロベスピエールは国民公会で演説したが、大多数の議員に支持されなかった。 最後に「汚職議員、腐敗議員の逮捕・裁判の権限を行使することを認めよ。」と国民公会に提案したが、国民公会の平原派議員と山岳派議員の大多数から反対された。当時の議員の大多数は何らかの疚しいところがあったからであった。
 プレリアル22日法に対して、マクシミリアン・ロベスピエールとその周辺への批判や怨恨が徐々に顕在化してきた。西暦1794年06月11日、マクシミリアン・ロベスピエールは反対にあって孤立した公安委員会から一言も告げず去った。また、「マクシミリアン・ロベスピエールは独裁者である。」という批判が、国民公会や保安委員会の多数派から投げつけられ、マクシミリアン・ロベスピエールは最後の1ヶ月は公安委員会に出席しなくなった。ジャコバンクラブでマクシミリアン・ロベスピエールは「無力になった。」と打ち明けた。ロベスピエール派の山岳派議員はわずか10人ほどで、他の山岳派議員はロベスピエール打倒に回った。マクシミリアン・ロベスピエールはジャコバンクラブから反対派を排除し、組織固めをした。マクシミリアン・ロベスピエールの去った公安委員会は反革命容疑者の選別の厳格化をさせたり財産差し押さえを延期させた。一旦は復帰したが、07月03日以後、彼は1度も会合に出席しなかった。その後、失脚直前まで彼が公安委員会と国民公会に姿を現さなかった。その間にも反対派の陰謀は進行していた。

 この頃公にされた事件として、05月12日に保安委員会に逮捕されたカトリーヌ・テオ(Catherine Theot)と彼女と会った人々をマルク・ギョーム・アレクシ・ヴァディエ(Marc-Guillaume Alexis Vadier)は06月15日に国民公会で共和国転覆の陰謀事件として報告した。彼女は1779年、彼女は「自分が聖母マリアであり、新しいイブであり、神の母である。」と宣言した。 彼女はサルペトリエール病院に何年も拘留された後、西暦1782年に解放された。その後12年間の彼女の活動については知られていない。自称預言者で「マクシミリアン・ロベスピエールは最高存在の代理人で神聖な使命を帯びている。」と唱導していた。そこで、保安委員会は彼女らを逮捕した。それはサン・ジュスト主導で公安委員会に、それまで保安委員会の管轄だった警察の部局が設置されたことへの腹いせだったとも言われる。彼女を敵国イギリス王国の手先として扱い、マクシミリアン・ロベスピエールの評判を落とそうとした。この事件は革命裁判所で審理され、テルミドール09日の裁判で取り上げられ、取り巻きは最終的に無罪となり釈放されたが、カトリーヌ・テオはマクシミリアン・ロベスピエールの処刑から1ヶ月後の09月01日に78歳で獄中で死亡した。

 他方で、対外戦争の方は戦況が好転しつつあった。西暦1794年春には、ヴァンデーの叛乱がほとんど鎮圧され、その兵力を対外戦争に向かう部隊に差し向けることができ、旅団の再編成が進んだ。南部では、革命軍がピレネー山脈付近の各地を奪還しスペイン軍を追い払うことに成功した。オーストリア領ネーデルラント戦線でも勝利が続いた。06月26日には、7万5千人のフランス軍が5万2千人のオーストリア軍と対峙し、翌日フルーリュス(シャルロワから約20q北東にある現ベルギーの町)付近でフランス共和国の勝利が決定的となった。このフルーリュスの戦いでは、初めて気球が戦地に投入され、フランス軍の情報収集に大いに活用された。戦勝の知らせは国民公会にも逐一届けられ、毎週のように祝われたが、フルーリュスの勝利を大々的に祝賀する行事は行われなかった。革命政府が暴動に発展することを警戒したためとも言われる。
 このフランス軍の勝利により、オーストリア大公国(西暦1453〜1804年)の反撃は失敗し敗戦は確定的となった。対外的な危機感が薄らいでゆくと、国内の対立が露見するようになった。政府(公安委員会)内部では、主に軍事部門を担当するジャン・バプティスト・ロベール・ランデ(Jean-Baptiste Robert Rindet )やラザール・ニコラ・マルグリット・カルノー(Lazare Nicolas Marguerite Carnot)と、その戦いの勝利にも派遣議員として立ち会ったサン・ジュストらとの主導権争いが活発化した。なお、サン・ジュストがほとんど北部に派遣されていたプレリアル(牧月)1ヶ月間の法令約6百通のうち、ジャン・バプティスト・ランデとラザール・カルノーがそれぞれ約210通と180通を発令したのに対し、マクシミリアン・ロベスピエールはわずか14通、ジョルジュ・オーギュスト・クートンは8通の発令に止まった。

 恐怖政治の前提は対外戦争であり、革命共和国政府存立の危機に対する超法規的措置であった。しかしフルーリュスの勝利の後には戦争はフランス共和国の勝利で終わる公算が大きくなり、恐怖政治の根拠はなくなった。また、革命戦争は共和国防衛から対外侵略へと変わった。フルーリュスの勝利の翌日の06月27日、マクシミリアン・ロベスピエールはジャコバンクラブで、「対外的な危機が一旦去ると対内的な危機が顕在化する、あるいは裏で拡大する。」と訴えた。「ここで素直に打ち明ければ、我々が外国の敵を打ち負かせた瞬間は、国内の敵がこれまでになくぬけぬけと彼らの卑しさと図太さを曝け出す瞬間である。我々は暴君に対する勝利を勝ち取った時、隠れた中傷や裏切りの陰謀が目覚め拡大することで、国民公会を消滅させ、我々の仕事の成果を剥奪しようとしていることに気付かされるのだ。」、「公安委員会は国民公会の議員全体、また尊敬すべき個々の議員を攻撃しようとしていると信じさせようとする、堕落した人間の一団がいることを知ってほしい。」と発言し、国民公会議場にいた議員たち、例えばかつてパリに召喚されたような、脛に傷をもつ元エベール派議員たちの心胆を寒からしめた。演説では、テオ事件にも言及し、「その事件を明るみに出そうとした人々の背後で真の陰謀が隠されようとしている。」マクシミリアン・ロベスピエールは狂信家たちの「エベール主義」と呼んだ。「あらゆる狂信家たちは、危険な信心家(カトリーヌ・テオ)の仮面の下に自らを隠し、曝け出されるのではないかという恐怖を隠している。エベール派(の残党)が1人の女性を使って「最高存在の祭典」を戯画にすることで、祭典の崇高で感動的な印象を消し去る手段としてこの事件を利用し、己の罪から逃れようとしているのだ。」と糾弾した。
 07月01日、マクシミリアン・ロベスピエールはジャコバンクラブで「内部に党派、敵が存在する。」と発言した。「良き市民の第一の義務は、だからそれを公に告発することである。」と言えば言うほど、内部の人間は不安に駆られ、生存欲求は生物の必然だった。エベール派とダントン派が粛清された後になっては、特に06月10日のプレリアール22日法の制定後では、派遣議員の召喚は処刑の前段階と理解された。派遣議員の何人かはこれらの派閥に属していた。彼らは「弁明の機会無く処刑されるのではないか。」と恐れ、黙って殺されるよりは反撃する方を選んだ。結局のところ「共和国の敵の全ては共和国政府の中にいる。」というサン・ジュストの主張はある意味では正しかったが、「恐怖政治は人民の純化とならなかった。」という点で結論は間違っていた。人々の諍いと対立、猜疑心はますます激しくなり、革命的精神に殉じることよりも生存本能が優ったのは自然の摂理だった。
 ジャコバン派が西暦1793〜1794年にかけてフランス内外の戦乱を収拾した後、国民は恐怖政治に嫌気が差すようになっていた。西暦1794年春にエベール派とダントン派が粛清されると、ジャコバン派の一部は国民公会の中間派と密に協力してマクシミリアン・ロベスピエールを打倒しようとした。また、恐怖政治の先鋒としてパリ以上に行き過ぎた弾圧を行っていた地方派遣議員ポール・バラス、ジャン・ランベール・タリアン(Jean-Lambert Tallien)ら)は、マクシミリアン・ロベスピエールの追及を恐れて先制攻撃を画策していた。
 一方、恐怖政治の中心だった公安委員会も、ロベスピエール派(マクシミリアン・ロベスピエール、サン・ジュスト、ジョルジュ・オーギュスト・クートン)、戦乱収拾により勢力を拡大した穏健派(ラザール・カルノーなど)と、恐怖政治のさらなる強化を主張する強硬派(ジャック・ニコラ・ビョー・ヴァレンヌ (Jacques Nicolas Billaud-Varenne)、コロー・デルボワなど)に分裂していた。コロー・デルボワとビョー・ヴァレンヌという2人の極左の公安委員は次の粛清対象は当然自分たちと信じた。
 さらに平原派の指導者で、公安委員会命令に最も多く署名した委員で影の首相とも言うべき立場であった、ベルトラン・バレールが、いわゆる「凍りついた革命」を見限ったことで、同じく中道的な3委員の賛同が得られなくなった。分裂した公安委員会は力を行使できなくなり、権力の空白が生まれた。「政治の唯一の動力」たる国民公会に頼るしかなくなったが、少数派であるロベスピエール派は、「多数の反対派が巣くう国民公会で演説し支持を得なくてはならない。」という苦境に追いやられた。エベール派の粛清後、自治市会のほとんどの地区もすでに官僚で占められて弱体化されていたので、凍りついたパリは冷淡だった。
 プレリアル22日法は、政権内部の対立を決定的にし、対外的な危機の後退がそれを表面化させる遠因となった。ついに06月29日(メシドール(収穫月)11日)、公安委員会と保安委員会の合同会議の席上で、ラザール・カルノーがサン・ジュストに向かって、「君とロベスピエールは愚かな独裁者だ!」と言い放った。マクシミリアン・ロベスピエールは反論することなく退場した。マクシミリアン・ロベスピエールやサン・ジュストが、同じ公安委員のラザール・カルノーやコロー・デルボワ、ビョー・ヴァレンヌらに「独裁者!」と中傷を受けても、彼らは酷く孤立してどこからも支援が得られなかった。もう1人のロベスピエール派の委員ジョルジュ・オーギュスト・クートンは満足に動けないほどすでに重病だった。
 マクシミリアン・ロベスピエールの人気はかつてほどではなく、独裁者と批判する手紙もいくつか届いていた。とはいえ、なお根強い人気を保持していた。ただ、その発言は国民公会ではなく、彼らが孤立しつつあった公安委員会と保安委員会の合同会議でなされた。政治家マクシミリアン・ロベスピエールは自身の古巣のジャコバンクラブの演壇に立ち、弁論を続けた。2日後、ジャコバンクラブで登壇したマクシミリアン・ロベスピエールは、「神が私を暗殺者の手から引き離すことを真に望んだのであれば、それは私にまだ残る時間を有効に使うよう責任を負わせるためである。」と、革命の成就に身を捧げる覚悟を改めて示し、「革命裁判所は国民公会を打倒し自由を破壊するために組織されたというデマが拡がっている。」と指摘し、「ロンドンでは自分のことが独裁者と呼ばれ、パリでも同様な中傷がなされている。」と訴えた。「パリでは、革命裁判所を組織したのは私であり、この裁判所は愛国者と国民公会の議員を破滅させるために組織されたのだと言われる。そして私が国民代表の暴君であり圧政者として描かれている。(中略)正にそうすることで、人々は〔真の〕暴君たちを許しているのであり、勇気と美徳だけを持つ孤独な愛国者を攻撃しているのだ……。」ここで「孤独な愛国者」と自称している。この言葉に、心境が表わされた。これに対して傍聴席にいたある市民が「ロベスピエール、全てのフランス人が君の味方だ。」と叫ぶ声が聞こえたが、「清廉の士」は決然として、「真理は犯罪に抗する私の唯一の隠れ家である。私は信奉者も賛辞も欲しない。私を弁護するものは、自分の良心の内にあるのだ。私に耳を傾けてくれる市民には、思い出してほしい。もっとも無垢で、もっとも純粋な歩みが、中傷にさらされたことを……。」、「なるほど、暴君の権力では私の勇気を挫くことはできず、依然として私は自由と平等を同じ熱情で擁護するだろう。しかし、その擁護は自分の良心の内で行われる。」修辞だけではなく、マクシミリアン・ロベスピエールが目指したのは名誉ではなかった。マクシミリアン・ロベスピエールが合同委員会から退場した心境の変化は、精神は内面に退却してしまった。しかし、それは彼本人は見えていなかった。内面の共和国は内面で一致した同志の共和国でなければならなかった。ところが、「最高存在の祭典」を構想し開催する中、革命の理想が公私が重なる形で1つの信仰へと結晶したように見えた正にその時、実際には公私が一致せず、すでに乖離し、この独りよがりの砂上の楼閣が崩れ始めた。
 その後、何度かジャコバンクラブの演壇に立った。
07月09日、革命政府への敵対者たち、ジャン・バティスト・カリエやジョゼフ・フーシェ、ポール・バラス、ルイ・マリ・スタニスラス・フレロン、ジャン・ランベール・タリアンといった、派遣議員の陰謀を告発した。彼らはいずれも、諸地方で反革命と称して市民を容赦なく弾圧した。ジャコバンクラブを追放されたジョゼフ・フーシェに至っては、07月14日に「卑しい軽蔑すべき詐欺師」と呼んで糾弾した。「恐怖は彼ら(旧エベール派)が愛国者たちに沈黙を強いる手段だった。彼らは沈黙を破る勇気を持つ人々を監獄に投げ込んだのだ。これこそ、私がフーシェを非難する犯罪である。」その日はフランス革命5周年の記念日だった。
 残虐な「カメレオン」、ジョゼフ・フーシェは、ジロンド派、ジャコバン派、急進派と渡り歩き、ピエール・ガスパール・ショーメット(Pierre Gaspard Chaumette)とともに、非耶蘇教化運動で教会を破壊掠奪し、墓地の門に「死は永遠の眠りである。」という言葉を刻むよう命じた。派遣議員でヴァンデと特にリヨンで残忍な大虐殺を繰り返した。ヴァンデでの残虐さは悪評が響いていたが、リヨンでは「リヨンの処刑人」として悪名を轟かせた。西暦1793年12月04日、リヨン東部のローヌ川沿いのブロトーの野原で鎖に繋がれた60人をブドウ弾(弾子を詰め込んだ前装滑腔砲(前装式大砲)用の砲弾)で爆殺し、翌日にはさらに211人を銃殺した。効果がなく、切断され、叫び声を上げ、半死人の山を齎した。その後すぐに多くの通常の銃殺隊がギロチンを補充し、数ヶ月で1800人以上の死刑執行が行われることになった。ジョゼフ・フーシェは、「テロ、有益なテロが今、ここでの日課となっている…我々は多くの不純な血を流させている。」と主張した。 「しかし、そうするのは我々の義務であり、人類のためだ。」と述べ、1905人の市民の処刑を行い、リヨン中心部での大量処刑の血が切断された頭や遺体から街路に流れ出て、ラフォン通りの側溝を濡らし、その悪臭を放つ赤い流れが人々の吐き気を催させた。 彼らの抗議に敏感だったジョゼフ・フーシェは、処刑をブロトーの野原に移すよう命令した。西暦1793年終わり〜1794年春まで、毎日、銀行家、学者、貴族、司祭、修道女、裕福な商人、そしてその妻、愛人、子供たちの集団が杭に縛り付けられてリヨンの刑務所からブロトーの野原に連行された。 そして銃殺隊や暴徒によって虐殺された。西暦1794年04月初めにパリに召喚された際、ジョゼフ・フーシェは「犯罪者の血は自由の土壌を肥やし、確かな基盤の上に権力を確立する。」と嘯いた鬼畜で、ポール・バラスの保護下にあったため、ジョゼフ・フーシェは最終的にマクシミリアン・ロベスピエールの最後の粛清の波を生き延びてしまった。警察機構の組織者で、秘密警察を駆使して政権中枢を渡り歩いた謀略家で、ナポレオン・ボナパルトの時代に初代オトラント公爵、初代フーシェ伯爵に成り上がった。王政復古で、王党派は国王殺しのフーシェを忘れていなかった。両親のルイ16世とマリー・アントワネットを殺されたマリー・テレーズ・シャルロット・ド・フランスは、ジョゼフ・フーシェが現れると席を蹴り決して同席しなかった。西暦1815年08月、ジョゼフ・フーシェは失脚し左遷された。西暦1816年01月09日、パリの議会による「百日天下の際にナポレオンに与した国王死刑賛成投票者はフランスから永遠に追放する。」というジョゼフ・フーシェを狙い撃ちにした決議により国外追放され、トリエステで死んだ。明治時代に日本の警察を創設した川路利良は、フーシェに範を取って、西南戦争の準備に秘密警察も取り入れた。
 国民公会議員同士の不和が深まる中、民衆の間でも革命や戦争疲れが徐々に広がりを見せ始めた。フルーリュスの勝利に続いて07月半ば頃になると、パリでは友愛宴会という市民運動が俄かに活発になった。それは、夜になると住民たちが集まって議論し、革命の終わりを願うものだった。そこには、「革命政府や革命裁判所は終わってほしい。」という期待が暗に含まれていた。07月16日、平原派のベルトラン・バレールは議会で、友愛宴会について「エベールやショーメットの遺言執行人による新たな陰謀であり、「純粋な感情と不実な意図、共和的な行為と反革命的な原理の危険な融合だ。」と非難した。その夜、ジャコバンクラブでベルトラン・バレールに続いて登壇したマクシミリアン・ロベスピエールは、「彼らは友愛という意味を履き違えている。」と批判した。「友愛は美徳の友のためにしか決して存在しえない。」のであって、「不協和(革命政府批判)があるところに友愛は存在しえず、それは友愛に値しない、愛国者ではない。友愛は心の一致であり、原理の一致である。愛国者は愛国者としか調和することができない。そのような熱情的な(真の)愛国者に反対する運動には、陰謀家が巧妙に紛れ込んでいるのだ。」そう告発したマクシミリアン・ロベスピエールが披瀝するのは、単一性(同質性)を宿した人民の原像と、友敵の論理である。「人民がそれに真に値する態度の中で現れ出るのは、その敵から分離されたときだけである。(中略)しかし、我々が人民を机によって分断させるなら、それはもはや人民ではない。それは党派でしかなく、愛国者と貴族の混合である。」さらにはこう述べた。「我々を一致させるのは、美徳と友情の神々しい魅力である。」ここでマクシミリアン・ロベスピエールにおいて人民が再び昇華され、内面の共和国が完成されようとしていたが、その反面、彼は現実に運動する民衆からはかなり飛躍したところに行ってしまった。マクシミリアン・ロベスピエールはパリを理解せず、もはや耳を傾けていなかった。それは彼自身が唱えた革命の論理、「必然性」の結果だったのだろう。
 同じ頃に派遣から帰還したサン・ジュストはロベスピエール派の孤立を知り、07月22日には対立関係にあった公安委員会および保安委員会による合同会議が開かれたが、マクシミリアン・ロベスピエールはもはやサン・ジュストの忠告にも耳を貸さなくなっていた。

 後に皇帝ナポレオン1世の皇后となるジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ(Joséphine de Beauharnais、マリー・ジョゼフ・ローズ・タシェ・ド・ラ・パジュリ(Marie Josèphe Rose Tascher de la Pagerie))の先夫、ボアルネ子爵アレクサンドル・フランソワ・マリーの逮捕を03月02日に保安委員会は命じた。西暦1793年のマインツ包囲戦で「十分に防御しなかった。」と非難し王党派と見做され、カルム監獄に投獄された。テルミドール09日のクーデタのわずか5日前の07月23日に従兄弟のオーガスティンとともに処刑された。04月21日にジョゼフィーヌ・ド・ボアルネは、元夫や友人の助命嘆願が罪に問われて同じカルム監獄に投獄され、獄中でルイ・ラザール・オッシュ将軍と恋仲となった。しかし、マクシミリアン・ロベスピエールが処刑されたことにより、08月03日に釈放された。
 アンドレ・マリ・シェニエ(André Marie Chénier)は、フイヤン派に属し、西暦1792年08月10日の蜂起で彼の一派は根こぎにされ、アンドレ・マリ・シェニエは友人・親戚とノルマンディーに逃れた。このあと、弟のマリ・ジョゼフ・シェニエ(Marie-Joseph Chénier)は革命派の国民公会に入った。シェニエはこれに怒り、ルイ16世擁護の論陣に加わった。国王が処刑された後、アンドレ・マリ・シェニエはヴェルサイユのサトリの丘に1年ほど隠棲していたが、西暦1794年03月07日、貴族を探している公安委員会の密偵に見つかり、パッシーのピスカトリー夫人の家で逮捕され、サン・ラザール監獄に140日幽閉された。マクシミリアン・ロベスピエールは、彼を風刺する詩をアンドレ・マリ・シェニエが書いたことを覚えていて、テルミドール09日のクーデターのわずか3日前の西暦1794年07月25日、「国家反逆罪」を宣告されて断頭台の露と消えた。31歳没。テルミドール09日のクーデターで恐怖政治が終わり、マクシミリアン・ロベスピエールが翌日処刑された。


 西暦1794年07月26日(テルミドール(熱月)08日)、1月以上にわたって姿を見せなかったマクシミリアン・ロベスピエールが国民公会に現れた。これまで、議会やジャコバン・クラブで630回以上の演説を行ない、聴衆を魅了してきた革命家が、最後の演説に臨もうとしていた。欠席中も独裁者や暴君という非難を受け、「政府や公安委員会を分裂させようとした。」と中傷されてきたマクシミリアン・ロベスピエールは議会で反論し、自己弁護をする必要に迫られた。コロー・デルボワと協議をしたが、結局、物別れに終わった。国民公会でマクシミリアン・ロベスピエールは、サン・ジュストらに諮らないまま「粛清されなければならない議員がいる。」と演説をした。議員達はその名前を言うように要求したが、マクシミリアン・ロベスピエールは拒否した。攻撃の対象が誰なのかわからない以上、全ての議員が震えあがった。
 いつものようにマクシミリアン・ロベスピエールは、共和国あるいは国民公会を危機に陥れた暴君として。ジャック・ピエール・ブリッソー(Jacques Pierre Brissot)やジョルジュ・ジャック・ダントン、ジャック・ルネ・エベールら、自らが処刑したお馴染みの名前を挙げた後で、「危機は終わっていない。」と本題に入った。「〈我々を〉なお攻撃しようとする怪物たちがいるのだ。「諸君は、敵が前進していることを知っていよう。彼らは一斉に国民公会を攻撃したが、その企ては失敗した。彼らは公安委員会を攻撃したが、その企ては失敗した。しばらくして、公安委員会の特定の委員に宣戦布告し、1人の人間を打ちのめしたがっているように見える。彼らは常に同一の標的に向かって進んでいる。」
 演説中盤では、共和国の問題がマクシミリアン・ロベスピエールの私人の泣き言に転化した。個人の私の不幸な意識が協調された。「私は何者なのか?人が告発した私とは?自由の従僕、共和国の生ける殉教者、犯罪の敵である以上に犠牲者。(中略)私から良心を取り除いてみなさい。私は生きている中で最も不幸な人間である。市民の権利も享受していない。私は何者なのか?私には人民の代表の義務を果たすことすら許されない。」私意識が横溢し、結果、いや真相は因果が逆だろうが、マクシミリアン・ロベスピエールは現実の民衆から離れていったように、現実の共和国からも離れた。「私の心性ではなく理性は、まさに自分がかつて構想を描いたこの徳の共和国を疑おうとしている。」 「清廉の士」は、「殉教者」への道を突き進もうとしているが、それでもマクシミリアン・ロベスピエールは、美徳の共和国の達成を全く諦めてしまった訳ではなかった。
 演説の終盤では、現実の共和国にとっての敵の存在を改めて指摘し、危機を訴えた。国外の戦況は好転し、国民の危機意識は緩和されてきていた。しかし、マクシミリアン・ロベスピエールによれば、「軍事面で成功しても、それが我々の革命の原理を定着させることに繋がっていない。フランスがヨーロッパを従わせるのは戦争によってではなく、法であり討議であり原理でなければならないのだ。」これから第2、第3のシャルル・フランソワ・デュ・ペリエ・デュ・ムリエ (Charles François du Perrier du Mouriez)将軍が出てこないとも限らない。「我々の敵は後退しているが、我々は内部に分裂を残している。(中略)将軍の間に分裂の種が蒔かれたのだ。」、「国内の状況はこれまでよりもはるかに危機的である。」と言って、3人の財務委員を名指ししながら、演説は内政の危機に話が及んだ。もう、この種の危機の言説、状況の理屈が神通力を持ちうる状況ではなくなっていた。何より、多くの議員は保身かマクシミリアン・ロベスピエールとその一味に対して恐怖を抱き、怯えるような状況では、2時間にも及んだ長過ぎる演説が、以前のような熱狂で受け入れられる筈もなかった。今回は、彼は従来のように公安委員会などを代表しているわけではなく、全くの一議員として演説した。マクシミリアン・ロベスピエール自身最後の演説で「この独裁という言葉には魔術的な効果がある。」と述べていた。
 続く討議で、この演説原稿の扱いが問題になった。そのとき、対立や不満が表面化した。以前、プレリアル22日法に異議を唱えたフランソワ・ルイ・ブールドン・ド・ロワーズが演説の印刷に反対し、印刷するとしても事前に公安・保安両委員会の検討に付すことを要求した。これに対して、ベルトラン・バレールがフランスの一市民の立場から印刷を求め、さらにジョルジュ・オーギュスト・クートンが全国への配布を提案し一旦了承された。しかし、この議論をきっかけにして、「自分は狙われているのではないか。」と感じていた議員たちが次々と介入し、討議は白熱した。マルク・ギョーム・アレクシ・ヴァディエはテオ事件を持ち出し、また、終身年金改革をめぐりマクシミリアン・ロベスピエールと対立していた平原派の「財政のロベスピエール」、ピエール・ジョゼフ・カンボン(Pierre Joseph Cambon)は、「1人の人間が国民公会の意志を麻痺させた。」と糾弾した。さらに、ルイ・マリ・スタニスラス・フレロンに続いて、パリ(セーヌ・エ・オワーズ県)選出の議員、エティエンヌ・ジャン・パニが、「自分の好きなようにジャコバンの人間を排除してきたロベスピエールを非難する。」と訴え、こう皮肉ってみせた。「私は彼が他の人より強い影響力を持たないことを望む。彼が我々を処刑リストに入れたかどうか、彼が作成した表に私が載っているかどうかについて話すことを望む。」エティエンヌ・ジャン・パニは以前保安委員会に属しながら、同僚議員に便宜を図った見返りに金銭の授受をしたため、保安委員会から排除された。この言葉は、議場にいた多くの議員の本音を代弁していた。この討議のやり取りからわかるのは、マクシミリアン・ロベスピエールのことを独裁者や暴君と議場で批判することがそこまで抵抗なくできるようになっていた、その一方で、「自分は狙われているのではないか。」、それが存在した事実はないが、「処刑表に自分が入っているのではないか。」と不安を抱えた議員が多くいた。結局、ブレアールという議員の動議により、演説原稿を市町村へ送付するという法令は取り消され、それは国民公会の議員だけに配布されることに決まった。事実上、マクシミリアン・ロベスピエール側の敗北で、開会前に一部で形成されていた反ロベスピエールの共謀が広く支持される状況を、最後の演説自体が作り出すという効果を持った。反対派たちの結束はこれで決定的なものとなった。
 演説後、部屋に戻ったマクシミリアン・ロベスピエールは、午前の議論を振り返り、「山岳派からこれ以上何も期待しない。彼らは暴君として私を排斥することを望んでいる。だが、国民公会の大部分はいずれ私を理解してくれるだろう。」と穏やかに語った。

 07月26日の晩、マクシミリアン・ロベスピエールはジャコバンクラブで国民公会と同じ演説を行なった。ビョー・ヴァレンヌやコロ・デルボワによる妨害工作が行われる中、敢行された演説だった。06月29日、ビョー・ヴァレンヌやコロー・デルボワは、ラザール・カルノーがサン・ジュストに向かって「君とロベスピエールは愚かな独裁者だ!」と非難した際、「独裁者!」と叫んだ。元々西暦1793年09月05日にサン・キュロットが国民公会に押し寄せる中、公安委員会に迎えられた急進超過激派のエベール派議員だった。
 それでも、マクシミリアン・ロベスピエールのジャコバンクラブでの最後の演説は激しく歓待された。同志を擁護すること、負けても彼と共に朽ち果てることを会員たちは誓い合った。演説後、マクシミリアン・ロベスピエールはジャコバンの聴衆に向かって、「諸君が今聞いた演説は私の最後の遺言である。」と発言した。彼は翌日の悲劇を予感していたのかも知れない。マクシミリアン・ロベスピエールは、影響下にあるペイヤンの自治市会総会を動かし、フランソワ・アンリオ(François Hanriot)の国民衛兵隊を動員して武装蜂起することはできたが、そのようなクーデターを彼は最後まで好まなかった。
 翌日、西暦1794年07月27日(テルミドール(熱月)09日)の運命の日を迎えた。朝、国民公会に向かう前、身を案じるデュプレ家の人々に対して、「清廉の士」は彼らを安心させようと、「国民公会の大部分は純粋です。安心してください。私はなにも恐れてはいません。」と語った。
 マクシミリアン・ロベスピエールは、サン・ジャック通りの国民公会にもジャコバンクラブにも歩いて数分の等距離の指物師というより裕福な家具仲介業者のモーリス・デュプレイ(Maurice Duplay)宅のサン・トレノ通り366番地(366 Rue Saint-Honore、現3982番地)に西暦1791年07月17日〜1794年07月28日まで下宿していた。モーリス・デュプレイはフランソワーズ・エレオノール(Françoise Éléonore Duplay)との間にエレオノール(Éléonore)、ソフィー(Sophie)、ヴィクトワール(Victoire)、エリザベート(Élisabeth)、ジャック モーリス(Jacques-Maurice)という5人の子供があり、西暦1793年10月29日に、マクシミリアン・ロベスピエールの後推しで、モーリス・デュプレイは革命裁判所の陪審員になった。フィリップ・フランソワ・ジョゼフ・ル・バの妹アンリエット・ル・バがサン・ジュストと婚約し、彼の新妻エリザベート・ル・バ(Élisabeth Le Bas)は、マクシミリアン・ロベスピエールを匿い部屋を貸していモーリス・デュプレイの次女で、長女エレオノールはマクシミリアン・ロベスピエールと恋仲で事実上の妻であったため、3人は義兄弟だった。

 午前11時、マクシミリアン・ロベスピエールらは国民公会に臨んだ。まず書簡が朗読され、陳情者たちの発言が次々となされた後、正午頃にサン・ジュストが「自分は特定の党派など関係ないし、党派争いを望まない。」とマクシミリアン・ロベスピエールを擁護するため演壇に上がった。この間、表舞台から姿を消していた革命家の精神の苦悩を打ち明けながら、前日のマクシミリアン・ロベスピエールと同種の演説を開始した。
 マクシミリアン・ロベスピエール擁護の演説を始めると、突如パリ(セーヌ・エ・オワーズ県)選出の議員、ジャン・ランベール・タリアン(Jean-Lambert Tallien)が、議事進行を理由に演説を妨害した。この介入が、マクシミリアン・ロベスピエール失脚の決定的な流れを作ることになった。「昨日同じように孤高を気取っていた奴がいたはずだ。暗幕を切り裂け。(暗幕に隠されたロベスピエール派の結託を明らかにせよ。)」と野次り、サン・ジュストの演説を打ち切らせた。「私は今しがた暗幕を引き裂くことを要求した。今や喜びつつ認めることができるのは、暗幕は完全に引き裂かれ、陰謀者たちの仮面は外され、彼らは直ちに滅ぼされ、自由が勝利するだろうということである。(拍手喝采)全てが告げているのは、国民代表の敵は打撃を受けて倒れようとしていることだ。我々は生まれてくる共和国に共和主義的忠誠の証を与える。私がこれまで沈黙を強いられたのは、フランスの暴君に接近した人間から、彼が追放表を作ったことを知ったからである。」
 続いて、憲法制定国民議会からの政治家で、穏健な平原派(プレーヌ派)のベルトラン・バレールも、このところの革命政府の変質に言及し、一人の人間が大多数の人々、有力な人民協会の意志を独占すれば、「彼は徐々に世論の支配者になる。」と暗にマクシミリアン・ロベスピエールを批判した。ただ、その批判は生ぬるかった、ジャン・ランベール・タリアンがもっと過激な言動で、「私は非難の仕返しを望まなかったが、昨日、私はジャコバンクラブの集会を見た。祖国のために身震いした。新たなクロムウェルの軍隊が作られるのを見たのだ。もしも国民公会がその告発を指令する勇気を持たないなら、彼の胸を突くための短刀を私は用意する。(拍手喝采)」短刀をちらつかせながら「暴君打倒!」を叫んだジャン・ランベール・にビョー・ヴァレンヌが「私は繰り返すが、我々全ては名誉を保って死ぬだろう。何故なら、ここには暴君の下で生き延びたいと思うただ1人の代議士もいるとは信じられないからだ。(そうだ、そうだ!あらゆる場所からの叫び。暴君くたばれ!長く続く喝采)公会やジャコバンクラブで、絶えず正義や美徳について語る人間は、可能な時にはそれを足下に踏みつける人間である。」と続けた。
 この過激なエベール派議員が暴君の寛大さをかつて非難したことなど今となっては誰も覚えていないかのようである。国民公会の議員たちは、「そうだ!そうだ!」と相槌を打った。さらに、ジャン・ランベール・タリアンが暴君のジャコバンクラブでの演説に再び触れながら、畳みかけるように非難を続けた。「そこでこそ私は暴君に出会い、そこにこそ私は全ての陰謀を見いだす。この演説の中に、真理、正義、公会と並んで、私はこの男を打ち倒すために武器を見つけたい。」
 さらに議長のコロー・デルボワは、マクシミリアン・ロベスピエールも、演壇に立って反論しようと試み繰り返し発言を求めたが、発言を阻止し、前日も彼を糾弾した平原派のピエール・ジョゼフ・カンボンが、「クロムウェルを倒せ!」と叫喚し、マルク・ギョーム・アレクシ・ヴァディエはジャン・ランベール・タリアンとともに「臆病な暴君!」の告発を要求した。正に、議場における暴君への非難は付和雷同の様相を呈していた。国民公会で多数を占めた平原派も、その告発に賛同した。これに対して、正式に反論することが叶わなかったマクシミリアン・ロベスピエールは、反発の意志を示し、「私に死を与えることを要求する。」と主張した。議場から「暴君を倒せ!」と野次が飛ぶ中、ジャン・ランベール・タリアンはロベスピエール派の逮捕を要求した
 午後03時、ルーシェら数人の議員が「逮捕を裁決せよ!」と叫ぶと、ロベスピエール派の擁護の声は反対派の怒号に掻き消され、あっという間に全会一致で逮捕が決議された。マクシミリアン・ロベスピエール、ジョルジュ・オーギュスト・クートン、マクシミリアン・ロベスピエールの弟のオーギュスタン・ボン・ジョゼフ・ド・ロベスピエール(Augustin Bon Joseph de Robespierre)のプロスクリプティオ(羅語: proscriptio、共和政ローマで実施された特定の人物を国家の敵として法の保護の対象外に置く措置)が決議された。加えて、「私も逮捕されることを要求する。」と述べた、サン・ジュスト、フィリップ・フランソワ・ジョゼフ・ル・バ(Philipe-François-Joseph Le Bas)の逮捕も決定された。
 夕刻、5人の議員は議場の外に連れ出され、別々の監獄へ護送されることになった。マクシミリアン・ロベスピエールは1マイル南に位置するリュクサンブール監獄に送致された。そこは奇しくも4ヶ月前、ジョルジュ・ジャック・ダントンやカミーユ・デムーランが逮捕された時に送られた監獄だった。マクシミリアン・ロベスピエールは殉教への最後の歩みを始めたように見えたが、監獄に着くと、思わぬことが出来した。「清廉の士」らを投獄しようとする者はいなかった。管理者たちが開門を拒否した。
 国民公会の論戦にマクシミリアン・ロベスピエールやサン・ジュストが敗北して危機に陥ると、フランソワ・アンリオらはマクシミリアン・ロベスピエールらの指示を無視して警鐘を鳴らし、国民衛兵に非常招集を掛けた。それが元で翌日、国民公会でフランソワ・アンリオ逮捕の決議がされた。マクシミリアン・ロベスピエール逮捕の報を受けたため、フランソワ・アンリオはクレーヴ広場から憲兵隊を引き連れて首領の奪回に向かったが、行った先で自身の解任を知らされ、そこで逮捕された。ところがジャン・バティスト・コフィナルらに率いられたパリ砲兵隊の手でマクシミリアン・ロベスピエールともども救出された。他所でも捕らえられたロベスピエール派指導者達をロベスピエール派の国民衛兵隊が奪回し、善後策を練るためパリ市庁舎に立て籠った。


 この日、「トローヌ・ランヴェルセ広場(転覆玉座広場、現パリ11、12区のナシオン広場)にあったギロチンが外され、革命広場(Place révolution、現8区コンコルド広場)に立てられた。この頃、パリに拘留されていた反革命容疑者数は、約8千人を収監していたが、重要人物ではない一般の容疑者の死刑確定率は1割程度に満たず、ほとんどは裁判もなくただ収監されている状態だった。全フランスでは、約9万人に達した。

 逮捕劇は、自然発生的に起こった訳ではない。脛に傷を持つ議員たち、ジョゼフ・フーシェ、ポール・バラス、ルイ・マリ・スタニスラス・フレロン、そしてジャン・ランベール・タリアンらによる周到な計画があった。やらなければやられる。処刑予定者表なるものを自分たちで作成し、表に載っているとされる議員にそれを見せながら、マクシミリアン・ロベスピエールとその一味の失脚の必要性を訴えた。その計画を実行に移したとき、決定的な役割を果たしたのがジャン・ランベール・タリアンであったが、ある意味で彼よりも決定的な役割を果たした人物が背後にいた。
 ジャン・ランベール・タリアンはパリにある貴族の邸宅の執事の息子として生まれた。侯爵の支援で教育を受け、一時は弁護士の助手をしていたが、革命が起こるとその理念に共鳴し、新聞の印刷作業所の現場監督を経験して、自ら新聞「市民の友」を創刊した。それは週2回の発行で、パリの壁に張り出され、ジャコバンクラブでも一目置かれるようになった。さらに、人民集会で革命の大義について演説し、それを印刷して配布することで、まもなく20代前半の青年が革命の指導者の1人と認知されるようになった。政治の舞台への登場は西暦1792年07月、パリの地区を代表して国民議会で演説し、マクシミリアン・ロベスピエールが「美しい革命」と呼んだ08月10日事件に参画した。また、再び議会で演説する機会を得ると、「自治市会は民衆による虐殺を止めるためにあらゆる努力をした。」と釈明する一方、処刑を執行した民衆の献身を称え、「被害者には極悪人しかいなかった。」と偽証した。実際、ジャン・ポール・マラーによって作成された囚人の処刑を命じる回状を地方に送ったとされるタリアンは九月虐殺に直接関与した。それは、マクシミリアン・ロベスピエールが流血を嫌悪した事件だった。
 その「実績」を提げて国民公会の議員に選出されると、タリアンは最初の議会で早速九月虐殺と煽動したジャン・ポール・マラーを擁護した。また、その年国王ルイ16世の処刑を支持した後、処刑日に議長に指名され地方の反乱を鎮圧するために西部に派遣された。そこでジャン・ランベール・タリアンは、反革命派、王党派を弾圧した。さらに、パリで05月31日〜06月02日事件が起こると、熱狂的にこれを歓迎し、「政敵(ジロンド派)は法の外にある。」と宣言した。
 西暦1793年09月23日、革命政府が樹立されたこの日、全国に恐怖政治体制を布く格好の人物としてボルドーに派遣されたのもジャン・ランベール・タリアンだった。ジャン・ランベール・タリアンは、激しい弾圧を実行したことで有名である。執務室の窓から、処刑を眺めるのを日課にしていた。そいつが殲滅の手を緩めるようになった。テレーズ・カバリュス(仏:語 Thérèse Cabarrus、ジャンヌ・マリー・イニャス・テレーズ・カバリュス(仏語: Jeanne- Marie-Ignace-Thérèse Cabarrus、西語: Juana Maria Ignazia Thérésa Cabarrus)と出会った。スペインの有数の銀行家の娘で、フォントネ侯爵夫人だった(結婚したのは15歳になる前で革命勃発前年の西暦1788年だが、国王ルイ16世の処刑後、夫に従って亡命することを拒否してわずか5年ほどの結婚生活を終え離別したため、ジャン・ランベール・タリアンと出会ったときには前侯爵夫人となってた。彼女がパリにいた頃に何度か会ったことがあり、心を奪われた経験をすでに持っていた。そこで当然のように、この女囚を解放し愛人にすると、ジャン・ランベール・タリアンは彼女の意見を容れる形で反革命派の弾圧の手を緩めた。もちろん、その変貌は周囲に怪しまれない訳がなく、その後パリに戻ったジャン・ランベール・タリアンはしばらく自身の正当化に努めることになった。テレーズ・カバリュスはと言うと、ジャン・ランベール・タリアンを籠絡させ、革命家たちを懐柔する一方で、カバリュス一族が手広く海運業を行う港町で火薬工場の経営に乗り出した。
 ジャン・ランベール・タリアンは、己の嫌疑を晴らそうと、議会では貴族や穏健派を過剰に糾弾し、革命裁判所のぬるさを非難することで多くの議員から支持され、再び議長に選出されることに成功した。しかし、その変貌に騙されない議員が、マクシミリアン・ロベスピエールだった。遅れてパリにやってきたフォントネ前侯爵夫人に対し公安委員会が逮捕状を発行するのを主導したのも「清廉の士」、マクシミリアン・ロベスピエールだった。
 西暦1794年06月01日、マクシミリアン・ロベスピエールはジャン・ランベール・タリアンが愛国者たちを騙そうとしたことを非難し、数日後にもジャコバンクラブで非難を続け、ジャコバンクラブから彼を追放することが決まった。ジャン・ランベール・タリアンが政治家生命に絶望するだけでなく、身の危険も感じた。しかも、その後まもなくして06月10日に制定されたのが、パリの裁判を効率化して処刑を迅速化させることを目的にした、あのプレリアル22日法だった。
 これに呼応するかのようにして、自称預言者カトリーヌ・は05月12日に逮捕され06月15日に議会でテオ事件の報告があり、06月29日にはマクシミリアン・ロベスピエールが「愚かな独裁者だ!」と糾弾された。こうした暴君糾弾の流れが加速し、ジャン・ランベール・タリアンが糾弾された時期と平仄が合った。実際、彼ら派遣議員を中心に、マクシミリアン・ロベスピエール失脚の筋立てが詰められいた。
 しかし、このとき身の危険を感じたのは議員だけではない。いや、むしろ彼らよりも命の危険を感じていたのは、テレーズ・カバリュスその人だった。彼女が再逮捕された数日後、プレリアル22日法が制定されたのであり、次に処刑されるのは自分だと考えないではいられなかった。もちろん、彼女が糾弾されている人物の愛人であることは、革命家たちには周知の事実だった。
 そこで、クーデタの計画を知ったテレーズ・カバリュスは、自身が収監されていたフォルス監獄から、マクシミリアン・ロベスピエールが最後の演説を行った日にタリアン宛に手紙を出した。「警察の役人が出て行きました。『私は明日裁判所に送られ、即ち処刑台に上がるのだ。』と告げに来たのです。それは、私が昨日見た夢とはほとんど違います。ロベスピエールが最早存在せず、刑務所の門が開かれていた(という夢です)。恐らくそれを実現するには、1人の勇気ある男の人がいれば十分でしょう。しかし、あなたのどうしようもない臆病さのおかげで、そのような善行に与れる人は残っていないことでしょう。さようなら。」
 これに対し、「私が持つことになる勇気と同じくらいの慎重さを持ってください。とにかく頭を冷やして下さい。」と返信したジャン・ランベール・タリアンは、翌日、彼女に求められた勇気を示す覚悟を決めていた。とにかく絶望することは思い止まるよう、愛人に懇願した。臆病さを詰られることで、殺る気になった。「テレーズ・カバリュスはポール・バラスなどによって手紙を書くように勧められた。」という説もあるが、ジャン・ランベール・タリアンの奮い立たせる言葉を敢えて選んだに相違ない。短刀をちらつかせながら政敵を糾弾し、追い詰めていったあの行動の背後には、ジャン・ランベール・タリアン自身の恐怖とともに、愛人テレーズ・カバリュスの恐怖と教唆があった。その後、釈放されたテレーズ・カバリュスは、「テルミドールの聖母」と称えられることになった。


