平成25(2013)年01月16日、アルジェの南東1300qに位置する、イナメナス(إن أميناس、In Aménas)の天然ガス関連施設を国際テロ組織「イスラム・マグレブ諸国のアル・カーイダ機構( الإسلامي、、Tanẓīm al-Qā‘idah fī Bilād al-Maghrib al-Islāmī、英語:Al-Qaeda in the Islamic Maghreb、AQIM)」が襲撃し、人質拘束事件が起こった。17日、アルジェリア軍が作戦行動を開始。ヘリコプターで空爆するなどの攻撃を行い、21日、アルジェリア軍の特殊部隊が現場に突入、制圧して作戦は終了。この戦闘で685人のアルジェリア人労働者、107人の外国人が解放された一方、少なくとも23人の人質と、32人の武装勢力が死亡した。アルジェリア政府は、8ケ国の合わせて37人が死亡と発表。24日、日本人10人の死亡を確認。犠牲になった日本人は全員が日揮の社員と協力会社、派遣社員である。
アルジェリアは、北アフリカにある国で人口の8割がアラブ人、1847年にフランスの一部となり、徹底的にフランス化された。1962年になってようやく独立を勝ち取ったが、それまでの激しい独立闘争で約100万人が犠牲になった。
姉妹ブログ、cnxうぇぶろぐの「おフランス(aux France) その3」に詳しい。
https://blog.goo.ne.jp/cnxgoo/e/71327d71640ae6bbc0d0701edc8a51363フランスの野蛮性の検証
〜西欧の朝鮮・東北アジアのフランス〜
1961年10月17日、パリのど真ん中でアルジェリア戦争(1954〜62年)に反対する3万人のアルジェリア人の非武装で平和的なデモ隊を警官隊が襲い、70〜200人を虐殺し数百人が負傷、死体をゴミ箱やセーヌ川に投げ入れるという虐殺(Paris massacre of 1961)が発生した。
10月06日に警官がアルジェリア民族解放戦線(FLN)に襲撃されると言う事件が起こり、パリ市警視総監のモーリス・パポンは「一発やられたら10倍にして返す。」と警官の葬儀の際に発言し、パリのアルジェリア人に対し、夜間外出禁止令を命じた。騒然とした緊張感が高まった17日の夕方、「アルジェリア人のアルジェリア」をスローガンに夜間外出禁止令への抗議デモを行ったところ、彼らに対する鎮圧は地獄絵となった。
パリ市内の至るところでアルジェリア人に対する虐殺が行われた。虐殺を免れたアルジェリア人も逃げ場を失い、次々とセーヌ川に身を投じた。また死体もセーヌ川に捨てられ、セーヌ川は血の色で染まった。翌日パリ警察からの死者の発表はわずか2人。日を追うごとにセーヌ川の岸におびただしい数の死体が打ち上げられていったが、警察はこの死者の数を訂正しなかった。さらに酷いことには、この事件が起こったことは、1998年まで秘密にされてきた。
アルジェリアが地中海を挟んだフランスに支配されたのは1834年。それ以来、フランスは130年近くに渡ってこの地を支配し、100万人以上のフランス人が入植し、アルジェリアを海外直轄県(オラン県・アルジェ県・コンスタンチン県)と称していた。日本の大東亜戦争によって、世界秩序が変わり、白人の圧政に対し、独立の機運が高まり、1954年にアルジェリア独立戦争が始まる。1962年まで続いたこの戦争はアルジェリアに約100万人、フランスに約10万人の犠牲者を出した。
フランスは、アルジェリアを海外県として、「フランスの秩序を乱す内乱」と捉えていた。フランスがこの戦争を「内乱ではなく独立戦争である。」と認めたのは、戦争が終結して40年近く経った1999年のことである。
多くのアルジェリア人がフランス人として戦争(普仏戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦、インドシナ戦争など)に駈り出された。第一次大戦の激戦地ベルダンでは1万5000人のフランス軍兵士が命を落としたが、そのうちの600人はアルジェリア人であり、イスラム教徒である彼らの墓には十字架は存在しない。アルジェリア戦争でも多くのアルジェリア人がフランスのために祖国と戦い、アルジェリアで命を落とした。
アルジェリア独立戦争にフランスは敗れ、現在でも、アルジェリア出身と聞いただけで、フランス人は、敵意をその移民に抱くようだ。インドシナ戦争やアルジェリア戦争でのフランスの残虐行為は、言うまでもない。
長く社会主義体制の独裁政権が続いた後、1988年ごろから民主化を進め、1992年の総選挙ではイスラム政党、イスラム救国戦線(الجبهة الإسلامية للإنقاذ、al-Jabhah al-Islāmiyah lil-Inqādh、FIS:Front Islamique du Salut)が勝利したが、軍部がクーデターを起こし選挙結果を無効としたため、反発したFISの下部組織、武装イスラム集団(الجماعة الإسلامية المسلّح、al-Jama'ah al-Islamiyah al-Musallaha、GIA:Groupe Islamique Armé)によるテロを頻発させ、アルジェリア南部や周辺のサヘル地域と呼ばれるサハラ砂漠一帯では、AQIMなど、多くのイスラム過激派武装勢力が活動している。
1994年12月24日、GIAのテロリスト4人がエアーフランスの旅客機AF8969をハイジャックし、乗客220人と乗員12人を人質にし、フランスに収監されている仲間の釈放を要求。交渉に入ったフランス政府は、旅客機をマルセイユ空港に誘導した。2日後の26日17時頃、フランスの国家憲兵隊治安介入部隊(GIGN、Groupe d’intervention de la gendarmerie nationale)は旅客機に突入し、テロリスト4人全員を射殺して人質を救出した。20分続いた作戦はテレビで生中継され、2010年に「フランス特殊部隊 GIGN(原題:L'Assaut)」で映画化された。マリもフランスの植民地だったが1960年に独立。フランスは、マリ政府の要請を受け入れて軍事介入。アルジェリアの武装勢力まで関わり、マリの反政府勢力は、「フランスが地獄のドアに入った。」と、決死の抗戦を誓っている。GIAは、エアーフランス機ハイジャック事件後、1995年にパリ市内で8度の爆弾テロを行っている。
アルジェリアやその南にあるマリ、ニジェールなどでは独立を目指すトゥアレグ族(ベルベル系の遊牧民)の反乱が起きていた。もともと戦闘力に定評のある彼らはリビア内戦に傭兵として参加したことにより、革命に伴って流出した大量の兵器や戦闘経験といった軍事力を蓄え、マリで軍によるクーデターを機にイスラム国家の建設を目指して2012年にアンサール・アッディーン、西アフリカのタウヒードと聖戦運動(MUJWA)やAQIMと協力して反乱を起こし、マリ軍を追放して彼らの暮らすマリ北部(アザワド地域)の独立を宣言。しかし、トゥアレグ族組織(MNLA)と過激派が反発し戦闘が勃発、過激派がトゥアレグ族組織を打倒した。これにより、アザワド地域は事実上イスラム過激派の手に落ちる事態となっている。フランスなど欧米、アルジェリアを含むアフリカ諸国はトランス・サハラにおける不朽の自由作戦、欧州連合マリ訓練ミッション、アフリカ主導マリ国際支援ミッションなどによって間接的にマリ軍を支援してきた。そんな中、マリ大統領の要請に応えてフランス軍が軍事介入し、2013年01月11日にアザワド地域に攻撃を開始した(セルヴァル作戦)。
こんな国に進出したのが日揮(旧日本揮発油株式会社、英語表記:JGC Corporation、JGCはJapan Gasoline Company)であーる。支那進出企業と全く同じ図式である。
大東亜戦争の敗戦により、アメリカの属国となり、国際法違反の日本国憲法の前文と9条のお花畑により、日本政府は何もしてくれない。戦争やクーデターなど治安にかかわる事態となったとき、日本大使館よりアメリカ大使館に逃げこむというのが日本国民にとっての正解である。日揮は、こんな分かりきったことも無視し、利益優先で従業員を危険地帯に送り付けていた、日揮の経営陣の無知蒙昧、無為無策を断じるべきである。

中期的には、憲法改正と邦人保護の国軍の派遣だが、短期的には、今回の事件を風化させないためにも、2次被害を防ぐためにも情報の公開が必要である。にも拘らず、日揮は「遺族に配慮して」という個人情報の保護を大義名分として、被害者の名前公開しないなど、隠蔽を策謀した。社長、役員ども、本社で安閑とせず、全世界の危険地帯を回って、派遣している従業員の状況を視察せよ。日揮の広報・IR部長遠藤毅などは化粧にアイラインまで入れている。どさ回りのマツケンばりのオカマが、サンバでも踊るかと、カメラ目線でステージで涙を流しているようだ。IRとはInvestor Relations。投資家の方しか向いていない。被害者は灼熱の砂漠で汗まみれになりながら銃弾や爆弾で焼き殺されたのを思うと怒り心頭である。
平和惚けは日本国内しか通用しない。
死亡が確認された日本人(敬称略)
新谷(あらたに)正法(ただのり)(66)、伊藤文博(ふみひろ)(59)、緒方弘昭(57)、川畑圭右(けいすけ)、木山聡(29)、後藤康次(やすじ)(59)、内藤文司郎(ぶんしろう)(44)、渕田六郎(64)、前川秀海(ひでみ)(60)、山田隆(72)
合掌
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130122/k10014981601000.html伊藤文博さん(59)
死亡が確認された7人のうち1人、日揮の社員の伊藤文博さん(59)は宮城県南三陸町出身で、岩手県の一関工業高等専門学校を卒業したあと東京工業大学に進学し、博士課程を修了しました。
日揮では、アルジェリア開発プロジェクトの部長を務めるなど、アルジェリアの滞在経験も豊富で、長く現地の資源開発に携わってきました。
母校の後輩の育成にも熱心に取り組み、高等専門学校では、みずからの仕事の内容や技術者の心構えなどについて、たびたび講演していました。
伊藤さんは、野鳥の観察会の会員になってバードウォッチングを楽しむなど趣味も大切にしていたということです。
<母親“いちばん頼りにしている息子だった”>
宮城県南三陸町に住んでいた母親のフクコさん(82)は、自宅を津波で流され、仮設住宅で独りで暮らしています。
フクコさんは、まもなく60歳になる文博さんが、来月、還暦の集まりに出席するために地元に戻るという連絡を受け、文博さんに会うのを心待ちにしていたということです。
今月11日には、出張でアルジェリアに出発すると文博さんから電話がかかってきたということで、これが最後の会話になりました。
フクコさんは「こんなことがあるなんて思わなかった。今は泣くだけで何もできず、ご飯ものどを通らない。私の方がダメになりそう」と時折、涙ぐみながら答えました。
文博さんの人柄については、「電話が来たときに『しっかり食べてるか?』と気遣ってくれる、心優しい子だった。一番頼りにしている本当にいい息子だった」と落ち込んだ様子で話していました。
<友人“夢であってほしい”>
伊藤さんが、来月、出席する予定だった地元の還暦祝いの幹事の1人で、宮城県南三陸町の公立志津川病院の横山孝明事務長(59)は「還暦祝いに出席するという電話が正月に伊藤さんからあり、そのときは『会うことを楽しみにしている』と元気な声で話していました。世界で活躍していた人がこのような事件に巻き込まれることに憤りを感じます。伊藤さんと会えることを楽しみにしていたので、夢であってほしいです」と話していました。
伊藤さんの幼なじみで、小中学校で同級生だった宮城県南三陸町の職員、三浦源一郎さん(59)は「幼いころは家も近く、よく一緒に遊んでいました。中学時代の伊藤さんは頭がよく、ブラスバンド部でトランペットを吹いていました。なぜこのようなことが起きてしまったのだろうと思うとつらいです」と話していました。
また、同じく小中学校で同級生だった町職員の錦部泰子さん(59)は「来月、予定されている地区の還暦のお祝いで、久しぶりに会えると思って楽しみにしていました。世界で活躍されている罪のない方が、このようなことで亡くなることに憤りを感じます」と話していました。
<野鳥が好きだった>
伊藤さんは幼いころから野鳥が好きで、地元の野鳥の観察グループ「愛鳥会」のメンバーに加わっていました。
伊藤さんが30年ほど前、観察グループの創立30周年の記念文集に寄せた文章では、アルジェリアやマレーシアなどで見た鳥のことに触れていて、「このときほど鳥を見る楽しみに感謝したことはない。日本ではたまにしかお目にかかれない鳥も見たし、また、当然、日本では見られない鳥も見た。外国製の図鑑が鉛筆やボールペンの書き込みで、少しずつ賑やかになっていく」と記されていました。
伊藤さんと小学校時代からの友人で、野鳥観察の趣味を通じて交流していた宮城県南三陸町の三浦孝夫さん(64)は「アルジェリアの人質事件をニュースで知ったとき、まず、伊藤さんのことが頭に浮かびました。伊藤さんは小さいころからおとなしく、まじめな人で、鳥の観察力はずばぬけて優秀でした。大人になってからも、帰省したときは、私の家を訪ねてくれて親交が深かったので、今回のことはうそだと信じたい」と話しました。
また、三浦さんは「伊藤さんはアルジェリアに行った際、お土産に砂漠の砂を持って来てくれたり、砂漠にいる鳥の話をしてくれたりした。会社を退職したら、地元の南三陸町で一緒に鳥の観察をしたかっただけに、残念でなりません」と話していました。
渕田六郎さん(64)
亡くなった渕田六郎さん(64)は、昭和23年、鹿児島県肝付町で9人きょうだいの末っ子として生まれました。
兄の渕田光信さんによりますと、渕田さんは地元・鹿児島県の鹿屋市にある工業高校では空手部で活躍し、卒業後は大手建設会社に入りました。英語が得意で、長年、世界各地で現場監督などを務めてきました。
渕田さんは定年前に大手建設会社を退職していましたが、この年末に、帰省した際には、退職した会社からの依頼でアルジェリアに行くことになったと話していたということです。
<兄“本当に残念”>
渕田さんの兄で鹿児島県肝付町の渕田光信さんは(70)、22日朝、親族を通じてアルジェリアで六郎さんの遺体が確認されたと伝えられたということです。
兄の光信さんは、「兄思いの優しい弟でした。この年末に帰省していたときには、一緒にカラオケに行ったし、今度帰ってきたら、温泉に行こうという話もしたばかりでした。まさかこんなことになるとは思っていなかったので、本当に残念です」と話していました。
また、渕田さんの義理の兄で、鹿児島県肝付町の廻実義さん(73)は「突然のことだったので驚いています。本当に残念です」と話していました。
http://www.ichinoseki.ac.jp/documents/40thAnniversaryKeynoteSpeech.pdfhttp://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130124-00000004-asahi-soci日揮最高顧問も被害か アルジェリア紙「死亡」5邦人名
アルジェリアであった人質事件で23日、新たに日揮社員ら日本人2人の死亡が確認された。同社の最高顧問、新谷正法(あらたにただのり)さん(66)が事件に巻き込まれた可能性が高いことも判明。一方、地元紙は死亡者として日本人5人の氏名を報じている。次々に届く悪い知らせに関係者は言葉を失った。
新谷さんが事件に巻き込まれた可能性は、日揮関係者が明らかにした。新谷さんは昨年6月、代表取締役副社長を退き、最高顧問に就任。アルジェリア事業を統括する立場で、現地での交渉に参加することも多かった。事件があったイナメナスの天然ガス関連施設には当時、出張で行っていたという。
新谷さんを知る別の同社関係者は「アルジェリア事業は、会社が非常に大きいエネルギーを注いでいる事業。彼はその中心人物だった」と話した。
一方、日本人5人の氏名は同日、地元紙シュルーク(電子版)が生年月日と合わせて報じた。同紙によると、死亡が確認されたのは、キヤマ・サトシさん(29)、イトウ・フミヒロさん(59)、マエカワ・ヒデミさん(60)、ゴトウ・ヤスジさん(59)、ヤマダ・タカシさん(72)。
関係者の話では、5人は、人質になった木山聡さん、宮城県出身の伊藤文博さん、前川秀海さんの日揮社員3人と、後藤康次さん、山田隆さんの関連会社の2人とみられる。
日本政府と日揮は事件で9人の日本人が死亡したと発表しているが、この5人が含まれるかは明らかにしていない。また、犠牲者の氏名などの詳細を公表していない。
■「帰ったら集まろうと…」
「負傷した。襲撃犯らといる。状況は悪くない」――。この日、「死亡」と報道された木山聡さんは、武装勢力の人質になっていた際、中東の衛星テレビ局アルジャジーラの電話取材にこう語っていた。木山さんを知る人は声を聞き、心配を募らせていた。
木山さんは熊本県出身で長岡技術科学大学(新潟県長岡市)に進学後、入社。日揮によると、現場の監督役を任されていた。
八代高専(現・熊本高専)で同級生だった埼玉県の男性(29)は事件後、他の同級生と電話やメールで連絡をとり合っている。同級生40人ほどの小所帯で、友人同士の結びつきは強い。「木山が無事帰ってきたら、みんなで集まろうって話をしていたんですが」と話す。
次の日揮事件を防ぐためにも死者に鞭打つようだが、敢えて日本のお花畑に辛言を投ずる。新谷正法最高顧問(前副社長)、伊藤文博理事は、関連会社で殺された人たちと立場が全く異なり、自業自得と言える。
朝鮮人テロリストに殺害された日本の初代総理大臣の伊藤博文公の名前をひっくり返して名付られたというのも、呆れるが、何より、日揮の理事で国際事業本部長代行でもある。新谷正法最高顧問、伊藤文博理事は、パニックルームを設置しておくとか、自前の警備員を警備させる、従業員に軍事教練を行うとか、最高幹部でもあり、提言できたはずであり、そういう立場の役職である。しなかった、あるいは実現させなかった無知蒙昧が自分の不幸を招いた。
それを名前を公表しないとは、企業の姿勢が問われるものである。海外メディアでは公表している。たとえば、香田証生事件で名前が公表されていなかったとしたら、首チョンパ事件とでも言うのだろうか。日本政府は、キチガイ首相の小泉の「自己責任」一言で、一切の救出努力を放棄し、テロリストにより首を掻き切られて、映像までが世界中に晒された。名前があるのとないのでは、切実さが異なる。当人にとっても生きた証である名前すら報じられないでは、何のために生きてきて、灼熱の下で殺されたかわからない。次の被害を防ぐためにも、死体写真も掲載べきである。お花畑の国ではなにより必要である。
http://www3.nhk.or.jp/news/index.html?page=cat1亡くなった新谷正法さん
日揮の最高顧問で、前の副社長の新谷正法さんは、東京の出身で、66歳。横浜国立大学工学部を卒業して昭和46年に日揮に入社しました。
日揮の元役員によりますと、新谷さんは国内での業務が長く、医療分野への進出など、新規事業に関するプロジェクトに数多く携わってきたということです。4年前の平成21年からは日揮の代表取締役副社長を務め、去年6月に副社長を退いて最高顧問となりました。新谷さんは副社長時代の3年前には大学で企業マネージメントに関する講義の講師を務めるなど、社外でも幅広く活躍していました。
日揮の元役員の男性は「新谷さんは頼りがいがある人柄で、若いころから将来を期待されていた人だった」と話しています。
関係者によりますと、新谷さんは事件が起きた今月16日に予定されていた、イギリスの石油会社の幹部らとの会合のため、現地を訪れていたということです。
新谷さんは24日、政府専用機が現地を出発したあとに死亡が確認されました。
“信念の固まりのような人”
日揮の元社員で、新谷正法さんより入社が1年早かった森口健二さんは、新谷さんの人柄について、「社内の会議などでは、自分の考えを臆することなく伝え、理路整然とした話ぶりだった。正義感が強く、信念の固まりのような人で、そうした能力があったからこそ、アルジェリアなど海外でのプロジェクトを成功させられたのだと思う」と話していました。
また、身元の判明につながった指輪について、「銀色の立派な指輪をつけていたのが印象的だった。おそらく奥さんと同じもので大切にしていたのだと思う。それで身元が分かったのだから『そのために現地に持って行ったのか』と思うと感慨深い」と話していました。
森口さん自身も2年間のアルジェリア勤務の経験があり、「アルジェリアには、みんなリスクを覚悟で赴いている。今回の事件は非常に残念だが、新谷さんにとってアルジェリアでの仕事は、国の発展を願って入社2、3年目から誇りを持って続けてきたものなので、悔いはなかったのではないかと思う」と話していました。
亡くなった緒方弘昭さん
佐賀県武雄市の緒方弘昭さん(57)は、地元や東京などで大工をしていましたが、12年ほど前から仕事場を海外に広げ、アルジェリアにも何度か訪れていました。今回は、東京の建設会社から日揮に派遣され、去年11月から3か月間の予定でアルジェリアで働き、現地では現場監督を務めていたということです。
妻の由利子さんによりますと、海外での仕事が多い緒方さんは、国内で過ごす時間を長くしたいと考えていたということで、去年、アルジェリアに出発する直前には「今回は行きたくない」と話していたということです。
事件の6日前の今月10日に電話で話したのが最後の会話になったということで、由利子さんは「夫は今までよく海外でよく頑張ってくれたと思います。夫には感謝のことばを伝えたいです」と話していました。
“優しくて仕事をまじめにする人”
緒方弘昭さんと小学校と中学校の同級生で50年来の友人という大宅輝記さんは「アルジェリアに行く3か月前にも緒方さんと自宅で酒を飲みました。緒方さんは優しくておとなしい人で、仕事もまじめに一生懸命にする人でした。海外では危険な場所に行くこともあるので、『気をつけないといけない』と話していました。最近は、『そろそろ定年で仕事を引退したら一緒に酒を飲もう』と話していました。こんなことになり、どうしようもできず、とても悔しいです。ゆっくり休んでくれと伝えたいです」と話していました。
緒方弘昭さんの地元、佐賀県武雄市の、同業の大工として緒方さんを20代の頃からよく知っているという緒方文悟さん(84)は「大工としての腕は良く、朗らかで指導に立つ人はああいう人がいいと思っていた。現場監督になり成功したのは、人柄がよかったからだと思う。亡くなったのは残念でたまらない」と話していました。
亡くなった川畑圭右さん
日揮の社員の川畑圭右さんは東京の出身で49歳。都立高校時代の担任の教師によりますと、昭和57年に都立高校を卒業後、横浜国立大学に進学し、日揮に就職しました。
高校時代はラグビー部に所属し成績もよかったということで、明るい性格でクラスの人気者だったということです。
高校時代の担任“クラスのまとめ役だった”
川畑圭右さんの高校時代の担任だった橋本健一さんによりますと、川畑さんは明るくひょうきんな性格で、クラスメイトをよく笑わせていたということで、「修学旅行のバスで教師のモノマネをして笑わせていたことが印象に残っています。積極的な生徒で自然とクラスのまとめ役になっていたので、世界を舞台に活躍していたのは納得できます」と当時の様子を振り返りました。
そのうえで「こんな事件に巻き込まれて死亡したということが、全く信じられない思いです。会社や社会を引っ張ってやりたいことを実現させる世代にさしかかっていたはずで、残念、無念と言うしかない」と話しています。
亡くなった木山聡さん
日揮の社員の木山聡さん(29)は熊本市出身で、熊本市内の中学校を卒業後、県内の高等専門学校の機械電気工学科に入学しました。高専時代は「電気研究部」に所属し、開発したロボットの技術を競う「ロボコン」の九州大会にも出場し当時の様子がNHKの映像に残されています。
高専を卒業後、新潟県にある長岡技術科学大学に進学し、大学院にも進みました。研究室で4年間、木山さんを指導した、長岡技術科学大学の名誉教授の石崎幸三さんは「木山さんは積極的な性格で、以前から海外で仕事をしたいと言っていた」と話しています。
石崎さんによりますと、木山さんは修士課程を修了したあと日揮に就職し、クウェート勤務などを経てアルジェリアに赴任したということです。石崎さんが木山さんに最後に会ったのは去年5月の研究室のOBたちとの旅行で、仕事も充実している様子だったということです。
木山さんは武装勢力に拘束されたあと、中東の衛星テレビ局の電話インタビューに答えたとみられていて、報道で声を聞いた石崎さんやかつての同級生たちは無事を祈り続けてきました。
高専の同級生“仲間として誇り”
木山聡さんと高等専門学校で同じクラスだった会社員の男性は「最悪の結果になってショックは大きいです。去年一緒にお酒を飲んだときには、暑い国から帰ってきたばかりで真っ黒に日焼けしていたが、とても元気そうだった。海外の危険を伴う地域で彼が仕事をしていたのは、高専時代から頑張ってきたことのあらわれだったと思うので、仲間として誇りに思います」と話していました。
亡くなった後藤康次さん
東京の建設会社の社員、後藤康次さん(59)は大分市出身です。
後藤さんは、以前、日本の別の企業がアルジェリアで進めていた高速道路の工事で、型枠大工として働いた経験がありました。
会社の関係者によりますと、今回は日揮からの要請で、半年ほど前から日揮のアルジェリアのプラントで働いていたということです。
後藤さんの親族は警察を通じてコメントを出しました。そこには、「日本から遠く離れた異国の地で突然殺害され、とても悔しかったと思います。私たちも突然の悲報を受け、驚くと同時に大変悲しんでいます。今は、少しでも早く家に連れ帰り、供養してあげたいと思っています」とつづられています。
大分市内にある実家の近所に住む70代の女性によりますと、後藤さんは5人きょうだいの3番目で、明るい性格だったということです。10年ほど前に兄が亡くなった際には喪主を務めたということで、ハキハキと力強くあいさつしていた様子が印象に残っていると話していました。
“まじめで仕事熱心”
後藤さんの知人の建設業の男性は「後藤さんは首都アルジェの高速道路の建設現場で働いたあと、いったん帰国し、半年ほど前から今回のプラントの建設現場で働いていると聞いていた。自分もアルジェリアで何度か一緒に酒を飲んだことがあるが、まじめで仕事熱心な一方、気さくで気持ちが優しく、とても明るい人だった。会社の社長からも信頼されていて、型枠の大工として数多くの海外の現場に派遣されていた。亡くなったと聞いてとても残念だ」と話していました。
亡くなった内藤文司郎さん
内藤文司郎さんは愛知県豊橋市出身で、東京の人材派遣会社から日揮に派遣され、去年10月からアルジェリアで働いていました。
内藤さんは、平成21年から22年にかけて別の日本企業がアルジェリアで進めていた高速道路工事の現場で働いたことがあり、現地での経験や内装工事の技術を買われて今回のプラントに派遣されたということです。
内藤さんは、25日に帰国して父親の誕生会を開くのを楽しみにしていたということで、母親のさよ子さんは、24日、「現実を受け入れなくてはいけないと思いますが、どこかから元気で出てきてくれるのではないかという気持ちが捨てきれません」と辛い胸のうちを明らかにしていました。
家族が遺体に対面
亡くなった内藤さんを日揮に派遣していた東京の派遣会社の稲塚博社長は、午前10時ごろ、羽田空港内の施設で内藤さんの母親のさよ子さんや弟の二郎さんとともに内藤さんの遺体に対面し、25日午後、報道陣に対してそのときの様子を語りました。
稲塚社長によりますと、内藤さんの表情は安らかで、寝顔のように見えたということです。母親と弟の2人は声を上げて泣きながらひつぎにすがりつき、「ブン、こっちを向いて、帰ってきて」と内藤さんの名前を何度も呼び続けていたということです。
稲塚社長は「弟の二郎さんは『母は兄がアルジェリアに残してきた魂を呼び戻したかったのだと思う』と話していた。また、二郎さんは『亡くなった原因が知りたい。体に銃弾が残っているならその銃弾が欲しい』と話し、肉親でないと出ないことばだと感じた」と述べ、心情を代弁していました。
また、稲塚社長は、内藤さんに「会社として何も守ってあげられず申し訳ありません」とおわびのことばを述べたということです。
内藤さんの遺体は、26日に実家がある愛知県に帰るということです。
亡くなった渕田六郎さん
渕田六郎さん(64)は、昭和23年に鹿児島県肝付町で9人きょうだいの末っ子として生まれました。
渕田さんは、鹿屋市にある工業高校を卒業したあと、大手建設会社に入社しました。建設会社では、得意の英語を生かして長年、世界各地で現場監督などを務めてきたということです。
渕田さんは定年前に大手建設会社を退職しましたが、退職した会社からの依頼でアルジェリアに行くことになり、日揮のプラントで働くことになったということです。
インターネットの交流サイトには「燦々と降り注ぐ星空を目指し世界各地で仕事をしている。日本には3〜4か月の休暇を利用して一時帰国。次はアルジェリアに行き、砂漠で星空を眺める事に期待を込め!!」などと書き込み、アルジェリアで仕事をすることを楽しみにしている様子でした。
亡くなった前川秀海さん
日揮の社員で神奈川県横須賀市の前川秀海さんは、北九州市出身の60歳。地元の工業高等専門学校を卒業したあと、日揮に就職しました。
高専時代はラグビー部に所属し、4年生と5年生のときには高専の全国大会で優勝したということです。卒業後もラグビー部の仲間たちとの交流を続け、おととし11月にも後輩たちの応援のために集まったということです。
友人によりますと、高専の入学式で新入生代表であいさつするなど、成績は優秀で、日揮に就職したあとは海外に行く機会が多かったということです。
“心に穴があいた気分”
前川秀海さんの高専時代のラグビー部の先輩の小出和男さんは「学生時代は多くを語らず、ラグビーのプレー中も黙々と確実にやるタイプでした。おととし11月にラグビー部のメンバーと顔を合わせたときにも、昔と変わらず淡々と話し、元気そうでした」と述べました。そのうえで、「近況を尋ねたら、本人から『最近は日本で働いています』と聞いていたので今回の事件には巻き込まれていないと信じていました。本人は悔しかったでしょう。こんな形で自分の後輩が亡くなり、心に穴があいた気分です」と声を詰まらせていました。
亡くなった山田隆さん
死亡した10人の1人、川崎市の山田隆さん(72)は、長年、プラント建設に関わってきた経験を買われ、今回、現地のプラントで働いているときに事件に巻き込まれました。
東京・日本橋の喫茶店の店主、西本春子さんによりますと、山田さんは多い時には月に数回、店を訪れていたということで、自分の仕事について、「石油プラントの建設などに長く携わり、海外にもたくさん行った」と話していたということです。
西本さんのもとには去年12月、山田さんからアルジェリアで働いていることを知らせる絵はがきが届いたということです。
西本さんは、「気さくで誰とでもすぐ仲良くなるすてきな人でした。家族のような感覚でお付き合いしていただけに、残念でことばがありません」と話していました。
敬称略
日揮の最高顧問(前副社長) 新谷正法(66)
横浜国立大学工学部建築卒。
日揮の理事、東京都港区 伊藤文博(59)
一関高専卒、東京工業大大学院化学工学。母フクコ(82)は津波の被害を受け仮設住宅で1人住まい。
日揮社員 熊本市出身 木山聡(29)
八代高専機械電気工学科卒、長岡技術科学大大学院修士課程終了。
一児の父。
日揮社員 横浜市 川畑圭右(49) 都立新宿高校卒、
横浜国立大工学部土木卒。
日揮社員 神奈川県横須賀市 北九州市出身 前川秀海(60)
北九州高専卒。
建設会社派遣社員 佐賀県武雄市 緒方弘昭(57) 現場監督、大工。
東京の建設会社社員 大分市出身 後藤康次(59) 型枠大工。
派遣会社エーアイアル(
http://www.ailltd.co.jp/it/recruit/president.html)社員 愛知県豊橋市出身 内藤文司郎(44) 愛知県立時習館高卒。横浜商科大中退。内装工事。
大手建設会社元社員 神奈川県藤沢市 鹿児島県肝付町出身 渕田六郎(64) 鹿児島県立鹿屋工業高校卒。現場監督。
川崎市 山田隆(72) 日本橋小伝馬町の喫茶店パリドールが行きつけ。石油プラント建設。
合掌
日揮社員5人中、
工業高専出身3人、
横浜国立大工学部卒2人。見事に2色だけに染め分けられ、これ以外はいない。残りが関連会社・派遣会社5人。危険手当が月に300万円と週刊朝日では報じている。高齢者が多く、原子力施設と同じく、使い捨ての駒扱いのようだ。アルジェリアのメタンは日本なんかに輸入されない。日揮は単に利益を追求しただけだ。日本にはアラビアやブルネイから輸入している。ヨーロッパ車が欧米では普通のガソリンだが、日本ではハイオク仕様になるのは、ユダヤとロックフェラーの石油地図で、日本には質の悪いアラビア産を強制しているためだ。実は、尖閣など花綵列島周囲にメタンは眠っているが、この開発は支那だけではなく、ダメリカの妨害もあるのだ。
こういう事件があると、イスラーム教を悪くいう者が出てくるが、無知から出てくる暴論で、キリスト教やヒンドゥー教のような無茶苦茶な宗教よりイスラーム教の方が信用できる。イスラームの過激派というのはアラビア語も読めない者が多い。必須の聖典アル・クルアーンも読めないのだから真のムスリムとも言えないインチキムスリム。イスラームの過激派なんかというのは、現地で酒を飲んで乱暴狼藉を繰り返す武装愚連隊である。以前、パキスタンで、ムジャヒディンが暴れまくっているという情報があり、避けたこともある。人ごとではない。危険地帯の海外を1人で旅をしてきた中には、ライフルやショットガンを安全装置を外して突きつけられたことが何度かある。いつも、出来得る限りの安全対策をいつも講じているし、一応、官憲には抗議している。今も毎週アラビア語を独習しているし、イスラム教については研究所で集中講義くらいは受けている。アザーンくらいは唸れるし、これをやると、ムスリムに受ける。私的には、ダメリカ人よりイギリス人よりフランス人よりムスリムの方がマシだ。日揮なんかより、イスラームの味方なのは間違いない。知り合いのムスリムの友だちは間違いなくアルカイダだろう。イスラム過激派だろうと、同じ状況なら、一番最後に処刑される自信がある。後輩は某国税バラマキ機関で、意に反してイスラム圏専従で回っているので、死体で帰国するかも知れないのだ。
世界中、とりわけ、現在、支那に展開している守銭奴企業どもも同じ状況なのだが、本人たちは気がついていないか、深く関わり抜け出せないでいるようだ。 安倍もどうせ日本なんか聾桟敷に置かれているのだから、支那包囲網のインドネシア訪問と声明を発表してから帰国してもらいたかった。参院選やマスゴミによる政局しか見ていないのでは、国益に叶っていない。