2011年03月29日

リビア内戦 ベルベル人、カッザーフィーの故郷、シルト攻防戦と石油の利権


SocialistPeople'sLibya.jpg政府軍
大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国(社会主義人民リビア・アラブ国)
革命指導者:ムアンマル・カッザーフィー

 かつてリビアは1972年03月にエジプト・シリアとともにアラブ共和国連邦とアラブ共和国連邦を結成し、汎アラブ主義を唱えていた。同一の国家を強調するため、リビアはエジプトの国旗を共用していた。ところが、第4次中東戦争の後の1977年11月11日(11月19日からのイスラエル訪問を発表)、エジプトのサダト大統領はアラブの宿敵イスラエルと単独で和解し。エジプトのサダト大統領は、友好条約を結んだ上、アメリカ合衆国寄りの外交を開始した。カッザーフィーは怒り狂ってエジプトとの断交を決め、側近たちに翌日までに新しい国旗を完成させろと厳命した(しかもそれは深夜)。時間がないため側近たちの苦肉の策で、緑一色(緑色はイスラームの開祖ムハンマドのターバンの色とされ、イスラーム世界では最高の色)の国旗になってしまった。

LibyanRepublic.jpg反政府軍
リビア共和国(国民評議会)
国民評議会議長:ムスタファ・モハメド・アブドルジャリル

 ムアンマル・カッザーフィー(カダフィ大佐)の強権的な統治と反政府活動に対する厳しい監視や弾圧、豊富な石油や天然ガス資源の恣意的な富の配分に、国民、権力の後ろ盾となってきた軍や部族の間にも、不満は鬱積していた。
 2011年02月15日、チュニジアでのジャスミン革命がリビアに波及し、反政府デモがリビア東部のキレナイカにあるベンガジにて発生。警官隊や政府支持勢力と衝突。警官を含む38人が負傷。反体制派が占領したベンガジなどの東部は、カダフィに打倒されたイドリース1世の出身部族もあり、弾圧を受けてきた。反乱を呼びかけた元公安相も東部部族出身。反政府デモが全土に拡がり、デモ参加者は数万人規模となった。カッザーフィーは、弾圧にリビア政府直属の民兵だけでなく外国人の傭兵も投入し、死傷者が増加した。
 21日には反政府デモが首都トリポリにまで飛び火し、政府施設である人民ホール、全人民会議、警察署などが炎上。トリポリや近郊都市で発生した反政府デモに対して政府当局は空爆を実施。戦闘機やヘリコプターによる機銃掃射、手榴弾や重火器、さらには戦車を使用してデモ隊への攻撃を開始し、無差別虐殺が始まった。油田でのストライキも発生し、操業が停止。
 こうした政府当局による大規模な弾圧に対し、政権側からも批判の声が上がり始めたが、22日カッザーフィーは演説の中で反政府運動を「天安門事件のように叩き潰す。」と強硬姿勢を崩さず、また国外亡命の可能性についても改めて否定。同日、国際連合安全保障理事会にてリビア情勢についての緊急会合が行われ、国民に対する武力行使を非難する報道機関向け声明を採択。

 23日までにリビア東部は反政府派に掌握された。24日、石油積み出し施設のある北西部のザーウィヤで、反体制デモを行っていた勢力が立て籠もっていたモスクをミサイルで撃破し、さらに自動小銃で掃射するという残虐行為に出た。死者が100人以上。25日、反政府デモで治安部隊が参加者に無差別発砲し、首都トリポリだけで10人の死者が出た。26日〜28日、首都トリポリ以外がほぼ反政府側の手に落ち追い詰められたカッザーフィーは支持派市民に対して武器を渡し、反政府運動の封じ込めに乗り出し、反体制側もミスラータで義勇兵を集め始め、内戦状態になった。27日、カッザーフィーに反旗を翻し辞任したアブドルジャリル前司法書記がベンガジにて暫定政権「リビア国民評議会」設立を宣言、国民結束を呼びかけ、首都トリポリの一部は反政府勢力によって制圧された。同日、国際連合安全保障理事会はリビアに対する制裁決議を全会一致で採択した(国際連合安全保障理事会決議1970)。これと並行して、国際刑事裁判所に付託することも決定。

 アブドルジャリル率いる国民評議会の下に当初乱立していた反政府勢力の自治政権が結集し始め、03月02日にはベンガジで会合を開き、アブドルジャリルが正式に同評議会の議長に就任。10日、フランス政府は国民評議会をリビアにおける正式な政府として承認。飛行禁止区域の制定を得られなかったことで、装備で劣る評議会軍は戦闘でも劣勢に立ち、10日ごろから後退を余儀なくされた。評議会は各国に軍事介入を求めたが、積極的な姿勢は少なかった。飛行禁止空域設定の国連決議はアメリカ・露西亜・支那などの反対で採択される目途が付かず、単独で設定する構えを示していた北大西洋条約機構(NATO)はアメリカの反対で決議をまとめることができなかった。EUにおいても、国家承認をしたフランスやイギリスなど一部の国の支持に留まり、カッザーフィー政権による評議会側制圧都市や評議会軍部隊への空爆が続いた。
 12日にはアラブ連盟が、リビアにおけるカッザーフィー政権の正当性を否定し、また飛行禁止区域の設定を支持する決定。このことと評議会軍が劣勢になったこと、カッザーフィーが17日に「ベンガジへの総攻撃と無差別殺戮をも辞さない。」と演説したことが飛行禁止空域設定への追い風となり、同日国連安保理は飛行禁止区域設定の設定と、リビアへの事実上の空爆を容認する決議を賛成10、棄権5(支那・露西亜・インド・ドイツ・ブラジル)で採択。

 カッザーフィーは国際的な軍事介入に反発する姿勢を見せたが、いったんは18日に即時停戦を受け入れたが、直後にベンガジやミスラタに対する攻撃を継続。03月19日、フランスが軍事介入を行う旨を宣言し、直後に米英仏を中心とした多国籍軍がカッザーフィー政府軍への空爆を開始。アメリカの「オデッセイの夜明け作戦」によりトマホークが100発以上発射された。カッザーフィーは直後に国営放送で演説し、国民に対し徹底抗戦を呼びかけた。
 リビアはかつてパンアメリカン航空103便爆破事件、リビア爆撃など米英及びイスラエルと対立し、近年は関係改善していたが、今回の攻撃も米英及びユダヤ系でモサドの犬のサルコジ大統領が主導している。

 国民評議会がNATO軍の空爆支援を受けて進軍する中で、政府軍はカッザーフィーの出身地で政府軍の要衝でもあるシルトで戦車を配備し、徹底抗戦の構えを見せている。反体制派国民評議会の報道官は29日、「シルトへ向けて進軍していた国民評議会軍が政府軍の激しい攻撃を受けて、東方150qのビンジャワドまで撤退した。と説明した。国民評議会は28日にシルト東方120qのナファリアに到達しシルト攻略を目指したが、政府軍は精鋭部隊を投入し、防衛に当たっている。国民評議会が西部で唯一、掌握するミスラタでも激しい戦闘が続いている。政府軍は数日間にわたり市内へ向けて攻撃した後、28日夕方に「ミスラタを解放した。」と一方的な停戦を宣言した。実際は反体制派が依然として同地を支配しているという。ミスラタはシルトと首都トリポリの間に位置する唯一の主要都市であり、政府側は奪還に力を注ぐ。一方、NATO軍は27日夜に続き28日朝にシルトを空爆。またリビア国営放送によると、トリポリ南方のガリアンとミズダも爆撃。
 アラブ諸国から多国籍軍に参加するカタールが28日に国民評議会政府を正式承認したことに対して、リビア政府は「著しい内政干渉」と非難。また、米政府は近日中に暫定政府の本拠地ベンガジへ使節を送る見通し。米国は暫定政府が奪還した地域で、石油輸出を再開することも支持する方針。

 アメリカやフランスのユダヤとしては、憎っくきテロリスト、カッザーフィーを叩き潰した上に良質の石油利権が手に入る、正に一石二鳥。

恐怖のリビア監獄脱出記―“不当逮捕”された商社マンの痛恨の記録 (カッパ・ブックス) [新書]...
砂漠の思想―リビアで考えたこと [単行本] / 野田 正彰 (著); みすず書房 (刊)

 あまり知られていないが、日本は硫黄分が多くオクタン価の低い質の悪いアラビア産の石油を使っている。そのため、日本でのガソリンは、レギュラーで90、ハイオクで98〜100。欧州は、北海油田やリビア産の石油を使ッているので、日本よりオクタン価が高く、欧州はレギュラーで95程度、ハイオクは100。欧州車の中には、スポーツカーでない大衆車でもハイオク指定になっているのは、日本のレギュラーがオクタン価90で、低質なものだからだ。

 ベドウィンの部族、サウード家はアラビア半島の支配を巡ってエジプトやオスマン帝国、他のアラブ部族と争い興亡を繰り返した(第1次サウード王国、第2次サウード王国)。1902年、僅か22歳のアブドゥルアズィーズはサウード王家先祖伝来の本拠地リヤドをライバルのラシード家から奪回した。アブドゥルアズィーズは征服を続けた。
 第1次世界大戦時、イギリスがオスマン帝国の後方のアラブ人を立ち上がらせ戦わせようとした。イギリスの3枚舌外交である。
1915年10月 フサイン−マクマホン協定(中東のアラブ独立、公開)
1916年05月 サイクス・ピコ協定(英仏による中東分割、秘密協定)
1917年11月 バルフォア宣言(パレスチナにおけるユダヤ民族居住地建設、公開)
 ハーシム家のフサイン・イブン・アリーはイギリスとフサイン−マクマホン協定を結び、イラクやシリア、パレスチナも含むアラビア全域の独立と支配を目論み、トーマス・エドワード・ロレンス(アラビアのロレンス)の支援で、アラブの反乱を起こした。オスマン帝国がダマスクスからマディーナまでヒジャーズを縦断して敷設したヒジャーズ鉄道を破壊するなどの戦闘に協力。1916年には、フサイン・イブン・アリーはイギリスの後ろ盾でヒジャーズ王国を建国し、ヒジャーズは独立したが、フサイン・イブン・アリーは結局王国をアラブ全体に広げることはできず、1924年にはナジュドからアブドゥルアズィーズ・イブン=サウードが侵攻。フサイン・イブン・アリーは退位してキプロスに逃れたが、その翌年には長男アリー・イブン・フセインが降伏し、弟のイラク王国に亡命することで、ハーシム家のヒジャーズ支配は終焉。ヒジャーズを攻略したアブドゥルアズィーズ・イブン−サウードは1926年にヒジャーズ王を称し、1931年にはヒジャーズ−ナジュド王国という連合王国の王となり、1932年にはこれをサウジアラビア王国と改称した。アブドゥルアズィーズの政治的成功も経済までには及ばず、1938年03月に油田が発見されるまで貧しく、油田開発は第2次世界大戦のために中断したが、1946年には開発が本格的に始まり、1949年に採油活動が全面操業。サウジアラビアは世界最大の石油埋蔵量、生産量及び輸出量を誇るエネルギー大国。輸出総額の約9割、財政収入の約8割を石油に依存している。
 日本はこの専制国家、サウジアラビアが最大の石油輸入国である。他のアラブ首長国連邦、カタール、イラン、ロシア、クウェート、オマーンと中世のままの専制国家1位から並んでいる。 

日本の石油輸入先
2010年度21,535kℓ(中東地域で86.5%)

1位 サウジアラビア 28.8%
2位 アラブ首長国連邦 20.4%
3位 カタール 11.8%
4位 イラン 9.6%
5位 ロシア 7.2%
6位 クウェート 7.1%
7位 オマーン 3.3%
8位 東南アジア諸国 3.3%
9位 イラク 3.2%

裏切りの同盟 アメリカとサウジアラビアの危険な友好関係不思議の国サウジアラビア―パラドクス・パラダイス (文春新書) [新書] / 竹下 節子 (著); 文藝春秋 (刊)アラビアのロレンス【完全版】 デラックス・コレクターズ・エディション [DVD] / ピーター・オトゥール, オマー・シャリフ, アレック・ギネス, アンソニー・クイン, ホセ・ファーラー (出演); デヴィッド・リーン (監督)アラビアのロレンス (平凡社ライブラリー) [単行本] / ロバート グレーヴズ (著); Robert Graves (原著); 小野 忍 (翻訳); 平凡社 (刊)
posted by cnx at 19:55| Comment(0) | TrackBack(1) | Ar | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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Tracked: 2011-03-30 23:02