http://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/tairyou.htm
1982年(昭和57年)2月9日午前8時37分、片桐清二(当時35歳)機長が操縦する福岡発羽田行きの日航機DC8が着陸寸前に突然、失速、空港手前の羽田沖に墜落、死亡者24人、重軽傷者149人を出す惨事となった。事故の原因は着陸態勢に入ったときに、片桐機長が突然エンジンを逆噴射させたためだった。ボイスレコーダーに「機長(キャプテン)やめてください!」という石川幸史(よしふみ)副操縦士(当時33歳)の絶叫が記録されていて証拠となった。記者会見で高木社長は片桐機長が乗員健康管理室から心身症と診断されて経過観察中であったにもかかわらず運輸省(現在の国土交通省の前身のひとつで、運輸省は建設省、国土庁、北海道開発庁と統合されて国土交通省になる)などに報告を怠っていたことを明らかにした。片桐機長は精神鑑定の結果、妄想型精神分裂症と診断され不起訴処分となった。
昭和57(1982)年02月09日、日本航空福岡発東京行350便、DC-8-61型機(機体番号JA8061、プラット・アンド・ホイットニー JT3D-3Bエンジン)のJL350便は、9分遅れの午前07時34分に福岡空港の滑走路16から離陸。片桐機長は吐き気のため朝食を取らず、機内でスチュアーデスの持って来たコーヒーも飲まなかった。その後順調に飛行し、07時51分、巡航高度の29000フィート (約8800m)まで上昇し、水平飛行に移った。08時19分、管制官が16000フィート(約4900m)までの降下を指示し、パイロットは降下を開始した。350便は羽田空港の滑走路33R(旧C滑走路)へのILS進入を許可され、08時35分には羽田空港への着陸許可を受け、08時39分車輪、フラップを降ろして着陸準備に入った。2分後、フラップが50度まで展開された。08時43分25秒、副操縦士が500フィート (約150m)のコールを行ったが、片桐機長は応答しなかった。08時43分59秒、石川副操縦士は200フィート(約61m)のコール直後に決心高度を意味する「ミニマム」をコール。通常、機長はこれに対して「ランディング」または「ゴー・アラウンド」とコールアウトしなければならないのだが、機長は「チェック」としかコールしなかった。
その直後の08時44分01秒、高度164フィート (約50m)を130ノット(240km/h)の速度で飛行時、片桐機長は自動操縦装置を切ると、突如として操縦桿をアイドル位置まで前に倒し、機首を下げながらエンジンの推力を絞る操作と、エンジン4基のうち2基の逆噴射装置を作動させる操作を行った。このため、機体は前のめりになって降下し始めた。機長からの聞き取りや状況などから、「墜落の42秒前から機長の心身状態が著しく悪くなった。」と推定された。
エンジン音の異変に気付いた小崎善章(おざきよしみ)航空機関士(当時48歳)が「パワー・ロー!」と叫んで推力を戻し、石川副操縦士が操縦桿を引き上げたが、08時44分07秒、滑走路手前の海上にある誘導灯に車輪を引っ掛けながら、C滑走路33R進入端沖合の南510m付近で前脚から海面に着水。そのまま機体を立て直せず滑走路手前360m付近の海上に墜落した。墜落時、機体はわずかに右へ傾いており、右主翼が海上にある進入灯の一部を破損させ、胴体部が機首部分に乗り上げる状態で停止。機首が吹き飛び、機体は機首と機体後部で真っ二つになり、エンジンも4基とも主翼から脱落し、3分の1が水深5mの海中に水没した。また、滑走路33Rの第14番、第15番、第18番進入灯が事故により損傷した。
小崎航空機関士は意識を失っており、救助されたのは40分後。機体後部の客室乗務員はコックピットとの連絡を試みたが、墜落の衝撃で断線しており連絡不能の状態。そのため、乗客に救命胴衣を着けるよう指示をし、脱出時の注意を説明した.。
片桐機長操縦のJL350便には、乗組員8名、乗客166名の計174名が搭乗していたが、うちこの墜落により死亡24名(乗客24名)、重傷95名(乗組員8名、乗客87名)+軽傷54名(乗客54名)=149名が負傷を負った。死者のうち5名(情報により6名)は溺死。死者はいずれも客室の前から11番目までに座っていた乗客で、当時は、禁煙席は最前列あたりのみで、死者は禁煙席の乗客が大多数だった。死者14名は頭部外傷による。事故により乗員乗客はおよそ19〜23Gを受けたと推定される。無傷だったのは乗客ただ1名だけ。ただし、海水への墜落だったため幸いにも火災は発生せず、事故当時は干潮に近づいており水深1mほどしかなかったため恐慌による溺死等は発生しなかった。
最後の生存者となったのは、12列目の座席に座っていた女性だが、天井が体にくいこんで身動きできず、抜け出せない状態が3時間も続いた。血圧低下で女性の容態が変わり始めると、救助にあたった医師が、座席の椅子をくみ上げているボルトを外すことを提案。取り外すのは左側の肘掛部分で、わずかな隙間から女性を救い出す行動に出し、ようやく無事に救い出された最後の生存者は、病院に搬送され、何とか一命を取りとめた。
