ユダヤ(ギリシャ語: Ἰουδαία、Ioudaía、漢字:猶太)
他民族からは「ヘブライ人」と謂れ、自らは「イスラエル人」と称し、バビロン捕囚後には「ユダヤ人」と呼ばれるようになった徒輩。ヘブライ人、イスラエル人、ユダヤ人は同じ民族を指している。
ユダヤ人(ヘブライ語: יהודים、英語: Jews、ラジノ語: Djudios、イディッシュ語: ייִדן)は、猶太教の信者(宗教集団)または猶太教信者を親に持つ者によって構成される宗教信者。原義は狭義のイスラエル民族のみを指す。イスラエル民族の1つ、ユダ族がイスラエルの王の家系だったことを由来とする。猶太教という名称は、猶太教徒が多く信仰していた宗教であることによる。ユダヤとは、パレスチナ南部の地域。酋長ヤコブの子ユダに由来する。古代イスラエル統一王国の分裂後の南ユダ王国があった地域である。南ユダ王国滅亡後のユダヤの歴史
南ユダ王国が滅ぶと、僅かな例外的時期を除いて西暦20世紀に至るまでユダヤ民族が独立国を持つことはなかった。
神武天皇74(西暦前587)〜安寧天皇10(西暦前539)年 新バビロニア帝国
安寧天皇10(西暦前539)〜孝安天皇61(西暦前332)年 アケメネス朝ペルシア帝国
孝安天皇61(西暦前332)〜孝安天皇88(西暦前305)年 プトレマイオス朝エジプト
孝安天皇88年(西暦前305)〜開化天皇17(西暦前141)年 セレウコス朝シリア
開化天皇17(西暦前141)〜崇神天皇35(西暦前63)年 ハスモン朝 ユダヤ人国家
崇神天皇35(西暦前63)〜崇神天皇61(西暦前37)年 共和政ローマ元老院属州
崇神天皇61(西暦前37)〜垂仁天皇73(西暦44)年 ヘロデ家
垂仁天皇73(西暦44)年 ユダヤ属州(ローマ帝国皇帝属州)
垂仁天皇73(西暦44)〜景行天皇23(西暦93)年 ヘロデ家
垂仁天皇73(西暦44)〜仁徳天皇83(西暦395)年 ローマ帝国皇帝属州
仁徳天皇83(西暦395)〜舒明天皇06(西暦634)年 東ローマ帝国
舒明天皇06(西暦634)〜永正13(西暦1516)年 イスラーム諸王朝 途中に十字軍国家の時代を含む。
永正13(西暦1516)〜大正06年(西暦1917)年 オスマン帝国
大正07年(西暦1918)〜昭和23(西暦1948)年 イギリスによる国際聯盟の委任統治
昭和23(西暦1948)年 イスラエル国(メディナット・イスラエル)成立 共和政国家の樹立、現代に至る。 西暦135年、ローマが叛乱を鎮圧し、ユダヤ的なものを一掃しようとしたローマ人は、この土地をユダの地(ユダヤ)ではなく、ユダヤ人の宿敵ペリシテ人に因んで「パレスチナ」、エルサレムを「アエリア・カピトリーナ」と改称し、ユダヤという地名は消滅した。 また、ユダヤ人は人種的にはセム族とされるが、長いディアスポラ(離散)のなかで、周辺民族との混血の結果、セファルディームとアシュケナジームの違いが生じ、また言語もイデッシュ語などが生まれた。現在、ユダヤ人はイスラエルの他、世界中に分布しており、アメリカにも約600万人が住んでいるとされる。しかし現在ではユダヤ人を「人種」概念で捉えるのは困難で、現実には「猶太教を信仰する徒輩」と捉えるのが正しい。人類学的に同質のユダヤ人は存在しない。 セファルディーム猶太ベンジャミン・ディズレーリ(Benjamin Disraeli)が首相の座に登り、ヴィクトリア女王の寵愛を得て伯爵に叙せられたが、ユダヤ出自は英国という国では致命的障害にはならなかった。しかし幾多の偏見を乗り越える必要はあった。政治家志望の野心的な若者にとり、必要なことは後援者探しで社交界に潜り込み、色男の小説家として振る舞い、裕福な未亡人たちの歓心を買って、その富でのし上がった。彼の文才、男ぶりは出自を跳ね返す武器となった。社交界では異人との交際は持て囃された。
ベンジャミン・ディズレーリ(=デ・イスラエル)と同根のセファルディーム猶太で「アヘン王」のサッスーン家は、金融とアヘン取引で莫大な富を蓄積し、サッソン家は「東洋のロスチャイルド」と呼ばれる世界で最富裕層の一族となり、アジア大陸全体に広がるサッスーン帝国を築いた。アシュケナジーム猶太ロスチャイルドはアヘン取引のような汚れ仕事はサッスーン家や兇暴なスコットランド人のジャーディン家、マセソン家やケズウィック家、トーマス・ブレーク・グラバー(英語: Thomas Blake Glover)に任せ、裏で繋がり利益を貪っていた。これは、三角貿易や2度にわたるアヘン戦争でアジアの富を吸い尽くす恥知らずの邪悪なブリカス=イギリス王国(グレートブリテン及びアイルランド連合王国(西暦1801〜1927年))の国策であった。 一方、西暦1820年代〜1830年代にかけてイギリス王国(グレートブリテン及びアイルランド連合王国)ハノーヴァー朝(西暦1714〜1901年)では、産業革命による工業化・都市化の進展によって労働者階級が形成されるようになった。しかし当時のイギリス王国には労働者の最低限度の生活を保障するような制度がほとんど何も存在しなかった。そのため労働者運動が盛んになり、救貧院に収容される貧困労働者の生活水準は、収容されていない労働者の生活水準を下回らねばならないとする劣等処遇の原則を盛り込もうとする救貧法改正に反対する運動と工場法改正による10時間労働の法令化を求める運動が拡大してイングランド北部を中心にチャーティズム(Chartism)運動が形成されるようになった。西暦1838年05月にはウィリアム・ラベット(William Lovett)によって、男子普通選挙、秘密投票、毎年の解散総選挙、議員の財産資格廃止、議員歳費支給、選挙区の平等の6つを掲げた人民憲章が提唱され、チャーティズム運動の旗印となった。チャーティズム運動は、国民から人民憲章支持の署名を集め、西暦1839年07月に議会に請願するという形で進展していった。 しかし保守党とホイッグ党の2大政党は揃って12万人の署名が入ったこの請願を拒否した。「改革の父」と呼ばれたジョン・ラッセル卿(初代ラッセル伯ジョン・ラッセル(John Russell, 1st Earl Russell, KG, GCMG, PC, FRS)、西暦1861年までは儀礼称号ジョン・ラッセル卿(Lord John Russell))さえもがチャーティストを法廷で告発した。一方ベンジャミン・ディズレーリはチャーティズム運動を支援していた。庶民院の議員の中でチャーティストに理解を示していた。「チャーティスト達の議会への請願がある。」とベンジャミン・ディズレーリは自党の救貧法改正賛成の立場を批判し、またチャーティズム運動を取り締まるためのバーミンガム警察への予算増額にも反対した。この予算増額に反対したのはベンジャミン・ディズレーリを含めて3議員だけであり、下手をすると保守党からの公認を取り消されかねない危険を冒しての行動だった。西暦1839年11月にウェールズ・ニューポートで炭鉱夫の叛乱が発生するとチャーティスト指導者が続々と官憲に逮捕されたが、これに対してもベンジャミン・ディズレーリは4人の議員とともにチャーティスト指導者弾圧に反対する運動を行った。ベンジャミン・ディズレーリは決してチャーティストの主義主張に賛同していたわけではない。しかしラッセル卿のような改革者までがチャーティストを攻撃している姿を奇異に感じており、それに反発した。ベンジャミン・ディズレーリは庶民院の演説で「イギリスのような貴族主義の国では反逆者さえも成功するには貴族的でなければならないことをチャーティスト達は思い知ることになるでしょう。(略) イギリスでは同じ改革者でもジャック・某の場合は絞首刑に処せられ、ジョン・某卿の場合は国務大臣になるのです。」と皮肉った。
チャーティズムに理解を示した態度からもわかるように、ベンジャミン・ディズレーリはこの時点もこの後も保守党正統派というわけではなく、保守党急進派、もしくは中道左派ともいうべき保守党内では特殊な政治的立場にいた。 一方でベンジャミン・ディズレーリは保守党党首ロバート・ピールに追従し、タイムズ紙にロバート・ピールを称える寄稿文を寄せた。ホイッグ党の首相第2代メルバーン子爵ウィリアム・ラムを寵愛するヴィクトリア女王がロバート・ピールの案による寝室女官の新人事に文句をつけてロバート・ピールの組閣を阻止した寝室女官事件でも、ベンジャミン・ディズレーリは「マダム、それはなりません。」という文を書いてヴィクトリア女王を批判し、ロバート・ピールの対応を称賛した。ホイッグ党の首相メルバーン子爵はヴィクトリア女王の寵愛のみで政権を維持していたが、すでに死に体であった。
西暦1841年05月に内閣不信任案が1票差で可決され、解散総選挙となった。この選挙でベンジャミン・ディズレーリはシュルズベリー選挙区に鞍替えした。選挙戦中にベンジャミン・ディズレーリは買収容疑を掛けられたため、苦しい選挙戦となったが、なんとか再選を果たした。しかし買収容疑の追及は選挙後もしばらく続いた。選挙の結果、保守党がホイッグ党から第1党の座を奪い取ったが、メルバーン子爵ウィリアム・ラムはなおも政権を維持する積りだった。それを阻止すべく、「保守党内では庶民院議長再選に反対すべき。」との意見が出されたが、ロバート・ピールら党執行部はその意見を退けた。これによって庶民院議長の不偏不党性が確立された。だが党内にはなおもそれを主張し続ける者があり、彼らはタイムズ紙に「ピシータカス」という偽名でその意見を掲載し始めた。この「ピシータカスがベンジャミン・ディズレーリだ。」という疑惑が広まった。ベンジャミン・ディズレーリはその噂を否定しているが、この件で保守党執行部から忠誠を疑われるようになった。ヴィクトリア女王はロバート・ピールを毛嫌いしていたが、彼女の夫アルバート・オブ・サクス・コバーグ・ゴータ公子(Prince Albert of Saxe-Coburg-Gotha, 独語名: アルブレヒト・フォン・ザクセン・コーブルク・ゴータ(Albrecht von Sachsen-Coburg-Gotha))王配はロバート・ピールを高く評価しており、彼がヴィクトリア女王を説得した結果、西暦1841年08月30日にロバート・ピールに大命降下があった。
ベンジャミン・ディズレーリはピール内閣に入閣できるものと思っていたが、お呼びは掛からなかった。ベンジャミン・ディズレーリは、ロバート・ピールに自分を見捨てないよう懇願する手紙を送ったが、ロバート・ピールからの返事はそっけなかった。結局ロバート・ピールの組閣は閣僚のほとんどが第1次ピール内閣(西暦1834〜1835年)と同じ顔触れとなり、新規閣僚は4人だけで、ベンジャミン・ディズレーリは入閣できなかった。ロバート・ピールから嫌われているわけではなかったが、保守党上層部の中には彼を胡散臭がる者は多かった。もっともベンジャミン・ディズレーリが入閣できなかったのはこの当時の保守党内政治力学を考えれば順当なことであり、入閣はベンジャミン・ディズレーリの高望みであった。
ピール内閣に入閣できなかったベンジャミン・ディズレーリは、当初院内幹事長の初代コテスロー男爵、第2代フリーマントル男爵トーマス・フランシス・フリーマントル(Thomas Francis Fremantle, 1st Baron Cottesloe, 2nd Baron Fremantle, PC PC (Ire) JP)からも「採決において政府法案に賛成しそうな与党議員」と見られていたが、徐々にロバート・ピールに批判的になっていった。第7代ラトランド公ジョン・ジェイムズ・ロバート・マナーズ(John James Robert Manners, 7th Duke of Rutland, KG, GCB, PC、兄チャールズからラトランド公爵位を継承する西暦1888年以前はジョン・マナーズ卿(Lord John Manners)の儀礼称号を使用)、第7代ストラングフォード子爵ジョージ・スマイズ(George Smythe, 7th Viscount Strangford、西暦1855年以前はジョージ・スマイス閣下(Honourable George Smythe))、初代ラミントン男爵アレクサンダー・ダンダス・ロス・コックラン・ウィシャート・バイリー(Alexander Dundas Ross Cochrane-Wishart-Baillie, 1st Baron Lamington、アレクサンダー・バイリー・コックラン)の3人と共に党内反執行部小派閥「ヤング・イングランド(Young England)」を結成してロバート・ピール批判を行った。ベンジャミン・ディズレーリを除く3人はケンブリッジ大学出身者であり、自由主義化の風潮に抵抗して宗教改革以前の「純粋で腐敗のない宗教」を復活させることを目的とするオックスフォード運動に影響を受けていた。これを宗教から政治に転用しようとしたものが「ヤング・イングランド」であり、封建主義時代に戻ろうという復古主義運動であった。こうした思想の者には紋切り型なロバート・ピールよりベンジャミン・ディズレーリの機知に富んだ演説の方が魅力的に感じられた。とりわけ少年時代から顔見知りだったジョージ・スマイズとの相性が良かったが、アレクサンダー・バイリー・コックランはベンジャミン・ディズレーリの下心を警戒していた。ベンジャミン・ディズレーリはカトリックに対して同情的であったものの、イングランド国教会の歴史的偉大さを確信しており、オックスフォード運動が主張するような「イングランド国教会をカトリック化する。」という案には慎重だった。そのため宗教に一家言あるジョン・マナーズ卿としばしば宗教論争となり、皮肉屋のジョージ・スマイズを面白がらせていた。ジョージ・スマイズは「ディズレーリの穏健なオックスフォード主義は、ナポレオンが若干イスラーム教に傾斜していたのに似ている、」と評した。ジョン・マナーズ卿(第5代ラトランド公ジョン・ヘンリー・マナーズ(John Henry Manners, 5th Duke of Rutland KG)の次男)とジョージ・スマイズ閣下(第6代ストラングフォード子爵パーシー・クリントン・シドニー・スマイス(Percy Clinton Sydney Smythe, 6th Viscount Strangford GCB GCH)の長男)は貴族出身者であった。
ベンジャミン・ディズレーリは引け目があったのか、2人に「イギリス貴族などというものは存在しない。」と語りだしたことがあった。ベンジャミン・ディズレーリ曰く「今残っているイギリス貴族は5家を除いて、全て最近になって称号を手に入れた者たちであり、真に長い歴史を持つ唯一の血筋はディズレーリ家だ。」という猶太お得意の捏造史を論じた。ジョージ・スマイズはこれを笑って聞き、ジョン・マナーズ卿は生来の真面目さで傾聴していた。 「ヤング・イングランド」は西暦1843年には公然の存在となり、4人は議場でも固まって座っていた。彼らは自分たちの所属する保守党の方針に反してでも「復古主義」、「民衆的保守主義」の信念を貫く投票を行った。内務大臣第2代准男爵ジェームズ・ロバート・ジョージ・グラハム(James Robert George Graham, 2nd Baronet, GCB, PC)は西暦1843年08月に「ヤング・イングランドについていえば、その人形を操っているのはディズレーリである。彼が一番有能。」と書いた。
自由貿易論者であるロバート・ピール首相は西暦1844年06月、外国産砂糖を植民地産砂糖と同じ水準に関税に引き下げる法案を通そうとした。これに公然と反対意見を表明したのは「ヤング・イングランド」など一握りだけであったが、保守党内にも植民地親派が多く、彼らも「ヤング・イングランド」に同調するようになった。ベンジャミン・ディズレーリが「私は某大臣から48時間以内に態度を変えろと脅迫されたが、その積りはない。」と演説すると議場から大きな拍手が起こった。しかし、結局スタンリー卿(第14代ダービー伯エドワード・ジョージ・ジェフリー・スミス・スタンリー(Edward George Geoffrey Smith-Stanley, 14th Earl of Derby, KG, GCMG, PC, PC (Ire)、西暦1834〜1844年まではスタンリー卿(Lord Stanley)、西暦1844年にビッカースタッフのスタンリー男爵(Baron Stanley of Bickerstaffe))、西暦1851年からダービー伯)の巧みな演説がピール政権側に有利に作用し、20票差で法案は可決された。
この頃にはロバート・ピールに深い信頼を寄せるようになっていたヴィクトリア女王も「ヤング・イングランド」に激しい怒りを感じ、叔父ベルギー王レオポルド1世(仏語: Léopold Ier)に宛てた手紙の中で「若い狂人の群れ」として批判した。またラトランド公ジョン・ヘンリー・マナーズとストラングフォード子爵に対して子息の監督強化を強く求めた。ベンジャミン・ディズレーリはそれにお構いなしに西暦1844年05月にロバート・ピールを批判した政治風刺小説を出版し、その翌年05月には、労働者やチャーティストの悲惨な生活を描き出し、「富裕層と貧困層は階級の上下というよりも、最早2つの国民に分断されている状態である。」と皮肉った。さらに西暦1847年のロバート・ピール失脚後に、
猶太教について語った小説「タンクレッド」で。「耶蘇教国の改造には猶太教の教えを導入すべきである。」と暗示した。 西暦1845年夏にアイルランドでジャガイモ飢饉が発生した。当時の一般的なアイルランド家庭はパンを買う余裕がなく、ジャガイモを主食にしており、アイルランドの食糧事情は危機的状態となった。ロバート・ピール首相は「直ちに穀物法に定められている穀物関税を廃し、安い小麦を国外から買い入れられるようにしてパンの値段を下げなければならない。」と考えた。しかし地主が多く所属する保守党内の反対勢力から激しい反発を受けた。閣内も分裂状態となり、ロバート・ピール首相は保護貿易主義者のスタンリー卿や第5代バクルー公および第7代クイーンズベリー公ウォルター・フランシス・モンタギュー・ダグラス・スコット(Walter Francis Montagu Douglas Scott, 5th Duke of Buccleuch, 7th Duke of Queensberry,KG PC FRS FRSE)を説得できず、一度総辞職したが、ヴィクトリア女王が後任を見つけられなかったので、再度ロバート・ピールに大命降下があり、保護貿易主義者のみを除いた以前と同じ顔触れの内閣を発足させた。この時のロバート・ピールの組閣の際に「ヤング・イングランド」のジョージ・スマイズに外務政務次官への就任要請が来た。ジョージ・スマイズはベンジャミン・ディズレーリを尊敬していたが、ジョージ・スマイズの父ストラングフォード子爵が息子に圧力をかけた結果、ジョージ・スマイズはこの要請を受けることとなった。これによってベンジャミン・ディズレーリとジョージ・スマイズが会う機会は減ったが、2人の友情は変わらなかった。
ロバート・ピールは再び穀物法を廃止しようとしたが、やはり保守党内の反対勢力の激しい反発に遭った。ベンジャミン・ディズレーリはこの保守党内の空気を利用してロバート・ピール批判の急先鋒に立った。彼は「穀物の自由貿易はイギリス農家を壊滅させる。また自由貿易にしたところで穀物の価格は下がりはしない。」という持論を展開した。
さらに議会の礼節を無視した罵倒さえ行い、これにロバート・ピールの弟ジョナサン・ピール(Jonathan Peel, PC)が激怒し、ベンジャミン・ディズレーリに決闘を申し込み、またロバート・ピール本人も「かつてベンジャミン・ディズレーリが閣僚ポストを懇願した手紙を公開してやろうか。」と考えたほどだった。ベンジャミン・ディズレーリが全精力を注いで行ったロバート・ピール批判演説によって、ロバート・ピールは保守党内からイギリス農業を壊滅させようとする党の裏切り者という悪評が貼られるようになっていった。 さらに第4代ポートランド公ウィリアム・ヘンリー・キャヴェンディッシュ・スコット・ベンティンク(William Henry Cavendish-Scott-Bentinck, 4th Duke of Portland PC FRS FSA、西暦1809年までは「ティッチフィールド侯」の儀礼称号)の三男で、保護貿易主義派の保守党庶民院院内総務ウィリアム・ジョージ・フレデリック・キャヴェンディシュ・スコット・ベンティンク卿(Lord William George Frederick Cavendish-Scott-Bentinck、ジョージ・ベンティンク卿)と連携して保守党内の造反議員を増やしていった。結局ロバート・ピールは保守党庶民院議員の3分の2以上の造反に遭いながらも野党であるホイッグ党と急進派の支持のお蔭で穀物法を廃止することができた。ベンジャミン・ディズレーリとジョージ・ベンティンク卿はロバート・ピールを追い詰めるため、アイルランド強圧法案を否決させることにした。当時、政府がこのような治安法案で敗北した場合、総辞職か解散総選挙しか道はなかったが、「党執行部は議席を失うことを恐れているので解散総選挙はできない。」とジョージ・ベンティンク卿は見ていた。
因みにジョージ・ベンティンク卿はこの法案について第1読会で賛成票を投じていたが、適当な理由をでっち上げて反対に回ることにした。2人にとっては最早政策より「ロバート・ピールを潰す。」という政局の方が大事だった。この法案には穀物法の時ほど党内造反者を作ることは期待できなかったが、それでも70人ほどの造反者を出させることに成功した。そしてこの法案に反対するホイッグ党や急進派と協力して、西暦1846年06月25日の採決で73票差でこの法案を潰す事に成功した。これを受けてピール内閣は06月29日に総辞職を余儀なくされた。
ロバート・ピール元首相以下、保守党内の自由貿易派議員112人は保守党を離党してピール派を結成した。閣僚や政務次官経験者など党の実務経験者は全てこちらへ流れていった。後のベンジャミン・ディズレーリの宿敵ウィリアム・ユワート・グラッドストンもその1人であった。当時の保守党は貴族や地主の倅ばかりであり、家の力で議員になった者が多く、そこから実務経験者が抜けてしまうと、残るのは無能な者ばかりであった。そこにベンジャミン・ディズレーリが自由貿易批判、保護貿易万歳論を煽ったことで、保守党が単なる復古的農本主義団体と化していくことは避けられなかった。国民は保守党の統治能力を疑い始め、「この政党を政権につけたら革命を誘発しかねない。」という不安を抱くようになった。保守党はこの後30年にわたって国民から倦厭され続け、少数党の立場から抜け出せなかった。その間もしばしば保守党が政権に付くことがあったのは野党が分裂していたからであった。ベンジャミン・ディズレーリとジョージ・ベンティンク卿はロバート・ピールを攻撃してる積りで保守党を破滅させた。
ピール内閣総辞職後、ヴィクトリア女王は新たな保守党党首スタンリー卿(第14代ダービー伯エドワード・ジョージ・ジェフリー・スミス・スタンリー(Edward George Geoffrey Smith-Stanley, 14th Earl of Derby, KG, GCMG, PC, PC (Ire))、西暦1834〜1844年まではスタンリー卿(Lord Stanley)、西暦1844年にビッカースタッフのスタンリー男爵(Baron Stanley of Bickerstaffe)、西暦1851年からダービー伯))を首相に据えようとしたが、彼は党の実務経験者が全てピール派に移っていたことから組閣は不可能と判断しホイッグ党とピール派に連立政権を作らせるよう奏上した。こうしてホイッグ党のジョン・ラッセル卿に大命降下があり、ラッセル卿内閣が成立した。発足当初のラッセル卿内閣はホイッグ党とピール派の連立を基盤としていたが、この両勢力は自由貿易以外に共通点がなく、政権はすぐに行き詰まり、西暦1847年06月に解散総選挙となった。
すでに知名度が上がっていたベンジャミン・ディズレーリは、この選挙でバッキンガムシャー選挙区に鞍替えしたが、圧勝して再選を果たした。しかし総選挙全体の結果は改選前とほとんど変わらないものだった。結局ラッセル卿内閣は議会の支持基盤が不安定でも、保守党が分裂しているために政権を維持している状態で政権運営を続けることになった。保守党の分裂で党有力者が軒並みピール派へ移ったことはベンジャミン・ディズレーリにとっては党内で枢要な地位を固める好機であった。ベンジャミン・ディズレーリが保守党指導者に上り詰めるためには「反抗期の青年議員」を卒業して「威厳ある保守政治家」にならねばならなかった。まず変化したのは服装だった。
これまでのベンジャミン・ディズレーリの悪趣味で派手なけばけばしい色使いの服装は、落ち着いた雰囲気の紳士的な服装に変わった。また保守党内で出世するためには、どうしても大邸宅に住む地主になる必要があった。大富豪第4代ポートランド公ウィリアム・ヘンリー・キャヴェンディッシュ・スコット・ベンティンクの三男ジョージ・ベンティンク卿とその弟ヘンリー・ベンティンク卿(Lord Henry William Scott-Bentinck)から資金援助を受け、西暦1846年にヒューエンデンに屋敷を購入した。
アシュケナジーム猶太のロンドン・ロスチャイルド家の悪魔、ネイサン・メイアー・ロスチャイルドは、西暦1798年に英国に帰化したユダヤ人、レヴィ・ベアレント・コーエン(Levy Barent Cohen)の娘のハナ・ベアレント・コーエン(Levy Barent Cohen)との間に以下の4男3女を儲けた。ハナの伯父ザロモン・ダヴィド・ベアレント・コーエン(Salomon David Barent Cohen)の娘はナネット・サロモンズ・コーエン(Nanette Salomons Cohen)で、カール・マルクス(独語: Karl Marx)とフレデリック・フィリップス(独語: Frederik Philips)の母方の祖母であり、フレデリック・フィリップスは息子のジェラルド(Gerard)と共にフィリップス電器を設立した。
ネイサン・メイアー・ロスチャイルドの末裔
長女シャーロットウィーン・ロートシールト家第2代当主のロートシルト男爵アンゼルム・ザロモン(Anselm Salomon Freiherr von Rothschild)と結婚。長男マイアー・アンゼルム・レオン、夭折。長女カロリーネ・ジュリー、ナポリ・ロートシルト家のアドルフ・カールと結婚。次女ハンナ・マティルデ(ヴィルヘルミーネ・ハンナ・マチルデ・フォン・ロートシルト男爵夫人(Wilhelmine Hannah Mathilde Freifrau von Rothschild))フランクフルト・ロートシルト本家のロートシルト男爵ヴィルヘルム・カール(Wilhelm Carl Freiherr von Rothschild)と結婚。三女サラ・ルイーゼ、イタリア貴族ライモンド・フランケッティ(Raimondo Franchetti)男爵と結婚。次男ナサニエル・マイヤー(Nathaniel Meyer Freiherr von Rothschild)、三男ロスチャイルド男爵ファーディナンド・ジェームズ(独語名: ロートシルト男爵フェルディナント・イェームス(Ferdinand James Freiherr von Rothschild)、英語: Baron Ferdinand James de Rothschild))ロンドン・ロスチャイルド家のエヴェリーナ・ガートルード・ド・ロスチャイルド(Evelina Gertrude de Rothschild)と結婚。英国に移住し、英国庶民院議員となった。四男ロートシルト男爵アルベルト・ザロモン・アンゼルム(Albert Salomon Anselm Freiherr von Rothschild)、銀行業を継承し、ウィーン・ロートシルト家の第3代当主。四女アリーセ・シャルロッテ(Alice Charlotte von Rothschild)、英国へ移住。
長男ロスチャイルド男爵ライオネル(Baron Lionel de Rothschild)ロンドン・ロスチャイルド家第2代当主。庶民院議員。ヴィクトリア女王の反発を買い英国の貴族になる事は叶わなかった。西暦1836年にナポリ・ロートシルト家の祖であるカール・マイアー・フォン・ロートシルト(Carl Mayer von Rothschild)の長女シャーロット・フォン・ロートシルト(Charlotte von Rothschild)と結婚。長女レオノラはパリ・ロチルド家の第2代当主のロチルド男爵アルフォンス(Le baron Alphonse de Rothschild)と結婚。次女エヴェリナ・ガートルードは、ウィーン・ロートシルト家出身で英国に帰化したロスチャイルド男爵ファーディナンド・ジェームズと結婚。長男初代ロスチャイルド男爵ナサニエル・メイヤー(Nathaniel Mayer Rothschild, 1st Baron Rothschild, GCVO, PC)、ロンドン・ロスチャイルド家嫡流3代当主。初代ロスチャイルド男爵に叙された。フランクフルト・ロートシルト家のエンマ・ルイーザ・フォン・ロートシルト(Emma Louise von Rothschild)と結婚。次男アルフレッド・チャールズ(Alfred Charles de Rothschild)。三男レオポルド・ライオネル(Leopold Lionel de Rothschild, CVO)トリエステのユダヤ人アキッレ・ペルージャの娘マリー・ペルージャと結婚。ここから庶流が多く派生。
次男、初代ロスチャイルド准男爵アンソニー(Sir Anthony de Rothschild, 1st Baronet)、准男爵位に叙され、兄ライオネルの長男のナサニエルが継承。マイアー・アムシェル・ロートシルト(Mayer Amschel Rothschild)の五女ヘンリエッテの娘ルイーズ・モンテフィオレ(Louise Montefiore)と従兄従妹婚。
三男ナサニエル・ド・ロスチャイルド(Nathaniel de Rothschild、「ナト」、独語: ナタニエル・ド・ロートシルト、仏語: ナタニエル・ド・ロチルド)は、 パリに移住しシャトー・ブラーヌ・ムートンのブドウ園を購入し、シャトー・ムートン・ロチルドと改名し、世界で最もよく知られるワイン生産者になった。パリ・ロチルド家の祖、ロチルド男爵ジェームス(Le baron James de Rothschild)とウィーン・ロートシルト家の祖、ロートシルト男爵ザーロモン・マイアー(Salomon Meyer Freiherr von Rothschild)の長女ベティ・フォン・ロートシルト(Betty de Rothschild)の叔父姪の近親婚の娘シャーロット・ド・ロチルド(Charlotte de Rothschild)と結婚した。シャーロット・ド・ロチルドは、パリ文化の中心にいた非常に裕福なユダヤ人の叔父姪の近親婚の両親に育てられた。両親は、ジョアッキーノ・ロッシーニ(Gioacchino Rossini)、フレデリック・ショパン(Frédéric Chopin)、オノレ・ド・バルザック(Honoré de Balzac)、ウジェーヌ・ドラクロワ(Eugène Delacroix)、ハインリヒ・ハイネ(Heinrich Heine)など、芸術界の多くの著名人を支援し、フレデリック・ショパンは西暦1841年にシャルロットのピアノ教師となり、フレデリック・ショパンはシャルロットに、所謂「別れのワルツ」ワルツ第9番変イ長調作品69-1の自筆楽譜を捧げた。西暦1843年の結婚祝いに贈られたものと思われる有名なバラード第4番 ヘ短調作品52、そして4年後には別の作品であるワルツ第7番嬰ハ短調作品64‐2を作曲した。
次女ハナ・メイアー(1815年 - 1864年)、政治家ヘンリー・フィッツロイ(Henry FitzRoy)と結婚。
四男ロスチャイルド男爵メイヤー・アムシェル(Baron Mayer Amschel de Rothschild)、庶民院議員、馬主。西暦1871年には5つのクラシックのうち4つ(ダービー・セントレジャー・オークス・1000ギニー)までを「ハンナ」と「ファヴォニウス」で制した。従妹のジュリアナ・コーエン(Juliana Cohen)と結婚し、彼女との間の一人娘のハンナ(ハンナ・プリムローズ、ローズベリー伯爵夫人(Hannah Primrose, Countess of Rosebery)、旧姓: Rothschild)は、西暦1878年に第5代ローズベリー伯爵および初代ミッドロージアン伯爵アーチボルド・フィリップ・プリムローズ(Archibald Philip Primrose, 5th Earl of Rosebery, KG KT PC FRS FBA、後の首相)と結婚。
三女ルーイーズ・フォン・ロスチャイルド(Louise von Rothschild)、ナポリ・ロートシルト家の祖、カール・マイアー・フォン・ロートシルトの長男ロートシルト男爵マイアー・カール(Mayer Carl Freiherr von Rothschild)と三男ヴィルヘルム・カールは子供を遺さずに死去した伯父アムシェル・マイアーのフランクフルトにおける事業を継いだ。この長男のロートシルト・フランクフルト本家の第2代当主マイアー・カールと結婚。アシュケナジーム猶太、ロスチャイルド家は、叔父姪、従兄妹の近親婚を繰り返す鬼畜一家。
ロスチャイルド家は西暦1865〜1923年にかけて、イギリス王国アリスバーリー選挙区から庶民院議員を何人も輩出し、婚姻を通じて他の有力な一族と繋がりを深めた。ロスチャイルド一族は強い絆で結ばれていたが、各国の名家とも関係も強化していった。イギリス王国ではバタシー家やチャムリー家、ローズベリー家といった貴族、イタリアではボルゲーゼ家、後年はグッゲンハイム家やギネス家、ウォーバーグ家、ウッドハウス家とも姻戚関係を結んだ。 先の総選挙で猶太教徒の銀行家アシュケナジーム猶太、ロスチャイルド家第2代当主。ライオネル・ド・ロスチャイルドはホイッグ党の議員として当選していたが、当然、英国国教会式宣誓を求められた。ライオネル・ド・ロスチャイルドは、これを拒絶し猶太教式宣誓に固執したため、議員になれなかった。これについて首相ジョン・ラッセル卿が「猶太教徒の公民権停止の撤廃を審議すべき。」とする動議を議会に提出した。これに対してベンジャミン・ディズレーリとジョージ・ベンティンク卿を除くピールを失脚させた保守党議員らが一斉に反発した。すでに丸め込まれていた庶民院議員らは猶太教式宣誓を容認した。しかしユダヤ人を議会に入れたくない貴族院は頑としてこれを拒絶した。その後も選挙があるたびに出馬し、破壊工作を少しずつ行い、当選するもののその度に貴族院の妨害にあった。因みにジョージ・ベンティンク卿は動議賛成に回ってくれたが、彼もユダヤ人に好意を持っていたわけではなく、ベンジャミン・ディズレーリとの友情からそうしただけであった。
ライオネル・ド・ロスチャイルドは西暦1847年に初当選したが、猶太教徒公民権停止が解かれた西暦1858年に庶民院に初登院するまで議会に登院できなかった。ロスチャイルド家の犬のセファルディーム猶太ベンジャミン・ディズレーリの悪逆非道な猶太を政治にも引き入れた。 ベンジャミン・ディズレーリがただひたすらに保守党指導者を目指そうと思うなら、批判と孤立を避けるためにこの動議の採決に欠席するという手段もあった。どちらにしてもホイッグ党や急進派、保守党内穏健派の賛成で動議は可決される見通しだった。だが、ベンジャミン・ディズレーリにとってはユダヤ人に関わる問題であり積極的に動いた。ベンジャミン・ディズレーリは演壇に立ち、「猶太教と耶蘇教は兄弟である。」という信念を改めて開示し、また「ユダヤ人は本来保守的な民族なのにこんな扱いばかり受けるからいつも革命政党の方に追いやられ、その高い知能でそうした政党の指導者になるのだ。これは保守党にとって大変な損失だ。」と演説し、動議に賛成票を投じた。ベンジャミン・ディズレーリに従ってロバート・ピールを失脚させた議員らは誰もこの演説に拍手しようとしなかった。評価したのはむしろホイッグ党であり、首相ジョン・ラッセル卿は「仲間が嫌う理論をあんなふうに擁護するのは大変勇気がいることだ。」と感心した。
病を患っていたジョージ・ベンティンク卿は上記動議に反発する者たちを抑えるため、党庶民院院内総務を辞職した。西暦1848年02月10日、その後任に第6代ラトランド公チャールズ・セシル・ジョン・マナーズ(Charles Cecil John Manners, 6th Duke of Rutland, KG)、西暦1857年までグランビー侯爵(Marquess of Granby)の儀礼称号、ベンジャミン・ディズレーリの盟友ジョン・マナーズ卿の兄)が就任したが、グランビー侯は「自分がその器ではない。」と感じており、03月04日には辞職した。その後しばらく保守党庶民院院内総務職は空席になっていたが、ジョージ・ベンティンク卿の健康が回復したら彼が再任されることを希望する保守党議員が多かった。08月末のベンジャミン・ディズレーリの社会風刺の演説で彼の保守党内での人気も高まっていた。大陸で発生した西暦1848年革命の影響でチャーティズム運動が再び盛んになり、社会情勢が混乱する中、大蔵大臣初代ハリファックス子爵チャールズ・ウッド(Charles Wood, 1st Viscount Halifax, GCB, PC)が半年の間に4回も予算案を提出した。ベンジャミン・ディズレーリはこれをヤーヌスの神の血の溶解に例えて演説した。ベンジャミン・ディズレーリによると「この演説で彼の人気が高まって保守党庶民院院内総務になることが決まった。」という。西暦1848年09月にはジョージ・ベンティンク卿が死去した。
ジョージ・ベンティンク卿亡き今、人材不足の保守党の中にはベンジャミン・ディズレーリ以外に党庶民院院内総務が務まりそうな者はいなかったが、
ベンジャミン・ディズレーリの毒舌や外国人風の風貌、「クオタリーレビュー」誌のマリーとの不和、「ビビアン・グレイ」の主人公はベンジャミン・ディズレーリの若い頃の実話であるとの噂などから、保守党内にはなおもベンジャミン・ディズレーリを胡散臭いユダヤの山師と看做す者が多かった。
Disraeli: The Novel Politician (Jewish Lives) - Cesarani, David 党首スタンリー卿(第14代ダービー伯エドワード・ジョージ・ジェフリー・スミス・スタンリー、西暦1851年からダービー伯)のベンジャミン・ディズレーリ不信も強かった。そのため西暦1851年末までベンジャミン・ディズレーリは正式な庶民院院内総務には任命されなかった。だがそれでも実質的にはその数年前からベンジャミン・ディズレーリが庶民院院内総務の役割を果たしていた。つまりベンジャミン・ディズレーリは250人の保守党庶民院議員を率い、保守党党首スタンリー卿を「副官」として支える立場になった。 西暦1846年にロバート・ピールが穀物法を廃止して穀物自由貿易を行おうとすると、その反対運動を主導してピール内閣倒閣と保守党分裂を齎した。
ロバート・ピールの置き土産である穀物の自由主義化は、イギリス農業に大きな繁栄を齎していた。ベンジャミン・ディズレーリらが必死に吹聴したイギリス農業の衰退は起こらず、貿易の拡大によりイギリス農家の利益は増え、農業労働者の賃金も上がっていった。穀物価格の低下は国民の福祉に貢献した。この素晴らしい成果に自由貿易は神聖化していった。もし今保護貿易主義を復古しようなどとすれば国民の暴動が起こるのは確実だった。保守党もこれ以上保護貿易主義を掲げ続けるのは難しい情勢だった。現実主義者のベンジャミン・ディズレーリは真っ先にそれを受け入れた。彼はすでにジョージ・ベンティンク卿死去以前に「保護貿易主義は実行可能な政策ではなくなった。」と考えるようになった。西暦1849年秋には「党の保護貿易の方針は破棄するか、少なくとも前面には出さず、他の政策の後ろに隠す必要がある。」と考えるようになった。だが党首スタンリー卿は保護貿易主義に拘っていた。今の繁栄は一時的な物で終わるかもしれないので、保護貿易主義の撤回は時期尚早と考えていた。それに結局ピール派と同じ路線を執るなら党分裂に至る歩みは全部無駄だったことになる。党首としてそんな簡単に党の看板を下ろすわけにはいかなかった。ベンジャミン・ディズレーリの方も解散総選挙の兆しがない以上、「急いで党の看板を変える必要もない。」と考えていたため、西暦1850年中には貿易の問題は一切取り上げなかった。
西暦1850年07月に元首相ロバート・ピールが死去した。ラッセル卿内閣が弱体でありながら長期政権になっているのはロバート・ピールが保守党に戻ることも、ホイッグ党と連立することも、単独で政権を担う事も拒否したからだった。従って保守党にとってこれはピール派との和解の好機に思われた。ベンジャミン・ディズレーリも「ピール派重鎮に党庶民院院内総務の地位を渡しても良い。」と語り、彼らの取り込みを図ろうとしたが、ピール派のロバート・ピールへの思慕は強く、結局戻って来なかった。
西暦1850年秋、ローマ法王がウェストミンスター大司教職を新設したことに対して首相ジョン・ラッセル卿がイングランド国教会を害するものと激しく反発し、これによりラッセル卿政権とカトリックのアイルランド議員との連携が断ち切られた。ジョン・ラッセル卿は西暦1851年02月20日の庶民院の投票で敗北を喫し、ヴィクトリア女王に総辞職を申し出た。ヴィクトリア女王はスタンリー卿を召集して大命降下を与えたが、この際にジョン・ラッセル卿はヴィクトリア女王から直接聞いた話を元にその一部始終を庶民院で報告し、「スタンリー卿は組閣できそうにない。」とヴィクトリア女王に返答した。「自分が政権を担い続けるしかない。」と発表した。これに対しベンジャミン・ディズレーリは「スタンリー卿が断るはずがない。」と非難の声を挙げ、保守党議員たちが拍手した。これを知ったヴィクトリア女王は自分を嘘つき扱いしているに等しいベンジャミン・ディズレーリへの反感を強めた。しかし実際にスタンリー卿は人材不足により組閣できなかった。スタンリー卿とベンジャミン・ディズレーリはウィリアム・ユワート・グラッドストンら実務経験のあるピール派幹部に入閣を呼び掛けたが、彼らは「保護貿易主義を放棄しない限りその下で働く積りはない。」と断った。無名・無能議員ばかりの保守党だけで組閣するしかなかったが、混乱状態の中の組閣だったので保守党内にも個々様々な理由で入閣を拒否する者が続出し、結局スタンリー卿は組閣を断念した。ベンジャミン・ディズレーリは「1つ確かなことは、経験と影響力がある有力議員は、保護貿易主義放棄を明確にしないと協力を拒むということだ。」と書いた。いよいよ保護貿易主義を放棄しなければならない時が来ていたが、保守党内には相変わらず保護貿易強硬派は少なくないので難航した。
ジョン・ラッセル卿内閣外相だった第3代パーマストン子爵ヘンリー・ジョン・テンプル(Henry John Temple, 3rd Viscount Palmerston, KG, GCB, PC, FRS)は、西暦1851年末にナポレオン3世のクーデタを独断で支持表明した廉で辞任に追いやられ、西暦1852年02月に議会が招集されると庶民院におけるラッセル卿内閣攻撃の急先鋒になった。以降ホイッグ党はラッセル卿派とパーマストン子爵派という2大派閥に引き裂かれた。ベンジャミン・ディズレーリはパーマストン子爵派と連携して在郷軍人法案でラッセル卿内閣を敗北に追い込んで倒閣した。
パーマストン子爵ヘンリー・ジョン・テンプルは、ウィリアム4世(William IV, ウィリアム・ヘンリー(William Henry))の時代からヴィクトリア朝中期にかけて主に外交の分野で活躍し、イギリス帝国(大英帝国)(西暦1609〜1997年)の国益や英国民の利益が損なわれることを許容しない強硬外交によりヨーロッパ諸国の自由主義化・ナショナリズム運動を支援する自由主義的外交を行った。非ヨーロッパの低開発国に対し砲艦外交で不平等条約による自由貿易を強要してイギリスの非公式帝国に組み込む「自由貿易帝国主義」を遂行した。大英帝国の海洋覇権に裏打ちされた「パクス・ブリタニカ」を象徴した帝国主義の権化である。 再びダービー伯(スタンリー卿。この前年に父第13代ダービー伯エドワード・スミス・スタンリー(Edward Smith-Stanley, 13th Earl of Derby, KG)が死去し第14代ダービー伯位を継承)に大命が下った。相変わらず保守党は人材不足の少数党だったが、ダービー伯は今回は何としても組閣する積りだった。ピール派に持ちかけることなく、直ちに保守党議員たちだけで組閣が行われた。ベンジャミン・ディズレーリには大蔵大臣への就任要請が来た。ベンジャミン・ディズレーリは財政は門外漢として辞退しようとしたが、ダービー伯は「カニング(ジョージ・カニング閣下(The Rt.Hon. George Canning, PC FRS)ぐらいの知識は君にもあるだろう。数字は官僚が出してくれる。」と説得して引き受けさせた。ベンジャミン・ディズレーリは外務大臣として入閣するという噂があっただけにこれは意外な人事だった。
「ヴィクトリア女王がベンジャミン・ディズレーリを嫌っていたため、頻繁に引見する外務大臣は嫌がり、単独で引見することはほとんどない大蔵大臣に就任させたのではないか。」と言われる。第1次ダービー伯内閣は大臣・枢密顧問官経験者がわずか2人の内閣で後は全員新顔だった。そのため「誰?誰?内閣」と呼ばれた。ベンジャミン・ディズレーリの初入閣だった。党分裂で党幹部が軒並みピール派へ移ったことで党内の有力者として抬頭するようになり、西暦1849年からは実質的な保守党庶民院院内総務となり(西暦1851年に正式に就任)。西暦1852年02月に保守党党首第14代ダービー伯エドワード・ジョージ・ジェフリー・スミス・スタンリーの内閣が誕生すると、その大蔵大臣に任じられた。
彼は競馬のダービーとオークスを創設した第12代ダービー伯エドワード・スミス・スタンリー(Edward Smith-Stanley, 12th Earl of Derby PC)の孫に当たり、公務より競馬を優先することもしばしばあり、補佐役のベンジャミン・ディズレーリは頭を抱えた。ベンジャミン・ディズレーリは彼について「ヨーロッパ、いや世界が激変の最中にある時でも常にニューマーケットとドンカスターの味方であった。」と評した。その後も西暦1858年(第2次ダービー伯内閣)、西暦1866〜1868年(第3次ダービー伯内閣)とダービー伯内閣が誕生するたびに大蔵大臣に任じられた。いずれも少数与党政権なので、出来たことは多くなかったが、第3次ダービー伯内閣では庶民院院内総務として選挙法改正を主導し、自由党急進派に譲歩に譲歩を重ねた結果、第2次選挙法改正を達成した。
蔵相となったベンジャミン・ディズレーリは、ヴィクトリア女王に報告書を送るようになったが、その報告書はどこか小説的でヴィクトリア女王を楽しませた。これによってヴィクトリア女王の彼への心象は随分良くなった。ホイッグ党党首ジョン・ラッセル卿としてはただちにダービー伯内閣を議会で敗北に追い込んで政権を奪還する積りだった。だがピール派は夏に議会を解散することと11月に議会を招集して会計制度改革問題を取り上げることを条件として当面ダービー伯が政権を運営することを承認していたため、内閣はそれまでは安泰だった。政権発足後、ダービー伯内閣は保護貿易について曖昧な態度を執った。ダービー伯自身も「これ以上保護貿易に拘ると来る総選挙において安定議席は取れないであろう。」と認めていたが、公然と保護貿易破棄することは躊躇っていた。
だがベンジャミン・ディズレーリは一歩進めて、04月の予算演説において前内閣の大蔵大臣第3代ウッド准男爵(西暦1866年から初代ハリファックス子爵チャールズ・ウッド(Charles Wood, 1st Viscount Halifax, GCB, PC))の作成した自由貿易主義の予算案を適切な物と評価する演説を行った。びっくりしたダービー伯はベンジャミン・ディズレーリに勝手な真似をしないよう警告の手紙を発した。 ピール派との公約通り、07月に議会が解散され、総選挙となった。保守党は未だに公式な保護貿易主義撤廃を宣言していなかった。ダービー伯がヴィクトリア女王に「穀物に関税を掛けるのは最早論外です。」と確約するなど事実上保守党も自由貿易主義に移行していたが、貿易について曖昧な態度をとったまま選挙戦に突入した。保守党執行部が明確な方針を示さないので、保守党各候補の見解もばらばらだった。概して地方の候補は保護貿易主義的に、大都市の候補は自由貿易主義的に振舞っていた。選挙の結果、保守党は若干議席を上積みしたが、過半数を制することはできなかった。
選挙後、ピール派との公約により蔵相ベンジャミン・ディズレーリは予算編成に当たることとなった。しかしまだ年度半ばで財政状況が明らかでないこの時期に予算編成に当たらねばならないのは大変なことだった。ベンジャミン・ディズレーリは毎日夜中の03時まで仕事して慣れない予算編成の仕事に当たった。そうしてできた予算案は12月03日に議会に提出された。自由貿易によって損失を蒙った(と思っている)「利害関係人」に税法上の優遇措置を与え、その減収分は所得税と家屋税の免税点を下げることによって賄う内容だった。保護貿易主義と自由貿易主義の折衷をとって党内地主層の反発を抑えつつ、ピール派にもすり寄る意図の予算案だったが、結局ホイッグ党とピール派から激しい批判に晒された。ピール派のウィリアム・ユワート・グラッドストンがディズレーリ批判の先頭に立ち、彼の予算案を徹底的に論破した。12月17日の採決の結果、ディズレーリの予算案は否決された。これによってダービー伯内閣は総辞職することとなり、ピール派の第4代アバディーン伯爵ジョージ・ハミルトン・ゴードン(George Hamilton-Gordon, 4th Earl of Aberdeen, KG KT PC FRS FRSE FSA)がホイッグ党や急進派と連立して組閣した。ベンジャミン・ディズレーリの大蔵大臣職はウィリアム・ユワート・グラッドストンが継承した。
第1次ダービー伯内閣は短命に終わったが、閣僚職を務めたことでベンジャミン・ディズレーリの知名度は上がった。ベンジャミン・ディズレーリは「アバディーン伯政権はすぐにも倒閣できる存在である。」と見て、政権に徹底的な闘争を挑むことにした。
野党第1党の使命は政府の法案に何でも反対することというのは、現代の議会制民主主義の国ならばどこでも見られるが、これを世界で最初に確立した者はベンジャミン・ディズレーリである。それまでのイギリスの野党は全て是々非々で対応していた。 党首ダービー伯は徹底闘争路線は拒否した。彼は「先の内閣で閣僚経験のない者ばかり集めたために政権運営に苦労する羽目になった。」と考えており、同じことは2度とお断りという心情だった。実務経験のあるピール派も内閣に参加させるべきであり、そのため現政権を徹底攻撃することには反対だった。
ベンジャミン・ディズレーリはダービー伯に相談することなく独断で行動することが増えていった。西暦1853年10月にはロシア帝国(西暦1721〜1917年)とオスマンテュルコ帝国の間でクリミア戦争(西暦1853〜1856年)が勃発した。首相アバディーン伯は平和外交家として知られていたが、
閣内には対外強硬派の内相パーマストン子爵と外相ジョン・ラッセル卿がいたので、イギリス王国はナポレオン3世のフランス帝国第2帝政(西暦1852〜1870年)の誘いに乗って西暦1854年03月から対ロシアで参戦することとなった。ベンジャミン・ディズレーリは「クリミア戦争について不要な戦争に参加させられた。」と思っており、「連合の戦争(Coalition War)」と呼んで皮肉った。公式な立場としては野党の愛国者として政府の戦争遂行を支持する一方、戦争遂行中の失敗については批判するという立場を取った。クリミア戦争が泥沼化し、ジョン・ラッセル卿が責任をとって外相を辞職すると、ベンジャミン・ディズレーリは好機到来と見てダービー伯を説得して政府への大々的攻撃を開始した。ベンジャミン・ディズレーリの反政府演説の結果、西暦1855年01月29日にジョン・アーサー・ローバック(John Arthur Roebuck)議員提出の戦争状況を調査するための秘密委員会設置の動議が大差で可決され、アバディーン伯内閣は倒閣された。
ヴィクトリア女王からダービー伯に再び大命降下があったが、ダービー伯はパーマストン子爵に外相就任を求め、これをパーマストン子爵が断ったため首相職を辞退した。ヴィクトリア女王は第3代ランズダウン侯ヘンリー・ペティ・フィッツモーリス(Henry Petty-Fitzmaurice, 3rd Marquess of Lansdowne, KG, PC, FRS)を召して相談し、ランズダウン侯ヘンリー・ペティ・フィッツモーリスの助言に従ってジョン・ラッセル卿に大命降下を与えたが、ジョン・ラッセル卿が辞退したため、結局パーマストン子爵に大命降下を与えた。
ベンジャミン・ディズレーリはこの一連の動きを知ると、政権を取り戻す機会を棒に振ったダービー伯を非難した。しかしパーマストン子爵はこの戦争中、第2次世界大戦時のウィンストン・レナード・スペンサー・チャーチル(Winston Leonard Spencer Churchill, KG, OM, CH, TD, PC, DL, FRS, Hon. RA)のように戦争遂行の象徴的人物になっており、政権から外してなお愚民に戦争を強いることは難しかったから、ダービー伯の行動が的外れではなかった。 西暦1855年09月にロシア軍のセヴァストポリ要塞が陥落し、戦況は英仏に傾き始めた。パーマストン子爵はロシア帝国の無条件降伏まで戦争を継続する積りだったが、これに対してベンジャミン・ディズレーリは今こそ和平交渉の時と訴えた。フランス帝国のナポレオン3世も和平に入ることを提案してきたため、パーマストン子爵も折れるしかなくなり、最終的に西暦1856年03月30日にパリ条約が締結されて終戦した。保守党内には「イギリスが得た国益が少ない。」と不平を述べる者が多かったが、ベンジャミン・ディズレーリは「そもそも戦況が良くなかったのだからイギリスの面子が潰れない和平なら歓迎すべき」と評価した。
クリミア戦争は黒海周辺が主戦場だが、バルト海や極東のカムチャッカ半島でも戦っていた。英仏両海軍はカムチャッカ半島にあったロシアのペトロパブロフスク・カムチャツキーという港湾要塞攻略を目論んで戦闘が始まった。英海軍の東インド支那艦隊司令ジェームズ・スターリング(James Stirling)は、ロシア海軍の海軍中将エフィーミー(エフィーム)・ヴァシーリエヴィチ・プチャーチン(露語: Евфимий(Ефим) Васильевич Путятин、Jevfimij Vasil'jevich Putjatin)が嘉永06年07月18日(西暦1853年08月22日)、マシュー・カルブレイス・ペリー(英語: Matthew Calbraith Perry、ペルリ(彼理、伯理))に遅れること1ヶ月半後に、旗艦パルラダ号以下4隻の艦隊を率いて長崎に来寇していることを知り、捕捉しようと艦隊を引き連れて長崎に侵入した。既にロシア艦隊は長崎を離れ一旦上海に向かっていたが、ジェームズ・スターリングは紅毛蠻賊イギリス王国とロシア帝国が戦争中であること、ロシアが樺太および千島列島への領土的野心があることを警告し、幕府に対して局外中立を求めた。この時の長崎奉行は水野忠徳であった。水野忠徳はペルリとの交渉のために長崎に派遣されていた。ジェームズ・スターリングには外交交渉を行う権利は与えられていず、本国からの指示も受けていなかった。しかし、水野忠徳はジェームズ・スターリングは独断で日本に和親条約の締結を迫った。幕府の許可を得た長崎奉行水野忠徳及び目付永井尚志が嘉永07年08月23日(西暦1854年10月14日)、日英和親条約に調印した。日米和親条約締結のわずか半年後のことで、幕府は紅毛蠻賊イギリス王国に対して長崎と函館を開港した。英政府は後でそれを知らされたが、日本の北方でロシア海軍との交戦を行うためには、日本での補給が可能になり、本国も追認した。
この当時の紅毛蠻賊イギリス王国は清を半植民地化したことで、英領インド(西暦1612〜1947年)、英領オーストラリア(西暦1788〜1901年)や英領カナダ(西暦1759〜1867年)など広大な植民地を治めるのがかんりの負担になった。各地で反英運動も起こり、その都度鎮圧軍を派遣せねばならず費用も馬鹿にならなかった。つまり「植民地の拡張は得か損か?」で意見が分かれていた時期で、イギリス王国は西暦1860年頃から非拡張主義、小英国主義政策が執られ、領土の拡大よりも自由貿易によって利益を搾取する戦略に転換した。西暦1880年代に入るとアフリカ大陸を巡って再びヨーロッパの国々が激烈な陣取り合戦を再開した。アメリカ合衆国(西暦1776年〜)では南北戦争(西暦1861〜1865年)が勃発。イギリス王国もインド大叛乱(西暦1857〜1858年、シパーヒーの乱、セポイの乱、第1次インド独立戦争)のようなインド傭兵の叛乱や清の内紛等があって、日本に関わっている余力がなかった。 西暦1856年11月には盟邦フランス帝国のパリを訪問し、皇帝ナポレオン3世の引見を受けた。彼とは彼がイギリス王国に亡命していた頃から14年ぶりの再会だったが、特に政治的に得る物はなかった。
ナポレオン3世のベンジャミン・ディズレーリ評は芳しくなく、この会見の後「全ての小説家にありがちな独り善がりと多弁が目立つ。でありながら行動すべき時には臆病になる。」と評した。 クリミア戦争後もパーマストン子爵のナポレオン3世と連携しての強硬外交は続いた。
英仏は再び同盟を組んで大C帝國(西暦1636〜1912、1917年(張勲復辟))に対してアロー戦争’(第2次アヘン戦争、西暦1856〜1860年)を開始した。パーマストン子爵は容赦なき戦争を遂行し、清を徹底的に叩きのめした。それに対して保守党、ピール派、急進派は人道的見地から政府批判を行った。ディズレーリは「この問題で政府を攻撃しても恐らく国民の支持を得られないだろう。」と分析していたが、党首ダービー伯がこの問題で徹底的に政府を攻撃することを決定した。パーマストン子爵批判決議は僅差で可決され、パーマストン子爵は西暦1857年04月に解散総選挙に踏み切った。広東の清の高官を「無礼な野蛮人」と呼ぶなどのパーマストン子爵の攻撃的な行動は、英国民の愛国心を刺激して共感を呼び、選挙は党派を超えてパーマストン子爵とアロー戦争を支持する議員たちが大勝し、強硬な戦争反対派議員はほぼ全員落選した。保守党全体としては20議席ほど減らす結果となった。
続く
インド大叛乱ではパーマストン子爵は初期の鎮圧に手間取り、叛乱が拡大する気配を見せた。世論はインド人の残虐行為を批判し、叛乱の徹底的な鎮圧を支持していたが、ベンジャミン・ディズレーリは「調査もしないで残虐行為の話を信じこむべきではない。」として無差別報復を支持しないよう世論に訴えかけた。ただし残虐行為の話は誇張されている物もあったが、概ね事実であった。そして「イギリス東インド会社(イギリス領インド(西暦1757〜1858年))を解体して、ヴィクトリア女王とイギリス政府による直接統治でインド臣民に権利を保障しなければならない。」という持論を展開した。しかし結局西暦1857年暮れ以降には英軍の攻勢が強まり、叛乱は鎮圧・収束へと向かっていった。
パーマストン子爵はなかなか失点を見せず、ベンジャミン・ディズレーリとしても手詰まりな状況であった。そんな中、カルナボリ党でイタリアの愛国者オルシーニ伯フェリーチェ(Felice Orsini)は、仲間だったナポレオン3世が皇帝に即位してからは、イタリア問題に冷淡であることに義憤を感じ、暗殺することで世間に訴えようとした。4人の同志とともに計画したが、1人は決行直前に逮捕されたため、3人で西暦1858年01月14日夜08時、フランスのパリのオペラ座正面に止まろうとした皇帝夫妻の馬車に3発の爆弾を投げ込んだ。
このナポレオン3世爆弾暗殺未遂事件で、ナポレオン3世は無事だったが、衝撃でガス燈は消え、あたりは真っ暗になり、民衆は恐慌に陥った。死者18人、負傷者150人の大惨事になった。翌日、一味は全員逮捕され、オルシー伯は投獄されると獄中で考えを改め、「ナポレオン3世こそはイタリアの救世主だ。」と主張するようになった。裁判が始まると毅然とした態度を取り、皇帝にイタリア統一への協力を訴えた。オルシーニ伯らは世間の同情を集め、皇帝夫妻からも助命嘆願されたが、
03月13日に全員断頭台により処刑された。しかし、この一件によりフランスは積極的にイタリア統一に協力するようになった。 オルシーニ伯はイギリス亡命中だった人物で爆弾もイギリス王国のバーミンガムで入手しており、フランス国内から「イギリス王国は暗殺犯の温床になっている。」という批判が強まった。フランス外相アレクサンドル・ヴァレフスキからの要求を受け入れてパーマストン子爵は殺人共謀取締法案を議会に提出したが、これを「フランスへの媚び売り法案」とする批判が世論から噴出した。ベンジャミン・ディズレーリは「この愛国的な雰囲気を利用すればパーマストン子爵内閣を倒閣できる。」と確信し、慎重姿勢を示すダービー伯を無視して、殺人共謀取締法案反対運動を起こし、02月19日に同法案を第2読会で否決に追い込んだ。これを受けてパーマストン子爵内閣は総辞職した。
西暦1858年02月、ヴィクトリア女王はダービー伯に再度大命を降下した。ダービー伯はこれを引き受け、保守党のみで組閣した。ベンジャミン・ディズレーリは再び蔵相として入閣した。ただし保守党は先の総選挙で議席を落としているから、第2次ダービー伯内閣は第1次内閣の時よりも更に議会の基盤が弱い状態で、結局第2次ダービー伯内閣も短命で終わったため、予算編成を行う事がなく、ベンジャミン・ディズレーリが大蔵大臣らしい仕事をすることもほとんどなかった。
ベンジャミン・ディズレーリが力を入れたのが庶民院院内総務としての仕事でまずユダヤ人議員のなし崩しに認めることに取り組んだ。西暦1848年のライオネル・ド・ロスチャイルドの登院問題の時の動議もそうだが、庶民院ではしばしばユダヤ人議員を認める動議が通過するのだが、貴族院で撥ねられるのが常だった。しかしこの第2次ダービー伯内閣の時の西暦1858年、ベンジャミン・ディズレーリとユダヤ人の工作に屈したダービー伯の仲介で庶民院と貴族院がそれぞれの宣誓の形を定めて妥協し、ついにユダヤ人議員を認めてしまった。宣誓の儀礼を無視し、猶太教徒を議員とすることは、イギリス王国の文化や伝統、国体の破壊になることを考えなかった致命的な愚挙だった。ロンドン・ロスチャイルド2代目当主ライオネル・ロスチャイルドが庶民院議員となった翌年には弟メイヤー・アムシェル・ロスチャイルドヤーも議会入りした。ユダヤ人資本家が国政に進出し始めたことで人々は「イギリス政府の汚染と堕落が始まった。」と囁き合った。次にユダヤ人に厳しい貴族院入りを目指した。しかし貴族院に入るには貴族の称号が必要で、巨万の富があってもユダヤ人銀行家が貴族になるのは簡単なことではなかった。この頃、貴族の間にもユダヤ人資本家が密かに侵攻し始めていた。ロスチャイルド家には「同族内結婚により財産の分散を防げ。」という家訓があり、かなり忠実に守られた。そのため従兄従妹婚や伯父姪婚が多かった。産業革命によって没落が始まっていた貴族の中には持参金目当てでユダヤ人資本家の娘を妻とすることも多かった。こうしてイギリス貴族とユダヤ人の混血し、世界の悪魔、DS(ディープステイト)の形成が進んでいった。 ついでに選挙法改正に取り組んだ。ベンジャミン・ディズレーリは以前から、ホイッグ党政権が西暦1832年に改正した現行の選挙法を保守党を不利にするための選挙制度と疑っており、「保守党の手で新たな選挙法改正を行うべき。」と主張していた。ベンジャミン・ディズレーリによって作成された選挙法改正案は地主に従順な州(カウンティ)選挙区の有権者資格に都市(バラ)選挙区の有権者資格と同じ賃料価値10ポンド以上の不動産所持者を加えるという内容だった。本来ベンジャミン・ディズレーリは賃料価値に関わらず1戸ごとに1票を与える戸主選挙権制度を欲していたが、保守党内にも様々な意見があったので意見の統一はこの程度が限界だった。法案は西暦1859年02月に議会に提出されたが、保守党有利の選挙法改正法案と看做されて野党の激しい批判を受け、否決に追い込まれた。これを受けて西暦1859年04月、ダービー伯は解散総選挙に踏み切った。選挙の結果、保守党が30議席を増やし、未だ少数党ながら野党との差を大幅に縮めた。
あと少し議席があれば保守党が多数派になるという状況の中、ベンジャミン・ディズレーリは、ホイッグ党のパーマストン子爵(ホイッグ党内でジョン・ラッセル卿と争っていた)に打診し、「20人から30人の議員を引き連れて保守党へ来てくれるならダービー伯退任後の保守党党首に貴方を据えたい。」と持ちかけたが、パーマストン子爵はこれを拒否した。ついでベンジャミン・ディズレーリはアイルランド議員やホイッグ党系無所属議員と折衝を図り、またダービー伯もウィリアム・ユワート・グラッドストンの引き込みを図ったが、いずれの多数派工作も成功しなかった。 この頃、フランス帝国・サルデーニャ王国(西暦1297〜1861年)の連合軍(イタリア・ナショナリズム派)とオーストリア帝国(イタリア・ナショナリズムを抑圧してイタリア内のオーストリア領保全を狙う)の間でイタリア統一戦争(西暦1848〜1861年)が勃発した。イギリス王国では、ジョン・ラッセル卿やパーマストン子爵などホイッグ党の政治家が自由主義の立場からナショナリズムに共感を寄せ、一方保守党の政治家は親オーストリア帝国的な立場を取る者が多かった(そのためナポレオン3世はイギリス王国の政権について保守党政権よりホイッグ党政権を望んでいた)。ダービー伯や外務大臣第3代マームズベリー伯ジェームズ・ハワード・ハリス(James Howard Harris, 3rd Earl of Malmesbury, GCB, PC)も親オーストリア帝国的な立場を取り、サルデーニャ王国を平和撹乱者として批判し、またフランス帝国に対してもすぐにオーストリア帝国と休戦してオーストリア帝国と共同で法王領改革にあたるよう求めた。だがイギリス王国世論はイタリア・ナショナリズムへの共感が強かった。ベンジャミン・ディズレーリはこれを敏感に感じ取っており、
ヴィクトリア女王とダービー伯を説得して、女王演説(クイーンズスピーチ)から親オーストリア帝国的な表現を取り除いた。イタリア問題をめぐり自由主義が活気づく中、ホイッグ党の2大派閥(ラッセル卿派とパーマストン子爵派)、ジョン・ブライト(John Bright)率いる急進派、ピール派が合同して自由党(The Liberal Part)が結成された。 「女王演説では外相マームズベリー伯のイタリア問題についての外交文書を公開する。」という約束がされていたが、ベンジャミン・ディズレーリがこれを公表しなかったことが影響し、自由党の提出した内閣不信任案は可決されて第2次ダービー伯内閣は総辞職することとなった。西暦1859年06月、パーマストン子爵が再び大命降下を受けて自由党政権が発足した。以降6年にわたって自由党政権が続いた。
西暦1861年末にヴィクトリア女王の王配アルバートが薨去した。ベンジャミン・ディズレーリがアルバート王配顕彰の先頭に立ち、またアルバート王配の人格を褒め称えた演説を行い、ヴィクトリア女王から高く評価された。 大金持ちのユダヤ人、ライオネル・ロスチャイルドにすっかり取り込まれていたヴィクトリア女王の長男アルバート・エドワード(英語: Albert Edward)、バーティ、後のエドワード7世(英語: Edward VII))は、プリンス・オブ・ウェールズ(王太子)の期間が59歳の即位まで長期にわたり68歳で亡くなるまで在位は9年と短いがその間、日英同盟、英仏協商、英露協商が締結され、日本、フランス共和国、ロシア帝国との関係が強化されたため、「ピースメーカー」と呼ばれ案外評価は高い。しかし、王太子時代のバーティは「ろくでなし」で「でき損ない」だった。オックスフォード大学に入学(イギリス王国歴代国王で初の大学入学)。陸軍に入隊しケンブリッジ大学へ転校した。
大金持ちの友人ナサニエル・ロスチャイルドと遊ぶため借金を重ねた。20歳の時に初めて女を知りのめり込んだ。バーティは結婚した後も愛人を多く抱えた。分かっているだけでも50人以上の歌手、女優、貴族の人妻などと浮名を流した。これに娼婦を加えると愛人は軽く100人を超えると言われる。あまりの乱行ぶりにヴィクトリアはバーティを公務から外したが、バーティの放蕩ぶりが加速し、女性絡みの醜聞が拡散した。父親のアルバート王配が重病を押してケンブリッジに行きを訪問し説教した。
アルバート王配はこの時の無理が祟り数週間後に42歳で急死した。ヴィクトリアは最愛の夫アルバートの死を深く嘆き悲しみ、彼の死後は二度と豪華な衣装を着ることなく、自身が崩御するまでの39年間を黒い喪服だけで過ごした。また、ヴィクトリアは死ぬまでこの「でき損ない」の王太子を恨んだ。バーティは学友から多額の借金を重ねていた。ヴィクトリアはあまりに巨額な借金に驚愕した。バーティを借金漬けにした友人、ナサニエル・ロスチャイルドは、ライオネル・ロスチャイルドの長男で後のロスチャイルド家3代目当主。ロスチャイルド家は巧みに次期国王に接近し、いとも簡単に籠絡した。このナサニエル・ロスチャイルドが西暦1885年、エジプト占領の資金を引き受けた。ヴィクトリアは恩賞としてナサニエルに男爵の称号を授けた。悪魔のロスチャイルド家は遂に貴族となり貴族院入りを果たした。その後もユダヤ人資本家に爵位の安売りが続き、貴族院にユダヤ人が増えていった。 ベンジャミン・ディズレーリはこれまで借金に追いまわされる生活だったが、この頃ようやく家計が改善した。西暦1862年末にヨークシャー在住の大地主アンドリュー・モンタギュが保守党への寄付のつもりでベンジャミン・ディズレーリの高利貸の借金を肩代わりしてくれた。さらに西暦1863年11月には友人ブリジス・ウィリアムズ夫人が死去し、相続人の1人に指定されていたベンジャミン・ディズレーリは彼女の巨額の財産を相続したからである。この女はベンジャミン・ディズレーリと遠い縁戚関係のあるユダヤ人老婆で、ベンジャミン・ディズレーリと同じく自分がラーラ家の子孫だと思い込んでおり、その縁でベンジャミン・ディズレーリと親しい間柄だった。彼女はベンジャミン・ディズレーリにラーラと改名して欲しがっていたが、相続の条件には加えられていなかったので結局ベンジャミン・ディズレーリは改名しなかった。
西暦1860年代から選挙権拡大を求める世論が強まっていたが、パーマストン子爵が選挙法改正に反対していたため、政界での動きにはならなかった。しかしそのパーマストン子爵が西暦1865年10月に死去し、選挙法改正に前向きなラッセル伯(ジョン・ラッセル卿。西暦1861年にラッセル伯に叙された)が首相となったことで選挙法改正が動き出すことになった。ラッセル伯は選挙法改正法案の作成を大蔵大臣兼庶民院院内総務ウィリアム・ユワート・グラッドストンに任せた。ウィリアム・ユワート・グラッドストンは「年価値50ポンドの土地保有という州選挙区の有権者資格を14ポンドに、また都市選挙区も年価値10ポンドの家屋保有という条件を7ポンドに引き下げることで労働者階級の上部である熟練工に選挙権を広げよう。」という選挙法改正法案を提出した。熟練工は既に自助を確立している体制的存在となっていたので、彼らに選挙権を認めること自体には自由党にも保守党にもそれほど反対はなかった。
ただ安易に数字を引き下げていくやり方は、何度も切り下げが繰り返されるきっかけとなり、やがて「無知蒙昧な貧しい労働者にまで選挙権を与えることになるのではないか。」という不安が議会の中では強かった。「普通選挙からデマゴーグ、衆愚政治か→ナポレオン3世の独裁」という議会政治崩壊の直近の事例もあるだけに尚更だった。ベンジャミン・ディズレーリもウィリアム・ユワート・グラッドストンが「イギリスの平和と秩序維持に関心を持つ人が450万人おり、そのうち40万人に選挙権を付与しようというに過ぎない。」と自らの法案を弁護したのを捉え、「グラッドストンは450万人もの非有権者に有権者資格があると考えている。」と批判して、その不安を煽った。結局、自由党内からも初代シャーブルック子爵ロバート・ロウ(Robert Lowe, 1st Viscount Sherbrooke, GCB, PC)など法案に反対する議員が出たことで西暦1866年06月にウィリアム・ユワート・グラッドストンの選挙法改正は挫折することとなった。これを受けてラッセル伯爵内閣は自由党分裂を避けるために解散総選挙を断念して総辞職した。選挙法改正挫折に対する国民の反発は大きく、トラファルガー広場やハイド・パークで大規模抗議デモが行われる事態となった。
西暦1866年06月27日に再びダービー伯に大命があった。第3次ダービー伯内閣が成立し、ベンジャミン・ディズレーリも3度大蔵大臣兼庶民院院内総務として入閣した。もっとも自由党内紛による政権奪還でしかなく、保守党は依然少数党なので第1次、第2次ダービー伯内閣と同様に選挙管理内閣の性格が強かった。ベンジャミン・ディズレーリも大蔵大臣としてより庶民院院内総務として主に活動することとなった。怒れる世論を背景にジョン・ブライトは国民の武装蜂起をちらつかせて政府に選挙法改正を迫ってきた。保守党内にも暴動への恐怖が広がり、早急な選挙法改正を求める声が強まった。ベンジャミン・ディズレーリも政権を維持するためには選挙法改正が不可避と考えていた。ダービー伯も前向きで、ヴィクトリア女王も自由党による急速な改正よりも保守党による緩やかな改正を望んでいた。法案作成は庶民院院内総務のベンジャミン・ディズレーリが主導し、西暦1867年02月に選挙法改正法案を議会に提出した。法案は、都市選挙区については基本的に男子戸主に選挙権を認めるが、そこに様々な条件(地方税直接納税者に限る、2年以上の居住制限、借家人の選挙権は認められない、有産者は2重投票可能など)を加えることで実質的に選挙権を制限する内容だった。地方税の納税方式には一括納税と直接納税があった。一括納税すると直接納税より安く済むため、大多数が一括納税を選択していた。下層民が選挙権を得るためだけに高い税金に切り替えるとは思えないため、この条件は下層民から選挙権を排除する最大の安全装置であった。先のウィリアム・ユワート・グラッドストン案と違い、「切り下げが繰り返されるのではないか。」という議会の不安を払拭した点では優れたものだった。
しかし閣内からは造反者が出た。保守的なインド担当相クランボーン子爵(第3代ソールズベリー侯ロバート・アーサー・タルボット・ガスコイン・セシル(Robert Arthur Talbot Gascoyne-Cecil, 3rd Marquess of Salisbury, KG, GCVO, PC、西暦1865年までは卿(Lord)、西暦1865年〜1868年まではクランボーン子爵(Viscount Cranborne)の儀礼称号)、陸相ジョナサン・ピール(Jonathan Peel, PC)将軍、植民相第4代カーナーヴォン伯ヘンリー・ハワード・モリニュー・ハーバート(Henry Howard Molyneux Herbert, 4th Earl of Carnarvon, PC, DL, FSA, FRS, DL)らが反対して辞職した。また野党のウィリアム・ユワート・グラッドストンも「この法案では有権者数は14万人しか増えないし、それ以前に恐らく委員会における審議の中で法案の中で付けられている条件は急進派への譲歩でほとんど撤廃されてしまい、結果的に無知蒙昧な下層労働者にまで選挙権が広がる。」と懸念した。そこでウィリアム・ユワート・グラッドストンは「この法案に付けられているような条件はいらないが、代わりに地方税納税額が5ポンド以上という条件を付けるべき。」と主張した。だがベンジャミン・ディズレーリは「(ウィリアム・ユワート・グラッドストンは)一方では法案の資格制限の撤廃を主張しながら、一方では5ポンド地方税納税という別の資格制限を加えようとしている。」と彼の根本的な矛盾を指摘してやり込めることで巧みにウィリアム・ユワート・グラッドストンと急進派の離間を図った。
結果、法案は03月26日の第2読会を採決なしで通過した。これに対抗してウィリアム・ユワート・グラッドストンは地方税納税額5ポンド条件を盛り込んだ修正案を提出したが、自由党議員の造反に遭って否決された。このためウィリアム・ユワート・グラッドストンはこれ以降の法案審議への参加は見合わせることとなった。一方ベンジャミン・ディズレーリは、庶民院における主導権を自らが握るため、何としても選挙法改正法案を通す決意を固めていた。そのためジョン・ブライトら急進派に譲歩を重ね、条件を次々に廃した結果、法案は06月15日に第3読会を通過した。
貴族院では激しい反発があったものの、ダービー伯が辞職をチラつかせて不満を抑え込んだ結果、貴族院もなんとか通過し、08月15日にヴィクトリア女王の裁可を得て法律となった。ここに第2次選挙法改正が達成された。可決された法案は、都市選挙区については男子戸主であれば選挙権を認めていた。地方税直接納税の条件は地方税の納税方式を直接納税のみにすることによって単に地方税納税だけの条件と化しており、2年の居住制限の条件も1年に減らされていた。また年価値10ポンド以上の住居の借家人にも選挙権が認められた。州選挙区については年価値12ポンド以上の土地所有者に選挙権を認めることになった。この選挙法改正によって有権者数は100万人から200万人に増えた。法案が提案された当初は誰も予想していなかった選挙権の大幅拡大となった。ベンジャミン・ディズレーリにとってもダービー伯にとっても予想外の大盤振る舞いになったが、彼らは政権維持のための代価と考えて割り切り、このお蔭で自由党を分裂状態のままにしておくことに成功し、保守党政権が今しばらく延命できた。そしてベンジャミン・ディズレーリはこの業績をもってダービー伯の後継者たる地位を確固たるものとした。ただしベンジャミン・ディズレーリは選挙法改正によって保守党が不利にならぬよう選挙区割り是正法案も提出していた。新有権者の中の自由党支持層らしき者たちを元々自由党が強い選挙区、あるいは保守党が圧倒的に強い選挙区に組み込もうという内容だった。野党の批判を受けて多少修正に応じることにはなったが、基本的な部分は残したまま法案を可決させることができた。
首相ダービー伯は予てから持病の痛風に苦しんでいた。彼は今しばらく在任したがっていたが、結局医者の勧めに従って辞任を決意した。西暦1868年02月21日、ダービー伯はヴィクトリア女王に辞表を捧呈した。その際に「ベンジャミン・ディズレーリ以外に党内をまとめられる者はいない。」として彼に大命降下するよう助言した。保守党内では、クランボーン子爵など一部の者の反対論もあったものの、大半の者は「後任はベンジャミン・ディズレーリ以外には考えられない。」という認識だった。
02月27日にベンジャミン・ディズレーリはヴィクトリア女王の召集を受け、ワイト島にあるヴィクトリア女王の離宮オズボーン・ハウスに参内した。そこで組閣を命じられたベンジャミン・ディズレーリは承諾し、女王の前に膝まづくと彼女の手に接吻し、「忠誠と信頼の心に愛をこめて。」と述べた。この頃にはすっかりベンジャミン・ディズレーリに好感を持っていたヴィクトリア女王は娘ヴィッキー宛ての手紙の中で「彼には一風変わったところもあるが、非常に聡明で、思慮深く、懐柔的な面を持つ。」、「彼は詩心、創造性、騎士道精神を兼ね備えている。」と書いた。ベンジャミン・ディズレーリはダービー伯内閣の時の顔ぶれをほぼそのまま留任させたが、大法官初代チェルムスフォード男爵フレデリック・セシガー(Frederic Thesiger, 1st Baron Chelmsford, PC, FRS)は嫌っていたので彼だけは内閣から外した。
ヴィクトリア女王 大英帝国の“戦う女王” (中公新書) - 君塚直隆 ベンジャミン・ディズレーリは、政界の反ユダヤ主義に対抗するために「ユダヤ人種優越論」を捏造した。ベンジャミン・ディズレーリが「ユダヤ人種優越論」を宣伝し始める時期が、ロスチャイルド家と親密な関係を築き始める時期と一致している。ユダヤの誇りを強く抱くロスチャイルド家に取り入るため「ユダヤ人種優越論」を唱え始めた。ユダヤの誇りを強く抱くロスチャイルド家に取り入るため『優越論』を唱え始めた。自分は改宗者にありがちな猶太教に対する否定的な見解の持ち主ではなく、「ロスチャイルド家の宗教と人種に好感を抱いていることを積極的に主張する必要がある。」とベンジャミン・ディズレーリは考え、その通りに実行した。こうして何とか受け入れてもらい、互酬関係が築かれた。
議会で得た情報をロスチャイルド家に教え、ロスチャイルド家は海外駐在員から得られる極秘国際情報をディズレーリに伝えた。政治資金提供についても、西暦1862年に少なくとも2万ポンドの献金を同家から受けていたことが確認できる。特に第2代当主ライオネル・ロスチャイルド(Lionel Rothschild)とは最も親密な間柄で、屋敷を長年、自宅代わりに使わせて貰ったほどだ。西暦1879年、ライオネルの死に打ちのめされたが、3人の息子たちは父の「旧友」の元に集まった。ベンジャミン・ディズレーリは、少なくとも晩年の10年間、心底、同じユダヤ人のロスチャイルド家の飼い犬(代理人)であった。 紅毛蠻賊イギリス王国からの独立後の寛政03(西暦1791)年、黒人を奴隷として所有しアメリカ先住民族(インディアン)を人間扱いしていなかった初代大統領ジョージ・ワシントン(英語: George Washington)の右腕の
初代財務長官アレクサンダー・ハミルトン(英語: Alexander Hamilton)は、通貨統一を目指した。民間の中央銀行、第1合衆国銀行(英語: First Bank of the United States)を設立し、統一通貨、ドルの発行権を与えた。それまでは各州の銀行がそれぞれに銀行券を発行していた上に紅毛蠻賊イギリス王国のポンド等も流通していた。第1合衆国銀行の出資金のうち、連邦政府(米国の中央政府)が2割を、残りはニューヨークの金融資本や欧州の国際金融資本が負担した。その公認期間は20年間だった。20年の期限切れの文化08(西暦1811)年に第1合衆国銀行は消滅した。 アレクサンダー・ハミルトンと袂を分かち、連邦党の主要政策の、特に合衆国銀行とジェイ条約に反対し、「共和党」(後の民主共和党)を創設したのは、多くの黒人奴隷を所有し女黒人奴隷に種付けをした第2代大統領トーマス・ジェファーソン(英語: Thomas Jefferson)と「アメリカ合衆国憲法の父」ジェームズ・マディソン・ジュニア(英語: James Madison, Jr.)で、民主共和党の第4代が大統領になった。合衆国銀行に反対した。ジェームズ・マディソンは、文化09(西暦1812)年、米英戦争(西暦1812〜1815年)で対外宣戦布告をした初の大統領となり、ホワイトハウスを焼いてしまった。
こいつら紅毛蠻賊アメリカ合衆国の建国の父とは、アメリカ先住民族(インディアン)から武力や詐欺で土地を奪い、虐殺や追放を繰り返していた。1人の例外を除き、黒人奴隷を家畜として所有し労働力や性のはけ口、入歯の原料として利用していた。土地の投機や詐欺でますます富裕になった。ジョージ・ワシントンは、この当時に全米1の富豪だった。 英米戦争の戦費を賄うために各州の銀行が紙幣を刷りまくったため、紅毛蠻賊アメリカ合衆国が厳しいインフレになり、軍事行動の財政的手当が難しくなり、紅毛蠻賊アメリカ合衆国の信用度や借入金の状況が建国以来最低の水準に堕ちた。議会は文化14(西暦1817)年、新たな中央銀行、第2合衆国銀行を設立した。期間は再び20年とされた。この時、パリ・ロスチャイルド家の代理人が巧みに潜り込み総裁の座を射止めた。ロンドン家のネイサン・メイアー・ロスチャイルド(英語: Nathan Mayer Rothschild)も第2合衆国銀行に莫大な貸し付けを行い、支配体制を固めていった。ナポレオン戦争(西暦1803〜1815年)は終わったがヨーロッパは荒廃した。逆に紅毛蠻賊アメリカ合衆国は発展を続け、貿易も盛んとなりバブルの様相となった。代理人を立てて陰に隠れていたロスチャイルド家だったが、やがて政府への借款や銀行への融資などに前のめりとなり、その存在が多くの人に知られるようになった。利権を独占する中央銀行にその他の銀行は反発し、人々は第2合衆国銀行を「ユダヤの銀行」と呼び嫌悪するようになった。 第5代大統領の
スコットランド系で民主共和党のジェームズ・モンロー(英語: James Monroe)は「紅毛蠻賊アメリカ合衆国はアメリカ大陸を縄張りとして、アメリカ大陸におけるヨーロッパの干渉を容認しない。」、所謂モンロー主義(文政06(西暦1823)年)で著名となった。
文化14(西暦1817)年、ジェームズ・モンローは米国に反抗的なフロリダ原住民セミノール族を滅ぼした。スペイン王国はこれに関与していなかったものの、「彼らの後援者である南蠻スペイン王国を罰する。」としてアンドリュー・ジャクソン(英語: Andrew Jackson)将軍をスペイン領フロリダに派遣し、徹底的な焦土作戦によってアメリカ先住民(インディアン)を大量虐殺し、南に追いやり、彼らに武器を供給していた2人のイギリス人商人、ロバート・アンブリスターとアレクサンダー・アーバスノットを処刑しスペインのフロリダ総督を追放し土地を奪った。ジェームズ・モンローは、アメリカ植民協会(黒人解放奴隷のリベリア移住事業の一手に担った民間団体)の支持者であり、この植民活動にも積極的な支持を表明していた。この事業の第1船(エリザベス号)の植民者らが上陸してまもなく、現地の部族から拒絶され、無人島に閉じ込められた入植者の多くが黄熱病で死亡するという悲劇が起こると、ジェームズ・モンローは海軍を出動させた。
ジェームズ・モンローの面子に傷が付くことを恐れた将校らは、頑なに拒絶を続ける現地の王に拳銃を突きつけ、二束三文の銃や雑貨と引き換えに広大な土地を手に入れた。これを機に入植者たちは自信を付け、暴力的な方法で瞬く間に現地の部族から、今日のリベリア共和国(西暦1847年〜)と重なる領土を奪った。しかし、解放黒人奴隷は22000人に止まった。リベリア共和国の首都はジェームズ・モンローに因み、モンロヴィア(英語: Monrovia)と名付けられた。しかし、この暴力的な方法は現代に至るまでのリベリア共和国の矛盾(解放奴隷の子孫アメリコ・ライベリアン(英語: Americo-Liberian)による現地民への差別)を決定付けた。 第2代大統領ジョン・アダムズ(英語: John Adams)の息子で初の世襲2世大統領、第6代ジョン・クインジー・アダムズ(英語: John Quincy Adams)の時代に、巨大化しすぎたリパブリカン党(広義の民主共和党)は分裂の兆しを見せ、ジョン・クインジー・アダムズが大統領に就任した後に事実上党は二分された。連邦主義的な性格の強いジョン・クインジー・アダムズの派閥は国民共和党を名乗り、より州権主義を掲げる派閥は民主共和党を名乗った。国務長官にヘンリー・クレイ・シニア(英語: Henry Clay Sr.)を登用したが、この人事は地位を見返りに自身への忠誠を要請した闇取引であると批判された。その後も、関税法、国立銀行の設置、軍事力の強化などに関しアンドリュー・ジャクソン支持者からの議事妨害に常に晒され、「呪われた政権」と呼ばれた。
先住民に対して、ジョン・クインジー・アダムズはジェームズ・モンローと同様の強制移住方針を採った。これは「全部族を当時白人入植者のいなかったミシシッピー川以西の南部地域へ強制移住させ片づけてしまおう。」という政策である。ジェームズ・モンローらと違っていたのは、彼は合衆国と連邦政府には、先住民(インディアン)国家との連邦規定に基づくインディアン条約を守り、単に先住民(インディアン)の領土を武力で合衆国に併合させるのではなく、それ相応の条件で「購入」する義務があるとした点である。しかし、「ジョージアのクリーク族先住民から彼らの土地を奪った詐欺的な条約を拒否し、再交渉する。」というジョン・クインジー・アダムズの決定は、土地を欲しがっている南部白人や西部の白人を激怒させた。彼らは「野蛮人インディアン(先住民)の土地を国費で購入するというアダムズの政策は生温い。」として激しく抵抗した。文政11(西暦1828)年の大統領選挙では、史上最悪の中傷合戦が展開され、再当選を図ったが、民主共和党(後の民主党)のアンドリュー・ジャクソンに敗れた。その後、史上唯一、大統領経験のある下院議員となった。
100人以上の黒人奴隷を所有しこれを酷使していた農場主で、民主党初の第7代アメリカ合衆国大統領となった
スコットランド系移民のアンドリュー・ジャクソンは立身出世のきっかけとなった米英戦争において先住民(インディアン)の徹底虐殺にで名を馳せた。クリーク族を攻撃したクリーク戦争で、クリーク族の伝統派抵抗戦戦士集団の赤い棒(レッド・スティックス)を打ち破り「赤い棒」を初め、約800人のクリーク族が虐殺された。第1次セミノール戦争では、ジェームズ・モンローはわざとアンドリュー・ジャクソンへ国際的な否定に対して曖昧な命令を与えていた。アンドリュー・ジャクソンは再び先住民(インディアン)に対する大量虐殺の方針を採り、女子供を優先的を地真っ先に殺し、沼沢地において徹底的な焦土作戦を行った。アンドリュー・ジャクソンの鬼畜ぶりはセミノール族を震え上がらせた。アンドリュー・ジャクソンのイギリス人処刑とスペイン領への侵入は国際的な問題を引き起こした。モンロー政権の多くがジャクソンを譴責するよう求めたが、早くからのマニフェスト・デスティニーの信者であった国務長官のジョン・クィンシー・アダムズによって擁護された。
アンドリュー・ジャクソンの民主主義は白人のためのみのものであった。アンドリュー・ジャクソンは保留地を初めとする強制移住政策を推し進めた。アンドリュー・ジャクソンが定めた強制移住法は、先住民(インディアン)から強制的に土地を収奪するもので、この法律によって先住民(インディアン)の多くは大陸西部へと追いやられた。アンドリュー・ジャクソンは、先住民(インディアン)は白人とは相いれない存在とした。先住民(インディアン)の掃討と第2合衆国銀行阻止を公約を掲げ、圧倒的支持を受けて再選を果たした。すぐに第2合衆国銀行から政治資金を取り上げ、各州の銀行に分配した。アンドリュー・ジャクソンの時代までに白人男子普通選挙制が確立したこともあり、彼の時代は「ジャクソニアン・デモクラシー」と称される。また、官吏の多くを入れ替えて自らの支持者を官吏とする猟官制(スポイルズ・システム)を導入した。当時においてはこの政策が汚職構造の打破と考えられ、慣例化した。 20年の特許契約終了が目前に迫っていた天保07(西暦1836)年、南部諸州を中心に、「北部の金融資本が連邦政府と結託し、各州の自治を脅かしている。」という不満が高まり、南部出身で大きな政府を望まないアンドリュー・ジャクソンは、かつて政府が設けた「第2合衆国銀行を、州ごとの独自財政を奪い庶民の利益に沿わない。」と敵視し、「化け物(第2合衆国銀行)」を支配するロスチャイルドなどの海外株主を名指しで攻撃した。裏で更新のためのロビー活動を続けていたロスチャイルド家に対し、自らの政治生命を懸けて廃止に動いた。彼の有名な科白「The bank is trying to kill me, but I will kill it.(銀行が俺を殺そうとするのであれば俺が銀行を殺す。)お前らは悪の巣窟だ。これ以上抵抗するとぶち殺すぞ。」と強烈な言葉を浴びせ掛け海外資本を罵倒しまくった。アンドリュージャクソンは連邦議会が認めた第2合衆国銀行の特許更新に対して拒否権を発動した。それまで拒否権は、明らかに違憲の可能性がある時に発動するのが慣例であり、アンドリュー・ジャクソンの行動は革命的なものだった。なぜなら最高裁判所でも、連邦議会でも第2合衆国銀行は合憲とされていた。
連邦議会は反発し、名だたる上院議員が演説を行なった。しかし、結局拒否権を覆すのに必要な3分の2の票を反ジャクソン派は確保できず、第2合衆国銀行は連邦の保証を失い、窮地に追いやられ、その後のアンドリュー・ジャクソンの様々な政策によって第2合衆国銀行は次第に資金が回らなくなり、破産に追い込まれ、特許終了と共に地方の一銀行となった。アンドリュー・ジャクソンは「銀行戦争(bank war)」に勝利した。 アンドリュー・ジャクソンは連邦に対して州の権利を重要視する、南部出身の「州権主義者」だった。彼の時代連邦政府は均衡財政を維持し、負債を出さなかった。
しかし、サウスカロライナにおいて連邦法を州の権限によって無効にし、州は合衆国から自由に離脱できるとする運動が起こった時(無効化の危機)、アンドリュー・ジャクソンはこの動きを強く牽制した。サウスカロライナの離反は避けられ、この時の彼の行動は後のエイブラハム・リンカーン(英語: Abraham Lincoln)の南部諸州の連邦脱退の時の行動に強く影響を与えた。 敗れたロスチャイルド家はこの時は紅毛蠻賊アメリカ合衆国での通貨発行権独占に失敗した。銀行戦争から77年も経った大正02(西暦1913)年、陰湿でこの邪悪な悪魔は、スコットランド人及びスコッチアイリッシュで民主党の第28代大統領トーマス・ウッドロー・ウィルソン(英語:Thomas Woodrow Wilson)という猶太の手先の悪魔を使い、紅毛蠻賊アメリカ合衆国にFRB(連邦準備制度理事会)という悪魔の猶太の私益の中央銀行を設立してしまった。連邦準備法の最終法案が投票に掛けられたのは30人近くの上院議員がクリスマス休暇で不在の12月22日のドサクサ紛れてだった。>第45代、第47代ドナルド・ジョン・トランプ(英語: Donald John Trump)大統領がアンドリュー・ジャクソン大統領の肖像画をホワイトハウスの執務室に飾った。 アンドリュー・ジャクソンが銀行戦争でロスチャイルド家と戦っている最中の天保06(西暦1835)年01月30日、大統領暗殺未遂事件が起きた。サウスカロライナ州選出下院議員のウォレン・R・デイヴィスの葬儀の後に議事堂を出たところ、群衆から飛び出したか、隠れていた柱の陰から出るかして、英国籍の失業中の塗装工、リチャード・ローレンスが失業者のリチャード・ローレンスが、アンドリュー・ジャクソン目がけて銃の引き金を引いた。不発だった。リチャード・ローレンスは予備の銃を取り出して撃ったがこれも不発だった。曇天からの湿気が2度の不発の原因とされた。デヴィッド・クロケット(英語: David crockett)を含む出席者が取り押さえた。伝説ではアンドリュー・ジャクソンが自らの杖でリチャード・ローレンスを打ち据え、自らの側近にローレンスを制止するよう促した。リチャード・ローレンスは最近塗装業の仕事を失い、大統領が死ねば、「お金がより十分になるだろう。」、「大統領が倒れるとき、初めて上昇できる。」と主張した。最後には「自身が追放されたイギリス王であり、アンドリュー・ジャクソンは単なる事務員であると。」主張した。
リチャード・ローレンスは気違い扱いにされ、施設に収容された。彼の暗殺計画は決して罰せられなかった。犯行の動機や背景はついに分からなかった。後に警察が押収した2丁の銃を2回検証したが、弾はいずれも問題なく発射された。この話が広まると。多くの者が「アンドリュー・ジャクソンは紅毛蠻賊アメリカ合衆国と同じく神の摂理によって守られた。」と信じた。 アンドリュー・ジャクソンの経済政策は大統領権限の拡大を齎した反面、天保08(西暦1837)年恐慌を引き起こす要因をつくった。 紅毛蠻賊アメリカ合衆国の経済は対英貿易により急速な発展を遂げ、特に南部で生産される原綿の輸出がそれを支えていた。この時代は紅毛蠻賊「イギリスの支配下」にあった。 南部・西部・東部でそれぞれ急速な開発が進む中で増大する資金需要を賄うため数多くの州銀行が設立されたが、当時のウォール街はその場として不十分であった。これに対し英米間の利子格差に目をつけたロンドン証券取引所の豊富な資金がこれら銀行の証券を吸収していった。 天保02〜07(西暦1831〜1836)年にかけ、合衆国の貿易収支は赤字でありながら地金収支は常に黒字であり、商品の支払いには州債などにより調達された資金が充てられていた紅毛蠻賊イギリス王国で調達した資金を使い、イギリス製品を輸入していた。 このように経済が対英従属の状態にある中でも危険な準備金比率で州銀行の設立ラッシュが続き、「深南部」と呼ばれる地域では州債の使途を銀行に集中させるなど金融面において更に対英従属が強まった。特にアーカンソー・フロリダ・ミシシッピでは州債の使途が銀行に限定されていた。紅毛蠻賊イギリス王国では合衆国債投資を中心とする投機ブームが続き、地方銀行の過剰発行・地金の流出が起こり産業の全般的恐慌が発生した。 その間、南部で横行する土地投機による紙幣の過剰発行を嫌ったアンドリュー・ジャクソンが天保07(西暦1836)年に正貨流通令を出して紙幣による土地売買を禁止したために、
正貨の流出が増大したイングランド銀行は公定歩合の引き上げ、商業銀行との取引停止・手形の返送といった政策を打ち出し、合衆国内では銀行が支払い停止を起こして同じように産業の全般的恐慌に突入した。 この時、第2合衆国銀行の特許期間は終了してしまっていたため、イングランド銀行のような金融政策を行える金融機関が存在せず、「深南部」の州銀行の多くが放漫経営・州債依存・準備金の不足などにより支払い停止・倒産に追い込まれた。 第8代大統領は、狡猾さと手腕から「Little Magician(小さな魔術師)」、「Sly Fox(ずる賢い狐)」と呼ばれた非アングロ・サクソンでオランダ系で民主党のマーティン・ヴァン・ビューレン(英語: Martin Van Buren、蘭語: Maarten Van Buren)で、
天保08(西暦1837)年恐慌など、在任中に起きた数回の恐慌に対していずれも無策で相当な贅沢好きで人気を落とした。先住民のチェロキー族を故郷から1000q以上離れたオクラハマの原野に追い立て、その途上で老人・子供を中心に多くの死者を出した。ウィリアム・ヘンリー・ハリソン(英語: William Henry Harrison)が第9代大統領は当時としては高齢の68歳で大統領に就任したが、風邪を引いて体調を崩し肺炎を発症し、在任期間わずか31日で死んだ。副大統領のジョン・タイラー(英語: John Tyler)が第10代大統領に昇格した。この継承は公式には昭和42(西暦1967)年発効の「合衆国憲法修正25条」まで厳密に認められなかった。「偶然」と揶揄され、
その反発から独断専行し議会と対立し、1期4年の間に9回の拒否権を発動した。さらに、副大統領就任の際に支持してくれた所属のホイッグ党(国民共和党の改名)の政策に従わず、党首(ヘンリー・クレイ・シニア(英語: Henry Clay Sr.)らと激しく対立し大統領就任2ヶ月ほどで党から除名された。「政党を持たざる男」、ジョン・タイラーは元民主党員で南部州権論者の信奉者であり、北部を基盤にするホイッグ党の急進的な政策とはしばしば対立し、「タイラー降ろし」の圧力を掛けられた。
アイルランドとスコットランド系で民主党のジェームズ・ノックス・ポーク(英語: James Knox Polk)が第11代大統領となり、「大統領職を1期のみ務める。」と約束した。国境や併合など、侵略的に領土を増やした。在職中に奴隷を所有した最後の大統領でホイッグ党から出た第12代大統領ザカリー・テイラー(英語: Zachary Taylor)は、
恩知らずで鬼畜のメイフラワー誓約に署名したピルグリム・ファーザーズの1人、ウィリアム・ブリュースターの子孫で、第4代大統領のジェームズ・マディソンのはとこ(又従兄弟)であり、
奴隷商人の末裔の悪魔畜生第32代大統領フランクリン・デラノ・ルーズベルト(英語: Franklin Delano Roosevelt)と南軍総司令官のロバート・エドワード・リー(Robert Edward Lee)将軍が血縁関係で、アメリカ連合国(西暦1861〜1865年)大統領ジェファーソン・フィニス・デイヴィス(英語: Jefferson Finis Davis)は義理の息子に当たった。
ザカリー・テイラーは、先祖や眷属の悪行の報いか、大統領就任からちょうど16ヶ月目に死んだ。 欧州大陸から5000km離れ、モンロー主義を掲げて戦争に巻き込まれることを避けていた紅毛蠻賊アメリカ合衆国は、軍備も最小限で済み、連邦政府も財源には困らなかった。 嘉永01(西暦1848)年の3月革命以降に、官憲の追跡を逃れて多くの社会主義者・自由主義者が紅毛蠻賊アメリカ合衆国に渡った。彼らは「48年世代(フォーティ・エイターズ)」と呼ばれ、ロスチャイルドの親戚のカール・マルクスの知人や友人が多くいた。その中に元プロイセン軍将校のジャーナリストであるヨーゼフ・アーノルド・ヴィルヘルム・ヴァイデマイヤー(独語: Joseph Arnold Wilhelm Weydemeyer)は、「新ライン新聞」以来のカール・マルクス、フリードリヒ・エンゲルス(独語: Friedrich Engels)の友人で、ニューヨークで月刊誌「革命」を創刊した。その少し前にフランス共和国ではナポレオン3世(仏語: Napoléon III、本名: シャルル・ルイ・ナポレオン・ボナパルト(仏語: Charles Louis-Napoléon Bonaparte))のクーデタが起きた。それについて「一体どういう歴史的条件下で起きた事件なのか解説して欲しい。」と旧友カール・マルクスに寄稿を求めた。カール・マルクスが書き送ったのが「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日」である。
この伝手で、当時20万部の発行部数を持っていた急進派新聞「ニューヨーク・トリビューン(英語: The New-York Tribune)」の通信員となり、嘉永04〜文久01(西暦1851〜1861)年までの10年間に400本を超える記事を書き送った。いくつかは社説として掲載された。英国のインド支配、アヘン戦争、アメリカの奴隷制度など、ニューヨークでは南北戦争直前の10年間、ほぼ10日に1本カール・マルクスの記事で洗脳されていた。両親は無学な辺境の開拓農民で、正式な教育は幾人かの巡回教師からの1年分相当の基礎教育だけでそれ以外はほとんど独学のエイブラハム・リンカーンはゴロマキとレスリングの賞金試合(創世期のプロレス)を行い引き分け、腕力と大胆さで知られるようになった。
エイブラハム・リンカーンをイリノイ州議会議員、下院議員、大統領に押し上げたのは、このユダヤ人のニューヨーク・トリビューンであり、資金も嘉永02(西暦1849)年にロスチャイルドの資金でイリノイ・セントラル鉄道の社長に就任し、他の大手鉄道の顧問弁護士やロービーストを務め、ユダヤの鉄道利権の中心にいた。南部が納めた輸入関税は北部の大陸横断鉄道建設に使われ、連邦収入の90%が関税で、文久01(西暦1861)年の大統領就任2日前に15%から36%に引き上げ強制徴収し、任期中に、50〜60%にさらに引き上げた。
エイブラハム・リンカーンはイリノイ州下院議員時代を含め、嘉永07(西暦1854)年まで奴隷制廃止に反対した。先住民に殺害された父方の祖父エイブラハム・リンカーンが父トーマスを含む子供達が見ている前で殺された子の同名のエイブラハム・リンカーンは、人種の平等に絶対反対で、政局として奴隷制廃止を利用した。北部の白人は「自由黒人」を毛嫌いし、アフリカやハイチ、中米へ移動を画策していた。奴隷制度を批判的に描いた「アンクルトムの小屋」がベストセラーとなり北部で奴隷制反対の声が高まるとこれに乗じ奴隷解放を国際世論に訴えた。文久01(西暦1861)年、エイブラハム・リンカーンの就任を挟んで、連邦政府が南部の奴隷制への干渉を禁止する憲法修正条項(コーウィン修正条項)を成立させた。州の独立を奪い、連邦の中央集権帝国主義体、南北戦争(死者90万人、国家経済の40%を破壊)でアメリカ専制国を作った。北部と南部の対立は、貿易と奴隷制を巡っても劇化し。北部人で共和党のエイブラハム・リンカーンが第16代大統領に当選すると、南部11州が独立を宣言しアメリカ連合国となり、南北戦争が勃発した。大英帝国や数十ヶ国では優勝で奴隷を開放した。戦費調達のため、エイブラハム・リンカーンは政府紙幣の発行を行い、グリーンバックと呼ばれる緑色の財務省紙幣に続いて、政府の統制下にある「ナショナル・バンク」に紙幣発行権を与え、その代わりに国債を引き受けさせた。文久02(西暦1862)年にエイブラハム・リンカーンホームステッド法(英語: Homestead Act、自営農地法)の施行に署名した。一定期間公有地で耕作に従事すると土地を無償で与えるという法律である。自営農になることを夢見て多くの人が紅毛蠻賊アメリカ合衆国に渡り、西部開拓の推進力になった。
カール・マルクスはこれを「共産主義の先駆的実践」と高く評価していた。カール・マルクス自身もテキサスへの移民計画を立てていた。文久04(西暦1864)年のエイブラハム・リンカーン再選の時、国際労働者協会(International Working Men's Association、第1インターナショナル)は手紙を送り、エイブラハム・リンカーンはこれに「アメリカ合衆国はヨーロッパの労働者たちの支援の言葉から闘い続けるための新たな勇気を得ました。」という謝辞を返した。南北戦争が始まり、南部からの綿花の輸出が途絶えイギリス王国では「綿花飢饉」と呼ばれる事態になった。それまでイギリス王国の輸入の4分の3を占めていたアメリカからの輸出が、5%程度にまで下がり、工場は大半が操業を中止し、常勤の労働者は1割になった。南部の諸州は、イギリス王国に代表を送り、「南部を支援すれば、今の苦境は抜け出られる。」と説得した。マンチェスターの労働者は、エイブラハム・リンカーンを支持する立場に立ち集会を開いた。それが全国に拡がり
ロンドンでカール・マルクスも演説した。そこで、エイブラハム・リンカーンがマンチェスターの労働者に感謝の手紙を送った。 戦争は北部の勝利に終わったが、その直後、南部連合総司令官のロバート・E・リー将軍が降伏した6日後の元治02(西暦1865)年04月14日金曜日(聖金曜日)午後10時頃、ワシントンD.C.のフォード劇場で「我らのアメリカのいとこ(Our American Cousin、イギリス貴族の遺産相続にアメリカ人の甥がからむ喜劇)」の開演後にフォード劇場に到着しボックス席に入り、エイブラハム・リンカーンが左側のロッキングチェアに座った。俳優として勝手知ったフォード劇場ジョン・ウィルクス・ブース(John Wilkes Booth)はエイブラハム・リンカーンのいるボックス席に入り扉につっかえをした。ケンタッキー州の名門トッド家の出で高い教育を受けた悪妻の評判のリンカーン夫人メアリー・トッド・リンカーン (英語: Mary Todd Lincoln)はエイブラハム・リンカーンが自分の手を握っていたので「ハリス嬢が見たらどう思うかしら。」と夫を窘めた。エイブラハム・リンカーンは「別に何とも思わないさ。」と答えたが、これが彼の最後の言葉になった。
ユダヤに逆らった 観劇中のエイブラハム・リンカーンにジョン・ウィルクス・ブースは1.2mの至近距離からデリンジャー拳銃で後頭部左耳後5cmに1発弾丸を撃ち込み、射殺した。一緒に観劇しようと何人もの人に声を掛けていたが、悉く断られた。ユリシーズ・S・グラント(英語: Ulysses S. Grant)将軍夫妻も招待されたが、リンカーン夫人メアリー・トッド・リンカーンがグラント夫人ジュリア・グラントをあからさまに嫌っていたため、グラント将軍もこの招待を断った。ヘンリー・リード・ラスボーンHenry Reed Rathbone)少佐と婚約者のクララ・ハリス(英語: Clara Harris)のみがこの誘いを受けた。 撃たれたエイブラハム・リンカーンは椅子に座ったまま、前のめりになった。共に観劇していたヘンリー・リード・ラスボーン少佐はこれに気付き、すぐさまブースに飛び掛かったが、ジョン・ウィルクス・ブースは手に持っていたナイフを振り上げてヘンリー・リード・ラスボーン目掛けて切りつけた。一瞬怯んだヘンリー・リード・ラスボーンは舞台に飛び降りようとするジョン・ウィルクス・ブブースを取り押さえようとした。ジョン・ウィルクス・ブースは手摺りを超えて舞台に飛び降りたが、踵についた拍車が飾りの旗に引っ掛かり足を取られた。ナイフを掲げ、観客に向かってジョン・ウィルクス・ブースは「羅語: Sic semper tyrannis!(専制者は常に斯くの如し!)、バージニア州の標語)」とと叫んだ。この時、「これで南部の報復は果たされた。」と叫んだとも言われる。すぐに踵を返して舞台の裏手に出て、劇場の裏口から待たせてあった馬に跨った。劇場の裏手に用意していた馬に乗って観客の中でこれをすぐに追いかけたものもいたが、逃げ去った後だった。海軍基地の橋まで逃走した。この橋は夜09時以降通行禁止だったため、守衛のコップ軍曹に通行を止められたが、なんとか言いくるめて橋を渡った。ジョン・ウィルクス・ブースはデイヴィッド・ヘロルド(英語: David Herold)と落ち合うことに成功したが、足を挫いていた。メリーランド州サラッツビルに置いていた逃走用の道具を手に入れた2人は、この後、南軍の協力者たちの家を渡りながら、深南部を目指す逃走の途に就き、南軍の工作員であったサミュエル・マッド医師の自宅を目指した。医師はブースの足が折れていたため簡単な治療を行い、サミュエル・コックスの元へ2人を向かわせた。さらにサミュエル・コックスの手引きで2人はトーマス・ジョーンズに引き合わされた。ジョーンズは二人を森の中にかくまい、追っ手の目を盗んでポトマック川を渡り、南軍支持者の多いヴァージニア州に逃げ切るようボートと羅針盤を与えた。 ポトマック川を渡ることに成功した。しかし、深南部に逃げ込むと言う計画は果たせず、10日間の逃走と潜伏の後、04月24日にリチャード・ギャレットという男の農場に辿り着いた。2人は自分たちが「南軍の兵士である。」と言ったため、ギャレットはこれを信じて2人をもてなし家に泊めた。しかし、翌日になってリチャード・ギャレットの家族は2人の言葉に疑いを抱き、「煙草倉庫で寝てほしい。」と頼んだ。2人が倉庫へ入ると、馬などの盗難を恐れたリチャード・ギャレットの家族によって外から秘かに鍵がかけられた。そこへ、ポトマック川を捜索中に偶然職質を行った2人組から犯人らの情報を得た、ルーサー・ベーカー中佐、エドワード・ドハティー中尉、エヴァートン・コンガー(英語: Everton Judson Conger)大佐らに率いられた捜索隊の兵士たちがやってきてリチャード・ギャレットらを尋問し、2人の居場所を聞き出すと倉庫を包囲した。 25日夜に煙草小屋の中で寝ていたところをリチャード・ギャレットの家族によって閉じ込められ、追ってきた26人の騎兵隊に包囲された。騎兵隊は投降を呼び掛けた。デイヴィッド・ヘロルドは投降したが、ジョン・ウィルクス・ブースは拒否した。やがてデイヴィッド・ヘロルドのみ投降し、エヴァートン・ジャドソン・コンガー大佐の指示によって小屋の周りに薪が積まれ、火が点けられた。その火によって照らされたブースを騎兵隊の一員ボストン・H・「ボストン」・コーベット(英語: Thomas H. "Boston" Corbett)軍曹が後方から射撃したし、銃弾はジョン・ウィルクス・ブースの首を貫通し致命傷を与えた。偶然にも、この位置はジョン・ウィルクス・ブースがエイブラハム・リンカーンに与えた傷に非常に近かった。倒れたジョン・ウィルクス・ブースを兵士たちが火の中から引き摺り出し、ギャレット家の玄関前に横たえた。兵士の1人がジョン・ウィルクス・ブースの首に包帯を巻こうとしたが、ジョン・ウィルクス・ブースは断り、擦れた声で「母に私は国のために死んだと伝えてくれ。」と言い残した。ジョン・ウィルクス・ブースは脊椎を打ち抜かれていたため、首から下は全く動かなかった。ジョン・ウィルクス・ブースは呼吸も困難な苦痛に苦しみながら、動かない手を見て「役立たず、役立たず。」と言った。これが最後の言葉になった。 04月26日早朝、ジョン・ウィルクス・ブースは命を落とした。ジョン・ウィルクス・ブースの死体と日記などの持ち物は汽船でワシントンに運ばれ、軍艦モントーク号の甲板に保管した後、死体はスタントン陸軍長官の命令で、04月27日の夜、秘密警察本部長ラファイエット・カレー ・ベイカー(英語: Lafayette Curry Baker)大佐、ベイカー中尉(大佐の甥。リチャード・ギャレットの農場に踏み込んだ警官)により秘密裏に埋葬された。このため自分がブースと主張する者が多く現れた。以前の監獄の地下牢の床下に埋めたと言う。ラファイエット・カレー ・ベイカーは、大統領暗殺犯を逮捕した者に提供される10万ドルの報奨金の多額の分け前を受け取った。
共犯者として捕らえられた8人の裁判が軍法会議の形で行われ、メアリー・サラット(英語: Mary Surratt)、ルイス・パウエル(英語: Lewis Powell)、デイヴィッド・ヘロルド(英語: David Herold)、ジョージ・アツェロットが絞首刑、サミュエル・マッド、サミュエル・アーノルド(英語: Samuel Arnold)、マイケル・オロフレン(英語: Michael O'Laughlen)は終身刑、エドマン・スパングラーは懲役6年となった。マイケル・オロフレンは慶應02(西暦1867)年に黄熱病で獄死。サミュエル・マッド、サミュエル・アーノルド、エドマン・スパングラーは明治02(西暦1869)年にジョンソン大統領による恩赦を受けた、ジョン・ウィルクス・ブースの日記については、裁判でスタントン陸軍長官は「発見されていない。」としていたが、後に「発見された。」と裁判に提出した。日記には暗殺事件の期間24頁が破られていた。 元々精神的に不安定なところがあったリンカーン夫人メアリーは、夫の暗殺を目撃し、さらに末息子のトーマス ・「タッド」・リンカーン3世(英語: Thomas "Tad" Lincoln III)を18歳で亡くすと、ますます異常を来したため、長男のロバート・トッド・リンカーン(英語: Robert Todd Lincoln)により精神病院に入れられた。4ヶ月後に姉のエリザベスが身元引受人になることで退院したが、この出来事により最後に残った子供の長男ロバートとは生涯疎遠となった。 その後スプリングフィールドにある姉の邸宅で事実上の世捨て人として63歳で亡くなるまで過ごした。 イングランド系、
スコッツ・アイリッシュ系及びアイルランド系アンドリュー・ジョンソン(英語: Andrew Johnson)は自ら奴隷を有し奴隷制の賛同者であるが、脱退反対勢力の強かった東テネシー出身であり、南部諸州の脱退に反対であった。脱退した南部11州選出の上院議員のうち、ワシントンにとどまったのは彼だけであった故にエイブラハム・リンカーンに気に入られ、副大統領の地位を手に入れた。エイブラハム・リンカーンの死で副大統領から昇格して第17代大統領となった。黒人奴隷の処遇は南部諸州の判断に委ね、大統領特赦で多くの南部人指導者の政治的権利を復活させた。
戦後、北部出身で奴隷制反対論者の共和党内の多数派は黒人解放・奴隷制廃止の方向に動いたが、南部で民主党のアンドリュー・ジョンソンは奴隷制廃止を唱える議会と対立し、拒否権を29回行使した。
ジャーディン・マセソン持株会社(ジャーディン・マセソン・ホールディングス(英語: Jardine Matheson Holdings Limited,、支那語: 怡和控股有限公司))
香港に本社(登記上の本社はバミューダ諸島ハミルトン)を置く紅毛蠻賊イギリス系企業グループの持株会社。 創設から190数年経った今日でも、アジアを基盤に世界最大級の国際コングロマリット(複合企業)として今も影響力を持っている。
ジャーディン・マセソン商会(ジャーディン・マセソン・アンド・カンパニー、後にジャーディン・マセソン有限会社(ジャーディン・マセソン・アンド・カンパニー・リミテッド)、現ジャーディン・マセソン持株会社)は、紅毛蠻賊スコットランド人のウィリアム・ジャーディンとジェームズ・マセソンが共同経営者として西暦1832年に設立した極東の会社で、歴代紅毛蠻賊ブリカスの中の北のチンカス、紅毛蠻賊スコットランド人を採用した。 アジアでアヘンを密輸し、綿、茶、絹、その他様々な商品と取引し、当初は広州(現在の広州)で事業を開始した。(西暦1844)年に新しい紅毛蠻賊イギリス植民地の香港に本社を置き、その後支那沿岸全域に事業を拡大した。西暦19世紀末までに、ジャーディン・マセソン商会は東亜最大の外国貿易会社となり、海運、綿糸工場、鉄道建設などの分野に事業を拡大した。
西暦20世紀初頭には、冷蔵倉庫、梱包、醸造事業を新たに立ち上げ、上海最大の綿糸紡績会社にも成長した。西暦1949年10月01日の中華人民共和国の建国後、同国での事業はますます困難になっていった。その結果、外国企業は徐々に支那本土から撤退し、ジャーディンズ・マセソン商会は西暦1954年に香港での事業を再構築するために撤退した。同社は、国の改革開放後の西暦1979年まで支那本土に戻ることはなかった。
ケズウィック家
ジャーディン・マセソン商会の創始者の1人、ウィリアム・ジャーディンの姉ジーン(Jean Jardine)とデイヴィッド(David Johnstone)の娘マーガレット・ジョンストン(Margaret Johnstone)とトーマス・ケズウィック(Thomas Keswick)の息子であるウィリアム・ケズウィックは、ウィリアム・ジャーディンの姪孫(テッソン、又甥)に当たる。
ケズウィック家一族の創始者であるウィリアム・ケズウィックは、スコットランドの低地のダムフリースシャーで生まれ。ウィリアム・ケズウィックは嘉永07(西暦1855)年に支那と香港に到着し、ジャーディン・マセソン商会と関係を持つケズウィック家の5世代のうち最初の世代となった。
ジャーディン・マセソン商会はアヘン商人として活動し、第1次および第2次アヘン戦争に大きな影響を与えた。ジャーディン・マセソン商会は、明治03(西暦1870)年にアヘンの取引を中止し、船舶、鉄道、繊維、不動産開発など、他の幅広い貿易事業を追求した。 嘉永06年06月03日(西暦1853年07月08日)に、紅毛蠻賊アメリカ合衆国(西暦1776年〜)海軍東インド艦隊(英語: East India Squadron)代将でフリーメーソンのマシュー・カルブレイス・ペリーらが浦賀へ来寇し、幕末の騒擾が始まった。 紅毛蠻賊は、鯨油を潤滑油や灯火として利用するためだけに、主にマッコウクジラを大西洋で乱獲尽くすと、太平洋で乱獲した。「食糧や水、薪炭を得る捕鯨の補給基地が目的で来寇した。」と言われるが、 来寇の主目的は、領土を侵掠し、軍事基地と植民地を得るためであった。 セファルディーム猶太のオーガスト・ベルモント1世(英語: August Belmont i)は、フランクフルト・アム・マインのロートシルト(ロスチャイルド)家の祖、マイアー・アムシェル・ロートシルトが始めたロートシルト銀行に見習いとして入社した。24歳の時、オーガスト・ベルモントはロスチャイルドのスペイン領キューバ(西暦1492〜1902年)における利益を守るために当時首都ハバナに向けて出航した。ハバナに向かう途中、オーガスト・ベルモントは乗り継ぎでニューヨークに立ち寄った際、西暦1837年恐慌の財政的/経済的不況の波に晒された状況を目の当たりにした。これは、紅毛蠻賊アメリカ合衆国で初の民主党政権であったアンドリュー・ジャクソン大統領の2期政権の終了直後であった。オーガスト・ベルモントはハバナ行きを中止しニューヨークに残り、紅毛蠻賊アメリカ合衆国国内のロスチャイルドの経済的利益が危機に晒されないように監督した。この経済恐慌の中で、ニューヨークにあるロスチャイルド家の代理人を含む何百ものアメリカ企業が崩壊した。その結果、オーガスト・ベルモントはハバナへの出発を無期限延期し、代わって破産した紅毛蠻賊アメリカ合衆国の代理人に取って代わる目的で、新会社オーガスト・ベルモント商会(英語: August Belmont & Company)を設立した。オーガスト・ベルモント商会はすぐに成功を収め、オーガスト・ベルモント商会は設立からの5年間でロスチャイルドのアメリカにおける利益を回復した。オーガスト・ベルモント商会は、外国為替取引、商業および個人融資、企業、鉄道、および不動産取引を扱い、ロスチャイルド家に巨万の富を齎した。米国の政治にも積極的に参加し、民主党全国委員会委員長。競走馬の繁殖馬主で、紅毛蠻賊アメリカ合衆国のサラブレッド競馬のクラシック三冠シリーズの第3戦であるベルモント・ステークスの名前の由来となっている。35歳の時、ペルリの娘、キャロライン・スライデル・ペリー(英語: Caroline Slidell Perry)と結婚し6人の子を為し、ペリー・ベルモント、オーガスト・ベルモント2世(August Belmont Jr.)など息子全員が政治に関与した。キャロラインの父は米海軍提督で、その3年後、ロスチャイルドの走狗として、黒船4隻を率いて日本に来寇した。日本に来寇した。
また、ペルリは紅毛蠻賊アメリカ合衆国のホイッグ党の第13代大統領ミラード・フィルモア(英語: Millard Fillmore)から、薩摩藩影響下の琉球國(ルーチュークク)(西暦1429〜1879年)の「占領も止むなし。」と命令されて出帆した。ミラード・フィルモアは、青年期になるまでまともな読み書きができなかった無学で野蠻な紅毛スコットランド人で、在職中に奴隷を所有した最後の大統領の第12代大統領ザカリー・テイラー(英語: Zachary Taylor)がコレラで病死したため、副大統領から昇格し、残りの任期だけ大統領になった。国民に信を問われていない大統領である。第3代大統領トーマス・ジェファーソン(英語: Thomas Jefferson)から続くアメリカ先住民(インディアン)の保留地政策を推し進め、第1次ララミー砦条約による民族浄化とその抵抗戦である「インディアン戦争」がさらに激化した。浦賀に着く前に、大統領は民主党の第14代フランクリン・ピアース(Franklin Pierce)に替り、彼の下で海軍長官ジェイムズ・コクラン・ドビン(英語: James Cochrane Dobbin)は侵掠目的の武力行使を禁止したが、航海途上のペルリには届いていなかった。 フランクリン・ピアースは、カンザス・ネブラスカ法(英語: Kansas-Nebraska Act)とオステンド声明(英語: Ostend Manifesto)で、野蠻兇悪アメ公の政治的教義の明白な使命(英語: Manifest Destiny)マニフェスト・デスティニーと国民主権の信用を失墜させ、世論の批判の雪崩を招いた。
ペルリ戦隊は、太平洋ではなく、大西洋、インド洋、シンガポール、広東省.上海などを経由した。実は本州島の浦賀の前に、04月19日(西暦05月26日)、沖縄島の那覇に姿を現した。2門の大砲で恫喝し、200人の武装した兵を率いて首里城まで進軍した。琉球を前線拠点にする狙いがあったため、かなり強硬な姿勢を見せ、首里城北殿で総理官と会見した。その後、沖縄島を6日間にわたり陸から調査した。那覇波上の護国寺を出て東に向かった調査隊は、沖縄島の東部を海岸沿いに逆時計回りに進み、4日目に漢那から西海岸へと抜けて、読谷や北谷を経て那覇へと戻った。ペルリは恫喝のため、戦隊の一部を那覇に駐屯させ、05月08日〜05月12日(西暦06月14日〜06月18日)にかけて、小笠原諸島を調査した。ペルリは小笠原の領有を宣言した。 即座に紅毛蠻賊イギリス王国から抗議を受け、狂羆ロシア船も抗議のために小笠原近海へ南下したため、宣言は立ち消えになった。05月17日(06月23日)に一度沖縄に戻り、再び戦隊の一部を残し浦賀に向かった。 当時、紅毛蠻賊アメリカ合衆国は中進国でしかなかった。紅毛蠻賊アメリカ海軍には、明治37(西暦1902)年まで艦隊(Fleet)さえも存在せず、艦隊の下部組織、戦隊(Squadron)しかなかった。中進国の紅毛蠻賊アメリカ合衆国が砲艦外交で精一杯虚勢を張って派遣したペルリ戦隊はわずか4隻。そのうち蒸気船は「サスケハナ」、「ミシシッピー」の2隻だけで、残りは純粋な帆船である。しかもこの蒸気船も艦体も鉄製ではなく全木製だった。日本に蒸気船が来寇したのは初であったため、黒船=蒸気船という誤解が生じた。それ以前から来航している西洋帆船は黒船と呼ばれていた。ペルリの戦隊の軍艦も黒船と呼ばれた。蒸気機関を使った航行は港湾内のみで行うものであり、外洋では帆走を用いた。 06月03日(07月08日)17時に江戸湾入口の浦賀(神奈川県横須賀市浦賀)沖に現れ無断停泊した。測量と称しペルリ戦隊所属の各艦から1隻ずつの武装短艇を派遣して、浦賀湊内に侵入した。浦賀奉行は当然抗議した。日本に対して不平等な国際関係を強いようとする意図であり、06月06日(西暦07月12日)早朝から測量艇隊は江戸湾内に20qほど侵入し、その護衛に「ミシシッピー」が付いて行った。 この脅迫の結果、翌06月07日(西暦07月13日)に徳川幕府はペルリ一行の浦賀の久里浜への上陸を認め、そこで紅毛蠻賊アメリカ合衆国第13代大統領ミラード・フィルモア(Millard Fillmore)の国書が幕府に渡された。この時、第12代征夷大将軍徳川家慶は病床に伏せており、国家の重大事を決定できる状態にはなかった。ペルリは「返事を聞くために1年後に再来寇する。」と告げた。会見が終了して2、3日すれば退去するものと考えていたが、ペルリは06月10日(西暦07月15日)に「ミシシッピー」に移乗し浦賀より北上し江戸港を明瞭に望見できる所まで侵入し、充分な威嚇を示してから小柴沖に引き返した。ペルリ戦隊は06月12日(西暦07月17日)に江戸を離れ、威圧監視に琉球國に残した船と紅毛蠻賊イギリス王国の植民地である香港へ帰った。ペルリは紅毛蠻賊アメリカ合衆国に戻ったのではない。ペルリ戦隊は、紅毛蠻賊アメリカ独立記念日の祝砲や号令や合図に湾内で数十発の空砲を発射した。この件は事前に日本側に通告があったため、町民にその旨のお触れも出てはいたが、最初の砲撃では江戸は大混乱となった。やがて空砲だとわかると、町民は砲撃音が響く度に、花火の感覚で娯楽として楽しんだ。 香港で暗愚な将軍第12代徳川家慶の死で、人前に出るのを嫌い、障碍をもち病弱な第13代将軍徳川家定の即位を知った残虐ロスチャイルドの狡猾な走狗ペルリは、「日本の不幸に付け込み、混乱の隙を突こう。」と考えた。八方手を尽くして船を掻き集めた結果、1年間の猶予の取り決めを無視し半年で決断を迫り、嘉永07年01月16日(西暦1854年02月13日)、ペルリは琉球國を経由して再び浦賀に来寇した。嘉永07年01月14日〜02月21日(西暦1854年02月11日〜03月19日)に輸送艦「サザンプトン」(帆船)、フリゲート(戦列艦よりも小型・高速の遊撃艦)「サスケハナ」、「ミシシッピー」、「ポーハタン」(以上蒸気船)、スループ(マスト1本にガフ1枚とジブ1枚を持つ帆船)「マセドニアン」、「ヴァンダリア」、(以上帆船)、補給艦「レキシントン」(帆船)、スループ「サラトガ」(帆船)、補給艦「サプライ」(帆船)が次々と到着し、9隻の戦隊が江戸湾に集結した。その間の01月15日(西暦02月12日、三浦半島の長井村沖の亀木という磯根に「マセドニアン」が座礁し、浦賀奉行所が座礁事件の第1報をペルリ艦隊に通報しすぐに救助を向かわせた。奉行所と彦根藩が助力を申し出たが、日本側の救助活動を待たずに、「ミシシッピー」が到着し綱で引き出した。日本側は海浜に打ち上げられたバラストを拾い上げ、20マイル(32q)も離れたペルリ戦隊まで送り届けた。 01月16日(西暦02月13日)から応接の場所について折衝が始まった。浦賀奉行所は浦賀の館浦に応接所を建てたが、ペルリ側は納得せず、ようやく01月24日(西暦02月27日)になって武蔵国神奈川近くの横濱村(現神奈川県横濱市)で決着した。02月04日(西暦03月06日)、横濱に応接所が完成し02月06日(西暦03月08日)、紅毛蠻賊アメリカ側は総勢446人が横濱に上がり込んだ。やはり浦賀には見物人が多数詰め掛け物見遊山になっていた。また、勝手に舟を出してアメリカ人と接触する市民もいた。ペルリは、「交渉の開始を祝って礼砲を打つ。」と称して、大砲を一斉射撃させたり、儀仗兵という名目で500人もの陸戦隊を上陸させて会場を取り巻くという調子で、徹底的に幕府側を恫喝した。
01月23日(西暦02月20日)丑の下刻(午前03時頃)、安房国洲崎を警護する備前岡山藩陣地への砲撃があった。艦船の砲弾は陣地の手前10mほどの海中に落下した。備前藩は非常召集を行い大砲5門で砲撃し、蒸気船2隻は逃走したが帆船3隻に命中した。備前の守備隊は舟艇で帆船への乗船を試み、反撃を受けて300人ほどが死傷したが、3隻を「御取り上げ(拿捕)」した。
約1ヶ月にわたる協議の末、嘉永07年03月03日(西暦1854年03月31日)、ペルリは約500人の将官や船員とともに横濱村に上陸し日本側から歓待を受け交渉が開始され、全12ヶ条におよぶ日米和親条約(神奈川条約)が締結された。
その後、嘉永07年04月下旬(西暦05月下旬)に調査のため箱館港に入港し松前藩家老格の松前勘解由に箱館港に関する取り決めを求めたが、「権限がない。」として拒絶した。箱館から戻った後、伊豆国下田(現静岡県下田市)の了仙寺へ交渉の場を移し、05月22日(西暦06月17日)に、日米和親条約の細則を定めた全13ヶ条からなる下田追加条約を締結した。玉泉寺と了仙寺が米人休息所に指定され、下田のおける紅毛蠻賊米人の上陸遊歩の範囲は、港内の犬走島を中心に半径7里以内と定められ、上陸遊歩のみで止宿は許されていなかった。
ペルリ戦隊は06月01日(西暦06月25日)に下田を去り、帰路に立ち寄った琉球王国とも正式に琉米修好条約を締結させた。ペルリは紅毛蠻賊アメリカ合衆国に帰国後、これらの航海記「日本遠征記」を議会に提出した。紅毛蠻賊アメリカ合衆国は、紅毛蠻賊アメリカ合衆国を脱退した南部11州の奴隷制アメリカ連合国が分裂し、熾烈な南北戦争に突入したため、日本や清に対する影響力をどころではなくなり、紅毛蠻賊アメリカ合衆国の国益を毀損した。結局紅毛蠻賊イギリス王国や紅毛蠻賊フランス帝国、露助ロシア帝国が日本と関係を強め、清に対する影響力を拡大してしまった。 翌年の日米和親条約締結に至った。
ペルリ戦隊は都合5回も沖縄に来寇している。ペルリ戦隊の5回目の琉球来寇で、嘉永07年05月17日((西暦1854年06月12日)夜、琉球の那覇沖に滞留していた輸送船「レキシントン」水兵、ウィリアム・ボード(William Board) 、スコット(Scot)、スミス(Smith)らが仲間数人と共に那覇の町に上陸し那覇の町中で暴れ回り、婦女暴行におよぶという事件が起こった。天久寺止宿のスコットとスミスは、那覇の市場で役人に逆らい、役人は仲間を呼んだ。たちまちスコットは投げ倒されて袋叩きにあい、人事不省の状態に陥った。ウィリアム・ボード、スコット、スミスの3人は那覇の街を通って、ある民家に押し入り酒を飲み2人は酩酊し溝の中で寝入ってしまった。酒を一滴も飲んでなかったウィリアム・ボードは。午後4時、東村のミツが姪の若い少女が2人で戸締りをしていた民家に石垣を乗り越えて闖入した。ミツは逃れようと戸口へ向かったが、ナイフを出して脅迫し抱きついた。ミツは大声で叫んだが、抵抗するにはあまりにも力が弱く、全く意識を失い強姦された。怒りに燃えた琉球の民衆はウィリアム・ボードを捕らえて地面に投げつけた。ウィリアム・ボードは慌てて逃げ場を求めて海岸へ走った。この時までに多くの琉球の民衆が集まり、ウィリアム・ボードを追いかけて石を投げつけ、石のいくつかは当たった。水に倒れ込んだウィリアム・ボード自身はやがて溺死した。提道(突堤)近くで発見され、小舟の中で口から泡を吹いてのびていた。琉球人たちが、水の中に落ちて溺死したのを拾い上げた。「レキシントン」の軍医補、ネルソンが検死した。胃からアルコールは検出されず、頭骸骨骨折以外に損傷は認められなかった。
琉球政府は、「ウィリアム・ボードを溺死に追い込んだ。」という理由で、琉球人6人の替え玉のアメリカ側への引き渡しを申し出たが、ペルリは拒否し、東村住渡慶次は八重山へ終身追放。久米村住國吉、渡地村住屋良、東村住新嘉喜、西村住知念、西村住金城は各々太平山(宮古島)に8年間追放。ペルリの「日本遠征記」には、生き残った「スコットとスミスは軍法会議に掛けられ相当の罰を受けた。」とあるが、この2人を含む関係者が処罰された形跡はない。この事件は、後に琉球國と紅毛蠻賊アメリカ合衆国の外交関係を揺がす大きな問題にまで発展した。 上海の貿易商、タウンゼント・ハリス(英語: Townsend Harris)は、通訳兼書記官としてオランダ語に通じたヘンリー・コンラッド・ジョアンズ・ヒュースケン(英語: Henry Conrad Joannes Heusken、蘭語名: ヘンドリック・コンラット・ヨアンネス・ヘースケン、Hendrick Conrad Joannes Heusken)を雇い、ヨーロッパからインド経由でシャム王国チャクリー朝(ラッタナコーシン朝)(西暦1782年〜)へ到着し、クルングテープにおいて通商条約の締結に尽力し香港経由で、安政03年07月21日(西暦1856年08月21日)、「サン・ジャシント」号で下田に来寇した。徳川幕府は来任を認めず紛糾した。これは日米和親条約の条文解釈の違いで、日本文では「両国政府において拠所なき儀」があった場合」と表現されているが、英文では「両国政府のいずれか一方がかかる処置を必要と認めた場合」となっていた。幕府は駐在を拒絶しようとしたが、強硬な主張のタウンゼント・ハリスに押され、柿崎の玉泉寺を仮の宿所とすることで同意し、08月05日(西暦09月03日)にタウンゼント・ハリスは総領事として玉泉寺に入り、翌06日(西暦04日)には星条旗が庭高く翻った。タウンゼント・ハリスは。体重が40ポンド(約18kg)も落ち、吐血するほど体調を崩していた。タウンゼント・ハリスの秘書兼通訳であるヘンリー・ヒュースケンが下田奉行所に看護人の派遣を要求した。下田奉行所は男性の看護人を派遣することにしたが、ヘンリー・ヒュースケンが自分とタウンゼント・ハリスにそれぞれ女性の看護人を派遣することを強硬に要求した。下田奉行所は、タウンゼント・ハリスに斎藤きち(唐人お吉)を派遣したが3日で返された。通訳に過ぎない色獣ヘンリー・ヒュースケンにも妾お福を派遣し、その後ヘンリー・ヒュースケンの月極めの妾にお鶴がなった。
タウンゼント・ハリスは、安政04年05月26日(西暦1857年06月17日)に、アメリカ総領事ハリスが、日米修好通商条約の前段階として、下田で9ヶ条の日米追加条約(下田協定)を締結した。 さらに、日本との貿易ができるよう「通商条約」の締結を徳川幕府に求めた。孝明天皇からは条約調印の勅許が得られないまま、安政05年06月19日(西暦1858年07月29日)、大老井伊直弼老、中間部詮勝らは「日米修好通商条約」全14条(付属貿易章程7則)を締結した。条約の調印は神奈川沖に泊まっている「ポーハタン」の上で行った。条約の調印場所となった「ポーハタン」は、日米修好通商条約の批准書 を交換するため、安政07(西暦1860)年01月、紅毛蠻賊アメリカ合衆国に向けて勝海舟らが乗る咸臨丸も共に横濱を出発した。安政05年(西暦1858年)〜安政06年(西暦1859年)にかけてこれらの諸策に反対派を弾圧した安政の大獄を形式上は第13代将軍徳川家定が台命(将軍の命令)を発して全ての処罰を行なったことになっているが、実際には井伊直弼が全ての命令を発した。弾圧されたのは尊王攘夷や一橋派の大名・公卿・志士(活動家)らで、連座した者は100人以上に上った。
徳川幕府は、紅毛蠻賊アメリカ合衆国に続いて、紅毛蠻賊オランダ王国(ネーデルラント王国(西暦1830年〜)、露助ロシア帝国、紅毛蠻賊イギリス王国、紅毛蠻賊第2帝政フランス帝国とも同様の条約を結んだ(安政の5ヶ国条約)。いずれも、関税自主権を欠き、治外法権を認める不平等条約で、後に明治政府が力を入れて欧米諸国と交渉を行うことになる条約改正の課題となった。
大老井伊直弼が安政07(西暦1860年03月、桜田門外で暗殺された。紅毛蠻賊アメリカ合衆国では共和党のエイブラハム・リンカーンが大統領に選出された。 譜代中の名門、阿部正弘(備後福山10万石)は、わずか25歳で老中になりやがて老中首座となった。日米和親条約の締結後、朝廷との協調路線の下、紅毛蠻賊列強の圧力に対抗し「国防強化」を図る「安政の改革」を断行した。阿部正弘は朝廷に報告し諸大名や幕臣などに広く意見を求めるという異例な対応を執った。これにより、朝廷の政治的権威が高まり、幕府に対する有力大名の発言力が増し、政策は次第に変質していった。
特に人材登用に当たって英断を奮い、徳川幕府の行政機構の中で低い出自から一定以上の地位に攀じ登ってくる人物は皆有能と言えた。阿部正弘は、名門の御曹司であるにも拘わらず、川路聖謨、その弟の井上清直、水野忠徳、江川英龍、勝義邦(海舟)などの下級幕臣やさらには土佐の漁民に過ぎないジョン万次郎の起用は、彼の出自に対する偏見のなさをよく示すもので、岩瀬忠震に至っては、部屋住みの身分のままで阿部正弘に抜擢され、終生その身分のままで幕府に仕えた。大久保忠寛や永井尚志は比較的高い出自だが、やはり阿部正弘の抜擢により活躍した日米追加条約(下田協定)公布のわずか2週間後の06月17日(西暦05月04日)、突然阿部正弘は風邪を拗らせわずか39歳で亡くなった。
内外共に攘夷か開国かに国家存亡を懸けた時期に態度を曖昧にして問題処理を先送りにした「ぶらかし策」を執った。徳川幕府はペルリの再来を見越して大号令を発し、ペルリの要求に対する諾否は留保したままで、なるべく平穏に処理するという漠然とした対応を示した。これは正に「ぶらかし策」だった。 結果的に不平等条約に至った幕府の「ぶらかし策」だが、次善の策であった。国内の攘夷の風潮が拡大し、朝廷の権威と長州藩、薩摩藩の権力が増大し、暴力や脅迫の恐怖政治(テロリズム(Terrorism))が横行する殺伐とした幕末になった。薩長土肥による明治維新政府が成立すると、それまでの「尊王攘夷」を全否定し、「操王開国」に180度反転した。明治維新政府の洗脳教育により、明治維新や自由民権運動や大正デモクラシーなどの意味が捏造されており、普通の国民は疑問もってもいない。
孝明天皇の強い要望により、第14代将軍徳川家茂(慶福)は、文久03年05月10日(西暦1863年06月25日)をもっての攘夷実行を約束した。長州藩は馬関海峡(現関門海峡)を通過する外国船への砲撃した。報復として、文久03年(西暦1863年)、紅毛蠻賊アメリカ・フランス軍艦が馬関海峡内に停泊中の長州軍艦を砲撃し、長州海軍に壊滅的打撃を与えた。しかし、長州は砲台を修復した上、対岸の小倉藩領の一部をも占領して新たな砲台を築き、海峡封鎖を続行した。(下関事件)次いで元治01年(西暦1864年)、前年からの海峡封鎖で多大な経済的損失を受けていた紅毛蠻賊イギリス王国は長州に対して懲戒的報復措置を執ることを決定。紅毛蠻賊フランス帝国、紅毛蠻賊オランダ王国、紅毛蠻賊アメリカ合衆国の3国に参加を呼びかけ艦船17隻で聨合艦隊で、馬関(現下関市中心部)と彦島の砲台を徹底的に砲撃し、各国の陸戦隊がこれらを占拠し破壊した。(四国艦隊下関砲撃事件)
万延01(西暦1860)年、紅毛蠻賊米国人宣教師ジェームス・カーティス・ヘボン(英語: James Curtis Hepburn)、(英語: と商人フランシス・ホール(英語: Francis Hall)、宣教師デュアン・B・シモンズ(英語: Duane B. Simmons)博士夫妻らは、神奈川宿近くの東海道で大名行列を見物した。尾張徳川家の行列の先触れに跪くよう命じられたが紅毛蠻賊米国人は従わず、立ったまま行列を凝視したため、尾張藩主徳川茂徳(もちなが)もジェームス・カーティス・ヘボンらの前で駕籠を止め、オペラグラスでジェームス・カーティス・ヘボンらを観察するなど張り詰めた空気が流れたが、数分後に尾張侯の行列は何事もなく出発し、事件・紛争化することなく事なきを得た。紅毛蠻賊は、我が物顔にここまで舐め切っていた。
チャールズ・レノックス・リチャードソン(Charles Lennox Richardson)は、一攫千金を求めた紅毛蠻賊イギリス人で20歳の時に上海に渡った。貿易に携わったがパッとせず、諦めて帰国する前に開港したばかりの横濱を訪れた。文久02年08月21日(西暦1862年09月14日)に武蔵国橘樹郡生麦村(現川崎市鶴見区)で、チャールズ・レノックス・リチャードソンは知人3人と馬で川崎大師観光に向かう途中、薩摩藩の大名行列と鉢合わせした。馬から降りて道を開ければいいだけだったが一行はそれを知らず、馬に乗ったまま行列に飲み込まれた。そして運悪く島津久光が乗る籠に接近したため警護していた侍たちに斬られた。深手を負ったチャールズ・レノックス・リチャードソンは必死で逃げたが力尽きて落馬し追手に止めを刺された。享年29。他3人は逃げ延びた。チャールズ・レノックス・リチャードソンは傲慢、粗暴でアジア人蔑視の傾向があった。上海では苦力(クーリー)に暴力を奮う姿が度々目撃されていた。生麦事件当日も「こういう連中の扱いは慣れている。」と豪語していた。
紅毛蠻賊イギリス王国はチャールズ・レノックス・リチャードソンの死を利用し、「江戸を火の海にする。」と幕府を脅して賠償金10万ポンドをせしめ、さらに薩摩藩にも「犯人を引き渡した上で謝罪し、賠償金2万5千ポンド払え。」と迫った。やり口はヤクザの恐喝だが、薩摩藩は「礼儀作法を知らんモンが悪か。」とこれを突っぱねた。不逞英国人を成敗した生麦事件の解決と補償を艦隊の力を背景に紅毛蠻賊イギリス王国と、主権統治権の下に兵制の近代化で培った実力でこの要求を拒否し防衛しようとする薩摩藩兵が、文久03年07月02日〜04日〈西暦1863年08月15日〜17日)に鹿児島湾で激突した。英国軍艦7隻を鹿児島湾に向かわせ、薩摩の汽船3隻を拿捕した。薩摩藩は射程の短い大砲ながら英国艦目掛けて砲弾を撃ち込んだ。英国艦も慌てて応戦し、砲台を破壊した上、城下町を火の海にした。ところが英国艦は艦隊司令官や副長を初めとする13人が戦死、負傷者多数。一方薩摩側の死者は数名に止まった。英艦隊が鹿児島湾を脱したことで戦闘は終わった。これが後に言う薩英戦争で、アヘン戦争になりかけたが薩摩は互角以上に戦った。紅毛蠻賊イギリス王国は薩摩藩の強さに衝撃を受けた。(薩英戦争)
幕府の仲裁もあり、薩英は和睦を結ぶこととなった。紅毛蠻賊イギリス王国は相変わらず下手人の引き渡しと2万5千ポンドの賠償金を求めた。薩摩は賠償には応じず、幕府から2万5千ポンドを借りて見舞金として払い、後にこれを踏み倒した。幕府が支払った総額12万5千ポンドで、紅毛蠻賊イギリス王国は。生麦で起きた偶発事故を利用して莫大な賠償金をせしめた。この暴挙は欧米でも疑問視された。この事件の結果、紅毛蠻賊イギリス王国と薩摩藩は秘密裏に手を結んだ。
上海の貿易商、初代駐日本アメリカ合衆国弁理公使タウンゼント・ハリスは、日米追加条約(下田協定)で、金と銀の為替相場を固定した。タウンゼント・ハリスは、金があまりにも安く取引されていることに衝撃を受けた。人類の歴史始まってから今まで、地球上で産出された金はオリンピックプール3杯分に相当すると言われている。その実に3分の1、つまりプール1杯分が日本で産出されている。タウンゼント・ハリスはシルクロードの時代に、マルコ・ポーロ(伊語: Marco Polo)が日本を「黄金の国ジパング」と呼んだことは誇張ではなかった。
日本国内で産出された金で金貨を製造し懐に偲ばせていた。日本国内に溢れていた金だが、メキシコの銀貨1枚の価値が日本では慶長小判1枚に等しく、さらに国外に持ち出すと慶長小判はメキシコ銀貨4枚と交換された。つまり、メキシコ銀貨を日本に持ち込み、慶長小判に両替、さらにそれを日本国外に持ち出すと何と4倍の額に膨れ上がった。
紅毛蠻賊タウンゼント・ハリスはそのことを知り、慶長小判を次々に香港に持ち出してメキシコ銀貨に交換しては資産を膨らませたタウンゼント・ハリスの行動が契機となり、日本からは瞬く間に金が流出してしてしまった。タウンゼント・ハリスは私腹を肥やすと共に、エイブラハム・リンカーン大統領が就任していた紅毛蠻賊アメリカ合衆国に、日本の金から生まれた富を吸い取った。その莫大なお金が綿花栽培による富を武器に独立を準備していた南部の紅毛蠻賊アメリカ連合国を打ち勝つため、北軍側の武器購入に充てられた。日本に開国を迫った紅毛蠻賊アメリカ合衆国は、さらに日本から国富の金を持ち出すことで莫大な価値に変換し、それを資金源に南北戦争を戦った。それだけに終わらず、元治02(西暦1865)年に南北戦争で南軍に勝利を収めた北軍は、南軍の戦費債を全額立て替えて支払い、その上、クリミア戦争(西暦1853〜1856年)で疲弊した兇暴蠻賊ロシア帝国が売りに出していたアラスカを慶応04(西暦1867)年、紅毛蠻賊アメリカ国務長官ウィリアム・ヘンリー・スワード(英語: William Henry Seward, Sr.)が720万ドルの現金で購入した。DS(ディープステイト)の資金源は日本の国富の金だった。 江戸幕府は嘉永07年03月03日(西暦1854年03月31日)の日米和親条約を皮切りに、 嘉永07(西暦1854)年、安政01(西暦1855)年、安政02(西暦1856)年と立て続けに日英、日露、日蘭和親条約を締結させられ、長崎港と函館港を開港した。 予てより沖縄や台湾、長崎の支那人商人を通じ日本の物品を密貿易していたスッコトランド人ジャーディン・マセソン商会は、日本が開国した安政06(西暦1859)年に上海支店に居たスッコトランド人ウィリアム・ケズウィックを日本に派遣した。ジャーディン・マセソン商会は、日本に拠点を構えた最初の外国商社だった。ウィリアム・ケズィックは西洋の織物、材木、薬などを持ち込み、日本からは石炭、干し魚、鮫皮、海藻、米などを購入した。商売的には成功とは言えなかったが、日本製絹の品質の高さに将来性を認め、安政06(西暦1859)年、甥(ウィリアム・ジャーディンの姉ジーン・ジャーディン・ジョンストン(Jean Jardine Johnstone)の子)のウィリアム・ケスウィックが日米修好通商条約締結後に開港した横濱に移り、安政07(西暦1860)年初頭に、最初の土地売却で横濱居留地1番地(旧山下町居留地1番館、現山下町1番地)に「ジャーディン・マセソン商会」横濱支店を設立した。鹿島によって建設された横濱初の外国商館である社屋は、地元民から「英一番館」と呼ばれた。跡地には現在シルクセンター(国際貿易観光会館)が建っている。長崎居留地ではデント商会に先を越されたが、横浜でその仇を返した形となった。その後、神戸、長崎、その他の港にも事務所が開設され、輸出入、海運、保険など、大規模で収益性の高い事業が展開された。
ウィリアム・ケズィックは文久02(西暦1862)年に香港に戻り、同社の共同経営者となった。明治07〜19(西暦1874〜1886)年まで大班(タイパン、経営に携わるもの)を務めた。明治19(西暦1886)年に香港を離れ、ロンドンのジャーディン・マセソン商会で専務(シニア・ディレクター)として働き、ロバート・ジャーディン(Robert Jardine)のみに責任を負った。ロバート・ジャーディンはウィリアム・ジャーディンの兄で、ロンドンのジャーディン・マセソン商会の社長だったデイビッド・ジャーディン(David Jardine)の息子でウィリアム・ジャーディンの甥。 ウィリアム・ケズウィックは、明治32(西暦1899)年からサリー州エプソムの国会議員として選出され、明治31(西暦1898)年に同郡の最高保安官に任命された。彼は大正01(西暦1912)年03月09日、サリー州グレート・ブックハムのイーストウィック・パークの自宅で亡くなった。ウィリアム・ケズウィックは明治15(西暦1882)年からこの家に住み、死後、その家は息子のヘンリー・ケズウィック(Henry Keswick)に引き継がれた。
グラバー商会 スッコトランド人の武器商人トーマス・ブレーク・グラバー(英語: Thomas Blake Glover)は、ジャーディン・マセソン商会に入社し、安政06年08月23日(西暦1859年09月19日)に開港後まもない長崎に来日した。同じスコットランド人K・R・マッケンジー経営の貿易支社に勤務し、2年後にマッケンジーが長崎を去ると、彼の事業を引き継ぎ、フランシス・アーサー・グルーム(英語: Francis Arthur Groom)と共にジャーディン・マセソン商会長崎代理店として「グラバー商会(Glover and Co. )」を設立した。フランシス・アーサー・グルームの弟アーサー・ヘスケス・グルーム(英語: Arthur Hesketh Groom)もグラバー商会の社員で、明治03(西暦1870)年にグラバー商会が倒産すると、元同僚と共同出資してモーリヤン・ハイマン商会(Mourilyan, Heimann & Co.)を設立し、神戸六甲山を開発した。
グラバー商会は初めは生糸や茶の輸出を中心として扱ったが、八月十八日の政変後の政治的混乱に着目して討幕派、佐幕派の藩、幕府問わず、武器や弾薬を販売した。幕末維新期の日本では、多くの外国人貿易商が諸藩への武器や弾薬の売り渡しに関わっていたが、その中でも武器商人グラバー商会の販売量は突出していた。江戸幕府や西南雄藩の艦船・武器購入を巡る取引に主要な地位を占めた。また薩摩藩の貿易計画や同藩士の英国留学の資金調達に重要な役割を果たした幕末・明治期の重要人物である。薩摩藩、長州藩、土佐藩の討幕派の志士も支援した。 文久03(西暦1863)年の長州五傑(井上馨、遠藤謹助、山尾庸三、野村弥吉、伊藤博文)の英国留学や、元治02(西暦1865)年の薩摩藩の五代友厚、森有禮・寺島宗則、長澤鼎らによる薩摩藩遣英使節団の海外留学の手引きをした。 日本初の蒸気機関車(アイアン・デューク号)の試走、高島炭鉱の「三菱財閥」の岩崎家の後ろ盾となり、長崎造船所を作った。経営危機に陥ったスプリング・バレー・ブルワリーの再建参画を岩崎彌太郎に勧め、後の麒麟麦酒(現キリンホールディングス)の基礎を築いた。開発など、彼が日本の近代化に果たした役割は大きかった。明治41(西暦1908)年にトーマス・ブレーク・グラバーは外国人として破格の勲二等旭日重光章を授与され、その3年後明治44(西暦1911)年に死んだ。邸宅跡は「グラバー園」として公開され長崎の観光名所になっている。昭和35(西暦1960)年に隠し部屋が発見された。グラバー邸裏の別棟で婦人部屋の奥の天井裏に造られていた。室内は板張りで、5、6人入れる9畳ぐらいの広さだが、当初からのものか不明。
文久03(西暦1863)年の長州五傑の英国留学の際には、ウィリアム・ケスウィックが支援し、ジャーディン・マセソン商会横濱支店(英一番館)が支店長だったS・J・ゴーワー(Samuel J. Gower)が出航の手配をした。また、彼らの英国滞在中はジェームズ・マセソンの甥のヒュー・マセソン(ジャーディン・マセソン商会ロンドン支社長)が世話役となった。 ケズウィック家は、神戸・大阪・函館にも代理店を置いた。嘉永07(西暦1855)年以来東亜地域と関わりのあるスコットランド人の事業家一族であり、特に複合企業ジャーディン・マセソン商会を取り仕切った。ジャーディン・マセソン商会のタイパンとして、ケズウィック家は、HSBC、インドシナ蒸気航行会社、広州保険事務所(現在のHSBC保険会社)、香港九龍埠頭倉庫会社、スターフェリー、香港路面電車、香港土地投資代理会社、香港黄埔埠頭会社の所有または経営に深く関わってきた。 幕末・明治〜現代に至るまで、極悪アシュケナジーム猶太のロスチャイルドは、アヘンのような汚れ仕事は、アヘン王のセファルディーム猶太のサッスーン家やスコットランド人のジャーディン家・マセソン家やケズウィック家、スコットランド人武器商人トーマス・ブレーク・グラバー、セファルディーム猶太のサミュエル家を手先として扱き使い、DS(ディープステイト)として日本や世界を操ってきた。
近代日本とイギリス資本: ジャーディンマセソン商会を中心に (東京大学産業経済研究叢書)/ 石井 寛治 (著) /東京大学出版会 西暦1868年に第14代ダービー伯エドワード・ジョージ・ジェフリー・スミス・スタンリー(Edward George Geoffrey Smith-Stanley, 14th Earl of Derby, KG, GCMG, PC, PC (Ire)、西暦1834〜1844年まではスタンリー卿(Lord Stanley)、西暦1844年にビッカースタッフのスタンリー男爵(Baron Stanley of Bickerstaffe)、西暦1851年からダービー伯)が病気で退任すると、保守党ナンバー2のディズレーリが継承する形で保守党党首、首相に就任した。 第1次ディズレーリ内閣は、首相が変わっただけで第3次ダービー伯内閣の延長でしかない。少数与党の状況は変わっていない。総選挙に勝利して多数派を得るしか政権を安定させる道はなかった。結局その総選挙に敗れ、短命政権に終る第1次ディズレーリ内閣だが、その短い間にも様々な法律を通している。選挙における買収禁止に初めて拘束力を与える罰則を設けた腐敗行為防止法(Parliamentary Elections Act 1868)、パブリックスクールに関する法律(西暦1868年パブリック・スクール法)、鉄道に関する法律(西暦1868年鉄道規制法(英語版))、スコットランドの法制度を定めた法律、公開処刑を廃止する法律(Capital Punishment Amendment Act 1868)、郵便局に電報会社を買収する権限を与える法律(西暦1868年電信法)などである。これらは官僚が作成した超党派的な法律だったため、少数与党のディズレーリ政権でも議会の激しい抵抗を起こさずに通すことができた。
外交では前政権から続くイギリス人を拉致したエチオピア帝国(西暦1270〜1974年)へ大規模な遠征隊を派遣した戦争(マグダラの戦い)になり、マグダラを陥落させ、皇帝テオドロス2世(ዳግማዊ ቴዎድሮስ、カッサ・ハイル)は惨敗し自害した。拉致されたイギリス人を救出すると、エチオピアを占領しようという野心を見せることもなく早々に軍を撤収させた。ベンジャミン・ディズレーリは議会に「ラセラス(サミュエル・ジョンソンの著作「アビシニアの王子」の主人公)の山々に聖ジョージの旗を掲げた。」と報告して、笑いを取った。
一方初代ラッセル伯ジョン・ラッセル(John Russell, 1st Earl Russell, KG, GCMG, PC, FRS)の引退を受けて自由党党首になったばかりのウィリアム・ユワート・グラッドストン(William Ewart Gladstone PC FRS FSS)は、西暦1868年03月23日にアイルランド国教会廃止の今会期での準備と次会期での立法化を求める決議案を提出した。この法案は05月01日に65票差で可決された。
本来ならここで解散総選挙か総辞職すべきだが、この時点で解散総選挙をしてしまうと旧選挙法の下での選挙となり、世論の反発を買う恐れが高かった。そのためベンジャミン・ディズレーリとしてはしばらくは解散なしで政権を延命させる必要があった。ヴィクトリア女王から「アイルランド問題は重要であるから、国民の意思を問うために解散を裁可するのに躊躇いはない。」という回答を得たベンジャミン・ディズレーリは、解散権を盾にして、閣内からの総辞職の要求や自由党の内閣不信任案提出を牽制した。これに対してウィリアム・ユワート・グラッドストンは「議会で可決された決議案の実行を解散で脅して阻止しようとするとは言語道断だ。」と批判した。またベンジャミン・ディズレーリは政権延命のためにはヴィクトリア女王の大御心を利用しようとさえし、「政治が重大な局面にある時は国民も君主に備わる威厳を感じ取るべきであり、政府もそのような時局における内閣の存立は女王陛下の大御心次第だということを了解するのが賢明です。」と立憲主義に抵触しかねない発言まで行った。だがそのような努力のおかげで閣内からの総辞職要求も野党の内閣不信任案も阻止し、07月31日の議会閉会を迎えることができた。 11月に新選挙法の下での総選挙が行われた。新有権者となった労働者階級上層の熟練労働者はウィリアム・グラッドストンを支持していた。選挙戦中にベンジャミン・ディズレーリが新有権者に向かって「私が貴方達に選挙権を与えたのだ。」と述べると、彼らは「ありがとう、ミスター・グラッドストン。」という声を挙げた。
自由党がアイルランド、スコットランド、ウェールズで議席を伸ばし、379議席を獲得したのに対して、保守党は279議席しか取れなかった。
この結果を受けてベンジャミン・ディズレーリは新議会招集の前に総辞職した。これは総選挙の敗北を直接の原因として首相が辞任した最初の事例であり、以降イギリス政治において慣例化した。これ以前は総選挙で敗北しても議会内で内閣不信任決議がなされるか、あるいは内閣信任決議相当の法案が否決されるかしない限り、首相が辞職することはなかった。 退任にあたってヴィクトリア女王はベンジャミン・ディズレーリに爵位を与えようとしたが、ベンジャミン・ディズレーリは拝辞し、代わりに妻メアリー・アンのビーコンズフィールド女子爵への叙爵を求めた。メアリー・アンはこの4年後に死んだ。
西暦1868年12月09日にウィリアム・ユワート・グラッドストンに大命降下があり、自由党政権が誕生した(第1次グラッドストン内閣)。この政権は5年以上続く長期政権となり、ベンジャミン・ディズレーリの長い野党党首時代が始まった。 ベンジャミン・ディズレーリはこの野党時代にも引き続き保守党党首を務め続けたが、保守党内における彼の立場は微妙だった。元々ベンジャミン・ディズレーリは貴族院に対する影響力が弱く、第3代ソールズベリー侯ロバート・アーサー・タルボット・ガスコイン・セシル(Robert Arthur Talbot Gascoyne-Cecil, 3rd Marquess of Salisbury, KG, GCVO, PC、第2代ソールズベリー侯ジェイムズ・ブラウンロウ・ウィリアム・ガスコイン・セシル(James Brownlow William Gascoyne-Cecil, 2nd Marquess of Salisbury, KG, PC)の三男。卿(Lord)の儀礼称号で呼ばれ、西暦1865年に兄が子供なく死去したため、ソールズベリー侯爵家の後継ぎの儀礼称号クランボーン子爵(Viscount Cranborne)の儀礼称号で呼ばれた。西暦1868年に父第2代ソールズベリー侯ジェイムズ・ブラウンロウ・ウィリアム・ガスコイン・セシルが死去し、ソールズベリー侯爵位を継いだ。)をはじめとする反ディズレーリ派が貴族院議員に多かった。総選挙後にマームズベリー伯爵が保守党貴族院院内総務を辞職した際にもベンジャミン・ディズレーリの権威が微妙なために後任がなかなか決まらなかった(結局はリッチモンド公爵が就任する)。しかも党勢は西暦1832年以来最低水準であったから庶民院議員たちにも不満が高まっていた。「次の選挙に勝つために党首を第15代ダービー伯エドワード・ヘンリー・スタンリー(Edward Henry Stanley, 15th Earl of Derby, KG, PC, FRS)(元首相第14代ダービー伯エドワード・ジョージ・ジェフリー・スミス・スタンリーの息子)に代えるべき。」という声も少なくなかった。
グラッドストン政権はアイルランド国教会廃止、アイルランド農地改革、小学校教育の充実、秘密投票制度の確立、労働組合法制定など内政で着実に改革を推し進めたが、外交には弱かった。プロイセン王国(西暦1701〜1918年)宰相オットー・エドゥアルト・レオポルト・フォン・ビスマルク・シェーンハウゼン(Otto Eduard Leopold von Bismarck-Schönhausen、西暦1865年からビスマルク・シェーンハウゼン伯〈独語: Graf von Bismarck-Schönhausen〉、西暦1871年からビスマルク侯〈独語: Fürst von Bismarck〉、西暦1890年からラウエンブルク公〈独語: Herzog zu Lauenburg〉)による普仏戦争(西暦1870〜1871年)とドイツ帝国(西暦1871〜1918年)樹立の動きを阻止できず、ヨーロッパにおける発言力をドイツ帝国に奪われ始めた。ロシア帝国外相アレクサンドル・ミハイロヴィッチ・ゴルチャコフ(露語: Алекса́ндр Миха́йлович Горчако́в、Alexandr Mikhailovich Gorchakov)もドイツ帝国の後ろ盾を得て「ゴルチャコフ回状」を出し、パリ条約の黒海艦隊保有禁止条項の破棄を一方的に通告してきた。これによりロシア帝国がバルカン半島に進出を強めてくるのは確実な情勢となり、イギリス王国の地中海の覇権がロシア帝国に脅かされる恐れが出てきた。さらにアメリカ合衆国(西暦1776年〜)に対してもアラバマ号事件で譲歩していた。アラバマ号は南北戦争に際して中立の地位にあったイギリス王国の民間造船所に南軍が発注し,西暦1862年に建造された。建造中における北軍の警告と抗議にもかかわらず,建造後同船はポルトガル王国ブラガンサ朝(西暦1640〜1910年)領アゾレス諸島で武器,弾薬,兵員の供給を受け,西暦1864年に撃沈されるまで北軍に属する商船の捕獲に従事し,北軍に多大の損害を与えた。戦後,アメリカ合衆国の損害賠償請求により,西暦1871年の英米のワシントン条約によって仲裁裁判に付せられ,翌西暦1872年イギリス王国の中立義務違反が認定された。「イギリス王国の威信を下げている。」と言わざるを得ない状況だった。
これに対してベンジャミン・ディズレーリは、西暦1872年06月24日に水晶宮で開催された保守党全国大会において「40年前に自由主義が登場してきて以来のイギリスの歴史を調べたなら、大英帝国を解体しようとする自由主義者の企みほど、絶え間なく巧妙に行われた努力はないと分かる。」、
「自由党は大陸的、コスモポリタン的な政党であり、保守党こそが真の国民政党である。」、「諸君らはイギリスを帝国としなければならない。諸君らの子孫の代まで優越的地位を維持し続け、世界から尊敬される国家にしなければならない。諸君らが選挙区に戻ったら、1人でも多くの選挙区民にそのことを伝えてほしい。」と演説した。帝国主義や強硬外交を選挙の目玉争点にしたベンジャミン・ディズレーリの戦術は功を奏した。これがイギリス国民の愛国心を大いに刺激し、次の総選挙での保守党の大勝に繋がった。またベンジャミン・ディズレーリは西暦1872年04月にマンチェスターで開かれた保守党大会以降、保守党の機構改革にも当たっていた。ホワイトホールに保守党中央事務局(Central Conservative Office)を設置し、党内でも特に有能な者を参謀としてここに集め、選挙運動全体を指揮させた。この組織と西暦1867年にジョン・エルドン・ゴーストの主導で創設された保守党協会全国同盟が保守党議会外活動の中心的存在となっていく(この体制は現在の保守党まで維持されている)。
この選挙運動の組織化も総選挙大勝の要因になった。 西暦1873年の議会でウィリアム・ユワート・グラッドストンはアイルランドに宗派を問わない大学を創ろうとしたが、アイルランド議員からも保守党議員からも批判され、法案が否決された。この頃アイルランドには大学はダブリンのトリニティ・カレッジしかなかったが、この大学はイングランド国教会の支配下に置かれており、国教会流の教育が行なわれていた。そのため行きたがるアイルランド人は少なかった。そこでグラッドストンは宗教的に中立なユニバーシティーの下に各宗派のカレッジを作ることを計画した。しかしアイルランドのカトリック聖職者はユニバーシティーから独立したカトリック大学であることを要求したため、アイルランド議員たちはこの法律に反対した。
ウィリアム・ユワート・グラッドストンが総辞職を表明したのを受けて、
ヴィクトリア女王はベンジャミン・ディズレーリに大命降下したが、ベンジャミン・ディズレーリは拝辞した。ベンジャミン・ディズレーリとしては「総選挙を経ず少数党のまま政権に付きたくなかった。組閣後に解散総選挙するとしても2ヶ月は掛かるので、それまでの間は自由党に媚を打って政権を存続させなければならなくなり、それによって保守党に対する信頼は揺らぎ、選挙に大勝できなくなる。」と考えていた。これに対してウィリアム・ユワート・グラッドストンは「内閣への信任決議相当の政府法案が否決された場合には、野党は後継として組閣するのが義務である。」と述べてベンジャミン・ディズレーリの態度を批判した。結局ウィリアム・ユワート・グラッドストンが引き続き首相を務めることとなったが、予算をめぐる閣内分裂が原因で西暦1874年02月に解散総選挙となった。選挙の結果、保守党が350議席(改選前279議席)、自由党が245議席(改選前379議席)、アイルランド国民党が57議席を獲得した。これを受けてウィリアム・ユワート・グラッドストンはベンジャミン・ディズレーリの先例に倣って新議会招集を待たず、直ちに総辞職した。ウィリアム・ユワート・グラッドストン夫人キャサリンは息子に宛てた手紙の中で「お父さんの勤勉と愛国心、多年にわたる仕事の結晶を
あのユダヤ人に手渡すことになるなど考えただけでも腹立たしいではありませんか。」と苛立ちを露わにしている。
西暦1874年02月28日にヴィクトリア女王から召集され、大命を受けた。今度はベンジャミン・ディズレーリも了承し第2次ディズレーリ内閣の組閣を開始した。両院の過半数を制する大議席、大敗を喫した野党自由党の混乱状態、ヴィクトリア女王のベンジャミン・ディズレーリへの寵愛、不安要素が皆無の第2次ディズレーリ内閣が長期安定政権になるのは誰の目にも明らかだった。党内反ディズレーリ派さえも内閣への参加を希望し、反ディズレーリ派の筆頭第3代ソールズベリー侯ロバート・アーサー・タルボット・ガスコイン・セシルもインド担当大臣としての入閣を了承した。同じく反ディズレーリ派だったカーナーヴォン伯爵も植民地大臣として入閣した。彼らは国教会派の右派であり、その彼らを取り込めたことは党内右派の不満を減らして内閣に安定をもたらした。
保守党の主要政治家をそれぞれの専門分野に応じて適材適所に配置した内閣でもあり、内閣の能力も著しく高かった。保守党政権としては30年前のピール内閣以来の安定政権であった。西暦1874年の解散総選挙で保守党が半数を超える議席を獲得した結果、首相職に返り咲いた。安定多数政権だった第2次ディズレーリ内閣は強力な政権運営が可能だった。 ベンジャミン・ディズレーリは「政治家がまず考えるべきことは国民の健康」、「政治改革より社会改革の方が重要」と主張し社会政策に力を入れた。30年前の小説「シビル」で示した労働者階級の貧困への同情は、この時にも変わってはいなかった[370]。ベンジャミン・ディズレーリの社会政策を「トーリー・デモクラシー」と呼ぶことがある。ただし「トーリー・デモクラシー」は自由放任主義から国家介入主義への転換を意味しない。イギリスでは強制は嫌われる風潮があるため、ベンジャミン・ディズレーリが行った社会立法の多くも強制することにならないよう配慮がされている。ベンジャミン・ディズレーリは「任意に委ねる法律こそが自由な人間が持ち得る特質」と語っていた。
政権奪還後、直ちに工場法改正に取り組んだ。これまで工場法により1週間の最大労働時間は60時間と定められていたが、繊維業労働組合などから「最大労働時間を54時間に短縮すべし。」との声が上がっていた。グラッドストン前政権は自由放任主義の立場からこの要請を拒否していたが、ベンジャミン・ディズレーリは労働組合に歩み寄りの姿勢を示し、57時間労働制を定め、また最低雇用年齢も10歳に引き上げる改革を行った。西暦1875年には労働者住宅改善法を制定して「都市の住宅状況の公共の責任」を初めて明記し、地方自治体にスラムの撤去や都市再開発の権限を与えて、都市改造を促した。しかしこの法律は補償の点について問題があったため、西暦1879年になってその問題点を解消するために改正があり、スラムを整理した後に労働者が家を建てられるよう国庫から金を貸し付けることとした。当時は家の価格が安く、賃料はもっと安かったので、この制度は一定の労働者保護になったと言える。この法律を使ってのスラム整理で有名なのが、バーミンガム市長ジョゼフ・チェンバレン(Joseph Chamberlain)の都市改造である。同じく西暦1875年、主人及び召使法を近代的な使用者及び被使用者法に改正し、これによって雇用契約における使用者と被使用者の間の通常の債務不履行は刑事訴追の対象外とした。雇用契約は基本的に民事上だけの関係となった。さらに100くらいあった既存の公衆衛生に関する地方特別法を1つにまとめた公衆衛生法を制定した(西暦1875年公衆衛生法)。水道、河川の汚染、掃除、道路、新築建物、死体埋葬、市場規制などについて規定し、都市の衛生化を促進した。この法律は途中2回の改正を挟みながらも西暦1937年までイギリス王国の公衆衛生に関する基本法となった。農地法によって強制立ち退きされた小作人に対する補償制度も定めた。しかしこの問題は地主の多い保守党内では慎重に扱わねばならない問題であった。ベンジャミン・ディズレーリの「ヨーロッパでは騒動を企む勢力が小作人の権利問題を利用します。わが国でも同様の勢力が君主制・貴族制の根幹をなす土地所有形態を破壊しようと企んでいます。我が国では強制されることを嫌う風潮があります。そして残念ながら地主と小作人の関係は変則的な強制関係が存在します。それが小作人の権利要求に結び付いています。陛下の内閣が行う施策の目的は、平穏な今のうちに変則的状況を解除することにあります。」というヴィクトリア女王への報告にもそれがよく現れている。労働組合にも強い関心を持ち、「労働組合のピケッティング(スト破り防止、英語: picketing)を禁じた西暦1871年刑法修正法を廃止し、代わって共謀罪及び財産保護法を制定し、個人で行った場合に犯罪ではない行為は集団で行っても犯罪ではない。」と明記したことで、平和的ピケッティングを解禁した。このお蔭で労働組合の圧力組織としての力は大きく向上した。労働者階級出身の初めての庶民議員アレグザンダー・マクドナルド(Alexander Macdonald)は「保守党は5年の政権の間に50年政権にあった自由党よりも労働者階級のために多くのことをした。」と評した。ベンジャミン・ディズレーリの一連の社会政策はジョゼフ・チェンバレンの「社会帝国主義」の萌芽に位置付けられる。
外交面では積極的な帝国主義政策を推進した。西暦1875年にはスエズ運河を買収してムハンマド・アリー朝(西暦1805〜1953年)エジプトの半植民地化に先鞭をつけた。また西暦1876年には「Empress(女帝、皇后)」の称号を欲するヴィクトリア女王の意を汲んで、彼女をインド女帝に即位させた。また西暦1877年から翌年にかけての露土戦争ではロシア帝国の地中海進出を防ぐため、国内の反オスマン・テュルコ帝国世論を抑えて親テュルコ的中立の立場をとった。同戦争の戦後処理会議ベルリン会議においてロシア帝国の属国ブルガリア公国(西暦1878〜1908年)を分割させロシア帝国の地中海進出を防ぎ、かつオスマン・テュルコ帝国からキプロス島の割譲を受け、地中海におけるイギリス王国の覇権を確固たるものとした。南部アフリカでは西暦1877年にトランスヴァール共和国を併合し、ついで西暦1879年にはズールー族との戦争に勝利した。西暦1879年には中央アジアへの侵攻を強めるロシアの先手を打って第2次アフガニスタン戦争を開始して勝利した。 大陸では普仏戦争に敗北した第3共和政(西暦1870〜1940年)フランス共和国が凋落し、ドイツ帝国が大陸の覇権的地位を確立していた。更にドイツ帝国はロシア帝国やオーストリア・ハンガリー帝国(西暦1867〜1918年)と結託して保守的な三帝同盟を作っていた。これはかつての神聖同盟に類似していた。ベンジャミン・ディズレーリは尊敬するジョージ・カニング(George Canning, PC FRS)外相が神聖同盟とは距離を置いた外交を行ったのに倣った。つまり三帝同盟弱体化をイギリス外交の目標に据えた。三帝同盟は決して盤石ではなかった。ロシア帝国は、普仏戦争でドイツ帝国を支持したが、戦後のドイツ帝国の増大化とフランス共和国の弱体化を懸念していた。また、この頃のロシア帝国は汎スラブ主義が高揚しきっており、バルカン半島の覇権を巡りオーストリア・ハンガリー帝国との対立が絶えなかった。それをドイツ帝国宰相オットー・フォン・ビスマルクが強引に結び付けている状況だった。そのため三帝同盟を切り崩す機会はすぐに訪れた。西暦1875年04月の「ポスト」紙事件(ドイツ帝国の政府系新聞「ポスト」紙が「フランス共和国がドイツ帝国への復讐を企んで軍備増強している。」と説く論説を載せたことでドイツ帝国国内でフランス共和国への予防戦争を求める世論が強まり、
独仏戦争の危機が高まると、ロシア外相アレクサンドル・ゴルチャコフ(露語: Алекса́ндр Миха́йлович Горчако́в、Alexandr Mikhailovich Gorchakov)が介入してドイツ帝国のフランス共和国に対する予防戦争を阻止しようと図ったのである。ベンジャミン・ディズレーリは孤立主義者である外相第15代ダービー伯エドワード・ヘンリー・スタンリーにイギリス王国もこの問題にもっと積極的に介入するよう指示を与え、ロシア帝国と共同歩調を取らせて、ドイツ帝国に圧力をかけて予防戦争を阻止した。 西暦1875年夏、オスマン・テュルコ帝国(西暦1299〜1922年)領ボスニアとヘルツェゴビナで耶蘇教徒スラブ人農民が蜂起した。回教国であるオスマン・テュルコ帝国は耶蘇教徒スラブ農民に対して苛酷な税を取り立て、また何ら権利を認めようとしない圧政を敷いていた。この叛乱は拡大し、西暦1876年04月にはブルガリアのスラブ人もオスマン・テュルコ帝国の支配に対して蜂起、さらに07月にはオスマン・テュルコ帝国の宗主権下にあるスラブ人自治国セルビア公国(西暦1815〜1882年)とモンテネグロ公国(西暦1852〜1910年)がオスマン・テュルコ帝国に対して宣戦布告した。ロシア帝国でも汎スラブ主義がどんどん高揚し、バルカン半島のスラブ人蜂起を積極的に支援した。多くのロシア人が蜂起軍支援のため義勇兵や篤志看護婦に志願してバルカン半島へ赴いていった。オスマン・テュルコ帝国は、かつての繁栄の残滓でバルカン半島、アナトリア半島、中近東、北アフリカに跨る巨大な領土を領有していたが、この時代にはすっかり衰退し、常にロシア帝国から圧迫され、国内では内乱が多発していた。すでにギリシャには独立され(ギリシャ独立戦争(西暦1821〜1827年))、エジプトも事実上独立していた(エジプト・テュルコ戦争)。
イギリス王国の庇護で何とか生きながらえている状態だった。イギリス王国にとってもオスマン・テュルコ帝国を生きながらえさせることは死活問題だった。インドへの通商路は陸路の場合はオスマン・テュルコ帝国領を通らずには済まなかったし、海路もスエズ運河が大きな役割を果たすようになっていたから、もしオスマン・テュルコ帝国領がロシア帝国の手に墜ちると、イギリス王国の「インドへの道」は陸路も海路もロシア帝国の脅威に晒される。ベンジャミン・ディズレーリはオスマン・テュルコ帝国を支援するしかなかった。ロシア帝国がドイツ帝国とオーストリア・ハンガリー帝国の支持を取り付けて三国連名でオスマン・テュルコ帝国批判声明を出した時、ロシア帝国は同じ耶蘇教国としてイギリス王国も名前を連ねるよう呼びかけてきたが、当然ベンジャミン・ディズレーリはこれを断った。
しかし西暦1876年06月23日付けの「デイリー・ニューズ」が「オスマン・テュルコ帝国軍はブルガリアで2万5000人に及ぶ老若男女の虐殺、少女奴隷売買などの残虐行為を行っている。」と報道したことでイギリス王国の世論は急速にオスマン・テュルコ帝国に対して硬化した。ベンジャミン・ディズレーリは記事の信憑性に疑問を呈したが、彼のそのような態度は世論の激しい反発を招いた。ベンジャミン・ディズレーリを寵愛するヴィクトリア女王さえもがベンジャミン・ディズレーリに対し「なぜテュルコの耶蘇教徒虐殺に抗議しないのか。」と詰め寄った。
ウィリアム・ユワート・グラッドストンは「ディズレーリは全てを嘘で塗り固めた男であり、ユダヤ人としての感情だけが本物だ。彼の親テュルコ政策は、の本性を剥き出しにした耶蘇教徒への復讐である。」と反ユダヤの主張をし始めた。ベンジャミン・ディズレーリは08月11日の議会における演説で「この重大な時局における我々の義務は大英帝国の維持である。テュルコの生存はその最低条件なのである。」と述べ、反テュルコ感情の高まりの火消しに努めた。だが全く功を奏しなかった。庶民院ではベンジャミン・ディズレーリがテュルコの残虐行為を軽視したとする問責決議がなされた。またイギリス王国各地でテュルコ批判の国民集会が開かれ、十字軍を結成するための署名活動も開始された。グラッドストンの地元であるリヴァプールでは特に反テュルコ機運が盛り上がり、シェークスピアの「オセロ」の上演で「テュルコ人は溺死した。」という台詞が出るや、観客が総立ちになり、拍手喝采に包まれた。一方テュルコ政府はイギリス王国は国益上自分たちを庇護せざるを得ないので、どれだけ耶蘇教徒虐殺を続けても結局は目を瞑るしかない。」と思っていたため、ベンジャミン・ディズレーリが自重するよう説得しても聞く耳を持たなかった。
西暦1877年04月、ついにロシア帝国がオスマン・テュルコ帝国に宣戦布告し、露土戦争が勃発した。ロシア外相アレクサンドル・ゴルチャコフはイギリス王国に中立を要求してきた。これに対してベンジャミン・ディズレーリは「スエズ運河、ダーダネルス海峡、コンスタンティノープル(イスタンブール)を侵さない。」との確約を求め、アレクサンドル・ゴルチャコフもこれを了承した。もっともロシア帝国はイギリス王国国内の世論状況をよく調べており、イギリス王国がオスマン・テュルコ帝国側で参戦するなど到底できないことを知っていた。そのため約束を守る気などなく、
ロシア皇帝アレクサンドル2世(露語: Александр II、Aleksandr II、アレクサンドル・ニコラエヴィチ・ロマノフ、露語: Александр НиколаевичРоманов、Aleksandr Nikolaevich Romanov)は軍司令官に「目標コンスタンティノープル(イスタンブール)。」という命令を下している。ヴィクトリア女王はロシア帝国の膨張を恐れるようになり、ベンジャミン・ディズレーリに退位をチラつかせて対露参戦を要求するようになった。女王の寵愛を自らの内閣の重要な要素と考えているベンジャミン・ディズレーリとしては、女王の意思を蔑ろには出来ず、彼も08月頃から参戦の必要性を考えるようになった。しかしこの頃のベンジャミン・ディズレーリは喘息と痛風に苦しんでおり、参戦するか否かの議論は閣僚たちに任せて、ヒューエンデンに引っ込んでいた。またロシア軍の侵攻はプレヴェンのオスマン・テュルコ軍によって阻まれており、イギリス王国が援軍を送るまでもなくオスマン・テュルコ帝国が自力でロシア帝国を返り討ちにできそうにも見えた(当代一の名将と呼び声の高いドイツ帝国参謀総長モルトケ伯ヘルムート・カール・ベルンハルト(Helmuth Karl Bernhard Graf von Moltke)元帥もそう予想していた。ロシア帝国がバルカン半島に侵攻を開始してからイギリス王国国内世論もだんだんオスマン・テュルコ帝国に対する同情の声が強くなっていき、イギリス王国の対ロシア参戦も不可能ではなくなってきた。12月にプレヴェンの防衛線を守っていたオスマン・テュルコ軍がロシア軍によって壊滅させられると、ベンジャミン・ディズレーリは「いよいよ危険水域に達した。」と判断した。どうすべきか結論を出せない閣僚たちを無視して、ヴィクトリア女王に上奏してイギリス陸軍に戦闘態勢に入らせた。この際にベンジャミン・ディズレーリはヴィクトリア女王に「英国は何があってもロシア帝国の傘下には入りません。そうなれば本来の高みから二流国に転落してしまいます。」と述べた。これを受けて対露開戦に反対の植民地相第4代カーナーヴォン伯ヘンリー・ハワード・モリニュー・ハーバート(Henry Howard Molyneux Herbert, 4th Earl of Carnarvon, PC, DL, FSA, FRS, DL、西暦1833〜1849年にかけてはポーチェスター卿(Lord Porchester)の儀礼称号)が辞職した西暦1878年02月にイギリス海軍にイスタンブールへの出動命令を下したが、目標が定まらず、命令を取り消した。そうこうしてる間にもオスマン・テュルコ軍は敗走を続けていた。
オスマン・テュルコ政府は最早限界と判断してイギリス王国に独断でロシア帝国との間にサン・ステファノ条約を締結して休戦した。この条約によりエーゲ海にまで届く範囲でバルカン半島にロシア帝国の衛星国ブルガリア公国にオスマン・テュルコ帝国の宗主権下)が置かれることとなり、地中海におけるイギリス王国の覇権が危機に晒された。またアルメニア地方のカルスやバトゥミもロシア帝国が領有することになり、そこがロシア帝国の中近東・インド侵略の足場にされる危険も出てきた。
イギリス王国の権益など形だけしか守られていないサン・ステファノ条約に英国世論は激高した。
ベンジャミン・ディズレーリは駐英ロシア大使シュヴァロフ伯ピョートル・アンドレーヴィチ(露語: Граф Пётр Андре́евич Шува́лов)に対し「このような条約は認められない。」として、ブルガリア公国の建国中止、アルメニア地域で得たロシア領土の放棄を要求した。シュヴァロフ伯ピョートル・アンドレーヴィチ大使は「それではロシア帝国の戦果がなくなってしまうではありませんか。」と答えたが、ベンジャミン・ディズレーリは「そうかもしれないが、それを認めないならイギリス王国は武力をもってそれらの地からロシア帝国を追いだすことになる。」と通告した。ベンジャミン・ディズレーリは03月27日の閣議でインド駐留軍の地中海結集と予備役召集、キプロスとアレクサンドリア占領を決定した。この方針に反対した対露開戦慎重派の外相第15代ダービー伯エドワード・ヘンリー・スタンリーが辞職した。彼の辞職はベンジャミン・ディズレーリには残念なことだったが、シュヴァロフ伯ピョートル・アンドレーヴィチ大使に圧力を与えることができた。
「公正な仲介人」としてドイツ帝国宰相オットー・フォン・ビスマルクが仲裁に乗り出してきて、西暦1878年06月から07月にかけてベルリン会議が開催されることとなった。会議にはイギリス王国からは首相ベンジャミン・ディズレーリと新外相第3代ソールズベリー侯ロバート・アーサー・タルボット・ガスコイン・セシルが出席することとなった。ヴィクトリア女王はベンジャミン・ディズレーリの健康を心配してベルリン行きに反対していたが、ベンジャミン・ディズレーリは「鉄血宰相と対決できる者は自分しかいない。」と女王を説得し、出席することになった。ベンジャミン・ディズレーリには会議で強硬姿勢を取れるだけの条件が整っていた。指を鳴らして対露開戦を待ち侘びている好戦的な女王と国民世論を背負い(その国民世論は対露開戦に反対するウィリアム・ユワート・グラッドストンの家に投石があったことにもよく現れていた。さらにイスタンブール沖ではイギリス海軍が臨戦態勢に入っていたからである。会議前の外相第3代ソールズベリー侯ロバート・アーサー・タルボット・ガスコイン・セシルとシュヴァロフ伯ピョートル・アンドレーヴィチ大使の交渉・秘密協定の段階ですでにブルガリア公国南部のオスマン・テュルコ帝国への返還などロシア帝国から譲歩を引き出すことに成功していた。
ベンジャミン・ディズレーリは会議において、会議前の英露協定で懸案事項のまま残されていた諸問題、たとえばトルコ皇帝の南部ブルガリア軍事権の確保、テュルコ通行路の確保、東ルーマニアの統一運動の鎮圧権の確保などの問題に取り組んだ。
会議でベンジャミン・ディズレーリは徹底的な強硬路線を貫き、「ロシア帝国が反対するなら会議が決裂するだけである。」と脅迫して、イギリス王国の主張をほとんど認めさせた。会議の途中にオットー・フォン・ビスマルクとシュヴァロフ伯が譲歩を拒否した時、ベンジャミン・ディズレーリは帰国の準備を命じ、それを聞いたオットー・フォン・ビスマルクはただの脅しだと思っていたが、本当に英国代表団が荷造りをしているので、止む無く譲歩したという逸話まであるが、この逸話は疑う説もある。ただベンジャミン・ディズレーリが一歩も引かなかったことは事実で、その姿を見たオットー・フォン・ビスマルクは「あのユダヤの老人はまさに人物だ。(Der alte Jude, das ist der Mann.) 」と舌を巻いた。 ベルリン会議の結果、ブルガリア公国は分割された。その南部は東ルメリア自治州としてオスマン・テュルコ帝国に戻され、ロシア帝国のエーゲ海への道は閉ざされた。さらにイギリス王国はオスマン・テュルコ帝国からキプロスを割譲され、東地中海の覇権を確固たるものとした。一方でカルスとバトゥミについてはイギリス王国が譲歩することになり、ロシア帝国が領有することとなった。しかし全体的に見ればイギリス外交の大勝利であった。またこの会議でロシア帝国がオットー・フォン・ビスマルクに不満を抱くようになったこともベンジャミン・ディズレーリにとってはおいしかった。ベンジャミン・ディズレーリは会議から2年後に「我々の目標は三帝同盟を打破し、その復活を長期にわたって阻止することだったが、この目標がこんなに完璧に達成されたことはかつてなかった。」と満足げに語った。
イギリス王国に帰国したベンジャミン・ディズレーリは国民から歓声で迎えられた。ヴィクトリア女王は恩賞としてベンジャミン・ディズレーリにガーター勲章と公爵 (Duke) 位を与えようとしたが、公爵位についてはベンジャミン・ディズレーリの方から辞退している。またガーター勲章についても外相第3代ソールズベリー侯ロバート・アーサー・タルボット・ガスコイン・セシルにも同じ名誉が与えられるなら、という条件付きで授与を受けた。
かつてベンジャミン・ディズレーリは投資に失敗して巨額借金を抱えたがロスチャイルド家に拾われ同家の側近=犬となり、大英帝国初のユダヤ人首相となった。ヴィクトリア女王はこのユダヤ人を初めを嫌悪していたが、ある日ベンジャミン・ディズレーリが女王に提出した報告書が小説のように面白かったため女王は興味を抱き、やがてこのジゴロのユダヤ人を寵愛するようになった。スエズ運河はフランス共和国が提唱し、オスマン・テュルコから半独立していたエジプトと共同で造ったもので、イギリス王国はインドへの通商路が侵されることを嫌って建設に反対したが建設工事は始まり、イギリス王国は「作業員の扱いが奴隷的だ。」と難癖をつけ、エジプト人に叛乱を起こさせるなどして工事の妨害をした。西暦1869年、スエズ運河開通し、使ってみると喜望峰ルートより遥かに時間が短縮できた。スエズ運河を最も利用したのは厚顔無恥にも、建設に猛反対し妨害までしたイギリス王国でスエズ運河利用船舶数の8割を占めた。清から紅茶をイギリス王国に運んでいたカティサークなどの高速クリッパー船はスエズ運河開通で無用となった。ちょうどバルカン半島蜂起が発生した頃の西暦1875年夏、ロシア帝国のバルカン半島への野心を確信したベンジャミン・ディズレーリは「喜望峰航路に代わって増えていくエジプトからインドへ向かうイギリス船籍の航路の安全を早急に確保しなければならない。」と考え、フランス資本で作られ、株をフランス共和国が多く握るスエズ運河に注目するようになった。 第2次ディズレーリ内閣が発足した翌年の西暦1875年、ロスチャイルド家の情報網により「財政難に苦しむエジプトがスエズ運河の株を売却しようとしておりフランス系銀行2行と交渉中で、エジプト副王(総督)(アラビア語: إسماعيل باشا、Ismā‘īl Bāshā)が所持するスエズ運河の株(全株式40万株中17万7000株)を買収する。」という極秘情報がベンジャミン・ディズレーリの元に届けられた。イギリス王国はスエズ運河も執心となった。その垂涎のスエズ運河株が売りに出された。巨額投資となる。ディズレーリは当然、議会に諮らねばならなかった。しかし、ベンジャミン・ディズレーリは、ディズレーリは議会ではなく「ヴィクトリア女王の金庫番」と呼ばれる友人のライオネル・ロスチャイルドに協力を依頼して英国政府を借金の担保にして400万ポンドの現金を借り受け先手を打ってその17万7000株を買収した。これによりイギリス政府がスエズ運河の株式の44%の取得に成功し、筆頭株主となった。議会に諮らずロスチャイルド家から多額の借金をし、フランス共和国を出し抜く形でスエズ運河を手に入れたことに野党の自由党党首ウィリアム・ユワート・グラッドストンらは猛反発した。
ベンジャミン・ディズレーリはヴィクトリア女王に「女王陛下、これでスエズ運河は貴女の物です。フランスに作戦勝ちしましたl」と報告し、ロスチャイルド家の功績を称えた。ヴィクトリア女王は政府が担保になっているとも知らず膝を叩いて喜んだ。女王さえ篭絡しておけば周囲の野党も議会も置き去りにされた。翌年、ベンジャミン・ディズレーリは女王によりビーコンズフィールド伯爵に叙され、貴族となった。 西暦1876年、運河を買収されたエジプト政府は財政破綻し、債権者のイギリスとフランスを中心としたヨーロッパ諸国によりエジプト財政が管理されることとなった。西暦1878年にはイギリス人とフランス人が財政関係の閣僚としてエジプトの内閣に入閣することになった。
英仏はエジプト人から過酷な税取り立てを行い、エジプトで反英・反仏感情が高まっていった。この反発はやがてエジプト人の叛乱「ウラービー革命(アラビア語: الثورة العرابية、西暦1879〜1882年)」へと繋がっていくが、ベンジャミン・ディズレーリの後任の第2次グラッドストン内閣が鎮圧軍をエジプトに送りこんで占領し、フランス共和国の影響力は排除されて、エジプトはイギリス王国一国の半植民地となっていた。
帝国主義の幕開けと言われるイギリス王国のスエズ運河買収劇は、実際は国民や議会の与り知らぬ所で2種のセファルディームとアシュケナージムのユダヤ人が主導し実行した。 ヨーロッパ大陸諸国が次々と保護貿易へ移行する中、イギリス綿業にとってインド市場の価値は高まっていった。ディズレーリ政権もインドとの連携の強化を重視した。西暦1876年、ヴィクトリア女王がインド女帝位を望むようになり、ベンジャミン・ディズレーリも「インドとの連携強化の一環になる。」と考え、議会との折衝にあたったが、イギリス国民は皇帝という称号を好んでいなかったので、野党自由党から批判された。フランス帝国第2帝政皇帝ナポレオン3世やメキシコ帝国第2帝政(西暦1864〜1867年)皇帝マクシミリアーノ1世(西語: Maximiliano I、フェルディナント・マクシミリアン・ヨーゼフ・マリア・フォン・ハプスブルク・ロートリンゲン(独語: Ferdinand Maximilian Joseph Maria von Habsburg-Lothringen)、フェルナンド・マクシミリアーノ・ホセ・マリア・デ・アブスブルゴ・ロレーナ(西語: Fernando Maximiliano José María de Habsburgo-Lorena))など皇帝を名乗り始めた者がロクな末路を辿っていないジンクスもあった。
「この称号はインドに対してのみ用いる。」という条件付きで野党の反発を押し切り、04月には王室称号法によって「インド女帝」の称号をヴィクトリアに献上した。インド総督が主催する大謁見式が開催され、ヴィクトリア女王とインド社会有力者との一体化が図られた。
西暦1860年代〜1870年代にかけてロシア帝国は中央アジア諸国に次々と侵攻を行った。西暦1868年にブハラ・アミール国(西暦1500〜1920年、ブハラ・ハン国)、西暦1873年にヒヴァ・ハン国(西暦1512〜1920年)を保護国とし、西暦1876年にはコーカンド・ハン国(西暦1709〜1876年)を併合して中央アジアへと直接支配下に組み込んでいた。インドに隣接するアフガニスタン王国バーラクザイ朝(西暦1826〜1973年)に触手を伸ばしてくるのも時間の問題だった。ロシア帝国の対英強硬論者がインド侵攻を主張し始めるようになる中、首相就任直後のベンジャミン・ディズレーリも先手を打って中央アジアとペルシア湾を抑えることを考えた。インド総督初代ノースブルック伯トーマス・ジョージ・ベアリング(英語: Thomas George Baring, 1st Earl of Northbrook, GCSI, PC, FRS)に対してヘラートにイギリス王国の出先機関を置くよう命じた。しかしノースブルック伯トーマス・ジョージ・ベアリングは「ロシア帝国はアフガン王国への野望を見せておらず、アフガン王国との関係を損なうだけである。」と反対し、ベンジャミン・ディズレーリもアフガンの件はしばらく捨て置いた。
しかし新たにインド総督に就任した初代リットン伯エドワード・ロバート・ブルワー・リットン(英語: Edward Robert Lytton Bulwer-Lytton, 1st Earl of Lytton, GCB, GCSI, GCIE, PC)は、ベンジャミン・ディズレーリの友人で精神異常。インド総督に任命され、西暦1876〜1878年のインド大飢饉を悪化させ、500万〜1000万人、もしくは1200万人〜2900万人というインド人の膨大な死者を出し、「インドのネロ」と呼ばれた。初代リットン男爵エドワード・ジョージ・アール・リットン・ブルワー・リットン(英語: Edward George Earle Lytton Bulwer-Lytton, 1st Baron Lytton, PC)の長男で、リットン調査団で知られる第2代リットン伯ヴィクター・アレグザンダー・ジョージ・ロバート・ブルワー・リットン(英語: Victor Alexander George Robert Bulwer-Lytton, 2nd Earl of Lytton, KG, GCSI, GCIE, PC, DL)の父。この気違い虐殺悪魔リットン伯エドワード・ロバート・ブルワー・リットンはロシア帝国のアフガンへの野望を確信しており、アフガンの外交をコントロールしようとイギリス外交使節団を首都カーブルに置くようしばしばアフガン王シール・アリー・ハーン (Sher Ali Khan)に圧力を掛け続けたが、王は丁重に断り続けた。
ところが、西暦1878年07月にはロシア軍がシール・アリー王の抗議を無視してカーブルに入城し、シール・アリー王がしぶしぶロシア軍来訪の歓迎を表明しロシア軍のアフガニスタン国内への駐屯を認める条約を締結するという事件が発生した。これに対して気違い虐殺悪魔リットン伯エドワード・ロバート・ブルワー・リットン総督はシール・アリー王にイギリス軍の駐屯も認めさせる条約を締結させて、ロシア軍をアフガニスタン王国から追い払おうと決意した。
ベンジャミン・ディズレーリはロシア帝国から正式な回答が得られるまで行動を起こさないよう気違い虐殺悪魔リットン伯エドワード・ロバート・ブルワー・リットンに命じたが、気違い虐殺悪魔リットン伯エドワード・ロバート・ブルワー・リットンは09月21日に独断でアフガン侵入を開始したが失敗し撤収した。これによりベンジャミン・ディズレーリは気違い虐殺悪魔リットン伯エドワード・ロバート・ブルワー・リットンの計画を強行するか迫られた。さらにシール・アリー王が強硬な返答をしたため、ベンジャミン・ディズレーリとしては気違い虐殺悪魔リットン伯エドワード・ロバート・ブルワー・リットンを支持し、アフガン王国に対してイギリス使節団のカーブル駐在を求める最後通牒を出した。アフガン王国はこの最後通牒を無視したため、西暦1878年11月に第2次アフガン戦争(西暦1868〜881年)が開戦した。イギリス軍(英印軍)が侵攻し、シール・アリー王はバクトリアに逃れマザーリシャリーフに逃れて同地で死去した。イギリス王国にとって御しやすい新王ヤアクーブ・ハーン( (パシュトー語 محمد يعقوب خان、Mohammad Yaqub Khan)が擁立されて西暦1879年05月15日にガンダマク条約を結んで、東南部の割譲とイギリス王国に外交権を委譲して保護国となることを認めたが、依然としてアフガニスタン側の反抗が強くイギリス軍(英印軍)軍は苦戦を強いられ、ヤアクーブ・ハーンも退位してインドへと亡命した。西暦1880年07月27日にカンダハール郊外のマイワンドの戦いで、ヤアクーブ・ハーンの兄弟ムハンマド・アユーブ・ハーン(ウルドゥー語: محمد ایوب خانに大敗を喫するなど、イギリス軍(英印軍)軍は大きな損害を受けながらも、09月01日のカンダハールの戦いでムハンマド・アユーブ・ハーンを撃破すると、西暦1881年までアフガニスタン王国への駐留を続けた。ロシア軍が反撃に出てくる様子はなく、
ベンジャミン・ディズレーリは、友人の気違い虐殺悪魔リットン伯エドワード・ロバート・ブルワー・リットン総督の命令無視を不問に付した。 しかしベンジャミン・ディズレーリの後任ウィリアム・ユワート・グラッドストンは気違い虐殺悪魔リットン伯エドワード・ロバート・ブルワー・リットンを罷免し、アフガン王アブドゥッラフマーン・ハーン(パシュトー語: عبدالرحمان خان、Abdur Rahman Khan)にイギリス王国以外のどの国とも関係を持たないこと、どこか別の国がアフガン王国へ侵攻してきた際にはイギリス軍がアフガン王国を支援することを条件として「アフガン王国の内政に干渉しない。」という条約を締結し、アブドゥッラフマーン・ハーンとイギリス王国は宗主国の関係を保っていくことになった。
南アフリカには英国植民地が2つ(ケープ植民地(西暦1795〜1910年)、ナタール植民地(西暦1843〜1910年))、ケープ植民地を形成したオランダ系移民を主体に、フランスのユグノー、ドイツ系プロテスタント教徒など、信教の自由を求めてヨーロッパからアフリカに入植して形成された民族、ボーア人(Boer、蘭語読みでブール「農民」の意、英語読みでボーア。現代では彼らの自称である「アフリカーナー」が使われる。)による国家が2つ(オレンジ自由国(西暦1854〜1902年、オランイェ自由国)トランスヴァール共和国(南アフリカ共和国、西暦1852〜1902年)、計4つの白人植民地があった。 西暦17世紀に南アフリカのケープ植民地に入植したオランダ系白人(ボーア人)は、西暦1814年にウィーン議定書でケープ植民地がオランダ王国の植民地譲渡でイギリス王国領となり、
西暦1833年08月23日に奴隷制度廃止法(Slavery Abolition Act 1833)でイギリスの植民地における奴隷制度を違法とされたことをきっかけに、西暦1834年に約1万人の移住者の第一陣が植民地から新天地を求めて南アフリカ内部へ更なる植民を開始し北上し始めた。ボーア人は入植以来黒人を奴隷として大農園を経営しており、黒人奴隷を使役できる環境を求めて北上すると、アフリカ人を排除し商業を通じた。これをグレート・トレックと呼び、移住者には黒人奴隷も含まれていた。イギリス王国の支配に反発し、先住民のコイコイ人(当時の紅毛人の呼称はホッテントット (Hottentot))を駆逐しながら内陸への侵攻した。ズールー王国(西暦1817〜1879年)を駆逐して西暦1839年にナタール共和国(西暦1839〜1843年)を建設した。しかし、これは西暦1843年のイギリス軍の侵攻により壊滅した。ボーア人は更に内陸部へ移動し、、西暦1852年01月にトランスヴァール共和国、西暦1854年02月にオレンジ自由国を建国した。
オレンジ自由国は比較的親英的で英国と協力関係にあったが、トランスヴァール共和国は反英的だった。そしてその周囲に白人植民者の20倍にも及ぶ数の先住民の黒人が暮らしていた。彼らには様々な部族があったが、とりわけ好戦的なズールー族(ズールー王国(西暦1817〜1879年)が大きな勢力であった。こうした状況の中、4つの白人共同体を南アフリカ連邦として纏め、ズールー族を始めとする黒人部族に対して優位に立とうと考えたのがディズレーリ内閣植民地相第4代カーナーヴォン伯ヘンリー・ハワード・モリニュー・ハーバート(英語: Henry Howard Molyneux Herbert, 4th Earl of Carnarvon, PC, DL, FSA, FRS, DL、西暦1833〜1849年にかけてはポーチェスター卿(Lord Porchester)の儀礼称号)だった。彼は第3次ダービー伯内閣でも植民地相を務め、カナダ連邦(西暦1867年〜)の創設に主導的な役割を果たし、植民地に連邦制を導入することに熱心だった。しかし反英的なトランスヴァール共和国と本国主導の連邦形成に不満があるケープ植民地が反発したため調整は難航した。ベンジャミン・ディズレーリもカーナーヴォン伯ヘンリー・ハワード・モリニュー・ハーバートもトランスヴァール共和国を併合することを決意した。トランスヴァール共和国は財政難であり、政治も対英穏健派の大統領トマス・フランソワ・バーガーズ(Thomas François Burgers)と対英強硬派が鋭く対立して混乱していた。そのためズールー王国にいつ征服されるか分からない国情であり、またドイツ帝国やフランス共和国、ポルトガル王国と手を組む恐れも考えられた。
内陸にあったトランスヴァール共和国は、海を求めてズールー王国方面へ進出しようとした。西暦1876年07月にトランスヴァール共和国と黒人部族ペディ族の間に戦争が勃発し、第4代カーナーヴォン伯ヘンリー・ハワード・モリニュー・ハーバートがナタール植民地総督として現地に送り込んだ初代ヴォルズリー子爵ガーネット・ジョセフ・ウォルズリー(Garnet Joseph Wolseley, 1st Viscount Wolseley, KP, GCB, OM, GCMG, VD, PC)将軍と英領ナタール植民地行政府先住民担当相シオフィラス・シェプストン(Theophilus Shepstone KCMG)は、それへの介入を口実にトランスヴァール共和国を併合することを企図した。この後トランスヴァール共和国とペティ族の戦争が一時収束したため、介入の口実を失い、計画は一時延期されたが、
西暦1877年01月にイギリス軍はトランスヴァール共和国へ侵入し、バーガーズ大統領やトランスヴァール議会と交渉の末に04月02日にトランスヴァール共和国の併合を宣言した。当時トマス・フランソワ・バーガーズ大統領は病気だったので弱腰だったのだが、トランスヴァール国民の多くは40年前にイギリス王国の支配から逃れたグレート・トレック精神を忘れておらず、内心ではイギリス王国の併合に不満を持っていた。
またズールー王国もトランスヴァール共和国がなくなり、イギリス王国に直接敵意を向けてくるようになった。 トランスヴァール共和国は第2次グラッドストン政権下の西暦1880年12月16日にステファノ・ヨハンネス・ポール・クリューガー(アフリカーンス語: Stephanus Johannes Paulus Kruger)を司令官として大英帝国に宣戦を布告し両国は戦争状態へ突入した。現南アフリカ共和国(西暦1961年〜)造幣局発行の22金の地金型金貨、クリューガーランド金貨(Krugerrand)は、後にトランスヴァール共和国大統領となったステファノ・ヨハンネス・ポール・クリューガーに因む。ボーア人たちはカーキ色の農作業服姿であったのに対して、英国軍の軍服は鮮紅色であったため、ボーア人狙撃手の格好の標的となった。
この第1次ボーア戦争(西暦1880〜1881年)は、イギリス王国はボーア人に惨敗し、トランスヴァール共和国の独立を再度承認することとなり、戦争は終結し大英帝国の面目は丸潰れとなった。
世界最凶都市 ヨハネスブルグ・リポート - 小神野真弘 アメリカ合衆国で西暦1848年頃にカリフォルニア州で、西暦1851年に英領オーストラリアのニューサウスウェールズ州、ビクトリア州、西暦1890年代の西オーストラリア州で金鉱が発見され、金脈を探し当てて一攫千金を狙う山師が殺到するゴールドラッシュが起きた。
西暦1852年、トランスヴァール共和国のウィットウォーターズランド(英語: Witwatersrand、「白い水の縁」の意)で、イギリス人地質学者ジョン・ヘンリー・デイビスが農場で露出した金脈から採掘した。しかし、この時の金は財務省に売却され、金の存在は国家機密とされ、発見者は国外退去を命じられた。西暦1886年にゴールドラッシュが起きた。
インド、ブラジルにおいてダイヤモンドが発掘されていたが、西暦1860年代に入るとすっかり枯渇していた。
西暦1867年にオレンジ自由国ホープタウンの貧しい15歳の羊飼いの少年、エラスムス・ジェイコブス(Erasmus Jacobs)は、オレンジ川支流のバール川と合流した辺りで透明で輝く石を拾った。発見当初エラスムス・ジェイコブスたちの石遊びの道具の1つでしかなかった。その宝物にも飽きたエラスムス・ジェイコブスは母親に渡すと、今度は母親から隣人の手に渡り、「遊びの道具に使っていた透明で輝く石がトパーズかもしれない。」と思った友人のシャルク・ヴァン・ニーケルクはジェイコブスからその石を借り、隣町の山師ジョン・オライリーに渡し、「この石が宝石のトパーズかどうか調べてほしい。」と依頼した。発見当初ダイヤモンドがどういうものであるか多くの人が知らなかった。ジョン・オライリーはその石を様々な識者に鑑定させたが正確な回答が得れなかった、しかしグラハムズタウン(英語: Grahamstown、現マカンダ(Makhanda))の鉱物学者であるウィリアム・ガイボン・アザーストーン博士(Dr. William Guybon Atherstone)はダイヤモンドと鑑定した。南アフリカで採掘されたこの石はロンドンでも「ダイヤモンドである。」と鑑定され、「ユーレカ」と名付けられた。ユーレカという名前は、アルキメデスが風呂でアルキメデスの原理を発見した時に服を着るのを忘れて、「ヘウレーカ(希語: εὕρηκα、「発見したぞ」の意。)!、ヘウレーカ!(わかった! わかったぞ!)」と叫びながら、真っ裸のままで通りを駆け出した故事に因む。「ユーレカ」ダイヤモンドは発見当初、重量が21.25カラット(4.250g)で、後に10.73カラット(2.146g)のクッション状のブリリアントカット仕上げられた。「ユーレカ」ダイヤモンドは最終的にホープタウンの知事だったフィリップ・ウォードハウスによって500英国ポンド(現在の2500万円)で購入された。「ユーレカ」ダイヤモンドの発見から100年後の西暦1967年にロンドンのクリスティーズに出品され、ダイヤモンド鉱山を展開する狡猾なダイヤモンド開発企業、デ・ビアスグループが落札し、南アフリカ共和国のキンバリーの鉱山博物館に寄贈された。
どのような状況でダイヤモンドを発見したのかを知ったアザーストーン博士は「ユーレカを発見した近くには大量のダイヤモンドがある可能性がある。」と発言した。キンバリーに山師が殺到し、発掘ラッシュとなった。無論ジョン・オライリーもダイヤモンドを求めてオレンジ川で活動した。ダイヤモンドの大鉱脈が発見された。西暦19世紀半ばまで、ダイヤモンドはインドの河川から採取するか、ブラジルのジャングルに閉ざされた鉱床から少しずつ採掘するしかなかったため、世界全体の年間ダイヤモンド生産量は数kg程度だった。しかし、南アフリカで大規模なダイヤモンド鉱山が発見されるようになると、宝石市場はダイヤモンドで溢れた。 西暦1860年代以降、トランスヴァール共和国東部で金鉱が、オレンジ自由国ではダイヤモンド鉱山が発見されると、白人の鉱山技師(山師)が大量に流入しはじめた。イギリス王国はイギリス人山師たちの保護を大義名分としてオレンジ自由国を領有化した。この山師の中には、後にデ・ビアス社を創設しケープ植民地政府首相となったセシル・ジョン・ローズ(英語: Cecil John Rhodes)も含まれていた。「アフリカのナポレオン」セシル・ジョン・ローズは、熱心な帝国主義者で人種差別主義者だった。「アングロ・サクソンこそ最も優れた人種であり、アングロ・サクソンにより地球全体が支配されることが人類の幸福に繋がる。」と信じて疑わない、アングロ・サクソンによる世界支配を目指す秘密結社の設立を公言するフリーメイソンであった。「神は世界地図がより多くイギリス領に塗られることを望んでおられる。できることなら私は夜空に浮かぶ星さえも併合したい。」と豪語した。 南アフリカにおいて帝国主義政策を積極的に提唱した。 西暦1876年、英領ケープ植民地のキンバリーでは98の小企業組合が3600ものダイヤモンド採掘地を持っていた。デ・ビアスは、ボーア人農民ヨハネス・ニコラス(蘭語: Johannes Nicholas de Beer)ディーデリック・アーノルダス(蘭語: Diederik Arnoldus de Beer)のデ・ビア兄弟、Diederik Arnoldus de Beer)の農場名に由来。オレンジ川とバール川が合流する、ヴールイトツィヒトと呼ばれる地点の付近でダイヤモンドが発見され、ダイヤモンド・ラッシュに農場を維持できず、6300フランで農地を売ることになった。兄弟は鉱山の所有者にはなれなかったが、これらの鉱山のうちの1つが2人に由来して命名された。
西暦1880年、セシル・ジョン・ローズとチャールズ・ダネル・ラッド(英語: Charles Dunell Rudd)は、悪辣デ・ビアス(蘭語: De Beers)鉱山会社を悪逆ロスチャイルド家ロスチャイルド家およびアルフレッド・ベイト(英語: Alfred Beit)の援助を受けて設立した。デ・ビアス鉱山会社は西暦1888年03月13日、バーニー・バルナート(英語: Barney Barnato)のキンバリー・セントラル鉱山会社と合併したデ・ビアス合同鉱山会社(英語: De Beers Consolidated Mines Limited)はロスチャイルド家の多額の資金を得て、ダイヤモンド生産の世界シェアを9割ほども握った。西暦1889〜1890年に、デ・ビアスは10社で構成されたロンドン・ダイヤモンド企業組合と販売契約を結び、相手方へ原石を供給した。西暦19世紀後半に南アフリカは「鉱物革命」と呼ばれる迅速な産業化を経験し、金やダイヤ鉱山での労働者の需要が高まった。キンバリーでは、労働力の大部分はコイコイ人とコサ人の季節労働者によって担われた。彼らは夏に賃金のためにダイヤ鉱山で働く若者である。しかし彼らは不安定な労働力であること、かつ会社が労働者のダイヤモンドの横領を常に警戒していたこともあり、デビアスは労働者の囲い込みを行った。契約期間中、坑夫は現地に滞在しなければならない契約をデ・ビアスと結ばされた。白人労働者は街に住むことを認められていたが、黒人労働者は私製通貨が支給され、宿泊・食事・会社提供の安いモロコシビール等と交換しそれで生活することが要求された。黒人労働者は週末には街への外出が許可されていたが、それも西暦1887年には月曜の朝に二日酔いで出てくる労働者をなくすため廃止された。
オレンジ自由国で発見されたダイヤモンド鉱山、トランスヴァール共和国の金鉱山を独占し、西暦1891年までにダイヤモンド工業を独占した。ランド金山の併合にも成功して南アフリカの鉱山王となった。ロスチャイルド家のために、セシル・ジョン・ローズはダイヤモンドに留まらず南アフリカ大陸における鉄道、電信、新聞まで自分の支配下に納めた。
西暦1894年にケープ植民地首相となり、後のアパルトヘイトの原型、グレン・グレイ法を制定した。ケープ植民地の首相だったセシル・ローズが、ボーア人による植民地国家トランスヴァール共和国やオレンジ自由国への圧力と北方地域の開拓を目的に西暦1889年にイギリス南アフリカ会社(英語: British South Africa Company、 略称: BSAC)を設立し、翌年にはマタベレランドやマショナランドの鉱山開発権を獲得し両地方を併合して、自らの名に因み「ローデシア(英語; Rhodesia、「ローズの家」の意)」と命名した。さらに西暦1890年には現在のザンビア共和国(西暦1965年〜)南部にあたるパロツェランドでも鉱山開発権を獲得、北方へと勢力を伸ばした。しかし当初の目的だった鉱山開発は目論見通り進まず、会社は農業植民へと方針を転換。ンデベレ族などの叛乱を鎮圧しながら南ローデシア(現ジンバブエ(西暦1980年〜))を中心に白人の植民が進んだが、それでも会社の業績は好転せず西暦1923年には白人のみの住民投票で英領南ローデシア(西暦1923〜1953年)自治政府が樹立。翌年には北ローデシア保護領(西暦1924〜1964年)もイギリス王国の直轄植民地となった。西暦1925年にカッパーベルトと呼ばれる銅鉱山が北ローデシアで発見され、これを契機として北ローデシア保護領(現ザンビア共和国)でも開発が進んだ。
第1次ボーア戦争から数年後、豊富な金鉱脈が発見されたことにより、トランスヴァール共和国の状況は一変し、財政難に陥っていた国は急速に繁栄した。トランスヴァール共和国の豊富な金の鉱脈を求めて、英国の何千人もの鉱山技師(山師)がケープ植民地から流入を始めた。外国人が殺到し、鉱山近くに続々と住み着き、ヨハネスブルグの街はほとんど一夜にしてスラム街と変わってしまった。
山師の外国人が殺到したが、トランスヴァール共和国の少数派のままで、ボーア人は彼らに投票権を与えず、金産業に対しても重税を課した。英国人に対しての不平等な待遇は、ケープ植民地への軍事力の大幅な増強を正当化するための口実として用いられた。ボーア人のトランスヴァール共和国やオレンジ自由国の併合を目論む、ケープ植民地総督(高等弁務官)初代ミルナー子爵アルフレッド・ミルナー(英語: Alfred Milner, 1st Viscount Milner, KG, GCB, GCMG, PC)、英国植民地相ジョゼフ・チェンバレン(英語: Joseph Chamberlain)、金鉱山主(アルフレッド・バイト、バーニー・バルナート、ライオネル・フィリップスら)などは、「ボーア人たちを攻め落とすことなど簡単だ。」と確信し、再び戦争を引き起そうとしていた。西暦1895年、セシル・ジョン・ローズは初代準男爵リンダー・スター・ジェームソン(Leander Starr Jameson, 1st Baronet, KCMG, CB, PC)とその私兵らによるトランスヴァール共和国で武装クーデターを企てたが失敗に終わり、 翌年に首相を辞職した。 セシル・ローズ失脚後もイギリス王国は帝国主義侵略政策を進め、これが引き金となり、西暦1899年に独立ボーア人共和国であるオレンジ自由国及びトランスヴァール共和国と大英帝国の帝国主義的侵略戦争、第2次ボーア戦争(西暦1899〜1902年)が勃発した。ボーア人は各地でゲリラ的抵抗を続け大英帝国を苦しめたが、西暦1902年にトランスヴァール共和国は敗戦して条約が結ばれ、イギリス王国直轄植民地、トランスヴァール植民地(西暦1902〜1910年)となった。戦争中、金の生産量は10分の1以下にまで低下したほか、焦土戦術に伴う農地の荒廃もひどく、トランスヴァール経済に大きな打撃を与えた。
ダイヤモンド 欲望の世界史 - 玉木 俊明 第2次ボーア戦争終結後、プレミア(英語: Premier)鉱山がロンドン・ダイヤモンド企業組合に登録された。この西暦1902年には、デビアス・サッカークラブがデ・ビアスが南アフリカのケープタウン岸と西ケープ州の近くにダイナマイト工場を建設した際に設立された。その工場はローレンス川河口の真西、フォールス湾岸に置かれた。プレミア鉱山は西暦1905年にカリナンを採掘し、翌年企業組合を脱退した。プレミア鉱山は原石を増産して、ロンドンのダイヤモンド商ダンケルスビューラー商会(英語: Dunkelsbuhler & Company)の代理人、アシュケナージム猶太アーネスト・オッペンハイマー(英語: Ernest Oppenheimer)に売った。デ・ビアスは西暦1907年恐慌の最中ドイツ領南西アフリカ(西暦1884〜1915年)との競争にも晒された。短い間、デ・ビアスとロンドン企業組合はドイツ領南西アフリカから買い付けることに合意したが、ロンドン企業組合は優先してベルギー王国(西暦1831年〜)のアントウェルペン企業組合へ売却し、市場を開拓するようになった。西暦1912年、沖積層のダイヤモンド鉱床がベルギー領コンゴ(西暦1908〜1960年、現コンゴ民主共和国(西暦1997年〜))で発見され、翌年から生産しデ・ビアスと競争した。その2年後に第1次世界大戦が勃発し、デ・ビアスは生産を中断したが、翌年に南アフリカ連邦がドイツ軍を破り、最大の競争相手が退場したかに見えた。 新たに大鉱山が発見され、続けて各地で次々とダイヤモンド産地が見つかり、世界のダイヤモンドの9割を支配下に置いていたデ・ビアス社は新たな鉱山に追いつかず、遂には4割にまで落ちてしまった。
デ・ビアス社が苦戦していた西暦1917年、南アフリカの金塊を採掘・販売するため、アーネスト・オッペンハイマーがジョン・ピアポント・モルガン(J‣P・モルガン、英語: John Pierpont Morgan)と共に現在でも世界最大と言われる大企業、南アフリカのアングロ・アメリカン(英語: Anglo American Corporation of South Africa、現アングロ・アメリカン(英語: Anglo American PLC, 略称: AAC、AAUKなど))として南アフリカで創業した。この社名は、英国、米国、そして南アフリカから資本金が集められたことに由来する。そのため、現在でもアングロ・アメリカン社はAACと呼ばれることも多い。
創業後ほどなくして、同社は南アフリカハウテン州のスプリングズ(英語: Springs) やブラックパン(英語: Brakpan)における金鉱山の開発に成功し、資本を増大させた。これに対抗して、デ・ビアスはプレミア鉱山を傘下に収めてロンドン・ダイヤモンド企業組合を引き継いだ。西暦1918年にノーベル工業とカイノック(英語: Kynoch)は互いのアフリカ子会社を合併させた。この新子会社は、西暦1924年にデ・ビアスと合併して爆薬部門となった。西暦1919年、アングロ・アメリカンは旧ドイツ領南西アフリカのドイツ・ダイヤモンド公社(英語: German Diamond Regie、南西アフリカダイヤモンド共同会社(英語: Consolidated Diamond Mines of South West Africa Ltd. 、CDM))を買収し、漂砂鉱床の鉱山を入手すると、デ・ビアスを圧迫した。戦間期からデ・ビアスはソビエト社会主義共和国連邦(西暦1922〜1991年、露語: Союз Советских Социалистических Республик Ru-Союз Советских Социалистических Республик、通称: Советский Союз, Союз ССР、СССР、ソ連、ソ連邦)との競争に晒された。
そしてオッペンハイマー家が弱まっていたデ・ビアス社の筆頭株主となった。まずプレミアの上客アーネスト・オッペンハイマーが西暦1925年にロンドン・ダイヤモンド企業組合を再編し、翌西暦1926年デ・ビアスの重役に就任した。そこから翌西暦1927年にかけて旧ドイツ領南西アフリカのリヒテンバーグ(独語: Lichtenburg)にダイヤモンド・ラッシュが起こり、暗黒の木曜日までにアーネスト・オッペンハイマーは現地の利権を握り、西暦1929年12月にデ・ビアス会長となった。オッペンハイマー家の息子ハリー・フレデリック・オッペンハイマー(英語: Harry Frederick Oppenheimer)と孫ニコラス・F・オッペンハイマー(英語: (Nicholas F. Oppenheimer、愛称: ニッキー)も後に会長となった。
西暦1930年、世界恐慌への対応として新たな合弁会社ダイヤモンド会社(英語: Diamond Corporation Ltd.)を設立した。その半分はデ・ビアスとプレミアとCDMおよびその他大手生産者が出資した。残りは西暦1925年に再編した企業組合の持分となった。ここでアングロ・アメリカンがCDMの支配権をデ・ビアスに明け渡し、アーネスト・オッペンハイマーは合弁会社の会長となった。そしてベルギー人やポルトガル人と堅実に協定した。西暦1932年、キンバリーとプレミアを含む全所有鉱山が閉鎖した。戦略は生産カルテルから販売カルテルへ性質を変えていった。西暦1934年、合弁会社の子会社ダイヤモンド貿易会社(英語: Diamond Trading Company、)が設立されたのである。DTCは参加者から原石を買占め世界中の加工拠点から慎重に相手を選び、原石の品質を分類して種類ごとに量を決めて原石を販売したが、その流通機構全体は中央販売機構(英語: Central Selling Organization)として世に知られた。
会長となったアーネスト・オッペンハイマーは、世界のダイヤモンドを掌握しようと様々な案を打ち出した。1つ目はダイヤモンド生産組合を作り生産調整。2つ目はダイヤモンドを全て買い占め、それを流通させるべくダイヤモンド貿易会社を設立。3つ目は流通されたダイヤモンドを販売する中央販売機構を設立。発掘→流通→販売といった流れをデ・ビアス社が一括することになった。特に3つ目は、生産量や実績によって価格を決める「相場」を作り上げ、1つの会社が世界のダイヤモンド相場を独占した。
この中央販売機構とは、独占しているデ・ビアス社が開いたダイヤモンド販売会に世界からダイヤモンドを買う為に販売会社が集まる。販売会が始まると各販売会社に1つの袋が手渡され、中にはダイヤモンドがぎっしり詰まっているが、販売会社がダイヤモンドを1つ1つ選ぶことは出来ない。この場でダイヤモンドを確認することは出来るので渡された袋の中身を調べ、ここで彼らにある選択権は袋の中身全てを買うか買わないかだけで、中身を選別して買うのも認められない。買わないと宣言し別の袋を選ぶ権利はあるが、あまり何度も選び直すと次回からその販売会社はデ・ビアス社から呼ばれなくなってしまう。正にやりたい放題の猶太商法。 第2次世界大戦では工業用ダイヤモンドがもて囃され、西暦1942年の売上げは430万ポンドに達し、売上げの4割近くを占めた。西暦1943年と西暦1945年のダイヤモンド市場は2050万と245万ポンドに拡大した。そこで西暦1944年と西暦1945年、キンバリーとプレミアがそれぞれ生産を再開した。このような経済活動はアメリカ合衆国政府が追及するところとなった。そこでアーネスト・オッペンハイマーはカナダ連邦における供給量を増やすという和解案を示した。実際にそこでの価格は英国政府に統制されたがアメリカ合衆国では妥協しなかった。西暦1945年と西暦1947年に米司法省はデ・ビアスを反トラスト法違背容疑で告訴した。西暦1946年にベルギー領コンゴが中央販売機構に参加した。磐石に見えるカルテルは、西暦1950年代にソ連もダイヤモンドを生産するようになって脅かされた。デ・ビアスは西暦1930年代に積み上げられた在庫の山を西暦1952年に売り切った。アパルトヘイト時代にデ・ビアスは囚人を労働力に使う許可が与えられた。「囚人の大多数は、西暦1952年に制定された厳密なアパルトヘイト法のために投獄された。」と言われている。 西暦1953年、アセアは工業ダイヤモンドの合成に成功したが、特許をとらなかった。そこで西暦1955年にゼネラル・エレクトリック(英語: General Electric Company、略称: GE)が取得した。西暦1950年代、中央販売機構はイスラエル国(ヘブライ語: מדינת ישראל、西暦1948年〜)に対する原石の供給を削減していった。西暦1959年、ソ連が中央販売機構に参加したが、西暦1963年に脱退した。一方、アフリカの年を経てイスラエル国は原石の輸入額を増やし、中央販売機構はイスラエル国に歩み寄ったが、しかしベルギー王国に対する4割弱の割当量を減らすことはしなかった。西暦1967年にデ・ビアスはオラパ鉱山を発見し、西暦1969年にボツワナ共和国(西暦1966年〜)政府と合弁会社「デブスワナ」を立ち上げた。西暦1974年に米司法省が再びデ・ビアスを反トラスト法で告訴し、デ・ビアスは翌西暦1975年4万ドルの罰金を払った。
西暦1980年代初頭、ザイール共和国(西暦1971〜1997年)の指導者モブツ・セセ・セコ・クク・ンベンドゥ・ワ・ザ・バンガ(仏語: Mobutu Sese Seko Kuku Ngbendu wa za Banga)が中央販売機構を拒絶したが、デ・ビアスはザイール共和国政府に買収される前に高値をつけて原石を買い占め、政権の競争力を殺いでカルテルに復帰させた。オーストラリア連邦(西暦1901年〜)のキンバリー地域では西暦1983年にオーストラリアのコンジンク・リオティント(Conzinc Riotinto of Australia)の参加するアッシュトン・ジョイント・ベンチャー(英語: Ashton Joint Venture)が中央販売機構に参加した。アッシュトン・ジョイント・ベンチャーにアーガイル鉱山(英語: Argyle diamond mine)が含まれていた。カルテルでアーガイル鉱山は生産量の1/4を独自に販売できるが、品質の良いものは全部を中央販売機構に売却しなければならなかった。自社加工する時ですら1度カルテルを通さなくてはならなり広告まで制限された。西暦1984年アフリカの24ヶ国が飢饉に陥り、翌年スーダン共和国(西暦1985年〜)とウガンダ共和国(西暦1962年〜)とナイジェリア連邦共和国(西暦1960年〜)でクーデタが起こった。西暦1988年、ソビエト社会主義共和国連邦で金属・宝石産業の国家独占企業が誕生し(Glavalmazzoloto)、ソ連崩壊まで中央販売機構に原石を供給した。それが独立国家共同体(露語: Содружество Независимых Государств、略称: СНГ、英語: Commonwealth of Independent States、略称: CIS)、西暦1960年〜)となって、軍需物資として利用されてきた品質の悪いダイヤモンドをだぶつかせて世界的な供給圧力となった。そこで中央販売機構はソビエト連邦の崩壊後に結成された独立国家共同体(CIS)からの買い付けに差別価格を導入して、供給過剰な低品質の原石は価格を下げ、反対に高品質の価格を上げた。西暦1994年、工業用ダイヤモンドの価格カルテルをゼネラル・エレクトリックと結んだ。ゼネラル・エレクトリックは漏らした。その同年から翌西暦1995年にかけてロシアと中央販売機構は、各自で莫大な量の安い原石をインド市場に売り捌いた。西暦1996年06月、アーガイル鉱山が中央販売機構を脱退した。この手続はデ・ビアスが直接行い、親会社のアングロ・アメリカンは立ち会わなかった。西暦1997年02月に中央販売機構と、ソ連のダイヤモンド鉱山を多くを引き継いだロシア連邦(西暦1991年〜)で若干の調整が行われた。西暦1998年初め、中央販売機構はトロントに事務所を開設した。カナダ政府はダイヤモンドに対して原石ではなく生産に対して課税するようになり、中央販売機構の買い取りを助けた。西暦2000年07月14日、デ・ビアスは公式にカルテルの終結を宣言し、中央販売機構は単なるDTCとして販売を継続するとした。西暦2001年、アングロ・アメリカンがデ・ビアスとの株式の持ち合いを解消、支配率を32%から45%に引き上げた。西暦2003年、プレミア鉱山はカリナン鉱山と名前を変えた。西暦2004年にデ・ビアスはゼネラル・エレクトリックとのカルテルを理由に米司法省から1千万ドルの罰金を課された。西暦2006年02月、デ・ビアスは欧州委員会(英語: European Commission、略称: EC、仏語: Commission européenne、略称: Ce、独語: Europäische Kommission、略称: EK、ヨーロッパ委員会、)と合意し法的に拘束され、西暦2008年末から将来にわたりアルゾア(Alrosa)からの低品質原石を仕入れることができなくなった。西暦2008年07月、カリナン鉱山をペトラ(英語:Petra Diamonds)に売却した。 デ・ビアスは第2次世界大戦の直前からデ・ビアスの広告機関、N・W・アイレ親子商会(英語: N.W. Ayer & Son)によって立案されたキャンペーンは、人々にブランド名を植え付けることなく、ただダイヤモンドの理想的な永遠の価値を表現するという点で、後年長く模倣される新しい広告形式だった。「ダイヤモンドは永遠と愛の象徴」として、「婚約・結婚指輪の理想である。」と売るため、ロマンス映画中で結婚祝いとしてダイヤモンドを使う、「婚約指輪は給料の3ヶ月分」有名人を使い、雑誌や新聞中にダイヤモンドのロマンチックな面を想起させる筋立てを掲載する、ファッションデザイナーや流行仕掛け人を雇い、ラジオやテレビで流行を広める、 ダイヤモンドを広めるためにイギリス王室に献上する、・・と、あざとい猶太商法。アイレによって作成されたスローガン「A Diamond is Forever(ダイヤモンドは永遠の輝き)」は20世紀のマーケティングの歴史の中において最も成功したスローガンで直訳では「ダイヤモンドは永遠に」。007シリーズにも使われた。
日本でも黒い背景に「ダイヤモンドは永遠の輝き De Beers」とだけ銀文字で大書されたテレビCMが知られる。このキャンペーンは成功し、アメリカ合衆国のダイヤモンド市場を復活させた。それによって高価な贅沢品という印象が弱まったことによって、以前は存在しなかった販路を開拓することに成功した。第2次世界大戦前の日本におけるダイヤモンドは、一部の上流階級のみが愛好するものであった。戦後に行ったキャンペーンでダイヤモンドは「欧米風の生活における地位の象徴」と洗脳広告を打ち、西暦1960年代以降の高度経済成長と共にその販売数が増加し、今日では世界で第2位のダイヤモンド小売市場となった。 英領ナタール植民地行政府総督(高等弁務官)初代準男爵ヘンリー・バートル・フレア(Henry Bartle Edward Frere, 1st Baronet, GCB, GCSI, PC)とズールー王国は対立を深めていった。西暦1878年12月11日にフレアはズールー王国第4代国王セテワヨ・カムパンデ(ズールー語: Cetshwayo kaMpande)に最後通牒を送った。完全にヘンリー・バートル・フレアの独断行動であり、ヘンリー・バートル・フレアはベンジャミン・ディズレーリへの報告をわざとゆっくり行い、ベンジャミン・ディズレーリに選択の余地を与えずにズールー戦争(西暦1879年)に引きずり込んだ。
最後通牒に対するズールー王国からの返事はなく、西暦1879年01月、ヘンリー・バートル・フレアの命令を受けた第2代チェルムスフォード男爵フレデリック・オーガスタス・セシジャー(英語: Frederic Augustus Thesiger, 2nd Baron Chelmsford, GCB, GCVO)率いる1万6000人のイギリス軍がズールー王国へ侵攻を開始したが、イサンドルワナの戦いで敗北した。この報告を受けたベンジャミン・ディズレーリは卒倒し掛けた。チェルムズフォード男爵フレデリック・オーガスタス・セシジャーが援軍を要求してきたため、止む無く許可し、02月には最新鋭兵器を持たせて応援軍を送ることとした。一方で初代ヴォルズリー子爵ガーネット・ジョセフ(Garnet Joseph Wolseley, 1st Viscount Wolseley, KP, GCB, OM, GCMG, VD, PC)将軍を新司令官に任命し、第2代チェルムスフォード男爵フレデリック・オーガスタス・セシジャーはその隷下とした。援軍が到着すると、第2代チェルムズフォード男爵フレデリック・オーガスタス・セシジャーはヴォルズリー子爵ガーネット・ジョセフの命令を無視してすぐに反撃に打って出て、07月04日にズールー王国首都ウルンディは陥落した。ズールー王国は事実上イギリス王国の支配下に組み込まれたズールー王国が正式に大英帝国ナタール植民地に組み込まれたのは西暦1897年。 なお派遣された援軍の中に王立陸軍士官学校卒業生のナポレオン・ウジェーヌ・ルイ・ボナパルト(仏語: Napoléon Eugène Louis Bonaparte、ナポレオン4世、ナポレオン3世の息子、普仏戦争の敗北で父母とともにイギリス王国に亡命)が従軍していた。ベンジャミン・ディズレーリはフランス第3共和政の反発を恐れて彼を従軍させることに慎重だったが、
ナポレオン4世の母である元フランス皇后ウジェニー・ド・モンティジョ(仏語: Eugénie de Montijo)と英女王ヴィクトリアが強硬にナポレオン4世の意思を支持したため、結局ベンジャミン・ディズレーリが折れた。ベンジャミン・ディズレーリは「執拗な女性2人も相手にして私に何ができるでしょう。」と嘆いている。しかし06月初め、前線の小競り合いでナポレオン4世は戦死した。ヴィクトリア女王はこれに大いに悲しみ、ヴィクトリア女王の計らいで彼の葬儀は盛大に行われ、女王自身も葬儀に出席した。女王が葬儀に出席するのは相手も君主の場合だけであり、臣民の葬儀には出席しないのが慣例である。そのような栄誉がボナパルト家の者に認められると、フランス第2帝政を廃したフランス第3共和国の反発が予想されることからベンジャミン・ディズレーリが再び反対したが、やはり女王は聞き入れなかった。
さらに葬儀を終えた女王は「土壇場になるまで植民地の軍備増強を怠った政府の責任である。」としてベンジャミン・ディズレーリに叱責の電報を送った。女王の格別な寵愛によりベンジャミン・ディズレーリにだけ許されていた女王引見の際の様々な特別扱いも一時中止されたほどで、この時のヴィクトリア女王の怒りは激しかった。 西暦1876年08月12日、ヴィクトリア女王よりビーコンズフィールド伯爵、ヒューエンデン子爵に叙された。これにより貴族院に移ることとなった。30年にわたって庶民院保守党議員を支配してきたベンジャミン・ディズレーリにとっては辛いことだったという。ヴィクトリアは「貴族院に移れば疲労はずっと少ないですし、そこから全てを指導することもできます。」と説得した。
毀誉褒貶はあっても、強力な個性の持ち主であるベンジャミン・ディズレーリが庶民院を去ることを庶民院議員たち(特に若手)は惜しんだ。ベンジャミン・ディズレーリにとって最後の庶民院本会議が終わると、彼は議場を見渡せる位置まで歩いて行って、自分が初めて演説した演壇、自分が長いこと座っていた野党席、ピールの肖像画が掛かっている国庫の席などを眺めて、物思いに耽っていたという。また議場から退出する時には涙を見せた。貴族院に移ったベンジャミン・ディズレーリは直ちに貴族院院内総務となった。貴族院は保守党が半永久的に優勢ながら、保守党執行部に従わないことが多いという特殊な議会だった。ベンジャミン・ディズレーリはすぐに貴族院から受け入れられ、第14代ダービー伯(元首相)級の権威を確立できた。しかし貴族院議員第3代ソールズベリー侯ロバート・アーサー・タルボット・ガスコイン・セシルがイギリス貴族院を指して「この世で最も活気のない議会」と称したように、ベンジャミン・ディズレーリには物足りないものであったようだ。「貴族院の気分はどうですか」と聞かれたベンジャミン・ディズレーリは「私は死にました。極楽浄土の中で死んでいます。」と答えている。
西暦1876年頃からイギリス王国にも不況の波が押し寄せてきた。西暦1878年にはグラスゴー市銀行が経営破綻し、衝撃を与えた。失業率が急速に上昇していた(西暦1872年には1%、西暦1877年には4.7%、西暦1879年には11.4%)。一方農業も悪天候続きで収穫不足になっており、ピールの穀物法廃止以来、30年以上続いていたイギリス農業の生産率増大がこの頃に止まり始めた。反面アメリカ農家の農業技術と運送技術の向上でアメリカ合衆国からの輸入穀物はますます安くなっていた。ヨーロッパ大陸各国は次々と保護貿易へ移行し、イギリス王国の地主の間でも保護貿易復活を求める声が強まった。だが、農業人口よりそれ以外の人口が多いイギリス王国においてはそう簡単にはいかなかった。
保護貿易を復活させれば、食品価格の大幅な上昇を引き起こし都市部の労働者の反発を買うのは必至だったからである。ベンジャミン・ディズレーリが決めかねている間に保守党内の一部の地主層が保守党を離党して農民同盟を結成する事態となった。一方自由党は元々自由貿易主義者しかいないので、分裂することなく総選挙に邁進できた。ウィリアム・ユワート・グラッドストンがスコットランドで行ったミッドロージアン選挙運動(英語: Midlothian campaign)と呼ばれる一連のベンジャミン・ディズレーリ批判演説は大きな成功を収めた。さらにアイルランド国民党党首チャールズ・スチュワート・パーネルが、政府との徹底対決路線をとり、何十時間にも及ぶ演説を行って、政府法案の議事を妨害するようになった(当時この手の議事妨害を阻止する議事規則がなかった)。これが原因でディズレーリ政権は末期の頃にはほとんど立法ができなくなった。これに対しては議事規則を改正して対策を立てようとしたが、野党との協議が整う前に総選挙となった。 ミッドロージアン選挙運動 ロスチャイルドの金で自由党グラッドストンが復活
6年間の政権の後、ウィリアム・ユワート・グラッドストン首相率いる自由党政権は、西暦1874年の総選挙で自由党が大敗したことにより終焉を迎え、短い移行期間の後、自由党の指導権を放棄し、その後は英国下院の単なる下院議員となったが。ウィリアム・ユワート・グラッドストンは西暦1875年01月、数年前に約束した通り、政治から完全に身を引き、田舎の邸宅であるハワーデン城に引籠もってホメロスの研究に時間を費やしていた。西暦1878年までに、彼はオスマン帝国政府に対するイギリス王国の経済支援に反対する記事を発表していた。この時点で、政治活動への復帰を計画していた。
西暦1708年に創設された低地スコットランドのエディンバラシャー、通称ミッドロージアン(英語: Midlothian、スコットランド・ゲール語: Meadhan Lodainn)は、わずか3620人の有権者がいる小さな選挙区だった。しかし、ミッドロージアンは、スコットランド啓蒙主義の伝統が染み付いた洗練された都会的な環境があり、スコットランドで最も有力な2つの貴族の家系が勢力を争う戦場でもあった。西暦1860年代から、バクルー公爵(英語: Duke of Buccleuch)及びクイーンズベリー公爵(英語: Duke of Queensberry)家とローズベリー伯爵(英語: Earl of Rosebery)家がここで覇権を争っていた。西暦1868年、ローズベリー伯爵家が後援する自由党がミッドロージアンで勝利し、長きにわたった保守党の優位は終焉を迎えた。西暦1874年、保守党のバックルー公爵及びクイーンズベリー公爵の相続人ダルキース卿(西暦1884年までの儀礼称号。後の第6代バクルー公及び第8代クイーンズベリー公ウィリアム・ヘンリー・ウォルター・モンタギュー・ダグラス・スコット(英語: William Henry Walter Montagu Douglas Scott, 6th Duke of Buccleuch & 8th Duke of Queensberry, KG, KT(後に返上), PC, JP, DL)は僅差で議席を奪還した。
第5代ローズベリー伯及び初代ミッドロージアン伯アーチボルド・フィリップ・プリムローズ(英語: Archibald Philip Primrose, 5th Earl of Rosebery, KG KT PC FRS FBA、西暦1851〜1868年までダルメニー卿(英語: Lord Dalmeny)の儀礼称号)はウィリアム・ユワート・グラッドストンに、ミッドロージアンが選挙活動を始めるのに理想的な場所と確信させた。かつてスコットランドは自由主義の拠点となっていた。第5代ローズベリー伯アーチボルド・フィリップ・プリムローズは、「発生する全ての費用を負担する。」とグラッドストンに約束した。ローズベリーはグラッドストンの選挙運動責任者となった。第5代ローズベリー伯アーチボルド・フィリップ・プリムローズは、貴族が賤しいユダヤ人との結婚を批判されたがロスチャイルドの金に転び、ハンナ・ド・ロスチャイルド(英語: Hannah Primrose, Countess of Rosebery)と結婚していた。 長年の政敵であるベンジャミン・ディズレーリの保守党政権を、財政面での無能、国内法の無視、外交政策の失策で非難した。彼は、人気があり現実的な政治家(「人民のウィリアム」)としての評判を高め、自由党内で最も重要な政治家としての地位を固めた。西暦1880年までに、ウィリアム・ユワート・グラッドストンはこの問題に執拗に取り組み、この問題は世間の注目の最前線にまで上り詰め、西暦1880年の総選挙では、ウィリアム・ユワート・グラッドストンは一連の都市を回り、この問題について5時間にも及ぶ演説を行った。彼の演説の性質はしばしば説教に例えられ、彼の熱烈で感情的だが論理的に構成された演説は西暦、1880年代に多くの未決定の有権者を自由党に傾倒させ、ディズレーリの最後の保守党政権を打倒した。これらの集会への参加者数が多く、それぞれ数千人が出席し、選挙権の規模が比較的小さかったため、ウィリアム・ユワート・グラッドストンは各選挙区の有権者の大部分に演説することができた。ミッドロージアンで目新しいのは、グラッドストンが演壇から演説したということではない。これは多くの第一線政治家にとってすでに当たり前のことだった。この選挙運動は情報メディアを効果的に操作するため、報道するジャーナリストの締め切りと業務上の要件に特に注意が払われ、朝刊と夕刊で最大の効果が得られるように作成され、演説とそれに対する一般の反応が広く報道された。
ウィリアム・ユワート・グラッドストンの演説は、国家政策の全範囲を網羅し大勢の聴衆に威厳があり刺激的な政府の原則に関する上質な批判であった。主要な演説は、彼自身の深く固執する英国国教会の信仰の熱意によって強化された、自由主義の政治哲学の声明を構成しています。当時のスコットランドは、この種の宗教的および道徳的誠実さの促進に固執する国で、彼の焦点は通常、外交問題でした。グラッドストンは、法によって統治され、弱者を保護する世界への関与を示した。彼が理想とする世界秩序の視点は、普遍主義と包摂性を組み合わせたもので、彼は集団感情、他者への思いやりの感覚に訴え、最終的には人類の団結というより大きな構想にまで至った。
ミッドロージアン選挙運動により、自由党内およびヴィクトリア女王にとって、グラッドストンの指導力を無視することは不可能となった。さらに、この選挙運動は、西暦1880年の選挙で自由党が政権を握る勢いを生み出した。 自由主義(リベラリズム)という美名で、ゴイム(他民族他宗教の愚民)を統制し家畜化する全体主義統一世界(マルクス主義)は、アシュケナージム猶太のロスチャイルドの理念である。
ユダヤ人ロンドン・ロスチャイルド家の祖ネイサン・メイヤー・ロスチャイルド(英語: Nathan Mayer Rothschild)の四男のユダヤ人銀行家ロスチャイルド男爵メイヤー・アムシェル(英語: Baron Mayer Amschel de Rothschild)は、ユダヤ人コーエン家のジュリアナ・コーエン(英語: Juliana Cohen)と従兄・従妹婚でできた一人娘が第5代ローズベリー伯爵夫人ハンナ・ド・ロスチャイルドハンナ・ド・ロスチャイルドと結婚し、膨大な遺産を相続し最も裕福な地主の1人だった。ロスチャイルド男爵ファーディナンド・ジェームズ(英語: Baron Ferdinand James de Rothschild、ロートシルト男爵フェルディナント・イェームス(独語: Ferdinand James Freiherr von Rothschild)、愛称: ファーディ)は従兄。
ハンナ・ド・ロスチャイルドの曽祖父のレヴィ・バレント・コーエン(英語: Levy Barent Cohen)の姪ナネット・サロモンズ・コーエン(英語: Nanette Salomons Cohen)はカール・マルクスとベンヤミン・フレデリック・ダビット・フィリップス(独語: Benjamin Frederik David Philips)の母方の祖母である。 「西暦1879年夏か秋に解散総選挙に打って出ていれば、保守党は敗れるにしても大敗することはなかった。」と言われた。だがベンジャミン・ディズレーリは解散総選挙を出来る限り先延ばしにしようとして解散時期を見誤った。西暦1880年02月05日に議会が招集されたが、ベンジャミン・ディズレーリは女王に対して「何か予期しない問題が発生しない限りは解散はない。」と述べていた。ところが「02月14日のリバプール補欠選挙で自由党候補が勝利する。」という前評判を覆して保守党候補が勝利した。この選挙結果を聞いたベンジャミン・ディズレーリは「保守党に風が吹いている。」と判断して、03月06日に急遽庶民院解散を決定した。この突然の解散総選挙は与野党問わず、誰もが驚いた。しかし03月から04月にかけて行われた総選挙の結果は、保守党が238議席(改選前351議席)、自由党が353議席(改選前250議席)、アイルランド国民党が61議席(改選前51議席)という保守党の惨敗に終わった。不況と農業不振で元々現政権に不利な選挙ではあったが、ここまで負けたのは保守党の機能不全がある。党が自由貿易か保護貿易かで分裂していたし、選挙の準備もまるでしていなかった。対して自由党は準備を整えて待ち構えていた。
この選挙の報を聞いた時、ヴィクトリア女王はバーデン大公国(西暦1806〜1918年)にいたが、
絶望して「私の人生はもはや倦怠と苦しみしかありません。今度の選挙は国全体にとって不幸なことになるでしょう。」、「私は、全てを破壊し、独裁者となるであろう半狂人の扇動者と交渉を持つぐらいなら退位を選びます。」と語った。 ベンジャミン・ディズレーリが退任の挨拶にヴィクトリア女王を訪れたとき、女王は悲しげだった。女王は彼のブロンズ像を送るとともに、これからも手紙を送ってくれること、会いに来てくれることを頼んだ。そして改めて「公爵位を与えたい。」と申し出たが、ベンジャミン・ディズレーリは選挙に惨敗した首相がそのような高位の爵位を賜るのはまずいとして固辞し、
代わりに自分の秘書モンタギュー・コーリーをロートン男爵に叙してもらった。政治家の秘書に爵位が与えられるのは極めて異例のことであった。 ヴィクトリア女王のウィリアム・ユワート・グラッドストン嫌いをよく知っているベンジャミン・ディズレーリは、女王に次の首相として自由党下院指導者ハーティントン侯(後の第8代デヴォンシャー公スペンサー・キャヴェンディッシュ(英語: Spencer Cavendish, 8th Duke of Devonshire, KG, GCVO, PC, PC (Ire)、西暦1834〜1858年までキャヴェンディッシュ卿(Lord Cavendish)、西暦1858〜1891年まではハーティントン侯爵(Marquess of Hartington)の儀礼称号))を推挙した。
これは、このユダヤ人の放った嫌がらせの最後っ屁だった。女王はベンジャミン・ディズレーリの助言通り、ハーティントン侯を招いて後継首班指名を告げたが、ハーティントン侯は「ウィリアム・ユワート・グラッドストン首班以外では組閣できない。」と拒絶し、女王は「半狂人の扇動者」を首班に指名せざるを得なかった。
ダウニング街10番地を去ったベンジャミン・ディズレーリは、西暦1880年05月01日にヒューエンデンへ帰っていった。以降、党の会合や貴族院出席以外の時はここで過ごした。またヴィクトリア女王との文通も続け、しばしばウィンザー城を訪れては女王の引見を受けた。西暦1880年05月19日のブリッジウォーター・ハウスで開催された保守党両院総会において、ベンジャミン・ディズレーリが引き続き党首を務めることが確認された。ベンジャミン・ディズレーリ以外に党首が務まる者はいなかったためである。ベンジャミン・ディズレーリはグレイ伯内閣(ホイッグ党政権)の急速な凋落の先例を挙げ、敗北に悲観的に成り過ぎないよう議員たちを励ました。そして「保守党は帝国と憲政を保守する。」と宣言し、議員たちから万雷の拍手を受けた。庶民院では大敗を喫した保守党だが、貴族院は半永久的に保守党が牛耳っているので野党党首としてのディズレーリの権力は弱いものではなかった。グラッドストン政権が提出した小作料を支払うことができない小作人をアイルランド地主が追い出すのを暫定的に禁止する法案についてベンジャミン・ディズレーリは保守党の総力をあげて攻撃し、廃案に追い込んだ。
晩年にはあのロスチャイルドの犬の悪魔ウィンストン・レナード・スペンサー・チャーチル(英語: Winston Leonard Spencer Churchill, KG, OM, CH, TD, PC, DL, FRS, Hon. RA)の父、ランドルフ・ヘンリー・スペンサー・チャーチル卿(英語: Lord Randolph Henry Spencer-Churchill, PC, DL)や初代バルフォア伯アーサー・ジェイムズ・バルフォア(英語: Arthur James Balfour, 1st Earl of Balfour, KG, OM, PC, DL)ら「第4党(Fourth Party)」と呼ばれる向う見ずな保守党若手議員たちを支援した。彼らはその行儀の悪さから保守党庶民院院内総務初代イデスリー伯スタッフォード・ヘンリー・ノースコート(英語: Stafford Henry Northcote, 1st Earl of Iddesleigh, GCB, PC、西暦1851〜1885年はノースコート准男爵スタッフォード)に睨まれていたが、ベンジャミン・ディズレーリはランドルフ・ヘンリー・スペンサー・チャーチル卿らに「私自身立派であったことは一度もないよ。」と語って励ましたという。一方で彼らが公然と党執行部に造反しないよう忠告を与えるなど、「第4党」をうまく扱った。
西暦1881年初めにはウィリアム・モリス(英語: William Morris)や、カール・マルクスの娘ジェニー・エリノア・マルクス(英語: Jenny Julia Eleanor Marx、仇名: トゥッシー(Tussy))、アニー・ウッド・ベサント(英語: Annie Wood Besant)、ジェームズ・ラムゼイ・マクドナルド( 英語: James Ramsay MacDonald)、エドワード・カーペンター(英語: Edward Carpenter)、イーディス・ネズビット(英語: Edith Nesbit)などと結成したマルクス主義団体「社会民主連盟(Social Democratic Federation、当初は民主連盟)」の指導者ヘンリー・ハインドマン(英語: Henry Mayers Hyndman)の訪問を受けた。ヘンリー・ハインドマンは格差問題を説いたベンジャミン・ディズレーリの「シビル」に深い感銘を受けており、社会政策についてベンジャミン・ディズレーリの意見を聴きに来た。しかしベンジャミン・ディズレーリは、ヘンリー・ハインドマンの民主帝国連邦構想や財産の社会化の話に冷めた様子で「ハインドマン君、この国は動かすのが全く難しい国なんだよ。全く難しい国だ、そして成功するより失敗することの方が多い国だ。しかし、君は続けようというのだね?」と答えた。この接触はヘンリー・ハインドマンがオットー・フォン・ビスマルクとフェルディナント・ヨハン・ゴットリープ・ラッサール(独語: Ferdinand Johann Gottlieb Lassalle)の関係に倣ったもの。
10年前から執筆を開始していた政治小説「エンディミオン」を西暦1880年11月に出版した。エンディミオンという青年が政治を志し、幾多の女性遍歴を経て、ついにイギリス首相となる物語である。もちろんベンジャミン・ディズレーリ自身がモデルであり、世間からはベンジャミンとエンディミオンを掛けて「ベンディミオン」と呼ばれたという。他の登場人物も大体ベンジャミン・ディズレーリの接した者たちであり、一種の自叙伝であった。さらにウィリアム・ユワート・グラッドストンをモデルにした人物を主人公にした小説「ファルコーネ」の執筆を開始したが、これを完成させることはできなかった。
西暦1880年12月にベンジャミン・ディズレーリはヒューエンデンを離れてロンドンへ行き、以降死去するまでヒューエンデンに戻る事はなかった。ベンジャミン・ディズレーリは以前から喘息と痛風に苦しんでいたが、死を予期させるような病状は死の直前までなかった。西暦1881年02月から03月にも外出して政治家たちと会合したり、王太子アルバート・エドワード(後のエドワード7世)の晩餐に招かれたりしていた。03月01日にはウィンザー城でヴィクトリア女王から最後の引見を受けた。03月15日の貴族院では、ロシア皇帝アレクサンドル2世の暗殺を悼み、女王が弔辞を送ることに賛成する最後の演説を行った。03月22日の帰宅途中に雨に濡れ風邪を引き、これが死につながることとなった[527]。なかなか病状は回復せず、そんな中ベンジャミン・ディズレーリが無理をして書いたヴィクトリア女王への手紙は、短信だった。ヴィクトリア女王は心配になり、有名医をベンジャミン・ディズレーリの下へ派遣するよう命じた。04月19日に入った深夜に危篤に陥り午前04時15分過ぎ、昏睡状態だったベンジャミン・ディズレーリが突然上半身を起こそうとしたので、その場にいた者たちはみなびっくりした。彼はいつも議会で行っていた両肩を後ろに揺する身振りをした。その後再びベッドの中に倒れ、午前04時30頃にくたばった。