悪女が生まれる時 - 藤本 ひとみ
悪女が生まれる時 - 藤本 ひとみ

 マクシミリアン・ロベスピエールらの逮捕が伝えられると、午後05時頃、パリ市は蜂起を宣言し、パリ自治市会が蜂起し、その隙にパリ砲兵隊に救出されたマクシミリアン・ロベスピエールらはパリ市庁舎に逃げ込んだ。その後、市庁舎にはマクシミリアン・ロベスピエールを守るべく、国民公会によって国民衛兵司令官の職を解かれたフランソワ・アンリオ率いる200人の国民衛兵と3500人の群集が集結して来た。この時、気の滅入っていたフランソワ・アンリオは 「アー・サ・イラ・サ・イラ、うまく行くさ、行くさ・・・ 裏切り者もいる、 けれど全てはうま く行くさ、貴族どもは街頭に縛り首。」 と大酒を呑んで革命歌「サ・イラ(Ah ! ça ira, ça ira, ça ira)」を歌って泥酔していた。パリ市国民軍司令官となったフランソワ・アンリオに兵士を集めるよう求め、パリの各地区に対し、マクシミリアン・ロベスピエールを守るよう指示を出した。しかし、48地区のうち、部隊を出したのはわずか13で、それでも国民公会に突撃することは可能だったが、独裁者と呼ばれたくないマクシミリアン・ロベスピエールは彼らの先頭に立つ気はなかった。民衆の中に無力感が漂っていた。「市民よ、武器を取れ!」といった言葉に大多数の住民は聞く耳を持たなかった。馬に跨ったフランソワ・アンリオは、憲兵を引き連れてサン・トノレ通りを横切ると、道路工事をする労働者の一団に遭遇した。「諸君の父が危機にある。」とフランソワ・アンリオが叫ぶと、労働者たちは「共和国万歳!」と唱和したのち、何事もなかったように仕事に戻った。国民公会が開かれているチュイルリ宮殿の近く、パレ・ロワイヤル広場に出たフランソワ・アンリオは、「愛国者の議員たちが逮捕されようとしている。」と再び住民に叫んだ。すると、群衆の1人はこう返した。「耳を貸すな。奴はお前たちを騙そうとしている悪党だ。逮捕状が出ている。我々は奴を逮捕しなければならない。」フランソワ・アンリオにはもはや民衆を動員する力はなかった。同じ頃、その広場にある劇場は普段と同じく開演の時を告げようとしていた。ちょうど共和国劇場で演じられようとしていた題目は、詩人で劇作家ガブリエル・マリー・ルクヴェによる「エピカリスとネロ」である。ネロとは言うまでもなくローマ帝国5代皇帝の暴君ネロ・クラウディウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマニクス(Nero Claudius Caesar Augustus Germanicus)で、エピカリスは古代ローマの解放奴隷の女性、ネロ暗殺(ピソの陰謀)を企てた1人だった。
 フランス革命の立役者たちが人生の終焉を迎えようとしているとき、全ての民衆が無関心を決め込んでいたわけではない。彼らは総じてマクシミリアン・ロベスピエールを見捨てることはなかった。リュクサンブールの監獄から市庁舎に向かう馬車は、2、3千の住民たちに曳かれるように伴われた。そこでは「ロベスピエール万歳!」の声が鳴り響いていた。これに対し、夜07時頃に議論を再開させていた国民公会の対応は早かった。「マクシミリアン・ロベスピエールが市の役人たちに歓迎され支持されている。」という情報が飛び込んでくると、08時半過ぎ、「これらの役人たちを法の外に置くことを要求する。」とある議員が主張、議場では「法の外、法の外だ!」と喚声があがった。そして、マクシミリアン・ロベスピエールら5人の議員らとパリ自治市会(パリ・コミューン)に従う者を法の外に置くことが宣言された。同時に、元軍人でマルセイユやトゥーロンでは派遣議員として激しい弾圧を行なったポール・バラスをパリの軍司令官に任命し、マクシミリアン・ロベスピエールの逮捕に向かわせることを決議した。
 マクシミリアン・ロベスピエールが市庁舎に入った時、前にあるグレーヴ広場(パリのグレーヴ広場とは現市役所前広場、西暦1803年まではグレーヴ広場が正式名称。グレーヴ(grève)は「岸辺、砂浜」の意。元々パリの港であったことからついた名称)には各地区の部隊が集まっていた。パリ自治市会と同盟を結んだが、軍隊が集まらず、結局何もしないまま夜が更けた。夜が更け、明確な指示がなく指導層が不決断であったため、深夜になって日付が変わった頃には集まった民衆は一旦家に帰り始め、午前02時を回ると解散してしまった。その隙に、国民公会が派遣したポール・バラスに率いられた軍隊が市庁舎に夜襲を掛け、易々と市庁舎を占領した。サン・ジュストはほとんど無抵抗のまま逮捕された。フィリップ・フランソワ・ジョゼフ・ル・バは拳銃自殺し、その場に残された彼の妻エリザベート・ル・バ(デュプレイ家の次女)と生後6週間の甥フィリップ・ル・バ・フィルスは「陰謀を起こしかねない。」という容疑でフィリップ・フランソワ・ジョゼフ・ル・バの父親とともに監獄送りとなった。マクシミリアン・ロベスピエールの弟オーギュスタン・ロベスピエールは市役所2階の窓から靴を脱いで飛び降りた時に頭部を挫傷し骨盤も骨折した。ジョルジュ・オーギュスト・クートンは車椅子から階段に身を投げて共に重傷を負った。
 24歳のシャルル・アンドレ・メルダ(Charles-André Merda)はパリ自治市会で起こっていることを報告するために公安委員会に走ってきた。ここで突然パリ市庁舎攻撃を委任され、仲間とともに執務中のマクシミリアン・ロベスピエールの所に突入して来た。マクシミリアン・ロベスピエールの左頬に銃弾が貫通し、顎が砕けた。命令書は署名が途中で途絶え、紙面には血痕が拡がった。彼が署名していた部隊が突入したちょうどその時、マクシミリアン・ロベスピエールは彼自身の住むピック地区に向けて蜂起を促す声明文に署名するところだった。確かに、下部の署名欄末尾には「ロ(Ro)」とだけ書かれ、書面には血痕が残っていた。命は取り止めたが、顎が剥がれ落ち、夥しい出血と激しい痛みに襲われた。襲撃でマクシミリアン・ロベスピエールは重傷を負い、ジャン・バティスト・コフィナルに「お前の馬鹿さ加減とその臆病は我々の信頼を失った。」と言われ窓から突き落とされたフランソワ・アンリオらは遁走した。翌日、泥酔状態だったフランソワ・アンリオは、「マクシミリアン・ロベスピエールが生きている。」と聞いて、慌てて「市民公会を動員して救出に向かおう。」と思ったが、満足に真っ直ぐ歩けぬ有り様で、中庭で発見され捕縛され同日処刑された。
 「署名を途中で中断させられた。」と推測するのが普通だが、傷のでき方からすると、「マクシミリアン・ロベスピエールも自殺を図ったが失敗して顎に重傷を負い逮捕された。」という自殺を図ったという説もある。どちらにせよ、それ以前から署名することを逡巡していた、署名未了はその結果だったと考えられる。そう考えたほうが、告発後のマクシミリアン・ロベスピエールが一貫して民衆を煽動するような言動を控えていたことと辻褄が合う。マクシミリアン・ロベスピエールにとって、国民公会に向かって進軍は躊躇っていた。確かに、08月10日事件を「美しい革命」と捉えたように、民衆が自ら蜂起を起こせば、それを容認する用意はあったが、民衆の多くは無関心で、自らの日常の方が重要だった。地区の方でも、このときすでに文民・軍人両組織はほぼ例外なく、国民公会(とその内部の公安・保安委員会)を単一の政府として認識し、国民公会支持の方向に動いていた。
マクシミリアン・ロベスピエールは逮捕され、国民公会から「この勇敢な憲兵を将軍にしよう。」という話が出たほど感謝され、しばらくはもて囃されたが、すぐに彼のことを忘れてしまった。しかし、ナポレオン・ボナパルドの軍隊で准将になり男爵にも叙された。
 夜明け前、マクシミリアン・ロベスピエールの身柄は国民公会に移された。「議場に寝かせるのは似つかわしくない。」と応接室に移され、そこの机上に寝かされた。顎を巻いた包帯は血ですぐに真っ赤に染まり、シャツも血だらけになった。言葉を発することもできず、瀕死の状態だった。ロベスピエール派らはコンシェルジュリー牢獄に連行されて短い最期の夜を過ごした。テルミドール(熱月)10日(07月28日)04時に、マクシミリアン・ロベスピエールの下宿のデュプレイ家の家族全員は逮捕され、サント・ペラジー監獄に連行された。 モーリス・デュプレイの妻フランソワーズ・エレオノール・デュプレイ(59)は、テルミドール(熱月)11日(07月29日)に独房で首を吊って自殺した。
 テルミドール(熱月)10日(07月28日)早朝、プレリアル22日法に異議を唱えたフランソワ・ルイ・ブールドン・ド・ロワーズに近い議員ルジャンドルは、ジャコバンクラブに走って向かい、そこに集まっていたマクシミリアン・ロベスピエールの主に女性の支持者たちに向かい、「奴が美徳の仮面の下で犯罪を犯した、あなた方は騙されていたのだ。」と叫んだ。支持者たちを追い出しジャコバンクラブを閉鎖し、その鍵を国民公会に持ち帰った。
 午前11時、マクシミリアン・ロベスピエールはコンシェルジュリー監獄に移送され、元より、法の外に置かれた人間に対して裁判が行われることはなく、マクシミリアン・ロベスピエールの指示に従って反対派を断頭台に送り込んでいた革命裁判所の検事アントワーヌ・フーキエ・タンヴィルはマクシミリアン・ロベスピエールらに死刑の求刑を求め、裁判長より死刑判決が下され、即日処刑されることになった。
 午後06時、ギロチンのある革命広場(現コンコルド広場)に向けて22人の囚人を乗せた荷車が出発し、サン・トノレ通りぼ下宿のデュプレ家の前を通った。刑場に向かうジョルジュ・ジャック・ダントンが「ロベスピエールよ、お前も俺の後に従うのだ。」と叫んだ場所だった。
 翌日に即日、革命裁判所により死刑宣告を受け、翌07月28日、マクシミリアン・フランソワ・マリー・イジドール・ド・ロベスピエール、オーギュスタン・ボン・ジョゼフ・ド・ロベスピエール(小ロベスピエール)、「革命の大天使」または「死の天使長」ルイ・アントワーヌ・レオン・ド・、「ロベスピエールの第2の魂」ジョルジュ・オーギュスト・クートン、アドリアン・ニコラ・ゴボー(Adrien-Nicolas Gobeau)、アントワーヌ・ジャンシ(Antoine Gency)、ルイ17世(ルイ・シャルル)を虐待したアントワーヌ・シモン、エティエンヌ・ニコラ・ゲラン(Etienne Nicolas Guerin)、クリストフ・コシュフェ(Christophe Cochefer)、クロード・フランソワ・ド・パイヤン(Claude-François de Payan)、ジャック・ルイ・フレデリク・ウアルメ((Jacques-Louis-Frederick Vouarmee)、シャルル・ジャック・ブーゴン(Charles-Joseph-Marthurin Bougon)、ジャン・エティエンヌ・フォレスティエ(Jean-Etienne Forestier)、ジャン・クロード・ベルナール(Jacques-Claude Bernard)、ジャン・バティスト・ド・ラヴァレット(Jean-Baptiste de Lavalette or Louis Jean-Baptiste de Lavalette、Louis Jean-Baptiste de Thomas de la Valette, count of la Valette)、ジャン・バティスト・フルーリオ・レスコー(Jean-Baptiste Edmond Fleuriot-Lescot、Lescot-Fleuriot)、ジャン・ベルナール・ダザール(Jean-Baptiste-Mathieu Dhazard)、ジャン・マリ・ケネ(Jean-Marie Quenet)、ドニ・エティエンヌ・ローラン(Denis-Etienne Laurent)、ニコラ・ジョゼフ・ヴィヴィエ(Nicolas-Joseph Vivier)。クートン{に「ロベスピエールの地に落ちた魂」と揶揄されたフランソワ・アンリオ、ルネ・フランソワ・デュマ(René-François Dumas)の22人は革命広場(現コンコルド広場)でギロチンにより処刑された。

 3番目はオーギュスタン・ボン・ジョゼフ・ド・ロベスピエール(小ロベスピエール)、ルイ・アントワーヌ・レオン・ド・サン・ジュストは順番が来ると、ルネ・フランソワ・デュマに接吻をし、マクシミリアン・フランソワ・マリー・イジドール・ド・ロベスピエールに「さようなら。」と言葉を掛けて断頭台に上った。span style="font-size:large;">21番目のマクシミリアン・ロベスピエールの番がきた。そこで、死刑執行人シャルル・アンリ・サンソンは、受刑者の包帯を取り除くよう助手に指示を出した。その時の様子を、死刑執行人の孫アンリ・クレマン・サンソン(Henry-Clément Sanson)は後に「Mémoires des Sanson, sept génération d'éxécuteurs、日本語訳「サンソン回想録」」に書き残している。「恐ろしいまでの苦痛に受刑者は物凄い叫び声を上げた。外れた顎がだらりと下がり、口が信じられないほど大きく開いて、そこから血が流れた。助手たちが急いで彼を処刑台の跳ね板に押さえつけた。そして1分もしないうちにギロチンが落ちた。ロベスピエールの首は、国王やダントンの首と同じように民衆に示された。群衆は嵐のような拍手でそれに応えた。」ジョルジュ・ジャック・ダントンの処刑の時のように、この見せ物に熱狂する群衆の歓声、これとは対照的に一言も声を発することのできない暴君の最期だった。07月28日に国民公会の諸委員会の改選が行われた。
 
 恐怖政治が行われた間、パリだけで約1400人、フランス全体では約2万人が処刑された。処刑方法には銃殺刑が多かったが、ギロチン(断頭台)による刑がよく知られている。ただし、プレリアール22日法の制定によって、司法手続きが大きく簡略化されたため、正統な裁判なしでの死刑や獄中死も多く、それらを含めると犠牲者は4万人を超える。ジャン・ジャック・ルソーの著作で述べられている社会を目指したことでも知られている。当初、山岳派はサン・キュロットら市民に支持を受け、恐怖政治下においてもそれは認められていたが、一般市民にも逮捕が及び、また、比較的平和に近づいてくると、恐怖政治は支持を失っていった。この政治形態は、西暦1794年07月27日に行われたテルミドール09日のクーデターで、ロベスピエール派が失脚するまで続いた。

 07月28日のロベスピエールの死刑執行をもって恐怖政治(仏語: la Terreur)は終了した。

 マクシミリアン・ロベスピエールの死後、デュプレイ家の長女、エレオノール・デュプレイ(Éléonore Duplay)は生涯黒服を着て、結婚することはなく、ロベスピエール未亡人(la Veuve Robespierre、ラ・ヴーヴ・ロベスピエール)として知られていた。

ロベスピエールの影 (叢書・ウニベルシタス) - P.ガスカール, 佐藤 和生
ロベスピエールの影 (叢書・ウニベルシタス) - P.ガスカール, 佐藤 和生
 
 テルミドール(熱月)11日(07月29日)には70人のパリ自治委員が処刑され、テルミドール(熱月)12日(07月30日)には12人が同じ罪状で処刑された。
 さらに、ジャン・バティスト・カリエやアントワーヌ・フーキエ・タンヴィルらジャコバン派の生き残りは、同年から翌年にかけて次々に逮捕され、死刑に処せられた。クーデターに加わっていたビョー・ヴァレンヌやジャン・マリー・コロー・デルボワも公安委員として恐怖政治を推進した責任を問われ、ギュイヤンヌへ流罪となった。

 テルミドールのクーデターで、権力を掌握した者らはテルミドール派と呼ばれる。ただし、ロベスピエール派と対立する集団というだけの関係であり、政策上は必ずしも一致していなかった。これ以後のフランス共和国政府は、革命の理想に燃える革命派と、急激な改革を嫌う王党派との2派が対立したが、王党派と言えども必ずしも王政復古を望んでいるわけではなく、行き過ぎることの多い革命派に対して、古い体制を否定しないという立場であった。
 処刑後、クーデタで中心的な役割を担ったテルミドール派は、マクシミリアン・ロベスピエールを徹底的に非難し、恐怖政治の原因を全てこの暴君に帰すことに専念した。翌日、国民公会では早速、「マクシミリアン・ロベスピエールは新たな暴君だった。」と宣言された。クーデター以後、パリの収監者は釈放され、革命裁判所も判事などの人員が入れ替えられた。

 ジャン・マリー・コロー・デルボワやビョー・ヴァレンヌは、「恐怖政治とはマクシミリアン・ロベスピエール、サン・ジュスト、ジョルジュ・オーギュスト・クートンによる新たな三頭政治だった。」と意味付けを施し、「独裁者は排除された。」と訴えた。マルク・ギョーム・アレクシ・ヴァディエ(保安委員会)は、市庁舎内の部屋の机上には「百合の花(ブルボン家の紋章)の印章が残されており、マクシミリアン・ロベスピエールは国王になるため、ルイ16世の娘マリー・テレーズ・シャルロットと結婚する計画だった。」という、ありもしない物語をでっちあげた。また、ルイ・マリ・スタニスラス・フレロンは、「ロベスピエールが生前多くの護衛を雇っていた。」と、その臆病さを印象付けようとした。さらに、クーデタ後にナポレオン・ボナパルトを重用して総裁政府で権力の座に就くポール・バラスに至っては、「マクシミリアン・ロベスピエールには複数の妻があり、また彼らはパリの外れの隠れ家で御乱行に明け暮れていた。」と言いふらした。もちろん、それを実証する事実などなく、「清廉の士」にはおよそ無縁な素行に見えるが、こうした噂が、その後の彼の虚像を決定づけることになった。中でも、この種の陰謀の影響という点で同時代に決定的だったと思われるのは、処刑の翌年に出版された、ガラル・ド・モンジョワ著「パリのロベスピエールの陰謀の歴史」(1795年)である。著者のモンジョワは、性的にも不道徳な、美徳などはおよそ持たない権力欲だけの独裁者の来歴を描いた。

 マクシミリアン・ロベスピエールの粛清は、山岳派(モンタニャール派)の内部抗争であり、その手法は山岳派がジロンド派のような他勢力を追放する手法と同じだった。マクシミリアン・ロベスピエールは広く山岳派の中心と見做されていて、その死は山岳派の崩壊を意味していた。ごく少数の者だけが山岳派を名乗り続け、約100人にまで減った。07月29日にジャコバンクラブは、ジャン・ランベール・タリアンやルイ・マリ・スタニスラス・フレロンなどテルミドール派を除名したが、ジャコバンクラブにかつての力などなかった。09月05日にアントワーヌ・クリストフ・メルラン・ド・チョンヴィル(Antoine Christophe Merlin de Thionville)は、国民公会でジャコバンクラブの解散を提案し、09月19日には金ぴか青年隊がジャコバンクラブを占拠し、11月12日に国民公会はジャコバンクラブを閉鎖した。
 勝ち誇ったテルミドール派がまず最初にやったことは、革命の独裁機構を粉々に粉砕することだった。公安委員会のロベスピエール派の処刑と左派の委員の追放によって空いた6人の空席は、07月31日、ジャン・ランベール・タリアンを筆頭とするテルミドール派によって埋められた。

 08月06日に、アントワーヌ・ローラン・ド・ラヴォアジェに「共和国に科学者や化学者は必要ない。」というウイルス以下の脳味噌の無い、人類への大罪の気違い死刑判決を出した元革命裁判所裁判長ジャン・バティスト・コフィナル(ピエール・アンドレ・コフィナル・デュバイユ)がギロチンで処刑された。08月10日にはテルミドール09日のクーデターの翌日から停止されていたプレリアール22日法も廃止され、革命裁判所は大幅に改組され弁護も認められ、機能が弱体化した。自治市会も解散を命じられ、パリの市政は、公安委員会と保安委員会とが直接運営するようになった。しかし国民公会の末期にも今度は逆の白色テロの場として利用された。国民衛兵隊からは貧民が排除され、ブルジョワ子弟で構成される俗に言う「金ぴか青年隊(ジュネス・ドレ)」に改組された。カミーユ・デムーランの親友として知られるダントン派、総裁となるポール・バラスの相方の元派遣議員だったルイ・マリ・スタニスラス・フレロンが金ぴか青年隊の隊長となって、左派に報復の白色テロを行い、西暦1795年05月31日に革命裁判所が廃止されるまで猛威を振るった。
 08月24日、諸委員会が改革され、行政は、公安委員会の権限が軍事と外交に縮小され、保安委員会が引き続き警察権を持ち、立法委員会が大きな権限を握った。各委員会は毎年4分の1ずつ入れ替わり、再任されるには1ヶ月の間を置くこととされた。 公安委員会の弱体化が図られ、公安委員会も毎月その4分の1が改選されることになり、一度、公安委員となった者は1ヶ月経過しなければ再選できなくなった。また広大な権限は大幅に縮小され、外交と軍事(作戦と人事)に限定された。公安委員が軍隊に直接命令できる権限はなくなった。ラザール・カルノーはしばらく留任し、後に再選もしたが、公安委員会の役割が低下したため、目まぐるしく変わったテルミドール後の公安委員に目ぼしい政治家はほとんどいなくなった。
 08月21日、フランス共和国がコルシガ島を放棄し、パスカル・パオリまたはパスクワーレ・パオリ(仏語: Pascal Paoli、伊語: Pasquale de Paoli)がイギリス王国の統治を受け入れ、アングロ・コルス王国(コルシカ王国)(西暦1794〜1796年)が成立した。王ジョージ3世、副王初代ミントー伯ギルバート・エリオット・マーレイ・キニンマウンド(Gilbert Elliot-Murray-Kynynmound, 1st Earl of Minto) 。
 08月25日に12の行政委員会に権力を分散した。この結果、平原派(プレーヌ派)が力を持つようになりジロンド派の生き残りを復帰させた。マクシミリアン・ロベスピエールの死後も恐怖政治の継続を主張した山岳派は排除され、恐怖政治は全廃された。西暦1794年08月28日、マクシミリアン・ロベスピエールの処刑から1月後、ジャン・ランベール・タリアンは、国民公会の演説で「恐怖の機構」という言葉を使った。この恐怖政治の機構の中で、自分たちも弾圧せざるをえなかったという。「それを指揮していたのは暴君ロベスピエールであって、自分たちはそれに従わざるをえなかった。そして今こそ、『恐怖を日常に』を『正義を日常に』に取って代えなければならない。」と訴えた。

 ジャコバン派の旧貴族で後に総裁となるポール・バラス(ジョゼフ・フーシェ、バラス子爵ポール・フランソワ・ジャン・ニコラ)は、マクシミリアン・ロベスピエール処刑の日の07月28日、タンプル塔にマリー・テレーズ・シャルロットとルイ17世(ルイ・シャルル)を訪ねた。ポール・バラスは2人に礼儀正しく接し、「王子」、「王女」と呼んだ。ポール・バラスは悪臭漂う独房の子供用の小さな寝床に衰弱したまま横になったルイ17世(ルイ・シャルル)を目撃し、その衰弱ぶりと不潔な室内に驚愕した。ポール・バラスは当時24歳だったマルティニック島出身のジャン・ジャック・クリストフ・ローランを新たな後見人にした。
 後見人ジャン・ジャック・クリストフ・ローランは09月01日にルイ17世の(ルイ・シャルル)独房の清掃を2人の男性に行わせ、マリー・テレーズ・シャルロットに依頼されて虱と蚤だらけのルイ17世(ルイ・シャルル)の寝床を処分し、彼女が使用していた寝床をルイ17世に使用させた。ジャン・ジャック・クリストフ・ローランは自らルイ17世(ルイ・シャルル)を入浴させ、身体にたかった虫を取り、着替えさせた。室内の家具とカーテンの焼却も命じた。この日、ルイ17世(ルイ・シャルル)は医師の診察を受けた。この頃のルイ17世(ルイ・シャルル)は、栄養失調と病気のため灰色がかった肌色をし、こけた顔にぎょろりと大きくなった目、体中に黒や青や黄色のミミズ腫れがあり、爪は異常に伸びきっていた。ジャン・ジャック・クリストフ・ローランはタンプル塔の屋上にルイ17世(ルイ・シャルル)を散歩に連れ出したが、食事の質が改善されなかったことと病気での衰弱が酷く、1人では歩けなかった。

 マクシミリアン・ロベスピエール処刑後、国民公会政府末期にはマリー・テレーズ・シャルロットの待遇が良くなり、西暦1795年07月、身の回りの世話をするアルザス出身のマドレーヌ・エリザベート・ルネ・イレール・ボッケ・ド・シャトレンヌ夫人が雇われた。30歳のド・シャトレンヌ夫人はマリー・テレーズ・シャルロットのために衣類や筆記用具や本などを差し入れ、庭園を散歩する許可を得たり、ルイ・シャルルの愛犬スパニエル雑種の「ココ」を部屋に呼んで遊ばせるなどした。ド・シャトレンヌ夫人は硬く口止めされていたが、次第に気の毒になり、伏せられていた母マリー・アントワネットと叔母エリザベート・フィリッピーヌの処刑を知らせた。また、誰ともほとんど会話のないまま2年近くを過ごしたマリー・テレーズ・シャルロットは発声異常に陥ったため矯正を手助けしたものの、ガリガリと話す発声異常は生涯無くならなかった。マリー・テレーズ・シャルロットはド・シャトレンヌ夫人と親しくなると「愛しいルネット」と呼んだ。
 この頃のフランス国民は、幽閉されたままのマリー・テレーズ・シャルロットに同情的になっており、散歩に出られるようになるとルイ16世の近侍フランソワ・ユーはタンプル塔の近くに部屋を借り、大きな声で歌ったり、かつて王室で使われた暗号を使用して彼女に手紙を送った。塔に近いボージョレ通りは、マリー・テレーズ・シャルロットを一眼見ようとする野次馬で溢れた。
 西暦1795年07月30日、マリー・テレーズ・シャルロットの母方の従兄の神聖ローマ帝国(西暦800/962〜1806年)皇帝フランツ2世は、フランス共和国政府が出した条件を受け入れ、マリー・テレーズ・シャルロットの身柄とフランス人捕虜の引き換えに同意した。09月、ド・トゥルゼル夫人は娘のポーリーヌとともに面会し、彼女と釈放され、ウィーンに送られることを話した。この時マリー・テレーズ・シャルロットは、ルイ17世(ルイ・シャルル)が使った部屋を案内した。12月19日、マリー・テレーズ・シャルロットが嫌っていた元養育係のド・スシー夫人とその娘、牢番のゴマン、憲兵のメシャンと共に深夜、タンプル塔を出発した。翌西暦1796年01月09日、ウィーンのホーフブルク宮殿に到着した。しかしナポレオン軍が北イタリアで優勢となると、プラハ近郊に夏頃まで避難した。

 テルミドール派はこれまでの政治制度を大きく変えた。経済では西暦1794年12月24日までにかけて、輸入自由化、統制価格の撤廃が徐々になされた。ただし、このため猛烈なインフレが起こって国債アッシニアの暴落を招き、後の総裁政府破綻の原因の1つとなった。一方で武器商人や金融業者など資本を集める者も出た。西暦1795年02月21日に聖職者民事基本法が撤廃されて、政教分離原則が取られ、信教の自由が保障された。政府の祭式予算が撤廃された一方で、西暦1795年05月30日には教会に祭祀が再び許された。
 他方で、09月07日、最高価格令の停止が国民公会に提案された。恐怖政治の基本政策である最高価格法の廃止だった。最高価格法は、山岳派が貧民の生活安定のために必需品・食料が投機等によって不当に高騰しないよう最高額を設けた法で、12月23日に最高価格廃止法が上程され、翌12月24日に最高価格令を撤廃された。アッシニアの価値が急落し物価が高騰した。このことは、単なる恐怖政治の行き過ぎへの批判に止まるものではなく政治や経済の路線を大きく変えた。恐怖政治下の統制経済は非能率で、十分に機能したとは言えず、物価は高騰する一方で賃金は上がらず、民衆の中には不満が燻っていた。しかし、国家による規制を緩めることは、「外国人の陰謀」のように、食料や軍事物資の供給において御用商人や業者が暗躍することになりかねなかった。経済を自由化するというテルミドール派の政策は、この点でも、私的な業者が最大限の利益を上げ得る機会を国家が保障するものだった。結局、テルミドール09日のクーデターに行き着いた革命によって利益を得たのは、種々の投機によって蓄財に成功した新しい階級、ブルジョアジーだった。新しい階級の擡頭と「反動」と呼べる過程が始まった。亡命貴族(エミグレ)の帰国と、聖職者市民化法の廃止だった。政教分離と称した政策は、政治信念に基づくというよりは、国による聖職者への給与支払いを止めるという財政上の理由によるものだった。
 09月08日、フランス西部の都市、ナントの弾圧で投獄され、生き残った貴族たちの裁判がパリで始まると、裁判は被告が逆に恐怖政治を告発する場となった。結果、彼らは釈放され、革命委員会の委員が逮捕された。株式市場と商業取引所の再開、処刑された者の財産も返還された。革命の標語は「友愛」から再び「財産を守れ」に変わった。国債利子の支払い停止も撤回された。こうした政策によりブルジョアジーの財産は恢復され、元通りの活動が再開された。
 10月25日にプロイセン軍が、イギリス王国との条約を破棄してネーデルラント連邦共和国から撤退した。12月27日、ジャン・シャルル・ピシュグリュ(Jean-Charles Pichegru)将軍は、ネーデルラント連邦共和国に侵攻を開始した。

 11月08日、国民公会はルイ17世(ルイ・シャルル)の世話をジャン・バティスト・ゴマンに命じた。ジャン・バティスト・ゴマンはルイ17世(ルイ・シャルル)の衰弱した姿に驚き、国民公会の再視察を依頼した。ルイ17世(ルイ・シャルル)は長く続いたジャン・ジャック・クリストフ・ローランとジャン・バティスト・ゴマンの親切な対応に驚いたが、徐々に彼らになついた。11月末に役人のデルボイがルイ17世(ルイ・シャルル)の元にやってきたが、もうこの頃のルイ17世(ルイ・シャルル)は衰弱しきっており、デルボイと会話をすることができなかった。しかし、デルボイはルイ17世の部屋の窓にかけられた柵を取り払うよう命じ、ルイ17世(ルイ・シャルル)はおよそ2年ぶりに、日の光が入る部屋で過ごせるようになった。ジャン・バティスト・ゴマンはルイ17世(ルイ・シャルル)の病状を国民公会に確かめるよう何度も嘆願し、外で遊ばせる許可を得た。しかしルイ17世(ルイ・シャルル)の体調は悪く、独房の火の側で過ごした。
 この頃にはフランス国内の空気も変化し、タンプル塔で行われていたルイ17世(ルイ・シャルル)への虐待や現在の待遇も国民の話題となっていた。11月26日、「世界通信」紙はルイ17世(ルイ・シャルル)の酷い待遇が行われていた事実を公式に認める記事を発表した。関係者らは逮捕され、国民公会に連行され、保安委員会のマテューは公式に王党色の強い新聞記事を否定し、革命支持者のために「ルイ17世は一般の囚人と変わらぬ扱いを受けている。」と説明した。
 スペイン王室はルイ17世(ルイ・シャルル)の引き渡しを条件にフランス共和国を認めると、西暦1795年の早い時期に申し出たが、スペイン王国がこれに関し争う気が見えないため、フランス共和国は要求を拒否した。この当時のヨーロッパ外交において、ルイ17世(ルイ・シャルル)は見捨てられた存在であった。


 パリの民衆たちはジャン・バティスト・カリエの出頭を求め、「ナントの溺死刑(共和国の結婚)」の大量虐殺で告発した。11月11日に弾圧の責任者の派遣議員のジャン・バティスト・カリエは逮捕され、12月16日にパリのグレーヴ広場でギロチンで処刑された。 ボルドーの弾圧のジャン・ランベール・タリアンやリヨンの大虐殺のジョゼフ・フーシェも、派遣議員として激しい弾圧を行っていたが、テルミドール09日の功績とその後の立ち回りでお構いなしだった。オーストリア・ハンガリー帝国(西暦1867〜1918年)のユダヤ人、シュテファン・ツヴァイク(Stefan Zweig)は、「ジョゼフ・フーシェ―ある政治的人間の肖像」(西暦1930年)のなかで、「フーシェは命拾いをしたのである。」と語った後、「テロルは終わったが、革命の熱烈火の如き精神もまた消えてしまい、英雄時代は去ったのである。いまや後継者の時代がきた。山師と利得者、掠奪者と二股膏薬、将軍と富豪の時代、新しい組合(ギルド)の時代が来たのだ。」と書いた。
 ルイ・ラザール・オッシュ(Louis Lazare Hoche)が、ヴァンデ戦争鎮圧のため共和国軍司令官として赴任すると、捕虜の農民兵との面談から、農民が叛乱を起こした目的は宗教的自由と徴兵制反対のためであり、条件次第では農民達が王党派の叛乱から離脱するだろうと考え、フランソワ・アタナス・シャレット・ド・ラ・コントリ(François-Athanase Charette de la Contrie)とジャン・ニコラ・ストフレ(Jean-Nicolas Stofflet)は相次いで講和に応じ、12月02日、ヴァンデ叛徒に対して大赦令を出した。ヴァンデ戦争はキブロン遠征で再開されるまで、一時休戦した。

 西暦1794年末には山岳派(モンターニュ派)は大部分がクレスト(仏語: crête)と呼ばれる党派に移行し、実質的な力を失っていた。ジャン・ランベール・タリアンは、ブルジョワの子弟で作られた金ぴか青年隊(ジュネス・ドレ)を扇動してジャコバンクラブを襲撃させ、これを閉鎖させた。11月22日、国民公会はジャコバンクラブの閉鎖を決議した。「08月10日事件」直後の状態に戻り、ここに、フランス革命は終わった。


図説 フランス革命史 (ふくろうの本/世界の歴史) - 竹中 幸史
図説 フランス革命史 (ふくろうの本/世界の歴史) - 竹中 幸史

 西暦1795年01月19日、フランス軍はネーデルラント連邦共和国アムステルダムを無血占領した。01月31日、外国貿易の禁止を撤廃した。02月09日、トスカーナ大公国(西暦1569〜1860年)と中立条約を結んだ。02月21日、国民公会は「信仰の自由」を宣言し、03月08日 にジロンド派が復活した。

 西暦1795年03月31日、エティエンヌ・ラーヌがルイ17世(ルイ・シャルル)の世話係に加わった。ルイ17世(ルイ・シャルル)はエティエンヌ・ラーヌには懐かなかった。その後、ジャン・ジャック・クリストフ・ローランは別の役職に就き、ジャン・バティスト・ゴマンが後見人となった。


 04月01日、西暦1793年憲法の施行や貧困対策を求めてパリの民衆が国民公会に押し寄せたジェルミナル(芽月)の蜂起と、05月20日、民衆が議場に押し寄せたプレリアル(牧月)の蜂起という最後の民衆蜂起が起き、どちらも速やかに鎮圧された。プレリアル蜂起で山岳派(モンターニュ派)が壊滅した。議場で死者を出したプレリアルの蜂起は、元々革命のための軍隊だったはずの国民衛兵によって民衆が鎮圧され、蜂起者たちは銃殺された。
 04月01日のジェルミナルの蜂起の後に「4人組」の排除が行われた。「4人組」とは、マクシミリアン・ロベスピエールを「暴君」と罵倒していたリヨンの大虐殺の山岳派ジャン・マリー・コロー・デルボワ、ヴァンデの弾圧の山岳派ジャック・ニコラ・ビョー・ヴァレンヌ、山岳派で保安委員会のマルク・ギョーム・アレクシ・ヴァディエ、平原派の「カメレオン」ベルトラン・バレール ・ド・ヴュザックで、恐怖政治を体現する「4人組」として、西暦1794年12月05日に国民公会で告発された。捜査が承認されると、マルク・ギョーム・アレクシ・ヴァディエは拳銃を手に演壇に上がり、「60年間の美徳を正当に評価しなければ自殺する、」と脅し、数人の議員に制止された。
 ジャン・マリー・コロー・デルボワは03月02日に逮捕され、南米ギアナへ流刑され、西暦1796年に黄熱病で死んだ。ジャック・ニコラ・ビョー・ヴァレンヌもジャン・マリー・コロー・デルボワらと一緒に翌年南米ギアナへ流刑された。20年間の流刑生活の後、西暦1814年赦免された。ナポレオン・ボナパルトの政府を容認せずに恩赦を拒否し、フランス共和国に帰国しなかった。その後アメリカ本土に渡り、西暦1816年ハイチに移住し、ポルトープランスで病死した。
 マルク・ギョーム・アレクシ・ヴァディエがフォーブール・サン・タントワーヌ(「美しい空気の中庭」の意)の通りを歩いていたところ、反動派、王党派、一般にブルジョワの若者たちの武力歌い、マスカディンたちに逮捕されて乱暴されたが、無傷だった。「4人組」は、国外追放を宣告されたが、容疑者の分離により恩赦が与えられるまで何とか身を隠した。
「共産主義の先駆」フランソワ・ノエル・バブーフ(François Noël Babeuf、通称: グラキュース・バブーフ(Gracchus Babeuf))は平等社会の実現を目指して私有財産制を否定し、西暦1795年11月、相次いだ投獄期間にフィリッポ・ブオナローティ(Filippo Buonarroti)、オーギュスタン・アレクサンドル・ダルテ(Augustin-Alexandre Darthé)、マレシャル(Sylvain Maréchal)などの同志を得て、過激急進派秘密結社、パンテオンクラブ(Club du Panthéon)を結成し、旧ジャコバン派や旧国民公会会員など約2000人が加わった。蹶起の前日の西暦1796年05月10日(革命暦04年フロレアル(花月)21日)に、フランソワ・ノエル・バブーフらは逮捕され、西暦1797年05月26日に、オーギュスタン・アレクサンドル・ダルテと共に死刑を宣告された。彼らは、バブーフの息子から渡された短刀で刺し違えて死のうと図ったが果たさず、翌05月27日(革命暦05年プレリアル(牧月)08日)、ヴァンドームでギロチンにかけられ処刑された。この事件を「バブーフの陰謀」、「平等主義者の陰謀」と呼ぶ。この過激急進派パンテオンクラブのフランソワ・ノエル・バブーフをマルク・ギョーム・アレクシ・ヴァディエは支援したため、ヴァンドーム高等裁判所で無罪となる西暦1799年までシェルブール近郊のペレ島に投獄された。 友人のジョゼフ・フーシェの要請によりジャン・ジャック・レジ・ド・カンバセレス(Jean-Jacques Régis de Cambacérès)によって釈放され、シャルトルで目立たないように過ごした。その後西暦1816年に国王殺しとして国外追放され、ベルギーに住むことになり、彼は領事館とフランス帝国の監視下に置かれ、ブリュッセルで92歳まで生きた。人生の終わりに向かって、その没年に、「私は92歳だが、自分の意志の強さにより寿命が伸びている。 ロベスピエールを誤解し、同胞を暴君と誤解したことを除けば、私の人生で後悔している行為は1つもない。」と述べた。
 「カメレオン」ベルトラン・バレール ・ド・ヴュザックは、逮捕されて流刑に処されたが脱獄に成功し潜伏生活を送った。ナポレオン統治下で復権したが、王政復古とともに国王殺しとして再び国外追放され、亡命後はルイ・フィリップ1世(Louis-Philippe Ier)の計らいでブリュッセルに逗留し、西暦1830年の七月革命で帰国し、西暦1841年に失意と貧困のうちに故郷タルブで死亡した。彼は公安委員会で生き残った最後の1人だった。
 内乱と財政状況の悪化で国が疲弊していたため、西暦1795年春以降、共和国政府は戦争状態にあった国々と講和を結んでいった。バーゼルの和約とはフランス革命戦争の講和条約で、西暦1795年04月05日にプロイセン王国と比較的有利な条件で講和した。プロイセン王国はフランス革命政府によるラインラント併合を承認して第1次対仏大同盟から退き、ポーランド分割に関心を向けた。これによりオーストリア大公国は単独でフランス共和国と対峙した。続いて05月16日にはネーデルラント連邦共和国と講和を結び、07月22日にスペイン王国が、08月28日にヘッセン・カッセル方伯がフランス共和国との間に締結した。フランス共和国とスペイン王国との講和条約は第2次バーゼルの和約とも呼ばれる。 04月07日にメートル法が制定されたが、メートル法が一般に浸透したのは西暦1840年代のことだった。

 05月07日、「瓦のように首が落ちている。」と他人事のように言った革命裁判所の元検事アントワーヌ・カンタン・フーキエ・タンヴィルは、元裁判長マルティアル・ジョゼフ・アルマン・エルマン、ジャン・バティスト・コフィナル元判事らと共にパリのグレーヴ広場で処刑された。
 05月16日、ネーデルラント連邦共和国の崩壊後に、03月に憲法が採択されていたフランス共和国の衛星国、バタヴィア共和国(西暦1795〜1806年)の憲法が発効し成立した。05月20日、 プレリアル蜂起に失敗した山岳派(モンターニュ派)は壊滅した。国民公会の末期にも今度は逆の白色テロの場として利用された。最終的にはテルミドール派により、西暦1795年05月31日に廃止された。 白色テロが終焉した。