東京消防庁は、ホテルニュージャパン火災の翌日であり、対応に追われている中であったが、特別救助隊や水難救助隊、消防艇を出して救助活動にあたった。救助隊は09時頃に現場に到着した。 13時33分に死者24名と最終的に確認し、その後生存者も死者の発見もなく、15時28分に捜索が打ち切られた。16時にボイスレコーダーが回収され、20時過ぎに全ての救急活動が終了。
JL350便墜落事件で犠牲になった人の慰霊碑は、現在の羽田空港第3ターミナルの西側にあたる環八通り沿い(羽田空港船着場付近)のソラムナード羽田緑地に建立されている。日本航空の「350便」は欠番となった。昭和59(1984)年06月27日に航空機の乗務員の健康を向上させるための医療機関である財団法人 航空医学研究センター(現:一般財団法人 航空医学研究センター)が設立された。
58-3-JA8061
日本航空(株)所属 ダグラス DC-8-61型 JA8061 東京都東京国際空港
https://jtsb.mlit.go.jp/jtsb/aircraft/download/bunkatsu.html#6
航空事故調査報告書
日本航空株式会社所属
ダグラス式DCー8ー61型JA8061
東京国際空港(羽田)沖合
https://www.mlit.go.jp/jtsb/aircraft/download/58-3-JA8061-01.pdf
この事故の直接の原因は片桐清二(当時35)機長の操縦によるもので、事故ではなく、殺人事件である。片桐機長が機体の推力を急激に減少させながら機首下げを行ったため、機体は急に下降して滑走路の手前に墜落した。航空事故調査報告書には、「着陸進入中の低高度において、その必要がないのにもかかわらず、片桐機長が操縦輪を押し込み、かつ、全エンジンのパワー・レバーをフォワード・アイドル位置まで引き戻し、その後更に第2及び第3エンジンのリバース・レバーをリバース・アイドル位置まで引いたことによるものと認められる。」と断定されている。また、片桐機長がこのような操作を行うに至った理由は、遺伝性の精神病によるものとされている。片桐機長は業務上過失致死罪により逮捕となったが、精神鑑定により妄想性精神分裂病と診断され、「心神喪失の状態にあった。」として検察により不起訴処分。
後に片桐機長は、「敵に捕まって残忍な方法で殺されるよりも、自分から先に死んだほうがマシだ。」と妄想に駆られ、しばらく恐怖に震えた後に現実に戻るという精神状態にあった、200フィート以下に降下した後、突然「『去ね(いね)、去ね。』という山彦のような声が聞こえ、その後は墜落直後まで気を失った。」と述べている。これは「去れ」、「死ね」、「行ってしまえ」といった意味と思われる。手動操作に切り替え操縦桿を押し込み、エンジンを逆噴射させた。ボイスレコーダーに木更津上空での片桐機長の喚き声が収録されており、墜落まで機首下げを行おうとしていたため、石川副操縦士が「キャプテン、何をするんです!やめてください!」という絶叫も残されている。石川副操縦士は「1回目は止めたが、2回目はどうしようもなかった。」、「墜落直前に航空機関士と共に片桐機長を羽交い締めにするようにして、機長席側の操縦桿を思いっきり引いた、機体が水平になったと同時に墜落した。」などと証言しており、片桐機長が異常操縦を2回行い、2回目の際に高度60mで石川副操縦士は3基のエンジンを戻したものの1基を戻しきれずに機体は着水したと思われた。機体からは第4エンジン内のスロットルレバーと1基のファンエンジンが逆噴射をしている状態で見つかり、石川副操縦士の発言を裏付けた。石川副操縦士と小崎航空機関士が制止しなければ、さらに犠牲者が増えていた。片桐機長は腰椎骨折、及び軽度の打撲など、石川副操縦士腰椎及び左肋骨骨折などの負傷。小崎航空機関士は、片桐機長を止めようとしてベルトをしてなかったために鎖骨及び上腕骨骨折などの大怪我をした。
墜落後、意識を戻した石川副操縦士は片桐機長に「何てことをしたんですか!」と叱責すると、片桐機長は大声で泣いた。片桐機長は着水後、「ああ、やっちゃった。」と平然と語り、一番先に脱出していた。救出されて入院した石川副操縦士は事故直後、事情聴取に訪れた日航幹部に対し「とんでもないことをしてしまった。」と話して泣き崩れている。
航空法第75条、機長は事故の発生時に乗客の救助を率先して行うよう義務づけられているが、片桐機長はそれらの職責を放棄し、乗客に紛れて脱出した。当初、機長死亡という誤報が流れていたが、その後真っ先にボートで平然とした表情で救出される片桐機長の姿が報道され、救出された際、石川副操縦士は暗い顔をしていたが、片桐機長は笑顔だった。
片桐機長、石川副操縦士は、正午過ぎに、羽田東急ホテルで、日航が手配した東京慈恵会医科大学附属病院の医師の診察を受け、片桐機長は12時50分頃、石川副操縦士は12時55分頃に慈恵医大病院に入院。片桐機長が入院したのは、小児科病棟401号室で、後に特別病棟428号室に移った。部屋は個室で都心のため狭いが、電話があった。鎮静剤をうたれ、片桐機長はそのまま眠りこんだが、石川副操縦士は眠れなかった。羽田東急ホテルでは、医師会の医師の応援を拒絶し、日航はその事実を隠蔽し、「機長隠し」と騒がれた。
事件当日の09日に、日航は逆噴射の事実を摑んでいた。現場に駆けつけた日航の整備士が、海中に散乱した第2、第3エンジンに逆噴射のときにしか出ない「羽」が出ているのを見つけ、上司に報告。エンジンの異常を知った日航は、運航関係の幹部を慈恵医大病院に派遣した。石川副操縦士は捜査本部の事情聴取では、「操縦桿を引き戻したときに異常に重かったので機長が何かやったと思い、何か叫んだが、その言葉は覚えていない。」と偽証し、むしろ片桐機長を庇っていたが、運航関係の幹部の前では、「大変な事が起きてしまった。」、「会社が大変な事になる。」と泣きだした。運航関係の幹部は、「何が起きたんだ。」と問い質したが、石川副操縦士は黙ったままだった。「真実は一つだ。どんな事でも話すべきだ。」と説得され、ようやく「機長がエンジンのレバーを逆噴射の方向に引いたようだ。」と吐露した。
極秘の逆噴射の事実は日航内で箝口令が敷かれ、10日から12日にかけて、日航の最高幹部が招集され、常務会が何度も開かれた。多くの人命を預かる機長の異常行動に会社としてどう対応するか、結論が出ず、整備関係の役員から、「事実を公表すべきだ。」と強い意見が出たが、高木養根(やすもと)(当時69、東京帝國大学法学部卒)社長に一任になった。隠蔽工作を画策していたのは間違いない。
しかし、日航社内に異常操縦の噂が漏れ、事実公表を求める下部からの付き上げが激しくなった。12日昼に、日航は、機長の異常操縦を心身症の病歴を運輸省と航空事故調査委員会に報告。内々に発表の許可を求めたが、どちらも事なかれ主義で反対したが、日航の「これ以上社内を抑えられなくなった。」との言葉に渋々承諾した。その夕方、高木社長ら19人は日航オペレーションセンター3階の特別会議室で緊急役員会を開き、「逆噴射と心身症を一緒に発表するのは良くない。」という意見もあったが、また、高木養根社長に一任。片桐機長の妻は、事故後、同僚の機長の車でその同僚機長宅に避難していた。発表により、その家で泣き崩れそのまま寝込んでいた。はじめは片桐機長が死んだと思っていたが、テレビの発表で生きているのを知ったという。このような日航の隠蔽工作は、「機長隠し」に続き、「機長夫人隠し」と言われる。
日航は、この逆噴射事件が片桐清二の精神分裂病による大量殺人事件にも拘らず、原因を「心身症」という耳慣れない病名を持ち出して来て、誤魔化し責任逃れを行った。日航は、自己の保身のため、軽微なノイローゼによる身体的不調の「心身症」を重大な精神異常のような間違った錯覚を与えた。「心身症」は「精神疾患」ではなく「身体疾患」であるため、主として扱う診療科は精神科ではなく心療内科である。日航の腐った体質は、何も変わっていない。
石川副操縦士は中央大学経済学部出身。入社後は航空機関士として経験を積み、10年後に副操縦士になり、事故後も勤務をこなし、日本アジア航空(JAA、EG)でようやく機長になった。小崎航空機関士は、航空事故調査報告書に身長160cmと記されている。

昭和54(1979)年12月、33歳で同期入社の中で半年遅れで、昇格訓練を経て機長となった。数年前から体調を崩して度々「吐き気がする。」と訴えていたが、警察官に対して、「家の周りをうろつく奴がいる。」とか「応接間の天井に盗聴器がある。」などと訴えている。また、「宇宙から電波が届き、飛行機を操縦している。」など妄想の兆候が見られた。 事故から2年前の昭和55(1980)年08月頃、神奈川県葉山の自宅で「盗聴器が仕掛けられている。」と警察に通報したり、この頃、片桐機長は国際線の成田−モスクワ間の機長として乗務していた。幻聴の症状が表れ、10月頃からは体調不良に陥り、乗務を取り止めることもあった。
日航の6ケ月毎の定期検査では神経衰弱による「心身症」と診断され投薬と静養を必要と診断された。11月16日、成田発モスクワ経由ロンドン行きの便に乗務時、モスクワへの着陸前に着陸ブリーフィング(事前打ち合わせ)を行おうとした所気分が悪くなり嘔吐、翌17日のモスクワ発ロンドン行きの航路でも機長を務める予定だったが体調不良のためオブザーバー(補助席で他パイロットの動きを見学する研修生)として乗務。復路の18日、ロンドン発モスクワ行きで機長の席に戻るが、離陸前の地上走行中通常よりも速度が速かった上、管制塔の指示を遅れて反応し荒いブレーキを掛け、DME(空港からの距離計)が消えたのに気を取られ、旋回を開始するのが遅れ管制官からフォローされ、機長席でうとうとし、モスクワの空港で、管制官から着陸復行(ゴーアラウンド=やり直し)を命じられた時にエンジン推力不足のまま機体を引き上げようとし、上司と副操縦士が推力不足に気づきパワーを上げたため事なきを得るなど、同乗していた上司から乗務予定を取り消されている。モスクワに着いた後、ミスの連続で傷ついた彼は上司にもう操縦を続けられない旨を伝え、他のフライトメンバーより一足はやく帰国。その際にも機内にフライトバッグを忘れていくなどかなり動揺していたようで、友人から「病院に行ったほうが良い。」と勧められた。
本人から吐き気など体の異常を訴える連絡があり、片桐機長は11月25日に精神科を受診し、「鬱病または心身症」と診断され投薬治療を開始。その2日後の27日には日航の産業医にその旨を報告し、日航は片桐機長を乗務を外し、「3週間の安静加療が必要。」という診断書が提出され、心身症で1ケ月の短期療養となった。この時、夫人(実家は裕福な医者で、元スチュワーデス)に「共産主義の連中が自分を狙っているのでモスクワには行きたくない。」、「アルファ波を受けている。」などと話している。心配した夫人は病院の精神科医に相談したところ「ご本人を診察していないので明確には言えないが精神分裂症の兆候がある。」と言われ、夫人は大きな衝撃を覚えた。
ところが片桐機長が心身症で休養中の12月15日、日航を休職中の片桐機長を診断した指定医から運輸省航空局に出された航空身体検査書には、全ての事項について「異常なし」と記入されていた。心身症とは「身体症状を主とするが、その診断と治療に心理面からの配慮を特に必要とする病態」と定義され、ノイローゼや精神病などとは区別されている。心理的なストレスが引き金となって、高血圧・胃潰瘍・喘息・吐き気や眩暈など様々な身体的異常が引き起される。日航の症状把握と実際の症状の進行具合が乖離している。
昭和55(1980)年12月23、24日副操縦士としての定期検査を受け、同乗した専門の精神化医の同意を得て、12月末から副操縦士に降格されて勤務に復した。その後、半年に一度受験するシミレーター・実技双方の定期技能検査を受検。合格こそしたものの「消極的・思考力がやや狭小・疲労を散見させる。」などの評価がされ、医師も「乗務に差し支えない状態に回復したようだ。」と日航の運航乗員部に報告。投薬治療の効果と定期技能検査の評価もあり症状は徐々に回復。昭和56(1981)年02月24日に投薬治療を一度終了し(薬は03月09日分まで処方された)、03月07日から医師同乗の下オブザーバーや副操縦士として乗務を再開、04月から国内線の副操縦士として機内に復帰した。日航は「片桐機長の鬱病は治った。」と認識していたが、04月08日時点で前の病院とは別の大学病院から片桐機長は病院から鬱状態と診断され2間程度の薬を再び処方されている。2
05月10日、羽田→那覇→福岡という航路を副操縦士として乗務したが、那覇空港への最終進入中突然「クックック……」と肩を震えさせながら笑い出し、しかもそれがかなり長く続いたため同乗していた機長と航空機関士を困惑させた。その後福岡空港まではなんとか乗務を継続したものの、福岡に着いた後具合が悪いことを会社に報告し乗務を中断して翌日に東京へと戻ってきた。その後は「汗が出たり疲れたりして全く飛行を続けられる状態ではなくなってしまい、翌11日にも症状が回復しなかったため乗務を中断して戻った。」と大学病院の医師に報告。モスクワ帰りのような症状を再び出してしまい、16日から再び投薬治療を再開している。しかし、彼が検査を受けたのが那覇空港の事件の前の05月07日だったということもあり、06月10日に日航は再び片桐機長に対して「異常なし」として航空身体検査証明を発行し、06月12日の産業医が書いた記録では「まだ鬱状態」とはしつつも「定期技能検査を受ける分には問題ない。」とし、06月中旬から下旬にかけて定期技能検査を受験し再び合格。しかし評価としては「機長としてはクルー間の調和不足・副操縦士としては消極的で疲労からくる注意力散漫状態が見受けられた。」という疑問符がつくような評価が与えられている。07月中は副操縦士として国内線に乗務。ただ今度は投薬治療の効果が弱く投薬開始から1ヶ月経っているが、「なかなか疲れが取れない。」などと大学病院の医師に報告している。08月13日、羽田→福岡のフライトに産業医便乗の下乗務し、産業医はその観察結果から「自律神経失調症・抑鬱状態で経過観察中であるが、順調な回復中。勤務時間を増やして9月後半からは機長として復帰させるのはどうか。」といった内容の意見書を運航乗員部に提出。19日には大学病院に赴き、こちらの医師も「経過良好。イライラも見られず話もスムーズになってきた。」と診療記録を残している。10月04日〜05日、福岡→大阪→那覇→大阪という航路において機長復帰のため再び産業医便乗の下乗務を行い、産業医は翌日の6日に「技術的・情緒的な問題はなし。乗務が終了した後周りのパイロットにうまく溶け込めていないことと無口であること以外は変わりない。機長復帰に問題なし。医師による経過観察は続けるので乗務制限は段階的に緩和していってほしい。」といった内容の意見書を運航乗員部に提出している。
10月06日、医師は片桐機長について「自律神経症で抑鬱状態だが、飛行観察時にはこれらの症状は見られず、機長として乗務しても問題はないと思われる。」との意見書を日本航空に送付した。そのため、11月11日の社内審査会を経て、11月17日、運航乗員部は片桐機長を再び機長の座に復帰させることを決定し、11月20日から時差もなく体調を維持しやすい国内便の機長として操縦桿を握った。。ただその少し前に行われた上司による技量確認では「全体的に問題なし。」とはされてはいるものの、「マニュアルの改訂を一部行っていない・地上走行が荒い・注意されるまで返針しない・ギアダウンのタイミングが早い。」とモスクワの頃に出したミスが抜けきっていないような面も見られる。さらに、25日に実機で行われた定期技能検査でも4段階評価中上から3番目で、「技量は普通だが、副操縦士としては業務と助力面で不足。注意指導を行った。」とこちらでも注意されている。夫人は11月下旬、同じ日航のパイロットの機長の友人に「片桐機長の様子が前と変わっていないので心配。」という相談をし、その友人からは「会社もOKしているので心配ないと思う。長い目で見ましょう。」と励ましを受けている。
12月07日に日航は片桐機長に対して事故時にも有効だった、最後の航空身体検査証明を「異常なし」として発行している。しかし12月09日、片桐機長は夫人とともに大学病院に赴くがその際の診療記録には「順調(機長)」、「以前と比べると些細なことにスムーズではなく、気分にもムラがある(夫人)」と本人と夫人の主張が食い違っている点が見受けられる。さらに夫人はこの頃「家族には何の変化や落ち度もないのに片桐機長に『裏切り者』と罵られたり、長女からは『とうとうパパのいうことを聞かなくなったね。』と言われたことを相談された。」とも後に述べている。そのような状況ではあったが12月09日の通院による昭和57(1982)年01月05日分までの投薬を最後に、病院への通院を止めている。この頃、片桐機長は、夫人にお金が盗まれると思って預金通帳を全て自分が持ち歩いて夫人には一切お金を渡さなかったり、同僚の話しかけに対する応答も十分ではなく、物忘れも目立っていた。「ソ連が日本を破壊させるために日本を二派に分断し、血腥い戦闘をさせているんだ。」などの強い信念(被害妄想)を抱くまでに至っていた。この頃@夫人や姉千鶴子に「自分は皇室の人間だ。」とか、散歩の途中で見知らぬ人に愛犬をあげたりと妄想や奇行は依然続いていた。
昭和57(1982)年01月17日、夫人は運航乗員部の部長夫人に電話で「機長はすっかり元気になっている。」と報告し、上記のような内容を会社にはっきりと伝えきれていなかった。さらに、夫人と大学病院医師による面談も事故前までに医師側の主張で12回、電話での連絡も2回行っているが、そのほとんどが機長を含めた三者面談であり機長の前では言い辛い点もあったのか、上記盗聴器の件など一部の重大事項は医師に伝わることはなかった。片桐機長の友人達も01月に入ってから「旅行に誘ったが30分後には忘れられた。」、「ホテルでクルー全員で食事中、他の全員が笑っているのに機長は笑わず人の顔を凝視していた。」などの行動を目撃しているが、こちらも会社や医師に伝わることはなかった。
片桐機長の夫人は、事故を起こすフライトの2泊3日の勤務に出かける直前、殺されそうになるほどの暴力を振るわれ、家をメチャクチャにされた。片桐機長の姉千鶴子に訴えに行ったが相手にされず追い返されてしまった。前年の暮れから、片桐機長が暴力振るっては何も覚えてないという事が続き、その度に相談していた。千鶴子は片桐機長の夫人が落ち着くまで泊まっていけば良いと思ってたらしい。夜には片桐機長の娘が熱を出して寝込んでしまい、その翌日片桐機長がお千鶴子の家に来たが、妻子を迎えに来たわけではなく、「会いたくない。」と言って玄関に突っ立ったままだった。そんな片桐機長を中に通して話を聞くと、「戸籍を消したい。」、「分裂病で死んだ姉のことが会社にバレるとクビになる。」と言うのを「思い詰めちゃ駄目、あんたは疲れてるだけなのよ。」と言って宥めている。そして娘が寝てる部屋を覗き込んで、「熱が下がったら送って行くよ。」という千鶴子の声かけに「よろしくお願いします。」と他人みたいな挨拶をして、1人で帰って行った。
事故前日、世間はホテルニュージャパン火災に釘付けだった頃、事故時と同じ乗務員で同じ機材の事故機のJA8061の羽田発福岡空港行きJL377便に乗務している。その際も異常な行動が見られた。事故便の往路に当たるJL377便羽田20:00発→福岡21:40着のフライトに搭乗するため、17時頃に日航羽田オペレーションセンターに出社。石川副操縦士と組むのは初めてで、小崎航空機関士とも組むのは2回目だった。その後操縦室内で離陸前ブリーフィングを行なっていたものの、投薬治療が終わって1ヶ月経っていた影響もあるのか気分が悪くなり吐き気を催したためこれを手短に終わらせている。
20時11分頃、滑走路04(旧B滑走路)手前で待機していた際、管制官はJL377便に対して「滑走路に進入して待機せよ。」と指示した。離陸許可が出ていないにも拘わらず、「管制許可はきているね。」と呟きながらパワーレバーを操作しようとしたところを石川副操縦士と小崎航空機関士に制止されていた。
20時13分に羽田空港の滑走路04(旧B滑走路)から離陸し、右旋回を開始した。大島上空で対気速度250ノット、バンク角25度の緩い右旋回上昇を行う予定であったが、20時17分頃、操縦桿を握っていた片桐機長は、突如としてバンク角が70度(通常の飛行では最大35度程度)近くにまで傾く急旋回となった。そのため、石川副操縦士が慌てて横から操縦桿を握って修正動作を行い元に戻している。この時は墜落時とは違って片桐機長が操縦桿を押し込んでいなかったため素早く元の姿勢に戻すことができた。この直後、石川副操縦士は片桐機長に対して「機長(キャプテン)、大丈夫ですか?」と問いかけたが、10秒ほど応答がなく、再び声をかけると、片桐機長は落ちついた様子で「大丈夫です。」と答えてきたため再び操縦桿を機長に譲った。だが、機体はバンク角過大のため内側にスリップし、高度6800フィート(約2070m)から6000フィート(約1830m)まで、15秒で800フィート (240m)ほど降下し、速度は252ノット(467 km/h)から311ノット(576 km/h))まで増加した。因みに、「もし石川副操縦士の回復操作があと5秒遅れていたらDC-8の最大運用限界速度を超えここで墜落していた可能性もある。」として事故調査報告書はこの見事な反応を取り上げている。
福岡空港に21:58に到着した後、片桐機長は石川副操縦士に対して「さっきはお見事。」と揶揄するように言ったという。この操縦で乗客から石川副操縦士へのクレームもあったが、石川副操縦士が会社に対して報告を行わなかったため、クレームは黙殺された。福岡空港を離陸する前の内部点検中、石川副操縦士は前夜のことについて小崎航空機関士に「ほっておけば90度位までいってたかもしれない。」と漏らしていた。石川副操縦士は「一時的な三半規管の狂いだろう。」、小崎航空機関士は「何ととろいキャプテンなんだ。」と感じた。
3人は22時半頃にビジネスホテルにつき、23時半頃に就寝。機長は翌朝05時半頃に起床し実母に電話をかけ「どうも最近自分の周囲に変なことが起こっている。仕事を辞めたい。」と話している。しかし片桐機長は前日に重大なミスを2回も起こしているのにも拘わらず、モスクワや那覇の時とは違って自発的に航空機を降りることはなかった。
昭和57(1982)年02月16日、片桐機長は「着陸寸前、突然言いようのない恐怖心にかられ、意識を失ってしまった。どんな操縦をしたか全く覚えていない。」と語っている。片桐機長は業務上過失致死罪により逮捕となったが、精神鑑定により精神分裂病(現在の表記では、「統合失調症」、つまり「気違い」)と診断され、「心神喪失の状態にあった。」として検察により不起訴処分となった。
片桐機長の2番目の姉も精神分裂病で、精神病院に入院していたが、飴玉が喉に詰まって死亡した。実家での葬儀の後、診断書に精神分裂病と書かれているのを見た瞬間、片桐機長(当時は副操縦士)は血の気がサーっと引いてその場から逃げるように立ち去った。このあたりから片桐機長の様子に異変が起き始める。片桐機長の精神鑑定医・小田晋は遺伝性の精神分裂病と断定している。初期の心理テストで精神分裂病と診断可能なほど進行していた。その後鑑定途中で本人が病気を認めてからは病状が恒常化した。
パリ人肉事件の佐川一政と同じ松沢病院に措置入院。先に入院していた片桐機長は、「佐川と出会い意気投合。毎週金曜日のカラオケ大会で機長は見習い看護婦と『銀座の恋の物語』、佐川は『ゴンドラの唄』を熱唱。仲良しコンビ結成に病院職員からどよめき。」と週刊誌に載っている。
事故から1年後ぐらいに解雇になっているが、退職金は出た。片桐機長は措置入院中の松沢病院で解雇を知り、かなり動揺した。退院して、日本航空の年金と精神障害者保健福祉給付を受け取って、葉山の自宅で悠々自適の生活を送っている。平成14(2002)年の週刊文春によると、自動車の免許を再取得し、たまに出掛けたりするが、ほとんど家から出ない。唯一の趣味だった釣りさえも行かず、夫人がパートの仕事をして、たまに2人でコンサートに出掛けたりしている。一方、夫人と離婚し、姉が面倒を見ているという情報もある。
片桐機長は着替えたのではなく、最初からカーディガンで勤務していた。また、逆噴射をしたのも、当時日航機のパイロットの間ではやっていた遊びで、誰が一番滑走路の手前に着陸できるか競い合っていた。片桐機長も滑走路の端ギリギリで着陸しようと逆噴射を効かせすぎたため、人命が失われた。他者の批判を許さない片桐機長と日本航空の組合の異常性が滲み出ている。
これ以前にも、日本航空は「気違いが操縦している。」という噂があり、実は片桐機長だけではない。この事件後、日本航空の調査により、「心身症」という理由で、10数人のパイロットの乗務が強制的に中断させられている。乗務を止めさせなければ、この類の殺人事件が10数件続いた可能性が高い。また、スチュワーデスの組合間の諍いで、乗客に塩辛いスープを出したり、有力者や国会議員の縁故採用が多い。暴力団安藤組組員(やくざ)だった安部譲二はパーサーを勤め、普段は組の代紋を付け、日本航空に出勤する時はマメに外していた。
JL350便は、3年後の昭和60年(1985年)08月12日、高天原山系に属する無名の尾根(後に御巣鷹の尾根と命名)に墜落したJL123便と共に欠番である。日本航空は、潰して、社名の方のJALやJLを欠番にすべきであった。
何と、この忌まわしい日本航空による殺人事件の日に羽田で操縦桿が作動しなくなる事故が発生している。日本航空に、国税を掛ける意味などない。高病原性ウィルスより危険である。OBを含め企業年金分は全て返上させ、国民の安全のため、完膚なきまでに叩き潰すべきである。
日航機が操縦桿故障で緊急停止 羽田空港 < 2010年2月9日 15:11 >
9日午後、羽田空港に着陸した「日本航空」の飛行機が、操縦桿が故障したため滑走路で緊急停止した。
9日午後1時30分過ぎ、羽田空港に着陸した新千歳空港発の日本航空510便が、滑走路から誘導路に進もうとした際、油圧系統のトラブルのため操縦かんが利かなくなり、緊急停止した。日本航空などによると、この飛行機には乗客・乗員計294人がいるが、ケガ人はいない。乗客は現在も飛行機に乗ったままとなっている。
日本航空は詳しい故障の原因を調べている。

最後の30秒―羽田沖全日空機墜落事故の調査と研究 (1972年)
- 作者: 山名 正夫
- 出版社/メーカー: 朝日新聞社
- 発売日: 1972
- メディア: −
小泉純一郎の犯罪歴と精神分裂病が統合失調症に改称された理由
小泉純一郎という、電通という反日広告代理店を使い、B層と呼ばれる愚民を操る小泉劇場と呼ばれる政治を行った首相がいる。郵便局を民営化にしただけで、「改革」とは名ばかりの対米追随反日政治を竹中平蔵と画策した。小泉純一郎が就任して以来、自殺者数は、歴代首相中1位。自殺者数は過去最大で第1位。会社倒産件数歴代1位。百貨店のトップであったダイエーが倒産。銀行は軒並み倒産。倒産件数は激増。最悪の不況をもたらした。
朝鮮の帰化人だといわれている。祖先の血のなせる技で、過去に2回強姦事件で告訴され、精神分裂病で措置入院を受け、愛人を変態セックスで殺したと言われる。こういった気違いが総理大臣を務めた。
昭和42(1967)年04月、慶応大学の学生だった小泉純一郎は女子大生を強姦しようとして神奈川県警に逮捕されたこのときに、小泉純一郎は、「僕の父親は、防衛庁長官だぞ。早く連絡しろ。」と言った。この婦女暴行事件を起こした直後に、小泉純一郎は、片桐清二、佐川一政など措置入院の精神病院で有名な都立松沢病院に入院。診断名は「精神分裂病」で、2ケ月間強制措置入院と思われる。04月から06月まで入院して退院。その後、07月07日にほとぼりを冷ますために、羽田を出発からロンドンに留学という名目で日本を離れた。慶応大学には休学届を出した。公開プロフィールには、慶応大学卒業後留学と書いているが、これは嘘で帰国後に卒業している。
昭和52(1977)年08月25日、青山学院大学4年だったエスエス製薬の元会長泰道照山の孫宮本佳代子さんに東京赤坂のレストランで見合い。翌日の昭和52年08月26日、早速2人でデート。日比谷映画で「わしは舞い降りた」と見た後、小泉は「あのう、僕を信頼してくれますか?」彼女はとっさに、どう答えていいかわからぬまま「ええ。」と一言。小泉純一郎は、「それで決まりましたね。」会ってわずかの2日目である。翌年の昭和53(1978)年に結婚。小泉孝太郎、小泉進次郎などを産んだが、4年後、結婚は破綻。家庭内暴力を小泉純一郎から受けた。出て行くと決めたあとに、小泉純一郎が佳代子に最後にかけた言葉は、「君子去るものは追わず、来るものは拒まずだな。」の一言だった。小泉純一郎は離婚後、女性に暴力を振るわないようにカウンセリングをうけていたとされる。
平成4(1992)年05月12日午後03時、小泉純一郎の愛人、新橋芸者小はん(本名:奥貫浩美)(31)が東京都港区三田の彼女の豪華マンションで絞殺死体で発見された。死亡推定日は09日、小泉純一郎には、サドの変態セックスの性癖があり、女の首を締めてセックスをしていた。佳代子も夜の営みの時に首をしめられていた。自殺で片づけられたが、飯島勲らが隠蔽工作をしたと噂されている。そのため、飯島勲は周囲に小泉純一郎は自分に頭が上がらないと吹聴している。
小泉純一郎の個人情報を隠蔽するため、小泉内閣になってから小泉純一郎および飯島勲は、個人情報保護法案をまとめた。この個人情報保護法で世の中が良くなったという話を聞いたことがない。不便になり、人間関係がギクシャクしてきた。また、小泉内閣になってから、「精神分裂病」という病名は、「統合失調症」という曖昧模糊な名称になった。
http://www.pressnet.tv/release/6558
・統合失調症を「気ちがい」という差別用語で評するのは、止めていただけないでしょうか。「気ちがい」は、精神医学の診断基準である「ICD」や「DSM」にそんな表現はありません。
敢えて言うならば、古い時代の東洋医学には「気ちがい」という診断概念が存在し、「お血(血流が滞ること)によって情緒不安定を来たすこと」と説明されています。
中世、最先端は別にして、西洋では医者は床屋の副業だし、日本でも、身体に欠陥があったりして、肉体労働のできない者か就く職業でした。そのような賤業を生業としていないので、いきなり略語を羅列しても理解しかねます。略語を書いた場合は、何の略語か説明するのが常識だと思います。ICDとは、国連の1機関、世界保健機関 (WHO)が決めた「疾病及び関連保健問題の国際統計分類 (International Statistical Classification of Diseases and Related Health Problems)」、DSMとは、 アメリカ精神医学会という1学会が定めた「精神障害の診断と統計の手引き(Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders)」のようですが、東洋医学だとか、そんなことはどうでも良いし、どうして、医学の用語を使わなくてはならないのでしょうか?東大医学部の東大教授を含め、同窓に何人もの医者がいますが、医者と付き合いたくはありません。医者は自分は偉いと思っているようですが、周りは常識のない馬鹿だと思っています。そのため、医者は医者だけとしか付き合いがありません。
さて、「気違い」とはれっきとした日本語です。「統合失調症(schizophrenia)」は古代ギリシア語のσχίζω (skhizō, “I tear, split, cut”) + φρήν (phrēn, “mind, brain, diaphragm”)を語源として、脳味噌を破壊したとか、かなり酷い意味で、日本語の「気違い」の方が、かなり婉曲で患者に配慮した言い回しです。「盲ら」なども、英語では(blind)で日本語の方が慎ましやかです。言葉狩りは、日本語を壊そうとしている特定亜細亜と鬼畜米英、猶太の陰謀です。どうして、「気違い」は駄目で、「crazy」や「mad」は良いのか納得のいく説明ができますか?
検索で1年も前の記事のアクセスだけが増えるのも考えものです。この記事は閲覧禁止にしようかとも思っています。
片桐元機長は自分がフライトに支障をきたすほど自分の病が危ないという自覚が持てなかったのではないでしょうか?
私は何百人もの統失の患者さんに出会いましたが自分から異常に気づいて精神科の門をたたいたのは数百人に一人いるかいないかです。
周囲が異常に気付いたら即精神科の専門的な診断を受けるべきだったはずです。
片桐元機長が故意に人を殺そうとしたのではないと私は感じていますが何故殺人などと書かれるのでしょうか?
宅間守元死刑囚の様に刃物や武器をもって直接人を刺し殺すだの他人様の家に勝手に入って行って赤ちゃんをベランダから投げ落とす精神疾患患者とは別なのではないですか?
機関士の方や副操縦士の方もかわいそうです
誰がなんと言おうと私はDC8機コックピットの乗務員の味方です
忌まわしき精神疾患の被害者である元機長とやめてくださいと必死に立て直しを図った副操縦士 機関士の方の努力に敬意を表します。
これは殺人事件ではありません。
病気による事故です。
わたしは元准看護師ですが統合失調の疑いで現在も精神科に通院し薬なしでは生活不可能です。
最近は自覚が持てて自分は精神を病んでいると納得したうえで治療に取り組んでいる40代です。
発病は5歳でした。幻覚と妄想で集団教育になじめず引きこもりのいじめられっこでした。
のちにわかったのですが自閉症とADHDの診断も加わりました。
日航123便事故の映画を見て叩きのめされる機長の家族がとても気の毒でした。
殺人ではありません。
乗客を死に至らしめたのは病気と言う犯人です。
わたしは現在コックピットにいた乗務員の現状が気になります。
苛められてはいませんか?責め立てられていませんか?
いやがらせはあるのですか?
もしも困ったら私にメールください。
いつでも相談に乗ります。
わたしは元精神科の病棟看護の業務をしたことがあります。
無資格ですがカウンセリングをしてきました。
困ったらいつでもわたしにsosメールして下さい。
わたしが悩みを聞きます。相談に乗ります。
出来る限り皆さんを弁護します。
一人で悩まないで下さい。
わたしは味方です。
1行中傷コメントを送ったので、イッツコムからはコメント禁止。
反対意見は良いが、意味のない中傷は不要。お互い時間の無駄。
あまり相手になさらないのが正解です。こうした本質に切り込む記事は、潰しがいがありますので、おかしな連中が金に釣られてやってくるものですよ。
言葉狩りや被害者感情がどうのこうのと言ってまぜっかえしたいのです。工作者なら明らかに有罪ですが、庶民や消費者の立場で無自覚にこれをやってしまう人間もいる(まあある程度洗脳されてしまってるのでしょうけど)。
例えば東日本震災では、20kmゾーンの写真を上げると、「被害者感情を考えろ」という蛆虫(敢えてこう言いたい)がワラワラと涌いてきました。
真実を意図して隠す人間は、間違いなく「害虫以下」の存在です。
日本にもダバオデススクワッドみたいに必要仕事人の様な組織が必要だろう
なので統合失調症全てをキチガイと書くのはやめていただけませんか?
今とてつもなくショックをうけました
6つの病気患ってますがどれもかなりの軽度だけど、やはり傍から見たら精神病の私はキチガイなのかと悲しくなりました。