2024年04月30日

犬どころかRNAウイルス以下の悪魔、岸田文雄(66)らの政治屋に対する、納税者の国民の正当な批判をいじめと判定するグーグルAI(阿呆の苛め)

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アカユーチューブ.jpg
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グーグルAI(阿呆の苛め)は、犬どころかRNAウイルス以下の政治屋に対する、納税者の国民の正当な批判をいじめと判定して封殺するファシスト弾圧専横洗脳装置、グーグル。一体どこが「違反している可能性」があるのか。その場所と文を示さないとわからない。このグーグルAI(阿呆の苛め)は、 嫌がらせやネットいじめ」で言論が封殺され、聾桟敷に置かれ、どれかわからないので無関係な投稿まで疑心暗鬼で弾圧された。

どれかわからないが、推測するしかないが、日本明治大正昭和平成令和維新政府批判か?

臺灣では花蓮の地震の翌日に復旧したが、売国罪務省は能登を見捨てて予算も付けず、4ヶ月経っても水道も道路も破壊された家屋も復旧させない。被害は小さかったが伊予灘の御荘の地震も同じだ。能登の地震では、支那に忖度して臺灣の救助隊を拒み、助かる生命を見殺しで殺した。
しかも、熊本では形だけ臺灣偽装のTSMCと支那の民間会社に型落ち素子を作らせるため、地下水や電気と水質と土壌汚染で日本の環境を破壊し、血税を棄てている。その周囲の阿蘇には支那のウイグル人奴隷労働で作った太陽光パネルで環境を大破壊し、再エネ賦課金で支那に年間2兆円以上の金を反日教育の支那に与え、軍事的脅威も日々増大させている。今の気違い鬼畜政権では国民から血を抜いて国内に使わない。なにしろ、日本の植民地で日本領だった臺灣に能登や熊本を割譲した方が復旧する。

支那やアメに利権を売り飛ばすため、増税、再エネ賦課金や保険料などの名目だけで国民汚生き血を啜るが、豚菌大地震で首都壊滅でも日本を売り飛ばして復旧はしない。

病毒ウイルスを殲滅駆除するしか生き残る方途はない!!


岸田文雄(64)-1.jpg悪魔1.png岸田文雄(66)

能登復興に「コスト削減」を持ち出した財務省に被災地は憤慨 そこまで節約したいなら、万博が先では?
2024年4月17日 12時00分
https://www.tokyo-np.co.jp/article/321605
 能登半島地震から3カ月余り。断水の解消などの復旧が遅れる中、財務省は「維持管理コストを念頭に置き、集約的なまちづくりを」と提言を出した。「コスト削減ありき」がにじむこの姿勢。「過疎地の切り捨て」の危惧も。そんなにカネがないならやはり、万博絡みのインフラ整備などの巨額事業を見直し、復興に予算を割くべきじゃないのか。(宮畑譲、岸本拓也)
◆「維持管理コストを念頭に置き」
 「冷や水をバケツでぶっかけられた気持ちだ。上から目線でものを言われているようで大変気分が悪い」
 石川県の馳浩知事は11日の会見で不快感をあらわにした。
 不満の矛先は財務省の提言。9日の財政制度等審議会の分科会で「今後の復旧・復興にあたっては、維持管理コストを念頭に置き、住民の方々の意向を踏まえつつ、集約的なまちづくりやインフラ整備の在り方も含めて、十分な検討が必要」と打ち出した。
◆「霞が関からすれば端っこなんだろう」
 能登の被災地は復旧すら程遠い。16日現在、石川県内の1次避難所に2895人が避難している。断水も約5240戸で続く。住宅被害は一部損壊も含めると7万6930棟に上る。
 そんな中で示されたのが「コスト念頭」「集約型の復興を」という提言だ。
地震発生から3カ月が過ぎても、がれきが目立つ大規模火災現場=7日、石川県輪島市河井町で
地震発生から3カ月が過ぎても、がれきが目立つ大規模火災現場=7日、石川県輪島市河井町で

 「東京・霞が関の住人からすれば、能登は日本の端っこなんだろう。だから、公共投資はしないのかと愚痴りたくもなる」。憤りを隠さないのは元珠洲市議の北野進氏。「元々インフラが手薄で、復旧が進まない原因にもなっていると言える。地方の集落をさらに切り捨てるような感覚だ」
◆「非効率」だからこその地域の価値が
 さらに「海岸線や山の中など、さまざまな地域で生業を営む人が住むから、能登の自然、文化を守ることができる。財務省の提言のような形で進むのなら、能登のよさが一気になくならないか心配だ」と漏らす。
 能登の里山里海は2011年、次世代へ継承すべき伝統的な農業や生物多様性などを有する「世界農業遺産」として国連食糧農業機関(FAO)に認定された。国内で初の例だった。
 輪島塗、棚田、塩田、四季折々の祭−。地域に根差した人が長年、手をかけ守り続けてきた。能登の「遺産」は非効率さと引き換えに残されてきたと言える。
◆「統廃合を多数決で決めるの?」
 農村の景観を活かし、観光誘客に成功した例として挙げられるのが、能登町の農家民宿群「春蘭(しゅんらん)の里」。震災前は約50軒に年間約1万人の観光客を集めた。
 事務局長の多田喜一郎氏は「古民家をつぶしたら売りがなくなる。誰が観光に来るのよ。各集落が一緒になるなんて不可能や。行政的には同じうちの地域でも祭の日は別々」と語り「集約的なまちづくり」の実現可能性はないと断じる。
 「『限界集落』と言われるけど、1人でも残れば『存続集落』。日本の田舎はどこも同じ。統廃合するとして多数決で決めるの? 誰も従いません。無理にやったら暴動が起きる」
◆「住民の意向を踏まえる」と言うが…
 輪島市に実家がある元公務員の60代男性は「コスト意識が必要なのは確かだけど」と口ごもりつつ、「国がどんなイメージで進めようとしているのか分からない」と語り、「自分の生まれ育った土地に残りたい人は多い。国の案に不安な思いを抱く人も多いだろう」と推し量る。
 被災地の声に財務省はどう応えるのか。同省主計局の担当者は取材に「復旧・復興が予算の制約で躊躇することがないように政府を挙げて取り組むことは大前提。今後のまちづくりは住民の方の意向を踏まえて進める」と釈明した。
 財務省が示した集約型のまちづくりは、かねて「コンパクトシティー構想」として全国各地で試みられてきた。
◆「コンパクトシティー」成功例は一部だけ
 元々は欧州を中心にした都市政策で、日本では1998年に中心市街地活性化法を含む「まちづくり3法」の制定を機に推進されてきた。地方の人口減や高齢化に対応するために、都市機能や居住地域を市街地に集め、持続可能な都市を目指したが、成功例は富山市など一部に限られる。
 龍谷大の富野暉一郎名誉教授(地方自治)は「行政側からみると、集約化は合理的で魅力的に映るが、住民にとっては住む場所も集められて、生活も一変するんじゃないかという抵抗感が根強い。地域での熟議なしに、行政が要請しても、うまくいかなかった」と解説した上で「ましてや、災害を機に集約せよと上から押しつけられても、反発を招くだけでは」とみる。
 財務省は「集約的なまちづくり」を推す理由に、東日本大震災での「無駄遣い」を挙げる。国は6562億円を投じて岩手、宮城、福島の3県で地盤のかさ上げなど計1009ヘクタールを整備した。しかし、活用されたのは74%に当たる745ヘクタールにとどまり、中でも集団移転先として、高台に造成した住宅用地などは活用率は低かったという。
◆「東日本」の無駄はトップダウンが原因
 その「反省」から、人口減が見込まれる能登の被災地は集約して効率化せよ、という主張のようだが、大阪経済大の遠州尋美・元教授(地域政策)は反論を口にする。
 「東日本大震災で集団移転したのが、対象世帯の3分の2にとどまったのは、被災者が復興のあり方を主体的に熟議を尽くす条件が整わないうちに、国からトップダウンで復興像を押しつけられたからだ」
◆地域の声が反映されないスキームに
 遠州氏によると、東日本大震災のときには、巨大な防潮堤や高台などを整備する方針が、被災自治体の意向とは無関係に進められていったという。
 前出の富野氏は「復興の方向性を出していくには、被災者や自治体が地域の生活や歴史文化などを踏まえて議論していくことが一番求められている。国や県の役割は、そのための支援メニューや選択肢を提示することだ」とボトムアップの復興手順が重要と説く。
 しかし、能登の復興では既にトップダウンの絵図が描かれるとして、4月に研究者ら有志が懸念を表明する緊急アピールを出した。それによると、3月に国土交通省が示した能登の復興支援の枠組みでは「復興ビジョン」を策定する前に、地域の意向を調査する手順がないと指摘。「被災者一人一人の意向の把握とその集約を行う」よう求めた。
 呼びかけ人の一人である遠州氏は「被災のダメージのもとで日々暮らし、生命をつないでいる被災者の声は反映されないスキームになっている」と疑問を呈し「避難が長期化する中、被災者の当面の暮らしを保障し、同時に地域のあり方について、被災者同士が主体的に議論できる条件を整えることに覚悟と資源を費やすべきだ」と話す。
◆「万博やミサイルより地域経済再生」
 財務省が支出を抑えたいなら、「既存事業の無駄」を見直してはどうか。
 淑徳大の金子勝客員教授(財政学)は「地震被害をそっちのけで万博を優先し、ミサイルを買って防衛費を増やすことを、国民は無駄だと分かっている」と指摘し、地域経済を再生する視点で復興に向き合うべきだと説く。
 「日本の産業競争力が衰えて貿易赤字に転じた今、輸入に頼っていたエネルギーや食料を地方で作ってもらって自給するしかない。そうした視点で、能登の復興や地方に大きな投資が必要ではないか」
◆デスクメモ
 被災した人たちは不遇にも困難な立場に置かれた。だからこそ手厚く支えたい。ただ「今後どうする」の選択は人により違う。心の整理をつけ、今後を考えるまで時間を要する人も。必要なのは一人一人の選択を支える視点であり、トップダウンでコストカットをにじませる提言ではない。


特別報道写真集 令和6年能登半島地震 (緊急出版) - 北國新聞社
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2024年04月25日

詐欺ヤクザの最終処分場 ノンタブリーの日本人のバラバラ死体投棄処理事件

タイで日本人男性バラバラ殺人、日本人男2人に逮捕状
https://www.thaich.net/news/20240424fa.htm
バンコク近郊のノンタブリ県バーンブアトーン郡の住宅地域で2024年4月19日、タトゥーの入った右手首と血痕が発見され、4月23日には同じ地区で銃で撃たれた痕のある頭蓋骨が発見されました。殺害されたのは日本人の椛島良介さん(47歳)で、日本人の男2人が容疑者として逮捕状が出ています。
逮捕状が出ているのは愛知県出身の加藤拓也容疑者(50歳)と鈴木浩斗容疑者(33歳)。2人はタイを拠点とする日本人特殊詐欺グループのメンバーと見られています。

日本人男性殺害事件 容疑者は日本人暴力団関係者 工場で遺体切断しポリ袋に詰め遺棄
https://bangkokshuho.com/thaisanmenkiji-1519/
バンコクに隣接するノンタブリ県で先ごろ、切断された人体の一部が見つかった事件で、地元警察は4月24日までに、遺体が日本人カバシマ・リョウスケさん(47)で、殺人容疑などでカトウ・タクヤ(50)とスズキ・ヒロト(33)の日本人2人の行方を追っていること、これら3人が暴力団関係者とみられることなどを明らかにした。
事件が発覚したのは今月19日、同県バンブアトーン郡で10歳の少年が茂みの中から人の腕を見つけたのがきっかけ。その後、警察の捜索で黒のポリ袋に入った腐敗の始まった頭部などが見つかった。頭蓋骨には銃で撃たれたとみられる痕跡があった。
警察は23日、防犯カメラの映像などを手がかりに事件に関与した疑いでタイ人の男クリットサコン(30)を逮捕。供述によれば、クリットサコンは日本人3人に雇われ、3人をプッタモントン・サーイ2の工場に車で送るよう指示された。その道すがら、話の内容は理解できなかったが、日本人3人が車内で言い争っていたという。その後、バンブアトーン郡の倉庫に向かうよう命じら、倉庫に着くと車から出るよう指示されたので、離れた場所でたばこを吸っていたという。その時、3人は車内で口論していたが、しばらくして銃声が聞こえたので急いで車に戻ってみると、日本人1人が頭から血を流して倒れていた。その後、ほかの日本人2人が死体を工場内に運び込み、間もなくして切断した死体を入れた複数の黒ポリ袋を手に持って戻ってくると、それをバンブアトーン郡内の複数カ所に遺棄するよう命じたとのことだ。
警察によれば、殺害された日本人男性の入れ墨などから3人の素性を調査中だが、これまでに3人が特殊詐欺にかかわっていたとみられることや警察が行方を追っている日本人2人のうちの1人は暴力団幹部で、タイに長期滞在していることなどがわかってきたという。








ヤクザの掟を破ったヤクザ組織の副組長椛島良介(47)を屠殺し、ヤクザとタミール人の殺人犯2人が死体を切り刻んで黒い袋に詰め、ノンタブリー県バーンブアトーン郡に遺棄し、タイ人が遺体の隠蔽を手伝った。

タイの邦人バラバラ遺体で日本人2人に逮捕状 暴力団関係者による取引失敗が引き金か
2024年4月25日 06:00
https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/300200
 タイのバンコク近郊ノンタブリ県で19日に複数の黒いポリ袋に入ったバラバラ遺体が見つかった事件で、タイ警察は24日、殺人に関与した疑いで日本人の男2人の行方を追っていると発表。警察は遺棄に関与したとしてタイ人の男、通称ボムをすでに逮捕している。
 タイ紙バンコク・ポストによると、タイ人の男は運転手として雇われたという。後部座席に2人、助手席に1人の日本人が座り、廃工場に送る途中で口論になった。後部座席の2人がボムに対し、駐車して降りるよう命令。ボムが外でたばこを吸っていたところ、車内から銃声が聞こえ、助手席の男性が頭部を撃たれ、死んでいた。
 男2人が遺体を工場に運び込み、ずっしりとした黒いポリ袋を数個持って戻ってきたという。その後、男らはボムに袋をノンタブリ県で遺棄するよう指示したという。
 警察は、被害者と男2人を日本の暴力団関係者とみなし、何らかの取引の失敗による事件だとみている。
 タイ事情通は「加害者は暴力団で、日本国内相手の特殊詐欺グループを組織していたようです。タイ警察は24日に2人の逮捕状を裁判所に請求しました。ともに日本の警察から逮捕状が出ていたそう。2人が最近タイに逃亡したのか、それとも長年タイに潜伏していたのかはまだ分かっていません」と語る。
 バラバラになった被害者は全身に入れ墨があったため、暴力団関係者とみられている。
「被害者は2022年にビザを取り消されていたそう。組のルールを破ったという情報があります」と同事情通は指摘している。






タイで日本人男性の切断遺体 男2人は特殊詐欺グループだったか
2024年4月25日 18時41分
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240425/k10014433181000.html
タイの首都バンコク近郊で日本人男性の切断された遺体が見つかった事件で、タイの警察は殺人などの疑いで逮捕状をとった日本人の男2人が特殊詐欺グループのメンバーだったとみて行方を追っています。
今月19日、タイの首都バンコク近郊のノンタブリ県で切断された遺体の一部が袋に入った状態で見つかり、その後、現場から数百メートル離れた場所で銃弾によるものとみられる穴があいた頭の骨なども見つかりました。
タイの警察によりますと、遺体は日本人の椛島良介さん(47)で、先月下旬に殺害され、遺棄されたとみています。
警察は殺人などの疑いで加藤拓也容疑者(49)と鈴木浩斗容疑者(27)の逮捕状をとって行方を追っていますが、事件のあと、隣国ラオスとの国境にあるタイ東北部の県で2人の姿を確認したということで、詳しい足取りを調べています。
椛島さんと容疑者2人が乗る車を運転し、その後、拘束されたタイ人の男は「3人が車の中で口論になったあと、1人が銃で殺害された」と話しているということです。
タイの警察は、日本人の容疑者2人は暴力団関係者で、特殊詐欺グループのメンバーだったとみていて、事件の詳しい経緯を調べています。

タイで日本人の切断遺体 警察が日本人2人を捜査
投稿日時: 日本2024-04-25 13:15 タイ2024-04-25 11:15
http://thai.news-agency.jp/articles/article/15417
 バンコク郊外のタイ中部ノンタブリー県バーンブワトーン郡で19日、切断された遺体が入った黒いビニール袋を少年が発見した。警察は、タイ人の男(34歳)を23日に逮捕。男は調べに対し、日本人の男3人をバンコク郊外の倉庫へ車で送ったと話しているという。
 ネイションの報道によると、警察は21日、遺体発見現場から約2キロメートルの場所で、斧やのこぎりを発見。23日には遺体発見場所に近い路地で、頭蓋骨の破片と小さい関節を発見し、現在法医学的分析を行っている。
 逮捕されたタイ人のゲーム容疑者は取り調べに対し、日本人の男3人から依頼を受け、バンコク郊外の工場まで来るまで送ったと話し、助手席に乗った男が遺体で発見された人物だと証言した。助手席の男と後部座席の2人は、車内で激しく口論していたという。
 車が工場に着くと、後部座席の男は、車を停めてゲーム容疑者に降りるよう指示。ゲーム容疑者はタバコを吸おうと車を降りたところ、車内から銃声が聞こえ、走っても戻ると助手席の男が頭部に銃撃を受けて死亡していたと証言した。
 ゲーム容疑者は、後部座席の男2人が遺体を倉庫に運び、しばらくして黒く重いビニール袋を数枚持って戻ってきたと話した。その後、男2人はゲーム容疑者に、別の場所へ行って黒い服を処分するよう指示したという。
 警察は、ゲーム容疑者を同行して現場検証を行い、死体隠匿と損壊の共謀罪で起訴した。日本人容疑者2人の逮捕に向け、タイ警察は国際刑事警察機構と連携。令状取得を目指している。カオソッドの報道によると、容疑者2人は山口組の構成員。捜査当局は事件について、日本の暴力団の間で取引の失敗があったのではないかと見ている


実録・名古屋やくざ戦争 統一へ…[レンタル落ち]
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令和の山口組(新潮新書) - 山川光彦
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2024年04月16日

気違い・賣國奴・守銭奴・嘘吐き・鬼畜の侵掠により、危険で腐敗し穢れ、非法治・非民主・不平等・低能で卑怯な日本が瓦解し滅びゆく 九族誅殺すべき反吐蠱

気違い・賣國奴・守銭奴・嘘吐き・鬼畜の
岸田、河野、小池、林、麻生、森、二階、小泉、菅に菅、稲田、和田、チン藤、鈴木に鈴木、武見、吉村、大村、橋シタ、デニー、川勝、・・・・
罪務省、害務省、刑惨省、呆務省、乞牢省、悶禍省、酷紅省、葬務省、暴嬰省、・・・・

動いているだけでも反吐が出る!! 声や静止画でも不快感で虫唾が走る!!


ふんぞり返る岸田文雄(66).jpg岸田首相、”state guest”(国賓)ではなく”visit”だった。出迎えたのはエマニュエル駐日米国大使と日本人の子供たち。中国、習近平国家主席の待遇とあまりにも違うとSNSで話題に 𝕏「岸田さんの卒業記念旅行」「対等なパートナーではない証拠」「ジョーさん、どうして…」
https://newssharing.net/state-guest-visit#toc1
岸田さんの卒業記念旅行
仕方ないよね、米政府ではなく米軍支配の国だもの
大統領どころか駐日米国大使がお出迎えですか…
北朝鮮のニュースが笑えなくなってきた
対等なパートナーではない証拠
そもそも、最下位のリーダーを本気で国賓待遇するんでしょうか?
大統領でないならせめて副大統領もしくは国務長官が出迎えでしょうが…
ジョーさん、どうして…

賣國守銭鬼畜岸田文雄(66).jpg

気違い・賣國奴・守銭奴・鬼畜に
権力や権威を与えた明治大正昭和平成令和日本

気違い・賣國奴・守銭奴・嘘吐き・鬼畜 岸田文雄(66)!!!!




御荘地震860417.jpg

安倍晋三暗殺_報道統制.jpg

岸田文雄(64)-1.jpg悪魔1.png岸田文雄(66)

The Real Anthony Fauci 人類を裏切った男(上)巨大製薬会社の共謀と医療の終焉 - ロバート・F・ケネディ・ジュニア, 林千勝, 石黒千秋
The Real Anthony Fauci 人類を裏切った男(上)巨大製薬会社の共謀と医療の終焉 - ロバート・F・ケネディ・ジュニア, 林千勝, 石黒千秋

柿食い岸田文雄(64).jpgうんこ.jpg岸田文雄(64)-2.jpgパンデミック条約反対でデモ―東京・池袋
2024年04月13日19時52分配信
https://www.jiji.com/jc/article?k=2024041300474&g=soc
 新型コロナウイルス感染症対応の教訓を踏まえて世界保健機関(WHO)が5月の総会での採択を目指す、権限強化などに向けた「パンデミック条約」に反対する市民のデモが13日、東京・池袋で行われた。スタート地点の東池袋中央公園は参加者で埋め尽くされ、沿道にも多くの支持者らが集まった。
 デモ行進は「パンデミック条約 IHR(国際保健規則)改定反対」の横断幕を先頭に、午後2時にスタート。「ワクチンが任意である日本の主権を無視して、接種を強要するWHOに強く抗議する」として、参加者は「健康を人質にしたWHOの横暴を許すな」「政府は条約の情報を国民に開示せよ」などとシュプレヒコールを上げ、駅周辺の通りを練り歩いた。

https://twitter.com/_aussie17/status/1779042706477728176

[パンデミック条約反対]デモ
https://go2senkyo.com/seijika/186191/posts/883186
東京・池袋 4/13日、パンデミック条約に反対して数万人規模のデモが行われました。
本来なら全ての報道機関が記事にするはずのニュースです。
しかしNHK始め、どこのテレビニュースでも取り上げられていません。

「パンデミック条約とは何なのか」
パンデミック条約によってどのような事態になり得るのか、厚労省や外務省がどのように対応しているのか、世界各国ではどのような反応なのか、ご存知でしょうか。
私たちの体に、日常に、暮らしに直結する事なのに、何故概要すらも知らされていないのか。開示されていないのか。その辺りも是非事実を伝えてほしいと思います。
WCH議員連盟(WCH=World Council for Health)が厚労省や外務省の方とやり取りしている内容などもしっかり報道することを望みます。
まずは、内容を知らないことには多くの人が判断することができません。
https://news.yahoo.co.jp/articles/c370c78ccfb93012edde7055d6cb2b8a3900a018

岸田文雄(65)TIME.jpgIHR条例(国際保健規則改正)に関しても、私たち国民が正しく知ることが出来ないでいる情報の1つです。
IHR条例に関しては、厚労省、外務省が分担して担当しています。
武見功労大臣がWHOの大使に任命されているのも知らない日本人は多いのではないでしょうか。
日本のマスメディアは外資比率が上がっており、報道が偏向的になるのが日常的になっています。
特に政治、原発、震災などの情報は偏向報道されることが多いです。
死亡者がなぜ急増しているのか。紅麹サプリを一斉に叩いていますね。それも類似しています。
Googleもデーターセンターが千葉県印西市に占拠していますので、日本のインターネットはここで全て検閲される予定です。
言論の自由を守り、事実を伝える報道を期待します。
大手メディアが取り上げない事、それを「異常」に感じない我が国。
足立区でもパンデミック条約への請願(厚生委員会)が提出されていますが、委員会ではほとんど議論されず継続審議となっています。
何故か?
殆どの方が今起きている問題を理解できる程の情報を得られていないからです。報道しない自由が議論を歪めています。

採択できるか「パンデミック条約」 技術移転など対立深く
編集委員 安藤淳
2024年4月20日 5:00
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCD183IT0Y4A410C2000000/
武漢コロナウイルスへの対応で得られた教訓をもとに、次のパンデミック(世界的大流行)に世界が協力して備える――。だれもが趣旨に賛同したはずの「パンデミック条約」が、約2年におよぶ交渉を経てなお合意に至らない。対立点の議論は先送りして大枠だけ決めるとの案もあるが、5月27日〜6月1日に開く世界保健機関(WHO)総会で採択できるかは予断を許さない。




The Real Anthony Fauci - 人類を裏切った男(中) アンソニー・ファウチの正体と大統領医療顧問トップの大罪 - ロバート・F・ケネディ・ジュニア, 林千勝, 石黒千秋
The Real Anthony Fauci - 人類を裏切った男(中) アンソニー・ファウチの正体と大統領医療顧問トップの大罪 - ロバート・F・ケネディ・ジュニア, 林千勝, 石黒千秋

  Tachi Yamada(ターチ・ヤマダ、山田忠孝)(76没)因幡泊村出で明治法律學校(現明治大学)ビル・ゲイツからの誘いを受けてビル&メリンダ・ゲイツ財団の世界衛生部門総裁に就任

豊前、豊後と言う國がある。地理的に半島や岬で分断され湾々で独自の場になり、歴史的に江戸時代に小藩と天領で分割されたため、まとまりがない。豊前中津は国東半島の西で長州の真ん前





WHO(世界保健機関)執行理事に中谷比呂樹氏が就任しました
https://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/0000166504.html
HRC-GH グローバルヘルス人材戦略センター
〒162-8655
東京都新宿区戸山1-21-1
国立研究開発法人 国立国際医療研究センター内
https://hrc-gh.ncgm.go.jp/about/
中谷 比呂樹
センター長/Director
中谷 比呂樹/Hiroki Nakatani

慶應義塾大学特任教授(グローバルリサーチインスティテュート:KGRI)及び国立大阪大学招聘教授(公衆衛生)。併せて世界保健機関(WHO)執行理事、GHIT Fund代表理事、厚生労働省国際参与、国立国際医療研究センター理事。慶應義塾大学医学部卒、オーストラリア・ニューサウスウェールズ大学修士(医学教育学)、慶應義塾大学において医学博士。厚生労働省とWHOを往復しながら国内・外で公衆衛生専門家としてのキャリアを積む。特に二回目の勤務時(2007年3月から2015年5月)には、WHO本部事務局長補(ADG)として感染症対策部門を牽引。その間、頻回に幹部職員の選考委員長を務める。厚生労働省在職中は、150名を超える医師行政官の採用と配置の調整を経験するなど、人材の開発と選考に経験豊富で、キャリアアップを望む様々な職種の後進への助言と支援に情熱を持つ。

The Real Anthony Fauci - 人類を裏切った男(下) ビル・ゲイツの正体と医療植民地プロジェクト - ロバート・F・ケネディ・ジュニア, 林千勝, 石黒千秋
The Real Anthony Fauci - 人類を裏切った男(下) ビル・ゲイツの正体と医療植民地プロジェクト - ロバート・F・ケネディ・ジュニア, 林千勝, 石黒千秋



増税岸田文雄(65).jpg



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移民党岸田文雄(64)-2.jpg
岸田文雄〈65〉裕子(58)830101.jpg天の怒り、地の滾り、人の憤り、神の罰、九族誅殺!!!!

クロマニョン人の直接の末裔の「コーカソイド」は「西ユーラシア人」とも、「白人」とも「毛唐」、「南蛮、紅毛」と呼ばれる狩猟遊牧民族は、家畜の増殖と家畜を屠殺して喰らうのを生業とし、勢力を得ると狂躁化し、掠奪、強姦、拷問、殺戮、虐殺、抹殺を行う兇暴な悪魔の蛮族である。

兇暴なスペイン人、ポルトガル人にイギリス人は、多くの民族に、掠奪、強姦、拷問、殺戮、虐殺、抹殺を繰り返し、絶滅させた。イギリスからの侵略者の清教徒、ピルグリムは、命の恩人のワンパノアグ族の土地を奪い、生活の基盤である森や猟場を荒らしてはワンパノアグ族を大量虐殺し、女性や子供を奴隷として売り飛ばし、騙し討ちで大量虐殺、民族浄化、強制移住を行った。正に命の恩人のマサソイト酋長を騙し、マサソイト酋長の長男ワムスッタは毒殺し、次男メタコメットの遺体を八つ裂きにし、首を切断し頭蓋骨を槍の先に突き刺し、ピルグリムのプリムス村の門標に見せしめとして24年間晒した。彼の身体を4等分に切断し、木に吊るし、狩猟戦利品として右手をピルグリムに与えた。メタコメット酋長の妻ウトネカヌスクと8歳の息子を始めとする先住民(アメリカ・インディアン)達は奴隷としてバミューダ諸島に奴隷として売り飛ばし、病気や過酷な労働の中で殺した。理不尽な辱めを与えて勝利を祝った。
戦争だけが国家の紐帯の兇悪ディープステイトが立てた組織、アメリカ合衆国は、自らに非のある謀略で戦争を吹っ掛けるのを国是とし、リメムバー・アラモ(remember Alamo)で天保07(西暦1836)年のアラモの戦い、リメムバー・メイン(remember Maine)で明治31(西暦1898年)米西戦争、リメムバー・パールハーバー(remember Pearl Harbor)で昭和16(西暦1941年)の大東亜戦争、昭和39(西暦1964)年のトンキン湾事件でヴェトナム戦争(昭和20(西暦1945)〜50(1975)年)介入、中南米、ペルシャ湾、アフガン、中東、ウクライナと暴虐の限りを尽くしている。

フランス人も同様で、62年前の昭和36(西暦1961)年10月17日にもパリ大虐殺が起きている。フランスからの独立を目指したアルジェリア戦争(西暦1954〜1962年)の最中にアルジェリア人回教徒だけに夜間外出禁止が課され、パリ郊外で親民族解放戦線(FLN)が主催して2万人(3万人とも)以上が参加して平和裏に抗議デモが行われた。パリ警察署長モーリス・パポンの命令を受けて、フランス国家警察は参加者を弾圧し、1万2千人を逮捕した。警察がデモ参加者を収容所で殴り殺されたり現場で射殺されりセーヌ川に投げ込み量溺死させ虐殺した。犠牲者は少なくとも120人(200〜300人とも)に上り、遺体はセーヌ川に抛り込まれ、セーヌ川は真っ赤に染まったが、その多くは見つかっていない。フランス国家警察は平成11(1999)年までパリ大虐殺を隠蔽していた。
ヴェルサイユ宮殿には便所がなく、樹の木陰でおまるにひり出し、食事もマリー・アントワネットが嫁いで来て、ウィーンの礼式を徹底させるまで、手摑みで猿と同じ様に喰らっていた。パリやロンドンなどは糞尿を窓から道に棄て、近隣の百姓が肥料にと拾いに来ていた。そのため糞尿や汚物の悪臭が立ち込め、臭い隠しに香水が発達し、道に転がっている人糞を踏まないためにハイヒールを履いた。

当然不衛生極まりなく、多くの疫病が流行し。支那(疫病の発生源の殆どは不衛生な支那)から齎された黒死病(ペスト、Black Death)により、西暦1346〜1353年に、7500万〜2億人(推定)が死に、人口が3分の1(3分の2説もあり)になったという。ハンガリーの感染病の父、イグナッツ・フィリップ・ゼンメルワイス(Ignaz Philipp Semmelweis)が、弘化04(西暦1847)年に、手と医療器具を洗浄する消毒法で12.24%の死亡率が0.85%にまで下がるまで、手も医療器具も消毒もしていなかった。明治27(西暦1894)年、北里柴三郎はペストの蔓延していた香港に内務省から調査研究するように派遣され、現地到着後2日の06月14日に、病原菌であるペスト菌と感染経路を発見した。両人ともにコーカソイドではない。
武漢肺炎蔓延で明らかになったように、食事前に手を洗わない、風呂に入らんない、マスクをしない。

一方フランス人、税金の父、ヴァロワ朝第3代シャルル5世賢明王は定期的な臨時徴税(矛盾した表現)と、常備軍・官僚層を持った。付加価値税を最初に導入したのもフランスで、元になったのは大正06(1917)年の支払税で、大正09(1920)年に売上税、さらに昭和11(1936)年に生産税と名前を変え、昭和29(1954)年にモーリス・ローレが考案した。第2次世界大戦後の復興の最中、国内経済を景気浮揚のため輸出企業に輸出補助金を出していた。しかし、GATT(関税及び貿易に関する一般協定)で、自国企業にのみ補助金を出していることがGATTに抵触するため、抜け穴として自国輸出企業に補助金を出す策謀が付加価値税である。
以上のように、フランス革命とか共産主義の増幅、・・・・、全人類を地獄に叩き込むディープステイト御用達の悪魔の制度は不潔なフランス人が作った。

現在進行中で、ディープステイトとは王族や猶太に超大富豪など支配層で、この人外の腐れ悪魔は世界中で、「東ユーラシア人」の支那畜はチベット、ウイグルで、南モンゴル掠奪、強姦、拷問、殺戮、虐殺、抹殺を行い絶滅工作を行っている。

明治以降、このディープステイトに付いて行った犬が日本で、今や下僕の実験動物だ!!!!




書いてはいけない - 森永 卓郎
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2024年04月01日

反吐が出る世界史 復古泥朝で腐乱巣の衰退 啓蒙主義以来ゴイムの生き血を啜ったアシュケナジーム猶太の血膨れ 悪逆非道なディープステイト(DS(出来損ないの堕落した最兇な屑))の中核、猶太とは何か その25

ダビデの星.jpgユダヤ(ギリシャ語: Ἰουδαία、Ioudaía、漢字:猶太)

 他民族からは「ヘブライ人」と謂れ、自らは「イスラエル人」と称し、バビロン捕囚後には「ユダヤ人」と呼ばれるようになった徒輩。ヘブライ人、イスラエル人、ユダヤ人は同じ民族を指している。
 ユダヤ人(ヘブライ語: יהודים‎、英語: Jews、ラジノ語: Djudios、イディッシュ語: ייִדן‎)は、猶太教の信者(宗教集団)または猶太教信者を親に持つ者によって構成される宗教信者。原義は狭義のイスラエル民族のみを指す。イスラエル民族の1つ、ユダ族がイスラエルの王の家系だったことを由来とする。猶太教という名称は、猶太教徒が多く信仰していた宗教であることによる。ユダヤとは、パレスチナ南部の地域。酋長ヤコブの子ユダに由来する。古代イスラエル統一王国の分裂後の南ユダ王国があった地域である。



南ユダ王国滅亡後のユダヤの歴史

南ユダ王国が滅ぶと、僅かな例外的時期を除いて西暦20世紀に至るまでユダヤ民族が独立国を持つことはなかった。


神武天皇74(西暦前587)〜安寧天皇10(西暦前539)年 新バビロニア帝国
安寧天皇10(西暦前539)〜孝安天皇61(西暦前332)年 アケメネス朝ペルシア帝国
孝安天皇61(西暦前332)〜孝安天皇88(西暦前305)年 プトレマイオス朝エジプト
孝安天皇88年(西暦前305)〜開化天皇17(西暦前141)年 セレウコス朝シリア
開化天皇17(西暦前141)〜崇神天皇35(西暦前63)年 ハスモン朝 ユダヤ人国家
崇神天皇35(西暦前63)〜崇神天皇61(西暦前37)年 共和政ローマ元老院属州
崇神天皇61(西暦前37)〜垂仁天皇73(西暦44)年 ヘロデ家
垂仁天皇73(西暦44)年 ユダヤ属州(ローマ帝国皇帝属州)
垂仁天皇73(西暦44)〜景行天皇23(西暦93)年 ヘロデ家
垂仁天皇73(西暦44)〜仁徳天皇83(西暦395)年 ローマ帝国皇帝属州
仁徳天皇83(西暦395)〜舒明天皇06(西暦634)年 東ローマ帝国
舒明天皇06(西暦634)〜永正13(西暦1516)年 イスラーム諸王朝 途中に十字軍国家の時代を含む。
永正13(西暦1516)〜大正06年(西暦1917)年 オスマン帝国 
大正07年(西暦1918)〜昭和23(西暦1948)年 イギリスによる国際聯盟の委任統治 
昭和23(西暦1948)年 イスラエル国(メディナット・イスラエル)成立 共和政国家の樹立、現代に至る。



 西暦135年、ローマが叛乱を鎮圧し、ユダヤ的なものを一掃しようとしたローマ人は、この土地をユダの地(ユダヤ)ではなく、ユダヤ人の宿敵ペリシテ人に因んで「パレスチナ」、エルサレムを「アエリア・カピトリーナ」と改称し、ユダヤという地名は消滅した。

 また、ユダヤ人は人種的にはセム族とされるが、長いディアスポラ(離散)のなかで、周辺民族との混血の結果、セファルディームアシュケナジームの違いが生じ、また言語もイデッシュ語などが生まれた。現在、ユダヤ人はイスラエルの他、世界中に分布しており、アメリカにも約600万人が住んでいるとされる。しかし現在ではユダヤ人を「人種」概念で捉えるのは困難で、現実には「猶太教を信仰する徒輩」と捉えるのが正しい。人類学的に同質のユダヤ人は存在しない。



 初代ウェリントン公アーサー・ウェルズリーとゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘル元帥と同盟国軍はパリへ向けて進撃した。06月24日、ナポレオン1世は2度目の退位を宣言し、ジョゼフ・フーシェを首班とする臨時政府が作られた。07月03日、ナポレオン戦争の最後の会戦のイシーの戦いが起こり、戦争大臣のルイ・ニコラ・ダヴー がゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘルのプロイセン軍に敗れ、アメリカ合衆国への亡命も考えたが、イギリス海軍はこの動きを予見しフランスの港を封鎖しており断念した。フランスでは形式的にナポレオン1世によって後継者に指名された長男ナポレオン・フランソワ・シャルル・ジョゼフが皇帝ナポレオン2世に即位したが、07月07日に退位を迫られ、フランス第一帝政(西暦1804〜1814/1815年)は崩壊した。
 最終的にナポレオン・ボナパルトは07月15日にイギリス海軍の戦列艦「ベレロフォン」のフレデリック・ルイス・メイトランド(Sir Frederick Lewis Maitland KCB)艦長に投降した。ナポレオン・ボナパルトの英国摂政太子への降伏書簡 「王太子殿下 我が国を分裂させた諸党派そしてヨーロッパ列強諸国の敵と見做され、私は政治的経歴を終えました故に、私はテミストクレス(希語: Θεμιστοκλής、Themistocles、陶片追放によってアテナイを追われペルシアに亡命した執政官)の如く、英国民の保護(m'asseoir sur le foyer)の下に身を投じます。私は王太子殿下からの法の下の保護を求め、我が敵国の中で最も強大で最も志操堅固で最も高貴な貴国に身を寄せます。」イギリス王ジョージ3世の精神異常により、西暦1811年以降、王太子(後のジョージ4世)が摂政に就任していた。ナポレオン・ボナパルトはイギリス王国に保護を求め、イギリス本土のプリマスへの上陸を求めたが、「ヨーロッパの混乱の元凶はナポレオンにある。」と上陸を拒否された。
 一部のフランス軍要塞は降伏を拒んでおり、09月13日にロンウィが降伏して、全ての抵抗が終わった。11月20日に連合国とフランスとの間でパリ条約が締結されルイ18世が復位した。ナポレオン・ボナパルトの処遇をめぐりイギリス政府は初代ウェリントン公アーサー・ウェルズリーの提案を採用し、赤道直下の大西洋の中央部、アフリカ南西部海岸から西方1840km、ブラジル東岸より2880km離れた絶海の孤島、セントヘレナ島へと配流された。

 百日天下と呼ぶが、開始日をフランス再上陸の03月01日、あるいはパリ入城の03月20日、またはウィーン会議が中断された03月13日など様々あり、また終結日もワーテルロー会戦の06月18日と、退位日の06月22日の2つあり、実際の期間は94日間〜113日間の間で諸説ある。

 07月05日、議会は新たな人権宣言を制定し、07月07日、新憲法の条文を採決した。08月15日、議会選挙が行われ、極右王党派が過半数を占めた。フランスではルイ18世が王位に復帰したが、百日天下を経たことで王党派とボナパルティストとの溝が一層部下まり、その後3年にわたる白色テロを引き起こすことになった。白色テロは、当初は戦争犯罪を問うものであったが、次第に逸脱していき、反勢力への弾圧へと移行していった。こうした白色テロを陰で扇動したのは、王弟アルトワ伯シャルル・フィリップ(Charles-Philippe, comtes d'Artois、後のシャルル10世(Charles X)とルイ16世の王女マリー・テレーズ・シャルロット(Marie Thérèse Charlotte)と言われている。
 06月28日、ルイ18世は、カンブレーの宣言を発し、自ら進んで簒奪者であるナポレオン1世に仕えた人物以外への大赦を行った。まず、警察大臣に就任したジョゼフ・フーシェが百日天下の協力者57人の表を公表した。これにはラザール・ニコラ・マルグリット・カルノー、ミシェル・ネイ、ニコラ・ジャン・ド・デュ・スールト、第2代グルーシー侯エマニュエル、ピエール・ジャック・エティエンヌ・カンブロンヌらが含まれていた。
ただ皮肉なことに、ジョゼフ・フーシェ自身は、国民公会議員であった際に、ルイ16世の処刑に同意したことから、王党派の追及により失脚した。次に、王党派は即決裁判所を設置して追及の手を広げた。これにより断罪されたボナパルティストは九千人に上り、うち3分の1が死刑とされた。さらに、当局が黙認したことで、無頼の徒によるボナパルティストへの私刑が半公然と行われた。当局がこれらの弾圧に歯止めを掛けたのは西暦1818年になってからだった。こうした行き過ぎは、後の七月革命(西暦1830年)の遠因となった。
 西暦1815年08月02日、ギヨーム・マリ・アンヌ・ブリューヌが、アヴィニョン訪問中に暗殺され、遺体はローヌ川に投げ込まれた。08月19日には、シャルル・ド・ラベドワイエールが銃殺された。
 シャルル・アンジェリック・フランソワ・ユシェ・ド・ラ・ベドワイエールは、06月18日のワーテルローの戦いにもナポレオン1世の副官として参加した。敗戦後の王党派による白色テロ期に、アメリカへ亡命するための旅券を入手したが、妻と幼子に別れを告げるためにパリに居た08月02日に逮捕され、軍法会議で叛逆罪で死刑とされ、08月19日にグルネル平原で銃殺された。最期まで端然たる態度であった。
 敗戦後、ジョゼフ・フーシェは、ミシェル・ネイに旅券を与えて亡命を提案したが、ミシェル・ネイはそれを断り、08月03日に身柄を拘束された。再び権力の座に戻ったルイ18世の政府によって叛逆罪に問われ、西暦1815年12月06日に銃殺刑に処せられた。12月07日、ミシェル・ネイが叛逆者として死刑を宣告され、銃殺された。ミシェル・ネイ、ジョアシャン・ボナパルト・ミュラの銃殺は、ルイ18世の個人的な復讐と言われている。ミシェル・ネイ自身はこの時、同僚将官による軍法会議で裁かれるのを拒み、フランスの上院議員の資格を盾に取って、王党派で占められた上院による裁判を受けた。貴族院では、161票中139票の賛成で有罪となり、賛成票を投じた中にはフランソワ・クリストフ・ケレルマン、オギュスト・フレデリク・ルイ・ヴィエス・ド・マルモン、ペリニョン、セリュリエ、クロード・ヴィクトル・ペランらも含まれた。 参謀長のニコラ・ジャン・ド・デュ・スールト、戦争大臣のルイ・ニコラ・ダヴーの両元帥をはじめ30人以上の将官が投獄または流刑に処された。


 10月14日、ナポレオン・ボナパルトを移送するイギリス王国の軍艦「ノーサンバランド」は「ハバナ」など4隻のブリッグ艦、「イカロス」など3隻のコルヴェット艦、「セイロン」など2隻の兵員輸送船と1隻の食料補給船の10隻の艦隊を組み、プリマス港を出帆してから67日目にセント・ヘレナ島の沖合に達した。ナポレオン・ボナパルトは服装を改めて甲板に上がり望遠鏡を翳してじっと島を見つめてから、「滞在地としてはいただけない。これならエジプトに残った方が良かった。今頃は全東洋の皇帝になっていた筈だ。」と苦々しげに呟いた。ノーサンバランドは10月15日午前10時、この港町ジェームズタウンの前面に投錨した。翌日、コックバーン提督だけが陸に上がり、ボナパルト将軍とその一行が暮らすべき建物を物色し、フランス人全員が上陸したのは、次の日、10月17日の暮れだった。
 ナポレオン・ボナパルトは南大西洋のセントヘレナ島に幽閉され、ベルトラン伯アンリ・ガティアン(Henri Gatien, comte Bertrand)、モントロン侯シャルル・トリスタン(Charles-Tristan, marquis de Montholon)、ガスパール・グールゴ(Gaspard Gourgaud)、ラス・カーズ伯エマニュエル・オーギュスト・デュドネ(Emmanuel-Auguste-Dieudonné, comte de Las Cases)らごく少数の従者とともに、島内中央のロングウッド・ハウスで生活した。高温多湿な気候と劣悪な環境はナポレオン・ボナパルトを大いに苦しませたばかりか、その屋敷の周囲には多くの歩哨が立ち、常時行動を監視され、さらに乗馬での散歩も制限されるなど、実質的な監禁生活であった。その中でもナポレオン・ボナパルトは、側近に口述筆記させた膨大な回想録を残した。これらは彼の人生のみならず彼の世界観、歴史観、人生観まで網羅したものであり「ナポレオン伝説」の形成に大きく寄与した。しかし、ロングウッド・ハウスに、ベルトラン伯アンリ・ガティアンとその家族、さらに32人の支那人を含む従僕などと多数で、豊富な食料品を移入して暮らしていたことが明らかになった。セントヘレナ島は東インド会社領だったが、イギリス王国の関与はより大きくなった。ボナパルト派を警戒しセントヘレナ島には部隊が駐屯し、海軍の艦船が島の周辺を警戒した。また、隣の島であるアセンション島やトリスタンダクーニャ島にもイギリス軍が派遣された。 隣の島と言っても、アセンション島とは約1300km、トリスタンダクーニャ島とは約2430km離れている。
 ナポレオン・ボナパルトは特にセントヘレナ島総督ハドソン・ロウ(Hudson Lowe)の無礼な振る舞いに苦しめられた。彼は猜疑心と嫉妬心を抱いていた。誇り高いナポレオン・ボナパルトを「ボナパルト将軍」と呼び、腐った蒲萄酒を振る舞うなど、ナポレオン・ボナパルトを徹底して愚弄した。ロウはナポレオン・ボナパルトをロングウッド邸内に限定することや、英国がナポレオン・ボナパルトを帝国の称号で呼ばず将軍としてのみ呼ぶことなどを含む一連の細かい規則を作成した。 彼はハドソン・ナポレオンに投獄の費用の一部を支払うよう要求したため、ナポレオン・ボナパルトは帝国銀の一部を売りに出した。 これはヨーロッパで大反発を引き起こし、要求は取り消されなければならなかった。 ハドソン・ロウは、ロングウッドの薪の量を減らし、「ナポレオン・ボナパルトが寒さを凌ぐために家具を燃やした。」ことが伝わり、国民の同情の大きな反発を引き起こし、薪の供給が恢復した。これらはナポレオン・ボナパルトとその支持者たちをさらに怒らせた。 アイルランドの外科医バリー・エドワード・オメーラは、当初ハドソン・ロウに情報を提供したが、最終的にはナポレオン・ボナパルトの側に立ち、ラス・カーズ伯エマニュエル・オーギュスト・デュドネとモントロン侯シャルル・トリスタンの批判に加わった。 セントヘレナ島のフランス王国、ロシア帝国、オーストリア帝国の監視委員らもナポレオン・ボナパルトに敵対的ではあるが、ハドソン・ロウの行為を非常に批判した。
 ハドソン・ロウがナポレオン・ボナパルトを「自宅軟禁」に制限したことは、確かにナポレオンの運動と一般的な健康に影響を与えた。 ハドソン・ロウがナポレオン・ボナパルトを毒殺させた「死刑執行人」としての役割について実際に考えていたことよりも、ハドソン・ロウに対して穏やかな内容であった。 彼の本当の態度は、彼が海軍本部の書記官に秘密裏に渡した手紙の中に明らかにされている。初代ウェリントン公アーサー・ウェルズリー元帥は後に、ハドソン・ロウの選択は「非常に悪い選択だった。彼は教養も判断力も欠如していた男だった。愚かな男だった。彼は、何も知らなかった全ての人間と同様に世界中のことを何も知らなかった。」と語っている。 また、ナポレオン・ボナパルトの体調が悪化していたにも拘わらず、主治医を本国に帰国させた。ナポレオン・ボナパルトは彼を呪い、「将来、彼の子孫はローという苗字に赤面することになるだろう。」と述べた。
 スペイン立憲革命(西暦1820年)やギリシャ独立戦争(西暦1821年)で欧州全体が騒然となる中、心労も重なり、ナポレオン・ボナパルトの病状は進行した。西暦1821年05月05日、ナポレオン・ボナパルトはベラベラと意味のわからないことを喋り、突然むっくりと起き上がり、モントランという側近♂を突き飛ばし、力尽きて暴風雨が吹き荒れた中、17時49分に死去した。最期の言葉は傍らにいた者により異なり、「私はイギリスに暗殺されたのだ!」、「フランス!…軍隊!…軍隊の頭に…ジョゼフィーヌ!」というのもあった。ナポレオン・ボナパルト伝説の捏造・創作、劇化、戯画化、‥が入り交じり眞相は分からない。
 遺体は遺言により解剖されて胃に潰瘍と癌が見つかり、死因は公式には胃癌と発表された。ナポレオン・ボナパルト自身は胃潰瘍で、特に西暦1817年以降、体調は急激に悪化していた。ただ、解剖所見では、胃潰瘍により胃に穿孔していたことが確認され、また初期の癌も見つかった。胃潰瘍説も取り沙汰されている。実際ナポレオン・ボナパルトの家族にも胃癌で亡くなった者(家族性胃癌症候群)がいる。しかしパリのジョルジュ・ポンピドゥー病院の法医学者ポール・フォルネスは西暦1821年の解剖報告書など史料を分析し、「死んだ時、ナポレオンには癌があったようだが、これが直接の死因とは言い切れない。」と指摘した。癌患者であってもそれが末期でないのであれば最終的な死因は癌ではないことがあり得る。その他、「20年以上にわたり戦場を駆けた重圧と緊張が、もともと頑丈ではなかった心身に変調を来させた。若い頃は精神力で克服できていたが、40歳を迎えるころにはナポレオン・ボナパルトの体を蝕んでいた。」という説もある。「その死は激動の生活から無為の生活を強いられた孤島の幽囚生活が心理的病因となり、生活の変調が齎した致死性胃潰瘍である。」と言う。「胃潰瘍とともに悪化した心身の変調を内分泌や脳下垂体の異常を原因。」と主張する医学者もいた。
 当然砒素による暗殺説も根強い。ナポレオン・ボナパルトの遺体をフランス本国に返還するために掘り返したとき、遺体の状態が死亡直後とほぼ変わりなかったこと(砒素は剥製にも使われるように保存作用がある)、さらには、スウェーデンの歯科医ステン・フォーシュフットがナポレオンの従僕マルシャンの日記を精読して、その異常な病状の変化から毒殺を確信し、英国グラスゴー大学の法医学研究室ハミルトン・スミス博士の協力の下、ナポレオンのものとされる頭髪から砒素を検出した。砒素はナポレオン・ボナパルトとともにセントヘレナ島に同行した何者かがワインに混入させた毒殺説がある。モントロン侯シャルル・トリスタンは、ルイ18世から元帥に任命され、妻がナポレオン・ボナパルトの愛人でる。百日天下のナポレオン1世もこれを承認した。妻の父、セモンヴィル侯シャルル・ルイ・ユーゲ(Charles Louis Huguet, marquis de Sémonville)はアルトワ伯シャルル・フィリップ(後のシャルル10世)と親密で意を受けたモントロン侯シャルル・トリスタンの子孫である、フランソワ・ド・カンデ・モントロンは、「(王党派であった)私の祖先が殺した。敢えてワインに砒素を盛った。」という毒殺説を主張した。モントロン侯シャルル・トリスタンは、ナポレオン・ボナパルトの死後、遺言の執行者となりナポレオン・ボナパルトから遺産を相続したが使い果たしてしまった。
 また、その当時の壁紙には砒素が使われており、ナポレオン・ボナパルトの部屋にあった壁紙の砒素が黴とともに空気中に舞い、それを吸ったためだという中毒説もある。「ステン・フォーシュフットが検査に使った頭髪が実際にナポレオン・ボナパルトのものか確証がない。」という反論があったため、西暦2002年に改めてパリ警視庁とストラスブール法医学研究所が様々なナポレオン・ボナパルトの遺髪を再調査した。すると、皇帝時代に採取された彼の髪に放射光をあてて調査した結果、やはりかなりの量の砒素が検出され、「セントヘレナ島に行く前から砒素中毒であった可能性がある。」と発表された。しかし当時は髪の毛の保存料として砒素が広く使われており、ナポレオン・ボナパルト以外の頭髪でも砒素が検出されることがその後の調査で判明した。生前に砒素を摂取した場合も頭髪に残るが、切り取られた髪の毛の保存料として砒素が使われた場合にも、同様に砒素が髪の内部まで浸透し、科学的には両方の可能性を否定できず、砒素は死因を特定する材料にはならない。
 他に医療過誤説がある。カリフォルニア大学バークレー校の心臓病理学者スティーブン・カーチは、ナポレオン・ボナパルトを看取った主治医アントマルキのカルテを見て、医師が下剤として酒石酸アンチモニルカリウムを、さらに死の前日には嘔吐剤として甘汞(塩化水銀(I))を大量に処方していたことに気付いた。これらは単独でも毒物であるが、飲みやすくするために使われた甘味料オルジエと合わせると体内でシアン化水銀(I)という猛毒物質が生成した可能性があり、「薬の量からして、体内の電解質の平衡を崩し心拍の乱れを起こして心停止に至った。」と判断でき、「砒素の長期服用に加え医療過誤により悪化した不整脈が直接の死因」と主張している。
 結論として、ナポレオン・ボナパルトの死因は現在に至っても決着していない。「どの説も一理あるが、いずれの説も正しくない。」と言われ、真相は藪の中である。


藪の中 (講談社文庫) - 芥川 龍之介
藪の中 (講談社文庫) - 芥川 龍之介

図説 ナポレオン: 政治と戦争 フランスの独裁者が描いた軌跡 (ふくろうの本) - 松嶌 明男
図説 ナポレオン: 政治と戦争 フランスの独裁者が描いた軌跡 (ふくろうの本) - 松嶌 明男

ナポレオン・ボナパルト(仏語: Napoléon Bonaparte、伊語: ナポレオーネ・ディ・ブオナパルテ、Napoleone di Buonaparte、出生名: ナブリオーネ・ブオナパルテ)は、フランス革命の時流に乗って皇帝にまで上り詰めたが、彼が鼓舞した諸国民のナショナリズムによって彼自身の帝国が滅亡するという皮肉な結果に終わった。
一連のナポレオン戦争では約200万人の命が失われた。その多大な人命の喪失とナポレオン・ボナパルト自身の非人道さから、国内外から「食人鬼」、「人命の浪費者」、「コルシカの悪魔」と呼ばれる。
ナポレオン・ボナパルトによって引き起こされた人命の喪失はフランス帝国の総人口にも現れた。以後フランスの人口(特に壮青年男性を中心とする生産年齢人口)は伸び悩み、国力でイギリス王国やドイツ王国(のちにはアメリカ合衆国も)などに抜かれることとなった。フランス復古王政を経て成立した7月王政期の西暦1831年には、フランス軍における人員の夥しい喪失への反省から、フランス人からではなく多国籍の外国人から兵士を採用するフランス外人部隊が創設されることとなった。これ以降、西暦21世紀に徴兵制が全面廃止されるまで、フランス国民からの徴兵と、外国籍人を含む志願制とが併用されることになり、移民に流入はヨーロッパの凋落を招き、ヨーロッパの自殺と呼ばれる。悪逆非道なディープステイト(DS(出来損ないの堕落した最兇な屑))が家畜のゴイムを統制する時代に入った。

ナポレオン・ボナパルトは、兄弟たちをフランスのフリーメイソン、仏大東社(Grand Orient de France、GODF)の高位職に就けた。西暦1804年に兄ジョゼフ・ボナパルト(Joseph Bonaparte)をグランドマスターに、弟ルイ・ボナパルト(Louis Bonaparte)も副グランドマスターにした。
ジョゼフ・ボナパルトは、スペイン王ホセ1世(西語: José I)、ナポリ王ジュゼッペ1世(伊語: Giuseppe I)。ルイ・ボナパルトは、ホラント王国(西暦1806〜1810年)国王ローデウェイク1世(蘭語: LodewijkI I、仏語: Louis I)。

反ユダヤ主義の歴史 第4巻 自殺に向かうヨーロッパ - レオン ポリアコフ, Poliakov,L´eon, 賢治, 菅野, 友二, 小幡谷, 海子, 宮崎, 正人, 合田, 博美, 高橋
反ユダヤ主義の歴史 第4巻 自殺に向かうヨーロッパ - レオン ポリアコフ, Poliakov,L´eon, 賢治, 菅野, 友二, 小幡谷, 海子, 宮崎, 正人, 合田, 博美, 高橋

 ナポレオン戦争が終わると、ネイサン・メイアー・ロスチャイルド(Nathan Mayer Rothschild、後のロスチャイルド男爵ネイサン・メイアー(Baron Rothschild Nathan Mayer))とロスチャイルド兄弟を取り巻く環境は大きく変化した。特に大陸では、ロスチャイルドの競争相手であるベアリング兄弟社(Baring Brothers Co.)やホープ社(Hope & Co.)に起債事業を奪われるようになった。その最たるものが、ナポレオン戦争で敗れたフランスの700百万フランの賠償金支払いのための借款をベアリング兄弟社が仕切ったことである。このベアリング兄弟社の成功を受けて、枢機卿およびリシュリュー公アルマン・ジャン・デュ・プレシー(仏語: Armand Jean du Plessis, cardinal et duc de Richelieu)は「ヨーロッパには6つの強国がある。イギリス、フランス、プロイセン、オーストリア、ロシアそしてベアリング兄弟社だ。」と言った。この出来事によって、ネイサン・ロスチャイルドは、戦争中の成功が平時にはうまく行かないことを悟った。ネイサン・ロスチャイルドは将来、ネイサン・ロスチャイルドが競争相手に勝ち残るために、自分にはあまり馴染みのない国際金融の分野に積極的に進出して行くことを決断した。こうして西暦1818年、ネイサン・ロスチャイルドは外国政府債発行市場に本格的に参入した。その内容はプロイセン政府の総額£500万の起債であり、ネイサン・ロスチャイルドは、全額の引受けを独占した。この債券の特徴は、ターラー(ターレル、Thaler、Taler、ローザー(löser))ではなくポンド建てで、利息の支払い場所がベルリンではなくロンドンであったこと、また償還を確実にするためにイギリス式の「減債基金(sinking fund)」を付けたこと、さらにロンドンで発行された外国政府債でイギリス政府の保証が付かない最初の起債であったことなどがある。このプロイセン向け国債の発行は、ヨーロッパの資本市場にとって1つの転機となった。発行条件を付けることで外国政府債のイギリス化(Anglicisation)が一気に進み、その頃資産を蓄積したイギリス人の外国債投資に道を開き、ロンドンが国際金融市場へと成長する切っ掛けとなった。
 こうして、ネイサン・ロスチャイルドは、外国債発行の形を確立したが、この方式はすぐに「標準(standard)」となっていった。因みに、糖時タイムズ紙はネイサン・ロスチャイルドを「イギリス王国へ最初に外国債を紹介した人物」と表している。この結果、西暦1818年〜1832年でネイサン・ロスチャイルドはロンドンで調印された外国政府債26本(総額£37.6百万)のうち7本(総額の約38%)を取り扱った。また、別の統計によれば、西暦1815年〜1859年にロンドン・ロスチャイルド社は50本の外国政府債の発行(総額約£250百万)を手掛けたのに対して、ベアリング兄弟社は14本(総額£66百万)に止まり、ロスチャイルド社が競争相手を圧倒している。こうした状況を受けて、フランスのジャーナリスト、アレクサンドル・ヴェィユ(Alexandre Weill)は「ロスチャイルドは証券取引所そして全ての内閣の上に君臨しかつ統治している。」と述べた。もし西暦1820年代に6番目の強国があったとすれば、それは最早ベアリング兄弟社ではなく、ロスチャイルド社であった。
 西暦1825年には金融危機が起きた。これは西暦1822年〜1824年の主に南アメリカへの投機が破綻したことに起因するもので、770行あった銀行の内73行が破産した。イングランド銀行(Bank of England)は流動性不足に陥り、イギリス王国は瀕死の状態に追い込まれた。この窮地を救ったのがネイサン・ロスチャイルドである。ネイサン・ロスチャイルドは急を聞いて直ちに手持ちの£300000相当のソブリン金貨(sovereign)をイングランド銀行に提供し、足りない分を主にパリのジェームス・マイエール・ロチルド(James Mayer Rothschild、ヤーコプ・マイアー・ロートシールト(Jakob Mayer Rothschild)、後のロチルド男爵ジェームス・マイエール(Le baron James Mayer de Rothschild Rothschild))から供給を受け、危機を脱するまで次々と供給し続けた。最終的にこの作業に掛かった金額は£10百万に達した。しかし、ネイサン・ロスチャイルドは寛大な手数料しか請求しなかった。もちろん、ネイサン・ロスチャイルドは慈善事業や愛国心でこの仕事をやった訳ではなかった。彼は「これを機にロンドン金市場で支配的地位を獲得したい。」と考えており目的を達成した。
 ネイサン・メイアー・ロスチャイルドの成功の要因は、やはり彼が事業の才であった。例えば、ネイサン・ロスチャイルドは金融市場に関して「鼻が効く(a nose)」と言われた。具体的には、証券取引所で取引される国債の全ての値を覚えることができ、それらがどちらに動くか「本能的に(instinctively)」知っていた。また、ネイサン・ロスチャイルドは複雑な金融の計算を素早くやってのけ、そしてこれらの計算をたやすく記憶することができた。さらに、彼は「行なった全ての取引を思い出すことができた。」とされている。こうした鋭い直感力を持っていたネイサン・ロスチャイルドは、利益の追求の仕方も独特で、債券市場では、儲けは確実であるが地味な起債・引受けではなく既発債への投機を繰り返した。また、長期金融業者の本来の仕事である為替手形の引受けについては、他業者の半分の手数料で行う一方、ヨーロッパ市場間の為替率差に着目した裁定取引(arbitrage)で稼いだ。これに関して、クレーメンス・ヴェンツェル・ロータル・ネーポムク・フォン・メッテルニヒ・ヴィネブルク・ツー・バイルシュタイン(Klemens Wenzel Lothar Nepomuk von Metternich-Winneburg zu Beilstein)の秘書で右腕であったフリードリヒ・フォン・ゲンツ(Friedrich von Gentz)は、「ネイサン(とその兄弟)は常に正しい方を選ぶ驚くべき本能(instinct)を持っている。」と述べた。また、駐英プロイセン大使であったフンボルト男爵フリードリッヒ・ヴィルヘルム・クリスティアン・カール・フェルディナント(Friedrich Wilhelm Christian Karl Ferdinand Freiherr von Humboldt)は、「ネイサンは全く粗野で無教養であるが、非常に聡明で、お金については疑いのない天才だ。」と述べた。「ネイサンは、ロンドンのシティの歴史において、恐らく最も重要な人物であり、特に外国為替取引においては「究極の師匠(consummate master)」と呼ぶべき傑物であった。」と言う。ロンドンのシティ、ヘッセン・カッセルと結びついた悪魔の組織体が増殖した。
 ロスチャイルド一家は、ユダヤ社会の伝統的な家族観、つまり父親を頂点とする家父長的な家族を理想としていた。父親のマイアー・アムシェル・ロートシルトには5男5女がいたが、西暦1796年マイアー・アムシェル・ロートシルトは息子のうち年長の2人を共同経営者にし同時に、娘たちや娘婿たち、さらに、従兄弟や甥など男の親戚は経営に参加させない旨言い渡した。これは経営のような一家の消長にかかわる重大事は、家長と実の息子たちという完璧に信頼できるものだけで行うべきとの信念があった。西暦1812年09月19日マイアー・アムシェル・ロートシルトは死んだ。その臨終の間際に子供たちに遺言を残したが、その中でも娘や娘婿がM.A.ロスチャイルドと息子社(M A Rothschild & Sons)の事業に参加することを禁じ、帳簿や書類に触れることさえ禁じた。同時に、5人の息子たちには、互いに愛と友情をもって交わり、遺言の意向に忠実に従うよう命じた。つまり、兄弟同士の結束を強調したのである。ロスチャイルド兄弟の団結力は様々な取引で発揮された。例えば、大陸封鎖令を搔い潜ってネイサン・ロスチャイルドが密輸した品物を大陸でアムシェル・マイアー・ロートシルト(Amschel Mayer Rothschild、後のロートシルト男爵アムシェル・マイアー(Amschel Mayer Freiherr von Rothschild))とザーロモン・マイアー・ロートシルト(Salomon Meyer Rothschild、後のロートシルト男爵ザーロモン・マイアー(Salomon Meyer Freiherr von Rothschild))が売り捌いたり、初代ウェリントン公アーサー・ウェルズリー(Arthur Wellesley, 1st Duke of Wellington, KG, GCB, GCH, PC, FRS)への金貨の運送は、ネイサン・メイアー・ロスチャイルドとジェームス・マイエール・ロチルドの連係で完遂した。また、ワーテルローのための資金調達では、カール・マイアー・ロートシルト(Carl Mayer Rothschild、カルマン・マイアー・ロートシルト、後のロートシルト男爵カール・マイアー(Carl Mayer von Rothschild))がアムステルダムで国債の販売に奔走したりしている。こうしたロスチャイルド兄弟の団結は、西暦1818年の連携協定にも表われている。兄弟の連携の形態は5人の共同責任(mutual responsibility)に基づく3つ(フランクフルト、ロンドン、パリ)の共同商事会社(joint mercantile establishments)で、しかも、1つの包括的な合同会社(one general joint concern)を形成する。また、クレーメンス・ヴェンツェル・ロータル・ネーポムク・フォン・メッテルニヒ・ヴィネブルク・ツー・バイルシュタインの力で西暦1822年09月29日、オーストリア政府から5兄弟とその男の子孫に男爵位が授けられたが、賜った楯型紋章には「協調(Concordia)、誠実(Integritas)、勤勉(Industria)」と刻まれ、5本の矢(5兄弟)も描かれていた。さらに、フリードリヒ・フォン・ゲンツも「兄弟は父親の臨終の言葉を守り、全ての取引において破れない団結と協力を維持した。」と言っている。また、兄弟の団結の強さは「同族結婚(endogamy)」の多さにも表われている。マイアー・アムシェル・ロートシールトの孫の代には14組の結婚のうちロスチャイルド一族以外との結婚は4組だけだった。ネイサン・ロスチャイルドは、こうした兄弟の団結力を活用して、事業に取組んだ。そこには兄弟たちを有無を言わさず巻き込んで事業を拡大したネイサン・ロスチャイルドの強い指導力が存在した。ネイサン・ロスチャイルドは、あっと云わせるような冒険を次々にやってのけ、たった5年で一家の事業を劇的なまでに変えた。
 ネイサン・ロスチャイルドが兄弟間で強い指導力を発揮できたのは、ネイサン・ロスチャイルド自身の能力の高さと気性の激しさが原因となっている部分が大きい。同時に他の兄弟にも原因があったようである。長男のアムシェル・マイアー・ロートシールトは、「ゲットーの息子」で敬虔な猶太教徒であり、保守的で、商売の才能と独立心はなかった。また、5人の中でもっとも用心深く、静かな生活に憧れていたと言われている。次男のザーロモン・マイアー・ロートシルトは、一家の外交官的存在で、陽気で優しく、へり下ることを知っており、君主や宮廷人の贔屓を得たし、兄弟たちともうまくやれたが、「あまりに気が良過ぎるい性分だった。」と言われている。三男のネイサン・メイアー・ロスチャイルドは、才気煥発、活力に満ち、短気で癇癪持ち、しかし、兄弟で一番商才に恵まれていた。四男のカール・マイアー・ロートシルトは、神経質で自分に自信がなく、ネイサン・メイアー・ロスチャイルドの才能に憧れ偶像化し、一方で恐れていた。ナポリに派遣されたが、外国生活に馴染めなかった。「自分は事業は嫌いで、生きるのに必要な衣類とパンさえあれば良い。」と言ったと伝えられる。五男のジェームズ・マイエール・ロチルドはネイサン・ロスチャイルドに匹敵する才能の持ち主で、商売の才能も抜群であった。物事を素早く学びとり、独立心も旺盛で、早くから海外に飛躍することを夢見て、パリを永住の地とした。こうして見るとネイサン・メイアー・ロスチャイルドとジェームズ・マイエール・ロチルド以外は、ビジネスに関しては凡庸であったことがわかる。ジェームズ・マイエール・ロチルドはネイサン・メイアー・ロスチャイルドより11歳若かったこともあり、ネイサン・メイアー・ロスチャイルドが自然と指導力を取るようになったのである。
 しかし、ネイサン・ロスチャイルドが才気に任せて突っ走り、他の兄弟が付いていけず、もたつくと攻撃的になった。西暦1811年には父親の存命中にも拘わらず、威張り散らすようになり、ますます専制的になった。そして西暦1814年には兄弟仲に亀裂が入る寸前まで事態は深刻化した。この時ネイサン・ロスチャイルドはアムシェル・ロートシルト、ザーロモン・ロートシルト、カール・ロートシルトの仕事振りに激怒し、「白痴のように(idiotically)」や「白痴的行動(idiocies)」といった屈辱的な言葉を使って人格攻撃とも取れる手紙を送りつけた。これで、気の弱いカール・ロートシルトは、取り乱し床に臥せってしまった。またザーロモン・ロートシルトも背中と脚に激しい痛みを覚えるようになった。これを見かねたネイサン・ロスチャイルドの義弟メイヤー・ディヴィッドソン(Mayer Davidson)(ネイサン・ロスチャイルドの妻ハンナ(Hannah)の妹ジェシー・バレント・コーエン(Jessy Barent Cohen)と結婚)は、ネイサンに「このような屈辱的で、破壊的かつ嘆かわしい態度を取ることは、ロスチャイルド一家の将来の団結を危険に晒す。」と諌める手紙を出したが、ネイサン・ロスチャイルドには効き目はなかった。こうした抗議を受けても、ネイサン・ロスチャイルドは「それなら事業を解体する。」と威嚇した。結局、ザーロモン・ロートシルトはネイサン・ロスチャイルドに屈服した。西暦1814年08月には「私のロンドンの弟は『最高司令官(the commanding general)』であり、私は彼の部下の元帥(field marchal)です。」と述べている。またカール・ロートシルトもネイサン・ロスチャイルドの優位性を受け入れた。何故なら、どんなに喧嘩をしても兄弟より信頼できる者は他にいないことをお互いにわかっていたからである。また、自分たちの繁栄の全てがネイサン・ロスチャイルドの精力と眼力の賜物であることを承知していたからである。こうしたことは、次に示す兄弟間の資本金の配分によく表われている。
  兄弟間の資本金配分(単位:フランスフラン)
    西暦1818(年)  1825(年)  1828(年)
Amschel  7776000   18943750   19693750
Salomon  7776000   18943750   19693750
Nathan   12000000   26875000   28200000
Carl     7488000   18643750   19393750
James    7488000   18643750   19393750
 ネイサン・ロスチャイルドは、早くから情報の重要性に気付き、情報網の構築と維持に多大の時間と精力と資金を投入した。ナポレオン戦争時代にはドーバー(Dover)とカレー(Calais)に代理人(agent)を置き、彼らを意のままに動かした。例えば、船長に上乗せ料金を払って至急便で手紙を運ばせたり、国債を中心とした債券市場での売買や市場間の金利差や為替レート差を利用した裁定取引を始めると、金利や為替レートに影響を与える各国の経済や財政状態や経済・金融政策担当官僚や閣僚の動向を探るべく、主立った金融市場には、常勤の(salaried)代理人を置いた。こうしてネイサン・ロスチャイルドは、ネイサン・ロスチャイルドと代理人たち、また代理人同士の間で素早く情報を交換する特別な手段(Courier Service)を作り上げた。西暦1835年頃には、「ロスチャイルドーロスチャイルドの通信手段は当時のいかなる通信手段より優れている。」との評判を得た。こうしたことから、西暦1830 年代には、政治家や外交官がロスチャイルドの通信ネットワークを使うようになった。何故なら、ロスチャイルドのものは、公的な通信手段より断然速かったからである。ロスチャイルドの通信ネットワークを使った超大物が、ナポレオン戦争や戦後のヨーロッパ政治を仕切ったクレーメンス・ヴェンツェル・ロータル・ネーポムク・フォン・メッテルニヒ・ヴィネブルク・ツー・バイルシュタインである。クレーメンス・フォン・メッテルニヒは、ロスチャイルドという非公式なルートを使って、他の政府に彼の見解を伝えた。ネイサン・ロスチャイルドは、、これら重要な外交上の情報を得られたため、投資の判断において有利な立場に立つことができた。もう 1 つネイサン・ロスチャイルドが重視したのが、イギリス王国や当時の有力国(フランス帝国/王国、オーストリア帝国、プロイセン王国、ロシア帝国)の政策に影響力ないし決定力を持つ鍵を握る人物との人的関係の構築である。古くは、父親から引継いだヘッセン選帝侯ヴィルヘルム1世(kurfürst Wilhelm I. von Hessen、ヘッセン・カッセル方伯ヴィルヘルム9世 (Wilhelm IX., landgraf von Hessen und Kassel))の財務顧問カール・フリードリヒ・ブデルス(Karl. Friedrich Buderus)やナポレオン・ボナパルトによって結成されたライン同盟の首座大司教侯(Fürstprimas)になるカール・テオドール・アントン・マリア・フォン・ダールベルク(Karl Theodor Anton Maria von Dalberg)と親交を結び、西暦1813年以降では、イギリス王国の兵站部将校ジョン・チャールズ・へリーズ(John Charles Herries)やイギリス王国のウィーン会議代表を務めた外相のカッスルレー卿(Lord Castlereagh)の兄弟であるチャールズ・スチュワート(Charles Stewart)と親しく交わった。西暦1820年代には、首相のリバプール卿(Lord Liverpool)や大蔵大臣のニコラス・バニシタート(Nicholas Vanisittart)と直接話すようになった。西暦1830年代には、初代ウェリントン公アーサー・ウェルズリーに、選挙法改正にまつわる混乱期(西暦1830〜1832年)に重要な財務上の助言をしている。外国では、オーストリア帝国のクレーメンス・フォン・メッテルニヒの秘書フリードリヒ・フォン・ゲンツやプロイセン王国の国家顧問官ヨルダン(Jordan)、ロシア帝国の外交官ジェルヴェ(Gervais)などに賄賂を惜しみなく使って籠絡した。さらに、クレーメンス・フォン・メッテルニヒが長年の政治生活で金欠であるとの情報をえたネイサン・ロスチャイルドと兄弟は、クレーメンス・フォン・メッテルニヒに900000グルデンの融資を行った。この融資が行われた 6 日後、ロスチャイルド5兄弟は男爵に叙せられた。さらに、ネイサン・ロスチャイルドはグレートブリテン及びアイルランド連合王国(西暦1801〜1922年)国王ジョージ 4 世(George IV、ハノーファー王国(西暦1814〜1866年)国王ゲオルク4世)に融資したことが切っ掛けでイギリス王室との関係も構築したのである。というより、父の代から、ヘッセン・カッセル方伯からハノーバー朝(西暦1714〜1901年)と連なっていた。
 ネイサン・メイアー・ロスチャイルドは、一代で巨万の富を築き金儲けに邁進し続けた。築いた富で何がしたかったのか?ネイサン・ロスチャイルドは根っからの金の亡者つまり「マモン(Mammon、強欲の化身)」であった。しかもネイサン・ロスチャイルドが金に対する強い執着心を持ちつづけたのは「ルサンチマン(Ressentiment)」に突き動かされていた。積極的に非猶太をゴイムにして世界を支配し「復讐する(avenge)」ことである。確かにイギリス王国は大陸に比べてユダヤ人差別は穏やかだったが、より陰険(more insidious)で、帰って猶太が増長し、ネイサン・ロスチャイルドは。悪逆非道なディープステイト(DS(出来損ないの堕落した最兇な屑)の大きな一翼を担い、全人類に不幸を齎し続けている。


国際金融先物市場の仕掛人 - デービッド キナストン, Kynaston,David, 逸司, 柳沢
国際金融先物市場の仕掛人 - デービッド キナストン, Kynaston,David, 逸司, 柳沢



ブルボン朝(仏語: dynastie des Bourbons、西暦1589〜1792、1814〜1830年)、オルレアン朝(仏語: dynastie d'Orléans、西暦1830〜1848年) その5

 西暦1814年04月、第6次対仏大同盟軍は「僭王」ルイ18世(Louis XVIII、プロヴァンス伯ルイ・スタニスラス・グザヴィエ(Louis Stanislas Xavier, comtes de Provence))をフランス王に即位させた。新憲法の西暦1814年憲章は全フランス人の法の前の平等を謳っていたが、王侯貴族の特権を大幅に温存していた。ルイ18世は「最高国家元首であり、陸海軍を指揮し、宣戦を布告し、講和条約、同盟条約および通商条約を締結し、全ての行政官職を任命し、法律の執行と国家の安全のため必要な規則および勅令を制定するもの。」とされた。ルイ18世は後継者のシャルル10世(Charles X、アルトワ伯シャルル・フィリップ(Charles-Philippe, comtes d'Artois))よりは自由主義的であり、中道派内閣を多く組閣した。
 ナポレオン・ボナパルト後に即位したルイ18世とその後のシャルル10世は、ナポレオン・ボナパルト以前の状態にフランスを回帰させようとしたが、ナポレオン・ボナパルトによって齎された物はフランスに深く浸透しており、最早覆すことはできなかった。ウィーン体制による欧州諸国の反動政治もまた欧州諸国民の憤激を買い、フランス革命の理念が欧州各国へ飛び火した(西暦1848年革命など)。ナポレオン・ボナパルト没後もナポレオン体制を支持する潮流は軍人、小土地自由農民とプチ・ブルジョワジーを基盤としており、その権力形態はボナパルティズムと呼ばれるようになり、その後のフランス政治にも少なからず影響を与えた。ナポレオン・ボナパルト失脚後に生まれた、フランス革命前のブルボン朝のアンシャン・レジームを絶対視する支持者をレジティミストと言う。復興王政で反動政治を進めた王党派は、反ボナパルティズムを取り、数年にわたり白色テロを繰り返した。一般に超王党派(ユルトラ、仏語: d'ultras、d'ultraroyalistes)と呼ばれた。またフランス7月革命で成立したルイ・フィリップ1世(Louis-Philippe Ier)による立憲君主制を模範とする統治を支持する者をオルレアニストと言う。両派はいずれもブルボン家の血を引く王家を支持しているため、広義には王党派の範疇に入ると言えるが、ナポレオン・ボナパルト失脚後に生まれたシャルル・ルイ・ナポレオン・ボナパルト(Charles Louis-Napoléon Bonaparte、後のナポレオン3世(Napoléon III))支持者のボナパルティストと激しく対立した。 フランス国内の右派においてこの3者は競合する関係となった。レジティミスト(ユルトラ)、オルレアニストとボナパルティストと3者の長い対立と確執は、フランスに禍根を残した。
 その一方、産業革命などによって急速に個性を喪失していく中、全ヨーロッパを駆け抜けたナポレオン・ボナパルトを時代に対する抵抗の象徴として「英雄」視する風潮が生まれた。ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel)が「世界理性の馬を駆るを見る」と評し、フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche)が「今世紀(西暦19世紀)最大の出来事」と評し、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテが「半神」、「空前絶後の人物」と評した。その一方で、こうしたナポレオン・ボナパルトを理念化されたナポレオン・ボナパルトであって現実のナポレオン像ではないとする人々もいた。ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven)がフランス革命後の世界情勢の中、ナポレオン・ボナパルトへの共感から、ナポレオンを讃える曲として交響曲第3番変ホ長調作品55「英雄」は作曲された。「しかし、完成後まもなくナポレオン・ボナパルトが皇帝に即位し、その知らせに激怒し、『奴も俗物に過ぎなかったか。』とナポレオン・ボナパルトへの献辞の書かれた表紙を破り捨てた。」のも、そうした背景を象徴するものである。ナショナリズムに基づく国民国家、メリトクラシー(能力主義)による統治、私有財産の不可侵や経済活動、信教の自由など現代に至る国家・社会制度の確立にナポレオン・ボナパルトが与えた影響は大きい。
 しかし、ナポレオン・ボナパルトは奴隷制を復活させて有色人種を隷属させ、女性の社会的地位を男性の下に位置付けた、戦争による殺戮や相続税、財産税などの税を発明したのもナポレオン・ボナパルトである。現在も、諸国民から血と財産・金を奪い続けている。

 啓蒙思想とフランス革命により、不自由・不平等、不寛容非法治で虐殺が起き、国民に税金と徴兵を課し、財産と生命を奪い、無教養に無知で不道徳、‥‥が齎された。
 これ以降、全人類が不幸になり、悪逆非道なディープステイト(DS(出来損ないの堕落した最兇な屑))の鬼畜が血脹れし蔓延った。


 現在のフランスでは、豚に「ナポレオン」と名付けることを禁止している。ただし、そのような法律は法令集に確認されない。西暦1947年、フランス共和国の出版社が、ジョージ・オーウェル「動物農場」の翻訳出版に当たり、登場する豚〈擬人化された独裁者〉の名前を「ナポレオン」のままとすることを拒否した例がある。

 西暦1815年、ナポレオン1世がワーテルローの戦いに敗れてセントヘレナ島に流され、百日天下が終り、ルイ18世が復位し第2次王政復古が始まった。「変節漢」シャルル・モーリス・ド・タレーラン・ペリゴール(Charles-Maurice de Talleyrand-Périgord)は、ナポレオン・ボナパルトの百日天下の警察相ジョゼフ・フーシェ(Joseph Fouché)と同様に、ブルボン朝再興により権勢を恢復した。カール大帝(独語: Karl der Große、シャルルマーニュ(仏語: Charlemagne))の末裔ペリゴール伯爵の直系子孫を自称する名門貴族の家柄で、タレーラン侯爵の次男の伯爵家の長男のシャルル・モーリスは、内反足で片足に障害を持っていたため、父の職責であった連隊長の後を継ぐことができず、父の指示で聖職者の道に進み、西暦1788年にルイ16世によってブルゴーニュのオータン司教に任ぜられた。西暦1789年に三部会の第一身分(聖職者)議員に選出され、自身が司教でありながら教会財産の国有化という反カトリック教会的な政策を推進し、万国共通の単位の制定〈後のメートル法〉を国民議会に提案した。フランス共和国でのジャコバン派による恐怖政治を避け亡命し、アメリカ合衆国に渡った。西暦1796年にフランスに帰国し、当時愛人だったスタール夫人の推薦により総裁政府の外相となったが、西暦1799年に辞任。ナポレオン・ボナパルトのブリュメール18日のクーデターの陰謀に参加し、成立した統領政府で再び外相となり、リュネヴィルの和約およびアミアンの和約の成立に貢献し、ナポレオン・ボナパルトから高い評価を得た。ブルボン王政ではオータン司教、第1帝政ではベネヴェント大公。西暦1807年に外相を辞任。帝国顕官副大選挙人、元老院議員に就いたが、ジョゼフ・フーシェとともにナポレオン1世の失脚を計画した。西暦1814年にナポレオン1世が失脚すると、臨時政府の代表となり、ルイ18世即位後は再びフランス王国の外相となり、ウィーン会議に出席した。この会議では、正統主義を唱えて列強の利害対立を利用し、巧みな外交手腕でフランス王国の国益を守った。西暦1815年にナポレオン1世の百日天下の後、一時首相となったが、過激王党派にフランス革命期の政治活動を非難され失脚した。西暦1830年の7月革命ではルイ・フィリップ1世の即位に貢献した。正に、フランス革命と政治そのものがシャルル・モーリス・ド・タレーラン・ペリゴールであり、「金儲けに精を出していないときは、陰謀を企んでいる。」、「裏切りの天才」と評され、ナポレオン・ボナパルトは「絹の靴下の中の糞」と呼んだ。
 第2次王政復古を機に南仏を中心に第2次白色テロが始まり、王政支持者はナポレオン1世の復権に協力した者に対する復讐に燃え、200人ないし300人が殺害、数千人が追放された。テロの実行者らは、当時の超王党派(ユルトラ)の指導者アルトワ伯シャルル・フィリップ(後のシャルル10世)の象徴色である緑色の記章を身に着けていたことから、緑党 (Verdets) と呼ばれた。当時の地方庁には暴力行為を防止する余力がなく、国王政府が官憲を派遣して治安を恢復していた。
 ジョゼフ・フーシェは、王政復古で短期間だけ警察大臣となったが、王党派は国王殺しのジョゼフ・フーシェを忘れていなかった。
両親であるルイ16世(Louis XVI)とマリー・アントワネット・ジョゼフ・ジャンヌ・ド・アプスブール・ロレーヌ(Marie-Antoinette-Josèphe-Jeanne de Habsbourg-Lorraine、またはマリー・アントワネット・ドートリッシュ(Marie-Antoinette d'Autriche、マリア・アントーニア・ヨーゼファ・ヨハンナ(独語: Maria Antonia Josepha Johanna)))をギロチンで、弟ルイ17世(Louis XVII、ルイ・シャルル)を虐待で殺されたマリー・テレーズ・シャルロット(Marie Thérèse Charlotte)は、ジョゼフ・フーシェが現れると席を蹴り、決して同席しようとしなかった。西暦1815年08月、ジョゼフ・フーシェは大臣就任後わずか2ヶ月で失脚し、ザクセン王国(当時はドイツ連邦の加盟国)駐在大使としてドレスデンに左遷された。西暦1816年01月09日、パリの議会による「百日天下の際にナポレオン・ボナパルトに与した国王死刑賛成投票者はフランスから永遠に追放する。」というジョゼフ・フーシェを狙い撃ちにする決議により国外追放される形でプラハに亡命した。
 西暦1815年11月20日に第2次パリ条約が調印され、第1次パリ条約より厳しい条件が課された。フランスは7億フランの賠償金の支払を課せられ、その国境を西暦1790年当時のものに縮小された。ワーテルローの戦いの後、フランスは120万の外国兵に占領されたが、約20万の兵が西暦1818年まで占領を継続するものとされ、フランス王国には賠償金に加えて占領軍の駐留経費負担の支払いが課せられた。この事や白色テロに対する強い反感の矛先はルイ18世に向けられた。

 ルイ18世の治世初期の首相はシャルル・モーリス・ド・タレーラン・ペリゴール、第5代リシュリュー公アルマン・エマニュエル・ソフィー・セプティマニー・ド・ヴィニュロー・デュ・プレシ(Armand Emmanuel Sophie Septimanie de Vignerot du Plessis, 5e duc de Richelieu)、エリー・ルイ・ドゥカズ(Élie Louis Decazes、ドゥカズ伯、初代ドゥカズ公(西暦1822年にドゥカズ伯から陞爵)、初代グリュックスボー公)ら穏健派が務め、ルイ18世自身も慎重な政策を執った。ドゥカズ伯エリー・ルイは百日天下でもブルボン家への忠誠を保ち、西暦1818年〜1820年まで実質上の政府首班を務めた
 西暦1815年の選挙で超王党派(ユルトラ)が圧勝し、ルイ18世のいう「またと見出しがたい議会(la chambre introuvable)」が成立すると、議会はタレーランーフーシェ内閣を打倒するとともに、白色テロの正当化、文官5万人ないし8万人・武官1万5000人の罷免を求めた。そして、西暦1789年10月に亡命して以来「新生フランスと無縁になっていた」第5代リシュリュー公アルマン・エマニュエル・ソフィー・セプティマニー・ド・ヴィニュロー・デュ・プレシが、後継首相に任命された。一方で、超王党派(ユルトラ)議会は王政と教会の立場を積極的に支持していくとともに、王政史上の人物の記念顕彰を呼びかけた。この一環として、元教会所有森林40万haの売却に係る債券保証関連予算の成立阻止、離婚禁止の再導入、トリコロールの所持を発見された者の死刑要求、身分登録(戸籍)業務の教会簿への奪還計画などが行われた。会期中、国家的儀式はユルトラ政治の代名詞となっていき、ルイ18世を大いに悩ませた。最穏健派の閣僚、ドゥカズ伯エリー・ルイは、多くの緑党が徴兵されていた国民衛兵の政治化防止に着手し、西暦1816年07月に民兵による政治活動が禁止された。議会と国王の立場が対立したため、超王党派(ユルトラ)は代議院の権限を主張し始め、議会の予算承認権により西暦1816年度予算の成立を阻止しようとし、政府の譲歩を引き出した。しかし、議会多数派の代表者をもって内閣を組織する保証を国王から得ることはできなかった。
 西暦1816年09月、ルイ18世は反動政策を取る議会を解散し、選挙工作が行われたことで西暦1816年の議会は自由主義者が多数を占めた。リシュリュー公は西暦1818年12月29日まで首相を務め、次いで初代ドゥソル侯ジャン・ジョゼフ・デソール(Jean Joseph Dessolles, 1st Marquis Dessolles)が西暦1819年11月19日まで、ドゥカズ伯エリー・ルイ(西暦1818〜1820年まで実質上の政府首班)が西暦1820年02月20日まで登板した。この時代には君主制とフランス革命、権力と自由を調和させることを望んだ王党派の純理派(ドクトリネール、仏語: Doctrinaires)が政策を主導した。翌西暦1817年、政府は選挙法を改正し、ゲリマンダー(Gerrymander、特定の政党や候補者に有利な選挙区の地理的に異様な区割り)を行うとともに裕福な商工業者に選挙権を付与して、ユルトラが将来の選挙で多数派に返り咲くことを防止しようとした。また、新聞の検閲を廃止・緩和し、軍の階級のいくつかに昇進競争の途を開き、相互学校の設立を認めてカトリックによる公初等教育の独占を破った。ドゥカズ伯エリー・ルイは多くのユルトラの知事・郡長を排除したところ、その補選では非常に高い割合でボナパルティストないし共和主義者が当選したが、ユルトラの戦略投票によって返り咲いた者もいた。政府がその地位を固めていくと、ユルトラは官吏の雇用・昇進を進める代議院議員(代議士)を厳しく批判した。ルイ16世の処刑に賛成票を投じたアンリ・グレゴワール(Henri Grégoire)は西暦1819年にイゼール県の代議院議員に選ばれたが、首相ドゥカズ伯エリー・ルイによって選挙は無効とされた。
 西暦1820年までに野党側の自由主義者は超王党派(ユルトラ)とともに議会を二分して御しがたい存在となっていたため、ドゥカズ伯エリー・ルイと国王は選挙法改正を模索し、御しやすく保守的な多数派の形成を確実にしようとした。ところが、極端な反動主義者、王弟アルトワ伯シャルル・フィリップ(後のシャルル10世)の次男で王位継承者のベリー公シャルル・フェルディナン・ダルトワ(Charles Ferdinand d'Artois, duc de Berry)が西暦1820年02月13日に、「西暦1815年のパリ条約の責任はブルボン家にある。」と考え、血筋を断絶させることを狙った、狂信的なボナパルティストの馬具屋、ルイ・ピエール・ルヴェルによって、オペラ座から出てきたところを暗殺された。ベリー公シャルル・フェルディナン・ダルトワの暗殺の責任を問われたドゥカズ伯エリー・ルイが失脚し、ユルトラが再び優勢となった。
 ベリー公シャルル・フェルディナン・ダルトワが馬具屋ルイ・ピエール・ルヴェルに刺された時、両シチリア王女のベリー公爵夫人マリー・カロリーヌ・ド・ブルボン(Marie Caroline Ferdinande Louise de Bourbon, La Duchesse de Berry)は身籠っていたが、ベリー公夫妻はこの事実を伏せていた。瀕死のベリー公が取り乱す妻に向け、「お腹の子のために落ち着きなさい。」と言ったことで彼女の妊娠が明らかとなった。夜明け前にベリー公は亡くなり、7ヶ月後にアンリ・ダルトワ(Henri d'Artois)が産まれた。出生名の最後に「神から与えられた」の意味を付け、アンリ・シャルル・フェルディナン・マリー・デュードネ(Henri Charles Ferdinand Marie Dieudonné)と名付けられ、ブルボン王家直系の男子が途絶えると危惧された矢先に誕生したため、ボルドー公アンリ・シャルル・フェルディナン・マリー・デュードネ(Henri Charles Ferdinand Marie Dieudonné, duc de Bordeaux、シャンボール伯アンリ・ダルトワ(comte de Chambord)、アンリ5世(Henri V))は「奇跡の子」と持て囃された。フランス王シャルル10世の孫で、フランス・ブルボン家最後の王位継承候補だったが、7月王政(西暦1830〜1848年)期、第2共和政(西暦1848〜1852年)期、第2帝政(西暦1852〜1870年)期を通じて、常に政権の対抗軸であり続け、 王政復古確実な状況にありながら、その千載一遇の好機を逃し続けた。
 西暦1820〜1821年までの短期間、リシュリュー公が再登板した。新聞の検閲が強化され、裁判なき拘留が復活した。百日天下の後はガンに移り、そこでルイ18世に謁見し、「復古王政を長続きさせるには自由主義政策を採用することが最善である。」と述べ、政敵により愛国心のない行動として非難され仇名が「ガンの男」のフランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾー(François Pierre Guillaume Guizot)らドクトリネール派(純理派)の指導者に対し、高等師範学校での講義が禁止されるなどした。リシュリュー公の下で選挙法が改正され、西暦1820年11月の選挙から最富裕層の選挙人に二重投票権が与えられることとなった。ユルトラの巻き返しでその指導者のジョセフ・ド・ヴィレール(Joseph de Villèle、西暦1822年から初代ヴィレール伯ジャン・バティスト・ギヨーム・マリー・アン・セラフィン・ジョセフ(Jean-Baptiste Guillaume Joseph Marie Anne Séraphin. 1er comte de Villers)を首班とする新内閣が成立し、6年間続いた。ユルトラは政権に返り咲くに当たり様々な好機に恵まれた。ベリー公シャルル・フェルディナン・ダルトワの死から7ヶ月後にベリー公爵夫人が息子アンリ・フェルディナン・デュードネを出産し「奇跡の子」と呼ばれ、西暦1821年にナポレオン・ボナパルトがセントヘレナ島で死去し、その遺子ライヒシュタット公ナポレオン・フランツ・カール・ヨーゼフ(独語: Napoleon Franz Karl Joseph, Herzog von Reichstadt(「帝国都市」の意)、仏語: Napoléon François Charles Joseph, duc de Reichstadt(ライヒシュタット公ナポレオン・フランソワ・シャルル・ジョゼフ)、ナポレオン2世(Napoléon II))の身柄が依然としてオーストリア帝国の手中にあった。
 また、ロマン派の作家で貴族院議員のフランソワ・ルネ・ド・シャトーブリアン(シャトブリアン、François-René de Chateaubriand)を筆頭に、ヴィクトル・マリー・ユーゴー(Victor-Marie Hugo)、アルフォンス・マリー・ルイ・ド・プラ・ド・ラマルティーヌ(Alphonse Marie Louis de Prat de Lamartine)、アルフレッド・ド・ヴィニー(Alfred Victor, comte de Vigny)、シャルル・ノディエ(Charles Nodier)などの作家がユルトラ的な主義主張の下に結集し、良き文学の会(société des bonnes lettres)を結成した。ヴィクトル・マリー・ユーゴーとアルフォンス・マリー・ルイ・ド・プラ・ド・ラマルティーヌは後に共和主義者に転向したが、シャルル・ノディエは元ジャコバン派から王党派に転向した。しかし、まもなくジョセフ・ド・ヴィレールは国王と同様に慎重になり、ルイ18世の存命中は、あからさまな反動政策は最小限に抑えられた。
 ユルトラは支持を広げ、軍内に拡大する反対論を抑えて西暦1823年にスペイン王国(西暦1492〜)に干渉し、スペイン王国ボルボン朝(西暦1700年〜)復古王政の国王フェルナンド7世を支援し、西暦1820年01月01日、南米の独立運動に対して編成した10個連隊のうちのアストゥリア連隊をラファエル・デル・リエゴ・イ・ヌーニェス (Rafael del Riego y Flórez)大佐は率いて叛乱を起こした。このスペイン立憲革命後の「自由主義の3年間」(西暦1820〜1823年、西語: Trienio Liberal)の自由主義政府に対抗し、国民の愛国心を煽った。軍事行動にはイギリス王国の後ろ盾があったが、この干渉は大要、ナポレオン1世の治世下でイギリス王国が失っていたスペイン王国への影響力を取り戻そうとしたものと見られていた。フランス軍は「聖ルイの十万の息子たち」と呼ばれ、アルトワ伯シャルル・フィリップ(後のシャルル10世)の長男で王太子(ドーファン)、アングレーム公ルイ・アントワーヌ・ド・フランス(Louis Antoine de France, duc s d'Angoulême)が指揮を執った。西暦1823年04月–〜09月、フランス軍は小戦で自由主義者を撃退しながらマドリード、その後カディスへ進軍し、5年間スペイン王国に駐留した。西暦1823年11月07日、ラファエル・デル・リエゴ・イ・ヌーニェスはマドリードのセバダ広場で絞首刑になった。
 西暦1816年の議会と同様に利益誘導が行われ、カルボナリ党(伊語: Carbonari、シャルボンヌリー党(仏語: Charbonnerie)、「炭焼(木を燃して炭を製造する職人)」の意)への不安が齎されたことで、ユルトラは一層支持を強め、西暦1824年の選挙で圧勝し、「再び見出された議会(la chambre retrouvée)」となった。ルイ18世は西暦1824年09月16日に死去し、王弟アルトワ伯シャルル・フィリップが王位を継承してシャルル10世となった。

 ナポレオン・ボナパルトの敗北以降のウィーン会議(西暦1814〜1815年)では西暦1792年以前への復帰と勢力均衡が原則とされた。また各地のナポレオン法典は無効とされ、ユダヤ人政策は各国家の自由裁量となった。
 ウィーン会議以降の国際秩序をウィーン体制(西暦1815〜1848年)と呼び、西暦1848年革命に崩壊するまでの時代を指す。ナポレオン戦争に勝利したオーストリア帝国(西暦1804〜1867年)、ロシア帝国(西暦1721〜1917年)、プロイセン王国(西暦1701〜1918年)の復古勢力は革命の再発を防ぐために、西暦1815年に耶蘇教的友愛による平和を提唱する神聖同盟を締結、オーストリアの宰相クレーメンス・ヴェンツェル・ロータル・ネーポムク・フォン・メッテルニヒ・ヴィネブルク・ツー・バイルシュタイン(Klemens Wenzel Lothar Nepomuk von Metternich-Winneburg zu Beilstein)が主導して西暦1818年にハノーヴァー朝(西暦1714〜1901年)イギリス王国(グレートブリテン及びアイルランド連合王国)(西暦1801〜1922年)と敗戦国フランス王国を加えた5国同盟を締結してウィーン体制を確立した。5国はドイツの自由主義運動を弾圧した。スペイン王国ではナポレオン軍の敗北によりジョゼフ・ボナパルト(Joseph Bonaparte、スペイン国王ホセ1世(José I))は追放され、スペイン王国ボルボン朝フェルナンド7世(Fernando VII)が復位した。これに対して自由主義者リエゴがスペイン立憲革命を起こし、イタリアでもカルボナリ党がスペインを模倣してナポリ、ピエモンテで蜂起したが、革命の波及を恐れた5国同盟によって両者は鎮圧された。他方で、イスパノアメリカ独立戦争(西暦1808〜1833年)などを通じてラテンアメリカ諸国が相次いでスペイン帝国(西暦1492〜1976年)からの独立を果たし、スペイン王国は中南米植民地を失っていった(ラテンアメリカの独立)。さらに西暦1821年からオスマン帝国(西暦1299〜1922年)よりの独立を目指したギリシア独立戦争が始まり、これをめぐる諸国の利害衝突によりウィーン体制は揺らいだ。当初ウィーン体制は正統主義を主張してギリシアの独立を否定していたが、ロシア帝国が正教会弾圧を理由に介入を開始し、さらにイギリス王国とフランス王国が介入、ナヴァリノの海戦や露土戦争(西暦1828〜1829年)で聯合軍に敗北したオスマン帝国(西暦1299〜1922年)は西暦1832年ギリシア独立を認めた。列強はバイエルン王国(西暦1806〜1918年)王子オットー・フリードリヒ・ルートヴィヒ・フォン・ヴィッテルスバッハ(独語: Otto Friedrich Ludwig von Wittelsbach、希語: Όθων-Φρειδερίκος-Λουδοβίκος)をギリシア王オソン1世(希語: Όθων Α)とするギリシア王国(西暦1832〜1924、1935〜1941、1944〜1973年)を樹立した。一方、西暦1830年のフランス7月革命に対抗してロシア帝国、オーストリア帝国、プロイセン王国が西暦1832年10月に旧秩序維持を再確認したが、革命干渉を忌避したイギリス王国とフランス王国が 紳士協商を結んだことでウィーン体制は分裂し、各国の西暦1848年革命によって崩壊した。

 ウィーン会議で承認されたウィーン議定書によって出現したウィーン体制により、オーストリア帝国主導でかつての神聖ローマ帝国(西暦800/962〜1806年)の領域にほぼ合致したドイツ連邦(Deutscher Bund、西暦1815〜1848、1850〜1866年)が成立した。しかし、ドイツ連邦はかつての神聖ローマ帝国の再興とは言い難く、ナポレオン1世統治下の陪臣化で消滅した群小諸邦の君侯は復位できなかった。また、ドイツ国民にとっての新体制ドイツ連邦は、従来の領邦国家体制と変わらず、対ナポレオン戦争、ドイツ解放戦争で一体となって戦い、国民的な国家を期待していたドイツ国民は失望した。ライン川西岸一帯のラインラントはプロイセン王国に割譲され、また、プロイセン王国はオーストリア帝国主導に反撥を強めた。ウィーン体制は西暦1848年革命で崩壊した。
 エルンスト・モーリッツ・アルント(Ernst Moritz Arndt)の発案で西暦1814年10月に諸国民戦争(ライプツィヒの戦い)1周年記念式典が催され、最初のドイツ国民祝祭となった。式典ではユダヤ人も参加した。ドイツ解放戦争に志願兵として参加した学生たちはドイツ国民の統一国家を期待していたが、ウィーン体制ではドイツの君主国諸国家への分裂を固定化されたため、祖国の現状に不満を抱いて、学生結社ブルシェンシャフト運動を展開した。西暦1815年に結成されたブルシェンシャフト(Burschenschaft、Burschen: 少年達の+-schaft: 集合体、「学生組合」、「学生同盟」の意)主流派のイエナ大学の結社は愛国心の涵養と心身練磨をはかり、ギーセン大学のカール(チャールズ)・テオドール・クリスティアン・フリードリヒ・フォーレン(Karl (Charles) Theodor Christian Friedrich Follen)はドイツに自由で平等な共和国を目指した。

 西暦1816年、新カント派で自由主義の哲学者ヤーコプ・フリードリヒ・フリース (Jakob Friedrich Fries)は「ユダヤ人を通じて齎されるドイツ人の富ならびに国民性の危機について」において、「ユダヤ人にはドイツ人と見分けるための標章を義務づけるべき」で、ドイツからユダヤ人が出ていくことを推奨した。ユダヤ人の貨幣経済における支配的な役割を非難し、ドイツから猶太教を根絶やしにすべきだと「ユダヤ人のカーストを根こそぎ絶滅に追いやること」を訴えた。
 西暦1817年10月18日、マルティン・ルター(Martin Luther)」が新約聖書をドイツ語に翻訳したアイゼナハのヴァルトブルク城で、宗教改革300周年のヴァルトブルク祭が学生結社ブルシェンシャフトによって開催された。ヴァルトブルク祭には全ドイツから460人以上のブルシェンシャフトの学生運動家が結集し、祖国ドイツへの愛と、ドイツ統一とドイツの自由と正義とが高唱された。教育者でドイツ国民運動家のフリードリヒ・ルートヴィヒ・ヤーン(Friedrich Ludwig Jahn)は、哲学者ヤーコプ・フリードリヒ・フリースとともにこのヴァルトブルク祭の立役者であった。祭典にはヤーコプ・フリース、医学者ディートリッヒ・ゲオルク・キーザー(Dietrich Georg Kieser)、博物学者ローレンツ・オーケン(Lorenz Oken)、法学者クリスチャン・ヴィルヘルム・シュヴァイツァー(Christian Wilhelm Schweizer)が来賓として参列した。ヤーコプ・フリードリヒ・フリースの門下生エミル・レーディガー(Emil Rödiger)は「祖国のために血を流すことのできる者は,どうすれば最も良く平和の時に祖国に尽くすかについても語ることができるのだ。こうして我々は自由な空の下に立ち,真理と正義を声高に口にする。何となれば最早ドイツ人が狡猜な密偵や暴君の首切り斧を恐れることなく,またドイツ人が聖なるものと真理を語る時に誰も気兼ねする必要のない、そんな時代が有難いことにやって来たのだ。......我々は全ての学問が祖国に仕えるべきであり,同時にまた人類の生活に仕えるべきであるということを決して忘れまい。」と演説し、この演説は国務大臣で文豪のヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテも称賛した。この祭典では、反ドイツ的とされた書物が焚書され、ユダヤ系作家ザウル・アシャーの「ゲルマン狂」も焼かれ、後年のナチス・ドイツの焚書の先駆けともなった。こうしてドイツの大学を温床として、人種差別的な汎ゲルマン主義が生まれていった。クレーメンス・フォン・メッテルニヒはこうした過激化した学生運動に警戒を強めた。
 西暦1819年03月には、ブルシェンシャフトの自由主義と愛国思想を雑誌で揶揄していた作家アウグスト・フォン・コツェブー(August von Kotzebue)が、ロシア帝国の間諜として過激派の神学生のカール・ルートヴィヒ・サンドに暗殺された。この事件以後、クレーメンス・フォン・メッテルニヒは西暦1819年09月20日のカールスバート決議で学生運動と自由主義運動の弾圧を決定し、出版法による検閲制度、大学法、捜査法などによる革命運動の取締りをドイツ連邦全土で強化した。マインツには革命的陰謀や煽動的結社運動を監視する委員会が置かれた。ヤーコプ・フリードリヒ・フリースやエルンスト・モーリッツ・アルントやヴェルガー兄弟など著名な教授は大学から追放され、フリードリヒ・ルートヴィヒ・ヤーンは大逆罪で幽囚され、ハインリヒ・フリードリヒ・フォン・シュタイン(Heinrich Friedrich Karl vom Stein)やナイトハルト伯アウグスト・ヴィルヘルム・アントニウス・フォン・グナイゼナウ(August Wilhelm Antonius Graf Neidhardt von Gneisenau)ら改革派も政界から追放された。西暦1848年の3月革命まで出版は制限され、新聞や雑誌の発行部数は激減したが、出版に代わって祝典や集会が盛んに行われるようになった。また急進派は地下に潜り、西暦1833年04月にはフランクフルトで衛生兵襲撃事件が起こった。
 飢饉と食料危機を契機として、西暦1819年08月から10月にかけて、プロイセン王国以外のヴュルツブルクなど全ドイツの各州、ボヘミア、アルザス、ネーデルラント連合王国(西暦1815〜1830年)、デンマーク王国(西暦8世紀頃〜)で反ユダヤ暴動が発生し、ユダヤ人が暴行を受け、シナゴーグや住宅は掠奪された。暴動では西暦1096年に十字軍兵士が叫んでいたとされる「ヒエロソリマ・エスト・ペルディータ(Hierosolyma Est Perdita)。エルサレムは滅んだ。」という言葉に因んで「Hep! Hep!」という合言葉が使われたため「ヘップヘップ暴動」もいう。この暴動で、アメリカ合衆国(西暦1776年〜)へのユダヤ人移住が活発になった。猶太教徒でサロン主催者のラーヘル・ファルンハーゲン・フォン・エンゼ(Rahel Varnhagen von Ense、旧姓: レーヴィン(Levin))は「暴動の責任は作家アヒム・フォン・アルニム(Achim von Arnim)やクレメンス・マリア・ブレンターノ(Clemens Maria Brentano)一派にある。」と見た。
 西暦1819年11月からの連邦議会でクレーメンス・フォン・メッテルニヒは「ドイツ連邦は自由都市を除いて君主国であり、各邦はドイツ連邦国元首の下に統轄される。」というウィーン最終規約を定めた(西暦1820年05月15日発効)。ドイツ各邦を連邦政府の監視下に置く君主制原理が貫徹された。
 西暦1819年、ハートヴィッヒ・フォン・フント・ラドフスキー(Hartwig von Hundt-Radowsky、ハートヴィッヒ・フント(Hartwig Hundt))は、西暦16世紀の改宗ユダヤ人ヨハンネス・プフェファーコルン(Johannes (Josef) Pfefferkorn)と同題の「ユーデンシュピーゲル(Der Judenspiegel、ユダヤの鑑)、(Judenspiegel – Ein Schand- und Sittengemälde alter und neuer Zeit、ユダヤの鑑 – 新旧の恥と道徳の肖像)」を刊行し、ユダヤ人を「人間以下」、「害虫」と表現した。 「ユダヤ男は去勢し、ユダヤ女は売春婦になれ。」と主張した。「全てのユダヤ人を奴隷としてイギリス人に売り、イギリス人は彼らを海外植民地で使用すべきである、彼らを鉱山の地下で働かせ、去勢し、雇用することである。売春宿で​​売春婦として働くユダヤ人女性は、売春宿で大蒜や玉葱の臭いのため求婚者が婚外性交を妨げ、道徳に貢献した。しかし、害虫の土地を完全に浄化することが最善であり、これを行うには2つの方法もある。彼らを完全に抹殺するか、ファラオのようにマイニンゲン、ヴュルツブルク、フランクフルトのユダヤ人を田舎に追い出すかだ。私の地域では、ユダヤ人殺害は宗教上の罪でも犯罪でもなく、単に警察の問題であると考えているが、別件で罰することが横行しているように、人前で行うことは決して勧めない。」「ユダヤの鑑」という同題の著作は、西暦1862年にフリードリヒ・ヴィルヘルム・アドルフ・マール(Friedrich Wilhelm Adolph Marr)、西暦1883年にルーマニア出身の改宗ユダヤ人アロン・イスラエル・ブリマン(Aron Israel Brimann、仮名: Dr. Justus)、西暦1884年にプラハ大学教授アウグスト・ローリング(August Rohling)神父、西暦1921年にドイツ民族防衛同盟員の詩人フリードリッヒ・フィッシャー・フリーゼンハウゼン(Friedrich Fischer-Friesenhausen)が出版した。
 西暦1820年、作家アヒム・フォン・アルニムは小説「世襲領主」で、世襲領主が零落する中、路地から這い出てきた強欲なユダヤ人を描いた。アヒム・フォン・アルニムは義兄のクレメンス・マリア・ブレンターノとともに、ベルリンで「ドイツ耶蘇教晩餐会」を開催し、ユダヤ人は改宗者であっても入会禁止とした。
 西暦1820年、オスマン帝国からの独立を目指してギリシアが独立戦争を始めた。ギリシアでは、フランス革命やドイツロマン主義の影響でナショナリズムが台頭していた。当初ウィーン体制下のヨーロッパ諸国は正統主義によってオスマン帝国を支持したが、ロシア帝国がロシア正教を攻撃したオスマン帝国へ国交断絶を通告し、西暦1828年にロシアは露土戦争を始めた。ロシア帝国の影響拡大を恐れたイギリス王国やフランス王国も介入して、西暦1830年にロンドン議定書でギリシアの独立が承認された。
 西暦1823年にはベルリンのユダヤ人の半数が耶蘇教に改宗した。西暦1824年、バイエルン王国王太子ルートヴィヒ1世(Ludwig I、ルートヴィヒ・カール・アウグスト (Ludwig Karl August))はドイツの偉人を祀ったヴァルハラ神殿を建設した。ヴァルハラ神殿にはドイツ2000年の歴史を示す偉人、例えばローマ帝国によるゲルマニア征服を阻止したアルミニウス(Arminius)から、西ゴート族の王アラリック1世(ゴート語: 𐌰𐌻𐌰𐍂𐌴𐌹𐌺𐍃 Alarīks, Alaric I)、フランク王国(西暦05世紀後半〜09世紀頃)メロヴィング朝(西暦481〜751年)の初代国王クローヴィス1世(独語: Chlodwig I、仏語: Clovis Premier)、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven)などの銘板や胸像が収められている。
 西暦1820年代後半以降には、出版に代わって祝典や集会が盛んに行われるようになり、デューラー300年記念祭(西暦1829年)、ハンバッハ祭(西暦1832年)、グーテンベルク祭(西暦1837年、西暦1840年)、シラー記念祭(西暦1839年)、ドイツ合唱祭(西暦1845年)などが開催され、政府による取締を逃れてドイツ民族の英雄が称賛され、ドイツ統一と国民連帯を要求することができた。また西暦1841年からは記念碑が作られる運動が高まり、ジャン・パウル、モーツァルト、ボニファティウス、バッハ、ゲーテなどの記念碑が作られていった。西暦1830年と西暦1834年にもドイツで反ユダヤ暴動が発生した。西暦1818年に公布されたバイエルン憲法では出版の自由も明記されるなど、ナポレオン法典で認められていた権利が保証されていたが、西暦1830年のフランス7月革命以降、バイエルン王国政府は検閲を強化した。ジャーナリストのフィリップ・ヤコブ・ジーベンプファイファー(Philipp Jakob Siebenpfeiffer)とヨハン・ゲオルク・アウグスト・ヴィルト(Johann Georg August Wirth)は「ドイツの再統一のために自由な言論は唯一の手段である。」とする「ドイツ自由出版祖国協会」を結成したが、バイエルン王国他プロイセン王国やハンブルクでも禁止された。フィリップ・ヤコブ・ジーベンプファイファーは憲法記念祭に代わる「民族祭典(Volksfest)」を計画して、05月27日に「ドイツ5月祭」をハンバッハ城で開催することを宣伝した。このハンバッハ祭は「内的 ・外的な暴力廃止のための祝祭」であり「法律に保証された自由とドイツの国家としての尊厳の獲得」を目的とした。ライン・バイエルン政府では、フランス占領時代から集会は禁止されていたが、祝典(Festmahl)や民族祭典(Volksfest)は許可されていた。しかし、祭典を禁止しようとしたライン・バイエルン政府に対して参事会が反対し、政府は禁止命令を撤回したが、撤回は前代未聞であり、政府の敗北と見做された。
 こうして西暦1832年05月27日〜06月01日までバイエルン王国のプファルツに3万人余が集まった「ドイツ5月祭=ハンバッハ祭」が開催され、西暦1817年ヴァルトブルク祭の規模を超える盛況となった。ドイツ統一と諸民族の解放、人民主権や共和制の樹立などが叫ばれた。
参加者は「ドイツ祖国とは何か」、「輝きの渦のなかの祖国」といった歌を歌いながら行進し、ノイシュタットの医師フィリップ・ヘップ(Philipp Hepp)は「ドイツ統一とドイツの自由によってドイツは再生する。」と演説した。ハンバッハ祭にはドイツの自由の守護神として学生たちから歓迎されていたユダヤ系のカール・ルートヴィヒ・ベルネ(Karl Ludwig Börne)はパリから参加した。カール・ルートヴィヒ・ベルネは、ポーランド・ロシア戦争でユダヤ人3万人がポーランド王国(11月蜂起)(西暦1830〜1831年)支援のために駆けつけ、ポーランド王国という祖国を戦い取ろうとしているのに対して「ユダヤ人を酷く軽蔑している誇り高く、傲慢なドイツ人には祖国が未だない。」と述べた。また、詩人フリッツ・ロイター(Fritz Reuter)も参加した。フィリップ・ヤコブ・ジーベンプファイファーは演説で「国民と呼ばれる蛆虫は地べたを蠢き回っている。」と述べ、「祖国の統一を望むことさえ犯罪になるのだ。」と主張し、34人のドイツ諸国家の君主を「国民の虐殺者」と罵り、君主が王位を去り市民になることを求めた。ヨハン・ゲオルク・アウグスト・ヴィルトは「祖国の自由のための戦いには、外国の介入なしで独力で為されなければならない。」と愛国主義を演説した。しかし、その後の演説では、「革命を望まない。」という商人の演説が為される一方で、リヒテンベルクの弁護士ハルアウァー(Hallauer)は「臆病な奴隷でいるよりも名誉の戦死をすべきだ。」と訴えたり、フランケンタールのブラシ職人ヨハン・フィリップ・ベッカー (Johann Philipp Becker)は「武装市民だけが祖国を守る。」と演説するなど意見が分かれた。祝祭後、指導者は臨時政府国民会議の結成を模索したが、結局、祖国出版協会名が「ドイツ改革協会」に変わるに止まった。パリにいたクリスティアン・ヨハン・ハインリヒ・ハイネ(Christian Johann Heinrich Heine)は「ドイツの本質は王党主義であり、ドイツは共和国ではありえず、ドイツ革命もドイツ共和国の誕生もそんなに早くはこない。」と同情しながら批判した。クリスティアン・ヨハン・ハインリヒ・ハイネは革命を説くカール・ルートヴィヒ・ベルネに対して「テロリスト的な心情告白」として批判し、「ルートヴィヒ・ベルネが最下層の人々のデマゴーグになったのは人生において何もなしえなかった男の自暴自棄な行動」と非難した。カール・ルートヴィヒ・ベルネもクリスティアン・ヨハン・ハインリヒ・ハイネも改宗者であり、ドイツ人名に改名していた。
 ハンバッハ祭後、ドイツ各地で倉庫や市場が過激派によって襲撃されるなど、混乱が広まり、西暦1832年06月24日、バイエルン政府軍は戒厳令を発令した。クレーメンス・フォン・メッテルニヒは革命運動の拡大を恐れて弾圧を強化し、ヴィルトやジーベンプファイファーなど多くの活動家が逮捕拘禁されて有罪判決を受けた。西暦1833年04月には「出版祖国協会」過激派50人がフランクフルトで警察を襲撃し、1800人が逮捕された。しかし、その後もドイツ国民運動は非政治的な協会の姿をとって持続し、10万人以上の構成員を持った男性合唱協会はドイツ語の民謡を普及させ、またフリードリヒ・ルートヴィヒ・ヤーンの体操協会なども、ドイツ国民意識の形成に大きな役割を持った。
ユダヤ人画家モーリッツ・ダニエル・オッペンハイム(Moritz Daniel Oppenheim)の絵画「ドイツ解放戦争から帰宅したユダヤ人志願兵」(西暦1833〜1834年)。
ロスチャイルド家を支援者としていたオッペンハイムは、この絵でドイツ史上初めてドイツ愛国心を持つユダヤ人を描いた。
 西暦1834年にクリスティアン・ヨハン・ハインリヒ・ハイネは「耶蘇教は、あの残忍なゲルマン的好戦心を幾分和らげたが、しかし決して打ち砕くことはできなかった。」として、カント主義者、フィヒテ主義者などの哲学者に気を付けるように警告して、ゲルマン主義者から大きな憤慨を買った。他方でハインリヒ・ハイネは同年、「我々ドイツ人は最も強く知的な民であり、ヨーロッパの王位を占めており、我がロスチャイルドは世界のあらゆる財源を支配している。」と書いた。
 西暦1835年、フランクフルト議会はカール・フェルディナント・グツコー(Karl Ferdinand Gutzkow)、ハインリヒ・ラウベ(Heinrich Laube)、テオドール・ムント(Theodor Mundt)、ルードルフ・ヴィーンバルク(Rudolf Wienbark)や、ユダヤ系作家のクリスティアン・ヨハン・ハインリヒ・ハイネとカール・ルートヴィヒ・ベルネなども参加していた青年ドイツ派(Junges Deutschland)の作品を禁書処分にした。青年ドイツ派はユダヤ系サロンの主催者ラーヘル・ファルンハーゲン・フォン・エンゼの影響を受けていた。青年ドイツ派であったがゲルマン主義者でもあった文芸批評家メンツェルは「ドイツ人は地球史上最も好戦的な民族であり、ローマ帝国を解体し、全ヨーロッパを支配した。」と述べ、青年ドイツ派を「青年パレスティナ派」と告発した。青年ドイツ派のハインリヒ・ラウベは親ユダヤ的だったが、西暦1847年にユダヤ系作曲家ジャコモ・マイアベーア(またはマイヤベーア、Giacomo Meyerbeer、本名: ヤーコプ・リープマン・ベーア (Jacob Liebmann Beer))から盗作の嫌疑で告訴されてからユダヤ人を嫌うようになった。
 西暦1835年、作家ルートヴィヒ・ティーク(Ludwig Tieck)は「ユダヤ人は国家内異分子であり、ドイツ文芸を独占してしまった。」と述べた。作家カール・レーベレヒト・インマーマン(Karl Leberecht Immermann)の「エピゴーネン」(西暦1836年)では、フリードリヒ・ルートヴィヒ・ヤーンが指定した服装を着ていた登場人物が迫害されるが、ドイツ人に化けたユダヤ人の追い剥ぎであった。この作中でユダヤ人は「何かを手に入れようとしてうちは恭しく、極めて低姿勢だが、一旦それを手に入れると居丈高になる。」と描かれた。
 西暦1842年、若い頃にドイツ解放戦争を経験したプロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世(Friedrich Wilhelm IV)は耶蘇教ゲルマン主義を信奉し、「忌まわしいユダヤ人はドイツを混沌とした無秩序状態に貶めようとしている。」と述べ、フリードリヒ・ルートヴィヒ・ヤーンに鉄十字章を授与し、エルンスト・モーリッツ・アルントの名誉回復を行った。プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世の養育係は「ユダヤ人をゲットーに再送すべきである。」と考えていた法学者フリードリヒ・カール・フォン・サヴィニー(Friedrich Carl von Savigny)だった。プロイセン政府は、ユダヤ人の兵役義務を免除すると同時に公職から退け、王の庇護下にある「隔離民族」とするユダヤ人囲い込み法案を提出した。西暦1842年02月、ラビのルードヴィヒ・フィリップゾーン(Ludwig Philippson)の批判に対してカール・ハインリヒ・ヘルメス(Karl Heinrich Hermes)は、「耶蘇教国家プロイセンにおいて耶蘇教徒と猶太教徒との法的平等は自己矛盾になる。」と反論した。カール・ハインリヒ・ヘルメスは無神論哲学者ブルーノ・バウアー(Bruno Bauer)に対しても耶蘇教の敵として批判した。ユダヤ人共同体からのドイツへの愛国心を訴えた抗議が相次ぎ、この政策は実現しなかった。西暦1844年、ドイツで反ユダヤ暴動が発生した。西暦1845年、小説家ヘルミーナ・フォン・シェジー(Helmina von Chézy)は「ユダヤ人がドイツ国民を隷属状態に置くために解放運動に精を出している。」と描いた。

 西暦1847年、プロイセン連合州議会代議士オットー・エドゥアルト・レオポルト・フォン・ビスマルク・シェーンハウゼン(Otto Eduard Leopold von Bismarck-Schönhausen、西暦1865年からビスマルク・シェーンハウゼン伯爵(Graf von Bismarck-Schönhausen〉、西暦1871年からビスマルク侯爵(Fürst von Bismarck〉、西暦1890年からラウエンブルク公爵(Herzog zu Lauenburg〉)はフランクフルト市議会で、「ユダヤ人が国王になると考えただけで深い当惑と屈辱の感情が沸き上がってくるし、フランクフルトのロートシルト男爵アムシェル・マイアーは正真正銘の悪徳ユダヤ商人であるが、気に入った。」と好意を寄せることも述べた。

 ルイ18世は西暦1824年09月に死去し、王弟アルトワ伯シャルル・フィリップが王位を継承しシャルル10世が即位した。ユルトラ(超王党派)の指導者であるシャルル10世が即位した頃、代議院はユルトラが掌握していたため、ヴィレール内閣は続投することが可能となり、ユルトラはルイ18世という最後の「歯止め」から解放された。革命後の数年間、国民は耶蘇教の信仰復興を経験していたため、ユルトラはローマカトリック教会の復権の好機を捉えた。西暦1801年の協約に代わり西暦1817年06月11日の協約が調印された。但し、発効には至らなかった。ヴィレール内閣は、多くの代議士が所属する信仰の騎士団(Chevaliers de la Foi)の圧力を受け、聖体窃盗を尊属殺と同様に死刑で罰する瀆聖法案の採決を西暦1825年01月に行った。同法には適用例がなく、立法化には象徴的な意味しかなかったが、同法の通過は特にドクトリネール派(純理派)の間で大いに物議を醸した。
 西暦1825年05月29日、シャルル10世はランスで戴冠し、アンシャン・レジーム下の聖別式の壮麗さを思わせる豪華かつ壮大な式典が催された。初代ヴィレール伯ジャン・バティスト・ギヨーム・マリー・アン・セラフィン・ジョセフ(ジョセフ・ド・ヴィレール)の要請で新たに加えられた点もあり、シャルル10世は西暦1814年憲章に反対していたが、かつてのナポレオン麾下の将軍4人に付き添われて憲章への宣誓を行った。ランス大聖堂には祭壇と玉座の融合を表す装飾が施され、建築家のシャルル・ペルシエ(Charles Percier)は自身の得意とするローマ風の帝政様式ではなく中世風のネオ・ゴシック建築で建物を装飾した。シャルル10世は、西暦496年に1羽の鳩が天から齎したという伝説の聖油で聖別され、祭壇の前に跪き、指輪、王笏、正義の手の杖そして王冠を受け取った。さらに、シャルル10世は瘰癧(結核性頸部リンパ節炎)患者らに手を触れ、うち若干名の回復例があったという。ヴィクトル・マリー・ユーゴー、アルフォンス・マリー・ルイ・ド・プラ・ド・ラマルティーヌ、ジョアキーノ・アントーニオ・ロッシーニ(伊語: Gioachino Antonio Rossini)らは式典を称賛したが、批評家は警戒を深めた。ピエール・ジャン・ド・ベランジェ(Pierre-Jean de Béranger)は「シャルル単純王の聖別式(le Sacre de Charles-le-Simple)」と題する詩で国王を痛烈に風刺した。この他、「シャルル10世の裏にイエズス会の影あり。」と非難する者までいた。
 式典の数ヶ月前、議会は革命中に所有地を没収された亡命貴族に対する補償立法を行った。また、議会は全ての子による土地の均分相続を認め長子相続制を廃止することを承認した。この補償法はルイ18世の治世下で企画立案されたものであったが、シャルル10世は同法の成立に重要な役割を果たした。国債利率(rente)を5%から3%に切り替え、利払いを節減して国庫に年3000万フランを確保しようとする補償予算関連法案が議会に提案された。ヴィレール内閣は、「金利生活者(rentiers)は原資投資額に比して収益が過剰になってきており、再分配は亡命貴族を革命前のフランスに合わせようとする妥当なものだ。」と主張した。しかるに反対者は「ユルトラが弱小出資者から金を巻き上げて不実な貴族に手渡そうとしている。」と非難した。貴族院にはドゥカズ時代に任命された議員を中心に自由主義的な議員らがまだ在職しており、結局この補償予算関連法案は貴族院で否決された。04月に亡命貴族に対する補償法案が議会を通過したところ、国庫負担は約9億8800万フランとされ(亡命貴族のための10億フラン法、Loi du milliard aux émigrés)、利率3%・総額6億フランの国債を発行して財源を確保するものとされた。毎年約1800万フランが亡命貴族に支払われた。国債の市場価格が下落し、国庫からの支払いは思いの外遅れた。補償対象者の4分の1は年250フランを受け取っただけであった。議会を通過するに際して法律に付された条件の1つとして国有財産取得者の所有権は保障されるものとされたが、これを受けて国有財産の価格が高騰したため、皮肉にも主たる受益者は約100万人の国有財産取得者であった。
 西暦1826年、ジョセフ・ド・ヴィレールは長子相続制を復活する法案を提出したが、これは少なくとも大土地所有者にとっては別段の選択でもしない限り自然なことであった。自由主義的な貴族院議員や新聞は反対し、シャトーブリアンのように、ユルトラの中にも反対する者が現れた。強力な批判を受けた政府は、西暦1824年に検閲を大幅に廃止していたのを撤回して報道の自由を制限する法案を12月に提出した。しかし、これは反ユルトラ派の怒りを増しただけで、この長子相続法案は退けられた。
 西暦1827年、ヴィレール内閣はシャトーブリアンの記事を擁するジュルナル・デ・デバ(論争新聞)を含む自由主義的な新聞からの批判の増大に直面した。反ヴィレール系のユルトラの急先鋒であるシャトーブリアンは検閲立法(西暦1827年07月24日に新法が検閲を復活)に反対する人々と結んで「出版の自由友の会(société des amis de la liberté de la presse)」を結成した。これに寄与した者の中にはショワズール公クロード・アントワーヌ・ガブリエル・ド・ショワズール(Claude Antoine Gabriel de Choiseul, duke of Choiseul)、ナルシス・アシル・ド・サルヴァンディー(Narcisse-Achille de Salvandy)、アベル・フランソワ・ヴィルマン(Abel-François Villemain)らがいた。他の有力な結社としては「天は自ら助くる者を助く(Aide-toi, le ciel t'aidera)」があり、20人以上の無許可集会を禁止する法律の範囲内で活動した。同派は反対の潮流の高まりに勢いづけられ、より自由主義的な位置に属し、ル・グローブ (Le Globe) (地球)紙と提携した。この参加者の中にはフランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾー、レミュザ伯シャルル・フランソワ・マリー(Charles François Marie, ⅽomte de Rémusat)、カミーユ・イヤサント・オディロン・バロ(Camille Hyacinthe Odilon Barrot)らがいた。検閲法の網を潜る小冊子が頒布され、西暦1827年11月の選挙の選挙では親政府派の公職者に対抗する自由主義者の候補者に対して同派からの組織的支援が寄せられた。
 西暦1827年04月、国王と初代ヴィレール伯ジャン・バティスト・ギヨーム・マリー・アン・セラフィン・ジョセフ(ジョセフ・ド・ヴィレール)は国民衛兵の反抗に直面した。シャルル10世が国民衛兵隊の観兵式に臨んだ際、国王政府に不満を抱く兵士が「国王に表敬せよ。」との命令に反し、敬虔なカトリック教徒で国王の姪にあたるマリー・テレーズ・シャルロット王太子妃に向かって、イエズス会を罵倒する叫び声を上げた。自由主義者の将校が部隊を率いて官邸に抗議しに来たため、ジョセフ・ド・ヴィレールはもっと酷い扱いを受けた。その報復として国民衛兵は解散された。小冊子は拡散され続け、09月に出回ったものでは、シャルル10世が北部諸県行幸に際して「サン・トメールに身を隠されながらローマ法王と結託して十分の一税の復活を画策し、近衛隊に身を守られながら憲章を一時停止した。」と非難するものがあった。
 選挙の時期までに穏健王党派(立憲派)もシャルル10世に反目し始めたが、その一因は西暦1825年の財政危機が補償法を通過させた政府の責任とされて実業界が離反したことにあった。ヴィクトル・マリー・ユーゴーをはじめ多くの作家もシャルル10世の治世下の世の中の現実に失望して体制批判を始めた。西暦1824年の選挙から最新書類の提出を怠った一定の選挙人について各県知事による選挙人登録の抹消が始まったが、反対者委員会はこれに対抗し、09月30日の選挙人登録期限に備えてできるだけ多くの選挙人登録が得られるよう奔走した。当初の名簿の6万人に上乗せして1万8000人の選挙人が追加登録された。「選挙権にありついて政府の支持に回る人々を登録しよう。」という知事の思惑もあるにはあるが、その主因は反対者の運動にあったと考えられる。組織はシャトーブリアンの「友の会」と「天は自ら助くる者を助く」とに大別され、後者は自由主義者、立憲派(constitutionnels、コンスティテューショネル)、対抗反対派(contre-opposition、コントル・オポジシオン、立憲王政主義者)を支援した。
 新議会の構成はいずれの党派も明確な過半数を形成できない結果に終わった。ジョセフ・ド・ヴィレールの後継首相として西暦1828年01月から登板したマルティニャック子爵ジャン・バティスト・シルヴェール・ガイエ(Jean-Baptiste Sylvère Gaye, vicomte de Martignac)は中道政策に舵を切ろうとして、自由主義者に譲歩して出版規制を緩和し、イエズス会を排除し、選挙人登録に手心を加え、カトリック教会の学校設立を制限した。シャルル10世は新内閣に不満で、第3代ポリニャック公ジュール・オーギュスト・アルマン・マリー(Jules Auguste Armand Marie, prince de Polignac)やラ・ブルテーシュ伯フランソワ・レジ・ド・ラ・ブルドネ(François-Régis de La Bourdonnaye, ⅽomte de La Bretèche)のような、信仰の騎士団の他のユルトラ人士と交流を深めた。マルティニャック内閣は地方自治に関する法案を否決されて退陣した。シャルル10世や側近は、「新内閣の組閣がジョセフ・ド・ヴィレール、シャトーブリアン、ドゥカズ伯ら王政主義派に支持されるだろう。」と考えていたが、西暦1829年11月に新首相に選ばれたポリニャック公ジュール・オーギュスト・アルマン・マリーは、絶対主義に基づいた王権神授説に執着する偏狭な人物で、自由主義者はもとよりシャトーブリアンからも嫌悪された。アンシャン・レジーム末期にマリー・アントワネット王妃の寵臣であった彼の母がポリニャック公爵(伯爵から陞爵)夫人ヨランド・マルティーヌ・ガブリエル・ド・ポラストロン(Yolande Martine Gabrielle de Polastron, comtesse puis duchesse de Polignac, marquise de Mancini)で宮廷の混乱を煽ったことから起因した亡霊を連想させ、しかもワーテルローの戦いで師団長として同僚を裏切り、プロイセン軍に投降したブールモン将軍が陸軍大臣に起用されたことも反感の要因となり、王党派の一部からさえ冷笑的な反応を呼んだ。折からフランス経済は西暦1827年以来、農産物の不作と深刻な不況に陥っており、労働者やブルジョワ階級を中心に王政への不満が高まっていった。
 シャルル10世は超然としていたが、政治的膠着は一部王党派のクーデター画策や有志自由主義者の反税ストを呼んだ。西暦1830年03月の会期冒頭、シャルル10世は暗に反対派を脅かす演説を行った。これに対して221人(絶対多数)の代議士が政府を非難し(221人の勅語奉答)、これを受けたシャルル10世は議会を停会・解散した。シャルル10世は選挙権を持たない庶民からの人望に自信を持ち続けており、ポリニャック公ジュール・オーギュスト・アルマン・マリーとともにロシア帝国からの支援を得て植民地主義的・膨張主義的な対外強硬策を執った。フランスはジョセフ・ド・ヴィレール辞任後から何度も地中海地域に干渉し、目下ギリシャやマダガスカルに遠征隊を派遣していた。また、ポリニャック公ジュール・オーギュスト・アルマン・マリーはフランスによるアルジェリアの植民地化に着手し、06月早々にはアルジェ太守に対する勝利が伝えられた(アルジェリア侵略(西暦1830〜1847年))。ベルギー侵攻も計画されたが、これを待たずベルギー独立革命が起こった。しかし、対外政策によって国内問題から注意を逸らす試みは十分に功を奏しなかった。西暦1830年の7月革命によってシャルル10世が退位し、復古王政が終わった。

 復古王政下の政治党派は相当離合集散した。代議院は反動的なユルトラ派と進歩的な自由主義派との間を揺れ動き、白色テロで迫害を受けた王政反対派は政治の表舞台から姿を消した。実力者の間でもフランスにおける立憲王政のあり方をめぐり見解の対立があり。およそ全ての党派は一般庶民、「卑俗な群衆」に戦々恐々としていた。各党派の政治的見解は階級の利益を代表したものであった。
 議会の解散による多数派の逆転や西暦1820年のベリー公シャルル・フェルディナン・ダルトワ暗殺事件のような重大事件を利用して、最大野党が政変を図ることもあった。代議士の闘争は王政対民衆の闘争というよりはむしろ王権との権力闘争であった。代議士は民衆の利益の擁護者を自認していたが、一般庶民、革新政治、社会主義、さらに選挙権拡大のような単純な措置にさえも大きな不安を抱いていた。

@超王党派(ultra-royalistes、ユルトラ)は、1789年以前のようなアンシャン・レジームへの回帰と貴族や聖職者が優位を占める絶対主義を望んだ。同派は共和主義と民主主義を敵視し、名望ある貴族エリート層による厳格な政府を主張したが、納税額による制限選挙すなわち高額納税者の部分的民主制は排除せず、むしろ貴族政治の維持と絶対主義の推進に関心を持っていた。同派は「西暦1814年憲章が革命的に過ぎる。」として拒否し、絶対王政への回帰、特権と国王(シャルル10世)の再建を目指した。主要人物には、理論家としてルイ・ガブリエル・アンブロワーズ・ド・ボナール (Louis Gabriel Ambroise, Vicomte de Bonald)、メーストル伯ジョゼフ・マリー(Joseph-Marie, ⅽomte de Maistre)、議会指導者としてラ・ブルテーシュ伯フランソワ・レジ・ド・ラ・ブルドネ(François-Régis de La Bourdonnaye, ⅽomte de La Bretèche)、ポリニャック公ジュール・オーギュスト・アルマン・マリー(西暦1829年に政権獲得)らがおり、機関紙はラ・コティディエンヌ(La Quotidienne、日々)紙、ラ・ガゼット・ド・フランス (La Gazette de France、フランス新聞)紙で、その他の王党派の新聞としてドラポー・ブラン(Drapeau Blanc、白旗)紙、オリフラム(Oriflamme、王旗)紙があった。
A立憲派(constitutionnels、コンスティテューショネル)は、裕福・有識なブルジョワ、法学者、帝国高級官吏、大学教授を中心とした。同派は貴族階級の勝利も民主主義者の勝利も同様に危惧していたところ、憲章は自由と市民的平等を保障しつつ、公的な問題の処理について無知ゆえに無能力な一般大衆に対し防壁を設けるものであるとして、憲章に従うことを主張した。主要人物にはパスキエ公エティエンヌ・ドニ(Étienne-Denis, duc de Pasquier)、レネ子爵ジョゼフ・アンリ・ジョアシャン(oseph Henri Joachim, vicomte Lainé)らがいた。
B純理派(doctrinaires、ドクトリネール)は、復古王政初期、ユルトラに反対して穏健な王政への回帰を主張した。主要人物にはピエール・ポール・ロワイエ・コラール(Pierre Paul Royer-Collard)、フランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾー、セール伯ピエール・フランソワ・エルキュール(Pierre François Hercule, ⅽomte de Serre)らがおり、機関紙はル・クーリエ・フランセ(Le Courrier français、フランス通信)紙、ル・サンスール(Le Censeur、検閲者)紙だった。
C独立諸派(indépendants、アンデパンダン)は、小ブルジョワ、医者、弁護士、商人、法曹、地方の国有財産取得者を中心とした。同派は「憲章がm保守的に過ぎる。」としてこれを拒否し、西暦1815年の条約、白色旗、聖職者と貴族の復権に反対した。主要人物には、議会君主制論者のアンリ・バンジャマン・コンスタン・ド・ルベック(Henri-Benjamin Constant de Rebecque)、帝国将校のマクシミリアン・セバスティアン・フォワ(Maximilien Sébastien Foy)将軍、共和主義者の弁護士ジャック・アントワーヌ・マニュエル(acques-Antoine Manuel (10 December)、ラ・ファイエット侯マリー・ジョセフ・ポール・イヴ・ロシュ・ジルベール・デュ・モティエ(Marie-Joseph Paul Yves Roch Gilbert Du Motier, Marquis De La Fayette)らがおり、機関紙はラ・ミネルヴ(La Minerve、ミネルヴァ)紙、ル・コンスティテューショネル(Le Constitutionnel、立憲)紙、ル・グローブ(Le Globe、地球)紙だった。
D自由派(libéraux、リベロー)は、復古王政晩年に出現し、自由と透明性の拡大、貴族階級の負担による中産階級全体の税負担の軽減を主張した。同派は産業革命で没落した貴族階級に代わり台頭してきた新興中産指導層の利益を代表した。
E共和派(républicains、レピュブリカン)は、中産階級の利益を代表する代議士とは対照的に、極左に位置して貧しい労働者階級に焦点を当てた。労働者階級の利益は代表されることも耳を傾けられることもなく、デモ活動も鎮圧・回避されたところ、労働者階級にとって議会主義の強化の意味するところは民主的変革ではなく課税拡大でしかなかった。ルイ・オーギュスト・ブランキ(Louis Auguste Blanqui)のように革命を唯一の解決策と見做す者もいた。ルイ・アントワーヌ・ガルニエ・パージェス(Louis-Antoine Garnier-Pagès)とルイ・ウジェーヌ・カヴェニャック (Louis Eugène Cavaignac)とエレオノール・ルイ・ゴドフロワ・カヴェニャック(Éléonore-Louis Godefroi Cavaignac)兄弟は共和派を自認し、エティエンヌ・カベー(Étienne Cabet)と法医学博士フランソワ・ヴァンサン・ラスパイユ(François-Vincent Raspail, L.L.D., M.D.)は社会主義者として活躍した。サン・シモン伯クロード・アンリ・ド・ルヴロワ(Claude Henri de Rouvroy, ⅽomte de Saint-Simon)もまたこの時代に活躍し、西暦1825年に死去する前にルイ18世に直訴したこともあった。