Louis XVII Louis_Charles.jpg 05月08日にジャン・ジャック・クリストフ・ローランとジャン・バティスト・ゴマンの再三にわたる要求により、西暦1794年10月にも一度ルイ17世(ルイ・シャルル)を診察したピエール・ジョゼフ・ドゥゾー(Pierre-Joseph Desault)が再び召喚され、ピエール・ジョゼフ・ドゥゾーは「出くわした子供は頭がおかしく、死にかけている。最も救いがたい惨状と放棄の犠牲者で、最も残忍な仕打ちを受けたのだ。私には元に戻すことができない。なんたる犯罪だ!」と正直に意見を述べた。ピエール・ジョゼフ・ドゥゾーが06月01日に急死すると、数日後に医師のフィリップ・ジャン・ペルタン(Philippe-Jean Pelletan)とジャン・バティスト・デュマンジャン(Jean-Baptiste Eugénie Dumangin)が召喚された。
 西暦1795年06月06日、フィリップ・ジャン・ペルタン新たにルイ17世(ルイ・シャルル)の主治医に就任した。就任日にフィリップ・ジャン・ペレタンは「子供の神経に触るような閂、錠の音を控えるように。」と士官を咎め、日除けを外して新鮮な空気に当たれるようにすることを命じた。孤独な幽閉から1年半近く経過したこの日、独房の鎧戸や鉄格子、閂がようやく取り外され、白いカーテンで飾られた窓辺をルイ17世(ルイ・シャルル)は喜び、少し様態が改善した。 しかし、フィリップ・ジャン・ペルタンは「不運なことに援助はすべて遅すぎた。何の望みもなかった。」と報告している。06月07日、ルイ17世(ルイ・シャルル)は衰弱し、一時は意識を失った。夜遅くに様態が急変し、フィリップ・ジャン・ペルタンは薬の投与指示をして、翌06月08日朝に訪れたが、この時初めてルイ17世(ルイ・シャルル)が瀕死の状態で昼夜問わず看護もされていないことを知り、ルイ17世(ルイ・シャルル)の世話をしていたジャン・バティスト・ゴマンに看護婦を探しに行かせている午後、ルイ17世(ルイ・シャルル)の意識が薄れ始めていた。午後03時頃、激しい呼吸困難に気がついた世話係(看守)のエティエンヌ・ラーヌ(Étienne Lasne)が症状を和らげようとルイ17世(ルイ・シャルル)を抱き上げ、両腕を自らの首に回した。しかし間もなく、長い溜息の後、全身の力が抜け、ルイ17世(ルイ・シャルル)の短い生涯は終わりを告げた。


 06月21日、アッシニア紙幣のデノミネーションで2/25に切り下げた。06月23日〜07月21日、ルイ・ラザール・オッシュ(Louis Lazare Hoche)将軍、イギリス軍と亡命貴族軍によるキブロン遠征を阻止した。07月22日、スペインと和平条約(第2次バーゼルの和約)を結んだ。08月15日に新通貨単位フランを導入した。
 テルミドール派は、革命色の強すぎる西暦1793年憲法を修正して、共和暦03年憲法を制定した。2ヶ月の議論の後の08月22日に普通選挙制による採否を問う投票が行われ、投票数105万に対し、反対はわずか5千票で、共和暦03年憲法(西暦1795年憲法)を制定し、憲法を受けて行われる最初の選挙ではテルミドール派よりも王党派の方が有利と予想された。そのため、テルミドール派は「退職後の議員の職が保証されていないため、新たに議員に立候補する者は少ないであろう。」と主張して、国民公会から3分の2の議員を留任させる法案を提出し、憲法と合わせて採択された。この採決を受けて09月23日より施行した。この憲法に基づいて総裁政府が成立した。
 立法府は五百人院(下院)と元老院(上院)による二院制が取られ、専ら五百人院のみが法案提出権を有し、専ら元老院のみが法案を承認または拒否する。五百人院の提出した法案が元老院で全部承認されて初めて法律が成立した。これは立法府の独裁を防ぐためで、両院とも毎年3分の1が改選されることが定められていた。選挙制度は一定の納税者のみによる制限選挙かつ間接選挙で、五百人院議員は年齢30歳以上で10年以上共和国に居住した者、元老院議員はは40歳以上、15年以上共和国に居住した者かつ既婚者または寡夫に限られた。行政は総裁政府が担当し、5人の総裁(任期5年、抽選順に毎年1人改選、非議員)で構成され、各総裁は、3ヶ月毎に1人が輪番制で首班に任命された。ただし、総裁は租税を審議する権限を持たず、財政は立法府の選出する国庫委員会が管轄した。徴税権は行政権と別途に6人の経理官に委ねられた。経理官は総裁の命令を受けることはないとされた。総裁は、五百人院の作成した候補者名簿から元老院が選出した。総裁は、法案提出権など立法に関する権限を有せず、独裁的権限を振るえないように防止策が講じられていた。信教の自由、報道の自由、職業選択の自由が保証された。一方、集会の自由は認められなかった。政府への請願権は認められた。また、聖職者の中には、憲法と神に共に忠誠を誓うことに矛盾を感じるものも多く、憲法への宣誓を拒否する者(忌避僧侶)も多く現れた。このような忌避僧侶の人権は制限された。
 穏健共和政の枠組みでフランス革命の収拾が図られたが、政権はネオ・ジャコバンと王党派に揺るがされ続け、安定しなかった。
この憲法は権力分立を旨とする分権構造が特徴で、それ故に非効率であった。特に行政と立法の対立が深刻で、総裁政府は自らを守るためにクーデターで選挙を無効にすることが必要になった。ナポレオン・ボナパルトによるブリュメール18日のクーデターによって総裁政府は崩壊し、この憲法に代わり新たに共和暦08年憲法が定められた。
 08月23日、西暦1795年の人権宣言が出された。08月30日、新憲法の安定のため、 「3分の2を現職国民公会議員から選ばなければならない。」即ち「選出される750の議席の内、500(3分の2議席)を旧国民公会議員の中から選ばなければならない。」という法律(3分の2法令)が国民公会を通過し、09月に行われた国民投票の結果、3分の2法は約20万票対11万票で可決された。選挙で勝つ予定の王党派はこの結果に激怒した。オーストリア大公国との講和には失敗して戦争が続けられ、10月01日には南ネーデルランド(ベルギー)を併合した。ただしライン川を挟んだ戦いでは敗れ、12月になってようやく停戦となったが、これは一時的なものであり、翌年06月に戦闘は再開された。

 西暦1795年10月20日(ヴァンデミエール29日)に選挙が行われることに決まったが、3分の2法に不満を持つ王党派を中心に、その前の10月05日に暴動、ヴァンデミエール13日のクーデターが発生した。暴徒はテュイルリー宮殿にある国民公会を襲撃し、国民公会はサン・キュロットの援助を求めたが、左派は直前に弾圧されてパリでは勢力を失っていた。そのためポール・バラスを国内軍司令官に任命し、ナポレオン・ボナパルトが副官になった。副官ナポレオン・ボナパルトが率いる2、3千の政府軍とよく訓練された大砲隊は、広範囲に被害が及ぶ散弾(蒲萄弾)を首都の市街地サントノレ通りのサン・ロック教会界隈で大砲を使って撃つという大胆な戦法により、抵抗する軍事力に劣る王党派をあっさり鎮圧した。暴徒は撃退され、翌日抵抗は止み、10月25日、国民公会はナポレオン・ボナパルトを国内軍の総司令官に任命して、叛徒に対し寛大な処置を取った。流血の場であった「革命広場」を「融和(コンコルド広場)」と名前を変えた。以後、パリは国内軍司令官の命令に絶対服従することを余儀なくされ、完全に軍の制圧下に置かれた。ナポレオン・ボナパルトはこの時の成功から「ヴァンデミエールの将軍」と異名を取った。
 10月24日、ポーランド・リトアニア共和国の最後の分割、第3次ポーランド分割により、その領土がプロイセン王国、ハプスブルク帝国(西暦1526〜1804年)、ロシア帝国(西暦1721〜1917年)に完全に分割され、ポーランド・リトアニア両国は西暦1918年まで主権国家の地位を失った。分割に参加した3国はあらゆる歴史的背景からポーランドの名を消し去ることで合意し、百科事典などからもポーランドの項が消えた。ポーランドについて公文書で触れる必要が生まれた際には、代わりにマゾフシェなど他の地域名を用いるようになった。
 10月25日に平時の死刑を廃止した。新憲法下での初めての選挙が西暦1795年10月20日に行われ、10月26日に国民公会は解散した。10月31日に、総裁政府で総選挙が行なわれ。ポール・バラスら5総裁を行政の長とする総裁政府が成立した。



クロマニョン人の直接の末裔の「コーカソイド」は「西ユーラシア人」とも、「白人」とも「毛唐」、「南蛮、紅毛」と呼ばれる狩猟遊牧民族は、家畜の増殖と家畜を屠殺して喰らうのを生業とし、勢力を得ると狂躁化し、掠奪、強姦、拷問、殺戮、虐殺、抹殺を行う兇暴な悪魔の蛮族である。
 そのうち、民族移動で日誌に進んだ部族をフランク族と呼び、その南部に侵攻したのがフランス人だ。

一体、これは誰のための革命だったのだろうか?

啓蒙思想から腐り切った悪逆な机上の暴論を過激な気違い思想が産まれ、共産主義、全体主義で、恐怖政治を行ったのが、悪逆非道なディープステイト(DS(出来損ないの堕落した最兇な屑))、即ち、ユダヤ、ロスチャイルドを始めとする記入資本、ヘッセン・カッセン方伯やフリーメイソン、イルミナティーなどの秘密結社、・・・、そしてブルジョワジーである。掠奪、強姦、拷問、殺戮、虐殺、抹殺で、ゴイム、他国民、他人の不幸を金や権力に変えた。

税金の父、ヴァロワ朝第3代シャルル5世賢明王は定期的な臨時徴税(矛盾した表現)と、常備軍・官僚層を持った。生活必需品の鹽に税金を掛けるのはフランスばかりではないが、ナポレオン・ボナパルトは財産や相続の税金も始めた。
付加価値税
を最初に導入したのもフランスで、元になったのは大正06(1917)年の支払税で、大正09(1920)年に売上税、さらに昭和11(1936)年に生産税と名前を変え、昭和29(1954)年にモーリス・ローレが考案した。第2次世界大戦後の復興の最中、国内経済を景気浮揚のため輸出企業に輸出補助金を出していた。しかし、GATT(関税及び貿易に関する一般協定)で、自国企業にのみ補助金を出していることがGATTに抵触するため、抜け穴として自国輸出企業に補助金を出す策謀が付加価値税である。

フランス人とは、フランス革命だけではなく、共産主義の増幅、・・・・、全人類を地獄に叩き込む悪逆非道なディープステイト(DS(出来損ないの堕落した最兇な屑))御用達の悪魔の制度を不潔なフランス人が作った。

現在進行中で、悪逆非道なディープステイト(DS(出来損ないの堕落した最兇な屑))は、今も掠奪、強姦、拷問、殺戮、虐殺、抹殺を行い、この地球を地獄に変え、ゴイムの殲滅作戦を行っている。



ディープステート 世界を操るのは誰か (WAC BUNKO) - 馬渕 睦夫
ディープステート 世界を操るのは誰か (WAC BUNKO) - 馬渕 睦夫


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2024年02月12日

エーロ仮面(マスク)、お前もか?(羅語: Et tu, Elon Reeve Musk?)

 タッカー・スワンソン・マクニア・カールソン (Tucker Swanson McNear Carlson、54)のウラジーミル・ウラジーミロヴィチ・プーチン(露語: Владимир Владимирович Путин、羅文字表記: Vladimir Vladimirovich Putin、71)との会見は、イーロン・リーヴ・マスク(Elon Reeve Musk、52)の✕(旧Twitter)で公開された。

タッカーカールソン 日本語訳
https://twitter.com/TKJP2023

プーチン氏、米記者解放は「合意可能」と元米FOX司会者に NATO諸国への侵攻は「問題外」
https://www.bbc.com/japanese/articles/czq4nwv8qjzo
2024年2月9日
ロシアのウラジーミル・プーチン大統領は、米FOXニュースの司会者だったタッカー・カールソン氏によるインタビューで、昨年ロシアで拘束された米記者エヴァン・ガーシュコヴィッチ氏(32)について、解放で合意する可能性があると述べた。
プーチン氏は2時間を超えるインタビューで、ウクライナ、米大統領、米中央情報局(CIA)についても持論を展開した。インタビューは6日にモスクワで撮影された。
ロシアが2022年にウクライナに侵攻して以降、プーチン氏が西側ジャーナリストのインタビューに応じたのは初めて。
プーチン氏は、スパイ容疑で拘束されているガーシュコヴィッチ氏について、アメリカと協議が進んでいると説明。「私たちのパートナーたちが互恵的な措置を取れば」、同氏の解放で合意に至る可能性があるとした。
「相互に特別チームが連絡を取り合っている。話し合いが行われている。(中略)合意に到達できると信じている」
米紙ウォール・ストリート・ジャーナル記者のガーシュコヴィッチ氏は、昨年3月29日にモスクワから東に約1600キロメートル離れたエカテリンブルク市で拘束された。
ロシア当局は今年1月、同氏の公判前勾留を3月末まで再延長した。有罪となった場合、最長20年の禁錮刑を受ける可能性がある。
カールソン氏はインタビューで、ガーシュコヴィッチ氏をすぐに解放する考えがあるかプーチン氏に質問。併せて、「私たちが彼をアメリカに連れ戻す」と投げかけた。
これに対しプーチン氏は、ガーシュコヴィッチ氏が機密情報を受け取っていたと主張。一方で、囚人交換の候補に、「愛国的な思いから、ヨーロッパの首都の一つで悪党を消した人物」がなりうると述べた。
これが、ロシア連邦保安庁(FSB)の暗殺者ヴァディム・クラシコフ受刑者を指しているのはほぼ間違いない。同受刑者は2019年にドイツ・ベルリンの公園で、ジョージア軍将校ゼリムハン・ハンゴシュヴィリ氏を射殺したとされ、現在ドイツで服役している。

ウクライナ侵攻を正当化
インタビューでのプーチン氏への最初の質問は、なぜ2年前にウクライナ侵攻を命じたのかというものだった。
カールソン氏は、「アメリカが突然、ロシアを攻撃するかもしれないと考えている理由は何なのか」、「どうやってその結論に達したのか」と聞いた。
プーチン氏は通訳を介し、「アメリカが、合衆国が、ロシアに奇襲攻撃を仕掛けるということではない」、「私はそんなことは言っていない。これはトークショーなのか、それとも真剣な対話なのか?」と返した。
その後、プーチン氏は30分以上にわたり、東欧の歴史について、9世紀のロシア建国までさかのぼって長々と語った。
プーチン氏は、侵攻は正当だとさまざまに主張した。ウクライナの歴史に関する使い古されたうそ、ソヴィエト連邦崩壊と北大西洋条約機構(NATO)拡大をめぐる個人的かつ歴史的ないらだち、ウクライナにはネオナチがはびこっているという主張などを繰り出した。
プーチン氏はまた、ロシアがウクライナを攻撃して侵攻が始まったわけではないという虚偽の主張を長々と繰り返した。その際、ロシアは安全保障に対する脅威に対応しただけだと述べた。
カールソン氏は、ブチャなどウクライナ各地でロシア兵が犯したとされる戦争犯罪、国際刑事裁判所がプーチン氏に逮捕状を発行するきっかけとなったウクライナの子どもたちのロシアへの強制連行、政治的ライバルたちの死、反体制派の指導者アレクセイ・ナワリヌイ氏の収監などについては質問しなかった。
プーチン氏は、ポーランドやラトヴィア、その他のNATO加盟国に侵攻する気はないと主張。そうしたシナリオは「完全に問題外」とした。

歴代の米大統領については
プーチン氏は米大統領との関係についても語った。ビル・クリントン氏が在任中、ロシアもNATOに加盟しうると述べたが、すぐにその選択肢を取り下げたというエピソードを改めて紹介した。
ジョージ・W・ブッシュ氏については、「非常に良い関係」だったと回顧。「アメリカやロシア、ヨーロッパの他のどんな政治家よりも悪くはなかった」と述べた。また、「彼は自分がしていることや、他人がしていることを理解していた。私はトランプともそうした個人的な関係があった」とした。
ジョー・バイデン大統領に関しては、いつ最後に話をしたか記憶にないと述べた。

カールソン氏はどんな人物なのか
カールソン氏はインタビューに先立ち、2022年以降にプーチン氏に「わざわざインタビューした西側ジャーナリストは一人もいない」と述べた。
BBCのスティーヴ・ローゼンバーグ・ロシア編集長を含め、西側各国の何人もの記者がこれまで、プーチン氏のインタビューを繰り返しクレムリンに申し込んでいる。BBCの要請はすべて無視されている。
クレムリンのドミトリー・ペスコフ報道官はこれを認め、「カールソン氏は正しくない。だがそうとは知り得なかった。私たちのところには大統領へのインタビューの申し込みがたくさん届いている」と話した。
ロシアの国営メディアは、カールソン氏の訪問を数日間にわたって報じた。レストランを訪れたり、ボリショイ劇場でバレエ「スパルタクス」を鑑賞したりする様子を放送した。
カールソン氏はFOXニュースで最も高い視聴率を誇ったゴールデンタイム番組の司会者だった。2023年4月に降板したが、FOXはその理由を明らかにしていない。
その後、自身のメディア会社「タッカー・カールソン・ネットワーク」を設立。X(旧ツイッター)に動画を投稿するなどしてきた。
そのコンテンツは、右派政治家との友好的なインタビューが中心で、トランプ氏との対談もある(共和党の大統領選討論会に合わせて行われた)。そのほか、インフルエンサーのアンドリュー・テイト氏、人気コメディアンのラッセル・ブランド氏などへのインタビューもある。

・ 変態仮面 究極変態仮面
・ 変態仮面 究極変態仮面

 ところが、暴虐支那に対して、
「核武装して飽和攻撃すべきだ。」という狂犬支那より格段に穏やかな反論の投降で✕(旧Twitter)が停止させら荒れ、削除を強要された。
 欠陥輸送手段の電気自動車の「テスラ」の致命的欠陥が次々明らかになり、破滅に真っ逆さまに堕ちつつあるエーロ仮面(マスク)、お前もか?


 大体、縁も所縁もない人種差別の南アフリカ共和国出のエーロ仮面(マスク)が、超割高で虚栄のクソ車に大発明家ニコラ・テスラ(Nikola Tesla、セルビア語: Никола Тесла、86没)の名前を車名にすることがニコラ・テスラに対する冒瀆だ。
 ニコラ・テスラは、交流電気方式、無線操縦、蛍光灯と交流系統を発明をした。ジョージ・ウェスティングハウス・ジュニア(George Westinghouse, Jr、67没)と組んで効率の良い交流で、直流に固執する鬼畜トーマス・アルバ・エジソン(Thomas Alva Edison、84没)と電流戦争を繰り広げた。鬼畜トーマス・アルバ・エジソンは、テスラ、ジョージ・ウェスティングハウス・ジュニア側を相手に広告戦争を繰り広げ、「高電圧の交流電力を、危険で破滅的なものだ。」と公然と非難し、死刑執行に電気椅子の使用を働き掛け、直流でも電気椅子に使えるのい、交流電流による処刑に「ウェスティングハウスする」という中傷的な表現を使用した。小学校も出ていない気違いで、この鬼畜トーマス・アルバ・エジソンが作ったゼネラル・エレクトリック(General Electric Company、略称: GE)は欠陥原子炉を作り、アメリカの圧力で福島原発1号炉として売りつけ、今も未来も多大の金銭と労力を費やさなければならなくなっていえる。今の電気自動車はニコラ・テスラが唾棄するほど嫌った鬼畜トーマス・アルバ・エジソンの直流だ。
 エーロ仮面(マスク)は、ディープステイトのパシリで、環境に悪い似非環境利権で国家の強要(補助金、減税)やマスゴミでの洗脳で、巨万の財を成した。✕の日本支社は旧Twitterのまま使っているからか、旧態然なのかも知れないが、全てはエーロ仮面(マスク)の責任だ!


 エーロ仮面(マスク)もディープステイトともども滅びよ!!



テスラ―発明王エジソンを超えた偉才 - マーガレット チェニー, 鈴木 豊雄
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交流・直流戦争から世界システムへ: ニコラ・テスラと発明王エジソン レトロハッカーズ - 牧野武文
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2024年02月07日

反吐が出る世界史 陰惨野蛮な汚腐乱巣革命 異論は大虐殺、屁理屈で生首が飛び続ける恐怖政治 悪逆非道なディープステイト(DS(出来損ないの堕落した最兇な屑))の中核、猶太とは何か その22

ダビデの星.jpgユダヤ(ギリシャ語: Ἰουδαία、Ioudaía、漢字:猶太)

 他民族からは「ヘブライ人」と謂れ、自らは「イスラエル人」と称し、バビロン捕囚後には「ユダヤ人」と呼ばれるようになった徒輩。ヘブライ人、イスラエル人、ユダヤ人は同じ民族を指している。
 ユダヤ人(ヘブライ語: יהודים‎、英語: Jews、ラジノ語: Djudios、イディッシュ語: ייִדן‎)は、猶太教の信者(宗教集団)または猶太教信者を親に持つ者によって構成される宗教信者。原義は狭義のイスラエル民族のみを指す。イスラエル民族の1つ、ユダ族がイスラエルの王の家系だったことを由来とする。猶太教という名称は、猶太教徒が多く信仰していた宗教であることによる。ユダヤとは、パレスチナ南部の地域。酋長ヤコブの子ユダに由来する。古代イスラエル統一王国の分裂後の南ユダ王国があった地域である。



南ユダ王国滅亡後のユダヤの歴史

南ユダ王国が滅ぶと、僅かな例外的時期を除いて西暦20世紀に至るまでユダヤ民族が独立国を持つことはなかった。


神武天皇74(西暦前587)〜安寧天皇10(西暦前539)年 新バビロニア帝国
安寧天皇10(西暦前539)〜孝安天皇61(西暦前332)年 アケメネス朝ペルシア帝国
孝安天皇61(西暦前332)〜孝安天皇88(西暦前305)年 プトレマイオス朝エジプト
孝安天皇88年(西暦前305)〜開化天皇17(西暦前141)年 セレウコス朝シリア
開化天皇17(西暦前141)〜崇神天皇35(西暦前63)年 ハスモン朝 ユダヤ人国家
崇神天皇35(西暦前63)〜崇神天皇61(西暦前37)年 共和政ローマ元老院属州
崇神天皇61(西暦前37)〜垂仁天皇73(西暦44)年 ヘロデ家
垂仁天皇73(西暦44)年 ユダヤ属州(ローマ帝国皇帝属州)
垂仁天皇73(西暦44)〜景行天皇23(西暦93)年 ヘロデ家
垂仁天皇73(西暦44)〜仁徳天皇83(西暦395)年 ローマ帝国皇帝属州
仁徳天皇83(西暦395)〜舒明天皇06(西暦634)年 東ローマ帝国
舒明天皇06(西暦634)〜永正13(西暦1516)年 イスラーム諸王朝 途中に十字軍国家の時代を含む。
永正13(西暦1516)〜大正06年(西暦1917)年 オスマン帝国 
大正07年(西暦1918)〜昭和23(西暦1948)年 イギリスによる国際聯盟の委任統治 
昭和23(西暦1948)年 イスラエル国(メディナット・イスラエル)成立 共和政国家の樹立、現代に至る。



 西暦135年、ローマが叛乱を鎮圧し、ユダヤ的なものを一掃しようとしたローマ人は、この土地をユダの地(ユダヤ)ではなく、ユダヤ人の宿敵ペリシテ人に因んで「パレスチナ」、エルサレムを「アエリア・カピトリーナ」と改称し、ユダヤという地名は消滅した。

 また、ユダヤ人は人種的にはセム族とされるが、長いディアスポラ(離散)のなかで、周辺民族との混血の結果、セファルディームアシュケナジームの違いが生じ、また言語もイデッシュ語などが生まれた。現在、ユダヤ人はイスラエルの他、世界中に分布しており、アメリカにも約600万人が住んでいるとされる。しかし現在ではユダヤ人を「人種」概念で捉えるのは困難で、現実には「猶太教を信仰する徒輩」と捉えるのが正しい。人類学的に同質のユダヤ人は存在しない。




フランス共和国第1共和政(西暦1792〜1804年)
 国民公会(西暦1792〜1795年) その2

 西暦1793年01月01日、国民公会は公安委員会の前身の国防委員会を設置した。国王の処刑と南ネーデルラント(ベルギー)進出によって脅威を感じた周辺国はフランス共和国を打倒するべく結束した。西暦1793年02月01日、国民公会はグレートブリテン王国{西暦1707〜1801年)ハノーヴァー朝(西暦1714〜1901年)とネーデルラント連邦共和国(オランダ){西暦1579〜1795年)に宣戦布告した。02月13日には、革命の流れがグレートブリテン王国(イギリス王国)に波及することを恐れた英首相ウィリアム・ピット(小ピット)(William Pitt(the Younger))は、オーストリア大公国(西暦1453〜1804年、ハプスブルク帝国(西暦1526〜1804年))、プロイセン王国(西暦1701〜1918年)、イギリス王国、スペイン王国ボルボン朝(西暦1700年〜)、ネーデルラント連邦共和国によるフランス包囲の大同盟である第1次対仏大同盟を結成した。
 一方、こうした孤立状態での対外戦争の敗北によって国内での危機が極限に達し、フランス共和国は挙国一致体制で戦争を戦い抜こうと試みた。
フランス革命は、アンシャン・レジームの職業軍人を中核とする軍隊をそのまま受け継いだが、この古い軍隊での士官は西暦1781年のセギュール(Philippe Henri de Ségur)法により4代まで遡る貴族に限定されていて、戦時に必要になる兵員は、外国人傭兵と農村に課された封建的な兵役(国民民兵制)に依存し、徴集は地方ごとに聯隊の枠内で行われていた。また過酷な規律と体罰を基本とする当時の軍隊では士気が低かったが、革命によって高められた平民の貴族との軋轢によって兵士の反抗が常態化し、西暦1790〜1791年にかけて各地では兵士の叛乱とそれを鎮圧する事件とが相次いでいた。その最大のものはナンシーの叛乱である。
 軍隊は、9000人の貴族士官のうち約半数が亡命しているような状態で、兵士についても西暦1791年05月04日に国民民兵制が廃止されて、自由意志に基づく軍隊になったが、平時体制で数を通常よりも大きく減らしたままで、新たな招集手段を持たなかった。数の不足を補うべく、06月13日に国民義勇兵制度を創設し、各県の国民衛兵の中から20人に1人割合で選抜して軍に編入したが、それを含めても戦前の段階で軍隊には10万人がいただけであった。第2革命の08月10日事件の王制打倒の熱気そのままに多くの市民が大量の士気旺盛なる志願兵の応募に殺到した。義勇兵は待遇面で傭兵である正規軍よりも優遇され、別組織とされた。革命戦争初期にはこれらは反撥しあったので、アマルガム法で再編成が必要になった。しかし短期間で決着すると思われていた戦争の長期化は別の問題を発生させた。開戦前の1791年12月28日の法令によって「志願兵は各戦役の終わりには自由に退役でき」、「戦役は毎年12月01日に終わると見做される。」と規定されていたため、志願兵を拘束できる契約期間は1年に過ぎなかったから、西暦1792年末には兵士達の帰休と除隊で、隊列は大きく損なわれ、軍隊は人員の不足に見舞われた。熱狂的な市民のあらかたはすでに出征を経験しており、さらに志願者を募るのは難しい情勢であったので、ある程度義務的な兵役制度の助けを借りる必要があった。
 軍事委員会の委員で、山岳派の議員エドモン・ルイ・アレクシス・デュボワ・クランセ(Edmond Louis Alexis Dubois-Crancé)は、予てから兵役の義務化を考えていたが、西暦1793年01月05日、前線を視察して「50万人の軍隊を作り上げるためには追加で30万人の兵員募集が必要である。」と報告し、法制化が進められ、02月07日、デュボワ・クランセは旧職業軍隊と志願兵部隊の融合が必要であるとアマルガム法の制定も提唱したが、02月12日、ルイ・アントワーヌ・レオン・ド・サン・ジュスト(Louis Antoine Léon de Saint-Just)がこれに同調して演説し、軍隊に民主化のためとして選挙制の昇進制度を付け加えた。後者は実施が間に合わなかったが、02月24日、議会で可決された国民軍への強制募兵制度30万人募兵令(仏語: Levée de 300,000 hommes、正式名: 軍隊の募兵方法を定めるデクレ(Décret qui fixe le mode de recrutement de l’armée))を発した。
 徴集兵の人選方法の決定は市町村会の多数決に委ねられたが、代理人制度が認められるなど、いくつも不平等な条項があり、農村部ではアンシャン・レジーム時代に農民に課された籤引き兵役を思い起こさせたために激しい反撥を生み、これが引き金となってパリに不満を持った地方が反抗を開始し、内戦が発生した。03月03日にはリヨンの叛乱(仏語: Siège de Lyon)が発生し西暦1794年10月09日の陥落まで叛乱が続いた。また、1週間後の03月10日にはフランス西部のヴァンデの叛乱が始まった。聖職者民事基本法への宣誓問題と、募兵令に反撥した王党派農民が反革命の蜂起を起こした。対外戦争中での内戦は長引き西暦1796年まで3年にわたって続き、およそ20万人が犠牲となった。05月29日にはマルセイユで叛乱が発生し、アヴィニョン、ニームをはじめフランスの各市でも叛乱は起こり全国的規模へと拡がった。
 こうして30万人募兵令は、パリと地方、都市と農民、宗教と革命との確執を叛乱に引き上げ、外国と戦争中のフランス共和国を、内乱の火の中へと放り込む結果となった。内戦の発生は共和主義者を驚愕させ、次に激怒させた。断固たる革命防衛策を主張する山岳派の支持は激増した。内戦は緊急処置としての恐怖政治の確立を促したが、革命派の市民が自ら恐怖政治を熱望するようになったのは、ヴァンデの如き裏切り者を懲罰する必要性を感じたからであった。内戦により、リヨン、ヴァンデ、トゥーロンで革命軍による虐殺が起きた。ヴァンデの叛乱は西暦1793年末までに、ほぼ鎮圧され、ロワール川を渡りブルターニュを目指した8万人の農民のうち、生き残ったのは僅か4、5千人であった。リヨンでは派遣議員のジョゼフ・フーシェ(Joseph Fouché)、ジャン・マリー・コロー・デルボワ(Jean-Marie Collot d'Herbois)の指導の下に教会の掠奪が命じられ、叛徒の処刑が4ヶ月にわたり間断なく続けられ、犠牲者は2千人を越えた。トゥーロンでは、陥落後にバラス子爵ポール・フランソワ・ジャン・ニコラ(Paul François Jean Nicolas, vicomte de Barras、ポール・バラス(Paul Barras))とルイ・マリ・スタニスラス・フレロン(Louis-Marie Stanislas Fréron)の指揮下で西暦1794年01月末までに千人以上の処刑が行なわれた。虐殺に対する報復はさらに残忍さを増し、復讐の連鎖はヴァンデ戦争を地獄とした。また内外の戦争の危機に際してフランス共和国は、西暦1793年08月23日に国民総動員令(仏語: Levée en masse)を定め、人材と物資の両方が無制限に徴用を可能にし、公安委員会と派遣議員に絶大なる権限を与える独裁をも容認した。


 フランス革命とはブルジョアジー層が本来は絶対王政の打破・立憲君主制国家樹立を目指して起こした革命であったが、都市の下層民(サン・キュロット)の熱量を吸収して激化し、各種王政自体の打倒・共和制移行まで暴走した。そして、ジャコバン派政権が、対外戦争に備えて、西暦1793年02月24日に30万人募兵法を布告したものの、徴兵は富裕な者は代りの者を出すことが許され、役人は兵役が免除されていたことから、農民層には「著しく不利。」と受け止められた。そして、以前からの都市に対する農村の不満も背景にあり、「都市住民(革命派)による農村破壊に対する異議申し立て」が叛乱の形になった。西暦1793年03月、不平等な30万人募兵令に反撥し、フランス各地で蜂起が起こった。大抵はすぐに鎮圧された。

 当時リヨン(Lyon)は、フランスでも工業都市として栄えており、新たに成り上がったブルジョワジーと労働者(サン・キュロット)たちとの対立は、パリよりも深刻なものであった。そんな中、パリから火がついたフランス革命の勃発により、急進的な革命の継続を求めるサン・キュロットたちと、反革命派、あるいは穏健な改革を望む者たちとの対立はより深刻なものとなった。マルセイユやリヨンなど南部諸都市でも叛乱が頻発していた。マルセイユでは06月、連邦派が叛乱を起こしアヴィニョンを占領した。ジロンド派と関係する連邦主義の叛乱でパリの革命政府に対し、王党派と穏健共和派はリヨンで反革命叛乱を起こした。国民公会ははこれを徹底的に弾圧し、リヨンの大虐殺を引き起こした。叛乱鎮圧後、リヨンの都市名は改名され、ヴィル・アフランシ(Ville-affranchie)の名に変えさせられた。
 サン・キュロットたちは、狂信的なジャコバン主義者ジョゼフ・シャリエ(Joseph Chalier) の煽動の下にシャリエ派と呼ばれる一派を形成していた。ジョゼフ・シャリエは元僧侶であったが革命を歓迎し、バスティーユ監獄の石垣を抱え、6日6晩徒歩でパリからリヨンへと持ち帰り、これを聖体として崇める程の狂信的な革命家だった。また、08月10日のテュイルリー王宮襲撃事件や反革命派への九月虐殺を引き起こしたジャン・ポール・マラー(Jean-Paul Marat)を神の如く崇拝するなど、その政治的急進性と狂信性は反革命派にとって脅威であった。
 ジョゼフ・シャリエは、西暦1792年11月のリヨン市長選挙に立候補したが、王党派の反対派に敗れた。 その後すぐに、ジョゼフ・シャリエはリヨンのジャコバン派の指導者になり、ジャコバン派を率いて西暦1792年11月のリヨン市長選挙に立候補したが、王党派の反対派に敗れた。 その後すぐにジョゼフ・シャリエはリヨンのジャコバン派の指導者になり、02月05日と06日の夜に多数の王党派を逮捕した。これにより、彼はリヨン市長と直接対立し、革命裁判所の設置とリヨンに革命軍の駐留を要求した。王党派は拒否し、05月29日と30日、ジョゼフ・シャリエに対して蜂起し、革命政府に反対する街の王党派たちによって投獄され、さらに、王党派は手紙を偽造してジョゼフ・シャリエの罪をでっち上げ、他のシャリエ派やパリへの見せしめとして、07月15日、彼はローヌ・エ・ロワールの刑事裁判所に連行され、死刑を宣告された。国民公会は慌ててジョゼフ・シャリエを救おうとしたが、既に遅く、さらにリヨンに対して何度も警告・勧告を行ったが、リヨンはますますパリの急進主義者達への対決色を色濃くした。国民公会が脅しとしてギロチンを送りつけると、リヨンでは逆にそのギロチンを使ってジョゼフ・シャリエを処刑することを決定し、07月17日に執行された。しかし、ギロチンの扱い方に馴れていないリヨンの処刑人リペールは、ギロチンの刃を3度落としてもシャリエの首を切断することができず、最後は斧(ナイフとも)を使ってようやく首を落とした。この光景には、シャリエ派のみならず、反革命派の民衆も衝撃を受けた。
 叛乱を鎮圧し、街の主導権をシャリエ派の下へと返すため、約3万の共和国軍がリヨンへと派遣され、08月08日からリヨンを包囲した。リヨンは街の周囲を城壁に守られた城塞都市であったが、共和国軍は大砲を用いて直接市内に砲弾を撃ち込み、都市を破壊した。やがて「市内でシャリエ派が私刑に遭っている。」という情報が流れると、これを救出すべく共和国軍はリヨンに対して徹底的に砲撃を加えて街を沈黙させた。この時フランスでは徴兵制度が始まっており、共和国軍が容易に人員を補充できたことも、包囲されたリヨンにとっては不利に働いた。やがて、10月09日、リヨンは革命政府に対して停戦と開城を申し出た。なお、この包囲戦には、後に大陸軍元帥となる、ルイ・ガブリエル・スーシェ(Louis-Gabriel Suchet)も参加していた。彼はこのリヨン出身であり、彼にとってこの作戦は自らの故郷に対する攻撃であった。彼は、砲撃の前に何度もリヨン市との交渉の持続を求めた。また、リヨン包囲戦に参加した共和国軍は、その後同じく王党派の叛乱が起こっていた港湾都市トゥーロンへの援軍として派遣され、同港の奪還作戦に参加した。
 鎮圧されたリヨン市に対し、国民公会は徹底的に報復することを決定した。10月12日、公会議長ルイ・ジョゼフ・シャルリエは次の宣言を発した。「国民公会は、公安委員会の建議により、猶予することなくリヨンの反動革命を武力で懲罰する目的を以って、5人の議員より成る非常委員会を指名する。リヨンの全住民は武装を解除し、その武器は共和国防御者に引き渡されるべし。武装の一部は、富者及び反動革命家の圧迫を被っている愛国者に交付するものとする。リヨン市は破壊されるものとする。有産階級の住居は全て破壊されるべし。貧民の家、殺戮もしくは追放させられた愛国者の住家、工業建築物、並びに慈善・教育の目的に使用されるもののみは、残存に差し支えなし。リヨンという名称は、共和国の都市表から抹消される。残った都市は、今後ヴィル・アフランシの名で呼ばれるものとする。 リヨンの廃墟には記念碑を立て、王党の都市の罪と罰を天下後世に知らせる目的を以って『リヨンは自由と戦いを交えたり―リヨンは最早あらず。』という碑銘を刻むものとする。」
 国民公会ではこれに反対するものもなく、ジャコバン派の指導者マクシミリアン・フランソワ・マリー・イジドール・ド・ロベスピエール(Maximilien François Marie Isidore de Robespierre)の側近、ジョルジュ・オーギュスト・クートン(Georges Auguste Couthon)が国民公会代表として、デュボワ・クランセが6万の兵員を集めてリヨンを包囲しているところに、監察に派遣された。リヨンは10月09日に降伏したが、リヨンではこの宣言を聞いた市民達が革命政府の報復を恐れ戦慄した。叛乱終結後、ジョルジュ・オーギュスト・クートンはリヨンに対する報復として建物の屋根から瓦を剥がしたり、壁を槌で叩いて形ばかりの傷をつけたり、叛乱指導者を数人処刑するなど、比較的寛容な処置しか行わなかった。彼は、「フランス第2の都市であるリヨンを徹底的に破壊することは、現実離れしている。」と考えたからである。恐ろしい宣言の後で、思いもかけぬ穏便な処置に街の人々は安堵したが、これを不服とした議員達はジョルジュ・クートンの罷免を求めた。
 やがてジョルジュ・オーギュスト・クートンに代わってジョゼフ・フーシェ、ジャン・マリー・コロー・デルボワらの派遣が決定された。コロー・デルボワは11月07日、ジョゼフ・フーシェは11月10日にそれぞれリヨンに到着した。コロー・デルボワについては、「彼がリヨンで俳優をしていた際、舞台で野次り倒されたことがあったため、リヨン市民に対する処罰にはもってこいとされた。」とされた。彼らはクートンの処置を生温いものとして、リヨンへの徹底的な報復を開始し、処刑されたシャリエの遺体を担ぎ出し、彼を称える行事を行った。翌日には革命裁判所が設置され、12月04日から本格的な処刑が開始された。ギロチンによる処刑では「あまりにまだるっこい。」として、大砲による処刑や、自分で墓穴を掘らせた上での銃殺などが行われた。「ジョゼフ・フーシェに至っては、都市人口の10%を処刑を己に課していた。」とも言われる。これにより、リヨンの叛乱に関った人々は処刑され、プロトー平原には死体が溢れかえった。さらに、国民公会の宣言に則り、リヨンの街も徹底的に破壊される。それでも処刑が続いたため死体はローヌ川、ソーヌ川に沈められたが、一部は筏に載せられて下流へと流された。これは、同じく王党派の叛乱が起こった「トゥーロンまで死体が流れ着けば、叛徒への脅しとなる。」というジョゼフ・フーシェの指図によるものだった。トゥーロン奪還の報が届くと、その日の祝いとしてさらに200人もの処刑を行った。3ヶ月にわたる虐殺で、2000人近くの人々が処刑されたといわれる。ジョゼフ・フーシェはこの一件の後で「リヨンの霰弾乱殺者」と呼ばれるようになった。リヨンの街は徹底的に破壊され、叛乱関係者も処刑されたことで、リヨンでの反革命分子はほとんど消滅した。国民公会の宣言どおり、リヨンの名は改名され、以降同市はヴィル・アフランシ(またはコミューン・アフランシ、「解放市」の意。)と称されるようになった。
 また、この大虐殺を指導した派遣議員のジョゼフ・フーシェ、ジャン・マリー・コロー・デルボワは、パリから出頭を命じられた。虐殺が過激すぎるものとして、マクシミリアン・ロベスピエールの怒りを買ったためである。派遣議員の中には、トゥーロンへ派遣されたポール・バラスやルイ・マリ・スタニスラス・フレロン、ボルドーへ派遣されたジャン・ランベール・タリアン(Jean-Lambert Tallien)など、彼らと同様に過酷な報復が咎められる者が多かった。これを理由に処刑されることを恐れた派遣議員達は、ジョゼフ・フーシェの首謀する反ロベスピエールの陰謀に加担した。やがてこの動きがテルミドール09日のクーデターへと繋がった。クーデター後の西暦1794年10月07日、都市名はリヨンに戻された。

リヨンのフランス革命―自由か平等か - 小井高志
リヨンのフランス革命―自由か平等か - 小井高志
 

 フランス西部で30万人募兵令は想像を遙かに上回る猛烈な反対にあった。これらの地域ではすでに革命政府による重税、30万人募兵令や、カトリック教会への抑圧(聖職者民事基本法)などの反撥でに対する不満が渦巻いており、国王裁判と処刑は、宣誓拒否聖職者が説く反革命を感情的に支持する下地になっていたが、さらに追い打ちを掛けるように新たな血税が提起されたことで、特にアンシャン・レジームで籤引き兵役を課された経験のある農民を激昂させた。
 元々、ヴァンデを中心とするフランス西部は信仰心の篤い地域だった。西暦1789年に勃発したフランス革命には当初は好意的で領主権や十分の一税の廃止を喜んで受け入れたが、その後行われた教会と僧侶に対する弾圧、国王処刑、増税、30万人募兵の不公平に反感を持つようになった。特に耶蘇教否定運動に対する反撥は強く、ヴァンデでは大多数の市民が教会の祭壇を守るために立ち上がった。
03月10日からフランス西部地方4県に跨るカトリック信仰に篤い地域から発生した農民蜂起・内戦、ヴァンデの叛乱(仏語: Rébellion Vendéenne)が起こった。ブルターニュ、メーヌ、アンジュー、ノルマンディーで発生したゲリラ組織、シュアヌリ(Chouannerie、梟党)の叛乱と結びついており、これらの叛乱は時に「西部戦争(仏語: Guerres de l'Ouest)」と総称される。
 フランス西部ヴァンデ地方の農民たちは軍事経験の豊富な貴族たちを指導者に立て、優秀な指導者たちは蜂起軍を組織化し、「カトリック王党軍」(白軍、共和国軍は青軍)と名乗った。革命政府はブリガン(山賊)と呼んだ。 カトリック王党軍には厳しい規律があった。武器を隠したりした場合、罰金刑と武器の没収。命令違反は、1回目はサーベル叩きの刑、2回目は軍法会議、3回目には銃殺した。遅刻も2回目までは罰金刑だが、3回目には銃殺した。勝手に徒党を組んだり、家屋破壊、掠奪、食糧を窃盗したものなどは初犯で銃殺した。
 行商人出身の非常に敬虔なカトリック教徒で、「アンジューの聖人(le Saint d'Anjou)」と呼ばれたジャック・カトリノー(Jacques Cathelineau)はヴァンデ地方に叛乱が起こると、農民から要請を受け加担した。王党派十字軍の結成を呼びかけ、農民を組織すると共和国軍の哨所を次々に襲撃して血祭りに上げた。不正規戦で度々、敵を破り、村々から農民を勧誘して勢力を拡大した。彼自身には全く軍隊経験は無かったが、その雄弁と生まれつきの指導力で人心を掌握し、無学で無軌道に走りがちな農民たちを上手く統率して敬愛され、尊敬を一身に集めるようになった。穏健派で捕虜は釈放した。西暦1793年05月、カトリック王党軍の編成に際しては農民からの支持を期待して他の貴族の指導者からカトリック王党軍最高司令官に担ぎ出された。連戦連勝で勢力圏を拡大し、ブルターニュのゲリラ組織シュアヌリ(梟党)と合流するために06月にはナント市を攻略に掛かった。西暦1793年06月29日、ナント攻略戦でナントの市内にまで進入し勝利も目前だと思われた時、カトリック王党軍を指揮中の最高司令官のジャック・カトリノーは銃弾を受けて落馬し、兵士たちは恐慌に陥り撤退を余儀なくされた。ジャック・カトリノーは2週間後の07月14日に死亡した。
 行商人出身の初代最高司令官ジャック・カトリノーとは異なり、軍隊経験のあるモーリス・ジョゼフ・ルイ・ジゴ・デルベ(Maurice Joseph Louis Gigot d'Elbée)はボープレオの城主に収まっていたがヴァンデの叛乱に加わり、叛乱を「土器で鉄器に挑むようなものだ。」と評するなど、比較的慎重派で、穏健派で捕虜は釈放した。やがてジャック・カトリノーが戦死すると、2代最高司令官に選出された。体制の改革を図った。しかし一方で、新人事に不満を持ったフランソワ・アタナス・シャレット・ド・ラ・コントリ(François-Athanase Charette de la Contrie、フランソワ・ド・シャレット)らの離反を招く結果となった。ヴァンデの叛乱における最大の激戦・ショレの決戦では、一時は共和国軍を街に追い込むなど善戦したが、その結果市街戦に突入し、戦線は混乱し、さらには共和国軍に不意を突かれ大打撃を受けた。その後自身も重傷を負い、王党軍に退却を命じた。戦いの後、カトリック王党軍は敵の追撃を躱すためロワール川を北上したが、モーリス・ジョゼフ・ルイ・ジゴ・ド・エルベはこの途中に療養のために戦線を離脱し、やがてノワールムティエ島のノワールムティエ・アン・リルで共和国軍に捕らえられ、西暦1794年01月06日に銃殺刑に処せられた。この時捕らえられた兵士1500人も一緒に銃殺され、足が不自由な状態だったルイ・ド・エルベは椅子に座ったまま殺害された。
 フランソワ・アタナス・シャレット・ド・ラ・コントリは、第2革命の08月10日事件の際は、テュイルリー宮殿で民衆の攻撃からルイ16世、王妃マリー・アントワネット・ジョゼフ・ジャンヌ・ド・アプスブール・ロレーヌ(Marie-Antoinette-Josèphe-Jeanne de Habsbourg-Lorraine、またはマリー・アントワネット・ドートリッシュ(Marie-Antoinette d'Autriche、マリア・アントーニア・ヨーゼファ・ヨハンナ(独語: Maria Antonia Josepha Johanna)))ら国王一家を守るなど、革命の趨勢に関らず最後まで国王擁護派の立場を執った数少ない人物の1人で、王党派に対する風当たりが強くなるとアンジェで捕らわれたが、シャルル・フランソワ・デュ・ペリエ・デュ・ムリエ(Charles François du Perrier du Mouriez)によって解放された。カトリック王党軍のほとんどの戦闘や闘争において、共和国軍と戦った。しかし、ナントの攻撃に失敗し、最高司令官のジャック・カトリノーが戦死すると、状況は悪化した。さらに、新たに最高司令官に選ばれたルイ・ド・エルベによる人事の刷新が行われると、フランソワ・ド・シャレットは幹部の位には留まったものの、下級の位である「将軍補佐」で、これを不服とした彼は、同様に新人事に不満を持つ士官、ジョリ、カトリニールや自分の部下を率いて「下ヴァンデ軍」を独自に創設した。この軍の指導者となり、カトリック王党軍とは袂を別った。王党派の首領であるアルトワ伯シャルル・フィリップ(後のシャルル10世)は、フランソワ・ド・シャレットを中将の位に就けたが、彼は王党軍を率いることを断り、さらには自由主義のオルレアニスト達に加わるのも拒否した。フランソワ・ド・シャレットの指揮する下ヴァンデ軍は、ゲリラ戦術を駆使し、巧みに共和国軍を翻弄した。苦戦続きの叛乱軍においては、共和国軍の宿営を占領するという快挙にも成功したが、やがて物資が尽きると、ニコラ・アクソーの軍によって決定的な痛手を受けた。ヴァンデの叛乱以降蜂起した叛乱軍は各地で破れ、最後まで抵抗していたのは彼の軍だけとなってしまい、負傷したフランソワ・ド・シャレットは西暦1796年05月に捕らえられ、26日、ナントで銃殺刑に処せられた。
 カトリック王党軍の本拠地であるショレを追われた後、10月20日にアンリ・ド・ラ・ロシュジャクラン(Henri de la Rochejacquelein、ラ・ロシュジャクラン伯アンリ)が3代目総司令官に就任した。穏健派で捕虜は釈放した。08月10日事件で王宮守備隊とともに暴民と戦い敗北後、故郷へ脱出した。西暦1793年04月12日、歓呼の声の中、住民達を率いてヴァンテの叛乱に参加し、「私が前進するときは、私に続け。私が怯んだら、私を殺せ。私が死んだら、復讐しろ。」と味方を鼓舞した。12月アンスニで渡河の準備のためジャン・ニコラ・ストフレ(Jean-Nicolas Stofflet)と100人の部下を連れてロワール川を渡った際に共和国軍の巡邏隊と遭遇したため林に身を隠し本隊と離れた。 後、カトリック王党軍は12月23日サヴネにて殲滅し辛うじて脱出した生き残りとともにゲリラ戦を続けたが、西暦1794年01月28日に投降を装った共和国兵に撃たれ21歳で戦死した。彼を撃った兵士2人は直ちに復讐された。

 フランス西部ヴァンデ地方は西部のマレ地帯(湿地帯)、北東部のボカージュ地帯(森林地帯)、リ・モージュ地方(灌木地帯)の4県にわたる。ロワール下流の南側、モージュやボカージュで事態は深刻化した。最初の騒擾は、西暦1793年03月04日だった。ショレで30万人募兵令に反撥する募兵対象者たちの集団が騒動を起こして国民衛兵の巡邏隊と小競り合いになり、両者に死傷者を出した。1週間後、03月10日〜11日、西部各地で叛乱が始まった。公文書が焼かれ、公庫も空にされた。マシュクールの町では籤引きが予定されていた03月10日に、革命によって鹽税が廃止されたので、生活の糧を失った元鹽税役人の多くが反革命に走り、その元塩税役人に指揮された農民が都市の市民を襲った。虐殺は1ヶ月続き、郡長を拷問処刑したほか、国民衛兵を皆殺しにし、革命派と思われる住民は手当たり次第に銃殺や生き埋めという方法で処刑して、545人の犠牲者を出した。サン・フロラン・ル・ヴィエイユ市では、03月12日に募兵の方法を決定する集会が予定されていたが、武装した2000人の農民が市内に乱入して集会を妨害し、制止する国民衛兵の発砲を機に「国王万歳!僧侶万歳!」と叫んで蜂起した。彼らは市役所に放火し、金庫を壊してアッシニアをばら撒いた。ティフォージュでは、周辺の村の農民800人が集結して、兵役逃れのために03月12日に市を攻撃して占領した。蜂起農民たちは叛乱の指導者として王党派の貴族などを迎えて、近隣の都市を次々と占領して支配下に収め、勢力を拡大していった。ポルニック市は近隣の避難民で膨れあがっていたが、守る国民衛兵は僅か500人に過ぎなかった。叛乱軍は彼らの不在時に急襲して占領し、逃げ遅れた男性は皆殺しにした。帰還した国民衛兵は掠奪して酒を飲んで寝込んでいる叛徒を奇襲して都市を奪還したが、これを聞いた指導者のフランソワ・アタナス・シャレット・ド・ラ・コントリ(フランソワ・ド・シャレット)は報復としてポルニックを町ごと焼き払った。
 それぞれの教区で指導者が蜂起集団に擁立されて行くが、初代カトリック王党軍最高司令官となるジャック・カトリノーもその1人であった。イゼルネでも 500人の人々がフランソワ・アタナス・シャレット・ド・ラ・コントリ、ジャン・ニコラ・ストフレを指導者に仰ぎ、14日にはショレに入った。13日ショレとサン・フロランの間のボープレオでの蜂起では、ボープレオ城の城主、モーリス・ジョゼフ・ルイ・ジゴ・デルベが指導者とされた。ヴァンデ県北東部にあたるレ・ゼルビエでもサピノー・ド・ラ・レリ、マリニーが指揮官として擁立され、周囲に攻撃が掛けられた。ここから約10日間のうちにモージュのほぼ全域へ広がり、小集団も徐々に纏まって行き、西暦1793年03月中旬を境に、農民の一揆が瞬く間にメーヌ・エ・ロワール県ショレ、ブレシュイールの一帯から蝗の群れのように拡がり始めた。カトリック王党軍は、ジャン・ニコラ・ストフレやジャック・カトリノー、シャルル・ド・ボンシャンらを指揮官とし、ショレに本拠を置く主力軍と、サピノード・・ラ・レリ、マリニーらがレ・ゼルビエに拠点を置く中部軍、またフランソワ・ド・シャレットらが指揮を取り、かなり独自に行動を取っていたレ・下ポワトゥ地方軍に大きく分かれていた。03月はそれ以降も引き続き付近の都市から国民衛兵を掃討した。だが共和派も抵抗した。
 西暦1793年03月、国民公会は叛徒に関する布告の中で、叛徒に対し「法の外に置く」厳格な態度を表明した。「武器を所有している叛乱者全員を処刑し、その財産を没収する。」という厳しい処置を取った。しかし、国境に国民衛兵を送っているため兵力が不足しており、鎮圧することができなかった。叛乱軍は次第に力を持ち始め、革命政府が国境の軍隊を配備しても、思うような成果は上げられなかった。なかなか鎮圧されない蜂起は国民公会の脅威となった。実際の対応は不十分であり、カトリック王党軍側の勢いを止める事はできなかった。
 04月に入ると革命政府もヴァンデの事態を重視し始め、大規模な戦闘が増え、04月11日、ショレの北東20qほどのシュミーエで、合計約3万を幾つかの部隊に分け、包囲を試みる共和国軍と、ほぼ同数のカトリック王党軍が激突し、カトリック王党軍が勝利した。17日にはショレを一時奪取されたが、20日には奪還した。シュミーエでの戦闘と同時期、後に3代カトリック王党軍最高司令官になるアンリ・ド・ラ・ロシュジャクランがレ・ゾービエの共和国軍を敗走させ、主力軍に合流した。またブーラールらが沿岸部の都市で兵を上げ、シャランに達した。フランソワ・ド・シャレットはヴィエイルヴィニュに自身の拠点を築き、やや内陸部を制覇した。05月に入ると、05月05日にはトゥアールを陥落させ、16日と25日の2度の戦闘でフォントネ・ル・コントを奪取した。戦闘は、カトリック王党軍が各地の群衆を動員したため大規模化した。こういった局面で既に、トゥアール戦の共和国軍指揮官であったケティノー将軍に対し、モーリス・ジゴ・デルベ以下6人の指揮官の署名入り通行許可証が渡され釈放されたという事例もあり、ただの無秩序で残虐な農民叛乱という段階ではなかった。フォントネ奪取後、主力軍はその北東のソミュールを目指した。その途上ドゥエ、モントルイユ・バレ、シノンで共和国軍を撃退し、06月09日にはソミュール攻撃をかけ、制圧を達成した。主力軍がソミュールに駐屯する間、フランソワ・ド・シャレットは独自にマシュクールを占領した。17日、主力軍はソミュールを発ち、アンジェ攻略に向かったが、19日には全軍が、共和国軍が逃亡したために戦闘なしでアンジェ入りを果たした。この時点では、カトリック王党軍は敗北を喫する事もあったとはいえ、大勢では共和国軍を圧倒していた。同時多発的に起こった民衆蜂起が各都市や拠点で次第に膨れ上がり、37人で始まった蜂起が次の日には3000人を超え、次第に主な戦闘要員だけでも最大で6万人あまりの組織になり、わずか10日余りの間にフランス西部の3分の2の地域で騒乱状態となった。ヴァンデ地方の4県は約2週間で叛乱軍の手に落ち、革命政府を恐怖に陥れた。財政は参加した裕福層の財産に拠っていた。元々軍事組織的なものがあった訳ではなく、蜂起した農民は、指導者にそれぞれ軍隊経験のある地方貴族を担ぎ上げて、優秀な指導者たちは組織化して各町に駐留する国民衛兵隊や共和国軍を追い出した。各地の叛乱軍と合流しながら共和国軍を打ち破り、ヴァンデ地方を支配下に置いた。カトリック王党軍の主張はジャコバン派の主張との類似点が多数あった。
 この頃には連戦連勝で勢力圏を拡大し、ブルターニュのゲリラ組織シュアヌリ(梟党)と合流するために06月20日には革命政府を支持した隣接する都市、ナント市に最後通牒を発して総攻撃を開始した。しかし、ナント市民は共和国軍と協力して徹底抗戦した。ナント市の出入口をヴァンヌ街道以外外全て封鎖し、そこから敵を敗走させる計画であったが、タルモンが命令無視をし、敗走する共和国軍を市中に押し戻してしまった。06月29日、ナント攻略戦でナントの市内にまで進入し勝利も目前だと思われた時、カトリック王党軍を指揮中の最高司令官のジャック・カトリノーは銃弾を受けて落馬し、兵士たちは恐慌に陥り、緒戦にして敗北し撤退を余儀なくされた。ジャック・カトリノーは2週間後の07月14日に死亡した。フランソワ・ド・シャレットも同時に単独行動を取っていたうえ、サピノーも独断によってこれに付随する攻撃を失敗し、各々の戦術に一致は見られなかった。この躓きが転換点となり、共和国軍の反撃が開始された。ジャック・カトリノーの死は、影響が大きく離脱者が続出し統制が取れなくなっていた。大規模な攻勢に出ることができず、次第に防衛戦の様相を呈した。共和国軍は少しずつ蜂起の地域を包囲する準備を進めていった。
 思いがけぬ勝利に共和国軍は勢いづき、ウェステルマヌ将軍は07月01日にレスキュール不在のクリソン城に火を放ち、ブレシュイールを奪回した。007月2日にはシャティヨンを攻撃し07月03日には陥落させたが、07月05日には撃退された。
ここでは砲兵指揮官マリニィが命令違反の残虐行為を行った。07月08日、王党軍のヴィイエ占領で王党軍の勢力範囲が確定し、19日にモーリス・ジョゼフ・ルイ・ジゴ・デルベが2代総司令官に就いたが、その後30日、08月13日とリュソンで敗戦、サピノー・ド・ラ・レリ、マリニーが戦死した。
 西暦1793年08月に国民公会は「ヴァンデの絶滅」という法令を制定し、共和国軍にヴァンデの破壊命令を出した。指令は、「戦争に関わった可能性のある者は、老若男女を問わず、容赦なく殲滅せよ。」というものであった。それを受けて共和国軍は森林、畑、家、教会を荒らし、人間を無差別に殺害した。共和国軍側はその後、11万6千の「西部共和国軍」、中でもライン沿岸からこの地域に転戦したマインツ部隊によって主導権を握った。マインツ部隊の到着は09月01日で、王党軍に対する攻撃は、09月の間、コロン、トルフー、モンタギュ、サン・フュルジャンで仕掛けられた。この間もフランソワ・ド・シャレットは主力軍とは作戦を共にせず、独自行動を取った。
 10月09日にリヨンが降伏(リヨンの叛乱)した後、10月11日、共和国軍がシャティヨンを奪取し、10月12日、モーリス・ジゴ・デルベは王党軍をショレに集結させたが、フランソワ・ド・シャレットのみが単独行動でノワールムチエ島を占領した。10月17日カトリック王党軍はヴァンデで大敗を喫した。10月17日のショレの戦いの敗北の後、共和国軍に追われた。ショレで両軍が激突し、王党軍は北部に向けて敗走した、
レスキュール、モーリス・ジョゼフ・ルイ・ジゴ・デルベ、シャルル・ド・ボンシャンは重傷を負い、この戦闘の後アンリ・ド・ラ・ロシュジャクランが3代総司令官に就いた。翌18日恐慌の中で、指揮官の間での意見が纏まらないままに、ロワール川を渡河。10月に起死回生を狙い、ブルターニュを拠点とした王党派梟党(シュアヌリ)の叛乱と連携し英国軍、亡命貴族軍を頼るため、ロワール川を越えてブルターニュ半島を北上し、ドーヴァーを目指した。カトリック王党軍が、英仏海峡を目指して転進した「ギャレルヌの転戦」と呼ばれる漂流戦の開始である。スグレ、シャトー・ゴンティエ、ラヴァル、マイエンヌ、エルネ、フジェール、ドル、ポントルソン、アヴランシュといったブルターニュの街々を通過し、約1ヶ月を要して、11月14日には港町グランヴィルに到達した。英国軍の援助を期待してであったが、グランヴィル前の面で退けられ敗退を続け、食糧もなく疫病が流行り士気も低下した。にも拘わらず、共和国軍の無差別攻撃により逃げ出してきた農民をも含め、10余万人にも膨れ上がってしまった。結局英国軍の支援は得られず、亡命貴族軍などいなかった。彼らは遂に諦めて故郷に帰ろうと、折り返して再び元のヴァンデ地方を目指して南下を続けることになった。この時点で既に秋の風雨、飢餓、病、度重なる敗戦に苛まれていた。12月03日〜 04日にかけ、ロワ―ル再渡河の足掛かりにしようとしたアンジェの攻略に失敗し、12月13日、ル・マンで大打撃を受けた。本拠地を追われた約4万人のカトリック王党軍の主力は、避難してきた約5万人の民衆を伴いロワール川を渡った。共和国軍に追われるカトリック王党軍は、度重なる戦い、飢餓、赤痢、冬の寒さ弾薬不足などにより弱体化していった。
 12月19日にトゥーロンの王党派政府も降伏した(トゥーロン攻囲戦)。それから4日後の12月23日、カトリック王党軍はその帰途のサブネ村まで来た時、長い遠征で疲れ切ったところを共和国軍に包囲され、主力部隊が壊滅するという大敗を喫した。このロワール川の渡河での大敗が決定的な敗北となった。サヴネーでほぼ壊滅状態に陥った。転戦初期8万とも呼ばれた王党派は4千ほどまで減っていた。西暦1793年12月のル・マン、サヴネの戦いの敗北によってカトリック王党軍の主力軍は壊滅し、組織的抵抗は終息した。指揮官も散り散りとなり、フランソワ・ド・シャレットなどはまだ抵抗を続けたが、既にこの時点でカトリック王党軍に対する共和国軍の勝利は達成された。西暦1793年末にはカトリック王党軍はその勢力をほぼ失った。その後も西暦1794年の1年間はヴァンデ各地でゲリラ戦を続け持ち堪えていた。戦闘が完全に終わったわけではなく、残存兵力が野戦を行い小規模な抵抗を続けるが、「戦争」と呼べる規模の叛乱は終結を見ることになった。
 西暦1794年01月17日ヴァンデ住民絶滅命令が出され、共和国軍の叛乱軍掃討は激烈をきわめ、叛乱の可能性を根絶やしにするという方針の下、戦闘員だけでなくその妻や子供まで虐殺された。捕らえられたカトリック王党軍捕虜は、西暦1793年12月〜1794年04月にかけて各地の刑場などでそのほとんどが集団処刑された。銃殺刑が主だったが、捕虜になった者はナントに連行され、ロワール川に浮かぶ廃船に積み込まれて沈められた。
 ナントでは叛乱軍捕虜などに対して、集団銃殺だけでなく、4800人余りが派遣議員ジャン・バティスト・カリエ (Jean-Baptiste Carrier)が考案した溺死刑によって処刑された。(ナントの虐殺(共和国の結婚))それら以外は獄死した。共和国の残虐行為で最たるものに「ナントの虐殺(共和国の結婚)」がある。これはナントの治安回復の任務を帯びて総督として赴任した国民公会議員ジャン・バティスト・カリエが指揮したもので、西暦1793年11月、革命指導者マラーの名を冠した秘密の実行部隊が、男女問わず叛乱軍捕虜とその子供たちや宣誓拒否司祭など反革命と目されて獄中にあった人々を、「銃殺にするには多過ぎ、銃弾が勿体ない。」と、ロワール川に穴を空けた廃船を浮かべて、鎖や縄に繋いだ(女子供を含む)捕虜を満載して詰め込み、船底に穴を開けて沈めて溺死させた。このことを鬼畜ジャン・バティスト・カリエたちは「給水塔送り」と呼んでいた。溺死刑は西暦1793年11月〜1794年02月にかけて複数回行われたが、回数や犠牲者の人数は定かではないが4000人台と推測される。
 共和国の結婚(仏語: mariage républicain)とは、フランス革命期の恐怖時代にナントで行われたとされる死刑の方法で、「それに巻き込まれた者は裸にされ男と女で縛られ、溺死させられる。この刑は、西暦1793年11月〜西暦1794年01月の間に、ジャン・バティスト・カリエの命により執行された。「犠牲者はロアール川で溺れ死んだ。」とする文献がほとんどの中、わずかに別の処刑方法の記録では、「拘束された男女は溺死させられる前に、あるいはその代わりに剣で一突きにされた。」
「共和国の結婚」については、実在の疑いの目もある。こうした「共和国の結婚」の記録は西暦1794年のジャン・バティスト・カリエが裁判に掛けられている時のものものが最古で、「この処刑方法を考え出したのはフランス革命時代のジャン・バティスト・カリエで、ナントに設置された革命裁判所を司るカリエは悪魔だった。彼は、かの野蛮で残虐な共和国の結婚を発明した人物として万国にその名が知られていた。性別の異なる、たいていは老人と老女か若い男性と女性の組み合わせの2人が、全ての衣服を奪い取られ、群衆の前で一書に縛り上げられ30分あるいはもっと、そのまま小舟のうえで晒し者にされたあげく、川へと投げ込まれるのである。」、「共和国の結婚とは…背中あわせで互いに縛られた男女が、裸に剥かれて半時間ほど晒された後、警察犬のごときロアール川という名の「国家の風呂桶」に放りこまれるというものだ。」、「純真な若い乙女が怪物たちの眼前で衣服を解かれるのだが、この残虐の極みのような行いにさらなる恐怖を抱かせることには、女たちは若い男と結びあわされ、共にサーベルで斬り伏せられるか川に投げ込まれるのだ。こういった類の殺人行為が共和国の結婚と呼ばれていた。」、「この慣習を『テロリストの女性嫌悪、女性蔑視』と見ているように見受けられる。女性は、『純真』であり、叛逆者を手助けしたことが無実であるばかりでなく若い『処女』であったと考えていることを窺わせる。ウィリアムズの文章において男性たるジャコバン派の処刑人は「無闇に性交の姿勢を強いられた反革命派の男女が、醜悪な『結婚』をした途端に死に至る様を公然と覗き見るサディストである。旧体制が女性の美を力でもって押さえつけるものであるとするならば、恐怖政治とは美というものの下劣な死に様だ。」
 こうした死刑が行われ、さらにはそれがジャン・バティスト・カリエの命によるものであるという主張が初めて現れたのは、西暦1794年の革命裁判所によってナントの革命委員会の委員が審判を受けている時のことである。
しかし、わずかな数の証人こそ「共和国の結婚」について聞いたことがあると主張しているが、実際に目撃したという人間はいなかった。真偽は不明でもそれ以外の事実からでも、ジャン・バティスト・カリエとその近しい仲間たちに死刑を宣告するには十分過ぎるほどだった。「共和国の結婚」の記録は有名になり、後に恐怖時代について著そうとする多くの作家たちによって、凝った仕方で引用されるようになった。例えばその記述には、「2人の犠牲者は神父と修道女であった。」という説が加わった。
 溺死刑はジャン・バティスト・カリエにより公安委員会に報告されていたが、黙認されていた。西暦1794年02月、ジャコバンクラブの最年少の18歳で公安委員会の密使の任命され「ロベスピエールの目」と呼ばれ、派遣議員の監視を行っていた、マクシミリアン・ロベスピエールのお気に入りのマルク・アントワーヌ・ジュリアン(Marc-Antoine Julien de Paris)がナントを訪れた際、ジャン・バティスト・カリエから激しい恫喝を受けたことをマクシミリアン・ロベスピエールに訴えたことからジャン・バティスト・、カリエはナントの派遣議員を解任となり、パリへ戻った。ジャン・バティスト・カリエが元から公安委員会に転任願いを出していたため、それが受理されたという形で、何のおとがめもなく円満に、ジャン・バティスト・カリエの派遣議員としての任務は終了した。後にナントのジャン・バティスト・カリエの元部下たちがナントの革命裁判所との覇権争いに負け、逮捕、パリに送られた。パリで裁判にかけられた元カリエの部下たちは、自分の罪を逃れるために「全てはカリエの命令でしたことだ。」と訴え、 ジャン・バティスト・カリエの行った悪行の数々が傍聴していたパリの民衆たちに知られることとなり、パリの民衆たちはカリエの出頭を求め、大量虐殺で告発されたジャン・バティスト・カリエは、パリのグレーヴ広場でギロチンに掛けて処刑された。次々と政敵をギロチンにかけて恐れられたマクシミリアン・ロベスピエールの上を行く鬼畜虐殺者ジャン・バティスト・カリエが出た。

ナントの虐殺 - ジョルジュ ルノートル, Lenotre,George, 礼雅, 幸田
ナントの虐殺 - ジョルジュ ルノートル, Lenotre,George, 礼雅, 幸田

 西暦1794年01月21日以後、共和国政府は「地獄部隊」と名付けられた聯隊を派遣し、ヴァンデ軍の残党を殲滅させるため、ヴァンデ地方で無差別な虐殺や放火をそれまで以上に激しく行った。ヴァンデ地方では叛乱は小規模なゲリラ戦に形を変え、長く不毛な戦いが続いた。共和国軍のルイ・マリー・テュロー(Louis Marie Turreau)将軍は指揮下の部隊に「生き物は皆殺しにしろ。」などと指示し、ヴァンデ地方で無差別虐殺を行った。有名な事件だけでもムレ、シャンズオ、プゾージュ、ボープレオなどで無差別虐殺を行った。ル・マンでも無差別虐殺を行おうとしたが、同共和軍司令官フランソワ・セヴラン・マルソー(François Séverin Marceau)によって阻止された。残虐性が特筆される一方、日誌には「指揮官として任務を遂行する義務を果たしただけだ。」と記されていた。ギャレルヌの彷徨後にカトリック王党軍が消滅した後、ルイ・マリー・テュロー将軍は武装ヴァンデに対して12の殲滅部隊を細かく区分して配置する計画を立てた。叛乱に参加した全てのならず者たちを退治し、中立的な住民や愛国者たちを避難させ、穀物や家畜を接収し、村や森に火をつけるよう命じた。共和国側の避難民を再度定住させる前に、最終的にヴァンデを「国家の墓地(仏語: cimetière national)」にしようとした。西暦1794年01月〜05月にかけて、地獄部隊はメーヌ・エ・ロワール県、ロワール・アンフェリウール県(現在のロワール・アトランティック県)、ヴァンデ県、ドゥー・セーヴル県といった武装勢力の本拠を縦横に駆け巡った。こうした作戦の一部は多くの場合年齢・性別・政治的意見に関係なく、放火、婦女暴行、拷問、掠奪や住民の虐殺を齎した。妊婦は、圧搾機で押し潰され、新生児は銃剣で串刺しにされた。共和国側の兵士や官吏の証言によれば、「女性と子供たちは生きながら切り刻まれるか、生きたまま火の熾されたパン焼きの竈に投げ込まれた。これらの残虐な行為で何万人もの人々の生命が犠牲となり、「地獄部隊」の別名が付けられて広まった。残虐なヴァンデ軍の掃討を行ったルイ・マリー・テュローは処刑されずに西暦1816年まで生き、60歳没。
 戦争を終わらせるどころか、この軍事作戦はフランソワ・アタナス・シャレット・ド・ラ・コントリ、ジャン・ニコラ・ストフレ、サピノー・ド・ラ・レリ、マリニーらヴァンデ側将軍たちが指揮するさらなる農民蜂起を引き起こすきっかけとなった。武装勢力を倒すことができず、地元の愛国者たちや政策上の一部の政府代表たちに非難され、ルイ・マリー・テュローは最終的に公安委員の地位を失い、彼の解任が戦争ではなく部隊を終了させた。


 西暦1794年に叛乱鎮圧に派遣されたルイ・ラザール・オッシュ(Louis Lazare Hoche)が軍司令官として赴任すると、捕虜の農民兵との面談から、「農民が叛乱に加わったのは宗教的自由のためであって、寛容政策を執れば彼らは王党派叛乱から離脱するだろう。」ということを知り、政策変更に踏み切った。この政策変更が功を奏して、西暦1795年02月にはヴァンデ叛乱軍は瓦解し始めた。その結果、西暦1795年02月17日、ラ・ジョナイで叛乱軍の指導者の1人、下ヴァンデ軍の指導者、フランソワ・アタナス・シャレット・ド・ラ・コントリは共和国軍との講和に応じ、組織的な叛乱は終わった。西暦1794年にアンリ・ド・ラ・ロシュジャクランの後を継いでヴァンデ軍の指導者となったジャン・ニコラ・ストフレは、政府軍との和平条約に反対し、賛成のフランソワ・ド・シャレットと対立を起こした。結局条約はナント郊外ラ・ジュネで結ばれたが、フランソワ・ド・シャレットはその後、条約を破棄し再武装して叛乱を再開した。ジャン・ニコラ・ストフレは条約後も政府軍と戦い続けたが、エティエンヌ・アレクサンドル・ベルニエ(Étienne-Alexandre Bernier)は風向きが悪くなりヴァンデ農民の大量虐殺を見かねて良識派の革命軍司令官・ルイ・ラザール・オッシュと交渉し、ジャン・ニコラ・ストフレは捕らえられ、死刑を宣告されてアンジェで射殺された。裏切ったエティエンヌ・アレクサンドル・ベルニエは、叛乱後も生き残り、ナポレオン・ボナパルト(仏語: Napoléon Bonaparte、西暦1794年以前はナポレオーネ・ディ・ブオナパルテ(Napoleone di Buonaparte))によってオルレアンの司教に任命された。
 西暦1795年06月15日、イギリス王国の支援で王党派部隊がキブロンに上陸したが、カトリック王党軍は撃退されて大半が捕虜となるなど致命的な打撃を受けた。執拗にゲリラ戦を続けていた最後の生き残りの指導者フランソワ・ド・シャレットも西暦1796年03月に逮捕、銃殺されて最終的に鎮圧された。ヴァンデ側の指導者は相次いで死亡して、西暦1796年07月にはルイ・ラザール・オッシュ将軍によってヴァンデ地方の鎮圧宣言が出され、寛容令もあって宗教的動機をもった農民の叛乱は終息に向かったが、今度は外国に援助された王党派亡命貴族が抵抗を継続した。しかし、シュアヌリ(梟党)がこのように長期にわたって活動を持続できたのは、地域住民からの強い支持があったためと、地元の地理に深く通暁していたためであった。
 西暦1801年に 統領政府(西暦1799〜1804年)の第一統領ナポレオン・ボナパルトは、ローマ法王とコンコルダート(政教条約)を結んで和解を進め、ヴァンデに対して数々の復興の政策を講じることでこの叛乱は完全に終結した。

 叛乱軍は各地で暴徒化し、共和軍捕虜や共和国支持の市民を殺害し、恐れられた。その一方で、共和国軍により叛乱軍捕虜や叛乱に協力した農民に対する扱いにも残虐行為が多かった。それは無抵抗な非戦闘員や叛乱地域に住む普通の居住者にも向けられた。
 ヴァンデの住民は自主独立の気風を持ってはいたが、特殊な地域集団を構成していたわけではない。それでもジャコバン派のイデオロギーは、彼らを人民の中から締め出して、特殊な集団と見做して差別的に扱われた。この「野盗民」は同等に扱われず、人民とは異質であり、人民の敵である。したがって、彼らは、その生殖能力にいたるまで絶滅されなければならない。乳飲み子も容赦なく殺された。女性は(妊婦であろうとなかろうと)「繁殖用の畝溝」として殺戮の対象とされた。数人の王党派を取り逃がすことを恐れて、この地方の共和国軍兵士自身もしばしば虐殺された。結局、叛乱を起こした地域の住居のおそらく18%が破壊され、15万〜16万人、この地方の人口の20%近くが死んだ。正確な数は不明だが、犠牲者は30万〜40万人とも言われる。


 西暦1793年フランス西部ヴァンデ地方から始まった民衆蜂起は、カトリック王党軍を組織して、共和軍との数年に及ぶ内戦となった。叛乱開始後から革命政府の国民公会の制定した法令により、反革命派へ徹底した弾圧が行われた内乱に発展した。その後のフランス共和国の歴史はテルミドール09日のクーデター(革命派内の対立によるジャコバン派政権へのクーデター)、ナポレオン時代の後、復古王政による立憲王政化で農村共同体基盤社会が復活した。フランス共和国が近代化に向かったのは七月王政期の産業革命を経た後からである。

 ヴァンデ戦争の大虐殺に比べれば、マクシミリアン・ロベスピエールの恐怖政治下のパリなども色褪せる。これがカッセル・ヘッセン方伯とその走狗の猶太(ディープステイト、DS(出来損ないの堕落した最兇な屑))に操られた、今から200年ほど前の汚腐乱巣の残虐野蛮極まりの無い惨状である。

 つい50年ほど前の昭和36(西暦1961)年10月17日にパリのど真ん中でアルジェリア戦争(1954〜62年)に反対する3万人のアルジェリア人の非武装で平和的なデモをパリ警察のモーリス・パポン長官の命令により、国家警察の警官隊が襲い、70〜300人を虐殺し数百人が負傷、死体をゴミ箱やセーヌ川に叩き込んだ。セーヌ川は血の色で染まった。この事件が起こったことは、平成10(1998)年まで隠蔽されてきた。(Paris massacre of 1961)


西欧の朝鮮・フランスの火病デモ
https://ameblo.jp/cnxa/entry-12525399161.html?frm=theme
フランスだけには、抗議を暴力に訴える長い伝統がある。

 ディエンビエンフーの戦いとか、弱いくせに無益な戦闘を行い、ボロ負けを喫し、アメリカの介入を招いた。カンボジアでも、ポルポトの共産党をクメール・ルージュ(赤いクメール、フランス語)というように、フランスの左翼が援助し、フランスのお家芸の虐殺を叩き込み、120万人と呼ばれる大虐殺を行わせた。

 1961年10月17日、パリのど真ん中でアルジェリア戦争(1954〜62年)に反対する3万人のアルジェリア人の非武装で平和的なデモ隊を警官隊が襲い、70〜300人を虐殺し数百人が負傷、死体をゴミ箱やセーヌ川に投げ入れるという虐殺(Paris massacre of 1961)が発生した。虐殺を免れたアルジェリア人も逃げ場を失い、次々とセーヌ川に身を投じた。また死体もセーヌ川に捨てられ、セーヌ川は血の色で染まった。
 10月6日に警官がアルジェリア民族解放戦線(FLN)に襲撃されると言う事件が起こり、パリ市警視総監のモーリス・パポンは「一発やられたら10倍にして返す。」と警官の葬儀の際に発言し、パリのアルジェリア人に対し、夜間外出禁止令を命じた。騒然とした緊張感が高まった17日の夕方、「アルジェリア人のアルジェリア」をスローガンに夜間外出禁止令への抗議デモを行ったところ、彼らに対する鎮圧は地獄絵となった。
 パリ市内の至るところでアルジェリア人に対する虐殺が行われた。虐殺を免れたアルジェリア人も逃げ場を失い、次々とセーヌ川に身を投じた。また死体もセーヌ川に捨てられ、セーヌ川は血の色で染まった。翌日パリ警察からの死者の発表はわずか2人。日を追うごとにセーヌ川の岸におびただしい数の死体が打ち上げられていったが、警察はこの死者の数を訂正しなかった。さらに酷いことには、この事件が起こったことは、1998年まで秘密にされてきた。

 2005年10月27日にフランス・パリの東にある郊外から全国に飛び火したパリ郊外暴動事件が発生した。北アフリカからの移民は、警官隊に向かって銃を撃ち、全く罪のない非移民を1人殺し、店舗を壊し、無数の車を燃やした。もっとも、フランスでは大晦日に毎年400台程度の車が燃やされるそうだから、それほど大したことではないらしい。

 無愛想で嘘つきで自分勝手で自己中心主義、世界中から嫌われている。どこかで目にしたような、・・・。と思ったら、朝鮮人だった。共和国万歳!(Viva la R??publique!)。ユーラシアの西と東の端の半島と考えれば瓜二つだ。

ヴァンデ戦争 ――フランス革命を問い直す (ちくま学芸文庫) - 森山 軍治郎
ヴァンデ戦争 ――フランス革命を問い直す (ちくま学芸文庫) - 森山 軍治郎


 西暦1793年03月18日、フランス共和国はオーストリア領ネーデルラント(西暦1714〜1797年、現ベルギー)のネールウィンデンの戦いで大敗を喫した。元外相で北方軍司令官のシャルル・フランソワ・デュ・ペリエ・デュ・ムリエ将軍が国王処刑を革命の行き過ぎと判断して、共和政転覆のためにオーストリア軍と共謀してパリ進軍を謀り、総司令官でありオルレアン公ルイ・フィリップ2世ジョゼフ(Louis Philippe II Joseph, duc de Chartres, puis duc d'Orléans)の息子であるシャルトル公ルイ・フィリップ(後のルイ・フィリップ1世)もそれに同調した。デュ・ムリエは自軍のうち正規軍であった「歩兵と騎兵聯隊は支配下に置くことができる。」と考えたが、04月02日に発覚し、この裏切りに前線指揮官だったエックミュール大公・アウエルシュタット公ルイ・ニコラ・ダヴー (Louis-Nicolas d'Avout/Davou)中佐ら志願兵と砲兵は憤激し、ルイ・ニコラ・ダヴーの志願兵大隊から発砲され、危うく逮捕されかけ計画は失敗に終わった。続いて、デュ・ムリエはオーストリア軍の人間と一緒に歩くという失策を犯してしまい、砲兵隊が率先して彼に従うことを拒否した。デュ・ムリエは止む無く、04月05日にシャルトル公ルイ・フィリップ、ヴァランス伯ジャン・バティスト・シルス (Jean-Baptiste Cyrus de Timbrune de Thiembronne, Comte de Valence)など数人の将軍といくらかの騎兵とともにオーストリア軍に投降し亡命した。この時戦争相と4人の国民公会議員が軍に同行していたが、逮捕されてオーストリア軍に引き渡された。前線のフランス軍は最高指揮官を失って大混乱に陥った。マクシミリアン・ロベスピエールは国家の危機と分裂の脅威を訴えた。デュ・ムリエの寝返りは皮肉的にも、ジャコバン派に軍を掌握する機会を与えた。ネールウィンデンの戦い以前は軍が指揮官に従った。それ以降は、派遣議員が指揮官よりも強い権限を与えられた。一方で、新しく任命された戦争相は将軍たちを監視するために間諜を放った。間諜たちは士官に対する不満を聞くとすぐに報告し、その報告が制裁か処刑に導く可能性もあった。マクシミリアン・ロベスピエールが処刑されて恐怖政治が終わった後も、この制度は完全には撤廃されなかった。

派遣議員(仏語: Représentants du peuple en mission、英語: Representative on mission)

 フランス革命の西暦1792〜1795年にかけて、フランス革命戦争において危機に陥った国民公会が、地方および軍隊に派遣した全権代表。派遣議員制度は4つの法令によって成立し、最初の法令あるいは制度化以前の議会代表は、コミッサールという言葉で呼ばれていたため、派遣委員(仏語: Commissaires en mission)とも言う。無制限の権限が付与されたのが特徴で、複数名の議員団で行動して、軍隊のための人員徴募、食糧、武器等の軍需品の徴発、将軍や部隊の監視などを行ったが、任務の妨げになるものが発生した場合には、臨時に行政命令や武力行使を含むあらゆる手段が可能であった。派遣議員は、事実上、独裁者であった。短期間ではあったが、派遣議員による極端な権力の行使は、少なからずフランス革命そのものを混乱に陥れた。
 危機が峠を越えると、公安委員会はフリメール14日法を制定して派遣議員の権限に一定の制限を加えた。西暦1794年04月15日には9人の密使(Agents secrets)を任命して派遣議員を監視させ、腐敗したり、行き過ぎた行動を取っていた者をパリに召喚するなどして調整を試みた。しかし結果的には粛清を恐れた彼らによってテルミドール09日のクーデターを起こされて、政権は覆された。末期国民公会でも派遣議員制度は継続されたが、平原派やテルミドール後に過激な論調を引っ込めた転向者など穏健派から主に選出され、過激な政策は影を潜めた。共和暦03年憲法(西暦1795年憲法)の制定と共に従来の制度は廃止された。総裁政府の両院も軍に議員を派遣することはあったが、権限はなく、連絡役に過ぎなくなった。
 フランス革命では憲法制定国民議会の頃から、議員が特定の任務を帯びて地方や軍隊に派遣されるということが行われていた。国民公会も発足の次の日である西暦1792年09月22日にオルレアン地方の秩序を回復するために3人の議員を派遣したのが初めで、度々議員を各地や軍隊に派遣した。臨時行政会議や後の公安委員会からも独自に議員や市民代表が派遣された。
派遣された議員は山岳派の中でも戦闘的分子が多く選ばれ、西暦1792年03月〜1794年07月までの間でおよそ130人に及んだ。しかし当初は制度として確立されたものではなく、あくまでも臨時の例外的な手段でしかなかった。いずれの議会でも派遣案件ごとに議員を指名して任務を与え、議決を出して送り出していた。これが恒久的な制度となった発端は、西暦1793年に対外戦争の危機が増大して、巻き返しに30万人募兵令を布告したことにあった。
 国民公会は、募兵令が全国で実施されることを監督する目的で、西暦1793年03月09日の法令(Décret envoyant 82 commissaires en missions dans les départements)を布告した。これはパリを除くフランス全土を41の区域(およそ1区域で2つの県)に分け、1つの区域に2人の議員を配置するもので、この時に82人の派遣議員(派遣委員)が指名された。その任務は地方住民に祖国の危機を知らせて募兵に応じるように仕向けることであったが、地方当局の抵抗をも排除できるように強大な権限も付与されており、「反革命嫌疑者の職務を一時停止したり逮捕したり、軍事力を動員することのできる権利」(第8条)を有していた。直後に西部ではヴァンデの叛乱が起こったので、任務の完遂には数ヶ月を要し、そのまま年末まで地方に留まって地方長官のように振る舞う者も現れた。
 さらにシャルル・フランソワ・デュ・ペリエ・デュ・ムリエ将軍の裏切りによる軍隊の混乱を受けて軍司令官を監視する必要性が浮上した。04月09日、国民公会は各方面軍(Armée révolutionnaire française)(10〜12個の方面軍が当時のフランス軍には存在した)に3人の派遣議員を同行させる法令(Décret qui établit trois représentants près chaque armée, et règle leurs fonctions et attributions)を布告した。これらは毎月1人ずつ改選された。任務は臨時行政会議の委員(Commissaires du Conseil exécutif provisoire, Agents du Conseil exécutif)、将軍、士官、兵士らの活動を監視すること、および軍の再編(または後方支援)で、職務遂行にはあらゆる手段を取ることが容認され、無制限の権力が与えられた。これには監視対象の職務停止権限と逮捕権が含まれ、容疑者は積極的に革命裁判所へ送致して審判を受けさせるように命じられた。この法令は前回と異なり、常設の制度を意図したものであったが、急遽、事件の1週間後に法制化されたので条文はわずか6条と、具体性にやや欠いた。そこで西暦1793年04月30日(共和暦01年フロレアール(花月)11日)の法令(Décret réorganisant les missions de représentants près des armée)では内容を充実するように改訂された。フランス全土は11の管区に分けられ、それぞれ2〜4人の派遣議員を配置することが定められた(第2条)。軍の再編成と強化のためにあらゆる手段を用いる許可と、そのための無制限の権限を与えたところは前回同様で(第10〜18条)、またこの時、名称も派遣議員(Représentant du peuple)で統一された。派遣議員には代理人(アジョン、Agent)を任命して権限を委譲することも認められた(第18条)。派遣議員は国民公会に対しては毎週、公安委員会に対して毎日その職務状況を報告する義務を負った(第20条)。派遣議員同士がバラバラに仕事を行って現場を混乱させないように、公安委員会は中央機関として彼らに訓令を与えることが規定された(第23条)。公安委員会の権限強化とともに、派遣議員は報告義務のある国民公会ではなく、公安委員会の指示で動くようになった。05月07日の指令(Plan de travail, de surveillance et de correspondance proposé par le Comité de salut public aux représentants du peuple deputes près les armées de la République)では、公安委員ピエール・ジョゼフ・カンボン(Pierre Joseph Cambon)の提案で派遣議員制度を地方行政に組み込む重要な変更があった。これによって派遣議員は軍隊の強化と維持に関する政令だけではなく、一般行政全般に対しても強大な権限が認められるようになった。各県には中央連絡委員会(Comité central de correspondance)が組織され、この委員会はジャコバンクラブなどの人民結社(民衆協会)の会員や地方当局の官僚、一般市民の中から、善良で積極的な革命協力者を選抜して構成された。その任務は派遣議員への地元からの情報提供、諮問機関であるというのが建前であったが、現実的には独裁権限を持つ派遣議員は、恣意的に自分の手先となる追随者を集めて、独自の執行機関としたものであった。派遣議員は警察部門として市民公会の監視革命委員会も管理しており、臨時立法権も持っていたので、完全に三権を独占し、文字通りの独裁者となった。革命軍(Armée révolutionnaire)が創設された後では、これも派遣議員の実行部隊に組み入れられたところもあった。少人数の革命家の手に全てが委ねられた。革命軍は軍隊ではない準軍事組織で、都市部に農村から食糧を計画的に供給するために徴発や輸送などを主な任務としたが、警察権を保持しており、反革命容疑者の逮捕なども行った。ただし各県によって役割が異なり、活動の過激度もまちまちで、農家から食糧を奪い、商家から金品を盗むような集団もあれば、逆に農家の都市への出荷を警護して円滑に供給を行おうとした集団もあった。
 元来、憲法制定議会は西暦1789年12月22日の地方自治法と西暦1791年憲法によってフランスの地方行政制度を完全な地方分権として設計した。各県には選挙で選ばれた行政官と副行政官が国王任命によって配置された。行政官の主な仕事は県の予算配分と租税および国庫収入の管理であった。県行政部を構成するのは、選挙人集会で選ばれた36人からなる総参事会(Conseil général、任期4年、2年毎に半数改選)で、これが定例会議を開いて細則を定めた。県執行部は総参事会員の代表(総裁)8人(2年毎に半数改選)が行った。中央政府との連絡は同様に選挙で選ばれる監査官 (fr:procureur général syndic) が行い、地方では国王の代理として大臣の直接指示を総参事会に助言するという形で機能した。国王は、行政官と監査官に対して罷免権があり、地方行政命令を無効にする権限もあって、一定の抑止力を持ったが、08月10日事件で王制が打倒されると、中央と地方との関係は断絶された。地方には、中央権力すなわち国民公会を代表する存在がおらず、中央と地方との連係が上手く行かないという構造的な弊害は、総参事会が主に穏和ブルジョワジーによって掌握されていたという事情で、より複雑になった。彼らは主にジロンド派を支持していた。国民公会が革命の進展とともに急進主義に傾倒するに従って、地方の穏健派との間には温度差が生まれ、溝は深まった。国民公会が、「パリ独裁」とも揶揄される強権的な中央集権政治を推し進めようとすれば、地方は反撥して抵抗するか、悪くすれば叛乱を起こす危険すらあった。後にジロンド派追放の影響で起こったリヨンの叛乱はまさにそうした中央の暴走に対する地方の離反に他ならなかった。
 恐怖政治のパリは、上級地方行政機関(県行政は上級と下級(市民公会)とに二分化されていた)を概ね反革命的(いわゆる連邦主義的)であると見なしていた。そこで地方が中央政府から離反するのを防止するとともに、地方を粛清し、中央の政策の実施を円滑化するために、地方の末端まで掌握する出先機関として派遣議員制度を位置づけ、山岳派(モンタニャール派)を中心に、敢えて急進的な革命家が選ばれて派遣された。
その意味で派遣議員はアンシャン・レジーム期の地方総監(アンタンダン、Intendant)やナポレオン体制における知事(プレフェ、Préfet)に相当する機関であり、地方は革命的独裁に書き換えられた。
 ジロンド派が追放されると、累進強制公債(いわゆる革命税)の徴収が始まったが、これを実際に行ったのも派遣議員であった。アルザス地方に派遣されたルイ・アントワーヌ・レオン・ド・サン・ジュストとフィリップ・フランシス・ジョゼフ・ル・バ (Philippe-François-Joseph Le Bas)は、同地域の革命税を総額1062万リーブルと設定し、「24時間以内に支払いが完了しなかった場合、1日でも滞納した者は1ヶ月間投獄する。」と布告した。193人の裕福なストラスブール(シュトラスブルク)市民が6000から300000リーブルの間で個別に税額を割り当てられ、支払いが強制された。ある商人は30万リーブルを割り当てられたが、18万リーブルしか集められなかったので、3時間、ギロチン台の柱に縛り付けられ、処刑の恐怖感を味わされた。またこの他に、ビール醸造業者にも計25万リーブル、パン屋商店主にも計30万リーブルが課税され、全ての銀行家と公証人は逮捕されて、財産は没収された。このように恐怖政治の経済テロルは苛烈であったが、これはまだ適正に徴収が行われた方である。問題になったのは、不正な徴収と、それに絡む派遣議員の腐敗であった。不正な徴収は、当初は私利私欲というよりも、特定の階層を狙い打ちにした政治的弾圧の色彩が強かった。ジャコバンクラブの会員は最初から課税を免除され、サン・キュロットもたとえ課税相当の年収(下限は年収1万リーブル)があっても課税されることはなかった。ジャコバンクラブは会費が高く、会員であるということは少なくとも中流以上のブルジョワジーであり、幹部はしっかりした生業をもつ人物がほとんどであった。また外国人銀行家の財産も、当初に限れば、平原派の国民公会議員の庇護下にあって没収を免れた。標的となったのは穏健ブルジョワジーであった。
 西暦1793年08月23日に国民総動員令が施行されると、その運行を一任された派遣議員は名実共に現場の責任者となり、重要度を増した。軍や県の行政に加え、彼らには恐怖政治の実践という責務も加わった。中央連絡委員会を軸とする革命的行政は、従来の県行政に対抗する権力として君臨し、しばしば地元当局の粛清や住民の大量虐殺など、極端な革命的手法に走ったことで、フランス革命に強烈な印象を残すことになった。
 派遣議員ジョゼフ・フーシェは、「リヨンの霰弾乱殺者」として有名になる前に、ジェール県やニエーヴル県などの管区に2回派遣され、エベール派の政治家ピエール・ガスパール・アナクサゴラス・ショーメット(Pierre Gaspard Anaxagore Chaumette)らと非耶蘇教化運動を進めたことでも異彩を放っていた。派遣議員布告は、国民公会の法令と同等の効力を持ったので、彼らのように自己の信条を勝手に地方で実現させる者が現れていた。軍隊での活動もまた派遣議員の重要な役割で、彼らの任務は監視と後方支援であった。派遣議員制度が始まる前に、すでに軍隊から元貴族士官のほとんどが追放され、西暦1791〜1792年07月17日までの間に593人の将官が亡命によって除籍されたり、停職処分を受けていた。国内に残った貴族出身者の多くは(後に元帥になるルイ・ニコラ・ダヴー(Louis-Nicolas d'Avout/Davout)のような)愛国者であり、潔白を証明され次第、原隊に復帰した。よって誤解されることが多いが、派遣議員の使命は、本来、将軍を粛清することではなく彼らの仕事を助けることにあった。
 初期の革命戦争の敗北の原因は、軍隊内の規律の崩壊にあった。テオバルド・ディロン(Théobald Dillon)将軍が命令に不満を持った味方の兵士から撃たれて死んだ事件に代表されるように、統制の無い状態で指揮は不可能であった。軍事司法制度は改革の途中にあり、国民公会は将軍や将校の権限を制限する一方で、独立した裁判を設けて審議を迅速化させ、兵士が命令に服従し、軍隊の規律が維持されるように心を砕く必要があった。西暦1793年05月12日、新しい軍刑法が制定され、各軍には軍事裁判所制度、軽罪裁判所が設立されることになった。11月11日には派遣議員ラスコトの提案で訴訟手続きが簡略化され、さらに西暦1794年01月22日は派遣議員に2つ目の軍事裁判所を設置する権限が与えられた。これは裁くべき兵士の規律違反(主に掠奪と脱走)が極めて多かったからである。統制の恢復は派遣議員の監督に委ねられ、規律は「貴族によって作られた隷属の道具」だという義勇兵の不服従の態度に鉄槌が下されると、軍の統率は劇的に恢復した。軍需品の確保については、ルイ・アントワーヌ・レオン・ド・サン・ジュストとフィリップ・フランシス・ジョゼフ・ル・バがたった24時間で1万足の靴と2000の寝台を徴発した話が有名であるが、あらゆる物資の徴発と無制限の人員の徴用が可能な総動員法の下では、ヴァンデやリヨン、マルセイユやトゥーロンなどの内地での叛乱に対して迅速に鎮圧部隊を編成する際などに、派遣議員のもつ強権は特に効果を発揮した。しかし軍隊では派遣議員自身が混乱の原因となった。越権行為や権限の濫用が後を絶たなかったからである。
 派遣議員は指揮権を持っていなかったが、任免権や逮捕権があり、将軍と兵士達を恐怖で支配することが可能で、監督官のように振る舞うことができた。アルプ軍付きの3人の派遣議員(デュボワ・クランセ、アントワーヌ・ルイ・アルビット(Antoine Louis Albitte)、ゴティエの3人)はシャリエ派の援助要請を受けて、叛乱を起こしたリヨン市を包囲する軍隊を興したが、この攻囲軍の最高責任者は、軍司令官のフランソワ・クリストフ・ケレルマン(François Christophe Kellermann)将軍ではなく、戦争委員会の有力委員でもあった派遣議員デュボワ・クランセ であった。
後にケレルマンには逮捕命令で一時更迭され、以後は軍司令官は次々目まぐるしく替わった。リヨン市が攻略された段階ではフランソワ・アメデ・ドッペ(François Amédée Doppet)将軍が指揮していた。元は医者であったフランソワ・アメデ・ドッペも無能な人物であった。彼はフランスに併合を求めるサヴォア人代表で、拡張主義が支配的のフランスでは政治家に厚く庇護されていた。マインツ包囲戦(西暦1793年)でも、派遣議員アントワーヌ・クリストフ・メルラン・ド・チョンヴィル(Antoine Christophe Merlin de Thionville)が決定権を持った。またモブージュが包囲された時、ヴァレンヌ事件当時、宿駅長で、ルイ16世の逮捕に貢献し国民公会議員になった派遣議員ジャン・バプティスト・ドルーエ(Jean-Baptiste Drouet)は国王弑逆者である国民公会議員は、概して「外国軍に捕まれば処刑される。」と考えていたので、捕虜になることを恐れ、指揮命令系統を無視して、自ら竜騎兵部隊を指揮して血路を開き、単独で脱出した。しかし、後にワッチニー会戦の勝利によってモブージュの包囲は解かれた。そのワッチニーでは派遣議員ラザール・ニコラ・マルグリット・カルノー(Lazare Nicolas Marguerite Carnot)は突撃する部隊の先頭に立った。派遣議員ポール・バラスもトゥーロン攻囲戦でのファロン山の戦いに加わった話を回顧録に書いたが、真偽は不明。派遣議員の何人もが(程度の差こそあれ)「権限を越えて好んで戦闘行為に参加した。」とも、「派遣議員たちは概して臆病者で決して前線には立たなかった。」という真逆の話もある。
 派遣議員は長期間同じ場所に留まることは少なく、交代や任地の変更、召還が頻繁に行われたが、2つ以上の軍が合流した場合など、同一地域で複数の議員団が活動すると、議員団同士で対立することがしばしば見られた。トゥーロン攻囲戦においては派遣議員が一時的に7人(ジャン・フランシス・リコール(Jean François Ricord)とマクシミリアン・ロベスピエールの弟、オーギュスタン・ボン・ジョゼフ・ド・ロベスピエール(Augustin Bon Joseph de Robespierre)、ポール・バラスとルイ・マリ・スタニスラス・フレロンとエスクディエ、アントワーヌ・クリストフ・サリチェッティ(Antoine Christophe Saliceti )とガスパランの3組)もいて、軍司令官は作戦会議で彼らを説得しなければ方針を決定できなかった。派遣議員が対立したとき、裁定するのは公安委員会であったが、前線からの派遣議員の報告が国民公会と公安委員会の唯一の判断材料であることも多かったので、彼らに都合良く情報操作することも容易であった。政治の軍隊への干渉は悲惨で、結果として愛国者が裏切り者として告発され、些細な失敗が悪意ある重大な過失として喧伝され、政治的中傷や恣意的な粛清が横行した。
 イタリア軍司令官ガスパール・ジャン・バティスト・ブリュネ(Gaspard Jean-Baptiste Brunet)は、王党派を宣言したトゥーロン市が英国艦隊を招き入れた事件に関して、派遣議員ポール・バラスとルイ・マリ・スタニスラス・フレロンによって「この陰謀を察知して食い止めるべきだった。」と責められ、西暦1793年08月08日に停職処分となり、同じく派遣議員オーギュスタン・ロベスピエールとジャン・フランシス・リコールの手で「反革命容疑者である。」との不利な報告をされたことで、アベイ監獄に送致されて処刑された。北方軍司令官ジャン・ニコラス・ウーシャール (Jean Nicolas Houchard)将軍は、4人の派遣議員(ガイ・ド・ヴェルノン(Léonard Honoré Gay de Vernon)、ピエール・デルブレル(Pierre Delbrel)、ニコラス・エンツ (Nicolas Hentz)、ルバスール(Levasseur)の4人)に猜疑の目で見られて度々指揮に介入を受けた挙げ句、オンショオット会戦(西暦1793年) に勝利したにも拘わらず、「追撃が不徹底だった。」として西暦1793年09月23日に逮捕され、革命裁判所で叛逆者という不当な判決を受けて処刑された。

 他方、政治的に好ましいと見做された将官は能力以上に不当に優遇された。派遣議員シャルル・フィリップ・ロンサン (Charles-Philippe Ronsin)は無能なジャン・アントニー・ロシニョール(Jean Antoine Rossignol)将軍を「サン・キュロット出身である。」という理由で、数々の失態から擁護した。ジャン・アントニー・ロシニロシニョールは西部軍司令官を罷免された後も、ジョルジュ・ジャック・ダントン(Georges Jacques Danton)やマクシミリアン・ロベスピエールに弁護され、ブレスト沿岸軍司令官に復帰すらできた。同様に最も無教養なジャン・レシェル(Jean Léchelle)将軍も、シャルル・フィリップ・ロンサン とは旧知の間柄で、志願兵からの叩き上げであったという理由だけで、西部軍司令官に指名された。ジャン・レシェルは地図すら読めず、隊列の動かし方も知らなかった。
 革命家を自認していた多くの派遣議員は、旧特権階級出身者の将軍を槍玉に挙げ、彼らを意図的に罰することで自分の評判を上げようとした。また山岳派(モンタニャール派)の一部、特にロベスピエール派は軍人から将来の独裁者が登場する懸念を持っていて、力のありすぎる将軍はできるだけ排除しようと努めた。戦役初年度ではわずか20人に過ぎなかった将軍の解任は、派遣議員制度ができた西暦1793年には275人に増加し、内17人が革命裁判所へ送られて処刑された。西暦1794年には77人の将軍が解任され、内67人が革命裁判所へ送られて処刑された。この間、戦死を遂げた将官は80人足らずで、戦場でよりも多くの将軍が不当な粛清によって命を落とした。
 軍隊に赴いた派遣議員の中で、あらゆる意味で最も際だった鬼畜の気違いはルイ・アントワーヌ・レオン・ド・サン・ジュストであった。こいつは派遣議員と同時に公安委員であり、公安委員には指揮権も認められていたので、文字通りの全能の厄介な存在であった。西暦1793年10月24日、彼は前線に到着するやいなや、第1次ヴィサンブール会戦(西暦1793年)で敗北したライン軍に活を入れるために、ベテランの旅団長オーガスチン・ジョセフ・イザンベール(Augustin Joseph Isambert)を部下達の目の前で射殺させた。また軍司令官を交代させ、若いルイ・ラザール・オッシュ将軍とジャン・シャルル・ピシュグリュ将軍(Jean-Charles Pichegru)を大抜擢した。彼らはそれぞれ活躍したが、ジャン・シャルル・ピシュグリュがライン軍司令官としてサン・ジュストとフィリップ・フランシス・ジョゼフ・ル・バに完全に従ったのに対して、才気溢れる将軍であったルイ・ラザール・オッシュはモーゼル軍(軍付きの派遣議員はラコストとマルコ・アントニー・ボドー (Marc Antoine Baudot) )を指揮して第2次ヴィサンブール会戦(西暦1793年)で勝利し、ランダウを解放するなどサン・ジュストの面目を失わせるほど活躍した。結果、サン・ジュストの逆鱗に触れ、危険なほど増長したルイ・ラザール・オッシュは異動になって逮捕投獄される憂き目に会った。西暦1794年06月19日、6度目のシャルルロワ包囲において、大砲の配備の遅れに怒ったサン・ジュストは「明朝06時までに準備を整えろ。」という命令を守れなかった砲兵大尉を処刑した。慎重なジャン・バティスト・ジュールダン(Jean-Baptiste Jourdan)将軍に圧力をかけ続け、フリュールス会戦を勝利に導きもした。ジョゼフ・スーアン(Joseph Souham)将軍配下の旅団長だった(後の元帥)エティエンヌ・ジャック・ジョゼフ・アレクサンドル・マクドナル(Étienne Jacques Joseph Alexandre Macdonal)はこの時出自を理由にまさに粛清表に載っていたが、テルミドール直前にルイ・アントワーヌ・レオン・ド・サン・ジュストがパリに呼び戻されたので、難を逃れた。
 総論として、会戦に敗れれば派遣議員は軍司令官に責任を転嫁し、会戦に勝利しても嫉妬と虚栄心とが派遣議員と軍司令官との協力関係に皹を入れたので、その成功例は稀であった。軍隊への派遣議員制度は、指揮に関して有害でしかなかった。 派遣議員には広範囲に無制限の権限があり、国民公会には自分に都合良く事後報告できたので、公安委員会以外の誰にも従う必要がなかった。彼らは知事、司令官、検察、裁判長、陪審、議会を兼任していたに等しかった。「絶対権力は絶対的に腐敗する。」という警句の通り、権力の過度の集中はやはり腐敗の温床になった。
 派遣議員ジャン・バティスト・カリエは、西暦1793年11月に「ナントの溺死刑」と呼ばれる処刑を行って有名になったが、彼は革命軍マラー中隊の60人を私兵として使ってこの殺戮を行わせた。一方で、自分は2人の若い情婦を侍らせ、軍行政に介入する権力乱用を行い、食糧御用商人と結託して財産を成した。「全僧侶、全商人を皆殺しにせよ。」と言う裏では、賄賂を払った商人達は保護していて、彼らの支援で豪華な邸宅に住んで裕福な生活をしていた。
 派遣議員ジャン・ランベール・タリアンは、ジロンド派の根拠地であったボルドーにクロード・アレクサンドル・イザボー (Claude-Alexandre Ysabeau) およびギヨーム・ショードロン・ルソー(Guillaume Chaudron-Rousseau)と共に派遣され、恐怖政治を始め、「テルミドールの聖母」、テレーズ・カバリュス(Thérèse Cabarrus、テレザ・カバリュス(仏: Thérésa Cabarrus)、旧姓: ジャンヌ・マリー・イニャス・テレーズ・カバリュス(仏語: Jeanne- Marie-Ignace-Thérèse Cabarrus、西語: Juana Maria Ignazia Thérésa Cabarrus))の美貌に籠絡され、彼女を刑務所から出して愛人とした。<以後、誰を処刑して誰を処刑しないかは彼女の意向が反映されることになった。また愛人を独占するためにジャン・ランベール・タリアンはボルドー司令官ギヨーム・マリ・アンヌ・ブリュヌ(Guillaume Marie-Anne Brune)を讒言してパリに追い返した。彼女のジャン・ランベール・タリアンへの影響力は日増しに強まり、受刑者の身内はホテルで彼女に賄賂を支払って釈放を願い出るようになった。革命税が導入された当初から、町の有力者を手当たり次第に反革命の容疑をかけて逮捕して、相当額を支払った者だけを釈放するということは広く行われていたが、腐敗が進行すると、巨額の身代金を要求して、たとえ払っても処刑されるようになった。身代金は裁判官や派遣議員らで山分けにされた。このような汚職は、ボルドー、リヨン、マルセイユ、トゥーロンなどの商業都市で顕著であった。革命家はブルジョワジーへの血の報復と金銭的利益の両方の満足を手に出来た。
 派遣議員制度は、中央が決定した政策を地方で実施するためのもの、言い換えれば、中央集権制を徹底のためにつくったものだが、これは矛盾を孕んでいた。国家の危機という状況の中で派遣議員には絶対的な権限が与えられた。彼らはこれにより中央に伺いを立てることなく即決即断で革命政治を実践できたが、これは中央の統制を受けないということであり、派遣議員制度そのものが自律的地方分権の性格を持っていた。公安委員会もこの矛盾に気づき、ジャック・ニコラ・ビョー・ヴァレンヌ (Jacques Nicolas Billaud-Varenne)とルイ・アントワーヌ・レオン・ド・サン・ジュストを中心に西暦1793年10月頃から行政制度全般の刷新を始めて、12月04日、フリメール14日法を成立させた。この法令により、派遣議員は、毎日という煩わしい公安委員会への報告頻度が10日毎の報告に緩和された一方で、権限には制限が加わった。これまで派遣議員に認められていた将軍の停職や交代の権限は、暫定的処置に格下げされ、24時間以内に公安委員会に報告して裁可を受けることが任務とされた。決定権は公安委員会が持ち、書面での正式な承諾がなければ解任することができなくなった。公安委員会の統治に関する決定は、派遣議員によっても覆せないことが明記された。県の総参事会は解散され、行政官も廃止されたが、中央連絡委員会も「全ての統治の統一性を覆す、連邦主義を志向するものとして」糾弾され、法令公布の24時間以内に解散するように厳命が出て、地方行政の二重権力は解消された。県と郡町村という階層構造を解消するともこの法は謳っており、県行政の範囲は大幅に縮小され、地区と市町村が行政の基本単位となって、それぞれに政府代理官が配置されて直接統治することになった。これによって派遣議員の行政への関与も遮断された。また国民公会の承認を得ずに、派遣議員が武力を用いて恣意的に革命税を徴収することを禁止し、公示することなく、公共資産の処分や土地登記の変更を行うことも禁止した。後者は没収財産を競売によらず議員の後援者に格安で売却や譲渡してその見返りを貰うという不正が横行していたためである。
 西暦1794年春、公安委員マクシミリアン・ロベスピエールは、派遣議員への監視と統制を強めるようになった。それまで公安委員会のその役割は十分に機能していたとは言い難かったが、今後、派遣議員に期待される役割は、軍隊や統治機構が遅延なく機能していることを確認する監視人であり、もはや独裁官ではなかった。悪行がパリまで鳴り響いていたジャン・バティスト・カリエ、ジャン・ランベール・タリアン、ルイ・マリ・スタニスラス・フレロン、ポール・バラスらは01月末から02月初旬にかけて召還された。ジョゼフ・フーシェは(清廉な人物であったので)汚職ではなく大量殺戮の容疑で03月末に召還された。召還を受けた派遣議員たちの多くはまだパリには到着していなかったが、その03月にはエベール派とダントン派の大量粛清があった。ジャン・ランベール・タリアンは狼狽しつつも、伝手を使って03月21日に国民公会議長の地位に就いた。これはマクシミリアン・ロベスピエールを益々憤慨させた。マクシミリアン・ロベスピエールは西暦1794年04月15日に公安委員会直属の9人の密使を任命し、派遣議員を素行を調査し、動かぬ腐敗の証拠を集めるように指示した。特に彼は若いマルク・アントワーヌ・ジュリアンを信任し、ジャン・バティスト・カリエとジャン・ランベール・タリアンの調査を行わせた。ボルドーでは、ジャン・ランベール・タリアンが去った後も、テレーズ・カバリュスがクロード・アレクサンドル・イザボーや軍事裁判所の裁判官ラコンブを籠絡して町を支配していた。マクシミリアン・ロベスピエールはこの女のことを知ると激怒し、マルク・アントワーヌ・ジュリアンはテレーズ・カバリュスの愛人になって情報を集めた。彼女はパリに来るように仕向けられ、05月に逮捕された。
 百数十人の派遣議員経験者の多くは山岳派であったが、彼らはその活動において何らかの後ろめたいことがあった。というのも、西暦1793年の秋から冬にかけてならば反革命容疑者の大量虐殺や革命税の巨額徴収は称賛されたが、西暦1794年の夏には行き過ぎたか疑わしい行為でしかなくなっていた。かつて革命的と評価された非耶蘇教化運動にいたっては外国勢力の陰謀ということになっていた。過去が粛清の理由になりえるならば誰もが粛清の対象になり得、廉潔の士マクシミリアン・ロベスピエールの厳しい目は脅威であった。このような情勢の変化についていくには政治家は保身に走らざるを得なかった。山岳派は分裂し、ロベスピエール派は主流派から乖離して孤立した。
 絶対権力者の地位から次の被告人の立場に落とされた元派遣議員たちは、議会多数派の平原派を必死に説得して抱き込んで、西暦1794年07月27日、テルミドール09日のクーデターに至った。これに愛する人が監獄にいることを知ったジャン・ランベール・タリアンの貢献は少なくなかった。しかし注目すべきは、ジャン・バティスト・カリエのような極左分子もマクシミリアン・ロベスピエールを独裁者として糾弾したことで、ジャン・バティスト・カリエはクーデター成功後に極右に転向したジャン・ランベール・タリアンをジャコバンクラブから除名しているが、召還された派遣議員たちは政策信条の垣根を越えて団結し、権力闘争に臨んだ。反ロベスピエール派の中核は彼らであり、ジャン・バティスト・カリエやビョー・ヴァレンヌなどは恐怖政治をさらに押し進めるように主張していたのであって、恐怖政治に反対して団結したというわけではなかった。故に恐怖政治を葬るには、クーデターの後のさらなる闘争で極右派の追放と極左派の壊滅を必要としたわけである。事実、ジャン・バティスト・カリエはクーデターから間もなく失脚し処刑された。
 派遣議員制度はクーデター後の末期国民公会でも継続されたが、ジャック・ニコラ・ビョー・ヴァレンヌ、ジャン・マリー・コロー・デルボワら過去に過激な政策をとった議員は徐々に追放されて1人また1人と失脚していった。共和暦03年憲法の制定と共に従来の制度は廃止された。軍隊は派遣議員の支配から解放されたが、一方で次第に政治的影響力を増し、マクシミリアン・ロベスピエールがかつて予告したように、軍隊から真の独裁者、ナポレオン・ボナパルトが誕生することになった。


 アッシニアの価値が下落し、物価高騰が起こり、貧民の暴動を誘発した。しかしこれを力で弾圧するとヨーロッパ列強との戦争に、献身的な民衆を動員することができない。物価高騰を止めるためにはアッシニアの価値を維持し、増発されたアッシニアを流通から引き上げねばならない。このための政策として貴金属売買の禁止、アッシニアの強制流通、アシッニアと競合する手形・株などの証券の取引禁止、累進強制公債(革命税)などの政策が議論された。累進強制公債には金持ちが反対し、ジロンド派はこれらの政策に抵抗したが、平原派(プレーヌ派)は大体賛成した。ジロンド派は食料品・嗜好品を中心とした貿易商人や問屋商人が多く、国家との取引で儲ける術がないまま、巨額の革命税を取り立てられたため叛乱を起こした。平原派は工業家や軍需物資を扱う商人が多く、外国との戦争で国家の軍事注文を受けて莫大な儲けを得た資本家が背後にいた。彼らは「一時的な犠牲を払っても戦争に勝ってほしい。」と考えた。ジロンド派の心配通り、この時の累進強制公債は後日切り捨てが行われ、完全に返済されることはなかった。
 マクシミリアン・ロベスピエールは「危機に直面した国家を救うため」と称し、緊急措置の採用を国民公会に働きかけた。ジロンド派と反革命分子の協力関係を危険視するマクシミリアン・ロベスピエールの提言に従って、国民公会は国内に潜む「裏切り者」を炙り出すために動いた。03月09日、動員令の施行を監督するため、全国に国民公会議員が派遣されたが、議員のピエール・ルイ・バンタボル(Pierre-Louis Bentabole)が国民公会で、パリ住民の懸念を代弁した。「彼らは家族を置いて戦場に向かわなければならないことに不満を抱いており、それは裏切り者や陰謀家を裁く真の裁判所がないためだと考えている。」と訴えたのである。議論は翌日まで続き、終わりが見えない中、03月10日にジョルジュ・ジャック・ダントンの有名な演説で、特別重罪裁判所を強化して、革命裁判所(仏語: Tribunal révolutionnaire)が設置が決まった。。 「政治治犯罪ほど定義が難しいものはない。(中略)〔それでも〕民衆の救済には偉大な手段と恐ろしい措置が必要である。通常の手続きと革命の裁判の間に中間はない。全ての善良な市民が嘆いた流血の日々(西暦1792年9月の虐殺)がこの議会で思い起こされたからには、私は言いたい。裁判所があのとき存在していれば、その日々に関して度々厳しく非難されることがある民衆も、流血の惨事を引き起こすことはなかっただろう。立法議会がしなかったことをしようではないか。民衆が恐ろしい存在にならないよう、我々が恐ろしい存在になろうではないか。」9月虐殺時の法相のジョルジュ・ジャック・ダントンは、犯罪者には法の裁きが為されることを民衆に知らしめるため、革命裁判所の設置は考える限りで最小の悪と判断した。その1年後、ジョルジュ・ジャック・ダントン自身がその裁きを受けることになろうとは想像もしなかった。
 03月18日、フランス共和国はオーストリア領ネーデルラントのネールウィンデンの戦いで大敗した。
同日、ディープステイト(DS、出来損ないの堕落した最兇な屑)の祖型、フリーメイソン、イルミナティ、読書協会、ドイツ・ユニオン黄金薔薇十字団などの秘密結社(ドイツジャコバン)は、フランス軍侵攻下のマインツ選帝侯領(西暦780頃〜1803年)のライン川左岸部分とその周辺に、ライン左岸国民公会を組織し、マインツ共和国(西暦1792〜1793年)の共和国宣言を行なったがフランス軍が降伏・撤退した07月22日に滅びた。04月02日、北方軍司令官のシャルル・フランソワ・デュ・ペリエ・デュ・ムリエ将軍がオーストリア軍と共謀してパリに進撃して王政復古を目指した事件が発覚し、フランス将兵に拒否されたデュ・ムリエは止む無く、04月05日にシャルトル公ルイ・フィリップ、ヴァランス伯ジャン・バティスト・シルス など数人の将軍といくらかの騎兵とともにオーストリア軍に投降し亡命した。戦争大臣(仏語: Ministres de la guerre)、国防委員2人と派遣議員のブルノンヴィル侯ピエール・ド・リュエル (Pierre de Ruel, marquis de Beurnonville)、カミュ、キネットおよびラマルクは捕虜となった。
 前線の最高指揮官を失ったフランス軍は大混乱に陥った。同時に国内でもヴァンデの叛乱が激化していたため、無力な国防委員会への批判は頂点に達した。ジロンド派の国防委員のオノレ・マクシマン・イズナール(Honoré Maximin Isnard)が国防委員会の解体と独裁的強権を持つ新委員会の設立の動議が出し、「カメレオン」の仇名を持ち、時期によって政治信条が異なる平原派(プレーヌ派)のベルトラン・バレール・ド・ヴィユーザック(Bertrand Barère de Vieuzac)とジロンド派のコンドルセ侯マリー・ジャン・アントワーヌ・ニコラ・ド・カリタ(Marie Jean Antoine Nicolas de Caritat, marquis de Condorcet)によって修正された法案が04月06日に可決され、臨時行政機関として公安委員会(仏語: Comité de salut public)が成立した。西暦1793年04月07日〜1795年11月04日まで存在した統治機構で、途中西暦1794年07月27日までは事実上の革命政府である。会議場はテュイルリー宮殿に隣接するフロール館(パヴィヨン・ド・フロール)。「自由の確立のためには暴力が必要である。」として「自由の専制」のために創られ、元は「祖国の危機」から脱するための臨時的な独裁機構であったが、次第に国民公会の最も重要な機関となり、恐怖政治を運営して革命を推進した。フランス革命に成立した革命制度の殆どが全期間において絶えず独裁であったが、公安委員会はその最たるもので、対外戦争と内戦による危機に迅速に対応するために独裁機構として整備されていった常任委員会の1つで、公安委員会は国民公会内の内閣に相当する機関で、国民公会議員で構成され、定期的な国民公会への報告義務があった。大臣は別にいたが、大臣の汚職と背任が相次いだため名目的なものとなっていた。代わりに、大臣に対する監督が本来の役目であった公安委員会が事実上の政府となっていった。公安委員会全体としては実際的には通常の国家での内閣に当たる。大臣を監視する民衆代表の位置づけが公安委員で、大臣よりも上位の権限を持っていた。公安委員自身に強い権限が与えられたので、公安委員が事実上の大臣に、大臣が格下げされて事実上の省庁長官になるというような構造になった。審議は常に非公開とされ、非常に閉鎖的な組織であった。執行権の対象は「全ての事」に及び、緊急時には臨時立法や超法規的な行政命令を行使できたが、警察権や司法権を持たず、財政にも関与できないなど、報告義務以外にもいくつか制限があり、命令書が発効するには少なくとも公安委員の3分の2以上が参加する行政会議で委員の過半数の署名が必要だった。このために公安委員会は、国を支配する委員会独裁ではあったが、個人独裁ではなく独裁の実態は少人数の合議制(または寡頭制)であった。各部門、部局、後には内部の各執行委員会に細分化されており、公安委員には各々に管轄が決められていて、委員会内の権力は分割されて1人に権限が集中することはなかった。公安委員会全体として通常の国家初期にはジョルジュ・ジャック・ダントンが第1期公安委員会(ダントン委員会)を、続いてマクシミリアン・ロベスピエールが第2期公安委員会(大公安委員会)を主導した。公安委員会による政権掌握からテルミドール09日のクーデターまでの期間を、公安委員会政府と呼ぶ。テルミドール09日のクーデターの後は形骸化した。
 国民公会議員は、会期中に辞任したもの、病死や刑死、追放、投獄、恐怖政治の犠牲や亡命など、何らかの理由で職務を遂行できなくなって、さらに補欠議員と代わった事例があるが、逆に代理が立てられなかった事例もあって、議員の数は次第に減っていった。追放されたジロンド派議員の中にはテルミドール09日のクーデター後に復帰を果たした者もいたが、国民公会が存在する間には新たに選挙はなく、欠員の補充は補欠議員を含めて行われなかった。派遣議員などに選ばれて長期間パリを離れ、職務のために地方や軍へと送り出されていた議員が百名前後いて、実際に国民公会に出席していた議員数は定数よりも遙かに少なかった。その上、議決時も点呼を行うことはなかったので、ある日の国民公会の出席議員数が何人であったかを特定するのは困難である。04月09日、派遣議員制度が導入され、地方や前線の軍事活動を議員たちが直接指導することとなった。派遣議員による恐怖政治の大量殺戮は桁違いの割合で地方(つまり革命裁判所の管轄外)で殺されていた。デュ・ムリエ叛逆の結果、恐怖政治の執行機関を整備する動きは加速され、マリー・アントワネットとその家族に加えて、デュ・ムリエと関係が深かった穏健なジロンド派に対する追及は日に日に厳しくなっていた。
 04月22日、独立戦争であれだけ世話になっておきながら、恩知らずのアメリカ合衆国は傍観し、対フランス中立宣言を発し逃げた。04月27日にジョルジュ・ジャック・ダントンは、ヴァンデの叛乱鎮圧へパリのサン・キュロットを派遣した。

 第1期公安委員会(ダントン委員会)は、なかなか成果を上げられなかった。ジョルジュ・ジャック・本人がデュ・ムリエとの交友関係から嫌疑を掛けられたほか、ベルトラン・バレール・ド・ヴィユーザックとともに進めた和平交渉も暗礁に乗り上げ、食糧・財政問題も適切な対応ができず、ジロンド派との和解も決裂した。また、ジロンド派内閣は共和国の窮状の責任を戦争責任を負う自らではなく、パリの急進的な民衆運動に転嫁しようと試みた。この時の政局はパリ民衆とジロンド派との完全な決裂を意味するものであった。また、ジャコバン派を糾弾するのみでなかなか危機を打開できないジロンド派を国民公会で多数派であった平原派議員たちは次第に見切りをつけるようになった。ジロンド派政権は風前の灯火となっていた。ジャン・ポール・マラーは議会を主導するジロンド派を攻撃し、04月12日、ジロンド派はジャン・ポール・マラーの逮捕を要求した。「ジャン・ポール・マラーがジャコバンクラブで同派出身の大臣の罷免を要求した。」という叛乱煽動の罪が表向きの理由だったが、それは明らかに政敵を排除するための口実だった。同日、マクシミリアン・ロベスピエールは「人民の代表の特性は尊重されるべきだ。」と述べ、「確かにその言動が非合法に見えるとしても、裏切り者たちを死に追いやるようなものではなかった。」と、ジャン・ポール・マラーを擁護した。彼にとって、代表ならびに議会は尊重されるべきで、敵への攻撃もあくまで合法的に行なわれる必要があった。むしろ、なりふり構わぬジロンド派の行動は一線を超えたものに見えた。司法大臣のジェローム・ペティヨン・ド・ヴィルヌーヴ(Jérôme Pétion de Villeneuve)は同日、かつての友に向かって次のように言い放った。「ついに全ての卑劣な言動が終わる時である。裏切り者と中傷者の頭を死刑台に送るときなのだ。私はここに、彼らを死に追いやるまで追及することを約束する。」、「私の忍耐は限界なのだ。裏切り者たちの仮面を剥がすことを誓う。」いくら感情的になったからとはいえ、相手を「死に追いやる」とまでの議場での発言は、一線を超えた。しかも、つい3ヶ月前に国王が死刑台に送られたことを考えれば、その発言には現実味さえあった。04月13日に逮捕されたが、24日、パリの革命裁判所はジャン・ポール・マラーを無罪にし、彼は国民公会に堂々と凱旋しパリ民衆を蜂起させた。この事件は国民公会にとって大きな節目となり、ジロンド派の劣勢は決定的となった。04月14日〜07月23日にマインツが包囲され、フランス軍とマインツ共和国は3ヶ月ほどで降伏した。

 タンプル塔収容者への待遇は次第に悪くなり、西暦1793年05月初めに高熱と脇腹の痛みを訴えたルイ17世(ルイ・シャルル)のため、マリー・アントワネットは診察を要求したが、何度も拒否され続けた。その後、診察が行われ、熱は下がったが腹痛は治まらなかった。以後、ルイ17世(ルイ・シャルル)は体調を崩したままとなった。

 ジロンド派内閣は05月04日に穀物の最高価格令制定し、価格統制が始まった。05月10日から国民公会は大人数を収容できるテュイルリー劇場(機械仕掛けの間、Salle des Machines)に議場が移された。この議場の座席は片側だけの配置で、対面して演壇と議長席、書記席が設けられていた。座席は劇場スタイルの半円形で、かなり高くまで階段状に席が設けられていた。このため座席に高低によって派閥が分かれることになり、下方の席に座った中間的な派閥が平原派(プレーヌ派、蔑称で沼派)と呼ばれ、対して上方の席に座った派閥は山岳派(モンタニャール派)と呼ばれた。議員の座席は決まっていなかったので、気ままにばらばらに散らばって座っている状態であった。<議場内の2階は傍聴席になっており、傍聴する民衆や請願者が陣取って討議に割って入ったり、喝采したり、怒号を浴びせたりして議事進行に影響を与えた。議場での武装は禁止されていたが、治安に問題があり、実際に議事の後で不満を持った傍聴人に殺害された議員が数人いる。民衆の感情を損ねるような発言をすることは議員にとって命懸けで、国民公会は大衆世論に流されやすい環境にあった。
 05月18日に国民公会で多数派であったジロンド派は、国民公会を破壊する陰謀の証拠を発見することを目的にした12人委員会(Commission extraordinaire des Douze)を設置した。公安委員会と保安委員会の上位に位置する治安の最高機関とし、反ジロンド派の全ての陰謀を鎮圧しようと攻勢を強めた。パリの騒擾を煽動している民衆やサン・キュロットなど議会外の要求を代弁する急進的極左過激派、アンラジェ(Enragés、「激昂する者」、「狂人」の意、激昂派)を排除することを意図していた。すぐに調査を開始し、パリ自治市会の役員でサン・キュロットの指導者であるャック・ルネ・エベール(Jacques René Hébert)やジャン・フランソワ・ヴァルレ(Jean-François Varlet)を含む活動家たちを逮捕、それに反対するデモ参加者の多くも収監された。 新たな収賄疑惑まで持ち上がって窮していたジョルジュ・ジャック・ダントンは、意に反してこれら極左に協力しなければならなかった。この頃ジャコバン派では、ジロンド派と山岳派(モンタニャール派、Montagnards)が決裂し、ジャン・ポール・マラーやマクシミリアン・ロベスピエールは、ジロンド派を裏切り者として執拗に攻撃した。ジロンド派は立法議会時代に作られた穏健派の党派であった。ジロンド派は、過激な山岳派(モンタニャール派)の代議士にとって、敵とでもいうべき存在だった。ジロンド派はルイ16世の処刑を避けることを望み、投票によって立法を覆せる憲法を支持した。山岳派(モンタニャール派)は主に中間階級出身者で構成されていたが、実際はパリの選挙区から選出された者達の集まりで都市の意向に敏感で、労働者階級サン・キュロットの要求に強く反応した。農村の土地改革を行おうとしたこともあったが、殆どは実行に移されなかった。山岳派は完全な一枚岩ではなかったものの、サントノーレ通りで行われた毎夜の集会は、山岳派にとっての一種の党員集会と見做すことができた。
 当時、食糧難や経済の混乱から各地で民衆のデモが頻発しており、山岳派(モンタニャール派)のマクシミリアン・ロベスピエールはこの人民を利用する計画を立て、集会に参加するサン・キュロットに金が支払われ、人民を扇動する方策が講じられた。マクシミリアン・ロベスピエールやジャン・ポール・マラーを始めジャコバン派指導者は新聞の発行によって効果的な宣伝戦略を打ち出すことに成功しており、「世論の専制支配」というべき影響力を保持していた。
 05月20日にジロンド派は10億リーブルの累進強制公債が通り累進強制公債の採決に敗れると、徹底的な反抗を組織した。それに対し、山岳派(モンタニャール派)とジャコバンクラブが過激派と手を組み、またジロンド派は平原派の支持を失って、次第に山岳派に押されていき権力の座から後退していった。05月22日、ジャック・ピエール・ブリッソー(Jacques Pierre Brissot)がパリ自治市会の解散とジャコバンクラブの閉鎖を訴えた。05月25日、ジロンド派の国民公会議長マキシミン・イスナール(Maximin Isnard)が、静かな多数派の支持が得られるという認識の下、「まもなくパリは軍隊によって制圧される。」という見通しを示し、「フランスは国民の代表者たちをパリに委託したのだ。パリはこれを尊重せねばならない。万が一国民公会がこのように卑しめられるなら、私は宣言する、全フランスの名において・・・パリは廃虚となろう。」これはパリ民衆と国民公会の両方から猛反発を買い05月29日には議長職の辞任に追い込まれ、まもなくジロンド派が指導的立場から追われる 発端となった。05月29日にはマルセイユで反革命叛乱が始まった。
 アンラジェのジャック・ルー(Jacques Roux)やジャン・フランソワ・ヴァルレの主張により、より大きな権限が公安委員会に付与された。アンラジェは議席を1つも持たず、パリのグラヴィリエ地区など数地区で支持されただけの最小団体で極めて過激な主張をした。アンラジェの指導者はローマ・カトリックの司祭ジャック・ルーで「私は、神の前では全てが永遠であるという事に賛成したのと同様に、人類が自分たち自身の間を平等なものとすることで急激にその運命を変えた革命に、私の血の最後の一滴まで残らず全て捧げる用意ができている。」と暴力こそが革命の成功の鍵であると考えた。実際、西暦1793年01月21日、ルイ16世が処刑された時、彼を断頭台まで連れて行った。
 ジャック・ルーは、ジロンド派と山岳派(モンタニャール派)の分裂が拡大し、サン・キュロットの支持を背景として国民公会からジロンド派を排除するのに影響力を及ぼした。首尾一貫して経済的に平等な社会を目指して戦い、サン・キュロットの群衆をジャコバン派のブルジョワ(仏語: bourgeois)的無関心に対して敵対させた。食糧が社会に行き渡るように要求し、「買い占め人」と彼らが呼ぶブルジョワ商人の処刑や、銀行家全員の逮捕、アッシニア紙幣の不換紙幣化、一般最高価格法または購入者による商品の価格設定という極端な価格統制、汚職議員の追求、土地均分法他を主張した。ジャック・ルーの煽動的な弁舌の才は食糧暴動を燃え立たせ、パリ自治市会(パリ・コミューン)における力の均衡を破ることになった。ジャック・ルーがジャコバン政権の優勢を脅かすことを恐れたマクシミリアン・ロベスピエールは、ジャック・ルーを「革命政権と公安委員会を崩壊させようとする意図を持った外国の間諜である。」と断罪した。この時期、ジャック・ルーのかつての友人ジャン・ポール・マラーも対立に転じ、「ジャック・ルーは宗教を金蔓としか考えていない似非司祭だった。」と自身の新聞「人民の友」に書いた。
西暦20世紀には1億数千万人以上を虐殺し、現在も蔓延り世界を絶望の地獄に突き落している、兇悪無比のディープステイト(DS、出来損ないの堕落した最兇な屑)の中核、猶太カール・マルクス(Karl Marx)の前駆体である。
 05月26日、国民公会の開催されていたテュイルリー宮殿前でジャコバン派支持の女性達がジャック・ピエール・ブリッソーらジロンド派の追放を訴えていた。いつものように国会へと通ってきたジロンド派の娼婦上がりの「自由のアマゾンヌ」、テロワーニュ・ド・メリクール(Théroigne de Méricourt)は、アンラジェのドサ回り女優上がりのクレール・ラコンブ(Claire Lacombe)らと揉み合いになり、馬上から引きずり降ろされ、服を引き裂かれて裸体とされ、その上で暴行を受け鞭で打ちのめした。ジャン・ポール・マラーが止めに入らなければ、アンラジェのクレール・ラコンブはテロワーニュ・ド・メリクールを殺していた。 この経験はテロワーニュ・ド・メリクールの精神に致命的な傷を負わせ、やがて発狂した彼女はいくつかの精神病院を転々とした。
 
 05月26日、ジャン・ポール・マラーに同調する形でロマクシミリアン・ベスピエールも人民に蜂起を訴えた。「ブリッソ派によって法が犯された今、それは正当化されると言明したのである。人民が立ち上がる時、これら全ての人間〔反革命派〕は消え去る。(中略)あらゆる法が犯されたとき、専制が絶頂に達した時、誠意や貞節が踏みにじられた時、人民は蜂起しなければならない。基本的に代議員が責任を持って『人民の政府』を樹立しなければならないが、人民の声が議員に聞かれない時、人民主権が侵されたと見做し得る。その時、蜂起は正当化されるのだ。」05月29日、パリ民衆はパリ自治市会が蜂起するための委員会(司教館委員会)を設置し、12人委員会の廃止を要求、蜂起の準備を進めた。
 05月31日、マクシミリアン・ロベスピエールの計画に基づきジロンド派の追い落としが開始された。宣伝によって国民衛兵と約8万人のサン・キュロットが大挙して参集、国民公会を大群衆が包囲した。33地区の代表者が集められ自治市会と協力し、過激派で酔っ払いのろくでなしのサン・キュロットのフランソワ・アンリオ(François Hanriot)がパリ市国民衛兵隊の臨時総司令官に任命された。749人の議員からなる国民公会中、ジャコバン派はおよそ215議席ほどを占める程度であったが、300議席ほどの中間派がジャコバン派に同調してジロンド派を徐々に追い詰めていった。06月01日、ジロンド派のロラン夫人(Madame Roland、ジャンヌ・マリー・フィリポン・ロラン、ラ・プラティエール子爵夫人Jeanne-Marie Phlipon-Roland, vicomtesse de La Platière))が逮捕され、ジロンド派の新聞は禁止された。
 翌西暦1793年06月02日、フランソワ・アンリオは武装した群衆(国民衛兵とサン・キュロット)を率いて国民公会を包囲して大砲を配置し、国民公会を脅迫し、マリー・ジャン・エロー・ド・セシェル(Marie-Jean Herault de Secelles)を先頭とする300人の議員団を前に、泥酔状態で応対し「人民が蜂起したのは、人民の命令を与えるためだ。」と啖呵を切って蹴散らし、逃亡しようとする議員たちに議事の進行を要求し、国民公会に強訴する形で、12人委員会の解散とジロンド派追放を決議させた。ジロンド派幹部の議員29人と大臣2人の追放と逮捕が議決された。無法な06月02日の革命が起こった。後に29人のうち20人が地方へ逃げたが、そのうち数人は処刑され、2人は自殺した。

 これによってフランソワ・アンリオは「06月02日の勇士」と喝采を浴びることになったが、この議会無視の行動が問題となって、06月11日、臨時総司令官職を解任され、13日には国民公会で告発を受けた。ところが、前後して公安委員会でのロベスピエール派優位が確立されたために、この動議はうやむやとなり、フランソワ・アンリオは逆に07月01日、パリ市国民衛兵隊総司令官に正式に任命された。
 05月31日と06月02日に武装したパリ市民が国民公会を包囲し、ジャコバン派が事態を乗り切るためにジロンド派を議会から追放し、ジロンド派議員は逮捕された。ジェローム・ペティヨン・ド・ヴィルヌーヴは、マクシミリアン・ロベスピエールから「デュ・ムリエの離反の際に王政支持をした。」として告発され、06月02日、ジロンド派とともに逮捕状が出た。パリを馬で脱出し、ロラン夫人の愛人のフランソワ・二コラ・レオナール・ビュゾー(François Nicolas Léonard Buzot)らとカーンに退き、そこで連邦主義を唱えてフランソワ・二コラ・レオナール・ビュゾー、ジャン・ポール・マラーの暗殺者、シャルロット・コルデーに紹介状を書いたシャルル・ジャン・マリー・バルバルー(Charles Jean Marie Barbaroux)らと叛乱を企てたが失敗し、ジロンド県へと逃避行を続けた。追い詰められて最終的にはフランソワ・二コラ・レオナール・ビュゾーと共に森の中で服毒自殺した。腐乱した遺体は動物に一部食われていた。西暦1793年10月03日に21人のジロンド派議員が処刑され、10月16日には王妃マリー・アントワネットも処刑された。
 05月31日と06月02日の事件で山岳派(モンタニャール派)とジャコバンクラブが過激派と手を組み、06月02日から山岳派の政権が成立した。マクシミリアン・ロベスピエールはデュ・ムリエ将軍が裏切ったことにより死刑制度擁護派へと転向していった。「国家の安全、あるいは、自由、統一、平等、共和国の不可分性に対してなされたあらゆる陰謀」に対する報復措置が求められた。マクシミリアン・ロベスピエールは死刑制度を活用して国家存亡の危機を切り抜けるよう国民に訴えた。これ以降、国民公会は公安委員会を掌握するマクシミリアン・ロベスピエールに広範な内政・治安権限を委ね、ジャコバン派政権の下で各地に散開した派遣議員の活動や保安委員会、革命裁判所などの機関を通して恐怖政治(Terreur、テルール:テロの語源)を断行し、反対派をギロチン台に送った。

 西暦1793年05月31日〜06月02日のジロンド派の追放にしぶしぶながら手を貸したジョルジュ・ジャック・ダントンだが、事件後はジロンド派に再び妥協的態度を取って緩慢にも議員の逃亡を許し、左派から激しく非難された。
 山岳派(モンタニャール派)と国民公会は要求に応じる形で、巧みに自分たちの政策実現を果たした。06月22日に累進強制公債を修正して再可決し税率を上げた。当時のフランスは大混乱にあり、政府の権力が及ばない地域もあれば、欧米列強の占領地もあれば、昔の領主がまだ政府以上の権勢を維持して違法な封建貢租の取り立てもあった。このため政府は改めて「封建貢租徴収の禁止」の法令を出した。山岳派は、農民の心を摑むため、06月には国有地の小区画での売却や、共有地の分割を認める法律を制定しており、07月17日には領主権の無償廃止を決定した。
 国王処刑とジロンド派粛清により王政は崩壊した。西暦1791年憲法は共和国樹立とともにすでに失効しており、立憲君主制に依らない共和国憲法の制定が急務となっていた。
マクシミリアン・ロベスピエールと山岳派政権は共和政体と自由・平等・友愛を軸とする革命の三理念に調和した憲法制定を構想していった。マクシミリアン・ロベスピエールは元来、政治的平等を初めとして権利の平等に価値を置いており、農地均等法を「ペテン師の亡霊」と呼ぶなど長年にわたって経済的平等に関心を割かなかった。革命戦争の勃発と内乱の激化、食糧騒擾や経済混乱による飢餓の蔓延を前にして、西暦1793年以降マクシミリアン・ロベスピエールは自由主義的な従来の立場を見直していき、所有権の制限や富の再分配に法的根拠を与えようとした。人権宣言の起草委員会での議論に度々介入して、「自由が他人の権利を守るために制限されうるならば、なぜ所有権に適用しないのか。」と発言、「財産の極端な不均衡が多くの災禍と多くの犯罪の源」であるとして貧困による社会悪の是正を図るように訴えた。人権宣言内には「所有権は、他のあらゆる権利と同じように他人を尊重する義務によって制限される。」とする第7条が盛り込まれ、経済的平等をはじめ社会的な権利が規定された。「極端な財産の不均衡はあらゆる悪の源泉である。」として所有権の制限が提唱されことにより、累進課税制度の導入や貧困者に対する課税免除、均分相続制が導入された。マクシミリアン・ロベスピエールによる精力的な発言と介入の結果、06月24日、西暦1793年の人権宣言の発布へと漕ぎ着けた。この宣言はフランス革命中にサン・ジュストやマリー・ジャン・エロー・ド・セシェルらが参加した委員会によって作成された。西暦1789年の人間と市民の権利の宣言との主な違いとして、法の下の平等(機会の平等)から一歩進んで平等主義的傾向が明確となり結果の平等へと踏み込んでいった。ジャコバン派政権の樹立により社会的平等は優越的地位を占める権利と規定された。
 人権宣言の発布と同時に、政変後、エロー・ド・セシェルの主導の下、速やかに新憲法に関する立憲作業を開始し、8日後にはこれを完成させた。公安委員会は06月10日に議会に憲法を報告し、最終草案が06月24日に可決された。このように手続きが急速に進められたのは、マクシミリアン・ロベスピエールが06月10日に「良き市民が憲法を要求した。」、そして「山岳派の仕事であるこの憲法が、愛国的な代議士からの回答となるだろう。」と発表したためである。人民主権、男子普通選挙制度、国民投票の実施、人民の労働または生活を扶助する社会の義務、抵抗権、奴隷制廃止が規定された西暦1793年憲法(通称「ジャコバン憲法」)が制定された。西暦1791年憲法と異なる大きな特徴として「人民(プープル)主権」で、それを端的に表す文言に「主権は人民に属す。」、「主権者である人民はフランス市民の総体である。」などがある。直接民主制的といえるような一面も見られ、立法府が採択した法案につき、正規の手続に従って一定数の市民から異議が申し立てられた場合は、有権者の集会が開催され、直接議決が行われるものとしている。民主的権力集中原理ともいえるが、立法府が執行評議会(行政府)を任命することも注目される。同様に当時画期的なものの1つとして選挙権の拡大、即ち満21歳以上の全てのフランス人男性および一定の条件を満たす外国人に参政権を認めたが、この山岳派による新憲法は実際には施行されることはなかった。後にマクシミリアン・ロベスピエールが「革命を擁護する」ために自分と公安委員会に独裁権を与えたことで、西暦1793年憲法は放棄された。
 ここに山岳派(モンタニャール派)・平原派(プレーヌ派)連立政権が成立した。連立政権とはいえ、政権中枢を抑えたのは山岳派であった。「内憂外患に曝された革命はその防御として民衆の支持を集めてさらに革命を前進させる山岳派指導者による強力な指導力を必要としていた。」というのが独裁正当化の論理であった。絶対的な権限を公安委員会に集めて強力な革命機関が整備された。国民公会で山岳派の支配が始まると、必要な権力の樹立を目指して公安委員会の改組が図られたが、第2次ダントン委員会も難局を打開できなかったどころか、山岳派内部の左右両派の不和に加え、ジョルジュ・ジャック・ダントンは汚職の発覚によって信用が著しく低下したことから、政権は死に体に近い状態になった。そうこうしている間にも戦局はますます悪化し、国内では親ジロンド派とされる西部または南部での叛乱が新たに起こって、フランス共和国は最大の危機に陥った。またパリなどでは食糧不足と物価高が深刻化しており、投機や買い占めの禁止を主張する極左派の突き上げに対しても、ダントン派(寛容派)は経済統制を決して容認せず、各方面の不満が公安委員会に集中した。ジャン・ポール・マラーなどは委員会は、「公共の安全委員会ならぬ、公共の滅亡委員会である。」と公言して憚らなかった。この期に及んでは、国民公会も支持を失った公安委員会の全面的な改選を決意するに至り、ついにジョルジュ・ジャック・ダントンは自ら「公安委員会を離れたい。」と伝え失脚した。
 「革命独裁」が形成された 06月25日〜08月22日に、国民公会外の民衆運動は過熱していた。ジャック・ルーによって指導されたアンラジェ(仏語で「狂人」の意)と呼ばれる急進的な極左過激派がその活動を激化した。アンラジェは農地均等分割により農地解放を実現して急進的な革命を遂行しようとする平等主義者の運動であった。物資欠乏の元凶である買い占め人や投機師、悪徳商人らの処罰などを革命政府に要求してサン・キュロットの支持を得た。私有財産制の否定や人民自身による直接民主制、女性参政権などの前駆共産主義的な急進的主張を展開したが、議会政治に反対して国民公会の権威に挑戦しようとする過激な主張・活動によって政府から危険視されていた。
 国民公会外で急進的極左過激派アンラジェや完全平等社会の実現を目指して私有財産制を否定した「共産主義(語源は羅語: communis)の先駆」フランソワ・ノエル・バブーフ(François Noël Babeuf)率いる超気違い極左過激派バブーブ派(「平等クラブ」、「コミュニストのクラブ」)まで発生した。フランソワ・ノエル・バブーフはマクシミリアン・ロベスピエールの信奉者だったが、恐怖政治と化したマクシミリアン・ロベスピエールの施策が「1793年憲法(ジャコバン憲法)」を侵害したため、エベール派に加担した。


 西暦1793年05月31日のジロンド派議員の逮捕の後、フランスのリヨン、アヴィニョン、ニーム、マルセイユ各市が相次いで叛乱を起こした。
07月12日、南フランスの港湾都市トゥーロンでは、穏健派によるジャコバン派の追い出しが行われたが、すぐにより多数の王党派によって取って代わられた。
革命派によるリヨン、マルセイユの奪還と、その後に彼らによって行われた凄惨な報復のことが伝えられると、ダンベール男爵(Baron d'Imbert)に率いられた王党派軍は、グレートブリテン王国(イギリス王国)・スペイン王国聯合艦隊に援助を求めた。08月28日、イギリス王国の初代フッド子爵サミュエル(Samuel Hood, 1st Viscount Hood)提督とスペイン王国のフアン・フランシスコ・デ・ランガラ・イ・ウアルテ(Juan Francisco de Lángara y Huarte、バスク語: フアン・フランシスコ・ランガラ・ウハルテ( Juan Francisco Langara Uharte))提督は、フランス政府軍に対抗するためイギリス王国、スペイン王国、ナポリ王国(西暦1282〜1816年)およびサルデーニャ王国(西暦1297〜1861年)ピエモンテの各軍からなる13000人の軍隊を送り込んだ。10月01日、ダンベール男爵はルイ17世のフランス王位継承を宣言して王党派の旗「フルール・ド・リス」を掲げ、トゥーロンの町をイギリス海軍に委ねた。
 国民公会軍は、ジャン・バティスト・フランソワ・カルトー(Jean Baptiste François Carteaux)将軍の指揮の下、アビニョンとマルセイユを奪還し、09月08日、オリウール村を経て西側からトゥーロンに到着した。そして、東側から来たラ・ポワプ侯ジャン・フランソワ(Jean François Cornu de La Poype)将軍の指揮する6000人のアルピーヌ海兵隊と合流した。ラ・ポワプ侯はラ・ヴァレット村に陣を敷き、市の東を制するファロン山の砦を奪取しようとしていた。彼らにはさらにサン・ジュリアン提督の指揮する3000人の水兵が加わった。彼らは、イギリス王国に降った王党派の司令官トロゴフ提督と行動をともにすることを拒否した。

 西暦1789年、フランス革命が勃発するとジャン・バティスト・フランソワ・カルトーはこれを熱烈に支持し、パリで国民衛兵隊に入隊してラ・ファイエット侯マリー・ジョセフ・ポール・イヴ・ロシュ・ジルベール・デュ・モティエ(Marie-Joseph Paul Yves Roch Gilbert Du Motier, Marquis De La Fayette)の副官となった。しかし次第に共和主義に傾倒してラ・ファイエット侯とは袂を分かち、西暦1792年、08月10日事件ではテュイルリー宮殿襲撃にも加わった。このことでモンターニュ派(ジャコバン派)の軍人として評価され、風貌に威厳があり、通る声の持ち主であったジャン・バティスト・フランソワ・カルトーは旅団長に昇進した。アルプ方面軍の分遣隊1700人の指揮を任されることになってパリを離れた。ジャン・フランソワ・カルトーは着任後、リヨンに向かう予定を変更して、すぐにプロヴァンス地方で起こっていた王党派叛乱の鎮圧を命じられた。西暦1793年07月16日、叛乱軍の一部を撃破し、07月25日にアヴィニョンを占領。08月25日にはマルセイユを制圧することに成功した。ジャン・フランソワ・カルトーは将軍に昇進した。西暦1793年09月、ジャン・フランソワ・カルトーは「要港トゥーロンを奪還せよ。」という命令を受けた。革命の極左化に反対したトゥーロンの市民は公然と叛乱を起こしただけでなく、ルイ17世の治世を公言し、イギリス王国とスペイン王国の艦隊を港に引き入れていた。
 ラ・ポワプ将軍指揮下のイタリア方面軍分遣隊の7000人がトゥーロン東方に到着したが、ジャン・フランソワ・カルトーが率いていた軍が民兵の寄せ集めでポール・バラスら派遣議員の影響下にあったことから、ジャン・フランソワ・カルトーとは別行動を取った。しかし09月04日、6人の派遣議員は会議して、経験に乏しいが政治的にはより好ましいジャン・フランソワ・カルトーの方に指揮権の優越を認めた。09月18日、ジャン・フランソワ・カルトーはトゥーロンの包囲を開始したが、08月30日の前哨戦でカルトー軍の砲兵隊長エルジール・オーギュスト・ドンマルタン少佐はオリウール村で重傷を負い、軍は砲兵の専門家を欠いていた。ジャン・フランソワ・カルトーは「湾内のイギリス・スペイン・ナポリ艦隊に砲火を浴びせることができる。」と思い込み、オリウールの近くの高地に砲台を建設させた。しかし砲台が完成してみると、港も停泊地もその射程の外にあったことが明らかになった。国民公会の2人の派遣議員マクシミリアン・ロベスピエールの弟、オーギュスタン・ロベスピエールとアントワーヌ・クリストフ・サリセティ(Antoine Christophe Saliceti)は公安委員会に報告し、若い砲兵大尉ナポレオン・ボナパルトがジャン・フランソワ・カルトーの新しい砲兵司令官となった。この2人は反目し合っていたが、ナポレオン・ボナパルトはこの軍にアヴィニョンから従軍していたため任命されることとなった。09月19日からナポレオン・ボナパルトは偵察の結果により、サン・ローランの高台に置かれ単に「山」と呼ばれた孤立した砲台では不十分と考えた。09月21日、彼は内港西部のブレガリヨン(Brégallion)の海沿いに「サン・キュロット」と名づけたもう1つの砲台を構築した。ル・ケール(カイロ)の丘を占領することにより、岬にあるレギエットとバラギエの要塞の攻略を計画した。それらはトゥーロンの内港と外港を遮断する位置にあり、包囲下の都市にとって不可欠な海からの補給を止めることができた。ナポレオン・ボナパルトは自案を提示したが、ジャン・フランソワ・カルトーは乗り気でなく、この若者の意見を無視した。ドラボルド少将以下の僅かな支援しか送らなかったため、09月22日に行われた攻撃は失敗した。イギリス王国・スペイン王国聯合軍は、それによってル・ケールの丘の重要性に気付き、頂上に新たに砦を築いて、防衛司令官の名前を取ってマルグレーヴ砦と名付けた。それは3つの小さな拠点で支えられた堅固なものであり、イギリス人から「小ジブラルタル」と呼ばれた。
 総攻撃が失敗し、ジャン・フランソワ・カルトーの停滞とその砲兵の不適切な運用が判明すると、オーギュスタン・ロベスピエールとアントワーヌ・クリストフ・サリセティの支持の下、ナポレオン・ボナパルトはレギエットとバラギエの要塞を奪う計画を再度提出した。ナポレオン・ボナパルトは、「湾を囲む半島にあるこれらの要塞群を奪取することにより、停泊している敵艦隊への間接射撃が可能となるので、それによって結果的にトゥーロンから聯合軍を追い出すことができる。」ということを正確に予測していた。しかしジャン・フランソワ・カルトーはこれに従うのを拒絶し作戦を改悪し、アンリ・フランソワ・ドラボルド(Henri François Delaborde)将軍指揮下の部隊に直接的な攻撃を命じた。この攻撃は失敗しただけでなく、この半島の位置の重要性を聯合軍に気付かせる結果となり、敵は直ちにその防備を固めてしまった。この惨憺たる失敗の後、ジャン・フランソワ・カルトーはナポレオン・ボナパルトに、新たに補強された要塞群を砲撃するための複数の砲台の建設を指示した。サミュエル・フッド提督はそれを沈黙させようとしたが失敗し、なおかつ東岸のムリヨン(Mourillon)とラ・トゥール・ロワイヤル(la Tour Royale)側の水深が浅かったため、イギリス艦隊は別の海岸に沿って集結せざるを得なかった。10月01日、ジャック・フランソワ・デュゴミエ、ラ・ポワプ将軍によるファロン山の「東の砦」攻撃が失敗した後、ナポレオン・ボナパルトは、トゥーロン攻略のために落とさなければならないマルブスケの大きな砦の砲撃を要請された。彼は周辺地域から砲兵を集合させ、各々6門の大砲を持つ50個隊を揃えた。10月19日、ナポレオン・ボナパルトは大隊指揮官に昇進し、アレーネの丘に、砦に向けた大砲台「国民公会の砲台」を構築した。それは、デュモンソー(Dumonceau)の丘の「共和派のキャンプ」、ゴー(Gaux)の丘の「ファリニエール(Farinière)」、ラグブラン(Lagoubran)の「火薬庫」などによって支えられていた。10月下旬、ナポレオン・ボナパルトは国民公会に手紙を送り、その中で上官らの資質について不満を言い、彼らを「阿呆の群れ」と書いた。しばらくして公安委員会はついに動き、ジャン・フランソワ・カルトーは西暦1793年11月11日に更迭され投獄された。恐怖政治を生き抜き、テルミドール09日のクーデターで釈放された。攻囲軍は、元は医者だったフランソワ・アメデ・ドッペが指揮官となった。しかし彼は決断力に乏しく、16日にマルグレーヴ砦への攻撃に失敗するという事態を招いてしまった。フランソワ・アメデ・ドッペは自らの無能に気づいて辞任した。彼の後任のジャック・フランソワ・デュゴミエ(Jacques François Dugommier)は叩き上げの職業軍人であり、すぐにナポレオン・ボナパルトの作戦の長所を認め、小ジブラルタルの奪取に取り掛かった。20日、彼は到着するとすぐに隆起の上に「ジャコバン党員」砲台を構築し、11月28日にはその左に「恐れを知らぬ男」砲台、12月14日にはそれらの間に「シャース・コカン(Chasse Coquins)」砲台を作った。最終的にはさらに2つの砲台が、聯合軍の軍艦を撃退するために作られた。それらは「大いなる港」および「4つの風車」と呼ばれた。ジャック・フランソワ・デュゴミエはナポレオン・ボナパルトを信任し、ここにおいてようやくナポレオン・ボナパルトは作戦の実質的な支配権を確保した。
 砲撃の圧力によってイギリス王国・ナポリ王国聯合軍が進出し、「国民公会」砲台を奪取した。ジャック・フランソワ・デュゴミエとナポレオン・ボナパルトは反撃の先頭に立ち、彼らを押し戻した。その時、イギリス王国の指揮官チャールズ・オハラ(Charles O'Hara)将軍が負傷して国民公会軍に捕らえられた。彼はマクシミリアン・ロベスピエールの弟、オーギュスタン・ロベスピエールおよびアントワーヌ・ルイ・アルビットと、連邦主義者と王党派の軍の武装解除および降服の交渉を始めた。チャールズ・オハラを捕虜にすると、ラ・ポワプ侯とナポレオン・ボナパルト(大佐となっていた)は、12月16日の夜のうちに一斉攻撃を敢行した。攻撃は真夜中頃、小ジブラルタルに対して開始され、一晩中続いた。ナポレオン・ボナパルトは、イギリス軍の軍曹の銃剣で腿に負傷した。しかし朝には拠点を奪取し、ナポレオン・ボナパルトの副官オギュスト・フレデリク・ルイ・ヴィエス・ド・マルモン(Auguste Frédéric Louis Viesse de Marmont)はレギエット要塞とバラギエ要塞に向けて大砲を据えた。イギリス軍はその日のうちに、それ以上戦うことなく避難した。この間に、ラ・ポワプ侯もファロンとマルブスケの砦を奪取していた。
 イギリス王国のサー・ウィリアム・シドニー・スミス(Sir William Sidney Smith)代将の到着した西暦1793年12月、ナポレオン・ボナパルト砲兵大佐を含む革命軍は軍港に包囲攻撃を仕掛けていた(トゥーロン攻囲戦)。フランス海軍の地中海側の主たる軍港であるトゥーロンを占拠していたサミュエル・フッド提督のイギリス艦隊に合流した。フッド艦隊はフランス王党派軍の要請で現地に進出していた。イギリス王国とその同盟国は効果的な防衛を行う兵力が不足しており、港を放棄せざるを得なくなった。聯合軍は海からの脱出を決定した。ウィリアム・シドニー・スミスは自ら志願して殿軍を務め、港が国民公会軍に占拠される前にできるだけ多くのフランス艦船と貯蔵物資を焼き払う任務を与えられた。ウィリアム・シドニー・スミスは焼討船隊を港に突入させ、施設や船を焼き払った。彼の努力にも拘わらず、支援のために送られたスペイン軍の非協力によって、フランス艦船の半分以上は無傷で国民公会軍に捕獲された。ウィリアム・シドニー・スミスは、それ以前に最も成功した海戦よりも多くのフランス艦を破壊したにも拘わらず、「全フランス艦隊の破壊に失敗した。」として初代ネルソン子爵ホレイショウ・ネルソン(Horatio Nelson, 1st Viscount Nelson KB)らから非難された。

 国民公会軍は12月19日にトゥーロン市内に入った。ポール・バラスとルイ・マリ・スタニスラス・フレロンによる血腥い報復が行われた。800〜2000人におよぶ囚人がシャン・ド・マルスにおいて銃殺され、または銃剣で刺殺されたと考えられている。ナポレオン・ボナパルトはジャン・フランソワ・エルナンデスによって怪我の治療を受けていたため、この大虐殺には立ち会わなかった。彼は12月22日に准将に昇進した。
 ナポレオン・ボナパルトは砲兵将校として、フランス王党派を支援するグレートブリテン王国(イギリス王国)、スペイン王国らの軍隊によって占領されていたトゥーロン港を制圧するための理想的な砲兵陣地の場所を見つけることによって初めて名を上げた。イギリス王国もまた脅威と見ていたその地点を彼が激しい突撃により攻略すると、サミュエル・フッドの指揮するイギリス艦隊は港からの脱出を余儀なくされ、叛乱は鎮圧された。その功績によって24歳のナポレオン・ボナパルトはいきなり砲兵隊司令官(准将)となり、国際的な注目を浴びることとなった。


 西暦1793年07月03日、「王党派がルイ・シャルルを奪還して、ルイ17世として即位させようとしている。」との噂が立ち、ルイ17世(ルイ・シャルル)は母マリー・アントワネットと引き離され、階下のルイ16世が使用していた部屋に移動させられた。この日から、マリー・アントワネットは喪服を脱ぐことをせず、口もきかなくなり、部屋の中を亡霊のように彷徨うようになった。マリー・テレーズ・シャルロット・ド・フランス(Marie Thérèse Charlotte de France)は弟ルイ17世(ルイ・シャルル)とも引き離されると、2年近く1人で幽閉生活を送った。国民公会による尋問には必要最低限の言葉で答え、公会が差し向けた面会者の質問には全く答えなかった。また、幽閉後、発病した弟の健康状態を常に気にかけ、「ルイ・シャルルに治療を施すように。」と何度も国民公会に手紙を送った。マリー・テレーズ・シャルロットの部屋には下の階に幽閉されていた弟の泣き声がよく聞こえてきた。
 王室を薄汚い言葉で罵る新聞「デュシェーヌ親父(Le Père Duchesne)」を発行する気違い急進派ジャック・ルネ・エベールは、ルイ17世(ルイ・シャルル)の後見人兼教育係としてジャコバン派のパリのコルドリエ通りの文盲の 靴職人、アントワーヌ・シモン夫妻がタンプル塔の3階に引っ越してきて、教養も知識もなく、粗暴で野蛮な男の元で過ごすことになった。アントワーヌ・シモン、ジャック・ルネ・エベール、パリ自治市会(パリ・コミューン)の指導者ピエール・ガスパール・アナクサゴラス・ショーメットによる監視下で貴族的なものを忘れ良き市民となるための再教育が行われた。彼らはサン・キュロットに見える様に、ルイ17世(ルイ・シャルル)の喪服を脱がせ、髪の毛を短く切らせ革命党員の制服を着用させた。そして「ラ・マルセイエーズ」などの革命歌、カトリックや王室の家族を否定し冒瀆する言葉、猥褻な言葉を教え込ませた。やがて教育は虐待が加わり、具合が悪くなるまで無理やり酒を飲ませたり、「ギロチンにかけて殺す。」と脅迫した。また、アントワーヌ・シモンはルイ17世(ルイ・シャルル)を自分の使用人として給仕や雑用を行わせた。目が飛び出るほど殴られ、壁に叩きつけられ、暴力は激しく日常茶飯事となった。偶然シモンの虐待を目撃したパリ市通商取次人のルブーフは、自らの教師と判事という立場から非人道的な扱いを告発したが投獄され、後に命の危険を感じ、パリ自治市会から去った。アントワーヌ・シモンの妻、マリー・ジャンヌはルイ17世(ルイ・シャルル)の身の回りの世話をしたが、夫の行き過ぎた虐待を止めさせることは出来なかった。ルイ17世(ルイ・シャルル)は暴力と罵倒や脅迫による精神的圧力によってすっかり臆病になり、かつての快活さは消え去った。この頃、スペインの外相とイギリスの外相はタンプル塔に潜入させていた間諜から、「売春婦に8歳のルイ17世(ルイ・シャルル)を強姦させ性病に感染させた。」という知らせを受けた。

 山岳派(モンタニャール派)独裁開始後も、当初はジロンド派の抵抗が見られ、地方では06月02日事件への反撥が強かった。スイス生まれの「祖国のない市民、免許をもたない医者」のジャン・ポール・マラーが怨恨が理念であり、人民にもその発散、侮辱への復讐を説いて、革命指導者、山岳派(モンタニャール派)の領袖の1人に登り詰めた。しかし、こうした抵抗も空しく、多くの人間が断頭台の露と消えることとなった。06月29日、ナントの戦いでカトリック王党軍(ヴァンデ叛乱軍)が撃退され、指導者ジャック・カトリノーが重傷を負い、2週間後の07月14日に死亡した。
 ジロンド派の宣伝に影響を受けた貧乏貴族の娘、マリー・アンヌ・シャルロット・コルデー・ダルモン(Marie-Anne Charlotte Corday d'Armont)は、ジャン・ポール・マラーの暗殺を決意し、叔母のブルトヴィユ夫人の家から07月11日にパリに単身上京した。07月13日、人民のために門戸を常に開いていたジャン・ポール・マラーを訪ね、彼らに対して「陰謀が巡らされている。」と言って傍に近づいた。皮膚病を患って、自宅(現在のパリ6区エコール・ド・メドゥシーヌ通20番地)に籠って1日中入浴して療養していたジャン・ポール・マラーは、浴槽からそれを聞いていたが、シャルロット・コルデー・ダルモンは隠し持っていたナイフで胸を一突きした。マラーは「助けてくれ、親愛なる友よ!(Aidez-moi, ma chère amie!)」と叫んで絶命した。シャルロット・コルデー・ダルモンはその場に居合わせた支持者らに取り押さえられて、国民衛兵により現行犯逮捕された。同日中にアベイ牢獄に収監され、公安委員会による尋問を受けた。07月14日に国民公会は革命裁判所に調査をするように命じた。16日にコンシェルジュリー監獄に移送された。
 07月17日に革命裁判所で公判が開始された。裁判官にアントワーヌ・カンタン・フーキエ・タンヴィル(Antoine Quentin Fouquier de Tinville または Fouquier-Tinville)、後にマリー・アントワネットの弁護人も務めたクロード・フランソワ・ショヴォー・ラガルド(Claude François Chauveau-Lagarde)が官選弁護人として弁護に当たった。
陪審員による評決で死刑と決まった。公判終了後にシャルロット・コルデー・ダルモンはコンシェルジュリー監獄へ移送された。同日午後の強い太陽が照りつける中、シャルル・アンリ・サンソン(Charles-Henri Sanson)に伴われて連行され、パリ市庁舎からサントノレ通りをゆっくりと革命広場へ進み、ギロチンによって刑死した。 処刑当日、死刑執行人シャルル・アンリ・サンソンがシャルロット・コルデー・ダルモンの手を後ろ手に縛ろうとすると、シャルロット・コルデー・ダルモンは「マラーを殺した後も縛られましたが、とても乱暴な縛り方で手に傷がつきました。そうならないように、手袋をしてもよろしいでしょうか。」と尋ねた。シャルル・アンリ・サンソンが「大丈夫、私は全く痛くないように縛ることが出来ますから。」と答えると微笑んでおとなしく縄目を受けた。処刑場へ向かう護送車に同乗したシャルル・アンリ・サンソンは、回想録でこう語った。「彼女を見つめれば見つめるほど一層強く惹きつけられた。それは、確かに彼女は美しかったが、その美しさのせいではなく、最後の最後までなぜあのように愛らしく毅然としていられるのか信じられなかったからであった。」ギロチンによってシャルロットの首が切断されると、シャルル・アンリ・サンソンの弟子の1人がその首を掲げ、さらにその頬を平手打ちした。見物人たちはこの行為に憤慨し、「シャルロットの頬が赤く染まり怒りの眼差しを向けるのを見た。」と証言する者もいた。シャルル・アンリ・サンソンはこの弟子を即座に解雇した。シャルロットは後にフランスの詩人のアルフォンス・ド・ラマルティーヌから、暗殺の天使(仏語: l'ange de l'assassinat)と呼ばれた。

マラーを殺した女: 暗殺の天使シャルロット・コルデ (中公文庫 あ 46-1) - 安達 正勝
マラーを殺した女: 暗殺の天使シャルロット・コルデ (中公文庫 あ 46-1) - 安達 正勝

 05月31日〜06月02日事件後、緊迫する対外戦争やヴァンデー戦争に加えて、マルセイユやリヨンなど南部諸都市でも叛乱が頻発していた。マルセイユでは06月、連邦派が叛乱を起こしアヴィニョンを占領した。リヨンでは、パリで同事件が起きたのと時を同じくして「穏健派」による暴動が起き、同市の有力なジャコバン派指導者で裁判所長官を務めたジョゼフ・シャリエが逮捕された。そして彼が崇敬したジャン・ポール・マラーが暗殺された日の3日後、処刑された。逆に、春に創設された革命裁判所で、各地の反革命派の弾圧や処刑が行われた。地方の「叛乱」に対して中央からしばしば派遣議員が、反革命容疑者を逮捕するなど治安の維持に努める一方、各地に人民協会を設立し革命の宣伝を試みた。国内の混乱に対処するため、政府は臨時行政会議と呼ばれる内閣を組織し、公安委員会がその内閣を監視指導した。保安委員会は公安委員会から独立した警察権力を発動した。公安委員会と保安委員会はジャコバンクラブを背景に持つ国民公会の山岳派議員が大多数を出した。また平原派(プレーヌ派)は財政委員会を担当し、個人や企業の契約に対して、国家の資金を支払うかどうかの決定権を持った。こうして公安、保安、財政の三委員会の権力ができた。フランス国内では敵に打ち勝つためと称して恐怖政治が要望され、実施された。

 山岳派(モンタニャール派)「独裁」と言われるが、革命初期から財政問題を担当し、財政委員会の主要委員で専断的であったことから「財政のロベスピエール」と仇名された平原派(プレーヌ派)のピエール・ジョゼフ・カンボンが財政を握り、政局ではしばしばマクシミリアン・ロベスピエールとは激しく対立した。政権運営にあたって多数派を形成した平原派の同意と協力が必要だったことも、独裁政治には日和見派の協力が常に必要であるのは歴史が証明している。山岳派「独裁」の否定にはならない。
 政敵の政治的自由と肉体的生命を躊躇なく奪うに至ったロベスピエール派は、ファシズムとスターリニズムの現在も蔓延るディープステイト(DS、出来損ないの堕落した最兇な屑)に直結した。

 この頃フランス軍は敗北を重ね、オーストリア軍の大軍が国境からパリを脅かし、フランス海軍の軍港トゥーロン港がイギリス王国に占領され、スペイン軍が侵入した。食料品の高騰や買い占めが激しくなり、商人や大農民が穀物を買い占めパリに食糧が入って来なくなったため、貧民の暴動が起こった。これに乗じて過激派の各党派が最高価格制による物価の抑制、買い占め禁止法、買占め人の処刑などの非常手段を要求して、国民公会に圧力を掛けた。第1期公安委員会(ダントン委員会)はジロンド派粛清後の難局を打開できなかった。そればかりか、山岳派内部の左右両派の不和に加え、右派のダントン派(寛容派)の首領。 ジョルジュ・ジャック・ダントンの指導力不足によって公安委員会の信用が著しく低下したことから、政府は死に体に近い状態になった。そうこうしている間にも戦局はますます悪化し、国内では親ジロンド派とされる西部または南部で叛乱が新たに起こり、フランス共和国はまたも危機に陥った。ジョルジュ・ジャック・ダントンは汚職の発覚によって引責辞任し、公安委員会は西暦1793年07月10日に大規模に改組された(第2期公安委員会)。定数9人で構成され委員は中道右派が多数を占めていたが、政権交代によって人員を交代することとなった。人員はジロンド派の粛清とダントン派からの政権交代によって中道左派のジョルジュ・オーギュスト・クートン、マリー・ジャン・エロー・ド・セシェル、ルイ・アントワーヌ・ド・サン・ジュストをはじめロベスピエール派の多数で構成され、平原派(プレーヌ派)が後退した。
 第2期公安委員会も初期においては意見の不一致が顕著だった。 ジョルジュ・ジャック・ダントンは失脚したが、依然として保安委員会では影響力を持っていて、国民公会の議長にも就任して反撥していた。特にジロンド派追放後の処刑に対してジョルジュ・ジャック・ダントンは抵抗した。権力を摑んだ山岳派(モンタニャール派)は、ジロンド派の粛清を肯定する必要があったため、不法な蜂起を弁護して法を捩じ曲げ左派の擡頭に苦しむことになった。しかし革命から離脱したジロンド派やブルジョワジーが王党派にさえ組したため、右派は大衆の支持を最早失いつつあり、革命勢力は階級闘争的な手法を用いた左派がますます優勢となっていった。右派の委員は多数を占めたが、理由をつけて遅延させるなどの妨害をするのがやっとだった。07月13日のマラーの暗殺事件は徒らに大衆の復讐心を煽り、左派の中でもより過激な勢力を擡頭させ、同時に大衆迎合主義(またはサン・キュロット主義)の蔓延も促した。絶対的な独裁機構として制度が完成されていなかった公安委員会は左右の内部対立で混乱した。平原派のピエール・ジョゼフ・カンボンは「財政政策に専念させる。」という理由で公安委員からは除かれ、財政委員会の専任となった。これによって公安委員会は財政とは完全に切り離されることになった。マクシミリアン・ロベスピエール、ジョルジュ・オーギュスト・クートン、サン・ジュストの三者によって組織は強化されていき、活動領域は必然拡大していった(大公安委員会)。公安委員の入れ替えは頻繁に行われ、軍事と兵站の専門家であるラザール・カルノーと擡頭する左派を背景にビョー・ヴァレンヌとコロー・デルボワの2人が加わって、内閣に相当する広範な行政権を付与され、09月に最終的に12人体制で財政と警察を除く国政全般(司法、行政、派遣議員の人事や監査、軍事、政令ならびに命令書の発行に関わる審議・議決)を公安委員会が総合的に担当していき、マクシミリアン・ロベスピエールが指導権を掌握した。
 マクシミリアン・ロベスピエールは首相でも公安委員会委員長でも議長でもなかったが、大公安委員会の首班的存在で政権の責任者であった。このことは1人であらゆることを決めていたことを意味するものではないし、実際のところマクシミリアン・ロベスピエールは他の委員に優位となる地位や特別な権限を持っていたわけでもない。彼が持っていた民衆からの人気、世論に対する支配力、人民への影響力という見えざる力は大きな権力だった。
 革命裁判所では検察官のフーキエ・タンヴィルが仮借のない弾圧の執行者となった。「革命独裁」が形成された頃、議会外の民衆運動は過熱していた。07月17日に経済混乱収拾のために封建的特権の無償廃止が決議されるなどアッシニアの暴落が抑制された。07月27日には、小麦を独占・隠匿したものに対する極刑を規定した。封建地代の無償廃止、亡命した貴族の土地の競売や最高価格令に伴う強力な価格統制など、都市部の民衆や農民の支持を確保するための政策を採用した。買占め人の処刑を伴う買い占め禁止令が布告され、価格統制で価格や賃金が制限された。政府は公安委員会の改組で国内監視体制を強化し、危険勢力の一掃に本腰を入れて取り組み、アンラジェ弾圧が本格化した。08月01日に度量衡の統一が行われたが、メートル法が一般に浸透したのは西暦1840年代のことだった。

 国民公会は革命の敵を一掃する目的で、08月02日午前01時頃、マリー・アントワネットはコンシェルジュリー監獄へ移送された。フェルセン伯ハンス・アクセルの提案により、身代金を支払う事でアントワネットの解放を模索する動きもあったが、実現されることは無かった。コンシェルジュリー監獄の収監名簿に、監獄所長リシャールは「フランスに対して陰謀を企てた罪」と書き、マリー・アントワネットに与えられた囚人番号は280だった。少なくともタンプル塔では、住むのは王家の人間だと言うことが配慮されていた。しかし、コンシェルジュリー監獄の独房は、備品も設備も囚人用のものだったので、住環境は格段に悪くなった。反対に、牢獄全体の雰囲気はタンプル塔よりも良く、監視もそれほど厳しいものではなかった。囚人用の設備でタンプル塔よりも劣悪な環境にも拘わらず、コンシェルジュリー監獄の方が雰囲気良くなったのは、タンプル塔で監視に当たっていたのは、活動家の中からパリ自治市会(パリ・コミューン)が選んだ者で反王政だった。コンシェルジュリー監獄の監視は、フランス革命前に任命されている者なので、王家を敬う気持ちも持ち合わせており、マリー・アントワネットに対しても、それなりに敬意を表して接していた。独房内には2人の監視兵がいた。この2人はパリ自治市会が任命した者だったが、タンプル塔にいた警備兵よりも好意的で、定期的に花を持ってきてくれ、革命に思誠を誓うことを拒否した僧侶と会うことも黙認してくれた。この僧侶は、コンシェルジュリー監獄に収監されていた僧侶と思われる。身の回りの世話をする女性が2人付けられ、この女性は私費でマリー・アントワネットに小さな鏡を贈られ自分の部屋から小さな椅子も持ってきてくれた。警察管理官のミショニは視察に来るたびに、タンプル塔の子供達の様子や、外の出来事を教えてくれ、リシャール所長の夫人も色々と便宜を図ってくれた。他の囚人とは違う、上等なシーツを用意してくれたり、特別な料理も用意してくれた。タンプル塔に比べ、マリー・アントワネットに対して好意的な者が多かった。いくら好意的な者が周りにいても、マリー・アントワネットの行動は制限されていました。朝は07時に起床し、就寝は22時。朝食はパンにコーヒーかココアの軽いもので、髪を整えて2着しかない、黒か白の服を着ると、何もすることがなくなった。一般の囚人は、中庭で散歩やお喋りができるが、マリー・アントワネットは独房から出ることを許されていなかった。独房内をウロウロしたり、散歩をする囚人を眺めて気晴らしをしたりした。本は許可されていたが、編み物と刺繍は禁止されていた。針で怪我をしてはいけないという表向きの理由があったが、自殺防止だった。壁布から抜き取った糸を紐にして編んだりして時間潰しをしていた。マリー・アントワネットの独房での健康状態は極めて悪く、慢性的な出血にも悩まされていた。美貌の面影はなく、見違えるほど衰えてしまい、見る者が胸を痛めるほどだった。
 マリー・アントワネットの許には、いつも見知らぬ面会人がやってきた。守衛にお金を払うと、誰でもマリー・アントワネットと面会ができた。どれも見知らぬ者で、マリー・アントワネットはいつも無視を決め込んでいた。ある時、警察管理官のミショニが連れてきた面会人は見覚えがあった。聖ルイ騎士団の元士官のルージュヴィルは、民衆がテュイルリー宮殿に乱入したところを助けてくれたことがあった。彼は初対面を装っていたが、ボタンホールに刺したカーネーションを抜き取ると、床に捨てて目配せをした。後で拾ってみると、花の中には手紙が入っていて、救出の計画があること、然るべき味方がいること、ミショニもその1人であること、買収用のお金が用意されていることなどが書かれていた。2日後、再びルージュヴィルがやってきて、買収用の資金、金貨400万ルイ、紙幣1万リーブルを渡し、脱出は2日後と告げられた。マリー・アントワネットは、監視兵を買収することに成功していた。08月28日の決行の夜、ミショニとルージュヴィルが独房に来て、「マリー・アントワネットをタンプル塔に移すことになった。」と牢番や監視兵に告げた。監視兵に付き添われ、いくつもの扉を潜り、最後の扉を潜り抜けると、そこには逃走用の馬車が用意されていたが、監視兵がマリー・アントワネットを外に出すことに反対し出し騒ぎになって計画が失敗に終わった。この「カーネーション事件」が露見してしまい、関係者に対する尋問を保安委員会が始めた。ルージュヴィルはオーストリアへ逃亡できたが、警察管理官であったミショニは逮捕され翌年06月に処刑された。
 この事件をきかっけに、それまでマリー・アントワネットに対する裁判に積極的ではなかった世の中も、一変して裁判への動きが強くなり、マリー・アントワネットの独房には検査が入るようになり、窓の下には歩哨が立つようになるなど、監視が強化された。当初マリー・アントワネットを裁判に掛ける動きはなかった。外国との交渉時の大事な人質だったからである。ルイ16世の裁判は、国家の裁判所を自任していた国民公会で、一応裁判を受けることができた。一方、マリー・アントワネットの裁判は、不公平で形だけのものだった。裁判の前から、マリー・アントワネットの運命は決められていた。マリー・アントワネットを裁判に掛けることを強く望んだのは、パリ自治市会の幹部ジャック・ルネ・エーベルと、革命裁判所検事総長のフーキエ・タンヴィルだった。革命政府の中には、「外国との交渉の道具にマリー・アントワネットを使おう。」と言う意見も相変わらず根強かったが、肝心の相手国が交渉に乗ってくる気配もなく、「逃亡されたら反革命派の勢いがついてしまう。」と考えた。民衆もマリー・アントワネットの裁判を強く望んだため、国民公会は裁判に掛けることを決定した。そのために有罪判決が出るように、フーキエ・タンヴィルが革命裁判所の組織強化に取り掛かった。判事と陪審員を筋金入りの革命派で固めた。

 07月下旬から08月上旬にかけてパリなどの都市部では食糧危機が再燃していた。パリでは急進的極左勢力であるアンラジェがこれを盛んに煽り、極端な社会政策を提示してサン・キュロットの支持を集め、国民公会打倒を目指すような言動を始めた。08月10日祭を控え、危機感を強めた公安委員会は、派遣議員に近県から力ずくで徴用してパリに食糧を送るように厳命し、機密費を利用してパリ自治市会(パリ・コミューン)に大金を与え、物資の調達を命じた。これが功を奏して民衆の飢餓の不安が鎮まると、アンラジェへの支持は揺らいだ。その間隙に彼らを一斉に逮捕して粛清した。
 08月01日に、「強力な権力と独裁が必要と、公安委員会を臨時政府委員会(Comité de gouvernement provisoire)として昇格させよう。」と国民公会議長ジョルジュ・ジャック・ダントンが演説したが、提案は拒絶にあった。「(事実上の事態の法的追認にあたる)大臣を第一書記としよう。」と提案した時、マクシミリアン・ロベスピエールは大臣の職権と現在の組織を擁護して反対し、マリー・ジャン・エロー・ド・セシェルも「公安委員が行政上の監察まで責任を負わされることになる。」と批判して、国民公会はこの意見を退けた。ジョルジュ・ジャック・ダントンの意見は辛うじて、予算的自由を与えるための機密費の増額という点だけ採用され、従来の50万リーヴルから5000万リーヴルに増やされたが、罵声も浴びたジョルジュ・ジャック・ダントンは面目を潰した。要するに、法的な建前を整えるよりも先に、統一的指導を確立する方を優先した。
 極端な過激派を取り除き、左右の均衡を取ろうというのは、マクシミリアン・ロベスピエールの指示によるものだった。マクシミリアン・ロベスピエールは08月05日、エベール派のフランソワ・ニコラ・ヴァンサン(François-Nicolas Vincent) を批判し、08月07〜08日にジャコバンクラブで演説しアンラジェを攻撃した。これで大衆の支持と喝采を受けジャコバンクラブ議長に就任すると、急進的極左過激派のアンラジェ(激昂派、気違い)の弾圧を始めた。逮捕に向けてジャック・ルーやテオフィル・ルクレール(Théophile Leclerc)などを調査をするように保安委員会に依頼した。
 07月07日にジャック・ルーの政敵たちは、強請りと「慈善資金の横領」でジャック・ルーを告発するためにエリザベト・マルゲリト・エベールを尋問した。未亡人になったばかりのエリザベト・マルゲリト・エベールは生計の途がなく、ジャック・ルーは2年前にエリザベト・マルゲリト・エベールとその家族のために基金を募ることを請け合っていた。「ジャック・ルーに良からぬ目的があったか。」尋ねられると、エリザベト・マルゲリト・エベールは否定した。ジャック・ルーはこの時は逮捕されなかったが、08月22日に「未亡人エリザベト・マルゲリト・エベールともう1人の未亡人ミル・ボールペールの2人に基金の提供を怠った。」という罪状で逮捕された。ジャック・ルーは革命委員会に対し、「違法なことは何もしておらず、政敵が自分を貶めるために企んだことだ。」と抗弁した。ジャック・ルーは友人2人によって身柄を保護され、自らの理想のために戦い続けたが、証拠不十分にも拘わらず09月05日に再び投獄された。西暦1794年01月14日、ジャック・ルーは事件が革命裁判所で審理されることになったと告げられ、ルーはナイフを引き抜き、数回自分に突き刺したが、致命傷にはならなかった。その後1ヶ月も経たない02月10日に刑務所で療養中だったジャック・ルーは再び自身を突き刺し、自殺を遂げた。 ジャン・テオフィル・ヴィクトール・ルクレール(Jean Théophile Victor Leclerc)、ジャン・フランソワ・ヴァルレ、革命的共和派女性協会の指導者クレール・ラコンブといった指導者たちが相次いで投獄され、アンラジェは解体され消滅していった。
 ジャック・ルネ・エベールは反動的な王党派やブルジョワジー寄りの政策を推進する右派の政治家などを卑語を駆使して激しく攻撃し、サン・キュロットの代弁者として頭角を現した。
西暦1791年にコルドリエクラブに加入。会費等の事情でジャコバンクラブに入る事が困難なサン・キュロットが集まっていたコルドリエクラブを拠点に、民衆蜂起などの大衆行動を組織することでジロンド派の追放とジャコバン派独裁に貢献した。西暦1792年の08月10日事件の後パリ自治市会(パリ・コミューン)の検事代理に選ばれ、恐怖政治の強化を主張して手始めにマリー・アントワネットへの有罪判決と処刑を求め、タンプル塔に幽閉されているルイ17世(ルイ・シャルル)の後見人にジャコバン派でパリ自治市会の靴屋アントワーヌ・シモンを指名してシモンらとルイ17世(ルイ・シャルル)を虐待、洗脳した。
 右翼のジロンド派と極左のアンラジェを粛清した後も政情不安は続いた。サン・キュロットの支持を得て強力な政治指導力を掌握し、公安委員会ならびに革命裁判所を通じて戦争遂行と内乱の終息に向けて注力した。一方、ジャン・ポール・マラーの死に国民が動揺しないよう彼を讃え顕彰しながら国家が服喪することで、革命中に殺害された多くの指導者たちと同様、「人民の友」ジャン・ポール・マラーを「革命の殉教者」として神格化した。このようなジャン・ポール・マラーの英雄化を通じ、マクシミリアン・ロベスピエールはジロンド派の支持を完全に奪うとともにジャコバン派内の指導権を不動のものにした。
 08月10日にパリで民衆と軍隊がテュイルリー宮殿を襲撃してルイ16世やマリー・アントワネットら国王一家を捕らえ、タンプル塔に幽閉した08月10日事件(テュイルリー宮殿襲撃)から1周年のが開催された。07月14日の革命祭から全国から人が集まってきていたため、「食糧難が一層深刻化するのではないか。」と懸念が高まった。この日の祭典ではルーヴル美術館の開館式も行われ、西暦1793年憲法の成立も宣言された。ダントン派はこの祝祭を恩赦の好機と考えて、追放されたジロンド派に大赦を与えるように策動したが、拒否された。地方からやってきた聯盟兵(フェデレ、穏健派が多いと思われていた。)がこの動議に賛成しないか警戒され、監視委員会が厳しく監視した。ルーヴル宮殿が「共和国美術館」として使用されることが決まり、宮殿に所蔵されていた王室の収集品は、王室の私有財産ではなく、国有財産となった。この日を記念し、ルーヴル美術館が開館し、週のうち3日間大衆に解放された。
 非立憲的な臨時体制、「革命的」な体制が維持されるという方針は、08月11日、シャルル・フランソワ・ド・ラクロワ(Charles-François de Lacroix)の西暦1793年憲法に基づく新しい議会のための選挙準備をする提案に対するマクシミリアン・ロベスピエールの反対でさらにはっきりした。憲法を実際に施行するかどうかは、当時、諸派で意見の分かれている問題であったが、「憲法を即時発効させて議会を選挙で新しくするというのは、現在の山岳派支配を覆そうという意図がある。」と判断され、憲法発効支持派は、ほとんど議席を持たないエベール派や、議会を追放され連邦派として裏切り者呼ばわりされていたジロンド派などの同調者と敵視された。マクシミリアン・ロベスピエールは激怒して異議を唱え、辞任すら示唆したが、ジャコバンクラブでの演説は大喝采を浴びてジャコバン派全体に支持され、聯盟兵の後押しもあって反対派を黙らせた。これによって国民公会の非解散と新憲法実施の無期限停止が決定した。憲法の施行はその後も何度か提案されたが、08月28日には平原派のベルトラン・バレールも「平和な時に作られた憲法は現状では力はない。」と実施に反対した。シャルル・フランソワ・ド・ラクロワの末子三男が画家のフェルディナン・ヴィクトール・ウジェーヌ・ドラクロワ(Ferdinand Victor Eugène de Lacroix)という事になっているが、実際の父親はシャルル・モーリス・ド・タレーラン・ペリゴール(Charles-Maurice de Talleyrand-Périgord)と言われる。
 この頃、「民衆が武装して一団となって立ち上がるべきだ。」という要請が直接行動を重視する地区の意見として議会に提出されていた。聯盟兵は第1回08月10日祭に参加するために地方から集まっていた志願兵の集団で穏健派が多いという当初の心配をよそに、「内戦を鎮圧したい。」という要求が強く、恐怖政治と独裁強化を後押しし、08月23日、国民総動員令を制定するようにマクシミリアン・ロベスピエールが議長となった国民公会に強訴した。聯盟兵の要求した大量募兵にはマクシミリアン・ロベスピエールは反対で「足りないのは兵士ではなく、将軍であり、彼らの愛国心なのだ。」と言って諭そうとしたが、聯盟兵は市民公会に圧力をかけて、無理に公安委員会に採択を迫った。人気取りのために大衆に迎合したジョルジュ・ジャック・ダントンらの介入で、兵士を徴集するのに見合う経済的な動員も可能となるように修正を受けた国民総動員法が可決された。しかし、これは地区の思い描く情景と違い、軍を立て直すための一種の国民総動員令であった。人間、食物、商品など一国家の一切の資源を政府の掌中に預けることを意味し、公安委員会の役割を甚だしく広げた。18歳から25歳までの男子は兵士に、老人や女子供は生産や医療に動員できることになったほか、臨時徴税や物資徴発も現場の判断で可能になった。人的・物的資源の無制限の動員を可能にする総動員法の施行され、総力戦体制の始まり、その現場の責任者である派遣議員には恐怖政治(テロル)を実践する権限が与えられた。これにより西暦1793年秋〜1794年春までに、40万人近い兵力が調達された。革命に反対して敵を糾合する王党派と高位聖職者たち、連邦主義者や梟党など地方叛乱分子など国家分裂の危機を招く裏切り者、これら反革命容疑者は厳しく取り締まられた。
 西暦1793年の夏頃から左派が擡頭し、商人や大農民が穀物を買い占めパリに食料が入ってこなくなり、09月に入り急進的極左過激派の気違いアンラジェが弾圧で衰退し、代わって極左政策・非耶蘇教化運動を取るエベール派(矯激派)が活発化した。内外の情勢はさらに絶望的になり、09月05日に過激派の中の最大勢力のエベール派が群衆(サン・キュロット)を動員して国民公会を包囲した(09月05日の行進)。この時、彼らは国内外の「革命の敵」が攻勢に出る中、国民公会に対し「恐怖を日常に。」と要求した。これは、08月頃からジャコバンクラブで使われるようになった標語で、09月01日の国民公会で「赤い司祭」の仇名を持つ過激派のクロード・ロワイエは「恐怖政治を日程に上らせなければならない(恐怖が日常的に為されなければならない〕。」とが唱え、過激派の指導者ジャック・ルネ・エベールは、「全ての敵を打倒すべきだ。」と強硬措置を要求し民衆を煽った。群衆は公安委員会の非公開の会合にも闖入した。05日夜、議会ではベルトラン・バレール・ド・ヴューザック(Bertrand Barère de Vieuzac)が公安委員会の名において即席の演説を行い、活動家たちを喜ばせようと「恐怖を日常的なものにしよう。」と口走った。また、サン・キュロットたちが要求した、パンを買い占める商人などを取り締まる「革命軍」の創設と各地の革命裁判所の拡充が発表された。恐怖政治はサン・キュロットの要求を受け入れて始まったが、当初のところ恐怖政治を推進していくための法制度は未整備のままだった。そのため、超法規的措置を採用してでも戦争遂行など当面の危機対応をしなければならず、自ずと公安委員会の決定に対する事後承認が増えていった。「恐怖政治が議事日程に載った」が、「これこそ人民を目覚めさせ、自ら自分を救わしめる唯一の方法である。」とジャン・ポール・マラーの言葉を引用し、聯盟兵ロワイユは誇らしく言った。
 09月05日以降、手続き上の手間の解消のため、貧民の圧力を背景にしたエベール派の圧力に乗じ、後に恐怖政治(仏語: la Terreur、英語: Reign of Terror)と呼ばれる政策が実行された。国民公会、恐怖政治を採択サン・キュロットの要求を受け入れて恐怖政治が始まった。
08月10日事件や06月02日の革命にすでに開始されていたという説もあるが、国民公会が公式に認めたのは09月05日からである。
 革命裁判所はブルジョワ出身者を中心にする裁判長、検事、陪審員が刷新され、ようやく機能し始めた。西暦1793年03月10日にフランス軍が敗走を始めた時に作られた革命裁判所は、裁判所の判事と陪審員には職人、労働者はいなかったため、活動はゆっくりしていて寛大だった。それまで大した仕事してこなかった革命裁判所の人員が増強され、人員も刷新され次々と反革命容疑者に死刑を宣告していった。特に裁判長にエルマン(Martial Joseph Armand Herman)が就任してからは、それ以前の死刑宣告が49人であったのに対して、以後は12月までに209人、翌年01月から05月までに942人に反革命の容疑で死刑宣告を出した。さらに西暦1794年06月10日にプレリアール22日法ができると、弁護が禁止されるなど手続きが大幅に簡素化され、このときからテルミドールのクーデターの翌日までが革命裁判所の最盛期で、ロベスピエール派の処刑が1日の処刑数で最多であった(西暦1794年07月28日、76の首が落とされたのが最多)。監獄と刑場が裁ききれないほど、大量の有罪判決を出した。
 過激派は「反革命容疑者の逮捕」、「食料調達のための革命軍の編成」を要求した。このときは平原派(プレーヌ派)は発言せず山岳派(モンタニャール派)が議論を闘わせたが、マクシミリアン・ロベスピエールを初めとして山岳派は群衆に屈して国民公会と公安委員会がその政策を実施させられた。公安委員会は急進過激派アンラジェの粛清にも乗り出し、09月05日にジャック・ルーを、09月18日にはジャン・フランソワ・ヴァルレを相次いで逮捕した。アンラジェのクラブや出版物も禁止された。

 国民公会は恐怖政治を具体化させる法案をいくつか可決し、09月11日に革命軍(食糧徴発隊、非軍事組織)を創設し、サン・キュロット民兵は革命軍として雇用されることになり、ギロチンとともに行進して、農村に麦が蓄えられていないか、商人宅に商品が隠されていないかを探すことになった。革命委員会の役員にも賃金が払われるようになった。これらの人々には共に極左派が多く、エベール派を満足させる決定であった。09月05日以降、貧民の圧力を背景にしたエベール派の圧力で、後に恐怖政治と呼ばれる政策が実行された。
 09月13日には、公安委員会以外の全ての委員会は改選されることが決まり、以後、他の全ての委員会は公安委員会の監視下に置かれ、候補者の表は公安委員会が提出して国民公会が選ぶことになった。これは恐怖政治でより強い力を持つことになる保安委員会から事前にフィリップ・フランソワ・ナゼール・ファーブル・デグランティーヌ(Philippe François Nazaire Fabre d'Églantine)やフランソワ・シャボ (François Chabot) らを筆頭にダントン派を排除するのを目的とし、同時に地方の人民結社・政治クラブから疑わしい役員を除くことも目指していた。地方、つまり県の行政は、これまでは完全な地方分権であったが、県行政機関は穏健派で占められていて、ジロンド派追放に反対して反革命に回るところが少なくなかった。これを解体して直接の統制下に置き、行政の末端まで人事を刷新して、統一的指導を行うためだった。公安委員会の優越権が法令で認められた最初で、公安委員会独裁の始まりとなり、中央と地方の両方に浸透する一党独裁的な体制ができていった。国民公会と連絡を密にしていた派遣議員は、今後は公安委員会に属し、国民公会ではなく公安委員会に報告義務を負うようになった。
 09月17日、国民公会は反革命容疑者法を成立させ、恐怖政治の手段を完成させた。フィリップ・アントワーヌ・メルラン・ド・ドゥーエ(hilippe-Antoine Merlin de Douai) とジャン・ジャック・レジ・ド・カンバセレス(Jean-Jacques Régis de Cambacérès)の提案により、反革命容疑者法(仏語: Loi des suspects)が国民公会で承認された。反革命容疑者法は「法」(ロワ、loi)の名を冠しているものの、法律の下位に位置づけられる革命裁判所の創設を定めた03月10日の法律を補完する政令(デクレ、decret)であるが、反革命容疑者法は、自ら革命の敵であると認めた、またはその疑いのある全ての人々の逮捕を命じ、特に非従順的な元貴族、亡命者、免職または停職処分を受けた公務員、官職に就きながら叛逆罪の疑いのある者、および生活に必要な物資を買い占め、退蔵している者を対象とした。この政令では容疑者の定義は遥かに狭いものであった。しかし、翌年に拡大され、より厳しいものとなった。この政令の適用と逮捕は、司法当局ではなく監督委員会に委ねられた。の時までは恐怖政治が誰を対象としているのか明らかではなかったが、同法は極めて適用範囲が広く、十分に革命的ではないとされた誰もが容疑者となり得た。この政令はまた、「容疑者が自ら無実を証明しなければならない。」という原理を導入したが、これは後にプレリアール22日法(西暦1794年06月10日成立)によって拡大された。国家を席巻した「革命的な狂騒」に繋がる個々の自由の重大な弱点がこの反革命容疑者法によって露呈した。反革命容疑者法は恐怖政治の影響によって西暦1794年07月まで存続し、その後廃止された。

 マクシミリアン・ロベスピエールは、群衆の直接行動に対しては懸念を示しながらも、革命の方向性には賛同した。09月20日に公安委員会委員のダントン派ジャック・アレクシス・チュリオ・ド・ラ・ロジエール (Jacques Alexis Thuriot de la Rozière)が、「弾圧は緩和されるべきだ。」と言って委員を辞任した。公安委員の辞任後は沈黙を守って粛清を逃れた。09月25日、代わりに前線から帰った派遣議員フィリップ・コンスタント・ジョセフ・ブリーズ(Philippe Constant Joseph Briez) が公安委員に指名されたが、彼ら右派が「戦争指導での失態の責任は公安委員会にある。」と不信任動議を出したことから、マクシミリアン・ロベスピエールの激昂に近い反発にあって批判を受けたために、驚いたフィリップ・コンスタント・ジョセフ・ブリーズは指名を拒否し、こうして右派の委員はいなくなった。この時に不信任動議を退けただけでなく、国民公会によって完全な信任、言い換えれば独裁権が得られることを希望したため、公安委員会は信任議決を得て、マクシミリアン・ロベスピエールがその指導者として公式に認められた。以後、委員会は彼の責任内閣の性格を持つようになった。 マクシミリアン・ロベスピエールはまず、「自らも公安委員の職を辞して真理を伝える覚悟だ。」と述べ、「真理は、貴族政治の不誠実な手先を打ちのめすため、自由の勇敢な擁護者の掌中に残る唯一の武器である。」と発言した。「もし政府が無制限の信任を得られず、信任するに値しない人々によって構成されるならば、祖国は没落するであろう。」と述べ、そして、こう続けた。「国民公会を堕落、分裂、麻痺させようとする者は、この中にいようが外にいようが、祖国の敵である(喝采)。愚かさのために行動しようと、邪悪さのために行動しようと、我々に対して戦争を引き起こす暴君の味方である。この国内外の敵との戦いにおいて、国民公会を支えているのが公安委員会なのだ。しかし、国民公会は公安委員会と結びついている。あなた方(国民公会議員)の栄光は、自ら国民的な信頼を与えた人々(公安委員会)の仕事の成功に結びついているのである。よって、公安委員会を批判する者も、同じく『祖国の敵』であると暗に示す。ここでは個人が問題なのではない。祖国と原理が問題なのだ。私は宣言する。この物事の状態で委員会が公共の事柄を救い出すことは不可能である、と。私に反論があれば、それがいかに危険な状態にあるか、われわれを堕落させ解散させる体系がどれほど広がっているかを思い起こさせてやろう。外国人や国内の敵がこの目的のために金で雇われた工作員をどれほど持っているか。(中略)だから、政府が無限の信頼を得なければ、それに値する人間によって構成されなければ、祖国は失われると信じる。私は、公安委員会が一新されることを要求する。」
 こうしてマクシミリアン・ロベスピエールが敵と味方を峻別しながら、公安委員会への「無限の信頼」を要求したとき、彼は一線を超えた。公安委員会が一新されることはなく、国民公会は公安委員会に「無限の信頼」を置くことを宣言した。こうした背景の下、公安委員会が先導する形で10月10日に宣言されたのが「革命政府」だった。その後10ヶ月間、同じ委員が再選されることになった。
 09月25日、国民公会は公安委員会に独裁権を付与し、西暦1794年07月27日まで続く公安委員会独裁が始まった。狭義では、マクシミリアン・ロベスピエールが委員となった07月27日ではなく、彼が正式に指導者となった09月25日から翌年07月27日までが大公安委員会である。
 革命政治は公安委員会の単一指導、要するに独裁で推し進められることになったが、公安委員会はその執行を勝手に押しつけられたわけであり、「切羽詰まっての独裁」であったが、「パンを!」と怒れる人民が性急に改善を求めるこういう切羽詰まった状況でも、マクシミリアン・ロベスピエールが、左派の突き上げを利用して右派を抑え、右派の協力を得て左派の脅威をかわすという、政局の綱渡りを行って、徐々に中央機構を強化していった。
 公安委員会の中央の独裁化は大体09月末までに完成されたが、西暦1793年憲法が停止中であったため、旧憲法(西暦1791年憲法)の条文のいくつかは生きていて、それを修正するたくさんの法令とが不完全に共存する状態だった。いくつかの革命的立法が中央で矢継ぎ早に公布されたことは地方を混乱させた。また派遣議員のジョゼフ・フーシェ、ジャン・バティスト・カリエ、ジャン・マリー・コロー・デルボワ、ジャン・ランベール・タリアンなどが階級闘争的な手法で平等主義を貫いたり、過激な反耶蘇教政策を地方で無理に推し進めたので、地方の恐怖政治はすぐに大量殺戮の様相を呈するようになった。
公安委員会は彼らを召還して権限を停止しなければならなかったが、彼らが去って元の当局者に権限が渡されると、今度は政策が逆行するような事態も発生し、混乱に拍車をかけた。中央集権的な状態が国全体で保てるよう、行政機構全体が再整備される必要があった。
 09月には民衆のデモに応えて食糧の価格統制が定められ、09月29日に最高価格令(一般最高価格令)が布告され、経済統制が実施されるようになった。国民公会も公安委員もこの法案にはあまり賛成していなかったが、統制経済の調整も公安委員会に委託された。生活必需品の品目を定め最高価格を決定した。この布告で群衆が商店に押しかけ商店は空になった。10月の末になるとパンがなくなり、パリ自治市会(パリ・コミューン)はパンの配給切符を実施し、他の都市も真似をした。品不足と食糧不足が起こった。このことは議員たちには予想されていたが、群衆の圧力で仕方なく議員は布告に賛成した。
10月04日に買い占め人を摘発するための法令が国民公会に提案され、買い占め人の家宅捜索と強制徴発を行い、即席裁判でギロチンに掛けることが決まった。10月半ばにはさらに食糧不足が深刻になり「革命軍」を新しく編成した。農村を回って食糧を徴発し、家宅捜索を行い、違反者を処刑して回った。これによって一時的には都市の食糧不足を和らげた。 その頃の正規軍は全て国境にいた。革命軍の指揮官の多くはブルジョアや大土地所有者の階層だった。
 10月04日、ジャック・ニコラ・ビヨー・ヴァレンヌ (Jacques Nicolas Billaud-Varenne)は「政府に活動と生命を与えるのに必要な法令」草案を公安委員会の名で国民公会に提出し、この草案は差し戻されたが、革命行政の整備に乗り出した。
 10月05日、国民公会、グレゴリオ暦を廃止しフランス革命暦(仏語: Calendrier révolutionnaire français、共和暦)を採用した。王政が廃止された翌日の西暦1792年09月22日(秋分)を共和暦元年元日(紀元)とする紀年法で西暦1805年12月31日までの12年間余りしか使用されずに廃止された。
暦が採用された日は、グレゴリオ暦(西暦)1793年11月24日でフランス革命暦では共和暦02年フリメール04日と表記された。1年は365日で、国民公会が指定した年が別に閏年。1年は12月、全ての月は30日で、残り5日(閏年は6日)は年末に置き休日。さらに1ヶ月を10日ずつの旬(décade)に分け、従来の週 (semaine)と曜日を廃止。1旬は10日、1日は10時間、1時間は100分、1分は100秒の十進法が使われた。フランス革命暦の各月には、詩人ファーブル・デグランティーヌによって、秋は -aire, 冬は -ôse, 春は -al, 夏は -idor と季節毎に脚韻を踏んだ月名が付けられた。各日には日名が付けられ、各日の名称は、五曜日は動物、十曜日は農機具、その他の曜日は植物(ただしNivôse(雪月)のみ鉱物)に因んだ。 ヴァンデミエール(Vendémiaire、葡萄月)13日(10月05日)は、Potiron(西洋南瓜)。ブリュメール(Brumaire、霧月)18日(11月09日)は、Dentelaire(瑠璃茉莉(ルリマツリ))。ブリュメール(Brumaire、霧月)19日(11月10日)は、Grenade(柘榴) 。フリメール(Frimaire、霜月)14日(12月04日)は、Sapin(樅)。ニヴォーズ(雪月)03日(12月24日)は、Bitume(瀝青)。プリュヴィオーズ(Pluviôse、雨月)16日(02月04日)は、Buis(柘植)。ジェルミナール(Germinal、芽月)01日(03月21日)は、Primevère(桜草) 。ジェルミナル(Germinal、芽月)30日(04月19日)は、Couvoir(孵卵器) 。フロレアール(Floréal、花月)11日(04月30日)は、Rhubarbe(ルバーブ)。フロレアール(Floréal、花月)19日(05月08日)は、Arroche(山法蓮草)。フロレアール(Floréal、花月)21日(05月10日)は、Statice(浜簪) 。フロレアール(Floréal、花月)22日(05月11日)は、Fritillaire(バイモ(貝母) )。プレリアール(Prairial、牧月)04日(05月23日)は、Angélique(西洋当帰)。プレリアール(Prairial、牧月)07日(05月26日)は、Fromental(大蟹釣り)。プレリアール(Prairial、牧月)08日(05月27日)は、Martagon(マルタゴンリリー)。プレリアール(Prairial、牧月)16日(06月04日)は、Œillet(カーネーション)。プレリアール(Prairial、牧月)22日(06月10日)は、Camomille(カモミール、カミツレ(加密列))。プレリアール(Prairial、牧月)30日(06月18日)は、Chariot(荷車) 。メシドール(Messidor、収穫月)11日(06月29日)は、Coriandre(コリアンダー)。テルミドール(Thermidor、熱月)08日(07月26日)は、Carthame(紅花)。テルミドール(Thermidor、熱月)09日(07月27日)は、Mûre(黒苺)。テルミドール(Thermidor、熱月)10日)(07月28日)は、Arrosoir(ジョウロ)。テルミドール(Thermidor、熱月)14日(08月02日)は、Basilic(バジル、羅勒、目箒) 。フリュクティドール(Fructidor、実月)18日(09月04日)は、Nerprun(黒梅モドキ)。

 マクシミリアン・ロベスピエールは国王処刑を積極的に支持した。マリー・アントワネットについては、マクシミリアン・ロベスピエールは元王妃をコンシェルジュリー監獄の地下牢に移送して人民を落ち着かせ、旧体制を象徴する元王妃の破滅を願う急進派の勢いを削ごうとした。しかし、彼の狙いは求心力を強めようとする急進主義者のジャック・ルネ・エベールの挑戦によって外れ、民衆の怒りを焚きつけ革命をさらに推し進めようとするジャック・ルネ・エベールと革命裁判所の野心的な検事アントワーヌ・カンタン・フーキエ・タンヴィルは互いに提携し、急進派を味方に革命の主導権を掌握しようと試みた[注釈 24]。国民公会では穏健な立場をとるマクシミリアン・ロベスピエールは彼らの試みにより孤立していき、閣議でマリー・アントワネットに対して国家転覆罪の罪状で裁判を実施することが確認された。
 マリー・アントワネットを処刑に持ち込みたいジャック・ルネ・エベールとピエール・ガスパール・アナクサゴラス・ショーメットは、彼女が不利になる証拠を作るため、アントワーヌ・シモンはルイ17世(ルイ・シャルル)に自慰を覚えさせた。「母と叔母は自慰を見て楽しみ、近親相姦の事実があった。」という書類に10月06日に強制的に署名をさせた。翌日、姉マリー・テレーズ・シャルロットと叔母エリザベート・フィリッピーヌはそれぞれ別々にルイ17世(ルイ・シャルル)の部屋に呼び出され、尋問を受けたが、ルイ17世(ルイ・シャルル)はピエール・ガスパール・アナクサゴラス・ショーメットらのでっちあげた「罪状が事実である。」と繰り返した。そしてこの尋問はルイ17世(ルイ・シャルル)が家族の姿を見た最後となった。


 10月10日、ルイ・アントワーヌ・レオン・ド・サン・ジュストが公安委員会を代表して新しい草案が発表され、そこには独自の革命政府論(独裁理論)が展開されていた。 法律と対策が取られた後も状況が改善しないのは「法が革命的であるのにその法を遂行する人が革命的ではないからだ。」と指摘し、「国家の逆境の原因を考察するに、それは命令実行の際の(大臣らの)意志の弱さ、行政における(官吏の)節約の不足、(公会の)国家計画の不安定さ、政府に影響を及ぼす(人民の)情熱の移ろいに見いだされ、従って公安委員会は人民に提案するが、自由に対する最後の敵が生きている限りは繁栄を望むことはできない。」、「裏切り者だけではなく、無関心な者も罰しなくてはならない。何故ならフランス人民が自己の意志を明らかにした後には、その意志に反する者はすべて主権から外れており、主権から外れた者はすなわち敵だからである。」と定義した。共和国の現状においては憲法は確立しえないが、それは憲法は自由に反対する陰謀を抑圧するのに必要な暴力を欠いているからで、法の剣は至るところに迅速に行き渡らなければならない。」、「政府自体が革命的に構成されなければ、革命的な法律を執行することは不可能である。」と主張し、政府が革命的でなければならない対象は、貴族(反革命の象徴)だけでなく、商人や役人、政治家に対してもであり、「多くの悪の源泉はある者の腐敗と他の者の軽率さにある。」と説した。
 サン・ジュストは14条からなる法令を提出し、国民公会はこれを討議することなく拍手喝采で承認し、そのまま革命独裁の大綱となった。第1条で「フランス臨時政府は平和が到来するまで革命的である。」とされ、大臣、将軍、行政、司法の全ては公安委員会の監視下に置かれることになった。国民公会は「フランスの臨時政府は、平和が到来するまで、革命的であり続ける。」ことを宣言した(革命政府宣言)。ここでいう「革命的」とは三権の分立の否定を意味する。12月04日、革命政府の統治原理を示した「フリメール14日法」が採択されたとき、名実ともにその「独裁」が成立したとされる。
 マクシミリアン・ロベスピエールが過激派やその直接行動、そしてジロンド派指導者の処刑に懸念を表明しながらも、「恐怖」の要求に沿った革命の流れに身を委ねた。この点で彼の政治家としての行動で注意したいのは、「革命政府」宣言の前日の10月09日に国内のイギリス人を逮捕するという国民公会議員フィリップ・フランソワ・ナゼール・ファーブル・デグランティーヌの提案に賛成したことである。また、10月16日に「戦争中の全ての国の出身者に対してその措置を拡大する。」というサン・ジュストの提案も支持した。革命初期には政治難民の受け入れを歓迎したマクシミリアン・ロベスピエールの目には、この頃になると国内の外国人が敵の工作員に映っていた。そして、彼らの陰謀に対してさらに焦燥に駆られることになる事件が起きた。10月半ばから汚職事件が政治問題になり始めた。それは、旧体制期に廃止が決まっていた東インド会社の清算をめぐって生じた財務整理のために、起こる株価の高騰を当て込んだ汚職事件である。この頃パリには、軍の御用商人や投機家が集まって来て、軍需物資の発注や納入をめぐって多額の裏金が動いており、その中で生じた大規模な汚職事件だった。10月14日、ダントン派のファーブル・デグランティーヌが公安委員会に対して「外国人の陰謀」を告発。しかし実のところファーブル・デグランティーヌ自身が銀行家とグルになってお金を受け取っていたため、マクシミリアン・ロベスピエールに先んじて「外国人」を排斥する立法を推進してみせた。これに対して、関与を疑われたダントン派のフランソワ・シャボとクロード・バジルが公安委員会にファーブル・デグランティーヌを告発したが、自分たちが逮捕された。また、エベール派議員の関与も疑われ、両派の対立が激しさを増していった。

 マリー・アントワネットは10月12日18時。革命裁判所の法廷で、非公開の予審尋問を受け、10月14日午前08時から午後11時、16日午前08時から午前04時の2日半間に渡り革命裁判所で裁判が行われた。裁判官は合議審で何人も交代した。また、マクシミリアン・ロベスピエールとジャコバン派の推薦した証人は数十人以上にもなった。マリー・アントワネットは内通、公費乱用、背徳行為、脱出計画に対しての罪に問われ、重罪により死刑が求刑された。
 10月12日の予審尋問は尋問というよりも告発に近いものだった。裁判長マルティアル・ジョゼフ・アルマン・エルマン(Martial Joseph Armand Herman)がマリー・アントワネットに問い質したのは次の7つの項目だった。「日頃の浪費だけではなく、兄である皇帝レオポルト2世と、フランスの利益にはならない関係を維持し、数百万リーヴルの送金をして、フランス財政を逼迫させた。」、「フランス人民を騙す術を国王に指示し、国王の拒否権行使やヴァレンヌ逃亡を唆した。」、「フランス国民の自由を破壊し、王政を復活させようとした。」、「亡命した貴族と共謀し、国家の安全を脅かす計画を企てた。」、「西暦1792年08月10日の革命の時、人民に向けて発砲させた。」、「タンプル塔で、革命の敵となる者たちと連絡を取っていた。」、「カーネーション事件に関与した。」これらに対し、マリー・アントワネットは有罪となるような言動をしないよう、巧みな供述を繰り返した。頭の回転がよく、臨機応変に対応できる、頭の良い女性だった。
 10月14日、革命裁判所ではマルティアル・ジョゼフ・アルマン・エルマンを裁判長として裁判が開廷した。内容は非公開で行われた予審尋問と変らないものだった。
すぐさまジャック・ルネ・エベールは「マリー・アントワネットとエリザベート・フィリッピーヌ・ド・フランスはルイ17世(ルイ・シャルル)と近親相姦を行っていた。」というでっちあげの書類にルイ17世(ルイ・シャルル)に署名をさせ、その裁判の席でマリー・アントワネットを憤激させた。エベールの賤民としての下劣な品性を顕現する悪辣な行為であった。マリー・アントワネットへの憎悪を駆り立て15人の陪審員のマリー・アントワネットへの反感を巧みに利用して裁判を有利に進めようと策謀した。ジャック・ルネ・エベールは大衆向け新聞「デュシェーヌ親父」などで民衆を扇動していた。このような荒唐無稽な証言は傍聴人からの反感を買うことになり、マクシミリアン・ロベスピエールを激怒させる結果となった。
 この公判自体おかしなもので、マリー・アントワネットに関する事件を並べただけで、それに対して彼女が革命をどう受け止め、対処したのか、どのような反革命行動をしたのかが明らかになっていない。マリー・アントワネットは、公判でも巧みに陳述し、判事らに付け入る隙を与えなかった。マリー・アントワネットは罪状の全てについて否定し、聡明で教養があり、ノブレス・オブリージュ(仏語: noblesse oblige、「高い社会的地位には義務が伴う」の意。noblessは「高貴さ」、obligeは動詞obliger の三人称単数現在形で、目的語を伴わない絶対用法、「(義務を)強制する」)であり、マリー・アントワネットは自らを弁論し、裁判官の読み上げる罪状の一言一句の全てに「ディベート」(古仏語〜中世仏語: debatre、ドゥバトル、「戦う」の意)し、彼女らしい芸術的諧謔のあるフランス語の授業を展開した。彼女を弁論するもの彼女の弁論や「ディベート」に異議を唱えるものは居らず彼女は無実・無罪だという印象を与えた。ヴァレンヌ逃亡については、「夫であるルイ16世に従ったため。」と答えた。
 陪審員が1時間の退席をして審議をしている間、マリー・アントワネットは「自分が国外追放になるものだ。」と信じていた。しかし、この出来事も判決を覆すまでには至らず、裁判の前に判決は決まっており、審議するふりをして陪審員らは時間を稼いでいるだけだった。
 審議が終わり、西暦1793年10月16日午前04時頃に深い沈黙に閉ざされた法廷で、裁判長マルティアル・ジョゼフ・アルマン・エルマンが「マリー・アントワネット。これから陪審員の答申を言い渡す。」と告げた後、検事にアントワーヌ・カンタン・フーキエ・ダンヴィルが「被告人は死刑に処せられる。」と叫んだ。身じろぎせずに判決を聞いたマリー・アントワネットは、法廷を後にする時、「もう何も見えなくて歩くこともできません。」と、憲兵の手を借りた。こうして見せ掛けだけの裁判が幕を閉じた。
 裁判の結果、10月16日有罪判決が出され、即日マリー・アントワネットは革命広場(旧ルイ15世広場、現コンコルド広場(Place de la Concorde))にて処刑されることとなった。マリー・アントワネットが死刑判決を受けた10月16日に刑が執行されたのは、マリー・アントワネットの実家のオーストリア大公国が主力の10月15日〜16日のワッチニー会戦の日程に合わせ血祭りにするためだった。


 足掛け3日間続いた裁判が終わり、コンシェルジュリー監獄に戻ったのは10月16日未明のことだった。マリー・アントワネットは、死刑の判決を受けて独房に戻った時に、夫ルイ16世の妹エリザベート・フィリッピーヌ・ド・フランス宛ての遺書を書き残した。内容は「犯罪者にとって死刑は恥ずべきものだが、無実の罪で断頭台に送られるなら恥ずべきものではない。」というものであった。 この遺書は牢獄の管理人ボーに渡され、検察官のにアントワーヌ・カンタン・フーキエ・ダンヴィルから数人の手に渡った後、王政復古の時代にルイ18世(ルイ16世の弟)に委ねられた。そのため、革命下を唯一生き延びたマリー・テレーズ・シャルロット・ド・フランスがこの文章を読むのは西暦1816年まで待たなければならなかった。「妹よ、あなたに最後の手紙を書かなければいけません。私は判決を受けたところです。しかし恥ずべき死刑の判決ではありません(死刑は犯罪者にとってのみ、恥ずべきものなのですから)。あなたの兄上に会いに行くようにとの判決をくだされたのです。」
 刑場に出発する時間まで、7時間あまりしか残されていなかった。義妹エリザベート・フィリッピーヌ・ド・フランスへの手紙を書き終えると、1人跪いて長い間神に祈りを捧げ、衣裳を着たままベッドに横たわった。夜明け頃、部屋係のロザリが独房に行き、朝食についての希望を尋ねると、マリー・アントワネットは涙を流しながら、「何も要りません。全て終わりました。」と告げた。それでも「マダム、竈にブイヨンスープとパセリを取って置きました。あなたは持ち堪える必要があります。何か持ってこさせてください。」と言うと、「ロザリ、私にブイヨン・スープを持ってきて。」と、更にたくさんの涙を流して言った。このブイヨンスープがマリー・アントワネット最期の食事となった。午前08時、それまで身に纏っていた喪服を脱ぎ、白い普段着に着替え、下は黒のスカートを穿き、黒いリボンの付いた小さめの白い帽子を被った。
 午前10時頃、刑場へ行く準備をするために、独房に判事と死刑執行人シャルル・アンリ・サンソンがやって来た。シャルル・アンリ・サンソンに手を出すように言われたマリー・アントワネットは、狼狽えた。「私の手を縛るのですか? ルイ16世の手は縛らなかったのに。」と抗議した。判事に促されてシャルル・アンリ・サンソンはアントワネットを後ろ手に縛られた。そして、断頭台の刃が妨げられないよう、髪の毛も乱暴に短く切られた。
 午前11時15分。後ろ手に縛られたままのマリー・アントワネットは、夫ルイ16世が刑場に向うときは立派な馬車で向ったのに対し、彼女が乗せられた馬車は特別な囚人として肥桶の荷車だった。革命広場に向かうため、マリー・アントワネットはギロチンへと引き立てられていった。コンシェルジュリー監獄を出た時から、その最期の言葉は、死刑執行人シャルル・アンリ・サンソンの足を踏んでしまった際に発した「お赦しくださいね、ムッシュウ。わざとではありませんのよ。(Pardonnez-moi, monsieur. Je ne l'ai pas fait exprès.)」だとされている。刑場までの道には、マリー・アントワネットの救出を警戒し、3万人の憲兵が動員され、多くの見物人も詰め掛けていた。馬車はゆっくりと進み、セーヌ川を渡り、断頭台のある革命広場に到着した。
 その間、背筋を伸ばして真っ直ぐ前を見据え、付き添いの僧侶とも口をきかずに群集を黙って見ていた。充血した目に青白い顔の頬はほんのりと赤く、乱暴に切られた白髪が帽子から出ていた。革命広場に到着したマリー・アントワネットはテュイルリー庭園の方をチラっと見ると、誰の手も借りずに肥桶の荷車から降りた。毅然とした態度で処刑台の階段を登り、頭を振って自分で帽子を頭から落とした。取り乱して見苦しいところを見せることなく、死刑執行人に身を委ねた。
 準備に4分掛かり、12時15分、マリー・アントワネットの首にギロチンの刃が落とされ刑が執行された。マリー・アントワネットの最期の言葉は、「さようなら、子供達。あなた方のお父さんのところに行きます。」だった。死刑執行人が、マリー・アントワネットの血の滴る首を掲げると、それまで息を殺していた何万という群衆は「共和国万歳!」、「共和国万歳!自由万歳!」と叫び続けた。その後、群衆は昼飯の時間帯であったこともあり一斉に退散し、広場は閑散とした。数人の憲兵がしばらく断頭台を見張っていたが、やがて彼女の遺体は刑吏によって小さな手押し車に、首は手押し車の足に載せられ運び去られた。死刑執行人シャルル・アンリ・サンソンは、皮肉なことに王党派であり、後に、見つかると重罪になる、ルイ16世とマリー・アントワネットのためにミサを行った。刑が執行された後、マドレーヌ墓地に運ばれたマリー・アントワネットは、埋葬命令が出ないため、半月近くもの間、膝の間に頭を置かれた状態で、墓地の隅の草叢に放置されたままだった。


マリー・アントワネット フランス革命と対決した王妃 (中公新書) - 安達 正勝
マリー・アントワネット フランス革命と対決した王妃 (中公新書) - 安達 正勝

 マクシミリアン・ロベスピエールは前年の九月虐殺のような凄惨な事件が再発すること、勢いづく急進派が暴発して政権を崩壊させることを恐れ、ガス抜きの必要から処刑を黙認した。また、国民公会は元王妃の裁判を受けて王妃に同情を示す可能性のある女性の政治クラブの解散を命じ、女性から政治的権利の剥奪を進めた。

 西暦1793年秋、フランス北部ではオーストリア大公国・オーストリア領ネーデルラント連合軍とフランス軍が一進一退の攻防を続けていた。フランスはヴァレンシエンヌ、コンデ、ケノワといった国境付近の要塞を失ったが、一方でオンドスコートでは連合軍の攻撃を撃退するのに成功していた。冬が来るまでにはまだ間がある。両軍の次の争点になったのはモーブージュだった。連合軍の指揮官フリードリヒ・ヨシアス・フォン・ザクセン・コーブルク・ザールフェルト(Friedrich Josias von Sachsen-Coburg-Saalfeld)はモーブージュを包囲し、配下のクレアファイトがその南方に防衛線を敷いた。これに反撃を試みたのはジャン・バティスト・ジュールダン(Jean-Baptiste Jourdan)率いるフランス北部方面軍であり、そこには派遣議員としてパリからやって来たラザール・ニコラ・マルグリット・カルノーの姿もあった。
 09月22日に。一兵卒から服屋の経歴を持つジャン・バティスト・ジュールダンを戦争相ラザール・カルノーは抜擢して北部方面軍司令官に任命した。北部方面軍司令官に就任したジャン・バティスト・ジュールダンは、すぐに軍を率いてフランス北部の都市モブージュに向かった。同地ではコーブルク将軍指揮下のオーストリア・ネーデルラント連合軍約60000人がフェラン将軍指揮下のフランス軍約25000人を包囲していた。モブージュは戦略上非常に重要な拠点で、ラザール・カルノーは自らジャン・バティスト・ジュールダンに随行し軍事作戦を主導した。両軍は10月15日、16日にワッティニーで激突した。
 戦闘の焦点となったのは連合軍防衛線の左翼(フランス軍側から見ると右翼)にあったワッチニー村だった。10月15日にフランス軍はクレアファイトの全防衛線に圧力をかけたが、オーストリア軍の抵抗で攻撃は失敗に終わった。事態の打開を図るため、フランス軍はその夜、作戦計画の変更に踏み切った。10月15〜16日の夜、ラザール・カルノーとジャン・バティスト・ジュールダンは基本計画を変えた。10月16日にはジュールダンの軍の大半をオーストリア軍の左翼に集中させることになった。数で圧倒されながらオーストリア軍は巧妙に激しく戦ったが、2度の失敗した攻撃の後で3度目の攻撃はオーストリア軍を押し流した。フランス軍は初日において大敗を喫したが、2日目は倍近い兵力、そして兵士達の決死の闘魂精神を頼りに徐々に前線を押し戻し、遂にはオーストリア軍に退却を余儀無くさせた。こうしてワッティニーの戦いはフランス軍の勝利に終わった。
 広い範囲で行う攻撃を諦め、ワッチニー村に集中的に戦力を投入する。この作戦が功を奏し、連合軍はモーブージュの包囲を解いて退却した。フランスは守られ、翌年になると総動員令によって戦場に現れた兵士たちが連合軍を国境のはるか彼方まで押し返した。戦争の流れを変えたワッチニーの会戦で、特に重要だったのは10月15日夜に行われた作戦計画の変更であり、
後年、ラザール・カルノーは「ワッティニーでフランス軍が勝利出来たのは、我が軍事作戦が功を奏したからだ。」と自書内で書き綴っているため、「派遣議員のラザール・カルノーがそこで大きな役割を果たした。」との説明は多い。しかし、ラザール・カルノーが軍事作戦を主導したのは大敗を喫した1日目のみであり、2日目にフランス軍が勝利出来たのはジャン・バティスト・ジュールダンが単独で戦術指揮を担い、最後まで戦い抜いたからである。ラザール・カルノーは自身の戦術指揮能力の無さを痛感したのか、戦後すぐにパリに帰還した。
 北部方面軍の司令官前任者2人、キュスティーヌ伯アダム・フィリップ(Adam Philippe, Comte de Custine)、ホウシャール)は失態を犯したと斬首刑に処された。
 キュスティーヌ伯アダム・フィリップは、西暦1792年の09月〜10月にかけて、シュパイアー、ヴォルムス、マインツ、そしてフランクフルトを次々と制圧し、布告文によって革命の宣伝をし、貴族と聖職者に重税を課した。しかし冬になると、プロイセン軍の反撃に遭い、フランクフルトに後退を余儀なくされた。さらにライン川を引き返して、ランダウ・イン・デア・プファルツまで撤退、キュスティーヌ将軍は叛逆罪で訴えられた。マクシミリアン・ロベスピエールの弁護で、再び北部方面軍に送られたが、キュスティーヌ将軍は攻撃を仕掛けることなく、逆にオーストリア軍がコンデに押し寄せた時も打つ手がなく、コンデを落としてしまった。キュスティーヌ将軍は弁明のためパリに送られたが、革命裁判所は、共和国の敵と共謀したとして有罪を言い渡し、西暦1793年08月28日、ギロチンで処刑された。
 弁護しようとした息子も同じくギロチンに掛けられた。その妻も同じ運命を辿るかに思われたが、孫のキュスティーヌ侯アストルフ共々生き延びた。
 西暦1794年01月10日、ジャン・バティスト・ジュールダンはラザール・カルノーから無謀な軍令を突きつけられたため、断固拒否した。カルノーはすぐさまジャン・バティスト・ジュールダンにマクシミリアン・ロベスピエールら公安委員会の重鎮達が署名した逮捕状を出し、法廷に突き出した。しかし、証言者として出廷した派遣議員らは、ジャン・バティスト・ジュールダンは一兵卒上がりの服屋だったため、ラザール・カルノーの主張に含まれる矛盾を指摘し、巧みに擁護し、何とか死刑を免れることが出来た。

 ラザール・カルノーは工兵士官学校を優秀な成績で卒業し、西暦1789年に恋愛沙汰から決闘騒ぎを起こし、取り調べ上官に対する誣告罪により逮捕され、2ヶ月間収監され昇進の望みも絶たれたかに見えたが釈放後間もなくフランス革命が勃発した。西暦1794年にラザール・ニコラ・マルグリット・カルノーは国民公会の議長となった。ロベスピエール派の恐怖政治に対して当初は傍観的だったが、戦略をめぐって同じ公安委員会のサン・ジュストと対立し、ロベスピエール派全体とも対立するようになった。だがこれによりテルミドールのクーデターではギロチン行きを免れた。西暦1795年03月に公安委員会を引退し、元老会議員に立候補して当選。10月に総裁政府が発足すると、初代の5総裁の1人に就任した。長男のニコラ・レオナール・サディ・カルノー(Nicolas Léonard Sadi Carnot)は物理学者で、カルノーサイクルの考案者である。次男のラザール・イポリット・カルノーは「カルノー法」で知られる政治家、次男の子のマリー・フランソワ・サディ・カルノーはフランスの大統領、同じく孫のマリー・アドルフ・カルノーは化学者で、カルノー石の名の由来となった。

 10月16日に粗末な服を着せられ、両手を後ろ手に縛られた王妃マリー・アントワネットは、群衆の中を刑場に送られ、断頭台の露と消えた。10月17日のショレの戦いヴァンデ戦争でカトリック王党軍が大敗した。次いで、ジロンド派の粛清が行なわれた。鬼畜マクシミリアン・ロベスピエールはジロンド派粛清にも容赦がなかった。国民公会においてジロンド派は3日間しか弁論の期間を与えず、21人全員が死刑判決を受けた。うち1人は自殺し、ジャック・ピエール・ブリッソー、ピエール・ヴィクテュルニアン・ヴェルニョー(Pierre Victurnien Vergniaud)ら20人は10月31日にギロチンで処刑されたが、処刑に要した時間はわずか38分であった。
 放蕩かつ無節操で、民衆に開放した自分の宮殿パレ・ロワイヤルは歓楽街として使われ、政治的な危険分子はもちろん、娼婦の溜まり場にもなり、 王室と対立し、革命前から国王に逆らい、王妃マリー・アントワネットを盛んに中傷した政敵で、バスティーユ襲撃事件を誘発し、フランス革命を勃発させる策謀で陥れ革命を煽り、ルイ16世の死刑に賛成票を投じた王族でフリーメイソン仏大東社グランドマスター、オルレアン公ルイ・フィリップ2世ジョゼフ平等公(Philippe Égalité)は、03月27日、デュ・ムリエ将軍が長男ルイ・フィリップと共に革命政府(国民公会及び公安委員会)の打倒とオルレアン家王位擁立を謀って失敗し、ジロンド派によって、息子が祖国を見限ったことや共和制転覆の嫌疑を受けて告発された。そして04月03日に逮捕され、王族と共にマルセイユのサン・ジャン城に幽閉された。「ルイ16世に代わって王位に就こうとした。」との容疑を否認し、処刑の恐怖から逃れるため、自身が「オルレアン公ルイ・フィリップ1世の子ではない。」と言い放ったが、自分の宮殿だったパレ・ロワイヤルの革命裁判所で「父親と著しく似ている。」という判断を下され、財産を没収され、11月06日の夕刻、革命広場の断頭台で処刑された。

 11月08日にはロラン夫人が処刑された。彼女は「Ô Liberté, que de crimes on commet en ton nom !(ああ自由よ、汝の名においていかに多くの罪が犯されたことか!)」という有名な言葉を残した後、処刑された。2日後、逃亡先で妻の処刑を聞いたラ・プラティエール子爵ジャン・マリー・ロラン(Jean-Marie Roland, vicomte de La Platière)は、ルーアンの潜伏先から徘徊し、恐怖政治に対する恐怖を「妻が殺害されたことを知った瞬間から、私は敵に染まった世界には残らない。」と表現した。ジャン・マリー・ロランは西暦1793年11月10日の夜にその紙を胸に付け、木に凭れて、杖刀で心臓を刺して自殺した。
 さらに11月12日に天文学者で初代パリ市長、フイヤン派のジャン・シルヴァン・バイイ(Jean-Sylvain Bailly)に処刑され、三頭派の指導者のアントワーヌ・ピエール・ジョゼフ・マリ・バルナーヴ(Antoine Pierre Joseph)も11月29日に処刑された。ジロンド派の指導者で数学者のコンドルセ侯マリー・ジャン・アントワーヌ・ニコラ・ド・カリタは逃亡中だったが逮捕され、西暦1794年03月29日獄中で服毒自殺した。
 国王ルイ15世最愛王の愛妾であったデュ・バリー夫人(Madame du Barry、本名: マリ・ジャンヌ・ベキュー(Marie-Jeanne Bécu))は金持ちというだけで12月08日に処刑された。
デュ・バリー夫人は危篤に陥ったルイ15世最愛王から遠ざけられ、追放同然に宮廷を追われ不遇な一時期を過ごしたが、宰相ド・モールパ伯ジャン・フレデリック・フェリポー(Jean-Frédéric Phélypeaux, comte de Maurepas)や大法官ルネ・ニコラ・シャルル・オーギュスタン・ド・モプー(René Nicolas Charles Augustin de Maupeou)などの人脈を使って、パリ郊外のルーヴシエンヌに起居し、優雅に過ごすようになった。その後は国王警備隊最高司令官8代ブリサック公ルイ・エルキュール・ティモレオン・ド・コッセ(Louis Hercule Timoléon de Cossé, 8th Duke of Brissac)やロアン・シャボー公ルイ・アントワーヌ(Louis-Antoine de Rohan-Chabot)、イギリスの政治家のヘンリー・シーモア(Henry Seymour (Redland))達の愛人になった。
 西暦1789年に勃発したフランス革命により、
愛人だったパリ軍司令官ブリサック公が虐殺された九月虐殺(9 September massacres, 1792/9/9, Versailles)でブリサック公爵の首がデュバリー夫人の窓に投げ込まれ、西暦1791年01月にイギリス王国へ逃れ、亡命貴族たちを援助した。
 デュ・バリー夫人には、ザモールという若い黒人の奴隷がいた。ベンガル人だが、デュ・バリー夫人はアフリカ奴隷だと思っていた。デュ・バリー夫人はザモールを教育し、人形のように着飾らせ、見せびらかすのが趣味だった。ザモールはデュ・バリー夫人の慇懃無礼な態度に耐えながら、
最後に彼女を裏切った。フランス革命が起こり、ザモールは叛乱軍のジャコバン派に加わった。それを知ったデュ・バリー夫人は彼を追い出し、ザモールは彼女に叛旗を翻し、当時事実上の革命政府である公安委員会に、「デュ・バリー夫人が、革命から逃亡する人々を助けた。」と訴えた。その証言がきっかけで、公安委員会は彼女を叛逆罪で起訴。公の広場でギロチンに掛けられることになった。西暦1793年03月に帰国した際に革命派に捕らえられ12月08日にギロチン台へ送られた。 なぜ彼女が危険を冒して帰国したのか真相は定かでないが、革命政府によって差し押さえられた自分の城にしまっておいた宝石を取り返すのが目的だったと言われる。
 この時の死刑執行人のシャルル・アンリ・サンソンと青年時代に恋人であった時期がある彼女は、泣いて彼に命乞いをした。他の受刑者達とは違い泣き叫び大声で命乞いをしたため、デュ・バリー夫人を処刑することに死刑処刑人と民衆は大いに狼狽したらしく、これに耐えきれなかったシャルル・アンリ・サンソンは長男のアンリ・サンソン(Henri Sanson)に刑の執行を委ね、デュ・バリー夫人は処刑された。50歳没。
 死刑執行人のシャルル・アンリ・サンソンも手記に、「みんなデュ・バリー夫人のように泣き叫び命乞いをすれば良かったのだ。そうすれば、人々も事の重大さに気付き、恐怖政治も早く終わっていたのではないだろうか。」と書き記している。


 西暦1793年にルイ16世とマリー・アントワネットがギロチンで斬首されると、ドイツ側にイギリス王国、スペイン王国、イタリアなどの反革命諸国家が参加し、第1次対仏大同盟が形成された。フランス共和国は西暦1793年08月23日に国家総動員法を発令して徴兵制度を施行し、史上初の国民総動員体制をもって恐怖政治の下に戦時下の非常処置が執られた。戦争はフランス軍に有利な情勢となり、西暦1794年09月、フランス軍はオランダへ侵攻し、ネーデルラント連邦共和国(西暦1581〜1795年)は崩壊し、西暦1795年01月にはフランスの傀儡国(姉妹共和国)としてバタヴィア共和国(西暦1795〜1806年)が宣言された。バタヴィア共和国ではユダヤ人にも公民権を授与した。西暦1794年〜1795年にかけてウィーンでは「ドイツ・ジャコバン派」が処刑された。ヨハン・ゲオルク・アダム・フォルスター(Johann Georg Adam Forster)たちはマインツ共和国(西暦1792〜1793年)を作ったが、マインツ共和国はプロイセン王国とオーストリア大公国の同盟軍に占領され崩壊した。

ジャン・ポール・マラー暗殺後、マクシミリアン・ロベスピエールによる政権掌握によって恐怖政治が強化された。08月下旬、今度は別の極左勢力で恐怖政治の強化を求めるエベール派(矯激派)の圧力が強まった。ジャン・ポール・マラーが暗殺され、アンラジェのジャック・ルーと、暗殺されたジャン・ポール・マラーの後継者を巡って犬猿の仲で、議会外勢力で国民公会そのものを批判し攻撃した。続いてサン・キュロットの支持を巡り対立関係にあったアンラジェが革命政府の弾圧によって崩壊し始めると、ジャック・ルネ・エベールは、ジャック・ルーの支持層(サン・キュロット)をエベール派に取り込こもうと試みた。支持者となっていたサン・キュロットと釈放された指導者層は、コルドリエ派の左派勢力を形成したエベール派に合流していった。彼らに代わるサン・キュロットの指導者としての地位を確固たるものにした。その後、アンラジェの政策の一部はエベール派によって継承された。
 08月23日、エベール派は、「エベール派が一切の影響力を持たない諸委員会が権力を奪っている。」して、大臣職の復権を要求し、施行されていない西暦1793年憲法第61〜63条の大臣選出の方法だけの実施を要求した。これは、人民が直接選んだ選挙人会によって一般候補者名簿が作られ、そこから議会が大臣24人の内閣を選ぶというもので、もし実施されていれば公安委員会政府の解体を意味したが、どのような候補が生まれて誰を国民公会が選ぶかは未知で、エベール派に多い行き当たりばったりの動議。いずれにしても緊急時に権力を空白とする危険があった。この方法での内閣刷新を阻止するのに、マクシミリアン・ロベスピエールは苦心した。
 不幸なサン・キュロットの不満を汲む極左派の要求には際限がなかった。エベール派はどんどん増長していき、完全な勝利まで戦争をやめない無制限戦争を主張した。彼らによって、君主国との和議を試みるダントン派などは裏切り者として糾弾されたため、王党派と誤解されない平和政策を議員が唱えることは困難になった。

 08月29日、サン・ドマングへ派遣された委員、レジェ・フェリシテ・ソントナ(Léger-Félicité Sonthonax)が独断で全ての黒人奴隷解放を宣言した。ジロンド派(ブリッソー派)と親しい商人で、「黒人友の会」の構成員で立法議会および国民公会が派遣した4人の委員の1人。議員ではなく、遠く植民地なので両議会の変わり目でも活動した。ハイチ革命で重要な役割を演じたが、西暦1797年にサン・ドマング代表の議員となって島を離れた。

 マリー・アントワネットへの尋問は、西暦1793年09月03日16時頃〜翌朝07時半まで、休憩を含めて15時間も掛けて、第1回目の尋問がコンシェルジュリー監獄で行われた。罪を問われるのは「敵国との共謀」と「国家の安全に対する陰謀」だったが、「マリー・アントワネットがフランスを裏切っている。」という、有罪になるだけの証拠は揃えられなかった。尋問は、タンプル塔にいる義妹エリザベート・フィリッピーヌ・ド・フランス(Élisabeth Philippine Marie Hélène de France)と娘マリー・テレーズ・シャルロットと義妹、息子ルイ17世(ルイ・シャルル)にも行われた。エリザベート・フィリッピーヌとマリー・テレーズ・シャルロットは、何を聞かれても否定を通したが、息子ルイ17世(ルイ・シャルル)は尋問の中で、マリー・アントワネットが何かしらの方法を使い、外部の協力者と情報を交換していたこと、塔に派遣されたパリ自治市会の役員に、「共犯者がいる。」という嫌疑を全部認めてしまった。「母が監視の役人達と1時間半ほど何か相談をしていたとか、毎晩22時半になると、窓の外から行商人が情報を叫んでいた。」などと証言した。しかし、エリザベート・フィリッピーヌとマリー・テレーズ・シャルロットの証言の一問一答が記録されているにも拘わらず、ルイ17世(ルイ・シャルル)の証言は、後からまとめて書かれたもので、8歳の子供が証言するには詳細すぎて具体的過ぎ、信憑性に欠けているが、どんな手を使ってでもマリー・アントワネットを有罪にしなければいけなかったのである。裁判は見せ掛けだけのものであり、判決はとっくの昔に決まっていた。


 西暦1793年09月以降はエベールの影響力が強まるにつれて恐怖政治が強化された。革命裁判所の組織強化が進んで貴族、王党派、ジロンド派の多くの者が粛清されていき、非耶蘇教化運動が盛んとなって社会の混乱が深刻化した。エベール派は偶像の焼却や破壊などヴァンダリズム(文化財破壊)を伴う同運動を利用して政治的影響力の再拡大を狙っていた。パリの各地区には人民協会が創設され、過激な無神論者のジャン・バプティスト・「アナカルシス」・クローツ(Jean-Baptiste "Anacharsis" Cloots)が説教するために巡回し各地の教会は救貧院と学校に変えることが決議され、 カトリックは事実上、国教の地位を失った。マクシミリアン・ロベスピエールは革命に反対するカトリック教会に警戒感を持っていたが、宗教を否定していたわけではなった。国民公会は10月05日にグレゴリオ暦を廃止してフランス革命暦(共和暦)を採用し公安委員会は教会の鐘を軍需物資として徴発したが、マクシミリアン・ロベスピエールが教会の破壊を支持したことはなかった。むしろ、ジャック・ルネ・エベールが扇動する攻撃的な無神論が民衆に受容されて民衆運動が過激化し、社会秩序が失われて放火や殺人、掠奪が発生することを懸念していた。
 11月10日、ジャック・ルネ・エベールはノートルダム聖堂で耶蘇教を廃し「理性の崇拝」と称する無神論運動の祭典「理性の祭典」をアントワーヌ・フランソワ・モモロ(Antoine-François Momoro)やピエール・ガスパール・アナクサゴラス・ショーメットと挙行するなど扇動活動を活発化させていた。理性の祭典の開催に漕ぎ着けたことは、アナカルシス・クローツの積年の努力の成果でもあったが、これは同時に彼の凋落の始まりでもあった。

 各地で行われた非理性的な激しい反耶蘇教示威行為は、地方を中心とした信仰の厚い地域に住むフランス人たちの激怒を買い、理神論者や宗教的自由の喪失を危惧する国民公会議員の嫌悪感を煽った。そして最も決定的だったのは、マクシミリアン・ロベスピエールを敵に回したことであった。マクシミリアン・ロベスピエールが標的にしたのは、ジャック・ルネ・エベールとその一派だった。
 11月21日のジャコバンクラブでの演説でマクシミリアン・ロベスピエールは「国民公会はカトリックの信仰に手を触れる意志はない。」と信仰の自由を擁護し、「非耶蘇教化は我が革命に不道徳の外装を与える為に外国に買収された不道徳な連中の狂信に過ぎない。」と痛罵した。
西暦1791年に故郷のアルトワ州に帰郷した際、マクシミリアン・ロベスピエールは宣誓拒否聖職者が執り行っていたミサにおいて、足に重傷を負っているとされる男が突如松葉杖を放り投げて両手を挙げて歩き出すという「奇跡」が起き、その妻が神に感謝を捧げたという出来事であった。「私には場違いだった。」と言う教会をまもなく立ち去ったマクシミリアン・ロベスピエールは、その光景を残念に思った。このような「奇跡」が起こるのは地方の修道会では珍しいという訳ではなかった。彼に衝撃を与えたのは、革命後にもそれを賛美する民衆の「狂信」であった。
 マクシミリアン・ロベスピエールは、非耶蘇教化運動を「狂信」と同演説で断じた。「今日懸念すべき新たな狂信が生まれている。それは、外国の宮廷に金で雇われた不道徳な人間による狂信であって、卑怯で残忍な敵の特徴である不道徳の外観を我が革命に与えるものだ。」と糾弾した。「そもそも敵には2つの軍団があり、国境沿いにいる文字通りの軍団のほか、「もう1つのより危険な軍団が我々の内にいる。それは金で雇われた間諜や詐欺師の軍団であり、民衆の社会の中にさえ、至る所に侵入している。」このように、国内の敵を国外の敵より焦眉の危険と見做す点でマクシミリアン・ロベスピエールは一貫していた。「国内の敵が非耶蘇教化運動を通じて国外の敵と共謀することで、革命および共和国を危機に陥れている。信仰の自由こそ、国民公会の取るべき方針である。」「非耶蘇教化運動は、革命は狂信的だとする攻撃の口実を国内外の勢力に与えるだけではない。無神論的であるため、革命そして共和国の存続さえ脅かしうる。何故なら、その存続にはある種の信仰が必要だからだ。国民公会が最高存在の下で人間の権利の宣言を表明したことは無駄ではなかった。」と主張した。
マクシミリアン・ロベスピエールによれば、「もし神が存在しなければ、それを発明しなくてはならない。」と言明した。マクシミリアン・ロベスピエールは無神論を非難して礼拝の自由を擁護する演説を行なうことでエベール派の動きを牽制し、宗教に対する過激な攻撃に繋がらないように苦心した。やがてマクシミリアン・ロベスピエールは無知と狂信、そしてその対立物である憎悪に対抗するため、すぐ後の「最高存在の祭典」に繋がった。

 11月18日にジャック・ニコラ・ビヨー・ヴァレンヌが「革命政府組織の方法」とする草案を提出した。国民公会で議論されたことは地方行政と監察官、派遣議員やその他の委員との関係の整理であった。これらは数度にわたる議論を経て、西暦1793年12月04日、フリメール14日法として完成した。フリメール14日法は革命政治の仮憲法と言えるもので、実施されない西暦1793年憲法に代わって、翌1794年07月27日までフランス共和国の政治を規定した恐怖政治の基本法であった。今までバラバラに制定されてきた諸機関が、中央集権組織の中で有機的に動くことを意図したもので、権限や管轄が整理されていた。革命軍や革命委員会のような組織も、公安委員会の統制下に置き直され、徐々に人を入れ替えて政府に叛逆するような極左派(エベール派など)の手から奪還された。公安委員会は国中を監視し、(候補者を表に選ぶということで)人民全体の官吏を任命する権限を持ち、諸委員会の人選や市町村の選挙は停止され、人民主権のために民主主義は事実上停止された。
 ジョルジュ・ジャック・ダントンは、西暦1793年07月に公安委員から外れても、革命の最も有力な指導者の1人であることに変わりはなかった。しかし、この革命の英雄は汚職の嫌疑を免れることはなかった。彼の汚職への関与を示唆したのは、彼にダントン派のフランソワ・シャボで、11月15日、フランソワ・シャボは、オーストリア大公国の銀行家の娘と結婚して反革命の疑いを掛けられたため、自身への疑いを晴らすため、11月17日に公安委員会に赴き、東インド会社の解散に伴う汚職事件の資金を流用しジャック・ルネ・エベールによる革命政府の打倒を支援した間諜貴族の存在を明かし同時に、ジョルジュ・ジャック・ダントンの関与も示唆した。植民地の喪失に伴ってフランス東インド会社が解散されたが、この解散による会社資産の清算において莫大な献金を違法に受けたジャック・ルネ・エベールが告発された。そして、「この一件にジョルジュ・ジャック・ダントンも関与している。」という嫌疑が掛けられた。フランソワ・シャボによると「オーストリア大公国の銀行家がジャック・ルネ・エベールに革命の資金を提供して過激な運動を活発化させ、フランス共和国に内紛を生じさせるという陰謀を企てており、ジャック・ルネ・エベールとダントンに接触を図った。」密告があった段階ではマクシミリアン・ロベスピエールはこの嫌疑を信じなかった。しかし、この間もマクシミリアン・ロベスピエールが率いる中央派と左右両派との政治的対立は次第に深まっていた。
 ジョルジュ・ジャック・ダントンは急遽パリに戻り、11月22日に「恐怖政治を終わらせる時だ」、「人間の血を無暗に流さないことを要求する。」と恐怖政治に批判的な発言をし始めた。元々王室との付き合いがあり、他国との和解を画策した上、政権の中枢から外れた後は反革命容疑者の釈放を求めたジョルジュ・ジャック・ダントンは、反革命の疑いを掛けられる十分な理由があった。久しぶりにジャコバンクラブにも出席して弁明したが、聴衆に罵倒された。そこで救いの手を差し伸べたのは、盟友マクシミリアン・ロベスピエールである。パリに戻ったジョルジュ・ジャック・ダントンを除名しようとする動きがジャコバンクラブで出始めると、マクシミリアン・ロベスピエールは、彼とはこれまで意見や立場に違いがあったことは認めながらも、
「こうして私がダントンに語ったのは、彼に多くを期待していたからだ。(そして)彼は私の期待の正しさを証明し、祖国は彼から多大な利益を得た。我々は人民の敵に対する勝利の多くを彼に負うているのだ。政治的に考えて私はこのことを肯定する。私はダントンを見てきた。公平に、また率直に言いたい。彼が常に一貫していたことを私は見てきたし、常に愛国主義に向かう彼を見てきた。(中略)2人の間にある違いは唯一、われわれの気質、見たり判断したりするやり方に由来するものだけで、2人とも祖国を救うという同一の目的を持ってきたのである。」と弁護した。

 国民公会と公安委員会は群衆の圧力に応じて恐怖政治を進めたが、同時に群衆を扇動した過激派の弾圧も続けた。食糧危機が一段落し人心が収まったのと、戦争が勝利に転じたことを背景に、過激派指導者たちは消えていった。
 パリには多くの外国人銀行家が集まっていたが、これらが排除された結果、無制限な投機行為が抑えられ、アッシニアの買いたたきや食糧調達が改善され、経済危機の緩和に役立った。革命政府の取った非常手段は、累進強制公債、金属貨幣の流通停止、アッシニアの強制流通、証券取引の停止などだったが、これによって唯一の紙幣となったアッシニアの価格が上昇に転じた。最高価格制と強制徴発、買い占め禁止、違反者の厳罰も効果があった。物価はこれを反映して安定し、下層民の生活は安定した。山岳派により実行された他の経済政策に、フランス商品の輸出禁止令があった。この輸出禁止令の結果、フランスは外国市場と貿易することが基本的に不可能になり、あらゆる商品の輸入は事実上終了した。外国の商品からフランスの市場を守り、フランスの人々が自国の商品を支持するようになるはずだった。輸出禁止令に加え、西暦1793年10月に山岳派により可決された法律1651号によって、外国の船がフランス沿岸での貿易を行うことが禁止され、フランスは欧州全体からさらに孤立していった。
 足下を安定させた国民公会と公安委員会は全力挙げて反革命軍と外敵との戦闘に向かった。またこの政策の結果、フランス軍では正規軍と義勇兵の区別がなくなり、貴族将校の後を平民将校が埋めた。彼らは能力もあり勇敢だったので兵士の信頼を集めた。暴利を貪った御用商人も粛正され軍隊の装備も良くなった。重工業が全回転を始め武器弾薬が豊富に供給された。この結果列強を敗走させ、西暦1793年の末までに革命政府は内外の危機から解放された。これらの政策で打撃を受けた者は外国の貿易会社、貿易商人、これと結びついていたフランス商人だった。一方利益を受けた者はフランスの工業家だった。革命政府は工業の振興に努力をし、軍需工業とその関連部門に資金を投入した。これは商業を犠牲にした工業の育成となった。また、 この時、革命の標語が「自由・平等・友愛」に変わった。

 公安委員会を率いるマクシミリアン・ロベスピエールは、「フランスの指導者として共和国の敵を処罰して国家を防衛する責任がある。」と自己認識していた。この時、政府を指導する彼の目には、イギリス王国のウィリアム・ピット(小ピット)首相と反仏同盟諸国が国内の反対勢力の運動を支援し、陰謀を図ってフランス共和国を打ち破ろうとしているように映った。「反革命派がクラブや国民公会に間諜を潜り込ませて、連邦主義などの運動を作り出し国家の転覆を図っているのだ。」と繰り返し訴えた。公安委員のマリー・ジャン・エロー・ド・セシェルの秘書がイギリスの間諜であることが発覚し、公安委員会の議事が漏洩していたことも背景にあった。マクシミリアン・ロベスピエールのイギリスの陰謀に対する敵意は強まっていき、国民公会で「イギリスの議会政治を金権政治である。」として非難しフランスの共和政を擁護した。

 12月04日、恐怖政治の基本法、フリメール14日法の可決により政府の細目が制定された。これにより、公安委員会が外交・軍事・一般行政を、保安委員会が治安維持を担当することになった。フリメール14日法の定義した独裁機構には1つ問題があった。治安・警察行政に関してだけは保安委員会に強力な権限を与えていた。実際、公安委員会独裁に対抗できる組織としてフランス共和国にはまだ保安委員会と革命裁判所があった。これらは恐怖政治の実行面の主役であり、警察権と特別司法権なくして恐怖政治を行えないから、権限を与えないわけにはいかなかったのである。特に保安委員会は、事実上の二頭政治体制の一角というべきほどの機構で、12月〜翌年04月までの間は公安と保安の両委員会が革命の両輪だった。
 このような状態が放置されたのは、汚職問題で尻に火がついたダントン派の面々が攻勢に出て、エベール派との争いを激化させたためで、いよいよジャコバン分派の粛清が現実味を帯びたからである。この対立は1年以上も革命を停滞させていた。ダントン派は激しくエベール派の恐怖政治を攻撃して批判し、一方でエベール派もコロー・デルボワの助力を得て応戦して汚職を非難した。
マクシミリアン・ロベスピエールはこの争いに距離を置いていたが、恐怖政治批判が公安委員会批判となることは許さなかった。


ロベスピエール - ピーター・マクフィー, 高橋 暁生
ロベスピエール - ピーター・マクフィー, 高橋 暁生

posted by cnx at 07:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 反吐 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする