2011年03月29日

リビア内戦 ベルベル人、カッザーフィーの故郷、シルト攻防戦と石油の利権


SocialistPeople'sLibya.jpg政府軍
大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国(社会主義人民リビア・アラブ国)
革命指導者:ムアンマル・カッザーフィー

 かつてリビアは1972年03月にエジプト・シリアとともにアラブ共和国連邦とアラブ共和国連邦を結成し、汎アラブ主義を唱えていた。同一の国家を強調するため、リビアはエジプトの国旗を共用していた。ところが、第4次中東戦争の後の1977年11月11日(11月19日からのイスラエル訪問を発表)、エジプトのサダト大統領はアラブの宿敵イスラエルと単独で和解し。エジプトのサダト大統領は、友好条約を結んだ上、アメリカ合衆国寄りの外交を開始した。カッザーフィーは怒り狂ってエジプトとの断交を決め、側近たちに翌日までに新しい国旗を完成させろと厳命した(しかもそれは深夜)。時間がないため側近たちの苦肉の策で、緑一色(緑色はイスラームの開祖ムハンマドのターバンの色とされ、イスラーム世界では最高の色)の国旗になってしまった。

LibyanRepublic.jpg反政府軍
リビア共和国(国民評議会)
国民評議会議長:ムスタファ・モハメド・アブドルジャリル

 ムアンマル・カッザーフィー(カダフィ大佐)の強権的な統治と反政府活動に対する厳しい監視や弾圧、豊富な石油や天然ガス資源の恣意的な富の配分に、国民、権力の後ろ盾となってきた軍や部族の間にも、不満は鬱積していた。
 2011年02月15日、チュニジアでのジャスミン革命がリビアに波及し、反政府デモがリビア東部のキレナイカにあるベンガジにて発生。警官隊や政府支持勢力と衝突。警官を含む38人が負傷。反体制派が占領したベンガジなどの東部は、カダフィに打倒されたイドリース1世の出身部族もあり、弾圧を受けてきた。反乱を呼びかけた元公安相も東部部族出身。反政府デモが全土に拡がり、デモ参加者は数万人規模となった。カッザーフィーは、弾圧にリビア政府直属の民兵だけでなく外国人の傭兵も投入し、死傷者が増加した。
 21日には反政府デモが首都トリポリにまで飛び火し、政府施設である人民ホール、全人民会議、警察署などが炎上。トリポリや近郊都市で発生した反政府デモに対して政府当局は空爆を実施。戦闘機やヘリコプターによる機銃掃射、手榴弾や重火器、さらには戦車を使用してデモ隊への攻撃を開始し、無差別虐殺が始まった。油田でのストライキも発生し、操業が停止。
 こうした政府当局による大規模な弾圧に対し、政権側からも批判の声が上がり始めたが、22日カッザーフィーは演説の中で反政府運動を「天安門事件のように叩き潰す。」と強硬姿勢を崩さず、また国外亡命の可能性についても改めて否定。同日、国際連合安全保障理事会にてリビア情勢についての緊急会合が行われ、国民に対する武力行使を非難する報道機関向け声明を採択。

 23日までにリビア東部は反政府派に掌握された。24日、石油積み出し施設のある北西部のザーウィヤで、反体制デモを行っていた勢力が立て籠もっていたモスクをミサイルで撃破し、さらに自動小銃で掃射するという残虐行為に出た。死者が100人以上。25日、反政府デモで治安部隊が参加者に無差別発砲し、首都トリポリだけで10人の死者が出た。26日〜28日、首都トリポリ以外がほぼ反政府側の手に落ち追い詰められたカッザーフィーは支持派市民に対して武器を渡し、反政府運動の封じ込めに乗り出し、反体制側もミスラータで義勇兵を集め始め、内戦状態になった。27日、カッザーフィーに反旗を翻し辞任したアブドルジャリル前司法書記がベンガジにて暫定政権「リビア国民評議会」設立を宣言、国民結束を呼びかけ、首都トリポリの一部は反政府勢力によって制圧された。同日、国際連合安全保障理事会はリビアに対する制裁決議を全会一致で採択した(国際連合安全保障理事会決議1970)。これと並行して、国際刑事裁判所に付託することも決定。

 アブドルジャリル率いる国民評議会の下に当初乱立していた反政府勢力の自治政権が結集し始め、03月02日にはベンガジで会合を開き、アブドルジャリルが正式に同評議会の議長に就任。10日、フランス政府は国民評議会をリビアにおける正式な政府として承認。飛行禁止区域の制定を得られなかったことで、装備で劣る評議会軍は戦闘でも劣勢に立ち、10日ごろから後退を余儀なくされた。評議会は各国に軍事介入を求めたが、積極的な姿勢は少なかった。飛行禁止空域設定の国連決議はアメリカ・露西亜・支那などの反対で採択される目途が付かず、単独で設定する構えを示していた北大西洋条約機構(NATO)はアメリカの反対で決議をまとめることができなかった。EUにおいても、国家承認をしたフランスやイギリスなど一部の国の支持に留まり、カッザーフィー政権による評議会側制圧都市や評議会軍部隊への空爆が続いた。
 12日にはアラブ連盟が、リビアにおけるカッザーフィー政権の正当性を否定し、また飛行禁止区域の設定を支持する決定。このことと評議会軍が劣勢になったこと、カッザーフィーが17日に「ベンガジへの総攻撃と無差別殺戮をも辞さない。」と演説したことが飛行禁止空域設定への追い風となり、同日国連安保理は飛行禁止区域設定の設定と、リビアへの事実上の空爆を容認する決議を賛成10、棄権5(支那・露西亜・インド・ドイツ・ブラジル)で採択。

 カッザーフィーは国際的な軍事介入に反発する姿勢を見せたが、いったんは18日に即時停戦を受け入れたが、直後にベンガジやミスラタに対する攻撃を継続。03月19日、フランスが軍事介入を行う旨を宣言し、直後に米英仏を中心とした多国籍軍がカッザーフィー政府軍への空爆を開始。アメリカの「オデッセイの夜明け作戦」によりトマホークが100発以上発射された。カッザーフィーは直後に国営放送で演説し、国民に対し徹底抗戦を呼びかけた。
 リビアはかつてパンアメリカン航空103便爆破事件、リビア爆撃など米英及びイスラエルと対立し、近年は関係改善していたが、今回の攻撃も米英及びユダヤ系でモサドの犬のサルコジ大統領が主導している。

 国民評議会がNATO軍の空爆支援を受けて進軍する中で、政府軍はカッザーフィーの出身地で政府軍の要衝でもあるシルトで戦車を配備し、徹底抗戦の構えを見せている。反体制派国民評議会の報道官は29日、「シルトへ向けて進軍していた国民評議会軍が政府軍の激しい攻撃を受けて、東方150qのビンジャワドまで撤退した。と説明した。国民評議会は28日にシルト東方120qのナファリアに到達しシルト攻略を目指したが、政府軍は精鋭部隊を投入し、防衛に当たっている。国民評議会が西部で唯一、掌握するミスラタでも激しい戦闘が続いている。政府軍は数日間にわたり市内へ向けて攻撃した後、28日夕方に「ミスラタを解放した。」と一方的な停戦を宣言した。実際は反体制派が依然として同地を支配しているという。ミスラタはシルトと首都トリポリの間に位置する唯一の主要都市であり、政府側は奪還に力を注ぐ。一方、NATO軍は27日夜に続き28日朝にシルトを空爆。またリビア国営放送によると、トリポリ南方のガリアンとミズダも爆撃。
 アラブ諸国から多国籍軍に参加するカタールが28日に国民評議会政府を正式承認したことに対して、リビア政府は「著しい内政干渉」と非難。また、米政府は近日中に暫定政府の本拠地ベンガジへ使節を送る見通し。米国は暫定政府が奪還した地域で、石油輸出を再開することも支持する方針。

 アメリカやフランスのユダヤとしては、憎っくきテロリスト、カッザーフィーを叩き潰した上に良質の石油利権が手に入る、正に一石二鳥。

恐怖のリビア監獄脱出記―“不当逮捕”された商社マンの痛恨の記録 (カッパ・ブックス) [新書]...
砂漠の思想―リビアで考えたこと [単行本] / 野田 正彰 (著); みすず書房 (刊)

 あまり知られていないが、日本は硫黄分が多くオクタン価の低い質の悪いアラビア産の石油を使っている。そのため、日本でのガソリンは、レギュラーで90、ハイオクで98〜100。欧州は、北海油田やリビア産の石油を使ッているので、日本よりオクタン価が高く、欧州はレギュラーで95程度、ハイオクは100。欧州車の中には、スポーツカーでない大衆車でもハイオク指定になっているのは、日本のレギュラーがオクタン価90で、低質なものだからだ。

 ベドウィンの部族、サウード家はアラビア半島の支配を巡ってエジプトやオスマン帝国、他のアラブ部族と争い興亡を繰り返した(第1次サウード王国、第2次サウード王国)。1902年、僅か22歳のアブドゥルアズィーズはサウード王家先祖伝来の本拠地リヤドをライバルのラシード家から奪回した。アブドゥルアズィーズは征服を続けた。
 第1次世界大戦時、イギリスがオスマン帝国の後方のアラブ人を立ち上がらせ戦わせようとした。イギリスの3枚舌外交である。
1915年10月 フサイン−マクマホン協定(中東のアラブ独立、公開)
1916年05月 サイクス・ピコ協定(英仏による中東分割、秘密協定)
1917年11月 バルフォア宣言(パレスチナにおけるユダヤ民族居住地建設、公開)
 ハーシム家のフサイン・イブン・アリーはイギリスとフサイン−マクマホン協定を結び、イラクやシリア、パレスチナも含むアラビア全域の独立と支配を目論み、トーマス・エドワード・ロレンス(アラビアのロレンス)の支援で、アラブの反乱を起こした。オスマン帝国がダマスクスからマディーナまでヒジャーズを縦断して敷設したヒジャーズ鉄道を破壊するなどの戦闘に協力。1916年には、フサイン・イブン・アリーはイギリスの後ろ盾でヒジャーズ王国を建国し、ヒジャーズは独立したが、フサイン・イブン・アリーは結局王国をアラブ全体に広げることはできず、1924年にはナジュドからアブドゥルアズィーズ・イブン=サウードが侵攻。フサイン・イブン・アリーは退位してキプロスに逃れたが、その翌年には長男アリー・イブン・フセインが降伏し、弟のイラク王国に亡命することで、ハーシム家のヒジャーズ支配は終焉。ヒジャーズを攻略したアブドゥルアズィーズ・イブン−サウードは1926年にヒジャーズ王を称し、1931年にはヒジャーズ−ナジュド王国という連合王国の王となり、1932年にはこれをサウジアラビア王国と改称した。アブドゥルアズィーズの政治的成功も経済までには及ばず、1938年03月に油田が発見されるまで貧しく、油田開発は第2次世界大戦のために中断したが、1946年には開発が本格的に始まり、1949年に採油活動が全面操業。サウジアラビアは世界最大の石油埋蔵量、生産量及び輸出量を誇るエネルギー大国。輸出総額の約9割、財政収入の約8割を石油に依存している。
 日本はこの専制国家、サウジアラビアが最大の石油輸入国である。他のアラブ首長国連邦、カタール、イラン、ロシア、クウェート、オマーンと中世のままの専制国家1位から並んでいる。 

日本の石油輸入先
2010年度21,535kℓ(中東地域で86.5%)

1位 サウジアラビア 28.8%
2位 アラブ首長国連邦 20.4%
3位 カタール 11.8%
4位 イラン 9.6%
5位 ロシア 7.2%
6位 クウェート 7.1%
7位 オマーン 3.3%
8位 東南アジア諸国 3.3%
9位 イラク 3.2%

裏切りの同盟 アメリカとサウジアラビアの危険な友好関係不思議の国サウジアラビア―パラドクス・パラダイス (文春新書) [新書] / 竹下 節子 (著); 文藝春秋 (刊)アラビアのロレンス【完全版】 デラックス・コレクターズ・エディション [DVD] / ピーター・オトゥール, オマー・シャリフ, アレック・ギネス, アンソニー・クイン, ホセ・ファーラー (出演); デヴィッド・リーン (監督)アラビアのロレンス (平凡社ライブラリー) [単行本] / ロバート グレーヴズ (著); Robert Graves (原著); 小野 忍 (翻訳); 平凡社 (刊)
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2011年03月07日

リビア内戦と米初の海外派兵バーバリ戦争


 チュニジアはまだ故地カルタゴの成れの果てだから、上に棲息している人種はともかく、古代に馴染みはあった。リビアというと、カッザーフィー大佐その名前だけは有名だが、それ故、当然行ったこともないし行きたくもないし全く興味がなかった。それが、ここに来てチュニジアのジャスミン革命が、エジプト、アルジェリア、モーリタニア、、バーレーン、イエメン、サウディ・アラビアと燎原の火のように飛び火し、リビアでは内戦状態に至っている。

 リビア、正式名称は、الجماهيرية العربية الليبية الشعبية الإشتراكية العظمى(ラテン文字転写 : al-Jamāhīrīya al-‘Arabīya al-Lībīya al-Sha‘bīya al-Ishtirākīya al-‘Uẓmā アル=ジャマーヒーリーヤ・アル=アラビーヤ・アッ=リービーヤ・アッ=シャアビーヤ・アル=イシュティラーキーヤ・アル=ウズマー)。通称は、ليبيا(Lībiyā リービヤー)。日本語の表記は、大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国。または、社会主義人民リビア・アラブ国。

 ベルベル人が居住していた地域で、古代にはギリシャ人、フェニキア人、カルタゴ、ローマ帝国、東ローマ帝国と目まぐるしく支配者を換えた。7世紀にアラブ人のウマイヤ朝に征服され、イスラーム化と住民のアラブ化が進んだ。その後16世紀にオスマン帝国に併合され、1711年に土着化したトリポリ総督のトルコ系軍人が自立し、カラマンリー朝が成立。19世紀初頭にカラマンリー朝はアメリカ合衆国と第1次バーバリ戦争を繰り広げた。その後イギリスとフランスによるこの地への干渉が始まったため、オスマン帝国はリビアを再征服し、1835年にカラマンリー朝は滅亡。20世紀初頭の伊土戦争により、1911年にはイタリア王国がリビアを植民地化した。植民地化後はイタリア人が入植したが、サヌーシー教団のオマール・ムフタールやベルベル人による激しい抵抗にあい、イタリアによるリビアの完全平定は1932年。第2次世界大戦中には連合国(イギリス)と枢軸国(イタリア、ナチス・ドイツ)の間で激戦が繰り広げられた(北アフリカ戦線)。イタリアの敗戦により、戦後は英仏の共同統治領とされた。1949年の国連の決議により、1951年にリビアはキレナイカ、トリポリタニア、フェッザーンの三州による連合王国として独立。リビア連合王国の国王にはキレナイカの酋長であり、サヌーシー教団の指導者だったイドリース1世が即位し、1963年に連邦制は廃止され、リビア王国が成立した。
 1969年9月1日、ナセル主義者だった27歳のムアンマル・アル=カッザーフィー(カダフィ)ムアンマル・アル=カッザーフィー(アラビア語: معمر محمد عبدالسلام أبو منيار القذافي الدهمشي العنزي‎ ( Mu‛ammar Muhammad ‛Abd 's-Salām Abū Minyār 'l-Qaddhāfī 'd-Dahamshī 'l-‛Anazī 、1942年06月07日〜 )大尉と青年将校たちによるクーデターにより、トルコに滞在中だった国王イドリース1世は退位し、ムアンマル・アル=カッザーフィー(カダフィ大佐)を事実上の元首とする共和国が成立。カッザーフィーは、リビアの砂漠地帯に住むベドウィン(遊牧アラブ)ガッダーファ部族の出である。対外的にはソ連に接近して援助を受け、1970年代から1990年代まで数々のテロを支援したため、アメリカやイギリスなどの欧米諸国と敵対した。1985年に発生した西ヨーロッパでの一連のテロ事件により経済制裁を受け、1986年にはアメリカ軍によって空爆(リビア爆撃)されたが、その報復として1988年にパンアメリカン航空103便爆破事件を起こしている。カッザーフィーはエジプトのナセルを尊敬していたので、ナセルが軍人としては大佐で終わったので大佐を名乗っているのと、クーデターで政権を奪取したが民衆の代表としての意識が強く、将官では具合が悪いためである。カッザーフィーは、日本の明治維新を手本にして、世界を変えた日露戦争の勝利を讃えている。しかし、明治維新と他の国の独裁者とが決定的に違うのは、薩長の指導者に独裁を考えるものがいない。また、藩閥政治も立憲君主制という名の実質上、社会主義共和制に移行している点だ。カッザーフィーは、「広島と長崎に原爆を落とした米国の(軍の)駐留を認めているのは悲しいことだ。あなたたちの祖父などを殺した国となぜ仲良くなれるのか。」と的を得たことを行っているかと思うと、阪神・淡路大震災では「経済力で悪魔(アメリカ)に奉仕してきた日本人に天罰が下った。」と暴言を吐いている。2001年の同時多発テロ事件以降は一転してアメリカと協調路線をとる一方、成果を出せない親アラブ外交から親アフリカ外交へと移行していたが、2011年02月、騒乱状態のリビアにて、「中国の天安門では、武装していない学生も力で鎮圧された。天安門事件のようにデモ隊をたたき潰す。」と述べ、反体制派に対する虐殺などの弾圧を正当化した。

 

 第1次バーバリ戦争(1801〜1805年)とは、アメリカ合衆国と地中海の北アフリカ沿岸のバーバリ諸国と呼ばれたオスマン帝国から任命されたパシャが統治する独立採算州の一つであるトリポリとの間で行われた戦争。トリポリ戦争。アメリカ合衆国が独立して最初に経験する宣戦布告の手続きがされた正式な対外戦争となった。
 当時地中海沿岸の北アフリカは、オスマン帝国の独立採算州として準独立地域の状態にあって、バーバリ諸国と呼ばれており、主にトリポリ、チュニス、アルジェの3つの地域からなり、それぞれにオスマン帝国本国からパシャが任命されて統治していた。バーバリ諸国は自前の武装組織、バルバリア海賊を擁し、地中海を通過する商船の船籍国から通行料と称する上納金を徴収した外、商船を襲って得たキリスト教徒の捕虜を人質にし、その国籍国と交渉して身代金を得ていた。1783年に独立を達成したアメリカ合衆国は、豊富な森林資源による造船コストの安さのため、独立前から海運業が発達していた。独立前は宗主国であったイギリスの商船旗を掲げることでバルバリア海賊の襲撃を免れていたが、独立達成後は独立直後の財政難により、バーバリ諸国のパシャ達が要求する金額の通行料が支払えずにその直後からバルバリア海賊の襲撃目標になり、襲われ続けた。アメリカ合衆国が通行料を要求どおり支払わないため、バーバリ諸国と呼ばれたトリポリ、チュニス、アルジェのパシャ達は、アメリカ合衆国に対し、これまで滞納していた通行料の一括払いと年間の通行料の速やかな支払いを公式に連名で要求してきた。しかし、独立直後の財政難にあえいでいたアメリカ合衆国にとってその額は莫大なものであり、国庫の資金だけで到底支払えるものでなく、実質的な海賊の懐に資金が流れるのを良しとしないアメリカ合衆国の海運業者はこれに協力しようとしなかった。
 このような経過で要求額には満たないものの、アメリカ合衆国は集められるだけの資金をウィリアム・ベインブリッジに持たせて通行料を値切るための交渉に向かわせた。しかし、バーバリ諸国のパシャ達は納得しなかった。なお、このときベインブリッジは、最初に寄港したオスマン帝国の首都であるイスタンブルでトリポリへ行くよう指示され、トリポリ入港にあたってオスマン帝国の国旗を掲げて入港させられるという屈辱を味わっている。
 抑留された捕虜に対するアメリカ合衆国からの身代金の支払いも滞ると見るや、違約金代わりにキリスト教徒の捕虜を奴隷として転売する姿勢を見せ始めた。アメリカ合衆国は財政難により、捕虜の身代金を支払えないため、この事態に至って実力による解決を選択した。アメリカ海軍はアメリカ海兵隊とともにこれらの海賊都市を攻撃し、海賊の頭目にアメリカ商船を襲撃しないことを誓わせ、安全な通行権を得ることとなった。
 この戦争は、他の紛争と混同され、しばしば「アメリカの忘れられた戦争」と呼ばれる。バーバリ諸国に対する制裁行為は、トーマス・ジェファーソンおよびジェームズ・マディスン政権によって行われた。海兵隊讃歌では、その歌い出しでこの戦争を歌っている。
モンテズマの回廊からトリポリの海岸まで...
From the halls of Montezuma to the shores of Tripoli...

 トーマス・ジェファーソンとは、アメリカ合衆国第3代大統領、2ドル紙幣、5セント硬貨にもなっているが、黒人奴隷を所有する農場主であり、黒人女奴隷に種付けをして、子供を奴隷にしていた。ベルベル人とかバーバリー、バルバリアは古代ギリシア語のBárbarosを語源とし、言葉の通じない野蛮人という意味。わずか100年前に国家を挙げて奴隷制に反対していたのは日本だけだったということを忘れてならない。遊牧民族の毛唐や砂漠の遊牧民のベルベル人やアラブ人とは、全く違う人種だということである。第1次バーバリ戦争と現在のソマリアの海賊と酷似している。何といっても、ソマリアの海賊もイタリアの植民地であり、リビアもイタリアの植民地になった悪影響が大きい。

緑の書 [−] / ムアンマル・アル カッザーフィ (著); 藤田 進 (翻訳); 第三書館 (刊)
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2011年02月04日

老醜若作りムバーラクと外国人排斥


 アルジャジーラで、「エジプトは7千年の歴史があり、知恵で解決‥」とか言っていたのでびっくりした。メソポタミアとまあエジプト文明は現代の人類の文明の起源には違いないが、せいぜい5千年。ギザの3大ピラミッド
の古王国からなら、4千年ちょっとしか経っていないではないか。中華思想も甚だしい。ジプシーという言葉は、エジプシャン(エジプト人)を由来する。

 エジプト第2中間期に、ヒクソス、第3中間期、末期王朝では、ヌビア、アッシリア、アケメネス朝ペルシャに制服され、プトレマイオス朝はアレクサンドロスの配下の武将が作った王朝である。その後、ローマ帝国、東ローマ帝国、イスラム帝国のウマイヤ朝、アッバース朝、トゥールーン朝・イフシード朝、ファーティマ朝、アイユーブ朝、マムルーク朝のアラブに支配され、フランスのナポレオン・ボナパルトによるエジプト遠征でフランス、オスマン帝国のトルコ、ムハンマド・アリー朝、そしてイギリスの保護国と枚挙の暇がない。古代の言葉もアラビア語に置き換わり、民族もかなり入れ替わっている。

エジプト初期王朝時代(第1〜第2王朝)BC3150〜BC2686年
エジプト古王国(第3〜6王朝)BC2986〜BC2181年
エジプト第1中間期(第7〜第10王朝) BC2181〜BC2040年
エジプト中王国(第11〜12王朝) BC2040〜BC1663年
エジプト第2中間期(第13〜第17王朝)BC1663〜BC1570年
エジプト新王国(第18〜20王朝)BC1570〜BC1070年
エジプト第3中間期(大司祭国家、第21〜第26王朝)BC1069〜BC525年
エジプト末期王朝(第27〜第31王朝)BC525〜BC332年
プトレマイオス朝 BC332〜BC30年

ムハンマド・ホスニー・ムバーラク(محمد حسني مبارك Muhammad Husnī Mubārak, 1928年05月04日〜)

 空軍の将軍で、1981年10月にサーダート大統領が暗殺された後、大統領として、ミスル(エジプト)の権力を30年近くも握っている。かつては親ソだったが、親米、親イスラエル。なんと、82歳でもうすぐ83歳。整形を繰り返し、染髪し鬘ではないか。若作りして権力にしがみつく爺は醜い。全く関係ない外国人を襲撃して、治安に不安を抱かせ、ムスリム同胞団をアルカイダのようなテロリストとして不安を煽っている。小沢一郎、菅直人、江田五月、鳩山由紀夫、お前らのことを言っているんだよ。100万人で国会をかこみ、民主党、自民党、社民党、公明党、共産党‥と既成政党を全て否定したい。

http://ameblo.jp/fifi2121/
2011-02-03 13:23:34
エジプトの夜明け〜ムバラク支持派の正体

なぜ今頃になってムバラク支持派がメディアへのアピールを始めたのか。
ムバラクはこの長きにわたる独裁政権において今まで副大統領とゆうポジショニングを設けてこなかった。これはムバラクの前のサダト大統領(これまた親米政権)が軍のクーデターによって射殺されたのが副大統領を含めた幹部の陰謀によるのではないかとの見方があり、自分も同じように暗殺されることをおそれてきたから。
それが今回のデモを受けて1月29日、突然スレイマンという人物を側近として副大統領に任命した。このスレイマンという人物は何を隠そうエジプトの秘密警察を束ねる内務省長官でCIAとの繋がりも深い、もうお気付きだとは思いますが、そう、デモが開始され一週間以上も経つこの時期になぜ、突然ムバラク支持派が現れた謎がとけますよね?しかもこの数日アメリカとスレイマンが電話でやりとりもしているこのタイミングに。日本のメディアでも触れていますが、ムバラク支持派の人が秘密警察のIDを所持しているとの情報がありますが、つじつまが合うわけですよ。
ムバラク反対派が100万越えでデモしている中にだれが好きこのんで突っ込んできますか?はぁ、本当にエジプトの政治は腐敗している。自分の支持なんてものは金で買えると信じてるんですよ。まぁ、実際これまで賄賂で回してきた行政ですから。それがこんな時に露骨にでちゃうと、世界にその汚職の仕組みを見せているようで情けないですよね。
なんだかムバラク支持派の持っている真新しい垂れ幕やプラカードは個人が作ったとは思えないクオリティだったし、何よりムバラクの写真うつりが良すぎだし。本人がチョイスしちゃってんのかなと思わせるほどで。

 しかし、1997年11月17日午前09時(現地時間)ごろ、ルクソールの王家の谷近くにある、ハトシェプスト女王葬祭殿の前にて、外国人観光客ら200名に向けて待ち伏せていた少なくとも6名(もっと多かったという証言もある)のテロリストが、守衛を襲撃した後、無差別に火器を乱射し銃弾がなくなると短剣で襲ったルクソール事件を忘れてはならない。新婚旅行客を含むスイス人、ドイツ人、日本人(観光客9名、添乗員1名)ら観光客61名とエジプト人警察官2名の合わせて63名が死亡、85名が負傷した。

 エジプトに限らないが、外国に滞在するというのは、いつ殺されるかわかったものではない。理不尽な死の危険性が高くなる。パキスタンが実効支配しているスカルドゥという町にわざわざ行ったことがある。フンザやギルギットはインダス河の支流のフンザ川沿いで、その本流のインダス河の上流部、ナンガパルパットの奥、K2やガッシャブルムの手前の場所である。ここから、ナンガパルパットまで続く標高4000mのデオサイ高原まで馬で登り始めていたとき、ちょうどパキスタンの独立記念日で、小学生が行進してやって来た。高揚している小学生は持っていたパキスタン国旗を馬の鼻面に近づけたので、馬は驚いて、危うく落馬するところだった。外国人排斥とはいわないにしても、それに近い状態だった。結局、デオサイ高原まで馬では怖いので、ジープで登った。

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2011年01月31日

ミスル(エジプト)での反政府暴動に伴う略奪と正倉院



 チュニジアの革命がミスル(مصر、エジプト)に飛び火した。

 アフリカはミスルにしか行ったことがない。貧相な空港に着くと、日本のODAのバラ撒き団体に勤める後輩が、オンアライバル・ビザの申請場所、つまり、パスポートチェックの前まで迎えに来た。係官が日本人の女にいかにも賄賂を欲しげに、切符を勿体を付けて、貼っていたので時間が掛かった。そんなこんなで散々待たされたので、後輩が堪り兼ねて中まで入ってきたのだった。早くしろと彼が言ったら、すぐにビザが出た。荷物も係官に言ったら、外交特権なのか?フリー。何て国だというのが第一印象。後輩は仕事があるので、運転手と観光に出掛けたが、駐車すると、必ず、どこからともなく貧乏人がやってきて、バクシーシをねだる。路上に縄張りがあるらしい。あるときは、癩病らしく鼻がもげているのまでやって来た。運転手が言うには、バクシーシを渡さないと、車に何をされるかわからないし、渡すと車を見てくれるらしい。一種の福祉になっているわけだが、実に面倒で煩雑。とんでもない国だと感じた。

 フスハー(正則アラビア語)ではなく、ミスル・アンミーヤ(アラビア語エジプト方言)。「いいえ」は「ラー」はフスハーと同じだが、「はい」に当たるミスル・アンミーヤは「アイワ」で、当時はまだ、吸収消滅していなかったソニーの子会社のブランドの「アイワ」の看板がカイロ(カーヒラ、القاهرة ; al-Qāhira、エジプト方言ではカーヘラ)ではよく見られた。ナイル河沿岸以外はすぐ砂漠なので砂煙と排気ガスの首都である。車のナンバーでアラビア数字(算数の時間に習ったのとかなり違うのもある)を覚えた。

 当然、考古学博物館にも出掛けたが、この時は、タクシーで1人で行ったのでゆっくり見れた。確か冷房などなく暑かったのを覚えている。ミイラは全部見たはずで、今回破壊されたのも見ているはずだ。アメリカがバグダッドに侵攻したときもメソポタミア文明の遺物が略奪されたが、これらに比べると、正倉院御物などは、756年(天平勝宝8年)に収められてから、戦国時代などの戦火を越えて、足利義満や織田信長などが蘭奢侍を切り取ったりはしたが、1255年も大した略奪や盗難にも遇っていない。奇跡としか言いようがない。ミスルなどと比べるのが笑止なのかも知れないが、日本というのは明らかに他の世界とは異なる1つの文明世界である。



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2011年01月18日

チュニジア ジャスミン革命



チュニジア共和国(الجمهورية التونسية‎、al-Jumhūrīya al-Tūnisīya、通称:تونس、Tūnis)



 チュニジアというのは、確か、カルタゴの成れの果てだという認識以外、全く知識がない空白地帯だった。カルタゴ以降、数十年毎に、民族が取っ換え引っ換えやってきて支配を受けている。最後があのおフランスに支配されたのが運の尽き。お決まりの軍人上がりのザイン・アル=アービディーン・ベン=アリー‎とその妻のトラベルシとその一族による独裁が23年も続き、フランスのお家芸、暴力の連鎖が続いている。尖閣や竹島、千島、樺太の問題があるが、日本は島国で良かったとつくづく思う。支那や朝鮮のような大陸や半島は、春秋戦国、五胡十六国、五代十国と、総入れ替えが何度も起きている。

 古代にはフェニキア人が交易拠点としてこの地に移住し、紀元前814年頃にはカルタゴが建国され、地中海貿易で繁栄したが、ポエニ戦争に負け、紀元前146年に滅亡。現在のチュニジアとリビアはローマ支配下のアフリカ属州となった。ローマのアフリカ属州(カルタゴを中心とする属州)は、ラテン語の Africa(アフリカ)と呼ばれ、アフリカ大陸の名前の由来になった。ローマ帝国が東西に分裂すると、西ローマ帝国の管区。439年、ゲルマン系ヴァンダル人が侵入し、カルタゴにヴァンダル王国が建国。534年には東ローマ帝国に滅ぼされ、東ローマ帝国。
 7世紀にはアラブ人が東方から侵入し、カイラワーンにアッバース朝のカリフに臣従するアグラブ朝、反アッバース朝を掲げたファーティマ朝が興り、アグラブ朝を滅ぼした。次いで,ズィール朝、モロッコ方面から勢力を伸ばしたムワッヒド朝の支配下、1229年にチュニスにハフス朝が成立。16世紀初頭にオスマン帝国の支配から逃れるために一旦スペインの属国になった後、1574年にオスマン帝国によって滅ぼされた。1705年にフサイン朝が成立。フサイン朝はフランス支配を挟んで252年間統治。西欧よりの政策と富国強兵策で、近代化=西欧化政策を採り、1861年には憲法が制定し、サドク・ベイはイスラーム世界、及びアフリカ世界初の立憲君主となった。しかし、保守派の抵抗で1864年に憲法は停止。1869年には西欧化政策の負担によって財政は破綻。1878年、フランスによるチュニジア侵攻が行われ、1881年のバルドー条約、1883年のマルサ協定でフランスの保護領。1907年にはチュニジア独立を目的とする結社、「青年チュニジア党」が創設され、それは「憲政党」に発展し、チュニジア人の市民権の承認、憲法制定、チュニジア人の政治参加を求める運動を展開。ハビーブ・ブルギーバの「新憲政党」はチュニジアの完全独立を要求した。フランスは1956年になってようやく、ベイのムハンマド8世アル・アミーンを国王に据えることで渋々独立を承認。初代首相にはブルギーバが選ばれ、「チュニジア王国」が独立した。
 1957年には王制を廃止。大統領制を採る「チュニジア共和国」が成立。首相から大統領となったブルギーバは1959年に憲法を制定し、社会主義政策を採るが、1970年代には自由主義に路線を変更したが、1987年には無血クーデターが起こり、ザイン・アル=アービディーン・ベン=アリー‎(زين العابدين بن علي‎、Zine El Abidine Ben Ali、1936年09月03日〜)首相が大統領に就任。

ジャスミン革命(チュニジアの国花がジャスミン)

 2010年12月17日、中部シディブジドで、露天商のモハメッド・ブウアジジ(محمد البوعزيزي、Mohamed Bouazizi、仇名はBasboosa)(26)が果物と野菜を街頭で販売し始めたところ、販売の許可がないと警察に商品と手押し車を没収された。モハメッド・ブウアジジは、3歳の時に父親をなくし、10歳から通りで物売りをして働き始めた。週に約75USドルを稼いで、母親と姉妹を養っていた。コンピューター科学を大学で専攻して卒業という報道もあったが、これはガセで、姉妹のサミアによると、高校にも行っていないのが真実のようだ。やはり、姉妹のサミアは、「モハメドは、自分のバンを買うことを最も望んでいました。しかし、自分のために欲しかったのではなく仕事のためで、秘かな夢でさえ、家族を助けることでした。」と語っている。ブウアジジは商売のために約200USドルの借金を抱えており、市役所に抗議したが、返してくれず、市役所の職員に公然と顔を叩かれ、絶望し、塗料うすめ液2瓶(報道によりガソリン1缶)を被り火をつけ、焼身自殺を図った。報道によると、手押し車による露天商に許可証は必要なく、警察への賄賂が払えずに商売道具を没収されてしまい、市役所に抗議したか、証拠書類がないと取りあってもらえず、絶望して自殺を図ったとも言われる。
 その後、フランスを追放されていたザッカリア・ベン・マフディが焼身自殺を図った。2人の青年の死の理由はチュニジアの失業や雇用の不安定、住宅難など社会的な問題に抗議したものであった。多くの模倣事件がアラブ圏で発生し。アルジェリアやエジプトで数件、焼身自殺事件が起きている。
 チュニジアでは失業率が公表されている14%よりも高く、青年層に限れば25〜30%という高い水準に達しており、同様に街頭で果物や野菜を売り生計を立てる失業者も多かった。このトラブルがブウアジジと同じく、大学卒業後も就職できない若者中心に、職の権利、発言の自由化、大統領周辺の腐敗の罰則などを求め、全国各地でストライキやデモを起こすきっかけになったとされている。次第にデモが全年齢層に拡大し、デモ隊と政府当局による衝突で死亡者が出るなどの事態となった。やがて高い失業率に抗議するデモは23年間の強権体制が続き、腐敗や人権侵害が指摘されるベン=アリー政権そのものに対するデモとなり、急速に発展していった。
 ブウアジジの絶望的な呼び掛けは失業と腐敗そして政治的不自由に対する蜂起の象徴になり、自発的なデモが全国で起きた。発端となったブウアジジは自殺を図った後、重度の全身火傷を負い、2011年01月04日17時30分にシディブジドのベンアル病院で死亡。翌05日に葬儀が行われ、5000人以上が参加したが、警察はブウアジジが自らに火を付けた場所を通ることを阻止。シディブジドの墓地に埋葬された。06日には数千人の労働者が彼らを支持。01月07日には中部の都市タラで暴徒が警察署といった政府関連庁舎や銀行に火を放ち、01月08日夜から09日にかけてタラ、カスリーヌといった都市で高い失業率に抗議するデモが発生。治安部隊が発砲したことにより、少なくとも14人、野党指導者によれば25人が死亡。01月10日にはカスリーヌで放火や警察署への襲撃が起こり、これに対処した警官隊が発砲したため市民4人が死亡。11日夜には、ついに首都チュニスに暴動が拡大。労働者街にて参加者が車、銀行、警察署といった政府関係庁舎への放火、また商店街において略奪行為を行った。警官隊はこれを解散させるため威嚇射撃を行い4人が死亡、また火炎瓶や催涙弾の使用を行った。内務省より死者は述べ23人になったと発表(実際にはこの時点で50人以上が死亡しているとも言われた)。



 反政府デモはベン=アリー政権を揺るがし、01月10日にはデモの拡大や若者の暴徒化を防ぐため全国の高校や大学を閉鎖すると発表。一連の暴動をテロリストによるものと非難し、また発端となった若者の失業者への対策として、今後2年間で30万人に及ぶ大規模な雇用緊急措置を取ると表明するといった対応に追われたが、各政党から、大統領に対し警官隊による発砲の中止を求める声が上がった。
 01月12日には首都チュニスとその周辺地域に午後08時から翌朝午前06時までの夜間外出禁止令を発令。しかし、南部の都市ドウズで暴動が起こり、5人が死亡。首都で出された夜間外出禁止令は無視され、暴動が止む気配はなく、大統領支持者によるデモも行われた。
 01月13日、ベン=アリーはテレビ演説で2014年の大統領選挙に立候補せず任期満了を持って退任する意向を表明。デモの原因の一つであった食料品高騰に対しては引き下げると表明。また言論の自由の拡大や、インターネット閲覧の制限を解除するといった政策を約束し、また治安部隊に対し、デモ隊への発砲を禁じたと発表。強権政治を貫いてきたベン=アリーにとっては大幅な譲歩であったが、これらの措置を発表した翌14日になっても内務省の前で5000人が大統領退陣を求めるなど反政府デモは収まらず、ゼネラル・ストライキも発生。治安部隊によるデモ隊への発砲も続いた。。ベン=アリーは非常事態宣言を行い、夜間外出禁止令を全土に広げた。また、ガンヌーシ内閣の総辞職と2014年実施予定の総選挙を大幅に前倒しし、今後半年以内に実施する考えを表明。
 民衆への弾圧に対し政府内からも批判の声が上がり始め、14日にはチュニジアのメズリ・ハダドユネスコ大使が、治安部隊がデモ隊に発砲したことに対して抗議を行い大統領に辞表を提出。アメリカのバラク・オバマ大統領が変革を支持する声明を発表。また国軍が離反するなど追い詰められたベン=アリーは14日に国外に出国。当初は旧宗主国のフランス行きを希望しパリに向かったが、ニコラ・サルコジ大統領は「チュニジア大統領の来訪を望まない。」とこれを受け入れず、サウジアラビアに亡命。なお、チュニス航空のモハメド・ベン・キアリ機長(37)は、フランス・リヨン行きの便に乗り込んだ14日午後、離陸許可を待っていると緊急連絡が入り、5人の乗客を追加で乗せるよう命じられた。機長は名前から前大統領の親族が逃亡を図っていると判断、命令を拒否してそのまま飛び立った。搭乗を拒否して国外逃亡を阻止した機長は、国民からは「真の英雄」との賛辞が寄せられた。
 これにより政権は事実上崩壊し、1987年以来23年にわたって続いてきた独裁政権は終焉を迎えた。政治活動や言論の厳しい抑圧で政治的安定や一定の経済成長が維持されていたが、ベン=アリー大統領、トラベルシ夫人一族による利権独占などの腐敗体質に対し、厳しい生活に直面する国民の怒りが一挙に噴出、大統領は政権維持を断念した。だが、多くのチュニジア人が出稼ぎに行く欧州の景気も金融危機後に悪化。貴重な収入源が細る一方、失業率も14%と高止まりし、世界的な小麦や砂糖などの価格高の影響で食料価格も高騰。アラブ諸国にはエジプトやリビアなど、チュニジアと同様に独裁長期政権が維持されている国家も多く、民衆の力によって政権が打倒されたことは異例。

 民衆蜂起により、23年間続いた強権的なベン=アリー政権が崩壊したチュニジアの政変が、インターネット上で「ジャスミン革命」と呼ばれ始めた。

 ガンヌーシ首相は政権崩壊を受け、憲法第56条の規定を根拠として自らが暫定大統領に就任。憲法上の問題があるとの指摘が出たため、憲法評議会の見解を求め、評議会は翌15日に憲法第57条の規定に則り下院議長であるフアド・メバザを暫定大統領に指名。メバザは挙国一致政権の樹立をガンヌーシに要請し、また15日、暫定大統領への就任宣誓を行い、これにより60日以内に大統領選挙が行われることとなった。暫定大統領のメバザ、それに首相のガンヌーシも、ベン=アリーと同じ独裁体制を敷いてきた立憲民主連合のメンバーであり、ベン=アリー出国後も旧政権関係者の完全排除を求めるデモも起こるなど、チュニジア国民が彼らに対し反発する可能性も残る。17日夜、昨年12月中旬から約1ケ月続いてきた国内のデモや暴動の死者は計78人に達したと明らかにした。商店の略奪などでチュニジア経済に与えた損失は約30億チュニジアディナール(約1730億円)になるという。
 ドバイ経由でサウジアラビアに亡命したチュニジアのベン=アリー前大統領トラベルシ夫人は出国前にチュニジア中央銀行を訪れ、預けてある金塊を渡すよう要請。同銀総裁ははじめは拒否したが、ベン=アリーが電話で総裁を説得。トラベルシに金塊を引き渡した。金塊は6500万USドル(約53億6600万円)の価値がある。
 商店の略奪や銃撃戦が起き混乱が続いた。首都チュニスでは暴徒の侵入を阻むため住民らが自警団を組織。ベン=アリーの肖像画が与党本部から外され、ベン=アリーの親族や治安当局高官が拘束されるなど、政権崩壊を象徴する動きも広がった。ベン=アリーに忠誠を誓っている前大統領警護隊と軍特殊部隊が大統領宮殿で銃撃戦を繰り広げており、またチュニス市内でも前大統領支持派と治安部隊との散発的な銃撃戦が起こっている。
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