アブラム(ヘブライ語 אַבְרָהָם (古: ʾAḇrām, 現: ʾAvram)、または アブラハム(英語 Abraham) 、アブラハームは、ギリシャ語 Αβραάμ Avraám アブラハム)はヘブライ語で多数の父という意。アダムから13代目の子孫。
詳しくは☞ 「悪逆非道なディープステイトの中核、猶太とは何か その1」
タナハ創世記 1:28
神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ。」ここで「彼ら」とは大洪水で箱舟で唯一生き残ったノアら。
アブラムの宗教、セム族の1神教、猶太教、耶蘇教、回教の唯一神YHWHヤハウェは。
同性愛を明確に禁じ、死罪に処すと明記してあり、YHWHヤハウェの意思により処刑してきたし、
現在もアブラムの宗教原理主義の国では執行している。
タナハ レビ記 18:22
あなたがたは男と同じように男と寝てはならない。それは忌まわしいことである。
タナハ レビ記 20:13
男が男と寝ることがあれば、ふたりとも死に値する。彼らの血は彼ら自身に帰する。
タナハ 申命記 22:5
女装している男、すなわち女になりすましている者を見つけたなら、それは主が忌みきらわれることであるから、切り捨てなければならない。
これらの記述から、タナハでは男性同士の性的関係を厳禁にし、また性的区別に関しても明確にしている。
タルムード コダシーム篇フリン 94a
偽りのことばを発する人は、地獄に落ちることになる。しかし、時には善意から嘘をつくことが許される場合もある。例えば、調停者として争いを仲裁する場合、また、人を悪から守るために嘘をつくこともできる。ただし、偶像崇拝をする非ユダヤ人を騙してはいけない。
タルムード ネズィキーン篇サンヘドリン 59a
トーラー(モーセの五書)を学ぶ全ての非ユダヤ人は死刑に値する。また、トーラーを学ぶことを助ける全てのユダヤ人も死刑に値する。
タルムードとは、タナハを解釈し、ユダヤ人の生活から思想に至るまで律する律法(トーラー)の解釈書である。勝手な解釈だが聖典になっている。儒家の四書五経の朱子や王陽明の著した書に当たるが、強制力を持つ律法の法令である。
「ユダヤ人は非ユダヤ教徒をゴイム(外人)と呼び、奴隷化しようとしている。」という厳然たる事実に対し、「タルムードにそんな記述はない。」と言う反論への反証が上記である。
ユダヤ人は非ユダヤ教徒を奴隷化しようとして、共産主義を作り、大戦争を起こし、国家を壊し、性教育と同性愛で家族を散逸している。3Sで性道徳を頽廃させ、真面目に政治や軍備を弱体化させるようマスゴミや娯楽にGAFAやSNSで洗脳している。
目的は、ベニスの商人と同じく、金と支配。癌や伝染病を作り蔓延させ、ワクチンや薬、種子、種苗に農薬に添加物と、ゴイムの金と健康と生命を損なわせ、矜持を奪い、奴隷化するのがユダヤの目的だ!!!!
ユダヤの一派、マルキストのフランクフルト学派の教理でもある。

「殺すな」と言われたことをあなたがたは聞いていますが、わたしはあなたがたに言います、怒りをもってその兄弟に向かって罵る者は、裁判官の裁判を受けるにふさわしいのです。「馬鹿者」と言う者は、地獄の火に陥れられるからです。
新約聖書 マタイ伝 5章27-28節
「姦淫するな」と言われたことをあなたがたは聞いていますが、わたしはあなたがたに言います、心に欲情する者は、すでに姦淫を行ったのです。
新約聖書 マタイ伝 15章19-20節
すなわち、心から出る悪い思い、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、そしり、これらが人を汚すものです。食べ物をきよめるかたは、まずその心をきよめなければなりません。
しかも、耶蘇教の聖典、新約聖書マタイ伝で、心の中で考えただけで罪だとされる。アブラムの宗教は偏狭な偽善で兇悪な邪教である。この流れをくむ反人類の気違いがユダヤの一派、マルキストのフランクフルト学派および差別利権利得者で、「差別」を利権にして被差別者も含め、人の心まで統制するファシストで、全人類の生き血を啜っている悪魔だ。
奴らマルキストのフランクフルト学派の手先(パヨク)は、少数者の保護を名目にして、自らの利益の公金チューチューで多数者の金や安心安全多数者の社会の分断と基本単位である家族の破壊を行う邪悪で兇悪なファシストであり邪教カルトで目的のためには手段を択ばない。平然と嘘を吐き、ゴイムを洗脳し、生命や財産を奪い取る。
東西冷戦後とりわけ、パヨク思想を隠蔽し、穢多、朝鮮人、性教育、女性、環境、移民、アイヌ、黒人、・・、変態を食いものにしてきた。
変態団体も逆差別による社会からの分断を齎す変態法に反対している。変態団体同士は仲が悪く、特にTは強姦事件が頻発し暴力的で忌み嫌われている。

見るからにわかる、兇暴な無能で頭が悪い、出身大学や過去の言動が物語るように、頭が悪く品もなければ、能力がない。猶太教徒でわざわざイスラエルに渡り、イスラエル国籍を取得したイスラエル人でありながら、反タナハの破戒行動を起こす邪悪な猶太人。
この2重国籍極悪猶太鬼畜はMBAも持たず銀行勤務の経験がないが、猶太人脈で投資銀行の重役に就任した。 バラク・オバマ政権で第23代大統領首席補佐官に就いたが。暴言で悪名高く、ゴイムには不合理な嘘でも詭弁を押し付け黙らせ、要求を通す凶行で有名で、仇名は「ランボー」(Rahmbo)。バラク・オバマに嫌われ、1年少しで更迭された。
シカゴ市長時代に政敵に「腐った魚」を送り付け脅迫したマフィアそのもののチンピラ、喧嘩を売りまくる攻撃的で兇暴なユダヤの悪魔。マフィアの本場、シカゴ市長時代の黒人少年射殺事件、ラクアン・マクドナルド殺人事件の対応を批判され、2期で立候補を止めた。マフィアとの繋がりもある。シカゴ市長も務まらないで、ゴミ爆行きでアメリカのTM日本に島流しになった。
明らかに日本大使に不適格で民主党、共和党の双方から反対された。ユダヤや痴呆で反日のジョセフ・ロビネット・"ジョー"・バイデン・ジュニア(80)の虎の威を借り、罵倒を繰り返すヤクザの恐喝魔をアメ公も持て余し、日本に大使として廃棄した。痴呆バイデンの意向もあり内政干渉で日本を壊している。これを移民党、葬禍党、野盗は、世襲や利権しか興味のない無能売国奴だらけで、皮肉冴え言えず、唯々諾々と犬として従っている。
赴任してから、アメリカの犬、岸田文雄(65)に命令し日本に強烈な内政干渉をしている。アメ公押しつけの占領憲法でさえ踏みにじる犯罪にまで犯している。普通の国なら、ペルソナ・ノン・グラータを出して、国外追放している。日本を守る気はなく、利権に動く唾棄すべき凶悪で無能な破戒ユダ公にすら何も言えない、言わない。言わないから、この下劣で低能で醜悪で兇悪なユダ公は、ますます増長してくる。安倍晋三(67没)に殺すぞと脅迫したキャロライン・ブーヴィエ・ケネディ(Caroline Bouvier Kennedy)(65)を超えた。安倍晋三(67没)は狙撃手に実際に殺された。
YHWHヤハウェの罰を受け、地獄に堕ちよ!!!!
ラーム・イスラエル・エマニュエル(63)!!!!
キャロライン・ブーヴィエ・ケネディ(Caroline Bouvier Kennedy)(65)!!!!
ジル・トレイシー・ジェイコブス・バイデン(Jill Tracy Jacobs Biden)(71)!!!!
日本を破壊し、日本人を殺戮する移民党どころか、狡知会の利害しか考えてないクズ犬。増税岸田文雄(65)増税。岸田文雄(65)は狂言にしか見えない暗殺未遂劇で支持率を上げてもらった。
八百万の神の天罰が当たれ、増税岸田文雄(65)!!!!
ラーム・イスラエル・エマニュエル(63)!!!!
キャロライン・ブーヴィエ・ケネディ(Caroline Bouvier Kennedy)(65)!!!!
ジル・トレイシー・ジェイコブス・バイデン(Jill Tracy Jacobs Biden)(71)!!!!
日本を破壊し、日本人を殺戮する移民党どころか、狡知会の利害しか考えてないクズ犬。増税岸田文雄(65)増税。岸田文雄(65)は狂言にしか見えない暗殺未遂劇で支持率を上げてもらった。
八百万の神の天罰が当たれ、増税岸田文雄(65)!!!!
LGBT法成立に期待 「憲法の枠内、難しくない」―駐日米大使
https://www.jiji.com/jc/article?k=2023041000965&g=int
エマニュエル駐日米大使は10日の内外情勢調査会での講演で、日本の国会で焦点の一つとなっている性的少数者(LGBTなど)に対する理解増進法案について「(日本国)憲法に含まれる原則や価値、理想を明示した法案の可決は、難しいわけではない」と述べた。自民党保守派の根強い抵抗が続く同法案の早期成立に期待を示した形だ。
https://twitter.com/USAmbJapan/status/1651503533814849538
ラーム・エマニュエル駐日米国大使
@USAmbJapan
世論調査のたびに日本国民は声を上げ、差別に「ノー」を突き付けています。今日お会いした国会議員の皆さまは、日本におけるLGBTQI+の権利を守り、変化を起こそうとしているのです。
引用ツイート
ラーム・エマニュエル駐日米国大使
@USAmbJapan
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4月27日
In poll after poll, the Japanese people have spoken – and they have said “no” to discrimination. These Diet members are trying to make change and protect #LGBTQI+ rights in Japan.
https://twitter.com/USAmbJapan/status/1651075579653832709
ラーム・エマニュエル駐日米国大使
@USAmbJapan
G7各国外相、日本労働組合総連合会(連合)の芳野友子会長、そして大多数の日本国民の皆さんは、私と同じ考えです。それは、LGBTQI+の権利を守る「差別禁止法」が、いまこの日本に求められているということです。われわれの誰もがそう思っています。
引用ツイート
ラーム・エマニュエル駐日米国大使
@USAmbJapan
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4月26日
What do the #G7 foreign ministers, Japan Trade Union Confederation (RENGO) @unionion President Yoshino Tomoko, and most Japanese citizens have in common with me? We all agree it’s time for #Japan’s anti-discrimination legislation protecting #LGBTQI+ rights.
https://twitter.com/USAmbJapan/status/1650760354706919424
ラーム・エマニュエル駐日米国大使
@USAmbJapan
東京レインボープライドのパレードが終わっても、平等に向けた歩みは今この瞬間も続いています!「Marriage For All Japan – 結婚の自由をすべての人に」の松中権理事とお会いできうれしく思います。「同性婚」か「異性婚」ではなく、単に「結婚」だけがある世界へと進む道について話し合いました。
引用ツイート
ラーム・エマニュエル駐日米国大使
@USAmbJapan
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4月25日
The @Tokyo_R_Pride parade may be over, but the march towards #equality continues−now is the time! Great to see @Marriage4All_ Director Matsunaka Gon to talk about how to move forward to a place where there is not ‘gay marriage’ and ‘straight marriage,’ but just ‘marriage.’
https://twitter.com/USAmbJapan/status/1650305187343638531
ラーム・エマニュエル駐日米国大使
@USAmbJapan
今こそ、日本が日本らしくある時。東京レインボープライドには、エネルギーが満ち溢れ、意義あるパレードとなりました。
引用ツイート
ラーム・エマニュエル駐日米国大使
@USAmbJapan
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4月23日
Now is the time, now is the moment, for Japan to be all that Japan can be. You could feel the energy in the air at @Tokyo_R_Pride. Today was a parade with purpose.
