
他民族からは「ヘブライ人」と謂れ、自らは「イスラエル人」と称し、バビロン捕囚後には「ユダヤ人」と呼ばれるようになった徒輩。ヘブライ人、イスラエル人、ユダヤ人は同じ民族を指している。
ユダヤ人(ヘブライ語: יהודים、英語: Jews、ラジノ語: Djudios、イディッシュ語: ייִדן)は、猶太教の信者(宗教集団)または猶太教信者を親に持つ者によって構成される宗教信者。原義は狭義のイスラエル民族のみを指す。イスラエル民族の1つ、ユダ族がイスラエルの王の家系だったことを由来とする。猶太教という名称は、猶太教徒が多く信仰していた宗教であることによる。ユダヤとは、パレスチナ南部の地域。酋長ヤコブの子ユダに由来する。古代イスラエル統一王国の分裂後の南ユダ王国があった地域である。
南ユダ王国滅亡後のユダヤの歴史
南ユダ王国が滅ぶと、僅かな例外的時期を除いて西暦20世紀に至るまでユダヤ民族が独立国を持つことはなかった。
神武天皇74(西暦前587)〜安寧天皇10(西暦前539)年 新バビロニア帝国
安寧天皇10(西暦前539)〜孝安天皇61(西暦前332)年 アケメネス朝ペルシア帝国
孝安天皇61(西暦前332)〜孝安天皇88(西暦前305)年 プトレマイオス朝エジプト
孝安天皇88年(西暦前305)〜開化天皇17(西暦前141)年 セレウコス朝シリア
開化天皇17(西暦前141)〜崇神天皇35(西暦前63)年 ハスモン朝 ユダヤ人国家
崇神天皇35(西暦前63)〜崇神天皇61(西暦前37)年 共和政ローマ元老院属州
崇神天皇61(西暦前37)〜垂仁天皇73(西暦44)年 ヘロデ家
垂仁天皇73(西暦44)年 ユダヤ属州(ローマ帝国皇帝属州)
垂仁天皇73(西暦44)〜景行天皇23(西暦93)年 ヘロデ家
垂仁天皇73(西暦44)〜仁徳天皇83(西暦395)年 ローマ帝国皇帝属州
仁徳天皇83(西暦395)〜舒明天皇06(西暦634)年 東ローマ帝国
舒明天皇06(西暦634)〜永正13(西暦1516)年 イスラーム諸王朝 途中に十字軍国家の時代を含む。
永正13(西暦1516)〜大正06年(西暦1917)年 オスマン帝国
大正07年(西暦1918)〜昭和23(西暦1948)年 イギリスによる国際聯盟の委任統治
昭和23(西暦1948)年 イスラエル国(メディナット・イスラエル)成立 共和政国家の樹立、現代に至る。
西暦135年、ローマが叛乱を鎮圧し、ユダヤ的なものを一掃しようとしたローマ人は、この土地をユダの地(ユダヤ)ではなく、ユダヤ人の宿敵ペリシテ人に因んで「パレスチナ」、エルサレムを「アエリア・カピトリーナ」と改称し、ユダヤという地名は消滅した。
また、ユダヤ人は人種的にはセム族とされるが、長いディアスポラ(離散)のなかで、周辺民族との混血の結果、セファルディームとアシュケナジームの違いが生じ、また言語もイデッシュ語などが生まれた。現在、ユダヤ人はイスラエルの他、世界中に分布しており、アメリカにも約600万人が住んでいるとされる。しかし現在ではユダヤ人を「人種」概念で捉えるのは困難で、現実には「猶太教を信仰する徒輩」と捉えるのが正しい。人類学的に同質のユダヤ人は存在しない。
フランス共和国第1共和政(西暦1792〜1804年)
国民公会(西暦1792〜1795年) その3
同12月04日、エベール派へ転じた派遣議員ジョゼフ・フーシェ(Joseph Fouché)、ジャン・バティスト・カリエ(Jean-Baptiste Carrier)、ジャン・マリー・コロー・デルボワ(Jean-Marie Collot d'Herbois)らによって反耶蘇教運動が主導され、大規模な報復、リヨンの大虐殺が始まり、国民公会の命令書に従って町の家屋や教会などの建築物の破壊をおこない、1800人に及ぶ大量処刑を実行した。ギロチンでは間に合わないと、処刑には大砲が用いられた。この時叛乱分子の処罰のために派遣されたジョゼフ・フーシェ、コロー・デルボワ両人は叛乱分子の根絶の全権を与えられていたが、マクシミリアン・フランソワ・マリー・イジドール・ド・ロベスピエール(Maximilien François Marie Isidore de Robespierre)はリヨンの大虐殺に胸を痛め、2人の行為に激怒した。虐殺後ジョゼフ・フーシェがマクシミリアン・ロベスピエールの許を訪ねて釈明を試みようした際、マクシミリアン・ロベスピエールはジョゼフ・フーシェに軽蔑に満ちた態度を取っていた。
革命政府の統治原理を示した「フリメール14日法」が宣言されると、さらに独裁者の階段を上り始めたばかりのこの男は、ジャコバンクラブから裏切り者である「外国の間諜の粛清」を要求した。翌12月05日、ダントン派のリュシー・サンプリス・カミーユ・ブノワ・デムーラン(Lucie-Simplice-Camille-Benoît Desmoulins)は新聞「ヴィユ・コルドリエ」を発刊し、「国民公会の優秀な議員たちは、いわゆるこの自由(言論の自由)に対する危機について奇妙な思い違いをしてしまっている。人々は恐怖政治を日程に上らせることを望んでいるが、それはつまり有害な市民による恐怖政治である。」と恐怖政治への批判を活発化させていた。
12月05日の国民公会でマクシミリアン・ロベスピエールは「非耶蘇教化運動を通じて敵が国内に深く浸透している。」と警鐘を鳴らした。そうした中、外国の手先の代表として名前が浮上したのが、非耶蘇教化運動にも関わったエベール派の議員ジャン・バプティスト・「アナカルシス」・クローツ(Jean-Baptiste "Anacharsis" Cloots)だった。プロイセンの元貴族ジャン・バプティスト・クローツは、「汚職事件で死刑判決を受けたある銀行家と取引した。」いう理由で嫌疑を掛けられた。この時、ジャン・バプティスト・クローツはジャコバンクラブ議長に当選したばかりだったが、演壇に登ることも許されず、ジャコバンクラブからの除名という死の宣告に近い決定を否応無く受けた。そしてさらに12月11日、カミーユ・ブノワ・デムーランが、「クローツはオー ストリアのカウニッツ公(ヴェンツェル・アントン・フォン・カウニッツ・リートベルク (独語: Wenzel Anton Graf von Kaunitz-Rietberg、チェコ語: Václav Antonín hrabě Kounic-Rietberg))の私生児のプロリのいとこだ、クローツもショーメット(ピエール・ガスパール・ショーメット(Pierre Gaspard Chaumette))もプロイセンの金で買われている。」と小冊子で根も葉もない中傷をして追い 討ちを掛けた。アナカルシス・クローツは非難の嵐の中で大衆の理性を信じて反論したが、自分が見 捨てられ、内ゲバ的党派争いの中で生贄にされたことを知った。12月12日、マクシミリアン・ロベスピエールもジャコバンクラブでジャン・バプティスト・クローツを糾弾した。「銀行家とだけ生活する人間を共和主義者と信じられるだろうか。彼はフランス人以上に愛国的であるように見せながら、実際は列強国の手先とともに暮らしていたのである。彼らは(愛国者の)仮面を覆い、我々を分裂させる。」そして最後に、貴族、聖職者、銀行家、外国人のジャコバンクラブからの追放を提案した。この提案はすぐに採用された。外国人で元貴族という出自のジャン・バプティスト・クローツは、非耶蘇教化運動とともに排除の対象になった。マクシミリアン・ロベスピエールが批判の手を緩めることは最早なかった。12月25日、国民公会でマクシミリアン・ロベスピエールは「革命政府の諸原則に関して」と題する革命政府の諸原則を示すことを目的とした演説の中で、立憲政府との相違を明らかにすることでマクシミリアン・ロベスピエールは初めて明示的に恐怖政治の必要に言及した。まず、「革命政府の理論はそれを生み出した革命と同じくらい新しい。」と述べ、「立憲政府の目的は共和国を維持することだが、革命政府の目的はそれを創設することである。革命政府は、その敵に対する戦いを通じて自由を勝ち取らなければならないのに対して、立憲政府はそれを維持することだけが目的である。」、「憲法によって作られた政府の主要な関心は、個人の自由である。そして革命政府の主要な関心は、公の自由なのである。憲法に基づく政府においては国家の欺瞞に対して個人の自由を守っていればほぼそれで十分だった。ところが、革命政府の下では、国家は、国家を攻撃する徒党から自身を守らねばならない。革命政府においては、国家の防衛は良き市民に掛かっている。人民の敵が齎すものは唯一死だけである。」、「この革命政府の下では、全ての法の上に人民の救済が、全ての名目の上に必然性が置かれる。」と述べ、マクシミリアン・ロベスピエールは共和国は未だ戦時下で革命中の状況にあることを示し、「国家転覆を画策する党派を根絶するまで恐怖政治を継続しなければならない。」と力説した。 「弱さと無鉄砲さ、穏和主義と過激さ、2つの暗礁の間を航行しなければならない。」では、ダントン派とエベール派が念頭にあった。「ただ、ここでは国内のあらゆる場所に忍び込んだ外国の手先に対して議員の結束を促した。敵には、我々を分裂させることによってしか勝利はない。」、「恐怖を齎さなければならないのは、愛国者や不幸な人々の心の中ではない。掠奪品を分け合い、フランス人民の血を啜る、外国のならず者たちの巣窟の中である。そのため、革命裁判所を改革・強化し、増える犯罪者を迅速に罰しなければならない。」と結論づけた。12月25日、ジャン・バプティスト・クローツはトマス・ペイン(Thomas Paine)とともに国民公会からも除名された。12月30日、ジャン・バプティスト・「アナカルシス」・クローツは逮捕され、翌西暦1794年03月24日、人類主権を唱え「人類の友」の仇名のプロイセンの元貴族は、叛逆罪の罪で処刑された。
トマス・ペインはバスティーユ牢獄襲撃の西暦1789年暮れにラ・ファイエット侯マリー・ジョセフ・ポール・イヴ・ロシュ・ジルベール・デュ・モティエ(Marie-Joseph Paul Yves Roch Gilbert Du Motier, Marquis De La Fayette)から陥落していたバスティーユ牢獄の鍵を手渡され、米大統領ジョージ・ワシントン(George Washington)に届けるよう依頼され、この任を果たした。 西暦1793年01月15日に国民公会でルイ16世の処刑に反対する演説を行った。12月28日にジロンド党との共謀と敵性外国人という嫌疑により逮捕され、駐フランス公使ジェームズ・モンロー(James Monroe、後の5代米大統領)の助力により翌西暦1794年11月04日に釈放された。12月08日に再び国民公会に迎えられた。
ヴァンデ戦争は12日〜13日に行われたル・マン会戦、12月23日のサヴェニー会戦でロワール川を北に渡ったカトリック王党軍がグランビル港の攻略に失敗し、飢餓状態で戻ってきたところを共和国軍に相次いで各個撃破され、カトリック王党軍の主力軍は壊滅し、組織的抵抗は終息しゲリラ戦へ突入した。
トゥーロン攻囲戦ではマクシミリアン・ロベスピエールの弟オーギュスタン・ボン・ジョゼフ・ド・ロベスピエール(Augustin Bon Joseph de Robespierre、小ロベスピエール(Robespierre le Jeune))も監察に派遣されていた。フランス共和国の領土が直接に外国軍の侵入を受けただけに政府の一大関心事だった。12月18日にナポレオン・ボナパルト(仏語: Napoléon Bonaparte、西暦1794年以前はナポレオーネ・ディ・ブオナパルテ(Napoleone di Buonaparte))の活躍によりグレートブリテン王国{西暦1707〜1801年)ハノーヴァー朝(西暦1714〜1901年)、スペイン王国(西暦1700年〜)、ナポリ王国(西暦1282〜1816年)他の同盟軍が同市を放棄して撤退し、ジャック・フランソワ・デュゴミエ(Jacques François Dugommier)将軍がトゥーロンを奪還し、12月19日にフランス軍が入城し報復のテロが始まった。
コルシガ(コルシガ語: Corsica、伊語: Corsica(コルシカ)、仏語: Corse(コルス)」は、独立派の頭領パスカル・パオリ(仏語: Pascal Paoli、伊語: Pasquale de Paoli、パスクワーレ・パオリ、全名: フィリッポ・アントーニオ・パスクワーレ・ディ・パオリ(Filippo Antonio Pasquale di Paoli))が西暦1755年にジェノヴァ共和国(西暦1005〜1797年)から独立させ、コルシガ共和国(西暦1755〜1769年)が成立した。ジェノヴァ共和国からフランス王国にコルシガ島は譲渡され、西暦1769年05月のポンテ・ノーウの戦いでノエル・ジュルダ・ド・ヴォー率いるフランス王国の大軍が決定的な敗北を喫し。フランス王国に領有された。再び、パスカル・パオリがグレートブリテン王国の支援を得て叛乱を起こし、フランス共和国から独立し、イギリス王国国王ジョージ3世(George III)を国王にアングロ・コルシガ王国(西暦1794〜1796年)が成立した。フランスから見れば、叛乱地域となっていたパスカル・パオリは。内紛の末にコルシガ島を退去させられ、西暦1796年、コルシガ出身のフランス共和国イタリア方面司令官、ナポレオン・ボナパルトによってコルシガ島はフランス共和国領とされた。以降コルシガ島はフランスの領土となっているが、現代においても共和国の復活を目指すコルシガ独立運動が続いている。 フランス側に付いた裏切者一族の出身であるナポレオン・ボナパルトより現在でもコルシガ島では崇められている。
西暦1794年01月19日 : イギリス軍がアングロ・コルシガ王国の支配するコルシガ島に上陸した。
イギリス軍と戦ったアメリカ独立派も、コルシガ共和国を建国の手本とした。アメリカ合衆国{西暦1776年〜)の「建国の父」、アレクサンダー・ハミルトン(Alexander Hamilton)らニューヨーク王立大学(現コロンビア大学)の学生が参加していたニューヨーク民兵のグループは「コルシカンズ」を名乗った(後にハーツ・オブ・オークに改称)。
イギリス王国の介入で長引いていた内戦の早期終結を目指した。危機を克服するために恐怖政治を続けて軍の強化を進め、国民の結束を促して国内の再統一を図ろうした戦闘指揮は貴族出身の将校が長らく独占してきたが、恐怖政治期に貴族が次々と亡命したため有能な指揮官が不足した。そのため指揮官の任用に実力主義が取り入れられるようになった。軍の実力評価によって縁故のない若い士官が活躍できる土壌ができたことが、ナポレオン・ボナパルトが後に頭角を現す契機となった。
12月23日に叛乱軍が決定的な敗北の報せが相次いでパリに届き、マクシミリアン・ロベスピエールは革命政府の戦時有効性と、恐怖政治の正当性を弁論した。ヴァンデの叛乱軍が決定的な敗北を喫した報せも相次いで届くと、公安委員会の立場は最早強固なものとなり、ダントン派の恐怖政治中止の企ては完全に失敗した。しかしダントン派はそれらの勝利があるなら戦争を終えようと「講和の鐘が鳴った。」と早期終戦を求めた。「恐怖政治は戦争の続く限り続けられる。」とされていたからだ。ところがこの考えにはベルトラン・バレール ・ド・ヴュザック(Bertrand Barère de Vieuzac)ら平原派(プレーヌ派)も反対した。内戦には目途がたったが、対外戦争ではピレネー地方に位置する南部の国境の町コリウールがスペインに占領されるなど戦況は悪化していたため、混乱を拡げぬようにするために政治的緊張を解くわけにはいかなかった。
西暦1793年末、マクシミリアン・ロベスピエールは「共和国の敵」を打破する試みを果たすべく、有能で信頼できる人脈を整理して革命を支持する「才能ある愛国者」の表を作成している。表にはマルティアル・ジョゼフ・アルマン・エルマン(Martial Joseph Armand Herman)やルイ・アントワーヌ・レオン・ド・サン・ジュスト(Louis Antoine Léon de Saint-Just)、さらには信頼できる友人として大家の家具の請負師モーリス・デュプレ(Maurice Duplay)などの名が連ねられ、恐怖政治を継続して政敵を倒すため党派の結束を保って問題に対処しようとしていた。
12月20日には、旧友マクシミリアン・ロベスピエールに向けて危機の終結を呼びかけ、マクシミリアン・ロベスピエールとの友情に触れながら「歴史と哲学の教訓を思い出せ。愛は恐れよりも強く長く残る。」と語って恐怖政治の早期終結を訴えた。国民公会でも恐怖政治への批判や不満が論じられた。
年が明けると、フランス共和国は危機を脱し、安心感が出てきた。汚職事件をきっかけに深まる党派間、あるいは革命指導者間の対立がジャコバンクラブの中で顕在化した。ジャック・ルネ・エベール(Jacques René Hébert)とその一派の問題とは別に、特にジョルジュ・ジャック・ダントン(Georges Jacques Danton)の背信行為や旧友でダントン派のカミーユ・ブノワ・デムーランによるマクシミリアン・ロベスピエール批判が深刻な問題として浮上した。そこで、マクシミリアン・ロベスピエールは対応に迫られ、これがのちの大粛清に繋がった。
西暦1794年01月07日、反革命を疑われた議員ピエール・フィリポを称賛した。そこで、「カミーユ・ブノワ・デムーランを厳罰に処すべきだ。」という発言がジャコバンクラブで出てくると、マクシミリアン・ロベスピエールも苦言を呈せざるを得なくなった。同日、「彼は元々幸運な気質を持つが、悪い付き合いで道を外したのだ。」と弁護し、マクシミリアン・ロベスピエールは「しかし、彼が全ての軽率な言動について後悔の念を示し、自分を道に迷わせた悪い付き合いを断つことを要求する。」と聴衆に語りかけた。そして、新聞を焼いてしまうことを求めたが、カミーユ・ブノワ・デムーランは拒否し、ジョルジュ・ジャック・ダントンも彼を擁護した。これに対し、マクシミリアン・ロベスピエールは、最早忍耐強くあることはできなかった。翌日、彼を追放するか残すかという議論がジャコバンクラブでは為され、「ここでは個人が問題なのではない、自由が勝利し、真理が認められることがなにより重要なのだ。」と述べ、「この全ての議論は、個人の問題に関して多く為されたが、公共の事柄に関しては十分ではなかった。ここで、私はどちらの側にも付かない。カミーユとエベールは、私の目から見て同等に誤っている。(中略)よって、論じることが重要なのは、カミーユ・デムーランではなく、公共の事柄であり、外国人の党派の陰謀と戦っている国民公会自身なのだ。」と結論づけた。01月10日、ロベスピエールはカミーユ・ブノワ・デムーランのジャコバンクラブからの追放を支持した。マクシミリアン・ロベスピエールにとって、国内は未だ問題山積で尚且つ戦争中のフランスで恐怖政治を終結させることは非現実的なことだった。これに対し、01月25日、カミーユ・ブノワ・デムーランは、「誤ったことを言ってしまうとすぐに逮捕されるようでは発言もできない。」と、言論の自由を高唱した。革命家はほとんど例外なく、自身が嫌疑を掛けられないよう、お互いに中傷し合っていた。カミーユ・ブノワ・デムーランも賭博の経営者や王党新聞記者などとの交友関係でジャコバン派から長らく疑いの目で見られていた。
議会外ではカミーユ・ブノワ・デムーランの恐怖政治に対する批判と恐怖政治を推進しようとするジャック・ルネ・エベールの卑語下劣気違い極左紙「デュシェーム親父」との非難の応酬となっていた。マクシミリアン・ロベスピエールは両派の均衡を維持しようとしていたが、世論の分裂は危険水準に達していた。02月04日、国民公会は「黒人友の会」の活動を受けカリブ諸島での奴隷制の廃止を議論していた。プリュヴィオーズ16日法を可決し、全フランス領での奴隷制の廃止を決議したが、フランス本土で奴隷制完全廃止がなされたのは西暦1948年である。この決議を受けてサン・ドマングの実力者フランソワ・ドミニク・トゥーサン・ルヴェルチュール(François-Dominique Toussaint Louverture、またはトゥサン・ルヴェチ、ハイチ語: Tousen Louvèti, Toussaint Bréda、トゥーサン・ブレダ)はフランス共和国への帰属を決めた。イギリス王国とが奴隷廃止を認めなかったためだった。トゥーサン・ルヴェルチュールの元同盟者への裏切りとスペイン人の虐殺は後に強く非難されることになった。トゥーサン・ルヴェルチュールの転向が決定的となるとサン・ドマングの司令官エティエンヌ・ラヴォーは彼に准将の位を与えた。イギリス軍はこれに慌て、スペイン人は追放された。 この決議はナポレオン・ボナパルトによって反故にされるまで効力を保った。マクシミリアン・ロベスピエールは奴隷制を非難する決議を採択しながらも議論に加わらなかった。それ以上に国内の分断との闘いに追われ、重要な演説の作成に取り組んでいた。
西暦1794年02月05日、マクシミリアン・ロベスピエールは、国民公会で「政治的道徳性の諸原理に関する報告」と題した有名な恐怖政治演説を行った。この演説は、国内外の小康状態と共に左右の党派の対立が先鋭化する中、「エベール派とダントン派との和解を放棄し、旧友と決別する宣言でもあった。
マクシミリアン・ロベスピエールは「我々が目指すものは何か?」と自問し、「目的は自由と平等を平穏のうちに享受できることにあった。」、「(国内が二分する)このような状況にあって、諸君の政治の第一行動原理は、人民を理性によって導き、人民の敵を恐怖によって制することである。平時における人民の政府の主要な動力は徳である。革命の渦中にあっては、それは徳と同時に恐怖である。徳のない恐怖は忌まわしく、恐怖のない徳は無力である。恐怖とは、即座に行われ、厳格で、確固とした正義である。」、「自由と平等の諸法則が全ての人々の心に刻み込まれることである。それはフランスを諸国民の模範にするものだ。何やら壮大な目標に聞こえるが、それは民主主義(民主政)によって実現される。」と詭弁を弄した。
「この驚異を実現するのはどんな性格の統治か?」、「それは民主的あるいは共和的な統治の他にない。この2つの言葉は一般の使用には混乱があるが同義である。貴族政は君主政と同じく共和政ではないからだ。民主政とは、人民が絶えず集まって公共の問題を全て自分たちで決める国家ではない。(中略)そのような統治はかつて存在しなかったし、存在し得るとしても、人民を専制に連れ戻すだけだ。」、「自由と平等民主政とは、主権者である人民が、自分で良くし得ることは全て自分で、自分でできないことは全て代表者によって行う国家である。従って、民主政治の諸原理の中にこそ、あなた方の政治的な行動規範を探し求めなければならない。」
この演説では、マクシミリアン・ロベスピエールが重視した代表の原理が繰り返され、その前提となる人民と代表者の一致を可能にするものが語られ、「民主政を支え、動かす本質的な原動力とされる美徳である。」私が言っているのは、(古代)ギリシアやローマで多くの驚異を成し遂げ、フランス共和国においてもさらにもっと驚くべきことを生み出すに違いない公共の美徳のことである。」また、「共和政と民主政の本質は平等であるため、美徳の中には平等への愛が含まれる。」マクシミリアン・ロベスピエールの演説冒頭で平等の対になっていた自由に代わり美徳が滑り込み、平等はその中に含み込まれ、美徳が最上位に昇華される。
では、美徳とは何か。「この崇高な感情はあらゆる個別の利益に対して公共の利益を優先させることを前提にするのも事実である。その結果、祖国愛はまたあらゆる美徳を前提にし、あるいは生み出す。というのも、美徳はこうした犠牲を可能にする魂の力以外の何であろうか。」要するに、美徳とは公共の利益を優先する崇高な感情であり、個別の利益あるいは自己を犠牲にすることを可能にする魂である。「美徳は民主政の魂であるだけではなく、この統治においてしか存在しえない。」とされるのは、「貴族政や君主政と違って民主政のもとでは国家が全市民にとって平等な(みんなと同じ)祖国となり、よって同じ犠牲の対象になるからだ。」と狂騒に酔った。
「驚くべきことに、美徳は人民には自然であると言われる。」一方で、代表者(国民公会議員)に向けて、「私個人の下劣なことに魂を没頭させ、卑小な事柄への熱中や偉大な事柄への軽蔑を呼び覚ます傾向のあるものは全て排除され、制圧されなければならない。」と訴えた。「フランス革命の体系の中では、非道徳的なものは非政治的であり、腐敗したものは反革命的である。」それは、「本来は徳のある存在である人民の傾向ではないため、人民に汚染することのないよう除去されなければならない。」という発想になる。紛れもなく、マクシミリアン・ロベスピエールは、革命勃発前後に読み心酔したジャン・ジャック・ルソー(Jean-Jacques Rousseau)の妄想の信徒である。
そこで、恐怖が必要になる。すでに前年の演説で「恐怖を齎されなければならない。」と表明している。「美徳と共に恐怖が革命政府(革命時の民主政治)には必要である。」と断じ、「美徳なくして恐怖は有害であり、恐怖なくして美徳は無力である。恐怖は迅速、厳格で、仮借なき正義(の執行)以外の何物でもない。従って、恐怖は美徳の発露である。それは個別の原理というより、祖国のもっとも差し迫った必要に適用される民主主義の一般の原理の帰結である。」
マクシミリアン・ロベスピエールの誤った論に依れば、「平時における人民の政府の原動力は美徳である。」とされ、「美徳と恐怖の双方を必要とする革命時のそれとは区別される。」しかし、平時と革命時はそれほど明確に峻別できるか?言い換えると、平時でも人民本来の美徳を脅かす敵がいない、恐怖の不要な状態、つまりは人民の単一性(同質性)が達成された状態を現実的に想定することは可能か?その状態に至ることがマクシミリアン・ロベスピエールの理想ではあったが、それが不可能なら、マクシミリアン・ロベスピエールの論に依れば、「時代に関係なく、民主政治には多かれ少なかれ、恐怖を齎す必要がある、」ということになる。
この場合、恐怖とは、敵を排除することで人民の単一性(同質性)を恢復させる手段である。マクシミリアン・ロベスピエールはこれを「民主政が必要に迫られた際に用いる民主主義の一般の原理の帰結」と表現した。
さらに、「専制の原動力は恐怖である。」と唱えたシャルル・ルイ・ド・モンテスキュー(Charles-Louis de Montesquieu、本名: ラ・ブレードとモンテスキュー男爵シャルル・ルイ・ド・スゴンダ(Charles-Louis de Secondat, baron de la Brède et de Montesquieu)))を模倣し、マクシミリアン・ロベスピエールは「あるべき革命時代の民主政としての革命政府は、暴政に対する自由の専制である。」と断言した。「確かに恐怖は専制君主が愚かな臣民を支配する常套手段だが、民主政の下でも自由の敵を制圧する手段として肯定される。」革命家やテロリスト、政治屋の強弁、「目的次第で手段は正当化される。」ということだ。
このようにマクシミリアン・ロベスピエールの演説、その中に発露する思想を見ていると、彼の言う美徳ある民主主義は半ば必然的に恐怖を伴う。演説終盤で、2つの党派、穏和派と超革命派に再び言及されるが、ここで彼らは裏切り者だと切り捨てた。つまり、これからは両派も、恐怖が齎される対象になるだろう。民主主義とは、人民の意志あるいは人民と代表者のその一致に根ざした政治であり、その理想のためには、彼らを分裂させる敵は排除されなければならない。
冷酷な気違い秀才「清廉の人」マクシミリアン・ロベスピエールの演説では敵の排除よりも、その裏返しでもある分裂への危機感であり、共和国の単一性(同質性)への執着とも言える思想である。それが、彼の構想する政治には必要だった。その政治とは、「独裁」などではなく、あくまで詭弁としての「民主主義」だった。その統治体制の原理となるのが「美徳」であり、「美徳」の必要こそ、「清廉の人」マクシミリアン・ロベスピエールが最も強く訴えたものだった。実際は、屁理屈で即刻生首が飛ぶ、刑罰は死刑のみの恐怖時代は、冷酷な気違い秀才の独裁(寡裁)で虐殺を繰り返した。
冷酷な気違い秀才「清廉の人」マクシミリアン・ロベスピエールは、悪逆非道なディープステイト(DS(出来損ないの堕落した最兇な屑))で、フランス革命はDSの中核、猶太やフリーメイソン、カッセン・ヘッセンなど悪魔が作り出した地獄の時代である。戦争や疫病、・・で恐怖を作り出し、ゴイムの生き血を啜る。共産主義、ファシズム、フェミニズム、グローバリズム、変態LGBTQ+、・・に異論は許さない。マスゴミ操作、GAFA、選挙操作、暗殺で異論は排除し統制全体主義単一世界OW(One World)へとに暗躍している。現代、ディープステイト(DS(出来損ないの堕落した最兇な屑))は文化や文明を破壊し、武漢肺炎、ウンコ喰らいなやペリシテ人の土地や台湾で戦争や恐怖を起こし、巨万の富を独占している。悪魔の機関WHOはOH(One Health)に国家の主権を恐怖で奪い統制全体主義ファシズム世界を構築しようとしている。
恐怖政治時代の外科医で山岳派(モンタニャール派)国民公会の議員だったルネ・ルヴァスール(René Levasseur)著「回想録」全4巻をカール・マルクス(Karl Marx)も熱心に読んだ。「回想録」は「君主制と宗教を侵害した。」として起訴され、裁判では「回想録」の推定編集者アシル・ロシュ(Achille Roche)が著者と見做された。
ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・スターリン(露語: Ио́сиф Виссарио́нович Ста́лин、 Iosif Vissarionovich Stalin、グルジア語: იოსებ ბესარიონის ძე სტალინი、本名: ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・ジュガシヴィリ(露語: Ио́сиф Виссарио́нович Джугашви́ли、グルジア語: იოსებ ბესარიონის ჯუღაშვილი))の書庫の本棚にはフランス革命本ではなくヴィクトル・マリー・ユーゴー(Victor-Marie Hugo「九十三年」が並んでいた。

ユゴ−文学館 6 九十三年 - ヴィクトル・ユゴー

スターリンの図書室:独裁者または読書家の横顔 - ジェフリー・ロバーツ, 松島 芳彦
