
http://cnxss.seesaa.net/article/503759005.html
令和06年09月18日水曜日午前08時、深圳(シンセン)市南山区の路上で、深圳日本人学校に通う男子児童、小山航平(10)が、母親と電動自転車に乗って登校中が、面識のない反日の支那人の男、鍾(44)に襲撃された。鍾(44)は、ナイフで腹部と太腿を繰り返し刺し、男子児童、小山航平(10)は腸が引き出され、腹部から大量に出血し大きな血だまりの中で目を見開いたまま動かなくなっていた。病院に搬送されたが、応急処置の甲斐なく翌日早朝に死亡した。
母親は血まみれになった手で「私の子が何か間違ったことをしたのですか?助けてください。」などと支那語で周囲に助けを求めていた。男子児童、小山航平(10)は日支のあいの子で支那の発表では沈(母方の姓)。父親は日支貿易を生業にする小山淳平。残忍な犯人、鍾(44)は定職がない前科者、平成27年に公共電気通信施設に損害を与えた疑いで東莞市警察により逮捕・保釈され、令和01年に行政拘留されていた。


2024.09.19 18:05 NEWSポストセブン
https://www.news-postseven.com/archives/20240919_1991759.html?DETAIL
「一刻も早い説明を強く求めるよう指示をしたところであります」──中国・深セン市で登校中の10歳の男子児童が刃物で襲われて死亡した事件について、岸田文雄首相が記者団の取材に応じた。
9月18日午前、深セン日本人学校の男子児童が44歳の中国人男性に刃物で刺された事件。犯行現場となったのは、日本人学校から約200メートルほど離れた路上だった。現地ジャーナリストが語る。
「事件が起きたのは午前8時、南山区の路上でした。深セン市の警察当局によると、男児が母親と電動自転車に乗って学校に向かっているところを、44歳の男に刺されたようです。
母親は血まみれになった手で“私の子が何か間違ったことをしたのですか?”“助けてください”などと中国語で周囲に助けを求めていたことが現地で報道されています。加害者は現場で逮捕されており、取り調べを受けているようです」
凄惨な犯行現場だった。シンガポールのメディア『聯合早報』は目撃者から複数の証言を得ている。前出・ジャーナリストが続ける。
「目撃者から得た証言によると、現場には一台の電動自転車が倒れていたそうです。男の子は腹部から大量に出血しており、少年が大きな血だまりの中で目を見開いたまま動かなくなっているのを目撃した通行人もいたそうです。隣では母親と思われる女性が泣き叫び、数人の通行人が少年の心肺蘇生を行っていたとか。
また、日中それぞれの政府は被害者の国籍について公式には明かしていませんが、警察当局の発表内容などから、被害者は日中ハーフだと現地でも報道されています」
男の子は19日未明に亡くなった。深セン市がある中国・広州の日本総領事館・貴島善子総領事は「昨日18日に登校中に男性に襲われて、怪我を負い病院で治療を続けていた男子ですが、日本人学校の児童ですが19日未明にお亡くなりになりました。非常に悲しいことです。ご家族のことを思うと言葉に言い表せない」と話している。
岸田首相は「極めて卑劣な犯行であり、重大かつ深刻な事案だ」とも語り、「中国側に対して事実関係の説明を強く求めていく」と強調している。
この事件を受けて日本人学校は今週休校となった。深セン市の在留邦人は中国では5番目に多い。深センは「中国のシリコンバレー」とも呼ばれ、さまざまなスタートアップ(新興企業)が群雄割拠、日系の大手企業も複数進出している。なかにはすでに「帰国命令」を発出している現地の日系企業もあるという。
中国政府の今後の対応に注目が集まる。

https://www.zaobao.com.sg/news/china/story20240920-4795811
(深圳/东京综合讯)日本男童在深圳被人当街持刀袭击引发不安情绪,中国官媒在案发两天后首度明确谴责暴力行径;官方也披露犯罪嫌疑人是单人作案,有犯罪前科,但未提到作案动机。
深圳日本人学校一名10岁学生星期三(9月18日)上午在上学途中遇袭,送医抢救无效在次日凌晨身亡。警方现场逮捕一名男性袭击者。
中共深圳市委机关报《深圳特区报》星期五发文,叙述案发过程和当地医院对学生的救治过程,并首次披露袭击者的身份背景。
根据深圳警方消息,44岁的钟姓嫌犯没有固定职业,2015年曾因涉嫌破坏公用电信设施,被东莞警方取保候审,2019年因涉嫌虚构事实扰乱公共秩序被深圳警方行政拘留。
警方称,钟姓嫌犯对持刀伤害学生的行为供认不讳;经调查,这起案件属偶发个案,钟姓嫌犯是单人作案,他于案发当天被公安机关采取刑事拘留强制措施。
这是案件发生以来,当地官方首次较详细地披露嫌犯的信息。不过,报道没有通报这名男子的作案动机、心理状态等,仅称案件还在进一步侦办中。
事发10分钟后 救护车ー到现场
报道也引述深圳卫健委称,遇害学生当天上午7时55分遇袭后,救护车在10分钟后抵达现场,并在8时15分将学生送达附近的医院救治。
医疗救治组组长、深圳市儿童医院院长麻晓鹏介绍,深圳人民医院、深圳儿童医院、香港大学深圳医院等多家医院的专家支援抢救,但伤者因伤势过重,于星期四凌晨1时36分宣告不治。
这是继今年6月日本学生在苏州遇袭后,中国发生的第二起针对日本学生的袭击案。尽管中国官方将两起事件定调为偶发事件,但事件在旅华日本社群中引发强烈不安,也引起一些中国民众的愤慨。
一些深圳市民星期四晚到案发地献花表示悼念。一名男子在前往献花时告诉媒体:“作为中国普通老百姓,(我)是反对这种做法的,反对仇恨教育……这是长期坚持仇恨教育的恶果。”
市民在校门口留下花束,有的还附上留言写道:“无论这个孩子的国籍是哪里,既然生活和求学于深圳,他就是深圳的孩子。”也有人写道,“孩子,对不起”,署名为“深圳人”。
日本男童在深圳遇害后,一名深圳男子星期四(9月19日)手持鲜花到案发地深圳日本人学校献花。(路透社)
事件发生后,中国外交部发言人在星期三和星期四连续两天做出回应,对不幸事件表示遗憾和痛心,强调将依法调查案件、惩处犯罪分子,但并没有明确谴责暴力行为。
中国主流媒体在对事件的报道上格外谨慎,社交媒体上一些相关的讨论则被删除和屏蔽。
官媒《深圳特区报》星期五也首次发声批判,“对犯罪嫌疑人丧心病狂的行径予以强烈谴责”。该报在一篇评论中写道:“暴力伤害无辜,特别是把罪恶之手伸向孩子,是在挑战人类文明底线,是对法律的挑衅。”
但评论也强调,极端个案“绝不能反映社会的整体状况”,“国内外朋友尽可放心来深圳旅游、学习、经商、生活”。
观察者网则在一篇评论中说,向孩子举起屠刀的人是十恶不赦的,但把责任推到“仇恨舆论”或“仇恨宣传”上,甚至怪罪爱国主义教育,会产生转移舆论焦点的破坏性效应。
暴虐支那軍艦が屋久島の領海侵犯 懸念と注視のみで国民国土を守らない現令和統制機構は政府ではない
http://cnxss.seesaa.net/article/489994773.html
軟弱外交、宥和外交は、戦争を引き起こす。幣原喜重郎(78歿)に、こんな屑に国葬の吉田茂(89歿)、アーサー・ネヴィル・チェンバレン(71歿)の愚策でも明らかだ!!!!
邦人殺害に日本はもっと怒るべきだし、生き残るために核戦争も考えるべきだし、即時に核武装し、敵國、支露朝(南北)米英仏に照準を合わせる。これが唯一の生き残る途だ。

こいつらが、日本を破壊した罪は万死に値し、無能低能恥知らずぶりは今に通じる。とりわけ、この期に及んでも支那で商売をし産業活動を行っている在支邦人の末路を示している。
明治44(西暦1911)年に、広東の客家の稀代の詐欺師、孫文(58歿)は、多くの日本人の援助、資金、保護を受けて、辛亥革命を興した。犬養毅(76暗殺)、宮崎滔天(51歿)、頭山満(89歿)、内田良平(63歳歿)、北一輝(本名: 輝次、輝次郎)(54刑死)、松方幸次郎(84歿)、安川敬一郎(85歿)、 鈴木久五郎(65歿)、梅屋庄吉(65歿)からも資金援助を受けている。辛亥革命で成った中華民国は、袁世凱(56歿)の中華帝国を挟み、軍閥が分割する無政府地帯になっていた。蔣介石(本名: 瑞元、周泰、志清)(87歿)は支那統一の北伐を始めた。
そこで北伐軍に入り込んでいた共産党員は日本・イギリス・アメリカの領事館や学校、企業、外人住宅を襲って、虐殺、暴行、掠奪を行なった。そのうち女子供を含む数百名の一般支那人までもが掠奪に加わった。女性への暴行、人体の損壊、掠奪は凄まじい。毛沢東を指導者とする共産主義者の大義名分は、帝国主義打倒の打破であり、そのためには「外国人に何をしても許される。」との号令が掛かったのである。元々山賊かごろつきの集まりが支那兵である。そうした連中に「何をしても良い。」とのお墨付きを与えるなら、どんなことが起きても不思議ではなかった。
無能で人でなしのクズ、ガンデン・ブンユウ(岸田文雄)(67)の祖型、幣原喜重郎の危険な軟弱外交が罷り通った昭和初期の昏さは、大正の宿痾のなせる豪で、デモクラシーというが、政党の党利党略で利権と汚職、恐慌と事変が続き、外地に凍死した財閥は肥え太り、民は疲弊した。軍縮で、軍は学校に失対で配属将校を派遣したりで軽んじられていた。丁度その頃、大正天皇の崩御と昭和天皇の即位で国内の注目は釘付けとなっており、同時に南京事件と平行して「金融恐慌」が起こり、政党政治は大混乱を極めていたからである。後に幣原喜重郎への大非難が起きたが、時すでに遅しで、幣原喜重郎は責任を取っていない。このことがその後の日本に大きな悲劇を齎した。幣原喜重郎と手下の吉田茂(89歿)を引きずり出して処刑すべきであった。このことがその後の日本に大きな悲劇を齎した。
イギリス租界奪取事件
昭和02(1927)年01月05日に、イギリスの居留民が虐殺され焼き討ちに遭い、条約によって認められていたイギリス租界が支那軍によって武力接収された。租界で守備に当たっていたイギリス義勇兵と国民政府宣伝隊の衝突をきっかけに暴徒と化した支那の民衆が租界になだれこみ、掠奪の限りを尽くした。国民政府はこれに便乗してイギリス租界を武力で恢復した。暴動は日本人居留街にもおよび、日本領事館の警察官が最後まで奮戦して日本人居留民を守るために日本刀で切り合い、防ごうとしたが、領事館に避難した居留民を含めて多くが難に遭った。これに続いて翌06日に九江のイギリス租界も支那側に接収された。この2事件はイギリスはじめ列国にとっては大きな衝撃だった。

イギリスは2万3000人の軍隊を動員すると共に列国に同調を求めた。清朝のときから支那で騒乱が起こり外国人居留民の安全が脅かされた場合は、列国は出兵するのが、北清事変以降の通例となっていた。ところが、日本の幣原喜重郎外相は断固として出兵を拒否した。この日本の平和的というより軟弱な態度は、逆に支那人の侮日感情を高めてしまい、幣原外交の継続を不可能とする事件を起こし続けることになった。その第1は南京事件である。これに対して、イギリスとアメリカは揚子江にあった軍艦から南京城内に砲撃を行った。イギリス租界奪取事件の漢口のように、英米両国は日本に共同行動を呼びかけた。しかし、日本の軍艦は揚子江にはいたが報復には加わらなかった。それは、「支那を刺激してはならない。」という幣原喜重郎外相の訓令があったためで、日本の軍艦は、避難しようとする日本居留民を見捨てて揚子江を下流に向けて逃げ帰った。イギリスは居留民を守るために共同出兵を日本に提案したのだが日本はこれも応じなかった。
南京事件
昭和02年(西暦1927)年03月24日、蔣介石の北伐軍の南京を占領した際に、日本・アメリカ・イギリスの領事館や居留民を虐殺・暴行・殺害・掠奪・強姦し、夥しい数の犠牲者を出した外国領事館と居留民への大量虐殺事件が起こった。北伐軍の仕業と見做したアメリカ合衆国・イギリスの軍艦が報復として南京を砲撃した。

荒木海軍大尉は、「反撃すると日本人避難民に危険が及ぶ。」と考え、海軍陸戦隊員に無抵抗を命じていたため、館内の日本人は一方的に暴行や掠奪を受けた。 日本側の報道によると、駆逐艦「檜」などから派遣されていた領事館警備の陸戦隊の兵力は10人しかなく、抵抗すれば尼港事件のような民間人殺害を誘発する危険があると考えられたため、無抵抗が徹底された。
領事館への襲撃の他、係留中の宿泊船(ハルク)の警備についていた後藤3等機関兵曹は狙撃により射殺された。また、日本人の経営する旅館寶来館を襲撃した支那人暴徒は「金を出せ。」、「奉天兵はいないか。」、「ピストルはないか。」と連呼し、旅館にいた日本人から財布や骨董品を強奪していった。宿の女中がつけていた指輪が取れないので、「面倒だ、指を切り落とせ」と支那人がいうので外して渡した。支那人暴徒は「張作霖びいきの日本人は皆殺しだ。もう50人殺された。」と喚きながら、発砲した。事件の最中に支那人が「(外国人が)虐殺されるのは当然だ。日本領事館で鼻に針金を差し込んで、1人残らず殺した。」と話した。事件後の被害者の証言によれば、当時の30数名の婦女は少女にいたるまで陵辱され、ある女性が暴兵のために一室に連れて行かれようとする際、「どうぞ助けてください。」と必死に叫んだが、警備兵は抵抗できず、見捨てた。
領事が神経痛のため、病臥中をかばう夫人を良夫の前で裸にし、薪炭車に連行して27人が輪姦した。30数名の婦女は少女に至るまで陵辱され、現に我が駆逐艦に収容されて治療を受けた者が10数名いる。警察署長は射撃され瀕死の重傷を負った。抵抗を禁ぜられた水兵が切歯扼腕してこの惨状に目を覆うていなければならなかった。その際、日本領事館員も日本軍人も、避難してきた日本人居留民も、全く抵抗しなかった。海軍陸戦隊は武器も持たずに領事館にいて、後に全員が揚子江にいた軍艦に収容されたが、日本領事館の警備を担当していた荒木海軍大尉は「任務を果たせなかった。」として後に自決した。
南京事件の結果、退去令が出され、揚子江流域からは日本人は全員着の身着のまま財産を放り捨てて内地に引き揚げざるを得なかった。日本外務省は事を荒立てないため、広報に「わが在住婦女にして陵辱を受けたるもの1名もなし。」などと全くの恥も知らない大嘘を書いたため、南京居留民は激高した。彼らは居留民大会を上海で開き、支那軍の暴状と外務官憲の無責任を同胞に訴えようとしたが日本外務省はそれを禁止した。これが幣原喜重郎外交だった。しかも、幣原は南京領事夫妻の配置換えを行わなかったため、南京の外交社交界の好奇の種になった。しかし」、離職も自決もしなかった。外国人の死者はさほど多くなかったが、外交施設である領事館を襲ったことは非常に重要である。
これらの事件を映画化したのが、スティーブ・マックィーン主演の「砲艦サンパブロ」である。南京の暴徒化した民衆が各国領事館を襲ったり、企業を襲って、「外国人を皆殺しにせよ。」と叫びながら青龍刀を振り回して、外国人の首を切り落とす場面が描かれている。
後から分かった事実は、南京事件を起こした軍隊の政治主任は共産党員だった。彼は漢口にいるミハイル・マルコヴィチ・ボロディン(露語: Михаил Маркович Бородин、Mikhail Markovich Borodin、本姓: グルーゼンベルグ(Gruzenberg))(66歿)は、コミンテルンの工作員。(ソ聯顧問)から、「南京に入城して列国との間に事件を起こせ。」という指令を受けていた。共産党の意図は、蔣介石の国民革命軍と外国との衝突を引き起こすことにより、蔣介石を失脚させ、国民党右派を排斥し、国民党を共産化しようとするものである。つまり南京事件はコミンテルンと支那共産党の陰謀だったわけだ。イギリスは「この南京事件がコミンテルンの指揮で組織され行なわれた。」としてソ聯との国交を断絶した。蔣介石はここで共産党の陰謀に気づき、共産党勢力の大粛清(上海クーデター)を実行した。
中華人民共和国(支那共産党)の歴史教科書では、南京事件について国民革命軍の襲撃にが一切触れずに、革命を破壊するために南京を占領した北伐軍に向かって外国国軍が砲撃を加え、2000人あまりを死傷させた、などと書き、また、砲撃をしなかった日本も英米と一緒に撃ったことにしている。堂々と捏造した歴史を教えている。
事件発生数日前に国民革命軍の唐生智は日本官憲に対し、外国人居留民に対しては十分に保護を行うので漢口に止まるよう勧告を行った。イギリス人・アメリカ人の居留民は引揚げを断行した。南京事件後、支那人は邦人凌辱事件を誇大に取沙汰し、暴民は、「漢口がそうなったら一番に若い女を狙うのだ。」と放言していた。
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漢口事件
南京事件の10日後の04月03日に、揚子江中流の漢口で日本の租界が襲われ、暴民によるほしいままの掠奪が行なわれた。
04月03日15時45分頃、日本帝國海軍の水兵2名が日本租界燮昌路の料亭「妻鶴」の横手を通行中(または漢口銀行付近)、支那人の子供から投石され、口論中に30人ぐらいの支那人が食って掛かってき、車夫の一団が水兵を取り囲み殴り始めた。水兵は1人の車夫を突き倒して、近くの料理店「山吉」に逃げ込んだ。たちまちの間に野次馬も加わって、「山吉」とその隣の「浪花食堂」は跡形もなく破壊された。さらに、「日本水兵が支那人を殺した。」、「車夫がナイフで刺された。」といったデマが喧伝された。
漢口における01月のイギリス租界掠奪に味をしめ、さらに南京で無抵抗の日本租界の掠奪(南京事件)に味をしめた支那人は、暴徒と化して日本海軍の水兵に襲いかかり、日本租界になだれ込み、日本人の住居や日系工場を片っ端から掠奪した。
漢口には約2200人の日本居留民がおり、その生命の安否が気づかわれたため、海軍陸戦隊が上陸し、機関銃を地面に向けて数十発発射させ、暴民を四散させ、辛うじて日本租界は守られた。支那の暴民に対しては機関銃の威嚇射撃が効果的であることが01月のイギリス租界奪取事件の時に証明されていた。しかし、日本人居留民は租界の中だけにいるわけではないので、漢口の全日本人居留民2000人以上を集合せしめ、上海に退避させた。
南京事件での南京にしろ、漢口にしろ、租界は条約によって列国が保有していたものである。そこに暴民や暴兵が押しかけてきて掠奪するというのは明らかに不法である。しかも、そこで工場を経営したり、商業に従事していた者は財産を根こそぎ失うことになった。
南京事件以来、列国の外交団は蔣介石に対して最後通牒に等しい抗議文によって、謝罪と首謀者の処罰を要求するとともに、直ちに軍事行動に出ようという意見が強くなった。音頭を取ったのはイギリスだが、それを知った幣原喜重郎はイギリスとアメリカの駐日大使を呼んで、「最後通牒を蔣介石が受諾すれば屈辱的譲歩をしたと攻撃され、蔣介石政権は潰れ、国内は無政府状態になり、10数万の居留民を有する日本にとっては危険である。日本はそんな冒険に加わりたくない。」と述べた。日本が最後通牒にも共同出兵にも参加しないというのでは、イギリスもアメリカもフランスもイタリアもどうすることもできない。自国民を犠牲にして国益を損ね、蔣介石の国民政府を救ったのは幣原軟弱外交だった。
イギリス租界奪取事件、南京事件と続いた国民革命軍の掠奪暴行事件に日本が全く報復を試みなかったことは、英米両国に疑心を抱かせた。すなわち、「日本は裏で支那と吊るんでいるのではないか。同じアジア人同士で組んで、我々白人の権益を全部支那から追い出し、日本は一人甘い汁を吸おうとしているに違いない。」と考えるようになった。少なくともイギリス外務省はそう見た。そしてイギリスは「アヘン戦争以来の政策転換」と自ら語る支那政策の大転換に踏み切る。イギリスが「日本の野心」を強く疑い始め、日本以上の「対支那宥和」へと大転換した。コミンテルンと結んだ支那革命運動や、過激化する支那ナショナリズムの標的となってしまう。それはなんとしても避けなければならない。ならば、支那人の矛先を我々から逸らせばいい。その矛先は、常に野心をを日本に向けさせる策謀である。支那の革命運動、あるいは過激なナショナリズムは、この後日本に矛先が集中した。
支那人の著述に特徴的なのは、「勧善懲悪」の強調である。物事の真実より政治が最優先されてきた。古代から、古人の名を借りて今を匡すという書物作りの作風、偽作の伝統があり、支那は有史以来、偽書、偽経、偽史で溢れている。歴史の捏造は支那の数千年来の伝統文化である。歴代王朝の「正史」も捏造の歴史である。なぜなら正史とは伝統的にその王朝を倒した次の王朝が、みずからの易姓革命を正当化するために史官に書かせるものだから、むしろどれだけ上手に捏造したかが問われる。
支那では「人民日報は紙名の4文字と発行年月日以外は信用できない。」と言われている。つまり捏造の文化は現在の支那マスメディアにも脈々と受け継がれている。支那では政府によって情報の独占と操作が行われるため、人々は公的な情報より巷間の噂を信用する。
明らかに嘘とわかることでも、「大声で言った方が勝ち。」と考えるのが支那人である。
濟南事件
山東省の濟南城には、北軍が撤兵すると蔣介石の国民革命軍(北伐軍)が入城してきた。北伐軍には南京事件という悪行の前例があるため、日本は濟南に軍隊を送り(第2次山東出兵)、守備地区を設けて居留民保護の体勢を取った。しかし、案の定、南軍が入ると同時に、日本国旗侮辱や反日ビラ貼付などを行い、市内は緊迫の様相を呈した。
これに対し、南軍総司令である蔣介石より日本軍に対して「治安は北伐軍が責任を持って確保するから濟南城内の日本軍の防御を撤去してほしい。」との要請があった。日本軍はその言葉を信じて徹夜で防御を撤去した。すると、昭和03年(1928)05月03日、突然北伐軍が居留民を襲撃してきた。各所で多数の男女日本人居留民が北伐軍の暴兵の手で虐殺されていった。掠奪などを含めると被害者は400人に上った。
腹部内臓全部露出セルモノ 女ノ陰部ニ割木ヲ挿込ミタルモノ 顔面上部ヲ切落サレタルモノ 右耳ヲ切落サレ 左頬ヨリ右後頭部ニ貫通突傷アリ 全身腐乱シ居レルモノ各一 陰茎ヲ切落シタルモノ二…
https://nezu3344.com/blog-entry-2249.html
まるで、腰抜けのでくのぼうのような平和主義が主流派をなしていたのです。
そんな中で起ったのが、昭和3(1928)年5月3日の「濟南事件」でした。
濟南というのは、山東省にある商業都市です。
日本人をはじめ、多くの外国人が居住していました。
その斉南で、Chinaの軍閥同士での、大規模な内戦が起こったのです。
日本は居留民保護のために、同年4月下旬には濟南に兵を派遣していました。
派遣軍は城外の商埠地に戦いが波及しないよう、バリケードを築いました。
ところが総司令の蔣介石は、
「治安は国民党軍が確実に確保するので、日本は(バリケードを)撤去して欲しい」と日本に要請してきました。
治安が崩壊しているから、日本は出兵しているのです。
そんな中で、バリケードを取り去るなどということは、軍事的にはあり得ません。
けれど現場は、中央の指示によってこれを受入れ、5月2日に、バリケードを撤去しています。
そして事件が起こったのです。
5月3日、蔣介石の国民党軍の兵士が、満州日報の取次販売店を襲撃して掠奪を働きました。
ここで注意したいのは、昨今のChinaの反日デモのような「暴徒」ではなく、当時濟南であったのは、武器を持った兵であったということです。武器がなくても、あれだけ暴れ回るのがChineseです。
それが武器を手にしていたら、どうなるか。
暴兵たちは、駆けつけた日本人の巡査にも、多数で暴行を加えました。
知らせを受けた日本陸軍は、急きょ救援部隊を現場に急行させました。
するとChina兵たちは、たちまち遁走し、国民党の兵舎に隠れて、銃撃を加えてきたのです。
やむなく日本軍はこれに応戦しました。
すると今度は、市内のあちこちで、一斉に国民党兵による乱射や掠奪、暴行がはじまったのです。
日本側は、全体の治安維持のために、冷静に国民党軍に停戦を呼びかけました。
現に、そのすこし前には、国民党の総統であり、最高司令官である蔣介石自身の口から、
「濟南の治安は国民党が守る、日本人は一切を国民党に任せて、バリケードも解いてよろしい、安全は自分が保証する」と約束しているのです。
ところが白旗を掲げて停戦を呼びかける日本軍の軍使にさえ、China兵は銃撃を加えてこれを射殺しました。
戦時国際法も何もあったものではありません。
市内全域はたちまちのうちに修羅場と化し、各所で多数の日本人居留民の男女が、暴兵の手で惨殺されたのです。
この事件で、日本人女性が両腕を帯で後手に縛られたうえ、顔面、胸部、乳房に刺創、助骨折損、陰部には棒をさしこまれ惨殺されていた写真などが現在でも残っています。下のものです。濟南事件の被害者(24歳の女性)
この事件で被害にあった男性は、両手を縛られ地上を引きずられたうえ、頭骨破砕、小脳露出、眼球突出して殺害されていた者、顔面破砕され、両眼を摘出して石をつめられて殺害された者、頭および顔の皮をはがれたうえ、眼球摘出、内臓露出、陰茎切除して殺害されるなど、およそ人間のすることとは到底思えないような残酷さで12名が、凄惨な殺され方をし、その他約四百余名が暴行、強姦、掠奪によって重軽傷を負う被害を受けました。
当時の外務省公電にある公式文書です。
腹部内臓全部露出せるもの、
女の陰部に割木を挿し込みたるもの、
顔面上部を切り落としたるもの、
右耳を切り落とされ左頬より右後頭部に貫通突傷あり、
全身腐乱し居れるもの各一、
陰茎を切り落とし・・・(以下略)
現場を視察した南京駐在武官佐々木到一中佐の手記です。
予は病院において偶然其の死体の験案を実見したのであるが、酸鼻の 極だった。
手足を縛し、手斧様のもので頭部・面部に斬撃を加へ、或いは滅多切りとなし、
婦女は全て陰部に棒が挿入されてある。
或る者は焼 かれて半ば骸骨となってゐた。
焼残りの白足袋で日本婦人たる事がわかったやうな始末である。
我が軍の激昂は其の極に達した。
ちなみに上にある女性の写真は、間違いなく濟南事件のときの新聞報道写真であり、被害者の女性も日本人、横に立っている男性も間違いなく日本人医師なのですが、いまの中共政府はこの写真を「日本陸軍七三一部隊による人体実験の犠牲者の写真」として流用し、さらに同じ写真を南京事件のChinese被害者として流用し、展示しています。
虐殺の仕方は支那伝統の言語に絶する残虐なものであった。たとえば、手足を縛り、手斧のようなもので頭部や面部に斬撃を加えられたり、滅多切りされたりした。婦女は全て陰部に棒が挿入されていた。また、焼かれて白骨化し、焼け残った白足袋で日本婦人たるものがわかったというものもあった。白人にこんなことをしたら支那人は復讐としてもっと酷い大虐殺を喰うであろう。
当然のことながら、この事実を知った日本では暴支膺懲の国論が沸騰した。それでもすぐに攻撃せず、日本の山東省派遣軍は12時間の期限付きで責任者の処刑、北伐軍の撤兵等の要求を北伐軍に行なった。しかし、その要求を支那側が拒否したので日本軍は攻撃を開始した。ただし、安全地帯と避難路を指定しておいたため、北伐軍は城外へ逃げることができた。最終的に日本軍は濟南城を占拠した。
この虐殺に蔣介石は絶望した。蔣介石としては、日本軍と事を起こしたくなかった。蔣介石の軍隊はごく少数の士官以外は全部そのあたりにいる者を掻き集めて成り立っていたから蔣介石、兵隊を十分に掌握できておらず、さらに悪いことに共産主義者が多数紛れ込んでいた。
この虐殺に蒋介石は絶望した。蒋介石としては、日本軍と事を起こしたくなかった。蒋介石の軍隊はごく少数の士官以外は全部そのあたりにいる者をかき集めて成り立っていたから、兵隊を十分に掌握できておらず、さらに悪いことに共産主義者が多数紛れ込んでいた。
この事件後、支那は「外交官虐殺事件」なるものを丁稚上げた。濟南で便衣隊から拳銃射撃を受けたために、日本側が全員射殺する出来事があったが、そこにたまたま国民党の外交官がいた。ただそれだけの話だが、これを支那側は「日本が外交官を虐殺した」と宣伝し、、排日感情を煽る材料にした。中華人民共和国(支那共産党)は例によって例のごとくこの事件を歪曲し、反日運動に利用している。支那共産党の公式見解では「濟南事件は北伐妨害のために日本人が起こした。」となっており、05月03日を「国恥記念日」としている。日本の防御撤去は蒋介石の要請であることを忘れ、蒋介石の言葉を信じた日本の善意を悪意にすり替えている。とにかく支那は嘘をついてでも自分が有利になるように宣伝するのである。呆れたことに日本の広辞苑(岩波出版)は日本軍が市民を殺傷したかのごとく記述をしている。
なお、日本軍は濟南事件に関して国際聯盟に覚書を出した。そこで一番重要なのは、支那兵が便衣隊を加えていたと指摘していることである。便衣隊はハーグの陸戦規定に違反する。
ロンドンのデイリー・テレグラフは、「支那人は掠奪と殺人を天与の権利であるかのごとく暴行を繰り返している。」、「日本人の忍耐にも限界がある。」、「日本軍の行動は正当防衛。」と論じている。このほかにもフランスやアメリカの新聞、支那の外字紙なども北伐軍に問題があったとしている。青島のアメリカ領事は、日本軍の到着は一般に安心感を与えて、上流階級の者は人かに日本軍を歓迎していると本国に伝えた。外国人の手紙には「日本兵が総てのヨーロッパ人の生命財産を保護したることについては、我々ヨーロッパ人は感謝の念を禁ずることができない。」と書かれている。概ね当時の国際世論は日本側に好意的であった。
このあたりから、日本人の中にあった「このままいけば、北伐は北京では終わらない。日本の生命線・・満洲の権益にも及んでくる。」という危機感が高まってくる。そんなとき、翌月の06月04日、満洲某重大事件(張作霖爆殺事件)が起こった。
南京事件の処理において、賣國奴幣原喜重郎外相は、派兵を差し控えると共に、蔣介石を援助して自ら治安維持に当たらせる方針を採った。「出来得れは南軍側の中心人物たるへき蔣介石等をして速に自発的に処罰、賠償、陳謝、保証の四解決に関し承認する旨声明せしめ事件の円満解決を計るを得策なりと信す。」国内では、こうした幣原喜重郎の対応が「軟弱外交」として激しく非難したが、賣國奴幣原喜重郎は一貫して不干渉政策をとり、列強を説得した。しかも、駐南京領事を配置転換させなかったため、嫁が犯されるのを見捨てた男として嘲りの対象となった。賣國奴幣原喜重郎はディープステイトの走狗、支那の間諜の上に日本人の恥辱や苦痛を喜ぶ悪魔。
04月に漢口で日本人水兵と支那民衆との間に衝突が発生し(漢口事件)、内外から幣原外交に対する批判が高まる中、金融恐慌の発生により、04月20日、若槻礼次郎内閣は倒れ、賣國奴幣原喜重郎も外相を辞職し処罰もされず後に首相。戦後最大の賣國奴吉田茂は、賣國奴幣原喜重郎の手下として働いていたディープステイトの木っ端の走狗。
さらに悍ましい事は、賣國奴幣原喜重郎の軟弱外交により、忌まわしい日本の居留民を虐殺・暴行・殺害・掠奪・強姦し、夥しい数の犠牲者を出した外国領事館と居留民への大量虐殺事件の濟南事件・通州事件の原因となり、支那事變、大東亜戦争に直結した。残虐行為なるものは掠奪輪姦後残虐に虐殺、妊婦の腹を裂いて胎児を取り出す、強姦した後、女性の陰部に異物を突き刺すなど、ー支那軍に特有のものである。濟南事件のとき、通州事件のとき、大躍進のとき、文化大革命のとき、チベット侵略のとき、日清戦争や資治通鑑にまで出てくる。


アメ公の指令通りに兇熊をつついて、只で済むと思う脳みその無さ。無能不適格狐、賣國奴賣國奴ガンデン・ブンユウ(岸田文雄)(67)、リン・ホウセイ(林芳正)(63)、ジョウセンヨウシ(上川陽子)(71)、ガヤタイロウ(河野太郎)(61)、ニカイシュンハク(二階俊博)(85)、・・・!!


デモとテロ、国民の義務を果たすべきではない。
インドネシアでさえ行った、領海侵犯は直ちに撃沈!
特に、外患誘致で死刑の兇悪売国奴ガンデン・ブンユウ(岸田文雄)(67)、リン・ホウセイ(林芳正)(63)、ジョウセンヨウシ(上川陽子)(71)、ガヤタイロウ(河野太郎)(61)、ニカイシュンハク(二階俊博)(85)、・・・に刑法通りの処罰と天罰、九族誅殺を!!


堂々と、反日カルト、統一教会系から資金を受け取り、当たり前のように詭弁でごまかす犯罪反社会勢力だ。銀行口座も停止せよ!!
戦後最大の賣國奴吉田茂は、賣國奴幣原喜重郎の手下で、外務省でも賣國奴幣原喜重郎の外相時にもワンワンと指図に従い、ディープステイトの走狗である。現在の日本の惨状は賣國奴幣原喜重郎、賣國奴吉田茂、そしてこの賣國奴吉田茂の直系の弟子の池田勇人(65歿)によって創立された派閥、宏池会は、大平正芳(70歿)、鈴木善幸(93歿)、宮澤喜一(87歿)、岸田文雄と5人の賣國奴内閣総理大臣・自民党総裁を排出し、野党時代にも河野洋平(87)、谷垣禎一(79)と2人の賣國奴自民党総裁が出ており、更に、宏池会に源流を持つ分派の麻生太郎(吉田茂の孫)(84)や、かつて所属経験のある菅義偉(75)も総理・総裁となっている。

「反日」で生きのびる中国 -江沢民の戦争 - 鳥居 民
深圳日本人学校の男児殺害に日本はもっと怒るべきだ
2024年09月20日(金)15時58分
https://www.newsweekjapan.jp/nishitani/2024/09/post-13.php
<深圳日本人学校に通っていた日本人の男子児童が殺害された。日本政府は「誠に遺憾」と述べ、中国政府は「どの国でも起こりえる」と主張しているが、反日感情が生み出した凶行に対し、私たちはもっと怒るべきではないか>
深圳日本人学校に通っていた日本人の男子児童(10歳)が9月18日、中国人の男(44歳)に刃物で襲われ、翌日未明に死亡した。
今回の事件によって、日本人の対中感情は一段と悪化した。2012年の尖閣国有化によって生じた反日デモ以来、最悪かもしれない。いや、「中国=何をするか分からない怖い国」というイメージは、2012年の頃よりも今のほうがずっと強いだろう。
中国に対して多くの日本人が抱いている嫌悪感や恐怖心を、今回の事件は決定的に強めてしまった。
事件について上川陽子外相は「今般の事案を極めて重く受け止めている。登校中の児童に対して卑劣な行為が行われたことは誠に遺憾だ」と述べ、岸田文雄首相は中国側に説明を強く求めると語った。
政府の発するコメントとして、まったく不十分ではないかと私は思う。人命が失われている以上、もっと強い言葉で非難すべきなのではないか。
原発処理水や歴史問題、領土問題などに関して、中国政府はこれまで「中国人民の感情を深刻に傷つけた」、「ここに強烈な不満を表明し断固反対する」、「火遊びをする者は自ら焼け死ぬ」といった非常に強い言葉で日本を非難してきた。
外交問題と殺人事件は同列では語れないとはいえ、今回の事件が起きた背景には、中国政府が繰り返し「反日感情」を煽ってきたことがあると言える。むしろ、原因の半分と言って良いかもしれない。そう考えると、今回の事件はすでに外交問題である。
反日を野放しにする中国政府
柳条湖事件の発生した9月18日は中国では「国恥日」とされ、「勿忘918(918を忘れるな)」といったスローガンが政府主導でニュースやネット上に数多く流れる。
このほか、盧溝橋事件や南京事件などの歴史的な日や、靖国参拝や処理水放出、台湾問題に関するニュースなどが報じられるたびに国民の危機感が煽られるため、SNS上では「もう一度日本に原爆を落としてやろう」といった過激な言説がしばしば出てくる。
中国は政府批判について厳しい検閲を敷いている一方、日本に関する話であれば何を書き込んでもお咎めなしで、明らかなデマを流しても黙認される。日本を擁護するようなコメントはしばしば売国奴扱いされるため、自浄作用は働かない。
その結果、「根底に愛国心があるなら、日本に対しては多少の逸脱行為や無軌道な振る舞いをしても許される」と考える中国人が一定数、出現する。
5月と8月に落書き事件が起きた際、中国政府は「靖国神社は軍国主義の象徴」などと非難の言葉を延々と語ったあと、付け足すように「現地の法律は守るべき」と述べた。
愛国無罪とまではいかないが、愛国心があれば社会的に糾弾されることはないというメッセージになっただろう。
6月に蘇州で日本人母子が襲われた際、中国政府は「偶発的な事件」とした上で「中国は世界でももっとも安全な国の一つ」と大見得を切った。それからわずか3カ月後に再び同じような事件が起き、最悪の結果を生んだ。
あの時、中国政府がたとえば「我々は自国を愛するべきではあるが、愛国心が他国への憎しみとなってはいけない」など、もう少し自制を促すような言葉を発していれば、今回の事件は防げていたかもしれない。「行き過ぎた反日感情」を野放しにしてきた中国政府には、日本人男児が死亡したことに対する責任があるはずだ。
中国でしか起きない事件
中国政府は今回の事件についても「個別の事件で、同種の事案はどの国でも起こりえる」と主張。あくまでも、「通り魔事件の1つ」という認識を押し通そうとしている。
ふざけるな、と私は言いたい。柳条湖事件の起きた9月18日に日本人を狙った凶悪事件が起きたのは、どう考えても偶然とは思えない。普通に考えれば、中国政府が反日感情を煽り続けてきた結果、9月18日なら日本人を襲ってもいいのだと妄想する人間を生み出したのだろう。
こんな事件は、全世界のなかで中国でしか起こらない。
ヘイトクライムによって人命が失われたと捉えるのが自然であり、日本政府としては「日本の国民感情を深刻に傷つけた」、「中国社会の安全性について、強い危惧を抱いている」、「中国政府が反日感情をいたずらに煽っていることについて、抗議する」ぐらいのことを言わねばなるまい。
私たちは、行き過ぎた反日感情によって子供の命が奪われたことに対し、もっと怒らなくてはいけない。
言うまでもないが、中国人の99%は善良な人々であり、怒りの矛先を彼らに向けるのは筋違いである。十把一絡げに中国人全体を敵視するのは、事件を起こした犯人と同じぐらい低レベルな人間のすることだ。
中国は長年、自国民を一致団結させる道具として反日感情を利用してきた面がある。日本にも戦争の贖罪意識や経済大国としての余裕があり、ある程度はやむを得ないと受け入れてきた。だが、今の日本にそんな余裕は微塵もない。「無限の謝罪」を求められることに、多くの日本人はうんざりしている。
日中のネット空間は時間差なくつながっており、「反日感情を煽って自国民を団結させる」という手法が、もはや限界に近づいているのではないか。
1週間で忘れてしまう
振り返ってみれば、2012年の尖閣国有化の頃のほうが、中国人の反日感情は今より苛烈だったと言える。それでも日本人に対して身体的な攻撃がほとんど起きなかったのは、中国経済が順調に成長しており、日本もそれに乗っかる形で緊密な関係を築いていたからだろう。どんなに憎くても、商売相手ではあったわけだ。
今や中国経済は深刻な低迷状態にあり、日本企業はどんどん手を引き始めている。金の切れ目が縁の切れ目というべきか、日本と中国はお互いに「関わっても得をしない相手」になってしまった。経済的な互恵関係が縮小したことで、日本への憎悪が純化していったのではないだろうか。
6月に蘇州の日本人学校で日本人母子が襲撃されたあと、バスの案内係をしていた胡友平さんが児童をかばって亡くなったと伝えられた。
極めて深刻な事件だったにも関わらず、日本の世論は数日で急速に沈静化し、10日も経たないうちに、ほとんど話題にならなくなった。日頃、中国に対して厳しい姿勢を取っている保守層やネット右翼と呼ばれる人たちですら、何の反応も示さなくなった。日本社会があまりにも淡白であることに、私は驚きすら覚えた。
「日本人は忘れっぽい」とよく言われる。これから新たな事実が出てこない限り、今回の事件に関するニュースの出稿量は日に日に減り、やがて人々の意識にのぼらなくなっていくだろう。赤の他人が死んだことなど、すぐにどうでもよくなってしまうのだ。
1週間後には自民党総裁選が行われ、新聞もテレビもSNSのタイムラインも、次の首相に関する話題で埋め尽くされることになる。兵庫県の斎藤元彦知事の動きや大谷翔平の偉業にも、注目が集まっている。
恐らく、今回も動機の解明すらなされないまま、時間が経って人々の脳裏から記憶が薄れ、ウヤムヤにされていくことになるのだろう。中国政府は、それを狙っている。蘇州の事件がそうであったように。
日中関係の行く末は、この記事を読んでいるあなたと私が1週間後、事件のことを覚えているかどうかにかかっている。でも、あまり期待はしていない。
https://x.com/cskun1989/status/1837110020749631810
蔡慎坤
@cskun1989
深圳日本人学校被害小学生家长小山纯平致友人的一封私信。
力石先生、古家先生
感谢您昨日一直陪伴到很晚。
关于领事馆和公司的评论,您可以自行决定。但我还是希望您能了解我的心情,因此写下了这封信。或许更多是为了整理我的情绪,可能有些地方写得不够好,还请见谅。是否转发、以及转发给谁,都请您自由决定。
航平非常喜欢昆虫和爬行动物,是个拥有独特眼力,能发现任何小生物的孩子。他拥有比任何人都更为温柔的心灵。从小就喜欢画画,是一个对语言很有天赋的孩子,能够流利地使用日语和中文。
他一直对随我前往深圳的安排感到犹豫不决。由于偏食,他一开始很难适应当地的饮食,但最近,他喜欢上了越来越多的中国食物,并且迷上了刚刚开始的篮球运动。
他如此突然地离开了我们,我完全没有料到。现在,我的内心充满了困惑和无尽的悲痛。我再也无法看到他如何成长,如何成为大人。无法保护他,这将成为我一生都无法释怀的悔恨。
航平既是日本人,也是中国人。他的母亲是中国人,曾在日本生活了近十年;他的父亲是一个已经在中国度过了将近一半人生的日本人。航平本人三岁前的大部分时间都是在中国妻子的家中度过的。无论外界如何报道,他拥有日本和中国两国根源的事实不会改变。
我们不会憎恨中国,同样,我们也不会憎恨日本。无论国籍为何,我们都将这两个国家视为自己的国家。尽管风俗和文化存在差异,但我们比谁都清楚,大家都是一样的人。因此,我不希望由极少数持扭曲思想的卑劣之人的罪行,来破坏两国的关系。我唯一的愿望就是,这样的悲剧不再重演。
航平曾经有一次对我说:“将来想成为像爸爸一样的人。”或许这只是一时的心血来潮,但作为父亲,这句话让我无比欣慰。我从事中日贸易的工作,担任着日本和中国之间的桥梁。我的主要职责是弥合双方的认知差异,促进顺畅的沟通。如果没有发生这次不幸的事件,我相信他一定会成为比我更有用的人。但现在,我只能尽全力成为一个他可以为之自豪的人,并且,继续为日中两国的相互理解作出微小的贡献,这既是对我最爱的儿子的赎罪,也是对犯人的报复。
最重要的是,我想对航平表示感激,感谢他让我们成为父母,感谢他在我们身边度过了10年 8个月又7天的时光。我们将会继续坚强地生活下去,为他,继续走完他未完成的路。
小山纯平

戦国将星伝1 復仇の鬼 (歴史群像新書) - 吉本健二