2011年01月18日

チュニジア ジャスミン革命



チュニジア共和国(الجمهورية التونسية‎、al-Jumhūrīya al-Tūnisīya、通称:تونس、Tūnis)



 チュニジアというのは、確か、カルタゴの成れの果てだという認識以外、全く知識がない空白地帯だった。カルタゴ以降、数十年毎に、民族が取っ換え引っ換えやってきて支配を受けている。最後があのおフランスに支配されたのが運の尽き。お決まりの軍人上がりのザイン・アル=アービディーン・ベン=アリー‎とその妻のトラベルシとその一族による独裁が23年も続き、フランスのお家芸、暴力の連鎖が続いている。尖閣や竹島、千島、樺太の問題があるが、日本は島国で良かったとつくづく思う。支那や朝鮮のような大陸や半島は、春秋戦国、五胡十六国、五代十国と、総入れ替えが何度も起きている。

 古代にはフェニキア人が交易拠点としてこの地に移住し、紀元前814年頃にはカルタゴが建国され、地中海貿易で繁栄したが、ポエニ戦争に負け、紀元前146年に滅亡。現在のチュニジアとリビアはローマ支配下のアフリカ属州となった。ローマのアフリカ属州(カルタゴを中心とする属州)は、ラテン語の Africa(アフリカ)と呼ばれ、アフリカ大陸の名前の由来になった。ローマ帝国が東西に分裂すると、西ローマ帝国の管区。439年、ゲルマン系ヴァンダル人が侵入し、カルタゴにヴァンダル王国が建国。534年には東ローマ帝国に滅ぼされ、東ローマ帝国。
 7世紀にはアラブ人が東方から侵入し、カイラワーンにアッバース朝のカリフに臣従するアグラブ朝、反アッバース朝を掲げたファーティマ朝が興り、アグラブ朝を滅ぼした。次いで,ズィール朝、モロッコ方面から勢力を伸ばしたムワッヒド朝の支配下、1229年にチュニスにハフス朝が成立。16世紀初頭にオスマン帝国の支配から逃れるために一旦スペインの属国になった後、1574年にオスマン帝国によって滅ぼされた。1705年にフサイン朝が成立。フサイン朝はフランス支配を挟んで252年間統治。西欧よりの政策と富国強兵策で、近代化=西欧化政策を採り、1861年には憲法が制定し、サドク・ベイはイスラーム世界、及びアフリカ世界初の立憲君主となった。しかし、保守派の抵抗で1864年に憲法は停止。1869年には西欧化政策の負担によって財政は破綻。1878年、フランスによるチュニジア侵攻が行われ、1881年のバルドー条約、1883年のマルサ協定でフランスの保護領。1907年にはチュニジア独立を目的とする結社、「青年チュニジア党」が創設され、それは「憲政党」に発展し、チュニジア人の市民権の承認、憲法制定、チュニジア人の政治参加を求める運動を展開。ハビーブ・ブルギーバの「新憲政党」はチュニジアの完全独立を要求した。フランスは1956年になってようやく、ベイのムハンマド8世アル・アミーンを国王に据えることで渋々独立を承認。初代首相にはブルギーバが選ばれ、「チュニジア王国」が独立した。
 1957年には王制を廃止。大統領制を採る「チュニジア共和国」が成立。首相から大統領となったブルギーバは1959年に憲法を制定し、社会主義政策を採るが、1970年代には自由主義に路線を変更したが、1987年には無血クーデターが起こり、ザイン・アル=アービディーン・ベン=アリー‎(زين العابدين بن علي‎、Zine El Abidine Ben Ali、1936年09月03日〜)首相が大統領に就任。

ジャスミン革命(チュニジアの国花がジャスミン)

 2010年12月17日、中部シディブジドで、露天商のモハメッド・ブウアジジ(محمد البوعزيزي、Mohamed Bouazizi、仇名はBasboosa)(26)が果物と野菜を街頭で販売し始めたところ、販売の許可がないと警察に商品と手押し車を没収された。モハメッド・ブウアジジは、3歳の時に父親をなくし、10歳から通りで物売りをして働き始めた。週に約75USドルを稼いで、母親と姉妹を養っていた。コンピューター科学を大学で専攻して卒業という報道もあったが、これはガセで、姉妹のサミアによると、高校にも行っていないのが真実のようだ。やはり、姉妹のサミアは、「モハメドは、自分のバンを買うことを最も望んでいました。しかし、自分のために欲しかったのではなく仕事のためで、秘かな夢でさえ、家族を助けることでした。」と語っている。ブウアジジは商売のために約200USドルの借金を抱えており、市役所に抗議したが、返してくれず、市役所の職員に公然と顔を叩かれ、絶望し、塗料うすめ液2瓶(報道によりガソリン1缶)を被り火をつけ、焼身自殺を図った。報道によると、手押し車による露天商に許可証は必要なく、警察への賄賂が払えずに商売道具を没収されてしまい、市役所に抗議したか、証拠書類がないと取りあってもらえず、絶望して自殺を図ったとも言われる。
 その後、フランスを追放されていたザッカリア・ベン・マフディが焼身自殺を図った。2人の青年の死の理由はチュニジアの失業や雇用の不安定、住宅難など社会的な問題に抗議したものであった。多くの模倣事件がアラブ圏で発生し。アルジェリアやエジプトで数件、焼身自殺事件が起きている。
 チュニジアでは失業率が公表されている14%よりも高く、青年層に限れば25〜30%という高い水準に達しており、同様に街頭で果物や野菜を売り生計を立てる失業者も多かった。このトラブルがブウアジジと同じく、大学卒業後も就職できない若者中心に、職の権利、発言の自由化、大統領周辺の腐敗の罰則などを求め、全国各地でストライキやデモを起こすきっかけになったとされている。次第にデモが全年齢層に拡大し、デモ隊と政府当局による衝突で死亡者が出るなどの事態となった。やがて高い失業率に抗議するデモは23年間の強権体制が続き、腐敗や人権侵害が指摘されるベン=アリー政権そのものに対するデモとなり、急速に発展していった。
 ブウアジジの絶望的な呼び掛けは失業と腐敗そして政治的不自由に対する蜂起の象徴になり、自発的なデモが全国で起きた。発端となったブウアジジは自殺を図った後、重度の全身火傷を負い、2011年01月04日17時30分にシディブジドのベンアル病院で死亡。翌05日に葬儀が行われ、5000人以上が参加したが、警察はブウアジジが自らに火を付けた場所を通ることを阻止。シディブジドの墓地に埋葬された。06日には数千人の労働者が彼らを支持。01月07日には中部の都市タラで暴徒が警察署といった政府関連庁舎や銀行に火を放ち、01月08日夜から09日にかけてタラ、カスリーヌといった都市で高い失業率に抗議するデモが発生。治安部隊が発砲したことにより、少なくとも14人、野党指導者によれば25人が死亡。01月10日にはカスリーヌで放火や警察署への襲撃が起こり、これに対処した警官隊が発砲したため市民4人が死亡。11日夜には、ついに首都チュニスに暴動が拡大。労働者街にて参加者が車、銀行、警察署といった政府関係庁舎への放火、また商店街において略奪行為を行った。警官隊はこれを解散させるため威嚇射撃を行い4人が死亡、また火炎瓶や催涙弾の使用を行った。内務省より死者は述べ23人になったと発表(実際にはこの時点で50人以上が死亡しているとも言われた)。



 反政府デモはベン=アリー政権を揺るがし、01月10日にはデモの拡大や若者の暴徒化を防ぐため全国の高校や大学を閉鎖すると発表。一連の暴動をテロリストによるものと非難し、また発端となった若者の失業者への対策として、今後2年間で30万人に及ぶ大規模な雇用緊急措置を取ると表明するといった対応に追われたが、各政党から、大統領に対し警官隊による発砲の中止を求める声が上がった。
 01月12日には首都チュニスとその周辺地域に午後08時から翌朝午前06時までの夜間外出禁止令を発令。しかし、南部の都市ドウズで暴動が起こり、5人が死亡。首都で出された夜間外出禁止令は無視され、暴動が止む気配はなく、大統領支持者によるデモも行われた。
 01月13日、ベン=アリーはテレビ演説で2014年の大統領選挙に立候補せず任期満了を持って退任する意向を表明。デモの原因の一つであった食料品高騰に対しては引き下げると表明。また言論の自由の拡大や、インターネット閲覧の制限を解除するといった政策を約束し、また治安部隊に対し、デモ隊への発砲を禁じたと発表。強権政治を貫いてきたベン=アリーにとっては大幅な譲歩であったが、これらの措置を発表した翌14日になっても内務省の前で5000人が大統領退陣を求めるなど反政府デモは収まらず、ゼネラル・ストライキも発生。治安部隊によるデモ隊への発砲も続いた。。ベン=アリーは非常事態宣言を行い、夜間外出禁止令を全土に広げた。また、ガンヌーシ内閣の総辞職と2014年実施予定の総選挙を大幅に前倒しし、今後半年以内に実施する考えを表明。
 民衆への弾圧に対し政府内からも批判の声が上がり始め、14日にはチュニジアのメズリ・ハダドユネスコ大使が、治安部隊がデモ隊に発砲したことに対して抗議を行い大統領に辞表を提出。アメリカのバラク・オバマ大統領が変革を支持する声明を発表。また国軍が離反するなど追い詰められたベン=アリーは14日に国外に出国。当初は旧宗主国のフランス行きを希望しパリに向かったが、ニコラ・サルコジ大統領は「チュニジア大統領の来訪を望まない。」とこれを受け入れず、サウジアラビアに亡命。なお、チュニス航空のモハメド・ベン・キアリ機長(37)は、フランス・リヨン行きの便に乗り込んだ14日午後、離陸許可を待っていると緊急連絡が入り、5人の乗客を追加で乗せるよう命じられた。機長は名前から前大統領の親族が逃亡を図っていると判断、命令を拒否してそのまま飛び立った。搭乗を拒否して国外逃亡を阻止した機長は、国民からは「真の英雄」との賛辞が寄せられた。
 これにより政権は事実上崩壊し、1987年以来23年にわたって続いてきた独裁政権は終焉を迎えた。政治活動や言論の厳しい抑圧で政治的安定や一定の経済成長が維持されていたが、ベン=アリー大統領、トラベルシ夫人一族による利権独占などの腐敗体質に対し、厳しい生活に直面する国民の怒りが一挙に噴出、大統領は政権維持を断念した。だが、多くのチュニジア人が出稼ぎに行く欧州の景気も金融危機後に悪化。貴重な収入源が細る一方、失業率も14%と高止まりし、世界的な小麦や砂糖などの価格高の影響で食料価格も高騰。アラブ諸国にはエジプトやリビアなど、チュニジアと同様に独裁長期政権が維持されている国家も多く、民衆の力によって政権が打倒されたことは異例。

 民衆蜂起により、23年間続いた強権的なベン=アリー政権が崩壊したチュニジアの政変が、インターネット上で「ジャスミン革命」と呼ばれ始めた。

 ガンヌーシ首相は政権崩壊を受け、憲法第56条の規定を根拠として自らが暫定大統領に就任。憲法上の問題があるとの指摘が出たため、憲法評議会の見解を求め、評議会は翌15日に憲法第57条の規定に則り下院議長であるフアド・メバザを暫定大統領に指名。メバザは挙国一致政権の樹立をガンヌーシに要請し、また15日、暫定大統領への就任宣誓を行い、これにより60日以内に大統領選挙が行われることとなった。暫定大統領のメバザ、それに首相のガンヌーシも、ベン=アリーと同じ独裁体制を敷いてきた立憲民主連合のメンバーであり、ベン=アリー出国後も旧政権関係者の完全排除を求めるデモも起こるなど、チュニジア国民が彼らに対し反発する可能性も残る。17日夜、昨年12月中旬から約1ケ月続いてきた国内のデモや暴動の死者は計78人に達したと明らかにした。商店の略奪などでチュニジア経済に与えた損失は約30億チュニジアディナール(約1730億円)になるという。
 ドバイ経由でサウジアラビアに亡命したチュニジアのベン=アリー前大統領トラベルシ夫人は出国前にチュニジア中央銀行を訪れ、預けてある金塊を渡すよう要請。同銀総裁ははじめは拒否したが、ベン=アリーが電話で総裁を説得。トラベルシに金塊を引き渡した。金塊は6500万USドル(約53億6600万円)の価値がある。
 商店の略奪や銃撃戦が起き混乱が続いた。首都チュニスでは暴徒の侵入を阻むため住民らが自警団を組織。ベン=アリーの肖像画が与党本部から外され、ベン=アリーの親族や治安当局高官が拘束されるなど、政権崩壊を象徴する動きも広がった。ベン=アリーに忠誠を誓っている前大統領警護隊と軍特殊部隊が大統領宮殿で銃撃戦を繰り広げており、またチュニス市内でも前大統領支持派と治安部隊との散発的な銃撃戦が起こっている。
posted by cnx at 19:42| Comment(0) | TrackBack(0) | Ar | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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