ユダヤ(ギリシャ語: Ἰουδαία、Ioudaía、漢字:猶太)
他民族からは「ヘブライ人」と謂れ、自らは「イスラエル人」と称し、バビロン捕囚後には「ユダヤ人」と呼ばれるようになった徒輩。ヘブライ人、イスラエル人、ユダヤ人は同じ民族を指している。
ユダヤ人(ヘブライ語: יהודים、英語: Jews、ラジノ語: Djudios、イディッシュ語: ייִדן)は、猶太教の信者(宗教集団)または猶太教信者を親に持つ者によって構成される宗教信者。原義は狭義のイスラエル民族のみを指す。イスラエル民族の1つ、ユダ族がイスラエルの王の家系だったことを由来とする。猶太教という名称は、猶太教徒が多く信仰していた宗教であることによる。ユダヤとは、パレスチナ南部の地域。酋長ヤコブの子ユダに由来する。古代イスラエル統一王国の分裂後の南ユダ王国があった地域である。南ユダ王国滅亡後のユダヤの歴史
南ユダ王国が滅ぶと、僅かな例外的時期を除いて西暦20世紀に至るまでユダヤ民族が独立国を持つことはなかった。
神武天皇74(西暦前587)〜安寧天皇10(西暦前539)年 新バビロニア帝国
安寧天皇10(西暦前539)〜孝安天皇61(西暦前332)年 アケメネス朝ペルシア帝国
孝安天皇61(西暦前332)〜孝安天皇88(西暦前305)年 プトレマイオス朝エジプト
孝安天皇88年(西暦前305)〜開化天皇17(西暦前141)年 セレウコス朝シリア
開化天皇17(西暦前141)〜崇神天皇35(西暦前63)年 ハスモン朝 ユダヤ人国家
崇神天皇35(西暦前63)〜崇神天皇61(西暦前37)年 共和政ローマ元老院属州
崇神天皇61(西暦前37)〜垂仁天皇73(西暦44)年 ヘロデ家
垂仁天皇73(西暦44)年 ユダヤ属州(ローマ帝国皇帝属州)
垂仁天皇73(西暦44)〜景行天皇23(西暦93)年 ヘロデ家
垂仁天皇73(西暦44)〜仁徳天皇83(西暦395)年 ローマ帝国皇帝属州
仁徳天皇83(西暦395)〜舒明天皇06(西暦634)年 東ローマ帝国
舒明天皇06(西暦634)〜永正13(西暦1516)年 イスラーム諸王朝 途中に十字軍国家の時代を含む。
永正13(西暦1516)〜大正06年(西暦1917)年 オスマン帝国
大正07年(西暦1918)〜昭和23(西暦1948)年 イギリスによる国際聯盟の委任統治
昭和23(西暦1948)年 イスラエル国(メディナット・イスラエル)成立 共和政国家の樹立、現代に至る。 西暦135年、ローマが叛乱を鎮圧し、ユダヤ的なものを一掃しようとしたローマ人は、この土地をユダの地(ユダヤ)ではなく、ユダヤ人の宿敵ペリシテ人に因んで「パレスチナ」、エルサレムを「アエリア・カピトリーナ」と改称し、ユダヤという地名は消滅した。 また、ユダヤ人は人種的にはセム族とされるが、長いディアスポラ(離散)のなかで、周辺民族との混血の結果、セファルディームとアシュケナジームの違いが生じ、また言語もイデッシュ語などが生まれた。現在、ユダヤ人はイスラエルの他、世界中に分布しており、アメリカにも約600万人が住んでいるとされる。しかし現在ではユダヤ人を「人種」概念で捉えるのは困難で、現実には「猶太教を信仰する徒輩」と捉えるのが正しい。人類学的に同質のユダヤ人は存在しない。ナポレオン・ボナパルト(仏語: Napoléon Bonaparte)、オットー・フォン・ビスマルク、クレメンス・フォン・メッテルニヒ(独語: Klemens von Metternich)、アシュケナジーム猶太のカール・マルクス、・・・といった邪悪な連鎖が、革命、戦争、秘密結社で諸国家の富、金・ダイヤモンド、土地、生命、健康を掠奪した悪魔が、アシュケナジーム猶太のロスチャイルド一族。
悪魔のセファルディーム猶太のベンジャミン・ディズレーリは、ロスチャイルド家の出色に忠実な下僕の「操り人形」。ロスチャイルドに議席に爵位にスエズ運河にボーア戦争、パレスチナを貢いだ。
悪魔ロスチャイルドは、麻薬はセファルディーム猶太のサッスーン家、ジャーディン・マセソン、グラバー、金とダイヤモンドはセシル・ローズ、デ・ビアス、オッペンハイマー家、石油はセファルディーム猶太のサミュエル家、詐欺師ロックフェラー、アシュケナジーム猶太のクーンローブ、J・P・モルガンなど配下の犬を使った。
悪魔のロスチャイルドの「淫婦」と「獣」を操る「万物を監視する目」で、厳命「真っ当な国家、人は破壊せよ!」
例えば、猶太の巣窟、米連邦準備銀行を潰そうとロスチャイルド家に歯向かう者は抹殺した。 啓蒙時代(西暦17世紀〜18世紀)になると、ユダヤ人バールーフ・デ・スピノザ(蘭語: Baruch De Spinoza、羅語: ベネディクトゥス・デ・スピノザ(Benedictus De Spinoza))らによる宗教を超えた汎神論論争をゴットホルト・エフライム・レッシング(独語: Gotthold Ephraim Lessing)が肯定すると、ユダヤ人モーゼス・メンデルスゾーン(独語: Moses Mendelssohn、「賢者ナータン」のモデル)もこれを擁護してハスカーラー(ヘブライ語: הַשְׁכָּלָה、haśkālāh)と呼ばれる啓蒙運動がユダヤ人の間で開始された。
ハスカーラーに抵抗のあった者たちの中から西暦1740年頃、ガリツィア・ロドメリア王国(西暦1772〜1918年、紅ルーシ)でラビ(レベ)・イスラエル・ベン・エリエゼル(ヘブライ語: Rebbe(rabbi) Yisroel ben Eliezer, ישראל בן אליעזר、(Yiśrā’ēl bēn ’El‘āzâr、バアル・シェム・トーブ(ヘブライ語: הבעל שם טובBa‘al Šem T‘ōbh、略称: הבעש"ט、ベシュト(BEŠT))が超正統派運動ハシディズム(独語: Chassidismus、英語: Hasidism, Hasidic Judaism、ヘブライ語: חֲסִידוּת, Chasidut, chǎsīdhūth、イディッシュ語: chasidu(i,e)s)を開始した。 西暦1786年、ロシア帝国がユダヤ教徒居住区(露語: Черта́ осе́длости、イディッシュ語: דער תּחום-המושבֿ)を設置。西暦1795年にポーランド分割(西暦1772〜1793、1795年)が実施され、ポーランド・リトアニア共和国(西暦1569〜1795年)が消滅して東部(旧リトアニア公国領)がロシア帝国に併合された。ポーランドが消滅してその庇護を失ったユダヤ人は、ハプスブルク家へ庇護を求めたが、ウクライナ人・ベラルーシ人から裏切り行為と受け取られた。西暦1806年07月、神聖ローマ帝国(西暦800/962〜1886年)が解体され、
西暦1811年にカール・テオドール・アントン・マリア・フォン・ダールベルク(Karl Theodor Anton Maria von Dalberg)がフランス民法典を下にフランクフルトのユダヤ人に市民権を認めた。 しかし、ナポレオン・ボナパルトが敗退すると、西暦1814年にはユダヤ人の市民権と選挙権が再び剥奪された。
西暦1819年、ドイツのヴュルツブルクでポグロム(露語: погром、パグローム、「破壊」の意)が発生し、瞬く間にドイツ文化圏全域でヘプヘプ・ポグロムが起こった。西暦1821年にはウクライナでオデッサ・ポグロムが起こった。 西暦1848年、ハンガリー革命に参加したハンガリー系ユダヤ人(英語: Hungarian Jews)が弾圧された。これをきっかけにエスターライヒ・テシェン公アルブレヒト・フリードリヒ・ルードルフ(独語: Albrecht Friedrich Rudolf von Österreich-Teschen)によってハンガリー王国(西暦1000〜1918年)も西暦1851〜1860年にかけてドイツ化が進行した。
西暦1864年、フランクフルトのユダヤ人に再び市民権が認められ、西暦1871年にドイツ帝国(西暦1871〜1918年)が建国された際、ユダヤ人は正式にドイツ国民としての権利を与えられた。 アヘン戦争(西暦1840〜1842年)は、恥を知らない紅毛蠻族のハノーヴァー朝(西暦1714〜1901年)イギリス王国(グレートブリテン及びアイルランド連合王国(西暦1801〜1922年))が引き起こした醜悪な戦争で、このイギリス王国によるアヘン貿易強行のための支那への侵略戦争は、西からの衝撃となり東亜の近代史、日本の近代史が始まった。
このアヘン戦争には、セファルディーム猶太の富豪、サッスーン家が深く関わっている。上海屈指の豪商サッスーン家は、西暦18世紀にバグダードに台頭しオスマン帝国(西暦1299〜1922年)の治世下にあって財務大臣を務めるほどの政商であった。 デビッド‣サッスーン(英語: David Sassoon)はサッスーン家の子としてバグダードに生まれ、そこで活動していたが、シルクロードの交易によって益々その富を蓄え、当時の紅毛蠻賊イギリス王国の東方進出に協力して、まずインドのムンバイ(ボンベイ)に拠点を構えた。 やがて紅毛蠻賊イギリス王国東インド会社が支那にアヘンの密輸を開始すると、その取引に荷担して莫大な富を蓄積した。西暦1832年にボンベイで「サッスーン商会」を創業し、インド産のアヘンを密売し始めた。 紅毛蠻賊イギリス王国東インド会社からインド産のアヘンの専売権を取得し、アヘンを支那で売り、支那の銀を運び出し、途轍もない利益を上げた。 デビッド‣サッスーンは「アヘン王」と呼ばれる程になった。 彼はイギリス紅茶の総元締めでもあり、麻薬と紅茶は、彼の手の中で同時に動かされていた。西暦1870年代にはインド産アヘンの70%を取り扱い、最盛期には上海全体の20%がサッスーン財閥の資産だった。
アヘン(阿片)は、芥子の実(鶏卵大〜拳大)に傷を付け、その傷から滲み出る乳液を採取して作られる麻薬である。 アヘンは約10%のモルヒネを含み、精製の必要がなく、顕著な薬効がある為、昔から麻酔薬として使われてきた。 支那では清(大C國(西暦1636〜1912、1917年(張勲復辟))の時代にアヘンを薬としてではなく、煙草のように煙管を使って吸うことが流行した。 アヘンは、吸い続けると中毒になり、やがて廃人になってしまう。アヘンを大量に送り込まれた清では、アヘンが大流行して社会問題となった。 やがて、清が阿片輸入禁止令を出したことで、清とイギリス王国との間でアヘン戦争が始まった。 アヘン戦争で敗れた清は南京条約(西暦1842年)に従って上海など5港を開港し、香港をイギリス王国に割譲し、さらに賠償金2億1000万両を紅毛蠻族イギリス王国に支払った。 アヘン戦争での清の敗北がイギリス王国をはじめフランス王国オルレアン朝(7月王政)(西暦1830〜1848年)、ロシア帝国(西暦1721〜1917年)の支那侵略の足掛かりとなった。 その意味でサッスーン商会は紅毛蠻族ヨーロッパの列強の帝国主義で血脹れした会社と言える。西暦19世紀半ば、アヘン戦争に破れた清朝が上海に租界の設置を認めると、時を移さず上海に進出し、アヘンを含む物資の売買を開始した。 嘉永06(西暦1853)年、フリーメイソンで紅毛蠻族アメリカ合衆国(西暦1776年〜)海軍東インド戦隊代将のマシュー・カルブレイス・ペリー(ペルリ、英語: Matthew Calbraith Perry)は、中進国紅毛蠻族アメリカにとってかなり無理をして見栄を張り、大西洋から蒸気船2隻を含む艦船4隻を率いて日本に来寇した。この本当の目的は2匹目、3匹目の泥鰌を狙い、資本投下し貿易で利益を吸い上げるための市場作りだった。ペルリは表向きは米政府代表だが、裏でユダヤ人の犬だった。
ドイツ出身のセファルディーム猶太で金融大富豪のオーガスト・ベルモント1世は、メイフラワー誓約の署名者、ピルグリム入植者の指導者ウィリアム・ブリュースター、ジョージ・ソールの子孫のペルリ家に接近するため、マシュー・カルブレイス・ペリー(ペルリ)の娘キャロライン・スライデル・ペリーと結婚した。ロスチャイルド家の米国代理人のオーガスト・ベルモント1世はペルリに資金を渡し、来日したペルリは親善と言いながら黒船の大砲を江戸に向けて砲艦外交で恐喝した。「捕鯨船への薪や水の提供、水難事故時の乗員保護」は建前で、日本を開国させて利益を貪るのが本当の目的だった。上海に退いた紅毛蠻族ペルリはコ川幕府との1年後の約束など違えて、半年後に2回目の来寇を早めた。この時にコ川幕府に蒸気機関車の4分の1模型、エンボッシング・モールス電信機、銀板写真機、ピストル、望遠鏡、ミシンなどを献上した。 世界で最初の蒸気鉄道は、文政08(西暦1825)年、紅毛蠻族イギリス王国ダラム州のストックトン・アンド・ダーリントン鉄道(英語: Stockton and Darlington Railway、S&DR)で、炭鉱で産出した石炭を運搬する目的でストックトンとダーリントン間の約40kmに設営された。機関車はジョージ・スチーブンソン(George Stephenson)が設計したロコモーション号が使用された。この鉄道は石炭輸送を主目的としており、旅客の依頼があれば鉄道上を馬に牽引された車両で利用することができた。ここで採用された軌間4フィート8インチが、国際標準軌間の4フィート8インチ1/2 (1435 mm) になった。本格的な客貨両用鉄道は文政13(西暦1830)年に紅毛蠻族イギリス王国で開通したリバプール・アンド・マンチェスター鉄道(英語 : Liverpool and Manchester Railway、L&MR)で、ジョージ・スチーブンソンの一人息子、ロバート・スチーブンソン(Robert Stephenson)の蒸気機関車ロケット号を使用した。紅毛蠻族イギリス王国では文政13(西暦1830)年以降、鉄道建設熱に浮かされた。「鉄道狂時代」と呼ばれ、弘化03(西暦1846)年までに272社もの鉄道会社が乱立し、紅毛蠻族イギリス王国内に6000マイルにも及ぶ鉄路が敷かれた。今日の英国内鉄道網の約6割はこの時に敷かれた。ブルジョアは鉄道会社に投資した。実体のない怪しげな鉄道会社の株ですら飛ぶように売れた。鉄道バブルはやがて弾け、272社もあった鉄道会社は統廃合されてわずか4社となった。作り過ぎた蒸気機関車も鉄道技術も行き場を失った。鉄道バブルに踊ったジョンブルの多くが文無しになった。
そんな時、「ペルリが日本を開国させた。」という知らせが届いた。紅毛蠻族英国政府の手先がやって来てコ川幕府と強引に条約を結んだ。金の臭いを嗅ぎつけたユダヤ人が経営する紅毛蠻族英国系商社も潜り込んで来た。さらに紅毛蠻族英系の投資銀行も続々と横濱に集まって来た。 実は日本で初めて走った鉄道は、ロシア艦船に積んで運ばれ船の上で見せた模型で、ペルリの初来寇の翌月の嘉永06(西暦1853)年07月、ロシアのエフィーミー(エフィーム)・ヴァシーリエヴィチ・プチャーチン(露語: Евфимий(Ефим) Васильевич Путятин、Jevfimij Vasil'jevich Putjatin)が率いる4隻の軍艦が長崎に初来寇しコ川幕府と開国の交渉を行った。約半年におよぶ滞在期間中に日本人を艦上に招待して、蒸気機関車の模型の運転を展示した。招待されたのはコ川幕府の川路聖謨、佐賀鍋島藩の本島藤夫、鍋島藩精煉方の中村奇輔(きすけ)だった。佐賀藩精煉方は、佐賀藩主鍋島直正が嘉永05(西暦1852)年に設置した理化学研究所で、
鍋島藩精煉方の中村奇輔、田中久重(からくり儀右衛門、東芝創業者)、石黒寛次は、蒸気機関車と蒸気船の模型製造を願い出た。中村奇輔がロシア艦上で蒸気機関車模型を見てから2年後の安政02年(西暦1855年)02月、蒸気機関車と蒸気船の模型を完成させた。 長崎に続いて、前述の嘉永07(西暦1854)年に横濱で蒸気機関車の模型が走った。これはペルリの2回目の来寇時に紅毛蠻族13代酋長ミラード・フィルモア(Millard Fillmore)からコ川将軍への献上品として持参したものである。機関車には機関士が乗って運転し、客車は6歳の子供なら客車の中に入れるかどうかという大きさで、これを見て幕臣河田八之助が、「客車の屋根に跨れば乗れるのではないか。」と交渉の上、乗車した。これが、日本で客車に乗った初の日本人である。またこの模型を江川太郎左衛門も見物し、自らの手で運転したいと申し出て、運転を成功させた。
献上品の蒸気機関車模型は紅毛蠻族アメリカ製と思われ、幕末維新期のドサクサに幕府から鉄道の利権を買取っていた。駐日紅毛蠻族米国代理公使チャールズ・デロング(Charles E. DeLong)は、戊辰戦争の火事場につけこんで、慶応03(西暦1867)年12月23日付で、コ川幕府から江戸−横濱間の鉄道利権を、紅毛蠻族米国市民ボルトメン(実は紅毛蠻族米国領事館員)の名で獲得していた。利権を得るための金額はいくらか、誰から免許を受けたか、詳細はどこにも残されていない。
この許可状を種に明治政府に、その確認を厳しく要求したが、明治政府は「日本国民に鉄道を経営させる方針である。」とつっぱねさせたのは、駐日紅毛蠻族英国ハリー・スミス・パークス(英語: Harry Smith Parkes)であった。明治維新の際に主導権争いをした紅毛蠻族米国と紅毛蠻族英国の争いについては、結局上述のようにして決着がつき、いよいよ予てから腹案を練っていたハリー・スミス・パークス英公使が表舞台に出て来た。
慶應01年(西暦1865)年、ジャーディン・マセソン商会長崎支店のトーマス・ブレーク・グラバーは三浦半島南端の大浦海岸で英国製の小型蒸気機関車「アイアン・デューク」号を試験走行させた。この年、紅毛蠻族アメリカの南北戦争が終結した。ロスチャイルドのパリ家も日本に鉄道売ろうと虎視眈々と狙っていた。しかし、日本はこの直後、薩長が同盟し倒幕の嵐が吹き荒れ、鉄道どころではなく、新式の鉄砲や大砲など武器や軍装品の需要が増えた。
ところがここで、信じられないような愚か者が2人出て来た。伊藤博文とオリエンタル・バンク(英国東洋銀行)横浜支店長ジョン・ロバートソン(John Robertson)である。
西暦18世紀中頃に始まる産業革命を西暦19世紀前半までに達成した紅毛蠻族イギリス王国を先頭に資本主義社会が形成されると、新たに市場及び原料供給地としての植民地の意義が重大になってきた。植民地に対しては本国の工業の原料の安価な供給地され、商品作物の生産に特化したプランテーションが紅毛蠻族英国人によって経営され、現地人はその労働力とされ、本国の工業製品の市場として二重に収奪された。このような中で植民地の人口減少、貧困が続き、4次にわたるマイソール戦争(西暦1767〜1769、1780〜1784、1789あるいは1790〜1792、1798〜1799、あるいは1799年のみ)、3次にわたるマラーター戦争(西暦1775〜1782、1803〜1805、1817〜1818年)、2次にわたるシク戦争(西暦1845〜1846、1848〜1849年)、プラッシーの戦い(西暦1857年)、インド大叛乱(西暦1857〜1858年、セポイの乱)と度々叛乱が起きるようになった。植民地の維持や拡大に伴う財政支出や軍事支出が過大になることを恐れ「植民地不要論」が擡頭し、領土化よりもより安全で利益の大きい他地域との自由貿易を拡大していく重商主義への転換が見られた。南アフリカで金やダイヤモンドが見つかることで帝国主義が炎再燃し。鬼畜のようにアフリカ大陸を蹂躙していくことになった。欧米列強が日本に開国を迫っていたのはこの期間と重なる。 勿論、この契約の真髄は「日本政府のために成功裡に借款を組み上げる」ことにあり、万が一「金がつくれなければ世界に恥をさらすことになる」から契約者としてスタント・マンを使ったのだが、はじめから英国政府は自信満々だった。蒸気機関車と鉄道の資材の手当などは、英国政府の手にかかれば二次的な手配にすぎない。「貧乏国の日本のために金を造ってやる」ことこそが彼らの主眼だったのだ。
このような英国政府の魂胆と指導により、上表で見る通り、1870年(明治3年)4月23日、ロンドンのデランジェ商会は同じくロンドンのシュローダー商会を通じて日本国債を発行し、事実上即日完売した。明治政府の目的は100%達成された。英国政府は面目を施した。
画像:本文とは関係ないが、信じられないような馬鹿が6例報告されている。ご参考まで。
一方、秘密会談の英国側の出席者は、ハリー・パークス公使、ホレイショ・ネルソン・レイ(英語: Horatio Nelson Lay)の2人であった、と推察される。これに加えて通訳としてのアーネスト・サトウが出席していたかもしれない。日本側出席者に説明されたレイの肩書きは、西暦1854年〜西暦1861年まで上海で海関総税務所長、1861年から63年まで清帝国に任命されて太平天国対策のフロティーラ(小艦隊)の隊長であった」ことぐらいだったろうから、このレイは後ろだてのはっきりしない「流れ者の口入れ屋」にすぎない、と日本側出席者は感じたのかもしれない。
ところがじつは、このレイはパークス公使の差し金で英国外務省から派遣されたバリバリの準外交官であり、技師・機材の提供権限のみならず、融資問題をも独自で決定できる権限を有する全権大使であった。また、パークスは日本側に説明しなかったのだが、背後に控えていたのは、当時世界の金融界でも名高いトップスターのエマイル・デランジェであった。英国側からすれば、極東の(極端に貧乏な)日本国のために欧州で金を集めるために「これ以上の強力な布陣は考えられない」完璧なお膳立てであった。こういう事情を予め日本側に詳しく説明しなかったのは、パークス公使の落ち度であり、これをもってして後日、パークスは本国外務省からきつく叱責されるのである。
と記述されていることから見ても、この鉄道建設が英国政府による発案であったことは一目瞭然である。パークスが日本政府を説得したのである。そして、1869年12月8日(洋暦)の日英秘密会談で鉄道敷設が決定された。その際の日本政府の交渉人は、
右大臣 岩倉具視
大蔵卿 伊達宗城
大蔵大輔 大隈重信
大蔵少輔 伊藤博文
の四人であった、と推察される。このうち英語を話すのは伊藤博文だけであったため、実際には伊藤博文が日本側窓口となった。だから、伊藤博文がひとりで交渉を取り進め、他の三人は伊藤博文のいいなりになったのである。
また、のちに、
昨年末に日本政府から、「江戸−京都間に鉄道を建設することに決定した。」との知らせを受けた。建設を開始するのに資金不足で困っていたが、そのころ前中国駐在のH・N・レイ(Horatio Nelson Lay)が日本訪間中で、鉄道予定線と関税収入を担保として、百万ポンドを日本政府に貸そうという提案が出された。政府はこの提案を受け入れ、レイは英国へ帰り、以上の金額を調達し、必要な技師たちを雇うことになった。
アヘン戦争時にインドから清國にアヘンを運んで大儲けした英国のP&O(ピーアンドオー、ペニンシュラ・アンド・オリエンタル・スチーム・ナビゲーション会社、英語: Peninsular and Oriental Steam Navigation Company)社は、安政06年(西暦1859年)06月02日の開港(長崎、函館、横浜、神戸、新潟)で長崎が開港すると、すぐに長崎−上海間に定期船を就航させた。P&Oは、カーニバル・コーポレーション傘下のP&Oクルーズが残っている。
幕末期の上海には英米などの列強国だけでなく各地の利益に飢えたユダヤ商人が集って来た。長崎にいたトーマス・ブレーク・グラバーの雇い主もジャーディン・マセソン商会で、横濱と上海の中間地点である長崎に送られた。坂本龍馬らが亀山社中を長崎に置いたり、岩崎彌太郎が頻繁に長崎に出入りしていた。伊藤博文や井上薫などの長州藩5人や薩摩藩士19人の英国密航の手配をしたのもジャーディン・マセソン商会だった。外国語を学んで身を立てようとした者の多くが長崎を目指し、長崎に倒幕派が集結した。
上海はアヘン戦争に勝利した英国が嘉永01(西暦1848)年、戦利品として支那から分捕った租界地で最初は数km四方の土地だったが勝手に土地を拡げていった。租界地は清の法律など通用しない治外法権の事実上の植民都市で、安政06(西暦1859)年には英国の汽船会社P&Oが長崎と上海を結ぶ定期航路を開設し、トーマス・ブレーク・グラバーらもよく利用した。(西暦1862)年になるとコ川幕府も千歳(せんざい)丸を長崎−上海間に就航させた。千歳丸は英サンダーランドで建造された400トン弱の小さな木造帆船で幕府が3万4000ドルという法外な額で購入した。長州の高杉晋作らはこの千歳丸に乗って上海を視察。現地人が「犬と支那人、入るべからず。」と屈辱的な扱いを受けている様子を見て「このままでは日本も同じ運命を辿る。」と危機感を募らせた。
トーマス・ブレーク・グラバーらが英国の定期船を利用して長崎と上海の間を往来していた。
上海往復の目的は何か。もちろん表向きは交易だが重要な目的は情報交換だった。かつてナポレオン戦争の頃、ロスチャイルド家はドーバーとカレーの間に私設の高速艇を常設し大陸での戦況を誰よりも早く知った。ワーテルローでイギリス側勝利の知らせを誰よりも先に入手。ところがあえて悲痛な表情で英国債を大量に売った。投資家たちは「ロスチャイルド卿が英国債を売っている。イギリスが負けたに違いない」と勝手に思い込み、慌てて国債を叩き売った。英国債は大暴落。ロスチャイルドは裏で国債を底値で大量に買った。2日後、政府にようやくイギリス勝利の報が届き人々は国債を買い漁った。英国債は大反発。ロスチャイルドはこれを高値で売って莫大な利益を上げた。人形は顔が命。投資家は情報が命。
南北戦争直前の中進国の紅毛蠻賊アメリカ合衆国の発展途上の北部の鬼畜は、ロスチャイルドの手先、なけなしのマシュー・カルブレイス・ペリーの黒船(蒸気船は2隻、2隻は帆船で蒸気船も蒸気機関は出入港時のみ)で先に沖縄と小笠原諸島を侵攻し本土に来寇し砲艦外交で脅迫し開国させた。商人タウンゼント・ハリスら日本とそれ以外の金と銀の交換率の差を利用し日本の金を詐取した。
明治01(西暦1868)年には戊辰戦争が始まった。紅毛蠻賊アメリカ合衆国は南北戦争で使用した武器を、薩長側には紅毛蠻賊イギリス王国経由で、コ川幕府側には紅毛蠻賊フランス帝国経由で売却した。
ロスチャイルドの手先のジャーディン・マジソン商会の武器商人トーマス・ブレーク・グラバーはどちら側にも売りつけた。これは元はと言えば、日本の金を回して膨らませた資金で調達した南北戦争の中古武器を再び日本に売りつけた。開国当時、悪逆な世界を知らずに紅毛蠻賊列強に転がされた。
明治維新後の洗脳教育がコ川幕府の外交を否定しているが、ぶらかし戦術は時間を稼ぎ、武力を増強するための次善の策だった。薩長土肥に水戸、越前の過激浪士(テロリスト)は、「尊王攘夷」を掲げたが、クーデター後に「用王開国」に驚天動地の180度反転し、澁澤榮一や榎本武揚など幕府の人材を使わざるを得なかった。
戊辰戦争の一体どこが内戦ではないのか?
鳥羽・伏見の戦いで、最高指揮官が敵前逃亡した不心得養子の最後の第15代将軍コ川慶喜や會津藩藩主松平容保(かたもり)、桑名藩藩主松平定敬(さだあき)、御用盗の騒擾を起こしたテロリストでホモ入水に失敗した過去を持つ薩摩の西郷隆盛と高利貸し盲ら(盲らには高利貸しを幕府が公認した)の末裔の勝海舟は、お互いの利害で江戸城無血開城を成し、その後の自己弁護の詭弁の虚言。大名は幕末騒擾の安全圏で、明治には華族様で維新の果実のおこぼれを啜ったが、国民は富国強兵で、金に命まで取られた。
倒幕も幕府の指導層も、卑怯者で無責任な恥さらしの汚らわしい屑!!
コ川幕府を滅ぼしたコ川慶喜はコ川齊昭の妾の子で養子。高須藩藩主松平義建(よしたつ)は種付けが上手い以外に功績はない尾張コ川家の分家で、妾腹が「高須四兄弟」で、次々養子にやったのが、松平容保、松平定敬で、松平義建は種付け合戦の勝者!!
こいつらの種付け養子どもが狂った水戸学に洗脳され、ロスチャイルドに操られ国家百年の礎を誤らせた!!
藩主や薩長のテロリスト(金と女漁り)は、家臣や領民、国民は塗炭の苦しみの傍ら、華族として上流階級で左団扇の明治を送った!! コ川慶喜は、御三家常陸水戸25万石第9代藩主コ川齊昭と御簾中(正室)吉子女王の子で七男、御三卿一橋家の養子となり将軍。コ川齊昭は、コ川治紀と側室永との三男。異母姉の規姫は慶勝の母。コ川慶勝と慶喜は、従兄弟。他の「高須三兄弟」も姻戚の従兄弟。
常陸水戸藩第6代藩主コ川治保(はるもり)側室佐山(旗本前田政英の娘)との次男松平義和(よしなり)が末期養子として、御三家尾張名古屋藩61万9500石の支藩(御連枝)の美濃高須藩3万石の藩主に入った。側室平松氏との次男が松平義建。松平義建は、常陸水戸第7代藩主コ川治紀(はるとし/はるのり)と側室染浦との五女規姫を従兄妹婚姻で正室とした。その子が次男義恕(よしくみ、後の慶勝)で、尾張藩第14代藩主、第17代当主。側室尾崎氏との五男初名建重(たつしげ、後のコ川茂コ(もちなが))は高須藩藩主松平義比(よしちか)、尾張藩第15代藩主コ川茂コ、一橋家当主(一橋茂栄(もちはる))と転々とした。側室古森氏との七男容保(かたもり)陸奥国會津藩23万石第9代藩主。側室(奥山氏、今西亀等の説あり)との八男定敬(さだあき)は伊勢桑名藩6万石藩主。ここまでの4人が「高須四兄弟」。正室規姫との三男松平武成(たけなり/たけしげ)親藩石見国濱藩6万1千石藩主。
松平義建の五男初名建重は、長兄、四兄は夭折、次兄の慶恕は尾張コ川家を、三兄の武成は石見国濱田松平家を継いだため、この4人の兄に代わって高須藩藩主義比となった。14代将軍に就任したコ川家茂より偏諱の授与を受けて茂コ。高須藩主は代わって長男の義端(よしまさ)が継いだ。安政05年(西暦1858年)西暦07月05日、安政の大獄により、次兄のコ川慶恕(後のコ川慶勝)の隠居謹慎に伴って尾張藩主に就任した。万延01(西暦1860年)05月18日、義端が早世すると、次兄コ川慶勝と側室お玉の方との三男幼名元千代を幕命により養子とし、偏諱を与えてコ成(ながなり)と名乗らせた(後の尾張藩第16代(最後)の藩主義宜(よしのり))。やがて慶勝の謹慎が解けると藩内では慶勝派が擡頭し、そのため、高須藩主へ復帰する意向も漏らした。結局、文久03年(西暦1863年)09月13日に隠居し、義宜に藩主を譲った。慶応01年(西暦1865年)4月、長州再征に際して幕府より征長総督就任の内命を受けたが、慶勝側近らの猛反発を受け総督は紀州藩主徳川茂承に変更されたものの、茂徳にも上京が命ぜられ、大坂城に滞在する家茂の側にあって幕政に参与し、同年閏05月、諱を茂榮(もちはる)に改めた。慶応02年(1866年)12月27日、次兄の慶勝や、七弟の松平容保(会津藩主、京都守護職)の斡旋により、コ川宗家を相続(第15代将軍に就任)した慶喜に代わって一橋家当主を継承した。当初は家茂の内意を受けて清水家相続の予定であったが、慶喜の意向により同家はコ川昭武(慶喜の十八弟(庶子)、母は側室万里小路建房六女の睦子(ちかこ))が相続することととなり、相続先の差し替えが行われた。慶応04年(1868年)01月に勃発した戊辰戦争に際しては、次兄慶勝の内意を受けてコ川宗家救済の嘆願活動の一翼を担った。但し、茂徳が江戸から江尻宿に赴き、東征大総督有栖川宮熾仁(たるひと)親王に前将軍慶喜の寛大な処分を願う嘆願書を提出できたのは03月27日であり、既にこの頃、山岡鉄舟、勝海舟らによってコ川宗家の降伏条件について新政府側と妥結済であった。
万延01(西暦1860年)、ヘボン式ローマ字で有名な宣教師の間諜で医師の紅毛蠻賊米人ジェームス・カーティス・ヘプバーン(ヘボン)(英語: James Curtis Hepburn)と紅毛蠻賊米商人フランシス・ホール(英語: Francis Hall)、間諜で宣教師で医師の紅毛蠻賊米人デュアン・シモンズ博士・B・シモンズ(英語: Duane B. Simmons)夫妻らは、神奈川宿近くの東海道で大名行列を見物した。尾張コ川家の行列の先触れに跪くよう命じられたがヘボンとホールは従わず、立ったまま行列を凝視したため、尾張藩主もヘボンらの前で駕籠を止め、オペラグラスでヘボンらを観察するなど張り詰めた空気が流れたが、数分後に尾張侯の行列は何事もなく出発し、事件・紛争化することなく事なきを得た。日本に来た紅毛蠻賊は文字通り一攫千金を狙う無法な蠻賊で、このような傍若無人で無礼、日本を蔑視した横柄な態度を示した。文久02年08月21日(西暦1862年09月14日)、無礼極まりない紅毛蠻賊に怒った薩摩藩はこの徒輩を斬り殺した。(生麦事件) 水野忠政と於富の娘は、松平広忠の正室でコ川家康の母に於大の方で、久松俊勝と再婚してできた異父弟3人は松平家一門に准じた。この久松松平家のうち、末弟の定勝の三男定綱は美濃国大垣藩6万石から伊勢国桑名藩11万石となり、子孫は一時、越後高田藩、陸奥白河藩に移されたこともあるが、幕末には桑名藩主に戻った。途中で幕命により、田安家コ川宗武(コ川吉宗の次男)の七男賢丸(後の定信)を養子に迎え男系は途切れたが、娘で繋がっている。松平定和と島津重豪(しげひで)九女孝姫の長男、定猷(さだみち)が江戸で急死後、長男の定教は幼少で妾腹の庶子(側室)でもあったため、正室貞子嫡出の娘初子に婿養子の高須藩の松平定敬を迎え定教を養子にした。
慶応03年10月14日(西暦1867年11月09日)に、15代将軍コ川慶喜によって大政奉還が行われた。コ川慶勝は上洛して、薩摩藩、土佐藩らとともに王政復古政変に参加し、新政府の議定に任ぜられた。12月09日(西暦1868年01月03日)の小御所会議において慶喜に辞官納地を催告することが決定、慶勝が通告役となる。この時期においても、慶勝はコ川宗家を補翼する意識を強く保持しており、大政奉還後は官位降奪の願書を朝廷に提出した他、小御所会議では慶喜の出席を主張、議定職の辞職願を提出し、辞官納地に際しては尾張藩領を宗家に返還する意向まで表明した。翌慶応04年01月03日(西暦1868年01月27日)に京都で旧幕府軍と薩摩藩、長州藩の兵が衝突して鳥羽・伏見の戦いが起こり、慶喜は軍艦で大坂から江戸へ逃亡した後謹慎した。01月15日、慶勝に対し、藩内の「姦徒誅戮」のため帰国を命ずる朝命が発せられた。01月20日(西暦02月13日)、
慶勝は尾張へ戻り、家老・渡辺新左衛門ら佐幕派家臣の粛清を断行し、重臣から一般藩士にまで斬首14人、処罰20人に上った。この事件は、処刑された重臣のうちの筆頭格である渡辺新左衛門家の別称が「青松葉」とされていたことから、「朝風におもひかけなし青松葉 吹き散らされて跡かたもなし」との狂歌が生まれ、「青松葉事件」と呼ばれるようになった。
明治維新という過ち 日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト〔完全増補版〕 (講談社文庫 は 112-1) - 原田 伊織慶應02年12月03日(西暦1867年01月08日)アメリカ合衆国コロンビア特別区で黒人が選挙権を獲得。
12月05日(西暦01月10日)コ川慶喜が第15代征夷大将軍に就任。
12月25日(西暦01月30日)孝明天皇崩御(発表は慶応02年12月29日)。慶應03年01月08日(西暦02月12日)北ドイツ連邦憲法制定議会の選挙。自由主義右派政党国民自由党が第1党。
01月09日(西暦02月13日)睦仁親王践祚(明治天皇)。 ヨハン・シュトラウス2世ワルツ「美しく青きドナウ」初演(ヴィーン)。
01月11日(西暦02月15日)コ川昭武、澁澤栄一ら幕府代表としてパリ万博視察のためフランスに向けて出発。
01月13日(西暦02月17日)最初の船がスエズ運河を通過。
プロイセン首相ビスマルクの後押しで南ドイツ三国(バイエルン、 ヴュルテンベルク、バーデン)がシュトゥットガルトで会議し、プロイセン型軍制改革を決議。
01月25日(西暦03月01日)アメリカ合衆国でネブラスカが37番目に州となる。
02月11日(西暦03月16日)ジョゼフ・リスターが消毒手術法を発表。
02月24日(西暦03月29日)イギリス王国で英領北アメリカ法勅許(05月30日(西暦07月01日))に自治領カナダ成立を承認)。
アメリカ合衆国議会がリンカーン記念碑協会を承認。
02月25日(西暦03月30日)アメリカ合衆国がロシア帝国よりアラスカを購入。
北ドイツ連邦首相ビスマルクとフランス皇帝ナポレオン3世の間でルクセンブルク危機。
02月27日(西暦04月01日)パリ万国博覧会開幕(10月05日(西暦10月31日)まで): 日本が初展示。
シンガポール等海峡植民地がイギリス王国植民地省の直轄となる。
03月03日(西暦04月07日) 横須賀製鉄所ドック起工(明治04(西暦1871)年竣工)。
03月12日(西暦04月16日)北ドイツ連邦憲法制定(05月30日(西暦07月01日公布)。
03月23日(西暦04月27日)シャルル・グノーオペラ「ロメオとジュリエット」初演(パリ)。
04月04日(西暦05月07日)アルフレッド・ノーベルがダイナマイトの初特許を英国で取得(慶應01(西暦1866年)発明)。
04月08日(西暦05月11日)ルクセンブルク危機をめぐってロンドン会議。ロンドン条約が締結されてルクセンブルクは永世中立国となるも普仏関係は最悪の状態へ。
04月17日(西暦05月20日)英国議会がジョン・スチュアート・ミル提議の婦人参政権案を否決。
ロイヤル・アルバート・ホール起工式(ヴィクトリア女王)。
04月26日(西暦05月29日)オーストリア・ハンガリー帝国成立(アウスグライヒ)。
05月06日(西暦06月08日)オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世がハンガリー王としても戴冠。
05月17日(西暦06月19日)メキシコ帝国皇帝マクシミリアンが銃殺刑に処される。
05月18日(西暦06月20日)ジョンソン米大統領がアラスカ購入を公表。
江戸幕府が条約締結国の国民と日本人との婚姻を許可する通達を出す。
05月29日(西暦07月01日)自治領カナダ成立。
06月13日(西暦07月14日)浦上四番崩れ。
06月14日(西暦07月15日)ベニート・フアレスがメキシコの共和制への復帰を宣言。
06月15日(西暦07月16日)ジョゼフ・モニエ(Joseph Monier) が鉄筋コンクリートの特許を取得。
06月16日(西暦07月17日)ハーバード大学歯学部創立(米国初の歯学部)。
06月24日(西暦07月25日)ルシアン・スミス(Lucien B. Smith)が有刺鉄線の米国特許を取得。
06月28日(西暦07月29日)一條美子(後の昭憲皇太后)が明治天皇の女御に決定。
07月05日(西暦08月04日)築地外国人居留地着工。
07月16日(西暦08月15日)イギリス王国で慶應03年西暦1867年)改正選挙法施行。
07月29日(西暦08月28日)中岡慎太郎が陸援隊を組織。 アメリカ合衆国がミッドウェー島領有を宣言。
慶應03年07月(西暦08月)ええじゃないかが始まる。08月05日(西暦09月02日)日本の明治天皇が昭憲皇后と結婚する。 皇后は春子と名を改める。
08月07日(西暦09月04日)シェフィールド水曜日がシェフィールドのアデルフィ・ホテルで設立される。
08月17日(西暦09月14日)「資本論」の第1巻が、カール・マルクスによって出版される。
09月03日(西暦09月30日)アメリカ合衆国がミッドウェー島を制圧。
09月04日(西暦10月01日)カール・マルクス「資本論」第1部刊行。
09月12日(西暦10月09日)江戸・大坂間に蒸気飛脚船開設。
09月19日(西暦10月16日)アラスカでグレゴリオ暦導入。
09月21日(西暦10月18日)アラスカの所有権が公式にアメリカ合衆国に変更(Alaska Day)。
09月22日(西暦10月19日)アルフレッド・ノーベルがダイナマイトの特許をスウェーデン(西暦1523年〜)でも取得(英国特許取得は5月7日)。
09月25日(西暦10月22日)ナルシス・ムントリオルがバルセロナ港の海中で、潜水艇イクティネオIIに搭載された世界初の非大気依存推進機関の試運転を行う。
10月03日(西暦10月29日)大政奉還 土佐藩がコ川慶喜へ建白書を提出。10月06日(西暦11月01日)岩倉具視が大久保利通と品川弥二郎へ錦の御旗を製作するよう命ず。図案は玉松操が担当。10月14日(西暦11月09日)大政奉還 コ川慶喜が明治天皇へ上奏文を提出。薩摩藩と長州藩に討幕の密勅が下される。01月15日(西暦11月10日)大政奉還 明治天皇が勅許し大政奉還成立。10月21日(西暦11月16日)大政奉還 コ川慶喜が大政奉還を布告。討幕の密勅が撤回される。10月24日(西暦11月19日)大政奉還 コ川慶喜が征夷大将軍を辞す。11月15日(西暦12月10日)坂本龍馬、中岡慎太郎暗殺される(近江屋事件)。
11月18日(西暦12月13日)伊東甲子太郎が暗殺される(油小路事件)。
12月09日(西暦1867年01月03日)王政復古の大号令、小御所会議。12月22日(西暦01月16日)ウィリアム・デーヴィス(William Davis)が冷蔵車の米国特許を取得。
12月23日(西暦01月17日)江戸城二の丸が焼失。12月27日(西暦01月21日)ヨーゼフ・シュトラウスのワルツ「天体の音楽」初演。
慶應04年01月03日(西暦01月27日)戊辰戦争 鳥羽・伏見の戦い。01月04日(西暦01月28日)戊辰戦争 阿波沖海戦。01月11日(西暦02月04日)神戸事件。
02月02日(西暦02月24日)アンドリュー・ジョンソン米大統領に対する弾劾が米国下院を通過(126対47)。
病の英国首相ダービー卿(保守党)がディズレーリに後事を託し辞職。
02月07日(西暦02月29日)イギリス王国で第1次ディズレーリ内閣成立。
慶應04年01〜02月(西暦02〜03月)ドイツ関税同盟選挙。
02月15日(西暦03月08日)堺事件。
02月16日(西暦03月09日)アンブロワーズ・トマ歌劇「ハムレット」初演(オペラ座)。
02月19日(西暦03月12日)エディンバラ公アルフレッド暗殺未遂(ニューサウスウェールズ)。
02月20日(西暦03月13日)ジョンソン米大統領に対する弾劾裁判が米国上院で開始。
02月23日(西暦03月16日)戊辰戦争 寛永寺で彰義隊結成。 太政官日誌創刊。
02月24日(西暦03月17日)中外新聞創刊(柳河春三)。
02月30日(西暦03月23日)パークス英公使暗殺未遂。
03月01日(西暦03月24日)アメリカ合衆国でメトロポリタン生命保険会社設立。
03月14日(西暦04月06日)明治天皇が五箇条の御誓文を発する。03月17日〜03月21日(西暦04月09日〜04月13日)イギリス・エチオピア戦争 マグダラの戦い。
04月11日(西暦05月03日)戊辰戦争 江戸開城。04月18日(西暦05月11日)戊辰戦争 宇都宮城の戦い。04月23日(西暦05月16日)ジョンソン米大統領に対する弾劾が不成立(1票差)。
閏04月03日(西暦05月24日)江湖新聞創刊(福地源一郎)。
閏04月11日(西暦06月01日)もしほ草創刊(岸田吟香ら)。
閏04月20日(西暦06月10日) 戊辰戦争 会津戦争。閏04月21日(西暦06月11日)政体書発布。閏04月29日(西暦06月19日)ヨハン・シュトラウス2世のワルツ「ウィーンの森の物語」初演。
05月02日(西暦06月21日)戊辰戦争 北越戦争。 ワーグナー歌劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」初演(ミュンヘン)。
05月03日(西暦06月22日)戊辰戦争 奥羽列藩同盟成立。05月15日(西暦07月04日)戊辰戦争 上野戦争。 太政官札発行。05月19日(西暦07月08日)戊辰戦争: 北越戦争、長岡城陥落。05月20日(西暦07月09日)アメリカ合衆国憲法修正第14条が批准。
06月16日(西暦08月04日)戊辰戦争 磐城の戦い。06月25日(西暦08月13日)ペルー共和国(西暦1821年〜)(当時、現チリ共和国)アリカで大地震(M9.1、死者25000人)。
07月01日(西暦08月18日)ピエール・ジャンサンが太陽光の中に未知の元素を示す輝線スペクトルを発見(後にヘリウムと同定)。
07月06日(西暦08月23日)清国揚州で反耶蘇教暴動(揚州教案)。
07月17日(西暦09月03日) 江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書。
07月29日(西暦09月15日)戊辰戦争 二本松の戦い、二本松城が陥落。08月08日(西暦09月23日 )ラレスの叫び(Grito de Lares)プエルトリコが南蠻スペインからの独立を宣言、鎮圧される。
08月12日(西暦09月27日)アルコレアの戦い(Battle of Alcolea): 南蠻スペインでクーデター軍が王党派軍を撃破。
08月15日(西暦09月30日)南蠻スペイン女王イサベル2世がフランスへ亡命。
08月16日(西暦10月01日)タイ王国チャクリー朝(西暦1782年〜)でラーマ5世即位。
08月22日(西暦10月07日)コーネル大学開校。
08月25日(西暦10月10日)第1次キューバ独立戦争勃発。
08月27日(西暦10月12日)明治天皇即位大礼。慶應04年08月(西暦10月)築地ホテル館完成。
慶應04年09月08日/明治01年09月08日(西暦10月23日)元号が慶応から明治に改元(一世一元の詔)。明治01年09月17日(西暦11月01日)観音埼燈台着工(昭和24年(西暦1949年)に灯台記念日に制定)。
09月18日(西暦11月02日)史上初の標準時をイギリス王国ニュージーランド植民地が導入。
09月19日(西暦11月03日)米大統領選挙でユリシーズ・グラントが勝利。
10月13日(西暦11月26日)東幸 明治天皇が東京入りして江戸城を皇居と治定し東京城と改称。10月14日(西暦11月27日)ウォシタ川の戦い。
10月19日(西暦12月02日(西暦11月末の解散総選挙の結果、第1次ディズレーリ内閣が総辞職。
10月21日(西暦12月04日)戊辰戦争 箱館戦争。10月26日(西暦12月09日)イギリス王国でグラッドストンを首相とする第1次グラッドストン内閣(自由党)成立。
11月06日(西暦12月19日)東幸 東幸を祝し明治天皇が東京府民に酒約三千樽を下賜(天盃頂戴)。12月15日(西暦1969年01月27日)戊辰戦争 旧幕府軍が「蝦夷共和国」を樹立。明治02年01月01日(西暦02月11日)観音埼燈台(日本初の西洋式灯台)が初点灯。
01月09日(西暦02月19日)蝦夷松前藩、第14代藩主松前修広が襲封。
01月13日(西暦02月23日)小菅県が設置される。
01月16日(西暦02月26日)アメリカ合衆国で憲法修正第15条が提案される(批准・成立は明治03年(西暦1870年)。
01月22日(西暦03月04日)ユリシーズ・グラントが第18代アメリカ合衆国大統領に就任。
01月24日(西暦03月06日)ドミトリ・メンデレーエフが元素の周期律表を発表。
歌会始が復興。
02月07日(西暦03月19日)公議所が開所。02月08日(西暦03月20日)新聞紙の刊行が許可される。
02月09日(西暦03月21日)品川県が設置される。
02月12日(西暦03月24日)金座、銀座が廃止される。02月13日(西暦03月25日)日本の東京府で朱引内市街地(開墾禁止)と朱引外郷村(開墾奨励)が設定される。
02月27日(西暦04月08日)アメリカ自然史博物館、設立。
03月02日(西暦04月13日)ジョージ・ウェスティングハウスが空気ブレーキの米国における特許を取得。
03月07日(西暦04月18日)東京奠都のため、明治天皇が京都を出発。
公議所が開所。03月15日(西暦04月26日)天文方および浅草・九段の天文台が廃止される。
03月28日(西暦05月09日)東京奠都 明治天皇が東京に到着。03月29日(西暦05月10日)アメリカ合衆国で最初の大陸横断鉄道が開通。
04月09日(西暦05月20日) 戊辰戦争 箱館湾海戦が勃発。05月06日(西暦06月15日)ジョン・ハイアットがセルロイドのアメリカ合衆国における特許を取得。
05月18日(西暦06月27日)戊辰戦争 箱館戦争が終結 戊辰戦争の終結。
西暦1868年 干支:戊辰 日本(天保暦) 仏暦紀元2410年〜2411年
慶応03年12月07日〜慶応04年01月01日/明治01年01月01日(西暦01月25日〜11月18日)
一世一元の詔(明治01年09月08日(西暦1868年10月23日)行政官布告)で慶応04年01月01日/明治01年01月01日(新暦01月25日)に遡って改元する前は慶応03年12月07日〜慶応04年09月08日(西暦10月23日))
続・明治維新という過ち 列強の侵略を防いだ幕臣たち (講談社文庫 は 112-2) - 原田 伊織
明治維新という過ち・完結編 虚像の西郷隆盛、虚構の明治150年 (講談社文庫) - 原田伊織 慶応02(西暦1866)年にイギリス軍艦でイギリス王国に密航し2年間滞在後明治01(西暦1868)年帰国したわずか19歳の工作員、親藩・御家門の越前福井32万石藩士吉田健三は3年間ジャーディン・マセソン商会横浜支店長を務め、明治政府を相手に軍艦や武器、生糸の売買でめざましい業績を挙げ、慰労金1万円を元手に様々な事業を展開し、横浜有数の富豪にまで上り詰めた。 吉田健三は賣國奴吉田茂の養父で、実父の土佐藩宿毛山内家(伊賀家)家臣竹内綱で実母不明の賣國奴吉田茂が華族面して外交官や政治家となり日本を破壊したのも。この吉田健三の遺産に拠るものである。吉田健三と竹内綱は自由民権運動の闘士で親友。自由民権運動は薩長の専制政治の利権から弾かれた勢力が利権を求めて興した叛逆運動。元々鹿鳴館の失態の後、憲法と国会で西欧に媚びた薩長政権の既定路線で、明治14(1881)年の国会開設の勅諭で失速し、社会の変革にならなかった。盛岡南部藩20万石の家老の家柄の原敬が平民宰相と愚民にもて囃されるが、実態は利権に群がり選挙を壟断した虫けら。吉田茂も華族でないという意味で平民。 DS(ディープステイト)猶太やスコットランド人の犬の利得者、賣國奴の系譜、吉田茂や孫の麻生太郎、宏池会、自民党政権と日本を破壊し尽くした元凶は幕末・明治維新に端を発している。
知ってはいけない明治維新の真実 (SB新書) - 原田伊織 清國がアヘン戦争で敗北すると、紅毛蠻賊ヨーロッパの列強は競って東亜に進出した。 清はイギリス王国以外の列強とも不平等な条約を結ぶ破目になった。 肝心のアヘンについては条約では一切触れられることなく、依然としてアヘンの清への流入は続いた。
アヘン戦争に破れた支那・清が上海に租界の設置を認めると、上海は紅毛蠻賊イギリス王国の対支那貿易港となり、西暦19世紀後半には上海にユダヤ人共同体が結成された。 そして、上海は西暦1920年代〜1930年代にかけて支那最大の都市に成長し、繁栄を極め、「魔都」とか「東洋のパリ」とか呼ばれるようになった。 この当時の上海におけるユダヤ人口は、西アジア出身のセファルディーム猶太700人、アシュケナージム猶太4000人ほどだった。 上海ではアヘン戦争以降、イギリス国籍、アメリカ国籍、フランス国籍を持つセファルディーム猶太がここを本拠地として活躍し、彼らがあらゆる点で支配的権力を持っていた。「上海証券取引所」の所長と99人の会員の3分の1強がセファルディーム猶太であった。
アヘン戦争以降、ユダヤは競って支那に集っていった。 サッスーン財閥はロンドンに本部を置き、「イングランド銀行」と「香港上海銀行」とを親銀行とし、イギリス・アメリカ・フランス・ドイツ・ベルギーなどにあるユダヤ系の商事会社や銀行を仲間とし、鉄道・運輸・鉱山・牧畜・建設・土地為替売買・金融保証を主な営業科目として、上海に営業所を設け、インド、東南アジア、支那に投資を展開していった。西暦1930年、サッスーン財閥は上海を本拠地とし、「25億ドルの資本による50年投資計画」を開始した。 この計画は、「毎年1億ドルの投資を前半の25年間に継続し、支那の経済と財政を完全に掌中に握り、後半の25年間で、投資額の4倍の利益を搾取する。」というものであった。 アヘン商人のセファルディーム猶太サッスーン家は時を移さず上海に進出し、アヘンを含む物資の売買を開始した。そして、わずか1世紀足らずの間に、金融、不動産、交通、食品、重機械製造などを傘下に擁する一大財閥に成長した。その中には、金融業として「サッスーン・バンキングコーポレーション」、「ファーイースタン・インベストメント・カンパニー」、「ハミルトン・トラスト]、不動産では「上海プロパティーズ」、「イースタン・エステート・ランド」、「キャセイ・ランド」、重機械製造部門として「シャンハイ・ドックヤード」、「中国公共汽車公司」、「中国鋼車製造公司」、さらに食品関係では「上海碑酒公司」というビール会社などが含まれていた。
サッスーン財閥は、デビッド‣サッスーンの死後、アルバート‣サッスーンが相続し、次いで、エドワード‣サッスーンが相続し、3代の間に巨富を築いた。 エドワード‣サッスーンの死後、デビッド‣サッスーンの曾孫ビクター‣サッスーンがサッスーン財閥を相続した。 ビクター・サッスーンは「上海キング」と呼ばれ、極東で1、2を競うユダヤ人大富豪であり、上海のユダヤ人社会の指導者であり、サッスーン一族の最盛期を現出した人物であった。 彼は不動産投資に精を出し、破綻した会社の不動産を買い叩き、借金の担保の不動産を差し押さえ、「グローヴナーハウス(現錦江飯店中楼)」、「メトロポールホテル(現新城飯店)」、「キャセイマンション(現錦江飯店北楼)」などを次々と建築した。 中でも彼の自慢は「サッスーンハウス(現和平飯店)」で、これはサッスーン家の本拠として建設したものである。 その後、彼は貿易・運輸・各種軽工業などにも事業展開して行き、彼の最盛期の資産は上海全体の20分の1もあった。 彼は「東洋のモルガン」の異名を持っていた。 サッスーン家はロスチャイルド家と血縁関係を結んでいる。 3代目エドワード‣サッスーンの妻はアリーン‣ロスチャイルドである。 香港最大の銀行「香港上海銀行」の株の大部分を握ったアーサー‣サッスーンの義理の弟は、金融王ネイサン‣メイアー‣ロスチャイルドの孫レオポルド‣ロスチャイルドである。
サッスーン家は、蔣介石、宋子文、孔祥煕、陳果夫と陳立夫の各家族(支那4大家族)の向こうを張って、ジャーディン・マセソン商会、バターフィルド・スワイヤ、カドーリなどと共に「上海ユダヤ4大財閥」と呼ばれる理由はここにある。当主の第3代ボンベイ准男爵サー・エリス・ヴィクター・エリアス・サッスーン(Ellice Victor Elias Sassoon)は、ようやく五十路に手が届いたばかりの、独身の伊達男で、「彼の顔写真が新聞に登場しない日はない。」と言って良かった。
上海のユダヤ人富豪は、サッスーン家を中心として幾つかあった。エレー・カドーリは、香港と上海の土地建物、ガス、水道、電気、電車など公共事業を経営。ローラ夫人が亡くなると、明治26(西暦1896)年、長崎出身の日本人女性(松田おけいさん)が後妻としてカドーリ家に入った。サイラス・ハードンは、イラク(バグダッド)出身の英国籍ユダヤ人。当時の上海の南京路の大通りの大部分は彼1人の所有であった。ルビー・アブラハムは、ビクター・サッスーンの伯父の長男。英国籍のセファルディーム猶太。父親は上海の猶太教徒の治安判事を務め、英国総領事館法廷でユダヤ式判決を勝ち取った人物で、「アーロン(長老)」の敬称を受け尊敬されていた。エリス・ハイムは、ルビー・アブラハムの夫人の兄。英国籍のセファルディーム猶太人。「上海証券取引所」屈指の仲買人として活躍し、サッスーン財閥と深い関係を結んでいた。
上海のユダヤ人財閥は、サッスーン家、カドーリ家、ハードン家、エズラ家の4家で、早いものは西暦1832年から商売をしており、経済帝国を築き上げていた。その影響力は、市当局が武装した「商人部隊」の編成を外国人に認めたことでも分かり、これは西暦1928年にイギリスをモデルとした1400人の上海自衛団に改組された。自衛団にはいわゆる「ユダヤ中隊」があり、200人から250人がこれに属していた。その後ユダヤ難民がこれに加わり強化された。
欧米列強とユダヤ資本家にとって上海、長崎、横濱は重要な情報の要所だったが、情報の伝達に蒸気船でも2日近く掛かった。情報はスピードが命。欧米では既に盛んだった電信の敷設。日本や支那に電信技術を持ち込んでライバルを出し抜きたいと各国虎視眈々。明治維新なり「富国強兵」「殖産興業」が叫ばれ始めた日本。欧米の銀行から金借り欧米の最新技術や機械をガンガン買う。ダブルで美味しいカモ誕生。明治05(西暦1872)年、日本初の海底ケーブルが長崎に陸揚げされ、運用が始まった。接続先は2ヵ所。1つは上海。そしてもう1つはウラジオストクだ。ケーブルを敷設したのは「グレート・ノーザン・テレグラフ」というデンマークの企業で日本名「大北電信会社」。イギリス、デンマーク、ロシアなどが主導した3つの電信会社が合併してできた会社で、GN(デンマーク語: GN Store Nord A/S、GNストア・ノール)は補聴器やヘッドフォンなどを作っている。
海底ケーブル。上海は分かるがウラジオストクはなぜ? イギリスはインドへの通信を重要視。そのため南側での電信網拡張を得意とした。一方ロシアはイギリスに遠慮して北側で電信網を拡張。大北電信会社はロシアから受注してヨーロッパからウラジオストクまで電線を敷いた。しかし清国内に電線を敷く許可が下りない。そこでウラジオから海底ケーブルを長崎に接続。そして長崎と上海も海底ケーブルで繋いだ。こうしてヨーロッパが長崎経由で上海と繋がった。ほとんどの日本人と清国人が知らない所で日本と清の情報が秒でヨーロッパに伝わり始めた。あとは長崎・東京間に電線を繋げば日本政府の動向は上海とヨーロッパに筒抜け。そして翌明治6年(1873年)、謎の日本人が現われてそれを実現させ
日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか―ナチス時代のハルビン・神戸・上海 - ハインツ エーバーハルト マウル, 黒川 剛
古本◆ 込◆ユダヤ人はなぜ迫害されたか
ルーズベルトの刺客 (新潮文庫 に 13-1) - 西木 正明 西暦19世紀後半になると、主に旧リトアニア公国の領域(ベラルーシ・ウクライナ・モルドヴァ)で、ウクライナ人・ベラルーシ人農民、コサックなどの一揆の際にユダヤ人が襲撃の巻き添えとなった。西暦1881年にアレクサンドル2世が暗殺されると、帝政ロシア政府は社会的な不満の解決をユダヤ人排斥主義に誘導したため反ユダヤ運動が助長されることになり、ロシア帝国で反ユダヤ主義のポグロム(1881年 - 1884年)が起こった。ユダヤ人はオーストリア・ハンガリー帝国領ブロディへ大量に脱出したため町が混乱すると、西暦1882年に5月法が発布され、ユダヤ人への締めつけが実施された。
西暦1890年、エリエゼル・ベン・イェフダー(ヘブライ語: אֱלִיעֶזֶר בֶּן־יְהוּדָה、’Eli‘ezer bēn Yәhūdhāh)がパレスチナに「ヘブライ語委員会」(「ヘブライ語アカデミー」の前身)を設立。西暦1894年にフランス共和国でドレフュス事件が起こり、同年には「イディッシズム」を代表する作家、ショーレム・アレイヘム(イディッシュ語: שלום־עליכם、ヘブライ語: שלום עליכם、英語: Sholem Aleichem)による「牛乳屋テヴィエ」(「屋根の上のバイオリン弾き」の原作)が発表された。
西暦1896年、ユダヤ人テオドール・ヘルツル(ヘブライ語: בנימין זאב הרצל(Binyamin Ze'ev Herzl、ビニャミン・ゼエヴ・ヘルツェル)、ハンガリー語: Herzl Tivadar、独語: Theodor Herzl)が「ユダヤ人国家」を発表した。 西暦1900年には黒百人組(露語: Чёрная сотня, черносотенцы)が結成され、西暦1903〜1906年にかけてロシア帝国で皇帝や正教会の支持を得て、度重なるユダヤ人襲撃が起こった(キシナウ・ポグロム)。各国でポグロムやユダヤ人襲撃が行われたことが引き金となり、古代にユダヤ人が暮らしたイスラエルの地に帰還してユダヤ人国家を作ろうとするユダヤ人ナータン・ビルンバウムナータン・ビルンバウム(独語: Nathan Birnbaum)によるシオニズム運動が起きた。「ユダヤ人」は世界に離散後もそのほとんどが猶太教徒であり(耶蘇教や回教に改宗した途端、現地の「民族」に「同化」する。)、猶太教の宗教的聖地のイスラエルの地に帰還することもその理由の1つである。
白人侵略 最後の獲物は日本 ─なぜ征服されなかったのか 一気に読める500年通史 - 三谷 郁也