2024年10月16日

反吐が出る世界史 鬼畜金満ロスチャイルド家の近親相姦の繁殖でひり出た末裔 前編(第4子ネイサン・メイヤーまで) 悪逆非道なディープステイト(DS(出来損ないの堕落した最兇な屑))の中核、猶太とは何か その26

ダビデの星.jpgユダヤ(ギリシャ語: Ἰουδαία、Ioudaía、漢字:猶太)

 他民族からは「ヘブライ人」と謂れ、自らは「イスラエル人」と称し、バビロン捕囚後には「ユダヤ人」と呼ばれるようになった徒輩。ヘブライ人、イスラエル人、ユダヤ人は同じ民族を指している。
 ユダヤ人(ヘブライ語: יהודים‎、英語: Jews、ラジノ語: Djudios、イディッシュ語: ייִדן‎)は、猶太教の信者(宗教集団)または猶太教信者を親に持つ者によって構成される宗教信者。原義は狭義のイスラエル民族のみを指す。イスラエル民族の1つ、ユダ族がイスラエルの王の家系だったことを由来とする。猶太教という名称は、猶太教徒が多く信仰していた宗教であることによる。ユダヤとは、パレスチナ南部の地域。酋長ヤコブの子ユダに由来する。古代イスラエル統一王国の分裂後の南ユダ王国があった地域である。



南ユダ王国滅亡後のユダヤの歴史

南ユダ王国が滅ぶと、僅かな例外的時期を除いて西暦20世紀に至るまでユダヤ民族が独立国を持つことはなかった。


神武天皇74(西暦前587)〜安寧天皇10(西暦前539)年 新バビロニア帝国
安寧天皇10(西暦前539)〜孝安天皇61(西暦前332)年 アケメネス朝ペルシア帝国
孝安天皇61(西暦前332)〜孝安天皇88(西暦前305)年 プトレマイオス朝エジプト
孝安天皇88年(西暦前305)〜開化天皇17(西暦前141)年 セレウコス朝シリア
開化天皇17(西暦前141)〜崇神天皇35(西暦前63)年 ハスモン朝 ユダヤ人国家
崇神天皇35(西暦前63)〜崇神天皇61(西暦前37)年 共和政ローマ元老院属州
崇神天皇61(西暦前37)〜垂仁天皇73(西暦44)年 ヘロデ家
垂仁天皇73(西暦44)年 ユダヤ属州(ローマ帝国皇帝属州)
垂仁天皇73(西暦44)〜景行天皇23(西暦93)年 ヘロデ家
垂仁天皇73(西暦44)〜仁徳天皇83(西暦395)年 ローマ帝国皇帝属州
仁徳天皇83(西暦395)〜舒明天皇06(西暦634)年 東ローマ帝国
舒明天皇06(西暦634)〜永正13(西暦1516)年 イスラーム諸王朝 途中に十字軍国家の時代を含む。
永正13(西暦1516)〜大正06年(西暦1917)年 オスマン帝国 
大正07年(西暦1918)〜昭和23(西暦1948)年 イギリスによる国際聯盟の委任統治 
昭和23(西暦1948)年 イスラエル国(メディナット・イスラエル)成立 共和政国家の樹立、現代に至る。



 西暦135年、ローマが叛乱を鎮圧し、ユダヤ的なものを一掃しようとしたローマ人は、この土地をユダの地(ユダヤ)ではなく、ユダヤ人の宿敵ペリシテ人に因んで「パレスチナ」、エルサレムを「アエリア・カピトリーナ」と改称し、ユダヤという地名は消滅した。

 また、ユダヤ人は人種的にはセム族とされるが、長いディアスポラ(離散)のなかで、周辺民族との混血の結果、セファルディームアシュケナジームの違いが生じ、また言語もイデッシュ語などが生まれた。現在、ユダヤ人はイスラエルの他、世界中に分布しており、アメリカにも約600万人が住んでいるとされる。しかし現在ではユダヤ人を「人種」概念で捉えるのは困難で、現実には「猶太教を信仰する徒輩」と捉えるのが正しい。人類学的に同質のユダヤ人は存在しない。


「ザ・ロスチャイルド」大英帝国を乗っ取り世界を支配した一族の物語 - 林千勝
「ザ・ロスチャイルド」大英帝国を乗っ取り世界を支配した一族の物語 - 林千勝

MayerAmschelRothschild.jpg ロスチャイルド家(Rothschild、英語読みは「ロスチャイルド」、ドイツ語読みは「ロートシルト」、フランス語読みは「ロチルド」)は、フランクフルト出身のユダヤ人富豪で、神聖ローマ帝国(西暦800/962〜1806年)フランクフルト自由都市のヘッセン・カッセル方伯領(西暦1567〜1803年)の宮廷ユダヤ人であったマイアー・アムシェル・ロートシルト(Mayer Amschel Rothschild)が西暦1760年代に銀行業を確立したことで隆盛を極めた。それまでの宮廷関係者とは異なり、ロスチャイルドは富を遺すことに成功し、ロンドン、パリ、フランクフルト、ヴィーン、ナポリに事業を設立した5人の息子を通じて国際的な銀行家を確立した。


広瀬隆『赤い楯』全4巻セット (集英社文庫) - 広瀬 隆
広瀬隆『赤い楯』全4巻セット (集英社文庫) - 広瀬 隆

第1子(長女)シェーンヒェ・ジャネット(Schönche Jeannette)。ユダヤ人ベネディクト・モーゼス・ヴォルムス(Benedikt Moses Worms)との子がモーリス・ベネディクト・ド・ウォルムズ(Maurice Benedict de Worms)で、西暦1841年に兄バロン・ソロモン・ベネディクト・ド・ヴォルムス(Baron Solomon Benedict de Worms)と共にセイロン島で農園を購入した。もう1人の兄弟、ガブリエル・ベネディクト・ド・ヴォルムス(Gabriel Benedict de Worms)もこの農園に投資した。数年掛けて彼らは耕作地 2000エーカーと森林地 6000エーカー以上を取得した。この農園はロスチャイルド農園として知られる。彼らはまた、プセラワのソガマ農園とコンデガラ農園も所有していた。彼らはコーヒーと紅茶、特にセイロン茶を栽培していた。
 イギリス王国(グレートブリテン及びアイルランド連合王国(西暦1801〜1922年))ハノーヴァー朝(西暦1714〜1901年)の植民地銀行オリエンタル・バンク(英国東洋銀行)がスリランカ(セイロン)のプランテーションへ資本を集中投下し始めた。スリランカ(セイロン)には、ウォルムズ家だけではなく、スコットランドローランド(低地)の氏族バークレイ家のデイビッド・バークレイ(David Barclay of Youngsbury、David Barclay of Walthamstow、David Barclay of Walthamstow and Youngsbury)が英領セイロン総督の始まる前から、プランテーションを持っていた。資金の多くを奴隷貿易に頼ったバークレイズ(Barclays plc)のデイビッド・バークレイは、ジャマイカにも広大なプランテーションを持ち、ロイズ銀行グループ(Lloyds Banking Group plc)のロイズ家の娘と結婚した。法律でイングランド銀行ばかりが厚く保護された西暦19世紀前半に、バークレイズがどうしていたかは不明。スコットランドローランド(低地)の氏族、「バークレー家の移住は2回あった。」という説がある。最初の移住は、西暦12世紀前半に元のイングランド人の末っ子がスコットランドに移住したことによるもので、2回目の移住は西暦1220年頃に起きた。西暦13世紀初頭、スコットランドのバークレー家のこれらの別々の支族の間には遠い血縁関係しか存在せず、スコットランドの侍従長ウォルター・デ・バークレーなどの著名人を含む元の家系は、西暦1200年頃に男系が絶えていた。

 オリエンタル・バンク(英国東洋銀行)は、香港で最初の銀行であり、同時に、その香港で初めて紙幣を発行した銀行でもある。西暦1893年恐慌で倒産するまで、日本国債の発行を積極的に引き受けた。

ロスチャイルド家 ユダヤ国際財閥の興亡 (講談社現代新書) - 横山三四郎
ロスチャイルド家 ユダヤ国際財閥の興亡 (講談社現代新書) - 横山三四郎

第2子(長男)ロートシルト男爵アムシェル・マイアー(Amschel Mayer Freiherr von Rothschild)。ロートシルト家(英語読みでロスチャイルド家)の祖マイアー・アムシェル・ロートシルトの長男であり、フランクフルトにおけるロートシルト財閥を継承した。
 父マイアー・アムシェル・ロートシルトはヘッセン・カッセル方伯ヴィルヘルム9世(後のヘッセン選帝侯ヴィルヘルム1世)の御用商人だった。アムシェルは若い頃から仕事を手伝い、長弟ザーロモンと共にヘッセン・カッセル方伯ヴィルヘルム9世の居城ヴィルヘルムスヘーエ城に詰め、より多くの手形割引の仕事をロートシルト家に回してもらえるよう尽力した。その結果ロートシルト家は西暦1789年に大銀行と名前を並べる形でヘッセン・カッセル方伯家の正式な金融機関に指名された。西暦1800年にはザーロモンと共に正式に父の共同経営者となった。西暦1804年、兄弟でただ1人、神聖ローマ帝国の郵便制度(帝国郵便)を開拓し司った一族トゥルン・ウント・タクシス家が所有するレーゲンスブルク宮殿(ザンクト・エメラム修道院)に入り、帝国郵便の郵便事業の経営に参画した。
 西暦1806年にナポレオン1世率いるフランス軍がプロイセン王国(西暦1701〜1918年)侵攻のついでにヘッセン選帝侯国やフランクフルトにも侵攻し占領した。大陸諸国を従わせたナポレオン1世は、唯一抵抗を続けるイギリス王国を経済的に締めつけようと大陸封鎖令を出したが、ロンドンで事業を行う次弟ネイサン・メイアーはこれを利用して大陸にイギリス商品を密輸し、アムシェルらがこれを受け取って大陸各地で売り捌いて利益を上げた。またロートシルト家は亡命したヘッセン選帝侯ヴィルヘルム1世(西暦1701年〜)からその債権を秘密裏に管理することを委ねられていたので、父と共にヘッセン選帝侯ヴィルヘルム1世の債権回収に走り回った。西暦1812年09月に父が死去すると、アムシェルは、ロートシルト家の家長の座とフランクフルト・アム・マインの銀行を継いだ。彼の4人の弟はそれぞれヴィーン、ロンドン、ナポリ、パリで銀行を興した。
 ナポレオン1世失脚後のヴィーン体制でもしっかり足場を確保したアムシェルはドイツ諸侯の求めに応じて融資を行った。かつての主家ヘッセン選帝侯家も今やロートシルト家の融資を受ける立場となり、お金の流れは逆転した。西暦1822年にはオーストリアのハプスブルク家よりロートシルト5兄弟とその子孫全員に男爵位が授与された。
 アムシェルも他の兄弟と同様にライバル銀行を圧倒してロートシルト銀行帝国の版図を広げることに貢献したものの、弟たちの大成功に比べると地味な成功に留まり、経済面でのアムシェルの影は薄くなっていった。しかし彼にはロートシルト家の家長として、各国の君主に慶弔を述べたり、スポークスマンを務めるなどの役割があり、それを通じて弟たちの成功を盛りたてた。
とりわけ西暦1840年代以降には政財界大物を招いた宴会を頻繁に開くようになった。宴会には反ユダヤ主義的な政治家も積極的に招き、ドイツ各国がユダヤ人への差別的取り扱いを撤廃するよう尽力した。
 慧眼のある人物であり、晩年の西暦1851年にフランクフルトで開かれたドイツ連邦議会にオットー・エドゥアルト・レオポルト・フォン・ビスマルク・シェーンハウゼン(Otto Eduard Leopold von Bismarck-Schönhausen、西暦1865年からビスマルク・シェーンハウゼン伯爵〈独語: Graf von Bismarck-Schönhausen〉、西暦1871年からビスマルク侯爵〈独語: Fürst von Bismarck〉、西暦1890年からラウエンブルク公爵〈独語: Herzog zu Lauenburg〉〉が新任のプロイセン公使として派遣されてくるとすぐに彼の才能に目を付けた。
 ロートシルト家5兄弟の中で子供を作れなかったのは彼のみであり、彼はそのことをずっと思い悩んでいた。祈禱と善行に励み、巨額の寄付を行った。アムシェルには子がいなかったため、アムシェルの財産は四分割され、パリ家の末弟ジェームズ、ヴィーンの長弟ザーロモンの子アンゼルム、ロンドン家の次弟ネイサン・メイアーの4人の子、ナポリ家の三弟カールの3人の子がそれぞれ相続した。事業はカールの子マイアー・カールとヴィルヘルム・カールが引き継いだ。ロートシルト家5兄弟の中では最もユダヤ教への信仰心が篤く、弟たちがしばしば猶太教の戒律を蔑ろにすることに立腹していた。そのたびに弟たちを叱り付けては信仰心に揺るぎないことを誓わせた。乞食がお金を乞う手紙を屋敷の中に放り込む度に金貨を一杯に入れた袋を投げ返していた。反ユダヤ主義の暴徒に邸宅を取り囲まれることも多かったが、その時にはバルコニーに姿を見せて「私の親しい友人諸君。君たちはお金持ちのユダヤ人からお金を貰いたいのだろう。」と言って、暴徒たちにお金をばら撒いた。暴徒たちはお金を手に入れると機嫌良く帰っていった。

世界覇権の大きな真実 ロスチャイルド230年の歴史から読み解く近現代史 - 副島 隆彦
世界覇権の大きな真実 ロスチャイルド230年の歴史から読み解く近現代史 - 副島 隆彦

第3子(次男)ロートシルト男爵ザーロモン・マイアー(Salomon Meyer Freiherr von Rothschild )。ロートシルト家(英語読みでロスチャイルド家)の祖であるマイアー・アムシェル・ロートシルトの次男であり、ヴィーンのロスチャイルド財閥の創始者。
 西暦1789年頃から父の仕事を手伝うようになり、ロートシルト家がヘッセン・カッセル方伯家の正規の金融機関に指名されると、毎日のようにカッセルに詰めるようになった。西暦1800年に父はザーロモンと長兄アムシェルと共に働いた。西暦1806年10月にナポレオン1世率いるフランス軍がプロイセン侵攻のついでにヘッセンにも侵攻し、11月にはヘッセン選帝侯ヴィルヘルム1世が国外亡命を余儀なくされた。ロートシルト家は選帝侯不在時の選帝侯の債権の管理を任され、ザーロモンもフランス当局の目を盗んでは馬車で各地を回って選帝侯の債権回収に努めた。またナポレオン1世が発令した大陸封鎖令を利用し、ロンドンにいる長弟ネイサン・メイアーがイギリス商品を安値で買い付け、それをザーロモンとアムシェルが物資不足にあえぐ大陸各地で売り捌き、巨額の利益を上げることにも成功した。
 西暦1810年09月には父、兄アムシェル、次弟カルマン、三弟ヤーコプと共に「マイアー・アムシェル・ロートシルト父子会社(M. A. Rothschild & Söhne)」を創設した。父は西暦1812年に死去したが、その頃には既に兄弟は全員が億万長者になっていた。ナポレオン1世の敗退後の復古体制ヴィーン体制では銀行界も旧勢力が復古したので、新参のロートシルトは弾き出されたが、西暦1818年のアーヘン会議で立場を挽回した。この会議でもはじめロートシルト家は弾き出されそうだったが、ザーロモンとカルマンがフランス公債を大量に買って一気に売り払う金融操作を行ったことが功を奏し、復古勢力も今やロートシルト家が無視することのできない大財閥であることを認めた。会議後にはヴィーン体制の中心人物であるオーストリア帝国(西暦1804〜1867年)宰相クレーメンス・ヴェンツェル・ロータル・ネーポムク・フォン・メッテルニヒ・ヴィネブルク・ツー・バイルシュタイン(Klemens Wenzel Lothar Nepomuk von Metternich-Winneburg zu Beilstein)が90万グルデンの融資を求めてきたので、これに応じた。
 全ヨーロッパにまたがるロートシルト銀行帝国の一翼となるべく、西暦1819年にオーストリア政府の許可を得て、ヴィーンへ移住した。オーストリア帝国は未だ封建主義的でユダヤ人差別も激しい国だった。そのためロートシルト家としては、ここを担当するのは、兄弟のうち最も封建領主のご機嫌取りが上手いザーロモンが最適と判断した。当時のオーストリア帝国ではユダヤ人の不動産所有が法律で禁じられていたため、ザーロモンは邸宅を持たず、ヴィーン市内の「ローマ皇帝ホテル」に仮寓した。かし銀行業(S・M・フォン・ロートシルト銀行)は順調に推移し、オーストリア公債の公募と債券の発行で巨額の利益を上げた。宰相メッテルニヒをはじめとするオーストリア政府中枢部とも緊密な関係となった。メッテルニヒからの依頼を受けて、パルマ女公マリー・ルイーゼ・フォン・エスターライヒ(独語: Marie-Louise von Österreich、またはマリア・ルドヴィカ・フォン・エスターライヒ(Maria Ludovica von Österreich)、仏語: マリー・ルイーズ・ドートリッシュ(Marie-Louise d'Autriche)、伊語: マリア(マリーア)・ルイーザ・ダウストリア(Maria Luisa d'Austria)またはマリア(マリーア)・ルイージャ・ダウストリア (Maria Luigia d'Austria)、元ナポレオン1世皇后)とナイペルク伯アダム・アルベルト(独語: Graf Adam Albert von Neipperg)との私生児モンテヌヴォ伯ウィルヘルム・アルブレヒト(独語: Wilhelm Albrecht Fürst von Montenuovo)のための財産を巧みな金融操作によって作り出すことにも貢献した。西暦1822年にはハプスブルク家から彼を含むロートシルト5兄弟全員に男爵位が送られた。
 西暦1835年、フェルディナントが皇帝に即位すると鉄道建設プロジェクトの請願を出した。この鉄道の名前をカイザー・フェルディナント北部鉄道 (現オーストリア北部鉄道)と名付けることにより、皇帝の自尊心を擽り建設に漕ぎ着け、オーストリアの鉄道王としても知られるようになった。また彼はオーストリア・ロイド汽船会社の発起人となったり、西暦1843年にはスレスコ地方(現チェコ共和国モラヴィア・スレスコ州)ヴィトコヴィッツにあるヴィトコヴィッツ製鉄所(を独占所有した。このようにして、<元々は銀行家であった彼は産業資本家としての一面も持つに至った。慈善事業も積極的に行い、病院の建設や給水設備の設置に莫大な寄付を行った。様々な法的制限を課せられているユダヤ人の地位改善にも努めた。西暦1843年には最後まで残されていたユダヤ人に対する権利制限である不動産購入禁止も解禁された。これを機にザーロモンもモラビアやシレジアなどに大荘園を購入したため、彼は瞬く間にオーストリア有数の大地主となった。
 オーストリア帝国が革命に揺れる西暦1848年03月13日、革命派暴徒の憎しみを集めていたメッテルニヒはザーロモンから貰った金貨と信用状をもって国外亡命を余儀なくされた。ついで暴徒はザーロモンが購入していた「ローマ皇帝ホテル」にも押し寄せてきて、打ち壊しと掠奪を行った。身に危険を感じたザーロモンも国外亡命を余儀なくされた。この革命によってロートシルト家は破産寸前まで追い込まれたが、5兄弟の団結と西暦1849年頃から保守派の反転攻勢が始まり、革命勢力が衰退し始めたことでロートシルト家は滅亡を免れた。ザーロモンがオーストリア帝国へ帰国することはなかったものの、彼の息子アンゼルムがオーストリア帝国におけるロートシルト財閥を立て直した。
 ユダヤ教への信仰心は、5兄弟の中でも長兄アムシェルについで強かった。これに対して下の3人はしばしばユダヤ教の戒律に反する行動を行い、アムシェルから大目玉を喰らっていた。立志伝の人であるザーロモンは「宮廷に出入りするおべっか使い」然とした奴隷根性的雰囲気が消えなかった。西暦1800年にカロリーネ・ステルンと結婚し1男1女を儲けた。
 第1子(長男)ロートシルト男爵アンゼルム・ザロモン(独語: Anselm Salomon Freiherr von Rothschild)ヴィーン・ロートシルト家(英語読みでロスチャイルド家)第2代当主。
 西暦1855年に父が死去しヴィーン・ロートシルト家の当主となり、同年クレディトアンシュタルト銀行(後のオーストリア銀行)を創設。同行をオーストリア経済を支配する存在に育て上げた。遺言により四男アルベルトに銀行を任せた。
 彼の父ザロモンには「おべっか使いのユダヤ人」然とした奴隷根性的な雰囲気があったというが、生まれながらに富裕であったアンゼルムにはそういった雰囲気はなかった。オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世を出迎えた際の態度も洗練されており、「名門貴族が名門貴族に接する態度そのもの」と絶賛された。彼の話すドイツ語も宮廷やオーストリア貴族の間で使われるような上品なものになった。
反ユダヤ主義に対する意趣返しを行った。ヴィーン近くのカジノクラブが反ユダヤ主義思想からアンゼルムを不当に締め出した際、アンゼルムはそのクラブの近くの村のために近代的汚染理処施設を建設し、その臭いがカジノクラブに届くように配置した。これに閉口したカジノクラブは急遽会員カードをアンゼルムに送って和解しようとした。アンゼルムはそのカードに最高級香水の臭いを滲み込ませて送り返した。
 ロンドン・ロスチャイルド家の祖ネイサン・メイアー・ロスチャイルドの長女シャーロットと従兄・従妹婚4男4女を儲けた。
  第1子(長男)マイアー・アンゼルム・レオン。夭折。
  第2子(長女)カロリーネ・ジュリー。ナポリ家のアドルフ・カールと従叔父・従姪婚
  第3子(次女)ロートシルト男爵夫人ハンナ・マティルデ(Wilhelmine Hannah Mathilde Freifrau von Rothschild)。フランクフルト家のロートシルト男爵ヴィルヘルム・カール(Wilhelm Carl Freiherr von Rothschild)と従伯父・従姪婚
  第4子(三女)サラ・ルイーゼ。イタリア貴族ライモンド・フランケッティ(伊語: Raimondo Franchetti)男爵と結婚。
  第5子(次男)ロートシルト男爵ナサニエル・マイヤー(Nathaniel Meyer Freiherr von Rothschild)。
  第6子(三男)ロスチャイルド男爵ファーディナンド・ジェームズ(英語: Baron Ferdinand James de Rothschild、独語: ロートシルト男爵フェルディナント・イェームス(Ferdinand James Freiherr von Rothschild)愛称: ファーディ)。イギリスに移住しイギリス臣民となった。ロンドン・ロスチャイルド家のイヴェリナ・ガートルード(Evelina Gertrude de Rothschild)と従姉・従弟婚彼女はその翌年に死去した。
 バッキンガムシャーのロッジヒル(Lodge Hill)とその周辺の景色を気にいったファーディナンド・ジェームズ(ファーディ)は、このあたり一帯の1080haの土地を第7代マールバラ公ジョン・ウィンストン・スペンサー・チャーチル(英語: John Winston Spencer-Churchill, 7th Duke of Marlborough, KG, PC)から買い取り、金に糸目を付けず、ここを更なる眺望絶佳の土地にするための大改築作業を行った。鉄道を敷設して様々な資材を運べるようにしたのを手始めに、排水や灌漑の整備、植樹、彫刻の設置、邪魔になる丘の削り取り、荒地の公園化などを行っていき、イングランド最大の絶景を人工的に創造した。最後にワデスドンにルネッサンス様式の華麗な豪邸を建設して一連の事業を完成させた。この邸宅はワデスドン・マナーと名付けられた。
 叔父のアンソニーから准男爵位を継承したロスチャイルド准男爵ナサニエル(ライオネルの長男)の西暦1885年に庶民院議員叙爵(貴族院入り)に伴うアリスバーリー選挙区の補欠選挙にロスチャイルド家の地盤を引き継ぐ形で、自由党候補として出馬し、当選を果たした。死去するまで庶民院議員を務めた。

 せっかちな性格で、思い立つと慌ただしい日程でも強引に宴会を開催した。そのため招待された婦人客たちの中には宴会のために新調するドレスが間に合わない者が多かった。ファーディナンド・ジェームズ(ファーディ)はその度にお詫びとして彼女らに次の宴会のための新調ドレス代を奢った。
 慈善事業も惜しみなく行った。毎年クリスマスにはロンドン中の乗合馬車従業員に雉を一対送った。馬車の御者たちはこれに感謝し、ロスチャイルド家の競馬の色である青と黄色のリボンを鞭に付けた。ロスチャイルド家の中でも屈指の蒐集家であり、ルネッサンス様式の様々な芸術品やフランス語の書籍などを集めた。熱心に園芸に取り組んだことでも知られる。中でも洋蘭への関心が強く、ワデスドン・マナーに建設した温室のうちいくつかは様々な洋蘭で満たされていた。また洋蘭の一種「パフィオペディルム・ロスチャイルディアナム」と献名された。
  第7子(四男)ロートシルト男爵アルベルト・ザロモン・アンゼルム(独語: Albert Salomon Anselm Freiherr von Rothschild)ヴィーン・ロートシルト家第3代当主。
 西暦1874年に父が死去し、父の命令でヴィーン・ロートシルト家の銀行業を継承した。ロンドン・ロスチャイルド家やパリ・ロチルド家のような兄弟体制は執らず、ヴィーン・ロートシルト家の全ての事業を彼1人で受け継いだ。
 ハプスブルク家の宮殿には高位貴族となってから4代を経なければ参内できない習わしがあり、貴族となって未だ3代目のアルベルトは参内できる立場にない筈だったが、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世(独語: Franz Joseph I、バイエルン・オーストリア語: フランツ・ヨーセフ、フランツ・ヨーゼフ・カール・フォン・ハプスブルク・ロートリンゲン(独語: Franz Joseph Karl von Habsburg-Lothringen))の計らいにより、西暦1887年にロートシルト家は特例で参内できることとなった。これ以降ロートシルト家は皇帝フランツ・ヨーゼフ1世や皇后エリーザベト・フォン・エスターライヒ(独語: Elisabeth von Österreich、エリーザベト・アマーリエ・オイゲーニエ・フォン・ヴィッテルスバッハ、ヘルツォーギン・イン・バイエルン(独: Elisabeth Amalie Eugenie von Wittelsbach, Herzogin in Bayern、愛称: シシィ(Sissi, Sissy, Sisi)と家族ぐるみの付き合いをするようになり、とりわけアルベルトの姉カロリーネ・ジュリーとエリーザベト皇后は親友となった。銀行業は三男のルイスに委ねた。
熱心な登山家であり、マッターホルン登頂も行った。 
 パリ・ロチルド家の第2代当主アルフォンス・ド・ロチルドの娘ベッティーナ・カロリーネと従甥・従叔母婚し、5男2女を儲けた。
   第1子(長男)ゲオルク・アンゼルム・フォン・ロートシルト
   第2子(次男)アルフォンス・マイアー・フォン・ロートシルト
   第3子(長女)シャルロッテ・エステル・フォン・ロートシルト
   第4子(三男)ルイス・ナタニエル・フォン・ロートシルト(Louis Nathaniel von Rothschild)銀行業を継承。
   第5子(四男)オイゲン・ダニエル・フォン・ロートシルト
   第6子(次女)ヴァレンタイン・ノエミ・フォン・ロートシルト、フォン・シュプリンガー男爵ジギスムントと結婚した。
   第7子(五男)オスカー・ルーベン・フォン・ロートシルト。
   第8子(四女)アリーセ・シャルロッテ(Alice Charlotte von Rothschild)。、英国へ移住した。
 第2子(長女)ベッティ。ザーロモン・マイアー・フォン・ロートシルトの長女で
パリ・ロートシルト家の祖ジェームズ・ド・ロチルドと叔父・姪の近親婚


金融のしくみは全部ロスチャイルドが作った (5次元文庫) - 芳裕, 安部
金融のしくみは全部ロスチャイルドが作った (5次元文庫) - 芳裕, 安部

第4子(三男)ナータン・マイアー (Nathan Mayer Rothschild)、英語読みではネイサン・メイアー・ロスチャイルド)。ロートシルト家(英語読みでロスチャイルド家)の祖であるマイアー・アムシェル・ロートシルトの三男であり、ロンドン・ロートシルト家の祖。
 西暦1798年、21歳の時繊維業の中心地であるイギリス王国マンチェスターへ移住した。フランス革命以来、ドイツでは流通が混乱して綿製品が高騰していたので、産業革命により綿製品の大量生産が行なわれているマンチェスターで安く仕入れ、ドイツへ送って莫大な利益を上げることができた。さらに中間費用を節約するため、買い入れだけではなく、綿糸や染色業にも手を伸ばしていき、綿糸業全体を扱うようになった。やがてこの事業で得た利益を使って金融業も手掛けるようになった。西暦1804年にはロンドンへ移住し、西暦1811年にはN・M・ロスチャイルド&サンズを起こし為替手形貿易の銀行家に転じた。
 大陸を席巻したナポレオン1世は西暦1806年に大陸封鎖令を出して敵国イギリス王国との貿易を禁じた。これによりコーヒー、砂糖、煙草、綿製品など大陸諸国がイギリス王国やその植民地からの輸入に頼っている商品の価格が高騰した。一方イギリスでもそれらの商品の価格が市場の喪失で暴落した。ネイサン・メイアーはこれを利用し、イギリス王国で安く買って大陸へ密輸し、父や兄弟たちが大陸内で確立しているロスチャイルド家の通商ルートや情報網を使って各地で売り捌いた。これによってロスチャイルド家は莫大な利益を上げられた上、物資不足に喘いでいた現地民からも大変に感謝された。現金や金の密輸も手掛け、イギリス政府が反フランス同盟国に送った軍資金の輸送も請け負った。パリの末弟ジェームスと協力して、イギリス王国からフランスを経由してピレネー山脈の向こうのイベリア半島で戦うイギリス軍司令官初代ウェリントン公アーサー・ウェルズリー(Arthur Wellesley, 1st Duke of Wellington, KG, GCB, GCH, PC, FRS)の許に金塊を届けた。5兄弟の中で最も先導的であった彼は、他の兄弟からナポレオン1世に擬え「総司令官」と呼ばれていた(他の兄弟たちは「師団長」)。
 西暦1815年のワーテルローの戦いは、「ナポレオン1世が勝てばイギリス王国のコンソル公債は暴落し、イギリス王国が勝てば逆に高騰するだろう。」と言われていた。ネイサンはロスチャイルド家の素早い情報伝達体制を駆使して、いち早くイギリス軍勝利の情報を掴んだ。ロスチャイルド家の優れた情報収集体制は金融界に知れ渡っていた為、皆ネイサンの動向を注視していた。そこでネイサン・メイアーはまず公債を売った。それを見た他の投資家たちはイギリスの敗戦を確信し、一斉に売りに入った。公債が暴落したところでネイサン・メイアーは急遽莫大な量の買いに入った。イギリスの勝利の報告が入ると公債は急騰し、ネイサン・メイアーは莫大な利益を上げることに成功した。これは「ネイサンの逆売り」として伝説化した(ただしこの伝説は後世の創作とする説もある)。
 西暦1817年にはロスチャイルド5兄弟全員にオーストリア帝国のハプスブルク家より「フォン(von)」の称号を送られ、さらに西暦1822年には5兄弟に男爵位と紋章が授与された。だがネイサン・メイアーは称号や紋章のような名誉には関心がなく、男爵の称号も全く使用しなかった。勲章も贈られていたが、身に付けなかった。自由主義国イギリス王国ではハプスブルク帝国のような専制王朝国家から授与された爵位などほとんど価値を認められていないことをネイサン・メイアーが感じとっていたためとも言われる。名前にドイツ語の貴族称号「フォン」を入れることも忌避し、繊細な印象があるフランス語の貴族称号「ド(de)」に変更している。
 西暦1810年以降、金融の力に魅せられたネイサン・メイアーの判断により、ロスチャイルド家は密貿易を初めとする物品の商いを停止し、金融ビジネスによって巨利を得ることを方針とした。
 西暦1824年、モンテフィオーレ家とアライアンス保険を立ち上げた。これは西暦1710年創業の太陽保険と西暦1959年に合併した。また、西暦1845年創業のロイヤル保険と西暦1996年に合併した。西暦2008年に現在の社名RSA保険グループに統合した。