マリー・アントワネット・ジョゼフ・ジャンヌ・ド・アプスブール・ロレーヌ(Marie-Antoinette-Josèphe-Jeanne de Habsbourg-Lorraine、またはマリー・アントワネット・ドートリッシュ(Marie-Antoinette d'Autriche、マリア・アントーニア・ヨーゼファ・ヨハンナ(独語: Maria Antonia Josepha Johanna)))の処刑後、今度は王妹エリザベート・フィリッピーヌ・ド・フランス(Élisabeth Philippine Marie Hélène de France)を処刑するための証拠を作ろうとした。既にジャック・ルネ・エベールらに洗脳されていたルイ17世(ルイ・シャルル)は、かつて叔母エリザベート・フィリッピーヌが行っていた密書の送り方などをあっさりと告白した。この洗脳教育は6ヶ月間続いた、母マリー・アントワネットは、洗脳が始まった数ヶ月後に処刑をされた。母マリー・アントワネットはルイ17世が受けている残忍な虐待を知ることはなかった。ルイ17世(ルイ・シャルル)も母のギロチンによる処刑を知ることはなく、死後も花が好きな母のために、外で摘んだ花を母の部屋の扉の前に置き続けた。
この頃ピエール・ガスパール・ショーメットは、「常にルイ17世(ルイ・シャルル)と過ごしているアントワーヌ・シモン(Antoine Simon)が王党派に買収されるのではないか。」と不安になり、パリ自治市会はアントワーヌ・シモンに圧力を掛け、アントワーヌ・シモンを厳しい監視下に置いた。事実、西暦1793年12月まで、ルイ17世(ルイ・シャルル)の生活の記録は残っていない。その時の記録は12月04日のもので、「『王妹エリザベート・フィリッピーヌとマリー・テレーズ・シャルロット(Marie Thérèse Charlotte de France)王女の部屋から物を叩く音がする。』と王子が言っており、贋金作りの音だと思える。」とアントワーヌ・シモンがパリ自治市会に報告し、議員の失笑を買った。真相は双六の音だった。この待遇が面白くないアントワーヌ・シモンは、ルイ17世(ルイ・シャルル)にさらに暴力を振るうことで鬱憤を晴らした。シモンの妻マリー・ジャンヌはルイ17世の身の回りの世話をしたが、夫シモンの虐待を止めさせることは出来なかった。西暦1794年01月03日、ピエール・ガスパール・ショーメットより、「自治市会の役人が定例会にすら出席せずに何らかの仕事をしている場合、両立が出来ないのなら役人としての職務を放棄せよ。」と通達した。アントワーヌ・シモンは「カペーの息子(ルイ17世)」の世話役(1万リーヴルの報酬と居所が提供されていた)を放棄し、本来の業務に戻ることにする。公安委員会も「特別なる監視は不必要。」と判断した。1794年1月19日にシモンはルイ17世の後見人を辞職、妻マリー・ジャンヌとともにタンプル塔から去った。次の後見人は指名されなかった。
国内の王党派や外国の君主からは正式なフランス国王と見做され、政治的に利用されることを恐れたピエール・ガスパール・ショーメットとジャック・ルネ・エベールは02月01日、元は家族の食堂であった部屋にルイ17世(ルイ・シャルル)を押し込んだ。厚さが10フィートもある壁にある窓には鎧戸と鉄格子があり、ほとんど光は入らなかった。不潔な状況下にルイ17世を置き、貶めるために、室内には敢えてトイレや室内用便器は置かれなかった。そのため、ルイ17世は部屋の床で用を足すことになり、タンプル塔で働く者はこの部屋の清掃と室内の換気は禁止された。また、本や玩具も与えられず、蝋燭の使用、着替えの衣類の差し入れも禁止された。この頃は下痢が慢性化していたが、治療は行われなかった。食事は1日2回、厚切りのパンとスープだけが監視窓の鉄格子から入れられた。ルイ17世に呼び鈴を与えられたが、暴力や罵倒を恐れたため使うことはなかった。監禁から数週間は差し入れの水で自ら体を洗い、部屋の清掃も行っていたが、ルイ17世はくる病になり、歩けなくなった。その後は不潔なぼろ服を着たまま、排泄物だらけの部屋の床や蚤と虱だらけのベッドで一日中横になっていた。室内は鼠や害虫で一杯になっていた。深夜の監視人交代の際に生存確認が行われ、食事が差し入れられる鉄格子の前に立つと「戻ってよし。」と言われるまで「せむしの倅」、「暴君の息子」、「カペーのガキ」などと長々と罵倒を続けた。番兵の遅刻があった日は、同じ夜に何度もこの行為は繰り返された。もはや彼に人間的な扱いをする者は誰も居なかった。 パリ自治市会の派閥争いにより、悪鬼ジャック・ルネ・エベールとエベール派は共に03月24日に処刑され、その3週間後にピエール・ガスパール・ショーメットも処刑された。05月11日、マクシミリアン・ロベスピエールはタンプル塔の様子を見学した。その後、07月28日にマクシミリアン・ロベスピエールやロベスピエール派だったかつてのルイ17世の後見人アントワーヌ・シモンが処刑された。
西暦1794年の早春は再び飢饉が危惧された。特にパリ近郊では民衆の掠奪以外にも革命軍が食料徴発隊と化して没収と平等分配をしたため、農民はパリに作物を出荷するのを嫌って避けるようになり、物資不足に拍車が掛かった。事態は急迫してきた。地方に派遣され反革命派の鎮圧の任務に当たっていたサン・ジュストがパリに呼び戻され、国民公会で公安委員会を代表して演説した。そこで、「外国人の陰謀」事件とともにダントン派とエベール派双方を批判、厳格な措置を要求した。同時に、愛国者を釈放する権限を保安委員会に付与し一方で、02月26日と03月03日(ヴァントーズ(風月)08日と13日)にサン・ジュスト他の急進派は反革命派(亡命貴族)から財産権を含む市民権を剥奪し、財産をを没収し貧困者に無償で配分するヴァンドーズ法を提案し、 施行はされなかったが採択された。これには民衆運動を味方に付ける狙いがあった。 マクシミリアン・ロベスピエールは理論的にはこの法律を支持したが、実施するための支援を欠くことが明らかになり、法律を施行するための努力は数ヶ月のうちに終了した。 ヴァントーズ法を施行すれば「土地のない農民に土地を与える。」という土地革命が初めて実現した筈だったが、マクシミリアン・ロベスピエール排除の結果、フランス革命では最後まで土地革命は実現されなかった。
03月02日、エベール派(およびコルドリエ派連合)は勢いを得て、エベール派のシャルル・フィリップ・ロンサン(Charles-Philippe Ronsin)がコルドリエクラブで「神聖な蜂起」と呼ばれる運動を始め、反革命政府蜂起を呼び掛けた。彼らは公安委員会、保安委員会も国民公会も信用しなかった。03月04日、ジャック・ルネ・エベール本人も、アントワーヌ・フランソワ・モモロ(Antoine-François Momoro)やフランソワ・ニコラ・ヴァンサン(Francois-Nicolas VIncent)から弱腰と批判されたのに刺戟を受け、穏健派とマクシミリアン・ロベスピエールの共犯関係を指摘し、公安委員会に反対して革命的運動を取るよう呼びかけ、ついに蜂起を唱えた。だが、これに呼応したのは48地区のうちわずか2つで、パリの民衆は同調せず、蜂起は未遂に終わった。サン・ジュストがそれより前に経済テロルのヴァントーズ法を成立させていたので、サン・キュロットが敵の極左派の下に結集するのを阻止できた。
いよいよエベール派の逮捕が日程に上ってきた。03月13日、国民公会でサン・ジュストが「外国人の陰謀」に関する報告で提案し、「悪徳に対して戦え。」と叫んだ、革命裁判所による陰謀家の迅速な逮捕と裁判に関する法令に同意した。その日、久しぶりにジャコバンクラブの演壇に立ったマクシミリアン・ロベスピエールは、「私は祖国を愛している、それに全存在を捧げたい。」と改めて決意表明をした後、「自由の擁護者の勢力が今ほど必要な状況はない。自由はかつてない多くの侮辱と、卑劣で危険な陰謀に晒されている。私の肉体の力が精神の力と同じくらい強ければ良かったのに。」と語った。その日の晩、西暦1794年03月13日〜14日にかけて、公安両委員会、保安両委員会の決定により、ジャック・ルネ・エベール、フランソワ・シャボー(François Chabot)とその一派が逮捕された。賽は投げられた。2日後、マクシミリアン・ロベスピエールは国民公会で演説し、「心からの愛国者は団結しなければならない。」と訴えた。その上で、「全ての党派を同時に滅ぼさなければならない。」と主張した。そして、「革命裁判所は犯罪者たちを識別することができ、人民と代表者を引き裂こうとしている陰謀家たちを怯えさせるのだ、今こそ人民が代表者と心を1つにすることを願う、」と述べた。
西暦1791年12月13日、アッシニアの下落を助長する投機への対策として、有価証券移転税が新設されたが、東インド会社理事は、これを不服として、ジュネーブ出身のスイス人のジロンド派の財務大臣エティエンヌ・クラヴィエール(Étienne Clavière)の公認の下に脱税を始めた。エティエンヌ・クラヴィエールは東インド会社の理事で大株主のサント・クロワ男爵ジャン・ピエール・ド・バッツ(Jean Pierre de Batz, Baron de Sainte-Croix、バッツ男爵(Baron de Batz))の友人であった。しかしジロンド派追放で後ろ盾を失った会社に、不正を追及する圧力が強まった。国民公会は東インド会社を清算することにしたが、この清算で旧ジロンド派系議員と、ダントン派の議員を巻き込んだ大規模な買収と不正が行われた。エティエンヌ・クラヴィエールは、西暦1793年06月02日に逮捕され、革命裁判所の出頭命令の前日に自殺した。
西暦1793年11月17日にジャック・ルネ・エベールは、フランス東インド会社の清算をめぐる大規模な汚職事件、東インド会社汚職事件が発覚すると、これに関与していたオーストリア系ユダヤ人の銀行家ユニウス・フレイを告発した。エベール派のフランソワ・シャボーは、ユニウス・フレイの妹レオポルディン・フレイ(Leopoldine Frey)と数週間前に結婚していた。
01月12日にジョルジュ・ジャック・ダントンの裁判に関連して、ユニウス・フレイは共同被告人の義兄シャボーから糾弾された。フランソワ・シャボーとその側近は、詩人フィリップ・フランソワ・ナゼール・ファーブル・デグランティーヌ(Philippe François Nazaire Fabre d'Églantine)、ダントン派のクロード・バシール(Claude Basire)らを次々に告発し投獄させた。01月13日、ファーブル・デグランティーヌが逮捕され、ユダヤ人ユニウス・フレイから収賄している国民公会議員の名前を暴露した。これにより国民公会議員や銀行家、投機家が逮捕された。
03月18日、東インド会社汚職事件に関わったオーストリア系ユダヤ人の銀行家ユニウス・フレイが逮捕され、03月23日にユニウス・フレイの弟のエマニュエル・フレイ(Emanuel Frey)、妹でフランソワ・シャボーの妻のレオポルディン・フレイが逮捕された。「オーストリア王族に代わってマリー・アントワネット救出に賞金を提供した。」として以前に告発されていたサント・クロワ男爵ジャン・ピエール・ド・バッツ(Jean Pierre de Batz, Baron de Sainte-Croix、バッツ男爵(Baron de Batz))は東インド会社汚職事件の陰謀の指導者だったが逃げ遂せた。レオポルディン・フレイは、夫フランソワ・シャボーの申し立てにより釈放された。
しかしジョルジュ・ジャック・ダントンと、予てよりジャック・ルネ・エベールの急進主義を行き過ぎとして警戒していたマクシミリアン・ロベスピエールの反撃を受け、さらにダントン派のカミーユ・ブノワ・デムーランからは、貧民の味方として富者を攻撃していたジャック・ルネ・エベールが、実際にはパリ在住の外国人のユダヤ人銀行家ユニウス・フレイと親密な関係にあり、また「デュシェーヌ親父」を軍に大量購読させて巨額の利益を得ていたことを暴露されて窮地に陥り、03月18日、東インド会社汚職事件に関わった外国人の銀行家のユダヤ人銀行家ユニウス・フレイらが逮捕された。03月21日(ジェルミナル(芽月)01日)、裁判が開始され、ジャック・ルネ・エベールらは外国人と共謀した敵と共に裁かれることになった。以後2週間ほどにわたって繰り広げられる党派をめぐる悲劇を、ジェルミナル(芽月)の劇という。
続いてマクシミリアン・ロベスピエールはもう1つの党派に矛先を向けた。ジャック・ルネ・エベールらの裁判が開始される中、マクシミリアン・ロベスピエールはダントン派(穏健派)への批判も緩めなかった。03月20日、国民公会の演説で、「祖国を引き裂こうとした1つの党派はほぼ消え去ったが、別の党派が打ち倒されておらず、ある種の勝利さえ得ており、われわれは決死の覚悟で敵と戦わなければならない。」と主張した。そして、「全ての党派が滅ぼされなければ、我々に休息はやってこない。」と繰り返した。「祖国への愛着の影響力が、フランス人民の権利が、今全ての党派に打ち勝たなければ、自由を強固なものにするために神が諸君に与えた最高の好機を逸することになるだろう。逆に、国民公会が敵に打ち勝つほど強くないとすれば、我々にとって最も幸福なことは死ぬことだろう。それは革命の舞台で3年もの間行われてきた卑しさと犯罪のあまりに長く苦痛な光景からついに解放されることではある。しかし(中略)、国民公会が人民と正義、理性を勝利させることを決断するとすれば……」こう述べたところで、議場の至る所から「そうだ、そうだ。」という叫び声が上がった。
翌日03月21日(ジェルミナル(芽月)01日)、ジャコバンクラブで演説し、「ダントン派は有力な銀行家などイギリスやオーストリアの手先の庇護の下に活動してきた。」と告発し、「暴政の支援なしに存続しえる党派はない。」と断じた。「なるほど、コブレンツ(亡命貴族の拠点)やラ・ファイエットの党派ではないが、今日の党派はその事実によって特徴づけられる。それは人民を啓蒙する事実の真実性によって告発されるのである。それを暴く時が来るだろう。その時は遠くない。彼らが人民を裏切ったという事実があり、それは人民自身によって告発される。」と述べた。
ジャック・ルネ・エベールらの裁判はわずか3日で結審し有罪判決が確定し、03月23日、ジャック・ルネ・エベール、シャルル・フィリップ・ロンサン、アントワーヌ・フランソワ・モモロ、ジャン・バプティスト・「アナカルシス」・クローツなどの過激派は、「外国人と通謀し、市民を腐敗させる計画を練っていた。」としてギロチンより首を刎ねられた。
マクシミリアン・ロベスピエールあるいは事実上はジャック・ルネ・エベールらの逮捕の流れを作ったサン・ジュストの主導する公安委員会による措置は、以前にも増して迅速かつ苛烈になった。少なくとも一方の党派の逮捕後、もう一方の党派、ダントン派への批判が激しくなった。
実際に、彼の考える「祖国の敵が国内にいる。」という事実が顕在化した。ジャック・ルネ・エベール本人の蓄財は突出しており、他の議員も多かれ少なかれ裏金を得ていた。むしろ、「清廉の士」マクシミリアン・ロベスピエールはその中で例外的な存在だった。政治家マクシミリアン・ロベスピエールの原点は、特権階級(エスタブリッシュメント)の、あるいは彼らと共謀した政治家やその党派の仮面を剥ぎ取り、真実を公にすることだった。ジェルミナルの劇によってマクシミリアン・ロベスピエールから民心が離れ、後のクーデタに繋がったという従来の見方は、すでにこの時点で民衆は党派を支持していなかったため否定される。ジャック・ルネ・エベールはそれ以前から「金で雇われた民主主義者」と呼ばれ、汚職の事実が報道されており、彼に同調する民衆はほとんどいなかった。彼の支持の絶頂期は前年の蜂起だった。彼らの逮捕について、当時の報告によれば、「最も教養のない庶民に井樽まで、恐らくあまりにも遅すぎたこの正当な措置に拍手喝采をしない者はいない。」という始末だった。処罰として「ギロチンでは甘すぎる。」という声もあちこちで聞かれた。
フランス革命の影響で、03月24日、アンジェイ・タデウシュ・ボナヴェントゥラ・コシチュシュコ (波語: Andrzej Tadeusz Bonawentura Kościuszko)の主導の下、ポーランド・リトアニア共和国(ポーランド王国およびリトアニア大公国)(西暦1569〜1795年)の残部とプロイセン領ポーランド(西暦1772〜1807、1813〜1871年)で蜂起(コシューシコ蜂起)が起き、11月09日まで続いた。
極左の失墜の反動で右派が勢力を増さないように、ダントン派への追及も始まった。彼らの何人かは確実に汚職に手を染めていたので、これは簡単だった。ただ愛国者と常に庇ってきた盟友ジョルジュ・ジャック・ダントンを手に掛けることだけがマクシミリアン・ロベスピエールを躊躇させたようである。党派の消滅を訴え、エベール派の裁判中も「穏健派」を攻撃したマクシミリアン・ロベスピエールだったが、ジョルジュ・ジャック・ダントン自身の逮捕には最後まで慎重だった。個人的な付き合いとは別に、堂々とした体躯でもミラボー伯オノレ・ガブリエル・ド・リケティ(Honoré-Gabriel de Riqueti(正書法ではRiquetti), Comte de Mirabeau)を思わせるダントンの革命における存在感も、マクシミリアン・ロベスピエールはよく理解していた。それでも、ジョルジュ・ジャック・ダントンの腐敗について記した記録をサン・ジュストに手渡した。ついに公安委員会で逮捕に署名することになった(逮捕には公安委員全員の署名が必要だった)。前年夏、公安委員会に逮捕状を出す権限を与える決議を支持したのはジョルジュ・ジャック・ダントン自身であった。
西暦1794年03月29日、サン・ジュストの告発で、東インド会社汚職事件での収賄の容疑で公安委員会・保安委員会は「穏健派」の逮捕を決定した、翌日ジョルジュ・ジャック・ダントンやカミーユ・カミーユ・ブノワ・デムーランら同派の指導者を逮捕し。同じく、東インド会社汚職事件に連座したファーブル・デグランチーヌやフランソワ・シャボーも逮捕された。03月31日、国民公会ではル・ジャンドル議員がダントン派に議会で釈明する機会を与えるよう提案を行ったが、マクシミリアン・ロベスピエールがこれに反論し、却下された。「彼がダントンについて話したのは、この名には特権が与えられていると恐らく信じているからだ。いいや、我々は特権など欲しない。いいや、我々はそのような偶像を欲しない。」国民公会議場では何度も拍手が起こった。そして、「国民公会は腐敗した偶像を破壊するかその逆か、近日中に決するだろう。」と述べ、「清廉の士」は己の信条をこう簡潔に吐露した。「私はここで、陰謀の試みに対して原理の純粋さ全てを擁護することが、私に課せられた特別な義務であると付け加えなければならない。」こうした態度はジョルジュ・ジャック・ダントンの寛容とは相容れなかった。女と酒をこよなく愛し、物欲に塗れていたジョルジュ・ジャック・ダントンが、清貧を尊ぶ生活を送り続けるマクシミリアン・ロベスピエールに親近感を持つことは一度としてなかった。
04月02日に裁判が開始され、ジョルジュ・ジャック・ダントンは法廷で持ち前の雄弁を奮い検事の論告を押し返し判事も無罪に傾きかけたが、弁論を妨害されるなどの圧力が掛かり発言が停止させられ、彼が退席したまま討論が続けられ、結局04月04日に死刑判決が出され、裁判開始の3日後の04月05日(ジェルミナル(芽月)16日)死刑の判決を受けた。ジョルジュ・ジャック・ダントン、リュシー・サンプリス・カミーユ・カミーユ・ブノワ・デムーラン、フィリップ・フランソワ・ナゼール・ファーブル・デグランティーヌ、クロード・バシールらはその日のうちに処刑された。馬車で刑場に向かう際、ジョルジュ・ジャック・ダントンは通過するロベスピエールの家を窓越しに眺めながら、「ロベスピエールよ、お前も俺の後に従うのだ!」と叫んだ。彼は自身が語ったように「恐ろしい存在になった議員による偉大な手段によって葬り去られた。最後まで堂々とした態度で処刑された。ジョルジュ・ジャック・ダントンの最後の言葉は死刑執行人シャルル・アンリ・サンソン (Charles-Henri Sanson)に対して「俺の首を人民に見せるのを忘れるなよ、見るだけの値打ちがあるからな。」と語った。断頭台はダントン派の処刑で血の海となり、死刑執行人シャルル・アンリ・サンソン は、言われた通りジョルジュ・ジャック・ダントンの首を高々と差し上げて群集に示した。享年34歳。「革命下でジョルジュ・ジャック・ダントンの死ほど、パリ全体に大きな衝撃を与えたものはなかった。」と、セーヌ川沿いにあった本屋のニコラ・ルオは語っていた。
コンドルセ侯マリー・ジャン・アントワーヌ・ニコラ・ド・カリタ(Marie Jean Antoine Nicolas de Caritat, marquis de Condorcet)は、啓蒙思想家たちと親交を深め、百科全書に独占的買占などの経済学の論稿を掲載した。西暦1774〜1776年(ルイ16世統治初期)にかけて財務総監ジャック・テュルゴーの片腕として政治改革に関わった。数学者、哲学者、政治家。社会学の創設者の1人である。恐怖政治に反対したため、西暦1793年07月08日逮捕令状が発せられ、現在のパリ6区セルヴァンドニ通りにあるヴェルネ夫人宅の9ヶ月間の隠遁生活し、その後、令状通りに逮捕され獄中で服毒自殺した。50歳没。
東インド会社汚職事件は、イギリス首相ウィリアム・ピット(William Pitt、小ピット)、サント・クロワ男爵ジャン・ピエール・ド・バッツ(バッツ男爵)が黒幕で、スイス人のジロンド派のエティエンヌ・クラヴィエールが初期に関わり、ユダヤ人の銀行家ユニウス・フレイ、エマニュエル・フレイ、レオポルディン・フレイのユダヤ人兄弟と、多額の持参金でレオポルディン・フレイと結婚したエーベル派のフランソワ・シャボーが金を配り工作した。ジャック・ルネ・エベールなどエーベル派や、ルイ・ピエール・デュフルニー・ド・ヴィリエ(Louis Pierre Dufourny de Villiers)、ジョルジュ・ジャック・ダントン、リュシー・サンプリス・カミーユ・カミーユ・ブノワ・デムーラン、フィリップ・フランソワ・ナゼール・ファーブル・デグランティーヌ、クロード・バシールらダントン派を巻き込んだ。
この事件で、猶太やフリーメイソン、イルミナティー、グレートブリテン王国、カッセン・ヘッセンなど悪逆非道なディープステイト(DS(出来損ないの堕落した最兇な屑))がフランス革命を転がし、恐怖政治を作り出したことが垣間見える。
国王という象徴が逃亡した時と同じく、信頼していたが故に「裏切られた。」と感じた時の民衆の憎悪は一層激しくなった。民衆の中で真の犯人探しが始まり、憎悪と不信が連鎖していった。「エベール派の背後には首謀者がいるはずだ。」と民衆は思い込み、特に革命家に指示された訳でもなく仮面を剥がそうと躍起になった。ダントン派の逮捕・処刑後も、「大衆の意見は相変わらず良好であり、犯人の首が落ちるのを見ること以外の欲求をもっていない。」、「民衆が恐ろしい存在にならないよう」革命裁判所の設置を決めたジョルジュ・ジャック・ダントンの思惑とは逆行して、革命はその歩みを早めていた。
確かに、両派への世論の支持が地盤沈下の傾向にある中、「党派」の処刑によってマクシミリアン・ロベスピエールらから民心が離れるということはなかったが、逆に、世論が彼を常に支持していた、あるいは今後も支持してくれるという保証は全くなかった。エベール逮捕後にある庶民が「民衆の好意はじつに移ろいやすいものだ。」と語ったが、まさにマクシミリアン・ロベスピエールは最期まで、この「移ろいやすい存在」と対峙せざるを得なくなった。
ジェルミナルの劇では、有数の指導者が革命裁判所で刑死した。その背後で、恐怖政治の絶頂期には少なくとも30万人が逮捕、1万7千人が処刑された。裁判を経ていない死刑を含めれば4万人は下らない。パリはもとより地方でも残虐行為が拡がり、やりすぎにマクシミリアン・ロベスピエールが派遣議員をパリに連れ戻すこともあった。本屋ニコラ・ルオは、「革命はそれ自身の子供を貪り食い、兄弟を殺す。」と、ジョルジュ・ジャック・ダントンらの裁判が始まった日付のある手紙に書き残した。この時、貴族の処刑の割合が倍増した。具体的な犯罪というよりも旧体制下の地位によって多くの人間がギロチン台に送られた。それは明らかに革命の理想というよりも憎悪や復讐心によるものだった。この意味で醜悪なスイス人の医者ジャン・ポール・マラー(Jean-Paul Marat)の後継者を自称したジャック・ルネ・エベールの死後、むしろ民衆自身によって、兇暴なジャン・ポール・マラー的なものが加速度的に駆動し始めた。
反対派を全て葬り去った公安委員会、保安委員会は本当の独裁を始めた。民主主義などなくおぞましい官僚組織があるだけだった。しかしサン・ジュストは「革命は凍りついた。一切の原則は弱くなった。残っているものは赤帽子を被った陰謀である。」と手を緩めなかった。西暦1794年04月01日(ジェルミナル12日)、政府にあたる執行会議を廃止、代わりに12の委員会が設置され、公安委員会が名実ともに執行権力機関となった。また、公安委員会のなかに治安局(一般警察局)が新設された。さらに04月15日、サン・ジュストが、国民公会で公安委員会を代表して治安全般に関する演説を行い、両派の粛清後の革命再編計画を提示した。「市民諸君、党派を破壊するだけでは十分ではない。彼らが祖国に対して行った悪事をさらに埋め合わせる必要がある。」と演説し始めた。そこでサン・ジュストが訴えたのが、治安の強化であり、そのために刑事裁判所の権限を強化することだった。サン・ジュストがその演説に基づき提案したのは、公安委員会の権限強化や革命裁判所のパリへの一極集中、元貴族やフランスの交戦国の人間をパリや港町から排除する法令だった。04月16日、サン・ジュストは一般警察に関する法令(ジェルミナル27日法)を可決させ、公安委員会に治安局(一般警察局)を設けた。この機関は公務員を監査して陰謀や職権乱用を摘発するためのもので、直接的な権限を公安委員会に与えるものであり、逮捕命令は公安委員の1人の署名ともう1人の副署だけで効力を持った。指揮権はロベスピエール派の元検事で裁判官を歴任後、革命裁判所の裁判長となったマルティアル・ジョゼフ・アルマン・エルマンに握られ、正式な内務大臣は別にいたが、04月中旬からは事実上の内務大臣のように振る舞い、治安局を指揮した。マクシミリアン・ロベスピエールにより、西暦1793年08月28日にマルティアル・ジョゼフ・アルマン・エルマンが革命裁判所裁判長に就任してからは、それ以前の死刑宣告が49人であったのに対して、以後は12月までに209人、翌年01月から05月までに942人に反革命容疑で死刑判決を出した。革命裁判所が死刑を宣告した数は、西暦1793年09月中旬から10月中旬までに15、次の1ヶ月間には65、翌西暦1793年02月中旬から03月中旬には116、03月中旬の1ヶ月では155、04月中旬からの1ヶ月では354にという風に漸次増加していき、それに合わせて裁判手続きは簡素化された。 マルティアル・ジョゼフ・アルマン・エルマンはテルミドール09日のクーデターで逮捕され、検事のアントワーヌ・カンタン・フーキエ・タンヴィル(Antoine Quentin Fouquier-Tinville またはFouquier de Tinville)らとともに処刑された。多くの者が何らかの腐敗に関与していたので国民公会議員は内心では震え上がった。他方、治安局の存在は、警察権を持つ保安委員会の領分を犯し蔑ろにするものであって、公安委員会と保安委員会の反目の火種にもなった。保安委員会はヴァントーズ法の施行に抵抗し、非協力的態度で実施を延期させ続けた。
公安委員会は、強大な権限を派遣議員から取り上げようとした。もはや派遣議員という代理人は必要としなかった。これまでも山岳派内部の不和と腐敗は地方ではもっと顕著で、様々な理由で地方に下った派遣議員は、先に来た者、後から来た者、各々が勝手に方針を変え、強権を振るい、しばしば対立することがあった。公安委員会はこれらの地方の混乱を収拾するために彼ら双方を召還して説明させる必要があった。派遣議員が作った特別法廷は廃止され、地方の特別裁判所もパリの革命裁判所に従属させるように04月16日に決められた。容疑者をパリに送るように指示があった。地方の革命裁判所の廃止は、ジョルジュ・オーギュスト・クートン(Georges Auguste Couthon)が提案した05月08日の法令による。04月19日(ジェルミナル(芽月)30日)、非耶蘇教化運動を主導し、派遣先で過酷な弾圧を繰り返した派遣議員たちが再びパリに召喚された。ジョゼフ・フーシェ、バラス子爵ポール・フランソワ・ジャン・ニコラ(Paul François Jean Nicolas、ポール・バラス)やルイ・マリ・スタニスラス・フレロン(Louis-Marie Stanislas Fréron)、ジャン・バティスト・カリエやジョゼフ・フーシェに続いて21人の派遣議員が一挙に召喚された。これは弾圧の行き過ぎを抑止する警察・治安上の措置であると同時に、宗教・道徳上の措置だった。非耶蘇教化運動を政治的に率先して利用したジャック・ルネ・エベールらが排除され、恐怖政治にとって、またマクシミリアン・ロベスピエールにとっても絶頂期を迎えた。
ジェルミナルの劇の後も処刑は相次いだ。西暦1791年06月14日に憲法制定議会の議長で、労働者の団結を禁止した「同一の身分、職業の労働者および職人の集合に関する法(ル・シャプリエ法)」の提唱者のイザーク・ルネ・ギー・ル・シャプリエ(Isaac René Guy le Chapelier)が、反革命の容疑で逮捕・西暦1794年4月22日、処刑された。ジャコバンクラブの前身、ブルトンクラブの創設者もギロチンの刃を免れなかった。ル・シャプリエ法は革命後も存続し、フランスで罷業権や結社権が認められたのは、西暦19世紀後半〜20世紀初頭に掛けてのことである。
同日、前年12月に家族と共に逮捕・収監されていた、ルイ16世の弁護人、クレティアン・ギヨーム・ド・ラモワニョン・ド・マルゼルブ(Guillaume-Chrétien de Lamoignon de Malesherbes)も家族と共に処刑台に送られた。72歳没。自由と法に身を捧げた生涯だった。クレティアン・ギヨーム・ド・ラモワニョン・ド・マルゼルブは、法服貴族名門ラモワニョン家に生まれ、西暦1750年に父親のギヨーム・ド・ラモワニョン・ド・ブランメニル(Guillaume de Lamoignon de Blancmesnil)が尚書局長に任命された時、父の跡を継いで租税法院長に就任し、またほぼ同時に尚書局長に属する図書館長の両方に任命された。 図書館長の職はフランス中の検閲の監督があり、この立場で王室検閲の責任者として、ドゥニ・ディドロ(Denis Diderot)やジャン・ル・ロン・ダランベール(Jean Le Rond d'Alembert)の百科事典の出版を支援した。ドゥニ・ディドロやジャン・ル・ロン・ダランベールなど、数人の主要な哲学者を検閲官として採用した。クレティアン・ギヨーム・ド・ラモワニョン・ド・マルゼルブはドゥニ・ディドロやジャン・ジャック・ルソーら文学者・哲学者と連絡を維持し保護した。 マルゼルブは検閲に対し、「真に猥褻な本は没収するが、単なる猥褻な本は無視すべきである。」と命令した。 出版について革新的であってもそれほど危険でないと判断される本により多く暗黙の許可を与え,検閲制度を緩和した。私的には啓蒙思想家を保護するようになり,言論の自由に賛意を表明した。また、租税法院長として国王評議会に対し、新たな税金と財政令に反対するだけでなく、より具体的には抑圧的な政策に反対する諌めを出し続けた。受けた教育とは異なって王政内では進歩派となった。
