2024年03月20日

反吐が出る世界史 ジェノバ出のコルシガ人ボナパルトが汚腐乱巣の葬祭・掃討・更訂 利権と詐欺で生き血を啜る佞惨失茶 悪逆非道なディープステイト(DS(出来損ないの堕落した最兇な屑))の中核、猶太とは何か その24

ダビデの星.jpgユダヤ(ギリシャ語: Ἰουδαία、Ioudaía、漢字:猶太)

 他民族からは「ヘブライ人」と謂れ、自らは「イスラエル人」と称し、バビロン捕囚後には「ユダヤ人」と呼ばれるようになった徒輩。ヘブライ人、イスラエル人、ユダヤ人は同じ民族を指している。
 ユダヤ人(ヘブライ語: יהודים‎、英語: Jews、ラジノ語: Djudios、イディッシュ語: ייִדן‎)は、猶太教の信者(宗教集団)または猶太教信者を親に持つ者によって構成される宗教信者。原義は狭義のイスラエル民族のみを指す。イスラエル民族の1つ、ユダ族がイスラエルの王の家系だったことを由来とする。猶太教という名称は、猶太教徒が多く信仰していた宗教であることによる。ユダヤとは、パレスチナ南部の地域。酋長ヤコブの子ユダに由来する。古代イスラエル統一王国の分裂後の南ユダ王国があった地域である。



南ユダ王国滅亡後のユダヤの歴史

南ユダ王国が滅ぶと、僅かな例外的時期を除いて西暦20世紀に至るまでユダヤ民族が独立国を持つことはなかった。


神武天皇74(西暦前587)〜安寧天皇10(西暦前539)年 新バビロニア帝国
安寧天皇10(西暦前539)〜孝安天皇61(西暦前332)年 アケメネス朝ペルシア帝国
孝安天皇61(西暦前332)〜孝安天皇88(西暦前305)年 プトレマイオス朝エジプト
孝安天皇88年(西暦前305)〜開化天皇17(西暦前141)年 セレウコス朝シリア
開化天皇17(西暦前141)〜崇神天皇35(西暦前63)年 ハスモン朝 ユダヤ人国家
崇神天皇35(西暦前63)〜崇神天皇61(西暦前37)年 共和政ローマ元老院属州
崇神天皇61(西暦前37)〜垂仁天皇73(西暦44)年 ヘロデ家
垂仁天皇73(西暦44)年 ユダヤ属州(ローマ帝国皇帝属州)
垂仁天皇73(西暦44)〜景行天皇23(西暦93)年 ヘロデ家
垂仁天皇73(西暦44)〜仁徳天皇83(西暦395)年 ローマ帝国皇帝属州
仁徳天皇83(西暦395)〜舒明天皇06(西暦634)年 東ローマ帝国
舒明天皇06(西暦634)〜永正13(西暦1516)年 イスラーム諸王朝 途中に十字軍国家の時代を含む。
永正13(西暦1516)〜大正06年(西暦1917)年 オスマン帝国 
大正07年(西暦1918)〜昭和23(西暦1948)年 イギリスによる国際聯盟の委任統治 
昭和23(西暦1948)年 イスラエル国(メディナット・イスラエル)成立 共和政国家の樹立、現代に至る。



 西暦135年、ローマが叛乱を鎮圧し、ユダヤ的なものを一掃しようとしたローマ人は、この土地をユダの地(ユダヤ)ではなく、ユダヤ人の宿敵ペリシテ人に因んで「パレスチナ」、エルサレムを「アエリア・カピトリーナ」と改称し、ユダヤという地名は消滅した。

 また、ユダヤ人は人種的にはセム族とされるが、長いディアスポラ(離散)のなかで、周辺民族との混血の結果、セファルディームアシュケナジームの違いが生じ、また言語もイデッシュ語などが生まれた。現在、ユダヤ人はイスラエルの他、世界中に分布しており、アメリカにも約600万人が住んでいるとされる。しかし現在ではユダヤ人を「人種」概念で捉えるのは困難で、現実には「猶太教を信仰する徒輩」と捉えるのが正しい。人類学的に同質のユダヤ人は存在しない。



フランス共和国第1共和政(西暦1792〜1804年)
 総裁政府(西暦1795〜1799年)

 平原派(プレーヌ派)とジロンド派の生き残りの国民公会は西暦1795年08月22日に共和暦03年憲法(西暦1795年憲法)を制定し、普通選挙から制限選挙に逆戻りした。議会は上院の元老院と下院の五百人会議に分かれ、議会からジャン・フランソワ・ルーベル(Jean-François Reubell(Rewbell)、バラス子爵ポール・フランソワ・ジャン・ニコラ(Paul François Jean Nicolas, vicomte de Barras,、ポール・バラス(Paul Barras)、ルイ・マリー・ド・ラ・ルヴェリエール・レポー(Louis-Marie de La Révellière-Lépeaux)、ラザール・ニコラ・マルグリット・カルノー(Lazare Nicolas Marguerite Carnot)、エティエンヌ・フランソワ・ルイ・オノレ・ル・トゥルヌール(Étienne-François-Louis-Honoré Le Tourneur)の5人の総裁が選出され、総裁が行政権を握った。ポール・バラスは貴族の出身だが残りの4人はブルジョア階級である。ジャン・フランソワ・ルーベル、ポール・バラス、ラ・ルヴェリエール・レポーの思想はジャコバン派に近く、急激な改革を好んだ。一方、ラザール・カルノーとル・トゥルヌールは、急激な改革を好まなかった。ポール・バラスは総裁職を保持し続けた唯一の人物で、その後の5年間政府に君臨し、リュクサンブール宮殿に居を構えて豪勢に暮らした。ポール・バラスは「革命で最も私腹を肥やした1人」と言われている。
 議院内閣制であったが、この制度ではブルジョアジーと大土地所有者の代表者が絶対的に有利であった。西暦1795年10月26日に始まった総裁政府は、正式発足の2日後、11月04日に公安委員会を解散させた。行政は、5人の総裁の1人が3ヶ月の任期で総理を務める交代制で、その下にある事務局が実務を行うことになったが、これは内閣の各省に相当する役所であった。総裁は任期5年だが毎年1人が抽選で退任して5年間は再選は禁止されるなど厳しい制約があり、外交権や任免権を持つが、強権を振るえないお飾りの役職だった。これら名目とは別に実質的には3人の総裁(ポール・バラスとジャン・フランソワ・ルーベル、ラ・ルヴェリエール・レポーの3総裁)が政治を司っていたが、彼らには統治機構を制御できなかったので、政局が苦しくなると軍隊によるクーデターに頼らざる得なかった。憲法には6〜8人の大臣が想定されていたが、実際にはほぼ内務、外務、戦争、海軍、司法、大蔵、警察の7大臣の構成で、彼らが各部門の政務に当たったが、これは公安委員会時代とあまり変わらなかった。ただ革命政府の時代は終わり、立法権と行政権は完全に分割され、極端といえるほど、お互いに干渉できないような構造となっていて、政府は以後は立法を行うことはもちろん提案することすらできなかった。2院制の立法府も常設委員会を持つことは禁止され、議員が集団で活動したり政党党派を組むことも議席の席替えすら禁じられていた。
 総裁政府の成立で、革命は終結したかに見えた。亡命中のルイ18世とアンシャン・レジームの復活を望む国民は少なく、その逆の恐怖政治も好まれず、総裁政府は中道路線として支持された。国民は革命の傷を癒すため、事態が収まることを望んでいた。しかし、総裁政府は当初から財源不足に悩まされた。国債アッシニアの暴落は止まらず、税制改革も行われたが財政は回復しなかった。西暦1795年12月にはラメルが財務長官となり、西暦1796年03月10日にアッシニアが廃止され、03月18日に地券(マンダ・テリトリオ)を発行した。]ハイパーインフレに陥ったアッシニアを回収するための政策で、再び土地と交換する新紙幣として創設したものだが、大量にアッシニアを保持する富裕者に土地を配ったも同然で、格差をより拡大させた。フランソワ・ノエル・バブーフ(François Noël Babeuf、通称: グラキュース・バブーフ(Gracchus Babeuf))の「平等派宣言」で告発され、蜂起の要因になった。また、議会の王党派は、忌避僧侶の許容、亡命貴族(エミグレ)の親類に関する法の廃止、亡命貴族とその親類に対する寛容を要求したが、総裁政府はこれを拒否した。
 西暦1795年10月24日の第3次ポーランド分割でポーランド・リトアニア共和国(西暦1569〜1795年)は消滅し、1ヶ月後の西暦1795年11月25日、スタニスワフ2世は強制的に退位させられた。
ロシア帝国(西暦1721〜1917年)のサンクトペテルブルクへと居を移し、半ば監視状態に置かれながら、ロシア政府から多額の年金を支給されて余生を送った。
 西暦1796年03月02日、ジェノヴァ共和国(西暦1005〜1797年)の傭兵隊長がコルシガ(コルシガ語: Corsica(コルシガ)、伊語: Corsica(コルシカ)、仏語: Corse(コルス) 、フェニキア語で「森林の多い」の意)島に渡った末裔のナポレオン・ボナパルト(仏語: Napoléon Bonaparte、伊語: ナポレオーネ・ディ・ブオナパルテ、Napoleone di Buonaparte、出生名: ナブリオーネ・ブオナパルテ)はイタリア方面軍最高司令官に任命され、新たに部下となったジョアシャン・ミュラ(Joachim Murat、後にジョアシャン・ボナパルト・ミュラ(Joachim Bonaparte Murat))、ルイ・アレクサンドル・ベルティエ(Louis-Alexandre Berthier)、アンドレ・マッセナ(André Masséna、出生名: Andrea Massena)、シャルル・ピエール・フランソワ・オージュロー(Charles Pierre François Augereau)を従え、03月27日第1次イタリア遠征に赴いた。04月に開始され、連戦連勝の末、04月28日にサルデーニャ王国(ピエモンテ王国、西暦1297〜1861年) との間にケラスコ休戦条約を結び、05月15日にはミラノに進駐した。05月15日にナポレオン・ボナパルトはサルデーニャ王ヴィットーリオ・アメデーオ3世と和平条約を結び、ニースとサヴォワを獲得し、さらにピエモンテの要塞にフランス軍の駐留を認めさせた。06月23日、ローマ法王ピウス6世とモデナがナポレオン・ボナパルトと休戦条約を結んだ。ナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍が北イタリアに侵攻し、06月29日にオーストリア大公国(西暦1453〜1804年)配下となっていたミラノ公国(西暦1395〜1797年)を廃しトランスパダーナ共和国(西暦1796〜1797年)を成立させた。12月31日チスパダーナ共和国(西暦1796〜1797年)を成立させ、翌西暦1797年07月09日にはトランスパダーナ共和国とチスパダーナ共和国を合邦させ、チザルピーナ共和国(西暦1797〜 1802年)となった。
 身長168pのナポレオン・ボナパルトの参謀長となった小男ルイ・アレクサンドル・ベルティエは、正確かつ迅速に軍務を熟した。また、ナポレオン・ボナパルトの命令を深く理解し意図を汲み取り、具体的な指示に置き換え、時には補足し、それをより良い形で各部隊に伝達し、指導する能力に長けていた。必要な弾薬や食料を確保し、将兵の宿割りをする責任も幕僚長にある。情報を収集し、分析し、それをナポレオン・ボナパルトに報告する。こうしたこと全てを遺漏なくやってのけた。とりわけ、ルイ・アレクサンドル・ベルティエが参謀長として最も身を削って尽力したのは、ナポレオン・ボナパルトの書いた文章の解読と翻訳であった。コルシガ島育ちのジェノバ人ナポレオン・ボナパルトは訛りがきつく文章は酷い悪文で、故意に使っているのではないかと疑わせるほど誤字脱字が多かった。ルイ・アレクサンドル・ベルティエはその解読、補填とナポレオン・ボナパルトの口から発せられる、周囲の人間には理解不能な命令の翻訳に腐心し、ジョアシャン・ボナパルト・ミュラやジャン・ランヌなどの後の元帥仲間から鸚哥だの鸚鵡だの仇名された。ナポレオン・ボナパルトは彼を理想的な参謀長として高く重用した。 陸軍大臣に、元帥に、ヌーシャテル大公(prince de Neuchâtel)、ヴァグラム大公(Prince de Wagram)にして労に報いた。
 一方、ライン戦役が始まった。戦争相ラザール・カルノーはオーストリア大公国を2本の刃で断ち切る「ピンサー作戦」を考案した。ナポレオン・ボナパルト率いる南部軍と共にウィーンを挟撃するという大胆な計画であった。西暦1796年06月に中央軍ジャン・ヴィクトル・マリー・モロー(Jean Victor Marie Moreau)はライン川を渡り、北部軍ジャン・バティスト・ジュールダン(Jean-Baptiste Jourdan)はケルンを占領したが08月、皇弟テシェン公カール(Erzherzog Karl von Österreich, Herzog von Teschen、カール大公)によって各個撃破されてしまった。09月07日、バイエルン選帝侯カール・テオドール(Karl Theodor)はフランス共和国と休戦条約を結んだ。
 西暦1796年08月19日、フランス王国ブルボン家を打倒した革命政府は、その親戚(フランス王ルイ14世(Louis XIV)太陽王の孫、アンジュー公フィリップがフェリペ5世(Felipe V))であるスペイン王国ボルボン朝(西暦1700年〜)と第2次サン・イルデフォンソ条約締結した。(仏西同盟)これにより革命戦争は革命対反革命ではなく、列強間の国益を巡る争いに戻り、両国の間で対グレートブリテン王国(西暦1707〜1801年)の同盟が成立した。10月05日にスペイン王国はイギリス王国に宣戦布告をした。
 さらにナポレオン・ボナパルト率いるイタリア遠征ではこの月にナポリも制圧した。その後ナポレオン・ボナパルトはオーストリア軍とイタリア北部で激突した、11月17日にはアルコレの戦いで勝利し、西暦1797年01月14日に勝利を決定的にした。西暦1796年以来、ナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍はオーストリア軍を連破し、04月18日にはレオベーンでオーストリア大公国と仮講和条約が結ばれた。さらに10月にはオーストリア大公国とカンポ・フォルミオ条約を結んでヴェネツィア共和国(西暦697〜1797年)と引き換えに、イタリアのロンバルディア州とイオニア諸島と南ネーデルラント、ライン川左岸地区を保有した。これによって、第1次対仏大同盟は崩れ、各地にフランスの衛星国が作られた。イギリス王国は西暦1797年、サン・ビセンテ岬の海戦で勝利したものの、フランス共和国のオランダ征服を認めざるを得なかった。
 これらの勝利はいくつかの意味を持った。まず、ナポレオン・ボナパルトが英雄としてフランス国民の尊敬を集めた。また、占領地からフランスに送られた戦利品は総裁政府の財政をやや助けた。このため、ある意味ナポレオン・ボナパルトに財政を握られた形となり、総裁政府はナポレオン・ボナパルトを恐れ始めた。ナポレオン・ボナパルトの強さはいちいち本国の訓令を待たずに即断することにもあり、その点でも総裁政府はナポレオン・ボナパルトに不安を持った。

 「共産主義の先駆」グラキュース・バブーフ平等社会の実現を目指して私有財産制を否定し、西暦1795年11月、相次いだ投獄期間にフィリッポ・ブオナローティ(Filippo Buonarroti)、オーギュスタン・アレクサンドル・ダルテ(Augustin-Alexandre Darthé)、マレシャル(Sylvain Maréchal)などの同志を得て、過激急進派秘密結社、パンテオンクラブ(Club du Panthéon)を結成し、旧ジャコバン派や旧国民公会会員など約2000人が加わった。王党派と急進派に挟まれて苦しい政権運営を強いられていた総裁政府は、当座の脅威と目された王党派を牽制するため、グラキュース・バブーフら急進過激派の勢力を利用しようとし、パンテオンクラブの結成に協力した。しかし、パンテオンクラブは総裁政府の意向に沿うどころか、激しい批判を繰り返した。総裁ラザール・カルノーは、パンテオンクラブに対する徹底した弾圧を主張し、急進過激勢力との摩擦を避けたい他の総裁との間で見解が分かれたが、西暦1796年02月28日、「パンテオンクラブは反体制の温床である。」として、警察により閉鎖された。
 パンテオンクラブの過激派は、叛乱委員会、秘密執行部を設置し、叛乱委員会は軍や警察、行政の内部に工作員を送り込み、秘密執行部は総裁政府が打倒された後に新たな議会が開催されるまでの間、安定的に執行権を行使する予定であった。ポール・バラスの資金援助を受け、西暦1793年憲法実現のための蹶起を計画した。総裁ラザール・カルノーはパンテオンクラブの会員、ジョルジュ・グリゼル(Georges Grisel)を間諜として買収していた。ジョルジュ・グリゼルによる密告で、政府転覆の陰謀を企てた叛乱の前日の西暦1796年05月10日(革命暦04年フロレアール(花月)21日)に、フランソワ・ノエル・バブーフをはじめ、陰謀に関わった数人が逮捕された。西暦1797年05月26日に、オーギュスタン・アレクサンドル・ダルテと共に死刑を宣告された。彼らは、フランソワ・ノエル・バブーフの息子から渡された短刀で刺し違えて死のうと図ったが果たさず、翌05月27日(革命暦05年プレリアール(牧月)08日)、ヴァンドームでギロチンにかけられ処刑された。この叛乱未遂事件を「バブーフの陰謀」、「平等主義者の陰謀」と呼ぶ。「革命は少数の革命家による権力奪取と革命独裁によってのみ実現可能。」と主張して後の共産主義思想に大きな影響を与え、「共産主義の先駆」とも呼ばれる。
 西暦1793年からフランス西部で続いていたヴァンデ戦争はルイ・ラザール・オッシュによって鎮圧され、西暦1796年05月26日の下ヴァンデ軍の指導者、フランソワ・アタナス・シャレット・ド・ラ・コントリ(François-Athanase Charette de la Contrie)はナントで銃殺刑に処せられ、事実上終結した。 07月、ルイ・ラザール・オッシュ将軍はヴァンデ戦争を鎮圧した。
 ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ(Joséphine de Beauharnais、マリー・ジョゼフ・ローズ・タシェ・ド・ラ・パジュリ(Marie Josèphe Rose Tascher de la Pagerie))は、西暦1794年07月23日に夫アレクサンドル・フランソワ・マリー、ボアルネ子爵がギロチンで処刑され、元夫や友人の助命嘆願が罪に問われカルム監獄に投獄され、獄中では、ルイ・ラザール・オッシュ(Louis Lazare Hoche)将軍と恋人同士となった。西暦1794年07月28日マクシミリアン・フランソワ・マリー・イジドール・ド・ロベスピエール(Maximilien François Marie Isidore de Robespierre)が処刑されたことにより、西暦1794年08月03日に釈放された。
その後、生活のために総裁政府のポール・バラスの愛人となった。ポール・バラスが彼女に飽きてナポレオン・ボナパルトに押しつけ、西暦1796年03月09日夜、待ち合わせ時刻に2時間遅刻したナポレオン・ボナパルトとパリ市庁舎で結婚した。ナポレオン・ボナパルト26歳、ジョゼフィーヌ32歳だったが、2人とも年齢を偽り28歳と記入し、誕生日も偽った。年齢については後に嘘が発覚して修正された。
 ナポレオン・ボナパルト将軍が指揮するフランスのイタリア方面軍と、ダゴベルト・ジークムント・フォン・ヴルムザー(Dagobert Sigismund, Count von Wurmser)元帥率いるオーストリア大公国(ハプスブルク帝国(西暦1526〜1804年))軍の間で、08月03日、04日にロナトの戦いが行われ、08月05日にカスティリオーネの戦いが行われた。カスティリオーネの戦いは、フランス革命戦争でナポレオン・ボナパルトが第1次対仏大同盟との一連の戦いにおいて名を上げた4つの戦いの初戦で、他の3つは、 バッサーノの戦い、アルコレの戦い、リヴォリの戦い。この戦いの勝利からヨーロッパ中にナポレオン・ボナパルトが注目されるようになった。
 11月17日、ロシア帝国の「玉座の上の娼婦」エカチェリーナ2世(エカチェリーナ2世アレクセーエヴナ、露語: Екатерина II Алексеевна、イカチリーナ・フタラーヤ・アレクセーエヴナ(Yekaterina II Alekseyevna))が亡くなり、パーヴェル1世(露語: Павел I, 、Pavel I(パーヴィェル・ピェールヴィイ)、パーヴェル・ペトロヴィチ・ロマノフ(露語: Павел Петрович Романов、パーヴィェル・ピトローヴィチュ・ラマーナフ(Pavel Petrovich Romanov))が即位した。
 12月16日、アイルランド遠征軍司令官に任命されたルイ・ラザール・オッシュ将軍がブレスト港を出港したが、暴風雨のために艦隊が散り散りになりボタニー湾への上陸が失敗に終わった(21〜27日)。
 西暦1797年01月14日〜15日、イタリア戦役のリヴォリの戦いが起こり、ナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍2万3千はヨーゼフ・アルヴィンツィ将軍率いる2万8千のオーストリア軍の攻撃を退け、フランス共和国がオーストリア大公国に対して決定的な勝利を得た、西暦1797年01月14日からの戦いである。ここに、包囲されたマントヴァを解放しようというオーストリアの4度目の試みは潰えた。リヴォリの戦いはナポレオンの栄光にさらなる輝きを与え、フランスによる北イタリア占領に道を開いた。 02月02日にマントヴァ要塞が陥落した。
 02月14日、サン・ビセンテ岬の海戦が起き、ジョン・ジャーヴィス(この海戦の勲功により、初代セント・ヴィンセント伯ジョン・ジャーヴィス(John Jervis,1st Earl of St Vincent,GCB PC))提督指揮下のグレートブリテン王国(イギリス)艦隊が、ポルトガルのサン・ヴィセンテ(西語: サン・ビセンテ)岬の沖合においてホセ・デ・コルドバ提督の率いる優勢なスペイン艦隊を破った。スペイン艦隊の実力が自らの艦隊と比べ物にならないほど劣ることを確認したジョン・ジャーヴィスは、カディスでのスペイン艦隊の断固とした封鎖を実行した。
 02月19日にローマ法王と和平条約(トレンチノ条約)を結んだ。
 トマス・ペイン(Thomas Paine)は、ジャン・ジャック・ルソー(Jean-Jacques Rousseau)やマクシミリアン・ロベスピエールの他の弟子たちとともに、ジャン・ジャック・ルソーの理神論とマクシミリアン・ロベスピエールの市民的美徳(rè de la vertu)を組み合わせた理神論宗教を設立した。 総裁のルイ・マリー・ド・ラ・ルヴェリエール・レポー、ジャック・アンリ・ベルナルダン・ド・サン・ピエール(Jacques-Henri Bernardin de Saint-Pierre)、アンドレ・マリ・シェニエ( André Marie Chénier)、ピエール・クロード・フランソワ・ドヌー(Pierre Claude François Daunou)らにより、西暦1797年01月、カトリック教会に対抗して、新興宗教、敬神友愛教(Theophilanthropy)「神と人間の友」が出来た。

 西暦1797年03月と04月04日に行われた3回目の共和国05年の五百人会選挙で150人の議員が改選されたが、王党派の立候補者がほとんどの議席を得た。次の選挙で王党派が勝利すると、過半数を制することになるため、革命派の総裁たちは危機感を強めていた。王党派に同情的とされるジャン・シャルル・ピシュグリュ(Jean-Charles Pichegru)が五百人会の議長に当選した。王党派の要望を受けて、ル・トゥルヌールが総裁から外され、代わりにラザール・カルノーと思想が近い著名外交官のバルテルミー侯フランソワ(François de Barthélemy)が当てられた。総裁政府は、バラス派とバルテルミー派の対立の構図ができつつあった。議会の王党派議員は革命による急すぎる改革を嫌い、制度を旧時代に少し戻した。亡命者の親類に対する政治活動制限が無効とされ、忌避僧侶にも市民権が戻された。
 04月18日:ナポレオン・ボナパルトがオーストリア大公国とレオーベン仮条約を結び、総裁政府は04月30日に承認した。05月12日、フランス軍に降伏し、ヴェネツィア共和国は解体され、06月14日にナポレオン・ボナパルトはジェノヴァ共和国(西暦1005〜1797年)を解体し、リグーリア共和国(西暦1797〜1805年)を建国した。


 総裁のポール・バラス、ジャン・フランソワ・ルーベル、ラ・ルヴェリエール・レポーらは巻き返しを図り、クーデターで政府から王党派を追い出すため、まず陰謀の得意な警視総監「カメレオン」ジョゼフ・フーシェ(Joseph Fouché,)を仲間に引き入れた。また、議会に強い人脈を持つ「裏切りの天才」、「絹の靴下の中の糞」シャルル・モーリス・ド・タレーラン・ペリゴール(Charles-Maurice de Talleyrand-Périgord)も外務長官の地位と引き換えに仲間に引き入れた。ナポレオン・ボナパルトがジャン・シャルル・ピシュグリュの反革命活動の証拠を提出すると、総裁たちは「五百人会全体が反革命の陰謀を企んでる。」と疑い、選挙の無効と王党派の逮捕に踏み出た。
 西暦1797年09月04日(共和暦フリュクティドール(実月)18日)、ヴァンデの叛乱を平定したルイ・ラザール・オッシュと、ナポレオンの部下ピエール・フランソワ・オージュローをパリに呼び寄せ、いわゆるフリュクティドール18日のクーデターを起こした。ナポレオン・ボナパルト本人が行かなかったのは、「クーデターが成功したとしてもポール・バラスの政権は長くない。」と見て、新政権の失敗の呷りを受けることのないようにとの配慮であった。
 クーデター実行のためにラザール・オッシュ将軍が軍を連れてパリに到着し、一方ナポレオン・ボナパルトはピエール・オージュロー配下の軍を派遣した。総勢8万人の軍に王党派の議員は為す術もなく、216人の議員が逮捕され選挙で選ばれた198人の代議士の当選が無効とされ、多くの著名人が逮捕された。そのうち61人がフランス領ギアナのカイエンヌに追放された。追放された議員の多くが風土病で亡くなったため、この追放は「乾いたギロチン」と呼ばれた。他には18人が監禁され、最終的に逃げられたのは3人だけだった。反対派の新聞紙は42紙が発行禁止となり、選挙は取り消された。
 西暦1797年05月に総裁になったばかりのフランソワ・ド・バルテルミーはカイエンヌ行きとなり、もう1人の総裁であるラザール・カルノーは亡命して一命を取り留めた。
 2人の後任には後任総裁にはフィリップ・アントワーヌ・メルラン・ド・ドゥーエー(Philippe-Antoine Merlin de Douai)とニコラ・フランソワ・ド・ヌフシャトー(Nicolas François de Neufchâteau)が就いた。政府要員は共和派が占め、亡命者の親類に対する法律も復活された。軍事法廷が設けられ、「亡命者は有罪である。」として、フランス共和国への帰国を命じる判決が下された。忌避僧侶は、再び虐げられることになった。何百人もがカイエンヌ送りとなり、あるいはレ島やオレロン島の廃墟に閉じ込められた。ラ・ルヴェリエール・レポーは自らの宗派を拡大し、多くの教会が敬神友愛教の施設に変えられた。政府は、十曜日(共和暦参照)を公的な祭礼の日として仕事を休むことを義務とし、これまで教会で行われていた日曜日の礼拝を禁じた。報道の自由は制限され、新聞は発行禁止処分、ジャーナリストは軒並み追放された。旧貴族全員をフランス共和国から追放することが提案された。その案は実現されなかったが、旧貴族は外国人扱いされ、市民権を得るためには帰化が必要になった。