https://twitter.com/USAmbJapan/status/1650305080292409344
ラーム・エマニュエル駐日米国大使
@USAmbJapan
米国大使館チームは「東京レインボープライド2023」のパレード参加に向け朝早くから準備を開始!私も電車で現場に移動、そして行進。共に愛、尊敬、平等を祝いましょう。
引用ツイート
ラーム・エマニュエル駐日米国大使
@USAmbJapan
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4月23日
Tokyo Rainbow Pride parade starting early with the @USEmbassyTokyo team! Off to the #train, and then we march. Come join us today at @Tokyo_R_Pride to celebrate love, respect, and equality. #USJapan #TrainAmb ️🌈
米小学校で銃撃 児童ら6人死亡 容疑者はトランスジェンダー 警察官が射殺
https://www.sankei.com/article/20230328-6FIUBQHA5ZNYXI5SVOKQXCF4HU/
米南部テネシー州ナッシュビルの幼稚園を併設する小学校で27日、侵入者が銃を乱射し、いずれも9歳の児童3人と校長を含む教職員3人の計6人が死亡した。容疑者は駆けつけた警官に射殺された。
警察によると、銃を乱射したのはオードリー・ヘール容疑者(28)。出生時の性別と自認する性が異なるトランスジェンダーという。殺傷能力が高いAR15型ライフルを含む銃3丁を所持していた。警察はヘール容疑者の犯行声明や侵入口などを記した地図を確認した。計画的な犯行だったとみられる。
現場の小学校は保守的なキリスト教福音派の教会に連なる系属校。ヘール容疑者は在校歴がある。動機について、警察幹部は「この小学校に通わなければならなかったことへの怒りがあった」と話したが、詳細は明らかになっていない。
米テネシー州学校で銃撃、子ども3人含む6人死亡 容疑者は28歳女
https://jp.reuters.com/article/tennessee-shooting-idJPKBN2VT1QZ
米南部テネシー州ナッシュビルの私立学校で27日午前10時過ぎ、28歳の女が銃を乱射し、児童3人と教職員3人が殺害された。当局が発表した。
容疑者の女は少なくとも2丁の半自動小銃と1丁の拳銃を所持していた。警官に射殺され、死亡が確認された。
動機はまだ明らかにされていないが、容疑者は校舎の入口など詳細な地図を描き、犯行声明とみられる文書などを残しており当局が調査している。
ジョン・ドレイク警察署長によると、容疑者は同地域出身のオードリー・エリザベス・ヘイルと確認された。以前この学校の生徒だった。自身をトランスジェンダーと認識していたという。
この学校には未就学児から6年生までの約200人が通っている。亡くなった児童は全て9歳だった。
学校で乱射、9歳児童ら6人死亡=元在校生の容疑者射殺―米南部
https://sp.m.jiji.com/article/show/2917653
米南部テネシー州ナッシュビルの学校で27日午前(日本時間28日未明)、銃乱射事件が発生し、いずれも9歳の児童3人、学校長を含む60〜61歳の職員3人の計6人が死亡した。容疑者は元在校生で、駆け付けた警官に射殺された。
現場は、未就学児から小学6年生までの約200人が通うキリスト教系の私立校。警察は、容疑者をナッシュビル在住の白人オードリー・ヘイル容疑者(28)と特定した。単独犯とみられる。
ヘイル容疑者の性別について、警察は当初「女」と発表。その後、同容疑者がトランスジェンダーだと明らかにした。ニューヨーク・タイムズ紙によると、ソーシャルメディアへの投稿から、過去数カ月間は「男」を自認していたとみられる。
ヘイル容疑者は、「アサルトウエポン」と呼ばれる殺傷力の高い半自動小銃2丁と拳銃1丁を所持。通用口から押し入り、1階から2階に移動しながら銃撃を続けたとみられる。通報から約15分後に2階で射殺された。

変態を虐殺した歴史も野蛮なアブラムの宗教の国と違いなく、戦争による虐殺ですら一部の例外を除き起きていない。
変態虐殺の前科があり、ゲイバー襲撃が起き、つい最近の03月27日に起きたオードリー・エリザベス・ヘイル(28)のように牝でありながら牡を自認するTが無辜の6人をも殺している。性自認のTは、変態法が成立したスコットランドで女性刑務所に無理やり入り強姦や、女子トイレで性自認のTによる強姦事件が多発し、スコットランド政府が替わった。変態法廃止に世界は動いている時に逆方向に蠢動する売国奴稲田朋美(64)や売国奴岩屋毅(65)は日本破壊の売国奴で犯罪誘致の鬼畜である。
マスゴミは、オードリー・エリザベス・ヘイル(28)を変態と報じず、G7で変態法が国で成立したのはカナダだけだ。平気で公然と嘘を吐いている。
変態法を通した極左スコットランドでは、Tが女子トイレや女性刑務所で女性を強姦事件が多発し、気違いパヨクのニコラ・ファーガソン・スタージョン♀(Nicola Ferguson Sturgeon)(52)首相が馘になった。ニコラ・ファーガソン・スタージョン♀は辞めても女性の強姦の被害は続く。アメリカでもバイデンのデラウエア州以外で反変態法が可決されたか提出されている。
変態法が提出される前に、東急歌舞伎町タワー「ジェンダーレストイレ」は危険で特殊な場所になっている。これを日本全国をぐちゃぐちゃにして危険で女子トイレや女湯に入れなくなるのに、「意識高い」系の愚民は騙せると高をくくり嘘と詭弁を弄している。無能なのは防衛相で明らかだが、都の西北の早稲田はここまで馬鹿で恩知らずで恥知らずなのか。売国奴稲田朋美(65)の選挙区は粟津温泉・片山津温泉・山代温泉・山中温泉、売国奴岩屋毅(65)の選挙区は別府温泉で、日本の温泉文化を破壊し、次の偽員生活はないぞ!!!
八百万の神の天罰が当たれ、
売国奴稲田朋美(65)、売国奴岩屋毅(65)!!
売国奴稲田朋美(65)、売国奴岩屋毅(65)!!
「一強」スコットランド首相が失意の電撃辞任した理由
https://www.newsweekjapan.jp/joyce/2023/02/post-268_2.php
性別変更の法案が決定打に
暗雲に覆われながらスタージョンが辞任する羽目になったもう1つの理由は、彼女の推進した最新の重点政策――スコットランド人の性自認に関する法案――が論争を引き起こしたからだ。16歳以上の人が自己申告で性別を変えられるとしたこの「性別変更手続き簡易化」法案はスコットランド議会を通ったものの、英政府に阻止されていた。
この法案は、多くのスコットランド人にも非難されていた。反対者の中には著名な女性の権利活動家たちも含まれる。法案があまりにイデオロギー的で、男として生まれた人を「自己申告」によって女性と認めることで起こり得る数々の問題から「目を背けている」からだ。
熱心に反対を表明していない人々にとっても、大多数の人にはとりたてて重要でないこの問題にあまりに多くの政治的時間と労力が割かれているように感じられた。保守派の目から見れば、何としても「進歩的」「急進的」に見せようとして反対意見をまるで無視しているように感じられた。

マフィアの産地、シチリア島からの移民の子孫で、苦学の末、高校や短大の英語教師。典型的過激左翼活動家で、「意識高い」系の悪魔婆。ジョー・バイデン(80)の後妻に入った。継子のボー・バイデン(46没)、ハンター・バイデン(53)はウクライナ・支那などに関する国際的な汚職疑惑「ハンター事件」を引き起こし、コカインや小児性愛と、教育者でありながら、継子とはいえ自分の子の教育もできず、反社会的な悪党に育てた。
岸田裕子(58)
その凶悪なジル・バイデン(71)に呼びつけられ、歴史上初めての総理夫人の外遊となった。病気になることだってできた。岸田文雄(65)と同じく、税金を使い国益を損ねた。トン女を卒業し、マツダで社長秘書2年で寿退社と絵に描いたような経歴。あの馬鹿息子、岸田翔太郎(32)の母親だけのことはある。母親の顔はこれだ。アメリカでは通らない変態法を通せと恫喝された模様。

https://www.asahi.com/articles/ASR4L2J54R4LUHBI009.html
訪米中の岸田文雄首相の妻裕子さんが17日、ホワイトハウスでバイデン大統領の妻ジルさんと懇談した。首相の妻の単独での訪米は異例だが、ジルさんからの招待を受けて実現した。
ホワイトハウスには約2時間にわたり滞在し、裕子さん自身がたてたお茶を飲みながら懇談した。昼食会で女性の活躍を一層促進することについて意見交換したほか、大統領執務室でバイデン氏とも短時間言葉を交わしたという。

他民族からは「ヘブライ人」と謂れ、自らは「イスラエル人」と称し、バビロン捕囚後には「ユダヤ人」と呼ばれるようになった徒輩。ヘブライ人、イスラエル人、ユダヤ人は同じ民族を指している。
ユダヤ人(ヘブライ語: יהודים、英語: Jews、ラジノ語: Djudios、イディッシュ語: ייִדן)は、猶太教の信者(宗教集団)または猶太教信者を親に持つ者によって構成される宗教信者。原義は狭義のイスラエル民族のみを指す。イスラエル民族の1つ、ユダ族がイスラエルの王の家系だったことを由来とする。猶太教という名称は、猶太教徒が多く信仰していた宗教であることによる。ユダヤとは、パレスチナ南部の地域。酋長ヤコブの子ユダに由来する。古代イスラエル統一王国の分裂後の南ユダ王国があった地域である。
南ユダ王国滅亡後のユダヤの歴史
南ユダ王国が滅ぶと、僅かな例外的時期を除いて西暦20世紀に至るまでユダヤ民族が独立国を持つことはなかった。
神武天皇74(西暦前587)〜安寧天皇10(西暦前539)年 新バビロニア帝国
安寧天皇10(西暦前539)〜孝安天皇61(西暦前332)年 アケメネス朝ペルシア帝国
孝安天皇61(西暦前332)〜孝安天皇88(西暦前305)年 プトレマイオス朝エジプト
孝安天皇88年(西暦前305)〜開化天皇17(西暦前141)年 セレウコス朝シリア
開化天皇17(西暦前141)〜崇神天皇35(西暦前63)年 ハスモン朝 ユダヤ人国家
崇神天皇35(西暦前63)〜崇神天皇61(西暦前37)年 共和政ローマ元老院属州
崇神天皇61(西暦前37)〜垂仁天皇73(西暦44)年 ヘロデ家
垂仁天皇73(西暦44)年 ユダヤ属州(ローマ帝国皇帝属州)
垂仁天皇73(西暦44)〜景行天皇23(西暦93)年 ヘロデ家
垂仁天皇73(西暦44)〜仁徳天皇83(西暦395)年 ローマ帝国皇帝属州
仁徳天皇83(西暦395)〜舒明天皇06(西暦634)年 東ローマ帝国
舒明天皇06(西暦634)〜永正13(西暦1516)年 イスラーム諸王朝 途中に十字軍国家の時代を含む。
永正13(西暦1516)〜大正06年(西暦1917)年 オスマン帝国
大正07年(西暦1918)〜昭和23(西暦1948)年 イギリスによる国際連盟の委任統治
昭和23(西暦1948)年 イスラエル国(メディナット・イスラエル)成立 共和政国家の樹立、現代に至る。
西暦135年、ローマが叛乱を鎮圧し、ユダヤ的なものを一掃しようとしたローマ人は、この土地をユダの地(ユダヤ)ではなく、ユダヤ人の宿敵ペリシテ人に因んで「パレスチナ」、エルサレムを「アエリア・カピトリーナ」と改称し、ユダヤという地名は消滅した。
また、ユダヤ人は人種的にはセム族とされるが、長いディアスポラ(離散)のなかで、周辺民族との混血の結果、セファルディームとアシュケナジームの違いが生じ、また言語もイデッシュ語などが生まれた。現在、ユダヤ人はイスラエルの他、世界中に分布しており、アメリカにも約600万人が住んでいるとされる。しかし現在ではユダヤ人を「人種」概念で捉えるのは困難で、現実には「猶太教を信仰する徒輩」と捉えるのが正しい。人類学的に同質のユダヤ人は存在しない。
西暦1453年にオスマン朝軍は東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリス(現在のイスタンブール)を陥落させた。オスマン朝では、この後、ユダヤ難民を受け入れ、ヨーロッパ世界とは異なり、基本的には非回教徒に対する差別を禁止した、国家による平等社会が整備された。
西暦15世紀、レコンキスタの進展によりスペインの回教徒勢力が耶蘇教徒勢力に追われ、回教国に協力したとされた猶太教徒が弾圧された。一部は耶蘇教に改宗し、西暦1492年改宗を拒否したユダヤ人は追放され、多数が地中海周辺の都市に移住。改宗したユダヤ人は、スペインにおいては差別はなくならず、マラーノと呼ばれ蔑まれた。
西暦1462年にフランクフルトのユダヤ人はフランクフルト・ゲットーに居住するようになった。西暦1467年、ポーランド王国とドイツ騎士団の間で司祭戦争が勃発し、西暦1479年にピョートルクフの講和が結ばれると、カジミェシュ4世の治めるピョートルクフに神聖ローマ帝国を追放されたドイツ人とユダヤ人が移住した。西暦1488年、イタリアのソンチーノに逃れたユダヤ人によって 「Casa degli Stampatori」でヘブライ語聖書(タナハ、旧約聖書)が印刷され、印刷技術が世界中に広がるきっかけとなった。西暦16世紀にはヴィリニュスにも居住するようになった。
西暦1492年、スペインからユダヤ人がパレスチナの地に移住。西暦1495年、リトアニアからユダヤ人がパレスチナの地に移住。西暦1497年、ポルトガル、シチリア、サルデーニャからユダヤ人がパレスチナの地に移住。西暦1502年、ロードス島からユダヤ人がパレスチナの地に移住した。
セファルディームのフェルナン・デ・ロローニャ(葡: Fernão de Loronha)は、赤い染料、ブラジリン(C16H14O5、Natural Red 24)を抽出できるブラジルボク(パウ・ブラジル)の専売権を得て、ブラジルの植民地開拓期に活躍した。
西暦15〜16世紀のルネサンス期において、ギリシア・ローマの古典文芸や聖書原典の研究を元に、神や人間の本質を考察した人文主義者(仏: humaniste、英: humanist、伊: Umanista)のうち、西暦1490年〜1510年にかけてアルザスで成立した匿名(高地ラインの革命家)の「百章からなる本」ではアダムはドイツ人であったとし、自由人であり貴族であるドイツ人は世界を支配し、ドイツ人以外の民を奴隷化し、ローマ・カトリックの聖職者を虐殺することを提唱した。背景には、ブルターニュ公国を巡るハプスブルク家マクシミリアンとフランス王シャルル8世の対立があり、ヴィムフェリングやセバスティアン・ブラントなどの人文主義者もフランスを攻撃した。
西暦15世紀末、ドイツは経済的に繁栄し、バイエルン公国のアウクスブルクでは鉱山・金融業の富豪フッガー家、金融業の富豪ヴェルザー家、イムホーフ家(Imhoff)、ホーホシュテッター家(Hochstetter)などが巨万の富を築いた。そうした経済の大物に対して庶民は「クリスト・ユーデ(ユダヤ人のような耶蘇教徒)」と呼んだ。セバスティアン・ブラントは「阿呆船」(西暦1494年)で「ユダヤの高利貸しはまだ良いが、それでも町には留まれぬ。自分の暴利を棚に上げ、ユダヤの高利貸しを追い出すクリスト・ユーデども」と皮肉った。
西暦1508年の「ユダヤ人の鑑」で改宗ユダヤ人のドミニコ会修道士ヨハンネス・プフェファーコルンが「ユダヤ人の偏屈さの原因はタルムード(תלמוד Talmud、「研究」の意、モーセが伝えたもう1つの律法とされる「口伝律法」を収めた文書群)にある。」と告発した。プフェファーコルンによる提案で神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世は西暦1509年の勅令でタルムード廃棄を命じた。ユダヤ人から請願されたマインツ大司教ゲンミンゲンの提案で、プフェファーコルンらによる書籍没収を調査するタルムード調査委員会が設立され、委員にはドイツ唯一のヘブライ学者だったヨハネス・ロイヒリンなどが就任した。ロイヒリンがタルムードやカバラー(קַבָּלָה qabbalah, Kabbala, Cabbala、ユダヤ教の伝統に基づいた創造論、終末論、メシア論を伴う神秘主義思想)を擁護すると、西暦1511年に両者は論争を開始し、エラスムスたち人文主義者はロイヒリンを支持し、パリ大学神学部はプフェファーコルンを支持するなど論争は国際的なものとなった。ただし、ロイヒリン側も反ユダヤ的な思想を持っていた。ロイヒリンは論争の直前に書いた西暦1505年の「回状」で「ユダヤ人は日々、ナザレのイエスの御身において神を侮辱し冒瀆し、ナザレのイエスを罪人、魔術師、首吊り人と呼び、耶蘇教徒を愚かな異教徒と見下している。」と説教していた。論争においてもプフェファーコルンに対して「彼は先祖たるユダヤ人の精神の在り方をそのままに、嬉々として不敬の復讐に打って出た。」と述べている。また、ロイヒリン支持者でカトリック教会を批判した人文主義者のフッテンも「プフェファーコルンがドイツ人でなかったことは不幸中の幸いで、彼の両親はユダヤ人だった。彼自身、どんなにその恥辱の肉体をナザレのイエスの洗礼水に浸そうと、依然としてユダヤ人であることに変わりはない。」と批判し、同じくエラスムスも「プフェファーコルンは真のユダヤ人であり、正にその種にふさわしい姿を公然と晒している。彼の先祖たちは、たった1人のナザレのイエスを相手に猛り狂った。プフェファーコルンがその同宗者のために行うことのできる最良の貢献は、自ら耶蘇教徒になったと偽善的に言い張ることによって、ナザレのイエスの神性を裏切って見せることなのだ。」と批判した。アルザスの人文学者ベアートゥス・レナーヌスは「ユダヤ人ほど他者を憎み、また他者に嫌悪を催させる民はほかに存在しない。」と述べた。ドイツの人文学者コンラート・ツェルテスは「ユダヤ人は人類の社会を侵し、混乱に招き入れる。」と述べた。ドイツの修道院長ヤーコプ・トリテミウスは「高利貸しのユダヤ人には激しい怒りを覚える、その不法な搾取から守るための法的措置が必要で、異国の民が、我々の土地で権勢を振るうなどということが許されて良いものだろうか。」と述べ、またガイラー・フォン・カイザーベルクは「ユダヤ人は、自ら手を汚しての労働を欲しない。」、「金貸しを生業とすることは労働の名に値しない。」と批判した。一方、プファルツ領邦宮中伯フリードリヒ1世のハイデルベルク宮廷にいた人文主義者ヤーコプ・ヴィムフェリングは「唾棄すべきなのは、ユダヤ人と、ユダヤ人よりもさらに質の悪い一部の耶蘇教徒が手を染めている高利貸しなのである。」と、耶蘇教徒の高利貸しのことも非難した。
西暦1516年、ローマ法王国家アンコーナでユダヤ人に商業特権を与えた。
西暦1516年、ヴェネツィアにユダヤ教徒強制居留地(「ゲットー」)が設置された。
ユダヤ人の唱道者ロースハイムのヨーゼルは西暦1520年以降、神聖ローマ皇帝・スペイン国王のカール5世に寵遇され「帝国ユダヤ人指揮官ならびに統治者」の称号を与えられ、ドイツユダヤ人全共同体の代表となった。ヨーゼルはユダヤ人が法外に高い金利を要求しないこと、利子に粉飾を施さないこと、耶蘇教徒への支払いを逃れようとするユダヤ人債務者を破門にして追放することなど、ユダヤ人商人が商業道徳を遵守するよう要求した。ヨーゼルの論敵は、改宗ユダヤ人のアントニウス・マルガリータだった。ラビの息子だったマルガリータはレーゲンスブルクのユダヤ共同体を公権力に告発し、西暦1522年にカトリックに改宗し、プフェファーコルンを模範とした猶太教批判を行った。アウクスブルク国会でヨーゼルが「猶太教の背教者による猶太教の主張は根拠を持たない。」と主張すると、マルガリータは有罪としてアウクスブルクから追放された。またこの影響でハンガリーとボヘミアのユダヤ追放令は廃案となっている。マルガリータの著書はルターが最大の典拠の1つとするなどその後も影響力を持った。
西暦1517年に宗教改革をはじめたマルティン・ルターは、反ユダヤ主義的な意識を持っていたことでも知られる。初期のルターは、猶太教徒を法王運動の援軍と見做していた。ヴォルムス国会の期間中にユダヤ人と討論したルターは、西暦1523年に「ナザレのイエスはユダヤ人として生まれた」などの小冊子を著して、「愚者とうすのろの驢馬の法王党たちが、ユダヤ人に酷い振る舞いをしてきたため、心正しき耶蘇者はいっそユダヤ人になりたいほどだ。」と述べたり、ユダヤ人は主と同族血統であるから、ユダヤ人はメシアであるナザレのイエスに敬意を表明し、ナザレのイエスを神の子として認めるよう改宗を勧めた。他方で、「ローマ法王がドイツ人を利用して第2のローマ帝国を築いたが、その名を持っているのはドイツ人であり、神はこの帝国がドイツの耶蘇教徒の王によって統治されることを望んでいる。」と述べたり、西暦1521年に「私はドイツ人のために生まれた。」と述べるなどドイツ人の国民意識に立った発言を繰り返した。さらに騎士戦争や、ルター派のミュンツァーによる農民戦争が起きると、ルターは叛乱勢力を批判し、それ以来ルターは人間世界の至らなさや、政治的責任を強く感じるようになり、人間の内的自由に、神によって齎せた地上の事物の秩序が対置され、服従の義務を唱え、「耶蘇教徒は従順で忠実な臣下でなければならない。」と説くようになった。
そのうちにルターは、不首尾の原因をユダヤ人の為せる業と見做すようになっていく。ユダヤ人の改宗者は極わずかで、改宗した者もほとんどが間を置かずして猶太教に回帰したためか、西暦1532年には「あの悪どい連中は、改宗するなどと称して、我々と我々の宗教をちょっとからかってやろうというぐらいにしか思っていない。」と述べている。同年「ドイツほど軽蔑されている民族はない。」と、「イタリア、フランス、イギリスはドイツを嘲っている。」と述べている。西暦1538年、ロースハイムのヨーゼルに対してルターは、「私の心は今もユダヤ人への善意に満ち溢れているが、それはユダヤ人が改宗するために発揮される。」と述べた。その後まもなく、「ボヘミアの改革派がユダヤ人の教唆の下で猶太教に改宗し、割礼を受けて、シャバトを祝った。」という知らせが入ると、ルターは西暦1539年12月31日には「私はユダヤ人を改宗させることができない。我らが主、イエス・キリストさえ、それには成功しなかったのだから。しかし、私にも、彼らが今後地面を這い回ることしかできないように、その嘴を閉じさせるぐらいのことはできるだろう。」と述べた。
西暦1543年にルターはユダヤ人を批判する「ユダヤ人と彼らの嘘について」を発表し、7つの提案を行った。シナゴーグや学校(イェシーバー)の永久破壊、ユダヤ人家を打ち壊し、ジプシーのようにバラックか馬小屋のような所への集団移住、猶太教の書物の没収、ラビの伝道の禁止、ユダヤ人護送の保護の取消し、高利貸し業の禁止。金銀の没収、若いユダヤ人男女に斧、つるはし、押し車を与え、額に汗して働かせること。
ルターは「ユダヤ人は我々の金銭と財を手中にしている。我らの国にあって、彼らの離散の地にあって、彼らは我々の主になったのだ。」として、「ユダヤ人は労働に従事していないし、ドイツ人もユダヤ人に贈与していなのだから、ユダヤ人による物の所有を禁じて、彼らの財産はドイツに返還されるべきである。」と主張した。「ユダヤ人はドイツにとっての災厄、悪疫、凶事であり、誰もユダヤ人に居て欲しいなどとは思っていない、その証拠にフランスでも、スペインでも、ボヘミアでも、レーゲンスブルクでもマグデブルクでも追放されたとして、ドイツ人はユダヤ人に宿を提供し、飲食も許しているが、ユダヤ人の子供を攫ったり殺したりはしないし、彼らの泉に毒を撒いたり、彼らの血で喉の渇きを癒やそうともしていない、ドイツ人はユダヤ人の激しい怒り、妬み、憎しみに値することは何かしただろうか。」と論じた。ルターは、「大悪魔を別にすればナザレのイエス(耶蘇教徒)が恐れなければならない敵はただ1人、真にユダヤ的であろうとする意志を備えた真のユダヤ人である。」とし、「ユダヤ人を家に迎え入れ、悪魔の末裔に手を貸す者は「最後の審判の日、その行いに対し、ナザレのイエスは地獄の業火をもって応えてくださるであろう。その者は、業火のなかでユダヤ人とともに焼かれるであろう。」述べた。数ヶ月後の冊子「シェム・ハメフォラス」でユダヤ人の改宗は、悪魔に改宗させるのと同じぐらい困難な業であり、ユダヤ人の福音書外典は4福音書が正統であるのに対して偽書であり、悪魔の使いのユダヤ人は「悪魔の群れよりもさらに悪辣」で「神よ、私は、あなたの呪われた敵、悪魔とユダヤ人に抗しながら、必死の思いで、これほどまでの恥じらいとともにあなたの神々しき永遠の威厳を語らねばならないのです。」と論じて、最後に「私はこれ以上、ユダヤ人と関わりを持ちたくないし、彼らについて、彼らに抗して、何かを書くつもりも全くない。」と閉じた。ルターは死の4日前の02月18日の最後の説教では、「ドイツ全土からユダヤ人を追放することが必要である。」と訴えた。また晩年のルターは無敵の常備軍を持った統一ドイツ帝国を夢見ていた。
ルター晩年のユダヤ攻撃に対しては、ルターの協力者メランヒトン、スイスのツヴィングリの後継者のブリンガー、ユダヤ人のロースハイムのヨ−ゼルらが批判した。なお、ルターは神を「最大級の愚か者」、「ナザレのイエスは淫乱であったかもしれない。」と述べたり、ローマ法王に対してはユダヤ人攻撃の時よりももっと汚い言葉を使って罵詈雑言を浴びせた。ルターの反ユダヤ主義は、タルススのパウロス(聖パウロ)やムハンマドと同様の転機を経て、ユダヤに対する深い憎悪となった。ルターの反ユダヤ文書はルター死後あまり重視されなかったが、ヒトラー政権になって一般向けの再版が出てよく読まれた。

オスマン帝国 繁栄と衰亡の600年史 (中公新書) - 小笠原弘幸
オスマン朝(西暦1299〜1922年)領 その2
メフメト2世の後を継いだバヤズィト2世(土:II. BayezidもしくはII. Beyazıt)は、父とは異なり積極的な拡大政策を打ち出すことはなかった。その背景には宮廷内の帝位継承問題があった。バヤズィト2世の弟であるジェムは、ロードス島、フランス、イタリアへ逃亡し、常に、バヤズィトの反対勢力に祭り上げられる状態が続いていた。
皇子時代と8代皇帝になった当初は娯楽と美食に目がなく、麻薬を愛好していた。快楽への情熱は宗教にも向けられた。内政においてはメフメト2世による中央集権化への反動が起きたが、文化面でも同様の反動が起きた。敬虔なムスリムである彼は偶像崇拝を忌み嫌っており、王宮が有していた絵画を売却あるいは破棄し、ジェンティーレ・ベリーニらがイスタンブールで制作した作品の多くが失われた。バヤズィト2世は宮廷でイスラームの神秘主義(スーフィズム)と韻文に親しみ、学者の保護にも熱心だった。彼の保護を受けた人物としては、アラビア書道の6つの基本的な書体を独自の手法によって再解釈した書家シェフ・ハムドゥッラーを挙げられる。オスマン朝内のイスラーム諸学の研究水準は向上したが、同時にイスラーム法学が権威化されたことで国内の規定がイスラーム法(シャリーア)の制限を受けるようにもなった。同時に正統のスンナ派を奉じる国家としての意識も高まるが、領民の全てがバヤズィト2世とイスラーム学者が推進する教義を受け入れたわけではなく、シャー・クルの叛乱に参加した民衆の中には、政府の宗教政策に否定的な者も多く含まれていた。メフメト2世の治世に建設されたマドラサで学んだイスラーム法学者(ウラマー)の影響力が増加し、彼らは国政と立法で力を持った。バヤズィト2世の時代に編纂された法典が「立法者」スレイマン1世時代のものとされる法典の基礎となり、代表的な法令にティマール制を整備するために土地を有する兵士の義務と権利を告知した文書がある。
メフメト2世の長子、バヤズィトは西暦1456年に弟のムスタファと共に割礼を施され、同日にメフメト2世によってアナトリア半島のベイリクたちを招待しての大宴会が開かれた。この祝宴はメフメトがベオグラード包囲で大敗して帰国した直後のことであり、宴を開いたのは敗北を忘れる意味合いもあった。オスマン朝の皇子の慣例としてアマスィヤの知事を務め、西暦1473年に起きた白羊朝とのバシュケントの戦いでは、イェニチェリとヨーロッパ人からなる部隊を指揮し、ウズン・ハサンの甥が率いる騎兵隊と交戦した。
メフメト2世の存命中、中央集権化と国際化に反発する運動がイスラーム宗教界、そしてバヤズィト2世によって行われた。アマスィヤのバヤズィトの宮廷にはメフメト2世の独裁的とも言える政策に反対する党派が形成され、メフメト2世は反対派を監視することはできても、彼らを解散させることはできなかった。
西暦1481年にメフメト2世がイタリア遠征途上の陣で没すると、弟のジェムとの帝位を巡る争いが始まった。もう1人の弟ムスタファは西暦1474年に暗殺されていた。バヤズィトとジェムの両方にメフメト2世の死を告げる使者が送られたが、縁戚の総督(ベイレルベイ)シナンによってジェムへの使者が足止めを受け、ジェムに先んじてイスタンブールに入城した。バヤズィトの入城に先立ち、ジェムの擁立を考えていた大宰相メフメト・カラマニーはイェニチェリに殺害されており、イェニチェリとメフメト2世の政策に反対的だった臣下に支持され、西暦1481年05月21日に正式に皇帝として即位した。その即位の経緯からイェニチェリに特権と恩賞を付与し、反対派の要求に対して譲歩する必要があった。
帝位を逃したジェムはブルサを占領し貨幣に自らの名を刻み、フトバで独立を表明し、バヤズィト2世に帝国の分割統治を条件とした和平を提案した。バヤズィト2世はジェムの提案を拒絶して対決の意を示し、戦前にジェム側の司令官の幾人かを調略し、同年06月20日のイェニシェヒルの戦いでジェムの軍を破った。敗れたジェムはエジプトのマムルーク朝に亡命し、白羊朝に亡命していたカラマン侯国の王族カシム・ベイと協力して再起を図るが失敗し、エジプトを離れてロードス島の聖ヨハネ騎士団(ロードス騎士団)の元に身を寄せた。バヤズィト2世はマムルーク朝、聖ヨハネ騎士団(ロードス騎士団)、フランスのヴァロワ朝(西暦1328〜1589年)、ローマ法王庁といったジェムが亡命した北アフリカ、ヨーロッパの諸勢力と交渉を行い、聖ヨハネ騎士団との交渉では騎士団側の要求に応じて多額の身代金を支払わなければならなかった。ジェムの子オウズ、ジェム派の高官を粛清し、西暦1495年にジェムが病死した後に彼の生母、妻、娘を保護するが、男子の子孫はロードス島に残っていた1人を除いて全員が絞首刑に処された。
聖ヨハネ騎士団の手引きで生き延びたジェムが、ヨーロッパ諸国に13年間にわたって留まり人質として利用され、父メフメト2世の代の精力的な領土拡大による国家財政の疲弊からバヤズィト2世の治世では戦争は先代に比べると大幅に減り、父メフメト2世の時代に拡大した領土の基盤固めが主な施策となった。国庫の立て直しのために余分な支出を減らし、その一方でメフメト2世が導入した新税を廃止して社会不満の抑制を試みた。また、積極的に他国の人材を迎え入れ、レコンキスタ後の迫害で国を追われた猶太教徒の一部もイスタンブールに逃れ、技術者として受け入れられた。バヤズィト2世と交流を持とうとしたヨーロッパの技術者の中で著名な人物として、レオナルド・ダ・ヴィンチが挙げられる。バヤズィトが橋の建造を考えてはいるがオスマン朝内に技術者がいないと聞いたダ・ヴィンチはオスマン朝に書簡を送った。書簡で金角湾、ボスポラス海峡に橋を架けることが提案されたが実現には至らず、設計図は現在も残っている。
西暦1495年にジェムが病死するまでの間、オスマン朝と亡命中のジェムを保護したマムルーク朝の関係が悪化した。マムルーク朝とはジェムの処遇以外に、メッカの水路の修理を拒絶されたこと、インドからの贈物を携えた使節がマムルーク朝の領土を通行した際にジッダの太守に荷物を奪われたことで関係が険悪なものとなり、バヤズィト2世はドゥルカディル侯国のベイリクであるアラー・アッダウラがマムルーク朝のスルターン、アシュラフ・カーイトバーイと対立していることを知ると、アッダウラを助けるために西暦1485年にアナトリア半島南部に派兵した。オスマン朝・ドゥルカディル侯国の連合軍はマラティヤ付近でマムルーク朝軍と戦うが敗れ、却ってアダナ、タルソス内の城砦を奪われた。戦後にマムルーク朝から和平が提案され、和解を勧めるカリフの親書と共に奪われた贈物も届けられるが、バヤズィト2世はこの提案に対して進軍という答えを返した。オスマン朝軍はウズバク・ブン・タタハ率いるマムルーク朝軍に3度敗れる不利な状況にあったが、マムルーク朝も長期の戦争によって財政が悪化しており、西暦1491年にハフス朝(西暦1229〜1574年)の仲介によって和議が結ばれた。
西暦1492年のハンガリー王マーチャーシュ1世の死を好機と考え、ベオグラード攻略に挑むが失敗し、西暦1495年にハンガリー王国と10年の休戦協定を結んだ。しかし、ベオグラード遠征と同じ西暦1492年にモルダヴィア公国を属国化し、黒海方面への拡大は着実に果たした。黒海沿岸部のキリア、アッケルマン(いずれもブジャク(ベッサラビア地方の南部、黒海沿岸のドナウ川とドニエストル川に挟まれた地域、南ベッサラビア)に属する都市)を支配下に置いて黒海西岸の通行を確保し、クリミア・ハン国(西暦1441〜1783年)の騎兵の動員を容易にした。
陸軍と海軍に新兵器を導入して戦力の増強を進め、当時勢力を伸ばしていたヴェネツィアに対抗する戦力を蓄え、大航海時代に入っていたヨーロッパ各国と対峙するとともに、アフリカのイスラーム諸国を征服する基盤を整えた。西暦1495年にバルバリア海賊など地中海やエーゲ海で跋扈していた回教徒の海賊をオスマン朝海軍に編入し、彼らの知識と経験を軍内に取り入れた。この時にオスマン朝海軍に編入された代表的な海賊として、ケマル・レイス、ピーリー・レイースらがいる。また、西欧から積極的に造船技術を取り入れて、新型の艦船を設計した。イタリア語、フランス語、スペイン語に由来する海事用語は、ほぼそのままオスマン語に取り入れられ、海軍で使用されたバヤズィト2世の時代に導入された兵器の最たるものに、耶蘇教徒の技術者ヤーニがヴェネツィアの技術を取り入れて設計した2隻の大型艦船があり、全長70キュビット(約32m)、全幅30キュビット(約13.7m)の大きさを誇った。海軍の強化中はヴェネツィアとの衝突を避けるために地道な交渉を行っていたが、西暦1499年にバヤズィト2世はヴェネツィア領のレヴァントへ親征、別働隊としてダウード・パシャの率いる艦隊がアドリア海より出発し、艦隊には2隻の大型艦船も含まれていた。同年08月12日のゾンキオ(ツォンキオ)城近海の戦いでオスマン朝海軍のガレー船がヴェネツィアのガレアス船を破り、ヤーニの艦は包囲を仕掛けたヴェネツィア船を沈める勝利を収め、耶蘇教徒はこの戦いを「ゾンキオの悲しい戦い」と記録した。ダウード・パシャの艦隊はバヤズィト2世の本隊に合流し、08月28日にレヴァントをオスマン朝の支配下に置いた。勝利の翌西暦1500年に、さらにモレア半島にあるヴェネツィア領のモドン、コロン 、ナヴァリノを獲得し、回教勢力の進出を重く見たヨーロッパではヴェネツィア、ハンガリー、スペイン、フランス、法王庁による軍事同盟が結成された。同盟軍による攻撃は、艦隊がアナトリア半島の沿岸部を数度襲撃する程度の規模に留まり、西暦1502年12月にヴェネツィア、西暦1503年03月にハンガリーと講和を結ぶに至った。しかし、それでもなお、海軍の戦力は陸軍に比べると充実しているとは言えなかった。
西暦16世紀初頭に東方のイランで勃興したサファヴィー朝は勢力を拡大しており、当初オスマン朝とサファヴィー朝は友好的な関係にあったが、やがてサファヴィー朝はアナトリア半島方面への進出の準備を開始した。サファヴィー朝(西暦1501〜1736年)のシャー・イスマーイール1世はアナトリア半島進攻の布石として、配下にアナトリア半島全域でのシーア派の布教を指示した。優れた詩人でもあったイスマーイール1世は自ら筆を執りテュルコ語で勧誘の詩を綴り、宣教師(ハリーフェ)を通じて勧誘の詩がアナトリア半島に伝えられた。バヤズィト2世は当初サファヴィー朝の宣教活動を静観しており、高官たちもサファヴィー朝の動向に関心を持たず、皇子たちの目は帝位に向いていたが、西暦1511年にシャー・クル(「サファヴィー朝のシャーの奴隷」を意味する)を名乗る者が叛乱を起こすと事態は急変する。バヤズィト2世治下のオスマン帝国で確立されつつあるスンナ派に違和感を抱く、あるいは彼が推進する厳格なイスラームの教えに不満を持つ民衆が叛乱に参加し、その軍勢は10000にも達したのである。
バヤズィト2世にはコルクト、アフメト、セリム(次代のセリム1世)の3子がおり、長子のコルクトは文人気質で帝位への関心を見せず、次子のアフメトが後継者と目されていたが、シャー・クルの叛乱中に息子たちの後継者争いに影響を与える事件が起きた。アフメトと大宰相ハドゥム・アリー・パシャが叛乱軍を包囲した際にイェニチェリがアフメトの命令を拒否したために叛乱軍の包囲に失敗する事件が起き、叛乱の鎮圧においてコルクトとアフメトはイェニチェリ達の間の評判を落とし、イェニチェリ達の中では3男のセリムの人気が高まっていった。しかし、当のセリムは叛乱中に後継者争いを有利に進めるためにバルカン半島への任地替えを要求し、次子アフメトを後継者に考えていたバヤズィト2世が要求を退けると、セリムはクリミア半島に亡命していた。
辛うじて叛乱は鎮圧されたがハドゥム・アリー・パシャ、司令官ハイダル・パシャら主だった指揮官は戦死、指揮官を欠いたために叛乱を完全に鎮圧することができず、叛乱軍の大部分はサファヴィー朝に亡命した。氾濫の後にアフメトは帝位を継ぐためにイスタンブールに入城しようとしたが、イェニチェリに阻まれ入城できず、西暦1512年03月にクリミアからセリムが帰還し、イェニチェリの支持を受けたセリムがクーデターを起こし、西暦1512年04月25日にバヤズィト2世は廃位され、同年05月26日、バヤズィト2世は隠棲先であるトラキアのディメトカに向かう途上で死亡した。セリムによる毒殺と考えられる。
バヤズィト2世の弱腰の姿勢を批判していたセリムが、セリム1世として、西暦1512年に9代皇帝に即位した。セリムの積極外交は、東部アナトリア半島とシリア、エジプトに向けられた。東部アナトリア半島では白羊朝の後をサファヴィー朝が襲っていた。西暦1514年、チャルディラーンの戦いでサファヴィー朝の野望を打ち砕くと、西暦1517年にはオスマン・マムルーク戦争でエジプトのマムルーク朝を滅してイスラーム世界における支配領域をアラブ人居住地域に拡大し、またマムルーク朝の持っていた回教の2大聖地マッカ(メッカ)とマディーナ(メディナ)の保護権を掌握してスンナ派イスラーム世界の盟主の地位を獲得した。この時セリム1世がマムルーク朝の庇護下にあったアッバース朝の末裔からカリフの称号を譲られ、スルターン・カリフ制を創設したとする伝説は西暦19世紀の創作で史実ではないが、イスラーム世界帝国としてのオスマン朝がマムルーク朝の併呑によって1つの到達点に達した。
父バヤズィト2世からトラブゾン知事に任命され、東方に目を光らせていたセリムは父の消極性に不満を持っていた。当初は3番目の子で上の兄コルクト、アフメトがいたため継承順位は最も下だったが、西暦1511年にサファヴィー朝に同調したシャー・クルの叛乱を契機として、兄達が叛乱に手こずっている隙を付いてクーデターを仕掛けた。1度目は失敗してクリミア半島へ追放されたが、翌西暦1512年にイェニチェリに擁立され兄達を排除、父を退位させて皇帝に即位したセリム1世は、父が即位時にしたのと同じように、即位後の内紛を避けるために兄弟達とその子らを次々と殺した。父もその後すぐに歿しているが、セリム1世の暗殺も疑われている。セリム1世は「冷酷者(ヤヴズ、Yavuz)」と呼ばれたが、文芸を愛し、詩を詠む文人としての一面もあった。ヤヴズには厳格で冷酷であるがために優れた者という含意があり、「卓越者」とも訳される。細心な計画と大胆な行動力を持ち合わせ、反対者には酷薄であり、同族や大臣であろうとも容赦なく次々と処刑した。
父バヤズィト2世までは主にバルカン半島に進出したが、西アジア方面の征服は立ち後れていた。そこで彼らとは対照的にセリム1世は東方への積極的な領土の拡張を推し進め、アジア、エジプトへと転換し、征服を推し進めた。アナトリア半島には未だオスマン朝に従わない豪族もいて、彼らがサファヴィー朝に通じ叛乱を起こすパターンが常態化、地盤を固める国内問題の解決も狙いだった。
即位後はハンガリー王国と和睦、アナトリア半島のサファヴィー派を探し出し粛清して背後を固め、西暦1514年にサファヴィー朝をアナトリア半島から駆逐すると、東ではサファヴィー朝と激突。08月23日にイスマーイール1世と交戦した(チャルディラーンの戦い)。この戦いは一進一退だったが、最終的に大砲・鉄砲など火力を高めたオスマン朝が勝利した。さらにはイラクのバグダードを奪い、南ではイエメンに出兵してアデンを征服した。この後サファヴィー朝の追討を目指すも冬期に入ったため叶わず引き上げるが、サファヴィー朝の妨害を排除したことは大きな進展となり、西暦1515年にオスマン帝国とサファヴィー朝の中間地帯に当たるクルディスタン(イラク北部)、抵抗勢力が根強い南アナトリア半島も制圧して領土を東へ拡大した。以後もセリム1世の戦術は火力中心となり、白刃と騎兵の突撃に頼る旧態依然とした他のイスラームの王朝の軍隊に対し、火砲を効果的に用いて次々と勝利を収めた。
また、西暦1515年からアラブへの遠征を開始し、翌西暦1516年にアルジェを占領、マルジュ・ダービクの戦いでマムルーク朝軍を破って翌西暦1517年には首都カイロを落とした。こうしてマムルーク朝を滅ぼしたセリム1世はシリア、エジプト、パレスティナを併合した。さらに庇護を求めてきたアッバース朝のカリフムタワッキル3世を保護するも最終的には監禁して西暦1543年に獄死させ、アッバース朝を完全に滅亡させた。また、シーア派のサファヴィー朝への対抗とアラブの人々の歓心を買うためにスンナ派擁護を標榜、サファヴィー朝やマムルーク朝などの外征では異端討伐を掲げて宗教の正当性を主張したが、マムルーク朝の滅亡にともない、聖地メッカ、メディナをオスマン帝国の保護下に置いたことで、オスマン帝国はスンナ派イスラーム世界の盟主の地位を獲得した。これが西暦19世紀のオスマン帝国に、スルターン・カリフ制の伝説を生むことになった。
エジプトから戻るとすぐロードス島への遠征を準備したが、病気を患い、即位から9年目にして54歳で死んだ。帝位は子のスレイマン1世が継承した。セリム1世の在位はわずか8年に過ぎなかったが、父から受け継いだ領土は230余万㎢であったのを、650余万㎢にまで増大させた。
西暦1516年、オスマン朝がシリア・パレスチナ地方を征服し、パレスチナは、西暦1517〜1917年、オスマン帝国領時代。
西暦1517年、ドイツで宗教改革を開始したルターはローマ法王の制度を批判し、当初はカトリック教会に抑圧されていた猶太教徒もルター派の耶蘇教に改宗し、福音が及ぶことを期待した。しかしユダヤ人が改宗することはなかったので失望し、却ってユダヤ人を深く憎悪するようになった。プロテスタントの領主にもユダヤ人を追放するよう要請した。そのため、プロテスタント圏でもユダヤ人に対する迫害はカトリック圏と変わることはなかった。
カトリック教会による反宗教改革では、ルネサンス期のローマ法王の寛容さは失われ、ユダヤ人にとっては最も暗い時代となった。西暦1555年に法王となったパウルス4世は、突然マラーノ保護をやめ、アンコーナで取り締まりを再開し猶太教を固守する25人を火炙りの刑に処した。さらに中世のユダヤ人抑圧法を復活させ、ゲットーを設けて隔離し、ユダヤ人に差別バッチを付けることを強要した。このようなカトリック圏でのユダヤ人迫害は西暦19世紀中頃まで続いた。
スレイマン1世(Kanuni Sultan Süleyman I, オスマンテュルコ語: سلطان سليمان اول、Sultān Suleimān-i evvel, 土語: I. Süleyman)は、9代皇帝セリム1世の子でオスマン朝10代皇帝。46年の長期にわたる在位の中で13回もの対外遠征を行い、数多くの軍事的成功を収めてオスマン朝を最盛期に導いた。英語では「壮麗帝(the Magnificent)」の仇名で呼ばれ、日本では屡々「スレイマン大帝」と称される。テュルコでは法典を編纂し帝国の制度を整備したことから「立法帝(カーヌーニー、 オスマンテュルコ語: القانونى、al‐Qānūnī, 土語: Kanuni)」の仇名で知られている。名前のスレイマン(Süleyman)とは、猶太教や耶蘇教と共に回教でも聖典とされるタナハに記録された古代イスラエルの王、「ソロモン王」のアラビア語形である「スライマーン」(アラビア語: سليمان, Sulaymān)のトルコ語訛り。またオスマン帝国の歴史において「スレイマン」の名を持つ最初の皇帝であることから「スレイマン1世」と呼ばれるが、まれにバヤズィト1世がアンカラの戦いでティムールに敗れた直後にエディルネで君臨したバヤズィト1世の長男スレイマン・チェレビーを1世に数えることがあるので、その場合は「スレイマン2世」と呼ばれることもある。
セリム1世の息子としてアナトリア半島北東のトラブゾンで誕生。マムルーク朝を滅ぼしてシリア、エジプトのアラブ地域を初めて征服した父が不在の間は所領として宛がわれたマニサの軍事長官を務めていたが、父が在位わずか8年で西暦1520年に死去すると首都イスタンブールへ帰還し10代皇帝に即位した。前回と前々回のスルターン死去の際には熾烈な後継者争いがあり、後継者になれなかった王子やその子らがほとんど全員処刑されるといった経緯があったが、セリム1世死去の際にはそうした争いはなく、スレイマンの他に男児の記録はないことから、男児は間引いてスレイマンが唯一の後継者候補だった。
スレイマン1世の時代、オスマン朝の国力は最も充実して軍事力で他国を圧倒するに至り、その領域は中央ヨーロッパ、北アフリカにまで広がった。東ヨーロッパから中東に跨る帝国の支配者となったスレイマン1世は即位の同年にシリア知事の叛乱に直面し、翌西暦1521年にアナトリア半島中央でイランのサファヴィー朝に通じた部族の叛乱も勃発したが、スレイマン1世はいずれも西暦1521年の内に鎮圧して足元を固め、ヨーロッパ方面に向けた遠征を計画した。
西暦1521年、ハンガリー王国からベオグラードを奪い取り、翌西暦1522年のロードス包囲戦で聖ヨハネ騎士団からロードス島を奪うなど活発な外征を行った。この2ヶ所は曽祖父のメフメト2世が最後まで征服できなかった場所であり、これにより帝国内におけるスレイマン1世の支持、評価は著しく向上した。また、ロードス島の征服によって3大陸にまたがるオスマン朝領土内の海上交通の棘が取り除かれ、領土内の航行が円滑となった。ロードス島征服の直後に、スルターン即位前からの寵臣で義弟のイブラヒム・パシャを大宰相に抜擢しているが、ベオグラード、ロードス島ともに、若いスルターンの実力を国内向けに演出する効果を狙ったイブラヒム・パシャの進言によるものとも言われている。オスマン帝国はこの時点でもまだ支配が安定せず、西暦1522〜1524年にかけてエジプトで叛乱が起こったが、イブラヒム・パシャは叛乱を鎮圧、西暦1525年に総督に赴任してエジプトの支配を安定させ、西暦1526/1527年にアナトリア半島南部で親サファヴィー派の部族が起こした叛乱も収拾させ、軍事・行政共に有能な手腕を示し、スレイマン1世の威勢を高めていった。
ポルトガル・マムルーク海上戦争(西暦1505〜1517年)ではオスマン朝とエジプトのマムルーク朝は対ポルトガルの同盟国だったが、オスマン・マムルーク戦争(西暦1516〜1517年)では、西暦1516年のマルジュ・ダービクの戦いと西暦1517年のリダニヤの戦いでセリム1世によってマムルーク朝エジプトが征服され、エジプト・シリア・アラビア半島が属領となった。西暦1522年、次代スレイマン1世の時にムスタファ・パシャがエジプト州(西暦1517〜1805年)の2代目総督となったが、その配下となるカーシフ(地方総督)の大部分は依然としてマムルーク朝で軍人を務めた人物が就任していた。西暦1523年にはそのマムルーク朝系のカーシフが叛乱を起こし、さらに西暦1524年には新たな州総督に就任していたアフメト・パシャが叛乱を起こした。この叛乱でアフメト・パシャはローマ法王にまで援助を求めたが結局、アフメト・パシャはオスマン朝の鎮圧軍が到着する以前に内部対立で殺害された。
この叛乱を受けたスレイマン1世は大宰相イブラヒム・パシャを送り込んで支配体制の強化を図り、次の州総督に就任したハドゥム・スレイマン・パシャはタフリール(徴税敢行、税目、人口などの調査)を実施して徴税面を強化した。さらにスレイマン・パシャは商業施設などを建設してワクフを設定、以後の総督らも積極的な建設活動や宗教的寄進を行い、マムルーク朝色の濃いままであった状況をオスマン朝色に塗り直した。
西暦1516年、オスマン朝の皇子コルクトの公的支援を受けたバルバリア海賊のバルバロス・ウルージとバルバロス・ハイレッディン兄弟が、アルジェ占領(西暦1516年)に成功。西暦1517年にはザイヤーン朝(西暦1236〜1550年)の首都トレムセンに侵攻し、ウルージは戦死したもののトレムセン陥落 (1517年)が成功、オスマン・アルジェリア(西暦1517〜1830年)を設置。海上では、西暦1522年のロードス包囲戦では回教徒に対する海賊行為を行っていたロードス島の聖ヨハネ騎士団と戦ってこれを駆逐し、東地中海の制海権を握った。
西暦1529年01月に宣戦布告し、05月にはアルジェ要塞を落としてアルジェの占領に成功。10月にフォルメンテーラ島での戦いでスペイン船を駆逐(フォルメンテーラ島の戦い(西暦1529年))。西暦1534年にはチュニス征服(西暦1534年)に成功。西暦1535年にハフス朝とスペイン-イタリア連合軍による奪還作戦でチュニスを失陥(チュニス征服(西暦1535年)。バルバロス・ハイレッディンは脱出の途上でマオー掠奪を行なった。
西暦1526年には、モハーチの戦いでハンガリー王ラヨシュ2世を討ち取りハンガリー中央部を平定し、ハプスブルク家のオーストリア大公国(西暦1453〜1806年)と国境を接した。スレイマン1世はラヨシュの戦死により断絶したハンガリー王位に、オスマン朝に服属したトランシルヴァニアの領主サポヤイ・ヤーノシュを推し、傀儡としてハンガリー王国の間接統治を狙った。しかし、ハンガリー王位継承を宣言したハプスブルク家出身の神聖ローマ皇帝兼スペイン王カール5世の弟フェルディナント(後の神聖ローマ皇帝フェルディナント1世)と対立すると、西暦1529年に第1次ウィーン包囲を敢行し、ウィーン攻略には失敗するもののヨーロッパの奥深くにまで侵攻して西欧の人々に強い衝撃を与えた。スレイマン1世は西暦1532年にも再びオーストリア遠征を敢行したが、どちらも戦端を開こうとせず和睦の話し合いが行われ、西暦1533年にフェルディナントの使者とイブラヒム・パシャとの協議の結果和睦が成立した(コンスタンティノープル条約)。内容はサポヤイ・ヤーノシュの王位を認め、オスマン朝に貢納金を支払うことが確約されたため、ハンガリー王国に対するオスマン朝の優位が明言され、スレイマン1世はしばらくヨーロッパ遠征は控える代わりに東方遠征へ向かった。
オスマン朝にとって東のサファヴィー朝は油断ならない相手だった。アナトリア半島でオスマン朝の支配に反発した土着勢力がサファヴィー朝と結びつく危険性が常に存在していたからである。しかし、アナトリア半島とイランの中間にあるクルディスタンで領主間の抗争が起こると、スレイマン1世はこれをきっかけに西暦1533年に東征へ向かい、先遣隊を率いたイブラヒム・パシャはアゼルバイジャンを制圧した。スレイマン1世は翌西暦1534年にイラクへ出陣、バグダードを占領しイブラヒム・パシャと合流、西暦1535年にアゼルバイジャンの首都タブリーズに到着したが、サファヴィー朝の軍勢を見かけることなくイスタンブールへ帰還した。この遠征終了後の西暦1536年にこの遠征の責任者だったイブラヒム・パシャは処刑された。決着を着けられなかったことが一因とも、増長したためスレイマン1世の不興を買ったとも、宮廷闘争に敗れたためとも言われているが、真相は不明。遠征でバグダードを占領して南イラクとアゼルバイジャンの大半を支配下に置き、東方の国境を安定させたが、西暦1548年の2回目の遠征と、西暦1553/1554年に行われた3回目の遠征はタフマースブ1世率いるサファヴィー朝が騎兵を中心とする軍の機動力とゲリラ、焦土作戦で抵抗したため、オスマン朝も成果を上げられず、最終的に西暦1555年にアマスィヤの講和で和睦して国境線を取り決め、イラク領有は確定したが(アゼルバイジャンはサファヴィー朝が奪回)、サファヴィー朝の完全征服はできなかった。また、西暦1536年を境にスレイマン1世の大規模な領土拡張政策は終わりを告げ、以後は周辺国との交戦と重要拠点の確保、制海権や内政重視に目を向けていった。
海軍の育成にも力を注ぎ、西暦1533年にアルジェを本拠地とするバルバリア海賊のバルバロス・ハイレッディンが帰順すると彼を海軍提督=パシャとした。彼の帰順によりアルジェリアもオスマン朝領となり、西地中海に足掛かりを得て、海軍力も大幅に増強された。彼の率いるオスマン帝国海軍は西暦1538年のプレヴェザの海戦でスペイン・ヴェネツィア・ローマ法王の連合艦隊を破り、地中海の制海権を握った。同年にモルドバへ遠征し従属国クリミア・ハン国との通路を確保し、黒海も事実上支配下に収めた。ピーリー・レイースが海軍で名を挙げるのもスレイマン1世の時代である。
西暦1536年、フランス・オスマン同盟を密かに締結。西暦1538年のプレヴェザの海戦でアルジェリアに至る地中海の制海権の掌握に成功した。西暦1540年10月、アルボラン島の海戦。西暦1541年10月、カール5世が親征してアルジェ遠征を行い、耶蘇教徒への海賊行為を止めさせた。西暦1545年にバルバロスが引退、西暦1546年には後任にソコルル・メフメト・パシャを抜擢した。
また、西暦1540年にサポヤイ・ヤーノシュが亡くなると、フェルディナントが和睦を破りブダを占拠したため、西暦1541年に再びハンガリーへ遠征し平定、トランシルヴァニアも属国とした上でハンガリーを分割することに決め、フェルディナントは北と西の領土(王領ハンガリー)、ヤーノシュの遺児ヤーノシュ・ジグモンドはハンガリー東部、東ハンガリー王国(西暦1526〜1551、1556〜1570年)、オスマン朝は中央と南、オスマン帝国領ハンガリー(西暦1541〜1699年)を領有した。以後も小競り合いは続いたが、西暦1547年に和睦しフェルディナントがオスマン朝に貢納金を支払い、それぞれの領地は認められた。ハプスブルク家に対抗するため西暦1535年にフランス国王フランソワ1世と同盟を結び、西暦1543年には、オスマン朝艦隊とフランス艦隊が共同でニースを攻略した。さらに、ハプスブルク家と対立していたドイツのルター派をフランソワ1世を通じて間接的に援助したとも言われ、フランソワ1世とその後継者アンリ2世がルター派諸侯に送った資金の大部分はオスマン朝から供出されていたようである。後にスレイマン1世は、ハプスブルク家の支配下であったネーデルラントのルター派に対しても援助を申し出た。
この他、紅海とインド洋に進出していたポルトガル海上帝国(西暦1415〜1999年)は、ポルトガル・マムルーク海上戦争(西暦1505〜1517年)では、西暦1507年にホルムズ占領に成功し、西暦1509年にディーウでインド洋の制海権を巡るディーウ沖海戦でグジャラート・スルターン朝(西暦1407〜1573年)、マムルーク朝、カリカットの領主ザモリン、オスマン朝の連合艦隊を破った。西暦1538年にポルトガルと対立していた遠くインド北西部のグジャラート・スルターン朝からの救援要請に応えインド洋に艦隊を派遣したり、アラビア半島に進出してイエメンのアデンを獲得、対岸も占領してポルトガルを牽制しようと図ったり、西暦1552年にペルシア湾の港を奪い取りポルトガルを妨害しようとしたが、いずれも海上政策では上手であるポルトガルの前に失敗している。ただしイエメンは確保し、ポルトガルとオスマン朝は後に互いの海域を設定して棲み分けた。ロバート・シャーリーに率いるイングランド人冒険団によってペルシア軍が近代化され、西暦1622年のホルムズ占領で、イングランド・ペルシア連合軍がホルムズ島を占領し、ペルシャ湾からポルトガルとスペインの貿易商人を追放するまでこの状態が続いた。一方で、長きに渡った治世の後半には政争が相次ぎ、西暦16世紀末から激化する帝国の混乱の始まりが見られた。
西暦1550年にトレムセンを占領し、ザイヤーン朝を滅亡させた。西暦1551年にトリポリ包囲戦(西暦1551年)に成功し、オスマン・トリポリタニア(西暦1551〜1911年)を設置した。スレイマン1世は密かにヴァロワ朝フランス王のフランソワ1世と同盟していたため、イタリア戦争(西暦1551〜1559年)(ポンツァ島の戦い (西暦1552年)、オスマン朝のバレアレス諸島侵攻(西暦1558年)に派兵して干渉戦争を実施した。
西暦1555年にアルジェのサリフ・レイスがベジャイア占領に成功。西暦1556年のオラン包囲戦 (西暦1556年)では、オランが包囲されている間に、モロッコ人もトレムセンを包囲し返し、作戦は失敗に終わった。西暦1560年05月にピヤーレ・パシャがチュニジア沖のジェルバ島で行なわれたジェルバの海戦で大勝。西暦1565年、マルタ包囲戦 (西暦1565年)でオスマン朝が最初の敗北を喫し、大きな被害を出した。西暦1566年09月06日にスレイマン1世が死去し、その死から5年後の西暦1571年、レパントの海戦でオスマン朝艦隊はスペイン連合艦隊に大敗したものの、しばしば言われるようにここでオスマン朝の勢力がヨーロッパ諸国に対して劣勢に転じたわけではなく、その国力は依然として強勢であり、また地中海の制海権が一朝にオスマン朝の手から失われることはなかった。そして西暦1571年に占領されたキプロスは単独でキプロス州を形成することになった。クルチ・アリ(トルコ語: Kılıç Ali Paşa)のオスマン帝国艦隊は敗戦から半年で同規模の艦隊を再建し、西暦1573年にはキプロス島、翌西暦1574年にチュニスを攻略し(チュニス征服(西暦1574年))、ハフス朝を滅亡させた。オスマン・チュニス(西暦1574〜1705年)を設置。西暦17世紀にクレタ島が新たに占領されるとクレタ島も単独のクレタ州となった。
ロシア・ツァーリ国のイヴァン4世は、西暦1552年のカザン包囲戦でカザン・ハン国を併合、西暦1554年にアストラハン・ハン国を従属国化した。旧ジョチ・ウルス領のうち残っていたクリミア・ハン国とロシア・ツァーリ国との対立が深まると、西暦1568年にセリム2世及びソコルル・メフメト・パシャはアストラハン遠征(露土戦争(西暦1568〜1570年))を起こした。この戦いで勝利したロシア・ツァーリ国によるアストラハン・ハン国支配が確定したものの、この戦いは長期にわたる露土戦争の初戦に過ぎなかった。この戦いでソコルル・メフメト・パシャは、ロシア・ツァーリ国だけでなくサファヴィー朝をも牽制する目的でヴォルガ・ドン運河の建設を試みたが失敗に終わった(実際に完成するのは西暦1952年になってからである)。
過去にオスマン朝治下のバルカン半島はオスマン朝の圧政に虐げられた暗黒時代という評価が主流であった。しかし、これらの評価は西暦19世紀にバルカン半島の各民族が独立を目指した際に政治的意味合いを込めて評価されたものであり、オスマン朝支配が強まりつつあった西暦16世紀はそれほど過酷なものではなかった。これらのことからオスマン朝によるバルカン半島統治は西暦16世紀末を境に前後の2つの時代に分けることができる。
オスマン朝が勢力拡大を始めた時、第2次ブルガリア帝国はセルビア人の圧力により崩壊寸前であり、さらにそのセルビアもステファン・ドゥシャンが死去したことにより瓦解し始めていた。これらが表すように第4回十字軍により分裂崩壊していた東ローマ帝国亡き後、バルカン半島は互いに反目状態にあり、分裂状態であった上、オスマン朝をバルカン半島へ初めて招いたのは内紛を続ける東ローマ帝国であった。このため、アンカラの戦いにおいて混乱を来したオスマン朝への反撃もままならず、また、バルカン半島において大土地所有者の圧迫に悩まされていたバルカン半島の農民らはしばしばオスマン朝の進出を歓迎してこれに呼応することもあった。
陸上においては、西暦1521年のベオグラードの征服。西暦1526年のモハーチの戦いにおけるハンガリー王国に対しての戦勝、西暦1529年の第1次ウィーン包囲と続き、クロアチア、ダルマチア、スロベニアも掠奪を受けることになった。西暦15世紀以降、ギリシャはオスマン朝に併合されるにつれてルメリ州に編入されたが、西暦1534年、地中海州が形成されたことにより、バルカン半島を中心とする地域がルメリ州、バルカン本土とエーゲ海の大部分が地中海州に属することになった。
オスマン家とハプスブルク家の対立構造が、ヨーロッパ外交に持ち込まれることとなった。その結果が、ハプスブルク家と対立していたフランス王国(西暦987〜1792年、1814〜1815年、1815〜1848年)ヴァロワ朝(西暦1328〜1589年)のフランソワ1世に対してのカピチュレーション(capitulation)付与となった。なお、フランスと同盟を結んだ際にスレイマン1世は、カピチュレーション(恩恵的待遇)を与えた。これはオスマン朝領内での治外法権などをフランス人に対する領事裁判権や租税免除などの恩恵的な特権で、一方的な特権を認める不平等性はイスラ―ム国際法の規定に基づいた合法的な恩典であり、カピチュレーションはまもなくイギリスをはじめ諸外国に認められることになった。しかし絶頂期のオスマン朝後にイギリスやオランダにも適用された。当時は国力差が圧倒的だったため、友好国への恩恵としてのみ機能しており、社会への実害はなかったものの、後にオスマン朝が衰退するにつれて不平等条約化し、列強の介入要因となって帝国を苦しめることとなった。加えてステータスであったカピチュレーションは、帝国が衰退へ向かい出した西暦19世紀には、西欧諸国によるオスマン朝への内政干渉の足掛かりに過ぎなくなり、不平等条約として重くのしかかることになった。
スレイマン1世は、西暦1566年09月にハンガリー遠征のシゲトヴァール包囲戦の最中に陣没し、ピュロスの勝利で終わった(西暦1541年オスマン帝国領ハンガリーブディン・エヤレト設置)。ソコルル・メフメト・パシャは、西暦1571年にソコルル・メフメト・パシャ橋の建設をミマール・スィナンに開始させ、西暦1577年に完成した。
特にスレイマン1世は他の后妾を差し置いて、後宮の女奴隷であったヒュッレム・スルターン(ロクセラーナ)を寵愛し、極めて異例なことに、西暦1534年に彼女を奴隷の身分から解放して皇后として迎え、ヒュッレム・スルターン(ロクセラーナ)の政敵のマヒデヴラン・スルターンを後宮から追い出した。このことから、ヒュッレム・スルターン(ロクセラーナ)の子と異腹の子たち、更にヒュッレム・スルターン(ロクセラーナ)の子同士の間でスレイマン1世の後継者を巡る激しい争いが行われ、後宮の女性が政治に容喙する端緒を作ったと言われる。また、ヒュッレム・スルターン(ロクセラーナ)と娘のミフリマー・スルターン及びその夫で大宰相リュステム・パシャはスレイマン1世の傍近くで讒言を繰り返し世間から非難されている。 ☞ ヒュッレム・スルターンの詳細は下述。
西暦1543年に次男メフメトが病死し、西暦1553年にイラン遠征の最中に長男ムスタファを謀叛の罪で処刑し、同年に末子ジハンギルも病死、西暦1558年の最愛の妻ヒュッレム・スルターン(ロクセラーナ)の死後、西暦1559年に叛乱を起こした皇子バヤズィトを西暦1561年に処刑するなど家庭的に暗い晩年を送った。
スレイマン1世は、西暦1565年にマルタ島への遠征軍を派遣したが失敗(マルタ包囲戦)した。最晩年にあたる西暦1566年には、神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世が和睦を破り、ハンガリーを攻撃した。オスマン朝は既にこの時点で劣勢であり、すぐにでも反撃しなければいけなかったが、スレイマン1世は持病の為、出陣できず、指揮は大宰相ソコルル・メフメト・パシャが執ると思われていた。 イラン・サファヴィー朝のタフマースブ1世は、「スレイマンは老いた。」と評し、イスタンブールの市民達も既に老齢で限界を迎えつつあったスルターンの死をただ待つだけであった。 しかしスレイマン1世は出陣を決定し、馬に乗ってトプカプ宮殿の正門から現れた。イスタンブールの人々はこれを見て「若き日の壮麗帝が再び現れた。」と大変驚いた。スレイマン1世は大軍を率いて報復のためハンガリー遠征を敢行した。しかし限界を迎えつつあったスレイマン1世は行軍中に馬ではなく馬車に乗り換え、07月にスィゲトヴァールを包囲したが、スレイマン1世は各部隊からの報告を聞くだけであり、実質的な軍の指揮は大宰相ソコルル・メフメト・パシャが行った。 そしてスレイマン1世は(スィゲトヴァール包囲戦)の真っ最中である09月07日に72歳で陣没した。
スレイマン1世の死後、軍の指揮は大宰相ソコルル・メフメト・パシャが代行してスィゲトヴァールを陥落させた後、スレイマン1世の遺骸を運び撤退した。 スレイマン1世の死は伏せられ、スィゲトヴァール包囲戦の勝利後、ソコルル・メフメト・パシャはスレイマンの名で勝利の勝鬨を上げた。ソコルル・メフメト・パシャはその際、「皇帝は病気で指揮できなかったことを悔いている。」と言った。また、スレイマン1世の死による軍の崩壊を防ぐために皇帝付きの医師は絞殺され、その死はソコルル・メフメト・パシャを初めとする最側近のみが知ることになり、側近たちは宮殿の奥でスレイマン1世がさも生きているかのような演技をした。
スレイマン1世の遺骸はイスタンブールに運ばれて、自身がスィナンに建造させ、愛する妻であるヒュッレム・スルターンが眠るスレイマニエ・モスクの墓地に葬られた。次のスルターンには、政争の結果、唯一生き残った皇子セリム2世が即位したが、彼は道楽に溺れ、政務を重臣たちに任せっきりだった為、オスマン帝国の政治は皇帝ではなく、大宰相ソコルル・メフメト・パシャの主導で動いていった。
西暦1569年、スレイマン1世は既に亡くなっているのにも拘らずマレーのアチェ王国のスルターン、アラウッディン・アルカハルの要請に応じ艦隊を派遣した。この時艦隊はマラッカ海峡まで行き、ジョホール王国・ポルトガル領マラッカへ攻勢を掛けた。
スレイマン1世の治世でオスマン帝国は更に拡張したが、それは限界を迎えていた。度重なる遠征で財政は枯渇しかかっていて、新たな領土も維持費が莫大にかかるからである。ハンガリー・エジプト・イエメン・地中海沿岸はあまりにも中央から遠いため間接統治となり、総督が現地の募兵と守備兵で軍事力を担うことになった。また、海賊を取り込む方法で地中海を確保したが、陸軍を主眼に置いていたため補助戦力としかなりえず、ポルトガルとの争いで遅れを取っていた。
一方、内政で法と官僚機構の整備が整えられ、地方の法を編集して地方法令集を生み出し、合わせて中央官僚の統制と帝国支配の要として統治法令集も編纂された。法を宗教の観点から見た場合違反かどうかの判定も行われ、その担当であるウラマーの教育課程及び上下関係も定めると共に、ウラマーの最高権威としてシェイヒュルイスラーム(イスラームの長老)という職種がスルターンの側近として重んじられるようになった。スレイマン1世の治世でエブッスード・エフェンディという人物がこの職業を務め、法の編纂とイスラーム法による正当性を保障、文官として重要な役割を果たした。
スレイマン1世は哲学などの学問や芸術を好み、「ムヒッビー(恋する者)」の筆名で詩作を行う詩人でもあった。また詩も流行したが、宮廷のゴシップをイスタンブールの大衆に伝える噂としての役割もあり、スレイマン1世とヒュッレムの結婚、皇子ムスタファの処刑、黒幕とされるリュステムの非難にまで及んでいる。詩人は上流階級をパトロンに求めている部分もあり就職の斡旋を依頼しているが、時に政治的背景も絡む場合もあるため、上記の記事は詩人ドゥカーギンザーデ・ヤフヤーがムスタファに同情的な軍人の心情を歌ったものとされている。
建築の分野ではミマール・スィナンを登用し、帝国全土のモスク、墓廟、橋梁、上水道など、建築物の建設・修復の任務を与えた。
スレイマン1世の治世は輝かしい軍事的成功に彩られ、オスマン朝の人々にとっては、建国以来オスマン朝が形成してきた国制が完成の域に達し、制度上の破綻がなかった理想の時代として記憶された。また、オスマン朝がヨーロッパ諸国・イスラーム諸国を圧倒したスレイマン1世の治世は栄光の時代として記憶され、「帝国の最盛期」と言われる。またイェニチェリなどの精強な軍事組織や中央集権的な行政制度が、スレイマン1世の時代に完成され最も円滑に機能した。しかし、スレイマン1世の治世はオスマン朝の国制の転換期の始まりでもあった。軍事的弛緩はスレイマン1世の晩年に始まっていたと考えることができ、屡々オスマン朝の軍事的衰退の原因とされるイェニチェリの急速な拡大などの軍事組織の構造変化も、スレイマン1世の時代に始まったものである。事実、スレイマン1世の死後20年たって、西暦16世紀末イランのサファヴィー朝にアッバース1世が現れると、スレイマン1世の治世に獲得されたイラク、アゼルバイジャンの領土は西暦17世紀前半に奪還された。
スレイマン1世の治世は象徴的には、スレイマン1世以降、君主が陣頭に立って出征することはなくなり、政治すらもほとんど大宰相(首相)が担うようになる。皇帝自らが政務を行うことが少なくなり、実権は大宰相の手へと移っていった。しかし、西暦1565年に大宰相となったソコルル・メフメト・パシャは名宰相と誉れ高く、これら大宰相による政治と優れた官僚制度によって、スレイマン1世の築いた大帝国を維持し、帝国の衰退はなお1世紀の後、西暦17世紀末のこととなった。
オスマン朝下の住民はアスケリとレアヤーの2つに分けられていた。アスカリはオスマン朝の支配層であり、オスマン朝の支配者層に属する者とその家族、従者で形成されており軍人、書記、法学者なども属していた。これに対してレアヤーは被支配層であり、農民、都市民などあらゆる正業に携わる人々が属していた。ただし、西暦19世紀に入ると狭義的にオスマン朝支配下の耶蘇教系農民に対して用いられた例もある。アスケリは免税、武装、騎乗の特権を有しており、レアヤーは納税の義務をおっていた。ただし、アスケリ層に属する人々が全て回教徒だったわけではなく、また、レアヤーも非回教徒だけが属していたわけではない。そして、その中間的位置に属する人々も存在した。
オスマン朝の全盛期を謳歌したスレイマン1世の時代ではあったが、同時期に、軍事構造の転換、すなわち、火砲での武装及び常備軍の必要性が求められる時代に変容していった。その結果、歩兵であるイェニチェリを核とする常備軍の重要性が増大した。しかし、イェニチェリという形で、常備軍が整備されることは裏を返せば、在地の騎士であるスィパーヒー層の没落とイェニチェリの政治勢力としての台頭を意味した。それに応じて、スィパーヒーに軍役と引き換えに1つの税源からの徴税権を付与していた従来のティマール制は消滅し、かわって徴税権を競売に付して購入者に請け負わせる徴税請負制(イルティザーム制)が財政の主流となる。従来このような変化はスレイマン1世以降の帝国の衰退としてとらえられたが、しかしむしろ帝国の政治・社会・経済の構造が世界的な趨勢に応じて大きく転換されたのだとの議論が現在では一般的である。制度の項で後述する高度な官僚機構は、むしろスレイマン1世後の西暦17世紀になって発展を始めたのである。

新・人と歴史 拡大版 25 オスマン帝国の栄光とスレイマン大帝 - 三橋 冨治男
ヒュッレム・ハセキ・スルターン(オスマンテュルコ語: خُرَّم خاصکى سلطان、Hürrem Haseki Sultan,)または ヒュッレム・"バルサク"・ハセキ・スルターン(Hürrem "balsaq" Haseki Sultan)、ロクセラーナ(ウクライナ語: Роксолана、Roksolana、英: Roxelana、仏: Roxelane、波: Roksolana、羅: Roxolanaの他、Rossa、Ruziac)
源氏名、ヒュッレム(ヒュルレム、ペルシア語: خرم、Khurram)「陽気な人」の意、(アラビア語: كريمة、Karima)「高貴な人」の意、ハセキ(Haseki、ヒュッレム・スルターン「寵姫」の意)は土; Hürremに由来している。スラヴ系で、ウクライナ人かロシア人もしくはポーランド人だった。本名はアレクサンドラ・アナスタシア・リソフスカ(ポーランド語: Aleksandra Anastasia Lisowska)。ヨーロッパでは、ヨーロッパの名付けた仇名のロクセラーナとして知られる。ロクセラニーとは西暦15世紀までの東スラヴ人(現在のウクライナの住民)の呼び方の1つであり、「ルーシ女」の意。
オスマン帝国のスレイマン1世の皇后で、それまでのオスマン朝の慣習を破ってスレイマン1世との間に複数の男子を設け、法的な婚姻関係を結び、事実上の一夫一妻の関係を築いた。スレイマン1世の後継争いに策動し、ハレムの住人が権謀術数を巡らせ、オスマン朝の政治を支配する先駆けとなった。また、スレイマン1世との関係性は、芸術作品の題材となった。 ヒュッレム・スルターン(ロクセラーナ)はヨーロッパでは有名で、現代テュルコや西側で多くの芸術作品で扱われている。絵画や、音楽作品、オペラ、バレエ、映画、ウクライナ語や英語、フランス語、ドイツ語で書かれた小説などのテーマとなった。
アレクサンドラ・アナスタシア・リソフスカは、ルテニア地方(赤ロシア、現在のウクライナ西部とポーランド南東部に跨る地域、広義ではウクライナあるいはウクライナとベラルーシを合わせた地域)ロハティンの貧しい正教会司祭の娘で、西暦1520年代にドニエストルやルテニア地方を掠奪したクリミア・タタール人に捕えられて奴隷としてイスタンブールへ売られ、スレイマン1世の大宰相パルガル・イブラヒム・パシャに買われた後、スレイマン1世に献上された。
ヒュッレム・スルターン(ロクセラーナ)はすぐに主人であるスレイマン1世の気を惹いて、対抗者たちに嫉妬されたものの、スレイマン1世の第2側室(イクバル)と呼ばれる側室から子供を成したことで第2夫人(イキンジ・カドゥン)となった。カドゥンは夫人の意。この時点でヒュッレム・スルターンにとっての敵は、スレイマン1世の母后、ハフサ・ハトゥンと、ハフサ・ハトゥンを後ろ盾とする第1夫人マヒデヴラン(ギュルバハル)、ヒュッレム・スルターン(ロクセラーナ)の最初の所有者であったといわれる大宰相イブラヒム・パシャの3人であった。
西暦1534年にハフサ・ハトゥンが死去すると、マヒデヴランはスレイマン1世の不興を買って宮殿を追われ、西暦1536年にイブラヒム・パシャは処刑された。マヒデヴランが宮殿から追われた経緯について、ヴェネツィア共和国駐イスタンブール大使のベルナルド・ナヴァゲロは、「マヒデヴランと口論を起こしたヒュッレム・スルターン(ロクセラーナ)が自ら顔に引っ掻き傷を作った上で、スレイマン1世に呼び出されるような工作をしてスレイマン1世の関心を惹き、ヒュッレム・スルターン(ロクセラーナ)の顔の引っ掻き傷をマヒデヴランの仕業と思い込んだスレイマン1世がマヒデヴランと息子のムスタファをマニサへ左遷させた。それによって、ムスタファがスレイマン1世から遠ざけられたばかりか、スルターンの後継者としての地位から完全に脱落したことを内外に示すことになった。」と報告している。その結果、ヒュッレム・スルターン(ロクセラーナ)は最早対抗者がいなくなったスレイマン1世の皇后としての地位を得た。また、イブラヒム・パシャについてもヒュッレム・スルターン(ロクセラーナ)が処刑に関与した確たる証拠はないが、人々はヒュッレム・スルターン(ロクセラーナ)の関与を疑った。
ヒュッレム・スルターン(ロクセラーナ)はスレイマン1世との間に設けた5人の皇子たち(メフメト、アブドゥラー、セリム、バヤズィト、ジハンギル)のうち、早世したアブドゥラーを除く4人の皇子たちのいずれかを次期スルターンとするべく策動した。
一時は長男のメフメトが有力となったが西暦1543年に天然痘に罹り早世し、マヒデヴランの子ムスタファが再び有力となった。しかし、ムスタファは西暦1553年にペルシャ遠征軍の陣中で突然処刑され、マヒデヴランはマニサからブルサへ移された。ムスタファは軍人として名声が高く、とりわけイェニチェリから強く支持されており、突然の処刑にイェニチェリは怒り、叛乱を起こす寸前にまで至った。スレイマン1世がムスタファを処刑した動機は不明だが、政権内を含む世論はヒュッレム・スルターン(ロクセラーナ)が娘のミフリマー・スルターンとその婿で大宰相のリュステム・パシャとともに「徳の高いスルターンの目を曇らせた。」と考えた。
ムスタファの処刑により、スレイマン1世の後継候補はヒュッレム・スルターン(ロクセラーナ)が産んだ3人の男子に絞られたが、このうち、ジハンギルはムスタファが処刑された直後に死亡した。処刑に衝撃を受けたことが原因ともいわれている。
ヒュッレム・スルターン(ロクセラーナ)について、ヴェネツィア共和国の大使ブラガディーノは、「美人ではないが愛想がよく、陽気な性格である。」と、同じくヴェネツィア共和国の大使ナヴァゲロは、「性質の良くない、いわばずる賢い女性である。」と報告している。
西暦16世紀の女流詩人ニサーイーは次のような、スレイマン1世と「ロシアの魔女」、すなわちヒュッレム・スルターン(ロクセラーナ)を非難する詩を作った。
ロシアの魔女の言葉を耳に入れ
企みと魔術に騙されて、あの悪女の言いなりとなり
生命の園の収穫を、あの気ままな糸杉のなすがままにした
ああ、無慈悲なる世界の王よ
かつてあなたが若かった時、あなたは何ごとも公平に正しく行っていたのに
その振る舞いと気質で民を幸福にしていたのに
年老いた今、悪しき不正義を行うとは
スレイマン1世はムスタファの子や側近も処刑し、政権内の不満を抑えるために西暦1553年にリュステム・パシャを罷免した。さらにリュステム・パシャが処刑されるという噂が立つと、ヒュッレム・スルターン(ロクセラーナ)は助命のために奔走した。結局、リュステム・パシャは西暦1555年に大宰相の地位に返り咲いた。ヒュッレム・スルターン(ロクセラーナ)の庇護の下、リュステム・パシャは蓄財に精を出し、財力をもって党派を形成して政治力を保持した。この手法は以降の時代の政治家によって踏襲された。
また、ロクセラーナは様々な問題に対するスレイマン1世の助言者的な役割をしていたともいわれ、外交政策や国際関係の政治問題に影響が見られる。一例として彼女からポーランド国王ジグムント2世アウグストへ出した手紙が現存している。ヒュッレム・スルターン(ロクセラーナ)の存命中、オスマン帝国とポーランド王国との間には同盟関係が保たれた。
ヒュッレム・スルターン(ロクセラーナ)はヴァリーデ・スルターン(スルターンの母后)や第2カドゥン、宦官らハレムの住人たちが権謀術数を巡らせ、オスマン朝の政治を支配するカドゥンラール・スルタナトゥ(女人天下)と呼ばれる時代の幕を開けた。
ヒュッレム・スルターン(ロクセラーナ)は彼女自身のため、スレイマン1世にオスマン朝の慣習を次々と破らせた。まず、オスマン朝では「1人の女性がスルターンとの間に男子を2人以上産むことは許されず、一たび男子を産んだ女性はスルターンから遠ざけられる・」という慣習があった。しかし、スレイマン1世はヒュッレム・スルターン(ロクセラーナ)が男子を出産した後も側に置き続け、最終的にヒュッレム・スルターン(ロクセラーナ)との間に5人の男子を儲けて正式な妻に迎えた
オスマン朝では西暦14世紀後半に在位したムラト1世以来、妃と法的な婚姻関係を結ぶスルターンは存在しなかった。ヒュッレム・スルターン(ロクセラーナ)はこの慣習を破らせることにも成功した。婚姻関係を結ぶに当たり、スレイマン1世はヒュッレム・スルターン(ロクセラーナ)を奴隷の地位から解放する法的手続きを執った。ヒュッレム・スルターン(ロクセラーナ)はさらに、自らの地位を脅かしうる美貌の側室数人を降嫁させ、事実上の一夫一婦の関係を構築して自らの地位を盤石なものとした。2人の関係に対するイスタンブール市民の反応について、イタリア人のバッサーノは「スレイマンのヒュッレム・スルターン(ロクセラーナ)に寄せる愛情と信頼の深さは、全ての臣民が呆れかえるほどで、スレイマンは魔法に罹った。」とさえ言われている。
また、ヒュッレム・スルターン(ロクセラーナ)は西暦1541年、自らが従える女奴隷や宦官とともにトプカプ宮殿内のスレイマン1世の居住区画に住むことを許された。
ヒュッレム・スルターン(ロクセラーナ)はアッバース朝5代カリフ、ハールーン・アッ・ラシードの妃ズバイダに倣って慈善財団をつくり、メッカからエルサレムまでの公共建造物の多くに携わった。最初にモスクと2つの学校(マドラサ)、噴水と女性用の病院を、イスタンブールの女奴隷市場の近くに建築した。西暦1556年に建設された公共浴場ハセキ・ヒュッレム・スルターン・ハンマームの収入は当時、モスクとして使われていたアヤ・ソフィアへの財政支援に充てられた。エルサレムでは西暦1552年に貧窮者の公共給食施設であるハセキ・スルターン・イマレトを設けた。また、彼女自身もしくは彼女の監督下で作られた刺繍の一部は残っており、イラン国王のタフマースブ1世へ西暦1547年に送ったものや、西暦1549年にポーランド国王へ送ったものがある。彼女の秘書・仲介者としてエステル・ハンダリがよく働いた。
残るセリムとバヤズィトのうち、ヒュッレム・スルターン(ロクセラーナ)はより有能なバヤズィトの即位を望んでいたが、いずれが後継者となるかを見届けることなく、西暦1558年04月15日に、50代半ばで死去した。
セリムとバヤズィトの衝突を辛うじて抑えていたヒュッレム・スルターン(ロクセラーナ)の死後、両者の後継争いは激化し、セリムは側近のララ・ムスタファ・パシャの策謀によってバヤズィトに対するスレイマン1世の評価を低下させることに成功した。形勢不利を悟ったバヤズィトは軍事行動を起こしたものの、スレイマン1世の支持を受けたセリムの前に敗れ、イラン(サファヴィー朝)に亡命したが最終的にはセリムに引き渡され、西暦1561年に処刑された。
「サルホシュ・セリム(酔っぱらいのセリム)」と呼ばれたセリムが後継争いに勝利したのは、臆病であったが故に自ら積極的な行動に出なかったためともとされるが、セリムに飲酒を薦めて無能者のふりをするように命じたためとも言われている。スレイマン1世の死後スルターンに即位したセリムは国家の運営を官人に任せきりにし、バーブ・ウッサーデ(至福の家)と呼ばれる館で酒と女に溺れる日々を過ごした。セリム2世以降、オスマン帝国の国家運営は官人による支配にスルターンが従う形で行われるようになった。
「ハレム」と言う名称は、テュルコ語からイスラーム世界の外側の諸外国語に広まったもので、アラビア語ではハリーム(حريم、harīm)と呼ばれている。テュルコ語のハレムは、アラビア語のハリーム、ないしはアラビア語ではもっぱら聖地を指す語であるハラーム(حرم ḥarām)の転訛で、ハリーム、ハラームとも原義は「禁じられた(場所)」という意味で、ハレムとは、男性はその場所にいる女性の夫・子や親族以外、立ち入りが禁じられていたことから生まれた名称で、西暦10世紀以降、イスラーム国家の宮廷において後宮の発達に伴い、定着した。アッバース朝の衰亡後、アラブ人に代わりイスラーム世界屈指の大帝国を築いたオスマン朝においてもハレムは極めて大規模なものが存在した。
オスマン朝の君主は4代バヤズィト1世以来、耶蘇教徒出身の女奴隷を母として生まれたものが多く、そもそも君主権が絶頂化して有力者との婚姻が不要となった西暦15世紀以降には、ほとんど正規の結婚を行う君主はいなかった。オスマン朝のハレムには、美人として有名なカフカス出身(とりわけ、チェルケス人)の女性を中心とする多くの女奴隷が集められ、その数は最盛期には1000人を越えたとされる。女性たちの他、イスラーム法により非回教徒であるヨーロッパ出身の白人宦官、およびアフリカ出身の黒人宦官がハレムで仕えた。
女性たちは、様々な過程を経てハレムの中に入った。例えば、戦争捕虜や掠奪行による売却、貧困家庭からの売却によって奴隷身分となった。彼女らは、イスタンブールで購入されると、イスタンブール各所に置かれた君主の宮廷に直接下賜される者に限らず、政府高官によって買われ彼らの屋敷のハレムに入った者もいた。直接君主の宮廷へ入った者たちは、黒人の宦官によって生活を監督されながら歌舞音曲のみならず、礼儀作法や料理、裁縫、さらにアラビア文字の読み書きから詩などの文学に至るまで様々な教養を身に付けさせられた。また、政府高官に買われた女性たちも同様に様々な技量を身につけ、侍女として皇帝の住まうトプカプ宮殿のハレムに上納された。ムラト3世の治世では本だけ絶対に持ち込むことができなかった。
ジャーリヤ(女奴隷、単数:jariya、複数:jawari)と呼ばれる彼女らの中から君主の「お手つき」になったものはイクバル(İkbal、幸運な者)、ギョズデ(Gözde、お目をかけられた者)と称され、私室を与えられて側室の格となる。やがて寵愛を高めたものはハセキ(Haseki、寵姫)、カドゥン(Kadın、夫人)などの尊称を与えられ、もっとも高い地位にある者はバシュ・カドゥン(Baş Kadın、主席夫人)の称号を持った。さらに後継者となりうる男子を産めばハセキ・スルターンと呼ばれるが、皇帝は原則として彼女らと法的な婚姻を結ぶことはなく、建前上は君主の奴隷身分のままであった。スレイマン1世の夫人ヒュッレム・スルターン(ロクセラーナ)は元耶蘇教徒の奴隷から皇后にまで取り立てられた稀有な例である。
このように、厳しく、その立場は不安定極まりなかったオスマン朝のハレムの女性達の間では、権力闘争も激しくならざるを得なかった。しかし、一たび自身の生んだ息子が皇帝に即位することとなれば、ヴァーリデ・スルターン(母后、Valide Sultan)と呼ばれてハレムの女主人として敬意を払われる身分となる。西暦16世紀後半から西暦17世紀にかけてのオスマン朝は、皇帝独裁が保たれ政治の中心が宮廷に置かれたままであったにも拘らず幼弱な皇帝が相次いだため、ヌールバヌー・スルターン、キョセム・スルターンなど著名な母后たちが権勢を振るった(女人政治(女人の天下、Devr-i Sultanat)。
一方、皇帝の母になれなかった側室たちや、皇帝の子を産むこともなく失寵した側室たち、また「幸運」に恵まれず寵愛を受けられなかった侍女たちは、時には皇帝から重臣に下賜されることもあったが、多くの場合皇帝の死去に伴い、「涙の家」と呼ばれる旧宮殿に移され、年金を与えられて静かに余生を送る運命であった。
西暦15世紀以降のオスマン朝では、前皇帝の死後に即位した皇子は、皇位争いの対抗者となった兄弟たちを処刑する「兄弟殺し」の慣行があったが、ムラト3世の妃、サフィエ・スルターンの時代にも同じように、メフメト3世の即位にあたり、19人の異母兄弟たちは死刑執行人により紐で絞殺され、前皇帝ムラト3世の40人の愛妾達のうち、妊娠していた7人は、生きたまま袋に詰められ、真夜中のボスフォラス海峡に沈められた。しかし、このメフメト3世の時代以降、この慣行は廃止された。それまでの慣行が残酷だからというよりも、王朝の血統を絶やしてしまわないための方策だった。

寵妃ロクセラーナ - 渋沢 幸子