マルゼルブは生涯献身的な王党派であり続け、フランスを変革した急進的な啓蒙の流れにほとんど影響を受けなかったが、ルイ14世の治世を批判し「君主は、人民の福祉以外の目的のためには存在しない。」という大胆な政治思想を宣言したフランソワ・ド・サリニャック・ド・ラ・モート・フェヌロン(François de Salignac de La Mothe-Fénelon dit Fénelon)やシャルル・ルイ・ド・モンテスキューの著書の読書、ジャン・ジャック・ルソーやローヌ男爵アンヌ・ロベール・ジャック・テュルゴー(Anne-Robert-Jacques Turgot, Baron de Laune)との友情に影響を受けた。 彼は何度も、不公平で恣意的な課税政策と浪費を理由に君主制を批判した際に、後に革命家たちが挙げた不満を認めた。 彼は「階級制度が自然で望ましいものである。」と信じていたが、それが行政や司法に歪める影響を与えることを懸念していた。実際、彼は「貴族の特権は生まれによって与えられるものではなく、フランスへの奉仕を通じて獲得されるべきだ。」と主張した。 マルゼルブはまた、「国王が世論や不満にもっと関与すべきである。」と考え、統治における出版の重要性を強調した。マルゼルブの穏健派と改革派の傾向は、図書館長在職中に全面的に発揮された。 実際、当時の検閲は自動的に人間に敵意を齎すものとは認識されていなかった。 マルゼルブは「政府の権威や宗教を攻撃する書籍は抑制されるべきである。」と信じていたが、危険であると警告された哲学的作品の出版を許可するよう検閲をしばしば押し切った。 ある注目すべき事例では、マルゼルブは、発表と同時に世間の耳目を集めたクロード・アドリアン・ヘルヴェティウス(Claude Adrien Helvetius)の過激な作品に、公式の認可と独占出版権を意味する王室特権を与えた。 最終的に法廷は王室特権を剥奪し、議会はその本を焼却するよう命じた。 別の事例では、マルゼルブはジャン・ジャック・ルソーの「エミール、あるいは教育について」に感銘を受け、秘密出版を調整した。マルゼルブは、政府の非効率性と特権に対する広範な批判を検閲の実践にも適用した。 彼は、あまりに多くの書籍を禁止すれば書籍取引が抑制され、執行が不可能になると主張して、より寛容な検閲制度を擁護した。 さらに、彼は特定の書籍の出版または封鎖を要求する貴族への恩恵を拒否することで、図書館の伝統を破った。ヴォルテール(Voltaire、本名: フランソワ・マリー・アルエ(François-Marie Arouet))はマルゼルブが図書館長を退いた時、「マルゼルブ氏は報道機関にこれまで以上に自由を与えることで人間の精神に精力的に奉仕した。」と書いた。
ショワズール公エティエンヌ・フランソワ(Étienne-François de Choiseul)は、ルイ15世最愛王の寵妃ポンパドゥール侯爵夫人ジャンヌ・アントワネット・ポワソン(Jeanne-Antoinette Poisson, marquise de Pompadour)の支援で実質首相の筆頭大臣に就任したが、王室評議会議員による王権への諌めや侵害を取り締りを躊躇い、哲学者や百科事典の専門家たちに好意的なショワズール公は、国王に寛大な対応を懇願した。西暦1763年、父ギヨーム・ド・ラモワニョン・ド・ブランメニルがルイ15世最愛王の不興を買い追放されたため、マルゼルブは図書館長を退任した。ヴェルサイユの王室はルイ15世最愛王の寵妃デュ・バリー伯爵夫人と大法官ルネ・ニコラ・シャルル・オーギュスタン・ド・モープー(René Nicolas Charles Augustin de Maupeou)に権力が移り、西暦1771年、前年後半にショワズール公が解任され、デュ・バリー夫人とデギュイヨン公エマニュエル・アルマン・ド・ヴィニュロー・デュ・プレシ・ド・リシュリュー(Emmanuel-Armand de Vignerot du Plessis de Richelieu, duc d'Aiguillon)の扇動により、租税法院はモープーが考案した「新しい司法執行方法に反対した。」として解散された。 マルゼルブは、行政長官として、「司法制度を過度に集中化し、世襲の法衣貴族を廃止する。」というモープーの提案を批判した。彼は「法衣貴族が国民の擁護者であり、王権の抑制である。」と信じていた。
マルゼルブは02月18日付で新たな戒めを書いた。 彼の発言は政治的で批判的なものになり、「我々は自由な国民の最も重要な権利を国家から奪いたい。」 マルゼルブは「古くて尊敬されている法律」の尊重を呼びかけ、「国民が自分たちの権利と自由の防波堤と見做している場合には守らなければならない法律である。」 そして彼は、「神聖な権利ではもはや十分ではない。」と敢えて書き、国王に向けて「神が王たちの頭に王冠を置くのは、臣民に生命の安全、人の自由、財産の平和的所有権を与えるためだけである。(Dieu ne place la couronne sur la tête des rois que pour procurer aux sujets la sûreté de leur vie, la liberté de leur personne et la tranquille propriété de leurs biens.)」 その後、彼はそれを秘密裏に印刷し、租税法院に引き渡す前に一般に配布させた。国民の正統性、国民の権利、閣僚の批判、国家元首の緊急の必要性、これらの概念は革命的であり、西暦1789年に再び取り上げられることになった。この戒めの秘密の拡散の成功は驚異的であった。 この諌めは君主制を揺るがすものである。国王に耳を傾けてもらえず、街頭やサロンやカフェでその声が聞こえることとなった。
彼は新体制を追放され、旅行と園芸に専念した。 実際、マルゼルブは植物学に情熱を注いでいた。 24歳の時、彼はベルナール・ド・ジュシュー(Bernard de Jussieu)から植物学の手ほどきを受けた。マルゼルブはロワレ県のマルゼルブ城に農園を開き、ジャン・ジャック・ルソーやトーマス・ジェファーソン(Thomas Jefferson)と文通を続け、植物を交換し、隣人である著名な農学者・植物学者アンリ・ルイ・デュアメル・デュ・モンソー(Henri Louis Duhamel du Monceau)から助言を得た。 彼は、リーワード諸島の知事である甥のセザール・アンリ・ド・ラ・ルゼルヌの立場を利用して、種子を送ってもらった。彼はカール・フォン・リンネ(Carl von Linné)の植物分類体系を支持する文章を書いており、西暦1750年以来科学アカデミーの会員でもあった。ベルナール・ド・ジュシューの兄のアントワーヌ・ド・ジュシュー(Antoine de Jussieu)も著名な植物学者。ベルナール・ド・ジュシューの弟のジョセフ・ド・ジュシュー(Joseph de Jussieu)も植物学者となった。ベルナール・ド・ジュシューの甥のアントワーヌ・ローラン・ド・ジュシュー(Antoine Laurent de Jussieu)も植物学者で叔父のベルナール・ド・ジュシューの考えを発展させ、形態による新しい分類体系を公表したが、完成にはさらに15年を要した。彼以前のリンネによる分類は、雄蕊と雌蕊の数によって植物を分類していたので不自然な部分が多かったが、アントワーヌ・ローラン・ド・ジュシューの分類体系はより自然なもので、その後の顕花植物の分類全ての基礎となっている。アントワーヌ・ローラン・ド・ジュシューの息子アドリアン・アンリ・ド・ジュシュー(Adrien-Henr de Jussieui)も植物学者。
ポール・アンリ・ティリ・ドルバック男爵(Paul-Henri Thiry, baron d'Holbach、パウル・ハインリヒ・ディートリヒ・フォン・ホルバッハ(Paul Heinrich Dietrich von Holbach))がデイヴィッド・ヒューム(David Hume)に「君は奴を知らない。はっきり言おう、君は胸に毒蛇を入れて暖めているようなものだ。」とまで言って警告した人格破綻の恩知らずの気違いスイス人、ジャン・ジャック・ルソーも熱心に植物の研究を始めていた。パリの植物園や近郊の森、ムードン、モンモランシイ、ヴァンセンヌ、ブーローニュ、サンクルー公園などを、時には1人で、ある時は植物園のベルナール・ド・ジュシューやその若い甥アントワーヌ・ローラン・ド・ジュシューと、ジャン・ジャック・ルソーの保護者であり植物愛好家であるクレティアン・ギヨーム・ド・ラモワニョン・ド・マルゼルブやその仲間と、またジャック・アンリ・ベルナルダン・ド・サン・ピエール(Jacques-Henri Bernardin de Saint-Pierre)らと植物を採集し、夜にはその採集品を押し葉とした。デイヴィッド・ヒュームは、ジャン・ジャック・ルソーに他の知己と同様、警告通り酷い目に遭った。
マルゼルブは「ムッシュ・ギョーム(Monsieur Guillaume)」という偽名で、お忍びでフランス、オランダ、スイスを旅行するのを楽しみ、訪れた地域の農業と産業の両方に関する観察結果を収集し、当然のことながら植物収集も行った。彼はビュフォン伯ジョルジュ・ルイ・ルクレール(Georges-Louis Leclerc, Comte de Buffon)に対して非常に批判的であり、彼の地球論に公然と反対していた。西暦1751年にヴィシーに採水に行った時、植物学者で鉱物学者・地質学者のジャン・エティエンヌ・ゲタール(Jean-Étienne Guettard)が同行した。ゲタールはこの時オーヴェルニュ山脈の火山活動を発見した。マルゼルブは西暦1750年に科学アカデミーの会員に、西暦1759 年に碑文アカデミーの会員に、西暦1775 年にフランスアカデミーの会員に選出された。28年後、彼はゲタードを弁護する証言の手紙を書いたが、ゲタードはバルテルミー・フォジャ・ド・サン・フォン(Barthélemy Faujas de Saint-Fond)を含む一部の人から盗作で告発された。ゲタールはラヴォアジエ家と親交があり、当時パリ大学生だったアントワーヌ・ローラン・ド・ラヴォアジエ(Antoine-Laurent de Lavoisier)の師の1人として、彼と共にアルザス・ロレーヌを踏査している。
西暦1774年、ルイ16世の即位に伴い、マルゼルブはパリに呼び戻され租税法院院長に復職し改革を目指した。 この時点で彼は、政権が直面している問題を詳述し、財政政策の全面的な見直しを構想した有名な西暦1775年の中央政府の勧告を主導した。 ルイ16世はこの計画に非常に感銘を受け、政府の将来を懸念し、西暦1775年にマルゼルブを王室大臣に任命した。 同年、マルゼルブはフランス・アカデミー会員にも選出された。 彼が王室大臣として在職したのはわずか9か月だけだった。法廷は財政抑制や封印状の使用制限等を含むその他の改革に関する彼の提案に頑固に反対し、すぐに彼は政治的支援を失い、西暦1776年にローヌ男爵アンヌ・ロベール・ジャック・テュルゴーとともに辞職に追い込まれた。
革命前のフランスの状況により、マルゼルブが政治活動から身を引くことは不可能であった。西暦1787年、彼はプロテスタントの権利に関する論文を執筆し、フランスにおけるプロテスタントの市民的承認を獲得するのに大いに役立った。同年後半、国王への回想録では、プロテスタントによって引き起こされた壊滅的な状況について彼が見たものについて詳しく述べた。 王制は急速に将来の災難を避けられないものになりつつあった。西暦1788年、プロヴァンス、ラングドック、ルシヨン、ベアルン、フランドル、フランシューコンテ、ブルゴーニュでの暴動がフランス中を震撼させたが、暴動の動機のほとんどは食糧不足、3部会代議制政府への同情、あるいはその両方だった。西暦1787〜1788年にも国務大臣となったが、圧力のため、マルゼルブは西暦1788年09月14日に辞任した。この2度の大臣在職期間中、マルゼルブの意見はほとんど顧みられることがなかった。図書館長を退職してから数十年後の西暦1788年、2度目の大臣を辞職する頃「報道の自由に関する回想録」を出版し、その中で彼が強制していた検閲制度を批判した。 フランス革命前夜、彼は「公開討論を奨励する。」という理由で報道の自由を擁護した。検閲制度の下では、最も極端な作家だけが危険を冒して微妙な話題を出版し、一般大衆は報道の自由を奪われることになる。 実際、マルゼルブは今や「国民」という革命用語を採用し、「国民は真実を知ることしかできない。」と主張した。しかし、彼は検閲の概念を捨てたわけではなかった。 その代わりに、彼は自主検閲制度を構想し、出版前に公式の承認を得た場合、著者がその考えに対するその後の司法訴追から免責されることを保証した。「真理の発見のためには国民の自由な討論が不可欠であり、その自由な討論のためには出版の自由が不可欠である。」と主張した。
再び暴動が勃発し、群衆はマルゼルブの家を焼き払おうとし、軍隊が出動し、身を守ることのできない貧民の恐ろしい虐殺があった。
フランス革命の初期は,自分の所領で過ごしたが,西暦1992年国王が国民公会で起訴されると,自ら弁護を買って出て,王室虐待を精力的に批判し、王党派の忠臣の道を選んだ。
彼はグリモード・ド・ラ・レイニエール(Grimod de La Reynière)嬢と結婚し、息子ギヨーム(Guillaume)は西暦1751年に2か月で夭折しし、2人の娘フランソワーズ・ポーリーヌ(Françoise Pauline)とアントワネット・テレーズ・マルグリット(Antoinette-Thérèse-Marguerite)ができた。フランソワーズ・ポーリーヌはモンボワシエ・ボーフォール・カイヤック侯シャルル・フィリップ・シモン(Charles Philipppe Simon de Monboissier Beaufort-Canillac)と、末娘はロサンボ侯ルイ(5世)・ル・ペルティエ(Louis Le Peletier de Rosanbo)と結婚した。 この末娘夫婦の女の子、アリーヌ・テレーズ・ル・ペルティエ・ド・ロザンボ(Aline Thérèse Le Peletier de Rosanbo、Comtesse de Combourg de Chateaubriand, Aline Therese le Peletier de Rosanbo)は、フランソワ・ルネ・ド・シャトーブリアン(François-René de Chateaubriand)の兄、コンブール伯ジャン・バティスト・オーギュスト・ド・シャトーブリアン(Jean-Baptiste Auguste de Chateaubriand、comte de Combourg)と結婚した。 もう1人の女の子、ルイーズ・マドレーヌ・ル・ペルティエ・ド・ロサンボ(Louise Madeleine Le Peletier de Rosanbo)は、エルヴェ・クレレル・ド・トクヴィル(Hervé Clérel de Tocqueville)と結婚し、彼らは有名な政治学者アレクシス・ド・トクヴィル(d’Alexis de Tocqueville)の両親に当たる。
西暦1792年、マルゼルブはローザンヌにいる亡命貴族の娘を訪ねたが、すぐにフランス共和国に戻った。革命について何の幻想も抱いていなかった。西暦1792年12月、国王ルイ16世が投獄され裁判に直面すると、マルゼルブは国王の法的弁護を志願した。 プロテスタントとユダヤ人の解放を認めた国王への忠誠心から、彼は自ら裁判で国王の弁護を志願し、12月11日、国民公会議長に次のような手紙を書いた。「国民公会がルイ16世に弁護するよう助言を与えるかどうか、そしてルイ16世に選択を委ねることになるかどうかはわからない。 この場合、私はルイ16世に、もし彼が私をこの任務に選んだのであれば、私はその任務に専念する用意があるということを知ってもらいたい。」ルイ16世は、「あなたは自分の命を危険に晒して、私の命を救おうとしており、あなたの犠牲はなおさら大きい。」と答えた。彼は裁判の前にフランソワ・トロンシェ(François Denis Tronchet)やセーズ伯レイモン・ロマン((Raymond Romain, Comte de SèzeまたはDesèze)とともに国王の助命を弁護した。
ルイ16世は有罪判決を受け、マルゼルブは、西暦1793年01月20日、法務大臣のドミニク・ジョセフ・ガラット(Dominique Joseph Garat)とパリ自治市会の副検事ジャック・ルネ・エベールとともに、ルイ16世に死刑判決を通知する代表団の一員になった。 国王の処刑後、マルゼルブは亡命貴族に敵対的で、亡命貴族に加わることを拒否し、ルイ16世の遺言の一節についてプロヴァンス伯ルイ・スタニスラス・グザヴィエ(Louis Stanislas Xavier. comte de Provence、後のルイ18世)に敢えて質問した。その内容は「自らを大いに非難する者たち」を呼び起こした。マルゼルブはフランス共和国に留まることで、王妃マリー・アントワネットの裁判が起きた場合に王妃を弁護する計画も立てていた。
この努力の後、彼は再び国に戻ったが、西暦1793年12月に娘アントワネット・テレーズ・マルグリット、義理の息子ロザンボ侯ルイ(5世)・ル・ペルティエ、孫夫婦とともに逮捕された。 彼らはパリに連れ戻され、「亡命貴族との共謀」の罪で家族とともにポルト・リーブル監獄に投獄された。マルゼルブは有徳の士で思想家のみならず国民からも人気の人物で、革命政府による逮捕に際しマルゼルブ村議会は彼の無罪を主張し、その公民精神と市民への援助、良き共和国の人民であることを証言したが、革命政府は取り合わなかった。彼は抗弁を拒否した。
革命政府にとって、家族を含め死刑が決まっており、秘書だという理由などこじ付けでも何でも良かった。西暦1794年04月20日に義理の息子、ロサンボ侯ルイ・ル・ペルティエは断頭台で処刑された。その2日後、西暦1794年04月22日(フロレアル(花月)03日)、娘のロサンボ侯爵夫人アントワネット・テレーズ・マルグリット、孫娘のコンブール・ド・シャトーブリアン伯爵夫人アリーヌ・テレーズ・ル・ペルティエ・ド・ロザンボ(Comtesse de Combourg de Chateaubriand, Aline Therese le Peletier de Rosanbo)とその夫コンブール伯ジャン・バティスト・オーギュスト・ド・シャトーブリアン、立法議会議員のイザーク・ルネ・ギー・ル・シャプリエ(Isaac René Guy le Chapelier )と立法議会議長に4回選出されたジャック・ギョーム・トゥーレ(Jacques Guillaume Thouret,)も彼とともに処刑された。
当時の革命裁判所の事務処理は、日々の大量の裁判のお蔭でかなり杜撰に行なわれていた。同名人を処刑してしまったり、同名の伯爵と子爵がいたら両方とも逮捕してしまったり、酷いものだった。判決文が読まれた際に、16歳の息子ロザンボ侯ルイ(6世)(Louis de Rosanbo)の死刑判決文に対して、60歳になる父ロザンボ侯ルイ(5世)・ル・ペルティエが身代わりに名乗りを上げた時も、裁判官は全く気付かなかった。こうして、16歳の息子のルイ(6世)・ル・ペルティエ・ロザンボ(Louis Le Peletier de Rosanbo)は、父ロザンボ侯ルイ(5世)・ル・ペルティエの身代わりのお蔭で、裁判所の囚人記録簿から名前を抹消され、革命時代を生き延びることが出来た。ロザンボ侯ルイ(6世)・ル・ペルティエは革命後復権し、その娘のマリー・アンリエット(Marie-Henriette)が西暦1749年にアイルランド からフランス王国に帰化した軍人貴族の一族マクマオン伯爵の息子シャルル・マリー(Charles-Marie)に嫁ぎ、その弟マクマオン伯爵およびマジェンタ公爵マリー・エドム・パトリス・モーリス・ド・マクマオン(Marie Edme Patrice Maurice de Mac-Mahon, comte de Mac-Mahon, duc de Magenta)は西暦1873年にフランス第3共和政(西暦1870〜1940年)3代大統領となった。
クレティアン・ギヨーム・ド・ラモワニョン・ド・マルゼルブが監獄を出て邪悪な荷馬車に乗ろうとした時、足が石に当たって躓いた。 「それは、‥」と彼は悲しそうに微笑みながら言った、「悪い前兆だ。ローマ人ならば行くのを止めるだろうが、そうも行かないか。」 と最期まで冗句を飛ばした。
05月10日、彼の姉、セノザン伯爵夫人アンヌ・マリー・ルイーズ・ニコール・ド・ラモワニョン・ド・マルゼルブ(Comtesse de Senozan, Anne Marie Louise Nicole de Lamoignon de Malesherbes)(76)が国王ルイ16世の妹エリザベート・フィリッピーヌ・ド・フランスと同じ日に処刑された。
彼の像はパリの最高裁判所に設置された。
クレティアン・ギヨーム・ド・ラモワニョン・ド・マルゼルブは、検閲を緩め、出版の自由、報道の自由を認め百科事典の出版やを人格破綻の人間のクズで毒蛇と言われたスイス人、ジャン・ジャック・ルソーを支援し、クロード・アドリアン・ヘルヴェティウスの著作を野に放とうとした。 フランス啓蒙時代の自由主義の発展に貢献したが、マクシミリアン・ロベスピエールは、ジャン・ジャック・ルソーに私淑した信者だった。フランス革命を引き起こす原因を作り自らの首を絞めたと言える。
それだけではなく、悪逆非道なディープステイト(DS(出来損ないの堕落した最兇な屑))の中核、ロスチャイルドに繋がる富裕で邪悪なユダヤ人、カール・マルクスに影響を及ぼし。ヘルヴェティウスとポール・アンリ・ティリ・ドルバック男爵の物質主義を「共産主義の社会的基盤」と呼んでいる。
人類を共産主義や全体主義で掠奪、強姦、拷問、殺戮、虐殺、抹殺の地獄に突き落している。

マルゼルブ: フランス一八世紀の一貴族の肖像 - 木崎 喜代治
王妃マリー・アントワネットは、西暦1793年08月02日にコンシェルジュリー監獄に連行され、10月16日に処刑された。処刑の朝、マリー・アントワネット王妃が義妹(ルイ16世の妹)、エリザベート・フィリッピーヌ・ド・フランスに宛てて書いた遺書は彼女の元には届けられず、幽閉されたエリザベート・フィリッピーヌと長女マリー・テレーズ・シャルロット・ド・フランスの2人はマリー・アントワネットの死を知らされないまま1年近く幽閉され続けた。
西暦1794年05月09日の就寝直前、エリザベート・フィリッピーヌはコンシェルジュリー監獄の個室へと移送され、深夜に革命裁判所で尋問を受けた。翌日は24人の他の囚人と共に革命裁判に掛けられ、国王の脱走を手助けした罪、王族や貴族の国外への亡命に資金を援助した罪で告発された。その上、彼女は「甥であるルイ・シャルル(ルイ17世)に性的虐待を行っていた。」という、突拍子もない犯罪で訴えられた。この嘘の告発は、拷問に掛けられた子供ルイ・シャルル(ルイ17世)により引き出された。実際、裁判を傍聴した観衆からエリザベート・フィリッピーヌに対する同情が集まり、彼女の助命を願う声が集まった。しかし数分間の短い裁判の判決は死刑であった。深夜にコンシェルジュリー監獄の個室に戻されたが、同時に革命裁判を受けた者が集まる雑居房行きを希望した。処刑を免れた人の記録によると、死刑判決が下り嘆き悲しむ者たちに、「苦悶と悲しみしかないこの世よりも喜びに溢れた天国に行くのだ。」と力づけた。セリイー伯爵夫人アンヌ・マリー・ルイーズ・トーマ(Anne-Marie-Louise Thomas de Domangeville de Serilly)は、セリイー伯爵アントワーヌ・ジャン・フランソワ・メグレ(Antoine Jean- Francois Megret, comte de Serilly)の妻で翌日処刑のところをエリザベトート・フィリッピーヌの機転で妊婦としての申告をし、処刑を免れ、妊婦も出産後に処刑される決まりだが、そのままテルミドール09日を経て 生き長られている。
処刑は裁判の翌日05月10日に行われた。荷馬車で革命広場(現コンコルド広場)に連れられ、エリザベート・フィリッピーヌは長椅子の一番処刑台に近い位置に座らさせられたが、「主よ、深き淵よりわれ汝を呼ぶ」を唱えていた。クリュッソル・ダンボワーズ侯爵夫人クロード・ルイーズ・アンジェリク・ベルサン(Marquise de Crussol d'Amboise,Claude Louise Angelique Bersin)は処刑の時、最初に名が呼ばれたので、この人は王妹エリザベート・フィリッピーヌに敬意と愛の接吻の許可を求め、エリザベート・フィリッピーヌも心から喜んで彼女の接吻を受けた。処刑台に向かう男性は彼女に腰を屈めて会釈をし、女性はエリザベート・フィリッピーヌの手に接吻をし、エリザベート・フィリッピーヌは彼らを祝福した。エリザベート・フィリッピーヌは台に紐で縛り付けられる際、肩に掛けていたショールが取り払われ、肩を露わにされた。「礼儀を守りなさい、ムッシュー。ショールを掛けなさい!」彼女が死刑執行人にそう叫んだ正にその時、ギロチンの刃が彼女の頭上から落とされた。
マリー・テレーズ・シャルロットの両親のルイ16世とマリー・アントワネットと叔母エリザベート・フィリッピーヌは革命政府によりギロチンで処刑され、弟ルイ17世(ルイ・シャルル)とも引き離され、マリー・テレーズ・シャルロットは2年近く1人で幽閉生活を送った。国民公会による尋問には必要最低限の言葉で答え、国民公会が差し向けた面会者の質問には全く答えなかった。また、幽閉後、発病した弟ルイ17世(ルイ・シャルル)の健康状態を常に気に掛け、ルイ17世(ルイ・シャルル)に治療を施すようにと何度も国民公会に手紙を送った。マリー・テレーズの部屋には下の階に幽閉されていた弟ルイ17世(ルイ・シャルル)の泣き声がよく聞こえてきた。少女マリー・テレーズ・シャルロットの慰めは叔母エリザベート・フィリッピーヌが残した毛糸で編み物をすることと、カトリックの祈祷書と信仰であった。

ルイ十七世の謎と母マリー・アントワネット - キャドベリー,デボラ, Cadbury,Deborah, 櫻井 郁恵
質量保存の法則の発見、酸素の命名、フロギストン(燃素)説の打破などの功績で有名な化学者の「近代化学の父」アントワーヌ・ローラン・ド・ラヴォアジエは、徴税請負人(フェルミエー・ジェネロー(Fermiers généraux)、トレタン(traitant)、パルチザン(partisan))だったため、審理が終わらないまま判決が出され「共和国は科学者を必要としない。」という理由で処刑された。
アントワーヌ・ローラン・ド・ラヴォアジエは、パリにおいて裕福な弁護士の父の子に生まれた。母はアントワーヌ・ローラン・ド・ラヴォアジエが5歳の頃に亡くなり莫大な遺産を引き継ぎ叔母のもとで養育された。アントワーヌ・ラヴォアジエはマザラン学校に在籍し、化学や植物学、天文学、数学を学んだ。当初、アントワーヌ・ラヴォアジエは父の跡を継ぐため法律家を目指し、パリ大学の法学部に進学して、西暦1763年に学士号を修得し、翌年の西暦1764年には、弁護士試験に合格し、高等法院法学士となった。
アントワーヌ・ラヴォアジエが自然科学に興味を抱くようになった転機は、パリ大学の在学中で、天文学者のニコラ・ルイ・ド・ラカーユ(Abbé Nicolas-Louis de Lacaille)から天文学、博物学者のベルナール・ド・ジュシュー(Bernard de Jussieu)から植物学を、博物学者・鉱物学者のジャン・エティエンヌ・ゲタール(Jean-Étienne Guettard)から地質学と鉱物学、化学者のギヨーム・フランソワ・ルエル(Guillaume-François Rouelle)から化学を学んだ。ラヴォアジエは法学部に在籍していたが、化学の講義を聴講し、喜望峰に滞在して天文学の研究、ジャン・エティエンヌ・ゲタールによるフランスの地質図作成に協力したりした。
その後、ジャン・エティエンヌ・ゲタールと各地を回る中でアルザス・ロレーヌなどを旅行した際に、アントワーヌ・ラヴォアジエは各地方の石膏に関心を示し、これらの比較研究をした。これがラヴォアジエの最初の自然科学の研究であった。後にアントワーヌ・ラヴォアジエは特記すべき定量実験で多くの成果を残したが、推測を極力排し確実な実験事実が重視したこの石膏に関する研究は端緒だった。西暦1766年にフランス科学アカデミーは「都市の街路に最良な夜間照明法」の論文を懸賞募集していた。アントワーヌ・ラヴォアジエはこれに対して誰よりも先に論文を著し、04月09日に1等賞を得た。速やかに優れた論文を著した成果に対して、当時のフランス国王ルイ15世最愛王より金メダルが授与された。その後、ジャン・エティエンヌ・ゲタールとの地質図作成の旅行で集めた飲料水の分析結果を発表し、この成果が認められ、西暦1768年05月18日にフランス科学アカデミーの会員となった。
当時、寡黙であり、また大変な人間嫌いでほとんど誰とも言葉を交わすことがなかったイギリス王国の化学者・物理学者のヘンリー・キャヴェンディッシュ(Henry Cavendish)は金属と酸から水素が発生することを発見していた。ヘンリー・キャヴェンディッシュは人目を引くような服装は徹底的に避け古い様式の服装を着て過ごし、当時「彼の人生最大の目的は人の目を引かないことである。」と噂された。特に女性を嫌い、会うことを極力避けた。女性の使用人に夕食の注文をする時も、基本的に羊の肉しか食べなかったが帳面に書き、食卓の上に置いて知らせ、直接顔を合わせないよう心掛けた。屋敷内で彼の前に姿を見せてしまったために解雇された使用人もいた。従って会合に出る事もなく、出たのは王立協会等での科学者たちの研究会のみで、それすら稀で、ヘンリー・キャヴェンディッシュが凄く機嫌が良いと、興味をもったことに対して傍にいる人にボソっと話すこともあったようだが、そうすると周囲はヘンリー・キャベンディッシュの言葉を聞き漏らすまいと躍起になった。
ヘンリー・キャヴェンディッシュは、「科学者の中で一番の金持ちであり、金持ちの中で最も偉大な科学者」で、キャヴェンディッシュは莫大な資産を持っていたが、政治的な名誉や経済的な成功は望まず、生活も大変に質素であった。銀行への預金額が8万ポンドを超えた時、銀行員が彼の下を訪れ、資金を投資に活用するよう熱心に説いたが、ヘンリー・キャヴェンディッシュは聞く耳をもたず「これ以上私を煩わせるようなことをすると預金を全部引き出す。」と答えた。慈善の寄付などはよくしていて、面倒だからと寄付の一番高い人と同額にしていた。偽の募金額を見せられることもあった。栄誉は望まず、贅沢も望まず、ただ人に隠れるように好きな科学と最低限の努めは果たしていた。
西暦1810年02月24日、病床にあったヘンリー・キャヴェンディッシュは召使いを呼び、「私の言うことをよく聞きなさい。私はもうじき死ぬ。私が死んだら、いいかい、必ず死んでからだよ、ジョージ・キャヴェンディッシュ卿(ヘンリー・キャヴェンディッシュのいとこ)の所へ行って、そのことを伝えなさい。わかったら、下がってよろしい。」と告げた。その30分後、再び召使いを呼び出し、先ほどの指示の内容を復唱させてから、ラベンダーの香水を持ってこさせた。さらにその30分後、召使いが様子を見に部屋に入ると、ヘンリー・キャヴェンディッシュはすでに息を引き取っていた。
彼の死後には、生前に発表されたもののほかに、未公開の実験記録がたくさん見つかっている。その中には、ジョン・ドルトン(John Dalton)やジャック・アレクサンドル・セザール・シャルル(Jacques Alexandre César Charles)によっても研究された気体の蒸気圧や熱膨張に関するものや、クーロンの法則およびオームの法則といった電気に関するものが含まれる。これらの結果は後に同様の実験をした化学者にも高く評価された。ただしこれらは、未公開だったため、科学界への影響はほとんどなかった。「もし生前に公開されていたら、」と、ひどく惜しまれた。彼にとっての科学研究は、全く自分の楽しみのであって、重要な発見をしても、自分の好奇心が満足させられればそれで良く、結果を積極的に公表しようとはしなかった。ヘンリー・キャヴェンディッシュの死後100年近くも経って、彼の遺した膨大な記録(中には本への書き込み)から出版されるまで業績は全く知られていなかった。
こういった発見に触れたアントワーヌ・ラヴォアジエは、水や燃焼現象に興味を示すようになった。当時は古代からの4大元素説が有力であり、そのなかに「水は土に変わる。」という説があった。これに疑問を抱いたラヴォアジエは、西暦1768年末〜翌1769年に101日の期間を掛けた実験を行った。これは、水をガラス容器に入れて密閉状態で沸騰させた後に、正確に重さを測る実験であった(ペリカンの実験)。この結果として土の発生は観測されず、「水は土に変化しうる。」という説の反証を示した。
西暦1768年には、フランス科学アカデミーから「空から巨大な石が落下して、働いていた農夫の近くの地面にめり込んだ。」という報告書の検討を依頼された。これに対して、アントワーヌ・ラヴォアジエは、「空からは巨大な石が落下することは絶対にない。」と間違って信じていた。
アントワーヌ・ラヴォアジエは裕福で資産を十分に持っており、実験器具を購入する資金はあったが、実験器具の購入費用は資産からは出さず、西暦1768年頃より徴税請負人の職に就いた。アントワーヌ・ラヴォアジエにとって実験は趣味であった。週に1日は実験に耽り、アントワーヌ・ラヴォアジエはその1日を「幸福の1日」と呼んでいた。
徴税請負人長官ジャック・ポールズ(Jacques Paulze)の娘のマリー・アンヌ・ピエレット・ポールズ(Marie-Anne Pierrette Paulze)と結婚した。父ジャック・ポールズは王室検事で、西暦1768年には徴税請負人となった。母クロディーヌ・トワネはブルジョア階級の家系である。2人の間には3人の息子と1人の娘があり、マリー・アンヌ・ピエレット・ポールズは末子であった。マリー・アンヌ・ピエレット・ポールズが生まれた時家は裕福であったが、3歳の時に母は死去した。西暦1771年、女子修道院付属学校に通っていた当時12歳のマリー・アンヌ・ピエレット・ポールズに、母の伯父である財務総監ジョゼフ・マリー・テレイ(Joseph Marie Terray)から、彼に多大な影響力を持っていたド・ラ・ガルド男爵夫人(la baronne de La Garde)の勧めの結婚話が持ち掛けられた。相手のアメルヴァル伯爵(comte d’Amerval)は当時50歳と父親よりも年上で、評判も良くなかった。マリー・アンヌ・ピエレットは結婚するか修道院に行くかの選択を迫られたが、この結婚話には乗らなかった。徴税請負人である父ジャック・ポールズとしては、立場上、財務総監からの話を断ることは自分の地位を危うくさせることであったのだが、娘の気持ちを汲んで、ジョゼフ・マリー・テレイに断りの手紙を送った。ジャック・ポールズに断られたことでジョゼフ・マリー・テレイは憤慨し、ジャック・ポールズの持つ地位を奪おうとしたが、友人の説得により思い止めた。しかし、結婚についてはまだ諦めていなかったので、ジャック・ポールズは、西暦1771年11月、同僚の徴税請負人であるアントワーヌ・ローラン・ド・ラヴォアジエを娘に紹介した。アントワーヌ・ラヴォアジエは当時28歳で将来有望、徴税請負人であるため収入もあり、容姿も魅力的だった。マリー・アンヌ・ピエレット・ポールズもこの話に同意し、両家の家格も同等であったことから話は早く進み、2人は出会って4週間後の西暦1771年12月06日に結婚した。マリー・アンヌ・ピエレット・ポールズはこの時13歳で、これは当時としても早い結婚である。
結婚後、2人はパリのヌーブ・デ・ボンサンファン街に買った家に住んだ。西暦1772年頃には、アントワーヌ・ラヴォアジエは貴族の地位を金で得ていた。西暦1775頃に火薬硝石公社の火薬管理監督官となり、翌西暦1776年には兵器廠(砲兵工廠)に移り住み、そこで13年間過ごした。そこでアントワーヌ・ラヴォアジエは実験室をつくり、彼の実験の大部分はそこで行われるようにになった。この実験室は化学者らの集う場所として有名になった。この実験室では、大砲用の火薬を改良したほか、硝石の生産量を大幅に増やして、火薬の製造力を増大させた[。この際に、火薬に炭酸カリウムを入れると、その火力が上がることを発見した。また、農家に報酬金を支払って、火薬の原料となる硝石を作らせた。このようにアントワーヌ・ラヴォアジエは農業の分野にも関与しており、後には王立農業学会やフランス政府の農業委員会に加わった。
アントワーヌ・ラヴォアジエは徴税請負人の仕事と化学の研究を両立させる多忙な生活を送っていた。マリー・アンヌ・ピエレット・ラヴォアジエはアントワーヌ・ラヴォアジエの実験室で実験器具の説明を受けることで化学を学んだ。そして夫の実験を手伝い、実験結果を記録した。2人の間に子はなかったものの、マリー・アンヌ・ラヴォアジエはアントワーヌ・ラヴォアジエの役に立とうと、結婚後に英語、イタリア語、ラテン語を学んだ。アントワーヌ・ラヴォアジエは英語ができなかったため、マリー・アンヌ・ラヴォアジエの助けによって英語の論文を読むことができた。ラテン語については兄から教わった。19歳のマリー・アンヌ・ラヴォアジエが兄宛ての手紙が残されている。「いつお帰りになりますの。ラテン語はお兄様がここにいらっしゃることを求めていましてよ。私を楽しませ、そして夫に相応しくして下さるために、退屈でしょうけど名詞や動詞の変化を教えにいらしてくださいましね。」さらにマリー・アンヌは、ジャック・ルイ・ダヴィッド(Jacques-Louis David)に絵画(実験図)を学んだ。そして西暦1789年に出版されたアントワーヌ・ラヴォアジエ著「化学原論(Traité élémentaire de chimie)(邦訳名:化学のはじめ)」の挿絵の実験器具の版画を作成した。実験に際しては非常に細かな点まで描写し記録として残した。この版画は、絵から装置を組み立てることができるように描かれており、当時から高い評価を受けた。科学史の観点から見ても、この版画は貴重な史料と見做されている。
マリー・アンヌ・ラヴォアジエは、こうした研究の手伝いをするとともに、20歳頃から自宅でサロンを開いた。サロンにはアントワーヌ・ラヴォアジエの化学者としての評判を聞きつけて、国内外から多数の著名人が訪れた。英国の農学者アーサー・ヤング(Arthur Young)はマリー・アンヌ・ラヴォアジエについて、「生気に溢れ分別のある知的な女性、ラヴォアジエ夫人は紅茶とコーヒー付きのイギリス式の食事を支度していて下さった。しかし一番のもてなしは、夫人が翻訳中であったカーワンの『フロギストン論考』についての話や、あるいは実験室で夫の手伝いをしている知的な女性である夫人の心得ある話術であった。」と記述している。
マリー・アンヌ・ラヴォアジエは、夫アントワーヌ・ラヴォアジエの研究を手伝うことで、フロギストン説の否定と、それに代わる新しい理論の普及に貢献した。フロギストン説とは、燃焼の際にフロギストン(燃素)という物質が放出されるという説で、当時としては燃焼を説明する主流の説であった。しかしアントワーヌは自らの実験などからこの説に異を唱え、燃焼の際には物質が酸素と結びつくと考えた。マリー・アンヌ・ラヴォアジエはアントワーヌ・ラヴォアジエのために、ジョゼフ・プリーストリーやヘンリー・キャヴェンディッシュといった、当時のフロギストン説支持者の論文を翻訳した。中でも特筆されるのが、アイルランドの化学者・鉱物学者・地質学者・気象学者・リチャード・カーワン(Richard Kirwan)の著書「フロギストン論考」の翻訳である。リチャード・カーワンはフロギストン説支持者の大御所であり、「フロギストン論考」は、アントワーヌ・ラヴォアジエの理論にフロギストン説の立場から反論した書であった。ラヴォアジエ夫妻とその協力者は、同書を訳したうえで再反論をしようと試みたのである。この翻訳書でマリー・アンヌ・ラヴォアジエは、翻訳及び緒言の執筆を担当した。他に、リチャード・カーワンに対する反論が書かれた「翻訳者の注」の箇所にも深く関わっていたと考えらる。マリー・アンヌの翻訳はリチャード・カーワンの原著に忠実で、アントワーヌ・フランソワ・ド・フルクロワ(Antoine François de Fourcroy)も後に評価した。この翻訳書は西暦1788年に出版され、大きな反響を呼んだ。オラス・ベネディクト・ド・ソシュールはフロギストン説の支持者であったが、同書を読んで考えを改め、「貴方は私の疑いに打ち勝たれたのです。」と、マリー・アンヌ・ラヴォアジエの仕事を称賛する手紙を書いた。当のリチャード・カーワンは、西暦1789年に反論を執筆したが、西暦1791年には、アントワーヌ・フランソワ・ド・フルクロワ宛の手紙で、「ついに私は鉾を納め、フロギストンを放棄します。」と綴った。
西暦1774年01月には、「ペリカン」を用いた実験により、化学反応の前後では質量が変化しないことを見出した。これは、「化学反応の前後で、反応系の全体の質量は変化しない。」とする重要な基礎法則である(質量保存の法則)。当時の燃焼を説明する理論としては、シュタールのフロギストン(燃素)説が最も知られており、主流の学説であった。フロギストン説は、燃焼を一種の分解現象と説明しており、可燃物の燃焼時にはそのなかに含まれていたフロギストン(燃素)が出てきて、熱や炎となるとされた。ただ、燃焼によって物質の重量は一般に軽くなるが、金属を加熱して金属灰に変化させた際には重量が増すという事実は明らかになっていた(この実験は、アイルランド貴族で化学者のロバート・ボイル(Sir Robert Boyle)らによる)。フロギストン説についてはこの矛盾の解消が課題となっていた。西暦1772年にアントワーヌ・ラヴォアジエは、燐を燃焼させる実験を行って、その重量が増加することを確認した。さらに、硫黄についても燃焼実験を行い、同様に重量が増すことを確認した。これらの燃焼実験の時に、空気が燃焼物に吸収されることが確認された。このことから、燃焼に伴う重量増加の原因は空気にあると考え、西暦1773年初頭には、「燃焼と重量増加の問題を徹底的に調査しよう。」と決意した。この段階では、アントワーヌ・ラヴォアジエはフロギストンの存在は否定しておらず、「燃焼時にはフロギストンと空気が入れ替わる。」としていた。また、吸収される空気の成分も、ジョゼフ・ブラック(Joseph Black)が西暦1755年頃に発見した「固定空気」であろうと推定していた(この空気の成分は現代では二酸化炭素として知られている)。アントワーヌ・ラヴォアジエは西暦1773年02月20日付けの実験記録で、この発見は「化学に於ける革命になる。」と書いた。西暦1774年04月には、レトルトに錫を入れて加熱し、燃焼によりできた錫灰の重さを比較する「レトルトの実験」を行った。この実験の精密評価により、「火の粒子(フロギストン)は存在しない。」とアントワーヌ・ラヴォアジエは判断した。同年11月12日には、この成果をフランス科学アカデミーで発表した。同年の10月にジョゼフ・プリーストリー(Joseph Priestley)がフランス王国を訪れており、アントワーヌ・ラヴォアジエはジョゼフ・プリーストリーから、水銀灰を加熱すると何らかの気体が出てくることと、その気体は燃焼を助ける話を聞いている。翌西暦1775年に、アントワーヌ・ラヴォアジエは酸化水銀を強熱することで気体を得る実験を繰り返し、その気体は「固定空気(二酸化炭素)」とは別のものだと断定するに至った。この時ラアントワーヌ・ヴォアジエは、この気体と可燃物が結合することで酸が生じると考え、この気体を「オキシジェーヌ(仏語: oxygène)」と命名した(「酸の素」の意)。さらに、燃焼現象はこの気体と物質が結合することであると思い至った。こうして西暦1777年には、アントワーヌ・ラヴォアジエは「燃焼について物質と気体が結合すること。」と説明するようになった(燃焼の理解 (フロギストン説の打破))。西暦1779年には、その気体を改めて「オキシジェーヌ」として発表した。西暦1781年にはヘンリー・キャヴェンディッシュが、別のある気体と酸素を混ぜて水を作り出した(水素爆鳴気からの水の生成)。この実験に関心を示したアントワーヌ・ラヴォアジエは、西暦1783年にヘンリー・キャヴェンディッシュが行った実験を定量実験によって追試した。その結果として、水は元素ではなく、物質が組み合わさってできているもの(化合物)であることを示した。この時酸素と混ぜた気体について、「水の素」の意で「イドロジェーヌ(仏語: hydrogène)」と名付けた。
当初はフロギストン説に肯定的であったアントワーヌ・ラヴォアジエだったが、この西暦1783年を機に、フロギストンを疑問視するようになり、フロギストン説を論文・著書等で公然と否定するようになった。西暦17782〜翌1783年に掛けては、数学者、物理学者、天文学者ピエール・シモン・ラプラス(Pierre-Simon Laplace)と共に「氷熱量計」を作り、熱量もラアントワーヌ・ヴォアジエが得意とする定量測定の対象となった。西暦1777年には、動物の呼吸もまた一種の燃焼であることを裏付ける実験も行い、呼吸に伴う燃焼も酸素との結合反応であることを示した。
西暦1787年に、アントワーヌ・ラヴォアジエは化学者で医師のクロード・ルイ・ベルトレー(Claude Louis Berthollet)やルイ・ベルナール・ギトン・ド・モルボー(Louis-Bernard Guyton de Morveau)、アントワーヌ・フランソワ・ド・フルクロワらとともに、新しい化学用語を定義する主旨で書かれた「化学命名法」を著した。これは(当時の)元素に新たな定義を与えて、物質の命名法を定めるものであった。また、水の成分が酸素と水素であると見出したとも記された。酸素と水素から水が生じることの発見はヘンリー・キャヴェンディッシュが先に成し遂げている。ヘンリー・キャヴェンディッシュはかなりの変人で人間嫌いだったためか、アントワーヌ・ラヴォアジエの「化学命名法」の発表に何の関心も示さなかった。水が化合物であることの発見についてさえ、ヘンリー・キャヴェンディッシュは優先権を主張せず、結果としてアントワーヌ・ラヴォアジエが発見の優先権を得ることとなった。
この西暦1787年からアントワーヌ・ラヴォアジエは、彼の所有地があるオルレアンの地方議会において、第三身分の代議員になっていた。当時のフランスでは、専制的な王が無駄遣いや贅の限りをつくし、国民を苦しめており、西暦1787年には貴族らも王権に反発し、反抗を始めていた。この社会情勢はやがて、アントワーヌ・ラヴォアジエの運命を左右したフランス革命へと至った。
西暦1789年に、アントワーヌ・ラヴォアジエは「化学原論(邦訳名:化学のはじめ)」を出版した。そこでは、現在の元素に概ね相当する33種の「単一物質」の表が示されている(ラヴォアジエの元素表)。元素について単体と化合物を系統的に理解しようとした試みであり、「化学の革命を成し遂げた。」ともされている。「化学原論」のなかの13の図版はマリー・アンヌ・ラヴォアジエが手掛けた。第1部では気体の生成と分解、第2部では塩基や酸と塩に関する解説、第3部には化学の実験器具とその操作法が書かれ、また、質量保存の法則が明確な形で記載されている。この『化学原論』は、出版から後の10年間に、ヨーロッパ全土で標準的な教科書とされた。また同年にラアントワーヌ・ヴォアジエは、新たに元素としての窒素について、ギリシア語で「生命がない」の意の「アゾティコス(azotikos)」に因み、「アゾート(azote)」との命名した。
「化学原論」出版の西暦1789年の07月14日にはバスティーユ襲撃が勃発し、フランス革命が始まっていた。当時のアントワーヌ・ラヴォアジエはパリで貴族階級の補足代議員を務めていた。アントワーヌ・ラヴォアジエは、新しい質量の単位についての規則を決議するため、新度量衡法設立委員会の委員を務めていた。西暦1790年には各温度を測り、体積や質量、密度を精密に定める為に蒸留水の質量を測定した。また一方で、アントワーヌ・ラヴォアジエの実験の対象は気体の化学のほか、呼吸と燃焼の関係性を調べる生理学的なものへも移っていった。
アントワーヌ・ラヴォアジエは徴税請負人であった。革命が進む中、西暦1791年に徴税請負制度は廃止されたが、フランス国王ルイ16世に財政面の手腕を見込まれたアントワーヌ・ラヴォアジエは、国家財政委員に任命された。この職務にあたってアントワーヌ・ラヴォアジエは、フランスの金融および徴税制度を改革しようとした。やがてヴァレンヌ事件を経てルイ16世が失脚するなど、革命は急進化し、西暦1792年にアントワーヌ・ラヴォアジエは、政府関係の職を全て辞任し、兵器廠にあった住居(上述の通り実験室でもあった)からも引っ越し、科学アカデミーでの活動に専念するようになった。しかし、そのフランス科学アカデミーも革命に伴い閉鎖となり、ラヴォアジエの呼吸と燃焼に関する生理学的な実験は、途中で終わることとなった。
西暦1789年に起きたフランス革命後、アントワーヌ・ラヴォアジエと、ジャック・ポールズの就いていた徴税請負人に対する民衆の視線は厳しくなっていった。徴税請負人は、市民から税金を取り立て国王に引き渡す職で、取り立て行為に対する報酬として高い収入を得られた。しばしば市民を過剰に経済的に苦しめたため、「専制的な王の手先・共犯者である。」として、市民からは憎まれていた。西暦1782年、徴税請負人達は、ルイ16世に対して、首都パリ市民が消費する物品の関税を独占的に徴収するための場所を伴った、新たな壁でパリを取り囲むことを提案した。フェルミエー・ジェネローの城壁(仏語: mur des Fermiers généraux)は、フェルミエー・ジェネロー(Fermiers généraux)とは、「徴税請負人」を意味する「Fermier général」の複数形で、この壁はその名が示す通りパリに入城する商人たちからの徴税を目的として建設された。この提案は承認され、西暦1784〜1791年のフランス革命直前に徴税請負人の協働によって建設された。この壁の徴税機能は、市民の不興を買うことになった。西暦1791年に徴税請負人の職は廃止され、さらに、「徴税請負人は市民から集めた金を着服していた。」という噂が流れるようになった。アントワーヌ・ラヴォアジエは酷い徴税はしておらず、むしろ税の負担を減らそうと努力していた、
西暦1793年11月24日には、革命政府は徴税請負人の全員を逮捕するため元徴税請負人らを指名手配した。この指名手配に対して、アントワーヌ・ラヴォアジエは自ら出頭した。しかし、徴税請負人の娘(マリー・アンヌ・ピエレット・ラヴォワジエ)と結婚していたこと等を理由に投獄された。西暦1793年11月28日、アントワーヌ・ラヴォアジエとジャック・ポールズは自らの無罪を証明するために出頭した。マリー・アンヌ・ラヴォアジエは夫と父の下に出向いて差し入れをし、2人の助命を求めて走り回ったが、成果を得ることはできなかった。日に日にやつれて行くマリー・アンヌに宛てて、妻の健康と将来を気遣うアントワーヌ・ラヴォアジエからの手紙が残されている。
その後、マリー・アンヌ・ラヴォアジエが訴求官であるアンドレ・シメオン・オリヴィエ・デュパン・ド・ボーモン(André Siméon Olivier Dupin de Beaumont)に願い出れば、夫アントワーヌ・ラヴォアジエだけは助けることができるという話が持ち上がった。しかしマリー・アンヌ・ラヴォアジエはアンドレ・シメオン・オリヴィエ・デュパン・ド・ボーモンに対し、「ラヴォアジエの訴訟を同僚の人達と別個に扱うような事は、決してラヴォアジエの快くするところではありません。ラヴォアジエはそれを不名誉に思うでしょう。」と述べたため、アンドレ・シメオン・オリヴィエ・デュパン・ド・ボーモンが激怒して、この話は無くなったとされる。
西暦1794年05月08日(フロレアル(花月)19日)、公安委員会が県の革命裁判所の廃止を再確認したこの日、アントワーヌ・ローラン・ド・ラヴォアジエは革命裁判所における審判に掛けられた。アントワーヌ・ローラン・ド・ラヴォアジエの弁護人はアントワーヌ・ローラン・ド・ラヴォアジエの科学上の実績を持ち出して弁論を行った。「科学研究を続けるためには猶予を与えるべきだ。」という妻のマリー・アンヌ・ピエレット・ラヴォワジエからの訴えに対して、裁判長のジャン・バティスト・コフィナル(Jean-Baptiste Coffinhal、ピエール・アンドレ・コフィナル・デュバイユ(Pierre-André Coffinhal-Dubail))は「共和国に科学者や化学者は必要ない。」として退けた。
「近代科学の父」と称されるアントワーヌ・ローラン・ド・ラヴォワジエも、義父ジャック・ポールズを含む27人の元徴税請負人とともに「フランス人民に対する陰謀」との罪で死刑判決を受け、革命広場(現コンコルド広場)にあるギロチンで35分間で26人を処刑するという流れ作業により、即日処刑され、アントワーヌ・ローラン・ド・ラヴォアジエは50年の生涯を閉じた。
数学者・物理学者・天文学者のジョゼフ・ルイ・ラグランジュ(Joseph-Louis Lagrange、ジュゼッペ・ルイージ・ラグランジャ(伊語: Giuseppe Luigi Lagrangia))は、アントワーヌ・ローラン・ド・ラヴォアジエの死に接して「彼の頭を切り落とすのは一瞬だが、彼と同じ頭脳を持つものが現れるには100年掛かるだろう。」 との言葉を残して、アントワーヌ・ローラン・ド・ラヴォアジエの死を悼んだ。ジョゼフ・ルイ・ラグランジュは、生前の王妃マリー・アントワネットの数学教師でもあり、「なぜ私が残されたのかわからない。」と彼らの処刑を嘆き、生涯苦しんだ。同じく数学者で同時代の同国を生きたピエール・シモン・ラプラス(Pierre-Simon Laplace)は、その時々の政治権力に従順にしたたかに世を渡り抜いたが、ジョゼフ・ルイ・ラグランジュの気質はそれとは対照的であった。
スイス人医師ジャン・ポール・マラーは革命指導者の1人であった。「革命前に、アントワーヌ・ラヴォアジエは当時、ジャン・ポール・マラーの論文審査を学会から依頼され行ったが、その論文が実験もせず臆測の内容であったため、却下した。その逆恨みでアントワーヌ・ラヴォアジエが投獄、処刑された。」と言われる。アントワーヌ・ローラン・ド・ラヴォアジエは科学者であった一方で、貴族であり徴税請負人の立場にあった。アントワーヌ・ラヴォアジエの存命時期や死没の直後は、革命政府関係者による批判的な評価があった一方、アントワーヌ・ラヴォアジエの業績への高い評価を伴う同情的な言葉が近しい学者から残された。革命の理想に背く具体的な犯罪というより、旧体制期の役職や地位に付随する憎悪や怨念に基づく処刑だったと言える。アントワーヌ・ローラン・ド・ラヴォアジエを研究面でも献身的に支援したる14歳年下の若妻マリー・アンヌ・ピエレット・ラヴォアジエは、徴税請負人の娘だった。
アントワーヌ・ローラン・ド・ラヴォアジエがギロチンにかけられる際に、処刑後のヒトにどの程度の時間にわたって意識があるかを検証するため、アントワーヌ・ラヴォアジエは周囲の者たちに「斬首後、可能な限り瞬きを続けるよ。」と宣言して、彼は断首後に実際に瞬きを行なった。また、アントワーヌ・ローラン・ド・ラヴォアジエの処刑にはジョゼフ・ルイ・ラグランジュら数名の科学者が立ち合っていたとされる。この実験を依頼されたのはジョゼフ・ルイ・ラグランジュであるとされている。アントワーヌ・ローラン・ド・ラヴォアジエの処刑は、35分間で26人を処刑するという流れ作業の連続した執行の中間で行われ、警察官の隊列によって関係者以外はギロチン装置からは距離があったことからも、そのような実験をする時間も猶予もなかった。ジョゼフ・ルイ・ラグランジュの著書等にそのような記述は全く確認はされていない。以上のことから否定的な異論もある。

化学のはじめ

人と思想 101 ラヴォアジエ - 中川 鶴太郎
マリー・アンヌ・ピエレット・ラヴォワジエは1日にして夫アントワーヌ・ローラン・ド・ラヴォアジエと父ジャック・ポールズを失った。また、この直前に、ただ1人残っていた兄も死去した。アントワーヌ・ラヴォアジエとの間には子供もいなかったため、マリー・アンヌ・ラヴォワジエは36歳にして家族全員を失い1人きりとなった。さらに財産も没収され、西暦1794年06月14日にはマリー・アンヌ・ラヴォワジエ自身も逮捕された。マリー・アンヌ・ラヴォワジエは牢獄で自分の無実を訴える手紙を書き、これが認められて08月17日に釈放された。この時点で財産はまだ没収された状態であったため、マリー・アンヌは召使のマスロと生活を共にした。
西暦1795年03月、世論の動きもあって、政府は「徴税請負人の財産は返却する。」との決定を下した。訴求官のアンドレ・シメオン・オリヴィエ・デュパン・ド・ボーモンは、「自分が今までに徴税請負人に対して為したことへの責任を取らされる。」と感じ、自己弁護のための冊子を出した。マリー・アンヌ・ラヴォワジエはこれに対抗し、西暦1795年07月に、アンドレ・シメオン・オリヴィエ・デュパン・ド・ボーモンを告発する文書を認めて出版した。最終的にアンドレ・シメオン・オリヴィエ・デュパン・ド・ボーモンは逮捕された。アンドレ・シメオン・オリヴィエ・デュパン・ド・ボーモンの逮捕後、マリー・アンヌはアントワーヌ・ローラン・ド・ラヴォアジエの持ち物である本、家具、実験装置などの返還を求め、西暦1796年にこれらの動産を取り戻すことができた。財産を取り戻したマリー・アンヌ・ラヴォアジエは、以前のようにサロンを主催した。サロンにはピエール・シモン・ラプラスやクロード・ルイ・ベルトレーらが参加した。しかし、アントワーヌ・ローラン・ド・ラヴォアジエが危機に陥った時に助けることをしなかったアントワーヌ・フランソワ・ド・フルクロワやルイ・ベルナール・ギトン・ド・モルボー、ジャン・アンリ・アッサンフラッツ(Jean Henri Hassenfratz)らはサロンに呼ばなかった。
アントワーヌ・ローラン・ド・ラヴォワジエは生前、アカデミーで発表した論文をまとめた本を作る作業に取り組んでおり、獄中でも校正作業を続けていた。マリー・アンヌ・ラヴォワジエはその遺志を継いで、西暦1796年頃から同署の編集作業に当たった。初めは論文の共同執筆者でもあるセガンと共同で作業していたが、本の内容について両者が対立したため、マリー・アンヌ・ラヴォワジエが1人で編集することになった。マリー・アンヌ・ラヴォワジエは自ら序文を書き、西暦1805年に「化学論集(Mémoires de chimie)」として出版した。同書は協力者が得られなかったこともあって、本としては未完成の状態であった。その上、マリー・アンヌ・ラヴォワジエは自分で選んだ一部の人や組織のみにしか同書を配布しなかったため、当時は一般に広く知られることはなかった。後世では、同書はマリー・アンヌ・ラヴォワジエの教養と、夫アントワーヌ・ローラン・ド・ラヴォワジエへの愛の証として評価されている。
未亡人になったマリー・アンヌ・ピエレット・ラヴォワジエは、アメリカの重農主義の経済思想家・政治家・実業家のピエール・サミュエル・デュ・ポン・ド・ヌムール(Pierre Samuel du Pont de Nemours)やチャールズ・ブラグデン卿から求婚された。一方、西暦1801年、マリー・アンヌの主催するサロンに、軍人であり科学者でもあるラムフォード伯ベンジャミン・トンプソン(英語: Sir Benjamin Thompson, Count Rumford、称号の独語表記: Reichsgraf von Rumford)が初めて訪れた。ラムフォード伯ベンジャミン・トンプソンはその後足しげくマリー・アンヌの許に通うようになった。ラムフォード伯ベンジャミン・トンプソンはこの時期、「ラボアジエ夫人は大変愉快で親切でしかも性格が良い。」、「今までで会った女性ではもっとも頭が良く、知識の程度も非常に高い。」などと述べた。また、ラムフォード伯ベンジャミン・トンプソンがフランスでの研究について語ると、マリー・アンヌ・ラボアジエは「私の館にいらっしゃればよろしいのですよ。貴方は実験をなさいませ。私は記録を取りましょう。」と答えた。2人は西暦1803年にスイスに旅行に行くなど交際を続け、西暦1804年01月に婚約した。婚約の際、マリー・アンヌ・ラボアジエは自身について、前夫の姓をつけて「ラヴォアジエ・ド・ラムフォード夫人と名乗る。」と主張した。これは異例のことであり、ラムフォード伯ベンジャミン・トンプソンもこのことには不満であったが、最終的に契約書に明記させた。西暦1805年、マリー・アンヌ・ピエレット・ラボアジエはラムフォード伯ベンジャミン・トンプソンからの10年間の求愛の末、正式に再婚した。 マリー・アンヌは、最初の夫の姓を使い続け、「彼への永遠の愛を示す。」と生涯主張した。 マリー・アンヌは後の西暦1808年、「ラヴォアジエの名を絶対に捨てないことは私にとって義務でもあり、宗教とも言えることなのです。」と述べた。しかし結婚生活は長く続かなかった。ラムフォード伯ベンジャミン・トンプソンは当時最も有名な物理学者の1人だったが、結婚生活は困難で短命で4年後に離婚した。社交好きなマリー・アンヌは自宅で宴会を開き、主役として振舞った。1人で自分の好きな実験に取り組みたいラムフォード伯ベンジャミン・トンプソンにとって、妻の行動は気に入らず、あちこちで妻に対する不満を述べた。ラムフォード伯は手紙で、「私はあの女を雌ドラゴンだと思って接している。これでもあの女には親切すぎる呼び名だと言っていい。」と綴っている。西暦1808年にラムフォード伯は別居し、西暦1809年に2人は離婚した。離婚後、ラムフォード伯とは適度な距離を置いて交友が続いた。西暦1814年にラムフォード伯ベンジャミン・トンプソンが死去すると、マリー・アンヌ・ラボアジエは、理由は不明だが、ラムフォード伯爵夫人と名乗るようになった。
マリー・アンヌ・ラボアジエはアントワーヌ・ローラン・ド・ラボアジエとの結婚後から晩年に至るまでサロンを開催し続けた。ベンジャミン・フランクリン(Benjamin Franklin)とも交流があり、フランクリンのために自身が描いた肖像画を送っている。アントワーヌ・ローラン・ド・ラボアジエ存命中には、自宅でフロギストン説を火炙りにする儀式を開き、そこでは自らが尼僧の衣装で登場して、フロギストン説を作り上げたゲオルク・エルンスト・シュタール(Georg Ernst Stahl)の著書を焼いたりもした。マリー・アンヌの追悼文を書いた政治家・歴史家のフランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾー(François Pierre Guillaume Guizot)は、「サロンには様々な分野の著名人が集まり、そこには出世のためではなく、エスプリ(仏語: esprit、英語: spirit(スピリット)、独語: Geist(ガイスト))と会話を楽しむための自由な雰囲気があった。 」と絶賛している。晩年もサロンを開き、数学者・物理学者・天文学者で政治家のドミニク・フランソワ・ジャン・アラゴ(仏語: Dominique François Jean Arago、カタルーニャ語: Domènec Francesc Joan Aragó)らを招いた。女性科学作家メアリー・フェアファックス・サマヴィル(Mary Fairfax Somerville)も招いたが、メアリー・サマヴィルがピエール・シモン・ラプラスやフランソワ・アラゴの注目を浴びていることに嫉妬したりもした。マリー・アンヌ・ピエレット・ラボアジエは死の前日まで友人と社交を続け、西暦1836年02月10日、78歳で死去した。アントワーヌ・ラヴォアジエの同僚の孫であるドゥラントによれば、生前の社交の参加者が集う、盛大な葬儀であった。

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痛快化学史 - アーサー グリーンバーグ, 正, 渡辺, 典子, 久村
西暦1792年前半から、フランス共和国はオーストリア領ネーデルラント(西暦1714〜1797年)とプロイセン王国(西暦1701〜1918年)、サルデーニャ王国(西暦1297〜1861年)と戦闘状態にあった。西暦1793年01月02日、共和主義者たちに占拠されたブルターニュのブレストの砦から、イギリス海軍のブリッグ「チルダース」は砲撃を受けた。その後、フランス共和国はグレートブリテン王国(西暦1707〜1801年)と ネーデルラント連邦共和国(西暦1579〜1795年)に宣戦布告し、それらの君主制国家に革命の精神を広めようとした。英仏海峡によって直接の侵攻から守られているグレートブリテン王国(イギリス王国)は西暦1793年が終わるまで、北方の海域や地中海、また、両国がともに植民地を置いたカリブ諸島とインドにおいて、フランス共和国と小規模な戦闘を繰り返した。山岳派により実行された他の経済政策に、フランス商品の輸出禁止令があった。この輸出禁止令の結果、フランス共和国は外国市場と貿易することが基本的に不可能になり、あらゆる商品の輸入は事実上終了した]。理論上は、外国の商品からフランスの市場を守り、フランスの人々が自国の商品を支持するようになるはずだった。輸出禁止令に加え、西暦1793年10月に山岳派により可決された法律1651号によって、外国の船がフランス沿岸での貿易を行うことが禁止され、フランスは欧州全体からさらに孤立していった。
西暦1794年のヨーロッパの状況は不安定なままであった。フランス北方海域にあったフランス大西洋艦隊では、食糧の配給と賃金支払の遅延が原因となって叛乱が発生した。必然の結果として、叛逆の決定を受けた多くの熟練した水兵が、処刑、収監、あるいは解雇されて姿を消し、恐怖政治の影響で大いに苦しむこととなった。その前年の社会的な大変動に厳しい冬が重なり、フランス全体が飢えていた。そしてフランス共和国は全ての隣国と戦争状態にあり、新鮮な食糧の陸路輸入すはできず、国民公会で決定された解決策は、フランス共和国の海外植民地で生産される食糧を全てチェサピーク湾に集められる商船隊に船積みし、さらにアメリカ合衆国(西暦1776年〜)からも食物と商品を購入するというものだった。西暦1794年04月〜05月にかけて、商船隊は護送船団を構成し、フランス大西洋艦隊の護衛の下、ブレストまで大西洋を横断することとなった。
西暦1794年05月28日にイギリス艦隊がフランス船団を捕捉し、06月01日に英仏両艦隊はウェサン島の約400海里(741q)西の大西洋上で激突した(栄光の06月01日)。 この海戦はフランス革命戦争における最初にして最大級の海戦でとなったが、雌雄が決することはなく、両艦隊は疲弊してそのままそれぞれの母港に帰投した。 初代ハウ伯爵リチャード・ハウ(Richard Howe, 1st Earl Howe)麾下のイギリス海軍の死傷 1200人、ルイ・トマ・ヴィラレー・ド・ジョワイユーズ(Louis-Thomas Villaret de Joyeuse)麾下のフランス海軍の7隻喪失、死傷4000人、捕虜3000 人。イギリス王国もフランス共和国も、この海戦の勝利を主張した。イギリス王国は終始戦場の主導権を握りつつ、自国の艦を1隻も失わずにフランス艦7隻を捕獲または撃沈した。フランス共和国は自国に不可欠な輸送船団を、大きな損失もなく大西洋を通過させフランスに到着させた。革命が、フランス海軍にとって災いを齎した。乏しい指導力、矛盾した曖昧な命令、そして熟練した水兵の不足は、フランス艦隊に悲観的な空気を蔓延させ、2度と、北ヨーロッパにおけるイギリス王国の覇権に挑もうとはしなかった。彼らが繰り返した掠奪戦も、イギリス艦隊と厳しい大西洋の気候によって、結局失敗に終わった。
革命礼拝とは、革命を祝う祭典で、その全国規模での最初のものが、西暦1790年07月14日、革命勃発1周年を祝って開催された全国聯盟祭だった。聯盟祭自体は前年11月から各地方で聯盟兵が主体になって行われていたものだが、これらが全国規模で初めて統一され実施されたのが全国聯盟祭だった。その後、ミラボー伯の葬儀やヴォルテールの遺骨のパンテオン葬など、革命の祭典が行われ徐々に形作られてきた。革命自体が礼拝の対象になってゆく経緯と、革命が既存宗教(耶蘇教)から離脱は表裏の関係で、互いに共通するのは民衆が集まって歌を聴き歌うという儀礼だった。さらに、国王ルイ16世の処刑に賛成し西暦1793年01月20日23時、国王処刑の前夜(数時間前)に近衛兵フィリップ・ニコラ・マリー・ド・パリ(Philippe Nicolas Marie de Pâris)に暗殺された、気違い極左サン・ファルジョー侯ルイ・ミシェル・ルペルティエ(Louis-Michel Lepeletier, marquis de Saint-Fargeau))や、ジャン・ポール・マラーといった革命の「殉教者」の葬儀を通じて、革命祭典は礼拝対象を加えた。
地方で非耶蘇教化運動を先導したエベール派のジョゼフ・フーシェは、派遣先のヌヴェール県で十字架や聖者像などの破壊を指示し、非耶蘇教化運動の範例となり、11月10日、同県出身のエベール派指導者ショーメットに導かれてパリ自治市会(パリ・コミューン)がノートルダム寺院を占拠、カトリックの祭具を取り払い、「理性の神殿」と名を改め「自由と理性の祭典」(理性の祭典)を挙行した。2週間後、パリ市当局はパリ中の教会の閉鎖を決定した。その2日前にマクシミリアン・ロベスピエールがジャコバンクラブで行ったのが、あの痛烈な狂信批判演説だった。非耶蘇教化の流れに警鐘を鳴らし、「理性の祭典」を狂信的・無神論的と糾弾し、「それは革命そして共和国の存続に必要な信仰ではない。」と切り捨てた。「神が存在しないのであれば、それを発明しなければならない。」と語った。特に彼自身が意識したのは、前年に催された 「理性の祭典」が、同じく革命を歌って祝うと言っても、また理性の力を信じると言っても、マクシミリアン・ロベスピエールによれば、そのためにこそ「最高存在」を信じることが必要だった。理神論的に見えるが、それらの存在を一切否定するわけでもない。また、信仰は理性によって説明し尽くせるものではなく、心性に基づき、それに訴えるものでなければならない。だからこそ、「最高存在」の実在を信じる礼拝が必要で、そのために合奏といった儀礼も必要だった。
05月07日にマクシミリアン・ロベスピエールは「宗教的・道徳的観念と共和国の諸原理の関係について、および国民の祭典について」と題する演説を行った。「精神の世界は、物質の世界に比べてはるかに対立と謎に満ち溢れているように見える。(中略)物質の世界はすべてが変わったが、精神と政治の世界は全てが変わらなければならない。世界の革命の半分はすでになされたが、もう半分がなされなければならない。」未完の革命、それは理性によって精神の世界が照らされることで完遂されるはずだ。そのためには、今日まで人間を欺き堕落させる術であった統治を、人間を啓蒙し、より善良にする術に代えなければならない。つまり、人間の情念を正義へと導くことを目的にした統治、社会制度が必要であると言う。これは、サン・ジュストの主張と一致した。
市民社会の唯一の基礎、それは道徳である。とはいえ、「哲学者たちの書物に残された道徳的真理を崇めるだけなら、それは「理性の祭典」の主催者たちが企図したものとさほど変わらないはずである。マクシミリアン・ロベスピエールにとっては、その祭典を批判した際に宣明したように、「最高存在」=神が存在しなければならなかった。そこで、「人々〔陰謀家たち〕が消滅を望んだあらゆる私心のない感情やあらゆる偉大な道徳の観念を呼び覚まし、昂揚させよう。友情の魅力と美徳の紐帯によって、彼らが分裂を望んだ人間たちを結びつけよう。」と述べ、「では誰が、神は存在しないと人民に告げるという使命を君に与えたのか。おお、君はこのような不毛な教義に夢中になり、祖国には決して熱中しないでいる。(中略)人間は無であるという観念が、人間の霊魂は不滅であるという観念よりも純粋で高潔な感情を抱かせることがあるだろうか。同胞や自分自身への敬意、祖国への献身、圧政を打ち倒そうとする大胆さ、死や悦楽への軽蔑の念を一層抱かせることがあるだろうか。まず、神(最高存在)が存在し、また霊魂が不滅であるという観念を信じなければならない理由、それは彼岸でしか救われない事柄があるからだ。それによって、美徳のため、祖国のために、たとえ不遇の死を遂げようと、人は慰められ、道徳・真理への熱意は一層強くなるとロベスピエールは考えた。「最高存在と霊魂の不滅の観念は、絶えず正義に立ち返らせるものである。それ故、社会的であり、共和的である。(拍手喝采)」
マクシミリアン・ロベスピエールにとって、宗教感情が人間の力を補って道徳を魂に刻み込んでくれるとすれば、最高存在は市民社会にとっても共和政にとっても有用で、彼は宗教者ではなく、立法者である。「立法者の目で見れば、世界にとって有益で、実践して良いものは全て真理である。」つまり、「人民の主権とその全能性以外の教義を認めない。」(墓地令)のような「理性の祭典」を計画した過激派とは一線を画している。同様に、信仰の自由、全ての宗派の信仰の自由がここで改めて主張されるのも、立法者の視点で、強制するよりは住民が自ら自然の普遍的な宗教と和解していくことが期待された。諸信仰を包摂しうるような礼拝には神が必要であって、無神論は唾棄されなければならない。
では、信仰の自由を保障しながら「最高存在」と呼ばれる神ないし霊魂の不滅が崇拝されることをマクシミリアン・ロベスピエールは「正しく理解された国民祭典の制度」と表現した。「全ての祭典が最高存在の庇護の下で祝われること」を条件とする。つまり、「最高存在」の庇護のもとで従来の革命祭典を1つに纏め上げることが目指されたのが制度化だった。
演説の最後に提案・採択された法令では、最高存在の実在と霊魂の不滅を宣言し、それを礼拝する義務、および祭典が開催される祝日なども定められた。1月後の06月08日に「最高存在の祭典」を開催することも決められた。
06月04日(プレリアル(牧月)16日)、全会一致で国民公会議長に選出されたマクシミリアン・ロベスピエールが「最高存在の祭典」を主宰した。「球戯場の誓い」の名場面を描き、マリー・アンヌ・ピエレット・ラヴォアジエに絵画を教え、後にナポレオン・ボナパルトお抱えの画家となったジャック・ルイ・ダヴィッドの周到な計画に沿って進行した。まず、国民公会の置かれたチュイルリ宮殿(国民庭園)前にトランペットや太鼓の音を合図に群衆が集まり、庭園の泉の畔に置かれた無神論や利己主義を象った人形に火が付けられ、それに代わって現れた叡智の像は黒ずんでいた。その後、マクシミリアン・ロベスピエールの演説に続いて、シェニエ作詞・ゴセック作曲の「最高存在への讃歌」が演奏され高揚感を演出した。演奏が終わると、一行はマクシミリアン・ロベスピエールを先頭にシャン・ド・マルス(統一広場)に向かった。そのなかには、トランペットを首にかけた騎兵隊や、太鼓を抱えた国立音楽院(勃発後に教会ではなく国家の下に音楽教育が集約され西暦1793年に国民衛兵音楽学校に代わって設立された学校)の学生もいた。祖国の祭壇の広場には巨大な山が造設され、中腹には大きな柱の頂に人民を表す男性像を設置、山の頂上にはフランス人民の解放の象徴である「自由の木」が植えられていた。人々がその山を登っていくと、頂上に配置された楽団によってトランペットが吹かれ、再び讃歌が演奏された。「ラ・マルセイエーズ」も鳴り響いた。55万人集まったとされる「最高存在の祭典」はパリだけでなく、全国各地に大きな反響を呼んだ。祭典への祝辞は全国から1600通以上届いた。従来と違って、警察官らによる形式的な祝辞だけでなく、一般民衆から感動を伝える文章がいくつも届けられた。元々祭典前から讃歌や礼拝について各地から提案がなされる熱狂ぶりで、住民が初めて全国的に参加できた祭典だった。
間違いなくマクシミリアン・ロベスピエールは政治家として絶頂にあった。もっとも、冷笑する者もいた。ある議員は、古代ローマを引き合いに「カピトリヌスの丘〔政治経済の中心だったフォルム・ロマヌムを見下ろす丘〕からタルペーイア〔裏切り者が投げ落とされた岩壁〕はすぐ側だ。」と罵った。公安委員会元ダントン派委員ジャック・アレクシス・テュリオ・ド・ラ・ロジエール (Jacques Alexis Thuriot de la Rozière) は、「主人になるだけでは飽き足らず、神になるに違いない。」と嘲笑った。
「最高存在の祭典」以前から、マクシミリアン・ロベスピエールを独裁者や暴君とする批判はあちこちで見られた。05月22日、国立宝籤取引所職員だったアンリ・アドミラという男が、同じ建物に住んでいた公安委員会委員のコロー・デルボワに発砲するという事件が起こった。供述によれば、元々はロベスピエールを狙ったが現れなかったため、デルボワに2発の銃弾を発砲した。
05月23日(プレリアル(牧月)04日)、マクシミリアン・ロベスピエールの住むデュプレ家に侵入しようとしたとして、二十歳の女性が逮捕された。パリの文房具商の家に生まれたセシル・エイミー・ルノー(Cecile Aimee Renault )というこの女性は、取り調べでその理由を問われ、「5万人の暴君より1人の王のほうが良い。」と述べ、こう打ち明けた。「暴君がどのような様子かを見たかった。」所持品からは、2挺のナイフが見つかった。
さらにダントン派議員が05月24日、敵討を企図していたことが発覚した。これに対し議会では、狙われた政治家を英雄視する発言がなされる一方、容疑者や陰謀家たちの背後にいるとされるイギリス政府(首相小ピット)への復讐心が煽られた。
2日後、05月26日マクシミリアン・ロベスピエールは議会で自分の死が迫っていることを確信しているかのような演説を行った。 「結局、中傷や裏切り、反乱、中毒、無神論、腐敗、飢饉、そして暗殺と、あらゆる犯罪を惜しみなく生み出してきたが、彼ら〔陰謀家たち〕にまだ残るのは暗殺、次に暗殺、それからさらに暗殺である。だから喜ぼう、神に感謝しようではないか。我々は祖国によく奉仕したがゆえに、暴政の短刀に値すると判断されたのだから。(拍手喝采)」この時暗殺に怯えていたマクシミリアン・ロベスピエールは、直後に主宰した革命祭典で恍惚としながら、「最高存在」演説でも、自己犠牲の覚悟について語っていた。「(仮に他国に生まれたとしても)注意深い私の魂は、君(人民)の栄光ある革命の全運動に飽くなき情熱で従っただろう。(中略)おお、崇高なる人民よ!私の全存在を犠牲にしよう。君の中に生まれた者はなんと幸福か。君の幸福のために死ねる者はもっと幸福なことだ。」
確かなのは、祭典で悪辣に目立ったことが、暴君到来の印象をさらに植え付けた。
06月17日、セシル・ルノーを含む暗殺未遂の容疑者ら54人が国民広場で処刑された。ジャン・ポール・マラーの暗殺者マリー・アンヌ・シャルロット・コルデー・ダルモン(Marie-Anne Charlotte Corday d'Armont)の時と同じく、暗殺未遂で暗殺者であることを示す赤服を着せられていた。
さらに、有力なジロンド派議員もこの頃、不遇の死を遂げた。元パリ市長で一時はマクシミリアン・ロベスピエールを凌ぐほどの人気があった、国民公会の初代議長ジェローム・ペティヨン・ド・ヴィルヌーヴ(Jérôme Pétion de Villeneuve)は、西暦1793年06月02日、マクシミリアン・ロベスピエールから「シャルル・フランソワ・デュ・ペリエ・デュ・ムリエ (Charles François du Perrier du Mouriez)の離反の際に王政支持をした。」として告発され、ジロンド派とともに逮捕状が出た。パリを馬で脱出し、フランソワ・ニコラ・レオナール・ビュゾー(François Nicolas Léonard Buzot)らとカーンに退き、そこで連邦主義を唱えて叛乱を企てたが失敗し、ジロンド県へと逃避行を続けた。他の議員と共にガデの妻の姉であるブーケ夫人の保護の下、ボルドーの近く、サン・テミリオンに落ち延び潜伏していたが、サールやガデ、バルバルーが逮捕・処刑される中、西暦1794年06月18日ジェローム・ペティヨン・ド・ヴィルヌーヴはジロンド派の有力議員だったフランソワ・ニコラ・レオナール・ビュゾとともに拳銃自殺を遂げた。38歳没。森の中で自殺しているのを発見され、腐乱した遺体は動物に一部食われており、ほんの2年前まで「人民の父」と称されていた男の哀れな末路であった。
ジャン・ポール・マラーの暗殺者マリー・アンヌ・シャルロット・コルデー・ダルモンの近辺捜査から、シャルル・ジャン・マリー・バルバルー(Charles Jean Marie Barbaroux)の紹介状やジロンド派議員の名が発見され、ジャン・ポール・マラーの暗殺はジロンド派の陰謀が疑われ、カーンに滞在中のバルバルー達にも当然激しい追及の手が及び、彼らはフランス北西部を流離し、ガデの妻の姉であるブーケ夫人の保護の下、ボルドーの近く、サン・テミリオンに落ち延びた。しかし西暦1794年06月17日に「ロベスピエールの目」と呼ばれた公安委員会の使者、マルク・アントワーヌ(マルカントワーヌ)・ジュリアン・ド・パリ(Marc-Antoine Julien de Paris)の一斉捜査を受け、バルバルーらは逮捕を免れたが、自分達を庇ってくれた町の人々に迷惑が掛かることを恐れ、町を出て行く当てもなく、誰からの保護もないシャルル・ジャン・マリー・バルバルーは、追手が近づくことを知ると拳銃自殺を図ったが、致命傷には至らず、瀕死の状態のまま逮捕され、ギロチンに掛けられて06月25日に処刑された。
「大恐怖政治」とも呼ばれる、恐怖政治の最後の急加速が始まった。パリでの裁判と処刑が増え、そのさらなる簡便化・効率化が求められた。そこで提案されたのが、プレリアル(牧月)22日法である。06月10日に発出されたこの「革命裁判所に関する法令」は、05月08日法によって増えたパリの裁判を効率化し、事実上処刑を迅速化することを目的にしていた。パリの監獄は囚人で溢れ、7千3百人の「反革命容疑者」が詰め込まれていた。そのため、プレリアル22日法は尋問を公開とし、物証で足りる場合には証人の喚問は実施せず、有罪の場合は極刑のみ、陰謀家の裁判には弁護士は認めないようにした。そこには、ジョルジュ・ジャック・ダントンがその雄弁で裁判を長引かせたことへの教訓があり、また長引く審理の中、民衆が裁判に介入する余地を少なくしようという意図があった。特定の人物を告訴する場合には、公安委員会、保安委員会の事前の承認が必要とされた。
西暦1794年06月10日にプレリアル22日法ができると、弁護が禁止されるなど手続きが大幅に簡素化され、この時からテルミドール09日のクーデターの翌日までが革命裁判所の最盛期(07月28日、ロベスピエール派の76の首が落とされたのが1日の処刑数で最多最多)で、監獄と刑場が裁ききれないほど、大量の有罪判決を出した。
それまでも革命裁判所では、上訴も抗告もできず、判決は1度きりの絶対的なものであった。死刑の判決が出た場合は被告人の財産は国に没収された。初期には財産のない親族に没収財産は返還されたが、ヴァントーズ法成立後は死刑だけでなく追放刑を受けた者も、所有財産は全部無条件で没収され、貧者に再分配された。しかし、プレリアル22日法までは、求刑は死刑だけではなく、一般の刑法に規定された多様な刑が宣告でき、流刑や禁錮労働、強制労働など、量刑は個別の案件によって様々だった。犯罪を重罪・軽罪・違警罪の3つに区分し、また有罪であっても微罪と判断されれば、そのうち拘留または科料にあたる最も軽い犯罪の違警罪を扱う違警罪裁判所に移送することもできた。
プレリアル22日法後で有罪の場合は、「量刑は等しく死刑のみ。」パリで革命裁判所が設置された西暦1793年04月〜西暦1794年06月10日までに、1251人が処刑されたのに対し、プレリアル22日法下で審理を経ない略式死刑判決が許された06月11日から07月27日(テルミドール09日)までの革命裁判所末期の僅か47日間で、パリの断頭台は1376人の血を吸い込んだ。恐怖政治のために反革命容疑で逮捕拘束された者は約50万人、死刑の宣告を受けて処刑されたものは約1万6千人、それに内戦地域で裁判なしで殺された者の数を含めれば約4万人に上る。野蛮で残虐なコーカソイドのフランクの南下した蛮族、フランス人とは、こういう奴らだ。
フランス革命の恐怖政治の中でも、プレリアル22日法の制定は「大恐怖政治」の始まりと言われる。恐怖政治は疑心暗鬼の悪循環を生み出し、ロベスピエールらを孤立化させ、テルミドール09日クーデターを惹起した。
パリでは、革命裁判所が設置された西暦1793年03月10日から同法が制定された06月10日まで、死刑判決の数は1日平均3人弱だった。それが、その日から07月28日(テルミドール09日のクーデタの翌日)まで、死刑判決の数は1376人、1日平均28人強に激増した。だが、裁判および死刑判決がパリに集中した結果であり、地方の派遣議員の大量処刑では、裁判はほぼ行われず、集団で死刑が宣告され、溺死や銃殺、大砲散弾、銃剣などを用いて執行されていた。むしろ全国的には処刑は減ったほどである。それでも、「大恐怖政治」と語られるようになったのは、もちろんパリの住民が連日のように処刑を目撃していたこともあるが、何より革命政権に対して批判的な勢力が抱いた革命政権、マクシミリアン・ロベスピエールとその周辺に対する不安があった。05月08日法に続いて同法を提案したのも、サン・ジュストとともにマクシミリアン・ロベスピエールの盟友だった、ジョルジュ・オーギュスト・クートンである。フランス中部オーヴェルニュの町に生まれたジョルジュ・オーギュスト・クートンは、クレルモン・フェランで弁護士として活動し、「虐げられた人々」の弁護を担当して評判を得た。元々幼い頃から関節炎に悩まされ、20代後半頃から歩行が徐々に困難となり、移動には車椅子を必要とするようになったが、それでも革命が勃発すると、これに賛同し、クレルモン・フェランの裁判所裁判長に就任、西暦1791年09月、35歳の時に憲法制定国民議会の議員に選出された。続いて国民公会議員に選出されたジョルジュ・オーギュスト・クートンは、山岳派(モンターニュ派)の熱狂的な支持者となり、マクシミリアン・ロベスピエールの思想に共鳴し側近となった。演説の名手でもあった。プレリアル22日法は、マクシミリアン・ロベスピエールの指示でジョルジュ・オーギュスト・クートンが作成したという思われてきたが、実際はジョルジュ・オーギュスト・クートンの主導で作成された。しかし、マクシミリアン・ロベスピエールがこれを支持したのは確かだ。いずれにせよ、恐怖政治に批判的な議員たちにとって、ロベスピエール派が不安の根源であり、側近が主導していようがいまいが、不安の元凶はマクシミリアン・ロベスピエールにあった。少なくとも疑心暗鬼がプレリアル22日法の制定によって先行して膨らんでいった。
プレリアル22日法は「大恐怖政治」の始まりであり、同時に恐怖政治の終わりでもあった。「次に逮捕・処刑されるのは自分かもしれない。」という国民公会議員たちの恐怖だけではなく、プレリアル22日法をめぐって公安委員会内部に亀裂が生まれた。手先のジョルジュ・オーギュスト・クートンとサン・ジュストは革命の再編を愚かにも拙速に進め過ぎた。そのためマクシミリアン・ロベスピエールの演説が同僚議員たちの不安と対立を一層深めた。ジョルジュ・オーギュスト・クートンの提案を支持した国民公会での演説で、「今日ほど難しい状況はない。」と切り出した。マクシミリアン・ロベスピエールは、「未だに陰謀家ないし祖国の敵がこの中にいる。」と宣言し、自由に対する犯罪を罰する革命裁判所の機能の強化を目指すプレリアル22日法案への支持を表明した。「それは真理であり、同案への反対者はそれだけで分裂を齎す敵である。」とまで言った。「公共善への愛に等しく燃える人々の間に分断があるのは自然ではない。(拍手)祖国の救済に献身する政府に対して、ある種団結して立ち上がるようなことは自然ではない。市民諸君、諸君を分裂させようというのか。」議場では「違う、違う。」と至る所で声が上がった。「分裂させることはない。」、「市民諸君、諸君をたじろがせようとする者がいるのか。(中略)我々は公共的な暗殺者を追及するため、個人的な暗殺者に身を晒している。我々は立派な死を欲するものであるが、国民公会と祖国は救われただろう。(拍手喝采)」演説はこう締め括られた。「祖国への愛に燃える人なら誰しも、その敵を捕え、打ち倒す手段を熱く歓迎するだろう。」革命裁判所を効率化するプレリアル22日法に反対する議論の余地は最初から排除されているかのようだった。今や自分たち(公安委員会)が革命政府であって、これに団結して反抗することを認めなかった。
翌日、委員不在の議場では、オワーズ県選出のフランソワ・ルイ・ブールドン・ド・ロワーズ(François-Louis Bourdon de l’Oise)が前日に提案されたプレリアル22日法に対して、「議員の弾劾・逮捕には国民公会の承認を必要とすべきだ。」と主張し、それを条文としてプレリアル22日法に付け加えた。しかし次の日、ジョルジュ・オーギュスト・クートン、そしてマクシミリアン・ロベスピエールがすぐさま反駁した。「先の発言者は議論の中で、(公安)委員会を山岳派から切り離そうとした。国民公会、山岳派、(公安)委員会、これらは同一のものである。(拍手)自由を真に愛する人民の代表者は全て、祖国のために死を覚悟する人民の代表者は全て、山岳派である。」議場では新たに拍手が広がり、国民公会議員たちは立ち上がって賛成と忠誠の意を示した。フランソワ・ルイ・ブールドン・ド・ロワーズは、「自分が党派の長のようにされるのは本意ではない。」と言って反論を試みようとしたが、マクシミリアン・ロベスピエールは「私がまだ発言している。」と制して演説を続けた。「そう、山岳派は純粋で崇高であって、陰謀家は山岳派ではないのだ。彼らは党派を結成するや、陰謀家たちを集め匿うことを目的に偽善的な反対を行っている。それは架空の話ではなく、現に今、委員会提案に反対する者たちがいる。陰謀は事実によって証明されたのだ。」こうしてマクシミリアン・ロベスピエールの陰謀論が再び現れ、このダントン派に近い議員が前日に行った提案は取り消された。マクシミリアン・ロベスピエールは国民公会で演説したが、大多数の議員に支持されなかった。 最後に「汚職議員、腐敗議員の逮捕・裁判の権限を行使することを認めよ。」と国民公会に提案したが、国民公会の平原派議員と山岳派議員の大多数から反対された。当時の議員の大多数は何らかの疚しいところがあったからであった。
プレリアル22日法に対して、マクシミリアン・ロベスピエールとその周辺への批判や怨恨が徐々に顕在化してきた。西暦1794年06月11日、マクシミリアン・ロベスピエールは反対にあって孤立した公安委員会から一言も告げず去った。また、「マクシミリアン・ロベスピエールは独裁者である。」という批判が、国民公会や保安委員会の多数派から投げつけられ、マクシミリアン・ロベスピエールは最後の1ヶ月は公安委員会に出席しなくなった。ジャコバンクラブでマクシミリアン・ロベスピエールは「無力になった。」と打ち明けた。ロベスピエール派の山岳派議員はわずか10人ほどで、他の山岳派議員はロベスピエール打倒に回った。マクシミリアン・ロベスピエールはジャコバンクラブから反対派を排除し、組織固めをした。マクシミリアン・ロベスピエールの去った公安委員会は反革命容疑者の選別の厳格化をさせたり財産差し押さえを延期させた。一旦は復帰したが、07月03日以後、彼は1度も会合に出席しなかった。その後、失脚直前まで彼が公安委員会と国民公会に姿を現さなかった。その間にも反対派の陰謀は進行していた。
この頃公にされた事件として、05月12日に保安委員会に逮捕されたカトリーヌ・テオ(Catherine Theot)と彼女と会った人々をマルク・ギョーム・アレクシ・ヴァディエ(Marc-Guillaume Alexis Vadier)は06月15日に国民公会で共和国転覆の陰謀事件として報告した。彼女は1779年、彼女は「自分が聖母マリアであり、新しいイブであり、神の母である。」と宣言した。 彼女はサルペトリエール病院に何年も拘留された後、西暦1782年に解放された。その後12年間の彼女の活動については知られていない。自称預言者で「マクシミリアン・ロベスピエールは最高存在の代理人で神聖な使命を帯びている。」と唱導していた。そこで、保安委員会は彼女らを逮捕した。それはサン・ジュスト主導で公安委員会に、それまで保安委員会の管轄だった警察の部局が設置されたことへの腹いせだったとも言われる。彼女を敵国イギリス王国の手先として扱い、マクシミリアン・ロベスピエールの評判を落とそうとした。この事件は革命裁判所で審理され、テルミドール09日の裁判で取り上げられ、取り巻きは最終的に無罪となり釈放されたが、カトリーヌ・テオはマクシミリアン・ロベスピエールの処刑から1ヶ月後の09月01日に78歳で獄中で死亡した。
他方で、対外戦争の方は戦況が好転しつつあった。西暦1794年春には、ヴァンデーの叛乱がほとんど鎮圧され、その兵力を対外戦争に向かう部隊に差し向けることができ、旅団の再編成が進んだ。南部では、革命軍がピレネー山脈付近の各地を奪還しスペイン軍を追い払うことに成功した。オーストリア領ネーデルラント戦線でも勝利が続いた。06月26日には、7万5千人のフランス軍が5万2千人のオーストリア軍と対峙し、翌日フルーリュス(シャルロワから約20q北東にある現ベルギーの町)付近でフランス共和国の勝利が決定的となった。このフルーリュスの戦いでは、初めて気球が戦地に投入され、フランス軍の情報収集に大いに活用された。戦勝の知らせは国民公会にも逐一届けられ、毎週のように祝われたが、フルーリュスの勝利を大々的に祝賀する行事は行われなかった。革命政府が暴動に発展することを警戒したためとも言われる。
このフランス軍の勝利により、オーストリア大公国(西暦1453〜1804年)の反撃は失敗し敗戦は確定的となった。対外的な危機感が薄らいでゆくと、国内の対立が露見するようになった。政府(公安委員会)内部では、主に軍事部門を担当するジャン・バプティスト・ロベール・ランデ(Jean-Baptiste Robert Rindet )やラザール・ニコラ・マルグリット・カルノー(Lazare Nicolas Marguerite Carnot)と、その戦いの勝利にも派遣議員として立ち会ったサン・ジュストらとの主導権争いが活発化した。なお、サン・ジュストがほとんど北部に派遣されていたプレリアル(牧月)1ヶ月間の法令約6百通のうち、ジャン・バプティスト・ランデとラザール・カルノーがそれぞれ約210通と180通を発令したのに対し、マクシミリアン・ロベスピエールはわずか14通、ジョルジュ・オーギュスト・クートンは8通の発令に止まった。
恐怖政治の前提は対外戦争であり、革命共和国政府存立の危機に対する超法規的措置であった。しかしフルーリュスの勝利の後には戦争はフランス共和国の勝利で終わる公算が大きくなり、恐怖政治の根拠はなくなった。また、革命戦争は共和国防衛から対外侵略へと変わった。フルーリュスの勝利の翌日の06月27日、マクシミリアン・ロベスピエールはジャコバンクラブで、「対外的な危機が一旦去ると対内的な危機が顕在化する、あるいは裏で拡大する。」と訴えた。「ここで素直に打ち明ければ、我々が外国の敵を打ち負かせた瞬間は、国内の敵がこれまでになくぬけぬけと彼らの卑しさと図太さを曝け出す瞬間である。我々は暴君に対する勝利を勝ち取った時、隠れた中傷や裏切りの陰謀が目覚め拡大することで、国民公会を消滅させ、我々の仕事の成果を剥奪しようとしていることに気付かされるのだ。」、「公安委員会は国民公会の議員全体、また尊敬すべき個々の議員を攻撃しようとしていると信じさせようとする、堕落した人間の一団がいることを知ってほしい。」と発言し、国民公会議場にいた議員たち、例えばかつてパリに召喚されたような、脛に傷をもつ元エベール派議員たちの心胆を寒からしめた。演説では、テオ事件にも言及し、「その事件を明るみに出そうとした人々の背後で真の陰謀が隠されようとしている。」マクシミリアン・ロベスピエールは狂信家たちの「エベール主義」と呼んだ。「あらゆる狂信家たちは、危険な信心家(カトリーヌ・テオ)の仮面の下に自らを隠し、曝け出されるのではないかという恐怖を隠している。エベール派(の残党)が1人の女性を使って「最高存在の祭典」を戯画にすることで、祭典の崇高で感動的な印象を消し去る手段としてこの事件を利用し、己の罪から逃れようとしているのだ。」と糾弾した。
07月01日、マクシミリアン・ロベスピエールはジャコバンクラブで「内部に党派、敵が存在する。」と発言した。「良き市民の第一の義務は、だからそれを公に告発することである。」と言えば言うほど、内部の人間は不安に駆られ、生存欲求は生物の必然だった。エベール派とダントン派が粛清された後になっては、特に06月10日のプレリアール22日法の制定後では、派遣議員の召喚は処刑の前段階と理解された。派遣議員の何人かはこれらの派閥に属していた。彼らは「弁明の機会無く処刑されるのではないか。」と恐れ、黙って殺されるよりは反撃する方を選んだ。結局のところ「共和国の敵の全ては共和国政府の中にいる。」というサン・ジュストの主張はある意味では正しかったが、「恐怖政治は人民の純化とならなかった。」という点で結論は間違っていた。人々の諍いと対立、猜疑心はますます激しくなり、革命的精神に殉じることよりも生存本能が優ったのは自然の摂理だった。
ジャコバン派が西暦1793〜1794年にかけてフランス内外の戦乱を収拾した後、国民は恐怖政治に嫌気が差すようになっていた。西暦1794年春にエベール派とダントン派が粛清されると、ジャコバン派の一部は国民公会の中間派と密に協力してマクシミリアン・ロベスピエールを打倒しようとした。また、恐怖政治の先鋒としてパリ以上に行き過ぎた弾圧を行っていた地方派遣議員ポール・バラス、ジャン・ランベール・タリアン(Jean-Lambert Tallien)ら)は、マクシミリアン・ロベスピエールの追及を恐れて先制攻撃を画策していた。
一方、恐怖政治の中心だった公安委員会も、ロベスピエール派(マクシミリアン・ロベスピエール、サン・ジュスト、ジョルジュ・オーギュスト・クートン)、戦乱収拾により勢力を拡大した穏健派(ラザール・カルノーなど)と、恐怖政治のさらなる強化を主張する強硬派(ジャック・ニコラ・ビョー・ヴァレンヌ (Jacques Nicolas Billaud-Varenne)、コロー・デルボワなど)に分裂していた。コロー・デルボワとビョー・ヴァレンヌという2人の極左の公安委員は次の粛清対象は当然自分たちと信じた。
さらに平原派の指導者で、公安委員会命令に最も多く署名した委員で影の首相とも言うべき立場であった、ベルトラン・バレールが、いわゆる「凍りついた革命」を見限ったことで、同じく中道的な3委員の賛同が得られなくなった。分裂した公安委員会は力を行使できなくなり、権力の空白が生まれた。「政治の唯一の動力」たる国民公会に頼るしかなくなったが、少数派であるロベスピエール派は、「多数の反対派が巣くう国民公会で演説し支持を得なくてはならない。」という苦境に追いやられた。エベール派の粛清後、自治市会のほとんどの地区もすでに官僚で占められて弱体化されていたので、凍りついたパリは冷淡だった。
プレリアル22日法は、政権内部の対立を決定的にし、対外的な危機の後退がそれを表面化させる遠因となった。ついに06月29日(メシドール(収穫月)11日)、公安委員会と保安委員会の合同会議の席上で、ラザール・カルノーがサン・ジュストに向かって、「君とロベスピエールは愚かな独裁者だ!」と言い放った。マクシミリアン・ロベスピエールは反論することなく退場した。マクシミリアン・ロベスピエールやサン・ジュストが、同じ公安委員のラザール・カルノーやコロー・デルボワ、ビョー・ヴァレンヌらに「独裁者!」と中傷を受けても、彼らは酷く孤立してどこからも支援が得られなかった。もう1人のロベスピエール派の委員ジョルジュ・オーギュスト・クートンは満足に動けないほどすでに重病だった。
マクシミリアン・ロベスピエールの人気はかつてほどではなく、独裁者と批判する手紙もいくつか届いていた。とはいえ、なお根強い人気を保持していた。ただ、その発言は国民公会ではなく、彼らが孤立しつつあった公安委員会と保安委員会の合同会議でなされた。政治家マクシミリアン・ロベスピエールは自身の古巣のジャコバンクラブの演壇に立ち、弁論を続けた。2日後、ジャコバンクラブで登壇したマクシミリアン・ロベスピエールは、「神が私を暗殺者の手から引き離すことを真に望んだのであれば、それは私にまだ残る時間を有効に使うよう責任を負わせるためである。」と、革命の成就に身を捧げる覚悟を改めて示し、「革命裁判所は国民公会を打倒し自由を破壊するために組織されたというデマが拡がっている。」と指摘し、「ロンドンでは自分のことが独裁者と呼ばれ、パリでも同様な中傷がなされている。」と訴えた。「パリでは、革命裁判所を組織したのは私であり、この裁判所は愛国者と国民公会の議員を破滅させるために組織されたのだと言われる。そして私が国民代表の暴君であり圧政者として描かれている。(中略)正にそうすることで、人々は〔真の〕暴君たちを許しているのであり、勇気と美徳だけを持つ孤独な愛国者を攻撃しているのだ……。」ここで「孤独な愛国者」と自称している。この言葉に、心境が表わされた。これに対して傍聴席にいたある市民が「ロベスピエール、全てのフランス人が君の味方だ。」と叫ぶ声が聞こえたが、「清廉の士」は決然として、「真理は犯罪に抗する私の唯一の隠れ家である。私は信奉者も賛辞も欲しない。私を弁護するものは、自分の良心の内にあるのだ。私に耳を傾けてくれる市民には、思い出してほしい。もっとも無垢で、もっとも純粋な歩みが、中傷にさらされたことを……。」、「なるほど、暴君の権力では私の勇気を挫くことはできず、依然として私は自由と平等を同じ熱情で擁護するだろう。しかし、その擁護は自分の良心の内で行われる。」修辞だけではなく、マクシミリアン・ロベスピエールが目指したのは名誉ではなかった。マクシミリアン・ロベスピエールが合同委員会から退場した心境の変化は、精神は内面に退却してしまった。しかし、それは彼本人は見えていなかった。内面の共和国は内面で一致した同志の共和国でなければならなかった。ところが、「最高存在の祭典」を構想し開催する中、革命の理想が公私が重なる形で1つの信仰へと結晶したように見えた正にその時、実際には公私が一致せず、すでに乖離し、この独りよがりの砂上の楼閣が崩れ始めた。
その後、何度かジャコバンクラブの演壇に立った。07月09日、革命政府への敵対者たち、ジャン・バティスト・カリエやジョゼフ・フーシェ、ポール・バラス、ルイ・マリ・スタニスラス・フレロン、ジャン・ランベール・タリアンといった、派遣議員の陰謀を告発した。彼らはいずれも、諸地方で反革命と称して市民を容赦なく弾圧した。ジャコバンクラブを追放されたジョゼフ・フーシェに至っては、07月14日に「卑しい軽蔑すべき詐欺師」と呼んで糾弾した。「恐怖は彼ら(旧エベール派)が愛国者たちに沈黙を強いる手段だった。彼らは沈黙を破る勇気を持つ人々を監獄に投げ込んだのだ。これこそ、私がフーシェを非難する犯罪である。」その日はフランス革命5周年の記念日だった。
残虐な「カメレオン」、ジョゼフ・フーシェは、ジロンド派、ジャコバン派、急進派と渡り歩き、ピエール・ガスパール・ショーメット(Pierre Gaspard Chaumette)とともに、非耶蘇教化運動で教会を破壊掠奪し、墓地の門に「死は永遠の眠りである。」という言葉を刻むよう命じた。派遣議員でヴァンデと特にリヨンで残忍な大虐殺を繰り返した。ヴァンデでの残虐さは悪評が響いていたが、リヨンでは「リヨンの処刑人」として悪名を轟かせた。西暦1793年12月04日、リヨン東部のローヌ川沿いのブロトーの野原で鎖に繋がれた60人をブドウ弾(弾子を詰め込んだ前装滑腔砲(前装式大砲)用の砲弾)で爆殺し、翌日にはさらに211人を銃殺した。効果がなく、切断され、叫び声を上げ、半死人の山を齎した。その後すぐに多くの通常の銃殺隊がギロチンを補充し、数ヶ月で1800人以上の死刑執行が行われることになった。ジョゼフ・フーシェは、「テロ、有益なテロが今、ここでの日課となっている…我々は多くの不純な血を流させている。」と主張した。 「しかし、そうするのは我々の義務であり、人類のためだ。」と述べ、1905人の市民の処刑を行い、リヨン中心部での大量処刑の血が切断された頭や遺体から街路に流れ出て、ラフォン通りの側溝を濡らし、その悪臭を放つ赤い流れが人々の吐き気を催させた。 彼らの抗議に敏感だったジョゼフ・フーシェは、処刑をブロトーの野原に移すよう命令した。西暦1793年終わり〜1794年春まで、毎日、銀行家、学者、貴族、司祭、修道女、裕福な商人、そしてその妻、愛人、子供たちの集団が杭に縛り付けられてリヨンの刑務所からブロトーの野原に連行された。 そして銃殺隊や暴徒によって虐殺された。西暦1794年04月初めにパリに召喚された際、ジョゼフ・フーシェは「犯罪者の血は自由の土壌を肥やし、確かな基盤の上に権力を確立する。」と嘯いた鬼畜で、ポール・バラスの保護下にあったため、ジョゼフ・フーシェは最終的にマクシミリアン・ロベスピエールの最後の粛清の波を生き延びてしまった。警察機構の組織者で、秘密警察を駆使して政権中枢を渡り歩いた謀略家で、ナポレオン・ボナパルトの時代に初代オトラント公爵、初代フーシェ伯爵に成り上がった。王政復古で、王党派は国王殺しのフーシェを忘れていなかった。両親のルイ16世とマリー・アントワネットを殺されたマリー・テレーズ・シャルロット・ド・フランスは、ジョゼフ・フーシェが現れると席を蹴り決して同席しなかった。西暦1815年08月、ジョゼフ・フーシェは失脚し左遷された。西暦1816年01月09日、パリの議会による「百日天下の際にナポレオンに与した国王死刑賛成投票者はフランスから永遠に追放する。」というジョゼフ・フーシェを狙い撃ちにした決議により国外追放され、トリエステで死んだ。明治時代に日本の警察を創設した川路利良は、フーシェに範を取って、西南戦争の準備に秘密警察も取り入れた。
国民公会議員同士の不和が深まる中、民衆の間でも革命や戦争疲れが徐々に広がりを見せ始めた。フルーリュスの勝利に続いて07月半ば頃になると、パリでは友愛宴会という市民運動が俄かに活発になった。それは、夜になると住民たちが集まって議論し、革命の終わりを願うものだった。そこには、「革命政府や革命裁判所は終わってほしい。」という期待が暗に含まれていた。07月16日、平原派のベルトラン・バレールは議会で、友愛宴会について「エベールやショーメットの遺言執行人による新たな陰謀であり、「純粋な感情と不実な意図、共和的な行為と反革命的な原理の危険な融合だ。」と非難した。その夜、ジャコバンクラブでベルトラン・バレールに続いて登壇したマクシミリアン・ロベスピエールは、「彼らは友愛という意味を履き違えている。」と批判した。「友愛は美徳の友のためにしか決して存在しえない。」のであって、「不協和(革命政府批判)があるところに友愛は存在しえず、それは友愛に値しない、愛国者ではない。友愛は心の一致であり、原理の一致である。愛国者は愛国者としか調和することができない。そのような熱情的な(真の)愛国者に反対する運動には、陰謀家が巧妙に紛れ込んでいるのだ。」そう告発したマクシミリアン・ロベスピエールが披瀝するのは、単一性(同質性)を宿した人民の原像と、友敵の論理である。「人民がそれに真に値する態度の中で現れ出るのは、その敵から分離されたときだけである。(中略)しかし、我々が人民を机によって分断させるなら、それはもはや人民ではない。それは党派でしかなく、愛国者と貴族の混合である。」さらにはこう述べた。「我々を一致させるのは、美徳と友情の神々しい魅力である。」ここでマクシミリアン・ロベスピエールにおいて人民が再び昇華され、内面の共和国が完成されようとしていたが、その反面、彼は現実に運動する民衆からはかなり飛躍したところに行ってしまった。マクシミリアン・ロベスピエールはパリを理解せず、もはや耳を傾けていなかった。それは彼自身が唱えた革命の論理、「必然性」の結果だったのだろう。
同じ頃に派遣から帰還したサン・ジュストはロベスピエール派の孤立を知り、07月22日には対立関係にあった公安委員会および保安委員会による合同会議が開かれたが、マクシミリアン・ロベスピエールはもはやサン・ジュストの忠告にも耳を貸さなくなっていた。
後に皇帝ナポレオン1世の皇后となるジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ(Joséphine de Beauharnais、マリー・ジョゼフ・ローズ・タシェ・ド・ラ・パジュリ(Marie Josèphe Rose Tascher de la Pagerie))の先夫、ボアルネ子爵アレクサンドル・フランソワ・マリーの逮捕を03月02日に保安委員会は命じた。西暦1793年のマインツ包囲戦で「十分に防御しなかった。」と非難し王党派と見做され、カルム監獄に投獄された。テルミドール09日のクーデタのわずか5日前の07月23日に従兄弟のオーガスティンとともに処刑された。04月21日にジョゼフィーヌ・ド・ボアルネは、元夫や友人の助命嘆願が罪に問われて同じカルム監獄に投獄され、獄中でルイ・ラザール・オッシュ将軍と恋仲となった。しかし、マクシミリアン・ロベスピエールが処刑されたことにより、08月03日に釈放された。
アンドレ・マリ・シェニエ(André Marie Chénier)は、フイヤン派に属し、西暦1792年08月10日の蜂起で彼の一派は根こぎにされ、アンドレ・マリ・シェニエは友人・親戚とノルマンディーに逃れた。このあと、弟のマリ・ジョゼフ・シェニエ(Marie-Joseph Chénier)は革命派の国民公会に入った。シェニエはこれに怒り、ルイ16世擁護の論陣に加わった。国王が処刑された後、アンドレ・マリ・シェニエはヴェルサイユのサトリの丘に1年ほど隠棲していたが、西暦1794年03月07日、貴族を探している公安委員会の密偵に見つかり、パッシーのピスカトリー夫人の家で逮捕され、サン・ラザール監獄に140日幽閉された。マクシミリアン・ロベスピエールは、彼を風刺する詩をアンドレ・マリ・シェニエが書いたことを覚えていて、テルミドール09日のクーデターのわずか3日前の西暦1794年07月25日、「国家反逆罪」を宣告されて断頭台の露と消えた。31歳没。テルミドール09日のクーデターで恐怖政治が終わり、マクシミリアン・ロベスピエールが翌日処刑された。
西暦1794年07月26日(テルミドール(熱月)08日)、1月以上にわたって姿を見せなかったマクシミリアン・ロベスピエールが国民公会に現れた。これまで、議会やジャコバン・クラブで630回以上の演説を行ない、聴衆を魅了してきた革命家が、最後の演説に臨もうとしていた。欠席中も独裁者や暴君という非難を受け、「政府や公安委員会を分裂させようとした。」と中傷されてきたマクシミリアン・ロベスピエールは議会で反論し、自己弁護をする必要に迫られた。コロー・デルボワと協議をしたが、結局、物別れに終わった。国民公会でマクシミリアン・ロベスピエールは、サン・ジュストらに諮らないまま「粛清されなければならない議員がいる。」と演説をした。議員達はその名前を言うように要求したが、マクシミリアン・ロベスピエールは拒否した。攻撃の対象が誰なのかわからない以上、全ての議員が震えあがった。
いつものようにマクシミリアン・ロベスピエールは、共和国あるいは国民公会を危機に陥れた暴君として。ジャック・ピエール・ブリッソー(Jacques Pierre Brissot)やジョルジュ・ジャック・ダントン、ジャック・ルネ・エベールら、自らが処刑したお馴染みの名前を挙げた後で、「危機は終わっていない。」と本題に入った。「〈我々を〉なお攻撃しようとする怪物たちがいるのだ。「諸君は、敵が前進していることを知っていよう。彼らは一斉に国民公会を攻撃したが、その企ては失敗した。彼らは公安委員会を攻撃したが、その企ては失敗した。しばらくして、公安委員会の特定の委員に宣戦布告し、1人の人間を打ちのめしたがっているように見える。彼らは常に同一の標的に向かって進んでいる。」
演説中盤では、共和国の問題がマクシミリアン・ロベスピエールの私人の泣き言に転化した。個人の私の不幸な意識が協調された。「私は何者なのか?人が告発した私とは?自由の従僕、共和国の生ける殉教者、犯罪の敵である以上に犠牲者。(中略)私から良心を取り除いてみなさい。私は生きている中で最も不幸な人間である。市民の権利も享受していない。私は何者なのか?私には人民の代表の義務を果たすことすら許されない。」私意識が横溢し、結果、いや真相は因果が逆だろうが、マクシミリアン・ロベスピエールは現実の民衆から離れていったように、現実の共和国からも離れた。「私の心性ではなく理性は、まさに自分がかつて構想を描いたこの徳の共和国を疑おうとしている。」 「清廉の士」は、「殉教者」への道を突き進もうとしているが、それでもマクシミリアン・ロベスピエールは、美徳の共和国の達成を全く諦めてしまった訳ではなかった。
演説の終盤では、現実の共和国にとっての敵の存在を改めて指摘し、危機を訴えた。国外の戦況は好転し、国民の危機意識は緩和されてきていた。しかし、マクシミリアン・ロベスピエールによれば、「軍事面で成功しても、それが我々の革命の原理を定着させることに繋がっていない。フランスがヨーロッパを従わせるのは戦争によってではなく、法であり討議であり原理でなければならないのだ。」これから第2、第3のシャルル・フランソワ・デュ・ペリエ・デュ・ムリエ (Charles François du Perrier du Mouriez)将軍が出てこないとも限らない。「我々の敵は後退しているが、我々は内部に分裂を残している。(中略)将軍の間に分裂の種が蒔かれたのだ。」、「国内の状況はこれまでよりもはるかに危機的である。」と言って、3人の財務委員を名指ししながら、演説は内政の危機に話が及んだ。もう、この種の危機の言説、状況の理屈が神通力を持ちうる状況ではなくなっていた。何より、多くの議員は保身かマクシミリアン・ロベスピエールとその一味に対して恐怖を抱き、怯えるような状況では、2時間にも及んだ長過ぎる演説が、以前のような熱狂で受け入れられる筈もなかった。今回は、彼は従来のように公安委員会などを代表しているわけではなく、全くの一議員として演説した。マクシミリアン・ロベスピエール自身最後の演説で「この独裁という言葉には魔術的な効果がある。」と述べていた。
続く討議で、この演説原稿の扱いが問題になった。そのとき、対立や不満が表面化した。以前、プレリアル22日法に異議を唱えたフランソワ・ルイ・ブールドン・ド・ロワーズが演説の印刷に反対し、印刷するとしても事前に公安・保安両委員会の検討に付すことを要求した。これに対して、ベルトラン・バレールがフランスの一市民の立場から印刷を求め、さらにジョルジュ・オーギュスト・クートンが全国への配布を提案し一旦了承された。しかし、この議論をきっかけにして、「自分は狙われているのではないか。」と感じていた議員たちが次々と介入し、討議は白熱した。マルク・ギョーム・アレクシ・ヴァディエはテオ事件を持ち出し、また、終身年金改革をめぐりマクシミリアン・ロベスピエールと対立していた平原派の「財政のロベスピエール」、ピエール・ジョゼフ・カンボン(Pierre Joseph Cambon)は、「1人の人間が国民公会の意志を麻痺させた。」と糾弾した。さらに、ルイ・マリ・スタニスラス・フレロンに続いて、パリ(セーヌ・エ・オワーズ県)選出の議員、エティエンヌ・ジャン・パニが、「自分の好きなようにジャコバンの人間を排除してきたロベスピエールを非難する。」と訴え、こう皮肉ってみせた。「私は彼が他の人より強い影響力を持たないことを望む。彼が我々を処刑リストに入れたかどうか、彼が作成した表に私が載っているかどうかについて話すことを望む。」エティエンヌ・ジャン・パニは以前保安委員会に属しながら、同僚議員に便宜を図った見返りに金銭の授受をしたため、保安委員会から排除された。この言葉は、議場にいた多くの議員の本音を代弁していた。この討議のやり取りからわかるのは、マクシミリアン・ロベスピエールのことを独裁者や暴君と議場で批判することがそこまで抵抗なくできるようになっていた、その一方で、「自分は狙われているのではないか。」、それが存在した事実はないが、「処刑表に自分が入っているのではないか。」と不安を抱えた議員が多くいた。結局、ブレアールという議員の動議により、演説原稿を市町村へ送付するという法令は取り消され、それは国民公会の議員だけに配布されることに決まった。事実上、マクシミリアン・ロベスピエール側の敗北で、開会前に一部で形成されていた反ロベスピエールの共謀が広く支持される状況を、最後の演説自体が作り出すという効果を持った。反対派たちの結束はこれで決定的なものとなった。
演説後、部屋に戻ったマクシミリアン・ロベスピエールは、午前の議論を振り返り、「山岳派からこれ以上何も期待しない。彼らは暴君として私を排斥することを望んでいる。だが、国民公会の大部分はいずれ私を理解してくれるだろう。」と穏やかに語った。
07月26日の晩、マクシミリアン・ロベスピエールはジャコバンクラブで国民公会と同じ演説を行なった。ビョー・ヴァレンヌやコロ・デルボワによる妨害工作が行われる中、敢行された演説だった。06月29日、ビョー・ヴァレンヌやコロー・デルボワは、ラザール・カルノーがサン・ジュストに向かって「君とロベスピエールは愚かな独裁者だ!」と非難した際、「独裁者!」と叫んだ。元々西暦1793年09月05日にサン・キュロットが国民公会に押し寄せる中、公安委員会に迎えられた急進超過激派のエベール派議員だった。
それでも、マクシミリアン・ロベスピエールのジャコバンクラブでの最後の演説は激しく歓待された。同志を擁護すること、負けても彼と共に朽ち果てることを会員たちは誓い合った。演説後、マクシミリアン・ロベスピエールはジャコバンの聴衆に向かって、「諸君が今聞いた演説は私の最後の遺言である。」と発言した。彼は翌日の悲劇を予感していたのかも知れない。マクシミリアン・ロベスピエールは、影響下にあるペイヤンの自治市会総会を動かし、フランソワ・アンリオ(François Hanriot)の国民衛兵隊を動員して武装蜂起することはできたが、そのようなクーデターを彼は最後まで好まなかった。
翌日、西暦1794年07月27日(テルミドール(熱月)09日)の運命の日を迎えた。朝、国民公会に向かう前、身を案じるデュプレ家の人々に対して、「清廉の士」は彼らを安心させようと、「国民公会の大部分は純粋です。安心してください。私はなにも恐れてはいません。」と語った。
マクシミリアン・ロベスピエールは、サン・ジャック通りの国民公会にもジャコバンクラブにも歩いて数分の等距離の指物師というより裕福な家具仲介業者のモーリス・デュプレイ(Maurice Duplay)宅のサン・トレノ通り366番地(366 Rue Saint-Honore、現3982番地)に西暦1791年07月17日〜1794年07月28日まで下宿していた。モーリス・デュプレイはフランソワーズ・エレオノール(Françoise Éléonore Duplay)との間にエレオノール(Éléonore)、ソフィー(Sophie)、ヴィクトワール(Victoire)、エリザベート(Élisabeth)、ジャック モーリス(Jacques-Maurice)という5人の子供があり、西暦1793年10月29日に、マクシミリアン・ロベスピエールの後推しで、モーリス・デュプレイは革命裁判所の陪審員になった。フィリップ・フランソワ・ジョゼフ・ル・バの妹アンリエット・ル・バがサン・ジュストと婚約し、彼の新妻エリザベート・ル・バ(Élisabeth Le Bas)は、マクシミリアン・ロベスピエールを匿い部屋を貸していモーリス・デュプレイの次女で、長女エレオノールはマクシミリアン・ロベスピエールと恋仲で事実上の妻であったため、3人は義兄弟だった。
午前11時、マクシミリアン・ロベスピエールらは国民公会に臨んだ。まず書簡が朗読され、陳情者たちの発言が次々となされた後、正午頃にサン・ジュストが「自分は特定の党派など関係ないし、党派争いを望まない。」とマクシミリアン・ロベスピエールを擁護するため演壇に上がった。この間、表舞台から姿を消していた革命家の精神の苦悩を打ち明けながら、前日のマクシミリアン・ロベスピエールと同種の演説を開始した。
マクシミリアン・ロベスピエール擁護の演説を始めると、突如パリ(セーヌ・エ・オワーズ県)選出の議員、ジャン・ランベール・タリアン(Jean-Lambert Tallien)が、議事進行を理由に演説を妨害した。この介入が、マクシミリアン・ロベスピエール失脚の決定的な流れを作ることになった。「昨日同じように孤高を気取っていた奴がいたはずだ。暗幕を切り裂け。(暗幕に隠されたロベスピエール派の結託を明らかにせよ。)」と野次り、サン・ジュストの演説を打ち切らせた。「私は今しがた暗幕を引き裂くことを要求した。今や喜びつつ認めることができるのは、暗幕は完全に引き裂かれ、陰謀者たちの仮面は外され、彼らは直ちに滅ぼされ、自由が勝利するだろうということである。(拍手喝采)全てが告げているのは、国民代表の敵は打撃を受けて倒れようとしていることだ。我々は生まれてくる共和国に共和主義的忠誠の証を与える。私がこれまで沈黙を強いられたのは、フランスの暴君に接近した人間から、彼が追放表を作ったことを知ったからである。」
続いて、憲法制定国民議会からの政治家で、穏健な平原派(プレーヌ派)のベルトラン・バレールも、このところの革命政府の変質に言及し、一人の人間が大多数の人々、有力な人民協会の意志を独占すれば、「彼は徐々に世論の支配者になる。」と暗にマクシミリアン・ロベスピエールを批判した。ただ、その批判は生ぬるかった、ジャン・ランベール・タリアンがもっと過激な言動で、「私は非難の仕返しを望まなかったが、昨日、私はジャコバンクラブの集会を見た。祖国のために身震いした。新たなクロムウェルの軍隊が作られるのを見たのだ。もしも国民公会がその告発を指令する勇気を持たないなら、彼の胸を突くための短刀を私は用意する。(拍手喝采)」短刀をちらつかせながら「暴君打倒!」を叫んだジャン・ランベール・にビョー・ヴァレンヌが「私は繰り返すが、我々全ては名誉を保って死ぬだろう。何故なら、ここには暴君の下で生き延びたいと思うただ1人の代議士もいるとは信じられないからだ。(そうだ、そうだ!あらゆる場所からの叫び。暴君くたばれ!長く続く喝采)公会やジャコバンクラブで、絶えず正義や美徳について語る人間は、可能な時にはそれを足下に踏みつける人間である。」と続けた。
この過激なエベール派議員が暴君の寛大さをかつて非難したことなど今となっては誰も覚えていないかのようである。国民公会の議員たちは、「そうだ!そうだ!」と相槌を打った。さらに、ジャン・ランベール・タリアンが暴君のジャコバンクラブでの演説に再び触れながら、畳みかけるように非難を続けた。「そこでこそ私は暴君に出会い、そこにこそ私は全ての陰謀を見いだす。この演説の中に、真理、正義、公会と並んで、私はこの男を打ち倒すために武器を見つけたい。」
さらに議長のコロー・デルボワは、マクシミリアン・ロベスピエールも、演壇に立って反論しようと試み繰り返し発言を求めたが、発言を阻止し、前日も彼を糾弾した平原派のピエール・ジョゼフ・カンボンが、「クロムウェルを倒せ!」と叫喚し、マルク・ギョーム・アレクシ・ヴァディエはジャン・ランベール・タリアンとともに「臆病な暴君!」の告発を要求した。正に、議場における暴君への非難は付和雷同の様相を呈していた。国民公会で多数を占めた平原派も、その告発に賛同した。これに対して、正式に反論することが叶わなかったマクシミリアン・ロベスピエールは、反発の意志を示し、「私に死を与えることを要求する。」と主張した。議場から「暴君を倒せ!」と野次が飛ぶ中、ジャン・ランベール・タリアンはロベスピエール派の逮捕を要求した。
午後03時、ルーシェら数人の議員が「逮捕を裁決せよ!」と叫ぶと、ロベスピエール派の擁護の声は反対派の怒号に掻き消され、あっという間に全会一致で逮捕が決議された。マクシミリアン・ロベスピエール、ジョルジュ・オーギュスト・クートン、マクシミリアン・ロベスピエールの弟のオーギュスタン・ボン・ジョゼフ・ド・ロベスピエール(Augustin Bon Joseph de Robespierre)のプロスクリプティオ(羅語: proscriptio、共和政ローマで実施された特定の人物を国家の敵として法の保護の対象外に置く措置)が決議された。加えて、「私も逮捕されることを要求する。」と述べた、サン・ジュスト、フィリップ・フランソワ・ジョゼフ・ル・バ(Philipe-François-Joseph Le Bas)の逮捕も決定された。
夕刻、5人の議員は議場の外に連れ出され、別々の監獄へ護送されることになった。マクシミリアン・ロベスピエールは1マイル南に位置するリュクサンブール監獄に送致された。そこは奇しくも4ヶ月前、ジョルジュ・ジャック・ダントンやカミーユ・デムーランが逮捕された時に送られた監獄だった。マクシミリアン・ロベスピエールは殉教への最後の歩みを始めたように見えたが、監獄に着くと、思わぬことが出来した。「清廉の士」らを投獄しようとする者はいなかった。管理者たちが開門を拒否した。
国民公会の論戦にマクシミリアン・ロベスピエールやサン・ジュストが敗北して危機に陥ると、フランソワ・アンリオらはマクシミリアン・ロベスピエールらの指示を無視して警鐘を鳴らし、国民衛兵に非常招集を掛けた。それが元で翌日、国民公会でフランソワ・アンリオ逮捕の決議がされた。マクシミリアン・ロベスピエール逮捕の報を受けたため、フランソワ・アンリオはクレーヴ広場から憲兵隊を引き連れて首領の奪回に向かったが、行った先で自身の解任を知らされ、そこで逮捕された。ところがジャン・バティスト・コフィナルらに率いられたパリ砲兵隊の手でマクシミリアン・ロベスピエールともども救出された。他所でも捕らえられたロベスピエール派指導者達をロベスピエール派の国民衛兵隊が奪回し、善後策を練るためパリ市庁舎に立て籠った。
この日、「トローヌ・ランヴェルセ広場(転覆玉座広場、現パリ11、12区のナシオン広場)にあったギロチンが外され、革命広場(Place révolution、現8区コンコルド広場)に立てられた。この頃、パリに拘留されていた反革命容疑者数は、約8千人を収監していたが、重要人物ではない一般の容疑者の死刑確定率は1割程度に満たず、ほとんどは裁判もなくただ収監されている状態だった。全フランスでは、約9万人に達した。
逮捕劇は、自然発生的に起こった訳ではない。脛に傷を持つ議員たち、ジョゼフ・フーシェ、ポール・バラス、ルイ・マリ・スタニスラス・フレロン、そしてジャン・ランベール・タリアンらによる周到な計画があった。やらなければやられる。処刑予定者表なるものを自分たちで作成し、表に載っているとされる議員にそれを見せながら、マクシミリアン・ロベスピエールとその一味の失脚の必要性を訴えた。その計画を実行に移したとき、決定的な役割を果たしたのがジャン・ランベール・タリアンであったが、ある意味で彼よりも決定的な役割を果たした人物が背後にいた。
ジャン・ランベール・タリアンはパリにある貴族の邸宅の執事の息子として生まれた。侯爵の支援で教育を受け、一時は弁護士の助手をしていたが、革命が起こるとその理念に共鳴し、新聞の印刷作業所の現場監督を経験して、自ら新聞「市民の友」を創刊した。それは週2回の発行で、パリの壁に張り出され、ジャコバンクラブでも一目置かれるようになった。さらに、人民集会で革命の大義について演説し、それを印刷して配布することで、まもなく20代前半の青年が革命の指導者の1人と認知されるようになった。政治の舞台への登場は西暦1792年07月、パリの地区を代表して国民議会で演説し、マクシミリアン・ロベスピエールが「美しい革命」と呼んだ08月10日事件に参画した。また、再び議会で演説する機会を得ると、「自治市会は民衆による虐殺を止めるためにあらゆる努力をした。」と釈明する一方、処刑を執行した民衆の献身を称え、「被害者には極悪人しかいなかった。」と偽証した。実際、ジャン・ポール・マラーによって作成された囚人の処刑を命じる回状を地方に送ったとされるタリアンは九月虐殺に直接関与した。それは、マクシミリアン・ロベスピエールが流血を嫌悪した事件だった。
その「実績」を提げて国民公会の議員に選出されると、タリアンは最初の議会で早速九月虐殺と煽動したジャン・ポール・マラーを擁護した。また、その年国王ルイ16世の処刑を支持した後、処刑日に議長に指名され地方の反乱を鎮圧するために西部に派遣された。そこでジャン・ランベール・タリアンは、反革命派、王党派を弾圧した。さらに、パリで05月31日〜06月02日事件が起こると、熱狂的にこれを歓迎し、「政敵(ジロンド派)は法の外にある。」と宣言した。
西暦1793年09月23日、革命政府が樹立されたこの日、全国に恐怖政治体制を布く格好の人物としてボルドーに派遣されたのもジャン・ランベール・タリアンだった。ジャン・ランベール・タリアンは、激しい弾圧を実行したことで有名である。執務室の窓から、処刑を眺めるのを日課にしていた。そいつが殲滅の手を緩めるようになった。テレーズ・カバリュス(仏:語 Thérèse Cabarrus、ジャンヌ・マリー・イニャス・テレーズ・カバリュス(仏語: Jeanne- Marie-Ignace-Thérèse Cabarrus、西語: Juana Maria Ignazia Thérésa Cabarrus)と出会った。スペインの有数の銀行家の娘で、フォントネ侯爵夫人だった(結婚したのは15歳になる前で革命勃発前年の西暦1788年だが、国王ルイ16世の処刑後、夫に従って亡命することを拒否してわずか5年ほどの結婚生活を終え離別したため、ジャン・ランベール・タリアンと出会ったときには前侯爵夫人となってた。彼女がパリにいた頃に何度か会ったことがあり、心を奪われた経験をすでに持っていた。そこで当然のように、この女囚を解放し愛人にすると、ジャン・ランベール・タリアンは彼女の意見を容れる形で反革命派の弾圧の手を緩めた。もちろん、その変貌は周囲に怪しまれない訳がなく、その後パリに戻ったジャン・ランベール・タリアンはしばらく自身の正当化に努めることになった。テレーズ・カバリュスはと言うと、ジャン・ランベール・タリアンを籠絡させ、革命家たちを懐柔する一方で、カバリュス一族が手広く海運業を行う港町で火薬工場の経営に乗り出した。
ジャン・ランベール・タリアンは、己の嫌疑を晴らそうと、議会では貴族や穏健派を過剰に糾弾し、革命裁判所のぬるさを非難することで多くの議員から支持され、再び議長に選出されることに成功した。しかし、その変貌に騙されない議員が、マクシミリアン・ロベスピエールだった。遅れてパリにやってきたフォントネ前侯爵夫人に対し公安委員会が逮捕状を発行するのを主導したのも「清廉の士」、マクシミリアン・ロベスピエールだった。
西暦1794年06月01日、マクシミリアン・ロベスピエールはジャン・ランベール・タリアンが愛国者たちを騙そうとしたことを非難し、数日後にもジャコバンクラブで非難を続け、ジャコバンクラブから彼を追放することが決まった。ジャン・ランベール・タリアンが政治家生命に絶望するだけでなく、身の危険も感じた。しかも、その後まもなくして06月10日に制定されたのが、パリの裁判を効率化して処刑を迅速化させることを目的にした、あのプレリアル22日法だった。
これに呼応するかのようにして、自称預言者カトリーヌ・は05月12日に逮捕され06月15日に議会でテオ事件の報告があり、06月29日にはマクシミリアン・ロベスピエールが「愚かな独裁者だ!」と糾弾された。こうした暴君糾弾の流れが加速し、ジャン・ランベール・タリアンが糾弾された時期と平仄が合った。実際、彼ら派遣議員を中心に、マクシミリアン・ロベスピエール失脚の筋立てが詰められいた。
しかし、このとき身の危険を感じたのは議員だけではない。いや、むしろ彼らよりも命の危険を感じていたのは、テレーズ・カバリュスその人だった。彼女が再逮捕された数日後、プレリアル22日法が制定されたのであり、次に処刑されるのは自分だと考えないではいられなかった。もちろん、彼女が糾弾されている人物の愛人であることは、革命家たちには周知の事実だった。
そこで、クーデタの計画を知ったテレーズ・カバリュスは、自身が収監されていたフォルス監獄から、マクシミリアン・ロベスピエールが最後の演説を行った日にタリアン宛に手紙を出した。「警察の役人が出て行きました。『私は明日裁判所に送られ、即ち処刑台に上がるのだ。』と告げに来たのです。それは、私が昨日見た夢とはほとんど違います。ロベスピエールが最早存在せず、刑務所の門が開かれていた(という夢です)。恐らくそれを実現するには、1人の勇気ある男の人がいれば十分でしょう。しかし、あなたのどうしようもない臆病さのおかげで、そのような善行に与れる人は残っていないことでしょう。さようなら。」
これに対し、「私が持つことになる勇気と同じくらいの慎重さを持ってください。とにかく頭を冷やして下さい。」と返信したジャン・ランベール・タリアンは、翌日、彼女に求められた勇気を示す覚悟を決めていた。とにかく絶望することは思い止まるよう、愛人に懇願した。臆病さを詰られることで、殺る気になった。「テレーズ・カバリュスはポール・バラスなどによって手紙を書くように勧められた。」という説もあるが、ジャン・ランベール・タリアンの奮い立たせる言葉を敢えて選んだに相違ない。短刀をちらつかせながら政敵を糾弾し、追い詰めていったあの行動の背後には、ジャン・ランベール・タリアン自身の恐怖とともに、愛人テレーズ・カバリュスの恐怖と教唆があった。その後、釈放されたテレーズ・カバリュスは、「テルミドールの聖母」と称えられることになった。

悪女が生まれる時 - 藤本 ひとみ
マクシミリアン・ロベスピエールらの逮捕が伝えられると、午後05時頃、パリ市は蜂起を宣言し、パリ自治市会が蜂起し、その隙にパリ砲兵隊に救出されたマクシミリアン・ロベスピエールらはパリ市庁舎に逃げ込んだ。その後、市庁舎にはマクシミリアン・ロベスピエールを守るべく、国民公会によって国民衛兵司令官の職を解かれたフランソワ・アンリオ率いる200人の国民衛兵と3500人の群集が集結して来た。この時、気の滅入っていたフランソワ・アンリオは 「アー・サ・イラ・サ・イラ、うまく行くさ、行くさ・・・ 裏切り者もいる、 けれど全てはうま く行くさ、貴族どもは街頭に縛り首。」 と大酒を呑んで革命歌「サ・イラ(Ah ! ça ira, ça ira, ça ira)」を歌って泥酔していた。パリ市国民軍司令官となったフランソワ・アンリオに兵士を集めるよう求め、パリの各地区に対し、マクシミリアン・ロベスピエールを守るよう指示を出した。しかし、48地区のうち、部隊を出したのはわずか13で、それでも国民公会に突撃することは可能だったが、独裁者と呼ばれたくないマクシミリアン・ロベスピエールは彼らの先頭に立つ気はなかった。民衆の中に無力感が漂っていた。「市民よ、武器を取れ!」といった言葉に大多数の住民は聞く耳を持たなかった。馬に跨ったフランソワ・アンリオは、憲兵を引き連れてサン・トノレ通りを横切ると、道路工事をする労働者の一団に遭遇した。「諸君の父が危機にある。」とフランソワ・アンリオが叫ぶと、労働者たちは「共和国万歳!」と唱和したのち、何事もなかったように仕事に戻った。国民公会が開かれているチュイルリ宮殿の近く、パレ・ロワイヤル広場に出たフランソワ・アンリオは、「愛国者の議員たちが逮捕されようとしている。」と再び住民に叫んだ。すると、群衆の1人はこう返した。「耳を貸すな。奴はお前たちを騙そうとしている悪党だ。逮捕状が出ている。我々は奴を逮捕しなければならない。」フランソワ・アンリオにはもはや民衆を動員する力はなかった。同じ頃、その広場にある劇場は普段と同じく開演の時を告げようとしていた。ちょうど共和国劇場で演じられようとしていた題目は、詩人で劇作家ガブリエル・マリー・ルクヴェによる「エピカリスとネロ」である。ネロとは言うまでもなくローマ帝国5代皇帝の暴君ネロ・クラウディウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマニクス(Nero Claudius Caesar Augustus Germanicus)で、エピカリスは古代ローマの解放奴隷の女性、ネロ暗殺(ピソの陰謀)を企てた1人だった。
フランス革命の立役者たちが人生の終焉を迎えようとしているとき、全ての民衆が無関心を決め込んでいたわけではない。彼らは総じてマクシミリアン・ロベスピエールを見捨てることはなかった。リュクサンブールの監獄から市庁舎に向かう馬車は、2、3千の住民たちに曳かれるように伴われた。そこでは「ロベスピエール万歳!」の声が鳴り響いていた。これに対し、夜07時頃に議論を再開させていた国民公会の対応は早かった。「マクシミリアン・ロベスピエールが市の役人たちに歓迎され支持されている。」という情報が飛び込んでくると、08時半過ぎ、「これらの役人たちを法の外に置くことを要求する。」とある議員が主張、議場では「法の外、法の外だ!」と喚声があがった。そして、マクシミリアン・ロベスピエールら5人の議員らとパリ自治市会(パリ・コミューン)に従う者を法の外に置くことが宣言された。同時に、元軍人でマルセイユやトゥーロンでは派遣議員として激しい弾圧を行なったポール・バラスをパリの軍司令官に任命し、マクシミリアン・ロベスピエールの逮捕に向かわせることを決議した。
マクシミリアン・ロベスピエールが市庁舎に入った時、前にあるグレーヴ広場(パリのグレーヴ広場とは現市役所前広場、西暦1803年まではグレーヴ広場が正式名称。グレーヴ(grève)は「岸辺、砂浜」の意。元々パリの港であったことからついた名称)には各地区の部隊が集まっていた。パリ自治市会と同盟を結んだが、軍隊が集まらず、結局何もしないまま夜が更けた。夜が更け、明確な指示がなく指導層が不決断であったため、深夜になって日付が変わった頃には集まった民衆は一旦家に帰り始め、午前02時を回ると解散してしまった。その隙に、国民公会が派遣したポール・バラスに率いられた軍隊が市庁舎に夜襲を掛け、易々と市庁舎を占領した。サン・ジュストはほとんど無抵抗のまま逮捕された。フィリップ・フランソワ・ジョゼフ・ル・バは拳銃自殺し、その場に残された彼の妻エリザベート・ル・バ(デュプレイ家の次女)と生後6週間の甥フィリップ・ル・バ・フィルスは「陰謀を起こしかねない。」という容疑でフィリップ・フランソワ・ジョゼフ・ル・バの父親とともに監獄送りとなった。マクシミリアン・ロベスピエールの弟オーギュスタン・ロベスピエールは市役所2階の窓から靴を脱いで飛び降りた時に頭部を挫傷し骨盤も骨折した。ジョルジュ・オーギュスト・クートンは車椅子から階段に身を投げて共に重傷を負った。
24歳のシャルル・アンドレ・メルダ(Charles-André Merda)はパリ自治市会で起こっていることを報告するために公安委員会に走ってきた。ここで突然パリ市庁舎攻撃を委任され、仲間とともに執務中のマクシミリアン・ロベスピエールの所に突入して来た。マクシミリアン・ロベスピエールの左頬に銃弾が貫通し、顎が砕けた。命令書は署名が途中で途絶え、紙面には血痕が拡がった。彼が署名していた部隊が突入したちょうどその時、マクシミリアン・ロベスピエールは彼自身の住むピック地区に向けて蜂起を促す声明文に署名するところだった。確かに、下部の署名欄末尾には「ロ(Ro)」とだけ書かれ、書面には血痕が残っていた。命は取り止めたが、顎が剥がれ落ち、夥しい出血と激しい痛みに襲われた。襲撃でマクシミリアン・ロベスピエールは重傷を負い、ジャン・バティスト・コフィナルに「お前の馬鹿さ加減とその臆病は我々の信頼を失った。」と言われ窓から突き落とされたフランソワ・アンリオらは遁走した。翌日、泥酔状態だったフランソワ・アンリオは、「マクシミリアン・ロベスピエールが生きている。」と聞いて、慌てて「市民公会を動員して救出に向かおう。」と思ったが、満足に真っ直ぐ歩けぬ有り様で、中庭で発見され捕縛され同日処刑された。
「署名を途中で中断させられた。」と推測するのが普通だが、傷のでき方からすると、「マクシミリアン・ロベスピエールも自殺を図ったが失敗して顎に重傷を負い逮捕された。」という自殺を図ったという説もある。どちらにせよ、それ以前から署名することを逡巡していた、署名未了はその結果だったと考えられる。そう考えたほうが、告発後のマクシミリアン・ロベスピエールが一貫して民衆を煽動するような言動を控えていたことと辻褄が合う。マクシミリアン・ロベスピエールにとって、国民公会に向かって進軍は躊躇っていた。確かに、08月10日事件を「美しい革命」と捉えたように、民衆が自ら蜂起を起こせば、それを容認する用意はあったが、民衆の多くは無関心で、自らの日常の方が重要だった。地区の方でも、このときすでに文民・軍人両組織はほぼ例外なく、国民公会(とその内部の公安・保安委員会)を単一の政府として認識し、国民公会支持の方向に動いていた。マクシミリアン・ロベスピエールは逮捕され、国民公会から「この勇敢な憲兵を将軍にしよう。」という話が出たほど感謝され、しばらくはもて囃されたが、すぐに彼のことを忘れてしまった。しかし、ナポレオン・ボナパルドの軍隊で准将になり男爵にも叙された。
夜明け前、マクシミリアン・ロベスピエールの身柄は国民公会に移された。「議場に寝かせるのは似つかわしくない。」と応接室に移され、そこの机上に寝かされた。顎を巻いた包帯は血ですぐに真っ赤に染まり、シャツも血だらけになった。言葉を発することもできず、瀕死の状態だった。ロベスピエール派らはコンシェルジュリー牢獄に連行されて短い最期の夜を過ごした。テルミドール(熱月)10日(07月28日)04時に、マクシミリアン・ロベスピエールの下宿のデュプレイ家の家族全員は逮捕され、サント・ペラジー監獄に連行された。 モーリス・デュプレイの妻フランソワーズ・エレオノール・デュプレイ(59)は、テルミドール(熱月)11日(07月29日)に独房で首を吊って自殺した。
テルミドール(熱月)10日(07月28日)早朝、プレリアル22日法に異議を唱えたフランソワ・ルイ・ブールドン・ド・ロワーズに近い議員ルジャンドルは、ジャコバンクラブに走って向かい、そこに集まっていたマクシミリアン・ロベスピエールの主に女性の支持者たちに向かい、「奴が美徳の仮面の下で犯罪を犯した、あなた方は騙されていたのだ。」と叫んだ。支持者たちを追い出しジャコバンクラブを閉鎖し、その鍵を国民公会に持ち帰った。
午前11時、マクシミリアン・ロベスピエールはコンシェルジュリー監獄に移送され、元より、法の外に置かれた人間に対して裁判が行われることはなく、マクシミリアン・ロベスピエールの指示に従って反対派を断頭台に送り込んでいた革命裁判所の検事アントワーヌ・フーキエ・タンヴィルはマクシミリアン・ロベスピエールらに死刑の求刑を求め、裁判長より死刑判決が下され、即日処刑されることになった。
午後06時、ギロチンのある革命広場(現コンコルド広場)に向けて22人の囚人を乗せた荷車が出発し、サン・トノレ通りぼ下宿のデュプレ家の前を通った。刑場に向かうジョルジュ・ジャック・ダントンが「ロベスピエールよ、お前も俺の後に従うのだ。」と叫んだ場所だった。
翌日に即日、革命裁判所により死刑宣告を受け、翌07月28日、マクシミリアン・フランソワ・マリー・イジドール・ド・ロベスピエール、オーギュスタン・ボン・ジョゼフ・ド・ロベスピエール(小ロベスピエール)、「革命の大天使」または「死の天使長」ルイ・アントワーヌ・レオン・ド・、「ロベスピエールの第2の魂」ジョルジュ・オーギュスト・クートン、アドリアン・ニコラ・ゴボー(Adrien-Nicolas Gobeau)、アントワーヌ・ジャンシ(Antoine Gency)、ルイ17世(ルイ・シャルル)を虐待したアントワーヌ・シモン、エティエンヌ・ニコラ・ゲラン(Etienne Nicolas Guerin)、クリストフ・コシュフェ(Christophe Cochefer)、クロード・フランソワ・ド・パイヤン(Claude-François de Payan)、ジャック・ルイ・フレデリク・ウアルメ((Jacques-Louis-Frederick Vouarmee)、シャルル・ジャック・ブーゴン(Charles-Joseph-Marthurin Bougon)、ジャン・エティエンヌ・フォレスティエ(Jean-Etienne Forestier)、ジャン・クロード・ベルナール(Jacques-Claude Bernard)、ジャン・バティスト・ド・ラヴァレット(Jean-Baptiste de Lavalette or Louis Jean-Baptiste de Lavalette、Louis Jean-Baptiste de Thomas de la Valette, count of la Valette)、ジャン・バティスト・フルーリオ・レスコー(Jean-Baptiste Edmond Fleuriot-Lescot、Lescot-Fleuriot)、ジャン・ベルナール・ダザール(Jean-Baptiste-Mathieu Dhazard)、ジャン・マリ・ケネ(Jean-Marie Quenet)、ドニ・エティエンヌ・ローラン(Denis-Etienne Laurent)、ニコラ・ジョゼフ・ヴィヴィエ(Nicolas-Joseph Vivier)。クートン{に「ロベスピエールの地に落ちた魂」と揶揄されたフランソワ・アンリオ、ルネ・フランソワ・デュマ(René-François Dumas)の22人は革命広場(現コンコルド広場)でギロチンにより処刑された。
3番目はオーギュスタン・ボン・ジョゼフ・ド・ロベスピエール(小ロベスピエール)、ルイ・アントワーヌ・レオン・ド・サン・ジュストは順番が来ると、ルネ・フランソワ・デュマに接吻をし、マクシミリアン・フランソワ・マリー・イジドール・ド・ロベスピエールに「さようなら。」と言葉を掛けて断頭台に上った。span style="font-size:large;">21番目のマクシミリアン・ロベスピエールの番がきた。そこで、死刑執行人シャルル・アンリ・サンソンは、受刑者の包帯を取り除くよう助手に指示を出した。その時の様子を、死刑執行人の孫アンリ・クレマン・サンソン(Henry-Clément Sanson)は後に「Mémoires des Sanson, sept génération d'éxécuteurs、日本語訳「サンソン回想録」」に書き残している。「恐ろしいまでの苦痛に受刑者は物凄い叫び声を上げた。外れた顎がだらりと下がり、口が信じられないほど大きく開いて、そこから血が流れた。助手たちが急いで彼を処刑台の跳ね板に押さえつけた。そして1分もしないうちにギロチンが落ちた。ロベスピエールの首は、国王やダントンの首と同じように民衆に示された。群衆は嵐のような拍手でそれに応えた。」ジョルジュ・ジャック・ダントンの処刑の時のように、この見せ物に熱狂する群衆の歓声、これとは対照的に一言も声を発することのできない暴君の最期だった。07月28日に国民公会の諸委員会の改選が行われた。
恐怖政治が行われた間、パリだけで約1400人、フランス全体では約2万人が処刑された。処刑方法には銃殺刑が多かったが、ギロチン(断頭台)による刑がよく知られている。ただし、プレリアール22日法の制定によって、司法手続きが大きく簡略化されたため、正統な裁判なしでの死刑や獄中死も多く、それらを含めると犠牲者は4万人を超える。ジャン・ジャック・ルソーの著作で述べられている社会を目指したことでも知られている。当初、山岳派はサン・キュロットら市民に支持を受け、恐怖政治下においてもそれは認められていたが、一般市民にも逮捕が及び、また、比較的平和に近づいてくると、恐怖政治は支持を失っていった。この政治形態は、西暦1794年07月27日に行われたテルミドール09日のクーデターで、ロベスピエール派が失脚するまで続いた。
07月28日のロベスピエールの死刑執行をもって恐怖政治(仏語: la Terreur)は終了した。
マクシミリアン・ロベスピエールの死後、デュプレイ家の長女、エレオノール・デュプレイ(Éléonore Duplay)は生涯黒服を着て、結婚することはなく、ロベスピエール未亡人(la Veuve Robespierre、ラ・ヴーヴ・ロベスピエール)として知られていた。

ロベスピエールの影 (叢書・ウニベルシタス) - P.ガスカール, 佐藤 和生
テルミドール(熱月)11日(07月29日)には70人のパリ自治委員が処刑され、テルミドール(熱月)12日(07月30日)には12人が同じ罪状で処刑された。
さらに、ジャン・バティスト・カリエやアントワーヌ・フーキエ・タンヴィルらジャコバン派の生き残りは、同年から翌年にかけて次々に逮捕され、死刑に処せられた。クーデターに加わっていたビョー・ヴァレンヌやジャン・マリー・コロー・デルボワも公安委員として恐怖政治を推進した責任を問われ、ギュイヤンヌへ流罪となった。
テルミドールのクーデターで、権力を掌握した者らはテルミドール派と呼ばれる。ただし、ロベスピエール派と対立する集団というだけの関係であり、政策上は必ずしも一致していなかった。これ以後のフランス共和国政府は、革命の理想に燃える革命派と、急激な改革を嫌う王党派との2派が対立したが、王党派と言えども必ずしも王政復古を望んでいるわけではなく、行き過ぎることの多い革命派に対して、古い体制を否定しないという立場であった。
処刑後、クーデタで中心的な役割を担ったテルミドール派は、マクシミリアン・ロベスピエールを徹底的に非難し、恐怖政治の原因を全てこの暴君に帰すことに専念した。翌日、国民公会では早速、「マクシミリアン・ロベスピエールは新たな暴君だった。」と宣言された。クーデター以後、パリの収監者は釈放され、革命裁判所も判事などの人員が入れ替えられた。
ジャン・マリー・コロー・デルボワやビョー・ヴァレンヌは、「恐怖政治とはマクシミリアン・ロベスピエール、サン・ジュスト、ジョルジュ・オーギュスト・クートンによる新たな三頭政治だった。」と意味付けを施し、「独裁者は排除された。」と訴えた。マルク・ギョーム・アレクシ・ヴァディエ(保安委員会)は、市庁舎内の部屋の机上には「百合の花(ブルボン家の紋章)の印章が残されており、マクシミリアン・ロベスピエールは国王になるため、ルイ16世の娘マリー・テレーズ・シャルロットと結婚する計画だった。」という、ありもしない物語をでっちあげた。また、ルイ・マリ・スタニスラス・フレロンは、「ロベスピエールが生前多くの護衛を雇っていた。」と、その臆病さを印象付けようとした。さらに、クーデタ後にナポレオン・ボナパルトを重用して総裁政府で権力の座に就くポール・バラスに至っては、「マクシミリアン・ロベスピエールには複数の妻があり、また彼らはパリの外れの隠れ家で御乱行に明け暮れていた。」と言いふらした。もちろん、それを実証する事実などなく、「清廉の士」にはおよそ無縁な素行に見えるが、こうした噂が、その後の彼の虚像を決定づけることになった。中でも、この種の陰謀の影響という点で同時代に決定的だったと思われるのは、処刑の翌年に出版された、ガラル・ド・モンジョワ著「パリのロベスピエールの陰謀の歴史」(1795年)である。著者のモンジョワは、性的にも不道徳な、美徳などはおよそ持たない権力欲だけの独裁者の来歴を描いた。
マクシミリアン・ロベスピエールの粛清は、山岳派(モンタニャール派)の内部抗争であり、その手法は山岳派がジロンド派のような他勢力を追放する手法と同じだった。マクシミリアン・ロベスピエールは広く山岳派の中心と見做されていて、その死は山岳派の崩壊を意味していた。ごく少数の者だけが山岳派を名乗り続け、約100人にまで減った。07月29日にジャコバンクラブは、ジャン・ランベール・タリアンやルイ・マリ・スタニスラス・フレロンなどテルミドール派を除名したが、ジャコバンクラブにかつての力などなかった。09月05日にアントワーヌ・クリストフ・メルラン・ド・チョンヴィル(Antoine Christophe Merlin de Thionville)は、国民公会でジャコバンクラブの解散を提案し、09月19日には金ぴか青年隊がジャコバンクラブを占拠し、11月12日に国民公会はジャコバンクラブを閉鎖した。
勝ち誇ったテルミドール派がまず最初にやったことは、革命の独裁機構を粉々に粉砕することだった。公安委員会のロベスピエール派の処刑と左派の委員の追放によって空いた6人の空席は、07月31日、ジャン・ランベール・タリアンを筆頭とするテルミドール派によって埋められた。
08月06日に、アントワーヌ・ローラン・ド・ラヴォアジェに「共和国に科学者や化学者は必要ない。」というウイルス以下の脳味噌の無い、人類への大罪の気違い死刑判決を出した元革命裁判所裁判長ジャン・バティスト・コフィナル(ピエール・アンドレ・コフィナル・デュバイユ)がギロチンで処刑された。08月10日にはテルミドール09日のクーデターの翌日から停止されていたプレリアール22日法も廃止され、革命裁判所は大幅に改組され弁護も認められ、機能が弱体化した。自治市会も解散を命じられ、パリの市政は、公安委員会と保安委員会とが直接運営するようになった。しかし国民公会の末期にも今度は逆の白色テロの場として利用された。国民衛兵隊からは貧民が排除され、ブルジョワ子弟で構成される俗に言う「金ぴか青年隊(ジュネス・ドレ)」に改組された。カミーユ・デムーランの親友として知られるダントン派、総裁となるポール・バラスの相方の元派遣議員だったルイ・マリ・スタニスラス・フレロンが金ぴか青年隊の隊長となって、左派に報復の白色テロを行い、西暦1795年05月31日に革命裁判所が廃止されるまで猛威を振るった。
08月24日、諸委員会が改革され、行政は、公安委員会の権限が軍事と外交に縮小され、保安委員会が引き続き警察権を持ち、立法委員会が大きな権限を握った。各委員会は毎年4分の1ずつ入れ替わり、再任されるには1ヶ月の間を置くこととされた。 公安委員会の弱体化が図られ、公安委員会も毎月その4分の1が改選されることになり、一度、公安委員となった者は1ヶ月経過しなければ再選できなくなった。また広大な権限は大幅に縮小され、外交と軍事(作戦と人事)に限定された。公安委員が軍隊に直接命令できる権限はなくなった。ラザール・カルノーはしばらく留任し、後に再選もしたが、公安委員会の役割が低下したため、目まぐるしく変わったテルミドール後の公安委員に目ぼしい政治家はほとんどいなくなった。
08月21日、フランス共和国がコルシガ島を放棄し、パスカル・パオリまたはパスクワーレ・パオリ(仏語: Pascal Paoli、伊語: Pasquale de Paoli)がイギリス王国の統治を受け入れ、アングロ・コルス王国(コルシカ王国)(西暦1794〜1796年)が成立した。王ジョージ3世、副王初代ミントー伯ギルバート・エリオット・マーレイ・キニンマウンド(Gilbert Elliot-Murray-Kynynmound, 1st Earl of Minto) 。
08月25日に12の行政委員会に権力を分散した。この結果、平原派(プレーヌ派)が力を持つようになりジロンド派の生き残りを復帰させた。マクシミリアン・ロベスピエールの死後も恐怖政治の継続を主張した山岳派は排除され、恐怖政治は全廃された。西暦1794年08月28日、マクシミリアン・ロベスピエールの処刑から1月後、ジャン・ランベール・タリアンは、国民公会の演説で「恐怖の機構」という言葉を使った。この恐怖政治の機構の中で、自分たちも弾圧せざるをえなかったという。「それを指揮していたのは暴君ロベスピエールであって、自分たちはそれに従わざるをえなかった。そして今こそ、『恐怖を日常に』を『正義を日常に』に取って代えなければならない。」と訴えた。
ジャコバン派の旧貴族で後に総裁となるポール・バラス(ジョゼフ・フーシェ、バラス子爵ポール・フランソワ・ジャン・ニコラ)は、マクシミリアン・ロベスピエール処刑の日の07月28日、タンプル塔にマリー・テレーズ・シャルロットとルイ17世(ルイ・シャルル)を訪ねた。ポール・バラスは2人に礼儀正しく接し、「王子」、「王女」と呼んだ。ポール・バラスは悪臭漂う独房の子供用の小さな寝床に衰弱したまま横になったルイ17世(ルイ・シャルル)を目撃し、その衰弱ぶりと不潔な室内に驚愕した。ポール・バラスは当時24歳だったマルティニック島出身のジャン・ジャック・クリストフ・ローランを新たな後見人にした。
後見人ジャン・ジャック・クリストフ・ローランは09月01日にルイ17世の(ルイ・シャルル)独房の清掃を2人の男性に行わせ、マリー・テレーズ・シャルロットに依頼されて虱と蚤だらけのルイ17世(ルイ・シャルル)の寝床を処分し、彼女が使用していた寝床をルイ17世に使用させた。ジャン・ジャック・クリストフ・ローランは自らルイ17世(ルイ・シャルル)を入浴させ、身体にたかった虫を取り、着替えさせた。室内の家具とカーテンの焼却も命じた。この日、ルイ17世(ルイ・シャルル)は医師の診察を受けた。この頃のルイ17世(ルイ・シャルル)は、栄養失調と病気のため灰色がかった肌色をし、こけた顔にぎょろりと大きくなった目、体中に黒や青や黄色のミミズ腫れがあり、爪は異常に伸びきっていた。ジャン・ジャック・クリストフ・ローランはタンプル塔の屋上にルイ17世(ルイ・シャルル)を散歩に連れ出したが、食事の質が改善されなかったことと病気での衰弱が酷く、1人では歩けなかった。
マクシミリアン・ロベスピエール処刑後、国民公会政府末期にはマリー・テレーズ・シャルロットの待遇が良くなり、西暦1795年07月、身の回りの世話をするアルザス出身のマドレーヌ・エリザベート・ルネ・イレール・ボッケ・ド・シャトレンヌ夫人が雇われた。30歳のド・シャトレンヌ夫人はマリー・テレーズ・シャルロットのために衣類や筆記用具や本などを差し入れ、庭園を散歩する許可を得たり、ルイ・シャルルの愛犬スパニエル雑種の「ココ」を部屋に呼んで遊ばせるなどした。ド・シャトレンヌ夫人は硬く口止めされていたが、次第に気の毒になり、伏せられていた母マリー・アントワネットと叔母エリザベート・フィリッピーヌの処刑を知らせた。また、誰ともほとんど会話のないまま2年近くを過ごしたマリー・テレーズ・シャルロットは発声異常に陥ったため矯正を手助けしたものの、ガリガリと話す発声異常は生涯無くならなかった。マリー・テレーズ・シャルロットはド・シャトレンヌ夫人と親しくなると「愛しいルネット」と呼んだ。
この頃のフランス国民は、幽閉されたままのマリー・テレーズ・シャルロットに同情的になっており、散歩に出られるようになるとルイ16世の近侍フランソワ・ユーはタンプル塔の近くに部屋を借り、大きな声で歌ったり、かつて王室で使われた暗号を使用して彼女に手紙を送った。塔に近いボージョレ通りは、マリー・テレーズ・シャルロットを一眼見ようとする野次馬で溢れた。
西暦1795年07月30日、マリー・テレーズ・シャルロットの母方の従兄の神聖ローマ帝国(西暦800/962〜1806年)皇帝フランツ2世は、フランス共和国政府が出した条件を受け入れ、マリー・テレーズ・シャルロットの身柄とフランス人捕虜の引き換えに同意した。09月、ド・トゥルゼル夫人は娘のポーリーヌとともに面会し、彼女と釈放され、ウィーンに送られることを話した。この時マリー・テレーズ・シャルロットは、ルイ17世(ルイ・シャルル)が使った部屋を案内した。12月19日、マリー・テレーズ・シャルロットが嫌っていた元養育係のド・スシー夫人とその娘、牢番のゴマン、憲兵のメシャンと共に深夜、タンプル塔を出発した。翌西暦1796年01月09日、ウィーンのホーフブルク宮殿に到着した。しかしナポレオン軍が北イタリアで優勢となると、プラハ近郊に夏頃まで避難した。
テルミドール派はこれまでの政治制度を大きく変えた。経済では西暦1794年12月24日までにかけて、輸入自由化、統制価格の撤廃が徐々になされた。ただし、このため猛烈なインフレが起こって国債アッシニアの暴落を招き、後の総裁政府破綻の原因の1つとなった。一方で武器商人や金融業者など資本を集める者も出た。西暦1795年02月21日に聖職者民事基本法が撤廃されて、政教分離原則が取られ、信教の自由が保障された。政府の祭式予算が撤廃された一方で、西暦1795年05月30日には教会に祭祀が再び許された。
他方で、09月07日、最高価格令の停止が国民公会に提案された。恐怖政治の基本政策である最高価格法の廃止だった。最高価格法は、山岳派が貧民の生活安定のために必需品・食料が投機等によって不当に高騰しないよう最高額を設けた法で、12月23日に最高価格廃止法が上程され、翌12月24日に最高価格令を撤廃された。アッシニアの価値が急落し物価が高騰した。このことは、単なる恐怖政治の行き過ぎへの批判に止まるものではなく政治や経済の路線を大きく変えた。恐怖政治下の統制経済は非能率で、十分に機能したとは言えず、物価は高騰する一方で賃金は上がらず、民衆の中には不満が燻っていた。しかし、国家による規制を緩めることは、「外国人の陰謀」のように、食料や軍事物資の供給において御用商人や業者が暗躍することになりかねなかった。経済を自由化するというテルミドール派の政策は、この点でも、私的な業者が最大限の利益を上げ得る機会を国家が保障するものだった。結局、テルミドール09日のクーデターに行き着いた革命によって利益を得たのは、種々の投機によって蓄財に成功した新しい階級、ブルジョアジーだった。新しい階級の擡頭と「反動」と呼べる過程が始まった。亡命貴族(エミグレ)の帰国と、聖職者市民化法の廃止だった。政教分離と称した政策は、政治信念に基づくというよりは、国による聖職者への給与支払いを止めるという財政上の理由によるものだった。
09月08日、フランス西部の都市、ナントの弾圧で投獄され、生き残った貴族たちの裁判がパリで始まると、裁判は被告が逆に恐怖政治を告発する場となった。結果、彼らは釈放され、革命委員会の委員が逮捕された。株式市場と商業取引所の再開、処刑された者の財産も返還された。革命の標語は「友愛」から再び「財産を守れ」に変わった。国債利子の支払い停止も撤回された。こうした政策によりブルジョアジーの財産は恢復され、元通りの活動が再開された。
10月25日にプロイセン軍が、イギリス王国との条約を破棄してネーデルラント連邦共和国から撤退した。12月27日、ジャン・シャルル・ピシュグリュ(Jean-Charles Pichegru)将軍は、ネーデルラント連邦共和国に侵攻を開始した。
11月08日、国民公会はルイ17世(ルイ・シャルル)の世話をジャン・バティスト・ゴマンに命じた。ジャン・バティスト・ゴマンはルイ17世(ルイ・シャルル)の衰弱した姿に驚き、国民公会の再視察を依頼した。ルイ17世(ルイ・シャルル)は長く続いたジャン・ジャック・クリストフ・ローランとジャン・バティスト・ゴマンの親切な対応に驚いたが、徐々に彼らになついた。11月末に役人のデルボイがルイ17世(ルイ・シャルル)の元にやってきたが、もうこの頃のルイ17世(ルイ・シャルル)は衰弱しきっており、デルボイと会話をすることができなかった。しかし、デルボイはルイ17世の部屋の窓にかけられた柵を取り払うよう命じ、ルイ17世(ルイ・シャルル)はおよそ2年ぶりに、日の光が入る部屋で過ごせるようになった。ジャン・バティスト・ゴマンはルイ17世(ルイ・シャルル)の病状を国民公会に確かめるよう何度も嘆願し、外で遊ばせる許可を得た。しかしルイ17世(ルイ・シャルル)の体調は悪く、独房の火の側で過ごした。
この頃にはフランス国内の空気も変化し、タンプル塔で行われていたルイ17世(ルイ・シャルル)への虐待や現在の待遇も国民の話題となっていた。11月26日、「世界通信」紙はルイ17世(ルイ・シャルル)の酷い待遇が行われていた事実を公式に認める記事を発表した。関係者らは逮捕され、国民公会に連行され、保安委員会のマテューは公式に王党色の強い新聞記事を否定し、革命支持者のために「ルイ17世は一般の囚人と変わらぬ扱いを受けている。」と説明した。
スペイン王室はルイ17世(ルイ・シャルル)の引き渡しを条件にフランス共和国を認めると、西暦1795年の早い時期に申し出たが、スペイン王国がこれに関し争う気が見えないため、フランス共和国は要求を拒否した。この当時のヨーロッパ外交において、ルイ17世(ルイ・シャルル)は見捨てられた存在であった。
パリの民衆たちはジャン・バティスト・カリエの出頭を求め、「ナントの溺死刑(共和国の結婚)」の大量虐殺で告発した。11月11日に弾圧の責任者の派遣議員のジャン・バティスト・カリエは逮捕され、12月16日にパリのグレーヴ広場でギロチンで処刑された。 ボルドーの弾圧のジャン・ランベール・タリアンやリヨンの大虐殺のジョゼフ・フーシェも、派遣議員として激しい弾圧を行っていたが、テルミドール09日の功績とその後の立ち回りでお構いなしだった。オーストリア・ハンガリー帝国(西暦1867〜1918年)のユダヤ人、シュテファン・ツヴァイク(Stefan Zweig)は、「ジョゼフ・フーシェ―ある政治的人間の肖像」(西暦1930年)のなかで、「フーシェは命拾いをしたのである。」と語った後、「テロルは終わったが、革命の熱烈火の如き精神もまた消えてしまい、英雄時代は去ったのである。いまや後継者の時代がきた。山師と利得者、掠奪者と二股膏薬、将軍と富豪の時代、新しい組合(ギルド)の時代が来たのだ。」と書いた。
ルイ・ラザール・オッシュ(Louis Lazare Hoche)が、ヴァンデ戦争鎮圧のため共和国軍司令官として赴任すると、捕虜の農民兵との面談から、農民が叛乱を起こした目的は宗教的自由と徴兵制反対のためであり、条件次第では農民達が王党派の叛乱から離脱するだろうと考え、フランソワ・アタナス・シャレット・ド・ラ・コントリ(François-Athanase Charette de la Contrie)とジャン・ニコラ・ストフレ(Jean-Nicolas Stofflet)は相次いで講和に応じ、12月02日、ヴァンデ叛徒に対して大赦令を出した。ヴァンデ戦争はキブロン遠征で再開されるまで、一時休戦した。
西暦1794年末には山岳派(モンターニュ派)は大部分がクレスト(仏語: crête)と呼ばれる党派に移行し、実質的な力を失っていた。ジャン・ランベール・タリアンは、ブルジョワの子弟で作られた金ぴか青年隊(ジュネス・ドレ)を扇動してジャコバンクラブを襲撃させ、これを閉鎖させた。11月22日、国民公会はジャコバンクラブの閉鎖を決議した。「08月10日事件」直後の状態に戻り、ここに、フランス革命は終わった。

図説 フランス革命史 (ふくろうの本/世界の歴史) - 竹中 幸史
西暦1795年01月19日、フランス軍はネーデルラント連邦共和国アムステルダムを無血占領した。01月31日、外国貿易の禁止を撤廃した。02月09日、トスカーナ大公国(西暦1569〜1860年)と中立条約を結んだ。02月21日、国民公会は「信仰の自由」を宣言し、03月08日 にジロンド派が復活した。
西暦1795年03月31日、エティエンヌ・ラーヌがルイ17世(ルイ・シャルル)の世話係に加わった。ルイ17世(ルイ・シャルル)はエティエンヌ・ラーヌには懐かなかった。その後、ジャン・ジャック・クリストフ・ローランは別の役職に就き、ジャン・バティスト・ゴマンが後見人となった。
04月01日、西暦1793年憲法の施行や貧困対策を求めてパリの民衆が国民公会に押し寄せたジェルミナル(芽月)の蜂起と、05月20日、民衆が議場に押し寄せたプレリアル(牧月)の蜂起という最後の民衆蜂起が起き、どちらも速やかに鎮圧された。プレリアル蜂起で山岳派(モンターニュ派)が壊滅した。議場で死者を出したプレリアルの蜂起は、元々革命のための軍隊だったはずの国民衛兵によって民衆が鎮圧され、蜂起者たちは銃殺された。
04月01日のジェルミナルの蜂起の後に「4人組」の排除が行われた。「4人組」とは、マクシミリアン・ロベスピエールを「暴君」と罵倒していたリヨンの大虐殺の山岳派ジャン・マリー・コロー・デルボワ、ヴァンデの弾圧の山岳派ジャック・ニコラ・ビョー・ヴァレンヌ、山岳派で保安委員会のマルク・ギョーム・アレクシ・ヴァディエ、平原派の「カメレオン」ベルトラン・バレール ・ド・ヴュザックで、恐怖政治を体現する「4人組」として、西暦1794年12月05日に国民公会で告発された。捜査が承認されると、マルク・ギョーム・アレクシ・ヴァディエは拳銃を手に演壇に上がり、「60年間の美徳を正当に評価しなければ自殺する、」と脅し、数人の議員に制止された。
ジャン・マリー・コロー・デルボワは03月02日に逮捕され、南米ギアナへ流刑され、西暦1796年に黄熱病で死んだ。ジャック・ニコラ・ビョー・ヴァレンヌもジャン・マリー・コロー・デルボワらと一緒に翌年南米ギアナへ流刑された。20年間の流刑生活の後、西暦1814年赦免された。ナポレオン・ボナパルトの政府を容認せずに恩赦を拒否し、フランス共和国に帰国しなかった。その後アメリカ本土に渡り、西暦1816年ハイチに移住し、ポルトープランスで病死した。
マルク・ギョーム・アレクシ・ヴァディエがフォーブール・サン・タントワーヌ(「美しい空気の中庭」の意)の通りを歩いていたところ、反動派、王党派、一般にブルジョワの若者たちの武力歌い、マスカディンたちに逮捕されて乱暴されたが、無傷だった。「4人組」は、国外追放を宣告されたが、容疑者の分離により恩赦が与えられるまで何とか身を隠した。「共産主義の先駆」フランソワ・ノエル・バブーフ(François Noël Babeuf、通称: グラキュース・バブーフ(Gracchus Babeuf))は平等社会の実現を目指して私有財産制を否定し、西暦1795年11月、相次いだ投獄期間にフィリッポ・ブオナローティ(Filippo Buonarroti)、オーギュスタン・アレクサンドル・ダルテ(Augustin-Alexandre Darthé)、マレシャル(Sylvain Maréchal)などの同志を得て、過激急進派秘密結社、パンテオンクラブ(Club du Panthéon)を結成し、旧ジャコバン派や旧国民公会会員など約2000人が加わった。蹶起の前日の西暦1796年05月10日(革命暦04年フロレアル(花月)21日)に、フランソワ・ノエル・バブーフらは逮捕され、西暦1797年05月26日に、オーギュスタン・アレクサンドル・ダルテと共に死刑を宣告された。彼らは、バブーフの息子から渡された短刀で刺し違えて死のうと図ったが果たさず、翌05月27日(革命暦05年プレリアル(牧月)08日)、ヴァンドームでギロチンにかけられ処刑された。この事件を「バブーフの陰謀」、「平等主義者の陰謀」と呼ぶ。この過激急進派パンテオンクラブのフランソワ・ノエル・バブーフをマルク・ギョーム・アレクシ・ヴァディエは支援したため、ヴァンドーム高等裁判所で無罪となる西暦1799年までシェルブール近郊のペレ島に投獄された。 友人のジョゼフ・フーシェの要請によりジャン・ジャック・レジ・ド・カンバセレス(Jean-Jacques Régis de Cambacérès)によって釈放され、シャルトルで目立たないように過ごした。その後西暦1816年に国王殺しとして国外追放され、ベルギーに住むことになり、彼は領事館とフランス帝国の監視下に置かれ、ブリュッセルで92歳まで生きた。人生の終わりに向かって、その没年に、「私は92歳だが、自分の意志の強さにより寿命が伸びている。 ロベスピエールを誤解し、同胞を暴君と誤解したことを除けば、私の人生で後悔している行為は1つもない。」と述べた。
「カメレオン」ベルトラン・バレール ・ド・ヴュザックは、逮捕されて流刑に処されたが脱獄に成功し潜伏生活を送った。ナポレオン統治下で復権したが、王政復古とともに国王殺しとして再び国外追放され、亡命後はルイ・フィリップ1世(Louis-Philippe Ier)の計らいでブリュッセルに逗留し、西暦1830年の七月革命で帰国し、西暦1841年に失意と貧困のうちに故郷タルブで死亡した。彼は公安委員会で生き残った最後の1人だった。
内乱と財政状況の悪化で国が疲弊していたため、西暦1795年春以降、共和国政府は戦争状態にあった国々と講和を結んでいった。バーゼルの和約とはフランス革命戦争の講和条約で、西暦1795年04月05日にプロイセン王国と比較的有利な条件で講和した。プロイセン王国はフランス革命政府によるラインラント併合を承認して第1次対仏大同盟から退き、ポーランド分割に関心を向けた。これによりオーストリア大公国は単独でフランス共和国と対峙した。続いて05月16日にはネーデルラント連邦共和国と講和を結び、07月22日にスペイン王国が、08月28日にヘッセン・カッセル方伯がフランス共和国との間に締結した。フランス共和国とスペイン王国との講和条約は第2次バーゼルの和約とも呼ばれる。 04月07日にメートル法が制定されたが、メートル法が一般に浸透したのは西暦1840年代のことだった。
05月07日、「瓦のように首が落ちている。」と他人事のように言った革命裁判所の元検事アントワーヌ・カンタン・フーキエ・タンヴィルは、元裁判長マルティアル・ジョゼフ・アルマン・エルマン、ジャン・バティスト・コフィナル元判事らと共にパリのグレーヴ広場で処刑された。
05月16日、ネーデルラント連邦共和国の崩壊後に、03月に憲法が採択されていたフランス共和国の衛星国、バタヴィア共和国(西暦1795〜1806年)の憲法が発効し成立した。05月20日、 プレリアル蜂起に失敗した山岳派(モンターニュ派)は壊滅した。国民公会の末期にも今度は逆の白色テロの場として利用された。最終的にはテルミドール派により、西暦1795年05月31日に廃止された。 白色テロが終焉した。

西暦1795年06月06日、フィリップ・ジャン・ペルタン新たにルイ17世(ルイ・シャルル)の主治医に就任した。就任日にフィリップ・ジャン・ペレタンは「子供の神経に触るような閂、錠の音を控えるように。」と士官を咎め、日除けを外して新鮮な空気に当たれるようにすることを命じた。孤独な幽閉から1年半近く経過したこの日、独房の鎧戸や鉄格子、閂がようやく取り外され、白いカーテンで飾られた窓辺をルイ17世(ルイ・シャルル)は喜び、少し様態が改善した。 しかし、フィリップ・ジャン・ペルタンは「不運なことに援助はすべて遅すぎた。何の望みもなかった。」と報告している。06月07日、ルイ17世(ルイ・シャルル)は衰弱し、一時は意識を失った。夜遅くに様態が急変し、フィリップ・ジャン・ペルタンは薬の投与指示をして、翌06月08日朝に訪れたが、この時初めてルイ17世(ルイ・シャルル)が瀕死の状態で昼夜問わず看護もされていないことを知り、ルイ17世(ルイ・シャルル)の世話をしていたジャン・バティスト・ゴマンに看護婦を探しに行かせている午後、ルイ17世(ルイ・シャルル)の意識が薄れ始めていた。午後03時頃、激しい呼吸困難に気がついた世話係(看守)のエティエンヌ・ラーヌ(Étienne Lasne)が症状を和らげようとルイ17世(ルイ・シャルル)を抱き上げ、両腕を自らの首に回した。しかし間もなく、長い溜息の後、全身の力が抜け、ルイ17世(ルイ・シャルル)の短い生涯は終わりを告げた。
06月21日、アッシニア紙幣のデノミネーションで2/25に切り下げた。06月23日〜07月21日、ルイ・ラザール・オッシュ(Louis Lazare Hoche)将軍、イギリス軍と亡命貴族軍によるキブロン遠征を阻止した。07月22日、スペインと和平条約(第2次バーゼルの和約)を結んだ。08月15日に新通貨単位フランを導入した。
テルミドール派は、革命色の強すぎる西暦1793年憲法を修正して、共和暦03年憲法を制定した。2ヶ月の議論の後の08月22日に普通選挙制による採否を問う投票が行われ、投票数105万に対し、反対はわずか5千票で、共和暦03年憲法(西暦1795年憲法)を制定し、憲法を受けて行われる最初の選挙ではテルミドール派よりも王党派の方が有利と予想された。そのため、テルミドール派は「退職後の議員の職が保証されていないため、新たに議員に立候補する者は少ないであろう。」と主張して、国民公会から3分の2の議員を留任させる法案を提出し、憲法と合わせて採択された。この採決を受けて09月23日より施行した。この憲法に基づいて総裁政府が成立した。
立法府は五百人院(下院)と元老院(上院)による二院制が取られ、専ら五百人院のみが法案提出権を有し、専ら元老院のみが法案を承認または拒否する。五百人院の提出した法案が元老院で全部承認されて初めて法律が成立した。これは立法府の独裁を防ぐためで、両院とも毎年3分の1が改選されることが定められていた。選挙制度は一定の納税者のみによる制限選挙かつ間接選挙で、五百人院議員は年齢30歳以上で10年以上共和国に居住した者、元老院議員はは40歳以上、15年以上共和国に居住した者かつ既婚者または寡夫に限られた。行政は総裁政府が担当し、5人の総裁(任期5年、抽選順に毎年1人改選、非議員)で構成され、各総裁は、3ヶ月毎に1人が輪番制で首班に任命された。ただし、総裁は租税を審議する権限を持たず、財政は立法府の選出する国庫委員会が管轄した。徴税権は行政権と別途に6人の経理官に委ねられた。経理官は総裁の命令を受けることはないとされた。総裁は、五百人院の作成した候補者名簿から元老院が選出した。総裁は、法案提出権など立法に関する権限を有せず、独裁的権限を振るえないように防止策が講じられていた。信教の自由、報道の自由、職業選択の自由が保証された。一方、集会の自由は認められなかった。政府への請願権は認められた。また、聖職者の中には、憲法と神に共に忠誠を誓うことに矛盾を感じるものも多く、憲法への宣誓を拒否する者(忌避僧侶)も多く現れた。このような忌避僧侶の人権は制限された。
穏健共和政の枠組みでフランス革命の収拾が図られたが、政権はネオ・ジャコバンと王党派に揺るがされ続け、安定しなかった。
この憲法は権力分立を旨とする分権構造が特徴で、それ故に非効率であった。特に行政と立法の対立が深刻で、総裁政府は自らを守るためにクーデターで選挙を無効にすることが必要になった。ナポレオン・ボナパルトによるブリュメール18日のクーデターによって総裁政府は崩壊し、この憲法に代わり新たに共和暦08年憲法が定められた。
08月23日、西暦1795年の人権宣言が出された。08月30日、新憲法の安定のため、 「3分の2を現職国民公会議員から選ばなければならない。」即ち「選出される750の議席の内、500(3分の2議席)を旧国民公会議員の中から選ばなければならない。」という法律(3分の2法令)が国民公会を通過し、09月に行われた国民投票の結果、3分の2法は約20万票対11万票で可決された。選挙で勝つ予定の王党派はこの結果に激怒した。オーストリア大公国との講和には失敗して戦争が続けられ、10月01日には南ネーデルランド(ベルギー)を併合した。ただしライン川を挟んだ戦いでは敗れ、12月になってようやく停戦となったが、これは一時的なものであり、翌年06月に戦闘は再開された。
西暦1795年10月20日(ヴァンデミエール29日)に選挙が行われることに決まったが、3分の2法に不満を持つ王党派を中心に、その前の10月05日に暴動、ヴァンデミエール13日のクーデターが発生した。暴徒はテュイルリー宮殿にある国民公会を襲撃し、国民公会はサン・キュロットの援助を求めたが、左派は直前に弾圧されてパリでは勢力を失っていた。そのためポール・バラスを国内軍司令官に任命し、ナポレオン・ボナパルトが副官になった。副官ナポレオン・ボナパルトが率いる2、3千の政府軍とよく訓練された大砲隊は、広範囲に被害が及ぶ散弾(蒲萄弾)を首都の市街地サントノレ通りのサン・ロック教会界隈で大砲を使って撃つという大胆な戦法により、抵抗する軍事力に劣る王党派をあっさり鎮圧した。暴徒は撃退され、翌日抵抗は止み、10月25日、国民公会はナポレオン・ボナパルトを国内軍の総司令官に任命して、叛徒に対し寛大な処置を取った。流血の場であった「革命広場」を「融和(コンコルド広場)」と名前を変えた。以後、パリは国内軍司令官の命令に絶対服従することを余儀なくされ、完全に軍の制圧下に置かれた。ナポレオン・ボナパルトはこの時の成功から「ヴァンデミエールの将軍」と異名を取った。
10月24日、ポーランド・リトアニア共和国の最後の分割、第3次ポーランド分割により、その領土がプロイセン王国、ハプスブルク帝国(西暦1526〜1804年)、ロシア帝国(西暦1721〜1917年)に完全に分割され、ポーランド・リトアニア両国は西暦1918年まで主権国家の地位を失った。分割に参加した3国はあらゆる歴史的背景からポーランドの名を消し去ることで合意し、百科事典などからもポーランドの項が消えた。ポーランドについて公文書で触れる必要が生まれた際には、代わりにマゾフシェなど他の地域名を用いるようになった。
10月25日に平時の死刑を廃止した。新憲法下での初めての選挙が西暦1795年10月20日に行われ、10月26日に国民公会は解散した。10月31日に、総裁政府で総選挙が行なわれ。ポール・バラスら5総裁を行政の長とする総裁政府が成立した。
クロマニョン人の直接の末裔の「コーカソイド」は「西ユーラシア人」とも、「白人」とも「毛唐」、「南蛮、紅毛」と呼ばれる狩猟遊牧民族は、家畜の増殖と家畜を屠殺して喰らうのを生業とし、勢力を得ると狂躁化し、掠奪、強姦、拷問、殺戮、虐殺、抹殺を行う兇暴な悪魔の蛮族である。
そのうち、民族移動で日誌に進んだ部族をフランク族と呼び、その南部に侵攻したのがフランス人だ。
一体、これは誰のための革命だったのだろうか?
啓蒙思想から腐り切った悪逆な机上の暴論を過激な気違い思想が産まれ、共産主義、全体主義で、恐怖政治を行ったのが、悪逆非道なディープステイト(DS(出来損ないの堕落した最兇な屑))、即ち、ユダヤ、ロスチャイルドを始めとする記入資本、ヘッセン・カッセン方伯やフリーメイソン、イルミナティーなどの秘密結社、・・・、そしてブルジョワジーである。掠奪、強姦、拷問、殺戮、虐殺、抹殺で、ゴイム、他国民、他人の不幸を金や権力に変えた。
税金の父、ヴァロワ朝第3代シャルル5世賢明王は定期的な臨時徴税(矛盾した表現)と、常備軍・官僚層を持った。生活必需品の鹽に税金を掛けるのはフランスばかりではないが、ナポレオン・ボナパルトは財産や相続の税金も始めた。
付加価値税を最初に導入したのもフランスで、元になったのは大正06(1917)年の支払税で、大正09(1920)年に売上税、さらに昭和11(1936)年に生産税と名前を変え、昭和29(1954)年にモーリス・ローレが考案した。第2次世界大戦後の復興の最中、国内経済を景気浮揚のため輸出企業に輸出補助金を出していた。しかし、GATT(関税及び貿易に関する一般協定)で、自国企業にのみ補助金を出していることがGATTに抵触するため、抜け穴として自国輸出企業に補助金を出す策謀が付加価値税である。
フランス人とは、フランス革命だけではなく、共産主義の増幅、・・・・、全人類を地獄に叩き込む悪逆非道なディープステイト(DS(出来損ないの堕落した最兇な屑))御用達の悪魔の制度を不潔なフランス人が作った。
現在進行中で、悪逆非道なディープステイト(DS(出来損ないの堕落した最兇な屑))は、今も掠奪、強姦、拷問、殺戮、虐殺、抹殺を行い、この地球を地獄に変え、ゴイムの殲滅作戦を行っている。

ディープステート 世界を操るのは誰か (WAC BUNKO) - 馬渕 睦夫