フランス国王ルイ16世(Louis XVI)と王妃マリー・アントワネット・ジョゼフ・ジャンヌ・ド・アプスブール・ロレーヌ(Marie-Antoinette-Josèphe-Jeanne de Habsbourg-Lorraine、またはマリー・アントワネット・ドートリッシュ(Marie-Antoinette d'Autriche、マリア・アントーニア・ヨーゼファ・ヨハンナ(独語: Maria Antonia Josepha Johanna)))の長子で長女。フランス革命を生き抜いたのは、マリー・テレーズ・シャルロット・ド・フランス(Marie Thérèse Charlotte de France)、唯一人だった。これまでの波乱の人生は既述。
 西暦1795年07月30日、マリー・テレーズ・シャルロットの母方の従兄の神聖ローマ帝国皇帝フランツ2世は、フランス共和国政府が出した条件を受け入れ、マリー・テレーズ・シャルロットの身柄とフランス人捕虜の引き換えに同意した。09月、王室の子供の教育係でヴァレンヌ逃亡に同行したトゥルゼル侯爵夫人ルイーズ・フェリシテ・ジョゼフィーヌ・ド・クロエ・ダヴレ(Marquise de Tourzel, Louise-Félicité-Joséphine de Croŷ d'Havré、ルイーズ・エリザベート・ド・クロエ・ド・トゥルゼル(Louise-Élisabeth de Croÿ de Tourzel))は、娘のポーリーヌ・ド・トゥルゼル(Pauline de Tourzel)と共に面会し、ウィーンに送られることを話した。この時マリー・テレーズ・シャルロットは、ルイ17世(ルイ・シャルル)が使った部屋を案内した。ポーリーヌ・ド・トゥルゼルは、王太子ルイ・シャルル(ルイ17世)のお気に入りで、マリー・テレーズ・シャルロットがタンプル塔に幽閉されている間は何度も訪問し、この後亡命中は手紙を書き続け、国王と王妃の墓地から花を送り続けた。17歳の誕生日の12月19日深夜に、マリー・テレーズ・シャルロットが嫌っていた元養育係のド・スシー夫人とその娘、牢番のゴマン、憲兵のメシャンと共に、長年投獄されていたタンプル塔を出発して、翌西暦1796年01月09日、ウィーンのホーフブルク宮殿に到着したが、ナポレオン軍が北イタリアで優勢となり、プラハ近郊に夏頃まで避難した。ウィーン宮廷では亡命貴族(エミグレ)支援とブルボン家再興のため尽力し、フランツ2世はマリー・テレーズ・シャルロットを丁重に扱い手当も与えたが、手紙や面会人を厳しく監視した。しかし、マリー・テレーズ・シャルロットは時に檸檬の果汁で手紙を書く炙り出しなど、非常に慎重に文通や送金を行った。西暦1797年、文通を続けていたマドレーヌ・エリザベート・ルネ・イレール・ボッケ・ド・シャトレンヌ夫人から出産した男児の命名を願う手紙が届き、「自分の名前からシャルルと名づけては。」という提案を返信したが、皇帝の監視を逃れるためそっけない文面となった。ド・シャトレンヌ夫人は、弟のルイ17世(ルイ・シャルル)が虐待死した後、マリー・テレーズ・シャルロットの身の回りの世話をするため雇われた。この年、ナポレオン・ボナパルトがウィーンに進軍した。母マリー・アントワネットの愛人で、ヴァレンヌ事件などブルボン家のために尽くしたスウェーデン貴族、フェルセン伯ハンス・アクセル(Hans Axel von Fersen)は、マリー・アントワネットがマリー・テレーズ・シャルロットのために親類や友人に分散して託した金と宝石を取り戻して相続させようと奔走し、各国の宮廷を巡った。フランツ2世がそのほとんどを手に入れていたが、西暦1797年02月24日の謁見でフランツ2世は、マリー・テレーズ・シャルロットが相続すべき財産の所有を認め、後に「マリー・テレーズ・シャルロットの持参金にする。」とフェルセン伯に答えた。フランツ2世はマリー・テレーズを自分の弟のカール・フォン・エスターライヒ(Erzherzog Karl von Österreich, Herzog von Teschen、カール大公)と結婚させて、フランス王国を手に入れようと考えたが、彼女はブルボン家の叔父ルイ18世(プロヴァンス伯ルイ・スタニスラス・グザヴィエ)が薦める弟アルトワ伯シャルル・フィリップ(後のシャルル10世)の長男で、父方の従兄のアングレーム公ルイ・アントワーヌとの結婚を選び、ヨーロッパ大陸の味方が欲しかったフランツ2世も黙認した。
 ウィーン宮廷では、ナポリ王国出身の従姉でフランツ2世の皇后マリア・テレジア・フォン・ネアペル・ジツィーリエン(Maria Theresia von Neapel-Sizilien、伊語名: マリーア・テレーザ(Maria Teresa))と互いに嫌いあったが、皇帝の妹マリア・クレメンティーネ・ヨーゼファ・ヨハンナ・フィデリス・フォン・エスターライヒ(Maria Klementine Josepha Johanna Fidelis von Österreich)大皇女(西暦1797年からマリーア・クレメンティーナ・ダウストリア(伊語: Maria Clementina d'Austria)ナポリおよびシチリア王太子妃)、マリア・アマーリア皇女とは親しく、西暦1798年にマリア・アマーリア皇女が死去した際には大変悲しんだ、フランツ2世、カール大公を含め5人の祖母は、「女帝」マリア・テレジア (Maria Theresia)である。
 スペイン王国ボルボン家のカルロス4世は「マリー・テレーズ・シャルロットに年俸を与える。」と同意し、フランツ2世は「ミタウ(現イェルガヴァ)までの弔問の旅費を負担する。」と約束した。トリーア選帝侯クレメンス・ヴェンツェスラウス・アウグスト・フベルトゥス・フランツ・ザビエル・フォン・ザクセン(Clemens Wenzeslaus August Hubertus Franz Xaver von Sachsen)から、革命以前に夭逝した弟ルイ・ジョゼフ・ザビエル・フランソワ・ド・フランス(Louis-Joseph Xavier François de France)王太子(ドーファン)の肖像画と父ルイ16世が断頭台で着用し血で汚れた肌着を受け取り、それらを持参し西暦1799年春、叔父ルイ18世の亡命地、ロシア帝国領クールラントのミタウ城に到着した。彼女は父ルイ16世の処刑に立ち会ったエッジワース神父と対面したが、神父は涙ぐみ言葉にならなかった。マリー・テレーズ・シャルロット・ド・フランスは同年06月10日、アングレーム公ルイ・アントワーヌと結婚した。結婚祝いにルイ18世は、ルイ16世夫妻の結婚指輪をマリー・テレーズ・シャルロットの掌に載せると、新郎新婦は抱き合って泣いた。当時のロシア皇帝パーヴェル1世(露語: Павел I, Pavel I、パーヴィェル・ピェールヴィイ、パーヴェル・ペトロヴィチ・ロマノフ(露語: Павел Петрович Романов, Pavel Petrovich Romanov(パーヴィェル・ピトローヴィチュ・ラマーナフ))は、署名入りのロシアの結婚証明書に豪華なダイヤモンドの装飾品一式ほか、金が詰まった財布帽子とガウンなどの贈物を持たせた。マリー・テレーズ・シャルロットの勇気を褒め称え、フランスに帰国できるまでロシア帝国領滞在を認める手紙も添えられていた。彼女はパーヴェル1世に、自分の家族に尽力してくれた礼を述べた。
 夫アングレーム公ルイ・アントワーヌは対ナポレオン戦線に加わることを望み、西暦1800年04月、ナポレオン・ボナパルトの第2次イタリア戦役を開始に対し、ブルボン・コンデ公ルイ・アントワーヌ・アンリ(Louis Antoine Henri de Bourbon-Condé、アンギャン公)と共に戦うためミタウを去った。夫婦は愛し合っていたがイギリス王国で合流するまで、この時から長年離れて生活した。05月、ミタウを訪問したフェルセン伯は、マリー・テレーズ・シャルロットから生きる気力を感じられず、「結婚生活が不幸では。」と考えた。その後、
父の処刑に賛成票を入れフィリップ・エガリテ(Philippe Égalité、平等公フィリップ)を自称したオルレアン公ルイ・フィリップ2世ジョゼフ(Louis Philippe II Joseph, duc de Chartres, puis duc d'Orléans)の長男ルイ・フィリップ(Louis-Philippe、後のオルレアン朝ルイ・フィリップ1世)が訪ねてきたが、マリー・テレーズ・シャルロットは面会を拒んだ。
 西暦1801年01月22日、ルイ18世はパーヴェル1世よりロシア帝国領からの退去命令を下され、マリー・テレーズ・シャルロットにはサンクトペテルブルクで自分の客として過ごすよう薦めた。しかしマリー・テレーズ・シャルロットは、叔父の2台の馬車の一行に加わった。真冬のロシアから行き先も決まらない旅に備え、家具を売却して金策した。旅費も乏しい極寒の旅の最中、ルイ18世の秘書であり、マリー・テレーズ・シャルロットの聞罪司祭だったマリー神父が自殺し、今際の際に「ド・ショワジー嬢…」と彼女の侍女の名前を言い残し、聖職者の密かな恋情を知り、マリー・テレーズ・シャルロットは破戒の衝撃を受けた。ルイ18世はプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世(Friedrich Wilhelm III)に滞在許可を求める手紙を送り、メーメル(現クライペダ)滞在中にプロイセン王から、「ナポレオン・ボナパルトを刺激したくないのでフランス共和国の許可を先に待つ。」という返事を受け取った。マリー・テレーズ・シャルロットは母の幼馴染フリーデリケ・フォン・ヘッセン・ダルムシュタット(Friederike von Hessen-Darmstadt)の娘、プロイセン王妃ルイーゼ・アウグステ・ヴィルヘルミーネ・アマーリエ・メクレンブルク・シュトレーリッツ(Luise Auguste Wilhelmine Amalie Herzogin zu Mecklenburg-Strelitz)からサンクトペテルブルクに安全な場所の提供の申し出に、「叔父を見捨てられない、私は我々全員の場所を求めている。」と断った。その後プロイセン王妃は手紙で「ナポレオン・ボナパルトがルイ18世はリル伯爵、マリー・テレーズ・シャルロットはラ・メイユレイ侯爵夫人と名乗る条件付きで、この一家と側近をワルシャワ(第3次ポーランド分割でプロイセン王国領)に滞在許可を出した。」と伝え、その後もプロイセン王に代わり、フランス亡命宮廷のためにナポレオン・ボナパルトや各国の王族との交渉を重ね、マリー・テレーズ・シャルロットの頼れる友となった。
 西暦1801年03月06日、ワルシャワに到着した一行に、数週間後休暇を取った夫アングレーム公ルイ・アントワーヌが到着した。その直後、パーヴェル1世の暗殺に息子アレクサンドル1世(露語: Александр I, Aleksandr I、アレクサンドル・パヴロヴィチ・ロマノフ(露語: Александр Павлович Романов, Aleksandr Pavlovich Romanov))が関わっていたと知った。アレクサンドル1世は手当を父が支払っていた半額以下に減らした。しかし、ルイ15世最愛王の妃マリー・レクザンスカ(Marie Leszczyńska)の父、ポーランド傀儡王スタニスワフ1世レシチニスキ(波蘭語: Stanisław I Leszczyński、仏語: スタニスラス・レクザンスキ(Stanislas Leszczynski))の曾孫であるルイ18世と、熱心なカトリック信者であるマリー・テレーズ・シャルロットは、ワルシャワで非常に歓迎された。ヴェルサイユのように宮廷儀礼が作られ、彼女はフランス亡命貴族(エミグレ)の支援、修道院や貧民を見舞う慈善事業も行った。ポーランド貴族たちは、亡命宮廷がレシチニスキ宮殿で夏を過ごすよう手配した。この頃、ルイ18世は政治的な相談についてマリー・テレーズ・シャルロットを頼るようになった。ワルシャワにフランス王室が定住すると、ミタウやヨーロッパ各国からルイ18世の元へ廷臣たちが集まった。スペイン王国カルロス4世やオーストリア帝国フランツ2世、アルトワ伯シャルル・フィリップからの送金だけでは宮廷費が賄い切れなくなり、マリー・テレーズ・シャルロットはロシア帝国パーヴェル1世から贈られた豪華なダイヤモンドを売却した。ルイ16世に仕え、ルイ18世の側近となったユー男爵(Baron Hüe)は、西暦1801〜1802年の冬の厳しさ、マリー・テレーズ・シャルロットの倹約ぶりと、よく泣いていたことを記録している。
西暦1804年03月21日、ブルボン・コンデ公ルイ・アントワーヌ・アンリがナポレオン・ボナパルト暗殺を企んだという冤罪により処刑された。ワルシャワの亡命宮廷は04月09日にこの事実を知った。ナポレオン・ボナパルトをマリー・テレーズ・シャルロットは憎しみを込め「犯罪者」と呼んだ。
 西暦1805年04月、亡命宮廷は再びミタウに戻った。ナポレオン軍によるプロイセン王国とロシア帝国の攻撃が始まると、マリー・テレーズ・シャルロットとエッジワース神父はミタウの負傷兵を看護した。看護中に腸チフスに感染した神父は05月22日に病死し、マリー・テレーズ・シャルロットは悲しみに襲われた。ミタウを訪れたアレクサンドル1世は、間もなくロシア帝国がナポレオン軍に敗北すること、ヨーロッパ大陸にブルボン家の安住地はなく、スウェーデン王国(西暦1523年〜)グスタフ朝(西暦1772〜1809年)国王グスタフ4世が避難場所を用意すると知らせた。08月、グスタフ4世が用意したフリゲート艦トロイア号に乗り、ルイ18世とアングレーム公ルイ・アントワーヌは妻たちを残してストックホルムへと旅立った。グスタフ4世の手厚いもてなしを受けていた2人だったが、迎えに来たアングレーム公ルイ・アントワーヌの弟ベリー公シャルル・フェルディナン・ダルトワに伴われて突然イギリス王国へ向かった。
 イギリス国王ジョージ3世は、スコットランドのエディンバラに向かう条件つきで下船許可を出したが、初代バッキンガム侯ジョージ・ニュージェント・テンプル・グレンビル (George Nugent-Temple-Grenville, 1st Marquess of Buckingham, KG, KP, PC )の仲介で、フランス亡命宮廷の定住地はロンドン北東部のゴスフィールド・フォールに決まった。西暦1808年08月、マリー・テレーズ・シャルロットはルイ18世の妃マリー・ジョゼフィーヌ・ルイーズ・ド・サヴォワ(仏語: Marie Joséphine Louise de Savoie、伊語: マリーア・ジュゼッピーナ・ルイーザ・ディ・サヴォイア(Maria Giuseppina Luisa di Savoia))と当地に到着した。翌西暦1809年04月、フランス亡命宮廷はバッキンガムシャーのハートウェル・ハウスを年500ポンドでバッキンガム侯爵から借りあげると移転した。マリー・テレーズ・シャルロットは田園地域の城で、夫や親族と廷臣に囲まれ暮らした。義父アルトワ伯シャルル・フィリップはロンドンの館に暮らし、アングレーム公夫妻を社交の場に招き楽しませた。イギリスの人々もフランス亡命宮廷に優しく接した。
西暦1810年03月11日、マリー・テレーズ・シャルロットがウィーン宮廷時代に可愛がっていたマリー・ルイーゼ・フォン・エスターライヒ(Marie-Louise von Österreich、またはマリア・ルドヴィカ・フォン・エスターライヒ(Maria Ludovica von Österreich)、仏語 - マリー・ルイーズ・ドートリッシュ(Marie-Louise d'Autriche)、伊語 - マリア(マリーア)・ルイーザ・ダウストリア(Maria Luisa d'Austria)、マリア(マリーア)・ルイージャ・ダウストリア (Maria Luigia d'Austria))がナポレオン1世に嫁いだという知らせに、ルイ18世もマリー・テレーズ・シャルロットも衝撃を受けた。フランス亡命宮廷には、フェルセン伯ハンス・アクセル殺害、プロイセン王妃ルイーゼ・アウグステ・ヴィルヘルミーネ・アマーリエ・メクレンブルク・シュトレーリッツの病死と悪い知らせが続き、マリー・テレーズ・シャルロットは落ち込んだ。フェルセン伯ハンス・アクセルは、スウェーデン国王との対立により、グスタフ4世アドルフ(瑞語: Gustav IV Adolf)が廃位された西暦1809年クーデターでは中立の立場を取ったため、革命後は地位を保ち、大将に昇進したが、保守派としてグスタフ4世の息子で王太子だったグスタフ・フォン・ホルシュタイン・ゴットルプ(Gustav von Holstein-Gottorp)を擁立しようとしたが、セーデルマンランド公カールがカール13世(瑞語: Karl XIII、ノルウェー王としてカール2世)が国王に即位した。カール13世はフリーメイソンで、プロテスタントのフリーメイソンのみが叙されるスウェーデンの騎士団カール13世騎士団(瑞語: Carl XIII:s orden、正式にはKungliga Carl XIII:s orden)を創設した。王太子にアウグステンブルク家のカール・アウグスト・アヴ・アウグステンブリ(Karl August av Augustenburg、アウグステンブルク公クリスチャン・アウグスト(Christian August af Augustenborg))を指名したが、クリスチャン・アウグストは西暦1810年05月にスコーネで軍事演習の視察中に落馬し、その後間もなく心臓麻痺(脳卒中とも)により死亡した。クリスチャン・アウグストの死後、「フェルセン伯ハンス・アクセルとその妹ピーペル伯爵夫人エヴァ・ソフィー(Countess Eva Sophie Piper, 旧姓: エヴァ・ソフィー・フォン・フェルセン(Eva Sophie von Fersen))がクリスチャン・アウグストを毒殺した。」という噂が流れた。この噂は誹謗で、その出所も不明とだが、反グスタフ派はこの噂を利用した。西暦1810年06月20日にクリスチャン・アウグストの遺体がストックホルムに運ばれると、フェルセン伯は宮内相としてそれを迎えた。やがて群衆が暴動を起こし、「殺人者!」と叫びながら投石しはじめた。士官2人がフェルセン伯を国会議事堂に護送し、そこに軟禁する形で群衆の怒りを鎮めようとしたが、フェルセン伯ハンス・アクセルは議事堂前の階段で撲殺された。暴動は1時間以上続いたが、現場にいた近衛連隊(Livgardet)は暴動を制止しなかった。グスタフ派に属するグスタフ・マウリッツ・アルムフェルト(Gustaf Mauritz Armfelt、露語: Граф Густав-Маврикий Максимович Армфельт, Gustav-Mavrikiy Maksimovich Armfel't)は「暴動の責を群衆に帰すべきではなく、こんな事件が正規軍のいる場で白昼堂々と起こった。」と疑問を呈し、カール13世政権がグスタフ派の勢力を弱体化させようとして、グスタフ・マウリッツ・アルムフェルトが逃げたためフェルセン伯が被害を受けた。カール13世が西暦1818年02月05日に死去すると、ナポレオン・ボナパルトの部下の元はフランスの平民階級出身のジャン・バティスト・ジュール・ベルナドット(仏語: Jean-Baptiste Jules Bernadotte)がカール14世ヨハン(瑞語: Karl XIV Johan)としてスウェーデン王に即位した。
 西暦1812年02月、王太子(後のジョージ4世)は痴呆のジョージ3世の摂政となり、「亡命中のフランス王室と廷臣たちに安全な場を提供し続ける。」と約束し多額の手当を出し、フランス亡命貴族に盛大な宴会を催しては楽しませた。舞踏会の際、王太子の右隣という栄誉ある席にマリー・テレーズ・シャルロットを座らせた。彼女は勿論、王太子を気に入った。西暦1813年01月、マリー・テレーズ・シャルロットは結婚13年目にして懐妊したが流産し、その後、妊娠することはなかった。
 西暦1814年、ナポレオン1世がロシア遠征で敗れたことを機会に、イギリス王国を後にし04月29日、コンピエーニュに到着した際、王室の子供の教育係でヴァレンヌ逃亡に同行したトゥルゼル公爵夫人ルイーズ・フェリシテ・ジョセフィーヌ・ド・クロエ・ダヴレと、結婚してベアルン伯爵夫人(Comtesse de Bearn)となっていたトゥルゼル公爵夫人の娘ポーリーヌ・ド・トゥルゼルと再会し、泣きながら抱き合って歓喜した。パリに戻ったマリー・テレーズ・シャルロットは、幼い頃に辛酸を舐めつくしたテュイルリー宮殿での暮らしを嫌った。そこにはナポレオン・ボナパルトによりあちこちにNと刻み込まれ、蜜蜂と鷲の装飾が付けられていた。マリー・テレーズ・シャルロットは、ナポレオン時代に貴族となった新興貴族には決して気を許さず、洗礼名で呼びつけにして相手を怒らせた。新興貴族たちは、「マリー・テレーズ・シャルロットがイギリスの田舎臭い格好でパリに戻った。」と嘲笑した。マリー・テレーズ・シャルロットはまたナポレオン時代に成功したかつての仲間も嫌った。マリー・アントワネットの侍女だった「カンパン夫人が学校を開き、ボナパルト家の人間を教育していた。」と知ると、面会も拒んだ。逆に自分が苦しい時に尽力してくれたポーリーヌ・ド・トゥルゼルには「夫と子供と宮廷に来て下さい。」と手紙を送り、当時ナポリにいたド・シャトレンヌ夫人には年俸を定め、自分を訪ねるよう手紙を書き、息子のシャルルには親衛隊関連の仕事を世話した。亡命時代から弟のルイ・シャルル(ルイ17世)だという人間が現れてはマリー・テレーズ・シャルロットに面会を求めたが、彼女は一度も面会に応じたことはなかった。
 ナポレオン・ボナパルトがエルバ島から脱出して百日天下の頃のフランス国民はマリー・テレーズ・シャルロットの地味な衣装や不機嫌さを嫌ったが、
極寒のミタウからワルシャワまで叔父を支えて旅した勇気を称え「新たなアンティゴネー」と呼んだ。アンティゴネー(古希語: Ἀντιγόνη, Antigonē)は、ギリシア神話に登場するテーバイの王女。父はオイディプース(古希語: Οἰδίπους, Oidípūs、羅語: Oedipūs)、母はその妃で母親のイオカステー(古希語: Ἰοκάστη, Iokastē、羅語: Iocasta、Jocasta)。 父オイディプースが自分の出生の秘密を知って目を潰した後、イオカステーの兄弟クレオーンに追放されると、妹イスメーネーとともに父に付き添って諸国を放浪した。
 マリー・テレーズ・シャルロットはブルボン家の再興に熱意を燃やし、フランス各地を視察した。アングレーム公ルイ・アントワーヌもそれを支援した。西暦1815年03月12日、滞在先のボルドーにアングレーム公ルイ・アントワーヌが到着したが、ナポレオン1世逃亡の一報を聞くと、アングレーム公ルイ・アントワーヌは引き返してニームで4000人の国王軍を指揮した。マリー・テレーズ・シャルロットはボルドーに残り、小さな国王軍の主導権を握った。03月20日からのナポレオン1世の百日天下に際しては、ガロンヌ川岸のベルトラン・クローレル率いる革命軍と対岸に陣取るブルボン家軍が緊張する中、無蓋馬車に立ち上がり、反ナポレオンの挙兵演説を行った。その内容は翌日、ロンドンの「ザ・タイムズ」に紹介された。これを知ったナポレオン1世はマリー・テレーズ・シャルロットを「ブルボン家唯一の男性」と揶揄した。ヘントに逃れていたルイ18世は彼女を、薔薇戦争(西暦1455〜1485/1487年)でヘンリー6世のためにランカスター家の軍隊を指揮したヘンリー6世王妃マーガレット・オブ・アンジュー(Margaret of Anjou、仏語名: マルグリット・ダンジュー(Marguerite d'Anjou))に例えた。
 マリー・テレーズ・シャルロットはその後再び亡命し、04月19日にイギリス王国に渡りまずルイ18世を手紙でけしかけた。ヘントに逃れていたルイ18世に送った手紙では、ナポレオン1世を「あの男」と呼んだ。
マリー・テレーズ・シャルロットは亡命中の夫アングレーム公ルイ・アントワーヌとの書簡の一部を奪ったナポレオン1世にその中身を公開され、怒り心頭に達した。07月29日にパリに戻ったが、臆病なルイ18世にうんざりしていた。帰国するやいなや、彼女はテュイルリー宮殿にあるNの文字、蜜蜂と鷲の装飾を全て取り払うよう命じた。そしてルイ18世に頼み、百日天下の時期に自分を王座に就けるよう民衆を煽ったオルレアン公ルイ・フィリップを、フランス王国から追放させた。
 マリー・テレーズ・シャルロットは死の間際の父から「憎しみを捨てるように。」と諭されたが、オルレアン公ルイ・フィリップとナポレオン・ボナパルトへの憎しみはいつまでも呪縛のように付いて回った。アルトワ伯シャルル・フィリップとマリー・テレーズ・シャルロットは超王党派(ユルトラ)となり、出版の自由の制限や教会勢力の増大、完全な国王主権を望んだ。
ルイ18世は中道的で、時には自由主義者との妥協もいとわなかったためそりが合わず、政治面で何度も衝突した。マリー・テレーズ・シャルロットはまた、過激で無慈悲な白色テロを扇動した。これには、幼少期に受けた過酷な体験が影を落とし、「復讐のためフランスに戻った王女」とも呼ばれるほどであった。アングレーム公ルイ・アントワーヌはイギリス亡命時代に触れた議会政治の影響が徐々に強くなり、夫婦は政治面で口論する一因になった。しかし、ボルドーでマリー・テレーズ・シャルロットが見せた勇気と慈悲深い性格を人々は称え、作家で政治家のシャトーブリアンの夫人は西暦1816年、パリに元亡命貴族(エミグレ)と聖職者の避難所の病院を作ると、マリー・テレーズ・シャルロットに献名した。ルイーズ王妃に先立たれたプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世が最初の寄付者となり、病院は西暦1819年に完成した。この年、ルイ18世はマリー・アントワネットが最期を過ごしたコンシェルジュリーの独房を公開した。教会は敬虔なマリー・テレーズ・シャルロットに司教と枢機卿を指名する名誉を与えた。
 06月17日、アングレーム公ルイ・アントワーヌの弟、ベリー公シャルル・フェルディナン・ダルトワが両シチリア王フランチェスコ1世の長女マリー・カロリーヌ(Marie Caroline Ferdinande Louise)と結婚した。
ところが西暦1820年02月13日、オペラ座でベリー公シャルル・フェルディナン・ダルトワは狂信的なボナパルト派の馬具屋ルイ・ピエール・ルヴェルにより暗殺された。王族一同が警察大臣ドゥカズ伯エリー・ルイの罷免を求め、アルトワ伯シャルル・フィリップとマリー・テレーズ・シャルロットはこの事件をルイ18世の自由主義的政権と権力を強めたドゥカズ伯エリー・ルイの責任にした。彼女はルイ18世に「もう一緒に食事をしません、パリを立ち去ろうと思います。」と夫婦で南西部へ行く意向を示すと、ルイ18世は譲歩し、ドゥカズ伯エリー・ルイを罷免した。父親ベリー公シャルル・フェルディナン・ダルトワが暗殺されてから7ヶ月後の09月29日にベリー公妃マリー・カロリーヌが、ブルボン王家直系男子の「奇跡の子」 ボルドー公アンリ・ダルトワを出産した。マリー・テレーズ・シャルロットは友人ポーリーヌ・ド・トゥルゼルに「やっと永遠に諦めが付いたから子供が居ないままでいるわ。」と心中を漏らした。未亡人のベリー公妃マリー・カロリーヌは社交に熱中し、子供たちと過ごすことは少なかった。マリー・テレーズ・シャルロットは幼い甥と姪が自由に遊べるプチ・トリアノンのような場所を望み、自らも辛い思い出から離れるために西暦1821年12月29日、パリ西部にあるヴィルヌーヴ・レタンの屋敷を購入した。図書室には集めた旅行記や革命史の本を並べ、父ベリー公を失ったルイーズ・マリー・テレーズ・ダルトワ(Louise Marie Thérèse d'Artois、伊語名: ルイーザ・マリーア・ディ・ボルボーネ・フランチア(Luisa Maria di Borbone-Francia))とボルドー公アンリ・ダルトワのために動物を集め、農場を作った。農場で取れる牛乳と生クリームを自慢にし、パリに持ち帰っては友人たちと楽しんだ。しかし、政治的な面で嫌っていたリシュリュー公が参加した晩餐会では、その皿に自慢のクリームを頒け与えなかった。
 西暦1824年、ルイ18世が病死し、弟のアルトワ伯シャルル・フィリップが国王シャルル10世となり、マリー・テレーズ・シャルロットは王太子妃となった。叔父ルイ18世によく仕えたように、この叔父(かつ舅)にもよく仕えた。西暦1825年07月24日、差出人不明のマリー・テレーズ・シャルロット殺害予告文を議会で大臣に見せた。未だに政敵から命を狙われていたとはいえ、彼女を慕う人々の訪問は絶えなかった。王太子妃の身分となっても使用人は45人しか雇わず、質素と倹約を貫いた。そしてベリー公シャルル・フェルディナン・ダルトワの遺児ルイーズ・マリー・テレーズ・ダルトワとボルドー公アンリ・ダルトワの面倒を見た。2人は伯母によく懐いた。フランス王国に帰国していたオルレアン公ルイ・フィリップを相変わらず嫌っていたが、毎年元日にはオルレアン家の子供たちに贈り物を贈った。だが、ルイーズ・マリー・テレーズ・ダルトワとボルドー公アンリ・ダルトワにはかつて自分が母にされたように、多くのおもちゃを見せてから「ありがたみと貧困」の教えを説き、おもちゃを送り返した。子供たちはこれをよく理解し、不満は口にしなかった。孫たちの様子はシャルル10世を満足させた。
 西暦1830年、7月革命によって、またしてもマリー・テレーズ・シャルロットたちシャルル10世一家は長い亡命生活を送ることとなった。パリ暴動の後、マリー・テレーズ・シャルロットはヴィルヌーヴ・レタンの屋敷を、ベリー公暗殺時に罷免されたドゥカズ公(西暦1822年にドゥカズ伯から陞爵)エリー・ルイの弟のドゥカズ子爵ジョゼフ・レオナール(Joseph-Léonard, vicomte Decazes)に売却した。亡命準備をしたマリー・テレーズ・シャルロットは、親友ポーリーヌ・ド・トゥルゼルと泣きながら別れた際に、マリー・アントワネットの遺品の印章を差し出した。これが2人にとって今生の別れとなった。7月革命の4ヶ月前にスペイン国王フェルナンド7世は娘イサベル・マリーア・ルイサ・デ・ボンボン(Isabel María Luisa de Borbón、後のイサベル2世(Isabel II))のためにサリカ法を廃し、弟のモリナ伯カルロス・マリーア・デ・ボルボン・イ・ボルボン・パルマ(西語: Carlos María de Borbón y Borbón-Parma、カルロス5世(Carlos V))の王位継承を妨げていた。フランスのブルボン家が後にこのニュースを知った際、マリー・テレーズ・シャルロットは「ずっと前にフランスがやるべきことだった。」と不満を表した。フランス王国はサリカ法により女子相続を認めないため、ベリー公妃マリー・カロリーヌの息子ボルドー公アンリ・ダルトワは王位継承権2位となった。シャルル10世一家は08月03日にパリを出発して北上した後、08月16日、シェルブールからイギリス王国へ渡った。ワイト島のセントヘレンズへ上陸させられた一家は、グレートブリテン及びアイルランド連合王国国王およびハノーファー王国(西暦1814〜1866年)国王(ウィリアム4世(英語名: William IV,、ウィリアム・ヘンリー(William Henry)、独語名: ヴィルヘルム(Wilhelm))の代理となった「鉄の公爵」初代ウェリントン公アーサー・ウェルズリー(Arthur Wellesley, 1st Duke of Wellington, KG, GCB, GCH, PC, FRS)の信書を受け取った。そこには、私人として到着するならイギリス王国に避難所を用意する旨が記されていた。イギリス王国でシャルル10世はポンティユー伯爵、マリー・テレーズ・シャルロットはマルヌ伯爵夫人、ベリー公妃マリー・カロリーヌはロニー伯爵夫人、ボルドー公アンリ・ダルトワはシャンボール伯爵と名乗ることとした。アングレーム公ルイ・アントワーヌは、姓はド・ブルボンからド・フランスに改め、ルイ19世およびアングレーム公爵以外では、ルイ・アントワーヌ・ド・フランスを名乗った。
 カトリック教徒のトマス・ウェルド卿は、国王一家にドーセットのラルワース城を貸した。マリー・テレーズ・シャルロットは秘書のシャルレ男爵の画策により、一家を養うため多くの金をロンドンの銀行家ワースから受け取った。10月、一家はエディンバラのホリールード宮殿に移ったが、ここは一般公開されており居心地が悪く、マリー・テレーズ・シャルロットは宮殿の近くに小さな家を借りた。シャルル10世は「老年を孫に囲まれて暮らすのは幸せだ。」と、度々口にした。フランス新政府とイギリス王国の関係が改善されると状況は一変し、シャルル10世はオーストリア皇帝フランツ1世を頼りプラハへ移った。
 その際、ベリー公妃マリー・カロリーヌはこの同行を拒み、シャルル10世はしぶしぶ「フランス王国に帰国した際、息子が未成年の場合はベリー公妃を摂政とする。」と宣言し署名した。その直後、ベリー公妃マリー・カロリーヌは同行せず、単身ジェノヴァを経由しローマに向かった。ローマ法王グレゴリウス16世はフランス王ルイ・フィリップ1世に、「ベリー公妃マリー・カロリーヌを匿う意図はない。」と誓い、ベリー公妃マリー・カロリーヌはローマから実家のナポリ宮廷へ連絡をしたが、家族すら彼女を疎み、異母弟である両シチリア国王フェルディナンド2世は困惑した。ベリー公妃マリー・カロリーヌはフランス王位を正統な王であるべき息子ボルドー公(シャンボール伯)アンリ・ダルトワに継がせるべく、オルレアン家出身の王ルイ・フィリップ1世を王座から引きずり落とすことを画策した。西暦1832年04月、彼女は農婦に変装し、ナポリからマルセイユに向かった。フランス王国に上陸するとベリー公妃マリー・カロリーヌは「フランスの摂政」と宣言した。シャルル10世は亡命先から、彼女が「フランスの摂政ではない。」という声明を出した。
フランス西部ヴァンデ県へ潜入したのち、ベリー公妃マリー・カロリーヌはブルボン家支持者アルマサン公らとともに叛乱を起こした。しかし、この叛乱自体は稚拙なもので、鎮圧されてベリー公妃マリー・カロリーヌは逮捕された。ヴァンデに行く前にベリー公妃マリー・カロリーヌは、様々なヨーロッパ君主に自分の叛乱への支持を懇願していた。オランダ国王ウィレム1世だけは、「アンリが即位した際には、ベルギーをフランスに割譲する。」と約束したが、他の君主たちは支援を断った。獄中で裁判を待つ身のマリー・カロリーヌは「フランス潜入前に滞在していたイタリアで法王の承認を得て、西暦1831年12月14日にイエズス会の司祭ロザヴェン神父の下でルケージ・パッリ伯エットーレ・カルロ(Ettore Carlo Lucchesi Palli)との結婚式を行った。」、「ルケージ・パッリ伯との子を妊娠している。」と、とんでもない事実を明らかにした。実際には、マリー・カロリーヌが身籠っていた子供はルッケーシ・パッリ伯爵の子ではなく、ヴァンデ潜入中に青年弁護士ギブールとの子と言われている。ルケージ・パッリ伯は、主君フェルディナンド2世の姉マリー・カロリーヌのため、全てを承知で結婚した。この一件で、「奇跡の子」の生母マリー・カロリーヌの威信は地に落ちた。亡命中のシャルル10世は義理の娘の不貞に怒り、マリー・カロリーヌはブルボン家から絶縁され、マリー・テレーズ・シャルロットが母親代わりにルイーズ・マリー・テレーズ・ダルトワとボルドー公(シャンボール伯)アンリ・ダルトワを養育することになった。ボルドー公(シャンボール伯)アンリ・ダルトワは幼い頃からマリー・テレーズ・シャルロットに懐いており、成人後も一番頼りにしていた人物だった。また、マリー・テレーズシャルロットもボルドー公(シャンボール伯)アンリ・ダルトワを「我が子」と呼び心から愛した。
 プラハではフラドシン城を用意してもらい、ここでシャルル10世らとヴェルサイユの伝統的儀礼を復活させた。彼女は刺繍をして静かに過ごし、その作品は競売に掛けて、収益は恵まれない者に寄付した。西暦1836年にオーストリアの都合でモラヴィアのキルシュベルク城へ、その後ゴリツィアのグラッファンベルク城へ転居を重ねた。ここで義父シャルル10世を西暦1836年に、夫アングレーム公ルイ・アントワーヌを西暦1844年に看取った後、今度はウィーン郊外のフロースドルフ城へ移らされ、ここでは散歩に読書、刺繍、祈りを日課として静かに暮らした。作品はまた競売で利益を生み、売上は貧しい者たちに寄付された。
マリー・テレーズ・シャルロットは西暦1851年10月19日に肺炎のため波乱の人生を終えた。夫との間に子が無かったため、ルイ16世とマリー・アントワネットの血筋は途絶えた。

マリー・テレーズ - 成相美穂子
マリー・テレーズ - 成相美穂子

 西暦1827年〜1830年にかけてフランス王国は農工業ともに経済危機に直面した。これは西暦1789年の革命の一因となった経済危機以上に深刻だった。西暦1820年代後半から穀物収穫高が徐々に落ち込んだことにより、主食品や商品作物の価格が上昇した。これに応じて、フランス王国各地の農村の農民は穀物の保護関税の引下げと経済状態の改善を求める運動を展開したが、シャルル10世は大土地所有者からの圧力に屈して関税を据え置いたままであった。これは、西暦1816年の「夏のない年」における一連の飢饉に際してルイ18世が関税を緩和したところ、物価が下落し、ブルボン正統主義の伝統的支柱である大土地所有者の怒りを買ったという苦い経験に基づくものであった。こうして、西暦1827〜1830年にかけて、フランス各地の農民は比較的困難な経済状態と物価上昇の時代を迎えた。同時に、国際的圧力と地方の購買力低下とが相俟って、都市部の経済活動の停滞を招いた。こうした産業の低迷はパリの手工業者の貧困率上昇を招いた。こうして、西暦1830年までに、国民各層がシャルル10世の経済政策に苦しむこととなった。
 フランス経済が低迷する中、一連の選挙で代議院の自由主義勢力は比較的優勢となった。西暦1824年に17議席であった自由主義勢力は、西暦1827年に180議席に、西暦1830年に274議席(政府側145議席)に躍進した。多数派を形成した自由主義者は、中道派のマルティニャック子爵ジャン・バティスト・シルヴェール・ガイエやユルトラのポリニャック公ジュール・オーギュスト・アルマン・マリーに不満を募らせ、西暦1814年憲章の限定解釈の維持に努めた。その要求は選挙権の拡大、より自由主義的な経済政策、さらに議会多数派による首班指名権の確立などであった。また、概ね代議院における自由主義勢力の伸張と呼応して、フランス王国では自由主義的な出版物が増加し、パリを中心に政府広報や右派系の新聞とは対照的な論陣を張った。これらはパリ市民に対し政治的な意見や立場を伝達する上で重要性を増していったところ、自由主義者の隆盛と、苛立ちを募らせながら経済的に苦しんでいたフランス民衆との間の結合に決定的な役割を果たした。
 西暦1830年までに、シャルル10世の復古王政は山積した課題に直面した。新たに議会多数派を形成した自由主義者は、ポリニャック公の対外強硬策を前にしても譲歩する気は全くなかった。パリ市内の自由主義的出版物が政府広報の売上げを上回るなど、パリ市民全般の左傾化も見られた。それにも拘わらず、シャルル10世は右傾化する権力基盤の方しか見ておらず、代議院からの要求の高まりに全く譲歩できなかった。この局面が限界に達することとなった。正式には、フランスは西暦1814年憲章により立憲君主国となっていた。国王は執行権を独占するなど政策決定上の広範な権限を保持していたが、法規命令の発令には原則として議会の同意や立法を要した。また、憲章は代議院議員の選挙方法、院内での権限、院内多数派の権限などを定めた。西暦1830年に深刻な問題に直面したシャルル10世は、憲法の壁と代議院で多数派を形成した自由主義者とに阻まれて政策を維持できなくなり、窮余の一策に打って出た。西暦1830年03月、自由主義者が政府への不信任を採決すると国王は行動を起こし、緊急勅令による超法規的措置に取り掛かった。07月25日、内相となったペイロンネの発案でポリニャック公が準備した4つの勅令をシャルル10世は承認した(7月勅令)。即ち、未招集になっている代議院の解散、出版の自由の制限、地租のみを選挙資格の要件とする選挙人を最富裕層に限定する選挙法改正、新選挙法による再選挙の早期実施(09月下旬)を命じる4つの勅令を発した。
 国王の意向は早くから広まっていた。西暦1830年07月10日、まだ国王が勅令案を作成している最中、ルイ・アドルフ・ティエール(Louis Adolphe Thiers)を筆頭に資産家、自由主義的なジャーナリスト、新聞社の社主の一団がパリに集まり、シャルル10世への反対攻勢のための戦略を決めた。これは革命の約3週間前の出来事であるが、来るべき勅令発布の際にはパリの報道機関が国王の政策を辛辣に批判する記事を書き、大衆動員を図るべきことが決められた。こうして、西暦1830年07月25日にシャルル10世が7月勅令を発すると、07月26日に政府機関紙「モニトゥール」に発表され、自由主義的な報道機関はシャルル10世の暴政を公然と非難する記事を発行した。まず新聞記者が反発し、43人の新聞記者が「ナショナル」紙の編集局に集まりルイ・アドルフ・ティエールが起草した新聞の発行を継続する声明文に署名した。この声明文は広場、市場、酒場などで読み上げられた。
 翌07月27日には「ナショナル」など野党系の各紙に掲載された。印刷所の工場閉鎖に続き、実業家や商人も民衆が街頭デモに参加するよう店を閉めた。この時シャルル10世はサン・クルー城で狩猟をしていた。仕事場が閉鎖されたことで失業した印刷工を初めとする労働者は街に出て、民衆は溢れ出し、軍隊が出動した頃には、主要な通りは倒された馬車や木、家具などで封鎖されていた。さらに労働者を中心とする暴動に理工科大学の学生も加わって拡がりを見せた。パリ民衆は愛国心と経済的苦境に突き動かされ、障害物を築いて国王政府の基幹施設を襲撃し、シャルル10世はオーギュスト・フレデリク・ルイ・ヴィエス・ド・マルモン(Auguste Frédéric Louis Viesse de Marmont)元帥に鎮圧を命じると、彼はテュイルリー宮殿に本部を置いてパリの主要拠点を占拠した。数日のうちに事態は国王政府の手に負えなくなるまでに発展した。国王が自由主義的な定期刊行物の発行禁止に動いたため、急進的なパリ民衆はこれらの出版を守り、さらに親国王派の出版に対する攻撃を始め、国王政府の強権政治体制を麻痺させた。この機会を捉えて、議会内の共和主義者は国王に対する抗議や非難の決議案を作成し始めた。
 07月28日、共和派が市庁舎やノートルダム聖堂を占拠する一方、マルモン元帥が出動させた軍隊は少しずつ障害物を撤去していった。しかし、兵士は共和派の抵抗を受け、食事や給水も困難で、極度の疲労と飢餓により死者が続出し士気も低下していった。ヴィクトワールの第1連隊が戦闘を放棄すると、いくつかの連隊が寝返って形勢が逆転した。自由派代議員は抗議文をマルモン元帥に提出し、勅令の撤回や閣僚の入れ替えを要求したが、隣室で聞いていたポリニャック首相は受け入れなかった。そのため自由派代議員もフランス銀行総裁を罷免され西暦1820年代から左派指導者となった銀行家ジャック・ラフィット(Jacques Laffitte)邸に集まり政権打倒の結論に至った。
 07月29日、スイス人傭兵の守るルーブル宮殿が民衆の襲撃によって陥落し、軍隊はパリを放棄して撤退した。29日午後には約30人の代議員がジャック・ラフィット邸に集まり、ラ・ファイエット侯マリー・ジョセフ・ポール・イヴ・ロシュ・ジルベール・デュ・モティエを国民軍司令官とし、市委員会という臨時政府を樹立することを決議した。一方、29日午後、シャルル10世は勅令を撤回して、ポリニャック公ジュール・オーギュスト・アルマン・マリーを罷免し、モルマール公カシミール・ルイ・ヴィクトゥルニアン・ド・ロシュシュアール(Casimir Louis Victurnien de Rochechouart, 11e duc de Mortemart)を首相に任命したが、時は既に遅かった。西暦1830年07月27日〜29日にフランス王国で7月革命が起こり、この3日間をなぜか栄光の3日間(仏語: Trois Glorieuses)と呼ぶ。
 これにより西暦1815年の王政復古で復活したブルボン朝は再び打倒された。


 ウィーン体制により構築された正統主義は部分的に崩壊し、ブルジョワジーの推すルイ・フィリップが王位に就いた。その影響はヨーロッパ各地に波及し、ウィーン体制を揺るがせた。 ウィーン会議の結果、ネーデルラント連邦共和国(オランダ共和国、西暦1579〜1795年)とともにネーデルラント連合王国(オランダ連合王国、西暦1815〜1830年)に統合されていた南ネーデルラント(西暦1581〜1815年)では、ネーデルラント連合王国の支配に対してブリュッセルで暴動が発生した。結果として、イギリス王国を初めとする列強諸国は南部の独立を認め、翌西暦1831年にドイツの小領邦君主の一族であるザクセン・コーブルク・ゴータ家の出身でイギリス王室ともロシア帝国とも繋がりのあるレオポルド1世(仏語: Léopold Ier)を国王に迎えて、ベルギー王国(西暦1830年〜)が独立を果たした(ベルギー独立革命)。なお、ネーデルラント王国(オランダ王国、西暦1830年〜)が最終的に独立を承認し、領土問題が解決したのは西暦1839年であった。ウィーン体制は全面的な崩壊こそ免れたものの、部分的には大きく揺らぐことになった。ウィーン体制が全面的に崩壊するのは西暦1848年革命の時であった。

 栄光の3日間の後、パレ・ブルボンの代議院には自由派議員が集まり、国王をオルレアン公ルイ・フィリップとすることで意見が纏まりつつあった。ところが一方、市庁舎に集まった共和派の人々は共和制の樹立を準備していた。両者は対立したが、オルレアン公ルイ・フィリップが共和派の拠点の市庁舎に向かい、共和派の人々が信頼するラ・ファイエット将軍とともに姿を現し、民衆の歓呼の声に迎えられた。
 西暦1830年07月30日、ついに代議院は国王の廃位が宣言され、王位が空位であることを宣言し、オルレアン公ルイ・フィリップを王国総代理官に指名した。
 西暦1830年08月02日、次の王位は本来シャルル10世の長男で王太子のアングレーム公ルイ・アントワーヌ(ルイ19世)が継ぐべきであったが、マリー・テレーズ・シャルロットの夫のアングレーム公は父シャルル10世同様不人気な上に子供がいなかったため、シャルル10世が退位文書に署名してから20分後に王太子のアングレーム公ルイ・アントワーヌ(ルイ19世)が王位継承権を放棄した。名目上、20分間のフランス国王ルイ19世が存在した。アングレーム公ルイ・アントワーヌ(ルイ19世)の甥でシャルル10世の孫で、暗殺されたベリー公シャルル・フェルディナン・ダルトワの「奇跡の子」ボルドー公アンリ・シャルル・フェルディナン・マリー・デュードネ(アンリ・ダルトワ)に王位を譲るため、すぐさま甥であるボルドー公アンリ・ダルトワ(シャンボール伯)への譲位に賛同する宣言書に連署を行なった。名目上の王位は、ボルドー公アンリ・ダルトワ(シャンボール伯)が継承しアンリ5世となった。その時以降、ボルドー公アンリ・ダルトワ(シャンボール伯)の支持者たちは彼を「アンリ5世」と呼んだ。シャルル10世は、ブルボン家傍系オルレアン家の王国総代理官オルレアン公」ルイ・フィリップに自らの宣言書を下院で読み上げるよう依頼した。しかし、ルイ・フィリップは「ボルドー公アンリ・ダルトワを王位継承者とする。」という部分を敢えて読まず、自由主義者とブルジョジーが掌握した代議院は、ボルドー公アンリ・ダルトワ(シャンボール伯)を国王「アンリ5世」とは認めなかった。
 翌08月03日に貴族院と代議院の合同会議が開かれた。保守派の代議士が大量に排斥する中投票が行われ、代議士団はフランス王位の空位を宣言してオルレアン公ルイ・フィリップを擁立した。こうして「アンリ5世」の即位は立ち消えとなった。オルレアン公ルイ・フィリップがシャルル10世の退位を宣言し、シャルル10世はパリから逃亡しイギリス王国に亡命した。

 08月07日にオルレアン公ルイ・フィリップは代議院から国王ルイ・フィリップ1世として招聘する宣言を受け、08月09日にはオルレアン公ルイ・フィリップをそのまま国王ルイ・フィリップ1世に推戴し戴冠式を行った。こうして7月王政(西暦1830〜1848年)が始まった。

 体制崩壊の最大の原因は、ユルトラ(超王党派)の主義主張が、貴族やカトリック教会、さらに農民の多数からの支持を繋ぎ止める一方で、議会外の世論や選挙権を持たない人々 、特に工場労働者やブルジョワジーからは極めて不評であった。国王政府は7月勅令で西暦1830年の総選挙の結果を覆そうとしたが、7月勅令はいわばシャルル10世の企てた「クーデター」であり、これに対する革命を引き起こした。シャルル10世による代議院の解散、7月勅令による出版規制の厳格化と選挙権の制限の結果、西暦1830年の7月革命が起こった。その後に引き続いたオルレアン公ルイ・フィリップによるクーデターで7月王政が成立した。


 オルレアン朝(仏語: dynastie d'Orléans、7月王政(仏語:Monarchie de Juillet)、西暦1830〜1848年)

 オルレアン公ルイ・フィリップは1830年の7月革命で国王に推戴され、「フランスの王(Roi de France)」ではなく、西暦1791年憲法下のルイ16世の称号「フランス人の王(Roi des Français)」を称して国民主権への転換を示した(7月王政)。このオルレアニストの王政は西暦1848年の2月革命で倒され、第2共和政(西暦1848〜1852年)が樹立されてルイ・ナポレオン・ボナパルトが大統領に選ばれ、ルイ・ナポレオン・ボナパルトは西暦1851年12月02日のクーデターの後、第2帝政(西暦1852〜1870年)を樹立して皇帝ナポレオン3世を称した。

 西暦1830年の7月革命では、ブルボン朝シャルル10世退位の後、王政廃止を強く求められていたが、代議院に推挙され、ブルジョワジーに人気があったオルレアン公ルイ・フィリップがフランス国王ルイ・フィリップ1世に即位した。この時、パリ市民の間では既に投獄されていたシャルル10世の大臣たちの処刑を要求する声が上がったが、閣僚である穏健派のフランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾー、カジミール・ピエール・ペリエ(Casimir Pierre Périer)、第3代ブロイ公アシル・レオンス・ヴィクトル・シャルル(Achille Léonce Victor Charles, 3e duc de Broglie、ヴィクトル・ド・ブロイ(Victor de Broglie))は、パリ市民から支持される内閣の組閣を模索した。これにより、ジャック・ラフィットは11月05日に首相兼財務大臣に就任、運動党(parti du mouvement)内閣として改革を公約した。
 ラフィット内閣は自由主義的改革と社会的騒乱の収拾を両方進めようとして両方とも失敗した。外交では西暦1830年革命(7月革命)におけるイタリア蜂起を支援しようとしたが国王に反対され、内政では大臣処刑の要求を拒否して支持を失った。財政難は改善せず、
さらに司法大臣ジャック・シャルル・デュポン・ド・ルール(Jacques-Charles Dupont de l'Eure)と国民衛兵司令官ラ・ファイエット侯マリー・ジョセフ・ポール・イヴ・ロシュ・ジルベール・デュ・モティエも辞任した。結局ジャック・ラフィットは西暦1831年03月に辞任し、政権は抵抗党(parti de la résistance)に移った。
 新国王ルイ・フィリップ1世は革命への期待を裏切り、フランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾーが提唱した復古主義・オルレアニスムによる新憲法を制定し、議会制と民主主義を成立させ、一方で、裕福なレジティミスト階級に政治的優位性を与えたブルジョワ支配体制で、貴族制の廃止や世襲制の廃止などが実行される一方で、選挙権の拡大が行われたものの納税額による制限選挙自体は維持され、選挙権をもたない労働者・農民層の不満が高まった。有権者資格は納税額300フランから200フランに引き下げられ、9万4000人から1.8倍増の16万8000人へと増加したが、有権者の割合はフランス王国全人口3500万人の0.5%に過ぎなかった。労働者は無権利に等しく、彼らを抑圧する形で産業革命が進行した。フランス王国では鉄道熱が過熱し、各地で路線が建設されるなど大規模な開発が進められたが、こうした産業の発展の恩恵を一般の国民は受けられずにいた。一部の富裕層に富が集中し、多数の国民が貧困に取り残されていった。しかし、議員の選挙は依然として数百人の投票によって決定され、贈収賄によって政治は左右され、フランス王国の政治は特権階級による権力の独占という様相を濃くし、密室政治と利権政治へと堕落していた。
 首相フランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾーは、選挙制の改革に関して反対の立場を取っていた。彼は「選挙権が欲しければ金持ちになり給え。」と語り、国民の不満に対して目を向けなかった。フランス王国では不満が高まっていた。
こうした不満の捌け口として「改革宴会」という集会が盛んに開催され、ある程度のガス抜きが行われていた。改革宴会とは、選挙権の拡大や労働者・農民の諸権利を要求する政治集会だが、宴会の名目で開催していたもので、共和派のアレクサンドル・オーギュスト・ルドリュ・ロラン(Alexandre Auguste Ledru-Rollin)がリールで推進したものが有名。
 ラファイエット学校運動で7月革命に関与したカルボナリ党員ルイ・オーギュスト・ブランキは、弁護士の娘と結婚して新政権への抗議と収監を繰り返した。西暦1839年にブランキは同志のアルマン・バルベス(Armand Barbes)、マルタン・ベルナール(Martine Bernard)らとともに革命組織「四季協会(別名: 四季の会、季節協会)」を結成した。構成員は3段階ないし4段階の序列に細分化されていた。最小単位は7人で「週」と呼ばれる1個小隊を編成し、「日曜」と呼ばれる者がその指揮を執る。「週」の小隊4個の28人で「月」の中隊を編成、3つの「月」の中隊で「季節」の大隊を編成し、「春」の大隊が各大隊の指揮を執る。4つの「季節」の大隊を集めた「年」の組織全体をブランキが指揮した。

 ルイ・オーギュスト・ブランキは、「共産主義」や「独裁」という用語を現代の意味で初めて使用し、革命は少数の革命家による権力奪取と革命独裁によってのみ実現可能と主張して後の共産主義思想に大きな影響を与えた「共産主義の先駆」フランソワ・ノエル・バブーフ(François Noël Babeuf、通称: グラキュース・バブーフ(Gracchus Babeuf))を尊敬しており、武装した少数精鋭の秘密結社による権力の奪取と人民武装による独裁の必要を主張した。武装した少数精鋭の秘密結社による権力の奪取や人民武装による独裁といったブランキの主張はバブーフから学んだものである。カール・マルクス(Karl Marx、露語: Карл Маркс)は彼を革命的共産主義者として称揚している。彼の影響下にあったヴィルヘルム・ヴァイトリング(Wilhelm Weitling)は義人同盟(正義者同盟、後の共産主義者同盟)の構成員であり、共産主義者同盟の文書である共産党宣言で例外的に批判されなかった。彼の理論はブランキ主義(Blanquism)と呼ばれ、ドイツのヴィルヘルム・ヴァイトリングや、ロシアのピョートル・ニキティッチ・トカチョフ(Pyotr Nikitich Tkachev、露語: Пётр Ники́тич Ткачёв))、そしてウラジーミル・イリイチ・レーニン(Vladimir Ilyich Lenin(露語: Влади́мир Ильи́ч Ле́нин)、本名: ウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフ(露語: Влади́мир Ильи́ч Улья́нов))へと受け継がれることになる。またアナキストのミハイル・アレクサンドロヴィチ・バクーニン(Mikhail Aleksandrovich Bakunin、露語: Михаи́л Алекса́ндрович Баку́нин)の革命家の組織論はヴィルヘルム・ヴァイトリング経由でブランキの影響がある。

 数億人を殺戮、虐殺、抹殺し、現在も数十億人を掠奪、強姦、拷問し、偽りの自由と平等、民主と法治を虐げる、悪逆非道なディープステイト(DS(出来損ないの堕落した最兇な屑))の中核、猶太の主翼の独裁と全体主義・共産主義が姿を現した。


 ルイ・フィリップ1世を擁立した銀行家ジャック・ラフィットも、西暦1831年03月には財務大臣を辞任した。西暦1832年までに7月革命で血を流した結果が、日和見主義者らによるルイ・フィリップ1世の戴冠であったということが、特に共和派には、血が沸騰するほどの不満に感じられた。新憲法に不満を抱いたブルジョワジーの共和派は、39人の議員がジャック・ラフィットの家に集まり、調査報告書の発表を検討した。これは西暦1832年05月22日に発表され、新憲法と王政の欠陥を非難し、7月革命に対する反革命が進行中であることを指摘し、7月革命の勢力を刺激した。一方、 ナポレオン・ボナパルトの帝国の喪失を嘆くボナパルティストらにも不満が残っており、ブルボン朝の残影を懐かしむレジティミスト(復古主義者)たちは、密かに正統な後継者として「アンリ5世」(シャルル10世の孫で「奇跡の子」ボルドー公アンリ・シャルル・フェルディナン・マリー・デュードネ(シャンボール伯アンリ・ダルトワ))の即位を画策していた。共和派の中に入り込んだオルレアン主義者も利得の機会を狙っていた。中間的ブルジョワジーから支持を得て誕生した7月王政政権は、左右両派からの攻撃を同時に受けるようになっていた。
 西暦1831年12月にフランス第2の都市リヨンにおいて、経済困窮を理由に発生したカヌート(絹織物工)争議が起こり、鎮圧に地元の治安部隊では足らず、軍隊が投入された。翌年02月には、レジティミスト(復古主義者)一派が現王室を拉致しようとした「ルー・ド・プルーヴェールの陰謀」といわれる暴動が発生した。マリー・カロリーヌ・ド・ブルボンが息子のシャンボール伯アンリ・ダルトワの即位を企み、扇動したものだが、まもなく逮捕され陰謀は失敗に終わった。以降、レジティミストの活動は武力ではなく、出版物などの言論による闘争へと変貌した。
 暴動の原因には、西暦1827年〜1832年にかけて急速に深刻なものとなった経済問題があった。この時期には不作が続き、食糧事情は悪化し、物価が上昇するなど、全ての階級において不満が高まっていた。さらに西暦1832年春、ヨーロッパ全土を襲っていたコレラ禍がパリでも発生し、18402人の死者を出すという惨事になった。特に貧困層は疫病で荒廃し、「政府が井戸に毒を投じた。」という噂まで拡がった。この疫病のため、首相のカジミール・ピエール・ペリエ(05月16日死去)とナポレオン・ボナパルト傘下の将軍で自由主義派の政治家であるラマルク将軍の名で知られるジャン・マクシミリアン・ラマルク(Jean Maximilien Lamarque)(06月01日死去)の2人が死んだ。ラマルク将軍は、西暦1815年の百日天下の際にはヴァンデ軍を率いて王党派を打倒し、後には共和主義運動を支援するなどして、共和派の尊敬を集めていた。首相のカジミール・ピエール・ペリエが壮大な国葬で送られた一方、貧困層に向け同情を示し国民的な人気のあったラマルク将軍の葬儀は、反対派への強い警戒感が示された。
 共和派たちは、06月05日にラマルク将軍の民衆葬を行い、葬列はバスティーユ広場に向かう示威運動となっていた。葬列には、共和主義者として亡命しているポーランド人、イタリア人及びドイツ人らの運動家も参加していた。共和派を主導していたのは、活動に専心した秘密結社の一団で、これらの結社は、西暦1830年07月にシャルル10世の政府に対し暴動を扇動したのと同じものだった。中でも、人権協会は最も機能した組織であり、20人を超える結社を禁ずるという法令を僭脱するため、20人ごとに軍隊のように組織され、各々に首領・副首領を頂いたものであった。彼らは棺の周りに集まり、ラマルクがポーランドとイタリアの自由のために強力に支持し支援したことについての演説を行った。群衆の中から、「自由、さもなければ死を!(La liberté ou la mort!)」と書かれた赤旗を振る者が現れ、群集は叛徒化し、警備していた政府軍はそれに向けて発砲を始めた。弔辞のため参列していたラ・ファイエット侯は落ち着くよう求めたが、混乱は止めようがなく拡がっていった。
 一晩で、シャトレ広場、アーセナル街区からフォブール・サンタントワーヌ通りに至る、パリの東部から中央部にかけて暴動は拡大し、叛徒は約3000人となった。夜にはテュイルリー宮殿で、叛徒が食事で大騒ぎをするのが聞こえたほどであった。しかし、叛徒の拡大はそこで止まった、夜のうちに、パリ国民衛兵に属する20000の非常勤兵は、首都周辺の平定を担当するローバウ伯ジョルジュ・ムートン(Georges Mouton, comte de Lobau)が率いる40000の正規兵により強化された。武装勢力は、歴史的地域であるサン・マルタン街に彼らの牙城を築いた。バリケードがサン・マルタン通りとサン・ドニ通りの周りの狭い路地に積み上げられた。06月06日の朝、叛徒の残党は、サン・マルタン通りとサン・メリ通りの交差点に包囲されていた。ルイ・フィリップ1世は、この場所で首都を支配していることを示威することを決めた。サン・クルーからパリに戻ると、テュイルリー宮殿で閣僚と将軍に謁見し、暴動の現場に乗り込む前、国民衛兵と兵士の喝采の中で包囲することを宣言した。最後の抗争は、サン・メリ回廊でなされ、06月06日の夕刻まで続いた。政府側は73人の死者と344人の負傷者の一方で、叛徒側の犠牲者は死者93人負傷者291人を数えた。こうして暴動は完全に鎮圧された(6月暴動(西暦1832年のパリ蜂起(仏語: Insurrection républicaine à Paris en juin 1832)。

 政府は叛乱軍を少数派の過激派と扱ったものの、ルイ・フィリップは2年前の7月革命でシャルル10世に対してよりも熱心に対応した。国王が公衆の面前に出ると、彼の支持者は喝采を以って迎えた。警察を指示していた外相セバスティアニ(Horace François Bastien Sébastiani de La Porta)将軍は、事件に巻き込まれた民衆は「成功を祝して、『国王万歳(Vive le Roi)』や『自由万歳(Vive la liberté)』と喜んで斉唱する。」と祝いの言葉を述べた。事後調査により、叛徒の66%は建築労働者など労働者階級であり、残りは店員などであった。
 暴動後、多くの銃火器が回収され、所持すると軍法に問われる可能性があるようになった。革命で政権を得た政府は、自らの手により過去の革命を遠ざけることとなった。フランス政府が西暦1831年に7月革命を記念するためとして3000フランで買い上げたドラクロアの絵画「民衆を導く自由の女神」の展示も止められた。アルバート・ボイム(Albert Boime)は、「西暦1832年06月のラマルク将軍の葬儀の際の暴動後、それが再び公然と悪い例を示すことを恐れて展示されなかった。」と述べた。また、前国王のときと同様に、報道が検閲によって規制されるようになった。軍人であり貴族のラ・ファイエット侯マリー・ジョセフ・ポール・イヴ・ロシュ・ジルベール・デュ・モティエはこれを非難した。

 ミシェル・ジョフロワという男は、赤旗を振って暴動のきっかけを作ったということで逮捕された。最初は死刑が宣告されたが、司法上の手続きを重ねるうち、かなり減刑された懲役刑に落ち着いた。その後、同様に死刑判決については全てが減刑された。一部の叛徒は、法廷で共和派としての主張を行った。指導者の1人シャルル・ジャンヌの裁判では、誇りを持って自らを弁護した。彼は有罪となり懲役刑を課せられ、西暦1837年に刑務所で死亡したが、それは共和派の殉教者とされた。西暦1836年の小冊子において、共和派の敗北は、テルモピュライの戦いにおける300人のスパルタ兵の英雄的な抵抗に擬せられた。
 西暦1848年、7月王政は2月革命により打倒され、短命となった第2共和政がそれに代わった。普通選挙を求める声が次第に高まり、それが2月革命のきっかけとなった。それに先立つ西暦1832年の6月暴動の失敗が西暦1848年のフランス革命(仏語: Révolution française de 1848、2月革命)に大きな影響を与えた。
 フリードリヒ・エンゲルス(Friedrich Engels)は、西暦1848年革命に関して論じた回顧集で「6月革命」と、即ち、 「2月革命は、6月暴動の戦術的な失敗―性急に市庁舎に向かってしまった点等―を研究し、それを避けたことによりうまくいった。」と論じた。

 ヴィクトル・マリー・ユーゴーは歯に衣着せぬ活動的な共和派であり革命を支持していた。「レ・ミゼール(Les Misères)、西暦1854年にレ・ミゼラブル(Les Misérables)に改題、邦題: 噫(あゝ)無情」は、ナポレオン・ボナパルトの敗退から6月暴動までの20年を描き、6月暴動は終章の最高潮となっている。「レ・ミゼラブル」がこのあまり目立たなかった事件を有名にした。

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