2023年07月24日

気違い・鬼畜・岸田 世界最悪級の労働環境の奴隷酷使国UAEで、移民で日本の地獄化を叫ぶ

岸田文雄(64)-1.jpg悪魔1.png岸田文雄(65)




柿食い岸田文雄(64).jpgうんこ.jpg岸田文雄(64)-2.jpg カタールとバーレーンも当初、イギリスの保護領トルーシャル・オマーン(Trucial Oman:休戦オマーン。トルーシャル・コーストTrucial Coast:休戦海岸とも。のちにアラブ首長国連邦(UAE)となる勢力)とアラブ首長国連邦(Federation of Arab Emirates:FAE)を結成した。当時は首長国が単独で独立国家となるのは難しいと考えており、カタールやバーレーンもその一員としてFAEに含まれていたが、すでにカタールとバーレーンは石油生産が好調で単独独立したベドウィンという山賊か海賊。UAEと全く同族のアラブ。税収が豊かなため合併しない広島市に囲まれた府中町、浜松市に囲まれた旧可美村みたいなもんだ。外国人労働者など中世の奴隷として扱う。

 昨年のサッカーワールドカップの虐殺も岸田文雄(スグ66)は知らないのか。フランスやイギリスで今起きている移民の暴動、日本の川口などで起きている害人犯罪に目を瞑る鬼畜!!!!

21日に6751人の移民労働者が死亡した…W杯カタール大会が「史上最も死者を出した大会」と呼ばれている理由
https://president.jp/articles/-/63896?page=1
「最も高額なW杯」から「最も死を招いたW杯」になった
FIFAワールドカップ(W杯)・カタール大会が現地時間11月20日、熱狂的な声援を受けながら開幕した。12月18日の決勝まで、全32チームが全64試合の熱き戦いを繰り広げる。
一方で、中東初のホスト国という特性上、気候や文化の差異に起因する懸念の声が多く上がっている。猛暑の夏場を避け初の冬季開催としたまではよかったものの、異例の日程に負担を強いられる形でトップクラスの選手の欠場が相次いでいる。
酷暑が影響を与えたのは、選手ばかりではない。オイルマネーを誇示するかのようにそびえる大会会場や瀟洒なインフラの裏には、炎天下において搾取的な労働条件で酷使され、命を落としてきた移民労働者たちの悲惨な物語が潜む。
大会総額30兆円とも報じられ「史上最も高額なW杯」と評されるカタールW杯は、いつしか「最も死を招いた大会」とさえ報じられるようになった。

炎天下の労働、時給は125円
各紙はカタールにおける移民労働者の悲惨な実態を報じている。英サン紙は、ドーハ近郊の計画都市・ルサイルの例を紹介している。
三日月型の人工島が浮かぶこの地区には、カタール大会に向けて新設された7のスタジアムのひとつであり決勝の舞台ともなる「ルサイル・アイコニック・スタジアム」が構える。カタールの未来像を示す象徴的な都市だ。
サン紙は「この都市は驚くべき複合体であると同時に、低賃金の移民労働者たちの犠牲のもとに建設されたのではないかと懸念されている」と述べている。命の危険を生じるほどの蒸し暑い現場で働かされながら、時給は1ポンド(約170円)にも満たないという。インド、パキスタン、ネパール、フィリピンなどからかき集められた労働者たちが「ある種の『強制労働』」の状況に置かれているとの指摘だ。
英メトロ紙も時給の低さが問題化していると指摘し、「うだるような40度の暑さのなか、『75ペンス(約125円)の賃金』」で移民労働者が働かされていると報じている


気違い・鬼畜・岸田!!


家業は、賣國。河野一家、小泉一家、岸田一家、・・・。

アメリカの犬、支那の犬、罪務省の犬 九族誅殺すべき蠻族賣國奴一族 岸田一家
http://cnxss.seesaa.net/archives/20230719-1.html

 岸田文武と澄子の次男が岸田武雄(63)、文雄の弟。慶應義塾大学法学部卒、三菱商事。株式会社フィールジャパン with K(Feel Japan with K Co., Ltd.)代表取締役。東京都中野区中央5-4-24 第5小河原ビル402。東京都知事登録 旅行業3-6242号の旅行代理店として、東南アジアや中東からの訪日旅行を企画して運営するムスリム向け旅行会社を偽装し、インドネシア人の日本就労を支援する。特定技能制度外国人採用支援(特定技能制度登録支援機関 20登-005429)税金強盗岸田文雄が「外国人留学生年間30万人受け入れを目指す。」と政府目標を掲げ、奴隷移民の利益誘導。

弟武雄(63)の賣國事業に加担、長男の馬鹿息子翔太郎(32)を秘書官で国家機密漏洩、賣國の内助の功の嫁裕子(58)は変態破壊活動家ジル・バイデン(72)に従属し、国民の税金を使い、のこのこホワイトハウスまで出向いて日本破壊の賣國を行った。この母にして馬鹿息子翔太郎(32)あり。

蠻族賣國奴、岸田一族、九族誅殺!!!!

移民党岸田文雄(64)-1.jpg


二度あることは三度ある。この世に岸田は不要。
文雄の祖父、岸田正記(65没)
文雄の父、岸田文武(65没)
岸田文雄(65)07月29日生まれ。あと5日。


日本人が知らない、観光都市ドバイを造った「現代の奴隷」
https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2022/05/post-98622.php
<労働人口の大半を占めるアジアやアフリカから単身やってきた出稼ぎ労働者たちは、「ドバイ」から連想される煌びやかな都市生活とは無縁の日々を送っている>
超高層ビルが林立するアラブ首長国連邦(UAE)の中心都市ドバイ。
今や観光地としても人気だが、その発展を支えるのは労働人口の9割以上を占める外国人だ。インドなど南アジア系が最も多く、東南アジアやアフリカ、他の中東諸国出身者もいる。
自国籍保持者が富と福祉を享受する一方、出稼ぎ労働者はそんな権利とは無縁の生活を送っている。建設労働者は酷暑の屋外で働き、二段ベッドが所狭しと置かれた部屋で眠る。2017年には国際機関が、UAEの外国人の労働環境は世界最悪だと指摘した。
問題の元凶が「カファラ」と呼ばれる制度だ。雇用主が労働者の保証人となる契約で、現地に到着するなりパスポートを没収したり、賃金未払いは当たり前。パンデミックでは真っ先に彼らを解雇した。
特に弱い立場に置かれているのが女性の家事労働者だ。処遇は全て雇い主のモラル次第。住み込みで長時間労働。休日はなく、外出すら許されない例もある。携帯電話を取り上げられることも珍しくない。人権団体には、命からがら脱出した女性から虐待や性的暴行の証言も寄せられる。
彼ら「現代の奴隷」の姿がツーリストの目に入らないのも観光都市として一流の証拠か。

 現UAE(アラブ酋長国連邦、الإمارات العربية المتحدة‎、al-Imārāt al-ʿArabīya al-Muttaḥida、アル=イマーラートゥ・ル・アラビーヤ(トゥ)・ル=ムッタヒダ、United Arab Emirates)を構成する土侯は、西暦17世紀〜18世紀頃に、アラビア半島南部から移住してきたアラブのベドウィン=山賊。北部のラアス・アル・ハイマやシャルジャを支配するカワーシム家と、アブダビやドバイを支配するバニヤース族とに2分された。西暦18世紀〜19世紀にかけてはペルシア湾を航行するヨーロッパ人達に対立する海上勢力「アラブ海賊」と呼ばれるようになり、その本拠地「海賊海岸(Pirate Coast、現ラアス・アル・ハイマ)」として恐れられた。山賊から海賊に転じたわけだ。
 同じく海賊のオマーン王国ならびにその同盟者であるイギリス東インド会社と激しく対立し、西暦1809年にはイギリス艦船HMSミネルヴァを拿捕して(Persian Gulf campaign)、海賊団の旗艦とするに至る。イギリスはインドへの航路を守るために西暦1819年に海賊退治に乗り出し、ボンベイ艦隊により海賊艦隊を破り、拿捕されていたミネルヴァを奪回の上に焼却した。
 西暦1820年、イギリスは、ペルシア湾に面するこの地域の海上勢力(この時以来トルーシャル土侯国となった)と休戦協定を結び、トルーシャル・オマーン (Trucial Oman: 休戦オマーン) と呼ばれるようになる(トルーシャル・コースト (Trucial Coast: 休戦海岸とも) 。
 西暦1835年までイギリスは航海防衛を続け、西暦1835年、イギリスと首長国は「永続的な航海上の休戦」に関する条約を結んだ。その結果、イギリスによる支配権がこの地域に確立されることとなった。この休戦条約によりトルーシャル海岸諸国とオマーン帝国(アラビア語: الإمبراطورية العمانية‎)との休戦も成立し、陸上の領土拡張の道を断たれたオマーン帝国は東アフリカへの勢力拡大を行い、ザンジバルを中心に一大海上帝国を築くこととなる。一方トルーシャル海岸諸国においては、沿岸の中継交易と真珠採集を中心とした細々とした経済が維持されていくこととなった。その後、西暦1892年までに全ての首長国がイギリスの保護下に置かれた。
 西暦1950年代中盤になると、この地域でも石油探査が始まり、昭和34(1959)年に石油発見以降、その齎す「オイルマネー」で一変し急速な経済発展を果たした国である。絶対君主制の下で、他国への軍事介入や内政干渉、外交的圧力などの積極的な外交政策を取っている、


 ドバイは金持ちの国として知られており、UAE人の1世帯あたりの平均年収は2600万円、ドバイ在住の外国人の平均世帯年収は約750万円、労働者層は約82万円。 日本の1世帯あたりの平均年収564.3万円だが、富裕層が平均を押し上げているので300万円。とUAE人の世帯年収を比べると、約2300万円ほどの差がある。 また、ドバイで働く外国人の平均年収も日本と比べて450万円ほど高額。

アラブ首長国連邦(UAE)を知るための60章 (エリア・スタディ―ズ 89) (エリア・スタディーズ) - 細井 長
アラブ首長国連邦(UAE)を知るための60章 (エリア・スタディ―ズ 89) (エリア・スタディーズ) - 細井 長




移民党岸田文雄(64)-2.jpg



グーミンのうた

ねえグーミン こっち向いて
はずかしがらないで もじもじしないで
おねんねね
あらまー どうして けど でも わかるけど
男の子でしょ だからねー こっち向いて

ねえグーミン あたしに話して
かくしたりしないで なんでもうちあけて
おばかさんね
だって そんな まさか ん〜ん さーいいから
男の子でしょ だからねー あたしに話して

オナフキン「やーい!この肥桶みたいなスカカスめ!聞いているのかこの腐れなりすまし背乗り支那畜め!お前はしらみの卵だー!」
オナフキン「やーい!スカカスのへなちょこやろーめ!お前は昼寝してる豚の夢みたいな情けないやつだぞー!」
オナフキン「やーいやーい!悔しかったらぼくをつかまえてみろー!」
オナフキン「ぶーだ!ぶーだ!ぶー!」
オナフキン「そーれ!それ!ここまでおいでー!へーんだ!」

グーミン「オナフキンの悪口って変わってるね。僕の悪口も言ってみてよ。」
オナフキン「え、でも。」
グーミン「いいから怒らないから。」
オナフキン「おまえは岸田文雄(65)にも劣るカバだな。」

この強烈なオナフキンの悪口にグーミンは引き籠ってしまいました。

https://youtu.be/vBOw6j8IjEw


 日本経済だけではなく、日本を破壊し、30年にわたり経済発展を止め、増税と社会保険料の負担、給付や控除の削減という鬼畜の悪政をおこなったのが、宏池会こと狡知会である。
 鬼畜米の占領から見かけ上主権を回復したように見えたその直後、日本を米属国にする日米安保条約に調印した、賣國奴吉田茂(89没)。その直系が狡知会である。狡知会は、吉田茂からして、醜く穢れて卑しい血筋で日本人か人間なのかも怪しい鬼畜揃い。
 消費税に代表される大型間接税の導入を打ち出した大平正芳(70没)、プラザ合意とバブル潰しで日本経済の成長を止めr、天安門事件で国際的批判を受けていた暴虐支那の罪状を糊塗するため、天皇訪支を強行し、南鮮の捏造「慰安婦」を認めた悪行しかない宮澤喜一(87没)。

 そして気違い・鬼畜。岸田文雄(スグ66)。この税金強盗は、増税のネタしか考えていない。変態法を民主主義を踏み躙り強圧的に遠し、敵国の南朝鮮を謝罪も賠償や渡した国税の10億円も有耶無耶にして禍根をまた延ばした。うんこ喰らいなに加担し、ロシアを支那に追いやり、世界中に血税をばら撒く。そのために大増税、給付や控除を引き剥がす。支那の領海侵犯や北朝鮮のミサイルにも対処しない。個人情報カードを1つにまとめ、国民を奴隷として統制する。それも特亜や鬼畜米に垂れ流している。



増税岸田文雄(65).jpg


G20一人当たりGDP推移
(昭和35(1960)〜令和03(2021))



消費税増税.jpg

国民負担率.jpg

ゴミはゴミ箱へ.jpg腐れ移民党.jpg



移民党の党是は、日本の破壊と日本人の殺戮!!!!!!!!

日本のみならず、国際関係にまで嘘で破壊的悪影響を及ぼし利権を嗅ぎまわる醜く穢れた卑しい猶太の飼い豚。もはや人間とは言えない一族である。

この世には、九族誅殺すべき一族がいる。その1つが岸田一家。


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2011年03月29日

リビア内戦 ベルベル人、カッザーフィーの故郷、シルト攻防戦と石油の利権

SocialistPeople'sLibya.jpg政府軍
大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国(社会主義人民リビア・アラブ国)
革命指導者:ムアンマル・カッザーフィー

 かつてリビアは1972年03月にエジプト・シリアとともにアラブ共和国連邦とアラブ共和国連邦を結成し、汎アラブ主義を唱えていた。同一の国家を強調するため、リビアはエジプトの国旗を共用していた。ところが、第4次中東戦争の後の1977年11月11日(11月19日からのイスラエル訪問を発表)、エジプトのサダト大統領はアラブの宿敵イスラエルと単独で和解し。エジプトのサダト大統領は、友好条約を結んだ上、アメリカ合衆国寄りの外交を開始した。カッザーフィーは怒り狂ってエジプトとの断交を決め、側近たちに翌日までに新しい国旗を完成させろと厳命した(しかもそれは深夜)。時間がないため側近たちの苦肉の策で、緑一色(緑色はイスラームの開祖ムハンマドのターバンの色とされ、イスラーム世界では最高の色)の国旗になってしまった。

LibyanRepublic.jpg反政府軍
リビア共和国(国民評議会)
国民評議会議長:ムスタファ・モハメド・アブドルジャリル

 ムアンマル・カッザーフィー(カダフィ大佐)の強権的な統治と反政府活動に対する厳しい監視や弾圧、豊富な石油や天然ガス資源の恣意的な富の配分に、国民、権力の後ろ盾となってきた軍や部族の間にも、不満は鬱積していた。
 2011年02月15日、チュニジアでのジャスミン革命がリビアに波及し、反政府デモがリビア東部のキレナイカにあるベンガジにて発生。警官隊や政府支持勢力と衝突。警官を含む38人が負傷。反体制派が占領したベンガジなどの東部は、カダフィに打倒されたイドリース1世の出身部族もあり、弾圧を受けてきた。反乱を呼びかけた元公安相も東部部族出身。反政府デモが全土に拡がり、デモ参加者は数万人規模となった。カッザーフィーは、弾圧にリビア政府直属の民兵だけでなく外国人の傭兵も投入し、死傷者が増加した。
 21日には反政府デモが首都トリポリにまで飛び火し、政府施設である人民ホール、全人民会議、警察署などが炎上。トリポリや近郊都市で発生した反政府デモに対して政府当局は空爆を実施。戦闘機やヘリコプターによる機銃掃射、手榴弾や重火器、さらには戦車を使用してデモ隊への攻撃を開始し、無差別虐殺が始まった。油田でのストライキも発生し、操業が停止。
 こうした政府当局による大規模な弾圧に対し、政権側からも批判の声が上がり始めたが、22日カッザーフィーは演説の中で反政府運動を「天安門事件のように叩き潰す。」と強硬姿勢を崩さず、また国外亡命の可能性についても改めて否定。同日、国際連合安全保障理事会にてリビア情勢についての緊急会合が行われ、国民に対する武力行使を非難する報道機関向け声明を採択。

 23日までにリビア東部は反政府派に掌握された。24日、石油積み出し施設のある北西部のザーウィヤで、反体制デモを行っていた勢力が立て籠もっていたモスクをミサイルで撃破し、さらに自動小銃で掃射するという残虐行為に出た。死者が100人以上。25日、反政府デモで治安部隊が参加者に無差別発砲し、首都トリポリだけで10人の死者が出た。26日〜28日、首都トリポリ以外がほぼ反政府側の手に落ち追い詰められたカッザーフィーは支持派市民に対して武器を渡し、反政府運動の封じ込めに乗り出し、反体制側もミスラータで義勇兵を集め始め、内戦状態になった。27日、カッザーフィーに反旗を翻し辞任したアブドルジャリル前司法書記がベンガジにて暫定政権「リビア国民評議会」設立を宣言、国民結束を呼びかけ、首都トリポリの一部は反政府勢力によって制圧された。同日、国際連合安全保障理事会はリビアに対する制裁決議を全会一致で採択した(国際連合安全保障理事会決議1970)。これと並行して、国際刑事裁判所に付託することも決定。

 アブドルジャリル率いる国民評議会の下に当初乱立していた反政府勢力の自治政権が結集し始め、03月02日にはベンガジで会合を開き、アブドルジャリルが正式に同評議会の議長に就任。10日、フランス政府は国民評議会をリビアにおける正式な政府として承認。飛行禁止区域の制定を得られなかったことで、装備で劣る評議会軍は戦闘でも劣勢に立ち、10日ごろから後退を余儀なくされた。評議会は各国に軍事介入を求めたが、積極的な姿勢は少なかった。飛行禁止空域設定の国連決議はアメリカ・露西亜・支那などの反対で採択される目途が付かず、単独で設定する構えを示していた北大西洋条約機構(NATO)はアメリカの反対で決議をまとめることができなかった。EUにおいても、国家承認をしたフランスやイギリスなど一部の国の支持に留まり、カッザーフィー政権による評議会側制圧都市や評議会軍部隊への空爆が続いた。
 12日にはアラブ連盟が、リビアにおけるカッザーフィー政権の正当性を否定し、また飛行禁止区域の設定を支持する決定。このことと評議会軍が劣勢になったこと、カッザーフィーが17日に「ベンガジへの総攻撃と無差別殺戮をも辞さない。」と演説したことが飛行禁止空域設定への追い風となり、同日国連安保理は飛行禁止区域設定の設定と、リビアへの事実上の空爆を容認する決議を賛成10、棄権5(支那・露西亜・インド・ドイツ・ブラジル)で採択。

 カッザーフィーは国際的な軍事介入に反発する姿勢を見せたが、いったんは18日に即時停戦を受け入れたが、直後にベンガジやミスラタに対する攻撃を継続。03月19日、フランスが軍事介入を行う旨を宣言し、直後に米英仏を中心とした多国籍軍がカッザーフィー政府軍への空爆を開始。アメリカの「オデッセイの夜明け作戦」によりトマホークが100発以上発射された。カッザーフィーは直後に国営放送で演説し、国民に対し徹底抗戦を呼びかけた。
 リビアはかつてパンアメリカン航空103便爆破事件、リビア爆撃など米英及びイスラエルと対立し、近年は関係改善していたが、今回の攻撃も米英及びユダヤ系でモサドの犬のサルコジ大統領が主導している。

 国民評議会がNATO軍の空爆支援を受けて進軍する中で、政府軍はカッザーフィーの出身地で政府軍の要衝でもあるシルトで戦車を配備し、徹底抗戦の構えを見せている。反体制派国民評議会の報道官は29日、「シルトへ向けて進軍していた国民評議会軍が政府軍の激しい攻撃を受けて、東方150qのビンジャワドまで撤退した。と説明した。国民評議会は28日にシルト東方120qのナファリアに到達しシルト攻略を目指したが、政府軍は精鋭部隊を投入し、防衛に当たっている。国民評議会が西部で唯一、掌握するミスラタでも激しい戦闘が続いている。政府軍は数日間にわたり市内へ向けて攻撃した後、28日夕方に「ミスラタを解放した。」と一方的な停戦を宣言した。実際は反体制派が依然として同地を支配しているという。ミスラタはシルトと首都トリポリの間に位置する唯一の主要都市であり、政府側は奪還に力を注ぐ。一方、NATO軍は27日夜に続き28日朝にシルトを空爆。またリビア国営放送によると、トリポリ南方のガリアンとミズダも爆撃。
 アラブ諸国から多国籍軍に参加するカタールが28日に国民評議会政府を正式承認したことに対して、リビア政府は「著しい内政干渉」と非難。また、米政府は近日中に暫定政府の本拠地ベンガジへ使節を送る見通し。米国は暫定政府が奪還した地域で、石油輸出を再開することも支持する方針。

 アメリカやフランスのユダヤとしては、憎っくきテロリスト、カッザーフィーを叩き潰した上に良質の石油利権が手に入る、正に一石二鳥。

恐怖のリビア監獄脱出記―“不当逮捕”された商社マンの痛恨の記録 (カッパ・ブックス) [新書]...
砂漠の思想―リビアで考えたこと [単行本] / 野田 正彰 (著); みすず書房 (刊)

 あまり知られていないが、日本は硫黄分が多くオクタン価の低い質の悪いアラビア産の石油を使っている。そのため、日本でのガソリンは、レギュラーで90、ハイオクで98〜100。欧州は、北海油田やリビア産の石油を使ッているので、日本よりオクタン価が高く、欧州はレギュラーで95程度、ハイオクは100。欧州車の中には、スポーツカーでない大衆車でもハイオク指定になっているのは、日本のレギュラーがオクタン価90で、低質なものだからだ。

 ベドウィンの部族、サウード家はアラビア半島の支配を巡ってエジプトやオスマン帝国、他のアラブ部族と争い興亡を繰り返した(第1次サウード王国、第2次サウード王国)。1902年、僅か22歳のアブドゥルアズィーズはサウード王家先祖伝来の本拠地リヤドをライバルのラシード家から奪回した。アブドゥルアズィーズは征服を続けた。
 第1次世界大戦時、イギリスがオスマン帝国の後方のアラブ人を立ち上がらせ戦わせようとした。イギリスの3枚舌外交である。
1915年10月 フサイン−マクマホン協定(中東のアラブ独立、公開)
1916年05月 サイクス・ピコ協定(英仏による中東分割、秘密協定)
1917年11月 バルフォア宣言(パレスチナにおけるユダヤ民族居住地建設、公開)
 ハーシム家のフサイン・イブン・アリーはイギリスとフサイン−マクマホン協定を結び、イラクやシリア、パレスチナも含むアラビア全域の独立と支配を目論み、トーマス・エドワード・ロレンス(アラビアのロレンス)の支援で、アラブの反乱を起こした。オスマン帝国がダマスクスからマディーナまでヒジャーズを縦断して敷設したヒジャーズ鉄道を破壊するなどの戦闘に協力。1916年には、フサイン・イブン・アリーはイギリスの後ろ盾でヒジャーズ王国を建国し、ヒジャーズは独立したが、フサイン・イブン・アリーは結局王国をアラブ全体に広げることはできず、1924年にはナジュドからアブドゥルアズィーズ・イブン=サウードが侵攻。フサイン・イブン・アリーは退位してキプロスに逃れたが、その翌年には長男アリー・イブン・フセインが降伏し、弟のイラク王国に亡命することで、ハーシム家のヒジャーズ支配は終焉。ヒジャーズを攻略したアブドゥルアズィーズ・イブン−サウードは1926年にヒジャーズ王を称し、1931年にはヒジャーズ−ナジュド王国という連合王国の王となり、1932年にはこれをサウジアラビア王国と改称した。アブドゥルアズィーズの政治的成功も経済までには及ばず、1938年03月に油田が発見されるまで貧しく、油田開発は第2次世界大戦のために中断したが、1946年には開発が本格的に始まり、1949年に採油活動が全面操業。サウジアラビアは世界最大の石油埋蔵量、生産量及び輸出量を誇るエネルギー大国。輸出総額の約9割、財政収入の約8割を石油に依存している。
 日本はこの専制国家、サウジアラビアが最大の石油輸入国である。他のアラブ首長国連邦、カタール、イラン、ロシア、クウェート、オマーンと中世のままの専制国家1位から並んでいる。 

日本の石油輸入先
2010年度21,535kℓ(中東地域で86.5%)

1位 サウジアラビア 28.8%
2位 アラブ首長国連邦 20.4%
3位 カタール 11.8%
4位 イラン 9.6%
5位 ロシア 7.2%
6位 クウェート 7.1%
7位 オマーン 3.3%
8位 東南アジア諸国 3.3%
9位 イラク 3.2%

裏切りの同盟 アメリカとサウジアラビアの危険な友好関係不思議の国サウジアラビア―パラドクス・パラダイス (文春新書) [新書] / 竹下 節子 (著); 文藝春秋 (刊)アラビアのロレンス【完全版】 デラックス・コレクターズ・エディション [DVD] / ピーター・オトゥール, オマー・シャリフ, アレック・ギネス, アンソニー・クイン, ホセ・ファーラー (出演); デヴィッド・リーン (監督)アラビアのロレンス (平凡社ライブラリー) [単行本] / ロバート グレーヴズ (著); Robert Graves (原著); 小野 忍 (翻訳); 平凡社 (刊)
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2011年03月07日

リビア内戦と米初の海外派兵バーバリ戦争

 チュニジアはまだ故地カルタゴの成れの果てだから、上に棲息している人種はともかく、古代に馴染みはあった。リビアというと、カッザーフィー大佐その名前だけは有名だが、それ故、当然行ったこともないし行きたくもないし全く興味がなかった。それが、ここに来てチュニジアのジャスミン革命が、エジプト、アルジェリア、モーリタニア、、バーレーン、イエメン、サウディ・アラビアと燎原の火のように飛び火し、リビアでは内戦状態に至っている。

 リビア、正式名称は、الجماهيرية العربية الليبية الشعبية الإشتراكية العظمى(ラテン文字転写 : al-Jamāhīrīya al-‘Arabīya al-Lībīya al-Sha‘bīya al-Ishtirākīya al-‘Uẓmā アル=ジャマーヒーリーヤ・アル=アラビーヤ・アッ=リービーヤ・アッ=シャアビーヤ・アル=イシュティラーキーヤ・アル=ウズマー)。通称は、ليبيا(Lībiyā リービヤー)。日本語の表記は、大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国。または、社会主義人民リビア・アラブ国。

 ベルベル人が居住していた地域で、古代にはギリシャ人、フェニキア人、カルタゴ、ローマ帝国、東ローマ帝国と目まぐるしく支配者を換えた。7世紀にアラブ人のウマイヤ朝に征服され、イスラーム化と住民のアラブ化が進んだ。その後16世紀にオスマン帝国に併合され、1711年に土着化したトリポリ総督のトルコ系軍人が自立し、カラマンリー朝が成立。19世紀初頭にカラマンリー朝はアメリカ合衆国と第1次バーバリ戦争を繰り広げた。その後イギリスとフランスによるこの地への干渉が始まったため、オスマン帝国はリビアを再征服し、1835年にカラマンリー朝は滅亡。20世紀初頭の伊土戦争により、1911年にはイタリア王国がリビアを植民地化した。植民地化後はイタリア人が入植したが、サヌーシー教団のオマール・ムフタールやベルベル人による激しい抵抗にあい、イタリアによるリビアの完全平定は1932年。第2次世界大戦中には連合国(イギリス)と枢軸国(イタリア、ナチス・ドイツ)の間で激戦が繰り広げられた(北アフリカ戦線)。イタリアの敗戦により、戦後は英仏の共同統治領とされた。1949年の国連の決議により、1951年にリビアはキレナイカ、トリポリタニア、フェッザーンの三州による連合王国として独立。リビア連合王国の国王にはキレナイカの酋長であり、サヌーシー教団の指導者だったイドリース1世が即位し、1963年に連邦制は廃止され、リビア王国が成立した。
 1969年9月1日、ナセル主義者だった27歳のムアンマル・アル=カッザーフィー(カダフィ)ムアンマル・アル=カッザーフィー(アラビア語: معمر محمد عبدالسلام أبو منيار القذافي الدهمشي العنزي‎ ( Mu‛ammar Muhammad ‛Abd 's-Salām Abū Minyār 'l-Qaddhāfī 'd-Dahamshī 'l-‛Anazī 、1942年06月07日〜 )大尉と青年将校たちによるクーデターにより、トルコに滞在中だった国王イドリース1世は退位し、ムアンマル・アル=カッザーフィー(カダフィ大佐)を事実上の元首とする共和国が成立。カッザーフィーは、リビアの砂漠地帯に住むベドウィン(遊牧アラブ)ガッダーファ部族の出である。対外的にはソ連に接近して援助を受け、1970年代から1990年代まで数々のテロを支援したため、アメリカやイギリスなどの欧米諸国と敵対した。1985年に発生した西ヨーロッパでの一連のテロ事件により経済制裁を受け、1986年にはアメリカ軍によって空爆(リビア爆撃)されたが、その報復として1988年にパンアメリカン航空103便爆破事件を起こしている。カッザーフィーはエジプトのナセルを尊敬していたので、ナセルが軍人としては大佐で終わったので大佐を名乗っているのと、クーデターで政権を奪取したが民衆の代表としての意識が強く、将官では具合が悪いためである。カッザーフィーは、日本の明治維新を手本にして、世界を変えた日露戦争の勝利を讃えている。しかし、明治維新と他の国の独裁者とが決定的に違うのは、薩長の指導者に独裁を考えるものがいない。また、藩閥政治も立憲君主制という名の実質上、社会主義共和制に移行している点だ。カッザーフィーは、「広島と長崎に原爆を落とした米国の(軍の)駐留を認めているのは悲しいことだ。あなたたちの祖父などを殺した国となぜ仲良くなれるのか。」と的を得たことを行っているかと思うと、阪神・淡路大震災では「経済力で悪魔(アメリカ)に奉仕してきた日本人に天罰が下った。」と暴言を吐いている。2001年の同時多発テロ事件以降は一転してアメリカと協調路線をとる一方、成果を出せない親アラブ外交から親アフリカ外交へと移行していたが、2011年02月、騒乱状態のリビアにて、「中国の天安門では、武装していない学生も力で鎮圧された。天安門事件のようにデモ隊をたたき潰す。」と述べ、反体制派に対する虐殺などの弾圧を正当化した。

 

 第1次バーバリ戦争(1801〜1805年)とは、アメリカ合衆国と地中海の北アフリカ沿岸のバーバリ諸国と呼ばれたオスマン帝国から任命されたパシャが統治する独立採算州の一つであるトリポリとの間で行われた戦争。トリポリ戦争。アメリカ合衆国が独立して最初に経験する宣戦布告の手続きがされた正式な対外戦争となった。
 当時地中海沿岸の北アフリカは、オスマン帝国の独立採算州として準独立地域の状態にあって、バーバリ諸国と呼ばれており、主にトリポリ、チュニス、アルジェの3つの地域からなり、それぞれにオスマン帝国本国からパシャが任命されて統治していた。バーバリ諸国は自前の武装組織、バルバリア海賊を擁し、地中海を通過する商船の船籍国から通行料と称する上納金を徴収した外、商船を襲って得たキリスト教徒の捕虜を人質にし、その国籍国と交渉して身代金を得ていた。1783年に独立を達成したアメリカ合衆国は、豊富な森林資源による造船コストの安さのため、独立前から海運業が発達していた。独立前は宗主国であったイギリスの商船旗を掲げることでバルバリア海賊の襲撃を免れていたが、独立達成後は独立直後の財政難により、バーバリ諸国のパシャ達が要求する金額の通行料が支払えずにその直後からバルバリア海賊の襲撃目標になり、襲われ続けた。アメリカ合衆国が通行料を要求どおり支払わないため、バーバリ諸国と呼ばれたトリポリ、チュニス、アルジェのパシャ達は、アメリカ合衆国に対し、これまで滞納していた通行料の一括払いと年間の通行料の速やかな支払いを公式に連名で要求してきた。しかし、独立直後の財政難にあえいでいたアメリカ合衆国にとってその額は莫大なものであり、国庫の資金だけで到底支払えるものでなく、実質的な海賊の懐に資金が流れるのを良しとしないアメリカ合衆国の海運業者はこれに協力しようとしなかった。
 このような経過で要求額には満たないものの、アメリカ合衆国は集められるだけの資金をウィリアム・ベインブリッジに持たせて通行料を値切るための交渉に向かわせた。しかし、バーバリ諸国のパシャ達は納得しなかった。なお、このときベインブリッジは、最初に寄港したオスマン帝国の首都であるイスタンブルでトリポリへ行くよう指示され、トリポリ入港にあたってオスマン帝国の国旗を掲げて入港させられるという屈辱を味わっている。
 抑留された捕虜に対するアメリカ合衆国からの身代金の支払いも滞ると見るや、違約金代わりにキリスト教徒の捕虜を奴隷として転売する姿勢を見せ始めた。アメリカ合衆国は財政難により、捕虜の身代金を支払えないため、この事態に至って実力による解決を選択した。アメリカ海軍はアメリカ海兵隊とともにこれらの海賊都市を攻撃し、海賊の頭目にアメリカ商船を襲撃しないことを誓わせ、安全な通行権を得ることとなった。
 この戦争は、他の紛争と混同され、しばしば「アメリカの忘れられた戦争」と呼ばれる。バーバリ諸国に対する制裁行為は、トーマス・ジェファーソンおよびジェームズ・マディスン政権によって行われた。海兵隊讃歌では、その歌い出しでこの戦争を歌っている。
モンテズマの回廊からトリポリの海岸まで...
From the halls of Montezuma to the shores of Tripoli...

 トーマス・ジェファーソンとは、アメリカ合衆国第3代大統領、2ドル紙幣、5セント硬貨にもなっているが、黒人奴隷を所有する農場主であり、黒人女奴隷に種付けをして、子供を奴隷にしていた。ベルベル人とかバーバリー、バルバリアは古代ギリシア語のBárbarosを語源とし、言葉の通じない野蛮人という意味。わずか100年前に国家を挙げて奴隷制に反対していたのは日本だけだったということを忘れてならない。遊牧民族の毛唐や砂漠の遊牧民のベルベル人やアラブ人とは、全く違う人種だということである。第1次バーバリ戦争と現在のソマリアの海賊と酷似している。何といっても、ソマリアの海賊もイタリアの植民地であり、リビアもイタリアの植民地になった悪影響が大きい。

緑の書 [−] / ムアンマル・アル カッザーフィ (著); 藤田 進 (翻訳); 第三書館 (刊)
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2011年02月04日

老醜若作りムバーラクと外国人排斥

 アルジャジーラで、「エジプトは7千年の歴史があり、知恵で解決‥」とか言っていたのでびっくりした。メソポタミアとまあエジプト文明は現代の人類の文明の起源には違いないが、せいぜい5千年。ギザの3大ピラミッド
の古王国からなら、4千年ちょっとしか経っていないではないか。中華思想も甚だしい。ジプシーという言葉は、エジプシャン(エジプト人)を由来する。

 エジプト第2中間期に、ヒクソス、第3中間期、末期王朝では、ヌビア、アッシリア、アケメネス朝ペルシャに制服され、プトレマイオス朝はアレクサンドロスの配下の武将が作った王朝である。その後、ローマ帝国、東ローマ帝国、イスラム帝国のウマイヤ朝、アッバース朝、トゥールーン朝・イフシード朝、ファーティマ朝、アイユーブ朝、マムルーク朝のアラブに支配され、フランスのナポレオン・ボナパルトによるエジプト遠征でフランス、オスマン帝国のトルコ、ムハンマド・アリー朝、そしてイギリスの保護国と枚挙の暇がない。古代の言葉もアラビア語に置き換わり、民族もかなり入れ替わっている。

エジプト初期王朝時代(第1〜第2王朝)BC3150〜BC2686年
エジプト古王国(第3〜6王朝)BC2986〜BC2181年
エジプト第1中間期(第7〜第10王朝) BC2181〜BC2040年
エジプト中王国(第11〜12王朝) BC2040〜BC1663年
エジプト第2中間期(第13〜第17王朝)BC1663〜BC1570年
エジプト新王国(第18〜20王朝)BC1570〜BC1070年
エジプト第3中間期(大司祭国家、第21〜第26王朝)BC1069〜BC525年
エジプト末期王朝(第27〜第31王朝)BC525〜BC332年
プトレマイオス朝 BC332〜BC30年

ムハンマド・ホスニー・ムバーラク(محمد حسني مبارك Muhammad Husnī Mubārak, 1928年05月04日〜)

 空軍の将軍で、1981年10月にサーダート大統領が暗殺された後、大統領として、ミスル(エジプト)の権力を30年近くも握っている。かつては親ソだったが、親米、親イスラエル。なんと、82歳でもうすぐ83歳。整形を繰り返し、染髪し鬘ではないか。若作りして権力にしがみつく爺は醜い。全く関係ない外国人を襲撃して、治安に不安を抱かせ、ムスリム同胞団をアルカイダのようなテロリストとして不安を煽っている。小沢一郎、菅直人、江田五月、鳩山由紀夫、お前らのことを言っているんだよ。100万人で国会をかこみ、民主党、自民党、社民党、公明党、共産党‥と既成政党を全て否定したい。

http://ameblo.jp/fifi2121/
2011-02-03 13:23:34
エジプトの夜明け〜ムバラク支持派の正体

なぜ今頃になってムバラク支持派がメディアへのアピールを始めたのか。
ムバラクはこの長きにわたる独裁政権において今まで副大統領とゆうポジショニングを設けてこなかった。これはムバラクの前のサダト大統領(これまた親米政権)が軍のクーデターによって射殺されたのが副大統領を含めた幹部の陰謀によるのではないかとの見方があり、自分も同じように暗殺されることをおそれてきたから。
それが今回のデモを受けて1月29日、突然スレイマンという人物を側近として副大統領に任命した。このスレイマンという人物は何を隠そうエジプトの秘密警察を束ねる内務省長官でCIAとの繋がりも深い、もうお気付きだとは思いますが、そう、デモが開始され一週間以上も経つこの時期になぜ、突然ムバラク支持派が現れた謎がとけますよね?しかもこの数日アメリカとスレイマンが電話でやりとりもしているこのタイミングに。日本のメディアでも触れていますが、ムバラク支持派の人が秘密警察のIDを所持しているとの情報がありますが、つじつまが合うわけですよ。
ムバラク反対派が100万越えでデモしている中にだれが好きこのんで突っ込んできますか?はぁ、本当にエジプトの政治は腐敗している。自分の支持なんてものは金で買えると信じてるんですよ。まぁ、実際これまで賄賂で回してきた行政ですから。それがこんな時に露骨にでちゃうと、世界にその汚職の仕組みを見せているようで情けないですよね。
なんだかムバラク支持派の持っている真新しい垂れ幕やプラカードは個人が作ったとは思えないクオリティだったし、何よりムバラクの写真うつりが良すぎだし。本人がチョイスしちゃってんのかなと思わせるほどで。

 しかし、1997年11月17日午前09時(現地時間)ごろ、ルクソールの王家の谷近くにある、ハトシェプスト女王葬祭殿の前にて、外国人観光客ら200名に向けて待ち伏せていた少なくとも6名(もっと多かったという証言もある)のテロリストが、守衛を襲撃した後、無差別に火器を乱射し銃弾がなくなると短剣で襲ったルクソール事件を忘れてはならない。新婚旅行客を含むスイス人、ドイツ人、日本人(観光客9名、添乗員1名)ら観光客61名とエジプト人警察官2名の合わせて63名が死亡、85名が負傷した。

 エジプトに限らないが、外国に滞在するというのは、いつ殺されるかわかったものではない。理不尽な死の危険性が高くなる。パキスタンが実効支配しているスカルドゥという町にわざわざ行ったことがある。フンザやギルギットはインダス河の支流のフンザ川沿いで、その本流のインダス河の上流部、ナンガパルパットの奥、K2やガッシャブルムの手前の場所である。ここから、ナンガパルパットまで続く標高4000mのデオサイ高原まで馬で登り始めていたとき、ちょうどパキスタンの独立記念日で、小学生が行進してやって来た。高揚している小学生は持っていたパキスタン国旗を馬の鼻面に近づけたので、馬は驚いて、危うく落馬するところだった。外国人排斥とはいわないにしても、それに近い状態だった。結局、デオサイ高原まで馬では怖いので、ジープで登った。

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2011年01月31日

ミスル(エジプト)での反政府暴動に伴う略奪と正倉院



 チュニジアの革命がミスル(مصر、エジプト)に飛び火した。

 アフリカはミスルにしか行ったことがない。貧相な空港に着くと、日本のODAのバラ撒き団体に勤める後輩が、オンアライバル・ビザの申請場所、つまり、パスポートチェックの前まで迎えに来た。係官が日本人の女にいかにも賄賂を欲しげに、切符を勿体を付けて、貼っていたので時間が掛かった。そんなこんなで散々待たされたので、後輩が堪り兼ねて中まで入ってきたのだった。早くしろと彼が言ったら、すぐにビザが出た。荷物も係官に言ったら、外交特権なのか?フリー。何て国だというのが第一印象。後輩は仕事があるので、運転手と観光に出掛けたが、駐車すると、必ず、どこからともなく貧乏人がやってきて、バクシーシをねだる。路上に縄張りがあるらしい。あるときは、癩病らしく鼻がもげているのまでやって来た。運転手が言うには、バクシーシを渡さないと、車に何をされるかわからないし、渡すと車を見てくれるらしい。一種の福祉になっているわけだが、実に面倒で煩雑。とんでもない国だと感じた。

 フスハー(正則アラビア語)ではなく、ミスル・アンミーヤ(アラビア語エジプト方言)。「いいえ」は「ラー」はフスハーと同じだが、「はい」に当たるミスル・アンミーヤは「アイワ」で、当時はまだ、吸収消滅していなかったソニーの子会社のブランドの「アイワ」の看板がカイロ(カーヒラ、القاهرة ; al-Qāhira、エジプト方言ではカーヘラ)ではよく見られた。ナイル河沿岸以外はすぐ砂漠なので砂煙と排気ガスの首都である。車のナンバーでアラビア数字(算数の時間に習ったのとかなり違うのもある)を覚えた。

 当然、考古学博物館にも出掛けたが、この時は、タクシーで1人で行ったのでゆっくり見れた。確か冷房などなく暑かったのを覚えている。ミイラは全部見たはずで、今回破壊されたのも見ているはずだ。アメリカがバグダッドに侵攻したときもメソポタミア文明の遺物が略奪されたが、これらに比べると、正倉院御物などは、756年(天平勝宝8年)に収められてから、戦国時代などの戦火を越えて、足利義満や織田信長などが蘭奢侍を切り取ったりはしたが、1255年も大した略奪や盗難にも遇っていない。奇跡としか言いようがない。ミスルなどと比べるのが笑止なのかも知れないが、日本というのは明らかに他の世界とは異なる1つの文明世界である。



正倉院の世界 (別冊太陽 日本のこころ) [ムック] / 北啓 太 (監修); 平凡社 (刊)正倉院の世界 (別冊太陽 日本のこころ) [ムック] / 北啓 太 (監修); 平凡社 (刊)
すぐわかる正倉院の美術―見方と歴史 [単行本] / 米田 雄介 (著); 東京美術 (刊)すぐわかる正倉院の美術―見方と歴史 [単行本] / 米田 雄介 (著); 東京美術 (刊)
正倉院文書の世界―よみがえる天平の時代 (中公新書) [新書] / 丸山 裕美子 (著); 中央公論新社 (刊)正倉院文書の世界―よみがえる天平の時代 (中公新書) [新書] / 丸山 裕美子 (著); 中...
正倉院 (中公新書) [新書] / 杉本 一樹 (著); 中央公論新社 (刊)正倉院 (中公新書) [新書] / 杉本 一樹 (著); 中央公論新社 (刊)
正倉院 (岩波新書) [新書] / 東野 治之 (著); 岩波書店 (刊)正倉院 (岩波新書) [新書] / 東野 治之 (著); 岩波書店 (刊)
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