 09月30日に平原派だった大蔵大臣ドミニク・ヴァンサン・ラメル・ノガレ(Dominique-Vincent Ramel-Nogaret) は3分の2破産(公債の利子の3分の2は無効扱い)政策を始めた。 その他の政策として、まず大蔵大臣のミニク・ヴァンサン・ラメル・ノガレが支出切り詰め、各種支払の引き下げと凍結、間接税の復活などの政策を実施した。また、内務長官のニコラ・フランソワ・ド・ヌフシャトーは学校や政府統計などに力を注いだ。
 10月18日にイタリア北東部の都市ウーディネ郊外にあるカンポ・フォルミオ村(現カンポ・フォルミド)で、フランス共和国のナポレオン・ボナパルトとオーストリアの代表であるルートヴィヒ・フォン・コベンツルによって調印された。カンポ・フォルミオの和約を締結した。この条約によって、ヴェネツィア共和国とジェノヴァ共和国が消滅した。「不可侵の平和」という通常の国際条項を越えて、この条約はフランス共和国に多くのハプスブルク帝国(オーストリア大公国)領を齎した。譲渡された領土にはオーストリア領ネーデルラント(西暦1714〜1797年)、地中海のコルフ島・アドリア海の島々とロンバルディアが含まれた。ナポレオン・ボナパルトはヴェネツィア政府が看過した占領中のフランス軍への叛乱に対して300万フランの賠償金を支払わせ、同額の海軍軍需品を徴発し、軍艦5隻・名画20点・古文書500巻を献納させた。ヴェネツィアの領土は2つの国家の間で分配され、ヴェネツィア・イストリアおよびダルマチアはオーストリア大公国に譲られた。オーストリア大公国はチザルピーナ共和国とジェノヴァ人が居住する新しく形成されたリグリア共和国の独立を認めなければならなかった。条約は秘密条項を含み、その中でリグリアを独立させ、ライン川(ネッテ川およびルール川)までフランス共和国国境を拡張することを認めた。さらにフランス共和国はライン川・ムーズ川・モーゼル川の自由な航行を保証された。フランス共和国はそれらの諸河を越えた自然境界と、イタリアに影響力を及ぼすことになった。
 基本的に西暦1797年04月のレオーベンの和約ですでに合意されたものであったが、交渉は多くの理由のために両当事者によって引き延ばされた。協議期間の間にフランス共和国は、オーストリアが期待していた09月に起こる王党派のクーデターを鎮圧する必要があった。総裁政府によってその野心を疑われていたナポレオン・ボナパルトはパリに帰還して事態を収拾する必要があり、さらに予想より早く寒気が訪れたため軍隊の移動ができなくなることを恐れ、自分でも不満である条約を総裁政府の許可を待たずに締結させた。ナポレオン・ボナパルトは前日の10月17日、ヴィッラ・マニンですでに署名を行っていた。 イタリア戦役におけるナポレオン・ボナパルトの勝利およびフランス革命戦争(ナポレオン戦争)の第1段階の終わりを意味したに過ぎなかった。こうした両国の条約締結の不首尾は、翌年行われた、革命戦争終結のための講和会議、ラシュタット会議の決裂へと至ることになった。
 11月16日にプロイセン王「でぶの女たらし」フリードリヒ・ヴィルヘルム2世(Friedrich Wilhelm II)死去した。フリードリヒ・ヴィルヘルム2世は薔薇十字団でもある。フリードリヒ・ヴィルヘルム3世が即位した。共和国内部が動揺する一方で、総裁政府は周辺諸国への干渉を止めず。西暦1797年12月、議会は将来のドイツ侵攻に備えて、国境の都市ラシュタットを占領した。占領の成功は、フランス共和国の世論に好影響を与えた。
 12月16日、ラシュタット会議が始まった。フランス革命戦争における神聖ローマ帝国(西暦800/962〜1806年)および帝国領邦とフランス革命政府との全面的な戦争終結を目指した、ラシュタットで行われた多国間会議で、かつて王妃マリー・アントワネット・ジョゼフ・ジャンヌ・ド・アプスブール・ロレーヌ(Marie-Antoinette-Josèphe-Jeanne de Habsbourg-Lorraine、またはマリー・アントワネット・ドートリッシュ(Marie-Antoinette d'Autriche、マリア・アントーニア・ヨーゼファ・ヨハンナ(独語: Maria Antonia Josepha Johanna)))の愛人、スウェーデン王国(西暦1523年〜)グスタフ朝(西暦1772〜1809年)のフェルセン伯 ハンス・アクセル(Hans Axel von Fersen)が調停を行った。ライン川左岸の領土をフランス共和国に奪われたドイツ諸侯への補償について討議することが目的で、補償にはライン右岸の領土が与えられる筈だったが、会議が長引き、やがて第2次対仏大同盟の結成とともに戦闘が再開され、会議は失敗に終わった。
 ローマ法王軍は敗北し、ナポレオン・ボナパルトの前に膝を屈することになった。事態はここで終わらず、西暦1797年12月28日にローマで勃発した暴動によって、フランス軍司令官デュフォーが殺害されると、報復として、ルイ・アレクサンドル・ベルティエに命じてピウス6世が治めるローマ法王領をフランス軍が再び侵攻し、西暦1798年02月15日、ローマ共和国(西暦1798〜1799年)を建国し、ローマ法王領が消滅した。その際、ピエモンテ州を事実上フランス共和国に併合した。ローマ法王ピウス6世の退位を迫ったが、ピウス6世がこれを拒否したため、事実上の捕虜としてイタリアからフランス共和国各地を転々とさせられ、戦闘1799年08月29日にヴァランスで失意のうちに世を去った。総裁政府はベルン獲得のため、ギヨーム・マリ・アンヌ・ブリューヌ(Guillaume Marie-Anne Brune)にスイスを侵攻させ、03月29日にフランス軍がベルンに進駐した。04月12日、スイスにヘルヴェティア共和国(西暦1798〜1803年)を成立させた。
これらの侵攻の際には掠奪行為も数多く行われた。
 西暦1798年04月09日〜18日に共和国06年の選挙で、議会は規定改選数の3分の1だけでなく、フリュクティドール18日のクーデターで不足した五百人会議員の補充が必要となった。王党派は無力化しており、有権者の関心は低下するばかりだった。当選したのは現政権に批判的なジャコバン諸派議員が躍進した。
 総裁政府は反対派を抑えるため、西暦1798年05月11日(フロレアール(花月)22日)、当選者154人中、政府に反対する106人の選挙結果を無効とする法律を強行採決した。これはフロレアール22日のクーデターと呼ばれる。総裁政府と議会の関係は険悪で、議会は総裁政府の腐敗と悪政の責任を追及した。ニコラ・フランソワ・ド・ヌフシャトーが引退し、西暦1798年05月15日、ジャン・バティスト・トレヤール(Jean Baptiste Treilhard)が総裁となったが、議会はジャン・バティスト・トレヤールを支持しなかった。
 ナポレオン・ボナパルトの功名心と、総裁政府が「国民に人気のあるナポレオン・ボナパルトを遠くに追いやりたい。」との思惑が一致し、大陸の制覇を進めるフランス共和国にとって、海の向こう側にあって手を出すことができず、目の上の瘤であったイギリス王国を牽制するため、共和国軍と司令官のほとんどを引き連れての東方遠征(エジプト・シリア遠征)が実現した。
 西暦1798年05月19日に兵5万人と船舶232隻を率いて地中海のマルタ島に06月08日に到着し、06月11日にはマルタ島を占領しマルタ騎士団領(西暦1522〜1798年)が消滅した。07月03日、アブキールの港からエジプトに上陸した。フランス軍は翌日には地中海岸の最重要都市アレクサンドリアを占領した。07月21日、近代兵器を有するフランス軍25000人はカイロ近郊のナイル川河畔の村エムバベで、待ち構えていたエジプトのムラード・ベイ(مراد بك‎、Murad Bey)とイブラヒム・ベイ(إبراهيم بك‎、Ibrahim Bey)によって指揮されたマムルーク軍騎兵6000騎、歩兵15000人を打ち破った。(ピラミッドの戦い)ナポレオン・ボナパルトが「兵士諸君!あの遺跡の頂から40世紀の歴史が諸君を見下ろしている。」と言ったというが、この言葉はセントヘレナ島での回想記が初出である。 早くも07月24日にエジプトの中心都市カイロを占領し、翌日ナポレオン・ボナパルトはカイロに入城し、上陸からわずか3週間でエジプト征服をほぼ完了した。
 しかし、そのわずか1週間後の西暦1798年08月01日、アレクサンドリア沿岸のアブキール湾において、アブキール海戦(ナイルの海戦)が行われ、ホレイショ・ネルソン(後の初代ネルソン子爵ホレイショ・ネルソン、Horatio Nelson, 1st Viscount Nelson KB)率いるイギリス海軍がフランス海軍を破った。自分の艦隊を艦と艦の間をすり抜けさせ、狭撃するという戦術で撃滅した。この海戦の敗退によって、フランス海軍には、ホレーショ・ネルソン恐怖症が広がり、後にトラファルガーの海戦にまで引きずった。 イギリス王国は地中海の制海権を決定的にし、エジプトのフランス軍は孤立し、ナポレオン・ボナパルトの中東征服の野望は潰えた。

 戦線が広がるにつれ、軍は恒久的な人手不足となり、西暦1798年09月05日、国民皆兵制・世界初の近代徴兵制度を規定したジュールダン法が可決された。実施に反対して、ベルギーでは農民の叛乱が起こった。この時は聖職者8000人が罪に問われて流刑されそうになったが、民衆の支援を得てほとんどが逃亡した。政府の指導力が低下しており、徴兵できた兵士は極少数であった。
 ナイルの海戦の勝利は、フランス周辺国の同盟を促進した。ナポリ王国(西暦1282〜1816年)、オーストリア大公国、ロシア帝国、オスマン朝(西暦1299〜1922年)トルコ帝国がイギリス王国と同盟し、フランス包囲網を構築した。12月24日の第2次対仏大同盟である。ナポリ王国のフェルディナンド4世(Ferdinando IV)(後の両シチリア王国(西暦1816〜1861年)国王フェルディナンド1世(Ferdinando I))は、軽率にも同盟国が戦争準備を整える前にフランス共和国を攻撃したため、12月04日、ナポリ王国に宣戦布告され、逆に破られてシチリアに逃亡する羽目になった。西暦1799年01月23日、ジャン・エティエンヌ・シャンピオネ(Jean-Étienne Championnet)将軍はナポリを占領し、パルテノペア共和国(西暦1799〜1799年)を建国した。しかし、この勝利は前線を拡大し、軍を分散させただけだった。02月10日、ナポレオン・ボナパルトはシリア遠征(〜05月17日)を始めた。
03月12日、フランス共和国がオーストリア大公国へ再び宣戦布告し、ドイツに向けてライン川を渡り、第2次対仏大同盟戦争が始まった。さらに03月初旬にはしかし03月21日、カール大公率いるオーストリア大公国にシュトッカッハの地で敗れた。戦争終結を目的として西暦1798年01月19日から続いていたラシュタット会議は15ヶ月間何の成果もなく、西暦1799年04月にオーストリア大公国の軽騎兵がフランス使節を殺害したことで終了した。イタリア戦線では、同盟国側はロシア帝国の陸軍元帥(後に総司令官)のアレクサンドル・ヴァシリエヴィチ・スヴォーロフ(Алекса́ндр Васи́льевич Суво́ров、Alexandr Vasiljevich Suvorov)にオーストリア大公国・ロシア帝国連合軍を指揮させた。西暦1799年04月17日、ジャン・ヴィクトル・マリー・モロー率いるフランス軍はカッサーノ・ダッダで敗れ、さらにミラノ、トリノも落とされた。そのためフランス共和国によるイタリアの傀儡政府の権威は急落してナポリから撤退、アレクサンドル・スヴォーロフは06月17日〜18日、トレッビア川の激戦で再びフランス軍を破った。フランス軍はフランス周辺の各戦線で敗北を続け、占領地が奪還されていった。


 西暦1799年03月〜04月にかけての共和国07年の選挙で、04月18日、ネオ・ジャコバン派(共和派)が躍進し、これにより一時的に総裁政府の権威が上がった。05月18日、ジャン・フランソワ・ルーベルが引退し、後任はエマニュエル・ジョゼフ・シエイエス(Emmanuel-Joseph Sieyès)に選ばれた。エマニュエル・ジョゼフ・シエイエスは共和暦03年憲法に反対していたが、市民の絶大な支持を受けた。彼は総裁政府の人気が低迷していることを敏感に読み取った。エマニュエル・ジョゼフ・シエイエスは権力を望み、憲法改正して共和派の力を抑えようとした。エマニュエル・ジョゼフ・シエイエスはポール・バラスと手を組み、他の3人の総裁と距離を置き始めた。
 06月16日、五百人会はジャン・バティスト・トレヤールの総裁選挙上の不正が明らかになったことで、総裁ジャン・バティスト・トレヤールの就任を無効とし、ルイ・ジェローム・ゴイエ(Louis-Jérôme Gohier)が後任総裁となった。さらにフィリップ・アントワーヌ・メルラン・ド・ドゥーエーとルイ・マリー・ド・ラ・ルヴェリエール・レポーをフロレアール22日のクーデターの張本人として解任を要求し、総裁からの辞任を余儀なくされてジャン・フランソワ・オーギュスト・ムーラン(Jean-François-Auguste Moulin)とピエール・ロジェ・デュコ(Pierre Roger Ducos)が後任総裁となった。結局06月18日(プレリアール(牧月)30日)にこれが認められた。これをプレリアール30日のクーデターと呼ぶ。3人の新総裁はほとんど有名無実であった。 行政府の各長官も取り替えられた。
 ドイツとイタリアの占領地が次々と奪還されていく戦局の悪化、フランス南部における王党派の叛乱、西部諸州(主にブルターニュ、メーヌ果てはノルマンディー)における梟党の叛乱、オルレアニストの陰謀等により窮地に立たされたが、フランス共和国は内部混乱のために有効な手を打つことができなかった。しかも財政は破綻していた。政府の反宗教方針によりフランス共和国各州は叛乱寸前だった。道路の破壊と盗賊の増加により、商流は滞った。この当時のフランス共和国に政治的自由はなかったが、独裁による政治的速断もほとんどなされなかった。五百人会は過激派が占め、社会不安を鎮静化して国境防衛に当たるため、フランス革命期の恐怖政治における常套手段よりも過酷な措置06月28日に強制公債割当法、07月12日に人質法、反革命容疑者法といった極端な法律が作られた。累進課税制も採用された。07月05日にはジャコバン派が再び結成され、かって不遇の死を遂げたジャック・ルネ・エベール、ジャン・ポール・マラーの再評価が行われた。この頃、ジョゼフ・シエイエスはジョゼフ・フーシェを警察担当長官に再任した。ジョゼフ・フーシェは辣腕であり、ジャコバン派を解散させ、何人かのジャーナリストを追放した。西暦1799年07月、総裁政府は恐怖政治を真似て、富裕層に大増税か、国債購入かの選択を迫り1億リーブルを起債した。

 ジョゼフ・シエイエスは、権力を強化するため、憲法改正において「頭」(ジョゼフ・シエイエス自身)と「剣」(懐刀となる将軍)の確立を要求し、軍を利用しようとした。ジョゼフ・シエイエスは、ジャン・ヴィクトル・マリー・モローが「剣」にならないので、バルテルミー・カトリーヌ・ジュベール(Barthélemy Catherine Joubert)を将軍に任命し、戦局を好転させるためにイタリアに派遣した。西暦1799年08月15日、バルテルミー・カトリーヌ・ジュベール将軍はジャン・ヴィクトル・マリー・モローと共に対仏大同盟国軍のアレクサンドル・スヴォーロフにより決戦を強いられ、ノーヴィの戦いにおいて開戦後すぐに戦死しフランス軍は敗北した。ナポレオン・ボナパルト将軍に白羽の矢が立った。
 この敗戦の後、フランス共和国はジェノヴァの生命線ともいうべきアルプス山脈南部の占領地の防衛が手薄になった。ロシア帝国及びオーストリア大公国はスイスからフランス共和国に侵攻することで合意した。一方、ヨーク・オールバニ公フレデリック王子(Prince Frederick, Duke of York and Albany)率いるイギリス王国とロシア帝国の対仏大同盟国軍は、08月27日、オランダに上陸した。しかし対仏大同盟国側もまた、自国の見栄と利益に拘わり、同盟国軍は西暦1799年09月19日、ベルヘンの戦いでフランス軍のギヨーム・マリ・アンヌ・ブリューヌに敗れ、10月18日にはイギリス・ロシア同盟国軍はオランダから撤退した。09月26日〜27日、第2次チューリッヒの戦いでアンドレ・マッセナ(André Masséna、出生名: Andrea Massena)に敗れ、スイス侵攻が遅れた。10月22日にロシア帝国のパーヴェル1世は、第2次対仏大同盟から脱退した。これにより、フランス共和国周辺での当面の脅威は無くなった。
 ナポレオン・ボナパルトはエジプトで苦戦していた。07月15日、エジプト遠征中のフランス軍兵士ピエール・フランソワ・ブシャール大尉によって、エジプトの港湾都市ロゼッタで、古代エジプトプトレマイオス朝(西暦前305〜前30年)のファラオ、プトレマイオス5世エピファネス(希語: Πτολεμαίος Ε' Επιφανής)の勅令が刻まれた損壊された石碑(ロゼッタ・ストーン)が発見された。個々の戦闘では勝利を収めていたが、本国からの救援が無く、風土病に悩まされている状態では、エジプトからの撤退しかありえなかった。しかし地中海の制海権をイギリス王国に握られているため、簡単には撤退できなかった。
一方でフランス共和国の政治は混乱を極めており、ナポレオン・ボナパルトが政権に入り込む好機となっていた。シリアのアッコン(アッカ)包囲戦での敗北もあり、これを知ったナポレオン・ボナパルトは、西暦1799年08月23日に総裁政府の命令を待たずに少数の側近とともに、軍は次将ジャン・バティスト・クレベール(Jean-Baptiste Kléber,)に任せ、軍を残してエジプトを脱出し、10月09日、ナポレオン・ボナパルトはフランス南部のフレジュスに舞い戻った。当時のフランス共和国では、東洋から来た船客に一律40日の検疫隔離を課していた。その日のうちにフレジュスを立ち、一路パリに向かった。ジャン・バティスト・クレベールは、西暦1800年06月14日にカイロで暗殺され、 補給路も断たれペストなどの伝染病の中に残されたナポレオン軍の兵はこの後2年近く抗戦した後、オスマン帝国軍とイギリス軍に降伏することとなった。
 ルイ・ラザール・オッシュの死後(西暦1797年)軍内で1人頭角を現し、東方遠征における勝利で名声を挙げていたナポレオン・ボナパルトが突如パリに現れた。総裁のエマニュエル・ジョゼフ・シエイエスは政局を安定させるため、強力な政府を求め憲法の改正を考えていた。「憲法改正を支持する元老会を通過させることはできても、憲法擁護派の多い五百人会を説得するのは不可能。」と判断し、エジプト遠征から帰還したばかりのナポレオン・ボナパルトを利用した軍事クーデターを画策し、「ナポレオン・ボナパルトの力を借りて一挙に政権を確立しよう。」と考えた。西暦1799年11月09日(ブリュメール(霧月)18日)、クーデターは成功し、ジョゼフ・シエイエスとナポレオン・ボナパルトは、11月10日に臨時統領政府(臨時執政政府)を樹立した。西暦1799年11月10日(ブリュメール(霧月)19日)の夜に元老会の残党が共和暦03年憲法を廃止した。

 ルイ16世の死後、その息子である幼少のルイ17世(Louis XVII、ルイ・シャルル(Louis-Charles))は革命共和国政府から苛烈な虐待を受け、西暦1795年に病死させられた。これ以降、ルイ16世の弟プロヴァンス伯ルイ・スタニスラス・グザヴィエ(Louis Stanislas Xavier comte de Provence、 後のルイ18世)が亡命先でフランス国王を自称した。
 その後、フランスではナポレオン1世(Napoléon Ier)によるフランス帝国第1帝政(西暦1804〜1814/1815年)が成立したが、ロシア遠征の失敗でナポレオン・ ボナパルトは西暦1814年に失脚し、ウィーン会議の下、ロシア帝国やオーストリア帝国(西暦1804〜1867年)など対仏大同盟諸国の折衝の結果、ルイ18世(Louis XVIII)がフランス国王として即位し、ブルボン朝が復活の王政復古。ルイ18世の死後、弟のアルトワ伯シャルル・フィリップ(Charles-Philippe, comtes d'Artois)がシャルル10世(Charles X)に即位したが、絶対王政の復活を目指して議会の解散を強行しようとしたため、国民が反発して七月革命(西暦1830年)と続き、宮廷貴族の勢力は最終的に排除された。 この七月革命によってシャルル10世はイギリスに亡命し、ブルボン家支流オルレアン家のルイ・フィリップ1世(Louis-Philippe Ier)が国王となった。この王朝はオルレアン朝と呼ばれ、ブルボン朝とは区別される。その後ブルボン家嫡流からフランス国王が立つことはなかったが、シャルル10世およびその子孫の復辟を望む人々は一定の勢力を保ち、レジティミスト(正統王朝派)と呼ばれた。フランス・ブルボン家の嫡流が絶えた後、レジティミストはスペイン・ブルボン家(の分流)を正統王朝の後継者として現在に至っている。



フランス共和国第1共和政(西暦1792〜1804年)
 統領政府(執政政府)(西暦1799〜1804年)

 ブリュメール18日のクーデターにより総裁政府が倒され、統領政府が成立すると、臨時統領(西暦1799年11月10日〜12月12日)にジョゼフ・シエイエス、ナポレオン・ボナパルト、ピエール・ロジェ・デュコが就任した。ナポレオン・ボナパルトの第一統領就任に賛成したピエール・ロジェ・デュコは、この功績で護憲元老院の副議長に就任した。当初、ブリュメール18日のクーデターの勝者はナポレオン・ボナパルトではなくジョゼフ・シエイエスと見られていた。ジョゼフ・シエイエスは共和国政府の新体制の提唱者であり、このクーデターによりこの新体制が敷かれると見られていた。巧妙なナポレオン・ボナパルトは、ジョゼフ・シエイエスの提案に対抗してピエール・クロード・フランソワ・ドヌーに新案を提唱させ、両案の対立から漁夫の利を得ようとした。新政府は、法案の起草を任務とする国務院(Conseil d'État)、専ら法案の審議を任務としてその採決はしない護民院(Tribunat)、専ら法案の採決を任務としてその審議はしない立法院(Corps législatif)という3つの議会から構成された。普通選挙は維持されたが、間接選挙により名士名簿が作成され、この名簿の中から護憲元老院(Sénat conservateur)が議員を選任する制度が執られて骨抜きにされた。行政権は任期10年の統領3人に帰属した。
 統領政府ではジョゼフ・シエイエスを押さえてナポレオン・ボナパルトが実権を握った。 ナポレオン・ボナパルトはクーデターを成功させる「剣」の役割でしかなかった。ナポレオン・ボナパルト自身も「シエイエスらが首謀しただけで、私は手先に過ぎず、主役ではなかった。ただ果実だけは頂いた。」と述懐した。ナポレオン・ボナパルトの役割は当初は受け身であって、首謀者ではなかった。それでもナポレオン・ボナパルト自身にはエジプト遠征での敵前逃亡罪の嫌疑が掛かっており、クーデターを起こすことは、自明の理であった。ここに総裁政府の時代は終わり、統領政府が立てられた。ナポレオン・ボナパルトはフランス共和国の議会と軍の権力を一挙両得し、総裁政府の現職総裁を辞任させた。
 12月25日に共和暦08年憲法(1798年憲法)制定され、統領政府(執政政府)が成立した。共和暦08年憲法により統領政府の政体を定め、ナポレオン・ボナパルトを支持してクーデターを承認したナポレオン・ボナパルトが第一統領となった。ジョゼフ・シエイエスらが統領として職務に入り、議長を誰とするか諮った時、民衆の人気と武力を背景に持つナポレオン・ボナパルトがいち早く買って出た。
 ナポレオン・ボナパルトは、1人の大選挙者(Grand Électeur)を行政の最高権力者にして国家元首とするジョゼフ・シエイエスの原案を拒否した。ジョゼフ・シエイエスは自らがこの要職に就く積りであったが、ナポレオン・ボナパルトはジョゼフ・シエイエスを閑職に追いやることで自らが就任する統領の職権強化を進めた。ナポレオン・ボナパルトも単に対等な三頭政治の1頭でいることに満足しておらず、年々第一統領としての権力を強化することで、他の2人の統領、第二統領ジャン・ジャック・レジ・ド・カンバセレス(Jean-Jacques Régis de Cambacérès)と第三統領シャルル・フランソワ・ルブラン(Charles-François Lebrun)らはもちろん議会も弱体化・従属化させていった。権力強化により、ナポレオン・ボナパルトはジョゼフ・シエイエスの寡頭制的政体を非公然の独裁制に変質させることができた。
 西暦1800年02月07日、国民投票で新憲法が承認された。この新憲法は第一統領に全実権を掌握させ、他の2人の統領を単なる名目上の役職に止めるものであった。公表結果によると、投票者の実に99.9%が動議に賛成した。このほぼ満場一致という結果は明らかに疑わしいが、ナポレオン・ボナパルトは実際に多数の投票者に人気があり、優勢な第2次対仏大同盟に対し無理でも凛々しく講和を申し入れ続けたこと、ヴァンデを速やかに平定したこと、統治・秩序・正義・節度の安定に関する弁舌を奮ったこと等により、乱世の後にあって多くのフランス国民が自信を取り戻したのも確かである。こうして第一統領となってジョゼフ・シエイエスらを抑えたナポレオン・ボナパルトは5年後の西暦1804年には帝政を敷き、ナポレオン1世として皇帝に即位した。


ナポレオン 全3巻セット
ナポレオン 全3巻セット

 ナポレオン・ボナパルトは、ジョゼフ・シエイエス、共和国を独断専行にさせまいとする共和派、特にジャン・ヴィクトル・マリー・モロー、アンドレ・マッセナら軍内の競争相手等を排除しなければならなかった。西暦1800年06月14日、マレンゴの戦いが接戦の末、ルイ・シャルル・アントワーヌ・ドゼー・ド・ヴェグー(Louis Charles Antoine Desaix de Veygoux)と第2代ヴァルミー公フランソワ・エティエンヌ・ド・ケレルマン(François Étienne Kellermann, Second duc de Valmy)らの救援で逆転勝利に終わったことは、ナポレオン・ボナパルトの人気を高め、その猜疑心を後押しする機会となった。ルイ・シャルル・アントワーヌ・ドゼー・ド・ヴェグーはこの戦いで、「もう一度戦って勝つ時間はある!」と叫び、3個連隊を率いて敵の中央に対してまっすぐに進んだ。そして勝利の瞬間、胸を1発の銃弾に貫かれて戦死した。丁度同じ日に、彼の友人であり同志でもあったエジプト方面軍総司令官ジャン・バティスト・クレベールはカイロで暗殺された。
 西暦1800年12月24日(ニヴォーズ(雪月)03日)、サン・ニケーズ街でブルターニュの王党派の梟党の7人、ピエール・ロビノー・ド・サン・レジャン(Pierre Robinault de Saint-Régeant)、ピエール・ピコ・ド・リモエラン(Pierre Picot de Limoëlan)、ジョルジュ・カドゥーダル(Georges Cadoudal)、ジャン・バティスト・コスター(Jean-Baptiste Coster)、ジョヨ・ダサス(Joyaux d’Assas)、ジェローム・ペティオン・ド・ヴィルヌーヴ(Jérôme Pétion de Villeneuve)、ラ・エー・サン・ティレール(La Haye-Saint-Hilaire)によって計画された第一統領ナポレオン・ボナパルトの爆殺未遂事件(サン・ニケーズ街の陰謀事件、地獄機械陰謀事件)が起きた。 カドゥーダルはナポレオン・ボナパルトの暗殺にリメランとサン・レジャンを任命した。彼らは今度はフランソワ・ヨーゼフ・カルボン(François-Joseph Carbon)という年寄りの梟党員を徴募した。ナポレオン・ボナパルトとその妻ジョゼフィーヌは九死に一生を得たが、5人が死亡、26人が負傷した。
「地獄機械(ラ・マキナ・インフェルナーレ(la macchina infernale、地獄爆弾)」とは、西暦1585年04月04、05日、スペイン軍のアントワープ包囲中、スペイン軍のイタリア人技術者フェデリゴ・ジャンベリが、火薬、可燃物、弾丸を詰めた鉄輪で縛られた樽の爆発装置。遠方から紐を引っ張って引き金をひくことにより銃身を縮めた散弾銃で爆発させた。
 地獄機械を作ったカルボンは大きなワイン樽を載せた荷車に雌馬を馬具で繋ぎ、リモランがパリ北方郊外のサン・ドニ門へと走らせた。人気のない建物の中で彼らは樽に火薬を詰めた。犯人らは樽を積んだ荷車をサン・ニケーズ通りのサントノーレ通りの近くでカルーセル広場から20mばかりのところに置いた。サン・レジャンは、母親が近くのバック通りで焼きたてのロールパンや野菜を売っていたマリアンヌ・プソル(Marianne Peusol)という14歳の少女を見掛けた。 彼は12スーを払い、数分間牝馬を抑えておくように頼んだ。一味の一人は広場の端っこのオテル・ド・ロングヴィルの前で見張り番に立った。午後08時、ナポレオン・ボナパルトはフランツ・ヨーゼフ・ハイドン(Franz Joseph Haydn)の堂々とした聖譚曲(オラトリオ)「天地創造」のフランス共和国での初演を観にまオペラ座へしぶしぶ出かけた。ナポレオン・ボナパルトの馬車は執政近衛兵による護衛騎兵隊によって先導されていた。戦争大臣ルイ・アレクサンドル・ベルティエ、ジャン・ランヌ(Jean Lannes,)元帥、ならびにナポレオン・ボナパルトの副官であるジャック・アレクサンドル・ベルナール・ローリストン(Jacques Alexandre Bernard Law Lauriston)大佐が第一統領と共に乗っていた。彼は、馬車がテュイルリー宮殿を出るのを見て、長い導火線を使い爆弾に点火する男に合図を送るように取り仕切った。セサールという名前の酔っぱらいが駆っていたナポレオン・ボナパルトの馬車は、サン・ニケーズ通りを過ぎてフォーブール・サントノレ通りに入った。ナポレオン・ボナパルトは疲れ切っていて、眠り込んでいた。カルーセル広場で立っていたリモランは恐慌となり、サン・ニケーズ通りにいたサン・レジャンに合図するのに失敗した。こうして貴重な1分ないし2分が失われた。ナポレオンの警護団の先頭に立つ擲弾兵達が通り過ぎた時、サン・レジャンは導火線に点火して逃げた。地獄機械は爆発し、あの14歳の少女マリアンヌ・プソルを殺し、その他多数の無辜の傍観者達を殺した。ナポレオン・ボナパルトの家族が乗った馬車が後続していて、爆発に遭遇した。この爆発により居合わせた無辜の人達が殺された。何人かははっきりしない。「1ダースの人達が殺され、28人が負傷した、」、「無辜の9人が死に、26人が負傷した。」、「2人の人間を殺し、6人に重傷を負わせた(そのほか軽傷者)。」この爆弾は、サン・レジャンから金を貰い、爆弾を積んだ荷車に繋がれた雌馬を抑えていた14歳の少女マリアンヌ・プソルと、勿論、牝馬を殺した。ナポレオンに喝采を送るべく店先に立っていた1人の女性は胸をもぎ取られた。もう1人は盲目になった。ナポレオン・ボナパルトの妻ジョゼフィーヌは失神した。彼女の娘ホーテンスの手は切り裂かれた。ナポレオン・ボナパルトの妹、カロリーヌ・ミュラ(マリア・アヌンツィアータ・ポナパルト・ミュラ(Maria Annunziata Bonaparte Murat)のアキーユ・ミュラは癲癇になった。
 ナポレオン・ボナパルトはひどく動揺したが、肉体的には無傷で地獄機械を逃れた。そのままオペラ座へ向かうと主張し、彼の来場を知った観客は立ち上がって拍手を送った。


ハイドン:オラトリオ「天地創造」Hob.XXI:2 - ガーディナー(ジョン・エリオット), モンテヴェルディ合唱団, マクネアー(シルヴィア), ブラウン(ドナ), シャーデ(ミヒャエル), フィンレイ(ジェラルド), ジルフリー(ロドニー), ハイドン, ガーディナー(ジョン・エリオット), イングリッシュ・バロック・ソロイスツ
ハイドン:オラトリオ「天地創造」Hob.XXI:2 - ガーディナー(ジョン・エリオット), モンテヴェルディ合唱団, マクネアー(シルヴィア), ブラウン(ドナ), シャーデ(ミヒャエル), フィンレイ(ジェラルド), ジルフリー(ロドニー), ハイドン, ガーディナー(ジョン・エリオット), イングリッシュ・バロック・ソロイスツ

 警察の情報提供者らは、「排外派(les exclusifs)として知られる極左ジャコバン派の一部が地獄機械によるナポレオン・ボナパルトを暗殺計画を立案した。」と見た。 西暦1800年11月07日〜08日に、パリ警察はメッゲ(Metge)という扇動者とシュヴァリエ(Chevalier)という薬屋を含む独占陰謀者を逮捕した。メッゲは「Le Turc et le militaire français(トルコ人とフランス軍)」と題した小冊子を出版し、ナポレオン・ボナパルトをマルクス・ユニウス・ブルトゥス(Marcus Junius Brutus)に殺されたローマの専制君主暴君ガイウス・ユリウス・カエサル(Gaius Iulius Caesar、Juliusとも)に喩え、「暴君ボナパルトを刺すため、何千人ものブルトゥスィの誕生」を呼びかけた。シュヴァリエは格納庫で爆発物の実験を行っており、ナポレオンを派遣するために爆弾を製造した疑いが持たれていた。 しかし、サン・ニケーズ通りで爆発した地獄機械はシュヴァリエの爆弾ではなかった。
 ナポレオン・ボナパルトは明らかに、自分の命を狙ったのは極左のジャコバン派のロベスピエールの残党の排他派によるものと確信していた。 ジョゼフ・フーシェは梟党たちを真犯人と挙げたが、ナポレオン・ボナパルトは聞く耳を持たなかった。自分が「フランス共和国に素晴らしいことをした。」と信じており、「暗殺志願者たちは恩知らずだ。」と信じていた。 激怒したナポレオン・ボナパルトはコンセイユ・デタで 「血液は流れなければならない。 我々は犠牲者と同じ数の罪を犯した者たちを射殺しなければならない。」 と語った。ナポレオン・ボナパルトは母圀フランス共和国から「ジャコバン派の敵」を排除することを望んでいた。 真犯人がジョゼフ・フーシェの警察に逮捕された後でも、ナポレオン・ボナパルはジャコバン派たちを赦免することを拒否し、フランス共和国から追放するよう主張した。西暦1801年01月04日、第一統領ナポレオン・ボナパルトと第二統領ジャン・ジャック・レジ・ド・カンバセレスと第三統領シャルル・フランソワ・ルブランは130人のジャコバン派をフランス共和国から追放した。統領令は「ここに名前を記す130名のジャコバン党員は、ニヴォース03日のテロ未遂、つまり機械地獄の爆発に対する責任の一端を担っている疑いがあり、共和国のヨーロッパ領土外で特別監視下に置かれることになる。 」01月05日、元老院は第一総統の行動が憲法を保持していることを証明する元老院は決議書を発行して、この法律を批准した。 130人の無実のジャコバン派は裁判も控訴の権利もなく、フランス領ギアナに流刑になった。01月09日、4人のジャコバン派、ジュゼッペ・セラッキ(Giuseppe Ceracchi)、ジョゼフ・アントワーヌ・アレナ(Joseph Antoine Aréna)、フランソワ・トピノ・ルブラン(François Topino-Lebrun)、ドミニク・ドゥメルヴィル(Dominique Demerville)が第一執政殺害計画の罪で死刑を宣告された。 無実と自白への拷問に対する彼らの必死の抗議は聞き入れられなかった。 ナポレオン・ボナパルト自身も熱烈なジャコバン派であったが、今やかつての同盟者たちに敵対するようになった。 彼は依然として、「極左ジャコバン派の排外派たちが彼を殺そうとした。」と主張した。 王党派の試みは彼の融和政策を覆すことになる。 彼はそれを信じることを拒否した。 ジャコバン派の追い落とみは、当時の彼にとって好都合だった。
 西暦1801年01月11日、地獄機械には無関係の不運な薬屋シュヴァリエが処刑された。 01月18日、爆弾製造者フランソワ・ヨーゼフ・カルボンが逮捕された。 拷問を受けて仲間のリモエランとサン・レジャンの名を自白したが。 ナポレオン・ボナパルトを逃した地獄機械の爆発事件から4週間後の01月20日、ナポレオン・ボナパルトはメッゲとその友人2人を処刑した。西暦 01月25日、フランソワ・ヨーゼフ・カルボンの仲間の梟党ピエール・ロビノー・ド・サン・レジャンが警察に逮捕され、04月20日にパリのグレーヴ広場で処刑された。
共謀者ピエール・ピコ・ド・リモエランは米国に逃亡し、荷馬車に馬を繋いでいた少女、マリアンヌ・ペウソルの死について罪悪感を感じ、西暦1812年に司祭に叙階し、西暦1826年に亡くなった。西暦1804年06月25日にジョルジュ・カドゥーダルがグレーヴ広場でギロチンに掛けられた。
 ナポレオン・ボナパルトの命を狙う試みに対して、130人のジャコバン派が追放された。 西暦1801年01月30日、第一統領殺害計画の罪で有罪判決を受け、死刑を宣告された4人の「短剣共謀者」ジュゼッペ・セラッキ、ジョゼフ・アントワーヌ・アレナ、フランソワ・トピノ・ルブラン、ドミニク・ドゥメルヴィルがギロチンに掛けられた。ナポレオン・ ボナパルトは残ったジャコバン派の敵を排除したが、彼らの死はナポレオン・ ボナパルトに対する暗殺の陰謀に終止符を打つものではなかった。 王党派は依然として彼を追跡しており、特にコルシガ島では陰謀者が至る所で見られた。

 ナポレオン・ ボナパルトの暗殺の陰謀を口実に、とされ130人のジャコバン派が追放され粛清された。議会は無視され、元老院が憲法事項についての万能機関となった。
 西暦1800年12月03日、ホーエンリンデンの戦いにおけるジャン・ヴィクトル・マリー・モローの勝利により武装解除したオーストリア大公国との間でリュネヴィルの和約が調印されると、ヨーロッパ大陸に平和が回復し、フランス共和国はほぼ全イタリアを保護下に置くこととなり、民法典論争における反対派指導者は議会から粛清された。西暦1801年の協約は、教会の利権のためではなく政策的関心のもとに立案されたものであり、国民の宗教感情を満足させることで、合憲的・民衆的教会を懐柔し、農民の心を摑み、何より王党派から最大の武器を奪うことを可能にした。その補足規定である組織条令(Articles Organiques)は、戦友や側近の目に反動と映らないよう、明文上ではなく事実上、教会を国家への服従において再興し、その財源を没収しつつ、その国教的地位を認めるものであった。
 西暦1802年03月25日、英仏にフランス共和国の同盟国スペイン王国、バタヴィア共和国を加えた4ヶ国の間でアミアンの和約が結ばれると、万難を排して和約に調印したナポレオン・ ボナパルトには、和平実現に対する国家からの報酬として、任期10年の統領から終身統領となる口実がついに与えられた。共和暦10年憲法に始まる帝政への道を踏み出した。西暦1802年08月02日(共和暦10年テルミドール(熱月)14日)、ナポレオンを終身第一統領として承認するかを問う2度目の国民投票が行われた。またもや99.8%の賛成票を獲得した。
 ナポレオン・ ボナパルトは権力を強化するにつれて、アンシャン・レジームの手法を取り入れ、専政を始めた。旧王政のように、きわめて中央集権的かつ功利的な行政官僚体系を敷き、国立大学において権威主義的かつ煩瑣なスコラ学を講じるなど、再集権化を行い、国家機関・地方自治・司法制度・財政機関・金融・法典編纂・熟練労働力の伝承等に必要な財源を改組・集約化した。ナポレオン・ ボナパルト治下のフランスは高度の安寧秩序を謳歌し、厚生水準が向上した。たびたび飢饉に悩み、光熱が不足していたパリでは、取引が盛んになって賃金が上がると同時に、食糧が安価かつ豊富になった。ジョゼフィーヌ、タリアン夫人(テレーズ・カバリュス(Thérèse Cabarrus、ジャンヌ・マリー・イニャス・テレーズ・カバリュス(仏語: Jeanne- Marie-Ignace-Thérèse Cabarrus、西語: Juana Maria Ignazia Thérésa Cabarrus、テレザ・カバリュス( Thérésa Cabarrus)、タリアン夫人)、ジュリエット・レカミエ(Juliette Récamier、全名:Jeanne Françoise Julie Adélaïde Bernard、Madame Récamier(レカミエ夫人))らのサロンには、成金の豪華絢爛な顔ぶれが並んだ。ナポレオン・ ボナパルトは国家機関を増強する中、指導層に向けてレジオンドヌール勲章を創設し、コンコルダを締結し、間接税を復活するなど、反革命的にも見える政策も行うようになった。ナポレオン・ ボナパルトは、政権の座にあってアンリ=バンジャマン・コンスタン・ド・ルベック(Henri-Benjamin Constant de Rebecque)やスタール夫人(アンヌ・ルイーズ・ジェルメーヌ・ド・スタール(Anne Louise Germaine de Staël、スタール夫人(Madame de Staël)、スタール・ホルシュタイン男爵夫人アンヌ・ルイーズ・ジェルメーヌ・ネッケール(Anne-Louise Germaine Necker, baronne de Staël-Holstein))らひときわ発言力のある批評家を放逐することで、反対勢力をほとんど弾圧することができた。
 サン・ドマング出兵では共和国軍が壊滅し、かつての戦友ナポレオンに猜疑心を抱く軍首脳も絶えず続く戦争に嫌気がさして離散していったが、ジャン・ヴィクトル・マリー・モローが王党派の陰謀に連座して亡命したのを最後に、ナポレオン・ ボナパルトの権威に対する大規模な挑戦はなくなった。反対派の元老院議員や共和派の将軍らと対比して、フランス国民の多くは、粛清への恐れもあり、ナポレオン・ ボナパルトの権威に対して無批判であった。
 ナポレオン・ ボナパルトの政権基盤がなお脆弱であったことから、フランスの王党派は、ナポレオン・ ボナパルトを拉致・暗殺すること、アンギャン公ルイ・アントワーヌ・アンリ・ド・ブルボン・コンデ(Louis Antoine Henri de Bourbon-Condé, duc d'Enghien)に、ルイ18世を王位に頂くブルボン復古王政の端緒となるクーデターを指導するよう要請すること等を盛り込んだ陰謀を立てた。イギリス王国の小ピット(ウィリアム・ピット(William Pitt((the Younger))政権は、この王党派の陰謀に100万ポンドを資金提供し、ジョルジュ・カドゥーダルとジャン・シャルル・ピシュグリュ(Jean-Charles Pichegru)将軍らの一味がイギリス王国からフランス共和国へ帰国する際の輸送船(中にはジョン・ウェズリー・ライト(John Wesley Wright)船長の艦船もあった。)も提供した。西暦1804年01月28日、ジャン・シャルル・ピシュグリュはナポレオン・ ボナパルト麾下の将軍の1人でかつての部下でもあるジャン・ヴィクトル・マリー・モローと面会した。翌日、クールソン(Courson)と名乗るイギリス王国の密使が逮捕されて拷問され、ジャン・シャルル・ピシュグリュ、ジャン・ヴィクトル・マリー・モロー、ジョルジュ・カドゥーダルらが統領政府を転覆する陰謀を企てていることを自白した。フランス共和国政府はジョルジュ・カドゥーダルの使用人ルイ・ピコ(Louis Picot)を逮捕して拷問し、この陰謀の詳細を捜査した。一連の検挙で、王党派の陰謀は、ブルボン家の御曹司でブルボン復古王政では王位継承者ともなりうるアンギャン公の積極的関与を予定したものであることが判明した。パリ知事のジョアシャン・ボナパルト・ミュラ(Joachim Bonaparte Murat)は、ジャン・シャルル・ピシュグリュ、ジャン・ヴィクトル・マリー・モロー逮捕の翌月までの間、午後07時から翌午前06時までパリの城門を閉鎖するよう命じた。

 西暦1804年の始め、ナポレオン・ ボナパルトに、当時フランス警察が追求していた「ジョルジュ・カドゥーダルとジャン・シャルル・ピシュグリュの陰謀にアンギャン公が関与している。」という情報が入った。「アンギャン公がシャルル・フランソワ・デュ・ペリエ・デュ・ムリエ (Charles François du Perrier du Mouriez)と共に極秘にフランス共和国に入国した。」と言うものだった。これは間違いで、アンギャン公と面識があったのはトゥムリー侯爵という無害の老人で、アンギャン公はジョルジュ・カドゥーダルともジャン・シャルル・ピシュグリュとも関係が無かった。アンギャン公は当時フランスの亡命貴族(エミグレ)としてバーデン選帝侯領(西暦1803〜1806年)のフランス国境付近のエッテンハイムの借家に暮らしていた。
 3度にわたる暗殺の陰謀に加えてストラスブールでも暴動の予備があり、ナポレオン・ ボナパルトも頭を抱えていた。ナポレオン政権の外相シャルル・モーリス・ド・タレーラン・ペリゴールと警察相ジョゼフ・フーシェらの「刺客はどこにでもいる。」との警告もあり、疑心暗鬼の第一統領ナポレオン・ ボナパルトは「アンギャン公を処刑すべき。」との政治判断をするに至り、冤罪事件として知られるアンギャン公事件が起きた。第二統領ジャン・ジャック・レジ・ド・カンバセレスは中立国バーデン選帝侯領を侵害する事に苦言を呈したが、第三統領シャルル・モーリス・ド・タレーラン・ペリゴールは同意した。西暦1804年03月15日、命令を受けたオルドゥネ将軍率いるフランス騎馬憲兵隊は200人は密やかにライン川を渡り、バーデン選帝侯領の邸宅を包囲してアンギャン公を拉致した。アンギャン公の身柄をストラスブールに移送し、その後20日にパリ近くのヴァンサンヌ監獄に収容した。フランス共和国への送還中、アンギャン公は「ボナパルトもフランス国民も断じて許さない、折りさえあれば彼らに対して戦争を仕掛けてやりたい。」と怒った。同時期にナポレオン・ボナパルトの命令を受け、幕僚アルマン・ド・コランクール(第5代コーランクール侯、初代ヴィチェンツァ公アルマンド・オーギュスタン・ルイ、Armand Augustin Louis, 5e marquis de Caulaincourt, 1er duc de Vicence)も、ルイ・アレクサンドル・ベルティエ経由でタレーランからバーデン選帝侯領の大臣エーデルスハイム男爵に宛てられた手紙を携えて、イギリス王国の諜報員とされるライヒ男爵夫人を逮捕しにバーデン選帝侯領に向かった。アルマン・ド・コランクールも一連の事件の当事者として非難を受ける事になった。
 ジョアシャン・ボナパルト・ミュラによって、フランス軍の大佐7人からなる治安判事団がアンギャン公の裁判の為にヴァンセンヌ監獄に即座に集められ、バーデン選帝侯領の邸宅での押収物や警察当局からの資料に基づき、アンギャン公は謀叛を計画した罪で告発されて軍法会議に掛けられた。主席判事はユラン将軍が務めた。ナポレオン・ボナパルトの腹心の憲兵少将ザヴァリーは侵入する者が無いよう憲兵を監獄に配置した。一方ナポレオン・ボナパルトは真実を知ると、告発理由を急いで変更した。アンギャン公は法廷での尋問中イギリス王国から年に4200ポンドの援助を受けていることを認めたが、これについて「フランス国家ではなく当家に敵対する現政権と戦うためである」と述べた。さらに「イギリス軍に出仕を申し入れたが色良い返事を得られず、さしあたり自らの出番を作るためライン川周辺で待機する必要があり、実際そうしていただけである。」とも述べた。
 アンギャン公のる罪状の主だった内容は、「過去の戦争でフランス共和国に対し武器を振るい、またイギリス王国から金銭的援助を受け、第一統領の命を狙った。」という西暦1791年10月06日の法律第2条違反、即ち「内戦により朝憲を紊乱し、市民を武装させて他の市民又は合法的権威に敵対させることを目的とする陰謀を首謀又は共謀した者は、死刑に処する、」の抵触だった。夜中11時に開始された裁判には証人も被告側弁護人も、証拠とされる手紙も提示されずに進行し、指示役のザヴァリーに急かされて、判事の大佐らは大急ぎで極めて略式の有罪判決文を書き上げた。ザヴァリーはアンギャン公の「何としても第一統領と面談をしたい。」との請願を却下した。アンギャン公は「フランス人の手で命を散らすとは何と無残なことか!」と述べた翌西暦1804年03月21日の未明、ザヴァリーの「放て!」の叫びと共にアンギャン公ルイ・アントワーヌ・アンリ・ド・ブルボン・コンデは8発の銃弾をその身に受け、牢獄を囲む濠の中に横たわった。その側には彼の墓穴が既に掘り開けられていた。彼の死によってコンデ家は断絶した。
 フランス国内ではほとんど波紋を呼ばなかったが、国外では波乱を呼び、王を戴く欧州諸国の反ナポレオンの感情を呼び覚ますのに十分であった。ナポレオン・ ボナパルトに対して好意的ないし中立的だった者も多くは敵対的になっていった。
ナポレオン・ ボナパルトは処刑を許可した重責を生涯背負い続けることとなったが、「自分は結局正しいことをしたのだ。」と信じ続けていた。ナポレオン陣営は相次ぐ暗殺未遂への対抗から独裁色を強め、帝制への道を突き進んで行くことになった。

 ナポレオン・ ボナパルト暗殺の陰謀は跡を絶たず、「ナポレオン・ ボナパルトの死後すぐに共和政が崩壊してブルボン復古王政、軍事独裁ないしジャコバン派独裁が再来するのではないか。」という懸念が生じ始めた。ジョゼフ・フーシェはナポレオン・ ボナパルトに、世代交代を確固たるものにし死後の政変の芽を摘むため、世襲称号を創設することを提案した。ナポレオン・ ボナパルトは当初そのような称号を認めることを躊躇ったが、説得された末、その権力が神権によらず、人民の委託に基づくとすることを条件としてこれを認めた。
 西暦1804年05月18日、フランスを帝政に移行させナポレオン・ ボナパルトを皇帝とする議案が元老院を通過し、西暦1804年12月02日、戴冠式が挙行され、ナポレオン・ ボナパルトはフランス皇帝に即位しフランス第1帝政が成立した。


ナポレオン年代記 - J.P. ベルト, Bertaud,Jean‐Paul, 洋一, 瓜生, 光一, 長谷川, 謙一, 横山, 修, 新倉, 明男, 松嶌
ナポレオン年代記 - J.P. ベルト, Bertaud,Jean‐Paul, 洋一, 瓜生, 光一, 長谷川, 謙一, 横山, 修, 新倉, 明男, 松嶌

 市民革命が進む中で、人権思想、平等思想、脱宗教・世俗主義の傾向が明確となり、西暦19世紀までにゲットーや宗教裁判は否定されてユダヤ人は解放された。西暦18世紀末、フランス革命で猶太教徒の権利向上の動きもあり、猶太教徒への弾圧が弱まっていったが、逆に新反ユダヤ主義が芽生える面もあった。西暦1789年08月26日、フランス革命で出された人権宣言人間と市民の権利の宣言ではユダヤ人の人権も認められた。しかし一般にそれが受け入れられるには何ヶ月も掛かり、西暦1791年09月の国民議会の解散数日前に、代議員アドリアン・ジャン・フランソワ・デュポール(Adrien-Jean-FrançoisDuport )が突如演壇に上がり、「信教の自由があるのに、市民の政治的な権利がその信仰で区別されるというのは、それはあってはならない。ユダヤ人の政治参加問題はずっと先延ばしにされてきた。他方イスラム教徒や他の宗派の人々はフランスでの政治的な権利が認められている。問題解決を先送りするのはもうやめて、フランスのユダヤ人が完全な市民権を享受できるような法令を通そうではないか。」と演説し採決を強行し、殆ど反対なしで動議が可決され、近代ヨーロッパの史上初めてユダヤ人がその国に生まれた市民と同等の権利が正式に認められた。フランス革命軍がヨーロッパで勝利を広げていくに伴い、各地のゲットーは解放されていった。しかし、フランス帝国の崩壊、ウィーン体制の成立という事態は「ヨーロッパのユダヤ人を再び溶鉱炉の中に投げ込んだ。」
 フランス革命において、ユダヤ人も一般市民と認められ、同等の権利を有するとされたことに見られるように、市民革命の時代を経て人権と平等の思想が一般化した。また、ヨーロッパで長期にわたって混在して定住、混血が続いたため、ユダヤ人はもはや人種・民族として外見からは判断できなくなっていた。「ユダヤ人」の概念も揺らいでおり、使用言語や宗教での大まかな括りも現実的ではなくなっており、いまや「ユダヤ人である。」と自覚するかどうかによって決まってくるというのが実態である。その反面、ヨーロッパ各国が帝国主義の段階に入ってくると、ナショナリズムは国家主義の側面を強くし、民族主義の側面でも次第に偏狭な人種主義が強まっていった。その格好な攻撃目標とされたのがユダヤ人であり、反ユダヤ主義の高まりとなって現れてくる。それはユダヤ人だけではなく、ジプシー(ロマ)など少数の漂泊民や、あるいは黄色人種に対する差別観である黄禍論などにも見られるが、最も広く見られ、重要な意味を持っているのがユダヤ人に対する差別感であった。ユダヤ人は西暦19世紀後半から自業自得の反ユダヤ主義という新たな敵に見舞われ、それに対する反発としてシオニズムの潮流が興り、ナチス・ドイツによるユダヤ人絶滅政策を誘発させた。策謀によりイスラエル建国を強行したが、それは必ずしも世界の共感を呼ぶことにはならず、現実にアラブ諸国との抜き差しならない対立へと突入した。

 西暦1798年、ロシア帝国、オスマン朝テュルコが参戦し、オーストリア大公国も戦列に復帰して第2次対仏大同盟が結ばれ、西暦1799年11月、ナポレオン・ボナパルトがクーデターによって政権を握った。西暦1800年代 、ナポレオン戦争。西暦1806年07月、神聖ローマ帝国が解体され、西暦1811年にカール・テオドール・アントン・マリア・フォン・ダールベルク(Karl Theodor Anton Maria von Dalberg)がナポレオン法典を下にフランクフルトのユダヤ人に市民権を認めた。しかし、ナポレオン・ ボナパルトが敗退すると、西暦1814年にはユダヤ人の市民権と選挙権が再び剥奪された。西暦1819年、ドイツのヴュルツブルクでポグロムが発生し、瞬く間にドイツ文化圏全域でヘプヘプ・ポグロムが起こった。西暦1821年にはウクライナでオデッサ・ポグロムが起こった。

 ナポレオン軍がオーストリア軍に勝利し、この後、神聖ローマ帝国は崩壊していった。神聖ローマ帝国が喪失したラインラントは、西暦1815年のウィーン議定書でプロイセン王国に割譲された。西暦1800年、ナポレオン・ボナパルトがマレンゴの戦いやホーエンリンデンの戦いでオーストリア軍を撃破し、西暦1801年のリュネヴィルの和約で神聖ローマ帝国はライン川西岸のラインラントを喪失した。講和後に作家ヨーハン・クリストフ・フリードリヒ・フォン・シラー(Johann Christoph Friedrich von Schiller)はドイツ帝国とドイツ国民は別であり「ドイツ帝国が滅びようと、ドイツの尊厳が侵されることはない。」と述べた。西暦1803年02月25日の帝国代表者会議主要決議により、帝国騎士領は全て取り潰され、聖界諸侯ではマインツ選帝侯のみレーゲンスブルクに所領を得たが、ケルン、トリーアの聖界諸侯は消滅した。アウクスブルク、ニュルンベルク、フランクフルト・アム・マイン、ブレーメン、ハンブルクおよびリューベックの6都市と、ライン左岸4都市を除く41の帝国自由都市が陪臣化された。ナポレオン・ボナパルトは西南ドイツを自立させて、プロイセン王国とオーストリア大公国に対する政策を執った。バーデン、ヴュルテンベルク、バイエルンなど西南ドイツ諸国は、失ったライン左岸の補償として領地を拡大することとなった。
 ナポレオン・ボナパルトは征服した土地でナポレオン法典を施行してユダヤ人を「解放」していった。イタリア、ローマ法王領、ライン地方のユダヤ人は市民権を授与された。他方、以前の身分制度に満足していたアムステルダムのセファルディームは市民権を不必要としたが、ユダヤ共同体も分裂状態となっていた。各地のユダヤ人はナポレオン・ボナパルトを解放者として歓迎し、フランス帝国はユダヤ人解放者としての名声を確立した。しかし、ナポレオン・ボナパルトは「ユダヤ人は蝗の大群のような臆病で卑屈な民族である。」として「ユダヤ人の解放はこれ以上他人に害悪を広めることができない状態に置いてやりたいだけだ。」と述べた。ユダヤ人の非猶太教化を望み、「さらにユダヤ人とフランス人との婚姻を進めればユダヤ人の血も特殊な性質を失うはずだ。」とユダヤ人種の抹消を目標としていた。なお、ナポレオン・ボナパルトのユダヤ政策の作成過程では、好ましくない偏見があるので公文書から「ユダヤ人」名称を一掃することが提案されたこともあり、ドイツ諸邦では行政で「モーゼ人(Mosaiste)」が奨励されたが。定着しなかった。
 ドイツ観念論の哲学者イマニュエル・カント(Immanuel Kant)は、「アフリカの黒人は、本性上、子供っぽさを超えるいかなる感情も持っていない。ヒューム氏は、『どの人に対しても、黒人が才能を示したただ1つの実例でも述べてほしい。』と求め、『彼らの土地から他所へ連れて行かれた十万の黒人の中で、そのうちの非常に多くのものがまた自由になったにもかかわらず、学芸や、その他なんらかの称賛すべき性質のどれかにおいて、偉大なことを示したただの1人もかつて見られたことはないが、白人の間には、最下層の民衆から高く昇り、優れた才能によって声望を獲得する人々が絶えず見られる。』と主張している。それほどこの2つの人種の間の差異は本質的で、心の能力に関しても肌色の差異と同じほど大きいように思われる。」ここでイマニュエル・カントが引用したデイヴィッド・ヒューム(David Hume)は、奴隷制に反対していた一方で、「黒人などの白人以外の文明化されていない人種は、白人種のような独創的な製品、芸術、科学を作り出せない。」と述べた。この他に、イマニュエル・カントは「アラビア人については、東洋で最も高貴で『アジアのスペイン人』と言って良いが、冒険的なものへ退化した感情を持っている。」とし、「ペルシア人は典雅で繊細な趣味を持っており、『アジアのフランス人』と言って良い。」と述べ、「日本人は極度の強情にまで退化しており、沈着、勇敢、死の軽視といった点で『アジアのイギリス人』と言って良い。」述べている。「インド人は宗教において異様な趣味を持っており、支那人は太古の無知の時代以来の風習を保持しており、畏怖すべき異様さを持つ。」とした。続けてイマニュエル・カントは「東洋人は人倫的な美についての観念を持たない。」と論じた。「一重にヨーロッパ人だけが強力な傾向性の感性的な魅力を多くの花で飾り、多くの道徳的なものと編み合わせ、この魅力の快適さを高めるばかりでなく、大いに品の良いものとする秘訣を見出したことが分かる。東洋の住民はこの点では非常に誤った趣味を持っている。イマニュエル・カントはこのように人種を論じ、現在のヨーロッパ人によって「美と崇高の正しい趣味が花開いたのであり、教育によって古い妄想から解放され、すべての世界市民 (コスモポリタン)の人倫的感情が高まることを望んでいる。」と論じた。明確に白色人種の卓越性を論じ続けた。「暑い国々の人間はあらゆる点で成熟が早めではあるが、温帯の人間のような完全性にまで到達することはない。人類がその最大の完全性に到達するのは白色人種によってなのである。すでに黄色のインド人であっても、才能はもっと劣っている。ニグロははるかに低くて、最も低いのはアメリカ原住民の一部である。」
 イマニュエル・カントは、モーゼス・メンデルスゾーン(Moses Mendelssohn)などユダヤ人哲学者と交流していたが、
著作では反ユダヤ主義的な見解を繰り返し述べており、「単なる理性の限界内での宗教」(西暦1793年)で、「猶太教は全人類をその共同体から締め出し、自分たちだけがイェホヴァ−(YWHWヤハウェ)に選ばれた民だとして、他の全ての民を敵視したし、その見返りに他のいかなる民からも敵視されたのである。」と述べ、また晩年の「実用的見地における人間学」(西暦1798年)でも「パレスティナ人(ユダヤ人)は、追放以来身につけた高利貸し精神のせいで、彼らのほとんど大部分がそうなのだが、欺瞞的だという、根拠がなくもない世評を被ってきた。」と書き、「諸学部の争い」では「ユダヤ人が耶蘇教を公に受け入れれば猶太教と耶蘇教の区別が消滅し、猶太教は安楽死できる。」と述べている。イマニュエル・カントは、啓蒙思想によるユダヤ人解放を唱えながら、儀礼に拘束されたモーセ教(猶太教)を拒否した。他方のモーゼス・メンデルスゾーンはラファータ−論争で耶蘇教への改宗を断じて拒否した。また、イマニュエル・カントは、フランス革命を賛美しつつも、教会や圧政などの「外界からの自由」というフランス革命の自由観を批判して、自律的な自己決定という概念によって、外界の影響に左右されない「完全な自由」観を生み出した。イマニュエル・カントは、「人間は外なる世界ではなく、自己の内なる世界、自律的な精神の中の道徳律に従うときに自由である。」と論じたが、このようなイマニュエル・カントの哲学が政治に適用されると、自律性と自己決定をもって道徳に従う政治が良い政治とされ、自決権の獲得が政治目標となる。こうしたイマニュエル・カントの思想はヨハン・ゴットリープ・フィヒテ(Johann Gottlieb Fichte)によって継承された。
 当初、フランス革命の熱心な支持者であったドイツの哲学者ヨハン・ゴットリープ・フィヒテは「フランス革命についての大衆の判断を正すための寄与」(西暦1793年)で革命を理論的に根拠付け、ユダヤ人がドイツに齎す害について述べた。ヨハン・ゴットリープ・フィヒテは「ユダヤ人の害から身を守るには、ユダヤ人全員を約束の地に送り込むしかない。」、「ユダヤ人がこんなに恐ろしいのは、1つの孤立し固く結束した国家を形作っているからではなくて、この国家が人類全体への憎しみを担って作られているからだ。」と論じ、ユダヤ人に市民権を与えるにしても彼らの頭を切り取り、ユダヤ的観念の入ってない別の頭を付け替えることを唯一絶対の条件とした。またナポレオン1世占領下のベルリンで「ドイツ国民に告ぐ」(西暦1807〜1808年)を講演して反響を呼び、ドイツ国民運動の祖となった。ヨハン・ゴットリープ・フィヒテは、「世界は有機的な全体であり、その部分はその他の全ての存在がなければ存在できない。」とされ、「個人の自由は全体の中の部分であり、個人より高い段階の存在である国家は個人に優先する。」と論じ、「個人は国家と一体になったときに初めてその自由を実現する。」と主張した。このようなヨハン・ゴットリープ・フィヒテの国家観はフリードリヒ・ヴィルヘルム・ヨーゼフ・フォン・シェリング(Friedrich Wilhelm Joseph von Schelling)、マックス・ミューラー(Max Müller)、フリードリヒ・ダニエル・エルンスト・シュライアマハー(Friedrich Daniel Ernst Schleiermacher)によって支持され、他方西暦20世紀初期のシオニストもヨハン・ゴットリープ・フィヒテを国民としての強い自覚によって道徳性を高める思想の先駆者と見做し、反シオニストのユダヤ系哲学者ヘルマン・コーエン(Hermann Cohen)も「フィヒテは国民が全体の自由に奉仕するという旧約聖書の理想を認めた。」と称賛した。ヨハン・ゴットリープ・フィヒテと同じく当時はまだフランス革命の熱心な支持者であったカール・ヴィルヘルム・フリードリヒ・フォン・シュレーゲル(Karl Wilhelm Friedrich von Schlegel)は「共和主義の概念に関する試論」(西暦1793年)で民主的な「世界共和国」を論じて、革命的民主主義に疑念を呈したイマニュエル・カントの「永遠平和のために」(西暦1795年)を乗り越えようとしたが、カール・ヴィルヘルム・フリードリヒ・フォン・シュレーゲルもナポレオン時代にはドイツ国民意識を鼓舞する役割を果たした。西暦1799年、自由主義神学者ヨーハン・ザロモ・ゼムラー(Johann Salomo Semler)の弟子フリードリヒ・ダニエル・エルンスト・シュライアマハーは宗教論第5講話で、猶太教は聖典が簡潔し、「YWHWヤハウェとその民との対話が終わったときに死んだ。」と述べた。また西暦1804年、「国家は道徳的権威であり祖国は生きることに最高の意味を与えてくれる。」と論じた。
 ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel)はユダヤ人解放を支持した。しかし、「宗教哲学講義」でユダヤ人の奴隷的意識と排他性について論じ、「精神現象学」(西暦1807年)で「ユダヤ人は見下げられ尽くした民族であり、またそういう民族であった。」西暦1821年の「法の哲学」では「イスラエル民族は自己内へ押し込められ無限の苦痛にあるのに対して、ゲルマン民族は客観的真理と自由を宥和させる。」「耶蘇教の精神とその運命」ではユダヤ人は「自分の神々によって遂には見捨てられ、自分の信仰において粉々に砕かれなければならなかった。」、「無限な精神は牢獄に等しいユダヤ人の心の中には住めない。」と批判した。さらにゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルは、「ニグロはあらゆる野蛮性を持った自然人であり、その性格の中に人間を思い起こさせるものは何もない。」ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルによれば、「世界史はアジアに始まり、ヨーロッパに終わるが、アフリカは世界史の外に止まる。東洋では1人だけが自由であり、ギリシア・ローマ世界は幾人かが自由であるのに対して、ゲルマン世界では全ての者が自由である。」、「ゲルマン民族は純粋な内在性を持ったため精神が解放された。しかし、ラテン民族は分裂を保持していたため魂という精神の全体性がないため、自己の最も深いところで自己にとって外的存在なのである。」、「自己内へ押し込められ無限の苦痛にあるユダヤ民族に対して、ゲルマン民族は客観的真理と自由を宥和させる。」と論じた。また、ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルは若い頃の未刊論文で「耶蘇教はヴァルハラを寂れさせてしまい、神聖は小森を伐採し、民衆の空想を恥ずべき迷信、悪魔的な毒として窒息させた。」と書いた。
 哲学者フリードリヒ・ヴィルヘルム・ヨーゼフ・フォン・シェリング(Friedrich Wilhelm Joseph von Schelling)は白人種は最も高貴な人種であり「ヤペテの、プロメテウスの、コーカサスの人種の祖先のみが、その行為によって観念(イデー)の世界の中に入り込むことできる唯一の人間である。」とし、「他の人種は奴隷になるか絶滅する運命にある。」と論じた。また、「ユダヤ人は民族をなさず、純粋な人類の代表であり、他の者よりも観念の世界に近づくことができる。」
 哲学者アルトゥール・ショーペンハウアー(Arthur Schopenhauer)は「白人種と新約聖書の起源はインドである。」とし、「インドの知恵から出た耶蘇教の教義は、粗雑な猶太教という全く異質な古い幹を覆った。」、「人類は、アダムにおいて誤りを犯し、その時以来罪、堕落、苦悩、死の絆の中に捕らえられていたが、救世主によって罪を贖われた。これが耶蘇教や仏教の見方である。世界は最早『全ては良い。』としていたユダヤの楽観主義の光の中に現れることはない。」と述べた。アルトゥール・ショーペンハウアーにとって、シナゴーグも哲学の講堂も本質的に大差はないが、「ユダヤ人はヘーゲル派よりも質が悪い。」と考えていた。アルトゥール・ショーペンハウアーは「ユダヤ人は彼らの神の選ばれた民であり、神はその民の神である。そしてそれは、別に他の誰にも関係のないことである。」と述べている。またアルトゥール・ショーペンハウアーは、西欧はユダヤの悪臭によって窒息させられており、ユダヤ思想の影響を呪い「いつかヨーロッパがあらゆるユダヤ神話から純化される。恐らくアジア起源のヤペテ系の人々が彼らの生地の聖なる宗教を再び見出す世紀が近づいている。」と述べた。アルトゥール・ショーペンハウアーはアーリア主義とセム主義の二元的な対照をドイツで普及させた。

 西暦1803年、イギリス王国(グレートブリテン及びアイルランド連合王国(西暦1801〜1922年))とフランス共和国は再び開戦し、ナポレオン戦争(西暦1803〜1815年)が始まった。イギリス王国は、オーストリア大公国・オーストリア帝国、ロシア帝国などと第3次対仏大同盟を結成した。西暦1804年、ナポレオン・ボナパルトがフランス皇帝を称したのに対してフランツ2世(Franz II)はオーストリア皇帝を称した(オーストリア帝国)。この西暦1804年、オーストリア帝国外相クレーメンス・ヴェンツェル・ロータル・ネーポムク・フォン・メッテルニヒ・ヴィネブルク・ツー・バイルシュタイン(Klemens Wenzel Lothar Nepomuk von Metternich-Winneburg zu Beilstein)の秘書官を務めたフリードリヒ・フォン・ゲンツ(Friedrich von Gentz)は、ユダヤ人サロンの常連であったが、「近代世界の全ての害悪が最終的にすべてユダヤ人に起因している。」と書簡で本音を述べた。フリードリヒ・フォン・ゲンツは、フランス革命が起きた時には「理性の革命」であり「哲学の最初の勝利」として熱狂的に歓迎したが、やがて反革命の旗手となっていた。


フランス帝国 第1帝政(西暦1804〜1814/1815年)

 皇帝ナポレオン1世が支配する強力な軍事力を後ろ盾とした軍事独裁政権である。大陸軍(グランダルメ、仏語: Grande Armée)と命名された巨大な陸軍組織が国家の柱石だった。西暦1804年05月18日元老院決議によって、第一統領ナポレオン・ボナパルトは皇帝に即位し、「フランス共和国第一帝政」が生じていた。国民投票が11月に行なわれ、その国民投票の過半数の賛成の結果、ナポレオン・ボナパルトがフランス共和国の皇帝に即位したことが追認された。12月には皇帝ナポレオン1世の戴冠式がノートルダム大聖堂で執り行われた(フランス皇帝)。 ナポレオン政権は統領政府時代から一貫して、ナポレオン1世の天才的な軍事的才能を後ろ盾とした軍事独裁政権であり、ナポレオン・ボナパルトの存在と、彼が戦争に勝ち続ける事が、政権存続の絶対条件であった。イギリス王国、オーストリア大公国、プロイセン王国、ロシア帝国等のヨーロッパ列強から見ればフランス帝国の成立は、ナポレオン・ボナパルトの絶対化と権力強化以外の何物でもなく、革命が自国へ及ぶ恐怖に加えて、軍事面での脅威も加わることになった。列強各国は早速第3次対仏大同盟を結成して、帝国への対抗を始めた。一方でフランス帝国国内においては、皇帝の誕生によるフランス帝国の出現は、フランス革命によって国王ルイ16世を処刑し共和制を打ち建てた過程から完全に逆行しており、国内の親ジャコバン派の反発を招いた。

トラファルガル海戦物語 上 - ロイ アドキンズ, Adkins,Roy, 史郎, 山本
トラファルガル海戦物語 上 - ロイ アドキンズ, Adkins,Roy, 史郎, 山本

 西暦1805年、ヨーロッパ大陸は皇帝ナポレオン1世率いるフランス帝国の支配下に置かれていたが、海上の支配権はイギリス王国の下にあった。イギリス王国は海上封鎖を行ってフランス帝国の海軍力を抑止し、イギリス王国本土侵攻を防いでいた。ナポレオン1世はこの状況を打破すべく、ナポレオン1世のイギリス遠征軍による対英上陸作戦を援護すべく封鎖を突破することを命令した。フランス帝国と当時ナポレオン1世の支配下にあったスペイン王国の聯合艦隊を編成し海上封鎖を突破し、ブーローニュの港に集結させた35万と号した侵攻軍(実際には15万人程度)と総勢2500隻の舟艇(平底の輸送船)によるイギリス王国本土上陸を援護することを命じた。ナポレオン1世の立案した計画では、イギリス海軍の海上封鎖によって封鎖されている各地の根拠地ブレスト、 トゥーロン、ロシュフォール、フェロルの各港から艦隊を出撃させて封鎖を突破、ブレスト艦隊がアイルランド方面でイギリス海軍をひきつけ分散させている間に、他港の艦隊を合同させて輸送舟艇群の護衛にあたる事になっていた。しかしこの計画は主力と陽動の時間を合わせなければ成功は望めないが、風任せの帆走軍艦と天候の変化(特に高波)に弱い平底の輸送船ではその時宜の精確な予測が出来るわけがなかった。一方イギリス王国は海軍卿初代セント・ヴィンセント伯ジョン・ジャーヴィスの指揮の下フランスの主要港湾の全てに封鎖船を配置していた。ただしこの時点ではフランス帝国側の作戦計画は察知できてはいなかった。地中海艦隊司令長官であるホレーショ・ネルソンの艦隊はツーロン沖で封鎖に当たっていた。
 トゥーロン艦隊司令長官ルイ・ルネ・マドレーヌ・ド・ラトゥーシュ・トレヴィル(Louis-René-Madeleine de Latouche-Tréville)が病死し、フランス艦隊の作戦計画は変更を余儀なくされた。 これにより、元は陽動だったブレスト艦隊によるアイルランド方面侵攻を主作戦の1つとし、イングランド侵攻と同時に実行することとした。新たな陽動作戦としてトゥーロンとロシュフォールの艦隊をカリブ諸島へと送ることでイギリス海軍を分散させることになった。ルイ・ルネ・マドレーヌ・ド・ラトゥーシュ・トレヴィルの後任、ピエール・シャルル・ジャン・バティスト・シルヴェストル・ド・ヴィルヌーヴ(Pierre-Charles-Jean-Baptiste-Silvestre de Villeneuve)提督は西暦1805年01月にホレーショ・ネルソンの目を眩ませる為荒天を突いてトゥーロンを出撃したが、荒天で戦列艦3隻が航行不能となり作戦を中断した。このためナポレオン1世は再び計画を変更した。「アイルランド侵攻を取り止め、ブレスト・トゥーロン・ロシュフォールの艦隊に加えて更にカディスからスペイン艦隊を出撃させ、その全てを一度カリブ諸島で合流させてイギリス海峡に突入する。」というものだった。フィニステレ岬の海戦から撤退したヴィルヌーヴはスペイン領カディスに入り艦隊の整備に当たっていた。なおこの間にナポレオン1世はイングランド侵攻中止を決断、09月03日にブーローニュの陣を引き払い一度パリに帰還した。ナポレオン1世は続いてオーストリア帝国への攻撃を準備していたが、この支援作戦としてカディスのフランス帝国・スペイン王国聯合艦隊にナポリ攻撃命令を下した。
 しかしヴィルヌーヴは準備は進めながらも、08月21日にカディスに帰ってきて間もない艦隊は修理や人員補充が必要であり、出港することはなかった。10月16日にヴィルヌーヴとスペイン王国側指揮官の間で会談が持たれた際にも、好機が訪れるまで待機することが決まった。ところが10月18日にヴィルヌーヴは一転して出港を決定し、急速に準備を進めて翌19日朝にカディスを出港した。ヴィルヌーヴの急な態度の変化は、「ナポレオン1世が命令に反して出港しないヴィルヌーヴを解任し、後任としてフランソワ・エティエンヌ・ロジリー(François-Étienne Rosilly)中将を派遣した。」という情報を摑み、フランソワ・エティエンヌ・ロジリーがカディスに到着して命令が発効する前に出港をしたかったためである。
 そのヴィルヌーヴ艦隊をカディス沖で監視していたのがホレーショ・ネルソン率いるイギリス地中海艦隊であった。哨戒にあたっていたフリゲート「シリアス」がカディスでフランス・スペイン連合艦隊が出港準備中であることを確認し、その後出港を始めたことを信号旗で僚艦に伝えた。その信号はフリゲート「ユライアラス」他数隻の艦を中継して、09時30分に約80km離れた「ヴィクトリー」艦上のホレーショ・ネルソンに伝わり、ホレーショ・ネルソンは直ちに主力を南東に向けて聯合艦隊を追った。
 ホレーショ・ネルソン提督のイギリス艦隊は「ヴィクトリー」を旗艦とする27隻。ピエール・シャルル・ジャン・バティスト・シルヴェストル・ド・ヴィルヌーヴ率いるフランス・スペイン連合艦隊は「ビューサントル」を旗艦とする33隻であった。ホレーショ・ネルソン提督は敵の隊列を分断するため2列の縦隊で突っ込むネルソン接近戦(ネルソン・タッチ、Nelson Touch)という戦法を使った。ホレーショ・ネルソンは過去のフランス艦隊との度重なる海戦の経験から、フランス艦隊は容易に逃走することを知っており(現存艦隊主義)フランス軍のイギリス侵攻を阻止するために決定的な勝利を求めていた。そのためイギリス艦隊を2列の縦列陣に編成し、左陣を敵の戦列前方3分の1に突入させ中央部を、右陣は後方3分の1に突入させ後部を担当させることで数的劣勢を挽回し早期に接舷してフランス艦隊の逃走を阻止する戦略を執ることとした。
この戦法はアダム・ダンカン(初代ダンカン子爵、Adam Duncan, 1st Viscount Duncan, KB)提督の西暦1797年10月11日のキャンパーダウンの海戦や初代セントビンセント伯ジョン・ジャービス(1st Earl of St Vincent GCB, PC)提督の西暦1797年02月14日のサン・ビセンテ岬の海戦の戦訓が反映したとされる。ヴィルヌーヴも多縦列による分断作戦を予測しており、訓示を受けた聯合艦隊の艦長の中にはマストに多数の狙撃兵を配置して接近戦に備える者もあった。聯合艦隊は数で勝っていたが、スペイン海軍も混じっていて指揮系統が複雑な上、士気や錬度が低く、艦載砲の射速も3分に1発と劣っていた。一方イギリス海軍は士気も錬度も高く、射速も1分30秒に1発と優れていた。イギリス艦艇は艦載砲の着火に燧石(フリント、flint)を使用していたが、フランス聯合艦隊はマッチを使用していた。
 トラファルガーの海戦(仏語: Bataille de Trafalgar、英語: Battle of Trafalgar)は、ホレーショ・ネルソンの計画に従い午前11時45分に主な戦いが行われた。ホレーショ・ネルソンは戦闘に先立ち、兵士たちを鼓舞した信号旗の掲揚「England expects that every man will do his duty.(英国は各員がその義務を尽くすことを期待する。)」いう有名な信号旗を送った。ホレーショ・ネルソン自身は「Nelson convinced that every man will do his duty.(ホレーショ・ネルソンは各員がその義務を全うすることを確信する。」と送りたかったが、続けて「接近戦を行え。」の指示を送らなくてはならなかった。信号士官の進言を受け、より少ない旗で素早く伸号を送れる「英国は期待する。」を採用した。
後世にまで伝わる名文句となり、「信号文を確認した各艦では、歓声が挙がった。」というが、実際のところは、命令的で尊大な文章のため、この時は強制徴募されて苦労する水兵からは「今更言われなくても義務は果たしている。」と不満の声が挙がった。また、戦闘指揮に関係のない信号と無視されたり、「水兵の士気に悪影響を与える。」と思われ艦内に内容を伝達しなかった艦長もいた。ホレーショ・ネルソンの死後、伝達しなかった事を悔やむ記録が残されている。次席指揮官のカスバート・コリングウッド(トラファルガーの海戦後に、カスバート・コリングウッド(初代コリングウッド男爵、Cuthbert Collingwood、1st Baron Collingwood))ですら、「戦闘開始寸前に、戦闘指揮とは関係無い信号の伝達に不満を感じた。」と書き残している。しかし、ホレーショ・ネルソン提督のトラファルガー沖海戦は伝説となった。日露戦争中の明治38(西暦1905)年05月27日の日本海海戦でも、戦闘前に聯合艦隊司令長官東郷平八郎の先任参謀秋山真之(さねゆき)が水兵を鼓舞する信号「皇國ノ興廢此ノ一戰ニ在リ、各員一層奮勵努力セヨ。」のZ旗を掲げた。
 戦闘開始時、フランス帝国・スペイン王国聯合艦隊は北方向に湾曲した陣形を取っていた。ホレーショ・ネルソンの計画通り英国艦隊は2列に縦列でフランス帝国・スペイン王国聯合艦隊に接近した。風上の縦列はホレーショ・ネルソンの「ヴィクトリー」が、風下の縦列は火砲を100門装備したカスバート・コリングウッドの「ロイヤル・ソブリン」がそれぞれ艦隊を北の方向へと導いた。激戦の末、フランス帝国・スペイン王国聯合艦隊は撃沈1隻、大破・拿捕22隻、戦死4480、捕虜7000という被害を受け、ヴィルヌーヴ提督も捕虜となった。一方イギリス艦隊は喪失艦0、戦死449、戦傷1200という被害で済んだ。捕虜となったピエール・シャルル・ジャン・バティスト・シルヴェストル・ド・ヴィルヌーヴはイギリス王国に送られたが、仮釈放の身となり、200人の部下とハンプシャーに滞在した。ホレーショ・ネルソンの葬儀にも参列した。翌年フランス帝国に帰国し、西暦1806年04月22日、ヴィルヌーヴはレンヌの宿屋で遺体となって発見された。自殺説もあるが、左肺に6つ、心臓に1つ刺傷があるという死に方でナポレオン1世の命令での暗殺の噂が流布した。
 後にネルソン接近戦(ネルソン・タッチ、Nelson Touch)と呼ばれる彼の新戦法は、敵味方の艦隊同士が、戦列(Line)を形成して平行に並んで撃ち合うという、当時の海戦の常識を破り、艦隊が一直線に敵中腹に飛び込み、敵艦隊を分断した後に分断した艦隊に集中砲火を浴びせ、分断した敵の2分の1を殲滅するものであった。この作戦の難点は分断する為に先頭に立つ艦が集中砲火を浴び危険である事で、ホレーショ・ネルソン自身、その役を自ら買って出た。分断時は、旗艦「ヴィクトリー」はその先頭に立って突撃をし、ホレーショ・ネルソン自身、何度も部下から身を隠すよう進言を受けながら、後甲板上の全兵から見える位置(砲撃・射撃されやすい位置)に立ち続け、決して部下を盾にして身の安全を図るような事は無く、指揮官自らが率先して危険医身を晒す姿を示し続けた。海戦参加者の証言によると、「ヴィクトリー」の甲板上が砲撃や銃撃によって阿鼻叫喚の修羅場と化している中、ホレーショ・ネルソンは敵弾が近くを掠めても気にする素振りを見せず、優雅に佇み、あるいは優美に歩き回っていた。 一方でその様子を見た聯合艦隊のヴィルヌーヴ提督もホレーショ・ネルソンの意図は察しており、接近戦に備えて各艦に狙撃手を配置していた。特に「ルドゥタブル」のリュカ艦長など、一部の艦長は砲撃よりも小銃射撃・切込みによる乗組員の殺傷を主眼としており、ホレーショ・ネルソン自身はその戦勝と引き換えに、戦闘中接舷した「ルドゥタブル」からの銃弾を受け、戦死した。
 砲撃で敵艦を沈めるのは困難であり、最終的に接近戦・移乗攻撃で決着をつけるのは定石で、まず砲撃戦で敵艦の戦闘能力を削いだ上で、接舷するのが普通であった。接舷された側も反撃手段が残っていないため、白兵戦に移行する前に降伏する事例が多かった。ホレーショ・ネルソンの戦法の特徴は、接近戦を早々に行ったために、フランス艦隊もそれに備えた準備を行っていた。旗艦ヴィクトリー上で指揮を執るホレーショ・ネルソンは4つの勲章(正確には布製の複製)を胸にしており、狙撃を恐れた副官らから外套を羽織るように進言されても、「立派な行いでこれをもらったのだ、死ぬ時もこれを着けていたい。」と退けた。当時のマスケット銃の命中精度では、ホレーショ・ネルソン個人(或いは高級将校個人)を狙い撃ちするのは困難であった。ホレーショ・ネルソン以外の高級将校も目立つ格好をしていたが、銃弾を受けてはいない。ホレーショ・ネルソン提督は、戦闘中接舷した「ヴィクトリー」の艦上を「ヴィクトリー」からの斬り込み突撃に備え射撃していたフランス艦「ルドゥタブル」の狙撃兵の銃弾に倒れた。
 射撃を受けて、勝利の報告を受けながら死に行く初代ネルソン子爵ホレーショ・ネルソンは、トマス・マスターマン・ハーディ(Sir Thomas Masterman Hardy)艦長に「私を祝福してほしい(私の頬に接吻してほしい)、神に感謝する。私は義務を果たした。」と言い残して、神への感謝、あるいは感謝(恐らくは、全将兵)への言葉を述べながら絶命した。

 トラファルガーの海戦は、海軍史上稀に見る大勝利であった。この戦果により、ブーローニュの港に集結していたフランス軍イギリス上陸部隊(精鋭15万・全将兵35万)は身動きを封じられ、フランス帝国による英国王国本土占領作戦は実行不可能となった。なお当時、陸上戦闘に関してはホレーショ・ネルソンの政策提言を無視して軍縮を行った(但し、皮肉にも海軍への信頼が背景にあった)後でもあり、フランス帝国側が圧倒的に優れていたため、イギリス王国としては引き分けや普通の勝利も許されずに、海戦に圧勝して制海権を握り、フランス軍の上陸を阻止する必要があった。この事からイギリス王国の亡国の危機をホレーショ・ネルソンは救った。
 西暦1805年10月21日に、スペインのトラファルガー岬ナポレオン戦争における最大の海戦で、イギリス王国はこの海戦の勝利により、ナポレオン1世の英本土上陸の野望を粉砕した。ナポレオン1世はこの敗戦の報に対し、「嵐による壊滅である。」と黙殺したが、制海権を失った以上、イギリス王国侵攻を諦めざるを得なくなった。
イギリス王国では小ピット(ウィリアム・ピット)首相が祝宴を催したものの、ロンドンでは、この海戦の勝利による昂揚に沸き立つこともなかった。ナポレオン1世は2ヶ月後のアウステルリッツの戦いでフランスが他のヨーロッパ諸国軍を破るなど依然として優勢で、自国本土は守り切ったが、大陸での戦争自体にすぐさま大勢を及ぼすことはなかった。小ピット首相は、アウステルリッツの戦い(三帝会戦)の敗北に衝撃を受け、翌年失意の内に病死した。トラファルガーの勝利の意味とは、イギリスの海上制覇という部分にあり、ナポレオン戦争の戦局の一大転機ではなかった。イギリス王国にとってこの戦いの勝利はフランス海軍にイギリス王国本土攻撃を阻止しただけでなく、イギリス海軍は西暦1807年の第2次コペンハーゲンの海戦で積極的に行動し西暦1808年の戦役において、他国の艦隊がフランス海軍の手に落ちる事を防いだ。
 この戦勝を記念して造られたのがロンドンのトラファルガー広場(Trafalgar Square)である。広場にはホレーショ・ネルソン提督の記念碑が建てられている。一方、フランス国民にとってこの敗北は悪夢となり、ありえない敗北による衝撃を「トラファルガー」と表現するようになった。モーリス・ルブランの冒険推理小説「ルパン対ホームズ」においても、フランスの怪盗アルセーヌ・ルパンがイギリスの名探偵シャーロック・ホームズに送りつけた挑戦状の中で「トラファルガーの敵討ち」と挑発しているように、その後の英仏の対決においてたびたび引き合いに出されるようになった。
 トラファルガー沖海戦から99年後の西暦1904年のこの日、戦勝記念日の当日にロシア帝国のバルチック艦隊が日露戦争に際して極東へ向かう際に、北海のドッガーバンクで偽情報と誤認から、日本の軍艦と誤認してイギリス王国の鱈漁に出ていたトロール船を誤って撃沈。さらに救助せずに立ち去った事からイギリス国民の怒りを買ってしまい、ロシア帝国の日露戦争敗北の遠因となったドッガーバンク事件が発生した。

トラファルガル海戦物語 (下) - ロイ アドキンズ, Adkins,Roy, 史郎, 山本
トラファルガル海戦物語 (下) - ロイ アドキンズ, Adkins,Roy, 史郎, 山本

 ナポレオン・ボナパルトが西暦1795年にオランダに侵攻し西暦1806年には支配下に置いた。この間アムステルダム証券取引所が閉鎖され、フランス国境は海外貿易に対して閉ざされようとした。この事態を打開するため、ネイサン・メイアー・ロスチャイルド(Nathan Mayer Rothschild、ナータン・マイアー・ロートシルト、後のロートシールト男爵ナータン・マイアー(Nathan Mayer von Rothschild))は大陸側の協力者の力も得て、抜け道を探し安全な船を選んだ。ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドはこの過程で情報網を構築できた。ナポレオン1世は、西暦1805年のトラファルガー海戦の敗北の復讐のため、西暦1806年大陸封鎖令(Continental Blockade)を出し、イギリス王国も西暦1807年に対抗措置を講じたため、イギリス王国と大陸の貿易は公式には閉ざされた。しかし、ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドは、兄弟間の緊密な連係とすでに築き上げた情報網を駆使して「密輸」に乗り出し成功を収めていた。ちょうどこの時期、西暦1806年10月ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドは結婚した。相手はロンドンの有力商人リーヴァイ・ベアレント・コーエン(Levi Barent Cohen)の娘ハンナ(Hannah)であった。彼女は£3248の持参金を持って輿入れした。ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドの密輸は 西暦1806年10月に始まり、西暦1807年には、主にソロモン・コーエン(Solomon Cohen、ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドの義兄弟)と組んで密輸商売を展開した。ロスチャイルド家の資料庫の記録を直に細かく調査することによって、£3248は持参金(dowry)ではなくて、3部からなる捺印証書(indenture)で生活扶助料受領権(settlement)であり、一種の信託で、金額も£3248.14.06と細かく記している。西暦1807年の秋、ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドとソロモン・コーエンは エワート・ラトソン会社、ハンブル&ホランド会社、ウィリアム・フォーセットと組んで、中立国であるアメリカ合衆国(西暦1776年〜)の船「ローラ」を使って、カリブ諸島のコーヒーと砂糖をゴーテンブルグ経由でアムステルダムに密輸した事を紹介している。貿易取引が増えると必然的にその決済に為替手形(bill of exchange)が使われることが多くった。ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドが次に目をつけたのがこうした手形の割引で、イギリス王国の普通の銀行は大陸の手形の割引に1.5〜2%の手数料を取ったが、ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドは 1 %で取扱い金額を増やしていった。この頃からネイサン・メイヤー・ロスチャイルドは織物商から金融業者への転身を考えていたと見られる。ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドが金融業者に完全に転身し、それを実現するためにはロンドンへの移住が必要だと判断させる 1つの重要な切っ掛けが、ヘッセン・カッセル方伯ヴィルヘルム9世(Wilhelm IX., Landgraf von Hessen-Kassel、西暦1803年にヘッセン選帝侯ヴィルヘルム1世(Wilhelm I., Kurfürst von Hessen)となる。)の資金運用で、従来より父親のマイアー・アムシェル・ロートシルト(Mayer Amschel Rothschild、ロチルド、ロスチャイルド)が、ヘッセン・カッセル方伯ヴィルヘルム9世 (Wilhelm IX., landgraf von Hessen und Kassel)の財務担当官(Finanzbeamte)であったカール・フリードリヒ・ブデルス(Karl Friedrich Buderus)を懐柔し、ヘッセン・カッセル方伯ヴィルヘルム9世のイギリス王国にある資産をネイサン・メイヤー・ロスチャイルドに運用させるよう説得していたことが功を奏した。ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドは西暦1808年に3%の国債(consols)を15万ポンドをヘッセン・カッセル方伯ヴィルヘルム9世の代理で購入し、西暦1809年末には2回目の15万ポンド、3 回目には手数料を1/4%引きで15万ポンド購入した。これによってネイサン・メイヤー・ロスチャイルドは西暦1808年にヘッセン・カッセル方伯の宮廷仲介人(investment broker)になった。同時に、ロンドンのグレートセントヘレンズ街12番地(12 Great St Helen's Street)にN.M.ロスチャイルドと兄弟社(N.M.Rothschild and Brothers)の名称で事務所を開設した。
 ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドは、「ヘッセン・カッセル方伯公が父に£600000 与えて、それが自分のところに郵便で送られて来た。私はそれを然るべく運用したので、公からワインとリンネル製品を贈られた。」と述べた。実は、西暦1807年初めにネイサン・メイヤー・ロスチャイルドはヘッセン・カッセル方伯ヴィルヘルム9世の在ロンドン特命全権公使ロレンツに資産運用を申し出たが拒絶され2年後にやっとカール・フリードリヒ・ブデレスの働き掛けのお陰で、マイアー・アムシェル・ロスチャイルドは3%国債15万ポンド分を73.5(額面100の73.5%の意味)で買うよう指示された。こうした購入は西暦1813年末までに9回行われ、購入総額は£664850になった。これがネイサン・メイヤー・ロスチャイルドが後に、トーマス・フォーウェル・バートン卿(Sir Thomas Fowell Barton)との会話の中で言及したことである。ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドの弟カール・マイアー・フォン・ロートシルト(Carl Mayer von Rothschild)が西暦1814年にこのことを仄めかして「あの老人ーウィリアムーが我々の財産を作った。もしネイサン・メイヤー・ロスチャイルドが選帝侯の30万ポンド(原文のまま)を手にしていなかったら、ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドはどこのだれともわからない存在になっていただろう。(“the Old Man”-meaning William-had“made our fortune.If Nathan had not had the Elector's £300000[sic]in hand he would have got nowhere.)」と述べている。そして「いずれにせよ£600000の国債購入と£100000 以上の現物の所有はロンドンのシティに新らしい金融勢力の出現を告げるものだった。」としている。
 ロスチャイルド家の資料庫(Rothschild Archive)の資料を精査して、「残された記録を精査してみると、そもそも選帝侯の重要さは誇張されたものだとわかる。あの老人が我々の財産を作った云々の件は誤解を招くもので、実際の手紙(西暦1814年09月09日カールからアムシェルに宛てたもの)では、“the old man”の部分は手紙の中頃に、“made our fortune”の部分は手紙の最後にある。つまり2つをわざとくっ付けた。」と言う。さらに「この手紙の後半の語り手はカールではなくネイサンであり、カールはネイサンがカールに書いてきたことを単に復唱しただけだ。」と主張し、「選帝侯がロスチャイルド一家に富を齎した根拠としてファーガソンが取り上げているのが、西暦1814年04月のアムシェルの手紙であるが、ここでアムシェルが実際に述べているのは『ブデレスがここに来て、私に言ったのはーあなたはあの老人のお蔭で財産を作った。彼を窮地に立たせることはしないでくれ。(Buderus has been here. He said to me、“You have made your fortune out of the old man. Don't leave him in the lurch”)であり、これでは根拠にはならない。」さらに、「現存する資料を見る限り、ネイサンと父親が選帝侯から£450000〜£550000(£600000 とする説もある)の資金を受け取ったとする証拠の記録は見当たらないし、ネイサンもしくは父親が選帝侯のためにそれだけの国債を買ったとする証拠も見当たらない。選帝侯がロスチャイルド家の財産を築かせたとする一連の説や主張は全て推測の域を出ない。」と結論づけている。確かに、「明確な記録がない限り、あることを主張する根拠とはなりえない。」という科学的実証は尊重するが、ネイサン・ロスチャイルは相場を巧みに読んで譲渡益や外国為替差益を稼いだ。大量の国債を売却するに当って、背後のヘッセン・カッセル方伯ヴィルヘルム9世(ヘッセン・カッセル選帝侯ヴィルヘルム1世)を匂わせ信用力を高めたことは想像に難くない。ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドはマンチェスター時代から、いい加減な帳簿の付け方をすることで悪名が高かったことを考えると、ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドの「取引記録がない。」というだけでは否定の根拠にはならない。


 西暦1805年からの第3次対仏大同盟戦争で、フランス軍はイギリス王国を睨んで渡海のため、ブローニュ・シュル・メールに集結していたフランス陸軍を対墺露戦に投入すべくライン川方面へ進軍させ、西暦1805年10月のウルム戦役でオーストリア帝国を降伏させ、その後フランス軍はすぐさまウィーンを陥落させると、更にアウステルリッツへ進軍し、12月アウステルリッツの戦い(三帝会戦)でオーストリア帝国・ロシア帝国連合軍に勝利した。神聖ローマ皇帝のフランツ2世(フランツ1世、ハンガリー王としてフェレンツ1世(ハンガリー語: I Ferenc)、ボヘミア王としてフランティシェク2世(チェコ語: František II)、フランツ・ヨーゼフ・カール・フォン・ハプスブルク・ロートリンゲン(独語: Franz Joseph Karl von Habsburg-Lothringen)) はナポレオン1世に降伏した。プレスブルクの和約でドイツは「帝国」ではなく「聯盟」と呼ばれ、皇帝は「ローマ・ドイツ皇帝」でなく「ローマ・オーストリア皇帝」を名乗り、また、フランスの同盟国であったバイエルンとヴュルテンベルクとバーデンは選帝侯国から王国・大公国に昇格し、バイエルン王国(西暦1806〜1918年)にはオーストリア領チロル、バーデン大公国(西暦1806〜1918年)にブライスガウが割譲された。
 西暦1806年07月12日、バイエルン、ヴュルテンベルク、バーデンなど西南ドイツの16領邦諸国家はナポレオン1世を保護者とするライン同盟(ラインブント)を結成し帝国脱退を宣言した。西暦1806年10月、神聖ローマ皇帝の要件を喪失したフランツ2世は、神聖ローマ皇帝の位から退き「オーストリア皇帝」フランツ1世となった。こうして西暦1512年以来の「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」は終焉を迎えた。この頃のドイツは大半がフランス帝国の支配下にあり、マインツ、ケルン、トリーアなどのライン左岸地域は西暦1794年以来フランス軍政下にあり、西暦1801年にフランスに割譲された。ナポレオンはライン同盟をプロイセンやオーストリアに対する緩衝地帯として、またフランス帝国はライン同盟と軍事援助協定を結んで、ライン同盟からの軍事協力を確保した。ライン同盟はその後、ナポレオン1世の傀儡国家であるヴェストファーレン王国(西暦1807〜1813年)、ザクセン王国(西暦1806〜1918年)など39のドイツ連邦が加盟した。
 西暦1806年、西暦1795年のバーゼルの和約以来10年に渡って中立を維持していたプロイセン王国の国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世(Friedrich Wilhelm III.)は、前年の戦役中にフランス軍によりアンスバッハが領土侵犯を受けた事で反仏感情が高まっており、加えて、ナポレオン1世がイギリス王国との交渉でプロイセン王国領となっていたハノーファーを断りなくイギリス王国に手渡そうとした事を知るに及び、ついにフランス帝国へ宣戦した。ロシア皇帝のアレクサンドル1世(露語: Александр I、Aleksandr I、アレクサンドル・パヴロヴィチ・ロマノフ(露語: Александр Павлович Романов、Aleksandr Pavlovich Romanov)もこれを支持し、イギリス王国なども含む第4次対仏大同盟が成立した。西暦1806年にフランス帝国はこの局面で次の対プロイセン王国・ロシア帝国戦に突入した。ベルリンを大きく包囲する形でプロイセン軍と対峙したフランス軍は、イエナ・アウエルシュタットの戦いでプロイセン軍を撃破し、ベルリンに入城した。そして西暦1807年にプロイセン王国の同盟国ロシア帝国がフランス帝国に敗北した。ティルジットの和約によってプロイセン王国は、エルベ川以西の領土とポーランドを失い、国の面積は半分以下となり、巨額の賠償金を課せられた上に、15万のフランス軍が進駐した。プロイセン王国旧領の北西諸邦にはナポレオン・ボナパルトの3番目の弟(末弟)ジェローム・ボナパルト(Jérôme Bonaparte)を王とするヴェストファーレン王国が置かれた。
 更にフランス軍はポーランド・東プロイセンに侵入した。ポーランド分割により祖国を喪失していたワルシャワに準備政権を建てさせた上で、西暦1807年、アイラウの戦い、フリートラントの戦いで、ロシア軍を撃破し、ついにアレクサンドル1世を屈服させた。ナポレオン1世はアレクサンドル1世とティルジット条約を調印し、既にフランス軍の勢力下にあったポーランドをワルシャワ公国(西暦1807〜1813年)として分立、フランスの保護国とし、更にプロイセン王国、オーストリア帝国領を大幅に削って、これらの国の勢力を削ぐことに成功した。

 オーストリア大公国、プロイセン王国、ロシア帝国を屈服させたフランス帝国は絶頂期にあったが、大陸の外ではいまだイギリス王国が反仏反ナポレオンの立場を固持し続けており、これに対抗すべくナポレオン1世はロシア遠征中にイギリス王国の経済的孤立を狙って大陸封鎖令を発動させた。これは当時既に産業革命が勃興し、資本主義経済の世界的中心地となりつつあったイギリス王国を大陸から切り離したことを意味しており、イギリス王国を経済的に孤立に追い込むどころか、逆にイギリスと王国いう交易相手を喪失した大陸各国の方が経済的に疲弊するという結果になった。 一方で、東への征服を成功させたナポレオン1世の目は、続いて西側のイベリア半島へと向けられた。当時スペイン王室で起こっていた宮廷内の対立を利用して、西暦1808年フランス軍はスペイン王国、そしてポルトガル王国(西暦1139〜1910年)へ侵攻した。スペイン王、ポルトガル王は国外へ逃亡し、フランス帝国は両王国を支配したかのように見えたが、民族主義に燃えるスペイン人が反フランスのゲリラ戦を開始した。イギリス王国もゲリラに加担し、以降フランス帝国はイベリア半島に大軍を常駐しなければならなくなる必要性に迫られた。
 こうしてイベリア半島の情勢が不安定になっていくに従って、一度は完膚なきまでに制圧したはずの東側でも動揺が起き始めた。第5次対仏大同盟が成立し、西暦1809年にオーストリア帝国の反攻が始まった。この反攻は、オーストリア帝国の周辺諸国と連絡不足により、オーストリア軍だけが孤立してフランス軍と当たることになった。05月21日〜22日にかけてのアスペルン・エスリンクの戦いで、ウィーンを征圧していたナポレオン1世のフランス軍をカール大公率いるオーストリア軍が打ち破った。ナポレオン1世が直接指揮する軍が敗北した数少ない戦闘例である。
兵員の損失もさることながら、最も信頼する部下のジャン・ランヌが戦死した。ナポレオン1世は倒れたランヌに取りすがって涙を流し「フランスにとっても、私にとっても、これほどの損失があるだろうか!」 と、嘆き悲しんだ。カール大公はオーストリアの国家的英雄として称えられた。カール大公の勝利は長くは続かず、07月05日〜06日かけてのワグラムの戦いで敗北し、その後ズノイモまで撤退戦を強いられ、フランス軍はオーストリア軍を撃破し、瞬く間にウィーンを占領した。このオーストリア帝国の態度に対して怒りを覚えた皇帝ナポレオン1世は、オーストリア皇帝フランツ1世に、フランス帝国に対して2度と背かないことを保障させるために、長女マリー・ルイーゼ・フォン・エスターライヒ(Marie-Louise von Österreich、またはマリア・ルドヴィカ・フォン・エスターライヒ(Maria Ludovica von Österreich)、仏語 - マリー・ルイーズ・ドートリッシュ(Marie-Louise d'Autriche)、伊語 - マリア(マリーア)・ルイーザ・ダウストリア(Maria Luisa d'Austria)、マリア(マリーア)・ルイージャ・ダウストリア (Maria Luigia d'Austria))を実質的な人質として、ナポレオン1世と結婚させることを強引に迫った。 当時、フランス帝国の内政における目下の問題点は、ナポレオン1世と皇后ジョゼフィーヌとの間に継嗣が存在しないことであり、世襲という連続性で政権の存続と強化を狙う、帝国とナポレオン1世にとって最も重要な問題であった。また確固たる継嗣の確保は、反革命の防止(具体的にはブルボン朝の復活阻止)のためナポレオンの皇帝即位を支持した国民に対する責務でもあった。ナポレオン1世はオーストリア帝国占領直後にジョゼフィーヌを離縁し、ロシア皇帝アレクサンドル1世、及びオーストリア皇帝フランツ1世に対して、フランス皇帝との縁談を打診していたが、これにいち早く動いたのはフランス帝国に大敗したばかりのオーストリア帝国であった。西暦1810年ナポレオン1世とマリー・ルイーズの結婚式が行われ、翌西暦1811年には次期帝位継承者となりフランス帝国の連続を保障する存在と期待されたナポレオン2世が誕生した。 しかし、ナポレオン政権のそれ以上の存続を危惧したロシア帝国は早々にフランス帝国に対しての抗戦を再開し、西暦1812年にはフランス陸軍の元元帥ジャン・バティスト・ベルナドットを摂政王太子とするスウェーデン王国と連絡して、対フランス帝国戦争の準備を進めた。両国は西暦1813年、ティルジット条約を破棄し、交戦状態となった。この時、ロシア軍は侵攻するフランス軍に対して、防戦の一方であった。ボロジノの戦いの激戦も虚しく、遂にこの年の初秋にはモスクワへのフランス軍の入城を許してしまうことになった。ボロジノの戦いの両国における勝敗は実質的には付いていない。ロシア遠征そのものが、ロシア帝国の焦土作戦による撃退戦略であった。

スウェーデン王国(西暦1523年〜) ベルナドッテ朝(西暦1818年〜、瑞語: Bernadotte、ポンテコルヴォ朝)

 スウェーデン王国ホルシュタインーゴットルプ朝(西暦1751〜1818年)のカール13世(瑞語: Karl XIII)に世継ぎがなかったため、スウェーデン国民議会は、当時ヨーロッパの覇権を握っていたナポレオン・ボナパルト配下の南仏ベアルン州ポー出身で兵卒として軍に入り士官へと昇進し、さらにフランス革命後の動乱の中でフランス軍の元帥、ポンテコルヴォ大公にまでに成り上がった、ジャン・バティスト・ジュール・ベルナドット(仏語: Jean-Baptiste Jules Bernadotte)(瑞語名: ベナドット)を王位後継者に推戴した。ポンテコルヴォ朝の名はこのポンテコルヴォ大公に由来する。西暦1810年、カール13世の養子としてカール・ヨハンと改名し、スウェーデン王太子兼摂政となったベルナドットは西暦1813年、ロシア帝国、プロイセン王国、スウェーデン王国連合軍を指揮してライプツィヒの戦い(解放戦争)でナポレオン軍を撃破し、西暦1814年のキール条約でデンマーク王国からノルウェーを割譲させた。同年のモス条約の締結により、両国は連合王国となった。ノルウェーとの同君連合は西暦1905年まで続いた。西暦1818年にカール13世が死去するとカール・ヨハン(ベルナドッテ)はカール14世ヨハン(瑞語: Karl XIV Johan)、ヨハン・バプティスト・ユリウス(Johan Baptist Julius)、ジャン・バティスト・ジュール(Jean-Baptiste Jules)、ノルウェー国王としてはカール3世ヨハン(諾語: Karl III Johan)として、スウェーデンーノルウェー連合王国国王に即位し、現在まで続くベルナドッテ朝を開いた。そもそも出自が平民で、即位までの経緯からしてスウェーデン王国とは何の係累も無い家系であったが、両性愛者で庭球好きの5代国王グスタフ5世(Gustaf V, Oscar Gustaf Adolf Bernadotte)の王妃ヴィクトリア・アヴ・バーデン(瑞語: Victoria av Baden、独語:ヴィクトリア・フォン・バーデン( Viktoria von Baden))から前ホルシュタインーゴットルプ朝の血が入っている。ヴィクトリア・アヴ・バーデンの父、フリードリヒ1世はホルシュタインーゴットルプ朝3代国王グスタフ4世アドルフの外孫。
 スウェーデン王国は以後、西暦19世紀中頃の汎スカンディナヴィア主義を経て、武装中立を揚げ現在に至る。第1次世界大戦、第2次世界大戦とも中立を維持した。西暦1979年、スウェーデン憲法改正により、カール16世グスタフ現国王は全ての政治権力を喪失してスウェーデンの儀礼的国家元首。
 スウェーデン王国ベルナドッテ朝は、200年間、同一家系で継承され、戦争も革命も経験せず、独立した国の自由民の上に君臨してきた世界唯一の王朝で、今日まで存続し、ジャン・バティスト・ジュール・ベルナドット(カール14世ヨハン)は、現代まで続くスウェーデン王家ベルナドッテ朝の始祖。彼の血は子孫を通じてノルウェー王家、デンマーク王家、ベルギー王家、ルクセンブルク大公家、ギリシャ王家にも受け継がれている。


 西暦1807年にプロイセン王国がフランスに敗北するとオーストリア帝国は独力で模索することとなり、西暦1808年には一般兵役義務制度が導入され、正規軍とナランデ民兵制が施行された。オーストリア帝国外相シュターディオン伯エメリッヒは国内で愛国主義運動を実施して、エドマンド・バーク(Edmund Burke)の「フランス革命についての省察」を翻訳していた政論家フリードリヒ・フォン・ゲンツや、カール・ヴィルヘルム・フリードリヒ・フォン・シュレーゲル(Karl Wilhelm Friedrich von Schlegel)もこの運動に協力した。しかし西暦1809年、オーストリア帝国はフランス帝国に敗れ、シェーンブルンの和約でオーストリア帝国はザルツブルク、ガリツィア、チロルを放棄し、巨額の賠償金を課せられた。
 ナポレオン占領地域では、反フランス的報道は厳しく弾圧され、バーデンでは西暦1810年に新聞発行が停止され、プロイセンでは検閲局が作られ、ラインラント新聞はフランス語との2言語表記が義務づけられた。ニュルンベルクの書店主パルムは「奈落の底にあるドイツ」というビラを配ったために西暦1806年に銃殺された。ナポレオン1世にライン左岸を奪われ、神聖ローマ帝国が解体し、40のドイツ領邦が支配され、新聞や出版の統制が進むと、ドイツ人は自分たちの弱さを自覚し、失望が拡がるとともに、反ナポレオン運動はドイツ国家とドイツ民族を復古させるドイツ国民運動となっていった。
 他方、戦勝国のフランス帝国では、西暦1807年にユダヤ陰謀説が取沙汰されるようになり、その後、フリーメイソン陰謀説と交代して取沙汰されていき、これが西暦19世紀以降の反ユダヤ主義の潮流と合流していった。

 プロイセン王国では西暦1810年から宰相ハルデンベルク侯カール・アウグスト(Karl August Fürst von Hardenberg)指導の下、改革が進められた。ハルデンベルク侯は「リガ覚書」で「不死鳥よ、灰の中から蘇れ。」と書き、君主政治における民主的原則の実現が目指された。プロイセン改革では、フランス革命の刺激を積極的に受け止められ、自由と平等が主張されたが「フランス革命の血塗れの怪物どもがその犯罪の隠れ蓑にした『自由と平等』ではなく、君主国の賢明な方法による。」と説かれた。
 西暦1812年にプロイセン王国が猶太教徒解放勅令を出す前年の西暦1811年にハルデンベルク侯の改革でユダヤ人の土地所有権が認められると、プロイセン王国の貴族は、「国家の敵であるユダヤ人はやがて国の土地を買い占め、プロイセン王国はユダヤ人国家になってしまう。」と抗議した。法学者フリードリヒ・カール・フォン・サヴィニー(Friedrich Carl von Savigny)は西暦1815年にユダヤ人解放令を批判して、「従来のユダヤ人例外措置を復活して、ユダヤ人をゲットーに再送するべきだ。」と主張した。
 ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe)も「ユダヤ人解放はドイツ人の家庭の倫理を台無しにする。」と批判し、ユダヤ人解放の背後にロスチャイルド家を見ていた。またヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテは西暦1811年に刊行した「詩と真実」において、フランクフルトのユダヤ人ゲットーに対して「少年時代だけでなく青年になっても、私の心を重くした無気味なもの」として「狭くて、不潔で、騒がしく、嫌らしい言葉のアクセント、 それらが1つになって、市門のそばを通りすがりに覗いて見るだけで、 何とも言えず不快な印象を与えられた。」と書いたが、ユダヤ訛りのドイツ語を学習してもいる。西暦1829年に刊行した「ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代」でヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテは「人間は避くべからざるものに順応するが良い。」として、「耶蘇教はそれを助勢して忍耐、つまり、たとえ願わしい享楽の代わりに最も厭わしい苦悩が負わされるにしても、存在がなおどんなに貴い賜物であるかを感じる甘美な感情を生み出し、教育によって幼い時から耶蘇教の長所を教え、最後に知識を与えて、始祖ナザレのイエスに関する報道は神聖なものとなるが、「この意味で、我々はいかなるユダヤ人をも我々の仲間に許容しない。」「なぜなら、ユダヤ人がこの至高の文化の起源と由来を否認しているのに、どうして我々はユダヤ人がこの至高の文化に関与することを許せるだろうか。」と書いている。

 ドイツでのユダヤ人解放は、ユダヤ人のドイツ人への同化と耶蘇教への改宗を前提にしており、西暦1822年に創立された「ユダヤ人耶蘇教普及協会」などが改宗を後押しした。ユダヤ人解放の時代のドイツのユダヤ人は、理性を使えば誰でも人間性を高めることができるとする啓蒙思想と、ドイツ社会に融和しようとドイツのビルドゥング(教養による人間形成)を新しい信仰心として受けいれた。進取的ユダヤ人のうち3万人は耶蘇教社会に同化するために率先して耶蘇教へ改宗した。カール・ルートヴィヒ・ベルネ(Karl Ludwig Börne)やクリスティアン・ヨハン・ハインリヒ・ハイネ(Christian Johann Heinrich Heine)はドイツ人名に改名して改宗し、ユダヤ人法学者エードゥアルト・ガンス(Eduard Gans)や作曲家ヤーコプ・ルートヴィヒ・フェーリクス・メンデルスゾーン・バルトルディ(Jakob Ludwig Felix Mendelssohn Bartholdy)も改宗した。しかし、多くのユダヤ人はドイツの神話や感情の世界を退けがちであったためユダヤ人はドイツの民衆から孤立していった。

 ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドは西暦1809年の05月〜06月頃にロンドンのセント・スウィツィンズ通ニューコート2番地(No.2 New Court St Swithin's Lane)に新しい事務所を構え引越したと見られる。しかし、マンチェスターでの事業を最終的に閉じるのは、西暦1811年07月04日である。ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドはロンドンに腰を据えて本格的に金融事業を遂行し大成功を収めたが、それを可能にした要因がナポレオン戦争である。イギリス王国はナポレオン1世が権力を握り、周囲の国々に侵攻を開始した西暦1799年からワーテルローの戦いで敗れ、セントヘレナ島に流される西暦1815年まで、一貫してナポレオン1世と対峙し続けた。しかし、そのための軍事費(ナポレオン登場以前の反革命勢力への支援を含む)は膨大で、総額£830百万(内£59百万は同盟国への支援金)に上った。そのためイギリス王国の国の借金も西暦1793年の£240百万から西暦1815年には£900百万にまで増大した。これは国民総所得の200%に当たる。これらの大部分はコンソル公債(Consols)をはじめとする国債発行で調達された。ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドは、大陸にいる兄弟たちと緊密に連係を取りながら、イギリス王国の軍事費用調達とその搬送や支払いに深く関与し、同時に、扱う国債や金貨・金塊などの相場で巧妙かつ大胆な投機を行うことで財を成した。なお、ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドの成功に大きく関わったのは、西暦1811年にイギリスの兵站部将校(Commissary in Chief)になったジョン・チャールズ・へリーズ(John Charles Herries)である。ジョン・チャールズ・へリーズは、当時イベリア半島でフランス軍と戦っていた初代ウェリントン公アーサー・ウェルズリー(Arthur Wellesley、 the 1st Duke of Wellington)に現地で必要な資金を供給することで悩んでいた。ジョン・チャールズ・へリーズから打診を受けた金融業者が金貨や金塊をピレネー山脈を越えて運ぶ危険性に尻込みする中、ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドはこれを敢然と引受け、成功させた。
 ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドがロンドンで金塊を買い、それを大陸で待つジェームス・マイエール・ロチルド(James Mayer Rothchild、ジャコブ・マイエール・ド・ロチルド(Jacob Mayer de Rothchild)、ヤーコプ・マイアー・ロートシルト(Jacob Mayer Rothschild)、後のロチルド男爵ジェームス・マイエール・マイエール(Le baron Mayer James de Rothschild))に密輸して渡し、ジェームズ・ロチルドは金塊をスペイン帝国、ポルトガル王国の金融業者宛為替手形に変え、それをピレネー山脈を越えてウェリントン公に届けた。西暦1814年01月には、南仏に侵攻したウェリントン公に£600000 相当のフランスの金貨・銀貨を運んでいる。これらはネイサン・メイヤー・ロスチャイルドと兄弟たちがドイツ、フランス帝国、オランダで集めたものであり、成功報酬は届いた金額の2%だった。
 さらなる重要事が大陸の同盟国への支援金の送金で、西暦1813年の協定に基づいて行われたが、中でも成功を収めたのが、ロシア帝国への支援である。ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドはホープ社が取引に躊躇しているのを見、すかさず行動し、ロシア帝国の窓口の外交官ジェルヴェ(Gervais)に1%の賄賂(der Freund Schmiergeld)を払うことで取り入り、£1333333 の送金を行った。これによってネイサン・メイヤー・ロスチャイルドと兄弟は、イギリス王国から2%の手数料と2%の実費負担、ロシア帝国から4%の手数料を受け取った。この取引はネイサン・メイヤー・ロスチャイルドにとって「名人の仕事(Meistergeschäft)」となった。


人類の生き血と幸せを啜るアシュケナージ悪辣猶太、ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドの爆誕!

 エルンスト・モーリッツ・アルント(Ernst Moritz Arndt)は「自由で誠実なゲルマン人の血は純粋である。」と論じた。教育者でドイツ国民運動家のフリードリヒ・ルートヴィヒ・ヴァイディヒ(Friedrich Ludwig Weidig)は「原始ゲルマン人の末裔であるドイツ人と古代ギリシア人だけが聖なる民である。」と論じた。西暦1817年のヴァルトブルク祭の立役者となった。ドイツ・ロマン主義ではフランスの啓蒙主義に対抗して、ドイツ固有の国民文学の創造が主張された。西暦1799年の「耶蘇教世界あるいはヨーロッパ」で「フランス革命は神聖なるものを根こそぎにした。」と考えたノヴァーリス(Novalis、本名: ゲオルク・フィリップ・フリードリヒ・フォン・ハルデンベルク(Georg Philipp Friedrich von Hardenberg))、ヨハン・クリスティアン・フリードリヒ・ヘルダーリン(Johann Christian Friedrich Hölderlin)にも「選民としてのドイツ人」という概念が見られた。ヨハン・ゴットリープ・フィヒテの思想的影響を受けた作家エルンスト・モーリツ・アルントは農奴制廃絶運動を行った後、西暦1806年の著書「時代の精神」や西暦1813年の歌「ドイツの祖国とは何か」などで、ナポレオン1世のドイツ支配を批判した。エルンスト・モーリツ・アルントはナポレオン1世批判の中で、「ゲルマン人種が選民である。」と論じ、自由で誠実なゲルマン人の血の純粋さの根拠として、コルネリウス・タキトゥス(Cornelius Tacitus)や創世記を引き合いに出して、「主の怒りである大洪水は雑種化に対するものであった。」とする。ただし、エルンスト・モーリッツ・アルントはドイツ人種への脅威としては主に「フランス人種」を見ており、ユダヤ人に対しては、ユダヤ系ポーランド人のドイツ受け入れには反対したものの、「ユダヤ人は改宗すれば消滅する。」と考えていた。エルンスト・モーリッツ・アルントの「ゲルマン人の血」の思想は、ハインリヒ・フォン・クライスト(Heinrich von Kleist)、クリスティアン・ゴットフリート・ケルナー(Christian Gottfried Körner)、愛国詩人のマックス・フォン・シェンケンドルフ(Max von Schenkendorf)と並んでドイツ国民に武器を取るよう促したが、他方のフランスでも革命後の国歌「ラ・マルセイエーズ」の歌詞では「汚れた血」について、
「Aux armes, citoyens Formez (Formons) vos (nos) bataillons
Marchez (Marchons) ! Marchez (Marchons) ! Qu'un sang impur Abreuve nos sillons !
(武器を取れ、同志たちよ、隊伍を組め(隊伍を組もう)
進め、進め!(進もう、進もう!) 汚れた血が、我らの畑を濡らすまで!)」
とあるなど、民族の血を優劣で見ることに両国で違いはなかった。
 ナポレオン戦争での敗北がドイツ人にとって屈辱的であったことから、ゲルマン性への狂信が教科書でも載せられるようになっていった。教育家フリードリヒ・コールラウシュ(Friedrich Kohlrausch)の教科書「ドイツ史」(西暦1816年)では「ドイツ人の純潔性が、ユダヤ人、ギリシア人、ラテン人とは好対照をなす。」とされた。政治経済学者のアダム・ハインリッヒ・ミュラー(Adam Heinrich Müller)はエドマンド・バークをタキトゥスと並べて賞賛し、また「ノヴァーリスはゲルマン詩の精神によって世界を征服しようとした。」と称賛して、宗教改革とフランス革命によって崩壊していく中世的ゲルマン的な世界と中世の普遍的な団体「ゲマインデ」を賛美した。アダム・・ハインリッヒ・ミュラーは「いつの日か、ヨーロッパ諸民族からなる一大連邦が築かれるであろうが、その色調はなおドイツ的なものとなるであろう。」と予言し、「ヨーロッパの政体の偉大なものは全てドイツに由来する。」と主張した。アダム・ハインリッヒ・ミュラーはナポレオン支配に対してドイツ民衆の抵抗運動(ヘルマンの戦い)を呼び掛け、またハルデンベルク侯の改革を批判した。アダム・ハインリッヒ・ミュラーは西暦1811年にウィーンに亡命して、クレーメンス・ヴェンツェル・ロータル・ネーポムク・フォン・メッテルニヒ・ヴィネブルク・ツー・バイルシュタインに仕えた。
 西暦1806〜1815年にかけて、作家のフランツ・クレメンス・ホノラトゥス・ヘルマン・ブレンターノ(Franz Clemens Honoratus Hermann Brentano)、カール・ヨアヒム・フリードリヒ・ルートヴィヒ・アヒム・フォン・アルニム (Carl Joachim Friedrich Ludwig Achim von Arnim) 、「ドイツ民衆本」を刊行したヨハン・ヨーゼフ・フォン・ゲレス(Johann Joseph von Görres)、グリム兄弟の長兄ヤーコプ・ルートヴィヒ・カール・グリム(Jacob Ludwig Karl Grimm)、次兄ヴィルヘルム・カール・グリム(Wilhelm Karl Grimm)たちが寄り集まったハイデルベルクでドイツ民族主義の「ドイツの火」が点火された。カール・ヨアヒム・フリードリヒ・ルートヴィヒ・アヒム・フォン・アルニムとフランツ・クレメンス・ホノラトゥス・ヘルマン・ブレンターノはドイツの民謡を集めて「少年の魔法の角笛」(西暦1806〜1808年)を出版した。ヨハン・ヨーゼフ・フォン・ゲレスは「ドイツの没落とその再生の条件」(西暦1810年)で、かつてのユダヤ王国のようにドイツは現在の聖なる土地であるとした。グリム兄弟は民話を蒐集し、「子供と家庭のための童話」(西暦1812〜1822年)、「ドイツの伝説」(西暦1816〜1818年)を出版し、「ドイツ語辞典」(西暦1852年)ではユダヤ人を「利得ずくで、暴利を貪り、不潔である。」と解説した。ヤーコプ・ルートヴィヒ・カール・グリムは西暦1835年に「ドイツ神話学」を刊行し、ヴィルヘルム・リヒャルト・ワーグナー(Wilhelm Richard Wagner)にも影響を与え、また西暦1848年革命でのドイツ憲法動議では、「ドイツ憲法はドイツ人の信条でなくてはならない。」と述べた。
 西暦1807年12月〜翌1808年にかけてフランス軍占領下のベルリン学士院講堂において、哲学者ヨハン・ゴットリープ・フィヒテは「ドイツ国民に告ぐ」を連続講演し、フランス文化に対するドイツ国民文化の優秀さを説き、また、ドイツ国民の統一、ドイツ人の内的自由、商業上の独立を主張し、ドイツ国民精神を発揚しドイツ解放戦争を準備する力となった。ヨハン・ゴットリープ・フィヒテはすでに、「個人は、個人より高い存在である国家と一体化することによって自由を実現する。」と論じていたが、「ドイツ国民に告ぐ」では、「民族・国民(ネーション)に個人が没入することによって自由を達成する。」と論じられ、「唯一正統な統治形態は国民による自治である。」と主張した。ドイツでは出版の自由が著しく制限されていたが、ヨハン・ゴットリープ・フィヒテの講演やフリードリヒ・ダニエル・エルンスト・シュライアマハーの説教は口コミで反響が広がった。西暦1808年、ベルリンでハインリヒ・フォン・クライストが「ヘルマンの戦い」を書き、ナポレオン1世への憎悪とドイツ民族の蜂起を託し、ドイツの解放戦争が期待された。
 進歩主義的な教育者フリードリヒ・ルートヴィヒ・ヤーン(Friedrich Ludwig Jahn)はエルンスト・モーリッツ・アルント、ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ、フリードリヒ・ダニエル・エルンスト・シュライアマハーと並んでドイツ国民運動の有名な組織者であった。フリードリヒ・ルートヴィヒ・ヤーンは西暦1810年に秘密結社ドイツ同盟(Deutscher Bund)を結成しドイツ全域にわたる愛国組織の模範となり、また「トゥルネン」というドイツ国民体育を始めた。フリードリヒ・ルートヴィヒ・ヤーンは、西暦1810年に著わした「ドイツの国民性」で、ドイツの国民性に基づいた全人教育をめざして体育を提唱する中で「混血の民は国民再生産の力を失う。」として、フランスの影響力を排除する国民革命を目指して、ドイツ語からの外国起源の人名の抹消、民族衣装の着用などの民族浄化を訴え、「原始ゲルマン人の末裔であるドイツ人と古代ギリシア人だけが聖なる民である。」と論じた。
「トゥルネン」とは、西暦19世紀初頭に創始された、器械体操や徒手体操を中心とするドイツ固有の身体運動文化で、体操以外にも走・跳・投の運動、水泳、球技など多様な運動種目を行う活動。 また「トゥルネン」では、こうした身体運動を行うだけでなく、国民意識や民族意識の涵養をも目的とした。フリードリヒ・ルートヴィヒ・ヤーンに先立って教育学者ヨハン・クリストフ・グーツ・ムーツ(Johann Christoph Friedrich GutsMuths)が西暦1793年にルソーの影響下に執筆した「青少年のための体育」において原始ゲルマン人の身体を理想的な目標として称賛した。フリードリヒ・ルートヴィヒ・ヤーンは「ドイツを救うことができるのはドイツ人のみである。異邦の救い主はドイツ人を破滅に導くことしかできない。」とした。西暦1813年、言語学者でプロイセン政府大使であったフリードリヒ・ヴィルヘルム・クリスティアン・カール・フェルディナント・フライヘル・フォン・フンボルト(Friedrich Wilhelm Christian Karl Ferdinand Freiherr von Humboldt)は「ドイツは1つの国民、1つの民族、1つの国家である。」と断言し、「ドイツは自由で強力でなければならない。ただ外に向かって強力な国民のみが、全ての内的聖化がそこから流れ出る精神を内に蔵することができる。」と宣明した。

 フランス帝国の支配下にあったプロイセン王国では反ナポレオン感情が保持され、ドイツ解放戦争(ナポレオン戦争)となった。西暦1812年、ナポレオン1世は60万の大陸軍を率いてロシア遠征を開始した。ナポレオン軍の3分の1は、ライン同盟諸邦、プロイセン王国、オーストリア帝国などのドイツ人であった。ドイツ軍の中ではナポレオン1世側に立つことを潔しとせずに寝返る者もおり、「戦争論」で知られるプロイセン軍将校カール・フィーリプ・ゴットリープ・フォン・クラウゼヴィッツ(Carl Philipp Gottlieb von Clausewitz (Claußwitz)はロシア軍へ身を投じた。西暦1812年12月30日、プロイセン軍ヨルク・フォン・ヴァルテンブルク伯ヨハン・ダーヴィト・ルートヴィヒ(Johann David Ludwig Graf Yorck von Wartenburg)将軍は、国王フリードリヒ・ウィルヘルム3世(Friedrich Wilhelm III)の同意を待たずに専断して、ロシア軍とタウロッゲン協定を結んで部隊を中立化し、ナポレオン軍から離脱した。
 プロイセン王国とロシア帝国が停戦すると、ヨルク軍が入った東プロイセンから北ドイツ諸邦でフランス帝国の支配への蜂起に繋がっていき、プロイセン王国の元首相でロシア帝国の皇帝顧問ハインリヒ・フリードリヒ・カール・フォン・シュタイン(Heinrich Friedrich Karl vom Stein)がロシア帝国を説得して西暦1813年02月27日にプロイセン王国とロシア帝国が同盟した。プロイセン王国では一般兵役義務が布告され、国軍と義勇軍が組織された。03月16日に、フランス帝国へ宣戦が布告され、翌日プロイセン王国では国王フリードリヒ・ウィルヘルム3世が「わが国民へ」で祖国解放のための国民の決起が訴えられた。03月25日のカーリッシュ宣言では、ライン同盟の解散が宣言され「ドイツ国民の本源的精神から産まれる、若返った、強力な、統一されたドイツ帝国の再興」が約束された。
ドイツ解放戦争の中心にいたのはハインリヒ・フリードリヒ・カール・フォン・シュタインであり「祖国はただ1つドイツ」とするカハインリヒ・フリードリヒ・カール・フォン・シュタインはライン同盟諸君主を軽蔑し憎悪し、ライン同盟諸国家の主権剥奪を計画した。愛国記者エルンスト・モーリッツ・アルントはハインリヒ・フリードリヒ・カール・フォン・シュタインと共にして、フランスの殲滅を鼓吹し、戦死した詩人クリスティアン・ゴットフリート・ケルナーはドイツの聖戦を歌った。そして、学生、手工業者、農民の若者たちが、身銭を切って武装し、志願兵団や義勇兵団に身を投じ、反ナポレオン感情がこれまでになく高まった。ドイツ解放戦争で教育者フリードリヒ・ルートヴィヒ・ヤーンは西暦1813年、ルートヴィヒ・アドルフ・ヴィルヘルム・フォン・リュッツォウ(Ludwig Adolf Wilhelm von Lützow)少佐と抗仏組織リュッツォウ義勇団を創設し、体操など体育教育を普及させ「体操の父」としてドイツの国民的英雄となった。フリードリヒ・ルートヴィヒ・ヤーンの傘下には学生結社ブルシェンシャフト(Burschenschaft、友愛)もあった。ただし、リュツォー義勇団にはユダヤ人の参加者もおり、ユダヤ人を排斥していた訳ではない。

 当初ナポレオン1世は、「フランス軍が帝都モスクワを占領することで、皇帝アレクサンドル1世はすぐさま降伏するだろう。」と予想していた。しかしこのナポレオン1世の安易な予想を裏切ったのは、またしてもフランス革命の輸出品であった民族主義の勃興だった。祖国を蹂躙されたことに怒れるロシア人は、「ロシア帝国はフランス帝国に対しての抵抗を続けるべきである。」と主張した。また反ナポレオンの旗頭となっていた皇帝アレクサンドル1世に対しての支持を強めていた。この支持を背景にロシア軍はフランス軍への対峙を強めていき、またフランス軍周辺の農民は対仏ゲリラ戦を開始していた。一方、思惑が外れたフランス軍は、明確な次の軍事目標が持てないまま、徒らにモスクワ滞在が伸びてしまい、撤退の時機を完全に逸してしまった。遂に10月にフランス軍はモスクワ撤退を開始するが、遅きに失してフランス軍兵士の中にはロシア軍や農民ゲリラに襲われ、飢えと寒さで死亡する者が続出した。12月にナポレオン1世はパリで起こったクーデター未遂により、軍を放置したままパリに帰還してしまった。この時、すでにロシア遠征開始時に70万とも言われたフランス軍は完全に壊滅していた。 こうして、ナポレオン1世のロシア侵略はロシア軍の完全な勝利に終わった。
 これに勢いを盛り返したアレクサンドル1世は敗走するフランス軍を追撃すべく西へと軍を進めた。これにはプロイセン王国が続き、オーストリア帝国は皇后マリー・ルイーズの手前、直接軍を合流させることはなかったが、それでもプロイセン王国とロシア帝国に対して好意的な中立へと立場を変更させた。 フランス国内においては、ナポレオン政権は、ナポレオン1世の天才的軍事能力と、彼が戦争に勝ち続けることを政権存続の保証としていたことから、ロシアでの大敗はナポレオン政権の基盤を揺さぶるには十分であり、12月のクーデター未遂の他、政権内部の造反、徴兵に対しての反発が相次いで起こった。
 西暦1813年06月にイギリス王国が、07月にスウェーデン王国の王太子ジャン・バティスト・ジュール・ベルナドットがプロイセン王国とロシア帝国の同盟に参加し、08月11日、オーストリア帝国もフランス帝国へ宣戦して、第6次対仏大同盟が成立した。10月の最大規模の戦闘ライプツィヒの戦い(諸国民の戦い)で、36万の対仏同盟軍はナイトハルト伯アウグスト・ヴィルヘルム・アントニウス・フォン・グナイゼナウ(August Wilhelm Antonius Graf Neidhardt von Gneisenau)の指揮下、19万のフランス軍を破った。クレーメンス・ヴェンツェル・ロータル・ネーポムク・フォン・メッテルニヒ・ヴィネブルク・ツー・バイルシュタインはライン川で講和しようとしたが、エルンスト・モーリッツ・アルントはライン川はドイツの川で、国境ではないと論じ、ヨハン・ヨーゼフ・フォン・ゲレスも反ナポレオンの論陣を張った。西暦1814年にデビッド・クリストファー・メットラーカンプ(David Christopher Mettlerkamp)と共同してハンブルク市民軍を創設したフリードリヒ・クリストフ・ペルテス(Friedrich Christoph Perthes) はヨハン・ヨーゼフ・フォン・ゲレスへの手紙で「ドイツ人は選ばれた民、人類を代表する民である。」と述べた。
 それでもナポレオン1世は、西暦1813年夏には軍を再編して、西へと向かうプロイセン王国・ロシア帝国軍とドレスデン周辺で戦い、進撃の阻止に成功した。 しかしこの戦闘の停戦交渉において、プロイセン王国・ロシア帝国軍に再編の時間を与え、そこへオーストリア帝国軍を合流させてしまったことは、フランス帝国にとって決定的な失敗だった。加えて、この期間にナポレオン1世が直接指揮を取っている部隊とは正面から当たらないことが徹底されたため、停戦明けのライプツィヒの戦いにおいては周辺の将軍が指揮する部隊から個別に撃破され、フランス軍はフランス帝国本土に向けての撤退を余儀なくされた。続く西暦1814年のパリ侵攻戦においても同盟軍の巧みな欺瞞工作の前に、ナポレオン1世が指揮するフランス軍主力が前線に誘き寄せられ、対仏同盟軍は西暦1814年03月30日に、その隙に少数の部隊で守備するパリへの入城を許してしまった。第6次対仏大同盟諸国との戦争に敗れ、帝国議会はナポレオン1世の退位を求め、ナポレオン1世周辺の将軍たちも退位を勧めたため、ナポレオン1世は抵抗を諦め、フォンテーヌブロー条約を結んで、04月04日に退位文書に署名し、エルバ島へと配流された。ナポレオン1世がエルバ島に流され、ナポレオン1世のドイツ支配は打倒された。


 ナポレオン1世後のフランスにはブルボン家のルイ18世がフランス王に即位し、フランスにおける王政復古を成し遂げた。王党派にとっては西暦1792年に国民公会によって王権が停止されて以来の念願の復権であったが、長年の外国暮らしを送ってきたルイ18世は、革命を進展させたフランスの現状を全く理解できず、アンシャン・レジームの復活を企てたため、その政治は国民の不満を買っていた。 一方、ヨーロッパ列強はナポレオン後のヨーロッパの新秩序を決定すべくウィーン会議を開いたが、「会議は踊る、されど進まず。」と揶揄されたように、各国の利害が対立したまま一向に進展を見せることはなかった。
 クレーメンス・ヴェンツェル・ロータル・ネーポムク・フォン・メッテルニヒ・ヴィネブルク・ツー・バイルシュタインのオーストリア帝国のユダヤ人ヤーコプ・マイアー・ロートシルトがイギリス王国のウィーン会議代表を務めた外相のロバート・ステュアート(カースルレー子爵(Viscount Castlereagh)、後の第2代ロンドンデリー侯爵ロバート・ステュアート(Robert Stewart, 2nd Marquess of Londonderry))に指図し、従わないと、ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドは、首相の第2代リヴァプール伯ロバート・バンクス・ジェンキンソン(Robert Banks Jenkinson, 2nd Earl of Liverpool, KG PC)の緊急の手紙で圧力を加えた。 第2代ロンドンデリー侯爵ロバート・ステュアートは。精神に異常をきたし、西暦1822年に自殺した。過労が原因であったと言われるが怪しい。

 ウィーン会議の時点で、悪逆非道なディープステイト(DS(出来損ないの堕落した最兇な屑))は顕在していた。


帝都ウィーンと列国会議 幅健志 講談社学術文庫1417 9784061594173
帝都ウィーンと列国会議 幅健志 講談社学術文庫1417 9784061594173

 ルイ18世の即位は、ナポレオン政権の外相シャルル・モーリス・ド・タレーラン・ペリゴールが戦勝国に対してブルボン朝再興を唱え、これに協力したことによるところが大きかった。戦勝国は君主候補について纏まっておらず、イギリス王国はブルボン家の者を希望しており、オーストリアとしてはナポレオン1世の皇太子ナポレオン・フランソワ・シャルル・ジョゼフ(仏語: Napoléon François Charles Joseph、独語: ナポレオン・フランツ・カール・ヨーゼフ(Napoleon Franz Karl Joseph)、ナポレオン2世(Napoléon II))を頂くマリー・ルイーズの摂政政治を検討しており、ロシア帝国としてはオルレアン公ルイ・フィリップでも、かつてのナポレオン・ボナパルト麾下の元帥でスウェーデン王太子のジャン・バティスト・ジュール・ベルナドットでも良かった。また、ナポレオン1世は国境を西暦1792年当時の状態に戻した上で帝位に留まることを西暦1814年02月に打診されたが、これを拒否していた。王政復古の可能性は流動的であったが、戦争に疲れて平和を求める世論や、パリ、ボルドー、マルセイユ、リヨンにおけるブルボン家支持運動も手伝って、戦勝国も妥結した。
 ルイ18世は、サン・トゥアン宣言に従って、成文・欽定憲法の西暦1814年憲章を発布した。同憲章は世襲貴族議員・勅任議員で構成する貴族院と公選議員で構成する代議院からなる二院制議会の開設を約束したが、その役割は(租税を除き)協賛機関であり、法律の発議権・裁可権、大臣任免権は国王だけにあった。選挙人は大資産家の男子に制限され、人口のわずか1%に止まった。一方で革命期の法律・行政・経済上の諸改革の成果はそのまま残された。即ち、法的な平等と市民的自由を保障したナポレオン法典、農民への国有財産の売却、新地方区画「県(département、デパルトマン)」の設置は新国王により覆されることはなかった。教会と国家の関係も西暦1801年の協約による規律が維持された。同憲章下の復古王政の実情はこのようなものであったが、同憲章の前文では、「朕の王権に基づく自由意思により」同憲章を「下賜し、欽定する。」と謳われた。王政復古当初の熱狂が去ると、ルイ18世は、フランス革命の成果に逆行する行為により、選挙権を持たない大多数の人々からの支持を急速に失った。即ち、象徴的な行為としては、白色旗が三色旗に取って代わり、名目上の国王ルイ17世の後継者としてルイ「18世」という呼称が用いられ、「フランス人の王 (Roi des Français) 」(西暦1791年憲法下のルイ16世の称号)ではなく「フランスの王 (Roi de France) 」という称号が用いられ、ルイ16世とマリー・アントワネットの年忌が特別視されるなどした。目に見えて反発を生じたのは、没収地の奪還を狙うカトリック教会や元亡命貴族から国有財産取得者へ圧力が掛けられたことだった。その他ルイ18世に憎悪を抱く者は、軍人、非カトリック教徒、戦後不況と対英輸入により打撃を受けた労働者といった各層に存在した。

 
 こうした状況の虚を突いて起こったのが、西暦1815年02月26日のエルバ島脱出である。 密偵の知らせを受けてこのような不満の噴出の状況を捉えたナポレオン1世は、エルバ島を脱して、03月01日にカンヌとアンティーブの間にあるジュワン湾近郊に上陸した。王党派の強いローヌ渓谷を避けてドーフィネ地方を抜けるジュアン湾からパリのグルノーブルまで328q(ナポレオン街道)を進軍した。ナポレオン1世はルイ18世が差し向けた討伐軍の前に立ち塞がり、「兵士諸君!諸君らの皇帝はここにいる!さあ撃て!」と叫んだ。シャルル・アンジェリック・フランソワ・ユシェ・ド・ラ・ベドワイエール(Charles Angélique François Huchet de La Bédoyère)の連隊もナポレオンを出迎えた。「ナポレオンを鉄の檻に入れて連れて帰る。」と豪語したミシェル・ネイ(Michel Ney)もナポレオン1世からの短信を受け取ると、態度を豹変させ兵士たちに「皇帝万歳!」と叫び、03月18日にオセールでナポレオン軍に追い着き、緊張して弁解を始めるミシェル・ネイに向かい、ナポレオン1世は静かに声を掛けた。「元帥、さあ抱擁してくれ。また会えてうれしい。説明も釈明もいらない。」両者は和解し帰順するなど討伐軍は寝返り、プロヴァンスを除いてさしたる抵抗もないまま、ナポレオン1世の下には、かつての子飼いの将軍たちの多くが参集し、03月19日、ルイ18世はパリからヘントへの逃亡に追い込まれ、ナポレオン1世がワーテルローの戦いに敗れて再追放されるまで帰国できなかった。03月13日、7日の行程を経てナポレオン1世はパリに到着し、時代遅れのルイ18世に愛想を付かしたパリ市民、兵士もこれを歓迎し、03月20日、ナポレオン1世は7000に膨れ上がった軍隊を率い、パリに入城し再び帝位に就いた。
 03月21日、ナポレオン1世は組閣を実施し、ルイ・ニコラ・ダヴー (Louis-Nicolas d'Avout/Davout)が陸軍大臣、ジョゼフ・フーシェが警察大臣、ラザール・カルノーが内務大臣に任じられた。陸軍大臣ルイ・ニコラ・ダヴー はわずか3ヶ月で大陸軍(グランダルメ)の再編を完成させた。
 ナポレオン1世の突然の復活に驚愕した列強各国は、03月13日にウィーン会議でナポレオン1世復帰の無効を決定し、再びナポレオン1世を法の外に置くことを宣言して、彼の押さえ込みにかかった。03月25日にグレートブリテンおよびアイルランド連合王国(西暦1801〜1922年、イギリス王国)、プロイセン王国、ロシア帝国、オーストリア帝国、スウェーデン王国、ネーデルラント連合王国(西暦1815〜1839年、オランダ王国)、ライン同盟諸邦は、第7次対仏大同盟を結成して、ナポレオン1世を打倒するための軍の集結を開始した。ナポレオン1世の支配を終わらせるために、150000人の兵を集めた。
 04月10日、帝政への裏切り者の追放が行われ、オギュスト・フレデリク・ルイ・ヴィエス・ド・マルモン(Auguste Frédéric Louis Viesse de Marmont)、シャルル・ピエール・フランソワ・オージュロー、ルイ・アレクサンドル・ベルティエ、クロード・ヴィクトル・ペラン(Claude Victor-Perrin)が追放され元帥から抹消された。
ルイ・アレクサンドル・ベルティエは、ナポレオン・ボナパルトを裏切り、03月にはルイ18世に随行しベルギーの(蘭語: Gent、仏語: Gand(ガン))まで行ったが,その後バイエルン王国のバンベルクに逃亡し、バイエルン王マクシミリアン1世(Maximilian I、マクシミリアン・マリア・ミヒャエル・ヨハン・バプティスト・フランツ・デ・パウラ・ヨーゼフ・カスパール・イグナティウス・ネポムク(Maximilian Maria Michael Johann Baptist Franz de Paula Joseph Kaspar Ignatius Nepomuk)、愛称: マックス・ヨーゼフ(Max Joseph))の姪マリー・エリザベートの父親カール・フリードリヒ・シュテファンの城館に妻のマリー・エリザベートと、愛人ヴィスコンティ侯爵夫人を招いて安穏な生活を送った。06月01日にルイ・アレクサンドル・ベルティエは、バンベルクの城館の4階の窓から落ちて死んだ。自殺か他殺か、事故か不明。心臓あるいは脳の疾患による突然死の可能性はその窓は床から1mほど上にあり、背が高くないルイ・アレクサンドル・ベルティエが転落するとは考え難い。妻と愛人との三角関係の痴情のもつれも考えられる。 04月22日、ナポレオン1世は民衆の選べる議員数を300人から629人に増やし、過半数とするなど憲法を修正し、06月01日に帝国憲法付加法を成立させて、名目上の自由帝政を開始した。これは彼の支配体制が脆弱になって自由主義者の協力を必要としたからに他ならなかった。05月09日、ルイ18世と王党派に対して、国家叛逆者としての処分を定めた法が制定された。ナポレオン1世は、貴族院には自分の支持者だけを任命、代議院には、中産階級出身の自由主義者が圧倒的多数を占めて、ボナパルト派が80人、ジャコバン派が数人選ばれ、王党派は、優勢であるローヌ渓谷、フランス西部、フランス南部でもほとんど議員に選出されなかった。弟のリュシアン・ボナパルト(Lucien Bonaparte)が議長に立候補したが選ばれず、自由主義者のランジュイネ伯ジャン・ドニ(Jean-Denis, comte Lanjuinais)が選ばれた。4人いる副議長1人は、アメリカ独立戦争の英雄でフランス革命初期の国民軍司令官。人権宣言の起草者の1人だが、30年以上も昔の話で、フランス国民の多くはあまり覚えていないが、「両世界の英雄」ラ・ファイエット侯(マリー・ジョセフ・ポール・イヴ・ロシュ・ジルベール・デュ・モティエ(Marie-Joseph Paul Yves Roch Gilbert Du Motier, Marquis De La Fayette)が選出された。実務政治家というより夢を追う理想家の「過去の人」は副議長にしかなれなかった。ナポレオン人気は落ち込みつつあったものの、ルイ18世が不在の間、伝統的に王党派の強いヴァンデで小規模な暴動が鎮圧された他には、王政復古を支持する破壊活動はほとんどなかった。
 ナポレオン1世の義弟であるジョアシャン・ボナパルト・ミュラは、ナポレオン1世に王位を召し上げられることを恐れ、03月29日、オーストリア帝国に宣戦布告し、04月04日、モデナを占領し、フィレンツェへ進軍した。しかし、04月09日、オーストリア軍の反撃に遭い、アンコーナまで退却、05月03日、トレンティーノで敗北し、05月21日、フランス帝国へ亡命するため船出したが、ナポレオン1世は彼に会うことを拒絶した。コルシガ島で600人を集め、イタリア征服を目指したが、ピッツォで捕らえられ、10月13日銃殺された。

 06月09日、ウィーン会議は閉幕した。第7次対仏大同盟を各国はナポレオン1世の打倒に取り掛かった。第7次対仏大同盟軍は、ベルギー地方にイギリス王国軍とプロイセン王国軍が、ライン方面と北イタリアにオーストリア帝国軍が展開して、広範囲なナポレオンのフランス帝国包囲網を形成した。ナポレオン1世は同盟軍を国内で迎え撃つ守勢戦略も考慮したが、王党派を勢いづかせる危険性があり、「同盟国の準備が遅れている。」と看破した彼は機先を制し攻撃に出ることにした。ナポレオン1世率いるフランス軍主力はベルギー方面へ侵攻し、イギリス王国軍、プロイセン王国軍と対峙した。ナポレオン1世の戦略は英蘭軍とプロイセン軍を分断し、各個撃破することであった。
 ワーテルローの戦いに参加したナポレオンの北部方面軍(Armée du Nord)は72000人で歩兵57000、騎兵15000、大砲250門(史料により69000人、歩兵48000、騎兵14000、砲兵7000、大砲250門)からなっていた。ナポレオンは政権を奪取すると18万人のルイ18世の軍隊に加えて緊縮財政のために長期休暇や非公式に除隊させられていた兵や西暦1814年戦役で脱走していた者たちといった実戦経験のある兵を掻き集めており、彼ら古参兵を中核に訓練未熟な新兵を合わせたものがワーテルローの戦いのナポレオンの軍隊だった。古参兵たちの士気は高く、前年の恥辱を晴らすべく、狂信的な熱意を示していた。兵器は比較的充足していたが、多年の戦乱によって軍馬が著しく不足しており、馬術も不十分だった。この戦いのフランス軍騎兵は14個胸甲騎兵連隊、7個槍騎兵連隊からなっていた。

 英蘭軍とプロイセン軍がまだ合流しないうちに各個撃破を計画し、12万の兵を率いて同盟軍に戦いを挑むべくベルギーへ向かった。ベルギーに駐留していたのは初代ウェリントン公アーサー・ウェルズリー率いるイギリス王国・オランダ王国同盟軍の11万と、粗野で無鉄砲で無教養だったが、親分肌な人物で度量の広さと人望を備えていた「前進元帥」ゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘル(Gebhard Leberecht von Blücher)元帥率いるプロイセン王国軍12万であった。ブリュッセル南方に駐屯する英蘭同盟軍を増援が到着する前に撃破できればイギリス軍を海に追いやり、プロイセン軍を戦争から脱落させられる。これに加えてベルギー南部にはフランス語圏の親仏派住民が多く、フランス軍の勝利は当地の革命の引き金になるであろうことも考慮された。またイギリス軍はスペインの半島戦争で鍛えられた古参兵の大半を米英戦争のため北米へ送っており、ベルギー駐留軍のほとんどは2線級の兵士だった。
 ウェリントン公の当初の配置はモンスを経てブリュッセル南西に進出して英蘭同盟軍の包囲を図るであろうナポレオン1世の脅威に対処することを意図していた。これはウェリントン公の策源地であるオーステンデの連絡線が失われることになるが、彼の軍はプロイセン軍に近づくことにもなる。誤った情報により「ウェリントン公は海峡諸港との補給線が断たれることを恐れている。」と見たナポレオン1世は左翼をミシェル・ネイ元帥、右翼を第2代グルーシー侯エマニュエル(Emmanuel de Grouchy)元帥に各々指揮させ、予備軍は自ら率い、これら3軍は相互支援が可能な距離に展開させた。フランス軍は06月15日明け方にシャルルロワから国境を越えて英蘭軍の前哨部隊を蹂躙し、フランス軍を英蘭軍とプロイセン軍との中間に進出させた。
 06月15日深夜にウェリントン公はシャルルロワの攻撃がフランス軍の主攻勢であることを確信した。06月16日夜明け前にブリュッセルのリッチモンド公爵夫人の舞踏会 に出席していたウェリントン公は王太子オラニエ・ナッサウ公ウィレム・フレデリック・ヘオルヘ・ローデウェイク(Willem Frederik George Lodewijk van Oranje-Nassau、後の2代オランダ国王ウィレム2世(Willem II))からの急報を受け取り、フランス軍の進撃の速さに驚愕させられた。彼は自軍に対し急ぎカトル・ブラに集結するよう命じた。ここではオラニエ・ナッサウ公がザクセン・ヴァイマル・アイゼナハ公カール・ベルンハルト(Herzog Karl Bernhard von Sachsen-Weimar-Eisenach)の旅団とともにミシェル・ネイ元帥の左翼部隊と対峙していた。ミシェル・ネイ元帥が受けた命令はカトル・ブラの交差路を確保し、後に必要になれば東に旋回してナポレオン1世の本隊に増援できるようにしておくことであった。

 この戦いの1年前の西暦1814年のフランス戦役ではナポレオン1世は圧倒的に不利な状況の中、彼の最高傑作といわれる程の戦術的技量を示した。この西暦1815年戦役では肉体的な衰えを見せており、何よりも時間を浪費しがちで戦機を幾度も失った。長年、ナポレオン1世の参謀総長を務めたルイ・アレクサンドル・ベルティエがナポレオンの復位に馳せ参ぜず裏切り、ドイツで死んで、代わってニコラ・ジャン・ド・デュ・スールト(Nicolas-Jean de Dieu Soult)が総参謀長に就任したことも打撃となった。
 ナポレオン1世はまずは集結していたプロイセン軍に向かった。06月16日、予備軍の一部と右翼軍を率いるナポレオン1世はリニーの戦いでゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘルのプロイセン軍と戦い、死傷者16000の損害を与えたが完全な撃滅はできなかった。プロイセン王国の中央軍はフランス軍の猛攻の前に敗退したが、両翼は持ちこたえた。
前線に出たゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘル元帥が一時行方不明になったため、参謀長のナイトハルト伯アウグスト・ヴィルヘルム・アントニウス・フォン・グナイゼナウ中将が代わりに後退の指揮を取った。一方、ミシェル・ネイ元帥はカトル・ブラの交差路を守る少数のオラニエ・ナッサウ公の部隊と対戦した。ミシェル・ネイは逡巡し、フランス軍の攻撃は遅れて英蘭軍に兵力を増強する猶予を与えてしまい、オラニエ・ナッサウ公はミシェル・ネイの攻撃を凌ぐことができた。やがて、増援の第1陣とウェリントン公自身が到着し、ミシェル・ネイを後退させて夕刻までに交差路を確保したが、既にプロイセン軍はリニーの戦いで敗れており、彼らを救援することはできなかった(カトル・ブラの戦い)。
 プロイセン軍の敗北により、ウェリントン公が守るカトル・ブラは非常に危険な場所となった。このため、翌日になって北方へと退却し、ウェリントン公自身がこの年の春に個人的に視察しておいたモン・サン・ジャンの低い尾根、ワーテルロー村とソワヌの森の南に防御陣地を築いた。プロイセン軍はフランス軍に遮られることなく、恐らくは気付かれもせずにリニーから撤退した。後衛部隊の大部分は真夜中まで持ち場を守っており、一部は翌朝まで動いておらず、フランス軍に完全に見過ごされていた。ナポレオン1世は「敗走したプロイセン軍は連絡線を辿って北東方向に退却する。」と考えていたが、プロイセン軍は、ウェリントン公の進軍路と並行する北方に向かっており、支援可能な距離を保ち、終始連絡を取り合っていた。プロイセン軍は、リニーの戦いに参加せず無傷のビューロー男爵およびデンネヴィッツ伯フリードリヒ・ヴィルヘルム(Friedrich Wilhelm Freiherr von Bülow, Graf von Dennewitz)将軍の第4軍団が位置するワーヴル南方に集結した。
 ナポレオン1世はかつて「私は戦陣に敗れることはあるかもしれないが、自信過剰や怠慢によって数分たりとも浪費することはない。」と語っていた。しかし、この戦役では時間を浪費しがちだった。リニーの戦いで勝利したナポレオン1世は無駄に時を浪費し、翌06月17日11時にようやく各隊に命令を下すと進発し、13時にカトル・ブラのミシェル・ネイの軍と合流をして英蘭軍を攻撃しようとしたものの、既に敵陣は蛻の殻だった。フランス軍はウェリントン公を追撃したが、ジュナップで騎兵同士の小競り合いが起こっただけで終り、その日の夜は土砂降りとなった。リニーを出立する際にナポレオン1世は右翼軍司令の第2代グルーシー侯エマニュエル元帥に兵33000をもってプロイセン軍を追撃するよう命じた。遅すぎる出発、プロイセン軍の針路が不明なこと、そして命令の意味が曖昧だったことで、グルーシー侯がプロイセン軍のワーヴル到着を阻止するには手遅れだった。06月17日の終わりに英蘭軍はワーテルローに到着し、ナポレオン軍の本隊がこれに続いた。この頃、ゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘルのプロイセン軍はワーヴルの町から東へ13kmの位置に集結していた。ラ・ベル・アリアンスで、ナポレオン率いるフランス軍72000と英蘭同盟軍68000と、ほぼ互角の勢力同士が対峙した。
 ウェリントン公は02時〜03時頃に起床し、夜明けまで手紙を書いた。彼はゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘルに対して「少なくとも1個軍団を送ってくれればモン・サン・ジャンで戦うが、そうでなければブリュッセルまで後退する。」と書き送った。06時にウェリントン公は自軍の布陣を視察した。その日の未明の軍議でゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘルの参謀長ナイトハルト伯アウグスト・ヴィルヘルム・アントニウス・フォン・グナイゼナウはウェリントン公の作戦に対して不信感を示していたが、ゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘルは「ウェリントン公の軍を救援せねばならない。」と説得した。ワーヴルでは、ビューロー男爵およびデンネヴィッツ伯フリードリヒ・ヴィルヘルムの第4軍団がワーテルローの戦場に向けて先発しており、この軍団はリニーの戦いに参加しておらず無傷の状態であった。もっとも、第4軍団は犠牲者は出ていなかったが、プロイセン軍のリニーからの撤退援護のための2日間に渉る行軍で疲労していた。彼らは戦場から遥か東方に位置しており、進軍は遅々としたものだった。前夜の豪雨によって道路の状態は悪く、ビューロー男爵の兵と88門の大砲はワーヴルの渋滞した道路を通らねばならなかった。ワーヴルでの戦闘が始まったことにより事態はさらに悪化し、ビューロー男爵の軍が通過する予定だった道のいくつかが閉鎖されていたが、10時には行軍も順調になり、この頃、先発した部隊は英蘭軍左翼から8kmの所まで進んでいた。ビューロー男爵の兵に続いて、第1軍団と第2軍団がワーテルローに向かった。
 ナポレオン1世は前夜を過ごしたル・カイユー(Le Caillou)の館で06時に起きた。あれほど執拗に降り続いた雨も漸く止んだ。ナポレオン・ボナパルトの戦術は、基本的には主要地点に火器を集中し激しい砲撃を加え、敵が弱体化したころに歩兵と騎兵を突進させるというものである。前日の大雨で地面がぬかるんでおり、大砲が泥濘に嵌り込んで動けなくなるのを恐れた。側近の皇帝近衛軍団のドルーオ伯アントワーヌ(Antoine Drouot, comte Drouot)は、「大砲を何とか移動させられるのは、後数時間して地面が乾いてからです。」と具申した。大砲なしの戦争は考えられないナポレオン1世は開戦時刻を遅らせることにした。08時には、このドルーオ伯アントワーヌや参謀長のニコラ・ジャン・ド・デュ・スールトなどの幕僚と朝食を摂りながら、「勝利は90パーセントこちらのものだ。」と語った。ニコラ・ジャン・ド・デュ・スールトが「グルーシー侯の軍を呼び戻して本隊と合流させるべきではないか。」と意見具申をすると、ナポレオン1世は「卿はウェリントンに負け続けているから、彼を買い被っているのではないか。余に言わせれば、ウェリントンは愚将であり、イギリス人は弱兵だ。連中を打ち負かすなぞ朝飯前だ。」と言い返した。この後、ナポレオン1世は末弟のジェローム・ボナパルトから、宿屋の給仕がジュナッペの旅館「キング・オブ・スペイン(King of Spain)」で食事を摂ったイギリス軍将校から漏れ聞いた「プロイセン軍がワーヴルから行軍中である。」という噂話が伝えられたが、ナポレオン1世は「プロイセン軍が再起するには少なくとも2日は必要であり、グルーシー侯が対処するだろう。」と断言した。気に入らない情報には、耳を化さない。長年の成功体験で築きあげてきた判断基準があり、それに合致しない情報は無視するか、拒否してしまう。権力者のしばしば陥る罠である。このジェローム・ボナパルトの噂話を別にすると、驚くべきことに、この日のル・カイユーの軍議に出席したフランス軍の指揮官たちは誰もプロイセン軍が危険なほど近づいている情報を持っておらず、この僅か5時間後にワーテルローの戦場になだれ込むべく進発することを想像もしていなかった。06月18日朝に右翼軍司令の第2代グルーシー侯エマニュエルは、決戦場のモン・サン・ジャンから20kmも離れた場所にいた。道は前日の大雨でぬかるんでおり、1時間に2km進むのがやっとだった。

 06月18日、ナポレオン・ボナパルト最期の戦、ワーテルローの戦い(仏語: Bataille de Waterloo、英語: Battle of Waterloo、蘭語: Slag bij Waterloo、独語: Schlacht bei Waterloo)では。ミシェル・ネイが前衛で事実上の総指揮を執り、ラ・エー・サント(la Haye Sainte)へのエルロン伯ジャン・バティスト・ドルーエ(デルロン)の第1軍団による攻撃を命じた。この際、砲兵による支援を命じ忘れたため、フランス軍の突撃は悉く粉砕された。15時30分、騎兵による総突撃を敢行したが、味方砲兵の支援がなかったためイギリス歩兵の方陣を効果的に崩すことができなかったものの、イギリス軍の歩兵陣地をしばらくの間蹂躙した。さらにイギリス軍左翼にプロイセン軍が到着したことにより、初代ウェリントン公アーサー・ウェルズリーはイギリス軍近衛騎兵連隊を増援として差し向けたため、ミシェル・ネイは攻めきれず遂に退却し、勝利の機会を逃した。この後ゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘル率いるプロイセン軍が続々と到着したため、フランス軍は戦列を維持し得なくなりついに敗走、同盟軍に決定的敗北を喫した。(西暦1815年フランス戦役)
 戦闘開始は09時と計画されていたが、前夜の豪雨で地面が水浸しになり、騎兵と砲兵の移動が困難になっていたため、ナポレオン1世は戦闘開始を13時まで遅らせた。結果的には、この攻撃開始の遅延により、プロイセン軍の戦場への来援が間に合い、ナポレオン1世にとって致命的となった。 09時頃にナポレオン1世は前線の視察に出た。いつものように各部隊に声を掛けたが、いつもほどには「皇帝万歳!」の叫びが返って来なかった。ブリュッセル街道が昨夜の雨と、軍団の移動で食料を運搬する輜重隊の到着が遅れ、パンが不足し兵士たちの多くが腹を空かせていた。ブランディーはいつもの倍配られたが、夜の間雨の下を歩きまわり、冷たく濡れた大地に横たわった後、朝になっても敵に場所を知られるからと火を燃やすこともできず、兵士たちは落ち込んでいた。
 10時、彼は6時間前にグルーシー侯から受けた急報への返信を発し、「(グルーシー侯の現在位置から南方の)ワーヴルへ向かい、(グルーシー侯から西方の)我々との接触を維持する場所に位置しそれからプロイセン軍を押し出せ。」と命じた。その内容は曖昧であり、グルーシー侯には合流すべきなのか独自の行動をすべきなのか分かりにくいものだった。的確に翻訳し意を汲み指示を出して来たルイ・アレクサンドル・ベルティエは裏切り、自殺か他殺か事故死か死んでいた。
 11時にナポレオン1世は全体命令を発し、左翼はオノレ・シャルル・ミッシェル・ジョゼフ・レイユ(Honoré Charles Michel Joseph Reille)将軍の第2軍団で、右翼はエルロン伯ジャン・バティスト・ドルーエ(Jean-Baptiste Drouet, ⅽomte d'Erlon、通称: デルロン)将軍の第1軍団が担いモン・サン・ジャン村にある主要街道の十字路を確保することになった。この命令は英蘭軍の戦線は尾根ではなくその奥の村にあることを想定していた。これを行うためにジェローム・ボナパルトの師団がウーグモンの館(Château d'Hougoumont )への先制攻撃を行い、ナポレオン1世は「ここを失えば海への連絡線が断たれるために、英蘭軍の予備兵力を誘い込むことができる。」と見込んでいた。作戦は13時頃に第1、第2そして第6軍団の大砲列(grande batterie)が英蘭軍中央への砲撃を開始し、その後、エルロン伯ジャン・バティスト・ドルーエ(デルロン)の軍団が英蘭軍の左翼を攻撃して突破し、東から西に旋回して包囲する計画になっていた。ナポレオン1世は英蘭軍をプロイセン軍から分断して海に叩き落とすことを企図していた。

 11時30分(史料により10時頃)にワーテルローの戦いが始まった。太鼓が打ち鳴らされ、軍楽隊が金管楽器で連隊歌を奏でた。戦闘開始を告げるために、慣例により近衛砲兵隊が3発の空砲を撃った。ウーグモンの館とその周辺は近衛軽歩兵4個中隊、果樹園と庭園はハノーファー軍猟兵およびナッサウ軍第2連隊第1大隊が各々守備に付いていた。ウーグモンの館は、農場というより城館と呼ぶべき堅固な構築物で、家屋、倉庫、家畜小屋などはがっしりと造られており、それらは広大な敷地の中にあった。敷地の周りの壁は高さが2mほどもあり、石灰で白く塗装されていた。庭園もあり、数多くの樹木が立ち並んでいた。ジェローム・ボナパルトの第6師団が攻撃の口火を切り、麾下のボードワン将軍の第1旅団が突入して果樹園と庭園の守備隊を駆逐したものの、指揮官のボードワンが戦死し、ジェローム・ボナパルトは騎馬砲兵の支援の許でソワイエ将軍の第2旅団を投入して攻撃を続けさせたが、イギリス軍王室騎馬砲兵の曲射砲の砲撃を受けて進撃が鈍った。フランス軍砲兵が前進して対砲兵射撃によって英軍砲兵が制圧されると、ソワイエは兵を進めて館の北門を打ち壊して内部に突入した。フランス兵の一部は中庭まで辿り着いたが、イギリス兵に門を奪回されて閉じ込められ全滅してしまった。ジェローム・ボナパルトは主攻勢前の牽制攻撃の役割は果たしたのだが、なおも攻撃を続け、フォワ将軍の第9師団までこの戦いに巻き込み、一方、ウェリントン公も第2近衛歩兵連隊と第3近衛歩兵連隊の一部をウーグモンに送り込んだ。ウーグモンでの戦闘は午後いっぱい続いた。その周囲はフランス軍軽歩兵によって幾重にも取り囲まれ、連携した攻撃がウーグモン内の部隊に仕掛けられた。英蘭軍は館と北へ通じる窪み道を守った。午後になってナポレオン1世は砲撃によって家に火を掛けるよう命じ、その結果、礼拝堂を除く全ての建物が破壊された。
 国王直属ドイツ人部隊のデュ・プラの旅団は窪み道の防御に差し向けられ、高級士官を欠いた状態でこの任務を果たさねばならなかった。最終的に彼らは英軍の第71歩兵連隊の応援を受けた。フレデリック・アダム(Sir Frederick Adam GCB GCMG)のイギリス軍第3旅団はヒュー・ハケット(Baron Hugh Halkett, GCH, CB)少将のハノーファー軍第3旅団によって増強され、オノレ・シャルル・ミッシェル・ジョゼフ・レイユによって差し向けられたフランス軍歩兵および騎兵のさらなる攻撃を撃退することに成功した。
結局、ウーグモンはこの会戦の間中、持ち堪えた。ウーグモンでの戦いは元々はウェリントン公の予備兵力を誘引するための陽動攻撃であったものが終日の戦闘に拡大し、逆にフランス軍の予備兵力が消耗させられる結果となった。ナポレオン1世とウェリントン公の双方がウーグモンの確保が会戦の勝利の鍵と考えていたとする見方もある。ウーグモンはナポレオン1世から良く見渡すことができた場所であり、彼は午後の間中、兵力をこことその周辺に総計で33個大隊、14000人を送り続けてた。同様にウェリントン公も、本来なら大兵力を収容することができないこの邸宅に21個大隊、12000人を投入し、窪み道を守り通せたため補充兵や弾薬を邸宅内の建物に供給し続けることができた。戦闘中、ウェリントン公は敵軍からの激しい圧力を受けている中央部から砲兵隊を引き抜いてウーグモンを支援させており、後になって「会戦の勝利はウーグモンの門を閉じ続けることに掛かっていた。」と述べた。
 フランス軍の大砲列(grande batterie)80門が中央部に整列した。英蘭軍第2軍団長、ローランド・ヒル(初代ヒル子爵、Rowland Hill, 1st viscount Hill, GCB, GCH)によれば11時50分(史料により正午〜13時30分)、砲撃の開始は大砲列は正確な照準を付けるには遠すぎる位置に布陣しており、目視できたのはオランダ軍師団の一部だけであり、その他の英蘭軍の部隊は反対斜線に布陣していた。それでも砲撃は多大な損害を与えた。しかし、地面が軟弱で砲撃による跳弾効果が妨げられていて、さらにフランス軍砲兵は英蘭軍の布陣全域を砲撃せねばならず、砲撃の集弾性が低くなった。この時のナポレオン1世の命令は敵を驚かせ、士気を萎えさせることであり、敵に大きな物理的損害を出させることではなかった。
 午前11時頃、ワランという小村を通った時、右翼軍司令の第2代グルーシー侯エマニュエルは軍に小休止を命じ、明日執るべき行動についての指示を問う連絡文を書くため公証人の屋敷に入った。書き上げこれを急送するように命じたグルーシー侯は、早めの昼食を1人で摂り始めた。第4軍団の初代ジェラール伯エティエンヌ・モーリス(Étienne Maurice, comte Gérard)中将が工兵隊長のヴァラゼと砲兵隊長のバルテュスを従えて入って来て、「西の方角で砲声がします。」、「戦闘が始まったのでしょう。砲声がする方向に進軍すべきだと思います。」と言った。「部下の士官の何人かが地面に耳をつけて音のする方角を確かめた。」とも付け加えた。グルーシー侯はデザートの苺クリームを食べ掛けていたが、匙を手に持ったまま疑わしげに相手を見返した。モン・サン・ジャンの方向からの砲声はグルーシー侯の司令部でも聞かれ、グルーシー侯は、ジェラール伯エティエンヌ・モーリスから「砲声が聞こえる方向に進撃しなければなりません。これは戦場のイロハでしょう!」との進言を受けた。グルーシー侯は「私の義務は皇帝の命令を実行することだ。」と、反論を許さぬ口調で「これで話は終りだ。」という態度を取った。
 13時頃、ナポレオン1世はフランス軍右側面から4〜5マイルほど(3時間程度の行軍距離)の場所にあるラスン・シャペル・サン・ランベール村周辺にいるプロイセン軍の第1陣を目にした。ナポレオン1世は参謀長のニコラ・ジャン・ド・デュ・スールトに対して「直ちに戦場に駆けつけプロイセン軍を攻撃せよ。」との伝令をグルーシー侯へ送るように命じた。
だが、この時のグルーシー侯は「(プロイセン軍を追撃して)貴官の剣をもって敵の背後を突け。」との以前のナポレオン1世の命令を遂行するためワーヴルに向かっており、砲声が西に聞こえるのに北に向けて進撃を命じた。彼は以前に受けた命令に固執し、ティールマン男爵ヨハン・アドルフ(Johann Adolf, Freiherr von Thielmann)中将率いるプロイセン軍第3軍団後衛部隊とのワーヴルの戦いを始めた。臨機応変の柔軟性は持ち合わせていないグルーシー侯の判断により、彼の麾下の33000人ものフランス軍がワーテルローの戦いに参戦できなくなった。さらに13時にニコラ・ジャン・ド・デュ・スールトがグルーシー侯に宛てた「直ちに移動して本隊と合流し、ビューローを叩け。」とのナポレオン1世の命令を携えた伝令は道に迷い、19時になるまで到着しなかった。ニコラ・ジャン・ド・デュ・スールトは、06月17日22時のグルーシー侯への命令伝達に1人の伝令を出していた。これを知ったナポレオン1世は「ベルティエなら百人の伝令を送っていたぞ。」と叱責した。ルイ・アレクサンドル・ベルティエは特別に編成された伝騎の小集団を組織しており、伝令も6人を出していた。ニコラ・ジャン・ド・デュ・スールトは最近までブルボン王政の一翼を担った元帥で、ナポレオン1世はそれを百も承知の上で、恐らく多額の報償を約束して配下に引きこんだ。ナポレオン・ボナパルトは、軍隊内の人事では意外に保守的で、年功序列を尊重した。
 13時過ぎにエルロン伯ジャン・バティスト・ドルーエ(デルロン)の第1軍団が攻撃を開始した。左翼をジョアヒム・ジェローム・キオ・デュ・パサージュ(Joachim Jérôme Quiot du Passage)将軍の第1師団、中央をフランソワ・ザビエル伯ドンズロ(Donzelot, comte François-Xavier)将軍の第2師団ピエール・ルイ・ビネ・ド・・マルコニェ(Pierre-Louis Binet de Marcognet)将軍の第3師団そして右翼をピエール・フランソワ・ジョゼフ・デュリット(Pierre François Joseph Durutte)将軍の第4師団が受け持ったが、第1・第2・第3師団は「大隊編成の師団縦隊」と呼ばれる密集隊形を取り、この隊形は戦術的融通性がなく敵砲兵の格好の的になった。デュリット将軍の第4師団のみは「分割された大隊縦隊」と呼ばれる縦深の深い隊形で進軍していた。「分割」を意味していた「division」を「師団」の意味と取り違えた命令が司令部から伝達された不手際だった。
 フランソワ・ザビエル伯ドンズロ将軍率いる左端の第2師団がラ・エー・サントに進撃した。1個大隊が正面の守備隊と交戦する間に後続の大隊が両側に展開し、いくつかの胸甲騎兵大隊の支援を受けつつ、農場の孤立化に成功した。ラ・エー・サントが分断されたと見たオラニエ・ナッサウ公ウィレム・フレデリック・ヘオルヘ・ローデウェイクはハノーファー・リューネブルク大隊を投入してこれを救出しようと試みた。だが、地面の窪みに隠れていた胸甲騎兵がこれを捕捉して瞬時に撃破してしまい、それからラ・エー・サントを通り越して尾根の頂にまで進出し、進撃を続けるエルロン伯ジャン・バティスト・ドルーエ(デルロン)の左側面を守った。13時30分頃、エルロン伯ジャン・バティスト・ドルーエ(デルロン)は残る3個師団に前進を命じ、14000人以上のフランス軍兵士が英蘭軍左翼の守る約1000mの戦線に展開した。彼らが対する英蘭軍は6000人であり、第1線はバイラント伯ウィレム・フレデリック(Willem Frederik graaf van Bylandt)率いるオランダ・ベルギー軍第2師団第1旅団によって構成されていた。第2線はトマス・ピクトン(Sir Thomas Picton)中将率いるイギリス王国およびハノーファー兵の部隊であり、尾根の背後の死角に伏せていた。これらの部隊はいずれもカトル・ブラの戦いで大きな損害を出していた。加えて、戦場のほぼ中央部に配置されたバイラント伯の旅団は砲撃に身を晒す斜面前方に布陣していた。命令を受けていなかった彼らは危険な場所に留まっていた。砲撃によって大打撃を受けていたバイラント伯の旅団はフランス軍の攻撃に抗しきれずに窪み道へ退却し、将校のほとんどが戦死するか負傷し兵力の40%を失ってしまい、ベルギー第7大隊を残して戦場から離脱した。デルロンの兵は斜面を駆け上がり、そこにトマス・ピクトンのスコットランド騎兵隊「スコッツ・グレー」が立ち上がって銃撃を浴びせた。
体重のある灰色の馬に跨がっているので「グレー」と呼ばれ、トマス・ピクトンは有名なビーバーの毛皮の帽子をかぶり、軍服でなくモーニング姿だった。フランス歩兵も応戦し、8000対2000と数に勝る彼らはイギリス兵を圧迫した。デルロンの攻撃は英蘭軍中央部をたじろがせることに成功し、デルロンの左側の英蘭軍戦列が崩れはじめた。トマス・ピクトンは再集結を命じた直後に戦死し、スコッツ・グレーもほとんど全員が死傷し、敵の数に圧倒された英蘭軍の兵士たちも挫け掛けていた。
 この決定的な時点で、英蘭軍の騎兵軍団を指揮する第2代アクスブリッジ伯ヘンリー・ウィリアム・パジェット(Henry William Paget, , 2nd earl of Uxbridge、初代アングルシー侯ヘンリー・ウィリアム・パジェット(Henry William Paget, 1st marquess of Anglesey KG GCB GCH PC))は過大な重圧を受けている歩兵部隊を救援すべく、敵から見えない尾根の背後で整列していた近衛騎兵旅団(Household Brigade)の名で知られる第1騎兵旅団(エドワード・サマセット(Edward Somerset)少将)と連合騎兵旅団(Union Brigade)の名で知られる第2騎兵旅団(ウィリアム・ポンソビー(Sir William Ponsonby KCB)少将)の2個重騎兵旅団に突撃を命じた。
およそ20年におよぶ戦乱により、ヨーロッパ大陸では騎乗に適した馬が激減しており、この結果、西暦1815年戦役に参加したイギリス軍重騎兵は同時代の欧州諸国の騎兵部隊の中でも最も優れた馬を用いており、彼らはまた優れた馬上剣術の訓練を受けてもいた。しかしながら、彼らは大部隊での機動についてフランス騎兵に劣り、態度は尊大であり、歩兵と違って実戦経験が不足していた。ウェリントン公の言によれば、「彼らは戦術能力も思慮分別もほとんどなかった。」2個の騎兵旅団の兵力はおよそ2000騎(定数2651騎)であり、47歳になるアクスブリッジ伯ヘンリー・ウィリアム・パジェットが率いていたが、彼は不適切な数の予備兵力しか用意しておかなかった。会戦の日の朝、アクスブリッジ伯は配下の騎兵旅団長たちに対して戦場では自分の命令が常に届くとは限らないので、各々自らの判断で行動するよう告げ、「前線に対して支援する運動をせよ。」と命じていた。この際、アクスブリッジ伯はヴァンドルー少将、初代ヴィヴィアン男爵リチャード・ハッシー(Richard Hussey Vivian, 1st Baron Vivian GCB GCH PC)少将そしてオランダ・ベルギーの各騎兵隊がイギリス重騎兵隊を支援することを期待していた。後にアクスブリッジ伯は前進に際して十分な数の予備隊を編成させなかったことに関して「私は大きな誤りを犯した。」と後悔の念を吐露した。
 近衛騎兵旅団は尾根の頂の英蘭同盟軍布陣地を越えて丘の下へと突撃した。エルロン伯ジャン・バティスト・ドルーエ(デルロン)の左翼を守っていた胸甲騎兵は散開しており、深く窪んだ街道へと追いやられ、総崩れになった。窪み道は罠と化し、イギリス軍騎兵に追われた胸甲騎兵たちを彼らの右方向へと押し流した。胸甲騎兵たちの一部は窪み道の急勾配と前方の混乱した友軍歩兵の集団との間に挟まれてしまい、そこへ英軍第95歩兵連隊が窪み道の北側から銃撃をし、エドワード・サマセットの重騎兵が背後から彼らを押し続けた。この装甲化した敵との物珍しい戦闘はイギリス騎兵たちに強い印象を与えた。近衛騎兵旅団左翼の大隊は戦闘を続け、フランス軍第2師団第2旅団(オーラール少将)を撃破した。司令部は彼らを呼び戻そうと試みたものの、彼らは前進を続けてしまい、ラ・エー・サントを通り過ぎて丘の下に出た所で方陣を組む第1旅団(シュミット少将)と出くわした。左翼では連合騎兵旅団が自軍の歩兵の隊列をすり抜けて突撃しており、この際に「第92歩兵連隊(Gordon Highlanders)の兵士の幾人かが馬の鐙金にしがみついて突撃に参加した。」との伝説が生まれた。中央左側では第2竜騎兵連隊(Scots Greys)が第1師団第2旅団(ブルジョワ少将)の第105連隊を撃破して鷲章旗を奪取した。第6竜騎兵連隊(Inniskillings)はその他のフランス軍第1師団(ジョアヒム・ジェローム・キオ・デュ・パサージュ少将)の旅団を敗走させ、第2竜騎兵連隊は第3師団第2旅団(クルニエ少将)も叩きのめして第45連隊の鷲章旗を奪い取っている。だが、英蘭軍の左端ではピエール・フランソワ・ジョゼフ・デュリット(Pierre François Joseph Durutte)将軍のフランス軍第4師団が方陣を組む時間的余裕を得て、第2竜騎兵連隊を追い払った。近衛騎兵旅団と同様、連合騎兵旅団の将校たちも部隊の統率が失われていたために兵を引くことが難しくなっていた。第2竜騎兵連隊の指揮官ジェームズ・イングリス・ハミルトン(James Inglis Hamilton、本名: ジェイミー・アンダーソン(Jamie Anderson))は攻撃続行を命じ、フランス軍砲兵隊列に突進した。第2竜騎兵連隊は大砲を使用不能にしたり鹵獲する道具も時間的余裕もなかったが、彼らが砲兵たちを殺すか逃亡させたため結果的に大砲のほとんどが無力化された。
 この様子を見ていたナポレオン1世は即座にフラリンヌとトラバーサーの2個胸甲騎兵旅団そして第1軍団の軽騎兵師団に所属する2個槍騎兵(Chevau-léger)連隊に反撃を命じた。イギリス軍騎兵はすでに疲労困憊しており、そこをフランス騎兵に突かれ、連合騎兵旅団は叩きのめされ、近衛騎兵旅団は包囲され、たちまち危機に陥った。ウェリントン公はヴァンドルー少将率いるイギリス軍軽竜騎兵隊、初代ヴィヴィアン男爵リチャード・ハッシー少将のオランダ・ベルギー軽竜騎兵および驃騎兵そしてトリップ少将のオランダ・ベルギー騎銃兵救出に差し向けたが、英蘭軍の騎兵隊はこの突撃で2500騎を失う甚大な被害を蒙ることになった。連合騎兵旅団は将校と兵士が多数戦死傷し、旅団長のウィリアム・ポンソビー(Sir William Ponsonby KCB)と第2竜騎兵連隊長のハミルトン大佐が戦死した。近衛騎兵旅団の第2近衛騎兵連隊(Life Guards)と近衛竜騎兵連隊もまた近衛竜騎兵連隊長フラー大佐の戦死を含む大損害を出した。 この一方で突撃の最右翼にいた第1近衛騎兵連隊(Life Guards)と予備に控置された王室近衛騎兵連隊(Blues)は統率を保つことができ、犠牲者数はごく少数だった。第8ベルギー軽騎兵連隊の戦いぶりを見た、この突撃の目撃者による手記は「気違いじみた勇敢さ。」と回想している。
 20000以上のフランス軍将兵がこの攻撃に加わった。この失敗は多数の犠牲者(捕虜3000を出している)だけでなく、ナポレオン1世に貴重な時間を失わせることになり、今やプロイセン軍が戦場の右手に姿を現し始めていた。
ナポレオン1世はプロイセン軍を押し止めるべく、ロバウ伯ジョルジュ・ムートン(Georges Mouton, comte de Lobau)の第6軍団と2個騎兵師団の兵15000の予備兵力を割かざる得なくなった。これにより、ナポレオン1世は近衛軍団を除く予備の歩兵戦力を全て投入したことになり、今や劣勢な兵力をもって英蘭軍を速やかに打ち破らねばならなくなった。15時30分、ナポレオンはミシェル・ネイ元帥に対してラ・エー・サントの奪取を厳命し、ミシェル・ネイはエルロン伯ジャン・バティスト・ドルーエ(デルロン)の第1軍団から引き抜いた2個旅団の兵力を持ってラ・エー・サントへの攻撃を開始した。この戦闘が行われていた16時少し前、ミシェル・ネイは「英蘭軍中央部に後退の動きがある。」と感じ取った。彼は「この機を逃さず突破口にしよう。」と考えたが、実際には彼は「負傷兵や捕虜の後送を撤退の兆候である。」と誤解していた。エルロン伯ジャン・バティスト・ドルーエ(デルロン)の敗退の後、ミシェル・ネイの手元には僅かな数の歩兵予備戦力しか残されておらず、他は実りのないウーグモン攻撃か、右翼の防衛に回されていた。このためミシェル・ネイ元帥は英蘭軍中央部を騎兵戦力のみで突破しようとした。
 第1次攻撃はエドゥアール・ジャン・バティスト・ミヨー(Édouard Jean Baptiste Milhaud)将軍の第4騎兵軍団の胸甲騎兵とルフェーブル・デヌエット(またはルフェーブル・デノエット)伯シャルル(Charles, comte Lefebvre-Desnouettes または Lefèbvre-Desnoëttes)将軍の近衛軽騎兵師団の合わせて4800騎をもって敢行された。この攻撃はあまりに性急に組織されたものであり、掩護の歩兵も砲兵もなく決行された。英蘭軍の歩兵は20個の方陣(四角形の陣形)を組んでこれに対抗した。方陣は戦闘を題材とした絵画によく描かれるものよりも小さめで、500人の大隊方陣は18m四方程度である。方陣は砲撃や歩兵に対しては脆弱だが騎兵にとっては致命的だった。方陣には側面攻撃ができず、馬は銃剣の矢ぶすまの中に突入できない。ウェリントン公は砲兵に対して敵騎兵が近づいたら方陣の中に逃げ込み、敵が退却したら再び大砲に戻り戦うように命令していた。
 フランス軍騎兵の攻撃を目撃したイギリス軍リース・ハウエル・グロノウ近衛歩兵大尉はその印象を非常に明快かつ幾分か詩的に書き残している。「午後04時頃、敵軍の砲撃が突然止み、我々は騎兵の大集団の進撃を目にした。この場にいて生き残った者は恐ろしい程に壮観なこの突撃を生涯忘れることはないだろう。圧倒的な、長く揺れ動く戦列が現れ、彼らはさらに前進し、陽光を浴びた海の大波のごとくに煌めいた。彼らが近づくにつれて雷鳴のような馬蹄の響きによって地面が揺れ動くようだった。この恐ろしい動く集団の衝撃に抗しうると考えるものは誰もいなかったろう。彼らは有名な胸甲騎兵、そのほとんどがヨーロッパの数々の戦場でその名をはせた古参兵たちだった。驚くほど短い時間で彼らは20ヤードにまで迫り、『皇帝陛下万歳!(Vive l'Empereur!)』と叫んだ。『騎兵に備えよ。』と命令が下り、最前列の兵たちが跪き、そして鋼鉄の棘が逆立った1つの壁となり、団結して、怒り狂う胸甲騎兵に立ち向かった。」

 この騎兵による集団攻撃は心理的衝撃効果の有無にほとんど完全に依存していた。砲兵による近接支援が歩兵の方陣を崩して騎兵の突入を可能にするが、ワーテルローの戦いにおいてはフランス軍騎兵と砲兵の協同は拙劣なものだった。英蘭軍歩兵を叩ける距離まで近づいた砲兵の数は十分ではなかった。この突撃に際してフランス軍の砲撃は英蘭軍に死傷者を出させた。イギリス軍は稜線の内側に後退していたので、フランス軍砲兵士官は稜線上からイギリス軍を視認することが出来たため効果的に砲撃を行ったためだった。もしも、攻撃を受けた歩兵が方陣防御の陣形をしっかり保ち、恐慌に陥らなければ、騎兵それ自体では歩兵に対してほんの僅かな被害しか与えられない。フランス軍騎兵の突撃は不動の歩兵方陣によって繰り返し撃退され、イギリス砲兵の絶え間ない砲撃によってフランス騎兵は再編成のために斜面を下ることを強いられ、そしてイギリス軍軽騎兵連隊、オランダ軍重騎兵旅団そして近衛騎兵旅団の生き残りによる果断な反撃を受けることになった。少なくとも1人の砲兵士官は突撃を受けた時に「最寄りの方陣に逃げ込め。」とのウェリントン公の命令に従わなかった。王室騎馬砲兵(Royal Horse Artillery)のアレクサンダー・カヴァリエ・マーサー大尉(Alexander Cavalié Mercer)は「両側で方陣を組むブラウンシュヴァイク兵は当てにならない。」と考え、この戦闘の間中、9門の6ポンド砲を敵に向けて戦い続け、多大な戦果をあげた。「私は彼らの縦隊の先頭が50から60ヤードに近づくまで、彼らを前進するにまかせ、それから「撃て!」と命じた。その効果は恐るべきものだった。先鋒のほとんど全員が一度に倒れ、縦隊を突き抜ける砲弾は全体に混乱を引き起こした … 全ての大砲からの砲撃が続けられ、人や馬を倒し、それはまるで草刈鎌で雑草を薙ぎ払うようだった。」理由は定かではないが、フランス軍が英蘭同盟軍の砲兵隊列を制圧しても、砲尾に穴を開けて使用不能にしておかなかった。そのため、方陣に逃げ込んでいた英蘭軍砲兵たちはフランス騎兵が撃退されると大砲のあった場所に戻り、再び彼らに砲撃を浴びせることができた。
 ミシェル・ネイは4度の突撃を敢行させたが、遂に英蘭軍の方陣を突破することはできなかった。
ナポレオン1世は「ミシェル・ネイの攻撃は時期尚早に過ぎ失策である。」とは思っていたが、一方でプロイセン軍が右側面から迫っている状況でもあり、まずは早急に英蘭軍を撃破すべきであり、中央部への攻撃を続行させる決断をした。エドゥアール・ジャン・バティスト・ミヨーとルフェーブル・デヌエット伯シャルルの残存兵力にフランソワ・クリストフ・ケレルマン将軍の第3騎兵軍団と帝国伯クロード・エティエンヌ・ギュヨー(Claude-Étienne Guyot, comte d'Empire)将軍の近衛重騎兵師団が加えられ、総兵力は67個騎兵大隊9000騎となった。「この攻撃は無意味である。」と認識していたフランソワ・クリストフ・ケレルマンは精鋭の銃騎兵旅団を予備として控えさせ、戦闘に参加させなかったが、このことを見抜いたミシェル・ネイが彼らの投入を要求した。8度の突撃が行われ、ある方陣は23度も攻撃を受けたが、今回も砲兵は1個中隊しか加わっておらず、英蘭軍は1つの方陣も崩壊せず、ミシェル・ネイの攻撃はまたも頓挫した。被害の大きく実りのない攻撃がモン・サン・ジャン尾根に繰り返された末にフランス軍騎兵は消耗し尽くしてしまった。フランス軍の高級騎兵将校、とりわけ将官は大きな損失を被った。勇敢さ故指揮官が部隊の先頭に立つ習慣のために、フランス軍の師団長4人が負傷し、旅団長は9人が負傷し、1人が戦死した。死傷者数は簡単には見積もれないが、例として、06月15日時点で796人いた近衛擲弾騎兵連隊(Grenadiers à Cheval )は06月19日には462人になっており、近衛竜騎兵連隊(l'Impératrice Dragons)は同じ期間に816人中416人を失った。
 ここに至り、「騎兵単独では僅かしか成し得ない。」と、ミシェル・ネイ元帥もようやく悟った。遅まきながら彼は諸兵科連合での攻撃を組織することにし、オノレ・シャルル・ミッシェル・ジョゼフ・レイユ将軍の第2軍団からバシュルュ将軍の第5師団とフォワ将軍の第9師団からティソ大佐の連隊を抽出させて兵6500を集め、これに騎兵のうち未だ戦闘可能な者たちを加えさせた。今回の攻撃もそれまでの重騎兵による攻撃と同じ経路が用いられた。この攻撃は第2代アクスブリッジ伯ヘンリー・ウィリアム・パジェット率いる近衛騎兵旅団によって止められたが、イギリス騎兵の攻撃はフランス軍歩兵を突破することができず、銃撃の損害により後退を強いられた。バシュルュとティソの歩兵と彼らを支援する騎兵たちは砲撃とフレデリック・アダム少将のイギリス軍第3旅団の銃撃にひどく叩かれ、後退を余儀なくされた。フランス騎兵自体は英蘭軍中央部に僅かな死傷者しか与えられなかったが、方陣に対する砲撃は多数の犠牲者を出させていた。最左翼に布陣していたヴァンドルー少将の第4騎兵旅団と初代ヴィヴィアン男爵リチャード・ハッシー少将の第6騎兵旅団を除く、英蘭軍の騎兵はこの戦闘に投入されて、多大な損害を受けていた。英蘭軍にとっても危険な状態であり、カンバーランド驃騎兵連隊(この戦いに参加した唯一のハノーファー騎兵)は戦場から逃げ出し、ブリュッセルまでの道中で敗戦の噂を撒き散らした。その後、連隊長は軍法会議に掛けられて除隊させられた。この際、彼は「部下の兵士(全員が裕福な若いハノーファー人)たちは自らの馬で参戦しており、彼らに戦場に留まるよう命じられなかった。」と主張した。戦いの後に連隊は解散させられ、兵士たちは彼らが不名誉と考える任務に就かされた。4人がマーサー大尉の騎馬砲兵隊に配属されたが、マーサー大尉は彼らを「どいつもこいつも呆れるほど怒りっぽく拗ねている。」と評した。ミシェル・ネイの諸兵科連合攻撃が決行された時を同じくして、エルロン伯ジャン・バティスト・ドルーエ(デルロン)の第1軍団も兵を集結させ、第13歩兵連隊を先鋒にラ・エー・サントへの攻撃を再開した。ラ・エー・サントは国王直属ドイツ人部隊(KGL)が守備していたが、英蘭軍は他の方面での戦闘に忙殺されてここへの弾薬の補給が滞っており、フランス軍の猛攻を受けた国王直属ドイツ人部隊は支えきれずに退却し、400人いた兵士は僅か42人に減っていた。
 ラ・エー・サントを占領したミシェル・ネイは、騎馬砲兵を英蘭軍中央部に向けて移動させると歩兵の方陣に対して短射程の蒲萄弾を用いた砲撃を加えた。これによって目に付きやすい方陣を組んでいた第27歩兵連隊(Inniskilling)そして第30および第73歩兵連隊は多数の犠牲者を出して撃破された。この時、英蘭軍の中央部は危険なほど手薄になっており、もう一撃でミシェル・ネイは中央部を突破しえるところまで来たが、彼にはそれを実行する予備兵力がなかった。
ミシェル・ネイはナポレオン1世の本営に増援を求めたものの、この時すでにプランスノワ(Plancenoit)でプロイセン軍との戦闘が始まっている状況でありその余裕はなく、使者に対してナポレオン1世は「もっと兵隊を寄越せだと!?どこからそんなものが手に入る?奴は私が兵士を作れるとでも思ってるのか?」と言い放った。実際にはナポレオン1世の手元には皇帝近衛軍団の15個大隊の無傷の兵力が残されていたが、彼はこの最後の予備戦力を投入する決断ができなかった。ウェリントン公は兵力を掻き集めて戦線の穴を塞ぐよう努め、「最後の一兵まで戦場に踏み止まれ、今少しで救済は得られる。」と兵を叱咤した。
 16時頃、ビューロー男爵およびデンネヴィッツ伯フリードリヒ・ヴィルヘルム中将のプロイセン軍第4軍団がフランス軍の前哨部隊と接触し始めた。彼の目標はプランスノワであり、プロイセン軍はここをフランス軍の背後に回り込む跳躍台に使うことを計画していた。ゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘル元帥はパリの森の道を通過する自軍の右側面を守るためにフリシェルモン(Frichermont)の集落を確保することを考えているゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘルとウェリントン公はこの日の10時から連絡を取り合っており、もしも英蘭軍の中央部が攻撃されていたら、フリシェルモンへ進出することになっていた。「プランスノワへの道が空いている。」とビューロー男爵フリードリヒ・ヴィルヘルム将軍が気づいたのは16時30分のことだった。この時はフランス軍騎兵による攻撃が最高潮に達しており、英蘭軍の左側面を守るナッサウ軍と連携すべくフリシェルモンーラ・エイ(la Haie)間の地域へ第15旅団が派遣された。ナポレオン1世はプランスノワへ向けて進軍中のビューロー男爵フリードリヒ・ヴィルヘルムの第4軍団を迎撃すべく、ロバウ伯ジョルジュ・ムートン将軍の第6軍団を差し向けた。プロイセン軍第15旅団は決死の銃剣突撃でフリシェルモンにいたロバウ伯の兵を追い払い、そのままフリシェルモンの高地に進出して「12ポンド砲でフランス軍猟兵を打ちのめす。」とプランスノワへ向かった。これによってロバウ伯の軍団はプランスノワ方面へ退却させられ、結果的にロバウ伯はフランス軍の右翼後方を通り過ぎることになり、唯一の退却路であるシャルルロワーブリュッセル街道が直接脅かされることになった。ヒラー将軍のプロイセン軍第16旅団もまた6個大隊をもってプランスノワへと進撃していた。ナポレオンは押しまくられているロバウ伯への増援として新参近衛隊の全力である8個大隊を送った。新参近衛隊は反撃を行い、激戦の末に一旦はプランスノワを確保したものの、プロイセン軍の逆襲を受けて駆逐されてしまった。ナポレオン1世は更に中堅近衛隊と古参近衛隊から2個大隊を派遣し、熾烈な銃剣戦闘の末に村を奪回した。頑強なプロイセン軍は未だ打ち倒されてはおらず、18時30分にはピルヒ中将の第2軍団の兵15000も来着し、ビューロー男爵およびデンネヴィッツ伯フリードリヒ・ヴィルヘルムの第1軍団主力とともにプランスノワ攻撃を準備した。
 18時頃、ハンス・エルンスト・カール・フォン・ツィーテン(Hans Ernst Karl von Zieten)将軍の第1軍団20000がオアンに到着した。ウェリントン公との連絡将校を務めるミュッフリンクが第1軍団の許を訪れた。この時、ハンス・エルンスト・カール・フォン・ツィーテンは既に第1旅団を繰り出していたが、英蘭軍左翼のナッサウ軍部隊やプロイセン軍第15旅団の戦いぶりと犠牲者数を見て憂慮するようになっていた。これらの部隊は退却しているように見受けられ、「自分の部隊が総崩れに巻き込まれるのではないか。」と恐れたハンス・エルンスト・カール・フォン・ツィーテンは英蘭軍の側面から離れてプロイセン軍の主力がいるプランスノワへ向かおうとしていた。この動きを知ったミュッフリンクは英蘭軍の退却は事実無根であり、彼らの左翼を支援するようハンス・エルンスト・カール・フォン・ツィーテンを説得した。ハンス・エルンスト・カール・フォン・ツィーテンは当初の方針通りに英蘭軍を直接支援することにし、彼の軍団の到着により、ウェリントン公は左翼の騎兵を崩壊しかけていた中央へ振り向けることができた。第1軍団はパプロット前面でフランス軍を攻撃し、19時30分にはフランス軍の戦線は馬蹄型へ捻じ曲げられてしまった。戦線の左端はウーグモン、右がプランスノワ、中央はラ・エイとなった。一連の攻撃を受けたピエール・フランソワ・ジョセフ・デュリュット(Pierre François Joseph Durutte)のフランス軍第4師団はラ・エイとパプロットに陣取っていたが、プロイセン軍第24連隊に抵抗することなくソムランの背後にまで後退した。第24連隊は新たなフランス軍の布陣地を攻撃したが撃退され、シュレジェン・ライフル兵(Schützen )連隊と第1後備兵(Landwehr)連隊の支援を受けて再度攻撃を仕掛けた。この再攻撃を受けフランス軍は一旦は後退させられたものの、激しく抵抗し始め、ソムラン奪回を図り、尾根やパプロットの集落の最後の数軒に立て籠もって死守した。第24連隊は右側でイギリス軍ハイランダー大隊と結びつき、第13後備兵連隊や騎兵の支援を受けてこの場所からフランス軍の兵士を追い立てた。第13後備兵連隊と第15旅団の攻撃により、フランス軍はフリシェルモンから駆逐された。ピエール・フランソワ・ジョセフ・デュリュットの師団は「ツィーテンの第1軍団騎兵予備から大規模な突撃を受けかねない。」と考え、戦場から退却した。これにより、第1軍団はフランス軍の唯一の退路だったブリュッセル街道へ前進した。
 この一方、ラ・エー・サントが陥ちたことで英蘭軍中央部が剥き出しになり、プランスノワの戦線は一時的に小康を得た。ナポレオン1世はこれまで無敵を誇ってきた皇帝近衛隊の投入を決めた。19時30分に決行されたこの攻撃は英蘭軍の中央を突破してその戦線をプロイセン軍から引き離すことにあった。この突撃は軍事史上名高い出来事だが、具体的にどの部隊が参加したのかは不明。「この攻撃は古参近衛隊の擲弾兵や猟歩兵ではなく、中堅近衛隊5個大隊によって行われた。」と見られる。古参近衛隊3個大隊は前進し、攻撃の第2陣を構成したものの、彼らは予備のまま留め置かれ英蘭軍に対する攻撃には直接加わっていない。蒲萄弾による砲撃や散兵からの銃撃を受けつつ、およそ3000の中堅近衛兵はラ・エー・サントの西側にまで前進し、攻撃のために3方向に別れた。2個中堅近衛擲弾兵大隊からなる集団はイギリス兵、ブラウンシュヴァイク兵そしてナッサウ兵からなる第1線を突破し、比較的損害の少ないデヴィッド・ヘンドリック・シャッセ(David Hendrik Chassé)将軍のオランダ・ベルギー軍第3師団が彼らに対するべく差し向けられ、英蘭軍の砲兵が勝ち誇る中堅近衛擲弾兵の側面を攻撃した。これでもなお中堅近衛隊の前進を止められなかったために、シャッセは自らの第1旅団に数に劣る中堅近衛隊に対する突撃を命じ、中堅近衛隊は怯んで粉砕された。西側ではペレグリン・メイトランド(Sir Peregrine Maitland, GCB)少将のイギリス軍第1近衛旅団1500人がフランス軍の砲撃から身を守るために伏せていた。フランス軍第2波である2個中堅近衛猟歩兵大隊が接近するとメイトランドの近衛歩兵は立ち上がり、猛烈な一斉射撃を浴びせた。中堅近衛隊の猟歩兵はこれに応戦すべく展開したが、浮き足立ち始めた。イギリス軍近衛歩兵隊による銃剣突撃がこれを打ち破った。無傷の近衛猟歩兵大隊からなる第3波が支援のために駆けつけた。イギリス軍近衛兵は後退し、フランス軍の中堅近衛猟歩兵がこれを追った。初代シートン男爵ジョン・コルボーン(John Colborne, 1st Baron Seaton, GCB, GCMG, GCH)中佐率いる第52軽歩兵連隊が彼らの側面に回りこみ、強烈的な射撃を浴びせかけ突撃した。この猛攻により、フランス軍第3波も撃破された。最後の皇帝近衛隊が一目散に退却すると、フランス軍の前線に「近衛隊が退却した。我が身を守れ! "La Garde recule. Sauve qui peut!" 」と仰天すべき知らせが駆け巡り、恐慌が巻き起こった。一方、愛馬のコペンハーゲン号に跨ったウェリントン公は帽子を頭上に振って総進撃を命じ、「始めたからにはやり通せ。"In for a penny, in for a pound."」と言った。陣地から飛び出した彼の軍隊は、退却するフランス軍に襲いかかった。生き残った皇帝近衛隊の兵士たちは最後の抵抗とすべく、予備としてラ・エー・サント南側に後置されていた3個大隊(史料より4個大隊)の許に集まった。フレデリック・アダム少将の第3旅団とハノーファー軍後備兵連隊オスナブリュック大隊に加えてヴァンドルー少将と初代ヴィヴィアン男爵リチャード・ハッシー少将の比較的傷が浅い騎兵旅団が右側から突撃し、皇帝近衛隊を混乱に陥れた。ある程度統率を保っていた左側の皇帝近衛隊はラ・ベル・アリアンスの方向へ退却した。

 この退却の最中、皇帝近衛隊の指揮官ピエール・ジャック・エティエンヌ・カンブロンヌ(Pierre Jacques Étienne Cambronne)は、敗北が決まり降伏を迫るイギリス軍に対して「近衛隊は死すとも降伏せず。"La Garde meurt, elle ne se rend pas!"」といったというのは後世に創作された歴史上の発言とする見方がある。本当はたった一言、「糞ったれ!"Merde!"(メルド、仏語で「糞便」の意)」と言い放ち、拒否した。フランスでは「カンブロンヌの一言」または「カンブロンヌの5文字」といえば、この「糞ったれ(メルド)!」を意味する。「糞便(メルド)」と捏造、さすが汚腐乱巣はヨーロッパの朝鮮。古参近衛隊は壊滅したが彼自身は、流れ弾が額に命中したが距離があったため弾丸の威力が殺がれ、一命を取り留めた。意識を失い捕虜となってイギリス王国に護送されたが、彼の看護を受け持ったイギリス人女性と結婚した。ピエール・ジャック・エティエンヌ・カンブロンヌはこれ以前に既にヒューグ・ハケット大佐の捕虜になっており、もし本当にこの言葉が発せられたなら、それはクロード・エティエンヌ・ミシェル将軍という不思議さだ。歴史は何段にも捏造される。
 同じ頃、プロイセン軍第5、第14、第16旅団がこの日3度目となるプランスノワへの攻撃を開始した。村の教会は炎上し、フランス軍の抵抗の中心となっていた墓地では「竜巻が起きたように」死体が撒き散らされた。新参近衛隊を支援するために中堅近衛隊5個大隊が展開したものの、実際上、彼らの全てがロバウの軍団の残存兵とともに防戦を行っていた。プランスノワ攻防の要は南側にあるシャトレの森であり、ピルヒ中将の第2軍団に所属する2個旅団が到着して、この森を突破しようとする第4軍団を増強した。プロイセン軍第25連隊マスケット銃大隊は第1古参近衛擲弾兵連隊第2大隊をシャトレの森から逐うとプランスノワの側面を攻撃し、フランス軍に退却を強いた。これはこの日、プランスノワの占拠主が変わる5度目にして最後のことだった。古参近衛隊は整然と退却したが、恐慌状態で退却する友軍の群れに巻き込まれて、彼らもその一部となった。プロイセン第4軍団がプランスノワを越えて前進するとイギリス軍の追撃を受けて無秩序に敗走するフランス軍の群れに遭遇した。プロイセン軍は英蘭軍部隊に当たることを恐れて発砲を控えた。皇帝近衛隊とともに退却しなかったフランス軍部隊は陣地で降伏して殺害された。その際、双方とも命乞いの求めも申し出もなかった。プランスノワの攻防の死傷者数に関する資料は存在しないが、この戦いに参加したフランス軍第6軍団と新参近衛師団の将校のうち3分の1が死傷していることが戦いの激しさを物語っている。
 プロイセン軍第4軍団所属第25連隊公刊戦史にっよれば、「偉大な勇気と粘り強さにも関わらず、村で戦っていた皇帝近衛隊は動揺の兆しを見せ始めた。教会は既に炎上しており、赤い火柱が窓や側廊そして扉から吹き上がっていた。未だに激しい白兵戦闘が行われている集落の家々も燃えており、混乱を増させた。しかしながら、フォン・ヴィッツレーベン少佐の移動が完了して皇帝近衛隊の側面と背面が脅かされると、彼らも撤退を始めた。ペレテ(ジャン・ジャック・ジェルマン・ペレ・クロゾー(Jean-Jacques Germain Pelet-Clozeau))将軍の率いる近衛猟歩兵が殿軍務めた。残りの皇帝近衛隊は大慌てで撤退し、大量の大砲、その他の装備と弾薬輸送馬車が遺棄された。プランスノワからの脱出はシャルルロワへのフランス軍の退路を守る場所を失うことを意味していた。戦場のその他の場所とは異なり、ここでは『我が身を守れ!"Sauve qui peut!"』との悲鳴は聞かれなかった。その代わりに『我らが軍旗を守れ!"Sauvons nos aigles!" 』との雄叫びが聞こえた。」
 今やフランス軍の右翼と左翼そして中央は全て瓦解した。ラ・ベル・アリアンスに布陣している古参近衛隊の2個大隊が未だ統制を維持している最後のフランス軍であり、彼らは最後の予備兵力そしてナポレオン1世の護衛として残されていた。ナポレオン1世はフランス軍を彼らの背後で再集結させようと望んだが、後退は敗走となり、古参近衛隊もまた撤退を余儀なくされ、同盟軍の騎兵隊からの防御のためにラ・ベル・アリアンスの両側に1個大隊づつが方陣を組んだ。「最早この戦いには敗れており、ここを去るべきだ。」と説得されたナポレオン1世は皇帝近衛隊の方陣にこの宿場を離れるよう命じた。
 フレデリック・アダム少将の第3旅団が突撃をかけて皇帝近衛隊の方陣は後退を余儀なくされ、プロイセン軍はその他の部隊と交戦した。夕闇が降りるとともに2つの方陣は比較的整然と撤退したが、フランス軍の大砲やその他の装備は同盟軍の手に落ちた。撤退する皇帝近衛隊は何千人もの逃げ惑い支離滅裂となったフランス軍兵士たちの群れに飲み込まれた。追撃は比較的消耗の少ないプロイセン軍が受け持ち、プロイセン軍参謀長ナイトハルト伯アウグスト・ヴィルヘルム・アントニウス・フォン・グナイゼナウは「月光下の狩猟」と称して、夜更けまで敗残兵たちを追い回した。追撃戦でフランス軍の大砲78門が鹵獲され、多数の将軍を含む2000人が捕虜になった。

 初代ウェリントン公アーサー・ウェルズリーとゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘル元帥との会見は21時頃にナポレオン1世の本営があったラ・ベル・アリアンスで行われた(22時頃にジュナップという説もある。)。ゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘルは「この戦いをナポレオン1世の本営があった戦場の中心地であり、両軍の『同盟(alliance)』の意味にも掛けた『ラ・ベル・アリアンス(La Belle Aliance、良き同盟)の戦い(独語: Schlacht bei Belle-Alliance)』と命名したい。」とウェリントン公に通達したが、ウェリントン公は戦場とやや離れた自分の司令部の所在地、ワーテルロー村(英語の発音: ウォータールー)で「ワーテルローの戦い(Battle of Waterloo)」と命名して報告書を本国に送った。「ウォータールー(Waterloo)」は英語の語彙に組み込まれ、「惨敗」の喩えとなった。ドイツではこの戦いは「ラ・ベル・アリアンスの戦い(Schlacht bei Belle-Alliance)」とも呼ばれる。

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 ワーテルローの戦いでウェリントン公の英蘭軍は戦死傷約17000人、行方不明10000人を出し、ゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘルのプロイセン軍のそれは約7000人であり、そのうち810人はフリシェルモンとプランスノワの両方の攻防戦に参加したビューロー男爵およびデンネヴィッツ伯フリードリヒ・ヴィルヘルムの第4軍団に所属する第18連隊のみから出ており、連隊は33個もの鉄十字章を得た。ナポレオン1世のフランス軍は約40000人の死傷・捕虜・逃亡を出し、砲220門を失った。
 ナポレオン1世から受けていた命令に固執した第2代グルーシー侯エマニュエル元帥はヨハン・アドルフ、フライヘル・フォン・ティールマン(Johann Adolf, Freiherr von Thielmann)のプロイセン軍をワーヴルで撃破し、06月19日の10時30分に整然と撤退できたが、その代償で33000人のフランス軍将兵がワーテルローの主戦場に来着できず敗戦の原因となった。


 ナポレオン1世はシャルルロワを経てフィリップヴィルまで逃れ、そこから留守政府を預かる元スペイン王の兄ジョゼフ・ボナパルトに楽観的な内容の報告書を送り、軍隊の再建を指示したが、命運は既に尽きていた。06月20日にナポレオン1世は幕僚に促され、軍隊を置き去りにしてパリに帰還した。ナポレオン1世はなお政権維持に希望を持ち、議会を解散して独裁権を獲得しようと画策したが、議会はこれに反対し「国家叛逆罪に当たる。」とナポレオン1世を非難し、ついには退位をも要求し始めた。
 一方、初代ウェリントン公アーサー・ウェルズリーは06月19日に戦闘の詳細について報告する急報を本国に送り、06月21日に到着して翌22日にロンドン・ガゼッタ紙で告知された。ワーテルローの戦いの帰趨はロンドンの株式市場も注視しており、カトル・ブラの戦いの敗報によってコンソル公債は下落していたが、ワーテルローの勝報をいち早く手に入れた銀行家ネイサン・メイアー・ロスチャイルドはすぐに買いを入れずに意図的にてコンソル公債を投げ売りして暴落させ、二束三文になったところで大量買いをし、そして公式な報道により大暴騰した後で、高値で売った。後に「ネイサンの逆売り」と呼ばれる株式売買でロスチャイルド家は巨額の利益を獲得した。初代ウェリントン公アーサー・ウェルズリーはイベリア半島での半島戦争でネイサン・メイアー・ロスチャイルドと関りが深かった。

金融のしくみは全部ロスチャイルドが作った (5次元文庫) - 芳裕, 安部
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 ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドとワーテルローの戦いに纏わる数々の「伝説」や「神話」である。人口に膾炙しているところでは、エルバ島を脱出したナポレオン率いるフランス軍とウェリントン公率いるイギリス軍のワーテルローでの決戦で、ウェリントン軍の勝利がはっきりした西暦1815年06月19日の夜遅く、戦場の近くのオステンドからロスチャイルド家の使者が船に飛び乗ってドーバー海峡を越え、翌日未明、出迎えたロンドン支店のネイサン・メイヤー・ロスチャイルドに伝えた。ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドは直ちにロンドンの金融街シティにある証券取引所に向かった。彼はウェリントン公の飛脚がロンドンに到着する前に、大博打を打った。イギリス国債を売りに出たのだ。当時はウェリントン軍不利の予想がされていたので、ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドが売りに出したのを見て人々はイギリス軍が敗北したと受け止めて恐慌に陥り相場は急暴落した。ワーテルローの勝利の報せが届く直前に、ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドは二束三文になった国債の買いに転じ、一瞬のうちに巨利を得た。電報も電話もなかった時代、伝書鳩でこの情報を知ったという説もあるが、ロスチャイルド家がドーバー海峡においていた自家用高速船を利用したのが真相らしい。ロスチャイルド家の群を抜いた情報網が、巨万の富を齎し、利権と詐欺で生き血を啜る悪逆非道なディープステイト(DS(出来損ないの堕落した最兇な屑))のロスチャイルド家が血脹れした。

書いてはいけない - 森永 卓郎
書いてはいけない - 森永 卓郎

 「アシュケナージム猶太、ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドは、イギリス軍の勝利を誰よりも早く知り、まず敗けたと偽情報を流し、国債が暴落した所で買い上り100万ポンド以上の大儲けした。」という通説に対して、儲けは「何万ではあったが決して何百万、何千万ではなかった。」として、詐欺の悪魔の「ロスチャイルド神話」の否定説まである。
 「国債の売買での儲けは、高々£10000 程度で、実際には、ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドと兄弟は危うく破産するところだった。」とまで言う。その理由は「ナポレオン1世が 西暦1815年03月01日エルバ島を脱出して権力を回復するやいなや、ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドは再びナポレオン1世との長期間の戦争が不可避と見て、大陸の同盟国への資金送金需要を見越し、ロンドンで大量の金塊を買い代ウェリントン公アーサー・ウェルズリーに送るため、(英国大蔵省の)ジョン・チャールズ・ヘリーズ(John Charles Herries)に売ったのである。この時ジョン・チャールズ・へリーズの勘定残高は£9789778に上っていた。」と言う。「ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドはこれで£390000の手数料を稼ぐ皮算用をしていた。ところが、実際には06月18日にワーテルローで勝負は付いてしまった。これによって高騰すると踏んでいた金価格は逆に暴落し、さらにイギリス国債を新たに100万ポンド引受けていたから、これらを捌くのに相当の損失を出した。」と言う。さらに続けて「ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドは、この損失を取り返すべく勝負に出た。彼は国債を大量に買ったのである。」07月20日付のロンドン・カウンター紙は、ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドの大量買いを伝えている。例えば、オムニアム公債(Omnium、英国債の一種)を£450000、コンソル公債(Consols)(年利 3 %の永久債)を£650000購入し、西暦1817年に掛けて売却した。これによる儲けは£250000であり、西暦1815年の損失を十分取り返した」としている。これについて兄弟の1人、ロチルド・マイアー・ロートシルト(Salomon Meyer Rothschild、後のロートシルト男爵ザーロモン・マイアー(Salomon Meyer Freiherr von Rothschild))は「ネイサンはもう1つの名人芸(masterwork)をやってのけた。」と評している。「何故ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドは、これほどの儲けを手にすることができたのか?」という疑問に、「ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドはイギリスの財政・ 金融政策の内部情報を得ていたから。」と結論づけている。
 これに対して、例によってロスチャイルドの資料庫を精査した結果、「現存する資料を見る限り、ナポレオンとワーテルローに関する言及はほとんどない(only rare mentions)。ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドと関係が深かったジョン・チャールズ・ヘリーズ(John Charles Herries)の手紙や書類にもワーテルローに関する記録は残っていない。ウェリントン公のワーテルローの勝利でネイサン・メイヤー・ロスチャイルドが豊かになったとする証拠も全くない。また、ワーテルローのお陰で多額の損失を出した証拠もない。さらに、ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドが当該期間に国債市場で多額の取引をした証拠もないし、国債取引で大儲けした証拠もない。」と素っ気ないが、かといって、その主張の証拠にもならない。
 ロスチャイルドの通信ネットワークを使った超大物が、ナポレオン戦争や戦後のヨーロッパ政治を仕切ったクレーメンス・ヴェンツェル・ロータル・ネーポムク・フォン・メッテルニヒ・ヴィネブルク・ツー・バイルシュタインである。クレーメンス・ヴェンツェル・ロータル・ネーポムク・フォン・メッテルニヒ・ヴィネブルク・ツー・バイルシュタインは、ロスチャイルドという非公式な経路を使って、他の政府に彼の見解を伝えた。ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドは、これら重要な外交上の情報を得られたため、投資の判断において有利な立場に立つことができた。もう 1 つネイサン・メイヤー・ロスチャイルドが重視したのが、イギリス王国や当時の有力国(フランス王国、オーストリア帝国、プロイセン王国、ロシア帝国)の政策に影響力ないし決定力を持つ権力者との人的関係の構築である。古くは、父親から引継いだ選帝侯の財務顧問カール・ブデルスやナポレオン1世によって結成されたライン同盟の首座大司教侯(Fürstprimas)になるカール・テオドール・アントン・マリア・フォン・ダールベルク(Karl Theodor Anton Maria von Dalberg)と親交を結び、西暦1813年以降では、イギリス王国の兵站部将校ジョン・チャールズ・へリーズやイギリス王国のウィーン会議代表を務めた外相のロバート・ステュアート(カースルレー子爵、第2代ロンドンデリー侯爵)の弟、チャールズ・ウィリアム・ステュアート(Charles William Stewart、後の第3代ロンドンデリー侯チャールズ・ウィリアム・ヴェーン(Charles William Vane, 3rd Marquess of Londonderry, KG, GCB, GCH, PC))と親しく交わった。チャールズ・ウィリアム・ステュアートは、ウィンストン・レナード・スペンサー・チャーチル(Winston Leonard Spencer Churchill, KG, OM, CH, TD, PC, DL, FRS, Hon. RA)の曽祖父である。西暦1820年代には、首相の第2代リヴァプール伯爵ロバート・バンクス・ジェンキンソン(Robert Banks Jenkinson, 2nd Earl of Liverpool, KG PC)や大蔵大臣の初代ベクスリー男爵ニコラス・ヴァンシッタート(Nicholas Vansittart, 1st Baron Bexley, PC, FRS, FSA)と直接話すようになった。西暦1830年代では、初代ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリー(Arthur Wellesley, 1st Duke of Wellington, KG, GCB, GCH, PC, FRS)に選挙法改正にまつわる混乱期に重要な財務上の圧力を加えた。外国では、オーストリア帝国のクレーメンス・ヴェンツェル・ロータル・ネーポムク・フォン・メッテルニヒ・ヴィネブルク・ツー・バイルシュタインの秘書官フリードリヒ・フォン・ゲンツやプロイセン王国の国家顧問官 Jordan、ロシアの外交官 Gervais などに賄賂を惜しみなく使って籠絡した。さらに、クレーメンス・ヴェンツェル・ロータル・ネーポムク・フォン・メッテルニヒ・ヴィネブルク・ツー・バイルシュタインが長年の政治生活で金欠であるとの情報をえたネイサンと兄弟は、クレーメンス・ヴェンツェル・ロータル・ネーポムク・フォン・メッテルニヒ・ヴィネブルク・ツー・バイルシュタインに 900000グルデンの融資を行った。この融資が行われた6日後、ロスチャイルド5 兄弟は男爵に叙せられている。さらに、ネイサンはイギリス国王ジョージ 4 世に融資したことが切っ掛けでイギリス王室との関係も構築した。
ジョン・チャールズ・ヘリーズの息子のチャールズ・ヘリーズ(Charles Herries)は、今度はセファルディーム猶太の初代ビーコンズフィールド伯ベンジャミン・ディズレーリ(Benjamin Disraeli, 1st Earl of Beaconsfield, KG, PC, FRS)の配下になった。

広瀬隆『赤い楯』全4巻セット (集英社文庫) - 広瀬 隆
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2024年03月12日

インドネシア格安航空会社ライオン・エアの子会社バティック・エアの操縦士全員睡眠の手放しフルサービス

 基本的に格安航空会社 (Low Cost Carrier)は避け、旗艦航空会社(Flag Ship)あるいは準旗艦航空会社を選ぶようにしている。しかし、国内線とか撤退や脱退で止む得なく搭乗を余儀なくされることがある。格安航空会社は、安く見せるためにものすごく制限された便で安価な値段を設定している。空港使用料、出国税(日本1人千円)に入国税(最近2,3千円取り出した)に 燃油賦課金(Fuel Surcharge)が格安だろうと旗艦だろうと掛かる。マイレイジでも同じだ。詐欺みたいなもの。
 荷物に料金が取られ安くない。飲食が有料で高くて不味い。座席が狭い、座り心地が悪い。遅れる上によく欠航する。欠航の場合の補償が旗艦航空会社の国際線ならホテルや食事などが出る場合が多いが一切ない。ターミナルが格安航空用で遠く倉庫みたいなところが多い。待合室に椅子が少なく客筋が悪い。見かけの安さに釣られてゴミのように扱われる。直付けではなく、連絡バスで駐機場まで運ばれるが、その中の座席に料金を取ったりする。
 しかも危険。

バティック・エア(Batik Air)
IATA ID  ICAO BTK
親会社のライオン・エアは格安航空会社として知られているが、すべての座席に個人用モニタを設置したり、機内食を無料で提供したりするなどといったワンランク上のサービスを行う、いわゆるフルサービスキャリアを平成25(2013)年に創設した。これがバティック・エアである。なお、格安航空会社が運営するフルサービスキャリアとしてはバティック・エアが世界初である。
https://www.malindoair.com/

バティック 生地 布 インドネシア ジャワ更紗 ろうけつ染め 植物とパラン柄のコンビネーションモチーフ ネイビーブルー
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インドネシアのバティックエア、機長と副操縦士が同時に居眠り
https://newsclip.be/archives/10495
1月25日、インドネシアのスラウェシ島南東部クンダリのハルオレオ空港からジャカルタ郊外のスカルノハッタ空港に向かっていた旅客機で、飛行中に機長(32)と副操縦士(28)が同時に居眠りし、機が航路をそれるトラブルがあった。同機は無事にスカルノハッタ空港に着陸し、乗客153人と乗員にけがはなかった
 トラブルが起きたのはインドネシアの航空会社バティックエアのエアバスA320型機。副操縦士が操縦し、午前8時ごろハルオレオ空港を離陸した。機長が副操縦士の許可を得て操縦席で居眠りしたところ、しばらくして副操縦士も眠ってしまった。ジャカルタの管制センターが副操縦士と最後に交信してから12分後、通話を試みたが、反応がなかった。その16分後に機長が目を覚まし、機が航路を外れているのに気づいて修正し、副操縦士を起こした。副操縦士は双子が生まれたばかりで、睡眠不足気味だったという。
 インドネシアでは旅客機の事故が度々起きている。2013年にはバティックエアの親会社である格安航空ライオンエアの旅客機がバリ島のングラ・ライ空港手前の海に墜落し、4人が重傷を負った。2014年にはインドネシア・エアアジア機がジャワ島東部のスラバヤからシンガポールに向かう途中に墜落し、乗客乗員162人全員が死亡した。2018年にはライオンエア機が離陸直後にスカルノハッタ空港沖に墜落し、乗員乗客189人全員が死亡した。

飛行中の機長と副操縦士、同時に睡眠 インドネシア
https://www.afpbb.com/articles/-/3509050
インドネシアの国家運輸安全委員会(KNKT)は、民間航空機の機長と副操縦士が飛行中に同時に寝ていたことが調査で明らかになったのを受け、問題の航空会社に対して、操縦士の疲労管理を行う制度の改善を求めた。2月下旬にKNKTのウェブサイトに投稿された報告書をAFPが8日、確認した。
 KNKTの報告書によると、1月25日に東南スラウェシ(South East Sulawesi)州から首都ジャカルタに向かうインドネシアの航空会社バティック・エア(Batik Air)のエアバス(Airbus)「A320」機で、機長と副操縦士が飛行中、同時に約28分間眠っていた。同機には、乗客153人と客室乗務員4人が搭乗していた。
 離陸から約30分後、機長は仮眠を取りたいと副操縦士に伝え、許可を得た。その後、副操縦士が操縦を引き継いだものの、うっかり居眠りしてしまったという。
 ジャカルタの管制センターは、副操縦士との最後のやりとりが記録された数分後に交信を試みたが、応答はなかった。
 最後の通信記録から28分後に目を覚ました機長が、副操縦士が居眠りをして、同機が航路を外れていることに気付いた。そこですぐに副操縦士を起こして管制センターからの連絡に応答し、航路を修正したという。
 その後、同機は2時間35分のフライトを終え、目的地に無事に着陸した。
 当局は操縦士の身元を明らかにしていないが、いずれもインドネシア人で32歳と28歳。報告書によれば、「副操縦士には生後1か月の双子の子どもがおり、妻の育児を手伝っていた」という。
 KNKTはバティック・エアに対し、操縦室内で適切なチェックを定期的に行い、操縦士および客室乗務員に対してフライト前に十分な休息を確保する詳細な手順を作成するよう要請した。
posted by cnx at 12:45| Comment(0) | TrackBack(0) | SEA | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする