
他民族からは「ヘブライ人」と謂れ、自らは「イスラエル人」と称し、バビロン捕囚後には「ユダヤ人」と呼ばれるようになった徒輩。ヘブライ人、イスラエル人、ユダヤ人は同じ民族を指している。
ユダヤ人(ヘブライ語: יהודים、英語: Jews、ラジノ語: Djudios、イディッシュ語: ייִדן)は、猶太教の信者(宗教集団)または猶太教信者を親に持つ者によって構成される宗教信者。原義は狭義のイスラエル民族のみを指す。イスラエル民族の1つ、ユダ族がイスラエルの王の家系だったことを由来とする。猶太教という名称は、猶太教徒が多く信仰していた宗教であることによる。ユダヤとは、パレスチナ南部の地域。酋長ヤコブの子ユダに由来する。古代イスラエル統一王国の分裂後の南ユダ王国があった地域である。
南ユダ王国滅亡後のユダヤの歴史
南ユダ王国が滅ぶと、僅かな例外的時期を除いて西暦20世紀に至るまでユダヤ民族が独立国を持つことはなかった。
神武天皇74(西暦前587)〜安寧天皇10(西暦前539)年 新バビロニア帝国
安寧天皇10(西暦前539)〜孝安天皇61(西暦前332)年 アケメネス朝ペルシア帝国
孝安天皇61(西暦前332)〜孝安天皇88(西暦前305)年 プトレマイオス朝エジプト
孝安天皇88年(西暦前305)〜開化天皇17(西暦前141)年 セレウコス朝シリア
開化天皇17(西暦前141)〜崇神天皇35(西暦前63)年 ハスモン朝 ユダヤ人国家
崇神天皇35(西暦前63)〜崇神天皇61(西暦前37)年 共和政ローマ元老院属州
崇神天皇61(西暦前37)〜垂仁天皇73(西暦44)年 ヘロデ家
垂仁天皇73(西暦44)年 ユダヤ属州(ローマ帝国皇帝属州)
垂仁天皇73(西暦44)〜景行天皇23(西暦93)年 ヘロデ家
垂仁天皇73(西暦44)〜仁徳天皇83(西暦395)年 ローマ帝国皇帝属州
仁徳天皇83(西暦395)〜舒明天皇06(西暦634)年 東ローマ帝国
舒明天皇06(西暦634)〜永正13(西暦1516)年 イスラーム諸王朝 途中に十字軍国家の時代を含む。
永正13(西暦1516)〜大正06年(西暦1917)年 オスマン帝国
大正07年(西暦1918)〜昭和23(西暦1948)年 イギリスによる国際聯盟の委任統治
昭和23(西暦1948)年 イスラエル国(メディナット・イスラエル)成立 共和政国家の樹立、現代に至る。
西暦135年、ローマが叛乱を鎮圧し、ユダヤ的なものを一掃しようとしたローマ人は、この土地をユダの地(ユダヤ)ではなく、ユダヤ人の宿敵ペリシテ人に因んで「パレスチナ」、エルサレムを「アエリア・カピトリーナ」と改称し、ユダヤという地名は消滅した。
また、ユダヤ人は人種的にはセム族とされるが、長いディアスポラ(離散)のなかで、周辺民族との混血の結果、セファルディームとアシュケナジームの違いが生じ、また言語もイデッシュ語などが生まれた。現在、ユダヤ人はイスラエルの他、世界中に分布しており、アメリカにも約600万人が住んでいるとされる。しかし現在ではユダヤ人を「人種」概念で捉えるのは困難で、現実には「猶太教を信仰する徒輩」と捉えるのが正しい。人類学的に同質のユダヤ人は存在しない。
南蠻ポルトガル王国(西暦1139〜 1910年)は、西暦13世紀頃のボルゴーニャ朝(葡語: Dinastia de Borgonha、仏語: ブルゴーニュ(Bourgogne)朝、西暦1143〜1383年)では人口も少ない小国だった。応永22(西暦1415)年にアヴィス朝(Dinastia de Avis、西暦1385〜1580年)のジョアン1世(João I, o de Boa Memória)の王子ドゥアルテ1世(Duarte I)、ペドロ・デ・ポルトゥガル(Infante Pedro de Portugal, Duque de Coimbra、コインブラ公)、エンリケ航海王子(Infante Dom Henrique)らたちがジブラルタルの対岸のマリーン朝(西暦1195〜1470年)モロッコ王国の港町セウタを占領し、南蠻ポルトガル王国の海外侵掠が始まった。モロッコからアフリカ西岸を回って次々と侵掠を始め。部族抗争を繰り返すアフリカの一方の部族にだけ武器を与え、敗れた部族を奴隷として叩き売る悪虐行為を繰り返した。
享徳01(西暦1452)年、当時の耶蘇教の坊主の道徳心は腐れ切っており、ローマ法王ニコラウス5世トマソ・パレントゥチェリ(Nicholaus V, Tomaso Parentucelli)は、ポルトガル国王、アフォンソ5世(Afonso V、アフリカ王(葡語: Africano))に宛てた勅書でサラセン人等の異教徒を攻撃、征服、服従させる権利、即ち、ポルトガル人に対して「異教徒を奴隷にする許可」を与えた。この勅書で、奴隷貿易は正当化され、「相手は人間でない。」と考え、倫理的な罪悪感を全く持たず徹底的に残酷化した。
南蠻ポルトガル王国は、アフリカ進出やマデイラ諸島のサトウキビやワイン生産などで比較的余裕があったポルトガル王国でもカスティーリャ王国(西暦1035〜1715年)との対立、和解後のセウタ攻略などの出費の建て直しに迫られており、黄金や香料が豊富なインディアス(Las Indias、南蠻人が発見・征服・植民した地域の総称で、現在のカリブ諸島、アメリカ大陸の一部、およびフィリピン諸島を指す。元来は支那、日本を含む東アジア地域の総称)との直接貿易を求めた。また、アジアあるいはアフリカに存在すると考えられていた東方の耶蘇教国と言われたプレステ・ジョアン(葡語: Preste João、羅語: Presbyter Johannes、英語: Prester John)の国と連携する構想が現実味を帯びた。ジョアン2世(João II)が派遣した使節は陸路でエチオピア帝国(西暦1270〜1974年)との接触を果たし、海路においてもバルトロメウ・ディアス(葡語: Bartolomeu Dias de Novais)を派遣し、長享02(西暦1488)年にはアフリカ大陸南端の喜望峰到達を達成していた。
南蠻ポルトガル王国に後れを取って焦っていた同じ南蠻カトリック両王スぺイン王国(西暦1474〜1504年)にジェノヴァの奴隷商人、クリストーフォロ・コロンボ(伊語: Cristoforo Colombo、西語: クリストバル・コロン(Cristóbal Colón)、羅語: クリストファー・コロンブス(Christophorus Columbus))が取り入った。カスティーリャ王国トラスタマラ朝(西暦1369〜1516年)女王イサベル1世(Isabel I de Castilla, Isabel la Católica)らの支援を得たクリストーフォロ・コロンボは、南蠻ポルトガル王国とは反対に大西洋を渡り、明応01(西暦1492)年10月12日にカリブ諸島のグアナハニ島(Guanahani)に上陸し、西語で「聖なる救世主(San Salvador )」の意のサン・サルバドル島に改名した。水や食料を提供してくれた原住民の純朴さと均整の取れた体を見て、クリストーフォロ・コロンボは「これは素晴らしい奴隷になる。」と考え、翌年、軍隊と軍用犬を満載して再びこの島を訪れると、原住民の村々を徹底的に破壊し、掠奪・殺人・放火・拷問・強姦と、悪逆の限りを尽くした。
南蠻スペイン王国の支援を受けたクリストーフォロ・コロンボが西回り航路でインディアス(実際はアメリカ大陸)に到達した成果を受け、明応03(西暦1494)年06月07日、法王至上主義(ウルトラモンタニズム)という邪教の一頭目、金と女に情熱を傾けていた南蠻スペイン人の鬼畜、ローマ法王アレクサンデル6世ロデリク・ランソル(Alexander Y, Roderic Lanzol)の仲裁により、反人類悪魔の南蠻スペイン王国と南蠻ポルトガル王国の間で、地球分割(デマルカシオン、西語: demarcación)を取り決めたトルデシリャス条約(西語: Tratado de Tordesillas、葡語: Tratado de Tordesilhas)が結ばれた。これで南蠻スペイン王国に「新大陸」における征服の優先権を認められた。このトルデシリャス条約を根拠に、享禄02年(西暦1529)年04月22日にはモルッカ諸島の権益で揉めた南蠻スペイン王国と南蠻ポルトガル王国は。東半球の地球分割(デマルカシオン)がサラゴサ条約でなされ、笑止にも境界線の東経133度線は日本列島の現島根県隠岐諸島西ノ島、知夫里島、宍道湖、現広島県、現愛媛県大三島、津島、現高知県足摺岬に引かれ、日本は反人類悪魔の南蠻スペイン王国と南蠻ポルトガル王国で分断される形になった。
この鬼畜のローマ法王アレクサンデル6世の地球分割は南蠻ポルトガル王国に衝撃を与えた。事実上南蠻ポルトガル王国の活動はアフリカ沿岸に絞られた。明応04(西暦1495)年に亡くなったジョアン2世を継いだマヌエル1世(Manuel I)はインド航路発見に積極的であり、計画が実行に移され、 南蠻ポルトガル王国はアフリカ南端を回り、西暦16世紀にはインド、東南アジアに領土を増やした。
南蠻ポルトガル王国の海賊、ヴァスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama)は、ヨーロッパからアフリカ南岸を経てインドへ航海した記録に残る最初のヨーロッパ人と言われる。明応06(西暦1497)年07月08日、黒人の給使や水先案内人、特赦の代償に危険な任務を負う10数人の死刑囚を含む170人が、バルトロメウ・ディアスの随行艦を含めた5隻は、貿易風を使うには季節外れの時期に出発した。明応07(西暦1498)年03月02日にはモザンビークに達し、住民の多くがアラビア語を話すムスリムであることに気が付き警戒を強めた。延徳04(西暦1492年)にグラナダを征服し、イスラーム教徒の王を海の向こうに追い払ったばかりのイベリア半島からやってきたポルトガル人たちはアラビア語を話すムスリム(当時のヨーロッパ諸語ではムーア人)に対し強い警戒感を持っていた。日曜の礼拝を行っている姿を住民に見られ、自分たちが耶蘇教徒であることを見破られるのを防ぐため、船も沖に泊めた。案内人と水と食料を確保するための交渉は思うように進まず、ヴァスコ・ダ・ガマは武力の行使により水を奪い、水場を守るモザンビークの人々にいきなり砲撃を浴びせ、抵抗を突破、地元民2人を殺し、何人かを捕らえ人質にした。また、地元の船2隻とその積み荷も奪った。翌日、意気揚々と再び水場を訪れたポルトガル人は無抵抗で水を手に入れると、そのまま市街に入ってその中心で銃を何発か放った。暴力的に必要な物資を調えた船隊は、その翌々日に風を得て北へと去った。この海域の慣行を無視し、港の使用料を払わなかった。その後、モンバサで柑橘類を手に入れたが、モザンビークで捕らえていた捕虜が逃げ出したため、ヴァスコ・ダ・ガマ一行は陸地との連絡を諦め、逆にイスラーム教徒の船を拿捕した。向かったマリンディで捕虜を解放したが、ヴァスコ・ダ・ガマは当地の国王から受けた再三の招待を断り上陸しなかった。いずれの港でも指揮官のヴァスコ・ダ・ガマや各船の船長は、決して船から降りて陸には上がらず、乗組員も港町側と人質を交換した後でなければ、容易に陸地には降り立たなかった。これらは他地域からの商船がしばしば訪れる東アフリカ海岸諸都市の慣習にはおよそそぐわない不自然で不可思議な行為だった。カレクト王国を目指し、その都カレクト(カリカット、現コーリコード(マラヤーラム語: കോഴിക്കോട്、コージコード))近郊に到着した。05月20日に碇を下ろすと、05月21日、沖合いに停泊する艦隊に近づいて誰何してきた小舟の人々を通じ、ヴァスコ・ダ・ガマはカレクト王国へ使者を派遣した。この使者は危険な見知らぬ地で最初に陸に上がらせるために南蠻ポルトガル王国から乗せてきた死刑囚の1人だった。翌日にはカレクト沖に移動したヴァスコ・ダ・ガマだったが、水先案内人がより安全という近郊のパンダラニへ移り、22日に届いた国王の招待に応じた。
05月28日、ヴァスコは13人の部下を連れて上陸した。王宮に到着したヴァスコ・ダ・ガマは来訪の目的を廷臣に伝えるように要求されたにも拘わらず、「自らはポルトガル王の大使であるから王に直接話す。」と主張して聞かなかった。翌日宮殿で謁見したヴァスコはカレクト国王に親書を渡し、目的の1つを達成した。しかし用意した贈り物を見た王の役人やイスラーム教徒の商人は笑い出した。贈り物は布地、1ダースの外套、帽子6個、珊瑚、水盤6個、砂糖1樽、バターと蜂蜜2樽に過ぎなかった。「これは王への贈り物ではない。この街にやってくる一番みすぼらしい商人でももう少しましなものを用意している。」と言われ、ヴァスコ・ダ・ガマは「私は商人ではなくて大使なのだ。これはポルトガル王からではなく、私の贈り物なのだ。王が贈り物をするならもっと豪華なものになるはずだ。」と苦しい言い訳をした。30日になった2度目の謁見でイスラーム教徒への不信を国王に述べながらも、積み荷の交易許可を得た。この時王に「そんなに豊かな王国からやってきたならなぜ何も持ってこなかったのか?」と聞かれた。カレクト王国の収入は港にやってくる商人の売却益に掛ける関税であり、商売に励んでもらう期待があったのだから王の問いかけは当然のことであった。
ところがパンダラニに戻ると当地のワリ(知事)はヴァスコ・ダ・ガマらを軟禁状態に置き、沖の艦隊へ戻そうとしなかった。06月02日になってヴァスコ・ダ・ガマはワリと直接話す機会を得た。そこでワリは、「当地の習慣に無く艦隊を沖に留め船員を残す一行に不信感を持っている。」と述べたので、ヴァスコ・ダ・ガマは直ちに従って積み荷を下ろす指示を出した。このやり取りをヴァスコ・ダ・ガマはイスラーム系商人らの妨害活動と感じ取ったが、実際のところ王国側は艦隊を沖に留めるヴァスコが、定められた港湾使用料を支払わずに出港することを懸念していた。ポルトガル船隊はカレクトに留まる間、各船から乗員が1人ずつ上陸して街を見物し、南蠻ポルトガル王国の織物、錫、鎖などを現地の胡椒、クローブ、シナモン、宝石などと交換したが、南蠻ポルトガル人たちは、自分たちの品物が安くしか売れないことと、現地の商品が安いことの両方に驚いた。08月になりヴァスコ・ダ・ガマが使者を立て、帰国の報告と商務官ら人員を残したいと国王へ申し入れたところ、使者が監禁された上に出航を禁止する命令が下った。インドからアフリカへ向かうには季節風に乗る12月〜翌02月が適し、時期はずれの出航申し入れは国王やイスラーム商人の中に、「やはりヴァスコ・ダ・ガマ一行は商人ではないのではないか。」という疑念を湧き上がらせていた。
これに対しヴァスコ・ダ・ガマはイスラーム系商人に対する過剰な猜疑心から強行な手段に出た。08月19日に高い身分の者を含む住民19人を捕らえ、監禁された使者との交換を要求した。23日には艦隊を一度出航させたが、風の具合が悪く沖合いにとどまっていると26日に現れたカレクトの使者に対し、砲撃までちらつかせて人質交換と残した積み荷の返還を要求した。国王はポルトガル人の解放と交易を認める書簡を認め、27日に艦隊へ戻した。これを受けヴァスコ・ダ・ガマは人質のうち6人を解放した。しかし28日に届いた荷物を見て、ヴァスコ・ダ・ガマは「不足している。」と受け取りと残りの人質解放を拒否した。これは、元々ヴァスコ・ダ・ガマはインド人を南蠻ポルトガル王国まで連れて行く積りであり、荷物の不足は詭弁でしかなかった。29日に艦隊は出発したが、約70隻の武装した小船が人質奪回に追跡してきた。ヴァスコ・ダ・ガマは砲撃を加えた上、これを振り切った。
出発こそしたが、貿易風は都合良く吹いてくれなかった。艦隊はインド西海岸を北上し、到着したカナノール王国と良好な接触を持った。そこから沖合いに進み09月15日にはピジョン諸島、20日にはアンジェディヴァ諸島に到着した。ここでヴァスコ・ダ・ガマらは遭遇した8隻の船隊を攻撃し、座礁させるなど退けた。この船隊はカレクトからヴァスコ・ダ・ガマらを追跡して来たものと判明した。他にもインド中部のバフマーン王国が派遣した偵察隊とも接触し、指揮官を捕えて南蠻ポルトガル王国まで連行した。一行が諸島を出発したのは10月05日だったが、貿易風の季節ではなかったため往路26日のところを復路は89日も掛かった。すでに出発から約30人が死亡していた一行は、この行程中に壊血病などでさらに30人を亡くした。艦隊は明応08(西暦1499)年01月02日にアフリカ東海岸に辿り着くと南下し、海賊を退けながら09日にマリンディに到着した。一行は数日の休息を取り11日に出発したが、乗組員の減少から3隻の維持が難しくなり、近郊の海岸でサン・ラファエル号を諦めて焼却処分し、以後艦隊は2隻編成となった。27日に出発し02月01日にはモザンビーク、03月20日には喜望峰を越え、04月25日にギニアの海岸に至った。ここで2隻は別行動を取り、報告のためにニコラウ・コエリョが指揮するベリオが先に南蠻ポルトガル王国へ向かった。同船は07月10日にリスボンへ帰着した。サン・ガブリエル号はヴェルデ岬諸島のサンティアゴ島に到着した。ここでヴァスコ・ダ・ガマは艦の指揮権を書記のジョアン・デ・サに任せ、帰国するよう指示した。これは、兄パウロ・ダ・ガマが重態に陥っていたためであり、ヴァスコ・ダ・ガマは雇ったキャラベル船で兄を伴いカナリア諸島へ向かった。しかしパウロ・ダ・ガマは当地で亡くなり葬られた。ヴァスコ・ダ・ガマがカナリア諸島を出発したのは08月29日。しかし09月のいつリスボンに到着したかははっきりしない。出発時の147人のうち帰国した者は55人に過ぎなかった。
マヌエル1世はヴァスコ・ダ・ガマを讃え、多くの報酬を与えた。本来は王族や貴族だけに許される「ドン」の称号を与え、インド提督へ任命された。さらに名誉職ながら終身インド艦隊総司令官に就いた。相続人に権利を引き継げる30万レアル(750クルサド)の年金が与えられ、別に3000クルサドの年金も手にした。航海の成功を記念して、サンタマリア・デ・ベレンにジェロニモス修道院が建設された。
ヴァスコ・ダ・ガマ第1回航海の第1の成果は、アフリカ南端を経てインドまで繋がる航路を発見したことにある。しかし当初の目的であったプレステ・ジョアンの国との接触は果たせず、カレクト王国との親密な関係構築にも失敗した。船を沖に留めたり乗組員を全員上陸させないなどの行動は慎重さゆえだったが、これは当時のインド洋貿易における慣習に反したもので、彼は多くの場所で疑心暗鬼を生んでしまった。だが、齎したインド洋地域の最新情報も大きな成果であり、現地での香料の価格などは後の貿易に益した。
新航路発見を受け、明応09(西暦1500)年03月08日に南蠻ポルトガル王国はペドロ・アルヴァレス・カブラル(Pedro Álvares de Gouveia)を司令官とする13隻の艦隊を、交易を目的にインドへ出航させた。アフリカ南下中に南西の航路を取ったため、04月21日にブラジルを発見した艦隊は、09月11日にカレクト沖へ到着した。ペドロ・アルヴァレス・カブラルはヴァスコ・ダ・ガマが連れ去った人質の返還、今度は満足を得られた贈り物の贈呈などを行い、友好条約の締結と商館設置の許可を得た。ところが交易はうまく進まず、業を煮やしたペドロ・アルヴァレス・カブラルはイスラーム商人の船を拿捕し、両者の間で摩擦が起こり始めた。ついに上陸隊が群集に取り囲まれ、商館を舞台とする争いに発展し50人以上が殺された。ペドロ・アルヴァレス・カブラルは報復に停泊中のイスラーム商人船を襲い、10隻から荷物を奪って500〜600人を殺した上、他に5〜6隻を撃沈させた。翌日には街に砲撃を加えるとカレクトを離れてコチン、カナノール経由でインドを去った。ペドロ・アルヴァレス・カブラルの帰国後、南蠻ポルトガル王国ではインド交易をどうするか検討されたが、結局継続することになった。そのために20隻の艦隊派遣が決まったが、内5隻は商館の安全確保のためインド洋に止まり、イスラーム商船の封じ込めを目的としていた。
20隻の艦隊司令官にはペドロ・アルヴァレス・カブラルが任命される予定だったが、隊編成に反対して辞退したためヴァスコ・ダ・ガマに役目が廻ってきた。しかし準備が進まず、文亀02(西暦1502)年02月10日にインド洋駐留5隻を含む15隻でヴァスコ・ダ・ガマは航海に出発し、残り5隻はいとこのエステヴァン・ダ・ガマの指揮で04月01日に出航した。途中、座礁し放棄した船もあったが、07月04日にはモザンビークに到着した。そして12日、ペドロ・アルヴァレス・カブラルらポルトガル船に敵対的だったキルワに到着すると、港から市街に砲撃を加えた。最終的に国王の降伏を受諾したヴァスコ・ダ・ガマは、キルワ王国をポルトガルの朝貢国とし、毎年584クルサドを納める命令を残し22日に出発した。艦隊は08月22日にアンジェディヴァ諸島で結集した。そして病人を下船させるなどの処置を行い28日に出航した。その後海賊との戦闘やバテイカラ王国を服従させるなどを行いつつインドに到達した。ここでヴァスコ・ダ・ガマは15レグア(約60km)沖に艦隊を展開し海域を封鎖した。船は全て捕え、敵対国のものは抑留した。カレクトの商人らは和平の手紙を寄越したがヴァスコ・ダ・ガマは拒絶し、逆にカレクトに向かっていたマムルーク朝スルターン所有のメリという船を捕え、財宝を奪った上に火を掛けて、抵抗する婦女子50人を含む300人を死に追いやった。10月13日、ヴァスコ・ダ・ガマは友好的なカナノールに入港したが、香料の取引が不調に終わるとカレクトへ向かった[50]。10月29日に最初の接触が行われたが、ヴァスコ・ダ・ガマは過去の損害賠償とカレクトからのイスラーム教徒排除を求めた。理不尽な要求を呑めないと伝える使者はヴァスコ・ダ・ガマの強行な姿勢を感じ、国王は海岸線に防御柵を急ぎ設置させた。翌日正午、艦隊は海岸に迫り市街に激しい砲撃を加え始め、住人はほとんどが避難した。2日後、ヴァスコ・ダ・ガマは艦隊のほとんどを残してコチンに向かい、11月14日に国王らと会見して友好関係を確認した。交易に目途が着くと今度はカナノールに渡ると同様に交易を行った。その後バラモンを仲介役にもう一度カレクトとの接触を試みたが、海を封鎖され漁業にも支障をきたす住民の不満は大きく、国王との交渉も進展を見なかった。ついには100隻近いバテル船が攻撃を加え始め、艦隊は錨を切って脱出した。コチンに戻ると積荷が終了していたため文亀03(西暦1503)年02月01日に出発し、途中で襲撃して来たカレクト艦隊を撃破して15日にはカナノールに入り、03月22日に帰国の途に着いた。ヴァスコ・ダ・ガマが交易で得た品は、胡椒、肉桂、蘇木、丁字、生姜などであった。ヴァスコ・ダ・ガマは10月10日にリスボンに帰着した。
ヴァスコ・ダ・ガマの功績はまたも高く評価され、特にキルワを調伏させ朝貢国に組み込んだ点が認められた。年金は40万レアルが追加された。また、第1回航海成功で約束された領地は紆余曲折があり遅れていたが、西暦1519年12月17日にはヴィディゲイラとフラデスの町が与えられ、ヴィディゲイラ伯爵の称号を受けた。ヴァスコ・ダ・ガマには既にポルトガルで最も裕福な貴族6人と匹敵する収入があった。彼は名家からカテリナ・デ・アタイデを妻に迎えた。
第1回航海を終えた時点で、インド洋交易に乗り出した南蠻ポルトガル王国には2つの手段があった。1つは当地の商習慣を尊重し交易を行うことであり、もう1つは自己の流儀を持ち込み軍事力を背景にしながら商館を各港湾に設置する手法である。南蠻ポルトガル王国が選択したのは後者であり、ヴァスコの第2回航海からはインド洋に艦隊を常駐させ、商館の保護とイスラーム商人の妨害活動に当たった。反抗を見せるとカレクト王国のように激しい攻撃が加えられるが、ヴァスコ・ダ・ガマは当初から市街砲撃を予定していた。この南蠻ポルトガル王国の決定は、ヨーロッパ各国が本格的にアジアに進出する契機になったと共に、その基本的態度を方向付けた。強力な海軍を派遣して貿易を支配する構造は、ヨーロッパ諸国がアジアに植民地主義を展開する初歩の手段として用いられた。
ヴァスコ・ダ・ガマの第2回航海以降、南蠻ポルトガル王国はインド洋支配を強めた。それまで様々に攻撃を受けたイスラーム商人らから訴えを受け、エジプトブルジー・マムルーク朝24代スルターンのアシュラフ・カーンスーフ・ガウリー(アラビア語: الأشرف قانصوه الغوري al-Ashraf Qānṣūh al-Ghaurī)はローマ法王ユリウス3世ジョヴァンニ・マリア・チオッキ・デル・モンテ(Julius III, Giovanni Maria Ciocchi del Monte)へ報復を予告する抗議の書簡を送った。
これに対し南蠻ポルトガル王国は強行な手段に出た。起用したフランシスコ・デ・アルメイダ(葡語: Francisco de Almeida)に強大な「副王」の権限を与えて派遣した。彼はインド洋沿岸の各地に要塞を築き、友好的でない国には攻撃や掠奪・占領で応じ、南蠻ポルトガル王国の活動の基盤を築いた。後任提督のアフォンソ・デ・アルブケルケ(葡語: Afonso de Albuquerque)はゴアやマラッカを占拠した。このような要塞・商館・占拠地などは「インディア領」として組織化された。しかしその後は提督の役職は人物に恵まれず、無駄な要塞の拡大や取り巻きの重用、また私腹を肥やすに熱心な者などが続いた。綱紀は緩み、王室の財政は逼迫した。
大永01(西暦1521)年12月にマヌエル1世が死去し、後継したジョアン3世(João III)はブラジル植民活動活性化とともにインディア領経営の巻き直しに乗り出し、その適任者にヴァスコ・ダ・ガマを選んだ。ジョアン3世から信頼を越え尊敬を受けていたヴァスコ・ダ・ガマには大型船10隻と小型船4隻の計14隻艦隊が与えられ、各要塞や商館の後任長官らを含む約3000人が乗り込んだ。大永04(西暦1524)年04月09日にリスボンを出発した一行は、08月14日にはモザンビークを経由し、インドでは要塞を持つチャウルに入った。ここでヴァスコ・ダ・ガマは余剰人員の乗船を命じ、提督のメネゼスへ寄港したらそのままゴアに向かうよう伝言を残した。09月30日にゴアに到着すると、セイロンやスマトラ島のパサイなど余剰要塞の解体と、逆にスンダ(現ジャカルタ)での要塞建設を命じた。また評判が悪いゴア市長を解任する措置も取った。この頃、ヴァスコ・ダ・ガマは病気で体調を崩していたが、コチンを経てカナノールそしてカレクトに入った。イスラーム教徒の中でヴァスコ・ダ・ガマの名は畏怖の対象であり、これらの地で示威活動を行った。これらが一段落するとコチンへ戻り、ポルトガルの活動を妨害するイスラムの艦隊を撃沈した。
精力的な指示を与えながらも、ヴァスコ・ダ・ガマの病状は悪化し、手続き上既に前任としたメネゼスが帰還しないため、12月04日付けで引継書を作成させ、また死後に開封が許される命令書も記した。大永04(西暦1524)年12月25日(24日深夜説もある)、コチンにてヴァスコ・ダ・ガマは死亡した。
永正07(西暦1510)年12月10日、南蠻ポルトガル王国のアフォンソ・デ・アルブケルケ(Afonso de Albuquerque)は、当時ビジャープル王国(西暦1490〜1686年)の支配下にあったゴア島(ヴェリャ・ゴア)を占領した。アフォンソ・デ・アルブケルケ提督はポルトガル国王マヌエル1世からホルムズ、アデン、マラッカの占領を命令されていたが、ゴアについての王令は下されていなかった。ビジャープル王イスマーイール・アーディル・シャー(Ismail Adil Shah)とオスマン帝国(西暦1299〜1922年)の援軍を12月10日に降伏させ、ゴアのムスリムを男女老少に拘わらず皆殺しにした。南蠻ポルトガルは結局ゴアを昭和36(1961)年のインド共和国(西暦1947年〜)の侵攻まで維持した。
地中海沿岸では古来より港で鎖が使用されていた。当時の地中海沿岸の港は城壁の一部として防護壁の役割があり敵の侵入を防ぐために港口を鎖で封鎖できるようになっており、このような構造はピレウスの港で初めて採用された。南蠻ポルトガル王国や南蠻スペイン王国(アラゴン王国(西暦1035〜1715年)とカスティーリャ王国(西暦1035〜1715年)、アブスブルゴ朝(南蠻スペイン・ハプスブルク朝、西暦1516〜1700年))の侵掠(「大航海時代」)とは、港を鎖で文字通り外部と封鎖して、海路の往来を止め、兵糧攻めにして侵掠して行った。
中南米にはマヤ文明(西暦前8000頃〜1697年)、テオティワカン文明(ナワ語群: Teōtīhuacān、西語: Teotihuacan、西暦前2世紀〜6世紀)などメソアメリカ文明(西暦前8000頃〜)アンデス文明(西暦前2000以降〜1697年)など古代から高度な文明が栄えていたが、南蠻スペイン人によって無残にも滅ぼされた。メキシコ中央部に栄えていたアステカ王国(Aztecan、古典ナワトル語: Aztēcah、西暦1325〜1521年)は、南蠻スペイン人初代バジェ・デ・オアハカ侯エルナン・コルテス・デ・モンロイ・イ・ピサロ(西語: Hernán Cortés de Monroy y Pizarro)によって、11代国王クアウテモック(アステカ語: Cuauhtémoc、「急降下する鷲」の意)が殺されて滅び、現在のペルー・ボリビア・エクアドルに跨り栄華を誇っていたインカ帝国(ケチュア語: Tawantinsuyu(タワンティン・スウユ)、西暦1438〜1533年)は、天文02年(西暦1533)年07月26日にフランシスコ・ピサロ(Francisco Pizarro)が13代皇帝アタワルパ(Atahualpa、ケチュア語: Atawallpa、「幸福な鶏」の意)を殺し滅亡させた。
南蠻スペイン人は、これらの国々から莫大な金銀財宝を掠奪し、本国に運び込み、さらに、原住民を銀鉱脈の採掘に駆り出して強制労働を課し、大量の銀をヨーロッパに持ち帰った。酷使され虐待された原住民の人口が激減すると、今度はアフリカ人奴隷が代替労働力として用いられることになり、奴隷貿易はさらに拡大した。

コルテスとピサロ: 遍歴と定住のはざまで生きた征服者 (世界史リブレット人 48) - 安村直己
天文12(西暦1543)年08月25日、大隅国の種子島、西村の小浦(現前之浜)に南蠻ポルトガル商人が乗った明国(西暦1368〜 1644年)の船が種子島に漂着した。100人余りの乗員の誰とも言葉が通じなかった。西村時貫(織部丞)はこの船に乗っていた明の儒者五峯と筆談してある程度の事情がわかった。この船を島主、種子島時堯の居城がある赤尾木まで曳航するように取り計らった。船は08月27日に赤尾木に入港した。種子島時堯が改めて法華宗の僧住乗院に命じて五峯と筆談を行わせたところ、この船に異国の商人の2人代表者は、牟良叔舎(フランシスコ)、喜利志多佗孟太(キリシタ・ダ・モッタ)という名だった。
16歳だった時堯は鐵炮の射撃の実演を見てその威力に着目し購入を決断し2人が実演した火縄銃2挺を買い求め、家臣の小姓篠川小四郎に火薬の調合を学ばせ、八板金兵衛清定(清貞とも)に鐵炮を研究させた。篠川小四郎は、ポルトガル人より「搗篩・和合の法」とよばれる黒色火薬の製造法と、その原料が硝石、硫黄および木炭であることを習った。彼はその努力によって、ポルトガル人がもたらした火薬よりさらに強力な発射薬としての黒色火薬をつくることに成功した。種子島時堯が射撃の技術に習熟した頃、紀伊国根来寺の杉坊某もこの銃を求めたので、津田監物に1挺持たせて島津氏を通して室町幕府将軍足利義晴に献上した。さらに残った1挺を複製するべく八板金兵衛尉清定ら刀鍛冶を集め、八板金兵衛は苦心の末に、日本人の手による銃の製造に成功した。八板金兵衛は製造法を学ぶため自分の娘である若狭を南蠻ポルトガル人に嫁がせて修得した。新たに数十挺を作った。また、堺からは橘屋又三郎が銃の技術を得るために種子島へとやってきて、1、2年で殆どを学び取った。伝来の場所から鉄炮は種子島銃とも呼ばれ、戦国期の日本の戦場に革命を齎した。(鐵炮伝来)
黒色火薬は、火薬の中では最も古い歴史を持っており、支那で西暦7世紀前半に発明された4大発明(紙、印刷術、火薬、羅針盤)の1つである。いずれもルネサンス期頃までにヨーロッパに伝えられ、実用化された。黒色火薬は不老不死の神仙になるための丹薬製造(錬丹術)の過程で偶然発見された。唐代の医者孫思邈には、「千金要方」、「千金翼方」という医学書のほかに「丹経」という丹薬に関する著書がある。この中の「伏火硫黄法」は黒色火薬と同じ原料が使われており手順を誤ると爆発してしまう。これが火薬の発明に繋がった。支那で発明された火薬はイスラーム圏を通じてヨーロッパに伝わりヨーロッパ社会を大きく変えていった。西暦1045年には軍用としての黒色火薬類似の配合組成の記述が支那の北宋政府編集の「武経総要」に現れている。この書には、火毬用火薬、蒺藜火毬用火薬および毒薬煙毬用火薬などの配合組成が記されている。これらは発射薬としてではなくて炸薬として用いられた。西暦1242年には「驚嘆的博士(Doctor Mirabilis)」と呼ばれたイギリス王国の僧侶であり哲学者、科学者のロジャー・ベーコンによって黒色火薬の組成が記録(Desecretis及びOpus Tertium)された。この黒色火薬の組成は現在まで続いている。西暦14世紀中期には鐵炮の装薬として使用されるようになっていた。
支那で黒色火薬が発明されたのは、支那で黒色火薬の成分の1つである硝酸カリウム(硝石)が産出されるためで天然の硝酸カリウムは世界中でも限られた地域にしか存在せず、火山国日本では硫黄と木炭は簡単にに入手できたが、硝石は溶解度が大きく、多雨多湿の日本では海に流れてしまい、自然界で産出しない。江戸時代には、床下土と木灰を原料として硝石(硝酸カリウム)を作る「古土法」が用いられてた。雨が当たらない古い家屋の床下の土から作ります。床下に屎尿や牛馬の死骸などを埋め、微生物により床下土には硝酸カルシウムが多く含まれる。木灰から炭酸カリウムを抽出し、混合し上澄み液を作り煮詰めて作った。加賀藩の支配下の五箇山の合掌造り集落ではまた、焔硝が作られた。囲炉裏の床下に擂鉢状の穴を掘り、これに、土、蚕糞、鶏糞、藁、枯草などを交互に積重ね、屎尿を大量にかけて、土を被せて発酵させ、寒い冬は囲炉裏の余熱で温めながら、年1回くらい混ぜ返して、5〜6年発酵させます。すると微生物が屎尿の成分の尿素を硝酸カリウムと変化させた焔硝土を作った。
南蠻ポルトガル人が種子島に漂着してから6年後、バスク人、フランシスコ・ザビエル(Francisco de Xavier 、Francisco de Jasso y Azpilicueta)は、海外逃亡中だったアンジロー(弥次郎)という薩摩出身の殺人犯の手引きでまず薩摩半島の坊津に侵入した、その後許可されて、天文18(西暦1549)年08月15日に現在の鹿児島市祇園之洲町に来寇した。(伴天連来寇)このバスク人の地方貴族の5人兄姉の末っ子フランシスコ・ザビエルの生家のハビエル城はフランス王国との国境に近い北スペインのナヴァラ王国(西暦824〜1841年)のハビエルに位置し、バスク語で「新しい家」を意味するエチェベリ(家〈etxe〉+ 新しい〈berria〉)のイベロ・ロマンス風訛り。フランシスコの姓はこの町に由来する。これはChavier やXabierre などとも綴られることもある。Xavier は当時のカスティーリャ語の綴りであり、発音は「シャビエル」であったと推定される。現代西語ではJavier であり、発音は「ハビエル」。
明治維新以降の捏造史教育で、フランシスコ・ザビエルは、 耶蘇ローマ正教(カトリック)では聖人と称しているが、パリ大学で6人の仲間と共に南蠻族武装組織イエズス会を立ち上げた侵掠の先兵の工作員である。インド総督とゴア司教の親書を持って、後奈良天皇および征夷大将軍足利義輝へ突然謁見を試みて失敗し、京での滞在を諦め、山口を経て、平戸からゴアに戻った。次に明を目指したが明に入国できず、澳門(マカオ)に近い上川島で許可待ちしている間に病に罹り死んだ。インドのゴアで布教していたフランシスコ・ザビエルは間諜として、アジア各国の情勢を事細かに国元に送った。当時のゴアには本国での迫害を逃れてきていた改宗ユダヤ教徒や改宗イスラーム教徒が多数暮らしていた。フランシスコ・ザビエルは、南蠻ポルトガル王ジョアン3世に宛てた報告書の中で、「ゴアにも異端審問所を開設すべきである。」と進言した。南蠻ポルトガルはフランシスコ・ザビエルの提案を受け、フランシスコ・ザビエルの死から数年後にゴアにも異端審問所を開設し、異端とされた多数の旧ユダヤ教徒が火刑に処せられた。西暦16世紀になると、イエズス会は各地に宣教師を派遣したが、同時に南蠻ポルトガルの商人も貿易を求めて海外に渡航した。東南アジアなどでは、南蠻ポルトガルの商人による人身売買が行われており、売買された人々は奴隷として南蠻ポルトガルに送られるか、転売されていた。耶蘇教の布教と貿易は一体だった。
日本の民間商人や地方領主たちはマラッカ経由で来日する南蠻ポルトガル人商人と交易し、フランシスコ・ザビエルの後に来日した南蠻ポルトガル系のイエズス会の宣教師たちによって布教活動が行なわれ、約半世紀間イエズス会は膨張し続けた。
フランシスコ・ザビエルらイエズス会は純粋に布教目的に日本にやって来たのではない。日本到達直前まで南蠻スペインはカリブ海や中南米で先住民を殺戮した。殺し過ぎて労働力が不足したためアフリカから数千万人を奴隷として連れ去った。イエズス会はこの蛮行を神に代わって容認した。イエズス会とはカトリックきっての武闘派集団で布教と植民地化は同義だが、日本は戦国時代。フランシスコ・ザビエルは日本ではカリブ・中南米式は無理と判断し布教した。その後にやって来た宣教師らは作戦通り九州の大名らを改宗させ、社寺仏閣を破壊させた。悪魔のイエズス会やフランシスコ会の宣教師=工作員(間諜。破壊)を、熱心に布教活動し時には殉教した立派な人たちと誤って見るのは笑止千万だ。その後、蘭、英、仏、露、米が続々と日本にやって来るが純粋に友好や親善目的でやって来た者などいない。悪辣な南蠻の艦上の大砲はしっかり日本に向けられていた。
世界中でこうした悪逆な支配を拡大していた南蠻ポルトガル人や南蠻スペイン人は、日本では同様の暴虐ができず、布教活動によって一部の大名を切支丹大名にし、権益を得ることまではできたものの、最終的に排除された。それは、日本の軍事力と文明力が優れていたからである。日本が軍事的に弱かったなら、アステカ王国やインカ帝国のように簡単に支配を許し、滅ぼされるか、それ以外の「非白人」と同様に植民地化され、今の中南米やアジア諸国のようになっていた。強力な軍事力が、南蠻の武力侵攻を企図さえもさせなかった。
天文12(西暦1543)年に支那商船に乗って種子島に漂着した南蠻ポルトガル商人から買った2丁の火縄銃は、すぐに刀鍛冶の手で複製され改良されつつ、堺や近江などで短期間に大量生産されるようになった。日本には鉄も少なく、火薬の原料となる硝石は輸入に頼るしかなかったが、安土桃山時代から江戸初期にかけての日本の鐵炮所有数は、世界有数の域に達していた。戦国時代とはいえ、夷敵南蠻に対して勇猛な戦国武将が割拠し、火縄銃を自製できる技術を持っていた日本は、カリブ海の島々やアステカ王国、インカ帝国、フィリピンなどの悲惨な運命を回避し海外に乗り出す武力を有していた。
天正04(西暦1576)年01月23日付のローマ法王グレゴリウス13世ウーゴ・ブオンコンパーニ(Gregorius XIII, Ugo Buoncompagni)の勅書で設定された澳門司教区に不遜にも日本を含め、日本の切支丹教会に南蠻ポルトガル国王の布教保護権が及びその保護者が南蠻ポルトガル国王であることを勝手に確定した。これにより、ヤクザの縄張りよろしく、日本は南蠻ポルトガル領と見做された。巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノが天正05(西暦1577)年に滞在先のマラッカで書いた報告書には「デマルカシオンと分割による境界の中に置かれていることから、『マラッカ・支那・日本を含むインド全域が南蠻ポルトガルの征服と王室に帰属している。』と、南蠻ポルトガル人がインドで主張している。」
南蠻スペインの貿易船が来るのはその約40年後、天正09(西暦1581)年に南蠻スペイン王フェリペ2世が南蠻ポルトガル国王に就任したことで南蠻スペイン王国・南蠻ポルトガル王国の同君連合が成立した頃、フランシスコ・ザビエルの来日後、南蠻ポルトガル船が九州各地に渡来するようになった。天正10(西暦1582)年、肥前国の口之津に来航したジャンク船には南蠻スペイン使節ポーブレが乗っていた。ポーブレはフェリペ2世の南蠻ポルトガル国王就任を通達するためマニラから澳門に遣わされた使節の1人だったが、マニラに帰る途中で遭難し同地に漂着した。天正12(西暦1584)年、マニラから澳門に向かう途中だったヴィセンテ・ランデーロの船が、大風に遭い平戸に入港した。フィリピンからの初の渡航船となったこの船にはアウグスチノ会修道士2人、フランシスコ会修道士2人が乗っており、これが南蠻スペイン系の托鉢修道会修道士の初来日となった。これまでは両国の分界の取り決めによりマニラから支那への渡航は禁止され、日本布教もイエズス会以外の修道会の進出は禁止されており、「フィリピンのマニラから日本や支那に出向いてはならない、逆に澳門からマニラに出向いてはならない。」との規則があった。そのため、これらは地球分割(デマルカシオン)の境界線を突破して日本に到達するために遭難の体を装った。
イエズス会と不仲だった平戸の松浦氏は托鉢修道会を通してフィリピン総督と交渉を始めた。天正12(西暦1584)年、天正15(西暦1587)年、天正17(西暦1589)年にフィリピンのマニラから日本にスペイン船がやってきたが、天正15(西暦1587)年に天草サシノツに入港したマニラのジャンク船は肥後国の新領主佐々成政に歓待され貿易を希望されたが、それを断り出航し、天正17(西暦1589)年に薩摩国片浦に漂着した南蠻スペイン船も同様に儲けが大きい北アメリカ大陸、カリブ海、太平洋、アジアにおける南蠻スペイン帝国の副王領、ヌエバ・エスパーニャ(新南蠻スペイン)副王領(西暦1519〜1821年)に直航した。
近世の戦争は、敵兵の首を取り恩賞を得るだけが目的ではない。戦場での金目の物の掠奪も重要な目的で、その中には人を捕まえて売り飛ばすことも含まれていて、当時「乱取り」と言った。「甲陽軍鑑」によれば、川中島の戦いで武田軍は越後国に侵入し、春日山上の近辺に火を放ち、女や子供を略奪して奴隷として甲斐に連れ帰った。信濃でも、上野でも、武田軍は行く先々で乱取りを行っている。乱取りは恩賞だけでは不足な将兵にとって貴重な収入源であった。上杉謙信が常陸の小田城を攻撃した時、落城直後の城下はたちまち人身売買の市場になった。これは、上杉謙信の指示によるものと当時の史料にはっきり書かれている。城内には、周辺に住んでいた農民たちが安全を確保するために逃げ込んでいたのだが、彼らが1人20銭、30銭で売り飛ばされた。伊達政宗の軍も、島津義久の軍も、皆、乱取りをしていた。
天正11(西暦1583)年、南蠻ポルトガル船が澳門を出発しインドへ向かったが、マラッカに近いジョホール沖で座礁した。この報告を耳にした宣教師のコウトは、「神は南蠻ポルトガル商人らが神を恐れることなく、色白く美しき捕らわれの少女らを伴い、多年その妻のように船室で妾として同棲した破廉恥な行為を罰したのである。この明らかな大罪は、神からも明白に大罰を加えられたのであった。それ故、彼らに神の厳しい力を恐れさせるため、支那・日本の航海中に多数の物資を積載した船を失わせ、もってこれを知らしめようとしたのだ。他の国々よりも南蠻ポルトガル人の淫靡な行為が遥かに多いので、神はそこに数度の台風によりそれらの者を威嚇・懲罰し、その恐ろしい悪天候により怒りを十分に示そうとしたことは疑いない。」と手厳しく評価した。
南蠻ポルトガル商人は少女を捕らえて妾とし、船室で「破廉恥な行為」に及んだ。南蠻ポルトガル商人は神をも恐れぬ行為に及んだので、神から天罰を下した。天罰とは、船を座礁させ船舶に積んだ貴重な品々を無駄にするというものだった。しかも南蠻ポルトガル商人は、他の国々の人々よりも、支那・日本で数多くの淫行に及んだ。南蠻ポルトガル商人は寄港地で女奴隷を買い、性的な欲求を満たしていた。彼らの破廉恥行為は、後年に至っても問題視された。しかし、南蠻ポルトガル商人が購入した奴隷の少女と破廉恥な行為に及んだり、渡航中に彼女らを船室に連れ込んだりしたことは、決して止むことがなかった。女奴隷の場合は、労働力の問題ではなく、南蠻ポルトガル商人の性的欲求を満たす目的があった。
南蠻族の商人にとって有色人種の奴隷交易はなんら恥じることのない商取引だった。寶コ04(西暦1452)年にローマ法王ニコラウス5世(Nicholaus V、本名: トマソ・パレントゥチェリ(Tomaso Parentucelli))が南蠻ポルトガル人に対し異教徒を奴隷にしても良い。」という許可を与えたことが根底にある。
賣國奴、切支丹大名は、例えば、長崎港を開港した肥前国の大村純忠ことドン・バルトロメウは、南蠻ポルトガル人から鐵炮や火薬など最新兵器の供与を受ける見返りとして、イエズス会の神父から洗礼を受け、日本で最初の切支丹大名となった。武器弾薬を求めた動機は、お家騒動に勝利するためだった。その信仰は過激で、領民たちに改宗を強要し、拒否する仏教の僧侶や神官は殺害した。さらに神社仏閣も破壊すると、その廃材を南蠻ポルトガル船の建材用に提供した。先祖の墓も壊し、改宗に従わない領民を奴隷として海外に売り飛ばし、武器購入の代価にされた。領内の信者は6万人にまで増えた。最後まで抵抗した者たちは捕縛された上、硝石と引き換えに二束三文で南蠻ポルトガル商人に売り飛ばされた。南蠻ポルトガル商人らは格安で手にした奴隷を鎖でつないで船底に押し込み、世界各地に運んで高値で売りさばいた。このように長崎付近では一時、領民のほとんどが自ら、または強制され耶蘇教徒となった。しかし江戸時代に入って状況は一転。耶蘇教が禁じられると、今度は徹底的な弾圧が加えられ、棄教に応じなかった信者が多数処刑された。
豊後の国の大友宗麟は、宿敵・毛利元就を撃退するために、火薬の原料である硝石の供給をイエズス会から受け、鐵炮戦によって毛利を破ると洗礼を受けて耶蘇教徒となり、今度は十字架を掲げて日向国に攻め入った。大友宗麟の野望は、日向国の全領民を耶蘇教徒に改宗させ、南蠻ポルトガルの法律と制度を導入して耶蘇教の理想郷を建設することで、宣教師たちの言いなりになって現地の神社仏閣を焼き尽くした。
島原半島南部を支配していた小領主の有馬晴信(大村純忠の甥)は、龍造寺隆信に圧迫されると、イエズス会からの支援を得るために洗礼を受け、耶蘇教徒となった。軍事力を強化して和睦に成功すると、宣教師の求めるままに、家臣・領民の入信に加えて、40ヶ所以上の神社仏閣を破壊したばかりか、領内の未婚の少年少女を捉えて奴隷として献上し、さらに浦上の地まで差し出した。
西アフリカから黒人奴隷をアメリカに運んだ南蠻ポルトガル人らは。家畜扱いで日本人をインドのゴアやマラッカ、そして遠くはエーロッパにまで運んで売り捌いた。一部は法王のいるローマにも献上された。若い男たちは労働力あるいは傭兵として売られた。女性は勤勉で従順だったため非常に高値で取引された。そのほとんどが性奴隷とされた。飽きられると商人に仕える黒人奴隷や現地人に与えられ、慰み者とされたという。黒色火薬の主要な成分である硝石(硝酸カリウム)を南蠻ポルトガル商人から買うしか方法がなかった。南蠻ポルトガル商人は大名らの足元を見た。樽1個分の硝石に対して娘50人を要求した。こうして硝石と引き換えに、大量の無垢な娘たちがまさに二束三文で海外へと売られて行った。そしてそのほとんどが、二度と祖国の地を踏むことはなかった。
豊臣秀吉の時代になると、日本人奴隷が船に積まれ、外国に連行されるという悲劇的な事態が生じていた。女奴隷が南蠻ポルトガル商人の性的な欲求を満たすために買われた。豊臣秀吉の家臣が用務を帯びて長崎に来ると、南蠻ポルトガル商人の放縦な生活を目の当たりにした。豊臣秀吉は「宣教師が聖教を布教するとはいえ、その教えをあからさまに実行するのは彼ら南蠻ポルトガル商人ではないか。」と非難した。宣教師は耶蘇教の崇高な教えを説いていたが、教えを守るべき南蠻ポルトガル商人の所行は酷いものだった。南蠻商人は若い人妻を奪って妾とし、奪った若い人妻とは、奴隷ではなかったと考えられ、豊臣秀吉は、そのことに対して激怒していた。普通の人々の若妻を掠奪したのだから(あるいは金で買ったのか)、女奴隷は当然同じような目に遭っていた。豊臣秀吉は南蠻ポルトガル商人の非道に対して激怒したのである。
天正15(1587)年04月、薩摩を征伐した後、豊臣秀吉は、薩摩に暫く滞在して戦後処理を済ませ、帰国の途に就き、途中意気揚々と博多に立ち寄った。豊臣秀吉による九州征伐の際の行軍記録「九州御動座記」は、御伽衆だった大村由己の著作である。そこで、大問題が発生した。九州遠征に勝手に豊臣秀吉軍に同行していた南蠻ポルトガル人でイエズス会の日本における布教の最高責任者であったイエズス会日本準管区初代準管区長ガスパール・コエリョ(Gaspar Coelho)は、大村純忠が寄進した長崎港でポルトガルのガレオン船から大砲を撃って見せて誇示した。そこには、日本人奴隷の惨状を目の当たりにした豊臣秀吉の怒りが述べられている。日本人の貧しい少年少女が大勢、タダ同然で西欧人に奴隷として売られていることを豊臣秀吉はこの九州遠征で初めて知った。九州遠征に同行した豊臣秀吉の御伽衆の1人、大村由己は著書「九州御動座記」の中で日本人奴隷が長崎港で連行される有様記録している。
「今度、伴天連ら能時分と思い候て、種々様々の宝物を山と積み、いよいよ一宗繁昌の計賂をめぐらし、すでに河戸(五島)、平戸、長崎などにて、南蛮船付くごとに充満して、その国の国主を傾け、諸宗をわが邪法に引き入れ、それのみならず、日本仁(人)を数百、男女によらず黒船へ買い取り、手足に鉄の鎖をつけ、舟底へ追入れ、地獄の呵責にもすぐれ、そのうえ牛馬を買い取り、生ながら皮を剥ぎ、坊主も弟子も手つから食し、親子兄弟も礼儀なく、ただ今世より畜生道のありさま、目前のように相聞え候。
見るを見まねに、その近所の日本仁(人)いずれもその姿を学び、子を売り、親を売り、妻女を売り候由、つくづく聞こしめされるるに及び、右の一宗御許容あらば、たちまち日本、外道の法になるべきこと、案の中に候。然れば仏法も王法も捨て去るべきことを歎きおぼしめされ、添なくも大慈大悲の御思慮をめぐらされ候て、すでに伴天連の坊主、本朝追払の由、仰せ出され候。」
日本で得た宝物(金・銀など)を船に積み込み、母国へ送った。また、数百人の日本人が男女に拠らず、南蠻ポルトガル商人に買い取られ、逃げられないように手足が鉄の鎖に繋がれ、船の底に押し込まれた。まさしく地獄絵図だった。同胞の若者たちが鎖に繫がれて次々と南蠻船に押し込まれていく光景は大村由己にとって、この上のない衝撃を与えた。
「牛馬の肉を手掴みで食べる。」というのは、野蠻な南蠻族・紅毛蠻賊の歐州ではこの当時、食事にフォークやスプーンを使う習慣が未だなかった。ルイス・フロイス(葡語: Luís Fróis)も日本人が器用に箸を使って食事する様子を驚きをもって本国に伝えている。南蠻ポルトガル人は牛馬を買い取ると、生きたまま皮を剥いで、そのまま手で摑んで食べた。南蠻ポルトガル人は親子兄弟の間にも礼儀がなく、さながら畜生道の光景だった。
南蠻ポルトガル人は、インドから支那を経て日本へと各地に拠点を設けていった。宣教師たちも含めて、彼らは人種差別を常識としており、黒人などの奴隷を使役していた。そのような状況の下、日本人は「商品」として彼らの拠点に売られていったと。巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノは、日本人が「極めて忍耐強く、飢餓や寒気、また人間としてのあらゆる苦しみや不自由に耐え忍ぶ。」ことに驚嘆している(「日本巡察記」)。このような特徴に、南蠻ポルトガル商人が着目した。
天正14(1586)年から翌年にかけて九州征伐が行われ、豊臣秀吉は島津に圧勝した。戦場となった豊後では百姓らが捕縛され、九州各地の大名の領国へ連れ去られた。捕縛された人々は労働に使役させられるか、奴隷として売買された。豊臣秀吉は人の移動によって耕作地が荒れ果て、戦後復興が困難になることを危惧し、諸大名に対して人の連れ去りや売買を禁止した。宣教師ルイス・フロイスが記した「日本史」によると、豊臣秀吉が「予は商用のために当地方(博多)に渡来するポルトガル人・シャム人・カンボジア人らが、多数の日本人を買い、彼らからその祖国・両親・子供・友人を剝奪し、奴隷として彼らの諸国へ連行していることも知っている。」、「彼らは豊後の婦人や男女の子供を(貧困から)免れようと、二束三文で売却した。」などと、生々しく戦争奴隷の実態を記している。これらからは、島津軍に敗れた大友領の民衆が、たちまち人盗りの餌食になったことがわかる。逃げ惑う女性や子供を拐かして、それをきわめて安値で購入したポルトガル人や東南アジア人の商人によって、国外へと売り飛ばされて行った。
豊臣秀吉が九州出陣中に発令した伴天連追放令には、次のような国内外を対象とした人身売買禁止令が含まれている。豊臣秀吉は、人身売買禁止令をはじめ伴天連追放令や海賊禁止令(初令)といった画期的な全国令を、九州の地から次々と発令した。従来これらは、国内法と同時に外交を意識したものであった。
九州征伐の結果、夥しい戦争奴隷を生み出した。そこでは、奴隷商人が関与していたのは疑いなく、日本人の奴隷商人だけでなく、南蠻ポルトガル商人の姿もあった。それが支那・南蛮(東南アジア〜歐州))・朝鮮国に売り飛ばされていたことが、この禁止令の前提にある。翌日付で伴天連追放令が発令されていることからも、豊臣秀吉は、奴隷売買に関与したイエズス会や南蠻ポルトガル商人を狙った。豊臣秀吉が目の当たりにしたのは、日本人奴隷が次々と南蠻ポルトガルの商船に乗せられ、運搬される風景だった。そのような事態を受けて、秀吉は強い決意を持って、人身売買の問題に取り組んだ。
問題だったのは、近くの日本人が南蠻ポルトガル人の姿(人道に外れた行為)を真似て、子、親、妻女を売り飛ばしたことである。阿鼻叫喚の地獄絵図を面前にすれば、日本人なら誰もが眼を背けたくなる外道の暴虐行為を切支丹大名は行っていた。豊臣秀吉は、特にその思いが強かった。大村由己は自分が目撃したことを豊臣秀吉に報告したところ、豊臣秀吉は激怒し、こうした実情を憂慮した。
豊臣秀吉は天台宗の元僧侶であった施薬院全宗の進言を受け、天正15年06月19日(西暦1587年07月25日)に博多で伴天連追放令を発布し、この日豊臣秀吉は、九州遠征に勝手に豊臣秀吉軍に同行していた南蠻ポルトガル人でイエズス会日本準管区初代準管区長ガスパール・コエリョを引見すると、次のような四箇条からなる「なぜそんな酷いことをするのか?」と詰問した。
「一つ、なぜかくも熱心に日本の人々を切支丹にしようとするのか。
一つ、なぜ神社仏閣を破壊し、坊主を迫害し、彼らと融和しようとしないのか。
一つ、牛馬は人間にとって有益な動物であるにもかかわらず、なぜこれを食べようとするのか。
一つ、なぜ南蠻ポルトガル人は多数の日本人を買い、奴隷として国外へ連れて行くようなことをするのか。
するとガスパール・コエリョは、「売る人がいるから仕様が無い。」とケロッとして言い放った。この言葉からも、こうした日本人奴隷の交易に切支丹大名たちが直接的にしろ間接的にしろ何らかの形で関わっていた。海外に連行されていった日本人奴隷は、南蠻ポルトガル商人が主導した事例がほとんどで、その被害者はざっと5万人に上るという。彼ら日本人奴隷たちは、澳門などに駐在していた白人の富裕層の下で使役されたほか、遠くインドやアフリカ、歐州、時には南米アルゼンチンやペルーにまで売られた例もあった。
ガスパール・コエリョに対し、日本人奴隷の売買を即刻停止するよう命じた。そして、こうも付け加えた。「すでに売られてしまった日本人を連れ戻すこと。それが無理なら助けられる者たちだけでも買い戻す。」といった主旨のことを伝えた。同時に豊臣秀吉はガスパール・コエリョに対し追放令を突き付けた。その一方で、日本国内に向けても直ちに奴隷として人を売買することを禁じる法令を発した。
こうした豊臣秀吉の強硬な態度が南蠻ポルトガルに対し示されたことで、日本人奴隷の交易はやがて終息に向かった。もしも豊臣秀吉が天下を統一するために九州を訪れていなかったら、こうした当時の耶蘇教徒が持つ独善性や宣教師たちの野望に気づかず、日本の国土は南蠻族によって侵略が進んでいた。豊臣秀吉はその危機を瀬戸際のところで食い止めた。
国内の政治と宗教の繋がりを恐れていたため、特に九州征伐の時に切支丹大名が同じ信仰の絆で強く結ばれているのを危険視し、切支丹に対する警戒心が危機感へと発展していった。
豊臣秀吉が発した伴天連追放令は耶蘇教の布教の禁止のみであり、南蛮貿易の実利を重視し勅令を施行せず、天正18(西暦1590)年には耶蘇教を復権させるようになった。勅令の通り宣教師を強制的に追放することができず、豊臣秀吉の政策上からもあくまで限定的なものであった。これにより「黙認」という形ではあったが宣教師たちは日本で活動を続けることができた。この時に禁止されたのは布教活動であり、耶蘇教の信仰は禁止されなかったため、各地の切支丹も公に迫害されたり、その信仰を制限されたりすることはなかった。長崎ではイエズス会の力が継続し、豊臣秀吉は時折、宣教師を支援した。天正19(西暦1591)年、インド総督の大使としてヴァリニャーノに提出された書簡(西笑承兌が豊臣秀吉のために起草)によると、三教(神道、儒教、仏教)に見られる東アジアの普遍性をヨーロッパの概念の特殊性と比較しながら耶蘇教の教義を断罪した。伴天連追放令を命じた当の豊臣秀吉は、イエズス会宣教師を通訳や南蠻ポルトガル商人との貿易の仲介役として重用していた。天正18(西暦1590)年、ガスパール・コエリョと対照的に豊臣秀吉の信任を得られたアレッサンドロ・ヴァリニャーノ(ヴァリニャーニ、Alessandro Valignano/Valignani)は2度目の来日を許されたが、豊臣秀吉が自らの追放令に反して「ロザリオと南蠻ポルトガル服を着用し、聚楽第の黄金の広間でぶらついていた。」と記述している。
アレッサンドロ・ヴァリニャーノは、天正遣欧少年使節の企画を発案し。天正10(西暦1582)年に、切支丹大名の大友義鎮(宗麟)・大村純忠・有馬晴信らの名代としてローマへ派遣された。4人の少年天正遣欧使節の少年たち(正使の伊東マンショと千々石ミゲル、副使の原マルチノと中浦ジュリアン)は、天正15(西暦1587)年03月にローマ法王、グレゴリウス13世の謁見を受け、ローマ市内でも大歓迎を受けた。
切支丹大名によって、世界中に奴隷として売り飛ばされた日本人は5万人ほどになる。それを目撃したのが、大村純忠が切支丹大名の名代としてローマに派遣した天正遣欧使節の少年たちだった。少年使節団の一行は航海の途中、世界各地の行く先々で、子供まで含めた日本人男女が奴隷として使役されたり、日本の若い女性が奴隷として一糸も纏わぬ姿で鎖に繋がれているのを見て、大きな衝撃を受けた。千々石ミゲルは「日本人は欲と金銭への執着が甚だしく、互いに身を売って日本の名に汚名を着せている。ポルトガル人やヨーロッパ人は、そのことを不思議に思っている。その上、我々が旅行先で奴隷に身を落とした日本人を見ると、道義を一切忘れて、血と言語を同じくする日本人を家畜や駄獣のように安い値で手放している。我が民族に激しい怒りを覚えざるを得なかった。」と書いた。日本人奴隷5万人という数だが、実際にはこの何倍もいたと言われている。
日本にいた南蠻ポルトガル宣教師が奴隷売買の酷さを見かね、当時の南蠻ポルトガル王のドン・セバスチャンに進言した結果、元龜02(西暦1571)年に「日本人奴隷の買い付け禁止令」も出されたが、奴隷売買はなくならかった。南蠻ポルトガルの奴隷商によって買われ、ブラジル、アルゼンチン、ペルーなどに売られた日本人奴隷の記録は、多くの公文書に残されている。

近世日本国民史 豊臣秀吉(二) 豊臣氏時代 乙篇 (講談社学術文庫) - 徳富蘇峰, 平泉澄
天正19(西暦1591)年、長崎で貿易を営む原田喜右衛門の部下の原田孫七郎はフィリピンの守りが手薄で征服が容易と上奏し、入貢と降伏を勧告する豊臣秀吉からの国書を天正20(西暦1592)年05月31日にマニラの南蠻スペイン領フィリピンの総督ゴメス・ペレス・ダスマリニャスに渡した。文禄02(西暦1593)年には原田喜右衛門がフィリピンの征服を豊臣秀吉に要請し、同04月22日には「フィリピン総督が服従せねば征伐する。」との国書を渡した。南蠻スペイン側は事前に船に同乗していた明人を詰問して、日本国王が九鬼嘉隆にフィリピン諸島の占領を任せたが、台湾の占領も別の人物に任せたから、当地の遠征はその次である等の情報を得ていた。宣戦布告にも近い軍事的脅迫を含む敵対的な最後通牒によって、南蠻スペインと日本の外交関係は緊迫し、南蠻スペイン人の対日感情も悪化の一途を辿った。
天正20(西暦1592)年に豊臣秀吉はフィリピンに対して降伏と朝貢を要求した。フィリピン総督ゴメス・ペレス・ダスマリニャスは天正20(西暦1592)年05月01日付で返事を出し、ドミニコ会の修道士フアン・コボが豊臣秀吉に届けた。フアン・コボ(Juan Cobo、支那名: 高母羨(Gāomǔ Xiàn、福建語: ko-bó soān))はアントニオ・ロペスという支那人耶蘇教徒と共に日本に来たが、フアン・コボとアントニオ・ロペスは、朝鮮征伐のために肥前国松浦郡名護屋に建てられた名護屋城で豊臣秀吉に面会した。原田喜右衛門はその後、マニラへの第2次日本使節団を個人的に担当することになり、アントニオ・ロペスは原田の船で無事にマニラに到着した。
文禄02(西暦1593)年06月01日、支那人耶蘇教徒アントニオ・ロペスは日本で見たこと行ったことについて宣誓の上で綿密な質問を受けたが、そのほとんどは「日本がフィリピンを攻撃する計画について知っているか?」であった。アントニオ・ロペスはまず「豊臣秀吉が原田喜右衛門に征服を任せたと聞いた。」と述べた。アントニオ・ロペスは日本側の侵略の動機についても答えた。「フィリピンに黄金が豊富にあるという話は万国共通である。このため兵士たちはここに来たがっており、貧しい国である朝鮮には行きたがらない。」アントニオ・ロペスはまた「日本人にフィリピンの軍事力について尋問された。」と述べた。アントニオ・ロペスが「フィリピンには4、5千人の南蠻スペイン人がいる。」と答えたのを聞いて、日本人は嘲笑った。彼らは「これらの島々の防衛は冗談であり、100人の日本人は2、300人の南蠻スペイン人と同じ価値がある。」と言った。アントニオ・ロペスの会った誰もが、「フィリピンが征服された暁には原田喜右衛門が総督になる。」と考えていた。その後、侵略軍の規模についてアントニオ・ロペスは「長谷川宗仁の指揮で10万人が送られる。」と聞いた。アントニオ・ロペスが「フィリピンには5、6千人の兵士しかおらず、そのうちマニラの警備は3、4千人以上だ。」と言うと、日本人は1万人で十分。」と言った。さらアントニオ・にロペスに10隻の大型船で輸送する兵士は5、6千人以下と決定したことを告げた。アントニオ・ロペスは最後に「侵攻経路について侵略軍は琉球諸島を経由してやってくるだろう。」と言った。
文禄02(西暦1593)年、フィリピン総督の使節としてフランシスコ会宣教師のペドロ・バプチスタが肥前国松浦郡平戸に来島後、名護屋城で豊臣秀吉に謁見した。豊臣秀次の配慮で前田玄以に命じて京都の南蛮寺の跡地に修道院が建設されることになった。翌年にはマニラから新たに3人の宣教師が来て、京坂地方での布教活動を活発化させ、信徒を1万人増やした。前田秀以(玄以の子)や織田秀信、寺沢広高ら大名もこの頃に洗礼を受けた。
文禄04(西暦1595)年07月15日には豊臣秀次の切腹と幼児も含めた一族39人の公開斬首が行われ、文禄・慶長の役では朝鮮、明への唐入り、征服計画が頓挫し和平交渉も難航した、文禄05年(西暦1596)年07月12日には慶長伏見地震で豊臣秀吉の居城である伏見城が倒壊(女73人、中居500人が死亡)、同09月02日には明・朝鮮との講和交渉が決裂、仏教や神道の在来宗教勢力も京都に進出していた耶蘇教フランシスコ会に警戒感を強める情勢にあった。
文禄05(西暦1596)年07月、フィリピンのマニラを出航した南蠻スペインのガレオン船サン・フェリペ号がメキシコを目指して太平洋横断の途についた。ガレオン船には100万ペソの財宝が積み込まれていた。同船の船長はマティアス・デ・ランデーチョであり、船員以外に当時の航海の通例として7人の司祭(フランシスコ会員フェリペ・デ・ヘスースとファン・ポーブレ、4人のアウグスティノ会員、1人のドミニコ会員)が乗り組んでいた。サン・フェリペ号は東シナ海で複数の台風に襲われて甚大な被害を受け、船員たちはメインマストを切り倒し、400個の積荷を海に放棄することでなんとか難局を乗り越えようとした。しかし、船はあまりに損傷が酷く、船員たちも満身創痍であったため、日本に流れ着くことだけが唯一の希望であった。
文禄05(西暦1596)年08月28日(文禄05年10月19日)、船は四国土佐沖に漂着し、知らせを聞いた長宗我部元親の指示で船は浦戸湾内へ強引に曳航され、湾内の砂州に座礁してしまった。大量の船荷が流出し、船員たちは長浜(現高知市長浜)の町に留め置かれた。長宗我部元親は投棄されず船に残っていた60万ペソ分の積荷を没収した。長宗我部元親は、日本で座礁、難破した船は、積荷と共にその土地へ所有権が移るのが日本の海事法であり、通常の手続きと主張したが、南蛮貿易とそれに伴う富が四国に届くことはほとんどなかったことも判断に影響したとされる。南蠻スペイン人乗組員が抗議すると、長宗我部元親は、豊臣秀吉の奉行のうち、個人的な友人である増田長盛に訴えるよう言い渡した。船長であるマティアス・デ・ランデーチョはこれを受けて、2人の部下を京に派遣し、フランシスコ会の修道士と落ち合うように指示した。一同で協議の上、船の修繕許可と身柄の保全を求める使者に贈り物を持たせて豊臣秀吉の元に差し向け、船長のマティアス・デ・ランデーチョは長浜に待機した。しかし使者は豊臣秀吉に会うことを許されず、代わりに奉行の1人で長宗我部元親の友人である増田長盛が浦戸に派遣されることになった。
増田長盛は「この状況を利用して利益を得られる。」と考え、豊臣秀吉にこの積荷を接収することを助言した。土佐に着いた増田長盛は南蠻スペイン人に賄賂を要求したが断られたため、サン・フェリペ号の貨物を100隻の和船に積んで京都に送る作業を始めた。それに先立って使者の1人ファン・ポーブレが一同の許に戻り、積荷が没収されること、自分たちは勾留され果ては処刑される可能性があることを伝えた。先に豊臣秀吉は南蠻スペイン人の総督に「日本では遭難者を救助する。」と通告していたため、まるで反対の対応に船員一同は驚愕した。
増田長盛らは、白人船員と同伴の黒人奴隷との区別なく名簿を作成し、積荷の一覧を作り全てに太閤の印を押し、船員たちを町内に留め置かせ、所持品を全て提出するよう命じた。さらに増田長盛らは「南蠻スペイン人たちは海賊であり、ペルー、メキシコ(ノビスパニア)、フィリピンを武力制圧したように日本でもそれを行うため、測量に来たに違いない。このことは都にいる3人の南蠻ポルトガル人ほか数人に聞いた。」という豊臣秀吉の書状を告げた。この時、水先案内人(航海長)であったデ・オランディアは憤って増田長盛に世界地図を示し、南蠻スペインは広大な領土をもつ国であり、日本がどれだけ小さい国であるかを語った。
これに対して増田長盛は「何故南蠻スペインがかくも広大な領土を持つに至ったか?」と問うたところ、デ・オランディア(または南蠻スペイン人船員)は次のような発言を行った。「南蠻スペイン国王は宣教師を世界中に派遣し、布教と共に征服を事業としている。それはまず、その土地の民を教化し、而して後その信徒を内応せしめ、兵力をもってこれを併呑するにあり。」これにより豊臣秀吉は耶蘇教の大規模な弾圧に踏み切ったとされる。この経緯は南蠻スペイン商人ベルナルディーノ・デ・アビラ・ヒロン(Bernardino de Avila Girón)が書いた「日本王国記」に、イエズス会士モレホンが注釈をつけたものであり、似たようなやり取りはあったものと見られている。この応答については、直接目撃した証言や文書も残っていないため、史実であったか定かではない。水先案内人(航海長)をしていたデ・オランディアの大言壮語とは対照的に、南蠻スペイン国王フェリペ2世は天正14(西暦1586)年には領土の急激な拡大によっておきた慢性的な兵の不足、莫大な負債等によって新たな領土の拡大に否定的になっており、領土防衛策に早くから舵を切っていた。「私には、より多くの王国や国家を手に入れようとする野心に駆られる理由はありません....私たちの主は、その善意によって、私が満足するほど、これら全ての物を与えて下さっています。」
サン・フェリペ号事件当時、豊臣秀吉による明と朝鮮の征服の試みが頓挫し、朝鮮・明との講和交渉が暗礁に乗る緊迫した国際情勢ではあったが、それ以前の天正19(西暦1591)年に原田孫七郎はフィリピンの守りが手薄で征服が容易と上奏、入貢と服従を勧告する豊臣秀吉からの国書を天正20(西暦1592)年05月31日にフィリピン総督に渡し、文禄02(西暦1593)年には原田喜右衛門もフィリピン征服、軍事的占領を働きかけ、豊臣秀吉は「フィリピン総督が服従せねば征伐する。」と宣戦布告とも取れる意思表明をしており、豊臣政権はアジアにおける南蠻スペインの脆弱な戦力を正確に把握していた。豊臣政権がフランシスコ会への態度を硬化させた原因は諸説提案されており、デ・オランディア(または南蠻スペイン人船員)の口から出任せの発言を高度な情報分析能力のあった奉行とその報告を受けた豊臣秀吉が真に受けたか不明。
天正20(西暦1592)年05月31日の原田孫七郎に託された国書で、豊臣秀吉はフィリピン総督に対して一国を代表して降伏勧告、恫喝を行っており、文禄02(西暦1593)年にも「服従せねば征伐する。」と宣戦布告ともとれる最後通牒を告知し、天正20(西暦1592)年04月12日には朝鮮出兵を開始していた。日本は南蠻スペイン領フィリピンに好戦的な侵略国としての印象を与えており、フィリピン在住の南蠻スペイン人の対日感情は悪化していた。一船員であるデ・オランディアの個人としての発言はその反映とも取れる。
増田長盛は都に戻り、このことが豊臣秀吉に報告された。豊臣秀吉は直後の同年12月08日に天正に続く禁教令が再び出し、「イエズス会の後に来日したフランシスコ会の活発な宣教活動が禁教令に対して挑発的である。」と考え、京都奉行の石田三成に命じて、京都に住むフランシスコ会員と耶蘇教徒全員を捕縛して処刑するよう命じた。石田三成は捕縛名簿からユスト高山右近の名を除外することはできたが、パウロ三木を含む他の信者の除外は果たせなかった。大坂と京都でフランシスコ会員7人と信徒14人、イエズス会関係者3人の合計24人が捕縛された。24人は、京都・堀川通り一条戻り橋で左の耳たぶを切り落とされて(豊臣秀吉の命令では耳と鼻を削ぐように言われていた。)、市中引き回しとなった。(西暦1597)年01月10日、「長崎で処刑せよ。」という命令を受けて一行は大坂を出発、歩いて長崎へ向かった。また、道中でイエズス会員の世話をするよう依頼され付き添っていたペトロ助四郎と、同じようにフランシスコ会員の世話をしていた伊勢の大工フランシスコ吉も捕縛された。2人は耶蘇教徒として、己の信仰のために命を捧げることを拒絶しなかった。26人のうちフランシスコ会会員とされているのは、南蠻スペインのアルカンタラのペテロが改革を起こした「アルカンタラ派」の会員であった。
厳冬期の旅を終えて長崎に到着した一行を見た責任者の寺沢半三郎(当時の長崎奉行であった寺沢広高の弟)は、一行の中にわずか12歳の少年ルドビコ茨木がいるのを見て哀れに思い、「切支丹の教えを棄てればお前の命を助けてやる。」とルドビコ茨木に持ちかけたが、ルドビコ茨木は「(この世の)束の間の命と(天国の)永遠の命を取り替えることはできない。」と言い、毅然として寺沢半三郎の申し出を断った。ディエゴ喜斎と五島のヨハネは、告解を聴くためにやってきたイエズス会員フランシスコ・パシオ神父の前で誓願を立て、イエズス会入会を許可された。26人が通常の刑場でなく、長崎の西坂の丘の上で処刑されることが決まると、一行はそこへ連行された。一行は、「ナザレのイエスが処刑されたゴルゴタの丘に似ている。」という理由から、西坂の丘を処刑の場として望んだ。処刑当日の慶長01年12月19日(西暦1597年02月05日)、長崎市内では混乱を避けるために外出禁止令が出されていたにも拘わらず、4000人を超える群衆が西坂の丘に集まってきていた。パウロ三木は死を目前にして、十字架の上から群衆に向かって自らの信仰の正しさを語った。群衆が見守る中、一行が槍で両脇を刺し貫かれて絶命したのは午前10時頃であった。京都や大坂にいたフランシスコ会のペトロ・バウチスタなど宣教師3人と修道士3人、および日本人信徒20人がに処刑された(「日本26聖人」)。
マティアス・デ・ランデーチョは、修繕のための船普請を早期に開始するよう豊臣秀吉に直接会って抗議しようと決めた。長宗我部元親は12月にマティアス・デ・ランデーチョらが都に上ることを許可した。しかし交渉の仲介を頼もうとしたフランシスコ会は捕縛された後であったため、船員たち自身で抗議を重ね、豊臣秀吉の許可によりサン・フェリペ号の修繕は開始された。一同は慶長02(西暦1597)年04月に浦戸を出航し、05月にマニラに到着した。マニラでは南蠻スペイン政府によって本事件の詳細な調査が行われ、船長のマティアス・デ・ランデーチョらは証人として喚問された。その後、は文禄06(西暦1597)年09月にスペイン使節としてマニラからドン・ルイス・ナバレテらが豊臣秀吉の元へ送られ、サン・フェリペ号の積荷の返還と26人殉教での宣教師らの遺体の引渡しを求めたが、引き渡しは行われなかった。サン・フェリペ号から没収された積荷の一部は、朝鮮出兵の資金として使われ、残りは有力者に分配され、中には天皇に届いたものもあったとされる。この事件には、豊臣秀吉の対明外交、イエズス会とフランシスコ会の対立などいくつかの問題が関係しており、その真相を決定的に解明するのは難しい。乗組員のものとされる発言は日本側に記録がなく、南蠻スペイン側にも直接目撃者や文書が残っていないため史実かはっきりしていない。
また、乗員のうち4人のアウグスティノ会員は、フアン・タマヨ、ディエゴ・デ・ゲバラ両神父と従者の修道士で、管区代表としてローマでの総会に東回り航路で向かう途中であった。アウグスティノ会は改めて神父ニコラス・デ・メロと弟子で日本人の修道士ニコラスのローマ派遣を決定し、慶長02(西暦1597)年、西回りのインド・ゴア航路で送り出した。師弟は慶長05(西暦1600)年、陸路ペルシア経由でサファヴィー朝使節団に随行しカスピ海・ヴォルガ川を遡上してモスクワに到達した。このため修道士ニコラスは初めてロシアを訪問した日本人とされる。だが両者とも王朝断絶からの動乱時代の騒擾に巻き込まれ、長期間の幽閉の後に処刑された。
サン・フェリペ号の積荷は100万ペソ、ガレオン船12隻(投棄されず漂着した積荷は60万ペソであるため8隻)の建造費に相当する巨額の財宝であり、船員達の帰郷を待つ家族の生活基盤さえも揺るがしかねない過酷な没収であった。積荷の債権者の憤激から対日感情が悪化し、ルソン各地から日本人が追放された。
サン・フェリペ号事件に関してしばしば「増田長盛との問答での南蠻スペイン人船員(デ・オランディアとも)の積荷を没収された腹いせによる発言が豊臣秀吉を激怒させた。」と説明されるが、これは慶長03(西暦1598)年に長崎でイエズス会員たちが行った「サン・フェリペ号事件」の顛末および「26聖人殉教」の原因調査のための査問会での証人の言葉として出たとされるもので、日本側の記録には一切残されていない。フランシスコ会と南蠻スペインとの関係は必ずしも良好なものでなく、実際のフランシスコ会の布教はコルテスの侵略完成後に行われていたため、「出任せや腹いせで発言した。」との説明には一定の蓋然性がある。
南蠻スペイン系の托鉢修道会(フランシスコ会・ドミニコ会・アウグスチノ会)は日本が潜在的な南蠻ポルトガル領となったことに対し、南蠻スペイン船の日本漂着、西国大名の貿易目当ての勧誘、豊臣秀吉の対フィリピン外交に乗じるなど、ローマ法王からの承認を得ることなく日本の布教活動に入った。天正20(西暦1592)年、マニラ総督からドミニコ会士を団長とする南蠻スペイン使節が日本に派遣され、翌文禄02(西暦1593)年にはフランシスコ会士が来日した。イエズス会と托鉢修道会の敵対関係は激化し、フランシスコ会が京都で公然と布教活動を行なったことで、南蠻スペイン船サン・フェリペ号の漂着をきっかけとして、南蠻スペイン人の宣教師・修道士6人を含む26人が長崎で処刑された。これは南蠻ポルトガルよりも露骨に日本の植民地化を推し進めてくる南蠻スペインに対する豊臣秀吉一流の見せしめであった。ともすれば、豊臣秀吉に対し切支丹を弾圧した非道な君主という誤った像を抱きがちだが、実際はこの時の集団処刑が、秀吉が行った唯一の切支丹への直接的迫害であった。それもこの時は南蠻スペイン系のフランシスコ会に対してであって、南蠻ポルトガル系のイエズス会に対し特に迫害というものを加えたことはなかった。
また、豊臣秀吉がそれまで言い伝えていた処遇から翻った処断を下したこと、この事件の直後に殉教事件が起きていること、処刑された外国人はフランシスコ会だけであったことから、豊臣秀吉は前々より都周辺での布教を自粛していたイエズス会に代わり、遅れて国内で布教し始めていた南蠻スペイン系の会派(他にアウグスティノ会など)の活動や宗派対立を嫌悪していた。さらに、豊臣秀吉自身が秀次事件の後の政権内綱紀粛正や明の冊封使の対応(後の慶長の役に繋がる)に忙殺され、南蠻スペイン支配下の呂宋国(フィリピン)へは明確な計画がなかったことなど、複数の原因も考えられる。
しかしこの事件は、それまで一括りにされていたが、南蠻スペイン系耶蘇教宗派や南蠻スペイン人と南蠻ポルトガル人とで異なるという意識を芽生えさせ、後の徳川期の鎖国において先に南蠻スペイン船が渡航禁止(元和10(西暦1624)年、南蠻ポルトガル船渡航禁止は(寛永16(西暦1639)年)とされる事態も生じている。
天正20年(1592年)06月、すでに朝鮮を併呑せんが勢いであった時、毛利家文書および鍋島家文書によると、豊臣秀吉はフィリピンのみならず「処女のごとき大明国を誅伐すべきは、山の卵を圧するが如くあるべきものなり。只に大明国のみにあらず、況やまた天竺南蛮もかくの如くあるべし。」と、明、インド、南蛮(東南アジア、南蠻ポルトガル、南蠻スペイン、ヨーロッパ等)への侵略計画を明らかにした。豊臣秀吉は先駆衆にはインドに所領を与えて、インドの領土に切り取り自由の許可を与えるとした。
慶長01(1597)年02月に処刑された26聖人の1人であるマルチノ・デ・ラ・アセンシオン(Martín de la Ascensión)はフィリピン総督宛の書簡で自らが処刑されることと豊臣秀吉のフィリピン侵略計画について日本で聞いた事を書いている。「(豊臣秀吉は)今年は朝鮮人に忙しくてルソン島に行けないが来年には行く。」とした。マルチノはまた侵攻ルートについても「彼は琉球と台湾を占領し、そこからカガヤンに軍を投入し、もし神が進出を止めなければ、そこからマニラに攻め入る積りである。」と述べている。また、マルチノ・デ・ラ・アセンシオン(Martín de la Ascensión)が文禄05(西暦1596)年06月〜09月にかけて作成した「国王陛下が日本の耶蘇教界のために救済せねばならない諸問題に関する報告書」では、南蠻スペイン国王の日本支配とフランシスコ会の日本布教の正当性が説かれ、同時にイエズス会の日本支配と独占に対する厳しい批判が記されている。「日本は南蠻スペイン王国の地球分割(デマルカシオン)に包摂されており、南蠻スペインが日本に進出するのは当然の権利であり正当な行為である。そして正当な支配権を持つ南蠻スペイン国王が、日本の耶蘇教界を救済する義務を負うことから、長崎や平戸を獲得して要塞を建築し防御のために武装艦隊を建造しなければならない。」と主張した。
慶長10(西暦1605)年に南蠻ポルトガル副王のドン・ペドロ・デ・カスティリョは日本における布教をイエズス会の独占とするようマドリードに要請したが、慶長13(西暦1608)年にローマ法王庁は日本での布教を全教団に認めたため、フランシスコ会とドミニコ会が長崎に進出し、イエズス会との間の勢力争いが激しくなった。イエズス会は彼らの日本布教参入を、南蠻ポルトガルの地球分割(デマルカシオン)を根拠に批判したが、托鉢修道会はイエズス会士の貿易活動や軍事活動を糾弾した。そして「布教政策の誤りによって日本の権力者に活動を禁じられたことに対して、托鉢修道会は日本側から布教許可を得ている。」と主張し、「ローマ法王の決定は効力を失っており、さらにの分界線はマラッカの上を通り日本は南蠻スペイン領に入る。」として、自らの布教の正当性を主張した。
26聖人の処刑後、スペリン領フィリピンでは「豊臣秀吉との有効的関係が終わった。」と認識され、豊臣秀吉によるフィリピン侵略への懸念が再燃した。日本によるフィリピン侵略は豊臣秀吉だけでなく、寛永07(西暦1630)年に松倉重政によって計画が行われた。マニラへの先遣隊は寛永08(西暦1631)年07月、日本に帰国したが寛永09(西暦1632)年07月まで南蠻スペイン側は厳戒態勢をしいていた。その後5年間はフィリピンへの遠征は考慮されなかったが、日本の迫害から逃れてきた耶蘇教難民がマニラに到着し続ける一方で 日本への神父の逆流が続いていた。寛永14(西暦1637)年には松倉重政の後を継いだ息子の松倉勝家は、父に劣らず暴君で耶蘇教に敵対し、松倉勝家が島原の大名として在任中に、最後のフィリピン侵略の企てが検討がされた。同年に起きた島原の乱(寛永14(西暦1637)年〜寛永15(西暦1638)年)によって遠征計画は致命的な打撃を受けた。
オランダ人は寛永14(西暦1637)年のフィリピン侵略計画の発案者は徳川家光と確信していたが、実際は将軍ではなく、上司の機嫌をとろうとしていた榊原職直と馬場利重だった。遠征軍は松倉勝家などの大名が将軍の代理として供給しなければならなかったが、人数については、松倉重政が計画していた2倍の1万人規模の遠征軍が想定されていた。フィリピン征服の指揮官は松倉勝家が有力であったが、同年に起きた島原の乱によって遠征計画は致命的な打撃を受けた。
島原の乱は松倉勝家領の肥前島原半島の島原藩と寺沢堅高の所領の唐津藩の飛地、肥後天草諸島で百姓の酷使や過重な年貢負担と、払えない場合に生きて火を付けられる等の苛烈な処罰に窮し、これに藩によるキリシタン(カトリック信徒)の迫害、更に飢饉の被害まで加わり、両藩に対して起こした領民37000人が両藩に対して起こした叛乱で、百姓一揆の鎮圧に12万4000人の兵を送り込んだ。島原と天草には共通点があった。天草はかつて小西行長というキリシタン大名の領地だった。関ケ原では西軍側で戦って負け、処刑された。天草も有馬晴信というキリシタン大名の領地だったがスキャンダルで領地を追われ、その後処刑された。替わって領地に入って来たのが先の松倉勝家と寺沢堅高という絵にかいたような暴君で、島原の乱は農民漁民、手工業や商業まで、町民全体が立ち上がった。実際には有馬家や小西家に仕えていた耶蘇教徒の浪人が多かった。中には脅されて耶蘇教徒にされた者も多かったが、今度は反対に耶蘇教を棄てろと脅された。一揆軍は島原半島の原城に立て籠り、幕府軍は原城を包囲して持久戦に持ち込み、食料が尽きるのを待った。密かに城を出て海岸線で食料を探していた者を殺害し、胃の中を調べると海藻しか入っていなかったという。そのため幕府軍は城内の食料が底を尽きかけていることを知った。
耶蘇教徒の多い一揆軍は南蠻ポルトガル海軍が助けに来てくれると最後まで希望を抱いていたという。しかし来なかった。南蠻ポルトガルが反幕府軍の加担をしたとなれば戦後、幕府と衝突するのは不可避で、宣教師らは耶蘇教徒たちを見殺しにした。幕府は紅毛蠻賊オランダに依頼し軍船に砲撃させた。幕府は内戦に外国の力を借りた。紅毛蠻賊オランダはプロテスタントで南蠻ポルトガルはカトリックで、ヨーロッパの血で血を洗う宗教抗争が九州にも持ち込まれた。最終的には幕府軍が、籠城していた3万7000人はほぼ全員が根絶やしにされた。ほんの一握り、逃げ延びた人たちが離島に逃れて隠れキリシタンとなった。幕府は未だに宣教師を送り込んで来る南蠻ポルトガルや南蠻スペインを危険視して、交易は布教しないと誓った紅毛蠻賊オランダに乗り換え、南蠻ポルトガルや南蠻スペインを排除した。
島原の乱の数ヶ月後、将軍徳川家光の諮問機関は廃城となっていた原城を奪うために必要な努力と、占領地を何百マイルも移動して(当時の東アジアで最も要塞化された都市の1つであった)マニラの要塞に対抗するために同様の規模の軍と同様の海軍の支援を計画することを比較検討した。「フィリピン侵攻のために用意した1万人の兵力は10万人、つまりその3分の1の反乱軍に打ち勝つために原城に投入しなければならなかった兵力であるべき。」との分析がなされた。

信長 秀吉 家康はグローバリズムとどう戦ったのか 普及版 なぜ秀吉はバテレンを追放したのか - 三浦 小太郎

倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史 (星海社新書 203) - 渡邊 大門
大坂夏の陣直後の元和(げんな)01(西暦1615)年05月、醍醐寺僧侶の義演は戦場で「女・童部」の掠奪が多発していることを書き記している。人盗り・物盗りの現場を描いた生々しい場面が、黒田屏風として知られる大坂夏の陣図屏風に描かれている。それは、大坂落城の悲劇が活写され、華やかな小袖を着た若い娘が、徳川の三つ葉葵紋の指物を差した雑兵たちに両手を取られて、今まさに拉致されようとしている。「公儀の軍隊」であるはずの幕府軍が、この有様であり、次に神崎川を越えて北摂の郷村地域に避難しようとする民衆に襲いかかる野盗や追い剥ぎたちの場面がある。幕府方の雑兵である可能性は否定できない。上半身裸の女性が彼らに命乞いする姿は、誠に哀れである。大坂夏の陣で勝利した徳川軍も女子供を次々に捕まえて凱旋している。「大坂夏の陣図屏風」には、逃げ惑う敗残兵や避難民を徳川軍が掠奪・誘拐・首取りする姿が描かれている。将兵は戦いに集中するよりも、人や物の掠奪に熱中していた。
大坂夏の陣の翌年にあたる元和02(西暦1616)10月に、江戸幕府は次の人身売買禁止令を発した。
「一、人の売買の事、一円停止たり、もし売買濫の輩は、売損・買損の上、売らるる者は、その身の心にまかすべし、ならびに勾引売りにつきては、売主は成敗、うらるる者は本主(人)へ返すべき事、」
ここで人身売買は一切禁止とし、もしみだりに取引した者は売損・買損とされ、かどわかし売りについては、売った者は死刑と定められた。
この法令は、従来の解釈のような元和偃武が実現したことにあわせて、初めて幕府が発令したものではなく、以前からの法令を改めて出したものと見られる。これには、関連する同年10月29日付朽木元綱宛板倉勝重書状(「朽木家文書」)がある。
京都所司代であった板倉勝重は、京都でかどわかされて売られた女性たちについて、先年のごとく近江国でも女改めをするように将軍徳川秀忠から仰せつけられたので、領分でも若狭に抜けて行く女性たちについては改めるようにと朽木元綱に指示し、あわせてかどわかされた「十五歳より下」の男童部についても改めるように依頼している。朽木氏とは、山椒大夫の時代から人買いが往来していた鯖街道の近江国朽木谷(朽木村、現滋賀県高島市朽木)で9590石を領した大身の旗本である。女性に対する改めとは、具体的には関所で「手形」すなわち女性の通行許可書である女手形の所持を監察することである。女手形は、江戸幕府の草創期から大留守居(幕府の職掌で大身旗本が任じられた)とは別に、朝廷や豊臣氏に対する監視と折衝が任務であった京都所司代も発行していた。これまで京都所司代の発行した最古の女手形は、元和07(西暦1621)年02月10日付で板倉勝重の嫡男重宗が「京都より佐渡まで女改奉行衆」に宛てたものとされてきたが、先の板倉勝重書状案によって、元和02(西暦1616)年10月以前から発行されていたことが判明した。この初期史料からは、近江国において元和02(西暦1616)年を画期として人身売買の禁止が強化されたことが覗われる。同年11月には、朽木元綱の子息宣綱が朽木領内の女改め関所の様子を将軍徳川秀忠の年寄衆に伝えたことがわかる。女性や男童部の改めとは、具体的には関所で検問して、女手形を所持していない女性や不審な男童は拘留し、詮議のうえ売買が明白な場合は解放することである。
板倉勝重が、「かどわかされ売買された女性や男童部が京都から若狭へ向かっている。」と認識していることから、大坂の陣によって大量に発生した戦争奴隷が若狭小浜などに集められ、東南アジア方面に売り飛ばされた可能性を示唆する。伴天連追放令から20年を経ても、事態はなんら変化していなかった。かどわかしたのは、外部から侵攻してきた幕府軍関係者で、深刻なのは翌年になってもこのような事態が終息していなかったで、東軍に属した大名たちはとうに帰国していたはずで「商品」となっていた女性や男童部が京都に相当に滞留しており、その一部が海外市場を目指して若狭へ送り込まれていたと見られる。朽木領に設けられた女改め関所が、江戸時代を通じて存続・機能していた。
中世において戦争は、常に人盗り・物盗りを伴うものであった。これこそ、軍隊の大部分を占めた百姓上がりの雑兵たちの目的だった。これに対して、天下人たちはその禁止を掲げた。近世大名軍隊は、「公儀の軍隊」たることが義務づけられ、粛々と行軍して戦場に向かい、陣立書に基づき戦闘を遂行することになっていた。
織田信長の晩年以来、軍法によって町や村などへの狼藉行為などは厳禁されたが、秀吉の天下統一戦において禁圧することはできなかった。
鐵炮伝来とその普及が、戦争を大規模化させた。その結果が、大勢の日本人奴隷の海外流失へと繋がった。二度と故郷へは帰れない大勢の女性や子供たちの存在が、そこにはあった。「公儀軍」だったはずの幕府軍が、禁止されていた人盗り・物盗りを堂々と行なっていたのは象徴的である。厳禁していた人身売買も、あくまでも建前だったと見ざるをえない。誕生したばかりの近世大名軍隊も、実態的には中世の軍隊がもつ野蛮性を十分には克服できないまま、天下泰平が訪れた。
豊臣秀吉の死後、五大老による合議制が敷かれていた時期、筆頭大老の徳川家康の外交観は、貿易と布教は分離できるというものだった。南蠻ポルトガルとの貿易によって大きな利益を得ている長崎や九州を見て、「貿易を優先すべき。」と考えていた家康は、当初、耶蘇教に対して寛大な姿勢で臨んでいたのですが、やがて「南蠻スペイン・南蠻ポルトガルは耶蘇教布教と同時に日本を武力により支配しようとしている。」との情報を得て、外交方針を変えていった。
南蠻スペインは、信者を増やして日本を支配した後は、日本を拠点として明に攻め入り、いずれは明も征服しようという長期計画を持っていた。
徳川家康は、慶長17(西暦1612)年には天領(幕府直轄地)に、翌慶長18(西暦1613)年には全国に「禁教令(耶蘇教禁止令)」を将軍秀忠の名で交付させた。「耶蘇教は侵略的植民政策の手先であり、人倫の常道を損ない、日本の法秩序を守らない。」と激しく糾弾する内容だった。ここに鎖国体制が始まり、耶蘇教禁止令は明治06(西暦1873)年まで続いた。その後洗脳侵略が露見し、九州〜機内の切支丹大名は、日本人を5万人も奴隷として売り飛ばしていた。
紅毛蠻賊オランダが南蠻ポルトガルや南蠻スペインに取って代わった。しかし紅毛オランダがインドネシアでの悪行の数々を知れば、紅毛蠻賊オランダもまた日本に対して南蠻ポルトガルや南蠻スペインとさして変わらぬ野心を抱いていた。紅毛蠻賊オランダとは後に世界最強国となる紅毛蠻賊イングランドすらマレー諸島から蹴散らし、香料を独占するほど鼻息荒い蠻人で、紅毛蠻賊オランダと清(西暦1644〜1912年、大C國)支那を平戸や長崎出島に封じ込めた徳川幕府は国際情勢に通じ、危機管理能力も備えていた。日本の学校では世界史と國史を別に教えている。しかし西暦15世紀末に大航海時代が幕を開け、南蠻・紅毛蠻賊が世界中で悪行の数々を行い、國史はヨーロッパ抜きには考えられない。
寛永16(西暦1639)年に南蠻ポルトガル船の来航を禁じて以来、C(大C國、西暦1636〜1912、1917年(張勲復辟))・李氏朝鮮(朝鮮國、西暦1392〜 1897年)・琉球國(沖縄方言: ルーチュークク、西暦1429〜1879年)・ネーデルラント連邦共和国(西暦1579〜1795年)以外の国と通信・通商の関係を持たない江戸時代の日本に最初に開国通商を迫ったのは、南下政策によって貿易の拡大と領土の拡張を図っていた露助ロシア帝国(西暦1721〜1917年)である。
第1回の遣日使節は、寛政04(西暦1792)年09月に根室に大黒屋光太夫、磯吉、小市と3人ら日本人漂流者を伴い来航した北部沿海州ギジガ守備隊長アダム・キリロヴィチ・ラクスマン(露語: Адам Кириллович Лаксман、典語: Adam Laxman)陸軍中尉は「江戸に直航して通商を促す国書を幕府に直接手渡したい。」と申し出た。日本人漂流民で最年長であった小市はこの地で死亡した。幕府の石川忠房は「長崎以外に異国船の入港は認められない。」としてこれを拒み、松前で大黒屋光太夫、磯吉の2人を引き取り、アダム・キリロヴィチ・ラクスマンに対して長崎入港の許可書(信牌)を交付した。しかしアダム・キリロヴィチ・ラクスマンは結局長崎へは向わず帰国した。それから12年後、文化01(西暦1804)年09月に、アダム・キリロヴィチ・ラクスマンに与えられた信牌の写しと露助ロシア皇帝アレクサンドル1世の親書を帯びたニコライ・ペトロヴィッチ・レザノフ(露語: Никола́й Петро́вич Реза́нов、Nikolai Petrovich Rezanov)(第2回遣日使節)一行が長崎に到着した。翌年03月まで滞在して交渉を求めた甲斐なく親書も受理されず、翌年には長崎奉行所において長崎奉行遠山景晋(遠山景元の父)から、「唐山(支那)・朝鮮・琉球・紅毛蠻賊(オランダ)以外の国と通信・通商の関係を持たないのが朝廷歴世の法で議論の余地はない、」として、通商の拒絶と退去を命じられたニコライ・ペトロヴィッチ・レザーノフは、帰国の途中、部下に樺太・択捉島・礼文島などへの攻撃を命じ、幕府の危機感を一層高めた。遠山景晋・景元父子共に通称金四郎、景元は江戸北町奉行「遠山の金さん」として、芝居・講談・小説・映画・テレビなど虚構で登場する。
寛永18(西暦1641)年以降、歐州諸国の中で紅毛蠻賊ネーデルラント連邦共和国(オランダ)のみが日本との通商を許され、長崎出島にオランダ東インド会社(蘭語: Verenigde Oost-Indische Compagnie、略称: VOC)の商館が設置されていた。紅毛蠻賊イギリス王国(西暦927〜1707年)も江戸時代初期には平戸に商館を設置して対日貿易を行っていた。元和09(西暦1623)年に紅毛蠻賊オランダ領東インド(現インドネシア)モルッカ諸島アンボイナ島でアンボイナ虐殺事件が勃発した。慶長05年(西暦1600)年関ヶ原の戦いの後の大名改易により大量の浪人が発生した。生活に困窮した浪人の中には山田長政のように歐州や東南アジアの傭兵となった者も多く、アユタヤやプノンペンに日本人町が形成された。アンボイナ島にも、傭兵として勤務しており、元和09(西暦1623)年02月10日夜、イギリス東インド会社(英語: East India Company(EIC))の日本人平戸出身の傭兵、七蔵が紅毛蠻賊オランダ王国の衛兵らに捕らえられ拷問に掛けられ、「紅毛蠻賊イギリス王国が砦の占領を計画している。」と自白したと言う。直ちにイギリス東インド会社商館長ガブリエル・タワーソン(Gabriel Towerson)ら30余人を捕らえた当局は、彼らに火責め、水責め、四肢の切断などの凄惨な拷問を加え、これを認めさせ、03月09日、ガブリエル・タワーソンをはじめ紅毛蠻賊イギリス人9人、日本人10人、南蠻ポルトガル人1人を斬首して、同島における紅毛蠻賊イギリス勢力を排除した。紅毛蠻賊オランダ王国の陰謀といわれる。紅毛蠻賊オランダ王国(西暦1795〜1806年)との営業競争に敗れ経営不振のため、紅毛蠻賊イギリス王国は、元和09(西暦1623)年に長崎平戸の商館を閉館し、その後再開を試みたが、江戸幕府に拒絶され続けていた。
西暦18世紀末、フランス革命戦争が勃発すると、西暦1793年に紅毛蠻賊オランダは紅毛蠻賊フランス共和国第1共和政(西暦1792〜1804年)に占領され、最後のオランダ総督、オラニエ公ウィレム5世(Willem V van Oranje-Nassau)は紅毛蠻賊イギリス王国に亡命した。紅毛蠻賊オランダでは地元の革命派によるバタヴィア共和国(西暦1795〜1806年)が成立し、オランダ東インド会社は西暦1798年に解散した。バタヴィア共和国はフランスの影響下にあるとはいえ一応オランダ人の政権であるが、紅毛蠻賊第1帝政フランス帝国(西暦1804〜1814、1815年)皇帝ナポレオン1世は西暦1806年に弟のルイ・ボナパルトをオランダ国王に任命し、フランス人による紅毛蠻賊ホラント王国(西暦1806〜1810年)が成立した。このため、世界各地にあった紅毛蠻賊オランダの植民地は全て紅毛蠻賊フランス帝国の影響下に置かれることとなった。紅毛蠻賊イギリス王国は、亡命して来たウィレム5世の依頼により紅毛蠻賊オランダの海外植民地の自国による接収を始めていたが、長崎出島のオランダ商館を管轄するオランダ東インド会社があったバタヴィア(ジャカルタ)は依然として旧紅毛蠻賊オランダ(フランス)支配下の植民地であった。しかし、アジアの制海権は既に紅毛蠻賊イギリス王国が握っていたため、バタヴィア(ジャカルタ)では旧紅毛蠻賊オランダ(フランス)支配下の貿易商は中立国の紅毛蠻賊アメリカ合衆国(西暦1776年〜)籍の船を雇用して長崎と貿易を続けていた。
文化05年08月15日(西暦1808年10月04日)、紅毛蠻賊イギリス王国ベンガル総督初代ミントー伯ギルバート・エリオット・マーレイ・キニンマウンド(Gilbert Elliot-Murray-Kynynmound, 1st Earl of Minto)の命令によりオランダ船拿捕を目的とするイギリス海軍のフリゲート艦フェートン(フリートウッド・ペリュー艦長)は、オランダ国旗を掲げて国籍を偽り、長崎へ入港した。これをオランダ船と誤認した出島のオランダ商館では商館員ホウゼンルマン(Dirk Gozeman)とシキンムル(Gerrit Schimmel)の2人を小舟で派遣し、慣例に従って長崎奉行所のオランダ通詞らと共に出迎えのため船に乗り込もうとしたところ、武装舟によって拉致され、船に連行された。それと同時に船はオランダ国旗を降ろしイギリス国旗を掲げ、オランダ船を求めて武装舟で長崎港内の捜索を行った。長崎奉行所ではフェートン号に対し、オランダ商館員を解放するよう書状で要求したが、フェートン号側からは水と食料を要求する返書があっただけだった。オランダ商館長(カピタン)ヘンドリック・ドゥーフ(Hendrik Doeff)は長崎奉行所内に避難し、商館員の生還を願い戦闘回避を勧めた。長崎奉行の松平康英は、商館員の生還を約束する一方で、湾内警備を担当する佐賀藩・福岡藩の両藩に紅毛蠻賊イギリス側の襲撃に備える事、またフェートン号を抑留、又は焼き討ちする準備を命じた。ところが、その年の長崎警衛当番であった佐賀藩が太平に慣れ経費削減のため守備兵を無断で減らしており、長崎には本来の駐在兵力の10分の1ほどのわずか100人程度しか在番していないことが判明した。松平康英は急遽、薩摩藩、熊本藩、久留米藩、大村藩など九州諸藩に応援の出兵を求めた。翌16日、ペリュー艦長は人質の1人ホウゼンルマン商館員を釈放して薪、水や食料(米・野菜・肉)の提供を要求し、供給がない場合は港内の和船を焼き払うと脅迫してきた。人質を取られ十分な兵力もない状況下にあって、松平康英は止むなく要求を受け入れることとしたが、要求された水は少量しか提供せず、明日以降に十分な量を提供すると偽って応援兵力が到着するまでの時間稼ぎを図ることとした。長崎奉行所では食料や飲料水を準備して舟に積み込み、オランダ商館から提供された豚と牛と共にフェートン号に送った。これを受けてペリュー艦長はシキンムル商館員も釈放し、出航の準備を始めた。17日未明、近隣の大村藩主大村純昌が藩兵を率いて長崎に到着した。松平康英は大村純昌と共にフェートン号を抑留もしくは焼き討ちするための作戦を進めていたが、その間にフェートン号は碇を上げ長崎港外に去った。
手持ちの兵力もなく、侵入船の要求にむざむざと応じざるを得なかった長崎奉行の松平康英は、国威を辱めたとして自ら切腹し、勝手に兵力を減らしていた鍋島藩家老等数人も責任を取って切腹した。さらに幕府は、鍋島藩が長崎警備の任を怠っていたとして、11月には藩主鍋島斉直に100日の閉門を命じた。
その後もイギリス船の出現が相次ぎ、幕府は文政08(西暦1825)年に異国船打払令を発令した。この事件以降、知識人の間で英国は侵略性を持つ危険な国「英夷」と見做され始めた。
天保08(西暦1837)年07月30日、紅毛蠻賊アメリカのオリファント商会の商船モリソン号が澳門(マカオ)で保護されていた日本人漂流民の音吉・庄蔵・寿三郎・熊太郎、力松ら7人の送還と通商・布教に三浦半島の城ヶ島の南方の浦賀沖に現れた。砲撃を受けて、敵対的だと分かると鹿児島へ向い、ここで日本人船員が日本側と接触したものの再び砲撃に遭った。浦賀奉行太田資統および薩摩藩は異国船打払令に基づき砲撃を行った。08月13日に引き返す決定をして08月19日に澳門に戻った(モリソン号事件)。このような幕府の姿勢を批判した高野長英・渡辺崋山らもまた罰せられた(西暦1839年 蛮社の獄)。幕府は江戸近海の防備体制を再検討し、長崎の町年寄で洋式砲術を学んだ高島秋帆に徳丸が原(東京都板橋区高島平)で演習を行わせるなど海防と軍事力の充実を図ったが、特段の成果を見ないまま、「アヘン戦争の衝撃」によって、政策の変更を迫られることになった。
アヘン戦争は、アヘンの密輸を禁じる清国政府がイギリス商人が持ち込む大量のアヘンを焼却したことに対して紅毛蠻賊イギリス王国が反発、強大な軍事力を行使した戦争(西暦1840〜1842年)で、惨敗した清国は、西暦1842年、巨額の賠償金や香港の割譲、領事裁判権等を内容とする南京条約を締結して支那半植民地化への道を開いた。このような紅毛蠻賊イギリスの圧倒的軍事力は、日本の幕府当局者や全国の知識人に大きな衝撃を与えた。 天保13(西暦1842)年07月、幕府は異国船打払令をより穏便な薪水給与令に改め、異国船来航の折は薪(燃料)や食料、水を与えて引き取らせることとした。

国旗と砲弾: 緊迫の3日間・フェートン号長崎を襲う - 出島磊太
初代ビーコンズフィールド伯ベンジャミン・ディズレーリ(Benjamin Disraeli, 1st Earl of Beaconsfield)は、イタリアからの移民のセファルディームユダヤ人の家系で、13歳の時にイングランド国教会に改宗した。セファルディーム系ユダヤ人社会で南蠻スペイン系や南蠻ポルトガル系のユダヤ人を最も「貴種」と見做すことが多いため、祖父の名前と同じ「ベンジャミン」と名付けられたユダヤ人、ベンジャミン・ディズレーリは南蠻スペイン系出自に拘泥したが、祖父ベンジャミンは、ローマ法王領フェラーラ近郊のチェント生まれで、西暦1748年にイギリス王国へ移住し、結婚を通じて株式仲買人として成功し、西暦1816年に死去した際には3万5000ポンドという遺産を遺した。祖父ベンジャミンがデ・イズレーリ(D'Israeli)を名乗るまで姓はイズレーリ(Israeli、「イスラエル」の意)で、これは南蠻スペイン語「イスラエリタ」ではなくアラビア語系で、イズレーリ家はレバント(地中海東岸地域)からイタリアへ移住したと推測される。「デ(D)」はセファルディーム系ユダヤ人の洗礼名によく使われたアラム語のDiの略と考えられる。母方の祖母の実家カードソ家は西暦1492年以降の異端審問で南蠻スペイン王国を追われイタリアへ逃れ、西暦17世紀末にイギリス王国へ移住した正に南蠻スペイン系ユダヤ人の家柄だが、ベンジャミン・ディズレーリは母親を嫌っていたため、母系には、ほとんど関心を持たず、この事実を知らなかった。ともかく気位が高かった金満猶太ベンジャミン・ディズレーリは訳のわからない強い「貴種」意識を持っていた。「ユダヤ人は英国貴族などよりはるかに古い歴史を持つ真の貴族であり、さらに自分はそのユダヤ人の中でも『南蠻スペイン系』の『貴種』なので貴族の中の貴族だ。」と妄想していた。とりわけヒューエンデンの地主となって以降のベンジャミン・ディズレーリはその貴族意識を増大させていった。
ベンジャミン・デ・イズレーリの父アイザック・デ・イズレーリはヴォルテール主義者であり、猶太教会に布施を納めていたが、猶太教の儀式にもほとんど出席しなかった。それでもアイザック・デ・イズレーリが猶太教会に籍を置いていたのは父親ベンジャミン・デ・イズレーリを喜ばせるためであった。アイザック・デ・イズレーリは西暦1813年に猶太教のベービス・マークス集会長に選出されたが拒否し、猶太教の掟により40ポンドの罰金が科された。しかしアイザック・デ・イズレーリはこれに反発し、役職を務めることも罰金を支払うことも拒否した。その後も3年ほど父に配慮して猶太教会に籍を置いていた。しかし、西暦1816年の父の死去を機に、西暦1817年03月にイズレーリ家は猶太教会の籍を離れ、アイザック・デ・イズレーリは猶太教会離籍後は宗教に入信しなかったが、西暦1829年までは英国教会の信徒でなければ公職に就けなかった。立身のため、イズレーリ家はベンジャミン・デ・イズレーリが13歳の時にホルボーン地区のセント・アンドリューズ教会において洗礼を受け英国国教会に改宗した。
ユダヤの誇りを身体で示したのが、ユダヤ人拳闘家メンドーサと弟子たちで、ユダヤの誇りを雄弁と文才で示したのがベンジャミン・デ・イズレーリは、ユダヤ出自の公職者の中で最も著名で、立身のため表向きは英国国教会に改宗したが、旺盛なユダヤ人意識を持ち続け、それを公言して憚らなかった。
15歳の時にベンジャミン・デ・イズレーリのユダヤ臭をからかった生徒の顔を殴り血塗れにしてに学校を退学になり、父アイザックの説得により、17歳の頃から弁護士事務所で働くようになった。しかし弁護士事務所の業務に関心が持てず辞め、南米鉱山株の投機や新聞発行に手を出したが失敗して破産した。小説が評判になったが激しい批判を集めた。西暦1830年05月末、姉サラの婚約者メラディスと共にロンドンから船出して英領ジブラルタルへ向かい、南欧・近東を旅行した。特にエルサレムではユダヤ人と自覚するきっかけとなった。カイロ滞在中の西暦1831年07月、同行のメラディスが天然痘により病死したため、デ・イズレーリも急遽帰国の途に付き、12月末に帰国した。この旅行中からベンジャミン・デ・イズレーリは「デ・イズレーリ」という外人風の姓を「ディズレーリ」と綴るようになった。
西暦1830年代初頭のグレートブリテン及びアイルランド連合王国では産業革命による工業化した社会に対応した政治変革を行うことが喫緊の課題となっていた。西暦1830年には保守政党トーリー党(Tory Party、アイルランド語の「toraidhe」、「ならず者」や「盗賊」の意)の政権が倒れ、自由主義政党ホイッグ党(Whig Party、スコットランド語の「whiggamor」、「謀反人」、「馬泥棒」の意)の政権である第2代グレイ伯チャールズ(Charles Grey, 2nd Earl Grey, KG, PC)内閣が誕生した。
ベンジャミン・ディズレーリの友人、初代ブルワー・リットン男爵エドワード・ジョージ・アール・ブルワー・リットン(Edward George Earle Lytton Bulwer-Lytton, 1st Baron Lytton, PC)も西暦1831年の総選挙で当選し、好き勝手な主張をする無所属議員の集まりの急進派(Radicals)に所属する庶民院議員になった。初代ブルワー・リットン男爵エドワード・ジョージ・アールの縁故でベンジャミン・ディズレーリも社交界に出席できるようになった。ベンジャミン・ディズレーリは自分も「庶民院議員になりたい。」と思うようになった。ベンジャミン・ディズレーリの父アイザック・デ・イズレーリはトーリー党支持者であり、ベンジャミン・ディズレーリ本人もトーリー党に好感を持っていたが、当時トーリー党は世論から激しく嫌われており、選挙に勝利できる見込みはなかった。そのための友人初代ブルワー・リットン男爵エドワード・ジョージ・アールと同じく急進派に接近した。
この初代ブルワー・リットン男爵エドワード・ジョージ・アールの長男が第2代ブルワー・リットン男爵エドワード・ロバート(後の初代リットン伯エドワード・ロバート・ブルワー・リットン(Edward Robert Lytton Bulwer-Lytton, 1st Earl of Lytton, GCB, GCSI, GCIE, PC))でその三男が、リットン調査団の団長第2代リットン伯ヴィクター・アレグザンダー・ジョージ・ロバート・ブルワー・リットン(Victor Alexander George Robert Bulwer-Lytton, 2nd Earl of Lytton, KG, GCSI, GCIE, PC, DL)である。
グレイ政権によって西暦1832年06月07日に「腐敗選挙区」の削減や選挙権の中産階級への拡大を柱とする第1次選挙法改正が行われると、ベンジャミン・ディズレーリは庶民院議員選挙への出馬を決意し、ハイ・ウィカムで選挙活動を開始したベンジャミン・ディズレーリは初代ブルワー・リットン男爵エドワード・ジョージ・アールの伝手でジョゼフ・ヒューム(Joseph Hume)や合同法廃止によるアイルランド独立を目指す廃止組合指導者ダニエル・オコンネル(Daniel O'Connell)ら進歩派の推薦状を貰った。当時のイギリス王国の選挙区には州選挙区と都市選挙区があり、州選挙区では年収40シリング以上の土地保有者が選挙権を有した。一方都市選挙区は選挙権資格が一律ではないが、どの選挙区でも富裕層が有権者となるよう条件付けられていた。都市選挙区は産業革命以前の遺物であるため、近代の人口分布と相容れず極端に有権者数が少ない選挙区が多かった。ここから出馬する貴族は簡単に有権者を支配して全投票を独占することができ、これを「腐敗選挙区」と呼んだ。
この頃ウィカム選挙区選出の議員が別の選挙区に立候補するため議員辞職し、それに伴う補欠選挙がウィカム選挙区で行われることとなったため、ベンジャミン・ディズレーリは旧選挙法の下で出馬した。初代ブルワー・リットン男爵エドワード・ジョージ・アールはベンジャミン・ディズレーリの対立候補が立たないよう骨折りしてくれたが、結局ホイッグ党が首相グレイ伯の息子グレイ(Charles Grey)大佐を対立候補として擁立した。一方この選挙区で勝つ見込みがなかったトーリー党は、父親が熱心なトーリー党員であるベンジャミン・ディズレーリの出馬を歓迎していた。ベンジャミン・ディズレーリはこの補欠選挙で「私は1ペニーも公金を受けたことがない。また1滴たりともプランタジネット朝の血は流れていない。自分は庶民の中から湧き出た存在であり、それゆえに少数の者の幸福より大多数の幸福を選ぶ。」と急進派らしい演説をした。しかしウィカム選挙区は典型的な「腐敗選挙区」であり、有権者は32人のみで このうち20票をグレイ大佐が獲得し、対するベンジャミン・ディズレーリは12票しか取れず落選した。
選挙に立候補すると、状況は一変し、ユダヤ出自が攻撃材料になった。演説会では当然猶太非難の野次が飛び、対立候補の手下は竿の先にベーコンの切り身を突き刺し、彼の鼻先で揺らす嫌がらせをした。ベーコン(豚肉)は回教でも猶太教でも忌避すべき食物であるため、この行為は彼がユダヤ出自であることを恰好の攻撃材料にした嫌がらせだった。議席争いに勝つため対立候補たちは、人々の意識下に蠢き始めた反ユダヤ感情を呼び覚まそうとした。それは中世耶蘇教会が広めた、宗教の違いに根差す反ユダヤ主義とは別物だった。耶蘇教に改宗した後も、当該人物をユダヤ出自の故に執拗に排撃し続ける、新たな反ユダヤ主義だった。後のナチズムに至る、人種を根拠とした近代反ユダヤ主義である。
これに対し彼が採った対抗策は、寛容の精神を説いたり、自身が「英国人プロテスタント」であることを証明したりする代わりに、誇張された「ユダヤ人種優越論」を唱えることで対抗した。「ユダヤ人は英国民のために相応しい指導力を行使できる『選ばれし人種』である。」と主張し、英国社会の諸制度はユダヤ的価値観に根差す。」と説いた。人種に対する思い入れは著しい。彼の小説に度々登場する全知・全能の登場人物、シドニア(半分はセファルディーム猶太ディズレーリ自身、もう半分はシュケナジーム猶太ロスチャイルド家の当主を体現している。)をして「人種こそ全てだ!」と宣言せしめるほどであった。対抗策に人種論を持ち出したことは、当時、胎動を始めた歐州思想界の鬼子、人種論的近代反ユダヤ主義に何某かの根拠を与える結果となった。つまりディズレーリは人種論的近代反ユダヤ主義の最初の被害者であると同時に、その増幅に一役買った。
妄想と思われる人種論に塗れていたのは彼ばかりではなかった。当時、歐州に生きた多くの知識人も、人種こそ歴史や政治を動かす原動力と見做していた。ベンジャミン・ディズレーリが政界の反ユダヤ主義に対抗するために「ユダヤ人種優越論」を捏造した。ベンジャミン・ディズレーリが「ユダヤ人種優越論」を宣伝し始める時期が、ロスチャイルド家と親密な関係を築き始める時期と一致している。ユダヤの誇りを強く抱くロスチャイルド家に取り入るため「ユダヤ人種優越論」を唱え始めた。
西暦1832年12月に庶民院が解散され、新選挙法の下での総選挙が行われた。新選挙法の下でのウィカム選挙区の有権者数は298人だった。ベンジャミン・ディズレーリは引き続き急進派の立場で「イギリス国民は、比類なき大帝国の中に生きている。この帝国は父祖の努力によって築き上げられたものだ。しかし今、この帝国が危機を迎えようとしている事を英国民は自覚せねばならない。ホイッグだのトーリーだの党派争いをしてる時ではない。この2つの党は名前と主張こそ違えど、国民を欺いているという点では同類だ。今こそ国家を破滅から救う大国民政党を創るために結束しよう。」と演説し、公約として秘密投票や議員任期3年制の導入、「知識税(紙税)」反対、均衡財政、低所得者の生活改善などを掲げた。この選挙でもトーリー党はウィカム選挙区には候補を立てず、ベンジャミン・ディズレーリに好意的な中立の立場を取った。そのためディズレーリはホイッグ党支持者から「似非急進派」、「偽装トーリー」として批判されたが、彼は「私は我が国の良い制度を全て残すという面においては保守派であり、悪い制度は全て改廃するという面においては急進派なのだ。」、「偽装トーリーとは政権についている時のホイッグ党のことである。」と反論したベンジャミン・ディズレーリは最下位の得票で落選した。
トーリー党は、西暦1832年以降の西暦1830年代の組織改革の結果、保守党(Conservative Party、正式名称: 保守統一党(Conservative and Unionist Party)が改名した。西暦1834年秋にホイッグ党の政権が倒れ、12月に庶民院が解散され西暦1835年01月に総選挙となった。ベンジャミン・ディズレーリはこの選挙に保守党での出馬を考え、保守党幹部初代リンドハースト男爵ジョン・シングルトン・コプリー(John Singleton Copley, 1st Baron Lyndhurst, PC, QS, FRS)と接触したが、結局保守党からの出馬はならず、再び急進派の無所属候補としてウィカム選挙区から出馬した。リンドハースト男爵ジョン・シングルトン・コプリーの骨折りで保守党から500ポンドの資金援助受けての出馬となったが、結局前回と同様に3人の候補の中で最低の得票しか得られず落選した。
ジョン・シングルトン・コプリーこの選挙後の西暦1835年01月17日にリンドハースト男爵ジョン・シングルトン・コプリー主催の晩餐に出席し、そこで後の政敵であるウィリアム・ユワート・グラッドストン(William Ewart Gladstone PC FRS FSS)と初めて出会った。ウィリアム・ユワート・グラッドストンはすでに西暦1832年の総選挙で当選を果たしており、この頃には25歳にして第一大蔵卿(首相)を補佐してあらゆる政府の事務に参与する下級大蔵卿の職位に就いていた。ベンジャミン・ディズレーリはその日の日記の中でウィリアム・ユワート・グラッドストンへの嫉妬を露わにしている。一方ウィリアム・ユワート・グラッドストンのその日の日記にはベンジャミン・ディズレーリについて何も書かれておらず、後にベンジャミン・ディズレーリとの初めての出会いを質問された時にウィリアム・ユワート・グラッドストンは「異様な服装以外には何の印象も受けなかった。」と述べた。
3度の落選を経てベンジャミン・ディズレーリは「無所属には限界がある。」と悟った。西暦1835年01月に保守党党首、初代ウェリントン公アーサー・ウェルズリー(Arthur Wellesley, 1st Duke of Wellington, KG, GCB, GCH, PC, FRS)に手紙を送り、「今の私は取るに足らない者です。しかし私は貴方の党のために全てを差し出すつもりです。どうか私を戦列にお加えください。」と懇願した。初代ウェリントン公アーサー・ウェルズリーの計らいでベンジャミン・ディズレーリは保守党の紳士クラブ、カールトン・クラブ(Carlton Club)に名を連ねることを許された。さらに同年トーントン選挙区選出の議員の辞職に伴う補欠選挙に保守党はベンジャミン・ディズレーリを党公認候補として出馬させることにした。これまで「党派に所属しない。」と言いながら結局保守党の候補になったベンジャミン・ディズレーリは変節者として激しい批判を受けた。この選挙戦中、「ベンジャミン・ディズレーリがダニエル・オコンネルを扇動者・叛逆者として批判した。」という報道が為され、ダニエル・オコンネルはかつて推薦状を書いてやった若造の裏切りに激怒し、激しく批判した。これに対しベンジャミン・ディズレーリは「名誉を傷つけられた。」として決闘を申し込んだが、ダニエル・オコンネルは昔決闘で人を殺めたことがあり、2度と決闘しないという誓いを立てていたため躊躇った。結局そうこうしてるうちに警察が介入してベンジャミン・ディズレーリは果たし状を取り下げる羽目になった。ただこの件はベンジャミン・ディズレーリにとって売名になった。この頃のベンジャミン・ディズレーリの日記にも「ダニエル・オコンネルとの喧嘩のお蔭で名前を売ることができた。」と書かれた。しかし結果は落選であった。
選挙活動と並行してベンジャミン・ディズレーリは小説家としても活発に活動したが、大した儲けにはならなかった。しかもこの頃ベンジャミン・ディズレーリは社交界の女性ヘンリエッタと交際するようになっており、その交際費、また選挙活動の費用で支出が増えていた。ヘンリエッタは、大手醸造会社の社長の令嬢で、東インド会社の高給取り社員、フランシス・サイクス准男爵の妻で、フランシス・サイクスはベンジャミン・ディズレーリとヘンリエッタの関係を許可していた。生活費に困るようになり、友人オースチンから借金をし、さらにオースチンが止めるのも聞かず、スウェーデン公債の販売に関する事業に携わって失敗し、多額の借金を背負った。西暦1836年〜1837年にとりわけベンジャミン・ディズレーリが自堕落な生活を送っていた。債権者から追われる日々を送り、何度も金の無心に来るベンジャミン・ディズレーリにオースチンも我慢の限界に達した。オースチンは繰り返し返済の催促をし、「一度も返済しないなら法的手段に訴える。」と脅した。
西暦1837年06月に国王ウィリアム4世が亡くなり、18歳の姪ヴィクトリア(Victoria)がハノーヴァー朝6代女王(後に初代インド皇帝(女帝))に即位した。当時の慣例で新女王の即位に伴って議会が解散され、西暦1837年07月に総選挙が行われることとなった。この選挙でディズレーリは保守党候補の当選が比較的容易なメイドストン選挙区からの出馬を許された。この選挙区は2議席を選出し、しかもホイッグ党は候補者を立てていなかった。急進派の候補が出馬していたが、保守党は「2議席とも取れる。」と踏み、ウィンダム・ルイス(Wyndham Lewis)とベンジャミン・ディズレーリの2人を候補として擁立し、07月27日の選挙のメイドストン選挙区はウィンダム・ルイスとベンジャミン・ディズレーリが当選を果たした。ベンジャミン・ディズレーリは5年間に5度選挙に出馬した末に、ようやく庶民院初当選を果たした。
選挙後、「ホイッグ党の首相第2代メルバーン子爵ウィリアム・ラム(William Lamb, 2nd Viscount of Melbourne, PC, FRS)はアイルランド選出議員の支持を取り付けて政権を維持しようとするだろう。」と予想された。そのため、西暦1837年12月07日、アイルランド選出議員の代表者ダニエル・オコンネルの演説後に議場の演壇に立ったベンジャミン・ディズレーリは、ダニエル・オコンネル批判の処女演説を行った。これにはアイルランド選出議員が激しく反発し、ベンジャミン・ディズレーリの演説は嘲笑と野次に晒された。ベンジャミン・ディズレーリが何か話すたびに議場から笑いが起こる有様だった。保守党党首第2代準男爵サー・ロバート・ピール(Sir Robert Peel, 2nd Baronet, PC, FRS)さえも声援を送りながらも笑いを堪えていた。ベンジャミン・ディズレーリは怒りを抑えきれず、「いつの日か、皆さんが私の言葉に耳を傾ける日が来るでしょう。」と大声で叫んで演壇を去った。
西暦1838年03月14日、ベンジャミン・ディズレーリと同選挙区選出のウィンダム・ルイス議員が突然死した。ベンジャミン・ディズレーリは悲しみの淵に沈む未亡人メアリー・アン・ルイス(旧姓エヴァンズ)の所へ通った。メアリーは、デボンシャーで農業を営む中産階級のエヴァンズ家に生まれ、西暦1815年にウェールズの旧家出身で製鉄所の経営者であるウィンダム・ルイス(西暦1820年から庶民院議員)との結婚を通じて上流階級に顔を出すようになったが、子供が出来ないまま夫と死別し、夫の遺した終身年金を受けるようになった。当時メアリーは45歳でディズレーリより12歳年上だった。裕福な未亡人を後援者にすべく、ジゴロを目指したベンジャミン・ディズレーリは、関係を深めて07月末には結婚を申し込んだが、メアリーは「夫の1周忌が過ぎるまで返事は待ってほしい。」と回答した。ベンジャミン・ディズレーリは当時借金で首が回らなかったため、この結婚は彼女の終身年金目当てと噂された。1周忌が過ぎると彼女も結婚に応じ、08月28日にハノーヴァー・スクエアのセント・ジョージ教会で挙式した。
ヴィクトリア女王は大英帝国が世界中で悪行で7つの海を制した頃の酋長で、ヴィクトリアの後ろには常にロンドン・ロスチャイルド2代目ライオネルとその長男ナサニエルがピッタリと影のように寄り添い、ロスチャイルド家は陰で「ヴィクトリアの金庫番」と呼ばれるほど王室に癒着した。即ち、アシュケナージム猶太ロスチャイルドと王室のDS(ディープステイト)の悪魔が勃興した。ヴィクトリアは親切で頼りになるロスチャイルド家が独自に作り上げた情報網を何も疑うことなく利用していた。そのためヴィクトリアの、そして大英帝国の動向は全てロスチャイルド家に筒抜けになっていた。ヴィクトリアが21歳の時、鬼畜イギリス王国は人倫を無視し、鬼畜ユダヤ人とその手先の狂犬スコットランド人の利権のため、清にアヘン戦争を仕掛けた。インドでアヘン作って売っていたのはセファルディーム猶太サスーン商会で、そのアヘンを清から買う紅茶や絹、陶磁器の支払いにあてていたのがアシュケナージム猶太ロスチャイルド家の代理人スコットランド人ジャーディン・マセソン商会だった。私企業が仕組んだあまりにも汚い戦争だったため英議会も紛糾。でも、得たものが巨大だったので最後は皆黙り込んだ。突然多額の賠償金と香港が転がり込んできた。ヴィクトリアも悪い気はしなかったはずだ。その2年後の西暦1844年、ピール銀行条例が可決され、ロスチャイルドの下僕と化していたイングランド銀行が通貨発行権を独占する中央銀行となった。通貨発行権の掌握はロスチャイルドの悲願で、その第一歩となるのがこのピール銀行条例だった。その後、ヨーロッパの中央銀行が次々と彼らの手に落ちていった。しかし恐らくヴィクトリアはそれが何を意味するのか、未来にどんな禍根を残すか、他の国民同様、全く理解していなかった。その後、中央銀行の通貨発行権を少しでも脅かすと、猶太に暗殺され屍が横たわった。
アヘン(阿片)戦争(支那語: 鴉片戰爭、第1次鴉片戰爭、英語: First Opium War)
アヘン(阿片)は芥子(ケシ)の実に傷をつけ、そこから滲み出てきた乳液から作られる薬である。昔から麻酔薬として使われてきた。支那では清の時代に、アヘンを薬としてではなく、煙草のように煙管を使って吸うことが流行した。アヘンは吸い続けると中毒になり、やがて廃人になってしまうという恐ろしい化学物質(麻薬)である。
元々清は西暦1757(乾隆22)年以来広東港でのみヨーロッパ諸国と交易を行い、公行という北京政府の特許を得た商人にしかヨーロッパ商人との交易を認めてこなかった(広東貿易制度)。一方ヨーロッパ側で支那貿易の大半を握っているのはイギリス東インド会社であり、同社は現地に「管貨人委員会」(Select Committee of Supercargoes)という代表機関を設置していた。しかし北京政府はヨーロッパとの交易を一貫して「朝貢」と認識していたため、直接の貿易交渉には応じようとしなかった。そのため管貨人委員会さえも公行を通じて「稟」という請願書を広東地方当局に提出できるだけであった。
英東インド会社は西暦1773(乾隆38)年にベンガルアヘンの専売権を獲得しており、ついで西暦1797(嘉慶02)年にはその製造権も獲得しており、これ以降同社は支那への組織的なアヘン売り込みを開始していた。北京政府はアヘン貿易を禁止していたが、地方の支那人アヘン商人が官憲を買収して取り締まりを免れつつ密貿易に応じたため、アヘン貿易は拡大していく一方だった。西暦1823(道光03)年にはアヘンがインド綿花に代わって支那向け輸出の最大の商品となり、収入の20%がアヘンになった。広東貿易の枠外でのアヘン貿易の拡大は、広東貿易制度の崩壊に繋がることとなった。
イギリス東インド会社の対支那貿易特許は西暦1834(道光14)年に失効し、独占体制は終了して、これまで同社の下請等の形で貿易活動を行っていた個人貿易商に委ねられることとなった。これに伴い、同年、イギリス政府は、東インド会社の管貨人委員会に代わり現地で自国商人の指導・監督を行う貿易監督官を派遣することとした。初代監督官には第 9 代ネイピア男爵ウィリアム・ジョン(William John Napier, 9th Lord Napier, Baron Napier、支那語: 律勞卑)が任命され、ネイピア男爵ウィリアム・ジョンは清の両広総督との直接の接触を目指したが、性急な実現に固執したため紛争化し、武力衝突を招き失敗した。当時のイギリス王国は、茶、陶磁器、絹を大量に清から輸入していた。一方、イギリス王国から清へ輸出されるものは時計や望遠鏡のような富裕層向けの物品はあったものの、大量に輸出可能な製品が存在しなかったため、イギリス王国の大幅な輸入超過であった。イギリス王国は産業革命による資本蓄積やアメリカ独立戦争の戦費確保のため、銀の国外流出を抑制する政策を取った。そのためイギリス王国は植民地のインドで栽培した麻薬であるアヘンを清に密輸出する事で超過分を相殺し、三角貿易を整えた。
支那の明代末期からアヘン吸引の習慣が広まり、清代の西暦1796(嘉慶01)年にアヘン輸入禁止となった。以降西暦19世紀に入ってからも何度となく禁止令が発せられたが、アヘンの密輸入は止まず、国内産アヘンの取り締まりも効果がなかったので、清国内にアヘン吸引の悪弊が広まっていき、健康を害する者が多くなり、風紀も退廃していった。また、人口が西暦18世紀以降急増したことに伴い、治安が低下し、自暴自棄の下層民が増えたこともそれを助長させた。アヘンの代金は銀で決済したことから、アヘンの輸入量増加により貿易収支が逆転し、清国内の銀保有量が激減し後述のとおり銀の高騰を招いた。清では、この事態に至って、官僚の許乃済から「許太常奏議」といわれる「弛禁論」が上奏された。概要は「アヘンを取り締まる事は無理だから輸入を認めて関税を徴収したほうが良い。」というものである。しかしこの主張に対しては多くの強い反論が提出され論破された。その後、「アヘンを厳しく禁止し吸引した者は死刑に処すものとすることで、風紀を粛正しアヘンの需要も消滅させ銀の国外流出も絶つ。」とする「厳禁論」が黄爵滋から上奏され、道光帝はアヘンを厳禁にした。
北京の清政府内でアヘン禁止論が強まっていた西暦1836(道光16)年、イギリス外相パーマストン子爵は現地イギリス人の保護のため、植民地勤務経験が豊富な外交官チャールズ・エリオットを清国貿易監督官として広東に派遣した。またパーマストン子爵は海軍省を通じて東インド艦隊に対し、清に対する軍事行動の規制を大幅に緩めるのでチャールズ・エリオットに協力するよう通達した。ただし、未だアヘン取り締まりが始まっていないこの段階ではパーマストン子爵も直接の武力圧力を掛けることは禁じていた。林則徐は西暦1838(道光18)年に欽差大臣(特命全権大臣)に任命され広東に赴任し、アヘン密輸の取り締まりに当たった。西暦1839(道光19)年03月に広東に着任した林則徐はアヘンを扱う商人からの贈賄にも応じず、現地の総督・巡撫や軍幹部らと協力してアヘン密輸に対する非常に厳しい取り締まりを行った。1839年(道光19年)には、広州の外国商人たちに、「今後、一切アヘンを清国国内に持ち込まない。」という旨の誓約書を同年3月21日までに提出した上保有するアヘンも供出するよう要求し、「今後アヘンを持ち込んだ場合は死刑に処する。」と通告した。これをイギリス商人や貿易監督官チャールズ・エリオット(Charles Elliot)が無視し期限を経過したため、林則徐は彼等の滞在するイギリス商館に官兵を差し向けて包囲し、保有するアヘンの供出を約させた。大量のアヘンの没収・収容には同年04月11日〜05月18日までを要し、林則徐らはこれを06月03日〜06月25日まで掛かって現地で処分した[。焼却処分では燃え残りが出るため、専用の処分池を建設し、アヘン塊を切断して水に浸した上で、塩と石灰を投入して化学反応によって無害化させ、海に放出した。処分中、石灰との反応により処分池の塩水は煙を上げた。処分は公開で行われ、煙を上げる光景は絵にも描かれ、この煙を上げる絵などから、後年、この処分について、「焼却」と誤り伝えられることもあった。この時に処分したアヘンの総量は1400tを超えた。
林則徐による一連のアヘン取り締まりが始まると、チャールズ・エリオットはイギリス商人の所持するアヘンの引き渡しの要求には応じたが、誓約書の提出は拒否し、05月24日には広東在住の全イギリス人を連れて澳門(マカオ)に退去した。急速な事態の進展に東インド艦隊も事態を掴んでおらず、軍艦を派遣してこなかったため、チャールズ・エリオットの元には武力がなかった。抗議の意思表示であったが、清国側には何ら弊害とはならなかった。この当時澳門は清国領であり、南蠻ポルトガル王国は公式には澳門に関する権利を一切有しておらず、居住を事実上黙認されているに過ぎなかった。そのため南蠻ポルトガル王国の澳門総督は清国側の行政権行使を拒否することはできなかった。林則徐は、外国商人の来航・交易自体を禁止することは非現実的で不可能であることを理解しており、目的は外国商人の追放ではなく、アヘン禁絶を誓約させ、合法的な商業活動に専念させることにあった。アメリカ商人をはじめとするイギリス以外の商人の多くは、元々アヘンとの関わりが少なく、清国当局に誓約書を提出して商業活動を続けた。
この状況下で林則徐は、イギリス側のアヘン禁絶誓約に向けてさらに圧力を加えることとし、また九龍半島で発生したイギリス船員による現地住民殺害事件の捜査をチャールズ・エリオットが拒否したこともあり、08月15日に誓約書を提出しない在澳門イギリス人への食料供給を禁じ、商館の支那人使用人の退去を命じた。チャールズ・エリオットは依然としてアヘン禁絶誓約に応じず、チャールズ・エリオット以下イギリス人は08月26日に澳門も放棄して船上へ避難することになった。イギリス側には「このとき林則徐はイギリス人の殺害を図り、井戸に毒を入れた。」とする風説があり、イギリス側による文献には事実のように捏造されていることがあるが、実際には林則徐は食料供給の禁止と使用人退去を命じたに過ぎない。イギリス人退去後も澳門には南蠻ポルトガル人が従前同様に居住しているが、井戸の毒による健康被害など発生していない。また、林則徐が求めたのはアヘン禁絶の誓約と住民殺害事件の捜査・犯人引き渡しであるにも拘わらず、それを拒否して全員の船上への退去を決めたのはチャールズ・エリオットである。ここに至る一連のチャールズ・エリオットの対応の結果、イギリス商人は広州との直接貿易が完全に断たれ、アメリカ商人を介さなければならなくなり、極めて高額の中継運賃負担等の不利益を強いられることとなった。この頃アメリカ商人がイギリス商人に要求した香港沖泊地ー広州間の中継運賃単価は、サンフランシスコー広州間の運賃単価をも上回る著しく高額のものだった。
ここでようやく東インド艦隊のフリゲート艦(「ボレージ」、「ヒヤシンス」)が2隻だけ到着したが、チャールズ・エリオットと清国の揉め事を察知したわけではなく、パーマストン子爵の方針に従いたまたま来ただけであり、しかも6等艦というイギリス海軍の序列では最下等の軍艦であった。だがチャールズ・エリオットはこの2隻を使って早速に反撃を試みた。09月04日にチャールズ・エリオットは九龍沖で清国兵船に砲撃を行ったが、清国側はイギリス船への食料密売を一部黙認したのみで、アヘン禁絶誓約を求める方針を変えなかった。その後10月初め頃までには、清国側は食料供給禁止等を解除し、イギリス人は澳門に復帰した。誓約書問題を一時棚上げして広州港外の虎門で貿易を再開する提案がなされたが、清国側は応じなかった。チャールズ・エリオットは、全ての自国商人に対し、清国当局へのアヘン禁絶誓約書の提出を禁じ続けていたが、林則徐ら清国側は、むしろ誓約書提出の上でアヘン以外の通常の商業活動を行うことを当初から勧奨しており、イギリス商人の中でもアヘンに関わっていない者にはチャールズ・エリオットへの不満が高まっていた。
10月に入ってからは、正当な貿易品であるインド綿花やジャワ米を積んで来航したイギリス商船が、チャールズ・エリオットに従わず、清国当局に誓約書を提出した上、一部は広州入港を果たすという事態が発生した。清国側は、イギリス側をさらにアヘン禁絶誓約に動かすことを狙い、未誓約者に解禁したばかりの食料供給等を再び禁止し、チャールズ・エリオットに対して誓約書提出の圧力を強めた。チャールズ・エリオットは、西暦1839(道光)年10月末に、2隻のフリゲート艦を率いて川鼻沖で誓約書提出済みの自国商船の広州入港を妨害し、さらに11月03日には清国兵船への攻撃を開始した(川鼻海戦)。清国側は広東水師提督関天培が督戦し、南蠻ポルトガル製の艦砲を搭載した艦を含む29隻の兵船が出動したものの、ボレージ号に損傷を与えたのみで、大半の兵船が自力航行不能の損害を受けた。
一方イギリス本国も外相パーマストン子爵の主導で対清開戦に傾いており、西暦1839(道光19)年10月01日にメルバーン子爵内閣の閣議において遠征軍派遣が決定した。「アヘンの密輸」という開戦理由に対しては、清教徒的な考え方を持つ人々からの反発が強く、イギリス本国の庶民院でも、野党保守党のウィリアム・ユワート・グラッドストン(後に自由党首相)らを中心に「不義の戦争」とする批判があった。ウィリアム・ユワート・グラッドストンは議会で「確かに支那人には愚かしい大言壮語と高慢の習癖があり、それも度を越すほどである。しかし、正義は異教徒にして半文明な野蛮人たる支那人側にある。」と演説して途轍もなく汚い正義なき戦争、アヘン戦争に反対した。他方ウィリアム・ユワート・グラッドストンは「支那人は井戸に毒を撒いても良い。」という過激発言も行い、答弁に立ったパーマストン子爵はこの失言を見逃さず、「グラッドストン議員は野蛮な戦闘方法を支持する者である。」と逆に追及して彼をやり込めた。清に対しての出兵に関する予算案は賛成271票、反対262票の僅差で承認された。この議決を受けたイギリス海軍は、イギリス東洋艦隊を編成して派遣した。総司令官兼特命全権大使には、チャールズ・エリオットの従兄のジョージ・エリオット(George Elliot KCB FRS)が任命され、チャールズ・エリオットは副使となった。
西暦1840(道光20)年08月までに軍艦16隻、輸送船27隻、東インド会社所有の武装汽船4隻、陸軍兵士4000人が支那に到着した。イギリス艦隊は林則徐が大量の兵力を集めていた広州ではなく、より北方の防備が手薄な地域に向かい、舟山列島を攻略した後、長駆首都北京に近い天津沖へ入った。天津に軍艦が現れたことに驚いた道光帝は、林則徐に開戦の責を負わせて新疆イリへ左遷し、和平派のキシャン(満洲語: ᡣᡞᡧᠠᠨ、kišan、g善)を後任に任じてイギリスに交渉を求めた。イギリス軍側も台風の接近を警戒しており、また舟山列島占領軍の間に病が流行していたため、これに応じて09月に一時撤収した。この間イギリス側は、清国との交渉方針を巡って両エリオットの対立が激化し、特命全権大使のジョージ・エリオットは11月29日に病気と称して帰国してしまった。西暦1841(道光21)年01月20日にはキシャンとチャールズ・エリオットの間で川鼻条約(広東貿易早期再開、香港割譲、賠償金600万ドル支払い、公行廃止、両国官憲の対等交渉。後の南京条約と比べると比較的清に好意的だった)が締結された。ところがイギリス軍が撤収するや清政府内で強硬派が盛り返し、道光帝はキシャンを罷免して川鼻条約の正式な締結も拒否した。チャールズ・エリオットも、本国に無断で舟山列島を返還したため罷免となり、後任の特命全権大使にヘンリー・ポッティンジャー(Henry Pottinger, 1st Baronet, GCB, PC)が任命され、西暦1841(道光21)年08月11日に着任した。
首脳陣が交代したイギリス軍は、本国の方針により軍事行動を再開した。イギリス艦隊は廈門、舟山列島、寧波など揚子江以南の沿岸地域を次々と制圧していった。三元里事件での現地民間人の奮戦や、虎門の戦いでの関天培らの奮戦もあったが、完全に制海権を握り、火力にも優るイギリス軍が自由に上陸地点を選択できる状況下、戦争は複数の拠点を防御しなければならない清側正規軍に対する、一方的な各個撃破の様相を呈した。とくに「ネメシス」号を始めとした東インド会社汽走砲艦の活躍は目覚ましく、水深の浅い内陸水路に容易に侵入し、清軍のジャンク兵船を次々と沈めて、後続の艦隊の進入を成功に導いた。広州では広東水師提督関天培が戦死し、鎮海・寧波陥落時には浙江方面防衛責任者の両江総督兼欽差大臣ユキャン(洲語: ᡳᠣᡳᡴᡳᠶᠠᠨ、ioikiyan、裕謙)が自決した。浙江戦線では清軍は増援を受けて反撃を試みたが、失敗した。
イギリス艦隊は台風に備えて1841(道光21)〜1842(道光22)年にかけての冬の間は停止したが、西暦1842(道光22)年春にインドのセポイ6700人、本国からの援軍2000人、新たな汽走砲艦などの増強を受けて北航を再開した。05月に対日貿易港の乍浦を、次いで揚子江口の呉淞要塞を陥落させて揚子江へ進入を開始し(ここでも汽走砲艦が活躍)、07月には鎮江を陥落させた。イギリス軍が鎮江を抑えたことにより京杭大運河は止められ、北京は補給を断たれた。呉淞では江南提督の陳化成(が戦死し、乍浦・鎮江では駐防八旗兵が壊滅した。また乍浦や鎮江ではイギリス軍による大規模な住民虐殺・婦女暴行・掠奪が発生した。この破滅的状況を前に道光帝ら北京政府の戦意は完全に失われた、西暦1842(道光22)年08月29日、両国は南京条約に調印し、アヘン戦争(第1次アヘン戦争)は終結した。
以前、清国は広東(広州)、福建(厦門)、浙江(寧波)に海関を置き、外国との海上貿易の拠点として管理貿易(公行制度)を実施していた。南京条約では公行制度(一部の貿易商による独占貿易)を廃止し自由貿易制に改め、従来の3港に福州、上海を加えた5港を自由貿易港と定めた。加えて本条約ではイギリスへの賠償金の支払及び香港(香港島)の割譲が定められた。また、翌年の虎門寨追加条約では治外法権、関税自主権放棄、最恵国待遇条項承認などが定められた。このイギリス王国と清国との不平等条約の他に、アメリカ合衆国との望厦条約、オルレアン朝(西暦)1830〜1848年)フランス王国との黄埔条約などが結ばれた。
この戦争をイギリス王国が引き起こした目的は、東アジアで支配的存在であった清を中心とする朝貢体制の打破と、厳しい貿易制限を撤廃して自国の商品をもっと支那側に買わせることであった。しかし、結果として清国・イギリス間における外交体制に大きな風穴を開けることには成功したものの、経済的目的は達成されなかった。支那製の綿製品がイギリス製品の輸入を阻害したからである。これで満足しなかったイギリス王国は次の機会を窺うようになり、これが第2次アヘン戦争とも言われるアロー号戦争へと繋がった。この戦争の結果として締結された南京条約には、アヘンについて一言も言及しなかったため、終戦後も外国からのアヘンの流入と銀の流出が止まらなかった。清国の政府はこれに対抗するために、主に西北部と西南部での芥子の種植とアヘンの生産を奨励した政策を打ち出した。国内でのアヘンの生産増加により銀の流出が止まらなかった状況はだいぶ改善され、外国産アヘンの相場も総崩れとなったが、国内のアヘン利用者が爆発的に増加したという大きな弊害が招かれた。
アヘン戦争は清側の敗戦であったが、これについて深刻な衝撃を受けた人は限られていた。北京から遠く離れた広東が主戦場であったことや、中華が異民族に敗れることは歴史上に多く見られたことがその原因であった。広東システムに基づく管理貿易は廃止させられたものの、清は、依然として中華思想を捨てておらず、イギリスをその後も「英夷」と呼び続けた。
しかし、一部の人々は、イギリスがそれまでの支那史上に度々登場した「夷狄」とは異なる存在であることを見抜いていた。例えば林則徐と親交のあった魏源は、林則徐が収集していたイギリス王国やアメリカ合衆国の情報を託され、それを元に「海国図志」を著し、「夷の長技を師とし以て夷を制す。」という一節は、これ以後の支那の辿った西欧諸国の技術・思想を受容して改革を図るという形式を端的に言い表した。この書は東アジアにおける初めての本格的な世界紹介書であった。それまでにも地誌はあったが、西ヨーロッパ諸国については極めて粗略で誤解に満ちたものであったため、詳しい情報を記した魏源の「海国図志」は画期的であった。ただし、この試みはあくまでも魏源による個人的な作業であって、政府機関主導による体系的な事業、例えば日本の江戸幕府が長崎を拠点に行ったようなものではなかった。魏源による折角の努力も後継者不在の為発展せず、支那社会全体には大して影響を及ぼさず阿Qの世界のまままであった。

アヘン(鴉片)戦争 山崎雅弘 戦史ノート - 山崎雅弘
清朝の敗戦は、長崎に入港していたオランダ王国や清の商船員を通じて幕末の日本にも伝えられた。西洋諸国の軍事力が東洋に比して、圧倒的に優勢であることがいよいよ明白になったため、大きな衝撃をもって迎えられた。かつて強国であったはずの清の敗北は、さらにその先の東アジアへ進出するための西洋の旗印となる危機的な懸念があり、速やかな国体の変革が急務であることを日本に悟らせた。清国内では重要視されなかった魏源の「海国図志」もすぐに日本に伝えられ、吉田松陰や佐久間象山ら、幕末における重要人物に影響を与え、改革の機運を盛り上げる一翼を担った。林則徐の抱いた西洋列強への危惧は、支那ではなく日本において活かされることになったのである。天保14(西暦1843年)には、昌平坂学問所にいた斎藤竹堂が「鴉片始末」という小冊子を書き、清国の備えのなさと西洋諸国の兵力の恐るべきことを憂えた。それまで、異国の船は見つけ次第砲撃するという異国船打払令を出すなど、強硬な態度を取っていた江戸幕府も、この戦争結果に驚愕した。同時期に、日本人漂流民を送り届けてくれた船を追い返すというモリソン号事件が発生したこともあり、天保13(西暦1842)年には、方針を転換して、異国船に薪や水の便宜を図る薪水給与令を新たに打ち出すなど、欧米列強への態度を軟化させた。この幕府の対外軟化が、やがて開国の大きな要因となり、ペリー来寇、明治維新を齎した。

新装版 阿片戦争シリーズ全4冊合本版 - 陳舜臣
サッスーン家
スペインに起源を持つセファルディーム猶太で、家名のサッソン(ヘブライ語: שָׂשׂוֹן、「喜び」の意)は、メソポタミア起源であることを強く示している。サッソンという姓は、現テュルコのメソポタミア北部のヴァン湖の西にあるサッソン山岳地帯(家名と部族名の由来)に起源を持つ多くのクルド人家系や部族にも共通している。スペインのセファルディームの血が、主にメソポタミアのユダヤ人サッスーン家に混ざっている可能が高い。
サッスーン家の祖先も、代々、イスラーム帝国の都であったバグダッドの名家で、オスマン朝(西暦1299〜1922年)テュルコの支配下で、西暦18世紀にメソポタミアに擡頭した人の金満一家で、オスマン朝治世下にあってオスマン朝によって任じられたバグダードの「ヴァリ」と呼ばれる地方長官の下で、主任財政官の地位を務めるほどの政商で、ユダヤの酋長(シェイク)と見做されていた。サッソン家の起源は現イラクのバグダードとしている場合が多いが、現シリアのアレッポという説もある。
インドのムンバイに移り、その後支那、イギリス、その他の国に移住した。支那、インド、香港でのサッソン家の事業は、特にアヘン貿易で利益を上げるために築かれた。家族がロンドンに集まるにつれ、サッソン家はイギリスで有名になり、ヴィクトリア女王から貴族に叙せられた。西暦18世紀以降、サッソン家は世界で最富裕層の一族となり、アジア大陸全体に広がる企業帝国を築いた。金融とアヘン取引で莫大な富を蓄積したことから、サッソン家は「東洋のロスチャイルド」と呼ばれる。
サッソン・ベン・サレハ(Sason Ben Saleh)はバグダードと現イラク南部を支配したパシャの主任財政官を務め、同市のユダヤ人社会を率いる資産家で酋長(シェイク)だった。ところが西暦18世紀後半になると、バグダードでは猶太教徒に対する圧迫が強まり、西暦19世紀前半には当主のサッスーン・ベン・サレハは一時酋長の地位を追われた。
西暦1826年、サッソン・ベン・サレハの息子のデイヴィッド・S.・サッスーン(David S. Sassoon、ダーウィード・ベン・サッスーン)は、バグダードで活動して酋長の地位を引き継いだ、交易によって益々その富を蓄え、そこからインドへ進出した。デイヴィッド・サッスーンとジョセフ・サッスーン(Joseph Sassoon)の兄弟は、新しく来た非友好的なヴァリのダウード・パシャ(Dawud Pasha)によるユダヤ人迫害に抗議したため身に危険が迫ってきた。
西暦1828年、デイヴィッド・サッスーンはサッスーン家を挙げて老父を伴い、夜陰に乗じてバグダードを脱出し、バスラに移住した。バスラは別のヴァリが統治していたが、ここもサッスーン一家にとって安住の地ではなく、間もなくシャトルアラブ川(チグリス川とユーフラテス川が合流した川)の対岸、ペルシャ湾の港町ブーシェフルヘと再度移住した。ブーシェフルは当時ペルシアにおける英東インド会社の拠点となっており、インドヘの道が開かれていた。西暦1832年、デイヴィッド・サッスーンは商用でインドのムンバイ(ボンベイ)を訪れ、イギリス王国の勢力を目のあたりにした。熟慮の末、同年デイヴィッド・サッスーンはムンバイに移住を果たした。当時のムンバイ(ボンベイ)は、人口20万人、ユダヤ人も2200人を数え、発展の時期を迎えていた。産業革命後、イギリスのランカシャー綿製品がインドに流入していた。イギリス王国は、アジアとの貿易を行うため、西暦1600年に「東インド会社」を作ったが、この英東インド会社の貿易独占も廃止され、商機が広がっていた。
ムンバイでデイヴィッド・S.・サッスーン商会を設立しアヘンを密売し始めた。英東インド会社からアヘンの専売権を取ったサッスーン商会は、支那で売り払い、途轍もない利益を上げ、支那の銀を運び出した。アヘン密売で莫大な富を築いたデイヴィッド・サッスーンは「アヘン王」と呼ばれた。「サッスーン財閥」はヨーロッパ列国に、第一級の功績を立てさせたアヘン密売人だった。彼はイギリス紅茶の総元締めでもあり、麻薬と紅茶は、サッスーンの手の中で同時に動かされていた。支那とインドのアヘン貿易における家族の支配的地位を固め、イギリス王国の東洋貿易に多大の貢献をした。
デイヴィッド・S.・サッスーンはムンバイでユダヤ人社会を率い、同胞のユダヤ人に対し、私財を惜しげもなく慈善事業に投じた。同地やプーナ、故郷のバグダードなどに同胞のために病院やシナゴーグ、学校を建設するなど慈善活動も行った。ムンバイでは英語での教育を施すEEE高等学校やサッスーン病院を設置した。その後、イギリス王国にも進出した。各支社にラビを置いた。アジア全土で学校、孤児院、病院、博物館を建設する慈善活動も行った。デイヴィッド自身は生涯英語を話せず、バグダード時代からのアラブ風の生活様式で生涯を過ごしたが、息子のアブドゥッラーにはイギリス人としての教育を施した。
西暦1861年、バグダードに猶太教に基づく学校「タルムード・トラー」を設立し、猶太教徒の養成に資した。バグダードから連れてきた人材が現地採用するという方針を執った。サッスーン商会の幹部職員はこのユダヤ学校から採用された。彼らはインド、ビルマ、マラヤ、東アジアの様々な支社の機能を果たした。「サッスーン財閥」は、「イギリス帝国主義の尖兵」であり、「海の交易路のユダヤ商人」である。支那、特に香港における家族の事業は、アヘン事業に投資するために立ち上げられた。彼の事業は支那にまで広がり、上海の外灘(Bund)にあるサッスーンハウス(現ピースホテル北棟)は有名な目印となった。
アヘンを大量に送り込まれた支那では、アヘンが大流行して社会問題となり、やがて、清がアヘン輸入禁止令を出したことに端を発したアヘン戦争が勃発した。清と戦ったイギリス王国の商船は大砲を持っていた。当時のアヘン貿易において重要な位置を占めていた。敗れた清は、南京条約により上海など5港の開港と香港の割譲、さらに賠償金2億1000万両を支払わされ、イギリス王国をはじめ列国の支那侵略の足掛かりになった。アヘン戦争で清が敗北すると、ヨーロッパの国々は競ってアジアに進出した。清はイギリス王国以外の外国の国々とも不平等な条約を結ぶことになってしまった。肝心のアヘンについては条約では一切触れられることなく、依然としてアヘンの流入は続いた。この頃、イギリス王国の綿製品がインドヘ、インドのアヘンが支那へ流入するという「三角貿易」が形成されてきていた。この経路に乗って「サッスーン商会」はイギリス王国にも支店を開設し、ランカシャー綿の輸入などにあたったほか、「アヘン貿易」に従事した。
「アヘン王」、デイヴィッド・S.・サッスーンは、イギリス王国の世界市場展開に伴ってアジア市場に参入したかに見えるが、事実は逆で、既に大航海の初発、即ち西暦15世紀末のヴァスコ・ダ・ガマの「インド航路発見」の時、インドでヴァスコ・ダ・ガマを迎えたのはハンガリーから来たユダヤ人であった。デイヴィッド・サッスーンがバグダードを脱出しムンバイで成功を収めることができたのも、インド洋交易圏に広がるユダヤ人の交易網を通じたからであった。そしてイギリス王国がアジア市場に進出してきたのも、大航海以前に既にそこに存在していた、支那からインドを経てアラビア世界に至る交易圏を前提にしていた。
その後は英領香港(西暦1842〜1997年)、上海にも支店を構えた。さらに、南北戦争(西暦1861〜1865年)によりアメリカ綿花の取引が途絶えたのを機に、「インド綿花」を輸出して巨利を上げた。これらの功績が認められて、西暦1853年にイギリス国籍を取得したが、バグダード時代からのアラブ化したユダヤ人として終生アラブ風の習慣を改めることはなかった。彼はアラビア語、ヘブライ語、ペルシア語、テュルコ語、後にはヒンドスタン語をも解したが、英語を習得することはなかった。息子のアブドゥッラーたちにはイギリス人としての教育を施し、息子のアブドゥッラーは後にアルバートと改名し、イギリス王国に渡ってケンジントン・ゴア準男爵の爵位を得た。西暦18世紀、サッスーン家は世界で最も裕福だった一族の1つだった。デイヴィッド・S.・サッスーンは西暦1864年に死去したが、「サッスーン商会」は綿花ブーム後の不況をも乗りきり、2代目アルバート・サッスーンの下で発展を続けた。
デイヴィッド・S.・サッスーンの8人の息子たちも様々な方向に事業を展開した。サッスーン家は支那とインドでの海運業とアヘン貿易に深く関わった。最初の妻との間に生まれた息子、エリアス・デイヴィッド・サッスーン(Elias David Sassoon)は、西暦1844年に息子たちの中で最初に支那に渡った。彼は後にムンバイに戻り、西暦1867年に会社を離れ、ムンバイと上海に事務所を置くE.D.サッスーン&カンパニーを設立した。
もう1人の息子、アルバート・アブドゥッラー・デイヴィッド・サッスーン(Albert Abdullah David Sassoon) は、父の死後、会社の経営を引き継ぎ、ムンバイのサッスーン商会は2代目アルバート・サッスーンの下で工業への投資に力を入れるようになった。西暦1885年以後、サッスーン商会は7つの紡績工場、1つの毛織物工場を持ち、インド西部で最初に建設された係留ドックであるサッスーン・ドックを建設した。インド工業化に大きな役割を果たした企業の1つと評価されるようになった。「インドでサッスーンが産業資本の性格を持つ。」という事実は、上海におけるサッスーン家の活動とは好対照をなす。彼は2人の兄弟と共に後にイギリス王国で著名人となり、家族は後のエドワード7世(Edward VII)となるアルバート・エドワード(Albert Edward)王太子の友人となった。またアルバート・サッスーンは親子2代にわたる多大な慈善事業が評価されて、西暦1872年、ケンジントン・ゴア準男爵(ナイト)の爵位を得た。この爵位は上海のサッスーン家にも引き継がれた。
一家の娘レイチェル・ビア(Rachel Beer、旧姓: Sassoon)は夫と共に、サンデー・タイムズやオブザーバー(編集も担当)など、イギリス王国の新聞社を数多く経営した。
イギリス王国に定住した者のうち、アルバート・アブドゥッラー・デイヴィッド・サッスーンの息子エドワード・アルバート・サッスーン卿(Sir Edward Albert Sassoon, 2nd Baronet)はアシュケナージユダヤのフランスロチルド家のアライン・キャロライン・ド・ロチルド(Aline Caroline de Rothschild, Lady Sassoon)と結婚し、西暦1899年から死去するまで保守党の庶民院議員を務めた。その後、庶民院議員の議席は息子のフィリップ・サッスーン卿(Sir Philip Albert Gustave David Sassoon, 3rd Baronet, GBE, CMG )が西暦1912年から死去するまで継承した。フィリップ・サッスーンも庶民院議員、ケンジントン・ゴア準男爵。第1次世界大戦で陸軍元帥陸軍元帥初代ヘイグ伯ダグラス・ヘイグ(Douglas Haig, 1st Earl of Haig, KT, GCB, OM, GCVO, KCIE)の軍事秘書を務め、西暦1920年代〜1930年代にかけてイギリス王国の空軍担当国務次官を務めた。西暦20世紀のイギリスの詩人で、第1次世界大戦で最もよく知られた詩人の1人であるジークフリート・サッスーン(Siegfried Sassoon)は、デイヴィッド・サッスーンの曾孫で、第1次世界大戦の前線での体験を基にした反戦詩などで有名になった。ロバート・グレーヴス(Robert von Ranke Graves)やウィルフレッド・エドワード・ソールター・オーエン(Wilfred Edward Salter Owen)と親交を結び、特に後者には強い影響を与えた。
デイヴィッド・S.・サッスーンの他の子孫でサクス・コバーグ・ゴータ朝(ウィンザー朝)(西暦1901年〜)イギリス王国(グレートブリテン及び北アイルランド連合王国(西暦1927年〜))の銀行家で財務省商務長官のサッスーン男爵ジェームズ・マイヤー・サッスーン(James Meyer Sassoon, Baron Sassoon, FCA)は、国際調査報道ジャーナリスト連合 (ICIJ) と加盟報道機関によって、西暦2017年11月05日一斉に公表された、タックス・ヘイヴン取引に関する約1340万件の電子文書群=パラダイス文書(Paradise Papers)で、西暦2007年にケイマン諸島の非課税信託基金2億3600万ドルの受益者の1人として言及され、「その基金はイギリス起源ではない。」と主張した。
ラビの伝統を引き継いだ子孫は、レッチワースからロンドンへ、そして西暦1970年にエルサレムへ移住した、ソロモン・デイヴィッド・サッスーン(Solomon David Sassoon)によって代表される。彼は猶太教の書籍や原稿を収集し2巻に纏めたデイヴィッド・ソロモン・サッスーン(David Solomon Sassoon)の息子。これらの大部分は、イギリス王国ロンドンにある大英図書館に、一部は、カナダ(西暦1867年〜)のトロントにあるトロント大学図書館に保管されている。これらの貴重な作品は、現在アメリカ合衆国には保管されていない。
デイヴィッド・ソロモン・サッスーンは、西暦1901年にインドからイギリス王国に移住し、ロンドンの自宅に有名なサロンを開いたヘブライ文献学者、フローラ・アブラハム(Flora Abraham)の息子。デイヴィッド・S.・サッスーンの曾孫、フローラ・アブラハムには、アイザック・S.・D.・サッスーン(saac S. D. Sassoon)とデイビッド・ソロモン・サッスーンという2人の息子がおり、どちらもラビである。アイザック・S.・D.・サッスーンは、現在セファルディーム猶太界を代表する学者の1人でヘブライ語、アラビア語を話しながら育った。
デイヴィッド・サッスーンが三角貿易展開のため東アジアを重視し、華南の商業圏に参入したことは、「サッスーン商会」の転換点となった。「南京条約」(アヘン戦争に敗北した清朝が南京でイギリス王国と結んだ条約)締結後の西暦1844年、デイヴィッド・サッスーンは次男のエリアス・サッスーンを広東に派遣した。次いでエリアス・サッスーンは香港に移動し、西暦1845年には上海支店を開き、後には日本の横浜、長崎その他の都市にも支店網を広げた。そして上海が「サッスーン商会」第2の拠点となった。支那におけるユダヤ人の足跡も、イギリス王国の世界市場展開を遥かに遡る。西暦10世紀からユダヤ人は開封に存在した。彼らは完全に支那人に同化しながら清代にまで生き延び、西暦1652年にはシナゴーグ(猶太教会堂)を再建していた。
エリアス・サッスーンの弟アーサー・サッスーンは西暦1865年、「香港上海銀行(HSBC)」の設立にも参加し、支那での活動の地歩を固めた。
しかしデイヴィッド・サッスーンの死後、「サッスーン商会」の管理権はユダヤの慣習に従って長子アルバート・サッスーンが継承したので、エリアス・サッスーンアスは西暦1872年、別会社として「新サッスーン商会」を設立した。上海の「サッスーン商会」の活動は、この新会社が中心となった。「新サッスーン商会」の活動は次の3期に分けられる。
第1期は西暦1872〜1880年、「アヘン貿易」を中心とする時期。
第2期は西暦1880〜1920年、エリアス・サッスーンの子ヤコブ・サッスーンとエドワード・サッスーンの時代で、不動産投資に精力が注がれた。
第3期は西暦1920年以後、エドワード・サッスーンの子、ボンベイ準男爵ヴィクター・サッスーン(Victor Sassoon)は、ホテル経営者。ダーウィードの曾孫。ダービーの勝ち馬ピンザの馬主。ヴィクター・サッスーンが不動産だけでなく、各種の企業にも盛んに投資し、上海の産業を独占していった時期。
西暦19世紀の新旧「サッスーン商会」の営業は、何といっても「アヘン輸入」が中心である。この点は、他の外国商社と比較しても際立っている。開港間もない西暦1851年、上海に入港した外国商社の船のうち、ジャーディン・マセソン、デント、ラッセルの3大商社のうち、イギリス王国系の前3社はいずれもアヘン輸入を本業としたが、サッスーン家の船2隻に至ってはアヘンのみを搬入し、空船でインドに帰っている。西暦1870〜1880年代にはインドアヘン輸入の70%はサッスーン家が独占した。サッスーン家の強さは、他社とは違い、アヘンをインドの産地で直接買い付けたことにあった。
デイヴィッド・サッスーンの孫ヤコブ・サッスーンの代になると、アヘンは輸入品目首位の座を綿製品に譲り、国際的にもイギリス王国内でもアヘン禁止の声が高まり、西暦1908年には支英禁煙協約が締結された。それでもサッスーン家がアヘン取引に拘ったことは、西暦1920年代の「新サッスーン商会」の文書からも明らかである。アヘン禁止による価格の上昇が巨利を齎したからである。
サッスーンという名のユダヤ人の有力な銀行家は、西暦1916年04月のクート・アル・アマラ包囲戦の終結時にオスマン朝によって絞首刑に処された。彼はデイビッドの分家かジョセフ・サッスーンの一族の一員であった可能性が高い。
ジョセフ・サッスーンは最初にギリシャのテッサロニキに行き、その後シリアのアレッポに行き、そこで商店を設立した。その後、彼の事業はアレクサンドリア、カイロ、モロッコ、イタリアに広がり、船会社や両替所も経営した。彼の 5 人の息子は様々な方向に事業を展開した。
ジョセフ・サッスーンの息子、モーゼス・サッスーン(Moses Sassoon)は西暦1852年にバグダードに戻り、その後エジプトに移り、そこで金融会社ジョセフ・サッスーン・アンド・サンズを設立した。この会社は後に拡大し、エジプトのクレディ・フォンシエの代理店となった。西暦1871年、モーゼス・サッスーンの息子ジェイコブ・サッスーン(Jacob Sassoon)はエジプト最大の綿花農園所有者の 1 人となり、綿花工場を所有した。兄のルーベン・サッスーン(Ruben Sassoon)は、アメリカの南北戦争中にエジプト綿花をイギリス王国に輸出して財を成し、当時エジプト最大の綿花輸出業者となった。西暦1927年、ヤコブ・サッスーンはミスル銀行や他のエジプトの実業家と共にミスル紡績織物会社(アラビア語: شركة مصر للغزل والنسيج)を設立した。この会社はミスル・ヘルワン、あるいはエル・ガズル工場としても知られ、会社の株式の61%を所有していた。ヤコブ・サッスーンはジョセフ・ヴィータ・モッセリ(Joseph Vita Mosseri)と共にエジプトのクレディ・フォンシエも設立した。息子のニッシム・ジョセフ・サッスーン(Nissim Joseph Sassoon)は建築家であり、トリエステ総督府ビルを設計した。ニッシム・ジョセフ・サッスーンは不動産投資家、開発業者でもあり、カイロの比類ない成長と、そのような拡大が土地の価値に与えるであろう有利な影響を予見していた。彼が投資した不動産の多くが、イスマイリアの優雅なヨーロッパ人街の中心地やカスル・アル・ドゥバラの最高級地区、そして後にガーデンシティ、ザマレク、ギザにあったのは驚くことではない。西暦1952年、ニッシム・ジョセフ・サッスーンの息子エリアウ(エリアス)・ニッシム・ジョセフ・サッスーン(Eliau (Elias) Nissim Joseph Sassoo)は、モーリス・ジョセフ・カタウイ(Maurice Joseph Cattaui)と共にバンク・デュ・ケールを設立した。
エリアウ(エリアス)・ニッシム・ジョセフ・サッスーン(ヘブライ語: : אליהו נסים אליאו יוסף ששון) は、常にエリアスと呼ばれ、裕福な建築家、商人銀行家、不動産開発者であるニッシム・ジョセフ・サッスーンとメソウダ・サッスーン (Messouda Sassoon、旧姓: シャマシュ(Shamash))の子としてシリアのアレッポで生まれた。エリアス・サッスーンはジョセフ・サッスーンの最も影響力があり最も裕福な子孫で、西暦1940 年に、彼は名門の寄宿学校であるビクトリア・カレッジに通うためにアレクサンドリアに送られ、その後、西暦1946年に家族の事業に加わり、アレクサンドリアにある家族の会社で働いた。当時、家族が所有していた多くの資産の中には、バーマ石油、トルコ石油会社、アングロ・イラニアン石油会社、繊維工場、大規模な綿花輸出事業、ギリシャ商工総合会社(後のアッティカ・エンタープライズ・ホールディング S.A.) とアトラス海事の資産があった。西暦1947年、エリアス・サッスーンは中東を席巻していた新興の石油探査産業、海運業、銀行業という3つの主要分野に焦点を絞った。父親から5000ポンドを借りて、エリアス・サッスーンはロックフェラーのスタンダード・オイルに投資し、家族の既存の同社資産を増やした。同年、彼はジャック・ボホル・ヤコブ・レヴィ・ド・メナシェ男爵(Baron Jacques Bohor Yacoub Levi de Menashe)の孫娘、ハンナ・ロシェル・ジャック・サッスーン(Hannah Rochel Jacque Sassoon、旧姓: ド・メナシェ(de Menasche))と結婚した。
エリアス・サッスーンの曽祖父のモーゼス・サッスーンはソコニー・バキューム石油会社の投資家だった。同社は後にスタンダード・オイルと提携し、中東の石油埋蔵量に市場を提供した。西暦1906年、ソコニー(後のモービル)はサッスーン財閥の援助で資金を確保し、アレクサンドリアに最初の燃料ターミナルを開設した。エリアス・サッスーンは熱心なシオニストで、第2次世界大戦の恐怖から逃れるユダヤ人難民を乗せた難民船を地中海で封鎖したイギリス王国をユダヤ人の友人とは考えていなかった。イギリス王国の政治体制における組織的な反ユダヤ主義と、ドイツ国(西暦1871〜1945年、ドイツ第3帝国(西暦1933〜1945年、ナチス・ドイツ)から逃れてきたユダヤ人難民に対するイギリス王国の政策のため、エリアス・サッスーンは、「世界中のユダヤ人に対して行われた残虐行為について、ドイツ国と同様にイギリス政府も責任がある。」と考えた。エリアス・サッスーンは、ヨーロッパからユダヤ人を密輸し、後にユダヤ国家の復活となるイスラエル国(西暦1948年〜)へ移送するのを支援するため、物資と資金を提供した。エリアス・サッスーンは、ギリシャの著名な船主一族レモス家のレオ・レモス船長(Leo Lemos)の援助を受け、ユダヤ人難民をイギリスの封鎖からイスラエル国への密航を支援するため、船の費用を支払い保護を手伝った。エリアス・サッスーンは、パレスチナへのユダヤ人移民に関するイギリス内務省と委任統治領の政策に違反したため、イギリス王国の犯罪捜査局に何度も逮捕された。西暦1952年、彼は幼馴染みのモイーズ・ジョセフ・モーリス・カタウイ(Moise Joseph Maurice Cattaui)と共にバンク・デュ・ケールを設立した。その頃までにエリアス・サッスーンは家族の事業をフランス共和国第4共和政(西暦1946〜1958年)、ブラジル連邦共和国(西暦1822年〜)、英自治領南アフリカ連邦(西暦1910〜1961年)、アメリカ合衆国に拡大し、西暦1800年代から綿花を輸出し、貿易拠点を維持していた。
サッスーン家は「メソポタミア(現在のシリアとイラク)に相当量の石油埋蔵量がある。」と信じ、イラク石油会社(IPC)の前身であるトルコ石油会社(TPC)の初期投資家となった。モーゼス・サッスーンは、ベルリンーバグダード鉄道の建設にすでに関与していたドイツ国の銀行や企業の利益を確保した最初の人物の1人で、その資金調達に積極的に関与した。このドイツ国の利益に続いて、モーゼス・サッスーンの兄弟であるデイヴィッド・ソロモン・サッスーンがオスマン帝国でロスチャイルド家の代理人になった時に、イギリス王国の利益も獲得した。 西暦1911年、この地域で競合する英国とドイツ国の利害を統合しようと、サッスーン財閥は銀行と企業で構成される英国投資家の共同事業体(コンソーシアム)を結成し、アフリカおよび東部租界株式会社を設立した。西暦1953年、エリアス・サッスーンはこれらの利害関係の情報網を駆使して、家族の利害関係を拡大し、アフリカの鉱業権も取得した。
西暦1957年、ガマール・アブドゥル・ナーセル(アラビア語(フスハー): جمال عبد الناصر、Jamāl ʿAbd al-Nāṣir(ガマール・アブド・アン・ナースィル)、エジプト方言(アーンミーヤ): Gamāl ʿAbd el-Nāṣer(ガマール・アブド・エン・ナースィル)、Gamal Abdel Nasser、ジャマール(ガマール)は「美、美しさ」の意、アブド・アン・ナースィル(アブドゥンナースィル)は「援助者たる者(アッラー)の下僕」の意)率いるエジプト革命後の新政府は、特に英国とフランス共和国の全てのヨーロッパの企業と銀行を国有化した。政府はまた、外国人とユダヤ人をエジプトから追放し始めた。
中東のユダヤ人社会は再び、重大な危険、不法投獄、正当な手続きを経ない恣意的な逮捕、ポグロム、そしてユダヤ人社会が家を放棄し、無国籍になることを余儀なくされる反ユダヤ主義政策に直面した。差別政策の対象となった多くのユダヤ人は、スーツケース 1 つを持って国を離れることを余儀なくされ、ほとんどのユダヤ人の資産と財産は革命評議会によって押収された。サッスーン家も資産没収の対象となり、西暦1966年にエリアス・サッスーンとその妻はアレクサンドリア港に連行され、国外追放された。エジプト国籍だったエリアス・サッスーンの妻は非市民とされ、エジプト政府の宣言によりエリアス・サッスーンのシリア国籍は剥奪された。2人は渡航許可証(旅行書類)を与えられ、ギリシャ行きの船に乗るよう命じられた。しかし、アレクサンドリア大学の医学生だった息子のシュロモ・(ソロモン)・エリアス・サッスーン(Shlomo (Solomon) Elias Sassoon)は出国を拒否された。
エジプト政府は「エリアス・サッスーンが家族の銀行網を利用して、ユダヤ人社会の構成員の資産を国外に密輸するのを手助けした。」と非難した。エジプト政府は「こうして、エジプト国民の犠牲の上に外国人とユダヤ人が蓄積した資産をエジプト国庫から奪った。」と主張した。これらの資産は、国内での貿易や再投資を通じて1世紀以上にわたって合法的に取得されたものだが、政府は、息子の出国を許可する前にエリアス・サッスーンにヨーロッパに保有する資産を返還するよう要求した。シュロモ・サッスーンは、フランス政府とギリシャ王室の介入と、合わせて、400万ポンドに上る身代金を支払い、西暦1971年に妻のジョセフィーヌ・セリーヌ・エステル(Josephine Celine Esther、旧姓: カッタウイ(Cattaui))は家族の許に返された。ジョセフィーヌ・セリーヌ・エステル・サッスーンはモイーズ・ジョセフ・モーリス・カタウイの娘で、西暦1966年に家族が国外追放された後、出国を拒否されていた。
エリアス・サッスーンは、西暦1961年にモイーズ・ジョセフ・モーリス・カタウイと共に、西暦1956年にスイスのローザンヌで設立されたサッスーン・ファミリー・トラストの資産を使って、スイスで私有の家族所有のヘッジファンド(機関投資家や富裕層など特定の投資家から私募により資金を集め、運用する投資ファンド)、サッスーン・カッタウイ・インベストメント・ホールディング(後のプロビデンス・グループ)を設立した。西暦1983年に出資者らは会社をキュラソー(オランダ領アンティル諸島)に移転し、同社は私有の家族投資ファンドとして運営され、SECへの登録やドッド・フランク改革法に基づく報告義務の遵守は求められていない。ファンド設立当時、西暦1961年に運用されていた資産総額は2500万ポンドだった。ファンドは、米国、カナダ、ヨーロッパの商業用不動産、貴金属、石油・ガス、証券に投資した。また、通貨市場やエネルギー市場でも投機を行っており、保有銘柄には BHP、ル・メリディアン・ホテル、アメリカン・エキスプレス、ゼネラル・モーターズ、ウェルズ ファーゴ、HSBC、リーマン ブラザーズ、エクソン・モービル、コノコ・フィリップス、フェンディ、ジョルジオ・アルマーニ、サン・マイクロ・システムズ、ミッドランド・バンク、株式仲買会社フランケル・ポラック(後に南アフリカ共和国(西暦1961年〜)に拠点を置くサッスーン家の銀行であるサッスフィン銀行に売却)などがある。エリアウ(エリアス)・ニッシム・ジョセフ・サッスーンが亡くなった当時、このファンドは1000億ドル以上の資産を管理していた。その殆どはサッスーン家とカタウイ家の資産で、現在はサッスーン家継続信託(Sassoon Family Continuation Trust)によって管理されている。
今現在、サッスーン商会(Sassoon & Co.)はサッスーン家両家の唯一存続している会社であり、個人資産および投資銀行会社として、投資管理、企業金融および貿易金融、世界的助言サービスを顧客に提供している。同社は米国およびイスラエル国市場に重点を置き、米国、イスラエル国、アフリカで複合材料、石油・ガス、金融サービス、鉱業、食糧安全保障に投資している。スイスのUBSに売却される前にデイヴィッド・サッスーン商会(David Sassoon & Co Ltd.)の残りの資産を取得した後、同社は経営陣を交代し、ブランドを変更し、本社をスイスから米国に移転した。同社は現在、サッスーン継続信託の事業部門である、サッスーン財務集団(Sassoon Financial Group LLC)が所有している。デイヴィッド・シュロモ・サッスーンが非執行会長を務めている。同社はその貿易の伝統を忠実に守りながら、銀行業務および資本市場に深く関与し、他の投資会社、個人資産銀行、多国籍金融機関の中でその何世紀にも渉る血脈を活用している。

サッスーン財閥の資産調査報告 (1939年) (資料〈丙 第70号 D〉) - 東亜研究所
ローマ帝国(西暦前27〜1453年)がアルプス以北に進出する以前からのヨーロッパの先住民族、ケルト人(Celt, Kelt、古代ローマで単に「未知の人」の意)は、ローマ帝国の支配を受ることによって独自性を失い、さらにゲルマン人に圧迫されたためアイルランドやスコットランド、ウェールズなどの一部に残るだけになった。西暦前8世紀頃から、大ブリテン島(イギリス)、ガリア(後のフランス)、イベリア半島(スペイン)、アナトリア(小アジア)、ギリシアにも進出したが、多くの部族に分かれ、対立をくり返していた。西暦前4世紀初めにはケルト人の一派が北イタリアに侵入し、さらに南下して一時はローマの都市国家を占領した。この時ケルト人は賠償金を得て撤退した。前3世紀にはバルカン半島に侵入し、ギリシアを経て西暦前278年には小アジアまで至った部族もあった。
ケルト人がブリテン島に流入してきたのは西暦前7世紀頃のことで、西暦前55年、共和制ローマ(西暦前509〜前27年)の(ガイウス・ユリウス・カエサル(Gaius Iulius Caesar、Juliusとも)が侵入、西暦43年には4代ローマ皇帝ティベリウス・クラウディウス・ネロ・カエサル・ドルスス(Tiberius Claudius Nero Caesar Drusus)によってブリテン島の大部分が占領された。ブリテン島のケルト人はいくつかの部族に別れていたが、その中で最も有力だったのがブリトン人(英語: Britons, Brythons)であった。そのため、ただし、スコットランド、アイルランド地域にはローマ帝国の支配は及ばず、この地域のケルト人が度々イングランドに侵入したが、ピクト人 (羅語: Picti、彩色した刺青をしていたため。)などがあまりに兇暴で、町外れに「ハドリアヌスの城壁」という長城が建設された。これがイングランドとスコットランドの境界となった。ローマ帝国はこの地域を「ブリタンニア」と呼んだ。これが現在のブリテン島の起源であり、ブリタニア支配の拠点として「ロンディニウム」を建設した。これが現在のロンドンの起源となっている。ローマ人は在地のケルト人をブリトン人と呼んだ。
西暦5世紀になるとゲルマン人の侵入が始まりローマ帝国に混乱が広まった。西暦409年にローマ帝国がブリタニアを放棄した後、現在のデンマーク、北部ドイツ周辺にいたゲルマン人の一派のアングロ・サクソン人(アングル人・ジュート人・サクソン人)が、ブリテン島南部に侵攻した。これがアングロ・サクソン人で、彼らの言葉が英語の基礎となった。先住のケルト系ブリトン人を支配し、ケルト文化を駆逐した。元々住んでいたケルト系ブリトン人はアングロ・サクソン人に征服され同化し、一部はコーンウォール、ウェールズ、スコットランドに押し出される形になった。ブリトン人は粘り強く抵抗を続けた。その時のブリトン人の英雄として、アーサー王物語が生まれた。しかし、ブリトン人は次第に西方の高地地帯に逃れ、さらに海峡を渡って大陸に移住した。その地が現在のフランスのブルターニュ地方であり、その地と区別するために、島を大ブリテンと言うようになった。
アングル人(英語: angle、羅語: Angli)またはアンゲルン人、アンゲル人(独語: Angeln, Angel ; 蘭語: Angelen)は、西方系ゲルマン人の一種族であり、ユトランド半島南部に位置するアンゲルン半島(ドイツのシュレースヴィヒ・ホルシュタイン州の一部)の一帯に住んでいた部族。ジュート人(英語: Jutes、独語: Jüten)は、西方系ゲルマン人の一部族で、原住地は、ジュート人が住む地の意味のユトランド半島北部やヴェーゼル川河口の地域。 サクソン人(英語: Saxon、またはザクセン人(独語: Sachsen、低ザクセン語: Sassen、低フランク語、蘭語: Saksen)は、北ドイツ低地で形成されたゲルマン系の部族である。現在のドイツのニーダーザクセン地方を形成する部族。
ブリテン島に侵入したアングロ・サクソン人は、アングル人のノーサンブリア王国(西暦653〜954年)、アングル人のマーシア王国(西暦527〜918年)、アングル人のイーストアングリア王国(西暦6世紀〜918年)、サクソン人のエセックス王国(東サクソン王国)(西暦527〜825年)、サクソン人のウェセックス王国(西暦6世紀〜1016年)、ジュート人のケント王国(西暦455年頃〜871年)、サクソン人のサセックス王国(西暦477年〜825年)などの7つの王国を建設し、覇権を争った。このイングランドに7つの王国が並立した西暦829年までの380年間を7王国時代(英語: Heptarchy、ヘプターキー)と言う。7王国時代の初めに有力だったのはアングル人の王国であった。そのため、ローマ人はこの地はアングル人の土地と言う意味で「アングリア(Anglia)」と呼んだ。このアングリアをアングロ・サクソン風にイングランドとなった。西暦9世紀初めには、ウェセックス王エグバート(英語: Egberd、古代英語: Ecgberht、またはEcgbryht)の下で、サクソン人のウェセックス王国が強大となって、イングランド全域を支配した。それ以降、一時期はデーン人に支配され、デンマーク王の下にあった。アングロ・サクソン人はその後また、イングランドを支配した。西暦1066年、ノルマンディー公ギヨーム2世(Guillaume II)(ウィリアム1世(英語: William I、古代英語: Willelm I、古代ノルマン語: Williame I、ウィリアム征服王(William the Conqueror)。庶子王)によるノルマン征服(Norman Conquest)まで続いた。 ブリテン島西部のウェールズにはブリトン人の住民も多く、西暦1536年にはイングランドに併合されたが今も分離独立の動きは続いている。
アイルランドのケルト人をゲール人という。この語はローマ人がブリトン人をグイールと呼んでいたことから、アイルランドのケルト人が自らをゲール人と言ったことによる。彼らは西暦前5世紀頃、アイルランドに侵入した。ドルイド信仰など独自の文化を持っていた。ローマ帝国の支配は及ばなかったが、西暦5世紀に耶蘇教化が進み、カトリック信仰が定着した。西暦8世紀からはヴァイキングが海岸地方に侵攻し、一部は都市に定住するようになって混血が進んだが、ゲール人の独自の言語はゲール語として存続した。しかし西暦12世紀のヘンリ2世に始まるイングランド王によるアイルランド侵略により、次第にイングランドからの入植者に支配されるようになった。近代において、アイルランドは特に宗教的自由を求めてイギリス王国からの分離独立を求める運動が激化し、アイルランド民族運動の柱の1つにはゲール人の言語であるゲール語の復興が掲げられ、西暦1893年には、後のアイルランド初代大統領、ダグラス・ハイド(英語: Douglas Hyde、愛語: Dubhghlas de hÍde)は「ゲール同盟」を結成した。西暦1937年にアイルランド自由国(西暦1922〜1937年)は国号をエールに変更したが、それはゲール語でアイルランドを意味していた。西暦1949年に成立したアイルランド共和国(西暦1949年〜)もゲール語を公用語として掲げたが、実際に日常的に使われているのは西部の一部に限られている。
アイルランドの北東部海岸地方にいたゲール人の一部族のスコット人(英語: Scots)は、西暦6世紀頃ブリテン島の西海岸を荒らし回るようになった。古アイルランド語で「荒らす」、「掠奪する」ことを「スコティ」と言ったことから、彼らはスコット人と言われるようになった。スコット人はやがて同じケルト系のピクト人とともにブリテン島北部に定住し、その地は西暦9世紀にはスコットランドと言われるようになった。彼らはスコットランド王国(最初はアルバ王国またはアラパ王国(現代ゲール語表記::Alba、古ゲール語表記:Albu)(西暦6世紀頃〜11世紀頃)と呼ばれた。)を作り、その南部のアングロ・サクソン人、ノルマン人の建てた国と長く抗争しながら、独自の文化を形成していった。スコットランドの南側がローランド(低地)地方で中央政府があり、北側がハイランド(高地)地方で、比較的穏健で英国の言うことにも素直に従うローランドと、反抗的で野蛮なハイランドからなり、ケルト文化が色濃く残るのは(当然ながら)ハイランド地方で、現在でも6万人ほどケルト系のゲール語を話す。

英東インド会社を前身とする元は貿易商社。西暦1832年、ケルトの野蛮なスコットランド出身のイギリス東インド会社元船医で貿易商人のウィリアム・ジャーディン(英語: William Jardine、支那語: 威廉・渣甸)と同じくケルトの野蛮なスコットランド出身の初代準男爵ジェームズ・ニコラス・サザーランド・マセソン(英語: Sir James Nicolas Sutherland Matheson, 1st Baronet FRS、支那語: ・姆士・馬地臣(勿地臣))が、支那(清)の広州にある人工島の沙面島に設立したアヘン密貿易商社。支那語名は「怡和洋行」。当時、広州はヨーロッパ商人に唯一開かれた貿易港であった。
ジャーディン・マセソン商会の設立当初の主な業務は、支那・清で販売が禁止されていたアヘンをインドから支那に密輸して、支那で生産された茶をイギリス王国への輸出することだった。ジャーディン・マセソン商会はイギリス王国のアヘン密貿易商の1つだった。
多数のアヘン中毒患者で溢れた支那と、支那へのアヘン密輸と販売で巨額の利益を得ていた、西暦1840年に、恥を知らない悪魔のイギリス王国との間でアヘン戦争が始まると、本社を当時無人島だった香港に移した。
アヘン戦争後に設立された「香港上海銀行(HSBC)」は、ジャーディン・マセソン商会、サッスーン商会、デント商会、ラッセル商会など悪名高きイギリス王国のアヘン商人が、清でのアヘン密輸・販売で得た利益を香港からイギリス本国へ送金する業務を行なっていた銀行である。
スコットランドローランド(低地)地方のダンフリーズシャー州ロックメイベン近郊のブロードホームの百姓アンドルー・ジャーディン(Andrew Jardine)とエリザベス(Elizabeth、旧姓: ジョンストン(Johnstone))の三男、ウィリアム・ジャーディンの父アンドルー・ジャーディンは彼が9歳の時に亡くなり、家族は経済的に困窮した。家計のやり繰りに苦労しながらも、兄デイヴィッドが学費を負担し、ウィリアムはエディンバラ大学医学部を卒業し、英東インド会社にの外科船医の助手として東インド商船ブランズウィック号に乗船した。この最初の航海で、麻薬密売商人としての将来を担うことになる同じ船団のグラットン号の外科船医トーマス・ウィーディング(Thomas Weeding)と26歳のユグノー系英国帰化人チャールズ・マグニアック(Charles Magniac)に出会った。チャールズ・マグニアックは西暦1801年の初めに広州に到着し、父親の時計業をダニエル・ビール(Daniel Beale)と共同で経営し、最古のイギリス企業であるチャールズ・マグニアック商会を設立した。
英東インド会社では従業員に個人貿易の内職が許され、上級船員に箪笥2個分の空間もしくは積載量約100ポンド (45kg)分の「貨物特権」が割り当てられた。ウィリアム・ジャーディンは、抜け目無く、割り当てに関心がない他の船員の空間も借り受けて、カシア(シナニッケイ)、コチニール、ムスク(麝香)の取引でかなり蓄財した。
西暦1817年に英東インド会社を退職したウィリアム・ジャーディンは引退した外科医トーマス・ウィーディングとアヘンと綿花の貿易業者フラムジ・カワスジ・バナジ(Framji Cowasji Banaji)と提携した。「アヘンを輸送せず、自由貿易業者に任せる。」という英東インド会社の方針によって利益を上げた。ウィリアム・ジャーディンは有能で堅実で経験豊富な個人貿易業者としての評判を確立した。ムンバイ(ボンベイ)でのウィリアム・ジャーディンの代理人の1人で、生涯の友人となったのは、パーシー人のアヘンと綿花の貿易業者の初代準男爵ジャムセトジー・ジェジーボイ(Jamsetjee Jejeebhoy, 1st Baronet, CMG, FRAS、JeejeebhoyともJeejebhoyとも綴る)だった。2人は、フランス船の乗組員が強制的にブランズウィック号に乗り込んだ時に居合わせた。ジャムセトジー・ジージーブホイはウィリアム・ジャーディンの親しい共同経営者として長く付き合い、西暦1990年代にジャーディン・マセソン商会香港支店にジャムセトジー・ジージーブホイと支那人秘書の肖像画が飾られたのは、その功績を讃えたものであった。
ムンバイ(ボンベイ)のカワスジ・ ウィーディング・ジャーディン商会の貿易業務担当を皮切りに、西暦1823年にチャールズ・マグニアック商会の共同経営者になるまで複数の貿易商を掛け持ちした。西暦1824年に好機が到来した。広東の2大代理店の1つであるチャールズ・マグニアック商会が混乱に陥った。パリで亡くなった兄のチャールズ・マグニアックの後を継いだダニエル・マグニアック(Daniel Magniac)はインド人妻との結婚が元でチャールズ・マグニアック商会を事実上解雇され、ホリングワース・マグニアック(Hollingworth Magniac)に会社を譲った。ホリングワース・マグニアックは、アジアを離れる積りで、チャールズ・マグニアック商会に加わる有能な共同経営者を探していた。ホリングワース・マグニアックは西暦1825年にウィリアム・ジャーディンを共同経営者に迎え入れ、自身は表に出ないようにした。社名はマグニアック商会(Magniac and Co.)に変わった。3年後にはジェームズ・マセソンが共同経営者に加わった。後年、ウィリアム・ジャーディンはダニエル・マグニアックの支那人妻との間に生まれた幼い息子、ダニエル・フランシス(Daniel Francis)をスコットランドの学校に送り、彼を助けた。ホリングワース・マグニアックは西暦1820年代後半にウィリアム・ジャーディンとジェームズ・マセソンに会社を託してイギリス王国に戻った。当時の慣習では、退職した共同経営者は会社から資本を引き揚げていたが、ホリングワース・マグニアックは資本を会社に信託し、ウィリアム・ジャーディンとジェームズ・マセソンに残した。マグニアックの名前は支那やインドで依然として強大だったため、会社はマグニアック商会として西暦1832年まで存続した。
長い間、英東インド会社は東亜貿易の独占のため、イギリス王国でますます不評になっていた。西暦1776年の独立後、アメリカ合衆国の商人たちは支那との茶貿易を盛んにし、多くの人々が同社の独占の継続に疑問を抱くようになった。さらに、英東インド会社が競争相手に対処する際に用いた高圧的な手法は、国内のイギリス人の道徳的憤慨を招いた。市場に参入して同社に競争を齎そうとする者は、私掠船員、つまり「海賊」と呼ばれ、その罰は「聖職者の恩恵を受けずに死刑」だった。時折、自由貿易業者は、インドとの「国内貿易」に従事するための許可を同社から得ることができたが、通常は英国との貿易はできなかった。同社と競争した「侵入者」と呼ばれる他の自由貿易業者は、同社の武装インド船員の海軍に貨物を押収され、絞首刑に処される危険があった。
英国人が英東インド会社の保護区で事業を立ち上げるには1つ方法があった。外国の領事職を受け入れ、その国の法律に基づいて登録することだ。スコットランド生まれの船員ジョン・リード(John Reid)が最初に使用したこの方法をウィリアム・ジャーディンは広州で事業を立ち上げるために踏襲した。ジョン・リードはオーストリア国籍を取得し、オーストリア皇帝から支那領事に任命された。彼は外交官としての居住権を得たため、英東インド会社から広州での貿易許可を得る必要がなくなった。兄のチャールズ・マグニアックの下でプロイセン国王から副領事に任命されデンマーク領事となったホリングワース・マグニアックの足跡を辿った。この基盤のお蔭で、共同経営者たちは英東インド会社を恐れることはなく、時が経つにつれて会社と英東インド会社の関係は友好的になった。英東インド会社の船が当局によって港の外で拘留された時、ウィリアム・ジャーディンは「報酬も報酬もなしに」自分の労役を申し出たと記録されている。これらの労役により、英東インド会社は相当な金額を節約し、ウィリアム・ジャーディンは英東インド会社から感謝された。ウィリアム・ジャーディン、ジェームズ・マセソン、ダニエル・ビール、ホリングワース・マグニアックの初期の活動は、西暦1834年に英東インド会社の支那における独占が終結するのに重要な貢献をした。
一方、ほぼ同じ時期にアヘン商人として派手に売り出していたのが、ウィリアム・ジャーディンと同じ同じスコットランドのハイランド(高地)地方のサザランドのレーグ近くのシャイネスのドナルド・マセソン(Donald Matheson)とキャサリン(Katherine、旧姓: マッケイ(MacKay)、トマス・マッケイの娘)の次男のジェームズ・ニコラス・サザーランド・マセソンだった。ジェイムズ・マセソンは、ウィリアム・ジャーディンよりも12歳若く、エディンバラ大学で学んだ後、西暦1815年に叔父のマッキントッシュ商会を手伝うためにコルカタ(カルカッタ)へ渡った。ある日、叔父は彼に、もうすぐ出航する英国船の船長に届ける手紙を託した。ジェームズ・マセソンは手紙を届けるのを忘れ、船は出航してしまった。甥の不注意に激怒した叔父は、若いジェームズに「英国に戻ったほうが良い。」と提案した。彼は叔父の言葉を信じ、帰国の船旅に出かけた。代わりに貿易船長のロバート・テイラー(Robert Taylor)の助言に従い、ジェームズは広州に向かった。西暦1818年に彼はロバート・テイラーと共に、急速に拡大するインドの輸出市場に携わる企業の代理店として独立した。主にインドと清の間の貿易に従事したが、ロバート・テイラーは2年のうちに死去した。2人は西暦1819年にアヘン貿易を開始、ジェイムズ・マセソンが全財産を注ぎ込むことになったが、幸いにも後にアヘンの価格は暴騰した。その後、広州で貿易に携わるようになった。西暦1821年にはデンマーク駐広州領事に就任した。当時は英国商人が他国の領事に就任しても、英東インド会社の規定に触れなかった。西暦1823年には、福建沿岸で清朝官憲の監視を掻い潜ってアヘンの直接密輸を成功させ、広州のアヘン商人の間でジェイムズ・マセソンはちょっとした有名人になっていた。同年、澳門でイリッサリ商会(Yrissari & Co.)という合名会社を設立したが、この会社はすぐに当時の支那における5大代理店の一つとなり、多くの異なる国々との貿易に手を広げた。西暦1826年に出資者の1人のフランシス・ザビエル・デ・イリッサリ(Francis Xavier de Yrissari)が死去した、西暦1828年にジェイムズ・マセソンは会社の業務を清算し会社を畳んだ。イリッサリには後継者がいなかったため、会社の全株式をマシソンに遺贈していた。これはジェイムズ・マセソンにとってウィリアム・ジャーディンと商売を始める絶好の機会となった。西暦1827年11月08日、ウィリアム・ウッドと広州でアヘン相場などを掲載した英字新聞「カントン・レジスター(広州紀録報)」を創刊した。
ウィリアム・ジャーディンの紹介でジェームズ・マセソンと甥のアレクサンダー・マセソン(Alexander Matheson)は、西暦1827年にマグニアック商会に加わったが、彼らの提携は西暦1828年01月01日まで公式には宣伝されなかった。西暦1832年に会社を再編してジャーディン・マセソン商会(Jardine Matheson and Company)を設立した。ウィリアム・ジャーディン、ジェームズ・マセソン、アレクサンダー・マセソン、ウィリアム・ジャーディンの甥アンドリュー・ジャーディン(Andrew Jardine)、ジェームズ・マセソンの甥ヒュー・マセソン(Hugh Matheson)、ジョン・アベル・スミス(John Abel Smith)、ヘンリー・ライト(Henry Wright)、ホリングワース・マグニアックが最初の共同経営者となった。西暦1830年までに、英東インド会社の対抗手は勝利し始め、英東インド会社による東洋との貿易の支配力は著しく弱まり、ジャーディン・マセソン商会は当時支那の対外貿易の約半分を支配していた。
2人は西暦1827年頃から共同経営者として活動していたが、西暦1832年、マグニアック商会の破産に伴い、ウィリアム・ジャーディンとジェームズ・マセソンは支那の広州(沙面島)に「ジャーディン・マセソン商会(渣甸洋行(渣甸はジャーディンの意))」を設立した。インドから清へのアヘンの密輸、フィリピンとの砂糖と香辛料の貿易、清の茶と絹のイングランドへの輸入、船積書類と積荷保険の取り扱い、造船所設備と倉庫の賃貸、貿易金融、その他貿易に関するあらゆる業務を取り扱った。事業を急速に拡大させた結果、西暦1841年には19隻の大型快速帆船を所有していた。当時、ライバル会社でこれに次ぐ数を所有していたのは13隻のデント商会ぐらいだった。同社はその他に数百の小型船ロルシャと沿岸部と河川遡上用の小型の密輸艇も所有していた。インドから清へのアヘンの密輸、フィリピンとの砂糖と香辛料の貿易、清の茶と絹のイングランドへの輸入、船積書類と積荷保険の取り扱い、造船所設備と倉庫の賃貸、貿易金融、その他貿易に関するあらゆる業務を取り扱った。
ウィリアム・ジャーディンは会社の計画者、強硬な交渉者、戦略家として知られ、ジェームズ・マセソンは会社の通信や法律問題を含むその他の複雑な事柄を扱う組織人として機能した。ジェームズ・マセソンは、同社の多くの革新的な取り組みの立役者だったことで知られていた。この2人は対照的で、ウィリアム・ジャーディンは背が高く、痩せていて引き締まっていたが、ジェームズ・マセソンは背が低くやや太っていた。ジェームズ・マセソンは社会的、経済的に恵まれた出身という利点があったが、ウィリアム・ジャーディンはそれよりずっと貧しい出だった。ウィリアム・ジャーディンは厳しく真面目で、細部に拘り、控えめだったが、ジェームズ・マセソンは創造的で率直で陽気だった。ウィリアム・ジャーディンは長時間働き、非常に仕事志向だったが、ジェームズ・マセソンは芸術を好み、雄弁なことで知られていた。しかし、類似点もあった。ウィリアム・ジャーディンとジェームズ・マセソンは次男で恐らくそれが彼らの意欲と性格を説明している。2人とも勤勉で意欲的で富の追求に直向きだった。
西暦1830年代中頃から、清国ではアヘン貿易の代償に銀が大量に流出するのを恐れた当局が締め付けを強化したため貿易が次第に困難になっていた。この貿易不均衡は、西欧の貿易会社が取り扱う清国産の茶や絹の輸出額よりもアヘンの輸入額が高かったことを意味する。
当初茶を中心に急速に発展した支那貿易への参加を急ぐ動きは、西暦1834年に英東インド会社の独占が終了した時に始まった。西暦17世紀半ばから茶はイギリス王国と英国植民地で人気が高まっていたが、茶の貿易は決して単純ではなかった。英国政府は品質に関係なく1ポンド(0.45s)あたり5シリングの関税を課したため、最も安価な品種でも1ポンドあたり7シリング、つまり労働者のほぼ1週間分の賃金に相当する価格が掛かった。この懲罰的な課税は莫大な利益が得られることを意味し、関税の支払いを回避するための密輸が広まった。支那貿易で利益を上げるには、合法的なものもそうでないものも含め、全ての競争相手より優位に立つ必要があった。毎年、英国、ヨーロッパ、アメリカからの高速船が支那の港で新季節の最初のお茶を積み込む準備をしていた。船は貴重な積荷を積んで急いで帰国し、それぞれが消費者市場に一番早く到着しようとし、早期配達に提示された特別価格を獲得した。西暦1834年に英東インド会社の支那における独占が終了し、ジャーディン・マセソン商会はこの機会を利用して、会社の撤退によって生じた空白を埋めた。その年、同社は「ジャーディンのピックウィック茶混合物」、支那茶のブレンドを黄埔から同社のクリッパー船サラ号に乗せて、イギリスのグラスゴー、ファルマス、ハル、リバプールの港に向けて最初の個人出荷を行った。その後、ジャーディン・マセソンは、東インド会社の大手商社からアジア最大の英国貿易会社へと変貌を遂げ始めた。ウィリアム・ジャーディンは、他の貿易業者から「大経営者」を意味する支那語の俗称である「大盤」と呼ばれるようになった。ジェームズ・マセソンはウィリアム・ジャーディンへの熱烈な賛辞の中で、「貴方ほど熱心に奉仕できる者はいないと確信する。」と書いている。ウィリアム・ジャーディンは、英東インド会社の古い市場の多くを獲得することに成功したが、これは殆どの競争相手よりも速く、消費者市場に一番早く到着することができた高速で優雅なティークリッパーの艦隊に支えられていた。これには、コルカタ(カルカッタ)から澳門まで17日17時間で航海し、破られていない速度記録を樹立したシルフ号も含まれていた。ウィリアム・ジャーディンはまた、支那で公式の「ティーテイスター」を雇い、茶の様々な品種についてより深く理解し、最高の価格を要求できるようにした最初の会社でもあった。
それでも、ウィリアム・ジャーディンは恥知らずにも、「支那でのアヘン貿易を拡大したい。」と考え、西暦1834年にイギリス帝国(西暦1609〜1997年)を代表する初代貿易総監、スコットランド貴族の第9代ネイピア卿、ネイピア男爵ウィリアム・ジョンと共同で広州の支那当局者と交渉しようとしたが、失敗に終わった。支那の総督はウィリアム・ジョン・ネイピアが滞在していた広州の事務所を封鎖し、ウィリアム・ジョン・ネイピアを含む住民を人質にするよう命じた。打ちひしがれ屈辱を受けたウィリアム・ジョン・ネイピアは、要請された船ではなく陸路で澳門に戻ることを許された。彼は熱病に倒れて数日後に死んだ。
この失敗の後、ウィリアム・ジャーディンは「イギリス政府に武力を使って貿易をさらに開放するよう説得する機会。」と考えた。西暦1835年初頭、清でのアヘン取引の拡大を望んだウィリアム・ジャーディンは、対清貿易で強硬姿勢を取るよう政府を説得するためジェイムズ・マセソンをイギリス王国に派遣した。ジェームズ・マセソンはウィリアム・ジョン・ネイピアの未亡人と共に、目の感染症を口実としてイギリス王国に帰国した。到着後、彼は支那との戦争への支持を集めるため、広範囲に旅行し、政府と貿易の両方の目的で会合を開き、政府が強力な措置を取るよう説得した。彼の使命は失敗に終わり、ジェイムズ・マセソンは「鉄の公爵」と呼ばれた外務大臣初代ウェリントン公アーサー・ウェルズリー(英語: Arthur Wellesley, 1st Duke of Wellington, KG, GCB, GCH, PC, FRS)に面会を試みたが門前払いを食わされ無視された彼は、「傲慢で愚かな男に辱めを受けた。」とウィリアム・ジャーディンに報告した。それでも彼の活動と議会を含むいくつかの会合での広範なロビー活動は、最終的に戦争に繋がった。ウィリアム・ジャーディンが一時的に延期された引退の準備をする中、ジェームズ・マセソンは西暦1836年に会社を引き継ぐ準備をするため支那に戻ると、西暦1839年01月26日にウィリアム・ジャーディン自らが広州を出発しイギリス王国に向かった。表向きは引退するためだが、実際はジェームズ・マセソンのロビー活動を継続するためだった。ウィリアム・ジャーディンの出発前に同業のアヘン密輸業者は、「ジャーディンの広東出発を数日後に控えた外国人社会は、東インド会社の工場の食堂で晩餐会を開いた。国籍も様々な80人ほどが出席し、夜が更けても誰も立ち去ろうとしなかった。これは今でも在留者の間でよく話題になる。」と期待を寄せた。同年、ジェイムズ・マセソンは著書「The Present Position and Future Prospects of British Trade with China(イギリス対中貿易の現状と展望)」を出版し、支那における貿易事情について詳しく述べ、清の外国人排除政策を批判して、イギリス政府に断固とした政策を取るよう求めた。
清の道光帝はウィリアム・ジャーディンの出発を聞いて喜び、その後西暦1839年03月、当時広東に集中していたアヘン取引を全面的に停止するために、欽差大臣として派遣された林則徐が外国諸商館のアヘンを没収した。林則徐は「鉄頭の老鼠、ずる賢く狡猾なアヘン密輸団の首謀者は、清の怒りを恐れて霧の国へ去った。」と述べた。その後、貿易総監チャールズ・エリオットは全てのアヘンを引き渡し、ジャーディン・マセソン商会のライバルであるデント商会の長であるアヘン商人ランスロット・デント(Lancelot Dent)の逮捕を命じた。これが一連の出来事の引き金となり、林則徐は2万箱以上のアヘンを破棄した。その多くはウィリアム・ジャーディンの所有物だった、ジェイムズ・マセソンを含む商人16人を拘禁した。ジェイムズ・マセソンは同年05月に釈放される時に清からの永久追放を宣告されたが、帰国せず、代わりに澳門、次いで香港でアヘン密輸を続けた。
ロンドンに到着したウィリアム・ジャーディンの最初の仕事は、ウェリントン公に代わって新しく外務大臣に就任した第3代パーマストン子爵ヘンリー・ジョン・テンプルに会うことだった。ウィリアム・ジャーディンは、広州の貿易総監チャールズ・エリオットが書いた紹介状を携行し、パーマストン子爵に自身の資格の一部を伝えた。ウィリアム・ジャーディンはパーマストン子爵に支那との戦争を始めるよう説得し、詳細な地図と戦略、支那からの賠償と政治的要求、さらには必要な兵士と軍艦の数までを記した「ジャーディン文書」と呼ばれる包括的な計画を提出した。ジャーディン・マセソン商会は、支那のアヘン貿易にも携わり豪商となり、第1次アヘン戦争の開始に暗躍した。西暦1840年から2年間にわたるアヘン戦争では、ジャーディン・マセソン商会は清でのアヘン密輸の利益を守るべくイギリス王国でロビー活動を行い、イギリス王国の国会は9票という僅差で軍の派遣を決定した。結果、アヘン戦争はイギリス王国の圧勝に終わり、西暦1842年に南京条約が締結され、この事実上の不平等条約で、香港はイギリス王国のものとなり、さらに清はイギリス王国に対して賠償金2100万$を4年分割で支払うこととなった。ジャーディン・マセソン商会は、従来通り、清でのアヘン販売を続行できることとなった。
西暦1842年にイギリス王国ハノーヴァー朝と支那清朝の両国の代表者によって南京条約が調印された。この条約により、支那の5大港湾の開港が許可され、破壊されたアヘンに対する賠償が提供され、香港島の正式な獲得が完了した。
ジャーディン・マセソン商会は、西暦1841年に大英帝国の植民地の香港(西暦1842年の南京条約で正式に割譲)に本社を移転した。
西暦1840年代、イギリス海軍は第1次アヘン戦争で清朝と戦った蒸気船を補うため、ジャーディン・マセソン商会からカロネード砲を装備したクリッパー船を数隻借り受けた。ジャーディン・マセソン商会は西暦1841年までに大陸間航行用のクリッパー船を19隻保有し、沿岸部や上流域での密輸に使う小型のロルチャ船やその他の船も数百隻保有していた。ウィリアム・ジャーディンは支那にアヘンを密輸するだけでなく、フィリピンから砂糖やスパイスを取引し、支那茶や絹をイギリス王国に輸出し、貨物取扱業者や保険代理店として活動し、造船所や倉庫を貸し出し、貿易に資金を提供した。
アヘン戦争後の西暦1842年、ジェイムズ・マセソンは喘息のためイギリス王国に帰国、同時に商社の管理から引退して、甥に後を継がせた。ウィリアム・ジャーディンは本国で庶民院議員に当選していたが、西暦1843年に死去しており、ジェイムズ・マセソンは同年03月に行われたアシュバートン選挙区の補欠選挙でホイッグ党(のち自由党)候補として出馬し、141票対96票で当選した。西暦1843年11月09日にマイケル・ヘンリー・パーシヴァルの娘メアリー・ジェーン・パーシヴァル(Mary Jane Perceval)と結婚した。西暦1846年02月19日、王立協会フェローに選出された。西暦1844年にアウター・ヘブリディーズのルイス島を購入、リューズ城を建てた他、サザランドの副統監と治安判事を務めた。西暦1840年代末のハイランド地方におけるジャガイモ飢饉で救済に尽力して、西暦1851年に準男爵に叙された。
香港島は西暦1841年01月26日に正式に貿易と軍事の基地として接収されたが、既に何年も積み替え地点として使われていた。支那との貿易、特に違法アヘンの貿易が拡大し、当時すでに東アジア最大の英国貿易会社として「プリンスリー・ホン」として知られていたジャーディン・マセソン商会も成長した。 香港は珠江の河口にある島で、広東から約90マイル(140km)離れており、九龍本土とは水路で隔てられているが、最も狭いところで幅は僅か440ヤード(400m)である。西暦1840年になっても、この島には開発価値がないように見えた。「北回帰線のすぐ下に位置し、気候は暑く、湿気が多く、不健康である。」と考えられていた。島の面積は30平方マイル(78㎢)未満で、水面から急峻に隆起している。西洋人が到着する前、東岸と南岸には、約5000人の漁民と採石業者が陸と海を合わせて住んでいた。また、海賊がこの島を隠れ場所として利用していたと疑われていた。一見したところ、この島を推薦できる唯一のものは、天然の深水港だった。「香港」は、広東語の「香る港」を意味する Heung Gawng (香港)に由来しており、恐らく、現在の深圳にある海を渡った白檀の香工場から漂う香りに由来している。
ジェームズ・マセソンは、長い間香港の将来を信じていた。彼自身の言葉で、「香港の利点は、支那人が広東での貿易を妨害すればするほど、貿易が新しいイギリス植民地に流れ込むのだ。さらに、香港は確かに世界でも最も素晴らしい港の 1 つだった。」彼の熱意は、仲間の商人の多くには受け入れられなかった。当然のことながら、彼らはマカオのプラヤ・グランデの快適な住居を捨てて香港島の荒涼とした斜面に移住することを好まなかった。不運が初期のビクトリア朝建築者たちにとって事態をさらに悪化させた。立て続けに 2個の台風と2件の火災が新しい入植地を破壊し、猛毒のマラリア流行で島の住民はほぼ全滅した。マカオの広東新聞は何年もの間、この事業を嘲笑し中傷する機会を逃さなかった。ビクトリア女王でさえ、この新しい土地の獲得に感銘を受けなかった。かつて彼女はベルギー国王に皮肉な手紙を書いた。「アルバート王配は私が香港島を手に入れたことをとても面白がっている。ビクトリアは女王であると同時に香港の女王と呼ばれるべきだと思う。」挫折と嘲笑にも拘わらず、植民地の創設者たちは落胆しなかった。
香港はジャーディンの拡張にまたとない機会を与えた。西暦1841年06月14日、香港で最初の区画が販売された。ジェームズ・マセソン商会の唆しで、イーストポイントの57150平方フィート(5309u)の3区画が565英ポンドで購入され、ウィリアム・ジャーディンはここに新しい植民地で最初の事務所の一つを構えた。区画1は現在、かつてジェームズ・マセソン商会が所有していたエクセルシオール・ホテル(Excelsior hotel)の敷地となっており、現在はマンダリン・オリエンタル・ホテル(Mandarin Oriental Hotel)が所有・運営している。 当初、この集落は急拵えの竹の柱に椰子で屋根を葺いた木造の建物で構成されており、ウィリアム・ジャーディンはレンガと石を使った家を初めて建てた。それはイースト・ポイントに建てられ、同社は今でも元の土地の殆どを保持している。イースト・ポイントで今でも見られる建物の中には、戸の上の石に 西暦1843年の日付が刻まれている古い倉庫がある。そして、西暦1843年に正式に新しいイギリス植民地と宣言された場所に本社を設立した。
香港島には倉庫、埠頭、事務所、住宅も建設され、ウィリアム・ジャーディンの船団とその乗組員を維持するための施設も設置された。同時に、同社は新しい植民地の基盤の開発に積極的な役割を果たし、成長する共同体に商業、信用、あらゆる種類の便益を提供した。初期の頃には、香港初の製氷工場(後にデイリー・ファーム会社と合併)、初の紡績工場と織物工場、香港路面電車の設立などがあった。ウィリアム・ジャーディンの甥であるデイビッド・ジャーディン(David Jardine)は、西暦1850年に総督によって任命された立法会議の最初の2人の非公式会員の1人だった。香港商工会議所は西暦1861年に設立され、ジェームズ・マセソンの妻の親戚であるジャーディン・マセソン商会の第7代タイパン、アレクサンダー・パーシバル(Alexander Perceval)が初代会長を務めた。西暦1878年、同社は支那製糖会社を設立し、香港で砂糖精製の先駆者となった。
共同体の歴史におけるジャーディン・マセソン商会の役割を記録する目印が残されている。初期の頃、熱病や疫病は香港の住民にとって常に脅威であり、夏の暑さは耐え難いもので、同社の取締役は、より快適で健康的な生活が期待できる丘での住宅建設の先駆者となった。「ジャーディンズ・コーナー」はそのような目印の1つであったが、この会社と関連して最もよく知られている場所は「ジャーディンズ・ルックアウト」として知られる丘の頂上である。帆船の時代、ここからインドやロンドンからやってくる会社のクリッパーの帆を最初に見るために監視が行われた。船が信号を送るとすぐに、ジャーディン・マセソン商会の郵便物を集めるために高速捕鯨船が派遣された。手紙は急いで事務所に持ち込まれ、取締役が世界の市場に関する最初の情報を入手できるようにした。ジャーディンズ・クレセントのジャーディンズ・バザールは西暦1845年に遡り、香港で最も古い商店街の1つである。エクセルシオール・ホテルの向かいにある正午の大砲は、西暦1860年代に遡り、当時はジャーディン・マセソン商会の私兵が、同社のタイパンが港に到着すると一斉射撃を行っていた。このことは、「商社の長よりも重要な人物にのみ許されるものだ。」と主張した英国海軍を怒らせた。罰として、ジャーディン・マセソン商会は永久に毎日正午に大砲を撃つよう命じられた。
西暦1842年に支那語名を従来の「渣甸洋行」(渣甸はジャーディンの意)から「怡和(Ewo)洋行」に変更した。「幸せな調和」を意味し、ハウクアが経営していた評判の高い広東十三行の1つで、西洋にも有名だった「怡和行(Ewo hong)」に由来している。
ジャーディン・マセソン商会は西暦1843年に支那での拠点は、上海の共同租界、外灘(バンド)の中山東一路27号に移し、「怡和洋行大楼(ジャーディン・マセソン商会ビル)」と呼ばれた。この場所の当時の地番は1番地であり、ジャーディン・マセソンが最初に外灘(バンド)に土地を獲得した。西暦1844年に建築用地を登録し、西暦1851年にこの27号1番地に最初の建物が完成した。西暦1920年に出版された上海ハンドブックの第2版で、C・B・ダーウェント牧師は、「同社が土地に最初に投資した 500ポンドが当時西暦1900年までに100万ポンドの価値になっていた。」と推定している。地元の建築事務所スチュワードソン&スペンスが5階建ての新しいルネッサンス様式の建物の計画を描き、西暦1920年に工事が始まった。建物は西暦1922年11月に完成し、絹の検査官の作業を助けるために特別な照明を備えた特別に設計された絹の部屋が特徴であった。その後、建物にもう1階が増築され、現在は外貿大楼と呼ばれ、上海市対外貿易公司や上海市外貿局等が入り、上海外国貿易局(外贸大楼)の本拠地となっている。西暦1862年、ウィリアム・ケズウィック(William Keswick)は、設立間もない上海競馬クラブを財政破綻から救った。春と秋の会合では、ジャーディン・マセソン商会とデント商会のような大商社の競争が激化した。上海競馬クラブの隣にあるジャーディン・マセソン商会(怡和(Ewo))の私設厩舎には、西暦1922年には46頭のポニーが飼育されており、同社には21人の騎手が雇用されていた。
福州と天津の貿易所にも新しい事務所が開設され、西暦19世紀後半には、同社は顧客のために活動する代理店からより多角的な事業へと劇的な変貌を遂げた。 青島、広州、汕頭、福州、長沙、昆明、アモイ、北平(北京)、鎮江、南京、蕪湖、九江、宜昌、沙市、重慶など支那各地に現地事務所を開設した。上海、天津を除けば、漢口(現在の武漢市の一部)が最も大きな事務所だった。
ジャーディン・マセソン商会は多種多様な輸出入品を取り扱い、鉄道や支那で切望されていたその他の基盤整備を推進し、支那が近代化に向けて努力する中で銀行や保険会社を設立した。西暦1867年から天津事務所を開設し、華北でも海運業を展開した。この頃、唐廷枢(後に李鴻章の下で洋務運動を推進)が買弁責任者として金銭の管理、物資の購入、海運の開設などを行っていた。以降、事業規模が拡大し、西暦1881年に天津支店に格上げし、西暦1921年に社屋の「天津ジャーディン・マセソン商会ビル」をイギリス租界地の維多利亜道(現在の解放北路157号)に建設した。
海運は会社の拡大に重要な役割を果たした。西暦1835年に、会社は支那初の商船ジャーディン号の建造を委託した。ジャーディン号は、リンティン島、マカオ、黄埔埠頭間の郵便および旅客輸送に使用することを目的とした小型船だった。しかし、外国船に関する規則を厳格に適用する支那人は、「火船」が広東川を遡ることに不満でだった。梁光総督代理は、「ジャーディン号が航行しようとすると発砲する。」と警告する布告を出した。ジャーディン号がリンティン島から初めて試運転した時、ボーグの両側の砦が発砲し、ジャーディン号は引き返さざるを得なかった。清当局は、船が支那から出航するようさらに警告した。いずれにせよジャーディン号は修理が必要となり、英領シンガポール(西暦1824〜1941、1945〜1963年)に送られた。ジャーディン号は西暦1855年にコルカタ(カルカッタ)から貨物航路を開始し、揚子江で運航を開始した。西暦1881年にインドシナ蒸気航行会社が設立され、その後西暦1939年まで、ジャーディン号が管理する海洋、沿岸、河川輸送サービスのネットワークを維持した。西暦1938年、日支事変中に、同社は支那商船蒸気航行会社から海源、海里、海辰、海衡の4隻の船を購入し、その後香港と天津の間で運航された。ジャーディン・マセソン商会が所有していた最初の外洋蒸気船は、主にコルカタと支那の港の間を運航した。これらの船は、ライバルのP&O船よりも2日早く400マイル(640km)の航海を終えるほどの速さだった。
頑強な抵抗にも拘わらず、ジャーディン・マセソン商会は鉄道システムの開通を求めて長年清政府に激しくロビー活動を行った。これは完全に失敗したが、西暦1876年にジャーディン・マセソン商会は独自に前進しようとし、呉淞道路会社を設立して上海と呉淞間の10マイルの道路を購入し、まず騾馬の路面電車に、次に支那初の狭軌鉄道(呉淞鉄道)に改造しようとした。最初の釘は01月20日に打ち込まれ。07月03日に1日6往復の運行で開通した。西暦1876年08月03日に線路上での自殺者が両江総督の沈宝珍に再び反対の意を表明するまで、運行は順調と見做されていた。英国当局は鉄道の運行停止を命じ、清政府は「年内にこの路線を購入したい。」と発表した。ジャーディン社は、「鉄道は正式な承認なしに建設されたため英国政府による防衛は不可能である。」と告げられ、会社は全ての費用が補填される限り売却に同意した。西暦1877年10月に土地、車両、レールに28万5000シリングが支払われ、その後清政府はこれらを解体して台湾に輸送し、海岸で錆びたまま放置した。この路線は西暦1898年まで再建されなかった。
ジャーディン・マセソン商会は最終的に、唐山にある支那工業鉱山会社(Chinese Engineering and Mining Company、CEMC)の炭鉱から騾馬鉄道を建設するための承認を直隷総督の李鴻章から得ることに成功した。これは、予定されていた運河が炭鉱までの最後の6マイル(9.7km)を走らせることができないことが示されたためである。再び鉄道建設禁止の公式命令を無視し、CEMC の技術者クロード・W・キンダー(Claude W. Kinder)は、まず標準軌で路面電車を建設することを主張し、その後、炭鉱周辺の資材で機関車を急拵えした。これは騾馬よりも経済的であることが証明され、冬季に運河が凍結する傾向があり、また石炭が総督の北洋艦隊にとって戦略的に重要であったことから、最終的には路線をまず運河沿いに、次に天津などの大都市まで拡張することができた。20年以上にわたって、開平路面電車は支那鉄道会社にまで拡大し、同社は再び清政府に買収されたが、今度は収益性のある企業として存続した。西暦1898年、ジャーディン・マセソン商会と香港上海銀行(Hongkong and Shanghai Banking Company、HSBC)は英国支那企業(British and Chinese Corporation、BCC)を設立した。土木工学のジョン・ウルフ・バリー(John Wolfe-Barry)とアーサー・ジョン・バリー(Arthur John Barry)の共同で、英国支那公司の共同コンサルタント技術者に任命された。公司は古いウーソン線を再建し、その後、揚子江流域と、山海関から牛荘と奉天までの北部帝国鉄道(Ǹorthern Imperial Railways)の延長の両方で、支那の鉄道体系の開発の多くを担当した。上海から南京までの線は、西暦1904〜1908年の間にジャーディン・マセソン商会によって290万ポンドの費用で建設された。BCCは、九龍から広州までの鉄道の建設も担当した。
西暦1881年、ユダヤ人の血を引くオランダ系イギリス人の父と香港人の母から生まれ、両親は正式な結婚でなく、父は事業の失敗後に失踪した何東(Robert Hotung (Bosman)(ロバート・ホー・トン)、本名: 何啓東)が、ジャーディン・マセソン商会に入社した。総買弁、支那総経理を歴任した。後に香港の大富豪の何東一族の祖となった、
ジャーディン・マセソン商会とポール・チャーター(Paul Chater)の主導により、西暦1886年に香港九龍埠頭倉庫会社(Hongkong and Kowloon Wharf and Godown Company Limited)が設立された。3年後の西暦1889年03月02日、当時タイパンだったジェームズ・ジョンストン・ケズウィック(James Johnstone Keswick)が再びポール・チャターと提携し、香港土地投資代理会社(Hongkong Land Investment and Agency Company Limited、後の香港土地(Hong Kong Land))を設立した。新会社が最初に着手した計画は、チャーター 路として知られるようになった新しい海沿い道路沿いの 65エーカー(260000u)の約250フィート(76m) 幅の建築用地の埋め立てだった。西暦1875年に地元の埠頭がいくつか合併した後、ジャーディン・マセソン商会が上海・虹口埠頭株式会社(Shanghai & Hongkew Wharf Co.)の総支配人に任命された。西暦1883年に旧寧波埠頭が追加され、西暦1890年に浦東埠頭が買収された。
パーシー・ドラビジー・ナウロジー(Parsee Dorabjee Nowrojee)が創業したスターフェリー社(Star Ferry Company)は、ジャーディン・マセソン商会とポール・チャーターが経営する香港九龍埠頭(Shanghai & Hongkew Wharf Co., Ltd.)西暦1898年に買収された。同社は香港島と九龍半島の間で蒸気動力フェリーを運航していた。
ジャーディン・マセソン商会は香港の路面電車体系の確立に貢献した。この体系は西暦1904年に香港路面電車(Hong Kong Tramways Ltd.)として直接開始された。同社は現在、ヴェオリア交通(Veolia Transport)と香港九龍埠頭・倉庫会社を継承したザ・ワーフ(投資会社)の共同所有が共同所有している。
西暦1836年に海運業を支援するために広州保険事務所として設立されたジャーディン保険事業は、同社が事務所や代理店を置いていた多くの場所で引受業務を開始し、同社が事務所や代理店を置いていた多くの場所で引受けを開始し、西暦1860年になっても支那で唯一の保険会社でした。さらに、ヨーロッパと極東の間を移動する顧客に対応するため、同社は主要な蒸気船の航路沿いとシベリア鉄道の地点に代理店を置き、モスクワにも代理店を置いていた。広東保険事務所は後にロンバード保険会社(Lombard Insurance Co.)に改名された。
支那語では怡和機器有限公司(Yíhé Lóuqì Yǒuxiàn Gōngsī)として知られ、文字通り「幸せな調和のとれた道具屋」を意味するジャーディン工業会社(Jardine Engineering Corporation、JEC)は、それまでジャーディン・マセソン商会の工業部門が扱っていた支那の発展を支援するための機械、工具、産業機器の輸入事業が、独立した会社として独立できる段階にまで拡大した時期に、西暦1923年に誕生した。JECは、アンモニア式冷房や新しい形式の暖房および衛生設備の先駆者であり、西暦1935年には香港上海銀行(HSBC)の新本社の金庫室の扉を提供した。 JEC は西暦1940年に香港に蛍光灯を導入し、西暦1949年には土瓜湾地区のタイラーズ紡績工場に香港初の大規模産業用空調設備を設置した。

近代中国とイギリス資本: 19世紀後半のジャーディン・マセソン商会を中心に - 石井 摩耶子
ジャーディン・マセソン商会は、子会社のジャーディン・マセソン(東アフリカ)有限会社を通じて、当時の英領東アフリカ(東アフリカ保護領)(西暦1895〜1920年)のナイロビでも事業を展開し、英自治領南アフリカ連邦の会社レニーズ統合投資会社(Rennies Consolidated Holdings)の過半数の株式を保有していたが、西暦1983年にこの74%の株式をオールド相互(Old Mutual)に売却した。その後、この会社はサフマリン(Safmarine)と合併し、サフマリン・アンド・レニーズ投資会社(サフレン)(Safmarine and Rennies Holdings(Safren))となった。この会社は非常に強力になり、香港行政委員会の歴史の大半において、香港上海銀行(HSBC)の頭取やジャーディン・マセソン商会の幹部を含む「非公式構成員」が実業界を代表していた。
ジャーディン・マセソン商会は西暦1906年に有限会社となり、第2次世界大戦までは単に「会社(Firm)」または「マックル・ハウス(Muckle House)」と呼ばれていた。マックルはスコットランド語で「偉大な」という意味の俗語である。
西暦19世紀末から、ジャーディン・マセソン商会は支那名「怡和(Ewo)」を使用していくつかの新会社を設立した。その最初の会社が怡和綿糸紡績工場(EWO Cotton Spinning and Weaving Co.)である。西暦1895年に上海で設立され、支那で最初の外資系綿糸工場となった。その後、上海で楊子坡紡績工場(Yangtszepoo Cotton Mill)と公益紡績工場(Kung Yik Mill)という2つの工場が立ち上げられた。西暦1921年、これら3つの工場は怡和紡績工場(Ewo Cotton Mills, Ltd.)として統合され、香港で登録された。日支事変(1937〜1945年)前には、3つの工場は合計175000本の綿紡錘と3200台の織機を稼働していた。さらに、同社は廃綿製品、黄麻素材、梳毛糸や布の製造にも事業を拡大しました。同社は戦争中にかなりの機械を失い、西暦1954年01月、ジャーディン・マセソン商会は香港の新聞に「エウォ・コットン・ミルズ(怡和紡績工場)の総支配人としての役目を終えた。」と広告を出した。
エウォ・ユエン圧縮梱包会社(Ewo Yuen Press Packing Company、別名エウォ圧縮梱包会社(Ewo Press Packing Company))は西暦1907年に上海で設立され、ジャーディン・マセソン商会と支那人が共同所有していた。 西暦1919年に共同経営者が引退すると、ジャーディン・マセソン商会は総床面積125000平方フィート(11600u)の会社の個人経営者となり、年間の生産量は40000〜50000俵で、最盛時にはその量が倍増した。梱包された品物には、原綿、綿糸、絹屑、羊毛、皮、山羊皮、その他、出荷や保管のために圧縮梱包が適した商品が含まれていた。同社はまた、あらゆる種類の貨物の仕分け、等級付け、保管に使用できる倉庫を一般向けに提供していた。工場は蘇州吴淞江河口近くにあり、当時は支那内陸部や輸出用の上海港への重要な輸送路だった。
西暦1920年、ジャーディン・マセソン商会は上海川沿いに(Ewo Cold Storage Company)を設立し、粉末卵の製造と輸出を行った。2〜3年後、液卵や全卵の加工もできるように拡張された。これらの製品は大量に海外、主にイギリス王国に出荷された。西暦1920年代〜1930年代にかけて、卵と卵製品の輸出貿易は支那(中華民國(西暦1912〜1949年)経済においてますます重要な要素となり、西暦1937年に日支事変が勃発する直前には、卵取引は主要輸出品の上位にあった。その後の戦争中、日本占領軍は家禽の在庫を大幅に削減したが、家禽生産は広大な地域に散在する無数の小規模な単位によって主に行われ、状況はその後すぐに回復した。
西暦1935年、同社は上海にエウォビール株式会社(EWO Breweries)を設立した。生産は西暦1936年に開始され、エウォビールは西暦1940年にジャーディン・マセソン商会経営の公開会社となった。ビール醸造所は極東の気候に適していると考えられていたピルスナーやミュンヘン型のビールを生産した。この事業は西暦1954年に損失を出して売却された。
ジャーディン・マセソン社は、西暦1937年の日本軍による支那侵攻以前、あらゆる商品の主要な輸出入業者だった。輸出品目の中では、お茶と絹が上位に格付けされていた。西暦1801年という昔に、ジャーディン・マセソン社の前身となる会社は、ニューサウスウェールズ州とヴァン ディーメンズランドに茶を輸出するための最初の免許を英東インド会社から取得していた。西暦1834年に英東インド会社の貿易独占が覆されると、同社はすぐに茶の事業を拡大した。西暦1890年代までに、ジャーディン・マセソン社は大量の祁門(キームン)紅茶、ラプサン・スーチョン (英語: Lapsang souchong、支那語: 正山小種、立山小種、煙茶、烟茶)、烏龍(ウーロン)茶、火薬緑茶、春美(チュンミー)緑茶を輸出していた。これらの貨物を積んだ外洋船は、福州と台湾、および上海の外灘にある同社の倉庫からヨーロッパ、アフリカ、アメリカに向けて出航した。ジャーディン・マセソン社が創業してから最初の100年間、絹は商品として重要な役割を果たした。日本軍の侵攻以前、同社は日本からアメリカ、フランス、スイス、イギリス王国などに絹を出荷していた。西暦1930年代後半に戦争が勃発するまで長年にわたり、同社は絹織物を製造する自社工場「エウォ絹糸紡績(EWO Silk Filature)」や絹織物を製造工場を運営していた。同社はまた、上海、天津、青島、漢口、香港に大きな倉庫を所有しており、羊毛、毛皮、大豆、油、油種子、剛毛などの寒冷な北部の産物だけでなく、桐やその他の植物油、油種子、卵製品、剛毛、豆などの広大な農業中心地の産物、さらには日当たりの良い南部の市場性のある産物である桐油、アニス、桂皮、生姜も入手できた。香港と上海が主な輸出入口だったが、支店も小規模でこれらの活動に従事し、木材から食料品、繊維から医薬品、金属から肥料、ワインや酒類から化粧品まで、様々な製品を扱っていた。
ジャーディン・マセソン商会は創業当初から、他の国々の一連の「協力会社(correspondent)」と取引していた。これらの会社はジャーディン・マセソン商会の代理店として活動し、独立しているか、会社が一部所有していた。ロンドンのロンバード・ストリートにあるジャーディン・マセソン商会は、西暦1848年に商人銀行家の個人事務所として設立され、西暦1906年に有限会社となり、ロンドンでジャーディン・マセソン商会の特派員として活動しした。この会社はジャーディン・マセソン商会とケズウィック家によって支配され、ロンドンの東亜を代表する会社だった。ニューヨークを拠点とするバルフォア・ガスリー社(Balfour, Guthrie & Co., Ltd.)は、西暦1869年に3人のスコットランド人によって設立された会社で、アメリカ合衆国における同社の利益を管理していた。アフリカ、アジア、オーストラリアの様々な国にさらに特派員がいた。コルカタにあるジャーディンの姉妹会社、ジャーディン・スキナー社(Jardine Skinner & Co.)。は、西暦1844年にバルグレーのデイビッド・ジャーディン(David Jardine)とジョン・スキナー・スチュアート(John Skinner Steuart)によって設立され、茶、黄麻、ゴムの取引で大きな力を持つようになった。第2次世界大戦中に、会社はジャーディン・ヘンダーソン社(Jardine, Henderson)に社名を変更し、後にジョン・ジャーディン・パターソン(John Jardine Paterson)によって経営された。
西暦1940年代、ジャーディン・マセソン商会は航空部門を開設し、総代理店、交通処理、予約代理店としての業務を提供した。この時期に、英国海外航空 (BOAC) はジャーディン・マセソン商会を香港と支那の総代理店に任命した。香港では、ジャーディン・マセソン商会は香港を拠点とする、または香港を経由して運航する多くの航空会社に最新の技術および整備施設を提供するためにジャーディン航空機整備会社(JAMCo)を設立した。 JAMCoは最終的にキャセイ・パシフィック航空の整備部門と合併し、西暦1950年11月01日に HAECOが設立された。
西暦1930年代の支那での不安と紛争、西暦1939〜1945年にかけての第2次世界大戦、および西暦1949年の支那における共産主義革命により、この地域は大混乱に陥り、ジャーディン・マセソン商会のような外国企業にとって克服すべき多くの課題が生じた。 西暦1935〜1941年の間、同社には2人のタイパンがいた。上海本社に勤務するウィリアム・ジョンストン・「トニー」・ケズウィック(William Johnstone "Tony" Keswick)と、香港での業務を担当する弟のジョン・ヘンリー・「ザ・ヤンガー」・ケズウィック(John "The Younger" Keswick Henry Keswick, KCMG)ケズウィックである。西暦1937年までに日本は支那に進出し始め、第2次世界大戦に参戦し支那に拠点を置くジャーディン・マセソン商会にとって状況は悪化した。
トニー・ケズウィックは、西暦1941年に上海競馬場で行われた上海市議会の選挙集会中に、日本の役人に腕を撃たれた。彼は重傷を免れたが、その後はアル・カポネ(英語: Al Capone、Alphonse Gabriel Capone(アルフォンス・ガブリエル・カポネ))のために特注された西暦1925年製の7人乗り装甲車で市内を移動した。同年、ジョン・ケズウィックは、香港が西暦1941年のクリスマスに日本軍に降伏した後、占領軍による抑留に直面し、香港を離れた。彼はなんとかセイロン(スリランカ)に逃れ、そこでビルマのマウントバッテン伯爵のスタッフとして働いた。兄弟は2人とも、戦争中ずっと英国情報部の上級工作員として秘密裏に活動した。
ジャーディン・マセソン商会の従業員の多くは収容所に抑留され、澳門、支那本土、その他の地域に追放された者もいた。現地の支那人従業員は日本占領下で生き延びるのに苦労したが、何人かは自らの命を危険に晒して捕らわれた同僚を助け支えた。
第2次世界大戦が終わると、衰弱した数人の従業員がスタンレーの収容所から出てきて、助けてくれた人々に感謝し、解放を祝って香港のジャーディンの事務所をできるだけ早く再開した。上海でも、解放された抑留者はほぼすぐに仕事に復帰した。
西暦1945年の戦争終了後、英国は香港の支配権を回復し、ジョン・ケズウィックは紛争中に被害を受けた会社の施設の再建を監督するために戻った。上海では、資本家が経済再建の支援に招かれた後、支那共産党と協力しようとした。支那共産党は国民党よりも秩序があり、腐敗が少ないと信じていたケズウィックは、英国が新政府を承認するよう主張し、国民党の封鎖を突破して会社の船を航行させようとさえした。ケズウィックは、共産党政権が実施した重税は「反外主義」ではなく、大規模な軍隊と新政府を維持するために資金が必要であることの表れであると信じていた。高い税金に加え、ジャーディンを含む多くの外国企業がレッドの「勝利」債券を購入することが期待され、政府の財源に総額40万ドルの貢献をすることになっていた。抗議の後、この要件は「税金および債券販売委員会には外国人を扱う権限がない。」という理由で当局によって撤回された。
西暦1949年までに、同社は2万人を雇用していたが、新中華人民共和国での事業運営はますます困難になり、1954 年末までにジャーディンは中国本土での事業をすべて売却、移転、または閉鎖し、その過程で数百万ドルを帳消しにした。タイム誌は次のように報じている。「こうして、スエズ以東で最大の英国投資を行なったジャーディン・マセソン商会の支那での取引は終了した。」
西暦1949年、中華人民共和国の建国後は拠点を香港に移した。支那大陸の支店網は全て西暦1954年に接収・閉鎖され、2000万ドルの損失を被った。第5代目当主のジョン・ヘンリー・ケズウィック(John Henry Keswick, KCMG)は、西暦1963年に「英支貿易協会」(SBTC)会長に就任(〜西暦1973年)し、共産主義国支那との貿易再開に奔走した。西暦1972年に英支の外交関係が完全に正常化し、西暦1973年に周恩来首相と北京で会談。英国産業技術展も開催され、周恩来も視察に訪れた。西暦1997年に香港が支那に返還されるまでは、イギリス植民地資本であるジャーディン・マセソン商会の役員や幹部らがイギリス植民地下の香港行政局(現在の行政会議 )の非官守(官職)議員として参加し、香港政庁の政策に影響力を行使していた。
ジャーディン・マセソン商会の香港事業は、西暦1950〜1953年の朝鮮戦争中にイギリス王国が支那に対して課した貿易禁輸措置に従わなければならなかったため、戦後最初の困難に直面した。それでも、西暦1950〜1980年の間に、ジャーディン・マセソン商会は再び劇的な変革期を迎えた。西暦19世紀に産業化による変化が齎されたのと同様に、第2次世界大戦後の数十年間は、ジャーディン・マセソン商会が支那で失った市場に代わる新しい市場を模索する新たな拡大期となった。西暦1953年に朝鮮戦争が終結した後も、同社は毎年開催される広州交易会を通じて支那との貿易を継続した。この交易会では、支那の国際貿易の約半分が7つの支那国営貿易会社を通じて行われた。
西暦1954年、ジャーディン・マセソン商会はマラヤ連邦(西暦1957〜1963年)、シンガポール、タイ王国チャクリー朝(西暦1782年〜)、ボルネオで事業を展開していたヘンリー・ウォー・アンド・カンパニーへの投資を通じて東南アジアに進出した。最初の正式な報告書と会計報告は西暦1955年に発行された。
西暦1950年代後半、ロンドンの3つの銀行の支援を受けて、ジョン・ケズウィック(John "The Younger" Keswick)とトニー・ケズウィック(William Johnstone "Tony" Keswick)はジャーディン家の最後の株式を購入した。西暦1961年に香港証券取引所に上場した後、同社はインドシナ・スチーム・ナビゲーション・カンパニーとヘンリー・ウォーフ社(Indo-China Steam Navigation Company and Henry Waugh Ltd.)の支配権を取得し、オーストラリア人で構成されたドミニオン・ファーイースト・ライン海運会社(Dominion Far East Line shipping company)を設立した。西暦1956年、ジョン・ケズウィックは家族経営の資産を管理するためにイギリス王国に戻り、マイケル・ヤング・ヘリーズ(Michael Young-Herries)を香港の事業部長に任命した。
ジャーディン・マセソン商会は、タイパンのヒュー・バートン(Hugh Barton)が経営していた西暦1961年に株式を公開し、56倍の応募があった。ケズウィック家は、ロンドンに拠点を置く複数の銀行や金融機関と共同で、西暦1959年にブキャナン・ジャーディン(Buchanan-Jardine)家の支配株を8400万ドルで買収したが、その後、株式公開時に株式の大半を売却し、その後は会社の約10%しか保有しなかった。
香港ランドが所有するマンダリン・オリエンタル・ホテルは、西暦1963年に香港金融街初の5つ星ホテルとして開店し、その1年後には同社の子会社デイリー・ファーム(Dairy Farm)が新興スーパーマーケットチェーンのウェルカム(Wellcome)を買収し、その後、アジア最大の小売事業の1つに成長した。
西暦1966年の文化大革命の到来とともに支那本土との貿易は事実上停止したが、ジャーディン・マセソン商会はこの時期に支那政府にビッカース バイカウント旅客機6機を販売することに成功した。西暦1963年にはオーストラリア連邦(西暦1901年〜)に、西暦1967年にはジャカルタに代表事務所が設立された。西暦1970年、アジアの金融市場の高度化と、特に香港の個人資産の増加を反映して、アジア初の商業銀行であるジャーディン・フレミング(Jardine Fleming)が営業を開始した。
西暦1972年、ケズウィック家がヘンリー・ケズウィック(Henry Keswick)を会長に任命しようとしたが、当時の取締役のデイビッド・ニュービギング(David Newbigging)の支持者からかなりの抵抗を受けた。しかし、ロンドンの機関投資家の支援を受けて、ケズウィック家は勝利を収めた。ヘンリー・ケズウィック(Henry Keswick)は専務取締役に任命され、父のジョン・ケズウィック(John Keswick)が会長に就任し、一族がジャーディン・マセソン商会の経営権を保持することになった。ジャーディン・マセソン商会は、同じ年に香港でエクセルシオール・ホテルを開業した。このホテルは、120年以上前にジェームズ・マセソン商会が購入した元の区画1の跡地。ヘンリー・ケズウィックは、西暦1973 年にロンドンに拠点を置く大手不動産会社、リユニオン・プロパティーズ(Reunion Properties)の完全買収を手配した。この買収は、ジャーディン・マセソン商会の株式の7% を追加で取得して資金を調達しました。この買収の結果、同社の資産はほぼ2倍になりました。同じ年、ヘンリー・ケズウィックは、フィリピン第3共和国(西暦1946〜1965年)とハワイで活動し、36000エーカーの砂糖農園を管理していた大手貿易会社、セオ・H・デイビス会社(Theo H. Davies & Company)の買収も監督した。西暦1973年の石油危機の結果、同社がジャーディン・マセソン商会に買収されてから数ヶ月後、世界の砂糖価格が急騰し、ジャーディン・マセソン商会は大きな利益を得た。
香港の建設ブームは新たな好機を齎し、ジャーディン・マセソン商会は西暦1975年に大手建設・土木グループであるガモン建設(Gammon Construction)を買収してこの好機を摑んだ。また同年、裕福層が増加する中で「高級車への需要が高まる。」と認識した同社は、香港でメルセデス・ベンツ車の販売権を持っていたゾンフー・モーターズ(Zung Fu Motors、仁孚行有限公司)を買収して高級車市場に進出した。西暦1977年、李嘉誠所有の長江持ち株会社(Cheung Kong Holdings)がセントラル駅とアドミラルティ駅の上の開発用地を落札したことは、香港の大手不動産開発業者としてのジャーディン・マセソン商会所有の香港ランドにとって初の挑戦となった。西暦1979年までに、同社は世界中で5万人を雇用した。
西暦1979年、ジャーディン・マセソン商会は25年以上の不在期間を経て支那本土で再び存在感を示し、北京に初の外国代表事務所を開設、続いて上海と広州に事務所を開設した。1年後、デイリー・ファームが50%の株式を保有するマキシムズ・ケータリング社(Maxim's Catering)は、北京・エア・ケータリング社(Beijing Air Catering Company Ltd.)を設立した。これは「門戸開放」政策開始以来、支那本土で初の外国合弁企業である。ジャーディン・シンドラー社(Jardine Schindler)が初の産業合弁企業としてこれに続いた。同年、ジャーディン・マセソン商会は広告大手マッキャン・エリクソン(McCann Erickson)と合弁事業を開始し、マッキャン・エリクソン・ジャーディン(支那)(McCann Erickson Jardine (China) Ltd.)を設立した。新会社の業務は、支那における西側企業の広告と、支那政府所有の外国貿易企業やその他の組織の西側での広告を扱うことだった。この10年間、ジャーディン・マセソン商会は英国と米国での買収により、保険事業も拡大し、ジャーディン保険仲買会社(Jardine Insurance Brokers)設立の基盤を築いた。
西暦1980年までに同社は南アフリカ共和国、オーストラリア連邦、共産支那、イギリス王国、英領香港、インドネシア共和国(西暦1945年〜、日本、マレーシア(西暦1963年〜)、フィリピン共和国第4共和政(西暦1965〜1986年)、サウジアラビア王国(西暦1932年〜)、シンガポール共和国(西暦1965年〜)、南鮮(韓国)(西暦1948年〜)、臺灣(西暦1949年〜)、タイ王国、そしてアメリカ合衆国で事業を展開し、37000人の従業員を雇用しました。その後の10年間、ジャーディンは事業ポートフォリオの拡大を続けた。同社は自動車事業をイギリス王国に拡大し、セブンイレブン(7-Eleven)のフランチャイズで香港初のブランド・コンビニエンス・ストアを開店し、香港と台湾でピザハット(Pizza Hut)とイケア(IKEA)のフランチャイズを買収し、支那南部でメルセデス・ベンツとの合弁会社を設立した。また、この地域でのグループの貿易および業務事業を統合し、より大きな事業部門を作るためにジャーディン・パシフィック(Jardine Pacific)も設立された。
西暦1980年後半、正体不明の人物がジャーディン・マセソン商会の株式を買い始めた。多くの観測者は「李嘉誠か包玉剛(YKパオ、Yue-Kong Pao)が単独または共同でジャーディン・マセソン商会の株式を大量に購入し、香港ランドの支配権を獲得しようとしている。」と疑っていた。その年の11月、当時のタイパンであるデビッド・ニュービギング(David Newbigging)は、ジャーディン・マセソン商会と香港ランドの相互の利権を増やし、どちらの会社も支配権を獲得できないようにすることで両社を再編した。しかし、その結果、両社は多額の負債を抱えることとなった。李嘉誠と包玉剛と戦うための費用により、ジャーディン・マセソン商会はリユニオン・プロパティーズの株式を売却せざるを得なくなった。
ジャーディン・マセソン商会は西暦1982年に150周年を迎え、東南アジア地域の学生にオックスフォード大学とケンブリッジ大学に通うジャーディン奨学金を提供する教育信託であるジャーディン財団(Jardine Foundation)を設立した。香港の若いグループ幹部に地域を支援する機会を与えるために、ジャーディン・アンバサダー・プログラム(Jardine Ambassadors Programme)も開始された。
サイモン・ケズウィック(Simon Keswick)は西暦1983年に社長に就任し、南アフリカ共和国に拠点を置くレニーズ・コンソリデーテッド・持ち株会社(Rennies Consolidated Holdings)の株式を処分して、会社の負債を迅速に削減した。また、香港、国際、支那をそれぞれ担当する別々の部門を設けた新しい分散型管理システムを導入した。
西暦1984年、ジャーディン・マセソン持ち株会社(ジャーディン・マセソン・ホールディングス・リミテッド、JMH)が、グループの新しい持ち株会社として、英国の海外領土であるバミューダに設立された。これは、会社が英国法の異なる買収コードに従うことを確実にするためであった。2年後、デイリー・ファームとマンダリン・オリエンタル・ホテルが香港で上場された。ジャーディン・ストラテジック(Jardine Strategic)は、いくつかのグループ会社の株式を保有するために設立された。
西暦1988年03月、サイモン・ケズウィックは退任を発表し、その後、アメリカ人投資銀行家のブライアン・M・パワーズ(Brian M. Powers)が後任となり、ジャーディン・マセソン初の非英国人取締役となった。この人事は同社のより伝統的なスコットランド人幹部の間で懸念を呼んだが、同社の衰退を覆したサイモン・ケズウィックは、「ジャーディン・マセソン持ち株会社は香港に利益を有する国際企業であり(その逆ではない)、ブライアン・パワーズがそのような企業の経営に最も適任である。」と説明し、ブライアン・パワーズの選択を擁護した。その後、パワーズは、支那本土の国有企業である支那国際信託投資会社(CITIC)と協力した包玉剛と李嘉誠による相次ぐ買収提案から同社を首尾よく防衛するため、グループをジャーディン・マセソン商会とジャーディン・ストラテジックの2つの相互に連結した企業に分割し、事実上買収不可能な状態にした。その後、襲撃者は、「今後7年間はジャーディン・マセソン持ち株会社のどの会社に対しても攻撃を試みない。」という誓約書に署名した。
西暦1990年代初頭、ジャーディン・マセソン持ち株会社と他の上場グループ企業4社は、香港上場に加え、ロンドン証券取引所への主要株式上場を手配した。西暦1994年、ジャーディン・マセソン持ち株会社は香港証券先物委員会(SFC)に買収合併規則の適用除外を要請しました。これは、香港が西暦1997年に英国から支那に返還された後に、支那側が上場企業を敵対的買収しようとした場合に、同社がより大きな安全を確保できるようにするためだが、SFCはこれを拒否し、ジャーディン・マセソン持ち株会社は西暦1994年にアラスデア・モリソン(Alasdair Morrison)の在任中に香港証券取引所(ハンセン指数)から上場を廃止し、ロンドンに主要上場した。中華人民共和国(PRC)の当局者は、上場廃止を香港と支那政府の将来に対する非難と見做した。ジャーディン・マセソン持ち株会社がコンテナターミナル9計画に参加しようとした時にこれが問題を引き起こしたが、グループの事業利益は香港から引き続き管理され、事業の東アジアへの重点は以前と同じように継続された。西暦1996年、ジャーディン・フレミング社は、資産管理責任者のコリン・アームストロング(Colin Armstrong)による不正かつ監督されていない証券配分慣行の疑いで、3人の投資家に2030万ドルの支払いを命じられた。
西暦1997年のアジア金融危機は、ジャーディン・マセソン持ち株会社のベンチャーの共同経営社であるロバート・フレミング社(Robert Fleming)とジャーディン・フレミング社自体の両方に深刻な影響を与えた。ロバート・フレミング社は西暦1998年後半に大規模な人員削減を承認せざるを得なくなった。同社は1999年に再編し、ジャーディン・フレミングの残りの50%の株式を買収する代わりに、ジャーディン・マセソン持ち株会社にロバート・フレミング持ち株会社(Robert Flemings Holdings)の株式18%を譲渡した。その後、ロバート・フレミング持ち株会社は西暦2000年04月にチェース・マンハッタン銀行(Chase Manhattan Bank)に44億ポンド(77億ドル)で売却された。
ジャーディン保険仲買社とロイド・トンプソン(Lloyd Thompson)が合併してジャーディン・ロイド・トンプソン(Jardine Lloyd Thompson)が設立されたこと、シンガポールの優良企業サイクル&キャリッジ(Cycle & Carriage)の株式16%を買収した。デイリー・ファームがインドネシア共和国の大手スーパーマーケットグループ、ヒーロー(Hero)の株式を大量に買収した。マンダリン・オリエンタル・ホテルも、客室数を倍増させ、ブランドを活用する戦略に乗り出した。西暦21世紀の最初の10年間、ジャーディン・サイクル&キャリッジはアストラ・インターナショナルの株式を31%取得し、その後50%強にまで増加、ロスチャイルド継続持ち株会社(Rothschilds Continuation Holdings)の株式を20%取得し、西暦1838年に始まった関係が再燃しました。香港ランドは、数年にわたる着実な公開市場購入プログラムを経て初めてグループの子会社となり、ジャーディン・パシフィックは香港エア・カーゴ・ターミナルズ・リミテッド(Hong Kong Air Cargo Terminals Limited)の株式を25%から42%に引き上げた。
西暦2002年、グループはジャーディン・アンバサダーが先頭に立ってグループの慈善活動の中心となるメンタルヘルス慈善団体マインドセット(MINDSET)を設立した。西暦2010年には、慢性精神疾患の影響から回復する人々のための施設、マインドセット・プレイス(MINDSET Place)を正式に開所した。
西暦2003年以降、ジャーディンマセソンはテオ・H・デイヴィス社(Theo H. Davies & Co.)の様々な保有株を徐々に売却していった。