 西暦1806年にオランダ王国(ホラント王国(西暦1806〜1810年)から来たユダヤ人レヴィ・ベアレント・コーエン(Levy Barent Cohen)の娘であるハナ・ベアレント・コーエン(Hannah Barent Cohen)と結婚し3男4女を儲けた。
 ハナの妹ジュディス(Judith Barent Cohen)は、西暦1812年、イタリアのセファルディームユダヤ人初代準男爵モーゼス・モンテフィオーレ(Moses Haim Montefiore, 1st Baronet, FRS)と結婚した。
モーゼス・モンテフィオーレの母親はロンドンの有力な地金ブローカーであるモカッタ家の娘で、モカッタ家は、イングランド銀行が求める金銀の仲買人として一大勢力を形成し、同時にイギリス王国の金融界においてネイサン・メイアーにとっての強敵であった耶蘇教徒のベアリング家に金塊を運んでいた。モーゼス・モンテフィオーレは、西暦1835〜1874年の間、イギリス王国最大かつ最古のユダヤ人共同体組織である「ボード・オブ・デピュティーズ(ユダヤ人代表委員会、西暦1760年設立)」の会長を繰り返し務め、在任期間は史上最長のプロト・シオニストで、エルサレム旧市街の外に最初の入植地であるミシュケノト・シャアナニムを設立した。
 ベアリング商会(ベアリングス銀行(Barings Bank))は、ロンドン・シティで最古の西暦1762年に、初代準男爵フランシス・ベアリング(Francis Baring, 1st Baronet)によって創業され「女王陛下の銀行」とまで呼ばれた名門投資銀行。ベアリングス銀行は大英帝国拡張の時流に乗って貿易商人たちの手形の引受で業績を伸ばし西暦1793年までにはロンドン最有力の引受業者に成長した。当時、ロスチャイルド家に先んじて、インド貿易やアメリカ合衆国(西暦1776年〜)への投資、さらにはフランス王国での商売で巨富を築き、ヨーロッパ1の商人として君臨していた。
 19世紀初めのフランシス・ベアリングの引退後、長男第2代準男爵トマス・ベアリング(Thomas Baring, 2nd Baronet)、次男初代アシュバートン男爵アレクサンダー・ベアリング(Alexander Baring, 1st Baron Ashburton.PC)、三男ヘンリー・ベアリング(Henry Baring)の3人が銀行を受け継いだのに伴い、西暦1807年に「ベアリング・ブラザーズ商会(Baring Brothers & Co.)」と社名を変更した。

 ハナの姻戚関係を利用してモカッタ家の閨閥に連なったことで、イギリス王国のほぼ全ての主要なユダヤ人一家と繋がった。モーゼス・モンテフィオーレはネイサン・メイアーの株式仲買人となり、以降、モンテフィオーレ家はロスチャイルド家の共同経営者となった。西暦1810年、ネイサン・メイアーはロンドン証券取引所の大商いでベアリング家と争って勝ち、以来数年間、ナポレオン1世に対抗するイギリス王国がヨーロッパ同盟諸国に提供した累計4200万ポンドの半分を調達する強大な力を得た。シティに君臨していたベアリング家総帥アシュバートン男爵アレクサンダー・ベアリングとフランクフルトのユダヤ人家系のゴールドシュミット兄弟が亡くなると、シティを動かし始めた。
 ネイサン・メイアーの嫁、ハナの伯父(父レヴィ・ベアレント・コーエンの兄)ザロモン・ダヴィド・ベアレント・コーエン(Salomon David Barent Cohen)は、革命家のカール・マルクス(Karl Marx)、フィリップス電機創業者のベンジャミン・フレデリック・デイヴィッド(Benjamin Frederik David Philips)の母方の曾祖父。ネーデルラントに住み着いたユダヤ商人ザロモン・ダヴィド・ベアレント・コーエンの娘が、ナネット・サロモンズ・コーエン(Nanette Salomons Pressburg、旧姓; Cohen)だった。ナネット・サロモンズと彼女の夫、アイザック・プレスブルク(Isaac Heymans Pressburg)との間には、アンリエッタ(Henriette Marx、旧姓; Pressburg)とソフィー・プレスブルク(Sophie Philips、旧姓; Pressburg)という娘がいた。姉のアンリエッタ(カール・マルクスの母)は、カール・マルクスの父ハインリッヒ・マルクス(Heinrich Marx、本名: Herschel Levi)と結婚した。妹のソフィー・プレスブルクはリオン・フィリップス(Lion Philips)と結婚し、息子のベンジャミン・フレデリック・デイヴィッドが生まれた。ベンジャミン・フレデリック・デイヴィッドの息子がジェラルド・フィリップス(Gerard Leonard Frederick Philips)で、このユダヤ人親子が巨大企業のフィリップス電機の共同創業者である。
 カール・マルクス、ベンジャミン・フレデリック・デイヴィッドの曾祖父はザロモン・ダヴィド・ベアレント・コーエン、彼はレヴィ・バレント・コーエンの兄。このレヴィの娘がハナ・バレント・コーエンで、彼女はネイサン・メイアー・ロスチャイルドに嫁いでいた。


 巨万の富を誇るロスチャイルド家も、金満プレスブルク家も、労働者が打倒すべき最大の敵だが、カール・マルクスの親戚であり、支援母体であり、金主である。無職の詐欺師カール・マルクスにしろブラブラしていられたのか?盲聾でなければ明らかだ。事実を無きが如く黙して何も語らない。
 猶太の共産主義者カール・マルクスと資本家ベンジャミン・フィリップスは、大富豪ロスチャイルド家やプレスブルク家の親族。シオニスト、モーゼス・モンテフィオーレとも繋がり、ロスチャイルド家も共産主義も資本主義もシオニズムも、愚民を愚弄し搾取し虐殺するDS(ディープステイト)猶太の大嘘で、この猶太の利権尾ペテンにより世界が破壊されている。


 第1子(長女)シャーロット。ヴィーン家のアンゼルム・フォン・ロートシルトと従兄・従妹婚
 第2子(長男)ロスチャイルド男爵ライオネル(英語: Baron Lionel de Rothschild)。ロンドン・ロスチャイルド家嫡流の第2代当主。
 西暦1836年に父ネイサン・メイアーが死去するとニューコートの銀行業を継承したが、まだ若年だったので、ロスチャイルド家全体の統括はパリ家の祖で叔父にあたるジェームズが中心となって行うようになった。西暦1847年のアイルランド大飢饉では800万ポンドの義援金を調達した。西暦1854年のクリミア戦争(西暦1853年〜1856年)ではユダヤ人迫害を推進するロシア帝国(西暦1721〜1917年)に対する反撥からイギリス王国、フランス第2帝政(西暦1852〜1870年)、オスマン朝(西暦1299〜1922年)テュルコ陣営を金銭面から支援した。英仏軍の軍事費を調達し、テュルコにも巨額の借款を与えた。
 政治家たちの中でもとりわけ同じユダヤ人(耶蘇教に改宗しているが)の初代ビーコンズフィールド伯ベンジャミン・ディズレーリ(英語: Benjamin Disraeli, 1st Earl of Beaconsfield, KG, PC, FRS)と親しくした。ベンジャミン・ディズレーリは毎週のように週末にはピカデリーにあるライオネル邸を訪れて夕食の御相伴に与かっていた。西暦1875年にエジプトのスエズ運河の株がフランス第3共和政に買い取られそうになった際には当時首相になっていたディズレーリの求めに応じて緊急に400万ポンドの借款を英国政府に与え、ベンジャミン・ディズレーリはその金でイスマーイール・パシャ(アラビア語: إسماعيل باشا、 Ismā‘īl Bāshā)の所持していたスエズ運河の株を買収した。これについてベンジャミン・ディズレーリはヴィクトリア女王への報告書の中で「英貨400万ポンド、それを彼らは瞬く間に用意したのです。そんなことをやってのける会社はロスチャイルド家以外にはありません。彼らは見事にやってのけたのです。」と絶賛した。これ以外にもしばしば英国政府に借款を与え、その総額は4億ポンドにも達した。

 父が西暦1835年に購入したガナーズベリー・パークに大改築を加え、女王の庭園以外に並ぶものがないといわれるほど美しい庭園を完成させた。巨大な日本庭園もあり、後にここを訪問した駐英日本大使は「すばらしい。日本にもこんな立派な庭園はありませんよ。」とおべんちゃらを漏らした。
 ヨーロッパの水銀鉱山を傘下に収めていくことに熱意を持っていた。晩年の西暦1870年代にセシル・ジョン・ローズ(Cecil John Rhodes)が南アフリカ共和国(トランスヴァール共和国)(西暦1852〜1902年)でダイアモンド王国建設を開始し始めると、ロスチャイルド家も積極的に南アフリカ共和国に進出して同地の銅や硝酸ソーダの企業に融資を開始した。
 西暦1847年に金融の中心地であるシティ・オブ・ロンドン選挙区からホイッグ党候補として出馬した。しかし彼は耶蘇教徒としての宣誓を行うことを拒んでいたため、当選しても議員にはなれない。」と言われていた。それについてライオネルは「世界中で最も富み、最も重要で、最も知性ある選挙区の代表者が議会入りすることを、言葉上の形式を理由に拒否することなどできないと確信しています。」と演説して反論した。
 ライオネルはこの選挙に当選を果たし、これを受けて庶民院は「ユダヤ教式の宣誓を認めてユダヤ人議員を認めるべき。」とする決議を通したが、貴族院によって否決されてしまった。普段はろくに登院もしない貴族たちが「無礼なユダヤ人」に分際を弁えさせようと続々とロンドンにやって来て反対票を投じた。だがライオネルは諦めず、その後も選挙のたびにシティ・オブ・ロンドン選挙区から出馬して当選を続けた。そしてその度に「ユダヤ教宣誓を認めるべき。」とする動議を提出されるも貴族院に否決され続けた。西暦1858年に至って宣誓の方式は庶民院・貴族院でそれぞれ独自に定めるという法案が可決されたことで、庶民院においてはユダヤ教の宣誓が認められるようになった。ここにライオネルは誰にも憚ることなくユダヤ教の宣誓に基づき、庶民院の議席に座ることができるようになった。
 これを喜んだロンドン・ユダヤ人協会から「市民的自由と宗教的自由のための戦いに勝利した。」とする祝電を送られた]。ライオネルは、西暦1848年にダッシュウッド準男爵家、西暦1849年に第2代バッキンガム・シャンドス公リチャード・プランタジネット・テンプル・ニュージェント・ブリッジス・シャンドス・グレンヴィル(英語: Richard Plantagenet Temple-Nugent-Brydges-Chandos-Grenville, 2nd Duke of Buckingham and Chandos, KG GCH PC FSA)から広大な領地を買い取っており、大地主でもあったが、金融の中心地シティ・オブ・ロンドン選挙区から庶民院議員になっていたため、「地主」より「銀行家」が強くなりがちだった。
 11年の苦難の末に手に入れた議席であったが、ライオネルが庶民院に登院することはほとんどなかった。議場で演説を行うことも一度もなかった。彼は自分が議員活動をしたかったのではなく、自らが先例となることで同胞たちに議会の扉を開きたかったのである。
 続いて貴族院への門を開かせることを目指し、西暦1869年に首相ウィリアム・ユワート・グラッドストン(英語: William Ewart Gladstone PC FRS FSS)に叙爵の推挙をしてもらったが、この時にはヴィクトリア女王の反発を買って退けられた。ユダヤ人であること、また「貴族の条件である地主の面より、企業家・投機家の面の方が強い。」と看做されたためだった。結局ライオネルの代に貴族になる事は叶わず、彼の息子であるナサニエルの代の西暦1885年になってロスチャイルド男爵の爵位を与えられた。
 西暦1870年に次弟ナサニエル、西暦1874年には三弟メイヤー、西暦1876年には長弟アンソニーが死に、ライオネルも弟たちの後を追うように西暦1879年に漸くくたばった。

 西暦1836年にナポリ家の祖であるカール・マイアー・フォン・ロートシルトの娘シャーロット(Charlotte von Rothschild)と従兄・従妹婚。彼女との間に以下の3男2女を儲けた。
  第1子(長女)レオノラ。パリ家のロチルド男爵アルフォンスと従叔父・従姪婚。
  第2子(次女)イヴェリナ・ガートルード(Evelina Gertrude de Rothschild)。ヴィーン家ザーロモンの三男で英国に帰化したロスチャイルド男爵ファーディナンド・ジェームズ(ファーディ)と従姉・従弟婚したが、その翌年に死去。
  第3子(長男)初代ロスチャイルド男爵ナサニエル・メイヤー・ロスチャイルド(英語: Nathaniel Mayer Rothschild, 1st Baron Rothschild, GCVO, PC)。ロスチャイルド家嫡流3代当主。
 父ライオネルの弟たちはナサニエル・ド・ロスチャイルド(彼はパリに移住してフランス・ロチルド家の一員になった)以外に子がなかったため、ライオネルの息子3人がロンドン・ロスチャイルド家の全財産を受け継ぐ立場だった。ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに進学し、在学中にプリンス・オブ・ウェールズ(王太子)バーティ(後の国王エドワード7世(英語: Edward VII、アルバート・エドワード(英語: Albert Edward))と親友となった。
 西暦1865年07月11日にロスチャイルド家が大地主として影響力を持つバッキンガムシャー・アリスバーリー選挙区(英語版)から自由党候補として出馬して庶民院議員に初当選し、貴族院へ移籍する西暦1885年まで当選を続けた。西暦1876年に死去した叔父アンソニーから准男爵位を継承し、西暦1879年に死去した父ライオネルからオーストリア・ハンガリー帝国(西暦1867〜1918年)の男爵位を継承した。また父の死により、弟2人と共にN・M・ロスチャイルド&サンズの共同経営者に就任した。
 西暦1882年にイギリス軍がオラービー革命を鎮圧してエジプトを占領した際にはエジプトの財政再建のために850万ポンドの借款を提供した。その恩賞で西暦1885年にヴィクトリア女王(Victoria)よりロスチャイルド男爵位を授与された。
彼は猶太教徒ユダヤ人で最初の貴族院議員であり、宣誓の際にはユダヤ教の三角帽を被り、猶太教式の宣誓を行った。
 これより前の西暦1869年にウィリアム・ユワート・グラッドストン首相がナサニエル・メイヤーの父ライオネルを男爵位に推挙したが、この時にはヴィクトリア女王は「ユダヤ人貴族は認められない。」、「貴族は伝統的に地主であり、企業家・投機家であってはならない。」として却下した。しかし西暦1882年のナサニエル・メイヤーへの男爵位授与に際してヴィクトリア女王は一切反対しなかった。変節の理由は定かではないが、考えられる理由として、父ライオネルが金融の中心地シティ・オブ・ロンドンから庶民院議員に当選していたので、銀行家像がより強いのに対し、ナサニエル・メイヤーは広大な土地と邸宅を所有してアリスバーリーから庶民院議員に当選したため、地主像が強かったことである。ナサニエル・メイヤー当人の思想が保守的であることもヴィクトリア女王から好感を持たれた。また西暦1875年には女王の寵愛する首相ベンジャミン・ディズレーリがロスチャイルド家から金を借りてスエズ運河を買収したが、この時ベンジャミン・ディズレーリが上奏文の中で「これができるのはロスチャイルド家だけ。」と報告したことも好感の要因だった。またナサニエル・メイヤー以下ロスチャイルド3兄弟は王太子バーティとケンブリッジ大学で学友だったのでロスチャイルド3兄弟が息子の治世を支えてくれることを期待してのこととも考えられる。
 祖父の代からの伝統で形式的に自由党に所属していたものの、彼自身は保守派であり、革新的な政策には全て反対した。改革政党に潜入し、内部から改革案を潰しまわる保守派のお手本のような人物だった。さらに西暦1886年からは自由党を離れ自由統一党に所属し、保守党と自由統一党の連携の橋渡し役を務めた。しかし彼の改革に反対する演説はいつも博識さに充ちあふれ、理路整然としていたため、親友の保守党党首ベンジャミン・ディズレーリからも感心された。ベンジャミン・ディズレーリは「歴史的事実について知りたいと思う時は、いつもナサニエルに尋ねた。」と語った。自由主義的な祖父や父と異なり、政治思想的には保守的な人物だった。逆に政敵からは恐れられ、西暦1909年には自由党政権の大蔵大臣初代ドワイフォーのロイド・ジョージ伯爵デビッド・ロイド・ジョージ(英語: David Lloyd George, 1st Earl Lloyd George of Dwyfor, OM, PC)から「我々の改革への一切の道は『ナサニエル・ロスチャイルドの命により通行禁止』という注意標識1つで封鎖されるのか。」と名指しで批判された。
 西暦1867年にケープ植民地(西暦1795〜1910年)(現南アフリカ共和国)でダイヤモンドが発見されるといち早くアングロ・アフリカン・ダイヤモンド鉱山会社に投資し、西暦1887年には同社をセシル・ローズの鉱山会社デ・ビアスに合流させ、セシル・ローズの嘆願に応じてデ・ビアスに100万ポンドの投資を行った。以降ロスチャイルド家はダイヤモンド産業にも深く関わるようになった。セシル・ローズは「エジプトからケープ植民地までアフリカ大陸を縦断するイギリス植民地帝国を建設する。」という壮大な野望を持つ夢想的帝国主義者であったため、西暦1890年にケープ植民地首相になるや、「デ・ビアスの資産を帝国主義的拡張のために使用したい。」という要望を出資者のナサニエル・メイヤーにしてくるようになったが、現実主義者のナサニエル・メイヤーの反応は冷ややかで「我々はデ・ビアスをダイヤモンド会社に過ぎないと考えている。」と断っていた。

 慈善事業にも取り組み、ロンドンの4つの病院の支援者となり、英国赤十字社の会長も務めた。ユダヤ人同胞に対する慈善事業にはとりわけ力を入れ、ユダヤ人自由学校の運営に巨額の資金を掛けた。迫害を受ける同胞の保護にもあたり、ユダヤ人迫害を推進するロシア帝国に対しては強い憤りを感じていた。ロシア政府が融資を求めにきた際にも門前払いにした。西暦1904年の日露戦争(西暦1904〜1905年)では、ニューヨークのユダヤ人銀行家ジェイコブ・ヘンリー・シフ(英語: Jacob Henry Schiff、ヤコブ・ヘンリー・シフ、独語名: ヤーコプ・ヒルシュ・シフ (Jacob Hirsch Schiff))から「日本の勝利がユダヤ人同胞を迫害するツァーリ体制打倒のきっかけとなる。」との誘いを受けて日本を財政的に支援した。とはいえ日本に関心があったわけではなく、親日家の次男チャールズがN・M・ロスチャイルド&サンズの支店を日本に作ることを提案してきた際にはにべもなく却下している。
 ヤーコプ家は、代々ラビの家系で、西暦1370年からフランクフルトのゲットーで、初代マイアー・アムシェル・ロスチャイルド時代に「グリューネシルト(緑の盾)の家(Haus zum Grünen Schild)」と呼ばれる建物にロスチャイルド家と共に住んでいた。
 祖父の代からの付き合いで南米諸国と親しくしていた。ブラジル連邦共和国(西暦1822年〜)政府の国債や西暦19世紀後半に独立したチリの国債をしばしば引き受けている。チリ共和国(西暦1818年〜)の国債は人気があったので、チリ政府は相手銀行を選べる立場にあったが、ロスチャイルド家とは条件に関係なく優先的に付き合っている。
 ナサニエル・メイヤーの長男ライオネル・ウォルターはテオドール・ヘルツル(ヘブライ語: בנימין זאב הרצל‎(Binyamin Ze'ev Herzl、ビニャミン・ゼエヴ・ヘルツェル)、ハンガリー語: Herzl Tivadar、独語: Theodor Herzl)のシオニズム思想に影響を受けていたが、ナサニエル・メイヤー自身はヘルツルとの会談には応じたものの、シオニズム思想には何らの共感も示さなかった。がっかりしたテオドール・ヘルツルは日記上で「この馬鹿者集団と交渉するのはどんな野郎だろう。」と自嘲した。のみならずナサニエル・メイヤーは、「シオニズム思想が猶太教徒イギリス国民の国民としての立場を危うくする。」と危惧し、イギリス王国のユダヤ人たちに号令を掛け反シオニズム組織を結成させた。西暦1889〜1915年までバッキンガムシャー総督を務めた。
 西暦1915年03月31日に死去したが、ちょうど第1次世界大戦中の税制改正が行われた時期であり、莫大な相続税が掛かった。当時のロスチャイルド家の銀行は個人所有の形態になっていたためである。ナサニエル・メイヤー自身も大戦中に死ぬことを恐れ、「私は生き続けなければならん。もし死んだら私の仕事のうちで最大の失敗をしたことになるだろう。」と漏らしていた。さらにこの直後に弟のレオポルド(西暦1917年死去)やアルフレッド(西暦1918年死去)も相次いで死去したため、さらに莫大な相続税が掛かり、ロスチャイルド家は衰退を余儀なくされた 。また遺留分のある妻子がいなかった弟アルフレッドはロスチャイルド家の家訓に反して遺産の大半をロスチャイルド家の男子ではなく、「第5代カーナーヴォン伯ジョージ・エドワード・スタンホープ・モリニュー・ハーバート (英語: George Edward Stanhope Molyneux Herbert, 5th Earl of Carnarvon)の夫人アルミナ・ヴィクトリア・マリア・アレクサンドラ(Almina Victoria Maria Alexandra)(アルフレッドの隠し子とも言われる)に譲る。」という遺書を残したため、それによって大量の資産がロスチャイルド家からカーナーヴォン伯爵家に流出した。
第5代カーナーヴォン伯ジョージ・エドワード・スタンホープ・モリニュー・ハーバートはこの資金で、当時若手の考古学者ハワード・カーター(Howard Carter)と共に新王国時代最初の古代エジプト第18王朝(西暦前1570頃〜前1293年頃)のファラオトゥタンカーメン(翻字: twt-ꜥnḫ-ı͗mn、英語: Tutankhamun)の墳墓を暴いた。
 ナサニエル・メイヤーの物腰は貴族的であり、しばしば傲岸不遜で嫌味だった(特に天真爛漫な弟レオポルドと比較すると)。世紀が変わったぐらいの頃、慈善活動家ハーマン・ランダウがホームレス収容所建設のために必要な費用2万5000ポンドをナサニエル・メイヤーに援助してもらおうとニューコート事務所を訪問したことがあったが、ナサニエル・メイヤーはその説明を最後まで聞くことなく、3万ポンドをポンと出した。しかし欲のないハーマン・ランダウは「私の説明を理解しておられません。私は2万5000ポンドだけいるのです。」と答え、5000ポンド減額することを求めた。これを聞いたナサニエル・メイヤーは同席していた弟レオポルド・ライオネルに「レオ、聞いたか。彼は我々に同情してくれるらしいぞ。」と述べた(ナサニエル・メイヤーは同情するのには慣れていたが、同情されるのには慣れていなかった)。祖父と同様に乞食によく金貨を与えていたが、お礼を言われるのが苦手で、金貨を上げるとそそくさとその場を逃げ去ることが多かった。
 しかし格下の階級に対する意地悪はまだ手心を加えている方であり、同階級の人間に対しては彼はもっと意地悪だった。ナサニエル・メイヤーの不興を被ったある侯爵夫人は、彼女の友達が全員ロスチャイルド家の宴会に招かれる中、1人だけ招かれなかったり、あるいは招待された時も彼女の席はグラッドストンとナサニエルの間という表向き主賓扱いされているようで結局誰からも話し掛けられない位置にされた。

 「英国史上、最も不作法な人は、ナサニエル・メイヤー・ロスチャイルドとウィンストン・レナード・スペンサー・チャーチル(英語: Winston Leonard Spencer Churchill, KG, OM, CH, TD, PC, DL, FRS, RA) 。」と言われる。
 西暦1867年にロスチャイルド家の本家であるフランクフルト・ロートシルト家(ナポリ家のマイヤー・カールの次女)のエンマ・ルイーザ・フォン・ロートシルト(Emma Louise von Rothschild)と従伯父・従姪婚し2男1女を儲けた。
エンマ・ルイーザはロンドン家からフランスに移住したナサニエル・ド・ロスチャイルドの長男ネイサン・ジェームズ・エドゥアール・ド・ロスチャイルドの花嫁になる予定だったが、最終的にエンマ・ルイーザの妹ローラ・テレーズが彼と結婚した。
   第1子(長男)第2代ロスチャイルド男爵ライオネル・ウォルター・ロスチャイルド(英語: Lionel Walter Rothschild, 2nd Baron Rothschild, FRS)。
 ロンドン・ロスチャイルド家の嫡流であるが、銀行業には関心を持たず、動物学研究に傾倒した。子供の頃から動物好きだった。子供の頃には蛾や蝶の蒐集をしていた。西暦1889年には大学の研究室を去って曾祖父ネイサン・メイアー・ロスチャイルドによって設立された投資銀行N・M・ロスチャイルド&サンズで働くようになった。しかしさして重要な役職には就かず、動物学研究を続ける時間的余裕をわざと作った。また銀行業の仕事に際しても大英帝国(西暦1585〜1947年)各地に散らばる支店を活用して動物に関する情報を蒐集した。
 西暦1892年にはロスチャイルド家所有の土地トリング・パークに動物園と動物学博物館を設立し、博物館には多くの動物の剥製や昆虫の標本が集められた。また動物園には世界各地から動物を購入して集め、研究員たちとともにその生態を研究し、動物学の本を次々と刊行した。彼によって新発見された動物も少なくなく、それらの動物にはロスチャイルド・キリンなどロスチャイルドの名(ジラファ・カメロパルダリス・ロスチルディ Giraffa camelopardaris rothschildi)が冠された。

 西暦1899年にバッキンガムシャー・アリスバーリー選挙区から自由統一党候補として出馬して庶民院議員に当選した。以降、議会に行くという名目で銀行業の執務を抜け出してロンドン自然史博物館に通った。父ナサニエル・メイヤーから受けている手当は巨額だったが、それをもってしても数万匹の動物は養いきれなかった。彼は絶えず借金し、ついには父ナサニエル・メイヤーに無断で父ナサニエル・メイヤーに保険金を掛けたことで父の逆鱗に触れた子供の頃から動物好きだった。父ナサニエル・メイヤーは銀行業務そっちのけで動物学研究に傾倒する長男ライオネル・ウォルター勘当するか迷っていたが、ここに来てついにライオネル・ウォルターを経営から追放して次男ナサニエル・チャールズに経営を委ねることを決意した。こうしてライオネル・ウォルターは、煩雑な経営から免れて、残りの全生涯を動物学に捧げることができるようになった。銀行の経営を見るようになった弟ナサニエル・チャールズも動物学研究に関心を持っており、兄ライオネル・ウォルターの研究に協力した。ナサニエル・チャールズは特に蚤の研究で知られる。
 第1次世界大戦中の西暦1915年に父ナサニエル・メイヤーが死去し、第2代ロスチャイルド男爵を継承し、貴族院議員となった。「長男であるウォルターが銀行業を継承すべき。」という意見もあったが、相変わらず彼には銀行業をやる意思がなく、銀行業は弟ナサニエル・チャールズが継ぐことになった。しかしナサニエル・チャールズは2年ほどで身体を壊したため、最終的には叔父レオポルド・ライオネルの息子の長男ライオネル・ネイサンと三男アンソニー・グスタフの兄弟に受け継いだ。この兄弟は銀行業の才能があり、経営は再び軌道に乗った。
 西暦1917年にオスマン帝国領パレスチナにイギリス軍が進攻した。英外相初代バルフォア伯爵アーサー・ジェイムズ・バルフォア(英: Arthur James Balfour, 1st Earl of Balfour, KG, OM, PC, DL)に働きかけ、彼からバルフォア宣言を出させるのに貢献した。

「親愛なるロスチャイルド卿
私は、国王陛下の政府を代表して、閣議に提出され合意されたユダヤ人シオニストの切望に対する共感の宣言を以下のとおりお伝えすることを大きな喜びとするものであります。
国王陛下の政府は、パレスチナにおける現在の非ユダヤ人共同体の市民的・宗教的諸権利、ならびにその他すべての国においてユダヤ人が享受している諸権利や政治的地位が損なわれることのないことを明確にしたうえで、パレスチナにユダヤ人の民族的郷土が打ち立てられることを好ましく見なし、この目的の達成を促進するために最善の努力をなすであろう。
この宣言をシオニスト連盟に周知していただければ有難く存じます。
敬具
アーサー・ジェームズ・バルフォア」
 ウォルターはテオドール・ヘルツルの思想に影響を受けていたので、シオニズムに好意を持っていたが、ロンドン・ロスチャイルド家は英国ユダヤ人に反シオニズム組織を創設させるなど完全に反シオニズムの立場だったから、ウォルターは英国ロスチャイルド家の中で異端の人物だったといえる。もっともウォルター自身もシオニズムにさほど熱心だったわけではなく、これを積極的に推進していたのはパリ・ロスチャイルド家のエドモンであった。
 従甥にあたるエドムンド・ド・ロスチャイルドは自伝の中で「ウォルター伯父は変わった人だった。」と述べている。彼によればロスチャイルド一族の子供たちが集まるクリスマスの午餐で、ライオネル・ウォルターの甥であるナサニエル・メイヤー・ヴィクターがよく伯父をからかって「ウォルター伯父さん、アリゲーターとクロコダイルは何が違うのですか?」などと質問するのに対してライオネル・ウォルターは子供たちがクスクスと笑っているのを気にもせず、吃った長い解説を始めるのが常であった。
 生涯未婚で私生児の娘1人しかなかったため、ロスチャイルド男爵位は甥のナサニエル・メイヤー・ヴィクター(弟ナサニエル・チャールズの長男)が継承した。
 マリア・バーバラ・フリーデンソン(Marie Barbara Fredenson)との間に私生児の娘を儲けている。
    第1子(長女)オリガ・アリス・ミュリエル・ロスチャイルド(Olga Alice Muriel Rothschild)。オリガは初めブライス・エヴァンズ・ブレア(Bryce Evans Blair)と結婚していたが、西暦1981年に第4代チャーストン男爵リチャード・フランシス・ロジャー・ヤード・ブラー(Richard Francis Roger Yarde-Buller, 4th Baron Churston VRD)と再婚し、西暦1992年に死去。
   第2子(長女)シャーロット・ルイーザ・エヴェリナ(Charlotte Louisa Adela Evelina)。クライブ・ベーレンツ少佐と結婚。
   第3子(次男)ナサニエル・チャールズ・ロスチャイルド(Nathaniel Charles Rothschild)。
 兄同様動物学研究に造詣が深く、とりわけ蚤の研究で知られる。彼の研究成果は娘のミリアム・ルイザに引き継がれ、全7巻の蚤図鑑として纏められた。しかしナサニエル・チャールズは兄よりも家業である銀行業への責任感が強く、1日の大半はN・M・ロスチャイルド&サンズの銀行業に費やしつつ、週末や休暇を使って動物学研究に尽くしていた。珍しい動物や昆虫、草花の蒐集のために世界各地を旅行し、その一環で西暦1903年には日本を訪れた。彼は日本を非常に気に入り、友人への手紙の中で「日本は天国だよ。親がとやかく言わなければここで暮らしたい。」と書いている。当時彼は未婚だった。また明治後期の日本の急速な経済発展にも注目し、帰国後、「日本にN・M・ロスチャイルド&サンズの支店を置くべき。」と父ナサニエル・メイヤーに進言したが、却下された。N・M・ロスチャイルド&サンズが日本に支店を置くのはそれから85年後の西暦1988年12月。
 西暦1905年にはノーサンプトンシャー州長官に就任。西暦1915年に父ナサニエル・メイヤーが死去した際には銀行業をやる気がない兄ライオネル・ウォルターに代わって銀行を継承したものの、2年ほどで身体を壊し、退任した。銀行は叔父レオポルドの息子であるライオネルとアンソニーの兄弟に受け継がれることになった。この兄弟は銀行業の才能があり、経営は再び軌道に乗った。
 スペイン風邪をこじらせて精神病になり、西暦1923年に自殺した。兄の第2代ロスチャイルド男爵ライオネル・ウォルターには男子がなかったため、長男のナサニエル・メイアー・ヴィクターが第3代ロスチャイルド男爵位を継承した。

 西暦1907年にユダヤ人ハンガリー貴族の娘ロージカ・エードル・フォン・ヴェルトハイムシュタイン(Rózsika Edle von Wertheimstein)と結婚し 彼女との間に以下の1男3女を儲けた。
    第1子(長女)ミリアム・ルイザ(Miriam Louisa Rothschild DBE FRS)。動物学、昆虫学、植物学者および著述家。父ナサニエル・チャールズの蚤研究を引き継いだ。
 ミリアム・ルイザ・ロスチャイルドは、ノーサンプトンシャーのアウンドル近郊のアシュトン・ウォルドで、ユダヤ人銀行家のイギリス王国の銀行家一族であるナサニエル・チャールズ・ロスチャイルドと、オーストリア系ユダヤ人のハンガリー人スポーツ選手、ロージカ・エードル・ロスチャイルド (旧姓: ヴェルトハイムシュタイン)の長女として生まれた。
 彼女の父親ナサニエル・チャールズは約500種の蚤の新種を記述し、伯父のライオネル・ウォルター・ロスチャイルドはトリングに私設の自然史博物館を建設した。彼女は4歳になる頃にはテントウ虫やイモ虫を集め始め、飼い慣らした鶉をベッドに連れ込むようになった。西暦1914年、ミリアム・ルイザの6歳の誕生日の前夜に第1次世界大戦が勃発し、ロンドン・ロスチャイルド家はオーストリア・ハンガリー帝国(西暦1867〜1918年)で休暇を過ごしていた。彼らは西行きの最初の列車で急いで家に帰ったが、支払うことができず、ハンガリー人の乗客からお金を借りなければならなかった。その乗客は「これは私の人生で最も誇らしい瞬間です。ロスチャイルドにお金を貸すように頼まれるとは思ってもみませんでした!」と言った。彼女の父親ナサニエル・チャールズは彼女が15歳のときに自殺し、その後彼女は伯父ライオネル・ウォルターと親しくなった。彼女は17歳になるまで自宅で教育を受けたが、「学校に行きたい。」と言い出した。その後、彼女はチェルシー科学技術大学の夜間クラスで動物学を、ロンドンのベッドフォード大学の昼間クラスで文学を学んだ。
 第2次世界大戦中、ミリアム・ルイザ・ロスチャイルドはアラン・チューリング(Alan Turing)と共にブレッチリー・パークで暗号解読に従事するよう採用され、その功績により英国政府から国防勲章を授与された。さらに、彼女は英国政府に国民社会主義ドイツ労働者党(独語: Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei、公式略称: NSDA、別称: ナチ(Nazi)、ナチ党、ナチス、ナチス党)ドイツ国(西暦1933〜1943年)からの難民としてより多くのドイツ系ユダヤ人を受け入れるよう圧力を掛けた。彼女は49人のユダヤ人の子供たちのために住居を手配し、そのうちの何人かはアシュトン・ウォルドの彼女の家に滞在した。この邸宅は、彼女の将来の夫であるジョージ・レーン(George Lane)大尉を含む傷痍軍人のための病院としても機能した。ハンガリー生まれの英国軍人であるジョージ・レーンは、敵に捕らえられた場合に備えラニイ(Lanyi)から名前を変えていた。ミリアム・ルイザ・ロスチャイルドは菜食主義で、ペットや野生動物と親しくし、動物福祉、学校での子供への無料ミルク、そして「同意した成人同士のプライベートな同性愛行為」の非犯罪化を齎したウォルフェンデン報告書への寄稿による同性愛者の権利など、多くの社会運動を支援した。
 西暦1930年代、ミリアム・ルイザ・ロスチャイルドはプリマスの海洋生物学研究所で軟体動物のヌキュラとその寄生吸虫を研究して名声を博した。また蚤に関する第一人者で、蚤の跳躍機構を解明した最初の人物だった。彼女はまた蚤の生殖周期を研究し、兎の場合これを宿主のホルモン変化と結び付けました。彼女の寄生に関する新しい自然主義者の本(蚤、吸虫、郭公) は大ヒットしました。そのタイトルは、外部寄生虫(蚤など)、内部寄生虫(吸虫など)、その他(郭公の場合「子育て寄生虫」)と説明できる。ミリアム・ルイザは、G. ハリス(G. Harris)教授と共に、タペティウサギやブラシウサギに感染するウイルスである粘液腫症は、これまで考えられていた蚊ではなく蚤によって広がることを突き止めた。ロスチャイルド蚤蒐集物(父のナサニエル・チャールズ・ロスチャイルドが創設)は現在、自然史博物館の蒐集物の一部であり、彼女の蒐集物の6巻型録(G. H. E. ホプキンス(G. H. E. Hopkins)との共同作業で、アーサー・スミス(Arthur Smith)が挿画を描いたもの) は完成までに30年掛かった。蚤やその他の寄生虫に関する研究に加えて、ミリアム・ルイザはチョウ目の昆虫も研究しました。具体的には、化学生態学と擬態に興味があった。擬態とそれが鳥によるチョウ目の捕食に果たす役割について更に詳しく知るために、ミリアム・ルイザはアシュトン・ウォルドの所有地にある温室を改造して、梟やその他の潜在的な捕食動物の鳥小屋として使用した。この研究は、ワレモコウホネなどの昆虫が合成する化合物を特定するための更なる研究や、オオカバマダラの毒性が幼虫の宿主植物であるトウワタに由来することを示すタデウシュ・ライヒシュタイン(Tadeusz Reichstein)との共同研究に繋がった。また、昆虫の色彩における植物由来のカロテノイドの重要性を実証する研究も行われた。ミリアム・ルイザは、カロテノイドを含まない餌を与えられたオオカバマダラの幼虫が、通常の背景と一致せず、オオカバマダラの幼虫の蛹には金色ではなく銀色の糸があることを発見した。ミリアム・ルイザが追求した鱗翅目の研究のもう1つの分野は、蝶による抗生物質の生産だった。この研究は、ミリアム・ルイザが西暦1930年代に炭疽菌が大流行した際に観察したことに触発されたものだったが、本格的に開始されたのは約60年後だった。ミリアム・ルイザ・ロスチャイルドはこの主題に関する原稿を書き、その成果は彼女の死後12年を経てようやく出版された。
 ミリアム・ルイザ・ロスチャイルドは西暦1960年代にオックスフォード遺伝学スクールに在籍し、そこで生態遺伝学者のE. B. フォード(E.B. Ford)と出会った。ミリアム・ルイザは父親ナサニエル・チャールズ・ロスチャイルド(ロスチャイルドの遺産 - 時間と脆弱な自然」)と伯父ライオネル・ウォルター・ロスチャイルド(「親愛なるロスチャイルド卿」)に関する本を執筆した。彼女は昆虫学、動物学、その他の主題に関する約350の論文を執筆した。
 ミリアム・ルイザ・ロスチャイルドは後半生、干し草の牧草地の復元に興味を持つようになった。中世の牧草地を再現するには1000年掛かるというコメントに対して、彼女は「10年で非常によく似たものを作ることができます...私は15年掛かりました。」と述べた。彼女はアシュトン・ウォルドの地所で複数の混合種子を開発し、その中には「農夫の悪夢」と名付けたものも含まれていた。別の混合種子はチャールズ王太子(後のイギリス王国ウィンザー朝(西暦 1917年〜)第5代国王チャールズ3世(Charles III 、チャールズ・フィリップ・アーサー・ジョージ(Charles Philip Arthur George))のハイグローブ地所で使用された。
 西暦1973年、ミリアム・ルイザ・ロスチャイルドはアメリカ芸術科学アカデミーの外国人名誉会員に選出された。オックスフォード大学やケンブリッジ大学を含む8つの大学から名誉博士号を授与され、オックスフォード大学セントヒューズカレッジの名誉評議員でもあった。西暦1984〜1985年にかけてオックスフォード大学でロマネス講義(Romanes Lecture、生物学者ジョージ・ロマネス(George Romanes)が設立した無料公開講座)を行った。ロスチャイルドは西暦1985年に王立協会の会員に選出され、西暦2000年には大英帝国の大英帝国勲章(Dame Commander of the British Empire)の称号を授与された。
 ミリアム・ルイザ・ロスチャイルドは昆虫学における女性の先駆者であり、自然史博物館の初の女性理事、王立昆虫学会の初の女性会長、イギリス王国のボランティア団体「ナショナル・トラスト」の保全委員会の委員を務めた初の女性、8人の会員からなる昆虫学クラブの初の女性会員。西暦1986年にジョン・ゴールウェイ・フォスター人権信託が設立され、西暦2006年に信託の名称がミリアム・ロスチャイルド&ジョン・フォスター人権信託に拡大された。この信託は人権に関する年次講演の資金となっている。また、彼女の名を冠したケンブリッジ大学の保全生物学の寄付教授職も授与された。

 ミリアム・ルイザは、次妹のエリザベス・シャーロット・「リバティ」が精神分裂症(schizophrenia、schizo(分離した)+ phrenia(精神))と診断され入院した後、西暦1962年に彼女を記念して「精神分裂調症研究基金」を設立した。精神分裂症研究基金は、「あらゆる精神疾患、特に統合失調症として知られる疾患のより良い理解、予防、治療、治癒を促進する」ために設立された独立した登録慈善団体。英国の芸術療法(Art Therapy)の先駆者であるエドワード・アダムソン(Edward Adamson)と共同運営者であり共同作業者である教師で作家ジョン・ティムリン(John Timlin)は、アシュトン・ウォルドを定期的に訪れていた。 西暦1983〜1997年にかけて、エドワード・アダムソンの奨励により病院の進歩的な作業場で制作された、ネザーン病院で重度の精神障害を抱える患者よる 6000点の絵画、デッサン、彫刻、陶器からなる影響力のあるアダムソン・コレクションが、アシュトンの中世の納屋に収蔵され、一般公開された。
 西暦2006年03月、ミリアム・ルイザの死後、「ミリアム・ロスチャイルド精神分裂症研究基金」に変更された。
 ハンガリー生まれの英国軍人であるジョージ・レーンと結婚。6人の子供がおり、うち4人は実子で2男2女を儲けた。2人は養子。西暦1957年に離婚。離婚後も2人の関係は良好だった。
     第1子(長女)メアリー・ロジシュカ(Mary Rozsiska)。
     第2子(長男)チャールズ・ダニエル・レーン(Charles Daniel Lane)。分子生物学者。
     第3子(次女)シャーロット・テレサ(Charlotte Teresa)。
     第4子(次女)ヨハンナ・ミリアム(Johanna Miriam)。
    第2子(次女)エリザベス・シャーロット・「リバティ」(Elizabeth Charlotte 'Liberty' de Rothschild)。
 エリザベス・シャーロット・「リバティ」は精神分裂症と診断され、姉のミリアム・ルイザ・ロスチャイルドは精神分裂症研究基金を設立。

 精神分裂病で数々の刑事事件を起こした小泉純一郎は、小泉内閣になってから、日本だけ「精神分裂症(schizophrenia、schizo(分離した)+ phrenia(精神))」という病名を「統合失調症」という曖昧模糊とした名称に圧力を掛けて変更させ、一般人へ誤魔化しで被害の危険性を隠蔽し危険に晒している。
    第3子(長男)第3代ロスチャイルド男爵ナサニエル・メイヤー・ヴィクター・ロスチャイルド(英語: Nathaniel Mayer Victor Rothschild, 3rd Baron Rothschild, GBE, GM, FRS)。ロンドン・ロスチャイルド家嫡流の第5代当主。生物学者でもあり、受胎と精子の研究にあたった。それに関する著作もある。また初版本の蒐集を趣味としており、その多くをケンブリッジ大学に寄贈している。
 マルクス主義者が多く参加していた大学内の秘密結社ケンブリッジの使徒に参加したが、ナサニエル・メイヤー・ヴィクター自身は穏健な左翼思想の持ち主でマルクス主義者ではなかった。しかしソビエト社会主義共和国連邦(西暦1922〜1991年)の間諜であるガイ・フランシス・ド・モンシー・バージェス(Guy Francis de Moncy Burgess)、アンソニー・フレデリック・ブラント(Anthony Frederick Blunt )、ハロルド・エイドリアン・ラッセル・「キム」・フィルビー(Harold Adrian Russell 'Kim' Philby)らと交友関係を持っていた。しばしば「ソ連の間諜」という疑惑を受け、西暦1986年12月にはマーガレット・ヒルダ・サッチャー(Margaret Hilda Thatcher、旧姓: ロバーツ(Roberts))首相にその噂を否定する声明を出してもらった。西暦1937年に伯父の2代ロスチャイルド男爵ライオネル・ウォルター・ロスチャイルドが男子なく死去したため、第3代ロスチャイルド男爵位を継承し、労働党の貴族院議員となった。
 ナチス・ドイツ(独語: Nazi-Deutschland、NS-Deutschland、英語: Nazi Germany)国によるユダヤ人迫害に憤慨し、強制収容所から逃れてきたユダヤ人から聞いた体験談を演説で盛んに訴えたが、世間からはほとんど信じてもらえなかった。N・M・ロスチャイルド&サンズの経営を見ていた分家の従叔父たち(ライオネル・ネイサン・ド・ロスチャイルド(Lionel Nathan de Rothschild)とアンソニー・グスタフ・ド・ロスチャイルド(Anthony Gustav de Rothschild))と共に「ドイツユダヤ人のための英国中央基金」や「ドイツユダヤ人のための委員会」といった募金機関を立ち上げ、ドイツユダヤ人の亡命と亡命後の生活の支援をした。ナサニエル・メイヤー・ヴィクターは一族の中でも特に熱心にユダヤ人救済活動に取り組んでいたと。西暦1938年にはローマ法王ピウス11世(Pius XI、アキッレ・ラッティ(Achille Ratti))にラテン語で手紙を認め、国民社会主義ドイツ労働者党(ナチス)ドイツ国に対する抗議声明を出すことを嘆願した。
 第2次世界大戦中にはイギリス陸軍に入隊し、若くして中佐階級まで昇進した。MI5のB1C部(爆発物とサボタージュ対策部)部長としてドイツ軍が仕掛けてくるサボタージュ煽動への対策や爆発物の解体に当たっていた。その戦功でグレートブリテン及び北アイルランド連合王国(イギリス王国)(西暦1927年〜)ならびに海外自治領国王兼英領インド帝国(西暦1876〜1947年)皇帝ジョージ6世(George VI、全名:アルバート・フレデリック・アーサー・ジョージ(Albert Frederick Arthur George)よりジョージ勲章を、またアメリカ軍からもブロンズ・スター勲章を授与された。首相ウィンストン・チャーチルの護衛隊員にも選出された。
 第2次世界大戦中からイギリス王国の対外諜報機関と連携することが多かったため、その人脈を生かして戦後には私的諜報機関を作り、中東戦争や支那共内戦の情勢を調査したり、イスラエル国(西暦1948年〜)の諜報機関モサドの育成に当たった。
 戦中から戦後にかけて英国ロスチャイルド家の金融業の近代化が推し進められ、持株会社ロスチャイルド・コンティニュエーション・ホールディングス(Rothschild Continuation holdings)が設置され、西暦1947年にはその子会社としてN・M・ロスチャイルド&サンズが法人化され、株式会社となった。ロスチャイルド家の嫡流でありながらヴィクターは諜報活動や政治家の仕事の方を好み、銀行業をやりたがらなかった。そのためN・M・ロスチャイルド&サンズの株式は分家のアンソニー・グスタフ・ド・ロスチャイルドが60%を取得し、ヴィクターの所有は20%という配分がなされた。これにより実質的経営権はアンソニー・グスタフが握るようになった。
 西暦1970年に保守党政権のエドワード・リチャード・ジョージ・ヒース(Edward Richard George Heath, KG, MBE, PC)内閣が成立。ヒースは翌西暦1971年にも首相直属で政策を提言する委員会を設置したが、その委員長にナサニエル・メイヤー・ヴィクターが任じられた。以降3年に渡ってヒース内閣に様々な政策提言を行った。政府と科学技術の産業との橋渡しを初めとして、人種問題や核問題などイギリス王国の様々な社会問題にも切り込んだ。
 西暦1974年に政権交代があり、西暦1975年には首相直属委員会の委員長を辞した。この後、N・M・ロスチャイルド&サンズ内で長男ナサニエル・チャールズ・ジェイコブ・ロスチャイルドとアンソニー・グスタフの長男で筆頭株主のエヴェリン・ロバート・エイドリアン・ド・ロスチャイルドの対立が深まり、2人の対立を仲裁する意味でナサニエル・メイヤー・ヴィクターがN・M・ロスチャイルド&サンズ頭取に就任した。生物工学の投資会社の創設に当たった。しかしジェイコブとエヴェリンの対立を抑えられぬまま、エヴェリン・ロバート・エイドリアンに頭取職を譲って退任した。その後は持株会社ロスチャイルド・コンティニュエーション・ホールディングス会長に就任。

 西暦1933年12月28日にジョージ・ハッチンソンの娘バーバラ・ジュディス・ハッチンソン(Barbara Judith Hutchinson)と最初の結婚。バーバラ・ジュディス・ハッチンソンは、結婚して耶蘇教から猶太教に改宗し、1男2女を儲けた。
     第1子(長女)サラ・ロスチャイルド(Sarah Rothschild)。ジェームス・ダグラス・ヘンリーと結婚。
     第2子(長男)第4代ロスチャイルド男爵ナサニエル・チャールズ・ジェイコブ・ロスチャイルド(英語: Nathaniel Charles Jacob Rothschild, 4th Baron Rothschild, OM, GBE, FBA)。ロンドン・ロスチャイルド家の6代目当主。
 ロンドン・ロスチャイルド家嫡流だが、分家のエヴェリン・ロバート・エイドリアンが経営権を握るN・M・ロスチャイルド&サンズから独立し、RITキャピタル・パートナーズを創設して独自の金融業を行っている。西暦1990年に第4代ロスチャイルド男爵の爵位を継承し、西暦1999年まで貴族院議員を務めた。
 イートン・カレッジを経てオックスフォード大学クライスト・チャーチを卒業。これまでロスチャイルド家はハーロー校を経てケンブリッジ大学へ進学するのが伝統だったので異例。
 ニューヨークのモルガン・スタンレーに勤務して財務を学んだ後、西暦1963年から銀行N・M・ロスチャイルド& サンズに共同経営者として勤務した。西暦1971年にはライフガーズ近衛騎兵連隊に少尉として入隊。また西暦1971〜1996年にはセント・ジェームズ・プレイスの社長も務めた。
 ジェイコブはN・M・ロスチャイルド&サンズ内では投資部門「RIT(ロスチャイルド投資信託)」を主導した。ナサニエル・チャールズ・ジェイコブは危険を恐れない積極的なM&Aを好んだ。彼の主導でN・M・ロスチャイルド&サンズには外部からの資金が大量に流れ込むようになり、それを元手に積極的な企業買収が行われた。その買収の1つがグランド・メトロポリタンだった。当時イギリス史上最大のお金が動いたと言われている。ナサニエル・チャールズ・ジェイコブの企業買収でN・M・ロスチャイルド&サンズの業績は急速に伸びた。しかしN・M・ロスチャイルド&サンズの経営権は株式の60%を持つ分家のエヴェリン・ロバート・エイドリアンが握っており、ジェイコブの父である第3代ロスチャイルド男爵ヴィクターは20%の株しか持っていなかったから、やがてナサニエル・チャールズ・ジェイコブの大胆なM&A路線は堅実経営を好むエヴェリン・ロバート・エイドリアンから「独断が過ぎる、」と批判されるようになり、N・M・ロスチャイルド&サンズの内部対立は深刻化した。この争いを仲裁するために西暦1975年に父ロスチャイルド男爵ナサニエル・メイヤー・ヴィクターが頭取に就任した。しかし結局父は筆頭株主エヴェリンを支持したので、ナサニエル・チャールズ・ジェイコブは西暦1980年にRITを率いてN・M・ロスチャイルド&サンズを飛び出した。エヴェリン・ロバート・エイドリアンからは5本の矢を商標として使用するのを止めるよう求められたが、5本の矢は商標登録されていなかったので、ナサニエル・チャールズ・ジェイコブはその要請を拒否し、N・M・ロスチャイルド&サンズの「下を向く5本の矢」に対する当て付けで「上を向く5本の矢」を商標にした。
 この後、N・M・ロスチャイルド&サンズはエヴェリン・ロバート・エイドリアンの方針のもと、堅実経営に戻り、対するRITはジナサニエル・チャールズ・ェイコブの方針のもと積極的な投資・企業買収を推進するという対照的な道へ進んでいくことになった。RITはオークション会社サザビーズや投資信託銀行ノーザンなどに投資しつつ、事務機器、リース業、保険関連会社などの買収を進めて事業を拡大していった。西暦1983年にはニューヨーク・マーチャント銀行の株50%を買い、さらにチャーターハウス銀行と合併し「チャーターハウス・J・ロスチャイルド銀行」を創設した。独立から4年にして資本金を4倍にした恰好であり、シティでも有数の銀行として注目されるようになった。しかしこの直後から、これまで買収した企業の株を次々と売却し、現金化して貯め込むようになった。ちょうど西暦1987年にアメリカ合衆国のウォール街が暴落し、西暦1990年からはイギリス王国でもサッチャー政権の金融緩和によって発生していたバブルが弾けた。これは見事な時期での撤退となった。ロンドン・ロスチャイルド家の祖ネイサン・メイアーは「早過ぎると思うほど早く売ってしまうことだ。」という遺訓を残した。
 西暦1985年にRITはダイアナ妃(ウェールズ公妃ダイアナ(Diana, Princess of Wales)、全名: ダイアナ・フランセス(Diana Frances)、旧姓: スペンサー(Spencer))の父である第8代スペンサー伯爵エドワード・ジョン・スペンサー(英語: Edward John Spencer, 8th Earl Spencer, MVO)」からスペンサー・ハウス(イギリス王国ロンドン市セント・ジェームズ地区セント・ジェームズ・プレイス通り27番)を96年契約で賃借し、2000万ポンドの巨費を投じてその内装を西暦18世紀の状態に復元した。この修復作業はダイアナ妃からも高く評価された。
 西暦1990年に父ナサニエル・メイヤー・ヴィクターが死去し、第4代ロスチャイルド男爵位を継承と同時に貴族院議員に列し、貴族院改革のあった西暦1999年11月11日まで在職した。しかし政党には所属せず、中立派の議員として行動していた。

 トニー・ブレア(英語: Tony Blair、本名: アントニー・チャールズ・リントン・ブレア(Sir Anthony Charles Lynton Blair KG))政権による貴族院改革により、西暦1999年11月11日に世襲貴族の議席は92議席を残して削除され、ロスチャイルド卿を含む大半の世襲貴族が議席を失った。以降の貴族院は、爵位を世襲できない1代貴族が議員の大半を占めている。
 資金がだぶついていたナサニエル・チャールズ・ジェイコブは、西暦1993年から投資管理会社RITキャピタル・パートナーズと投資、会社セント・ジェイムズ・プレイス・キャピタルを創設して、投資事業を再開した。さらにアメリカ合衆国にもロスチャイルド・ウォルフェンソン投資会社を創設した。ソビエト連邦が崩壊して市場が自由化したロシア連邦(西暦1991年〜)にも関心を持ち、西暦1992年にはロシア・アメリカ投資会社の創設に協力した。西暦1994年からは投資会社ロスチャイルド・アセット・マネジメントを創設して生物工学産業に投資を開始した。西暦2002年、メリット勲章の叙勲を受けた。西暦2003〜2008年まで英国スカイ放送(British Sky Broadcasting、BSkyB)の副社長を務めた。同じく西暦2008年までRHJインターナショナルの取締役を務めた。西暦2010年11月には、ジェニー・エナジーの株5%分を1000万ドルで購入した。同社は西暦2013年にゴラン高原南部に石油採掘権を獲得した。太平洋にもJ・ロスチャイルド投資経営という会社を持っている。役員の顔ぶれはギルバート・デ・ボットン(Gilbert de Botton)、ジョン・ホドソン(John Hodson)、ピーター・ハワード(Peter Howard)、ピーター・オッペンハイマー(Peter Oppenheimer,)、デヴィッド・ウッド、リチャード・ウィルキンス(David Wood, Richard Wilkins)、ニルス・タウベ(Nils Taube)、エヴァ・シュロス(Eva Schloss)の夫ズヴィ・シュロス(Zvi Schloss)、ニコラス・ロディティ(Nicholas Roditi)、デヴィッド・モンタギュー(David Montagu)など錚々たるものである。コーンウォール公領の統治を行う公爵諮問会議の議員も務めた。
 芸術家の保護に熱心であり、年間50万ポンドの寄付を行った。ナショナル・ギャラリーの理事長や国家遺産記念財団の会長、アシュモレアン博物館の外部委員会の委員、コートールド美術研究所の理事及び名誉フェローなどを歴任している。国外でも活躍し、ロシア連邦のエルミタージュ美術館の理事、アメリカ合衆国のプリツカー賞の会長などを歴任した。西暦1995年にはニューヨークのワールド・モニュメント財団よりハドリアヌス賞(Hadrian Award)を受けた。
 イスラエル国では、クネセト(国会)や最高裁判所の建物を寄贈した財団「ヤド・ハナディヴ」の議長を務めた。ユダヤ人政策研究所の名誉会長も務めた。この他、叔母であるドロシー・ド・ロスチャイルドが存命時代に設立した通信制大学「イスラエル・オープン大学」の総長代理として大学運営に当たった。
 西暦2024年02月26日にナサニエル・チャールズ・ジェイコブが死ぬと、長男のナサニエル・フィリップ・ヴィクター・ジェームズ・ロスチャイルド(Nathaniel Philip Victor James Rothschild)が第5代ロスチャイルド男爵位を継承した。
 西暦1961年に、カナダ(西暦1931年〜)の投資家の第2代ドン準男爵フィリップ・ゴードン(Philip Gordon Dunn, 2nd Baronet)とセレナ・メアリー・ドン(Serena Mary Dunn)と結婚し1男3女を儲けた。フィリップ・ゴードンの父はカナダの金融家で大富豪の初代ドン準男爵ジェームズ・ハメット(James Hamet Dunn, 1st Baronet)で、セレナ・メアリー・ドンの母は、スコットランドの軍人、第5代ロスリン伯ジェームズ・フランシス・ハリー・セントクレア・アースキン(James Francis Harry St. Clair-Erskine, 5th Earl of Rosslyn)の娘のメアリー・シビル・セントクレア・アースキン(Mary Sybil St. Clair-ErskineSt Clair-Erskine)。
      第1子(長女)ハンナ・メアリー(Dame Hannah Mary Rothschild DBE)。ドキュメンタリー映画製作者。ウィリアム・ブロックフィールド(William Brookfield)と結婚し3子を儲け、離婚。
      第2子(次女)ベス・マチルダ(Beth Matilda Rothschild)。アントニオ・トマシニー(Antonio Tomassini)と結婚。
      第3子(三女)エミリー・マグダ(Emily Magda Rothschild)。ユリアン・フリーマン・アトウッド(Julian Freeman-Attwood)と結婚。
      第4子(長男)第5代ロスチャイルド男爵ナサニエル・フィリップ・ヴィクター・ジェームズ・ロスチャイルド(Nathaniel Philip Victor James Rothschild, 5th Baron Rothschild)。ロンドン・ロスチャイルド家嫡流の第7代当主。
 ナサニエル・フィリップ・ビクター・ジェームズ・ロスチャイルドは、スイス連邦に定住したイギリス王国生まれの金融家。彼は、英国上場メーカーであるヴォレックス株式会社(Volex plc)の会長。幅広い国際事業に携わっている。ナサニエル・フィリップ・ビクター・ジェームズは、ウィンザー朝(西暦1917〜)イギリス王国(グレートブリテン及び北アイルランド連合王国(西暦1927年〜))、モンテネグロ(西暦2006年〜)、カナダの3重国籍。
 ナサニエル・フィリップ・ビクター・ジェームズは、第4代ロスチャイルド男爵ナサニエル・チャールズ・ジェイコブ・ロスチャイルドとその妻セレナ・メアリー(Serena Mary、旧姓 ドン(Dunn))の4人姉弟の末っ子で唯一の男子。母セレナ・メアリーは耶蘇教徒で、父は猶太教徒だった。ロスチャイルド家の父方の祖父第3代ロスチャイルド男爵ナサニエル・メイヤー・ヴィクターは猶太教徒の家庭に生まれ、祖父の前妻の祖母バーバラ・ジュディス・ハッチンソンは結婚して猶太教に改宗した。母方の祖父母は、スコットランドの軍人、第5代ロスリン伯ジェームズ・フランシス・ハリー・セントクレア・アースキンの娘、メアリー・シビル・セントクレア・アースキンとカナダの金融家で大富豪の初代ドン準男爵ジェームズ・ハメットの息子、第2代ドン準男爵フィリップ・ゴードン・ジェームズ。
 ナサニエル・フィリップ・ヴィクター・ジェームズは、オックスフォード大学ウォダム・カレッジで教育を受け歴史を学び2位。ナサニエル・フィリップ・ヴィクター・ジェームズは元財務大臣ジョージ・ギデオン・オリバー・オズボーン(英語: George Gideon Oliver Osborne)と同時期に、学部生としてブリンドン・クラブに入っていた。彼は西暦2013年にロンドン大学キングスカレッジ精神医学研究所で依存症研究で修士号を取得した。西暦2018年にはオックスフォード大学ウォダムカレッジの創設研究員に選出された。
 大学卒業後、ナサニエル・フィリップ・ヴィクター・ジェームズは投資信託会社のラザーズ(Lazard's)に入社し、その後企業財務会社グリーチャー(Gleacher)に勤務した。西暦2000年には様々な役職に就き、NRアティカス(NR Atticus)、アティカス・マネジメント(Atticus Management)、ヘッジファンドのアティカス・キャピタル(Atticus Capital)の50%の株式を保有している。アティカス・キャピタルは西暦2000年に3億1200万ポンド近くの資金を管理していた。ナサニエル・フィリップ・ヴィクター・ジェームズは、衣料品ブランドクーカイ(Kookai)の所有者でもあるヨーロッパ全域の小売業者ヴィヴァルテ(Vivarte)の元会長。フランス共和国で最初の敵対的買収と広く見做されていた株式の32.9%をNRアティカスが取得した後に西暦2000年に任命され、同グループの再編を成功に導き、その後西暦2004年にフランス共和国の個人資産会社PAIパートナーズ(PAI Partners)に売却した。西暦2000年03月に父の第4代ロスチャイルド男爵ナサニエル・チャールズ・ジェイコブが創業したRITキャピタル・パートナーズ(RIT Capital Partners plc、旧名: Rothschild Investment Trust)の代理取締役に就任し、西暦2004年にはRITの取締役を退任するまで非執行取締役を務めた。現在もRITの実質的直接株主であり、RITの株式を主要資産とするロスチャイルド財閥の持株会社ファイブ・アローズLtd.(Five Arrows Limited)の35%の実質株主である。
 ナサニエル・フィリップ・ヴィクター・ジェームズは、ハーバード大学ジョン・F・ケネディ行政大学院ベルファーセンターの国際評議会およびブルッキングス研究所の国際諮問委員会の元会員だった。彼はまた、西暦2013年までバリック・ゴールド・コーポレーションの国際諮問委員会の会員でもあった。西暦2000年、オブザーバー紙は、ナサニエル・フィリップ・ヴィクター・ジェームズ・ロスチャイルドが当時申告した5億ポンドの遺産に加え、実際の遺産は「スイス連邦の一連の信託に隠されており、400億ポンドの価値があると噂されている。」と書いた。
 ナサニエル・フィリップ・ヴィクター・ジェームズの主な投資会社である NRインヴェスティメンツLtd. を通じて、西暦2010年01月のロシア連邦の世界的なアルミニウム製造企業ルサール(露語: РУСАЛ)ことロシア・アルミニウム(露語: Русский алюминий、United Company RUSAL)の新規株式公開の主要投資家だった。同時に、彼は新規上場(IPO)時に株式に転換可能な4000万ドルのグレンコア社債(Glencore bonds)を購入した。NRインヴェスティメンツは、マンチェスターに拠点を置く電気ケーブル 製造企業であるヴォレックス(Volex)の最大株主西暦2009年時点で26.5%) でもある。さらに、ナサニエル・フィリップ・ヴィクター・ジェームズは東ヨーロッパ(モンテネグロ、ルーマニア(西暦1877〜)、ウクライナ(西暦1991〜)) の様々な不動産開発に関心を持っている。
 西暦2010年07月、ナサニエル・フィリップ・ヴィクター・ジェームズが設立したジャージー島法人の投資会社ヴァラー社(Vallar plc)は、ロンドン証券取引所での新規株式公開で7億0720万ポンドを調達した。ヴァラー社は、ナサニエル・フィリップ・ヴィクター・ジェームズと、アングロ・アメリカン社(Anglo American plc)の元石炭および基幹金属部門の責任者であるジェームズ・キャンベル(James Campbell)が率いている。西暦2010年11月、ヴァラー社は、「現金とヴァラー社の新株を組み合わせて、インドネシア共和国(西暦1945年〜)の上場燃料炭(発電所用)生産者2社の株式を30億ドルで購入する。」と発表した。この2社を統合して、支那人民共和国(西暦1949年〜)、インド共和国(西暦1947年〜)、その他のアジアの新興経済国に火力発電用石炭を最大規模で輸出する企業を創設することを目的とした。取引は予定通り西暦2011年04月08日に完了し、同月にヴァラー社はブーミ社(Bumi plc、Bumi はマレー語で「大地」の意)に改名された。この取引は、バクリー(Bakrie)家(43%)とロサン・ルースラニ(Rosan Roeslani)(25%)との合弁事業で行われた。西暦2012年09月、インドネシア支社の不正財務疑惑の調査により、株価は14%下落した。そして、大幅に遅れた西暦2012年度決算では、2億ドルの黒字が示された。西暦2013年には、「ブーミ社の元取締役であるロサン・ルースラニが1億7,300万ドルを横領した。」とも報じられた。西暦2013年12月、同社は社名をアジア・資源金属(Asia Resource Minerals)に変更した。西暦2015年06月、共同投資家との一連の論争の後、ナサニエル・フィリップ・ヴィクター・ジェームズ・ロスチャイルドは同社への投資を断念し、17.2%の株式を石炭エナジー・ベンチャーズ(Coal Energy Ventures)に売却した。
西暦2011年06月、ナサニエル・フィリップ・ヴィクター・ジェームズとBP(英語: BP plc、旧英国石油(英語: The British Petroleum Company plc)の元最高経営責任者トニー・ヘイワード(Tony Hayward)は、ロンドン証券取引所にヴァラー社の後継企業であるヴァラレス(Vallares)社を上場し、22億ドルを調達した。基本的に、これは金属と鉱業に重点を置いた最初の企業とあらゆる点で同一であったが、新しい企業が石油とガスの資産を取得する点が異なっていた。西暦2011年09月、ヴァラレスはトルコ共和国(西暦1923年〜)のエネルギー大手ジェネル・エナジー(Genel Energy)との50:50の全株式合併を発表し、その価値は42億USドルであった。

 西暦2011年のキングジョージ6世・クイーンエリザベスステークスで優勝した競走馬ナサニエルは、ナサニエル・フィリップ・ヴィクター・ジェームズ・ロスチャイルドの母親セレナ・メアリー・ロスチャイルドが飼育・所有していた馬で、彼の名が付けられた。
 西暦2008年10月、労働党の政治家マンデルソン男爵ピーター・ベンジャミン・マンデルソン(英語: Peter Benjamin Mandelson, Baron Mandelson)とロシア連邦のアルミニウム王オレグ・ウラージミロヴィッチ・デリパスカ(露語: Оле́г Влади́мирович Дерипа́ска、Oleg Vladimirovich Deripaska)(RUSAL社)が、ナサニエル・フィリップ・ヴィクター・ジェームズ・ロスチャイルドが主催するパーティーに出席するため、コルフ島近くに停泊したヨットに滞在していた時に会ったことが明らかになり、ナサニエル・フィリップ・ヴィクター・ジェームズ・はマスコミの憶測の対象となった。これが「ピーター・ベンジャミン・マンデルソンにとって利益相反になるかも知れない。」との憶測が流れた後、ナサニエル・フィリップ・ヴィクター・ジェームズはタイムズ紙に手紙を書き、「もう1人の客は保守党の影の財務大臣ジョージ・ギデオン・オリバー・オズボーンであり、」ナサニエル・フィリップ・ヴィクター・ジェームズによると、「ジョージ・ギデオン・オリバー・オズボーンはロシア人から自分の宴会のために違法に寄付を募ろうとした。」と主張した。
 ナサニエル・フィリップ・ヴィクター・ジェームズ・ロスチャイルドは、元大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国(西暦1969〜2011年)指導者ムアンマル・アル・カッザーフィー(アラビア語: معمر أبو منيار القذافي‎, muʿammar ʾabū minyār al-qaḏḏāfī)の次男、サイフ・アル・イスラム・ムアンマル・アル・カッザーフィー ( アラビア語: سيف الإسلام معمر القذافي‎ , 英語: Saif al-Islam Muammar Gaddafi)と関係がある。
 西暦2012年02月、ナサニエル・フィリップ・ヴィクター・ジェームズ・ロスチャイルドは、マンデルソンとの海外旅行に関する報道で「操り人形師」であると非難されたデイリーメールとの名誉毀損訴訟で敗訴した。
 西暦1994年、ロスチャイルドは社交界の名士でモデルのアナベル・ニールソン(Annabelle Neilson)と結婚。 2人は西暦1997年に離婚。彼女は西暦2018年07月に亡くなった。
 西暦2016年08月、スイス連邦でロスチャイルドは、英国のタブロイド紙「ザ・サン」の3面を飾った元モデルのロレッタ・バシー(Loretta Basey)と再婚。彼はニューヨークにしばらく住んでいたが、西暦2000年にスイス連邦に定住し、スイス連邦のビジネス誌「ビランツ」によると、現在はグラウビュンデン州クロスタース在住。西暦2015年、ニューヨークのウェストビレッジにある4階建てのタウンハウスが1750万ドルで売りに出された。
 
 第3代ロスチャイルド男爵ナサニエル・メイヤー・ヴィクターと前妻バーバラ・ジュディス・ハッチンソンとの最初の結婚の末子。
     第3子(次女)ミランダ(Miranda Rothschild)。ブジェマー・ブーマザ、後イアン・トマス・ワトソンと結婚。
 第3代ロスチャイルド男爵ナサニエル・メイヤー・ヴィクターは西暦1946年にテレサ・ジョージナ・メイヨー(Teresa Georgina Mayor)と再婚し、2男2女を儲けた。
     第4子(三女)エマ・ジョージナ(Emma Georgina Rothschild CMG)。イギリス王国の経済史家であり、ハーバード大学の歴史学教授。ハーバード大学の歴史と経済の共同センターの所長であり、ケンブリッジ大学の歴史と経済の名誉教授。以前は連合国財団の理事を務め、パリの社会科学高等研究院 (EHESS) の教授を務めた。ロスチャイルド家の歴史を研究するロンドンの国際センターであるロスチャイルド・アーカイブの理事。
 エマ・ジョージナ・ロスチャイルドは、イギリス王国のロンドンで、ヴィクター・ロスチャイルドと2番目の妻テレサ・ジョージナ・ロスチャイルド(Teresa Georgina Rothschild、旧姓: メイヨー(Mayor))の娘として生まれた。父方の祖先はロスチャイルド家。母方の祖父ロバート・ジョン・グロート・メイヨー(Robert John Grote Mayor)は、イギリスの小説家F・M・メイヨー(F. M. Mayor)の兄弟でり、哲学者で牧師のジョン・グロート(John Grote)の甥に当たる。母方の祖母キャサリン・ベアトリス・マイナーツハーゲン(Katherine Beatrice Meinertzhagen)は、イギリス人とドイツ人の血を引いており、軍人リチャード・マイナーツハーゲン(Richard Meinertzhagen)の姉妹であり、作家ベアトリス・ウェッブ(Beatrice Webb)の姪。
 エマ・ジョージナ・ロスチャイルドは15歳でオックスフォード大学サマービル・カレッジに入学した最年少の女性となり、西暦1967年に哲学、政治学、経済学の学士号を取得して同大学を卒業。彼女はマサチューセッツ工科大学(MIT)の経済学のケネディ奨学生になった。
 彼女はMITの人文科学部と科学、技術、社会問題の准教授となり、フランス共和国のパリにある社会科学高等研究院でも教鞭をとっていました。その後、ケンブリッジ大学キングス・カレッジの研究員となり、現在もケンブリッジ大学歴史学部の歴史学および経済学の名誉教授を務めている。
 彼女は西暦2002年にアメリカ哲学協会に選出された。ケンブリッジ大学マグダレン・カレッジの研究員で。オックスフォード大学サマービル校の名誉会員。

 西暦1991年、インド共和国の経済学者でノーベル賞受賞者の再々婚のアマルティア・セン(ベンガル語: অমর্ত্য সেন, ヒンディー語: अमर्त्य सेन, 英語: Amartya Sen)と結婚。3人目の妻。
     第5子(次男)ベンジャミン・メイヤー (Benjamin Mayor Rothschild)。夭折。
     第6子(四女)ヴィクトリア・キャサリン (Victoria Katherine Rothschild)。劇作家シモン・ジェイムセ・ホリディ・グレイ(Simon James Holliday Gray CBE FRSL)と結婚。シモン・ジェイムセ・ホリディ・グレイは西暦1965年に最初の妻ベリル・ケバーン(Beryl Kevern)と結婚し息子ベンジャミンと娘ルーシーの2人の子供を儲けた。西暦1997年に離婚までの8年間の情事の後結婚し、彼が亡くなるまで西ロンドンで一緒に暮らした。
     第7子(三男)アムシェル・メイヨー・ジェームズ・ロスチャイルド(Amschel Mayor James Rothschild)。ロスチャイルド家のロスチャイルド・アセット・マネジメントの会長を務めた。
 アムシェル・メイヨー・ジェームズはパリで、第3代ロスチャイルド男爵ナサニエル・メイヤー・ヴィクターと2番目の妻テレサ・ジョージナ・メイヨーナ・ロスチャイルド(旧姓: メイヨー)の末っ子として生まれた。父方の祖先はロスチャイルド家。母方の祖父ロバート・ジョン・グロート・メイヨー(Robert John Grote Mayor)は、イギリス王国の小説家F・M・メイヨー(Flora Macdonald Mayor)の兄弟であり、哲学者で牧師のジョン・グロート(John Grote)の甥に当たる。彼の母方の祖母であるキャサリン・ベアトリス・マイナーツハーゲン(Katherine Beatrice Meinertzhagen)はイギリス人とドイツ人の血を引いており、軍人リチャード・マイナーツハーゲン(Richard Meinertzhagen)の妹であり、作家ベアトリス・ウェッブ(Beatrice Webb)の姪。
 アムシェル・メイヨー・ジェームズは西暦1976年にロンドンのシティ大学を卒業し、そこで経済学、歴史学、考古学を学んだ。当初の職業はジャーナリズムで、現在は廃刊となった文芸誌「ニュー・レビュー」の発行部数営業を務めた。西暦1987年、アムシェル・メイヨー・ジェームズは家族経営の銀行会社N・M・ロスチャイルド&サンズに入社。西暦1990年までにロスチャイルドの弱い資産の1つであるロスチャイルド・アセット・マネジメントの最高経営責任者に就任。西暦1993年に同会社の会長に就任し、より安定した軌道に乗せる手助けをした。

 彼のお気に入りの娯楽の 1 つは農業で、ベリー セント エドマンズ近郊のラッシュブルックという耕作農場を相続し、そこで多くの時間を仕事に費やした。また、彼は熱心な自動車レース愛好家で。彼の情熱は13歳の時にオフロード・バイクを手に入れたことから始まった。後年、彼は自動車レースに熱中し、西暦1996年にシルバーストーンでピーター・コリンズ記念トロフィーレースで優勝した。彼の自動車には、ACコブラ・デイトナ・スポーツカー、西暦1957年型マセラティ250Fフォーミュラ I、西暦1958年型BRM P25フォーミュラ I があった。彼はサフォークの自宅にスタンペ・エ・ヴェルトンゲン(Stampe et Vertongen)社製複葉機を保管していた。
 アムシェル・メイヨー・ジェームズ・ロスチャイルドと妻アニタ・ペイシェンスは、パリ家ジェームズ・ロスチャイルドの名付け親である海軍大将で政治家初代ラドストック男爵ウィリアム・ウォルドグレイヴ(William Waldegrave, 1st Baron Radstock, GCB)の娘の名付け親でもあった。
 アムシェル・メイヨー・ジェームズ・ロスチャイルドはニューハンプシャー州アルトンに夏の別荘を所有していた。
 アムシェル・メイヨー・ジェームズは、エルサレムの最高裁判所と国会(クネセト)の建設を含むイスラエル国の多くのプロジェクトを支援してきたロスチャイルド財団、ヤド・ハナディブ(Yad Hanadiv)の理事だった。
 西暦1996年07月、アムシェル・メイヨー・ジェームズ・ロスチャイルドはホテル・ル・ブリストル・パリ(Hôtel Le Bristol Paris)で自殺した。検死官は、「彼の死に不審な状況はなかった。」と述べた。彼の妻は、「自殺の原因は未亡人の母親テレサ・ジョージナ・メイヨーの最近の死をきっかけに、鬱病が治らなかったため。」と述べた。
 西暦1981年、彼は商業銀行家ジェームズ・エドワード・アレクサンダー・ランデル・ギネス(James Edward Alexander Rundell Guinness)とポーリン・ヴィヴィアン・マンダー(Pauline Vivien Mander)の娘、アニタ・ペイシェンス・ギネス(Anita Patience Guinness)と結婚し3人のを儲けた。

      第1子(長女)ケイト・エマ(EKate Emma Rothschild)。西暦2003年にベリー・セント・エドマンズのセント・メアリー教会で、大富豪のジェームズ・ゴールドスミス(James Goldsmith)とアナベル・ゴールドスミス(Annabel Goldsmith)の息子、ベン・ゴールドスミス(Ben Goldsmith)と結婚し3人の子供がいる。西暦2012年、ケイト・エマがアメリカ人黒人ラッパーのジェイ・エレクトロニカ(Jay Electronica、本名: Timothy Elpadaro Thedford)と不倫で離婚。
      第2子(次女)アリス・ミランダ(Alice Miranda Rothschild)。イギリス保守党の政治家で、妹ケイト・エマの元夫ベン・ゴールドスミスの兄弟であるザック・ゴールドスミス(Zac Goldsmith)と結婚。
      第3子(長男)ジェームズ・アムシェル・ビクター(James Amschel Victor Rothschild)。西暦2015年にホテル経営者コンラッド・ヒルトン(Conrad Hilton)の曾孫で社交界の名士ニッキー・ヒルトン(Nicky Hilton)と結婚し1男2女をなした。
    第4子(三女)ケーニヒスヴァルター男爵夫人キャスリーン・アニー・パノニカ「ニカ」(旧姓: ロスチャイルド、Baroness Kathleen Annie Pannonica 'Nica' de Koenigswarter)。ケーニヒスヴァルター男爵夫人キャスリーン・アニー・パノニカ・「ニカ」は、イギリス生まれのジャズ支援者であり作家。数多くのジャズ・ミュージシャン達の支援活動により、「ジャズ男爵夫人」の通称で知られた。
 キャスリーン・アニー・パノニカ・ロスチャイルドは、ナサニエル・チャールズ・ロスチャイルドとその妻でハンガリー人のロージカ・エードル・フォン・ヴェルトハイムシュタイン(ビハール州のヴェルトハイムシュタイン男爵アルフレッド(Baron Alfred von Wertheimstein)の娘)の末娘として、ロンドンで生まれた。父方の祖父は初代ロスチャイルド男爵ネイサン・メイヤー・ロスチャイルド。彼女はトリング・パーク・マンションやワデスドン・マナーなどで育った。「パノニカ」(仇名: 「ニカ」)という名前は、東ヨーロッパのパノニア平原に由来している。友人の黒人ジャズピアニスト、セロニアス・モンク(英語: Thelonious Monk)は、「彼女の名前は父親が発見した蝶の一種に因んで付けられた。」と報告しているが、彼女の姪は、名前の由来は珍しい蛾の一種であるユーブレマ・パンノニカ(Eublemma pannonica)であることを発見した。彼女の姉は動物学者で作家のミリアム・ルイザ・ロスチャイルド。
 西暦1935年、彼女は後に自由フランスの英雄となるフランス外交官ケーニヒスヴァルター男爵ジュール(Baron Jules de Koenigswarter)と結婚した。西暦1937年、夫妻はシャトー・ダボンダンを購入し引っ越した。これは、アメリカ人銀行家ヘンリー・ハーマン・ハージェス(Henry Herman Harjes)(西暦1920年にヴァロンブローザ公爵夫人(Duchesse de Vallombrosa)からこの城を買収)の家族から取得した北西フランスの西暦17世紀の城である。彼女は第2次世界大戦中、シャルル・アンドレ・ジョセフ・マリー・ド・ゴール(Charles André Joseph Marie de Gaulle)のために働いていた。彼女は第2次世界大戦中、ドイツ国と戦うために自由フランス軍に入隊した。彼女は北アフリカ戦線への参加を拒否していたが、夫と共に戦うために密かに入隊した。戦争により彼女の結婚生活と家族の義務は停止されたが、彼女は子供たちをフランス共和国からアメリカ合衆国に送り、密かに大陸を移動した。彼女は自由フランス軍の解読員、救急車の運転手、ラジオ司会者として働いた。 戦争の終結時に彼女は連合軍から中尉として勲章を授与された。

 ニューヨークでは、ケーニヒスヴァルター男爵夫人キャスリーン・アニー・パノニカ「ニカ」は一流ジャズミュージシャンの友人および支援者となり、ホテルのスイートでジャムセッションを主催したり、演奏会に送り迎えが必要なときにはベントレーで彼らを送迎したり、時には家賃の支払いや食料品の買い物、病院への通院を手伝ったりした。彼女自身はミュージシャンではなかったが、セロニアス・モンクや黒人アルトサックス奏者、チャーリー・パーカー(英語: Charlie Parker Jr.)などの支援者であったことから「ビバップ男爵夫人」や「ジャズ男爵夫人」と呼ばれることもある。西暦1955年にチャーリー・パーカーがスタンホープの部屋で亡くなった後、キャスリーン・アニー・パノニカ「ニカ」はホテルの経営者から立ち退きを求められ、セロニアス・モンクが西暦1956年に作曲した「Ba-lue Bolivar Ba-lues-are」で記念されている建物であるセントラルパークウェスト230番地のボリバルホテル(Bolivar Hotel)に移った。
 彼女はパリで「サロン・デュ・ジャズ 1954」に参加していたときに、黒人ジャズピアニスト兼作曲家のメアリー・ルー・ウィリアムズ(英語: Mary Lou Williams)からセロニアス・モンクを紹介された。彼女はアメリカ合衆国で彼の作品を擁護し、西暦1962年にコロンビアから売り出されたアルバム「クリス・クロス」のレコードなどに付された音楽の解説文(ライナーノーツ)を書いた。西暦1958年にデラウェア州警察からマリファナ所持の容疑で告発されたとき、彼女は刑事責任を負い、数晩刑務所で過ごした。キャスリーン・アニー・パノニカ「ニカ」・ケーニグスワーターは懲役3年の刑を宣告された。彼女の家族が資金を提供した2年間の法廷闘争の後、この訴訟は控訴裁判所で技術的理由で却下された。
 彼女はファイブ・スポット・カフェ、ヴィレッジ・ヴァンガード、バードランドなど、ニューヨークの多くのジャズクラブに定期的に通っていた。西暦1957年、彼女はファイブ・スポットのために新しいピアノを購入した。既存のピアノはセロニアス・モンクの演奏には不十分だと考えたからであった。彼女はまた、黒人ジャズピアニストのバド・パウエル(英語: Bud Powell、本名: アール・ルドルフ・パウエル(Earl Rudolph Powell))のアルバム「A Portrait of Thelonious」の表装の画も手掛けた。西暦1950年代には、アメリカ音楽家連盟からマネージャーの資格を得た。彼女の顧客には、カーボベルデ共和国(西暦1975年〜)系混血黒人ジャズピアニストのホレス・シルヴァー(英語: Horace Silver、本名: Horace Ward Martin Tavares Silva)、黒人テナーサックス奏者、ハンク・モブレー(英語: Hank Mobley)、黒人ジャズピアニストのチャールズ・フィリップ・トンプソン(英語: Charles Phillip Thompson)、ジャズ・メッセンジャーズ(英語: the Jazz Messengers)などがいた。ホレス・シルバーは彼女についてこう語っている。「オハイオ州ヤングスタウンのジャズクラブでジャズ・メッセンジャーズと1週間演奏したのを覚えている。バンドが何度も遅れて演奏し、観客も集まらなかったため、クラブの主人は黒人ジャズドラマー。アート・ブレイキー(英語: Art Blakey))に金を払うことを拒否した。私たちはオハイオ州ヤングスタウンにいて、1週間分のホテル代を払わなければならなかったが、誰もお金を持っていなかった。ホテル代を払えなくて刑務所に入れられる自分が目に浮かんだ。しかしアート​​・ブレイキーは男爵夫人に電話し、彼女は私たちにいくらかのお金を送金してくれたので、私たちはホテル代を払ってニューヨークに戻れた。彼女はジャズ音楽の大ファンで、素晴らしい人だった。」ハンプトン・ホーズは回想録で「彼女の家は、いつでも、どんな理由でも、立ち寄ってぶらぶらできる場所になった。彼女はお金がない人にお金をあげ、家族に食料品の袋を届け、ニューヨークで働くのに必要なキャバレーカードを手に入れるのを手伝った。この女はすごく金持ちで、すべてのクラブに常設のテーブルを予約し、ニューヨークのどこからでも個人タクシーを呼べる番号を持っていた。私が病気になったり、グチャグチャになったりすると、その番号に電話するとタクシーが来て、彼女の家まで直接運んでくれた。休みの日は、彼女がベントレーで迎えに来て、一緒にクラブを回ることもあった。ニカを芸術の支援者と呼ぶ人もいるだろうが、彼女はニューヨークに住んでいたり、ニューヨークを訪れたミュージシャンにとっては兄弟のような存在だった。彼女にはおどけたところがなく、本気でそうしていれば受け入れられ、彼女の友人になった。」セロニアス・モンクは西暦1970年代半ばに公演を終えると、ニュージャージー州ウィホーケンのデ・ケーニグスワーターの家に隠棲し、西暦1982年にそこで亡くなった。
 彼女は彼女の財産を使って、バド・パウエル 、黒人ジャズピアニスト、ソニー・クラーク(英語: Sonny Clark)、黒人ジャズサックス奏者、コールマン・ホーキンス(英語: Coleman Hawkins)など、数人のジャズミュージシャンの友人たちの葬儀と墓地の費用を支払った。

 キャスリーン・アニー・パノニカ「ニカ」は西暦1988年、ニューヨーク市のコロンビア・プレスビテリアン医療センターで74歳で心不全のため亡くなった。
 西暦1935年、彼女は後に自由フランスの英雄となるフランス外交官ケーニヒスヴァルター男爵ジュール(Baron Jules de Koenigswarter)と結婚。5人の子供が居た。西暦1951年に別居。最終的に西暦1956年に離婚。死亡時には5人の子供、2人の孫、4人の曾孫が居た。
  第4子(次男)アルフレッド・チャールズ(Alfred Charles de Rothschild, CVO, DL)。
 ロンドン・ロスチャイルド家第2代当主ロスチャイルド男爵ライオネルとその妻シャーロット(ナポリ家の祖カール・マイアー・フォン・ロートシルトの娘)の次男としてロンドンで生まれた。西暦1879年に父ライオネルが死去すると、兄弟2人と共にN・M・ロスチャイルド&サンズの共同経営者に就任した。
 西暦1868〜1890年にかけてイングランド銀行理事を務めた。彼は初めてのユダヤ人イングランド銀行理事だった。この役職は名誉職ではなく、アルフレッド・チャールズも20年以上の長期にわたってこの職務に熱心に取り組んだが、絵画購入をめぐりスキャンダルで引責辞任した。
 バッキンガムシャーのハルトンに豪邸ハルトン・ハウスを建設した。バッキンガムシャー沿岸地域は質素な雰囲気の屋敷が多かったので、この「邸宅は絢爛すぎて周囲との調和にかける。」との批判もあった。ロンドンのシーモア・プレイス1番地にも邸宅を建てたが、こちらは都市部だけに周囲とよく調和していた。同じシーモア・プレイスで暮らし、この邸宅をよく訪問した首相ベンジャミン・ディズレーリは「ロンドンで最も魅力ある家で、装飾と家具の素晴らしさは、その趣味の良さを示している。」と絶賛していた。
しかしシーモア・プレイスの屋敷は後に取り壊され、現存していない。
 西暦1918年01月31日にシーモア・プレイスの邸宅で死去した。西暦1915年には兄ナサニエル・メイヤー、西暦1917年には弟レオポルド・ライオネルが先立っていた。いずれも第1次世界大戦中のことである。大戦中は税制が変更されており、相続税が莫大になっていた。そのような時期にロスチャイルド家3兄弟が相次いで死去したことがロンドン・ロスチャイルド家の衰退に繋がった。3兄弟の死後、Ǹ・M・ロスチャイルド&サンズの銀行業は長兄ナサニエル・メイヤーの次男ナサニエル・チャールズが継いだものの、彼は病弱だったため間もなく退任し、レオポルド・ライオネルの息子であるライオネル・ネイサンとアンソニー・グスタフの兄弟が経営を主導するようになった。
 芸術を愛し、美術品蒐集家であった。著述家ドロシー・ファニー・ネヴィル(Dorothy Fanny Nevill )はアルフレッドの芸術への鑑識眼について「西暦18世紀フランス芸術についての英国で最も立派な素人鑑定家であろう。」と絶賛した。ルネサンス絵画にも惹かれていたが、猶太教徒としての宗教的な理由から買うのは控えていた。音楽にも造詣が深く、趣味で交響楽団の指揮をよく取った。その指揮棒はダイヤモンドの輪が付いた象牙の物だった。演奏家たちのための慈善講演会もよく開催した。また近衛騎兵連隊や近衛旅団の軍楽隊がその演奏会の切符を売り捌くことができたのもアルフレッドの手回しのお蔭だった。値段が法外で軍は買い手を探すのに苦労していたが、アルフレッドが号令を発すると英国上流階級が一斉に買った。
 ソプラノ歌手のネリー・メルバ(Nellie Melba)、ヴァイオリニストのミハイル・サウロヴィチ・’ミッシャ’・エルマン(Mikhail Saulovich 'Mischa' Elman)などの音楽家を財政的に支えた。コヴェント・ガーデン(ロンドン中心部シティ・オブ・ウェストミンスター中に存在する地区。ここではロイヤル・オペラ・ハウスを指す)での演奏会の著名な出演者は、全員アルフレッド邸の夜会でも演奏していたが、それでもなおアルフレッドはコヴェント・ガーデンの棧敷席を予約するので不思議がられていた。
 アルフレッドは同じ上流階級の間ではその愛嬌で人気があったが(ロスチャイルド家3兄弟の中で英国財界での交友関係が最も盛んなのは彼だった)、下層階級への接し方はどこかぎこちなかった。
 アルフレッドは生涯結婚せず、子供も公式にはいない。
 しかし彼は遺産の大半を、第5代カーナーヴォン伯ジョージ・エドワード・スタンホープ・モリニュー・ハーバートは、西暦1895年にアルミナ・ヴィクトリア・マリア・アレクサンドラ・ウォムウェル(Almina Victoria Maria Alexandra Wombwell)と結婚した。彼女は戸籍上はフレデリック・ウォムウェル(Frederick Charles Wombwell)の娘だが、「実際にはロスチャイルド家の一員であるアルフレッド・ド・ロスチャイルドの娘ではないか。」と言われる。アルフレッドはアルミナ・ヴィクトリア・マリア・アレクサンドラ・ウォムウェルの巨額の持参金を拠出しており、また結婚後も度々アルミナ・ハーバートに金銭支援を行っており、さらに西暦1918年にアルフレッドが死去した際にはその遺産の大半をアルミナ・ハーバートとジョージ・ハーバートが相続した。いずれにしてもアルフレッドからの援助のおかげで経済的に恵まれていた。
 17歳の時に遺跡発掘現場の助手としてエジプトに渡り高等教育も受けていない若手の考古学者ハワード・カーターと共に新王国時代最初の古代エジプト第18王朝(西暦前1570頃〜前1293年頃)末期の最後の直系王族ファラオ、トゥタンカーメン(トゥトアンクアメン、twt-ꜥnḫ-ı͗mn、エジプト語ラテン文字表記: Tut ankh Amun、Tutankhamun、Tutankhamen)の墳墓を暴くのに、ロスチャイルド家の資金を使った。

 「遺産はロスチャイルド家の男子のみに残す。」というのがロスチャイルド家の家訓であり、アルミナへの遺産相続は家訓に反してのものだった。アルフレッドには妻子がなく法律上の遺留分もないのでロスチャイルド家の方でも手の打ちようがなく、アルフレッドの遺書によってロスチャイルド家の財産はかなりの部分がカーナーヴォン伯爵家に移っていった。これもロスチャイルド家の衰退を加速させた。


   第1子(長女)アルミナ・ヴィクトリア・マリア・アレクサンドラ(Almina Victoria Maria Alexandra)。カーナーヴォン伯爵夫人アルミナ・ヴィクトリア・マリア・アレクサンドラ・ハーバート(Almina Victoria Maria Alexandra, Countess of Carnarvon、旧姓: ウォンブウェル(Wombwell))は、第5代カーナーヴォン伯ジョージ・エドワード・スタンホープ・モリニュー・ハーバートの妻で、ハンプシャーのハイクレア城の城主であった。 2度目の結婚後、彼女はアルミナ・デニストン夫人(Mrs Almina Dennistoun)となったが、彼女はアルミナ・カーナーヴォン(Almina Carnarvon)と名乗っていた。彼女の富が、古代エジプト第18王朝末期の最後の直系王族ファラオ、トゥタンカーメンの墓を暴くための資金を提供した。
 彼女はロンドンのメイフェアで、マリー・「ミナ」・ウォンブウェル(Marie 'Mina' Wombwell、旧姓: ボイヤー(Boyer))の名目上の子供として、アルミナ・ビクトリア・マリア・アレクサンドラ・ウォンブウェル(Almina Victoria Maria Alexandra Wombwell)として生まれた。ウォンブウェルは、実業家でイギリス陸軍の退役将校であるフレデリック・チャールズ・ウォンブウェル(Frederick Charles Wombwell)大尉のフランス人妻であった。しかし、彼女の実父はロスチャイルド家の銀行家アルフレッド・ド・ロスチャイルド(Alfred de Rothschild)であり、彼は彼女にかなりの財産を与えた。これには第5代カーナーヴォン伯ジョージ・エドワード・スタンホープ・モリニュー・ハーバートとの結婚時に50万ポンドの信託、西暦1918年にアルフレッド・ド・ロスチャイルドが亡くなった時に5万ポンドとメイフェアにある彼の家と美術蒐集品が含まれており、その多くは彼女が売却した。
 第1次世界大戦の初め、カーナーヴォン伯爵夫人アルミナ・ヴィクトリア・マリア・アレクサンドラ・ハーバートはハイクレア城に戦争負傷者のための病院を開設し、組織作りを手伝い、看護婦として助手を務めた。 病院は後にロンドンのメイフェアに移転した。西暦1919年、カーナーヴォン夫人は戦争での功績により大英帝国勲章のコマンダー(司令官、CBE)に任命されたが辞退した。
 夫の第5代カーナーヴォン伯ジョージ・ハーバートはエジプト学に興味を持ち、カーナーヴォン伯爵夫人アルミナ・ハーバートの富に助けられ、エジプトの王家の谷にあるトゥタンカーメンの墓の探索の資金援助者となった。第5代カーナーヴォン伯ジョージ・ハーバートは屡々エジプトで冬を過ごした。カーナーヴォン伯爵夫人アルミナ・ハーバートは初期の頃は若手の考古学者ハワード・カーターに同行していたが、西暦1922年11月に新たに発見された墓の開会式には出席していなかった。
 西暦1923年03月、カーナーヴォン伯爵夫人アルミナ・ハーバートは肺炎で重病だった夫の第5代カーナーヴォン伯ジョージ・ハーバートに会うためにエジプトへ渡った。夫の第5代カーナーヴォン伯ジョージ・ハーバートは西暦1923年04月05日に亡くなり、カーナーヴォン伯爵夫人アルミナ・ハーバートはその月の後半に第5代カーナーヴォン伯ジョージ・ハーバートの遺体とともにイギリス王国に戻った。彼女は西暦1925年までハワード・カーターの墓の発掘に資金援助を続け、エジプト当局と和解し、3万6000ポンドの補償金と引き換えに墓の内容物に対する権利を放棄した。
 西暦1923年12月、第5代カーナーヴォン伯ジョージ・ハーバートの死後8ヶ月後でアルミナ・ヴィクトリア・マリア・アレクサンドラ・ハーバートは退役したグレナディア近衛歩兵連隊将校のイアン・オンスロー・デニストン(Ian Onslow Dennistoun)中佐と結婚した。
 西暦1925年、アルミナ・デニストン夫人は「独身者訴訟」として知られる、イアン・オンスロー・デニストン大佐と元妻のドロシー・デニストン(Dorothy Dennistoun)の間の高等法院訴訟に巻き込まれた。離婚した際、イアン・オンスロー・デニストンは慰謝料を支払うことができず、代わりに「将来、資金ができたら元妻ドロシー・デニストンを養う。」と約束していた。ドロシー・デニストンはアルミナ・デニストン夫人の富について聞き、約束されていた扶養料を要求した。アルミナ・デニストン夫人はこれを脅迫とみなし、新しい夫イアン・オンスロー・デニストンに法廷で争うよう説得した。この訴訟を担当したヘンリー・マッカーディー(Henry McCardie)は、この訴訟を「私が知る限り最も辛辣な訴訟」と呼んだ。ノーマン・バーケット(Norman Birkett)の法廷での発言により、陪審員はイアン・オンスロー・デニストンが元妻ドロシー・デニストンに扶養料を支払うという合意を無視する決定を下した。
 第5代カーナーヴォン伯ジョージ・ハーバートの死後、アルミナ・デニストンはハイクレア城の敷地内に家を与えられ、その後デニストン大佐と共にワイト島に移住した。喘息持ちのイアン・オンスロー・デニストン大佐は健康を害することが多く西暦1938年に亡くなった。その後、アルミナはロンドンのリージェンツ・パークに家を借り、西暦1943年にサマセット州マインヘッド近くの小家屋に引っ越した。彼女は息子から経済的援助を受けていたが、収入以上の生活を続け、借金が膨らみ、西暦1951年に破産宣告を受けた。
 アルミナはサマセットの小家屋を売却し、ブリストルの長屋建て住宅に移り、そこで家政婦兼付き添いのアン・リードベター(Anne Leadbetter)と暮らした。アルミナは西暦1969年05月08日、ブリストルのフレンチー病院で93歳で亡くなった。

西暦1895年06月26日、19歳のアルミナ・ヴィクトリア・マリア・アレクサンドラ・ウォムウェル(Almina Victoria Maria Alexandra Wombwell)は、ウェストミンスターのセント・マーガレット教会で第5代カーナーヴォン伯ジョージ・エドワード・スタンホープ・モリニュー・ハーバートと結婚し1男1女を儲けた。
 西暦1923年12月、第5代カーナーヴォン伯ジョージ・ハーバートの死後8ヶ月後でアルミナ・ヴィクトリア・マリア・アレクサンドラ・ハーバートは退役したグレナディア近衛歩兵連隊将校のイアン・オンスロー・デニストン中佐と結婚したが、イアン・オンスロー・デニストン大佐西暦1938年に亡くなった。

    第1子(長男)第6代カーナーヴォン伯ヘンリー・ジョージ・アルフレッド・マリウス・ビクター・フランシス・ハーバート(Henry George Alfred Marius Victor Francis Herbert, 6th Earl of Carnarvon)。
 生まれた時からポーチェスター卿と呼ばれた彼は、両親から愛情のない育てられ方をされ、祖母のマリー・「ミナ」・ウォンブウェル(Marie 'Mina' Wombwell、旧姓: ボイヤー(Boyer))と多くの時間を過ごしていたことを回想録に記している。
 第1次世界大戦中はインドとメソポタミアで第7女王直属軽騎兵隊に従軍し、戦後も軍に残った。
 彼は西暦1923年04月、考古学者ハワード・カーターのトゥタンカーメンの墓の探索に資金を提供した父第5代カーナーヴォン伯ジョージ・エドワード・スタンホープ・モリニュー・ハーバートの死に伴い、カーナヴォン伯爵を相続した。新伯爵は、この「ツタンカーメンの呪い」説について、「どんなに懐疑的だったとしても、この問題を直ぐに却下することはできない。」と述べ、04月05日にエジプトで父が亡くなった瞬間、「家族の飼い犬が吠え、一家の居城であるハイクレア城で哀れな死を遂げた。」と主張した。伯爵になると、ハイクレア城とその4000エーカーの敷地の維持管理の責任を引き受けた。彼の母親アルミナ・ヴィクトリア・マリア・アレクサンドラは最初の夫の死後わずか8か月で再婚した。
 西暦1940年03月、第6代カーナーヴォン伯ヘンリー・ジョージ・アルフレッド・マリウス・ビクター・フランシス・ハーバートは中尉として第7軽騎兵連隊に再入隊した。第2次世界大戦中、彼はイギリス王国でいくつかの参謀職を務め、中佐に昇進した。西暦1948年、彼は米国ブロンズスター勲章を授与された。

 カーナーヴォン伯の趣味には狐狩り、雷鳥狩り、ポロなどがあったが、彼の最大の関心事は競馬だった。彼は「競馬と繁殖は生き方であり、私は死ぬまで続ける積りだ。」と宣言した。彼は15歳の時から競走馬を所有し続けた。また、彼は父親が設立し​​たハイクレア飼育場を所有し、経営していた。この飼育場は西暦1930年のエプソム・ダービー優勝馬ブレナムを含む多くの優勝馬を育てた。彼は平地競馬でアマチュア騎手として定期的に乗馬していた。彼の長男の第7代カーナーヴォン伯ヘンリー・ジョージ・レジナルド・モリニュー・ハーバートは、馬とその繁殖に対する家族の愛情を受け継ぎ、エリザベス2世(Elizabeth II)女王の競馬マネージャーとなった。
 西暦1987年09月22日、88歳で死去し、息子のヘンリー・ジョージ・レジナルド・モリニュー・ハーバートがカーナヴォン伯爵の跡を継いだ。ヒュー・ジョン・マッシンバード(Hugh John Massingberd)」による彼の死亡記事では、彼は「最も妥協を許さない率直な女性好き」と評されている。
 第6代カーナーヴォン伯ヘンリー・ジョージ・アルフレッド・マリウス・ビクター・フランシス・ハーバートは、西暦1922年07月17日、ウェストミンスターのセント・マーガレット教会で、俳優ジェイコブ・ウェンデル(Jacob Wendell)の娘で、ギャロウェイ伯爵夫人フィリッパ・スチュワート(Philippa Stewart, Countess of Galloway)の妹のニューヨーク市のアン・キャサリン・トレディック・ウェンデル(Anne Catherine Tredick Wendell)と結婚し1男1女を儲けた後、西暦1936年に離婚。
     第1子(長男)第7代カーナヴォン伯爵ヘンリー・ジョージ・レジナルド・モリニュー・ハーバート(Henry George Reginald Molyneux Herbert, 7th Earl of Carnarvon)。西暦1956年01月07日、オリバー・マルコム・ワロップ卿とジーン・ムーア卿の娘ジーン・マーガレット・ワロップと結婚し2男1女をなした。
      第1子(長男)第8代カーナーヴォン伯ジョージ・ハーバート(George Herbert, 8th Earl of Carnarvon)。
      第2子(次男)ヘンリー・「ハリー」・ハーバート(Henry ’Harry’ Herbert)。
      第3子(長女)キャロリン・ハーバート(Carolyn Herbert)。
     第2子(長女)アン・ペネロペ・マリアン・ハーバート(Anne Penelope Marian Herbert)。西暦1945年04月21日、R .A. G. ファン・デル・ワウデ(R. A. G. van der Woude)とその妻メアリー・ウェンデル(Mary Wendell、ハーバード大学教授バレット・ウェンデル(Barrett Wendell)の娘)の息子レイニエ・ゲリット・アントン・ファン・デル・ワウデ(Reinier Gerrit Anton van der Woude)大尉と従甥・従伯母婚し、2男1女をなした。
      第1子(長男)マイケル・ゲリット・ファン・デル・ワウデ(Michael Gerrit van der Woude)。
      第2子(次男)デビッド・アンソニー・ファン・デル・ワウデ(David Anthony van der Woude)。
      第3子(長女)ペネロペ・キャサリン・メアリー・ファン・デル・ワウデ(Penelope Catherine Mary van der Woude)。
 第6代カーナーヴォン伯ヘンリー・ジョージ・アルフレッド・マリウス・ビクター・フランシス・ハーバートは、アン・キャサリン・トレディック・ウェンデルとの離婚後、西暦1939年09月01日にアンシュルス(西暦1938〜1945年、オーストリア)のダンサーでティリー・ロッシュ(Tilly Losch)という芸名を持つオティリー・エセル・レオポルディン・ロッシュ(Ottilie Ethel Leopoldine Losch)と結婚し西暦1947年に離婚。
    第2子(長女)エヴェリン・レオノーラ・アルミナ・ボーチャム(Evelyn Leonora Almina Beauchamp、旧姓: Herbert)。
 夫ブログレイブの父初代ボーチャム準男爵が西暦1925年02月に死ぬと、ブログレイブは第2代ボーチャム準男爵に叙せられた。西暦1931〜1945年までウォルサムストウ東選挙区の保守党議員を務めた。エヴェリン・レオノーラ・アルミナ・ボーチャム夫人は西暦1920年から毎年冬に父親がエジプトに旅行する際に同行するようになり、ハワード・カーターを子供の頃から知っていた。そのためトゥタンカーメンの墳墓を暴く映画、テレビ番組、小説で登場した。
 父第5代カーナーヴォン伯ジョージ・エドワード・スタンホープ・モリニュー・ハーバートや兄第6代カーナーヴォン伯ヘンリー・ジョージ・アルフレッド・マリウス・ビクター・フランシス・ハーバート同様、エヴェリン・レオノーラ・アルミナ・ボーチャム夫人は競走馬を何頭も所有し、競馬会に頻繁に出席し、マスコミでは「小柄で魅力的、競馬界で絶大な人気」と評された。また、ロンドン協会にも深く関わり、ザ・タトラーなどの協会の出版物に定期的に登場した。兄ヘンリーとは親しい関係を保ち、ヘンリーが第6代カーナーヴォン伯爵になった後もハイクレア城の改修と近代化の監督に協力した。
 西暦1935年07月、サフォークのニューマーケットに向かう途中で大事故に遭い、ロンドンで療養した。彼女は第1次世界大戦中に母親が設立し​​た養老院で暮らした。その後、彼女は脳卒中を何度も患った。エヴェリン・レオノーラ・アルミナ・ボーチャム夫人は、ブログレイブ・ボーチャムの死から3年後の西暦1980年01月31日に78歳でロンドンで亡くなった。

 西暦1923年、ウェストミンスターのセント・マーガレット教会でブログレイブ・ボーチャム(Brograve Beauchamp)と結婚し1女をなした。出産は難産で、その後エヴェリン・レオノーラ・アルミナはもう子供を産めない身体になった。
     第1子(長女)パトリシア・エヴェリン・ボーチャム(Patricia Evelyn、旧姓: Beauchamp)。西暦1949年、パトリシアはマイケル・ウィリアム・トーマス・リーサム(Michael William Thomas Leatham)少佐と結婚し2男をなした。
      第1子(長女)サイモン・アンソニー・マイケル・リーサム(Simon Anthony Michael Leatham)。
      第2子(次男)エドワード・アーサー・マーティン・リーサム(Edward Arthur Martyn Leatham)。
  第5子(三男)レオポルド・ライオネル(Leopold Lionel de Rothschild, CVO)。愛称はレオ。ロンドン・ロスチャイルド家の庶流の1人で、彼から多くの庶流が生まれた。
 ロンドン・ロスチャイルド家第2代当主ライオネル・ド・ロスチャイルドの三男としてロンドンで生まれた。母はナポリ家の祖カール・マイアー・フォン・ロートシルト(Carl Mayer von Rothschild)の長女シャルロッテ(Charlotte von Rothschild)。長兄にナサニエル・メイヤー、次兄にアルフレッド・チャールズがいる。兄2人と同じくケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに入学した。同大学在学中の西暦1850年代に王太子バーティ(アルバート・エドワード、後のエドワード7世)と親密になった。西暦1870年に文学修士の学位を取得した。
 西暦1879年に父ライオネルが死去すると、兄2人とともにN・M・ロスチャイルド&サンズの共同経営者となった。気の優しいレオポルド・ライオネルは3兄弟の中でも社員から一番人望があった。シティ・オブ・ロンドン総督やバッキンガムシャーの治安判事、副統監なども務めた。
 レオポルド・ライオネルは4つの邸宅、ハウンズロー・ロンドン特別区ガナーズベリー・パーク近くの邸宅、シティ・オブ・ウェストミンスター地区のハミルトン・プレイス5番地の邸宅、ニューマーケット競馬場近くの邸宅、アスコットの邸宅を所有していた。

 アスコット競馬場に隣接するサウスコートにある種馬飼育場をネイサン・メイヤー・ロスチャイルドの四男、叔父メイヤー・アムシェルから相続していたレオは、競馬に熱心だった。西暦1879年と西暦1909年の2度のダービーで彼の持ち馬が優勝した。また西暦1896年のダービーは彼の持ち馬「セント・フラスキン(St Frusquin)」が最有力だったが、王太子バーティの無名の持ち馬「パーシモン」が優勝した。ちょうど王太子が女性問題で人気を落としており、世間の喝采を得られるような功績を必要としていた時期だったため、このレースにパーシモンが勝利したのは王太子の苦しい立場に同情したレオの配慮ではないかと言われる。
 西暦1902年にロイヤル・ヴィクトリア勲章(Royal Victorian Order)コマンダー(司令官 CVO)章を受章した。西暦1912年03月にはセント・スウィッシン・レーンで、以前に世話をした精神異常者漢ウィリアム・テビット(William Tebbit)がレオポルド・ライオネルがの車に向けてリボルバーから5発の銃弾を発射し車内を銃弾で撃ち抜いたが、殺人は未遂で済んだ。
 西暦1917年05月29日に死去。71歳だった。西暦1915年には長兄ナサニエル・メイヤー、西暦1918年には次兄アルフレッド・チャールズも死去している。いずれも第1次世界大戦中のことで、第1次世界大戦中は税制が変更されており、相続税が莫大になっている時期だった。そのような時期にロスチャイルド家3兄弟が相次いで死去したことが英国ロスチャイルド家の衰退に繋がった。
 3兄弟の死後、N・M・ロスチャイルド&サンズの銀行業は長兄ナサニエル・メイヤーの次男アルフレッド・チャールズが継いだものの、彼は病弱だったため、まもなく退任し、レオポルド・ライオネルの息子であるライオネル・ネイサンとアンソニー・グスタフの兄弟が経営を主導するようになった。長兄のナサニエル・メイヤーは貴族的な傲岸不遜さがあったが、レオポルド・ライオネルは気さくで親切な人物だった。
 熱心な慈善活動家でもあり、特に子供好きのレオポルド・ライオネルは子供絡みの慈善活動に惜しみなく金を出した。ロスチャイルド家に慈善活動の支援者になって欲しいが、ぶっきらぼうな長兄ナサニエル・メイヤー、変わり者の次兄アルフレッド・チャールズに相談しにくいという慈善活動家はほとんどの場合、天真爛漫なレオポルド・ライオネルの所へ相談に行ったという。理由は不明だが、寒い日は特にレオポルド・ライオネルの機嫌がよかったらしく、気前よく寄付してくれた。また競馬でカップを取ると彼は大喜びしてその賞金の数倍のお金をお祝いとして支出したが、その時もレオポルド・ライオネルが慈善活動に惜しみなく金を出す時であった。彼の馬が優勝するとどこかの病院に病棟が建つといったことも稀ではなかった。セシル・ロス(Cecil Roth)は、レオポルド・ライオネルについて「貴方のような人は地球上にほとんどいない。お金を持った天使だもの。」という詩を残した。
 西暦1881年01月19日にロンドンの中央シナゴーグで、トリエステの商人アキッレ・ペルージャ(Achille Perugia)の娘マリー・ペルージャ(Marie Perugia)と結婚し3男を儲けた。結婚式には友人である王太子バーティも出席した。英国王太子がユダヤ人の式典に出席したのは英国史上初めてであった。マリーの妹ルイーズ(Louise)はアーサー・サッスーン(Arthur Sassoon)と結婚し、アシュケナジーム猶太のロスチャイルド家は、セファルディーム猶太サッスーン家と姻戚になった。

   第1子(長男)ライオネル・ネイサン(Lionel Nathan de Rothschild, OBE)。 ロンドン・ロスチャイルド家の銀行業を継承。
 西暦1903年からN・M・ロスチャイルド&サンズに勤めるようになった。西暦1910〜1923年にかけてアリスバーリー選挙区選出の保守党の庶民院議員を務めた。1914年の第1次世界大戦時には国防義勇部隊予備役少佐の地位にあった。ライオネル・ネイサン自身は出征を希望していたが、一族から高齢のN・M・ロスチャイルド&サンズ共同経営者たち(父レオポルド・ライオネルと2人の伯父ナサニエル・メイヤーとアルフレッド・チャールズ)を支えることを期待されたため、イギリス本国に留まることになった。しかし彼の弟2人は最前線で戦ったため(長弟エヴェリン・アシルは戦死)、この時に出征しなかったことはライオネル・ネイサンに生涯の自責の念を与えた。
 西暦1915年に伯父初代ロスチャイルド男爵ナサニエル・メイヤーが死去すると、その次男であるナサニエル・チャールズがN・M・ロスチャイルド&サンズの経営を主導するようになったが、ナサニエル・チャールズは病気でまもなく引退したため、ライオネル・ネイサンと次弟アンソニー・グスタフが会社の主導権を握るようになっていった。
 西暦1917年に大英帝国勲章オフィサー(将校 OBE)を受勲した。
 西暦1930年代、国民社会主義ドイツ労働者党(NSDAP。ナチス党)政権の誕生によりドイツ国でユダヤ人迫害が強まった。これを憂慮したライオネル・ネイサンは、本家のナサニエル・メイヤー・ヴィクターや弟アンソニー・グスタフと共に「ドイツユダヤ人のための英国中央基金」や「ドイツユダヤ人のための委員会」などの募金機関を立ち上げ、ドイツユダヤ人の亡命と亡命後の生活の支援を行った。とりわけ1世代若いナサニエル・メイヤー・ヴィクターがこの救済活動に熱心だった。やや高齢のライオネル・ネイサンとアンソニー・グスタフの兄弟は、イギリス社会から排除されないためには、まずイギリス人として行動するべきでユダヤ人であることは二の次という考え方が染み付いていたため、運動に掛ける情熱には温度差もあったものの、兄弟も出来る限り多くのユダヤ人を救おうと奔走したことに疑いはない。
 西暦1942年01月28日にケンジントン宮殿で死去。以降、会社の経営は弟アンソニー・グスタフが主導するようになった。
 植物に造詣が深く、サザンプトン郊外にエクスベリー庭園を創設した。その庭園への情熱の注ぎようから「庭園師が本職で銀行業は趣味」とまで評された。また航海、温泉、山歩きも趣味だった。

 パリ在住のエドモンド・ビーアの娘マリー・ルイーザ・ユージェニー・ベーア(Marie Louise Eugénie Beer)と結婚し、2男2女を儲けた。
    第1子(長女)ローズマリー・レオノラ・ルース(Rosemary Leonora Ruth)。デニス・ゴマー・ベリー少佐(Denis Gomer Berry)の最初の妻。
    第2子(長男) エドムンド・レオポルド(Edmund Leopold de Rothschild, CBE, TD)。愛称はエディ。西暦1955年〜1975年にかけてN・M・ロスチャイルド&サンズの経営を任せられていた。カナダのニューファンドランド州の総合開発事業で知られる。
 西暦1928年に父ライオネル・ネイサンが庶民院議員を辞職したのを機にパークハウスからケンジントン・パレス・ガーデン18番地へ引っ越した。西暦1934年にケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに入学した。大学の陸軍訓練部隊に所属していたエドムンドは1935年の夏休みから王立バッキンガムシャー義勇農騎兵連隊に所属した。大学卒業後の西暦1937年10月から西暦1939年05月にかけて世界旅行に出た。まず大英帝国自治領南アフリカ連邦(西暦1910〜1961年)へ向かい、アフリカ旅行を開始し、元ドイツ植民地の英委任統治領タンガニーカ(西暦1919〜1961年)まで足を伸ばした。アフリカ旅行を終えると南アフリカから日本の商船「さんとす丸」に乗船して南米ブラジル連邦共和国(西暦1822年〜)へ渡航した。アルゼンチン共和国(西暦1816年〜)やチリ共和国(西暦1818年〜)、エクアドル共和国(西暦1822/1830年〜)、コロンビア共和国(西暦1810年〜)、パナマ共和国(西暦1821/1903年〜)など南米諸国を歴訪した。パナマから大英帝国自治領ニュージーランド(西暦1907年〜)とオーストラリア(西暦1901年〜)へ渡航し、さらに英領シンガポール(西暦1824〜1942年)へ渡航してフランス領インドシナ(西暦1887〜1945、1945〜1949.1953.1954年)、英領インド帝国などアジア各地を歴訪した。英領インドではガンジーと会見した。ガンジーは国民社会主義ドイツ労働者党(NSDAP。ナチス党)の擡頭など反ユダヤ主義が高まるヨーロッパでのユダヤ人の苦境に同情しながらも、暴力の抵抗ではなく、不服従で抵抗すべき。」と訴えた。「それで殺されてしまったらどうなるのです?」とエドムンド・レオポルドが問うとガンジーは「人は力によって得る物は何もありません。ただ失うだけなのです。」と答えた。
 アジア旅行を終えると、19ヶ月にわたった世界旅行を終了させて西暦1939年05月にイギリス王国に帰国した。帰国翌月の06月にN・M・ロスチャイルド&サンズに入社した。
 西暦1939年09月の第2次世界大戦の開戦時、エドムンド・レオポルドは国防義勇軍において砲兵隊に所属する中尉であった。そのため開戦とともにエドムンドは再び軍務に就き、砲撃訓練や軍事教練、野戦演習に明け暮れる日々を送った。彼の所属する部隊は西暦1940年01月にフランスへ送られた。しかし西暦1940年05月から開始されたドイツ軍の西方電撃戦を前にダンケルクの撤退を余儀なくされた。その後しばらくイギリス国内に駐留していたが、西暦1943年03月には北アフリカ戦線に参加し、続くイタリア戦線にも参加した。西暦1944年30月〜05月のモンテ・カッシーノの戦いでは何度か危機的状況に瀕して負傷した。連合軍のローマ占領後、ローマ法王ピウス12世から引見を受けたエドムンド・レオポルドはドイツ国におけるユダヤ人の悲惨な状況を法王に訴えた。法王ピウス12世(Pius XII、エウジェニオ・マリア・ジュゼッペ・ジョヴァンニ・パチェッリ(Eugenio Maria Giuseppe Giovanni Pacelli))はそれに衝撃を受けた様子で「そのようなことは2度と繰り返されてはなりません。」と述べた。西暦1944年11月には少佐に昇進しユダヤ歩兵旅団に移籍した。彼の所属するユダヤ人部隊はボローニャまで進軍し、そこで終戦を迎えた。しかしユダヤ歩兵旅団に参加しているユダヤ人の家族の多くは強制収容所で非業の死を遂げており、終戦前後から徐々にその情報が判明したため、部隊は暗澹たる空気に包まれた。終戦後も連合軍軍政期ドイツ(西暦1945〜1949年)、ベルギー王国(西暦1830年〜)、ネーデルラント(オランダ)王国(西暦1830年〜)などに駐留して軍の任務に当たったが、西暦1946年05月には復員(兵役解除)となり、イギリス王国へ帰国した。
 第2次世界大戦中の西暦1942年に父ライオネル・ネイサン・ド・ロスチャイルドは病死しており、以降N・M・ロスチャイルド&サンズの経営は叔父アンソニー・グスタフ・ド・ロスチャイルドが見ていた。復員したエドムンド・レオポルドもN・M・ロスチャイルド&サンズの共同経営者(ジュニア・パートナー)となったものの、未だ銀行業務経験が不足していたので最高経営責任者(シニア・パートナー)である叔父アンソニー・グスタフが引き続き経営を主導した。
 西暦1955年にアンソニー・グスタフが脳溢血で倒れ、エドムンド・レオポルドがその代行者となった。アンソニー・グスタフの側近だったデビッド・コルビルとマイケル・バックスの補佐を受けて銀行経営を主導するようになった。西暦1960年には正式にアンソニー・グスタフドの跡を継いで最高経営責任者(シニア・パートナー)となった。西暦1956年から弟レオポルド・デーヴィッドが共同経営者になり、西暦1960年にはアンソニー・グスタフの子(従弟)のエヴェリン・ロバート・エイドリアンも経営に参画するようになった。さらに西暦1963年には本家の第4代ロスチャイルド男爵ナサニエル・チャールズ・ジェイコブも共同経営者となった。
 英国首相ウィンストン・チャーチルやカナダのニューファンドランド州首相ジョゼフ・ロバーツ・スモールウッド(Joseph Roberts Smallwood PC CC)の要請でアンソニー・グスタフが開始したブリティッシュ・ニューファンドランド(BRINCO)(ニューファンドランドの1800万㎢の土地で資源開発を行う会社)の事業を継承し、ウラニウム地下資源や木材資源の開発を拡大させ、同事業をカナダで最大規模の総合開発に成長させた。また同地にチャーチル滝発電所を建設して発電事業も行った。この発電所は個人企業の発電所としては過去最大規模の物となった。
 英国内の銀行業の方も順風満帆であり、化学のインペリアル・ケミカル・インダストリーズ、石油のロイヤル・ダッチ・シェル、ダイヤモンドのデ・ビアス、重工業のヴィッカース、紅茶のリプトン、保険のロイヤル・アンド・サン・インシュランス・アライアンスなどの大企業を財政面から支えた。
 西暦1951年に日英関係が回復した後、ロスチャイルド家は日本の大和銀行、住友銀行、横浜銀行、日本興業銀行と取引を開始し、これらの銀行のためにポンド建て信用状を開設した。そのためエドムンド・レオポルドも日本財界と関係が深くなり、西暦1962年には友人の野村証券社長奥村綱雄らからシティ有力者として東京へ招待された。東京では内閣総理大臣池田勇人、大蔵大臣田中角栄、経済企画庁長官宮澤喜一、日本銀行総裁山際正道、三菱銀行頭取宇佐美洵など政財界要人と友好を深めた。また父ライオネル・ネイサンが創設したエクスベリー庭園から石楠花を宮内庁に寄贈し、それは皇居の庭園の一郭に埋められた。満開になると昭和天皇もよくそれを観覧した。この訪日でエドムンド・レオポルドは日本政財界から外資導入への熱望を寄せられ、その期待に応えて「パシフィック・シーボード・ファンド」を立ち上げて、日立、テイジン、東洋レーヨンなどの日本企業のためにユーロドル建て社債の発行を行うようになった。西暦1969年にはメリル・リンチや野村証券とともに「東京キャピタル・ホールディングス」を創設し、その監査委員会議長に就任した。これにより毎年1回は役員会や会合などのために訪日するようになった。資金提供を通じて日本の戦後復興に尽くした功績で勲一等瑞宝章を受勲した。
 西暦1975年にN・M・ロスチャイルド&サンズを退社して引退生活に入った。ちょうど社内ではナサニエル・チャールズ・ジェイコブとエヴェリン・ロバート・エイドリアンの対立が深まっている時期だったため、その仲裁の意味でナサニエル・チャールズ・ジェイコブの父第3代ロスチャイルド男爵ナサニエル・メイヤー・ヴィクターが代わって頭取となった。
 引退後は家族と一緒に過ごす時間が増えた。引退後も群馬県にあるゴルフのカントリークラブ「ツインレイクスカントリー」の名誉会長として毎年訪日した。西暦1977年には世界和平連合会の発会式に出席している。余生は常に穏やかだったわけではなく、西暦1986年11月に英国司法当局からMI5(英国国内情報部)の機密漏洩(ソ連の二重間諜))の疑いで捜査を言い渡されたことがある。西暦2009年01月17日に93歳で死去。

 西暦1948年にエリザベス・エディス・レントナー(Elizabeth Edith Lentner)と結婚し、2男2女を儲けた。子育てはほとんど妻エリザベス・エディスに任せていたが、エドムンド・レオポルドは次の2つのことだけは子供たちに教えようと心掛けていた。1つは彼自身や子供たちが享受している恵まれた生活にはそれ相応の義務が伴っていること、もう1つは自然に対する畏れと感謝の念である。
 西暦1980年にエリザベス・エディスと死別し、西暦1982年にアニー・エヴェリン(Anne Evelyn)と再婚したが、彼女との間に子供はなかった。
     第1子(長女)キャサリン・ジュリエット(Katherine Juliette) 。 バークレイズ会長のマーカス・アンブローズ・ポール・アギウス(Marcus Ambrose Paul Agius CBE)と結婚し子が2人いる。マーカス・アンブローズ・ポール・アギウスはカトリックだが、ハンプシャーのエクスベリー庭園にあるロスチャイルド家の邸宅に深く関わっている。
     第2子(長男)ニコラス・デヴィッド(Nicholas David)。
     第3子(次男)デヴィッド・ライオネル(David Lionel)。シャーロット・ヘンリエッタと双子。
     第4子(次女)シャーロット・ヘンリエッタ(Charlotte Henriette)。
 デヴィッド・ライオネルと双子。
 祖父ライオネル・ネイサン・ド・ロスチャイルドはハンプシャーに世界的に有名なエクスベリー庭園を建設し、彼女はそこで育った。石楠花の栽培で知られ、桃色の「シャルロット・ド・ロスチャイルド」は彼女に因んで名付けられた。
 世界的なソプラノ歌手である彼女は、日本での活動で知られる。「家族の結合(Family Connections)」というリサイタルを企画しました。このリサイタルでは、過去2世紀にわたって彼女の家族の友人や教師が作曲した曲が全て演奏された。彼女自身の先祖であるマチルド・ハンナ・フォン・ロスチャイルドの作品も含まれていた。
西暦1990年にナイジェル・S・ブラウン(Nigel S. Brown)と結婚。西暦2021〜2022年まで、ロスチャイルドはハンプシャーの武漢肺炎ワクチン接種センターでボランティアとして働いた。
    第3子(次女) ナオミ・ルイーザ・ニナ(Naomi Luisa Nina)。ナオミは、化学者、ベルトラン・ゴールドシュミット(Bertrand Goldschmidt)と西暦1947年02月に結婚。
 ベルトラン・ゴールドシュミットは、西暦1960年に初めてジェルボワーズ・ブルーでフランス共和国の初の核実験を行った。フランスの原子爆弾の父の1人と見做されているフランス共和国の化学者。国際原子力機関議長。
 ベルトラン・ゴールドシュミットはフランス人の母親とユダヤ人系のベルギー人の父親の許でパリで生まれた。西暦1933年にマリア・サロメア・スクウォドフスカ・キュリー(ポーランド語: Maria Salomea Skłodowska-Curie、仏語名: マリ・キュリー(Marie Curie)。キュリー夫人(Madame Curie))によってラジウム研究所に採用され、西暦1939年に博士号を取得した。マリ・キュリーの長女イレーヌ・ジョリオ・キュリー(Irene Joliot-Curie)は、夫ジャン・フレデリック・ジョリオ・キュリー(Jean Frédéric Joliot-Curie)共に共産主義に冒された原子物理学者で、ジャン・フレデリックはフランス共産党員、イレーヌは婦人同盟員。ジャン・フレデリック・ジョリオの父親は家具商人を経て音楽家で、母親はプロイセン支配に対する抵抗運動家6人兄弟の末っ子として生まれた。イレーヌの父ピエール・キュリー(Pierre Curie)の教え子のパリ市立工業物理化学高等専門大学校長ポール・ランジュヴァン (Paul Langevin)が、研究職に就くには条件不足だが、彼を尊敬し慕う卒業生のジャン・フレデリックをラジウム研究所でマリ・キュリーの助手となり、やがて2人は結婚した。ポール・ランジュヴァンも左派知識人によって結成された反ファシズム知識人監視委員会の副会長を務めた活動家。ジャン・フレデリック・ジョリオ・キュリーは「核分裂が1回起こるごとに、1〜3個の中性子が放出された。」と結論付けた。その数日後、ソビエト連邦のゲオルギー・フリョーロフとレフ・イリイチ・ルシノフもほぼ同様の研究結果を発表した。諜報活動で得た情報を送り、ソビエト連邦の核兵器開発は加速した。ジャン・フレデリック・ジョリオ・キュリーは、ソビエト連邦の著名な共産主義者や外国のソ連支持者に対して贈られる国際スターリン平和賞を受賞した。

 無辜の民間日本人を実験動物として、広島と長崎でに原子爆弾をが投下して大虐殺したのは、キュリー一家の姓である。

 マリ・キュリーはラジウムと言うα線源を無償で配った。娘夫婦のイレーヌ・ジョリオ・キュリーとジャン・フレデリック・ジョリオ・キュリーは、中性子線による連鎖反応を発見し、原子爆弾の目途を付け、フランス共和国やソビエト連邦の核拡散を行った。
 その上、鬼畜米占領下の日本では、ジョン・ディヴィソン・ロックフェラー・ジュニア(John Davison Rockefeller, Jr.)の飼い犬の嘘吐き詐欺師の人間の屑の野口英世と並んで、自らは善行と信じて大虐殺の原因を作ったキュリー夫人の伝記が、日本人を洗脳するため、小学校の図書館に並んでいる。


 第2次世界大戦争中、ベルトラン・ゴールドシュミットはポワティエの軍事研究所に勤務し、侵攻してきたドイツ軍の捕虜となった。後に解放され、占領されていない地域に移った。モンペリエで短期間教鞭を執ったが、降伏後のヴィシー政権フランス国(西暦1940〜1944年)がドイツ軍の圧力を受けてユダヤ人の地位を変更した。その後、彼はアメリカ合衆国に移住し、西暦1941年05月にニューヨークに到着し、自由フランス軍に加わった。
 原子力開発の出発点は、西暦1938年暮、国民社会主義ドイツ労働者党(NSDAP。ナチス党)政権下のドイツ国のカイザー・ヴィルヘルム研究所のオットー・ハーン(Otto Hahn)らが核分裂の発見をしたことにある。ちょうどこの時期に第2次世界大戦が始まり、原子爆弾開発の形で出発した。(エンリコ・フェル(Enrico Fermi)は後に、シカゴ・パイル1実験炉で世界初の人工自給型核連鎖反応を開始することになるプロジェクトに携わる科学者のグループの 1 人として、コロンビア大学にベルトラン・ゴールドシュミットを招いた。米国政府はフランス人科学者の参加を拒否する決定を下したが、ベルトラン・ゴールドシュミットは西暦1942年07月にグループへの参加を許可された。再処理技術開発の原点は、西暦1940年末から翌年春にかけてのグレン・セオドア・シーボーグ(Glenn Theodore Seaborg)らがプルトニウムを発見し、さらにPu239の核分裂性を確認したことにあった。ベルトラン・ゴールドシュミットは米国国内でマンハッタン計画(The Manhattan Project)に参加した唯一のフランス人となった。彼はグレン・セオドア・シーボーグのグループでプルトニウムとウランを分離するプルトニウムーウラン溶媒抽出(Plutonium Uranium Redox EXtraction、PUREX)法の開発に取り組み、シカゴ・パイル 1で生産された最初の1gのプルトニウムの抽出に関わった。マンハッタン計画の下で、西暦1944年秋から翌年春にかけハンフォードに大型再処理施設が完成したが、これらに採用された分離法は、古典的化学分析手法の拡大ともいえる、共沈法の一種であるリン酸ビスマス法であった。
 その後、彼はモントリオール研究所で英加核計画に参加し、ハンス・フォン・ハルバン(Hans Heinrich von Halban)、ジュール・ゲロン(Jules Guéron)、ピエール・ヴィクトール・オージェ(Pierre Victor Auger)、リュー・コワルスキー(Lew Kowarski)など、西暦1944年に計画に参加するフランス人科学者たちと協力した。彼らは西暦1945年09月、カナダ初の原子炉ZEEPの開発に貢献した。彼は西暦1946年に第四共和政(西暦1946〜1958年)フランス共和国に戻った。ベルトラン・ゴールドシュミットは西暦1945年にフランス原子力委員会(CEA)の創設者の1人となった。西暦1949年11月、彼と協力者のピエール・ルグノー(Pierre Regnault)、ジャン・ソーテロン(Jean Sauteron)、アンドレ・シェスネ(André Chesne )は、バランクール・シュル・エソンヌのブーシェ工場でゾエ原子炉の使用済み燃料から最初の数mgのプルトニウムを抽出した。これはフランスの原子爆弾製造に不可欠な段階だった。
 アイオワ州立大学のフランク・ハロルド・スペディング(Frank Harold Spedding)教授の下で、無機化学・分析グループのリーダーをしていた化学者ジェイムズ・C・ワーフ(James C. Warf)は、溶媒の酸分解による発熱に起因するトラブルに触発され、酸の分解に強い溶媒の研究を始めた。その結果TBP(リン酸トリブチル)が硝酸に対して安定であり、かつ極めて優れた抽出能力を持つことを発見した。彼はその結果を西暦1949年の米国化学学会誌に発表した。
 ジェイムズ・ワーフの研究結果をウラン・プルトニウムの分離に応用する研究が、直ちにGE社のノル(Knoll)原子力研究所で進められ、飛躍的に効率的なプルトニウム回収法としてのPUREX法の基礎が確立された。その成果に基づきオークリッジのパイロット・プラントが改造され、1950年から約3年間、PUREX法のホット実証試験が行われた。この時期はちょうど米ソの核の軍拡競争が激化し始めた頃であり、米国ではプルトニウムの増産に拍車がかけられた。こうしてPUREX法によるプルトニウム分離回収用の大型プラントがサバンナリバーとハンフォードに建設され、それぞれ西暦1954年と西暦1956年に稼動を開始した。
 一方米国化学学会誌に公表されたジェイムズ・ワーフの研究成果は、戦後フランスで再処理技術の研究を立ち上げつつあったベルトラン・ゴールドシュミットらの注目するところとなり、彼らは西暦1952年から米国とは全く独立にPUREX法の開発を進め、西暦1954年におこなわれた小規模確証試験の成果をもとに、マルクールにフランス共和国最初の再処理工場UP-1を西暦1958年に完成させた。当時ウランは資源量的にきわめて貴重と考えられており、フランスの再処理技術開発は、原子炉燃料用にウラン235の代替物質としてプルトニウムを生産することを目的として開始された。しかし、その後フランス政府は核兵器開発に踏み切ったため、UP-1は軍事用プルトニウムの生産施設の性格を併せ持つこととなった。
 ベルトラン・ゴールドシュミットはまた、イスラエル国の核計画の確立にも重要な役割を果たした。彼は西暦1954年にイスラエル国を訪れ、核問題について首相のダヴィド・ベン・グリオン(ヘブライ語: דוד בן-גוריון‎、David_Ben_Gurion.ogg David Ben-Gurion)と会談し、西暦1956〜1957年にかけては、ディモナ原子力施設の設立に繋がる交渉においてCEA職員の1人として務めた。
 ベルトラン・ゴールドシュミットは西暦1960年までフランス原子力委員会の化学部門を率いた。彼は原子力開発の歴史に関する多数の著書を執筆している。彼は西暦1958〜1980年まで国際原子力機関理事会のフランス代表を務めた。彼は西暦2002年06月11日にパリで亡くなった。

    第4子(次男) レオポルド・デイヴィッド(Leopold David de Rothschild, CBE, FRCM)。
 レオポルド・デイヴィッド・ド・ロスチャイルドは、イギリスの金融家、音楽家。幼少の頃から音楽が好きで、ピアニストとヴァイオリニストとして名声を博した。声楽家として、長年ロンドンのバッハ合唱団で歌い、後に同合唱団の団長を務めた。10代の頃、イギリス海軍に入隊し、2年間勤務した。彼はクーン・ローブ社、モルガン・スタンレー、グリン・ミルズ社で働き、西暦1956年に家族の経営するN・M・ロスチャイルド&サンズの共同経営者となった。
彼は銀行業で長く成功した経歴を積んだが、音楽と芸術への愛が彼の人生において重要な役割を果たした。彼は音楽家協会の名誉会員であり、多くの役職を務めた。

 慈善活動の一環として、彼は自身の「レオポルド・ド・ロスチャイルド慈善信託」を通じて、末期患者のためのセントジョーンズ・ホスピスをなど数多くの慈善団体に寄付した。さらに、彼の慈善信託はロンドン交響楽団、ロンドン・シンフォニエッタ、ランバート・ダンス会社を支援し、彼がフェロー (FRCM) であり、元評議会議長であった王立音楽大学で学ぶ学生に奨学金を提供している。
   第2子(次男)エヴェリン・アシル( Evelyn Achille de Rothschild)。 第1次世界大戦に将校として出征したが戦死。
 ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジを卒業し、文学士(BA)の学位を取得。
 西暦1914年に開戦した第1次世界大戦では、バッキンガムシャー国防義勇軍騎兵部隊「ヨーマンリー」に所属する少佐として出征し、殊勲者公式報告書に名前が載るほど勇戦したが、西暦1917年11月17日、パレスチナ戦線においてオスマン帝国軍との戦闘で戦死した。

   第3子(三男)アンソニー・グスタフ(Anthony Gustav de Rothschild)。愛称はトニー。ロンドン・ロスチャイルド家の銀行業を継承。
 ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジを卒業。西暦1913年に文学修士の学位を取得した。
 西暦1914年の第1次世界大戦にはバッキンガムシャー国防義勇軍騎兵部隊「ヨーマンリー」に所属する少佐として出征し、ガリポリの戦いに参加して負傷した。次兄エヴェリンも出征しており、パレスチナ戦線で戦死した。
 西暦1915年に伯父初代ロスチャイルド男爵ナサニエル・メイヤーが死去すると、その次男であるナサニエル・チャールズがN・M・ロスチャイルド&サンズの経営を主導するようになったが、ナサニエル・チャールズは病気でまもなく引退したため、ナサニエル・チャールズの従弟のライオネル・ネイサンとアンソニー・グスタフが会社の主導権を握るようになった。
 西暦1930年代、国民社会主義ドイツ労働者党(NSDAP。ナチス党)政権の誕生によりドイツ国でユダヤ人迫害が強まった。これを憂慮したアンソニー・グスタフは、本家の従甥第3代ロスチャイルド男爵ナサニエル・メイヤー・ヴィクターや兄ライオネル・ネイサンとともに「ドイツユダヤ人のための英国中央基金」や「ドイツユダヤ人のための委員会」などの募金機関を立ち上げ、ドイツ・ユダヤ人の亡命と亡命後の生活の支援を行った。とりわけ1世代若いナサニエル・メイヤー・ヴィクターがこの救済活動に熱心だった。やや高齢のライオネルとアンソニーの兄弟は、イギリス社会から排除されないためには、まずイギリス人として行動するべきでユダヤ人であることは二の次という考え方が染み付いていたため、運動に掛ける情熱には温度差もあったものの、兄弟も出来る限り多くのユダヤ人を救おうと奔走したことに疑いはない。。
 第2次世界大戦中にライオネル・ネイサンとアンソニー・グスタフ兄弟は法人組織「ロスチャイルド・コンティニュエーション(Rothschild Continuation)」を創設した。N・M・ロスチャイルド&サンズは個人営業であり、その経営権はロスチャイルド一族に限定されていた。兄弟としては空襲で自分たちの身に万が一があった場合に備えて法人組織を作っておくことにした。結局、アンソニー・グスタフは第2次世界大戦を無事に乗り切ったが、ロンドン空襲ではメイフェアにあったアンソニーの邸宅が焼失した。
 第2次世界大戦中の西暦1942年に兄ライオネル・ネイサンが病死し、以降N・M・ロスチャイルド&サンズの経営はアンソニー・グスタフが単独で主導するようになった。第2次世界戦争が終結すると、復員した兄ライオネル・ネイサンの長男エドムンド・レオポルドを共同経営者にしたものの、彼はまだ銀行業務が経験不足であり、また本家のナサニエル・メイヤー・ヴィクターは銀行業務に関心を示さないという状況だったため、アンソニー・グスタフには一族内に頼れる共同経営者がなかった。そのため、慣例に反しロスチャイルド一族以外の社員を重用した。とりわけデビッド・コルビルを総支配人として片腕とした。デビッド・コルビルは西暦1960年には共同経営者となっており、ロスチャイルド家以外の人間として初めてN・M・ロスチャイルド&サンズの経営に参画することになった)。
 イギリス王国は第2次世界大戦で負った打撃から立ち直れず、次々と植民地を喪失するなど衰退の一途を辿った。N・M・ロスチャイルド&サンズもその影響を免れなかった。アメリカ合衆国の銀行が次々とイギリス王国に進出してきて、戦後復興を牛耳った。その事業はN・M・ロスチャイルド&サンズと競合するものだった。イギリス銀行界の老舗のロスチャイルド家も愈々影が薄くなっていき、「ブランド1流、仕事3流」などと陰口されるようになった。だがそれでもロスチャイルド家には長年に渉って培った蓄積があり、イギリス政府と密接に結びついて積極的な事業を続けた。西暦1952年にはイギリス首相ウィンストン・レナード・スペンサー・チャーチルの要請を受けて、カナダのニューファンドランドに1800万㎢という広大な土地を購入し、ブリティッシュ・ニューファンドランド(BRINCO)を創設して同地の資源開発を進めた。リオ・ティントやスエズ運河会社などが参加している。この事業は「今世紀この大陸における最大の不動産取引」と評された。帝国主義者であるウィンストン・チャーチルも大いに喜び、この事業に「偉大なる帝国の受胎」という名前を付けていた。
 西暦1955年にアンソニー・グスタフ・ロスチャイルドは脳溢血で倒れ、経営の第一線から退いた。以降デビッド・コルビルとマイケル・バックスがエドムンド・レオポルドを支えて銀行業を主導した。西暦1961年02月05日に73歳で死去。
 アンソニー・グスタフの死後、エドムンド・レオポルドの弟レオポルド・デイヴィッドや長男エヴェリン・ロバート・アドリアンもN・M・ロスチャイルド&サンズの経営に参画するようになり、エドムンド・レオポルド、レオポルド・デイヴィッド、エヴェリン・ロバート・アドリアンの「三頭体制」の経営に移行していった。
 西暦1949年にイギリス政府当局が交通状態緩和のため、自動車通勤をする者たちに鉄道利用を呼びかけた際、アンソニーはそれに応じて運転手付き自動車出勤を止めて、地下鉄通勤に切り替えた。社長出勤者の大多数はこんな呼びかけなど歯牙にも掛けなかったから、極めて異例だった。世間でも話題になり、マスコミにも取り上げられた。その宣伝効果を狙った部分もあったかもしれないが、それ以上に実利的でもあり、他のライバル銀行の頭取たちが交通渋滞に巻き込まれて車の中で苛々踏ん反り返っているのを尻目にアンソニー・グスタフは朝早くから出勤して差を付けることができた。

 妻イヴォンヌ・リディア・ルイーザ・カーン・ダンヴェール(Yvonne Lydia Louise Cahen d'Anvers) - ユダヤ人銀行家の娘。西暦1926年に結婚し1男2女を儲けた。実家のカーン・ダンヴェール家は著名なユダヤ系銀行財閥ビショフシェム家の姻戚(イヴォンヌの曾祖母がビショフシェム家出身)。
    第1子(長女)レネー・ルイーザ・マリー(Renée Louise Marie)。
    第2子(次女)アン・ソニア(Anne Sonia)。
    第3子(長男)エヴェリン・ロバート・エイドリアン(Evelyn Robert Adrian de Rothschild)。
 ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ中退。西暦1960年からN・M・ロスチャイルド&サンズの経営に参加。当時の頭取は従兄弟のエドムンド・レオポルドであり、彼の下レオポルド・デイヴィッドと共に投資部門の拡張に努め、「ロスチャイルド投資信託銀行(RIT)」を創設したが、やがてここは本家のナサニエル・チャールズ・ジェイコブ(後の第4代ロスチャイルド男爵)が主導する部門となった。ジェイコブの主導で外部からの資金が大量に流れ込むようになり、それを元手に積極的な企業買収が開始された。これによりN・M・ロスチャイルド&サンズの業績は急速に伸びた。またナサニエル・チャールズ・ジェイコブは「N・M・ロスチャイルド&サンズの本社ニューコート事務所が狭すぎる。」として伝統的な建築から近代的な事務所ビルに立て直させた。
 一方エヴェリン・ロバート・エイドリアンは伝統と堅実経営を好む人柄であり、ナサニエル・チャールズ・ジェイコブの失敗を恐れないM&A路線に不安を感じていた。またエヴェリン・ロバート・エイドリアンの父アンソニー・グスタフはN・M・ロスチャイルド&サンズの株式60%を保有していたが、ナサニエル・チャールズ・ジェイコブの父ロスチャイルド卿ヴィクターは20%しか持っていなかった。エヴェリン・ロバート・エイドリアンは「ナサニエル・チャールズ・ジェイコブを独断専行に過ぎる。」と考えていた。
 2人の対立が深刻化する中の西暦1975年に頭取のエドムンド・レオポルドが退任し、第3代ロスチャイルド男爵ナサニエル・メイヤー・ヴィクターが新しい頭取となった。エヴェリンとナサニエル・チャールズ・ジェイコブの対立の仲裁役となることを期待されての就任だったが、結局、ナサニエル・メイヤー・ヴィクターは息子より筆頭株主エヴェリン・ロバート・エイドリアンを支持したのでナサニエル・チャールズ・ジェイコブは1980年にRITとともにN・M・ロスチャイルド&サンズから独立することになった。その後ナサニエル・メイヤー・ヴィクターはエヴェリンに頭取職を譲った。エヴェリン・ロバート・エイドリアンの主導の下、N・M・ロスチャイルド&サンズは堅実経営に戻った。派手な企業買収こそなくなったが、順調に業績を上げた。
 西暦1972〜1989年にかけては雑誌「エコノミスト」の社長も務めた。西暦1989年にはエリザベス2世より騎士に叙された。西暦2003年にN・M・ロスチャイルド&サンズ頭取を退任して引退した。この後、N・M・ロスチャイルド&サンズはパリ・ロチルド家(ロスチャイルドの仏語読み)の銀行と統合され、ロスチャイルド・コンティニュエーション・ホールディングスが創設され、パリ・ロチルド家当主ロチルド男爵ヴィド・ルネ・ジェームスが頭取に就任した。西暦2022年11月08日、脳卒中の為死去。

 西暦1966年にジャネット・エレン・ドロシー・ビショップ(Jeannette Ellen Dorothy Bishop)と結婚し西暦1971年に離婚した。彼女との間に子供は無かった。西暦1973年にマーシャ・ロウ・ホイットニー(Marcia Lou Whitney)と不動産開発者ルイス・M・ショット(Lewis M. Schott)の娘でアメリカ生まれのヴィクトリア・ロウ・ショット(Victoria Lou Schott)と再婚し、彼女との間に以下の2男1女を儲けた。西暦2000年にヴィクトリア・ロウと離婚し、 リン・フォースター(Lynn Forester)と再々婚。
     第1子(長女)ジェシカ(Jessica)。
     第2子(長男)アンソニー・ジェームズ(Anthony James de Rothschild)(Anthony James)。西暦2005年にタニア・ストレッカー(Tania Strecker)と結婚。
     第3子(次男)デヴィッド・メイアー(David Mayer de Rothschild)。イギリス王国の冒険家、環境保護主義者、映画制作者。
 10代の頃、上級の馬術競技選手だった。その後、デヴィッド・メイアー・ロスチャイルドは学問に専念するために馬術を止め、ニューヨーカー誌に「馬に乗って何時間も過ごすよりも人生にはもっと多くのことがあると気づいた。」と述べた。オックスフォード・ブルックス大学に入学し、政治学と情報を優等の成績で理学士号を取得した。西暦2002年、デヴィッド・メイアーはロンドンの自然療法医学大学で学び、自然療法の上級免状(ND)を取得した。

 20歳までにデヴィッド・メイアーは、自身の音楽商業化事業を立ち上げ売却した。西暦2001年、彼はニュージーランドで1100エーカーの有機農場を購入し、極地探検に参加するよう招かれた。この経験により、デヴィッド・メイアーは進取の気性に富んだ環境冒険家となった。
 西暦2006年、デヴィッド・メイアーはロシア連邦からカナダまで100日以上を掛けて北極を横断し、両極に到達した42人のうちの1人、そして最年少のイギリス人となった。彼は既に南極大陸を横断した14人のうちの1人であり、グリーンランド氷床を史上最速で横断した世界記録を破ったチームの一員だった。西暦2006年、彼は探検と環境保護活動を子供や若者に紹介するために、ウェブサイト「使命制御(Mission Control)」を立ち上げた。北極横断はウェブサイトで取り上げられた最初の指令であり、2つ目はアマゾンを横断するか、バイカル湖からゴビ砂漠までを横断する計画だった。彼の探検は、冒険自然環境保全(Adventure Ecology)組織の設立にも繋がった。この団体は、気候変動とそれに関連する問題について議論するための組織と連絡網として機能し彼らはフェリペ・アンドレス・リオセコ・ドノソ(Felipe Andrés Rioseco Donoso)と共に太平洋を横断する探検を行った。この旅の目的は、気候変動の影響についての認識を高め、海洋生態系の保護を促進することだった。彼らはプラスチック廃棄物による海洋汚染との戦いに焦点を当てており、沿岸地域と社会全体に海を保護することの重要性を啓蒙することを目指した。
 西暦2000年代後半、デヴィッド・メイアー・ロスチャイルドは「太平洋のゴミの帯に対する認識を高める。」という使命を掲げ、サンフランシスコの31番埠頭にある研究所で「プラスティキ」と呼ばれる新しい形の持続可能な船を発明した。西暦2010年03月、デヴィッド・メイアーは、約12500本の再生プラスチックボトルとセレテックスと呼ばれる独自の再生技術で作られた60フィート(18m)の双胴船を進水させた。デヴィッド・メイアーと彼のチームが開発したセレテックスは、PETを斬新な方法で再利用し、廃棄物の新しい用途を見つけることを目的としていた。プラスティキ号とその乗組員は、サンフランシスコからシドニーまで太平洋を8000海里(15000km、900マイル)以上航海した。航海開始前夜、デヴィッド・メイアーと船長のジョー・ロイルはCNNの面談に応じ、この航海への期待について聞かれると、マーク・トウェインの言葉を引用した。プラスティキ号は西暦2010年07月26日にシドニーへの航海を無事に終えた。プラスティキ号と共に、デヴィッド・メイアーは共同体(community)の交流と道筋の共有のための基盤「ミョオ(Myoo)」(「community」の発音に由来)を立ち上げました。プラスティキ号は、タイム誌によって西暦2010年の50の最高の発明の1つに選ばれた。 プラスティキ号は、太平洋の探検家トール・ヘイエルダール(Thor Heyerdahl)が使用した筏、コンティキ号に因んで名付けられた。
 この船の建造は、再生ペットボトルを主な建材として使用しているだけでなく、再生された環境に優しい材料を船全体に使用していることでも注目に値する。西暦2010年04月、デヴィッド・メイヤーはグッド・モーニング・アメリカで次のように語った。「船のあらゆる部分、船をくっつけるために使った接着剤に至るまで、この計画のために特別に開発した接着剤です。カシューナッツと砂糖でできています。船のあらゆる部分、内装から再生素材、再生布に至るまで、全て最善を尽くし、世の中には様々な解決策があることを示しています。」西暦2009 年、ニューヨーカーの特派員ジョン・コラピントはプラスティキについて書き、その製作者であるデヴィッド・メイヤー・ロスチャイルドをリチャード・フランシス・バートン(Richard Francis Burton)やセバスチャン・エドワード・ファークハーソン・スノー(Sebastian Edward Farquharson Snow)などの冒険家と比較した。
 冒険自然環境保全(Adventure Ecology)の理路整然とした(ARTiculate)連続の一環として、デヴィッド・メイヤーは西暦2007年にエクアドル共和国のアマゾンへの現地調査探検を率いた。グループはエクアドルの熱帯雨林で時間を過ごし、国際石油会社が広大な石油埋蔵量を掘削することで引き起こした被害を記録した。西暦2011年11月、デヴィッド・メイヤーと小人数は、理路整然とした(ARTiculate)連続の一環としてブラジル連邦共和国のアマゾン熱帯雨林への探検を行った。その目的は、物議を醸しているベロ・モンテ水力発電ダム群(葡語: Complexo Hidrelétrico Belo Monte)計画の影響をより深く理解し、広く知らせることです。この探検は Myoo.comの記事で補足され、地元の子供たちと開発した芸術の計画で最高潮に達した。
 アウトサイド・マガジンの記者、キャティ・エンダーズから、ベロ・モンテ水力発電ダム群のような差し迫った問題に探検が変化を齎すことができるかどうか尋ねられたデヴィッド・メイヤーは、「このアマゾンへの芸術を基盤とした小さな冒険が、過去36年間に起こったことを変えると、考えるのは甘い考えでしょう。しかし、道で死にそうな人を見た時、あなたは歩き続けて、ああ、もうすぐ死ぬだろうと言いますか? これが、このような冒険に乗り出す時の現実です。何年も経たないと本当の結果がわからないかもしれません。」と答えた。
 ミョオ(Myoo)の考え方は、持続可能な慣行を生み出そうとしている企業と協力する広告代理店としてデヴィッド・メイヤーによって設立されたミョオ(Myoo)代理店に発展した。プラスティキ号の開発は 代理店「もっと利口計画(Smarter Plan)」という会社名で行われ、廃棄物を有用な物や装置に適応させるための追加の課題解決の開発を続けています。ミョオは最終的に、暴露(Exposure)広告代理店との新しい連携を反映して、世界暴露(World-Exposure)代理店に改名された。この団体は、企業に持続可能な慣行を紹介し、持続可能な手段を含む会話戦略を推進し、持続可能な企業を企業紹介するという任務を遂行している。ミョオ(Myoo)の前身は、デヴィッド・メイヤーの以前の組織、冒険自然環境保全(Adventure Ecology)であり、その使命は世界暴露(World-Exposure)代理店に吸収された。デヴィッド・メイヤーは、環境財団未来のための彫刻(Sculpt the Future)の創設者でもある。未来のための彫刻(Sculpt the Future) は、冒険自然環境保全(Adventure Ecology)やその他の注目度の高い方法を使用して環境教育を広める主導権を取った。アメリカNBCで放送されている朝の情報ニュース番組トゥデイ(The Today Show)によると、この財団は「人々がコミュニティと環境を変え、改善するための新しい方法を見つけることを奨励している。」デヴィッド・メイヤー・ロスチャイルドはまた、企業や組織に最も熱心な共同体貢献者や自発的意志者に連絡する方法、そして彼らに成功するために必要な手段を提供する方法を教えることに重点を置いたMパクト(Mpact)も設立した。西暦2010年初頭には、「Equation For Curiosity(好奇心の方程式)」という語句も商標登録した。

趣味‣嗜好・生活・思想・哲学までゴイムを洗脳して生き血を啜る悪魔のユダヤ、ロスチャイルド!!
 第3子(次男)初代ロスチャイルド准男爵アンソニー(英語: Anthony de Rothschild, 1st Baronet)。イギリス王国の准男爵位に叙された。
 乗馬に優れ、その功績でヴィクトリア女王より騎士の称号が贈られた。 アストン・クリントンに別荘を建てた。ここでの宴会はウィリアム・ユワート・グラッドストンとベンジャミン・ディズレーリなど政界の重鎮たちからも愛された。
 西暦1847年には特例で兄ライオネルの息子たちに継承可能な准男爵位が授与された。西暦1876年に65歳で死去し、ライオネルの長男ナサニエル・メイヤー・ロスチャイルドが准男爵位を継承した。

 西暦1840年に、祖父マイアー・アムシェル・ロートシルトの五女ヘンリエッテの娘ルイーズ・モンテフィオレ(Louise Montefiore)と従兄・従妹婚し、2女を儲けた。
  第1子(長女)コンスタンス(Constance)。
  第2子(次女)アニー(Annie)。エリオット・コンスタンティン・ヨーク(Eliot Constantine Yorke DL MP)大佐と結婚。子供はいなかった。夫エリオット・コンスタンティン・ヨークはケンブリッジシャーの保守党庶民院議員。ケンブリッジシャー民兵隊の隊長、エディンバラ公爵の侍従、ケンブリッジシャー副知事でもあった。ロンドンのメイフェア、カーゾン・ストリート17番地で35歳で亡くなった。
 第4子(三男)ナサニエル・ロスチャイルド(Nathaniel de Rothschild)、愛称: ナト。独語: ナタニエル・ド・ロートシルト、仏語: ナタニエル・ド・ロチル。パリに移住してシャトー・ムートンを買い取り、ロスチャイルド家が所有するフランスのワイン生産部門の創設者となった。
 ロンドンで生まれたナサニエル・ロスチャイルドは、ネイサン・メイアー・ロスチャイルドとハナ・ベアレント・コーエンの4番目の子で西暦1850年に、彼の叔父であるパリ・ロチルド家の祖、ジェイムズ・マイエール・ド・ロチルドが所有する銀行の業務に就くためにフランスのパリへ移住した。主にフランスに住んでいたが、英国社会で著名な人物であり、カウズの王立ヨット隊にも入っていた。30代の時、狩猟中の事故で負傷し、その後は公の場に姿を現すことはほとんどなかった。
 ナサニエル・ロスチャイルドは彼の叔父ジェイムズ・マイエール・ド・ロチルドと共にパリのロチルド・フレール銀行(後にヨーロッパ銀行、現バークレイズ)で働いた。西暦1853年、彼はジロンド県ポーイヤックの葡萄園シャトー・ブラーヌ・ムートン(château Brane Mouton)をテュレ(Thuret)という名のパリの銀行家から競売で落札した。その前はテュレが西暦1830年にブランヌ男爵エクトール(baron Hector de Branne)からその葡萄園を購入した。ナサニエル・ロスチャイルドはシャトー・ブラーヌ・ムートンの葡萄園の65エーカー(263000m2)のために1175000フランを支払い、その用地を、シャトー・ムートン・ロートシルト(Château Mouton Rothschild、ロートシルトは独語読み)と改名した。それは世界で最もよく知られるワイン生産者になったと言うことが出来得る。
 西暦1868年に、ナサニエルの叔父ジェイムズ・マイエールは隣接するシャトー・ムートンの3倍以上広いある名門の第1級(プレミエ・クリュ(premier cru))の所有地、シャトー・ラフィット(Château Lafite)葡萄園を取得した。それは家族間の競争を生んだ。西暦1855年のボルドーワインの格付けにてシャトー・ムートンは2級に格付けされて残念がり、彼は標語を作成した。"D'abord je ne peux pas être, ensuite je ne choisis pas d'être, Mouton je suis."「1級ではなかった。2級になろうとしない。ムートンだ。」
 西暦1856年に、ナサニエル・ロスチャイルドと彼の妻シャーロットはパリのフォーブール・サントノレ通り33番街の所有地をドニ・デクレ公爵から購入した。その時それはロシア大使館に貸し出されたが、賃貸が西暦1864年に終了して、彼は建物を一新してそれを彼の都市住居にした。三男のアーサー・ド・ロスチャイルド(仏語: アルテュール・ド・ロチルド)に引き継がれ、ナサニエルの孫アンリ・ジェームス・ナサニエル・シャルル・ド・ロチルドによって、西暦1918年に第1次世界大戦の連合国の社交クラブ「Cercle de l'Union interalliée (リュニオン・アンテラリエ会)」へ売却された。
 西暦1878年に、ナサニエル・ロスチャイルドはシュヴルーズ渓谷のセルネイ・ラ・ヴィルにあるヴォー・ド・セルネイ修道院を購入し、その時は西暦1118年に建設されたシトー会系修道院のただの廃墟であった。彼と妻は、湖畔の所有地を贅沢な田舎の邸宅に変えるための大規模な復旧作業と新築工事を実施した。
 ナサニエル・ド・ロスチャイルドは晩年期に失明した。彼は普仏戦争(西暦1870〜1871年)の間の西暦1870年に死亡し、彼の子供と孫たちはワイン事業に対してほとんど熱意を示さなかった。長男のネイサン・ジェームス・エドゥアール・ド・ロスチャイルドに引き継がれ、118年後のシャトー・ムートンを待つことになり、ナサニエル・ド・ロスチャイルドの孫アンリ・ジェームス・ナサニエル・シャルル・ド・ロチルドの子、曾孫フィリップ・ド・ロチルドの主導の下、フランス共和国で政治力と財力で、今までに第1級(プルミエ・クリュ)への再分類をさせた唯一の葡萄園になった。

 西暦1842年にナサニエル・ド・ロスチャイルドはジェイムズ・マイエール・ド・ロチルドの娘シャーロット・ド・ロチルド(Charlotte de Rothschild)と従兄・従妹婚し、3男1女を儲けた。
  第1子(長女)ナタリー(Nathalie de Rothschild)。夭逝。
  第2子(長男)ネイサン・ジェームス・エドゥアール(Nathan James Edouard de Rothschild)。
 パリで生まれた彼は幼い頃から本や原稿に興味を持ち、彼の収集の多くは学校での勤勉さに対する褒美として父親ナサニエル・ロスチャイルドから贈られたものだった。彼は法律を学び、西暦1866年に最初の訴訟を担当し、いくつかの法律関係の著作を出版した。その中には、彼が設立したフランス医学法学会に関連したものもあった。
 彼は西暦1870年にフランス・ハウスに入社し、北東鉄道会社の取締役になった。息子のアンリ・ジェームス・ナサニエル・シャルルは彼を「洞察力があり、計画的で、洞察力に優れている。」と評価した。彼はその資質を、書籍の収集だけでなく、事業にも活かしたに違いない。特に中世のフランス文学を愛し、国立図書館の未編集の原稿を出版する計画に取り組んだ。ネイサン・ジェームス・エドゥアールは、古代フランス文献協会とユダヤ学協会を設立した。妻のローラ・テレーズとともにパリのフリードランド通りに住んでいた。西暦1881年10月25日、37歳の誕生日の3日前に彼が亡くなった後、彼女はベルク・シュル・メールで彼が設立した病院の経営を引き継いだ。

 ナポリ家のマイヤー・カール・フォン。ロートシールト(Mayer Carl von Rothschild)の四女ローラ・テレーズ・フォン・ロートシールト(Laura Thérèse von Rothschild)と従叔父・従姪婚し1男1女を儲けた。
   第1子(長男)ロチルド男爵アンリ・ジェームス・ナサニエル・シャルル(Henri James Nathaniel Charles de Rothschild)。ワイン醸造家、レーシングドライバー、慈善家、美術収集家 、劇作家、起業家、医師の資格は持つが開業はしなかった。文学活動では、アンドレ・パスカル(André Pascal)、シャルル・デ・フォンテーヌ(Charles des Fontaines)、アンリ・デフォンテーヌ(Henri Desfontaines)、P.-L. ナヴォーとアンドレ・パスカルズ(P.-L. Naveau et André Pascales)などの筆名を使った。
 アンリ・ジェームズ・ナサニエル・シャルル・ロスチャイルドは市立ラ・シャリテ病院の産科で研修医となり、フランスで最も有名な医師や外科医の下で働き西暦1898年に医学博士号を取得した。1898年に医学を学び、いくつかの病院に寛大な資金を提供した。ベルクの礼拝堂は、画家のポール・アルベール・ベナール(Paul-Albert Besnard)と彫刻家のシャーロット・ベナール(Charlotte Besnard、旧姓: Dubray)によって装飾された。彼はまた、ピエール・キュリーとマリー・キュリー夫妻の研究に資金を提供した。弛まぬ起業家であり、常に新しいプロジェクトに満ちた彼は、フィアットグループに属するイヴェコに吸収されたユニック(Unic)自動車(現イヴェコ・フランスS.A.(Iveco France S.A.))から石鹸工場に至るまで、様々な産業を設立した。

 彼は自動車レース中は自らを「ドクター・パスカル」と呼ぶことが多かった。西暦1900年にパリ北西部で行われたシャンテルー・ヒルクライムでは3回目にダイムラー24馬力で優勝し、時折プロドライバーも使った。ニース−ラ・テュルビーのニース・スピードウィークでは、後にドイツ皇帝ヴィルヘルム2世(Wilhelm II、フリードリヒ・ヴィルヘルム・ヴィクトル・アルベルト・フォン・プロイセン(Friedrich Wilhelm Viktor Albert von Preußen))の首席運転手になったヴィルヘルム・ヴェルナー(Wilhelm Werner)に西暦1899年と西暦1901年にダイムラーまたはベンツの車を任せ、ニース−マガーニョスク間の往復レースでは2位に入った。西暦1928 〜1930年にかけて独自のレースを3回主催し、ルネ・ドレフュスとルイ・デカローリが優勝した。西暦1905年07月、彼はメルセデス609馬力でエクスレバンの観光コンテストで優勝した。彼は西暦1900年代にスポーツ・アカデミーの会員だった。
 西暦1896〜1900年にかけて、彼はエドゥアール・ドゥルモン(Édouard Drumont)の「ラ・リーブル・パロール(La Libre Parole)」紙のジャーナリスト、ラファエル・ヴィオー(Raphaël Viau)の標的となったが、この2人の反ユダヤ主義者は最終的に名誉毀損で封殺された。
 アンリ・ジェームス・ナサニエル・シャルルはフォーブール・サントノーレ通り33番地に住み始めた。この豪華な建物は彼が中央同盟協会に売却し、現在も彼の本社となっている。

 西暦1914年06月21日午前02時、ザドック・カーン(Zadoc-Kahn)医師と共にオペラ・ガラに出席した後、ロチルド男爵アンリ・ジェームス・ナサニエル・シャルルはエドゥアール7世通り近くのカプシーヌ大通りで襲撃の犠牲者となった。酪農家ピエール・プルドン(ierre Prudon)はグッドミルク慈善活動によって破滅し、リボルバー拳銃から数発発砲し、そのうちの1発が腰に命中したが、男爵は逃げた。
 第1次世界大戦中、彼はパリのフォーブール・サントノーレ通りにある彼の別荘、オテル・ペリネ・ド・ジャール(別名オテル・アンリ・ド・ ロスチャイルド) をフランス政府に引き渡し、戦争中は連合軍将校のクラブとして使用した。このホテルは、西暦1856年に祖父のナサニエル ・ド・ロスチャイルドがデクレ公爵夫人マリー・ローズ(Marie-Rose, Duchess Decrès)から 1675000フランで購入した。このホテルには、アンリ・ジェームス・ナサニエル・シャルルが西暦1912年のャック ドゥーセ(Jacques Doucet)で120000ドルで購入したモーリス・カンタン・ド・ラ・トゥール(Maurice Quentin de La Tour)のパステル画が飾られていた。西暦1920年、第1次世界大戦が終わった後、彼はこのホテルを社交クラブ同盟連合会(Le cercle de l'Union interalliée)に売却した(現在価値で167143ユーロ相当)。
西暦1922年に、西暦1912〜1922年にかけて建築家ルシアン・ヘッセ(Lucien Hesse)によって建設されたシャトー・ド・ラ・ミュエットに引っ越した。

 第1次世界大戦中、彼はアンブリンを大量に製造した。アンブリンは、西暦1853年トゥーロン生まれの海軍医師エドモン・バルト・ド・サンドフォール(Edmond Barthe de Sandfort)によって自身のリウマチを治療するために作られた、琥珀樹脂とパラフィンからなるワックス状の軟膏であり、全ての火傷者を救った。
 第1次世界大戦の終わり頃、ロチルド男爵アンリ・ジェームス・ナサニエル・シャルルはパリでシャトー・ド・ラ・ミュエットを含む2つの大きな土地を取得した。古いシャトーは西暦1920年代に取り壊され、彼は西暦1921〜1922年にかけて、ルシアン・ヘッセ(Lucien Hesse)による西暦19世紀の設計に基づいてパリの住居として新しいシャトーを建設した。このシャトーは第2次世界大戦中にドイツ海軍に接収された。西暦1944年08月のパリ解放の際、この城は、重要な情報収集に熱心なイギリス軍の「第30突撃部隊」によって、短時間の銃撃戦の後に占領された。西暦1945年後半、アメリカ陸軍は、戦争後の作戦を組織するためにこの建物を接収した。西暦1947年にアンリ・ジェームス・ナサニエル・シャルルが亡くなった後、相続人は西暦1949年にこの城を欧州経済協力機構(Organization for European Economic Co-operation)に売却し、本部として使用した。欧州経済協力機構(OEEC)は西暦1961年に経済協力開発機構(Organisation for Economic Co-operation and Development)に発展し、この城は現在も本部として使用されている。
 ランブイエの森の田舎家、ヴォー ド・セルネー修道院、及び西暦1926年からドメーヌ・ド・ボードヴァン12を所有していた。この土地に所属する庭師、園芸家、ドメーヌの管理者であるボヌフォワ(Bonnefoy)のお蔭で、ボードヴァンはその後、菜園、果樹園、葡萄畑で覆われた。このワイナリーは現在ラ・ヴァレット・デュ・ヴァール市が所有しており、「素晴らしい庭園(Jardin remarquable)」と名付けられている。フレテヴァルにある彼の狩猟小屋「ル・シャレー・デュ・ロワール」は、現在非常に酷い状態にある。

 ロチルド男爵アンリ・ジェームス・ナサニエル・シャルルとその妻ロチルド男爵夫人マチルド・ソフィー・アンリエット・フォン・ヴァイスヴァイラーは、フランス各地で「障害や病気を抱えた子供たち」のための多くの病院や精神病院を設立し、資金を提供した。パリではロチルド病院として知られる大規模な私立病院を設立し、そこで主任医師を務めた。彼は「慈善活動」によりレジオンドヌール勲章を授与され、後に「大戦中の計り知れない貢献」により同勲章の士官に昇格した。
 西暦1926年、彼はパリ号に乗って長期の旅のために米国に来た。著名な慈善家であったロチルド男爵夫人マチルド・ソフィー・アンリエット・フォン・ヴァイスヴァイラーは西暦1926年に亡くなった。
 西暦1895年の結婚で、母親ローラ・テレーズ・ド・ロチルドはシャンティ・イ近郊のグヴューにあるフォンテーヌ城を彼に贈った。城の建設は、西暦1879年に父親ネイサン・ジェームス・エドゥアール・ド・ロチルドの設計に基づいて建築家フェリックス・ラングレー(Félix Langlais)によって開始された。西暦1881年に父親ネイサン・ジェームス・エドゥアールが亡くなった時点では完成していなかったが、西暦1882年にに母親ローラ・テレーズによって完成された。アンリは城の所有者だったが、滅多に訪れず、西暦1931年に母親ローラ・テレーズ・ド・ロチルドが亡くなるまで、この城は母親ローラ・テレーズ・ド・ロチルドの夏の別荘だった。しかし、アンリの息子フィリップは、祖母ローラ・テレーズ・ド・ロチルドと一緒にこの城で夏を過ごした。第2次世界大戦中はドイツ国に占領され、西暦1946年にイエズス会に売却され、図書館と研究センターが設立された。西暦1998年にコンサルティング会社キャップジェミニに買収され、現在も同社が所有している。
 西暦1903年、アンリ・ジェームス・ナサニエル・シャルルは、ヴァレ・ド・シュヴルーズにあるセルネ・ラ・ヴィルのヴォー・ド・セルネ修道院を祖母のシャルロットから相続した。彼女は西暦1878年に修道院を購入したが、当時は西暦1118年に建てられたシトー会修道院の廃墟に過ぎなかった。彼女は湖畔の土地を田舎の家にするために、大規模な修復工事と新築工事を行った。アンリ・ジェームス・ナサニエル・シャルルは土地を相続すると、さらに住居を改装し、子供の栄養に関する実験に使用した。西暦1942年11月、アンリ・ジェームス・ナサニエル・シャルルと息子のジェームズは、ヴォー・ド・セルネにある1800エーカーの土地をヴィシー政権下の反ユダヤ法の下で没収した。修道院は競売で実業家で航空機製造業者のフェリックス・アミオに売却され、彼はそこに個人事務所を移した。
 西暦1940 年にドイツ国が第2次世界大戦でフランス共和国に侵攻すると、ロチルド男爵アンリ・ジェームス・ナサニエル・シャルルはブラジル連邦に逃亡した。 西暦1942年のヴィシー政権下のフランス国の反ユダヤ法により、アンリ・ジェームス・ナサニエル・シャルルの広大な不動産と美術品の所有物は没収され、フランス国籍は剥奪された。西暦1944年11月の「新フランス政府の初期の措置」は、「彼に財産と国籍の両方を返還すること」だった。彼はヨーロッパに戻り、ポルトガル共和国第2共和政(西暦1933〜1974年)でしばらく過ごした後、西暦1946年04月に自宅のカステル・ボー・セードルに戻り、西暦1947年に亡くなるまでそこで暮らした。
 アンリ・ジェームス・ナサニエル・シャルルは、スイス連邦ヴォー州ジュスタン・メゼリーにあるカステル・ボー・セードル(別名カステル・ボー・シドリ)も買収した。この地所にある城は、ローザンヌの建築家ギュスターヴ・ヴァナー(Gustave Wanner)によって西暦1770年に建てられた。また、この地所には、農学者ギュスターヴ・オーベルジョノワ(Gustave Auberjonois)によって西暦1872〜1891年にかけて建てられた建物のある農場もあった。アンリ・ジェームス・ナサニエル・シャルルは、かつてナポレオン1世(仏語: Napoléon Ier、ナポレオン・ボナパルト、仏語: Napoléon Bonaparte、出生名(西暦1794年以前)ナポレオーネ・ディ・ブオナパルテ、伊語: Napoleone di Buonaparte)の2番目の妹、ポーリーヌ・ボルゲーゼが夫のスルモーナ公カミッロ・フィリッポ・ルドヴィコ・ボルゲーゼ(Camillo Filippo Ludovico Borghes)ボルゲーゼ邸宅に備え、後に初代ウェリントン公アーサー・ウェルズリー(英語: Arthur Wellesley, 1st Duke of Wellington, KG, GCB, GCH, PC, FRS)がパリ駐在の英国大使館として購入した家具をこの城に備え付けた。

 ロチルド男爵アンリ・ジェームス・ナサニエル・シャルルは西暦1947年10月12日、スイス連邦ヴォー州ジュスタン・メゼリーにある彼の邸宅、カステル・ボー・セドルで亡くなった。
 彼は生前、パリ16区に筆名の 1つに因んで名付けられた通り、アンドレ・パスカル通りがあった。
 演劇に情熱を持っていた彼は、彼はシャルル・デ・フォンテーヌとアンドレ・パスカルという筆名で劇作家として活動した。アントワーヌ劇場を監督し、
愛人マルト・レニエ(Marthe Régnier)に敬意を表してピガール劇場を建設させたが、当時醜聞を引き起こした。
 西暦1895年にパリのヴィクトワール通りにあるグランドシナゴーグで、マチルド・ソフィー・アンリエット・フォン・ヴァイスヴァイラー((Mathilde Sophie Henriette von Weissweiller)と結婚し2男1女をなした。

    第1子(長男)ロチルド男爵ジャム・ナサニエル・シャルル・レオポルド・アンリ(Baron James-Nathaniel-Charles-Léopold-Henri de Rothschild)。銀行家である彼は、(イースタン鉄道会社からの)イースタン投資会社を含むいくつかの会社の取締役を務めた。
 第1次世界大戦中は空軍に勤務し、第2次世界大戦中は西暦1943年03月27日に自由フランス空軍に入隊し、司令官の階級に到達した。この取り組みにより、彼はレジオンドヌール勲章士官とクロワ・ド・ゲール勲章を獲得した。
 コンピエーニュの森で猟犬を使った狩猟の練習をしていた彼は、「谷や森を抜けて(仏語 パル・ヴォー・エ ・フォレ(Par vaux et forêts)」」の狩猟会組織を創設し、娘のモニーク・ハルファンが引き継いだ。西暦1937年にオワーズ市議会議員に選出され、その後西暦西暦1935〜1940年と西暦1945〜1947年までコンピエーニュ市長を務めた。

 西暦1923年にポール・ヴォルムス・ド・ロミリー(Paul Worms de Romilly.)の孫娘でデュポン大尉の娘クロード・デュポン(Claude Dupont)と結婚し西暦1964年に死別。西暦1966年にイヴェット・ショケ(Yvette Choquet)と結婚。
     第1子(長男)ニコール・ステファン(Nicole Stephane)。
     第2子(長女)モニク(Monique de Rothschild)。収集家ジョルジュ・ハルファン(Georges Halphen)と結婚。
    第2子(長女)ナディーヌ・シャーロット (Nadine Charlotte Rothschild))。西暦1919年にフランス公共事業大臣兼財務大臣のジョセフ・ティエリー(Joseph Thierry)の息子で当時駐ロンドンフランス大使館参事官だったアドリアン・ティエリー(Adrien Thierry)と結婚。
    第3子(次男)ロチルド男爵フィリップ(Le baron Philippe de Rothschild)。父はロチルド男爵アンリ・ジェームス・ナサニエル・シャルル、母はマチルド・ソフィー・アンリエット・フォン・ヴァイスヴァイラー。西暦1853年にシャトー・ムートンを買い取ったナサニエル・ド・ロスチャイルドの曾孫に当たる。パリ・ロチルド本家はこれに対抗して西暦1868年にシャトー・ラフィットを購入しており、以降同じロチルド一族で競争関係。ナサニエルはロンドン・ロスチャイルド家の祖ネイサン・メイアー・ロスチャイルドの三男だが、長くパリで暮らしたため、その子孫はロンドン家の系譜を離れてパリ・ロチルド家に転じた。
 兄ジャム・ナサニエル・シャルル・レオポルド・アンリ、姉ナディーヌ・シャーロットと共にスコットランド人の家庭教師メイ嬢から教育を受けた。第1次世界大戦中の西暦1918年にドイツ軍がパリ郊外まで迫ったため、メイ嬢とともにボルドーに疎開したが、この際に祖母ローラ・テレーズ・ド・ロチルドの所有するメドックにあるシャトー・ムートン・ロートシルトの葡萄園を見学し、その牧歌的な光景に心惹かれた。
 しかし訪問を続けるうちにフィリップはシャトー・ムートンが荒廃し始めていることに気付き、脚本を書くのに熱中してシャトーを気に掛けない父ロチルド男爵アンリ・ジェームス・ナサニエル・シャルルにシャトー救済の必要性を訴えた。父アンリ・ジェームス・ナサニエル・シャルルが調べたところ、シャトーは多額の借金を抱えており、祖母ローラ・テレーズの不在と管理の杜撰さに付け込む従業員たちの横領が発覚し、アンリ・ジェームス・ナサニエル・シャルルは改善のためフィリップに経営を任せることにした。フィリップはこれに大喜びした。
 西暦1922年にメドックに着任したフィリップは、横領している従業員たちを罰しなかった。原因は管理を怠った自分たちにあり、過去よりも将来の発展のことを考えたかったためだった。一方従業員たちはこれまで好き勝手やってこれたのに、ロチルド家の者が直接やって来て口煩く監督するようになったことが面白くなかった。しかしフィリップは彼らと意見交換していくことで少しずつ信頼を勝ち得ていった。
 フィリップはボルドーの酒商にワイン樽を渡し、熟成と瓶詰め作業を委託するという慣習に不満を抱いていた。そのため資本をかけてでもシャトーで瓶詰めまで行う元詰め方式に変更させた。このおかげで独自の味を確立しやすくなり、売り上げは徐々に伸びていった。さらにラベルに有名な画家の絵を付けることを思い付き、友人だったキュービズム派の画家ジャン・カルリュジャン・カルリュ(Jean Carlu)にデザインを頼んだ。しかし他のワイン商の反発を買い、この時には中止を余儀なくされた。
 シャトー・ムートンは西暦1855年のボルドーワインの格付けで2級とされていたが、フィリップはこの格付けは不当と考え、ライバルでパリ・ロチルド本家が所有するラフィットと同じ1級に昇格させることを夢見ていた。そのため、ムートンと既存の1級シャトー(ラフィット、マルゴー、ラトゥール、オー・ブリオン)の会合(1級ワイン協会)の設置を主導したが、格付け既得権の壁は厚く、ムートンの1級への昇格は当面認められそうになかった。
 西暦1930年代には悪天候のために葡萄が熟成されず、シャトー・ムートンを名乗れない低品質のワインが多くなった。処分に困ったフィリップはこれをムートンの2流品ラベル「ムートン・カデ(Mouton Cadet、Cadetは仏語で「士官候補生」の意)」と名付け、1流品ラベルとはデザインを変えて安価で販売した。このムートン・カデは大成功を収めた。これは悪天候でなければ生産できないので、他から葡萄を買い付けて安定供給を図った。ムートン・カデのお蔭でシャトー・ムートンは不作であった西暦1930年代を黒字でやっていくことができた。ムートン・カデは今日のフランスでも良く飲まれている。

 フィリップはしばしばワイン製造業から離れて気晴らしすることもあった。特に自動車レースにレーサーとして出場することと演劇の演出をすることであった。フィリップはレーサーとしての才能にも恵まれており、西暦1929年には第1回モナコグランプリに出場している。また同年ディジョンで行われたブルゴーニュ・グランプリでは優勝を果たしている。愛車はイスパノ・スイザ、ついでブガッティだった。やがて事故で怪我をしたため、以降はレーサーとして大会に参加することはできなくなったが、ブガッティのスポーツカーを愛し続け、後年にはブガッティのテストドライバーをしていた。
 また西暦1929年には以前から脚本書きに凝っていた父アンリ・ジェームス・ナサニエル・シャルルがパリに劇場「テアトル・ド・ピガール」を建設したため、フィリップも演劇の演出家を務めるようになった。しかしこの劇場は赤字続きで西暦1931年には閉鎖してしまった。父アンリ・ジェームス・ナサニエル・シャルルはこれを機に演劇の脚本を書かなくなったが、フィリップは演劇に関心を持ち続け、後にはイギリスの劇作家クリストファー・フライ(Christopher Fry)の作品をフランス語に翻訳した。

 第2次世界大戦中の西暦1940年05月にドイツ軍が破竹の勢いでフランス共和国へ進撃してきた。ドイツ軍のパリ接近の報を聞くと妻エリザベート(愛称: リリー)と娘フィリピーヌを伴ってシャトー・ムートンへ逃れた。だがドイツ軍は今にもメドックまでやってきそうな勢いだったので、ここからも離れることにした。従業員たちがしばらくの間は給料に困らぬよう金を隠していった。リリーとフィリピーヌはドルドーニュの友人の所へ送り、自身は南へ逃れた。ドイツ兵の多くは、ロチルド家を悪辣なユダヤ金融資本の象徴と見做して敵意を燃やしており、シャトー・ムートンに現れるや、憎悪に駆られて逃亡した当主を探し回った。しかし見つけられず、結局フィリップの肖像画に銃弾を撃ち込んで帰っていった。その間、従業員たちは恐怖に震えあがっていた。
 フィリップは仏植民地フランス保護領モロッコ(西暦1912〜1956年)のカサブランカに逃れたが、ここでフィリップは、アンリ・フィリップ・ベノニ・オメル・ジョゼフ・ペタン(仏語: Henri Philippe Benoni Omer Joseph Pétain)元帥のヴィシー政府への叛逆を企てていたピエール・マンデス・フランス(Pierre Mendès-France)に協力したため、ピエール・マンデス・フランス共々ヴィシー政権フランス国軍の捕虜となった。カサブランカで8ヶ月の捕虜生活を送った後、被占領地域のマルセイユに送還された。その後しばらくフランスの非占領地域に留まっていたが、ヴィシー政府の反ユダヤ政策も徐々に激化し、西暦1942年11月にはドイツ軍が非占領地域の占領を開始したため、ついにフランス出国を決意した。この際に疎遠になって離縁していた夫フィリップは元妻リリーにも一緒に逃れるよう求めたが、彼女は自分はカトリックで、ペタン元帥の側近に友人もいるので大丈夫と同行を拒否し、フランス国に残った。
 西暦1941年、ゲハイメ・シュターツポリツァイ(独語: Geheime Staatspolizei、通称: ゲシュタポ、独語: Gestapo、秘密国家警察)は偽造許可証で境界線を越えようとした罪でリリー(エリザベート・ペルティエ・ド・シャンブール)を逮捕し、ベルリンの北約50マイルにあるラーフェンスブリュック強制収容所に送り、そこで死亡した。伝記作家メリル・セクレスト(Meryle Secrest)は、ローマ生まれのファッション・デザイナー、「エルザ・スキャパレッリ(Elsa Schiaparelli)の伝記の中で、リリーが強制収容所で死亡したのは、彼女がエルザ・スキャパレリのファッションショーで席を変えたためであり、ヴィシー政府駐在のドイツ国大使ハインリヒ・オットー・アベッツ(Heinrich Otto Abetz)を避けたためではない。」と示唆している。
 止む無くフィリップは単身でピレネー山脈を徒歩で44時間かけて越えてフランコ政権スペイン国(西暦1936〜1975年)へ逃れた。さらにポルトガル共和国を経由してイギリス王国へと逃れた。イギリス王国でシャルル・ド・ゴールの自由フランス軍に入隊し、暗号解読部に所属した。自由フランス軍時代に第4級レジオンドヌール勲章を受章した。
 西暦1944年06月のノルマンディー上陸作戦に際しては解放されたルアーブルで民政に当たった。この際に妻リリーがゲシュタポに逮捕されたらしいことを知った。ルアーブルでの任務を終えると、すぐにパリに向かい、元妻リリーと娘フィリピーヌの情報をかき集めた。フィリピーヌは移送される前に母方シャンビュール家の手引きでパリを脱出してエスクリネルのシャンビュール家に引き取られたが、リリーはパリから脱出できず、移送列車に乗せられて東部へ移送されたらしいことがわかった。娘フィリピーヌとは再会できたが、元妻の行方は何も摑めなかった。
 丁度この頃、フィリップは解放されたドイツ国内の強制収容所を訪問して生存者から証言を取る任務を与えられたため、収容者リストに妻の名前を探したが見つからなかった。パリに戻った後には強制収容所収容者の生活を支援する公共機関に通って元妻を探した。そこで戦時中にフィリップとリリーを匿ってくれた人の親戚で、ラーフェンスブリュック強制収容所から解放されたばかりの女性と出会い、彼女からリリーがラーフェンスブリュック強制収容所で死んだことを知らされた。それを聞いたフィリップは絶望の淵に沈んだ。ゲシュタポが偽造許可証で国境線を越えようとした容疑で、疎遠になっていた元妻リリーを西暦1941年にラーフェンスブリュック強制収容所に移送したことを知った。そこで彼女は西暦1945年03月23日に死亡した。死因は不明。流行性チフスで死亡したと伝えられているが、フィリップの回想録には、「生きたまま強制収容所の炉に投げ込まれた、」と記されている。フィリップの回想は自虐史観に洗脳するユダヤの常套手段。まして悪魔のロチルド。真実などない嘘噺。
 リリーは第2次世界大戦中にフィリップに同行せず、フランス共和国に留まったため、ドイツ国のラーフェンスブリュック強制収容所に移送されてそこで果てることとなった。戦後フランス共和国に戻ったフィリップはこれを知ると絶望し、カトリックの彼女が収容所に送られたのはロチルドの姓のせいだと考え、自分と結婚さえしなければ彼女は死なずに済んだと自責の念に苦しんだ。しかし生前リリーは知人から「ロチルドの名前は貴方に不幸しか齎さないでしょう?」と問われた際に「ロチルドの名前が何を齎そうと、私には苦しみよりも喜びの方が多かったわ。」と答えていた。
 戦時中亡命したロチルド一族の者はヴィシー政府によってフランス国籍を剥奪され、財産の所有権も無くなり、一方的に掠奪された。シャトー・ムートンはシャトー・ラフィットと同じくヴィシー政府農業省に所有されていた。ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ヴィルヘルム・ゲーリング(独語 : Hermann Wilhelm Göring)国家元帥がフランスの有名ワインを個人的支配下に置こうとしていたので、ヴィシー政府としては出来るだけドイツ人の手に落ちないようにとシャトーを直接所有したようだった。しかし戦争が終わるまでにはシャトー・ムートンはすっかり荒廃してしまった。
 フランスを解放したド・ゴール臨時政府はただちにユダヤ人のフランス市民権を回復し、ユダヤ人が不当に奪われた財産も全て返還することを宣言した。これによりフィリップもシャトー・ムートンの所有権を取り戻した。フィリップがシャトー・ムートンへ戻った際、醸造長に貯蔵庫にある苔むした壁に案内された。醸造長は「貴方様がここをお発ちになった時、この壁を作らせたのです。ご主人様、貴方様の最高級のワインはこの壁の向こうにございます。ゲーリングに奪われてなるものかと思って隠したのでございます。」と述べ、壁の向こうに隠してあるシャトー・ムートンの極上物をフィリップに披露した。
 事業を再開し始めた当初は資金がなかったため、厳しい状態が続いたが、ロチルドの名の信用のお蔭で融資を受けられ、再建を軌道に乗せることができた。西暦1947年には父アンリ・ジェームス・ナサニエル・シャルルが死去し、兄ジャム・ナサニエル・シャルル・レオポルド・アンリ、姉ナディーヌ・シャーロットと共もにシャトー・ムートンの所有権を得たが、兄も姉もシャトー・ムートンに関心を持っていたなかったので2人の所有権はフィリップが買い取ることになった。
 事業再開とともに以前やっていたラベルに画家の絵を使うやり方を再度採用した。さらに年毎にラベルのデザインを変えることにした。サルバドール・ダリ(Salvador Dalí、初代プブル侯爵ダリ Marqués de Dalí de Púbol、カタルーニャ語: サルバドー・ドメネク・ファリプ・ジャシン・ダリ・イ・ドメネク(Salvador Domènec Felip Jacint Dalí i Domènech)。西語: サルバドール・ドミンゴ・フェリペ・ハスィント・ダリ・ドメネク(Salvador Domingo Felipe Jacinto Dalí Doménech))、ジョアン・ミロ(カタルーニャ語: Joan Miró i Ferrà、ジュアン・ミロー・イ・ファラー)、マルク・シャガール(Marc Chagall, イディッシュ語: מאַרק שאַגאַל‎‎)、パブロ・ピカソ(Pablo Ruiz Picasso)などの画家がムートンのラベルを描いた。
 シャトー・ムートン所有者であるフィリップは、これを「恐ろしい不正」と評した。一般には、格付けの直前にシャトーがイギリス人に買われ、フランス人の所有ではなくなっていたためと信じられた。戦後もフィリップはシャトー・ムートン・ロートシルトの格付けを1級に上げるためにあらゆる手を尽くした。パリ家の分家のロチルド男爵エリー・ロベール(Baron Élie Robert de Rothschild)が所有するラフィットを初めとする既存の4つの1級シャトーから締め出しを食らった。しかしシャトー・ムートンの有力かつ強力な所有者による長年のロビー活動の結果、ロチルド家に近いジョルジュ・ジャン・レイモン・ポンピドゥー(仏語: Georges Jean Raymond Pompidou)が大統領となった西暦1969年から徐々に情勢は動き出し、他の1級シャトーも妥協していき、ついに西暦1973年06月21日に農業相ジャック・ルネ・シラク(仏語:Jacques René Chirac、後のフランス大統領)はシャトー・ムートンに対して第1級(プレミエ・クリュ)への昇格を認める省令に署名するに至った。これは西暦1855年の格付けを変更させた唯一の例である(西暦1856年のシャトー・カントメルルの追加を除く)。シャトー・ムートンではこれを盛大に祝い、フィリップは西暦1973年ヴィンテージのラベルに「我1級なり、かつて2級なりき、されどムートンは変わらず。」と刻ませた。西暦1988年に死去し、シャトー・ムートンは娘フィリピーヌが3人の子供たちと共に事業を引き継いだ。
西暦2003年06月、シャトーはワイン博覧会の最後にフラワー・フェスティバル(La Fête de la Fleur)を開催し、150周年記念を祝った。
 西暦1919年にM・アドリアン・ティエリー(M. Adrien Thierry)と結婚。
 ブルゴーニュ地方の裕福なカトリック教徒で、ナポレオン・ボナパルト(仏語: Napoléon Bonaparte、西暦1794年以前: ナポレオーネ・ディ・ブオナパルテ(伊語: Napoleone di Buonaparte)、ナポレオン1世(仏語: Napoléon Ier)の将軍ローラン・オーギュスタン・ペルティエ・ド・シャンブール(Laurent Augustin Pelletier de Chambure)を先祖に持つエスクラニョールの市長オーギュスト・ペルティエ・ド・シャンブール(Auguste Pelletier de Chambure)とその妻(旧姓: カミーユ・マリー・クルトワ・デスキブ(Camille Marie Courtois Desquibes))の娘、エリザベート・ド・シャンビュール(Élisabeth, Pelletier de Chambure)は、西暦1923年にエリザベート・ペルティエ・ド・シャンブールはフィリップの従兄弟でベルギー貴族のベッカー・レミ男爵ジョンケール・マルク・エドゥアール・マリー(Jonkheer Marc Edouard Marie de Becker-Rémy)と結婚し男爵夫人だったが、2人の間には息子のエドゥアール・ジャック・マリー・オーギュスタン(Edouard Jacques Marie Augustin)娘フィリピーヌ・マチルド・カミーユ(Philippine Mathilde Camille)がいたが、娘フィリピーヌ・マチルド・カミーユの実父はフィリップ・ド・ロチルドで、フィリピーヌの妊娠を機に西暦1934年01月22日に離婚してフィリップと再婚することになった。
息子のエドゥアール・ジャック・マリー・オーギュスタンは結婚しなかったが、異母妹シモーヌ(Simone)の息子、デカン男爵ポール・エマニュエル(Baron Paul-Emmanuel Descamps)を養子に迎え、ベッケル・レミ姓を名乗った。西暦1933年にエリザベート・ペルティエ・ド・シャンブールはカトリックから猶太教に改宗し、宗教儀式はパリのグランドラビ、ジュリアン・ウェイルによって執り行われた。エリザベートとの結婚生活は情熱に満ちていたが、同時に激しい激動と絶望に満ちていた。リリーの愛称を持つエリザベート・ド・シャンビュールと再婚し1男1女をなした。息子シャルル・アンリが奇形で生まれ、すぐに亡くなったことで、夫婦の困難は増した。最終的に2人は激しく別れ、西暦1939年までにエリザベートは旧姓のペルティエ・ド・シャンブールに戻った。
 西暦1945年に彼女がラーフェンスブリュック強制収容所で死亡した後、西暦1954年にパリで活躍するアメリカ人のファッションデザイナーのポーリン・フェアファックス・ポッター(Pauline Fairfax Potter)と再々婚した。ポーリンとフィリップは芸術と文学の愛好で気が合った。またポーリンはシャトー・ムートンのワインを愛していたので彼女もシャトーの経営に積極的に参画した。
     第1子(長女)フィリピーヌ・マチルド・カミーユ(Philippine Mathilde Camille de Rothschild)。フランス共和国の女優であり、最初、フィリピーヌ・パスカルという芸名で主に劇場(コメディ・フランセーズ)で女優として知られていましたが、映画やテレビでも少しだけ知られていた。ワイン界におけるフランス共和国の著名人。シャトー ・ムートン・ロートシルト、プルミエ・グラン・クリュ・クラッセの子供たちと共に所有者であり、「バロン・フィリップ・ド・ロートシルト S.A.」という会社の大株主。チャレンジズ誌によると、西暦2014 年のフィリピーヌ・ド・ロスチャイルドとその家族の財産は7億5000 万ユーロで、フランスで80位。
 フィリピーヌ・マチルド・カミーユ・ド・ロチルドは、ロチルド男爵フィリップとラーフェンスブリュックへの強制送還中に亡くなったエリザベート・ペルティエ・ド・シャンブレの娘。フランスのカトリック貴族であるフィリピーヌ・マチルド・カミーユの母親は、彼女が生まれた時、父親のフィリップ・ド・ロチルドではなく、ベルギーの貴族であるベッケル・レミ男爵マルクと結婚していた。法廷闘争と、フィリピーヌ・マチルド・カミーユを母親から引き離すというベッケル・レミ男爵マルクの脅迫の後、夫婦は西暦1934年に離婚した。その直後、フィリピーヌ・マチルド・カミーユの母親と父親はパリで結婚した。西暦1938年、エリザベート・ペルティエは男の子シャルル・アンリを出産したが、生後間もなく死亡した。翌年、子供の死が原因で、夫婦は別居した。フィリピーヌ・マチルド・カミーユは母親と一緒に居た。
 西暦1942年、フィリップはロンドンのド・ゴール将軍に加わり、パリがまだドイツ国の統治下にあった西暦1944年06月22日、2人の警官がエリザベート・ペルティエの家を訪れ、彼女を逮捕した。しかし、彼らは当時11歳のフィリピーヌはを連れて行かなかった。それは明らかに彼女が2人の警官のうちの1人の娘に似ていたため、あるいは別の説によると彼女が地下室に隠れていたため。フィリピーヌの母親エリザベート・ペルティエはラーフェンスブリュックに強制収容され、西暦1944年07月に国外追放者の最終列車に乗ってフランスを出発した。彼女は、ロスチャイルド家の中で強制収容所で失踪した唯一の人物。

 演劇に情熱を注ぐフィリピーヌは、入学するまでに国立演劇学校の入学試験を3回受けた。その後、フィリピーヌ・パスカルの芸名で舞台女優としての経歴が始まり、西暦1958年にコメディ・フランセーズで5年間団員として働き始め、間違いなく頂点は西暦1973年の役柄の解釈であった。コリン・ヒギンズ(Colin Higgins)作、ジャン・クロード・カリエール(Jean-Claude Carrière)によるフランス版翻案「ハロルドとモード」の茶筅夫人。彼女は、「ハロルドとモード」の演出でマドレーヌ・ルノー(Madeleine Renaud)と6年間共演した。ジャン・ルイ・バロー(Jean-Louis Barrault)と西暦1978年にテレビ版として再演。彼女は西暦1973〜1987年までルノー・バロー社にいた。
 西暦1980年代、父親フィリップの要望で、フィリピーヌは家族のことに専念し始めた。そこで彼女は西暦1981 年に、シャトー ムートン ロートシルトのラベルのために様々な画家によって西暦1945年以降に描かれた作品の展覧会を企画した。西暦1988年に父親が亡くなると、彼女は演劇を捨て、シャトー・ムートン・ロートシルトと、西暦1853年以来家族経営のメドックのポイヤック・ワイン会社の手綱を引き継いだ。西暦1988〜2014年の間に2.5倍となり、1億8800万ユーロに達した。彼女はまた、会社を近代化し、ボトルのラベルを有名な芸術家によってデザインさせるという父親の伝統を引き継いだ。その持株会社には、シャトー・ムートン・ロートシルト、シャトー・ダルマイヤック、シャトー・クレール・ミロン、ドメーヌ・ド・ランベール、バロン・アルク、バロン・フィリップ・ド・ロートシルト、ムートン・カデ、カリフォルニアのオーパス・ワン、チリのヴィーニャ・アルマヴィーヴァが含まれた。
 パサージュ・ドゥ・ラ・ビジタシオン(パリ7区)に住んでいた彼女は、西暦2014年08月23日に肺感染症によりパリ14区で亡くなった。

 フィリピーヌは様々な有能な人材に囲まれ、長年にわたり、俳優兼監督ジャック・セレエス(Jacques Sereys)との最初の結婚で1男1女をなした(カミーユ・セレイスとフィリップ・セリス・ド・ロートシルト)。ジャック・セレイスとの離婚し学者で作家のジャン・ピエール・ド・ボーマルシェ(Jean-Pierre de Beaumarchais)と再婚し1男をなした(ジュリアン・ド・ボーマルシェ・ド・ロチルド)。
 西暦2014年にフィリピーヌが死去し、シャトーは子供3人の共同所有。カミーユ・セレイスとジュリアン・ド・ボーマルシェは、監査役会長であるフィリップ・セレイスと緊密に協力し合っている。
 フィリップ・セレイス(Jacques Sereys Jean-Pierre de Beaumarchais)と結婚し2何女をなした
      第1子(長女)カミーユ・セレイス(Camille Sereys de Rothschild)。
      第2子(長男)フィリップ・セレイス(Philippe Sereys de Rothschild)。
      第3子(次男)ジュリアン・ド・ボーマルシェ(Julien de Beaumarchais de Rothschild)。
     第2子(長男)シャルル・アンリ(Charles Henri)。生後すぐに死去。
   第2子(長女)ジャンヌ・ソフィー・アンリエット(Jeanne Sophie Henriette de Rothschild)。 フランスのシャンティイの森にある6haの緑地を備えた120室の城、建築家レオン モーリス シャトネーによるシャトー・モンヴィラルジェンヌの建設者。
 ジャンヌ・ソフィー・アンリエット・ド・ロチルドの祖父は、ロンドンに生まれ義父で叔父のジェームス・マイヤー・ロチルドとパリで暮らすことになったナサニエル・ド・ロスチャイルドで、ナサニエル・ド・ロスチャイルドが1124000フランで取得した35haのシャトー・ムートン・ロートシルトの地所を長男のネイサン・ジェームズ・エドゥアール・ド・ロスチャイルドが西暦1853年05月11日、相続した。彼は最終的に管理棟と居住用の建物を建てたが、西暦1881年に亡くなったため、完成したのは未亡人のローラ・テレーズだった。
 彼女の母ローラ・テレーズ・ド・ロスチャイルドはフランクフルト・アム・マイン生まれで、ナポリ家の祖父マイヤー・カール・フォン・ロートシルトと祖母ルイーズ・フォン・ロートシルト(ネーサン・メイヤー・ロートシルトの末娘の三女)の間に生まれた7人娘の四女。ロンドン家の祖ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドは、末弟のパリ家のジェームス・ド・ロチルドと共に、英国政府とヘッセン選帝侯ヴィルヘルム1世に金融サービスを提供し、銀行の隆盛に大きく貢献した。彼女は「啓蒙主義の精神で育ち、非常によく教育されている。」と考えられていた。
 ネイサン・ジェームス・エドゥアール・ド・ロスチャイルドとその妻の結婚により、アンリ・ジェームス・ナサニエル・シャルル・ド・ロチルドとジャンヌ・ソフィー・アンリエット・ド・ロチルドという2人の子供が生まれた。
 彼女はフランクフルト・アム・マイン生まれの母親と強い絆を持っており、「シャンティイ近郊のグヴューにあるフォンテーヌ城の近くに住みたい。」と心から望んでいた。ピカルディ地方の県。グヴューのフォンテーヌ城はロチルド家が所有していた邸宅で、後にイエズス会の教育機関となり、現在は研修場として機能しています。敷地内の歴史的な礼拝堂は、アルバート・グレーズ(Albert Gleizes)によって設計されました。
 西暦1900年頃、彼女は個人的な願いを叶え、シャンティイの森に大きな城を建てた。このために彼女は、パリ国立高等美術学校を卒業した建築家、レオン・モーリス・シャトネー(Léon-Maurice Chatenay)に依頼した。彼はとりわけ、また、西暦1902〜1905年にかけて、パリ19区の「アドルフ ド ロスチャイルド眼科財団」の建設を担当した。レオン・モーリス・シャトネーは、モンヴィラルジェンヌ城とともに、地域的なスタイルと外国のスタイルを見事に組み合わせた120室の城を建設した。ノルマン様式の木骨造り、ヴュルテンベルク様式の屋根、イギリス式の窓やベアルン地方の特有のバルコニーなどを見ることができる。
 西暦1929年に建設者が亡くなった後、シャトーはしばらく機能しなかった。第2次世界大戦中はドイツ軍に占領された。連合軍は爆弾を投下して城の西翼を破壊した。戦後、この教会はカトリックのイエズス聖心修道女会(サクレ・クール寺院)に残され、サクレ・クール寺院が再建され、寄宿学校を併設した女子修道院が開設されたが、西暦1969年に閉校となった。その後、ここでホテル・スクールを運営し、西暦1983年にホテルとして開業した。西暦2003年に内装が全面改装され、4つ星ホテルに認定された。

 ジャンヌ・ソフィー・アンリエット・ド・ロスチャイルドは、西暦1896年に22歳​​の時にロスチャイルド家ではない、イギリス王国出身のレオニーノ男爵デイビッド(Baron David Leonino)と結婚した。
  第3子(次男)メイアー・アルバート(Mayer Albert de Rothschild)。夭逝。
  第4子(三男)ロチルド男爵アーサー(Baron Arthur de Rothschild)。父ナサニエル・ロスチャイルドは英国籍でフランスで生まれたため、彼はイギリス王国国民であったが、西暦1872年にフランス国籍を取得した。彼は著名な切手収集家でもあり、その主題に関する本を出版した。彼はまた、珍しいタペストリーを収集した。彼はまた、ヨットにも興味があり、アメリカズカップの賞金を提供した。彼は53歳で、モンテカルロの肘掛け椅子で心不全のため死亡。死後、重要な絵画はルーブル美術館に、古い指輪の大規模なコレクションはクリュニー美術館に寄贈された。
 第5子(次女)ハナ・メイアー。グラフトン公爵(Dukes of Grafton)家に生まれ、チャールズ2世(Charles II)の玄孫にあたり、第2代サザンプトン男爵ジョージ・フィッツロイ(George FitzRoy, 2nd Baron Southampton)中将の2番目の妻フランシス・イザベラ(Frances Isabella)(ロバート・シーモア(Robert Seymour.)の娘)との間に生まれた次男の、政治家ヘンリー・フィッツロイ(Henry FitzRoy)と結婚し1長1女を儲けた。
  第1子(長男)アーサー・フレデリック・フィッツロイ(Arthur Frederic FitzRoy)。
  第2子(長女)キャロライン・ブランシュ・エリザベス・フィッツロイ(Caroline Blanche Elizabeth FitzRoy)。
 第6子(四男)ロスチャイルド男爵メイヤー・アムシェル(Baron Mayer Amschel de Rothschild) 。愛称: マフィーイギリス王国の庶民院議員、馬主。
 西暦1859〜1874年までハイス選挙区選出の庶民院議員を務めた。バッキンガムシャー州長官、バッキンガムシャーの治安判事や副統監も務めた。西暦1850 年、メイヤー・アムシェルは 12400 ポンドでメントモアの荘園を購入し、ジョセフ・パクストン(Joseph Paxton)とその義理の息子ジョージ・ヘンリー・ストークス(George Henry Stokes)に、田舎の邸宅として西暦19世紀復興のジャコベタン様式の優雅な邸宅の設計と、夫妻の美術蒐集品の展示を依頼しました。完成した邸宅は、最新の特徴を取り入れ、四角い形で各角に塔が立つ小高い丘の上に建ち、イギリスのロスチャイルド家最大の邸宅で、中央にはガラス張りの屋根の巨大な大広間があり、ルネッサンス様式の宮殿のアーケードのある中庭を模して設計された。

 競走馬の飼育に熱心であり、西暦1871年には5つのクラシックのうち4つ(ダービー、セントレジャー、オークス、1000ギニー)までを「ハンナ」と「ファヴォニウス」で制した。特にダービーにおいて優勝を手にしたのはこの時が初めてだった。メイヤーの種馬飼育場は彼の死後、ロンドン・ロスチャイルド家第2代当主ライオネル・ド・ロスチャイルドの三男、甥のレオポルド・ライオネルに相続され、レオポルド・ライオネルも2度ダービーで優勝を手にすることになった。
 西暦1874年に55歳で死去。嫁ジュリアナは広大なメントモアの地所とピカデリー107番地を相続し、当時最も裕福なイギリスの相続人と言われた。豪華ヨット「ゼナイド」を所有しており、ジュリアナは、西暦1877年にこのヨットで亡くなった。
 メイヤー・アムシェルの母ハンナ・バレント・コーエン(Hannah Barent Cohen)の姪、アイザック(Isaac Cohen)とサラ・コーエン(Sara)の3人の娘の長女のジュリアナ・コーエン(Juliana Cohen)と西暦1850年に従兄・従妹婚 Cohenし1女を儲けた。
  第1子(長女)ローズベリー伯爵夫人ハンナ・プリムローズ(Hannah Primrose, Countess of Rosebery)。
 西暦1874 年に父メイヤー・アムシェルの遺産を相続後、彼女はイギリスで最も裕福な女性となり、西暦1878年、ハンナ・ド・ロスチャイルドは第5代ローズベリー伯アーチボルド・プリムローズと結婚し、その後ローズベリー伯爵夫人として知られるようになった。西暦19世紀最後の四半期、彼女の夫ローズベリー伯アーチボルド・プリムローズは英国で有名な人物であり、影響力のある大富豪で政治家で、その魅力、機知、 カリスマ性、そして国民の人気により「王族の地位をほぼ凌駕する」ほどの地位を獲得した。ハンナ・プリムローズは謎に包まれた人物であり、夫の3つの野望、即ち相続人との結婚、ダービーでの優勝、そして首相就任(おそらくは伝説的なこの野望の2番目と3番目は彼女の死後に達成された)に資金を提供した人物と見做された。実際に彼女は夫の原動力であり動機であった。西暦19世紀半ばまでにロスチャイルド家は自分たちをヨーロッパのユダヤ人にとって王族に最も近い存在、王族と同等の存在と見做していた。
 ユダヤ人と貴族との結婚は当時物議を醸したものの、反ユダヤ主義社会において、莫大な財産では得られなかった社会的地位を彼女に与えた。 その後、彼女は政治のホステスおよび慈善家となった。彼女の慈善活動は主に公衆衛生の分野と、ロンドンの貧しい地区に住む労働者階級のユダヤ人女性の福祉に関連した活動であった。夫の道をしっかりと支えてきた彼女は、西暦1890年に39歳で突然亡くなった。

 西暦1878年に自由党の政治家、第5代ローズベリー伯爵アーチボルド・フィリップ・プリムローズ(Archibald Philip Primrose, the 5th Earl of Rosebery)(後の首相)と結婚し2男2女を儲けた。

   第1子(長女)シビル・プリムローズ(Sybil Primrose)。シビル夫人は父親よりもさらに風変わりで、ほとんどの時間をキャラバンで過ごした。
   第2子(次女)マーガレット・プリムローズ(Margaret Primrose)。父の旧友で伝記作家のクルー侯爵(Marquess of Crewe)と結婚した。両親の名声は未だ高く、西暦1899年の結婚式の日にはロンドンの交通が停止した。クルー侯爵夫人はイギリス王国初の女性治安判事の1人となり、西暦1955年に亡くなった。
   第3子(長男)ハリー・プリムローズ(Harry Primrose)。ダルメニー卿 (後の第 6 代ローズベリー伯爵)父親や弟ほど政界では成功しなかったが、サリー州クリケットクラブの主将になり、エプソムダービーで優勝した馬を2頭所有することで頭角を現した。彼は父親の後を継いで第6代ローズベリー伯爵となり、西暦1974年に亡くなった。
   第4子(次男)ニール・プリムローズ(Neil Primrose)。政界に入り、将来が有望視されていた。しかし、第1次世界大戦が勃発すると、彼は軍隊に入隊し、西暦1917年にゲゼルで突撃して戦死した。
 第7子(三女)ルイーズ(Louise)。フランクフルト本家、ナポリ家の長男のマイアー・カール・フォン・ロートシルト(Mayer Carl von Rothschild)と従兄・従妹婚7女を儲けた。7人の娘のうち3人はロスチャイルド家の一員である2人の耶蘇教貴族と結婚した。
  第1子(長女)アデル・ハンナ(Adele Hannah)。
  第2子(次女)エマ・ルイーザ(Emma Louisa)。
  第3子(三女)クレメンタイン(Clementine)。
  第4子(四女)ローラ・テレーズ(Laura Therese)。
  第5子(五女)ハンナ・ルイーザ(Hannah Louisa)。
  第6子(六女)マルガレータ(Margaretha)。
  第7子(七女)ベルタ・クララ(Bertha Clara)。

初代英ロスチャイルド家当主ネイサン・メイヤー・ロスチャイルド一元化 - 石田晋一
初代英ロスチャイルド家当主ネイサン・メイヤー・ロスチャイルド一元化 - 石田晋一

posted by cnx at 23:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 反吐 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする