2025年01月07日

反吐が出る世界史 明治維新とは何だったのか?洗脳を糾す 悪逆非道なディープステイト(DS)の中核、猶太とは何か その30

ダビデの星.jpgユダヤ(ギリシャ語: Ἰουδαία、Ioudaía、漢字:猶太)

 他民族からは「ヘブライ人」と謂れ、自らは「イスラエル人」と称し、バビロン捕囚後には「ユダヤ人」と呼ばれるようになった徒輩。ヘブライ人、イスラエル人、ユダヤ人は同じ民族を指している。
 ユダヤ人(ヘブライ語: יהודים‎、英語: Jews、ラジノ語: Djudios、イディッシュ語: ייִדן‎)は、猶太教の信者(宗教集団)または猶太教信者を親に持つ者によって構成される宗教信者。原義は狭義のイスラエル民族のみを指す。イスラエル民族の1つ、ユダ族がイスラエルの王の家系だったことを由来とする。猶太教という名称は、猶太教徒が多く信仰していた宗教であることによる。ユダヤとは、パレスチナ南部の地域。酋長ヤコブの子ユダに由来する。古代イスラエル統一王国の分裂後の南ユダ王国があった地域である。



南ユダ王国滅亡後のユダヤの歴史

南ユダ王国が滅ぶと、僅かな例外的時期を除いて西暦20世紀に至るまでユダヤ民族が独立国を持つことはなかった。


神武天皇74(西暦前587)〜安寧天皇10(西暦前539)年 新バビロニア帝国
安寧天皇10(西暦前539)〜孝安天皇61(西暦前332)年 アケメネス朝ペルシア帝国
孝安天皇61(西暦前332)〜孝安天皇88(西暦前305)年 プトレマイオス朝エジプト
孝安天皇88年(西暦前305)〜開化天皇17(西暦前141)年 セレウコス朝シリア
開化天皇17(西暦前141)〜崇神天皇35(西暦前63)年 ハスモン朝 ユダヤ人国家
崇神天皇35(西暦前63)〜崇神天皇61(西暦前37)年 共和政ローマ元老院属州
崇神天皇61(西暦前37)〜垂仁天皇73(西暦44)年 ヘロデ家
垂仁天皇73(西暦44)年 ユダヤ属州(ローマ帝国皇帝属州)
垂仁天皇73(西暦44)〜景行天皇23(西暦93)年 ヘロデ家
垂仁天皇73(西暦44)〜仁徳天皇83(西暦395)年 ローマ帝国皇帝属州
仁徳天皇83(西暦395)〜舒明天皇06(西暦634)年 東ローマ帝国
舒明天皇06(西暦634)〜永正13(西暦1516)年 イスラーム諸王朝 途中に十字軍国家の時代を含む。
永正13(西暦1516)〜大正06年(西暦1917)年 オスマン帝国 
大正07年(西暦1918)〜昭和23(西暦1948)年 イギリスによる国際聯盟の委任統治 
昭和23(西暦1948)年 イスラエル国(メディナット・イスラエル)成立 共和政国家の樹立、現代に至る。



 西暦135年、ローマが叛乱を鎮圧し、ユダヤ的なものを一掃しようとしたローマ人は、この土地をユダの地(ユダヤ)ではなく、ユダヤ人の宿敵ペリシテ人に因んで「パレスチナ」、エルサレムを「アエリア・カピトリーナ」と改称し、ユダヤという地名は消滅した。

 また、ユダヤ人は人種的にはセム族とされるが、長いディアスポラ(離散)のなかで、周辺民族との混血の結果、セファルディームアシュケナジームの違いが生じ、また言語もイデッシュ語などが生まれた。現在、ユダヤ人はイスラエルの他、世界中に分布しており、アメリカにも約600万人が住んでいるとされる。しかし現在ではユダヤ人を「人種」概念で捉えるのは困難で、現実には「猶太教を信仰する徒輩」と捉えるのが正しい。人類学的に同質のユダヤ人は存在しない。



ナポレオン・ボナパルト(仏語: Napoléon Bonaparte)、オットー・フォン・ビスマルク、クレメンス・フォン・メッテルニヒ(独語: Klemens von Metternich)、アシュケナジーム猶太のカール・マルクス、・・・といった邪悪な連鎖が、革命、戦争、秘密結社で諸国家の富、金・ダイヤモンド、土地、生命、健康を掠奪した悪魔が、アシュケナジーム猶太のロスチャイルド一族。

悪魔のセファルディーム猶太のベンジャミン・ディズレーリは、ロスチャイルド家の出色に忠実な下僕の「操り人形」。
ロスチャイルドに議席に爵位にスエズ運河にボーア戦争、パレスチナを貢いだ。

悪魔ロスチャイルドは、麻薬はセファルディーム猶太のサッスーン家、ジャーディン・マセソン、グラバー、金とダイヤモンドはセシル・ローズ、デ・ビアス、オッペンハイマー家、石油はセファルディーム猶太のサミュエル家、詐欺師ロックフェラー、アシュケナジーム猶太のクーンローブ、J・P・モルガンなど配下の犬を使った。


悪魔のロスチャイルドの「淫婦」と「獣」を操る「万物を監視する目」で、厳命「真っ当な国家、人は破壊せよ!」
例えば、猶太の巣窟、米連邦準備銀行を潰そうとロスチャイルド家に歯向かう者は抹殺した。



 啓蒙時代(西暦17世紀〜18世紀)になると、ユダヤ人バールーフ・デ・スピノザ(蘭語: Baruch De Spinoza、羅語: ベネディクトゥス・デ・スピノザ(Benedictus De Spinoza))らによる宗教を超えた汎神論論争をゴットホルト・エフライム・レッシング(独語: Gotthold Ephraim Lessing)が肯定すると、ユダヤ人モーゼス・メンデルスゾーン(独語: Moses Mendelssohn、「賢者ナータン」のモデル)もこれを擁護してハスカーラー(ヘブライ語: הַשְׁכָּלָה、haśkālāh)と呼ばれる啓蒙運動がユダヤ人の間で開始された。
 ハスカーラーに抵抗のあった者たちの中から西暦1740年頃、ガリツィア・ロドメリア王国(西暦1772〜1918年、紅ルーシ)でラビ(レベ)・イスラエル・ベン・エリエゼル(ヘブライ語: Rebbe(rabbi) Yisroel ben Eliezer, ישראל בן אליעזר、(Yiśrā’ēl bēn ’El‘āzâr、バアル・シェム・トーブ(ヘブライ語: הבעל שם טובBa‘al Šem T‘ōbh、略称: הבעש"ט、ベシュト(BEŠT))が超正統派運動ハシディズム(独語: Chassidismus、英語: Hasidism, Hasidic Judaism、ヘブライ語: חֲסִידוּת, Chasidut, chǎsīdhūth、イディッシュ語: chasidu(i,e)s)を開始した。

 西暦1786年、ロシア帝国がユダヤ教徒居住区(露語: Черта́ осе́длости、イディッシュ語: דער תּחום-המושבֿ)を設置。西暦1795年にポーランド分割(西暦1772〜1793、1795年)が実施され、ポーランド・リトアニア共和国(西暦1569〜1795年)が消滅して東部(旧リトアニア公国領)がロシア帝国に併合された。ポーランドが消滅してその庇護を失ったユダヤ人は、ハプスブルク家へ庇護を求めたが、ウクライナ人・ベラルーシ人から裏切り行為と受け取られた。西暦1806年07月、神聖ローマ帝国(西暦800/962〜1886年)が解体され、西暦1811年にカール・テオドール・アントン・マリア・フォン・ダールベルク(Karl Theodor Anton Maria von Dalberg)がフランス民法典を下にフランクフルトのユダヤ人に市民権を認めた。
 しかし、ナポレオン・ボナパルトが敗退すると、西暦1814年にはユダヤ人の市民権と選挙権が再び剥奪された。西暦1819年、ドイツのヴュルツブルクでポグロム(露語: погром、パグローム、「破壊」の意)が発生し、瞬く間にドイツ文化圏全域でヘプヘプ・ポグロムが起こった。西暦1821年にはウクライナでオデッサ・ポグロムが起こった。
 西暦1848年、ハンガリー革命に参加したハンガリー系ユダヤ人(英語: Hungarian Jews)が弾圧された。これをきっかけにエスターライヒ・テシェン公アルブレヒト・フリードリヒ・ルードルフ(独語: Albrecht Friedrich Rudolf von Österreich-Teschen)によってハンガリー王国(西暦1000〜1918年)も西暦1851〜1860年にかけてドイツ化が進行した。西暦1864年、フランクフルトのユダヤ人に再び市民権が認められ、西暦1871年にドイツ帝国(西暦1871〜1918年)が建国された際、ユダヤ人は正式にドイツ国民としての権利を与えられた。


 アヘン戦争(西暦1840〜1842年)は、恥を知らない紅毛蠻族のハノーヴァー朝(西暦1714〜1901年)イギリス王国(グレートブリテン及びアイルランド連合王国(西暦1801〜1922年))が引き起こした醜悪な戦争で、このイギリス王国によるアヘン貿易強行のための支那への侵略戦争は、西からの衝撃となり東亜の近代史、日本の近代史が始まった。
 このアヘン戦争には、セファルディーム猶太の富豪、サッスーン家が深く関わっている。上海屈指の豪商サッスーン家は、西暦18世紀にバグダードに台頭しオスマン帝国(西暦1299〜1922年)の治世下にあって財務大臣を務めるほどの政商であった。 デビッド‣サッスーン(英語: David Sassoon)はサッスーン家の子としてバグダードに生まれ、そこで活動していたが、シルクロードの交易によって益々その富を蓄え、当時の紅毛蠻賊イギリス王国の東方進出に協力して、まずインドのムンバイ(ボンベイ)に拠点を構えた。 やがて紅毛蠻賊イギリス王国東インド会社が支那にアヘンの密輸を開始すると、その取引に荷担して莫大な富を蓄積した。西暦1832年にボンベイで「サッスーン商会」を創業し、インド産のアヘンを密売し始めた。 紅毛蠻賊イギリス王国東インド会社からインド産のアヘンの専売権を取得し、アヘンを支那で売り、支那の銀を運び出し、途轍もない利益を上げた。 デビッド‣サッスーンは「アヘン王」と呼ばれる程になった。 彼はイギリス紅茶の総元締めでもあり、麻薬と紅茶は、彼の手の中で同時に動かされていた。西暦1870年代にはインド産アヘンの70%を取り扱い、最盛期には上海全体の20%がサッスーン財閥の資産だった。
 アヘン(阿片)は、芥子の実(鶏卵大〜拳大)に傷を付け、その傷から滲み出る乳液を採取して作られる麻薬である。 アヘンは約10%のモルヒネを含み、精製の必要がなく、顕著な薬効がある為、昔から麻酔薬として使われてきた。 支那では清(大C國(西暦1636〜1912、1917年(張勲復辟))の時代にアヘンを薬としてではなく、煙草のように煙管を使って吸うことが流行した。 アヘンは、吸い続けると中毒になり、やがて廃人になってしまう。アヘンを大量に送り込まれた清では、アヘンが大流行して社会問題となった。 やがて、清が阿片輸入禁止令を出したことで、清とイギリス王国との間でアヘン戦争が始まった。

 アヘン戦争で敗れた清は南京条約(西暦1842年)に従って上海など5港を開港し、香港をイギリス王国に割譲し、さらに賠償金2億1000万両を紅毛蠻族イギリス王国に支払った。 アヘン戦争での清の敗北がイギリス王国をはじめフランス王国オルレアン朝(7月王政)(西暦1830〜1848年)、ロシア帝国(西暦1721〜1917年)の支那侵略の足掛かりとなった。 その意味でサッスーン商会は紅毛蠻族ヨーロッパの列強の帝国主義で血脹れした会社と言える。西暦19世紀半ば、アヘン戦争に破れた清朝が上海に租界の設置を認めると、時を移さず上海に進出し、アヘンを含む物資の売買を開始した。

 嘉永06(西暦1853)年、フリーメイソンで紅毛蠻族アメリカ合衆国(西暦1776年〜)海軍東インド戦隊代将のマシュー・カルブレイス・ペリー(ペルリ、英語: Matthew Calbraith Perry)は、中進国紅毛蠻族アメリカにとってかなり無理をして見栄を張り、大西洋から蒸気船2隻を含む艦船4隻を率いて日本に来寇した。この本当の目的は2匹目、3匹目の泥鰌を狙い、資本投下し貿易で利益を吸い上げるための市場作りだった。ペルリは表向きは米政府代表だが、裏でユダヤ人の犬だった。
 ドイツ出身のセファルディーム猶太で金融大富豪のオーガスト・ベルモント1世は、メイフラワー誓約の署名者、ピルグリム入植者の指導者ウィリアム・ブリュースター、ジョージ・ソールの子孫のペルリ家に接近するため、マシュー・カルブレイス・ペリー(ペルリ)の娘キャロライン・スライデル・ペリーと結婚した。ロスチャイルド家の米国代理人のオーガスト・ベルモント1世はペルリに資金を渡し、来日したペルリは親善と言いながら黒船の大砲を江戸に向けて砲艦外交で恐喝した。「捕鯨船への薪や水の提供、水難事故時の乗員保護」は建前で、日本を開国させて利益を貪るのが本当の目的だった。上海に退いた紅毛蠻族ペルリはコ川幕府との1年後の約束など違えて、半年後に2回目の来寇を早めた。この時にコ川幕府に蒸気機関車の4分の1模型、エンボッシング・モールス電信機、銀板写真機、ピストル、望遠鏡、ミシンなどを献上した。


 世界で最初の蒸気鉄道は、文政08(西暦1825)年、紅毛蠻族イギリス王国ダラム州のストックトン・アンド・ダーリントン鉄道(英語: Stockton and Darlington Railway、S&DR)で、炭鉱で産出した石炭を運搬する目的でストックトンとダーリントン間の約40kmに設営された。機関車はジョージ・スチーブンソン(George Stephenson)が設計したロコモーション号が使用された。この鉄道は石炭輸送を主目的としており、旅客の依頼があれば鉄道上を馬に牽引された車両で利用することができた。ここで採用された軌間4フィート8インチが、国際標準軌間の4フィート8インチ1/2 (1435 mm) になった。本格的な客貨両用鉄道は文政13(西暦1830)年に紅毛蠻族イギリス王国で開通したリバプール・アンド・マンチェスター鉄道(英語 : Liverpool and Manchester Railway、L&MR)で、ジョージ・スチーブンソンの一人息子、ロバート・スチーブンソン(Robert Stephenson)の蒸気機関車ロケット号を使用した。紅毛蠻族イギリス王国では文政13(西暦1830)年以降、鉄道建設熱に浮かされた。「鉄道狂時代」と呼ばれ、弘化03(西暦1846)年までに272社もの鉄道会社が乱立し、紅毛蠻族イギリス王国内に6000マイルにも及ぶ鉄路が敷かれた。今日の英国内鉄道網の約6割はこの時に敷かれた。ブルジョアは鉄道会社に投資した。実体のない怪しげな鉄道会社の株ですら飛ぶように売れた。鉄道バブルはやがて弾け、272社もあった鉄道会社は統廃合されてわずか4社となった。作り過ぎた蒸気機関車も鉄道技術も行き場を失った。鉄道バブルに踊ったジョンブルの多くが文無しになった。そんな時、「ペルリが日本を開国させた。」という知らせが届いた。紅毛蠻族英国政府の手先がやって来てコ川幕府と強引に条約を結んだ。金の臭いを嗅ぎつけたユダヤ人が経営する紅毛蠻族英国系商社も潜り込んで来た。さらに紅毛蠻族英系の投資銀行も続々と横濱に集まって来た。
 実は日本で初めて走った鉄道は、ロシア艦船に積んで運ばれ船の上で見せた模型で、ペルリの初来寇の翌月の嘉永06(西暦1853)年07月、ロシアのエフィーミー(エフィーム)・ヴァシーリエヴィチ・プチャーチン(露語: Евфимий(Ефим) Васильевич Путятин、Jevfimij Vasil'jevich Putjatin)が率いる4隻の軍艦が長崎に初来寇しコ川幕府と開国の交渉を行った。約半年におよぶ滞在期間中に日本人を艦上に招待して、蒸気機関車の模型の運転を展示した。招待されたのはコ川幕府の川路聖謨、佐賀鍋島藩の本島藤夫、鍋島藩精煉方の中村奇輔(きすけ)だった。佐賀藩精煉方は、佐賀藩主鍋島直正が嘉永05(西暦1852)年に設置した理化学研究所で、鍋島藩精煉方の中村奇輔、田中久重(からくり儀右衛門、東芝創業者)、石黒寛次は、蒸気機関車と蒸気船の模型製造を願い出た。中村奇輔がロシア艦上で蒸気機関車模型を見てから2年後の安政02年(西暦1855年)02月、蒸気機関車と蒸気船の模型を完成させた。
 長崎に続いて、前述の嘉永07(西暦1854)年に横濱で蒸気機関車の模型が走った。これはペルリの2回目の来寇時に紅毛蠻族13代酋長ミラード・フィルモア(Millard Fillmore)からコ川将軍への献上品として持参したものである。機関車には機関士が乗って運転し、客車は6歳の子供なら客車の中に入れるかどうかという大きさで、これを見て幕臣河田八之助が、「客車の屋根に跨れば乗れるのではないか。」と交渉の上、乗車した。これが、日本で客車に乗った初の日本人である。またこの模型を江川太郎左衛門も見物し、自らの手で運転したいと申し出て、運転を成功させた。献上品の蒸気機関車模型は紅毛蠻族アメリカ製と思われ、幕末維新期のドサクサに幕府から鉄道の利権を買取っていた。駐日紅毛蠻族米国代理公使チャールズ・デロング(Charles E. DeLong)は、戊辰戦争の火事場につけこんで、慶応03(西暦1867)年12月23日付で、コ川幕府から江戸−横濱間の鉄道利権を、紅毛蠻族米国市民ボルトメン(実は紅毛蠻族米国領事館員)の名で獲得していた。利権を得るための金額はいくらか、誰から免許を受けたか、詳細はどこにも残されていない。
 この許可状を種に明治政府に、その確認を厳しく要求したが、明治政府は「日本国民に鉄道を経営させる方針である。」とつっぱねさせたのは、駐日紅毛蠻族英国ハリー・スミス・パークス(英語: Harry Smith Parkes)であった。明治維新の際に主導権争いをした紅毛蠻族米国と紅毛蠻族英国の争いについては、結局上述のようにして決着がつき、いよいよ予てから腹案を練っていたハリー・スミス・パークス英公使が表舞台に出て来た。
 慶應01年(西暦1865)年、ジャーディン・マセソン商会長崎支店のトーマス・ブレーク・グラバーは三浦半島南端の大浦海岸で英国製の小型蒸気機関車「アイアン・デューク」号を試験走行させた。この年、紅毛蠻族アメリカの南北戦争が終結した。ロスチャイルドのパリ家も日本に鉄道売ろうと虎視眈々と狙っていた。しかし、日本はこの直後、薩長が同盟し倒幕の嵐が吹き荒れ、鉄道どころではなく、新式の鉄砲や大砲など武器や軍装品の需要が増えた。
 ところがここで、信じられないような愚か者が2人出て来た。伊藤博文とオリエンタル・バンク(英国東洋銀行)横浜支店長ジョン・ロバートソン(John Robertson)である。





 西暦18世紀中頃に始まる産業革命を西暦19世紀前半までに達成した紅毛蠻族イギリス王国を先頭に資本主義社会が形成されると、新たに市場及び原料供給地としての植民地の意義が重大になってきた。植民地に対しては本国の工業の原料の安価な供給地され、商品作物の生産に特化したプランテーションが紅毛蠻族英国人によって経営され、現地人はその労働力とされ、本国の工業製品の市場として二重に収奪された。このような中で植民地の人口減少、貧困が続き、4次にわたるマイソール戦争(西暦1767〜1769、1780〜1784、1789あるいは1790〜1792、1798〜1799、あるいは1799年のみ)、3次にわたるマラーター戦争(西暦1775〜1782、1803〜1805、1817〜1818年)、2次にわたるシク戦争(西暦1845〜1846、1848〜1849年)、プラッシーの戦い(西暦1857年)、インド大叛乱(西暦1857〜1858年、セポイの乱)と度々叛乱が起きるようになった。植民地の維持や拡大に伴う財政支出や軍事支出が過大になることを恐れ「植民地不要論」が擡頭し、領土化よりもより安全で利益の大きい他地域との自由貿易を拡大していく重商主義への転換が見られた。南アフリカで金やダイヤモンドが見つかることで帝国主義が炎再燃し。鬼畜のようにアフリカ大陸を蹂躙していくことになった。欧米列強が日本に開国を迫っていたのはこの期間と重なる。


 


勿論、この契約の真髄は「日本政府のために成功裡に借款を組み上げる」ことにあり、万が一「金がつくれなければ世界に恥をさらすことになる」から契約者としてスタント・マンを使ったのだが、はじめから英国政府は自信満々だった。蒸気機関車と鉄道の資材の手当などは、英国政府の手にかかれば二次的な手配にすぎない。「貧乏国の日本のために金を造ってやる」ことこそが彼らの主眼だったのだ。

このような英国政府の魂胆と指導により、上表で見る通り、1870年(明治3年)4月23日、ロンドンのデランジェ商会は同じくロンドンのシュローダー商会を通じて日本国債を発行し、事実上即日完売した。明治政府の目的は100%達成された。英国政府は面目を施した。

画像:本文とは関係ないが、信じられないような馬鹿が6例報告されている。ご参考まで。

 一方、秘密会談の英国側の出席者は、ハリー・パークス公使、ホレイショ・ネルソン・レイ(英語: Horatio Nelson Lay)の2人であった、と推察される。これに加えて通訳としてのアーネスト・サトウが出席していたかもしれない。日本側出席者に説明されたレイの肩書きは、西暦1854年〜西暦1861年まで上海で海関総税務所長、1861年から63年まで清帝国に任命されて太平天国対策のフロティーラ(小艦隊)の隊長であった」ことぐらいだったろうから、このレイは後ろだてのはっきりしない「流れ者の口入れ屋」にすぎない、と日本側出席者は感じたのかもしれない。

 ところがじつは、このレイはパークス公使の差し金で英国外務省から派遣されたバリバリの準外交官であり、技師・機材の提供権限のみならず、融資問題をも独自で決定できる権限を有する全権大使であった。また、パークスは日本側に説明しなかったのだが、背後に控えていたのは、当時世界の金融界でも名高いトップスターのエマイル・デランジェであった。英国側からすれば、極東の(極端に貧乏な)日本国のために欧州で金を集めるために「これ以上の強力な布陣は考えられない」完璧なお膳立てであった。こういう事情を予め日本側に詳しく説明しなかったのは、パークス公使の落ち度であり、これをもってして後日、パークスは本国外務省からきつく叱責されるのである。


と記述されていることから見ても、この鉄道建設が英国政府による発案であったことは一目瞭然である。パークスが日本政府を説得したのである。そして、1869年12月8日(洋暦)の日英秘密会談で鉄道敷設が決定された。その際の日本政府の交渉人は、

右大臣  岩倉具視 
大蔵卿  伊達宗城
大蔵大輔 大隈重信
大蔵少輔 伊藤博文

の四人であった、と推察される。このうち英語を話すのは伊藤博文だけであったため、実際には伊藤博文が日本側窓口となった。だから、伊藤博文がひとりで交渉を取り進め、他の三人は伊藤博文のいいなりになったのである。

また、のちに、

 昨年末に日本政府から、「江戸−京都間に鉄道を建設することに決定した。」との知らせを受けた。建設を開始するのに資金不足で困っていたが、そのころ前中国駐在のH・N・レイ(Horatio Nelson Lay)が日本訪間中で、鉄道予定線と関税収入を担保として、百万ポンドを日本政府に貸そうという提案が出された。政府はこの提案を受け入れ、レイは英国へ帰り、以上の金額を調達し、必要な技師たちを雇うことになった。

 アヘン戦争時にインドから清國にアヘンを運んで大儲けした英国のP&O(ピーアンドオー、ペニンシュラ・アンド・オリエンタル・スチーム・ナビゲーション会社、英語: Peninsular and Oriental Steam Navigation Company)社は、安政06年(西暦1859年)06月02日の開港(長崎、函館、横浜、神戸、新潟)で長崎が開港すると、すぐに長崎−上海間に定期船を就航させた。P&Oは、カーニバル・コーポレーション傘下のP&Oクルーズが残っている。
 幕末期の上海には英米などの列強国だけでなく各地の利益に飢えたユダヤ商人が集って来た。長崎にいたトーマス・ブレーク・グラバーの雇い主もジャーディン・マセソン商会で、横濱と上海の中間地点である長崎に送られた。坂本龍馬らが亀山社中を長崎に置いたり、岩崎彌太郎が頻繁に長崎に出入りしていた。伊藤博文や井上薫などの長州藩5人や薩摩藩士19人の英国密航の手配をしたのもジャーディン・マセソン商会だった。外国語を学んで身を立てようとした者の多くが長崎を目指し、長崎に倒幕派が集結した。
 上海はアヘン戦争に勝利した英国が嘉永01(西暦1848)年、戦利品として支那から分捕った租界地で最初は数km四方の土地だったが勝手に土地を拡げていった。租界地は清の法律など通用しない治外法権の事実上の植民都市で、安政06(西暦1859)年には英国の汽船会社P&Oが長崎と上海を結ぶ定期航路を開設し、トーマス・ブレーク・グラバーらもよく利用した。(西暦1862)年になるとコ川幕府も千歳(せんざい)丸を長崎−上海間に就航させた。千歳丸は英サンダーランドで建造された400トン弱の小さな木造帆船で幕府が3万4000ドルという法外な額で購入した。長州の高杉晋作らはこの千歳丸に乗って上海を視察。現地人が「犬と支那人、入るべからず。」と屈辱的な扱いを受けている様子を見て「このままでは日本も同じ運命を辿る。」と危機感を募らせた。
 トーマス・ブレーク・グラバーらが英国の定期船を利用して長崎と上海の間を往来していた。
上海往復の目的は何か。もちろん表向きは交易だが重要な目的は情報交換だった。かつてナポレオン戦争の頃、ロスチャイルド家はドーバーとカレーの間に私設の高速艇を常設し大陸での戦況を誰よりも早く知った。ワーテルローでイギリス側勝利の知らせを誰よりも先に入手。ところがあえて悲痛な表情で英国債を大量に売った。投資家たちは「ロスチャイルド卿が英国債を売っている。イギリスが負けたに違いない」と勝手に思い込み、慌てて国債を叩き売った。英国債は大暴落。ロスチャイルドは裏で国債を底値で大量に買った。2日後、政府にようやくイギリス勝利の報が届き人々は国債を買い漁った。英国債は大反発。ロスチャイルドはこれを高値で売って莫大な利益を上げた。人形は顔が命。投資家は情報が命。

 南北戦争直前の中進国の紅毛蠻賊アメリカ合衆国の発展途上の北部の鬼畜は、ロスチャイルドの手先、なけなしのマシュー・カルブレイス・ペリーの黒船(蒸気船は2隻、2隻は帆船で蒸気船も蒸気機関は出入港時のみ)で先に沖縄と小笠原諸島を侵攻し本土に来寇し砲艦外交で脅迫し開国させた。商人タウンゼント・ハリスら日本とそれ以外の金と銀の交換率の差を利用し日本の金を詐取した。

 明治01(西暦1868)年には戊辰戦争が始まった。紅毛蠻賊アメリカ合衆国は南北戦争で使用した武器を、薩長側には紅毛蠻賊イギリス王国経由で、コ川幕府側には紅毛蠻賊フランス帝国経由で売却した。
 ロスチャイルドの手先のジャーディン・マジソン商会の武器商人トーマス・ブレーク・グラバーはどちら側にも売りつけた。これは元はと言えば、日本の金を回して膨らませた資金で調達した南北戦争の中古武器を再び日本に売りつけた。開国当時、悪逆な世界を知らずに紅毛蠻賊列強に転がされた。


 明治維新後の洗脳教育がコ川幕府の外交を否定しているが、ぶらかし戦術は時間を稼ぎ、武力を増強するための次善の策だった。薩長土肥に水戸、越前の過激浪士(テロリスト)は、「尊王攘夷」を掲げたが、クーデター後に「用王開国」に驚天動地の180度反転し、澁澤榮一や榎本武揚など幕府の人材を使わざるを得なかった。

 戊辰戦争の一体どこが内戦ではないのか?

 鳥羽・伏見の戦いで、最高指揮官が敵前逃亡した不心得養子の最後の第15代将軍コ川慶喜や會津藩藩主松平容保(かたもり)、桑名藩藩主松平定敬(さだあき)、御用盗の騒擾を起こしたテロリストでホモ入水に失敗した過去を持つ薩摩の西郷隆盛と高利貸し盲ら(盲らには高利貸しを幕府が公認した)の末裔の勝海舟は、お互いの利害で江戸城無血開城を成し、その後の自己弁護の詭弁の虚言。大名は幕末騒擾の安全圏で、明治には華族様で維新の果実のおこぼれを啜ったが、国民は富国強兵で、金に命まで取られた。

 倒幕も幕府の指導層も、卑怯者で無責任な恥さらしの汚らわしい屑!!

 コ川幕府を滅ぼしたコ川慶喜はコ川齊昭の妾の子で養子。高須藩藩主松平義建(よしたつ)は種付けが上手い以外に功績はない尾張コ川家の分家で、妾腹が「高須四兄弟」で、次々養子にやったのが、松平容保、松平定敬で、松平義建は種付け合戦の勝者!!
 こいつらの種付け養子どもが狂った水戸学に洗脳され、ロスチャイルドに操られ国家百年の礎を誤らせた!!
 藩主や薩長のテロリスト(金と女漁り)は、家臣や領民、国民は塗炭の苦しみの傍ら、華族として上流階級で左団扇の明治を送った!!

 コ川慶喜は、御三家常陸水戸25万石第9代藩主コ川齊昭と御簾中(正室)吉子女王の子で七男、御三卿一橋家の養子となり将軍。コ川齊昭は、コ川治紀と側室永との三男。異母姉の規姫は慶勝の母。コ川慶勝と慶喜は、従兄弟。他の「高須三兄弟」も姻戚の従兄弟。
 常陸水戸藩第6代藩主コ川治保(はるもり)側室佐山(旗本前田政英の娘)との次男松平義和(よしなり)が末期養子として、御三家尾張名古屋藩61万9500石の支藩(御連枝)の美濃高須藩3万石の藩主に入った。側室平松氏との次男が松平義建。松平義建は、常陸水戸第7代藩主コ川治紀(はるとし/はるのり)と側室染浦との五女規姫を従兄妹婚姻で正室とした。その子が次男義恕(よしくみ、後の慶勝)で、尾張藩第14代藩主、第17代当主。側室尾崎氏との五男初名建重(たつしげ、後のコ川茂コ(もちなが))は高須藩藩主松平義比(よしちか)、尾張藩第15代藩主コ川茂コ、一橋家当主(一橋茂栄(もちはる))と転々とした。側室古森氏との七男容保(かたもり)陸奥国會津藩23万石第9代藩主。側室(奥山氏、今西亀等の説あり)との八男定敬(さだあき)は伊勢桑名藩6万石藩主。ここまでの4人が「高須四兄弟」。
正室規姫との三男松平武成(たけなり/たけしげ)親藩石見国濱藩6万1千石藩主。
 松平義建の五男初名建重は、長兄、四兄は夭折、次兄の慶恕は尾張コ川家を、三兄の武成は石見国濱田松平家を継いだため、この4人の兄に代わって高須藩藩主義比となった。14代将軍に就任したコ川家茂より偏諱の授与を受けて茂コ。高須藩主は代わって長男の義端(よしまさ)が継いだ。安政05年(西暦1858年)西暦07月05日、安政の大獄により、次兄のコ川慶恕(後のコ川慶勝)の隠居謹慎に伴って尾張藩主に就任した。万延01(西暦1860年)05月18日、義端が早世すると、次兄コ川慶勝と側室お玉の方との三男幼名元千代を幕命により養子とし、偏諱を与えてコ成(ながなり)と名乗らせた(後の尾張藩第16代(最後)の藩主義宜(よしのり))。やがて慶勝の謹慎が解けると藩内では慶勝派が擡頭し、そのため、高須藩主へ復帰する意向も漏らした。結局、文久03年(西暦1863年)09月13日に隠居し、義宜に藩主を譲った。慶応01年(西暦1865年)4月、長州再征に際して幕府より征長総督就任の内命を受けたが、慶勝側近らの猛反発を受け総督は紀州藩主徳川茂承に変更されたものの、茂徳にも上京が命ぜられ、大坂城に滞在する家茂の側にあって幕政に参与し、同年閏05月、諱を茂榮(もちはる)に改めた。慶応02年(1866年)12月27日、次兄の慶勝や、七弟の松平容保(会津藩主、京都守護職)の斡旋により、コ川宗家を相続(第15代将軍に就任)した慶喜に代わって一橋家当主を継承した。当初は家茂の内意を受けて清水家相続の予定であったが、慶喜の意向により同家はコ川昭武(慶喜の十八弟(庶子)、母は側室万里小路建房六女の睦子(ちかこ))が相続することととなり、相続先の差し替えが行われた。慶応04年(1868年)01月に勃発した戊辰戦争に際しては、次兄慶勝の内意を受けてコ川宗家救済の嘆願活動の一翼を担った。但し、茂徳が江戸から江尻宿に赴き、東征大総督有栖川宮熾仁(たるひと)親王に前将軍慶喜の寛大な処分を願う嘆願書を提出できたのは03月27日であり、既にこの頃、山岡鉄舟、勝海舟らによってコ川宗家の降伏条件について新政府側と妥結済であった。
 万延01(西暦1860年)、ヘボン式ローマ字で有名な宣教師の間諜で医師の紅毛蠻賊米人ジェームス・カーティス・ヘプバーン(ヘボン)(英語: James Curtis Hepburn)と紅毛蠻賊米商人フランシス・ホール(英語: Francis Hall)、間諜で宣教師で医師の紅毛蠻賊米人デュアン・シモンズ博士・B・シモンズ(英語: Duane B. Simmons)夫妻らは、神奈川宿近くの東海道で大名行列を見物した。尾張コ川家の行列の先触れに跪くよう命じられたがヘボンとホールは従わず、立ったまま行列を凝視したため、尾張藩主もヘボンらの前で駕籠を止め、オペラグラスでヘボンらを観察するなど張り詰めた空気が流れたが、数分後に尾張侯の行列は何事もなく出発し、事件・紛争化することなく事なきを得た。日本に来た紅毛蠻賊は文字通り一攫千金を狙う無法な蠻賊で、このような傍若無人で無礼、日本を蔑視した横柄な態度を示した。文久02年08月21日(西暦1862年09月14日)、無礼極まりない紅毛蠻賊に怒った薩摩藩はこの徒輩を斬り殺した。(生麦事件)
 水野忠政と於富の娘は、松平広忠の正室でコ川家康の母に於大の方で、久松俊勝と再婚してできた異父弟3人は松平家一門に准じた。この久松松平家のうち、末弟の定勝の三男定綱は美濃国大垣藩6万石から伊勢国桑名藩11万石となり、子孫は一時、越後高田藩、陸奥白河藩に移されたこともあるが、幕末には桑名藩主に戻った。途中で幕命により、田安家コ川宗武(コ川吉宗の次男)の七男賢丸(後の定信)を養子に迎え男系は途切れたが、娘で繋がっている。松平定和と島津重豪(しげひで)九女孝姫の長男、定猷(さだみち)が江戸で急死後、長男の定教は幼少で妾腹の庶子(側室)でもあったため、正室貞子嫡出の娘初子に婿養子の高須藩の松平定敬を迎え定教を養子にした。
 慶応03年10月14日(西暦1867年11月09日)に、15代将軍コ川慶喜によって大政奉還が行われた。コ川慶勝は上洛して、薩摩藩、土佐藩らとともに王政復古政変に参加し、新政府の議定に任ぜられた。12月09日(西暦1868年01月03日)の小御所会議において慶喜に辞官納地を催告することが決定、慶勝が通告役となる。この時期においても、慶勝はコ川宗家を補翼する意識を強く保持しており、大政奉還後は官位降奪の願書を朝廷に提出した他、小御所会議では慶喜の出席を主張、議定職の辞職願を提出し、辞官納地に際しては尾張藩領を宗家に返還する意向まで表明した。翌慶応04年01月03日(西暦1868年01月27日)に京都で旧幕府軍と薩摩藩、長州藩の兵が衝突して鳥羽・伏見の戦いが起こり、慶喜は軍艦で大坂から江戸へ逃亡した後謹慎した。01月15日、慶勝に対し、藩内の「姦徒誅戮」のため帰国を命ずる朝命が発せられた。01月20日(西暦02月13日)、慶勝は尾張へ戻り、家老・渡辺新左衛門ら佐幕派家臣の粛清を断行し、重臣から一般藩士にまで斬首14人、処罰20人に上った。この事件は、処刑された重臣のうちの筆頭格である渡辺新左衛門家の別称が「青松葉」とされていたことから、「朝風におもひかけなし青松葉 吹き散らされて跡かたもなし」との狂歌が生まれ、「青松葉事件」と呼ばれるようになった。

明治維新という過ち 日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト〔完全増補版〕 (講談社文庫 は 112-1) - 原田 伊織
明治維新という過ち 日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト〔完全増補版〕 (講談社文庫 は 112-1) - 原田 伊織

慶應02年12月03日(西暦1867年01月08日)アメリカ合衆国コロンビア特別区で黒人が選挙権を獲得。
12月05日(西暦01月10日)コ川慶喜が第15代征夷大将軍に就任。
12月25日(西暦01月30日)孝明天皇崩御(発表は慶応02年12月29日)。

慶應03年01月08日(西暦02月12日)北ドイツ連邦憲法制定議会の選挙。自由主義右派政党国民自由党が第1党。
01月09日(西暦02月13日)睦仁親王践祚(明治天皇)。
            ヨハン・シュトラウス2世ワルツ「美しく青きドナウ」初演(ヴィーン)。
01月11日(西暦02月15日)コ川昭武、澁澤栄一ら幕府代表としてパリ万博視察のためフランスに向けて出発。
01月13日(西暦02月17日)最初の船がスエズ運河を通過。
            プロイセン首相ビスマルクの後押しで南ドイツ三国(バイエルン、 ヴュルテンベルク、バーデン)がシュトゥットガルトで会議し、プロイセン型軍制改革を決議。
01月25日(西暦03月01日)アメリカ合衆国でネブラスカが37番目に州となる。
02月11日(西暦03月16日)ジョゼフ・リスターが消毒手術法を発表。
02月24日(西暦03月29日)イギリス王国で英領北アメリカ法勅許(05月30日(西暦07月01日))に自治領カナダ成立を承認)。
          アメリカ合衆国議会がリンカーン記念碑協会を承認。
02月25日(西暦03月30日)アメリカ合衆国がロシア帝国よりアラスカを購入。
北ドイツ連邦首相ビスマルクとフランス皇帝ナポレオン3世の間でルクセンブルク危機。
02月27日(西暦04月01日)パリ万国博覧会開幕(10月05日(西暦10月31日)まで): 日本が初展示。
            シンガポール等海峡植民地がイギリス王国植民地省の直轄となる。
03月03日(西暦04月07日) 横須賀製鉄所ドック起工(明治04(西暦1871)年竣工)。
03月12日(西暦04月16日)北ドイツ連邦憲法制定(05月30日(西暦07月01日公布)。
03月23日(西暦04月27日)シャルル・グノーオペラ「ロメオとジュリエット」初演(パリ)。
04月04日(西暦05月07日)アルフレッド・ノーベルがダイナマイトの初特許を英国で取得(慶應01(西暦1866年)発明)。
04月08日(西暦05月11日)ルクセンブルク危機をめぐってロンドン会議。ロンドン条約が締結されてルクセンブルクは永世中立国となるも普仏関係は最悪の状態へ。
04月17日(西暦05月20日)英国議会がジョン・スチュアート・ミル提議の婦人参政権案を否決。
            ロイヤル・アルバート・ホール起工式(ヴィクトリア女王)。
04月26日(西暦05月29日)オーストリア・ハンガリー帝国成立(アウスグライヒ)。
05月06日(西暦06月08日)オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世がハンガリー王としても戴冠。
05月17日(西暦06月19日)メキシコ帝国皇帝マクシミリアンが銃殺刑に処される。
05月18日(西暦06月20日)ジョンソン米大統領がアラスカ購入を公表。
            江戸幕府が条約締結国の国民と日本人との婚姻を許可する通達を出す。
05月29日(西暦07月01日)自治領カナダ成立。
06月13日(西暦07月14日)浦上四番崩れ。
06月14日(西暦07月15日)ベニート・フアレスがメキシコの共和制への復帰を宣言。
06月15日(西暦07月16日)ジョゼフ・モニエ(Joseph Monier) が鉄筋コンクリートの特許を取得。
06月16日(西暦07月17日)ハーバード大学歯学部創立(米国初の歯学部)。
06月24日(西暦07月25日)ルシアン・スミス(Lucien B. Smith)が有刺鉄線の米国特許を取得。
06月28日(西暦07月29日)一條美子(後の昭憲皇太后)が明治天皇の女御に決定。
07月05日(西暦08月04日)築地外国人居留地着工。
07月16日(西暦08月15日)イギリス王国で慶應03年西暦1867年)改正選挙法施行。
07月29日(西暦08月28日)中岡慎太郎が陸援隊を組織。
            アメリカ合衆国がミッドウェー島領有を宣言。
慶應03年07月(西暦08月)ええじゃないかが始まる。
08月05日(西暦09月02日)日本の明治天皇が昭憲皇后と結婚する。 皇后は春子と名を改める。
08月07日(西暦09月04日)シェフィールド水曜日がシェフィールドのアデルフィ・ホテルで設立される。
08月17日(西暦09月14日)「資本論」の第1巻が、カール・マルクスによって出版される。
09月03日(西暦09月30日)アメリカ合衆国がミッドウェー島を制圧。
09月04日(西暦10月01日)カール・マルクス「資本論」第1部刊行。
09月12日(西暦10月09日)江戸・大坂間に蒸気飛脚船開設。
09月19日(西暦10月16日)アラスカでグレゴリオ暦導入。
09月21日(西暦10月18日)アラスカの所有権が公式にアメリカ合衆国に変更(Alaska Day)。
09月22日(西暦10月19日)アルフレッド・ノーベルがダイナマイトの特許をスウェーデン(西暦1523年〜)でも取得(英国特許取得は5月7日)。
09月25日(西暦10月22日)ナルシス・ムントリオルがバルセロナ港の海中で、潜水艇イクティネオIIに搭載された世界初の非大気依存推進機関の試運転を行う。
10月03日(西暦10月29日)大政奉還 土佐藩がコ川慶喜へ建白書を提出。
10月06日(西暦11月01日)岩倉具視が大久保利通と品川弥二郎へ錦の御旗を製作するよう命ず。図案は玉松操が担当。
10月14日(西暦11月09日)大政奉還 コ川慶喜が明治天皇へ上奏文を提出。薩摩藩と長州藩に討幕の密勅が下される。
01月15日(西暦11月10日)大政奉還 明治天皇が勅許し大政奉還成立。
10月21日(西暦11月16日)大政奉還 コ川慶喜が大政奉還を布告。討幕の密勅が撤回される。
10月24日(西暦11月19日)大政奉還 コ川慶喜が征夷大将軍を辞す。
11月15日(西暦12月10日)坂本龍馬、中岡慎太郎暗殺される(近江屋事件)。
11月18日(西暦12月13日)伊東甲子太郎が暗殺される(油小路事件)。
12月09日(西暦1867年01月03日)王政復古の大号令、小御所会議。
12月22日(西暦01月16日)ウィリアム・デーヴィス(William Davis)が冷蔵車の米国特許を取得。
12月23日(西暦01月17日)江戸城二の丸が焼失。
12月27日(西暦01月21日)ヨーゼフ・シュトラウスのワルツ「天体の音楽」初演。
慶應04年01月03日(西暦01月27日)戊辰戦争 鳥羽・伏見の戦い。
01月04日(西暦01月28日)戊辰戦争 阿波沖海戦。
01月11日(西暦02月04日)神戸事件。
02月02日(西暦02月24日)アンドリュー・ジョンソン米大統領に対する弾劾が米国下院を通過(126対47)。
            病の英国首相ダービー卿(保守党)がディズレーリに後事を託し辞職。
02月07日(西暦02月29日)イギリス王国で第1次ディズレーリ内閣成立。
慶應04年01〜02月(西暦02〜03月)ドイツ関税同盟選挙。
02月15日(西暦03月08日)堺事件。
02月16日(西暦03月09日)アンブロワーズ・トマ歌劇「ハムレット」初演(オペラ座)。
02月19日(西暦03月12日)エディンバラ公アルフレッド暗殺未遂(ニューサウスウェールズ)。
02月20日(西暦03月13日)ジョンソン米大統領に対する弾劾裁判が米国上院で開始。
02月23日(西暦03月16日)戊辰戦争 寛永寺で彰義隊結成。
            太政官日誌創刊。
02月24日(西暦03月17日)中外新聞創刊(柳河春三)。
02月30日(西暦03月23日)パークス英公使暗殺未遂。
03月01日(西暦03月24日)アメリカ合衆国でメトロポリタン生命保険会社設立。
03月14日(西暦04月06日)明治天皇が五箇条の御誓文を発する。
03月17日〜03月21日(西暦04月09日〜04月13日)イギリス・エチオピア戦争 マグダラの戦い。
04月11日(西暦05月03日)戊辰戦争 江戸開城。
04月18日(西暦05月11日)戊辰戦争 宇都宮城の戦い。
04月23日(西暦05月16日)ジョンソン米大統領に対する弾劾が不成立(1票差)。
閏04月03日(西暦05月24日)江湖新聞創刊(福地源一郎)。
閏04月11日(西暦06月01日)もしほ草創刊(岸田吟香ら)。
閏04月20日(西暦06月10日) 戊辰戦争 会津戦争。
閏04月21日(西暦06月11日)政体書発布。
閏04月29日(西暦06月19日)ヨハン・シュトラウス2世のワルツ「ウィーンの森の物語」初演。
05月02日(西暦06月21日)戊辰戦争 北越戦争。
            ワーグナー歌劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」初演(ミュンヘン)。
05月03日(西暦06月22日)戊辰戦争 奥羽列藩同盟成立。
05月15日(西暦07月04日)戊辰戦争 上野戦争。
            太政官札発行。
05月19日(西暦07月08日)戊辰戦争: 北越戦争、長岡城陥落。
05月20日(西暦07月09日)アメリカ合衆国憲法修正第14条が批准。
06月16日(西暦08月04日)戊辰戦争 磐城の戦い。
06月25日(西暦08月13日)ペルー共和国(西暦1821年〜)(当時、現チリ共和国)アリカで大地震(M9.1、死者25000人)。
07月01日(西暦08月18日)ピエール・ジャンサンが太陽光の中に未知の元素を示す輝線スペクトルを発見(後にヘリウムと同定)。
07月06日(西暦08月23日)清国揚州で反耶蘇教暴動(揚州教案)。
07月17日(西暦09月03日) 江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書。
07月29日(西暦09月15日)戊辰戦争 二本松の戦い、二本松城が陥落。
08月08日(西暦09月23日 )ラレスの叫び(Grito de Lares)プエルトリコが南蠻スペインからの独立を宣言、鎮圧される。
08月12日(西暦09月27日)アルコレアの戦い(Battle of Alcolea): 南蠻スペインでクーデター軍が王党派軍を撃破。
08月15日(西暦09月30日)南蠻スペイン女王イサベル2世がフランスへ亡命。
08月16日(西暦10月01日)タイ王国チャクリー朝(西暦1782年〜)でラーマ5世即位。
08月22日(西暦10月07日)コーネル大学開校。
08月25日(西暦10月10日)第1次キューバ独立戦争勃発。
08月27日(西暦10月12日)明治天皇即位大礼。
慶應04年08月(西暦10月)築地ホテル館完成。
慶應04年09月08日/明治01年09月08日(西暦10月23日)元号が慶応から明治に改元(一世一元の詔)。
明治01年09月17日(西暦11月01日)観音埼燈台着工(昭和24年(西暦1949年)に灯台記念日に制定)。
09月18日(西暦11月02日)史上初の標準時をイギリス王国ニュージーランド植民地が導入。
09月19日(西暦11月03日)米大統領選挙でユリシーズ・グラントが勝利。
10月13日(西暦11月26日)東幸 明治天皇が東京入りして江戸城を皇居と治定し東京城と改称。
10月14日(西暦11月27日)ウォシタ川の戦い。
10月19日(西暦12月02日(西暦11月末の解散総選挙の結果、第1次ディズレーリ内閣が総辞職。
10月21日(西暦12月04日)戊辰戦争 箱館戦争。
10月26日(西暦12月09日)イギリス王国でグラッドストンを首相とする第1次グラッドストン内閣(自由党)成立。
11月06日(西暦12月19日)東幸 東幸を祝し明治天皇が東京府民に酒約三千樽を下賜(天盃頂戴)。
12月15日(西暦1969年01月27日)戊辰戦争 旧幕府軍が「蝦夷共和国」を樹立。
明治02年01月01日(西暦02月11日)観音埼燈台(日本初の西洋式灯台)が初点灯。
01月09日(西暦02月19日)蝦夷松前藩、第14代藩主松前修広が襲封。
01月13日(西暦02月23日)小菅県が設置される。
01月16日(西暦02月26日)アメリカ合衆国で憲法修正第15条が提案される(批准・成立は明治03年(西暦1870年)。
01月22日(西暦03月04日)ユリシーズ・グラントが第18代アメリカ合衆国大統領に就任。
01月24日(西暦03月06日)ドミトリ・メンデレーエフが元素の周期律表を発表。
            歌会始が復興。
02月07日(西暦03月19日)公議所が開所。
02月08日(西暦03月20日)新聞紙の刊行が許可される。
02月09日(西暦03月21日)品川県が設置される。
02月12日(西暦03月24日)金座、銀座が廃止される。
02月13日(西暦03月25日)日本の東京府で朱引内市街地(開墾禁止)と朱引外郷村(開墾奨励)が設定される。
02月27日(西暦04月08日)アメリカ自然史博物館、設立。
03月02日(西暦04月13日)ジョージ・ウェスティングハウスが空気ブレーキの米国における特許を取得。
03月07日(西暦04月18日)東京奠都のため、明治天皇が京都を出発。
            公議所が開所。

03月15日(西暦04月26日)天文方および浅草・九段の天文台が廃止される。
03月28日(西暦05月09日)東京奠都 明治天皇が東京に到着。
03月29日(西暦05月10日)アメリカ合衆国で最初の大陸横断鉄道が開通。
04月09日(西暦05月20日) 戊辰戦争 箱館湾海戦が勃発。
05月06日(西暦06月15日)ジョン・ハイアットがセルロイドのアメリカ合衆国における特許を取得。
05月18日(西暦06月27日)戊辰戦争 箱館戦争が終結 戊辰戦争の終結。

西暦1868年 干支:戊辰 日本(天保暦) 仏暦紀元2410年〜2411年
慶応03年12月07日〜慶応04年01月01日/明治01年01月01日(西暦01月25日〜11月18日)
一世一元の詔(明治01年09月08日(西暦1868年10月23日)行政官布告)で慶応04年01月01日/明治01年01月01日(新暦01月25日)に遡って改元する前は慶応03年12月07日〜慶応04年09月08日(西暦10月23日))


続・明治維新という過ち 列強の侵略を防いだ幕臣たち (講談社文庫 は 112-2) - 原田 伊織
続・明治維新という過ち 列強の侵略を防いだ幕臣たち (講談社文庫 は 112-2) - 原田 伊織

明治維新という過ち・完結編 虚像の西郷隆盛、虚構の明治150年 (講談社文庫) - 原田伊織
明治維新という過ち・完結編 虚像の西郷隆盛、虚構の明治150年 (講談社文庫) - 原田伊織

 慶応02(西暦1866)年にイギリス軍艦でイギリス王国に密航し2年間滞在後明治01(西暦1868)年帰国したわずか19歳の工作員、親藩・御家門の越前福井32万石藩士吉田健三は3年間ジャーディン・マセソン商会横浜支店長を務め、明治政府を相手に軍艦や武器、生糸の売買でめざましい業績を挙げ、慰労金1万円を元手に様々な事業を展開し、横浜有数の富豪にまで上り詰めた。

 吉田健三は賣國奴吉田茂の養父で、実父の土佐藩宿毛山内家(伊賀家)家臣竹内綱で実母不明の賣國奴吉田茂が華族面して外交官や政治家となり日本を破壊したのも。この吉田健三の遺産に拠るものである。吉田健三と竹内綱は自由民権運動の闘士で親友。自由民権運動は薩長の専制政治の利権から弾かれた勢力が利権を求めて興した叛逆運動。元々鹿鳴館の失態の後、憲法と国会で西欧に媚びた薩長政権の既定路線で、明治14(1881)年の国会開設の勅諭で失速し、社会の変革にならなかった。盛岡南部藩20万石の家老の家柄の原敬が平民宰相と愚民にもて囃されるが、実態は利権に群がり選挙を壟断した虫けら。吉田茂も華族でないという意味で平民。

 DS(ディープステイト)猶太やスコットランド人の犬の利得者、賣國奴の系譜、吉田茂や孫の麻生太郎、宏池会、自民党政権と日本を破壊し尽くした元凶は幕末・明治維新に端を発している。

知ってはいけない明治維新の真実 (SB新書) - 原田伊織
知ってはいけない明治維新の真実 (SB新書) - 原田伊織

 清國がアヘン戦争で敗北すると、紅毛蠻賊ヨーロッパの列強は競って東亜に進出した。 清はイギリス王国以外の列強とも不平等な条約を結ぶ破目になった。 肝心のアヘンについては条約では一切触れられることなく、依然としてアヘンの清への流入は続いた。
 アヘン戦争に破れた支那・清が上海に租界の設置を認めると、上海は紅毛蠻賊イギリス王国の対支那貿易港となり、西暦19世紀後半には上海にユダヤ人共同体が結成された。 そして、上海は西暦1920年代〜1930年代にかけて支那最大の都市に成長し、繁栄を極め、「魔都」とか「東洋のパリ」とか呼ばれるようになった。 この当時の上海におけるユダヤ人口は、西アジア出身のセファルディーム猶太700人、アシュケナージム猶太4000人ほどだった。 上海ではアヘン戦争以降、イギリス国籍、アメリカ国籍、フランス国籍を持つセファルディーム猶太がここを本拠地として活躍し、彼らがあらゆる点で支配的権力を持っていた。「上海証券取引所」の所長と99人の会員の3分の1強がセファルディーム猶太であった。
 アヘン戦争以降、ユダヤは競って支那に集っていった。 サッスーン財閥はロンドンに本部を置き、「イングランド銀行」と「香港上海銀行」とを親銀行とし、イギリス・アメリカ・フランス・ドイツ・ベルギーなどにあるユダヤ系の商事会社や銀行を仲間とし、鉄道・運輸・鉱山・牧畜・建設・土地為替売買・金融保証を主な営業科目として、上海に営業所を設け、インド、東南アジア、支那に投資を展開していった。西暦1930年、サッスーン財閥は上海を本拠地とし、「25億ドルの資本による50年投資計画」を開始した。 この計画は、「毎年1億ドルの投資を前半の25年間に継続し、支那の経済と財政を完全に掌中に握り、後半の25年間で、投資額の4倍の利益を搾取する。」というものであった。 アヘン商人のセファルディーム猶太サッスーン家は時を移さず上海に進出し、アヘンを含む物資の売買を開始した。そして、わずか1世紀足らずの間に、金融、不動産、交通、食品、重機械製造などを傘下に擁する一大財閥に成長した。その中には、金融業として「サッスーン・バンキングコーポレーション」、「ファーイースタン・インベストメント・カンパニー」、「ハミルトン・トラスト]、不動産では「上海プロパティーズ」、「イースタン・エステート・ランド」、「キャセイ・ランド」、重機械製造部門として「シャンハイ・ドックヤード」、「中国公共汽車公司」、「中国鋼車製造公司」、さらに食品関係では「上海碑酒公司」というビール会社などが含まれていた。
 サッスーン財閥は、デビッド‣サッスーンの死後、アルバート‣サッスーンが相続し、次いで、エドワード‣サッスーンが相続し、3代の間に巨富を築いた。 エドワード‣サッスーンの死後、デビッド‣サッスーンの曾孫ビクター‣サッスーンがサッスーン財閥を相続した。 ビクター・サッスーンは「上海キング」と呼ばれ、極東で1、2を競うユダヤ人大富豪であり、上海のユダヤ人社会の指導者であり、サッスーン一族の最盛期を現出した人物であった。 彼は不動産投資に精を出し、破綻した会社の不動産を買い叩き、借金の担保の不動産を差し押さえ、「グローヴナーハウス(現錦江飯店中楼)」、「メトロポールホテル(現新城飯店)」、「キャセイマンション(現錦江飯店北楼)」などを次々と建築した。 中でも彼の自慢は「サッスーンハウス(現和平飯店)」で、これはサッスーン家の本拠として建設したものである。 その後、彼は貿易・運輸・各種軽工業などにも事業展開して行き、彼の最盛期の資産は上海全体の20分の1もあった。 彼は「東洋のモルガン」の異名を持っていた。 サッスーン家はロスチャイルド家と血縁関係を結んでいる。 3代目エドワード‣サッスーンの妻はアリーン‣ロスチャイルドである。 香港最大の銀行「香港上海銀行」の株の大部分を握ったアーサー‣サッスーンの義理の弟は、金融王ネイサン‣メイアー‣ロスチャイルドの孫レオポルド‣ロスチャイルドである。
 サッスーン家は、蔣介石、宋子文、孔祥煕、陳果夫と陳立夫の各家族(支那4大家族)の向こうを張って、ジャーディン・マセソン商会、バターフィルド・スワイヤ、カドーリなどと共に「上海ユダヤ4大財閥」と呼ばれる理由はここにある。当主の第3代ボンベイ准男爵サー・エリス・ヴィクター・エリアス・サッスーン(Ellice Victor Elias Sassoon)は、ようやく五十路に手が届いたばかりの、独身の伊達男で、「彼の顔写真が新聞に登場しない日はない。」と言って良かった。
 上海のユダヤ人富豪は、サッスーン家を中心として幾つかあった。エレー・カドーリは、香港と上海の土地建物、ガス、水道、電気、電車など公共事業を経営。ローラ夫人が亡くなると、明治26(西暦1896)年、長崎出身の日本人女性(松田おけいさん)が後妻としてカドーリ家に入った。サイラス・ハードンは、イラク(バグダッド)出身の英国籍ユダヤ人。当時の上海の南京路の大通りの大部分は彼1人の所有であった。ルビー・アブラハムは、ビクター・サッスーンの伯父の長男。英国籍のセファルディーム猶太。父親は上海の猶太教徒の治安判事を務め、英国総領事館法廷でユダヤ式判決を勝ち取った人物で、「アーロン(長老)」の敬称を受け尊敬されていた。エリス・ハイムは、ルビー・アブラハムの夫人の兄。英国籍のセファルディーム猶太人。「上海証券取引所」屈指の仲買人として活躍し、サッスーン財閥と深い関係を結んでいた。
 上海のユダヤ人財閥は、サッスーン家、カドーリ家、ハードン家、エズラ家の4家で、早いものは西暦1832年から商売をしており、経済帝国を築き上げていた。その影響力は、市当局が武装した「商人部隊」の編成を外国人に認めたことでも分かり、これは西暦1928年にイギリスをモデルとした1400人の上海自衛団に改組された。自衛団にはいわゆる「ユダヤ中隊」があり、200人から250人がこれに属していた。その後ユダヤ難民がこれに加わり強化された。






欧米列強とユダヤ資本家にとって上海、長崎、横濱は重要な情報の要所だったが、情報の伝達に蒸気船でも2日近く掛かった。情報はスピードが命。欧米では既に盛んだった電信の敷設。日本や支那に電信技術を持ち込んでライバルを出し抜きたいと各国虎視眈々。明治維新なり「富国強兵」「殖産興業」が叫ばれ始めた日本。欧米の銀行から金借り欧米の最新技術や機械をガンガン買う。ダブルで美味しいカモ誕生。明治05(西暦1872)年、日本初の海底ケーブルが長崎に陸揚げされ、運用が始まった。接続先は2ヵ所。1つは上海。そしてもう1つはウラジオストクだ。ケーブルを敷設したのは「グレート・ノーザン・テレグラフ」というデンマークの企業で日本名「大北電信会社」。イギリス、デンマーク、ロシアなどが主導した3つの電信会社が合併してできた会社で、GN(デンマーク語: GN Store Nord A/S、GNストア・ノール)は補聴器やヘッドフォンなどを作っている。
海底ケーブル。上海は分かるがウラジオストクはなぜ? イギリスはインドへの通信を重要視。そのため南側での電信網拡張を得意とした。一方ロシアはイギリスに遠慮して北側で電信網を拡張。大北電信会社はロシアから受注してヨーロッパからウラジオストクまで電線を敷いた。しかし清国内に電線を敷く許可が下りない。そこでウラジオから海底ケーブルを長崎に接続。そして長崎と上海も海底ケーブルで繋いだ。こうしてヨーロッパが長崎経由で上海と繋がった。ほとんどの日本人と清国人が知らない所で日本と清の情報が秒でヨーロッパに伝わり始めた。あとは長崎・東京間に電線を繋げば日本政府の動向は上海とヨーロッパに筒抜け。そして翌明治6年(1873年)、謎の日本人が現われてそれを実現させ

日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか―ナチス時代のハルビン・神戸・上海 - ハインツ エーバーハルト マウル, 黒川 剛
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古本◆ 込◆ユダヤ人はなぜ迫害されたか
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ルーズベルトの刺客 (新潮文庫 に 13-1) - 西木 正明
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 西暦19世紀後半になると、主に旧リトアニア公国の領域(ベラルーシ・ウクライナ・モルドヴァ)で、ウクライナ人・ベラルーシ人農民、コサックなどの一揆の際にユダヤ人が襲撃の巻き添えとなった。西暦1881年にアレクサンドル2世が暗殺されると、帝政ロシア政府は社会的な不満の解決をユダヤ人排斥主義に誘導したため反ユダヤ運動が助長されることになり、ロシア帝国で反ユダヤ主義のポグロム(1881年 - 1884年)が起こった。ユダヤ人はオーストリア・ハンガリー帝国領ブロディへ大量に脱出したため町が混乱すると、西暦1882年に5月法が発布され、ユダヤ人への締めつけが実施された。
 西暦1890年、エリエゼル・ベン・イェフダー(ヘブライ語: אֱלִיעֶזֶר בֶּן־יְהוּדָה‎、’Eli‘ezer bēn Yәhūdhāh)がパレスチナに「ヘブライ語委員会」(「ヘブライ語アカデミー」の前身)を設立。西暦1894年にフランス共和国でドレフュス事件が起こり、同年には「イディッシズム」を代表する作家、ショーレム・アレイヘム(イディッシュ語: שלום־עליכם、ヘブライ語: שלום עליכם、英語: Sholem Aleichem)による「牛乳屋テヴィエ」(「屋根の上のバイオリン弾き」の原作)が発表された。西暦1896年、ユダヤ人テオドール・ヘルツル(ヘブライ語: בנימין זאב הרצל(Binyamin Ze'ev Herzl、ビニャミン・ゼエヴ・ヘルツェル)、ハンガリー語: Herzl Tivadar、独語: Theodor Herzl)が「ユダヤ人国家」を発表した。
 西暦1900年には黒百人組(露語: Чёрная сотня, черносотенцы)が結成され、西暦1903〜1906年にかけてロシア帝国で皇帝や正教会の支持を得て、度重なるユダヤ人襲撃が起こった(キシナウ・ポグロム)。各国でポグロムやユダヤ人襲撃が行われたことが引き金となり、古代にユダヤ人が暮らしたイスラエルの地に帰還してユダヤ人国家を作ろうとするユダヤ人ナータン・ビルンバウムナータン・ビルンバウム(独語: Nathan Birnbaum)によるシオニズム運動が起きた。「ユダヤ人」は世界に離散後もそのほとんどが猶太教徒であり(耶蘇教や回教に改宗した途端、現地の「民族」に「同化」する。)、猶太教の宗教的聖地のイスラエルの地に帰還することもその理由の1つである。


白人侵略 最後の獲物は日本 ─なぜ征服されなかったのか 一気に読める500年通史 - 三谷 郁也
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2024年11月30日

反吐が出る世界史 アシュケナージム猶太ロスチャイルド家の犬、セファルディーム猶太デ・イスラエルの後半生 明治維新の本性 悪逆非道なディープステイト(DS)の中核、猶太とは何か その29

ダビデの星.jpgユダヤ(ギリシャ語: Ἰουδαία、Ioudaía、漢字:猶太)

 他民族からは「ヘブライ人」と謂れ、自らは「イスラエル人」と称し、バビロン捕囚後には「ユダヤ人」と呼ばれるようになった徒輩。ヘブライ人、イスラエル人、ユダヤ人は同じ民族を指している。
 ユダヤ人(ヘブライ語: יהודים‎、英語: Jews、ラジノ語: Djudios、イディッシュ語: ייִדן‎)は、猶太教の信者(宗教集団)または猶太教信者を親に持つ者によって構成される宗教信者。原義は狭義のイスラエル民族のみを指す。イスラエル民族の1つ、ユダ族がイスラエルの王の家系だったことを由来とする。猶太教という名称は、猶太教徒が多く信仰していた宗教であることによる。ユダヤとは、パレスチナ南部の地域。酋長ヤコブの子ユダに由来する。古代イスラエル統一王国の分裂後の南ユダ王国があった地域である。



南ユダ王国滅亡後のユダヤの歴史

南ユダ王国が滅ぶと、僅かな例外的時期を除いて西暦20世紀に至るまでユダヤ民族が独立国を持つことはなかった。


神武天皇74(西暦前587)〜安寧天皇10(西暦前539)年 新バビロニア帝国
安寧天皇10(西暦前539)〜孝安天皇61(西暦前332)年 アケメネス朝ペルシア帝国
孝安天皇61(西暦前332)〜孝安天皇88(西暦前305)年 プトレマイオス朝エジプト
孝安天皇88年(西暦前305)〜開化天皇17(西暦前141)年 セレウコス朝シリア
開化天皇17(西暦前141)〜崇神天皇35(西暦前63)年 ハスモン朝 ユダヤ人国家
崇神天皇35(西暦前63)〜崇神天皇61(西暦前37)年 共和政ローマ元老院属州
崇神天皇61(西暦前37)〜垂仁天皇73(西暦44)年 ヘロデ家
垂仁天皇73(西暦44)年 ユダヤ属州(ローマ帝国皇帝属州)
垂仁天皇73(西暦44)〜景行天皇23(西暦93)年 ヘロデ家
垂仁天皇73(西暦44)〜仁徳天皇83(西暦395)年 ローマ帝国皇帝属州
仁徳天皇83(西暦395)〜舒明天皇06(西暦634)年 東ローマ帝国
舒明天皇06(西暦634)〜永正13(西暦1516)年 イスラーム諸王朝 途中に十字軍国家の時代を含む。
永正13(西暦1516)〜大正06年(西暦1917)年 オスマン帝国 
大正07年(西暦1918)〜昭和23(西暦1948)年 イギリスによる国際聯盟の委任統治 
昭和23(西暦1948)年 イスラエル国(メディナット・イスラエル)成立 共和政国家の樹立、現代に至る。



 西暦135年、ローマが叛乱を鎮圧し、ユダヤ的なものを一掃しようとしたローマ人は、この土地をユダの地(ユダヤ)ではなく、ユダヤ人の宿敵ペリシテ人に因んで「パレスチナ」、エルサレムを「アエリア・カピトリーナ」と改称し、ユダヤという地名は消滅した。

 また、ユダヤ人は人種的にはセム族とされるが、長いディアスポラ(離散)のなかで、周辺民族との混血の結果、セファルディームアシュケナジームの違いが生じ、また言語もイデッシュ語などが生まれた。現在、ユダヤ人はイスラエルの他、世界中に分布しており、アメリカにも約600万人が住んでいるとされる。しかし現在ではユダヤ人を「人種」概念で捉えるのは困難で、現実には「猶太教を信仰する徒輩」と捉えるのが正しい。人類学的に同質のユダヤ人は存在しない。



 セファルディーム猶太ベンジャミン・ディズレーリ(Benjamin Disraeli)が首相の座に登り、ヴィクトリア女王の寵愛を得て伯爵に叙せられたが、ユダヤ出自は英国という国では致命的障害にはならなかった。しかし幾多の偏見を乗り越える必要はあった。政治家志望の野心的な若者にとり、必要なことは後援者探しで社交界に潜り込み、色男の小説家として振る舞い、裕福な未亡人たちの歓心を買って、その富でのし上がった。彼の文才、男ぶりは出自を跳ね返す武器となった。社交界では異人との交際は持て囃された。
 ベンジャミン・ディズレーリ(=デ・イスラエル)と同根のセファルディーム猶太で「アヘン王」のサッスーン家は、金融とアヘン取引で莫大な富を蓄積し、サッソン家は「東洋のロスチャイルド」と呼ばれる世界で最富裕層の一族となり、アジア大陸全体に広がるサッスーン帝国を築いた。アシュケナジーム猶太ロスチャイルドはアヘン取引のような汚れ仕事はサッスーン家や兇暴なスコットランド人のジャーディン家、マセソン家やケズウィック家、トーマス・ブレーク・グラバー(英語: Thomas Blake Glover)に任せ、裏で繋がり利益を貪っていた。これは、三角貿易や2度にわたるアヘン戦争でアジアの富を吸い尽くす恥知らずの邪悪なブリカス=イギリス王国(グレートブリテン及びアイルランド連合王国(西暦1801〜1927年))の国策であった。


 一方、西暦1820年代〜1830年代にかけてイギリス王国(グレートブリテン及びアイルランド連合王国)ハノーヴァー朝(西暦1714〜1901年)では、産業革命による工業化・都市化の進展によって労働者階級が形成されるようになった。しかし当時のイギリス王国には労働者の最低限度の生活を保障するような制度がほとんど何も存在しなかった。そのため労働者運動が盛んになり、救貧院に収容される貧困労働者の生活水準は、収容されていない労働者の生活水準を下回らねばならないとする劣等処遇の原則を盛り込もうとする救貧法改正に反対する運動と工場法改正による10時間労働の法令化を求める運動が拡大してイングランド北部を中心にチャーティズム(Chartism)運動が形成されるようになった。西暦1838年05月にはウィリアム・ラベット(William Lovett)によって、男子普通選挙、秘密投票、毎年の解散総選挙、議員の財産資格廃止、議員歳費支給、選挙区の平等の6つを掲げた人民憲章が提唱され、チャーティズム運動の旗印となった。チャーティズム運動は、国民から人民憲章支持の署名を集め、西暦1839年07月に議会に請願するという形で進展していった。
 しかし保守党とホイッグ党の2大政党は揃って12万人の署名が入ったこの請願を拒否した。「改革の父」と呼ばれたジョン・ラッセル卿(初代ラッセル伯ジョン・ラッセル(John Russell, 1st Earl Russell, KG, GCMG, PC, FRS)、西暦1861年までは儀礼称号ジョン・ラッセル卿(Lord John Russell))さえもがチャーティストを法廷で告発した。一方ベンジャミン・ディズレーリはチャーティズム運動を支援していた。庶民院の議員の中でチャーティストに理解を示していた。「チャーティスト達の議会への請願がある。」とベンジャミン・ディズレーリは自党の救貧法改正賛成の立場を批判し、またチャーティズム運動を取り締まるためのバーミンガム警察への予算増額にも反対した。この予算増額に反対したのはベンジャミン・ディズレーリを含めて3議員だけであり、下手をすると保守党からの公認を取り消されかねない危険を冒しての行動だった。西暦1839年11月にウェールズ・ニューポートで炭鉱夫の叛乱が発生するとチャーティスト指導者が続々と官憲に逮捕されたが、これに対してもベンジャミン・ディズレーリは4人の議員とともにチャーティスト指導者弾圧に反対する運動を行った。ベンジャミン・ディズレーリは決してチャーティストの主義主張に賛同していたわけではない。しかしラッセル卿のような改革者までがチャーティストを攻撃している姿を奇異に感じており、それに反発した。ベンジャミン・ディズレーリは庶民院の演説で「イギリスのような貴族主義の国では反逆者さえも成功するには貴族的でなければならないことをチャーティスト達は思い知ることになるでしょう。(略) イギリスでは同じ改革者でもジャック・某の場合は絞首刑に処せられ、ジョン・某卿の場合は国務大臣になるのです。」と皮肉った。チャーティズムに理解を示した態度からもわかるように、ベンジャミン・ディズレーリはこの時点もこの後も保守党正統派というわけではなく、保守党急進派、もしくは中道左派ともいうべき保守党内では特殊な政治的立場にいた。
 一方でベンジャミン・ディズレーリは保守党党首ロバート・ピールに追従し、タイムズ紙にロバート・ピールを称える寄稿文を寄せた。ホイッグ党の首相第2代メルバーン子爵ウィリアム・ラムを寵愛するヴィクトリア女王がロバート・ピールの案による寝室女官の新人事に文句をつけてロバート・ピールの組閣を阻止した寝室女官事件でも、ベンジャミン・ディズレーリは「マダム、それはなりません。」という文を書いてヴィクトリア女王を批判し、ロバート・ピールの対応を称賛した。ホイッグ党の首相メルバーン子爵はヴィクトリア女王の寵愛のみで政権を維持していたが、すでに死に体であった。西暦1841年05月に内閣不信任案が1票差で可決され、解散総選挙となった。この選挙でベンジャミン・ディズレーリはシュルズベリー選挙区に鞍替えした。選挙戦中にベンジャミン・ディズレーリは買収容疑を掛けられたため、苦しい選挙戦となったが、なんとか再選を果たした。しかし買収容疑の追及は選挙後もしばらく続いた。選挙の結果、保守党がホイッグ党から第1党の座を奪い取ったが、メルバーン子爵ウィリアム・ラムはなおも政権を維持する積りだった。それを阻止すべく、「保守党内では庶民院議長再選に反対すべき。」との意見が出されたが、ロバート・ピールら党執行部はその意見を退けた。これによって庶民院議長の不偏不党性が確立された。だが党内にはなおもそれを主張し続ける者があり、彼らはタイムズ紙に「ピシータカス」という偽名でその意見を掲載し始めた。この「ピシータカスがベンジャミン・ディズレーリだ。」という疑惑が広まった。ベンジャミン・ディズレーリはその噂を否定しているが、この件で保守党執行部から忠誠を疑われるようになった。ヴィクトリア女王はロバート・ピールを毛嫌いしていたが、彼女の夫アルバート・オブ・サクス・コバーグ・ゴータ公子(Prince Albert of Saxe-Coburg-Gotha, 独語名: アルブレヒト・フォン・ザクセン・コーブルク・ゴータ(Albrecht von Sachsen-Coburg-Gotha))王配はロバート・ピールを高く評価しており、彼がヴィクトリア女王を説得した結果、西暦1841年08月30日にロバート・ピールに大命降下があった。
 ベンジャミン・ディズレーリはピール内閣に入閣できるものと思っていたが、お呼びは掛からなかった。ベンジャミン・ディズレーリは、ロバート・ピールに自分を見捨てないよう懇願する手紙を送ったが、ロバート・ピールからの返事はそっけなかった。結局ロバート・ピールの組閣は閣僚のほとんどが第1次ピール内閣(西暦1834〜1835年)と同じ顔触れとなり、新規閣僚は4人だけで、ベンジャミン・ディズレーリは入閣できなかった。ロバート・ピールから嫌われているわけではなかったが、保守党上層部の中には彼を胡散臭がる者は多かった。もっともベンジャミン・ディズレーリが入閣できなかったのはこの当時の保守党内政治力学を考えれば順当なことであり、入閣はベンジャミン・ディズレーリの高望みであった。
 ピール内閣に入閣できなかったベンジャミン・ディズレーリは、当初院内幹事長の初代コテスロー男爵、第2代フリーマントル男爵トーマス・フランシス・フリーマントル(Thomas Francis Fremantle, 1st Baron Cottesloe, 2nd Baron Fremantle, PC PC (Ire) JP)からも「採決において政府法案に賛成しそうな与党議員」と見られていたが、徐々にロバート・ピールに批判的になっていった。第7代ラトランド公ジョン・ジェイムズ・ロバート・マナーズ(John James Robert Manners, 7th Duke of Rutland, KG, GCB, PC、兄チャールズからラトランド公爵位を継承する西暦1888年以前はジョン・マナーズ卿(Lord John Manners)の儀礼称号を使用)、第7代ストラングフォード子爵ジョージ・スマイズ(George Smythe, 7th Viscount Strangford、西暦1855年以前はジョージ・スマイス閣下(Honourable George Smythe))、初代ラミントン男爵アレクサンダー・ダンダス・ロス・コックラン・ウィシャート・バイリー(Alexander Dundas Ross Cochrane-Wishart-Baillie, 1st Baron Lamington、アレクサンダー・バイリー・コックラン)の3人と共に党内反執行部小派閥「ヤング・イングランド(Young England)」を結成してロバート・ピール批判を行った。ベンジャミン・ディズレーリを除く3人はケンブリッジ大学出身者であり、自由主義化の風潮に抵抗して宗教改革以前の「純粋で腐敗のない宗教」を復活させることを目的とするオックスフォード運動に影響を受けていた。これを宗教から政治に転用しようとしたものが「ヤング・イングランド」であり、封建主義時代に戻ろうという復古主義運動であった。こうした思想の者には紋切り型なロバート・ピールよりベンジャミン・ディズレーリの機知に富んだ演説の方が魅力的に感じられた。とりわけ少年時代から顔見知りだったジョージ・スマイズとの相性が良かったが、アレクサンダー・バイリー・コックランはベンジャミン・ディズレーリの下心を警戒していた。ベンジャミン・ディズレーリはカトリックに対して同情的であったものの、イングランド国教会の歴史的偉大さを確信しており、オックスフォード運動が主張するような「イングランド国教会をカトリック化する。」という案には慎重だった。そのため宗教に一家言あるジョン・マナーズ卿としばしば宗教論争となり、皮肉屋のジョージ・スマイズを面白がらせていた。ジョージ・スマイズは「ディズレーリの穏健なオックスフォード主義は、ナポレオンが若干イスラーム教に傾斜していたのに似ている、」と評した。ジョン・マナーズ卿(第5代ラトランド公ジョン・ヘンリー・マナーズ(John Henry Manners, 5th Duke of Rutland KG)の次男)とジョージ・スマイズ閣下(第6代ストラングフォード子爵パーシー・クリントン・シドニー・スマイス(Percy Clinton Sydney Smythe, 6th Viscount Strangford GCB GCH)の長男)は貴族出身者であった。ベンジャミン・ディズレーリは引け目があったのか、2人に「イギリス貴族などというものは存在しない。」と語りだしたことがあった。ベンジャミン・ディズレーリ曰く「今残っているイギリス貴族は5家を除いて、全て最近になって称号を手に入れた者たちであり、真に長い歴史を持つ唯一の血筋はディズレーリ家だ。」という猶太お得意の捏造史を論じた。ジョージ・スマイズはこれを笑って聞き、ジョン・マナーズ卿は生来の真面目さで傾聴していた。
 「ヤング・イングランド」は西暦1843年には公然の存在となり、4人は議場でも固まって座っていた。彼らは自分たちの所属する保守党の方針に反してでも「復古主義」、「民衆的保守主義」の信念を貫く投票を行った。内務大臣第2代准男爵ジェームズ・ロバート・ジョージ・グラハム(James Robert George Graham, 2nd Baronet, GCB, PC)は西暦1843年08月に「ヤング・イングランドについていえば、その人形を操っているのはディズレーリである。彼が一番有能。」と書いた。
 自由貿易論者であるロバート・ピール首相は西暦1844年06月、外国産砂糖を植民地産砂糖と同じ水準に関税に引き下げる法案を通そうとした。これに公然と反対意見を表明したのは「ヤング・イングランド」など一握りだけであったが、保守党内にも植民地親派が多く、彼らも「ヤング・イングランド」に同調するようになった。ベンジャミン・ディズレーリが「私は某大臣から48時間以内に態度を変えろと脅迫されたが、その積りはない。」と演説すると議場から大きな拍手が起こった。しかし、結局スタンリー卿(第14代ダービー伯エドワード・ジョージ・ジェフリー・スミス・スタンリー(Edward George Geoffrey Smith-Stanley, 14th Earl of Derby, KG, GCMG, PC, PC (Ire)、西暦1834〜1844年まではスタンリー卿(Lord Stanley)、西暦1844年にビッカースタッフのスタンリー男爵(Baron Stanley of Bickerstaffe))、西暦1851年からダービー伯)の巧みな演説がピール政権側に有利に作用し、20票差で法案は可決された。この頃にはロバート・ピールに深い信頼を寄せるようになっていたヴィクトリア女王も「ヤング・イングランド」に激しい怒りを感じ、叔父ベルギー王レオポルド1世(仏語: Léopold Ier)に宛てた手紙の中で「若い狂人の群れ」として批判した。またラトランド公ジョン・ヘンリー・マナーズとストラングフォード子爵に対して子息の監督強化を強く求めた。ベンジャミン・ディズレーリはそれにお構いなしに西暦1844年05月にロバート・ピールを批判した政治風刺小説を出版し、その翌年05月には、労働者やチャーティストの悲惨な生活を描き出し、「富裕層と貧困層は階級の上下というよりも、最早2つの国民に分断されている状態である。」と皮肉った。さらに西暦1847年のロバート・ピール失脚後に、猶太教について語った小説「タンクレッド」で。「耶蘇教国の改造には猶太教の教えを導入すべきである。」と暗示した。
 西暦1845年夏にアイルランドでジャガイモ飢饉が発生した。当時の一般的なアイルランド家庭はパンを買う余裕がなく、ジャガイモを主食にしており、アイルランドの食糧事情は危機的状態となった。ロバート・ピール首相は「直ちに穀物法に定められている穀物関税を廃し、安い小麦を国外から買い入れられるようにしてパンの値段を下げなければならない。」と考えた。しかし地主が多く所属する保守党内の反対勢力から激しい反発を受けた。閣内も分裂状態となり、ロバート・ピール首相は保護貿易主義者のスタンリー卿や第5代バクルー公および第7代クイーンズベリー公ウォルター・フランシス・モンタギュー・ダグラス・スコット(Walter Francis Montagu Douglas Scott, 5th Duke of Buccleuch, 7th Duke of Queensberry,KG PC FRS FRSE)を説得できず、一度総辞職したが、ヴィクトリア女王が後任を見つけられなかったので、再度ロバート・ピールに大命降下があり、保護貿易主義者のみを除いた以前と同じ顔触れの内閣を発足させた。この時のロバート・ピールの組閣の際に「ヤング・イングランド」のジョージ・スマイズに外務政務次官への就任要請が来た。ジョージ・スマイズはベンジャミン・ディズレーリを尊敬していたが、ジョージ・スマイズの父ストラングフォード子爵が息子に圧力をかけた結果、ジョージ・スマイズはこの要請を受けることとなった。これによってベンジャミン・ディズレーリとジョージ・スマイズが会う機会は減ったが、2人の友情は変わらなかった。
 ロバート・ピールは再び穀物法を廃止しようとしたが、やはり保守党内の反対勢力の激しい反発に遭った。ベンジャミン・ディズレーリはこの保守党内の空気を利用してロバート・ピール批判の急先鋒に立った。彼は「穀物の自由貿易はイギリス農家を壊滅させる。また自由貿易にしたところで穀物の価格は下がりはしない。」という持論を展開した。さらに議会の礼節を無視した罵倒さえ行い、これにロバート・ピールの弟ジョナサン・ピール(Jonathan Peel, PC)が激怒し、ベンジャミン・ディズレーリに決闘を申し込み、またロバート・ピール本人も「かつてベンジャミン・ディズレーリが閣僚ポストを懇願した手紙を公開してやろうか。」と考えたほどだった。ベンジャミン・ディズレーリが全精力を注いで行ったロバート・ピール批判演説によって、ロバート・ピールは保守党内からイギリス農業を壊滅させようとする党の裏切り者という悪評が貼られるようになっていった。
 さらに第4代ポートランド公ウィリアム・ヘンリー・キャヴェンディッシュ・スコット・ベンティンク(William Henry Cavendish-Scott-Bentinck, 4th Duke of Portland PC FRS FSA、西暦1809年までは「ティッチフィールド侯」の儀礼称号)の三男で、保護貿易主義派の保守党庶民院院内総務ウィリアム・ジョージ・フレデリック・キャヴェンディシュ・スコット・ベンティンク卿(Lord William George Frederick Cavendish-Scott-Bentinck、ジョージ・ベンティンク卿)と連携して保守党内の造反議員を増やしていった。結局ロバート・ピールは保守党庶民院議員の3分の2以上の造反に遭いながらも野党であるホイッグ党と急進派の支持のお蔭で穀物法を廃止することができた。ベンジャミン・ディズレーリとジョージ・ベンティンク卿はロバート・ピールを追い詰めるため、アイルランド強圧法案を否決させることにした。当時、政府がこのような治安法案で敗北した場合、総辞職か解散総選挙しか道はなかったが、「党執行部は議席を失うことを恐れているので解散総選挙はできない。」とジョージ・ベンティンク卿は見ていた。因みにジョージ・ベンティンク卿はこの法案について第1読会で賛成票を投じていたが、適当な理由をでっち上げて反対に回ることにした。2人にとっては最早政策より「ロバート・ピールを潰す。」という政局の方が大事だった。この法案には穀物法の時ほど党内造反者を作ることは期待できなかったが、それでも70人ほどの造反者を出させることに成功した。そしてこの法案に反対するホイッグ党や急進派と協力して、西暦1846年06月25日の採決で73票差でこの法案を潰す事に成功した。これを受けてピール内閣は06月29日に総辞職を余儀なくされた。ロバート・ピール元首相以下、保守党内の自由貿易派議員112人は保守党を離党してピール派を結成した。閣僚や政務次官経験者など党の実務経験者は全てこちらへ流れていった。後のベンジャミン・ディズレーリの宿敵ウィリアム・ユワート・グラッドストンもその1人であった。当時の保守党は貴族や地主の倅ばかりであり、家の力で議員になった者が多く、そこから実務経験者が抜けてしまうと、残るのは無能な者ばかりであった。そこにベンジャミン・ディズレーリが自由貿易批判、保護貿易万歳論を煽ったことで、保守党が単なる復古的農本主義団体と化していくことは避けられなかった。国民は保守党の統治能力を疑い始め、「この政党を政権につけたら革命を誘発しかねない。」という不安を抱くようになった。保守党はこの後30年にわたって国民から倦厭され続け、少数党の立場から抜け出せなかった。その間もしばしば保守党が政権に付くことがあったのは野党が分裂していたからであった。ベンジャミン・ディズレーリとジョージ・ベンティンク卿はロバート・ピールを攻撃してる積りで保守党を破滅させた。
 ピール内閣総辞職後、ヴィクトリア女王は新たな保守党党首スタンリー卿(第14代ダービー伯エドワード・ジョージ・ジェフリー・スミス・スタンリー(Edward George Geoffrey Smith-Stanley, 14th Earl of Derby, KG, GCMG, PC, PC (Ire))、西暦1834〜1844年まではスタンリー卿(Lord Stanley)、西暦1844年にビッカースタッフのスタンリー男爵(Baron Stanley of Bickerstaffe)、西暦1851年からダービー伯))を首相に据えようとしたが、彼は党の実務経験者が全てピール派に移っていたことから組閣は不可能と判断しホイッグ党とピール派に連立政権を作らせるよう奏上した。こうしてホイッグ党のジョン・ラッセル卿に大命降下があり、ラッセル卿内閣が成立した。発足当初のラッセル卿内閣はホイッグ党とピール派の連立を基盤としていたが、この両勢力は自由貿易以外に共通点がなく、政権はすぐに行き詰まり、西暦1847年06月に解散総選挙となった。すでに知名度が上がっていたベンジャミン・ディズレーリは、この選挙でバッキンガムシャー選挙区に鞍替えしたが、圧勝して再選を果たした。しかし総選挙全体の結果は改選前とほとんど変わらないものだった。結局ラッセル卿内閣は議会の支持基盤が不安定でも、保守党が分裂しているために政権を維持している状態で政権運営を続けることになった。保守党の分裂で党有力者が軒並みピール派へ移ったことはベンジャミン・ディズレーリにとっては党内で枢要な地位を固める好機であった。ベンジャミン・ディズレーリが保守党指導者に上り詰めるためには「反抗期の青年議員」を卒業して「威厳ある保守政治家」にならねばならなかった。まず変化したのは服装だった。これまでのベンジャミン・ディズレーリの悪趣味で派手なけばけばしい色使いの服装は、落ち着いた雰囲気の紳士的な服装に変わった。また保守党内で出世するためには、どうしても大邸宅に住む地主になる必要があった。大富豪第4代ポートランド公ウィリアム・ヘンリー・キャヴェンディッシュ・スコット・ベンティンクの三男ジョージ・ベンティンク卿とその弟ヘンリー・ベンティンク卿(Lord Henry William Scott-Bentinck)から資金援助を受け、西暦1846年にヒューエンデンに屋敷を購入した。

 アシュケナジーム猶太のロンドン・ロスチャイルド家の悪魔、ネイサン・メイアー・ロスチャイルドは、西暦1798年に英国に帰化したユダヤ人、レヴィ・ベアレント・コーエン(Levy Barent Cohen)の娘のハナ・ベアレント・コーエン(Levy Barent Cohen)との間に以下の4男3女を儲けた。ハナの伯父ザロモン・ダヴィド・ベアレント・コーエン(Salomon David Barent Cohen)の娘はナネット・サロモンズ・コーエン(Nanette Salomons Cohen)で、カール・マルクス(独語: Karl Marx)とフレデリック・フィリップス(独語: Frederik Philips)の母方の祖母であり、フレデリック・フィリップスは息子のジェラルド(Gerard)と共にフィリップス電器を設立した。

ネイサン・メイアー・ロスチャイルドの末裔


 長女シャーロットウィーン・ロートシールト家第2代当主のロートシルト男爵アンゼルム・ザロモン(Anselm Salomon Freiherr von Rothschild)と結婚。長男マイアー・アンゼルム・レオン、夭折。長女カロリーネ・ジュリー、ナポリ・ロートシルト家のアドルフ・カールと結婚。次女ハンナ・マティルデ(ヴィルヘルミーネ・ハンナ・マチルデ・フォン・ロートシルト男爵夫人(Wilhelmine Hannah Mathilde Freifrau von Rothschild))フランクフルト・ロートシルト本家のロートシルト男爵ヴィルヘルム・カール(Wilhelm Carl Freiherr von Rothschild)と結婚。三女サラ・ルイーゼ、イタリア貴族ライモンド・フランケッティ(Raimondo Franchetti)男爵と結婚。次男ナサニエル・マイヤー(Nathaniel Meyer Freiherr von Rothschild)、三男ロスチャイルド男爵ファーディナンド・ジェームズ(独語名: ロートシルト男爵フェルディナント・イェームス(Ferdinand James Freiherr von Rothschild)、英語: Baron Ferdinand James de Rothschild))ロンドン・ロスチャイルド家のエヴェリーナ・ガートルード・ド・ロスチャイルド(Evelina Gertrude de Rothschild)と結婚。英国に移住し、英国庶民院議員となった。四男ロートシルト男爵アルベルト・ザロモン・アンゼルム(Albert Salomon Anselm Freiherr von Rothschild)、銀行業を継承し、ウィーン・ロートシルト家の第3代当主。四女アリーセ・シャルロッテ(Alice Charlotte von Rothschild)、英国へ移住。
 長男ロスチャイルド男爵ライオネル(Baron Lionel de Rothschild)ロンドン・ロスチャイルド家第2代当主。庶民院議員。ヴィクトリア女王の反発を買い英国の貴族になる事は叶わなかった。西暦1836年にナポリ・ロートシルト家の祖であるカール・マイアー・フォン・ロートシルト(Carl Mayer von Rothschild)の長女シャーロット・フォン・ロートシルト(Charlotte von Rothschild)と結婚。長女レオノラはパリ・ロチルド家の第2代当主のロチルド男爵アルフォンス(Le baron Alphonse de Rothschild)と結婚。次女エヴェリナ・ガートルードは、ウィーン・ロートシルト家出身で英国に帰化したロスチャイルド男爵ファーディナンド・ジェームズと結婚。長男初代ロスチャイルド男爵ナサニエル・メイヤー(Nathaniel Mayer Rothschild, 1st Baron Rothschild, GCVO, PC)、ロンドン・ロスチャイルド家嫡流3代当主。初代ロスチャイルド男爵に叙された。フランクフルト・ロートシルト家のエンマ・ルイーザ・フォン・ロートシルト(Emma Louise von Rothschild)と結婚。次男アルフレッド・チャールズ(Alfred Charles de Rothschild)。三男レオポルド・ライオネル(Leopold Lionel de Rothschild, CVO)トリエステのユダヤ人アキッレ・ペルージャの娘マリー・ペルージャと結婚。ここから庶流が多く派生。
 次男、初代ロスチャイルド准男爵アンソニー(Sir Anthony de Rothschild, 1st Baronet)、准男爵位に叙され、兄ライオネルの長男のナサニエルが継承。マイアー・アムシェル・ロートシルト(Mayer Amschel Rothschild)の五女ヘンリエッテの娘ルイーズ・モンテフィオレ(Louise Montefiore)と従兄従妹婚。
 三男ナサニエル・ド・ロスチャイルド(Nathaniel de Rothschild、「ナト」、独語: ナタニエル・ド・ロートシルト、仏語: ナタニエル・ド・ロチルド)は、 パリに移住しシャトー・ブラーヌ・ムートンのブドウ園を購入し、シャトー・ムートン・ロチルドと改名し、世界で最もよく知られるワイン生産者になった。パリ・ロチルド家の祖、ロチルド男爵ジェームス(Le baron James de Rothschild)とウィーン・ロートシルト家の祖、ロートシルト男爵ザーロモン・マイアー(Salomon Meyer Freiherr von Rothschild)の長女ベティ・フォン・ロートシルト(Betty de Rothschild)の叔父姪の近親婚の娘シャーロット・ド・ロチルド(Charlotte de Rothschild)と結婚した。シャーロット・ド・ロチルドは、パリ文化の中心にいた非常に裕福なユダヤ人の叔父姪の近親婚の両親に育てられた。両親は、ジョアッキーノ・ロッシーニ(Gioacchino Rossini)、フレデリック・ショパン(Frédéric Chopin)、オノレ・ド・バルザック(Honoré de Balzac)、ウジェーヌ・ドラクロワ(Eugène Delacroix)、ハインリヒ・ハイネ(Heinrich Heine)など、芸術界の多くの著名人を支援し、フレデリック・ショパンは西暦1841年にシャルロットのピアノ教師となり、フレデリック・ショパンはシャルロットに、所謂「別れのワルツ」ワルツ第9番変イ長調作品69-1の自筆楽譜を捧げた。西暦1843年の結婚祝いに贈られたものと思われる有名なバラード第4番 ヘ短調作品52、そして4年後には別の作品であるワルツ第7番嬰ハ短調作品64‐2を作曲した。
 次女ハナ・メイアー(1815年 - 1864年)、政治家ヘンリー・フィッツロイ(Henry FitzRoy)と結婚。
 四男ロスチャイルド男爵メイヤー・アムシェル(Baron Mayer Amschel de Rothschild)、庶民院議員、馬主。西暦1871年には5つのクラシックのうち4つ(ダービー・セントレジャー・オークス・1000ギニー)までを「ハンナ」と「ファヴォニウス」で制した。従妹のジュリアナ・コーエン(Juliana Cohen)と結婚し、彼女との間の一人娘のハンナ(ハンナ・プリムローズ、ローズベリー伯爵夫人(Hannah Primrose, Countess of Rosebery)、旧姓: Rothschild)は、西暦1878年に第5代ローズベリー伯爵および初代ミッドロージアン伯爵アーチボルド・フィリップ・プリムローズ(Archibald Philip Primrose, 5th Earl of Rosebery, KG KT PC FRS FBA、後の首相)と結婚。
 三女ルーイーズ・フォン・ロスチャイルド(Louise von Rothschild)、ナポリ・ロートシルト家の祖、カール・マイアー・フォン・ロートシルトの長男ロートシルト男爵マイアー・カール(Mayer Carl Freiherr von Rothschild)と三男ヴィルヘルム・カールは子供を遺さずに死去した伯父アムシェル・マイアーのフランクフルトにおける事業を継いだ。この長男のロートシルト・フランクフルト本家の第2代当主マイアー・カールと結婚。

アシュケナジーム猶太、ロスチャイルド家は、叔父姪、従兄妹の近親婚を繰り返す鬼畜一家。

 ロスチャイルド家は西暦1865〜1923年にかけて、イギリス王国アリスバーリー選挙区から庶民院議員を何人も輩出し、婚姻を通じて他の有力な一族と繋がりを深めた。ロスチャイルド一族は強い絆で結ばれていたが、各国の名家とも関係も強化していった。イギリス王国ではバタシー家やチャムリー家、ローズベリー家といった貴族、イタリアではボルゲーゼ家、後年はグッゲンハイム家やギネス家、ウォーバーグ家、ウッドハウス家とも姻戚関係を結んだ。


 先の総選挙で猶太教徒の銀行家アシュケナジーム猶太、ロスチャイルド家第2代当主。ライオネル・ド・ロスチャイルドはホイッグ党の議員として当選していたが、当然、英国国教会式宣誓を求められた。ライオネル・ド・ロスチャイルドは、これを拒絶し猶太教式宣誓に固執したため、議員になれなかった。これについて首相ジョン・ラッセル卿が「猶太教徒の公民権停止の撤廃を審議すべき。」とする動議を議会に提出した。これに対してベンジャミン・ディズレーリとジョージ・ベンティンク卿を除くピールを失脚させた保守党議員らが一斉に反発した。すでに丸め込まれていた庶民院議員らは猶太教式宣誓を容認した。しかしユダヤ人を議会に入れたくない貴族院は頑としてこれを拒絶した。その後も選挙があるたびに出馬し、破壊工作を少しずつ行い、当選するもののその度に貴族院の妨害にあった。因みにジョージ・ベンティンク卿は動議賛成に回ってくれたが、彼もユダヤ人に好意を持っていたわけではなく、ベンジャミン・ディズレーリとの友情からそうしただけであった。ライオネル・ド・ロスチャイルドは西暦1847年に初当選したが、猶太教徒公民権停止が解かれた西暦1858年に庶民院に初登院するまで議会に登院できなかった。ロスチャイルド家の犬のセファルディーム猶太ベンジャミン・ディズレーリの悪逆非道な猶太を政治にも引き入れた。

 ベンジャミン・ディズレーリがただひたすらに保守党指導者を目指そうと思うなら、批判と孤立を避けるためにこの動議の採決に欠席するという手段もあった。どちらにしてもホイッグ党や急進派、保守党内穏健派の賛成で動議は可決される見通しだった。だが、ベンジャミン・ディズレーリにとってはユダヤ人に関わる問題であり積極的に動いた。ベンジャミン・ディズレーリは演壇に立ち、「猶太教と耶蘇教は兄弟である。」という信念を改めて開示し、また「ユダヤ人は本来保守的な民族なのにこんな扱いばかり受けるからいつも革命政党の方に追いやられ、その高い知能でそうした政党の指導者になるのだ。これは保守党にとって大変な損失だ。」と演説し、動議に賛成票を投じた。ベンジャミン・ディズレーリに従ってロバート・ピールを失脚させた議員らは誰もこの演説に拍手しようとしなかった。評価したのはむしろホイッグ党であり、首相ジョン・ラッセル卿は「仲間が嫌う理論をあんなふうに擁護するのは大変勇気がいることだ。」と感心した。
 病を患っていたジョージ・ベンティンク卿は上記動議に反発する者たちを抑えるため、党庶民院院内総務を辞職した。西暦1848年02月10日、その後任に第6代ラトランド公チャールズ・セシル・ジョン・マナーズ(Charles Cecil John Manners, 6th Duke of Rutland, KG)、西暦1857年までグランビー侯爵(Marquess of Granby)の儀礼称号、ベンジャミン・ディズレーリの盟友ジョン・マナーズ卿の兄)が就任したが、グランビー侯は「自分がその器ではない。」と感じており、03月04日には辞職した。その後しばらく保守党庶民院院内総務職は空席になっていたが、ジョージ・ベンティンク卿の健康が回復したら彼が再任されることを希望する保守党議員が多かった。08月末のベンジャミン・ディズレーリの社会風刺の演説で彼の保守党内での人気も高まっていた。大陸で発生した西暦1848年革命の影響でチャーティズム運動が再び盛んになり、社会情勢が混乱する中、大蔵大臣初代ハリファックス子爵チャールズ・ウッド(Charles Wood, 1st Viscount Halifax, GCB, PC)が半年の間に4回も予算案を提出した。ベンジャミン・ディズレーリはこれをヤーヌスの神の血の溶解に例えて演説した。ベンジャミン・ディズレーリによると「この演説で彼の人気が高まって保守党庶民院院内総務になることが決まった。」という。西暦1848年09月にはジョージ・ベンティンク卿が死去した。
 ジョージ・ベンティンク卿亡き今、人材不足の保守党の中にはベンジャミン・ディズレーリ以外に党庶民院院内総務が務まりそうな者はいなかったが、ベンジャミン・ディズレーリの毒舌や外国人風の風貌、「クオタリーレビュー」誌のマリーとの不和、「ビビアン・グレイ」の主人公はベンジャミン・ディズレーリの若い頃の実話であるとの噂などから、保守党内にはなおもベンジャミン・ディズレーリを胡散臭いユダヤの山師と看做す者が多かった。

Disraeli: The Novel Politician (Jewish Lives) - Cesarani, David
Disraeli: The Novel Politician (Jewish Lives) - Cesarani, David

 党首スタンリー卿(第14代ダービー伯エドワード・ジョージ・ジェフリー・スミス・スタンリー、西暦1851年からダービー伯)のベンジャミン・ディズレーリ不信も強かった。そのため西暦1851年末までベンジャミン・ディズレーリは正式な庶民院院内総務には任命されなかった。だがそれでも実質的にはその数年前からベンジャミン・ディズレーリが庶民院院内総務の役割を果たしていた。つまりベンジャミン・ディズレーリは250人の保守党庶民院議員を率い、保守党党首スタンリー卿を「副官」として支える立場になった。 西暦1846年にロバート・ピールが穀物法を廃止して穀物自由貿易を行おうとすると、その反対運動を主導してピール内閣倒閣と保守党分裂を齎した。
 ロバート・ピールの置き土産である穀物の自由主義化は、イギリス農業に大きな繁栄を齎していた。ベンジャミン・ディズレーリらが必死に吹聴したイギリス農業の衰退は起こらず、貿易の拡大によりイギリス農家の利益は増え、農業労働者の賃金も上がっていった。穀物価格の低下は国民の福祉に貢献した。この素晴らしい成果に自由貿易は神聖化していった。もし今保護貿易主義を復古しようなどとすれば国民の暴動が起こるのは確実だった。保守党もこれ以上保護貿易主義を掲げ続けるのは難しい情勢だった。現実主義者のベンジャミン・ディズレーリは真っ先にそれを受け入れた。彼はすでにジョージ・ベンティンク卿死去以前に「保護貿易主義は実行可能な政策ではなくなった。」と考えるようになった。西暦1849年秋には「党の保護貿易の方針は破棄するか、少なくとも前面には出さず、他の政策の後ろに隠す必要がある。」と考えるようになった。だが党首スタンリー卿は保護貿易主義に拘っていた。今の繁栄は一時的な物で終わるかもしれないので、保護貿易主義の撤回は時期尚早と考えていた。それに結局ピール派と同じ路線を執るなら党分裂に至る歩みは全部無駄だったことになる。党首としてそんな簡単に党の看板を下ろすわけにはいかなかった。ベンジャミン・ディズレーリの方も解散総選挙の兆しがない以上、「急いで党の看板を変える必要もない。」と考えていたため、西暦1850年中には貿易の問題は一切取り上げなかった。
 西暦1850年07月に元首相ロバート・ピールが死去した。ラッセル卿内閣が弱体でありながら長期政権になっているのはロバート・ピールが保守党に戻ることも、ホイッグ党と連立することも、単独で政権を担う事も拒否したからだった。従って保守党にとってこれはピール派との和解の好機に思われた。ベンジャミン・ディズレーリも「ピール派重鎮に党庶民院院内総務の地位を渡しても良い。」と語り、彼らの取り込みを図ろうとしたが、ピール派のロバート・ピールへの思慕は強く、結局戻って来なかった。
 西暦1850年秋、ローマ法王がウェストミンスター大司教職を新設したことに対して首相ジョン・ラッセル卿がイングランド国教会を害するものと激しく反発し、これによりラッセル卿政権とカトリックのアイルランド議員との連携が断ち切られた。ジョン・ラッセル卿は西暦1851年02月20日の庶民院の投票で敗北を喫し、ヴィクトリア女王に総辞職を申し出た。ヴィクトリア女王はスタンリー卿を召集して大命降下を与えたが、この際にジョン・ラッセル卿はヴィクトリア女王から直接聞いた話を元にその一部始終を庶民院で報告し、「スタンリー卿は組閣できそうにない。」とヴィクトリア女王に返答した。「自分が政権を担い続けるしかない。」と発表した。これに対しベンジャミン・ディズレーリは「スタンリー卿が断るはずがない。」と非難の声を挙げ、保守党議員たちが拍手した。これを知ったヴィクトリア女王は自分を嘘つき扱いしているに等しいベンジャミン・ディズレーリへの反感を強めた。しかし実際にスタンリー卿は人材不足により組閣できなかった。スタンリー卿とベンジャミン・ディズレーリはウィリアム・ユワート・グラッドストンら実務経験のあるピール派幹部に入閣を呼び掛けたが、彼らは「保護貿易主義を放棄しない限りその下で働く積りはない。」と断った。無名・無能議員ばかりの保守党だけで組閣するしかなかったが、混乱状態の中の組閣だったので保守党内にも個々様々な理由で入閣を拒否する者が続出し、結局スタンリー卿は組閣を断念した。ベンジャミン・ディズレーリは「1つ確かなことは、経験と影響力がある有力議員は、保護貿易主義放棄を明確にしないと協力を拒むということだ。」と書いた。いよいよ保護貿易主義を放棄しなければならない時が来ていたが、保守党内には相変わらず保護貿易強硬派は少なくないので難航した。
 ジョン・ラッセル卿内閣外相だった第3代パーマストン子爵ヘンリー・ジョン・テンプル(Henry John Temple, 3rd Viscount Palmerston, KG, GCB, PC, FRS)は、西暦1851年末にナポレオン3世のクーデタを独断で支持表明した廉で辞任に追いやられ、西暦1852年02月に議会が招集されると庶民院におけるラッセル卿内閣攻撃の急先鋒になった。以降ホイッグ党はラッセル卿派とパーマストン子爵派という2大派閥に引き裂かれた。ベンジャミン・ディズレーリはパーマストン子爵派と連携して在郷軍人法案でラッセル卿内閣を敗北に追い込んで倒閣した。パーマストン子爵ヘンリー・ジョン・テンプルは、ウィリアム4世(William IV, ウィリアム・ヘンリー(William Henry))の時代からヴィクトリア朝中期にかけて主に外交の分野で活躍し、イギリス帝国(大英帝国)(西暦1609〜1997年)の国益や英国民の利益が損なわれることを許容しない強硬外交によりヨーロッパ諸国の自由主義化・ナショナリズム運動を支援する自由主義的外交を行った。非ヨーロッパの低開発国に対し砲艦外交で不平等条約による自由貿易を強要してイギリスの非公式帝国に組み込む「自由貿易帝国主義」を遂行した。大英帝国の海洋覇権に裏打ちされた「パクス・ブリタニカ」を象徴した帝国主義の権化である。
 再びダービー伯(スタンリー卿。この前年に父第13代ダービー伯エドワード・スミス・スタンリー(Edward Smith-Stanley, 13th Earl of Derby, KG)が死去し第14代ダービー伯位を継承)に大命が下った。相変わらず保守党は人材不足の少数党だったが、ダービー伯は今回は何としても組閣する積りだった。ピール派に持ちかけることなく、直ちに保守党議員たちだけで組閣が行われた。ベンジャミン・ディズレーリには大蔵大臣への就任要請が来た。ベンジャミン・ディズレーリは財政は門外漢として辞退しようとしたが、ダービー伯は「カニング(ジョージ・カニング閣下(The Rt.Hon. George Canning, PC FRS)ぐらいの知識は君にもあるだろう。数字は官僚が出してくれる。」と説得して引き受けさせた。ベンジャミン・ディズレーリは外務大臣として入閣するという噂があっただけにこれは意外な人事だった。「ヴィクトリア女王がベンジャミン・ディズレーリを嫌っていたため、頻繁に引見する外務大臣は嫌がり、単独で引見することはほとんどない大蔵大臣に就任させたのではないか。」と言われる。第1次ダービー伯内閣は大臣・枢密顧問官経験者がわずか2人の内閣で後は全員新顔だった。そのため「誰?誰?内閣」と呼ばれた。ベンジャミン・ディズレーリの初入閣だった。党分裂で党幹部が軒並みピール派へ移ったことで党内の有力者として抬頭するようになり、西暦1849年からは実質的な保守党庶民院院内総務となり(西暦1851年に正式に就任)。西暦1852年02月に保守党党首第14代ダービー伯エドワード・ジョージ・ジェフリー・スミス・スタンリーの内閣が誕生すると、その大蔵大臣に任じられた。彼は競馬のダービーとオークスを創設した第12代ダービー伯エドワード・スミス・スタンリー(Edward Smith-Stanley, 12th Earl of Derby PC)の孫に当たり、公務より競馬を優先することもしばしばあり、補佐役のベンジャミン・ディズレーリは頭を抱えた。ベンジャミン・ディズレーリは彼について「ヨーロッパ、いや世界が激変の最中にある時でも常にニューマーケットとドンカスターの味方であった。」と評した。その後も西暦1858年(第2次ダービー伯内閣)、西暦1866〜1868年(第3次ダービー伯内閣)とダービー伯内閣が誕生するたびに大蔵大臣に任じられた。いずれも少数与党政権なので、出来たことは多くなかったが、第3次ダービー伯内閣では庶民院院内総務として選挙法改正を主導し、自由党急進派に譲歩に譲歩を重ねた結果、第2次選挙法改正を達成した。

 蔵相となったベンジャミン・ディズレーリは、ヴィクトリア女王に報告書を送るようになったが、その報告書はどこか小説的でヴィクトリア女王を楽しませた。これによってヴィクトリア女王の彼への心象は随分良くなった。ホイッグ党党首ジョン・ラッセル卿としてはただちにダービー伯内閣を議会で敗北に追い込んで政権を奪還する積りだった。だがピール派は夏に議会を解散することと11月に議会を招集して会計制度改革問題を取り上げることを条件として当面ダービー伯が政権を運営することを承認していたため、内閣はそれまでは安泰だった。政権発足後、ダービー伯内閣は保護貿易について曖昧な態度を執った。ダービー伯自身も「これ以上保護貿易に拘ると来る総選挙において安定議席は取れないであろう。」と認めていたが、公然と保護貿易破棄することは躊躇っていた。だがベンジャミン・ディズレーリは一歩進めて、04月の予算演説において前内閣の大蔵大臣第3代ウッド准男爵(西暦1866年から初代ハリファックス子爵チャールズ・ウッド(Charles Wood, 1st Viscount Halifax, GCB, PC))の作成した自由貿易主義の予算案を適切な物と評価する演説を行った。びっくりしたダービー伯はベンジャミン・ディズレーリに勝手な真似をしないよう警告の手紙を発した。
 ピール派との公約通り、07月に議会が解散され、総選挙となった。保守党は未だに公式な保護貿易主義撤廃を宣言していなかった。ダービー伯がヴィクトリア女王に「穀物に関税を掛けるのは最早論外です。」と確約するなど事実上保守党も自由貿易主義に移行していたが、貿易について曖昧な態度をとったまま選挙戦に突入した。保守党執行部が明確な方針を示さないので、保守党各候補の見解もばらばらだった。概して地方の候補は保護貿易主義的に、大都市の候補は自由貿易主義的に振舞っていた。選挙の結果、保守党は若干議席を上積みしたが、過半数を制することはできなかった。
 選挙後、ピール派との公約により蔵相ベンジャミン・ディズレーリは予算編成に当たることとなった。しかしまだ年度半ばで財政状況が明らかでないこの時期に予算編成に当たらねばならないのは大変なことだった。ベンジャミン・ディズレーリは毎日夜中の03時まで仕事して慣れない予算編成の仕事に当たった。そうしてできた予算案は12月03日に議会に提出された。自由貿易によって損失を蒙った(と思っている)「利害関係人」に税法上の優遇措置を与え、その減収分は所得税と家屋税の免税点を下げることによって賄う内容だった。保護貿易主義と自由貿易主義の折衷をとって党内地主層の反発を抑えつつ、ピール派にもすり寄る意図の予算案だったが、結局ホイッグ党とピール派から激しい批判に晒された。ピール派のウィリアム・ユワート・グラッドストンがディズレーリ批判の先頭に立ち、彼の予算案を徹底的に論破した。12月17日の採決の結果、ディズレーリの予算案は否決された。これによってダービー伯内閣は総辞職することとなり、ピール派の第4代アバディーン伯爵ジョージ・ハミルトン・ゴードン(George Hamilton-Gordon, 4th Earl of Aberdeen, KG KT PC FRS FRSE FSA)がホイッグ党や急進派と連立して組閣した。ベンジャミン・ディズレーリの大蔵大臣職はウィリアム・ユワート・グラッドストンが継承した。
 第1次ダービー伯内閣は短命に終わったが、閣僚職を務めたことでベンジャミン・ディズレーリの知名度は上がった。ベンジャミン・ディズレーリは「アバディーン伯政権はすぐにも倒閣できる存在である。」と見て、政権に徹底的な闘争を挑むことにした。
 野党第1党の使命は政府の法案に何でも反対することというのは、現代の議会制民主主義の国ならばどこでも見られるが、これを世界で最初に確立した者はベンジャミン・ディズレーリである。それまでのイギリスの野党は全て是々非々で対応していた。
 党首ダービー伯は徹底闘争路線は拒否した。彼は「先の内閣で閣僚経験のない者ばかり集めたために政権運営に苦労する羽目になった。」と考えており、同じことは2度とお断りという心情だった。実務経験のあるピール派も内閣に参加させるべきであり、そのため現政権を徹底攻撃することには反対だった。
 ベンジャミン・ディズレーリはダービー伯に相談することなく独断で行動することが増えていった。西暦1853年10月にはロシア帝国(西暦1721〜1917年)とオスマンテュルコ帝国の間でクリミア戦争(西暦1853〜1856年)が勃発した。首相アバディーン伯は平和外交家として知られていたが、閣内には対外強硬派の内相パーマストン子爵と外相ジョン・ラッセル卿がいたので、イギリス王国はナポレオン3世のフランス帝国第2帝政(西暦1852〜1870年)の誘いに乗って西暦1854年03月から対ロシアで参戦することとなった。ベンジャミン・ディズレーリは「クリミア戦争について不要な戦争に参加させられた。」と思っており、「連合の戦争(Coalition War)」と呼んで皮肉った。公式な立場としては野党の愛国者として政府の戦争遂行を支持する一方、戦争遂行中の失敗については批判するという立場を取った。クリミア戦争が泥沼化し、ジョン・ラッセル卿が責任をとって外相を辞職すると、ベンジャミン・ディズレーリは好機到来と見てダービー伯を説得して政府への大々的攻撃を開始した。ベンジャミン・ディズレーリの反政府演説の結果、西暦1855年01月29日にジョン・アーサー・ローバック(John Arthur Roebuck)議員提出の戦争状況を調査するための秘密委員会設置の動議が大差で可決され、アバディーン伯内閣は倒閣された。
 ヴィクトリア女王からダービー伯に再び大命降下があったが、ダービー伯はパーマストン子爵に外相就任を求め、これをパーマストン子爵が断ったため首相職を辞退した。ヴィクトリア女王は第3代ランズダウン侯ヘンリー・ペティ・フィッツモーリス(Henry Petty-Fitzmaurice, 3rd Marquess of Lansdowne, KG, PC, FRS)を召して相談し、ランズダウン侯ヘンリー・ペティ・フィッツモーリスの助言に従ってジョン・ラッセル卿に大命降下を与えたが、ジョン・ラッセル卿が辞退したため、結局パーマストン子爵に大命降下を与えた。ベンジャミン・ディズレーリはこの一連の動きを知ると、政権を取り戻す機会を棒に振ったダービー伯を非難した。しかしパーマストン子爵はこの戦争中、第2次世界大戦時のウィンストン・レナード・スペンサー・チャーチル(Winston Leonard Spencer Churchill, KG, OM, CH, TD, PC, DL, FRS, Hon. RA)のように戦争遂行の象徴的人物になっており、政権から外してなお愚民に戦争を強いることは難しかったから、ダービー伯の行動が的外れではなかった。
 西暦1855年09月にロシア軍のセヴァストポリ要塞が陥落し、戦況は英仏に傾き始めた。パーマストン子爵はロシア帝国の無条件降伏まで戦争を継続する積りだったが、これに対してベンジャミン・ディズレーリは今こそ和平交渉の時と訴えた。フランス帝国のナポレオン3世も和平に入ることを提案してきたため、パーマストン子爵も折れるしかなくなり、最終的に西暦1856年03月30日にパリ条約が締結されて終戦した。保守党内には「イギリスが得た国益が少ない。」と不平を述べる者が多かったが、ベンジャミン・ディズレーリは「そもそも戦況が良くなかったのだからイギリスの面子が潰れない和平なら歓迎すべき」と評価した。

 クリミア戦争は黒海周辺が主戦場だが、バルト海や極東のカムチャッカ半島でも戦っていた。英仏両海軍はカムチャッカ半島にあったロシアのペトロパブロフスク・カムチャツキーという港湾要塞攻略を目論んで戦闘が始まった。英海軍の東インド支那艦隊司令ジェームズ・スターリング(James Stirling)は、ロシア海軍の海軍中将エフィーミー(エフィーム)・ヴァシーリエヴィチ・プチャーチン(露語: Евфимий(Ефим) Васильевич Путятин、Jevfimij Vasil'jevich Putjatin)が嘉永06年07月18日(西暦1853年08月22日)、マシュー・カルブレイス・ペリー(英語: Matthew Calbraith Perry、ペルリ(彼理、伯理))に遅れること1ヶ月半後に、旗艦パルラダ号以下4隻の艦隊を率いて長崎に来寇していることを知り、捕捉しようと艦隊を引き連れて長崎に侵入した。既にロシア艦隊は長崎を離れ一旦上海に向かっていたが、ジェームズ・スターリングは紅毛蠻賊イギリス王国とロシア帝国が戦争中であること、ロシアが樺太および千島列島への領土的野心があることを警告し、幕府に対して局外中立を求めた。この時の長崎奉行は水野忠徳であった。水野忠徳はペルリとの交渉のために長崎に派遣されていた。ジェームズ・スターリングには外交交渉を行う権利は与えられていず、本国からの指示も受けていなかった。しかし、水野忠徳はジェームズ・スターリングは独断で日本に和親条約の締結を迫った。幕府の許可を得た長崎奉行水野忠徳及び目付永井尚志が嘉永07年08月23日(西暦1854年10月14日)、日英和親条約に調印した。日米和親条約締結のわずか半年後のことで、幕府は紅毛蠻賊イギリス王国に対して長崎と函館を開港した。英政府は後でそれを知らされたが、日本の北方でロシア海軍との交戦を行うためには、日本での補給が可能になり、本国も追認した。
 この当時の紅毛蠻賊イギリス王国は清を半植民地化したことで、英領インド(西暦1612〜1947年)、英領オーストラリア(西暦1788〜1901年)や英領カナダ(西暦1759〜1867年)など広大な植民地を治めるのがかんりの負担になった。各地で反英運動も起こり、その都度鎮圧軍を派遣せねばならず費用も馬鹿にならなかった。つまり「植民地の拡張は得か損か?」で意見が分かれていた時期で、イギリス王国は西暦1860年頃から非拡張主義、小英国主義政策が執られ、領土の拡大よりも自由貿易によって利益を搾取する戦略に転換した。西暦1880年代に入るとアフリカ大陸を巡って再びヨーロッパの国々が激烈な陣取り合戦を再開した。アメリカ合衆国(西暦1776年〜)では南北戦争(西暦1861〜1865年)が勃発。イギリス王国もインド大叛乱(西暦1857〜1858年、シパーヒーの乱、セポイの乱、第1次インド独立戦争)のようなインド傭兵の叛乱や清の内紛等があって、日本に関わっている余力がなかった。


 西暦1856年11月には盟邦フランス帝国のパリを訪問し、皇帝ナポレオン3世の引見を受けた。彼とは彼がイギリス王国に亡命していた頃から14年ぶりの再会だったが、特に政治的に得る物はなかった。ナポレオン3世のベンジャミン・ディズレーリ評は芳しくなく、この会見の後「全ての小説家にありがちな独り善がりと多弁が目立つ。でありながら行動すべき時には臆病になる。」と評した。
 クリミア戦争後もパーマストン子爵のナポレオン3世と連携しての強硬外交は続いた。英仏は再び同盟を組んで大C帝國(西暦1636〜1912、1917年(張勲復辟))に対してアロー戦争’(第2次アヘン戦争、西暦1856〜1860年)を開始した。パーマストン子爵は容赦なき戦争を遂行し、清を徹底的に叩きのめした。それに対して保守党、ピール派、急進派は人道的見地から政府批判を行った。ディズレーリは「この問題で政府を攻撃しても恐らく国民の支持を得られないだろう。」と分析していたが、党首ダービー伯がこの問題で徹底的に政府を攻撃することを決定した。パーマストン子爵批判決議は僅差で可決され、パーマストン子爵は西暦1857年04月に解散総選挙に踏み切った。広東の清の高官を「無礼な野蛮人」と呼ぶなどのパーマストン子爵の攻撃的な行動は、英国民の愛国心を刺激して共感を呼び、選挙は党派を超えてパーマストン子爵とアロー戦争を支持する議員たちが大勝し、強硬な戦争反対派議員はほぼ全員落選した。保守党全体としては20議席ほど減らす結果となった。
 続くインド大叛乱ではパーマストン子爵は初期の鎮圧に手間取り、叛乱が拡大する気配を見せた。世論はインド人の残虐行為を批判し、叛乱の徹底的な鎮圧を支持していたが、ベンジャミン・ディズレーリは「調査もしないで残虐行為の話を信じこむべきではない。」として無差別報復を支持しないよう世論に訴えかけた。ただし残虐行為の話は誇張されている物もあったが、概ね事実であった。そして「イギリス東インド会社(イギリス領インド(西暦1757〜1858年))を解体して、ヴィクトリア女王とイギリス政府による直接統治でインド臣民に権利を保障しなければならない。」という持論を展開した。しかし結局西暦1857年暮れ以降には英軍の攻勢が強まり、叛乱は鎮圧・収束へと向かっていった。
 パーマストン子爵はなかなか失点を見せず、ベンジャミン・ディズレーリとしても手詰まりな状況であった。そんな中、カルナボリ党でイタリアの愛国者オルシーニ伯フェリーチェ(Felice Orsini)は、仲間だったナポレオン3世が皇帝に即位してからは、イタリア問題に冷淡であることに義憤を感じ、暗殺することで世間に訴えようとした。4人の同志とともに計画したが、1人は決行直前に逮捕されたため、3人で西暦1858年01月14日夜08時、フランスのパリのオペラ座正面に止まろうとした皇帝夫妻の馬車に3発の爆弾を投げ込んだ。このナポレオン3世爆弾暗殺未遂事件で、ナポレオン3世は無事だったが、衝撃でガス燈は消え、あたりは真っ暗になり、民衆は恐慌に陥った。死者18人、負傷者150人の大惨事になった。翌日、一味は全員逮捕され、オルシー伯は投獄されると獄中で考えを改め、「ナポレオン3世こそはイタリアの救世主だ。」と主張するようになった。裁判が始まると毅然とした態度を取り、皇帝にイタリア統一への協力を訴えた。オルシーニ伯らは世間の同情を集め、皇帝夫妻からも助命嘆願されたが、03月13日に全員断頭台により処刑された。しかし、この一件によりフランスは積極的にイタリア統一に協力するようになった。 オルシーニ伯はイギリス亡命中だった人物で爆弾もイギリス王国のバーミンガムで入手しており、フランス国内から「イギリス王国は暗殺犯の温床になっている。」という批判が強まった。フランス外相アレクサンドル・ヴァレフスキからの要求を受け入れてパーマストン子爵は殺人共謀取締法案を議会に提出したが、これを「フランスへの媚び売り法案」とする批判が世論から噴出した。ベンジャミン・ディズレーリは「この愛国的な雰囲気を利用すればパーマストン子爵内閣を倒閣できる。」と確信し、慎重姿勢を示すダービー伯を無視して、殺人共謀取締法案反対運動を起こし、02月19日に同法案を第2読会で否決に追い込んだ。これを受けてパーマストン子爵内閣は総辞職した。
 西暦1858年02月、ヴィクトリア女王はダービー伯に再度大命を降下した。ダービー伯はこれを引き受け、保守党のみで組閣した。ベンジャミン・ディズレーリは再び蔵相として入閣した。ただし保守党は先の総選挙で議席を落としているから、第2次ダービー伯内閣は第1次内閣の時よりも更に議会の基盤が弱い状態で、結局第2次ダービー伯内閣も短命で終わったため、予算編成を行う事がなく、ベンジャミン・ディズレーリが大蔵大臣らしい仕事をすることもほとんどなかった。
 ベンジャミン・ディズレーリが力を入れたのが庶民院院内総務としての仕事でまずユダヤ人議員のなし崩しに認めることに取り組んだ。西暦1848年のライオネル・ド・ロスチャイルドの登院問題の時の動議もそうだが、庶民院ではしばしばユダヤ人議員を認める動議が通過するのだが、貴族院で撥ねられるのが常だった。しかしこの第2次ダービー伯内閣の時の西暦1858年、ベンジャミン・ディズレーリとユダヤ人の工作に屈したダービー伯の仲介で庶民院と貴族院がそれぞれの宣誓の形を定めて妥協し、ついにユダヤ人議員を認めてしまった。宣誓の儀礼を無視し、猶太教徒を議員とすることは、イギリス王国の文化や伝統、国体の破壊になることを考えなかった致命的な愚挙だった。ロンドン・ロスチャイルド2代目当主ライオネル・ロスチャイルドが庶民院議員となった翌年には弟メイヤー・アムシェル・ロスチャイルドヤーも議会入りした。ユダヤ人資本家が国政に進出し始めたことで人々は「イギリス政府の汚染と堕落が始まった。」と囁き合った。次にユダヤ人に厳しい貴族院入りを目指した。しかし貴族院に入るには貴族の称号が必要で、巨万の富があってもユダヤ人銀行家が貴族になるのは簡単なことではなかった。この頃、貴族の間にもユダヤ人資本家が密かに侵攻し始めていた。ロスチャイルド家には「同族内結婚により財産の分散を防げ。」という家訓があり、かなり忠実に守られた。そのため従兄従妹婚や伯父姪婚が多かった。産業革命によって没落が始まっていた貴族の中には持参金目当てでユダヤ人資本家の娘を妻とすることも多かった。こうしてイギリス貴族とユダヤ人の混血し、世界の悪魔、DS(ディープステイト)の形成が進んでいった。
 ついでに選挙法改正に取り組んだ。ベンジャミン・ディズレーリは以前から、ホイッグ党政権が西暦1832年に改正した現行の選挙法を保守党を不利にするための選挙制度と疑っており、「保守党の手で新たな選挙法改正を行うべき。」と主張していた。ベンジャミン・ディズレーリによって作成された選挙法改正案は地主に従順な州(カウンティ)選挙区の有権者資格に都市(バラ)選挙区の有権者資格と同じ賃料価値10ポンド以上の不動産所持者を加えるという内容だった。本来ベンジャミン・ディズレーリは賃料価値に関わらず1戸ごとに1票を与える戸主選挙権制度を欲していたが、保守党内にも様々な意見があったので意見の統一はこの程度が限界だった。法案は西暦1859年02月に議会に提出されたが、保守党有利の選挙法改正法案と看做されて野党の激しい批判を受け、否決に追い込まれた。これを受けて西暦1859年04月、ダービー伯は解散総選挙に踏み切った。選挙の結果、保守党が30議席を増やし、未だ少数党ながら野党との差を大幅に縮めた。あと少し議席があれば保守党が多数派になるという状況の中、ベンジャミン・ディズレーリは、ホイッグ党のパーマストン子爵(ホイッグ党内でジョン・ラッセル卿と争っていた)に打診し、「20人から30人の議員を引き連れて保守党へ来てくれるならダービー伯退任後の保守党党首に貴方を据えたい。」と持ちかけたが、パーマストン子爵はこれを拒否した。ついでベンジャミン・ディズレーリはアイルランド議員やホイッグ党系無所属議員と折衝を図り、またダービー伯もウィリアム・ユワート・グラッドストンの引き込みを図ったが、いずれの多数派工作も成功しなかった。
 この頃、フランス帝国・サルデーニャ王国(西暦1297〜1861年)の連合軍(イタリア・ナショナリズム派)とオーストリア帝国(イタリア・ナショナリズムを抑圧してイタリア内のオーストリア領保全を狙う)の間でイタリア統一戦争(西暦1848〜1861年)が勃発した。イギリス王国では、ジョン・ラッセル卿やパーマストン子爵などホイッグ党の政治家が自由主義の立場からナショナリズムに共感を寄せ、一方保守党の政治家は親オーストリア帝国的な立場を取る者が多かった(そのためナポレオン3世はイギリス王国の政権について保守党政権よりホイッグ党政権を望んでいた)。ダービー伯や外務大臣第3代マームズベリー伯ジェームズ・ハワード・ハリス(James Howard Harris, 3rd Earl of Malmesbury, GCB, PC)も親オーストリア帝国的な立場を取り、サルデーニャ王国を平和撹乱者として批判し、またフランス帝国に対してもすぐにオーストリア帝国と休戦してオーストリア帝国と共同で法王領改革にあたるよう求めた。だがイギリス王国世論はイタリア・ナショナリズムへの共感が強かった。ベンジャミン・ディズレーリはこれを敏感に感じ取っており、ヴィクトリア女王とダービー伯を説得して、女王演説(クイーンズスピーチ)から親オーストリア帝国的な表現を取り除いた。イタリア問題をめぐり自由主義が活気づく中、ホイッグ党の2大派閥(ラッセル卿派とパーマストン子爵派)、ジョン・ブライト(John Bright)率いる急進派、ピール派が合同して自由党(The Liberal Part)が結成された。
 「女王演説では外相マームズベリー伯のイタリア問題についての外交文書を公開する。」という約束がされていたが、ベンジャミン・ディズレーリがこれを公表しなかったことが影響し、自由党の提出した内閣不信任案は可決されて第2次ダービー伯内閣は総辞職することとなった。西暦1859年06月、パーマストン子爵が再び大命降下を受けて自由党政権が発足した。以降6年にわたって自由党政権が続いた。
 西暦1861年末にヴィクトリア女王の王配アルバートが薨去した。ベンジャミン・ディズレーリがアルバート王配顕彰の先頭に立ち、またアルバート王配の人格を褒め称えた演説を行い、ヴィクトリア女王から高く評価された。
 大金持ちのユダヤ人、ライオネル・ロスチャイルドにすっかり取り込まれていたヴィクトリア女王の長男アルバート・エドワード(英語: Albert Edward)、バーティ、後のエドワード7世(英語: Edward VII))は、プリンス・オブ・ウェールズ(王太子)の期間が59歳の即位まで長期にわたり68歳で亡くなるまで在位は9年と短いがその間、日英同盟、英仏協商、英露協商が締結され、日本、フランス共和国、ロシア帝国との関係が強化されたため、「ピースメーカー」と呼ばれ案外評価は高い。しかし、王太子時代のバーティは「ろくでなし」で「でき損ない」だった。オックスフォード大学に入学(イギリス王国歴代国王で初の大学入学)。陸軍に入隊しケンブリッジ大学へ転校した。大金持ちの友人ナサニエル・ロスチャイルドと遊ぶため借金を重ねた。20歳の時に初めて女を知りのめり込んだ。バーティは結婚した後も愛人を多く抱えた。分かっているだけでも50人以上の歌手、女優、貴族の人妻などと浮名を流した。これに娼婦を加えると愛人は軽く100人を超えると言われる。あまりの乱行ぶりにヴィクトリアはバーティを公務から外したが、バーティの放蕩ぶりが加速し、女性絡みの醜聞が拡散した。父親のアルバート王配が重病を押してケンブリッジに行きを訪問し説教した。アルバート王配はこの時の無理が祟り数週間後に42歳で急死した。ヴィクトリアは最愛の夫アルバートの死を深く嘆き悲しみ、彼の死後は二度と豪華な衣装を着ることなく、自身が崩御するまでの39年間を黒い喪服だけで過ごした。また、ヴィクトリアは死ぬまでこの「でき損ない」の王太子を恨んだ。バーティは学友から多額の借金を重ねていた。ヴィクトリアはあまりに巨額な借金に驚愕した。バーティを借金漬けにした友人、ナサニエル・ロスチャイルドは、ライオネル・ロスチャイルドの長男で後のロスチャイルド家3代目当主。ロスチャイルド家は巧みに次期国王に接近し、いとも簡単に籠絡した。このナサニエル・ロスチャイルドが西暦1885年、エジプト占領の資金を引き受けた。ヴィクトリアは恩賞としてナサニエルに男爵の称号を授けた。悪魔のロスチャイルド家は遂に貴族となり貴族院入りを果たした。その後もユダヤ人資本家に爵位の安売りが続き、貴族院にユダヤ人が増えていった。
 ベンジャミン・ディズレーリはこれまで借金に追いまわされる生活だったが、この頃ようやく家計が改善した。西暦1862年末にヨークシャー在住の大地主アンドリュー・モンタギュが保守党への寄付のつもりでベンジャミン・ディズレーリの高利貸の借金を肩代わりしてくれた。さらに西暦1863年11月には友人ブリジス・ウィリアムズ夫人が死去し、相続人の1人に指定されていたベンジャミン・ディズレーリは彼女の巨額の財産を相続したからである。この女はベンジャミン・ディズレーリと遠い縁戚関係のあるユダヤ人老婆で、ベンジャミン・ディズレーリと同じく自分がラーラ家の子孫だと思い込んでおり、その縁でベンジャミン・ディズレーリと親しい間柄だった。彼女はベンジャミン・ディズレーリにラーラと改名して欲しがっていたが、相続の条件には加えられていなかったので結局ベンジャミン・ディズレーリは改名しなかった。
 西暦1860年代から選挙権拡大を求める世論が強まっていたが、パーマストン子爵が選挙法改正に反対していたため、政界での動きにはならなかった。しかしそのパーマストン子爵が西暦1865年10月に死去し、選挙法改正に前向きなラッセル伯(ジョン・ラッセル卿。西暦1861年にラッセル伯に叙された)が首相となったことで選挙法改正が動き出すことになった。ラッセル伯は選挙法改正法案の作成を大蔵大臣兼庶民院院内総務ウィリアム・ユワート・グラッドストンに任せた。ウィリアム・ユワート・グラッドストンは「年価値50ポンドの土地保有という州選挙区の有権者資格を14ポンドに、また都市選挙区も年価値10ポンドの家屋保有という条件を7ポンドに引き下げることで労働者階級の上部である熟練工に選挙権を広げよう。」という選挙法改正法案を提出した。熟練工は既に自助を確立している体制的存在となっていたので、彼らに選挙権を認めること自体には自由党にも保守党にもそれほど反対はなかった。ただ安易に数字を引き下げていくやり方は、何度も切り下げが繰り返されるきっかけとなり、やがて「無知蒙昧な貧しい労働者にまで選挙権を与えることになるのではないか。」という不安が議会の中では強かった。「普通選挙からデマゴーグ、衆愚政治か→ナポレオン3世の独裁」という議会政治崩壊の直近の事例もあるだけに尚更だった。ベンジャミン・ディズレーリもウィリアム・ユワート・グラッドストンが「イギリスの平和と秩序維持に関心を持つ人が450万人おり、そのうち40万人に選挙権を付与しようというに過ぎない。」と自らの法案を弁護したのを捉え、「グラッドストンは450万人もの非有権者に有権者資格があると考えている。」と批判して、その不安を煽った。結局、自由党内からも初代シャーブルック子爵ロバート・ロウ(Robert Lowe, 1st Viscount Sherbrooke, GCB, PC)など法案に反対する議員が出たことで西暦1866年06月にウィリアム・ユワート・グラッドストンの選挙法改正は挫折することとなった。これを受けてラッセル伯爵内閣は自由党分裂を避けるために解散総選挙を断念して総辞職した。選挙法改正挫折に対する国民の反発は大きく、トラファルガー広場やハイド・パークで大規模抗議デモが行われる事態となった。
 西暦1866年06月27日に再びダービー伯に大命があった。第3次ダービー伯内閣が成立し、ベンジャミン・ディズレーリも3度大蔵大臣兼庶民院院内総務として入閣した。もっとも自由党内紛による政権奪還でしかなく、保守党は依然少数党なので第1次、第2次ダービー伯内閣と同様に選挙管理内閣の性格が強かった。ベンジャミン・ディズレーリも大蔵大臣としてより庶民院院内総務として主に活動することとなった。怒れる世論を背景にジョン・ブライトは国民の武装蜂起をちらつかせて政府に選挙法改正を迫ってきた。保守党内にも暴動への恐怖が広がり、早急な選挙法改正を求める声が強まった。ベンジャミン・ディズレーリも政権を維持するためには選挙法改正が不可避と考えていた。ダービー伯も前向きで、ヴィクトリア女王も自由党による急速な改正よりも保守党による緩やかな改正を望んでいた。法案作成は庶民院院内総務のベンジャミン・ディズレーリが主導し、西暦1867年02月に選挙法改正法案を議会に提出した。法案は、都市選挙区については基本的に男子戸主に選挙権を認めるが、そこに様々な条件(地方税直接納税者に限る、2年以上の居住制限、借家人の選挙権は認められない、有産者は2重投票可能など)を加えることで実質的に選挙権を制限する内容だった。地方税の納税方式には一括納税と直接納税があった。一括納税すると直接納税より安く済むため、大多数が一括納税を選択していた。下層民が選挙権を得るためだけに高い税金に切り替えるとは思えないため、この条件は下層民から選挙権を排除する最大の安全装置であった。先のウィリアム・ユワート・グラッドストン案と違い、「切り下げが繰り返されるのではないか。」という議会の不安を払拭した点では優れたものだった。
 しかし閣内からは造反者が出た。保守的なインド担当相クランボーン子爵(第3代ソールズベリー侯ロバート・アーサー・タルボット・ガスコイン・セシル(Robert Arthur Talbot Gascoyne-Cecil, 3rd Marquess of Salisbury, KG, GCVO, PC、西暦1865年までは卿(Lord)、西暦1865年〜1868年まではクランボーン子爵(Viscount Cranborne)の儀礼称号)、陸相ジョナサン・ピール(Jonathan Peel, PC)将軍、植民相第4代カーナーヴォン伯ヘンリー・ハワード・モリニュー・ハーバート(Henry Howard Molyneux Herbert, 4th Earl of Carnarvon, PC, DL, FSA, FRS, DL)らが反対して辞職した。また野党のウィリアム・ユワート・グラッドストンも「この法案では有権者数は14万人しか増えないし、それ以前に恐らく委員会における審議の中で法案の中で付けられている条件は急進派への譲歩でほとんど撤廃されてしまい、結果的に無知蒙昧な下層労働者にまで選挙権が広がる。」と懸念した。そこでウィリアム・ユワート・グラッドストンは「この法案に付けられているような条件はいらないが、代わりに地方税納税額が5ポンド以上という条件を付けるべき。」と主張した。だがベンジャミン・ディズレーリは「(ウィリアム・ユワート・グラッドストンは)一方では法案の資格制限の撤廃を主張しながら、一方では5ポンド地方税納税という別の資格制限を加えようとしている。」と彼の根本的な矛盾を指摘してやり込めることで巧みにウィリアム・ユワート・グラッドストンと急進派の離間を図った。
 結果、法案は03月26日の第2読会を採決なしで通過した。これに対抗してウィリアム・ユワート・グラッドストンは地方税納税額5ポンド条件を盛り込んだ修正案を提出したが、自由党議員の造反に遭って否決された。このためウィリアム・ユワート・グラッドストンはこれ以降の法案審議への参加は見合わせることとなった。一方ベンジャミン・ディズレーリは、庶民院における主導権を自らが握るため、何としても選挙法改正法案を通す決意を固めていた。そのためジョン・ブライトら急進派に譲歩を重ね、条件を次々に廃した結果、法案は06月15日に第3読会を通過した。貴族院では激しい反発があったものの、ダービー伯が辞職をチラつかせて不満を抑え込んだ結果、貴族院もなんとか通過し、08月15日にヴィクトリア女王の裁可を得て法律となった。ここに第2次選挙法改正が達成された。可決された法案は、都市選挙区については男子戸主であれば選挙権を認めていた。地方税直接納税の条件は地方税の納税方式を直接納税のみにすることによって単に地方税納税だけの条件と化しており、2年の居住制限の条件も1年に減らされていた。また年価値10ポンド以上の住居の借家人にも選挙権が認められた。州選挙区については年価値12ポンド以上の土地所有者に選挙権を認めることになった。この選挙法改正によって有権者数は100万人から200万人に増えた。法案が提案された当初は誰も予想していなかった選挙権の大幅拡大となった。ベンジャミン・ディズレーリにとってもダービー伯にとっても予想外の大盤振る舞いになったが、彼らは政権維持のための代価と考えて割り切り、このお蔭で自由党を分裂状態のままにしておくことに成功し、保守党政権が今しばらく延命できた。そしてベンジャミン・ディズレーリはこの業績をもってダービー伯の後継者たる地位を確固たるものとした。ただしベンジャミン・ディズレーリは選挙法改正によって保守党が不利にならぬよう選挙区割り是正法案も提出していた。新有権者の中の自由党支持層らしき者たちを元々自由党が強い選挙区、あるいは保守党が圧倒的に強い選挙区に組み込もうという内容だった。野党の批判を受けて多少修正に応じることにはなったが、基本的な部分は残したまま法案を可決させることができた。
 首相ダービー伯は予てから持病の痛風に苦しんでいた。彼は今しばらく在任したがっていたが、結局医者の勧めに従って辞任を決意した。西暦1868年02月21日、ダービー伯はヴィクトリア女王に辞表を捧呈した。その際に「ベンジャミン・ディズレーリ以外に党内をまとめられる者はいない。」として彼に大命降下するよう助言した。保守党内では、クランボーン子爵など一部の者の反対論もあったものの、大半の者は「後任はベンジャミン・ディズレーリ以外には考えられない。」という認識だった。
 02月27日にベンジャミン・ディズレーリはヴィクトリア女王の召集を受け、ワイト島にあるヴィクトリア女王の離宮オズボーン・ハウスに参内した。そこで組閣を命じられたベンジャミン・ディズレーリは承諾し、女王の前に膝まづくと彼女の手に接吻し、「忠誠と信頼の心に愛をこめて。」と述べた。この頃にはすっかりベンジャミン・ディズレーリに好感を持っていたヴィクトリア女王は娘ヴィッキー宛ての手紙の中で「彼には一風変わったところもあるが、非常に聡明で、思慮深く、懐柔的な面を持つ。」、「彼は詩心、創造性、騎士道精神を兼ね備えている。」と書いた。ベンジャミン・ディズレーリはダービー伯内閣の時の顔ぶれをほぼそのまま留任させたが、大法官初代チェルムスフォード男爵フレデリック・セシガー(Frederic Thesiger, 1st Baron Chelmsford, PC, FRS)は嫌っていたので彼だけは内閣から外した。

ヴィクトリア女王 大英帝国の“戦う女王” (中公新書) - 君塚直隆
ヴィクトリア女王 大英帝国の“戦う女王” (中公新書) - 君塚直隆

 ベンジャミン・ディズレーリは、政界の反ユダヤ主義に対抗するために「ユダヤ人種優越論」を捏造した。ベンジャミン・ディズレーリが「ユダヤ人種優越論」を宣伝し始める時期が、ロスチャイルド家と親密な関係を築き始める時期と一致している。ユダヤの誇りを強く抱くロスチャイルド家に取り入るため「ユダヤ人種優越論」を唱え始めた。ユダヤの誇りを強く抱くロスチャイルド家に取り入るため『優越論』を唱え始めた。自分は改宗者にありがちな猶太教に対する否定的な見解の持ち主ではなく、「ロスチャイルド家の宗教と人種に好感を抱いていることを積極的に主張する必要がある。」とベンジャミン・ディズレーリは考え、その通りに実行した。こうして何とか受け入れてもらい、互酬関係が築かれた。
 議会で得た情報をロスチャイルド家に教え、ロスチャイルド家は海外駐在員から得られる極秘国際情報をディズレーリに伝えた。政治資金提供についても、西暦1862年に少なくとも2万ポンドの献金を同家から受けていたことが確認できる。特に第2代当主ライオネル・ロスチャイルド(Lionel Rothschild)とは最も親密な間柄で、屋敷を長年、自宅代わりに使わせて貰ったほどだ。西暦1879年、ライオネルの死に打ちのめされたが、3人の息子たちは父の「旧友」の元に集まった。ベンジャミン・ディズレーリは、少なくとも晩年の10年間、心底、同じユダヤ人のロスチャイルド家の飼い犬(代理人)であった。



 紅毛蠻賊イギリス王国からの独立後の寛政03(西暦1791)年、黒人を奴隷として所有しアメリカ先住民族(インディアン)を人間扱いしていなかった初代大統領ジョージ・ワシントン(英語: George Washington)の右腕の初代財務長官アレクサンダー・ハミルトン(英語: Alexander Hamilton)は、通貨統一を目指した。民間の中央銀行、第1合衆国銀行(英語: First Bank of the United States)を設立し、統一通貨、ドルの発行権を与えた。それまでは各州の銀行がそれぞれに銀行券を発行していた上に紅毛蠻賊イギリス王国のポンド等も流通していた。第1合衆国銀行の出資金のうち、連邦政府(米国の中央政府)が2割を、残りはニューヨークの金融資本や欧州の国際金融資本が負担した。その公認期間は20年間だった。20年の期限切れの文化08(西暦1811)年に第1合衆国銀行は消滅した。
 アレクサンダー・ハミルトンと袂を分かち、連邦党の主要政策の、特に合衆国銀行とジェイ条約に反対し、「共和党」(後の民主共和党)を創設したのは、多くの黒人奴隷を所有し女黒人奴隷に種付けをした第2代大統領トーマス・ジェファーソン(英語: Thomas Jefferson)と「アメリカ合衆国憲法の父」ジェームズ・マディソン・ジュニア(英語: James Madison, Jr.)で、民主共和党の第4代が大統領になった。合衆国銀行に反対した。ジェームズ・マディソンは、文化09(西暦1812)年、米英戦争(西暦1812〜1815年)で対外宣戦布告をした初の大統領となり、ホワイトハウスを焼いてしまった。こいつら紅毛蠻賊アメリカ合衆国の建国の父とは、アメリカ先住民族(インディアン)から武力や詐欺で土地を奪い、虐殺や追放を繰り返していた。1人の例外を除き、黒人奴隷を家畜として所有し労働力や性のはけ口、入歯の原料として利用していた。土地の投機や詐欺でますます富裕になった。ジョージ・ワシントンは、この当時に全米1の富豪だった。
 英米戦争の戦費を賄うために各州の銀行が紙幣を刷りまくったため、紅毛蠻賊アメリカ合衆国が厳しいインフレになり、軍事行動の財政的手当が難しくなり、紅毛蠻賊アメリカ合衆国の信用度や借入金の状況が建国以来最低の水準に堕ちた。議会は文化14(西暦1817)年、新たな中央銀行、第2合衆国銀行を設立した。期間は再び20年とされた。この時、パリ・ロスチャイルド家の代理人が巧みに潜り込み総裁の座を射止めた。ロンドン家のネイサン・メイアー・ロスチャイルド(英語: Nathan Mayer Rothschild)も第2合衆国銀行に莫大な貸し付けを行い、支配体制を固めていった。ナポレオン戦争(西暦1803〜1815年)は終わったがヨーロッパは荒廃した。逆に紅毛蠻賊アメリカ合衆国は発展を続け、貿易も盛んとなりバブルの様相となった。代理人を立てて陰に隠れていたロスチャイルド家だったが、やがて政府への借款や銀行への融資などに前のめりとなり、その存在が多くの人に知られるようになった。利権を独占する中央銀行にその他の銀行は反発し、人々は第2合衆国銀行を「ユダヤの銀行」と呼び嫌悪するようになった。
 第5代大統領のスコットランド系で民主共和党のジェームズ・モンロー(英語: James Monroe)は「紅毛蠻賊アメリカ合衆国はアメリカ大陸を縄張りとして、アメリカ大陸におけるヨーロッパの干渉を容認しない。」、所謂モンロー主義(文政06(西暦1823)年)で著名となった。文化14(西暦1817)年、ジェームズ・モンローは米国に反抗的なフロリダ原住民セミノール族を滅ぼした。スペイン王国はこれに関与していなかったものの、「彼らの後援者である南蠻スペイン王国を罰する。」としてアンドリュー・ジャクソン(英語: Andrew Jackson)将軍をスペイン領フロリダに派遣し、徹底的な焦土作戦によってアメリカ先住民(インディアン)を大量虐殺し、南に追いやり、彼らに武器を供給していた2人のイギリス人商人、ロバート・アンブリスターとアレクサンダー・アーバスノットを処刑しスペインのフロリダ総督を追放し土地を奪った。ジェームズ・モンローは、アメリカ植民協会(黒人解放奴隷のリベリア移住事業の一手に担った民間団体)の支持者であり、この植民活動にも積極的な支持を表明していた。この事業の第1船(エリザベス号)の植民者らが上陸してまもなく、現地の部族から拒絶され、無人島に閉じ込められた入植者の多くが黄熱病で死亡するという悲劇が起こると、ジェームズ・モンローは海軍を出動させた。ジェームズ・モンローの面子に傷が付くことを恐れた将校らは、頑なに拒絶を続ける現地の王に拳銃を突きつけ、二束三文の銃や雑貨と引き換えに広大な土地を手に入れた。これを機に入植者たちは自信を付け、暴力的な方法で瞬く間に現地の部族から、今日のリベリア共和国(西暦1847年〜)と重なる領土を奪った。しかし、解放黒人奴隷は22000人に止まった。リベリア共和国の首都はジェームズ・モンローに因み、モンロヴィア(英語: Monrovia)と名付けられた。しかし、この暴力的な方法は現代に至るまでのリベリア共和国の矛盾(解放奴隷の子孫アメリコ・ライベリアン(英語: Americo-Liberian)による現地民への差別)を決定付けた。
 第2代大統領ジョン・アダムズ(英語: John Adams)の息子で初の世襲2世大統領、第6代ジョン・クインジー・アダムズ(英語: John Quincy Adams)の時代に、巨大化しすぎたリパブリカン党(広義の民主共和党)は分裂の兆しを見せ、ジョン・クインジー・アダムズが大統領に就任した後に事実上党は二分された。連邦主義的な性格の強いジョン・クインジー・アダムズの派閥は国民共和党を名乗り、より州権主義を掲げる派閥は民主共和党を名乗った。国務長官にヘンリー・クレイ・シニア(英語: Henry Clay Sr.)を登用したが、この人事は地位を見返りに自身への忠誠を要請した闇取引であると批判された。その後も、関税法、国立銀行の設置、軍事力の強化などに関しアンドリュー・ジャクソン支持者からの議事妨害に常に晒され、「呪われた政権」と呼ばれた。先住民に対して、ジョン・クインジー・アダムズはジェームズ・モンローと同様の強制移住方針を採った。これは「全部族を当時白人入植者のいなかったミシシッピー川以西の南部地域へ強制移住させ片づけてしまおう。」という政策である。ジェームズ・モンローらと違っていたのは、彼は合衆国と連邦政府には、先住民(インディアン)国家との連邦規定に基づくインディアン条約を守り、単に先住民(インディアン)の領土を武力で合衆国に併合させるのではなく、それ相応の条件で「購入」する義務があるとした点である。しかし、「ジョージアのクリーク族先住民から彼らの土地を奪った詐欺的な条約を拒否し、再交渉する。」というジョン・クインジー・アダムズの決定は、土地を欲しがっている南部白人や西部の白人を激怒させた。彼らは「野蛮人インディアン(先住民)の土地を国費で購入するというアダムズの政策は生温い。」として激しく抵抗した。文政11(西暦1828)年の大統領選挙では、史上最悪の中傷合戦が展開され、再当選を図ったが、民主共和党(後の民主党)のアンドリュー・ジャクソンに敗れた。その後、史上唯一、大統領経験のある下院議員となった。
 100人以上の黒人奴隷を所有しこれを酷使していた農場主で、民主党初の第7代アメリカ合衆国大統領となったスコットランド系移民のアンドリュー・ジャクソンは立身出世のきっかけとなった米英戦争において先住民(インディアン)の徹底虐殺にで名を馳せた。クリーク族を攻撃したクリーク戦争で、クリーク族の伝統派抵抗戦戦士集団の赤い棒(レッド・スティックス)を打ち破り「赤い棒」を初め、約800人のクリーク族が虐殺された。第1次セミノール戦争では、ジェームズ・モンローはわざとアンドリュー・ジャクソンへ国際的な否定に対して曖昧な命令を与えていた。アンドリュー・ジャクソンは再び先住民(インディアン)に対する大量虐殺の方針を採り、女子供を優先的を地真っ先に殺し、沼沢地において徹底的な焦土作戦を行った。アンドリュー・ジャクソンの鬼畜ぶりはセミノール族を震え上がらせた。アンドリュー・ジャクソンのイギリス人処刑とスペイン領への侵入は国際的な問題を引き起こした。モンロー政権の多くがジャクソンを譴責するよう求めたが、早くからのマニフェスト・デスティニーの信者であった国務長官のジョン・クィンシー・アダムズによって擁護された。
 アンドリュー・ジャクソンの民主主義は白人のためのみのものであった。アンドリュー・ジャクソンは保留地を初めとする強制移住政策を推し進めた。アンドリュー・ジャクソンが定めた強制移住法は、先住民(インディアン)から強制的に土地を収奪するもので、この法律によって先住民(インディアン)の多くは大陸西部へと追いやられた。アンドリュー・ジャクソンは、先住民(インディアン)は白人とは相いれない存在とした。先住民(インディアン)の掃討と
第2合衆国銀行阻止を公約を掲げ、圧倒的支持を受けて再選を果たした。すぐに第2合衆国銀行から政治資金を取り上げ、各州の銀行に分配した。アンドリュー・ジャクソンの時代までに白人男子普通選挙制が確立したこともあり、彼の時代は「ジャクソニアン・デモクラシー」と称される。また、官吏の多くを入れ替えて自らの支持者を官吏とする猟官制(スポイルズ・システム)を導入した。当時においてはこの政策が汚職構造の打破と考えられ、慣例化した。
 20年の特許契約終了が目前に迫っていた天保07(西暦1836)年、南部諸州を中心に、「北部の金融資本が連邦政府と結託し、各州の自治を脅かしている。」という不満が高まり、南部出身で大きな政府を望まないアンドリュー・ジャクソンは、かつて政府が設けた「第2合衆国銀行を、州ごとの独自財政を奪い庶民の利益に沿わない。」と敵視し、「化け物(第2合衆国銀行)」を支配するロスチャイルドなどの海外株主を名指しで攻撃した。裏で更新のためのロビー活動を続けていたロスチャイルド家に対し、自らの政治生命を懸けて廃止に動いた。彼の有名な科白「The bank is trying to kill me, but I will kill it.(銀行が俺を殺そうとするのであれば俺が銀行を殺す。)お前らは悪の巣窟だ。これ以上抵抗するとぶち殺すぞ。」と強烈な言葉を浴びせ掛け海外資本を罵倒しまくった。アンドリュージャクソンは連邦議会が認めた第2合衆国銀行の特許更新に対して拒否権を発動した。それまで拒否権は、明らかに違憲の可能性がある時に発動するのが慣例であり、アンドリュー・ジャクソンの行動は革命的なものだった。なぜなら最高裁判所でも、連邦議会でも第2合衆国銀行は合憲とされていた。連邦議会は反発し、名だたる上院議員が演説を行なった。しかし、結局拒否権を覆すのに必要な3分の2の票を反ジャクソン派は確保できず、第2合衆国銀行は連邦の保証を失い、窮地に追いやられ、その後のアンドリュー・ジャクソンの様々な政策によって第2合衆国銀行は次第に資金が回らなくなり、破産に追い込まれ、特許終了と共に地方の一銀行となった。アンドリュー・ジャクソンは「銀行戦争(bank war)」に勝利した。
 アンドリュー・ジャクソンは連邦に対して州の権利を重要視する、南部出身の「州権主義者」だった。彼の時代連邦政府は均衡財政を維持し、負債を出さなかった。しかし、サウスカロライナにおいて連邦法を州の権限によって無効にし、州は合衆国から自由に離脱できるとする運動が起こった時(無効化の危機)、アンドリュー・ジャクソンはこの動きを強く牽制した。サウスカロライナの離反は避けられ、この時の彼の行動は後のエイブラハム・リンカーン(英語: Abraham Lincoln)の南部諸州の連邦脱退の時の行動に強く影響を与えた。
 敗れたロスチャイルド家はこの時は紅毛蠻賊アメリカ合衆国での通貨発行権独占に失敗した。銀行戦争から77年も経った大正02(西暦1913)年、陰湿でこの邪悪な悪魔は、スコットランド人及びスコッチアイリッシュで民主党の第28代大統領トーマス・ウッドロー・ウィルソン(英語:Thomas Woodrow Wilson)という猶太の手先の悪魔を使い、紅毛蠻賊アメリカ合衆国にFRB(連邦準備制度理事会)という悪魔の猶太の私益の中央銀行を設立してしまった。連邦準備法の最終法案が投票に掛けられたのは30人近くの上院議員がクリスマス休暇で不在の12月22日のドサクサ紛れてだった。>第45代、第47代ドナルド・ジョン・トランプ(英語: Donald John Trump)大統領がアンドリュー・ジャクソン大統領の肖像画をホワイトハウスの執務室に飾った。
 アンドリュー・ジャクソンが銀行戦争でロスチャイルド家と戦っている最中の天保06(西暦1835)年01月30日、大統領暗殺未遂事件が起きた。サウスカロライナ州選出下院議員のウォレン・R・デイヴィスの葬儀の後に議事堂を出たところ、群衆から飛び出したか、隠れていた柱の陰から出るかして、英国籍の失業中の塗装工、リチャード・ローレンスが失業者のリチャード・ローレンスが、アンドリュー・ジャクソン目がけて銃の引き金を引いた。不発だった。リチャード・ローレンスは予備の銃を取り出して撃ったがこれも不発だった。曇天からの湿気が2度の不発の原因とされた。デヴィッド・クロケット(英語: David crockett)を含む出席者が取り押さえた。伝説ではアンドリュー・ジャクソンが自らの杖でリチャード・ローレンスを打ち据え、自らの側近にローレンスを制止するよう促した。リチャード・ローレンスは最近塗装業の仕事を失い、大統領が死ねば、「お金がより十分になるだろう。」、「大統領が倒れるとき、初めて上昇できる。」と主張した。最後には「自身が追放されたイギリス王であり、アンドリュー・ジャクソンは単なる事務員であると。」主張した。リチャード・ローレンスは気違い扱いにされ、施設に収容された。彼の暗殺計画は決して罰せられなかった。犯行の動機や背景はついに分からなかった。後に警察が押収した2丁の銃を2回検証したが、弾はいずれも問題なく発射された。この話が広まると。多くの者が「アンドリュー・ジャクソンは紅毛蠻賊アメリカ合衆国と同じく神の摂理によって守られた。」と信じた。
 アンドリュー・ジャクソンの経済政策は大統領権限の拡大を齎した反面、天保08(西暦1837)年恐慌を引き起こす要因をつくった。 紅毛蠻賊アメリカ合衆国の経済は対英貿易により急速な発展を遂げ、特に南部で生産される原綿の輸出がそれを支えていた。この時代は紅毛蠻賊「イギリスの支配下」にあった。 南部・西部・東部でそれぞれ急速な開発が進む中で増大する資金需要を賄うため数多くの州銀行が設立されたが、当時のウォール街はその場として不十分であった。これに対し英米間の利子格差に目をつけたロンドン証券取引所の豊富な資金がこれら銀行の証券を吸収していった。 天保02〜07(西暦1831〜1836)年にかけ、合衆国の貿易収支は赤字でありながら地金収支は常に黒字であり、商品の支払いには州債などにより調達された資金が充てられていた紅毛蠻賊イギリス王国で調達した資金を使い、イギリス製品を輸入していた。 このように経済が対英従属の状態にある中でも危険な準備金比率で州銀行の設立ラッシュが続き、「深南部」と呼ばれる地域では州債の使途を銀行に集中させるなど金融面において更に対英従属が強まった。特にアーカンソー・フロリダ・ミシシッピでは州債の使途が銀行に限定されていた。紅毛蠻賊イギリス王国では合衆国債投資を中心とする投機ブームが続き、地方銀行の過剰発行・地金の流出が起こり産業の全般的恐慌が発生した。 その間、南部で横行する土地投機による紙幣の過剰発行を嫌ったアンドリュー・ジャクソンが天保07(西暦1836)年に正貨流通令を出して紙幣による土地売買を禁止したために、正貨の流出が増大したイングランド銀行は公定歩合の引き上げ、商業銀行との取引停止・手形の返送といった政策を打ち出し、合衆国内では銀行が支払い停止を起こして同じように産業の全般的恐慌に突入した。 この時、第2合衆国銀行の特許期間は終了してしまっていたため、イングランド銀行のような金融政策を行える金融機関が存在せず、「深南部」の州銀行の多くが放漫経営・州債依存・準備金の不足などにより支払い停止・倒産に追い込まれた。
 第8代大統領は、狡猾さと手腕から「Little Magician(小さな魔術師)」、「Sly Fox(ずる賢い狐)」と呼ばれた非アングロ・サクソンでオランダ系で民主党のマーティン・ヴァン・ビューレン(英語: Martin Van Buren、蘭語: Maarten Van Buren)で、天保08(西暦1837)年恐慌など、在任中に起きた数回の恐慌に対していずれも無策で相当な贅沢好きで人気を落とした。先住民のチェロキー族を故郷から1000q以上離れたオクラハマの原野に追い立て、その途上で老人・子供を中心に多くの死者を出した。ウィリアム・ヘンリー・ハリソン(英語: William Henry Harrison)が第9代大統領は当時としては高齢の68歳で大統領に就任したが、風邪を引いて体調を崩し肺炎を発症し、在任期間わずか31日で死んだ。副大統領のジョン・タイラー(英語: John Tyler)が第10代大統領に昇格した。この継承は公式には昭和42(西暦1967)年発効の「合衆国憲法修正25条」まで厳密に認められなかった。「偶然」と揶揄され、その反発から独断専行し議会と対立し、1期4年の間に9回の拒否権を発動した。さらに、副大統領就任の際に支持してくれた所属のホイッグ党(国民共和党の改名)の政策に従わず、党首(ヘンリー・クレイ・シニア(英語: Henry Clay Sr.)らと激しく対立し大統領就任2ヶ月ほどで党から除名された。「政党を持たざる男」、ジョン・タイラーは元民主党員で南部州権論者の信奉者であり、北部を基盤にするホイッグ党の急進的な政策とはしばしば対立し、「タイラー降ろし」の圧力を掛けられた。アイルランドとスコットランド系で民主党のジェームズ・ノックス・ポーク(英語: James Knox Polk)が第11代大統領となり、「大統領職を1期のみ務める。」と約束した。国境や併合など、侵略的に領土を増やした。在職中に奴隷を所有した最後の大統領でホイッグ党から出た第12代大統領ザカリー・テイラー(英語: Zachary Taylor)は、恩知らずで鬼畜のメイフラワー誓約に署名したピルグリム・ファーザーズの1人、ウィリアム・ブリュースターの子孫で、第4代大統領のジェームズ・マディソンのはとこ(又従兄弟)であり、奴隷商人の末裔の悪魔畜生第32代大統領フランクリン・デラノ・ルーズベルト(英語: Franklin Delano Roosevelt)と南軍総司令官のロバート・エドワード・リー(Robert Edward Lee)将軍が血縁関係で、アメリカ連合国(西暦1861〜1865年)大統領ジェファーソン・フィニス・デイヴィス(英語: Jefferson Finis Davis)は義理の息子に当たった。ザカリー・テイラーは、先祖や眷属の悪行の報いか、大統領就任からちょうど16ヶ月目に死んだ。
 欧州大陸から5000km離れ、モンロー主義を掲げて戦争に巻き込まれることを避けていた紅毛蠻賊アメリカ合衆国は、軍備も最小限で済み、連邦政府も財源には困らなかった。
 嘉永01(西暦1848)年の3月革命以降に、官憲の追跡を逃れて多くの社会主義者・自由主義者が紅毛蠻賊アメリカ合衆国に渡った。彼らは「48年世代(フォーティ・エイターズ)」と呼ばれ、ロスチャイルドの親戚のカール・マルクスの知人や友人が多くいた。その中に元プロイセン軍将校のジャーナリストであるヨーゼフ・アーノルド・ヴィルヘルム・ヴァイデマイヤー(独語: Joseph Arnold Wilhelm Weydemeyer)は、「新ライン新聞」以来のカール・マルクス、フリードリヒ・エンゲルス(独語: Friedrich Engels)の友人で、ニューヨークで月刊誌「革命」を創刊した。その少し前にフランス共和国ではナポレオン3世(仏語: Napoléon III、本名: シャルル・ルイ・ナポレオン・ボナパルト(仏語: Charles Louis-Napoléon Bonaparte))のクーデタが起きた。それについて「一体どういう歴史的条件下で起きた事件なのか解説して欲しい。」と旧友カール・マルクスに寄稿を求めた。カール・マルクスが書き送ったのが「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日」である。この伝手で、当時20万部の発行部数を持っていた急進派新聞「ニューヨーク・トリビューン(英語: The New-York Tribune)」の通信員となり、嘉永04〜文久01(西暦1851〜1861)年までの10年間に400本を超える記事を書き送った。いくつかは社説として掲載された。英国のインド支配、アヘン戦争、アメリカの奴隷制度など、ニューヨークでは南北戦争直前の10年間、ほぼ10日に1本カール・マルクスの記事で洗脳されていた。両親は無学な辺境の開拓農民で、正式な教育は幾人かの巡回教師からの1年分相当の基礎教育だけでそれ以外はほとんど独学のエイブラハム・リンカーンはゴロマキとレスリングの賞金試合(創世期のプロレス)を行い引き分け、腕力と大胆さで知られるようになった。エイブラハム・リンカーンをイリノイ州議会議員、下院議員、大統領に押し上げたのは、このユダヤ人のニューヨーク・トリビューンであり、資金も嘉永02(西暦1849)年にロスチャイルドの資金でイリノイ・セントラル鉄道の社長に就任し、他の大手鉄道の顧問弁護士やロービーストを務め、ユダヤの鉄道利権の中心にいた。南部が納めた輸入関税は北部の大陸横断鉄道建設に使われ、連邦収入の90%が関税で、文久01(西暦1861)年の大統領就任2日前に15%から36%に引き上げ強制徴収し、任期中に、50〜60%にさらに引き上げた。エイブラハム・リンカーンはイリノイ州下院議員時代を含め、嘉永07(西暦1854)年まで奴隷制廃止に反対した。先住民に殺害された父方の祖父エイブラハム・リンカーンが父トーマスを含む子供達が見ている前で殺された子の同名のエイブラハム・リンカーンは、人種の平等に絶対反対で、政局として奴隷制廃止を利用した。北部の白人は「自由黒人」を毛嫌いし、アフリカやハイチ、中米へ移動を画策していた。奴隷制度を批判的に描いた「アンクルトムの小屋」がベストセラーとなり北部で奴隷制反対の声が高まるとこれに乗じ奴隷解放を国際世論に訴えた。文久01(西暦1861)年、エイブラハム・リンカーンの就任を挟んで、連邦政府が南部の奴隷制への干渉を禁止する憲法修正条項(コーウィン修正条項)を成立させた。州の独立を奪い、連邦の中央集権帝国主義体、南北戦争(死者90万人、国家経済の40%を破壊)でアメリカ専制国を作った。北部と南部の対立は、貿易と奴隷制を巡っても劇化し。北部人で共和党のエイブラハム・リンカーンが第16代大統領に当選すると、南部11州が独立を宣言しアメリカ連合国となり、南北戦争が勃発した。大英帝国や数十ヶ国では優勝で奴隷を開放した。戦費調達のため、エイブラハム・リンカーンは政府紙幣の発行を行い、グリーンバックと呼ばれる緑色の財務省紙幣に続いて、政府の統制下にある「ナショナル・バンク」に紙幣発行権を与え、その代わりに国債を引き受けさせた。文久02(西暦1862)年にエイブラハム・リンカーンホームステッド法(英語: Homestead Act、自営農地法)の施行に署名した。一定期間公有地で耕作に従事すると土地を無償で与えるという法律である。自営農になることを夢見て多くの人が紅毛蠻賊アメリカ合衆国に渡り、西部開拓の推進力になった。カール・マルクスはこれを「共産主義の先駆的実践」と高く評価していた。カール・マルクス自身もテキサスへの移民計画を立てていた。文久04(西暦1864)年のエイブラハム・リンカーン再選の時、国際労働者協会(International Working Men's Association、第1インターナショナル)は手紙を送り、エイブラハム・リンカーンはこれに「アメリカ合衆国はヨーロッパの労働者たちの支援の言葉から闘い続けるための新たな勇気を得ました。」という謝辞を返した。南北戦争が始まり、南部からの綿花の輸出が途絶えイギリス王国では「綿花飢饉」と呼ばれる事態になった。それまでイギリス王国の輸入の4分の3を占めていたアメリカからの輸出が、5%程度にまで下がり、工場は大半が操業を中止し、常勤の労働者は1割になった。南部の諸州は、イギリス王国に代表を送り、「南部を支援すれば、今の苦境は抜け出られる。」と説得した。マンチェスターの労働者は、エイブラハム・リンカーンを支持する立場に立ち集会を開いた。それが全国に拡がりロンドンでカール・マルクスも演説した。そこで、エイブラハム・リンカーンがマンチェスターの労働者に感謝の手紙を送った。
 戦争は北部の勝利に終わったが、その直後、南部連合総司令官のロバート・E・リー将軍が降伏した6日後の元治02(西暦1865)年04月14日金曜日(聖金曜日)午後10時頃、ワシントンD.C.のフォード劇場で「我らのアメリカのいとこ(Our American Cousin、イギリス貴族の遺産相続にアメリカ人の甥がからむ喜劇)」の開演後にフォード劇場に到着しボックス席に入り、エイブラハム・リンカーンが左側のロッキングチェアに座った。俳優として勝手知ったフォード劇場ジョン・ウィルクス・ブース(John Wilkes Booth)はエイブラハム・リンカーンのいるボックス席に入り扉につっかえをした。ケンタッキー州の名門トッド家の出で高い教育を受けた悪妻の評判のリンカーン夫人メアリー・トッド・リンカーン (英語: Mary Todd Lincoln)はエイブラハム・リンカーンが自分の手を握っていたので「ハリス嬢が見たらどう思うかしら。」と夫を窘めた。エイブラハム・リンカーンは「別に何とも思わないさ。」と答えたが、これが彼の最後の言葉になった。ユダヤに逆らった 観劇中のエイブラハム・リンカーンにジョン・ウィルクス・ブースは1.2mの至近距離からデリンジャー拳銃で後頭部左耳後5cmに1発弾丸を撃ち込み、射殺した。一緒に観劇しようと何人もの人に声を掛けていたが、悉く断られた。ユリシーズ・S・グラント(英語: Ulysses S. Grant)将軍夫妻も招待されたが、リンカーン夫人メアリー・トッド・リンカーンがグラント夫人ジュリア・グラントをあからさまに嫌っていたため、グラント将軍もこの招待を断った。ヘンリー・リード・ラスボーンHenry Reed Rathbone)少佐と婚約者のクララ・ハリス(英語: Clara Harris)のみがこの誘いを受けた。
 撃たれたエイブラハム・リンカーンは椅子に座ったまま、前のめりになった。共に観劇していたヘンリー・リード・ラスボーン少佐はこれに気付き、すぐさまブースに飛び掛かったが、ジョン・ウィルクス・ブースは手に持っていたナイフを振り上げてヘンリー・リード・ラスボーン目掛けて切りつけた。一瞬怯んだヘンリー・リード・ラスボーンは舞台に飛び降りようとするジョン・ウィルクス・ブブースを取り押さえようとした。ジョン・ウィルクス・ブースは手摺りを超えて舞台に飛び降りたが、踵についた拍車が飾りの旗に引っ掛かり足を取られた。ナイフを掲げ、観客に向かってジョン・ウィルクス・ブースは「羅語: Sic semper tyrannis!(専制者は常に斯くの如し!)、バージニア州の標語)」とと叫んだ。この時、「これで南部の報復は果たされた。」と叫んだとも言われる。すぐに踵を返して舞台の裏手に出て、劇場の裏口から待たせてあった馬に跨った。劇場の裏手に用意していた馬に乗って観客の中でこれをすぐに追いかけたものもいたが、逃げ去った後だった。海軍基地の橋まで逃走した。この橋は夜09時以降通行禁止だったため、守衛のコップ軍曹に通行を止められたが、なんとか言いくるめて橋を渡った。ジョン・ウィルクス・ブースはデイヴィッド・ヘロルド(英語: David Herold)と落ち合うことに成功したが、足を挫いていた。メリーランド州サラッツビルに置いていた逃走用の道具を手に入れた2人は、この後、南軍の協力者たちの家を渡りながら、深南部を目指す逃走の途に就き、南軍の工作員であったサミュエル・マッド医師の自宅を目指した。医師はブースの足が折れていたため簡単な治療を行い、サミュエル・コックスの元へ2人を向かわせた。さらにサミュエル・コックスの手引きで2人はトーマス・ジョーンズに引き合わされた。ジョーンズは二人を森の中にかくまい、追っ手の目を盗んでポトマック川を渡り、南軍支持者の多いヴァージニア州に逃げ切るようボートと羅針盤を与えた。 ポトマック川を渡ることに成功した。しかし、深南部に逃げ込むと言う計画は果たせず、10日間の逃走と潜伏の後、04月24日にリチャード・ギャレットという男の農場に辿り着いた。2人は自分たちが「南軍の兵士である。」と言ったため、ギャレットはこれを信じて2人をもてなし家に泊めた。しかし、翌日になってリチャード・ギャレットの家族は2人の言葉に疑いを抱き、「煙草倉庫で寝てほしい。」と頼んだ。2人が倉庫へ入ると、馬などの盗難を恐れたリチャード・ギャレットの家族によって外から秘かに鍵がかけられた。そこへ、ポトマック川を捜索中に偶然職質を行った2人組から犯人らの情報を得た、ルーサー・ベーカー中佐、エドワード・ドハティー中尉、エヴァートン・コンガー(英語: Everton Judson Conger)大佐らに率いられた捜索隊の兵士たちがやってきてリチャード・ギャレットらを尋問し、2人の居場所を聞き出すと倉庫を包囲した。 25日夜に煙草小屋の中で寝ていたところをリチャード・ギャレットの家族によって閉じ込められ、追ってきた26人の騎兵隊に包囲された。騎兵隊は投降を呼び掛けた。デイヴィッド・ヘロルドは投降したが、ジョン・ウィルクス・ブースは拒否した。やがてデイヴィッド・ヘロルドのみ投降し、エヴァートン・ジャドソン・コンガー大佐の指示によって小屋の周りに薪が積まれ、火が点けられた。その火によって照らされたブースを騎兵隊の一員ボストン・H・「ボストン」・コーベット(英語: Thomas H. "Boston" Corbett)軍曹が後方から射撃したし、銃弾はジョン・ウィルクス・ブースの首を貫通し致命傷を与えた。偶然にも、この位置はジョン・ウィルクス・ブースがエイブラハム・リンカーンに与えた傷に非常に近かった。倒れたジョン・ウィルクス・ブースを兵士たちが火の中から引き摺り出し、ギャレット家の玄関前に横たえた。兵士の1人がジョン・ウィルクス・ブースの首に包帯を巻こうとしたが、ジョン・ウィルクス・ブースは断り、擦れた声で「母に私は国のために死んだと伝えてくれ。」と言い残した。ジョン・ウィルクス・ブースは脊椎を打ち抜かれていたため、首から下は全く動かなかった。ジョン・ウィルクス・ブースは呼吸も困難な苦痛に苦しみながら、動かない手を見て「役立たず、役立たず。」と言った。これが最後の言葉になった。 04月26日早朝、ジョン・ウィルクス・ブースは命を落とした。ジョン・ウィルクス・ブースの死体と日記などの持ち物は汽船でワシントンに運ばれ、軍艦モントーク号の甲板に保管した後、死体はスタントン陸軍長官の命令で、04月27日の夜、秘密警察本部長ラファイエット・カレー ・ベイカー(英語: Lafayette Curry Baker)大佐、ベイカー中尉(大佐の甥。リチャード・ギャレットの農場に踏み込んだ警官)により秘密裏に埋葬された。このため自分がブースと主張する者が多く現れた。以前の監獄の地下牢の床下に埋めたと言う。ラファイエット・カレー ・ベイカーは、大統領暗殺犯を逮捕した者に提供される10万ドルの報奨金の多額の分け前を受け取った。共犯者として捕らえられた8人の裁判が軍法会議の形で行われ、メアリー・サラット(英語: Mary Surratt)、ルイス・パウエル(英語: Lewis Powell)、デイヴィッド・ヘロルド(英語: David Herold)、ジョージ・アツェロットが絞首刑、サミュエル・マッド、サミュエル・アーノルド(英語: Samuel Arnold)、マイケル・オロフレン(英語: Michael O'Laughlen)は終身刑、エドマン・スパングラーは懲役6年となった。マイケル・オロフレンは慶應02(西暦1867)年に黄熱病で獄死。サミュエル・マッド、サミュエル・アーノルド、エドマン・スパングラーは明治02(西暦1869)年にジョンソン大統領による恩赦を受けた、ジョン・ウィルクス・ブースの日記については、裁判でスタントン陸軍長官は「発見されていない。」としていたが、後に「発見された。」と裁判に提出した。日記には暗殺事件の期間24頁が破られていた。
 元々精神的に不安定なところがあったリンカーン夫人メアリーは、夫の暗殺を目撃し、さらに末息子のトーマス ・「タッド」・リンカーン3世(英語: Thomas "Tad" Lincoln III)を18歳で亡くすと、ますます異常を来したため、長男のロバート・トッド・リンカーン(英語: Robert Todd Lincoln)により精神病院に入れられた。4ヶ月後に姉のエリザベスが身元引受人になることで退院したが、この出来事により最後に残った子供の長男ロバートとは生涯疎遠となった。 その後スプリングフィールドにある姉の邸宅で事実上の世捨て人として63歳で亡くなるまで過ごした。
 イングランド系、スコッツ・アイリッシュ系及びアイルランド系アンドリュー・ジョンソン(英語: Andrew Johnson)は自ら奴隷を有し奴隷制の賛同者であるが、脱退反対勢力の強かった東テネシー出身であり、南部諸州の脱退に反対であった。脱退した南部11州選出の上院議員のうち、ワシントンにとどまったのは彼だけであった故にエイブラハム・リンカーンに気に入られ、副大統領の地位を手に入れた。エイブラハム・リンカーンの死で副大統領から昇格して第17代大統領となった。黒人奴隷の処遇は南部諸州の判断に委ね、大統領特赦で多くの南部人指導者の政治的権利を復活させた。戦後、北部出身で奴隷制反対論者の共和党内の多数派は黒人解放・奴隷制廃止の方向に動いたが、南部で民主党のアンドリュー・ジョンソンは奴隷制廃止を唱える議会と対立し、拒否権を29回行使した。


JardineMatheson.jpgジャーディン・マセソン持株会社(ジャーディン・マセソン・ホールディングス(英語: Jardine Matheson Holdings Limited,、支那語: 怡和控股有限公司))

 香港に本社(登記上の本社はバミューダ諸島ハミルトン)を置く紅毛蠻賊イギリス系企業グループの持株会社。 創設から190数年経った今日でも、アジアを基盤に世界最大級の国際コングロマリット(複合企業)として今も影響力を持っている。
 ジャーディン・マセソン商会(ジャーディン・マセソン・アンド・カンパニー、後にジャーディン・マセソン有限会社(ジャーディン・マセソン・アンド・カンパニー・リミテッド)、現ジャーディン・マセソン持株会社)は、紅毛蠻賊スコットランド人のウィリアム・ジャーディンとジェームズ・マセソンが共同経営者として西暦1832年に設立した極東の会社で、歴代紅毛蠻賊ブリカスの中の北のチンカス、紅毛蠻賊スコットランド人を採用した。 アジアでアヘンを密輸し、綿、茶、絹、その他様々な商品と取引し、当初は広州(現在の広州)で事業を開始した。(西暦1844)年に新しい紅毛蠻賊イギリス植民地の香港に本社を置き、その後支那沿岸全域に事業を拡大した。西暦19世紀末までに、ジャーディン・マセソン商会は東亜最大の外国貿易会社となり、海運、綿糸工場、鉄道建設などの分野に事業を拡大した。
 西暦20世紀初頭には、冷蔵倉庫、梱包、醸造事業を新たに立ち上げ、上海最大の綿糸紡績会社にも成長した。西暦1949年10月01日の中華人民共和国の建国後、同国での事業はますます困難になっていった。その結果、外国企業は徐々に支那本土から撤退し、ジャーディンズ・マセソン商会は西暦1954年に香港での事業を再構築するために撤退した。同社は、国の改革開放後の西暦1979年まで支那本土に戻ることはなかった。


ケズウィック家

 ジャーディン・マセソン商会の創始者の1人、ウィリアム・ジャーディンの姉ジーン(Jean Jardine)とデイヴィッド(David Johnstone)の娘マーガレット・ジョンストン(Margaret Johnstone)とトーマス・ケズウィック(Thomas Keswick)の息子であるウィリアム・ケズウィックは、ウィリアム・ジャーディンの姪孫(テッソン、又甥)に当たる。
 ケズウィック家一族の創始者であるウィリアム・ケズウィックは、スコットランドの低地のダムフリースシャーで生まれ。ウィリアム・ケズウィックは嘉永07(西暦1855)年に支那と香港に到着し、ジャーディン・マセソン商会と関係を持つケズウィック家の5世代のうち最初の世代となった。

 ジャーディン・マセソン商会はアヘン商人として活動し、第1次および第2次アヘン戦争に大きな影響を与えた。ジャーディン・マセソン商会は、明治03(西暦1870)年にアヘンの取引を中止し、船舶、鉄道、繊維、不動産開発など、他の幅広い貿易事業を追求した。


 嘉永06年06月03日(西暦1853年07月08日)に、紅毛蠻賊アメリカ合衆国(西暦1776年〜)海軍東インド艦隊(英語: East India Squadron)代将でフリーメーソンのマシュー・カルブレイス・ペリーらが浦賀へ来寇し、幕末の騒擾が始まった。
 紅毛蠻賊は、鯨油を潤滑油や灯火として利用するためだけに、主にマッコウクジラを大西洋で乱獲尽くすと、太平洋で乱獲した。「食糧や水、薪炭を得る捕鯨の補給基地が目的で来寇した。」と言われるが、 来寇の主目的は、領土を侵掠し、軍事基地と植民地を得るためであった。
 セファルディーム猶太のオーガスト・ベルモント1世(英語: August Belmont i)は、フランクフルト・アム・マインのロートシルト(ロスチャイルド)家の祖、マイアー・アムシェル・ロートシルトが始めたロートシルト銀行に見習いとして入社した。24歳の時、オーガスト・ベルモントはロスチャイルドのスペイン領キューバ(西暦1492〜1902年)における利益を守るために当時首都ハバナに向けて出航した。ハバナに向かう途中、オーガスト・ベルモントは乗り継ぎでニューヨークに立ち寄った際、西暦1837年恐慌の財政的/経済的不況の波に晒された状況を目の当たりにした。これは、紅毛蠻賊アメリカ合衆国で初の民主党政権であったアンドリュー・ジャクソン大統領の2期政権の終了直後であった。オーガスト・ベルモントはハバナ行きを中止しニューヨークに残り、紅毛蠻賊アメリカ合衆国国内のロスチャイルドの経済的利益が危機に晒されないように監督した。この経済恐慌の中で、ニューヨークにあるロスチャイルド家の代理人を含む何百ものアメリカ企業が崩壊した。その結果、オーガスト・ベルモントはハバナへの出発を無期限延期し、代わって破産した紅毛蠻賊アメリカ合衆国の代理人に取って代わる目的で、新会社オーガスト・ベルモント商会(英語: August Belmont & Company)を設立した。オーガスト・ベルモント商会はすぐに成功を収め、オーガスト・ベルモント商会は設立からの5年間でロスチャイルドのアメリカにおける利益を回復した。オーガスト・ベルモント商会は、外国為替取引、商業および個人融資、企業、鉄道、および不動産取引を扱い、ロスチャイルド家に巨万の富を齎した。米国の政治にも積極的に参加し、民主党全国委員会委員長。競走馬の繁殖馬主で、紅毛蠻賊アメリカ合衆国のサラブレッド競馬のクラシック三冠シリーズの第3戦であるベルモント・ステークスの名前の由来となっている。35歳の時、ペルリの娘、キャロライン・スライデル・ペリー(英語: Caroline Slidell Perry)と結婚し6人の子を為し、ペリー・ベルモント、オーガスト・ベルモント2世(August Belmont Jr.)など息子全員が政治に関与した。キャロラインの父は米海軍提督で、その3年後、ロスチャイルドの走狗として、黒船4隻を率いて日本に来寇した。日本に来寇した。
 また、ペルリは紅毛蠻賊アメリカ合衆国のホイッグ党の第13代大統領ミラード・フィルモア(英語: Millard Fillmore)から、薩摩藩影響下の琉球國(ルーチュークク)(西暦1429〜1879年)の「占領も止むなし。」と命令されて出帆した。
ミラード・フィルモアは、青年期になるまでまともな読み書きができなかった無学で野蠻な紅毛スコットランド人で、在職中に奴隷を所有した最後の大統領の第12代大統領ザカリー・テイラー(英語: Zachary Taylor)がコレラで病死したため、副大統領から昇格し、残りの任期だけ大統領になった。国民に信を問われていない大統領である。第3代大統領トーマス・ジェファーソン(英語: Thomas Jefferson)から続くアメリカ先住民(インディアン)の保留地政策を推し進め、第1次ララミー砦条約による民族浄化とその抵抗戦である「インディアン戦争」がさらに激化した。
浦賀に着く前に、大統領は民主党の第14代フランクリン・ピアース(Franklin Pierce)に替り、彼の下で海軍長官ジェイムズ・コクラン・ドビン(英語: James Cochrane Dobbin)は侵掠目的の武力行使を禁止したが、航海途上のペルリには届いていなかった。 フランクリン・ピアースは、カンザス・ネブラスカ法(英語: Kansas-Nebraska Act)とオステンド声明(英語: Ostend Manifesto)で、野蠻兇悪アメ公の政治的教義の明白な使命(英語: Manifest Destiny)マニフェスト・デスティニーと国民主権の信用を失墜させ、世論の批判の雪崩を招いた。
 ペルリ戦隊は、太平洋ではなく、大西洋、インド洋、シンガポール、広東省.上海などを経由した。実は本州島の浦賀の前に、04月19日(西暦05月26日)、沖縄島の那覇に姿を現した。2門の大砲で恫喝し、200人の武装した兵を率いて首里城まで進軍した。琉球を前線拠点にする狙いがあったため、かなり強硬な姿勢を見せ、首里城北殿で総理官と会見した。その後、沖縄島を6日間にわたり陸から調査した。那覇波上の護国寺を出て東に向かった調査隊は、沖縄島の東部を海岸沿いに逆時計回りに進み、4日目に漢那から西海岸へと抜けて、読谷や北谷を経て那覇へと戻った。ペルリは恫喝のため、戦隊の一部を那覇に駐屯させ、05月08日〜05月12日(西暦06月14日〜06月18日)にかけて、小笠原諸島を調査した。ペルリは小笠原の領有を宣言した。 即座に紅毛蠻賊イギリス王国から抗議を受け、狂羆ロシア船も抗議のために小笠原近海へ南下したため、宣言は立ち消えになった。05月17日(06月23日)に一度沖縄に戻り、再び戦隊の一部を残し浦賀に向かった。
 当時、紅毛蠻賊アメリカ合衆国は中進国でしかなかった。紅毛蠻賊アメリカ海軍には、明治37(西暦1902)年まで艦隊(Fleet)さえも存在せず、艦隊の下部組織、戦隊(Squadron)しかなかった。中進国の紅毛蠻賊アメリカ合衆国が砲艦外交で精一杯虚勢を張って派遣したペルリ戦隊はわずか4隻。そのうち蒸気船は「サスケハナ」、「ミシシッピー」の2隻だけで、残りは純粋な帆船である。しかもこの蒸気船も艦体も鉄製ではなく全木製だった。日本に蒸気船が来寇したのは初であったため、黒船=蒸気船という誤解が生じた。それ以前から来航している西洋帆船は黒船と呼ばれていた。ペルリの戦隊の軍艦も黒船と呼ばれた。蒸気機関を使った航行は港湾内のみで行うものであり、外洋では帆走を用いた。
 06月03日(07月08日)17時に江戸湾入口の浦賀(神奈川県横須賀市浦賀)沖に現れ無断停泊した。測量と称しペルリ戦隊所属の各艦から1隻ずつの武装短艇を派遣して、浦賀湊内に侵入した。浦賀奉行は当然抗議した。日本に対して不平等な国際関係を強いようとする意図であり、06月06日(西暦07月12日)早朝から測量艇隊は江戸湾内に20qほど侵入し、その護衛に「ミシシッピー」が付いて行った。 この脅迫の結果、翌06月07日(西暦07月13日)に徳川幕府はペルリ一行の浦賀の久里浜への上陸を認め、そこで紅毛蠻賊アメリカ合衆国第13代大統領ミラード・フィルモア(Millard Fillmore)の国書が幕府に渡された。この時、第12代征夷大将軍徳川家慶は病床に伏せており、国家の重大事を決定できる状態にはなかった。ペルリは「返事を聞くために1年後に再来寇する。」と告げた。会見が終了して2、3日すれば退去するものと考えていたが、ペルリは06月10日(西暦07月15日)に「ミシシッピー」に移乗し浦賀より北上し江戸港を明瞭に望見できる所まで侵入し、充分な威嚇を示してから小柴沖に引き返した。ペルリ戦隊は06月12日(西暦07月17日)に江戸を離れ、威圧監視に琉球國に残した船と紅毛蠻賊イギリス王国の植民地である香港へ帰った。ペルリは紅毛蠻賊アメリカ合衆国に戻ったのではない。ペルリ戦隊は、紅毛蠻賊アメリカ独立記念日の祝砲や号令や合図に湾内で数十発の空砲を発射した。この件は事前に日本側に通告があったため、町民にその旨のお触れも出てはいたが、最初の砲撃では江戸は大混乱となった。やがて空砲だとわかると、町民は砲撃音が響く度に、花火の感覚で娯楽として楽しんだ。
 香港で暗愚な将軍第12代徳川家慶の死で、人前に出るのを嫌い、障碍をもち病弱な第13代将軍徳川家定の即位を知った残虐ロスチャイルドの狡猾な走狗ペルリは、「日本の不幸に付け込み、混乱の隙を突こう。」と考えた。八方手を尽くして船を掻き集めた結果、1年間の猶予の取り決めを無視し半年で決断を迫り、嘉永07年01月16日(西暦1854年02月13日)、ペルリは琉球國を経由して再び浦賀に来寇した。嘉永07年01月14日〜02月21日(西暦1854年02月11日〜03月19日)に輸送艦「サザンプトン」(帆船)、フリゲート(戦列艦よりも小型・高速の遊撃艦)「サスケハナ」、「ミシシッピー」、「ポーハタン」(以上蒸気船)、スループ(マスト1本にガフ1枚とジブ1枚を持つ帆船)「マセドニアン」、「ヴァンダリア」、(以上帆船)、補給艦「レキシントン」(帆船)、スループ「サラトガ」(帆船)、補給艦「サプライ」(帆船)が次々と到着し、9隻の戦隊が江戸湾に集結した。その間の01月15日(西暦02月12日、三浦半島の長井村沖の亀木という磯根に「マセドニアン」が座礁し、浦賀奉行所が座礁事件の第1報をペルリ艦隊に通報しすぐに救助を向かわせた。奉行所と彦根藩が助力を申し出たが、日本側の救助活動を待たずに、「ミシシッピー」が到着し綱で引き出した。日本側は海浜に打ち上げられたバラストを拾い上げ、20マイル(32q)も離れたペルリ戦隊まで送り届けた。
 01月16日(西暦02月13日)から応接の場所について折衝が始まった。浦賀奉行所は浦賀の館浦に応接所を建てたが、ペルリ側は納得せず、ようやく01月24日(西暦02月27日)になって武蔵国神奈川近くの横濱村(現神奈川県横濱市)で決着した。02月04日(西暦03月06日)、横濱に応接所が完成し02月06日(西暦03月08日)、紅毛蠻賊アメリカ側は総勢446人が横濱に上がり込んだ。やはり浦賀には見物人が多数詰め掛け物見遊山になっていた。また、勝手に舟を出してアメリカ人と接触する市民もいた。ペルリは、「交渉の開始を祝って礼砲を打つ。」と称して、大砲を一斉射撃させたり、儀仗兵という名目で500人もの陸戦隊を上陸させて会場を取り巻くという調子で、徹底的に幕府側を恫喝した。
 01月23日(西暦02月20日)丑の下刻(午前03時頃)、安房国洲崎を警護する備前岡山藩陣地への砲撃があった。艦船の砲弾は陣地の手前10mほどの海中に落下した。備前藩は非常召集を行い大砲5門で砲撃し、蒸気船2隻は逃走したが帆船3隻に命中した。備前の守備隊は舟艇で帆船への乗船を試み、反撃を受けて300人ほどが死傷したが、3隻を「御取り上げ(拿捕)」した。
 約1ヶ月にわたる協議の末、嘉永07年03月03日(西暦1854年03月31日)、ペルリは約500人の将官や船員とともに横濱村に上陸し日本側から歓待を受け交渉が開始され、全12ヶ条におよぶ日米和親条約(神奈川条約)が締結された。
 その後、嘉永07年04月下旬(西暦05月下旬)に調査のため箱館港に入港し松前藩家老格の松前勘解由に箱館港に関する取り決めを求めたが、「権限がない。」として拒絶した。箱館から戻った後、伊豆国下田(現静岡県下田市)の了仙寺へ交渉の場を移し、05月22日(西暦06月17日)に、日米和親条約の細則を定めた全13ヶ条からなる下田追加条約を締結した。玉泉寺と了仙寺が米人休息所に指定され、下田のおける紅毛蠻賊米人の上陸遊歩の範囲は、港内の犬走島を中心に半径7里以内と定められ、上陸遊歩のみで止宿は許されていなかった。
 ペルリ戦隊は06月01日(西暦06月25日)に下田を去り、帰路に立ち寄った琉球王国とも正式に琉米修好条約を締結させた。
ペルリは紅毛蠻賊アメリカ合衆国に帰国後、これらの航海記「日本遠征記」を議会に提出した。紅毛蠻賊アメリカ合衆国は、紅毛蠻賊アメリカ合衆国を脱退した南部11州の奴隷制アメリカ連合国が分裂し、熾烈な南北戦争に突入したため、日本や清に対する影響力をどころではなくなり、紅毛蠻賊アメリカ合衆国の国益を毀損した。結局紅毛蠻賊イギリス王国や紅毛蠻賊フランス帝国、露助ロシア帝国が日本と関係を強め、清に対する影響力を拡大してしまった。 翌年の日米和親条約締結に至った。
 ペルリ戦隊は都合5回も沖縄に来寇している。
ペルリ戦隊の5回目の琉球来寇で、嘉永07年05月17日((西暦1854年06月12日)夜、琉球の那覇沖に滞留していた輸送船「レキシントン」水兵、ウィリアム・ボード(William Board) 、スコット(Scot)、スミス(Smith)らが仲間数人と共に那覇の町に上陸し那覇の町中で暴れ回り、婦女暴行におよぶという事件が起こった。天久寺止宿のスコットとスミスは、那覇の市場で役人に逆らい、役人は仲間を呼んだ。たちまちスコットは投げ倒されて袋叩きにあい、人事不省の状態に陥った。ウィリアム・ボード、スコット、スミスの3人は那覇の街を通って、ある民家に押し入り酒を飲み2人は酩酊し溝の中で寝入ってしまった。酒を一滴も飲んでなかったウィリアム・ボードは。午後4時、東村のミツが姪の若い少女が2人で戸締りをしていた民家に石垣を乗り越えて闖入した。ミツは逃れようと戸口へ向かったが、ナイフを出して脅迫し抱きついた。ミツは大声で叫んだが、抵抗するにはあまりにも力が弱く、全く意識を失い強姦された。怒りに燃えた琉球の民衆はウィリアム・ボードを捕らえて地面に投げつけた。ウィリアム・ボードは慌てて逃げ場を求めて海岸へ走った。この時までに多くの琉球の民衆が集まり、ウィリアム・ボードを追いかけて石を投げつけ、石のいくつかは当たった。水に倒れ込んだウィリアム・ボード自身はやがて溺死した。提道(突堤)近くで発見され、小舟の中で口から泡を吹いてのびていた。琉球人たちが、水の中に落ちて溺死したのを拾い上げた。「レキシントン」の軍医補、ネルソンが検死した。胃からアルコールは検出されず、頭骸骨骨折以外に損傷は認められなかった。
 琉球政府は、「ウィリアム・ボードを溺死に追い込んだ。」という理由で、琉球人6人の替え玉のアメリカ側への引き渡しを申し出たが、ペルリは拒否し、東村住渡慶次は八重山へ終身追放。久米村住國吉、渡地村住屋良、東村住新嘉喜、西村住知念、西村住金城は各々太平山(宮古島)に8年間追放。ペルリの「日本遠征記」には、生き残った「スコットとスミスは軍法会議に掛けられ相当の罰を受けた。」とあるが、この2人を含む関係者が処罰された形跡はない。
この事件は、後に琉球國と紅毛蠻賊アメリカ合衆国の外交関係を揺がす大きな問題にまで発展した。
 上海の貿易商、タウンゼント・ハリス(英語: Townsend Harris)は、通訳兼書記官としてオランダ語に通じたヘンリー・コンラッド・ジョアンズ・ヒュースケン(英語: Henry Conrad Joannes Heusken、蘭語名: ヘンドリック・コンラット・ヨアンネス・ヘースケン、Hendrick Conrad Joannes Heusken)を雇い、ヨーロッパからインド経由でシャム王国チャクリー朝(ラッタナコーシン朝)(西暦1782年〜)へ到着し、クルングテープにおいて通商条約の締結に尽力し香港経由で、安政03年07月21日(西暦1856年08月21日)、「サン・ジャシント」号で下田に来寇した。徳川幕府は来任を認めず紛糾した。これは日米和親条約の条文解釈の違いで、日本文では「両国政府において拠所なき儀」があった場合」と表現されているが、英文では「両国政府のいずれか一方がかかる処置を必要と認めた場合」となっていた。幕府は駐在を拒絶しようとしたが、強硬な主張のタウンゼント・ハリスに押され、柿崎の玉泉寺を仮の宿所とすることで同意し、08月05日(西暦09月03日)にタウンゼント・ハリスは総領事として玉泉寺に入り、翌06日(西暦04日)には星条旗が庭高く翻った。タウンゼント・ハリスは。体重が40ポンド(約18kg)も落ち、吐血するほど体調を崩していた。タウンゼント・ハリスの秘書兼通訳であるヘンリー・ヒュースケンが下田奉行所に看護人の派遣を要求した。下田奉行所は男性の看護人を派遣することにしたが、ヘンリー・ヒュースケンが自分とタウンゼント・ハリスにそれぞれ女性の看護人を派遣することを強硬に要求した。下田奉行所は、タウンゼント・ハリスに斎藤きち(唐人お吉)を派遣したが3日で返された。通訳に過ぎない色獣ヘンリー・ヒュースケンにも妾お福を派遣し、その後ヘンリー・ヒュースケンの月極めの妾にお鶴がなった。タウンゼント・ハリスは、安政04年05月26日(西暦1857年06月17日)に、アメリカ総領事ハリスが、日米修好通商条約の前段階として、下田で9ヶ条の日米追加条約(下田協定)を締結した。
 さらに、日本との貿易ができるよう「通商条約」の締結を徳川幕府に求めた。孝明天皇からは条約調印の勅許が得られないまま、安政05年06月19日(西暦1858年07月29日)、大老井伊直弼老、中間部詮勝らは「日米修好通商条約」全14条(付属貿易章程7則)を締結した。条約の調印は神奈川沖に泊まっている「ポーハタン」の上で行った。条約の調印場所となった「ポーハタン」は、日米修好通商条約の批准書 を交換するため、安政07(西暦1860)年01月、紅毛蠻賊アメリカ合衆国に向けて勝海舟らが乗る咸臨丸も共に横濱を出発した。安政05年(西暦1858年)〜安政06年(西暦1859年)にかけてこれらの諸策に反対派を弾圧した安政の大獄を形式上は第13代将軍徳川家定が台命(将軍の命令)を発して全ての処罰を行なったことになっているが、実際には井伊直弼が全ての命令を発した。弾圧されたのは尊王攘夷や一橋派の大名・公卿・志士(活動家)らで、連座した者は100人以上に上った。
 徳川幕府は、紅毛蠻賊アメリカ合衆国に続いて、紅毛蠻賊オランダ王国(ネーデルラント王国(西暦1830年〜)、露助ロシア帝国、紅毛蠻賊イギリス王国、紅毛蠻賊第2帝政フランス帝国とも同様の条約を結んだ(安政の5ヶ国条約)。いずれも、関税自主権を欠き、治外法権を認める不平等条約で、後に明治政府が力を入れて欧米諸国と交渉を行うことになる条約改正の課題となった。
 大老井伊直弼が安政07(西暦1860年03月、桜田門外で暗殺された。紅毛蠻賊アメリカ合衆国では共和党のエイブラハム・リンカーンが大統領に選出された。

 譜代中の名門、阿部正弘(備後福山10万石)は、わずか25歳で老中になりやがて老中首座となった。日米和親条約の締結後、朝廷との協調路線の下、紅毛蠻賊列強の圧力に対抗し「国防強化」を図る「安政の改革」を断行した。阿部正弘は朝廷に報告し諸大名や幕臣などに広く意見を求めるという異例な対応を執った。これにより、朝廷の政治的権威が高まり、幕府に対する有力大名の発言力が増し、政策は次第に変質していった。
 特に人材登用に当たって英断を奮い、徳川幕府の行政機構の中で低い出自から一定以上の地位に攀じ登ってくる人物は皆有能と言えた。阿部正弘は、名門の御曹司であるにも拘わらず、川路聖謨、その弟の井上清直、水野忠徳、江川英龍、勝義邦(海舟)などの下級幕臣やさらには土佐の漁民に過ぎないジョン万次郎の起用は、彼の出自に対する偏見のなさをよく示すもので、岩瀬忠震に至っては、部屋住みの身分のままで阿部正弘に抜擢され、終生その身分のままで幕府に仕えた。大久保忠寛や永井尚志は比較的高い出自だが、やはり阿部正弘の抜擢により活躍した日米追加条約(下田協定)公布のわずか2週間後の06月17日(西暦05月04日)、突然阿部正弘は風邪を拗らせわずか39歳で亡くなった。
 内外共に攘夷か開国かに国家存亡を懸けた時期に態度を曖昧にして問題処理を先送りにした「ぶらかし策」を執った。徳川幕府はペルリの再来を見越して大号令を発し、ペルリの要求に対する諾否は留保したままで、なるべく平穏に処理するという漠然とした対応を示した。これは正に「ぶらかし策」だった。

 結果的に不平等条約に至った幕府の「ぶらかし策」だが、次善の策であった。国内の攘夷の風潮が拡大し、朝廷の権威と長州藩、薩摩藩の権力が増大し、暴力や脅迫の恐怖政治(テロリズム(Terrorism))が横行する殺伐とした幕末になった。薩長土肥による明治維新政府が成立すると、それまでの「尊王攘夷」を全否定し、「操王開国」に180度反転した。明治維新政府の洗脳教育により、明治維新や自由民権運動や大正デモクラシーなどの意味が捏造されており、普通の国民は疑問もってもいない。
 孝明天皇の強い要望により、第14代将軍徳川家茂(慶福)は、文久03年05月10日(西暦1863年06月25日)をもっての攘夷実行を約束した。長州藩は馬関海峡(現関門海峡)を通過する外国船への砲撃した。報復として、文久03年(西暦1863年)、紅毛蠻賊アメリカ・フランス軍艦が馬関海峡内に停泊中の長州軍艦を砲撃し、長州海軍に壊滅的打撃を与えた。しかし、長州は砲台を修復した上、対岸の小倉藩領の一部をも占領して新たな砲台を築き、海峡封鎖を続行した。(下関事件)次いで元治01年(西暦1864年)、前年からの海峡封鎖で多大な経済的損失を受けていた紅毛蠻賊イギリス王国は長州に対して懲戒的報復措置を執ることを決定。紅毛蠻賊フランス帝国、紅毛蠻賊オランダ王国、紅毛蠻賊アメリカ合衆国の3国に参加を呼びかけ艦船17隻で聨合艦隊で、馬関(現下関市中心部)と彦島の砲台を徹底的に砲撃し、各国の陸戦隊がこれらを占拠し破壊した。(四国艦隊下関砲撃事件)
 万延01(西暦1860)年、紅毛蠻賊米国人宣教師ジェームス・カーティス・ヘボン(英語: James Curtis Hepburn)、(英語: と商人フランシス・ホール(英語: Francis Hall)、宣教師デュアン・B・シモンズ(英語: Duane B. Simmons)博士夫妻らは、神奈川宿近くの東海道で大名行列を見物した。尾張徳川家の行列の先触れに跪くよう命じられたが紅毛蠻賊米国人は従わず、立ったまま行列を凝視したため、尾張藩主徳川茂徳(もちなが)もジェームス・カーティス・ヘボンらの前で駕籠を止め、オペラグラスでジェームス・カーティス・ヘボンらを観察するなど張り詰めた空気が流れたが、数分後に尾張侯の行列は何事もなく出発し、事件・紛争化することなく事なきを得た。紅毛蠻賊は、我が物顔にここまで舐め切っていた。
 チャールズ・レノックス・リチャードソン(Charles Lennox Richardson)は、一攫千金を求めた紅毛蠻賊イギリス人で20歳の時に上海に渡った。貿易に携わったがパッとせず、諦めて帰国する前に開港したばかりの横濱を訪れた。文久02年08月21日(西暦1862年09月14日)に武蔵国橘樹郡生麦村(現川崎市鶴見区)で、チャールズ・レノックス・リチャードソンは知人3人と馬で川崎大師観光に向かう途中、薩摩藩の大名行列と鉢合わせした。馬から降りて道を開ければいいだけだったが一行はそれを知らず、馬に乗ったまま行列に飲み込まれた。そして運悪く島津久光が乗る籠に接近したため警護していた侍たちに斬られた。深手を負ったチャールズ・レノックス・リチャードソンは必死で逃げたが力尽きて落馬し追手に止めを刺された。享年29。他3人は逃げ延びた。チャールズ・レノックス・リチャードソンは傲慢、粗暴でアジア人蔑視の傾向があった。上海では苦力(クーリー)に暴力を奮う姿が度々目撃されていた。生麦事件当日も「こういう連中の扱いは慣れている。」と豪語していた。
 紅毛蠻賊イギリス王国はチャールズ・レノックス・リチャードソンの死を利用し、「江戸を火の海にする。」と幕府を脅して賠償金10万ポンドをせしめ、さらに薩摩藩にも「犯人を引き渡した上で謝罪し、賠償金2万5千ポンド払え。」と迫った。やり口はヤクザの恐喝だが、薩摩藩は「礼儀作法を知らんモンが悪か。」とこれを突っぱねた。不逞英国人を成敗した生麦事件の解決と補償を艦隊の力を背景に紅毛蠻賊イギリス王国と、主権統治権の下に兵制の近代化で培った実力でこの要求を拒否し防衛しようとする薩摩藩兵が、文久03年07月02日〜04日〈西暦1863年08月15日〜17日)に鹿児島湾で激突した。英国軍艦7隻を鹿児島湾に向かわせ、薩摩の汽船3隻を拿捕した。薩摩藩は射程の短い大砲ながら英国艦目掛けて砲弾を撃ち込んだ。英国艦も慌てて応戦し、砲台を破壊した上、城下町を火の海にした。ところが英国艦は艦隊司令官や副長を初めとする13人が戦死、負傷者多数。一方薩摩側の死者は数名に止まった。英艦隊が鹿児島湾を脱したことで戦闘は終わった。これが後に言う薩英戦争で、アヘン戦争になりかけたが薩摩は互角以上に戦った。紅毛蠻賊イギリス王国は薩摩藩の強さに衝撃を受けた。(薩英戦争)
 幕府の仲裁もあり、薩英は和睦を結ぶこととなった。紅毛蠻賊イギリス王国は相変わらず下手人の引き渡しと2万5千ポンドの賠償金を求めた。薩摩は賠償には応じず、幕府から2万5千ポンドを借りて見舞金として払い、後にこれを踏み倒した。幕府が支払った総額12万5千ポンドで、紅毛蠻賊イギリス王国は。生麦で起きた偶発事故を利用して莫大な賠償金をせしめた。この暴挙は欧米でも疑問視された。この事件の結果、紅毛蠻賊イギリス王国と薩摩藩は秘密裏に手を結んだ。

 上海の貿易商、初代駐日本アメリカ合衆国弁理公使タウンゼント・ハリスは、日米追加条約(下田協定)で、金と銀の為替相場を固定した。タウンゼント・ハリスは、金があまりにも安く取引されていることに衝撃を受けた。人類の歴史始まってから今まで、地球上で産出された金はオリンピックプール3杯分に相当すると言われている。その実に3分の1、つまりプール1杯分が日本で産出されている。タウンゼント・ハリスはシルクロードの時代に、マルコ・ポーロ(伊語: Marco Polo)が日本を「黄金の国ジパング」と呼んだことは誇張ではなかった。
 日本国内で産出された金で金貨を製造し懐に偲ばせていた。日本国内に溢れていた金だが、メキシコの銀貨1枚の価値が日本では慶長小判1枚に等しく、さらに国外に持ち出すと慶長小判はメキシコ銀貨4枚と交換された。つまり、メキシコ銀貨を日本に持ち込み、慶長小判に両替、さらにそれを日本国外に持ち出すと何と4倍の額に膨れ上がった。
 紅毛蠻賊タウンゼント・ハリスはそのことを知り、慶長小判を次々に香港に持ち出してメキシコ銀貨に交換しては資産を膨らませたタウンゼント・ハリスの行動が契機となり、日本からは瞬く間に金が流出してしてしまった。
タウンゼント・ハリスは私腹を肥やすと共に、エイブラハム・リンカーン大統領が就任していた紅毛蠻賊アメリカ合衆国に、日本の金から生まれた富を吸い取った。その莫大なお金が綿花栽培による富を武器に独立を準備していた南部の紅毛蠻賊アメリカ連合国を打ち勝つため、北軍側の武器購入に充てられた。日本に開国を迫った紅毛蠻賊アメリカ合衆国は、さらに日本から国富の金を持ち出すことで莫大な価値に変換し、それを資金源に南北戦争を戦った。それだけに終わらず、元治02(西暦1865)年に南北戦争で南軍に勝利を収めた北軍は、南軍の戦費債を全額立て替えて支払い、その上、クリミア戦争(西暦1853〜1856年)で疲弊した兇暴蠻賊ロシア帝国が売りに出していたアラスカを慶応04(西暦1867)年、紅毛蠻賊アメリカ国務長官ウィリアム・ヘンリー・スワード(英語: William Henry Seward, Sr.)が720万ドルの現金で購入した。DS(ディープステイト)の資金源は日本の国富の金だった。

 江戸幕府は嘉永07年03月03日(西暦1854年03月31日)の日米和親条約を皮切りに、 嘉永07(西暦1854)年、安政01(西暦1855)年、安政02(西暦1856)年と立て続けに日英、日露、日蘭和親条約を締結させられ、長崎港と函館港を開港した。
 予てより沖縄や台湾、長崎の支那人商人を通じ日本の物品を密貿易していたスッコトランド人ジャーディン・マセソン商会は、日本が開国した安政06(西暦1859)年に上海支店に居たスッコトランド人ウィリアム・ケズウィックを日本に派遣した。ジャーディン・マセソン商会は、日本に拠点を構えた最初の外国商社だった。ウィリアム・ケズィックは西洋の織物、材木、薬などを持ち込み、日本からは石炭、干し魚、鮫皮、海藻、米などを購入した。商売的には成功とは言えなかったが、日本製絹の品質の高さに将来性を認め、安政06(西暦1859)年、甥(ウィリアム・ジャーディンの姉ジーン・ジャーディン・ジョンストン(Jean Jardine Johnstone)の子)のウィリアム・ケスウィックが日米修好通商条約締結後に開港した横濱に移り、安政07(西暦1860)年初頭に、最初の土地売却で横濱居留地1番地(旧山下町居留地1番館、現山下町1番地)に「ジャーディン・マセソン商会」横濱支店を設立した。鹿島によって建設された横濱初の外国商館である社屋は、地元民から「英一番館」と呼ばれた。跡地には現在シルクセンター(国際貿易観光会館)が建っている。長崎居留地ではデント商会に先を越されたが、横浜でその仇を返した形となった。その後、神戸、長崎、その他の港にも事務所が開設され、輸出入、海運、保険など、大規模で収益性の高い事業が展開された。
 ウィリアム・ケズィックは文久02(西暦1862)年に香港に戻り、同社の共同経営者となった。明治07〜19(西暦1874〜1886)年まで大班(タイパン、経営に携わるもの)を務めた。明治19(西暦1886)年に香港を離れ、ロンドンのジャーディン・マセソン商会で専務(シニア・ディレクター)として働き、ロバート・ジャーディン(Robert Jardine)のみに責任を負った。ロバート・ジャーディンはウィリアム・ジャーディンの兄で、ロンドンのジャーディン・マセソン商会の社長だったデイビッド・ジャーディン(David Jardine)の息子でウィリアム・ジャーディンの甥。 ウィリアム・ケズウィックは、明治32(西暦1899)年からサリー州エプソムの国会議員として選出され、明治31(西暦1898)年に同郡の最高保安官に任命された。彼は大正01(西暦1912)年03月09日、サリー州グレート・ブックハムのイーストウィック・パークの自宅で亡くなった。ウィリアム・ケズウィックは明治15(西暦1882)年からこの家に住み、死後、その家は息子のヘンリー・ケズウィック(Henry Keswick)に引き継がれた。

グラバー商会


 スッコトランド人の武器商人トーマス・ブレーク・グラバー(英語: Thomas Blake Glover)は、ジャーディン・マセソン商会に入社し、安政06年08月23日(西暦1859年09月19日)に開港後まもない長崎に来日した。同じスコットランド人K・R・マッケンジー経営の貿易支社に勤務し、2年後にマッケンジーが長崎を去ると、彼の事業を引き継ぎ、フランシス・アーサー・グルーム(英語: Francis Arthur Groom)と共にジャーディン・マセソン商会長崎代理店として「グラバー商会(Glover and Co. )」を設立した。フランシス・アーサー・グルームの弟アーサー・ヘスケス・グルーム(英語: Arthur Hesketh Groom)もグラバー商会の社員で、明治03(西暦1870)年にグラバー商会が倒産すると、元同僚と共同出資してモーリヤン・ハイマン商会(Mourilyan, Heimann & Co.)を設立し、神戸六甲山を開発した。
 グラバー商会は初めは生糸や茶の輸出を中心として扱ったが、八月十八日の政変後の政治的混乱に着目して討幕派、佐幕派の藩、幕府問わず、武器や弾薬を販売した。幕末維新期の日本では、多くの外国人貿易商が諸藩への武器や弾薬の売り渡しに関わっていたが、その中でも武器商人グラバー商会の販売量は突出していた。江戸幕府や西南雄藩の艦船・武器購入を巡る取引に主要な地位を占めた。また薩摩藩の貿易計画や同藩士の英国留学の資金調達に重要な役割を果たした幕末・明治期の重要人物である。薩摩藩、長州藩、土佐藩の討幕派の志士も支援した。
 文久03(西暦1863)年の長州五傑(井上馨、遠藤謹助、山尾庸三、野村弥吉、伊藤博文)の英国留学や、元治02(西暦1865)年の薩摩藩の五代友厚、森有禮・寺島宗則、長澤鼎らによる薩摩藩遣英使節団の海外留学の手引きをした。
 日本初の蒸気機関車(アイアン・デューク号)の試走、高島炭鉱の「三菱財閥」の岩崎家の後ろ盾となり、長崎造船所を作った。経営危機に陥ったスプリング・バレー・ブルワリーの再建参画を岩崎彌太郎に勧め、後の麒麟麦酒(現キリンホールディングス)の基礎を築いた。開発など、彼が日本の近代化に果たした役割は大きかった。明治41(西暦1908)年にトーマス・ブレーク・グラバーは外国人として破格の勲二等旭日重光章を授与され、その3年後明治44(西暦1911)年に死んだ。邸宅跡は「グラバー園」として公開され長崎の観光名所になっている。昭和35(西暦1960)年に隠し部屋が発見された。グラバー邸裏の別棟で婦人部屋の奥の天井裏に造られていた。室内は板張りで、5、6人入れる9畳ぐらいの広さだが、当初からのものか不明。
 文久03(西暦1863)年の長州五傑の英国留学の際には、ウィリアム・ケスウィックが支援し、ジャーディン・マセソン商会横濱支店(英一番館)が支店長だったS・J・ゴーワー(Samuel J. Gower)が出航の手配をした。また、彼らの英国滞在中はジェームズ・マセソンの甥のヒュー・マセソン(ジャーディン・マセソン商会ロンドン支社長)が世話役となった。
 ケズウィック家は、神戸・大阪・函館にも代理店を置いた。嘉永07(西暦1855)年以来東亜地域と関わりのあるスコットランド人の事業家一族であり、特に複合企業ジャーディン・マセソン商会を取り仕切った。ジャーディン・マセソン商会のタイパンとして、ケズウィック家は、HSBC、インドシナ蒸気航行会社、広州保険事務所(現在のHSBC保険会社)、香港九龍埠頭倉庫会社、スターフェリー、香港路面電車、香港土地投資代理会社、香港黄埔埠頭会社の所有または経営に深く関わってきた。

 幕末・明治〜現代に至るまで、極悪アシュケナジーム猶太のロスチャイルドは、アヘンのような汚れ仕事は、アヘン王のセファルディーム猶太のサッスーン家やスコットランド人のジャーディン家・マセソン家やケズウィック家、スコットランド人武器商人トーマス・ブレーク・グラバー、セファルディーム猶太のサミュエル家を手先として扱き使い、DS(ディープステイト)として日本や世界を操ってきた。

近代日本とイギリス資本: ジャーディンマセソン商会を中心に (東京大学産業経済研究叢書)/ 石井 寛治 (著) /東京大学出版会
近代日本とイギリス資本: ジャーディンマセソン商会を中心に (東京大学産業経済研究叢書)/ 石井 寛治 (著) /東京大学出版会

 西暦1868年に第14代ダービー伯エドワード・ジョージ・ジェフリー・スミス・スタンリー(Edward George Geoffrey Smith-Stanley, 14th Earl of Derby, KG, GCMG, PC, PC (Ire)、西暦1834〜1844年まではスタンリー卿(Lord Stanley)、西暦1844年にビッカースタッフのスタンリー男爵(Baron Stanley of Bickerstaffe)、西暦1851年からダービー伯)が病気で退任すると、保守党ナンバー2のディズレーリが継承する形で保守党党首、首相に就任した。
 第1次ディズレーリ内閣は、首相が変わっただけで第3次ダービー伯内閣の延長でしかない。少数与党の状況は変わっていない。総選挙に勝利して多数派を得るしか政権を安定させる道はなかった。結局その総選挙に敗れ、短命政権に終る第1次ディズレーリ内閣だが、その短い間にも様々な法律を通している。選挙における買収禁止に初めて拘束力を与える罰則を設けた腐敗行為防止法(Parliamentary Elections Act 1868)、パブリックスクールに関する法律(西暦1868年パブリック・スクール法)、鉄道に関する法律(西暦1868年鉄道規制法(英語版))、スコットランドの法制度を定めた法律、公開処刑を廃止する法律(Capital Punishment Amendment Act 1868)、郵便局に電報会社を買収する権限を与える法律(西暦1868年電信法)などである。これらは官僚が作成した超党派的な法律だったため、少数与党のディズレーリ政権でも議会の激しい抵抗を起こさずに通すことができた。
 外交では前政権から続くイギリス人を拉致したエチオピア帝国(西暦1270〜1974年)へ大規模な遠征隊を派遣した戦争(マグダラの戦い)になり、マグダラを陥落させ、皇帝テオドロス2世(ዳግማዊ ቴዎድሮስ、カッサ・ハイル)は惨敗し自害した。拉致されたイギリス人を救出すると、エチオピアを占領しようという野心を見せることもなく早々に軍を撤収させた。ベンジャミン・ディズレーリは議会に「ラセラス(サミュエル・ジョンソンの著作「アビシニアの王子」の主人公)の山々に聖ジョージの旗を掲げた。」と報告して、笑いを取った。
 一方初代ラッセル伯ジョン・ラッセル(John Russell, 1st Earl Russell, KG, GCMG, PC, FRS)の引退を受けて自由党党首になったばかりのウィリアム・ユワート・グラッドストン(William Ewart Gladstone PC FRS FSS)は、西暦1868年03月23日にアイルランド国教会廃止の今会期での準備と次会期での立法化を求める決議案を提出した。この法案は05月01日に65票差で可決された。本来ならここで解散総選挙か総辞職すべきだが、この時点で解散総選挙をしてしまうと旧選挙法の下での選挙となり、世論の反発を買う恐れが高かった。そのためベンジャミン・ディズレーリとしてはしばらくは解散なしで政権を延命させる必要があった。ヴィクトリア女王から「アイルランド問題は重要であるから、国民の意思を問うために解散を裁可するのに躊躇いはない。」という回答を得たベンジャミン・ディズレーリは、解散権を盾にして、閣内からの総辞職の要求や自由党の内閣不信任案提出を牽制した。これに対してウィリアム・ユワート・グラッドストンは「議会で可決された決議案の実行を解散で脅して阻止しようとするとは言語道断だ。」と批判した。またベンジャミン・ディズレーリは政権延命のためにはヴィクトリア女王の大御心を利用しようとさえし、「政治が重大な局面にある時は国民も君主に備わる威厳を感じ取るべきであり、政府もそのような時局における内閣の存立は女王陛下の大御心次第だということを了解するのが賢明です。」と立憲主義に抵触しかねない発言まで行った。だがそのような努力のおかげで閣内からの総辞職要求も野党の内閣不信任案も阻止し、07月31日の議会閉会を迎えることができた。
 11月に新選挙法の下での総選挙が行われた。新有権者となった労働者階級上層の熟練労働者はウィリアム・グラッドストンを支持していた。選挙戦中にベンジャミン・ディズレーリが新有権者に向かって「私が貴方達に選挙権を与えたのだ。」と述べると、彼らは「ありがとう、ミスター・グラッドストン。」という声を挙げた。自由党がアイルランド、スコットランド、ウェールズで議席を伸ばし、379議席を獲得したのに対して、保守党は279議席しか取れなかった。
 この結果を受けてベンジャミン・ディズレーリは新議会招集の前に総辞職した。
これは総選挙の敗北を直接の原因として首相が辞任した最初の事例であり、以降イギリス政治において慣例化した。これ以前は総選挙で敗北しても議会内で内閣不信任決議がなされるか、あるいは内閣信任決議相当の法案が否決されるかしない限り、首相が辞職することはなかった。

 退任にあたってヴィクトリア女王はベンジャミン・ディズレーリに爵位を与えようとしたが、ベンジャミン・ディズレーリは拝辞し、代わりに妻メアリー・アンのビーコンズフィールド女子爵への叙爵を求めた。メアリー・アンはこの4年後に死んだ。
 西暦1868年12月09日にウィリアム・ユワート・グラッドストンに大命降下があり、自由党政権が誕生した(第1次グラッドストン内閣)。この政権は5年以上続く長期政権となり、ベンジャミン・ディズレーリの長い野党党首時代が始まった。
 ベンジャミン・ディズレーリはこの野党時代にも引き続き保守党党首を務め続けたが、保守党内における彼の立場は微妙だった。元々ベンジャミン・ディズレーリは貴族院に対する影響力が弱く、第3代ソールズベリー侯ロバート・アーサー・タルボット・ガスコイン・セシル(Robert Arthur Talbot Gascoyne-Cecil, 3rd Marquess of Salisbury, KG, GCVO, PC、第2代ソールズベリー侯ジェイムズ・ブラウンロウ・ウィリアム・ガスコイン・セシル(James Brownlow William Gascoyne-Cecil, 2nd Marquess of Salisbury, KG, PC)の三男。卿(Lord)の儀礼称号で呼ばれ、西暦1865年に兄が子供なく死去したため、ソールズベリー侯爵家の後継ぎの儀礼称号クランボーン子爵(Viscount Cranborne)の儀礼称号で呼ばれた。西暦1868年に父第2代ソールズベリー侯ジェイムズ・ブラウンロウ・ウィリアム・ガスコイン・セシルが死去し、ソールズベリー侯爵位を継いだ。)をはじめとする反ディズレーリ派が貴族院議員に多かった。総選挙後にマームズベリー伯爵が保守党貴族院院内総務を辞職した際にもベンジャミン・ディズレーリの権威が微妙なために後任がなかなか決まらなかった(結局はリッチモンド公爵が就任する)。しかも党勢は西暦1832年以来最低水準であったから庶民院議員たちにも不満が高まっていた。「次の選挙に勝つために党首を第15代ダービー伯エドワード・ヘンリー・スタンリー(Edward Henry Stanley, 15th Earl of Derby, KG, PC, FRS)(元首相第14代ダービー伯エドワード・ジョージ・ジェフリー・スミス・スタンリーの息子)に代えるべき。」という声も少なくなかった。
 グラッドストン政権はアイルランド国教会廃止、アイルランド農地改革、小学校教育の充実、秘密投票制度の確立、労働組合法制定など内政で着実に改革を推し進めたが、外交には弱かった。プロイセン王国(西暦1701〜1918年)宰相オットー・エドゥアルト・レオポルト・フォン・ビスマルク・シェーンハウゼン(Otto Eduard Leopold von Bismarck-Schönhausen、西暦1865年からビスマルク・シェーンハウゼン伯〈独語: Graf von Bismarck-Schönhausen〉、西暦1871年からビスマルク侯〈独語: Fürst von Bismarck〉、西暦1890年からラウエンブルク公〈独語: Herzog zu Lauenburg〉)による普仏戦争(西暦1870〜1871年)とドイツ帝国(西暦1871〜1918年)樹立の動きを阻止できず、ヨーロッパにおける発言力をドイツ帝国に奪われ始めた。ロシア帝国外相アレクサンドル・ミハイロヴィッチ・ゴルチャコフ(露語: Алекса́ндр Миха́йлович Горчако́в、Alexandr Mikhailovich Gorchakov)もドイツ帝国の後ろ盾を得て「ゴルチャコフ回状」を出し、パリ条約の黒海艦隊保有禁止条項の破棄を一方的に通告してきた。これによりロシア帝国がバルカン半島に進出を強めてくるのは確実な情勢となり、イギリス王国の地中海の覇権がロシア帝国に脅かされる恐れが出てきた。さらにアメリカ合衆国(西暦1776年〜)に対してもアラバマ号事件で譲歩していた。アラバマ号は南北戦争に際して中立の地位にあったイギリス王国の民間造船所に南軍が発注し,西暦1862年に建造された。建造中における北軍の警告と抗議にもかかわらず,建造後同船はポルトガル王国ブラガンサ朝(西暦1640〜1910年)領アゾレス諸島で武器,弾薬,兵員の供給を受け,西暦1864年に撃沈されるまで北軍に属する商船の捕獲に従事し,北軍に多大の損害を与えた。戦後,アメリカ合衆国の損害賠償請求により,西暦1871年の英米のワシントン条約によって仲裁裁判に付せられ,翌西暦1872年イギリス王国の中立義務違反が認定された。「イギリス王国の威信を下げている。」と言わざるを得ない状況だった。
 これに対してベンジャミン・ディズレーリは、西暦1872年06月24日に水晶宮で開催された保守党全国大会において「40年前に自由主義が登場してきて以来のイギリスの歴史を調べたなら、大英帝国を解体しようとする自由主義者の企みほど、絶え間なく巧妙に行われた努力はないと分かる。」、「自由党は大陸的、コスモポリタン的な政党であり、保守党こそが真の国民政党である。」、「諸君らはイギリスを帝国としなければならない。諸君らの子孫の代まで優越的地位を維持し続け、世界から尊敬される国家にしなければならない。諸君らが選挙区に戻ったら、1人でも多くの選挙区民にそのことを伝えてほしい。」と演説した。帝国主義や強硬外交を選挙の目玉争点にしたベンジャミン・ディズレーリの戦術は功を奏した。これがイギリス国民の愛国心を大いに刺激し、次の総選挙での保守党の大勝に繋がった。またベンジャミン・ディズレーリは西暦1872年04月にマンチェスターで開かれた保守党大会以降、保守党の機構改革にも当たっていた。ホワイトホールに保守党中央事務局(Central Conservative Office)を設置し、党内でも特に有能な者を参謀としてここに集め、選挙運動全体を指揮させた。この組織と西暦1867年にジョン・エルドン・ゴーストの主導で創設された保守党協会全国同盟が保守党議会外活動の中心的存在となっていく(この体制は現在の保守党まで維持されている)。この選挙運動の組織化も総選挙大勝の要因になった。
 西暦1873年の議会でウィリアム・ユワート・グラッドストンはアイルランドに宗派を問わない大学を創ろうとしたが、アイルランド議員からも保守党議員からも批判され、法案が否決された。この頃アイルランドには大学はダブリンのトリニティ・カレッジしかなかったが、この大学はイングランド国教会の支配下に置かれており、国教会流の教育が行なわれていた。そのため行きたがるアイルランド人は少なかった。そこでグラッドストンは宗教的に中立なユニバーシティーの下に各宗派のカレッジを作ることを計画した。しかしアイルランドのカトリック聖職者はユニバーシティーから独立したカトリック大学であることを要求したため、アイルランド議員たちはこの法律に反対した。

 ウィリアム・ユワート・グラッドストンが総辞職を表明したのを受けて、ヴィクトリア女王はベンジャミン・ディズレーリに大命降下したが、ベンジャミン・ディズレーリは拝辞した。ベンジャミン・ディズレーリとしては「総選挙を経ず少数党のまま政権に付きたくなかった。組閣後に解散総選挙するとしても2ヶ月は掛かるので、それまでの間は自由党に媚を打って政権を存続させなければならなくなり、それによって保守党に対する信頼は揺らぎ、選挙に大勝できなくなる。」と考えていた。これに対してウィリアム・ユワート・グラッドストンは「内閣への信任決議相当の政府法案が否決された場合には、野党は後継として組閣するのが義務である。」と述べてベンジャミン・ディズレーリの態度を批判した。結局ウィリアム・ユワート・グラッドストンが引き続き首相を務めることとなったが、予算をめぐる閣内分裂が原因で西暦1874年02月に解散総選挙となった。選挙の結果、保守党が350議席(改選前279議席)、自由党が245議席(改選前379議席)、アイルランド国民党が57議席を獲得した。これを受けてウィリアム・ユワート・グラッドストンはベンジャミン・ディズレーリの先例に倣って新議会招集を待たず、直ちに総辞職した。ウィリアム・ユワート・グラッドストン夫人キャサリンは息子に宛てた手紙の中で「お父さんの勤勉と愛国心、多年にわたる仕事の結晶をあのユダヤ人に手渡すことになるなど考えただけでも腹立たしいではありませんか。」と苛立ちを露わにしている。
 西暦1874年02月28日にヴィクトリア女王から召集され、大命を受けた。今度はベンジャミン・ディズレーリも了承し第2次ディズレーリ内閣の組閣を開始した。両院の過半数を制する大議席、大敗を喫した野党自由党の混乱状態、ヴィクトリア女王のベンジャミン・ディズレーリへの寵愛、不安要素が皆無の第2次ディズレーリ内閣が長期安定政権になるのは誰の目にも明らかだった。党内反ディズレーリ派さえも内閣への参加を希望し、反ディズレーリ派の筆頭第3代ソールズベリー侯ロバート・アーサー・タルボット・ガスコイン・セシルもインド担当大臣としての入閣を了承した。同じく反ディズレーリ派だったカーナーヴォン伯爵も植民地大臣として入閣した。彼らは国教会派の右派であり、その彼らを取り込めたことは党内右派の不満を減らして内閣に安定をもたらした。保守党の主要政治家をそれぞれの専門分野に応じて適材適所に配置した内閣でもあり、内閣の能力も著しく高かった。保守党政権としては30年前のピール内閣以来の安定政権であった。西暦1874年の解散総選挙で保守党が半数を超える議席を獲得した結果、首相職に返り咲いた。安定多数政権だった第2次ディズレーリ内閣は強力な政権運営が可能だった。
 ベンジャミン・ディズレーリは「政治家がまず考えるべきことは国民の健康」、「政治改革より社会改革の方が重要」と主張し社会政策に力を入れた。30年前の小説「シビル」で示した労働者階級の貧困への同情は、この時にも変わってはいなかった[370]。ベンジャミン・ディズレーリの社会政策を「トーリー・デモクラシー」と呼ぶことがある。ただし「トーリー・デモクラシー」は自由放任主義から国家介入主義への転換を意味しない。イギリスでは強制は嫌われる風潮があるため、ベンジャミン・ディズレーリが行った社会立法の多くも強制することにならないよう配慮がされている。ベンジャミン・ディズレーリは「任意に委ねる法律こそが自由な人間が持ち得る特質」と語っていた。
 政権奪還後、直ちに工場法改正に取り組んだ。これまで工場法により1週間の最大労働時間は60時間と定められていたが、繊維業労働組合などから「最大労働時間を54時間に短縮すべし。」との声が上がっていた。グラッドストン前政権は自由放任主義の立場からこの要請を拒否していたが、ベンジャミン・ディズレーリは労働組合に歩み寄りの姿勢を示し、57時間労働制を定め、また最低雇用年齢も10歳に引き上げる改革を行った。西暦1875年には労働者住宅改善法を制定して「都市の住宅状況の公共の責任」を初めて明記し、地方自治体にスラムの撤去や都市再開発の権限を与えて、都市改造を促した。しかしこの法律は補償の点について問題があったため、西暦1879年になってその問題点を解消するために改正があり、スラムを整理した後に労働者が家を建てられるよう国庫から金を貸し付けることとした。当時は家の価格が安く、賃料はもっと安かったので、この制度は一定の労働者保護になったと言える。この法律を使ってのスラム整理で有名なのが、バーミンガム市長ジョゼフ・チェンバレン(Joseph Chamberlain)の都市改造である。同じく西暦1875年、主人及び召使法を近代的な使用者及び被使用者法に改正し、これによって雇用契約における使用者と被使用者の間の通常の債務不履行は刑事訴追の対象外とした。雇用契約は基本的に民事上だけの関係となった。さらに100くらいあった既存の公衆衛生に関する地方特別法を1つにまとめた公衆衛生法を制定した(西暦1875年公衆衛生法)。水道、河川の汚染、掃除、道路、新築建物、死体埋葬、市場規制などについて規定し、都市の衛生化を促進した。この法律は途中2回の改正を挟みながらも西暦1937年までイギリス王国の公衆衛生に関する基本法となった。農地法によって強制立ち退きされた小作人に対する補償制度も定めた。しかしこの問題は地主の多い保守党内では慎重に扱わねばならない問題であった。ベンジャミン・ディズレーリの「ヨーロッパでは騒動を企む勢力が小作人の権利問題を利用します。わが国でも同様の勢力が君主制・貴族制の根幹をなす土地所有形態を破壊しようと企んでいます。我が国では強制されることを嫌う風潮があります。そして残念ながら地主と小作人の関係は変則的な強制関係が存在します。それが小作人の権利要求に結び付いています。陛下の内閣が行う施策の目的は、平穏な今のうちに変則的状況を解除することにあります。」というヴィクトリア女王への報告にもそれがよく現れている。労働組合にも強い関心を持ち、「労働組合のピケッティング(スト破り防止、英語: picketing)を禁じた西暦1871年刑法修正法を廃止し、代わって共謀罪及び財産保護法を制定し、個人で行った場合に犯罪ではない行為は集団で行っても犯罪ではない。」と明記したことで、平和的ピケッティングを解禁した。このお蔭で労働組合の圧力組織としての力は大きく向上した。労働者階級出身の初めての庶民議員アレグザンダー・マクドナルド(Alexander Macdonald)は「保守党は5年の政権の間に50年政権にあった自由党よりも労働者階級のために多くのことをした。」と評した。ベンジャミン・ディズレーリの一連の社会政策はジョゼフ・チェンバレンの「社会帝国主義」の萌芽に位置付けられる。

 外交面では積極的な帝国主義政策を推進した。西暦1875年にはスエズ運河を買収してムハンマド・アリー朝(西暦1805〜1953年)エジプトの半植民地化に先鞭をつけた。また西暦1876年には「Empress(女帝、皇后)」の称号を欲するヴィクトリア女王の意を汲んで、彼女をインド女帝に即位させた。また西暦1877年から翌年にかけての露土戦争ではロシア帝国の地中海進出を防ぐため、国内の反オスマン・テュルコ帝国世論を抑えて親テュルコ的中立の立場をとった。同戦争の戦後処理会議ベルリン会議においてロシア帝国の属国ブルガリア公国(西暦1878〜1908年)を分割させロシア帝国の地中海進出を防ぎ、かつオスマン・テュルコ帝国からキプロス島の割譲を受け、地中海におけるイギリス王国の覇権を確固たるものとした。南部アフリカでは西暦1877年にトランスヴァール共和国を併合し、ついで西暦1879年にはズールー族との戦争に勝利した。西暦1879年には中央アジアへの侵攻を強めるロシアの先手を打って第2次アフガニスタン戦争を開始して勝利した。

 大陸では普仏戦争に敗北した第3共和政(西暦1870〜1940年)フランス共和国が凋落し、ドイツ帝国が大陸の覇権的地位を確立していた。更にドイツ帝国はロシア帝国やオーストリア・ハンガリー帝国(西暦1867〜1918年)と結託して保守的な三帝同盟を作っていた。これはかつての神聖同盟に類似していた。ベンジャミン・ディズレーリは尊敬するジョージ・カニング(George Canning, PC FRS)外相が神聖同盟とは距離を置いた外交を行ったのに倣った。つまり三帝同盟弱体化をイギリス外交の目標に据えた。三帝同盟は決して盤石ではなかった。ロシア帝国は、普仏戦争でドイツ帝国を支持したが、戦後のドイツ帝国の増大化とフランス共和国の弱体化を懸念していた。また、この頃のロシア帝国は汎スラブ主義が高揚しきっており、バルカン半島の覇権を巡りオーストリア・ハンガリー帝国との対立が絶えなかった。それをドイツ帝国宰相オットー・フォン・ビスマルクが強引に結び付けている状況だった。そのため三帝同盟を切り崩す機会はすぐに訪れた。西暦1875年04月の「ポスト」紙事件(ドイツ帝国の政府系新聞「ポスト」紙が「フランス共和国がドイツ帝国への復讐を企んで軍備増強している。」と説く論説を載せたことでドイツ帝国国内でフランス共和国への予防戦争を求める世論が強まり、独仏戦争の危機が高まると、ロシア外相アレクサンドル・ゴルチャコフ(露語: Алекса́ндр Миха́йлович Горчако́в、Alexandr Mikhailovich Gorchakov)が介入してドイツ帝国のフランス共和国に対する予防戦争を阻止しようと図ったのである。ベンジャミン・ディズレーリは孤立主義者である外相第15代ダービー伯エドワード・ヘンリー・スタンリーにイギリス王国もこの問題にもっと積極的に介入するよう指示を与え、ロシア帝国と共同歩調を取らせて、ドイツ帝国に圧力をかけて予防戦争を阻止した。
 西暦1875年夏、オスマン・テュルコ帝国(西暦1299〜1922年)領ボスニアとヘルツェゴビナで耶蘇教徒スラブ人農民が蜂起した。回教国であるオスマン・テュルコ帝国は耶蘇教徒スラブ農民に対して苛酷な税を取り立て、また何ら権利を認めようとしない圧政を敷いていた。この叛乱は拡大し、西暦1876年04月にはブルガリアのスラブ人もオスマン・テュルコ帝国の支配に対して蜂起、さらに07月にはオスマン・テュルコ帝国の宗主権下にあるスラブ人自治国セルビア公国(西暦1815〜1882年)とモンテネグロ公国(西暦1852〜1910年)がオスマン・テュルコ帝国に対して宣戦布告した。ロシア帝国でも汎スラブ主義がどんどん高揚し、バルカン半島のスラブ人蜂起を積極的に支援した。多くのロシア人が蜂起軍支援のため義勇兵や篤志看護婦に志願してバルカン半島へ赴いていった。オスマン・テュルコ帝国は、かつての繁栄の残滓でバルカン半島、アナトリア半島、中近東、北アフリカに跨る巨大な領土を領有していたが、この時代にはすっかり衰退し、常にロシア帝国から圧迫され、国内では内乱が多発していた。すでにギリシャには独立され(ギリシャ独立戦争(西暦1821〜1827年))、エジプトも事実上独立していた(エジプト・テュルコ戦争)。イギリス王国の庇護で何とか生きながらえている状態だった。イギリス王国にとってもオスマン・テュルコ帝国を生きながらえさせることは死活問題だった。インドへの通商路は陸路の場合はオスマン・テュルコ帝国領を通らずには済まなかったし、海路もスエズ運河が大きな役割を果たすようになっていたから、もしオスマン・テュルコ帝国領がロシア帝国の手に墜ちると、イギリス王国の「インドへの道」は陸路も海路もロシア帝国の脅威に晒される。ベンジャミン・ディズレーリはオスマン・テュルコ帝国を支援するしかなかった。ロシア帝国がドイツ帝国とオーストリア・ハンガリー帝国の支持を取り付けて三国連名でオスマン・テュルコ帝国批判声明を出した時、ロシア帝国は同じ耶蘇教国としてイギリス王国も名前を連ねるよう呼びかけてきたが、当然ベンジャミン・ディズレーリはこれを断った。
 しかし西暦1876年06月23日付けの「デイリー・ニューズ」が「オスマン・テュルコ帝国軍はブルガリアで2万5000人に及ぶ老若男女の虐殺、少女奴隷売買などの残虐行為を行っている。」と報道したことでイギリス王国の世論は急速にオスマン・テュルコ帝国に対して硬化した。ベンジャミン・ディズレーリは記事の信憑性に疑問を呈したが、彼のそのような態度は世論の激しい反発を招いた。ベンジャミン・ディズレーリを寵愛するヴィクトリア女王さえもがベンジャミン・ディズレーリに対し「なぜテュルコの耶蘇教徒虐殺に抗議しないのか。」と詰め寄った。ウィリアム・ユワート・グラッドストンは「ディズレーリは全てを嘘で塗り固めた男であり、ユダヤ人としての感情だけが本物だ。彼の親テュルコ政策は、の本性を剥き出しにした耶蘇教徒への復讐である。」と反ユダヤの主張をし始めた。ベンジャミン・ディズレーリは08月11日の議会における演説で「この重大な時局における我々の義務は大英帝国の維持である。テュルコの生存はその最低条件なのである。」と述べ、反テュルコ感情の高まりの火消しに努めた。だが全く功を奏しなかった。庶民院ではベンジャミン・ディズレーリがテュルコの残虐行為を軽視したとする問責決議がなされた。またイギリス王国各地でテュルコ批判の国民集会が開かれ、十字軍を結成するための署名活動も開始された。グラッドストンの地元であるリヴァプールでは特に反テュルコ機運が盛り上がり、シェークスピアの「オセロ」の上演で「テュルコ人は溺死した。」という台詞が出るや、観客が総立ちになり、拍手喝采に包まれた。一方テュルコ政府はイギリス王国は国益上自分たちを庇護せざるを得ないので、どれだけ耶蘇教徒虐殺を続けても結局は目を瞑るしかない。」と思っていたため、ベンジャミン・ディズレーリが自重するよう説得しても聞く耳を持たなかった。
 西暦1877年04月、ついにロシア帝国がオスマン・テュルコ帝国に宣戦布告し、露土戦争が勃発した。ロシア外相アレクサンドル・ゴルチャコフはイギリス王国に中立を要求してきた。これに対してベンジャミン・ディズレーリは「スエズ運河、ダーダネルス海峡、コンスタンティノープル(イスタンブール)を侵さない。」との確約を求め、アレクサンドル・ゴルチャコフもこれを了承した。もっともロシア帝国はイギリス王国国内の世論状況をよく調べており、イギリス王国がオスマン・テュルコ帝国側で参戦するなど到底できないことを知っていた。そのため約束を守る気などなく、ロシア皇帝アレクサンドル2世(露語: Александр II、Aleksandr II、アレクサンドル・ニコラエヴィチ・ロマノフ、露語: Александр НиколаевичРоманов、Aleksandr Nikolaevich Romanov)は軍司令官に「目標コンスタンティノープル(イスタンブール)。」という命令を下している。ヴィクトリア女王はロシア帝国の膨張を恐れるようになり、ベンジャミン・ディズレーリに退位をチラつかせて対露参戦を要求するようになった。女王の寵愛を自らの内閣の重要な要素と考えているベンジャミン・ディズレーリとしては、女王の意思を蔑ろには出来ず、彼も08月頃から参戦の必要性を考えるようになった。しかしこの頃のベンジャミン・ディズレーリは喘息と痛風に苦しんでおり、参戦するか否かの議論は閣僚たちに任せて、ヒューエンデンに引っ込んでいた。またロシア軍の侵攻はプレヴェンのオスマン・テュルコ軍によって阻まれており、イギリス王国が援軍を送るまでもなくオスマン・テュルコ帝国が自力でロシア帝国を返り討ちにできそうにも見えた(当代一の名将と呼び声の高いドイツ帝国参謀総長モルトケ伯ヘルムート・カール・ベルンハルト(Helmuth Karl Bernhard Graf von Moltke)元帥もそう予想していた。ロシア帝国がバルカン半島に侵攻を開始してからイギリス王国国内世論もだんだんオスマン・テュルコ帝国に対する同情の声が強くなっていき、イギリス王国の対ロシア参戦も不可能ではなくなってきた。12月にプレヴェンの防衛線を守っていたオスマン・テュルコ軍がロシア軍によって壊滅させられると、ベンジャミン・ディズレーリは「いよいよ危険水域に達した。」と判断した。どうすべきか結論を出せない閣僚たちを無視して、ヴィクトリア女王に上奏してイギリス陸軍に戦闘態勢に入らせた。この際にベンジャミン・ディズレーリはヴィクトリア女王に「英国は何があってもロシア帝国の傘下には入りません。そうなれば本来の高みから二流国に転落してしまいます。」と述べた。これを受けて対露開戦に反対の植民地相第4代カーナーヴォン伯ヘンリー・ハワード・モリニュー・ハーバート(Henry Howard Molyneux Herbert, 4th Earl of Carnarvon, PC, DL, FSA, FRS, DL、西暦1833〜1849年にかけてはポーチェスター卿(Lord Porchester)の儀礼称号)が辞職した西暦1878年02月にイギリス海軍にイスタンブールへの出動命令を下したが、目標が定まらず、命令を取り消した。そうこうしてる間にもオスマン・テュルコ軍は敗走を続けていた。オスマン・テュルコ政府は最早限界と判断してイギリス王国に独断でロシア帝国との間にサン・ステファノ条約を締結して休戦した。この条約によりエーゲ海にまで届く範囲でバルカン半島にロシア帝国の衛星国ブルガリア公国にオスマン・テュルコ帝国の宗主権下)が置かれることとなり、地中海におけるイギリス王国の覇権が危機に晒された。またアルメニア地方のカルスやバトゥミもロシア帝国が領有することになり、そこがロシア帝国の中近東・インド侵略の足場にされる危険も出てきた。イギリス王国の権益など形だけしか守られていないサン・ステファノ条約に英国世論は激高した。
 ベンジャミン・ディズレーリは駐英ロシア大使シュヴァロフ伯ピョートル・アンドレーヴィチ(露語: Граф Пётр Андре́евич Шува́лов)に対し「このような条約は認められない。」として、ブルガリア公国の建国中止、アルメニア地域で得たロシア領土の放棄を要求した。シュヴァロフ伯ピョートル・アンドレーヴィチ大使は「それではロシア帝国の戦果がなくなってしまうではありませんか。」と答えたが、ベンジャミン・ディズレーリは「そうかもしれないが、それを認めないならイギリス王国は武力をもってそれらの地からロシア帝国を追いだすことになる。」と通告した。
ベンジャミン・ディズレーリは03月27日の閣議でインド駐留軍の地中海結集と予備役召集、キプロスとアレクサンドリア占領を決定した。この方針に反対した対露開戦慎重派の外相第15代ダービー伯エドワード・ヘンリー・スタンリーが辞職した。彼の辞職はベンジャミン・ディズレーリには残念なことだったが、シュヴァロフ伯ピョートル・アンドレーヴィチ大使に圧力を与えることができた。
 「公正な仲介人」としてドイツ帝国宰相オットー・フォン・ビスマルクが仲裁に乗り出してきて、西暦1878年06月から07月にかけてベルリン会議が開催されることとなった。会議にはイギリス王国からは首相ベンジャミン・ディズレーリと新外相第3代ソールズベリー侯ロバート・アーサー・タルボット・ガスコイン・セシルが出席することとなった。ヴィクトリア女王はベンジャミン・ディズレーリの健康を心配してベルリン行きに反対していたが、ベンジャミン・ディズレーリは「鉄血宰相と対決できる者は自分しかいない。」と女王を説得し、出席することになった。ベンジャミン・ディズレーリには会議で強硬姿勢を取れるだけの条件が整っていた。指を鳴らして対露開戦を待ち侘びている好戦的な女王と国民世論を背負い(その国民世論は対露開戦に反対するウィリアム・ユワート・グラッドストンの家に投石があったことにもよく現れていた。さらにイスタンブール沖ではイギリス海軍が臨戦態勢に入っていたからである。会議前の外相第3代ソールズベリー侯ロバート・アーサー・タルボット・ガスコイン・セシルとシュヴァロフ伯ピョートル・アンドレーヴィチ大使の交渉・秘密協定の段階ですでにブルガリア公国南部のオスマン・テュルコ帝国への返還などロシア帝国から譲歩を引き出すことに成功していた。
 ベンジャミン・ディズレーリは会議において、会議前の英露協定で懸案事項のまま残されていた諸問題、たとえばトルコ皇帝の南部ブルガリア軍事権の確保、テュルコ通行路の確保、東ルーマニアの統一運動の鎮圧権の確保などの問題に取り組んだ。会議でベンジャミン・ディズレーリは徹底的な強硬路線を貫き、「ロシア帝国が反対するなら会議が決裂するだけである。」と脅迫して、イギリス王国の主張をほとんど認めさせた。会議の途中にオットー・フォン・ビスマルクとシュヴァロフ伯が譲歩を拒否した時、ベンジャミン・ディズレーリは帰国の準備を命じ、それを聞いたオットー・フォン・ビスマルクはただの脅しだと思っていたが、本当に英国代表団が荷造りをしているので、止む無く譲歩したという逸話まであるが、この逸話は疑う説もある。ただベンジャミン・ディズレーリが一歩も引かなかったことは事実で、その姿を見たオットー・フォン・ビスマルクは「あのユダヤの老人はまさに人物だ。(Der alte Jude, das ist der Mann.) 」と舌を巻いた。
 ベルリン会議の結果、ブルガリア公国は分割された。その南部は東ルメリア自治州としてオスマン・テュルコ帝国に戻され、ロシア帝国のエーゲ海への道は閉ざされた。さらにイギリス王国はオスマン・テュルコ帝国からキプロスを割譲され、東地中海の覇権を確固たるものとした。一方でカルスとバトゥミについてはイギリス王国が譲歩することになり、ロシア帝国が領有することとなった。しかし全体的に見ればイギリス外交の大勝利であった。またこの会議でロシア帝国がオットー・フォン・ビスマルクに不満を抱くようになったこともベンジャミン・ディズレーリにとってはおいしかった。ベンジャミン・ディズレーリは会議から2年後に「我々の目標は三帝同盟を打破し、その復活を長期にわたって阻止することだったが、この目標がこんなに完璧に達成されたことはかつてなかった。」と満足げに語った。
 イギリス王国に帰国したベンジャミン・ディズレーリは国民から歓声で迎えられた。ヴィクトリア女王は恩賞としてベンジャミン・ディズレーリにガーター勲章と公爵 (Duke) 位を与えようとしたが、公爵位についてはベンジャミン・ディズレーリの方から辞退している。またガーター勲章についても外相第3代ソールズベリー侯ロバート・アーサー・タルボット・ガスコイン・セシルにも同じ名誉が与えられるなら、という条件付きで授与を受けた。
 かつてベンジャミン・ディズレーリは投資に失敗して巨額借金を抱えたがロスチャイルド家に拾われ同家の側近=犬となり、大英帝国初のユダヤ人首相となった。ヴィクトリア女王はこのユダヤ人を初めを嫌悪していたが、ある日ベンジャミン・ディズレーリが女王に提出した報告書が小説のように面白かったため女王は興味を抱き、やがてこのジゴロのユダヤ人を寵愛するようになった。スエズ運河はフランス共和国が提唱し、オスマン・テュルコから半独立していたエジプトと共同で造ったもので、イギリス王国はインドへの通商路が侵されることを嫌って建設に反対したが建設工事は始まり、イギリス王国は「作業員の扱いが奴隷的だ。」と難癖をつけ、エジプト人に叛乱を起こさせるなどして工事の妨害をした。西暦1869年、スエズ運河開通し、使ってみると喜望峰ルートより遥かに時間が短縮できた。スエズ運河を最も利用したのは厚顔無恥にも、建設に猛反対し妨害までしたイギリス王国でスエズ運河利用船舶数の8割を占めた。清から紅茶をイギリス王国に運んでいたカティサークなどの高速クリッパー船はスエズ運河開通で無用となった。ちょうどバルカン半島蜂起が発生した頃の西暦1875年夏、ロシア帝国のバルカン半島への野心を確信したベンジャミン・ディズレーリは「喜望峰航路に代わって増えていくエジプトからインドへ向かうイギリス船籍の航路の安全を早急に確保しなければならない。」と考え、フランス資本で作られ、株をフランス共和国が多く握るスエズ運河に注目するようになった。
 第2次ディズレーリ内閣が発足した翌年の西暦1875年、ロスチャイルド家の情報網により「財政難に苦しむエジプトがスエズ運河の株を売却しようとしておりフランス系銀行2行と交渉中で、エジプト副王(総督)(アラビア語: إسماعيل باشا、Ismā‘īl Bāshā)が所持するスエズ運河の株(全株式40万株中17万7000株)を買収する。」という極秘情報がベンジャミン・ディズレーリの元に届けられた。イギリス王国はスエズ運河も執心となった。その垂涎のスエズ運河株が売りに出された。巨額投資となる。ディズレーリは当然、議会に諮らねばならなかった。しかし、ベンジャミン・ディズレーリは、ディズレーリは議会ではなく「ヴィクトリア女王の金庫番」と呼ばれる友人のライオネル・ロスチャイルドに協力を依頼して英国政府を借金の担保にして400万ポンドの現金を借り受け先手を打ってその17万7000株を買収した。これによりイギリス政府がスエズ運河の株式の44%の取得に成功し、筆頭株主となった。議会に諮らずロスチャイルド家から多額の借金をし、フランス共和国を出し抜く形でスエズ運河を手に入れたことに野党の自由党党首ウィリアム・ユワート・グラッドストンらは猛反発した。ベンジャミン・ディズレーリはヴィクトリア女王に「女王陛下、これでスエズ運河は貴女の物です。フランスに作戦勝ちしましたl」と報告し、ロスチャイルド家の功績を称えた。ヴィクトリア女王は政府が担保になっているとも知らず膝を叩いて喜んだ。女王さえ篭絡しておけば周囲の野党も議会も置き去りにされた。翌年、ベンジャミン・ディズレーリは女王によりビーコンズフィールド伯爵に叙され、貴族となった。
 西暦1876年、運河を買収されたエジプト政府は財政破綻し、債権者のイギリスとフランスを中心としたヨーロッパ諸国によりエジプト財政が管理されることとなった。西暦1878年にはイギリス人とフランス人が財政関係の閣僚としてエジプトの内閣に入閣することになった。英仏はエジプト人から過酷な税取り立てを行い、エジプトで反英・反仏感情が高まっていった。この反発はやがてエジプト人の叛乱「ウラービー革命(アラビア語: الثورة العرابية、西暦1879〜1882年)」へと繋がっていくが、ベンジャミン・ディズレーリの後任の第2次グラッドストン内閣が鎮圧軍をエジプトに送りこんで占領し、フランス共和国の影響力は排除されて、エジプトはイギリス王国一国の半植民地となっていた。
 帝国主義の幕開けと言われるイギリス王国のスエズ運河買収劇は、実際は国民や議会の与り知らぬ所で2種のセファルディームとアシュケナージムのユダヤ人が主導し実行した。
 ヨーロッパ大陸諸国が次々と保護貿易へ移行する中、イギリス綿業にとってインド市場の価値は高まっていった。ディズレーリ政権もインドとの連携の強化を重視した。西暦1876年、ヴィクトリア女王がインド女帝位を望むようになり、ベンジャミン・ディズレーリも「インドとの連携強化の一環になる。」と考え、議会との折衝にあたったが、イギリス国民は皇帝という称号を好んでいなかったので、野党自由党から批判された。フランス帝国第2帝政皇帝ナポレオン3世やメキシコ帝国第2帝政(西暦1864〜1867年)皇帝マクシミリアーノ1世(西語: Maximiliano I、フェルディナント・マクシミリアン・ヨーゼフ・マリア・フォン・ハプスブルク・ロートリンゲン(独語: Ferdinand Maximilian Joseph Maria von Habsburg-Lothringen)、フェルナンド・マクシミリアーノ・ホセ・マリア・デ・アブスブルゴ・ロレーナ(西語: Fernando Maximiliano José María de Habsburgo-Lorena))など皇帝を名乗り始めた者がロクな末路を辿っていないジンクスもあった。「この称号はインドに対してのみ用いる。」という条件付きで野党の反発を押し切り、04月には王室称号法によって「インド女帝」の称号をヴィクトリアに献上した。インド総督が主催する大謁見式が開催され、ヴィクトリア女王とインド社会有力者との一体化が図られた。
 西暦1860年代〜1870年代にかけてロシア帝国は中央アジア諸国に次々と侵攻を行った。西暦1868年にブハラ・アミール国(西暦1500〜1920年、ブハラ・ハン国)、西暦1873年にヒヴァ・ハン国(西暦1512〜1920年)を保護国とし、西暦1876年にはコーカンド・ハン国(西暦1709〜1876年)を併合して中央アジアへと直接支配下に組み込んでいた。
インドに隣接するアフガニスタン王国バーラクザイ朝(西暦1826〜1973年)に触手を伸ばしてくるのも時間の問題だった。ロシア帝国の対英強硬論者がインド侵攻を主張し始めるようになる中、首相就任直後のベンジャミン・ディズレーリも先手を打って中央アジアとペルシア湾を抑えることを考えた。インド総督初代ノースブルック伯トーマス・ジョージ・ベアリング(英語: Thomas George Baring, 1st Earl of Northbrook, GCSI, PC, FRS)に対してヘラートにイギリス王国の出先機関を置くよう命じた。しかしノースブルック伯トーマス・ジョージ・ベアリングは「ロシア帝国はアフガン王国への野望を見せておらず、アフガン王国との関係を損なうだけである。」と反対し、ベンジャミン・ディズレーリもアフガンの件はしばらく捨て置いた。しかし新たにインド総督に就任した初代リットン伯エドワード・ロバート・ブルワー・リットン(英語: Edward Robert Lytton Bulwer-Lytton, 1st Earl of Lytton, GCB, GCSI, GCIE, PC)は、ベンジャミン・ディズレーリの友人で精神異常。インド総督に任命され、西暦1876〜1878年のインド大飢饉を悪化させ、500万〜1000万人、もしくは1200万人〜2900万人というインド人の膨大な死者を出し、「インドのネロ」と呼ばれた。初代リットン男爵エドワード・ジョージ・アール・リットン・ブルワー・リットン(英語: Edward George Earle Lytton Bulwer-Lytton, 1st Baron Lytton, PC)の長男で、リットン調査団で知られる第2代リットン伯ヴィクター・アレグザンダー・ジョージ・ロバート・ブルワー・リットン(英語: Victor Alexander George Robert Bulwer-Lytton, 2nd Earl of Lytton, KG, GCSI, GCIE, PC, DL)の父。この気違い虐殺悪魔リットン伯エドワード・ロバート・ブルワー・リットンはロシア帝国のアフガンへの野望を確信しており、アフガンの外交をコントロールしようとイギリス外交使節団を首都カーブルに置くようしばしばアフガン王シール・アリー・ハーン (Sher Ali Khan)に圧力を掛け続けたが、王は丁重に断り続けた。
 ところが、西暦1878年07月にはロシア軍がシール・アリー王の抗議を無視してカーブルに入城し、シール・アリー王がしぶしぶロシア軍来訪の歓迎を表明しロシア軍のアフガニスタン国内への駐屯を認める条約を締結するという事件が発生した。これに対して気違い虐殺悪魔リットン伯エドワード・ロバート・ブルワー・リットン総督はシール・アリー王にイギリス軍の駐屯も認めさせる条約を締結させて、ロシア軍をアフガニスタン王国から追い払おうと決意した。ベンジャミン・ディズレーリはロシア帝国から正式な回答が得られるまで行動を起こさないよう気違い虐殺悪魔リットン伯エドワード・ロバート・ブルワー・リットンに命じたが、気違い虐殺悪魔リットン伯エドワード・ロバート・ブルワー・リットンは09月21日に独断でアフガン侵入を開始したが失敗し撤収した。これによりベンジャミン・ディズレーリは気違い虐殺悪魔リットン伯エドワード・ロバート・ブルワー・リットンの計画を強行するか迫られた。さらにシール・アリー王が強硬な返答をしたため、ベンジャミン・ディズレーリとしては気違い虐殺悪魔リットン伯エドワード・ロバート・ブルワー・リットンを支持し、アフガン王国に対してイギリス使節団のカーブル駐在を求める最後通牒を出した。アフガン王国はこの最後通牒を無視したため、西暦1878年11月に第2次アフガン戦争(西暦1868〜881年)が開戦した。イギリス軍(英印軍)が侵攻し、シール・アリー王はバクトリアに逃れマザーリシャリーフに逃れて同地で死去した。イギリス王国にとって御しやすい新王ヤアクーブ・ハーン( (パシュトー語 محمد يعقوب خان、Mohammad Yaqub Khan)が擁立されて西暦1879年05月15日にガンダマク条約を結んで、東南部の割譲とイギリス王国に外交権を委譲して保護国となることを認めたが、依然としてアフガニスタン側の反抗が強くイギリス軍(英印軍)軍は苦戦を強いられ、ヤアクーブ・ハーンも退位してインドへと亡命した。西暦1880年07月27日にカンダハール郊外のマイワンドの戦いで、ヤアクーブ・ハーンの兄弟ムハンマド・アユーブ・ハーン(ウルドゥー語: محمد ایوب خانに大敗を喫するなど、イギリス軍(英印軍)軍は大きな損害を受けながらも、09月01日のカンダハールの戦いでムハンマド・アユーブ・ハーンを撃破すると、西暦1881年までアフガニスタン王国への駐留を続けた。ロシア軍が反撃に出てくる様子はなく、ベンジャミン・ディズレーリは、友人の気違い虐殺悪魔リットン伯エドワード・ロバート・ブルワー・リットン総督の命令無視を不問に付した。
 しかしベンジャミン・ディズレーリの後任ウィリアム・ユワート・グラッドストンは気違い虐殺悪魔リットン伯エドワード・ロバート・ブルワー・リットンを罷免し、アフガン王アブドゥッラフマーン・ハーン(パシュトー語: عبدالرحمان خان、Abdur Rahman Khan)にイギリス王国以外のどの国とも関係を持たないこと、どこか別の国がアフガン王国へ侵攻してきた際にはイギリス軍がアフガン王国を支援することを条件として「アフガン王国の内政に干渉しない。」という条約を締結し、アブドゥッラフマーン・ハーンとイギリス王国は宗主国の関係を保っていくことになった。

 南アフリカには英国植民地が2つ(ケープ植民地(西暦1795〜1910年)、ナタール植民地(西暦1843〜1910年))、ケープ植民地を形成したオランダ系移民を主体に、フランスのユグノー、ドイツ系プロテスタント教徒など、信教の自由を求めてヨーロッパからアフリカに入植して形成された民族、ボーア人(Boer、蘭語読みでブール「農民」の意、英語読みでボーア。現代では彼らの自称である「アフリカーナー」が使われる。)による国家が2つ(オレンジ自由国(西暦1854〜1902年、オランイェ自由国)トランスヴァール共和国(南アフリカ共和国、西暦1852〜1902年)、計4つの白人植民地があった。
 西暦17世紀に南アフリカのケープ植民地に入植したオランダ系白人(ボーア人)は、西暦1814年にウィーン議定書でケープ植民地がオランダ王国の植民地譲渡でイギリス王国領となり、西暦1833年08月23日に奴隷制度廃止法(Slavery Abolition Act 1833)でイギリスの植民地における奴隷制度を違法とされたことをきっかけに、西暦1834年に約1万人の移住者の第一陣が植民地から新天地を求めて南アフリカ内部へ更なる植民を開始し北上し始めた。ボーア人は入植以来黒人を奴隷として大農園を経営しており、黒人奴隷を使役できる環境を求めて北上すると、アフリカ人を排除し商業を通じた。これをグレート・トレックと呼び、移住者には黒人奴隷も含まれていた。イギリス王国の支配に反発し、先住民のコイコイ人(当時の紅毛人の呼称はホッテントット (Hottentot))を駆逐しながら内陸への侵攻した。ズールー王国(西暦1817〜1879年)を駆逐して西暦1839年にナタール共和国(西暦1839〜1843年)を建設した。しかし、これは西暦1843年のイギリス軍の侵攻により壊滅した。ボーア人は更に内陸部へ移動し、、西暦1852年01月にトランスヴァール共和国、西暦1854年02月にオレンジ自由国を建国した。
 オレンジ自由国は比較的親英的で英国と協力関係にあったが、トランスヴァール共和国は反英的だった。そしてその周囲に白人植民者の20倍にも及ぶ数の先住民の黒人が暮らしていた。彼らには様々な部族があったが、とりわけ好戦的なズールー族(ズールー王国(西暦1817〜1879年)が大きな勢力であった。こうした状況の中、4つの白人共同体を南アフリカ連邦として纏め、ズールー族を始めとする黒人部族に対して優位に立とうと考えたのがディズレーリ内閣植民地相第4代カーナーヴォン伯ヘンリー・ハワード・モリニュー・ハーバート(英語: Henry Howard Molyneux Herbert, 4th Earl of Carnarvon, PC, DL, FSA, FRS, DL、西暦1833〜1849年にかけてはポーチェスター卿(Lord Porchester)の儀礼称号)だった。彼は第3次ダービー伯内閣でも植民地相を務め、カナダ連邦(西暦1867年〜)の創設に主導的な役割を果たし、植民地に連邦制を導入することに熱心だった。しかし反英的なトランスヴァール共和国と本国主導の連邦形成に不満があるケープ植民地が反発したため調整は難航した。ベンジャミン・ディズレーリもカーナーヴォン伯ヘンリー・ハワード・モリニュー・ハーバートもトランスヴァール共和国を併合することを決意した。トランスヴァール共和国は財政難であり、政治も対英穏健派の大統領トマス・フランソワ・バーガーズ(Thomas François Burgers)と対英強硬派が鋭く対立して混乱していた。そのためズールー王国にいつ征服されるか分からない国情であり、またドイツ帝国やフランス共和国、ポルトガル王国と手を組む恐れも考えられた。
 内陸にあったトランスヴァール共和国は、海を求めてズールー王国方面へ進出しようとした。西暦1876年07月にトランスヴァール共和国と黒人部族ペディ族の間に戦争が勃発し、第4代カーナーヴォン伯ヘンリー・ハワード・モリニュー・ハーバートがナタール植民地総督として現地に送り込んだ初代ヴォルズリー子爵ガーネット・ジョセフ・ウォルズリー(Garnet Joseph Wolseley, 1st Viscount Wolseley, KP, GCB, OM, GCMG, VD, PC)将軍と英領ナタール植民地行政府先住民担当相シオフィラス・シェプストン(Theophilus Shepstone KCMG)は、それへの介入を口実にトランスヴァール共和国を併合することを企図した。この後トランスヴァール共和国とペティ族の戦争が一時収束したため、介入の口実を失い、計画は一時延期されたが、西暦1877年01月にイギリス軍はトランスヴァール共和国へ侵入し、バーガーズ大統領やトランスヴァール議会と交渉の末に04月02日にトランスヴァール共和国の併合を宣言した。当時トマス・フランソワ・バーガーズ大統領は病気だったので弱腰だったのだが、トランスヴァール国民の多くは40年前にイギリス王国の支配から逃れたグレート・トレック精神を忘れておらず、内心ではイギリス王国の併合に不満を持っていた。またズールー王国もトランスヴァール共和国がなくなり、イギリス王国に直接敵意を向けてくるようになった。
 トランスヴァール共和国は第2次グラッドストン政権下の西暦1880年12月16日にステファノ・ヨハンネス・ポール・クリューガー(アフリカーンス語: Stephanus Johannes Paulus Kruger)を司令官として大英帝国に宣戦を布告し両国は戦争状態へ突入した。現南アフリカ共和国(西暦1961年〜)造幣局発行の22金の地金型金貨、クリューガーランド金貨(Krugerrand)は、後にトランスヴァール共和国大統領となったステファノ・ヨハンネス・ポール・クリューガーに因む。ボーア人たちはカーキ色の農作業服姿であったのに対して、英国軍の軍服は鮮紅色であったため、ボーア人狙撃手の格好の標的となった。この第1次ボーア戦争(西暦1880〜1881年)は、イギリス王国はボーア人に惨敗し、トランスヴァール共和国の独立を再度承認することとなり、戦争は終結し大英帝国の面目は丸潰れとなった。

世界最凶都市 ヨハネスブルグ・リポート - 小神野真弘
世界最凶都市 ヨハネスブルグ・リポート - 小神野真弘

 アメリカ合衆国で西暦1848年頃にカリフォルニア州で、西暦1851年に英領オーストラリアのニューサウスウェールズ州、ビクトリア州、西暦1890年代の西オーストラリア州で金鉱が発見され、金脈を探し当てて一攫千金を狙う山師が殺到するゴールドラッシュが起きた。
 西暦1852年、トランスヴァール共和国のウィットウォーターズランド(英語: Witwatersrand、「白い水の縁」の意)で、イギリス人地質学者ジョン・ヘンリー・デイビスが農場で露出した金脈から採掘した。しかし、この時の金は財務省に売却され、金の存在は国家機密とされ、発見者は国外退去を命じられた。西暦1886年にゴールドラッシュが起きた。
 インド、ブラジルにおいてダイヤモンドが発掘されていたが、西暦1860年代に入るとすっかり枯渇していた。
 西暦1867年にオレンジ自由国ホープタウンの貧しい15歳の羊飼いの少年、エラスムス・ジェイコブス(Erasmus Jacobs)は、オレンジ川支流のバール川と合流した辺りで透明で輝く石を拾った。発見当初エラスムス・ジェイコブスたちの石遊びの道具の1つでしかなかった。その宝物にも飽きたエラスムス・ジェイコブスは母親に渡すと、今度は母親から隣人の手に渡り、「遊びの道具に使っていた透明で輝く石がトパーズかもしれない。」と思った友人のシャルク・ヴァン・ニーケルクはジェイコブスからその石を借り、隣町の山師ジョン・オライリーに渡し、「この石が宝石のトパーズかどうか調べてほしい。」と依頼した。発見当初ダイヤモンドがどういうものであるか多くの人が知らなかった。ジョン・オライリーはその石を様々な識者に鑑定させたが正確な回答が得れなかった、しかしグラハムズタウン(英語: Grahamstown、現マカンダ(Makhanda))の鉱物学者であるウィリアム・ガイボン・アザーストーン博士(Dr. William Guybon Atherstone)はダイヤモンドと鑑定した。南アフリカで採掘されたこの石はロンドンでも「ダイヤモンドである。」と鑑定され、「ユーレカ」と名付けられた。ユーレカという名前は、アルキメデスが風呂でアルキメデスの原理を発見した時に服を着るのを忘れて、「ヘウレーカ(希語: εὕρηκα、「発見したぞ」の意。)!、ヘウレーカ!(わかった! わかったぞ!)」と叫びながら、真っ裸のままで通りを駆け出した故事に因む。「ユーレカ」ダイヤモンドは発見当初、重量が21.25カラット(4.250g)で、後に10.73カラット(2.146g)のクッション状のブリリアントカット仕上げられた。「ユーレカ」ダイヤモンドは最終的にホープタウンの知事だったフィリップ・ウォードハウスによって500英国ポンド(現在の2500万円)で購入された。
「ユーレカ」ダイヤモンドの発見から100年後の西暦1967年にロンドンのクリスティーズに出品され、ダイヤモンド鉱山を展開する狡猾なダイヤモンド開発企業、デ・ビアスグループが落札し、南アフリカ共和国のキンバリーの鉱山博物館に寄贈された。
 どのような状況でダイヤモンドを発見したのかを知ったアザーストーン博士は「ユーレカを発見した近くには大量のダイヤモンドがある可能性がある。」と発言した。キンバリーに山師が殺到し、発掘ラッシュとなった。無論ジョン・オライリーもダイヤモンドを求めてオレンジ川で活動した。ダイヤモンドの大鉱脈が発見された。西暦19世紀半ばまで、ダイヤモンドはインドの河川から採取するか、ブラジルのジャングルに閉ざされた鉱床から少しずつ採掘するしかなかったため、世界全体の年間ダイヤモンド生産量は数kg程度だった。しかし、南アフリカで大規模なダイヤモンド鉱山が発見されるようになると、宝石市場はダイヤモンドで溢れた。
 西暦1860年代以降、トランスヴァール共和国東部で金鉱が、オレンジ自由国ではダイヤモンド鉱山が発見されると、白人の鉱山技師(山師)が大量に流入しはじめた。イギリス王国はイギリス人山師たちの保護を大義名分としてオレンジ自由国を領有化した。この山師の中には、後にデ・ビアス社を創設しケープ植民地政府首相となったセシル・ジョン・ローズ(英語: Cecil John Rhodes)も含まれていた。「アフリカのナポレオン」セシル・ジョン・ローズは、熱心な帝国主義者で人種差別主義者だった。「アングロ・サクソンこそ最も優れた人種であり、アングロ・サクソンにより地球全体が支配されることが人類の幸福に繋がる。」と信じて疑わない、アングロ・サクソンによる世界支配を目指す秘密結社の設立を公言するフリーメイソンであった。「神は世界地図がより多くイギリス領に塗られることを望んでおられる。できることなら私は夜空に浮かぶ星さえも併合したい。」と豪語した。 南アフリカにおいて帝国主義政策を積極的に提唱した。
 西暦1876年、英領ケープ植民地のキンバリーでは98の小企業組合が3600ものダイヤモンド採掘地を持っていた。デ・ビアスは、ボーア人農民ヨハネス・ニコラス(蘭語: Johannes Nicholas de Beer)ディーデリック・アーノルダス(蘭語: Diederik Arnoldus de Beer)のデ・ビア兄弟、Diederik Arnoldus de Beer)の農場名に由来。オレンジ川とバール川が合流する、ヴールイトツィヒトと呼ばれる地点の付近でダイヤモンドが発見され、ダイヤモンド・ラッシュに農場を維持できず、6300フランで農地を売ることになった。兄弟は鉱山の所有者にはなれなかったが、これらの鉱山のうちの1つが2人に由来して命名された。西暦1880年、セシル・ジョン・ローズとチャールズ・ダネル・ラッド(英語: Charles Dunell Rudd)は、悪辣デ・ビアス(蘭語: De Beers)鉱山会社を悪逆ロスチャイルド家ロスチャイルド家およびアルフレッド・ベイト(英語: Alfred Beit)の援助を受けて設立した。デ・ビアス鉱山会社は西暦1888年03月13日、バーニー・バルナート(英語: Barney Barnato)のキンバリー・セントラル鉱山会社と合併したデ・ビアス合同鉱山会社(英語: De Beers Consolidated Mines Limited)はロスチャイルド家の多額の資金を得て、ダイヤモンド生産の世界シェアを9割ほども握った。西暦1889〜1890年に、デ・ビアスは10社で構成されたロンドン・ダイヤモンド企業組合と販売契約を結び、相手方へ原石を供給した。西暦19世紀後半に南アフリカは「鉱物革命」と呼ばれる迅速な産業化を経験し、金やダイヤ鉱山での労働者の需要が高まった。キンバリーでは、労働力の大部分はコイコイ人とコサ人の季節労働者によって担われた。彼らは夏に賃金のためにダイヤ鉱山で働く若者である。しかし彼らは不安定な労働力であること、かつ会社が労働者のダイヤモンドの横領を常に警戒していたこともあり、デビアスは労働者の囲い込みを行った。契約期間中、坑夫は現地に滞在しなければならない契約をデ・ビアスと結ばされた。白人労働者は街に住むことを認められていたが、黒人労働者は私製通貨が支給され、宿泊・食事・会社提供の安いモロコシビール等と交換しそれで生活することが要求された。黒人労働者は週末には街への外出が許可されていたが、それも西暦1887年には月曜の朝に二日酔いで出てくる労働者をなくすため廃止された。
 オレンジ自由国で発見されたダイヤモンド鉱山、トランスヴァール共和国の金鉱山を独占し、西暦1891年までにダイヤモンド工業を独占した。ランド金山の併合にも成功して南アフリカの鉱山王となった。ロスチャイルド家のために、セシル・ジョン・ローズはダイヤモンドに留まらず南アフリカ大陸における鉄道、電信、新聞まで自分の支配下に納めた。
 西暦1894年にケープ植民地首相となり、後のアパルトヘイトの原型、グレン・グレイ法を制定した。
ケープ植民地の首相だったセシル・ローズが、ボーア人による植民地国家トランスヴァール共和国やオレンジ自由国への圧力と北方地域の開拓を目的に西暦1889年にイギリス南アフリカ会社(英語: British South Africa Company、 略称: BSAC)を設立し、翌年にはマタベレランドやマショナランドの鉱山開発権を獲得し両地方を併合して、自らの名に因み「ローデシア(英語; Rhodesia、「ローズの家」の意)」と命名した。さらに西暦1890年には現在のザンビア共和国(西暦1965年〜)南部にあたるパロツェランドでも鉱山開発権を獲得、北方へと勢力を伸ばした。しかし当初の目的だった鉱山開発は目論見通り進まず、会社は農業植民へと方針を転換。ンデベレ族などの叛乱を鎮圧しながら南ローデシア(現ジンバブエ(西暦1980年〜))を中心に白人の植民が進んだが、それでも会社の業績は好転せず西暦1923年には白人のみの住民投票で英領南ローデシア(西暦1923〜1953年)自治政府が樹立。翌年には北ローデシア保護領(西暦1924〜1964年)もイギリス王国の直轄植民地となった。西暦1925年にカッパーベルトと呼ばれる銅鉱山が北ローデシアで発見され、これを契機として北ローデシア保護領(現ザンビア共和国)でも開発が進んだ。
 第1次ボーア戦争から数年後、豊富な金鉱脈が発見されたことにより、トランスヴァール共和国の状況は一変し、財政難に陥っていた国は急速に繁栄した。トランスヴァール共和国の豊富な金の鉱脈を求めて、英国の何千人もの鉱山技師(山師)がケープ植民地から流入を始めた。外国人が殺到し、鉱山近くに続々と住み着き、ヨハネスブルグの街はほとんど一夜にしてスラム街と変わってしまった。
 山師の外国人が殺到したが、トランスヴァール共和国の少数派のままで、ボーア人は彼らに投票権を与えず、金産業に対しても重税を課した。英国人に対しての不平等な待遇は、ケープ植民地への軍事力の大幅な増強を正当化するための口実として用いられた。
ボーア人のトランスヴァール共和国やオレンジ自由国の併合を目論む、ケープ植民地総督(高等弁務官)初代ミルナー子爵アルフレッド・ミルナー(英語: Alfred Milner, 1st Viscount Milner, KG, GCB, GCMG, PC)、英国植民地相ジョゼフ・チェンバレン(英語: Joseph Chamberlain)、金鉱山主(アルフレッド・バイト、バーニー・バルナート、ライオネル・フィリップスら)などは、「ボーア人たちを攻め落とすことなど簡単だ。」と確信し、再び戦争を引き起そうとしていた。西暦1895年、セシル・ジョン・ローズは初代準男爵リンダー・スター・ジェームソン(Leander Starr Jameson, 1st Baronet, KCMG, CB, PC)とその私兵らによるトランスヴァール共和国で武装クーデターを企てたが失敗に終わり、 翌年に首相を辞職した。
 セシル・ローズ失脚後もイギリス王国は帝国主義侵略政策を進め、これが引き金となり、西暦1899年に独立ボーア人共和国であるオレンジ自由国及びトランスヴァール共和国と大英帝国の帝国主義的侵略戦争、第2次ボーア戦争(西暦1899〜1902年)が勃発した。ボーア人は各地でゲリラ的抵抗を続け大英帝国を苦しめたが、西暦1902年にトランスヴァール共和国は敗戦して条約が結ばれ、イギリス王国直轄植民地、トランスヴァール植民地(西暦1902〜1910年)となった。戦争中、金の生産量は10分の1以下にまで低下したほか、焦土戦術に伴う農地の荒廃もひどく、トランスヴァール経済に大きな打撃を与えた。

ダイヤモンド 欲望の世界史 - 玉木 俊明
ダイヤモンド 欲望の世界史 - 玉木 俊明

 第2次ボーア戦争終結後、プレミア(英語: Premier)鉱山がロンドン・ダイヤモンド企業組合に登録された。この西暦1902年には、デビアス・サッカークラブがデ・ビアスが南アフリカのケープタウン岸と西ケープ州の近くにダイナマイト工場を建設した際に設立された。その工場はローレンス川河口の真西、フォールス湾岸に置かれた。プレミア鉱山は西暦1905年にカリナンを採掘し、翌年企業組合を脱退した。プレミア鉱山は原石を増産して、ロンドンのダイヤモンド商ダンケルスビューラー商会(英語: Dunkelsbuhler & Company)の代理人、アシュケナージム猶太アーネスト・オッペンハイマー(英語: Ernest Oppenheimer)に売った。デ・ビアスは西暦1907年恐慌の最中ドイツ領南西アフリカ(西暦1884〜1915年)との競争にも晒された。短い間、デ・ビアスとロンドン企業組合はドイツ領南西アフリカから買い付けることに合意したが、ロンドン企業組合は優先してベルギー王国(西暦1831年〜)のアントウェルペン企業組合へ売却し、市場を開拓するようになった。西暦1912年、沖積層のダイヤモンド鉱床がベルギー領コンゴ(西暦1908〜1960年、現コンゴ民主共和国(西暦1997年〜))で発見され、翌年から生産しデ・ビアスと競争した。その2年後に第1次世界大戦が勃発し、デ・ビアスは生産を中断したが、翌年に南アフリカ連邦がドイツ軍を破り、最大の競争相手が退場したかに見えた。 新たに大鉱山が発見され、続けて各地で次々とダイヤモンド産地が見つかり、世界のダイヤモンドの9割を支配下に置いていたデ・ビアス社は新たな鉱山に追いつかず、遂には4割にまで落ちてしまった。
 デ・ビアス社が苦戦していた西暦1917年、南アフリカの金塊を採掘・販売するため、アーネスト・オッペンハイマーがジョン・ピアポント・モルガン(J‣P・モルガン、英語: John Pierpont Morgan)と共に現在でも世界最大と言われる大企業、南アフリカのアングロ・アメリカン(英語: Anglo American Corporation of South Africa、現アングロ・アメリカン(英語: Anglo American PLC, 略称: AAC、AAUKなど))として南アフリカで創業した。
この社名は、英国、米国、そして南アフリカから資本金が集められたことに由来する。そのため、現在でもアングロ・アメリカン社はAACと呼ばれることも多い。創業後ほどなくして、同社は南アフリカハウテン州のスプリングズ(英語: Springs) やブラックパン(英語: Brakpan)における金鉱山の開発に成功し、資本を増大させた。これに対抗して、デ・ビアスはプレミア鉱山を傘下に収めてロンドン・ダイヤモンド企業組合を引き継いだ。西暦1918年にノーベル工業とカイノック(英語: Kynoch)は互いのアフリカ子会社を合併させた。この新子会社は、西暦1924年にデ・ビアスと合併して爆薬部門となった。西暦1919年、アングロ・アメリカンは旧ドイツ領南西アフリカのドイツ・ダイヤモンド公社(英語: German Diamond Regie、南西アフリカダイヤモンド共同会社(英語: Consolidated Diamond Mines of South West Africa Ltd. 、CDM))を買収し、漂砂鉱床の鉱山を入手すると、デ・ビアスを圧迫した。戦間期からデ・ビアスはソビエト社会主義共和国連邦(西暦1922〜1991年、露語: Союз Советских Социалистических Республик Ru-Союз Советских Социалистических Республик、通称: Советский Союз, Союз ССР、СССР、ソ連、ソ連邦)との競争に晒された。
 そしてオッペンハイマー家が弱まっていたデ・ビアス社の筆頭株主となった。まずプレミアの上客アーネスト・オッペンハイマーが西暦1925年にロンドン・ダイヤモンド企業組合を再編し、翌西暦1926年デ・ビアスの重役に就任した。そこから翌西暦1927年にかけて旧ドイツ領南西アフリカのリヒテンバーグ(独語: Lichtenburg)にダイヤモンド・ラッシュが起こり、暗黒の木曜日までにアーネスト・オッペンハイマーは現地の利権を握り、西暦1929年12月にデ・ビアス会長となった。
オッペンハイマー家の息子ハリー・フレデリック・オッペンハイマー(英語: Harry Frederick Oppenheimer)と孫ニコラス・F・オッペンハイマー(英語: (Nicholas F. Oppenheimer、愛称: ニッキー)も後に会長となった。
 西暦1930年、世界恐慌への対応として新たな合弁会社ダイヤモンド会社(英語: Diamond Corporation Ltd.)を設立した。その半分はデ・ビアスとプレミアとCDMおよびその他大手生産者が出資した。残りは西暦1925年に再編した企業組合の持分となった。ここでアングロ・アメリカンがCDMの支配権をデ・ビアスに明け渡し、アーネスト・オッペンハイマーは合弁会社の会長となった。そしてベルギー人やポルトガル人と堅実に協定した。西暦1932年、キンバリーとプレミアを含む全所有鉱山が閉鎖した。戦略は生産カルテルから販売カルテルへ性質を変えていった。西暦1934年、合弁会社の子会社ダイヤモンド貿易会社(英語: Diamond Trading Company、)が設立されたのである。DTCは参加者から原石を買占め世界中の加工拠点から慎重に相手を選び、原石の品質を分類して種類ごとに量を決めて原石を販売したが、その流通機構全体は中央販売機構(英語: Central Selling Organization)として世に知られた。
 会長となったアーネスト・オッペンハイマーは、世界のダイヤモンドを掌握しようと様々な案を打ち出した。1つ目はダイヤモンド生産組合を作り生産調整。2つ目はダイヤモンドを全て買い占め、それを流通させるべくダイヤモンド貿易会社を設立。3つ目は流通されたダイヤモンドを販売する中央販売機構を設立。
発掘→流通→販売といった流れをデ・ビアス社が一括することになった。特に3つ目は、生産量や実績によって価格を決める「相場」を作り上げ、1つの会社が世界のダイヤモンド相場を独占した。
 この中央販売機構とは、独占しているデ・ビアス社が開いたダイヤモンド販売会に世界からダイヤモンドを買う為に販売会社が集まる。販売会が始まると各販売会社に1つの袋が手渡され、中にはダイヤモンドがぎっしり詰まっているが、販売会社がダイヤモンドを1つ1つ選ぶことは出来ない。この場でダイヤモンドを確認することは出来るので渡された袋の中身を調べ、ここで彼らにある選択権は袋の中身全てを買うか買わないかだけで、中身を選別して買うのも認められない。買わないと宣言し別の袋を選ぶ権利はあるが、あまり何度も選び直すと次回からその販売会社はデ・ビアス社から呼ばれなくなってしまう。正にやりたい放題の猶太商法。

 第2次世界大戦では工業用ダイヤモンドがもて囃され、西暦1942年の売上げは430万ポンドに達し、売上げの4割近くを占めた。西暦1943年と西暦1945年のダイヤモンド市場は2050万と245万ポンドに拡大した。そこで西暦1944年と西暦1945年、キンバリーとプレミアがそれぞれ生産を再開した。このような経済活動はアメリカ合衆国政府が追及するところとなった。そこでアーネスト・オッペンハイマーはカナダ連邦における供給量を増やすという和解案を示した。実際にそこでの価格は英国政府に統制されたがアメリカ合衆国では妥協しなかった。西暦1945年と西暦1947年に米司法省はデ・ビアスを反トラスト法違背容疑で告訴した。西暦1946年にベルギー領コンゴが中央販売機構に参加した。磐石に見えるカルテルは、西暦1950年代にソ連もダイヤモンドを生産するようになって脅かされた。デ・ビアスは西暦1930年代に積み上げられた在庫の山を西暦1952年に売り切った。アパルトヘイト時代にデ・ビアスは囚人を労働力に使う許可が与えられた。「囚人の大多数は、西暦1952年に制定された厳密なアパルトヘイト法のために投獄された。」と言われている。
 西暦1953年、アセアは工業ダイヤモンドの合成に成功したが、特許をとらなかった。そこで西暦1955年にゼネラル・エレクトリック(英語: General Electric Company、略称: GE)が取得した。西暦1950年代、中央販売機構はイスラエル国(ヘブライ語: מדינת ישראל、西暦1948年〜)に対する原石の供給を削減していった。西暦1959年、ソ連が中央販売機構に参加したが、西暦1963年に脱退した。一方、アフリカの年を経てイスラエル国は原石の輸入額を増やし、中央販売機構はイスラエル国に歩み寄ったが、しかしベルギー王国に対する4割弱の割当量を減らすことはしなかった。西暦1967年にデ・ビアスはオラパ鉱山を発見し、西暦1969年にボツワナ共和国(西暦1966年〜)政府と合弁会社「デブスワナ」を立ち上げた。西暦1974年に米司法省が再びデ・ビアスを反トラスト法で告訴し、デ・ビアスは翌西暦1975年4万ドルの罰金を払った。
 西暦1980年代初頭、ザイール共和国(西暦1971〜1997年)の指導者モブツ・セセ・セコ・クク・ンベンドゥ・ワ・ザ・バンガ(仏語: Mobutu Sese Seko Kuku Ngbendu wa za Banga)が中央販売機構を拒絶したが、デ・ビアスはザイール共和国政府に買収される前に高値をつけて原石を買い占め、政権の競争力を殺いでカルテルに復帰させた。オーストラリア連邦(西暦1901年〜)のキンバリー地域では西暦1983年にオーストラリアのコンジンク・リオティント(Conzinc Riotinto of Australia)の参加するアッシュトン・ジョイント・ベンチャー(英語: Ashton Joint Venture)が中央販売機構に参加した。アッシュトン・ジョイント・ベンチャーにアーガイル鉱山(英語: Argyle diamond mine)が含まれていた。カルテルでアーガイル鉱山は生産量の1/4を独自に販売できるが、品質の良いものは全部を中央販売機構に売却しなければならなかった。自社加工する時ですら1度カルテルを通さなくてはならなり広告まで制限された。西暦1984年アフリカの24ヶ国が飢饉に陥り、翌年スーダン共和国(西暦1985年〜)とウガンダ共和国(西暦1962年〜)とナイジェリア連邦共和国(西暦1960年〜)でクーデタが起こった。西暦1988年、ソビエト社会主義共和国連邦で金属・宝石産業の国家独占企業が誕生し(Glavalmazzoloto)、ソ連崩壊まで中央販売機構に原石を供給した。それが独立国家共同体(露語: Содружество Независимых Государств、略称: СНГ、英語: Commonwealth of Independent States、略称: CIS)、西暦1960年〜)となって、軍需物資として利用されてきた品質の悪いダイヤモンドをだぶつかせて世界的な供給圧力となった。そこで中央販売機構はソビエト連邦の崩壊後に結成された独立国家共同体(CIS)からの買い付けに差別価格を導入して、供給過剰な低品質の原石は価格を下げ、反対に高品質の価格を上げた。西暦1994年、工業用ダイヤモンドの価格カルテルをゼネラル・エレクトリックと結んだ。ゼネラル・エレクトリックは漏らした。その同年から翌西暦1995年にかけてロシアと中央販売機構は、各自で莫大な量の安い原石をインド市場に売り捌いた。西暦1996年06月、アーガイル鉱山が中央販売機構を脱退した。この手続はデ・ビアスが直接行い、親会社のアングロ・アメリカンは立ち会わなかった。西暦1997年02月に中央販売機構と、ソ連のダイヤモンド鉱山を多くを引き継いだロシア連邦(西暦1991年〜)で若干の調整が行われた。西暦1998年初め、中央販売機構はトロントに事務所を開設した。カナダ政府はダイヤモンドに対して原石ではなく生産に対して課税するようになり、中央販売機構の買い取りを助けた。西暦2000年07月14日、デ・ビアスは公式にカルテルの終結を宣言し、中央販売機構は単なるDTCとして販売を継続するとした。西暦2001年、アングロ・アメリカンがデ・ビアスとの株式の持ち合いを解消、支配率を32%から45%に引き上げた。西暦2003年、プレミア鉱山はカリナン鉱山と名前を変えた。西暦2004年にデ・ビアスはゼネラル・エレクトリックとのカルテルを理由に米司法省から1千万ドルの罰金を課された。西暦2006年02月、デ・ビアスは欧州委員会(英語: European Commission、略称: EC、仏語: Commission européenne、略称: Ce、独語: Europäische Kommission、略称: EK、ヨーロッパ委員会、)と合意し法的に拘束され、西暦2008年末から将来にわたりアルゾア(Alrosa)からの低品質原石を仕入れることができなくなった。西暦2008年07月、カリナン鉱山をペトラ(英語:Petra Diamonds)に売却した。

 デ・ビアスは第2次世界大戦の直前からデ・ビアスの広告機関、N・W・アイレ親子商会(英語: N.W. Ayer & Son)によって立案されたキャンペーンは、人々にブランド名を植え付けることなく、ただダイヤモンドの理想的な永遠の価値を表現するという点で、後年長く模倣される新しい広告形式だった。「ダイヤモンドは永遠と愛の象徴」として、「婚約・結婚指輪の理想である。」と売るため、ロマンス映画中で結婚祝いとしてダイヤモンドを使う、「婚約指輪は給料の3ヶ月分」有名人を使い、雑誌や新聞中にダイヤモンドのロマンチックな面を想起させる筋立てを掲載する、ファッションデザイナーや流行仕掛け人を雇い、ラジオやテレビで流行を広める、 ダイヤモンドを広めるためにイギリス王室に献上する、・・と、あざとい猶太商法。アイレによって作成されたスローガン「A Diamond is Forever(ダイヤモンドは永遠の輝き)」は20世紀のマーケティングの歴史の中において最も成功したスローガンで直訳では「ダイヤモンドは永遠に」。007シリーズにも使われた。
 日本でも黒い背景に「ダイヤモンドは永遠の輝き De Beers」とだけ銀文字で大書されたテレビCMが知られる。このキャンペーンは成功し、アメリカ合衆国のダイヤモンド市場を復活させた。それによって高価な贅沢品という印象が弱まったことによって、以前は存在しなかった販路を開拓することに成功した。第2次世界大戦前の日本におけるダイヤモンドは、一部の上流階級のみが愛好するものであった。戦後に行ったキャンペーンでダイヤモンドは「欧米風の生活における地位の象徴」と洗脳広告を打ち、西暦1960年代以降の高度経済成長と共にその販売数が増加し、今日では世界で第2位のダイヤモンド小売市場となった。


 英領ナタール植民地行政府総督(高等弁務官)初代準男爵ヘンリー・バートル・フレア(Henry Bartle Edward Frere, 1st Baronet, GCB, GCSI, PC)とズールー王国は対立を深めていった。西暦1878年12月11日にフレアはズールー王国第4代国王セテワヨ・カムパンデ(ズールー語: Cetshwayo kaMpande)に最後通牒を送った。完全にヘンリー・バートル・フレアの独断行動であり、ヘンリー・バートル・フレアはベンジャミン・ディズレーリへの報告をわざとゆっくり行い、ベンジャミン・ディズレーリに選択の余地を与えずにズールー戦争(西暦1879年)に引きずり込んだ。
 最後通牒に対するズールー王国からの返事はなく、西暦1879年01月、ヘンリー・バートル・フレアの命令を受けた第2代チェルムスフォード男爵フレデリック・オーガスタス・セシジャー(英語: Frederic Augustus Thesiger, 2nd Baron Chelmsford, GCB, GCVO)率いる1万6000人のイギリス軍がズールー王国へ侵攻を開始したが、イサンドルワナの戦いで敗北した。この報告を受けたベンジャミン・ディズレーリは卒倒し掛けた。
チェルムズフォード男爵フレデリック・オーガスタス・セシジャーが援軍を要求してきたため、止む無く許可し、02月には最新鋭兵器を持たせて応援軍を送ることとした。一方で初代ヴォルズリー子爵ガーネット・ジョセフ(Garnet Joseph Wolseley, 1st Viscount Wolseley, KP, GCB, OM, GCMG, VD, PC)将軍を新司令官に任命し、第2代チェルムスフォード男爵フレデリック・オーガスタス・セシジャーはその隷下とした。援軍が到着すると、第2代チェルムズフォード男爵フレデリック・オーガスタス・セシジャーはヴォルズリー子爵ガーネット・ジョセフの命令を無視してすぐに反撃に打って出て、07月04日にズールー王国首都ウルンディは陥落した。ズールー王国は事実上イギリス王国の支配下に組み込まれたズールー王国が正式に大英帝国ナタール植民地に組み込まれたのは西暦1897年。
 なお派遣された援軍の中に王立陸軍士官学校卒業生のナポレオン・ウジェーヌ・ルイ・ボナパルト(仏語: Napoléon Eugène Louis Bonaparte、ナポレオン4世、ナポレオン3世の息子、普仏戦争の敗北で父母とともにイギリス王国に亡命)が従軍していた。ベンジャミン・ディズレーリはフランス第3共和政の反発を恐れて彼を従軍させることに慎重だったが、ナポレオン4世の母である元フランス皇后ウジェニー・ド・モンティジョ(仏語: Eugénie de Montijo)と英女王ヴィクトリアが強硬にナポレオン4世の意思を支持したため、結局ベンジャミン・ディズレーリが折れた。ベンジャミン・ディズレーリは「執拗な女性2人も相手にして私に何ができるでしょう。」と嘆いている。しかし06月初め、前線の小競り合いでナポレオン4世は戦死した。ヴィクトリア女王はこれに大いに悲しみ、ヴィクトリア女王の計らいで彼の葬儀は盛大に行われ、女王自身も葬儀に出席した。女王が葬儀に出席するのは相手も君主の場合だけであり、臣民の葬儀には出席しないのが慣例である。そのような栄誉がボナパルト家の者に認められると、フランス第2帝政を廃したフランス第3共和国の反発が予想されることからベンジャミン・ディズレーリが再び反対したが、やはり女王は聞き入れなかった。さらに葬儀を終えた女王は「土壇場になるまで植民地の軍備増強を怠った政府の責任である。」としてベンジャミン・ディズレーリに叱責の電報を送った。女王の格別な寵愛によりベンジャミン・ディズレーリにだけ許されていた女王引見の際の様々な特別扱いも一時中止されたほどで、この時のヴィクトリア女王の怒りは激しかった。
 西暦1876年08月12日、ヴィクトリア女王よりビーコンズフィールド伯爵、ヒューエンデン子爵に叙された。これにより貴族院に移ることとなった。30年にわたって庶民院保守党議員を支配してきたベンジャミン・ディズレーリにとっては辛いことだったという。ヴィクトリアは「貴族院に移れば疲労はずっと少ないですし、そこから全てを指導することもできます。」と説得した。
 毀誉褒貶はあっても、強力な個性の持ち主であるベンジャミン・ディズレーリが庶民院を去ることを庶民院議員たち(特に若手)は惜しんだ。ベンジャミン・ディズレーリにとって最後の庶民院本会議が終わると、彼は議場を見渡せる位置まで歩いて行って、自分が初めて演説した演壇、自分が長いこと座っていた野党席、ピールの肖像画が掛かっている国庫の席などを眺めて、物思いに耽っていたという。また議場から退出する時には涙を見せた。貴族院に移ったベンジャミン・ディズレーリは直ちに貴族院院内総務となった。貴族院は保守党が半永久的に優勢ながら、保守党執行部に従わないことが多いという特殊な議会だった。ベンジャミン・ディズレーリはすぐに貴族院から受け入れられ、第14代ダービー伯(元首相)級の権威を確立できた。しかし貴族院議員第3代ソールズベリー侯ロバート・アーサー・タルボット・ガスコイン・セシルがイギリス貴族院を指して「この世で最も活気のない議会」と称したように、ベンジャミン・ディズレーリには物足りないものであったようだ。「貴族院の気分はどうですか」と聞かれたベンジャミン・ディズレーリは「私は死にました。極楽浄土の中で死んでいます。」と答えている。
 西暦1876年頃からイギリス王国にも不況の波が押し寄せてきた。西暦1878年にはグラスゴー市銀行が経営破綻し、衝撃を与えた。失業率が急速に上昇していた(西暦1872年には1%、西暦1877年には4.7%、西暦1879年には11.4%)。一方農業も悪天候続きで収穫不足になっており、ピールの穀物法廃止以来、30年以上続いていたイギリス農業の生産率増大がこの頃に止まり始めた。反面アメリカ農家の農業技術と運送技術の向上でアメリカ合衆国からの輸入穀物はますます安くなっていた。ヨーロッパ大陸各国は次々と保護貿易へ移行し、イギリス王国の地主の間でも保護貿易復活を求める声が強まった。だが、農業人口よりそれ以外の人口が多いイギリス王国においてはそう簡単にはいかなかった。保護貿易を復活させれば、食品価格の大幅な上昇を引き起こし都市部の労働者の反発を買うのは必至だったからである。ベンジャミン・ディズレーリが決めかねている間に保守党内の一部の地主層が保守党を離党して農民同盟を結成する事態となった。一方自由党は元々自由貿易主義者しかいないので、分裂することなく総選挙に邁進できた。ウィリアム・ユワート・グラッドストンがスコットランドで行ったミッドロージアン選挙運動(英語: Midlothian campaign)と呼ばれる一連のベンジャミン・ディズレーリ批判演説は大きな成功を収めた。さらにアイルランド国民党党首チャールズ・スチュワート・パーネルが、政府との徹底対決路線をとり、何十時間にも及ぶ演説を行って、政府法案の議事を妨害するようになった(当時この手の議事妨害を阻止する議事規則がなかった)。これが原因でディズレーリ政権は末期の頃にはほとんど立法ができなくなった。これに対しては議事規則を改正して対策を立てようとしたが、野党との協議が整う前に総選挙となった。

 ミッドロージアン選挙運動 ロスチャイルドの金で自由党グラッドストンが復活

 6年間の政権の後、ウィリアム・ユワート・グラッドストン首相率いる自由党政権は、西暦1874年の総選挙で自由党が大敗したことにより終焉を迎え、短い移行期間の後、自由党の指導権を放棄し、その後は英国下院の単なる下院議員となったが。ウィリアム・ユワート・グラッドストンは西暦1875年01月、数年前に約束した通り、政治から完全に身を引き、田舎の邸宅であるハワーデン城に引籠もってホメロスの研究に時間を費やしていた。西暦1878年までに、彼はオスマン帝国政府に対するイギリス王国の経済支援に反対する記事を発表していた。この時点で、政治活動への復帰を計画していた。
 西暦1708年に創設された低地スコットランドのエディンバラシャー、通称ミッドロージアン(英語: Midlothian、スコットランド・ゲール語: Meadhan Lodainn)は、わずか3620人の有権者がいる小さな選挙区だった。しかし、ミッドロージアンは、スコットランド啓蒙主義の伝統が染み付いた洗練された都会的な環境があり、スコットランドで最も有力な2つの貴族の家系が勢力を争う戦場でもあった。西暦1860年代から、バクルー公爵(英語: Duke of Buccleuch)及びクイーンズベリー公爵(英語: Duke of Queensberry)家とローズベリー伯爵(英語: Earl of Rosebery)家がここで覇権を争っていた。西暦1868年、ローズベリー伯爵家が後援する自由党がミッドロージアンで勝利し、長きにわたった保守党の優位は終焉を迎えた。西暦1874年、保守党のバックルー公爵及びクイーンズベリー公爵の相続人ダルキース卿(西暦1884年までの儀礼称号。後の第6代バクルー公及び第8代クイーンズベリー公ウィリアム・ヘンリー・ウォルター・モンタギュー・ダグラス・スコット(英語: William Henry Walter Montagu Douglas Scott, 6th Duke of Buccleuch & 8th Duke of Queensberry, KG, KT(後に返上), PC, JP, DL)は僅差で議席を奪還した。
 第5代ローズベリー伯及び初代ミッドロージアン伯アーチボルド・フィリップ・プリムローズ(英語: Archibald Philip Primrose, 5th Earl of Rosebery, KG KT PC FRS FBA、西暦1851〜1868年までダルメニー卿(英語: Lord Dalmeny)の儀礼称号)はウィリアム・ユワート・グラッドストンに、ミッドロージアンが選挙活動を始めるのに理想的な場所と確信させた。かつてスコットランドは自由主義の拠点となっていた。第5代ローズベリー伯アーチボルド・フィリップ・プリムローズは、「発生する全ての費用を負担する。」とグラッドストンに約束した。ローズベリーはグラッドストンの選挙運動責任者となった。
第5代ローズベリー伯アーチボルド・フィリップ・プリムローズは、貴族が賤しいユダヤ人との結婚を批判されたがロスチャイルドの金に転び、ハンナ・ド・ロスチャイルド(英語: Hannah Primrose, Countess of Rosebery)と結婚していた。
 長年の政敵であるベンジャミン・ディズレーリの保守党政権を、財政面での無能、国内法の無視、外交政策の失策で非難した。彼は、人気があり現実的な政治家(「人民のウィリアム」)としての評判を高め、自由党内で最も重要な政治家としての地位を固めた。西暦1880年までに、ウィリアム・ユワート・グラッドストンはこの問題に執拗に取り組み、この問題は世間の注目の最前線にまで上り詰め、西暦1880年の総選挙では、ウィリアム・ユワート・グラッドストンは一連の都市を回り、この問題について5時間にも及ぶ演説を行った。彼の演説の性質はしばしば説教に例えられ、彼の熱烈で感情的だが論理的に構成された演説は西暦、1880年代に多くの未決定の有権者を自由党に傾倒させ、ディズレーリの最後の保守党政権を打倒した。これらの集会への参加者数が多く、それぞれ数千人が出席し、選挙権の規模が比較的小さかったため、ウィリアム・ユワート・グラッドストンは各選挙区の有権者の大部分に演説することができた。ミッドロージアンで目新しいのは、グラッドストンが演壇から演説したということではない。これは多くの第一線政治家にとってすでに当たり前のことだった。この選挙運動は情報メディアを効果的に操作するため、報道するジャーナリストの締め切りと業務上の要件に特に注意が払われ、朝刊と夕刊で最大の効果が得られるように作成され、演説とそれに対する一般の反応が広く報道された。
 ウィリアム・ユワート・グラッドストンの演説は、国家政策の全範囲を網羅し大勢の聴衆に威厳があり刺激的な政府の原則に関する上質な批判であった。主要な演説は、彼自身の深く固執する英国国教会の信仰の熱意によって強化された、自由主義の政治哲学の声明を構成しています。当時のスコットランドは、この種の宗教的および道徳的誠実さの促進に固執する国で、彼の焦点は通常、外交問題でした。グラッドストンは、法によって統治され、弱者を保護する世界への関与を示した。彼が理想とする世界秩序の視点は、普遍主義と包摂性を組み合わせたもので、彼は集団感情、他者への思いやりの感覚に訴え、最終的には人類の団結というより大きな構想にまで至った。
 ミッドロージアン選挙運動により、自由党内およびヴィクトリア女王にとって、グラッドストンの指導力を無視することは不可能となった。さらに、この選挙運動は、西暦1880年の選挙で自由党が政権を握る勢いを生み出した。

 自由主義(リベラリズム)という美名で、ゴイム(他民族他宗教の愚民)を統制し家畜化する全体主義統一世界(マルクス主義)は、アシュケナージム猶太のロスチャイルドの理念である。
 ユダヤ人ロンドン・ロスチャイルド家の祖ネイサン・メイヤー・ロスチャイルド(英語: Nathan Mayer Rothschild)の四男のユダヤ人銀行家ロスチャイルド男爵メイヤー・アムシェル(英語: Baron Mayer Amschel de Rothschild)は、ユダヤ人コーエン家のジュリアナ・コーエン(英語: Juliana Cohen)と従兄・従妹婚でできた一人娘が第5代ローズベリー伯爵夫人ハンナ・ド・ロスチャイルドハンナ・ド・ロスチャイルドと結婚し、膨大な遺産を相続し最も裕福な地主の1人だった。ロスチャイルド男爵ファーディナンド・ジェームズ(英語: Baron Ferdinand James de Rothschild、ロートシルト男爵フェルディナント・イェームス(独語: Ferdinand James Freiherr von Rothschild)、愛称: ファーディ)は従兄。
 ハンナ・ド・ロスチャイルドの曽祖父のレヴィ・バレント・コーエン(英語: Levy Barent Cohen)の姪ナネット・サロモンズ・コーエン(英語: Nanette Salomons Cohen)はカール・マルクスとベンヤミン・フレデリック・ダビット・フィリップス(独語: Benjamin Frederik David Philips)の母方の祖母である。


 「西暦1879年夏か秋に解散総選挙に打って出ていれば、保守党は敗れるにしても大敗することはなかった。」と言われた。だがベンジャミン・ディズレーリは解散総選挙を出来る限り先延ばしにしようとして解散時期を見誤った。西暦1880年02月05日に議会が招集されたが、ベンジャミン・ディズレーリは女王に対して「何か予期しない問題が発生しない限りは解散はない。」と述べていた。ところが「02月14日のリバプール補欠選挙で自由党候補が勝利する。」という前評判を覆して保守党候補が勝利した。この選挙結果を聞いたベンジャミン・ディズレーリは「保守党に風が吹いている。」と判断して、03月06日に急遽庶民院解散を決定した。この突然の解散総選挙は与野党問わず、誰もが驚いた。しかし03月から04月にかけて行われた総選挙の結果は、保守党が238議席(改選前351議席)、自由党が353議席(改選前250議席)、アイルランド国民党が61議席(改選前51議席)という保守党の惨敗に終わった。不況と農業不振で元々現政権に不利な選挙ではあったが、ここまで負けたのは保守党の機能不全がある。党が自由貿易か保護貿易かで分裂していたし、選挙の準備もまるでしていなかった。対して自由党は準備を整えて待ち構えていた。
 この選挙の報を聞いた時、ヴィクトリア女王はバーデン大公国(西暦1806〜1918年)にいたが、絶望して「私の人生はもはや倦怠と苦しみしかありません。今度の選挙は国全体にとって不幸なことになるでしょう。」、「私は、全てを破壊し、独裁者となるであろう半狂人の扇動者と交渉を持つぐらいなら退位を選びます。」と語った。
 ベンジャミン・ディズレーリが退任の挨拶にヴィクトリア女王を訪れたとき、女王は悲しげだった。女王は彼のブロンズ像を送るとともに、これからも手紙を送ってくれること、会いに来てくれることを頼んだ。そして改めて「公爵位を与えたい。」と申し出たが、ベンジャミン・ディズレーリは選挙に惨敗した首相がそのような高位の爵位を賜るのはまずいとして固辞し、代わりに自分の秘書モンタギュー・コーリーをロートン男爵に叙してもらった。政治家の秘書に爵位が与えられるのは極めて異例のことであった。
 ヴィクトリア女王のウィリアム・ユワート・グラッドストン嫌いをよく知っているベンジャミン・ディズレーリは、女王に次の首相として自由党下院指導者ハーティントン侯(後の第8代デヴォンシャー公スペンサー・キャヴェンディッシュ(英語: Spencer Cavendish, 8th Duke of Devonshire, KG, GCVO, PC, PC (Ire)、西暦1834〜1858年までキャヴェンディッシュ卿(Lord Cavendish)、西暦1858〜1891年まではハーティントン侯爵(Marquess of Hartington)の儀礼称号))を推挙した。これは、このユダヤ人の放った嫌がらせの最後っ屁だった。女王はベンジャミン・ディズレーリの助言通り、ハーティントン侯を招いて後継首班指名を告げたが、ハーティントン侯は「ウィリアム・ユワート・グラッドストン首班以外では組閣できない。」と拒絶し、女王は「半狂人の扇動者」を首班に指名せざるを得なかった。
 ダウニング街10番地を去ったベンジャミン・ディズレーリは、西暦1880年05月01日にヒューエンデンへ帰っていった。以降、党の会合や貴族院出席以外の時はここで過ごした。またヴィクトリア女王との文通も続け、しばしばウィンザー城を訪れては女王の引見を受けた。西暦1880年05月19日のブリッジウォーター・ハウスで開催された保守党両院総会において、ベンジャミン・ディズレーリが引き続き党首を務めることが確認された。ベンジャミン・ディズレーリ以外に党首が務まる者はいなかったためである。ベンジャミン・ディズレーリはグレイ伯内閣(ホイッグ党政権)の急速な凋落の先例を挙げ、敗北に悲観的に成り過ぎないよう議員たちを励ました。そして「保守党は帝国と憲政を保守する。」と宣言し、議員たちから万雷の拍手を受けた。庶民院では大敗を喫した保守党だが、貴族院は半永久的に保守党が牛耳っているので野党党首としてのディズレーリの権力は弱いものではなかった。グラッドストン政権が提出した小作料を支払うことができない小作人をアイルランド地主が追い出すのを暫定的に禁止する法案についてベンジャミン・ディズレーリは保守党の総力をあげて攻撃し、廃案に追い込んだ。
 晩年にはあのロスチャイルドの犬の悪魔ウィンストン・レナード・スペンサー・チャーチル(英語: Winston Leonard Spencer Churchill, KG, OM, CH, TD, PC, DL, FRS, Hon. RA)の父、ランドルフ・ヘンリー・スペンサー・チャーチル卿(英語: Lord Randolph Henry Spencer-Churchill, PC, DL)や初代バルフォア伯アーサー・ジェイムズ・バルフォア(英語: Arthur James Balfour, 1st Earl of Balfour, KG, OM, PC, DL)ら「第4党(Fourth Party)」と呼ばれる向う見ずな保守党若手議員たちを支援した。彼らはその行儀の悪さから保守党庶民院院内総務初代イデスリー伯スタッフォード・ヘンリー・ノースコート(英語: Stafford Henry Northcote, 1st Earl of Iddesleigh, GCB, PC、西暦1851〜1885年はノースコート准男爵スタッフォード)に睨まれていたが、ベンジャミン・ディズレーリはランドルフ・ヘンリー・スペンサー・チャーチル卿らに「私自身立派であったことは一度もないよ。」と語って励ましたという。一方で彼らが公然と党執行部に造反しないよう忠告を与えるなど、「第4党」をうまく扱った。
 西暦1881年初めにはウィリアム・モリス(英語: William Morris)や、カール・マルクスの娘ジェニー・エリノア・マルクス(英語: Jenny Julia Eleanor Marx、仇名: トゥッシー(Tussy))、アニー・ウッド・ベサント(英語: Annie Wood Besant)、ジェームズ・ラムゼイ・マクドナルド( 英語: James Ramsay MacDonald)、エドワード・カーペンター(英語: Edward Carpenter)、イーディス・ネズビット(英語: Edith Nesbit)などと結成したマルクス主義団体「社会民主連盟(Social Democratic Federation、当初は民主連盟)」の指導者ヘンリー・ハインドマン(英語: Henry Mayers Hyndman)の訪問を受けた。ヘンリー・ハインドマンは格差問題を説いたベンジャミン・ディズレーリの「シビル」に深い感銘を受けており、社会政策についてベンジャミン・ディズレーリの意見を聴きに来た。しかしベンジャミン・ディズレーリは、ヘンリー・ハインドマンの民主帝国連邦構想や財産の社会化の話に冷めた様子で「ハインドマン君、この国は動かすのが全く難しい国なんだよ。全く難しい国だ、そして成功するより失敗することの方が多い国だ。しかし、君は続けようというのだね?」と答えた。この接触はヘンリー・ハインドマンがオットー・フォン・ビスマルクとフェルディナント・ヨハン・ゴットリープ・ラッサール(独語: Ferdinand Johann Gottlieb Lassalle)の関係に倣ったもの。
 10年前から執筆を開始していた政治小説「エンディミオン」を西暦1880年11月に出版した。エンディミオンという青年が政治を志し、幾多の女性遍歴を経て、ついにイギリス首相となる物語である。もちろんベンジャミン・ディズレーリ自身がモデルであり、世間からはベンジャミンとエンディミオンを掛けて「ベンディミオン」と呼ばれたという。他の登場人物も大体ベンジャミン・ディズレーリの接した者たちであり、一種の自叙伝であった。さらにウィリアム・ユワート・グラッドストンをモデルにした人物を主人公にした小説「ファルコーネ」の執筆を開始したが、これを完成させることはできなかった。
 西暦1880年12月にベンジャミン・ディズレーリはヒューエンデンを離れてロンドンへ行き、以降死去するまでヒューエンデンに戻る事はなかった。ベンジャミン・ディズレーリは以前から喘息と痛風に苦しんでいたが、死を予期させるような病状は死の直前までなかった。西暦1881年02月から03月にも外出して政治家たちと会合したり、王太子アルバート・エドワード(後のエドワード7世)の晩餐に招かれたりしていた。03月01日にはウィンザー城でヴィクトリア女王から最後の引見を受けた。03月15日の貴族院では、ロシア皇帝アレクサンドル2世の暗殺を悼み、女王が弔辞を送ることに賛成する最後の演説を行った。03月22日の帰宅途中に雨に濡れ風邪を引き、これが死につながることとなった[527]。なかなか病状は回復せず、そんな中ベンジャミン・ディズレーリが無理をして書いたヴィクトリア女王への手紙は、短信だった。ヴィクトリア女王は心配になり、有名医をベンジャミン・ディズレーリの下へ派遣するよう命じた。04月19日に入った深夜に危篤に陥り午前04時15分過ぎ、昏睡状態だったベンジャミン・ディズレーリが突然上半身を起こそうとしたので、その場にいた者たちはみなびっくりした。彼はいつも議会で行っていた両肩を後ろに揺する身振りをした。その後再びベッドの中に倒れ、午前04時30頃にくたばった。

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2024年11月22日

反吐が出る世界史 鬼畜南蠻入寇 セファルディーム猶太デ・イスラエルとアヘン王サッスーン家、スコットランド人 悪逆非道なディープステイトの中核、猶太とは何か その28

ダビデの星.jpgユダヤ(ギリシャ語: Ἰουδαία、Ioudaía、漢字:猶太)

 他民族からは「ヘブライ人」と謂れ、自らは「イスラエル人」と称し、バビロン捕囚後には「ユダヤ人」と呼ばれるようになった徒輩。ヘブライ人、イスラエル人、ユダヤ人は同じ民族を指している。
 ユダヤ人(ヘブライ語: יהודים‎、英語: Jews、ラジノ語: Djudios、イディッシュ語: ייִדן‎)は、猶太教の信者(宗教集団)または猶太教信者を親に持つ者によって構成される宗教信者。原義は狭義のイスラエル民族のみを指す。イスラエル民族の1つ、ユダ族がイスラエルの王の家系だったことを由来とする。猶太教という名称は、猶太教徒が多く信仰していた宗教であることによる。ユダヤとは、パレスチナ南部の地域。酋長ヤコブの子ユダに由来する。古代イスラエル統一王国の分裂後の南ユダ王国があった地域である。



南ユダ王国滅亡後のユダヤの歴史

南ユダ王国が滅ぶと、僅かな例外的時期を除いて西暦20世紀に至るまでユダヤ民族が独立国を持つことはなかった。


神武天皇74(西暦前587)〜安寧天皇10(西暦前539)年 新バビロニア帝国
安寧天皇10(西暦前539)〜孝安天皇61(西暦前332)年 アケメネス朝ペルシア帝国
孝安天皇61(西暦前332)〜孝安天皇88(西暦前305)年 プトレマイオス朝エジプト
孝安天皇88年(西暦前305)〜開化天皇17(西暦前141)年 セレウコス朝シリア
開化天皇17(西暦前141)〜崇神天皇35(西暦前63)年 ハスモン朝 ユダヤ人国家
崇神天皇35(西暦前63)〜崇神天皇61(西暦前37)年 共和政ローマ元老院属州
崇神天皇61(西暦前37)〜垂仁天皇73(西暦44)年 ヘロデ家
垂仁天皇73(西暦44)年 ユダヤ属州(ローマ帝国皇帝属州)
垂仁天皇73(西暦44)〜景行天皇23(西暦93)年 ヘロデ家
垂仁天皇73(西暦44)〜仁徳天皇83(西暦395)年 ローマ帝国皇帝属州
仁徳天皇83(西暦395)〜舒明天皇06(西暦634)年 東ローマ帝国
舒明天皇06(西暦634)〜永正13(西暦1516)年 イスラーム諸王朝 途中に十字軍国家の時代を含む。
永正13(西暦1516)〜大正06年(西暦1917)年 オスマン帝国 
大正07年(西暦1918)〜昭和23(西暦1948)年 イギリスによる国際聯盟の委任統治 
昭和23(西暦1948)年 イスラエル国(メディナット・イスラエル)成立 共和政国家の樹立、現代に至る。



 西暦135年、ローマが叛乱を鎮圧し、ユダヤ的なものを一掃しようとしたローマ人は、この土地をユダの地(ユダヤ)ではなく、ユダヤ人の宿敵ペリシテ人に因んで「パレスチナ」、エルサレムを「アエリア・カピトリーナ」と改称し、ユダヤという地名は消滅した。

 また、ユダヤ人は人種的にはセム族とされるが、長いディアスポラ(離散)のなかで、周辺民族との混血の結果、セファルディームアシュケナジームの違いが生じ、また言語もイデッシュ語などが生まれた。現在、ユダヤ人はイスラエルの他、世界中に分布しており、アメリカにも約600万人が住んでいるとされる。しかし現在ではユダヤ人を「人種」概念で捉えるのは困難で、現実には「猶太教を信仰する徒輩」と捉えるのが正しい。人類学的に同質のユダヤ人は存在しない。



 南蠻ポルトガル王国(西暦1139〜 1910年)は、西暦13世紀頃のボルゴーニャ朝(葡語: Dinastia de Borgonha、仏語: ブルゴーニュ(Bourgogne)朝、西暦1143〜1383年)では人口も少ない小国だった。応永22(西暦1415)年にアヴィス朝(Dinastia de Avis、西暦1385〜1580年)のジョアン1世(João I, o de Boa Memória)の王子ドゥアルテ1世(Duarte I)、ペドロ・デ・ポルトゥガル(Infante Pedro de Portugal, Duque de Coimbra、コインブラ公)、エンリケ航海王子(Infante Dom Henrique)らたちがジブラルタルの対岸のマリーン朝(西暦1195〜1470年)モロッコ王国の港町セウタを占領し、南蠻ポルトガル王国の海外侵掠が始まった。モロッコからアフリカ西岸を回って次々と侵掠を始め。部族抗争を繰り返すアフリカの一方の部族にだけ武器を与え、敗れた部族を奴隷として叩き売る悪虐行為を繰り返した。
 享徳01(西暦1452)年、当時の耶蘇教の坊主の道徳心は腐れ切っており、ローマ法王ニコラウス5世トマソ・パレントゥチェリ(Nicholaus V, Tomaso Parentucelli)は、ポルトガル国王、アフォンソ5世(Afonso V、アフリカ王(葡語: Africano))に宛てた勅書でサラセン人等の異教徒を攻撃、征服、服従させる権利、即ち、ポルトガル人に対して「異教徒を奴隷にする許可」を与えた。この勅書で、奴隷貿易は正当化され、「相手は人間でない。」と考え、倫理的な罪悪感を全く持たず徹底的に残酷化した。

 南蠻ポルトガル王国は、アフリカ進出やマデイラ諸島のサトウキビやワイン生産などで比較的余裕があったポルトガル王国でもカスティーリャ王国(西暦1035〜1715年)との対立、和解後のセウタ攻略などの出費の建て直しに迫られており、黄金や香料が豊富なインディアス(Las Indias、南蠻人が発見・征服・植民した地域の総称で、現在のカリブ諸島、アメリカ大陸の一部、およびフィリピン諸島を指す。元来は支那、日本を含む東アジア地域の総称)との直接貿易を求めた。また、アジアあるいはアフリカに存在すると考えられていた東方の耶蘇教国と言われたプレステ・ジョアン(葡語: Preste João、羅語: Presbyter Johannes、英語: Prester John)の国と連携する構想が現実味を帯びた。ジョアン2世(João II)が派遣した使節は陸路でエチオピア帝国(西暦1270〜1974年)との接触を果たし、海路においてもバルトロメウ・ディアス(葡語: Bartolomeu Dias de Novais)を派遣し、長享02(西暦1488)年にはアフリカ大陸南端の喜望峰到達を達成していた。
 南蠻ポルトガル王国に後れを取って焦っていた同じ南蠻カトリック両王スぺイン王国(西暦1474〜1504年)にジェノヴァの奴隷商人、クリストーフォロ・コロンボ(伊語: Cristoforo Colombo、西語: クリストバル・コロン(Cristóbal Colón)、羅語: クリストファー・コロンブス(Christophorus Columbus))が取り入った。カスティーリャ王国トラスタマラ朝(西暦1369〜1516年)女王イサベル1世(Isabel I de Castilla, Isabel la Católica)らの支援を得たクリストーフォロ・コロンボは、南蠻ポルトガル王国とは反対に大西洋を渡り、明応01(西暦1492)年10月12日にカリブ諸島のグアナハニ島(Guanahani)に上陸し、西語で「聖なる救世主(San Salvador )」の意のサン・サルバドル島に改名した。水や食料を提供してくれた原住民の純朴さと均整の取れた体を見て、クリストーフォロ・コロンボは「これは素晴らしい奴隷になる。」と考え、翌年、軍隊と軍用犬を満載して再びこの島を訪れると、原住民の村々を徹底的に破壊し、掠奪・殺人・放火・拷問・強姦と、悪逆の限りを尽くした。
 南蠻スペイン王国の支援を受けたクリストーフォロ・コロンボが西回り航路でインディアス(実際はアメリカ大陸)に到達した成果を受け、明応03(西暦1494)年06月07日、法王至上主義(ウルトラモンタニズム)という邪教の一頭目、金と女に情熱を傾けていた南蠻スペイン人の鬼畜、ローマ法王アレクサンデル6世ロデリク・ランソル(Alexander Y, Roderic Lanzol)の仲裁により、反人類悪魔の南蠻スペイン王国と南蠻ポルトガル王国の間で、地球分割(デマルカシオン、西語: demarcación)を取り決めたトルデシリャス条約(西語: Tratado de Tordesillas、葡語: Tratado de Tordesilhas)が結ばれた。これで南蠻スペイン王国に「新大陸」における征服の優先権を認められた。このトルデシリャス条約を根拠に、享禄02年(西暦1529)年04月22日にはモルッカ諸島の権益で揉めた南蠻スペイン王国と南蠻ポルトガル王国は。東半球の地球分割(デマルカシオン)がサラゴサ条約でなされ、笑止にも境界線の東経133度線は日本列島の現島根県隠岐諸島西ノ島、知夫里島、宍道湖、現広島県、現愛媛県大三島、津島、現高知県足摺岬に引かれ、日本は反人類悪魔の南蠻スペイン王国と南蠻ポルトガル王国で分断される形になった。
 この鬼畜のローマ法王アレクサンデル6世の地球分割は南蠻ポルトガル王国に衝撃を与えた。事実上南蠻ポルトガル王国の活動はアフリカ沿岸に絞られた。明応04(西暦1495)年に亡くなったジョアン2世を継いだマヌエル1世(Manuel I)はインド航路発見に積極的であり、計画が実行に移され、 南蠻ポルトガル王国はアフリカ南端を回り、西暦16世紀にはインド、東南アジアに領土を増やした。
 南蠻ポルトガル王国の海賊、ヴァスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama)は、ヨーロッパからアフリカ南岸を経てインドへ航海した記録に残る最初のヨーロッパ人と言われる。明応06(西暦1497)年07月08日、黒人の給使や水先案内人、特赦の代償に危険な任務を負う10数人の死刑囚を含む170人が、バルトロメウ・ディアスの随行艦を含めた5隻は、貿易風を使うには季節外れの時期に出発した。明応07(西暦1498)年03月02日にはモザンビークに達し、住民の多くがアラビア語を話すムスリムであることに気が付き警戒を強めた。延徳04(西暦1492年)にグラナダを征服し、イスラーム教徒の王を海の向こうに追い払ったばかりのイベリア半島からやってきたポルトガル人たちはアラビア語を話すムスリム(当時のヨーロッパ諸語ではムーア人)に対し強い警戒感を持っていた。日曜の礼拝を行っている姿を住民に見られ、自分たちが耶蘇教徒であることを見破られるのを防ぐため、船も沖に泊めた。案内人と水と食料を確保するための交渉は思うように進まず、ヴァスコ・ダ・ガマは武力の行使により水を奪い、水場を守るモザンビークの人々にいきなり砲撃を浴びせ、抵抗を突破、地元民2人を殺し、何人かを捕らえ人質にした。また、地元の船2隻とその積み荷も奪った。翌日、意気揚々と再び水場を訪れたポルトガル人は無抵抗で水を手に入れると、そのまま市街に入ってその中心で銃を何発か放った。暴力的に必要な物資を調えた船隊は、その翌々日に風を得て北へと去った。この海域の慣行を無視し、港の使用料を払わなかった。その後、モンバサで柑橘類を手に入れたが、モザンビークで捕らえていた捕虜が逃げ出したため、ヴァスコ・ダ・ガマ一行は陸地との連絡を諦め、逆にイスラーム教徒の船を拿捕した。向かったマリンディで捕虜を解放したが、ヴァスコ・ダ・ガマは当地の国王から受けた再三の招待を断り上陸しなかった。いずれの港でも指揮官のヴァスコ・ダ・ガマや各船の船長は、決して船から降りて陸には上がらず、乗組員も港町側と人質を交換した後でなければ、容易に陸地には降り立たなかった。これらは他地域からの商船がしばしば訪れる東アフリカ海岸諸都市の慣習にはおよそそぐわない不自然で不可思議な行為だった。カレクト王国を目指し、その都カレクト(カリカット、現コーリコード(マラヤーラム語: കോഴിക്കോട്、コージコード))近郊に到着した。05月20日に碇を下ろすと、05月21日、沖合いに停泊する艦隊に近づいて誰何してきた小舟の人々を通じ、ヴァスコ・ダ・ガマはカレクト王国へ使者を派遣した。この使者は危険な見知らぬ地で最初に陸に上がらせるために南蠻ポルトガル王国から乗せてきた死刑囚の1人だった。翌日にはカレクト沖に移動したヴァスコ・ダ・ガマだったが、水先案内人がより安全という近郊のパンダラニへ移り、22日に届いた国王の招待に応じた。
 05月28日、ヴァスコは13人の部下を連れて上陸した。王宮に到着したヴァスコ・ダ・ガマは来訪の目的を廷臣に伝えるように要求されたにも拘わらず、「自らはポルトガル王の大使であるから王に直接話す。」と主張して聞かなかった。翌日宮殿で謁見したヴァスコはカレクト国王に親書を渡し、目的の1つを達成した。しかし用意した贈り物を見た王の役人やイスラーム教徒の商人は笑い出した。贈り物は布地、1ダースの外套、帽子6個、珊瑚、水盤6個、砂糖1樽、バターと蜂蜜2樽に過ぎなかった。「これは王への贈り物ではない。この街にやってくる一番みすぼらしい商人でももう少しましなものを用意している。」と言われ、ヴァスコ・ダ・ガマは「私は商人ではなくて大使なのだ。これはポルトガル王からではなく、私の贈り物なのだ。王が贈り物をするならもっと豪華なものになるはずだ。」と苦しい言い訳をした。30日になった2度目の謁見でイスラーム教徒への不信を国王に述べながらも、積み荷の交易許可を得た。この時王に「そんなに豊かな王国からやってきたならなぜ何も持ってこなかったのか?」と聞かれた。カレクト王国の収入は港にやってくる商人の売却益に掛ける関税であり、商売に励んでもらう期待があったのだから王の問いかけは当然のことであった。
 ところがパンダラニに戻ると当地のワリ(知事)はヴァスコ・ダ・ガマらを軟禁状態に置き、沖の艦隊へ戻そうとしなかった。06月02日になってヴァスコ・ダ・ガマはワリと直接話す機会を得た。そこでワリは、「当地の習慣に無く艦隊を沖に留め船員を残す一行に不信感を持っている。」と述べたので、ヴァスコ・ダ・ガマは直ちに従って積み荷を下ろす指示を出した。このやり取りをヴァスコ・ダ・ガマはイスラーム系商人らの妨害活動と感じ取ったが、実際のところ王国側は艦隊を沖に留めるヴァスコが、定められた港湾使用料を支払わずに出港することを懸念していた。ポルトガル船隊はカレクトに留まる間、各船から乗員が1人ずつ上陸して街を見物し、南蠻ポルトガル王国の織物、錫、鎖などを現地の胡椒、クローブ、シナモン、宝石などと交換したが、南蠻ポルトガル人たちは、自分たちの品物が安くしか売れないことと、現地の商品が安いことの両方に驚いた。08月になりヴァスコ・ダ・ガマが使者を立て、帰国の報告と商務官ら人員を残したいと国王へ申し入れたところ、使者が監禁された上に出航を禁止する命令が下った。インドからアフリカへ向かうには季節風に乗る12月〜翌02月が適し、時期はずれの出航申し入れは国王やイスラーム商人の中に、「やはりヴァスコ・ダ・ガマ一行は商人ではないのではないか。」という疑念を湧き上がらせていた。

 これに対しヴァスコ・ダ・ガマはイスラーム系商人に対する過剰な猜疑心から強行な手段に出た。08月19日に高い身分の者を含む住民19人を捕らえ、監禁された使者との交換を要求した。23日には艦隊を一度出航させたが、風の具合が悪く沖合いにとどまっていると26日に現れたカレクトの使者に対し、砲撃までちらつかせて人質交換と残した積み荷の返還を要求した。国王はポルトガル人の解放と交易を認める書簡を認め、27日に艦隊へ戻した。これを受けヴァスコ・ダ・ガマは人質のうち6人を解放した。しかし28日に届いた荷物を見て、ヴァスコ・ダ・ガマは「不足している。」と受け取りと残りの人質解放を拒否した。これは、元々ヴァスコ・ダ・ガマはインド人を南蠻ポルトガル王国まで連れて行く積りであり、荷物の不足は詭弁でしかなかった。29日に艦隊は出発したが、約70隻の武装した小船が人質奪回に追跡してきた。ヴァスコ・ダ・ガマは砲撃を加えた上、これを振り切った。
 出発こそしたが、貿易風は都合良く吹いてくれなかった。艦隊はインド西海岸を北上し、到着したカナノール王国と良好な接触を持った。そこから沖合いに進み09月15日にはピジョン諸島、20日にはアンジェディヴァ諸島に到着した。ここでヴァスコ・ダ・ガマらは遭遇した8隻の船隊を攻撃し、座礁させるなど退けた。この船隊はカレクトからヴァスコ・ダ・ガマらを追跡して来たものと判明した。他にもインド中部のバフマーン王国が派遣した偵察隊とも接触し、指揮官を捕えて南蠻ポルトガル王国まで連行した。一行が諸島を出発したのは10月05日だったが、貿易風の季節ではなかったため往路26日のところを復路は89日も掛かった。すでに出発から約30人が死亡していた一行は、この行程中に壊血病などでさらに30人を亡くした。艦隊は明応08(西暦1499)年01月02日にアフリカ東海岸に辿り着くと南下し、海賊を退けながら09日にマリンディに到着した。一行は数日の休息を取り11日に出発したが、乗組員の減少から3隻の維持が難しくなり、近郊の海岸でサン・ラファエル号を諦めて焼却処分し、以後艦隊は2隻編成となった。27日に出発し02月01日にはモザンビーク、03月20日には喜望峰を越え、04月25日にギニアの海岸に至った。ここで2隻は別行動を取り、報告のためにニコラウ・コエリョが指揮するベリオが先に南蠻ポルトガル王国へ向かった。同船は07月10日にリスボンへ帰着した。サン・ガブリエル号はヴェルデ岬諸島のサンティアゴ島に到着した。ここでヴァスコ・ダ・ガマは艦の指揮権を書記のジョアン・デ・サに任せ、帰国するよう指示した。これは、兄パウロ・ダ・ガマが重態に陥っていたためであり、ヴァスコ・ダ・ガマは雇ったキャラベル船で兄を伴いカナリア諸島へ向かった。しかしパウロ・ダ・ガマは当地で亡くなり葬られた。ヴァスコ・ダ・ガマがカナリア諸島を出発したのは08月29日。しかし09月のいつリスボンに到着したかははっきりしない。出発時の147人のうち帰国した者は55人に過ぎなかった。
 マヌエル1世はヴァスコ・ダ・ガマを讃え、多くの報酬を与えた。本来は王族や貴族だけに許される「ドン」の称号を与え、インド提督へ任命された。さらに名誉職ながら終身インド艦隊総司令官に就いた。相続人に権利を引き継げる30万レアル(750クルサド)の年金が与えられ、別に3000クルサドの年金も手にした。航海の成功を記念して、サンタマリア・デ・ベレンにジェロニモス修道院が建設された。
 ヴァスコ・ダ・ガマ第1回航海の第1の成果は、アフリカ南端を経てインドまで繋がる航路を発見したことにある。しかし当初の目的であったプレステ・ジョアンの国との接触は果たせず、カレクト王国との親密な関係構築にも失敗した。船を沖に留めたり乗組員を全員上陸させないなどの行動は慎重さゆえだったが、これは当時のインド洋貿易における慣習に反したもので、彼は多くの場所で疑心暗鬼を生んでしまった。だが、齎したインド洋地域の最新情報も大きな成果であり、現地での香料の価格などは後の貿易に益した。
 新航路発見を受け、明応09(西暦1500)年03月08日に南蠻ポルトガル王国はペドロ・アルヴァレス・カブラル(Pedro Álvares de Gouveia)を司令官とする13隻の艦隊を、交易を目的にインドへ出航させた。アフリカ南下中に南西の航路を取ったため、04月21日にブラジルを発見した艦隊は、09月11日にカレクト沖へ到着した。ペドロ・アルヴァレス・カブラルはヴァスコ・ダ・ガマが連れ去った人質の返還、今度は満足を得られた贈り物の贈呈などを行い、友好条約の締結と商館設置の許可を得た。
ところが交易はうまく進まず、業を煮やしたペドロ・アルヴァレス・カブラルはイスラーム商人の船を拿捕し、両者の間で摩擦が起こり始めた。ついに上陸隊が群集に取り囲まれ、商館を舞台とする争いに発展し50人以上が殺された。ペドロ・アルヴァレス・カブラルは報復に停泊中のイスラーム商人船を襲い、10隻から荷物を奪って500〜600人を殺した上、他に5〜6隻を撃沈させた。翌日には街に砲撃を加えるとカレクトを離れてコチン、カナノール経由でインドを去った。ペドロ・アルヴァレス・カブラルの帰国後、南蠻ポルトガル王国ではインド交易をどうするか検討されたが、結局継続することになった。そのために20隻の艦隊派遣が決まったが、内5隻は商館の安全確保のためインド洋に止まり、イスラーム商船の封じ込めを目的としていた。
 20隻の艦隊司令官にはペドロ・アルヴァレス・カブラルが任命される予定だったが、隊編成に反対して辞退したためヴァスコ・ダ・ガマに役目が廻ってきた。しかし準備が進まず、文亀02(西暦1502)年02月10日にインド洋駐留5隻を含む15隻でヴァスコ・ダ・ガマは航海に出発し、残り5隻はいとこのエステヴァン・ダ・ガマの指揮で04月01日に出航した。途中、座礁し放棄した船もあったが、07月04日にはモザンビークに到着した。
そして12日、ペドロ・アルヴァレス・カブラルらポルトガル船に敵対的だったキルワに到着すると、港から市街に砲撃を加えた。最終的に国王の降伏を受諾したヴァスコ・ダ・ガマは、キルワ王国をポルトガルの朝貢国とし、毎年584クルサドを納める命令を残し22日に出発した。艦隊は08月22日にアンジェディヴァ諸島で結集した。そして病人を下船させるなどの処置を行い28日に出航した。その後海賊との戦闘やバテイカラ王国を服従させるなどを行いつつインドに到達した。ここでヴァスコ・ダ・ガマは15レグア(約60km)沖に艦隊を展開し海域を封鎖した。船は全て捕え、敵対国のものは抑留した。カレクトの商人らは和平の手紙を寄越したがヴァスコ・ダ・ガマは拒絶し、逆にカレクトに向かっていたマムルーク朝スルターン所有のメリという船を捕え、財宝を奪った上に火を掛けて、抵抗する婦女子50人を含む300人を死に追いやった。10月13日、ヴァスコ・ダ・ガマは友好的なカナノールに入港したが、香料の取引が不調に終わるとカレクトへ向かった[50]。10月29日に最初の接触が行われたが、ヴァスコ・ダ・ガマは過去の損害賠償とカレクトからのイスラーム教徒排除を求めた。理不尽な要求を呑めないと伝える使者はヴァスコ・ダ・ガマの強行な姿勢を感じ、国王は海岸線に防御柵を急ぎ設置させた。翌日正午、艦隊は海岸に迫り市街に激しい砲撃を加え始め、住人はほとんどが避難した。2日後、ヴァスコ・ダ・ガマは艦隊のほとんどを残してコチンに向かい、11月14日に国王らと会見して友好関係を確認した。交易に目途が着くと今度はカナノールに渡ると同様に交易を行った。その後バラモンを仲介役にもう一度カレクトとの接触を試みたが、海を封鎖され漁業にも支障をきたす住民の不満は大きく、国王との交渉も進展を見なかった。ついには100隻近いバテル船が攻撃を加え始め、艦隊は錨を切って脱出した。コチンに戻ると積荷が終了していたため文亀03(西暦1503)年02月01日に出発し、途中で襲撃して来たカレクト艦隊を撃破して15日にはカナノールに入り、03月22日に帰国の途に着いた。ヴァスコ・ダ・ガマが交易で得た品は、胡椒、肉桂、蘇木、丁字、生姜などであった。ヴァスコ・ダ・ガマは10月10日にリスボンに帰着した。
 ヴァスコ・ダ・ガマの功績はまたも高く評価され、特にキルワを調伏させ朝貢国に組み込んだ点が認められた。年金は40万レアルが追加された。また、第1回航海成功で約束された領地は紆余曲折があり遅れていたが、西暦1519年12月17日にはヴィディゲイラとフラデスの町が与えられ、ヴィディゲイラ伯爵の称号を受けた。ヴァスコ・ダ・ガマには既にポルトガルで最も裕福な貴族6人と匹敵する収入があった。彼は名家からカテリナ・デ・アタイデを妻に迎えた。
 第1回航海を終えた時点で、インド洋交易に乗り出した南蠻ポルトガル王国には2つの手段があった。1つは当地の商習慣を尊重し交易を行うことであり、もう1つは自己の流儀を持ち込み軍事力を背景にしながら商館を各港湾に設置する手法である。南蠻ポルトガル王国が選択したのは後者であり、ヴァスコの第2回航海からはインド洋に艦隊を常駐させ、商館の保護とイスラーム商人の妨害活動に当たった。反抗を見せるとカレクト王国のように激しい攻撃が加えられるが、ヴァスコ・ダ・ガマは当初から市街砲撃を予定していた。この南蠻ポルトガル王国の決定は、ヨーロッパ各国が本格的にアジアに進出する契機になったと共に、その基本的態度を方向付けた。強力な海軍を派遣して貿易を支配する構造は、ヨーロッパ諸国がアジアに植民地主義を展開する初歩の手段として用いられた。
 ヴァスコ・ダ・ガマの第2回航海以降、南蠻ポルトガル王国はインド洋支配を強めた。それまで様々に攻撃を受けたイスラーム商人らから訴えを受け、エジプトブルジー・マムルーク朝24代スルターンのアシュラフ・カーンスーフ・ガウリー(アラビア語: الأشرف قانصوه الغوري al-Ashraf Qānṣūh al-Ghaurī)はローマ法王ユリウス3世ジョヴァンニ・マリア・チオッキ・デル・モンテ(Julius III, Giovanni Maria Ciocchi del Monte)へ報復を予告する抗議の書簡を送った。
 これに対し南蠻ポルトガル王国は強行な手段に出た。起用したフランシスコ・デ・アルメイダ(葡語: Francisco de Almeida)に強大な「副王」の権限を与えて派遣した。彼はインド洋沿岸の各地に要塞を築き、友好的でない国には攻撃や掠奪・占領で応じ、南蠻ポルトガル王国の活動の基盤を築いた。後任提督のアフォンソ・デ・アルブケルケ(葡語: Afonso de Albuquerque)はゴアやマラッカを占拠した。このような要塞・商館・占拠地などは「インディア領」として組織化された。しかしその後は提督の役職は人物に恵まれず、無駄な要塞の拡大や取り巻きの重用、また私腹を肥やすに熱心な者などが続いた。綱紀は緩み、王室の財政は逼迫した。
 大永01(西暦1521)年12月にマヌエル1世が死去し、後継したジョアン3世(João III)はブラジル植民活動活性化とともにインディア領経営の巻き直しに乗り出し、その適任者にヴァスコ・ダ・ガマを選んだ。ジョアン3世から信頼を越え尊敬を受けていたヴァスコ・ダ・ガマには大型船10隻と小型船4隻の計14隻艦隊が与えられ、各要塞や商館の後任長官らを含む約3000人が乗り込んだ。大永04(西暦1524)年04月09日にリスボンを出発した一行は、08月14日にはモザンビークを経由し、インドでは要塞を持つチャウルに入った。ここでヴァスコ・ダ・ガマは余剰人員の乗船を命じ、提督のメネゼスへ寄港したらそのままゴアに向かうよう伝言を残した。09月30日にゴアに到着すると、セイロンやスマトラ島のパサイなど余剰要塞の解体と、逆にスンダ(現ジャカルタ)での要塞建設を命じた。また評判が悪いゴア市長を解任する措置も取った。この頃、ヴァスコ・ダ・ガマは病気で体調を崩していたが、コチンを経てカナノールそしてカレクトに入った。
イスラーム教徒の中でヴァスコ・ダ・ガマの名は畏怖の対象であり、これらの地で示威活動を行った。これらが一段落するとコチンへ戻り、ポルトガルの活動を妨害するイスラムの艦隊を撃沈した。
 精力的な指示を与えながらも、ヴァスコ・ダ・ガマの病状は悪化し、手続き上既に前任としたメネゼスが帰還しないため、12月04日付けで引継書を作成させ、また死後に開封が許される命令書も記した。大永04(西暦1524)年12月25日(24日深夜説もある)、コチンにてヴァスコ・ダ・ガマは死亡した。
 永正07(西暦1510)年12月10日、南蠻ポルトガル王国のアフォンソ・デ・アルブケルケ(Afonso de Albuquerque)は、当時ビジャープル王国(西暦1490〜1686年)の支配下にあったゴア島(ヴェリャ・ゴア)を占領した。アフォンソ・デ・アルブケルケ提督はポルトガル国王マヌエル1世からホルムズ、アデン、マラッカの占領を命令されていたが、ゴアについての王令は下されていなかった。ビジャープル王イスマーイール・アーディル・シャー(Ismail Adil Shah)とオスマン帝国(西暦1299〜1922年)の援軍を12月10日に降伏させ、ゴアのムスリムを男女老少に拘わらず皆殺しにした。南蠻ポルトガルは結局ゴアを昭和36(1961)年のインド共和国(西暦1947年〜)の侵攻まで維持した。
 地中海沿岸では古来より港で鎖が使用されていた。当時の地中海沿岸の港は城壁の一部として防護壁の役割があり敵の侵入を防ぐために港口を鎖で封鎖できるようになっており、このような構造はピレウスの港で初めて採用された。南蠻ポルトガル王国や南蠻スペイン王国(アラゴン王国(西暦1035〜1715年)とカスティーリャ王国(西暦1035〜1715年)、アブスブルゴ朝(南蠻スペイン・ハプスブルク朝、西暦1516〜1700年))の侵掠(「大航海時代」)とは、港を鎖で文字通り外部と封鎖して、海路の往来を止め、兵糧攻めにして侵掠して行った。
 中南米にはマヤ文明(西暦前8000頃〜1697年)、テオティワカン文明(ナワ語群: Teōtīhuacān、西語: Teotihuacan、西暦前2世紀〜6世紀)などメソアメリカ文明(西暦前8000頃〜)アンデス文明(西暦前2000以降〜1697年)など古代から高度な文明が栄えていたが、南蠻スペイン人によって無残にも滅ぼされた。メキシコ中央部に栄えていたアステカ王国(Aztecan、古典ナワトル語: Aztēcah、西暦1325〜1521年)は、南蠻スペイン人初代バジェ・デ・オアハカ侯エルナン・コルテス・デ・モンロイ・イ・ピサロ(西語: Hernán Cortés de Monroy y Pizarro)によって、11代国王クアウテモック(アステカ語: Cuauhtémoc、「急降下する鷲」の意)が殺されて滅び、現在のペルー・ボリビア・エクアドルに跨り栄華を誇っていたインカ帝国(ケチュア語: Tawantinsuyu(タワンティン・スウユ)、西暦1438〜1533年)は、天文02年(西暦1533)年07月26日にフランシスコ・ピサロ(Francisco Pizarro)が13代皇帝アタワルパ(Atahualpa、ケチュア語: Atawallpa、「幸福な鶏」の意)を殺し滅亡させた。
 南蠻スペイン人は、これらの国々から莫大な金銀財宝を掠奪し、本国に運び込み、さらに、原住民を銀鉱脈の採掘に駆り出して強制労働を課し、大量の銀をヨーロッパに持ち帰った。酷使され虐待された原住民の人口が激減すると、今度はアフリカ人奴隷が代替労働力として用いられることになり、奴隷貿易はさらに拡大した。


コルテスとピサロ: 遍歴と定住のはざまで生きた征服者 (世界史リブレット人 48) - 安村直己
コルテスとピサロ: 遍歴と定住のはざまで生きた征服者 (世界史リブレット人 48) - 安村直己


 天文12(西暦1543)年08月25日、大隅国の種子島、西村の小浦(現前之浜)に南蠻ポルトガル商人が乗った明国(西暦1368〜 1644年)の船が種子島に漂着した。100人余りの乗員の誰とも言葉が通じなかった。西村時貫(織部丞)はこの船に乗っていた明の儒者五峯と筆談してある程度の事情がわかった。この船を島主、種子島時堯の居城がある赤尾木まで曳航するように取り計らった。船は08月27日に赤尾木に入港した。種子島時堯が改めて法華宗の僧住乗院に命じて五峯と筆談を行わせたところ、この船に異国の商人の2人代表者は、牟良叔舎(フランシスコ)、喜利志多佗孟太(キリシタ・ダ・モッタ)という名だった。
 16歳だった時堯は鐵炮の射撃の実演を見てその威力に着目し購入を決断し2人が実演した火縄銃2挺を買い求め、家臣の小姓篠川小四郎に火薬の調合を学ばせ、八板金兵衛清定(清貞とも)に鐵炮を研究させた。篠川小四郎は、ポルトガル人より「搗篩・和合の法」とよばれる黒色火薬の製造法と、その原料が硝石、硫黄および木炭であることを習った。彼はその努力によって、ポルトガル人がもたらした火薬よりさらに強力な発射薬としての黒色火薬をつくることに成功した。種子島時堯が射撃の技術に習熟した頃、紀伊国根来寺の杉坊某もこの銃を求めたので、津田監物に1挺持たせて島津氏を通して室町幕府将軍足利義晴に献上した。さらに残った1挺を複製するべく八板金兵衛尉清定ら刀鍛冶を集め、八板金兵衛は苦心の末に、日本人の手による銃の製造に成功した。八板金兵衛は製造法を学ぶため自分の娘である若狭を南蠻ポルトガル人に嫁がせて修得した。新たに数十挺を作った。また、堺からは橘屋又三郎が銃の技術を得るために種子島へとやってきて、1、2年で殆どを学び取った。伝来の場所から鉄炮は種子島銃とも呼ばれ、戦国期の日本の戦場に革命を齎した。(鐵炮伝来)
 黒色火薬は、火薬の中では最も古い歴史を持っており、支那で西暦7世紀前半に発明された4大発明(紙、印刷術、火薬、羅針盤)の1つである。いずれもルネサンス期頃までにヨーロッパに伝えられ、実用化された。黒色火薬は不老不死の神仙になるための丹薬製造(錬丹術)の過程で偶然発見された。唐代の医者孫思邈には、「千金要方」、「千金翼方」という医学書のほかに「丹経」という丹薬に関する著書がある。この中の「伏火硫黄法」は黒色火薬と同じ原料が使われており手順を誤ると爆発してしまう。これが火薬の発明に繋がった。支那で発明された火薬はイスラーム圏を通じてヨーロッパに伝わりヨーロッパ社会を大きく変えていった。西暦1045年には軍用としての黒色火薬類似の配合組成の記述が支那の北宋政府編集の「武経総要」に現れている。この書には、火毬用火薬、蒺藜火毬用火薬および毒薬煙毬用火薬などの配合組成が記されている。これらは発射薬としてではなくて炸薬として用いられた。西暦1242年には「驚嘆的博士(Doctor Mirabilis)」と呼ばれたイギリス王国の僧侶であり哲学者、科学者のロジャー・ベーコンによって黒色火薬の組成が記録(Desecretis及びOpus Tertium)された。この黒色火薬の組成は現在まで続いている。西暦14世紀中期には鐵炮の装薬として使用されるようになっていた。
 支那で黒色火薬が発明されたのは、支那で黒色火薬の成分の1つである硝酸カリウム(硝石)が産出されるためで天然の硝酸カリウムは世界中でも限られた地域にしか存在せず、火山国日本では硫黄と木炭は簡単にに入手できたが、硝石は溶解度が大きく、多雨多湿の日本では海に流れてしまい、自然界で産出しない。江戸時代には、床下土と木灰を原料として硝石(硝酸カリウム)を作る「古土法」が用いられてた。雨が当たらない古い家屋の床下の土から作ります。床下に屎尿や牛馬の死骸などを埋め、微生物により床下土には硝酸カルシウムが多く含まれる。木灰から炭酸カリウムを抽出し、混合し上澄み液を作り煮詰めて作った。加賀藩の支配下の五箇山の合掌造り集落ではまた、焔硝が作られた。囲炉裏の床下に擂鉢状の穴を掘り、これに、土、蚕糞、鶏糞、藁、枯草などを交互に積重ね、屎尿を大量にかけて、土を被せて発酵させ、寒い冬は囲炉裏の余熱で温めながら、年1回くらい混ぜ返して、5〜6年発酵させます。すると微生物が屎尿の成分の尿素を硝酸カリウムと変化させた焔硝土を作った。

 南蠻ポルトガル人が種子島に漂着してから6年後、バスク人、フランシスコ・ザビエル(Francisco de Xavier 、Francisco de Jasso y Azpilicueta)は、海外逃亡中だったアンジロー(弥次郎)という薩摩出身の殺人犯の手引きでまず薩摩半島の坊津に侵入した、その後許可されて、天文18(西暦1549)年08月15日に現在の鹿児島市祇園之洲町に来寇した。(伴天連来寇)このバスク人の地方貴族の5人兄姉の末っ子フランシスコ・ザビエルの生家のハビエル城はフランス王国との国境に近い北スペインのナヴァラ王国(西暦824〜1841年)のハビエルに位置し、バスク語で「新しい家」を意味するエチェベリ(家〈etxe〉+ 新しい〈berria〉)のイベロ・ロマンス風訛り。フランシスコの姓はこの町に由来する。これはChavier やXabierre などとも綴られることもある。Xavier は当時のカスティーリャ語の綴りであり、発音は「シャビエル」であったと推定される。現代西語ではJavier であり、発音は「ハビエル」。
 明治維新以降の捏造史教育で、フランシスコ・ザビエルは、 耶蘇ローマ正教(カトリック)では聖人と称しているが、パリ大学で6人の仲間と共に南蠻族武装組織イエズス会を立ち上げた侵掠の先兵の工作員である。インド総督とゴア司教の親書を持って、後奈良天皇および征夷大将軍足利義輝へ突然謁見を試みて失敗し、京での滞在を諦め、山口を経て、平戸からゴアに戻った。次に明を目指したが明に入国できず、澳門(マカオ)に近い上川島で許可待ちしている間に病に罹り死んだ。インドのゴアで布教していたフランシスコ・ザビエルは間諜として、アジア各国の情勢を事細かに国元に送った。当時のゴアには本国での迫害を逃れてきていた改宗ユダヤ教徒や改宗イスラーム教徒が多数暮らしていた。フランシスコ・ザビエルは、南蠻ポルトガル王ジョアン3世に宛てた報告書の中で、「ゴアにも異端審問所を開設すべきである。」と進言した。南蠻ポルトガルはフランシスコ・ザビエルの提案を受け、フランシスコ・ザビエルの死から数年後にゴアにも異端審問所を開設し、異端とされた多数の旧ユダヤ教徒が火刑に処せられた。西暦16世紀になると、イエズス会は各地に宣教師を派遣したが、同時に南蠻ポルトガルの商人も貿易を求めて海外に渡航した。東南アジアなどでは、南蠻ポルトガルの商人による人身売買が行われており、売買された人々は奴隷として南蠻ポルトガルに送られるか、転売されていた。耶蘇教の布教と貿易は一体だった。
 日本の民間商人や地方領主たちはマラッカ経由で来日する南蠻ポルトガル人商人と交易し、フランシスコ・ザビエルの後に来日した南蠻ポルトガル系のイエズス会の宣教師たちによって布教活動が行なわれ、約半世紀間イエズス会は膨張し続けた。
 フランシスコ・ザビエルらイエズス会は純粋に布教目的に日本にやって来たのではない。日本到達直前まで南蠻スペインはカリブ海や中南米で先住民を殺戮した。殺し過ぎて労働力が不足したためアフリカから数千万人を奴隷として連れ去った。イエズス会はこの蛮行を神に代わって容認した。イエズス会とはカトリックきっての武闘派集団で布教と植民地化は同義だが、日本は戦国時代。フランシスコ・ザビエルは日本ではカリブ・中南米式は無理と判断し布教した。その後にやって来た宣教師らは作戦通り九州の大名らを改宗させ、社寺仏閣を破壊させた。悪魔のイエズス会やフランシスコ会の宣教師=工作員(間諜。破壊)を、熱心に布教活動し時には殉教した立派な人たちと誤って見るのは笑止千万だ。その後、蘭、英、仏、露、米が続々と日本にやって来るが純粋に友好や親善目的でやって来た者などいない。悪辣な南蠻の艦上の大砲はしっかり日本に向けられていた。

 世界中でこうした悪逆な支配を拡大していた南蠻ポルトガル人や南蠻スペイン人は、日本では同様の暴虐ができず、布教活動によって一部の大名を切支丹大名にし、権益を得ることまではできたものの、最終的に排除された。それは、日本の軍事力と文明力が優れていたからである。日本が軍事的に弱かったなら、アステカ王国やインカ帝国のように簡単に支配を許し、滅ぼされるか、それ以外の「非白人」と同様に植民地化され、今の中南米やアジア諸国のようになっていた。強力な軍事力が、南蠻の武力侵攻を企図さえもさせなかった。
 天文12(西暦1543)年に支那商船に乗って種子島に漂着した南蠻ポルトガル商人から買った2丁の火縄銃は、すぐに刀鍛冶の手で複製され改良されつつ、堺や近江などで短期間に大量生産されるようになった。日本には鉄も少なく、火薬の原料となる硝石は輸入に頼るしかなかったが、安土桃山時代から江戸初期にかけての日本の鐵炮所有数は、世界有数の域に達していた。戦国時代とはいえ、夷敵南蠻に対して勇猛な戦国武将が割拠し、火縄銃を自製できる技術を持っていた日本は、カリブ海の島々やアステカ王国、インカ帝国、フィリピンなどの悲惨な運命を回避し海外に乗り出す武力を有していた。


 天正04(西暦1576)年01月23日付のローマ法王グレゴリウス13世ウーゴ・ブオンコンパーニ(Gregorius XIII, Ugo Buoncompagni)の勅書で設定された澳門司教区に不遜にも日本を含め、日本の切支丹教会に南蠻ポルトガル国王の布教保護権が及びその保護者が南蠻ポルトガル国王であることを勝手に確定した。これにより、ヤクザの縄張りよろしく、日本は南蠻ポルトガル領と見做された。巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノが天正05(西暦1577)年に滞在先のマラッカで書いた報告書には「デマルカシオンと分割による境界の中に置かれていることから、『マラッカ・支那・日本を含むインド全域が南蠻ポルトガルの征服と王室に帰属している。』と、南蠻ポルトガル人がインドで主張している。」
 南蠻スペインの貿易船が来るのはその約40年後、天正09(西暦1581)年に南蠻スペイン王フェリペ2世が南蠻ポルトガル国王に就任したことで南蠻スペイン王国・南蠻ポルトガル王国の同君連合が成立した頃、フランシスコ・ザビエルの来日後、南蠻ポルトガル船が九州各地に渡来するようになった。天正10(西暦1582)年、肥前国の口之津に来航したジャンク船には南蠻スペイン使節ポーブレが乗っていた。ポーブレはフェリペ2世の南蠻ポルトガル国王就任を通達するためマニラから澳門に遣わされた使節の1人だったが、マニラに帰る途中で遭難し同地に漂着した。天正12(西暦1584)年、マニラから澳門に向かう途中だったヴィセンテ・ランデーロの船が、大風に遭い平戸に入港した。フィリピンからの初の渡航船となったこの船にはアウグスチノ会修道士2人、フランシスコ会修道士2人が乗っており、これが南蠻スペイン系の托鉢修道会修道士の初来日となった。これまでは両国の分界の取り決めによりマニラから支那への渡航は禁止され、日本布教もイエズス会以外の修道会の進出は禁止されており、「フィリピンのマニラから日本や支那に出向いてはならない、逆に澳門からマニラに出向いてはならない。」との規則があった。そのため、これらは地球分割(デマルカシオン)の境界線を突破して日本に到達するために遭難の体を装った。
 イエズス会と不仲だった平戸の松浦氏は托鉢修道会を通してフィリピン総督と交渉を始めた。天正12(西暦1584)年、天正15(西暦1587)年、天正17(西暦1589)年にフィリピンのマニラから日本にスペイン船がやってきたが、天正15(西暦1587)年に天草サシノツに入港したマニラのジャンク船は肥後国の新領主佐々成政に歓待され貿易を希望されたが、それを断り出航し、天正17(西暦1589)年に薩摩国片浦に漂着した南蠻スペイン船も同様に儲けが大きい北アメリカ大陸、カリブ海、太平洋、アジアにおける南蠻スペイン帝国の副王領、ヌエバ・エスパーニャ(新南蠻スペイン)副王領(西暦1519〜1821年)に直航した。
 
 近世の戦争は、敵兵の首を取り恩賞を得るだけが目的ではない。戦場での金目の物の掠奪も重要な目的で、その中には人を捕まえて売り飛ばすことも含まれていて、当時「乱取り」と言った。「甲陽軍鑑」によれば、川中島の戦いで武田軍は越後国に侵入し、春日山上の近辺に火を放ち、女や子供を略奪して奴隷として甲斐に連れ帰った。信濃でも、上野でも、武田軍は行く先々で乱取りを行っている。乱取りは恩賞だけでは不足な将兵にとって貴重な収入源であった。上杉謙信が常陸の小田城を攻撃した時、落城直後の城下はたちまち人身売買の市場になった。これは、上杉謙信の指示によるものと当時の史料にはっきり書かれている。城内には、周辺に住んでいた農民たちが安全を確保するために逃げ込んでいたのだが、彼らが1人20銭、30銭で売り飛ばされた。伊達政宗の軍も、島津義久の軍も、皆、乱取りをしていた。

 天正11(西暦1583)年、南蠻ポルトガル船が澳門を出発しインドへ向かったが、マラッカに近いジョホール沖で座礁した。この報告を耳にした宣教師のコウトは、「神は南蠻ポルトガル商人らが神を恐れることなく、色白く美しき捕らわれの少女らを伴い、多年その妻のように船室で妾として同棲した破廉恥な行為を罰したのである。この明らかな大罪は、神からも明白に大罰を加えられたのであった。それ故、彼らに神の厳しい力を恐れさせるため、支那・日本の航海中に多数の物資を積載した船を失わせ、もってこれを知らしめようとしたのだ。他の国々よりも南蠻ポルトガル人の淫靡な行為が遥かに多いので、神はそこに数度の台風によりそれらの者を威嚇・懲罰し、その恐ろしい悪天候により怒りを十分に示そうとしたことは疑いない。」と手厳しく評価した。
 南蠻ポルトガル商人は少女を捕らえて妾とし、船室で「破廉恥な行為」に及んだ。南蠻ポルトガル商人は神をも恐れぬ行為に及んだので、神から天罰を下した。
天罰とは、船を座礁させ船舶に積んだ貴重な品々を無駄にするというものだった。しかも南蠻ポルトガル商人は、他の国々の人々よりも、支那・日本で数多くの淫行に及んだ。南蠻ポルトガル商人は寄港地で女奴隷を買い、性的な欲求を満たしていた。彼らの破廉恥行為は、後年に至っても問題視された。しかし、南蠻ポルトガル商人が購入した奴隷の少女と破廉恥な行為に及んだり、渡航中に彼女らを船室に連れ込んだりしたことは、決して止むことがなかった。女奴隷の場合は、労働力の問題ではなく、南蠻ポルトガル商人の性的欲求を満たす目的があった。

 南蠻族の商人にとって有色人種の奴隷交易はなんら恥じることのない商取引だった。寶コ04(西暦1452)年にローマ法王ニコラウス5世(Nicholaus V、本名: トマソ・パレントゥチェリ(Tomaso Parentucelli))が南蠻ポルトガル人に対し異教徒を奴隷にしても良い。」という許可を与えたことが根底にある。

 賣國奴、切支丹大名は、例えば、長崎港を開港した肥前国の大村純忠ことドン・バルトロメウは、南蠻ポルトガル人から鐵炮や火薬など最新兵器の供与を受ける見返りとして、イエズス会の神父から洗礼を受け、日本で最初の切支丹大名となった。武器弾薬を求めた動機は、お家騒動に勝利するためだった。その信仰は過激で、領民たちに改宗を強要し、拒否する仏教の僧侶や神官は殺害した。さらに神社仏閣も破壊すると、その廃材を南蠻ポルトガル船の建材用に提供した。先祖の墓も壊し、改宗に従わない領民を奴隷として海外に売り飛ばし、武器購入の代価にされた。領内の信者は6万人にまで増えた。最後まで抵抗した者たちは捕縛された上、硝石と引き換えに二束三文で南蠻ポルトガル商人に売り飛ばされた。南蠻ポルトガル商人らは格安で手にした奴隷を鎖でつないで船底に押し込み、世界各地に運んで高値で売りさばいた。このように長崎付近では一時、領民のほとんどが自ら、または強制され耶蘇教徒となった。しかし江戸時代に入って状況は一転。耶蘇教が禁じられると、今度は徹底的な弾圧が加えられ、棄教に応じなかった信者が多数処刑された。
 豊後の国の大友宗麟は、宿敵・毛利元就を撃退するために、火薬の原料である硝石の供給をイエズス会から受け、鐵炮戦によって毛利を破ると洗礼を受けて耶蘇教徒となり、今度は十字架を掲げて日向国に攻め入った。大友宗麟の野望は、日向国の全領民を耶蘇教徒に改宗させ、南蠻ポルトガルの法律と制度を導入して耶蘇教の理想郷を建設することで、宣教師たちの言いなりになって現地の神社仏閣を焼き尽くした。
 島原半島南部を支配していた小領主の有馬晴信(大村純忠の甥)は、龍造寺隆信に圧迫されると、イエズス会からの支援を得るために洗礼を受け、耶蘇教徒となった。軍事力を強化して和睦に成功すると、宣教師の求めるままに、家臣・領民の入信に加えて、40ヶ所以上の神社仏閣を破壊したばかりか、領内の未婚の少年少女を捉えて奴隷として献上し、さらに浦上の地まで差し出した。
 西アフリカから黒人奴隷をアメリカに運んだ南蠻ポルトガル人らは。家畜扱いで日本人をインドのゴアやマラッカ、そして遠くはエーロッパにまで運んで売り捌いた。一部は法王のいるローマにも献上された。若い男たちは労働力あるいは傭兵として売られた。女性は勤勉で従順だったため非常に高値で取引された。そのほとんどが性奴隷とされた。飽きられると商人に仕える黒人奴隷や現地人に与えられ、慰み者とされたという。黒色火薬の主要な成分である硝石(硝酸カリウム)を南蠻ポルトガル商人から買うしか方法がなかった。南蠻ポルトガル商人は大名らの足元を見た。樽1個分の硝石に対して娘50人を要求した。こうして硝石と引き換えに、大量の無垢な娘たちがまさに二束三文で海外へと売られて行った。そしてそのほとんどが、二度と祖国の地を踏むことはなかった。


 豊臣秀吉の時代になると、日本人奴隷が船に積まれ、外国に連行されるという悲劇的な事態が生じていた。女奴隷が南蠻ポルトガル商人の性的な欲求を満たすために買われた。豊臣秀吉の家臣が用務を帯びて長崎に来ると、南蠻ポルトガル商人の放縦な生活を目の当たりにした。豊臣秀吉は「宣教師が聖教を布教するとはいえ、その教えをあからさまに実行するのは彼ら南蠻ポルトガル商人ではないか。」と非難した。宣教師は耶蘇教の崇高な教えを説いていたが、教えを守るべき南蠻ポルトガル商人の所行は酷いものだった。南蠻商人は若い人妻を奪って妾とし、奪った若い人妻とは、奴隷ではなかったと考えられ、豊臣秀吉は、そのことに対して激怒していた。普通の人々の若妻を掠奪したのだから(あるいは金で買ったのか)、女奴隷は当然同じような目に遭っていた。豊臣秀吉は南蠻ポルトガル商人の非道に対して激怒したのである。
 天正15(1587)年04月、薩摩を征伐した後、豊臣秀吉は、薩摩に暫く滞在して戦後処理を済ませ、帰国の途に就き、途中意気揚々と博多に立ち寄った。豊臣秀吉による九州征伐の際の行軍記録「九州御動座記」は、御伽衆だった大村由己の著作である。そこで、大問題が発生した。九州遠征に勝手に豊臣秀吉軍に同行していた南蠻ポルトガル人でイエズス会の日本における布教の最高責任者であったイエズス会日本準管区初代準管区長ガスパール・コエリョ(Gaspar Coelho)は、大村純忠が寄進した長崎港でポルトガルのガレオン船から大砲を撃って見せて誇示した。そこには、日本人奴隷の惨状を目の当たりにした豊臣秀吉の怒りが述べられている。日本人の貧しい少年少女が大勢、タダ同然で西欧人に奴隷として売られていることを豊臣秀吉はこの九州遠征で初めて知った。九州遠征に同行した豊臣秀吉の御伽衆の1人、大村由己は著書「九州御動座記」の中で日本人奴隷が長崎港で連行される有様記録している。
 「今度、伴天連ら能時分と思い候て、種々様々の宝物を山と積み、いよいよ一宗繁昌の計賂をめぐらし、すでに河戸(五島)、平戸、長崎などにて、南蛮船付くごとに充満して、その国の国主を傾け、諸宗をわが邪法に引き入れ、それのみならず、日本仁(人)を数百、男女によらず黒船へ買い取り、手足に鉄の鎖をつけ、舟底へ追入れ、地獄の呵責にもすぐれ、そのうえ牛馬を買い取り、生ながら皮を剥ぎ、坊主も弟子も手つから食し、親子兄弟も礼儀なく、ただ今世より畜生道のありさま、目前のように相聞え候。
 見るを見まねに、その近所の日本仁(人)いずれもその姿を学び、子を売り、親を売り、妻女を売り候由、つくづく聞こしめされるるに及び、右の一宗御許容あらば、たちまち日本、外道の法になるべきこと、案の中に候。然れば仏法も王法も捨て去るべきことを歎きおぼしめされ、添なくも大慈大悲の御思慮をめぐらされ候て、すでに伴天連の坊主、本朝追払の由、仰せ出され候。」
 日本で得た宝物(金・銀など)を船に積み込み、母国へ送った。また、数百人の日本人が男女に拠らず、南蠻ポルトガル商人に買い取られ、逃げられないように手足が鉄の鎖に繋がれ、船の底に押し込まれた。まさしく地獄絵図だった。同胞の若者たちが鎖に繫がれて次々と南蠻船に押し込まれていく光景は大村由己にとって、この上のない衝撃を与えた。
 「牛馬の肉を手掴みで食べる。」というのは、野蠻な南蠻族・紅毛蠻賊の歐州ではこの当時、食事にフォークやスプーンを使う習慣が未だなかった。ルイス・フロイス(葡語: Luís Fróis)も日本人が器用に箸を使って食事する様子を驚きをもって本国に伝えている。南蠻ポルトガル人は牛馬を買い取ると、生きたまま皮を剥いで、そのまま手で摑んで食べた。南蠻ポルトガル人は親子兄弟の間にも礼儀がなく、さながら畜生道の光景だった。

 南蠻ポルトガル人は、インドから支那を経て日本へと各地に拠点を設けていった。宣教師たちも含めて、彼らは人種差別を常識としており、黒人などの奴隷を使役していた。そのような状況の下、日本人は「商品」として彼らの拠点に売られていったと。巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノは、日本人が「極めて忍耐強く、飢餓や寒気、また人間としてのあらゆる苦しみや不自由に耐え忍ぶ。」ことに驚嘆している(「日本巡察記」)。このような特徴に、南蠻ポルトガル商人が着目した。
 天正14(1586)年から翌年にかけて九州征伐が行われ、豊臣秀吉は島津に圧勝した。戦場となった豊後では百姓らが捕縛され、九州各地の大名の領国へ連れ去られた。捕縛された人々は労働に使役させられるか、奴隷として売買された。豊臣秀吉は人の移動によって耕作地が荒れ果て、戦後復興が困難になることを危惧し、諸大名に対して人の連れ去りや売買を禁止した。
宣教師ルイス・フロイスが記した「日本史」によると、豊臣秀吉が「予は商用のために当地方(博多)に渡来するポルトガル人・シャム人・カンボジア人らが、多数の日本人を買い、彼らからその祖国・両親・子供・友人を剝奪し、奴隷として彼らの諸国へ連行していることも知っている。」、「彼らは豊後の婦人や男女の子供を(貧困から)免れようと、二束三文で売却した。」などと、生々しく戦争奴隷の実態を記している。これらからは、島津軍に敗れた大友領の民衆が、たちまち人盗りの餌食になったことがわかる。逃げ惑う女性や子供を拐かして、それをきわめて安値で購入したポルトガル人や東南アジア人の商人によって、国外へと売り飛ばされて行った。
 豊臣秀吉が九州出陣中に発令した伴天連追放令には、次のような国内外を対象とした人身売買禁止令が含まれている。豊臣秀吉は、人身売買禁止令をはじめ伴天連追放令や海賊禁止令(初令)といった画期的な全国令を、九州の地から次々と発令した。従来これらは、国内法と同時に外交を意識したものであった。
 九州征伐の結果、夥しい戦争奴隷を生み出した。そこでは、奴隷商人が関与していたのは疑いなく、日本人の奴隷商人だけでなく、南蠻ポルトガル商人の姿もあった。それが支那・南蛮(東南アジア〜歐州))・朝鮮国に売り飛ばされていたことが、この禁止令の前提にある。翌日付で伴天連追放令が発令されていることからも、豊臣秀吉は、奴隷売買に関与したイエズス会や南蠻ポルトガル商人を狙った。豊臣秀吉が目の当たりにしたのは、日本人奴隷が次々と南蠻ポルトガルの商船に乗せられ、運搬される風景だった。そのような事態を受けて、秀吉は強い決意を持って、人身売買の問題に取り組んだ。
 問題だったのは、近くの日本人が南蠻ポルトガル人の姿(人道に外れた行為)を真似て、子、親、妻女を売り飛ばしたことである。阿鼻叫喚の地獄絵図を面前にすれば、日本人なら誰もが眼を背けたくなる外道の暴虐行為を切支丹大名は行っていた。豊臣秀吉は、特にその思いが強かった。大村由己は自分が目撃したことを豊臣秀吉に報告したところ、豊臣秀吉は激怒し、こうした実情を憂慮した。

 豊臣秀吉は天台宗の元僧侶であった施薬院全宗の進言を受け、天正15年06月19日(西暦1587年07月25日)に博多で伴天連追放令を発布し、この日豊臣秀吉は、九州遠征に勝手に豊臣秀吉軍に同行していた南蠻ポルトガル人でイエズス会日本準管区初代準管区長ガスパール・コエリョを引見すると、次のような四箇条からなる「なぜそんな酷いことをするのか?」と詰問した。
「一つ、なぜかくも熱心に日本の人々を切支丹にしようとするのか。
一つ、なぜ神社仏閣を破壊し、坊主を迫害し、彼らと融和しようとしないのか。
一つ、牛馬は人間にとって有益な動物であるにもかかわらず、なぜこれを食べようとするのか。
一つ、なぜ南蠻ポルトガル人は多数の日本人を買い、奴隷として国外へ連れて行くようなことをするのか。

 するとガスパール・コエリョは、「売る人がいるから仕様が無い。」とケロッとして言い放った。この言葉からも、こうした日本人奴隷の交易に切支丹大名たちが直接的にしろ間接的にしろ何らかの形で関わっていた。海外に連行されていった日本人奴隷は、南蠻ポルトガル商人が主導した事例がほとんどで、その被害者はざっと5万人に上るという。彼ら日本人奴隷たちは、澳門などに駐在していた白人の富裕層の下で使役されたほか、遠くインドやアフリカ、歐州、時には南米アルゼンチンやペルーにまで売られた例もあった。
 ガスパール・コエリョに対し、日本人奴隷の売買を即刻停止するよう命じた。そして、こうも付け加えた。「すでに売られてしまった日本人を連れ戻すこと。それが無理なら助けられる者たちだけでも買い戻す。」といった主旨のことを伝えた。同時に豊臣秀吉はガスパール・コエリョに対し追放令を突き付けた。その一方で、日本国内に向けても直ちに奴隷として人を売買することを禁じる法令を発した。


 こうした豊臣秀吉の強硬な態度が南蠻ポルトガルに対し示されたことで、日本人奴隷の交易はやがて終息に向かった。もしも豊臣秀吉が天下を統一するために九州を訪れていなかったら、こうした当時の耶蘇教徒が持つ独善性や宣教師たちの野望に気づかず、日本の国土は南蠻族によって侵略が進んでいた。豊臣秀吉はその危機を瀬戸際のところで食い止めた。

 国内の政治と宗教の繋がりを恐れていたため、特に九州征伐の時に切支丹大名が同じ信仰の絆で強く結ばれているのを危険視し、切支丹に対する警戒心が危機感へと発展していった。
 豊臣秀吉が発した伴天連追放令は耶蘇教の布教の禁止のみであり、南蛮貿易の実利を重視し勅令を施行せず、天正18(西暦1590)年には耶蘇教を復権させるようになった。勅令の通り宣教師を強制的に追放することができず、豊臣秀吉の政策上からもあくまで限定的なものであった。これにより「黙認」という形ではあったが宣教師たちは日本で活動を続けることができた。この時に禁止されたのは布教活動であり、耶蘇教の信仰は禁止されなかったため、各地の切支丹も公に迫害されたり、その信仰を制限されたりすることはなかった。長崎ではイエズス会の力が継続し、豊臣秀吉は時折、宣教師を支援した。天正19(西暦1591)年、インド総督の大使としてヴァリニャーノに提出された書簡(西笑承兌が豊臣秀吉のために起草)によると、三教(神道、儒教、仏教)に見られる東アジアの普遍性をヨーロッパの概念の特殊性と比較しながら耶蘇教の教義を断罪した。伴天連追放令を命じた当の豊臣秀吉は、イエズス会宣教師を通訳や南蠻ポルトガル商人との貿易の仲介役として重用していた。天正18(西暦1590)年、ガスパール・コエリョと対照的に豊臣秀吉の信任を得られたアレッサンドロ・ヴァリニャーノ(ヴァリニャーニ、Alessandro Valignano/Valignani)は2度目の来日を許されたが、豊臣秀吉が自らの追放令に反して「ロザリオと南蠻ポルトガル服を着用し、聚楽第の黄金の広間でぶらついていた。」と記述している。
 アレッサンドロ・ヴァリニャーノは、天正遣欧少年使節の企画を発案し。天正10(西暦1582)年に、切支丹大名の大友義鎮(宗麟)・大村純忠・有馬晴信らの名代としてローマへ派遣された。4人の少年天正遣欧使節の少年たち(正使の伊東マンショと千々石ミゲル、副使の原マルチノと中浦ジュリアン)は、天正15(西暦1587)年03月にローマ法王、グレゴリウス13世の謁見を受け、ローマ市内でも大歓迎を受けた。
 切支丹大名によって、世界中に奴隷として売り飛ばされた日本人は5万人ほどになる。それを目撃したのが、大村純忠が切支丹大名の名代としてローマに派遣した天正遣欧使節の少年たちだった。少年使節団の一行は航海の途中、世界各地の行く先々で、子供まで含めた日本人男女が奴隷として使役されたり、日本の若い女性が奴隷として一糸も纏わぬ姿で鎖に繋がれているのを見て、大きな衝撃を受けた。千々石ミゲルは「日本人は欲と金銭への執着が甚だしく、互いに身を売って日本の名に汚名を着せている。ポルトガル人やヨーロッパ人は、そのことを不思議に思っている。その上、我々が旅行先で奴隷に身を落とした日本人を見ると、道義を一切忘れて、血と言語を同じくする日本人を家畜や駄獣のように安い値で手放している。我が民族に激しい怒りを覚えざるを得なかった。」と書いた。日本人奴隷5万人という数だが、実際にはこの何倍もいたと言われている。
 日本にいた南蠻ポルトガル宣教師が奴隷売買の酷さを見かね、当時の南蠻ポルトガル王のドン・セバスチャンに進言した結果、元龜02(西暦1571)年に「日本人奴隷の買い付け禁止令」も出されたが、奴隷売買はなくならかった。南蠻ポルトガルの奴隷商によって買われ、ブラジル、アルゼンチン、ペルーなどに売られた日本人奴隷の記録は、多くの公文書に残されている。


近世日本国民史 豊臣秀吉(二) 豊臣氏時代 乙篇 (講談社学術文庫) - 徳富蘇峰, 平泉澄
近世日本国民史 豊臣秀吉(二) 豊臣氏時代 乙篇 (講談社学術文庫) - 徳富蘇峰, 平泉澄

 天正19(西暦1591)年、長崎で貿易を営む原田喜右衛門の部下の原田孫七郎はフィリピンの守りが手薄で征服が容易と上奏し、入貢と降伏を勧告する豊臣秀吉からの国書を天正20(西暦1592)年05月31日にマニラの南蠻スペイン領フィリピンの総督ゴメス・ペレス・ダスマリニャスに渡した。文禄02(西暦1593)年には原田喜右衛門がフィリピンの征服を豊臣秀吉に要請し、同04月22日には「フィリピン総督が服従せねば征伐する。」との国書を渡した。南蠻スペイン側は事前に船に同乗していた明人を詰問して、日本国王が九鬼嘉隆にフィリピン諸島の占領を任せたが、台湾の占領も別の人物に任せたから、当地の遠征はその次である等の情報を得ていた。宣戦布告にも近い軍事的脅迫を含む敵対的な最後通牒によって、南蠻スペインと日本の外交関係は緊迫し、南蠻スペイン人の対日感情も悪化の一途を辿った。
 天正20(西暦1592)年に豊臣秀吉はフィリピンに対して降伏と朝貢を要求した。フィリピン総督ゴメス・ペレス・ダスマリニャスは天正20(西暦1592)年05月01日付で返事を出し、ドミニコ会の修道士フアン・コボが豊臣秀吉に届けた。フアン・コボ(Juan Cobo、支那名: 高母羨(Gāomǔ Xiàn、福建語: ko-bó soān))はアントニオ・ロペスという支那人耶蘇教徒と共に日本に来たが、フアン・コボとアントニオ・ロペスは、朝鮮征伐のために肥前国松浦郡名護屋に建てられた名護屋城で豊臣秀吉に面会した。原田喜右衛門はその後、マニラへの第2次日本使節団を個人的に担当することになり、アントニオ・ロペスは原田の船で無事にマニラに到着した。
 文禄02(西暦1593)年06月01日、支那人耶蘇教徒アントニオ・ロペスは日本で見たこと行ったことについて宣誓の上で綿密な質問を受けたが、そのほとんどは「日本がフィリピンを攻撃する計画について知っているか?」であった。アントニオ・ロペスはまず「豊臣秀吉が原田喜右衛門に征服を任せたと聞いた。」と述べた。アントニオ・ロペスは日本側の侵略の動機についても答えた。「フィリピンに黄金が豊富にあるという話は万国共通である。このため兵士たちはここに来たがっており、貧しい国である朝鮮には行きたがらない。」アントニオ・ロペスはまた「日本人にフィリピンの軍事力について尋問された。」と述べた。アントニオ・ロペスが「フィリピンには4、5千人の南蠻スペイン人がいる。」と答えたのを聞いて、日本人は嘲笑った。彼らは「これらの島々の防衛は冗談であり、100人の日本人は2、300人の南蠻スペイン人と同じ価値がある。」と言った。アントニオ・ロペスの会った誰もが、「フィリピンが征服された暁には原田喜右衛門が総督になる。」と考えていた。その後、侵略軍の規模についてアントニオ・ロペスは「長谷川宗仁の指揮で10万人が送られる。」と聞いた。アントニオ・ロペスが「フィリピンには5、6千人の兵士しかおらず、そのうちマニラの警備は3、4千人以上だ。」と言うと、日本人は1万人で十分。」と言った。さらアントニオ・にロペスに10隻の大型船で輸送する兵士は5、6千人以下と決定したことを告げた。アントニオ・ロペスは最後に「侵攻経路について侵略軍は琉球諸島を経由してやってくるだろう。」と言った。
 文禄02(西暦1593)年、フィリピン総督の使節としてフランシスコ会宣教師のペドロ・バプチスタが肥前国松浦郡平戸に来島後、名護屋城で豊臣秀吉に謁見した。豊臣秀次の配慮で前田玄以に命じて京都の南蛮寺の跡地に修道院が建設されることになった。翌年にはマニラから新たに3人の宣教師が来て、京坂地方での布教活動を活発化させ、信徒を1万人増やした。前田秀以(玄以の子)や織田秀信、寺沢広高ら大名もこの頃に洗礼を受けた。
 文禄04(西暦1595)年07月15日には豊臣秀次の切腹と幼児も含めた一族39人の公開斬首が行われ、文禄・慶長の役では朝鮮、明への唐入り、征服計画が頓挫し和平交渉も難航した、文禄05年(西暦1596)年07月12日には慶長伏見地震で豊臣秀吉の居城である伏見城が倒壊(女73人、中居500人が死亡)、同09月02日には明・朝鮮との講和交渉が決裂、仏教や神道の在来宗教勢力も京都に進出していた耶蘇教フランシスコ会に警戒感を強める情勢にあった。
 文禄05(西暦1596)年07月、フィリピンのマニラを出航した南蠻スペインのガレオン船サン・フェリペ号がメキシコを目指して太平洋横断の途についた。ガレオン船には100万ペソの財宝が積み込まれていた。同船の船長はマティアス・デ・ランデーチョであり、船員以外に当時の航海の通例として7人の司祭(フランシスコ会員フェリペ・デ・ヘスースとファン・ポーブレ、4人のアウグスティノ会員、1人のドミニコ会員)が乗り組んでいた。サン・フェリペ号は東シナ海で複数の台風に襲われて甚大な被害を受け、船員たちはメインマストを切り倒し、400個の積荷を海に放棄することでなんとか難局を乗り越えようとした。しかし、船はあまりに損傷が酷く、船員たちも満身創痍であったため、日本に流れ着くことだけが唯一の希望であった。
 文禄05(西暦1596)年08月28日(文禄05年10月19日)、船は四国土佐沖に漂着し、知らせを聞いた長宗我部元親の指示で船は浦戸湾内へ強引に曳航され、湾内の砂州に座礁してしまった。大量の船荷が流出し、船員たちは長浜(現高知市長浜)の町に留め置かれた。長宗我部元親は投棄されず船に残っていた60万ペソ分の積荷を没収した。長宗我部元親は、日本で座礁、難破した船は、積荷と共にその土地へ所有権が移るのが日本の海事法であり、通常の手続きと主張したが、南蛮貿易とそれに伴う富が四国に届くことはほとんどなかったことも判断に影響したとされる。南蠻スペイン人乗組員が抗議すると、長宗我部元親は、豊臣秀吉の奉行のうち、個人的な友人である増田長盛に訴えるよう言い渡した。船長であるマティアス・デ・ランデーチョはこれを受けて、2人の部下を京に派遣し、フランシスコ会の修道士と落ち合うように指示した。一同で協議の上、船の修繕許可と身柄の保全を求める使者に贈り物を持たせて豊臣秀吉の元に差し向け、船長のマティアス・デ・ランデーチョは長浜に待機した。しかし使者は豊臣秀吉に会うことを許されず、代わりに奉行の1人で長宗我部元親の友人である増田長盛が浦戸に派遣されることになった。
 増田長盛は「この状況を利用して利益を得られる。」と考え、豊臣秀吉にこの積荷を接収することを助言した。土佐に着いた増田長盛は南蠻スペイン人に賄賂を要求したが断られたため、サン・フェリペ号の貨物を100隻の和船に積んで京都に送る作業を始めた。それに先立って使者の1人ファン・ポーブレが一同の許に戻り、積荷が没収されること、自分たちは勾留され果ては処刑される可能性があることを伝えた。先に豊臣秀吉は南蠻スペイン人の総督に「日本では遭難者を救助する。」と通告していたため、まるで反対の対応に船員一同は驚愕した。
 増田長盛らは、白人船員と同伴の黒人奴隷との区別なく名簿を作成し、積荷の一覧を作り全てに太閤の印を押し、船員たちを町内に留め置かせ、所持品を全て提出するよう命じた。さらに増田長盛らは「南蠻スペイン人たちは海賊であり、ペルー、メキシコ(ノビスパニア)、フィリピンを武力制圧したように日本でもそれを行うため、測量に来たに違いない。このことは都にいる3人の南蠻ポルトガル人ほか数人に聞いた。」という豊臣秀吉の書状を告げた。この時、水先案内人(航海長)であったデ・オランディアは憤って増田長盛に世界地図を示し、南蠻スペインは広大な領土をもつ国であり、日本がどれだけ小さい国であるかを語った。
 これに対して増田長盛は「何故南蠻スペインがかくも広大な領土を持つに至ったか?」と問うたところ、デ・オランディア(または南蠻スペイン人船員)は次のような発言を行った。「南蠻スペイン国王は宣教師を世界中に派遣し、布教と共に征服を事業としている。それはまず、その土地の民を教化し、而して後その信徒を内応せしめ、兵力をもってこれを併呑するにあり。」これにより豊臣秀吉は耶蘇教の大規模な弾圧に踏み切ったとされる。この経緯は南蠻スペイン商人ベルナルディーノ・デ・アビラ・ヒロン(Bernardino de Avila Girón)が書いた「日本王国記」に、イエズス会士モレホンが注釈をつけたものであり、似たようなやり取りはあったものと見られている。この応答については、直接目撃した証言や文書も残っていないため、史実であったか定かではない。水先案内人(航海長)をしていたデ・オランディアの大言壮語とは対照的に、南蠻スペイン国王フェリペ2世は天正14(西暦1586)年には領土の急激な拡大によっておきた慢性的な兵の不足、莫大な負債等によって新たな領土の拡大に否定的になっており、領土防衛策に早くから舵を切っていた。「私には、より多くの王国や国家を手に入れようとする野心に駆られる理由はありません....私たちの主は、その善意によって、私が満足するほど、これら全ての物を与えて下さっています。」
 サン・フェリペ号事件当時、豊臣秀吉による明と朝鮮の征服の試みが頓挫し、朝鮮・明との講和交渉が暗礁に乗る緊迫した国際情勢ではあったが、それ以前の天正19(西暦1591)年に原田孫七郎はフィリピンの守りが手薄で征服が容易と上奏、入貢と服従を勧告する豊臣秀吉からの国書を天正20(西暦1592)年05月31日にフィリピン総督に渡し、文禄02(西暦1593)年には原田喜右衛門もフィリピン征服、軍事的占領を働きかけ、豊臣秀吉は「フィリピン総督が服従せねば征伐する。」と宣戦布告とも取れる意思表明をしており、豊臣政権はアジアにおける南蠻スペインの脆弱な戦力を正確に把握していた。豊臣政権がフランシスコ会への態度を硬化させた原因は諸説提案されており、デ・オランディア(または南蠻スペイン人船員)の口から出任せの発言を高度な情報分析能力のあった奉行とその報告を受けた豊臣秀吉が真に受けたか不明。
 天正20(西暦1592)年05月31日の原田孫七郎に託された国書で、豊臣秀吉はフィリピン総督に対して一国を代表して降伏勧告、恫喝を行っており、文禄02(西暦1593)年にも「服従せねば征伐する。」と宣戦布告ともとれる最後通牒を告知し、天正20(西暦1592)年04月12日には朝鮮出兵を開始していた。日本は南蠻スペイン領フィリピンに好戦的な侵略国としての印象を与えており、フィリピン在住の南蠻スペイン人の対日感情は悪化していた。一船員であるデ・オランディアの個人としての発言はその反映とも取れる。
  増田長盛は都に戻り、このことが豊臣秀吉に報告された。豊臣秀吉は直後の同年12月08日に天正に続く禁教令が再び出し、「イエズス会の後に来日したフランシスコ会の活発な宣教活動が禁教令に対して挑発的である。」と考え、京都奉行の石田三成に命じて、京都に住むフランシスコ会員と耶蘇教徒全員を捕縛して処刑するよう命じた。石田三成は捕縛名簿からユスト高山右近の名を除外することはできたが、パウロ三木を含む他の信者の除外は果たせなかった。大坂と京都でフランシスコ会員7人と信徒14人、イエズス会関係者3人の合計24人が捕縛された。24人は、京都・堀川通り一条戻り橋で左の耳たぶを切り落とされて(豊臣秀吉の命令では耳と鼻を削ぐように言われていた。)、市中引き回しとなった。(西暦1597)年01月10日、「長崎で処刑せよ。」という命令を受けて一行は大坂を出発、歩いて長崎へ向かった。また、道中でイエズス会員の世話をするよう依頼され付き添っていたペトロ助四郎と、同じようにフランシスコ会員の世話をしていた伊勢の大工フランシスコ吉も捕縛された。2人は耶蘇教徒として、己の信仰のために命を捧げることを拒絶しなかった。26人のうちフランシスコ会会員とされているのは、南蠻スペインのアルカンタラのペテロが改革を起こした「アルカンタラ派」の会員であった。
 厳冬期の旅を終えて長崎に到着した一行を見た責任者の寺沢半三郎(当時の長崎奉行であった寺沢広高の弟)は、一行の中にわずか12歳の少年ルドビコ茨木がいるのを見て哀れに思い、「切支丹の教えを棄てればお前の命を助けてやる。」とルドビコ茨木に持ちかけたが、ルドビコ茨木は「(この世の)束の間の命と(天国の)永遠の命を取り替えることはできない。」と言い、毅然として寺沢半三郎の申し出を断った。ディエゴ喜斎と五島のヨハネは、告解を聴くためにやってきたイエズス会員フランシスコ・パシオ神父の前で誓願を立て、イエズス会入会を許可された。26人が通常の刑場でなく、長崎の西坂の丘の上で処刑されることが決まると、一行はそこへ連行された。一行は、「ナザレのイエスが処刑されたゴルゴタの丘に似ている。」という理由から、西坂の丘を処刑の場として望んだ。処刑当日の慶長01年12月19日(西暦1597年02月05日)、長崎市内では混乱を避けるために外出禁止令が出されていたにも拘わらず、4000人を超える群衆が西坂の丘に集まってきていた。パウロ三木は死を目前にして、十字架の上から群衆に向かって自らの信仰の正しさを語った。群衆が見守る中、一行が槍で両脇を刺し貫かれて絶命したのは午前10時頃であった。京都や大坂にいたフランシスコ会のペトロ・バウチスタなど宣教師3人と修道士3人、および日本人信徒20人がに処刑された(「日本26聖人」)。
 マティアス・デ・ランデーチョは、修繕のための船普請を早期に開始するよう豊臣秀吉に直接会って抗議しようと決めた。長宗我部元親は12月にマティアス・デ・ランデーチョらが都に上ることを許可した。しかし交渉の仲介を頼もうとしたフランシスコ会は捕縛された後であったため、船員たち自身で抗議を重ね、豊臣秀吉の許可によりサン・フェリペ号の修繕は開始された。一同は慶長02(西暦1597)年04月に浦戸を出航し、05月にマニラに到着した。マニラでは南蠻スペイン政府によって本事件の詳細な調査が行われ、船長のマティアス・デ・ランデーチョらは証人として喚問された。その後、は文禄06(西暦1597)年09月にスペイン使節としてマニラからドン・ルイス・ナバレテらが豊臣秀吉の元へ送られ、サン・フェリペ号の積荷の返還と26人殉教での宣教師らの遺体の引渡しを求めたが、引き渡しは行われなかった。サン・フェリペ号から没収された積荷の一部は、朝鮮出兵の資金として使われ、残りは有力者に分配され、中には天皇に届いたものもあったとされる。この事件には、豊臣秀吉の対明外交、イエズス会とフランシスコ会の対立などいくつかの問題が関係しており、その真相を決定的に解明するのは難しい。乗組員のものとされる発言は日本側に記録がなく、南蠻スペイン側にも直接目撃者や文書が残っていないため史実かはっきりしていない。
 また、乗員のうち4人のアウグスティノ会員は、フアン・タマヨ、ディエゴ・デ・ゲバラ両神父と従者の修道士で、管区代表としてローマでの総会に東回り航路で向かう途中であった。アウグスティノ会は改めて神父ニコラス・デ・メロと弟子で日本人の修道士ニコラスのローマ派遣を決定し、慶長02(西暦1597)年、西回りのインド・ゴア航路で送り出した。師弟は慶長05(西暦1600)年、陸路ペルシア経由でサファヴィー朝使節団に随行しカスピ海・ヴォルガ川を遡上してモスクワに到達した。このため修道士ニコラスは初めてロシアを訪問した日本人とされる。だが両者とも王朝断絶からの動乱時代の騒擾に巻き込まれ、長期間の幽閉の後に処刑された。
 サン・フェリペ号の積荷は100万ペソ、ガレオン船12隻(投棄されず漂着した積荷は60万ペソであるため8隻)の建造費に相当する巨額の財宝であり、船員達の帰郷を待つ家族の生活基盤さえも揺るがしかねない過酷な没収であった。積荷の債権者の憤激から対日感情が悪化し、ルソン各地から日本人が追放された。
 サン・フェリペ号事件に関してしばしば「増田長盛との問答での南蠻スペイン人船員(デ・オランディアとも)の積荷を没収された腹いせによる発言が豊臣秀吉を激怒させた。」と説明されるが、これは慶長03(西暦1598)年に長崎でイエズス会員たちが行った「サン・フェリペ号事件」の顛末および「26聖人殉教」の原因調査のための査問会での証人の言葉として出たとされるもので、日本側の記録には一切残されていない。フランシスコ会と南蠻スペインとの関係は必ずしも良好なものでなく、実際のフランシスコ会の布教はコルテスの侵略完成後に行われていたため、「出任せや腹いせで発言した。」との説明には一定の蓋然性がある。
 南蠻スペイン系の托鉢修道会(フランシスコ会・ドミニコ会・アウグスチノ会)は日本が潜在的な南蠻ポルトガル領となったことに対し、南蠻スペイン船の日本漂着、西国大名の貿易目当ての勧誘、豊臣秀吉の対フィリピン外交に乗じるなど、ローマ法王からの承認を得ることなく日本の布教活動に入った。天正20(西暦1592)年、マニラ総督からドミニコ会士を団長とする南蠻スペイン使節が日本に派遣され、翌文禄02(西暦1593)年にはフランシスコ会士が来日した。イエズス会と托鉢修道会の敵対関係は激化し、フランシスコ会が京都で公然と布教活動を行なったことで、南蠻スペイン船サン・フェリペ号の漂着をきっかけとして、南蠻スペイン人の宣教師・修道士6人を含む26人が長崎で処刑された。これは南蠻ポルトガルよりも露骨に日本の植民地化を推し進めてくる南蠻スペインに対する豊臣秀吉一流の見せしめであった。ともすれば、豊臣秀吉に対し切支丹を弾圧した非道な君主という誤った像を抱きがちだが、実際はこの時の集団処刑が、秀吉が行った唯一の切支丹への直接的迫害であった。それもこの時は南蠻スペイン系のフランシスコ会に対してであって、南蠻ポルトガル系のイエズス会に対し特に迫害というものを加えたことはなかった。
 また、豊臣秀吉がそれまで言い伝えていた処遇から翻った処断を下したこと、この事件の直後に殉教事件が起きていること、処刑された外国人はフランシスコ会だけであったことから、豊臣秀吉は前々より都周辺での布教を自粛していたイエズス会に代わり、遅れて国内で布教し始めていた南蠻スペイン系の会派(他にアウグスティノ会など)の活動や宗派対立を嫌悪していた。さらに、豊臣秀吉自身が秀次事件の後の政権内綱紀粛正や明の冊封使の対応(後の慶長の役に繋がる)に忙殺され、南蠻スペイン支配下の呂宋国(フィリピン)へは明確な計画がなかったことなど、複数の原因も考えられる。
 しかしこの事件は、それまで一括りにされていたが、南蠻スペイン系耶蘇教宗派や南蠻スペイン人と南蠻ポルトガル人とで異なるという意識を芽生えさせ、後の徳川期の鎖国において先に南蠻スペイン船が渡航禁止(元和10(西暦1624)年、南蠻ポルトガル船渡航禁止は(寛永16(西暦1639)年)とされる事態も生じている。

 天正20年(1592年)06月、すでに朝鮮を併呑せんが勢いであった時、毛利家文書および鍋島家文書によると、豊臣秀吉はフィリピンのみならず「処女のごとき大明国を誅伐すべきは、山の卵を圧するが如くあるべきものなり。只に大明国のみにあらず、況やまた天竺南蛮もかくの如くあるべし。」と、明、インド、南蛮(東南アジア、南蠻ポルトガル、南蠻スペイン、ヨーロッパ等)への侵略計画を明らかにした。豊臣秀吉は先駆衆にはインドに所領を与えて、インドの領土に切り取り自由の許可を与えるとした。
 慶長01(1597)年02月に処刑された26聖人の1人であるマルチノ・デ・ラ・アセンシオン(Martín de la Ascensión)はフィリピン総督宛の書簡で自らが処刑されることと豊臣秀吉のフィリピン侵略計画について日本で聞いた事を書いている。「(豊臣秀吉は)今年は朝鮮人に忙しくてルソン島に行けないが来年には行く。」とした。マルチノはまた侵攻ルートについても「彼は琉球と台湾を占領し、そこからカガヤンに軍を投入し、もし神が進出を止めなければ、そこからマニラに攻め入る積りである。」と述べている。
また、マルチノ・デ・ラ・アセンシオン(Martín de la Ascensión)が文禄05(西暦1596)年06月〜09月にかけて作成した「国王陛下が日本の耶蘇教界のために救済せねばならない諸問題に関する報告書」では、南蠻スペイン国王の日本支配とフランシスコ会の日本布教の正当性が説かれ、同時にイエズス会の日本支配と独占に対する厳しい批判が記されている。「日本は南蠻スペイン王国の地球分割(デマルカシオン)に包摂されており、南蠻スペインが日本に進出するのは当然の権利であり正当な行為である。そして正当な支配権を持つ南蠻スペイン国王が、日本の耶蘇教界を救済する義務を負うことから、長崎や平戸を獲得して要塞を建築し防御のために武装艦隊を建造しなければならない。」と主張した。
 慶長10(西暦1605)年に南蠻ポルトガル副王のドン・ペドロ・デ・カスティリョは日本における布教をイエズス会の独占とするようマドリードに要請したが、慶長13(西暦1608)年にローマ法王庁は日本での布教を全教団に認めたため、フランシスコ会とドミニコ会が長崎に進出し、イエズス会との間の勢力争いが激しくなった。イエズス会は彼らの日本布教参入を、南蠻ポルトガルの地球分割(デマルカシオン)を根拠に批判したが、托鉢修道会はイエズス会士の貿易活動や軍事活動を糾弾した。そして「布教政策の誤りによって日本の権力者に活動を禁じられたことに対して、托鉢修道会は日本側から布教許可を得ている。」と主張し、「ローマ法王の決定は効力を失っており、さらにの分界線はマラッカの上を通り日本は南蠻スペイン領に入る。」として、自らの布教の正当性を主張した。
 26聖人の処刑後、スペリン領フィリピンでは「豊臣秀吉との有効的関係が終わった。」と認識され、豊臣秀吉によるフィリピン侵略への懸念が再燃した。日本によるフィリピン侵略は豊臣秀吉だけでなく、寛永07(西暦1630)年に松倉重政によって計画が行われた。マニラへの先遣隊は寛永08(西暦1631)年07月、日本に帰国したが寛永09(西暦1632)年07月まで南蠻スペイン側は厳戒態勢をしいていた。その後5年間はフィリピンへの遠征は考慮されなかったが、日本の迫害から逃れてきた耶蘇教難民がマニラに到着し続ける一方で 日本への神父の逆流が続いていた。寛永14(西暦1637)年には松倉重政の後を継いだ息子の松倉勝家は、父に劣らず暴君で耶蘇教に敵対し、松倉勝家が島原の大名として在任中に、最後のフィリピン侵略の企てが検討がされた。同年に起きた島原の乱(寛永14(西暦1637)年〜寛永15(西暦1638)年)によって遠征計画は致命的な打撃を受けた。
オランダ人は寛永14(西暦1637)年のフィリピン侵略計画の発案者は徳川家光と確信していたが、実際は将軍ではなく、上司の機嫌をとろうとしていた榊原職直と馬場利重だった。遠征軍は松倉勝家などの大名が将軍の代理として供給しなければならなかったが、人数については、松倉重政が計画していた2倍の1万人規模の遠征軍が想定されていた。フィリピン征服の指揮官は松倉勝家が有力であったが、同年に起きた島原の乱によって遠征計画は致命的な打撃を受けた。
 島原の乱は松倉勝家領の肥前島原半島の島原藩と寺沢堅高の所領の唐津藩の飛地、肥後天草諸島で百姓の酷使や過重な年貢負担と、払えない場合に生きて火を付けられる等の苛烈な処罰に窮し、これに藩によるキリシタン(カトリック信徒)の迫害、更に飢饉の被害まで加わり、両藩に対して起こした領民37000人が両藩に対して起こした叛乱で、百姓一揆の鎮圧に12万4000人の兵を送り込んだ。島原と天草には共通点があった。天草はかつて小西行長というキリシタン大名の領地だった。関ケ原では西軍側で戦って負け、処刑された。天草も有馬晴信というキリシタン大名の領地だったがスキャンダルで領地を追われ、その後処刑された。替わって領地に入って来たのが先の松倉勝家と寺沢堅高という絵にかいたような暴君で、島原の乱は農民漁民、手工業や商業まで、町民全体が立ち上がった。実際には有馬家や小西家に仕えていた耶蘇教徒の浪人が多かった。中には脅されて耶蘇教徒にされた者も多かったが、今度は反対に耶蘇教を棄てろと脅された。一揆軍は島原半島の原城に立て籠り、幕府軍は原城を包囲して持久戦に持ち込み、食料が尽きるのを待った。密かに城を出て海岸線で食料を探していた者を殺害し、胃の中を調べると海藻しか入っていなかったという。そのため幕府軍は城内の食料が底を尽きかけていることを知った。
 耶蘇教徒の多い一揆軍は南蠻ポルトガル海軍が助けに来てくれると最後まで希望を抱いていたという。しかし来なかった。南蠻ポルトガルが反幕府軍の加担をしたとなれば戦後、幕府と衝突するのは不可避で、宣教師らは耶蘇教徒たちを見殺しにした。幕府は紅毛蠻賊オランダに依頼し軍船に砲撃させた。幕府は内戦に外国の力を借りた。紅毛蠻賊オランダはプロテスタントで南蠻ポルトガルはカトリックで、ヨーロッパの血で血を洗う宗教抗争が九州にも持ち込まれた。最終的には幕府軍が、籠城していた3万7000人はほぼ全員が根絶やしにされた。ほんの一握り、逃げ延びた人たちが離島に逃れて隠れキリシタンとなった。幕府は未だに宣教師を送り込んで来る南蠻ポルトガルや南蠻スペインを危険視して、交易は布教しないと誓った紅毛蠻賊オランダに乗り換え、南蠻ポルトガルや南蠻スペインを排除した。
島原の乱の数ヶ月後、将軍徳川家光の諮問機関は廃城となっていた原城を奪うために必要な努力と、占領地を何百マイルも移動して(当時の東アジアで最も要塞化された都市の1つであった)マニラの要塞に対抗するために同様の規模の軍と同様の海軍の支援を計画することを比較検討した。「フィリピン侵攻のために用意した1万人の兵力は10万人、つまりその3分の1の反乱軍に打ち勝つために原城に投入しなければならなかった兵力であるべき。」との分析がなされた。


信長 秀吉 家康はグローバリズムとどう戦ったのか 普及版 なぜ秀吉はバテレンを追放したのか - 三浦 小太郎
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倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史 (星海社新書 203) - 渡邊 大門
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 大坂夏の陣直後の元和(げんな)01(西暦1615)年05月、醍醐寺僧侶の義演は戦場で「女・童部」の掠奪が多発していることを書き記している。人盗り・物盗りの現場を描いた生々しい場面が、黒田屏風として知られる大坂夏の陣図屏風に描かれている。それは、大坂落城の悲劇が活写され、華やかな小袖を着た若い娘が、徳川の三つ葉葵紋の指物を差した雑兵たちに両手を取られて、今まさに拉致されようとしている。「公儀の軍隊」であるはずの幕府軍が、この有様であり、次に神崎川を越えて北摂の郷村地域に避難しようとする民衆に襲いかかる野盗や追い剥ぎたちの場面がある。幕府方の雑兵である可能性は否定できない。上半身裸の女性が彼らに命乞いする姿は、誠に哀れである。大坂夏の陣で勝利した徳川軍も女子供を次々に捕まえて凱旋している。「大坂夏の陣図屏風」には、逃げ惑う敗残兵や避難民を徳川軍が掠奪・誘拐・首取りする姿が描かれている。将兵は戦いに集中するよりも、人や物の掠奪に熱中していた。
 大坂夏の陣の翌年にあたる元和02(西暦1616)10月に、江戸幕府は次の人身売買禁止令を発した。
「一、人の売買の事、一円停止たり、もし売買濫の輩は、売損・買損の上、売らるる者は、その身の心にまかすべし、ならびに勾引売りにつきては、売主は成敗、うらるる者は本主(人)へ返すべき事、」
 ここで人身売買は一切禁止とし、もしみだりに取引した者は売損・買損とされ、かどわかし売りについては、売った者は死刑と定められた。

 この法令は、従来の解釈のような元和偃武が実現したことにあわせて、初めて幕府が発令したものではなく、以前からの法令を改めて出したものと見られる。これには、関連する同年10月29日付朽木元綱宛板倉勝重書状(「朽木家文書」)がある。
 京都所司代であった板倉勝重は、京都でかどわかされて売られた女性たちについて、先年のごとく近江国でも女改めをするように将軍徳川秀忠から仰せつけられたので、領分でも若狭に抜けて行く女性たちについては改めるようにと朽木元綱に指示し、あわせてかどわかされた「十五歳より下」の男童部についても改めるように依頼している。朽木氏とは、山椒大夫の時代から人買いが往来していた鯖街道の近江国朽木谷(朽木村、現滋賀県高島市朽木)で9590石を領した大身の旗本である。女性に対する改めとは、具体的には関所で「手形」すなわち女性の通行許可書である女手形の所持を監察することである。女手形は、江戸幕府の草創期から大留守居(幕府の職掌で大身旗本が任じられた)とは別に、朝廷や豊臣氏に対する監視と折衝が任務であった京都所司代も発行していた。これまで京都所司代の発行した最古の女手形は、元和07(西暦1621)年02月10日付で板倉勝重の嫡男重宗が「京都より佐渡まで女改奉行衆」に宛てたものとされてきたが、先の板倉勝重書状案によって、元和02(西暦1616)年10月以前から発行されていたことが判明した。この初期史料からは、近江国において元和02(西暦1616)年を画期として人身売買の禁止が強化されたことが覗われる。同年11月には、朽木元綱の子息宣綱が朽木領内の女改め関所の様子を将軍徳川秀忠の年寄衆に伝えたことがわかる。女性や男童部の改めとは、具体的には関所で検問して、女手形を所持していない女性や不審な男童は拘留し、詮議のうえ売買が明白な場合は解放することである。
 板倉勝重が、「かどわかされ売買された女性や男童部が京都から若狭へ向かっている。」と認識していることから、大坂の陣によって大量に発生した戦争奴隷が若狭小浜などに集められ、東南アジア方面に売り飛ばされた可能性を示唆する。伴天連追放令から20年を経ても、事態はなんら変化していなかった。かどわかしたのは、外部から侵攻してきた幕府軍関係者で、深刻なのは翌年になってもこのような事態が終息していなかったで、東軍に属した大名たちはとうに帰国していたはずで「商品」となっていた女性や男童部が京都に相当に滞留しており、その一部が海外市場を目指して若狭へ送り込まれていたと見られる。朽木領に設けられた女改め関所が、江戸時代を通じて存続・機能していた。
 中世において戦争は、常に人盗り・物盗りを伴うものであった。これこそ、軍隊の大部分を占めた百姓上がりの雑兵たちの目的だった。これに対して、天下人たちはその禁止を掲げた。近世大名軍隊は、「公儀の軍隊」たることが義務づけられ、粛々と行軍して戦場に向かい、陣立書に基づき戦闘を遂行することになっていた。
 織田信長の晩年以来、軍法によって町や村などへの狼藉行為などは厳禁されたが、秀吉の天下統一戦において禁圧することはできなかった。


 鐵炮伝来とその普及が、戦争を大規模化させた。その結果が、大勢の日本人奴隷の海外流失へと繋がった。二度と故郷へは帰れない大勢の女性や子供たちの存在が、そこにはあった。「公儀軍」だったはずの幕府軍が、禁止されていた人盗り・物盗りを堂々と行なっていたのは象徴的である。厳禁していた人身売買も、あくまでも建前だったと見ざるをえない。誕生したばかりの近世大名軍隊も、実態的には中世の軍隊がもつ野蛮性を十分には克服できないまま、天下泰平が訪れた。

 豊臣秀吉の死後、五大老による合議制が敷かれていた時期、筆頭大老の徳川家康の外交観は、貿易と布教は分離できるというものだった。南蠻ポルトガルとの貿易によって大きな利益を得ている長崎や九州を見て、「貿易を優先すべき。」と考えていた家康は、当初、耶蘇教に対して寛大な姿勢で臨んでいたのですが、やがて「南蠻スペイン・南蠻ポルトガルは耶蘇教布教と同時に日本を武力により支配しようとしている。」との情報を得て、外交方針を変えていった。
 南蠻スペインは、信者を増やして日本を支配した後は、日本を拠点として明に攻め入り、いずれは明も征服しようという長期計画を持っていた。
 徳川家康は、慶長17(西暦1612)年には天領(幕府直轄地)に、翌慶長18(西暦1613)年には全国に「禁教令(耶蘇教禁止令)」を将軍秀忠の名で交付させた。「耶蘇教は侵略的植民政策の手先であり、人倫の常道を損ない、日本の法秩序を守らない。」と激しく糾弾する内容だった。ここに鎖国体制が始まり、耶蘇教禁止令は明治06(西暦1873)年まで続いた。その後洗脳侵略が露見し、九州〜機内の切支丹大名は、日本人を5万人も奴隷として売り飛ばしていた。
 紅毛蠻賊オランダが南蠻ポルトガルや南蠻スペインに取って代わった。しかし紅毛オランダがインドネシアでの悪行の数々を知れば、紅毛蠻賊オランダもまた日本に対して南蠻ポルトガルや南蠻スペインとさして変わらぬ野心を抱いていた。紅毛蠻賊オランダとは後に世界最強国となる紅毛蠻賊イングランドすらマレー諸島から蹴散らし、香料を独占するほど鼻息荒い蠻人で、紅毛蠻賊オランダと清(西暦1644〜1912年、大C國)支那を平戸や長崎出島に封じ込めた徳川幕府は国際情勢に通じ、危機管理能力も備えていた。日本の学校では世界史と國史を別に教えている。しかし西暦15世紀末に大航海時代が幕を開け、南蠻・紅毛蠻賊が世界中で悪行の数々を行い、國史はヨーロッパ抜きには考えられない。


 寛永16(西暦1639)年に南蠻ポルトガル船の来航を禁じて以来、C(大C國、西暦1636〜1912、1917年(張勲復辟))・李氏朝鮮(朝鮮國、西暦1392〜 1897年)・琉球國(沖縄方言: ルーチュークク、西暦1429〜1879年)・ネーデルラント連邦共和国(西暦1579〜1795年)以外の国と通信・通商の関係を持たない江戸時代の日本に最初に開国通商を迫ったのは、南下政策によって貿易の拡大と領土の拡張を図っていた露助ロシア帝国(西暦1721〜1917年)である。
 第1回の遣日使節は、寛政04(西暦1792)年09月に根室に大黒屋光太夫、磯吉、小市と3人ら日本人漂流者を伴い来航した北部沿海州ギジガ守備隊長アダム・キリロヴィチ・ラクスマン(露語: Адам Кириллович Лаксман、典語: Adam Laxman)陸軍中尉は「江戸に直航して通商を促す国書を幕府に直接手渡したい。」と申し出た。日本人漂流民で最年長であった小市はこの地で死亡した。幕府の石川忠房は「長崎以外に異国船の入港は認められない。」としてこれを拒み、松前で大黒屋光太夫、磯吉の2人を引き取り、アダム・キリロヴィチ・ラクスマンに対して長崎入港の許可書(信牌)を交付した。しかしアダム・キリロヴィチ・ラクスマンは結局長崎へは向わず帰国した。それから12年後、文化01(西暦1804)年09月に、アダム・キリロヴィチ・ラクスマンに与えられた信牌の写しと露助ロシア皇帝アレクサンドル1世の親書を帯びたニコライ・ペトロヴィッチ・レザノフ(露語: Никола́й Петро́вич Реза́нов、Nikolai Petrovich Rezanov)(第2回遣日使節)一行が長崎に到着した。翌年03月まで滞在して交渉を求めた甲斐なく親書も受理されず、翌年には長崎奉行所において長崎奉行遠山景晋(遠山景元の父)から、「唐山(支那)・朝鮮・琉球・紅毛蠻賊(オランダ)以外の国と通信・通商の関係を持たないのが朝廷歴世の法で議論の余地はない、」として、通商の拒絶と退去を命じられたニコライ・ペトロヴィッチ・レザーノフは、帰国の途中、部下に樺太・択捉島・礼文島などへの攻撃を命じ、幕府の危機感を一層高めた。遠山景晋・景元父子共に通称金四郎、景元は江戸北町奉行「遠山の金さん」として、芝居・講談・小説・映画・テレビなど虚構で登場する。
 寛永18(西暦1641)年以降、歐州諸国の中で紅毛蠻賊ネーデルラント連邦共和国(オランダ)のみが日本との通商を許され、長崎出島にオランダ東インド会社(蘭語: Verenigde Oost-Indische Compagnie、略称: VOC)の商館が設置されていた。紅毛蠻賊イギリス王国(西暦927〜1707年)も江戸時代初期には平戸に商館を設置して対日貿易を行っていた。元和09(西暦1623)年に紅毛蠻賊オランダ領東インド(現インドネシア)モルッカ諸島アンボイナ島でアンボイナ虐殺事件が勃発した。慶長05年(西暦1600)年関ヶ原の戦いの後の大名改易により大量の浪人が発生した。生活に困窮した浪人の中には山田長政のように歐州や東南アジアの傭兵となった者も多く、アユタヤやプノンペンに日本人町が形成された。アンボイナ島にも、傭兵として勤務しており、元和09(西暦1623)年02月10日夜、イギリス東インド会社(英語: East India Company(EIC))の日本人平戸出身の傭兵、七蔵が紅毛蠻賊オランダ王国の衛兵らに捕らえられ拷問に掛けられ、「紅毛蠻賊イギリス王国が砦の占領を計画している。」と自白したと言う。直ちにイギリス東インド会社商館長ガブリエル・タワーソン(Gabriel Towerson)ら30余人を捕らえた当局は、彼らに火責め、水責め、四肢の切断などの凄惨な拷問を加え、これを認めさせ、03月09日、ガブリエル・タワーソンをはじめ紅毛蠻賊イギリス人9人、日本人10人、南蠻ポルトガル人1人を斬首して、同島における紅毛蠻賊イギリス勢力を排除した。紅毛蠻賊オランダ王国の陰謀といわれる。紅毛蠻賊オランダ王国(西暦1795〜1806年)との営業競争に敗れ経営不振のため、紅毛蠻賊イギリス王国は、元和09(西暦1623)年に長崎平戸の商館を閉館し、その後再開を試みたが、江戸幕府に拒絶され続けていた。
 西暦18世紀末、フランス革命戦争が勃発すると、西暦1793年に紅毛蠻賊オランダは紅毛蠻賊フランス共和国第1共和政(西暦1792〜1804年)に占領され、最後のオランダ総督、オラニエ公ウィレム5世(Willem V van Oranje-Nassau)は紅毛蠻賊イギリス王国に亡命した。紅毛蠻賊オランダでは地元の革命派によるバタヴィア共和国(西暦1795〜1806年)が成立し、オランダ東インド会社は西暦1798年に解散した。バタヴィア共和国はフランスの影響下にあるとはいえ一応オランダ人の政権であるが、紅毛蠻賊第1帝政フランス帝国(西暦1804〜1814、1815年)皇帝ナポレオン1世は西暦1806年に弟のルイ・ボナパルトをオランダ国王に任命し、フランス人による紅毛蠻賊ホラント王国(西暦1806〜1810年)が成立した。このため、世界各地にあった紅毛蠻賊オランダの植民地は全て紅毛蠻賊フランス帝国の影響下に置かれることとなった。紅毛蠻賊イギリス王国は、亡命して来たウィレム5世の依頼により紅毛蠻賊オランダの海外植民地の自国による接収を始めていたが、長崎出島のオランダ商館を管轄するオランダ東インド会社があったバタヴィア(ジャカルタ)は依然として旧紅毛蠻賊オランダ(フランス)支配下の植民地であった。しかし、アジアの制海権は既に紅毛蠻賊イギリス王国が握っていたため、バタヴィア(ジャカルタ)では旧紅毛蠻賊オランダ(フランス)支配下の貿易商は中立国の紅毛蠻賊アメリカ合衆国(西暦1776年〜)籍の船を雇用して長崎と貿易を続けていた。
 文化05年08月15日(西暦1808年10月04日)、紅毛蠻賊イギリス王国ベンガル総督初代ミントー伯ギルバート・エリオット・マーレイ・キニンマウンド(Gilbert Elliot-Murray-Kynynmound, 1st Earl of Minto)の命令によりオランダ船拿捕を目的とするイギリス海軍のフリゲート艦フェートン(フリートウッド・ペリュー艦長)は、オランダ国旗を掲げて国籍を偽り、長崎へ入港した。これをオランダ船と誤認した出島のオランダ商館では商館員ホウゼンルマン(Dirk Gozeman)とシキンムル(Gerrit Schimmel)の2人を小舟で派遣し、慣例に従って長崎奉行所のオランダ通詞らと共に出迎えのため船に乗り込もうとしたところ、武装舟によって拉致され、船に連行された。それと同時に船はオランダ国旗を降ろしイギリス国旗を掲げ、オランダ船を求めて武装舟で長崎港内の捜索を行った。長崎奉行所ではフェートン号に対し、オランダ商館員を解放するよう書状で要求したが、フェートン号側からは水と食料を要求する返書があっただけだった。オランダ商館長(カピタン)ヘンドリック・ドゥーフ(Hendrik Doeff)は長崎奉行所内に避難し、商館員の生還を願い戦闘回避を勧めた。長崎奉行の松平康英は、商館員の生還を約束する一方で、湾内警備を担当する佐賀藩・福岡藩の両藩に紅毛蠻賊イギリス側の襲撃に備える事、またフェートン号を抑留、又は焼き討ちする準備を命じた。ところが、その年の長崎警衛当番であった佐賀藩が太平に慣れ経費削減のため守備兵を無断で減らしており、長崎には本来の駐在兵力の10分の1ほどのわずか100人程度しか在番していないことが判明した。松平康英は急遽、薩摩藩、熊本藩、久留米藩、大村藩など九州諸藩に応援の出兵を求めた。翌16日、ペリュー艦長は人質の1人ホウゼンルマン商館員を釈放して薪、水や食料(米・野菜・肉)の提供を要求し、供給がない場合は港内の和船を焼き払うと脅迫してきた。人質を取られ十分な兵力もない状況下にあって、松平康英は止むなく要求を受け入れることとしたが、要求された水は少量しか提供せず、明日以降に十分な量を提供すると偽って応援兵力が到着するまでの時間稼ぎを図ることとした。長崎奉行所では食料や飲料水を準備して舟に積み込み、オランダ商館から提供された豚と牛と共にフェートン号に送った。これを受けてペリュー艦長はシキンムル商館員も釈放し、出航の準備を始めた。17日未明、近隣の大村藩主大村純昌が藩兵を率いて長崎に到着した。松平康英は大村純昌と共にフェートン号を抑留もしくは焼き討ちするための作戦を進めていたが、その間にフェートン号は碇を上げ長崎港外に去った。
 手持ちの兵力もなく、侵入船の要求にむざむざと応じざるを得なかった長崎奉行の松平康英は、国威を辱めたとして自ら切腹し、勝手に兵力を減らしていた鍋島藩家老等数人も責任を取って切腹した。さらに幕府は、鍋島藩が長崎警備の任を怠っていたとして、11月には藩主鍋島斉直に100日の閉門を命じた。
 その後もイギリス船の出現が相次ぎ、幕府は文政08(西暦1825)年に異国船打払令を発令した。この事件以降、知識人の間で英国は侵略性を持つ危険な国「英夷」と見做され始めた。
 天保08(西暦1837)年07月30日、紅毛蠻賊アメリカのオリファント商会の商船モリソン号が澳門(マカオ)で保護されていた日本人漂流民の音吉・庄蔵・寿三郎・熊太郎、力松ら7人の送還と通商・布教に三浦半島の城ヶ島の南方の浦賀沖に現れた。砲撃を受けて、敵対的だと分かると鹿児島へ向い、ここで日本人船員が日本側と接触したものの再び砲撃に遭った。浦賀奉行太田資統および薩摩藩は異国船打払令に基づき砲撃を行った。08月13日に引き返す決定をして08月19日に澳門に戻った(モリソン号事件)。このような幕府の姿勢を批判した高野長英・渡辺崋山らもまた罰せられた(西暦1839年 蛮社の獄)。幕府は江戸近海の防備体制を再検討し、長崎の町年寄で洋式砲術を学んだ高島秋帆に徳丸が原(東京都板橋区高島平)で演習を行わせるなど海防と軍事力の充実を図ったが、特段の成果を見ないまま、「アヘン戦争の衝撃」によって、政策の変更を迫られることになった。
 アヘン戦争は、アヘンの密輸を禁じる清国政府がイギリス商人が持ち込む大量のアヘンを焼却したことに対して紅毛蠻賊イギリス王国が反発、強大な軍事力を行使した戦争(西暦1840〜1842年)で、惨敗した清国は、西暦1842年、巨額の賠償金や香港の割譲、領事裁判権等を内容とする南京条約を締結して支那半植民地化への道を開いた。このような紅毛蠻賊イギリスの圧倒的軍事力は、日本の幕府当局者や全国の知識人に大きな衝撃を与えた。 天保13(西暦1842)年07月、幕府は異国船打払令をより穏便な薪水給与令に改め、異国船来航の折は薪(燃料)や食料、水を与えて引き取らせることとした。

国旗と砲弾: 緊迫の3日間・フェートン号長崎を襲う - 出島磊太
国旗と砲弾: 緊迫の3日間・フェートン号長崎を襲う - 出島磊太



 初代ビーコンズフィールド伯ベンジャミン・ディズレーリ(Benjamin Disraeli, 1st Earl of Beaconsfield)は、イタリアからの移民のセファルディームユダヤ人の家系で、13歳の時にイングランド国教会に改宗した。セファルディーム系ユダヤ人社会で南蠻スペイン系や南蠻ポルトガル系のユダヤ人を最も「貴種」と見做すことが多いため、祖父の名前と同じ「ベンジャミン」と名付けられたユダヤ人、ベンジャミン・ディズレーリは南蠻スペイン系出自に拘泥したが、
祖父ベンジャミンは、ローマ法王領フェラーラ近郊のチェント生まれで、西暦1748年にイギリス王国へ移住し、結婚を通じて株式仲買人として成功し、西暦1816年に死去した際には3万5000ポンドという遺産を遺した。祖父ベンジャミンがデ・イズレーリ(D'Israeli)を名乗るまで姓はイズレーリ(Israeli、「イスラエル」の意)で、これは南蠻スペイン語「イスラエリタ」ではなくアラビア語系で、イズレーリ家はレバント(地中海東岸地域)からイタリアへ移住したと推測される。「デ(D)」はセファルディーム系ユダヤ人の洗礼名によく使われたアラム語のDiの略と考えられる。母方の祖母の実家カードソ家は西暦1492年以降の異端審問で南蠻スペイン王国を追われイタリアへ逃れ、西暦17世紀末にイギリス王国へ移住した正に南蠻スペイン系ユダヤ人の家柄だが、ベンジャミン・ディズレーリは母親を嫌っていたため、母系には、ほとんど関心を持たず、この事実を知らなかった。ともかく気位が高かった金満猶太ベンジャミン・ディズレーリは訳のわからない強い「貴種」意識を持っていた。「ユダヤ人は英国貴族などよりはるかに古い歴史を持つ真の貴族であり、さらに自分はそのユダヤ人の中でも『南蠻スペイン系』の『貴種』なので貴族の中の貴族だ。」と妄想していた。とりわけヒューエンデンの地主となって以降のベンジャミン・ディズレーリはその貴族意識を増大させていった。 
 ベンジャミン・デ・イズレーリの父アイザック・デ・イズレーリはヴォルテール主義者であり、猶太教会に布施を納めていたが、猶太教の儀式にもほとんど出席しなかった。それでもアイザック・デ・イズレーリが猶太教会に籍を置いていたのは父親ベンジャミン・デ・イズレーリを喜ばせるためであった。アイザック・デ・イズレーリは西暦1813年に猶太教のベービス・マークス集会長に選出されたが拒否し、猶太教の掟により40ポンドの罰金が科された。
しかしアイザック・デ・イズレーリはこれに反発し、役職を務めることも罰金を支払うことも拒否した。その後も3年ほど父に配慮して猶太教会に籍を置いていた。しかし、西暦1816年の父の死去を機に、西暦1817年03月にイズレーリ家は猶太教会の籍を離れ、アイザック・デ・イズレーリは猶太教会離籍後は宗教に入信しなかったが、西暦1829年までは英国教会の信徒でなければ公職に就けなかった。立身のため、イズレーリ家はベンジャミン・デ・イズレーリが13歳の時にホルボーン地区のセント・アンドリューズ教会において洗礼を受け英国国教会に改宗した。
 ユダヤの誇りを身体で示したのが、ユダヤ人拳闘家メンドーサと弟子たちで、ユダヤの誇りを雄弁と文才で示したのがベンジャミン・デ・イズレーリは、ユダヤ出自の公職者の中で最も著名で、立身のため表向きは英国国教会に改宗したが、旺盛なユダヤ人意識を持ち続け、それを公言して憚らなかった。
 15歳の時にベンジャミン・デ・イズレーリのユダヤ臭をからかった生徒の顔を殴り血塗れにしてに学校を退学になり、父アイザックの説得により、17歳の頃から弁護士事務所で働くようになった。しかし弁護士事務所の業務に関心が持てず辞め、南米鉱山株の投機や新聞発行に手を出したが失敗して破産した。小説が評判になったが激しい批判を集めた。西暦1830年05月末、姉サラの婚約者メラディスと共にロンドンから船出して英領ジブラルタルへ向かい、南欧・近東を旅行した。特にエルサレムではユダヤ人と自覚するきっかけとなった。カイロ滞在中の西暦1831年07月、同行のメラディスが天然痘により病死したため、デ・イズレーリも急遽帰国の途に付き、12月末に帰国した。この旅行中からベンジャミン・デ・イズレーリは「デ・イズレーリ」という外人風の姓を「ディズレーリ」と綴るようになった。
 西暦1830年代初頭のグレートブリテン及びアイルランド連合王国では産業革命による工業化した社会に対応した政治変革を行うことが喫緊の課題となっていた。西暦1830年には保守政党トーリー党(Tory Party、アイルランド語の「toraidhe」、「ならず者」や「盗賊」の意)の政権が倒れ、自由主義政党ホイッグ党(Whig Party、スコットランド語の「whiggamor」、「謀反人」、「馬泥棒」の意)の政権である第2代グレイ伯チャールズ(Charles Grey, 2nd Earl Grey, KG, PC)内閣が誕生した。
 ベンジャミン・ディズレーリの友人、初代ブルワー・リットン男爵エドワード・ジョージ・アール・ブルワー・リットン(Edward George Earle Lytton Bulwer-Lytton, 1st Baron Lytton, PC)も西暦1831年の総選挙で当選し、好き勝手な主張をする無所属議員の集まりの急進派(Radicals)に所属する庶民院議員になった。初代ブルワー・リットン男爵エドワード・ジョージ・アールの縁故でベンジャミン・ディズレーリも社交界に出席できるようになった。ベンジャミン・ディズレーリは自分も「庶民院議員になりたい。」と思うようになった。ベンジャミン・ディズレーリの父アイザック・デ・イズレーリはトーリー党支持者であり、ベンジャミン・ディズレーリ本人もトーリー党に好感を持っていたが、当時トーリー党は世論から激しく嫌われており、選挙に勝利できる見込みはなかった。そのための友人初代ブルワー・リットン男爵エドワード・ジョージ・アールと同じく急進派に接近した。
 この初代ブルワー・リットン男爵エドワード・ジョージ・アールの長男が第2代ブルワー・リットン男爵エドワード・ロバート(後の初代リットン伯エドワード・ロバート・ブルワー・リットン(Edward Robert Lytton Bulwer-Lytton, 1st Earl of Lytton, GCB, GCSI, GCIE, PC))でその三男が、リットン調査団の団長第2代リットン伯ヴィクター・アレグザンダー・ジョージ・ロバート・ブルワー・リットン(Victor Alexander George Robert Bulwer-Lytton, 2nd Earl of Lytton, KG, GCSI, GCIE, PC, DL)である。
 グレイ政権によって西暦1832年06月07日に「腐敗選挙区」の削減や選挙権の中産階級への拡大を柱とする第1次選挙法改正が行われると、ベンジャミン・ディズレーリは庶民院議員選挙への出馬を決意し、ハイ・ウィカムで選挙活動を開始したベンジャミン・ディズレーリは初代ブルワー・リットン男爵エドワード・ジョージ・アールの伝手でジョゼフ・ヒューム(Joseph Hume)や合同法廃止によるアイルランド独立を目指す廃止組合指導者ダニエル・オコンネル(Daniel O'Connell)ら進歩派の推薦状を貰った。当時のイギリス王国の選挙区には州選挙区と都市選挙区があり、州選挙区では年収40シリング以上の土地保有者が選挙権を有した。一方都市選挙区は選挙権資格が一律ではないが、どの選挙区でも富裕層が有権者となるよう条件付けられていた。都市選挙区は産業革命以前の遺物であるため、近代の人口分布と相容れず極端に有権者数が少ない選挙区が多かった。ここから出馬する貴族は簡単に有権者を支配して全投票を独占することができ、これを「腐敗選挙区」と呼んだ。
 この頃ウィカム選挙区選出の議員が別の選挙区に立候補するため議員辞職し、それに伴う補欠選挙がウィカム選挙区で行われることとなったため、ベンジャミン・ディズレーリは旧選挙法の下で出馬した。初代ブルワー・リットン男爵エドワード・ジョージ・アールはベンジャミン・ディズレーリの対立候補が立たないよう骨折りしてくれたが、結局ホイッグ党が首相グレイ伯の息子グレイ(Charles Grey)大佐を対立候補として擁立した。一方この選挙区で勝つ見込みがなかったトーリー党は、父親が熱心なトーリー党員であるベンジャミン・ディズレーリの出馬を歓迎していた。ベンジャミン・ディズレーリはこの補欠選挙で「私は1ペニーも公金を受けたことがない。また1滴たりともプランタジネット朝の血は流れていない。自分は庶民の中から湧き出た存在であり、それゆえに少数の者の幸福より大多数の幸福を選ぶ。」と急進派らしい演説をした。しかしウィカム選挙区は典型的な「腐敗選挙区」であり、有権者は32人のみで このうち20票をグレイ大佐が獲得し、対するベンジャミン・ディズレーリは12票しか取れず落選した。
 選挙に立候補すると、状況は一変し、ユダヤ出自が攻撃材料になった。演説会では当然猶太非難の野次が飛び、対立候補の手下は竿の先にベーコンの切り身を突き刺し、彼の鼻先で揺らす嫌がらせをした。ベーコン(豚肉)は回教でも猶太教でも忌避すべき食物であるため、この行為は彼がユダヤ出自であることを恰好の攻撃材料にした嫌がらせだった。議席争いに勝つため対立候補たちは、人々の意識下に蠢き始めた反ユダヤ感情を呼び覚まそうとした。それは中世耶蘇教会が広めた、宗教の違いに根差す反ユダヤ主義とは別物だった。耶蘇教に改宗した後も、当該人物をユダヤ出自の故に執拗に排撃し続ける、新たな反ユダヤ主義だった。後のナチズムに至る、人種を根拠とした近代反ユダヤ主義である。

 これに対し彼が採った対抗策は、寛容の精神を説いたり、自身が「英国人プロテスタント」であることを証明したりする代わりに、誇張された「ユダヤ人種優越論」を唱えることで対抗した。「ユダヤ人は英国民のために相応しい指導力を行使できる『選ばれし人種』である。」と主張し、英国社会の諸制度はユダヤ的価値観に根差す。」と説いた。人種に対する思い入れは著しい。彼の小説に度々登場する全知・全能の登場人物、シドニア(半分はセファルディーム猶太ディズレーリ自身、もう半分はシュケナジーム猶太ロスチャイルド家の当主を体現している。)をして「人種こそ全てだ!」と宣言せしめるほどであった。対抗策に人種論を持ち出したことは、当時、胎動を始めた歐州思想界の鬼子、人種論的近代反ユダヤ主義に何某かの根拠を与える結果となった。つまりディズレーリは人種論的近代反ユダヤ主義の最初の被害者であると同時に、その増幅に一役買った。
 妄想と思われる人種論に塗れていたのは彼ばかりではなかった。当時、歐州に生きた多くの知識人も、人種こそ歴史や政治を動かす原動力と見做していた。ベンジャミン・ディズレーリが政界の反ユダヤ主義に対抗するために「ユダヤ人種優越論」を捏造した。ベンジャミン・ディズレーリが「ユダヤ人種優越論」を宣伝し始める時期が、ロスチャイルド家と親密な関係を築き始める時期と一致している。ユダヤの誇りを強く抱くロスチャイルド家に取り入るため「ユダヤ人種優越論」を唱え始めた。
 西暦1832年12月に庶民院が解散され、新選挙法の下での総選挙が行われた。新選挙法の下でのウィカム選挙区の有権者数は298人だった。ベンジャミン・ディズレーリは引き続き急進派の立場で「イギリス国民は、比類なき大帝国の中に生きている。この帝国は父祖の努力によって築き上げられたものだ。しかし今、この帝国が危機を迎えようとしている事を英国民は自覚せねばならない。ホイッグだのトーリーだの党派争いをしてる時ではない。この2つの党は名前と主張こそ違えど、国民を欺いているという点では同類だ。今こそ国家を破滅から救う大国民政党を創るために結束しよう。」と演説し、公約として秘密投票や議員任期3年制の導入、「知識税(紙税)」反対、均衡財政、低所得者の生活改善などを掲げた。この選挙でもトーリー党はウィカム選挙区には候補を立てず、ベンジャミン・ディズレーリに好意的な中立の立場を取った。そのためディズレーリはホイッグ党支持者から「似非急進派」、「偽装トーリー」として批判されたが、彼は「私は我が国の良い制度を全て残すという面においては保守派であり、悪い制度は全て改廃するという面においては急進派なのだ。」、「偽装トーリーとは政権についている時のホイッグ党のことである。」と反論したベンジャミン・ディズレーリは最下位の得票で落選した。
 トーリー党は、西暦1832年以降の西暦1830年代の組織改革の結果、保守党(Conservative Party、正式名称: 保守統一党(Conservative and Unionist Party)が改名した。西暦1834年秋にホイッグ党の政権が倒れ、12月に庶民院が解散され西暦1835年01月に総選挙となった。ベンジャミン・ディズレーリはこの選挙に保守党での出馬を考え、保守党幹部初代リンドハースト男爵ジョン・シングルトン・コプリー(John Singleton Copley, 1st Baron Lyndhurst, PC, QS, FRS)と接触したが、結局保守党からの出馬はならず、再び急進派の無所属候補としてウィカム選挙区から出馬した。リンドハースト男爵ジョン・シングルトン・コプリーの骨折りで保守党から500ポンドの資金援助受けての出馬となったが、結局前回と同様に3人の候補の中で最低の得票しか得られず落選した。
 ジョン・シングルトン・コプリーこの選挙後の西暦1835年01月17日にリンドハースト男爵ジョン・シングルトン・コプリー主催の晩餐に出席し、そこで後の政敵であるウィリアム・ユワート・グラッドストン(William Ewart Gladstone PC FRS FSS)と初めて出会った。ウィリアム・ユワート・グラッドストンはすでに西暦1832年の総選挙で当選を果たしており、この頃には25歳にして第一大蔵卿(首相)を補佐してあらゆる政府の事務に参与する下級大蔵卿の職位に就いていた。ベンジャミン・ディズレーリはその日の日記の中でウィリアム・ユワート・グラッドストンへの嫉妬を露わにしている。一方ウィリアム・ユワート・グラッドストンのその日の日記にはベンジャミン・ディズレーリについて何も書かれておらず、後にベンジャミン・ディズレーリとの初めての出会いを質問された時にウィリアム・ユワート・グラッドストンは「異様な服装以外には何の印象も受けなかった。」と述べた。
 3度の落選を経てベンジャミン・ディズレーリは「無所属には限界がある。」と悟った。西暦1835年01月に保守党党首、初代ウェリントン公アーサー・ウェルズリー(Arthur Wellesley, 1st Duke of Wellington, KG, GCB, GCH, PC, FRS)に手紙を送り、「今の私は取るに足らない者です。しかし私は貴方の党のために全てを差し出すつもりです。どうか私を戦列にお加えください。」と懇願した。初代ウェリントン公アーサー・ウェルズリーの計らいでベンジャミン・ディズレーリは保守党の紳士クラブ、カールトン・クラブ(Carlton Club)に名を連ねることを許された。さらに同年トーントン選挙区選出の議員の辞職に伴う補欠選挙に保守党はベンジャミン・ディズレーリを党公認候補として出馬させることにした。これまで「党派に所属しない。」と言いながら結局保守党の候補になったベンジャミン・ディズレーリは変節者として激しい批判を受けた。この選挙戦中、「ベンジャミン・ディズレーリがダニエル・オコンネルを扇動者・叛逆者として批判した。」という報道が為され、ダニエル・オコンネルはかつて推薦状を書いてやった若造の裏切りに激怒し、激しく批判した。これに対しベンジャミン・ディズレーリは「名誉を傷つけられた。」として決闘を申し込んだが、ダニエル・オコンネルは昔決闘で人を殺めたことがあり、2度と決闘しないという誓いを立てていたため躊躇った。結局そうこうしてるうちに警察が介入してベンジャミン・ディズレーリは果たし状を取り下げる羽目になった。ただこの件はベンジャミン・ディズレーリにとって売名になった。この頃のベンジャミン・ディズレーリの日記にも「ダニエル・オコンネルとの喧嘩のお蔭で名前を売ることができた。」と書かれた。しかし結果は落選であった。
 選挙活動と並行してベンジャミン・ディズレーリは小説家としても活発に活動したが、大した儲けにはならなかった。しかもこの頃ベンジャミン・ディズレーリは社交界の女性ヘンリエッタと交際するようになっており、その交際費、また選挙活動の費用で支出が増えていた。ヘンリエッタは、大手醸造会社の社長の令嬢で、東インド会社の高給取り社員、フランシス・サイクス准男爵の妻で、フランシス・サイクスはベンジャミン・ディズレーリとヘンリエッタの関係を許可していた。生活費に困るようになり、友人オースチンから借金をし、さらにオースチンが止めるのも聞かず、スウェーデン公債の販売に関する事業に携わって失敗し、多額の借金を背負った。西暦1836年〜1837年にとりわけベンジャミン・ディズレーリが自堕落な生活を送っていた。債権者から追われる日々を送り、何度も金の無心に来るベンジャミン・ディズレーリにオースチンも我慢の限界に達した。オースチンは繰り返し返済の催促をし、「一度も返済しないなら法的手段に訴える。」と脅した。
 西暦1837年06月に国王ウィリアム4世が亡くなり、18歳の姪ヴィクトリア(Victoria)がハノーヴァー朝6代女王(後に初代インド皇帝(女帝))に即位した。当時の慣例で新女王の即位に伴って議会が解散され、西暦1837年07月に総選挙が行われることとなった。この選挙でディズレーリは保守党候補の当選が比較的容易なメイドストン選挙区からの出馬を許された。この選挙区は2議席を選出し、しかもホイッグ党は候補者を立てていなかった。急進派の候補が出馬していたが、保守党は「2議席とも取れる。」と踏み、ウィンダム・ルイス(Wyndham Lewis)とベンジャミン・ディズレーリの2人を候補として擁立し、07月27日の選挙のメイドストン選挙区はウィンダム・ルイスとベンジャミン・ディズレーリが当選を果たした。ベンジャミン・ディズレーリは5年間に5度選挙に出馬した末に、ようやく庶民院初当選を果たした。
 選挙後、「ホイッグ党の首相第2代メルバーン子爵ウィリアム・ラム(William Lamb, 2nd Viscount of Melbourne, PC, FRS)はアイルランド選出議員の支持を取り付けて政権を維持しようとするだろう。」と予想された。そのため、西暦1837年12月07日、アイルランド選出議員の代表者ダニエル・オコンネルの演説後に議場の演壇に立ったベンジャミン・ディズレーリは、ダニエル・オコンネル批判の処女演説を行った。これにはアイルランド選出議員が激しく反発し、ベンジャミン・ディズレーリの演説は嘲笑と野次に晒された。ベンジャミン・ディズレーリが何か話すたびに議場から笑いが起こる有様だった。保守党党首第2代準男爵サー・ロバート・ピール(Sir Robert Peel, 2nd Baronet, PC, FRS)さえも声援を送りながらも笑いを堪えていた。ベンジャミン・ディズレーリは怒りを抑えきれず、「いつの日か、皆さんが私の言葉に耳を傾ける日が来るでしょう。」と大声で叫んで演壇を去った。
 西暦1838年03月14日、ベンジャミン・ディズレーリと同選挙区選出のウィンダム・ルイス議員が突然死した。ベンジャミン・ディズレーリは悲しみの淵に沈む未亡人メアリー・アン・ルイス(旧姓エヴァンズ)の所へ通った。メアリーは、デボンシャーで農業を営む中産階級のエヴァンズ家に生まれ、西暦1815年にウェールズの旧家出身で製鉄所の経営者であるウィンダム・ルイス(西暦1820年から庶民院議員)との結婚を通じて上流階級に顔を出すようになったが、子供が出来ないまま夫と死別し、夫の遺した終身年金を受けるようになった。当時メアリーは45歳でディズレーリより12歳年上だった。裕福な未亡人を後援者にすべく、ジゴロを目指したベンジャミン・ディズレーリは、関係を深めて07月末には結婚を申し込んだが、メアリーは「夫の1周忌が過ぎるまで返事は待ってほしい。」と回答した。ベンジャミン・ディズレーリは当時借金で首が回らなかったため、この結婚は彼女の終身年金目当てと噂された。1周忌が過ぎると彼女も結婚に応じ、08月28日にハノーヴァー・スクエアのセント・ジョージ教会で挙式した。

 ヴィクトリア女王は大英帝国が世界中で悪行で7つの海を制した頃の酋長で、ヴィクトリアの後ろには常にロンドン・ロスチャイルド2代目ライオネルとその長男ナサニエルがピッタリと影のように寄り添い、ロスチャイルド家は陰で「ヴィクトリアの金庫番」と呼ばれるほど王室に癒着した。即ち、アシュケナージム猶太ロスチャイルドと王室のDS(ディープステイト)の悪魔が勃興した。ヴィクトリアは親切で頼りになるロスチャイルド家が独自に作り上げた情報網を何も疑うことなく利用していた。そのためヴィクトリアの、そして大英帝国の動向は全てロスチャイルド家に筒抜けになっていた。ヴィクトリアが21歳の時、鬼畜イギリス王国は人倫を無視し、鬼畜ユダヤ人とその手先の狂犬スコットランド人の利権のため、清にアヘン戦争を仕掛けた。インドでアヘン作って売っていたのはセファルディーム猶太サスーン商会で、そのアヘンを清から買う紅茶や絹、陶磁器の支払いにあてていたのがアシュケナージム猶太ロスチャイルド家の代理人スコットランド人ジャーディン・マセソン商会だった。私企業が仕組んだあまりにも汚い戦争だったため英議会も紛糾。でも、得たものが巨大だったので最後は皆黙り込んだ。突然多額の賠償金と香港が転がり込んできた。ヴィクトリアも悪い気はしなかったはずだ。その2年後の西暦1844年、ピール銀行条例が可決され、ロスチャイルドの下僕と化していたイングランド銀行が通貨発行権を独占する中央銀行となった。通貨発行権の掌握はロスチャイルドの悲願で、その第一歩となるのがこのピール銀行条例だった。その後、ヨーロッパの中央銀行が次々と彼らの手に落ちていった。しかし恐らくヴィクトリアはそれが何を意味するのか、未来にどんな禍根を残すか、他の国民同様、全く理解していなかった。その後、中央銀行の通貨発行権を少しでも脅かすと、猶太に暗殺され屍が横たわった。

アヘン(阿片)戦争(支那語: 鴉片戰爭、第1次鴉片戰爭、英語: First Opium War)
 
 アヘン(阿片)は芥子(ケシ)の実に傷をつけ、そこから滲み出てきた乳液から作られる薬である。昔から麻酔薬として使われてきた。支那では清の時代に、アヘンを薬としてではなく、煙草のように煙管を使って吸うことが流行した。アヘンは吸い続けると中毒になり、やがて廃人になってしまうという恐ろしい化学物質(麻薬)である。
 元々清は西暦1757(乾隆22)年以来広東港でのみヨーロッパ諸国と交易を行い、公行という北京政府の特許を得た商人にしかヨーロッパ商人との交易を認めてこなかった(広東貿易制度)。一方ヨーロッパ側で支那貿易の大半を握っているのはイギリス東インド会社であり、同社は現地に「管貨人委員会」(Select Committee of Supercargoes)という代表機関を設置していた。しかし北京政府はヨーロッパとの交易を一貫して「朝貢」と認識していたため、直接の貿易交渉には応じようとしなかった。そのため管貨人委員会さえも公行を通じて「稟」という請願書を広東地方当局に提出できるだけであった。
 英東インド会社は西暦1773(乾隆38)年にベンガルアヘンの専売権を獲得しており、ついで西暦1797(嘉慶02)年にはその製造権も獲得しており、これ以降同社は支那への組織的なアヘン売り込みを開始していた。北京政府はアヘン貿易を禁止していたが、地方の支那人アヘン商人が官憲を買収して取り締まりを免れつつ密貿易に応じたため、アヘン貿易は拡大していく一方だった。西暦1823(道光03)年にはアヘンがインド綿花に代わって支那向け輸出の最大の商品となり、収入の20%がアヘンになった。広東貿易の枠外でのアヘン貿易の拡大は、広東貿易制度の崩壊に繋がることとなった。
 イギリス東インド会社の対支那貿易特許は西暦1834(道光14)年に失効し、独占体制は終了して、これまで同社の下請等の形で貿易活動を行っていた個人貿易商に委ねられることとなった。これに伴い、同年、イギリス政府は、東インド会社の管貨人委員会に代わり現地で自国商人の指導・監督を行う貿易監督官を派遣することとした。初代監督官には第 9 代ネイピア男爵ウィリアム・ジョン(William John Napier, 9th Lord Napier, Baron Napier、支那語: 律勞卑)が任命され、ネイピア男爵ウィリアム・ジョンは清の両広総督との直接の接触を目指したが、性急な実現に固執したため紛争化し、武力衝突を招き失敗した。当時のイギリス王国は、茶、陶磁器、絹を大量に清から輸入していた。一方、イギリス王国から清へ輸出されるものは時計や望遠鏡のような富裕層向けの物品はあったものの、大量に輸出可能な製品が存在しなかったため、イギリス王国の大幅な輸入超過であった。イギリス王国は産業革命による資本蓄積やアメリカ独立戦争の戦費確保のため、銀の国外流出を抑制する政策を取った。そのためイギリス王国は植民地のインドで栽培した麻薬であるアヘンを清に密輸出する事で超過分を相殺し、三角貿易を整えた。
 支那の明代末期からアヘン吸引の習慣が広まり、清代の西暦1796(嘉慶01)年にアヘン輸入禁止となった。以降西暦19世紀に入ってからも何度となく禁止令が発せられたが、アヘンの密輸入は止まず、国内産アヘンの取り締まりも効果がなかったので、清国内にアヘン吸引の悪弊が広まっていき、健康を害する者が多くなり、風紀も退廃していった。また、人口が西暦18世紀以降急増したことに伴い、治安が低下し、自暴自棄の下層民が増えたこともそれを助長させた。アヘンの代金は銀で決済したことから、アヘンの輸入量増加により貿易収支が逆転し、清国内の銀保有量が激減し後述のとおり銀の高騰を招いた。清では、この事態に至って、官僚の許乃済から「許太常奏議」といわれる「弛禁論」が上奏された。概要は「アヘンを取り締まる事は無理だから輸入を認めて関税を徴収したほうが良い。」というものである。しかしこの主張に対しては多くの強い反論が提出され論破された。その後、「アヘンを厳しく禁止し吸引した者は死刑に処すものとすることで、風紀を粛正しアヘンの需要も消滅させ銀の国外流出も絶つ。」とする「厳禁論」が黄爵滋から上奏され、道光帝はアヘンを厳禁にした。
 北京の清政府内でアヘン禁止論が強まっていた西暦1836(道光16)年、イギリス外相パーマストン子爵は現地イギリス人の保護のため、植民地勤務経験が豊富な外交官チャールズ・エリオットを清国貿易監督官として広東に派遣した。またパーマストン子爵は海軍省を通じて東インド艦隊に対し、清に対する軍事行動の規制を大幅に緩めるのでチャールズ・エリオットに協力するよう通達した。ただし、未だアヘン取り締まりが始まっていないこの段階ではパーマストン子爵も直接の武力圧力を掛けることは禁じていた。林則徐は西暦1838(道光18)年に欽差大臣(特命全権大臣)に任命され広東に赴任し、アヘン密輸の取り締まりに当たった。西暦1839(道光19)年03月に広東に着任した林則徐はアヘンを扱う商人からの贈賄にも応じず、現地の総督・巡撫や軍幹部らと協力してアヘン密輸に対する非常に厳しい取り締まりを行った。1839年(道光19年)には、広州の外国商人たちに、「今後、一切アヘンを清国国内に持ち込まない。」という旨の誓約書を同年3月21日までに提出した上保有するアヘンも供出するよう要求し、「今後アヘンを持ち込んだ場合は死刑に処する。」と通告した。これをイギリス商人や貿易監督官チャールズ・エリオット(Charles Elliot)が無視し期限を経過したため、林則徐は彼等の滞在するイギリス商館に官兵を差し向けて包囲し、保有するアヘンの供出を約させた。大量のアヘンの没収・収容には同年04月11日〜05月18日までを要し、林則徐らはこれを06月03日〜06月25日まで掛かって現地で処分した[。焼却処分では燃え残りが出るため、専用の処分池を建設し、アヘン塊を切断して水に浸した上で、塩と石灰を投入して化学反応によって無害化させ、海に放出した。処分中、石灰との反応により処分池の塩水は煙を上げた。処分は公開で行われ、煙を上げる光景は絵にも描かれ、この煙を上げる絵などから、後年、この処分について、「焼却」と誤り伝えられることもあった。この時に処分したアヘンの総量は1400tを超えた。
 林則徐による一連のアヘン取り締まりが始まると、チャールズ・エリオットはイギリス商人の所持するアヘンの引き渡しの要求には応じたが、誓約書の提出は拒否し、05月24日には広東在住の全イギリス人を連れて澳門(マカオ)に退去した。急速な事態の進展に東インド艦隊も事態を掴んでおらず、軍艦を派遣してこなかったため、チャールズ・エリオットの元には武力がなかった。抗議の意思表示であったが、清国側には何ら弊害とはならなかった。この当時澳門は清国領であり、南蠻ポルトガル王国は公式には澳門に関する権利を一切有しておらず、居住を事実上黙認されているに過ぎなかった。そのため南蠻ポルトガル王国の澳門総督は清国側の行政権行使を拒否することはできなかった。林則徐は、外国商人の来航・交易自体を禁止することは非現実的で不可能であることを理解しており、目的は外国商人の追放ではなく、アヘン禁絶を誓約させ、合法的な商業活動に専念させることにあった。アメリカ商人をはじめとするイギリス以外の商人の多くは、元々アヘンとの関わりが少なく、清国当局に誓約書を提出して商業活動を続けた。
 この状況下で林則徐は、イギリス側のアヘン禁絶誓約に向けてさらに圧力を加えることとし、また九龍半島で発生したイギリス船員による現地住民殺害事件の捜査をチャールズ・エリオットが拒否したこともあり、08月15日に誓約書を提出しない在澳門イギリス人への食料供給を禁じ、商館の支那人使用人の退去を命じた。チャールズ・エリオットは依然としてアヘン禁絶誓約に応じず、チャールズ・エリオット以下イギリス人は08月26日に澳門も放棄して船上へ避難することになった。
イギリス側には「このとき林則徐はイギリス人の殺害を図り、井戸に毒を入れた。」とする風説があり、イギリス側による文献には事実のように捏造されていることがあるが、実際には林則徐は食料供給の禁止と使用人退去を命じたに過ぎない。イギリス人退去後も澳門には南蠻ポルトガル人が従前同様に居住しているが、井戸の毒による健康被害など発生していない。また、林則徐が求めたのはアヘン禁絶の誓約と住民殺害事件の捜査・犯人引き渡しであるにも拘わらず、それを拒否して全員の船上への退去を決めたのはチャールズ・エリオットである。ここに至る一連のチャールズ・エリオットの対応の結果、イギリス商人は広州との直接貿易が完全に断たれ、アメリカ商人を介さなければならなくなり、極めて高額の中継運賃負担等の不利益を強いられることとなった。この頃アメリカ商人がイギリス商人に要求した香港沖泊地ー広州間の中継運賃単価は、サンフランシスコー広州間の運賃単価をも上回る著しく高額のものだった。
 ここでようやく東インド艦隊のフリゲート艦(「ボレージ」、「ヒヤシンス」)が2隻だけ到着したが、チャールズ・エリオットと清国の揉め事を察知したわけではなく、パーマストン子爵の方針に従いたまたま来ただけであり、しかも6等艦というイギリス海軍の序列では最下等の軍艦であった。だがチャールズ・エリオットはこの2隻を使って早速に反撃を試みた。09月04日にチャールズ・エリオットは九龍沖で清国兵船に砲撃を行ったが、清国側はイギリス船への食料密売を一部黙認したのみで、アヘン禁絶誓約を求める方針を変えなかった。その後10月初め頃までには、清国側は食料供給禁止等を解除し、イギリス人は澳門に復帰した。誓約書問題を一時棚上げして広州港外の虎門で貿易を再開する提案がなされたが、清国側は応じなかった。チャールズ・エリオットは、全ての自国商人に対し、清国当局へのアヘン禁絶誓約書の提出を禁じ続けていたが、林則徐ら清国側は、むしろ誓約書提出の上でアヘン以外の通常の商業活動を行うことを当初から勧奨しており、イギリス商人の中でもアヘンに関わっていない者にはチャールズ・エリオットへの不満が高まっていた。
 10月に入ってからは、正当な貿易品であるインド綿花やジャワ米を積んで来航したイギリス商船が、チャールズ・エリオットに従わず、清国当局に誓約書を提出した上、一部は広州入港を果たすという事態が発生した。清国側は、イギリス側をさらにアヘン禁絶誓約に動かすことを狙い、未誓約者に解禁したばかりの食料供給等を再び禁止し、チャールズ・エリオットに対して誓約書提出の圧力を強めた。
チャールズ・エリオットは、西暦1839(道光)年10月末に、2隻のフリゲート艦を率いて川鼻沖で誓約書提出済みの自国商船の広州入港を妨害し、さらに11月03日には清国兵船への攻撃を開始した(川鼻海戦)。清国側は広東水師提督関天培が督戦し、南蠻ポルトガル製の艦砲を搭載した艦を含む29隻の兵船が出動したものの、ボレージ号に損傷を与えたのみで、大半の兵船が自力航行不能の損害を受けた。
 一方イギリス本国も外相パーマストン子爵の主導で対清開戦に傾いており、西暦1839(道光19)年10月01日にメルバーン子爵内閣の閣議において遠征軍派遣が決定した。「アヘンの密輸」という開戦理由に対しては、清教徒的な考え方を持つ人々からの反発が強く、イギリス本国の庶民院でも、野党保守党のウィリアム・ユワート・グラッドストン(後に自由党首相)らを中心に「不義の戦争」とする批判があった。ウィリアム・ユワート・グラッドストンは議会で「確かに支那人には愚かしい大言壮語と高慢の習癖があり、それも度を越すほどである。しかし、正義は異教徒にして半文明な野蛮人たる支那人側にある。」と演説して途轍もなく汚い正義なき戦争、アヘン戦争に反対した。他方ウィリアム・ユワート・グラッドストンは「支那人は井戸に毒を撒いても良い。」という過激発言も行い、答弁に立ったパーマストン子爵はこの失言を見逃さず、「グラッドストン議員は野蛮な戦闘方法を支持する者である。」と逆に追及して彼をやり込めた。清に対しての出兵に関する予算案は賛成271票、反対262票の僅差で承認された。この議決を受けたイギリス海軍は、イギリス東洋艦隊を編成して派遣した。総司令官兼特命全権大使には、チャールズ・エリオットの従兄のジョージ・エリオット(George Elliot KCB FRS)が任命され、チャールズ・エリオットは副使となった。
 西暦1840(道光20)年08月までに軍艦16隻、輸送船27隻、東インド会社所有の武装汽船4隻、陸軍兵士4000人が支那に到着した。イギリス艦隊は林則徐が大量の兵力を集めていた広州ではなく、より北方の防備が手薄な地域に向かい、舟山列島を攻略した後、長駆首都北京に近い天津沖へ入った。天津に軍艦が現れたことに驚いた道光帝は、林則徐に開戦の責を負わせて新疆イリへ左遷し、和平派のキシャン(満洲語: ᡣᡞᡧᠠᠨ、kišan、g善)を後任に任じてイギリスに交渉を求めた。
イギリス軍側も台風の接近を警戒しており、また舟山列島占領軍の間に病が流行していたため、これに応じて09月に一時撤収した。この間イギリス側は、清国との交渉方針を巡って両エリオットの対立が激化し、特命全権大使のジョージ・エリオットは11月29日に病気と称して帰国してしまった。西暦1841(道光21)年01月20日にはキシャンとチャールズ・エリオットの間で川鼻条約(広東貿易早期再開、香港割譲、賠償金600万ドル支払い、公行廃止、両国官憲の対等交渉。後の南京条約と比べると比較的清に好意的だった)が締結された。ところがイギリス軍が撤収するや清政府内で強硬派が盛り返し、道光帝はキシャンを罷免して川鼻条約の正式な締結も拒否した。チャールズ・エリオットも、本国に無断で舟山列島を返還したため罷免となり、後任の特命全権大使にヘンリー・ポッティンジャー(Henry Pottinger, 1st Baronet, GCB, PC)が任命され、西暦1841(道光21)年08月11日に着任した。
 首脳陣が交代したイギリス軍は、本国の方針により軍事行動を再開した。イギリス艦隊は廈門、舟山列島、寧波など揚子江以南の沿岸地域を次々と制圧していった。三元里事件での現地民間人の奮戦や、虎門の戦いでの関天培らの奮戦もあったが、完全に制海権を握り、火力にも優るイギリス軍が自由に上陸地点を選択できる状況下、戦争は複数の拠点を防御しなければならない清側正規軍に対する、一方的な各個撃破の様相を呈した。とくに「ネメシス」号を始めとした東インド会社汽走砲艦の活躍は目覚ましく、水深の浅い内陸水路に容易に侵入し、清軍のジャンク兵船を次々と沈めて、後続の艦隊の進入を成功に導いた。広州では広東水師提督関天培が戦死し、鎮海・寧波陥落時には浙江方面防衛責任者の両江総督兼欽差大臣ユキャン(洲語: ᡳᠣᡳᡴᡳᠶᠠᠨ、ioikiyan、裕謙)が自決した。浙江戦線では清軍は増援を受けて反撃を試みたが、失敗した。
 イギリス艦隊は台風に備えて1841(道光21)〜1842(道光22)年にかけての冬の間は停止したが、西暦1842(道光22)年春にインドのセポイ6700人、本国からの援軍2000人、新たな汽走砲艦などの増強を受けて北航を再開した。05月に対日貿易港の乍浦を、次いで揚子江口の呉淞要塞を陥落させて揚子江へ進入を開始し(ここでも汽走砲艦が活躍)、07月には鎮江を陥落させた。イギリス軍が鎮江を抑えたことにより京杭大運河は止められ、北京は補給を断たれた。呉淞では江南提督の陳化成(が戦死し、乍浦・鎮江では駐防八旗兵が壊滅した。また乍浦や鎮江ではイギリス軍による大規模な住民虐殺・婦女暴行・掠奪が発生した。この破滅的状況を前に道光帝ら北京政府の戦意は完全に失われた、西暦1842(道光22)年08月29日、両国は南京条約に調印し、アヘン戦争(第1次アヘン戦争)は終結した。

 以前、清国は広東(広州)、福建(厦門)、浙江(寧波)に海関を置き、外国との海上貿易の拠点として管理貿易(公行制度)を実施していた。南京条約では公行制度(一部の貿易商による独占貿易)を廃止し自由貿易制に改め、従来の3港に福州、上海を加えた5港を自由貿易港と定めた。加えて本条約ではイギリスへの賠償金の支払及び香港(香港島)の割譲が定められた。また、翌年の虎門寨追加条約では治外法権、関税自主権放棄、最恵国待遇条項承認などが定められた。このイギリス王国と清国との不平等条約の他に、アメリカ合衆国との望厦条約、オルレアン朝(西暦)1830〜1848年)フランス王国との黄埔条約などが結ばれた。
 この戦争をイギリス王国が引き起こした目的は、東アジアで支配的存在であった清を中心とする朝貢体制の打破と、厳しい貿易制限を撤廃して自国の商品をもっと支那側に買わせることであった。しかし、結果として清国・イギリス間における外交体制に大きな風穴を開けることには成功したものの、経済的目的は達成されなかった。支那製の綿製品がイギリス製品の輸入を阻害したからである。これで満足しなかったイギリス王国は次の機会を窺うようになり、これが第2次アヘン戦争とも言われるアロー号戦争へと繋がった。この戦争の結果として締結された南京条約には、アヘンについて一言も言及しなかったため、終戦後も外国からのアヘンの流入と銀の流出が止まらなかった。清国の政府はこれに対抗するために、主に西北部と西南部での芥子の種植とアヘンの生産を奨励した政策を打ち出した。国内でのアヘンの生産増加により銀の流出が止まらなかった状況はだいぶ改善され、外国産アヘンの相場も総崩れとなったが、国内のアヘン利用者が爆発的に増加したという大きな弊害が招かれた。
 
 アヘン戦争は清側の敗戦であったが、これについて深刻な衝撃を受けた人は限られていた。北京から遠く離れた広東が主戦場であったことや、中華が異民族に敗れることは歴史上に多く見られたことがその原因であった。広東システムに基づく管理貿易は廃止させられたものの、清は、依然として中華思想を捨てておらず、イギリスをその後も「英夷」と呼び続けた。
 しかし、一部の人々は、イギリスがそれまでの支那史上に度々登場した「夷狄」とは異なる存在であることを見抜いていた。例えば林則徐と親交のあった魏源は、林則徐が収集していたイギリス王国やアメリカ合衆国の情報を託され、それを元に「海国図志」を著し、「夷の長技を師とし以て夷を制す。」という一節は、これ以後の支那の辿った西欧諸国の技術・思想を受容して改革を図るという形式を端的に言い表した。この書は東アジアにおける初めての本格的な世界紹介書であった。それまでにも地誌はあったが、西ヨーロッパ諸国については極めて粗略で誤解に満ちたものであったため、詳しい情報を記した魏源の「海国図志」は画期的であった。ただし、この試みはあくまでも魏源による個人的な作業であって、政府機関主導による体系的な事業、例えば日本の江戸幕府が長崎を拠点に行ったようなものではなかった。魏源による折角の努力も後継者不在の為発展せず、支那社会全体には大して影響を及ぼさず阿Qの世界のまままであった。


アヘン(鴉片)戦争 山崎雅弘 戦史ノート - 山崎雅弘
アヘン(鴉片)戦争 山崎雅弘 戦史ノート - 山崎雅弘

 清朝の敗戦は、長崎に入港していたオランダ王国や清の商船員を通じて幕末の日本にも伝えられた。西洋諸国の軍事力が東洋に比して、圧倒的に優勢であることがいよいよ明白になったため、大きな衝撃をもって迎えられた。かつて強国であったはずの清の敗北は、さらにその先の東アジアへ進出するための西洋の旗印となる危機的な懸念があり、速やかな国体の変革が急務であることを日本に悟らせた。清国内では重要視されなかった魏源の「海国図志」もすぐに日本に伝えられ、吉田松陰や佐久間象山ら、幕末における重要人物に影響を与え、改革の機運を盛り上げる一翼を担った。林則徐の抱いた西洋列強への危惧は、支那ではなく日本において活かされることになったのである。天保14(西暦1843年)には、昌平坂学問所にいた斎藤竹堂が「鴉片始末」という小冊子を書き、清国の備えのなさと西洋諸国の兵力の恐るべきことを憂えた。それまで、異国の船は見つけ次第砲撃するという異国船打払令を出すなど、強硬な態度を取っていた江戸幕府も、この戦争結果に驚愕した。同時期に、日本人漂流民を送り届けてくれた船を追い返すというモリソン号事件が発生したこともあり、天保13(西暦1842)年には、方針を転換して、異国船に薪や水の便宜を図る薪水給与令を新たに打ち出すなど、欧米列強への態度を軟化させた。この幕府の対外軟化が、やがて開国の大きな要因となり、ペリー来寇、明治維新を齎した。

新装版 阿片戦争シリーズ全4冊合本版 - 陳舜臣
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サッスーン家

 スペインに起源を持つセファルディーム猶太で、家名のサッソン(ヘブライ語: שָׂשׂוֹן、「喜び」の意)は、メソポタミア起源であることを強く示している。サッソンという姓は、現テュルコのメソポタミア北部のヴァン湖の西にあるサッソン山岳地帯(家名と部族名の由来)に起源を持つ多くのクルド人家系や部族にも共通している。
スペインのセファルディームの血が、主にメソポタミアのユダヤ人サッスーン家に混ざっている可能が高い。
 サッスーン家の祖先も、代々、イスラーム帝国の都であったバグダッドの名家で、オスマン朝(西暦1299〜1922年)テュルコの支配下で、西暦18世紀にメソポタミアに擡頭した人の金満一家で、オスマン朝治世下にあってオスマン朝によって任じられたバグダードの「ヴァリ」と呼ばれる地方長官の下で、主任財政官の地位を務めるほどの政商で、ユダヤの酋長(シェイク)と見做されていた。サッソン家の起源は現イラクのバグダードとしている場合が多いが、現シリアのアレッポという説もある。
 インドのムンバイに移り、その後支那、イギリス、その他の国に移住した。支那、インド、香港でのサッソン家の事業は、特にアヘン貿易で利益を上げるために築かれた。家族がロンドンに集まるにつれ、サッソン家はイギリスで有名になり、ヴィクトリア女王から貴族に叙せられた。西暦18世紀以降、サッソン家は世界で最富裕層の一族となり、アジア大陸全体に広がる企業帝国を築いた。金融とアヘン取引で莫大な富を蓄積したことから、サッソン家は「東洋のロスチャイルド」と呼ばれる。

 サッソン・ベン・サレハ(Sason Ben Saleh)はバグダードと現イラク南部を支配したパシャの主任財政官を務め、同市のユダヤ人社会を率いる資産家で酋長(シェイク)だった。ところが西暦18世紀後半になると、バグダードでは猶太教徒に対する圧迫が強まり、西暦19世紀前半には当主のサッスーン・ベン・サレハは一時酋長の地位を追われた。
 西暦1826年、サッソン・ベン・サレハの息子のデイヴィッド・S.・サッスーン(David S. Sassoon、ダーウィード・ベン・サッスーン)は、バグダードで活動して酋長の地位を引き継いだ、交易によって益々その富を蓄え、そこからインドへ進出した。デイヴィッド・サッスーンとジョセフ・サッスーン(Joseph Sassoon)の兄弟は、新しく来た非友好的なヴァリのダウード・パシャ(Dawud Pasha)によるユダヤ人迫害に抗議したため身に危険が迫ってきた。
 西暦1828年、デイヴィッド・サッスーンはサッスーン家を挙げて老父を伴い、夜陰に乗じてバグダードを脱出し、バスラに移住した。バスラは別のヴァリが統治していたが、ここもサッスーン一家にとって安住の地ではなく、間もなくシャトルアラブ川(チグリス川とユーフラテス川が合流した川)の対岸、ペルシャ湾の港町ブーシェフルヘと再度移住した。ブーシェフルは当時ペルシアにおける英東インド会社の拠点となっており、インドヘの道が開かれていた。
西暦1832年、デイヴィッド・サッスーンは商用でインドのムンバイ(ボンベイ)を訪れ、イギリス王国の勢力を目のあたりにした。熟慮の末、同年デイヴィッド・サッスーンはムンバイに移住を果たした。当時のムンバイ(ボンベイ)は、人口20万人、ユダヤ人も2200人を数え、発展の時期を迎えていた。産業革命後、イギリスのランカシャー綿製品がインドに流入していた。イギリス王国は、アジアとの貿易を行うため、西暦1600年に「東インド会社」を作ったが、この英東インド会社の貿易独占も廃止され、商機が広がっていた。
 ムンバイでデイヴィッド・S.・サッスーン商会を設立しアヘンを密売し始めた。英東インド会社からアヘンの専売権を取ったサッスーン商会は、支那で売り払い、途轍もない利益を上げ、支那の銀を運び出した。アヘン密売で莫大な富を築いたデイヴィッド・サッスーンは「アヘン王」と呼ばれた。「サッスーン財閥」はヨーロッパ列国に、第一級の功績を立てさせたアヘン密売人だった。彼はイギリス紅茶の総元締めでもあり、麻薬と紅茶は、サッスーンの手の中で同時に動かされていた。支那とインドのアヘン貿易における家族の支配的地位を固め、イギリス王国の東洋貿易に多大の貢献をした。
 デイヴィッド・S.・サッスーンはムンバイでユダヤ人社会を率い、同胞のユダヤ人に対し、私財を惜しげもなく慈善事業に投じた。同地やプーナ、故郷のバグダードなどに同胞のために病院やシナゴーグ、学校を建設するなど慈善活動も行った。ムンバイでは英語での教育を施すEEE高等学校やサッスーン病院を設置した。その後、イギリス王国にも進出した。各支社にラビを置いた。アジア全土で学校、孤児院、病院、博物館を建設する慈善活動も行った。デイヴィッド自身は生涯英語を話せず、バグダード時代からのアラブ風の生活様式で生涯を過ごしたが、息子のアブドゥッラーにはイギリス人としての教育を施した。
 西暦1861年、バグダードに猶太教に基づく学校「タルムード・トラー」を設立し、猶太教徒の養成に資した。バグダードから連れてきた人材が現地採用するという方針を執った。サッスーン商会の幹部職員はこのユダヤ学校から採用された。彼らはインド、ビルマ、マラヤ、東アジアの様々な支社の機能を果たした。
「サッスーン財閥」は、「イギリス帝国主義の尖兵」であり、「海の交易路のユダヤ商人」である。支那、特に香港における家族の事業は、アヘン事業に投資するために立ち上げられた。彼の事業は支那にまで広がり、上海の外灘(Bund)にあるサッスーンハウス(現ピースホテル北棟)は有名な目印となった。

 アヘンを大量に送り込まれた支那では、アヘンが大流行して社会問題となり、やがて、清がアヘン輸入禁止令を出したことに端を発したアヘン戦争が勃発した。清と戦ったイギリス王国の商船は大砲を持っていた。当時のアヘン貿易において重要な位置を占めていた。敗れた清は、南京条約により上海など5港の開港と香港の割譲、さらに賠償金2億1000万両を支払わされ、イギリス王国をはじめ列国の支那侵略の足掛かりになった。アヘン戦争で清が敗北すると、ヨーロッパの国々は競ってアジアに進出した。清はイギリス王国以外の外国の国々とも不平等な条約を結ぶことになってしまった。肝心のアヘンについては条約では一切触れられることなく、依然としてアヘンの流入は続いた。この頃、イギリス王国の綿製品がインドヘ、インドのアヘンが支那へ流入するという「三角貿易」が形成されてきていた。この経路に乗って「サッスーン商会」はイギリス王国にも支店を開設し、ランカシャー綿の輸入などにあたったほか、「アヘン貿易」に従事した。
 「アヘン王」、デイヴィッド・S.・サッスーン
は、イギリス王国の世界市場展開に伴ってアジア市場に参入したかに見えるが、事実は逆で、既に大航海の初発、即ち西暦15世紀末のヴァスコ・ダ・ガマの「インド航路発見」の時、インドでヴァスコ・ダ・ガマを迎えたのはハンガリーから来たユダヤ人であった。デイヴィッド・サッスーンがバグダードを脱出しムンバイで成功を収めることができたのも、インド洋交易圏に広がるユダヤ人の交易網を通じたからであった。そしてイギリス王国がアジア市場に進出してきたのも、大航海以前に既にそこに存在していた、支那からインドを経てアラビア世界に至る交易圏を前提にしていた。
 その後は英領香港(西暦1842〜1997年)、上海にも支店を構えた。さらに、南北戦争(西暦1861〜1865年)によりアメリカ綿花の取引が途絶えたのを機に、「インド綿花」を輸出して巨利を上げた。これらの功績が認められて、西暦1853年にイギリス国籍を取得したが、バグダード時代からのアラブ化したユダヤ人として終生アラブ風の習慣を改めることはなかった。彼はアラビア語、ヘブライ語、ペルシア語、テュルコ語、後にはヒンドスタン語をも解したが、英語を習得することはなかった。息子のアブドゥッラーたちにはイギリス人としての教育を施し、息子のアブドゥッラーは後にアルバートと改名し、イギリス王国に渡ってケンジントン・ゴア準男爵の爵位を得た。西暦18世紀、サッスーン家は世界で最も裕福だった一族の1つだった。デイヴィッド・S.・サッスーンは西暦1864年に死去したが、「サッスーン商会」は綿花ブーム後の不況をも乗りきり、2代目アルバート・サッスーンの下で発展を続けた。
 デイヴィッド・S.・サッスーンの8人の息子たちも様々な方向に事業を展開した。サッスーン家は支那とインドでの海運業とアヘン貿易に深く関わった。最初の妻との間に生まれた息子、エリアス・デイヴィッド・サッスーン(Elias David Sassoon)は、西暦1844年に息子たちの中で最初に支那に渡った。彼は後にムンバイに戻り、西暦1867年に会社を離れ、ムンバイと上海に事務所を置くE.D.サッスーン&カンパニーを設立した。
 もう1人の息子、アルバート・アブドゥッラー・デイヴィッド・サッスーン(Albert Abdullah David Sassoon) は、父の死後、会社の経営を引き継ぎ、ムンバイのサッスーン商会は2代目アルバート・サッスーンの下で工業への投資に力を入れるようになった。西暦1885年以後、サッスーン商会は7つの紡績工場、1つの毛織物工場を持ち、インド西部で最初に建設された係留ドックであるサッスーン・ドックを建設した。インド工業化に大きな役割を果たした企業の1つと評価されるようになった。「インドでサッスーンが産業資本の性格を持つ。」という事実は、上海におけるサッスーン家の活動とは好対照をなす。彼は2人の兄弟と共に後にイギリス王国で著名人となり、家族は後のエドワード7世(Edward VII)となるアルバート・エドワード(Albert Edward)王太子の友人となった。またアルバート・サッスーンは親子2代にわたる多大な慈善事業が評価されて、西暦1872年、ケンジントン・ゴア準男爵(ナイト)の爵位を得た。この爵位は上海のサッスーン家にも引き継がれた。
 一家の娘レイチェル・ビア(Rachel Beer、旧姓: Sassoon)は夫と共に、サンデー・タイムズやオブザーバー(編集も担当)など、イギリス王国の新聞社を数多く経営した。
 イギリス王国に定住した者のうち、アルバート・アブドゥッラー・デイヴィッド・サッスーンの息子エドワード・アルバート・サッスーン卿(Sir Edward Albert Sassoon, 2nd Baronet)はアシュケナージユダヤのフランスロチルド家のアライン・キャロライン・ド・ロチルド(Aline Caroline de Rothschild, Lady Sassoon)と結婚し、西暦1899年から死去するまで保守党の庶民院議員を務めた。その後、庶民院議員の議席は息子のフィリップ・サッスーン卿(Sir Philip Albert Gustave David Sassoon, 3rd Baronet, GBE, CMG )が西暦1912年から死去するまで継承した。フィリップ・サッスーンも庶民院議員、ケンジントン・ゴア準男爵。第1次世界大戦で陸軍元帥陸軍元帥初代ヘイグ伯ダグラス・ヘイグ(Douglas Haig, 1st Earl of Haig, KT, GCB, OM, GCVO, KCIE)の軍事秘書を務め、西暦1920年代〜1930年代にかけてイギリス王国の空軍担当国務次官を務めた。西暦20世紀のイギリスの詩人で、第1次世界大戦で最もよく知られた詩人の1人であるジークフリート・サッスーン(Siegfried Sassoon)は、デイヴィッド・サッスーンの曾孫で、第1次世界大戦の前線での体験を基にした反戦詩などで有名になった。ロバート・グレーヴス(Robert von Ranke Graves)やウィルフレッド・エドワード・ソールター・オーエン(Wilfred Edward Salter Owen)と親交を結び、特に後者には強い影響を与えた。
 デイヴィッド・S.・サッスーンの他の子孫で
サクス・コバーグ・ゴータ朝(ウィンザー朝)(西暦1901年〜)イギリス王国(グレートブリテン及び北アイルランド連合王国(西暦1927年〜))の銀行家で財務省商務長官のサッスーン男爵ジェームズ・マイヤー・サッスーン(James Meyer Sassoon, Baron Sassoon, FCA)は、国際調査報道ジャーナリスト連合 (ICIJ) と加盟報道機関によって、西暦2017年11月05日一斉に公表された、タックス・ヘイヴン取引に関する約1340万件の電子文書群=パラダイス文書(Paradise Papers)で、西暦2007年にケイマン諸島の非課税信託基金2億3600万ドルの受益者の1人として言及され、「その基金はイギリス起源ではない。」と主張した。
 ラビの伝統を引き継いだ子孫は、レッチワースからロンドンへ、そして西暦1970年にエルサレムへ移住した、ソロモン・デイヴィッド・サッスーン(Solomon David Sassoon)によって代表される。彼は猶太教の書籍や原稿を収集し2巻に纏めたデイヴィッド・ソロモン・サッスーン(David Solomon Sassoon)の息子。これらの大部分は、イギリス王国ロンドンにある大英図書館に、一部は、カナダ(西暦1867年〜)のトロントにあるトロント大学図書館に保管されている。これらの貴重な作品は、現在アメリカ合衆国には保管されていない。
 デイヴィッド・ソロモン・サッスーンは、西暦1901年にインドからイギリス王国に移住し、ロンドンの自宅に有名なサロンを開いたヘブライ文献学者、フローラ・アブラハム(Flora Abraham)の息子。デイヴィッド・S.・サッスーンの曾孫、フローラ・アブラハムには、アイザック・S.・D.・サッスーン(saac S. D. Sassoon)とデイビッド・ソロモン・サッスーンという2人の息子がおり、どちらもラビである。アイザック・S.・D.・サッスーンは、現在セファルディーム猶太界を代表する学者の1人でヘブライ語、アラビア語を話しながら育った。

 デイヴィッド・サッスーンが三角貿易展開のため東アジアを重視し、華南の商業圏に参入したことは、「サッスーン商会」の転換点となった。「南京条約」(アヘン戦争に敗北した清朝が南京でイギリス王国と結んだ条約)締結後の西暦1844年、デイヴィッド・サッスーンは次男のエリアス・サッスーンを広東に派遣した。次いでエリアス・サッスーンは香港に移動し、西暦1845年には上海支店を開き、後には日本の横浜、長崎その他の都市にも支店網を広げた。そして上海が「サッスーン商会」第2の拠点となった。支那におけるユダヤ人の足跡も、イギリス王国の世界市場展開を遥かに遡る。西暦10世紀からユダヤ人は開封に存在した。彼らは完全に支那人に同化しながら清代にまで生き延び、西暦1652年にはシナゴーグ(猶太教会堂)を再建していた。
 エリアス・サッスーンの弟アーサー・サッスーンは西暦1865年、「香港上海銀行(HSBC)」の設立にも参加し、支那での活動の地歩を固めた。
 しかしデイヴィッド・サッスーンの死後、「サッスーン商会」の管理権はユダヤの慣習に従って長子アルバート・サッスーンが継承したので、
エリアス・サッスーンアスは西暦1872年、別会社として「新サッスーン商会」を設立した。上海の「サッスーン商会」の活動は、この新会社が中心となった。「新サッスーン商会」の活動は次の3期に分けられる。
第1期は西暦1872〜1880年、「アヘン貿易」を中心とする時期。
第2期は西暦1880〜1920年、エリアス・サッスーンの子ヤコブ・サッスーンとエドワード・サッスーンの時代で、不動産投資に精力が注がれた。
第3期は西暦1920年以後、エドワード・サッスーンの子、ボンベイ準男爵ヴィクター・サッスーン(Victor Sassoon)は、ホテル経営者。ダーウィードの曾孫。ダービーの勝ち馬ピンザの馬主。ヴィクター・サッスーンが不動産だけでなく、各種の企業にも盛んに投資し、上海の産業を独占していった時期。

 西暦19世紀の新旧「サッスーン商会」の営業は、何といっても「アヘン輸入」が中心である。この点は、他の外国商社と比較しても際立っている。開港間もない西暦1851年、上海に入港した外国商社の船のうち、ジャーディン・マセソン、デント、ラッセルの3大商社のうち、イギリス王国系の前3社はいずれもアヘン輸入を本業としたが、サッスーン家の船2隻に至ってはアヘンのみを搬入し、空船でインドに帰っている。西暦1870〜1880年代にはインドアヘン輸入の70%はサッスーン家が独占した。サッスーン家の強さは、他社とは違い、アヘンをインドの産地で直接買い付けたことにあった。
 デイヴィッド・サッスーンの孫ヤコブ・サッスーンの代になると、アヘンは輸入品目首位の座を綿製品に譲り、国際的にもイギリス王国内でもアヘン禁止の声が高まり、西暦1908年には支英禁煙協約が締結された。それでもサッスーン家がアヘン取引に拘ったことは、西暦1920年代の「新サッスーン商会」の文書からも明らかである。アヘン禁止による価格の上昇が巨利を齎したからである。
 サッスーンという名のユダヤ人の有力な銀行家は、西暦1916年04月のクート・アル・アマラ包囲戦の終結時にオスマン朝によって絞首刑に処された。彼はデイビッドの分家かジョセフ・サッスーンの一族の一員であった可能性が高い。
 ジョセフ・サッスーンは最初にギリシャのテッサロニキに行き、その後シリアのアレッポに行き、そこで商店を設立した。その後、彼の事業はアレクサンドリア、カイロ、モロッコ、イタリアに広がり、船会社や両替所も経営した。彼の 5 人の息子は様々な方向に事業を展開した。
 ジョセフ・サッスーンの息子、モーゼス・サッスーン(Moses Sassoon)は西暦1852年にバグダードに戻り、その後エジプトに移り、そこで金融会社ジョセフ・サッスーン・アンド・サンズを設立した。この会社は後に拡大し、エジプトのクレディ・フォンシエの代理店となった。西暦1871年、モーゼス・サッスーンの息子ジェイコブ・サッスーン(Jacob Sassoon)はエジプト最大の綿花農園所有者の 1 人となり、綿花工場を所有した。兄のルーベン・サッスーン(Ruben Sassoon)は、アメリカの南北戦争中にエジプト綿花をイギリス王国に輸出して財を成し、当時エジプト最大の綿花輸出業者となった。西暦1927年、ヤコブ・サッスーンはミスル銀行や他のエジプトの実業家と共にミスル紡績織物会社(アラビア語: شركة مصر للغزل والنسيج)を設立した。この会社はミスル・ヘルワン、あるいはエル・ガズル工場としても知られ、会社の株式の61%を所有していた。ヤコブ・サッスーンはジョセフ・ヴィータ・モッセリ(Joseph Vita Mosseri)と共にエジプトのクレディ・フォンシエも設立した。息子のニッシム・ジョセフ・サッスーン(Nissim Joseph Sassoon)は建築家であり、トリエステ総督府ビルを設計した。ニッシム・ジョセフ・サッスーンは不動産投資家、開発業者でもあり、カイロの比類ない成長と、そのような拡大が土地の価値に与えるであろう有利な影響を予見していた。彼が投資した不動産の多くが、イスマイリアの優雅なヨーロッパ人街の中心地やカスル・アル・ドゥバラの最高級地区、そして後にガーデンシティ、ザマレク、ギザにあったのは驚くことではない。西暦1952年、ニッシム・ジョセフ・サッスーンの息子エリアウ(エリアス)・ニッシム・ジョセフ・サッスーン(Eliau (Elias) Nissim Joseph Sassoo)は、モーリス・ジョセフ・カタウイ(Maurice Joseph Cattaui)と共にバンク・デュ・ケールを設立した。
 エリアウ(エリアス)・ニッシム・ジョセフ・サッスーン(ヘブライ語: : אליהו נסים אליאו יוסף ששון) は、常にエリアスと呼ばれ、裕福な建築家、商人銀行家、不動産開発者であるニッシム・ジョセフ・サッスーンとメソウダ・サッスーン (Messouda Sassoon、旧姓: シャマシュ(Shamash))の子としてシリアのアレッポで生まれた。エリアス・サッスーンはジョセフ・サッスーンの最も影響力があり最も裕福な子孫で、西暦1940 年に、彼は名門の寄宿学校であるビクトリア・カレッジに通うためにアレクサンドリアに送られ、その後、西暦1946年に家族の事業に加わり、アレクサンドリアにある家族の会社で働いた。当時、家族が所有していた多くの資産の中には、バーマ石油、トルコ石油会社、アングロ・イラニアン石油会社、繊維工場、大規模な綿花輸出事業、ギリシャ商工総合会社(後のアッティカ・エンタープライズ・ホールディング S.A.) とアトラス海事の資産があった。西暦1947年、エリアス・サッスーンは中東を席巻していた新興の石油探査産業、海運業、銀行業という3つの主要分野に焦点を絞った。父親から5000ポンドを借りて、エリアス・サッスーンはロックフェラーのスタンダード・オイルに投資し、家族の既存の同社資産を増やした。同年、彼はジャック・ボホル・ヤコブ・レヴィ・ド・メナシェ男爵(Baron Jacques Bohor Yacoub Levi de Menashe)の孫娘、ハンナ・ロシェル・ジャック・サッスーン(Hannah Rochel Jacque Sassoon、旧姓: ド・メナシェ(de Menasche))と結婚した。
 エリアス・サッスーンの曽祖父のモーゼス・サッスーンはソコニー・バキューム石油会社の投資家だった。同社は後にスタンダード・オイルと提携し、中東の石油埋蔵量に市場を提供した。西暦1906年、ソコニー(後のモービル)はサッスーン財閥の援助で資金を確保し、アレクサンドリアに最初の燃料ターミナルを開設した。エリアス・サッスーンは熱心なシオニストで、第2次世界大戦の恐怖から逃れるユダヤ人難民を乗せた難民船を地中海で封鎖したイギリス王国をユダヤ人の友人とは考えていなかった。イギリス王国の政治体制における組織的な反ユダヤ主義と、ドイツ国(西暦1871〜1945年、ドイツ第3帝国(西暦1933〜1945年、ナチス・ドイツ)から逃れてきたユダヤ人難民に対するイギリス王国の政策のため、エリアス・サッスーンは、「世界中のユダヤ人に対して行われた残虐行為について、ドイツ国と同様にイギリス政府も責任がある。」と考えた。エリアス・サッスーンは、ヨーロッパからユダヤ人を密輸し、後にユダヤ国家の復活となるイスラエル国(西暦1948年〜)へ移送するのを支援するため、物資と資金を提供した。エリアス・サッスーンは、ギリシャの著名な船主一族レモス家のレオ・レモス船長(Leo Lemos)の援助を受け、ユダヤ人難民をイギリスの封鎖からイスラエル国への密航を支援するため、船の費用を支払い保護を手伝った。エリアス・サッスーンは、パレスチナへのユダヤ人移民に関するイギリス内務省と委任統治領の政策に違反したため、イギリス王国の犯罪捜査局に何度も逮捕された。西暦1952年、彼は幼馴染みのモイーズ・ジョセフ・モーリス・カタウイ(Moise Joseph Maurice Cattaui)と共にバンク・デュ・ケールを設立した。その頃までにエリアス・サッスーンは家族の事業をフランス共和国第4共和政(西暦1946〜1958年)、ブラジル連邦共和国(西暦1822年〜)、英自治領南アフリカ連邦(西暦1910〜1961年)、アメリカ合衆国に拡大し、西暦1800年代から綿花を輸出し、貿易拠点を維持していた。
 サッスーン家は「メソポタミア(現在のシリアとイラク)に相当量の石油埋蔵量がある。」と信じ、イラク石油会社(IPC)の前身であるトルコ石油会社(TPC)の初期投資家となった。モーゼス・サッスーンは、ベルリンーバグダード鉄道の建設にすでに関与していたドイツ国の銀行や企業の利益を確保した最初の人物の1人で、その資金調達に積極的に関与した。このドイツ国の利益に続いて、モーゼス・サッスーンの兄弟であるデイヴィッド・ソロモン・サッスーンがオスマン帝国でロスチャイルド家の代理人になった時に、イギリス王国の利益も獲得した。 西暦1911年、この地域で競合する英国とドイツ国の利害を統合しようと、サッスーン財閥は銀行と企業で構成される英国投資家の共同事業体(コンソーシアム)を結成し、アフリカおよび東部租界株式会社を設立した。西暦1953年、エリアス・サッスーンはこれらの利害関係の情報網を駆使して、家族の利害関係を拡大し、アフリカの鉱業権も取得した。

 西暦1957年、ガマール・アブドゥル・ナーセル(アラビア語(フスハー): جمال عبد الناصر‎、Jamāl ʿAbd al-Nāṣir(ガマール・アブド・アン・ナースィル)、エジプト方言(アーンミーヤ): Gamāl ʿAbd el-Nāṣer(ガマール・アブド・エン・ナースィル)、Gamal Abdel Nasser、ジャマール(ガマール)は「美、美しさ」の意、アブド・アン・ナースィル(アブドゥンナースィル)は「援助者たる者(アッラー)の下僕」の意)率いるエジプト革命後の新政府は、特に英国とフランス共和国の全てのヨーロッパの企業と銀行を国有化した。政府はまた、外国人とユダヤ人をエジプトから追放し始めた。
 中東のユダヤ人社会は再び、重大な危険、不法投獄、正当な手続きを経ない恣意的な逮捕、ポグロム、そしてユダヤ人社会が家を放棄し、無国籍になることを余儀なくされる反ユダヤ主義政策に直面した。差別政策の対象となった多くのユダヤ人は、スーツケース 1 つを持って国を離れることを余儀なくされ、ほとんどのユダヤ人の資産と財産は革命評議会によって押収された。サッスーン家も資産没収の対象となり、西暦1966年にエリアス・サッスーンとその妻はアレクサンドリア港に連行され、国外追放された。エジプト国籍だったエリアス・サッスーンの妻は非市民とされ、エジプト政府の宣言によりエリアス・サッスーンのシリア国籍は剥奪された。2人は渡航許可証(旅行書類)を与えられ、ギリシャ行きの船に乗るよう命じられた。しかし、アレクサンドリア大学の医学生だった息子のシュロモ・(ソロモン)・エリアス・サッスーン(Shlomo (Solomon) Elias Sassoon)は出国を拒否された。
 エジプト政府は「エリアス・サッスーンが家族の銀行網を利用して、ユダヤ人社会の構成員の資産を国外に密輸するのを手助けした。」と非難した。エジプト政府は「こうして、エジプト国民の犠牲の上に外国人とユダヤ人が蓄積した資産をエジプト国庫から奪った。」と主張した。
これらの資産は、国内での貿易や再投資を通じて1世紀以上にわたって合法的に取得されたものだが、政府は、息子の出国を許可する前にエリアス・サッスーンにヨーロッパに保有する資産を返還するよう要求した。シュロモ・サッスーンは、フランス政府とギリシャ王室の介入と、合わせて、400万ポンドに上る身代金を支払い、西暦1971年に妻のジョセフィーヌ・セリーヌ・エステル(Josephine Celine Esther、旧姓: カッタウイ(Cattaui))は家族の許に返された。ジョセフィーヌ・セリーヌ・エステル・サッスーンはモイーズ・ジョセフ・モーリス・カタウイの娘で、西暦1966年に家族が国外追放された後、出国を拒否されていた。
 エリアス・サッスーンは、西暦1961年にモイーズ・ジョセフ・モーリス・カタウイと共に、西暦1956年にスイスのローザンヌで設立されたサッスーン・ファミリー・トラストの資産を使って、スイスで私有の家族所有のヘッジファンド(機関投資家や富裕層など特定の投資家から私募により資金を集め、運用する投資ファンド)、サッスーン・カッタウイ・インベストメント・ホールディング(後のプロビデンス・グループ)を設立した。西暦1983年に出資者らは会社をキュラソー(オランダ領アンティル諸島)に移転し、同社は私有の家族投資ファンドとして運営され、SECへの登録やドッド・フランク改革法に基づく報告義務の遵守は求められていない。ファンド設立当時、西暦1961年に運用されていた資産総額は2500万ポンドだった。ファンドは、米国、カナダ、ヨーロッパの商業用不動産、貴金属、石油・ガス、証券に投資した。また、通貨市場やエネルギー市場でも投機を行っており、保有銘柄には BHP、ル・メリディアン・ホテル、アメリカン・エキスプレス、ゼネラル・モーターズ、ウェルズ ファーゴ、HSBC、リーマン ブラザーズ、エクソン・モービル、コノコ・フィリップス、フェンディ、ジョルジオ・アルマーニ、サン・マイクロ・システムズ、ミッドランド・バンク、株式仲買会社フランケル・ポラック(後に南アフリカ共和国(西暦1961年〜)に拠点を置くサッスーン家の銀行であるサッスフィン銀行に売却)などがある。エリアウ(エリアス)・ニッシム・ジョセフ・サッスーンが亡くなった当時、このファンドは1000億ドル以上の資産を管理していた。その殆どはサッスーン家とカタウイ家の資産で、現在はサッスーン家継続信託(Sassoon Family Continuation Trust)によって管理されている。

 今現在、サッスーン商会(Sassoon & Co.)はサッスーン家両家の唯一存続している会社であり、個人資産および投資銀行会社として、投資管理、企業金融および貿易金融、世界的助言サービスを顧客に提供している。同社は米国およびイスラエル国市場に重点を置き、米国、イスラエル国、アフリカで複合材料、石油・ガス、金融サービス、鉱業、食糧安全保障に投資している。スイスのUBSに売却される前にデイヴィッド・サッスーン商会(David Sassoon & Co Ltd.)の残りの資産を取得した後、同社は経営陣を交代し、ブランドを変更し、本社をスイスから米国に移転した。同社は現在、サッスーン継続信託の事業部門である、サッスーン財務集団(Sassoon Financial Group LLC)が所有している。デイヴィッド・シュロモ・サッスーンが非執行会長を務めている。同社はその貿易の伝統を忠実に守りながら、銀行業務および資本市場に深く関与し、他の投資会社、個人資産銀行、多国籍金融機関の中でその何世紀にも渉る血脈を活用している。


サッスーン財閥の資産調査報告 (1939年) (資料〈丙 第70号 D〉) - 東亜研究所
サッスーン財閥の資産調査報告 (1939年) (資料〈丙 第70号 D〉) - 東亜研究所


 ローマ帝国(西暦前27〜1453年)がアルプス以北に進出する以前からのヨーロッパの先住民族、ケルト人(Celt, Kelt、古代ローマで単に「未知の人」の意)は、ローマ帝国の支配を受ることによって独自性を失い、さらにゲルマン人に圧迫されたためアイルランドやスコットランド、ウェールズなどの一部に残るだけになった。西暦前8世紀頃から、大ブリテン島(イギリス)、ガリア(後のフランス)、イベリア半島(スペイン)、アナトリア(小アジア)、ギリシアにも進出したが、多くの部族に分かれ、対立をくり返していた。西暦前4世紀初めにはケルト人の一派が北イタリアに侵入し、さらに南下して一時はローマの都市国家を占領した。この時ケルト人は賠償金を得て撤退した。前3世紀にはバルカン半島に侵入し、ギリシアを経て西暦前278年には小アジアまで至った部族もあった。
 ケルト人がブリテン島に流入してきたのは西暦前7世紀頃のことで、西暦前55年、共和制ローマ(西暦前509〜前27年)の(ガイウス・ユリウス・カエサル(Gaius Iulius Caesar、Juliusとも)が侵入、西暦43年には4代ローマ皇帝ティベリウス・クラウディウス・ネロ・カエサル・ドルスス(Tiberius Claudius Nero Caesar Drusus)によってブリテン島の大部分が占領された。ブリテン島のケルト人はいくつかの部族に別れていたが、その中で最も有力だったのがブリトン人(英語: Britons, Brythons)であった。そのため、ただし、スコットランド、アイルランド地域にはローマ帝国の支配は及ばず、この地域のケルト人が度々イングランドに侵入したが、ピクト人 (羅語: Picti、彩色した刺青をしていたため。)などがあまりに兇暴で、町外れに「ハドリアヌスの城壁」という長城が建設された。これがイングランドとスコットランドの境界となった。ローマ帝国はこの地域を「ブリタンニア」と呼んだ。これが現在のブリテン島の起源であり、ブリタニア支配の拠点として「ロンディニウム」を建設した。これが現在のロンドンの起源となっている。ローマ人は在地のケルト人をブリトン人と呼んだ。
 西暦5世紀になるとゲルマン人の侵入が始まりローマ帝国に混乱が広まった。西暦409年にローマ帝国がブリタニアを放棄した後、現在のデンマーク、北部ドイツ周辺にいたゲルマン人の一派のアングロ・サクソン人(アングル人・ジュート人・サクソン人)が、ブリテン島南部に侵攻した。これがアングロ・サクソン人で、彼らの言葉が英語の基礎となった。先住のケルト系ブリトン人を支配し、ケルト文化を駆逐した。元々住んでいたケルト系ブリトン人はアングロ・サクソン人に征服され同化し、一部はコーンウォール、ウェールズ、スコットランドに押し出される形になった。ブリトン人は粘り強く抵抗を続けた。その時のブリトン人の英雄として、アーサー王物語が生まれた。しかし、ブリトン人は次第に西方の高地地帯に逃れ、さらに海峡を渡って大陸に移住した。その地が現在のフランスのブルターニュ地方であり、その地と区別するために、島を大ブリテンと言うようになった。
 アングル人(英語: angle、羅語: Angli)またはアンゲルン人、アンゲル人(独語: Angeln, Angel ; 蘭語: Angelen)は、西方系ゲルマン人の一種族であり、ユトランド半島南部に位置するアンゲルン半島(ドイツのシュレースヴィヒ・ホルシュタイン州の一部)の一帯に住んでいた部族。ジュート人(英語: Jutes、独語: Jüten)は、西方系ゲルマン人の一部族で、原住地は、ジュート人が住む地の意味のユトランド半島北部やヴェーゼル川河口の地域。 サクソン人(英語: Saxon、またはザクセン人(独語: Sachsen、低ザクセン語: Sassen、低フランク語、蘭語: Saksen)は、北ドイツ低地で形成されたゲルマン系の部族である。現在のドイツのニーダーザクセン地方を形成する部族。
 ブリテン島に侵入したアングロ・サクソン人は、アングル人のノーサンブリア王国(西暦653〜954年)、アングル人のマーシア王国(西暦527〜918年)、アングル人のイーストアングリア王国(西暦6世紀〜918年)、サクソン人のエセックス王国(東サクソン王国)(西暦527〜825年)、サクソン人のウェセックス王国(西暦6世紀〜1016年)、ジュート人のケント王国(西暦455年頃〜871年)、サクソン人のサセックス王国(西暦477年〜825年)などの7つの王国を建設し、覇権を争った。このイングランドに7つの王国が並立した西暦829年までの380年間を7王国時代(英語: Heptarchy、ヘプターキー)と言う。7王国時代の初めに有力だったのはアングル人の王国であった。そのため、ローマ人はこの地はアングル人の土地と言う意味で「アングリア(Anglia)」と呼んだ。このアングリアをアングロ・サクソン風にイングランドとなった。西暦9世紀初めには、ウェセックス王エグバート(英語: Egberd、古代英語: Ecgberht、またはEcgbryht)の下で、サクソン人のウェセックス王国が強大となって、イングランド全域を支配した。それ以降、一時期はデーン人に支配され、デンマーク王の下にあった。アングロ・サクソン人はその後また、イングランドを支配した。西暦1066年、ノルマンディー公ギヨーム2世(Guillaume II)(ウィリアム1世(英語: William I、古代英語: Willelm I、古代ノルマン語: Williame I、ウィリアム征服王(William the Conqueror)。庶子王)によるノルマン征服(Norman Conquest)まで続いた。 ブリテン島西部のウェールズにはブリトン人の住民も多く、西暦1536年にはイングランドに併合されたが今も分離独立の動きは続いている。
 アイルランドのケルト人をゲール人という。この語はローマ人がブリトン人をグイールと呼んでいたことから、アイルランドのケルト人が自らをゲール人と言ったことによる。彼らは西暦前5世紀頃、アイルランドに侵入した。ドルイド信仰など独自の文化を持っていた。ローマ帝国の支配は及ばなかったが、西暦5世紀に耶蘇教化が進み、カトリック信仰が定着した。西暦8世紀からはヴァイキングが海岸地方に侵攻し、一部は都市に定住するようになって混血が進んだが、ゲール人の独自の言語はゲール語として存続した。しかし西暦12世紀のヘンリ2世に始まるイングランド王によるアイルランド侵略により、次第にイングランドからの入植者に支配されるようになった。近代において、アイルランドは特に宗教的自由を求めてイギリス王国からの分離独立を求める運動が激化し、アイルランド民族運動の柱の1つにはゲール人の言語であるゲール語の復興が掲げられ、西暦1893年には、後のアイルランド初代大統領、ダグラス・ハイド(英語: Douglas Hyde、愛語: Dubhghlas de hÍde)は「ゲール同盟」を結成した。西暦1937年にアイルランド自由国(西暦1922〜1937年)は国号をエールに変更したが、それはゲール語でアイルランドを意味していた。西暦1949年に成立したアイルランド共和国(西暦1949年〜)もゲール語を公用語として掲げたが、実際に日常的に使われているのは西部の一部に限られている。
 アイルランドの北東部海岸地方にいたゲール人の一部族のスコット人(英語: Scots)は、西暦6世紀頃ブリテン島の西海岸を荒らし回るようになった。古アイルランド語で「荒らす」、「掠奪する」ことを「スコティ」と言ったことから、彼らはスコット人と言われるようになった。スコット人はやがて同じケルト系のピクト人とともにブリテン島北部に定住し、その地は西暦9世紀にはスコットランドと言われるようになった。彼らはスコットランド王国(最初はアルバ王国またはアラパ王国(現代ゲール語表記::Alba、古ゲール語表記:Albu)(西暦6世紀頃〜11世紀頃)と呼ばれた。)を作り、その南部のアングロ・サクソン人、ノルマン人の建てた国と長く抗争しながら、独自の文化を形成していった。スコットランドの南側がローランド(低地)地方で中央政府があり、北側がハイランド(高地)地方で、比較的穏健で英国の言うことにも素直に従うローランドと、反抗的で野蛮なハイランドからなり、ケルト文化が色濃く残るのは(当然ながら)ハイランド地方で、現在でも6万人ほどケルト系のゲール語を話す。


JardineMatheson.jpgジャーディン・マセソン商会
 
 英東インド会社を前身とする元は貿易商社。西暦1832年、ケルトの野蛮なスコットランド出身のイギリス東インド会社元船医で貿易商人のウィリアム・ジャーディン(英語: William Jardine、支那語: 威廉・渣甸)と同じくケルトの野蛮なスコットランド出身の初代準男爵ジェームズ・ニコラス・サザーランド・マセソン(英語: Sir James Nicolas Sutherland Matheson, 1st Baronet FRS、支那語: ・姆士・馬地臣(勿地臣))が、支那(清)の広州にある人工島の沙面島に設立したアヘン密貿易商社。支那語名は「怡和洋行」。
当時、広州はヨーロッパ商人に唯一開かれた貿易港であった。
 ジャーディン・マセソン商会の設立当初の主な業務は、支那・清で販売が禁止されていたアヘンをインドから支那に密輸して、支那で生産された茶をイギリス王国への輸出することだった。ジャーディン・マセソン商会はイギリス王国のアヘン密貿易商の1つだった。
 多数のアヘン中毒患者で溢れた支那と、支那へのアヘン密輸と販売で巨額の利益を得ていた、西暦1840年に、恥を知らない悪魔のイギリス王国との間でアヘン戦争が始まると、本社を当時無人島だった香港に移した。
 アヘン戦争後に設立された「香港上海銀行(HSBC)」は、ジャーディン・マセソン商会、サッスーン商会、デント商会、ラッセル商会など悪名高きイギリス王国のアヘン商人が、清でのアヘン密輸・販売で得た利益を香港からイギリス本国へ送金する業務を行なっていた銀行である。


 スコットランドローランド(低地)地方のダンフリーズシャー州ロックメイベン近郊のブロードホームの百姓アンドルー・ジャーディン(Andrew Jardine)とエリザベス(Elizabeth、旧姓: ジョンストン(Johnstone))の三男、ウィリアム・ジャーディンの父アンドルー・ジャーディンは彼が9歳の時に亡くなり、家族は経済的に困窮した。家計のやり繰りに苦労しながらも、兄デイヴィッドが学費を負担し、ウィリアムはエディンバラ大学医学部を卒業し、英東インド会社にの外科船医の助手として東インド商船ブランズウィック号に乗船した。この最初の航海で、麻薬密売商人としての将来を担うことになる同じ船団のグラットン号の外科船医トーマス・ウィーディング(Thomas Weeding)と26歳のユグノー系英国帰化人チャールズ・マグニアック(Charles Magniac)に出会った。チャールズ・マグニアックは西暦1801年の初めに広州に到着し、父親の時計業をダニエル・ビール(Daniel Beale)と共同で経営し、最古のイギリス企業であるチャールズ・マグニアック商会を設立した。
 英東インド会社では従業員に個人貿易の内職が許され、上級船員に箪笥2個分の空間もしくは積載量約100ポンド (45kg)分の「貨物特権」が割り当てられた。ウィリアム・ジャーディンは、抜け目無く、割り当てに関心がない他の船員の空間も借り受けて、カシア(シナニッケイ)、コチニール、ムスク(麝香)の取引でかなり蓄財した。
 西暦1817年に英東インド会社を退職したウィリアム・ジャーディンは引退した外科医トーマス・ウィーディングとアヘンと綿花の貿易業者フラムジ・カワスジ・バナジ(Framji Cowasji Banaji)と提携した。
「アヘンを輸送せず、自由貿易業者に任せる。」という英東インド会社の方針によって利益を上げた。ウィリアム・ジャーディンは有能で堅実で経験豊富な個人貿易業者としての評判を確立した。ムンバイ(ボンベイ)でのウィリアム・ジャーディンの代理人の1人で、生涯の友人となったのは、パーシー人のアヘンと綿花の貿易業者の初代準男爵ジャムセトジー・ジェジーボイ(Jamsetjee Jejeebhoy, 1st Baronet, CMG, FRAS、JeejeebhoyともJeejebhoyとも綴る)だった。2人は、フランス船の乗組員が強制的にブランズウィック号に乗り込んだ時に居合わせた。ジャムセトジー・ジージーブホイはウィリアム・ジャーディンの親しい共同経営者として長く付き合い、西暦1990年代にジャーディン・マセソン商会香港支店にジャムセトジー・ジージーブホイと支那人秘書の肖像画が飾られたのは、その功績を讃えたものであった。
 ムンバイ(ボンベイ)のカワスジ・ ウィーディング・ジャーディン商会の貿易業務担当を皮切りに、西暦1823年にチャールズ・マグニアック商会の共同経営者になるまで複数の貿易商を掛け持ちした。西暦1824年に好機が到来した。広東の2大代理店の1つであるチャールズ・マグニアック商会が混乱に陥った。パリで亡くなった兄のチャールズ・マグニアックの後を継いだダニエル・マグニアック(Daniel Magniac)はインド人妻との結婚が元でチャールズ・マグニアック商会を事実上解雇され、ホリングワース・マグニアック(Hollingworth Magniac)に会社を譲った。ホリングワース・マグニアックは、アジアを離れる積りで、チャールズ・マグニアック商会に加わる有能な共同経営者を探していた。ホリングワース・マグニアックは西暦1825年にウィリアム・ジャーディンを共同経営者に迎え入れ、自身は表に出ないようにした。社名はマグニアック商会(Magniac and Co.)に変わった。3年後にはジェームズ・マセソンが共同経営者に加わった。後年、ウィリアム・ジャーディンはダニエル・マグニアックの支那人妻との間に生まれた幼い息子、ダニエル・フランシス(Daniel Francis)をスコットランドの学校に送り、彼を助けた。ホリングワース・マグニアックは西暦1820年代後半にウィリアム・ジャーディンとジェームズ・マセソンに会社を託してイギリス王国に戻った。当時の慣習では、退職した共同経営者は会社から資本を引き揚げていたが、ホリングワース・マグニアックは資本を会社に信託し、ウィリアム・ジャーディンとジェームズ・マセソンに残した。マグニアックの名前は支那やインドで依然として強大だったため、会社はマグニアック商会として西暦1832年まで存続した。

 長い間、英東インド会社は東亜貿易の独占のため、イギリス王国でますます不評になっていた。西暦1776年の独立後、アメリカ合衆国の商人たちは支那との茶貿易を盛んにし、多くの人々が同社の独占の継続に疑問を抱くようになった。さらに、英東インド会社が競争相手に対処する際に用いた高圧的な手法は、国内のイギリス人の道徳的憤慨を招いた。市場に参入して同社に競争を齎そうとする者は、私掠船員、つまり「海賊」と呼ばれ、その罰は「聖職者の恩恵を受けずに死刑」だった。時折、自由貿易業者は、インドとの「国内貿易」に従事するための許可を同社から得ることができたが、通常は英国との貿易はできなかった。同社と競争した「侵入者」と呼ばれる他の自由貿易業者は、同社の武装インド船員の海軍に貨物を押収され、絞首刑に処される危険があった。
 英国人が英東インド会社の保護区で事業を立ち上げるには1つ方法があった。外国の領事職を受け入れ、その国の法律に基づいて登録することだ。スコットランド生まれの船員ジョン・リード(John Reid)が最初に使用したこの方法をウィリアム・ジャーディンは広州で事業を立ち上げるために踏襲した。ジョン・リードはオーストリア国籍を取得し、オーストリア皇帝から支那領事に任命された。彼は外交官としての居住権を得たため、英東インド会社から広州での貿易許可を得る必要がなくなった。兄のチャールズ・マグニアックの下でプロイセン国王から副領事に任命されデンマーク領事となったホリングワース・マグニアックの足跡を辿った。この基盤のお蔭で、共同経営者たちは英東インド会社を恐れることはなく、時が経つにつれて会社と英東インド会社の関係は友好的になった。英東インド会社の船が当局によって港の外で拘留された時、ウィリアム・ジャーディンは「報酬も報酬もなしに」自分の労役を申し出たと記録されている。これらの労役により、英東インド会社は相当な金額を節約し、ウィリアム・ジャーディンは英東インド会社から感謝された。ウィリアム・ジャーディン、ジェームズ・マセソン、ダニエル・ビール、ホリングワース・マグニアックの初期の活動は、西暦1834年に英東インド会社の支那における独占が終結するのに重要な貢献をした。


 一方、ほぼ同じ時期にアヘン商人として派手に売り出していたのが、ウィリアム・ジャーディンと同じ同じスコットランドのハイランド(高地)地方のサザランドのレーグ近くのシャイネスのドナルド・マセソン(Donald Matheson)とキャサリン(Katherine、旧姓: マッケイ(MacKay)、トマス・マッケイの娘)の次男のジェームズ・ニコラス・サザーランド・マセソンだった。ジェイムズ・マセソンは、ウィリアム・ジャーディンよりも12歳若く、エディンバラ大学で学んだ後、西暦1815年に叔父のマッキントッシュ商会を手伝うためにコルカタ(カルカッタ)へ渡った。ある日、叔父は彼に、もうすぐ出航する英国船の船長に届ける手紙を託した。ジェームズ・マセソンは手紙を届けるのを忘れ、船は出航してしまった。甥の不注意に激怒した叔父は、若いジェームズに「英国に戻ったほうが良い。」と提案した。彼は叔父の言葉を信じ、帰国の船旅に出かけた。代わりに貿易船長のロバート・テイラー(Robert Taylor)の助言に従い、ジェームズは広州に向かった。西暦1818年に彼はロバート・テイラーと共に、急速に拡大するインドの輸出市場に携わる企業の代理店として独立した。主にインドと清の間の貿易に従事したが、ロバート・テイラーは2年のうちに死去した。2人は西暦1819年にアヘン貿易を開始、ジェイムズ・マセソンが全財産を注ぎ込むことになったが、幸いにも後にアヘンの価格は暴騰した。その後、広州で貿易に携わるようになった。西暦1821年にはデンマーク駐広州領事に就任した。当時は英国商人が他国の領事に就任しても、英東インド会社の規定に触れなかった。西暦1823年には、福建沿岸で清朝官憲の監視を掻い潜ってアヘンの直接密輸を成功させ、広州のアヘン商人の間でジェイムズ・マセソンはちょっとした有名人になっていた。同年、澳門でイリッサリ商会(Yrissari & Co.)という合名会社を設立したが、この会社はすぐに当時の支那における5大代理店の一つとなり、多くの異なる国々との貿易に手を広げた。西暦1826年に出資者の1人のフランシス・ザビエル・デ・イリッサリ(Francis Xavier de Yrissari)が死去した、西暦1828年にジェイムズ・マセソンは会社の業務を清算し会社を畳んだ。イリッサリには後継者がいなかったため、会社の全株式をマシソンに遺贈していた。これはジェイムズ・マセソンにとってウィリアム・ジャーディンと商売を始める絶好の機会となった。西暦1827年11月08日、ウィリアム・ウッドと広州でアヘン相場などを掲載した英字新聞「カントン・レジスター(広州紀録報)」を創刊した。
 ウィリアム・ジャーディンの紹介でジェームズ・マセソンと甥のアレクサンダー・マセソン(Alexander Matheson)は、西暦1827年にマグニアック商会に加わったが、彼らの提携は西暦1828年01月01日まで公式には宣伝されなかった。西暦1832年に会社を再編してジャーディン・マセソン商会(Jardine Matheson and Company)を設立した。ウィリアム・ジャーディン、ジェームズ・マセソン、アレクサンダー・マセソン、ウィリアム・ジャーディンの甥アンドリュー・ジャーディン(Andrew Jardine)、ジェームズ・マセソンの甥ヒュー・マセソン(Hugh Matheson)、ジョン・アベル・スミス(John Abel Smith)、ヘンリー・ライト(Henry Wright)、ホリングワース・マグニアックが最初の共同経営者となった。西暦1830年までに、英東インド会社の対抗手は勝利し始め、英東インド会社による東洋との貿易の支配力は著しく弱まり、ジャーディン・マセソン商会は当時支那の対外貿易の約半分を支配していた。
 2人は西暦1827年頃から共同経営者として活動していたが、西暦1832年、マグニアック商会の破産に伴い、ウィリアム・ジャーディンとジェームズ・マセソンは支那の広州(沙面島)に「ジャーディン・マセソン商会(渣甸洋行(渣甸はジャーディンの意))」を設立した。インドから清へのアヘンの密輸、フィリピンとの砂糖と香辛料の貿易、清の茶と絹のイングランドへの輸入、船積書類と積荷保険の取り扱い、造船所設備と倉庫の賃貸、貿易金融、その他貿易に関するあらゆる業務を取り扱った。事業を急速に拡大させた結果、西暦1841年には19隻の大型快速帆船を所有していた。当時、ライバル会社でこれに次ぐ数を所有していたのは13隻のデント商会ぐらいだった。同社はその他に数百の小型船ロルシャと沿岸部と河川遡上用の小型の密輸艇も所有していた。
インドから清へのアヘンの密輸、フィリピンとの砂糖と香辛料の貿易、清の茶と絹のイングランドへの輸入、船積書類と積荷保険の取り扱い、造船所設備と倉庫の賃貸、貿易金融、その他貿易に関するあらゆる業務を取り扱った。
 ウィリアム・ジャーディンは会社の計画者、強硬な交渉者、戦略家として知られ、ジェームズ・マセソンは会社の通信や法律問題を含むその他の複雑な事柄を扱う組織人として機能した。ジェームズ・マセソンは、同社の多くの革新的な取り組みの立役者だったことで知られていた。この2人は対照的で、ウィリアム・ジャーディンは背が高く、痩せていて引き締まっていたが、ジェームズ・マセソンは背が低くやや太っていた。ジェームズ・マセソンは社会的、経済的に恵まれた出身という利点があったが、ウィリアム・ジャーディンはそれよりずっと貧しい出だった。ウィリアム・ジャーディンは厳しく真面目で、細部に拘り、控えめだったが、ジェームズ・マセソンは創造的で率直で陽気だった。ウィリアム・ジャーディンは長時間働き、非常に仕事志向だったが、ジェームズ・マセソンは芸術を好み、雄弁なことで知られていた。しかし、類似点もあった。ウィリアム・ジャーディンとジェームズ・マセソンは次男で恐らくそれが彼らの意欲と性格を説明している。2人とも勤勉で意欲的で富の追求に直向きだった。

 西暦1830年代中頃から、清国ではアヘン貿易の代償に銀が大量に流出するのを恐れた当局が締め付けを強化したため貿易が次第に困難になっていた。この貿易不均衡は、西欧の貿易会社が取り扱う清国産の茶や絹の輸出額よりもアヘンの輸入額が高かったことを意味する。
 当初茶を中心に急速に発展した支那貿易への参加を急ぐ動きは、西暦1834年に英東インド会社の独占が終了した時に始まった。西暦17世紀半ばから茶はイギリス王国と英国植民地で人気が高まっていたが、茶の貿易は決して単純ではなかった。英国政府は品質に関係なく1ポンド(0.45s)あたり5シリングの関税を課したため、最も安価な品種でも1ポンドあたり7シリング、つまり労働者のほぼ1週間分の賃金に相当する価格が掛かった。この懲罰的な課税は莫大な利益が得られることを意味し、関税の支払いを回避するための密輸が広まった。支那貿易で利益を上げるには、合法的なものもそうでないものも含め、全ての競争相手より優位に立つ必要があった。毎年、英国、ヨーロッパ、アメリカからの高速船が支那の港で新季節の最初のお茶を積み込む準備をしていた。船は貴重な積荷を積んで急いで帰国し、それぞれが消費者市場に一番早く到着しようとし、早期配達に提示された特別価格を獲得した。西暦1834年に英東インド会社の支那における独占が終了し、ジャーディン・マセソン商会はこの機会を利用して、会社の撤退によって生じた空白を埋めた。その年、同社は「ジャーディンのピックウィック茶混合物」、支那茶のブレンドを黄埔から同社のクリッパー船サラ号に乗せて、イギリスのグラスゴー、ファルマス、ハル、リバプールの港に向けて最初の個人出荷を行った。その後、ジャーディン・マセソンは、東インド会社の大手商社からアジア最大の英国貿易会社へと変貌を遂げ始めた。ウィリアム・ジャーディンは、他の貿易業者から「大経営者」を意味する支那語の俗称である「大盤」と呼ばれるようになった。ジェームズ・マセソンはウィリアム・ジャーディンへの熱烈な賛辞の中で、「貴方ほど熱心に奉仕できる者はいないと確信する。」と書いている。ウィリアム・ジャーディンは、英東インド会社の古い市場の多くを獲得することに成功したが、これは殆どの競争相手よりも速く、消費者市場に一番早く到着することができた高速で優雅なティークリッパーの艦隊に支えられていた。これには、コルカタ(カルカッタ)から澳門まで17日17時間で航海し、破ら​​れていない速度記録を樹立したシルフ号も含まれていた。ウィリアム・ジャーディンはまた、支那で公式の「ティーテイスター」を雇い、茶の様々な品種についてより深く理解し、最高の価格を要求できるようにした最初の会社でもあった。
 それでも、ウィリアム・ジャーディンは恥知らずにも、「支那でのアヘン貿易を拡大したい。」と考え、西暦1834年にイギリス帝国(西暦1609〜1997年)を代表する初代貿易総監、スコットランド貴族の第9代ネイピア卿、ネイピア男爵ウィリアム・ジョンと共同で広州の支那当局者と交渉しようとしたが、失敗に終わった。支那の総督はウィリアム・ジョン・ネイピアが滞在していた広州の事務所を封鎖し、ウィリアム・ジョン・ネイピアを含む住民を人質にするよう命じた。打ちひしがれ屈辱を受けたウィリアム・ジョン・ネイピアは、要請された船ではなく陸路で澳門に戻ることを許された。彼は熱病に倒れて数日後に死んだ。
 この失敗の後、ウィリアム・ジャーディンは「イギリス政府に武力を使って貿易をさらに開放するよう説得する機会。」と考えた。西暦1835年初頭、清でのアヘン取引の拡大を望んだウィリアム・ジャーディンは、対清貿易で強硬姿勢を取るよう政府を説得するためジェイムズ・マセソンをイギリス王国に派遣した。ジェームズ・マセソンはウィリアム・ジョン・ネイピアの未亡人と共に、目の感染症を口実としてイギリス王国に帰国した。到着後、彼は支那との戦争への支持を集めるため、広範囲に旅行し、政府と貿易の両方の目的で会合を開き、政府が強力な措置を取るよう説得した。彼の使命は失敗に終わり、ジェイムズ・マセソンは「鉄の公爵」と呼ばれた外務大臣初代ウェリントン公アーサー・ウェルズリー(英語: Arthur Wellesley, 1st Duke of Wellington, KG, GCB, GCH, PC, FRS)に面会を試みたが門前払いを食わされ無視された彼は、「傲慢で愚かな男に辱めを受けた。」とウィリアム・ジャーディンに報告した。それでも彼の活動と議会を含むいくつかの会合での広範なロビー活動は、最終的に戦争に繋がった。ウィリアム・ジャーディンが一時的に延期された引退の準備をする中、ジェームズ・マセソンは西暦1836年に会社を引き継ぐ準備をするため支那に戻ると、西暦1839年01月26日にウィリアム・ジャーディン自らが広州を出発しイギリス王国に向かった。表向きは引退するためだが、実際はジェームズ・マセソンのロビー活動を継続するためだった。ウィリアム・ジャーディンの出発前に同業のアヘン密輸業者は、「ジャーディンの広東出発を数日後に控えた外国人社会は、東インド会社の工場の食堂で晩餐会を開いた。国籍も様々な80人ほどが出席し、夜が更けても誰も立ち去ろうとしなかった。これは今でも在留者の間でよく話題になる。」と期待を寄せた。同年、ジェイムズ・マセソンは著書「The Present Position and Future Prospects of British Trade with China(イギリス対中貿易の現状と展望)」を出版し、支那における貿易事情について詳しく述べ、清の外国人排除政策を批判して、イギリス政府に断固とした政策を取るよう求めた。
 清の道光帝はウィリアム・ジャーディンの出発を聞いて喜び、その後西暦1839年03月、当時広東に集中していたアヘン取引を全面的に停止するために、欽差大臣として派遣された林則徐が外国諸商館のアヘンを没収した。林則徐は「鉄頭の老鼠、ずる賢く狡猾なアヘン密輸団の首謀者は、清の怒りを恐れて霧の国へ去った。」と述べた。その後、貿易総監チャールズ・エリオットは全てのアヘンを引き渡し、ジャーディン・マセソン商会のライバルであるデント商会の長であるアヘン商人ランスロット・デント(Lancelot Dent)の逮捕を命じた。これが一連の出来事の引き金となり、林則徐は2万箱以上のアヘンを破棄した。その多くはウィリアム・ジャーディンの所有物だった、ジェイムズ・マセソンを含む商人16人を拘禁した。ジェイムズ・マセソンは同年05月に釈放される時に清からの永久追放を宣告されたが、帰国せず、代わりに澳門、次いで香港でアヘン密輸を続けた。

 ロンドンに到着したウィリアム・ジャーディンの最初の仕事は、ウェリントン公に代わって新しく外務大臣に就任した第3代パーマストン子爵ヘンリー・ジョン・テンプルに会うことだった。ウィリアム・ジャーディンは、広州の貿易総監チャールズ・エリオットが書いた紹介状を携行し、パーマストン子爵に自身の資格の一部を伝えた。ウィリアム・ジャーディンはパーマストン子爵に支那との戦争を始めるよう説得し、詳細な地図と戦略、支那からの賠償と政治的要求、さらには必要な兵士と軍艦の数までを記した「ジャーディン文書」と呼ばれる包括的な計画を提出した。ジャーディン・マセソン商会は、支那のアヘン貿易にも携わり豪商となり、第1次アヘン戦争の開始に暗躍した。西暦1840年から2年間にわたるアヘン戦争では、ジャーディン・マセソン商会は清でのアヘン密輸の利益を守るべくイギリス王国でロビー活動を行い、イギリス王国の国会は9票という僅差で軍の派遣を決定した。結果、アヘン戦争はイギリス王国の圧勝に終わり、西暦1842年に南京条約が締結され、この事実上の不平等条約で、香港はイギリス王国のものとなり、さらに清はイギリス王国に対して賠償金2100万$を4年分割で支払うこととなった。ジャーディン・マセソン商会は、従来通り、清でのアヘン販売を続行できることとなった。
 西暦1842年にイギリス王国ハノーヴァー朝と支那清朝の両国の代表者によって南京条約が調印された。
この条約により、支那の5大港湾の開港が許可され、破壊されたアヘンに対する賠償が提供され、香港島の正式な獲得が完了した。


 ジャーディン・マセソン商会は、西暦1841年に大英帝国の植民地の香港(西暦1842年の南京条約で正式に割譲)に本社を移転した。

 西暦1840年代、イギリス海軍は第1次アヘン戦争で清朝と戦った蒸気船を補うため、ジャーディン・マセソン商会からカロネード砲を装備したクリッパー船を数隻借り受けた。ジャーディン・マセソン商会は西暦1841年までに大陸間航行用のクリッパー船を19隻保有し、沿岸部や上流域での密輸に使う小型のロルチャ船やその他の船も数百隻保有していた。ウィリアム・ジャーディンは支那にアヘンを密輸するだけでなく、フィリピンから砂糖やスパイスを取引し、支那茶や絹をイギリス王国に輸出し、貨物取扱業者や保険代理店として活動し、造船所や倉庫を貸し出し、貿易に資金を提供した。
 アヘン戦争後の西暦1842年、ジェイムズ・マセソンは喘息のためイギリス王国に帰国、同時に商社の管理から引退して、甥に後を継がせた。ウィリアム・ジャーディンは本国で庶民院議員に当選していたが、西暦1843年に死去しており、ジェイムズ・マセソンは同年03月に行われたアシュバートン選挙区の補欠選挙でホイッグ党(のち自由党)候補として出馬し、141票対96票で当選した。西暦1843年11月09日にマイケル・ヘンリー・パーシヴァルの娘メアリー・ジェーン・パーシヴァル(Mary Jane Perceval)と結婚した。西暦1846年02月19日、王立協会フェローに選出された。西暦1844年にアウター・ヘブリディーズのルイス島を購入、リューズ城を建てた他、サザランドの副統監と治安判事を務めた。西暦1840年代末のハイランド地方におけるジャガイモ飢饉で救済に尽力して、西暦1851年に準男爵に叙された。

 香港島は西暦1841年01月26日に正式に貿易と軍事の基地として接収されたが、既に何年も積み替え地点として使われていた。支那との貿易、特に違法アヘンの貿易が拡大し、当時すでに東アジア最大の英国貿易会社として「プリンスリー・ホン」として知られていたジャーディン・マセソン商会も成長した。 香港は珠江の河口にある島で、広東から約90マイル(140km)離れており、九龍本土とは水路で隔てられているが、最も狭いところで幅は僅か440ヤード(400m)である。西暦1840年になっても、この島には開発価値がないように見えた。「北回帰線のすぐ下に位置し、気候は暑く、湿気が多く、不健康である。」と考えられていた。島の面積は30平方マイル(78㎢)未満で、水面から急峻に隆起している。西洋人が到着する前、東岸と南岸には、約5000人の漁民と採石業者が陸と海を合わせて住んでいた。また、海賊がこの島を隠れ場所として利用していたと疑われていた。一見したところ、この島を推薦できる唯一のものは、天然の深水港だった。「香港」は、広東語の「香る港」を意味する Heung Gawng (香港)に由来しており、恐らく、現在の深圳にある海を渡った白檀の香工場から漂う香りに由来している。
 ジェームズ・マセソンは、長い間香港の将来を信じていた。彼自身の言葉で、「香港の利点は、支那人が広東での貿易を妨害すればするほど、貿易が新しいイギリス植民地に流れ込むのだ。さらに、香港は確かに世界でも最も素晴らしい港の 1 つだった。」彼の熱意は、仲間の商人の多くには受け入れられなかった。当然のことながら、彼らはマカオのプラヤ・グランデの快適な住居を捨てて香港島の荒涼とした斜面に移住することを好まなかった。不運が初期のビクトリア朝建築者たちにとって事態をさらに悪化させた。立て続けに 2個の台風と2件の火災が新しい入植地を破壊し、猛毒のマラリア流行で島の住民はほぼ全滅した。マカオの広東新聞は何年もの間、この事業を嘲笑し中傷する機会を逃さなかった。ビクトリア女王でさえ、この新しい土地の獲得に感銘を受けなかった。かつて彼女はベルギー国王に皮肉な手紙を書いた。「アルバート王配は私が香港島を手に入れたことをとても面白がっている。ビクトリアは女王であると同時に香港の女王と呼ばれるべきだと思う。」挫折と嘲笑にも拘わらず、植民地の創設者たちは落胆しなかった。
 香港はジャーディンの拡張にまたとない機会を与えた。西暦1841年06月14日、香港で最初の区画が販売された。ジェームズ・マセソン商会の唆しで、イーストポイントの57150平方フィート(5309u)の3区画が565英ポンドで購入され、ウィリアム・ジャーディンはここに新しい植民地で最初の事務所の一つを構えた。区画1は現在、かつてジェームズ・マセソン商会が所有していたエクセルシオール・ホテル(Excelsior hotel)の敷地となっており、現在はマンダリン・オリエンタル・ホテル(Mandarin Oriental Hotel)が所有・運営している。 当初、この集落は急拵えの竹の柱に椰子で屋根を葺いた木造の建物で構成されており、ウィリアム・ジャーディンはレンガと石を使った家を初めて建てた。それはイースト・ポイントに建てられ、同社は今でも元の土地の殆どを保持している。イースト・ポイントで今でも見られる建物の中には、戸の上の石に 西暦1843年の日付が刻まれている古い倉庫がある。そして、西暦1843年に正式に新しいイギリス植民地と宣言された場所に本社を設立した。
 香港島には倉庫、埠頭、事務所、住宅も建設され、ウィリアム・ジャーディンの船団とその乗組員を維持するための施設も設置された。同時に、同社は新しい植民地の基盤の開発に積極的な役割を果たし、成長する共同体に商業、信用、あらゆる種類の便益を提供した。初期の頃には、香港初の製氷工場(後にデイリー・ファーム会社と合併)、初の紡績工場と織物工場、香港路面電車の設立などがあった。ウィリアム・ジャーディンの甥であるデイビッド・ジャーディン(David Jardine)は、西暦1850年に総督によって任命された立法会議の最初の2人の非公式会員の1人だった。香港商工会議所は西暦1861年に設立され、ジェームズ・マセソンの妻の親戚であるジャーディン・マセソン商会の第7代タイパン、アレクサンダー・パーシバル(Alexander Perceval)が初代会長を務めた。西暦1878年、同社は支那製糖会社を設立し、香港で砂糖精製の先駆者となった。
 共同体の歴史におけるジャーディン・マセソン商会の役割を記録する目印が残されている。初期の頃、熱病や疫病は香港の住民にとって常に脅威であり、夏の暑さは耐え難いもので、同社の取締役は、より快適で健康的な生活が期待できる丘での住宅建設の先駆者となった。「ジャーディンズ・コーナー」はそのような目印の1つであったが、この会社と関連して最もよく知られている場所は「ジャーディンズ・ルックアウト」として知られる丘の頂上である。帆船の時代、ここからインドやロンドンからやってくる会社のクリッパーの帆を最初に見るために監視が行われた。船が信号を送るとすぐに、ジャーディン・マセソン商会の郵便物を集めるために高速捕鯨船が派遣された。手紙は急いで事務所に持ち込まれ、取締役が世界の市場に関する最初の情報を入手できるようにした。ジャーディンズ・クレセントのジャーディンズ・バザールは西暦1845年に遡り、香港で最も古い商店街の1つである。エクセルシオール・ホテルの向かいにある正午の大砲は、西暦1860年代に遡り、当時はジャーディン・マセソン商会の私兵が、同社のタイパンが港に到着すると一斉射撃を行っていた。このことは、「商社の長よりも重要な人物にのみ許されるものだ。」と主張した英国海軍を怒らせた。罰として、ジャーディン・マセソン商会は永久に毎日正午に大砲を撃つよう命じられた。

 西暦1842年に支那語名を従来の「渣甸洋行」(渣甸はジャーディンの意)から「怡和(Ewo)洋行」に変更した。「幸せな調和」を意味し、ハウクアが経営していた評判の高い広東十三行の1つで、西洋にも有名だった「怡和行(Ewo hong)」に由来している。
 ジャーディン・マセソン商会は西暦1843年に支那での拠点は、上海の共同租界、外灘(バンド)の中山東一路27号に移し、「怡和洋行大楼(ジャーディン・マセソン商会ビル)」と呼ばれた。この場所の当時の地番は1番地であり、ジャーディン・マセソンが最初に外灘(バンド)に土地を獲得した。西暦1844年に建築用地を登録し、西暦1851年にこの27号1番地に最初の建物が完成した。西暦1920年に出版された上海ハンドブックの第2版で、C・B・ダーウェント牧師は、「同社が土地に最初に投資した 500ポンドが当時西暦1900年までに100万ポンドの価値になっていた。」と推定している。地元の建築事務所スチュワードソン&スペンスが5階建ての新しいルネッサンス様式の建物の計画を描き、西暦1920年に工事が始まった。建物は西暦1922年11月に完成し、絹の検査官の作業を助けるために特別な照明を備えた特別に設計された絹の部屋が特徴であった。その後、建物にもう1階が増築され、現在は外貿大楼と呼ばれ、上海市対外貿易公司や上海市外貿局等が入り、上海外国貿易局(外贸大楼)の本拠地となっている。
西暦1862年、ウィリアム・ケズウィック(William Keswick)は、設立間もない上海競馬クラブを財政破綻から救った。春と秋の会合では、ジャーディン・マセソン商会とデント商会のような大商社の競争が激化した。上海競馬クラブの隣にあるジャーディン・マセソン商会(怡和(Ewo))の私設厩舎には、西暦1922年には46頭のポニーが飼育されており、同社には21人の騎手が雇用されていた。
 福州と天津の貿易所にも新しい事務所が開設され、西暦19世紀後半には、同社は顧客のために活動する代理店からより多角的な事業へと劇的な変貌を遂げた。 青島、広州、汕頭、福州、長沙、昆明、アモイ、北平(北京)、鎮江、南京、蕪湖、九江、宜昌、沙市、重慶など支那各地に現地事務所を開設した。上海、天津を除けば、漢口(現在の武漢市の一部)が最も大きな事務所だった。
 ジャーディン・マセソン商会は多種多様な輸出入品を取り扱い、鉄道や支那で切望されていたその他の基盤整備を推進し、支那が近代化に向けて努力する中で銀行や保険会社を設立した。西暦1867年から天津事務所を開設し、華北でも海運業を展開した。この頃、唐廷枢(後に李鴻章の下で洋務運動を推進)が買弁責任者として金銭の管理、物資の購入、海運の開設などを行っていた。以降、事業規模が拡大し、西暦1881年に天津支店に格上げし、西暦1921年に社屋の「天津ジャーディン・マセソン商会ビル」をイギリス租界地の維多利亜道(現在の解放北路157号)に建設した。
 海運は会社の拡大に重要な役割を果たした。西暦1835年に、会社は支那初の商船ジャーディン号の建造を委託した。ジャーディン号は、リンティン島、マカオ、黄埔埠頭間の郵便および旅客輸送に使用することを目的とした小型船だった。しかし、外国船に関する規則を厳格に適用する支那人は、「火船」が広東川を遡ることに不満でだった。梁光総督代理は、「ジャーディン号が航行しようとすると発砲する。」と警告する布告を出した。ジャーディン号がリンティン島から初めて試運転した時、ボーグの両側の砦が発砲し、ジャーディン号は引き返さざるを得なかった。清当局は、船が支那から出航するようさらに警告した。いずれにせよジャーディン号は修理が必要となり、英領シンガポール(西暦1824〜1941、1945〜1963年)に送られた。ジャーディン号は西暦1855年にコルカタ(カルカッタ)から貨物航路を開始し、揚子江で運航を開始した。西暦1881年にインドシナ蒸気航行会社が設立され、その後西暦1939年まで、ジャーディン号が管理する海洋、沿岸、河川輸送サービスのネットワークを維持した。西暦1938年、日支事変中に、同社は支那商船蒸気航行会社から海源、海里、海辰、海衡の4隻の船を購入し、その後香港と天津の間で運航された。ジャーディン・マセソン商会が所有していた最初の外洋蒸気船は、主にコルカタと支那の港の間を運航した。これらの船は、ライバルのP&O船よりも2日早く400マイル(640km)の航海を終えるほどの速さだった。
 頑強な抵抗にも拘わらず、ジャーディン・マセソン商会は鉄道システムの開通を求めて長年清政府に激しくロビー活動を行った。これは完全に失敗したが、西暦1876年にジャーディン・マセソン商会は独自に前進しようとし、呉淞道路会社を設立して上海と呉淞間の10マイルの道路を購入し、まず騾馬の路面電車に、次に支那初の狭軌鉄道(呉淞鉄道)に改造しようとした。最初の釘は01月20日に打ち込まれ。07月03日に1日6往復の運行で開通した。西暦1876年08月03日に線路上での自殺者が両江総督の沈宝珍に再び反対の意を表明するまで、運行は順調と見做されていた。英国当局は鉄道の運行停止を命じ、清政府は「年内にこの路線を購入したい。」と発表した。ジャーディン社は、「鉄道は正式な承認なしに建設されたため英国政府による防衛は不可能である。」と告げられ、会社は全ての費用が補填される限り売却に同意した。西暦1877年10月に土地、車両、レールに28万5000シリングが支払われ、その後清政府はこれらを解体して台湾に輸送し、海岸で錆びたまま放置した。この路線は西暦1898年まで再建されなかった。
 ジャーディン・マセソン商会は最終的に、唐山にある支那工業鉱山会社(Chinese Engineering and Mining Company、CEMC)の炭鉱から騾馬鉄道を建設するための承認を直隷総督の李鴻章から得ることに成功した。これは、予定されていた運河が炭鉱までの最後の6マイル(9.7km)を走らせることができないことが示されたためである。再び鉄道建設禁止の公式命令を無視し、CEMC の技術者クロード・W・キンダー(Claude W. Kinder)は、まず標準軌で路面電車を建設することを主張し、その後、炭鉱周辺の資材で機関車を急拵えした。これは騾馬よりも経済的であることが証明され、冬季に運河が凍結する傾向があり、また石炭が総督の北洋艦隊にとって戦略的に重要であったことから、最終的には路線をまず運河沿いに、次に天津などの大都市まで拡張することができた。20年以上にわたって、開平路面電車は支那鉄道会社にまで拡大し、同社は再び清政府に買収されたが、今度は収益性のある企業として存続した。西暦1898年、ジャーディン・マセソン商会と香港上海銀行(Hongkong and Shanghai Banking Company、HSBC)は英国支那企業(British and Chinese Corporation、BCC)を設立した。土木工学のジョン・ウルフ・バリー(John Wolfe-Barry)とアーサー・ジョン・バリー(Arthur John Barry)の共同で、英国支那公司の共同コンサルタント技術者に任命された。公司は古いウーソン線を再建し、その後、揚子江流域と、山海関から牛荘と奉天までの北部帝国鉄道(Ǹorthern Imperial Railways)の延長の両方で、支那の鉄道体系の開発の多くを担当した。上海から南京までの線は、西暦1904〜1908年の間にジャーディン・マセソン商会によって290万ポンドの費用で建設された。BCCは、九龍から広州までの鉄道の建設も担当した。

 西暦1881年、ユダヤ人の血を引くオランダ系イギリス人の父と香港人の母から生まれ、両親は正式な結婚でなく、父は事業の失敗後に失踪した何東(Robert Hotung (Bosman)(ロバート・ホー・トン)、本名: 何啓東)が、ジャーディン・マセソン商会に入社した。総買弁、支那総経理を歴任した。後に香港の大富豪の何東一族の祖となった、
 ジャーディン・マセソン商会とポール・チャーター(Paul Chater)の主導により、西暦1886年に香港九龍埠頭倉庫会社(Hongkong and Kowloon Wharf and Godown Company Limited)が設立された。3年後の西暦1889年03月02日、当時タイパンだったジェームズ・ジョンストン・ケズウィック(James Johnstone Keswick)が再びポール・チャターと提携し、香港土地投資代理会社(Hongkong Land Investment and Agency Company Limited、後の香港土地(Hong Kong Land))を設立した。新会社が最初に着手した計画は、チャーター 路として知られるようになった新しい海沿い道路沿いの 65エーカー(260000u)の約250フィート(76m) 幅の建築用地の埋め立てだった。西暦1875年に地元の埠頭がいくつか合併した後、ジャーディン・マセソン商会が上海・虹口埠頭株式会社(Shanghai & Hongkew Wharf Co.)の総支配人に任命された。西暦1883年に旧寧波埠頭が追加され、西暦1890年に浦東埠頭が買収された。
 パーシー・ドラビジー・ナウロジー(Parsee Dorabjee Nowrojee)が創業したスターフェリー社(Star Ferry Company)は、ジャーディン・マセソン商会とポール・チャーターが経営する香港九龍埠頭(Shanghai & Hongkew Wharf Co., Ltd.)西暦1898年に買収された。同社は香港島と九龍半島の間で蒸気動力フェリーを運航していた。
 ジャーディン・マセソン商会は香港の路面電車体系の確立に貢献した。この体系は西暦1904年に香港路面電車(Hong Kong Tramways Ltd.)として直接開始された。同社は現在、ヴェオリア交通(Veolia Transport)と香港九龍埠頭・倉庫会社を継承したザ・ワーフ(投資会社)の共​​同所有が共同所有している。
 西暦1836年に海運業を支援するために広州保険事務所として設立されたジャーディン保険事業は、同社が事務所や代理店を置いていた多くの場所で引受業務を開始し、同社が事務所や代理店を置いていた多くの場所で引受けを開始し、西暦1860年になっても支那で唯一の保険会社でした。さらに、ヨーロッパと極東の間を移動する顧客に対応するため、同社は主要な蒸気船の航路沿いとシベリア鉄道の地点に代理店を置き、モスクワにも代理店を置いていた。広東保険事務所は後にロンバード保険会社(Lombard Insurance Co.)に改名された。
 支那語では怡和機器有限公司(Yíhé Lóuqì Yǒuxiàn Gōngsī)として知られ、文字通り「幸せな調和のとれた道具屋」を意味するジャーディン工業会社(Jardine Engineering Corporation、JEC)は、それまでジャーディン・マセソン商会の工業部門が扱っていた支那の発展を支援するための機械、工具、産業機器の輸入事業が、独立した会社として独立できる段階にまで拡大した時期に、西暦1923年に誕生した。JECは、アンモニア式冷房や新しい形式の暖房および衛生設備の先駆者であり、西暦1935年には香港上海銀行(HSBC)の新本社の金庫室の扉を提供した。 JEC は西暦1940年に香港に蛍光灯を導入し、西暦1949年には土瓜湾地区のタイラーズ紡績工場に香港初の大規模産業用空調設備を設置した。


近代中国とイギリス資本: 19世紀後半のジャーディン・マセソン商会を中心に - 石井 摩耶子
近代中国とイギリス資本: 19世紀後半のジャーディン・マセソン商会を中心に - 石井 摩耶子

 ジャーディン・マセソン商会は、子会社のジャーディン・マセソン(東アフリカ)有限会社を通じて、当時の英領東アフリカ(東アフリカ保護領)(西暦1895〜1920年)のナイロビでも事業を展開し、英自治領南アフリカ連邦の会社レニーズ統合投資会社(Rennies Consolidated Holdings)の過半数の株式を保有していたが、西暦1983年にこの74%の株式をオールド相互(Old Mutual)に売却した。その後、この会社はサフマリン(Safmarine)と合併し、サフマリン・アンド・レニーズ投資会社(サフレン)(Safmarine and Rennies Holdings(Safren))となった。この会社は非常に強力になり、香港行政委員会の歴史の大半において、香港上海銀行(HSBC)の頭取やジャーディン・マセソン商会の幹部を含む「非公式構成員」が実業界を代表していた。

 ジャーディン・マセソン商会は西暦1906年に有限会社となり、第2次世界大戦までは単に「会社(Firm)」または「マックル・ハウス(Muckle House)」と呼ばれていた。マックルはスコットランド語で「偉大な」という意味の俗語である。

 西暦19世紀末から、ジャーディン・マセソン商会は支那名「怡和(Ewo)」を使用していくつかの新会社を設立した。その最初の会社が怡和綿糸紡績工場(EWO Cotton Spinning and Weaving Co.)である。西暦1895年に上海で設立され、支那で最初の外資系綿糸工場となった。その後、上海で楊子坡紡績工場(Yangtszepoo Cotton Mill)と公益紡績工場(Kung Yik Mill)という2つの工場が立ち上げられた。西暦1921年、これら3つの工場は怡和紡績工場(Ewo Cotton Mills, Ltd.)として統合され、香港で登録された。日支事変(1937〜1945年)前には、3つの工場は合計175000本の綿紡錘と3200台の織機を稼働していた。さらに、同社は廃綿製品、黄麻素材、梳毛糸や布の製造にも事業を拡大しました。同社は戦争中にかなりの機械を失い、西暦1954年01月、ジャーディン・マセソン商会は香港の新聞に「エウォ・コットン・ミルズ(怡和紡績工場)の総支配人としての役目を終えた。」と広告を出した。
 エウォ・ユエン圧縮梱包会社(Ewo Yuen Press Packing Company、別名エウォ圧縮梱包会社(Ewo Press Packing Company))は西暦1907年に上海で設立され、ジャーディン・マセソン商会と支那人が共同所有していた。 西暦1919年に共同経営者が引退すると、ジャーディン・マセソン商会は総床面積125000平方フィート(11600u)の会社の個人経営者となり、年間の生産量は40000〜50000俵で、最盛時にはその量が倍増した。梱包された品物には、原綿、綿糸、絹屑、羊毛、皮、山羊皮、その他、出荷や保管のために圧縮梱包が適した商品が含まれていた。同社はまた、あらゆる種類の貨物の仕分け、等級付け、保管に使用できる倉庫を一般向けに提供していた。工場は蘇州吴淞江河口近くにあり、当時は支那内陸部や輸出用の上海港への重要な輸送路だった。
 西暦1920年、ジャーディン・マセソン商会は上海川沿いに(Ewo Cold Storage Company)を設立し、粉末卵の製造と輸出を行った。2〜3年後、液卵や全卵の加工もできるように拡張された。これらの製品は大量に海外、主にイギリス王国に出荷された。西暦1920年代〜1930年代にかけて、卵と卵製品の輸出貿易は支那(中華民國(西暦1912〜1949年)経済においてますます重要な要素となり、西暦1937年に日支事変が勃発する直前には、卵取引は主要輸出品の上位にあった。その後の戦争中、日本占領軍は家禽の在庫を大幅に削減したが、家禽生産は広大な地域に散在する無数の小規模な単位によって主に行われ、状況はその後すぐに回復した。
 西暦1935年、同社は上海にエウォビール株式会社(EWO Breweries)を設立した。生産は西暦1936年に開始され、エウォビールは西暦1940年にジャーディン・マセソン商会経営の公開会社となった。ビール醸造所は極東の気候に適していると考えられていたピルスナーやミュンヘン型のビールを生産した。この事業は西暦1954年に損失を出して売却された。
 ジャーディン・マセソン社は、西暦1937年の日本軍による支那侵攻以前、あらゆる商品の主要な輸出入業者だった。輸出品目の中では、お茶と絹が上位に格付けされていた。西暦1801年という昔に、ジャーディン・マセソン社の前身となる会社は、ニューサウスウェールズ州とヴァン ディーメンズランドに茶を輸出するための最初の免許を英東インド会社から取得していた。西暦1834年に英東インド会社の貿易独占が覆されると、同社はすぐに茶の事業を拡大した。西暦1890年代までに、ジャーディン・マセソン社は大量の祁門(キームン)紅茶、ラプサン・スーチョン (英語: Lapsang souchong、支那語: 正山小種、立山小種、煙茶、烟茶)、烏龍(ウーロン)茶、火薬緑茶、春美(チュンミー)緑茶を輸出していた。これらの貨物を積んだ外洋船は、福州と台湾、および上海の外灘にある同社の倉庫からヨーロッパ、アフリカ、アメリカに向けて出航した。ジャーディン・マセソン社が創業してから最初の100年間、絹は商品として重要な役割を果たした。日本軍の侵攻以前、同社は日本からアメリカ、フランス、スイス、イギリス王国などに絹を出荷していた。西暦1930年代後半に戦争が勃発するまで長年にわたり、同社は絹織物を製造する自社工場「エウォ絹糸紡績(EWO Silk Filature)」や絹織物を製造工場を運営していた。同社はまた、上海、天津、青島、漢口、香港に大きな倉庫を所有しており、羊毛、毛皮、大豆、油、油種子、剛毛などの寒冷な北部の産物だけでなく、桐やその他の植物油、油種子、卵製品、剛毛、豆などの広大な農業中心地の産物、さらには日当たりの良い南部の市場性のある産物である桐油、アニス、桂皮、生姜も入手できた。香港と上海が主な輸出入口だったが、支店も小規模でこれらの活動に従事し、木材から食料品、繊維から医薬品、金属から肥料、ワインや酒類から化粧品まで、様々な製品を扱っていた。
 ジャーディン・マセソン商会は創業当初から、他の国々の一連の「協力会社(correspondent)」と取引していた。これらの会社はジャーディン・マセソン商会の代理店として活動し、独立しているか、会社が一部所有していた。ロンドンのロンバード・ストリートにあるジャーディン・マセソン商会は、西暦1848年に商人銀行家の個人事務所として設立され、西暦1906年に有限会社となり、ロンドンでジャーディン・マセソン商会の特派員として活動しした。この会社はジャーディン・マセソン商会とケズウィック家によって支配され、ロンドンの東亜を代表する会社だった。ニューヨークを拠点とするバルフォア・ガスリー社(Balfour, Guthrie & Co., Ltd.)は、西暦1869年に3人のスコットランド人によって設立された会社で、アメリカ合衆国における同社の利益を管理していた。アフリカ、アジア、オーストラリアの様々な国にさらに特派員がいた。コルカタにあるジャーディンの姉妹会社、ジャーディン・スキナー社(Jardine Skinner & Co.)。は、西暦1844年にバルグレーのデイビッド・ジャーディン(David Jardine)とジョン・スキナー・スチュアート(John Skinner Steuart)によって設立され、茶、黄麻、ゴムの取引で大きな力を持つようになった。第2次世界大戦中に、会社はジャーディン・ヘンダーソン社(Jardine, Henderson)に社名を変更し、後にジョン・ジャーディン・パターソン(John Jardine Paterson)によって経営された。
 西暦1940年代、ジャーディン・マセソン商会は航空部門を開設し、総代理店、交通処理、予約代理店としての業務を提供した。この時期に、英国海外航空 (BOAC) はジャーディン・マセソン商会を香港と支那の総代理店に任命した。香港では、ジャーディン・マセソン商会は香港を拠点とする、または香港を経由して運航する多くの航空会社に最新の技術および整備施設を提供するためにジャーディン航空機整備会社(JAMCo)を設立した。 JAMCoは最終的にキャセイ・パシフィック航空の整備部門と合併し、西暦1950年11月01日に HAECOが設立された。
 西暦1930年代の支那での不安と紛争、西暦1939〜1945年にかけての第2次世界大戦、および西暦1949年の支那における共産主義革命により、この地域は大混乱に陥り、ジャーディン・マセソン商会のような外国企業にとって克服すべき多くの課題が生じた。 西暦1935〜1941年の間、同社には2人のタイパンがいた。上海本社に勤務するウィリアム・ジョンストン・「トニー」・ケズウィック(William Johnstone "Tony" Keswick)と、香港での業務を担当する弟のジョン・ヘンリー・「ザ・ヤンガー」・ケズウィック(John "The Younger" Keswick Henry Keswick, KCMG)ケズウィックである。西暦1937年までに日本は支那に進出し始め、第2次世界大戦に参戦し支那に拠点を置くジャーディン・マセソン商会にとって状況は悪化した。
 トニー・ケズウィックは、西暦1941年に上海競馬場で行われた上海市議会の選挙集会中に、日本の役人に腕を撃たれた。彼は重傷を免れたが、その後はアル・カポネ(英語: Al Capone、Alphonse Gabriel Capone(アルフォンス・ガブリエル・カポネ))のために特注された西暦1925年製の7人乗り装甲車で市内を移動した。同年、ジョン・ケズウィックは、香港が西暦1941年のクリスマスに日本軍に降伏した後、占領軍による抑留に直面し、香港を離れた。彼はなんとかセイロン(スリランカ)に逃れ、そこでビルマのマウントバッテン伯爵のスタッフとして働いた。兄弟は2人とも、戦争中ずっと英国情報部の上級工作員として秘密裏に活動した。
ジャーディン・マセソン商会の従業員の多くは収容所に抑留され、澳門、支那本土、その他の地域に追放された者もいた。現地の支那人従業員は日本占領下で生き延びるのに苦労したが、何人かは自らの命を危険に晒して捕らわれた同僚を助け支えた。
 第2次世界大戦が終わると、衰弱した数人の従業員がスタンレーの収容所から出てきて、助けてくれた人々に感謝し、解放を祝って香港のジャーディンの事務所をできるだけ早く再開した。上海でも、解放された抑留者はほぼすぐに仕事に復帰した。
西暦1945年の戦争終了後、英国は香港の支配権を回復し、ジョン・ケズウィックは紛争中に被害を受けた会社の施設の再建を監督するために戻った。上海では、資本家が経済再建の支援に招かれた後、支那共産党と協力しようとした。支那共産党は国民党よりも秩序があり、腐敗が少ないと信じていたケズウィックは、英国が新政府を承認するよう主張し、国民党の封鎖を突破して会社の船を航行させようとさえした。ケズウィックは、共産党政権が実施した重税は「反外主義」ではなく、大規模な軍隊と新政府を維持するために資金が必要であることの表れであると信じていた。高い税金に加え、ジャーディンを含む多くの外国企業がレッドの「勝利」債券を購入することが期待され、政府の財源に総額40万ドルの貢献をすることになっていた。抗議の後、この要件は「税金および債券販売委員会には外国人を扱う権限がない。」という理由で当局によって撤回された。
 西暦1949年までに、同社は2万人を雇用していたが、新中華人民共和国での事業運営はますます困難になり、1954 年末までにジャーディンは中国本土での事業をすべて売却、移転、または閉鎖し、その過程で数百万ドルを帳消しにした。タイム誌は次のように報じている。「こうして、スエズ以東で最大の英国投資を行なったジャーディン・マセソン商会の支那での取引は終了した。」

 西暦1949年、中華人民共和国の建国後は拠点を香港に移した。支那大陸の支店網は全て西暦1954年に接収・閉鎖され、2000万ドルの損失を被った。第5代目当主のジョン・ヘンリー・ケズウィック(John Henry Keswick, KCMG)は、西暦1963年に「英支貿易協会」(SBTC)会長に就任(〜西暦1973年)し、共産主義国支那との貿易再開に奔走した。西暦1972年に英支の外交関係が完全に正常化し、西暦1973年に周恩来首相と北京で会談。英国産業技術展も開催され、周恩来も視察に訪れた。西暦1997年に香港が支那に返還されるまでは、イギリス植民地資本であるジャーディン・マセソン商会の役員や幹部らがイギリス植民地下の香港行政局(現在の行政会議 )の非官守(官職)議員として参加し、香港政庁の政策に影響力を行使していた。
 ジャーディン・マセソン商会の香港事業は、西暦1950〜1953年の朝鮮戦争中にイギリス王国が支那に対して課した貿易禁輸措置に従わなければならなかったため、戦後最初の困難に直面した。それでも、西暦1950〜1980年の間に、ジャーディン・マセソン商会は再び劇的な変革期を迎えた。西暦19世紀に産業化による変化が齎されたのと同様に、第2次世界大戦後の数十年間は、ジャーディン・マセソン商会が支那で失った市場に代わる新しい市場を模索する新たな拡大期となった。西暦1953年に朝鮮戦争が終結した後も、同社は毎年開催される広州交易会を通じて支那との貿易を継続した。この交易会では、支那の国際貿易の約半分が7つの支那国営貿易会社を通じて行われた。
 西暦1954年、ジャーディン・マセソン商会はマラヤ連邦(西暦1957〜1963年)、シンガポール、タイ王国チャクリー朝(西暦1782年〜)、ボルネオで事業を展開していたヘンリー・ウォー・アンド・カンパニーへの投資を通じて東南アジアに進出した。最初の正式な報告書と会計報告は西暦1955年に発行された。
 西暦1950年代後半、ロンドンの3つの銀行の支援を受けて、ジョン・ケズウィック(John "The Younger" Keswick)とトニー・ケズウィック(William Johnstone "Tony" Keswick)はジャーディン家の最後の株式を購入した。西暦1961年に香港証券取引所に上場した後、同社はインドシナ・スチーム・ナビゲーション・カンパニーとヘンリー・ウォーフ社(Indo-China Steam Navigation Company and Henry Waugh Ltd.)の支配権を取得し、オーストラリア人で構成されたドミニオン・ファーイースト・ライン海運会社(Dominion Far East Line shipping company)を設立した。西暦1956年、ジョン・ケズウィックは家族経営の資産を管理するためにイギリス王国に戻り、マイケル・ヤング・ヘリーズ(Michael Young-Herries)を香港の事業部長に任命した。
 ジャーディン・マセソン商会は、タイパンのヒュー・バートン(Hugh Barton)が経営していた西暦1961年に株式を公開し、56倍の応募があった。ケズウィック家は、ロンドンに拠点を置く複数の銀行や金融機関と共同で、西暦1959年にブキャナン・ジャーディン(Buchanan-Jardine)家の支配株を8400万ドルで買収したが、その後、株式公開時に株式の大半を売却し、その後は会社の約10%しか保有しなかった。
 香港ランドが所有するマンダリン・オリエンタル・ホテルは、西暦1963年に香港金融街初の5つ星ホテルとして開店し、その1年後には同社の子会社デイリー・ファーム(Dairy Farm)が新興スーパーマーケットチェーンのウェルカム(Wellcome)を買収し、その後、アジア最大の小売事業の1つに成長した。
 西暦1966年の文化大革命の到来とともに支那本土との貿易は事実上停止したが、ジャーディン・マセソン商会はこの時期に支那政府にビッカース バイカウント旅客機6機を販売することに成功した。西暦1963年にはオーストラリア連邦(西暦1901年〜)に、西暦1967年にはジャカルタに代表事務所が設立された。西暦1970年、アジアの金融市場の高度化と、特に香港の個人資産の増加を反映して、アジア初の商業銀行であるジャーディン・フレミング(Jardine Fleming)が営業を開始した。
 西暦1972年、ケズウィック家がヘンリー・ケズウィック(Henry Keswick)を会長に任命しようとしたが、当時の取締役のデイビッド・ニュービギング(David Newbigging)の支持者からかなりの抵抗を受けた。しかし、ロンドンの機関投資家の支援を受けて、ケズウィック家は勝利を収めた。ヘンリー・ケズウィック(Henry Keswick)は専務取締役に任命され、父のジョン・ケズウィック(John Keswick)が会長に就任し、一族がジャーディン・マセソン商会の経営権を保持することになった。ジャーディン・マセソン商会は、同じ年に香港でエクセルシオール・ホテルを開業した。このホテルは、120年以上前にジェームズ・マセソン商会が購入した元の区画1の跡地。ヘンリー・ケズウィックは、西暦1973 年にロンドンに拠点を置く大手不動産会社、リユニオン・プロパティーズ(Reunion Properties)の完全買収を手配した。この買収は、ジャーディン・マセソン商会の株式の7% を追加で取得して資金を調達しました。この買収の結果、同社の資産はほぼ2倍になりました。同じ年、ヘンリー・ケズウィックは、フィリピン第3共和国(西暦1946〜1965年)とハワイで活動し、36000エーカーの砂糖農園を管理していた大手貿易会社、セオ・H・デイビス会社(Theo H. Davies & Company)の買収も監督した。西暦1973年の石油危機の結果、同社がジャーディン・マセソン商会に買収されてから数ヶ月後、世界の砂糖価格が急騰し、ジャーディン・マセソン商会は大きな利益を得た。
 香港の建設ブームは新たな好機を齎し、ジャーディン・マセソン商会は西暦1975年に大手建設・土木グループであるガモン建設(Gammon Construction)を買収してこの好機を摑んだ。また同年、裕福層が増加する中で「高級車への需要が高まる。」と認識した同社は、香港でメルセデス・ベンツ車の販売権を持っていたゾンフー・モーターズ(Zung Fu Motors、仁孚行有限公司)を買収して高級車市場に進出した。西暦1977年、李嘉誠所有の長江持ち株会社(Cheung Kong Holdings)がセントラル駅とアドミラルティ駅の上の開発用地を落札したことは、香港の大手不動産開発業者としてのジャーディン・マセソン商会所有の香港ランドにとって初の挑戦となった。西暦1979年までに、同社は世界中で5万人を雇用した。
 西暦1979年、ジャーディン・マセソン商会は25年以上の不在期間を経て支那本土で再び存在感を示し、北京に初の外国代表事務所を開設、続いて上海と広州に事務所を開設した。1年後、デイリー・ファームが50%の株式を保有するマキシムズ・ケータリング社(Maxim's Catering)は、北京・エア・ケータリング社(Beijing Air Catering Company Ltd.)を設立した。これは「門戸開放」政策開始以来、支那本土で初の外国合弁企業である。ジャーディン・シンドラー社(Jardine Schindler)が初の産業合弁企業としてこれに続いた。同年、ジャーディン・マセソン商会は広告大手マッキャン・エリクソン(McCann Erickson)と合弁事業を開始し、マッキャン・エリクソン・ジャーディン(支那)(McCann Erickson Jardine (China) Ltd.)を設立した。新会社の業務は、支那における西側企業の広告と、支那政府所有の外国貿易企業やその他の組織の西側での広告を扱うことだった。この10年間、ジャーディン・マセソン商会は英国と米国での買収により、保険事業も拡大し、ジャーディン保険仲買会社(Jardine Insurance Brokers)設立の基盤を築いた。
 西暦1980年までに同社は南アフリカ共和国、オーストラリア連邦、共産支那、イギリス王国、英領香港、インドネシア共和国(西暦1945年〜、日本、マレーシア(西暦1963年〜)、フィリピン共和国第4共和政(西暦1965〜1986年)、サウジアラビア王国(西暦1932年〜)、シンガポール共和国(西暦1965年〜)、南鮮(韓国)(西暦1948年〜)、臺灣(西暦1949年〜)、タイ王国、そしてアメリカ合衆国で事業を展開し、37000人の従業員を雇用しました。その後の10年間、ジャーディンは事業ポートフォリオの拡大を続けた。同社は自動車事業をイギリス王国に拡大し、セブンイレブン(7-Eleven)のフランチャイズで香港初のブランド・コンビニエンス・ストアを開店し、香港と台湾でピザハット(Pizza Hut)とイケア(IKEA)のフランチャイズを買収し、支那南部でメルセデス・ベンツとの合弁会社を設立した。また、この地域でのグループの貿易および業務事業を統合し、より大きな事業部門を作るためにジャーディン・パシフィック(Jardine Pacific)も設立された。
 西暦1980年後半、正体不明の人物がジャーディン・マセソン商会の株式を買い始めた。多くの観測者は「李嘉誠か包玉剛(YKパオ、Yue-Kong Pao)が単独または共同でジャーディン・マセソン商会の株式を大量に購入し、香港ランドの支配権を獲得しようとしている。」と疑っていた。その年の11月、当時のタイパンであるデビッド・ニュービギング(David Newbigging)は、ジャーディン・マセソン商会と香港ランドの相互の利権を増やし、どちらの会社も支配権を獲得できないようにすることで両社を再編した。しかし、その結果、両社は多額の負債を抱えることとなった。李嘉誠と包玉剛と戦うための費用により、ジャーディン・マセソン商会はリユニオン・プロパティーズの株式を売却せざるを得なくなった。

 ジャーディン・マセソン商会は西暦1982年に150周年を迎え、東南アジア地域の学生にオックスフォード大学とケンブリッジ大学に通うジャーディン奨学金を提供する教育信託であるジャーディン財団(Jardine Foundation)を設立した。香港の若いグループ幹部に地域を支援する機会を与えるために、ジャーディン・アンバサダー・プログラム(Jardine Ambassadors Programme)も開始された。
 サイモン・ケズウィック(Simon Keswick)は西暦1983年に社長に就任し、南アフリカ共和国に拠点を置くレニーズ・コンソリデーテッド・持ち株会社(Rennies Consolidated Holdings)の株式を処分して、会社の負債を迅速に削減した。また、香港、国際、支那をそれぞれ担当する別々の部門を設けた新しい分散型管理システムを導入した。
 西暦1984年、ジャーディン・マセソン持ち株会社(ジャーディン・マセソン・ホールディングス・リミテッド、JMH)が、グループの新しい持ち株会社として、英国の海外領土であるバミューダに設立された。これは、会社が英国法の異なる買収コードに従うことを確実にするためであった。2年後、デイリー・ファームとマンダリン・オリエンタル・ホテルが香港で上場された。ジャーディン・ストラテジック(Jardine Strategic)は、いくつかのグループ会社の株式を保有するために設立された。
 西暦1988年03月、サイモン・ケズウィックは退任を発表し、その後、アメリカ人投資銀行家のブライアン・M・パワーズ(Brian M. Powers)が後任となり、ジャーディン・マセソン初の非英国人取締役となった。この人事は同社のより伝統的なスコットランド人幹部の間で懸念を呼んだが、同社の衰退を覆したサイモン・ケズウィックは、「ジャーディン・マセソン持ち株会社は香港に利益を有する国際企業であり(その逆ではない)、ブライアン・パワーズがそのような企業の経営に最も適任である。」と説明し、ブライアン・パワーズの選択を擁護した。その後、パワーズは、支那本土の国有企業である支那国際信託投資会社(CITIC)と協力した包玉剛と李嘉誠による相次ぐ買収提案から同社を首尾よく防衛するため、グループをジャーディン・マセソン商会とジャーディン・ストラテジックの2つの相互に連結した企業に分割し、事実上買収不可能な状態にした。その後、襲撃者は、「今後7年間はジャーディン・マセソン持ち株会社のどの会社に対しても攻撃を試みない。」という誓約書に署名した。
 西暦1990年代初頭、ジャーディン・マセソン持ち株会社と他の上場グループ企業4社は、香港上場に加え、ロンドン証券取引所への主要株式上場を手配した。西暦1994年、ジャーディン・マセソン持ち株会社は香港証券先物委員会(SFC)に買収合併規則の適用除外を要請しました。これは、香港が西暦1997年に英国から支那に返還された後に、支那側が上場企業を敵対的買収しようとした場合に、同社がより大きな安全を確保できるようにするためだが、SFCはこれを拒否し、ジャーディン・マセソン持ち株会社は西暦1994年にアラスデア・モリソン(Alasdair Morrison)の在任中に香港証券取引所(ハンセン指数)から上場を廃止し、ロンドンに主要上場した。中華人民共和国(PRC)の当局者は、上場廃止を香港と支那政府の将来に対する非難と見做した。ジャーディン・マセソン持ち株会社がコンテナターミナル9計画に参加しようとした時にこれが問題を引き起こしたが、グループの事業利益は香港から引き続き管理され、事業の東アジアへの重点は以前と同じように継続された。西暦1996年、ジャーディン・フレミング社は、資産管理責任者のコリン・アームストロング(Colin Armstrong)による不正かつ監督されていない証券配分慣行の疑いで、3人の投資家に2030万ドルの支払いを命じられた。
 西暦1997年のアジア金融危機は、ジャーディン・マセソン持ち株会社のベンチャーの共同経営社であるロバート・フレミング社(Robert Fleming)とジャーディン・フレミング社自体の両方に深刻な影響を与えた。ロバート・フレミング社は西暦1998年後半に大規模な人員削減を承認せざるを得なくなった。同社は1999年に再編し、ジャーディン・フレミングの残りの50%の株式を買収する代わりに、ジャーディン・マセソン持ち株会社にロバート・フレミング持ち株会社(Robert Flemings Holdings)の株式18%を譲渡した。その後、ロバート・フレミング持ち株会社は西暦2000年04月にチェース・マンハッタン銀行(Chase Manhattan Bank)に44億ポンド(77億ドル)で売却された。
 ジャーディン保険仲買社とロイド・トンプソン(Lloyd Thompson)が合併してジャーディン・ロイド・トンプソン(Jardine Lloyd Thompson)が設立されたこと、シンガポールの優良企業サイクル&キャリッジ(Cycle & Carriage)の株式16%を買収した。デイリー・ファームがインドネシア共和国の大手スーパーマーケットグループ、ヒーロー(Hero)の株式を大量に買収した。マンダリン・オリエンタル・ホテルも、客室数を倍増させ、ブランドを活用する戦略に乗り出した。西暦21世紀の最初の10年間、ジャーディン・サイクル&キャリッジはアストラ・インターナショナルの株式を31%取得し、その後50%強にまで増加、ロスチャイルド継続持ち株会社(Rothschilds Continuation Holdings)の株式を20%取得し、西暦1838年に始まった関係が再燃しました。香港ランドは、数年にわたる着実な公開市場購入プログラムを経て初めてグループの子会社となり、ジャーディン・パシフィックは香港エア・カーゴ・ターミナルズ・リミテッド(Hong Kong Air Cargo Terminals Limited)の株式を25%から42%に引き上げた。

 西暦2002年、グループはジャーディン・アンバサダーが先頭に立ってグループの慈善活動の中心となるメンタルヘルス慈善団体マインドセット(MINDSET)を設立した。西暦2010年には、慢性精神疾患の影響から回復する人々のための施設、マインドセット・プレイス(MINDSET Place)を正式に開所した。
 西暦2003年以降、ジャーディンマセソンはテオ・H・デイヴィス社(Theo H. Davies & Co.)の様々な保有株を徐々に売却していった。


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2024年11月10日

反吐が出る世界史 鬼畜金満ロスチャイルド家の近親相姦の繁殖でひり出た末裔 後編(第5子イザベラから) 悪逆非道なディープステイト(DS(出来損ないの堕落した最兇な屑))の中核、猶太とは何か その27

ダビデの星.jpgユダヤ(ギリシャ語: Ἰουδαία、Ioudaía、漢字:猶太)

 他民族からは「ヘブライ人」と謂れ、自らは「イスラエル人」と称し、バビロン捕囚後には「ユダヤ人」と呼ばれるようになった徒輩。ヘブライ人、イスラエル人、ユダヤ人は同じ民族を指している。
 ユダヤ人(ヘブライ語: יהודים‎、英語: Jews、ラジノ語: Djudios、イディッシュ語: ייִדן‎)は、猶太教の信者(宗教集団)または猶太教信者を親に持つ者によって構成される宗教信者。原義は狭義のイスラエル民族のみを指す。イスラエル民族の1つ、ユダ族がイスラエルの王の家系だったことを由来とする。猶太教という名称は、猶太教徒が多く信仰していた宗教であることによる。ユダヤとは、パレスチナ南部の地域。酋長ヤコブの子ユダに由来する。古代イスラエル統一王国の分裂後の南ユダ王国があった地域である。



南ユダ王国滅亡後のユダヤの歴史

南ユダ王国が滅ぶと、僅かな例外的時期を除いて西暦20世紀に至るまでユダヤ民族が独立国を持つことはなかった。


神武天皇74(西暦前587)〜安寧天皇10(西暦前539)年 新バビロニア帝国
安寧天皇10(西暦前539)〜孝安天皇61(西暦前332)年 アケメネス朝ペルシア帝国
孝安天皇61(西暦前332)〜孝安天皇88(西暦前305)年 プトレマイオス朝エジプト
孝安天皇88年(西暦前305)〜開化天皇17(西暦前141)年 セレウコス朝シリア
開化天皇17(西暦前141)〜崇神天皇35(西暦前63)年 ハスモン朝 ユダヤ人国家
崇神天皇35(西暦前63)〜崇神天皇61(西暦前37)年 共和政ローマ元老院属州
崇神天皇61(西暦前37)〜垂仁天皇73(西暦44)年 ヘロデ家
垂仁天皇73(西暦44)年 ユダヤ属州(ローマ帝国皇帝属州)
垂仁天皇73(西暦44)〜景行天皇23(西暦93)年 ヘロデ家
垂仁天皇73(西暦44)〜仁徳天皇83(西暦395)年 ローマ帝国皇帝属州
仁徳天皇83(西暦395)〜舒明天皇06(西暦634)年 東ローマ帝国
舒明天皇06(西暦634)〜永正13(西暦1516)年 イスラーム諸王朝 途中に十字軍国家の時代を含む。
永正13(西暦1516)〜大正06年(西暦1917)年 オスマン帝国 
大正07年(西暦1918)〜昭和23(西暦1948)年 イギリスによる国際聯盟の委任統治 
昭和23(西暦1948)年 イスラエル国(メディナット・イスラエル)成立 共和政国家の樹立、現代に至る。



 西暦135年、ローマが叛乱を鎮圧し、ユダヤ的なものを一掃しようとしたローマ人は、この土地をユダの地(ユダヤ)ではなく、ユダヤ人の宿敵ペリシテ人に因んで「パレスチナ」、エルサレムを「アエリア・カピトリーナ」と改称し、ユダヤという地名は消滅した。

 また、ユダヤ人は人種的にはセム族とされるが、長いディアスポラ(離散)のなかで、周辺民族との混血の結果、セファルディームアシュケナジームの違いが生じ、また言語もイデッシュ語などが生まれた。現在、ユダヤ人はイスラエルの他、世界中に分布しており、アメリカにも約600万人が住んでいるとされる。しかし現在ではユダヤ人を「人種」概念で捉えるのは困難で、現実には「猶太教を信仰する徒輩」と捉えるのが正しい。人類学的に同質のユダヤ人は存在しない。


「ザ・ロスチャイルド」大英帝国を乗っ取り世界を支配した一族の物語 - 林千勝
「ザ・ロスチャイルド」大英帝国を乗っ取り世界を支配した一族の物語 - 林千勝

MayerAmschelRothschild.jpg ロスチャイルド家(Rothschild、英語読みは「ロスチャイルド」、ドイツ語読みは「ロートシルト」、フランス語読みは「ロチルド」)は、フランクフルト出身のユダヤ人富豪で、神聖ローマ帝国(西暦800/962〜1806年)フランクフルト自由都市のヘッセン・カッセル方伯領(西暦1567〜1803年)の宮廷ユダヤ人であったマイアー・アムシェル・ロートシルト(Mayer Amschel Rothschild)が西暦1760年代に銀行業を確立したことで隆盛を極めた。それまでの宮廷関係者とは異なり、ロスチャイルドは富を遺すことに成功し、ロンドン、パリ、フランクフルト、ヴィーン、ナポリに事業を設立した5人の息子を通じて国際的な銀行家を確立した。
 ロスチャイルド家は国際金融業の世界で最もよく知られた一族である。だが、彼らの真の歴史はほとんど知られていない。「ロスチャイルド伝説」、「ロスチャイルド神話」といった偽情報は大量に流布されているものの、歴史の流れを変え、政治家、国王、貴族、高位の聖職者を売ったり買ったりしてきたその真の姿については語られることがない。歴史の表舞台で活躍する大立者たちは、革命を、戦争を、大変化を起こし、世界の様相を根底から変えてきたが、その役割を果たせば弊履、ロスチャイルド一族によってあっさり切り捨てられる暗部でしかなかった。


 「破壊王」の邪悪な実態。世界悲惨事始が席を地獄に変えた。ロスチャイルド家の最功労「操り人形」セファルディームのベンジャミン・ディズレーリ(Benjamin Disraeli)。諸国家を金融で蹂躙する一族。「邪悪な連鎖」ナポレオン・ボナパルト(仏語: Napoléon Bonaparte、ナポレオーネ・ディ・ブオナパルテ、伊語: Napoleone di Buonaparte)、オットー・エドゥアルト・レオポルト・フォン・ビスマルク・シェーンハウゼン(Otto Eduard Leopold von Bismarck-Schönhausen)、クレーメンス・ヴェンツェル・ロータル・ネーポムク・フォン・メッテルニヒ・ヴィネブルク・ツー・バイルシュタイン(Klemens Wenzel Lothar Nepomuk von Metternich-Winneburg zu Beilstein)、カール・マルクス(Karl Marx)、こいつらユダヤ人すら殺戮する共喰い「世界王」気取りの賤夫、ロスチャイルド家「魔法の杖」米連邦準備銀行・金・ダイヤモンドの悪魔の厳命、「真っ当な国は破壊せよ!」「破壊王」とは、ロスチャイルド家の最大タブー「麻薬王」;現人悪魔は革命、秘密結社。「淫婦」と「獣」を操るのは糞悪魔ロスチャイルドの「万物を監視する目」。


ロスチャイルドの女たち - ナタリー・リヴィングストン, 古屋美登里
ロスチャイルドの女たち - ナタリー・リヴィングストン, 古屋美登里

第5子(次女)イザベラ(Isabella)。

ロスチャイルド、通貨強奪の歴史とそのシナリオ 影の支配者たちがアジアを狙う - 宋 鴻兵, 橋本 碩也, 橋本 碩也, 河本 佳世
ロスチャイルド、通貨強奪の歴史とそのシナリオ 影の支配者たちがアジアを狙う - 宋 鴻兵, 橋本 碩也, 橋本 碩也, 河本 佳世

第6子(三女)バベット(Babette)。

ロスチャイルド家の代理人が書いたアメリカ内戦革命のシナリオ『統治者フィリップ・ドルー』 - エドワード・マンデル・ハウス 監訳者 林千勝
ロスチャイルド家の代理人が書いたアメリカ内戦革命のシナリオ『統治者フィリップ・ドルー』 - エドワード・マンデル・ハウス 監訳者 林千勝

第7子(四男)カール・マイアー・フォン・ロートシルト(Carl Mayer von Rothschild、通称: カルマン)。両シチリア王国(西暦1816〜1861年)を拠点としたナポリ・ロートシルト家の祖。
 フランクフルト・アム・マインに生まれた時の名前はカルマン・マイアー・ロートシルトであるが、家族内での呼び名だった「カール」の名で知られる。富裕な一族に生まれた彼は、29歳で結婚してフランクフルトのノイエ・マインツァー通りに居を構えるまで、父マイアー・アムシェルの下で銀行業の下積みを行った。長兄のアムシェル・マイアーはヨーロッパ全域において一家の事業展開を行うために、自らはフランクフルトに残りながら、弟たちをヨーロッパの各都市に送り、その地で銀行を開業させた。西暦1821年にオーストリア軍がナポリを占領すると、好機と見たロートシルト家はカール・マイアーをナポリに送った。
 カール・マイアーはしばしば5人兄弟のうちで最も出来が悪かったと見られているが、ナポリにおける彼の働きは優秀な金融業者であることを示している。また、商売の重要なコネを作ることにも秀でており、ルイージ・デ・メディチ蔵相との良好な関係を作り上げていた。ロートシールト家の銀行をナポリにおける主要行としたカールの成功で、ロートシルト家は英国および他のヨーロッパ主要3ヶ国における存在感を出し、一族は大きな影響力を持つこととなった。西暦1822年にカール・マイアーと4人の兄弟はオーストリア皇帝フランツ1世から男爵に叙せられた。
 西暦1826年の冬には、後にベルギー王国(西暦1830年〜)初代国王レオポルド1世(仏語: Léopold Ier)となるザクセン・コーブルク・ザールフェルト公国(西暦1699〜1826年)レオポルド公をナポリの邸宅に招いた。シチリアの在フランクフルト総領事に任命(西暦1829年)された他、西暦1832年01月にはローマ法王グレゴリウス16世(Gregorio XVI,、バルトロメオ・アルベルト・カッペラーリ(Bartolomeo Alberto Cappellari))から騎士団勲章を受けた。
 カール・マイアーは、フランクフルトとナポリのいずれにも邸宅を持っていた。父マイアー・アムシェルがフランクフルト郊外に所有していた土地に西暦1837年に建てた邸宅は、現在ギュンターズブルク・パークとして知られている。また、西暦1841年にはヴェスヴィオを臨むサン・ジョルジョ・ア・クレマーノの邸宅ヴィッラ・ピニャテッリを購入している。
 西暦1853年の妻アデルハイト、西暦1854年の四男アンセルム・アレクザンダー・カールの死を追うように、カールは西暦1855年にナポリで死去した。
彼の資産は、7分の1が娘シャルロットに、残りが存命の3人の息子に均等配分された。二男のアドルフ・カールがナポリにおける事業を継ぎ、長男マイアー・カールと三男ヴィルヘルム・カールは子供を遺さずに死去した伯父アムシェル・マイアーのフランクフルトにおける事業を継いだ。
 結婚した妻アデルハイト・ヘルツ(Adelheit Herz)との間に4男1女をなした。

 第1子(長女)シャルロット(Charlotte)。ライオネル・ド・ロスチャイルド(Lionel de Rothschild、ネイサン・メイアー・ロスチャイルドの長男)と従姉・従弟婚
 第2子(長男)ロートシルト男爵マイアー・カール(Baron Mayer Carl von Rothschild)。
 西暦1855年に伯父のアムシェル・マイアーが亡くなった後、最終的にフランクフルト本家の経営を統括する役割を担い、フランクフルト本家第2代目を継承した。プロイセン宮廷の銀行になり、マイヤー・カールは、フランクフルトのパルマ公領事、バイエルン領事、オーストリア総領事などの個人的な栄誉も得た。西暦1866年にはフランクフルト代表団の一員としてベルリンに赴き、戦争への貢献の削減を要求し、北ドイツ議会の議員、ドイツ国会の議員、フランクフルト市議会の議席を獲得した。西暦1871年にはプロイセン王国上院に任命された最初のユダヤ人となった。
 ネイサン・メイアー・ロスチャイルドの三女ルイーズ(Louise)と従兄・従妹婚7女を儲けた。娘のうち、マルガレータとベルタ・クララは猶太教徒以外と結婚したため、父マイアー・カールの大不興を買った。
  第1子(長女)アデル ・ハンナ・シャルロット(Adèle Hannah Charlotte)。ロチルド男爵サロモン・ジェームズ(Salomon James de Rothschild)と従兄・従妹婚し、パリのフォーブール・サン・トノーレ通り25番地にある建物の1階にある私邸に住んだ。結婚からわずか2年後、1人娘エレーヌ(Helene)を出産してから1年足らずで未亡人となった。夫の突然の死後、アデル・ハンナ・シャルロットは世間からほとんど身を引いて、パリ8区ベリエ通り11番地に建てた邸宅(オテル・サロモン・ド・ロチルド)に娘と共に閉じこもり、妹のローラ・テレーズ・ド・ロスチャイルド (グラモン公爵夫人)とベルタ・クララ(ワグラム公爵夫人)と限られた付き合いをした。その邸宅に夫が蒐集した美術品を展示した。2人以外の妹が猶太教以外の信仰で結婚したことにはっきりと反対していたアデル・ハンナ・シャルロットは、娘のエレーヌも同じ選択をしていたが、ファン・ズイレン・ファン・ナイェフェルト・ハール男爵エティエンヌと結婚したことを知り、打ちのめされた。
  第2子(次女) エンマ・ルイーズ(Emma Louise)。初代ロスチャイルド男爵ナサニエル・メイヤーと従叔父・従姪婚し、イギリス王国(グレートブリテン及びアイルランド連合王国)(西暦1801〜1922年)で暮らした。
  第3子(三女) クレメンティーヌ・アンリエット(Clementine Henriette)。20歳で死亡。
  第4子(四女) ローラ・テレーズ(Laura Thérèse)。ロンドン・ロスチャイルド家の祖ネイサン・メイアー・ロスチャイルドの孫、ネイサン・ジェームス・エドゥアール・ド・ロスチャイルド(Nathan James Edouard de Rothschild、ジェームズ・エドワード・ド・ロスチャイルド)と従叔父・従姪婚夫とパリのフリードランド通りに住んでいた。西暦1881年10月25日、37歳の誕生日の3日前にネイサン・ジェームス・エドゥアール・ド・ロスチャイルドが亡くなった後、ベルク・シュル・メールで彼が設立した病院の経営を引き継いだ。
   第1子(長男)アンリ・ジェームス・ナサニエル(Henri James Nathaniel Charles)。
   第2子(長女)ジャンヌ(Jeanne)。アブラム・ダビド・レオニーノ(Abram David Leonino)と結婚。
  第5子(五女) ハンナ・ルイザ(Hannah Louisa)。フランクフルトで慈善活動に人生を捧げ、生涯を独身で過ごした。
  第6子(六女)マルグリット・アレクサンドリーヌ (Marguerite Alexandrine)。グラモン公アジェノール(仏語: Agenor, Duc de Gramont)と結婚。マルグリット・アレクサンドリーヌから13親等の親族が、フランス第5共和政(西暦1959年〜)第3代大統領ヴァレリー・マリー・ルネ・ジョルジュ・ジスカールデスタン(仏語: Valéry Marie René Georges Giscard d'Estaing)。
  第7子(七女)ベルタ・クララ (Bertha Clara)。ワグラム公アレクサンドル・ベルティエ(仏語: Alexandre Berthier, Duc de Wagram)と結婚。
 第3子(次男)アドルフ・カール(Adolf Carl)。
 第4子(三男)ロートシルト男爵ヴィルヘルム・カール(Baron Wilhelm Carl von Rothschild、
ヘブライ語: שמעון וואלף רוטשילט)。

 西暦1855年に伯父のアムシェル・マイアーが亡くなった後、長兄のマイヤー・カールと共にフランクフルトの親会社M・A・フォン・ロートシルト&ゾーネを継承した。
 西暦1886年に兄が亡くなった後、ヴィルヘルム・カールは、フランクフルト本家第3代目となった。既に西暦1860年代半ばには、プロイセン王国とドイツの金融界において若い銀行家アドルフ・フォン・ハンゼマン(Adolph von Hansemann)と彼が率いるディスコント・ゲゼルシャフトの重要性が高まっていることを認識していた。彼はM・A・フォン・ロートシルト&ゾーネとハンゼマンス・ディスコント・ゲゼルシャフトとの間に緊密な経済協力関係を築き上げ、その取引量はすぐにロンドンとパリの他のロスチャイルド銀行との取引量よりも大きくなった。「ヴィルヘルム・カールはハンゼマンの分身に過ぎない。」と親戚から非難を浴びたが、彼は死ぬまで緊密な関係を維持した。
 ヴィルヘルム・カール・フォン・ロートシルトには男系の子孫がいなかったため、彼の死により、フランクフルト本家の男系は断絶した。彼の義理の息子であるマクシミリアン・フォン・ゴールドシュミット・ロートシルト(Maximilian von Goldschmidt-Rothschild)は、西暦1901年にヴィルヘルム・カールが亡くなった後、フランクフルト本家を継続できず、M・A・フォン・ロートシルト&ゾーネは清算され、継続的な事業はディスコント社に引き継がれ、その後、西暦1929年にドイツ銀行と合併した。
 ヴィルヘルム・カールはフランクフルトとその周辺地域の様々な不動産の所有者または建設者であり、いくつかは今日でも現存する。 西暦1869〜1870年に掛けて、ボッケンハイマー ランド通り10番地にあった既存の田舎家を代表的な宮殿に改装し公園を造成した。宮殿とロートシルト公園は後に義理の息子マクシミリアンの所有となったが、マクシミリアンは西暦1937〜1938年に掛けて市場価格の数分の 1 で国家社会主義市当局に売却しなければならなかった。西暦1877年、ヴィルヘルム・カールは、従兄で義父のアンゼルム・ザロモンからグリューネブルク公園とヴィラ グリューネブルクを相続しました。ヴィルヘルム・カールはこの財産を娘のミンナ・カロリーネ(ミンカ)に遺贈した。 西暦1935年、国家社会主義市当局は、当時の後継者アルベルトに対し、宮殿と公園を市に移転するよう強制した。ゴールドシュミット・ロートシルト家はちょうど海外に移住することができた。第2次世界大戦中、爆弾によりヴィラ・グリューネブルクが破壊された。現在、記念碑と記念銘板がこの建物を記念しているが、前の所有者の運命については触れられていない。
 ヴィルヘルム・カールは、西暦1888〜1894年まで、ケーニヒシュタイン・イム・タウヌスに夏の別荘、ヴィラ・ロートシルトを建てていた。ドイツ帝国(西暦1871〜1918年)第3代皇帝ヴィルヘルム2世(Wilhelm II、フリードリヒ・ヴィルヘルム・ヴィクトル・アルベルト・フォン・プロイセン(Friedrich Wilhelm Viktor Albert von Preußen))の皇太后ヴィクトリア・アデレード・メアリー・ルイーズ(英語: Victoria Adelaide Mary Louise、ドイツ語: ヴィクトリア・アデライーデ・マリー・ルイーザ(Viktoria Adelaide Mary Louisa、愛称: ヴィッキー(Vicky))との特別な繋がりは、同時にクロンベルク・シェーンベルク近くに未亡人の邸宅であるフリードリヒスホフ宮殿を建設し、ロートシルト夫妻が皇太后の便利な経路として特別に建設された小道を持っていたという事実によって示されている。ヴィラ・ロートシルトは没収され、当時の所有者は追放を余儀なくされた。 西暦1945年に、この別荘は当初ヘッセン州の所有となり、西暦1947〜1949年までビゾーネ経済評議会の会議の場となった。この時代、州議会とも呼ばれ、「ドイツ基本法と連邦共和国の発祥の地」と考えらた。現在、かつて広大なロスチャイルドの敷地内にあったヴィラ・ロスチャイルドとケーニッヒシュタイナー・タウヌス体育館には高級ホテルが建っている。

 ヴィルヘルム・フォン・ロートシルトは、ヴィーン家の従兄であるアンセルム・ザロモン・フォン・ロートシルトの次女ハンナ・マチルデ・フォン・ロートシルト(Hannah Mathilde von Rothschild,)と従伯父・従姪婚
  第1子(長女)ジョージーヌ・サラ(Georgine Sara)。西暦1869年にバーデン・バーデンで亡くなった。彼女を追悼するために、両親はフランクフルトに小児病院であるゲオルギーネ・サラ・フォン・ロートシルト財団を設立した。
  第2子(次女)アーデルハイド・フォン・ロートシルト(Adelheid von Rothschild)。パリ家の父の従兄であるエドモン・ド・ロートシルト(Edmond de Rothschild)と従兄・従妹婚彼はパレスチナにおけるユダヤ人の植民地化の先駆者。
  第3子(三女)ミンナ・カロリーネ(Minna Karoline、Minka)。西暦1878年にフランクフルト・ゴールドシュミット銀行家の一員であるフランクフルトの銀行家マクシミリアン・ベネディクト・フォン・ゴールドシュミット(Maximilian Benedikt von Goldschmidt)と結婚した。フランクフルト・ロートシールト家の最後の男系であるヴィルヘルム・カールの死後、マクシミリアン・ゴールドシュミットとその妻はロートシールトの姓を名乗った。皇帝ウィリアム1世はマクシミリアン・ゴールドシュミットにゴールドシュミット・ロートシールト男爵の称号を与えた。
 ゴールドシュミット家は、金融業の著名な門閥であり、元々はフランクフルトのユダヤ系ドイツ人の家系のゴルトシュミット(独語: Goldschmidt-Haus)でである。起源は西暦14世紀に遡り、西暦1614年のフェットミルヒの叛乱の後にフランクフルトを離れ、西暦18世紀まで戻ることはなかった。オランダ東インド会社のゴールドスミッド家と混同されがちだが、同じユダヤ系であるが別の家系。
 マインツの同じユダヤ系のビショフスハイム家と特に深く関わり合い、ビショフスハイム・ゴールドシュミット&Cie(compagnie)銀行は共同で管理され、西暦1863年のオランダ貯蓄信用銀行との最終的な合併に繋がった。


 第5子(四男)アンセルム・アレクザンダー・カール(Anselm Alexander Carl)。

富の王国 ロスチャイルド―ロスチャイルド一族の歴史から学ぶ上手なお金の生かし方 - 池内 紀
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第8子(四女)ユーリエ(Julie)。

ロスチャイルド夫人の上流生活術 - ナディーヌ ロスチャイルド, De Rothschild,Nadine, 緋紗子, 伊藤
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第9子(五女)ヘンリエッテ(Henriette)、通称: イェッテ。
 アブラハム・モンテフィオーレと結婚。1女を儲けた。
 第1子(長女)ルイーズ・モンテフィオレ(Louise Montefiore)。
 西暦1840年に、ロンドン・ロスチャイルド家の祖、ネイサン・メイアー・ロスチャイルドの次男、初代ロスチャイルド准男爵アンソニー(英語: Anthony de Rothschild, 1st Baronet)と従兄・従妹婚し、2女を儲けた。
  第1子(長女)コンスタンス(Constance)。
  第2子(次女)アニー(Annie)。エリオット・コンスタンティン・ヨーク(Eliot Constantine Yorke DL MP)大佐と結婚。子供はいなかった。夫エリオット・コンスタンティン・ヨークはケンブリッジシャーの保守党庶民院議員。ケンブリッジシャー民兵隊の隊長、エディンバラ公爵の侍従、ケンブリッジシャー副知事でもあった。ロンドンのメイフェア、カーゾン・ストリート17番地で35歳で亡くなった。

ロスチャイルド家の上流恋愛作法: 愛される女性たちの秘密 - ナディーヌ ロスチャイルド, De Rothschild,Nadine, 絹子, 鳥取
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第10子(五男)ロスチャイルド男爵ジェームス・マイエール(仏語: Le baron James Mayer de Rothschild)。パリ・ロートシルト家の祖。ヤーコプ・マイアー(Jakob Mayer)。フランス移住後に、英語風の名前にすることでロンドン・ロスチャイルド家との繋がりを強調し、商売をやりやすくするため、「ジェームス・マイエール」(James Mayer)に改名した。
 ロートシルト家(ロスチャイルド家)の始祖であるマイアー・アムシェル・ロートシルトの末っ子としてフランクフルト・アム・マインに誕生。フランス帝国首都パリへ移住した。当時彼はまだ19歳でフランス語も満足に喋れなかったが、
三兄ネイサンが手掛けていた大陸の金塊をイギリス軍司令官ウェリントン公アーサー・ウェルズリーの許に運ぶ金密輸業をパリ市内の情報操作を通じて支援した。ジェームス・マイエールの巧みな情報操作によりフランス政府はこの動きを掴んでいなかったばかりか、逆に「ジェームスがイギリスから大陸に金を流出させている。」と信じ込み、ジェームス・マイエールを称賛したほどだった。
 ナポレオン戦争後、フランスにブルボン家の復古王政(西暦1814〜1815、1815〜1830年)が樹立され、追放されていた貴族たちが続々とフランスに戻ってきたが、彼らは新しい時代の財産管理の方法が分かっていない者が多かった。そこに目を付けたジェームス・マイエールは彼らの財産管理の相談に乗ることでロチルド銀行の顧客にしていった。ブルボン家の公債をめぐる金融業務は当初フランス金融界の名門ウーブラール、および英国金融界の名門ベアリングス銀行に任されており、新参者のジェームス・マイエールは排除されていたが、西暦1818年のアーヘン会議(フランスの賠償金をめぐる列強の会議)で立場を挽回して公債発行に加わることに成功した。
 銀行業に優れた才覚を持つジェームス・マイエールは、ある時は単独で、ある時はロンドンのネイサンと協力して、ヨーロッパ各国に巨額の起債を行った。その功績で各国と親密な関係を築き、西暦1821年にはオーストリア帝国から総領事の地位を与えられ、西暦1822年にはハプスブルク家よりジェームス・マイエールを含めたロスチャイルド一族全員に男爵位が授与された。同年、ロシア皇帝からも聖ウラジーミル勲章を送られ、翌西暦1823年にはフランス政府からもレジオンドヌール勲章を授与された。
 西暦1830年の7月革命でブルボン家の復古王政が倒され、親ブルジョワ的なオルレアン家のルイ・フィリップがフランス国王に即位した(7月王政(西暦1830〜1848年))。この革命熱はブリュッセルにも波及し、ベルギー独立革命が起こった。この際に各国が反フランス包囲網を作り、戦争ムードになったが、ジェームス・マイエールは「ロチルド銀行は戦争の為には一銭も出さない。」と宣言することで各国を牽制して戦争を阻止し、もってベルギーの独立を助けた。
 ジェームス・マイエールは新国王ルイ・フィリップ1世(仏語: Louis-Philippe Ier)とも親密な関係を保った。そのためルイ・フィリップ1世はロチルド銀行にフランス国債を独占的に任せ、また国王個人の投資事業も委ねた。ジェームス・マイエールはルイ・フィリップの治世から鉄道への投資を熱心に行うようになり、西暦11837年にはパリーサンジェルマン間、西暦1839年にはパリーベルサイユ間の鉄道建設に尽力した。西暦1846年には北部鉄道を設立した。この頃からジェームス・マイエールは鉄道王と呼ばれるようになった。西暦1836年にロンドンの兄ネイサンが死去するとロスチャイルド家全体の家長的存在となった。
 西暦1848年革命でフランスは第2共和政(西暦1848〜1852年)となり、11月にはナポレオンの甥にあたるルイ・ナポレオンが大統領に当選した。西暦1851年にクーデタを起こし、西暦1852年にフランス皇帝ナポレオン3世(仏語: Napoléon III、シャルル・ルイ・ナポレオン・ボナパルト(Charles Louis-Napoléon Bonaparte))となり、第2帝政(西暦1852〜1870年)。ナポレオン3世にはジェームス・マイエールと敵対関係のユダヤ人金融業者アシーユ・マーカス・フール(Achille Marcus Fould,)が金主に付いていた。その関係からアシーユ・マーカス・フールが大蔵大臣に任命された。この人事を聞いたジェームス・マイエールは「ふーん、新しいワーテルローの臭いがするね。」という感想を漏らした。西暦1852年にはナポレオン3世とアシーユ・マーカス・フールの庇護を受けるユダヤ金融業者ペレール兄弟(Frères PereireLes frères Pereire, Émile, Isaac)が投資銀行の先駆けとされるクレディ・モビリエ(Le Crédit mobilier)を立ち上げ、ジョルジュ・ウジェーヌ・オスマン(Georges-Eugène Haussmann)のパリ改造を支援したり、鉄道を初めとする各分野に積極的な融資を行うようになり、商業銀行業務が中心だったロチルド銀行と競合するようになった。
 しかしロチルド家が堅実で安全重視の投資で着実な成功を維持したのに対し、クレディ・モビリエは無謀で投機的な投資を手当たり次第に行った。その結果、クレディ・モビリエは、西暦1860年頃には凋落の様相を呈した。西暦1862年、ペレール兄弟は「苦境打開のためにフランス国債を独占的に任せてほしい。」とナポレオン3世とアシーユ・マーカス・フールに要請したが、この頃には2人ともクレディ・モビリエを見限っており、ロチルド銀行にフランス国債を任せることにした。フランス政府とロチルド家の和解の印として、西暦1862年02月17日にナポレオン3世がジェームス・マイエールのフェリエール宮殿を訪問した。ジェームス・マイエールとナポレオン3世は食事や狩猟や美術品鑑賞を共にして楽しんだ。一方ナポレオン3世に見捨てられたクレディ・モビリエの株価は下がり続け、西暦1867年には倒産した。ジェームス・マイエールの完全勝利であった。
 西暦1860年代後半にナポレオン3世がテュイルリー宮殿で催した晩餐会に出席した際、ワルツ「平和なくして帝国なし」が流れたが、この時ジェームス・マイエールはナポレオン3世に「お分かりですか。」と念を押した。しかしナポレオン3世には分かっていなかった。彼はジェームス・マイエールの死後の西暦1870年にフランス帝国を破滅的な戦争へ導くことになった。
 最晩年の西暦1868年にブドウ園シャトー・ラフィットを購入した。同年、76歳で死去した。最終的にジェームス・マイエールの資産は6億フラン以上だったと見られている。「彼のロチルド銀行は他のフランス主要銀行の資産を全て合計した金額よりさらに1億フラン多く持っていた。」と見積もられている。
 伊達男として知られ、話術も巧みだったので、フランス社交界の花であった。彼の邸宅はパリ有数の社交場だった。
 文学に造詣が深く、特にヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe)とヨーハン・クリストフ・フリードリヒ・フォン・シラー(Johann Christoph Friedrich von Schiller)を愛読した。またジョアキーノ・アントーニオ・ロッシーニ(Gioachino Antonio Rossini)、オノレ・ド・バルザック(Honoré de Balzac)、フランツ・グリルパルツァー(Franz Grillparzer)、クリスティアン・ヨハン・ハインリヒ・ハイネ(Christian Johann Heinrich Heine)といった作曲家・小説家・詩人と親しく付き合った。ハインリヒ・ハイネはしばしば同じユダヤ人のロスチャイルド家の悪口を言っている者だったが、ジェームス・マイエールは全く気にせず付き合っていた。度量の広いジェームス・マイエールは、ロスチャイルド家に敵対する立場に身を置く者と付き合うのが好きだった。むしろ彼にとってはお世辞ばかりで内心では成りあがりのユダヤ人と軽蔑している社交界の面々と付き合う方が退屈だったらしく、「社交活動をするのは直接的・間接的に商売の役に立つからに過ぎない。」と語っていた。
 画家フェルディナン・ヴィクトール・ウジェーヌ・ドラクロワ(Ferdinand Victor Eugène Delacroix)とも親しく付き合っていたが、ある時ドラクロワから乞食姿のジェームス・マイエールを描いてみたいと依頼され、ジェームス・マイエールがこれを快諾したことがあった。その翌日、ジェームス・マイエールは乞食姿でドラクロワのスタジオを訪れたが、ドラクロワの弟子から本物の乞食と間違われて、1フランを与えられて追い返された。帰宅したジェームス・マイエールはドラクロワに宛てて「拝啓、スタジオ入口で貴方から贈られた元金、その利子及び複利計算による利息 ― 計1万フランを同封いたします。当行におきまして常時換金可能です。ジェームス・ド・ロチルド」という手紙を書いて送り、評判になった。フリーメイソンが設けるフランスグランドロッジの監査役。
 西暦1824年にドイツのフランクフルト・アム・マインにおいて、彼は次兄ザーロモン・マイアー・フォン・ロートシルトの娘であるベティ(Betty)と叔父・姪の近親婚で4男1女をなした。
 第1子(長女)ロスチャイルド男爵夫人シャーロット(Baroness Charlotte de Rothschild)。英国ロスチャイルド家のナサニエル・ド・ロスチャイルド(Nathaniel de Rothschild)と従兄・従妹婚
 第2子(長男)ロチルド男爵アルフォンス(Le baron Alphonse de Rothschild)。パリ・ロチルド家第2代当主。
 西暦1868年に父ジェームス・マイエールが死去するとコンコルド広場にある邸宅とラフィット通りにあるロチルド銀行を継承した。当時彼は41歳だった。次弟ギュスターヴ・サミュエル・ジェームス(Le baron Gustave Samuel James de Rothschild)と協力して事業を行った。三弟サロモン・ジェームス(Salomon James de Rothschild)は既に死去しており、四弟エドモン・バンジャマン・ジャム(Edmond Benjamin James de Rothschild)は事業に関心がなかった。
 スペイン王位継承問題で普仏関係が悪化する中の西暦1870年05月にアルフォンスは皇帝ナポレオン3世に召集され、「英国政府に普仏関係の調停をするよう働きかけてほしい。」と依頼された。フランス政府から直接イギリス政府に働きかければフランス帝国が弱い立場にあることを国際的にさらけ出すようなものなので、ナポレオン3世としてはロチルド家の非公式ルートを使いたがっていた。アルフォンスは早速、ロンドン・ロスチャイルド家の御曹司ナサニエルと連絡を取った。ナサニエルはアルフォンスの要請通り、ウィリアム・ユワート・グラッドストン首相と会見してナポレオン3世の意志を伝えたが、ウィリアム・ユワート・グラッドストンは「イギリス政府はプロイセン政府に影響を及ぼせる立場にはない。」と回答し、関わることを拒否した。
 こうして07月には普仏戦争が勃発した。ナポレオン3世は09月にもプロイセン軍の捕虜となり、第2帝政は崩壊した。パリでは共和政が樹立されるも、プロイセン軍の包囲を受けた。パリ包囲戦中、アルフォンス所有のフェリエール宮殿はプロイセン占領軍に大本営として接収され、プロイセン国王ヴィルヘルム1世や鉄血宰相ビスマルクが入城した。しかしヴィルヘルム1世が一切の掠奪を禁止してくれたお蔭で邸宅が掠奪を受けることはなかった。パリ包囲戦中にはロンドン・ロスチャイルド家の協力も得て、飢餓に喘ぐパリ市民に食料を届ける救援活動に尽くした。
 保守主義者のアルフォンスは共和政体を嫌っており、第2帝政崩壊直後にはオルレアン家による王政復古を希望したが、パリ・コミューン政府の樹立があったため、これを警戒して「保守的であるなら共和政体でも良い。」と考え直し、アドルフ・ティエールが指導する第3共和政を支持した。アルフォンスはフランス銀行理事でもあったため、プロイセン政府との交渉にも活躍した。ビスマルクとの会見に際しアルフォンスはドイツ語を使用することを拒否してビスマルクの機嫌を損ねたというが、50億フランの賠償金はロチルド家の金融なくしては空手形になりかねない。ビスマルクとしてもアルフォンスの意向を完全に無視することはできなかった。結局アルフォンスの尽力のおかげでフランス政府は予定よりも2年早く賠償金を支払い終えることができた。
 戦後も保守的な立場を取り続け、北部鉄道所有者として他の鉄道経営者たちと共にレオン・ガンベタの鉄道国有化構想に反対した。
また労働者運動にも懐疑的であり、西暦1879年にはジャーナリストとの対談で「私は労働者の運動を信じない。実際には多くの労働者は不平を持っておらず、彼らの置かれている環境に満足している。煽動者がいて、その者たちができる限り騒ぎを起こしたがっているだけである。」と語った。
 「石油が最先端産業として登場して来る。」といち早く目を付け、西暦1883年には財政困窮に陥ったロシア帝国政府の公債発行を引き受ける代わりにバクー油田の中でも最大規模のバニト油田をロシア政府より貰い受けた。バクー油田の開発を進めているアルフレッド・ノーベルに資金提供して開発を進めた。

 体格は小柄だが、頑丈で冷静な人物で、ヨーロッパで最も立派な髭を生やす男と呼ばれていた。フランス学士院の会員でもあり、芸術家の保護に熱心だった。才能を認めた芸術家の作品を積極的に買い支えた。インフラストラクチャー設備の慈善活動も熱心に行い、フランス全土に博物館や役所、学校を寄贈している。寄贈を行った市町村の数は200にも及ぶ。専用列車での鉄道旅行とルネサンス期の金工品の蒐集が趣味。
 西暦1857年にロンドン・ロスチャイルド家の当主ライオネル・ド・ロスチャイルドの長女レオノラ(Leonora)と従伯父・従姪婚。結婚式はイギリス王国で挙げ、元首相初代ラッセル伯爵ジョン・ラッセル(John Russell, 1st Earl Russell, KG, GCMG, PC, FRS)や未来の首相ユダヤ人初代ビーコンズフィールド伯爵ベンジャミン・ディズレーリ(Benjamin Disraeli, 1st Earl of Beaconsfield, KG, PC, FRS)など錚々たる顔ぶれが出席した。レオノラとの間に1男1女を儲けた。
  第1子(長女) シャルロット・ベアトリス(Charlotte Béatrice de Rothschild、モーリス・エフルシ夫人)
 シャルロット・ベアトリスは、人間のように扱われ飼い慣らされたチンパンジーを何匹か飼っていた。また、犬の足にダイヤモンドを嵌め、豪華な花火を打ち上げるなど、豪華な犬の結婚式も手配した。女性の社会での経歴の頂点は世俗的なサロンの女性主人の地位を得た。
 シャルロット・ベアトリスはスポーツが好きで、テニス、乗馬、フィギュアスケートに興味があり、何と拳闘の試合に参加し、飛行クラブに入り自分で操縦した。この行動は当時の女性としては前代未聞で、シャルロット・ベアトリスは何も止めることができませんでした。彼女は自分の望むように生きた。彼女が姿を現す度に大きな出来事となり、彼女のドレスは正に芸術作品で、世俗的なレセプションに現れて模倣され、既に全く前代未聞のことだった。風変わりで自信に満ちたシャルロット・ベアトリス・ド・ロスチャイルドは、自分で夫を選び、両親(アルフォンスとレオノラ)は娘にこの事さえ許した。

 シャルロット・ベアトリスの結婚は、ロスチャイルド一族の中で従兄・従妹の近親婚から逃れた最初の例だった。19歳のシャルロット・ベアトリスが選んだ夫は、ロシアのオデッサで小麦の輸出で財をなして億万長者になりパリに移住したユダヤ人一族エフルシ家の銀行家で石油王の15歳年上のモーリス・エフルシだった。残念ながら、衝動的なシャルロット・ベアトリスはすぐに、夫との共通点がほとんどないことに気付いた。モーリスは自由時間をカジノや競馬に費やし、シャルロット・ベアトリスの情熱的な性格はもっと何かを求めていた。エフルシ男爵夫人シャルロット・ベアトリスの結婚は不幸で、シャルロット・ベアトリスは法律上は21年間結婚していたが、結婚から1年後に別れたと言える。賭博に加えて、夫モーリスには女遊びの趣味があり、モーリス・エフルシは妻を裏切り、裏切りの後、彼女は治療を受けることを余儀なくされた。ある時、別の治療を受けた後、ベアトリスは自分が子供を産むことができないことを知った。後悔なく、1904年に女性は離婚手続きを開始した。これは当時としては前代未聞の行為であり、ロスチャイルド家にとってはなおさらで、不幸な結婚生活の21年間はそれを永遠に破るのに十分と判断した。エフルシ男爵モーリスの借金がロスチャイルド家の状態を脅かし始めた時、エフルシ男爵夫人シャルロット・ベアトリスの忍耐は破裂した。世俗的な醜聞を避けるために、シャルロット・ベアトリスは離婚した。
 その間、シャルロット・ベアトリスは安楽に暮らし、よく旅行し、骨董品を集めた。彼女の芸術に対する好みが極端になり、ある日、フレスコ画を取り除くためだけに礼拝堂を購入した。離婚後1年、シャルロット・ベアトリスの父ロチルド男爵アルフォンスが亡くなり、世界で最もかけがえのない人だった。このため、シャルロット・ベアトリスは長期にわたる鬱状態に陥った。ベアトリスは 父ロチルド男爵アルフォンスから 遺産7億フランを相続した。西暦1902年、夫の従兄弟であるテオドール・レイナックが、後にコート・ダジュール(仏語: Côte d'Azur、紺碧海岸、フレンチ・リヴィエラ(英語: French Riviera))として知られるようになったボーリュー・シュル・メールにギリシャ風の別荘ヴィラ・ケリロスを建て始めた。ここの自然の美しさに魅了されたシャルロット・ベアトリスは、隣接する土地の拡張を望んでいた悪逆で強欲な悪魔、ベルギー国王レオポルド2世(Léopold II)とニースとモナコの間にあるモンテカルロのフェラ岬のサン・ジャン・カップ・フェールの丘の頂上地を争って、半島の最も狭い部分にある7haの岩だらけの不毛の土地を取得した。金を惜しまず、山頂はダイナマイトで掘り下げられ、庭園のために肥沃な土壌が運び込んだ。ようやく準備作業は完了したが、建築家を決めることができませんでした。シャルロット・ベアトリスは、当時の有名な建築家全員と個人的に知り合い、最高の建築家だけでなく、彼女の注文を実行してくれる人を探していた。建設はなかなか始まらなかった。6人の建築家を交代した後、ベアトリスは地元の建築家を選び、柔軟な性格で知られるアーロン・メシア(Aaron Messia)によって開始された。後に知られるように、シャルロット・ベアトリスとアーロン・メシアの間の原則は、「私はあなたがどう思うか尋ねません。私が何を望んでいるかをあなたに説明します。」に要約された。7年間の建設期間で20人の建築家を交代させた膨大な工事を経て、最終的に、シャルロット・ベアトリスが自分の夢を一致させ、全て最高を目指し、豪華なベネチア風の別荘は顧客の希望通りになった。
 桃色大理石のギャラリーに囲まれたヴィラ・エフルシのロビーでは、シャルロット・ベアトリスがルネッサンスの蒐集品を集めた。ホールから扉を潜ると、4 つのホールとシャルロット・ベアトリスの居室があった。ルイ15世とルイ16世のホールには、これらの王の時代の家具、絵画、タペストリーが飾られた。居室には、彼女が客を迎えた西暦18世紀のフランスの衣装が飾られた。ヴィラの2 階には、西暦15世紀〜18世紀の美術品が飾られたホールがあり、シャルロット・ベアトリスの時代には、西暦18世紀のアンティークの品々がまだ市場で売られていた。さらに、彼女はパリの大改造の時代に生きていました。多くの私邸が廃屋となり、その状態のまま売却された。シャルロット・ベアトリスは何よりも、王族の所有物を手に入れようとした。そのため、彼女の別荘の寝室の床にはルーブル美術館のカーペットが敷かれ、ソファやアームチェアにはベルサイユ宮殿の数字が今も残っており、マリー・アントワネットが所有していた書き物机でベアトリスは手紙を書いたり、仕事をしたりした。かつてのフランス王妃マリー・アントワネット・ジョゼフ・ジャンヌ・ド・アプスブール・ロレーヌ(仏語: Marie-Antoinette-Josèphe-Jeanne de Habsbourg-Lorraine、マリー・アントワネット・ドートリッシュ(仏語: Marie-Antoinette d'Autriche)、マリア・アントーニア・ヨーゼファ・ヨハンナ(独語: Maria Antonia Josepha Johanna))のような生活を送った。
 確かに、美術品、骨董品、磁器などの蒐集品は無秩序に集められているが、銭持ちロスチャイルド家の家族の情熱であり、あらゆる時代から最高の物だけを集めた。最高のものだけを集めた。美術品だけでなく、珍しい動物や珍しい植物も蒐集した。ヴィラ・エフルシの周囲には、設計に従って、セーヴル、スペイン、フィレンツェ、暖炉、日本、エキゾチック、プロヴァンス、フランス、そして幻想的な美しさのロザリオの9面の庭園があり、公園のアンサンブル全体を飾った。庭園の設計には、実際の価値のある模型が試用された。数百mの青、灰色、緑の布が水、小道、芝生を模倣し、段ボールと合板で作られた緑色の円錐が木や茂みを象徴した。ヴィラ・エフルシの 2階のテラスに立って杖を振っている男爵夫人は、庭園を「動かします」。彼女は自分の楽園を作り上げた。また、フラミンゴ、セキセイインコ、猿、マングース、レイヨウ、ガゼルなどの珍しい鳥や動物がいる自分だけの動物園を作った。
 詩人アンドレ・ド・フーキエール(Andre de Fouquières)「私は、モーリス・エフルシ夫人(旧姓ロスチャイルド)の顔をよく覚えている。銀色の髪に縁取られた、清廉潔白な顔立ちの顔だ。彼女はいつも青い服を着て、同じ色のリボンをつけて、小さなフォックステリアを足元に寝かせていた。…彼女は限りない富の地平線に生まれたが、彼女が豪華な宴会を開くとき以外は目立たなかった。特に覚えているのは、ある夏の夜、彼女の邸宅から海に面し、月明かりに照らされた彼女の庭園で、アンナ・パブロワ(Anna Pavlova)がショパンの夜想曲に合わせて踊っているのを見るという特権を得たことだった。」と書いた。
 彼女の富を使って世界を旅し、巨匠の作品を含む絵画、彫刻、美術品、珍しい磁器、アンティーク家具を購入した。彼女はまた、西暦1902年にロスチャイルド家のファベルジェのイースターエッグ(The Rothschild Faberge Egg)を注文し、エドゥアール・アルフォンス・ジェームズ・ド・ロスチャイルドとの婚約の際に、将来の義理の妹であるジェルメーヌ・アリス・ハルフェンに贈った。
 パリでは、シャルロット・ベアトリスはフォッシュ通り19番地の私邸(現在はアンゴラ大使館)に住んだ。彼女の甥、ギー・ド・ロスチャイルド(Guy de Rothschild)は、やや乱暴な女で耐えられないほど神経質と評した。こことルー城の彼女の所有地は、甥のギーが相続した。遺言により、ヴィラ・エフルシ(Villa Ephruss)と美術蒐集品はフランス学士院の美術アカデミー部門に遺贈され、現在美術館として一般公開されている。

  ロシアのオデッサの小麦の輸出で財をなし億万長者になったユダヤ人エフルシ家で、銀行家で石油王の15歳年上のモーリス・エフルシ(Maurice Ephrussi)と結婚し離婚。子なし。
  第2子(長男)ロチルド男爵エドゥアール・アルフォンス・ジェームス(仏語: Le baron Édouard Alphonse James de Rothschild)パリ・ロチルド家第3代当主。彼はロスチャイルド家第5世代によく見られる財産を食い潰す遊び人型であり、事業より趣味に走りがちだった。西暦20世紀に入ってから第2次世界大戦までロチルド家は衰退の一途を辿ったが、エドゥアール・アルフォンス・ジェームスの凡庸さがその一因であった、西暦1906年から30年間、フランス銀行の理事を務めた。乗馬に秀でており、西暦1900年のパリ・オリンピックのポロ競技に出場し、彼の所属チームは銅メダルを獲得。
 第1次世界大戦後のフラン安定化論争では戦前の金レートを復活させることを求める「紙幣価値回復説」の主要論者だったが、ロチルド家の政界への影響力もこの頃にはすっかり衰えており、レイモン・ポアンカレ(ポワンカレ、Raymond Poincaré)首相はエドゥアールの進言を却下して西暦1928年に平価切り下げを断行した。
 西暦1937年にロチルド家所有の北部鉄道が国有化され、エドゥアールには補償金とフランス国鉄の株27万株が与えられた。初めのうちエドゥアールは「掠奪された。」と文句を言っていたが、同鉄道は第1次世界大戦後のフランス経済の退潮の中で赤字が続いており、西暦1928年には赤字総額が16億フランにも達していたため、ロチルド家にとっては重荷から解放されたという面もあった。国鉄の大株主となったエドゥアールは国鉄を持株会社とするようになった。
 第2次世界大戦中にドイツ軍がフランス共和国に侵攻してくると、妻と共にフランス国ヴィシー政権(西暦1940〜1944年)を脱出し、アメリカ合衆国ニューヨークで暮らす娘ジャクリーンの許に身を寄せた。アメリカ合衆国では半ば隠遁した生活を送ったが、アメリカ合衆国第32代大統領鬼畜の悪魔フランクリン・デラノ・ルーズベルト(英語: Franklin Delano Roosevelt、FDR)夫妻とは親密な付き合いを続けた。エドゥアールは自分を受け入れてくれたアメリカ合衆国に感謝していたものの、アメリカ合衆国で暮らし続けるのは嫌がっており、なるべく早期にフランスに帰国したがっていた。妻に「ご覧よ、ジェルメーヌ。フランスだったらこれは倒れなかっただろうに。」と呟いた。
 フランスが解放されると帰国したが、その頃にはかなり耄碌していた。西暦1945年11月にはギーにロチルド銀行の持ち分の大半を譲った。西暦1949年06月末に死去し、ギーが正式にパリ・ロチルド家の当主となった。

 基本的には保守的な人物であり、第2次大戦前までは一貫して労働者運動や社会主義運動に否定的だったが、西暦1941年に「独ソが開戦した。」と知ると、ソ連の「民主的自由」を褒め称えた。反ユダヤ主義への怒りは強く、そのことで何度か決闘を申し込んだ。
 競馬に熱心でマルセル・ブサック(Marcel Boussac)、レオン・ヴォルテラ(Léon Volterra)と共に第1次世界大戦後のフランス競馬界を牽引した。アルカンタラ、ラフアリナ、バブルズ、ブラントームなどの名馬を所有した。彼の持ち馬が凱旋門賞で2度優勝している。カード遊びが好きでサンジェルマン大通りの「ヌヴォー・セルクル」でブリッジをやるのが日課だった。またゴルフを愛し、ロチルド家所有のフェリエール宮殿には専用のゴルフ場があった。
 フランスのユダヤ人のジェルメーヌ・アリス・アルファン(Germaine Alice Halphen)と結婚し2男2女を儲けた。
   第1子(長男)エドゥアール・アルフォンス・エミール・ライオネル(Édouard Alphonse Émile Lionel)。夭逝。
   第2子(次男)ロチルド男爵ギー・エドゥアール・アルフォンス・ポール(仏語: Le baron Guy-Édouard-Alphonse-Paul de Rothschild)。パリ・ロチルド家第4代当主。
 ロチルド男爵ギー・エドゥアール・アルフォンス・ポールは貸金業者として一族の礎を築いたマイアー・アムシェル・ロスチャイルドの玄孫に当たり、桁外れに裕福な家庭環境で育った。両親が所有していたリヴォリ通りとコンコルド広場の角地に立つ自宅は、かつてはタレーランが住んでおり、現在はアメリカ大使館として使われている。彼はフランス語よりも先に英語を話すようになった。母親から「イギリス貴族というのは、世の誰よりも素晴らしい。」と教え込まれていた。そのため男爵はゴルフが得意で、フランスのナショナルチームに所属するほどの腕前だった。第2次世界大戦でドイツ国により崩壊させられたロチルド家の戦後復興を主導した。西暦1981年にフランソワ・モリス・アドリヤン・マリー・ミッテラン(仏語: François Maurice Adrien Marie Mitterrand)社会党政権の国有化政策でロチルド家は再び崩壊させられるも、社会主義政策の破綻後、再びロチルド家を復興させた。
 ロチルド男爵エドゥアール・アルフォンス・ジェームスの次男としてパリに生まれた。母はフランス・ユダヤ人のジェルメーヌ・アルファン。兄エドゥアール・アルフォンス・エミール・ライオネルが西暦1911年に夭折し、嫡男となった。フランス・ロチルド家の祖ジェームス・ド・ロチルドの嫡流の曾孫。西暦1931年に兵役を終えると父エドゥアールが経営するロチルド銀行に入社した。
 兵役後も予備役将校としてフランス軍に在籍していたギーは、西暦1940年05月にドイツ軍の西方電撃戦が開始されるとともに、大尉として第3軽機甲師団所属の1個中隊を指揮することになった。彼の中隊はカルヴァン郊外で進撃してくるドイツ軍を迎え撃ったが、ドイツ軍の電撃戦の前に撤退を余儀なくされ、06月初頭のダンケルクの撤退で一時ドーバーへ逃れたものの、フランスで新編成される連隊に参加するよう命じられたため、フランスに帰還してドイツ軍の南フランス侵攻に対する守備戦に参加した。しかし06月22日にはフランス政府が休戦協定を結んだため、戦闘は終了した。
 既に父と母はアメリカ合衆国ニューヨークへ、妻と娘はアルゼンチンへ逃れていたが、ギーはしばらくアンリ・フィリップ・ベノニ・オメル・ジョゼフ・ペタン(Henri Philippe Benoni Omer Joseph Pétain)元帥のヴィシー政府が統治するフランス非占領地域に留まった。ロチルド家の財産のほとんどはパリを含むドイツ軍占領地域の方にあり、それらは全てドイツ軍に接収されてしまったが、フランス国ヴィシー政権統治下の非占領地域の方にあった財産は大部分を接収されながらも一部が残った。
 しかし結局ヴィシー政権もナチス党(国民社会主義ドイツ労働者党(独語: Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei、NSDAP)ドイツ国の法律を真似た反ユダヤ主義法を制定し始めたため、ギーはヴィシー政権フランス国からの出国を決意した。アメリカに亡命中の父が鬼畜の悪魔のアメリカ大統領フランクリン・デラノ・ルーズベルト(Franklin Delano Roosevelt、FDR)と親しい関係にあったため、アメリカ合衆国のビザを入手でき、西暦1941年10月に妻と共にフランシスコ・フランコ・バアモンデ(Francisco Franco Bahamonde、IPA、フランシスコ・パウリーノ・エルメネヒルド・テオドゥロ・フランコ・バアモンデ・サルガード=アラウホ・イ・パルド・デ・ラマ(Francisco Paulino Hermenegildo Teódulo Franco Bahamonde Salgado-Araujo y Pardo de Lama))政権スペイン国(西暦1939〜1975年)とポルトガル共和国(西暦1910年〜)を経由してニューヨークに入国した。
 アメリカ合衆国の参戦後、ニューヨークのフランス領事館がイギリス王国に設置されていた臨時政府自由フランス政府(西暦1940〜1944年)の領事館に改組された。ギーは領事館を通じて自由フランス軍に入隊し、西暦1942年03月にイギリス王国へ向けて渡航したが、配属された貨物船がアイルランド沖でドイツ海軍潜水艦の魚雷攻撃を受け沈没し、彼の乗ったゴムボートは、凍えるような寒さの中、大西洋を12時間も彷徨った末にイギリス海軍の駆逐艦に拾われ、命からがらイギリス王国に到着した。ロンドンに辿り着き、従兄弟のジミー(ジェームズ・アーマンド・エドモンド・ロスチャイルド)が口に含ませてくれたワインで意識を取り戻したが、そのときのワインは、ラフィット・ロートシルト、ヴィンテージ西暦1895年物だった。自由フランス軍内でシャルル・アンドレ・ジョセフ・マリー・ド・ゴール(仏語: Charles André Joseph Marie de Gaulle)将軍と親密な関係になり、彼の秘密指令を数々こなした。ノルマンディー上陸作戦後、ド・ゴールがパリを奪還するとパリ軍政長官副官に任じられた。
 フランスを解放したド・ゴール臨時政府は直ちにユダヤ人のフランス市民権を回復し、ユダヤ人が不当に奪われた財産も全て返還することを宣言した。しかしパリに帰還した時、ロチルド家の邸宅はドイツ軍に荒らされて荒廃しており、金目の物は全て持って行かれていた。戦時中、亡命したロチルド一族の者はヴィシー政府からフランス国籍を剥奪されたのでその所有物は掠奪し放題になっていた。美術品の多くは戦後の捜索で取り戻すことができたが、戦争で受けた打撃は大きかった。
 戦後のパリ・ロチルド家復興はギーを中心にして行われた。西暦1949年に父エドゥアールが死去すると正式にパリ・ロチルド家の総裁となる。分家のエリー(Élie de Rothschil)やエドモン(Edmond de Rothschild)と協力してパリ・ロチルド家を再興していった。ロチルド家の復興にあたって有利な材料は、ロチルド家の強敵となるフランスの他の財閥が戦時中フランスに残ってナチスやヴィシー政府に協力したので、彼らの産業の多くは戦後に国有化されたが、国を追われてナチスと戦い続けていたロチルド家はほとんど国有化を免れたことだった。
 曾祖父が創設した北部鉄道を再建し、一族が大株主になっている石油会社ロイヤル・ダッチ・シェルや鉱山会社リオ・ティントへの増資を行った。フランス領西アフリカ(西暦1895〜1958年)の一部、フランス植民地モーリタニアで鉱山が発見され、ヨーロッパの復興需要と相まって鉱山ブームが起こると世界銀行の融資を受けてモーリタニア鉱山会社を創設した。またフランス植民地アルジェリア(西暦1830〜1962年)で石油が発見されると、フランス石油探査開発会社(FRANCAREP)を創設した。鉱山や油田は両国が激しい戦争の末にフランス第5共和政(西暦1958〜)から独立した際に国有化されてしまったが、フランス石油探査開発会社はその後も順調に利益を上げ続けることができた。西暦1957年にはフェリエール宮殿を大改築し、周りの土地も買い取ってハイキング場にし、レジャーランドとして一般に開放した。宮殿では最高級のフランス料理が振舞われ、ここに来ると一般人も束の間の貴族気分を味わえる。
 ド・ゴールが大統領に就任すると、彼の要請に応じてロチルド銀行の頭取であるジョルジュ・ジャン・レイモン・ポンピドゥー(仏語: Georges Jean Raymond Pompidou)を財政顧問として紹介した。ポンピドゥーはギーにとって自由フランス時代からの戦友で懐刀とも言うべき人材だったが、気前よくド・ゴールのもとに送りだした。以降ギーとド・ゴールは一層親しくなり、2人はよく一緒に狩猟に出るようになった。ロチルド銀行は戦後もしばらく大口の顧客しか相手にしない旧態依然とした個人所有形態の銀行業を続けていたが、庶民が銀行通帳を作れる株式会社形態の銀行に預金額で引き離され始めた。これに対抗して西暦1967〜1968年にかけてロチルド銀行も株式会社に改組し、庶民もロチルド銀行に銀行通帳を作ることができるようになった。また1968年には西暦これまで別個に歩んできたロンドン・ロスチャイルド家と連携を深めるため、ギーがロンドン・ロスチャイルド銀行の共同経営者に、またロンドン家のエヴェリン・ド・ロスチャイルドがロチルド銀行の重役にそれぞれ就任した。
 順風満帆のパリ・ロチルド家に第2次世界大戦以来の危機が訪れたのは西暦1981年だった。この年、フランス共産党と連立を組む社会党党首フランソワ・ミッテランが大統領に就任した。フランソワ・ミッテランの国有化政策によってロチルド家の銀行は国有化され、「ヨーロッパ銀行(後のバークレイズ)」と改名された。代償金は支払われたものの、銀行業からはもっと大きな収入が上がるのでロチルド家にとっては大きな痛手となった。ギーは「工業化の進んだ国の社会主義政党は国有化などはるか以前に捨てたのに、なぜこのように無益で金の掛かることをするのか。銀行の国有化は経済についての左翼の途方もない無知と時代遅れのイデオロギーへの隷従を示すものでしかない。」と批判し、「ペタンの下ではユダヤ人、フランソワ・ミッテランの下ではパリア(インドの不可触民)。1度しかない人生を2度も廃墟の上から復興しろというのはあんまりだ。」と嘆いた。
 フランソワ・ミッテランの一連の社会主義政策はフランス国家の経済力を大幅に越える膨大な支出を要したため、インフレーションと貿易赤字、フラン暴落を齎した。ヨーロッパ銀行も急速に財政悪化した。ロチルドの名前の信用を失ったことで顧客がどんどん離れていた。ギーもこうなることは予想していた。彼は大統領選に先立ってロチルド一族が経営に参加しない場合、銀行の名前にロチルドの名前を付けられなくなるよう法的処置を施していた。またスイス連邦(西暦1648〜1798、1803年〜)チューリッヒにイギリスのN・M・ロスチャイルド&サンズと連携する銀行を作り、ニューヨークにも投資家会社を足場として作っておいたのである。ギーは社会主義の実験が行われている間、アメリカに移住して失敗の時を待っていた。
 結局ミッテラン政権の社会主義政策はわずか2年で破綻して見直しが迫られ、フランス共産党は政権を離脱し、自由主義路線へと復帰した。それ見たことかと溜飲を下げたギーは、西暦1984年にもパリへ戻った。フランスにギーの長男ダヴィドを頭取とするパリ・オルレアン銀行を作り直し、昔からの顧客を取り戻していった。ロチルドの名前で再建したかったが、ミッテラン政権に禁止されたらしい。さらに西暦1986年の議会の総選挙で社会党が敗れ、共和国連合ジャック・ルネ・シラク(仏語:Jacques René Chirac)の保守内閣が発足すると国有化された財産の一部がロチルド家に返還され、また銀行にロチルドの名前を復活させることも認められて、パリ・オルレアン銀行をロチルド会社銀行(Rothschild &companie banque)と改名した。同銀行はダヴィドの指導の下、再び成功を収めた。ダヴィドはギーが進めたロンドン家とパリ家の統合の動きを更に進め、西暦2003年に両銀行を統合したロスチャイルド・コンティニュエーション・ホールディングスを創設した。フランスでの銀行業務は現在傘下のロチルド会社(Rothschild & Compagnie(Cie))が担っている。ギーは西暦2007年に死去した。

 父エドゥアールと同様に競馬好きであり、戦後のロチルド家の馬生産業の再建を主導した。西暦1963年の凱旋門賞では彼の持ち馬エクスビュリが優勝した。西暦1977年のジョッケクルブ賞を制した彼の持ち馬クリスタルパレスは西暦1984年に日本中央競馬会(JRA)が購入し、北海道で種馬になった。また仏2000ギニー、フォレ賞、ガネー賞を制したガーサントは、種牡馬になった後吉田善哉に購入され、社台グループ躍進の先駆けとなった。
 先妻との間に長男、後妻との間に次男の2男を儲けた。ユダヤ人アリックス・シェイ・ド・コロムラ(Alix Schey de Koromla)と結婚。西暦1956年にギーはアリックスと離婚し、ザイレン・ファン・ニーベルト・ファン・デ・ハール伯爵夫人マリー・エレーヌ(Marie-Hélène van Zuylen de Nyevelt de Haar)と再婚。1男を儲けた。競馬場は、ギーとマリー・エレーヌの2人を結び付けた場所で、シャンソン歌手エディット・ピアフのステージが開かれた、ドーヴィル競馬場での祭典だった。彼はこの時、サラブレッドのブリーダーをしていたとザイレン・ファン・ニーベルト・ファン・デ・ハール伯爵に、ラフィット2ケースを賞品として贈ったのだが、この伯爵が偶然にも、マリー・エレーヌの夫だった。ギーは、この若き伯爵夫人マリー・エレーヌにすっかり心を奪われた。子供は猶太教徒として育てた。 マリー・エレーヌはカトリックだったため、彼女との結婚の為にギーはフランス・ユダヤ人協会会長を辞職した。マリー・エレーヌも猶太教徒との結婚を法王に懇願しなければならなかった。ロチルド家の頭領が非猶太教徒と結婚したのはこれが初めての事例。
    第1子(長男)ロチルド男爵ダヴィド・ルネ・ジェームス(仏語: Le baron David René James de Rothschild)。パリ・ロチルド家嫡流の第5代当主。ド・ベール(デビアス、De Beers)監査役会員。
 パリ・ロチルド家の嫡流ロチルド男爵ギー・エドゥアール・アルフォンス・ポールとその先妻アリックス・シェイ・ド・コロムラの長男としてアメリカ合衆国ニューヨークに生まれた。当時フランスは北部がドイツ軍、南部がヴィシー政府の統治下に置かれ、反ユダヤ主義政策が執行されていたため、ロチルド家はアメリカ合衆国に亡命中だった。父母は反ユダヤ主義に対する挑戦的な意味から息子にユダヤ人の名前ダヴィドの名を与えた。戦時中、父ギーは自由フランス軍に従軍してイギリス王国に渡ったが、赤子のダヴィドは母アリックスとともにニューヨークに滞在した。パリ解放後の西暦1945年に母に連れられてパリへ帰国した。
 西暦1956年に父ギーは母アリックスと離婚してマリー・エレーヌと再婚、西暦1957年には異母弟エドゥアールが生まれた。しかしギーが過ごしてきたパリとルーの邸宅はダヴィドとアリックスに与えた。
 ジョルジュ・ジャン・レイモン・ポンピドゥーが大統領をしていた時期には、ポーランド出身の反ロスチャイルド思想の者によって邸宅を占拠され、人質にされる事件に遭ったが、父ギーが2億フランの身代金を持って現場に乗り込んで犯人と交渉に当たり、息子の解放に漕ぎ着けた。代わりにギーが人質となったが、彼は犯人をうまく外へ誘導し、フランス警察が犯人を逮捕した。
 西暦1981年05月に社会党党首フランソワ・ミッテランが大統領に当選し、フランソワ・ミッテランは国有化政策を推し進め、ロチルド銀行も国有化され、ヨーロッパ銀行と改名された。しかしフランソワ・ミッテランの一連の社会主義政策はフランス国家の経済力を大幅に越える膨大な支出を要したため、インフレーションと貿易赤字、フラン暴落を齎した。ヨーロッパ銀行も急速に財政悪化した。ロチルドの名前の信用を失ったことで顧客がどんどん離れた。結局フランソワ・ミッテランはわずか2年にして路線修正を迫られ、自由主義路線に復帰した。これを受けてギーとダヴィドは西暦1984年07月にパリ・オルレアン銀行を作り直し、その頭取にはダヴィドが就任した。ロチルドの名前で再建したかったが、ミッテラン政権に禁止されたのでこの名前になった。
 西暦1986年の議会総選挙で社会党が敗れ、ジャック・ルネ・シラクの保守内閣が発足すると国有化された財産の一部がロチルド家に返還され、また銀行にロチルドの名前を復活させることも認められ、パリ・オルレアン銀行をロチルド会社銀行(Rothschild &companie banque)と改名した。同銀行はダヴィドとその補佐役の異母弟エドゥアールの指導の下、再び成功を収めた。西暦2003年にはロンドン・ロスチャイルド家のN・M・ロスチャイルド&サンズとの連携を深め、両銀行を統合したロスチャイルド・コンティニュエーション・ホールディングスを創設し、ダヴィドがその頭取に就任した。西暦2013年には世界ユダヤ人会議の理事長に選出された。西暦2016年06月、マーティン・モーレル銀行(Banque Martin Maurel 、現ロスチャイルド・マーティン・モーレル)を2.4億ユーロで買収した。
 西暦1974年にオリンピア・アルドブランディーニと結婚し、1男3女を儲けた。
     第1子(長女)ラヴィニア・アン・アリックス。
     第2子(次女)ステファニー・アン・マリー。
     第3子(長男)アレクサンドル・ギー・フランセスコ。
     第4子(三女)ルイーズ・オリンピア・ベアトリス。
    第2子(次男)エドゥアール(Édouard de Rothschild)。
 エドゥアール・ド・ロスチャイルドは、ギー・ド・ロスチャイルド男爵とザイレン・ファン・ニーベルト・ファン・デ・ハール伯爵夫人マリー・エレーヌの息子であり、投資銀行ロスチャイルド会社の創設者であるダヴィド・ド・ロチルドの異母兄弟で、ヌイイ・シュル・セーヌで生まれた。フランス共和国、イスラエル国、アメリカ合衆国の3重国籍。
 西暦1987年にウォール街の小さな金融機関ヴェルトハイム社(Wertheim & Co.)で投資銀行家としての経歴を始め、その後ロチルド会社に入社し、西暦1993年に共同経営者の1人になった。彼はいくつかの大規模なM&A業務に参加した。彼の異母兄弟ダヴィドと並んで、特にジェローム・セドゥによるパテの買収とブルターニュの実業家ヴァンサン・ボロレによるリヴォー銀行の買収があった。1年間の長期休暇期間後の西暦2003年に経営を離れ、監査役会の会長に就任した。西暦2006年、彼は自身が経営する金融持ち株会社ジャン・グジョン(Jean Goujon)を通じてリベラシオン紙(Libération)の筆頭株主となり、創設者で論説員セルジュ・ジュライ(Serge July)とルイ・ドレフュス(Louis Dreyfus)総編集局長の辞任させ、西暦2014年に新聞社から手を引いた。

 ダヴィドとエドゥアールのロスチャイルド兄弟の財産は、チャレンジズ誌によって西暦2018年に56億ユーロと推定された。
 エドゥアールは父親の競馬を継承し、国際障害競技会(CSO) 騎手であり、主に調教師アンドレ・ファーブル(André Fabre)に託された約15頭の繁殖牝馬を管理し、クリストフ・クレマン(Christophe Clement)が調教した英国の伝説の馬とのビヴァリー・D・ステークス(Beverly D. Stakes) など、アメリカ合衆国でもいくつか素晴らしい勝利を収めた。西暦1985年以来、彼の馬は父親の馬(青い服、黄色い帽子)とは逆の色(黄色い服、青い帽子)で走っている。
 西暦2004年、ジャン・リュック・ラガルデール(Jean-Luc Lagardère)の後任としてフランス ギャロ(France Galop)の会長に就任した。彼は西暦2015年に再選された。西暦2006年に有資格者として国立種馬農場の取締役に任命され、その後西暦2009年に再任された。彼はドーヴィル競馬場近郊のカルヴァドス県トゥックにサラブレッド馬の繁殖農場ハラス・ド・モートリー(haras de méautry)を所有する。
 彼はフランス雇用者全国協議会(Conseil national du patronat français、CNPF)の執行委員会の一員だった。ニコラ・ポール・ステファヌ・サルコジ・ド・ナジ・ボクサ(仏語: Nicolas Paul Stéphane Sarközy de Nagy-Bocsa)の金主であり友人である彼は、ポロ・ド・パリ(Polo de Paris)、セルクル・インテアリエ(Cercle de l'Union interalliée)、ル・シエクル(Le Siècle)の会員。
 西暦2010年08月03日、イスラエルの日刊紙イェディオット・アハロノット(Yediot Aharonot)は、「エドゥアール・ド・ロスチャイルドが西暦2012年夏季オリンピックの馬術競技に参加したい。」という願望に言及し、「スポーツ上の理由だけでイスラエル国籍を取得した。」と発表した。最終的には参加しなかった。

 西暦1981年にエティエンヌ・コシェ・ド・ラ・フェルテ(Étienne Coche de La Ferté)の娘、マティルド・コシェ・ド・ラ・フェルテ(Mathilde Coche de La Ferté)と結婚したが死別し、西暦1991年に、西暦1937年ミス・フランスのジャクリーン・ジャネット(Jacqueline Janet,)の娘、アリエル・マラール(Arielle Malard )と結婚したが、現在は別居。
     第1子(長男)デビッド(David)。双子。
     第2子(長女)エレノア(Aliénor)。双子。
     第3子(次男)フェルディナンド(Ferdinand)。
     第4子(三男)ルイ(Louis)。
   第3子(長女)ジャクリーン・レベッカ・ルイーズ(Jacqueline Piatigorsky、旧姓: Jacqueline Rébecca Louise de Rothschild))。
 イル・ド・フランスのフェリエール城で育ち、19歳の時、彼女はロバート・カルマン・レヴィ(Robert Calmann-Lévy)と結婚したが、西暦1935年に離婚。その2年後、ジャクリーン・レベッカ・ルイーズ・ド・ロスチャイルドは有名なチェロ奏者グレゴール・ピアティゴルスキー(英語: Gregor Piatigorsky,、露語: Григо́рий Па́влович Пятиго́рский、ウクライナ語: Григорій Павлович П'ятигорський)と結婚。 西暦1937年に娘のジェフタが生まれたが、ドイツ国によるフランス占領とホロコーストから逃れるため、家族はすぐに西暦1940年に国外に亡命した。ピアティゴルスキー一家は、ニューヨーク州のアディロンダック山脈にあるエリザベスタウンに定住し、西暦1940年に息子のヨラムが生まれた。その後、数年間フィラデルフィアに住み、西暦1949年にロサンゼルスに移り、彼女の夫は南カリフォルニア大学で教鞭を取った。
 ジャクリーン・ピアティゴルスキーはアメリカ国民として全米レベルのテニス選手として頭角を現したが、チェスへの情熱が彼女を第2の経歴へと導いた。彼女は 西暦1957年の第1回女子チェスオリンピックに米国チームの一員として出場し、個人銅メダルを獲得した。しかし、彼女はチェスの世界では主に主催者および後援者として知られていた。 西暦1961年、彼女はボビー・フィッシャーとサミュエル・レシェフスキーという2人のアメリカ最高の選手間の試合を企画し、資金を提供した。また、2つの重要な国際大会も主催した。西暦1963年にはロサンゼルスで開催されたピアティゴルスキー・カップではポール・ケレスとティグラン・ペトロシアンが優勝し、西暦1966年にはサンタモニカで開催sい、ボリス・スパスキーが優勝した。後者の大会は、西暦1924年のニューヨーク大会以来米国で組織された最強のトーナメントとなった。彼女は、ウォルター・ブラウン、ラリー・クリスチャンセン、ケネス・ロゴフなど、数人の若いアメリカ人選手の後援者でもあった。
 19歳の時、ロベールル・カルマン・レヴィと結婚したが、西暦1935年に離婚。その2年後、グレゴール・ピアティゴルスキーと結婚。
    第1子(長女)ジェフタ(Jephta)。父親はグレゴール・ピアティゴルスキー。
    第2子(長男)ヨラム(Joram Piatigorsky)。発生生物学者。父親はグレゴール・ピアティゴルスキー。
   第4子(次女)ベサベー・ルイーズ・エミリエ・ベアトリス(Bethsabée Louise Émilie Béatrice de Rothschild、またはバテシバ(Batsheva de Rothschild))。イギリス王国とイスラエル国の2重国籍。
 ベサベー・ルイーズ・エミリエ・ベアトリス・ド・ロチルドは、イギリス王国ロンドンで生まれ、彼女の誕生後すぐに彼女の家族はパリに移り、父親ロチルド男爵エドゥアール・アルフォンス・ジェームスは彼女の祖父のロチルド男爵アルフォンスからロチルド銀行を相続し、従兄のロスチャイルド男爵ロバート・フィリップと共同経営をした。.ベサベー・ルイーズ・エミリエ・ベアトリスは、パリ郊外のフェリエール城とパリ市内のタレーラン宮殿で育った。彼女の兄、エドゥアール・アルフォンス・エミール・リオネルは4歳の時に虫垂炎で亡くなった。家族によってユダヤ人の伝統の中で育てられた。フランス共和国パリに留学し、ソルボンヌ大学で生物学の学位を取得した。 西暦1940年のドイツ国のフランス共和国侵攻後、彼女は家族とともにニューヨークへ逃亡した。彼女はコロンビア大学で化学、生化学、生物学を学んだが、上級学位は取得しなかった。これは、ヨーロッパの難民がナチスの迫害を逃れて米国に定住許可書を提供した。裕福で影響力のある家庭に生まれましたが、ベスサベは裕福な生活を嫌悪し、家族と距離を置いていた。ただし、.ベサベーは姉のジャクリーヌと仲が良かったが、兄のギーとは別だった。彼女は慎み深く寛大な女性だったと言われている。第2次世界大戦中は、ベサベーは自由フランス軍のニューヨーク事務所に入隊した。彼女はフランス軍とアメリカ軍の間の連絡将校としてロンドンに配属され、ノルマンディー上陸作戦とその後のパリ解放に参加した。

 第2次世界大戦が終わると、ベサベーはニューヨークに戻り、モダンダンスの開拓者の1人であるマーサ・グレアム(Martha Graham)の舞踏学校に入学し、マーサ・グレアムのショーを制作した。西暦1948年、ベサベー・ド・ロスチャイルドはドナルド・ブルーミングデール(Donald Bloomingdale)と結婚した。彼はアーヴィング・ブルーミングデール(Irving Bloomingdale)の息子で、ブルーミングデール百貨店の共同創設者ライマン・G・ブルーミングデールの孫(Lyman G. Bloomingdale)である。結婚当時、ドナルド・ブルーミングデールはジェファーソン・カフェリー(Jefferson Caffery)の下でパリ駐米大使館の武官を務めていた。この結婚は短命に終わり西暦1951年離婚。彼女には子供がいたが、どうやらブルーミングデールとの子供ではないようである。彼女の兄ギーは回想録でこの出来事について述べているが、子供に関する重要な情報は何も記載していない。この誕生と早すぎる死は、ロスチャイルド家系図の中で身元が明らかにされていない唯一の記録であると思われる。ブルーミングデールとの離婚から間もない西暦1951年、ベサベー・ド・ロスチャイルドは初めてイスラエル国を初めて訪問した。
 西暦1956年、彼女は米国政府が資金提供したマーサ・グレアム舞踏劇団(Martha Graham Center of Contemporary Dance)の極東ツアーに衣装デザイナー助手として参加した。ツアーはパフラヴィー朝(西暦1925〜1979年)イラン帝国(西暦1935〜1979年)で終わる予定だったが、ベサベーはイスラエル国までの延長に資金提供し、そこでの演技は深い印象を与え、ヨーロッパの表現力豊かなダンスの放棄を加速させた。ベサベーは、イスラエル国でマーサ・グレアム舞踏劇団の他の2つのツアーを企画し、アメリカ合衆国の振付師アンソニー・チューダー(Anthony Tudor)をイスラエル国に招待した。イスラエル文化芸術評議会の会長であるアウラ・ヘルツォーク(Aura Herzog)は、舞踏部門の創設時に舞踏部門の指揮を彼に託した。ベサベーは西暦1958年にエルサレム音楽アカデミーでマーサ・グレアムが指導する最初の夏期コースを創設した。ベサベー・ド・ロスチャイルドは西暦1962年にイスラエル国に永住した。その後、ベサベー・ド・ロスチャイルドは名をバテシバ(Batsheva)と名乗り、イスラエル国テルアビブでファッション製品を販売するその名を冠した店を開き、時間を割いた。ヘブライ語のバテシバ(Batsheva)のフランス語読みが元の名前ベサベー(Bethsabée)。
 バテシバ・ド・ロスチャイルドは舞踏、科学、音楽に資金を提供した。西暦1953〜1960年まで、作曲家ヴィヴィアン・ファイン(Vivian Fine)が監督を務めたバテシバ・ド・ロスチャイルド芸術科学財団を設立した。この財団は、現代作曲家によるコンサート、マーサ・グレアムの演技ととその映画と録音、そしてブロードウェイでのモダンダンス劇団による一連の公演に資金を提供した。西暦1955年、バテシバ・ド・ロスチャイルドは、母親のロチルド男爵夫人ジェルメーヌ(La baronne Germaine de Rothschild)およびニューヨークのロックフェラー財団と協力して、ミッシェル・マシュブッフ(Michel Machebœuf)の死後ジャック・リュシアン・モノー(Jacques Lucien Monod)、ジョルジュ・N・コーエン(Georges N. Cohen)、ハワード・リッケンバーグ(Howard Rickenberg)が就任したパスツール研究所(仏語: Institut Pasteur)の細胞生化学部門の改修資金を提供した。
 バテシバはイスラエル国に移り、テルアビブに拠点を置き、西暦1964年にバテシバ舞踏劇団(Batsheva Dance Company)を設立した際、マーサ・グレアムが監督に就任し、バテシバはダンスに多大な貢献をした。この会社はイスラエル国で最も影響力のある文化的役割の模範の1つとなった。西暦1960年代半ば、彼女は南アフリカ共和国生まれの古典舞踊家、ジャネット・オードマン(Jeannette Ordman)と出会った。ジャネット・オードマンは西暦1965年にイギリス王国のロンドンからイスラエル国にやって来た。このダンサーはバテシバ舞踏劇団バテシバ舞踏劇団の練習監督として雇われたが、ダンサーたちとの関係は緊張し彼らは叛乱を起こした。その瞬間から、バテシバ・ド・ロスチャイルドは、西暦1975年まで財政的支援に疑問を呈することなく、劇団の公演に出席するのを止めた。2人の女性はバテシバが死を迎えるまで共同関係を持っていた。バテシバの資金援助を受けて、彼らは西暦1967年に舞踏学校であるバット・ドール舞踏スタジオを設立し、クラシックダンスとモダンダンスを教えた。翌年にバット・ドール舞踏劇団(Bat-Dor Dance Company)を設立し、ジャネット・オルドマンが芸術監督を務めた。西暦1984年に引退するまで主演ダンサーを務めた。西暦1975年、バテシバ・ド・ロスチャイルドはバテシバ舞踏劇団とバット・ドール舞踏劇団の合併を試みた。彼女はこの計画が引き起こした抗議に直面して断念したが、その後バテシバ舞踏劇団への支援を撤回した。ジャネット・オードマンの主導で、彼女は西暦1975年にバテシバ舞踏学校の別館を設立し、イスラエル国初のピラティス運動研究所を設立し、西暦1985年にはイスラエル舞踏療法センターを設立した。
 バテシバ・ド・ロスチャイルドはマーサ・グレアム舞踏学校のイスラエル人学生に奨学金を与えた。イスラエル国では、リナ・グルックやリナ・シャインフェルドを含む多くのダンサーの演技を手伝った。 西暦1957年に彼女はイスラエル室内楽協会を設立し、ゲイリー・ベルティーニ(Gary Bertini)が芸術監督を務めた。その後、彼女は彼とともにイスラエル室内管弦楽団を設立した。 西暦1962年、フランソワ・シャピラ(François Shapira)の指導の下、バテシバ・ド・ロスチャイルド芸術科学財団が創設され、イスラエル国における様々な活動への資金提供が可能になった。バテシバ・ド・ロスチャイルドは、ゲイリー・ベルティーニ(Gary Bertini)の要請に応じて、イスラエル国で音楽記録を作成する目的で多数の録音を入手したり、デヴィッド・ベングリオン(David Ben-Gourion)の要請に応じて翻訳、ヘブライ語の古文書の作成、テルアビブ市社会福祉局が管理する困窮者を助けるための基金の創設など様々な企画にも携わった。
 バテシバ・ド・ロスチャイルドは文化活動に加え、イスラエル国の科学および技術の進歩のため2つの財団を創設した。1 つは米国に、もう 1 つはイスラエル国にあった。後者は生物物理学者エフライム・カチャルスキー(Ephraim Katchalski、後にエフライム・カツィール(ヘブライ語: אפרים קציר, Ephraim Katzir)に改名、西暦1973年に第4代イスラエル大統領)を理事会に迎えている。その活動に関連して西暦1989年に社会とイスラエル国家への特別な貢献に対してイスラエル賞を受賞した。バテシバ・ド・ロスチャイルドは長い闘病の末、西暦1999年にテルアビブの自宅で亡くなった。

 西暦1949年に信託を通じて、祖父ロチルド男爵アルフォンス・ジェームスが蒐集した膨大な美術取集品の一部を相続した。これは財団によって運営されていた。これには、レンブラント・ハルメンソーン・ファン・レイン(Rembrandt Harmenszoon van Rijn)の西暦17世紀の油絵、老婦人の肖像(アエルチェ・ウイレンブルグの肖像)、西暦17世紀のその他の巨匠による油絵、イスラームガラスやヴェネチアンガラス、装飾品、ルネサンス様式の磁器や宝飾品が含まれた。バテシバ・ド・ロスチャイルドの死後、競売に掛けられた。バテシバが西暦1962年にイスラエルに持って来たレンブラントの「老婦人の肖像」は、ロンドンのクリスティーズでオランダ王国(ネーデルラント王国(西暦1830年〜)の美術商ロバート・ノートマン(Robert Noortman)によって記録的な価格1960万ユーロ(2870万USドル)で売却された。西暦13世紀のマムルーク朝(西暦1250〜1517年)様式の水差しは新品同様の状態で374万3010ユーロ(330万7750ポンド、480万USドル)で落札され、イスラームガラスの世界最高額となった。また、モスクランプ2個はそれぞれ199万5840ユーロ(176万3750ポンド)と72万6200ユーロ(64万1750ポンド)で落札された。
 西暦1948年にドナルド・ブルーミングデール(Donald Bloomingdale)と結婚したが、その後離婚。
    第1子 夭折。ドナルド・ブルーミングデールの子ではない。子供に関する重要な情報は何も記載していない。この誕生と早すぎる死は、ロスチャイルド家系図の中で身元が明らかにされていない唯一の記録である。

ロスチャイルド賞(英語: Rothschild Prize、ヘブライ語: פרס רוטשילד)
 イスラエル国のロスチャイルド家が創設した慈善団体ヤド・ハナディブ(英語: Yad Hanadiv)が主催する賞。受賞対象は自然科学、人文科学、及びユダヤ研究で、授賞式はイスラエル国政府の代表者とロスチャイルド家の代表者の出席のもと、クネセト(国会)で行われる。


 第3子(次男)ロチルド男爵ギュスターヴ・サミュエル・ジェームス(Baron Gustave Samuel James de Rothschild)。

 オーストリア・ハンガリー総領事。パリ・リヨン鉄道会社の取締役。
 著名な蒐集家で、特にレンブラント作「マリン・デイの肖像」とフランス・ハルス(Frans Hals)の「ギターを持つ男」を所有していた。彼はまた、リムーザンのエナメルやサン・ポルシェールの陶器の美しい蒐集品も持っていた。彼は弟のエドモンとともに、西暦1873年に考古学者ライエによって行われたミレトス、ディディム、トラレス、マグネシアの発掘に資金を提供し、その成果物をルーヴル美術館に提供した。
 西暦1869年06月15日、ロチルド男爵ギュスターヴ・サミュエル・ジェームスはボードフレモン公爵夫人(la duchesse de Bauffremont)から、マリニー通り21番地とシルク通り14番地にある2つのホテル (面積約3555u) を総額 270万フランで取得した。西暦1872年、ギュスターヴは、これら 2つのホテルを1つの敷地に統合し、土地の一部に新しい建物を建設することを決定した。西暦1879年05月17日、彼はマリニー大通り13番地にあるホテルを取得した。その後、西暦1873〜1883年にかけて、任命された建築家アルフレッド ・フィリベール・アルドロフ(Alfred-Philibert Aldrophe)によって大規模な建設工事が行われ、オテル・ド・マリニー(現在は国有地、エリゼ宮殿の別館)に現在の外観が与えらた。
 ギュスターヴはまた、シャンティイ(オアーズ県)近くのサン・マクシマンに、ラバーシーヌとして知られるヘイズ城を所有した。この城は、西暦1880年からアドルフ(Adolphe)によって再建された。ハラットの森の端に位置し、猟犬による狩猟に使用された。ギュスターヴの娘ベルタ・レオニーヌは、西暦1896年に狩猟中に26歳で亡くなった。ハラッテの森の区画242には、石造りの慰霊碑が今も立っている。

 西暦1873年、兄のアルフォンスと共に、ノルマンディーのトゥークに有名なモートリー種馬牧場を設立した。
 西暦1859年にセシル・アンスパック(Cécile Anspach)と結婚し、3男3女を儲けた。そのうち2人は若くして亡くなった。
  第1子(長男) オクターヴ(Octave)。夭折。
  第2子(長女)ゾーエ・ルーシー・ベティ・ド・ロスチャイルド(Zoé Lucie Betty de Rothschild)。西暦1882年にベルギー王国の銀行家レオン・ランベール(Léon Lambert)と結婚。
  第3子(次女)アリーヌ・カロリーヌ・ド・ロスチャイルド(Aline Caroline de Rothschild)。西暦1887年にアルバート・エドワード・サスーン(Albert Edward Sassoon)と結婚。
  第4子(三女)ベルタ・ジュリエット・ド・ロスチャイルド(Bertha Juliette de Rothschild)。西暦1892年にエマニュエル・レオニーノ(Emmanuel Leonino)と結婚。
  第5子(次男)アンドレ(André)。夭折。
  第6子(三男)ロベール・フィリップ・ギュスターヴ・ド・ロチルド(Robert Philippe Gustave de Rothschild)。フランスの銀行家、ポロ選手。
 ロベール・フィリップ・ギュスターヴは従兄弟のエドゥアール・アルフォンス・ジェームズと共にロスチャイルド・フレールの共同経営者。第2次世界大戦中、彼はナチス党ドイツ国のブラックリストに載っていた。さらに、ユダヤ人であったため、彼のフランス国籍はヴィシー政府によって無効にされた。彼はイギリス王国に逃げてアメリカ合衆国に移住し、西暦1940年08月にニューヨーク市に到着した。戦時中ずっと5年間そこに留まり、ユダヤ人を支援した銀行家で。戦後、彼はフランスでユダヤ人の生活の復活を支援した。

 彼はゴールポロ選手で、西暦1907年にドーヴィル国際ポロクラブを設立した。彼はサン・マクシマンにある彼のシャトー・ラヴェルシーヌの敷地内でラヴェルシーヌ・オープン・ポロカップを主催した。彼は西暦1920年にアプルモンでトーナメントも主催した。西暦1995年までに、アプルモンのシャトー・ド・シャンティイはポロクラブ・デュ・ドメーヌ・ド・シャンティイの本拠地となった。
 彼は西暦1907年にパリ国際トーナメントで優勝し、西暦1920年にはパリ・オープンで優勝した。

 ロバート・フィリップ・ギュスターヴは、西暦1946年12月25日のクリスマスに、スイスのローザンヌで肺炎のため66歳で死亡。
 作曲家ジャコモ・マイアベーア( Giacomo Meyerbeer)の曾孫であるエドモンド・ビア(Edmond Beer)の娘、ガブリエル・ネリー・レジーン・ビール(Gabrielle Nelly Régine Beer)と西暦1907年03月06日に結婚し2男2女を儲け2人は一緒にラヴェルシーヌ城に住んだ。
   第1子(長女)ダイアン・セシル・アリス・ジュリエット(Diane Cécile Alice Juliette de Rothschild)。西暦1932年にアナトール・ミュールスタイン(Anatole Muhlstein)と結婚。戦後2人は離婚し、西暦1952年にジュゼッペ・ベンヴェヌーティ(Joseph Benvenuti)と再婚。
    第1子(長女)セシル(Cécile)。芸術家。
    第2子(長男)アンカ(Anka)。歴史家。
    第3子(次女)ナタリー(Nathalie)。小児内分泌学者。
   第2子(長男)ロチルド男爵ジェームズ・ギュスターヴ・ジュール・アラン(Baron James Gustave Jules Alain de Rothschild)。フランスの銀行家。
 西暦1940年05月にフランス共和国への攻撃が開始された直後、彼はドイツ国の捕虜となり、コルディッツ城(オフラグIV-C)、その後シュレースヴィヒ・ホルシュタインのリューベック収容所(オフラグX-C)に抑留された。

オフラグ(Oflag)
 「将校収容所」を意味するオフィジエ・ラガー(Offizier-Lager)の略語で、第2次世界大戦中に将校を対象とした捕虜収容所にドイツ国で与えられた名前。それらは、結合領域を表すローマ数字と、同じ領域に複数ある場合、それらを区別するための文字 (IV-Dなど) で指定される。他のドイツの捕虜収容所で起こったこととは異なり、ここでの拘禁条件は比較的良好で、捕虜に関するジュネーブ条約を尊重し、国際赤十字による査察や介入が認められていた。


 西暦1945年の終戦を経て、レジオンドヌール勲章士官を授与され、彼は西暦1946年にロチルド ・フレール銀行の共同経営者となり、その株式の25%を保有した。彼は特にカナダの金融家グループがイギリスのハドソン湾会社に対抗する目的で西暦1682年にケベック市で設立したフランス植民地の毛皮貿易会社、北部会社、カンパニー・デュ・ノール(Compagnie du Nord)の社長だった。
 彼は西暦1959〜1981年までシャマン市長を務めた。彼はシャトー・ラフィット・ロートシルトの所有者であり、息子のエリックが経営している。
 彼は、西暦1954〜1967年までパリのユダヤ人会議所の会長、西暦1967〜1982年までフランス中央ユダヤ人会議所の会長、1976 年から 1982 年までフランスのユダヤ人制度代表評議会の会長を務めた。西暦1980 年のコペルニック通り襲撃後、彼は「フランスの政治家は何が起こったかを気にしていない。」と示唆し、フランス警察の「説明のつかない無力感」「無力感」に疑問を抱いていた。 フランスユダヤ人機関代表評議会(仏語: Conseil Représentatif des Institutions juives de France、CRIF)を通じて、彼はシナゴーグの安全を確保するための警察力の強化についてヴァレリー・ジスカール・デスタン大統領と交渉した。
 西暦1972年、彼は弟のエリーと義妹のリリアンヌと共同で、以前マリニー通りのホテルを飾っていた画家アンリ・ルノーの動物静物画を狩猟と自然博物館に寄贈した。シャンボール城に預けられた。ロベールの相続人であるダイアン、アラン、セシル、エリーも、父親と母親のガブリエル・ネリー・ビールを偲んで装飾芸術博物館に7点の家具を提供した。 西暦1975年に、マリニー通りのホテルもロチルド男爵ジェームズ・ギュスターヴ・ジュール・アランによって国に譲渡された。
 西暦1981年にフランソワ・ミッテランと左派が政権を握った後、彼はニューヨークに定住した。1年後の西暦1982年10月17日に心臓発作のためアッパー・イースト・サイドのレノックス・ヒル病院で死去した。彼の葬儀はパリで行われ、そこで埋葬された。
 ロスチャイルド財団アラン・ド・ロチルド研究所は、彼に敬意を表して名付けられ、ユダヤ人の大義だけでなく、困っている人々のための住宅に資金を提供したが、アラン・ド・ロチルド研究所は西暦1995年に閉鎖された。

 西暦1938年にマリー・ショーヴァン・デュ・トゥルイユ(Mary Chauvin du Treuil)と結婚し2男1女をなした。
    第1子(長女)ベアトリス・ジュリエット・ルース・ド・ロスチャイルド(Béatrice Juliette Ruth de Rothschild)。西暦1962年にアルマン・アングリヴィエル・ド・ラ・ボーメル(Armand Angliviel de la Beaumelle)と結婚し西暦1962年に離婚。西暦1981年にフランスの美術史家のピエール・マックス・ローゼンバーグ(Pierre Max Rosenberg)と再婚。
    第2子(長男)ロチルド男爵エリック・アラン・ロベール・ダヴィッド(Eric Alain Robert David)。フランス共和国の銀行家。
 第2次世界大戦中に母親のマリー・ショーヴァン・デュ・トゥルイユが安全を求めてニューヨークで生まれた。父親のロチルド男爵ジェームズ・ギュスターヴ・ジュール・アランはフランスに残り、捕虜となった。戦後、エリック・アラン・ロベール・ダヴィッドと家族はフランス共和国に戻り、イギリス、パリで国際教育を受け、その後チューリッヒのスイス連邦工科大学(ETH)で工学を学んだ。
 エリック・アラン・ロベール・ダヴィッドの最初の職業経験は、家族経営の海運会社サガで西暦1970年代にパリのロチルド銀行に移り、企業金融に注力した。その後、サガ銀行に戻り、会長を務めた。
 西暦1982年、フランソワ・ミッテラン政権により国有化された際、彼は従兄弟のダヴィッド・ルネ・ド・ロスチャイルドと共にパリのロスチャイルド銀行を経営していた。これをきっかけに、エリック・アラン・ロベール・ダヴィッドと従兄弟のダヴィッド・ルネは、新しい金融サービス会社、POジェスティオンを設立した。西暦1984年に、この会社は銀行免許を取得した。この新しい銀行は、新政権が発足した後、西暦1986年10月にロスチャイルド・アンド・アソシエ・バンク(後にロスチャイルド・アンド・シエ・バンクに変更)という名前で営業することを許可された。彼はUKプライベート・バンキング&トラストの会長。 彼は283億ユーロの資産を管理するパリ・オルレアンの監査役会の会員。西暦1994〜2004年まで、ロスチャイルド・フレール銀行の資産を管理し、その後ロスチャイルドの資産に移管した。西暦2004年以来、エリック・ド・ロスチャイルドはパリ・オルレアンSAの会長を務めた。彼と従兄弟のダヴィッド・ルネは、ロスチャイルド銀行一族の英国とフランスの支店の銀行業務の合併を主導し、西暦2008年に完了した。エリック・・アラン・ロバート・ダヴィッドは、西暦2000〜2014年12月に退任するまで、ウェルスマネジメント&トラスト事業およびロスチャイルド銀行チューリッヒ(RBZ)の会長を務めた。ロスチャイルド・資産信託の会長。
 銀行家としての経歴の他に、エリック・アラン・ロバート・ダヴィッドは西暦1974年に叔父のエリー・ロベールから家族経営のワイナリー、シャトー・ラフィット・ロチルドの経営を引き継いだ。
 パリのグランド・シナゴーグの名誉会長で、西暦2001年以来、パリのホロコースト博物館であるメモリアル・ド・ラ・ショアの会長を務めている。西暦2010年、彼はセルジュ・クラルスフェルト(Serge Klarsfeld)と共に、フランスにおけるユダヤ人の運命に関する法律案が含まれ、アンリ・フィリップ・ベノニ・オメル・ジョゼフ・ペタン元帥が注釈を付けた文書の存在を明らかにした。西暦2012年には、「反ユダヤ主義やあらゆる形態の人種差別と闘うために、フランスの学校でホロコーストを教えるべきだ。」と訴えた。

 西暦1983年にブラジル連邦サンパウロ生まれイタリア育ちの画家のマリア・ベアトリス・カラチョーロ・ディ・フォリーノ(Maria-Beatrice Caracciolo Di Forino)と結婚し2男1女をなした。
     第1子(長女)サスキア・アンナ・エステル・マリア・デル・マール・ド・ロチルド(Saskia Anna Esther Maria del Mar de Rothschild)。フランス共和国のジャーナリスト兼実業家。
 西暦2018年に父親エリックの後を継いで、シャトー・ラフィット・ロートシルトの持ち株会社ドメーヌ・バロン・ド・ロスチャイルド(DBRラフィット)の会長に就任した。サスキア・アンナ・エステル・マリア・デル・マールは、HECパリとコロンビア大で経営を修めて、この2年間、共同経営者を務めてきた。DBRラフィットに参画する前はニューヨーク・タイムズのパリと西アフリカで勤務するジャーナリストだった。このドメーヌにはシャトー・ラフィット・ロチルドも含まれており、ボルドーのプルミエ・グラン・クリュの資産を率いる最年少の人物となった。西暦2021年にはワイナリーの最高経営責任者兼総裁に就任した。

    第3子(次男)ロベール・ド・ロスチャイルド(Robert de Rothschild)。西暦1999年にデブラ・エリサ・コーエン(Debra Elisa Cohen)と結婚し、西暦2001年離婚。
   第3子(次女)セシル・レオニー・ウジェニー・ギュデュル・リュシー・ド・ロスチャイルド (Cécile Léonie Eugénie Gudule Lucie de Rothschild)。女優グレタ・ガルボ(Greta Garbo、本名: グレータ・ルヴィーサ・グスタフソン(Greta Lovisa Gustafsson))の伴侶だった。
   第4子(次男)ロチルド男爵エリー・ロベール(Baron Élie Robert de Rothschild)。フランスの銀行家、実業家、美術蒐集家。
 エリー・ロベール・ド・ロチルドは、父親のロチルド男爵ロベール・フィリップ・ギュスターヴと母親のガブリエル・ネリー・ビールの次男であり、パリ・ロチルド家のロルド男爵ジェイムス・マイヤーの曾孫。母親のガブリエル・ネリー・ビールの妹マリー・ルイーズ・ビア(Marie-Louise Beer)はロンドン・ロスチャイルド家のライオネル・ネイサン・ド・ロスチャイルドと結婚した。
 エリー・ロベール・ド・ロスチャイルドは第2次世界大戦中に連合国軍に従軍し、西暦1940年05月17日にベルギーで特別な展開を迎えた。第11胸甲騎兵連隊の若い少尉だった時、他の多くの兵士と同様に、兄弟はベルギー国境付近で捕虜になった。エリーはハンブルク近郊のニーンベルクにある捕虜収容所のオフラグX-Bに多数の捕虜を伴い、彼らは徒歩でドイツの一部を横断し、05月23日にヴェーザーのニーンブルク収容所に列車で入った。連行された。逃亡計画を知らされたフランス人同志たちから非難された後、2人の兄弟(民間服を仕立ててもらう予定だった)は逃亡計画が発見された後、コルディッツ要塞のオフラグIV-Cに移送され、その後、最も厳しい捕虜収容所の1つであるリューベックのオフラグX-Cに移された。そこで兄ジェームズ・ギュスターヴ・ジュール・アランと再会した。「ユダヤ人の血統であるにも拘わらず、2人ともドイツ国防軍からは捕虜将校として扱われた。彼は西暦1944年初頭に釈放された。エリーは、5年間の監禁生活から「良好な拘留環境」の記憶を思い出し、追放された友人らのそれと比較して大局的に考えた。しかし、彼は最も困難な場所の1つと言われるリューベック収容所(シュレースヴィヒ・ホルシュタイン州オフラグX-C)で捕虜としての旅を終えた。
 退役軍人であり戦争捕虜でもあった彼は、捕虜としての過去について話すのが好きだった。エリー・ロベールにはロチルド家の中で特別な歴史があり、それを兄のジェームズ・ギュスターヴ・ジュール・アラン(西暦1982年に死去)とも共有した。フランクフルトのユーデンガッセが連合軍の爆撃で破壊されたとき、彼は捕虜の中にいた。彼は、ヘッセン・カッセル方伯ヴィルヘルム9世の金融代理人であり、有名な銀行の初代銀行家であった先祖、マイヤー・アムシェルの誕生から200年後だった。
 西暦1944年05月28日から、反ドイツ人とユダヤ人がそこに移送された。エリーは後に、刑務所の過酷な環境にも拘わらず、終始丁寧で丁重な扱いを受けた。」と語っている。軍隊は彼らにとって脅威以上のものであることを既に知っていた。ドイツ国第3帝国政権にとって、2人のロチルド家の家族を保持することは「軍資金」だった。金融会社をアーリア化するために経営権を掌握しようとして失敗したことへの復讐だった。
 既に西暦1938年にヴィエンヌ在住のルイ男爵が逮捕されていた。ヨーロッパに影響を及ぼした家族の誘拐と圧力の手段であり、ナチスはがチェコスロバキア(西暦1918〜1992年)に所有していた鉱山会社と鉄鋼会社を買収することを望んでいた。ナチスの代表者とロチルドグループとの会談がパリで行われた。最初の交渉は失敗に終わった。身代金はチェコスロバキアのクラウンで提供されたが、当時は交換価値のなかった通貨だった。対案は、株式の形で支払われる英ポンドでの買収と、ルイ男爵の釈放という結果となった。
 しかしその間、ロチルドグループは戦争の匂いを嗅ぎつけ、それが近づいていた。彼は賢明な金融システムを通じて、チェコスロバキアの工業団地を英国の所有物とした。株式に関しては、ヴィシー国家の手にあった。業を煮やしたナチス政権は、すぐにエリーとアランという2人の「象徴」を人質に取ることになった。
 第2次世界大戦後間もない頃、パリではエリー・ロベールとジェームズ・ギュスターヴ・ジュール・アラン、そして妻たちがマリニー通り23番地を共有していた。戦時中、この家はドイツ空軍の本部として使用され、ヘルマン・ゲーリングが頻繁に訪れていた。その後、戦時中は対破壊工作(爆弾処理)の専門家となっていた、芸術愛好家である彼は、18歳で蒐集を始めた。弁護士になってから 1年後、彼はモーリス・ユトリロ(Maurice Utrillo)の風景画を購入し、レンブラント・ハルメンソーン・ファン・レイン(Rembrandt Harmenszoon van Rijn)、ジャン・フィリップ・アルチュール・デュビュッフェ(Jean Philippe Arthur Dubuffet)、パブロ・ルイズ・ピカソ(Pablo Ruiz Picasso)の絵を加えて完成させた。ロンドン・ロスチャイルド家嫡流の第5代当主の従弟、第3代ロスチャイルド男爵ナサニエル・メイヤー・ヴィクター(英語: Nathaniel Mayer Victor Rothschild, 3rd Baron Rothschild, GBE, GM, FRS)中佐が引き継いだ。西暦1950年代にエリー・ロベールとリリアンヌとその子供たちは、マセラン通り11番地にある自分たちの家に引っ越した。レンブラント、トマス・ゲインズバラ (Thomas Gainsborough)、デュビュッフェ、パブロ・ピカソなどの作品を含む彼の素晴らしい美術蒐集品を展示した。西暦1785年にブロンニャールがマセラーノ公のために建てた西暦18世紀の邸宅は、マリニー通り23番地とほぼ同じ大きさで、さらに魅力的だった。豪華な西暦18世紀フランスの家具、美術品、巨匠の作品、現代絵画を飾るのにぴったりの空間だった。
 エリー・ロベールはボルドーにある家族の葡萄農園での仕事に戻り、西暦1855年の有名なプルミエ・グラン・クリュ・クラッセであるシャトー・ラフィットの葡萄品種の再発売に取り組んだ。エリー・ロベールは西暦1946年、メドックのプルミエ・クリュ・ ポイヤックの葡萄園であるシャトー・ラフィット・ロートシルトを経営し、アラン、ギー、そして彼らの従兄弟でイギリスに帰化したジミー・ド・ロスチャイルド(ジェームズ・アーマンド・エドモンド・ド・ロスチャイルド)と共同所有した。 ロベール・フィリップ・ギュスターヴは、ロスチャイルド家の銀行であるロスチャイルド兄弟の共同経営者の1人で、エリー・ロベールと、その兄弟であるダイアン、アラン、セシルは、シャンティイ近郊のラヴェルシーヌ城と、祖父のギュスターヴ・ド・ロスチャイルドが西暦1885年に建てたパリのマリニー通り23番地の邸宅で育った。父親の後を継いで一族の銀行であるロスチャイルド・フレールの共同経営者となり、西暦1946〜1974年までシャトー・ラフィット・ロスチャイルドのプルミエ・クリュ・クラレットの葡萄園を経営した。
 パリでの事業活動に加え、エリー・ロベールは西暦1946年にシャトー・ラフィット ロートシルトの葡萄園の経営を引き継ぎました。この葡萄園は、アラン、ギー、そして彼らの親英派の従兄弟ジミー・ド・ロートシルト(アイルズベリー近郊のワデスドン・マナー在住) と共同所有していた。
 従兄弟のフィリップは、別の家族経営の葡萄園、ムートン・ロートシルトで大躍進を遂げていた。フィリップは自分のワインがプルミエ・クリュの格付けに含まれることを強く望んでおり、5つの葡萄園全てを対象にプルミエ・クリュ協会を設立していました。最初はフィリップに同調していたエリー・ロベールも、ムートン・ロートシルトが新しいプルミエ・クリュの格付けに含まれることに反対することにしました。しばらくの間、従兄弟同士は殆ど口を聞かなかった。フィリップは粘り強く主張し、最終的に勝利し、ムートン・ロートシルトは西暦1973年にようやく貴重なプルミエ・クリュの地位を獲得した。
 その後、経営を甥のエリックに引き継ぐ時が来た。彼は現在、さまざまな葡萄品種の約20のシャトーを束ねるドメーヌ バロン ド ロートシルト ブランドを設立した。
 兄のジェームズ・ギュスターヴ・ジュール・アランと従兄ギーが銀行の本社に戻っている間、彼は金融グループの新しい活動の準備をしていた。エリー・ロベールと彼の兄ジェームズ・ギュスターヴ・ジュール・アランは、従兄のギー・ド・ロチルドを支援して、ロスチャイルド・フレール投資銀行とその子会社である北の商工会議所を再建した。カンパニー・デュ・ノールの拡大を図った。西暦1967年、ラフィット通りの古い建物は取り壊され、コンクリートとガラスでできた近代的な建物に建て替えられた。西暦1979年、従弟のギーの退任に伴い、彼は銀行の頭取職を引き継いだが、2年後に社会主義政府が家業の国有化を決定し、家業はロンドンとニューヨークに撤退したため短期間だった。最終的に、フランソワ・ミッテラン大統領によって銀行は国有化された。
 エリー・ロベールはブレヴァン、その後シャモニーのモンブランのスキーリフトの株主でもあり、西暦1972年にディーノ・ロラ・トティーノ伯(comte Dino Lora Totino)が全株をエリー・ロベールに売却した。彼は一族の銀行の株式の25%を保有していた。チューリッヒにあるスイスの銀行ロスチャイルドAGの元取締役会長で、パリ・リヨン・マルセイユ(PLM)鉄道会社をホテルとレストランのチェーンに再転換することに参加した。
 西暦1955年、パリのマスラン通りにあるボーモン伯エティエンヌ(Comte Etienne de Beaumont)の旧ホテルを買収した。このホテルは、西暦1787〜1788年にかけてマセラーノ公のためにブロンニャールによって建てられた。彼の妻は、旧オテル・ガルガン(パリのヴァンドーム広場)からルイ16世時代の木工品一式と、エリザベート・ルイーズ・ヴィジェ・ルブラン(Marie Élisabeth-Louise Vigée Le Brun)作のデュ・バリー夫人(Madame du Barry、マリ・ジャンヌ・ベキュー(Marie-Jeanne Bécu))の全身肖像画(西暦1789年09月にルーブシエンヌで描き始め、完成するまで未完成のまま残されていた。)を持ち帰った。革命後に完成した。その料理は、シェフのアンリ・プロヴェシェ、ロベール・パリュオー、シルヴァン・ベル(Henri Provenchère, Robert Palluau, Sylvain Bel)の指揮の下、フランスで最初のプライベートテーブルの1つであり、そのワインは世界最高のワインの1つだった。
 西暦1956年、エリー・ロベールはホテル、モーテル、レストランの建設と宣伝を行う家族経営の会社PLMの社長にも就任した。PLM はフランスとスイスにチェーンを展開し、パリで最初のホテルである812室のホテル・サン・ジャックは西暦1972年に開業した。リリアンヌは PLM の施設の内装を監督した。エリー・ロベールは西暦1956年に一族のパリ・リヨン・地中海鉄道会社 (PLM) の社長に就任し、ホテル、モーテル、レストランへと事業を多角化した。
 彼は西暦1996〜2003年の間に南太平洋で少なくとも20の秘密に包まれた信託のネットワークを構築し、そのうちのいくつかは西暦2007年の彼の死後も運営を続けた。オフショア漏洩文書によると、少なくとも20の信託と10の持ち株会社がクック諸島でロスチャイルドのために設立され、その名前は典型的には「アノン・トラスト」など不透明で、両社には「マンダロール・リミテッド」という共通株主がいる。この会社も同様に不透明な会社で、セントビンセントおよびグレナディーン諸島に拠点を置いている。
 西暦1974年、アランの息子である甥のエリック・ド・ロチルドがシャトー・ラフィット・ロートシールトを引き継いだ。西暦1974年、エリー・ロベールはシャトー・ラフィット・ロチルドの経営を、ジェームズ・ギュスターヴ・ジュール・アランの息子である甥のエリック・アラン・ロバート・ダヴィッドに譲った。エリー・ロベール・ド・ロチルドは、90歳でオーストリア・アルプスの狩猟小屋で亡くなるまで活動を続けていた。エリー・ロベールは、オーストリアのインスブルック郊外のシャルニッツ村近くの狩猟小屋で休暇中に心臓発作で亡くなった。妻は西暦2003年に彼より先に亡くなった。

 エリー・ロベールの様々な愛人関係は、フランソワーズ・ド・ラングラード(Françoise de Langlade)。「ヴォーグ」編集長、スタイリスト。オスカー・デ・ラ・レンタ(Oscar de la Renta)の最初の妻。
 パメラ・ディグビー(Pamela Digby)。結婚後の名前でよく知られているパメラ・ハリマン(Pamela Harriman)。イギリスの貴族、西暦1993〜1997年までアメリカ合衆国大使を務め、エリー・ロベールの妻、リリアーヌは彼女のことを2語で「この女」と呼んだ。エリー・ロベールはアリ・カーン(Aly Salomone Khan)王子とジョヴァンニ・カルロ・フランチェスコ・アニェッリ(Giovanni Carlo Francesco Agnelli)、の友人だった。西暦1954年、リリアンヌが町を留守にしていた時、エリー・ロベールは離婚したパメラ・チャーチル(Pamela Churchill)(後のパメラ・ハリマン)を紹介された。
 エリー・ロベールによると、「彼女は優しくて魅力的で可愛かった。私は彼女と同衾したかったし、実際にそうした。」それでも、リリアンヌはすぐに恋敵を追い払った。ウィンザー公(Duke of Windsor、元のエドワード8世(Edward VIII)、エドワード・アルバート・クリスチャン・ジョージ・アンドルー・パトリック・デイヴィッド(Edward Albert Christian George Andrew Patrick David))が彼女に「パメラ・チャーチルの愛人はどのロスチャイルドですか?」と尋ねた時、リリアンヌは「パメラ・チャーチルの愛人はどのロスチャイルドですか?」と尋ねた。彼女は「夫です、サー。」と答えた。この発言は、他の報復攻撃と同じくらいパメラ・チャーチルを弱体化させ、すぐにこの事件は収束した。
 ウジェニー・ベルコヴィックス(Eugénie Berkovics)。ジャーナリスト。西暦1960年頃にイスラエルで出会い、エリー・ジュニア・ド・ロスチャイルド(Elie Jr. de Rothschild)を出産した。
 最後の1人は、ボーヴォー広場の骨董品商、アリアン・ダンドワ(Ariane Dandois)で、彼との間には孫娘エスター・エヴァ(Esther-Eva)と同い年のオンディーヌ・ド・ロスチャイルド( Ondine de Rothschild)という娘がいた。

 捕虜としてコルディッツで収容中にエリー・ロベールは幼馴染の恋人リリアン・フォールド・スプリンガー (Liliane Fould-Springer)に代理結婚を提案する手紙を書いて結婚を申し込んだ。彼女はそれを受け入れた。新郎は西暦1941年10月にコルディッツで誓いを立て、新婦は西暦1942年04月にヴィシー政権のカンヌ市庁舎で、エリー・ロベールの写真を前に空いている椅子の横に座った。エリーは獄中で結婚の誓いを立てることを許された。リリアンヌは彼より1歳年上で、両家族がシャンティイ周辺で会った時に知り合いになっていた。リリアンヌ・フォールド・スプリンガーは、銀行家のウジェーヌ・フォールド・スプリンガー男爵(アキレ・フォールド(Achille Fould)の従兄弟)(Baron Eugène Fould-Springer)とオーストリアのスプリンガー男爵夫人マリー・セシル(Baronne autrichienne Marie-Cécile Von Springer、実業家スプリンガー男爵マックス(Baron Max Springer)の孫娘でマクシミリアン・ド・ケーニッヒスヴァルター(Maximilien de Koenigswarter)の娘)の娘であった。「ドイツ国ナチス政権がフランスを支配している時にロチルド家の名を継ぐのは愚かだ。」と母は考えた。しかし、ナチス占領下でも家族は困らなかった。ファウルド・シュプリンガー家はオーストリアに広範な権益を持ち、一族の一派はメドックのポイヤックにあるシャトー・ラフィットに近いボルドーのシャトー・ベイシュヴェルを所有していた。エリー・ロベールとリリアンヌはその後1男2女をなした。他に1男1女など5人の子供がいる。
    第1子(長男)ナサニエル(Nathaniel de Rothschild)。西暦1950年代にイスラエル海軍の司令官を務めたモルデハイ・リモン(Mordechai Rimmon)の娘、ニリ・リモン(Nili Rimmon)と結婚した。
    第2子(長女)ネリー(Nelly de Rothschild)。
    第3子(次女)エリザベス(Elisabeth de Rothschild)。
 第4子(三男)サロモン・ジェームス(Salomon James de Rothschild)。
 サロモン・ジェームズ・ド・ロスチャイルドはフランスの銀行家であり社交界の名士だった。父は、著名な銀行家ロスチャイルド家のパリ支店長、ジェームズ・マイヤー・ド・ロスチャイルド。
 ゴンクール兄弟(エドモン・ド・ゴンクール(仏語: Edmond de Goncourt)とジュール・アルフレ・ユオー・ド・ゴンクール(仏語: Jules Alfred Huot de Goncourt))によると、サロモン・ジェームズは若い頃、「父ジェームズ・マイヤーに内緒で株式市場で100万ドルを浪費し、フランクフルトに追放され、そこで2年間帳簿を付けていた。その後、彼の父はサロモン・ジェームズに「サロモン氏の情事は終わっていない。」と書き送って、サロモン・ジェームズはアメリカ合衆国に派遣され、そこで家族の銀行業の利益を発展させるのを手伝うことになった。西暦1859〜1861年にかけて、アメリカ合衆国、カナダ、スペイン王国領キューバを広範囲に旅した。
彼はアメリカ南北戦争(西暦1861〜1865年)に至るまでの出来事の目撃者だった。彼はエイブラハム・リンカーン(英語: Abraham Lincoln)を過激派と見做し、政治的には南部連合に共感した。家族に宛てた手紙の中で、彼は当時の社会習慣や注目すべき出来事を生き生きとした言葉で描写している。その中には、イギリス王国王太子アルバート・エドワード(英語: Albert Edward、後の国王エドワード 7 世)の訪問、シャルル・ブロンダン(Charles Blondin、出生名: Jean François Gravelet (ジャン・フランソワ・ガヴレ))のナイアガラ渓谷の綱渡り、米国への徳川幕府の遣米使節団の到着(万延01(西暦1860)年) 、西暦19世紀最大級の蒸気船、SSグレート・イースタンの処女航海(西暦1860年)などがある。
 世界で最も著名な銀行家の代表として、彼は10人の随行員を伴って旅をし、行く先々で上流社会の人々と交流し、道中、美しくて身なりの良い女性たちにいつも注目していた。弁護士のジョージ・テンプルトン・ストロング(George Templeton Strong)はサロモン・ジェームズと会い、次のように評している。「男爵は名声が高く大富豪であったが、卑猥な話やヌード写真に過度に溺れていた。」ネイサン・メイアー・ロスチャイルドとその妻ハンナ・コーエンの間の次男アンソニー・ド・ロスチャイルド(Anthony de Rothschild)の娘で、彼のイギリス人の従妹コンスタンス(Constance)は、サロモン・ジェームズを「素晴らしい才能に恵まれていたが、兄弟たちほど地道な仕事や商売の習慣には執着していなかった...温厚で聡明、やや向こう見ずなところがあった。」と評している。
 サロモン・ジェームズは西暦1864年05月14日、パリで29歳で亡くなった。結婚からわずか2年後、娘エレーヌ(Helene)が生まれてから1年も経っていなかった。
ゴンクール兄弟は彼の死について、ロチルド家の主治医であるカバラス(Cabarru)は、「先日亡くなった若きサロモン・ジェームズは本当に証券取引所での賭けの興奮で死んだ。」とサン・ヴィクトール(Saint-Victor)に語った。
 サロモン・ジェームズは従兄のマイヤー・カール・フォン・ロートシールト(Mayer Carl von Rothschild)の長女アデル・ハンナ・シャルロッテ・フォン・ロートシールト(Adèle Hannah Charlotte von Rothschild)と従兄・従妹婚し、1女をなした。

  第1子(長女)ヘレーネ・ド・ロチルド(Hélène de Rothschild)。オランダ王国(ネーデルラント王国生まれのローマ・カトリック教徒で、ファン・ズイレン・ファン・ナイェフェルト家のファン・ズイレン・ファン・ナイェフェルト・ハール男爵エティエンヌ(Baron Étienne van Zuylen van Nyevelt van de Haar)と結婚した後、ファン・ズイレン・ファン・ナイェフェルト・ハール男爵夫人エレーヌ(the Baroness Hélène van Zuylen van Nijevelt de Haar)となった。
 第5子(四男)エドモン・バンジャマン・ジャム(エドモン・ド・ロートシルト)(Edmond Benjamin James de Rothschild)。
 パリ郊外のブローニュ・ビヤンクールにおいてロートシルト家(ロスチャイルド家)の始祖であるマイアー・アムシェル・ロートシルトの五男(末子)のジャコブ・マイエール・ド・ロチルドとベティ・フォン・ロチルドの末子として誕生した。 エドモン・バンジャマン・ジャムは、シオニズムの強力な支援者であり、彼の惜しみない寄付はイスラエル国設立に重要な支援をすることとなった。
 フランス第2共和政とフランス第2帝政の時代に育ち、第1次普仏戦争では遊撃隊の兵士として戦った。西暦1882年夏、パレスチナへ入植したユダヤ人の代表としてヨーロッパに派遣されたヨーゼフ・ファインベルク及び同行していたロシア人ラビと面会した。西暦1924年新たにパレスチナ委員会を創設して「パレスチナユダヤ植民教会」と名付けた。西暦1982年に発行されたイスラエル国の旧500シェケル紙幣に肖像が使用されていた。

 西暦1877年にナポリ王国の貴族であったナポリ・ロートシルト家の祖カール・マイアーの三男ヴィルヘルム・カールの娘)のアーデルハイド(Adelheid von Rothschild)と従兄・従妹婚2男1女を儲けた。
 第1子(長男)ジェームズ・アーマンド・エドモンド(James Armand Edmond)。ジェームズ・アーマンド・エドモンド・ド・ロチルドは、ジミー・ド・ロスチャイルドとも呼ばれるイギリス人でした。自由主義の政治家、慈善家。裕福な国際銀行家ロスチャイルド家の出身。
 ジェームズ・アーマンド・エドモンドは、フランス系のエドモンド・ジェームズ・ロチルドの長男。ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジで教育を受けた。第1次世界大戦では、当初はフランス軍の下士官として、その後は王立カナダ竜騎兵隊の将校として従軍し、戦争終結時にはイギリス軍将校としてパレスチナで第39大隊、王立フュージリア連隊(「ユダヤ人部隊」の一部)の少佐として従軍した。将校に任命される前に殊勲章を授与された。競馬に熱心で、競走馬の所有者でもあった。
 彼は西暦1920年にイギリスに帰化し、西暦1922年にアリス・ド・ロスチャイルドから、西暦1885〜1898年までアイルズベリーの自由党国会議員(MP)を務めた大叔父のロスチャイルド男爵フェルディナンドのワデスドン・マナーの土地を相続した。自由党史ジャーナルで「自由党で最も個性的な国会議員の1人」と評されたジェームズ・アーマンド・エドモンドは、西暦1929〜1945年までアイルズベリー選挙区の自由党国会議員を務めた。西暦1945年の総選挙でハリー・レッグ・バーク(Harry Legge-Bourke)に敗れたことは、その年の保守党の僅かな勝利の1つであり、自由党の同僚アーチボルド・シンクレア(Archibald Sinclair)とウィリアム・ベヴァリッジ(William Beveridge)も同様にトーリー党の反対派に敗れた。
 第2次世界大戦中、彼は西暦1940〜1945年まで連立政権で補給省の政務官を務めた。また、ロンドン州の副中尉とバッキンガムシャーの治安判事も務めた。
 ジェームズ・アーマンド・エドモンドは父のシオニスト運動を支援し続け、西暦1966年に完成したエルサレムのクネセト(国会)の建設に600万イエメンを寄付した。ジェームズ・アーマンド・エドモンドは西暦1957年に死去し、ワデスドン・マナーを国有信託に遺贈した。未亡人のドロシー・ド・ロスチャイルドは周囲の土地を相続し、西暦1988年に死去するまで家と蒐集物に強い関心を持ち続けた。

 西暦1913年にドロシー・マチルド・ピント(Dorothy Mathilde Pinto)と結婚した。彼女は17歳、彼は35歳だった。
 第2子(次男)モーリス・エドモンド・カール(Maurice Edmond Karl)。
 第3子(長女)ミリアム・キャロライン・アレクサンドリン(Miriam Caroline Alexandrine)。

ロスチャイルド―ヨーロッパ金融界の謎の王国 (1969年) (世界の企業家〈2〉) - ジャン・ブーヴィエ, 井上 隆一郎
ロスチャイルド―ヨーロッパ金融界の謎の王国 (1969年) (世界の企業家〈2〉) - ジャン・ブーヴィエ, 井上 隆一郎

 ロンドン、パリ、フランクフルト、ヴィーン、ナポリに事業を設立した5人の息子を通じて国際的な銀行家を確立し、創業以来、現在も創業家のロスチャイルド家によって共同所有する金融持株会社は、ロスチャイルド & カンパニー(英語: Rothschild & Co、仏語ではロチルド・エ・コもしくはロチルド・エ・コンパニ (Rothschild & Compagnie)、旧社名: ParisOrléans)。ロスチャイルド家のうち、パリ家とロンドン家だけが残っている。



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2024年10月16日

反吐が出る世界史 鬼畜金満ロスチャイルド家の近親相姦の繁殖でひり出た末裔 前編(第4子ネイサン・メイヤーまで) 悪逆非道なディープステイト(DS(出来損ないの堕落した最兇な屑))の中核、猶太とは何か その26

ダビデの星.jpgユダヤ(ギリシャ語: Ἰουδαία、Ioudaía、漢字:猶太)

 他民族からは「ヘブライ人」と謂れ、自らは「イスラエル人」と称し、バビロン捕囚後には「ユダヤ人」と呼ばれるようになった徒輩。ヘブライ人、イスラエル人、ユダヤ人は同じ民族を指している。
 ユダヤ人(ヘブライ語: יהודים‎、英語: Jews、ラジノ語: Djudios、イディッシュ語: ייִדן‎)は、猶太教の信者(宗教集団)または猶太教信者を親に持つ者によって構成される宗教信者。原義は狭義のイスラエル民族のみを指す。イスラエル民族の1つ、ユダ族がイスラエルの王の家系だったことを由来とする。猶太教という名称は、猶太教徒が多く信仰していた宗教であることによる。ユダヤとは、パレスチナ南部の地域。酋長ヤコブの子ユダに由来する。古代イスラエル統一王国の分裂後の南ユダ王国があった地域である。



南ユダ王国滅亡後のユダヤの歴史

南ユダ王国が滅ぶと、僅かな例外的時期を除いて西暦20世紀に至るまでユダヤ民族が独立国を持つことはなかった。


神武天皇74(西暦前587)〜安寧天皇10(西暦前539)年 新バビロニア帝国
安寧天皇10(西暦前539)〜孝安天皇61(西暦前332)年 アケメネス朝ペルシア帝国
孝安天皇61(西暦前332)〜孝安天皇88(西暦前305)年 プトレマイオス朝エジプト
孝安天皇88年(西暦前305)〜開化天皇17(西暦前141)年 セレウコス朝シリア
開化天皇17(西暦前141)〜崇神天皇35(西暦前63)年 ハスモン朝 ユダヤ人国家
崇神天皇35(西暦前63)〜崇神天皇61(西暦前37)年 共和政ローマ元老院属州
崇神天皇61(西暦前37)〜垂仁天皇73(西暦44)年 ヘロデ家
垂仁天皇73(西暦44)年 ユダヤ属州(ローマ帝国皇帝属州)
垂仁天皇73(西暦44)〜景行天皇23(西暦93)年 ヘロデ家
垂仁天皇73(西暦44)〜仁徳天皇83(西暦395)年 ローマ帝国皇帝属州
仁徳天皇83(西暦395)〜舒明天皇06(西暦634)年 東ローマ帝国
舒明天皇06(西暦634)〜永正13(西暦1516)年 イスラーム諸王朝 途中に十字軍国家の時代を含む。
永正13(西暦1516)〜大正06年(西暦1917)年 オスマン帝国 
大正07年(西暦1918)〜昭和23(西暦1948)年 イギリスによる国際聯盟の委任統治 
昭和23(西暦1948)年 イスラエル国(メディナット・イスラエル)成立 共和政国家の樹立、現代に至る。



 西暦135年、ローマが叛乱を鎮圧し、ユダヤ的なものを一掃しようとしたローマ人は、この土地をユダの地(ユダヤ)ではなく、ユダヤ人の宿敵ペリシテ人に因んで「パレスチナ」、エルサレムを「アエリア・カピトリーナ」と改称し、ユダヤという地名は消滅した。

 また、ユダヤ人は人種的にはセム族とされるが、長いディアスポラ(離散)のなかで、周辺民族との混血の結果、セファルディームアシュケナジームの違いが生じ、また言語もイデッシュ語などが生まれた。現在、ユダヤ人はイスラエルの他、世界中に分布しており、アメリカにも約600万人が住んでいるとされる。しかし現在ではユダヤ人を「人種」概念で捉えるのは困難で、現実には「猶太教を信仰する徒輩」と捉えるのが正しい。人類学的に同質のユダヤ人は存在しない。


「ザ・ロスチャイルド」大英帝国を乗っ取り世界を支配した一族の物語 - 林千勝
「ザ・ロスチャイルド」大英帝国を乗っ取り世界を支配した一族の物語 - 林千勝

MayerAmschelRothschild.jpg ロスチャイルド家(Rothschild、英語読みは「ロスチャイルド」、ドイツ語読みは「ロートシルト」、フランス語読みは「ロチルド」)は、フランクフルト出身のユダヤ人富豪で、神聖ローマ帝国(西暦800/962〜1806年)フランクフルト自由都市のヘッセン・カッセル方伯領(西暦1567〜1803年)の宮廷ユダヤ人であったマイアー・アムシェル・ロートシルト(Mayer Amschel Rothschild)が西暦1760年代に銀行業を確立したことで隆盛を極めた。それまでの宮廷関係者とは異なり、ロスチャイルドは富を遺すことに成功し、ロンドン、パリ、フランクフルト、ヴィーン、ナポリに事業を設立した5人の息子を通じて国際的な銀行家を確立した。


広瀬隆『赤い楯』全4巻セット (集英社文庫) - 広瀬 隆
広瀬隆『赤い楯』全4巻セット (集英社文庫) - 広瀬 隆

第1子(長女)シェーンヒェ・ジャネット(Schönche Jeannette)。ユダヤ人ベネディクト・モーゼス・ヴォルムス(Benedikt Moses Worms)との子がモーリス・ベネディクト・ド・ウォルムズ(Maurice Benedict de Worms)で、西暦1841年に兄バロン・ソロモン・ベネディクト・ド・ヴォルムス(Baron Solomon Benedict de Worms)と共にセイロン島で農園を購入した。もう1人の兄弟、ガブリエル・ベネディクト・ド・ヴォルムス(Gabriel Benedict de Worms)もこの農園に投資した。数年掛けて彼らは耕作地 2000エーカーと森林地 6000エーカー以上を取得した。この農園はロスチャイルド農園として知られる。彼らはまた、プセラワのソガマ農園とコンデガラ農園も所有していた。彼らはコーヒーと紅茶、特にセイロン茶を栽培していた。
 イギリス王国(グレートブリテン及びアイルランド連合王国(西暦1801〜1922年))ハノーヴァー朝(西暦1714〜1901年)の植民地銀行オリエンタル・バンク(英国東洋銀行)がスリランカ(セイロン)のプランテーションへ資本を集中投下し始めた。スリランカ(セイロン)には、ウォルムズ家だけではなく、スコットランドローランド(低地)の氏族バークレイ家のデイビッド・バークレイ(David Barclay of Youngsbury、David Barclay of Walthamstow、David Barclay of Walthamstow and Youngsbury)が英領セイロン総督の始まる前から、プランテーションを持っていた。資金の多くを奴隷貿易に頼ったバークレイズ(Barclays plc)のデイビッド・バークレイは、ジャマイカにも広大なプランテーションを持ち、ロイズ銀行グループ(Lloyds Banking Group plc)のロイズ家の娘と結婚した。法律でイングランド銀行ばかりが厚く保護された西暦19世紀前半に、バークレイズがどうしていたかは不明。スコットランドローランド(低地)の氏族、「バークレー家の移住は2回あった。」という説がある。最初の移住は、西暦12世紀前半に元のイングランド人の末っ子がスコットランドに移住したことによるもので、2回目の移住は西暦1220年頃に起きた。西暦13世紀初頭、スコットランドのバークレー家のこれらの別々の支族の間には遠い血縁関係しか存在せず、スコットランドの侍従長ウォルター・デ・バークレーなどの著名人を含む元の家系は、西暦1200年頃に男系が絶えていた。

 オリエンタル・バンク(英国東洋銀行)は、香港で最初の銀行であり、同時に、その香港で初めて紙幣を発行した銀行でもある。西暦1893年恐慌で倒産するまで、日本国債の発行を積極的に引き受けた。

ロスチャイルド家 ユダヤ国際財閥の興亡 (講談社現代新書) - 横山三四郎
ロスチャイルド家 ユダヤ国際財閥の興亡 (講談社現代新書) - 横山三四郎

第2子(長男)ロートシルト男爵アムシェル・マイアー(Amschel Mayer Freiherr von Rothschild)。ロートシルト家(英語読みでロスチャイルド家)の祖マイアー・アムシェル・ロートシルトの長男であり、フランクフルトにおけるロートシルト財閥を継承した。
 父マイアー・アムシェル・ロートシルトはヘッセン・カッセル方伯ヴィルヘルム9世(後のヘッセン選帝侯ヴィルヘルム1世)の御用商人だった。アムシェルは若い頃から仕事を手伝い、長弟ザーロモンと共にヘッセン・カッセル方伯ヴィルヘルム9世の居城ヴィルヘルムスヘーエ城に詰め、より多くの手形割引の仕事をロートシルト家に回してもらえるよう尽力した。その結果ロートシルト家は西暦1789年に大銀行と名前を並べる形でヘッセン・カッセル方伯家の正式な金融機関に指名された。西暦1800年にはザーロモンと共に正式に父の共同経営者となった。西暦1804年、兄弟でただ1人、神聖ローマ帝国の郵便制度(帝国郵便)を開拓し司った一族トゥルン・ウント・タクシス家が所有するレーゲンスブルク宮殿(ザンクト・エメラム修道院)に入り、帝国郵便の郵便事業の経営に参画した。
 西暦1806年にナポレオン1世率いるフランス軍がプロイセン王国(西暦1701〜1918年)侵攻のついでにヘッセン選帝侯国やフランクフルトにも侵攻し占領した。大陸諸国を従わせたナポレオン1世は、唯一抵抗を続けるイギリス王国を経済的に締めつけようと大陸封鎖令を出したが、ロンドンで事業を行う次弟ネイサン・メイアーはこれを利用して大陸にイギリス商品を密輸し、アムシェルらがこれを受け取って大陸各地で売り捌いて利益を上げた。またロートシルト家は亡命したヘッセン選帝侯ヴィルヘルム1世(西暦1701年〜)からその債権を秘密裏に管理することを委ねられていたので、父と共にヘッセン選帝侯ヴィルヘルム1世の債権回収に走り回った。西暦1812年09月に父が死去すると、アムシェルは、ロートシルト家の家長の座とフランクフルト・アム・マインの銀行を継いだ。彼の4人の弟はそれぞれヴィーン、ロンドン、ナポリ、パリで銀行を興した。
 ナポレオン1世失脚後のヴィーン体制でもしっかり足場を確保したアムシェルはドイツ諸侯の求めに応じて融資を行った。かつての主家ヘッセン選帝侯家も今やロートシルト家の融資を受ける立場となり、お金の流れは逆転した。西暦1822年にはオーストリアのハプスブルク家よりロートシルト5兄弟とその子孫全員に男爵位が授与された。
 アムシェルも他の兄弟と同様にライバル銀行を圧倒してロートシルト銀行帝国の版図を広げることに貢献したものの、弟たちの大成功に比べると地味な成功に留まり、経済面でのアムシェルの影は薄くなっていった。しかし彼にはロートシルト家の家長として、各国の君主に慶弔を述べたり、スポークスマンを務めるなどの役割があり、それを通じて弟たちの成功を盛りたてた。
とりわけ西暦1840年代以降には政財界大物を招いた宴会を頻繁に開くようになった。宴会には反ユダヤ主義的な政治家も積極的に招き、ドイツ各国がユダヤ人への差別的取り扱いを撤廃するよう尽力した。
 慧眼のある人物であり、晩年の西暦1851年にフランクフルトで開かれたドイツ連邦議会にオットー・エドゥアルト・レオポルト・フォン・ビスマルク・シェーンハウゼン(Otto Eduard Leopold von Bismarck-Schönhausen、西暦1865年からビスマルク・シェーンハウゼン伯爵〈独語: Graf von Bismarck-Schönhausen〉、西暦1871年からビスマルク侯爵〈独語: Fürst von Bismarck〉、西暦1890年からラウエンブルク公爵〈独語: Herzog zu Lauenburg〉〉が新任のプロイセン公使として派遣されてくるとすぐに彼の才能に目を付けた。
 ロートシルト家5兄弟の中で子供を作れなかったのは彼のみであり、彼はそのことをずっと思い悩んでいた。祈禱と善行に励み、巨額の寄付を行った。アムシェルには子がいなかったため、アムシェルの財産は四分割され、パリ家の末弟ジェームズ、ヴィーンの長弟ザーロモンの子アンゼルム、ロンドン家の次弟ネイサン・メイアーの4人の子、ナポリ家の三弟カールの3人の子がそれぞれ相続した。事業はカールの子マイアー・カールとヴィルヘルム・カールが引き継いだ。ロートシルト家5兄弟の中では最もユダヤ教への信仰心が篤く、弟たちがしばしば猶太教の戒律を蔑ろにすることに立腹していた。そのたびに弟たちを叱り付けては信仰心に揺るぎないことを誓わせた。乞食がお金を乞う手紙を屋敷の中に放り込む度に金貨を一杯に入れた袋を投げ返していた。反ユダヤ主義の暴徒に邸宅を取り囲まれることも多かったが、その時にはバルコニーに姿を見せて「私の親しい友人諸君。君たちはお金持ちのユダヤ人からお金を貰いたいのだろう。」と言って、暴徒たちにお金をばら撒いた。暴徒たちはお金を手に入れると機嫌良く帰っていった。

世界覇権の大きな真実 ロスチャイルド230年の歴史から読み解く近現代史 - 副島 隆彦
世界覇権の大きな真実 ロスチャイルド230年の歴史から読み解く近現代史 - 副島 隆彦

第3子(次男)ロートシルト男爵ザーロモン・マイアー(Salomon Meyer Freiherr von Rothschild )。ロートシルト家(英語読みでロスチャイルド家)の祖であるマイアー・アムシェル・ロートシルトの次男であり、ヴィーンのロスチャイルド財閥の創始者。
 西暦1789年頃から父の仕事を手伝うようになり、ロートシルト家がヘッセン・カッセル方伯家の正規の金融機関に指名されると、毎日のようにカッセルに詰めるようになった。西暦1800年に父はザーロモンと長兄アムシェルと共に働いた。西暦1806年10月にナポレオン1世率いるフランス軍がプロイセン侵攻のついでにヘッセンにも侵攻し、11月にはヘッセン選帝侯ヴィルヘルム1世が国外亡命を余儀なくされた。ロートシルト家は選帝侯不在時の選帝侯の債権の管理を任され、ザーロモンもフランス当局の目を盗んでは馬車で各地を回って選帝侯の債権回収に努めた。またナポレオン1世が発令した大陸封鎖令を利用し、ロンドンにいる長弟ネイサン・メイアーがイギリス商品を安値で買い付け、それをザーロモンとアムシェルが物資不足にあえぐ大陸各地で売り捌き、巨額の利益を上げることにも成功した。
 西暦1810年09月には父、兄アムシェル、次弟カルマン、三弟ヤーコプと共に「マイアー・アムシェル・ロートシルト父子会社(M. A. Rothschild & Söhne)」を創設した。父は西暦1812年に死去したが、その頃には既に兄弟は全員が億万長者になっていた。ナポレオン1世の敗退後の復古体制ヴィーン体制では銀行界も旧勢力が復古したので、新参のロートシルトは弾き出されたが、西暦1818年のアーヘン会議で立場を挽回した。この会議でもはじめロートシルト家は弾き出されそうだったが、ザーロモンとカルマンがフランス公債を大量に買って一気に売り払う金融操作を行ったことが功を奏し、復古勢力も今やロートシルト家が無視することのできない大財閥であることを認めた。会議後にはヴィーン体制の中心人物であるオーストリア帝国(西暦1804〜1867年)宰相クレーメンス・ヴェンツェル・ロータル・ネーポムク・フォン・メッテルニヒ・ヴィネブルク・ツー・バイルシュタイン(Klemens Wenzel Lothar Nepomuk von Metternich-Winneburg zu Beilstein)が90万グルデンの融資を求めてきたので、これに応じた。
 全ヨーロッパにまたがるロートシルト銀行帝国の一翼となるべく、西暦1819年にオーストリア政府の許可を得て、ヴィーンへ移住した。オーストリア帝国は未だ封建主義的でユダヤ人差別も激しい国だった。そのためロートシルト家としては、ここを担当するのは、兄弟のうち最も封建領主のご機嫌取りが上手いザーロモンが最適と判断した。当時のオーストリア帝国ではユダヤ人の不動産所有が法律で禁じられていたため、ザーロモンは邸宅を持たず、ヴィーン市内の「ローマ皇帝ホテル」に仮寓した。かし銀行業(S・M・フォン・ロートシルト銀行)は順調に推移し、オーストリア公債の公募と債券の発行で巨額の利益を上げた。宰相メッテルニヒをはじめとするオーストリア政府中枢部とも緊密な関係となった。メッテルニヒからの依頼を受けて、パルマ女公マリー・ルイーゼ・フォン・エスターライヒ(独語: Marie-Louise von Österreich、またはマリア・ルドヴィカ・フォン・エスターライヒ(Maria Ludovica von Österreich)、仏語: マリー・ルイーズ・ドートリッシュ(Marie-Louise d'Autriche)、伊語: マリア(マリーア)・ルイーザ・ダウストリア(Maria Luisa d'Austria)またはマリア(マリーア)・ルイージャ・ダウストリア (Maria Luigia d'Austria)、元ナポレオン1世皇后)とナイペルク伯アダム・アルベルト(独語: Graf Adam Albert von Neipperg)との私生児モンテヌヴォ伯ウィルヘルム・アルブレヒト(独語: Wilhelm Albrecht Fürst von Montenuovo)のための財産を巧みな金融操作によって作り出すことにも貢献した。西暦1822年にはハプスブルク家から彼を含むロートシルト5兄弟全員に男爵位が送られた。
 西暦1835年、フェルディナントが皇帝に即位すると鉄道建設プロジェクトの請願を出した。この鉄道の名前をカイザー・フェルディナント北部鉄道 (現オーストリア北部鉄道)と名付けることにより、皇帝の自尊心を擽り建設に漕ぎ着け、オーストリアの鉄道王としても知られるようになった。また彼はオーストリア・ロイド汽船会社の発起人となったり、西暦1843年にはスレスコ地方(現チェコ共和国モラヴィア・スレスコ州)ヴィトコヴィッツにあるヴィトコヴィッツ製鉄所(を独占所有した。このようにして、<元々は銀行家であった彼は産業資本家としての一面も持つに至った。慈善事業も積極的に行い、病院の建設や給水設備の設置に莫大な寄付を行った。様々な法的制限を課せられているユダヤ人の地位改善にも努めた。西暦1843年には最後まで残されていたユダヤ人に対する権利制限である不動産購入禁止も解禁された。これを機にザーロモンもモラビアやシレジアなどに大荘園を購入したため、彼は瞬く間にオーストリア有数の大地主となった。
 オーストリア帝国が革命に揺れる西暦1848年03月13日、革命派暴徒の憎しみを集めていたメッテルニヒはザーロモンから貰った金貨と信用状をもって国外亡命を余儀なくされた。ついで暴徒はザーロモンが購入していた「ローマ皇帝ホテル」にも押し寄せてきて、打ち壊しと掠奪を行った。身に危険を感じたザーロモンも国外亡命を余儀なくされた。この革命によってロートシルト家は破産寸前まで追い込まれたが、5兄弟の団結と西暦1849年頃から保守派の反転攻勢が始まり、革命勢力が衰退し始めたことでロートシルト家は滅亡を免れた。ザーロモンがオーストリア帝国へ帰国することはなかったものの、彼の息子アンゼルムがオーストリア帝国におけるロートシルト財閥を立て直した。
 ユダヤ教への信仰心は、5兄弟の中でも長兄アムシェルについで強かった。これに対して下の3人はしばしばユダヤ教の戒律に反する行動を行い、アムシェルから大目玉を喰らっていた。立志伝の人であるザーロモンは「宮廷に出入りするおべっか使い」然とした奴隷根性的雰囲気が消えなかった。西暦1800年にカロリーネ・ステルンと結婚し1男1女を儲けた。
 第1子(長男)ロートシルト男爵アンゼルム・ザロモン(独語: Anselm Salomon Freiherr von Rothschild)ヴィーン・ロートシルト家(英語読みでロスチャイルド家)第2代当主。
 西暦1855年に父が死去しヴィーン・ロートシルト家の当主となり、同年クレディトアンシュタルト銀行(後のオーストリア銀行)を創設。同行をオーストリア経済を支配する存在に育て上げた。遺言により四男アルベルトに銀行を任せた。
 彼の父ザロモンには「おべっか使いのユダヤ人」然とした奴隷根性的な雰囲気があったというが、生まれながらに富裕であったアンゼルムにはそういった雰囲気はなかった。オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世を出迎えた際の態度も洗練されており、「名門貴族が名門貴族に接する態度そのもの」と絶賛された。彼の話すドイツ語も宮廷やオーストリア貴族の間で使われるような上品なものになった。
反ユダヤ主義に対する意趣返しを行った。ヴィーン近くのカジノクラブが反ユダヤ主義思想からアンゼルムを不当に締め出した際、アンゼルムはそのクラブの近くの村のために近代的汚染理処施設を建設し、その臭いがカジノクラブに届くように配置した。これに閉口したカジノクラブは急遽会員カードをアンゼルムに送って和解しようとした。アンゼルムはそのカードに最高級香水の臭いを滲み込ませて送り返した。
 ロンドン・ロスチャイルド家の祖ネイサン・メイアー・ロスチャイルドの長女シャーロットと従兄・従妹婚4男4女を儲けた。
  第1子(長男)マイアー・アンゼルム・レオン。夭折。
  第2子(長女)カロリーネ・ジュリー。ナポリ家のアドルフ・カールと従叔父・従姪婚
  第3子(次女)ロートシルト男爵夫人ハンナ・マティルデ(Wilhelmine Hannah Mathilde Freifrau von Rothschild)。フランクフルト家のロートシルト男爵ヴィルヘルム・カール(Wilhelm Carl Freiherr von Rothschild)と従伯父・従姪婚
  第4子(三女)サラ・ルイーゼ。イタリア貴族ライモンド・フランケッティ(伊語: Raimondo Franchetti)男爵と結婚。
  第5子(次男)ロートシルト男爵ナサニエル・マイヤー(Nathaniel Meyer Freiherr von Rothschild)。
  第6子(三男)ロスチャイルド男爵ファーディナンド・ジェームズ(英語: Baron Ferdinand James de Rothschild、独語: ロートシルト男爵フェルディナント・イェームス(Ferdinand James Freiherr von Rothschild)愛称: ファーディ)。イギリスに移住しイギリス臣民となった。ロンドン・ロスチャイルド家のイヴェリナ・ガートルード(Evelina Gertrude de Rothschild)と従姉・従弟婚彼女はその翌年に死去した。
 バッキンガムシャーのロッジヒル(Lodge Hill)とその周辺の景色を気にいったファーディナンド・ジェームズ(ファーディ)は、このあたり一帯の1080haの土地を第7代マールバラ公ジョン・ウィンストン・スペンサー・チャーチル(英語: John Winston Spencer-Churchill, 7th Duke of Marlborough, KG, PC)から買い取り、金に糸目を付けず、ここを更なる眺望絶佳の土地にするための大改築作業を行った。鉄道を敷設して様々な資材を運べるようにしたのを手始めに、排水や灌漑の整備、植樹、彫刻の設置、邪魔になる丘の削り取り、荒地の公園化などを行っていき、イングランド最大の絶景を人工的に創造した。最後にワデスドンにルネッサンス様式の華麗な豪邸を建設して一連の事業を完成させた。この邸宅はワデスドン・マナーと名付けられた。
 叔父のアンソニーから准男爵位を継承したロスチャイルド准男爵ナサニエル(ライオネルの長男)の西暦1885年に庶民院議員叙爵(貴族院入り)に伴うアリスバーリー選挙区の補欠選挙にロスチャイルド家の地盤を引き継ぐ形で、自由党候補として出馬し、当選を果たした。死去するまで庶民院議員を務めた。

 せっかちな性格で、思い立つと慌ただしい日程でも強引に宴会を開催した。そのため招待された婦人客たちの中には宴会のために新調するドレスが間に合わない者が多かった。ファーディナンド・ジェームズ(ファーディ)はその度にお詫びとして彼女らに次の宴会のための新調ドレス代を奢った。
 慈善事業も惜しみなく行った。毎年クリスマスにはロンドン中の乗合馬車従業員に雉を一対送った。馬車の御者たちはこれに感謝し、ロスチャイルド家の競馬の色である青と黄色のリボンを鞭に付けた。ロスチャイルド家の中でも屈指の蒐集家であり、ルネッサンス様式の様々な芸術品やフランス語の書籍などを集めた。熱心に園芸に取り組んだことでも知られる。中でも洋蘭への関心が強く、ワデスドン・マナーに建設した温室のうちいくつかは様々な洋蘭で満たされていた。また洋蘭の一種「パフィオペディルム・ロスチャイルディアナム」と献名された。
  第7子(四男)ロートシルト男爵アルベルト・ザロモン・アンゼルム(独語: Albert Salomon Anselm Freiherr von Rothschild)ヴィーン・ロートシルト家第3代当主。
 西暦1874年に父が死去し、父の命令でヴィーン・ロートシルト家の銀行業を継承した。ロンドン・ロスチャイルド家やパリ・ロチルド家のような兄弟体制は執らず、ヴィーン・ロートシルト家の全ての事業を彼1人で受け継いだ。
 ハプスブルク家の宮殿には高位貴族となってから4代を経なければ参内できない習わしがあり、貴族となって未だ3代目のアルベルトは参内できる立場にない筈だったが、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世(独語: Franz Joseph I、バイエルン・オーストリア語: フランツ・ヨーセフ、フランツ・ヨーゼフ・カール・フォン・ハプスブルク・ロートリンゲン(独語: Franz Joseph Karl von Habsburg-Lothringen))の計らいにより、西暦1887年にロートシルト家は特例で参内できることとなった。これ以降ロートシルト家は皇帝フランツ・ヨーゼフ1世や皇后エリーザベト・フォン・エスターライヒ(独語: Elisabeth von Österreich、エリーザベト・アマーリエ・オイゲーニエ・フォン・ヴィッテルスバッハ、ヘルツォーギン・イン・バイエルン(独: Elisabeth Amalie Eugenie von Wittelsbach, Herzogin in Bayern、愛称: シシィ(Sissi, Sissy, Sisi)と家族ぐるみの付き合いをするようになり、とりわけアルベルトの姉カロリーネ・ジュリーとエリーザベト皇后は親友となった。銀行業は三男のルイスに委ねた。
熱心な登山家であり、マッターホルン登頂も行った。 
 パリ・ロチルド家の第2代当主アルフォンス・ド・ロチルドの娘ベッティーナ・カロリーネと従甥・従叔母婚し、5男2女を儲けた。
   第1子(長男)ゲオルク・アンゼルム・フォン・ロートシルト
   第2子(次男)アルフォンス・マイアー・フォン・ロートシルト
   第3子(長女)シャルロッテ・エステル・フォン・ロートシルト
   第4子(三男)ルイス・ナタニエル・フォン・ロートシルト(Louis Nathaniel von Rothschild)銀行業を継承。
   第5子(四男)オイゲン・ダニエル・フォン・ロートシルト
   第6子(次女)ヴァレンタイン・ノエミ・フォン・ロートシルト、フォン・シュプリンガー男爵ジギスムントと結婚した。
   第7子(五男)オスカー・ルーベン・フォン・ロートシルト。
   第8子(四女)アリーセ・シャルロッテ(Alice Charlotte von Rothschild)。、英国へ移住した。
 第2子(長女)ベッティ。ザーロモン・マイアー・フォン・ロートシルトの長女で
パリ・ロートシルト家の祖ジェームズ・ド・ロチルドと叔父・姪の近親婚


金融のしくみは全部ロスチャイルドが作った (5次元文庫) - 芳裕, 安部
金融のしくみは全部ロスチャイルドが作った (5次元文庫) - 芳裕, 安部

第4子(三男)ナータン・マイアー (Nathan Mayer Rothschild)、英語読みではネイサン・メイアー・ロスチャイルド)。ロートシルト家(英語読みでロスチャイルド家)の祖であるマイアー・アムシェル・ロートシルトの三男であり、ロンドン・ロートシルト家の祖。
 西暦1798年、21歳の時繊維業の中心地であるイギリス王国マンチェスターへ移住した。フランス革命以来、ドイツでは流通が混乱して綿製品が高騰していたので、産業革命により綿製品の大量生産が行なわれているマンチェスターで安く仕入れ、ドイツへ送って莫大な利益を上げることができた。さらに中間費用を節約するため、買い入れだけではなく、綿糸や染色業にも手を伸ばしていき、綿糸業全体を扱うようになった。やがてこの事業で得た利益を使って金融業も手掛けるようになった。西暦1804年にはロンドンへ移住し、西暦1811年にはN・M・ロスチャイルド&サンズを起こし為替手形貿易の銀行家に転じた。
 大陸を席巻したナポレオン1世は西暦1806年に大陸封鎖令を出して敵国イギリス王国との貿易を禁じた。これによりコーヒー、砂糖、煙草、綿製品など大陸諸国がイギリス王国やその植民地からの輸入に頼っている商品の価格が高騰した。一方イギリスでもそれらの商品の価格が市場の喪失で暴落した。ネイサン・メイアーはこれを利用し、イギリス王国で安く買って大陸へ密輸し、父や兄弟たちが大陸内で確立しているロスチャイルド家の通商ルートや情報網を使って各地で売り捌いた。これによってロスチャイルド家は莫大な利益を上げられた上、物資不足に喘いでいた現地民からも大変に感謝された。現金や金の密輸も手掛け、イギリス政府が反フランス同盟国に送った軍資金の輸送も請け負った。パリの末弟ジェームスと協力して、イギリス王国からフランスを経由してピレネー山脈の向こうのイベリア半島で戦うイギリス軍司令官初代ウェリントン公アーサー・ウェルズリー(Arthur Wellesley, 1st Duke of Wellington, KG, GCB, GCH, PC, FRS)の許に金塊を届けた。5兄弟の中で最も先導的であった彼は、他の兄弟からナポレオン1世に擬え「総司令官」と呼ばれていた(他の兄弟たちは「師団長」)。
 西暦1815年のワーテルローの戦いは、「ナポレオン1世が勝てばイギリス王国のコンソル公債は暴落し、イギリス王国が勝てば逆に高騰するだろう。」と言われていた。ネイサンはロスチャイルド家の素早い情報伝達体制を駆使して、いち早くイギリス軍勝利の情報を掴んだ。ロスチャイルド家の優れた情報収集体制は金融界に知れ渡っていた為、皆ネイサンの動向を注視していた。そこでネイサン・メイアーはまず公債を売った。それを見た他の投資家たちはイギリスの敗戦を確信し、一斉に売りに入った。公債が暴落したところでネイサン・メイアーは急遽莫大な量の買いに入った。イギリスの勝利の報告が入ると公債は急騰し、ネイサン・メイアーは莫大な利益を上げることに成功した。これは「ネイサンの逆売り」として伝説化した(ただしこの伝説は後世の創作とする説もある)。
 西暦1817年にはロスチャイルド5兄弟全員にオーストリア帝国のハプスブルク家より「フォン(von)」の称号を送られ、さらに西暦1822年には5兄弟に男爵位と紋章が授与された。だがネイサン・メイアーは称号や紋章のような名誉には関心がなく、男爵の称号も全く使用しなかった。勲章も贈られていたが、身に付けなかった。自由主義国イギリス王国ではハプスブルク帝国のような専制王朝国家から授与された爵位などほとんど価値を認められていないことをネイサン・メイアーが感じとっていたためとも言われる。名前にドイツ語の貴族称号「フォン」を入れることも忌避し、繊細な印象があるフランス語の貴族称号「ド(de)」に変更している。
 西暦1810年以降、金融の力に魅せられたネイサン・メイアーの判断により、ロスチャイルド家は密貿易を初めとする物品の商いを停止し、金融ビジネスによって巨利を得ることを方針とした。
 西暦1824年、モンテフィオーレ家とアライアンス保険を立ち上げた。これは西暦1710年創業の太陽保険と西暦1959年に合併した。また、西暦1845年創業のロイヤル保険と西暦1996年に合併した。西暦2008年に現在の社名RSA保険グループに統合した。

 西暦1806年にオランダ王国(ホラント王国(西暦1806〜1810年)から来たユダヤ人レヴィ・ベアレント・コーエン(Levy Barent Cohen)の娘であるハナ・ベアレント・コーエン(Hannah Barent Cohen)と結婚し3男4女を儲けた。
 ハナの妹ジュディス(Judith Barent Cohen)は、西暦1812年、イタリアのセファルディームユダヤ人初代準男爵モーゼス・モンテフィオーレ(Moses Haim Montefiore, 1st Baronet, FRS)と結婚した。
モーゼス・モンテフィオーレの母親はロンドンの有力な地金ブローカーであるモカッタ家の娘で、モカッタ家は、イングランド銀行が求める金銀の仲買人として一大勢力を形成し、同時にイギリス王国の金融界においてネイサン・メイアーにとっての強敵であった耶蘇教徒のベアリング家に金塊を運んでいた。モーゼス・モンテフィオーレは、西暦1835〜1874年の間、イギリス王国最大かつ最古のユダヤ人共同体組織である「ボード・オブ・デピュティーズ(ユダヤ人代表委員会、西暦1760年設立)」の会長を繰り返し務め、在任期間は史上最長のプロト・シオニストで、エルサレム旧市街の外に最初の入植地であるミシュケノト・シャアナニムを設立した。
 ベアリング商会(ベアリングス銀行(Barings Bank))は、ロンドン・シティで最古の西暦1762年に、初代準男爵フランシス・ベアリング(Francis Baring, 1st Baronet)によって創業され「女王陛下の銀行」とまで呼ばれた名門投資銀行。ベアリングス銀行は大英帝国拡張の時流に乗って貿易商人たちの手形の引受で業績を伸ばし西暦1793年までにはロンドン最有力の引受業者に成長した。当時、ロスチャイルド家に先んじて、インド貿易やアメリカ合衆国(西暦1776年〜)への投資、さらにはフランス王国での商売で巨富を築き、ヨーロッパ1の商人として君臨していた。
 19世紀初めのフランシス・ベアリングの引退後、長男第2代準男爵トマス・ベアリング(Thomas Baring, 2nd Baronet)、次男初代アシュバートン男爵アレクサンダー・ベアリング(Alexander Baring, 1st Baron Ashburton.PC)、三男ヘンリー・ベアリング(Henry Baring)の3人が銀行を受け継いだのに伴い、西暦1807年に「ベアリング・ブラザーズ商会(Baring Brothers & Co.)」と社名を変更した。

 ハナの姻戚関係を利用してモカッタ家の閨閥に連なったことで、イギリス王国のほぼ全ての主要なユダヤ人一家と繋がった。モーゼス・モンテフィオーレはネイサン・メイアーの株式仲買人となり、以降、モンテフィオーレ家はロスチャイルド家の共同経営者となった。西暦1810年、ネイサン・メイアーはロンドン証券取引所の大商いでベアリング家と争って勝ち、以来数年間、ナポレオン1世に対抗するイギリス王国がヨーロッパ同盟諸国に提供した累計4200万ポンドの半分を調達する強大な力を得た。シティに君臨していたベアリング家総帥アシュバートン男爵アレクサンダー・ベアリングとフランクフルトのユダヤ人家系のゴールドシュミット兄弟が亡くなると、シティを動かし始めた。
 ネイサン・メイアーの嫁、ハナの伯父(父レヴィ・ベアレント・コーエンの兄)ザロモン・ダヴィド・ベアレント・コーエン(Salomon David Barent Cohen)は、革命家のカール・マルクス(Karl Marx)、フィリップス電機創業者のベンジャミン・フレデリック・デイヴィッド(Benjamin Frederik David Philips)の母方の曾祖父。ネーデルラントに住み着いたユダヤ商人ザロモン・ダヴィド・ベアレント・コーエンの娘が、ナネット・サロモンズ・コーエン(Nanette Salomons Pressburg、旧姓; Cohen)だった。ナネット・サロモンズと彼女の夫、アイザック・プレスブルク(Isaac Heymans Pressburg)との間には、アンリエッタ(Henriette Marx、旧姓; Pressburg)とソフィー・プレスブルク(Sophie Philips、旧姓; Pressburg)という娘がいた。姉のアンリエッタ(カール・マルクスの母)は、カール・マルクスの父ハインリッヒ・マルクス(Heinrich Marx、本名: Herschel Levi)と結婚した。妹のソフィー・プレスブルクはリオン・フィリップス(Lion Philips)と結婚し、息子のベンジャミン・フレデリック・デイヴィッドが生まれた。ベンジャミン・フレデリック・デイヴィッドの息子がジェラルド・フィリップス(Gerard Leonard Frederick Philips)で、このユダヤ人親子が巨大企業のフィリップス電機の共同創業者である。
 カール・マルクス、ベンジャミン・フレデリック・デイヴィッドの曾祖父はザロモン・ダヴィド・ベアレント・コーエン、彼はレヴィ・バレント・コーエンの兄。このレヴィの娘がハナ・バレント・コーエンで、彼女はネイサン・メイアー・ロスチャイルドに嫁いでいた。


 巨万の富を誇るロスチャイルド家も、金満プレスブルク家も、労働者が打倒すべき最大の敵だが、カール・マルクスの親戚であり、支援母体であり、金主である。無職の詐欺師カール・マルクスにしろブラブラしていられたのか?盲聾でなければ明らかだ。事実を無きが如く黙して何も語らない。
 猶太の共産主義者カール・マルクスと資本家ベンジャミン・フィリップスは、大富豪ロスチャイルド家やプレスブルク家の親族。シオニスト、モーゼス・モンテフィオーレとも繋がり、ロスチャイルド家も共産主義も資本主義もシオニズムも、愚民を愚弄し搾取し虐殺するDS(ディープステイト)猶太の大嘘で、この猶太の利権尾ペテンにより世界が破壊されている。


 第1子(長女)シャーロット。ヴィーン家のアンゼルム・フォン・ロートシルトと従兄・従妹婚
 第2子(長男)ロスチャイルド男爵ライオネル(英語: Baron Lionel de Rothschild)。ロンドン・ロスチャイルド家嫡流の第2代当主。
 西暦1836年に父ネイサン・メイアーが死去するとニューコートの銀行業を継承したが、まだ若年だったので、ロスチャイルド家全体の統括はパリ家の祖で叔父にあたるジェームズが中心となって行うようになった。西暦1847年のアイルランド大飢饉では800万ポンドの義援金を調達した。西暦1854年のクリミア戦争(西暦1853年〜1856年)ではユダヤ人迫害を推進するロシア帝国(西暦1721〜1917年)に対する反撥からイギリス王国、フランス第2帝政(西暦1852〜1870年)、オスマン朝(西暦1299〜1922年)テュルコ陣営を金銭面から支援した。英仏軍の軍事費を調達し、テュルコにも巨額の借款を与えた。
 政治家たちの中でもとりわけ同じユダヤ人(耶蘇教に改宗しているが)の初代ビーコンズフィールド伯ベンジャミン・ディズレーリ(英語: Benjamin Disraeli, 1st Earl of Beaconsfield, KG, PC, FRS)と親しくした。ベンジャミン・ディズレーリは毎週のように週末にはピカデリーにあるライオネル邸を訪れて夕食の御相伴に与かっていた。西暦1875年にエジプトのスエズ運河の株がフランス第3共和政に買い取られそうになった際には当時首相になっていたディズレーリの求めに応じて緊急に400万ポンドの借款を英国政府に与え、ベンジャミン・ディズレーリはその金でイスマーイール・パシャ(アラビア語: إسماعيل باشا、 Ismā‘īl Bāshā)の所持していたスエズ運河の株を買収した。これについてベンジャミン・ディズレーリはヴィクトリア女王への報告書の中で「英貨400万ポンド、それを彼らは瞬く間に用意したのです。そんなことをやってのける会社はロスチャイルド家以外にはありません。彼らは見事にやってのけたのです。」と絶賛した。これ以外にもしばしば英国政府に借款を与え、その総額は4億ポンドにも達した。

 父が西暦1835年に購入したガナーズベリー・パークに大改築を加え、女王の庭園以外に並ぶものがないといわれるほど美しい庭園を完成させた。巨大な日本庭園もあり、後にここを訪問した駐英日本大使は「すばらしい。日本にもこんな立派な庭園はありませんよ。」とおべんちゃらを漏らした。
 ヨーロッパの水銀鉱山を傘下に収めていくことに熱意を持っていた。晩年の西暦1870年代にセシル・ジョン・ローズ(Cecil John Rhodes)が南アフリカ共和国(トランスヴァール共和国)(西暦1852〜1902年)でダイアモンド王国建設を開始し始めると、ロスチャイルド家も積極的に南アフリカ共和国に進出して同地の銅や硝酸ソーダの企業に融資を開始した。
 西暦1847年に金融の中心地であるシティ・オブ・ロンドン選挙区からホイッグ党候補として出馬した。しかし彼は耶蘇教徒としての宣誓を行うことを拒んでいたため、当選しても議員にはなれない。」と言われていた。それについてライオネルは「世界中で最も富み、最も重要で、最も知性ある選挙区の代表者が議会入りすることを、言葉上の形式を理由に拒否することなどできないと確信しています。」と演説して反論した。
 ライオネルはこの選挙に当選を果たし、これを受けて庶民院は「ユダヤ教式の宣誓を認めてユダヤ人議員を認めるべき。」とする決議を通したが、貴族院によって否決されてしまった。普段はろくに登院もしない貴族たちが「無礼なユダヤ人」に分際を弁えさせようと続々とロンドンにやって来て反対票を投じた。だがライオネルは諦めず、その後も選挙のたびにシティ・オブ・ロンドン選挙区から出馬して当選を続けた。そしてその度に「ユダヤ教宣誓を認めるべき。」とする動議を提出されるも貴族院に否決され続けた。西暦1858年に至って宣誓の方式は庶民院・貴族院でそれぞれ独自に定めるという法案が可決されたことで、庶民院においてはユダヤ教の宣誓が認められるようになった。ここにライオネルは誰にも憚ることなくユダヤ教の宣誓に基づき、庶民院の議席に座ることができるようになった。
 これを喜んだロンドン・ユダヤ人協会から「市民的自由と宗教的自由のための戦いに勝利した。」とする祝電を送られた]。ライオネルは、西暦1848年にダッシュウッド準男爵家、西暦1849年に第2代バッキンガム・シャンドス公リチャード・プランタジネット・テンプル・ニュージェント・ブリッジス・シャンドス・グレンヴィル(英語: Richard Plantagenet Temple-Nugent-Brydges-Chandos-Grenville, 2nd Duke of Buckingham and Chandos, KG GCH PC FSA)から広大な領地を買い取っており、大地主でもあったが、金融の中心地シティ・オブ・ロンドン選挙区から庶民院議員になっていたため、「地主」より「銀行家」が強くなりがちだった。
 11年の苦難の末に手に入れた議席であったが、ライオネルが庶民院に登院することはほとんどなかった。議場で演説を行うことも一度もなかった。彼は自分が議員活動をしたかったのではなく、自らが先例となることで同胞たちに議会の扉を開きたかったのである。
 続いて貴族院への門を開かせることを目指し、西暦1869年に首相ウィリアム・ユワート・グラッドストン(英語: William Ewart Gladstone PC FRS FSS)に叙爵の推挙をしてもらったが、この時にはヴィクトリア女王の反発を買って退けられた。ユダヤ人であること、また「貴族の条件である地主の面より、企業家・投機家の面の方が強い。」と看做されたためだった。結局ライオネルの代に貴族になる事は叶わず、彼の息子であるナサニエルの代の西暦1885年になってロスチャイルド男爵の爵位を与えられた。
 西暦1870年に次弟ナサニエル、西暦1874年には三弟メイヤー、西暦1876年には長弟アンソニーが死に、ライオネルも弟たちの後を追うように西暦1879年に漸くくたばった。

 西暦1836年にナポリ家の祖であるカール・マイアー・フォン・ロートシルトの娘シャーロット(Charlotte von Rothschild)と従兄・従妹婚。彼女との間に以下の3男2女を儲けた。
  第1子(長女)レオノラ。パリ家のロチルド男爵アルフォンスと従叔父・従姪婚。
  第2子(次女)イヴェリナ・ガートルード(Evelina Gertrude de Rothschild)。ヴィーン家ザーロモンの三男で英国に帰化したロスチャイルド男爵ファーディナンド・ジェームズ(ファーディ)と従姉・従弟婚したが、その翌年に死去。
  第3子(長男)初代ロスチャイルド男爵ナサニエル・メイヤー・ロスチャイルド(英語: Nathaniel Mayer Rothschild, 1st Baron Rothschild, GCVO, PC)。ロスチャイルド家嫡流3代当主。
 父ライオネルの弟たちはナサニエル・ド・ロスチャイルド(彼はパリに移住してフランス・ロチルド家の一員になった)以外に子がなかったため、ライオネルの息子3人がロンドン・ロスチャイルド家の全財産を受け継ぐ立場だった。ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに進学し、在学中にプリンス・オブ・ウェールズ(王太子)バーティ(後の国王エドワード7世(英語: Edward VII、アルバート・エドワード(英語: Albert Edward))と親友となった。
 西暦1865年07月11日にロスチャイルド家が大地主として影響力を持つバッキンガムシャー・アリスバーリー選挙区(英語版)から自由党候補として出馬して庶民院議員に初当選し、貴族院へ移籍する西暦1885年まで当選を続けた。西暦1876年に死去した叔父アンソニーから准男爵位を継承し、西暦1879年に死去した父ライオネルからオーストリア・ハンガリー帝国(西暦1867〜1918年)の男爵位を継承した。また父の死により、弟2人と共にN・M・ロスチャイルド&サンズの共同経営者に就任した。
 西暦1882年にイギリス軍がオラービー革命を鎮圧してエジプトを占領した際にはエジプトの財政再建のために850万ポンドの借款を提供した。その恩賞で西暦1885年にヴィクトリア女王(Victoria)よりロスチャイルド男爵位を授与された。
彼は猶太教徒ユダヤ人で最初の貴族院議員であり、宣誓の際にはユダヤ教の三角帽を被り、猶太教式の宣誓を行った。
 これより前の西暦1869年にウィリアム・ユワート・グラッドストン首相がナサニエル・メイヤーの父ライオネルを男爵位に推挙したが、この時にはヴィクトリア女王は「ユダヤ人貴族は認められない。」、「貴族は伝統的に地主であり、企業家・投機家であってはならない。」として却下した。しかし西暦1882年のナサニエル・メイヤーへの男爵位授与に際してヴィクトリア女王は一切反対しなかった。変節の理由は定かではないが、考えられる理由として、父ライオネルが金融の中心地シティ・オブ・ロンドンから庶民院議員に当選していたので、銀行家像がより強いのに対し、ナサニエル・メイヤーは広大な土地と邸宅を所有してアリスバーリーから庶民院議員に当選したため、地主像が強かったことである。ナサニエル・メイヤー当人の思想が保守的であることもヴィクトリア女王から好感を持たれた。また西暦1875年には女王の寵愛する首相ベンジャミン・ディズレーリがロスチャイルド家から金を借りてスエズ運河を買収したが、この時ベンジャミン・ディズレーリが上奏文の中で「これができるのはロスチャイルド家だけ。」と報告したことも好感の要因だった。またナサニエル・メイヤー以下ロスチャイルド3兄弟は王太子バーティとケンブリッジ大学で学友だったのでロスチャイルド3兄弟が息子の治世を支えてくれることを期待してのこととも考えられる。
 祖父の代からの伝統で形式的に自由党に所属していたものの、彼自身は保守派であり、革新的な政策には全て反対した。改革政党に潜入し、内部から改革案を潰しまわる保守派のお手本のような人物だった。さらに西暦1886年からは自由党を離れ自由統一党に所属し、保守党と自由統一党の連携の橋渡し役を務めた。しかし彼の改革に反対する演説はいつも博識さに充ちあふれ、理路整然としていたため、親友の保守党党首ベンジャミン・ディズレーリからも感心された。ベンジャミン・ディズレーリは「歴史的事実について知りたいと思う時は、いつもナサニエルに尋ねた。」と語った。自由主義的な祖父や父と異なり、政治思想的には保守的な人物だった。逆に政敵からは恐れられ、西暦1909年には自由党政権の大蔵大臣初代ドワイフォーのロイド・ジョージ伯爵デビッド・ロイド・ジョージ(英語: David Lloyd George, 1st Earl Lloyd George of Dwyfor, OM, PC)から「我々の改革への一切の道は『ナサニエル・ロスチャイルドの命により通行禁止』という注意標識1つで封鎖されるのか。」と名指しで批判された。
 西暦1867年にケープ植民地(西暦1795〜1910年)(現南アフリカ共和国)でダイヤモンドが発見されるといち早くアングロ・アフリカン・ダイヤモンド鉱山会社に投資し、西暦1887年には同社をセシル・ローズの鉱山会社デ・ビアスに合流させ、セシル・ローズの嘆願に応じてデ・ビアスに100万ポンドの投資を行った。以降ロスチャイルド家はダイヤモンド産業にも深く関わるようになった。セシル・ローズは「エジプトからケープ植民地までアフリカ大陸を縦断するイギリス植民地帝国を建設する。」という壮大な野望を持つ夢想的帝国主義者であったため、西暦1890年にケープ植民地首相になるや、「デ・ビアスの資産を帝国主義的拡張のために使用したい。」という要望を出資者のナサニエル・メイヤーにしてくるようになったが、現実主義者のナサニエル・メイヤーの反応は冷ややかで「我々はデ・ビアスをダイヤモンド会社に過ぎないと考えている。」と断っていた。

 慈善事業にも取り組み、ロンドンの4つの病院の支援者となり、英国赤十字社の会長も務めた。ユダヤ人同胞に対する慈善事業にはとりわけ力を入れ、ユダヤ人自由学校の運営に巨額の資金を掛けた。迫害を受ける同胞の保護にもあたり、ユダヤ人迫害を推進するロシア帝国に対しては強い憤りを感じていた。ロシア政府が融資を求めにきた際にも門前払いにした。西暦1904年の日露戦争(西暦1904〜1905年)では、ニューヨークのユダヤ人銀行家ジェイコブ・ヘンリー・シフ(英語: Jacob Henry Schiff、ヤコブ・ヘンリー・シフ、独語名: ヤーコプ・ヒルシュ・シフ (Jacob Hirsch Schiff))から「日本の勝利がユダヤ人同胞を迫害するツァーリ体制打倒のきっかけとなる。」との誘いを受けて日本を財政的に支援した。とはいえ日本に関心があったわけではなく、親日家の次男チャールズがN・M・ロスチャイルド&サンズの支店を日本に作ることを提案してきた際にはにべもなく却下している。
 ヤーコプ家は、代々ラビの家系で、西暦1370年からフランクフルトのゲットーで、初代マイアー・アムシェル・ロスチャイルド時代に「グリューネシルト(緑の盾)の家(Haus zum Grünen Schild)」と呼ばれる建物にロスチャイルド家と共に住んでいた。
 祖父の代からの付き合いで南米諸国と親しくしていた。ブラジル連邦共和国(西暦1822年〜)政府の国債や西暦19世紀後半に独立したチリの国債をしばしば引き受けている。チリ共和国(西暦1818年〜)の国債は人気があったので、チリ政府は相手銀行を選べる立場にあったが、ロスチャイルド家とは条件に関係なく優先的に付き合っている。
 ナサニエル・メイヤーの長男ライオネル・ウォルターはテオドール・ヘルツル(ヘブライ語: בנימין זאב הרצל‎(Binyamin Ze'ev Herzl、ビニャミン・ゼエヴ・ヘルツェル)、ハンガリー語: Herzl Tivadar、独語: Theodor Herzl)のシオニズム思想に影響を受けていたが、ナサニエル・メイヤー自身はヘルツルとの会談には応じたものの、シオニズム思想には何らの共感も示さなかった。がっかりしたテオドール・ヘルツルは日記上で「この馬鹿者集団と交渉するのはどんな野郎だろう。」と自嘲した。のみならずナサニエル・メイヤーは、「シオニズム思想が猶太教徒イギリス国民の国民としての立場を危うくする。」と危惧し、イギリス王国のユダヤ人たちに号令を掛け反シオニズム組織を結成させた。西暦1889〜1915年までバッキンガムシャー総督を務めた。
 西暦1915年03月31日に死去したが、ちょうど第1次世界大戦中の税制改正が行われた時期であり、莫大な相続税が掛かった。当時のロスチャイルド家の銀行は個人所有の形態になっていたためである。ナサニエル・メイヤー自身も大戦中に死ぬことを恐れ、「私は生き続けなければならん。もし死んだら私の仕事のうちで最大の失敗をしたことになるだろう。」と漏らしていた。さらにこの直後に弟のレオポルド(西暦1917年死去)やアルフレッド(西暦1918年死去)も相次いで死去したため、さらに莫大な相続税が掛かり、ロスチャイルド家は衰退を余儀なくされた 。また遺留分のある妻子がいなかった弟アルフレッドはロスチャイルド家の家訓に反して遺産の大半をロスチャイルド家の男子ではなく、「第5代カーナーヴォン伯ジョージ・エドワード・スタンホープ・モリニュー・ハーバート (英語: George Edward Stanhope Molyneux Herbert, 5th Earl of Carnarvon)の夫人アルミナ・ヴィクトリア・マリア・アレクサンドラ(Almina Victoria Maria Alexandra)(アルフレッドの隠し子とも言われる)に譲る。」という遺書を残したため、それによって大量の資産がロスチャイルド家からカーナーヴォン伯爵家に流出した。
第5代カーナーヴォン伯ジョージ・エドワード・スタンホープ・モリニュー・ハーバートはこの資金で、当時若手の考古学者ハワード・カーター(Howard Carter)と共に新王国時代最初の古代エジプト第18王朝(西暦前1570頃〜前1293年頃)のファラオトゥタンカーメン(翻字: twt-ꜥnḫ-ı͗mn、英語: Tutankhamun)の墳墓を暴いた。
 ナサニエル・メイヤーの物腰は貴族的であり、しばしば傲岸不遜で嫌味だった(特に天真爛漫な弟レオポルドと比較すると)。世紀が変わったぐらいの頃、慈善活動家ハーマン・ランダウがホームレス収容所建設のために必要な費用2万5000ポンドをナサニエル・メイヤーに援助してもらおうとニューコート事務所を訪問したことがあったが、ナサニエル・メイヤーはその説明を最後まで聞くことなく、3万ポンドをポンと出した。しかし欲のないハーマン・ランダウは「私の説明を理解しておられません。私は2万5000ポンドだけいるのです。」と答え、5000ポンド減額することを求めた。これを聞いたナサニエル・メイヤーは同席していた弟レオポルド・ライオネルに「レオ、聞いたか。彼は我々に同情してくれるらしいぞ。」と述べた(ナサニエル・メイヤーは同情するのには慣れていたが、同情されるのには慣れていなかった)。祖父と同様に乞食によく金貨を与えていたが、お礼を言われるのが苦手で、金貨を上げるとそそくさとその場を逃げ去ることが多かった。
 しかし格下の階級に対する意地悪はまだ手心を加えている方であり、同階級の人間に対しては彼はもっと意地悪だった。ナサニエル・メイヤーの不興を被ったある侯爵夫人は、彼女の友達が全員ロスチャイルド家の宴会に招かれる中、1人だけ招かれなかったり、あるいは招待された時も彼女の席はグラッドストンとナサニエルの間という表向き主賓扱いされているようで結局誰からも話し掛けられない位置にされた。

 「英国史上、最も不作法な人は、ナサニエル・メイヤー・ロスチャイルドとウィンストン・レナード・スペンサー・チャーチル(英語: Winston Leonard Spencer Churchill, KG, OM, CH, TD, PC, DL, FRS, RA) 。」と言われる。
 西暦1867年にロスチャイルド家の本家であるフランクフルト・ロートシルト家(ナポリ家のマイヤー・カールの次女)のエンマ・ルイーザ・フォン・ロートシルト(Emma Louise von Rothschild)と従伯父・従姪婚し2男1女を儲けた。
エンマ・ルイーザはロンドン家からフランスに移住したナサニエル・ド・ロスチャイルドの長男ネイサン・ジェームズ・エドゥアール・ド・ロスチャイルドの花嫁になる予定だったが、最終的にエンマ・ルイーザの妹ローラ・テレーズが彼と結婚した。
   第1子(長男)第2代ロスチャイルド男爵ライオネル・ウォルター・ロスチャイルド(英語: Lionel Walter Rothschild, 2nd Baron Rothschild, FRS)。
 ロンドン・ロスチャイルド家の嫡流であるが、銀行業には関心を持たず、動物学研究に傾倒した。子供の頃から動物好きだった。子供の頃には蛾や蝶の蒐集をしていた。西暦1889年には大学の研究室を去って曾祖父ネイサン・メイアー・ロスチャイルドによって設立された投資銀行N・M・ロスチャイルド&サンズで働くようになった。しかしさして重要な役職には就かず、動物学研究を続ける時間的余裕をわざと作った。また銀行業の仕事に際しても大英帝国(西暦1585〜1947年)各地に散らばる支店を活用して動物に関する情報を蒐集した。
 西暦1892年にはロスチャイルド家所有の土地トリング・パークに動物園と動物学博物館を設立し、博物館には多くの動物の剥製や昆虫の標本が集められた。また動物園には世界各地から動物を購入して集め、研究員たちとともにその生態を研究し、動物学の本を次々と刊行した。彼によって新発見された動物も少なくなく、それらの動物にはロスチャイルド・キリンなどロスチャイルドの名(ジラファ・カメロパルダリス・ロスチルディ Giraffa camelopardaris rothschildi)が冠された。

 西暦1899年にバッキンガムシャー・アリスバーリー選挙区から自由統一党候補として出馬して庶民院議員に当選した。以降、議会に行くという名目で銀行業の執務を抜け出してロンドン自然史博物館に通った。父ナサニエル・メイヤーから受けている手当は巨額だったが、それをもってしても数万匹の動物は養いきれなかった。彼は絶えず借金し、ついには父ナサニエル・メイヤーに無断で父ナサニエル・メイヤーに保険金を掛けたことで父の逆鱗に触れた子供の頃から動物好きだった。父ナサニエル・メイヤーは銀行業務そっちのけで動物学研究に傾倒する長男ライオネル・ウォルター勘当するか迷っていたが、ここに来てついにライオネル・ウォルターを経営から追放して次男ナサニエル・チャールズに経営を委ねることを決意した。こうしてライオネル・ウォルターは、煩雑な経営から免れて、残りの全生涯を動物学に捧げることができるようになった。銀行の経営を見るようになった弟ナサニエル・チャールズも動物学研究に関心を持っており、兄ライオネル・ウォルターの研究に協力した。ナサニエル・チャールズは特に蚤の研究で知られる。
 第1次世界大戦中の西暦1915年に父ナサニエル・メイヤーが死去し、第2代ロスチャイルド男爵を継承し、貴族院議員となった。「長男であるウォルターが銀行業を継承すべき。」という意見もあったが、相変わらず彼には銀行業をやる意思がなく、銀行業は弟ナサニエル・チャールズが継ぐことになった。しかしナサニエル・チャールズは2年ほどで身体を壊したため、最終的には叔父レオポルド・ライオネルの息子の長男ライオネル・ネイサンと三男アンソニー・グスタフの兄弟に受け継いだ。この兄弟は銀行業の才能があり、経営は再び軌道に乗った。
 西暦1917年にオスマン帝国領パレスチナにイギリス軍が進攻した。英外相初代バルフォア伯爵アーサー・ジェイムズ・バルフォア(英: Arthur James Balfour, 1st Earl of Balfour, KG, OM, PC, DL)に働きかけ、彼からバルフォア宣言を出させるのに貢献した。

「親愛なるロスチャイルド卿
私は、国王陛下の政府を代表して、閣議に提出され合意されたユダヤ人シオニストの切望に対する共感の宣言を以下のとおりお伝えすることを大きな喜びとするものであります。
国王陛下の政府は、パレスチナにおける現在の非ユダヤ人共同体の市民的・宗教的諸権利、ならびにその他すべての国においてユダヤ人が享受している諸権利や政治的地位が損なわれることのないことを明確にしたうえで、パレスチナにユダヤ人の民族的郷土が打ち立てられることを好ましく見なし、この目的の達成を促進するために最善の努力をなすであろう。
この宣言をシオニスト連盟に周知していただければ有難く存じます。
敬具
アーサー・ジェームズ・バルフォア」
 ウォルターはテオドール・ヘルツルの思想に影響を受けていたので、シオニズムに好意を持っていたが、ロンドン・ロスチャイルド家は英国ユダヤ人に反シオニズム組織を創設させるなど完全に反シオニズムの立場だったから、ウォルターは英国ロスチャイルド家の中で異端の人物だったといえる。もっともウォルター自身もシオニズムにさほど熱心だったわけではなく、これを積極的に推進していたのはパリ・ロスチャイルド家のエドモンであった。
 従甥にあたるエドムンド・ド・ロスチャイルドは自伝の中で「ウォルター伯父は変わった人だった。」と述べている。彼によればロスチャイルド一族の子供たちが集まるクリスマスの午餐で、ライオネル・ウォルターの甥であるナサニエル・メイヤー・ヴィクターがよく伯父をからかって「ウォルター伯父さん、アリゲーターとクロコダイルは何が違うのですか?」などと質問するのに対してライオネル・ウォルターは子供たちがクスクスと笑っているのを気にもせず、吃った長い解説を始めるのが常であった。
 生涯未婚で私生児の娘1人しかなかったため、ロスチャイルド男爵位は甥のナサニエル・メイヤー・ヴィクター(弟ナサニエル・チャールズの長男)が継承した。
 マリア・バーバラ・フリーデンソン(Marie Barbara Fredenson)との間に私生児の娘を儲けている。
    第1子(長女)オリガ・アリス・ミュリエル・ロスチャイルド(Olga Alice Muriel Rothschild)。オリガは初めブライス・エヴァンズ・ブレア(Bryce Evans Blair)と結婚していたが、西暦1981年に第4代チャーストン男爵リチャード・フランシス・ロジャー・ヤード・ブラー(Richard Francis Roger Yarde-Buller, 4th Baron Churston VRD)と再婚し、西暦1992年に死去。
   第2子(長女)シャーロット・ルイーザ・エヴェリナ(Charlotte Louisa Adela Evelina)。クライブ・ベーレンツ少佐と結婚。
   第3子(次男)ナサニエル・チャールズ・ロスチャイルド(Nathaniel Charles Rothschild)。
 兄同様動物学研究に造詣が深く、とりわけ蚤の研究で知られる。彼の研究成果は娘のミリアム・ルイザに引き継がれ、全7巻の蚤図鑑として纏められた。しかしナサニエル・チャールズは兄よりも家業である銀行業への責任感が強く、1日の大半はN・M・ロスチャイルド&サンズの銀行業に費やしつつ、週末や休暇を使って動物学研究に尽くしていた。珍しい動物や昆虫、草花の蒐集のために世界各地を旅行し、その一環で西暦1903年には日本を訪れた。彼は日本を非常に気に入り、友人への手紙の中で「日本は天国だよ。親がとやかく言わなければここで暮らしたい。」と書いている。当時彼は未婚だった。また明治後期の日本の急速な経済発展にも注目し、帰国後、「日本にN・M・ロスチャイルド&サンズの支店を置くべき。」と父ナサニエル・メイヤーに進言したが、却下された。N・M・ロスチャイルド&サンズが日本に支店を置くのはそれから85年後の西暦1988年12月。
 西暦1905年にはノーサンプトンシャー州長官に就任。西暦1915年に父ナサニエル・メイヤーが死去した際には銀行業をやる気がない兄ライオネル・ウォルターに代わって銀行を継承したものの、2年ほどで身体を壊し、退任した。銀行は叔父レオポルドの息子であるライオネルとアンソニーの兄弟に受け継がれることになった。この兄弟は銀行業の才能があり、経営は再び軌道に乗った。
 スペイン風邪をこじらせて精神病になり、西暦1923年に自殺した。兄の第2代ロスチャイルド男爵ライオネル・ウォルターには男子がなかったため、長男のナサニエル・メイアー・ヴィクターが第3代ロスチャイルド男爵位を継承した。

 西暦1907年にユダヤ人ハンガリー貴族の娘ロージカ・エードル・フォン・ヴェルトハイムシュタイン(Rózsika Edle von Wertheimstein)と結婚し 彼女との間に以下の1男3女を儲けた。
    第1子(長女)ミリアム・ルイザ(Miriam Louisa Rothschild DBE FRS)。動物学、昆虫学、植物学者および著述家。父ナサニエル・チャールズの蚤研究を引き継いだ。
 ミリアム・ルイザ・ロスチャイルドは、ノーサンプトンシャーのアウンドル近郊のアシュトン・ウォルドで、ユダヤ人銀行家のイギリス王国の銀行家一族であるナサニエル・チャールズ・ロスチャイルドと、オーストリア系ユダヤ人のハンガリー人スポーツ選手、ロージカ・エードル・ロスチャイルド (旧姓: ヴェルトハイムシュタイン)の長女として生まれた。
 彼女の父親ナサニエル・チャールズは約500種の蚤の新種を記述し、伯父のライオネル・ウォルター・ロスチャイルドはトリングに私設の自然史博物館を建設した。彼女は4歳になる頃にはテントウ虫やイモ虫を集め始め、飼い慣らした鶉をベッドに連れ込むようになった。西暦1914年、ミリアム・ルイザの6歳の誕生日の前夜に第1次世界大戦が勃発し、ロンドン・ロスチャイルド家はオーストリア・ハンガリー帝国(西暦1867〜1918年)で休暇を過ごしていた。彼らは西行きの最初の列車で急いで家に帰ったが、支払うことができず、ハンガリー人の乗客からお金を借りなければならなかった。その乗客は「これは私の人生で最も誇らしい瞬間です。ロスチャイルドにお金を貸すように頼まれるとは思ってもみませんでした!」と言った。彼女の父親ナサニエル・チャールズは彼女が15歳のときに自殺し、その後彼女は伯父ライオネル・ウォルターと親しくなった。彼女は17歳になるまで自宅で教育を受けたが、「学校に行きたい。」と言い出した。その後、彼女はチェルシー科学技術大学の夜間クラスで動物学を、ロンドンのベッドフォード大学の昼間クラスで文学を学んだ。
 第2次世界大戦中、ミリアム・ルイザ・ロスチャイルドはアラン・チューリング(Alan Turing)と共にブレッチリー・パークで暗号解読に従事するよう採用され、その功績により英国政府から国防勲章を授与された。さらに、彼女は英国政府に国民社会主義ドイツ労働者党(独語: Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei、公式略称: NSDA、別称: ナチ(Nazi)、ナチ党、ナチス、ナチス党)ドイツ国(西暦1933〜1943年)からの難民としてより多くのドイツ系ユダヤ人を受け入れるよう圧力を掛けた。彼女は49人のユダヤ人の子供たちのために住居を手配し、そのうちの何人かはアシュトン・ウォルドの彼女の家に滞在した。この邸宅は、彼女の将来の夫であるジョージ・レーン(George Lane)大尉を含む傷痍軍人のための病院としても機能した。ハンガリー生まれの英国軍人であるジョージ・レーンは、敵に捕らえられた場合に備えラニイ(Lanyi)から名前を変えていた。ミリアム・ルイザ・ロスチャイルドは菜食主義で、ペットや野生動物と親しくし、動物福祉、学校での子供への無料ミルク、そして「同意した成人同士のプライベートな同性愛行為」の非犯罪化を齎したウォルフェンデン報告書への寄稿による同性愛者の権利など、多くの社会運動を支援した。
 西暦1930年代、ミリアム・ルイザ・ロスチャイルドはプリマスの海洋生物学研究所で軟体動物のヌキュラとその寄生吸虫を研究して名声を博した。また蚤に関する第一人者で、蚤の跳躍機構を解明した最初の人物だった。彼女はまた蚤の生殖周期を研究し、兎の場合これを宿主のホルモン変化と結び付けました。彼女の寄生に関する新しい自然主義者の本(蚤、吸虫、郭公) は大ヒットしました。そのタイトルは、外部寄生虫(蚤など)、内部寄生虫(吸虫など)、その他(郭公の場合「子育て寄生虫」)と説明できる。ミリアム・ルイザは、G. ハリス(G. Harris)教授と共に、タペティウサギやブラシウサギに感染するウイルスである粘液腫症は、これまで考えられていた蚊ではなく蚤によって広がることを突き止めた。ロスチャイルド蚤蒐集物(父のナサニエル・チャールズ・ロスチャイルドが創設)は現在、自然史博物館の蒐集物の一部であり、彼女の蒐集物の6巻型録(G. H. E. ホプキンス(G. H. E. Hopkins)との共同作業で、アーサー・スミス(Arthur Smith)が挿画を描いたもの) は完成までに30年掛かった。蚤やその他の寄生虫に関する研究に加えて、ミリアム・ルイザはチョウ目の昆虫も研究しました。具体的には、化学生態学と擬態に興味があった。擬態とそれが鳥によるチョウ目の捕食に果たす役割について更に詳しく知るために、ミリアム・ルイザはアシュトン・ウォルドの所有地にある温室を改造して、梟やその他の潜在的な捕食動物の鳥小屋として使用した。この研究は、ワレモコウホネなどの昆虫が合成する化合物を特定するための更なる研究や、オオカバマダラの毒性が幼虫の宿主植物であるトウワタに由来することを示すタデウシュ・ライヒシュタイン(Tadeusz Reichstein)との共同研究に繋がった。また、昆虫の色彩における植物由来のカロテノイドの重要性を実証する研究も行われた。ミリアム・ルイザは、カロテノイドを含まない餌を与えられたオオカバマダラの幼虫が、通常の背景と一致せず、オオカバマダラの幼虫の蛹には金色ではなく銀色の糸があることを発見した。ミリアム・ルイザが追求した鱗翅目の研究のもう1つの分野は、蝶による抗生物質の生産だった。この研究は、ミリアム・ルイザが西暦1930年代に炭疽菌が大流行した際に観察したことに触発されたものだったが、本格的に開始されたのは約60年後だった。ミリアム・ルイザ・ロスチャイルドはこの主題に関する原稿を書き、その成果は彼女の死後12年を経てようやく出版された。
 ミリアム・ルイザ・ロスチャイルドは西暦1960年代にオックスフォード遺伝学スクールに在籍し、そこで生態遺伝学者のE. B. フォード(E.B. Ford)と出会った。ミリアム・ルイザは父親ナサニエル・チャールズ・ロスチャイルド(ロスチャイルドの遺産 - 時間と脆弱な自然」)と伯父ライオネル・ウォルター・ロスチャイルド(「親愛なるロスチャイルド卿」)に関する本を執筆した。彼女は昆虫学、動物学、その他の主題に関する約350の論文を執筆した。
 ミリアム・ルイザ・ロスチャイルドは後半生、干し草の牧草地の復元に興味を持つようになった。中世の牧草地を再現するには1000年掛かるというコメントに対して、彼女は「10年で非常によく似たものを作ることができます...私は15年掛かりました。」と述べた。彼女はアシュトン・ウォルドの地所で複数の混合種子を開発し、その中には「農夫の悪夢」と名付けたものも含まれていた。別の混合種子はチャールズ王太子(後のイギリス王国ウィンザー朝(西暦 1917年〜)第5代国王チャールズ3世(Charles III 、チャールズ・フィリップ・アーサー・ジョージ(Charles Philip Arthur George))のハイグローブ地所で使用された。
 西暦1973年、ミリアム・ルイザ・ロスチャイルドはアメリカ芸術科学アカデミーの外国人名誉会員に選出された。オックスフォード大学やケンブリッジ大学を含む8つの大学から名誉博士号を授与され、オックスフォード大学セントヒューズカレッジの名誉評議員でもあった。西暦1984〜1985年にかけてオックスフォード大学でロマネス講義(Romanes Lecture、生物学者ジョージ・ロマネス(George Romanes)が設立した無料公開講座)を行った。ロスチャイルドは西暦1985年に王立協会の会員に選出され、西暦2000年には大英帝国の大英帝国勲章(Dame Commander of the British Empire)の称号を授与された。
 ミリアム・ルイザ・ロスチャイルドは昆虫学における女性の先駆者であり、自然史博物館の初の女性理事、王立昆虫学会の初の女性会長、イギリス王国のボランティア団体「ナショナル・トラスト」の保全委員会の委員を務めた初の女性、8人の会員からなる昆虫学クラブの初の女性会員。西暦1986年にジョン・ゴールウェイ・フォスター人権信託が設立され、西暦2006年に信託の名称がミリアム・ロスチャイルド&ジョン・フォスター人権信託に拡大された。この信託は人権に関する年次講演の資金となっている。また、彼女の名を冠したケンブリッジ大学の保全生物学の寄付教授職も授与された。

 ミリアム・ルイザは、次妹のエリザベス・シャーロット・「リバティ」が精神分裂症(schizophrenia、schizo(分離した)+ phrenia(精神))と診断され入院した後、西暦1962年に彼女を記念して「精神分裂調症研究基金」を設立した。精神分裂症研究基金は、「あらゆる精神疾患、特に統合失調症として知られる疾患のより良い理解、予防、治療、治癒を促進する」ために設立された独立した登録慈善団体。英国の芸術療法(Art Therapy)の先駆者であるエドワード・アダムソン(Edward Adamson)と共同運営者であり共同作業者である教師で作家ジョン・ティムリン(John Timlin)は、アシュトン・ウォルドを定期的に訪れていた。 西暦1983〜1997年にかけて、エドワード・アダムソンの奨励により病院の進歩的な作業場で制作された、ネザーン病院で重度の精神障害を抱える患者よる 6000点の絵画、デッサン、彫刻、陶器からなる影響力のあるアダムソン・コレクションが、アシュトンの中世の納屋に収蔵され、一般公開された。
 西暦2006年03月、ミリアム・ルイザの死後、「ミリアム・ロスチャイルド精神分裂症研究基金」に変更された。
 ハンガリー生まれの英国軍人であるジョージ・レーンと結婚。6人の子供がおり、うち4人は実子で2男2女を儲けた。2人は養子。西暦1957年に離婚。離婚後も2人の関係は良好だった。
     第1子(長女)メアリー・ロジシュカ(Mary Rozsiska)。
     第2子(長男)チャールズ・ダニエル・レーン(Charles Daniel Lane)。分子生物学者。
     第3子(次女)シャーロット・テレサ(Charlotte Teresa)。
     第4子(次女)ヨハンナ・ミリアム(Johanna Miriam)。
    第2子(次女)エリザベス・シャーロット・「リバティ」(Elizabeth Charlotte 'Liberty' de Rothschild)。
 エリザベス・シャーロット・「リバティ」は精神分裂症と診断され、姉のミリアム・ルイザ・ロスチャイルドは精神分裂症研究基金を設立。

 精神分裂病で数々の刑事事件を起こした小泉純一郎は、小泉内閣になってから、日本だけ「精神分裂症(schizophrenia、schizo(分離した)+ phrenia(精神))」という病名を「統合失調症」という曖昧模糊とした名称に圧力を掛けて変更させ、一般人へ誤魔化しで被害の危険性を隠蔽し危険に晒している。
    第3子(長男)第3代ロスチャイルド男爵ナサニエル・メイヤー・ヴィクター・ロスチャイルド(英語: Nathaniel Mayer Victor Rothschild, 3rd Baron Rothschild, GBE, GM, FRS)。ロンドン・ロスチャイルド家嫡流の第5代当主。生物学者でもあり、受胎と精子の研究にあたった。それに関する著作もある。また初版本の蒐集を趣味としており、その多くをケンブリッジ大学に寄贈している。
 マルクス主義者が多く参加していた大学内の秘密結社ケンブリッジの使徒に参加したが、ナサニエル・メイヤー・ヴィクター自身は穏健な左翼思想の持ち主でマルクス主義者ではなかった。しかしソビエト社会主義共和国連邦(西暦1922〜1991年)の間諜であるガイ・フランシス・ド・モンシー・バージェス(Guy Francis de Moncy Burgess)、アンソニー・フレデリック・ブラント(Anthony Frederick Blunt )、ハロルド・エイドリアン・ラッセル・「キム」・フィルビー(Harold Adrian Russell 'Kim' Philby)らと交友関係を持っていた。しばしば「ソ連の間諜」という疑惑を受け、西暦1986年12月にはマーガレット・ヒルダ・サッチャー(Margaret Hilda Thatcher、旧姓: ロバーツ(Roberts))首相にその噂を否定する声明を出してもらった。西暦1937年に伯父の2代ロスチャイルド男爵ライオネル・ウォルター・ロスチャイルドが男子なく死去したため、第3代ロスチャイルド男爵位を継承し、労働党の貴族院議員となった。
 ナチス・ドイツ(独語: Nazi-Deutschland、NS-Deutschland、英語: Nazi Germany)国によるユダヤ人迫害に憤慨し、強制収容所から逃れてきたユダヤ人から聞いた体験談を演説で盛んに訴えたが、世間からはほとんど信じてもらえなかった。N・M・ロスチャイルド&サンズの経営を見ていた分家の従叔父たち(ライオネル・ネイサン・ド・ロスチャイルド(Lionel Nathan de Rothschild)とアンソニー・グスタフ・ド・ロスチャイルド(Anthony Gustav de Rothschild))と共に「ドイツユダヤ人のための英国中央基金」や「ドイツユダヤ人のための委員会」といった募金機関を立ち上げ、ドイツユダヤ人の亡命と亡命後の生活の支援をした。ナサニエル・メイヤー・ヴィクターは一族の中でも特に熱心にユダヤ人救済活動に取り組んでいたと。西暦1938年にはローマ法王ピウス11世(Pius XI、アキッレ・ラッティ(Achille Ratti))にラテン語で手紙を認め、国民社会主義ドイツ労働者党(ナチス)ドイツ国に対する抗議声明を出すことを嘆願した。
 第2次世界大戦中にはイギリス陸軍に入隊し、若くして中佐階級まで昇進した。MI5のB1C部(爆発物とサボタージュ対策部)部長としてドイツ軍が仕掛けてくるサボタージュ煽動への対策や爆発物の解体に当たっていた。その戦功でグレートブリテン及び北アイルランド連合王国(イギリス王国)(西暦1927年〜)ならびに海外自治領国王兼英領インド帝国(西暦1876〜1947年)皇帝ジョージ6世(George VI、全名:アルバート・フレデリック・アーサー・ジョージ(Albert Frederick Arthur George)よりジョージ勲章を、またアメリカ軍からもブロンズ・スター勲章を授与された。首相ウィンストン・チャーチルの護衛隊員にも選出された。
 第2次世界大戦中からイギリス王国の対外諜報機関と連携することが多かったため、その人脈を生かして戦後には私的諜報機関を作り、中東戦争や支那共内戦の情勢を調査したり、イスラエル国(西暦1948年〜)の諜報機関モサドの育成に当たった。
 戦中から戦後にかけて英国ロスチャイルド家の金融業の近代化が推し進められ、持株会社ロスチャイルド・コンティニュエーション・ホールディングス(Rothschild Continuation holdings)が設置され、西暦1947年にはその子会社としてN・M・ロスチャイルド&サンズが法人化され、株式会社となった。ロスチャイルド家の嫡流でありながらヴィクターは諜報活動や政治家の仕事の方を好み、銀行業をやりたがらなかった。そのためN・M・ロスチャイルド&サンズの株式は分家のアンソニー・グスタフ・ド・ロスチャイルドが60%を取得し、ヴィクターの所有は20%という配分がなされた。これにより実質的経営権はアンソニー・グスタフが握るようになった。
 西暦1970年に保守党政権のエドワード・リチャード・ジョージ・ヒース(Edward Richard George Heath, KG, MBE, PC)内閣が成立。ヒースは翌西暦1971年にも首相直属で政策を提言する委員会を設置したが、その委員長にナサニエル・メイヤー・ヴィクターが任じられた。以降3年に渡ってヒース内閣に様々な政策提言を行った。政府と科学技術の産業との橋渡しを初めとして、人種問題や核問題などイギリス王国の様々な社会問題にも切り込んだ。
 西暦1974年に政権交代があり、西暦1975年には首相直属委員会の委員長を辞した。この後、N・M・ロスチャイルド&サンズ内で長男ナサニエル・チャールズ・ジェイコブ・ロスチャイルドとアンソニー・グスタフの長男で筆頭株主のエヴェリン・ロバート・エイドリアン・ド・ロスチャイルドの対立が深まり、2人の対立を仲裁する意味でナサニエル・メイヤー・ヴィクターがN・M・ロスチャイルド&サンズ頭取に就任した。生物工学の投資会社の創設に当たった。しかしジェイコブとエヴェリンの対立を抑えられぬまま、エヴェリン・ロバート・エイドリアンに頭取職を譲って退任した。その後は持株会社ロスチャイルド・コンティニュエーション・ホールディングス会長に就任。

 西暦1933年12月28日にジョージ・ハッチンソンの娘バーバラ・ジュディス・ハッチンソン(Barbara Judith Hutchinson)と最初の結婚。バーバラ・ジュディス・ハッチンソンは、結婚して耶蘇教から猶太教に改宗し、1男2女を儲けた。
     第1子(長女)サラ・ロスチャイルド(Sarah Rothschild)。ジェームス・ダグラス・ヘンリーと結婚。
     第2子(長男)第4代ロスチャイルド男爵ナサニエル・チャールズ・ジェイコブ・ロスチャイルド(英語: Nathaniel Charles Jacob Rothschild, 4th Baron Rothschild, OM, GBE, FBA)。ロンドン・ロスチャイルド家の6代目当主。
 ロンドン・ロスチャイルド家嫡流だが、分家のエヴェリン・ロバート・エイドリアンが経営権を握るN・M・ロスチャイルド&サンズから独立し、RITキャピタル・パートナーズを創設して独自の金融業を行っている。西暦1990年に第4代ロスチャイルド男爵の爵位を継承し、西暦1999年まで貴族院議員を務めた。
 イートン・カレッジを経てオックスフォード大学クライスト・チャーチを卒業。これまでロスチャイルド家はハーロー校を経てケンブリッジ大学へ進学するのが伝統だったので異例。
 ニューヨークのモルガン・スタンレーに勤務して財務を学んだ後、西暦1963年から銀行N・M・ロスチャイルド& サンズに共同経営者として勤務した。西暦1971年にはライフガーズ近衛騎兵連隊に少尉として入隊。また西暦1971〜1996年にはセント・ジェームズ・プレイスの社長も務めた。
 ジェイコブはN・M・ロスチャイルド&サンズ内では投資部門「RIT(ロスチャイルド投資信託)」を主導した。ナサニエル・チャールズ・ジェイコブは危険を恐れない積極的なM&Aを好んだ。彼の主導でN・M・ロスチャイルド&サンズには外部からの資金が大量に流れ込むようになり、それを元手に積極的な企業買収が行われた。その買収の1つがグランド・メトロポリタンだった。当時イギリス史上最大のお金が動いたと言われている。ナサニエル・チャールズ・ジェイコブの企業買収でN・M・ロスチャイルド&サンズの業績は急速に伸びた。しかしN・M・ロスチャイルド&サンズの経営権は株式の60%を持つ分家のエヴェリン・ロバート・エイドリアンが握っており、ジェイコブの父である第3代ロスチャイルド男爵ヴィクターは20%の株しか持っていなかったから、やがてナサニエル・チャールズ・ジェイコブの大胆なM&A路線は堅実経営を好むエヴェリン・ロバート・エイドリアンから「独断が過ぎる、」と批判されるようになり、N・M・ロスチャイルド&サンズの内部対立は深刻化した。この争いを仲裁するために西暦1975年に父ロスチャイルド男爵ナサニエル・メイヤー・ヴィクターが頭取に就任した。しかし結局父は筆頭株主エヴェリンを支持したので、ナサニエル・チャールズ・ジェイコブは西暦1980年にRITを率いてN・M・ロスチャイルド&サンズを飛び出した。エヴェリン・ロバート・エイドリアンからは5本の矢を商標として使用するのを止めるよう求められたが、5本の矢は商標登録されていなかったので、ナサニエル・チャールズ・ジェイコブはその要請を拒否し、N・M・ロスチャイルド&サンズの「下を向く5本の矢」に対する当て付けで「上を向く5本の矢」を商標にした。
 この後、N・M・ロスチャイルド&サンズはエヴェリン・ロバート・エイドリアンの方針のもと、堅実経営に戻り、対するRITはジナサニエル・チャールズ・ェイコブの方針のもと積極的な投資・企業買収を推進するという対照的な道へ進んでいくことになった。RITはオークション会社サザビーズや投資信託銀行ノーザンなどに投資しつつ、事務機器、リース業、保険関連会社などの買収を進めて事業を拡大していった。西暦1983年にはニューヨーク・マーチャント銀行の株50%を買い、さらにチャーターハウス銀行と合併し「チャーターハウス・J・ロスチャイルド銀行」を創設した。独立から4年にして資本金を4倍にした恰好であり、シティでも有数の銀行として注目されるようになった。しかしこの直後から、これまで買収した企業の株を次々と売却し、現金化して貯め込むようになった。ちょうど西暦1987年にアメリカ合衆国のウォール街が暴落し、西暦1990年からはイギリス王国でもサッチャー政権の金融緩和によって発生していたバブルが弾けた。これは見事な時期での撤退となった。ロンドン・ロスチャイルド家の祖ネイサン・メイアーは「早過ぎると思うほど早く売ってしまうことだ。」という遺訓を残した。
 西暦1985年にRITはダイアナ妃(ウェールズ公妃ダイアナ(Diana, Princess of Wales)、全名: ダイアナ・フランセス(Diana Frances)、旧姓: スペンサー(Spencer))の父である第8代スペンサー伯爵エドワード・ジョン・スペンサー(英語: Edward John Spencer, 8th Earl Spencer, MVO)」からスペンサー・ハウス(イギリス王国ロンドン市セント・ジェームズ地区セント・ジェームズ・プレイス通り27番)を96年契約で賃借し、2000万ポンドの巨費を投じてその内装を西暦18世紀の状態に復元した。この修復作業はダイアナ妃からも高く評価された。
 西暦1990年に父ナサニエル・メイヤー・ヴィクターが死去し、第4代ロスチャイルド男爵位を継承と同時に貴族院議員に列し、貴族院改革のあった西暦1999年11月11日まで在職した。しかし政党には所属せず、中立派の議員として行動していた。

 トニー・ブレア(英語: Tony Blair、本名: アントニー・チャールズ・リントン・ブレア(Sir Anthony Charles Lynton Blair KG))政権による貴族院改革により、西暦1999年11月11日に世襲貴族の議席は92議席を残して削除され、ロスチャイルド卿を含む大半の世襲貴族が議席を失った。以降の貴族院は、爵位を世襲できない1代貴族が議員の大半を占めている。
 資金がだぶついていたナサニエル・チャールズ・ジェイコブは、西暦1993年から投資管理会社RITキャピタル・パートナーズと投資、会社セント・ジェイムズ・プレイス・キャピタルを創設して、投資事業を再開した。さらにアメリカ合衆国にもロスチャイルド・ウォルフェンソン投資会社を創設した。ソビエト連邦が崩壊して市場が自由化したロシア連邦(西暦1991年〜)にも関心を持ち、西暦1992年にはロシア・アメリカ投資会社の創設に協力した。西暦1994年からは投資会社ロスチャイルド・アセット・マネジメントを創設して生物工学産業に投資を開始した。西暦2002年、メリット勲章の叙勲を受けた。西暦2003〜2008年まで英国スカイ放送(British Sky Broadcasting、BSkyB)の副社長を務めた。同じく西暦2008年までRHJインターナショナルの取締役を務めた。西暦2010年11月には、ジェニー・エナジーの株5%分を1000万ドルで購入した。同社は西暦2013年にゴラン高原南部に石油採掘権を獲得した。太平洋にもJ・ロスチャイルド投資経営という会社を持っている。役員の顔ぶれはギルバート・デ・ボットン(Gilbert de Botton)、ジョン・ホドソン(John Hodson)、ピーター・ハワード(Peter Howard)、ピーター・オッペンハイマー(Peter Oppenheimer,)、デヴィッド・ウッド、リチャード・ウィルキンス(David Wood, Richard Wilkins)、ニルス・タウベ(Nils Taube)、エヴァ・シュロス(Eva Schloss)の夫ズヴィ・シュロス(Zvi Schloss)、ニコラス・ロディティ(Nicholas Roditi)、デヴィッド・モンタギュー(David Montagu)など錚々たるものである。コーンウォール公領の統治を行う公爵諮問会議の議員も務めた。
 芸術家の保護に熱心であり、年間50万ポンドの寄付を行った。ナショナル・ギャラリーの理事長や国家遺産記念財団の会長、アシュモレアン博物館の外部委員会の委員、コートールド美術研究所の理事及び名誉フェローなどを歴任している。国外でも活躍し、ロシア連邦のエルミタージュ美術館の理事、アメリカ合衆国のプリツカー賞の会長などを歴任した。西暦1995年にはニューヨークのワールド・モニュメント財団よりハドリアヌス賞(Hadrian Award)を受けた。
 イスラエル国では、クネセト(国会)や最高裁判所の建物を寄贈した財団「ヤド・ハナディヴ」の議長を務めた。ユダヤ人政策研究所の名誉会長も務めた。この他、叔母であるドロシー・ド・ロスチャイルドが存命時代に設立した通信制大学「イスラエル・オープン大学」の総長代理として大学運営に当たった。
 西暦2024年02月26日にナサニエル・チャールズ・ジェイコブが死ぬと、長男のナサニエル・フィリップ・ヴィクター・ジェームズ・ロスチャイルド(Nathaniel Philip Victor James Rothschild)が第5代ロスチャイルド男爵位を継承した。
 西暦1961年に、カナダ(西暦1931年〜)の投資家の第2代ドン準男爵フィリップ・ゴードン(Philip Gordon Dunn, 2nd Baronet)とセレナ・メアリー・ドン(Serena Mary Dunn)と結婚し1男3女を儲けた。フィリップ・ゴードンの父はカナダの金融家で大富豪の初代ドン準男爵ジェームズ・ハメット(James Hamet Dunn, 1st Baronet)で、セレナ・メアリー・ドンの母は、スコットランドの軍人、第5代ロスリン伯ジェームズ・フランシス・ハリー・セントクレア・アースキン(James Francis Harry St. Clair-Erskine, 5th Earl of Rosslyn)の娘のメアリー・シビル・セントクレア・アースキン(Mary Sybil St. Clair-ErskineSt Clair-Erskine)。
      第1子(長女)ハンナ・メアリー(Dame Hannah Mary Rothschild DBE)。ドキュメンタリー映画製作者。ウィリアム・ブロックフィールド(William Brookfield)と結婚し3子を儲け、離婚。
      第2子(次女)ベス・マチルダ(Beth Matilda Rothschild)。アントニオ・トマシニー(Antonio Tomassini)と結婚。
      第3子(三女)エミリー・マグダ(Emily Magda Rothschild)。ユリアン・フリーマン・アトウッド(Julian Freeman-Attwood)と結婚。
      第4子(長男)第5代ロスチャイルド男爵ナサニエル・フィリップ・ヴィクター・ジェームズ・ロスチャイルド(Nathaniel Philip Victor James Rothschild, 5th Baron Rothschild)。ロンドン・ロスチャイルド家嫡流の第7代当主。
 ナサニエル・フィリップ・ビクター・ジェームズ・ロスチャイルドは、スイス連邦に定住したイギリス王国生まれの金融家。彼は、英国上場メーカーであるヴォレックス株式会社(Volex plc)の会長。幅広い国際事業に携わっている。ナサニエル・フィリップ・ビクター・ジェームズは、ウィンザー朝(西暦1917〜)イギリス王国(グレートブリテン及び北アイルランド連合王国(西暦1927年〜))、モンテネグロ(西暦2006年〜)、カナダの3重国籍。
 ナサニエル・フィリップ・ビクター・ジェームズは、第4代ロスチャイルド男爵ナサニエル・チャールズ・ジェイコブ・ロスチャイルドとその妻セレナ・メアリー(Serena Mary、旧姓 ドン(Dunn))の4人姉弟の末っ子で唯一の男子。母セレナ・メアリーは耶蘇教徒で、父は猶太教徒だった。ロスチャイルド家の父方の祖父第3代ロスチャイルド男爵ナサニエル・メイヤー・ヴィクターは猶太教徒の家庭に生まれ、祖父の前妻の祖母バーバラ・ジュディス・ハッチンソンは結婚して猶太教に改宗した。母方の祖父母は、スコットランドの軍人、第5代ロスリン伯ジェームズ・フランシス・ハリー・セントクレア・アースキンの娘、メアリー・シビル・セントクレア・アースキンとカナダの金融家で大富豪の初代ドン準男爵ジェームズ・ハメットの息子、第2代ドン準男爵フィリップ・ゴードン・ジェームズ。
 ナサニエル・フィリップ・ヴィクター・ジェームズは、オックスフォード大学ウォダム・カレッジで教育を受け歴史を学び2位。ナサニエル・フィリップ・ヴィクター・ジェームズは元財務大臣ジョージ・ギデオン・オリバー・オズボーン(英語: George Gideon Oliver Osborne)と同時期に、学部生としてブリンドン・クラブに入っていた。彼は西暦2013年にロンドン大学キングスカレッジ精神医学研究所で依存症研究で修士号を取得した。西暦2018年にはオックスフォード大学ウォダムカレッジの創設研究員に選出された。
 大学卒業後、ナサニエル・フィリップ・ヴィクター・ジェームズは投資信託会社のラザーズ(Lazard's)に入社し、その後企業財務会社グリーチャー(Gleacher)に勤務した。西暦2000年には様々な役職に就き、NRアティカス(NR Atticus)、アティカス・マネジメント(Atticus Management)、ヘッジファンドのアティカス・キャピタル(Atticus Capital)の50%の株式を保有している。アティカス・キャピタルは西暦2000年に3億1200万ポンド近くの資金を管理していた。ナサニエル・フィリップ・ヴィクター・ジェームズは、衣料品ブランドクーカイ(Kookai)の所有者でもあるヨーロッパ全域の小売業者ヴィヴァルテ(Vivarte)の元会長。フランス共和国で最初の敵対的買収と広く見做されていた株式の32.9%をNRアティカスが取得した後に西暦2000年に任命され、同グループの再編を成功に導き、その後西暦2004年にフランス共和国の個人資産会社PAIパートナーズ(PAI Partners)に売却した。西暦2000年03月に父の第4代ロスチャイルド男爵ナサニエル・チャールズ・ジェイコブが創業したRITキャピタル・パートナーズ(RIT Capital Partners plc、旧名: Rothschild Investment Trust)の代理取締役に就任し、西暦2004年にはRITの取締役を退任するまで非執行取締役を務めた。現在もRITの実質的直接株主であり、RITの株式を主要資産とするロスチャイルド財閥の持株会社ファイブ・アローズLtd.(Five Arrows Limited)の35%の実質株主である。
 ナサニエル・フィリップ・ヴィクター・ジェームズは、ハーバード大学ジョン・F・ケネディ行政大学院ベルファーセンターの国際評議会およびブルッキングス研究所の国際諮問委員会の元会員だった。彼はまた、西暦2013年までバリック・ゴールド・コーポレーションの国際諮問委員会の会員でもあった。西暦2000年、オブザーバー紙は、ナサニエル・フィリップ・ヴィクター・ジェームズ・ロスチャイルドが当時申告した5億ポンドの遺産に加え、実際の遺産は「スイス連邦の一連の信託に隠されており、400億ポンドの価値があると噂されている。」と書いた。
 ナサニエル・フィリップ・ヴィクター・ジェームズの主な投資会社である NRインヴェスティメンツLtd. を通じて、西暦2010年01月のロシア連邦の世界的なアルミニウム製造企業ルサール(露語: РУСАЛ)ことロシア・アルミニウム(露語: Русский алюминий、United Company RUSAL)の新規株式公開の主要投資家だった。同時に、彼は新規上場(IPO)時に株式に転換可能な4000万ドルのグレンコア社債(Glencore bonds)を購入した。NRインヴェスティメンツは、マンチェスターに拠点を置く電気ケーブル 製造企業であるヴォレックス(Volex)の最大株主西暦2009年時点で26.5%) でもある。さらに、ナサニエル・フィリップ・ヴィクター・ジェームズは東ヨーロッパ(モンテネグロ、ルーマニア(西暦1877〜)、ウクライナ(西暦1991〜)) の様々な不動産開発に関心を持っている。
 西暦2010年07月、ナサニエル・フィリップ・ヴィクター・ジェームズが設立したジャージー島法人の投資会社ヴァラー社(Vallar plc)は、ロンドン証券取引所での新規株式公開で7億0720万ポンドを調達した。ヴァラー社は、ナサニエル・フィリップ・ヴィクター・ジェームズと、アングロ・アメリカン社(Anglo American plc)の元石炭および基幹金属部門の責任者であるジェームズ・キャンベル(James Campbell)が率いている。西暦2010年11月、ヴァラー社は、「現金とヴァラー社の新株を組み合わせて、インドネシア共和国(西暦1945年〜)の上場燃料炭(発電所用)生産者2社の株式を30億ドルで購入する。」と発表した。この2社を統合して、支那人民共和国(西暦1949年〜)、インド共和国(西暦1947年〜)、その他のアジアの新興経済国に火力発電用石炭を最大規模で輸出する企業を創設することを目的とした。取引は予定通り西暦2011年04月08日に完了し、同月にヴァラー社はブーミ社(Bumi plc、Bumi はマレー語で「大地」の意)に改名された。この取引は、バクリー(Bakrie)家(43%)とロサン・ルースラニ(Rosan Roeslani)(25%)との合弁事業で行われた。西暦2012年09月、インドネシア支社の不正財務疑惑の調査により、株価は14%下落した。そして、大幅に遅れた西暦2012年度決算では、2億ドルの黒字が示された。西暦2013年には、「ブーミ社の元取締役であるロサン・ルースラニが1億7,300万ドルを横領した。」とも報じられた。西暦2013年12月、同社は社名をアジア・資源金属(Asia Resource Minerals)に変更した。西暦2015年06月、共同投資家との一連の論争の後、ナサニエル・フィリップ・ヴィクター・ジェームズ・ロスチャイルドは同社への投資を断念し、17.2%の株式を石炭エナジー・ベンチャーズ(Coal Energy Ventures)に売却した。
西暦2011年06月、ナサニエル・フィリップ・ヴィクター・ジェームズとBP(英語: BP plc、旧英国石油(英語: The British Petroleum Company plc)の元最高経営責任者トニー・ヘイワード(Tony Hayward)は、ロンドン証券取引所にヴァラー社の後継企業であるヴァラレス(Vallares)社を上場し、22億ドルを調達した。基本的に、これは金属と鉱業に重点を置いた最初の企業とあらゆる点で同一であったが、新しい企業が石油とガスの資産を取得する点が異なっていた。西暦2011年09月、ヴァラレスはトルコ共和国(西暦1923年〜)のエネルギー大手ジェネル・エナジー(Genel Energy)との50:50の全株式合併を発表し、その価値は42億USドルであった。

 西暦2011年のキングジョージ6世・クイーンエリザベスステークスで優勝した競走馬ナサニエルは、ナサニエル・フィリップ・ヴィクター・ジェームズ・ロスチャイルドの母親セレナ・メアリー・ロスチャイルドが飼育・所有していた馬で、彼の名が付けられた。
 西暦2008年10月、労働党の政治家マンデルソン男爵ピーター・ベンジャミン・マンデルソン(英語: Peter Benjamin Mandelson, Baron Mandelson)とロシア連邦のアルミニウム王オレグ・ウラージミロヴィッチ・デリパスカ(露語: Оле́г Влади́мирович Дерипа́ска、Oleg Vladimirovich Deripaska)(RUSAL社)が、ナサニエル・フィリップ・ヴィクター・ジェームズ・ロスチャイルドが主催するパーティーに出席するため、コルフ島近くに停泊したヨットに滞在していた時に会ったことが明らかになり、ナサニエル・フィリップ・ヴィクター・ジェームズ・はマスコミの憶測の対象となった。これが「ピーター・ベンジャミン・マンデルソンにとって利益相反になるかも知れない。」との憶測が流れた後、ナサニエル・フィリップ・ヴィクター・ジェームズはタイムズ紙に手紙を書き、「もう1人の客は保守党の影の財務大臣ジョージ・ギデオン・オリバー・オズボーンであり、」ナサニエル・フィリップ・ヴィクター・ジェームズによると、「ジョージ・ギデオン・オリバー・オズボーンはロシア人から自分の宴会のために違法に寄付を募ろうとした。」と主張した。
 ナサニエル・フィリップ・ヴィクター・ジェームズ・ロスチャイルドは、元大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国(西暦1969〜2011年)指導者ムアンマル・アル・カッザーフィー(アラビア語: معمر أبو منيار القذافي‎, muʿammar ʾabū minyār al-qaḏḏāfī)の次男、サイフ・アル・イスラム・ムアンマル・アル・カッザーフィー ( アラビア語: سيف الإسلام معمر القذافي‎ , 英語: Saif al-Islam Muammar Gaddafi)と関係がある。
 西暦2012年02月、ナサニエル・フィリップ・ヴィクター・ジェームズ・ロスチャイルドは、マンデルソンとの海外旅行に関する報道で「操り人形師」であると非難されたデイリーメールとの名誉毀損訴訟で敗訴した。
 西暦1994年、ロスチャイルドは社交界の名士でモデルのアナベル・ニールソン(Annabelle Neilson)と結婚。 2人は西暦1997年に離婚。彼女は西暦2018年07月に亡くなった。
 西暦2016年08月、スイス連邦でロスチャイルドは、英国のタブロイド紙「ザ・サン」の3面を飾った元モデルのロレッタ・バシー(Loretta Basey)と再婚。彼はニューヨークにしばらく住んでいたが、西暦2000年にスイス連邦に定住し、スイス連邦のビジネス誌「ビランツ」によると、現在はグラウビュンデン州クロスタース在住。西暦2015年、ニューヨークのウェストビレッジにある4階建てのタウンハウスが1750万ドルで売りに出された。
 
 第3代ロスチャイルド男爵ナサニエル・メイヤー・ヴィクターと前妻バーバラ・ジュディス・ハッチンソンとの最初の結婚の末子。
     第3子(次女)ミランダ(Miranda Rothschild)。ブジェマー・ブーマザ、後イアン・トマス・ワトソンと結婚。
 第3代ロスチャイルド男爵ナサニエル・メイヤー・ヴィクターは西暦1946年にテレサ・ジョージナ・メイヨー(Teresa Georgina Mayor)と再婚し、2男2女を儲けた。
     第4子(三女)エマ・ジョージナ(Emma Georgina Rothschild CMG)。イギリス王国の経済史家であり、ハーバード大学の歴史学教授。ハーバード大学の歴史と経済の共同センターの所長であり、ケンブリッジ大学の歴史と経済の名誉教授。以前は連合国財団の理事を務め、パリの社会科学高等研究院 (EHESS) の教授を務めた。ロスチャイルド家の歴史を研究するロンドンの国際センターであるロスチャイルド・アーカイブの理事。
 エマ・ジョージナ・ロスチャイルドは、イギリス王国のロンドンで、ヴィクター・ロスチャイルドと2番目の妻テレサ・ジョージナ・ロスチャイルド(Teresa Georgina Rothschild、旧姓: メイヨー(Mayor))の娘として生まれた。父方の祖先はロスチャイルド家。母方の祖父ロバート・ジョン・グロート・メイヨー(Robert John Grote Mayor)は、イギリスの小説家F・M・メイヨー(F. M. Mayor)の兄弟でり、哲学者で牧師のジョン・グロート(John Grote)の甥に当たる。母方の祖母キャサリン・ベアトリス・マイナーツハーゲン(Katherine Beatrice Meinertzhagen)は、イギリス人とドイツ人の血を引いており、軍人リチャード・マイナーツハーゲン(Richard Meinertzhagen)の姉妹であり、作家ベアトリス・ウェッブ(Beatrice Webb)の姪。
 エマ・ジョージナ・ロスチャイルドは15歳でオックスフォード大学サマービル・カレッジに入学した最年少の女性となり、西暦1967年に哲学、政治学、経済学の学士号を取得して同大学を卒業。彼女はマサチューセッツ工科大学(MIT)の経済学のケネディ奨学生になった。
 彼女はMITの人文科学部と科学、技術、社会問題の准教授となり、フランス共和国のパリにある社会科学高等研究院でも教鞭をとっていました。その後、ケンブリッジ大学キングス・カレッジの研究員となり、現在もケンブリッジ大学歴史学部の歴史学および経済学の名誉教授を務めている。
 彼女は西暦2002年にアメリカ哲学協会に選出された。ケンブリッジ大学マグダレン・カレッジの研究員で。オックスフォード大学サマービル校の名誉会員。

 西暦1991年、インド共和国の経済学者でノーベル賞受賞者の再々婚のアマルティア・セン(ベンガル語: অমর্ত্য সেন, ヒンディー語: अमर्त्य सेन, 英語: Amartya Sen)と結婚。3人目の妻。
     第5子(次男)ベンジャミン・メイヤー (Benjamin Mayor Rothschild)。夭折。
     第6子(四女)ヴィクトリア・キャサリン (Victoria Katherine Rothschild)。劇作家シモン・ジェイムセ・ホリディ・グレイ(Simon James Holliday Gray CBE FRSL)と結婚。シモン・ジェイムセ・ホリディ・グレイは西暦1965年に最初の妻ベリル・ケバーン(Beryl Kevern)と結婚し息子ベンジャミンと娘ルーシーの2人の子供を儲けた。西暦1997年に離婚までの8年間の情事の後結婚し、彼が亡くなるまで西ロンドンで一緒に暮らした。
     第7子(三男)アムシェル・メイヨー・ジェームズ・ロスチャイルド(Amschel Mayor James Rothschild)。ロスチャイルド家のロスチャイルド・アセット・マネジメントの会長を務めた。
 アムシェル・メイヨー・ジェームズはパリで、第3代ロスチャイルド男爵ナサニエル・メイヤー・ヴィクターと2番目の妻テレサ・ジョージナ・メイヨーナ・ロスチャイルド(旧姓: メイヨー)の末っ子として生まれた。父方の祖先はロスチャイルド家。母方の祖父ロバート・ジョン・グロート・メイヨー(Robert John Grote Mayor)は、イギリス王国の小説家F・M・メイヨー(Flora Macdonald Mayor)の兄弟であり、哲学者で牧師のジョン・グロート(John Grote)の甥に当たる。彼の母方の祖母であるキャサリン・ベアトリス・マイナーツハーゲン(Katherine Beatrice Meinertzhagen)はイギリス人とドイツ人の血を引いており、軍人リチャード・マイナーツハーゲン(Richard Meinertzhagen)の妹であり、作家ベアトリス・ウェッブ(Beatrice Webb)の姪。
 アムシェル・メイヨー・ジェームズは西暦1976年にロンドンのシティ大学を卒業し、そこで経済学、歴史学、考古学を学んだ。当初の職業はジャーナリズムで、現在は廃刊となった文芸誌「ニュー・レビュー」の発行部数営業を務めた。西暦1987年、アムシェル・メイヨー・ジェームズは家族経営の銀行会社N・M・ロスチャイルド&サンズに入社。西暦1990年までにロスチャイルドの弱い資産の1つであるロスチャイルド・アセット・マネジメントの最高経営責任者に就任。西暦1993年に同会社の会長に就任し、より安定した軌道に乗せる手助けをした。

 彼のお気に入りの娯楽の 1 つは農業で、ベリー セント エドマンズ近郊のラッシュブルックという耕作農場を相続し、そこで多くの時間を仕事に費やした。また、彼は熱心な自動車レース愛好家で。彼の情熱は13歳の時にオフロード・バイクを手に入れたことから始まった。後年、彼は自動車レースに熱中し、西暦1996年にシルバーストーンでピーター・コリンズ記念トロフィーレースで優勝した。彼の自動車には、ACコブラ・デイトナ・スポーツカー、西暦1957年型マセラティ250Fフォーミュラ I、西暦1958年型BRM P25フォーミュラ I があった。彼はサフォークの自宅にスタンペ・エ・ヴェルトンゲン(Stampe et Vertongen)社製複葉機を保管していた。
 アムシェル・メイヨー・ジェームズ・ロスチャイルドと妻アニタ・ペイシェンスは、パリ家ジェームズ・ロスチャイルドの名付け親である海軍大将で政治家初代ラドストック男爵ウィリアム・ウォルドグレイヴ(William Waldegrave, 1st Baron Radstock, GCB)の娘の名付け親でもあった。
 アムシェル・メイヨー・ジェームズ・ロスチャイルドはニューハンプシャー州アルトンに夏の別荘を所有していた。
 アムシェル・メイヨー・ジェームズは、エルサレムの最高裁判所と国会(クネセト)の建設を含むイスラエル国の多くのプロジェクトを支援してきたロスチャイルド財団、ヤド・ハナディブ(Yad Hanadiv)の理事だった。
 西暦1996年07月、アムシェル・メイヨー・ジェームズ・ロスチャイルドはホテル・ル・ブリストル・パリ(Hôtel Le Bristol Paris)で自殺した。検死官は、「彼の死に不審な状況はなかった。」と述べた。彼の妻は、「自殺の原因は未亡人の母親テレサ・ジョージナ・メイヨーの最近の死をきっかけに、鬱病が治らなかったため。」と述べた。
 西暦1981年、彼は商業銀行家ジェームズ・エドワード・アレクサンダー・ランデル・ギネス(James Edward Alexander Rundell Guinness)とポーリン・ヴィヴィアン・マンダー(Pauline Vivien Mander)の娘、アニタ・ペイシェンス・ギネス(Anita Patience Guinness)と結婚し3人のを儲けた。

      第1子(長女)ケイト・エマ(EKate Emma Rothschild)。西暦2003年にベリー・セント・エドマンズのセント・メアリー教会で、大富豪のジェームズ・ゴールドスミス(James Goldsmith)とアナベル・ゴールドスミス(Annabel Goldsmith)の息子、ベン・ゴールドスミス(Ben Goldsmith)と結婚し3人の子供がいる。西暦2012年、ケイト・エマがアメリカ人黒人ラッパーのジェイ・エレクトロニカ(Jay Electronica、本名: Timothy Elpadaro Thedford)と不倫で離婚。
      第2子(次女)アリス・ミランダ(Alice Miranda Rothschild)。イギリス保守党の政治家で、妹ケイト・エマの元夫ベン・ゴールドスミスの兄弟であるザック・ゴールドスミス(Zac Goldsmith)と結婚。
      第3子(長男)ジェームズ・アムシェル・ビクター(James Amschel Victor Rothschild)。西暦2015年にホテル経営者コンラッド・ヒルトン(Conrad Hilton)の曾孫で社交界の名士ニッキー・ヒルトン(Nicky Hilton)と結婚し1男2女をなした。
    第4子(三女)ケーニヒスヴァルター男爵夫人キャスリーン・アニー・パノニカ「ニカ」(旧姓: ロスチャイルド、Baroness Kathleen Annie Pannonica 'Nica' de Koenigswarter)。ケーニヒスヴァルター男爵夫人キャスリーン・アニー・パノニカ・「ニカ」は、イギリス生まれのジャズ支援者であり作家。数多くのジャズ・ミュージシャン達の支援活動により、「ジャズ男爵夫人」の通称で知られた。
 キャスリーン・アニー・パノニカ・ロスチャイルドは、ナサニエル・チャールズ・ロスチャイルドとその妻でハンガリー人のロージカ・エードル・フォン・ヴェルトハイムシュタイン(ビハール州のヴェルトハイムシュタイン男爵アルフレッド(Baron Alfred von Wertheimstein)の娘)の末娘として、ロンドンで生まれた。父方の祖父は初代ロスチャイルド男爵ネイサン・メイヤー・ロスチャイルド。彼女はトリング・パーク・マンションやワデスドン・マナーなどで育った。「パノニカ」(仇名: 「ニカ」)という名前は、東ヨーロッパのパノニア平原に由来している。友人の黒人ジャズピアニスト、セロニアス・モンク(英語: Thelonious Monk)は、「彼女の名前は父親が発見した蝶の一種に因んで付けられた。」と報告しているが、彼女の姪は、名前の由来は珍しい蛾の一種であるユーブレマ・パンノニカ(Eublemma pannonica)であることを発見した。彼女の姉は動物学者で作家のミリアム・ルイザ・ロスチャイルド。
 西暦1935年、彼女は後に自由フランスの英雄となるフランス外交官ケーニヒスヴァルター男爵ジュール(Baron Jules de Koenigswarter)と結婚した。西暦1937年、夫妻はシャトー・ダボンダンを購入し引っ越した。これは、アメリカ人銀行家ヘンリー・ハーマン・ハージェス(Henry Herman Harjes)(西暦1920年にヴァロンブローザ公爵夫人(Duchesse de Vallombrosa)からこの城を買収)の家族から取得した北西フランスの西暦17世紀の城である。彼女は第2次世界大戦中、シャルル・アンドレ・ジョセフ・マリー・ド・ゴール(Charles André Joseph Marie de Gaulle)のために働いていた。彼女は第2次世界大戦中、ドイツ国と戦うために自由フランス軍に入隊した。彼女は北アフリカ戦線への参加を拒否していたが、夫と共に戦うために密かに入隊した。戦争により彼女の結婚生活と家族の義務は停止されたが、彼女は子供たちをフランス共和国からアメリカ合衆国に送り、密かに大陸を移動した。彼女は自由フランス軍の解読員、救急車の運転手、ラジオ司会者として働いた。 戦争の終結時に彼女は連合軍から中尉として勲章を授与された。

 ニューヨークでは、ケーニヒスヴァルター男爵夫人キャスリーン・アニー・パノニカ「ニカ」は一流ジャズミュージシャンの友人および支援者となり、ホテルのスイートでジャムセッションを主催したり、演奏会に送り迎えが必要なときにはベントレーで彼らを送迎したり、時には家賃の支払いや食料品の買い物、病院への通院を手伝ったりした。彼女自身はミュージシャンではなかったが、セロニアス・モンクや黒人アルトサックス奏者、チャーリー・パーカー(英語: Charlie Parker Jr.)などの支援者であったことから「ビバップ男爵夫人」や「ジャズ男爵夫人」と呼ばれることもある。西暦1955年にチャーリー・パーカーがスタンホープの部屋で亡くなった後、キャスリーン・アニー・パノニカ「ニカ」はホテルの経営者から立ち退きを求められ、セロニアス・モンクが西暦1956年に作曲した「Ba-lue Bolivar Ba-lues-are」で記念されている建物であるセントラルパークウェスト230番地のボリバルホテル(Bolivar Hotel)に移った。
 彼女はパリで「サロン・デュ・ジャズ 1954」に参加していたときに、黒人ジャズピアニスト兼作曲家のメアリー・ルー・ウィリアムズ(英語: Mary Lou Williams)からセロニアス・モンクを紹介された。彼女はアメリカ合衆国で彼の作品を擁護し、西暦1962年にコロンビアから売り出されたアルバム「クリス・クロス」のレコードなどに付された音楽の解説文(ライナーノーツ)を書いた。西暦1958年にデラウェア州警察からマリファナ所持の容疑で告発されたとき、彼女は刑事責任を負い、数晩刑務所で過ごした。キャスリーン・アニー・パノニカ「ニカ」・ケーニグスワーターは懲役3年の刑を宣告された。彼女の家族が資金を提供した2年間の法廷闘争の後、この訴訟は控訴裁判所で技術的理由で却下された。
 彼女はファイブ・スポット・カフェ、ヴィレッジ・ヴァンガード、バードランドなど、ニューヨークの多くのジャズクラブに定期的に通っていた。西暦1957年、彼女はファイブ・スポットのために新しいピアノを購入した。既存のピアノはセロニアス・モンクの演奏には不十分だと考えたからであった。彼女はまた、黒人ジャズピアニストのバド・パウエル(英語: Bud Powell、本名: アール・ルドルフ・パウエル(Earl Rudolph Powell))のアルバム「A Portrait of Thelonious」の表装の画も手掛けた。西暦1950年代には、アメリカ音楽家連盟からマネージャーの資格を得た。彼女の顧客には、カーボベルデ共和国(西暦1975年〜)系混血黒人ジャズピアニストのホレス・シルヴァー(英語: Horace Silver、本名: Horace Ward Martin Tavares Silva)、黒人テナーサックス奏者、ハンク・モブレー(英語: Hank Mobley)、黒人ジャズピアニストのチャールズ・フィリップ・トンプソン(英語: Charles Phillip Thompson)、ジャズ・メッセンジャーズ(英語: the Jazz Messengers)などがいた。ホレス・シルバーは彼女についてこう語っている。「オハイオ州ヤングスタウンのジャズクラブでジャズ・メッセンジャーズと1週間演奏したのを覚えている。バンドが何度も遅れて演奏し、観客も集まらなかったため、クラブの主人は黒人ジャズドラマー。アート・ブレイキー(英語: Art Blakey))に金を払うことを拒否した。私たちはオハイオ州ヤングスタウンにいて、1週間分のホテル代を払わなければならなかったが、誰もお金を持っていなかった。ホテル代を払えなくて刑務所に入れられる自分が目に浮かんだ。しかしアート​​・ブレイキーは男爵夫人に電話し、彼女は私たちにいくらかのお金を送金してくれたので、私たちはホテル代を払ってニューヨークに戻れた。彼女はジャズ音楽の大ファンで、素晴らしい人だった。」ハンプトン・ホーズは回想録で「彼女の家は、いつでも、どんな理由でも、立ち寄ってぶらぶらできる場所になった。彼女はお金がない人にお金をあげ、家族に食料品の袋を届け、ニューヨークで働くのに必要なキャバレーカードを手に入れるのを手伝った。この女はすごく金持ちで、すべてのクラブに常設のテーブルを予約し、ニューヨークのどこからでも個人タクシーを呼べる番号を持っていた。私が病気になったり、グチャグチャになったりすると、その番号に電話するとタクシーが来て、彼女の家まで直接運んでくれた。休みの日は、彼女がベントレーで迎えに来て、一緒にクラブを回ることもあった。ニカを芸術の支援者と呼ぶ人もいるだろうが、彼女はニューヨークに住んでいたり、ニューヨークを訪れたミュージシャンにとっては兄弟のような存在だった。彼女にはおどけたところがなく、本気でそうしていれば受け入れられ、彼女の友人になった。」セロニアス・モンクは西暦1970年代半ばに公演を終えると、ニュージャージー州ウィホーケンのデ・ケーニグスワーターの家に隠棲し、西暦1982年にそこで亡くなった。
 彼女は彼女の財産を使って、バド・パウエル 、黒人ジャズピアニスト、ソニー・クラーク(英語: Sonny Clark)、黒人ジャズサックス奏者、コールマン・ホーキンス(英語: Coleman Hawkins)など、数人のジャズミュージシャンの友人たちの葬儀と墓地の費用を支払った。

 キャスリーン・アニー・パノニカ「ニカ」は西暦1988年、ニューヨーク市のコロンビア・プレスビテリアン医療センターで74歳で心不全のため亡くなった。
 西暦1935年、彼女は後に自由フランスの英雄となるフランス外交官ケーニヒスヴァルター男爵ジュール(Baron Jules de Koenigswarter)と結婚。5人の子供が居た。西暦1951年に別居。最終的に西暦1956年に離婚。死亡時には5人の子供、2人の孫、4人の曾孫が居た。
  第4子(次男)アルフレッド・チャールズ(Alfred Charles de Rothschild, CVO, DL)。
 ロンドン・ロスチャイルド家第2代当主ロスチャイルド男爵ライオネルとその妻シャーロット(ナポリ家の祖カール・マイアー・フォン・ロートシルトの娘)の次男としてロンドンで生まれた。西暦1879年に父ライオネルが死去すると、兄弟2人と共にN・M・ロスチャイルド&サンズの共同経営者に就任した。
 西暦1868〜1890年にかけてイングランド銀行理事を務めた。彼は初めてのユダヤ人イングランド銀行理事だった。この役職は名誉職ではなく、アルフレッド・チャールズも20年以上の長期にわたってこの職務に熱心に取り組んだが、絵画購入をめぐりスキャンダルで引責辞任した。
 バッキンガムシャーのハルトンに豪邸ハルトン・ハウスを建設した。バッキンガムシャー沿岸地域は質素な雰囲気の屋敷が多かったので、この「邸宅は絢爛すぎて周囲との調和にかける。」との批判もあった。ロンドンのシーモア・プレイス1番地にも邸宅を建てたが、こちらは都市部だけに周囲とよく調和していた。同じシーモア・プレイスで暮らし、この邸宅をよく訪問した首相ベンジャミン・ディズレーリは「ロンドンで最も魅力ある家で、装飾と家具の素晴らしさは、その趣味の良さを示している。」と絶賛していた。
しかしシーモア・プレイスの屋敷は後に取り壊され、現存していない。
 西暦1918年01月31日にシーモア・プレイスの邸宅で死去した。西暦1915年には兄ナサニエル・メイヤー、西暦1917年には弟レオポルド・ライオネルが先立っていた。いずれも第1次世界大戦中のことである。大戦中は税制が変更されており、相続税が莫大になっていた。そのような時期にロスチャイルド家3兄弟が相次いで死去したことがロンドン・ロスチャイルド家の衰退に繋がった。3兄弟の死後、Ǹ・M・ロスチャイルド&サンズの銀行業は長兄ナサニエル・メイヤーの次男ナサニエル・チャールズが継いだものの、彼は病弱だったため間もなく退任し、レオポルド・ライオネルの息子であるライオネル・ネイサンとアンソニー・グスタフの兄弟が経営を主導するようになった。
 芸術を愛し、美術品蒐集家であった。著述家ドロシー・ファニー・ネヴィル(Dorothy Fanny Nevill )はアルフレッドの芸術への鑑識眼について「西暦18世紀フランス芸術についての英国で最も立派な素人鑑定家であろう。」と絶賛した。ルネサンス絵画にも惹かれていたが、猶太教徒としての宗教的な理由から買うのは控えていた。音楽にも造詣が深く、趣味で交響楽団の指揮をよく取った。その指揮棒はダイヤモンドの輪が付いた象牙の物だった。演奏家たちのための慈善講演会もよく開催した。また近衛騎兵連隊や近衛旅団の軍楽隊がその演奏会の切符を売り捌くことができたのもアルフレッドの手回しのお蔭だった。値段が法外で軍は買い手を探すのに苦労していたが、アルフレッドが号令を発すると英国上流階級が一斉に買った。
 ソプラノ歌手のネリー・メルバ(Nellie Melba)、ヴァイオリニストのミハイル・サウロヴィチ・’ミッシャ’・エルマン(Mikhail Saulovich 'Mischa' Elman)などの音楽家を財政的に支えた。コヴェント・ガーデン(ロンドン中心部シティ・オブ・ウェストミンスター中に存在する地区。ここではロイヤル・オペラ・ハウスを指す)での演奏会の著名な出演者は、全員アルフレッド邸の夜会でも演奏していたが、それでもなおアルフレッドはコヴェント・ガーデンの棧敷席を予約するので不思議がられていた。
 アルフレッドは同じ上流階級の間ではその愛嬌で人気があったが(ロスチャイルド家3兄弟の中で英国財界での交友関係が最も盛んなのは彼だった)、下層階級への接し方はどこかぎこちなかった。
 アルフレッドは生涯結婚せず、子供も公式にはいない。
 しかし彼は遺産の大半を、第5代カーナーヴォン伯ジョージ・エドワード・スタンホープ・モリニュー・ハーバートは、西暦1895年にアルミナ・ヴィクトリア・マリア・アレクサンドラ・ウォムウェル(Almina Victoria Maria Alexandra Wombwell)と結婚した。彼女は戸籍上はフレデリック・ウォムウェル(Frederick Charles Wombwell)の娘だが、「実際にはロスチャイルド家の一員であるアルフレッド・ド・ロスチャイルドの娘ではないか。」と言われる。アルフレッドはアルミナ・ヴィクトリア・マリア・アレクサンドラ・ウォムウェルの巨額の持参金を拠出しており、また結婚後も度々アルミナ・ハーバートに金銭支援を行っており、さらに西暦1918年にアルフレッドが死去した際にはその遺産の大半をアルミナ・ハーバートとジョージ・ハーバートが相続した。いずれにしてもアルフレッドからの援助のおかげで経済的に恵まれていた。
 17歳の時に遺跡発掘現場の助手としてエジプトに渡り高等教育も受けていない若手の考古学者ハワード・カーターと共に新王国時代最初の古代エジプト第18王朝(西暦前1570頃〜前1293年頃)末期の最後の直系王族ファラオ、トゥタンカーメン(トゥトアンクアメン、twt-ꜥnḫ-ı͗mn、エジプト語ラテン文字表記: Tut ankh Amun、Tutankhamun、Tutankhamen)の墳墓を暴くのに、ロスチャイルド家の資金を使った。

 「遺産はロスチャイルド家の男子のみに残す。」というのがロスチャイルド家の家訓であり、アルミナへの遺産相続は家訓に反してのものだった。アルフレッドには妻子がなく法律上の遺留分もないのでロスチャイルド家の方でも手の打ちようがなく、アルフレッドの遺書によってロスチャイルド家の財産はかなりの部分がカーナーヴォン伯爵家に移っていった。これもロスチャイルド家の衰退を加速させた。


   第1子(長女)アルミナ・ヴィクトリア・マリア・アレクサンドラ(Almina Victoria Maria Alexandra)。カーナーヴォン伯爵夫人アルミナ・ヴィクトリア・マリア・アレクサンドラ・ハーバート(Almina Victoria Maria Alexandra, Countess of Carnarvon、旧姓: ウォンブウェル(Wombwell))は、第5代カーナーヴォン伯ジョージ・エドワード・スタンホープ・モリニュー・ハーバートの妻で、ハンプシャーのハイクレア城の城主であった。 2度目の結婚後、彼女はアルミナ・デニストン夫人(Mrs Almina Dennistoun)となったが、彼女はアルミナ・カーナーヴォン(Almina Carnarvon)と名乗っていた。彼女の富が、古代エジプト第18王朝末期の最後の直系王族ファラオ、トゥタンカーメンの墓を暴くための資金を提供した。
 彼女はロンドンのメイフェアで、マリー・「ミナ」・ウォンブウェル(Marie 'Mina' Wombwell、旧姓: ボイヤー(Boyer))の名目上の子供として、アルミナ・ビクトリア・マリア・アレクサンドラ・ウォンブウェル(Almina Victoria Maria Alexandra Wombwell)として生まれた。ウォンブウェルは、実業家でイギリス陸軍の退役将校であるフレデリック・チャールズ・ウォンブウェル(Frederick Charles Wombwell)大尉のフランス人妻であった。しかし、彼女の実父はロスチャイルド家の銀行家アルフレッド・ド・ロスチャイルド(Alfred de Rothschild)であり、彼は彼女にかなりの財産を与えた。これには第5代カーナーヴォン伯ジョージ・エドワード・スタンホープ・モリニュー・ハーバートとの結婚時に50万ポンドの信託、西暦1918年にアルフレッド・ド・ロスチャイルドが亡くなった時に5万ポンドとメイフェアにある彼の家と美術蒐集品が含まれており、その多くは彼女が売却した。
 第1次世界大戦の初め、カーナーヴォン伯爵夫人アルミナ・ヴィクトリア・マリア・アレクサンドラ・ハーバートはハイクレア城に戦争負傷者のための病院を開設し、組織作りを手伝い、看護婦として助手を務めた。 病院は後にロンドンのメイフェアに移転した。西暦1919年、カーナーヴォン夫人は戦争での功績により大英帝国勲章のコマンダー(司令官、CBE)に任命されたが辞退した。
 夫の第5代カーナーヴォン伯ジョージ・ハーバートはエジプト学に興味を持ち、カーナーヴォン伯爵夫人アルミナ・ハーバートの富に助けられ、エジプトの王家の谷にあるトゥタンカーメンの墓の探索の資金援助者となった。第5代カーナーヴォン伯ジョージ・ハーバートは屡々エジプトで冬を過ごした。カーナーヴォン伯爵夫人アルミナ・ハーバートは初期の頃は若手の考古学者ハワード・カーターに同行していたが、西暦1922年11月に新たに発見された墓の開会式には出席していなかった。
 西暦1923年03月、カーナーヴォン伯爵夫人アルミナ・ハーバートは肺炎で重病だった夫の第5代カーナーヴォン伯ジョージ・ハーバートに会うためにエジプトへ渡った。夫の第5代カーナーヴォン伯ジョージ・ハーバートは西暦1923年04月05日に亡くなり、カーナーヴォン伯爵夫人アルミナ・ハーバートはその月の後半に第5代カーナーヴォン伯ジョージ・ハーバートの遺体とともにイギリス王国に戻った。彼女は西暦1925年までハワード・カーターの墓の発掘に資金援助を続け、エジプト当局と和解し、3万6000ポンドの補償金と引き換えに墓の内容物に対する権利を放棄した。
 西暦1923年12月、第5代カーナーヴォン伯ジョージ・ハーバートの死後8ヶ月後でアルミナ・ヴィクトリア・マリア・アレクサンドラ・ハーバートは退役したグレナディア近衛歩兵連隊将校のイアン・オンスロー・デニストン(Ian Onslow Dennistoun)中佐と結婚した。
 西暦1925年、アルミナ・デニストン夫人は「独身者訴訟」として知られる、イアン・オンスロー・デニストン大佐と元妻のドロシー・デニストン(Dorothy Dennistoun)の間の高等法院訴訟に巻き込まれた。離婚した際、イアン・オンスロー・デニストンは慰謝料を支払うことができず、代わりに「将来、資金ができたら元妻ドロシー・デニストンを養う。」と約束していた。ドロシー・デニストンはアルミナ・デニストン夫人の富について聞き、約束されていた扶養料を要求した。アルミナ・デニストン夫人はこれを脅迫とみなし、新しい夫イアン・オンスロー・デニストンに法廷で争うよう説得した。この訴訟を担当したヘンリー・マッカーディー(Henry McCardie)は、この訴訟を「私が知る限り最も辛辣な訴訟」と呼んだ。ノーマン・バーケット(Norman Birkett)の法廷での発言により、陪審員はイアン・オンスロー・デニストンが元妻ドロシー・デニストンに扶養料を支払うという合意を無視する決定を下した。
 第5代カーナーヴォン伯ジョージ・ハーバートの死後、アルミナ・デニストンはハイクレア城の敷地内に家を与えられ、その後デニストン大佐と共にワイト島に移住した。喘息持ちのイアン・オンスロー・デニストン大佐は健康を害することが多く西暦1938年に亡くなった。その後、アルミナはロンドンのリージェンツ・パークに家を借り、西暦1943年にサマセット州マインヘッド近くの小家屋に引っ越した。彼女は息子から経済的援助を受けていたが、収入以上の生活を続け、借金が膨らみ、西暦1951年に破産宣告を受けた。
 アルミナはサマセットの小家屋を売却し、ブリストルの長屋建て住宅に移り、そこで家政婦兼付き添いのアン・リードベター(Anne Leadbetter)と暮らした。アルミナは西暦1969年05月08日、ブリストルのフレンチー病院で93歳で亡くなった。

西暦1895年06月26日、19歳のアルミナ・ヴィクトリア・マリア・アレクサンドラ・ウォムウェル(Almina Victoria Maria Alexandra Wombwell)は、ウェストミンスターのセント・マーガレット教会で第5代カーナーヴォン伯ジョージ・エドワード・スタンホープ・モリニュー・ハーバートと結婚し1男1女を儲けた。
 西暦1923年12月、第5代カーナーヴォン伯ジョージ・ハーバートの死後8ヶ月後でアルミナ・ヴィクトリア・マリア・アレクサンドラ・ハーバートは退役したグレナディア近衛歩兵連隊将校のイアン・オンスロー・デニストン中佐と結婚したが、イアン・オンスロー・デニストン大佐西暦1938年に亡くなった。

    第1子(長男)第6代カーナーヴォン伯ヘンリー・ジョージ・アルフレッド・マリウス・ビクター・フランシス・ハーバート(Henry George Alfred Marius Victor Francis Herbert, 6th Earl of Carnarvon)。
 生まれた時からポーチェスター卿と呼ばれた彼は、両親から愛情のない育てられ方をされ、祖母のマリー・「ミナ」・ウォンブウェル(Marie 'Mina' Wombwell、旧姓: ボイヤー(Boyer))と多くの時間を過ごしていたことを回想録に記している。
 第1次世界大戦中はインドとメソポタミアで第7女王直属軽騎兵隊に従軍し、戦後も軍に残った。
 彼は西暦1923年04月、考古学者ハワード・カーターのトゥタンカーメンの墓の探索に資金を提供した父第5代カーナーヴォン伯ジョージ・エドワード・スタンホープ・モリニュー・ハーバートの死に伴い、カーナヴォン伯爵を相続した。新伯爵は、この「ツタンカーメンの呪い」説について、「どんなに懐疑的だったとしても、この問題を直ぐに却下することはできない。」と述べ、04月05日にエジプトで父が亡くなった瞬間、「家族の飼い犬が吠え、一家の居城であるハイクレア城で哀れな死を遂げた。」と主張した。伯爵になると、ハイクレア城とその4000エーカーの敷地の維持管理の責任を引き受けた。彼の母親アルミナ・ヴィクトリア・マリア・アレクサンドラは最初の夫の死後わずか8か月で再婚した。
 西暦1940年03月、第6代カーナーヴォン伯ヘンリー・ジョージ・アルフレッド・マリウス・ビクター・フランシス・ハーバートは中尉として第7軽騎兵連隊に再入隊した。第2次世界大戦中、彼はイギリス王国でいくつかの参謀職を務め、中佐に昇進した。西暦1948年、彼は米国ブロンズスター勲章を授与された。

 カーナーヴォン伯の趣味には狐狩り、雷鳥狩り、ポロなどがあったが、彼の最大の関心事は競馬だった。彼は「競馬と繁殖は生き方であり、私は死ぬまで続ける積りだ。」と宣言した。彼は15歳の時から競走馬を所有し続けた。また、彼は父親が設立し​​たハイクレア飼育場を所有し、経営していた。この飼育場は西暦1930年のエプソム・ダービー優勝馬ブレナムを含む多くの優勝馬を育てた。彼は平地競馬でアマチュア騎手として定期的に乗馬していた。彼の長男の第7代カーナーヴォン伯ヘンリー・ジョージ・レジナルド・モリニュー・ハーバートは、馬とその繁殖に対する家族の愛情を受け継ぎ、エリザベス2世(Elizabeth II)女王の競馬マネージャーとなった。
 西暦1987年09月22日、88歳で死去し、息子のヘンリー・ジョージ・レジナルド・モリニュー・ハーバートがカーナヴォン伯爵の跡を継いだ。ヒュー・ジョン・マッシンバード(Hugh John Massingberd)」による彼の死亡記事では、彼は「最も妥協を許さない率直な女性好き」と評されている。
 第6代カーナーヴォン伯ヘンリー・ジョージ・アルフレッド・マリウス・ビクター・フランシス・ハーバートは、西暦1922年07月17日、ウェストミンスターのセント・マーガレット教会で、俳優ジェイコブ・ウェンデル(Jacob Wendell)の娘で、ギャロウェイ伯爵夫人フィリッパ・スチュワート(Philippa Stewart, Countess of Galloway)の妹のニューヨーク市のアン・キャサリン・トレディック・ウェンデル(Anne Catherine Tredick Wendell)と結婚し1男1女を儲けた後、西暦1936年に離婚。
     第1子(長男)第7代カーナヴォン伯爵ヘンリー・ジョージ・レジナルド・モリニュー・ハーバート(Henry George Reginald Molyneux Herbert, 7th Earl of Carnarvon)。西暦1956年01月07日、オリバー・マルコム・ワロップ卿とジーン・ムーア卿の娘ジーン・マーガレット・ワロップと結婚し2男1女をなした。
      第1子(長男)第8代カーナーヴォン伯ジョージ・ハーバート(George Herbert, 8th Earl of Carnarvon)。
      第2子(次男)ヘンリー・「ハリー」・ハーバート(Henry ’Harry’ Herbert)。
      第3子(長女)キャロリン・ハーバート(Carolyn Herbert)。
     第2子(長女)アン・ペネロペ・マリアン・ハーバート(Anne Penelope Marian Herbert)。西暦1945年04月21日、R .A. G. ファン・デル・ワウデ(R. A. G. van der Woude)とその妻メアリー・ウェンデル(Mary Wendell、ハーバード大学教授バレット・ウェンデル(Barrett Wendell)の娘)の息子レイニエ・ゲリット・アントン・ファン・デル・ワウデ(Reinier Gerrit Anton van der Woude)大尉と従甥・従伯母婚し、2男1女をなした。
      第1子(長男)マイケル・ゲリット・ファン・デル・ワウデ(Michael Gerrit van der Woude)。
      第2子(次男)デビッド・アンソニー・ファン・デル・ワウデ(David Anthony van der Woude)。
      第3子(長女)ペネロペ・キャサリン・メアリー・ファン・デル・ワウデ(Penelope Catherine Mary van der Woude)。
 第6代カーナーヴォン伯ヘンリー・ジョージ・アルフレッド・マリウス・ビクター・フランシス・ハーバートは、アン・キャサリン・トレディック・ウェンデルとの離婚後、西暦1939年09月01日にアンシュルス(西暦1938〜1945年、オーストリア)のダンサーでティリー・ロッシュ(Tilly Losch)という芸名を持つオティリー・エセル・レオポルディン・ロッシュ(Ottilie Ethel Leopoldine Losch)と結婚し西暦1947年に離婚。
    第2子(長女)エヴェリン・レオノーラ・アルミナ・ボーチャム(Evelyn Leonora Almina Beauchamp、旧姓: Herbert)。
 夫ブログレイブの父初代ボーチャム準男爵が西暦1925年02月に死ぬと、ブログレイブは第2代ボーチャム準男爵に叙せられた。西暦1931〜1945年までウォルサムストウ東選挙区の保守党議員を務めた。エヴェリン・レオノーラ・アルミナ・ボーチャム夫人は西暦1920年から毎年冬に父親がエジプトに旅行する際に同行するようになり、ハワード・カーターを子供の頃から知っていた。そのためトゥタンカーメンの墳墓を暴く映画、テレビ番組、小説で登場した。
 父第5代カーナーヴォン伯ジョージ・エドワード・スタンホープ・モリニュー・ハーバートや兄第6代カーナーヴォン伯ヘンリー・ジョージ・アルフレッド・マリウス・ビクター・フランシス・ハーバート同様、エヴェリン・レオノーラ・アルミナ・ボーチャム夫人は競走馬を何頭も所有し、競馬会に頻繁に出席し、マスコミでは「小柄で魅力的、競馬界で絶大な人気」と評された。また、ロンドン協会にも深く関わり、ザ・タトラーなどの協会の出版物に定期的に登場した。兄ヘンリーとは親しい関係を保ち、ヘンリーが第6代カーナーヴォン伯爵になった後もハイクレア城の改修と近代化の監督に協力した。
 西暦1935年07月、サフォークのニューマーケットに向かう途中で大事故に遭い、ロンドンで療養した。彼女は第1次世界大戦中に母親が設立し​​た養老院で暮らした。その後、彼女は脳卒中を何度も患った。エヴェリン・レオノーラ・アルミナ・ボーチャム夫人は、ブログレイブ・ボーチャムの死から3年後の西暦1980年01月31日に78歳でロンドンで亡くなった。

 西暦1923年、ウェストミンスターのセント・マーガレット教会でブログレイブ・ボーチャム(Brograve Beauchamp)と結婚し1女をなした。出産は難産で、その後エヴェリン・レオノーラ・アルミナはもう子供を産めない身体になった。
     第1子(長女)パトリシア・エヴェリン・ボーチャム(Patricia Evelyn、旧姓: Beauchamp)。西暦1949年、パトリシアはマイケル・ウィリアム・トーマス・リーサム(Michael William Thomas Leatham)少佐と結婚し2男をなした。
      第1子(長女)サイモン・アンソニー・マイケル・リーサム(Simon Anthony Michael Leatham)。
      第2子(次男)エドワード・アーサー・マーティン・リーサム(Edward Arthur Martyn Leatham)。
  第5子(三男)レオポルド・ライオネル(Leopold Lionel de Rothschild, CVO)。愛称はレオ。ロンドン・ロスチャイルド家の庶流の1人で、彼から多くの庶流が生まれた。
 ロンドン・ロスチャイルド家第2代当主ライオネル・ド・ロスチャイルドの三男としてロンドンで生まれた。母はナポリ家の祖カール・マイアー・フォン・ロートシルト(Carl Mayer von Rothschild)の長女シャルロッテ(Charlotte von Rothschild)。長兄にナサニエル・メイヤー、次兄にアルフレッド・チャールズがいる。兄2人と同じくケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに入学した。同大学在学中の西暦1850年代に王太子バーティ(アルバート・エドワード、後のエドワード7世)と親密になった。西暦1870年に文学修士の学位を取得した。
 西暦1879年に父ライオネルが死去すると、兄2人とともにN・M・ロスチャイルド&サンズの共同経営者となった。気の優しいレオポルド・ライオネルは3兄弟の中でも社員から一番人望があった。シティ・オブ・ロンドン総督やバッキンガムシャーの治安判事、副統監なども務めた。
 レオポルド・ライオネルは4つの邸宅、ハウンズロー・ロンドン特別区ガナーズベリー・パーク近くの邸宅、シティ・オブ・ウェストミンスター地区のハミルトン・プレイス5番地の邸宅、ニューマーケット競馬場近くの邸宅、アスコットの邸宅を所有していた。

 アスコット競馬場に隣接するサウスコートにある種馬飼育場をネイサン・メイヤー・ロスチャイルドの四男、叔父メイヤー・アムシェルから相続していたレオは、競馬に熱心だった。西暦1879年と西暦1909年の2度のダービーで彼の持ち馬が優勝した。また西暦1896年のダービーは彼の持ち馬「セント・フラスキン(St Frusquin)」が最有力だったが、王太子バーティの無名の持ち馬「パーシモン」が優勝した。ちょうど王太子が女性問題で人気を落としており、世間の喝采を得られるような功績を必要としていた時期だったため、このレースにパーシモンが勝利したのは王太子の苦しい立場に同情したレオの配慮ではないかと言われる。
 西暦1902年にロイヤル・ヴィクトリア勲章(Royal Victorian Order)コマンダー(司令官 CVO)章を受章した。西暦1912年03月にはセント・スウィッシン・レーンで、以前に世話をした精神異常者漢ウィリアム・テビット(William Tebbit)がレオポルド・ライオネルがの車に向けてリボルバーから5発の銃弾を発射し車内を銃弾で撃ち抜いたが、殺人は未遂で済んだ。
 西暦1917年05月29日に死去。71歳だった。西暦1915年には長兄ナサニエル・メイヤー、西暦1918年には次兄アルフレッド・チャールズも死去している。いずれも第1次世界大戦中のことで、第1次世界大戦中は税制が変更されており、相続税が莫大になっている時期だった。そのような時期にロスチャイルド家3兄弟が相次いで死去したことが英国ロスチャイルド家の衰退に繋がった。
 3兄弟の死後、N・M・ロスチャイルド&サンズの銀行業は長兄ナサニエル・メイヤーの次男アルフレッド・チャールズが継いだものの、彼は病弱だったため、まもなく退任し、レオポルド・ライオネルの息子であるライオネル・ネイサンとアンソニー・グスタフの兄弟が経営を主導するようになった。長兄のナサニエル・メイヤーは貴族的な傲岸不遜さがあったが、レオポルド・ライオネルは気さくで親切な人物だった。
 熱心な慈善活動家でもあり、特に子供好きのレオポルド・ライオネルは子供絡みの慈善活動に惜しみなく金を出した。ロスチャイルド家に慈善活動の支援者になって欲しいが、ぶっきらぼうな長兄ナサニエル・メイヤー、変わり者の次兄アルフレッド・チャールズに相談しにくいという慈善活動家はほとんどの場合、天真爛漫なレオポルド・ライオネルの所へ相談に行ったという。理由は不明だが、寒い日は特にレオポルド・ライオネルの機嫌がよかったらしく、気前よく寄付してくれた。また競馬でカップを取ると彼は大喜びしてその賞金の数倍のお金をお祝いとして支出したが、その時もレオポルド・ライオネルが慈善活動に惜しみなく金を出す時であった。彼の馬が優勝するとどこかの病院に病棟が建つといったことも稀ではなかった。セシル・ロス(Cecil Roth)は、レオポルド・ライオネルについて「貴方のような人は地球上にほとんどいない。お金を持った天使だもの。」という詩を残した。
 西暦1881年01月19日にロンドンの中央シナゴーグで、トリエステの商人アキッレ・ペルージャ(Achille Perugia)の娘マリー・ペルージャ(Marie Perugia)と結婚し3男を儲けた。結婚式には友人である王太子バーティも出席した。英国王太子がユダヤ人の式典に出席したのは英国史上初めてであった。マリーの妹ルイーズ(Louise)はアーサー・サッスーン(Arthur Sassoon)と結婚し、アシュケナジーム猶太のロスチャイルド家は、セファルディーム猶太サッスーン家と姻戚になった。

   第1子(長男)ライオネル・ネイサン(Lionel Nathan de Rothschild, OBE)。 ロンドン・ロスチャイルド家の銀行業を継承。
 西暦1903年からN・M・ロスチャイルド&サンズに勤めるようになった。西暦1910〜1923年にかけてアリスバーリー選挙区選出の保守党の庶民院議員を務めた。1914年の第1次世界大戦時には国防義勇部隊予備役少佐の地位にあった。ライオネル・ネイサン自身は出征を希望していたが、一族から高齢のN・M・ロスチャイルド&サンズ共同経営者たち(父レオポルド・ライオネルと2人の伯父ナサニエル・メイヤーとアルフレッド・チャールズ)を支えることを期待されたため、イギリス本国に留まることになった。しかし彼の弟2人は最前線で戦ったため(長弟エヴェリン・アシルは戦死)、この時に出征しなかったことはライオネル・ネイサンに生涯の自責の念を与えた。
 西暦1915年に伯父初代ロスチャイルド男爵ナサニエル・メイヤーが死去すると、その次男であるナサニエル・チャールズがN・M・ロスチャイルド&サンズの経営を主導するようになったが、ナサニエル・チャールズは病気でまもなく引退したため、ライオネル・ネイサンと次弟アンソニー・グスタフが会社の主導権を握るようになっていった。
 西暦1917年に大英帝国勲章オフィサー(将校 OBE)を受勲した。
 西暦1930年代、国民社会主義ドイツ労働者党(NSDAP。ナチス党)政権の誕生によりドイツ国でユダヤ人迫害が強まった。これを憂慮したライオネル・ネイサンは、本家のナサニエル・メイヤー・ヴィクターや弟アンソニー・グスタフと共に「ドイツユダヤ人のための英国中央基金」や「ドイツユダヤ人のための委員会」などの募金機関を立ち上げ、ドイツユダヤ人の亡命と亡命後の生活の支援を行った。とりわけ1世代若いナサニエル・メイヤー・ヴィクターがこの救済活動に熱心だった。やや高齢のライオネル・ネイサンとアンソニー・グスタフの兄弟は、イギリス社会から排除されないためには、まずイギリス人として行動するべきでユダヤ人であることは二の次という考え方が染み付いていたため、運動に掛ける情熱には温度差もあったものの、兄弟も出来る限り多くのユダヤ人を救おうと奔走したことに疑いはない。
 西暦1942年01月28日にケンジントン宮殿で死去。以降、会社の経営は弟アンソニー・グスタフが主導するようになった。
 植物に造詣が深く、サザンプトン郊外にエクスベリー庭園を創設した。その庭園への情熱の注ぎようから「庭園師が本職で銀行業は趣味」とまで評された。また航海、温泉、山歩きも趣味だった。

 パリ在住のエドモンド・ビーアの娘マリー・ルイーザ・ユージェニー・ベーア(Marie Louise Eugénie Beer)と結婚し、2男2女を儲けた。
    第1子(長女)ローズマリー・レオノラ・ルース(Rosemary Leonora Ruth)。デニス・ゴマー・ベリー少佐(Denis Gomer Berry)の最初の妻。
    第2子(長男) エドムンド・レオポルド(Edmund Leopold de Rothschild, CBE, TD)。愛称はエディ。西暦1955年〜1975年にかけてN・M・ロスチャイルド&サンズの経営を任せられていた。カナダのニューファンドランド州の総合開発事業で知られる。
 西暦1928年に父ライオネル・ネイサンが庶民院議員を辞職したのを機にパークハウスからケンジントン・パレス・ガーデン18番地へ引っ越した。西暦1934年にケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに入学した。大学の陸軍訓練部隊に所属していたエドムンドは1935年の夏休みから王立バッキンガムシャー義勇農騎兵連隊に所属した。大学卒業後の西暦1937年10月から西暦1939年05月にかけて世界旅行に出た。まず大英帝国自治領南アフリカ連邦(西暦1910〜1961年)へ向かい、アフリカ旅行を開始し、元ドイツ植民地の英委任統治領タンガニーカ(西暦1919〜1961年)まで足を伸ばした。アフリカ旅行を終えると南アフリカから日本の商船「さんとす丸」に乗船して南米ブラジル連邦共和国(西暦1822年〜)へ渡航した。アルゼンチン共和国(西暦1816年〜)やチリ共和国(西暦1818年〜)、エクアドル共和国(西暦1822/1830年〜)、コロンビア共和国(西暦1810年〜)、パナマ共和国(西暦1821/1903年〜)など南米諸国を歴訪した。パナマから大英帝国自治領ニュージーランド(西暦1907年〜)とオーストラリア(西暦1901年〜)へ渡航し、さらに英領シンガポール(西暦1824〜1942年)へ渡航してフランス領インドシナ(西暦1887〜1945、1945〜1949.1953.1954年)、英領インド帝国などアジア各地を歴訪した。英領インドではガンジーと会見した。ガンジーは国民社会主義ドイツ労働者党(NSDAP。ナチス党)の擡頭など反ユダヤ主義が高まるヨーロッパでのユダヤ人の苦境に同情しながらも、暴力の抵抗ではなく、不服従で抵抗すべき。」と訴えた。「それで殺されてしまったらどうなるのです?」とエドムンド・レオポルドが問うとガンジーは「人は力によって得る物は何もありません。ただ失うだけなのです。」と答えた。
 アジア旅行を終えると、19ヶ月にわたった世界旅行を終了させて西暦1939年05月にイギリス王国に帰国した。帰国翌月の06月にN・M・ロスチャイルド&サンズに入社した。
 西暦1939年09月の第2次世界大戦の開戦時、エドムンド・レオポルドは国防義勇軍において砲兵隊に所属する中尉であった。そのため開戦とともにエドムンドは再び軍務に就き、砲撃訓練や軍事教練、野戦演習に明け暮れる日々を送った。彼の所属する部隊は西暦1940年01月にフランスへ送られた。しかし西暦1940年05月から開始されたドイツ軍の西方電撃戦を前にダンケルクの撤退を余儀なくされた。その後しばらくイギリス国内に駐留していたが、西暦1943年03月には北アフリカ戦線に参加し、続くイタリア戦線にも参加した。西暦1944年30月〜05月のモンテ・カッシーノの戦いでは何度か危機的状況に瀕して負傷した。連合軍のローマ占領後、ローマ法王ピウス12世から引見を受けたエドムンド・レオポルドはドイツ国におけるユダヤ人の悲惨な状況を法王に訴えた。法王ピウス12世(Pius XII、エウジェニオ・マリア・ジュゼッペ・ジョヴァンニ・パチェッリ(Eugenio Maria Giuseppe Giovanni Pacelli))はそれに衝撃を受けた様子で「そのようなことは2度と繰り返されてはなりません。」と述べた。西暦1944年11月には少佐に昇進しユダヤ歩兵旅団に移籍した。彼の所属するユダヤ人部隊はボローニャまで進軍し、そこで終戦を迎えた。しかしユダヤ歩兵旅団に参加しているユダヤ人の家族の多くは強制収容所で非業の死を遂げており、終戦前後から徐々にその情報が判明したため、部隊は暗澹たる空気に包まれた。終戦後も連合軍軍政期ドイツ(西暦1945〜1949年)、ベルギー王国(西暦1830年〜)、ネーデルラント(オランダ)王国(西暦1830年〜)などに駐留して軍の任務に当たったが、西暦1946年05月には復員(兵役解除)となり、イギリス王国へ帰国した。
 第2次世界大戦中の西暦1942年に父ライオネル・ネイサン・ド・ロスチャイルドは病死しており、以降N・M・ロスチャイルド&サンズの経営は叔父アンソニー・グスタフ・ド・ロスチャイルドが見ていた。復員したエドムンド・レオポルドもN・M・ロスチャイルド&サンズの共同経営者(ジュニア・パートナー)となったものの、未だ銀行業務経験が不足していたので最高経営責任者(シニア・パートナー)である叔父アンソニー・グスタフが引き続き経営を主導した。
 西暦1955年にアンソニー・グスタフが脳溢血で倒れ、エドムンド・レオポルドがその代行者となった。アンソニー・グスタフの側近だったデビッド・コルビルとマイケル・バックスの補佐を受けて銀行経営を主導するようになった。西暦1960年には正式にアンソニー・グスタフドの跡を継いで最高経営責任者(シニア・パートナー)となった。西暦1956年から弟レオポルド・デーヴィッドが共同経営者になり、西暦1960年にはアンソニー・グスタフの子(従弟)のエヴェリン・ロバート・エイドリアンも経営に参画するようになった。さらに西暦1963年には本家の第4代ロスチャイルド男爵ナサニエル・チャールズ・ジェイコブも共同経営者となった。
 英国首相ウィンストン・チャーチルやカナダのニューファンドランド州首相ジョゼフ・ロバーツ・スモールウッド(Joseph Roberts Smallwood PC CC)の要請でアンソニー・グスタフが開始したブリティッシュ・ニューファンドランド(BRINCO)(ニューファンドランドの1800万㎢の土地で資源開発を行う会社)の事業を継承し、ウラニウム地下資源や木材資源の開発を拡大させ、同事業をカナダで最大規模の総合開発に成長させた。また同地にチャーチル滝発電所を建設して発電事業も行った。この発電所は個人企業の発電所としては過去最大規模の物となった。
 英国内の銀行業の方も順風満帆であり、化学のインペリアル・ケミカル・インダストリーズ、石油のロイヤル・ダッチ・シェル、ダイヤモンドのデ・ビアス、重工業のヴィッカース、紅茶のリプトン、保険のロイヤル・アンド・サン・インシュランス・アライアンスなどの大企業を財政面から支えた。
 西暦1951年に日英関係が回復した後、ロスチャイルド家は日本の大和銀行、住友銀行、横浜銀行、日本興業銀行と取引を開始し、これらの銀行のためにポンド建て信用状を開設した。そのためエドムンド・レオポルドも日本財界と関係が深くなり、西暦1962年には友人の野村証券社長奥村綱雄らからシティ有力者として東京へ招待された。東京では内閣総理大臣池田勇人、大蔵大臣田中角栄、経済企画庁長官宮澤喜一、日本銀行総裁山際正道、三菱銀行頭取宇佐美洵など政財界要人と友好を深めた。また父ライオネル・ネイサンが創設したエクスベリー庭園から石楠花を宮内庁に寄贈し、それは皇居の庭園の一郭に埋められた。満開になると昭和天皇もよくそれを観覧した。この訪日でエドムンド・レオポルドは日本政財界から外資導入への熱望を寄せられ、その期待に応えて「パシフィック・シーボード・ファンド」を立ち上げて、日立、テイジン、東洋レーヨンなどの日本企業のためにユーロドル建て社債の発行を行うようになった。西暦1969年にはメリル・リンチや野村証券とともに「東京キャピタル・ホールディングス」を創設し、その監査委員会議長に就任した。これにより毎年1回は役員会や会合などのために訪日するようになった。資金提供を通じて日本の戦後復興に尽くした功績で勲一等瑞宝章を受勲した。
 西暦1975年にN・M・ロスチャイルド&サンズを退社して引退生活に入った。ちょうど社内ではナサニエル・チャールズ・ジェイコブとエヴェリン・ロバート・エイドリアンの対立が深まっている時期だったため、その仲裁の意味でナサニエル・チャールズ・ジェイコブの父第3代ロスチャイルド男爵ナサニエル・メイヤー・ヴィクターが代わって頭取となった。
 引退後は家族と一緒に過ごす時間が増えた。引退後も群馬県にあるゴルフのカントリークラブ「ツインレイクスカントリー」の名誉会長として毎年訪日した。西暦1977年には世界和平連合会の発会式に出席している。余生は常に穏やかだったわけではなく、西暦1986年11月に英国司法当局からMI5(英国国内情報部)の機密漏洩(ソ連の二重間諜))の疑いで捜査を言い渡されたことがある。西暦2009年01月17日に93歳で死去。

 西暦1948年にエリザベス・エディス・レントナー(Elizabeth Edith Lentner)と結婚し、2男2女を儲けた。子育てはほとんど妻エリザベス・エディスに任せていたが、エドムンド・レオポルドは次の2つのことだけは子供たちに教えようと心掛けていた。1つは彼自身や子供たちが享受している恵まれた生活にはそれ相応の義務が伴っていること、もう1つは自然に対する畏れと感謝の念である。
 西暦1980年にエリザベス・エディスと死別し、西暦1982年にアニー・エヴェリン(Anne Evelyn)と再婚したが、彼女との間に子供はなかった。
     第1子(長女)キャサリン・ジュリエット(Katherine Juliette) 。 バークレイズ会長のマーカス・アンブローズ・ポール・アギウス(Marcus Ambrose Paul Agius CBE)と結婚し子が2人いる。マーカス・アンブローズ・ポール・アギウスはカトリックだが、ハンプシャーのエクスベリー庭園にあるロスチャイルド家の邸宅に深く関わっている。
     第2子(長男)ニコラス・デヴィッド(Nicholas David)。
     第3子(次男)デヴィッド・ライオネル(David Lionel)。シャーロット・ヘンリエッタと双子。
     第4子(次女)シャーロット・ヘンリエッタ(Charlotte Henriette)。
 デヴィッド・ライオネルと双子。
 祖父ライオネル・ネイサン・ド・ロスチャイルドはハンプシャーに世界的に有名なエクスベリー庭園を建設し、彼女はそこで育った。石楠花の栽培で知られ、桃色の「シャルロット・ド・ロスチャイルド」は彼女に因んで名付けられた。
 世界的なソプラノ歌手である彼女は、日本での活動で知られる。「家族の結合(Family Connections)」というリサイタルを企画しました。このリサイタルでは、過去2世紀にわたって彼女の家族の友人や教師が作曲した曲が全て演奏された。彼女自身の先祖であるマチルド・ハンナ・フォン・ロスチャイルドの作品も含まれていた。
西暦1990年にナイジェル・S・ブラウン(Nigel S. Brown)と結婚。西暦2021〜2022年まで、ロスチャイルドはハンプシャーの武漢肺炎ワクチン接種センターでボランティアとして働いた。
    第3子(次女) ナオミ・ルイーザ・ニナ(Naomi Luisa Nina)。ナオミは、化学者、ベルトラン・ゴールドシュミット(Bertrand Goldschmidt)と西暦1947年02月に結婚。
 ベルトラン・ゴールドシュミットは、西暦1960年に初めてジェルボワーズ・ブルーでフランス共和国の初の核実験を行った。フランスの原子爆弾の父の1人と見做されているフランス共和国の化学者。国際原子力機関議長。
 ベルトラン・ゴールドシュミットはフランス人の母親とユダヤ人系のベルギー人の父親の許でパリで生まれた。西暦1933年にマリア・サロメア・スクウォドフスカ・キュリー(ポーランド語: Maria Salomea Skłodowska-Curie、仏語名: マリ・キュリー(Marie Curie)。キュリー夫人(Madame Curie))によってラジウム研究所に採用され、西暦1939年に博士号を取得した。マリ・キュリーの長女イレーヌ・ジョリオ・キュリー(Irene Joliot-Curie)は、夫ジャン・フレデリック・ジョリオ・キュリー(Jean Frédéric Joliot-Curie)共に共産主義に冒された原子物理学者で、ジャン・フレデリックはフランス共産党員、イレーヌは婦人同盟員。ジャン・フレデリック・ジョリオの父親は家具商人を経て音楽家で、母親はプロイセン支配に対する抵抗運動家6人兄弟の末っ子として生まれた。イレーヌの父ピエール・キュリー(Pierre Curie)の教え子のパリ市立工業物理化学高等専門大学校長ポール・ランジュヴァン (Paul Langevin)が、研究職に就くには条件不足だが、彼を尊敬し慕う卒業生のジャン・フレデリックをラジウム研究所でマリ・キュリーの助手となり、やがて2人は結婚した。ポール・ランジュヴァンも左派知識人によって結成された反ファシズム知識人監視委員会の副会長を務めた活動家。ジャン・フレデリック・ジョリオ・キュリーは「核分裂が1回起こるごとに、1〜3個の中性子が放出された。」と結論付けた。その数日後、ソビエト連邦のゲオルギー・フリョーロフとレフ・イリイチ・ルシノフもほぼ同様の研究結果を発表した。諜報活動で得た情報を送り、ソビエト連邦の核兵器開発は加速した。ジャン・フレデリック・ジョリオ・キュリーは、ソビエト連邦の著名な共産主義者や外国のソ連支持者に対して贈られる国際スターリン平和賞を受賞した。

 無辜の民間日本人を実験動物として、広島と長崎でに原子爆弾をが投下して大虐殺したのは、キュリー一家の姓である。

 マリ・キュリーはラジウムと言うα線源を無償で配った。娘夫婦のイレーヌ・ジョリオ・キュリーとジャン・フレデリック・ジョリオ・キュリーは、中性子線による連鎖反応を発見し、原子爆弾の目途を付け、フランス共和国やソビエト連邦の核拡散を行った。
 その上、鬼畜米占領下の日本では、ジョン・ディヴィソン・ロックフェラー・ジュニア(John Davison Rockefeller, Jr.)の飼い犬の嘘吐き詐欺師の人間の屑の野口英世と並んで、自らは善行と信じて大虐殺の原因を作ったキュリー夫人の伝記が、日本人を洗脳するため、小学校の図書館に並んでいる。


 第2次世界大戦争中、ベルトラン・ゴールドシュミットはポワティエの軍事研究所に勤務し、侵攻してきたドイツ軍の捕虜となった。後に解放され、占領されていない地域に移った。モンペリエで短期間教鞭を執ったが、降伏後のヴィシー政権フランス国(西暦1940〜1944年)がドイツ軍の圧力を受けてユダヤ人の地位を変更した。その後、彼はアメリカ合衆国に移住し、西暦1941年05月にニューヨークに到着し、自由フランス軍に加わった。
 原子力開発の出発点は、西暦1938年暮、国民社会主義ドイツ労働者党(NSDAP。ナチス党)政権下のドイツ国のカイザー・ヴィルヘルム研究所のオットー・ハーン(Otto Hahn)らが核分裂の発見をしたことにある。ちょうどこの時期に第2次世界大戦が始まり、原子爆弾開発の形で出発した。(エンリコ・フェル(Enrico Fermi)は後に、シカゴ・パイル1実験炉で世界初の人工自給型核連鎖反応を開始することになるプロジェクトに携わる科学者のグループの 1 人として、コロンビア大学にベルトラン・ゴールドシュミットを招いた。米国政府はフランス人科学者の参加を拒否する決定を下したが、ベルトラン・ゴールドシュミットは西暦1942年07月にグループへの参加を許可された。再処理技術開発の原点は、西暦1940年末から翌年春にかけてのグレン・セオドア・シーボーグ(Glenn Theodore Seaborg)らがプルトニウムを発見し、さらにPu239の核分裂性を確認したことにあった。ベルトラン・ゴールドシュミットは米国国内でマンハッタン計画(The Manhattan Project)に参加した唯一のフランス人となった。彼はグレン・セオドア・シーボーグのグループでプルトニウムとウランを分離するプルトニウムーウラン溶媒抽出(Plutonium Uranium Redox EXtraction、PUREX)法の開発に取り組み、シカゴ・パイル 1で生産された最初の1gのプルトニウムの抽出に関わった。マンハッタン計画の下で、西暦1944年秋から翌年春にかけハンフォードに大型再処理施設が完成したが、これらに採用された分離法は、古典的化学分析手法の拡大ともいえる、共沈法の一種であるリン酸ビスマス法であった。
 その後、彼はモントリオール研究所で英加核計画に参加し、ハンス・フォン・ハルバン(Hans Heinrich von Halban)、ジュール・ゲロン(Jules Guéron)、ピエール・ヴィクトール・オージェ(Pierre Victor Auger)、リュー・コワルスキー(Lew Kowarski)など、西暦1944年に計画に参加するフランス人科学者たちと協力した。彼らは西暦1945年09月、カナダ初の原子炉ZEEPの開発に貢献した。彼は西暦1946年に第四共和政(西暦1946〜1958年)フランス共和国に戻った。ベルトラン・ゴールドシュミットは西暦1945年にフランス原子力委員会(CEA)の創設者の1人となった。西暦1949年11月、彼と協力者のピエール・ルグノー(Pierre Regnault)、ジャン・ソーテロン(Jean Sauteron)、アンドレ・シェスネ(André Chesne )は、バランクール・シュル・エソンヌのブーシェ工場でゾエ原子炉の使用済み燃料から最初の数mgのプルトニウムを抽出した。これはフランスの原子爆弾製造に不可欠な段階だった。
 アイオワ州立大学のフランク・ハロルド・スペディング(Frank Harold Spedding)教授の下で、無機化学・分析グループのリーダーをしていた化学者ジェイムズ・C・ワーフ(James C. Warf)は、溶媒の酸分解による発熱に起因するトラブルに触発され、酸の分解に強い溶媒の研究を始めた。その結果TBP(リン酸トリブチル)が硝酸に対して安定であり、かつ極めて優れた抽出能力を持つことを発見した。彼はその結果を西暦1949年の米国化学学会誌に発表した。
 ジェイムズ・ワーフの研究結果をウラン・プルトニウムの分離に応用する研究が、直ちにGE社のノル(Knoll)原子力研究所で進められ、飛躍的に効率的なプルトニウム回収法としてのPUREX法の基礎が確立された。その成果に基づきオークリッジのパイロット・プラントが改造され、1950年から約3年間、PUREX法のホット実証試験が行われた。この時期はちょうど米ソの核の軍拡競争が激化し始めた頃であり、米国ではプルトニウムの増産に拍車がかけられた。こうしてPUREX法によるプルトニウム分離回収用の大型プラントがサバンナリバーとハンフォードに建設され、それぞれ西暦1954年と西暦1956年に稼動を開始した。
 一方米国化学学会誌に公表されたジェイムズ・ワーフの研究成果は、戦後フランスで再処理技術の研究を立ち上げつつあったベルトラン・ゴールドシュミットらの注目するところとなり、彼らは西暦1952年から米国とは全く独立にPUREX法の開発を進め、西暦1954年におこなわれた小規模確証試験の成果をもとに、マルクールにフランス共和国最初の再処理工場UP-1を西暦1958年に完成させた。当時ウランは資源量的にきわめて貴重と考えられており、フランスの再処理技術開発は、原子炉燃料用にウラン235の代替物質としてプルトニウムを生産することを目的として開始された。しかし、その後フランス政府は核兵器開発に踏み切ったため、UP-1は軍事用プルトニウムの生産施設の性格を併せ持つこととなった。
 ベルトラン・ゴールドシュミットはまた、イスラエル国の核計画の確立にも重要な役割を果たした。彼は西暦1954年にイスラエル国を訪れ、核問題について首相のダヴィド・ベン・グリオン(ヘブライ語: דוד בן-גוריון‎、David_Ben_Gurion.ogg David Ben-Gurion)と会談し、西暦1956〜1957年にかけては、ディモナ原子力施設の設立に繋がる交渉においてCEA職員の1人として務めた。
 ベルトラン・ゴールドシュミットは西暦1960年までフランス原子力委員会の化学部門を率いた。彼は原子力開発の歴史に関する多数の著書を執筆している。彼は西暦1958〜1980年まで国際原子力機関理事会のフランス代表を務めた。彼は西暦2002年06月11日にパリで亡くなった。

    第4子(次男) レオポルド・デイヴィッド(Leopold David de Rothschild, CBE, FRCM)。
 レオポルド・デイヴィッド・ド・ロスチャイルドは、イギリスの金融家、音楽家。幼少の頃から音楽が好きで、ピアニストとヴァイオリニストとして名声を博した。声楽家として、長年ロンドンのバッハ合唱団で歌い、後に同合唱団の団長を務めた。10代の頃、イギリス海軍に入隊し、2年間勤務した。彼はクーン・ローブ社、モルガン・スタンレー、グリン・ミルズ社で働き、西暦1956年に家族の経営するN・M・ロスチャイルド&サンズの共同経営者となった。
彼は銀行業で長く成功した経歴を積んだが、音楽と芸術への愛が彼の人生において重要な役割を果たした。彼は音楽家協会の名誉会員であり、多くの役職を務めた。

 慈善活動の一環として、彼は自身の「レオポルド・ド・ロスチャイルド慈善信託」を通じて、末期患者のためのセントジョーンズ・ホスピスをなど数多くの慈善団体に寄付した。さらに、彼の慈善信託はロンドン交響楽団、ロンドン・シンフォニエッタ、ランバート・ダンス会社を支援し、彼がフェロー (FRCM) であり、元評議会議長であった王立音楽大学で学ぶ学生に奨学金を提供している。
   第2子(次男)エヴェリン・アシル( Evelyn Achille de Rothschild)。 第1次世界大戦に将校として出征したが戦死。
 ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジを卒業し、文学士(BA)の学位を取得。
 西暦1914年に開戦した第1次世界大戦では、バッキンガムシャー国防義勇軍騎兵部隊「ヨーマンリー」に所属する少佐として出征し、殊勲者公式報告書に名前が載るほど勇戦したが、西暦1917年11月17日、パレスチナ戦線においてオスマン帝国軍との戦闘で戦死した。

   第3子(三男)アンソニー・グスタフ(Anthony Gustav de Rothschild)。愛称はトニー。ロンドン・ロスチャイルド家の銀行業を継承。
 ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジを卒業。西暦1913年に文学修士の学位を取得した。
 西暦1914年の第1次世界大戦にはバッキンガムシャー国防義勇軍騎兵部隊「ヨーマンリー」に所属する少佐として出征し、ガリポリの戦いに参加して負傷した。次兄エヴェリンも出征しており、パレスチナ戦線で戦死した。
 西暦1915年に伯父初代ロスチャイルド男爵ナサニエル・メイヤーが死去すると、その次男であるナサニエル・チャールズがN・M・ロスチャイルド&サンズの経営を主導するようになったが、ナサニエル・チャールズは病気でまもなく引退したため、ナサニエル・チャールズの従弟のライオネル・ネイサンとアンソニー・グスタフが会社の主導権を握るようになった。
 西暦1930年代、国民社会主義ドイツ労働者党(NSDAP。ナチス党)政権の誕生によりドイツ国でユダヤ人迫害が強まった。これを憂慮したアンソニー・グスタフは、本家の従甥第3代ロスチャイルド男爵ナサニエル・メイヤー・ヴィクターや兄ライオネル・ネイサンとともに「ドイツユダヤ人のための英国中央基金」や「ドイツユダヤ人のための委員会」などの募金機関を立ち上げ、ドイツ・ユダヤ人の亡命と亡命後の生活の支援を行った。とりわけ1世代若いナサニエル・メイヤー・ヴィクターがこの救済活動に熱心だった。やや高齢のライオネルとアンソニーの兄弟は、イギリス社会から排除されないためには、まずイギリス人として行動するべきでユダヤ人であることは二の次という考え方が染み付いていたため、運動に掛ける情熱には温度差もあったものの、兄弟も出来る限り多くのユダヤ人を救おうと奔走したことに疑いはない。。
 第2次世界大戦中にライオネル・ネイサンとアンソニー・グスタフ兄弟は法人組織「ロスチャイルド・コンティニュエーション(Rothschild Continuation)」を創設した。N・M・ロスチャイルド&サンズは個人営業であり、その経営権はロスチャイルド一族に限定されていた。兄弟としては空襲で自分たちの身に万が一があった場合に備えて法人組織を作っておくことにした。結局、アンソニー・グスタフは第2次世界大戦を無事に乗り切ったが、ロンドン空襲ではメイフェアにあったアンソニーの邸宅が焼失した。
 第2次世界大戦中の西暦1942年に兄ライオネル・ネイサンが病死し、以降N・M・ロスチャイルド&サンズの経営はアンソニー・グスタフが単独で主導するようになった。第2次世界戦争が終結すると、復員した兄ライオネル・ネイサンの長男エドムンド・レオポルドを共同経営者にしたものの、彼はまだ銀行業務が経験不足であり、また本家のナサニエル・メイヤー・ヴィクターは銀行業務に関心を示さないという状況だったため、アンソニー・グスタフには一族内に頼れる共同経営者がなかった。そのため、慣例に反しロスチャイルド一族以外の社員を重用した。とりわけデビッド・コルビルを総支配人として片腕とした。デビッド・コルビルは西暦1960年には共同経営者となっており、ロスチャイルド家以外の人間として初めてN・M・ロスチャイルド&サンズの経営に参画することになった)。
 イギリス王国は第2次世界大戦で負った打撃から立ち直れず、次々と植民地を喪失するなど衰退の一途を辿った。N・M・ロスチャイルド&サンズもその影響を免れなかった。アメリカ合衆国の銀行が次々とイギリス王国に進出してきて、戦後復興を牛耳った。その事業はN・M・ロスチャイルド&サンズと競合するものだった。イギリス銀行界の老舗のロスチャイルド家も愈々影が薄くなっていき、「ブランド1流、仕事3流」などと陰口されるようになった。だがそれでもロスチャイルド家には長年に渉って培った蓄積があり、イギリス政府と密接に結びついて積極的な事業を続けた。西暦1952年にはイギリス首相ウィンストン・レナード・スペンサー・チャーチルの要請を受けて、カナダのニューファンドランドに1800万㎢という広大な土地を購入し、ブリティッシュ・ニューファンドランド(BRINCO)を創設して同地の資源開発を進めた。リオ・ティントやスエズ運河会社などが参加している。この事業は「今世紀この大陸における最大の不動産取引」と評された。帝国主義者であるウィンストン・チャーチルも大いに喜び、この事業に「偉大なる帝国の受胎」という名前を付けていた。
 西暦1955年にアンソニー・グスタフ・ロスチャイルドは脳溢血で倒れ、経営の第一線から退いた。以降デビッド・コルビルとマイケル・バックスがエドムンド・レオポルドを支えて銀行業を主導した。西暦1961年02月05日に73歳で死去。
 アンソニー・グスタフの死後、エドムンド・レオポルドの弟レオポルド・デイヴィッドや長男エヴェリン・ロバート・アドリアンもN・M・ロスチャイルド&サンズの経営に参画するようになり、エドムンド・レオポルド、レオポルド・デイヴィッド、エヴェリン・ロバート・アドリアンの「三頭体制」の経営に移行していった。
 西暦1949年にイギリス政府当局が交通状態緩和のため、自動車通勤をする者たちに鉄道利用を呼びかけた際、アンソニーはそれに応じて運転手付き自動車出勤を止めて、地下鉄通勤に切り替えた。社長出勤者の大多数はこんな呼びかけなど歯牙にも掛けなかったから、極めて異例だった。世間でも話題になり、マスコミにも取り上げられた。その宣伝効果を狙った部分もあったかもしれないが、それ以上に実利的でもあり、他のライバル銀行の頭取たちが交通渋滞に巻き込まれて車の中で苛々踏ん反り返っているのを尻目にアンソニー・グスタフは朝早くから出勤して差を付けることができた。

 妻イヴォンヌ・リディア・ルイーザ・カーン・ダンヴェール(Yvonne Lydia Louise Cahen d'Anvers) - ユダヤ人銀行家の娘。西暦1926年に結婚し1男2女を儲けた。実家のカーン・ダンヴェール家は著名なユダヤ系銀行財閥ビショフシェム家の姻戚(イヴォンヌの曾祖母がビショフシェム家出身)。
    第1子(長女)レネー・ルイーザ・マリー(Renée Louise Marie)。
    第2子(次女)アン・ソニア(Anne Sonia)。
    第3子(長男)エヴェリン・ロバート・エイドリアン(Evelyn Robert Adrian de Rothschild)。
 ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ中退。西暦1960年からN・M・ロスチャイルド&サンズの経営に参加。当時の頭取は従兄弟のエドムンド・レオポルドであり、彼の下レオポルド・デイヴィッドと共に投資部門の拡張に努め、「ロスチャイルド投資信託銀行(RIT)」を創設したが、やがてここは本家のナサニエル・チャールズ・ジェイコブ(後の第4代ロスチャイルド男爵)が主導する部門となった。ジェイコブの主導で外部からの資金が大量に流れ込むようになり、それを元手に積極的な企業買収が開始された。これによりN・M・ロスチャイルド&サンズの業績は急速に伸びた。またナサニエル・チャールズ・ジェイコブは「N・M・ロスチャイルド&サンズの本社ニューコート事務所が狭すぎる。」として伝統的な建築から近代的な事務所ビルに立て直させた。
 一方エヴェリン・ロバート・エイドリアンは伝統と堅実経営を好む人柄であり、ナサニエル・チャールズ・ジェイコブの失敗を恐れないM&A路線に不安を感じていた。またエヴェリン・ロバート・エイドリアンの父アンソニー・グスタフはN・M・ロスチャイルド&サンズの株式60%を保有していたが、ナサニエル・チャールズ・ジェイコブの父ロスチャイルド卿ヴィクターは20%しか持っていなかった。エヴェリン・ロバート・エイドリアンは「ナサニエル・チャールズ・ジェイコブを独断専行に過ぎる。」と考えていた。
 2人の対立が深刻化する中の西暦1975年に頭取のエドムンド・レオポルドが退任し、第3代ロスチャイルド男爵ナサニエル・メイヤー・ヴィクターが新しい頭取となった。エヴェリンとナサニエル・チャールズ・ジェイコブの対立の仲裁役となることを期待されての就任だったが、結局、ナサニエル・メイヤー・ヴィクターは息子より筆頭株主エヴェリン・ロバート・エイドリアンを支持したのでナサニエル・チャールズ・ジェイコブは1980年にRITとともにN・M・ロスチャイルド&サンズから独立することになった。その後ナサニエル・メイヤー・ヴィクターはエヴェリンに頭取職を譲った。エヴェリン・ロバート・エイドリアンの主導の下、N・M・ロスチャイルド&サンズは堅実経営に戻った。派手な企業買収こそなくなったが、順調に業績を上げた。
 西暦1972〜1989年にかけては雑誌「エコノミスト」の社長も務めた。西暦1989年にはエリザベス2世より騎士に叙された。西暦2003年にN・M・ロスチャイルド&サンズ頭取を退任して引退した。この後、N・M・ロスチャイルド&サンズはパリ・ロチルド家(ロスチャイルドの仏語読み)の銀行と統合され、ロスチャイルド・コンティニュエーション・ホールディングスが創設され、パリ・ロチルド家当主ロチルド男爵ヴィド・ルネ・ジェームスが頭取に就任した。西暦2022年11月08日、脳卒中の為死去。

 西暦1966年にジャネット・エレン・ドロシー・ビショップ(Jeannette Ellen Dorothy Bishop)と結婚し西暦1971年に離婚した。彼女との間に子供は無かった。西暦1973年にマーシャ・ロウ・ホイットニー(Marcia Lou Whitney)と不動産開発者ルイス・M・ショット(Lewis M. Schott)の娘でアメリカ生まれのヴィクトリア・ロウ・ショット(Victoria Lou Schott)と再婚し、彼女との間に以下の2男1女を儲けた。西暦2000年にヴィクトリア・ロウと離婚し、 リン・フォースター(Lynn Forester)と再々婚。
     第1子(長女)ジェシカ(Jessica)。
     第2子(長男)アンソニー・ジェームズ(Anthony James de Rothschild)(Anthony James)。西暦2005年にタニア・ストレッカー(Tania Strecker)と結婚。
     第3子(次男)デヴィッド・メイアー(David Mayer de Rothschild)。イギリス王国の冒険家、環境保護主義者、映画制作者。
 10代の頃、上級の馬術競技選手だった。その後、デヴィッド・メイアー・ロスチャイルドは学問に専念するために馬術を止め、ニューヨーカー誌に「馬に乗って何時間も過ごすよりも人生にはもっと多くのことがあると気づいた。」と述べた。オックスフォード・ブルックス大学に入学し、政治学と情報を優等の成績で理学士号を取得した。西暦2002年、デヴィッド・メイアーはロンドンの自然療法医学大学で学び、自然療法の上級免状(ND)を取得した。

 20歳までにデヴィッド・メイアーは、自身の音楽商業化事業を立ち上げ売却した。西暦2001年、彼はニュージーランドで1100エーカーの有機農場を購入し、極地探検に参加するよう招かれた。この経験により、デヴィッド・メイアーは進取の気性に富んだ環境冒険家となった。
 西暦2006年、デヴィッド・メイアーはロシア連邦からカナダまで100日以上を掛けて北極を横断し、両極に到達した42人のうちの1人、そして最年少のイギリス人となった。彼は既に南極大陸を横断した14人のうちの1人であり、グリーンランド氷床を史上最速で横断した世界記録を破ったチームの一員だった。西暦2006年、彼は探検と環境保護活動を子供や若者に紹介するために、ウェブサイト「使命制御(Mission Control)」を立ち上げた。北極横断はウェブサイトで取り上げられた最初の指令であり、2つ目はアマゾンを横断するか、バイカル湖からゴビ砂漠までを横断する計画だった。彼の探検は、冒険自然環境保全(Adventure Ecology)組織の設立にも繋がった。この団体は、気候変動とそれに関連する問題について議論するための組織と連絡網として機能し彼らはフェリペ・アンドレス・リオセコ・ドノソ(Felipe Andrés Rioseco Donoso)と共に太平洋を横断する探検を行った。この旅の目的は、気候変動の影響についての認識を高め、海洋生態系の保護を促進することだった。彼らはプラスチック廃棄物による海洋汚染との戦いに焦点を当てており、沿岸地域と社会全体に海を保護することの重要性を啓蒙することを目指した。
 西暦2000年代後半、デヴィッド・メイアー・ロスチャイルドは「太平洋のゴミの帯に対する認識を高める。」という使命を掲げ、サンフランシスコの31番埠頭にある研究所で「プラスティキ」と呼ばれる新しい形の持続可能な船を発明した。西暦2010年03月、デヴィッド・メイアーは、約12500本の再生プラスチックボトルとセレテックスと呼ばれる独自の再生技術で作られた60フィート(18m)の双胴船を進水させた。デヴィッド・メイアーと彼のチームが開発したセレテックスは、PETを斬新な方法で再利用し、廃棄物の新しい用途を見つけることを目的としていた。プラスティキ号とその乗組員は、サンフランシスコからシドニーまで太平洋を8000海里(15000km、900マイル)以上航海した。航海開始前夜、デヴィッド・メイアーと船長のジョー・ロイルはCNNの面談に応じ、この航海への期待について聞かれると、マーク・トウェインの言葉を引用した。プラスティキ号は西暦2010年07月26日にシドニーへの航海を無事に終えた。プラスティキ号と共に、デヴィッド・メイアーは共同体(community)の交流と道筋の共有のための基盤「ミョオ(Myoo)」(「community」の発音に由来)を立ち上げました。プラスティキ号は、タイム誌によって西暦2010年の50の最高の発明の1つに選ばれた。 プラスティキ号は、太平洋の探検家トール・ヘイエルダール(Thor Heyerdahl)が使用した筏、コンティキ号に因んで名付けられた。
 この船の建造は、再生ペットボトルを主な建材として使用しているだけでなく、再生された環境に優しい材料を船全体に使用していることでも注目に値する。西暦2010年04月、デヴィッド・メイヤーはグッド・モーニング・アメリカで次のように語った。「船のあらゆる部分、船をくっつけるために使った接着剤に至るまで、この計画のために特別に開発した接着剤です。カシューナッツと砂糖でできています。船のあらゆる部分、内装から再生素材、再生布に至るまで、全て最善を尽くし、世の中には様々な解決策があることを示しています。」西暦2009 年、ニューヨーカーの特派員ジョン・コラピントはプラスティキについて書き、その製作者であるデヴィッド・メイヤー・ロスチャイルドをリチャード・フランシス・バートン(Richard Francis Burton)やセバスチャン・エドワード・ファークハーソン・スノー(Sebastian Edward Farquharson Snow)などの冒険家と比較した。
 冒険自然環境保全(Adventure Ecology)の理路整然とした(ARTiculate)連続の一環として、デヴィッド・メイヤーは西暦2007年にエクアドル共和国のアマゾンへの現地調査探検を率いた。グループはエクアドルの熱帯雨林で時間を過ごし、国際石油会社が広大な石油埋蔵量を掘削することで引き起こした被害を記録した。西暦2011年11月、デヴィッド・メイヤーと小人数は、理路整然とした(ARTiculate)連続の一環としてブラジル連邦共和国のアマゾン熱帯雨林への探検を行った。その目的は、物議を醸しているベロ・モンテ水力発電ダム群(葡語: Complexo Hidrelétrico Belo Monte)計画の影響をより深く理解し、広く知らせることです。この探検は Myoo.comの記事で補足され、地元の子供たちと開発した芸術の計画で最高潮に達した。
 アウトサイド・マガジンの記者、キャティ・エンダーズから、ベロ・モンテ水力発電ダム群のような差し迫った問題に探検が変化を齎すことができるかどうか尋ねられたデヴィッド・メイヤーは、「このアマゾンへの芸術を基盤とした小さな冒険が、過去36年間に起こったことを変えると、考えるのは甘い考えでしょう。しかし、道で死にそうな人を見た時、あなたは歩き続けて、ああ、もうすぐ死ぬだろうと言いますか? これが、このような冒険に乗り出す時の現実です。何年も経たないと本当の結果がわからないかもしれません。」と答えた。
 ミョオ(Myoo)の考え方は、持続可能な慣行を生み出そうとしている企業と協力する広告代理店としてデヴィッド・メイヤーによって設立されたミョオ(Myoo)代理店に発展した。プラスティキ号の開発は 代理店「もっと利口計画(Smarter Plan)」という会社名で行われ、廃棄物を有用な物や装置に適応させるための追加の課題解決の開発を続けています。ミョオは最終的に、暴露(Exposure)広告代理店との新しい連携を反映して、世界暴露(World-Exposure)代理店に改名された。この団体は、企業に持続可能な慣行を紹介し、持続可能な手段を含む会話戦略を推進し、持続可能な企業を企業紹介するという任務を遂行している。ミョオ(Myoo)の前身は、デヴィッド・メイヤーの以前の組織、冒険自然環境保全(Adventure Ecology)であり、その使命は世界暴露(World-Exposure)代理店に吸収された。デヴィッド・メイヤーは、環境財団未来のための彫刻(Sculpt the Future)の創設者でもある。未来のための彫刻(Sculpt the Future) は、冒険自然環境保全(Adventure Ecology)やその他の注目度の高い方法を使用して環境教育を広める主導権を取った。アメリカNBCで放送されている朝の情報ニュース番組トゥデイ(The Today Show)によると、この財団は「人々がコミュニティと環境を変え、改善するための新しい方法を見つけることを奨励している。」デヴィッド・メイヤー・ロスチャイルドはまた、企業や組織に最も熱心な共同体貢献者や自発的意志者に連絡する方法、そして彼らに成功するために必要な手段を提供する方法を教えることに重点を置いたMパクト(Mpact)も設立した。西暦2010年初頭には、「Equation For Curiosity(好奇心の方程式)」という語句も商標登録した。

趣味‣嗜好・生活・思想・哲学までゴイムを洗脳して生き血を啜る悪魔のユダヤ、ロスチャイルド!!
 第3子(次男)初代ロスチャイルド准男爵アンソニー(英語: Anthony de Rothschild, 1st Baronet)。イギリス王国の准男爵位に叙された。
 乗馬に優れ、その功績でヴィクトリア女王より騎士の称号が贈られた。 アストン・クリントンに別荘を建てた。ここでの宴会はウィリアム・ユワート・グラッドストンとベンジャミン・ディズレーリなど政界の重鎮たちからも愛された。
 西暦1847年には特例で兄ライオネルの息子たちに継承可能な准男爵位が授与された。西暦1876年に65歳で死去し、ライオネルの長男ナサニエル・メイヤー・ロスチャイルドが准男爵位を継承した。

 西暦1840年に、祖父マイアー・アムシェル・ロートシルトの五女ヘンリエッテの娘ルイーズ・モンテフィオレ(Louise Montefiore)と従兄・従妹婚し、2女を儲けた。
  第1子(長女)コンスタンス(Constance)。
  第2子(次女)アニー(Annie)。エリオット・コンスタンティン・ヨーク(Eliot Constantine Yorke DL MP)大佐と結婚。子供はいなかった。夫エリオット・コンスタンティン・ヨークはケンブリッジシャーの保守党庶民院議員。ケンブリッジシャー民兵隊の隊長、エディンバラ公爵の侍従、ケンブリッジシャー副知事でもあった。ロンドンのメイフェア、カーゾン・ストリート17番地で35歳で亡くなった。
 第4子(三男)ナサニエル・ロスチャイルド(Nathaniel de Rothschild)、愛称: ナト。独語: ナタニエル・ド・ロートシルト、仏語: ナタニエル・ド・ロチル。パリに移住してシャトー・ムートンを買い取り、ロスチャイルド家が所有するフランスのワイン生産部門の創設者となった。
 ロンドンで生まれたナサニエル・ロスチャイルドは、ネイサン・メイアー・ロスチャイルドとハナ・ベアレント・コーエンの4番目の子で西暦1850年に、彼の叔父であるパリ・ロチルド家の祖、ジェイムズ・マイエール・ド・ロチルドが所有する銀行の業務に就くためにフランスのパリへ移住した。主にフランスに住んでいたが、英国社会で著名な人物であり、カウズの王立ヨット隊にも入っていた。30代の時、狩猟中の事故で負傷し、その後は公の場に姿を現すことはほとんどなかった。
 ナサニエル・ロスチャイルドは彼の叔父ジェイムズ・マイエール・ド・ロチルドと共にパリのロチルド・フレール銀行(後にヨーロッパ銀行、現バークレイズ)で働いた。西暦1853年、彼はジロンド県ポーイヤックの葡萄園シャトー・ブラーヌ・ムートン(château Brane Mouton)をテュレ(Thuret)という名のパリの銀行家から競売で落札した。その前はテュレが西暦1830年にブランヌ男爵エクトール(baron Hector de Branne)からその葡萄園を購入した。ナサニエル・ロスチャイルドはシャトー・ブラーヌ・ムートンの葡萄園の65エーカー(263000m2)のために1175000フランを支払い、その用地を、シャトー・ムートン・ロートシルト(Château Mouton Rothschild、ロートシルトは独語読み)と改名した。それは世界で最もよく知られるワイン生産者になったと言うことが出来得る。
 西暦1868年に、ナサニエルの叔父ジェイムズ・マイエールは隣接するシャトー・ムートンの3倍以上広いある名門の第1級(プレミエ・クリュ(premier cru))の所有地、シャトー・ラフィット(Château Lafite)葡萄園を取得した。それは家族間の競争を生んだ。西暦1855年のボルドーワインの格付けにてシャトー・ムートンは2級に格付けされて残念がり、彼は標語を作成した。"D'abord je ne peux pas être, ensuite je ne choisis pas d'être, Mouton je suis."「1級ではなかった。2級になろうとしない。ムートンだ。」
 西暦1856年に、ナサニエル・ロスチャイルドと彼の妻シャーロットはパリのフォーブール・サントノレ通り33番街の所有地をドニ・デクレ公爵から購入した。その時それはロシア大使館に貸し出されたが、賃貸が西暦1864年に終了して、彼は建物を一新してそれを彼の都市住居にした。三男のアーサー・ド・ロスチャイルド(仏語: アルテュール・ド・ロチルド)に引き継がれ、ナサニエルの孫アンリ・ジェームス・ナサニエル・シャルル・ド・ロチルドによって、西暦1918年に第1次世界大戦の連合国の社交クラブ「Cercle de l'Union interalliée (リュニオン・アンテラリエ会)」へ売却された。
 西暦1878年に、ナサニエル・ロスチャイルドはシュヴルーズ渓谷のセルネイ・ラ・ヴィルにあるヴォー・ド・セルネイ修道院を購入し、その時は西暦1118年に建設されたシトー会系修道院のただの廃墟であった。彼と妻は、湖畔の所有地を贅沢な田舎の邸宅に変えるための大規模な復旧作業と新築工事を実施した。
 ナサニエル・ド・ロスチャイルドは晩年期に失明した。彼は普仏戦争(西暦1870〜1871年)の間の西暦1870年に死亡し、彼の子供と孫たちはワイン事業に対してほとんど熱意を示さなかった。長男のネイサン・ジェームス・エドゥアール・ド・ロスチャイルドに引き継がれ、118年後のシャトー・ムートンを待つことになり、ナサニエル・ド・ロスチャイルドの孫アンリ・ジェームス・ナサニエル・シャルル・ド・ロチルドの子、曾孫フィリップ・ド・ロチルドの主導の下、フランス共和国で政治力と財力で、今までに第1級(プルミエ・クリュ)への再分類をさせた唯一の葡萄園になった。

 西暦1842年にナサニエル・ド・ロスチャイルドはジェイムズ・マイエール・ド・ロチルドの娘シャーロット・ド・ロチルド(Charlotte de Rothschild)と従兄・従妹婚し、3男1女を儲けた。
  第1子(長女)ナタリー(Nathalie de Rothschild)。夭逝。
  第2子(長男)ネイサン・ジェームス・エドゥアール(Nathan James Edouard de Rothschild)。
 パリで生まれた彼は幼い頃から本や原稿に興味を持ち、彼の収集の多くは学校での勤勉さに対する褒美として父親ナサニエル・ロスチャイルドから贈られたものだった。彼は法律を学び、西暦1866年に最初の訴訟を担当し、いくつかの法律関係の著作を出版した。その中には、彼が設立したフランス医学法学会に関連したものもあった。
 彼は西暦1870年にフランス・ハウスに入社し、北東鉄道会社の取締役になった。息子のアンリ・ジェームス・ナサニエル・シャルルは彼を「洞察力があり、計画的で、洞察力に優れている。」と評価した。彼はその資質を、書籍の収集だけでなく、事業にも活かしたに違いない。特に中世のフランス文学を愛し、国立図書館の未編集の原稿を出版する計画に取り組んだ。ネイサン・ジェームス・エドゥアールは、古代フランス文献協会とユダヤ学協会を設立した。妻のローラ・テレーズとともにパリのフリードランド通りに住んでいた。西暦1881年10月25日、37歳の誕生日の3日前に彼が亡くなった後、彼女はベルク・シュル・メールで彼が設立した病院の経営を引き継いだ。

 ナポリ家のマイヤー・カール・フォン。ロートシールト(Mayer Carl von Rothschild)の四女ローラ・テレーズ・フォン・ロートシールト(Laura Thérèse von Rothschild)と従叔父・従姪婚し1男1女を儲けた。
   第1子(長男)ロチルド男爵アンリ・ジェームス・ナサニエル・シャルル(Henri James Nathaniel Charles de Rothschild)。ワイン醸造家、レーシングドライバー、慈善家、美術収集家 、劇作家、起業家、医師の資格は持つが開業はしなかった。文学活動では、アンドレ・パスカル(André Pascal)、シャルル・デ・フォンテーヌ(Charles des Fontaines)、アンリ・デフォンテーヌ(Henri Desfontaines)、P.-L. ナヴォーとアンドレ・パスカルズ(P.-L. Naveau et André Pascales)などの筆名を使った。
 アンリ・ジェームズ・ナサニエル・シャルル・ロスチャイルドは市立ラ・シャリテ病院の産科で研修医となり、フランスで最も有名な医師や外科医の下で働き西暦1898年に医学博士号を取得した。1898年に医学を学び、いくつかの病院に寛大な資金を提供した。ベルクの礼拝堂は、画家のポール・アルベール・ベナール(Paul-Albert Besnard)と彫刻家のシャーロット・ベナール(Charlotte Besnard、旧姓: Dubray)によって装飾された。彼はまた、ピエール・キュリーとマリー・キュリー夫妻の研究に資金を提供した。弛まぬ起業家であり、常に新しいプロジェクトに満ちた彼は、フィアットグループに属するイヴェコに吸収されたユニック(Unic)自動車(現イヴェコ・フランスS.A.(Iveco France S.A.))から石鹸工場に至るまで、様々な産業を設立した。

 彼は自動車レース中は自らを「ドクター・パスカル」と呼ぶことが多かった。西暦1900年にパリ北西部で行われたシャンテルー・ヒルクライムでは3回目にダイムラー24馬力で優勝し、時折プロドライバーも使った。ニース−ラ・テュルビーのニース・スピードウィークでは、後にドイツ皇帝ヴィルヘルム2世(Wilhelm II、フリードリヒ・ヴィルヘルム・ヴィクトル・アルベルト・フォン・プロイセン(Friedrich Wilhelm Viktor Albert von Preußen))の首席運転手になったヴィルヘルム・ヴェルナー(Wilhelm Werner)に西暦1899年と西暦1901年にダイムラーまたはベンツの車を任せ、ニース−マガーニョスク間の往復レースでは2位に入った。西暦1928 〜1930年にかけて独自のレースを3回主催し、ルネ・ドレフュスとルイ・デカローリが優勝した。西暦1905年07月、彼はメルセデス609馬力でエクスレバンの観光コンテストで優勝した。彼は西暦1900年代にスポーツ・アカデミーの会員だった。
 西暦1896〜1900年にかけて、彼はエドゥアール・ドゥルモン(Édouard Drumont)の「ラ・リーブル・パロール(La Libre Parole)」紙のジャーナリスト、ラファエル・ヴィオー(Raphaël Viau)の標的となったが、この2人の反ユダヤ主義者は最終的に名誉毀損で封殺された。
 アンリ・ジェームス・ナサニエル・シャルルはフォーブール・サントノーレ通り33番地に住み始めた。この豪華な建物は彼が中央同盟協会に売却し、現在も彼の本社となっている。

 西暦1914年06月21日午前02時、ザドック・カーン(Zadoc-Kahn)医師と共にオペラ・ガラに出席した後、ロチルド男爵アンリ・ジェームス・ナサニエル・シャルルはエドゥアール7世通り近くのカプシーヌ大通りで襲撃の犠牲者となった。酪農家ピエール・プルドン(ierre Prudon)はグッドミルク慈善活動によって破滅し、リボルバー拳銃から数発発砲し、そのうちの1発が腰に命中したが、男爵は逃げた。
 第1次世界大戦中、彼はパリのフォーブール・サントノーレ通りにある彼の別荘、オテル・ペリネ・ド・ジャール(別名オテル・アンリ・ド・ ロスチャイルド) をフランス政府に引き渡し、戦争中は連合軍将校のクラブとして使用した。このホテルは、西暦1856年に祖父のナサニエル ・ド・ロスチャイルドがデクレ公爵夫人マリー・ローズ(Marie-Rose, Duchess Decrès)から 1675000フランで購入した。このホテルには、アンリ・ジェームス・ナサニエル・シャルルが西暦1912年のャック ドゥーセ(Jacques Doucet)で120000ドルで購入したモーリス・カンタン・ド・ラ・トゥール(Maurice Quentin de La Tour)のパステル画が飾られていた。西暦1920年、第1次世界大戦が終わった後、彼はこのホテルを社交クラブ同盟連合会(Le cercle de l'Union interalliée)に売却した(現在価値で167143ユーロ相当)。
西暦1922年に、西暦1912〜1922年にかけて建築家ルシアン・ヘッセ(Lucien Hesse)によって建設されたシャトー・ド・ラ・ミュエットに引っ越した。

 第1次世界大戦中、彼はアンブリンを大量に製造した。アンブリンは、西暦1853年トゥーロン生まれの海軍医師エドモン・バルト・ド・サンドフォール(Edmond Barthe de Sandfort)によって自身のリウマチを治療するために作られた、琥珀樹脂とパラフィンからなるワックス状の軟膏であり、全ての火傷者を救った。
 第1次世界大戦の終わり頃、ロチルド男爵アンリ・ジェームス・ナサニエル・シャルルはパリでシャトー・ド・ラ・ミュエットを含む2つの大きな土地を取得した。古いシャトーは西暦1920年代に取り壊され、彼は西暦1921〜1922年にかけて、ルシアン・ヘッセ(Lucien Hesse)による西暦19世紀の設計に基づいてパリの住居として新しいシャトーを建設した。このシャトーは第2次世界大戦中にドイツ海軍に接収された。西暦1944年08月のパリ解放の際、この城は、重要な情報収集に熱心なイギリス軍の「第30突撃部隊」によって、短時間の銃撃戦の後に占領された。西暦1945年後半、アメリカ陸軍は、戦争後の作戦を組織するためにこの建物を接収した。西暦1947年にアンリ・ジェームス・ナサニエル・シャルルが亡くなった後、相続人は西暦1949年にこの城を欧州経済協力機構(Organization for European Economic Co-operation)に売却し、本部として使用した。欧州経済協力機構(OEEC)は西暦1961年に経済協力開発機構(Organisation for Economic Co-operation and Development)に発展し、この城は現在も本部として使用されている。
 ランブイエの森の田舎家、ヴォー ド・セルネー修道院、及び西暦1926年からドメーヌ・ド・ボードヴァン12を所有していた。この土地に所属する庭師、園芸家、ドメーヌの管理者であるボヌフォワ(Bonnefoy)のお蔭で、ボードヴァンはその後、菜園、果樹園、葡萄畑で覆われた。このワイナリーは現在ラ・ヴァレット・デュ・ヴァール市が所有しており、「素晴らしい庭園(Jardin remarquable)」と名付けられている。フレテヴァルにある彼の狩猟小屋「ル・シャレー・デュ・ロワール」は、現在非常に酷い状態にある。

 ロチルド男爵アンリ・ジェームス・ナサニエル・シャルルとその妻ロチルド男爵夫人マチルド・ソフィー・アンリエット・フォン・ヴァイスヴァイラーは、フランス各地で「障害や病気を抱えた子供たち」のための多くの病院や精神病院を設立し、資金を提供した。パリではロチルド病院として知られる大規模な私立病院を設立し、そこで主任医師を務めた。彼は「慈善活動」によりレジオンドヌール勲章を授与され、後に「大戦中の計り知れない貢献」により同勲章の士官に昇格した。
 西暦1926年、彼はパリ号に乗って長期の旅のために米国に来た。著名な慈善家であったロチルド男爵夫人マチルド・ソフィー・アンリエット・フォン・ヴァイスヴァイラーは西暦1926年に亡くなった。
 西暦1895年の結婚で、母親ローラ・テレーズ・ド・ロチルドはシャンティ・イ近郊のグヴューにあるフォンテーヌ城を彼に贈った。城の建設は、西暦1879年に父親ネイサン・ジェームス・エドゥアール・ド・ロチルドの設計に基づいて建築家フェリックス・ラングレー(Félix Langlais)によって開始された。西暦1881年に父親ネイサン・ジェームス・エドゥアールが亡くなった時点では完成していなかったが、西暦1882年にに母親ローラ・テレーズによって完成された。アンリは城の所有者だったが、滅多に訪れず、西暦1931年に母親ローラ・テレーズ・ド・ロチルドが亡くなるまで、この城は母親ローラ・テレーズ・ド・ロチルドの夏の別荘だった。しかし、アンリの息子フィリップは、祖母ローラ・テレーズ・ド・ロチルドと一緒にこの城で夏を過ごした。第2次世界大戦中はドイツ国に占領され、西暦1946年にイエズス会に売却され、図書館と研究センターが設立された。西暦1998年にコンサルティング会社キャップジェミニに買収され、現在も同社が所有している。
 西暦1903年、アンリ・ジェームス・ナサニエル・シャルルは、ヴァレ・ド・シュヴルーズにあるセルネ・ラ・ヴィルのヴォー・ド・セルネ修道院を祖母のシャルロットから相続した。彼女は西暦1878年に修道院を購入したが、当時は西暦1118年に建てられたシトー会修道院の廃墟に過ぎなかった。彼女は湖畔の土地を田舎の家にするために、大規模な修復工事と新築工事を行った。アンリ・ジェームス・ナサニエル・シャルルは土地を相続すると、さらに住居を改装し、子供の栄養に関する実験に使用した。西暦1942年11月、アンリ・ジェームス・ナサニエル・シャルルと息子のジェームズは、ヴォー・ド・セルネにある1800エーカーの土地をヴィシー政権下の反ユダヤ法の下で没収した。修道院は競売で実業家で航空機製造業者のフェリックス・アミオに売却され、彼はそこに個人事務所を移した。
 西暦1940 年にドイツ国が第2次世界大戦でフランス共和国に侵攻すると、ロチルド男爵アンリ・ジェームス・ナサニエル・シャルルはブラジル連邦に逃亡した。 西暦1942年のヴィシー政権下のフランス国の反ユダヤ法により、アンリ・ジェームス・ナサニエル・シャルルの広大な不動産と美術品の所有物は没収され、フランス国籍は剥奪された。西暦1944年11月の「新フランス政府の初期の措置」は、「彼に財産と国籍の両方を返還すること」だった。彼はヨーロッパに戻り、ポルトガル共和国第2共和政(西暦1933〜1974年)でしばらく過ごした後、西暦1946年04月に自宅のカステル・ボー・セードルに戻り、西暦1947年に亡くなるまでそこで暮らした。
 アンリ・ジェームス・ナサニエル・シャルルは、スイス連邦ヴォー州ジュスタン・メゼリーにあるカステル・ボー・セードル(別名カステル・ボー・シドリ)も買収した。この地所にある城は、ローザンヌの建築家ギュスターヴ・ヴァナー(Gustave Wanner)によって西暦1770年に建てられた。また、この地所には、農学者ギュスターヴ・オーベルジョノワ(Gustave Auberjonois)によって西暦1872〜1891年にかけて建てられた建物のある農場もあった。アンリ・ジェームス・ナサニエル・シャルルは、かつてナポレオン1世(仏語: Napoléon Ier、ナポレオン・ボナパルト、仏語: Napoléon Bonaparte、出生名(西暦1794年以前)ナポレオーネ・ディ・ブオナパルテ、伊語: Napoleone di Buonaparte)の2番目の妹、ポーリーヌ・ボルゲーゼが夫のスルモーナ公カミッロ・フィリッポ・ルドヴィコ・ボルゲーゼ(Camillo Filippo Ludovico Borghes)ボルゲーゼ邸宅に備え、後に初代ウェリントン公アーサー・ウェルズリー(英語: Arthur Wellesley, 1st Duke of Wellington, KG, GCB, GCH, PC, FRS)がパリ駐在の英国大使館として購入した家具をこの城に備え付けた。

 ロチルド男爵アンリ・ジェームス・ナサニエル・シャルルは西暦1947年10月12日、スイス連邦ヴォー州ジュスタン・メゼリーにある彼の邸宅、カステル・ボー・セドルで亡くなった。
 彼は生前、パリ16区に筆名の 1つに因んで名付けられた通り、アンドレ・パスカル通りがあった。
 演劇に情熱を持っていた彼は、彼はシャルル・デ・フォンテーヌとアンドレ・パスカルという筆名で劇作家として活動した。アントワーヌ劇場を監督し、
愛人マルト・レニエ(Marthe Régnier)に敬意を表してピガール劇場を建設させたが、当時醜聞を引き起こした。
 西暦1895年にパリのヴィクトワール通りにあるグランドシナゴーグで、マチルド・ソフィー・アンリエット・フォン・ヴァイスヴァイラー((Mathilde Sophie Henriette von Weissweiller)と結婚し2男1女をなした。

    第1子(長男)ロチルド男爵ジャム・ナサニエル・シャルル・レオポルド・アンリ(Baron James-Nathaniel-Charles-Léopold-Henri de Rothschild)。銀行家である彼は、(イースタン鉄道会社からの)イースタン投資会社を含むいくつかの会社の取締役を務めた。
 第1次世界大戦中は空軍に勤務し、第2次世界大戦中は西暦1943年03月27日に自由フランス空軍に入隊し、司令官の階級に到達した。この取り組みにより、彼はレジオンドヌール勲章士官とクロワ・ド・ゲール勲章を獲得した。
 コンピエーニュの森で猟犬を使った狩猟の練習をしていた彼は、「谷や森を抜けて(仏語 パル・ヴォー・エ ・フォレ(Par vaux et forêts)」」の狩猟会組織を創設し、娘のモニーク・ハルファンが引き継いだ。西暦1937年にオワーズ市議会議員に選出され、その後西暦西暦1935〜1940年と西暦1945〜1947年までコンピエーニュ市長を務めた。

 西暦1923年にポール・ヴォルムス・ド・ロミリー(Paul Worms de Romilly.)の孫娘でデュポン大尉の娘クロード・デュポン(Claude Dupont)と結婚し西暦1964年に死別。西暦1966年にイヴェット・ショケ(Yvette Choquet)と結婚。
     第1子(長男)ニコール・ステファン(Nicole Stephane)。
     第2子(長女)モニク(Monique de Rothschild)。収集家ジョルジュ・ハルファン(Georges Halphen)と結婚。
    第2子(長女)ナディーヌ・シャーロット (Nadine Charlotte Rothschild))。西暦1919年にフランス公共事業大臣兼財務大臣のジョセフ・ティエリー(Joseph Thierry)の息子で当時駐ロンドンフランス大使館参事官だったアドリアン・ティエリー(Adrien Thierry)と結婚。
    第3子(次男)ロチルド男爵フィリップ(Le baron Philippe de Rothschild)。父はロチルド男爵アンリ・ジェームス・ナサニエル・シャルル、母はマチルド・ソフィー・アンリエット・フォン・ヴァイスヴァイラー。西暦1853年にシャトー・ムートンを買い取ったナサニエル・ド・ロスチャイルドの曾孫に当たる。パリ・ロチルド本家はこれに対抗して西暦1868年にシャトー・ラフィットを購入しており、以降同じロチルド一族で競争関係。ナサニエルはロンドン・ロスチャイルド家の祖ネイサン・メイアー・ロスチャイルドの三男だが、長くパリで暮らしたため、その子孫はロンドン家の系譜を離れてパリ・ロチルド家に転じた。
 兄ジャム・ナサニエル・シャルル・レオポルド・アンリ、姉ナディーヌ・シャーロットと共にスコットランド人の家庭教師メイ嬢から教育を受けた。第1次世界大戦中の西暦1918年にドイツ軍がパリ郊外まで迫ったため、メイ嬢とともにボルドーに疎開したが、この際に祖母ローラ・テレーズ・ド・ロチルドの所有するメドックにあるシャトー・ムートン・ロートシルトの葡萄園を見学し、その牧歌的な光景に心惹かれた。
 しかし訪問を続けるうちにフィリップはシャトー・ムートンが荒廃し始めていることに気付き、脚本を書くのに熱中してシャトーを気に掛けない父ロチルド男爵アンリ・ジェームス・ナサニエル・シャルルにシャトー救済の必要性を訴えた。父アンリ・ジェームス・ナサニエル・シャルルが調べたところ、シャトーは多額の借金を抱えており、祖母ローラ・テレーズの不在と管理の杜撰さに付け込む従業員たちの横領が発覚し、アンリ・ジェームス・ナサニエル・シャルルは改善のためフィリップに経営を任せることにした。フィリップはこれに大喜びした。
 西暦1922年にメドックに着任したフィリップは、横領している従業員たちを罰しなかった。原因は管理を怠った自分たちにあり、過去よりも将来の発展のことを考えたかったためだった。一方従業員たちはこれまで好き勝手やってこれたのに、ロチルド家の者が直接やって来て口煩く監督するようになったことが面白くなかった。しかしフィリップは彼らと意見交換していくことで少しずつ信頼を勝ち得ていった。
 フィリップはボルドーの酒商にワイン樽を渡し、熟成と瓶詰め作業を委託するという慣習に不満を抱いていた。そのため資本をかけてでもシャトーで瓶詰めまで行う元詰め方式に変更させた。このおかげで独自の味を確立しやすくなり、売り上げは徐々に伸びていった。さらにラベルに有名な画家の絵を付けることを思い付き、友人だったキュービズム派の画家ジャン・カルリュジャン・カルリュ(Jean Carlu)にデザインを頼んだ。しかし他のワイン商の反発を買い、この時には中止を余儀なくされた。
 シャトー・ムートンは西暦1855年のボルドーワインの格付けで2級とされていたが、フィリップはこの格付けは不当と考え、ライバルでパリ・ロチルド本家が所有するラフィットと同じ1級に昇格させることを夢見ていた。そのため、ムートンと既存の1級シャトー(ラフィット、マルゴー、ラトゥール、オー・ブリオン)の会合(1級ワイン協会)の設置を主導したが、格付け既得権の壁は厚く、ムートンの1級への昇格は当面認められそうになかった。
 西暦1930年代には悪天候のために葡萄が熟成されず、シャトー・ムートンを名乗れない低品質のワインが多くなった。処分に困ったフィリップはこれをムートンの2流品ラベル「ムートン・カデ(Mouton Cadet、Cadetは仏語で「士官候補生」の意)」と名付け、1流品ラベルとはデザインを変えて安価で販売した。このムートン・カデは大成功を収めた。これは悪天候でなければ生産できないので、他から葡萄を買い付けて安定供給を図った。ムートン・カデのお蔭でシャトー・ムートンは不作であった西暦1930年代を黒字でやっていくことができた。ムートン・カデは今日のフランスでも良く飲まれている。

 フィリップはしばしばワイン製造業から離れて気晴らしすることもあった。特に自動車レースにレーサーとして出場することと演劇の演出をすることであった。フィリップはレーサーとしての才能にも恵まれており、西暦1929年には第1回モナコグランプリに出場している。また同年ディジョンで行われたブルゴーニュ・グランプリでは優勝を果たしている。愛車はイスパノ・スイザ、ついでブガッティだった。やがて事故で怪我をしたため、以降はレーサーとして大会に参加することはできなくなったが、ブガッティのスポーツカーを愛し続け、後年にはブガッティのテストドライバーをしていた。
 また西暦1929年には以前から脚本書きに凝っていた父アンリ・ジェームス・ナサニエル・シャルルがパリに劇場「テアトル・ド・ピガール」を建設したため、フィリップも演劇の演出家を務めるようになった。しかしこの劇場は赤字続きで西暦1931年には閉鎖してしまった。父アンリ・ジェームス・ナサニエル・シャルルはこれを機に演劇の脚本を書かなくなったが、フィリップは演劇に関心を持ち続け、後にはイギリスの劇作家クリストファー・フライ(Christopher Fry)の作品をフランス語に翻訳した。

 第2次世界大戦中の西暦1940年05月にドイツ軍が破竹の勢いでフランス共和国へ進撃してきた。ドイツ軍のパリ接近の報を聞くと妻エリザベート(愛称: リリー)と娘フィリピーヌを伴ってシャトー・ムートンへ逃れた。だがドイツ軍は今にもメドックまでやってきそうな勢いだったので、ここからも離れることにした。従業員たちがしばらくの間は給料に困らぬよう金を隠していった。リリーとフィリピーヌはドルドーニュの友人の所へ送り、自身は南へ逃れた。ドイツ兵の多くは、ロチルド家を悪辣なユダヤ金融資本の象徴と見做して敵意を燃やしており、シャトー・ムートンに現れるや、憎悪に駆られて逃亡した当主を探し回った。しかし見つけられず、結局フィリップの肖像画に銃弾を撃ち込んで帰っていった。その間、従業員たちは恐怖に震えあがっていた。
 フィリップは仏植民地フランス保護領モロッコ(西暦1912〜1956年)のカサブランカに逃れたが、ここでフィリップは、アンリ・フィリップ・ベノニ・オメル・ジョゼフ・ペタン(仏語: Henri Philippe Benoni Omer Joseph Pétain)元帥のヴィシー政府への叛逆を企てていたピエール・マンデス・フランス(Pierre Mendès-France)に協力したため、ピエール・マンデス・フランス共々ヴィシー政権フランス国軍の捕虜となった。カサブランカで8ヶ月の捕虜生活を送った後、被占領地域のマルセイユに送還された。その後しばらくフランスの非占領地域に留まっていたが、ヴィシー政府の反ユダヤ政策も徐々に激化し、西暦1942年11月にはドイツ軍が非占領地域の占領を開始したため、ついにフランス出国を決意した。この際に疎遠になって離縁していた夫フィリップは元妻リリーにも一緒に逃れるよう求めたが、彼女は自分はカトリックで、ペタン元帥の側近に友人もいるので大丈夫と同行を拒否し、フランス国に残った。
 西暦1941年、ゲハイメ・シュターツポリツァイ(独語: Geheime Staatspolizei、通称: ゲシュタポ、独語: Gestapo、秘密国家警察)は偽造許可証で境界線を越えようとした罪でリリー(エリザベート・ペルティエ・ド・シャンブール)を逮捕し、ベルリンの北約50マイルにあるラーフェンスブリュック強制収容所に送り、そこで死亡した。伝記作家メリル・セクレスト(Meryle Secrest)は、ローマ生まれのファッション・デザイナー、「エルザ・スキャパレッリ(Elsa Schiaparelli)の伝記の中で、リリーが強制収容所で死亡したのは、彼女がエルザ・スキャパレリのファッションショーで席を変えたためであり、ヴィシー政府駐在のドイツ国大使ハインリヒ・オットー・アベッツ(Heinrich Otto Abetz)を避けたためではない。」と示唆している。
 止む無くフィリップは単身でピレネー山脈を徒歩で44時間かけて越えてフランコ政権スペイン国(西暦1936〜1975年)へ逃れた。さらにポルトガル共和国を経由してイギリス王国へと逃れた。イギリス王国でシャルル・ド・ゴールの自由フランス軍に入隊し、暗号解読部に所属した。自由フランス軍時代に第4級レジオンドヌール勲章を受章した。
 西暦1944年06月のノルマンディー上陸作戦に際しては解放されたルアーブルで民政に当たった。この際に妻リリーがゲシュタポに逮捕されたらしいことを知った。ルアーブルでの任務を終えると、すぐにパリに向かい、元妻リリーと娘フィリピーヌの情報をかき集めた。フィリピーヌは移送される前に母方シャンビュール家の手引きでパリを脱出してエスクリネルのシャンビュール家に引き取られたが、リリーはパリから脱出できず、移送列車に乗せられて東部へ移送されたらしいことがわかった。娘フィリピーヌとは再会できたが、元妻の行方は何も摑めなかった。
 丁度この頃、フィリップは解放されたドイツ国内の強制収容所を訪問して生存者から証言を取る任務を与えられたため、収容者リストに妻の名前を探したが見つからなかった。パリに戻った後には強制収容所収容者の生活を支援する公共機関に通って元妻を探した。そこで戦時中にフィリップとリリーを匿ってくれた人の親戚で、ラーフェンスブリュック強制収容所から解放されたばかりの女性と出会い、彼女からリリーがラーフェンスブリュック強制収容所で死んだことを知らされた。それを聞いたフィリップは絶望の淵に沈んだ。ゲシュタポが偽造許可証で国境線を越えようとした容疑で、疎遠になっていた元妻リリーを西暦1941年にラーフェンスブリュック強制収容所に移送したことを知った。そこで彼女は西暦1945年03月23日に死亡した。死因は不明。流行性チフスで死亡したと伝えられているが、フィリップの回想録には、「生きたまま強制収容所の炉に投げ込まれた、」と記されている。フィリップの回想は自虐史観に洗脳するユダヤの常套手段。まして悪魔のロチルド。真実などない嘘噺。
 リリーは第2次世界大戦中にフィリップに同行せず、フランス共和国に留まったため、ドイツ国のラーフェンスブリュック強制収容所に移送されてそこで果てることとなった。戦後フランス共和国に戻ったフィリップはこれを知ると絶望し、カトリックの彼女が収容所に送られたのはロチルドの姓のせいだと考え、自分と結婚さえしなければ彼女は死なずに済んだと自責の念に苦しんだ。しかし生前リリーは知人から「ロチルドの名前は貴方に不幸しか齎さないでしょう?」と問われた際に「ロチルドの名前が何を齎そうと、私には苦しみよりも喜びの方が多かったわ。」と答えていた。
 戦時中亡命したロチルド一族の者はヴィシー政府によってフランス国籍を剥奪され、財産の所有権も無くなり、一方的に掠奪された。シャトー・ムートンはシャトー・ラフィットと同じくヴィシー政府農業省に所有されていた。ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ヴィルヘルム・ゲーリング(独語 : Hermann Wilhelm Göring)国家元帥がフランスの有名ワインを個人的支配下に置こうとしていたので、ヴィシー政府としては出来るだけドイツ人の手に落ちないようにとシャトーを直接所有したようだった。しかし戦争が終わるまでにはシャトー・ムートンはすっかり荒廃してしまった。
 フランスを解放したド・ゴール臨時政府はただちにユダヤ人のフランス市民権を回復し、ユダヤ人が不当に奪われた財産も全て返還することを宣言した。これによりフィリップもシャトー・ムートンの所有権を取り戻した。フィリップがシャトー・ムートンへ戻った際、醸造長に貯蔵庫にある苔むした壁に案内された。醸造長は「貴方様がここをお発ちになった時、この壁を作らせたのです。ご主人様、貴方様の最高級のワインはこの壁の向こうにございます。ゲーリングに奪われてなるものかと思って隠したのでございます。」と述べ、壁の向こうに隠してあるシャトー・ムートンの極上物をフィリップに披露した。
 事業を再開し始めた当初は資金がなかったため、厳しい状態が続いたが、ロチルドの名の信用のお蔭で融資を受けられ、再建を軌道に乗せることができた。西暦1947年には父アンリ・ジェームス・ナサニエル・シャルルが死去し、兄ジャム・ナサニエル・シャルル・レオポルド・アンリ、姉ナディーヌ・シャーロットと共もにシャトー・ムートンの所有権を得たが、兄も姉もシャトー・ムートンに関心を持っていたなかったので2人の所有権はフィリップが買い取ることになった。
 事業再開とともに以前やっていたラベルに画家の絵を使うやり方を再度採用した。さらに年毎にラベルのデザインを変えることにした。サルバドール・ダリ(Salvador Dalí、初代プブル侯爵ダリ Marqués de Dalí de Púbol、カタルーニャ語: サルバドー・ドメネク・ファリプ・ジャシン・ダリ・イ・ドメネク(Salvador Domènec Felip Jacint Dalí i Domènech)。西語: サルバドール・ドミンゴ・フェリペ・ハスィント・ダリ・ドメネク(Salvador Domingo Felipe Jacinto Dalí Doménech))、ジョアン・ミロ(カタルーニャ語: Joan Miró i Ferrà、ジュアン・ミロー・イ・ファラー)、マルク・シャガール(Marc Chagall, イディッシュ語: מאַרק שאַגאַל‎‎)、パブロ・ピカソ(Pablo Ruiz Picasso)などの画家がムートンのラベルを描いた。
 シャトー・ムートン所有者であるフィリップは、これを「恐ろしい不正」と評した。一般には、格付けの直前にシャトーがイギリス人に買われ、フランス人の所有ではなくなっていたためと信じられた。戦後もフィリップはシャトー・ムートン・ロートシルトの格付けを1級に上げるためにあらゆる手を尽くした。パリ家の分家のロチルド男爵エリー・ロベール(Baron Élie Robert de Rothschild)が所有するラフィットを初めとする既存の4つの1級シャトーから締め出しを食らった。しかしシャトー・ムートンの有力かつ強力な所有者による長年のロビー活動の結果、ロチルド家に近いジョルジュ・ジャン・レイモン・ポンピドゥー(仏語: Georges Jean Raymond Pompidou)が大統領となった西暦1969年から徐々に情勢は動き出し、他の1級シャトーも妥協していき、ついに西暦1973年06月21日に農業相ジャック・ルネ・シラク(仏語:Jacques René Chirac、後のフランス大統領)はシャトー・ムートンに対して第1級(プレミエ・クリュ)への昇格を認める省令に署名するに至った。これは西暦1855年の格付けを変更させた唯一の例である(西暦1856年のシャトー・カントメルルの追加を除く)。シャトー・ムートンではこれを盛大に祝い、フィリップは西暦1973年ヴィンテージのラベルに「我1級なり、かつて2級なりき、されどムートンは変わらず。」と刻ませた。西暦1988年に死去し、シャトー・ムートンは娘フィリピーヌが3人の子供たちと共に事業を引き継いだ。
西暦2003年06月、シャトーはワイン博覧会の最後にフラワー・フェスティバル(La Fête de la Fleur)を開催し、150周年記念を祝った。
 西暦1919年にM・アドリアン・ティエリー(M. Adrien Thierry)と結婚。
 ブルゴーニュ地方の裕福なカトリック教徒で、ナポレオン・ボナパルト(仏語: Napoléon Bonaparte、西暦1794年以前: ナポレオーネ・ディ・ブオナパルテ(伊語: Napoleone di Buonaparte)、ナポレオン1世(仏語: Napoléon Ier)の将軍ローラン・オーギュスタン・ペルティエ・ド・シャンブール(Laurent Augustin Pelletier de Chambure)を先祖に持つエスクラニョールの市長オーギュスト・ペルティエ・ド・シャンブール(Auguste Pelletier de Chambure)とその妻(旧姓: カミーユ・マリー・クルトワ・デスキブ(Camille Marie Courtois Desquibes))の娘、エリザベート・ド・シャンビュール(Élisabeth, Pelletier de Chambure)は、西暦1923年にエリザベート・ペルティエ・ド・シャンブールはフィリップの従兄弟でベルギー貴族のベッカー・レミ男爵ジョンケール・マルク・エドゥアール・マリー(Jonkheer Marc Edouard Marie de Becker-Rémy)と結婚し男爵夫人だったが、2人の間には息子のエドゥアール・ジャック・マリー・オーギュスタン(Edouard Jacques Marie Augustin)娘フィリピーヌ・マチルド・カミーユ(Philippine Mathilde Camille)がいたが、娘フィリピーヌ・マチルド・カミーユの実父はフィリップ・ド・ロチルドで、フィリピーヌの妊娠を機に西暦1934年01月22日に離婚してフィリップと再婚することになった。
息子のエドゥアール・ジャック・マリー・オーギュスタンは結婚しなかったが、異母妹シモーヌ(Simone)の息子、デカン男爵ポール・エマニュエル(Baron Paul-Emmanuel Descamps)を養子に迎え、ベッケル・レミ姓を名乗った。西暦1933年にエリザベート・ペルティエ・ド・シャンブールはカトリックから猶太教に改宗し、宗教儀式はパリのグランドラビ、ジュリアン・ウェイルによって執り行われた。エリザベートとの結婚生活は情熱に満ちていたが、同時に激しい激動と絶望に満ちていた。リリーの愛称を持つエリザベート・ド・シャンビュールと再婚し1男1女をなした。息子シャルル・アンリが奇形で生まれ、すぐに亡くなったことで、夫婦の困難は増した。最終的に2人は激しく別れ、西暦1939年までにエリザベートは旧姓のペルティエ・ド・シャンブールに戻った。
 西暦1945年に彼女がラーフェンスブリュック強制収容所で死亡した後、西暦1954年にパリで活躍するアメリカ人のファッションデザイナーのポーリン・フェアファックス・ポッター(Pauline Fairfax Potter)と再々婚した。ポーリンとフィリップは芸術と文学の愛好で気が合った。またポーリンはシャトー・ムートンのワインを愛していたので彼女もシャトーの経営に積極的に参画した。
     第1子(長女)フィリピーヌ・マチルド・カミーユ(Philippine Mathilde Camille de Rothschild)。フランス共和国の女優であり、最初、フィリピーヌ・パスカルという芸名で主に劇場(コメディ・フランセーズ)で女優として知られていましたが、映画やテレビでも少しだけ知られていた。ワイン界におけるフランス共和国の著名人。シャトー ・ムートン・ロートシルト、プルミエ・グラン・クリュ・クラッセの子供たちと共に所有者であり、「バロン・フィリップ・ド・ロートシルト S.A.」という会社の大株主。チャレンジズ誌によると、西暦2014 年のフィリピーヌ・ド・ロスチャイルドとその家族の財産は7億5000 万ユーロで、フランスで80位。
 フィリピーヌ・マチルド・カミーユ・ド・ロチルドは、ロチルド男爵フィリップとラーフェンスブリュックへの強制送還中に亡くなったエリザベート・ペルティエ・ド・シャンブレの娘。フランスのカトリック貴族であるフィリピーヌ・マチルド・カミーユの母親は、彼女が生まれた時、父親のフィリップ・ド・ロチルドではなく、ベルギーの貴族であるベッケル・レミ男爵マルクと結婚していた。法廷闘争と、フィリピーヌ・マチルド・カミーユを母親から引き離すというベッケル・レミ男爵マルクの脅迫の後、夫婦は西暦1934年に離婚した。その直後、フィリピーヌ・マチルド・カミーユの母親と父親はパリで結婚した。西暦1938年、エリザベート・ペルティエは男の子シャルル・アンリを出産したが、生後間もなく死亡した。翌年、子供の死が原因で、夫婦は別居した。フィリピーヌ・マチルド・カミーユは母親と一緒に居た。
 西暦1942年、フィリップはロンドンのド・ゴール将軍に加わり、パリがまだドイツ国の統治下にあった西暦1944年06月22日、2人の警官がエリザベート・ペルティエの家を訪れ、彼女を逮捕した。しかし、彼らは当時11歳のフィリピーヌはを連れて行かなかった。それは明らかに彼女が2人の警官のうちの1人の娘に似ていたため、あるいは別の説によると彼女が地下室に隠れていたため。フィリピーヌの母親エリザベート・ペルティエはラーフェンスブリュックに強制収容され、西暦1944年07月に国外追放者の最終列車に乗ってフランスを出発した。彼女は、ロスチャイルド家の中で強制収容所で失踪した唯一の人物。

 演劇に情熱を注ぐフィリピーヌは、入学するまでに国立演劇学校の入学試験を3回受けた。その後、フィリピーヌ・パスカルの芸名で舞台女優としての経歴が始まり、西暦1958年にコメディ・フランセーズで5年間団員として働き始め、間違いなく頂点は西暦1973年の役柄の解釈であった。コリン・ヒギンズ(Colin Higgins)作、ジャン・クロード・カリエール(Jean-Claude Carrière)によるフランス版翻案「ハロルドとモード」の茶筅夫人。彼女は、「ハロルドとモード」の演出でマドレーヌ・ルノー(Madeleine Renaud)と6年間共演した。ジャン・ルイ・バロー(Jean-Louis Barrault)と西暦1978年にテレビ版として再演。彼女は西暦1973〜1987年までルノー・バロー社にいた。
 西暦1980年代、父親フィリップの要望で、フィリピーヌは家族のことに専念し始めた。そこで彼女は西暦1981 年に、シャトー ムートン ロートシルトのラベルのために様々な画家によって西暦1945年以降に描かれた作品の展覧会を企画した。西暦1988年に父親が亡くなると、彼女は演劇を捨て、シャトー・ムートン・ロートシルトと、西暦1853年以来家族経営のメドックのポイヤック・ワイン会社の手綱を引き継いだ。西暦1988〜2014年の間に2.5倍となり、1億8800万ユーロに達した。彼女はまた、会社を近代化し、ボトルのラベルを有名な芸術家によってデザインさせるという父親の伝統を引き継いだ。その持株会社には、シャトー・ムートン・ロートシルト、シャトー・ダルマイヤック、シャトー・クレール・ミロン、ドメーヌ・ド・ランベール、バロン・アルク、バロン・フィリップ・ド・ロートシルト、ムートン・カデ、カリフォルニアのオーパス・ワン、チリのヴィーニャ・アルマヴィーヴァが含まれた。
 パサージュ・ドゥ・ラ・ビジタシオン(パリ7区)に住んでいた彼女は、西暦2014年08月23日に肺感染症によりパリ14区で亡くなった。

 フィリピーヌは様々な有能な人材に囲まれ、長年にわたり、俳優兼監督ジャック・セレエス(Jacques Sereys)との最初の結婚で1男1女をなした(カミーユ・セレイスとフィリップ・セリス・ド・ロートシルト)。ジャック・セレイスとの離婚し学者で作家のジャン・ピエール・ド・ボーマルシェ(Jean-Pierre de Beaumarchais)と再婚し1男をなした(ジュリアン・ド・ボーマルシェ・ド・ロチルド)。
 西暦2014年にフィリピーヌが死去し、シャトーは子供3人の共同所有。カミーユ・セレイスとジュリアン・ド・ボーマルシェは、監査役会長であるフィリップ・セレイスと緊密に協力し合っている。
 フィリップ・セレイス(Jacques Sereys Jean-Pierre de Beaumarchais)と結婚し2何女をなした
      第1子(長女)カミーユ・セレイス(Camille Sereys de Rothschild)。
      第2子(長男)フィリップ・セレイス(Philippe Sereys de Rothschild)。
      第3子(次男)ジュリアン・ド・ボーマルシェ(Julien de Beaumarchais de Rothschild)。
     第2子(長男)シャルル・アンリ(Charles Henri)。生後すぐに死去。
   第2子(長女)ジャンヌ・ソフィー・アンリエット(Jeanne Sophie Henriette de Rothschild)。 フランスのシャンティイの森にある6haの緑地を備えた120室の城、建築家レオン モーリス シャトネーによるシャトー・モンヴィラルジェンヌの建設者。
 ジャンヌ・ソフィー・アンリエット・ド・ロチルドの祖父は、ロンドンに生まれ義父で叔父のジェームス・マイヤー・ロチルドとパリで暮らすことになったナサニエル・ド・ロスチャイルドで、ナサニエル・ド・ロスチャイルドが1124000フランで取得した35haのシャトー・ムートン・ロートシルトの地所を長男のネイサン・ジェームズ・エドゥアール・ド・ロスチャイルドが西暦1853年05月11日、相続した。彼は最終的に管理棟と居住用の建物を建てたが、西暦1881年に亡くなったため、完成したのは未亡人のローラ・テレーズだった。
 彼女の母ローラ・テレーズ・ド・ロスチャイルドはフランクフルト・アム・マイン生まれで、ナポリ家の祖父マイヤー・カール・フォン・ロートシルトと祖母ルイーズ・フォン・ロートシルト(ネーサン・メイヤー・ロートシルトの末娘の三女)の間に生まれた7人娘の四女。ロンドン家の祖ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドは、末弟のパリ家のジェームス・ド・ロチルドと共に、英国政府とヘッセン選帝侯ヴィルヘルム1世に金融サービスを提供し、銀行の隆盛に大きく貢献した。彼女は「啓蒙主義の精神で育ち、非常によく教育されている。」と考えられていた。
 ネイサン・ジェームス・エドゥアール・ド・ロスチャイルドとその妻の結婚により、アンリ・ジェームス・ナサニエル・シャルル・ド・ロチルドとジャンヌ・ソフィー・アンリエット・ド・ロチルドという2人の子供が生まれた。
 彼女はフランクフルト・アム・マイン生まれの母親と強い絆を持っており、「シャンティイ近郊のグヴューにあるフォンテーヌ城の近くに住みたい。」と心から望んでいた。ピカルディ地方の県。グヴューのフォンテーヌ城はロチルド家が所有していた邸宅で、後にイエズス会の教育機関となり、現在は研修場として機能しています。敷地内の歴史的な礼拝堂は、アルバート・グレーズ(Albert Gleizes)によって設計されました。
 西暦1900年頃、彼女は個人的な願いを叶え、シャンティイの森に大きな城を建てた。このために彼女は、パリ国立高等美術学校を卒業した建築家、レオン・モーリス・シャトネー(Léon-Maurice Chatenay)に依頼した。彼はとりわけ、また、西暦1902〜1905年にかけて、パリ19区の「アドルフ ド ロスチャイルド眼科財団」の建設を担当した。レオン・モーリス・シャトネーは、モンヴィラルジェンヌ城とともに、地域的なスタイルと外国のスタイルを見事に組み合わせた120室の城を建設した。ノルマン様式の木骨造り、ヴュルテンベルク様式の屋根、イギリス式の窓やベアルン地方の特有のバルコニーなどを見ることができる。
 西暦1929年に建設者が亡くなった後、シャトーはしばらく機能しなかった。第2次世界大戦中はドイツ軍に占領された。連合軍は爆弾を投下して城の西翼を破壊した。戦後、この教会はカトリックのイエズス聖心修道女会(サクレ・クール寺院)に残され、サクレ・クール寺院が再建され、寄宿学校を併設した女子修道院が開設されたが、西暦1969年に閉校となった。その後、ここでホテル・スクールを運営し、西暦1983年にホテルとして開業した。西暦2003年に内装が全面改装され、4つ星ホテルに認定された。

 ジャンヌ・ソフィー・アンリエット・ド・ロスチャイルドは、西暦1896年に22歳​​の時にロスチャイルド家ではない、イギリス王国出身のレオニーノ男爵デイビッド(Baron David Leonino)と結婚した。
  第3子(次男)メイアー・アルバート(Mayer Albert de Rothschild)。夭逝。
  第4子(三男)ロチルド男爵アーサー(Baron Arthur de Rothschild)。父ナサニエル・ロスチャイルドは英国籍でフランスで生まれたため、彼はイギリス王国国民であったが、西暦1872年にフランス国籍を取得した。彼は著名な切手収集家でもあり、その主題に関する本を出版した。彼はまた、珍しいタペストリーを収集した。彼はまた、ヨットにも興味があり、アメリカズカップの賞金を提供した。彼は53歳で、モンテカルロの肘掛け椅子で心不全のため死亡。死後、重要な絵画はルーブル美術館に、古い指輪の大規模なコレクションはクリュニー美術館に寄贈された。
 第5子(次女)ハナ・メイアー。グラフトン公爵(Dukes of Grafton)家に生まれ、チャールズ2世(Charles II)の玄孫にあたり、第2代サザンプトン男爵ジョージ・フィッツロイ(George FitzRoy, 2nd Baron Southampton)中将の2番目の妻フランシス・イザベラ(Frances Isabella)(ロバート・シーモア(Robert Seymour.)の娘)との間に生まれた次男の、政治家ヘンリー・フィッツロイ(Henry FitzRoy)と結婚し1長1女を儲けた。
  第1子(長男)アーサー・フレデリック・フィッツロイ(Arthur Frederic FitzRoy)。
  第2子(長女)キャロライン・ブランシュ・エリザベス・フィッツロイ(Caroline Blanche Elizabeth FitzRoy)。
 第6子(四男)ロスチャイルド男爵メイヤー・アムシェル(Baron Mayer Amschel de Rothschild) 。愛称: マフィーイギリス王国の庶民院議員、馬主。
 西暦1859〜1874年までハイス選挙区選出の庶民院議員を務めた。バッキンガムシャー州長官、バッキンガムシャーの治安判事や副統監も務めた。西暦1850 年、メイヤー・アムシェルは 12400 ポンドでメントモアの荘園を購入し、ジョセフ・パクストン(Joseph Paxton)とその義理の息子ジョージ・ヘンリー・ストークス(George Henry Stokes)に、田舎の邸宅として西暦19世紀復興のジャコベタン様式の優雅な邸宅の設計と、夫妻の美術蒐集品の展示を依頼しました。完成した邸宅は、最新の特徴を取り入れ、四角い形で各角に塔が立つ小高い丘の上に建ち、イギリスのロスチャイルド家最大の邸宅で、中央にはガラス張りの屋根の巨大な大広間があり、ルネッサンス様式の宮殿のアーケードのある中庭を模して設計された。

 競走馬の飼育に熱心であり、西暦1871年には5つのクラシックのうち4つ(ダービー、セントレジャー、オークス、1000ギニー)までを「ハンナ」と「ファヴォニウス」で制した。特にダービーにおいて優勝を手にしたのはこの時が初めてだった。メイヤーの種馬飼育場は彼の死後、ロンドン・ロスチャイルド家第2代当主ライオネル・ド・ロスチャイルドの三男、甥のレオポルド・ライオネルに相続され、レオポルド・ライオネルも2度ダービーで優勝を手にすることになった。
 西暦1874年に55歳で死去。嫁ジュリアナは広大なメントモアの地所とピカデリー107番地を相続し、当時最も裕福なイギリスの相続人と言われた。豪華ヨット「ゼナイド」を所有しており、ジュリアナは、西暦1877年にこのヨットで亡くなった。
 メイヤー・アムシェルの母ハンナ・バレント・コーエン(Hannah Barent Cohen)の姪、アイザック(Isaac Cohen)とサラ・コーエン(Sara)の3人の娘の長女のジュリアナ・コーエン(Juliana Cohen)と西暦1850年に従兄・従妹婚 Cohenし1女を儲けた。
  第1子(長女)ローズベリー伯爵夫人ハンナ・プリムローズ(Hannah Primrose, Countess of Rosebery)。
 西暦1874 年に父メイヤー・アムシェルの遺産を相続後、彼女はイギリスで最も裕福な女性となり、西暦1878年、ハンナ・ド・ロスチャイルドは第5代ローズベリー伯アーチボルド・プリムローズと結婚し、その後ローズベリー伯爵夫人として知られるようになった。西暦19世紀最後の四半期、彼女の夫ローズベリー伯アーチボルド・プリムローズは英国で有名な人物であり、影響力のある大富豪で政治家で、その魅力、機知、 カリスマ性、そして国民の人気により「王族の地位をほぼ凌駕する」ほどの地位を獲得した。ハンナ・プリムローズは謎に包まれた人物であり、夫の3つの野望、即ち相続人との結婚、ダービーでの優勝、そして首相就任(おそらくは伝説的なこの野望の2番目と3番目は彼女の死後に達成された)に資金を提供した人物と見做された。実際に彼女は夫の原動力であり動機であった。西暦19世紀半ばまでにロスチャイルド家は自分たちをヨーロッパのユダヤ人にとって王族に最も近い存在、王族と同等の存在と見做していた。
 ユダヤ人と貴族との結婚は当時物議を醸したものの、反ユダヤ主義社会において、莫大な財産では得られなかった社会的地位を彼女に与えた。 その後、彼女は政治のホステスおよび慈善家となった。彼女の慈善活動は主に公衆衛生の分野と、ロンドンの貧しい地区に住む労働者階級のユダヤ人女性の福祉に関連した活動であった。夫の道をしっかりと支えてきた彼女は、西暦1890年に39歳で突然亡くなった。

 西暦1878年に自由党の政治家、第5代ローズベリー伯爵アーチボルド・フィリップ・プリムローズ(Archibald Philip Primrose, the 5th Earl of Rosebery)(後の首相)と結婚し2男2女を儲けた。

   第1子(長女)シビル・プリムローズ(Sybil Primrose)。シビル夫人は父親よりもさらに風変わりで、ほとんどの時間をキャラバンで過ごした。
   第2子(次女)マーガレット・プリムローズ(Margaret Primrose)。父の旧友で伝記作家のクルー侯爵(Marquess of Crewe)と結婚した。両親の名声は未だ高く、西暦1899年の結婚式の日にはロンドンの交通が停止した。クルー侯爵夫人はイギリス王国初の女性治安判事の1人となり、西暦1955年に亡くなった。
   第3子(長男)ハリー・プリムローズ(Harry Primrose)。ダルメニー卿 (後の第 6 代ローズベリー伯爵)父親や弟ほど政界では成功しなかったが、サリー州クリケットクラブの主将になり、エプソムダービーで優勝した馬を2頭所有することで頭角を現した。彼は父親の後を継いで第6代ローズベリー伯爵となり、西暦1974年に亡くなった。
   第4子(次男)ニール・プリムローズ(Neil Primrose)。政界に入り、将来が有望視されていた。しかし、第1次世界大戦が勃発すると、彼は軍隊に入隊し、西暦1917年にゲゼルで突撃して戦死した。
 第7子(三女)ルイーズ(Louise)。フランクフルト本家、ナポリ家の長男のマイアー・カール・フォン・ロートシルト(Mayer Carl von Rothschild)と従兄・従妹婚7女を儲けた。7人の娘のうち3人はロスチャイルド家の一員である2人の耶蘇教貴族と結婚した。
  第1子(長女)アデル・ハンナ(Adele Hannah)。
  第2子(次女)エマ・ルイーザ(Emma Louisa)。
  第3子(三女)クレメンタイン(Clementine)。
  第4子(四女)ローラ・テレーズ(Laura Therese)。
  第5子(五女)ハンナ・ルイーザ(Hannah Louisa)。
  第6子(六女)マルガレータ(Margaretha)。
  第7子(七女)ベルタ・クララ(Bertha Clara)。

初代英ロスチャイルド家当主ネイサン・メイヤー・ロスチャイルド一元化 - 石田晋一
初代英ロスチャイルド家当主ネイサン・メイヤー・ロスチャイルド一元化 - 石田晋一

posted by cnx at 23:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 反吐 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする